12.31.2015

[log] 年のおわりに

いよいよ12月も31日まで来てしまったわけだが、まだ感想を書いていない映画が18本くらいあるのでどうしようか、になっていて、ところでそんなことよりもあれはどうした、ほれあの、お片づけってやつは? となって穴を掘って逃げたくなって、でも穴なんてどこに掘るのか、どこまで掘れるのか、それに掘ったからって逃げらんないだろ、と。

昨年の終りほうのInstagramでお片づけ途中の様子を得意気にのっけて、”Intermediate”とかやっているのだが、じつはあのあと、”Intermediate”状態のままで凍結されてさっさか年を越してて、あの状態のうえに今年いろんなとこで買って運んできたやつらがそのままピュアに積みあがってしまったので、ほら今年って羊年じゃん、伸び放題ってやつよ - ほんとうにまじでゴミ屋敷、屋敷じゃないからただのゴミ部屋 - ゴミ置き場.. ゴミ - じゃあんましだから大量の紙束のあいだで寝ている、状態になっている。すでに。

本だけじゃなくてレコードも棚に入らなくなっているのでどうしているのかというと、スライド本棚のスライドのレールのとこにでっかいのとかは突っこんでいる。 スライドしなってよいのか?   はい。 スライドする状態のところに体をもっていけなくなっているのですかわいそうに。

本とか紙とかが好きだからそういうのも好きでやっているんだろ、と言われたらそれはそうで、ならいいじゃん、なのかもしれないが、この状態を放置しておくとたぶん2016年の4~5月あたりでいきなり床が抜けて大量の紙束の塊が落下して(たぶん)あんま罪のない階下のひと(だれか住んでいる。たぶん)がびっくりしたり怒ったり怪我したり訴えたり、そういうことになってもおかしくない気がして、つまり危機的な状態だと思うので、やはりなんらかの手をうっておかねばなるまい。 被告はそうなることがわかっていましたね、ね? とか問われたときに、わかっていましたけどなにもしていませんでした、て応えるのと、わかっていましたのでがんばってなんとかしようとしました、ええ(なにが「ええ」だか)て応えるのとではずいぶん違う気がする。 気がするだけだが。

上記の事情をかんがみるにー、とにかく今年のお休み、短すぎるよね、て言っておけば許される許されないの枠を超えてなんかやっておかないといけない気がするので、やるんだけどさ、まずはこんなの書いて遊んでないでとっととやれ、よね。

「人生で大切なのは何を得るかではなく何を捨てるかだ」とか言いながら化石のような紙の山に埋もれて、いちおう整理みたいなことをしているふうだが結局なんも片付かないままで終る老写真家のドキュメンタリーを火曜日に見たのだが、だからああいうのを規範にしてはいけない、いまのあんたに必要なのはSaul Leiterではなく、近藤なんとかさんのおかたづけ術(なのか?)なのだ、たぶん。

でももう大晦日で、ほんとにあと残り数時間しかなくなったとこでさっきまで「神様なんかくそくらえ」なんて映画を見てしまったものだからほんとにくそくらえで(でもこんなのがグランプリとったんだ - くそくらえだねえ)、だからとにかくきっと年を越してからも続けてやるんだよね、ね、年の初めにやっておくといいことあるにちがいないからさ。

こうしてさっきから突然始めてみたのだが、場所と時間がないとやっぱし無理だとおもいました。
あーこんなの買ってたんだ、の発掘の場になってまったく先にすすまない。

来年はこんなふうになりませんようにー。

みなさんもよいお年をお迎えください。

12.30.2015

[film] Happy Hour (2015)

27日の日曜日の午後、イメージフォーラムで見ました。 「ハッピーアワー」。
これと「アルカディア」だけは、なんとしても今年中に見たくて見たくて。

3部構成で、5時間17分。 あっというま。 めちゃくちゃおもしろいのだが、このおもしろさをどう説明できるのだろうか、てちょっと考えてしまう。 過去の映画との対比で、あれと似ているこれと似ている、とかあまり言えないような。 たしかにJohn Cassavetesの"Husbands" (1970)の男女反転版、であって、俳優の生々しいエモが芝居の枠を超えて滲んでくるようなところは近いのかもしれないけど、なんかCassavetesの映画にある魅力粘力とはちがう気もして。 おもしろさの質感として一番ちかいのはFrederick Wisemanあたりかもしれない、とか。 ワークショップとか裁判とかが出てくるから、でもなくて。

神戸が舞台で、37歳の仲良し女性4人組のおはなし。 ふたり(桜子と芙美)は結婚していて、うちひとり(桜子)は子供がいて姑も同居していて、うちひとり(芙美)は夫婦でばりばり働いていて、ひとり(あかり)はバツいちで、ひとり(純)は離婚裁判中で、夫と別れたがっている。
あかりは看護師で、芙美はアート関係のイベントプランナーで、桜子は専業主婦で、純は家を出てコロッケ屋でパートをしていて、4人はなんでも話せる間柄で揃ってピクニックに行ったり、芙美の企画したワークショップに参加したり、温泉に行ったり、(裁判に行ったり…)。

4人の紹介とともに4人ひとりひとりの事情や状況に分け入っていって、先が不安じゃないひと、問題を抱えていないひと、関係がうまくいっているひと、なんていないのよね、に至るまでの過程 — つまり4人が映画を見ている我々にとってとても近しく親密な人たちになっていくまで(あまり見ていたくない嫌な奴らだったらどうしよう - ああそうじゃなくてよかったねえ - になるまで)が、とても素敵な時間(Happy Hour)で、第一部の終りまでにそのじゅうぶんな感触が得られたところで、ああこれはとんでもない、かけがえのない傑作になるかも、ていう予感でぞくぞくしてくる。

第一部のほとんどをしめる「重心」をめぐる怪しいワークショップとその後の打ち上げのやりとりを通して、頭で考えることとやってみること、その結果と結果の受けとめ方は各自ばらばらなんだねえ、などということがわかり、第二部の冒頭、純の裁判で結婚生活における条理不条理寛容不寛容などなど、が思いっきり可視化されて、それはやがて純のエモと純のことを思う各自と純のケースを通して自分たちの置かれた位置を考えるところに重心が移動して、第三部では芙美(と旦那)の企画した朗読会でいろんなことが脱臼したり滑落したりぐじゃぐじゃになって、でも構うもんか、つい拳を握って俺たちはなあ … はてなんで自分は俺たちなんて言っているんだ? みたいなことになっていく。 あーわかんない、こんなの文章で説明できるおもしろさじゃない。

いっそのこと関西の世話好きなおばちゃん(あるいはその予備軍)ムービー、みたいな括りかたをしてしまってもよいのかもしれないが、そういう単純下世話なおもしろさだけではない、親密になる親身になるとはどういうこと・状態をいうのか、そこにおいて当事者とはどういう人のことをいうのか、蚊帳の外にいるのはだれか、それはなんでなのか、などなどを「自分のこととして」考えること、考える方向に誘導するかのように彼女たちの言葉はこちらに届いてくる。  Wisemanに近いかも、と思ったのはこの辺りかもしれない。
(普段そういうことを考えたりそういう渦中に叩きこまれたことのない幸せなひとは見なくてよいかも)

例えば家庭や仕事、人間関係や将来への不安をめぐる共感やその和解/決着にフォーカスしたドラマだったらこんなおもしろいものになっただろうか?  どこにも決着点なんてない/ありえない、少なくともそれ(解消)に対する目線やアプローチはひとりひとりで(あたりまえのように)異なるのだ、という地点から始まっているが故のスリルはあるかも。 どうあがいてもだめかも無理かも、というところから湧いてくる祈りとか僅かな期待とか、それ故のものすごい安堵とか底なし不安とかのアップダウンと。 こういうのが全部ひととひとの会話と睨み合いの中のみで転がっていく。

濱口竜介監督の作品はそんなに多く見れていないのだが、例えば「なみのおと」 (2011)での切り返しや語りの転がしかたとこの作品のそれは地続きだったりするのだろうか。

本格営業が始まる前の、割とどうでもよくて安価で気楽にわーわーできる時間 - Happy Hour。
でも前だろうが後だろうが、アルコールでひとは酔うし揺れるし幸せになれるし、時間がきたら追い出されちゃうのかもしれないけど、でもいいじゃん、ていう。 どっちみち溝や穴や闇はあるにせよ、ていうかそんなのどうせあるんだからさ ー。

こんなふうに見た人それぞれに際限なしにいろんなことを考えたり語りたくなって止まらなくなる作品で、それを可能にしているのは脚本もあるのだろうが、行き着くところは主演の4人のすばらしさではないか。 特に純役の川村さんとか、成瀬のメロドラマに出ているのを見たくなるくらいすごいと思った。

ものすごくおかしいシーンもいっぱいあって、おばあちゃんの拳固とか、クラブでのキスのとことか、桜子が電車で去ってしまうとことか。 あと、男性共は基本どいつもこいつも愚かで気持ちわるくてクズなのもたまんない。 特にあの生命物理学者のあいつとか。

[film] Trois souvenirs de ma jeunesse : nos arcadies (2015)

23日の昼、渋谷で見ました。公開されてすぐにでも見たかった。
「あの頃エッフェル塔の下で」 or 「僕の青春の三つの思い出 - 僕らのアルカディア」。
英語題は"My Golden Days"。

王道の青春恋愛ドラマ、として見ることもできるけど、それだけではない、ものすごい裾野ひろがりをもったでっかい作品。
今年はシルス・マリアといいこれ(アルカディア=理想郷)といい、スケールのでっかい仏映画がいっぱい。

もう潮時だからさ、と駐在していた異国からフランスに帰国しようとしたPaul Dédalus (Mathieu Amalric)は、出国時に同じパスポート、IDを持った別人がいる、と止められて、その取り調べのなかで彼はいろんなこと - 青春の三つの思い出 - を語り始める。

家族 - 特に母親との葛藤や違和 - 彼女の自殺のエピソードがあり、やがて家を出て国外を旅するようになって国や民族の違いによる隔たりを強く感じる局面が多々出てきて、その流れでウクライナのユダヤ人青年の亡命を助けるために自分のパスポートを差し出すエピソードがあり - ここまでで彼の身元は自分ではなく誰のものでもない、アイデンティティ不詳の孤児になっている - 最後のエピソードでEsther (Lou Roy-Lecollinet)との身を焦がすような激しい恋があって、ここで彼はいったん、完璧に死ぬ - 『そして僕は恋をする』 にあったように - 別の位相のはなしだけど。

Arnaud Desplechinの前作 "Jimmy P." (2013) - 『ジミーとジョルジュ 心の欠片を探して』 - でもMathieu Amalricは人類学者(民族精神医学者、だっけ?)の役で、今回も人類学者であることはおそらく偶然ではなくて、人類学ていうのは、人類(あるいはある民族)にとっての普遍性や理想郷(あるいは地獄、あるいは死)のイメージは、どこから、どのように形成され頭のなかで構造化されているのかを探っていく学問でもある。
それって「心に茨を持つ少年」だった彼(当局から尋問を受ける彼は患者のようでもある)が必然的に向かう魂のサバイバルの旅、だったように思える。 (少なくとも探偵のイメージとはちがう、よね)

そして映画の大部を占めるEstherとの出会いと恋愛 - 時代は80年代初 - 世界は丸ごと俺らのものであり、同時にこんな世界なくなっちまえ、と誰もが思っていて、100%の女の子の出現を頑なに信じているやつらがいて、とうぜんのように構造人類学だってポストうんたらだって、十分に流行っていて、それらの学問はそういう浮ついた世界の海図としてしっかり機能していた。 

Marine Girls の“He got the girl”があって、Specialsの"I can’t stand it”があって (RIP John Bradbury..)、The Jamの”Carnation”(”The Gift”のジャケットが一瞬映った?)があって、The Beatの"Save it for later"があって、Special AKA “What I like most about you is your girlfriend”があって、そういう時代よ。 半端な語りかたをするくらいなら、頼むからなにも言わんで引っ込んでてほしい、そういう時代の。
(そういえば『そして僕は恋をする』の音楽はリアル90年代だったねえ。P.J. Harveyとか)

で、そういう時代の中長距離の恋愛 - 完璧なかたちで成り立たないのであればそんなもんは壊してしまえ - のなか、やり取りされていく夥しい量の手紙(チャットもSNSもないからね)、その手紙の紙の肌理、インクのしみ、なにもかも愛おしくて紙を抱いて死にたくなって、実際になんどでも死んでほんとに前に進まない、そういう世界。 それはそのときの、当事者ふたりだけの世界のことで、それを綴ることができるのは、彼がしんでいる or 生と死の緩衝地帯にいるからで、でもとにかくそんなことよりも、このときのPaulとEsterを演じるふたりの、恋愛の渦中にあるふたりの(Quentin DolmaireとLou Roy-Lecollinetのふたりの)すばらしさを見てほしい。 恋愛のこと以外いっさい考えていないふたりってこんなふうになるんだって、言葉を失って気を失って目覚めたくなくなるくらいすごいから。

Desplechinて、こんなふうな熱病状態 - 前作でいうと「魂をケガしている」ひとを描くのがほんとうにうまい。
熱病状態で走りまわっている状態がふつうで、熱病状態にあるひとのむき出しの強さと弱さを表象する人物像(の集成)がPaul Dédalusで、それを理想的なかたちで体現できるのがMathieu Amalricさんなんだろうな。

あと3回くらい見たい。 彼らの恋 - 熱病は確実に伝染する。

12.29.2015

[log] NYそのた2 -- December 2015

NYの食べものとか。 2.5日のたった5食ぶん。

17日の晩、Star Wars待ちの時にTake OutしていったのがPorsenaのSara Jenkinsさんのサンドイッチ屋 - PorchettaのPorchetta Cubano - 外側は石みたいな塊なのに、なにこれ? なおいしさ。

18日の昼、クリスマスだし小雨だしおいしいチキンが食べたいなー、とRotisserie Georgetteてとこで。
http://www.rotisserieg.com/

Hot Chicken Pie、あったかくておいしかった。
それにしても日本のローストチキンはなーんであんなに高いのでしょう。なんで醤油を塗って和風とか言わないと気が済まないのでしょう。

18日の晩は、Pruneにふたたび。

Parmesan Brothの、Egg DropとかChicken Noodle soupを遥か彼方に蹴っとばす雲のほんわか。
前回も頼んだ胸腺のフライの柔らかさに切り込むケイパーの酸味。
メインのOxtailの、スペアリブとは全然ちがうはじっこの旨味の凝縮感。とかとか。
隣で酒を浴びるように飲んでいた女子ふたり組みがとった鶏のまる焼きに今度は挑戦したい。

19日の昼は、NolitaのTartineryでバーガー。
http://www.tartinery.com/
パテの上に緩めの目玉焼きが乗っていて、あとはBlue Cheeseのソースだけ。タマネギもピクルスもない。 びっくら。 あとフライもすんごくおいしい。

19日の晩は、ついに、ようやく、Brooklynに渡ってBattersby。
http://www.battersbybrooklyn.com/
ここがまだ予約を取っていなかった時代 - 何年前からだろ - 何回トライして諦めたことか - 諦めてもなんとかなっちゃうご近所(にいくらでも素敵なレストランあり〼)問題、というのもあったのだが、とにかく、諦めているうちにこの店の評判はどんどん膨れあがってより上のランクのDoverていうお店もできたりして、そっちも考えたのだがやっぱりまずはこっちから、と。

店そのものが小さくて、いちばん奥に町の中華料理屋の台所(これをオープンキッチンとか呼んだら怒られる)みたいにちっちゃい3坪くらいのスペースで3人の調理人が窮屈そうに料理を作っていて、それにしてはものすごいのを作っているの。(LAのPetit Troisもそんなかんじ)


5品のコースにして、出てくるやつぜんぶ外れない。
Tuna Tartareのリンゴの使い方とか、Pollock(鱈ね)のカニとイカの使い方とか、まったく奇をてらっていなくて、まあそりゃおいしいだろうよ、て納得できるその枠をまたぎ超えてしみじみ滲みてくるの。おいしい肉がおいしくなるのは子供でもふつうにわかるけど、ここのお皿のおいしさがこの素材とあの台所から出てくる理由はよくわかんなくて、お料理における単純さと複雑さについてなんか考えさせてくれるの。よい意味で。

Pruneのもここのおいしさも、日本にはなんかないかんじがするのはなんでだろう。

この晩の地下鉄のF Lineはかつてないほどにスムーズに動いていてなんかの奇跡が起こっていた気がした。

20日の朝は、お腹へってなかったし、パッキングもあったし、ロックフェラーのツリーを見ていなかったので慌てて見にいったりして時間がなかったの。

来年はMission ChineseのDim Sum & Bagel Brunchにトライしたい。
あと、今回は行けなかったけど、Bisgelもな。

まだなんかあった気が。

[log] NYそのた1 -- December 2015

NYの旅、行き帰りの飛行機で見た映画とか。

12月の国際線は3回目なのでもうあんまり見たいのが残っていないの。

The Man from U.N.C.L.E. (2015)
60年代初、当時犬猿だったCIAとKGBがイタリアの富豪による核兵器の脅威を打ち砕くべく手を組むことになって、CIA側はNapoleon Solo、KGB側はIllya Kuryakinていうそれぞれ優秀だけどどこかしら壊れて腐れた奴らを持ってきて、ふたりは張り合いつつも手を組んで、そこになんでかMI6まで入ってきて、というどたばたコメディアクション、かなあ。

こないだのシャーロック・ホームズのもそうだけど、わたしはGuy Ritchieの作品をただの漫画みたいなもん(後になんも残んない)だと思っているので、漫画は漫画として楽しめたかも。
このノリで「エロイカより愛をこめて」とかやってくれないかなあ。

あと、”Ricki and the Flash”をもう一回みた。 それにしてもこれの邦題、ひどすぎるよね。
邦題に「幸せ」とか「希望」とか「愛しき」とか「絆」とか、そういうの使うの禁止にしたい。
虚偽広告の一種だとおもうし、思考停止以外のなにものでもないし。


帰りの便では、”She's Funny That Way” (2014) をもう一回見てから、これ見ました。

Im Labyrinth des Schweigens (2014)
「顔のないヒトラーたち」。 英語題は”Labyrinth of Lies”

1958年のフランクフルト、アウシュビッツで親衛隊をやっていた男が教師をやっている、という通報を受けて若い検察官ヨハンが調査を始める、のだが、当時戦後復興で夢中だったドイツではアウシュビッツの存在を知らない人も多く、そんなの調べてどうする、親衛隊は8000人いたんだぞ、しかも彼らは軍の指揮下で動いていただけだろ、になる。 でもヨハンは主席検事やジャーナリストや生存者の協力を取りつけて、気が遠くなるような膨大なナチスの資料(これが原題の「嘘の迷宮」)のなかから証拠・証言を拾って固めて裁判(これが63年のアウシュビッツ裁判)に持ちこむの。

国が自国の過去を裁くことの難しさ + 家人隣人を疑うことのきつさ - ものすごくあたりまえに大変だとは思うものの、その厚い壁に正義と倫理のハサミで切りこんでいったごく少数の人々。
偉いなー。 そこいくとこの国はほんとなにやってんだろうねー。

本とか

18日、Metropolitan Museumの後にバスで5thを下ってBergdorf Goodmanに行って、クリスマス・ウィンドウを見てうっとりして気がついたら7階のクリスマス・オーナメント売り場(この季節だけよ、もちろん)に行っていた。ここで売ってるのはほんとにすごいんだよ。(服だけじゃなくて)
ここの本売り場も隅の隅のほうにまだ僅かだけ残されていて、ぱらぱら見ていたらなんかたまんなくなって古本 - ていうかここのはヴィンテージてかんじ - を2冊だけ。
Snowdon卿の”Sittings 1979-1983”ていうのと、“Vogue's Gallery of 50 Famous Authors and Artists”ていう1962年に英国で編纂されたVogue掲載の文章とかポートレイトのアンソロジー。

Rizzoli Bookstoreでは弁当箱みたいに分厚いBarbara Stanwyckの評伝 - ”A Life of Barbara Stanwyck: Steel-True 1907-1940”。 - 読んでる時間なんて絶対ないのに…

わんわんの絵本:Maira Kalmanの”Beloved Dog”  - サイン本
www.mairakalman.com/books/adult/beloved-dog/

19日、NOHOで1日だけHarper’s BooksとかKarmaとかPrinted Matterとかが集まってBook Marketをやってて、ちょっとだけ覗いてみたらありえない値札のばっかしで鼻血吹きそうで、でも40% offだったAlbert Yorkの図録だけ買った。
http://www.matthewmarks.com/new-york/exhibitions/2014-11-08_albert-york/

今回入手したサイン本はJames FrancoさんのとDrew Barrymoreさんの。

Mast Booksも行った。 今回、ここではがまんの子。

レコードとか

新譜は、Beat Happeningのウサギの選集と、その隣に並んでいたSwansのウサギの - “White Light from the Mouth of Infinity”(1991)を。 あとはCoilの“Backwards”とか、いろいろ。
関係ないけど、最近の輸入盤アナログの値段て高くない? 為替なんだろうけどさ。 

今回はようやく、久々にBrooklynに行けた。でも時間なかったのでRough Tradeまでは行けず..
Oak stのAcademyに行ったあとで、おお急ぎでManhattan戻って”Sisters”やってるシネコンに駆け込んだのに見れなくて、こんなだったらRough Trade行けたのになー。

他にもなんかあった、はずだ。

12.27.2015

[film] Pierrot le Fou (1965)

19日の土曜日の午後、Film Forumで見ました。
「気狂いピエロ」 の50th Anniversary Restoration。 2008年にCriterionがBlu-ray化したときの版との違いがちょっとだけ気になるが、でっかい画面で見たほうがよいに決まっているの。

Film Forumでは2010年の5月に”À bout de souffle” -「勝手にしやがれ」- の50th Anniversary版を見ているので、これもなんとしても見ておきたくて。

予告編はここで見れます。
http://blogs.indiewire.com/theplaylist/exclusive-trailer-for-50th-anniversary-restoration-of-jean-luc-godards-pierrot-le-fou-20151127

この作品を最後に映画館で見たのは自由が丘だったか。今の子供たちには想像もつかないかもしれんが、昔は自由が丘にも名画座(名画座っていうのは古い映画をかける映画館ね)があったんだよ。

ストーリーはどうでもいいの。
不幸な結婚で半分しんでるFerdinand (Jean-Paul Belmondo)がいて、パーティでMarianne Renoir (Anna Karina)と出会って、なにもかもぶん投げて二人で地の果てまで逃げていくんだけどMarianneはギャングに追われてて、最後は地中海でダイナマイトでこっぱみじんになる。

画面の色調はどこまでもソリッドでカラフルでかっこよすぎて見とれるばかり、台詞は古今のいろんな引用に溢れまくっているので英語字幕なんていらない(参考書でもリンクでもいっぱいあるからあとで調べろ)。 ふたりの動き、そのスピード、カット割り、カラー、サウンド、誰かしらのかっこいい言葉と引用、これらがすべてで、あとは何もいらない。 なんも考えずに見てもそれらすべてがストレートに脳細胞の粒粒を直撃する。

唖然とするかっこよさ。 こんなふうに恋をして、こんなふうにぜんぶちゃらにして、あっという間に生きて、とっとと死にたい。消えたい。

TenderでCruel, RealでSurreal, ShockingでMocking。 ポップアートていうのは例えばこういうのをいう、ものすごい早口で、生きろ! 死ね! を繰り返して、その差異と反復をふたたび生きて、死ぬ。 意味なんかないんだから、あっという間なんだから、わかんなくてもよいの。 サブカルなんてくそくらえだわ。

色も音(MONOでリマスターしたという)もヴィヴィッドに生きて跳ねていて素晴らしい。これが50年前なんだよ。
(「勝手にしやがれ」のリストア版は全てがとても痛切で切実でぎりぎりなかんじで、これも素敵で)

2月(?)のサミュエル・フラー特集で上映してほしい。 (フラー自伝の販促としても最適だよ)

Film Forumではこれの後、25日からぴかぴかの35mmプリントで“Ball of Fire” (1941) - 「教授と美女」がかかっているの。 これも最高のラブコメなんだよう。 むかし1万円以上したVHSを買ったなー。

この日の夕方、食事の前に”Sisters”を見にいったらまさかのSold Outだったので、NYで見た映画はこれが最後となった(泣)。 晩にSNLでふたりの勇姿を見てがまんした。

12.26.2015

[art] Fashion and Virtue, and others

美術館関係は18日の午前中に固めて行った。けどそんなにはなくてのう。

どこも10時オープンなのでそこ目掛けてUpper Eastに向かう。
これを9時オープンにしてくれたらどんなに素敵なことでしょう、とこういう時だけ都合よく思う。

今回行ったのは次の3軒のいくつかの展示だけ。 MOMAもWhitneyも今回はあきらめる。

How Posters Work : Cooper Hewitt, Smithsonian Design Museum
この展示が見たかったから、というより2014年にリニューアルされてから(名前も少しだけ変わった)行っていなかったので久々に訪れる。 チケット買うとデバイスみたいなペンを渡されて、これで個々の展示品の横にある+マークを読みこんで、後からチケットにタイプされたコードをWebで入れると見たやつの履歴と詳細をPCで見ることができます、なので気に入ったやつがあったらマークしてね、と言われて、あともういっこインタラクティブみたいな機能を教わって、そういうのはちょっと苦手だしITきらいなのでどうしよう、ておろおろした。

一応昨日の晩、チケットのコード入れてやってみましたら、ちゃんと出てくる(そらそうね)。
確かにマークした時間とか解説はちゃんと見れるのだが、他のやつの記憶は一切落ちちゃうのね。
やっぱし紙の束がいいなー。

展示はタイトル通り、古今東西いろんなポスターがいっぱい。
Fritz Fischerによる“Die Zärtlichkeit der Wölfe” (1973) - プロデュースはR.W. Fassbinder - のポスターとか、かっこいいったら。

http://cprhw.tt/o/2E9aR/

庭園にも出てみたのだが小雨がぱらぱら来たのでなんてこった、と次に向かった。


Alberto Burri: The Trauma of Painting ;  Guggenheim Museum
イタリアの抽象画家Alberto Burri (1915–1995)の米国初となる回顧展。
前回来たときは、これかNeue Galerieの”Berlin Metropolis: 1918-1933”のどっちにするか悩んで、Berlinのほうに行ったのだった。

ぐるぐる階段に彼の絵がひとつひとつ、間隔を置いてぐるーっと展示してある。

例えば米国の抽象表現主義のようななにかを壊したりバラしたり外したりしていくようなかんじ - それに伴う感覚的・生理的ななんかを想起させるものもない。
Kurt Schwittersみたいになにかをなにかに向かって構築・構成していくようなかんじもない - ひょっとしたらあってそれを見せないようにしているのかもしれないが、ここにあるのはタイトルの”The Trauma of Painting”にもあるような四角四面の絵画の枠の上下まんなか、隅と中心、絵具の置き方、その色、その練りこまれた肌理、それらが織りなす境界とか、布と画布と表面のゲシュタルトとか、そういうのをものすごく拘って考えて考えてこわごわ作って、でも生乾きみたいな、いろんな窓のような。

その裏にありそうな情念が醸しだした絵画、というよりイタリアの職人的な意匠を感じさせる固い絵画たちだった。

そこから更にThe Metropolitan Museum of Artに走って展示をみっつだけ。
ここは入場料を自分で決められるのだが(Suggested Priceは$25)、今回は$20にした。

Fashion and Virtue : Textile Patterns and the Print Revolution, 1520–1620
布に描かれるパターンの起源となったプリントイメージのおおもとを辿っていくとルネサンスあたりまで行くそうで、小さな冊子に描かれたパターンやドローイング(のコピー)がどんなふうに布上に展開されていったのか、をプリントの木版やエッチングなども含めて展示している。

印刷物好き、インク好き、布繊維好きにとっては自身の嗜好の根源をくすぐられるような内容で、ずっと浸っていたかったけど時間がないので薄いカタログだけ買って出た。


Jacqueline de Ribes : The Art of Style
Costume Instituteの展示。 フランスお貴族でファッションアイコンのJacqueline de Ribesのクローゼット(アーカイブ、と書いてあったが)お蔵出し。 Saint LaurentもDiorもいくつかあるのだが、本人のデザインによるオートクチュールが圧倒的によいしすごいし、とにかくブレがないというか、一体しかないマネキンの凄み、というか。
"The Art of Style" -  貴族ってこういうもんよね、だった。

http://www.metmuseum.org/exhibitions/listings/2015/jacqueline-de-ribes/gallery-views

ヴィスコンティの監督で実現しなかった『失われた時を求めて』のゲルマント公爵夫人役、見たかったなあ。 この人がやったら凄かっただろうなー。


Christmas Tree and Neapolitan Baroque Crèche
毎年の恒例の、定番のやつ。 絶対行く、というわけではないがなんかずーっと見ている。
大抵はある展示から次の展示に走りぬける合間にぺこり、なのだが、たまには立ち止まったりもするの。
ロックフェラーのツリーだと見上げておおおー、で終りなのだが、ここのはサイズ的になんか微妙で、たまに跪いているおばあさんとかいるのだが、どうやって相対してよいものか悩んだりする。
なので、両手あわせてぺこり、来年もよいことありますように(← ちがうだろそれ)、とか。
でも本当に素敵なツリーだとおもうの。

http://www.metmuseum.org/exhibitions/listings/2015/christmas-tree

美術関係はいじょう。

行きたくなったけど、時間がなくてだめだったのは、地下鉄の広告で見かけたこれ。
http://www.museumofsex.com/portfolio_page/exhibition-hardcore/

Hardcoreとは何か、それはどこから来たものなのか。おもしろそうでしょ。

12.24.2015

[film] The Night Before (2015)

18日金曜日の夕方、まだSWFAでざわざわしているUnion Square Regalで見ました。
もう公開後日が経っているので空いていると思ったら、結構入っていてびっくり。
これを見ないで清く正しいクリスマスを迎えられるとは思えない。

Ethan (Joseph Gordon-Levitt)は子供の頃のクリスマスに両親を事故で亡くして、それ以降のクリスマスには彼が辛いをしないように親友でJewishのIsaac (Seth Rogen)とアスリートのChris (Anthony Mackie)がずっと一緒に傍にいて、毎年過ごすようにしてきたの。

数年前、3人はNYのどこかで開かれるという伝説のクリスマスパーティ - Nutcracker Ball - の存在を聞いてずっとそのチケットを探し求めてきたのだが、今年ついにEthanはバイト先のパーティ会場でそのチケット3枚を盗むことができて、みんなで舞いあがって、奥さんが妊娠しているIssacは奥さんからドラッグとか葉っぱ一式の箱を貰って「楽しんでらっしゃい」て送り出されて、こうして3人のパーティ会場に向かうまでのどたばたと、パーティに着いてからのどたばたと、それぞれのいろんな彼とか彼女とかのあれこれがクリスマスのその日に向かっていろいろ炸裂して大騒ぎになる。

いわゆる家庭人としての、大人の、ふつーの厳かなクリスマスを過ごすようになる直前前夜の、ガキ共の、ダチ同士の最後のあがきとしてのクリスマス - 神様もきっと許してくれるよね - というと“A Very Harold & Kumar 3D Christmas” (2011) という名作が既にあって(ちなみに、ぼくは人間じゃないからよくわかんないけど、神様もきっと許してくれるよね、と言いながら最後にでっかい花火があがる名作 - もうクラシックの風格 - が “Elf” (2003) だよ)、これもそういう系統の、とにかくなにしたって神様許してくれるよね - ていう甘ったれたいいかげんな野郎ムーヴィーなの。

あと、監督は”50/50” (2011)のJonathan Levineで、あの映画がそうだったようにSeth RogenはJGLがかわいくてかわいくて、守ってあげたくてしょうがないらしく、それともうひとりの偏愛の対象であるJames Francoも出てきて(こいつとMindy Kalingのスマホのやりとりがめちゃくちゃおかしい)、”This Is the End” (2013) が一族郎党ひきつれて破滅に向かってまっしぐら、だったのと同じように、みんなそろってクリスマスの夢と至福を、てお祈りする。
こんなの、叶わないわけがあろうか。

怪しげな浮浪者で葉っぱ売りのMichael Shannonとか、思わず惚れてしまいそうになる(ていうか、はじめてみたわ)Miley Cyrusとか、脇もなかなか楽しいんだよ。


今年のクリスマスソングは、NYから買って帰ったVince Guaraldi TrioによるCharlie Brown Christmas(緑盤!)とPhoenix / Bill Murray /Jason Schwartzman/ Paul Shafferによる7inch - “Alone on Christmas Day”、くらいでした。

みなさまもよいクリスマスをお過ごしください。
わたしのクリスマスはNYでぜんぶおわってしまっているかんじなの --

12.23.2015

[film] Mustang (2015)

18日金曜日の午後、IFCで見ました。
平日の午後で、客はほぼ若い女性、初老の女性ばかりだった。
“Suffragette”と並ぶ強度をもつ今年最強の女子映画。 すばらしいったら。

IFCではスタジオジブリの全作品上映をやっているらしく、結構長いその予告が流れて、ぜんぶ繋げてみるとなんかすごいなあ、て思った。(火垂るの墓、とかもやるの)

監督はこれが長編デビュー作となるDeniz Gamze Ergüvenさんで、この作品はGolden Globesの外国語映画部門にフランス代表でノミネートされている。

トルコの黒海に面した小さな村に暮らす5人姉妹 - Sonay,  Selma, Ece, Nur, Laleがいて、学期の終りに男の子達と海辺で一緒になってはしゃいでいるのを隣人のおばさんに見られた、というだけで祖母に咎められる。 彼女たちに両親はなくて、彼女たちの面倒を見ているのは祖母と伯父で、どちらも(そして周囲の村人たちも)がちがちに嫁入り前の女子はかくあるべし、を当然のように思って強いていて、姉妹は当然のように反発し、監視の網をくぐって好き勝手にやろうとして、結果電話もPCも全部線を抜かれて取りあげられて、部屋には鍵をかけられて最後は鉄格子まで行って、それでも彼女たちは、という攻防が最初のほう。

やがて長女が結婚して出て行って(初夜のシーツに血痕がないというだけで病院に連行されて検査される、という世界)、次女もいなくなり、悲しいことも起こって、やがて四女のNurに初潮がくるとではさっそく結婚相手を(... )、という話になって、相手が迎えに来たところで、これまで全てを見てきた末娘のLaleとNurはぜったいいやだ、と家に立てこもって最後の抵抗と脱出作戦を試みる。 

美しくて仲良しの姉妹が周囲の理解を得られないまま、ある決意をもって消えてしまう『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』- “The Virgin Suicides” - を誰もが思い浮かべるのかもしれないが、あれとは違って、末っ子のLaleのまっすぐな目とその強さに行け! 突っ走れ! と思わず拳を握ってしまうのがこっち。

映画で描かれたような男尊男根社会がいまもトルコにあんなふうに残っているのかはわからないのだが、それらを告発するようなトーンはあまりなくて(いや、もちろんとっても憎くなるけど)(日本だってまだ同じようなかんじは残っているよね)、いかに姉妹は精一杯戦ったのか、彼女たちがみんな一緒に遊んでいるときの笑顔とかぜったい挫けない力強さとかがずっと残る。

5人姉妹のみんなは全員素人さんだというのもすごーい。

日本でもぜったい公開してほしい。

ちなみにJames FrancoさんのFavoriteでもある、と。

http://www.indiewire.com/article/james-francos-movie-column-why-mustang-is-the-best-film-of-the-year-20151119

12.22.2015

[film] Star Wars: The Force Awakens (2015)

戻ってきてしまいました。

JFKに着地したのは木曜日の18時くらい、そこから夕方&小雨のひどい渋滞を乗りこえてホテルに入ったのが19時半過ぎ、荷物置いてPorchettaでサンドイッチとかを買ってそろそろ並ぶか、と映画館の外に出来ている行列を目がけて行ったら館内に既にじゅうぶんな列はあって、みんなカーペットに座ってだらだら過ごしているのだった。 ここの行列はThe Twilight Sagaの時にも経験していて、ここだけじゃなくてアメリカのってだいたいそんなもんなのだが、いったん門が開くと順番なんて関係なくみんなてきとーになだれ込んでぐじゃぐじゃ、というのが毎度のパターンで、今回も誰になんと言われようと横は見ないで前方目がけて突進して、とりあえず席はとる。

Ep1のときよか、コスプレのひとはあんまいなかったかも。年寄りも多いが子供もそれなりにいる。 ディズニー映画だしね。

予告で”Independence Day: Resurgence”がかかって、Jeff Goldblumが出てきたところで大歓声があがる。
そうじゃろうそうじゃろう。

見ました。 ネタバレするしないとか、そう気になるとも思えないような内容で、プロットとか登場人物の配置についてはほぼぜんぶ想定していた通りで、それはEp1がでた時にこんなに狭いスコープとか血縁の枠でこのサーガは展開するんだー、と軽く失望したのの続きなので、あんま驚かない。それはディズニーランドの新しいアトラクションが、すごいこんなの経験したことない! という感嘆と、ああこれこそがディズニーなんだわ! という安心感を同時に与えるのと同じようなもので、フランチャイズかくあるべし、ていうことなのだと思う。 ごめんなルーカス。

というわけで、前の"Star Trek Into Darkness"で、多くのファンに「こういうStar Trekを見たかったんだ!」と言わしめた(ということになっている)JJAが監督に入った今作も見事にそういう出来になっていて、どこかで見たような惑星の風景、どこかで聞いたような台詞、どこかにあった宿命の出会いとか父殺しとか、などなどがこれでもかこれでもかと 、Ep4からEp6を正しく継承するのはこれだ、と言わんばかりにいろんなものが、反復される。 既視感とかじゃない、正確になぞられている。
(R2-D2が黙っちゃったのはもういーかげんにしろ、ってあきれたんだと思う)

見事な代理店仕事。 JJAってオタクのココロをもったクリエイター/プロデューサーと言われているが、基本はそういうのをぜんぶひっくるめて引き受ける有能な代理店さんなんだと思う。だからメディアは彼と彼の作品を絶賛するし、彼のきりっとしたポートレイトと一緒に彼を持ちあげておけば大抵の紹介記事はできあがってしまう。 オタクだって文句いいようがないらしいよ、とか。

こういうオタクのツボもきちんと押さえた盤石のメディアミックスが経済的な成功を導くのは見えていて、だから誰もかれもがヒステリックに熱狂してこれに乗らないのはバカだ、くらいになって、じっさいにどっかのバカがNYに飛んだりしている、と。
もちろんそれだってすごい才能に違いないだろうからいいんだけどさ、なんかもうちょっとびっくり箱があってもよかったのでは、とか、映画としての座りの悪さ、みたいのはあるよね。

Ep4が最初に出てきたときの、ぽんこつがらくたSFにクラシックのドラマツルギーのミックス、あそこにあった新鮮な驚きが蘇るかなあ、と最初の予告が出たときに期待したものじゃったが…
悪くはないと思うよ。CGのクオリティは当然のようにすごいし、みんな一生懸命走り回っているし、中途半端なキャラ(じゃーじゃー... )はいないふうだし、はらはらどきどきも少しはあるし。 でもなあ、あのチャンバラはない - ライトセーバーの達人がいない世界なのはわかるけど、あの撮り方はないんじゃないか、とか、全部の戦いを終えてレジスタンスが戻ってきた場所って、千葉とか埼玉の河原の土手みたいにしょぼい風景じゃないか、とか、あのラストショットって、TVドラマの終わり方だよねえ、とか、いろいろある。

Ep4から6までのストーリーが、シーケンシャルに流れていったので割と自由だった分、Ep1から3というのはEp4から6に至るまでの経緯や謎を明らかにせねばならない使命を負っていて、その縛りがなかなか面倒だった気がするのだが、今度のも同じような謎謎をいっぱい背負い込んでいて(例. Hello Gigglesの77 Questions参照)、Ep6からEp7までの間には相当いろんなことがあったらしい。 その謎解き - なぜEp7はEp4ときれいな相似形を描くのか - ひょっとして円環の時間か? - なんてのも含めてほしいものだ - と覚醒したForceの行方が交錯/並走するであろうEp8は相当に面倒くさいことになりそうで、どうしようか、と今からなんか不安だ。 メディアはこれらの謎をダシに煽りまくるのだろうなー。

Adam Driverはとってもよかった。 ReyのDaisy Ridleyさんも悪くないけど、ちょっと泣きすぎ。砂漠であんなに泣いたら水分がもったいないよね。 John Boyegaさんは”Attack the Block” (2011)そのままのかんじだったけど、いいの。

うん、でも楽しい冬のお祭りだったよ。

12.20.2015

[log] December 20 2015

なんとか帰りのJFKまできました。

こんなに天気がよくて乾いている日曜の朝なのに、これから帰らなければいけない。 つまんない。

それにしても、2.5日は圧倒的に短すぎた。 やるべきことよりも2時間後くらいに諦めることのほうに頭がいきすぎてしまうので、なんかよくない。 そしてずーっと走り回っているうちに、なにをやっているのだかわからなくなってくる。

今回、映画は4 - 1本だけ、まさかのSold Outをくらってしまったので、歯をくいしばって次に行った。美術館は3、本屋もレコ屋も前回よりも行けたことは行けた、けどなー、あとちょっとなー。あと1日あったらぜんぜん違ったのになー。 で、あと1日増やしても、あともう1日になるに決まっている。おそるべき街 NY - いや、まずおかしいのはあんたの欲望だわ。

でもそれでも、行かないよりはぜんぜんよかった。 食べるものも食べたし、この時期のNew Yorkはやはり特別なんだよね。

荷物はやっぱし尋常じゃなく重くなった。 預けたかばんはまた、絶対開けられて調べられちゃうんだろうな。

ではまた。 ものすごくねむいし。

12.17.2015

[log] December 17 2015

こうして、あいも変わらずばたばたで落ちつきも締まりもなくうんざりぐったりの状態で、またNEXが止まっていたらどうしよ、とおろおろしつつ、まだTylor Swift版までたどり着けていない"Welcome to New York"を聴いたりしながら、なんとか成田まできました。

さて。

これからNYに飛んで、向こうの日曜の昼まで滞在する。 こんどのは仕事ではなくて、お遊びで休暇で(ご褒美とはいうまい、いえまい... )、2.5日で走りまわってEat - Play - Loveをやって、これでぱっとしなかった2015年とクリスマスと暮れと正月は終わりで総ざらえで店じまい(しまんないけどな)で、けっか冬の朝East Riverにぷかり、になったって構うもんか、なの。

季節が季節なので飛行機が取れなくてどうしよ、だったのだがなんとかなった。帰りはエコノミーしか取れていないけど、どうせ灰になってゴミになって寝るだけだからいいんだ。

もちろんメインはあの映画を見ることで、Ep1公開のときにも出張ねじこんで行ったのだったが、とにかく現地で見る。 こんどのは同時公開じゃん、てひとは言うかもしれんが、日本のゴミ以下の宣伝に乗っかるかたちでなんか見たくない。

わたしは78年の夏、千葉の京成ローザでEp4(とも”New Hope”とも当時は言わなかったけどね)を繰り返し繰り返し、一日じゅう、それを何日間も、ひと夏で40回くらい見た思い出があって、なんでそういうことになったかというと、本国での公開後、日本での公開までにさんざん、えんえん待たされてじらされて、頭がおかしくなってしまったからで、日本の映画配給会社への不信というか恨みというか、こいつらおかしいんじゃないか、はこの頃からずっとある。ぜったい許さない。

今回のも、確実な集客が見込めるからふんだくってガバガバ儲けたいのだ、とは言わず『過去の事例を参考に作品的な価値を踏まえて一般料金を特別価格に設定させていただく』なんて嘗めくさったことをぬかすふざけた連中にお金を払いたくない。 しかも上映前には例によって吐気がするようなくだんないアニメだのCMだのの糞流に曝されて映画泥棒よばわりされる。

ライブに行って、前座にぜんぜん関係ない音楽流されたらふつう怒るよね? 映画館によっては本編で上映する映画に応じて予告編の中味も変えるよね。 なんで日本のシネコンではガキ向けの乱痴気騒ぎを強制されねばならんのか、そんなことが平気で許されてしまうのか、本当にわからない。 映画の興行って、配給会社だか運営会社だかがそんな好き勝手にしてよいものなの?
(してよいものなんだろうな、でもふつーはしない。なぜなら映画を愛する興行主であれば暗闇のなかで映画に、映画のなかで繰り広げられる世界に浸って集中してほしいとふつーに思うであろうから)

つい熱くなってしまったが、連中は今の政府与党と同じでごくふつーの理屈が通じる方々ではなさそうだから、まあ変わんないよね。 でも文句は言うから。ずっと。

これ以外にも見るべき重要な映画はいっぱい、いくらでもあって、あげていったら両手の指ぜんぶでも足らなくなったのでさすがに削る。ライブはなんとも微妙でさあー。

Difford & Tilbrookのアコースティックとか、BoweryでのSan Ferminとか、(le) poisson rougeでは、”A Tribute to PJ Harvey: 15th Anniversary of "Stories From the City, Stories From the Sea””なんてのもある(15年かよ …)

あとはお買いものだよね。 今年最後の。 本とかレコードとか(他にあるなら言ってみろ)

では、楽しんできま。
まずは17日 22:15のRegal Union Squareに。

[log] December 15 2015

上海から戻ってきています。 にーはお。

近いよね。外国なのに。と思って、でもそんなこと言われても外国だって困るよね。

行きの飛行機で見たのは1本だけ。 3本は見れないねえ。

The Rewrite (2014)
Hugh Grantがハリウッドで一回だけオスカーを獲ったことのある脚本家で、でもそれ以降はあんましぱっとしなくて、職がないので大学で教えてみないか、と誘われるままになんとなく行ってみる。そこはNY州の北の奥のBinghamtonてとこで、天気はどんよりだけど人々はとってもフレンドリーで着いた途端に女子学生と寝ちゃったりできるのだが、脚本の授業のほうは全くやるきでなくて、ていうのも脚本は勉強するもんじゃないと思いこんでいるからで、でもしぶしぶ授業をしながらいろんなひとにいろんなこと言われたりしているうちに、なんか気づきはじめて、つまりそれが人生のリライトっていうことだったのか、と。

洒落としてもそんなにおもしろくないし、脚本の課題でこんなの提出されたらたぶん却下だと思うが、出てくる登場人物たちがなかなかおもしろい - やたら陽気で人懐こいシングルマザーで学生のMarisa Tomeiとか、家族の話をさせると自動でべそをかく学長のJ.K. Simmonsとか、Jane Austen専攻でJane Austenのキャラで染めぬかれてどこにも行けなくなった教授 - なんかいそうだね - Allison Janneyとか - ので、井戸端人情系のロマコメとしてそんなわるくなかったかも。

せっかくおもしろいんだからタイトルをもうちょっとなんとか、と思ったら邦題は更にどーしようもないやつであきれた。

帰りの機内は仕事しているうちに、ていうか仕事おわらないうちに羽田に着いてしまったのであきれた。
一応MI5を流しながらやってて、Ethanこっちも助けてよう、だった。

上海のその他は、見事になんもない。

PMなんとかはいっぱい飛んでいるふうでずっと視界が薄黄色にぼやんとしていた。
すぐに目が痛くなったり喉がいがいがして咳がでたり、というのではなく、じっとりと喉の繊毛の間に入りこんでいつのまにか身動き取れなくしてしまう、そんな不穏な静けさがあるかんじ。 でそれを察知した頭の裏にいる頭痛虫がうずうず始めて、あー頭痛くるかも、くるねえ、だった。

火曜日の朝はPMの数値が300超えた、とかでみんな騒いでいたが、北京のひどいときは700超えまで行ったりしていたらしく、それはしんどいよねえ、だった。

お食事は当然中華で、あたりまえのように普通においしくて、こんなふうにふつうにおいしい中華って(和食もそうかもだけど)あんまきちんと語る言葉がないなあ(なんでだろ?)、て思った。 2日目の晩は湖南料理で、スペアリブに辛い粒とか葉とか粉とかをまぶしこんで焼いてるやつとか、なんか出てくるお皿が次々にびりびりするのでびっくらした。あんな辛いものを必要とする土地とか気候のところがあるのねえ。

そんなに寒くなくて、空気が澄んでて、仕事があんなじゃなかったら、どこまでも歩いていきたくなるような路地があって建物があるところで、なんかそういう映画あったかしら、と浸る時間すらなかったのは残念なことでした。

そして、いま、ばっかみたいに慌ただしい。

12.13.2015

[log] December 13 2015

これからタクシーとバスを乗り継いで羽田に向かう。羽田から先は上海で、今回は近所だしすぐ帰ってくるし、遊び用の個人PCを持っていかない(ほれ、あそこはいろいろあるからさ)ので、でもいちおう書き置きして出ていくの。

現地2泊で戻ってくるのは火曜日の夕方。 最近こんなのばっかり、パスポートでスタンプラリーしているみたいで、仕事なんてぜんぜん落ちつかなくて(あ、自分のパートがね)こんなんでいいのか、なんだけどー。

中国は昨年4月の大連以来で、結構いろんなひとに「カニでしょー」とか言われたけど、もうシーズン終わってるし、あのカニそんな好きってもんでもないし。
それよか喘息もちでアレルギー性気管支炎で子供の頃しにそうになったので、PMなんとかのほうがやや心配。 なのであれこれいっぱいガードしてくれそうなマスクを昼用夜用いっぱい買いこんでいる。
喉はいっつも必ずやられて、一回やられると長びくからねえ。この、いろいろある季節にさあー。

上海というと、”O Estado do Mundo” (2007) - 「世界の現状」 - のChantal Akermanさんのパート、”Tombée de nuit sur Shanghai" - 「上海の夜は落ちて」を思いだす。 せめてあそこで描かれたような夜(があったら... )を見つめて追悼したいと思う。 なんか今、とっても寒そうなんですけど。

それにしても、あの頃と比べて「世界の現状」はどうなっているとおもう?  
相当にさあー。

上海では本屋もレコ屋も映画も無理だろうなー。

では、いってきますわ。

[film] Apple (1980)

21日の夕方、”The Intern”のあと、新宿でみました。
ちゃんと前日から予約していきましたよ。 ぜんぜん心配いらなかったけど。

結局、「メナヘム・ゴーラン映画祭」はぜんぜん行けなかった。
せめて追悼の思いをこめて『キャノンフィルムズ爆走風雲録』だけでも見なければ、と思っていたのに行けなかった。 おじいちゃんごめんよ。

でもこの”Apple”だけは見なければ、だったの。
なぜならわたしはBIMのシールを持っている(いいから持ってろ、て持たされた)BIMの信者だから、まさかの日本公開にあたっては当然の義務だったの。

前に見たときのログはこちら。(もう5年前かよ… )
http://talkingunsound.blogspot.jp/2010/11/film-apple-1980.html

ついでに同じ特集上映での「暴走機関車」のときのがこれ。
http://talkingunsound.blogspot.jp/2010/11/film-runaway-train-1985.html

あんまり書き足すこともないか。 相変わらずおもしろかったわ。

例えば、”Mad Max: Fury Road”とはどう違うのだろうか、描かれた世界の過剰にぶっ壊れたようなとこは案外遠くないと思うのだが、Mad Maxほどの熱狂を呼ばなかったのはなんでなのか。
失敗作を失敗作足らしめるものっていったい何なのだろう、とか思う。
みんな笑うのは簡単だけど、ゴーランさんはこの映画への客の反応見て死にたくなったというのだから。

失敗に学べ、とかそういうことではなくて、映画って生もの・ライブだよねえ、と昨日入手した鈍器のような「サミュエル・フラー自伝」をぱらぱらしながら思う。 ゴーランにしてもフラーにしても、別に今蘇ったわけではなくて、ずっとそこにいたわけだし。でもそれがここにこうして現れる、現れるべくして、みたいなふうに。

こういうのはとにかく見ることだ。損得じゃないの。

12.12.2015

[film] The Intern (2015)

もうぜんぜん時間がない。倒立しても時間どろぼうしてもない。
しかも冗談みたいに際限なく眠いし。

21日の土曜日の昼、新宿で見ました。
すんごくふつう、戸惑ってしまうくらいふつうのやつだった。

ネットでアパレル会社を起業したJules (Anne Hathaway)は会社も順調に急激にでっかくなって仕事のことも家庭のこともいろんなとこに目が届かなくなって疲れ始めていて、会社のイメージ戦略でシニアインターンの募集をかけたこともあまり覚えていない。

Ben (Robert De Niro)はリタイア後にそれ見てがんばって応募して、張りきって身支度して出社したら、カジュアルな会社のなかでは浮きまくり、Julesの身の回り世話係みたいなどうでもいい役をあてられて、でも嫌な顔しないでがんばっていると若者たちみんなにいろいろ頼られるようになっていくの。
会社に疲れたOLにも、お先のなくなった老人にも、双方にとってよい話なの。

Julesのイクメンの旦那が育児の合間に浮気してるのを見てしまった時とか、社外CEOの候補が実はすごく嫌なやつだった時とかに手袋したDe Niroが顎を引き攣らせて裏でしばくとか、"Meet the Parents"みたいにとってもキナ臭いじじいであることを期待してしまったのだが、そっちのほうには頑として振れず、社員の活用とは、職場とは、みたいなところで理想的な関係とか環境を保つことに注力しているようだった。 

「あんなのあるわけないじゃん」ていう世界を作り出す、というのもラブコメのだいじな機能ではあるので、これはこれでよいのかしら。でもRene Russoのマッサージ師はいくらなんでもやりすぎ、老人を優遇しすぎではないか。こないだの”It's Complicated” (2009)もそんなふうだったけど。

あと、あれじゃ、インターンていうよりただの執事だよ。
インターン、ていったらやっぱし” The Internship” (2013)のほうだよねえ。

12.11.2015

[log] December 08 2015

シドニーから戻ってきています。 帰りの空港あたりからなんかばたばたで眠いはだるいはあれこれ降ってくるはどうしようもない。

行きの飛行機で見たもう1本。

Mr. Holmes (2015)

1947年のSherlock Holmes (Ian McKellen)は田舎で引退してやかましい家政婦のLaura Linneyとその息子と一緒に養蜂とかをして暮らしているのだが、記憶障害に煩わしされるようになっていて、ローヤルゼリーが効かないから日本に行ってそういうのに効くという山椒の苗とかを持ってきたりしている。 (山椒をどろどろにしたのって、ボケに効くの? その山椒って広島の爆心地に生えているの? 真田広之はそのガイドのためだけに出てきたの?)

お話しは、Holmesが引退する直前、彼が手掛けた最後の事件を改めて追う - 助手は家政婦の息子 - ていうのを中心に、Holmes自身の老いとか養蜂の話とか、いろいろ。 まず、事件が謎なのは背後に周到なトリックがあるからなのかHolmesがボケちゃってわからなくなっているからなのか、そこら辺に辛抱強く付きあっていかないといけないところがHolmes好きじゃないひとにはきついかも。 さらに肝心の謎がそんなでもないとこもちょっとさみしいかも。 そりゃHolmesだってふつうに歳はとるしいつかは死んじゃうんだろうけど、そんなの誰が見たいのか、なのよね。

わたしはIan McKellenというおじいさんが好きだし、眉をひそめるLaura Linneyさんも好きなのでふつうに楽しめたけど、全員スズメバチにやられて一気に暗転、とかしてもおもしろかったかも。

帰りの夜便はQantasで、修学旅行帰りみたいなガキ共がうじゃうじゃいてげんなりだったが、機材が懐かしや2階建ての747で(2階がよかったのにな)、さすがにクラシックなかんじだったが、もうどうせ寝るだけじゃろ、でもな、と映画のリストを見たらひとつあったのでこれみた。

Paper Towns (2015)

Quentin - Q (Nat Wolff)は子供のころ、隣に越してきたMargo (Cara Delevingne)を見て運命のひとだと確信し、ただMargoはちょっと独特の変わった娘で、適度に距離を置きつつ高校のシニアになったある日、MargoはQに自分の親友と浮気しているボーイフレンドをとっちめる、とQを誘いだして夜中の冒険に繰り出して、それはとってもミステリアスな夢のような夜になるのだが、その後で彼女は姿を消してしまう(村上春樹的な失踪 .. てきとー)。 彼女の部屋に残された手がかりを元に彼女が行きそうな場所をつきとめて、プロム前なのに、と渋る仲間たちと一緒にNYのAgloe - コピーライト保護のために地図上に記載されているだけの実在しない町 - Paper townに向かって突っ走る。

デザインはあるけどぱっとしない未来。夢の少女。彼女の失踪。追跡。幼年期の終わり。
原作はJohn Greenで、"The Fault in Our Stars"がただの難病モノではなかったのと同様、これもただの青春ドラマではなくて、ではどう異なるのか、というのはひとりひとりがこれをどう読むかにかかっている。そういう間口をもったやつ。
それはかつてのJohn Hughesの映画のありようともなんか似ていて、彼の映画も一見ちゃらちゃらした学園青春ドラマのようで、実は見たひとにものすごく大きな根を長い期間かけて張りめぐらせていく。 ていうことにたまに気づいたりするこのごろ。

なんかね、”Ferris”を思いだしたりもした。 QはFerrisに出てきたCameron - 達観しているようでいろんなことを恐れている - で、FerrisはMargoなの、かもしれない。そしてQにとって決定的だったあの晩、仲間たちとの旅、そういうのは彼らにとっても、見ている我々にとっても残るんだよね。 ずうっと。

あとは、なんでこんなにちゃんとしたふつうの映画が公開されないのか、ってことなのよ。 
いつものことながら。 これはバカな大人の責任。

到着前、朝の4時頃、ぼーっとした頭で機内のオーディオに入っていたKendrick Lamar、はじめてきいた。 おもしろいねえ。


シドニーのその他はあまり印象ないの。
ホテルの近所にThe Museum of Contemporary Art Australiaがあって、5時半くらいに駈け込んでみたのだが、5時に閉まっているのだった。 5時に美術館が閉まってしまう町...
Grayson Perryの展示が12/10から始まっているのね。

食べ物はオペラハウスが見える水辺の、典型的なところでSydney Rock OysterとBarramundiていうお魚をたべた。 繊細な魚なんだから、と言われてみると確かにそうかも、スズキとサワラをあわせたような。(スズキの仲間なのね)

火曜の昼は魚市場で飲茶をたべた。豆腐花があったのは嬉しかったけど、粽のお米がもち米じゃなかったのがちょっと衝撃だった。

せめて本屋くらいー、Frankieくらいは買ってかえるかー、だったのにQantasのラウンジではほとんど仕事しなきゃならなくて、しんでた。

“Home Alone”はやっぱりおもしろいよねえ。

12.07.2015

[film] Ricki and the Flash (2015)

Sydneyに着いています。 けど明日にはもう帰るのでつまんない。 とにかくねむいし。

行きの飛行機で見た1本。  Jonathan Demmeの。 すごくよいのになんでこれ、公開しないの?

Ricki and the Flashていうのはバンド名で、Ricki (Meryl Streep)がVo.とg. 、The FlashはgがGreg (Rick Springfield) でKeyがBernie Worrellで、メンバーは地味にすごい人たちなのだが、SF郊外のパブのハウスバンドで、オリジナルよりは酔っ払い向けのカバー曲が中心で、冒頭からTom Pettyの”American Girl” (1977)をがんがんにとばしてかっこよいのだが、77年のこの曲を演奏するのはGirlでもなんでもないケバいおばさんというのがなかなかきつくて、彼女、昼間はTotal Foodsていう食料品スーパー(Whole Foodsへの強烈な嫌味)でバイトをしてて、要するにバンドは道楽なんかじゃなくて、自己破産とかもしているから楽じゃない。 

ある日、携帯に電話が掛かってきて、出てみるとインディアナポリスに住むEx夫のPete (Kevin Kline)で、娘のJulie (Mamie Gummer - Meryl Streepのほんとの娘)の夫が別の女に走って精神的にやばくなっているので助けに来てくれないか、という。 あんたの現妻に頼めばいいじゃん、ていうと、彼女は自分の父親の介護でシアトルに行っているので困っている、ていう。

しょうがないので荷物をまとめて行ってみるのだが、そもそもロックの道を選んで家族を放り捨てた - Julieの結婚式にも出なかったRickiに対して他の二人の息子も含めてみんな冷たくて、彼女もそんなことはわかっているけどうるせえ呼ばれたから来ただけだよ、て返すしかない。 失うもんないし、帰ろうにも交通費もないし。 少しだけ打ち解けてよいかんじになってきたと思ったら、Peteの現妻が戻ってきて、もうだいじょうぶだから、て帰されて、結局もとのバンド生活に戻るのだが、Rickiは自己嫌悪も含めてぼろぼろでGregともうまくいかなくなりそうで、そしたら、現妻からのごめんねの手紙と一緒に息子の結婚式の招待状が送られてくる。

でももうすっからかんだし服もないし、というところから先が泣けて、クライマックスは当然結婚式で、めちゃくちゃハイソなお式に呼ばれたRickiとGregは浮きまくるのだが、こうなったらウェディングバンドとして出てぶっとばすしかないでしょ。

家族からはみ出てしまった娘が姉の結婚式で…  というのが2008年の“Rachel Getting Married”でこれもすごくおもしろかったが、娘に加えて妻まではみ出してしまったこっちは更に修復不能でどうしようもないところまで転がっていく、家族ってそういうもんよね、ロックなんか聴きはじめたら崩壊するに決まってるのよね、とか思った。

Jonathan Demmeでライブシーンいっぱい、しかもこういうバンドのライブなんだから音楽映画として見たっていいの。 新郎のママが結婚式であんな曲ぶちかますなんてかっこよすぎる。
ロックがぶっこわしてしまった家族をロックがなんとか繋いでしまう、そこで見えてくるのは音楽の(あるいは家族の)崇高さとか素晴らしさとかではなくて、ほんと適当ないいかげんさ胡散くささ、なの。 そんなもんよ、と。

Meryl Streepさんは、元々歌は唄えるので問題ないし、バンドメンバーとして - そのおばさん的なぎこちなさいたたまれなさも体現していて見事、ではあるの。

それにしても、2015年にMeryl StreepとRick Springfieldが冴えないバンドの映画で共演することになるなんて、81年の自分に言ったらどんな顔をしただろうか。

そういえば、Rick SpringfieldさんはSydneyの出身なのだった。

12.06.2015

[log] December 06 2015

1206銀座大行進も参加できず、アンスティチュの「のらくら兵」も見れなくて、なにもかもぜんぜんだめだめ状態でNEXに乗るべく渋谷に来てみたら、まあああたNEXが止まっていて、慌てて山手線で日暮里まで出て京成に乗り換えてなんとか成田までやってきたとこ。

自分の乗るときにそうなってしまうだけのことかも知れんが(ええ、そういう子だったんです昔から)、この故障率の高さってNYのFとかL並みではないか。 渋谷から日暮里まで荷物抱えて移動して失われる体力となんとか前向きに保とうとしていたのにどっかに消えてしまった情熱のカケラを弁償してほしい。

これから夜行で向かうのは南半球のシドニーで、メルボルンは行ったことあるけど、シドニーは通過で泊まったことがある程度。 このあと現地に朝の7時に着いて、そのまま会議に突入してホテルに泊まるのは一泊だけ、火曜日も朝からまるまる会議して、その夜の便で日本戻って羽田に着くのが水曜日朝の5時、もちろんそのまま会社なのよ。
やんなっちゃうことおびただしいの。 師走ってこういうこと?

向こうは初夏でとっても暖かそうで、だから行きは夏の格好をしてて、だから日暮里までの移動も寒くて、日暮里からの特急(なのになんであんなに停車するの?)も寒くて、空港に向かうBGMもふだんならTot Taylorの"Australia"とかにするとこなのにあああったまきたのでBirthday Partyのライブとかを聴いていた。(でもあまりに殺伐として人に噛みつきたくなってきたので途中でSplit Enzにかえて、更にGo-Betweensにした)

と、いうわけなので今回の最優先事項は体調こわさないように風邪ひかないようにしよう、くらい。 レコード袋なんてもちろん荷物に入れてないよ。隅っこの方にしか。

ああこのあとの会議とか平穏無事にいきますように。
せめておいしい食べものくらいにはあたりますように。

ではまた。

[film] Maze Runner: The Scorch Trials (2015)

14日の晩、”Altman”のあと、そのまま新宿でみました。

なにがなんでも、ていうよりは、見とかないと、つきあっておかないと、程度で。
こういうのもまた群像劇だと思うのだが、Altman先生が見たらなんていうだろうかしら。

前作で迷路を抜けだして生き残ったThomasとMinhoとTeresaとそのた一行はWICKEDていう組織の施設に保護されてなかなか手厚いケアを受けて、そこには同じように他の迷路をサバイブしてきたらしい若者たちがいっぱいいて、彼らはリスト上で名前を呼ばれて順番にどこかに連れていかれる。
その様子が怪しくて、更に施設内で変なものを見てしまったThomasは、そこを抜け出すことにして、みんなでえい! って施設の外に出てみるとそこは砂漠とか都市の残骸とか廃墟とか、さらにそこにはかつて人間だったらしいゾンビみたいなのがうようよいて、襲ってくるのではらはらどきどきで、唯一の希望はWICKEDでもなく化け物でもなく、彼らと同じ意思や希望をもって戦っている人類なの。

前作には明示的な、誰が見たって迷路があったわけだが、こっちのは柵や囲いがないだけの、誰が、なにが敵か味方かもわからない迷路迷宮であることは変わりなくて、人生とは現実とはそういうものなのだよがんばりたまえ(ひとごと)、なかんじが全体に漂う。

Thomasとかの幼少期の記憶は断片的で、だからあるべき状態、還るべきスイートホームなホームがない状態がその迷路感、錯綜感を加速して、これじゃあんまかわいそうとか言えないよね、というあたりが賛否の別れるところかも。  走って逃げて戦って少し恋もしそうで友情もあるし、めいっぱい青春してるんだからそれでいいんじゃないの(ひとごと)、とか。

今作はどことなく「帝国の逆襲」的な終り方をしてて、まだ続きがあるようなのであんま書けないけど、ここまで巨大グモ → ゾンビときたので次はなにかしら? 熊、じゃないよね。 まさか。

でも次も見るから。

12.05.2015

[film] Altman (2014)

14日の土曜日のごご、新宿で見ました。これは見とかないとね、と。

アーカイブ映像や関係者インタビューから成る映画監督Robert Altmanの人と作品を追ったドキュメンタリー。

Altmanは、2002年の暮れにFilm Forumで”Altman's 70s”ていう特集があって、そこで集中的に見て、はまったの。

映画の中味がおもしろくて(勿論おもしろいんだけどね)感動して夢中になった、というより、映画に出てくるひとも出来事も全員変でまともじゃないし、不気味だし理不尽だし、楽しいことはあまり起こらないくて、それなのに何故かあの世界に引きこまれる。あまりに異様なので変態なので引きこまれる、というより、あの世界とこちらは何かがどこかで繋がっている、それはいったい何なのか、どこなのか? と考えはじめて止まらなくなる、というかんじ。
少しだけ特異で変な時代、場所、状況でちょっと変なひと(たち)が変なひと(たち)と関わって重なってつるんで、なにかが動いたり起こったりして、ものすごく弾けたりハッピーになったりすることもないまま、「… ということでした」みたいにぽつりと終ってしまう。

群像劇、と呼んでしまえば簡単なのだが、もう少しいうと、ひとりひとりが自分は王様だ主人公だとふつうに思っていて、そう思っている連中が互いに互いを理解しないまま、理解できるなんて思っていない(なんでそうする必要がある?)まま、まるで勝手に自動に動いていくゾンビみたいに、うらうらぞろぞろ進んでいって、結果なにひとつ収束しないし解消しない。 
これでいいのだ、てバカボンのパパはいう。 ほれ、こんなだ、ていう。
その無責任な男性中心主義は、狙ったもの、というより現世がこんなふうだから、ていう程度のこと。
神の目は存在しない。 あるいは、存在しない、というかたちである、かもしれない神のなにかを描く。

そして、こんなふうな類型や説明からも自由勝手にはみ出してくるひとつひとつのドラマ。
見てみるのが一番で、個々の映画が紹介されていくにつれて、とにかく見たくて見たくてたまらなくなる。

2010年の9月、Lincoln CenterのWalter Readeで、"FASTEN YOUR SEATBELTS! : 75 Years of 20th Century Fox”ていう特集があって、そこで"M*A*S*H" (1970)の40周年記念のNew Printが焼かれて、Elliott GouldとTom Skerrittがゲストで出てきてトークした。
そこでのQ&Aで「70年代はAltmanの映画に限らず、アメリカ映画全体がすばらしかったと思うが、それ以降の映画では、一体何が変わって何が違ってしまったのでしょうか?」という質問がでた。

それについてElliott Gouldはこんなことを言っていた。
「それは映画ビジネスの話にすぎない。映画作りは、つまるところタイムマネジメントとリソースの手配の問題で、そのやり方が変わったんだとおもう。でもアルトマンに関して言えば、彼の映画は時代に制約されない。彼の映画は常に現代のことを描いているんだ。今観た"M*A*S*H"は、現代のことを扱っているんだよ」
そして、Elliott GouldもTom Skerrittもあの映画からそのまま出てきたような佇まいだったの。

2004年に”Secret Honor” (1984) のリバイバルがあったとき、92yでQ&A with Robert Altmanがあって、そこで生Altmanを見たのだったが、そのときの映像が使われている気がした(黄色いジャケット)のだが、違うかしら。
そこでAltman先生が嘆いていた「最近はカメラがあればドキュメンタリーを撮れると思っている輩が大勢いる」 のケースにこのドキュメンタリーははまっているのかどうか。

でも映画は見たいなあ。 今ってどちらかというとファスビンダーやフラーの時代なのかもしれないけど、Altmanもおもしろいんだからー。

12.03.2015

[film] Les Tontons flingueurs (1963)

13日の晩、アンスティチュのフレンチ・コメディ特集、『イタリアのある城で』のあとに見ました。
『ハジキを持ったおじさんたち』。 英語題は、“Monsieur Gangster”。
びっくりするくらいおもしろかったの。 フレンチタッチとしか言いようがない。

元やくざで今はかたぎのFernand (Lino Ventura)が幼馴染でまぶだちの”The Mexican”が国に戻ってきて、でも死の床にあると聞いて病院に行ってみるとほんとうにそのようで、彼のやばい闇ビジネスと勉強しないで遊び呆けている娘の面倒を見てくれと言われる。 いやいやもうその世界から足洗ったし、て帰ろうとするのだが、瀕死の”The Mexican”の周りに寄ってきた怪しげな連中を見たらこれはなんとかしないと、になって会計士と執事と娘Patriciaのいる彼の家に行ってみたら早速向こうは刺客を送りこんでくる。

Fernandのがっちりドスの効いた顔だち体つきからすると、友との約束を守ろうとする旧勢力やくざ vs 元気で容赦ない新勢力やくざの血みどろの抗争、になってもおかしくないのだが、ぜんぜんそっちの方には行かない。 留守を預かる会計士も執事も相当変な傷物おじさん達で、銃器マニアの若い鉄砲玉ふたりも助っ人に入るのだが、なんといっても激甘娘Patriciaとその彼 - 自称作曲家のナードみたいなの - のカップルが家のセンターで、わたしたち悪くないよね? て無邪気かつ堂々居座ってるもんだからシリアスな世界はがたがたとドミノで崩れていって、そうは言っても刺客は懲りずにわらわらやってくるので「ハジキを持ったおじさんたち」はうるせえんだよ蠅ども、て立ちあがらざるを得ないの。

Patriciaが勝手に開いたパーティで全員めちゃくちゃ強いお酒を飲んでぐでんぐでんになっていくとことか、楽しいったら。 臭みだらけで灰汁たっぷりのおじさんたちが、旧友との約束とか娘を守るためとかとう大義とは関係ないところで、たまんねえなこのかんじ、みたいに嬉々としてどんぱちをおっぱじめるの。

善玉でも悪玉でもない、むっつり揺るがないでっかいハムみたいな肩肉とか胸板とか、Lino Venturaの風貌と佇まいがとにかく圧倒的で、ドアの扉が開いた瞬間に相手を思いっきりぶんなぐるとことか、すごいったらない。
“The Army of Shadows” (1969) を見たくてたまらなくなった。

明日のアンスティチュのJudd Apatowのドキュメンタリー、行けなくなっちゃったのでものすごく頭きてダークになっている。 インフルエンザにでも罹ったろか。

12.01.2015

[film] Un Château en Italie (2013)

13日、金曜日のごご、春画のあと、目白から飯田橋に移動してアンスティチュでみました。
「フレンチタッチ・コメディ!」の特集、もちろん全部見たいのだけど。

『イタリアのある城で』。 英語題は”A Castle in Italy”。

この日の2本目の上映で、チケット買うときに上映予定だったものが変わりましたと言われたのだが、ここのは何見たっておもしろいに決まっているのでそれでいいです、という。 チケットはなんでかタダのをくれた。 うれしかった。

季節は冬、40過ぎのLouise (Valeria Bruni Tedeschi)はイタリアへの里帰りのあと、ぐったり帰ろうとしていたところで、映画撮影中だった俳優のNathan (Louis Garrel)  - ちなみに劇中の映画監督は彼の父親という設定 - と森のなかで出会う。 彼は若い頃女優をしていたLouiseの作品のあるシーンを憶えていて、ちょっとだけあらまあ、とときめくのだが、あんたみたいな小僧に言われてもねえ、とその場は別れるの。

やがて二人はパリで再会して、少し戸惑いながらも仲良くなって、やがて同棲を始める。
Louiseには亡父がイタリアに遺した古いお城とかブリューゲルの絵(窓ケツ脱糞のあれ...) があって、兄は重い病気でふらふら(でも口は達者)で、母はこれからの生活のためにお城か絵を売ることを考え始めていて、LouiseはNathanとの子供がどうしても欲しくなって、兄の病状は回復しなくて、Nathanは売れないので役者をやめて、Louiseのex恋人がお金をせびりにやってきて、などなど、ゆったりとした季節の巡りと共に出口のあまり見えない彼らのじたばたが描かれる。

本当であれば、時代が時代であれば、イタリアにお城を持っている彼らの日々は貴族みたいにゆったり落ち着いたものであったに違いないのだが、現実には病気、年齢、経済、家族、などなどが問題として嫌味のように次々現れるのでエモはぼろぼろであっぷあっぷで、ドラマとかロマンスどころではなくて、みっともなく修道院の床にひれ伏すしかない。 いやいやだからこそ、と思い切って踏み出してみれば余計に泥沼、もう若くないし、でもなんか大人じゃないし、みたいな。

こういうのをフレンチタッチのコメディと呼んでよいのかどうか、チェーホフみたいだけど、でもこれはコメディで、コメディなんだから、と、そういう方向に断固ガイドしようとする主演兼監督のValeria Bruni Tedeschiさんはすばらしいし、共同脚本は『カミーユ、恋はふたたび』のNoémie Lvovskyさんで、このふたつ、このふたりを並べてみると、なんて力強くて素敵なことでしょう、と。 まじで。

あと、この並びにVincent Macaigneあたりが加わると膠着感に更に艶と磨きがかかって、どうしようもないぐだぐだになるんだけど、とか思った。

[art] SHUNGA 春画展

13日のごご、仕事とかぜんぶ嫌になったので半休して行った。

そんなにまでして見たいか、というとそんなでもなくて、ただとっても混雑しているらしいというのを聞いて、土日は更にひどくなるにちがいない、しかも場所はああいう美術館というよりでっかい家屋みたいなとこだし、そういう場所に、陳列物で鼻息が荒くなってしまうかもしれないお年寄り連中と一緒にパックされて並んでみるのはあんまし気持ちよくないよね、ということで平日の午後にしてみたのだが、結果的にはじゅうぶんに混雑していてあーあ、なのだった。

それにしても、整列する必要はありません、て連呼しているのになんで列を作って並びたがるかね、あの人たちは。

春画と呼ばれるジャンルについても、その時代背景についても描かれる対象についても行為についてもすごく詳しいわけではないのだが、これを見に来るひとは性の不思議(性を求めてしまう不思議)とか、当時の性風俗とか、形象・形態面のあれこれとか、あるいはそれら全部とかを見たくて、やってくるのだろうな。 あるいは、なんでこんなのが大英博物館で? とか。

個人的には、日本画で動植物のフォルムを見たときの驚き - これがこんなふうになるのか-、ていう感嘆に変わる具象・抽象の変換のありようが新鮮で、ふーん、とか、ふむふむ、になる、それと同質の変換が起こって思わず「すごーい」とか言ってしまったりするのではないかしら、と。

日本画で描かれた動植物を認識するとき、その形や色や質感がシンプルな太線曲線でアイコンのようにくるくるっと描画されていると「かわいー」と思わず声に出てしまうが、春画の場合の認識プロセスも同様に「やらしー」という感嘆や共感のようなかたちで伝播していく気がして。 
「かわいー」と「やらしー」の国にっぽん。 ちっともCoolだとは思わない。

それにしても。 それにしても、だよねえ。
♂と♀の対、腕が2本づつ、脚も2本づつ(タコ、っていうのもたまにあったりするが)、頭(顔)はひとつづつ、ほぼ真ん中に棒みたいなのと穴みたいなの、その接合とか結節とか、その上下左右、着衣に脱衣、可変項目はこんなもんだろうに、その組み合わせのバリエーションたるや無限大のようで、世紀を跨いでメディアを超えて、えんえん拡がって伝播し続けている。 進化? …わからない。 やたら壮大なかんじがしないでもないが、つまるところは生殖行為にくっついてくる欲望が表に出てきた程度のもん、便所の壁の落書き、とまでは言わないけど。

ていうのもあるし、この描線は「わかっているくせに」ていうのと「いやいやそんなことまでは」の間、リアルと妄想の境界や隙間を実にいやらしく突っついたりほじくりかえしたりする。 そういう止まらない線のユニバーサルなかんじはあるかも。 変てこで変態であることはじゅうぶん踏まえた上で。

あと、日本画、の特性もあるのだろうか、画面がぺったんこで乾いている、というとこは大きいかも。 乾いた画面の上で踊る線、としてあることで、笑えるところも含めて軽く、さくさくぱらぱら見れる、ていうのはあるか。 そんな、レンブラントやカラヴァッジオを見るみたいに見つめても、なんも出てこないよ。  視線はある特異点を求めて彷徨うのかもしれんが、そこに救いがあるわけでも啓示があるわけでもない、線として見ればただの錯綜したぐじゃぐじゃでしかない。その横や端でひらひらと踊っている文字群も含めてね。

というようなことを思いながら見ていて、なんかつかれた。
嫌いじゃないんだけど。ぜんぜん。

11.30.2015

[art] 久隅守景展

10月24日の夕方、”Insurgent”のあとにサントリー美術館でみました。
展示の正式タイトルは「逆境の絵師 久隅守景 親しきものへのまなざし」。 はいはい。

この辺の流派の話し - 狩野探幽門下とか - 日本画だとなんかべつにいいか、になってしまうのはなんでか。たんに面倒だからか、どうでもいいかんじがするからか?

四季の農耕の工程を右から左に展開した「四季耕作図」の図鑑みたいな楽しさ。 世界のパノラマをひと塊の時間として示すことで保たれる世界の調和。 世界はこんなふうにある、のではなくこんなふうに流れて円環をなす(少なくとも四季がまわっている限りにおいては)、と描くことでなんか安心できてしまう不思議。 今だとライブカレンダーみたいなもんかしら(ちがうか)。

そして有名な「納涼図屏風」のへなへな、へなちょこの線、であるが故にこそ現れる絶対的な幸福感、みたいなやつ。 夕顔棚の下で親子3人、ごろごろしながらうっすら浮かんだ月を眺めていて、きっと虫とか蛙とか鳥の音も響いていて、そこにはなんの目的も要請も作為もなくて、ただ彼らはそこにいて、ぼんやり涼んでいるだけ。  どこにも行かない、行く必要がない、全てが満ち足りてそこにある、という感覚がその余白に表象されている。

鍋をいっぱい重ねて頭に乗っけた女性と、なにも被っていない女性が描かれた「鍋冠祭図押絵貼屛風」。
乗っけている鍋の数がこれまでに情を重ねた男の数だという - それって今やったら大変な事になるとおもうけど、なんかそういうお祭りで、これって示威行為みたいなものなのか、だからといってどうしろというのか。 鍋もって列に並べとでも?

あとはかわいい動物とか - 「花鳥図屛風」のミミズクでも、都鳥でも、「虎図」の虎でも - 若冲にもたまに感じる人間なんてどうでもええ、こういう動物だけ相手にしていればええのや - ていうまなざしは確かにあるかも。


この世もあの世も跨いだ「親しきものへのまなざし」というと水木しげる先生のことを想う。
ほんとうにいろんなことを教えて戴きました。 ありがとうございました。

11.29.2015

[film] John Wick (2014)

25日の夕方、フランチェスコで心を洗われた後に六本木で見ました。 どっちも真似できねえ。

かつて組織の凄腕の殺し屋だったらしいJohn Wick (Keanu Reeves)は愛する妻が亡くなった後は殺生から足を洗って、妻が最期に贈ってくれたわんわんと一緒に慎ましく暮らしていたら、どっかの組織のちんぴらに因縁つけられて夜中に家に押し入られぶん殴られて車を盗られて大切なわんわんまで殺されてしまう。

しょんぼり静かに怒髪天になってしまった彼は自宅の床下にセメント固めにしておいた武器火器群を掘りかえし、かつて自分も仕事をしていたそのちんぴらの組織(そいつのパパが親分)を叩きつぶすことにして、宣戦布告する。 組織もその周囲もあのJohn Wickを怒らせちまったのかそいつは相当にやばいぞどうすんだ、と敵味方いろいろざわざわして血みどろのどんぱちが始まるの。

ストーリーはそんなもんでシンプルなんだが、とにかく自分の大切なものを奪われてしまったときの孤絶感を、その悲しく寂しい目をKeanu Reevesほど絶妙に体現できるひとはいなくて、この状態の彼に「子犬を殺されたくらいで…」なんて言おうもんなら五寸釘で瞬殺されてしまうこと確実だし、そういうのは柔術とカンフーと射撃がミックスされているらしい彼の変てこな殺し技の数々を見てから言ったほうがいい。 (あれ、素人がマネしたら - するバカいないと思うが - 自分の膝とか打ち抜くよね)

夜のNew York、そこの闇社会を舞台に、かつて自分の所属した組織を敵に回して殺戮大会、という設定はLiam Neesonの“Run All Night”と同じ(一方は逃げまわり、一方は追い回す)で、更にギャングの息子がしょうもないバカで手に負えない、ていうとこも同じ。 LiamもKeanuも負け犬(だけど実は狂犬)をやらせたら一級品だし。

Willem DafoeとかJohn Leguizamoも、どこからか現れる死体の掃除屋のおじいさんもとってもいそうな夜の人々のかんじがあってよい。  夜のNYの現場のかんじ、みたいなとこだと“Run All Night”のがちょっと上だったかも。 おそらく初冬のNYだと思われるのだが、なんでこんなに寒くなっちゃったんだろ、のきつさみたいのがもう少し出せていればなー。 俺は燃えてるんだほっとけ、なのかもしれんが。

あと、あんなホテルを定宿にしたい。

[film] Francesco, giullare di Dio (1950)

10月25日、日曜日、シネマヴェーラの特集『映画は旅である ロード・ムーヴィーの世界』ていうので見ました。
『神の道化師、フランチェスコ』。 英語題は”The Flowers of St. Francis”。

おおむかし、千石に三百人劇場(ていうのがあったのよ)で見てから、これは世界で一番好きな宗教映画で、キリスト教映画で、神様映画で、何回見ても飽きがこなくて、NYに赴任したときも海賊版みたいなVHSを買ったし、紀伊国屋からDVDが出たときもすぐに買ったし。

フランチェスコとその弟子の修行僧たちが固まって大雨のなかを旅しているところから始まって、粗末な掘っ建て小屋を修行寺みたいにして、布教とか修行のなかで起こるいろんなことをエピソード形式でおもしろおかしく、でも大真面目に神の子たちの姿を追っている。

なにが面白いのかというと、フランチェスコは勿論、その弟子たちもほんとうに、心の底から神様に全てを捧げていてどんなひどいことが起こっても神が与えた試練とか自分がまだ未熟だからだとか言ってて、それはそうなんだろうけどさ、と思うものの、その盲目の、無償の愛の度合いが強烈にすごくて、ばかみたいー、というよりも、なんでそこまで… (神様の愛を信じることができるの?) というところに胸をうたれてしまう。 身も心も捧げる、ていうのはこういうことなんだな、と。 

フランチェスコに拾われたジョバンニていう浮浪者みたいなおじいさんが生ネギをそのままばりばり齧っていたり、煮ているスープに蒔を突っこんだり、訪問してきたキアラ尼にでれでれになったり、 若い小僧のジネプロが暴君ニコライオの餌食になりそうになるのにニコライオは彼のつぶらな瞳にやられちゃったり、みんなあまりに直線でまじめで結果変なかんじにはみ出していて、神様はそんなようなところに現れるんだろうなー、とかはらはら感動していると、みんなそれぞれ地の果てに旅立って行ってしまう。 

もちろん映画に描かれたようなほのぼのしたエピソードばかりではなかったろうけど、でも彼らは神の道化師として超然と我々を笑かして、すうっと画面の向こうに消えていく。 消えていったのだろうなー。

リスペクト、とかありがたやありがたや、とか、心を洗われたり洗いたくなったり、というのとは別の次元で人が信仰に向かうその根源みたいのが生々しく、わかりやすく描かれていて、画面の向こうに消えた彼らの痕跡がいつまでも残る。 ひとがいろんな絵とかアートとかに向かう理由のひとつがここにあるのだと思う。

[film] Insurgent (2015)

もう失われた過去を取り戻すのは無理かもしれないよう。けどがんばる。

10月24日、土曜日の昼、新宿でみました。
邦題はほんとにバカみたいだねえ。 次の"Allegiant"になったら"NEONEO"とかいうのか。

前作のおわりで、どこの派閥にも属さないDivergentたちはやっぱし危険集団、という話になって逃げたり他の派閥に匿ってもらったりしているTris (Shailene Woodley)とFour (Theo James)は、逃げきれなくなって捕まって、他方でなんでこんなふうになっちゃったのか、これからどうするんだ、のメッセージが入っているとされる怪しい箱の存在が確認されて、その箱を開けられるのはDivergentの連中らしいので、Trisは繋がれて箱開けを強制されて大変なの。 あと、反乱軍のリーダーとしてNaomi Watts - Fourのママ - が登場して、極悪Jeanine (Kate Winslet) と対峙するの。

人が自身の属する派閥(Faction)で仕切られている社会とか、そこに収まらないDivergentの存在とか、法律の人たちが使う自白剤とか、ひとは可視化された属性から逃れられないし嘘つけないし隠せないし隠れられないし、ていうのと、でも分類不可能でわかんないのはなにやりだすかわかんないから、ていうのの間で、そうは言ってもひと(特に若いガキ共)の潜在能力ははかり知れないのだから要注意だね、とかそのあたりのわかりやすさはしょうがない。

それにしても、これのKate Winsletにしても、”Hunger Games”のJulianne Mooreにしても、"Maze Runnder"のPatricia Clarksonにしても、"The Giver"のMeryl Streepにしても、一旦世界がリブートされた後で現れる新しい女性リーダーはなんできまって白を着ていて、裏があって陰険そうでおっかないのか。 腐った男共が世界をさんざん潰して壊して、その後に(一見)白い女性リーダーが現れて、その野望策謀を俊敏な子供たちが打ち砕いたりすり抜けたりする、ていうのがこういうお話しの基本公理なのだろうか。

髪を切ったShailene Woodleyさんとその周りの男どもの動きはとにかく一生懸命に逃げて走って泣いて怒って、それだけでなんかよいの。 同じように走って逃げてばかりのMaze Runnerたちと比べたとき、Maze Runnerたちのほうがぜんぜん来ないのは、やはり背後に抱えこんだものが見える見えないの違いなのかもしれない、とかおもった。 こっちには悩んだってしょうがねえよ、の思い切りのよさがあるの。

あと、Kate Winslet vs Naomi Wattsていう対決もなかなかのもんだった。どっちも敵にまわしたらおっかなそう。 ぜったい許してくれなさそう。

あと、あの箱、せっかくがんばって開けたのに、作りだけは仕掛けいっぱいのくせに、そのなかみときたらさ...

でも見続けるから。

11.27.2015

[music] Shellac

25日の水曜日の晩、代官山でついに。

こういうののライブに会社帰りのスーツでいくのなんてありえないので、ちゃんと一旦家に戻って着替えていると小屋につくのは19:30になってしまうのはしょうがない。 もうあきらめてる。 ほんとばかみたいだけど。

入ったときはMONOがまだやってて、聴いたのは何年ぶりか、前のときはExplosions in the Sky と一緒だったんだっけ?
最後の曲の、ふたつの力がごりごり押したり引いたりしているかんじがちょっとすてきだった。


Shellacはこれまでなんでか見る機会がなかった。

Bob WestonさんはMission of Burmaのライブとかだと必ずコンソールに座っているし、Steve AlbiniさんはNew Yorker Fesのトークとかで(おしゃべりを)見たりしているのだが、バンドとして見るのははじめて。 

ライブではこうなるだろうな、と想像していたそのままの音が、アンプを通してダイレクトにびりびりやってくる。 そしてそれがどれだけすごい肌理のやつか、甘美で官能的なことかを思い知る、そんなすばらしい時間でした。 ライブってライブなんだねえ、と。

腕が振り下ろされ腰が揺らされ指が動いてその指が弦を擦って撫でて弾いて引っ掻いて(時には噛みついて)、そこで発生した摩擦音、打突音、擦過音、唸り声、喘ぎ声、呻き声などなどの音がマイクロフォンとケーブルを伝ってアンプに流れ込み、アンプの回路を経由して増幅されたその音は再びケーブルを伝ってスピーカーの膜をびりびりと震わせ、その振動が空気を伝って同じように我々の鼓膜を震わせて、その震えとか律動がわれわれをとっても、ものすごく興奮させる。

ライブというのは単なる音源の再生とは異なる、これだけフィジカルな工程を経て現れるアートで、このバンドのライブでは、このフィジカルな作業工程がぜんぶ、隅から隅まで、機材のセッティングからお片付けまで、ケーブルを走り抜ける電気信号まで(見えないけどね、見えるんだよ)徹底的にアナログで可視化されていて、そこで見たままの音の姿がそのままに耳の穴にぐりぐり入り込んでくる。 ライブで目が向かいがちな轟音とか激しく性急なアクションとかとは別の次元のおはなし、それらはどちらかというと抑え目、それ故に際立つさざ波の快楽。

こんなふうにこのひとたちのライブを形容しようとするとセックスそのもののようになっていって、だからとっても官能的でエロくて気持ちよくて、肉体運動の官能に溢れていて、そう思い始めるとAlbiniさんの腰巻ギターも頻繁のメガネふきふきも、なんかやーらしいのよね。
断然褒めているんですけど。

一週間の間にMelvinsを見れてShellacまで見れてしまう至福。 今年はこれでもう幸せはこないんだわ。 たぶん。

Albiniさんがシカゴで一番おいしいと言っていたのは、たぶんここね。 おじさんたらこんなねちっこいのを...

http://chicago.eater.com/2015/3/4/8150539/usa-today-ricobenes-breaded-steak-sandwich-is-the-nations-best

[log] Seattle - SFそのた November 2015

今回、SeattleとSan Franciscoでの本とかレコードとか食べものとかをまとめて。

まず今回はたった3日くらいだから荷物は機内に持ち込めるがらがらいっこ、会社のひともずっと一緒の旅(出張だって言ってるだろ)なので、12inchとかでっかい本とか荷物を預け入れしないといけない瓶入りジャムとかを買うことはできないのだった。 いちおう、現地は寒そうだからということでコートを持っていって、そのコートをつっこむ用にずた袋を別途用意した。 どうしようもない場合はそのずた袋にコートと一緒に隠すべし、と。 ほんとかわいそうだ。

15日の日曜午後のSeattle。
前回、9月のSeattleで、Space Needle近辺のレコード屋が壊滅していることが明らかになったので今回は別の地域を攻めることにして、Uberを捕まえて向かう。

The Elliott Bay Book Company
www.elliottbaybook.com/

昔いっかい来たことがあって、とてもよいかんじの本屋なのよ。木造でゆったりしてて1階と2階の2フロアで、McNally Jacksonを田舎ふうに幅をもたせたふうで、いくらでもだらだら時間潰せる。

今回買ったサイン本(いつのまにかサイン本マニアになっている)は、Ethan Hawkeの”Rules for a Knight” とKristin Hershの”Don’t Suck, Don’t Die: Giving Up Vic Chesnutt”のふたつ。

どっちも小さい本だし。 前者は子供向けに書いた騎士のお話し(→ “Boyhood”か..)。
後者は友人Vic Chestnuttの晩年を綴ったメモワール。おもしろくて、でもちょっと辛いかも。

ここの隣にOddfellows Cafe+Bar( www.oddfellowscafe.com/ )ていう素敵なカフェがあってブランチでごった返していたが、そこの小店 - Littele Oddfellowsてのが店内カフェとして出店してて、軽くお茶するだけのつもりが、豆腐みたいにみっしりした塊のLemon Olive Oil Cakeを見ているうちにたまらなくなって食べてしまう。 見た目通りの、豆腐の塊を頬張ったときの至福が甘酸っぱさと共にぞわぞわ。

Everyday Music
www.everydaymusic.com/

Elliottの向かい側にあるレコード屋。本店はPortlandらしい。 がらんとした倉庫みたいな店内にアナログとCDの新しいのと中古がいっぱい。 んで、7inchを4枚くらい。もうRecord Store Dayなのね。

もう一軒、たしかPine St沿いにレコ屋があったはず、と坂を下りていったのだが、そのお店はなくなっていた。小さな店だけど変な実験音楽みたいのがいっぱい置いてあって、その時は、北米のカエルの鳴き声レコード買ったのに。

で、その近辺をふらふらしていたらでっかい建物があって、入ってみたらスタバだったの。

Starbucks Reserve Roastery & Tasting Room
roastery.starbucks.com/

まんなかにでっかいタンクみたいな焙煎マシン(?)があってガラガラライブ稼働してて、厳選した豆を個々に特別な煎れ方で供するのでおいしいよ、ということらしい。 スタバはNeil Youngさんとの件があって以来やや疎遠になっているのだが、他にないので使っている、程度。
(Tully’sなんてプン、だし、ドトールは煙いし。 Think Coffeeあたりがこないかなー)

折角なので頼んでみる。 苦いの甘いの濃いの、どんなのが好きなのか、ふだんミルクや砂糖は入れるかどうか、などなどお話しして、これでどうかな、みたいなかんじで決めてもらう。 小さいカップで$6くらいしたけど、やっぱり(そりゃ)おいし。 さっきコーヒー飲んじゃっていたので、いっぺんに沢山飲めなかったのが残念(お茶だったらいくらでもがぶがぶ飲める)。

店の奥にはパイのお店が繋がっていて、店内には雑貨とかアナログレコードまであった。
コーヒーに合うやつ、というセレクションでJazzからR&Bからエレクトロまで古いの新しいの、いろいろあったけど、べつにコーヒーに合わせて音楽聴かないしねえ。

そこを出て、まだ未練たらたらその界隈(おいしそうなカフェとかバーばっかし)を歩き回っていたら、怪しげなレコ屋をもう一軒みつけた。

Zion's Gate Recordsていう、NYだとEast Villageあたりにあるような小汚いとりあえずごっちゃり積んである系のお店で、しかしさすがにグランジ系の中古はアンオフィシャルのも含めてざらざら置いてあるし、壁の高いとこにかかっているのはMerzbowとかBorisだったりするし、店員は愛想だけよくてなんも考えてないぼんくらふうだし、なんかとっても居心地よくて7inchを3枚買った。

この辺で時間が来たので行きと同様、Uberで戻った。

17日、火曜日の朝は朝6時くらいに暴風雨のなか空港に行って、San Franciscoに飛んだ。
ここの空港では、いつものようにSub Pop Shopで7inchを3枚買って(うち1枚は前回来たときに買っていたことが判明。ばかばか)、Beecher'sでチーズを2種類試食した。 ほとんど自動で、こそこそ隠れたりしつつ。
ターミナルのなかで、いろんなアーティストによるPearl Jamのポスターアート展やってた。

つぎの自由が与えられたのは同じ晩のSan Franciscoで、20時にホテルに入ってそこの食堂でみんなで食事をしたあと、21時に解き放たれてそのままtaxiで坂を昇ってCity Lights Booksに行って何冊か。 7inchがおまけで付いていた雑誌 - Pitchfork Review - Robert Wyattのインタビュー、ベルリン時代のBowie - とかを買って、ふたたび坂を下って、”Brooklyn”を見たのだった。

翌朝、飛行機が発つのは午前11時、部隊の半分は既に別のところに旅立ち、残りは空港で集合なので、つまり、それまでは単独で動ける。 となったらミッション地区に朝ご飯を食べに行くしかない。 7時にチェックアウトして、がらがらと共に車で、まずはCraftsman and Wolves。

もう何回も来ているのだが、同じものが置いてあったことはほとんどなくて。

“the rebel within”ていう、外見だけだとマフィンなんだけど、スパイスとか薫製肉の香りがほんのりして、まんなかにとろとろの半熟卵が入っている。おまけにチューブに入ったバスクの塩をくれる。 朝パンとしてはとってもパーフェクト。
他には角食みたいなjapanese milk breadていうのとかがカウンターに並んでいた。

おみあげを少し買って、そのまま歩いてTartine Bakery、まだ開いて10分くらいなのにもう列ができてた。 既に割とお腹にはいっていたので、すこしだけ。前から狙っていたBread Puddingを。
まあるいカップにひたひたとろとろに漬かったパンの残骸と同じ汁に漬かって暖まったフルーツの酸味が見事なだんだらを描いて、すばらしい。 和食だと雑炊とかおじや系、になるのかしらこれ。

お腹いっぱいになって、でもこれだけで空港に向かうのはもったいないので、Tartineの並びにあるBi-Rite Market の開店(9:00)を待つの。 でもまだ40分くらいあったので界隈を散歩してた。出張のがらがらを転がしながら。 朝の散歩のわんわんがいっぱいいた。 この近辺の犬になりたい。

Bi-Riteは地元のおいしそうなおやつとかいっぱいあるので楽しいの。 Sourdough & Olive Oilのチョコとか。 帰って食べたらおいしくてねえ。

で、この後に空港に向かって、さすがにもう本とか買う気にはならず、ラウンジ行ったら芋洗いで、しみじみうんざりしたのだった。

11.23.2015

[log] November 19 2015

行きとか帰りの飛行機(今回はANA便)で見た映画とか。

Seattle行きから。 8時間なので寝る時間を引くとあんまし見れない。

まず"Trainwreck"があったので大よろこびでもう一回見る。何回でも見るよ。
ベースはラブコメなんだけど、家族の物語でありパーソナルな面倒ごとの物語であり仕事の物語でもあって、これらが地続きで全部繋がっていることのおかしさ - しんどさではなく、それをおかしさと、それ故の愛おしさとかけがえのなさに着火させようという意思(そしてそういった嗜好そのものが、既にじゅうぶんに怪しくておかしい)がJudd Apatowのコメディには常にあって、だから大好きなんだなあ、と改めて思った。フランスで好かれる理由もこの辺にあるのでは。(アンスティチュのフレンチ・コメディ特集で上映されるドキュメンタリーは絶対いくべし)

それから、なんでかWim Wendersの"Every Thing Will Be Fine"があったので見始めたら、ぜんぜんタイトル通りとは思えない内容のようで、ディスプレイの解像度もどんよりと暗くて、寝よう、と思って寝た。こういうのはちゃんとシアターで見ないとね。

起きてから到着まで何見ようかしら、で、Star WarsのEp4から6までがあったので、しょうがないか、とEp4を見る。 そういえば、ANA便、San Jose行きにしておけば、R2-D2仕様の飛行機になったのだった。もうそんな歳じゃないでしょ、ではあるもののちょっとだけ、な。

Ep4は、97年の改訂版だった。これ、あんま好きじゃないんですけど。 オリジナル版をもういっかい、ちゃんとリストアしてくれないかしらん。

SFからの帰りの便で見たやつ。

Infinitely Polar Bear (2014)
Mark Ruffaloが名家の出で優秀だったのに精神を病んで病院から出てきたところで、妻は娘ふたりを養うために資格とらなきゃ、とNYの学校に通うことにして、その間病みあがりのパパが娘の面倒を見るべく奮闘するの。 ぽろぽろでどん底に堕ちたMark Ruffaloなんてもう何千回も見ている気がしたのだが、映画はパパが家族を振り回すというより娘ふたりがパパもういいかげんにしてよ! て立ち向かう系ので、でもそれで修羅場がどうにかなるもんでもないので大変で、いつパパが緑の怪物に変身するのかはらはらしたりしたのだが、ひとりの死者・負傷者もなくなかなか甘めのファミリーアルバムとして終わったのでよしとしたい。

Fantastic Four (2015)
機内では2005年の同名作も見られるようにしていた、けど見比べたいと思う人なんているのか?
子供の頃からの科学マニアだった仲間達が物資伝送に夢中になって大人になっても辛抱強く続けてたらうまくいって、自分達で実験したら手足が伸びたり火だるまになったり岩石になったり透明になったり、ひとりは異次元に置き去りになったり大変で、でも政府は彼らの身体特性を兵器として使おうとして、彼らは彼らでなんとか治療法を探そうとしてて、そうしているうちに置き去りにされた奴が恨み節全開でやってくるの。
全てのやりとりが彼らと政府の間の敵か味方か、みたいなわかりやすい図式のなかで閉じてて、さらになにもかもが既決事項ですからみたいにするする決まって流れていくので、人類の運命とか平和とかはあんまどうでもいいかんじなの。
最後は、ありのままの姿を受け入れよう、俺らがファンタスティック・フォーだ!  って宣言するのだが、なんだよそれ、なにがファンタスティックじゃぼけ、なのよね。
これならJessica Alba版のほうがだんぜんましだわ。

まだ時間があったので、The Holiday (2006)を再び。
Nancy Meyersばんざい、ということで。
もうだいたい10年前の映画だけど、とってもおもしろいし、この設定からいくらでも拡がるねえ。
数年後にどこかでリメイクされればいいのに。

なんもしないまま3連休が終ってしまったよう …

[music] Melvins

22日の日曜日、Hostess Club Weekenderに行きました。
平日の晩のライブなんてありえないかわいそうな洋楽好きの子供たちにとって、週末に数バンドまとめてコンパクトに見ることができるありがたいやつ。 ほんとは週末のいちんち潰れてしまうのって、それはそれできついのだけど。

今回はMelvinsがあったのでMUSTだった。

2011年の3月11日の晩、クアトロでライブがあるはずだったの。
いま思い返せばバカみたいだが、あの日の午後、あんなことになってしまって日比谷からとぼとぼ歩いて帰宅している最中も、夜は彼らのライブに行くのだ、だから早く帰って着替えなきゃとか思っていた。 渋谷までの電車は動いていないかもしれないけど歩いていけばいい、彼らはちょっとびっくりしたような顔をして、でも地震を跳ね返すような怒濤のライブをぶちかましてくれるに違いない、と確信していた。

家に帰ってTVを見たらそれどころではないらしいことがわかってライブは(しぶしぶ)諦めたのだが、彼らみんな、だいじょうぶだっただろうか?  ちゃんと帰れたかしら?  と気になってしかたなかった。
チケットは払い戻ししなかったなあ。

で、そんな彼らが戻ってきてくれる、戻ってきて演奏してくれる、というのだからなにがなんでも聴きにいくのが礼儀ってもんよ。 戻ってきてくれて本当にありがとう、と。

ひょっとして物販があったらどうしよう、と思ったので会場には2時半くらいに着いた。
MelvinsのアナログとかプリントをWeb経由でこつこつ買い集めるのが数少ない趣味のひとつなのだが、今回そういうのなんもなかった。 ざんねん。

彼らを最後に見たのは2008年、竜巻警報が出ていたシカゴの夏の晩、Lollapaloozaの裏番で、とても小さい小屋、”Nude with Boots”が出た直後で、ドラムスが2台で、ほんとに吹き飛ばされた。
その前は2005年で、Jello Biafraと一緒のだった …  もう10年前かあ。

何人編成で誰と来るのか何もチェックしていなかったのだが、3人編成で、ベースはButthole SurfersのJeff Pinkusさんだった。 Paul Learyさんも来ればよかったのにな。

リハーサルの音出しからして笑っちゃうくらいばりばり。 とりあえず空砲を10発くらい。避難するならお早めに。

18:45きっかり、両手を上に掲げたDale Croverさんの、両足のみのどかどかちきちき、で厳かに始まり、20:15きっかり、同じポーズの同じ音でしめやかに閉じる。 いじょう。

なにを言っても書いてもしょうがない、竜巻豪雨に雷神風神、海の怪獣山の怪獣、ぜんぶいっぺんに襲ってきてフロアにいた我々は1000メートルの彼方までなぎ倒されてふっとばされて大惨事で、それでも全員歓喜の電撃にうち震えて笑っていた。 感動の涙なんてないの、なんだこりゃ、ありえないー、て絶句して、あとは自分の鼓膜と脳の無事を確認して笑うしかないんだ。

ほぼ無停止、King Buzzoがヤギみたいにベエエ、とか鳴いた以外は喋りも煽りなし。アンコールもない。
どの曲をどの順番で、なんて書いてもあまり意味ないけど、最後のほうの”Your Blessened” 〜 “Night Goat”は凄すぎてこのまま死んでもいい - 殺して夜山羊、になったわ。

こないだ彼らのFBに載ってた85年のDaleの自宅でのリハの10分間 - 最初と最後にDaleのママがTVの音が聞こえないよ、って怒鳴りこんでくる - を聴いてみ。 その完成度にも呆れるけど、30年間ずっとこれなんだから、そりゃ最強だよねえって。

怪獣はまた回遊して戻ってくるよね。

これの前に見たふたつも。

Christopher Owens

Girlsは好きなバンドで来日したときも、行ったのだった。
4人編成で、音も小さめで、Girlsよりもふんわり柔らかい音、初期のFeltとかThe Pastelsみたいなかんじで、たまに50年代ロックンロールの香り、そりゃ嫌いになれないわよ。 Girlsの曲もやっていたし、延々聴いていられる。
あの寝巻きみたいなファッションもよいなー。 変なひとなんだろうなー。

Daughter

これまで聴いたことありませんでした。 どんどこ背後で壁をつくるドラムスをつんざいてナイフとヤスリのギターと冷たく浮遊する女性ヴォーカル、過去にいくらでも聴いたフォーマットながら緩急とかエッジのつけかたはデジタル世代のかんじも。
こういうバンドのフロントにいる女性ってつんつん意地悪ぽい人が多かった気がする(気のせいよね)のだが、ここの彼女はとってもフレンドリーでお茶目ぽかった。 ミスしても「ごめーん」とか。  音はとっても好き。

で。  このふたつのあとにMelvinsかよ、てみんなが思ったはず。 べつに関係なかったけど。

11.22.2015

[film] The Hunger Games: Mockingjay - Part 2 (2015)

20日の金曜日の晩、六本木でみました。 先に書いておこう。
米国と公開日を同じにしたことは誉めてあげてよいのかもしれないが、どちらかというと年末年始のリリースラッシュを避けるためにとりあえず出しとけ、みたいな投げやり感もある。

六本木でも小さいほうのシアターで、初日の18:30の回なのに空席いっぱいだし自分の周囲にいたのは英語喋ってる人たちばかりだったし。 邦題で『レボリューション』なんて言ってるけど、レボリューション的なわかりやすい威勢のよさからほど遠いテーマの映画であることは前作までを見ていれば簡単にわかるのにね。

日本ではこんなもん、ていうのはいつも思うことではあるが、なんでこれが本国では少年少女にあんなに受けているのか、自国の荒唐無稽なばかりでひたすら幼稚な「革命」映画を売ることとか、そのためのくだんないコラボとかを考えるまえに少しは立ち止まって周りを見てみれば? ← 業界のひとたち。

前作Part1の最後、政府によって洗脳されたPeeta (Josh Hutcherson)に絞め殺されかけたショックが消えないKatniss Everdeen (Jennifer Lawrence)は、自身のイメージが反乱軍のプロパガンダに利用されていることを知りつつも、President Snow (Donald Sutherland)へのたぎる憎悪のみで首相官邸のあるキャピタルに小隊と共に突っ込んでいく。 その行軍は政府の仕掛けた罠と、反乱軍の思惑との間でまるでHunger Gameとしか言いようのないサバイバル戦になっていくのだが、このGameに勝つのはどっちなのか誰なのか、そしてそこでの「勝利」とは誰の、なんのためのものなのか、と。

延々と止まない局地戦が続いて仲間はじりじり死んでいくばかり、最後にものすごいカタルシスやどんでんが来るわけでもないし、ハッピーエンドなんて望めるわけもなくひたすら苦くてきつい。 その苦さとしんどさを前線で最も体現しているのがKatnissで、前作に続いて彼女の表情はどんよりと暗く苦渋に満ちていて、とても勝利の女神、救世主のそれではない逡巡と彷徨いのなかにある。 なにを言いだしてなにをやりだすかわかったもんじゃなくて、彼女から目を離すことができない。

最初のほうの戦いを巡るKatnissとGale (Liam Hemsworth)の会話が興味深い。
この状況は戦争なんだから私情なんて挟みようがない(反乱軍側の犠牲だってやむを得ない)、というGaleに対し、Katnissは、わたしには私情しかない、わたしが殺したいのはSnowひとりだけなのだ、と。 この点で彼女は最後まで一貫していた。 進めば進むほど私情と私怨でぱんぱんに膨れあがっていくにせよ。

このシリーズを最初から見ているものとしては、この完結編は当然見てしまうわけだから冷静な目になっていないのかもしれないが、この137分のテンションは相当に異様で変で、その中心にエモ全開のKatnissとか半分壊れたPeetaとか半分狂ったSnowとかがいる。 もはやディストピアを生き抜くカリスマ少女のお話しなんかではなくて、後半の為す術もなしの展開はなんだかRW Fassbinderを思い起こさせた。 具体的にどこがどう、はもう少し考えてみたい。

最後の、猫との対決シーンがすごい。 やっぱりこいつは猫だったのね、と。

Philip Seymour Hoffmanの最後のフィルム。 彼の最後のフィルムでの最後の姿があんなふうだったことになんともいえない感銘を受ける。 Game Makerの笑い。

このシリーズを字幕で見たのは初めてだったのだが、Mockingjayの訳のなんとかカケス、気になってしょうがなかった。なんだよあれ。そのままでいいじゃんか。

イスラエルでこの映画のポスターからKatnissの姿が消されてしまったように、ファシストの国からは相当都合悪いものに見えてしまうらしい。 わたしにはPresident Snowの姿に今の総理大臣の姿が被って見えてしょうがない。あんな風格はないけどね。

11.21.2015

[film] Brooklyn (2015)

17日の火曜日の夜中、San FranciscoのEmbarcadero Center内の映画館でみました。(Landmarkのチェーンだった)

とにかくこれはなんとしても見たくて、もういっこ見たかったのは"Man Up"だったのだがそっちはSFではまだやっていなかったの。

予告で”The Danish Girl”と”Carol”がたて続けに流れておお、だった。 なんか、いいなー。

50年代の初め、母と姉Rose (Fiona Glascott)と一緒に暮らしていたアイルランドから海の向こうのアメリカ - Brooklynに渡ったEilis (Saoirse Ronan) - 小説の訳では「アイリーシュ」だったけど - がミセス・キーホー (Julie Walters)の女子寮みたいなアパートに居を定めデパートの店員として働きつつ、イタリア系のTony (Emory Cohen)と出会って仲良くなって、やがてRoseが突然亡くなってアイルランドに戻ったらそこで旧知のJim (Domhnall Gleeson)とも仲良くなって、Tonyのところに戻るべきか母とJimのところに留まるか、で揺れるの。

原作の小説との違いでいうと、小説は小説ですばらしいし、そこは映画も同様で。
小説がEilisの揺れ動く感情のひだひだを織り目縫い目までちくちく追ってくるのに対して、映画はそこに見事な色(色味が全体にとてもよい)と陰翳を被せて夢のようなシークエンスを作り出している。 クラシックなメロドラマを見ているときに湧いてくるこの感覚なにかしら? がゆっくり、静かに満ちて襲ってくる。

「愛してる」を連発するTonyに「あなたに言わなきゃならないことがあるの」てEilisがいうところは小説のまま。 初デート映画で「雨に唄えば」を見にいくところ(ここはもうちょっと)も、コニーアイランドで水着に着替えるとこ(昔はあんなふうだったのね)も、いちいちじーんときたり熱くなったり。

New YorkもBrooklynもしっている。職場で出会ったアイリッシュのおじさんやイタリアンのおばさんもしっている。 今から60年くらい前のあの辺りの路上で、教会で、ダンスホールで、彼らの父親や母親がひょっとしたらこんなふうに出会ったり恋をしたり別れたりしていたかもしれない、そこにあったに違いないいろんな偶然とか魔法とか躓きとか、その重奏感にうっとりして泣きたくなったり。

大戦後、大西洋を超えたひとりの女性の… なんて目で見なくても見るひとそれぞれがいろんなところでちくちくしてため息ついて空を仰いで、になったりする、そういうスケールをもった映画。

とにかくSaoirse Ronanが本当に本当にすばらしい。彼女にとっても生涯の1本になることでしょう。 薄い青緑の目で、あんなに緑色が似合う女の子、見たことないし。

ラストは小説にはないおまけがちょっと付いていて、あれは脚本のNick Hornbyのファンタジーなんだとおもう。 全面的にゆるす。 泣いちゃうし。ずるいわ。

11.20.2015

[film] The Peanuts Movie (2015) - 3D

19日の晩、9時半くらい、シアトルのホテルの裏のシネコン - いつも通っているところ - でみました。

今回の旅でなんとしても見たかったのは2本あって、でも2本ともシアトルではまだ上映していないのだった。がーん。
で、他に見たいのはあんまないし、これはどっちみち2~3回は見ることになりそうだし、と。

上映開始より少し遅れて入ったら中には誰もいなくて、独り占めで喜んでいたら、少し遅れて子供を連れた家族連れが入ってきて、ここのガキがわーわーぎゃーぎゃー泣いて喚いてやかましくて、これはこれでPeanutsなかんじかもしれない、とか思った。

本編の前座で短編が流れて、主人公は”Ice Age”のどんぐり命のリスみたいなあいつで、たぶん誰もがそうだと思うのだが、あいつ、とても他人事とは思えなくて涙なしには見れないの。 どこまで行ったら、いつになったら幸せのどんぐりを掴むことができるのかしら、って。

さて、スヌーピーとチャーリー・ブラウンをなんでアニメーションに、しかも3Dなんかにする必要があるねん? ていうのは誰もが思って危惧したり嘆いたりしたことだと思うが、でも結果としては、ぜんぜんわるくないのだった。
こないだの”Paddington”もそうだったけど、こういうのを映画にしたいと思うひとは、やっぱしキャラクターとかそこに描かれた世界に愛とか想いをそれなりに抱いて生きてきたひとに違いなくて、だから自分も含めてそんなことをしたら世界がどう思うかについても真面目に真剣に考えていて、だから基本あんまひどいものにはならないのではないか。 この映画について、そういう溢れる愛はなんとなく感じていて、しかも、さらに、ProducerにPaul Feigがいる、と聞いた時点でああだいじょうぶかも、と思ったの。

でも例えば、ドラえもんの映画には、そういうのはかんじない。 あそこには小学館とTV朝日の営業の匂いしかない。

ある冬のはじめから夏休みのはじめまでの、チャーリー・ブラウンと仲間たちのおはなし。
チャーリー・ブラウンのおうちの反対側に赤毛の女の子が越してきて、学校も同じクラスになって、チャーリー・ブラウンは彼女の気をひこうと、ダンスを練習したり、「戦争と平和」の読書感想文を書いたりしてがんばるの。 でも当然のようにうまくいくわきゃなくて、じたばたする。

タイムトラベルも宇宙旅行もジャングルも大都会もないけど、チャーリー・ブラウンとスヌーピーが住んでいる世界は、とにかく落ちつきなくじたばたする、それもひとりじゃなくて、みんなを巻き込んで、みんなは巻き込まれてじたばたする、ていうのが基本で、みんなが - ウッドストックも含めて束になって「わぁぁーーあああー」てなってじたばたあたふた右往左往して、そこにシュローダーの軽快なピアノ - “Linus And Lucy”とか - が被さってくればそれで十分でご機嫌で幸せで、それができているんだからなーんの文句があろうか。 表情のアップになると微妙な線とかは3Dじゃなくて、2Dの線画になるし、じゃあなんで3Dなのかというと、たぶん飛行機の空中戦とかあるから...  程度かなあ。 

とにかく、Charles M. Schulzが長い長い時間をかけて作りあげた紙の上の素敵な世界を、なんとかぴょんぴょん動く世界、弾む音楽の世界に持ってこようとして、うまくいっている。 とっても楽しくて大好きなバンド - 楽隊のおはなしなの。音を鳴らしてセッションをしているのを見ているだけで幸せがやってくる。
だから(さっき日本語版の予告みたけど)吹き替えはぜんぜん違って、彼らのしゃべる英語のリズムがこの音楽/映画には必要なんだよ。

ラストのショットはなんだかじーんとして、ずっと焼き付いている。 
でもそれはずっと何十年も焼き付いたまんまのファミリーアルバムのなんだよね。

11.18.2015

[log] November 18 2015

たった3日のあいだだけど/なのに、ほーんとバカみたいに面倒臭い手口やり口でそらしたりかわしたりを延々やってて、なんとか帰りの空港まで来ました。 ここはSan Franciscoで、前日の昼にSeattleから入って、でも仕事はSan Joseのほうで、ダウンタウンのホテルに入ったのは19時くらいだった。 San Franciscoなのにさ。

だから今朝は、7:00にチェックアウトして、まず7:00に開いているはずのCraftsman and Wolvesで食べて、そこから7:30オープンのTartineに移動して(このふたつが近所というのはよいことなのだろうか?)食べて、相当にお腹いっぱいになって、そこから9:00オープンのBi-Riteの入り口で待って、開いてすぐに買いものして(でもあんまなかった)、というような最後のあがきとじたばたを出張の荷物ぜんぶ抱えて、しかも木曜に成田に着いてから会社にそのまま行くので半分仕事の格好でやってて、ほんとばかみたい、てしみじみおもった。

もうこういうのやらない。たぶん。

これを叩いているのはUAのラウンジで、ものすごい芋洗いで、これ書いたらとっとと出る。

今回じゆうになったのは、日曜日のごご5時までと火曜日の晩から水曜の朝まで。
とりあえず映画2本、レコ屋3つ、本屋ふたつ、食べもの関係は水曜の朝までは、ほとんどさっぱり、でした。 しょうがないよねえ。

ではまたー。

11.15.2015

[log] November 15 2015

パリで、ベイルートで、韓国で、立て続けに悲惨で悲しいことが続いているのでとっても滅入るのだが、いまは成田で、これからちょっとだけシアトルとかに飛んで、木曜の夕方に戻ってくる。
現地の人たちの悲しみや苦しみと比べたら小さなことではあるが、今回の日本のTVを中心としたメディアの対応には改めて、しみじみ嫌になったので、いま国外に出てそれらから目を背けることができるのはよかったと思うくらい。

対応の是非、その良し悪しということよりも、これってどれだけ他者の悲しみや痛みに寄り添うことができるのか、ていう想像力や体温の問題で、今の日本(のメディア)は、ぼくらを見て!(ほらこんなに素敵なんだから)はいくらでもわーわー言うけど、他者を他者として受けとめる感受性がどうしようもなく鈍化していると思う(そしてそれを矯正しようとする力が働かない - それの何が悪いの? - になってしまう)。  これがメディアの問題に留まらず嫌だと思うのは、日本人一般の感じ方を代表しているかのように捉えられる可能性があるからなんだよ。 そういうのが例えば海外で暮らす日本の人たちにどんなふうに波及することになるのか、わかる?  それでいいんだったら、勝手に幼稚なナルシストしてろ、気持ちわるい。

今回はシアトルで2泊、もう一ヶ所で1泊、びっちり打ち合わせなので動きようがないねえ。シアトルはダウンタウンの方じゃないし、しかもずっと雨みたいだしー。

日本に残してきて残念なのは、アンスティチュのフレンチタッチ・コメディの特集とメナヘム・ゴーラン映画祭、だなあ。

来るときのNEXでは12inch x 2で再発されたPeter Gabrielの3 (1980)をずっと聴いていた。(誰もが抱くであろう感想のひとつとして、こんなに軽く、薄くなかったよね..)  当時高校生だった自分の知覚野を拡げてくれた音のひとつ。  例えばこれと、Pop Groupの”For How Much Longer Do We Tolerate Mass Murder?”と、Cabaret Voltaireの"Three Mantras”がある柱(群)をつくった、と。

とにかく、Melvinsまでにはぜったい戻ってくるし。

ではまた。

[film] La Patota (2015)

まだ10月の12日、月曜日の午前にラテンビート映画祭でみました。

最初に29分のドキュメンタリー。
La parka (2013)

メキシコの食肉処理工場の描写 - 狭い視角のなかに牛が送りこまれて、それががたんと崩れ落ちる映像が続いて、彼らが死に、彼らが仕事をする工場の映像、そこで若い頃から働いている男の独白 - 仕事に対する思いや罪の意識 - が被さる。例えば、”Meat is Murder”が流れる隙間なんてこれっぽっちもない、どうしようもない冷たさが支配する。

たぶんもうじき自分は菜食になってしまうんだろうな、という最近の予感を後押ししてくれるかんじがした。
映画とは関係ないけど、なんでみんなあんなにTVでも雑誌でも肉肉言ってるのか、ぜんぜんわかんないの。

そのあとで、「パウリーナ」。英語題も”Paulina”。
1960年の同名作品(未見)のリメイクだという。

28歳のパウリーナ (Dolores Fonzi)は、冒頭、アルゼンチンの法曹界の重鎮であるらしい父親と議論していて、どうやら都会で弁護士として精進する安易な道を捨て、ソーシャルワーカーとして田舎の村に赴き、若者たちに民主的権利を教えるプログラムの教師になろうとしているらしい。

結局父親を振りきってその村に赴任するのだが、村の若者は勉強へのやる気ゼロでかんじ悪くて(例えば “Dangerous Minds” (1995)なんかの数倍不気味で手がつけられないふう)、でも同僚の教師とは仲良くなって彼女の家に呼ばれてお酒を飲んだりして、そこからバイクで帰る途中、村の若者たちに襲われてレイプされてしまう。 でもそれは間違い - 自分の彼女に浮気をされた若者が仕返ししようと待ち伏せしてて、そこにパウリーナがたまたま通りかかった - で、更に悪いことにパウリーナは妊娠してしまうの。

気丈な彼女はへこたれないのだが、父親はだから言ったろうが、と強制捜査に入って容疑者たちをしょっぴいて、殴る蹴るで自白をさせて、パウリーナにも確認を求めてきて ー。

この後、お腹の子供は当然堕ろすべきだ、という父親と、それはしない、というパウリーナとの議論がなかなかすさまじくて、考えさせられる。
父親が一般論として語る社会的正義とか使命とかはわかる、けどこのまま単なるレイプの被害者として、暴力に満ちた世界の結果のような形で収束させて消してしまいたくないし、このお腹にいる子はいまのままでは全く意味のない何かでしかなくなってしまう、けどいまここに、このなかにいるのだと。

(向こうはそう思っていない)暴力や野蛮とどう向き合うべきなのか、ということを極めて具体的な問いと共に突きつけてくる、よい映画だった。 きちんと公開されるべき。

ラストはカメラに向かって歩いてくるパウリーナのショット。その強い目。
Giovanna Mezzogiornoさんの強靭さを思い起こしたり。

11.14.2015

[film] Fathers and Daughters (2015)

11日の日曜日の夕方、サンチャゴから岸辺を経由して、おなじく新宿で見ました。
『パパが遺した物語』

ふだんこういう傾向のはあんま見ないのだが、監督が”The Last Kiss” (2001)のひとだというので、なんとなく。

89年のNYで、作家のJake (Russell Crowe) は交通事故で妻を失ってから一人娘のKatieと二人暮らしになるのだが、事故の後遺症とかスランプとか不安とか意地悪金持ち義妹夫婦がKatieを養子に欲しいのでくれ、て言ってきたりとか頭痛のタネがわらわら出てきて、そういうなかで書いた新作は酷評されて、パパは更に孤立して苦悩してとってもかわいそうなの。

ていう話しと、そこから25年が経って成長したKatie (Amanda Seyfried)は大学院で心理学を学びながらソーシャルワーカーとして心を閉ざしてしまったLucy (Quvenzhané Wallis - “Annie”ね)の面倒をみたりしているのだが、あんまうまくいかなくて、恋愛のほうもぼんやりどんより、どうでもよくて行きずりの男とやっては離れ、みたいなのを繰り返していて、要はなんか愛が足りていなくて、特に求めているわけでもない、つまんないかんじなの。

というふうに、パパの報われないお話しと、そこから25年後の荒んだ娘のお話しが交互に絡みあうように進んでいって、それがパパの遺した”Fathers and Daughters”ていう物語に収斂していく、ていうええお話やなあ、なんだけど。

でもねKatie、物語なんてどうでもいいから、もうちょっとちゃんとしないと、パパは頭ぶつける洗面台が何台あっても足らなくなっちゃうよ。 幽霊になって出てくるよ。

ほんとはKatieが子供だった頃にパパがおっかない本を書いて、読んであげればよかったんだよ。
その本のタイトルは”Babadook”ていうの。 パパがあの声で読んであげたら効果てきめん、やばいことなんかやらなくなるよ。

もうちょっと泣けると思ったんだけどなー。

[film] 岸辺の旅 (2015)

11日のごご、「アジェンデ」の後に数ブロック歩いたとこで見ました。

瑞希(深津絵里)が疲れて帰ってきて白玉を作って置いておいたら3年間失踪していた夫の優介(浅野忠信)が突然現れて、自分は死んだのだ、ていう。瑞希は特にびっくりしたり嘆き悲しんだりすることもなく、靴脱いでよ、とか言って、翌朝、いなくなっちゃったかな夢だったのかしら、と思っていると彼はふたたび現れて旅にでよう、と彼女を誘う。

で、幽霊(たぶん)と生人(たぶん)が一緒に旅をして、失踪していた夫が生前世話になったところを訪ねて泊めてもらったりする。 夫が再会するひとのなかには同じく幽霊になっているひともいて(その違いは瑞希にはわからない)、こう書いていくとふたりで死 - 消滅に向かう旅路のように思えてしまうのだが、そういう重さからは遠くて、瞬く蛍の光点があちらこちらを楽しげに/哀しげに漂っているようなかんじ、その距離の取り方はひとによって異なる。そういう自由さもある。

ここでいう岸辺、の岸はおそらく彼岸と此岸で、その境界は常に揺れてこちらに来たりむこうに返したりしていて、こちらの人、むこうの人、それぞれ見えているものは異なる。でもそこに流れている時間はひとつで一緒で、それが旅というもので、そんなふうに端から考えていくと、これは幽霊譚でなくても十分に成立するわれわれの日々移ろっていく旅の話し - 当然生死も織りこまれた - であるのかも知れないね、とか。

でも、この幽霊はただそこに一緒にいるだけではなくて、宇宙についてみんなに講義してくれたりするの。 まるであちら側で見てきて知っているかのような説得力で。
なんかね、あのぐだぐだとっちらかったTerrence Malickの”The Tree of Life” (2011) を日本的にわかりやすく整理するとこんなふうになるのかもしれない、とか。 ”The Tree of Life”、決して嫌いではないのだけど。

最初に優介が出てくるとき、カメラがちょっと左に行ってそこにある闇を凝視するかんじになるところがとても好き。学校の講堂で灯りが奥からだんだんについていくところも。 瞳孔にそのままくるような光と闇のかんじ - それが幽霊に触れるということなのだろうね。

見るひとによって、ほんとうにいろんな印象 - 印象というよりもう少し強い痕跡 - 霊的体験みたいなのをもたらす作品で、まだずっと一緒に旅を続けていくようなかんじが残っている。

[film] Allende, mi abuelo Allende (2015)

旅に出てしまうと(旅じゃない。出張。 し・ご・と・だ)、その記憶はあっというまにどっかに消えてしまう(仕事のも、ね)気がして、だから早めに書かなきゃと思って書くのだが、そういうのが続くと普段の週末とかに見てキューに溜まっていたやつが膨れあがってどうしようもない。 書かなきゃいけないルールなんてもちろんないのだが、せっかく見たのだから感想を少しでも書いておいたほうが、と思うので、ちょっとずつでも書いていきま。

もうひと月以上昔、10月11日の11時、新宿のラテンビート映画祭で見ました。
『アジェンデ』 英語題は、”Beyond My Grandfather Allende”。

73年、ピノチェトによるクーデターで崩壊したアジェンダ政権、それと共に亡くなったサルバドール・アジェンダ大統領の孫娘がクーデター後にばらばらになった家族の軌跡を追ってファミリーアルバム(映画)を作ろうとする。 彼女(監督)には祖父の記憶が殆どなくて、でも家族ひとりひとりになんらかの記憶は残っているはずで、でも誰も当時のことを語りたがらないようだった。

撮影開始時、祖母のテンチャは90歳を超えてまだ存命していて、監督はなんとか彼女からの証言を引き出そうと突っこんでいくが、肝心なところにいくと「疲れた」とかわされてしまう。
他方で母や伯母からは写真を含めて当時のいろんなことが箪笥の奥から出てきて、クーデター後、離散した家族 - キューバに亡命した後で自死した伯母のこととか、あたりまえのことではあるが、政変は国だけでなくひとつの家族をぶっ壊してしまったのだなあ、と思うし、それでもこんな形で繋ぎあわされることもあるのだなあ、とも思った。

あと、(特に祖母からは)言葉として殆ど表に出てこなかったが故にその重さ辛さは条理を超えたものだったのだろうな、と。 誰もが偉大だった大統領のことを知っている、アジェンデは偉大だったという、でも彼は夫で、父で、祖父で、チチョと呼ばれて家族の中心にいたひとでもあったのだ、それがあんな形で突然引き離され、自殺か他殺かの確認も遺体の確認も出来なくなってしまう。それは家族ひとりひとりにとって、彼らの40年という時間のなかで、どういう位置を占めていたのか、フィルムはそれを丹念に拾いあげていく。 わたしにはそれしかできないんだ、という無念さも。

これが上映された週、山形のほうでは丁度『チリの戦い』三部作をやっていて、合わせて見ればもっといろいろなことが見えてきた、のかもしれない。 見たかった。
90年代、サンチャゴに仕事で何回か行ったことがあって、そのとき通っていたオフィスはクーデターのあった宮殿を見下ろせる場所にあって、あれがクーデターのときの、とか聞いたのだったが当時はあんま知らなくて関心もなくて、もったいなかったなあ。


パリの事件、本当に残念で悲しい。
金曜日、アンスティチュ・フランセのフレンチタッチ・コメディで楽しんだばかりだったのに。

11.12.2015

[log] NYそのた2 - November 2015

NY、食べもののほう。

体調がぜんぜん優れなくて、そうなるとひとは冒険を避けてお決まりの定番に向かうようになる気がして、今回のはまさにそれだった。

いか、食べた順で。

Porsena
着いた日の晩にそのまま歩いて行った。エスカロールサラダとパスタ(アサリ)とポークと、パルミジャーノの塊。
相変わらず、ほんとふつうにおいしいねえ、と思ったら丁度Village Voiceにこんな記事が。

http://www.villagevoice.com/restaurants/five-years-in-porsena-remains-a-palace-for-pasta-7885133

Sara Jenkinsさんのレシピ本、悩ましいなー。 再現できない壁がでっかい気がして。

Big Gay Ice Cream
Porsenaのレモンオリーブオイルケーキ(これもおいしいんだよ)をあきらめて、こっちの方に向かう。
歩く途中、ガス爆発で1ブロックまるごと無くなってしまった一画に合掌。
ここにPommes Fritesていうおいしい芋屋があったのに -  でもさっきWeb見たら2016年に再開するらしい - よかった..

Big Gay、店舗ができてから行ったのは初めて。 ここのSalty Pimpをずっと舐めたくてよう。(やーんー)

Dough
ドーナツを半ダース会社の朝ごはんにみんな用に買っていく。(という言い訳)
 Doughnut Plantよかもっちりみっしり詰まってて、「ドウ」ってかんじ。 お腹はとってもふくれる。

The Clam
http://theclamnyc.com/

“Heart of a Dog”を見たあとに、初めて行った。 アサリと地産の野菜のお店。
ハマグリみたいにでっかいアサリが殻ごとごろんと入ったClam Chowderがおいし。
Thanksgivingのコースもすてきだねえ。

土曜の午前はよいお天気で、Green Marketを流して、秋の枯草とかかぼちゃにしんみりした。
いろんなジャガイモ種別の自家製ポテトチップがあって、つまんでみたが、あんま違いが..

Beecher's Handmade Cheese
シアトルの空港内にもあったチーズ屋のNY店が、ABC Carpetの並びにできていた。
土曜日の朝で激しく調子わるかったのだが、Grilled Cheese Sandwichがどうしても食べたくなったので店内でたべた。
2種類の自家製チーズとライ麦ブレッドのミックスが破格。ずっと口のなかで転がしていたい。

ハロウィンの晩は近所のWhole Foodsでヨーグルト買ってたべた。それくらいひどい具合だったの。

Locanda Verde
ここも久々に、日曜の朝のブランチ。 
Uova Modeneseていうのがおいしくてさあ。粗挽きの豚にポーチドエッグをまぶしてオーブンでこんがり、なんだけど。 あと、秋のサラダって、割とどこもおんなじかんじだねえ、とか。 
入口のかぼちゃ中心のお飾りがうつくし。

Gansevoort Market
Whitneyの近所にできていた、古い建物を再利用したフードコート、みたいなとこ。
ピザとかクレープとかセヴィーチェとか屋台フードみたいのがびっしり並んでいるのだが、なんかあんま来なかったのはなんでか。
天井の高さとかスペースの使い方かなあ。 割と近所にChelsea Marketもあるし、難しいかも。
とか思いつつ、ジェラートたべた。

このあとでThe High Lineに行って秋の草花に浸ってしんみりした。
秋のCentral Parkとは違う良さがあるの。設計と造園したひと、ほんとえらい。

Blue Hill

"Suffragette"を見たあと、夜の10時から。
前回はPruneで、今回はBlue Hill。 どまんなか。
ここって、NYの郊外にStone Barnsていう食材供給ベースと実験ラボが出来てからどんどん進化しているのね。
進化っていうのは、おいしいのであればカブをそのまま出すことだって平気だし、ものすごく手の込んだ複雑なやつでも平気だし、でもやっぱし柱は素材で、ラディッシュ、とか、カモ、とか、マメ、とか、タマゴ、とか、ミルク、とかスカッシュ898(そういう野菜)、とか、キクイモ(Jerusalem Artichoke)とか、異様に繊細なチリソースとツナ、とか、プラム、とか、どれもこれもびっくりしてばかりでおてあげなの。 何回でも来たい。

いつかStone Barnsにも行って、questloveさんがやった46品コースに臨んでみたい。

まだぜったいなんかあったはずなのだが、でてこないー。

[log] NYそのた1 - November 2015

NYで買った本とかレコードとかざんねんだったのとか。

でも今回はあんましなかったんだよう。
Union Squareを中心に本屋レコ屋をまわっては戻り、を繰り返すしかなくて、一箇所で深く潜って掘って、みたいなのができなかったので、残念としか言いようがなかった。

あとね、2週間前にでっかい本ふたつを含む収穫ブツを持ち帰って部屋にでん、と置いた(積んだ、とは書きたくない)とき、奥のほうでなんか床がみし、とか言った気がして、本は積むためのものではありません読むためのものですいったいいつになったらあなたは、とか聞こえた気がして、そもそもここは部屋なのか倉庫なのかどっちなんだ床はいったいどこにあるんだ、とか目が彷徨った気がして、いろいろ幻覚幻聴疑惑も含めて考えてしまったりもしたのでー。だからー

Other Musicに行って、Generation Recordsに行って、Barnes & Nobleに行って、Rizzoliに行って、Strandに行って、Academy Recordsに行って、Mast Booksに行って、St. Mark's Bookshopに行って、McNally Jacksonに行って(だいたいこの順番で、何回かに分けてぜんぶ歩く)、でもあんまし買わなかったのよ。 地下鉄でBrooklynまで出ると腰も据わって攻めのモードになるのだが、なんか近所でおつかい、みたいなかんじになってしまうのだった。

だから本はMast Booksで買った64年のスイスの古雑誌とか、サイン本ふたつ - Carrie Brownsteinさんのメモワール(なんか、とっても..)と、Jesse Eisenbergさんの短編&コント集 (?) "Bream Gives Me Hiccups & other stories” その程度。 Jesseさんの表題作 - 9歳の男の子によるレストラン・レビュー - がおもしろくてさー。

Mast Booksのガラスケースに入っている古本はとんでもない高額なやつらであることがわかった。
 
雑誌で異様に重くて、でも表紙がMiss Piggyだったからつい買ってしまったのがこれ。

http://oddamagazine.com/

St. Mark'sでは地味にハロウィンをやってて、パパに連れられた子供がハロウィーン!とか入っていくと、レジの女性がめんどくさそうに持ってけ、て入口にお菓子入れを指さしたりしてて、微笑ましかった。

レコードはアナログで、Joanna Newsomさんの新譜と、オムニバスで
“[cease & desist] DIY! Cult classics from the Post-Punk era (1978-1982)” 、ていうやつ。
これ、半分くらい知らない人たちなのだが、どいつもこいつも音はへっぽこ、スカスカのカスカスで、なんかたまんない。
80年代後半以降に絶滅してしまった音だよねー、ておもった。

あとは、Third ManからでたCourtney Barnettさん(ううう...)の7inchとか。
あと、Numeroから出ているOak Recordsのアンソロジー箱(Num060)をどうするか、延々悩んで、今回はやめた。

やっぱりレコードは対岸に渡らないとなー。

他に映画は、11/4の"Brooklyn"にぎりぎり間に合わなかったのがかなしかった。 週末だけ先行でやってくれないかしら、と祈っていたのだが、ほんとざんねん。 
あと同じく4日からBAMでの"OUT 1"上映。
ハロウィンの晩、BAMではTod Browningの"The Unknown" (1927)  - サイレントをやってて、でも夕方に立ち上がれなくてあきらめた。(で、”Crimson Peak”に行った)

そしてMOMAでは毎年の”To Save and Project: The 13th MoMA International Festival of Film Preservation”が始まっている。 見たいのばかりだけど、やはりChantal Akermanの2本 - ”Jeanne Dielman, 23, quai du Commerce, 1080 Bruxelles” と”Je tu il elle (I, You, He, She)” を見たいよう。


そうそう、ハロウィンの夕方、ぱたぱた歩いているとき、走っている車にぶつかったの。
青信号で横断歩道渡っていたら左折したのがこっちに突っこんできて、転倒しなかったけどよろけてフロントにぐんにゃりして、周りが騒がしくなったけどめんどうだし急いでいた(ほんとに時間ないんだってば)ので、そのまま逃げるように立ち去ってしまった。
こんどからあの場所は「現場」と呼ぶことにする。

11.10.2015

[film] Suffragette (2015)

1日の晩、HoustonのLandmark Sunshineで見ました。ここもとっても大好きなシアター。
タイトルとポスターだけ見て、例えば"Pride"のようなみんなで困難乗り越える系の、威勢のよいかんじの、エンディングにはBowieの"Suffragette City"でも流れて、みたいなのを想像していたらぜんぜん違った。 どシリアスで、重い。 よい意味で。

1910年代、ランドリー工場に勤めるMaud (Carey Mulligan)は夫と息子と質素に暮らしていて、でも仕事はきつくてやってられないことばかりで、婦人参政権運動(Suffragette)に参加している職場の同僚になんとなくついていってデモに参加して以来、仲間と一緒に運動するようになり、そのうちしょっぴかれて警察に目をつけられて、それが重なるうちに夫からも職場からも疎まれるようになり、家にもいられなくなって最愛の息子も養子に出され、教会で寝泊りするようになり、並行してデモに対する弾圧も厳しさを増していって、進むことも戻ることもできなくて、という悲惨な状態が延々描かれる。

最近のネットや雑誌で語られるフェミニズムのパワーやポジティビティなんてこの映画の上には微塵も欠片もなく、あらゆる抗議も要望も懇願も端から男性(権力者)の手で容赦なく叩き潰されていくばかりで、最後の最後には英国王に直訴するしかない、という絶望的なところ - それは本当に絶望的なイチかバチかの賭け - まで追い詰められていく、そのリアルなどん詰まり感ときたら胃と頭がいっぺんに痛くなる。 ここまで激しくてきつくて、それでも彼女たちは立ちあがらないわけにはいかなかった。

今や誰もがしごくあったりまえと思っている女性の選挙権、参政権ですら自らの手にするまでにこれほどまでの血と涙が流されて犠牲が払われたのだ、ということを改めて認識して周囲を見回してみること。 SEALDsのデモを見て、民主主義なんてあたりまえじゃん、きまっているじゃん、とかネットで(高みから)冷笑しているような人たちにこそ見てほしい。 おかしいことはおかしくて、それは声をあげなければ、あげ続けなければ変わらないようなことが殆どなのだ、と。 女性蔑視にしても人種問題にしても最近の難民問題にしても、まだぜんぜん途上の、継続しているテーマ(問題)なんだ、てエンドロールのところでわかると思う。 

(エンドロールで女性に選挙権が与えられた年と国の名前がリストで列挙されていくのだが、そこになぜか日本の名前はない -  まだないと思われていたりして)

最後に残るのは希望というより祈りに近くて、それを受けとめる我々はその祈りは叶えられなければいけないものだ、と強く思う。
それだけでいいの。 あとは日本でちゃんと公開してほしい。 頼むからくだんない邦題なしで。

あと、権力者側 - この映画だと警察とか - は、なにが正しいとかではなくて、国の方針に逆らうのは基本全自動で相手を敵、脅威とみなして、それをバネにして行動=弾圧するのだ、というのは改めて思った。 彼らにはどんな希望も期待も抱いたところでしょうがないのだ、と。 リマインダーとして。

女優陣は誰もみんな真剣で命懸けで演じているようですばらしい。 叩きのめされてしおしおになって、でもぜったいめげないCarey Mulliganさんも、びっくりするほど繊細な演技をみせるHelena Bonham Carterさんも。 Meryl Streepだけ、いつもどおりの威風堂々なにか文句ある? だったけど。

音楽はAlexandre Desplatさん。 相変わらず見事な繊細さ。


こういうの見ると「一億総活躍」なんてほんとおめでたいバカの戯言でしかないとおもうわ。

[art] Jim Shaw: The End is Here

1日、新しくなったWhitneyを見て、その近辺を散策したあと、そうだICP (International Center of Photography)に行こう、とこないだ来たときに新しいとこの広告をみたBoweryの場所に行ってみた、ら再オープンは2016年春だった …  なんでそんな勘違いをしたのか腹立たしくて思いだしたくもないのだが、とにかく気を取り直して通りの反対側のNew Museumに駆けこむ。 どうせ見るつもりだったし。 地下鉄にも広告出てたし。

Destroy All MonstersのメンバーだったJim Shawの展示。

http://www.newmuseum.org/exhibitions/view/jim-shaw-the-end-is-here

2階、3階、4階のフロアをぜんぶ使って初期のドローイングからばかでかいインスタレーションから彫刻から、ありとあらゆる”The End” - 終末の絨毯爆撃、もう終ってるんだよ、いいかげんわかれ(→ アメリカ)、をやってる。

2014年のはじめにMOMAのPS1で見たMike KelleyのRetrospectiveの記憶と重ねてみると荒廃、荒れ野、悪趣味、危険物、廃棄物なかんじは最強最悪に増幅されて、Mike Kelleyがデトロイトの子供時代を積み上げていたのと同じようにミシガン郊外からカリフォルニアにかけての煤けた子供時代の記憶を、おもちゃやTVやコミックや図鑑、などなどを箪笥の引き出しから引っぱり出してずらずら並べていく。

平面作品が多いせいか、Mike Kelleyほどとっちらかっていなくて、端正でみっしりびっちり詰め込んであるかんじ、そのぶんたちが悪くてどす黒い邪念がたんまり籠っているふう。とにかくいくら見てても飽きないの。 ほんとバカみたいにおかしい。

怪獣どもをぜーんぶぶっつぶすには、これだけの怪獣どもが必要だったということよ。

ここのルーフトップにも久々にあがってみた。
前回来たときにはまだ視界に新しいWorld Trade Centerはなかったのにねえ。

帰り、カタログは買わなかったけど、Destroy All Monstersのアナログ - 75年頃の録音の - があったので買った。 Printer Matterから2009年に出たやつ。 
さっき聴いてみたらすんげー退屈でたまんなかった。

11.09.2015

[art] Whitney Museum of American Art

1日の日曜日の午前、やっぱし行っておかないわけにはいかんじゃろ、ということで行きました。
わたしはそもそも前のMadison Aveにあった旧館の、ただの白い箱、みたいな佇まいが大好きで、特にあのやたらでっかくてゆっくり機械みたいに(機械だけど)動くエレベーターを愛していたので、今回のリニューアルはあんまし賛成でもなかった。  交通の便よくないし、High Lineは木とかお花を眺めて愛でる場所でいいじゃないか、と。 でも行くけど。

列が長くて入れない、ということはなくてすんなり入れて、そのまま8Fまで昇ってそこから下りていく。Renzo Piano設計の建物は、いつものように透明すぎてあんまいうとこはないの。
以下、だいたい見た順くらいで。

Archibald Motley: Jazz Age Modernist
祖父は奴隷で、New Orleansで生まれてChicagoに移ったArchibald John Motley Jr. (1891–1981) のRetrospective。 アメリカの都市、特に20年代のハーレムやAfrican Americanカルチャーの黎明期を描いた最初のほうの画家。名前は知らなくても絵を見たことがある人 - 見たことある気がする人(相当いろんなところでそのスタイルは模倣されている) - は多いはず。

館内の解説では同様に近代アメリカの風景を描いた画家としてEdward Hopper, Thomas Hart Benton, Reginald Marshといった名前が挙げられていたが、彼らよかきちんと紹介されたことはなかった気がする。

滲んだ輪郭でゆったりと舞うような仕草、動作をするみっしりした人たち、「群像」として括られがちな、でもある存在感を示す肖像たち。
女性のヌードになった途端にとっても艶かしく艶っぽくなる偏向ぶりがとっても素敵。
あと、遺作となった“The First One Hundred Years” (1972)のイメージの強さ、豊かさの見事なこと。

Frank Stella: A Retrospective
別枠でちゃんと書いたほうがよいかもで、まだいろいろ考えていたりもするのだが、少しだけ。
いろんな人たちやメディアが賛否も含め既に書き始めていて、それぞれおもしろいねえ。
5階のでっかいスペースと屋外のバルコニーまで使って最近のでっかいのも含め容赦なくがんがん置いてある。
50年代中頃の地味なミニマルの断線とか断層とか突端とかがだんだん膨らんでいって80年代、色彩と共に大爆発してヴィヴィッドで曲線だらけの強烈なオブジェ群へと華やかに変貌した、そういった彼の突然の変化に関する論考を80年代の美術手帖とかで散々読んだ記憶があるが、もうなんも残っていないや。

最近の作品はでっかいのばかり、それだけで場所を取ってしまい初期からの変遷をこまこま追うかんじにはなれないのだが、ものすごい断絶や飛躍は想像していたほどには感じられなくて、むしろその表象を辿っていくと、なんかよりシンプルでわかりやすい方向に向かっているのかも、ていう気がしたくらい - それは近年のオブジェの節操を欠いた肥大化のように見えなくもなくて、評に賛否の否が出ているとしたらそっちのほうかも。

テーマとしてどう、というのはあるのだろうが、彼の50-60年代の平面の抽象は色彩もエッジもまずかっこよかったんだよね。 あのままでよかったのにさー、ていうのは簡単なのだろうが。

The Whitney’s Collection
7階で収蔵品からの抜粋を。 この辺がいちばんおもしろかったりもするの。
近代美術を扱うと言っても、MOMAのグローバル指向と比べてWhitneyは米国Localで、とっても勉強になって、ここで教わったアーティストも随分いたし。
新装開店再お披露目ということで御馴染みのWillem de Kooning, Edward Hopper, George Bellows, Charles Demuth, Arshile Gorky, Gerald Murphy(見たことないやつだった), Charles Burchfieldとか、あとは古いフィルムや記録映像を延々上映している部屋があって、Maya Derenとかも。

当然のようにどれもこれもてんでばらばらなんだが、そこがなんともいえず心地よい。 心地よいって変だけど。

あと、ルーフトップも高さがちょうどよくて気持ちよい(お天気次第だろうけど)。 自由の女神も割と近くに見えるし。 Orson Welles(ああ特集ぜんぜん行けなかったよう)の”Too Much Johnson” (1938)で、Joseph Cottenが屋上をぴょんぴょん飛び回っていたビルはあの辺かしら? とか。

エレベーターはいっこ搬送用と思われるでっかいやつがあって、それが少しだけ旧館の面影を。内側に少し装飾があって変な色気だしてたのがすこし残念なことでした。

1FのMuseum Shopのほぼなーんもないそっけなさは前と変わらず。

11.07.2015

[film] Crimson Peak (2015)

31日の土曜日、ハロウィンの晩にホテルの裏のシネコンでみました。
既に書きましたが、この日は仕事でホテルに軟禁状態で、メールしたり電話したり、その合間にちょこまか外に出て、を繰り返し、やがてそれに疲れてうたた寝とかして、暗くなった頃に起きあがり、McNally Jacksonのハロウィンはどんなかしら、と見にいって(割とふつうだった)、そのあとで、ハロウィンだし、ひとつおっかない映画でも見てみようか、と思ったの。

ほんとに怖そうなのはLincoln Centerで毎年やっている特集”Scary Movies 9”でかかっていた奴らで、予告とかスチール見ただけて窒息しそうなくらい怖そうで、でもシネコンでやっているようなやつなら、ハロウィンでもあることだし、みんなわーわー楽しく見れるかも(希望)、とか思ったの。
で、20:00の回はほぼ満員になってた。

前日の”Heart of a Dog”とおなじ、Ghost Storyなの。

19世紀末、お金持ちのお嬢さんのEdith (Mia Wasikowska)は小さい頃から母の亡霊みたいのを見ていて、大きくなってからは夢見がちの小説家志望のお嬢さんになって、そんな彼女のおうちに採掘技術への投資を募って英国からLucille (Jessica Chastain)とThomas (Tom Hiddleston)の姉弟がやってくる。 ThomasはEdithに近づいて、Edithは彼のミステリアスな雰囲気にちょっとぽーっとなったりするのだが、投資話のほうはなんか怪しげなふたりだし、過去を探ってみたらいんちきぽかったので父はお断りするの。 そしたら父は洗面所で何者かに頭を潰されて殺されて、そういう混乱のなかEdithはThomasと結婚して、彼の英国の人里離れたお屋敷にやってくるの。

ここから先はもういいよね。エントランスの天井にでっかい穴の開いたお化け屋敷とか亡霊とか怨念とか暴かれた過去とかあいつら姉弟なのかとかうじゃうじゃ出るわ湧くわのオンパレードで、もちろんEdithは入り口をくぐった途端こんなのやだ出ていきたい、になるのだがそう簡単に抜けられるわきゃがないの。

古いお屋敷の地下のからくりどんがらとか蝋管の蓄音機とかぼろぼろの心霊写真とか、そのへんはGuillermo del Toroの趣味とセンス全開で、わたしは彼のそのへんの嗜好はまるごと信頼しているのである意味、へんな意味、心地よく(ほうらやっぱし、とか)浸ることができた。

たぶん、ガチのホラー映画マニアの方々から見たら - “Pacific Rim”がガチの怪獣映画マニアから見れば甘々だったのと同じように - もっともっとぶっ刺せ食いこめえぐりだせ、なのかもしれない。けど、Mia WasikowskaとJessica ChastainとTom Hiddleston、この3人が三つ巴のどろどろをやる、それだけでなんもいうことない。 こいつらが不機嫌な顔して互いに睨みあっているだけでじゅうぶん不穏でこわい。 

Mia Wasikowskaなんてはなから新婚花嫁の顔してないし(まるで”Stoker”の..)、Tom Hiddlestonは”Only Lovers Left Alive”以上に冷血な変態だし、そしてそして包丁もってどこまでも追っかけてくるJessica Chastainときたら泣いて穴に籠りたくなるくらいおっかないんだよう。
元々のキャストはBenedict CumberbatchとEmma Stoneだったらしいが、こっちでもなんの問題ないわ。

色のかんじ、特にクリムゾンの赤味がとてもよいの。 血はとっても苦手だけど。

客席は当然のようにきゃーきゃー盛りあがって楽しかった。
そのままパレードに流れたらこわいもんなしだっただろうなー。 Union Squareの人混みは夜通し延々だったの。

11.06.2015

[film] Heart of a Dog (2015)

30日の金曜日の晩、Film Forumで見ました。 Film Forumで見ました。 Film Forumで.. (わーんうれしー)
ロビーに入った途端、あのポップコーンの匂いに囲まれて泣きたくなる。映画を見る場所としては世界で5本指に入るくらい真剣に好きで、映画を見ながら死んでいい、て言われたらここのキャロットケーキとポップコーンを食べながら死にたい。
それにしてもここのポップコーンの香りはなんであんなに素敵なのか謎。 ここのと比べたら日本のシネコンのはケミカルの匂いしかしない。

さて、Laurie Andersonさんの映画、というよりフィルムコラージュのようなパラパラアニメのようなサウンドコラージュのような映像詩というかなんというか。
彼女独特の柔らかな親密な語りと共にいろんな映像、いろんな音楽、いろんなテキストの引用、それらの断片が繋げられていく。

最初に2001年の911の、突然沢山の人々が街から消えてしまった日のPenn Station(おそらく)の映像、長年連れ添って亡くなったラットテリアのLolabelleの話になって、晩年目が見えなくなったけど演奏する犬として活躍した姿を愛おしそうに語っていくあたりで、これは死についての、向こう側に行ってしまった親しい人とか犬とかへの/或は自分自身への問いかけなのだな、とわかる。 他にはGordon Matta-Clark(家の半切りアート)の死とか、自分の幼年期にプールの飛び込み台から落ちて死にそうになったときの回想とか。 生と死との境界を巡るいろんな考察とか思いとか。

いなくなってしまった人たちを嘆き悲むようなトーンではなく、淡々と彼らはどこに行ってしまったんだろうね? ていうトーンで、例えばチベットの死者の書ではBardo(中陰)ていう中間地帯に49日留まるって言ってる、とか、Goyaの"The Dog" - だいすき - に描かれた犬は何を見つめているんだろう、とか、誰それはあんなことを、とか、誰の場合はこんなふう、とか、とりとめもなく、なにかの隙間や沈黙を埋めるかのようにどこかに向かって掘り進んでいくような。 

どんなに叫んでも喚いても死の世界、向こう側のことはわからない、知りえない、それが故に、だったら、ひょっとしたら、いやいやでも、みたいに彷徨いを止めない思考。 彼らも向こう側ではそんなふうにしているかもしれない、とか。

引用されるDavid Foster Wallaceの“Every Love Story is a Ghost Story”。
“Every Ghost Story is a Love Story” .. ではなく “Every Love Story is a Ghost Story” という転倒。

とりとめのない独り語りのようでいて、彼女はかつてマルチメディア・アーティストと呼ばれた自身の技術(アート)を駆使して向こう側のひとにコンタクトを、或いは、向こう側のひとを通してぽつんとある自分自身にコンタクトを試みようとしている、かに見える。 そこに甘さや感傷は一切なくて、まずはアートとしてこちらの胸をうつ。 

なんで胸をうつのかというと、彼女は最後まで繰り返し繰り返しひとつのことしか言っていないから。
もういっかい会いたいよう、どうしたら会えるんだろうか、と。  アートってそういうもの。

そして、やはり最後に、Lou Reedの“Turning Time Around”が流れるなか、Lolabelleと幸せそうに微笑んで横になっている彼の写真が大写しになる。 この映画は彼に捧げられていて、彼へのラブレターで、すべてわかっていたとはいえ言葉を失う。

いっぱいだった客席からは当然のように拍手が、控えめだけどごくごく自然に。

[log] November 3 2015

戻っています。毎日ものすごくねむい。
行きと帰りの飛行機で見た映画とか。

米国行きの飛行機、夕方発のJALは787だった。
ちょっと前までは、わーい787だ!(うれしいな) だったのがそんなでもなくなっているのがちょっと不思議だった。
スマートでかっこいい、から、安くてコンビニエント、なふうにイメージが変わってしまったのはなんでかしらん。

2週間前に飛んだときと食事メニューはまったくおなじ、映画のメニューもまったくおなじ。
じゃあ前と違うのを食べてみよう、にはならないし、映画も、じゃあたまには邦画でも見てみるか、にはならない。
関係ないけど。前の方の席のおじさんはずっと寝ないでMission Impossibleのシリーズを見続けていた。 きっと大変なミッションを抱えているにちがいない、とか思った。

映画、殆どのは見ていたので、もう一回、"Me and Earl and the Dying Girl"を見始めて、そしたらやっぱりきつくなってきたので離脱して、旧作で未見だった、Nick CassavetesとCameron Diazの"My Sister's Keeper" (2009)ていうのにしてみたら、これが"Me and Earl.."に輪をかけたガチの難病モノでしぬかとおもった。 具合悪い状態でああいうの見るべきじゃないねえ。 

白血病になってしまった姉のドナーとなるべく生まれてきた妹(Abigail Breslin)が、あたしドナーになるのは嫌だ、と自分の親を訴える。 母親(Cameron Diaz)はなにバカなこと言ってるのよ、て裁判になるのだが、そうしているうちに姉の病状は悪化していくの。 なんで妹はそういう行動にでたのか、家族の回想と共にひとりひとりの想いが綴られて、やがて。
とにかくアメリカ人(て一般化すべきではないのかも、だけど)の痛覚 - 痛みを痛みとして感じるその回路 - ってなんかおかしいよね。 痛みなんてたんなる感覚/電気信号としか思っていない、だからあんな体になっちゃうのか、あんな体だから痛みなんて、になっちゃうのか。
裁判官Joan Cusackがすばらしくよかった。

で、リカバリ、というかリハビリ、というかのために、"Aloha"を再訪する。 3回目くらい。
これ、やっぱりすごい傑作だと思った。 一回見ただけだととっちらかった与太話、に見えてしまうかもしれないけど、なんというか、ぶっとい芯がいっぽん通っているの。 ハワイとか理想郷とか、言ってしまうのは簡単だけど、それだけじゃないの。

犬(or コヨーテ)二匹に猫一匹の映画。 Emma StoneがBradley Cooperの部屋にベランダを超えてひょい、って入ってくるとことか、たまんないよね。

帰りの便は、11月になっていたのでいくつか見ていないのが入っていた。

Pixels (2015)
見なきゃ、と思いつつ見れていなかったので、とりあえずうれしい。
82年のアーケードゲームチャンピオンとその仲間は、現代にはナード電器屋(Adam Sandler)だったり大統領(Kevin James)だったり童貞(Josh Gad)だったり囚人(Peter Dinklage)だったりするのだが、宇宙から当時のゲームをそのまま模した攻撃を受けて、地球を守るために彼らが立ち上がる、という。
同じようなのを何度も見た気がする、結果も簡単に見えてしまうバカ映画なのだが、Adam SandlerとKevin Jamesがセンターにいるだけで、そりゃやっちゃうでしょとうぜん、ていう説得力のレベルがぜんぜんちがう。

かつての天才児の行く末と未来社会、ていうテーマを扱う"Tomorrowland"とかにもこの軽さがあったらなあ、とか。
あと、よりバカなほうに振れた"Space Cowboys” (2000)とも言えるかも。

一点だけいうと、アメリカとは事情が違うかもだけど、当時ゲームができる子って、お金持ちだったんだよ。
それなりにゲームにお金つぎ込むことができないと上手くはなれなくて、それがわかった時点でゲームはとっとと諦めて、レコードとか本とかに走ったんだよ。  あそこでゲームの道を選んでいればなあ、ゲームがなくなったところですんなり大人になれたのに、レコードとか本とか未だに漁りつづけるかわいそうな大人になってしまったのは、この辺の選択を誤ったからかなあ、とかしんみりした。

Cheap Trickの"Surrender"が気持ちよくがんがん流れてご機嫌なのだが、これ82年じゃないよね。
あと、ここに出てくるアーケードゲームをやりたくなったらアストリアのMuseum of Moving Imageに行くと遊べるよ。

She's Funny That Way (2014)
もうじき公開されることは知っていたが、我慢できなかった。
もう、めちゃくちゃおもしろいったら。
演出家のArnold (Owen Wilson)がNYのホテルでコールガールのIsabella (Imogen Poots)を呼んだら彼女がとってもおもしろくて楽しい時間を過ごすことができたのでお礼に3万ドルあげよう、て言って彼女はそれを元手に夢だった女優になろうと思ってオーディションに来たらそれがArnoldの演出する舞台で、そこには彼の妻Delta (Kathryn Hahn)も女優としているので気まずくなるのだがIsabellaの評判はすばらしくよくて、脚本家のJoshua (Will Forte)も夢中になって、でも彼女を追っかけているのは彼らだけじゃなくて、その周囲でDeltaとかJoshuaの妻Jane (Jennifer Aniston)は目をひんむいて叫びまくり、いろんな関係の糸が顕わになって広がるにつれて、ビンタしたりぶんなぐったり、でもみんなぜんぜんめげずに懲りずに愛を求めて駆けずりまわる、ていう艶笑喜劇なの。

誰もがWoody Allenみたい、て思うかもしれないが、萎れてないし、ダイナミックだし、笑えるし、楽しいよ。
Alllenのエロは、視線のそれに集約される気がして、そこがたまんないひともいるんだろうけど、この無尽に跳ねまわるリズムを知ってしまうと、だんぜんこっちだなあ、とか。
最後にぜんぶばらしちゃう(ふとっぱら)んだけど、ルビッチなんだよね。しかも"Cluny Brown” (1946) 。
女の子を育てる/育てたい、ていうおやじのやらしい欲望を軽くビンタでけちらす痛快な女(共)のおはなし。

Executive ProducerにWes AndersonとNoah Baumbachていうのもたまんない。
どっちもどたばたしないじたばた劇の名手だよねえ。

あとは寝起きのぼうっとしたあたまで”Ant-Man”をふたたび。
なんでアリなんじゃろ? てずっと思っていたの。

11.02.2015

[log] November 2 2015

ひーこら言いつつなんとか帰りのJFKまで来ました。

土曜日の晩はハロウィンで、日曜日の朝はNYマラソンで、土曜の晩に夏時間が終って、MetsのWorld Seriesも終って(まああんなもんよね、とみんな冷静)、例年より温暖だけど気がつけば暦は11月になっている。 ニューヨーカーにとってはばたばた楽しく大変な週末だったみたいだが、出張者にとっては不機嫌で不条理であちこち具合わるくてあんまし盛りあがらなくて、そのギャップに悶え苦しんでばかり、結果ぐんにゃり、みたいな正味3日間だった。
どんなふうであれ、あっというまはあっというま。

風邪が治りかけだか慢性のなんか(仕事いやいやみたいな?)だかわかんないのだが、とにかく体調があんまよろしくなくて、微熱で半分ぼーっとしてて、夕方頃は電池切れで横にならざるを得ないかんじだったの。 仕事も仕事で、缶詰/監禁状態とまではいかないにしても、メールや電話でやりあっては小休止、みたいな軟禁状態がえんえん続いて、だからBrooklynに出るとか、長時間ホテルの部屋から離れることはできなくて、外に出ては戻り仮眠して仕事して外に出て、ていうのを繰り返していた。 べつにじっとしてりゃいいじゃん、てふつうの人なら言うな。

そういうかわいそうな状態だったので、映画は3本、美術館ふたつ、この程度だった。
到達した北限は28th stくらい。 ホテルのすぐ裏にシネコン(Regal)があって、書店(Strand)があって、Lower Eastまで歩いていける、ていうのは大きかった。 ホテルを中心に衛星のように歩きまわってそのたびになんか怪しげな袋をさげて戻ってくる、ただの変な客。

あと、天気が穏やかで気持ちよかったのは救いだった。この時期は極端に冷え込むことが多いのだがコートなしで歩くことができて、一番よいかんじのNYの秋 - 食べものも含めて - だったの。
であればこそー、体調が万全でたっぷり1週間くらいあったらなー、ていうのは別にいつも思うこと。 めそめそしないの。

またこよっと。

* Jerusalem artichokeがキクイモのことだと知って、ちょっと動揺している。

ではまた。

10.29.2015

[log] October 29 2015

先週予定していた出張は直前にがらがらとキャンセルになって、それとはまったく別のやつが思わぬ角度から2日前に立ちあがり、かぜでへろへろのよくわからない状態のまま会社に来て、午後に会社から成田へというのはほんとうに落ち着かないのでやめてほしいわぶつぶつ、と東京駅でNEXを待っているといきなり人身事故で動かないかもとか言われ(..またか)、しょうがないので京成の上野までひーひー言いながら走ってスカイライナーに切り替えて、振り返ってみればなにひとつ言うことを聞いて貰えずされるがまんまで成田まできて、大慌てでお土産とか買ってラウンジで着替えて、PCを開いた。 ここからNew Yorkへ。 2週間ぶり。 機内に入ってしまえば凧の糸は切れる。できることはそれくらい。 よくもわるくも。

いちばん悔やまれるのは断然、なんといってもCourtney Barnettだよう。チケット買ってたのにい。
あと、Ken Jacobsの"Star Spangled to Death"のオールナイトもー。

週末はハロウィンだねえ、というわけで、スカイライナーではひさびさにLou Reedの"New York"を聴く。
微熱でぼうっとした頭にとってもよくしみる。

ハロウィンとか言っても、金、土、日と缶づめの突貫工事で、自分の力ではどうにもならない系のやつで、月曜には出てしまうのでなんも、どうすることもできやしない。 深夜にハロウィンパレードの列の後ろでゾンビのふりをしてみるとか(たぶんメイクいらないの)。

ハロウィンなのにあんまライブとかないねえー(探してんじゃねえよ)。
5年前のハロウィンにはThe Dresden Dollsがあったんだよねえ。

せめて日曜日の夕方とかだけでも動ければあー。

ではまた。 走りまわれるほんの少しの体力だけは... (ああ神さま)

10.28.2015

[film] The Wolfpack (2015)

10日の土曜日、京橋から新宿に移動して夕方、「ラテンピート映画祭」からの1本。
ラテンアメリカ系のドキュメンタリーは山形でいろいろあったようで、ああ行きたいなあと思いつつ、山形までどうやって行ったらよいのか見当もつかなかったので、こっちでがまんする。

このドキュメンタリーはずっと見たかったやつ。 今年のSundanceのドキュメンタリー部門でGrand Juryを受賞している。

マンハッタンのLower Eastのアパート(Seward Park Extensionだって、ついこないだ通った)の一室で、おもちゃの手作り銃でReservoir Dogsごっこをしている兄弟がいる。 彼らは6人で、他に妹もいて、全員髪を切らないポリシーで長髪だけど、ふつうに仲のよい兄弟、家族に見える。 兄弟へのインタビューを通して、彼らは音楽を作ったり踊ったり映画を見たり「ごっこ」したりして遊んでばかりいるようだが、それらは放課後とかのことではなくてずっと、子供の頃からずっとそうなのだという。

彼らの父親(母親も)はNYのこの辺は危険だからと、父親がアパートの鍵を管理して一切の外出を禁止してきた、と。  一瞬、どろどろの監禁、DVドラマか、とか頭をよぎるのだが、子供たちは拍子抜けするくらい冷静で穏やかで、パパは看守だよね、とか言っている。 母親にホームティーチャーの資格があって、家には5000本くらいの映画のVHSやDVDがあって、それらからいろいろ学んだのでだいじょうぶ、と。 確かに言葉の発音は明瞭でしっかりしているし、彼らがリストアップした映画のベストを見ても極めてまっとう、としか言いようがない。映画をいっぱい見ていれば世界や社会の大抵のことは学べるんだねえ、と改めて感心したり。

実際、映像で少しだけパパとママの姿も出てくるのだが、あんまり変なひと、虐待しているひと、の傲慢な印象はない。 むしろ普通に、真剣に子供のことを心配しているふうで、子供たちも素直にその愛に応えていますから、程度のかんじなの。
監禁/軟禁でもなく、引きこもりでもなく、なんとなく出る機会を逃して、映画とか見ているうちに気づいたら10数年経っていました、みたいな。

"Grey Gardens” (1975)と比較している記事があったが、よく見ると引いてしまうようなびっくら生活を堂々と、淡々と進めている/過ごしているなんか変な人たち - でもどこが変なのかちゃんと言うのは難しいかも -  のドキュメンタリー。 彼らはちょっとやそっとでは揺るがないので、その姿を見ているとすがすがしくて感動してしまう。

で、やがて子供たちはこわごわ外の世界に出るようになる。
最初は地元の数ブロック先まで、サングラスにコート姿でばっちり決めて出かけて、緊張でぐったりして戻ってきたり、地下鉄でコニーアイランド(NY旅映画の定番)に出かけて、生まれて初めて海を見てびっくりして、泳いでみたり。
彼らの目にそれらはどんなふうに見えたんだろう、見えるんだろう、てちょっとどきどきしたり、そういうおもしろさもある。

こうしてだんだん外に出ていくようになってから、家族内の温度や空気も少し変わって、でも変わらないものもある。
最後のほう、みんなで郊外にピクニックに行ったり、いろんな恰好で映画を撮ったり、ああいいなー、って。

今の自分なら5000本のDVDの部屋にこもること/社会との関わりを断つことに何の抵抗も懸念もない。 ぜひやってみたい。  でもあのアパートの場所では無理だわ。

[film] The Last Command (1928)

かぜひいたよう。

10日の土曜日の昼間、京橋の特集『シネマの冒険 闇と音楽 2015』、で見ました。 サイレント。
『最後の命令』

ハリウッドで戦争映画のキャスティングをしている人がある男の写真に目を留めて、この男にエキストラの募集に来るように言う。貧しくよれよれで全身が変に痙攣してて怪しい老人は撮影所にやってきて、将軍の衣装を受け取って身につけるとまるでその風格は将軍のようで、どうも本当にロシアの将軍だったらしいのだが、ではなんで彼はこんなところにいるのか。

帝政時代の終り頃のロシア、皇帝のいとこで将軍のセルギウス・アレクサンダー(Emil Jannings)は前線で革命勢力と対峙しつつ、威厳たっぷり自信満々で指揮をとっていて皇帝からの信頼も厚くて、そんなある日スパイ容疑で捕まえた反帝政の男女がいて、そのうちの女性のほうにちょっとだけ情をかけてしまったが故になかなかしょうもない地獄の方に転がっていく。

権力側と反体制側の攻防の生々しさと非情さ、そして女の手の内でころころと変転していく情勢が機関車の轟音と共に破滅に向かっていくその臨場感、疾走感ときたらとんでもなくてぜんぜんサイレントとは思えなかった。

こうしてロシア革命は将軍をハリウッドのエキストラに送りこんで、こんなに息詰まる紙一重のドラマを作らせることに成功したのだった、と。

とにかく将軍役のEmil Jannings、あの、ものすごーくおっかなくて震えないわけにはいかない”The Last Laugh” (1924)とおなじく、ひとの「最後」のなにかを、「最後」にどうにかなってしまうひとをとてつもない生々しさで演じていて、あの熊のようなでっかさと体の分厚さすら演技の一部としか見えなくて、これで第一回オスカーを受賞している。 第一回がこれだからオスカーはあんなにも呪われちゃったのね、とか。

10.26.2015

[film] The Babadook (2014)

8日、木曜日の晩、新宿でみました。
こういうホラーは普段は(ぜったい)見ないのだがIFCとかでずっと地味にロングランしていたし、なんかあるのかなー、とか思って(← 甘かった)。

息子が生まれた日に夫を事故で失って以来、息子の誕生日は夫の命日だよね、て悪夢を見たりしているシングルマザーのAmelia (Essie Davis)がいて、息子のSamuel (Noah Wiseman)は落ち着きなく不安定で学校でも問題起こしてばかりで、Ameliaはそういうのも含めてあれこれ疲れきっている。

いつものように寝る前、Samuelに絵本を読んであげたとき、彼が持ってきた絵本に描いてあったのがBabadookで、そいつはなんか妖怪みたいな化け物みたいなモノクロの影で、不気味なドス声でばーーばーどっくどっくどっく、とか言いながら現れて、不吉で気持ちわるいことがいっぱい書いてあったので本をどっかに片付けるのだが、Samuelはその内容に異様に反応して殺気だって、それがまたAmeliaを不快にさせる。

本は子供の手の届かないところに片付けたはずだったのに再び引っぱり出されて置かれていて、気持ちわるかったので燃やしてしまうのだが、なんかBabadookみたいなのがAmeliaにも取り憑いたみたいになって、そこからはとにかくおっかないったら。 最初のうちはガキが不気味でうざかったのだが、後半は狂った目のママが包丁もって追っかけてくる。

決定的な出来事や明白な痕跡を起点に恐怖が渦を巻きはじめるのではなくて、その始めからちりちり気持ち悪い音とか気配とか部屋の奥の暗がりからなんかが立ちあがってそこにいる、ぜったいそこになんかいるし(泣)、ていう怖さがぱんぱんで、ああ興味本位で素人がこんなの見にくるんじゃなかった帰りたい、て15分おきくらいに思っていた。 ていうのはホラー映画としてはうまくいっている、ということではないか。 
あとね、おっかないので脳が早く忘れたがっているらしく、もうあんま憶えていないくらい。

映画でいうと“The Shining” + ”Home Alone”みたいなかんじ、かなあ。(← こどもか)

ところで、Babadookてのがなんなのか、結局わかんないのよね。 宮崎アニメに出てくる変なやつをどす黒くしたみたいな?

10.25.2015

[film] 螺旋銀河 (2014)

6日火曜日の晩、渋谷でみました。 
びっくりするよねえ。 こんなにおもしろいのが転がっている。

ちょっと派手めでつんつんしたOLさんの綾(石坂友里) - 肉食ふう - と見た目は地味でもっさりしたOLさんの幸子(澁谷麻美) - 草食ふう - のふたりがいて、綾はシナリオ教室みたいなのに通っていて、いじめなのかなんなのか、講師からラジオドラマ放送用に採用してやってもいいけどまだシナリオとしていけていないから、共同執筆者の友達を連れてこい、て言われる。  彼女には友達なんていくらでもいそうで実はいなくて、たまたま近くで草を食んでいて人懐こそうに寄ってくる幸子に声を掛けて面談にのぞむ。

事前にちゃんと言うこと言っちゃいけないことなどをリハーサルして行ったのにその場で幸子は好き勝手にしゃべりだし、しかもそれがおもしろくてうけちゃったもんだから綾はおもしろくない。他にも同じ服を着てきたり、役に立てれば嬉しい、みたいなことを言い出し、更に綾のex-彼が、幸子の幼馴染で、しかも彼女にべったりであることがわかって更におもしろくなくなり、ふたりの関係は最悪になるのだが、もともとそんな親密だったわけでもないので、なにやってんだろ自分ら、になったり。

よくありそうな正反対のキャラクターの立場逆転・転換のお話しに留まるものではなく(だって勝ちとか負けとかないし)、ふたりの関係はすれ違ったり重なったりしつつ不器用な螺旋を描いて転がっていく。 どこに?  わからないー。 
その螺旋はやがて彼女たちの作ったドラマのなかでも、それを自分たちで演じることにした彼女たちの声と共に、静かに呼応してまわりだす。決して交じりあわず繋がらず、でもそこで描かれたふたつの軌跡を眺めてみると、なんか素敵じゃないか。

それは螺旋階段でも螺旋模様でもない、螺旋「のような」何か、ではなく螺旋を生み、それ自体で広がっていく銀河なんだ、って。

そのちいさく微細な回転を司るのが宇宙の果てにあるコインランドリーだ、ていうのが素敵でさあ。
普段の生活からはちょっと離れたところで、でも普段の生活になくてはならないふうに、そこにあって、灯りがついていて、宙に浮いていて、静かに勝手にまわっている。がらんがらん。

NYで暮らしていたとき、基本はアパート内のコインランドリーを利用していたので、この場所についてはいろいろ考えたことがあった。自分の部屋でもなく、かといって完全なパブリックでもない - 少なくとも回転するドラムの中は。自分の一番身近な、身体に貼りつく衣服を洗濯する場所なのだが、そのなにをどういう順番で、どんなふうに洗うのかは自由で - 人によってはスニーカーとか毛布まで平気で洗っている - でも終ったらとっとと出ろ/出せ、みたいなルールもあって、ドラムに放置されている服は外に出されてしまったりもする。 一週間に一回は必ずここに来て一定時間、部屋と機械のご機嫌に完全に束縛されて、でも不愉快かというとそんなでもない。洗濯ものがあがってきた瞬間は気持ちよいし …  なに書いてんだろ  - - えー、つまりコインランドリーって教会とかインド人にとってのガンジス川みたいなもんだよね、と思ったことがあったの。 待ち時間のあいだに。

こんなふうに、女優ふたりの出会いのドラマをコインランドリーに - コインランドリーで出会いました、なんて安易なやつではなく - コインランドリーに突っこんで仕あげてみました、という軽やかさと、それに銀河系を持ちこんでしまう強さがすばらしい。これから畳んだりアイロンかけたり面倒なところはあるのだろうけど。

こないだの”DressingUp”といいこれといい、もう日本映画は女性のだけ見ていればええ、とかおもった。

[film] Charulata (1964)

4日の日曜日ごご、”Wild”のあとで渋谷に移動して見ました。

『チャルラータ』。 特集『シーズン・オブ・レイ』からの1本。 はじめてのSatyajit Ray。

1880年のコルカタ(当時だとカルカッタ?)、新聞社の編集長/社長の夫と邸宅で暮らしているチャルラータ(Madhabi Mukherjee)のお話し。 夫は仕事とインドの社会への理想に燃えていて快活で妻にもやさしいし、なにひとつ不自由のない生活を送っていた(←よくあるあれ)。 チャルラータも不自由ないので刺繍したりお茶のんだり読書したり、べつに不自由ないじゃん、て思うのは素人なのね。 彼女の顔はそんなに輝いてはいないように見える。

そこに夫の従弟のアマルが滞在することになって、夫は仕事で忙しいのでチャルラータは彼の相手をすることになるのだが、自由人ぽいアマルとは詩や文学の話をしたり、庭でブランコに乗ったり楽しい時間を過ごして、互いにだんだん惹かれていくのだが、でもやっぱり。

チャルラータ、ちょっとかわいそうだけど、でも挫けることはなさそうで、だから彼女にとっての緩慢な地獄は続いていくにちがいないの。 でもきっと。

インド映画に我々が(どういうわけだか)期待しがちな埃っぽい通りとか貧困とか革命とかまくしたてるような勢いとかは一切出てこなくて、カメラは邸の外に一切出ないまま、邸内とそこに映りこむ貴族の暮らし - 限られた面々、その会話と表情のみを追っている。 これだけで119分。 これだけなのにものすごくおもしろい。

表情や会話の端々に現れる各自の慌ただしさや無関心や不寛容や思い入れ、期待に希望、などなどが部屋の隅々をゆっくり動いていくカメラを通ると不安だったり不穏だったり怪しげだったり、このかんじって、Wes Andersonが屋内を撮るときの、部屋をなめるだけですべてのエモが曝されてしまう - のに似ていて、というか彼が真似しているんだと思うけど、しみじみ魔法のスパイスだよねえ。
あと、肉に向かわずにどこまでもプラトニックで勝負しようとするところなんかも。

“The Big City” (1963) のほうも見たいなー。


R.I.P.  Maureen O'Hara
燃えるように素敵な女優さんでした。
職場にいたアイリッシュのおじいさんが、彼女を女王のように崇拝していたことを思いだすなあ。

10.24.2015

[film] Wild (2014)

出張の前に見ていたやつらに戻る。 相当むりな気がするができるだけ突っこんでみる。

4日の日曜の昼間、終わっちゃいそうだったので少し慌てて新宿でみました。

ちと恥ずかしい邦題の「1600キロ」は、1000マイルのことで、そんなに律儀に変換しなくたって。

山登りの途中でへろへろになったCheryl (Reese Witherspoon)が靴を脱ぐと血まめがぐっちゃり潰れたようなひどいありさまで、ふうって溜息ついたら靴が谷底に転がっていっちゃって、ふざけんじゃねえよくそったれー、てひとり絶叫するところが冒頭で、そんな無茶で乱暴なトレイルの行程が、彼女はなんでこんなことをしているのか/はじめたのか、の回想と共にじぐざぐ描かれる。

監督は”Dallas Buyers Club” (2013)(そうかダラスだったか)のJean-Marc Valléeで、これも実話 - それまで無節操無軌道な暮らしをしていた奴が、死(自分の/母親の)とかに直面して突然がむしゃらな情熱でもって変なことを始める - の行方を追っている。

山登りも野山歩きもやったことのない彼女がなんで突然そんなやけくそを始めたのか、彼女自身にもあんまよくわかっていなくて、それ故に適当に途中でやめるようなことができなくなってしまう。大好きだった母の病と死、なにもできなかった自分に対する怒りや葛藤、自分探し、とか言うのは簡単だけどそれなら引き籠って本でも読んでいればよいわけで、じゃあ彼女が探していたのは何で、それは結局みつかったのか見つからなかったのか、どこにあったのかしら。

森で出会った男の子がきょとんとした表情で”Red River Valley"を歌ってくれるところ、それに続く彼女の後ろ姿、ここで全てがはらはらと決壊して、ここはずるいよね、と少し思ったが、この映画はここだけ、これだけでじゅうぶんなの。

“Dallas Buyers Club”がMatthew McConaugheyの映画だったのと同じく、これはReese Witherspoonの映画 - 圧倒的な俳優の映画でもあって、そこではタレントとしての演技力以前のところの、目つきとか顔だちとか、そういうところに根差した何かが効いていて、Matthewが薬を求めてどこまでも飛んでいったのと同じように、Reeseは1000マイル歩いてみようとしたのだ、と、有無を言わせない。

彼女がPortlandにたどり着いたところで、Jerry Garciaの死に遭遇するエピソードがあって、それでこれは95年の話だったのか、とわかる。 90年代のお話しである、というのもなるほどなー、て納得した。

10.23.2015

[log] October 18 2015

NYからの帰りの便で見た映画とか。

あんまし見たいのがなくて、新しいのだと、闘犬モノか修道女モノか、の選択になって修道女のほうにした。

Marie Heurtin (2014)
『奇跡のひと マリーとマルグリット』- 英語題は"Marie's Story"。もう公開済のやつだったのね。

19世紀、フランスの実話だって。 生まれつき三重苦のまま野生児のように育ったマリー (Ariana Rivoire)に両親も手を焼いて、聾唖の娘たちがいる修道院に連れてくるのだが、最初から大暴れして連れ帰される。でもマリーに触れてそこに聖なるなにかを感じた修道女のマルグリット(Isabelle Carré)は反対を押し切って彼女を引き取り、面倒をみはじめる。最初の半年くらいは暴れる逃げる暴れる追っかける暴れる連れ戻すの繰り返しで、マリーにとってもマルグリットにとっても痛ましいことばかりで胸が痛くなるのだが、最初の言葉(ナイフ)を覚えてからはするすると社会化していって、他方でもともと肺を病んでいたマルグリットはだんだん衰弱していって。

あんなに乱暴だったマリーが誰よりも早くマルグリットの死を理解して受け入れた、ていうところが印象に残った。
それってマリーの境遇がそうさせたのか、あるいはマルグリットの慈愛が先回りしたものだったのか、とか。

あとは、どうしようかーと思って、"In Her Shoes" (2005) をまた見る。これ、飛行機で何回も見ているのだが。

切っても切れない姉妹、切れてしまった家族 - でもやっぱり切れていなかった - を描いた傑作だとおもう。
成瀬の映画を見ているときのような何とも言えない切なさがやってくるの。

Cameronがマイアミのケア施設で目が見えなくなった寝たきりの大学教授に詩を朗読するところが大好きで。
Elizabeth Bishopの"One Art" - “The art of losing isn’t hard to master …”  とか、最後に出てくるE. E. Cummingsの “i carry your heart with me (i carry it in my heart) …”とか。

あと、” Love & Mercy” (2014) を、もういっかい。辛いところを飛ばして、スタジオのところと、Atticus Rossの音がすごいところをヘッドホンでがんがん。 そうやって聴くと音の密閉感、改めてすごいなあ、と。 映画のほうは、部屋の映画だなあ、って改めて。


いっこ書くのを忘れていた、前回LAからの戻りのときに見たやつ。

The Age of Adaline (2015)
SFにひとりで犬と暮らし、図書館で仕事をしているAdaline (Blake Lively)は、今から100年くらい前、29歳のときに自動車事故で池に浸かった状態で雷に打たれて痺れて、それからなぜか年を取らなくなってしまった。 なので娘はもうとっくにおばあさんになっているし、自分は名前を変え住所を変え、恋人も友達も作らないようにひとりひっそりと生きてきた。 のだがある日仕事で知り合ったEllis (Michiel Huisman)がなかなか情熱的なので負けてつきあいだして、やがて彼の家族のとこに泊まりにいったら、そこで現れた彼の父親はかつてヨーロッパでつきあっていた恋人William (Harrison Ford)のなれの果てだった ...  彼はおろおろうろたえて、彼女はなんとかごまかして取り繕うのだがそれでもやっぱり動揺して。

あたしったら同じ犬種のわんわんを代々ずっと飼っているのとおなじように同じ家族の父親と息子を両方...  (ぷぷっ)とかやってはいけなくて、一緒に悩んだりうろたえたりしてあげるべきなんだろうか。でも誰もわるくないんだし、これもなにかの縁じゃのう、てからから笑って堂々とつきあってみてはどうか、とか。

ホラーとか超常現象モノと呼ぶにはあまりにナチュラル(決着のつけかたも...  そう、偶然よねきっと)だし、純愛モノと呼ぶにはあまりにLet it beだし、そういう状態であっても(そういう状態だからか)人は悩むし迷うんだねえ、とか。

でもあの結末、なんかつまんないよね。

Blake Livelyさんは、あまり巧い演技ができるひとではないと思うのだが、この役に関してはそれがうまく働いていたかもしれない。うまいなーと思ったのはHarrison Fordで義父としてふるまうべきなのかEx-としてふるまうべきなのか、でぐるぐるするところで、Richard Gereだとこうはいかないねえ、とか思った。
この映画、この設定でHarrison Fordの視点から描いたほうが、サイコホラーにもコメディにもなっておもしろくなったのではないかしら。

10.22.2015

[log] NYそのた2 - October 2015

こないだのNYの正味20時間滞在の、食べ物かんけいのあれこれ。

15日の晩9時にラガーディアに降りたって、タクシーでホテルに行って、部屋に入ったのが9:30くらい。
機内食はがまんして食べなかった。 アメリカンのビジネスは温ためたナッツが(90年代からずっと)出てくるのだが、それをつまんだだけで、がまんしてた。なので、割とお腹へって、かつ久々のNYでわなわなした状態で再びタクシー捕まえてどこかに食べにいこう、と。

Mission Chinese Food
むかし、Orchard Streetにあったときの、ぼろいチンドン屋みたいにケバく煤けた店内と電撃としか言いようのない変てこな中華(?)料理の数々、その記憶はなかなか抜けなくて、無くなったと聞いたときは残念に思ったものだったが、復活したので喜んで行ってみたの。予約不可の店だけど遅い時間であればだいじょうぶであろう、と。

新しい場所はLESの更に奥の奥 - E. Broadway くらいまで入ったなかなかディープなエリアで、10時でも十分混みあっていた。
デコールは前よりはやや洗練されたかんじ、だけど基本はわざとひと時代前の悪趣味なガラの悪さを追求しているふう。
メニュー数は少し減ったかも、釜が入ったのでピザができるんだよ! と嬉しそうに言ってくるので、あんた中華でしょ… てふつうにつっこむ。

つきだしで「羽根つき餃子タピオカ入り」、みたいのが出てきて、ぜんぜんふつうにおいしい。なんだこれ。
その次の「四川ふう野菜のピクルス」がぜんぜん四川してなかったり(あれ、なんだったんだろふつうのお新香だよね)、とか、高低・強弱の激しさも変わんないかんじ。
その次の「蕪ケーキの揚げ出し - 抹茶ミルク出汁かけ」 - 揚げ出し豆腐の中身が緩めに練った蕪で、出汁が白緑なのを除けばふつうに全然和食で、(しつこいけど)だからなんなのよこれ? なのだがおいしいんだから文句言わない、言えない。
それから、外見ごくふつうの麻婆豆腐。 山椒のぶちまけ方が尋常ではなくて口内がぱちぱちと火山みたいになる。 マンハッタン・チャイニーズにおける麻婆豆腐のそれなりの経緯と歴史(五粮液、とか)、というのがあって、それらの流れのなかで見てみると割とわかりやすいお皿かも。
それから、New York MagazineのBest of NY 2015でBest Fried Chickenに選ばれていた"Koji Fried Chicken"。
"Koji"ていうのは人の名前ではなく塩麹のことね、たぶん。 鶏の白身のでっかい塊を揚げて輪切りにしてあって、でもその肉はとってもふにゃふにゃと柔らかい。 これってUSの鶏(肉)がぶりぶりごっついから成立しているお皿かも。日本のから揚げの、ほんとうにすごいのだったら勝てるかも。 これはこれでじゅうぶんおいしいんだけどね。
あとは、Salt-cod Fried Rice - 塩鱈炒飯 - 爆裂麻婆豆腐に続けて頬張ると雪のようにあまく柔らかく棘を覆ってくれる。

もう少しあれこれ食べてみないと何とも言えないかもだけど、でも試してみる価値はある。
NYに死ぬほど転がっているハイプでモダンな、なんちゃって中華(+和食)とも、おいしけりゃいいじゃん、的なやっつけでもない、一線を画するなにか - 実はものすごく地道に真面目に食材の組合せとかオーケストレーションを考えているかんじがしてならないの。

The Smith  (バンド名じゃないの)
16日のランチ、仕事の会食で2ndの51stのお店(他に2店あるらし)に行った。
食べたのはロブスターロールとか、ムール貝とかだったのだが、これまでとってもプアだったMidtown EastのDiningをほんの少しでも変えてくれる可能性がひょっとしたら。

Prune
NYでひと晩だけディナーを食べる、ということになったとき、どこを選ぶのか、というのはいっつも切実な問題で、ものすごくとんがったパワーレストラン行くか、とかいう選択もあると思うのだが、自分の場合はいつも結局トラディショナルなアメリカン(自分にとっての、ね)、みたいなところに落ちつくことが多い。 たとえばBlue Hill、とか。
Pruneは、ブランチでは何度か行っていたのだが実はディナーはなくて、それで今回行ってみた。 おそるべし、だった。

予約は9時半、McNally Jacksonで本雑誌買って、そのあと、Houston沿いのUnion Marketで会社の人へのおみあげとか買って、本屋袋 x 2、レコード袋、食料品袋、いろんな袋をばさばさ抱えた恥ずかしい状態でなかにはいったの。

なに食べたって笑っちゃうくらいおいしい。
胸腺のフライにしてもひらひらパスタにしてもビーフリブにしても、デザートのプラムのローストにしても、ありえない。

例えば個々の素材に対するソース・ブイヨン・バターという軸、或はフレンチに対するイタリアンという軸、こういった線引きをぜんぶ曖昧に無効にしてしまう柔らかさとやさしい軽さがあって、あらゆる境界のまんなか辺でふわふわと舌に訴えかけてくるなにかと、目に見えている個々の素材があんま結びつかないの。 「おいしい」は言えるけど具体的になにが「おいしい」のかが見えなくて言えない - いいから黙ってろ、になる。 そういうお皿の上の具体的なものに結びつかない、純粋な歓びとしてのおいしさがなにをもたらすかというと、このまま永遠に満腹感を得られないのではないか、という恐怖にちかいなにかで、そんなのすらもいい、とにかく咀嚼しろ味わえ、になってしまうのだった。 

ひらひらパスタ - Pasta Kerchief with French ham, poached egg and toasted pine nuts のレシピ。

http://www.wnyc.org/story/282158-pasta-kerchief-poached-egg-french-ham-and-brown-butter

まったくおなじ皿の、Amanda Hesserさんによるレシピ。

http://cooking.nytimes.com/recipes/9361-pasta-kerchief-with-poached-egg-french-ham-and-brown-butter

時間があったら作る - 作りたくなるわこれ。


Sadelle's
出発の日(フライトは13時くらい)の朝食でいった。 普段は朝食なんて食べたことないのだが、今回滞在したところがUnion Squareの近所だったものだから、ついあれこれやってみたくはなるよ。

かの、Torrisi - CarboneのMajor Food Groupによるベーグル朝食屋。 
で、↓みたいな記事を見たら行きたくならないほうがおかしいというもの。

http://www.bonappetit.com/restaurants-travel/article/sadelles-design


とっても久々に行った気がするSOHO界隈、ここの場所はむかし(90年代)、Guessのリネン類のブチックだったことを思いだす。(通りの反対側にはRizzoriのSOHO店があった)

土曜日の開店は朝8時で、8時丁度に入ったら、まだ早かったせいかメニューでサーブする方式ではなく、カウンターで頼んでピックアップしてテーブルで食べるやりかただった。

オーダーは、ベーグルの種類(プレーン、セサミ、ポピーシード、エブリシング、などなど)を選んで、挟む魚の種類(Cured Salmon, Smokes Salmon, Sturgeon, Sable)を選んで、クリームチーズ(プレーンかチャイブ入りか)を選んで、トッピングの野菜(ケイパーとかトマトとか)を選んで、ベーグルを焼くかそのままか、を選んで完了。 たのしい。ちょっと高いけど。
で、ブツは厚めの紙で包まれてぱっくりまんなかで二等分されて出てくる。

ばかみたいにおいしい。 ベーグルサンド、ここまでやればこんなにもすごくなる。

自分は、そもそも日本にはちゃんとしたベーグルがない(水がちがうしふにゃふにゃすぎ)、ちゃんとしたスモークサーモンがない(脂分なさすぎ、しょっぱすぎ)、ちゃんとしたクリームチーズがない(糊か)、などなどえんえん訴え続けている哀れな原理主義者なので、こういうのを食べちゃうとますますなあ、て思った。

インテリアもユニフォームもとっても素敵(Wes Andersonは言い過ぎかも)で、もちろんRuss & Daughters Cafeのライバルにはなるだろう。 フロアのまんなかにガラスで囲われた湯気のでている一帯があったのであれなに? て聞いたらベーグルのオーヴンだって。  そういうメカが好きなひともGO !

この後で地下鉄で戻って、Union SquareのGreen Marketを見てまわる。 一時期は毎週のように通っていた。 何年ぶりだろうか。

レイアウトは若干変わったけど、出ているお店は余り変わっていないかも。
帰りたくない感満ち満ち、というのもあるのだが、溜息しか出ない。 野菜ぶっとさでっかさ層の分厚さ、なにもかもぜんぜんちがうよね、
で、ここの夏の終わりから秋にかけてのお楽しみというとブドウ屋さんのブドウジュースで、赤と白両方買って飲んだ。
ブドウの種類は数週間かけて変わっていくのだが、当たるのに当たると(たまにすっぱいのあったりする)、地獄のようにおいしくて、そこらのブドウジュースは飲めなくなる。
あーこれこれ、だった。

飲んだり食べたりしたあれこれは、以上。

あと、16日の晩のUnion Market。

ここはWhole FoodsともTrader Joe'sとも違って、あんま自社ブランドばんざい、でもないし、お店の広さもコンパクトだし、なんといってもBakedのクッキーとブラウニーを入手できる。

あと、米国にくるたび、なにげに探していたやつをめっけた。

http://www.redgoldtomatoes.com/what's-new/sriracha

こんなボトルを買ってしまった以上、空港では荷物をチェックインせざるを得なくなって、一緒に突っこんだ本雑誌で冗談みたいに膨らんで重くなって、インスペクションで開けられていた。 まあ怪しむよね。