3.30.2022

[film] 第一炉香 (2020)

3月19日、土曜日の午後、MUBIで見ました。英語題は”Love After Love”。2020年のヴェネツィアでプレミアされ、同年の東京国際映画祭でも上映されている。

原作はEileen Chang - 張愛玲(1920-1995) の文壇デビュー作となった短編小説(未読) - 英語題だと”Aloeswood Incense: The First Brazier”。 Ang Leeの“Lust, Caution” (2007) - 好き- も彼女の原作(1979)。
監督はAnn Hui、撮影はChristopher Doyle、衣装はワダエミ、音楽は坂本龍一。

144分はちょっと長いのではないか、と思ったがそんなことなかった。庭や屋敷をゆったりだらだらと散策していくかのような時間の流れ方が心地よい。侯孝賢の映像が吹きつけてくる湿気の濃さとは似ているようでぜんぜんちがう。

大戦前、上海事変の頃、経済的な事情で上海の親元から離されて、高校卒業までの学費をなんとかしてもらうべくひとり英国統治下にあった香港の叔母 - 父の妹で親族からは放擲されているマダム・リャン (Faye Yu)のお屋敷に赴いた主人公のウェイロン (Ma Sichun)が、はじめはあんたどこの誰? わたしに姪なんていない、とか言われて顰蹙をかったりしつつ、そこに飼われるように暮らすことになっていろんなことを経験していくドラマ。

社交好きのマダム・リャンは頻繁にパーティを開いていろんな人を招いて遊んでて、その囲いにウブなウェイロンを泳がせておもしろがって、ウェイロンが学校で出会った同級生の男子を連れてきてもそいつと寝てしまったり、そんなふうにかつての飼い犬で富豪の息子ジョージ (Eddie Peng)を屋敷に置いて好きにさせている。

ジョージは自分は結婚しないで一生遊んで暮らすのだ(いいなー)って周囲に公言していて割とやなかんじなのだが、ウェイロンは遊びで近寄ってくる彼に眉をひそめてあんなの絶対だめだ、って思いつつも少しづつ、どうしようもなく惹かれていって、ジョージは彼女と寝ちゃった後でもメイドを引っかけていたりするので、お屋敷内でいろいろ渦が巻かれていくのだが、ウェイロンはウェイロンで負けずにカギ爪を立てて強くしぶとくなっていく。そういうのをマダム・リャンが高いところから眺めているの。

豪華なお屋敷に暮らすことになった田舎のお嬢さまが、いろいろ見たり聞いたり触ったりしながらその壁の向こうや天井の裏でゆっくりと腐って発酵していくなにかに触れて、自分も(自分から)その菌糸に巻かれていく、そういうお話で、これがヨーロッパや英国の貴族のだったら延々続くお喋りに噂話、手紙のやりとりを通したコメディとしてどこまでも軽く転がっていきそうなところ、ここでの高笑いや嫉妬の悲鳴は壁や家具や調度の表面に吸い込まれて屋内の塵として積もり積もっていくだけのような。表面と内側の微細な攻防の行方を坂本龍一の音楽は - でっかくドラマチックに鳴らすのではなく - 見事に、へばりついた苔のような音として表現している。

冒頭のかんじだと、新たな環境に擦れてまみれていくウェイロンが裏や表のいろんな化け物勢力と対峙しつつ、最後にジョージと、あるいはマダムと正面から対決する、あるいはマダムと結託してジョージを … などの(血をみる)展開になるのかと思ったのだが、この映画ではそこまで踏みこんでいかない。むしろこの程度の小娘なんぞ、というマダム・リャンの思うがままに全ての駒が進んでいくようで、それを見ているマダム自身も一緒に沈んでいって、それで構うもんか、って。それをつき動かしているのは、誰かへの、何かへの復讐のようにどす黒いなにか。それは一体なんなのか。ウェイロンも最後の方では「それ」を感じていたように思う。

お嬢さんがアジアの大金持ちの屋敷に入り込んでじたばた、というと最近では”The Handmaiden” (2016) - 『お嬢さん』とか”Crazy Rich Asians” (2018)などがあるが、一番なかに入って暮らしてみたいお屋敷だと思った。そこに重ねられる衣装の色合いやディテールもいちいち見事で、うっとりしているうちに時間が過ぎて、それでいいのか、にはなるのだが。
 

こうして3月が向こうにいってしまう。なーんもしてないわ。

3.28.2022

[film] Ballad of a White Cow (2020)

3月18日、金曜日の午後、MUBIで見ました。邦題は『白い牛のバラッド』。
まだ日比谷シャンテで見ることもできたのだが、下の『アンネ・フランク』も同様、こういう真面目な映画を見る時はなおのこと、TohoシネマズのあまりにばかばかしいCMが嫌で嫌で耐えられなくなっているので、こっちの方にした。

イラン映画で、監督はこれがドラマ2作目となるBehtash Sanaeehaと本作の主演女優でもあるMaryam Moqadamの共同。本国イランでは上映禁止となったそう。

冒頭、四方を壁と人に囲まれた広場(刑場?)に白い牛が横を向いて一匹立っている。その姿がMina (Maryam Moqadam)の脳裏に浮かぶ。この白い牛はコーランの古い寓話に基づくもので、死を宣告された無実の人のメタファーである、と。そしてこの牛はこの後も何度か彼女のなかに登場する。

Minaが刑務所に収監されている夫のBabakに面会に行って、対応時間外だけど、と追い返されそうになるのだが、夫はもうじき死刑になってしまうのです、と訴えると許されて、一瞬開いた扉からふたりが抱擁して泣き嘆くところが見える。

牛乳工場に勤めるMinaは耳の聞こえない幼い娘のBita (Avin Poor Raoufi)を養いながら母娘だけで暮らしていて、家賃は滞納しているし裁判で仕事にも十分行けなかったので収入も不安定で先は暗くて、それを見越した夫の弟(Pourya Rahimisam)や義父は娘をだしにいろいろ言ってくる。

刑の執行から1年して、夫の死刑執行が誤った情報に基づいたものだったかも、とお役所が言ってきてどうしてくれるんだ、になるのがどれだけ泣いてもどうしようもなくて、そんなある日、少し暗い目をした中年のReza (Alireza Sanifar)が声を掛けてきて、丁度借り家を追い出されて新居探しで困っていた(男親がいないと制約が多い)Minaに家を世話してくれたり、車で送り迎えしてくれたりBitaとも手話を学んで仲良くなろうとしてくれたり。

実は(そうだろうな、とすぐわかるのだが)RezaがMinaの夫の裁判を担当して、彼に死刑を宣告した裁判官で、それが冤罪であったことがわかった後に彼なりに苦しんでMinaの世話をするようになったのだが、Minaはもちろんそんなことは知らないまま、彼に好意を抱いていく。

やがて父親のいないBitaの親権をめぐって亡夫の親族が裁判を起こしてきて、そんなバカなことあるか、って退けるのだが、その結果に苛立った義弟がMinaにRezaってどういう奴だか知っているのか? って告げると…

カメラはあまり動かずにほとんど固定で、生活を追い詰められて親族からも孤立していくMinaの姿と、それを後ろから見つめるRezaの姿、ふたりが近寄れば近寄るほどあってはならなかった、誰も望んでいなかった真実が露わになる、その緊張を静かに - 音楽はほとんど流れない - サスペンスのように描いていて、その結末はまったく容赦ない。あんなふうに壁際に囲い込まれていったMinaに、他に取りうる道があったのか? - ない。くらいの強さで迫ってくる。

罪を負うべきひとは誰も、どこにも、はじめからいなかった。なのに白い牛が現れる。どこにでも現れる可能性はある。Minaの無表情な横顔に牛の横顔がそのまま被さる。

目には目を歯には歯を、力には力を、が認められている社会であるが故に死刑のような極刑も許されていて、でもどんな司法であろうとどこかに冤罪を引き起こす可能性はあるので、ここに描かれたような取り返しのつかない悲劇も起こりうる。だから死刑はいけないの(とまでは映画では言わないけど)。これは敵討ち文化 - 暴力の連鎖 - が大っぴらに認められて未だに死刑大賛成のど野蛮なこの国でもまったく同じこと、なので余計に笑えない。野蛮ていうのは他者の生死を他者である権力がコントロールすることを許されている状態のこと。

もうひとつはこの悲劇が障害をもった娘を抱え、夫を失ったひとりの女性 - 社会のなかでいちばん弱い立場になりうる彼女のところに起こってしまった、ということ。彼女のようなひとが見えて、手を差し伸べて救えるような場所のない社会って、どんなに経済が潤っていようと、しみじみ、ぜんぶだめよね。

 

3.27.2022

[film] Where is Anne Frank (2021)

3月15日、火曜日の晩、日比谷シャンテで見ました。邦題は『アンネ・フランクと旅する日記』。
「アンネ・フランク基金」が『アンネの日記』出版75周年を記念して企画した作品で、監督は“Waltz with Bashir” (2008) 『戦場でワルツを』や”The Congress” (2013) - 『コングレス未来学会議』のAri Folman。

屋根裏に閉じ込められ、やがて収容所のガス室に送られる - 日記の世界で夢や希望を紡いでいくしかなかったかわいそうなアンネの悲劇を思い起こして涙することは簡単で、実際にそうして75年間、この本はクラシックとして世界中で読まれてきた。けど、なのに、いまがこんなふうなのはどういうことなのか? なんでまだ戦争とか紛争とかずっと続いているままなの? ってアンネなら文句を言いそうなところにまで踏み込んでいる。

現代のアムステルダム、アンネ・フランクが捕まるまで潜んで暮らしていたアパート/記念館 -Anne Frank Huis で嵐の晩に、そこに陳列保管されているアンネの日記の原本に書き込まれた文字たちが踊りだして、その渦から赤毛のKitty (Ruby Stokes)が出てくる。彼女はしばらく本が置いてある部屋にいるのだが、そこを訪れる人たちにKittyの姿は見えないらしい - ずっと本のなかにいる/いたのに。

思い切って記念館の外に出てみると彼女の姿はそこにいる人たちに見えるようになるのだが、今度は日記の原本が傍にないとパワーを失って消えてしまうことがわかる。 そこで考えた彼女は、出会った難民のスリの少年に原本を盗んでもらって、それをリュックに背負って街に出ていくことにする。

こうして今がどういう時代なのか、自分が(すらも)よくわかっていないKitty - アンネが日記を書く際に”Dear Kitty,”って呼びかけたイマジナリーフレンド- が自分の存在の鍵を握っているはずのアンネの姿を探して - 本はあるけどアンネは今どこに?- アムステルダムの街中を彷徨うのだが、アンネ・フランクの「名前」は学校とか病院とか劇場とか至るところにでっかくあるのに、Kittyの知っている彼女はどこにもいない。 そして日記の原本がなくなってしまったので街は大騒ぎになってしまう。

これと並行して作者であるアンネ自身も登場して、狭い部屋 - クラーク・ゲーブルやエリザベス女王(若い頃)の写真が貼ってある - のなか & 想像の世界で彼女が繰り広げた冒険も描かれる。ただこちらのエンディングは、誰もが知る通り苦くて辛い。(アンネはあの日記を出版を前提として書いたわけではない、という点も含めて)

Kittyが現代の方で繰り広げる冒険は、アムステルダムで(Kittyの姿と同様に)とるに足らない見えないことにされていて、そこから知り合った友達 = 母国への強制送還に直面する難民(含.スリの子を含む子供たち)をなんとかしなきゃ、って”I AM HERE”とボディに大書きされた赤い飛行船を浮かべて、原本現物と引き換えに彼らの滞在許可を求める大ばくちに出ていく。

当時アンネの置かれた状況と現代の難民のありよう - 収容所に連れていかれるアンネと母国に強制送還される難民 - を同じような目線、繋がりのあることのように単純化してしまうことには注意が必要だろうが、でもだからと言ってすぐそこにある彼らの苦難を見捨ててよいわけがあるだろうか。そんな線をひく/そんな線に気づくためにKittyは現代に現れたのではないか。

咀嚼しやすいお涙頂戴のところだけ拾ってしまえば、それこそ特攻隊の家族への手紙だろうがなんだろうがなんでもありになって、「それぞれの正義」だの幼稚なコメントを垂れ流すことになる。アンネをあんなふうにしたのも難民をあんなふうにしたのもウクライナがあんなことになっているのも、ぜんぶ今を生きる自分たちの世界との関わりのなかで起こったこと - 我々ひとりひとりのせいなんだ、ってば。いいかげんに目覚めて。学んで、と。

もうひとつ、Kittyはアンネが書いて、「アンネの日記」が読まれたことで初めて我々の前に現れたのだ、ということ。だから、ひとりひとりのKittyを呼び覚ますためにも、本をガラスケースの奥から解き放って。本は積まれて読まれてなんぼで、本を子供たちの手の届かないところに置いて偉そうにふんぞりかえる建築家なんてさいてーのくそくらえだわ。

Ari Folmanの映画で音楽は重要な役割を担ってきたが、今度のはMGMTのBen GoldwasserとKaren O。
最後にKaren Oの声が被ってくるところはわああー、ってなった。



25日、金曜日の夕方、国立映画アーカイブでアリス・ギイを見ようとした手前で青山真治さんの訃報を知った。
映画創成期の映像あれこれを見ながら、もう彼の新作を見ることはできないのかー、と思うと悲しくて絶望的になってアリス・ギイが(半分くらい見たことあるやつだったのでまだ)。

わたしにとって彼はルースターズと『カオスの緑』のChris Cutlerのひとだった(他にも沢山。でもまず音楽)。なにを見ても読んでも全てがものすごくすんなり入ってくるので時間をかけてゆっくり見ていこう、って。だから最新作もまだ見ていない。

最初に姿をみたのはNYのJapan Societyでの”WiLd LIFe” (1997)の上映の時のトークで、最後は『はるねこ』(2016)の上映後のライブだったかも。こんなふうに世界のどこでも風のように現れる人、見せて読ませてくれる人、だと思っていた。そしていつも「生きること」について「生きろ」って、ダイレクトに語る人だった。(なんか、どんとみたいに突然消えてしまったかんじ)

ご冥福をお祈りします。ありがとうございました。

3.24.2022

[film] Verdens verste menneske (2021)

3月18日の金曜日、米国のYouTubeで見ました。
前日にワクチン接種して、副反応に備えて会社を休んでいたのだがぜんぜん来なくてなんかつまんなかった時に。

英語題は“The Worst Person in the World”。邦題は『わたしは最悪。』?? “The Worst Person in the World”って、たしかナレーション(女性)か相手の男性かが言ったことで、主人公の彼女は言わなかったし、そんなことを言うキャラクターではないし、この映画は少なくとも「わたし」が言うようなことを扱っていないのだが.. (ここに「わたし」を持ってこようとするのがすごく嫌)。

監督Joachim Trierによる「オスロ三部作」の最後の一篇(最初のふたつは未見)で、主演のRenate Reinsveは昨年のカンヌで最優秀女優賞を受賞している。プロローグとエピローグ、その間にタイトル付きの12 Chapterが挟まっている。 Dark rom-comとか言われているが、これがダークなら世の中のロマンスぜんぶ真っ黒ではないか、というくらい好き。Rom-comというよりはかっこいい女性映画だと思った。

プロローグで、オスロの医学生だったJulie (Renate Reinsve)は、医学じゃなくて心理学やりたいな、って学部を変えて、そこからこんどは写真やりたいな、ってカメラを持つようになって、その度につきあう彼も変わって、そうやって年上のグラフィックノベル作家のAksel (Anders Danielsen Lie) - 政治とエロ混じりのボブキャットのカートゥーンを描く - と出会って、今度は本屋に勤めて、Akselとつき合いつつなんとなく一緒に暮らしはじめるところから。

JulieはAkselの実家に行って彼の家族の修羅場を見たりするとやっぱりまだ子供を作るのは早いかもとか思って、自分でフェミニズムっぽい文章を書き始めたりするのと、通りすがりに飛び込んでみたパーティで出会ったEivind (Herbert Nordrum)と酔っぱらいながらこれって浮気? とか、これはよくないこと?とか、互いを問いつめながら遊んだりして、Eivindとはそれっきり..  のはずだったのに、本屋で再会して、だんだん高慢でうざくなってきたAkselへの失望もあって、思いきって飛びだしてEivindのところにいく - ここで全世界がフリーズする。

Eivindには付きあっている彼女がいたし、Akselへの未練も少しだけあった(別れを告げたあとでセックスする)のだが、Eivindと暮らしてみると楽しくて、マジックマッシュルームをきめて遊んだり - Julieの嫌悪するあれこれがぜんぶ戯画化されて放出される - 楽しいからいいや、ってふらふらしていたら妊娠していることがわかり、更にAkselが末期ガンでもう長くないことを知らされて..

“The Worst”ってなんなのか? 自分のやりたいことやって好きだと思うひとと一緒になって、それよか素敵なひとが現れたらそっちに行って酷い思いをさせて、それは「幸せ」を求めるからというより、そうやりたいからやっているのになんで、なにが悪いのか? (Agnesの“Le Bonheur” (1965)を思い浮かべる)

仕事/一生の仕事、性差、年齢差/同年代、家族/結婚、快楽/不快、酔い、好き/嫌い、これらを巡ってこうあるべき、とか、みんなこうしてる、とか、こうしたら、とか、そんなのぜんぶうるせえよ、って。そういうのをぜんぶやり散らかしても、そういうのをぜんぶ受け容れてくれるひとがよい(げろげろ)、とかそういうのとも違うの。 むしろJulieは彼(whoever)がこうした方がいいよ、ってアドバイスしたりやんわり求めてきたりしてきそうなことの全部逆を(わざとではなく)やろうとしているかに見える。それって果たして”The Worst”なの?

そして、”The Worst Person”って誰なのか? 誰もがあのポスターの、輝かしい笑顔でこちらに走ってくる彼女のことだ、とふつうに思ってしまうのだろうが、ほんとうにそうだろうか? “The Worst Woman”だったらそうだろうけど、ポスターには出てこないあんまぱっとしない男子2名もいるのよ。

そしてそして、”in the World”ってどこの/なにが含有された、どういうワールドなのか、ってことよ。このワールドが既にじゅうぶん腐れててWorstだったとしたら、ここの”The Worst”は”The Best !”になったりしないかな?  で、この映画はこれらの価値のありようやそんな位置関係を周到に並べて御丁寧になにかを蹴っ飛ばそうとしているのだと思った。 で、そうしてみるとやっぱしあの邦題は「最悪」だよね、っておもう。

主演のRenate Reinsveさんの挙動 - こういうのにありがちな不思議ちゃんや近寄りがたいファム・ファタールといった類型に割り振るのではなく、きらきら笑いながら70年代Woody Allenふうの自己憐憫にまみれた男たちを蹴っ飛ばしたり、最近のだとHong Sang-sooの映画に出てくる女性たちを北欧風にリビルドアップしているような - かんじはすばらしい、しかない。

映画自体が12曲のアルバムのように構成されていると思うのだが、流れている音楽もすごくよくて、最近のとクラシック - Billie Holiday, Todd Rundgren, Harry Nilson - 2曲も !、ラストにArt Garfunkelの”Waters Of March” !!  が交互に絶妙に配置されている。サントラのアルバム、出たら買う。

5月にMUBIに来たらまたみたい。

3.22.2022

[film] 渦 (1961)

3月13日、日曜日の午後、『娘・妻・母』に続けてラピュタ阿佐ヶ谷の番匠義彰特集から2本見ました。
原作は井上靖、脚本は笠原良三と富田義朗の共同。

洋画輸入会社の社長が洪介(佐田啓二)で、その妻が伊沙子(岡田茉莉子)で、ある夜遅くに伊沙子が警察から電話を受けると、彼女がかつてボランティアで就職を世話した戦災孤児の光一(石川竜二)が暴力沙汰を起こしてあなたの名前を言っている、と。伊沙子は警察まで赴き、だめじゃないの、って服を買い与えてから家に帰ると洪介が帰宅していて、事情を話すとなんだそんなことか、って蔑まれてむかつく。

洪介がものすごく熱を入れて買い入れて売ろうとしているドイツ映画『罪なき女』は試写をしても反応があんまよくなくて不機嫌なのだが、彼のところによく来る翻訳のりつ子(岩下志麻)はよい映画だと思いますわ、ってどうも洪介のことを好きらしい。

航空運輸の会社で給仕をしていた光一はそこでまた喧嘩をして伊沙子が呼ばれ、光一のためにそこの副社長の佐分利信 - 堅い - とか、知り合いのピアノ教師の仲谷昇 – 柔い – とかの間を動き回るのだが、夫は仕事に没頭していて相手にしてくれず、没頭しているという割にはりつ子に貰ったプレゼントを持っていたりしてかんじが悪い。

りつ子は叔父の佐分利信のすすめでお見合いをして、でもやっぱり洪介さんが.. って彼の事務所に行ったところで伊沙子からの電話を受けてしまったり、光一の喧嘩騒ぎを止めようとした伊沙子と仲谷昇がカップルとして報道されてしまったり、そんな伊沙子と仲谷昇の仲を誤解して嫉妬した光一が..

若者たち(岩下志麻、石川竜二)が既婚でしゃんとした伊沙子や洪介に片思いして、大人たちはそれぞれの事情を抱えて渦を巻いたり腐ったりしていて、それらを少し上から佐分利信が「恋は病気だ」などと薄笑いしながら見ている、そんなドラマで、渦が何かをかき回したけど水が濁っただけだった、みたいな。

今であれば、SNSでなんでそんなのフォローしてるんだ? とか、なんでそんなのに「いいね」してるんだ? とか、炎上したのを助けてあげたり、もやもやしたのでブロックしたり、そんな程度のやりとりをリアルの世界で丁寧に解きほぐして大喧嘩したり職場で寝泊まりしたり走りまわったりしているような。

クールなようで裏で小爆発を繰り返す佐田啓二、思ったらすぐ反応/行動するけどそれがなにか? の岡田茉莉子、なにがあっても「いいじゃないか」ってなんもしない佐分利信、など、俳優さんがそれぞれのイメージ通りの動きをしてくれるのもうれしい。五所平之助のスローコアな井上靖ものと比べるととても軽くわかりやすいかんじになっている気がして、これはこれでよいかも。


のれんと花嫁 (1961)

上に続けてそのまま見る。「花嫁シリーズ」の第五作。

江戸時代から続くカステラの老舗- 長崎開花堂の一人息子津川雅彦は学生で東京にいてコーラス・グループ「ブルー・ロビンス」でプロデビューを狙っていて、マネージャーの瞳麗子の母はやはりカステラ屋の東京開花堂の女主人-月丘夢路で、幼馴染でやもめの材木問屋 - 佐野周二と仲が良くて、彼の娘の倍賞千恵子は自分ちに下宿している津川雅彦のことを想っているのだが、そのライバルは瞳麗子だったり。

津川雅彦の父の伴淳三郎が分家の東京開花堂は(分家のくせに)意匠侵害してけしからん、って月丘夢路のとこに文句を言いに上京してきて巻き起こる騒動が津川雅彦を剥がして長崎に連れ戻して、それに引っ張られるようにほぼ全員が長崎に移動してどたばたするのだが、最後にはもちろん一件落着 – 津川雅彦と倍賞千恵子が、瞳麗子と小坂一也が、月丘夢路と佐野周二が、くっつきそうでめでたいねえ、って。

たあいない話といえばそれまで- 結構な数の男女カップルが狭い世界でのれんをびらびら腕押ししまくってぜんぜん手ごたえないのに最後にはなんとなくハイスピードで焼かれてカステラの箱に入ってしまう不思議な世界で、こんなのを83分で走りきってしまうってすごい。53分だったら五三焼でもっとかっこよくなったかも。

まだ2本しか見ていないけど、このシリーズって恋が成就した/しそうな女性をとりあえず「花嫁」って括っているようなのだが、こんなふうに着地点(ゴール)を「花嫁」におく変な風習っていまだにあるよね。逆の「花婿」はなんでないのか?

あと、とっても失礼ながら伴淳三郎と高橋とよの夫婦から津川雅彦の貌はあんまし生まれにくいのではないか、など。

3.21.2022

[film] 娘・妻・母 (1960)

3月13日の日曜日、ラピュタ阿佐ヶ谷の原節子特集で見ました。
監督は成瀬巳喜男、製作は藤本真澄、井手俊郎と松山善三の共同脚本(こてこて)。

高度成長期のホームドラマでこのタイトル(「娘・嫁・母」じゃないだけましか)、となるとそれだけでなんか見えてしまう。これがネタどころかおおまじでこの役割期待を生きろ/生きるとは、って嵌めてこようとする視線の気持ち悪さ。もちろん成瀬なのでそのぬたくる粘液の飛沫まで描きだしてくれるのでたまんないのだが、それにしても。久々に田舎の親戚に会って(ほぼ会わないけど)見ないようにしてきたあれこれをほじくり返されて、なすすべもなく陥落(なにが?)して会話できなくなっていくかんじが容赦なく襲ってくる。

三益愛子が母で、東京の商家に嫁いでいた長女の原節子は夫が亡くなって母の住処に戻ってきて、長男の森雅之は高峰秀子(..『浮雲』コンビ)と夫婦で母と同居していて、お調子者の次男が宝田明(追悼..)でその妻が淡路恵子で、次女は草笛光子で、嫁いだ先がママに頭のあがらない小泉博のとこで姑が杉村春子で、未婚でちゃっかりもんの三女が団令子で、中心の家族だけでもこれだけのスターが揃ってたっぷりぐだぐだしてくれる。

森雅之が旧知の加東大介の工場にお金を貸していたらその工場が潰れて雲隠れされて、見込んでいた老後のあれこれがぜんぶ吹っ飛んで家を売らなければならないくらい深刻な事態に陥っていることがわかってどうしよう、という話。

母は既に家長ではないからなんも言えないし、母の面倒を長男に押しつけてきた他の子達も文句言ってどうなるもんでもないし、みんな自分の明日の暮らしで手一杯だし、こうして(物理的な or 理念としての)家をどうするのか、お金(資産財産)の分配をどうするのか、誰とどういう立場(娘・妻・母)で何をやって過ごす(乗り切る or 見限る)のか、などが目の前の難題として現れてきて、それらが「難題」と見られていることがわかった途端に母-杉村春子のようにどうせあたしはお荷物ですよ、って毒々しくなるか、母-三益愛子のように道端で泣き出してしまうか。

男 - 特に長男が家を継いで娘は他所に嫁いで、継ごうが他に行こうがそこの足下のイエを経済的にどうにかして継続させるのが戦後(核)家族の基本原則の共通認識になっているのだが、この継続性って思っているほど確りしたもんじゃないどころか碌なもんじゃないのだ、というのが事故や災害のように助けあわなきゃ - じゃない時に露わになる、その半端で生々しい右往左往。必死になるほどのことじゃない、けど、だから、身を切るようなことはしたくない、結果途端によそよそしくなったり、解決策も「お母さんを他人と思うようにすればいい」とか - いやそもそも他人なんですけど。

こういう家族内の修羅場ドラマは日本だけのではなくて、例えばデプレシャンなどにもあると思うのだが、向こうのは血とか怨とか、そういうところに向かう(気がする)し、日本でも小津のドラマだと「なぜ?」「なんで?」っていう観念的な問いのまわりをぐるぐるしていく(気がする)のに対して、ここのは「じゃあどうするの?(How?)」っていうところで全員 - なぜか主に女性たち - がこちょこちょ動いたり口出したり、でも結果としてはあまり進展しない - 誰かが泣いてどうにか - の極めてにっぽんの家族のお話になっている(気がした)。

そんなふうに町工場的にオーケストレートされたアンサンブルのなかで、ブドウ園の技師をしている仲代達矢と原節子の中学生みたいにぎこちない恋とキスのところはよいかんじに浮いて生々しくて素敵、なのだが若い頃の仲代達矢って、何やってても目が泳いで何考えているのかわかんないふうでちょっと不気味だと思う。

とにかく、ここに出てくる男達は - 仲代達矢も含めて - 全員 - 見事に全員 - ダメすぎ、試験したら全員落第、っていう結論でよいのかも。最後に乳母車をひいて救世主のように現れる笠智衆にしたって息子の嫁に怒鳴られているというし、あいつら全員どっかに捨てちゃえば未来は明るく、みんな楽になれるよ - と娘・妻・母は思ったに違いない。

あの後、三益愛子と笠智衆が一緒になって、すると原節子は義理の娘になるので、東京物語ごっこをしたのではないか。

3.20.2022

[film] Cenzorka (2021)

3月9日、水曜日の晩、MoMAのドキュメンタリー映画祭 - Doc Fortnight 2022 の配信で見ました。
ほんとうはここでJames Benningの”The United States of America” (2021) を見たかったのだが、配信なのにSold Outしていたのでー。 英語題は”107 Mothers”。

同年のヴェネツィアでオリゾンティ部門の最優秀脚本賞を受賞してスロヴァキアからオスカーにエントリーされた(ノミネートはされず)作品。監督はPeter Kerekes。舞台はウクライナで言語もウクライナの映画でもある。
タイトルをそのまま訳すと「検閲」となるが、英語題の”107 Mothers”は実際の女性囚人の母たち107人にインタビューした結果に基づいて構成されたもの、なのだそう。

ウクライナ - オデッサの74番(.. 何番まであるんだ?)刑務所に収容された女性/女囚たちのドラマで、ドキュメンタリーだと思っていたのだが、一部を俳優さんが演じている。

冒頭、囚人服(おそらく)に身を包んだ身重の女性たちの身体検査のやりとりがあってからヒトの出産場面が正面から映されて、そうやって出てきた赤子はしばらくの間別室で育てられて授乳の時間だけ母子は一緒になることができる。 更に刑務所に子供を置いておけるのは生後3つになるまでで、それを過ぎると孤児院に送られるか里親のところに出されるかで、受刑者の母親が恩赦等を受けて3年以内に出所することができれば子供と引き離されることはない、という説明がなされる。なんかディストピアのゲームのようだがそういう規則になっている、と。

実際の受刑者たちの映像に混じってメインで出てくるのが7年の刑期で入っているLeysa (Maryna Klimova)とここで生まれた彼女の子供(かわいい)、でっかい猫のような看守のIryna (Iryna Kiryazeva)で、彼女は女囚たちの日常をずっと監視して、彼女たちが受け取る手紙、彼女たちが投函する手紙をぜんぶ機械的に検閲したりしている。

Leysa に子供が産まれた後、刑務所のルーティンを紹介するかたちでチーム単位で並んでまとめて授乳する様子とか、なんでここに入ることになったのかの個々の問答 - 嫉妬、とか、夫を殺した、とか、夫の愛人を殺した、とかみんなさらっと語っている。 そしてそこから3年後に飛ぶ - 実際に3年間置いて撮ったのだろうか?

3年経ったので、子供の誕生日にケーキでお祝いをして、そこからそのまま引き剥がしてばいばい - のような残酷な画が展開されて、Leysaも産んでからもうじき3年なのでいろいろ焦っている。刑期中に改善が見られたかどうかのインタビュー - 恩赦に繋がる可能性がある - とか、手紙を書いて反省のアピールをしたりとか、実親に電話して暫く子供を見てもらえないか頼んだり - 母親からひどい返事が返される - おそらくここにいる誰もがやっていることなのだろうが、胸が痛くなる。 そしてその様子を隅っこでもう見飽きた、みたいな無表情で眺めているIrynaがいる。

この後の展開は見てもらうとして、とにかくこんなの、男性の囚人房ではまったくないことだろうし、生まれてきた子供からすれば更にまったく関係ないことだし、全体としては余りに不条理な酷い話ではないだろうか。 学芸会の様子とかみんなで楽しく騒ぐ場面もあったりするけど、余興があるから許されるようなものでは勿論ない。

彼女達が収監された理由と刑務所内で出産しなければならなくなった事情は直接間接に繋がっている可能性が十分考えられるし、出産したことで受刑者自身が(直面した苦労も含めて)変わった可能性だってあるし、ここには男性受刑者と比べるとものすごくでっかい非対称性があると思われ - だから映画の女囚もののジャンルもありうるのだろうが - ドキュメンタリーとしてまずフォーカスすべきなのはここなんじゃないのか、とか。そしてこれって、いまの戦争前から問題だったウクライナの人権問題ともリンクしているのかいないのか。

あとは107人分の声を集めたことで(意図しないかたちで)薄められたり端折られたりしたものがどれくらいあったのかしら? メインのエピソードが割とシンプルに口当たりよく纏まっているぶん、少し気になったり。

あともちろん、ウクライナがあんなことになっている今、彼女たちや子供たちはだいじょうぶだろうか。どうかみんな無事でありますように。

3.18.2022

[film] 細雪 (1950)

3月8日、火曜日の晩、神保町シアターの特集『「細雪」と映画の中の姉妹たち』で見ました。
この特集(いつものように)全部見たいのだが、他のところのあれこれも見たいのいっぱいなので苦しくて、せめて細雪3本だけでもー。

谷崎潤一郎の同名原作 (1936 – 昭和11年)を監督は阿部豊、脚本は八住利雄、音楽は早坂文雄、などで新東宝が映画化。 145分。

1937年の大阪、上本町の旧家 - 蒔岡家の四姉妹が名字は継ぎながらもばらばらになって、お家としてゆっくり滅びていく - けどなんとかなるやろ - なさまを描く。

四姉妹は上から鶴子(花井蘭子)、幸子(轟夕起子)、雪子 - 「きあんちゃん」(山根壽子)、妙子- 「こいさん」(高峰秀子)で、鶴子が夫の仕事で東京に越してから、芦屋の雪子と婿養子の貞之助(河津清三郎)の家に入り浸るきあんちゃんとこいさんのあんなことやこんなこと。

上のふたりは婿さんを貰って安泰(という扱い)なのだが、下のふたりは未婚で、お金持ちの啓ぼん(田中春男)と駆け落ち騒動を起こして新聞沙汰になってから落ち着かないこいさんとそのとばっちりをくらってお見合いしてもなかなか決まらないきあんちゃんの結婚相手探しが中心。

こいさんはよい家に嫁入りするより自分で仕事を持たなきゃと人形制作から洋裁まであれこれ手を出して、そのくせその資金を啓ぼんに出して貰っていて、その感覚っていいの? と言われながらもいいのよ、になっていて、阪神大水害をきっかけに、啓ぼんのところにいた写真家の板倉(田崎潤)と距離を縮めて結婚するんだ、ってなったところで板倉が死んじゃってやけっぱちの彼女は啓ぼんを食いものの生殺しにしながらバーテンダーと付きあって妊娠までして。

他方で婚礼の着物を父親に遺してもらったり、それなりの格の家と結婚して当然、と周囲の期待も大きいきあんちゃんは、目的化された「結婚」なんてどうでもよくなっているくせにこいさんと板倉の一途な結婚になると家が.. とかいう。

上のふたりのこいさんに対する、きあんちゃんに対する態度も目線もまずはふたりとも蒔岡の家のことさえ考えてくれれば丸く収まってくれるはずなのにおかしいわ(ってあの口調で)、というものでそこには悪気もなんもないのだが、そのお家の外観も内部もシロアリに喰われてぼろぼろで耳の聞こえない爺やが維持している、というほぼホラーみたいな。

なにかと言えば本家の縛り目線に疲れている長女、名前なんて、と言いながらもお金や外面はだいじ、と貴族になりきっている次女、上から言われることと現実の段差にすべてがどうでもよくなっている三女、失うものなんてねえから好きにやるぞ、の四女が手を取り合うのでもなくいがみ合うのでもなく「蒔岡家」の看板に向きあって、どーにもならんわ、ってやっていくその様を描いてどこにも落着させない原作の意地の悪さは和らいで、姉妹でがんばっていれば明日はきっと、な? というとってもにっぽんなお話にはなっているかも。

上映素材はデジタルだったが、画面構成とか衣装とかとてもきちんと作ってあるので、もうちょっとちゃんとレストアすればよいのに。

あと、男優たちはみんなよいのだが、ところどころ大政だったり法印大五郎だったり桶屋の鬼吉だったりするので、つい次郎長親分を探してしまうのはよくなかった。


細雪 (1959)

3月12日、土曜日の夕方に見ました。カラーになって画面が横に伸びた。 105分。

監督は島耕二、脚本は50年版と同じ八住利雄、音楽は大森盛太郎で、大映のアグファカラー(好き)。
姉妹のキャストは鶴子(轟夕起子 - 50年版では次女だった) - 幸子(京マチ子) - 雪子(山本富士子) - 妙子(叶順子)。男性は啓ぼんが川崎敬三、板倉が根上淳、啓ぼんのとこの婆やは50年版から変わらず浦辺粂子。

50年代版の時代設定は原作と同じ昭和10年代だったのに対して、こちらはフラフープやレコードが出てくるので戦後と思われる。旧家の崩壊というよりは新たな秩序やお家のありように向かおうとする、ややポジティブなかんじは漂っているかも。

配役でいうと、雪子 - 山本富士子が上のふたりとこいさんを繋いでがんばっているふうで、50年版の雪子が上瞼のシミのことを気にしたりくよくよおっとりしていたのとは対照的かも。新たなお見合いに躊躇する理由も最初のよかった人が事故死してしまったトラウマから、になっている。

あとはどちらも着物がきれいだねえー。

ここからずっと後に旧きよき大阪(よう知らんけど)はあの政党の経済優先策によって焼け野原にされて、お国のほうもこの時代のきな臭くて気持ちわるい家のありように回帰しようとしているかに見える(なんのために? ほんときもちわる)。だからこそ改めて四姉妹をー、にはなるのかもしれない。


17日の夕方にブースター打ってきた。昨年3月にロンドンで一回打っているので、ア・モ・モ・ファ。
いろいろ備えて構えたのだが、一日過ぎても腕が痛いだけで、やってきた頭痛は気圧のそれと思われ。結局いちばんきつかったのは最初のやつだったかも。

3.16.2022

[film] Turning Red (2022)

3月11日、金曜日の晩、Disney+で見ました。邦題は『私ときどきレッサーパンダ』。
“The Batman”を先行の3月10日に見たのはこっちを公開日に見るためだったの。

この日は会社を休んで、上野でフェルメールみて、空也上人みて、ポンペイ見て、シネマヴェーラで『暗黒への転落』(1949)をみて、最後がこれだった。 少し疲れたけど本当によかった。こんな素敵なのをなんでシアターの大画面で見ることができないのか、ちっとも理解できない。あったまくる。

ピクサーの最新作で、すばらしかった短編アニメ”Bao” (2018)を作ったDomee Shiの祝長編監督デビュー作。

2002年(監督自身が13歳だった年なのね)、トロントの中国系カナダ人の家族と暮らす13歳のMei Lee (声:Rosalie Chiang)はやや過保護で過敏なママMing (声:Sandra Oh)と優しいパパの間で育って学校でも成績優秀なよいこで、学校の仲間たち3人とボーイズバンドの4*Town(5人だけど)に熱狂している。

学校のいじめっ子男子との間でひと悶着あってやれやれだった翌朝、Meiが目覚めてみると自分が巨大なレッサーパンダ – Red Pandaに変身していることを発見してパニックになる。バスルームからの彼女の悲鳴を聞いたMingは娘の月経が始まったと思って準備しておいたあれこれを出してくるのだが、ちょっと違った – 確かにTurning Redではあるが。

どうも興奮して感情が昂るとレッサーパンダ化するらしいことがわかったので、とりあえず自分を落ち着かせて(でも髪の毛は黒→赤になってしまった)そーっと学校に向かって、でもやっぱり抑えきなくなった姿を友人たちにも見られて、でも彼女たちはこんなの最高じゃん、てMeiは人気者になる。友達みんな素敵。

娘のレッサーパンダ化を知ったMingは祖先のSun Yeeがレッサーパンダを愛して崇拝して(Meiの家はレッサーパンダを祀っている)、あまりに愛しすぎたので自分がレッサーパンダ化する能力を有してしまい、その能力が女性にだけ代々受け継がれているのだと説明する。でもそのままだと困るのでもうじき、赤い月の晩にその能力を封印する儀式をやることになるから、と。

やがて4*Townがツアーでトロントに来るのを知り、当然みんな行こうぜ!になってチケット代を稼がなきゃ、って思いついたのが、Meiを客寄せ(レッサー)パンダにして集金しよう! って。結果みんなが寄ってきてお金は順調に貯まっていくのだが、ライブの晩が儀式のそれと重なっていることに気づいて…

ライブには行きたいし友達ともずっと遊んでいたいし親には構われたくないけど嫌われたくもないし – などなど、どこかを我慢して引っこめて、のようによい子としてお行儀よく振る舞うことを求められるけど、ぜんぶやりたいのだしやるし、っていうティーンのもんもん爆発がカフカ的に捩れるのではなく、レッサーパンダへの変態にうまく、ポジティブに乗っかっていて楽しい、のだがこのアニメーションはそこに留まらなかった…

儀式の晩、田舎から祖母や叔母たちもやってきて厳かに取り仕切られようとしていたところで、そんな迷惑かけてないのになんで封印されなきゃいけないのか、わたしはレッサーパンダになっている自分も好きだし、なんで自分だけライブ行けないのか(うんうん)、ってブチ切れてしまったMei vs. ここはなんとかしなきゃいけないって必死なママたちとが..

これ、実写でやったらすごくなっただろうなー(もちろんSandra Ohはそのままで)って思いつつも、やっぱしアニメーションだからかもな、って。 でもCatwomanだってこういうのだと思うし、Twilight Sagaのオオカミくんも実はこれよね。

ティーンの女の子が直面するいろんな抑圧や不満に不安、それらに対する何故? 彼女を取り囲む家族や友達の間を行き交ういろんな矢印やため息やごたごたをひと通り拾って、だいじょうぶだから、ってわかったような顔をしようとしたその時に、いきなりレッサーパンダが現れる。

とにかくレッサーパンダ、という設定が極めて絶妙で、前に書いた“Red”の意味もあるし、両手を挙げて真剣に威嚇しているのに「かわいー」って片付けられてしまう不本意/不条理もあるし、ジャイアントパンダのアニメだと『パンダコパンダ』(1972)には敵わないから、だろうか。 ほんの少しだけ欲を言えば、Meiがどうやってあのもふもふ毛だるまボディに自身をアジャストしていったのか - 臭いとかも含めて - その辺はもっと丁寧に描いてもおもしろくなったのではないか。

とってもあの頃のあれっぽい4*Townの音楽を書いたのはBillie Eilish and Finneas O'Connellだって。なーんて器用なのかしら。

続編は、あるところに代々センザンコウを奉ってきた一家の男の子がいて..(ゴジラ対アンギラスみたいなところを狙いたい)


揺れたけど、積まれた山たちはなんとかがんばってくれた。どうかみなさんもご無事で。

 

3.15.2022

[film] Death on the Nile (2022)

3月6日、日曜日の午後、二子玉川の109シネマズで見ました。
邦題は『ナイル殺人事件』。前のオリエント急行のは明確に「殺人事件」だと思うけど、これって『ナイルに死す』のが相応しい気がする。

前作 - ”Murder on the Orient Express” (2017)と同様、Kenneth Branaghが監督してエルキュール・ポアロを演じて、脚本のMichael Greenも前のから続いている。

おなじ原作がベースのJohn Guillermin - Peter Ustinovによる1978年版は、1979年のお正月映画で、銚子セントラルっていう映画館(もうない)で見た。ひとりで洋画を見始めた最初の頃の1本で、内容は欠片も憶えていないけどキャストは今みるととても豪華だったんだねえ。

冒頭、第一次大戦に従軍してヨーロッパにいた頃のポアロ(Kenneth Branagh)の姿がモノクロで描かれる。彼の推理に向かう容赦ないアプローチの起源とか口髭の秘密とか当時の恋の話が出てくるのだが、これだけで1本作ってほしい - 本編より惹かれたかも。

1937年、ロンドンのダンスホールで、Salome Otterbourne (Sophie Okonedo)が歌っているところにポアロが入っていくとSimon Doyle (Armie Hammer)とフィアンセのJacqueline “Jackie” de Bellefort (Emma Mackey)が情熱的にべたべたに絡まって踊っていて、そこにJacquelineの友人で社交とゴージャスの塊りのようなLinnet Ridgeway (Gal Gadot)が現れると森の獣たちがざわざわってなって彼女を見たSimonが近寄っていく。

その次にポアロはエジプトにいて、旧友の - 前作にも出ていたBouc (Tom Bateman)と彼の母で画家のEuphemi (Annette Bening) と再会して彼らと共にSimonとLinnetのハネムーンクルーズの船に乗り込むことになるのだが、ここにはLinnetの関係者や知り合い - 弁護士で従兄弟のKatchadourian (Ali Fazal)とか彼女の元婚約者(Russell Brand)とかマネージャー(Letitia Wright)とか専属メイド(Rose Leslie)などがいっぱいいて、ここにまったくお呼びでないはずのExのJackieが笑っていない目で現れたので、Linnetはこわいわ、っていう。

で、俗世間から切れているので安全なはずの船旅が逃げ場のない危ないものに感じられたLinnetは睡眠薬が、とか言っていると夜中に修羅場が勃発し、それが伝播するようにLinnetのこめかみに銃弾が撃ちこまれているのが見つかり、更に第二第三の殺人が起こって遺体は布に包まれて腐らないように冷蔵庫に置かれる。それからついでのようにティファニーのネックレスが盗まれていたこともわかる。

こうして関係者のサークルからひとり外に立っていたポアロは目に見える証拠とか川底から発見された銃とかスカーフなどを手掛かりに怪しそうな関係者ひとりひとりをねちねち問い詰めていくのだが、誰も本当のことを言っているようには見えないし、全員がLinnetに恨みをもっていたり死んでもらえた方が都合がよかったりする人たちであることがわかって、ううむーって(見ている我々が)。

こないだのRiddlerの謎々もだけど、こういう画面上で示されるミステリーって昔からなんか苦手で、だって答えはぜんぶ画面上で示されてきているはずなので、わかんないのだとしたらちゃんと見てなかったか頭の回転がとろいかってことで、ちゃんと見てなくてごめんな、みたいになることが多いから。

前のオリエント急行のと比べると、列車と雪で客同士の距離感が近い – が故に距離を取りがち - おとなしめ - なのに対して、開放的な観光地のなかのクルーズで、客は離れてばらばらにいて、でもシャンパン開けてダンスで絡みあったり、何かを抱えてそーっとワニのように忍び寄ろうとしている - やや熱め - そんな違いがあるかも。けどエジプトの土地や気候がコトに決定的に作用したかんじはそんなにはない。

失敗よね、って思えてしまうところがあるとしたらArmie Hammerがちっとも魅力的に見えなくて、Emma Mackeyとの間にもGal Gadotとの間にも決定的ななにか - 恋が、エジプトの呪いみたいにトグロを巻く恋が生まれたかんじがしないことなの。 彼のあの件でついそう見てしまう、だけではないと思う。彼女がWonder Womanだったら砂漠の彼方にぶっとばされて終わり、になるくらいに彼は弱くてちょろいキャラに見えないか。

なのでポアロが自身の辛く狂おしい恋の記憶を噛みしめつつ犯人を追い詰めても、なーんだになってしまう気がする。 殺人、というよりタガが外れて制御を失った何かが何かを押しやって、そこから先はドミノのようにぱたぱたと穴に落ちていって、最後は布巻きのミイラになって運ばれていく。

謎が明らかになってしまうと、これって謎解き推理劇に仕立てるよりも起こったことを順にきちんと追っていく - ポアロの動きも含めて - ドラマにした方がおもしろくなったのではないかしら、とか。

ポアロ、お金も貰ってないだろうし、エジプト行ってもクルーズ船乗ってもちっとも楽しくなかったろうな、かわいそうにー、って。 でもあのラストを見るとなにかを吹っ切ることができたのかしら? なんで? そっちの方がよっぽどミステリーだわよ。
 

3.14.2022

[film] Licorice Pizza (2021)

3月6日、日曜日の晩、米国のYouTubeで見ました。
日本公開が7月と聞いてもうほんとに、改めてうんざり嫌になっている。向こうでは昨年から35mmフィルム上映や70mm上映まであって楽しんでいるのに、なんで? これがこの国の洋画配給の実力であり限界なのだ、と言われたらあーあ、しかないけど、VPN刺せば向こうのストリーミングには結構アクセスできるのだから、そんな商売やっていたら客はどんどん離れていくよ。しらんけど。

Paul Thomas Anderson(PTA)作・監督による新作。音楽はJonny Greenwood。
“Licorice Pizza”っていうのは昔カリフォルニアに実在したレコード屋のチェーンで、あとになってSam Goodyに買われた、と。ヴァイナル・レコードそのものを指す(L.P.だし)のだとも。

1973年、カリフォルニアのSan Fernando Valleyの高校でイヤーブックの写真の撮影会があって、そこのアシスタントをしていた25歳のAlana Kane (Alana Haim)に15歳のGary Valentine (Cooper Hoffman)が自信たっぷりに声を掛けてディナーに誘おうとする。

この時点でGaryは自分ならAlanaくらいの年上女性だってちょろいと思っているし、それを見透かしたAlanaはなめんなガキ10年早いわ、って追っ払おうとして鼻息が荒い。ここが起点となって、あたしはあんたのことなんかどうとも思っていないんだからなわかっとけ、って言うことを思い知らしめるために会おうとする/会わないようにするふたりの双方向の取っ組みあったり引っぱたきあったり、意地と欲求の追いかけっこが始まる。予告でもふたりが犬のように並んで走っていくシーンがあったと思うが、ほぼそれだけ、の映画でもある。洗礼も卒業も別れも、儀礼も学習も難病も奇跡もなしにただ本能レベルで互いを嗅ぎまわって追っかけたり追い払ったりしているだけ。 なぜか? 恋なんてそんな程度のもんだから、って。「まあしょうがないよね、他にもてなさそうだしあいつ」ってどっちも同じ勢いでいう。

こうしてAlanaがTV番組収録でGaryをNYに運んだり、GaryがAlanaの家のディナーに呼ばれたり、Garyがウォーターベッド屋を立ちあげたり、それが石油ショックで潰れてからはピンボールのゲーセンを始めたり、Alanaがオーディションで知り合う変な映画監督(Tom Waits)と俳優Jack Holden (Sean Penn)のこととか、Barbra Streisandと関係のあったヘアドレッサーのJon Peters (Bradley Cooper)といったぶっとんだやばい大人たちを見たり関わったり、Alanaが選挙活動をする市長候補(Benny Safdie)の事務所にボランティアとして参加したり、いろんなことが起こる。Garyが警察にしょっぴかれたり、ガソリンが切れたトラックをAlanaが運転していくところとかスリリングでおもしろいったら。

PTAの純愛ものというと、まずは“Punch-Drunk Love” (2002)があって、あれが電撃的な啓示を受けて一直線に海を越えてハワイまで突っ走っていくふたり(大人)を描いていたのに対し、これは一枚のレコード盤(or ピザ)のでこぼこの上をぐるぐる回って目をまわしている子供たちの話、のような。

なんで70年代西海岸なのか、については監督自身の原風景とかこの時代の映画 – Hal Ashbyとか、一瞬映りこむErich Segalの小説とかいろいろありそう。”Once Upon a Time in... Hollywood” (2019)にもあった、なにが起こったっておかしくないふざけてふやけた空気のかんじ、とか。

大好きなHaimのAlana Haimが - 彼女だけでなく家族総出で出ていることについてはうれしー(素敵!)、しかないのだが、Philip Seymour Hoffman(PSH)の子 - Cooper Hoffmanについては予告でその風貌を見たときからいろいろ迫ってくるものがあってうわー、しかない。

同じくPTAの70年代群像劇 - “Boogie Nights” (1997)の映画撮影現場で照明をかざしてぷるぷるしつつ突っ立っていたPSHと同じようなシーンがあるし、“Punch-Drunk Love”でのPSHはマットレス屋をやっていた – DVDのおまけ映像にこのマットレス屋のCMが入っていて、それが最高ったらないの。PSHの相手に届きそうで届かない、なんともいえない困惑顔と笑顔と嫌悪が入り混じって内に向かう声 – “Fxxx” – これが解き放たれる瞬間の熊の破壊力とか、これを受けとめるマットレスとかウォーターベッドの弾力は確かに受け継がれている..

音楽は冒頭で夢のように流れてくるNina Simoneに始まって黄金のスタンダード – “I Saw the Light”とか”Let Me Roll It”とか”Life on Mars?”とか”Diamond Girl”とか、これらを繋いだライナーが書けそうで、これらがウォーターベッドやピンボールの電飾のように心地よく画面を揺らして彩り、その隙間でJonny Greenwoodのスコアがどっちに転がっていくかわからない不穏さと共に鳴っている。

アジア人(日本人)蔑視の件については、やっぱり少し残念かも。当時はああだった、というだけなのかもだし、他の映画だって、など言いようはあるのだろうが、あの画面と構図でなにが起こるかすぐにわかってしまう - その軽さと安易さが。

亡くなった映画人に捧げるシリーズ、今回はRobert Downey Sr. でした。
 

3.13.2022

[film] The Batman (2022)

3月10日、木曜日の晩、109シネマズの二子玉川で見ました。
IMAXレーザーで。あの画面いっぱいに”THE BATMAN”てでっかく出るのが気持ちよい。

すでにいろいろ語られている通り、これまでのBatman / Bruce Wayneものとは随分違っていて、こんなのを3時間も、などその辺の賛否もあるようだが、わたしはおもしろいと思った。ネタバレはなんとなくしているかも。

Gotham Cityで現職で再選を狙う市長が自宅で惨殺されて、テープでぐるぐる巻きの現場にはRiddler (Paul Dano)からBatmanへの謎かけ - 次の殺害予告が残されている。 市長の交友関係 - 写真に写っていた女性を洗っていくなかで彼女の消息を追うSelina Kyle / Catwoman (Zoë Kravitz)とぶつかり、出入りしていたクラブに潜ってみれば、Carmine Falcone (John Turturro)とかPenguin (Colin Farrell)とか札付きのワルに加えて政界司法界の重鎮たち- 検事長のGil Colson (Peter Sarsgaard)など - がヤク漬けのへろへろで並んでいて、そのうちGil Cousinが殺され、更にはAlfred (Andy Serkis)にまで手が..

こうしてBatman / Bruce Wayne (Robert Pattinson)とJames Gordon (Jeffrey Wright)がRiddlerの謎を追っていくと、富豪である自分の父親の過去にまで辿り着いて、なんだ結局全部腐れていたのか、って。 ストーリーとしてはこんなもので、驚愕の陰謀や機構が明らかになったりなぞなぞの解明にものすごい何かが込められているわけではないの。陰謀論の臭みも含めて誰もが薄々こんなもんだろ、て思っていた辺りを知力というよりは暴力を使って手繰って暴いていく。そしてその最後に現れた最強の.. というのがこれまでのヒーローものの定石だと思うのだが、そっちの方にも向かわない。

結果からすればRiddlerの思った通り願った通りにコトは運んで災禍は起こるし悪い奴らはぜんぶ揃って繋がっていて、だからBatmanあんたの負けだ、っていうのではなく、GothamがあんなふうこんなふうになってしまうことをBruce Wayneは - 彼だけじゃなくて市民は - 知っていたはずではないか、という。誰もがJokerの登場やそれに続く一揆を予測できたのと同じように。

Batmanが勝ったとか負けたとか、だから/それでもヒーローだとかそういう話ではなく、Gothamという都市から派生したり寄生したり、地下の壁や廃墟に擬態したり凝集したりするいろんな変態や動物のエコ・サークルを為す、そのありようを描いているというか。これがどれくらい歪で、故に生々しく我々の目に映えることか。監督のMatt Reevesが”The Planet of the Apes” (2014-2017)のシリーズでああなった猿たちとの共生を強いられている - もはやどうすることもできなくなった - 世界を描いたのと同じような視座。

こうしてBatmanが悪を追い詰めていったその果てにGothamの縁が崩れて大洪水がやってくるのはわかりやすいし説得力あるし、ここでの方舟には誰が乗るのか乗れるのか、とか。避けようがない運命のようななにか、を前にしたときそれでも戦うのがヒーローなのかもしれんが、ここにはJusticeもLeagueもないよどうする? って。

今度のBatmanが「エモい」という形容で語られているのだとすれば、それは彼がどれくらいこの与えられた環境下でぐでぐで喧嘩したり反発したりしつつも(その運命に立ち向かうのではなく)同化しながらやっていく、その具合を指しているのではないか。Riddlerの怒りとBruce Wayneの絶望はある時点までシンクロして同じところを見ているような。 そして、Bruce WayneがなぜBatmanになったのか、彼はどんなふうにGotham社会で認知されることになるのか、といったこれまでのBat映画で必ず描かれてきたこのプロセスがない。彼がやっているのは社会からすれば勝手な自警団的なあれで、”Kick-Ass” (2010)のNicolas Cageがやっていたのに近い。

という状態を踏まえたとき、過去のBatmanたちと比べてあれこれ噴出して好き嫌いでわーわーなるのは当然のことで、華奢でそんなに強くなくてゴスで暗くて富豪のくせに社交性ゼロで、本人も始めてからきっと少し後悔していて、どこ行っても「なんだてめーは?(呼んでねえよ)」になってしまう - 本人もそう思っている - 今回のBatmanの像はすばらしくよいと思った。Alfredはよくこんなの我慢してお使えしているもんだわ。

ずっと夜で雨が降っている街で、ノワールふうのダークネスに満ちているのにファム・ファタールはいなくて、例えば復讐というテーマは特定の悪に対してというより社会全体に対してあって、出てくるのは恋人というより友達っぽいCatwomanだけ。彼女はまだ子供のよう - あのマスク、鼠小僧だよね - なので、とにかく線が細くて猫にだってやさしい。Batmobileをいくらばおんばおんやってもはいはい、になるし、マントもまだちゃんと使えていないような。

音楽はMichael Giacchinoのスコアの他にNirvanaの”Something In The Way”が流れてくるのだが、この選曲も実に微妙で控えめで、90年代ぽい雰囲気なら他にもいっぱいあったような。”The Downward Spiral”を延々流しておくとか。いっそのこと”The Crow” (1994)みたいにしちゃえばよかったのに。

Robert Pattinsonの前髪は90年代のTrent Reznorのように見えたりするし、Paul Danoは同じ頃の(R.E.M.の)Mike Millsのように見えるし、あの頃のあのふたりがぼかすか喧嘩しているのだと思うと楽しい。

Barry Keoghanはやっぱしすごいな。あのシーン、あれだけで。

3.12.2022

[film] 新家庭問答 (1958)

3月5日、土曜日の昼、ラピュタ阿佐ヶ谷の番匠義彰特集で2本見ました。
モーニングショーの久松静児 - 新藤兼人による『路傍の石』(1960)も見たのだが原節子も主人公の坊やもかわいそうすぎて、これじゃ”Parallel Mothers”もくそもない、なんでこんなのが文部省特選なんだよおかしいだろ(映画というより話の運びが)しかなかった。

新家庭問答 (1958)

原作は中野実の戯曲『第二の家庭』を斎藤良輔が脚色したもの。

人気の女流作家で身の上相談とかもやって引っ張りだこの池永賀寿子(淡島千景)と外科医の精一(佐野周二 )の夫婦がいて、結婚7年目で子供はなくて、精一の妹で大学生の敏子(九條映子)とばあや(高橋とよ)が一緒に暮らしている。

ある日、敏子の大学の友人男子ふたりが部屋に望遠鏡を買ったというので星を見に行ってみると、彼らが覗いていたのは近所の家やアパートの窓で、これ見てみろよっていうのを覗くとエプロン姿の精一が料理をしながら見知らぬ女性といちゃいちゃしている - 普段の精一の姿からは想像もつかないようなはれんちな光景が広がっていた。

敏子が調べさせたところ、相手の女性は雑誌「近代女性」記者の吉岡ルリ(高千穂ひづる)で、始めはジキルとハイドの精一を脅して口止め料を貰ったりしていたのだが、取材で賀寿子のところを訪ねたりずうずうしいルリの振る舞いを見ていられなくなったので、賀寿子に望遠鏡の光景をライブで見せてやる。 するとあったまにきた彼女は仲人だった叔父夫婦(沢村貞子 & 十朱久雄)とルリとみんなを家に呼んで離婚を宣言して、彼女は叔父宅に移って、ルリは精一の家に越してきて、賀寿子はそこの大学生の息子の進(田浦正巳)と仲良くなる。 他方でルリの方も昔ひどい別れかたをした(それでぐれてああなった)恋人の大島(大木実)と再会して..

進歩的な考え方のほうもそれを認めつつも旧式のままのほうも振り子のように前後左右に揺れながら、結局は雨降って地固まるようなわかりやすいお話しなのだが、女性たちは学生の話を聞いて考えたり過去と向き合ったりきちんと次に向かおうとするのに対して、男性は反省しているふうでもやれやれまいったなあー、程度で元に戻ることを許されてしまう。 このへんだよなー、って。「問答」を強いられてしまうのは女性の方だというー。


三羽烏三代記 (1959)

三羽鳥(とり)じゃなくて三羽烏(からす)なのね、松竹の三千本記念映画。 松竹の「三羽烏」と呼ばれた男優の3世代が出演している。「松竹三羽烏」が 上原謙 - 佐分利信 - 佐野周二、「新松竹三羽烏」が佐田啓二 - 高橋貞二 - 大木実、「松竹三代目三羽烏」が小坂一也 - 三上真一郎 - 山本豊三、なのだそうで。ぜんぜんしらんかったわ(三代目はとくに)。カラスって男性名詞なのね?

こういうのはネットワーク図を一枚描いてしまえばおわり、と思うのだが、とにかくいろんな有名な人たちが入れ替わり立ち替わり出てきたり隅っこにいたりするので飽きない。飽きさせないように転がすのは大変だと思うのだが。

探偵社社員の高橋貞二は浅草の煎餅屋に下宿しながらそこの娘- 小山明子と結婚するしないで悩んでいて、煎餅屋の婿の佐野周二は女主人で妻の三宅邦子にあたまがあがらなくて、高橋貞二の勤める探偵社社長の上原謙がもってきた家出娘の捜索願い(30万円)に高橋貞二と友人で新聞記者の佐田啓二が絡んで、彼にはいつも大忙しのテレビプロデューサーの岡田茉莉子の恋人がいて、他にはやもめの大学教授の佐分利信とかつての恋人の高峰三枝子とか、銀行員でヒマラヤ探検隊のメンバーに選ばれた大木実とその妻の高千穂ひづる(『新家庭問答』から続いている)の夫婦とか、やがてこれらの網の縁を転々と渡っていた桑野みゆきの家出娘が新興宗教のカギを握る跡取りで新聞ネタになっていることがわかるのだが、彼女は世の人々は世代とか関係なしに恋して悩んで泣いたり笑ったりして生きているんだわ、ってどこからなのかよくわかんない目線で納得してあちらの世界に還っていくのだった。

モダンなお仕事とクラシックなお仕事と青春の若者たちと和洋のおいしそうな食べ物を散らした三段重の趣。
やはり全体のバランスを見ると女性が強い、というか決定権を持ってドライブしているかんじで、でも最終的には男性をたてたりおだてたり、カラスさま万歳! ってそういう流れに持っていって納得できる(だれが?)ように見せている。ような気がするのはただの気のせいかしらん。 もっとあれこれ叩きのめしてやるとか桑野みゆきの教団に引きずり込むとかやっちゃえばよかったのにー。


Disk UnionでRough Tradeの布のトートを売ってて、値札みたら1200円くらいだったのでびっくり。
まとめて買えばタダで包んでもらえるやつなのに。うちに50枚くらいあるよ。

3.10.2022

[film] Madres paralelas (2021)

3月2日、水曜日の晩、米国のYouTubeで見ました。
Pedro Almodóvarの“Pain and Glory” (2019) ~ 短編の”The Human Voice” (2020)に続く作品。英語題は”Parallel Mothers”。

冒頭、ファッション写真家のJanis (Penélope Cruz)が著名な法医学考古学者Arturo(Israel Elejalde)のポートレートを撮影してだんだん仲良くなっていって、JanisはArturoに彼女の曽祖父や村の男たちがスペイン内戦中に殺されて集団で埋葬されているはずの村の無名墓地を、彼の財団が発掘調査してくれないかと頼む。そうやって一緒に過ごしているうちにJanisはArturoの子を妊娠して、Arturoには病気の妻がいるので今は結婚できないと言われたのでJanisはひとりで産むことにする。

Janisは産院の同じ部屋で17歳のAna (Milena Smit)と出会い、彼女もひとりで産むつもりで来ていて、ふたりは同じ日にどちらも女の子を産んで、どちらの子も暫くのあいだ新生児室に入れられるのだが、どちらも無事退院してこれからも連絡を取っていくことにする。

そしてJanisが彼女の娘CeciliaをArturoに見せると、彼はこの子は(肌の色などから)自分の娘ではないのではないか、と言うのでそんなわけない、と返すのだが念のためWebでDNA検査キットを取り寄せてやってみるとJanisはCeciliaの生物学的な母ではない、という結果がでたので、がーん、となる。

しばらくしてカフェでバイトしていたAnaと再会したJanisが彼女に娘は元気? と尋ねると亡くなった(突然死).. と言われてまたショックを受けるのだが、Anaの心身の方も心配だったのでうちに住み込みの家政婦として来ない? と申し出るとAnaは喜んでやってきて、ふたりは親密な関係になったりして、そのうちJanisはこっそりAnaの唾液をとってCeciliaのとDNAテストをやってみると – やっぱりCeciliaの生物学的な母はAnaだった..

それをAnaに告げると彼女は驚きつつも突然態度が変わって、Ceciliaを連れて家を出ていってしまうの。

緻密に震えて瞬く弦を中心としたAlberto Iglesiasの(いつもながら)すばらしい音楽がところどころでサスペンスフルな雰囲気を盛りあげてくれるものの、驚愕の事態や事実が起こったり明らかになったり死体が転がったりすることはなくて、病院での新生児の取り違えもAnaの子の事故も起こりうることなのでそうなんだろうな、くらい。 驚くべきことは冒頭のスペイン内戦の時代と現代の女性たちをあっさり繋いで、ずっと生きて子供たちを育ててきた女性たちの物語として、その複数の線が「連帯」なんて言葉を使わなくても目の前に据えてダイナミックに迫ってくることだろうか。

それは子を産む「母」のことだけでなく、例えばAnaの母のTeresa (Aitana Sánchez-Gijón)は女優になる夢を捨てきれずにAnaの出産のときにも自分のキャリアを優先してしまうのだし、Janisの危機になると現れて傍にいてくれるカラフルなElena (Rossy de Palma – 常連)とか、いろんな女たちがいてそれぞれの見えない手をとったり繋いだりしている。どこまでも交錯しない(パラレルな)線は折り重なってそのまま帯となり墓場からゆりかごまでいろんな生を支えてきているのだ。知らないとは言わせない。

っていうのが最後の方で開始される村の発掘調査 - そこで掘りだされて重ねられる滑稽なくらい大量の男たちの骨々との対比で明らかになる。内戦下で突然消えてしまった男たちの「悲劇」の反対側には現在進行形の、ずっと続いてきてこれからも続いていく女たちの生があるのだこれをみろ、っていう映画。

脊椎の痛み(pain)や過去の哀しみと向かい合って控えめにGloryへと歩みを進めようとした前作と同じように、だれにでも(母)親がいて過去があって自分の肉がある、そこにぜったいに横たわって刺さって抜けない痛みからどうやって歩いたり旅だったりすることができるのか、って。 これは“The Human Voice”のラストのTildaさんのかっこよい出立にも繋がっている気がする。

いつものように「ミューズ」としてセンターで踏ん張るPenélope Cruzがすばらしいことは言うまでもないのだが、今回の彼女の輪郭はほんとうにやさしくて美しい。でも虐殺された男たちと生き延びなければならなかった女たちの話はアジアにもアフリカにもあった。これらの地域のことは(例えば)Penélopeなしでどんなふうに描かれてきただろうか、って少しだけ。 日本だと「母」のありようはバカで幼稚な男共が「おかん」とか言って茶化すのばかりが目に付いて、この傾向、ほんとうに嫌なのでなんとかしてほしい(だからとっとと公開して)。

あと、インテリアとかファッションとか、それらのカラーとか、食べ物とかが相変わらずすばらしい。このセンスをこのテーマに思いっきりぶつけて破片を飛び散らせてしらーっとしているところがまたかっこいいのよね。

3.09.2022

[film] Mothering Sunday (2021)

3月1日、月曜日の晩、BFI Playerで見ました。
原作はGraham Swiftが2016年に発表した同名小説を”Lady Macbeth” (2017)や”Succession” (2020)や”Normal People” (2020)のAlice Birchが脚色してフランス人のEva Hussonが監督している。 邦題は『帰らない日曜日』? 母の日じゃないの?

第一次大戦の頃の英国の田舎で、Jane Fairchild (Odessa Young)はNiven家のBeechwood邸で働くメイドをしていて、当主のGodfrey (Colin Firth)はよい人で快活だがいつも笑いが変に強張って、傍にいる妻のClarrie (Olivia Colman)はなにかどこかが壊れてしまっていて、その挙動がGodfreyと周囲の人々をまた凍らせてしまう、そんなサークルのなかにいる。

Mothering Sunday – 母の日の日曜日にJaneは自由に邸の外に出て遊んできなさいと言われて、Niven家と仲良しのSheringham家の御曹司Paul Sheringham (Josh O’Connor)は、Janeのところに電話してきて、Sheringham家のメンバーはNiven家の方にランチに行ってしまうから、うちに来ない? って誘ってJaneはPaulの部屋にやってきてセックスをしたり濃厚な時間を過ごす。

そこにNiven家のテーブルで話されるEmma (Emma D’Arcy)とPaulの婚礼の話 - Janeもそれを聞いている - とか、その背後に浮かびあがるついこないだの大戦での肉親の死のこと – Clarrieの混乱はそれに起因するものなのかなんなのか、あとは、少し時を経て作家になったJaneが恋人のDonald (Sope Dirisu) - 彼も死に向かう - とする会話などが挟まれていく。

やがてPaulはNiven家のランチの席に行かなきゃ、ってJaneひとりを残して唐突に出て行ってしまう。ずっといていいから、と言われてひとり裸で残されたJaneはタバコを吸ったりしながら書斎の本の間をゆっくり彷徨ってページをめくったりいろんなことを想う、気だるい日曜日の午後の描写があって、その後にNiven家に戻ったJaneはPaulが自動車事故にあったことを聞かされる…

後になって思い起こすことができる -「それ」が始まったときのこと、その起点となった出来事のこと、それらが他の回想と絡まったり捩れたりしながら解されていく、その構成がよいの。いろんな他者のそれも含めた曖昧な記憶とかそれらの穴の開いたところとか、浮かんでくる泣き顔だったり狂ったような振舞いとか、それらが統合されない状態で時間の前後関係なく置かれていって、そういうのが現在の自分を作っている – ようなことが俯瞰できるように配置されている、というか。ぐじゃぐじゃの今の部屋(そこに積もった時間)を眺めているとそういうことなどが見えてくる。(お片付けにはならない。よくない)

そして最後は歳を重ねて大作家となっているJane (Glenda Jackson)の姿が映しだされるの。

主役のOdessa Youngさんについては”Shirley” (2020)くらいでしか見ていないのだが、Josh O’Connorと一緒にいる姿はとてもよくて、とにかくJosh O’Connorの”God's Own Country” (2017)でも、”Only You” (2018)でも、”The Crown” (2019-20)でもこないだの” Romeo and Juliet” (2021)でも、誰が隣にいてもどんなに親密になっても激しくやったりしてもひりひりひとりで焦って擦りむいて隅っこで泣いているか、結局ひとりとか、その辺のイメージについては今回も裏切っていない。彼が窓辺に裸でぽつんと立っているだけで、なんであんなに.. があるので、よいの。

そういえば、Olivia Colman & Josh O’Connorって”The Crown”では親子 - すごい親子 - をやっていたねえ。
そういえば、Josh O’Connorは、”Emma.” (2020)でもEmmaっていう女性に絡もうとして空振りしていたねえ。

Colin FirthとOlivia Colmanのとってもありそうな夫婦の光景は、時代設定はそのままで、ここだけ別の映画として - やっぱりホラーかなあ - 切り出してほしいくらいにスリリングに火花が散ってよいかんじだった。

あと、Alice Birchの脚本は”Normal People”にもあったような後ろめたさ、いけないことをしているかんじと、それでもどうしようもなく一緒にいたいのだという切迫感がぱんぱんに篭って響いて、結果余白だらけのまっしろになってしまうような会話の運びが絶妙で、画面の(どちらかというと)しらっとしたスタイルにうまくはまっていたかも。1920年代の若者があんな電話のかけ方をしたのか、っていうのはあるけど。


伊勢丹の英国展に行ったのだが、なんであんなにスコーンばっかしなのか。もっとおいしいものいっぱいあるでしょうに、とぶつぶつ言いながらスコーンを買う。あんなのただの粉なのに。粉に油のっけて食べるだけなのに。

あとでチラシを見てNeal's Yard Dairyが来ているのを知る。スコットランドのチーズたべたい。
 

3.08.2022

[film] 橋 (1959)

2月27日、日曜日の午後、ラピュタ阿佐ヶ谷の特集『番匠義彰;松竹娯楽映画のマエストロ』で2本続けて見ました。
この監督のことも「松竹娯楽映画」がどういうものかもよく知らないのでー。

橋 (1959)

大佛次郎作の同名小説の映画化。脚色は柳井隆雄。
戦後の東京、元海軍提督の大内田良平(笠智衆)のところに学生の松村(石濱朗)が家庭教師のバイトとして応募してきて、いやどちらかというと老人の話し相手をしてほしいのだ、と言われる。良平は同居していた長女敦子(福田公子)の夫・谷口(細川俊夫)と衝突して家を飛び出して、昔の部下の中山(渡辺文雄)たちが住む家も探して世話してあげてて、若い話し相手も、ということで松村が雇われた、と。でも良平は年寄り扱いされるのを嫌がって日雇い労働(ニコヨン – 日給240円)のバイトに出て喧嘩して怪我したりしているので、次女の良子(岡田茉莉子)が自分のアパートに引き取ることにしたり、なんだかみんなに大事にされている。

お話しは他にもいろいろ、父のおかげで職を失った良子がひとりで貿易商をやっている旧知の宮原(大木実)のところにアシスタントとして雇われて距離を縮めていくのだが宮原はずっとバーのマダムのおきく(水戸光子)の愛人としてお金を出して貰っていたり、なんとなく良平の傍にいる松村が良子のことを想っていたり、良平がニコヨンで知り合って連れてきた女性と中山をくっつける話があったりとか、いろんな人の間にいろんな橋が架かったり外されたり叩いたら崩れたり、その下を流れる川にはー、とか、秀吉の時代に海に沈んでいた骨董の壺を巡るやりとりとか、沖縄戦で失った部下のことを未だにいう良平とか – これらも橋なのか、とか。

そのうち良子と宮原は婚約まで行くのだが、おきくのことなんか聞いていなかったので良子はお金のケリをつけて宮原から離れて、それらを隅っこでしょんぼり眺めている松村がいたり。

娯楽映画というよりは老人も若者も向こう岸に渡れないまま川辺に立ち尽くしているようなアンサンブルとしてきちんと描けているのが素敵だと思った(ここに変人が入ってくるとアルトマンのようになる)。 家屋とかファッションもモダンなところとクラシックなところをうまく調和させながら機能していて、なんでこんなに沁みるのかというと、たぶんここに出てくる人たちとどこかで出会っているからではないか。小津や成瀬の昭和は別のバースだと思うけど、ここのは同じ気がして、ブリッジとかポータルがー。

でも、男たちは男たちのことをみんな大事にしすぎ/されすぎ、っていうのは少し。


空かける花嫁 (1959)

上のから続けて見た番匠義彰監督作品。原作は藤沢桓夫の「花粉」。脚色は笠原良三。

女子大生のまるめ(有馬稲子)-いい名前! - は下町の繊維問屋七宮商店のどけちでワンマンな七兵衛(志村喬)の大切な孫娘で、フランス留学生試験を受けて合格して3年間パリに留学することができる(いいなー)のだが、3年間の留学費用400万円はどけちじじいにはいろいろショックで痛くて、なんとか留学を思い留まらせようと、彼女のアパートの隣に住んで浅草のショーの座付作家をしている秋山(高橋貞二)と取引をして留学を思いとどまらせようとしたり、まるめの方は、うなぎ屋のおかみの浪花千栄子と七兵衛をくっつけよう(そうすればじいちゃんも寂しくなかろう)としたり、結局七兵衛の企てがばれてあったまにきたまるめはやっぱし断固フランスに行くことにする。

こういうのが大船調、っていうのがなんとなくわかるくらい当時の風俗 - メケメケとか野球チームとかデパート屋上とか - を散りばめて家族とその周辺の一喜一憂をぐるぐるに巻いて回してみんなの目が回ってなんかよくなった気がするからよくない? いいじゃん? になるやつ。(いちおう、空はかけないし花嫁にもならない)

とにかく志村喬のじじいが大変にいろんな意味でうざくて、ひとつ前の笠智衆もそうだったけど、なんでみんなああいうじじいをあんなに敬って大事にしてへいへい言うこと聞いてあげるのさ? って。

Rom-comだと飛び立つ直前の飛行機内で.. っていうのはよくあるけど、ここのはあんましこなかった。えーなんでパリ行かないの? 3年行って勉強できるなんて夢のようなのにさあー、がずっと。自分のことのようにざんねん。 だいたいさー、高橋貞二なんて、映画のなかでほぼなんもしてないじゃん? ただぼーっといるだけじゃん。なんでパリよりあんな幸せになれっこないようなのをとるのさ? ぜったい後悔するよ.. (以下えんえん大きなおせわ)


たんにほのぼのあったまる、というだけではない、でも毒というほど強くないなにかがうまく調和しているおもしろさがあると思ったので、この特集はもう少し通ってみることにした。阿佐ヶ谷はちょっと遠いのだが。

3.07.2022

[film] 最後の脱走 (1957)

2月27日、日曜日の午前、ラピュタ阿佐ヶ谷のモーニングショーの原節子特集で見ました。
阿佐ヶ谷、6年ぶりくらいだったかも。

原節子って、小津、成瀬以外であんま見たことない気がしたから、くらいで。

国立映画アーカイブのフィルムで、日曜の朝なのに並んで満員になっていた。そういうもんなの?

監督は谷口千吉、助監督に岡本喜八、音楽は伊福部昭。東宝スコープっていうのらしく、でっかい原野が広がったり廃墟のような兵舎の色具合などなかなかきれいだった。

戦争が始まってしまったし.. というのを考えないわけにはいかないのだが、とりあえず見よう。

第二次大戦直後の旧満州で、女学校から前線に看護婦として動員されていた女学生たちが軍に見放されて歩いて荒野を彷徨っていて、逃げきれずに中国の八路軍に捕らえられる。捕らえられた先生のとみ子(原節子)と女学生たちは孫化南(平田昭彦)の率いる野戦病院に連れてこられて、そこの日本語が堪能な医師 - 劉国英(笠智衆)や日本人の外科医の宗方(鶴田浩二)の下で看護婦として働くことになるのだが、捕らえられた際に抵抗した父を銃殺された恨みをもつ女学生たか子(団令子)とか軍に取り入ってうまくやろうとするずるいのとかいろいろいて、宗方は医師としての腕はよいが医療用アルコールでアル中状態で、そのうちたか子は彼女を想う兵卒と脱出を試みて追い詰められて心中したり、みんなでこっそり卒業式をしていたら中国兵に絡まれて生徒を逃がしたとみ子がレイプされてしまったり、宗方の自殺した妻も同じ事情だったり、戦時だから/負けて囚われの身だから/女性だから、とはいえ酷いことばかりが起こったり明らかになったりしていってしんどい。

やがて八路軍が国内の内戦事情に圧されて撤退するかも – その隙に旧日本軍のいるところまで逃げのびることができれば一緒に帰国できるかも、という話がきて実際に病院周辺の出入りが騒がしくなって、そこに賭けよう、って全員で脱出計画を練るのだが、肝心なときに宗方が呼びだされて..

そもそも異国に招集しておいて負けたから(女子供を)捨てて逃げる、っていう初っ端から酷いし怖い話なのだが、そういうことをする連中だからな、とかそういうのは置いて、敗戦直後の日本に帰っても混乱と貧困でめちゃくちゃだぞ、って言われて、それでも自分たちは国に帰りたいのだ、って返す辺りはそうなのかー とか(自分だったら自分を捨てた国なんて捨てる)。 やっぱり「家」なのかねえ。

最後の脱出劇の手に汗握る展開 – 束になって追ってくる敵軍とか間一髪の橋の爆破とか泣き叫ぶ(ことしかできないよね)原節子と最後にかっこよくなる鶴田浩二の悲痛な別れなどがたぶん見せ所だと思うのだが、ここで逃げたとしてもみんなあの後どうなったかわからんしー、とかいろいろ思ってどんよりしてしまうのだった。

国とか民族の起点の話から始めても、そこに被害者/加害者の議論を絡めても、終わってからの責任の議論にしても、これらは歴史学や倫理学が積み重ねつつ(善悪を棚上げにするのではなく)議論すべきことなので置いておくとして、ここに威勢よい活劇や自己犠牲の尊いドラマや辛く悲しい別れのドラマ、などがいっぱいありそうなことも十分わかるのだが、いまはとにかく暴力とか人殺しはどちら側の矢印であろうとぜったいにだめなのだ – だからその銃を下して、逃げて、逃がしてあげて、ってそればっかり思っていた。 こういうのを鑑賞するのによい頭の状態ではなかったのかも。

それにしても原節子はすごいなあ、って。鶴田浩二にくらわすビンタの分厚くて痛そうなことときたら。
そして中国語訛りの日本語を喋る笠智衆も、その佇まいがぜんぜん変わらなくてすごい。ふたりが絡むシーンがあればよかったのに。「先生、一緒に逃げましょう!」「いや、いいんじゃよわしは..」とか。


数年ぶりの花粉が。映画とか本はすぐ忘れるくせになんでこういうのは忘れてくれないの..

3.05.2022

[film] Lamb (2021)

2月26日、土曜日の晩、MUBIで見ました。
原題は”Dýrið” - "The animal"。アイスランドのValdimar Jóhannsson監督によるアイスランド、スウェーデン、ポーランド合作映画。脚本は監督とBjörkの作詞家であるSjón の共同。2021年カンヌのある視点部門に出品されてPrize of Originalityていうのを受賞している。変てこ民話ホラー。

アイスランドの辺境の原野で羊の農場をやっているMaría (Noomi Rapace) とIngvar (Hilmir Snær Guðnason)の夫婦がいて、言葉少なく淡々と羊の世話をしていると、ある日ある羊から生まれた子羊を見てあら! ってなって、この時点ではそれがどういうものかわからないのだが、その子羊はなにかしら特別なやつらしくヒトのベビーベッドに寝かされて、どういう事情があったのかは不明だが彼らの亡くなった子供の名を貰ってAdaと呼ばれる。子羊から引き離された母羊は窓の外でずっと鳴いて呼んでいるのだが、Maríaは彼女を遠くに連れていって撃ち殺して埋める。

やがてIngvarの兄で、元ポップスターで行き場を失ったPétur (Björn Hlynur Haraldsson)が農場に現れて、そのテーブルにAdaが呼ばれてその姿が明らかになるのだが、なんだこれ?って。 頭は羊で、体はヒトで、左手はヒトで、右手は羊で、危なっかしいけど直立して歩いてきて、カラフルな子供服を着ているのがAdaなの。夫婦にとってはかわいいだろー? なのだが、いきなりこれを見たら「お..ぅ?」しかないかも。

全体として暗く荒涼とした土に風と雪と羊がぼうぼう湧いているだけのような土地で、ヒトの反対側にどんな化け物や怪物が現れてもおかしくなさそうな不気味な雰囲気だけはずっと吹きまくっていて、そういうところにこれまで見たことがない – いや、部分部分は見たことある、半々にミックスされた生き物/動物が現れたとき、それはヒトにどう見えて、どう扱うことになるのか。

実際にAdaとの間に意思の疎通のようなものがあるのかないのか、わからないのだが、どうもふたりの挙動 – それを大切にして守ろうとしている - を見ているとなにかを受けとっているようでもあり、あとから来たPéturも彼らと同様の状態になってしまうところを見ると、聖なるなにか - キリスト教のはある- なのかも知れずー とか思っていると最後に。

たぶん羊というのが絶妙で、頭が牛や馬だと漫画になっちゃうし山羊やロバだとどうしても笑っちゃうし、熊だとパディントンだし、羊の笑っているのだか怒っているのだかのあの目の不気味さが救いようのない曇天や雪嵐のなかで映えるのだと思った。のと、村上春樹の『羊をめぐる冒険』の「羊」はあるのかないのか(ある気がする)。

続編、作られないかしら? というかサーガにできるよこれ。Mariaから始まっているし。


Cow (2021)

2月13日、日曜日の夕方、MUBIで見ました。
英国のAndrea Arnold - ル・シネマの配信で少し前までやっていた”Wuthering Heights” (2011) - 嵐が丘 - の監督 - による最初の長編ドキュメンタリー作品(短編のドキュメンタリーはMUBIで見ることができる)。

タイトル通り農場で飼われている乳牛 - そのうちの一頭にフォーカスしてまずは彼女が子牛を産むところから。関係ないけど英国で暮らしていろんな映画やTVを通して、牛・羊・山羊の出産シーンをものすごく沢山見ることになった気がして、たぶん簡単なお手伝いならできる気がする。

母牛は産んだ後、後産のをずるずる引き摺りながら通常の機械による搾乳のサイクルに戻って少し落ち着いたら再び種付けがあって妊娠させられて、子牛の方は機械による授乳と耳にタブ付けられたり角のところを焼かれたり、母牛はまた子牛を産んで - また雌を産んだので誉められるのだが - やがて病気なのか乳がものすごく膨らんで辛そうになって、なんとかしてあげないと、と思っていると最後に。

機械化されたごく普通の酪農現場の光景で、それをやっている人々の姿はぼんやり映ったり言葉も聞こえたりするがカメラはずっと母牛と子牛たちの顔やお尻を追っている。農場で流れている軽いエレポップ(ぜんぜん知らない)のようなのが聞こえる。

農場の物言わぬ動物たち、というとViktor Kosakovskiyの”Gunda” (2020)を思い起こしたりもするが、あれよりもヒトの傍で使われて搾られて捨てられるだけの彼らの過酷な姿を映しだす。過酷 - というのは見ている我々がそう思うだけで、こんなのは酪農家にとってはごくあたりまえの通常業務なのだろうな、と思ったときに牛の、牛たちの目が。特にあのラストの。

この泥にまみれた投げやりな目線、これがこちらに投げかけてくるものは”Wuthering Heights”にもはっきりとあって、そのうちぜったいばちが当たるぞ、というより、もっと自分以外のヒトや生き物に謙虚にならないと - なれないとしたらそれはどうしてなのか、って問う。おいしい食べ物やスイーツをおいしい〜 とか言う前に。 特に奴隷農場を平気でやっている日本の ー 。
 

3.04.2022

[film] The Duke (2020)

2月25日、金曜日の晩、109シネマズの二子玉川で見ました。英国と公開タイミングがおなじなのね。
昨年9月に亡くなったRoger Michellの最後の長編ドラマ。邦題は『ゴヤの名画と優しい泥棒』。ゴヤはあんま関係ないしそんな名画とも思えないのだが。敵は絵に描かれたThe Duke - 初代ウェリントン公爵 (1769-1852)の方ね。

冒頭、60歳のKempton Bunton (Jim Broadbent)がロンドンのOld Baileyの法廷にいて、ゴヤの“The Portrait of the Duke of Wellington” (1812-14)とその額縁を盗んだ罪に問われたのに当ったり前の顔で「無実」と返してざわざわ ..  ここから約6ヶ月前 – 1961年春のNewcastleに舞台が移る。

KemptonはBBCに自分の書いた台本を送ったり、年金生活者にTVライセンス料を払わせることに反対して騒ぎを起こして少し刑務所に入っていたり、ロビン・フッドを自称するそんな彼を妻のDorothy (Helen Mirren)や息子のJackie (Fionn Whitehead)はしょうもないひと、って目で見ている。夫妻は娘のMarionを彼女が18歳のときに事故で失っていて、長男のKenny (Jack Bandeira)はリーズで日雇いのような仕事をしていて家を出ている。

タクシー運転手の職はクビになり、続いてのパン屋バイトもクビになり、でも脚本家になる夢もあるしTVライセンス料反対キャンペーンを世に知らしめるためにちょっとロンドンに遠出してくる、って出かけてみるのだが、結果はしょんぼりで、そうするとNational Galleryが高額で購入してTVで話題になっていたゴヤの絵 - そんだけの金があるなら年金生活者や戦争未亡人のために使うべきだろ! - って思い出して.. 次は誰かが絵をかっぱらってKemptonとJackieが絵を箪笥の裏にごそごそ隠しているシーン。(絵が持ち去られたら後にムンクの「叫び」が出てくるのはバカバカしいけどすてき)

絵の盗難は当然大ニュース - 捜査当局は国際犯罪組織がとか驚異的な身体能力の持ち主がとかいう - になって、Kemptonは高齢者のテレビ受信料を免除することを条件に絵を返してやる、って政府に身代金請求を何通も送りつけるがうまく命中してくれなくて、そのうちKennyの彼女のPammy (Charlotte Spencer)に箪笥の裏に隠された絵を発見されて懸賞金の取引を持ち掛けられたKemptonはこりゃやばいぞ、ってパニックを起こして絵を持ってロンドンに返しに行ったらあったりまえに捕まって..

ここから冒頭の法廷に戻って、飄々とした弁護士のHutchinson (Matthew Goode)がどんなふうに弁論して陪審員に訴えたのか、とか、がつい拳を握ってしまうくらいにおもしろい - そりゃそうかも - そうだな - って納得してしまうの。 Matthew Goodeが出てきたところで、あ、こりゃ勝つな、って思っちゃうのだが。

信念を持っているけど空砲ばっかしで、でもどこか憎めないそこらにいそうなお爺さんのKemptonと、自分は家政婦として働きながらそんな夫にうんざり苛立ったりはらはらしたりかわいそうなお婆さんのDorothyと、ふたりの間でなんとかうまく立ち回りたい良い息子のJackieと、みんなの後ろで静かに眠って見守るMarionの家族がとてつもない犯罪に巻き込まれて - 自分が引き起こしといて巻き込まれたって全員がいう - でもものすごい曲芸でなんとかなってしまった、という人情犯罪喜劇で、あーこれこそ英国のイーリングスタジオの伝統に繋がるコメディだわ、って。

全体としてパディントンを見ているときの感覚に近いのがくるのだが、これが実話だっていうところがたまんない。

いろんな崖っぷちや娘の死をひっかぶって抱えて、ぶつぶつ言い合いながらそれでもどうにか横に並んで手を繋ごうとするJim BroadbentとHelen Mirrenのふたりの絵がほんとうによくて、とにかくこのふたりだよねえ、って思った。 Helen Mirrenにはもうひとりハゲの息子(娘も..)がいて、そいつはガチの盗賊で、Fast & Furiousとかでぶっとばしているらしいが。

この映画の裁判から40年後、高齢者のTVライセンスは無料になったそうだが、向こうに暮らしていた頃は当然請求がきて、結構しつこくてなんだよ、ってなったことを思い出す。最後に支払ったときで年間157.50ポンドだった。でもこれでBBCがぜんぶ視聴できるのなら安いもん - いまの腐れたNHKに払うのよか10000倍ましだし、払うからこっちでも見せてよ、って思うわ。

Roger Michellさんの最後の作品はドキュメンタリー “Elizabeth: A Portrait in Part(s)”で、UKでは6月に公開 - 女王のPlatinum Jubileeに合わせたものよね。早く見たい。
 

3.03.2022

[film] もう頬づえはつかない (1979)

2月23日の休日、神保町シアターの特集『小悪魔的女優論―可愛いだけじゃダメかしら』から2本みました。可愛いだけでいいんだよ、って言いそうなおやじ共(偏見です)がハエのように集っている..

女体 (1969)

監督は増村保造。「じょたい」って読む。英語題は”Vixen”。

茶髪で豹みたいな浜ミチ(浅丘ルリ子)が大学に乗りこんできて、理事長のドラ息子にレイプされたどうしてくれる? と。理事長秘書で娘婿の信之(岡田英二)が応対して、学生運動でどつかれている学校側に更に泥が塗られたら困るので言われるがままに賠償金を払ってやると、ミチは信之にくっついてきて彼の妻の昌江(岸田今日子)を払い落とすと、信之はミチの方に黙って寄ってきて彼女が付き合っていたちんぴら画家の五郎(川津祐介)と手を切らせようとしたら誤って五郎を殺しちゃったので服役して、出所後にふたりで場末のバーを始めるのだが、ミチはすぐに満足できなくなって、今度は信之の妹の雪子(梓英子)の婚約者一郎(伊藤孝雄)になびいて、彼じゃなきゃいや、になる。親代わりに育ててきた妹を悲しませることだけは許せない信之はもう嫌になって離れて、ミチは一郎と無理心中しようと車で..  

ところどころロボットのように見える岡田英二がー、っていうのは割とどうでもよいかんじで、「体当たり」で「大胆」な演技を見せる浅丘ルリ子の後ろで男が死んだり血まみれになっていったり、でもそれによってかえって際立つのが「余生としての戦後」を体現しているらしい岡田の硬さ強さだったり。こうして結局生き延びたのが岡田みたいな空っぽのエロおやじばっかりだったのか、とか。

一郎の血を舐めたりするところでもっと彼女の猟奇性にフォーカスしてLars von Trierみたいにやっちゃえばまだわかりやすくなったのに。 ミチのセリフまわしとオーバーアクトなところがややしんどかったかも。ぜんぶ意図されたつくりものであることはわかるのだが。


もう頬づえはつかない (1979)

原作は見延典子の卒論の同名小説(1978)。東陽一が監督してATGが製作・配給した。
英語題は”No More Easy Life”.. 主題歌は作詞:寺山修司、作曲:田中未知、編曲:J. A.シーザーの天井桟敷組。
シアターの宣伝文にあるように「70年代の“シラケ世代”の若者たちを描いた青春群像」で、80年代のシラケ世代としては当時しらーっとこんなの見るもんかー、だったので今回初めて見る。原作も未読。

早大生のまり子(桃井かおり)はバイト先で知り合った橋本(奥田瑛二)と彼女のアパートでずるずる同棲を始めて、でもその前は売れないルポライターの恒雄(森本レオ)と付き合っていて彼の方にもまだ未練があって.. というどんより頬づえついた日々を描く。 恒雄とのことで親から仕送りを止められてアパートの大家(伊丹十三)の妻(加茂さくら)がやっている美容院でバイトをしたり、そのうち田舎に帰るので一緒に、という小真面目そうな橋本とそのうちにでっかい仕事をやるからと吹いてばかりの恒雄のちっともさっぱりしない二匹の小競り合いとか、でもなんとなく妊娠してしまったりとか、などを経てどうでもよいのを捨てて頬づえつかなくなっていくまり子なのだった。 おもしろかったのは伊丹十三がハサミで刺されるとこだったかも。

全体に白っぽい画面 - ATGっぽい闇やどろどろはそんなにないかんじで、でも確かに当時あんな人たちはいっぱいいた - と言うほど世の中に染まっていなかったのでわかんないけど、もうどーでもいいやあんなの、になって吹っ切って断捨離してしまう瞬間の殺意にも似た挙動、みたいのは桃井かおりが見事に映しだしていると思った。彼女がいまもあんなふうなのってすごいな、とか。

当時、ポストパンクの音たちがくだんねー、って葬り去ろうとしていたのが一通り揃っているかんじ、もある。

ここで描かれたような一緒に暮らしていくふたり - 花束みたいななんとかみたいなの - って、ミニシアターでいっぱいかかっている邦画の予告を見ているとほんとにどれも刹那に真剣に一生懸命、添いとげようとしているみたいで体が痒くなるのだが、ほんとにいまのみんなってあんなふうなのかしら? えらいー。(誉めて.. る)
 

3.02.2022

[film] The Truffle Hunters (2020)

2月23日の祝日のごご、ル・シネマで見ました。邦題は『白いトリュフの宿る森』。

監督と製作はMichael DweckとGregory Kershawのふたりで、Michael Dweckといったらあのすばらしい写真集 - “The End: Montauk, N.Y.”を撮ったひとなんだから、こんなの見る。 Executive ProducerにはLuca Guadagninoの名前がある。

北イタリア - ピエモンテ州の丘陵地帯の森で、アルバの白トリュフを掘っている人々と犬々を追ったドキュメンタリー。

冒頭、上空からどれくらいの傾斜があるのかわからない山肌だか丘だかにへばりつくようにゆっくり動いていく人と数匹の犬が映されて、重力があるのかないのか、なにをやっているのかちっともわからないのだがなんだか素敵で引き込まれる。

The Truffle Huntersは文字通り、白トリュフを掘ってそれを売って生計を立てている人たちのこと(あと仲買人も少しでてくる)なのだが、彼らに一攫千金を狙うハンターのとげとげしいイメージは全くなくて、昔から車で山に向かって犬と一緒に掘って拾って売ってを繰り返しているほぼ老人の男たち、のことで、ナレーションもなく、ただ彼らの動きと彼らの言葉で昔から続いているこの地味な仕事について紹介する。

ダイヤモンドを掘るのと同じようにお金になるブツなので、場所を教えろとか犬を毒殺されたりとかきな臭い話もあるようなのだが、ここに出てくる人たちはうるさい、って昔からのやり方を変えていないらしい。もうやめた、っていう人も、もう高齢なのでもうじきやめる、っていう人も、奥さんにもうやめてって言われ続けている人も、いろんな人たちがいて、でも白トリュフだから - 白トリュフが故に、みたいに深く考えてやっている人はあまりいないような。ずっと昔からやってきて、犬もいるので一緒に掘るだけ、みたいな。

一人で暮らしている80歳のアウレリオはずっと愛犬ビルバ – すごくかわいい – と一緒で、もう先が長くないのでもうじきやめる - 自分の掘場はぜったい教えない - 自分が逝ってしまうとしたらビルバのことだけ気がかりなので貰い手を探してあげるんだ、とか。奥さんがいるカルロは、彼女からもう歳なんだから夜の森に出ていくのはやめてふたりでご飯食べてればいいでしょ、って事あるごとに言われ続けていて、でもフクロウの鳴く声が好きだからとか、適当なことを言って夜中に窓からこっそり抜け出したり。

でもやっぱり、彼らが何を語るにしても白トリュフの価値値打ち、その魅力みたいなところに話は行かない。お金の話をするのは仲買人たちの方だが、彼らにしても香りとか形についてあれこれ語るものの、買って売ったら終わりで、それが麻薬でも石ころでもたいして変わらない気がする。土を掘って出てきたものを拾って売る、それだけのものでしかないのだし。

そういう、ものすごく空虚で不思議な穴のまわりをぐるぐる回っているだけのような白トリュフ採掘 ~ 取引の現場は、であるからこそ奇妙な聖性に満たされているかんじがあって、ビジネスというより宗教的なやりとりのようにも見えて、彼らが犬と一緒にいる絵なんてまるで宗教画のようだったり - ここはわざとやっているのだろうが - でも、森に出ていって犬と一緒に穴を掘ってキノコを採る、これって不思議ではないけど、とっても尊い失われてはいけないなにかのように思えて、その姿のみを画面に納めようとしているような。

犬の頭にカメラをつけて犬になってトリュフを追う画面もあって、そこだけがたがたぶっとんでいるのも楽しい。

白トリュフを初めて食べたのは90年代 - NYの今はもうないPark Avenue Cafeというレストランで、白トリュフが入ったんですよ、と小さな別冊のメニューが出てきて、値段にびっくりしながら確かグラタンを戴いた。 黒トリュフとまったく異なるいろんな強さと複雑さが個人的にはものすごい衝撃で、その後のお皿が霞んでしまって、こんなにやばいもんには近寄らないほうがいいかも - 白トリュフものは塩とかオイルでじゅうぶん、などと思ったことだった。だからマグロにあんな値段がつくのはわからないのだが、白トリュフのあの価格はわかる気がする。麻薬取引に近い気もするのだが。

あーあんなふうに犬と暮らして毎日森に出かけるような暮らしでいいんだけど。本だけあれば。

ウクライナにもロシアにもあんな森、あんな老人たち、あんな犬たちはいるはずなんだ。


3.01.2022

[film] Petite Maman (2021)

2月20日、日曜日の夕方、MUBIで見ました。

Céline Sciammaが『燃ゆる女の肖像』(2019)に続けて書いて監督した新作で、昨年のベルリン国際映画祭で上映された。   “Tomboy” (2011)や彼女が脚本を書いた“Ma vie de Courgette” (2016) - 『ぼくの名前はズッキーニ』に連なりそうな子供たちのお話。72分とちょっと短いけどすばらしい。大好き。

8歳のNelly (Joséphine Sanz)が大好きだった祖母(Margo Abascal)が施設で亡くなって、ママ(Nina Meurisse)と車で、祖母が暮らしていたママの生家に整理片付けのために帰ってくる。ママは少し沈んでいるようだがNellyが後ろの座席からお菓子をだしてくれるともぐもぐしたりしている。

でも昔の家に入るとやっぱりママはいろいろ思い出して辛くなってしまったようで、Nellyはいつものように一人で遊ぶことになって家の外にでて、野原を進んでいくと、木の枝と草花を積みあげて砦をつくっている女の子と出会う。それを手伝ってあげたり遊んでいると彼女はMarion (Gabrielle Sanz)と名乗って、彼女の家に連れていって貰うとMarionのママも具合悪そうに臥せっていて、Marionも同じ病気でもうじき手術を受けるんだ、という。

そうやって彼女と遊んでいるうちにNellyはMarionに驚くべきことを告げる。あなたはわたしのママなんだよ、って。見ているこちらは混乱して、そんなことがありうるのか、と画面の向こうに引きずりこまれてしまうのだが、確かに名前も同じだし病歴も手術のタイミングも同じようだし祖母も彼女たちの家も同じようなふうに見えるし、何よりもNellyが揺るぎないしMarionも否定しない - 否定できそうな要素はないし否定してどうというものでもないし、そう言われたあとでもふたりの関係は変わることなく一緒にパンケーキを作ったり楽しそうに過ごしている。Shrove Tuesday(今年は3月1日)はパンケーキの日。

これって単なるNellyの妄想なのか、亡くなった祖母がみんなの痛みを和らげるためにもたらしたなにかなのか、そこにママの想いが重なったのか、妖精とか土霊みたいなのが悪戯しているのか、どうとでも言うことはできそうだし、もちろん答えなんてあったり出たりするわけもないのだが、見つめあって肩を組んでいるふたりの少女の間に確信的なふたりだけの何かがありそうな – それが揺るぎないものであることは伝わってくる。悲しまないで、辛くならないで、傍にいるんだからだいじょうぶだから。

あとはパパ(Stéphane Varupenne)がNellyの前で伸ばし放題になっていた髭を剃るシーンの素敵なこと。髭が伸びていたパパはあまり好きではなかったけど、剃ったらやっぱり好きになったとか。パパはパパだったんだね、っていうあたり。

自分と同じくらいの歳の親と出会うお話 - これをうんとアメリカ的にあざとく盛ったのが例えば”Back to the Future” (1985)で、ここでは息子がやがて自分の父親になる青年に対して将来の自分のために焚きつけて利用しようとする - とても男の子っぽい。でも”Petite Maman”は運命や時間がどう、という話ではなくて、悲しんでいる人、怯えている人がいたらそばにいるなら、そこにいて一緒に遊ぼうよ、ってそうしてNellyが森で小さなママに出会うお話なの。(他にも同じようなのどこかにあった、とずっと掘っているのだがなんだっけ..)

Céline Sciammaが敬愛する宮崎アニメだと、トトロの世界に近いのかも、と思ったりもした。となりにああいうのたちがいたのって、夢でも思い込みでもなくてただいてくれて、一緒に遊んで楽しかったんだよ、っていう世界はあって、ああいうのを無視したり否定したりごまかしたりする世界には暮らしたくない。

わかって - 受けいれてほしい - 受けいれてあげよう、っていう子供たちの話というより、だいじょうぶだから、って手を繋いであげる、それだけの。でもそれがどんなに素敵で、いつまでも残っていることか。

ラストはほんとにじーんとして、泣いてしまうから。

あのふたりはやっぱり実の双子姉妹なのね。

彼女の映画音楽をずっと手がけているPara One (Jean-Baptiste de Laubier)による音がまたよくてねえ。