8.31.2017

[art] House Style

ファッション関係の展示ふたつを纏めて。

Diana: Her Fashion Story

20日の日曜日にKensington Palaceでみました。  前売りチケットの人気がびっくりで、5月頃に取っても週末はここくらいしか空きがなかった。
Kensington Palaceは週末の買い出しにWhole Foodsとかに行くときの途中にあって、朝に変てこな花とか植物を眺めたり、寄ってくるリスをからかったり、池にいっぱいいるでっかい鳥類を眺めたり、いろんな寛ぐ犬を眺めたり、寛ぐ犬と一緒にほんわか和んでいる人々を眺めたり、要するに週末のいいなー、がぜんぶあるような、そんな場所なのだが、そこの端っこに建っている建物についてはあんま関心がなくて、でも彼女はかつてここで暮らしたことがあって、その館で展示があったの。

Kensington Palace内の階段をゆるりと回って2階の端が会場で、いろんなひとのコメントとか、かつてどこかで見た気がする彼女のいろんな場面で着ていた服の数々と、それらを着ている彼女の写真が並んでいる。
服はCatherine WalkerとかValentinoとかDiorとか、写真はLord SnowdonとかMario Testinoとかの決定版ばかり。

それらの服って、誰それがデザインした、どういう仕様や意匠の服で、それがどんなに綺麗で素敵か、といったことよりも、彼女があの時に着ていた服、として写真やメディアを通して我々の記憶に並んでいたもので、そこから切り離されて服だけがぽつぽつとあるのは変なかんじだった。 "Her Fashion Story"を語るのはここに並べられた服 - その並びや順番 - ではなく、それらが呼び覚ます我々の記憶とその点々が結ばれていくことに他ならなくて、例えば(そういうことになったことってないのだが)故人のワードローブを棚卸するってこんなかんじなのだろうか、とか。

80年代の英国の文化、特に音楽に浸かっていたものとして、彼女の存在は当然無視することができないものだったが、例えばサッチャーのように大文字の敵として前に出てくることはなくて、今みたいに「セレブ」なんて言い方もなくて、ただぼわーっと広がる英国への憧れの日なたの部分(悪い言い方をするとおめでたい、バカな部分)を柔らかく代表するような存在として彼女は輝いていて、お慕いする、というほどのものではなかったけど、少なくとも嫌いではなかった。 彼女のような人がいなかったら、当時の自分にとっての英国のイメージがどんなものになっていたのか、あまり想像がつかない。

20年前の今日(8月31日)は、まだ米国に住んでいて、夜の8時くらいに彼女が事故にあったというニュースが入って、ずっとはらはらしていたら夜遅くになってニュースキャスター(たしかCBSだった)がやや暗い声で「死亡が確認されました」と伝えた瞬間。 未だにはっきりと憶えている。

Kensington Palaceの他の箇所も見て回って、外に出ると彼女を追悼するお庭 - White Garden - が作ってあって、池のまわりに白とクリーム系を中心としたいろんな花が楽園のように咲き乱れていて「わーきれい」しかないのだった。

20年間、ここまで安らかに眠れただろうか? これからもどうか安らかに休まれますよう -


House Style: Five Centuries of Fashion at Chatsworth
https://www.chatsworth.org/events/house-style/

ロンドンに着いてしばらくの間、3月頃に地下鉄にこれの広告が貼ってあって、これは行かねばと思っていて、でも広告自体はいつの間にか消えちゃったので忘れないように忘れないように、と思っていたやつにようやく行くことができた。

会場のChatsworth Houseていうのは、16世紀に建てられたDuke of Devonshire - デヴォンシャー公爵の本邸 - カントリーハウスで、映画の『高慢と偏見』(2005)のロケ地にもなっていて、ロンドンからは電車で2時間半くらい行ってから、バス(近くまで行くのは日曜しか運行してない)で30分くらいの、要するに行くとなったらいちんち潰す覚悟で行く必要がある。 8月27日の日曜日、3連休のまんなかに行った。 天気はすばらしくよい(おそらく最後の)夏日。

電車がSheffieldの手前、Chesterfieldの駅に着いたのが12時過ぎで、バスは1時間おきで12時に出たばかりだったので、タクシーにした。でっかい建物のエントランス入ったらすぐ横に展示が広がっている、というか建物まるごと展示ブツ。

展示はPrincipal sponsorがGUCCIで、いくつかのMajor sponsorsのひとつがSotheby'sで、キュレーションはAmerican VogueのHamish Bowlesで、Chatsworthの倉庫に眠ったり散在したりしていた約5世紀に渡るいろんなドレスとかお飾りとかをお蔵出しして、かつてそれを纏っていたであろうキャベンディッシュ家の人々 - 特にアイコンだったり伝説だったりする女性たちの肖像にまで遡って、それだけに留まらず最近のデザイナーの作品も繋いで並べて、これが単なる骨董品なんかではない、ひと連なりとなったヨーロッパ貴族職人芸の流れと共にあることを示す。

というようなことが事前の情報としてあったわけだが、あそこまで規模のでっかいものだとは思わなかった。
ついこないだのKensington Palaceのイメージがあったせいかもしれないが、あれとは戸建て住宅とお城くらい、規模の桁がちがう。 これまで割といろんなお屋敷でこういう展示や展観を見てきたほうだと思うが、まずChartsworth House自体がでっかくて(見れるのは3階まで? 部屋数30以上)、玄関ホールの「お迎え」のかっこよさにすげー、と仰け反って圧倒されて、しばらくはお屋敷の部屋いっこいっこをふんふん見ていくかんじだったのが、だんだんに引き摺りまわされるかんじになってきて、まったく終わりが見えないので背筋が寒くなっていったりもした。
美術館まるごとぜんぶというかまるごと骨董品のデパート(売ってないけど)というか - ファッションだけではなく、絵画、写真、宝飾、化粧道具、照明具、家具に調度品、いろんな布、彫刻、文房具、銃剣、剥製、玩具、古書、などなど、館主が情をこめて集めて溜めて、というよりも500年の歳月を経て吹き溜まってしまった積みあがってしまった、という時間の脅威を見るかんじもあって、かんたんに言うと、はじめのうちはわーすごーい住んでみたいー、だったのが、(なにかが見えてしまって)ここに住んだらやばい死ぬかも.. と少し怖くなったり。

日差しが強かったので窓全面にカーテンが掛かって部屋はずっと薄淡い照明のなか展示品を見ていくことになって、そうするとキャプション読みは諦めて(オーディオガイドが正解かも)、そこの住人が見ていたような見方や視線で展示品に向き合うと、それを纏ったり使ったりしていた女性たちの像が浮かびあがってきて、それはかつてそこにいたBess of HardwickにしてもAdele Astaireにしても、たんに「強い」という形容で語られるだけの輪郭ではなくその家の陰影と共に語られるようななにかに収斂していって、それこそが"House Style"というものなんだわ、て思った。

最後のほう、図書室 〜 彫刻の間 〜 晩餐の大広間の連なり 〜 だんだんだんて来るともうお腹いっぱいでへろへろだった。
こういうのがゴシックの素地を作っていったのね、て身をもって感じた。 恐るべし田舎のお屋敷。

売店を少しみて少し買って、Rizzoriから出ている分厚いカタログはロンドンの書店でも買えたのでそっちで。

庭は屋敷と同様、異様に意味なくでっかくて、花畑があって温室があって、なだらかな丘の上から水が降りてきて、池も噴水もいっぱい、Julian Schnabelの彫刻とかもあって、見下ろす原っぱのほうには羊がぽつぽついて、庭内ツアー用の馬とかがいて、客が連れてきた犬がうじゃうじゃいるのだが、どいつもこいつも(犬なのに)貴族顔しているの。

帰りの電車が17:00発だったので実滞在は4時間くらい。 ぜんぜん足らなかった。
できればもう少し後、英国のぼうぼうざーざーに暗い陽気の時に改めて来たいかも。 更にぐったり動けなくなってそのまま地下牢とかに棄てられちゃうの。(うっとり)


London Film Festival 2017のラインナップが発表になった。
まってろ。

8.30.2017

[film] Menschen am Sonntag (1929)

23日の晩、BFIで見ました。
ここで毎月地味にやっているサイレントの名作特集、8月のテーマは"Weather"だそうで、そこでようやくこれを見ることができた。 ちなみに明日(30日)は”The Wind” (1928)をやるの。

"People on Sunday" - 『日曜日の人々』。 
アップリンクやジャック&ベティでかかっていたとき、ずうっと見たかったやつ。
ピアノはもちろん、柳下美恵氏 .. ではなくてDonald Sosin氏。

上映前にKing's Collegeの教授でGerman Screen Studies NetworkのErica Carter氏から簡単なイントロがあって、いきなりこれはRomcomなのです、て言ってしまうこともできるし、29年に始まった大恐慌をきっかけに戦争に向かって転がり落ちていくドイツ - ベルリンの街の、そこに暮らす人々の最後の輝きを活き活きととらえたものです(画面には軍服があちこちにいるとか暗い面もいくつか映し出されていて、話のなかでは触れられなかったけど、『ベルリン・アレクサンダー広場』だって29年)、ていうこともできるし、この後の(大恐慌以降の情勢の)混乱を受けて散り散りになってしまったものの、Robert Siodmak, Edgar G Ulmer, Billy Wilder, Fred Zinnemannといったその後アメリカに渡ってすごい作品をいっぱい撮ることになる映画人が一堂に会していた、奇跡のセッションの輝きもあって、いろいろ貴重なのだが、やっぱり映画そのものがすばらしいので見てね、と。

うん、すばらしかったわ。

誰もが楽しみにしている週末の土曜日から始まって、ワイン商のちゃらいかんじの若者が街角で女の子(映画のエキストラをやっている)に声かけて、明日の10時に会わない? て誘って、あとはタクシーの運転手の若者と彼と一緒に住んでいるモデルの女の子がいて、レコード屋の店員の女の子がいて、日曜日の朝、エキストラの子はレコード屋の子を親友なの、って連れてきて、運転手の彼はモデルの彼女が起きあがってくれないのでひとりで現れて、この4人で、公園に行ってレコードかけながらご飯食べたり、水着に着替えて川遊びしたり、追っかけっこのふりして逸れてふたりきりになったり、ここから約90年を経たいまの我々が見てもあーあるねえ、て納得できる普遍性をもったデート映画であり、ああまた日曜日が行ってしまうよう & またしてもなんにもしなかったし起こらなかったよう - モデルの子はごろごろしたまま起きたら夕方…  - の果てのない繰り返しを生きる我々の叫びを先取りしている映画でもあるの。

デート映画としては、どちらかというと男の子目線で、女の子をひっかけるのに長けたワイン商の彼と、人懐こくてなんでも許してくれそうな運転手の彼と、短期決戦でどっちがいい思いをするのか、彼にするとしたらどっちがいいのか、みたいな問題設定もある。ワイン商よりは運転手がよさそうだけど、こいつにはもう彼女がいるよ、って。

見ている我々は彼らひとりひとりが見ている光や水面の輝き、草や風の匂いをそのまま感じることができるし、あいつったら、とかあの野郎ったら、ていうこまこました(ときにきらきらした)感情のアップダウンを自分のことのように生々しく感じることができるし、それらを掴んで束ねて、早く次の週末こないかな、Weekdayなんてほんとにさいてーだな(洗濯機ぐるぐるぎゅー) ていうのは当然のように、やってくるし。  つまり1929年に生きる彼らの物語をこちら側で見ている、というより明らかにそこに入りこんでいるような感覚があって、それってRobert SiodmakやEdgar G Ulmerのノワールや犯罪映画を見るときに感じる、あー巻きこまれちゃった、なかんじにもどこか似ている。

もし。もしドイツがあんなふうになっていかなかったら、彼らは次の週末になにをしたのかしら? その次は?  冬にはスケートとかしたのかなあ?

こういうのを永遠の1本ていうんだと思うの。 
それにしても週末って、なんであんなにあっという間に消えちゃうのか。 誰かの陰謀としか思えない。

8.29.2017

[film] War for the Planet of the Apes (2017)

19日、土曜日のごご、Piccadillyのシネコンの小さいとこでみました。

"Rise of" (2011) - "Dawn of" (2014)に続く3つめの猿のお話しなのだが、もはや生物学的な変異を遂げた猿と人間の優劣とかその尺度や是非を問うようなお話ではなくなって、人間と対等な動物の生存競争 → 後戻りのきかない泥沼の戦争のドラマになっていて、つまり、それぞれはどんなふうに戦うのか、とか、なんで戦うのか、とか、戦うことの意味とか、そういう方にテーマがシフトしてきていて、つまりこれは、これまで散々映画とか文学で描かれてきた人間同士の戦争ドラマと変わらなくて、つまり米国大陸の猿の話しじゃん、のような他人事ではなくなっている。 長くて重いけど、見応えはあるよ。

前作の終わりから米軍との戦争が始まってしまい、シーザーをリーダーとする猿軍は山奥に籠ってゲリラ戦を続けているのだが、突然現れたColonel (Woody Harrelson) にシーザーは妻と息子を殺されて復讐の鬼となり、群れを離れて小隊を組んでColonelを追う旅に入る。
その過程で拾った唖の人の娘 - Nova - とか、シーザー達とは別の変異をしているらしい"Bad Ape"とか、更に人間同士でもよくわからない殺し合いをしているらしいとか、最終的にたどり着いた収容所と、そこにいたColonelの目的とは、などなど。

何が出てくるか判らず予測不能であること、それゆえに本来の意図を離れたただの殺し合いに転がっていくこと、それゆえに「原理」への回帰が求められ、それが新たな大量殺戮を招くこと、それが更なる憎悪の連鎖を生んで収拾がつかなくなっていくこと、ごく最近の、身近な戦争やテロで描かれる「構図」がここには殆どある。 この映画が過去〜現代をなぞっているのか、あるいは、という問いにあまり意味はなくて、それは未だに続く地続きのなにかなのだということ。 いまの我々は、いつ自由の女神像が崩れ落ちても不思議ではない時間のなかにいる、よね?

猿の生化学実験から収容所へ、という流れは明らかにナチスのそれだし、つるっぱげのColonel は誰がみたって「地獄の黙示録」のカーツ - 注射をした子供たち全員の腕を切り落とした、と語ったエピソードとか"Ape-calypse Now"の落書きとか - の転生としか思えないし、つまりは第二次大戦 〜 ベトナム戦争での悪夢が反復される時間のなか、猿たちは戦って、しかしその戦いも、シーザーの煮えたぎる怒りや私怨 - 前作で憎悪の塊となってダークサイドに堕ちたKobaのように - がドライブしているのではないか、という歴史と個人の絶え間ない問い - 問い直しのなかで揺れている。 でもそれは「聖戦」なんかではありえなくて、結局はただの殺し合いでしかないの。 (邦題はやはり間違っていて、だってこれを「聖戦」にしたがっているのは愚かな人間たちのほうなのだから)

おもしろいのは(おもしろがっちゃいけないんだけど)、オリジナルの「猿の惑星」との物語的な整合なぞを取ろうとしていじくりまわした結果、過去の戦争映画(群)のコラージュみたいになっちゃった、ていうのはいろいろ考えさせられるかも。 でもこれはSF(映画)で、SFってそもそもこんなふうに歴史を再構築してよいもの(フィクション)なのよね。

このシリーズはまだ続いていくらしいが、そろそろX-Menのテーマに繋がっていってもおかしくないかんじになっている。
そっちのほうに行く、ていうのもありかも。

8.25.2017

[film] Patti Cake$ (2017)

英国では9月1日公開予定のプレビューをガンダルフの後に続けて、そのままBFIで見ました。
14世紀の英国から21世紀のNew Jerseyへ。

UKプレミアは前日の23日、Somerset Houseの野外上映会で、だったのだが、野外はなんかやだなと思っていたら屋内のこれが出たのでこっちを取ったの。 でもばらけちゃったせいか客の入りは悪くて、当初予定されていた監督のQ&Aはなくなってしまった。

でも予告見たときからすごく見たかったやつ。 おもしろかった。

マンハッタンが遠くに小さくみえるニュージャージーの奥のほうでバイトを転々としながら飲んだくれの母親(Bridget Everett)と車椅子寝たきりのおばあちゃんと暮らすころころのPatricia Dombrowski - Patti (Danielle Macdonald)は、ドラッグストアの店員のJheriとラッパーになることを夢みて日々うだうだしていて、たまに近所でガキとラップバトルとかしてもバカにされてばかりなので、いいかげん嫌になってバンド組みたいな、と、墓場の奥の廃屋で宅録をしていたアンチクライストを叫ぶジャンクメタルの変な奴を巻きこみ、たまたまそばにいたおばあちゃんの声も入れてデモを作って、あちこちに配りはじめる。

でも、やはりあまりぱっとしなくて、初ライブは散々の失敗でおわるし、ケイタリングのバイトで行った憧れのラップの大御所のとこでは思いっきりヘマするし、でも最後の最後に新人バンド合戦があるので勝負にでて、さてどうなるか。

ゴミ溜めの底からラップいっぽんで這いだす、というと"8 Mile"(2002) を思い起こさせるし、NJは別に川崎でも川越でも木更津でもよい気もするし、どん詰まりの母と娘のお話として"Ricki and the Flash" (2015)も似てるかもとか思うし、目新しいところはあんまないのだが、とにかくPattiのぶんむくれたまん丸の顔にスイッチが入ったときの怒涛の勢いがすごくかっこよくて、それだけでじゅうぶんだと思った。

あと、飲んだくれで大昔にレコード出したこともある、というやや痛め設定のママを演じたBridget Everettさんは、Joe's Pubの常連で90's Karaokeとかで、ライブも見たことある。Pattiのママ役として、これ以上の適役はいないわ。

ラップ一辺倒でもなくて、Bikini Killだって流れるし、エンドロールではBruce Springsteenの"The Time that Never Was"が流れて、地下鉄の駅から外に出たらここはNJか、とか錯覚したりした。


これの2日前の22日、Somerset Houseで"Behind the Screen - Everything Flows: How Movies Inspire Music"ていう1時間強のトークイベントがあって、ゲストはBarry Adamson (Magazine, Bad Seeds), Charlotte Hatherley (Ash), Summer Camp (あの"Beyond Clueless" (2014)で音楽をやった二人組ね)、そして、この"Patti Cake$"が監督デビュー作となるGeremy Jasperの4組。

イベントの各トークはテーマがあまりに大風呂敷なのと時間がなさすぎてどれも半端な生煮えで終わってしまったのだが、監督のはおもしろかった(殆ど宣伝トークだったけど)。 このひと、00年代のNYでThe Feverってバンドをやっていたんだって(...いたねえ)。 で、この映画用にライムとかもぜんぶ自分で書いて、当時ロスに住んでいたPatti役のDanielle Macdonaldさんのとこに毎週ラップの名盤を数枚送って、彼女はクローゼットの中でそれを完コピしてiPhoneに吹きこんで送り返して、それを細目に矯正して、ていう特訓を数年続けて、NJ訛りもぜんぜんだった(彼女、オーストラリア生まれだし)ので、そっちも特訓して、そんなふうに精魂こめて作りあげたんだから、雑なとこはあるけど、いいのよ。

トークだとSummer Campのふたりもおもしろかった。最初の触りで"Say Anything…” (1989) 流して、Teen Movieに音楽をつけるときは映画のなかの台詞を言い直すようなかんじで歌や音をつけてる、って。 "Beyond Clueless"の音楽をやることになった経緯は監督が近所に住んでいたから、って...
こいつら、ほんとに仲よしで、椅子に座っている間もずーっとべたべたしてたの。(いいじゃんか)

[film] Edward II (1970)

25日の夕方6:00、BFIの"Gross Indecency"シリーズの1本で見ました。 上映後にSir Ian McKellen(ガンダルフ!)のQ&Aがある。

原作はChristopher Marlowe、The Prospect Theatre CompanyがEdinburgh Festivalを経てLondon Piccadilly Theatreで上演したものをそのまま撮ってBBCが放映したもの。 特に映画的な配慮は一切なく角度を変えたり若干のクローズアップがある以外は素の舞台そのまま、客席側も一切映らない。 全2幕の2時間。

原作は古典だし、いろんなところで上演されているし、Derek Jarmanも91年に映画化しているし。
若くして王になったエドワード2世(Ian McKellen)が幼馴染のガヴェストンを寵愛して、周囲とか王妃イザベラとその愛人モーティマー(Timothy West)とかの反感を買って嫌われてはめられて、ガヴェストンは首切られ、追われて放り出されたエドワードも最後には尻から棒突っ込まれて殺されてしまうの。 筋としてはそんなもの。

まあとにかく、当時30歳のIan McKellenの凄まじい演技を見てほしい。ガヴェストンの死を聞いたときの狂おしく悶えまくるさま、泣き顔、放擲されぼろぼろになって殺されていくさま、これらを見てしまうと、マグニートーにしてもガンダルフにしても、主演だった"Mr. Holmes"にしても、映画は彼をぜんぜん活かしきれていないんだなあ、てしみじみ思った。 ほんとにすごいから。

上映後のQ&Aは、客席にモーティマー役のTimothy Westさんも来ていたり、他にも当時の関係者が数名いて、賑やかで楽しいものになった。
この(放映された)作品は、スクリーンで初めて男同士のキスが描かれたものとされていて(諸説あるらしいが)、質問はやはりその辺に集中したのだが、彼曰く、当時これをゲイ・プレイとして見たり語ったりするようなかんじは、少なくとも彼の周辺ではなかった、と。
彼はCambridgeで英文学を学んで、所属したThe Marlowe StoryにはBloomsbury Groupの流れを汲んだPeter HallとかTrevor Nunnとか、後にRoyal Shakespeare CompanyのDirectorになるような筋金入りの演劇人がうじゃうじゃいて、Prospect Theatreもその関係者だらけだったので、そんなの話題にするほうがおかしい、そんなふうだったって。 (そりゃそうだろうな)

この辺の話、もっと聞きたいなー。彼が序文を寄せている"Bloomsbury & British Theatre: The Marlowe Story" (by Tim Cribb)とか読んでみようかしら。

あと、これが上演されていた頃はまだソドミー法が活きていたので、警察が客席の一番前に座ってみてた、とか..
(その連中の仕草マネがおかしくてさー)

あと、Derek Jarmanの映画については、彼から控えめな出演依頼が来て、いや俺もうやってるんだけど... て控えめに返したら、暫くあとになって謝罪の返事が来たって。 でも彼とはそれっきりになってしまったので残念だったと。

とにかく、いるだけで周囲がぱーっと明るくなる素敵なおじいちゃんで、白装束のガンダルフ、としかいいようがなかった。
彼の「リア王」見たいなー。 チケットは完売状態だけど、みんなで脅迫メールを送ればなんとかなるかも、って。

マグニートー/Erikの若い頃がMichael Fassbenderていうのはちょっとちがうと思った。 Benedict Cumberbatchのがまだ似てるかも。

あと、助監督がRichard Marquandで、言うまでもなく "Return of the Jedi"(1983)の監督で、「彼もCambridgeの人脈なのじゃよ」だって。

8.24.2017

[art] Adventures in Moominland

17日にようやく船便が来て、本とかレコードとか、ないと死んじゃう系のやつ(.. べつに生きてたじゃん)はとりあえず手元に届いた。箱を運んできたおじさんたちが、みんな階段で死にそうになっていてかわいそうだった。 おじさんのひとりに「おれなんかうちに5000枚ヴァイナルあるぜ」て言われたのが少し癪で、でもこんなのほんの一部で日本にはもっといっぱいあるもん、とは言い返せなかった。

Despicable Me 3

で、そのあとに町に出てみたやつ。 BFIのIMAXの壁には Minionsがでかでかと貼られていたのだが、映画はもう終わりそうだったので慌てて、シネコンのものすごく小さい部屋でみた。

80年代のTVで悪戯ガキみたいなキャラで有名になった後で捨てられて腐っちゃった奴(Trey Parker - いかもに)が悪者に成長して、GruとLucyはAnti-Villain League (AVL) を突然クビになって、それを知ったMinionsはみんな呆れて出ていっちゃって、あとは、Gruの双子の兄弟のDruが出てきて、3人娘のちいさいのはユニコーン捜しに夢中になって、と、個々の細かいネタで少し笑えるくらいで、とにかくいろんなエピソードがチャンネル変えるみたいに替わっていくので、飽きない、ていうひともいるだろうし、集中できないので飽きる、ていうひともいるんだろうなー、って。

Gruの兄弟 - 鏡になっててぜんぶ反対 - を出すのも、Minionsや三人娘と並ぶ、たぶん家族とか一族郎党、みたいな変な集団のおかしさを追っていく流れのなかにあるなにか、なのだろうけど、個人的にはMinionsがうじゃうじゃ騒いでいればよいだけなので、なんか薄まっちゃったかなー、はあった。

前宣伝とかではみんな80年代80年代いうのでどんなかと思ったけど、そんなでもなかった。音楽はほとんどイントロで終わっちゃうし(まあ、フルで流すのもあれか)。 いっこだけダンスバトルのとこで、"Into the Groove"が流れるのはよかった。 そういえば、『マドンナのスーザンを探して』でこの曲が流れるシーンにGruみたいなハゲが映っているんだけど、しってる?

Pharrell Williamsの音楽は相変わらずすばらしいねえ。

それが終わったあとで、South Bankに移動して、これも週末で終わりそうだったやつに行った。

Adventures in Moominland

家族・子供向けのアトラクションみたいで、でも具体的にどういうものかわからんし、でもなかにムーミンがいるんだったら(いねーよ)見たいし会いたいし。 えんえん悩んでいるうちに出し物も夏も終わってしまいそうでやんの。

チケットは15分間隔で区切られてて、その時間に会場の入口に集まる。 そこにはトーベ・ヤンソンの書いたムーミン本のでっかい背表紙が並んでいて、入口も大きな本の表紙になっていて、ガイド役のお姉さんがみんなムーミンは好きかなあ? とか聞いて - でもこの回にいた子供はひとりだけ - さあみんなで冒険に出かけよう! おー!! ...みたいなかんじ。

中はテーマ毎に作りこまれた小部屋がうねうね連なっていて、樹があったり岩があったりお部屋だったり暗かったり明るかったり風が鳴っていたり虫が鳴いていたり、いろんなところに小窓があって、そこにムーミンの絵とかトーベ・ヤンソンの手紙とかがこまこま埋めこんであって、その7〜8つくらいの小部屋をみんなで移動していって、だいたい1時間くらい。
ガイドの女性は、その部屋のテーマにまつわるトーベ・ヤンソンのエピソードと、それがなぜ、どんなふうにムーミンの世界(観)や個々のキャラクターに落としこまれていったのか、をわかりやすく説明してくれるの。

エピソードは、戦争のこととか彼女の恋人(女性)のこととか、知っていることもあったけど、具体的な絵や部屋の雰囲気のなかで見ると腑におちるところもいろいろあって、ふだん展覧会行ってもオーディオガイドとかやったことないのだが、改めて悪くないのかも、とか思った。
ただ、ツアーみたいに時間で縛られて限られているのでまだ見たいのに次に行かれてしまう、ていうのはちょっと残念で、遅れて迷って迷惑かけたやつには怖い思いをさせるおしおきタイム、とかあってもよいかも、とか。

絵はどれも小さかったり色彩が素敵なのばかりが展示されていて、とにかく、なんといってもムーミンだから、なにを見たってかわいー、会いたいー、しかないの。
トーベ・ヤンソンがどれだけ文句を言って認めなかったとしても、岸田今日子がムーミンで、「スノークのお嬢さん」が「ノンノン」だったあのムーミンの世界はいまだに自分のなかに強力に刷り込まれていて、あそこが断固として理想郷の初版だし、スナフキンみたいに地の果てに消えていくことを理想の生き方としているものとして、次に目指すのはやっぱしフィンランドだ、と改めて思うのだった。
えいえいおー。

8.23.2017

[music] Lambchop

20日、日曜日の晩、小雨、Islington Assembly Hallていうとこで見ました。
町の公会堂みたいなかんじのホール。 一階はスタンディングで二階が椅子席。 体力的にがんばれる自信なかったので二階にした。

前座はThe ClienteleのAlasdair MacLeanさん。最初はThe Clienteleが前座、って書いてあった気がしたのでチケットをとったのだが、来てみたら彼のソロになっていた。 べつにいいけど。

ステージの端っこ、エレクトリックギターのみで座って7曲くらい。 ギターのアルペジオの少し翳りのあるかんじ、呆けたようなヴォーカル、これだけで、あーThe Clienteleだわ、と思い、Vini Reillyみたいかも、と思ったら3曲目でDurutti Columnをやります、と言って弾きだしたのでとっても驚いた(曲は”Messidor”だった。かな?)。 終わったら肩で息をしていたのでえらく大変だったみたい。 次回はバンドのほうも見ないと。

Lambchopのライブは"Aw Cmon"/"No You Cmon"の頃から数えて3回めか4回めくらいで、前回みたのは2012年、NYの(le) poisson rougeで、前座がYo La Tengoの変名バンド(Charlie Horseとかいうの)で、アンコールは両バンドの共演になって”Guess I'm Dumb"とかやってくれたの。

ステージにドラムキットはなくて、立ち作業用の机があってそこにラップトップとかパッドとか。あとはグランドピアノ。
出てきたのはBass - Kurt - Pianoの3人(前回はたしか5人編成だった)で、Kurt Wagnerさんがボタンを押すとびりびりしたエレクトロのビートが鳴りだし、ギターも持たずにヒップホップのような仕草で歌い始めたので、すこしだけびっくり。 野球帽(これは昔から)だし、映像だけだと完全に枯れたおっさんが少しおかしくなってヒップホップ始めたようにも見える。

最初の数曲は立って体を揺らしたりポーズきめたりしながらふんふん歌って、その後はギターを持ったり下ろしたり、ギターはちりちりかちかち、微小な擦過音のようなクリック音のようなのがかろうじて聴こえてくるかんじ。 これも声の一種、のような。

重くはないけどやや厚めのエレクトロの上にうねって筋をつけていくベース、粉砂糖みたいにぴらぴら降り注ぐピアノ、これだけだとお洒落なラウンジミュージックにしか聴こえないのだが、そこにKurt Wagnerの煮干しみたいな干し梅みたいなごつごつ呻くようなヴォーカルが絡むとああLambchopだねえ、になる。 音の外枠は随分ジャンプしたように感じた前作の"Mr. M"よりも更に大きく変貌して、もう誰もオルタナ・カントリーのバンドとは言わないだろう(本人たちも気にしていないと思う)し、でも、やはり鼓膜に直接触れてくるような親密な声と音のタッチはLambchop、としか言いようがない。

愛想はよいけどあまり喋らないKurtの横でピアノのTony Crowさんが結構バカなネタとか、Facebookの歌 - ♪ともだちのともだちのともだちのともだちのともだちはぁ 〜 ♪ みたいなの - をばしばし飛ばしてくるのがおもしろすぎて、こんなのでよいのか、とか。

本編1時間ちょっと、アンコールで20分くらい。アンコールで久々に聴いた"My Blue Wave" - エレクトロなし - が気持ちよすぎて死ぬかとおもった。
この流れでは”Guess I'm Dumb”はやっぱりやってくれなかったねえ。

8.22.2017

[film] Entertaining Mr.Slone (1970)

BFI SouthbankでやっているJoe Orton原作の映画特集- "Orton: Obscenities in suburbia"から見たやつを纏めて書いておく。 まだいくつか上映されているけど、とりあえず。
こちらが勝手にイメージしていたLBGTQとの匂いはほとんどしない、英国的なきっついブラックユーモアとドタバタ - Monty PythonとかJonathan Swiftとか - の連続で、最後もなんだこれ、みたいな変なところに着地して知らんぷり(あれ、神さまは?)、みたいな。

What the Butler Saw (1987)

9日の晩にみました。

69年3月に初演されたJoe Orton最後の戯曲をBBC2の"Theatre Night"ていうシリーズが87年にTVドラマ化したもの。
精神科医のオフィスで秘書の求人を見てやってきた女性になんでか服を脱ぎたまえって命じたところに彼の妻が入ってきたので裸の彼女を診察台のカーテンの後ろに隠して、その上に妻と関係のありそうなホテルのポーターとか監察できた別の医者とか警察とか、こいつら全員変人で、横から後ろから勝手に現れてはしょうもないタイミングで絡んできて、みんながみんなその場で適当なことを言ってなんとかしようとするので収拾つかなくなって大混乱になって、最後もなんかとんでもないところに行って全員顔を見合わせてしまう。 
これがOrtonの映画に触れた最初のやつだったので結構びっくりした。

Entertaining Mr.Slone (1970)

12日の晩にみました。 64年の戯曲の映画化。
さえない中年のおばさんKath (Beryl Reid)が墓場に転がっていた得体の知れない青年Sloane (Peter McEnery)を拾って連れて帰り自分の家に間借りするように勧めてペットにすると、そこに暮らす彼女の父Kempとは衝突するのだが、兄のEdには彼のピンクのでっかい車 - Syd Barrettが所有していたやつだって - を運転させて貰ったりつけあがってだんだん態度がでっかくなっていって、間借り人が宿主をいいように支配して、と思ったら最後はあらら。

郊外の閉ざされた一軒家の奥で繰り広げられるエロにグロにSMに、相当陰惨なお話だと思うのに、そんなにじっとりしたかんじにならないのはなんでなのか。

Kathを演じたBeryl Reidは少し前に見た "The Killing of Sister George" (1968)でも愛に狂って、愛を失うことを恐れてどうしようもなくなっていく孤独な女性を演じていたが、これもまた凄まじくて戦慄する。 彼女って、TV版の"Tinker Tailor Soldier Spy"と"Smiley's People"でConnie Sachsを演じているのね。 見たいなあ。

音楽はGeorgie Fameさんでした。

Genius Like Us (A Portrait of Joe Orton)

13日の午後にOrton本人が出演したTV番組のフッテージとか家族や関係者がいろいろ証言する昔のドキュメンタリー番組を寄せ集めた枠があった。
ふむふむなるほどなー、ばっかりだったのだが、彼が図書館の本に悪戯して6ヶ月刑務所に入れられた件についてIslingtonの図書館のおじさんが悪戯された本ひとつひとつを真面目に丁寧に解説してくれるとことか、しみじみおかしい。こんどIslingtonのJoe Ortonが住んでいたあの辺に行ってみよう。

あと、Beryl Reidさんが自身のTVショーの寸劇で、ゲストのMalcolm McDowellを"Entertaining Mr.Slone"のSlone役にしてきゃーきゃーはしゃぎながら彼の服を剥いていくところとか、"What the Butler Saw"の95年のドラマ化でBrian CoxやClive Owen(ぜんぜん下っ端)が出ているシーンの抜粋とか、面白いのがいっぱい。

Loot (1970)

13日の夕方、Orton寄せ集めのあとに続けて見ました。
これも一軒のおうちを舞台に繰り広げられるどたばたで、悪巧みしているバカな若者ふたり組がいて銀行強盗して奪った金をどこに隠すかで、ふたりのうち一人のママが亡くなったのでその棺桶に、とかいうのだがそこに警部(Richard Attenborough)とかママの死に立ち会っていた悪ナース(Lee Remick)とかいろいろ絡んできて、じたばたしすぎてわかんなくなっていくお金と死体の在り処を巡ってどっちがどっちの大騒ぎになるの。
これも誰のせいでもない? ようなところでどたばたが勝手に連鎖して収拾がつかなくなっていって、最後はそっちか、みたいな。

これもひとによっては不謹慎極まりない、て言うのだろうがそれをちゃかちゃか落語みたいにやっちゃうのがOrton、なのかしら。

そして、これらのとっちらかったどたばた劇を見たあとで、もういっかい"Prick Up Your Ear"で描かれたOrton像に立ち返ってみると、なるほどなー、って改めて。 理由はないけどとにかく勢いと熱量だけはあって、ただただ突っ走って散らかし放題散らかして、たいした理由もなくぷつんと切って、いなくなってしまう悪戯小鬼、みたいな。

こうして浮かびあがる像があって、そこで浮かびあがった像の不在もまたくっきりと。後から。

8.16.2017

[film] City of Ghosts (2017)

12日、土曜日の午後にBloomsburyのCurzonで見ました。
見るのはきつかったけど、これは映画がどうドキュメンタリーがどうという以前に、いまの我々が見て頭に刻んでおくべきものだと思った。 丁度00年代にMichael Mooreの一連の作品が切羽詰まった怒涛の勢いで我々を揺さぶったように。

元々はシリアの反アサド勢力だったメディア活動家のグループ(ここに出てくるのは20〜30代の若者たち)が唐突にRaqqaに侵攻してきたISに対抗すべくその危険性、暴力、住民の危機を世界に発信するためにRBSS (Raqqa is Being Slaughtered Silently) を組織して、ISが彼らの町でやっていること(公開処刑、公開拷問、晒し首、など)を隠れて記録してネットにupし始める。 ISは当然彼らの摘発と弾圧にやっきになり仲間が捕らえられたあたりからメンバーは散ってトルコやドイツに移民として渡るのだが、仲間は処刑されそればかりではなく友人や肉親まで手がかけられていく。

異国で住所不定の移民として隠れて暮らし、遅い通信で現地からのレポートや動画をひたすら待ち、届いたのを見てみれば親しい人達が殺されたり育った町が破壊されたりの映像ばかりで、しかし国に戻ったとしても殺されるに決まっていて、の底抜け地獄がそこにはあり、でも何故そこまでするか、というとISのやっていることははっきりと悪で卑怯で間違っているから。それを世界に知らしめる必要があるから。

いまのアメリカで起こっているヘイトの件、日本で起こっているそれともはっきりと繋がる。いやこれは別の問題とか日本は..とかそんなの認めるもんか。 人種やセクシャリティや国や宗教の違い(自分達と違うこと)を理由に他者に(言葉を含めた)暴力や迫害を加えて傷つけたり差別したり苦しめたりすること、これは絶対にやってはいけない悪いことで、メディアやジャーナリズムの機能役割はそれが起こっているんだったらそれを「いけないこと」「だめなこと」として、やっている奴らを卑怯者として、人権を侵害する犯罪者としてパブリックに正しく広めて糾弾すること、でしょ?  これは人殺しとおなじ絶対悪なんだから「両論」とか「言い分」とか「なんとかの自由」とか「周りが」とか「昔は」とかないの。偉い奴だろうが政治家だろうが許されないものは許されない、そしてそれを放置したり見て見ぬふりをしておくことも(それを見下ろすことができる場所にいる偉い連中は特に)また許されないの。

見てて胸が張り裂けそうになりながらバカ右翼のいう「自己責任」だの「国が守ってくれる」だの、ほんとにクソみたいな妄言だな、ていうようなことばかり思って、結局武力による解決 - 子供を盾にしているんだよ - しかないのか、とか真っ暗になってそれが延々ループして。

City of Ghosts - 生者ではなく幽霊の棲む町となってしまったRaqqa の今と、かつての楽園のようだった夕陽(or 日の出?)の光景との対比があまりに残酷で、こういうの、いつまでくり返されるだろうか、と。

日本にもCity of Ghostsはあるよね?  福島っていうとこに。 そこをそんなふうにした連中もGhostsで、ていうか妖怪みたいで、ちっとも糾弾されないのが変な国にっぽん。

[film] Beuys (2017)

11日の木曜日の晩、ICA (Institute of Contemporary Arts) で見ました。 Londonではここでしかやってなかった。

86年に亡くなった(もう30年かあ)Joseph Beuysのドキュメンタリー映画。
ところどころ欠損している(欠損していることがわかる)記憶があって、うんうん思い出したりしながらなんとか英語字幕についていくかんじ。

BeuysがNam June Paikとかと並んで(当時の)西武やワタリ周辺で少しだけ盛りあがりを見せた80年代前半はまだ、芸術はいかに社会を変えることができるのか、(or 少なくとも)関わることができるのか、みたいな議論がそこらにあった気がする。 
いまやアートは社会や公共に奉仕したり共棲したりコラボしたりするなにからしいのだし、大学教育から文系は排除されていくばかりのようだし、大学経営は企業経営とおんなじようなもんらしいのだし、アートに政治を持ちこむと煙たがられるらしいのだし、ほんとにあーあ(見事に腐りきっちゃったもんだわ)、なのだが例えば戦争とアートとか大学教育とアートとか、そういうのを少しでも(過去の振り返りとか未来のあるべき姿とか)考えてみようと思ったら、Beuysの通った道を避けたり無視したりすることはできないはず。

Anselm KieferだってGerhard RichterだってSigmar Polkeだって、みんな彼の弟子なんだからね。

でも全体として対象があまりにでっかすぎることも確かで、子供時代から飛行機乗りの従軍時代、怪我して鬱になってアートを志した時代、デュッセルドルフで教え始めた時代、政治に関わるようになった時代、それぞれいろいろあって、そこに彼の思想(思考=彫刻)があり、アートがあり、パフォーマンスがあり、環境があり、アクチュアルな行動があり、それらが絡み合っていて、もちろん大抵のアーティストなんてそういうもんだろ、なのかもしれないが、Beuysはそれを極めて意識的に、服装や帽子まで含めて自己組織化し、戦略的に扇動していった最初の「戦後」アーティストだったのだとおもうし、だから彼のアートはある時代の一部を切り取ってみてもゴミだったり毛皮だったりでろでろだったり石ころだったり、割とろくでもないもんだったりするのでなんか始末にわるい。

こういうアーティストって、まずは作品を見ろ、だと思うのに作品が実は... ていうのはおもしろいよね。
なんでもかんでもコンテンツ、の時代を嘲笑ってションベンかけてるし、Beuysって、いまの定義でいうところの「クリエイター」なんかとはぜんぜんちがう異物だよね。

なのでこういう映画だと薄まってしまったかなあ、という印象は少しある。 アーカイブ映像 - 野うさぎ、コヨーテ、渡米時のティーチイン等はもっとちゃんと見たいようーという欲求が高まるし、関係者証言も字幕が出ないのでどういう立場の人の証言、コメントなのかわからないし、時代でいうとFluxusの頃とかほとんどないし、Beuys以降の拡がり、というところで弟子のコメントくらいはほしかったかも。

じゃあ俳優を別に立てて評伝映画はどうか、というとううむー、ポロックやウォーホルやバスキアやカポーティやケルアックの映画みたいなアーティスト映画になるか、というと、どうかしらん...?

なんだかんだあるけど、これは日本で上映しないとだめでしょう。
アート系の大学関係者には椅子に縛りつけてでも見せるべき。

8.15.2017

[film] Prick Up Your Ears (1987)

11日金曜日の晩、BFIで見ました。

"Gross Indecency"の特集とも関係あるし、Joe Ortonが殺されて50年、これがリバイバルされて(他の映画館でも少しだけ)、彼の戯曲の映画化作品も別の特集で上映されている。

67年の8月9日、一緒に住んでいたパートナーのKenneth Halliwell (Alfred Molina)によって頭部を9回ハンマーでぶん殴られて34歳の若さで殺されてしまったJoe Orton (Gary Oldman)とKenneth、ふたりの青春を描く。 (Kenneth Halliwellも殺害直後に睡眠薬をグレープフルーツジュースでがぶ飲みして自殺)

映画は死後遺されたJoe Ortonの日記を彼のエージェントであるPeggy Ramsay (Vanessa Redgrave)が後の日記編纂者でありこの映画の原作を書くことになるJohn Lahr (Wallace Shawn)のところに持ち込んで、遺された彼らの視点や考察も交えつつJoeとKennethはなんであんなことになっちゃったんだろうねー、を追っていく。

JoeとKenneth(のが7つ年上)は一緒にRADA (the Royal Academy of Dramatic Arts)に入って演劇を学んでいくのだが、最初から演技も含めて天才肌で注目されていたJoeとエキセントリックなノリが(たまに)ウケたりしているKennethは意気投合して、やがてIslingtonのフラットに一緒に住んで共作したり図書館の本に悪戯(写真を貼りつけたり)して半年間投獄されたり、いろんなことをしていくようになる。 刑務所にいる間に書いた戯曲が当たったり、Beatlesの映画の台本を書くオファーが来たり時代の寵児になりつつあったJoeに対して、Kennethはぴったりくっついて共同制作者だから、といちいち口を挟んだりするものの彼の方に陽は当たらなくて、その辺の嫉妬も含めてふたりは夫婦のようになっていくのだが、Joeはそんなのお構いなしにどこまでも奔放で、薄暗い公衆便所での見知らぬ男たちとの逢瀬を重ねたりしていて、その辺もあってKennethはだんだんにおかしくなっていくの。

というふたりのいろんなエピソードを演劇を見ているかのように、あるいは小さな覗き窓からちらちら見るように見せていって、まだぴちぴちしたGary Oldmanの怖れを知らない不遜な天才ぷりとその横で焦ったり苛立ったりして頭髪を失い戻りようのない怪物になっていくAlfred Molinaの、それでも楽しそうなふたりに見えてしまう押したり引いたりの応酬がすばらしい。 これ、描きかたによってはふたりのゲイのすごく陰惨で暗い情念のドラマにもなりうると思うのだが、そうではない、それこそJoe Ortonの戯曲みたいにブラックなどたばたに仕上げていったのは正解だとおもった。

あと、時代的には80年代モロ、のノリにする方向だってあったはずなのにその辺は周到に回避しているかのよう。 Stephen Frearsえらい。

で、おもしろかったので売店で売っていたJohn Lahrによる"The Orton Diaries"をめくり始めて、並行して特集"Orton: Obscenities in suburbia"もぽつぽつ見たりして、なんかこのひとすごいわ、なのだが、このへんはまたあとで。

それにしてもGary Oldman、Joe Ortonの前にはSid Viciousを演じてて、George Smileyもやって(実在のひとじゃないけど)、もうじきWinston Churchillまでやるって、なんかすごいねえ。

8.14.2017

[film] Victim (1961)

少し遡って少しだけ書いておく。

BFIでは7月~8月に"Gross Indecency - Queer lives before & after the 67's Act"という特集(訳すと『とっても卑猥 - 67年以前と以後のクィアーの生きざま』てかんじ? )をやっている。 英国のCriminal Law Amendment Act 1885のSection 11 - ここで実際に性交していなくても男同志でやらしいこと -"Gross Indecency” -をしていたら罰することができるようになった- そいつが廃止されて50年という節目の回顧なのだが、毎年やっているLBGT Film Festivalとは別枠でものすごく力を入れてやっていて、その中で見た何本かを。

Victim (1961)

7月22日の晩に見ました。これはBFIだけじゃなくて他の映画館でもリバイバルで上映されていた。
最初になにかを抱えた若者が警察に追われて逃げていて、友人や本屋のおじさんや弁護士Melville Farr(Dirk Bogarde)に助けを求めていくのだが困惑されて冷たくされて、結局彼は逃げきれずに捕まって、やがて獄中で自殺してしまう。
彼が持っていたブツはこれを周囲にばらされたらえらいことになりますよ、て組織が脅迫のネタで使う写真とかでMelvilleのところにも警察がやって来て、こういう写真 - 車の中で彼と青年がなにかしているような - が見つかったのですが、と。 法曹界のエースとされて妻もいて、の彼にとって全てを失うやばいやつだったのだが、彼がとった行動は。
LBGT云々ていうよりもノワールや犯罪サスペンスとして最後までものすごく見応えがあって、なんといっても苦悩しつつも行動を起こすDirk Bogarde(モノクロ苦悩顔が似合う)がめちゃくちゃかっこいいの。
こういう話はいっぱいあったんだろうなー。

The Killing of Sister George (1968)

8月3日の晩に見ました。
64年のFrank Marcusの芝居を Robert Aldrichが映画化したもの。

June Buckridge (Beryl Reid) は長年続いているTVのソープオペラ"Applehurst"の出演者で、相当長く出ているので周囲からは番組でのニックネームの"George"で呼ばれていて、そこでの男前なキャラクターも自身に染みついていて、彼女は自分の家に若い娘のAlice - "Childie"(Susannah York) を囲っているのだが、彼女が愛想をつかして出て行っちゃうのではないか、というのを病的に恐れている。 番組の方ももう長いので切られる可能性が十分にあるし周りの何人かは切られていくし、それを握っているプロデューサーのMrs. Croft (Coral Browne)がいちいち気に食わないのだが、彼女がAliceのほうに近寄っていくのを知って。
長く続いたドラマの役が日常も含めていろんなものを支配したり縛るようになっていて、その縛りがなくなったとき、つまり"George"が殺されたときに何がどうなってしまうのか - もう若くないGeorgeの怒りとか焦りとか哀しみを主に女性3人の閉じた関係のなかで無情に、容赦なくサディスティックに叩き出していく演出がすごくて怖くて、そのへんのダイレクトな凄惨さ、でいうと、女たちのドラマ(でもないか)だった”The California Dolls"(1981)なんかの数百倍ダークで恐ろしい。 役がいつまでも続かないことも、Aliceとの関係が続かないことも、それが御法度であることもおそらくGeorgeには十分にわかっているのだが、どうしろってんだ牛にでもなるか、ていう魂の叫び。 舞台版でも最初からGeorgeを演じていたBeryl Reidがすごすぎるの。 特にラストなんて。

On Trial: Oscar Wilde (1960) + discussion

7月3日の晩に見ました。 上映の後にBFI関係者を含めたディスカッション。
Oscar Wildeの裁判 - 最初にあげたCriminal Law Amendment Act 1885のSection 11が適用された具体的なケースの裁判の過程を忠実かつ正確に再現したもの、ということだったのだが、半分以上がものすごく難しい法廷英語の嵐で、はっきり言ってちんぷんかんぶんだった。 ただその後のディスカッションで、この適用(彼のケースを有罪とすること)がどれだけ後に深刻な影響をもたらすことになるのか、は当時相当に真剣な議論がなされたし、こうして記録に残されて今現在も検証したり振り返ったりできるのだな、ということはわかった。 だーかーら記録の破棄なんてとんでもないことなんだってば。

BFI(国の機関)が、なんでこんなにこの問題 - LBGT - に力をこめて繰り返し特集をやっているのか - BFIだけじゃなくてBBCでも特集番組を結構やっている - というと、これが人権問題に直結するからなの。 50年前(ほんの50年前)の英国は国レベルで自国民に対して重大な人権侵害をしていた、結果としてカウンターも含めて様々な文化が培われたかもしれないけれど、そのことに対して思いっきり反省して二度とこういうことが起こらないようにする、そういうことなのだと思うし、それをやって損なわれるものなんて、何もないよね。

繰り返すと、LBGTは個々人の、特殊な嗜好や性癖の問題ではなくて人権のありように直結することだ。 それを義務教育から外すとか言っているどっかの国は正しい人権感覚や意識の醸成を放棄している(ように見える)、ていうことなんだよ。 人権に関しては自分の国はこうだから(それでいい)、ていう話じゃないの。  言葉とおなじで他の国の人たちときちんとしたコミュニケーションができなくなるよ、そんなんでいいの? っていうくらい重大なことなのにメディアはぜんぜん騒がないし、もう日本て国はほんとうに鎖国して幼児化退行してあの時代に戻りたいのだな。 しんでろ。

8.13.2017

[film] Howards End (1992)

6日の日曜日、”The Railway Children”を見て終わってそのままBFIの廊下を走り抜けNFT1のでっかいホールに飛びこんで見ました。 ちょうど始まるとこだった。日曜の午後、英国の田舎シリーズ。

25th Anniversaryで4Kリストアされたやつがリバイバル上映されている。
日本で公開された当時は渡米の準備のばたばたで見れなかったことを憶えている。 E.M. Forsterの原作は未読。

タイトルの前のクレジットで、バブルの名残だろうか、当時資本参加していたらしい日本企業の名前がでてきて少し恥ずかしい。あんたたち誰?いまなにやってんの? みたいな。 まあ、Cool Japanとか言って数十億(の税金を)ドブに捨ててるあの件よかまだましか。

Helen Schlegel (Helena Bonham Carter)が田舎のHowards EndでそこのぼんぼんのPaul Wilcoxから婚約の約束をもらって舞い上がって実家に連絡したけどFakeだったのあらら、ていうのが冒頭で、そこから延々続いていく都会(ドイツ起源)のぱきぱきしたSchlegel家と田舎で鷹揚でどんくさいWilcox家の確執、というか腐れ縁の数々と、そこに絡んでくる別の層で暮らすぱっとしないLeonard (Samuel West)とSchlegel家のお話と。

老いた当主のMrs. Wilcox (Vanessa Redgrave)とHelenの姉のMargaret (Emma Thompson)、MargaretとHenry (Anthony Hopkins)といったMargaretと軸に動いていく話と、HelenとPaulあるいはLeonardを軸に動いていく話と、どちらにしても都会と田舎、老人と若者、高慢と偏見、土地、階層、などなどを巡る、今の我々でも想像しやすいあーあ、なバタ臭いお話が次々と交錯したり捩れたりしていくのだが、これらの渦の真ん中に広大で、でも朽ちかけたHowards Endを置くことで結局ぜんぶ沈んじゃうのよね栄枯盛衰なのよね、なかんじが出ていてよいのと、そうは言っても想ったり願ったりした方にはなかなか転がらずに変なツイストが入ったりとか、時間の描きかたも含めてなんかバランスがよくないのだがそういうところも含めて最近の英国的(or アメリカ人が描いた英国的)な、どうにも嫌いになれない微妙な作品になっているところはあるかも。
それは多分にEmma Thompson とHelena Bonham Carterの姉妹のぷんぷんに生きている魅力によるもの - このふたりだけがほんとに生きている - だと思うが。

ポスターではWhit Stillmanが絶賛しててあーなるほど、て思った。

James Ivoryの20世紀 - “A Room with a View” (1985)とか”Maurice” (1987)とか、もう一回見直してみたいなー。 当時ですら中味なんもないけどきれいだなー、と思ったあの世界はいま、どんなふうに見えるのだろうか。

あと、Helena Bonham Carterの髪の毛、ほんとすごいなー。

これが25周年、ていわれてもそうかー、て思うだけだけど、...And You Will Know Us by the Trail of Deadの”Source Tags & Codes”とかBright Eyesの”Lifted or The Story is in the Soil, Keep Your Ear to the Ground”が15th .. といわれるとちょっとだけぞっとする。 おいおいおい。

8.12.2017

[film] The Railway Children (1970)

6日、日曜日の昼間にBFIで見ました。
BFIって土日の昼間は家族で楽しめる映画とかワークショップをやってて、そのシリーズの一本。
英国の児童向け映画としては昔から有名で、でも見たことなかったので行ってみた。
客はぜんぶで5人くらい、うち子供はふたりくらい。

20世紀の初め、Waterbury家はパパ、ママ、Bobbie(Jenny Agutter)、Phyllis (Sally Thomsett) 、Peter (Gary Warren)の3兄弟、5人家族でロンドンで幸せに暮らしていたのだが、ある日家に大人ふたりが現れて、口論した後でパパはどこかに連れていかれてしまい、ママと子供達はヨークシャーの田舎の家に引っ越すことになる。 ぼろぼろの一軒家でいろいろ心配でわからないことも多いのだが、必ずパパは帰ってきますから、とママはやたら力強いの。

映画は長女のBobbieを語り手に、パパはそのうちきっと現れるからと固く信じて毎日毎日線路脇で通り過ぎる列車を見つめて過ごす子供たちと、そうしていて起こるいろんな出来事 - ロシアの病人とか足を怪我した学生とか、都度助けてくれる駅員とか近所の医者とか謎の紳士とかとの交流を綴っていって、基本は信じるよいこは救われる、神さんはちゃんと見ててくれる、のであんま心配はいらないのだが、でも子供の時分にこれ見たら胸が痛くなっただろうなー、くらいの程よいしょっぱさは感じられる。いまだに。

お姉さんのBobbyと次女のPhyllisとまだガキんこのPeterのトライアングルがよくて、3人がお手上げのときはフランス語もばっちりのママがいるし、駅員おじさんもお医者さんも助けてくれて頼りになるの。ご近所にはレスペクトだし、困っているひとや苦しんでいるひとがいたら分け隔てなく助けてあげること、とか教えてくれることもいっぱいある。 まじで。

そういう子供たちに訪れるラストの贈り物はわかっていてもよかったねえ、しかないの。
最後に登場人物みんなが電車に手を振るみたいに画面のこっちに向かって手を振ってくれるのもよいの。 47年前のバイバイ。 最初にこれを見た子供たちはみんな手を振り返したんだろうなー、って。

あと、列車と子供たちって、なんであんなに絵になるんだろうね、とか。
小さい頃って列車を見ていろんなことを考えたよね、なんで手を振ってくれるひととそうじゃないひとがいるのか、とか、なんでまるごとすれ違って行っちゃうんだろうとか、すれ違ったらまた会うことってないのか、とか距離とか速さとか届かないこと、などなど。 列車を見る子がみんな真剣に見えるのは手を振りながらそういうのを一生懸命考えているからだと思うの。 そのかんじが胸をうつのではないかしら。

ねえねえ、80年代末に The Railway Childrenていうバンドがあったんだけど(最近復活してるみたいだけど)、ちょっと好きだったんだけど、しってるひとー?

8.11.2017

[music] Mike Heron + Ed Askew

7日の月曜日と8日の火曜日、Cafe OTOで"Trembling Bells – Summer of Love 50th Anniversary Residency w/ Mike Heron + Ed Askew" ていう二日間のライブイベントがあって、Trembling Bellsていうグラスゴーのバンドをバックに Ed Askew(7日)とMike Heron(8日)がライブをすると。 2日間通しのチケットは£22で、この値段でこのふたりを見れるなら、と、First Summer of LoveもSecond Summer of Loveもよく知らないしわかんないし、なによりもここんとこ寒くてもう夏なんかどこ探しても見つかりそうにないのだが、とにかく行ってみる。

Ed Askew

この人はNYでずっとやってきた人で、"Ask the Unicorn" (1968)は少し前に再発もされたし、一部では有名ではなかろうか、と思うし、NYにもSummer of Loveがあったのかどうかはわかんない、けど、いちおう化石っぽい伝説のひと(1940年生)ではあるので見ておきたかった。

前座がPoetry Reading - Amy Cutlerさんで、スマホで鳴らすカラオケのしゃかしゃかしたバックにあわせて詩を読む、ていうおもしろいので、そのあとでEd Askewさんが出てきて高めの椅子にちょこんと座って、最初はピアノとのデュオ、そこにバイオリンが入って、更にTrembling BellsのDとBとGが入って、という流れで、でもバックが薄くても厚くても言葉を区切りながら囁くようにゆっくり歌ってハーモニカ(すばらし)を吹いて歌って、というスタイルは変わらず、Summer of Loveがどうこうはどうでもいいのでずっと歌っていてほしい。 演奏したのはほとんど新曲だったのもすごい。 Google行けば買えるからね、って言ってた。丁度1時間くらい。

Mike Heron

2日目の火曜日、初日と同じ時間19:50くらいに行ったら結構な行列であらやばし、で、早いもん勝ちの椅子席は取れなくて、まだ火曜日だし途中で体力使い果たしてしんじゃうかも、だったが読みが甘かった自分がわるいのよね。

前座はふたつあって、Poetry ReadingのJeff HilsonさんとギターいっぽんのAlasdair Robertsさんと。 前者はレコ屋のPOPみたいに、このバンド(orシンガー)が好きだったらこのバンド(orシンガー)を聴きなさい、を韻を踏み踏みえんえん並べていくのがめちゃくちゃおかしい。

Mike Heron (b.1942)さんが出てきたのは22時近くで、若い女性のKey & Choが両脇(ひとりは彼の娘さん)、背の高い魔法使いみたいなフィドルとTrembeling Bellsの3人がバックで、畑仕事からそのまま来ましたみたいなナリで、昔の絵巻物に出てくるGnomeみたいなMike Heronさんが満面の笑顔を浮かべて歌いだすと途端に月も星も太陽もいっぺんにぱーっと輝いて回りだして、音もカラフルに全方向からじゃかじゃかばんばんどかどか太鼓に弦に笛もぴーひゃら鳴りだして、昨日の様相とは余りに違うので恋の夏もいろいろなのね、だったが、ああこれが俗に言う(言わないけど)Incredible String BandのIncredibleな魔法か、と。 他に例えるのが難しいのだが、出てきたころの上々颱風がたしかにこんなふうだった、といって何人のひとにわかってもらえるかしら。

お盆の祭囃子 - Party musicをフォーキーに再構成しただけではないか、というひとはいうかも知れないが、音の粒の麩菓子みたいに溶けて消えちゃう儚さとISBの詩のもつ力強さとそれを空中に放つ複数の歌声がスパークして渦を巻いて異様な空間を、それこそSunn O)))やBorisにも負けないくらいの(逆向き重力の)磁場を作っていた。 あんなすごいとはねえ。

真ん中くらいでやった“Painting Box”とラストの“A Very Cellular Song”、このふたつが聴けたので7曲、50分くらいだったけどとっても幸せで、いちばん最後は娘さんとふたりでアカペラで歌ってしゃんしゃん、だった。

”Little Cloud" もやってほしかったなー。

いま、BBC FourでGlen Campbellの追悼番組やってる。
70年代のライブで、ピアノ弾いてるのはJimmy Webbで、泣きそう。泣け。  RIP

8.10.2017

[film] Valerian and the City of a Thousand Planets (2017)

5日土曜日の夕方、Piccadillyのシネコンでみました。 3Dはごちゃごちゃ疲れそうだったので、2Dで、音だけはすごいとこにした。

"Maudie"の純朴な谷内六郎の世界に浸ったあとでこんな銀河のゴミ溜めみたいなのにあたま突っ込んでいくこともなかろうに、と少しだけ思ったが、いろいろあるのよ。

ところでわたしは昔からLuc Bessonのどこがいいんだかぜんぜんわかんなくて、映画好きです! とか言うひとがLuc Bessonのはなしとか始めると後ろで中指たてたりその中指で鼻をほじったりするくらい「や」なのだが、この映画はナイーブで神経症すぎて変態せざるを得ぬ、みたいな役ばかりでかわいそうだったDane DeHaanさんがついにヒーローを! とかみんななんか騒いでいるらしいのと、変てこ動物みたいのがいっぱい出てきそうなのでそいつらを見に、くらい。

原作はコミックだそうだが、まあどっちにしてもLuc Bessonだろ、とか。
「男の子」だからって大抵のことは許されると思ったらおおまちがいだ。

まずはじめに、宇宙のシーンになるとバカの一つ覚えみたいに"Space Oddity"を流すの禁止、を閣議決定してほしい。 もういいかげん。
で、ここの冒頭の説明があとの展開にぜんぜん繋がってこないところもすごい。きっと何部作かあって、うんとあとになって効いてくるのかも、とか、はじめに全体のスケールを見せてびびらせておくのが重要なのかも、とか思ってあげる。

そっから先もあんまよくわかんなくて - 見るならちゃんと見ろ - アバターをよりひょろひょろにした系のハッピーそうな星の人々が突然現れた艦隊に襲われて、やられる直前にそこの姫みたいなひとが電波を飛ばしたらそれをキャッチした電波野郎が休暇中のValerianさん(Dane DeHaan)で、同僚のLaureline (Cara Delevingne)と宇宙に探索に出かけて、そこから先はいろいろ絡まれて巻きこまれて - もうあんま憶えていないやばい - 大変なの。

とにかくValerianさんは任務遂行とかよりもLaurelineさんと結婚したくてしたくてしょうがないらしく、最初のとこからいきなりプロポーズして、難所や危機を潜り抜けたりするたびにねえ結婚してくれる? ばっかり言うので、そういう野郎がろくでなしのぽんこつだってことは映画120年の歴史でも散々描かれてきたのにそっから更に数百年経ったあとの宇宙の果てでもそういう三文結婚神話がはびこっていることに愕然として、そんな宇宙なら一回ぜんぶ潰しちゃったほうがいいわ、て強くおもった。

えーとあと、最大の問題はValerianさんのどこがどう凄腕なのかぜんぜんわかんないとこかしら。最初のアロハシャツがよくなかったのかもしれないが、逃げ足だけはやたら早いけど銃の腕が特に凄いわけでもなさそうだし土壇場でめりめり超能力だすわけでもないし、なにかと彼をかばう軍の上層部とかまるで最近の日本政府みたいだったわ。あーあんなクソ共と比べちゃいけないわね。

ええーとあと、途中でValerianさんを助ける酒場の歌姫役でRihannaさんが出ていて、でもこいつはほんとはBubbleていうタコクラゲみたいなやつで、元々タコクラゲなのになんでいちいちわざわざRihannaの恰好しないといけないんだよかわいそうじゃないかこのタコ! て思った。

そういう変な動物がいっぱい出てくるなか、物語のカギを握っているらしい手のひらに乗っかって震えながら真珠のうんこをまき散らすアンギラスの子供みたいなやつがいて、こいつだけほしくなった。けどなんか全体にどれもこれもポケモンみたいな造形なのね。 どうせならポケモンの実写版やればいいじゃん、とか。

あと、こっちにもEthan Hawkeが出ていた。 宇宙ポン引きの役で、どっちにしてもなんかいいかんじ。

あと、ついバタリアン、て読んじゃうのよね。

[film] Maudie (2016)

5日の土曜日の午後、PiccadillyのPicturehouse Centralでみました。

Nova Scotiaに実在したフォーク・アーティストMaud Lewis (1903-1970)の評伝映画。

若年性関節リウマチを患うMaud (Sally Hawkins)は親から相続したはずの家を兄に勝手に売られて、同居しているおばからも嫌われて行くところがなくなり、ハウスメイド求むの張り紙を出した直後のEverett (Ethan Hawke)の、その紙をひっぺがして押しかけて住込みで暮らしはじめる。
最初Everettは異様な雰囲気のMaudを嫌がっていじわるして、互いにしょうもない喧嘩ばっかりしているのだが、Maudの作ったご飯食べると静かになり、だんだんにしょうがねえな、になっていって、やがては不器用に結婚して、というお話と、家事の合間に家の壁とか捨てられていた板切れに勝手に絵を描きはじめたMaudの作品がNew Yorkから来た婦人の目にとまって、もっと描いて、て頼まれて、家の前で一枚$5とかで売れるようになって、というお話と。

いつも体を丸めて縮めて - 病気だからだけど - ぶつぶつ悪態をつきながら家事したり喧嘩したりして、絵を描くときだけ柔らかい表情になるMaudと、無口で無骨で乱暴で、こっちも文句言ってばかりのEverettが道端の物置みたいに小さな小屋で寒さに震えながら暮らしていく、そのかんじ、ふたりの時間がとても素敵に出ていて、とにかくふたりがよいの。

Sally Hawkinsの最初から老婆みたいな演技もすごいのだが、"Before"シリーズとは真逆でいつもしかめっ面して殆ど喋らない - 体型まで含めて北の漁師になりきっているEthan Hawkeがすばらしい。

やがてMaudが有名になってWhite Houseに絵が売れたりTVカメラも来たりして、でもMaudの病気も悪くなっていって、という後半は見ていてやっぱりつらいのだが、最後はあんなふうだったなら、よかったのかなあ。

あと、Maudの絵がやっぱりかわいくてすごくいい。 猫とか鳥とか、「素朴」とかあんま使いたくないけど、かわいいの。 ほしい。
エンドロールで生前のMaudを撮った動画もでてくるのだが、絵のなかにいるみたいにかわいらしい素敵なひとだったのね。

彼女の絵はここで少し見れる。

https://www.artgalleryofnovascotia.ca/maud-lewis

あと、地味だけど衣装がとてもよいの。Nova Scotiaの風景にあっていて。
Nova Scotia、一回行ってみたいなー。 お魚おいしいんだろうなー。

8.09.2017

[film] England is Mine (2017)

書いてないのがいっぱいたまってしまった。

4日金曜日の夕方、SOHOのCurzonでみました。 初日の夕方なのに8人くらいしか入っていない..

76年のマンチェスター郊外、自宅に親と住んで、事務の仕事をしながら本読んでレコード聴いてなんかを書いたりタイプしたりバンドメンバーの募集したり、女友達と会ったり、This Charming Manになるずっと前、 "Still Ill"で"England is mine, and it owes me a living"と宣言する前の、Steven Patrick Morrissey (Jack Lowden)の鬱々悶々とした日々を描く。 それだけ。

Morrisseyは(Ian Curtisとは違って)死んだひとではないし向こう側にいっちゃったひとでもないし、"Autobiography"もまだ積んだままの状態で確認できないのだが、映画はこの本を元にした形跡はなくて、Morrissey本人はこの映画のことを一切無視している、といったことを考えあわせると、こんなふう.... でいいよね? くらいで作ってしまっていて、文句いいたくても打刻された具体的なイベントやエピソードがあるわけではないので明確に反論できずに黙らざるを得なくて放置、みたいになっているのかしら。

あとは映画自体の方向もStevenのその後の成功に向けた足取りを描く、というよりは天気の悪いイギリスの田舎でお先真っ暗なままアップダウン&ダウンを繰り返すどこにでもいそうなぱっとしない若者(像)、にフォーカスしているので、Morrisseyさまを求めていくとなんじゃこれ、かもしれない。MorrisseyさまがMorrissey的にもがき、嘆き、悲しみ、なにかを見出す、そういうのもあんまりないの。

The Smithsの曲は一切流れない - 唯一、彼が最初のバンドで人前で初めて歌うシーンで伴奏される曲のリフって… くらい - 、Johnny Marr(Laurie Kynaston) が彼の家のドアを叩くのは映画の最後のほうで、部屋に入って7inchをかけるくらいなので、音楽に救いを見いだす/その手ごたえを掴むところにすら至らない。 流れていくのはFrançoise HardyなんかのポップスとかせいぜいSparksの"This Town..."くらい。

これこそが、と言えるものはなにひとつなくて、こんなんだから、だからこそ我々はMorrisseyを、ということなのだろう。
家にいてもバイトしてても友達と会っても、どこに行ってもどん詰まりで相手にされなくなる前にこっちから切っちゃって、みたいなのの繰り返しはとってもよくわかる。 いまはスマホがあってネットもあって...  というのは考えてもしょうがないか。

ものすごくまじめに作っているのでうんうん、しかないのだが、どうせなら"24 Hour Party People" (2002)みたいに「神様があー / 啓示があー」 のようにしてしまう、というやり方もあったのではないか、といいかげんなんことを思ったり。
何度もぐるぐる回ってしまうのだが、この地味さ、暗さゆえにどうにも嫌いになれない、のが困ったところで、それってMorrisseyの音楽についても同様で、ついつきあって聴きはじめて、気がつくとどうしようもない奥の深みに。

Morrisseyを演じたJack Lowden - "Dankirk"にも出ていた - の声はすこしだけほんものに似ていて、顔はたまーに似て見えることがあるくらいで、でも当時の本人はもっと、もっとすさまじくださくてどうしようもなかったはず、と思っていて、そういうほうが見たかったのに。

The Smithsが解散して30年だよ、とか言われてもへえ、だよね。
Strangeways 待ってろ、だったのに、まだ見つかんないのに。へんなの。

8.08.2017

[log] NYそのた - July 2017

NYの本とか雑誌とかレコードとか食べ物関係。

展覧会のカタログ以外だと、Mast Booksで買ったやつ。

Jeannette Lee. "Private Image"

なんでこんなロンドンなブツをNYの本屋で見つけてるんだろか。
Jeannette Leeが"Metal Box"(1979) 〜 "The Flowers of Romance" (1981) 期のPILとその周辺の友人たちをポラロイドで撮っていたその束をJarvis Cockerが見つけて本にすれば、といって出来あがったのがこれ。 タイトルからしてもろ。
登場するのはJohn Lydon、Keith Levene, Martin Atkins, Vivien Goldman, Don Letts, Shiela Rock, やがてJohnと結婚することになるThe SlitsのAriのママ、などなど。

"The Flowers of Romance"のジャケットに写っているのが彼女で、更にそのジャケット写真自体も同じポラロイドで撮られたものでここに載ってて、"The Flowers of Romance"のシングルのジャケットデザインも原型が貼ってあるし、ええー.. みたいな話も巻末のJavisとJeannetteの会話でいろいろ明らかになって、30年前の一時期、少しだけ親しくなった友人の消息を聞いているような不思議なかんじになる。 当時彼らが活動していた場所とかも(そんなに遠くない)。

あと古本で、François Truffautの”Small Change” - 「トリュフォーの思春期」の小さなノベライズ本。76年にA Black Cat Bookていうとこから出てて、写真がどれもかわいい。

Daniel Kane “Do You Have a Band: Poetry and Punk Rock in New York City"

Columbia University Pressから出ている論文みたいなやつで、まだぱらぱらなのだが、Richard Hell, Patti Smith, Lou Reed, Tom Verlaineらの詩(& Punk)は、60-70年代のNY Localの詩人たちの活動とどう関わりながら形作られていったのか。 Punkの詩というとランボーとかギンズバーグとかに短絡的に結びつけられがちだが、NYの場合、それだけではないのだ、と。

Lizzy Goodman “Meet Me in the Bathroom: Rebirth and Rock and Roll in New York City 2001-2011”

どこの書店でも平積みになってて、でもハードカバーで分厚いので買うのは諦めて、でも戻ってきた直後にこっちのRough Tradeに行ったらソフトカバーのサイン本が置いてあったので買った。
これ、おもしろくてとまんない。 タイトル通り、2001年から2011年までのNYの音楽シーンの狂騒を関係ミュージシャンの証言や座談を中心に纏めているのだが、2001年から2006年までは自分も居て日々ライブハウスを渡り歩いたりしていたので、ものすごくよくわかる。どこからでも読めるし。 2001年ていうのはThe Strokesが爆発した年ね、ねんのため。

あの頃ってさー、週末の日中は映画3本続けて見て、夜はライブをはしごとか、割と普通にやってた。それだけライブハウスもあったし、ライブもいっぱいあったのよ。 いま同じことやったらしぬけど。

一箇所びっくりしたのが、LCDのJames Murphyの話で、LCDの前はPonyっていうバンドにいてさー、ていう箇所があって、え...Ponyって見てるんだけど、あなたあのバンドにいたの? だった。 CBGBでWedding Presentがやったとき、前座が3つくらいあったのだが、その3つめだったの。 なんで憶えているかというと、終わってからCD探したりしたくらいに彼らよかったから。 かっこよかったのはJamesではなくてギターの彼だったけど。

雑誌はロンドンではぜんぜん買わなくなってしまって - 結構無料で配っていたりするので - だからNYでは買わなくなるかというとそんなことはなかった。 創刊の頃から買っているGather Journalのテーマは”HEROINES: Women and Art”で、例えば女性の映画監督をテーマにしたコース料理が組んであったりして楽しい。アミューズがLina Wertmüller & Amy Heckerling, スターターが Sofia Coppola, メインがJulie Dash, デザートがJane Campion,  とか。 お料理はなあ…

レコードはBrooklynには行けず、12th stのAcademyで12inchふたつ、Generation Recordsで7inchふたつだけ。
戻ってからだけど、Brian Enoのソロ4つ、Rough Tradeでサイン入りがだーん、てあったので、はじめて大人買い、みたいのしてみた。

食べ物は、新規開拓系はロンドンで犬みたいに掘り続けている(掘っても掘っても..)ので、今回は思いっきり回顧系の、懐かしいから食べたいんだよう、なやつばかりにした。 LondonとNY、やっぱりぜんぜんちがうねえ、ていう確認も含めて。

Russ & Daughters Cafe(28晩: オランダニシン) → Lupa (29昼:カルボナーラ) → Blue Hill (29晩:豚豚豚) → Prune (30朝:パンケーキ) → Lafayette Grand Café (31朝:たまご) → Prince St. Pizza (31昼:ピザ)

なんといってもオランダニシンだわ。あれ食べにオランダ行ってもいい。
Pruneは朝10:00のオープンに並んだのだが(映画の時間があったので)、時間がきて始まる直前にお店のみんながどんちゃかおお騒ぎするの楽しかった。

唯一悔やまれるのが31日で現在のお店をCloseしてしまったBouleyで、もう少し前に予約できていればー、だったのだが割りこむことはできなかった。

下記の記事にもあるようにBouleyていうのは90年代以降のNYの食のありようを変えるくらいに大きな存在で、昔のDuane St沿いにあったところで食べたお皿はとんでもなくすごくて、彼はまたどこかで再開してくれるのだろうけど、なー。

http://www.grubstreet.com/2017/07/bouley-restaurant-will-close.html

行きの飛行機 - 帰りの飛行機で、一本づつ見た映画を少しだけ。

Table 19 (2017)

Duplass兄弟製作によるコメディで、過去いろいろあった親友の結婚式に意を決して出席したEloise (Anna Kendrick)だったが、披露宴であてがわれた席は19番、一番遠くてはぐれ者みたいな連中が寄せ集められたテーブルで座ってるひとりひとりが変すぎて、あーあ... って真っ暗になるの。
いかにもDuplass兄弟、ていうかんじのひねくれたコメディで悪くないけど、もうちょっとおもしろくできたよねえ。
彼らHBOでは"Room 104"てやってるのね(未見)。

I, Daniel Blake (2016)


以前に飛行機で試したとき、冒頭の会話のとこで挫折したやつをもう一回。 最後まで見れたけど、お話はきつくて悲しい。
(テーマと直接関係ないけど) 社会のいろんなのが外出しされてきれいにサービス化されていく裏側で、巧妙に貧困や格差の問題が隠されてしまう現実。 それをやっている(それで儲けておいしい思いをしている)のは誰なのか。
日本もあんなふうになっていっちゃうのよね。きっと。(もうなっているのか)

こんなもんかしら。 まだあったかしら?

8.07.2017

[music] Panorama 2017 そのた

Panorama、NIN以外のやつを書いてなかった。あんまないけど。

30日の15:00くらいにバスでマンハッタンの東の岸にバスで向かって、昨年同様フェリーに乗る。
昨年は前売り買うときに往復でいくらだったか、フェリーのチケットを買って、でも行き帰りになんのチェックもなしで乗れたので今年は買わないでおいたら、やはりぜんぜんチェックなかった(Panoramaのe-Ticketを見せたくらい)。
フェリーで、前の席に座った女子ふたりがすごい勢いでポーズをとりながら互いの写真を大量に撮りあっていて、ああこれがミレニアル世代ていうんだわ、てこわごわみてた。

入口抜けてすぐ、かんかん照りで日差しを避けたかったので、メインのステージの反対側のPavilionていうテントに逃れる。

Angel Olsen  16:20〜
ギター2台、彼女を含むと3台のGとKey2で、思っていたよりも分厚いダークな音を吹きっさらしにしていて、気持ちよい。
客あしらいも堂々、歌は曲によってちょっと不安になるところもあったけど、バックヴォーカルの人とうまくカバーしあってて、全体としては腰の据わったかっこよさ(おらおら)と力強さがあって、そういう、いいから好きに楽しんでってな、なかんじに触れるとああフェスに来たんだわ、の気分にきれいにはまるのだった。

Cloud Nothings  17:40〜
昨年James Murphy & Soulwaxのチームがばりばりのディスコを作った小屋が、今回は同サイズのライブスペースになってて、そこで見た。 入口出口が閉じてて暗くて、空調も効いているので暑さと眩しさから逃れたいひと(今回は晩のメインまではできるだけ消耗したくない)にはうってつけで、隅っこで寝っ転がって聴いてた。
2014年の新木場で見たときは3人だったが今は4人で、ギターのがしゃがしゃと垂直に落ちるドラムスのばりばりどかどかがひたすら爽快に鳴って、勢いは後半にぐいぐい上がっていって、ステージ前の暴れっぷりがすごそうなのは寝っ転がっていてもわかった。(←おきろ)
バックでB級映画ぽい映像をえんえん流していたのだが、あれ、なんだったのかしら。気になる。

途中でメインステージで始まるGlass Animalsとかいうのの方に結構な数ぞろぞろ移動して行っちゃったのだが、ねえねえ、あんなお子さまみたいなふわふわのへなちょこ、どこがいいの?

A Tribe Called Quest  19:30〜
メインの、NINの前のなので、ご飯を買いに並んで、そのあとで後ろのほうで座ったり転がったりしながら聴いた。(← 立ちあがれ)
ATCQはドキュメンタリーの"Beats, Rhymes & Life: The Travels of a Tribe Called Quest"(2011) も見てるし、新しいのは聴いていないけどCDも何枚か聴いてるし、ちょっとだけ楽しみだった。
スクリーンには昨年亡くなられたPhife Dawgの姿が何度か映し出されて、彼は真ん中くらいにゲストで「参加」したりもして、追悼モードもあるかと思ったが全体としては地元バンドだし、最後になるという声も聞こえたので夕暮れ時の盛りあがり大パーティになっていた。
"Steve Biko (Stir It Up)"とか"Buggin' Out"とか、 ラストの" We the People.... "の大連呼とか、ううう気持ちいい夏休みー、だった。

次のSpider-Man sequelのテーマはATCQでいきたいねえ。

ご飯はスイカのジュース(関係ないけど、ロンドンのスイカのジュースはおいしいの)と、Roberta'sのPizza(昨年も食べた)とアイスクリームと、それくらい。ロンドンでもそうだったが、だんだんに並ぶのが面倒になってきていて、よくないかも、て反省した。

物販はNINのお店が特別にあったのだが3日目の午後遅くにいっても、アナログふたつしか残ってないし、TシャツはXLしかないし、ほぼすっからかんだった。 あと、RoughTrade NYCがお店を出していたのでわーい、て突撃したが、こっちもスカスカだった。

終わったあとの帰りもフェリーで、マンハッタンに着いてからはバスがなかなか来ないので地下鉄の駅まで歩いた。(ここも昨年とおなじ)

全体としては半分以上草の上にごろごろ寝転がってばかりの、ものすごく楽で適当なフェスで、こんなんでいいのよね、だった。

来年も来れますようにー。

[film] Atomic Blonde (2017)

31日、月曜の午後、ホテルをチェックアウトして空港に向かう直前に、Union Squareのシネコンでみました。
今回の映画関係、英国ではあんま上映されなさそうなやつを選んで見ていったのだが、これは間もなく英国でも公開されるの。 どうせ見るんだからこっちで、という考えかたもある、ってことよ。

時は89年 - 高橋源一郎が『追憶の一九八九年』で描いたあの89年、「壁」が崩壊直前〜直後のベルリンを舞台に機密を巡って暗躍する東西のスパイの戦いをMI6のLorraine (Charlize Theron) の大暴れを中心に描く。 ストーリーに目新しいところはなくて、ベルリン駐在の協力者(James McAvoy)がいて、フランスの協力者Delphine (Sofia Boutella)がいて、仁義もくそもないわかりやすくてやたら痛そうな血みどろの戦いがあって、多くのスパイ戦がそうである/であったように最後はどっちが勝ったのか負けたのか。

“Mad Max: Fury Road” (2015)のFuriosa役でCharlize Theronに惚れちゃったひとにはあれを上回る勢いで彼女が動き回ってクソみたいな男共をぐっさぐさのぼこぼこにしてくれるし、どこをどうやったらあんなふうに撮れるんだかわからないカメラの動きもなんかすごい、のかもしれない。(監督のキャリアを見たら納得かも)

途切れずにやってくる多勢を延々相手にするとか、上から下から360度でぐるぐる展開するとか、やたら痛そうなとこを思いっきりぐさぐさとか、Marvelの一連のとか"Kick Ass"や"Kingsman"が積み重ねてきた格闘のコレオグラフをここのLorraineはものすごく自然にクールにやっちゃっていて痺れる。

アクション以上に音楽がたまんないの(ていう奴もいる)。
“Blue Monday '88”に始まって”Under Pressure”でおわる。
怒涛の80's B級ポップのオンパレード。人によって衝かれるとこはそれぞれだろうけど、いちばん切なく、基調音として鳴っている気がしたのは”Voices Carry” - 2回流れる - だろうか。
(”99 Luftballons”も2回流れたか… )
今の時代、割とおちゃらけたギャグとかWedding Singerのネタでしか出てこないようなあれらの曲群が、音量と鳴らせかたによっては - “I Ran (So Far Away)” ですらも - 極めて切なく、ソリッドに、かっこよく鳴ることを証明(.. ていうほどでもないけど)してみせただけでもえらい! っておもう。  主人公Lorraineの顔もとげとげしててぎすぎす暗くて、でも割とあんなふうに不機嫌だったのよ。

なんでいま89年のベルリンなのか。もうとうの昔に終わった時代のことなのに。
そう、もうとっくの昔で、壁があった時代のことなんて、あそこでどれだけの血が流されたかなんて、誰も気にしないでしらっとふつうに生活できる。 でもそれがどれだけおかしくて不自然なことなのか、ってことよ。
LBGTだってそう、ついこないだまで犯罪にされていたんだよ、それで投獄されたり狂っちゃったり殺されたりしたひとが山ほどいた。それってまだ終わった話ではないよね? なにをもって終わったっていうのかしら? ていうことを LorraineとDelphineの切ない恋が訴えてきて、それは壁に纏わる悲劇を反射しながらいまの我々のいまにも刺さってくる。 壁はまだある。
だから歴史を学ぶこと、忘れないことはだいじなの。勝手に修正して自画自賛してんじゃねえよ。

"Captain America"のシリーズは二次大戦時に生まれたファシズムの脅威が現代にも連なるものであることをマチズモぷんぷんで訴えていたが、こっちのは冷戦時の壁が容易には消えない/消せないものであることをフェミニズム観点で暗く静かに語る。
いま必要なのはどちらかというとこっちのほうだとおもう。

あと、James McAvoy、悪くないけど、この人がどんだけ酷いめにあって痛めつけられても別にどうでもよくなりつつあるのって、よくないかも。

あと、"Wonder Woman"みたいなくだんないプロモーションはもうやめて。
いいかげん・や・め・て。

8.06.2017

[art] Carol Rama: Antibodies

美術館関係の続き。 29日の土曜日の午後から。下の方におりていった。

Magnum Manifesto

BoweryのICP (International Center of Photography)での展示。
47年にRobert Capa、Henri Cartier-Bressonらによって設立されたMagnum Photosの70年を記念した回顧展で、このふたりのは勿論、Raymond Depardon, Elliott Erwitt, Joseph Koudelka, Sergio Larrain, Susan Meiselas, Martin Parr, W. Eugene Smith, Marc Riboud, Alec Soth,  Dennis Stock, といった誰もが知っている大御所の写真だけではなく、動画や本やメディアなども含めて総括している。
で、それは単に写真を並べているだけではなく、二次大戦後の(西欧を中心とした)世界や社会がどう変貌していったか、それらが彼らの目はどう映ったのかをストレートに提示していて、知っている映像も多いのだが、結構重い。世界がよい方に向かっているとはぜんぜん思えないから。

なので、眼がついほんわかしたほうを求めてしまう。
Elliott Erwittの”Louise and Kitten” (1953)とか、ね。

そういうのも含めてここ70年間の写真表現がどう世界に刺さってきたのかを俯瞰できる必見の展示。
カタログはおめでたいバカナショナリスト共をぶん殴るのにちょうどいい仕様の武器にもなりそうなやつだったが、英国でも売っていた気がするのでやめて、通りの反対側のNew Museumに入る。

土日のここは天気がよければ屋上が開放されているので、まずそこに行って、おひさしぶりぃー、てその方角の誰かに向かっていう。 そこから4階 → 3階 → 2階の順で見ていく。 展示3つ、全て女性のアーティストによるもの。

Lynette Yiadom-Boakye: Under-Song For A Cipher

b.1977の英国の画家。照明を落としたフロアで、ここには珍しく大判の油彩のみ17点が並んでいる。 描かれているのはどれもAfricansの肖像で、情報がなければとても21世紀の画家の作品には見えない。ヨーロッパの伝統的な肖像画のそれに沿っているようで、でも描かれたひとりひとりの眼差しやポーズは明らかに現代のそれで、それがわかる、というところが肝心なのかしら。

Zadie SmithがNew Yorkerに書いた論評。
http://www.newyorker.com/magazine/2017/06/19/lynette-yiadom-boakyes-imaginary-portraits

あと、美術館のこの展示のサイトにあるオーディオガイドに入っている彼女の声がすばらしく素敵なので聞いてみましょう。

Kaari Upson: Good thing you are not alone

b.1972のLAのアーティスト。「ひとりじゃないって素敵なこと」
ビデオにインスタレーションに落書きのようなドローイングに盛りだくさん、思いっきりぶちまけてやったかんじで、でもウェットじゃないので気持ちよい。
インスタレーションは、大規模通販業の配送センターらしいところに”Idiot’s xxxx”(猿でもわかるxxx)のいろんなのが山のように積まれてて、その脇で配送員の死骸(マネキン)がごろごろ…
もっとやっちゃえー、感が満載でたまんなかった。

Carol Rama: Antibodies

イタリアのCarol Rama (1918-2015)のアメリカでは過去最大級の回顧展だという。
入り口に展示されている自画像(1937)がとてもかわいらしく素朴なかんじのやつなので、気を緩めてしまうと、そこから先、30年代末から今世紀初めまで、60〜70年代に抽象に向かったのを除けば一貫して強烈な”Antibodies”な、変換すると怒涛の下ネタのオンパレードで圧倒されるのだが、こちらも清々しさがいっぱい。 おらおらおら、あんたらが求めてるのはこんなもんだこれでもくらえー、って。
とっても感銘うけたのでカタログ買った。

MOMAは30日の日曜日、”Strange Weather”見た後、Panoramaに行く前に行った。
一番見たかったのは”Maureen Gallace: Clear Day”だったのだが、これは5th AveではなくてPS1でやっていることを着いてから知ってしょんぼり。

Frank Lloyd Wright at 150: Unpacking the Archive

生きていれば150歳になるFLWのお蔵出し。こんなお蔵、いくらでもありそうなのでざーっと流しただけ。
最初のコーナーが旧帝国ホテルに関するあれこれで、あーあ、しか出てこない。こんなに美しくてかっこいいてのに、もうないんだよ。移築すればいいってもんじゃないわよ。ほんっとにさー、最近のオリンピックの浮かれ具合もいいかげんうんざりだけど、東京ってほんとに世界でいちばん美しくない都になりつつあるよね。で、みんなそれでいい、あんなのがかっこいいと思ってるんだよね。ほんとやだ。

て、最初にそういうのがぐるぐる回りだしたので、後はあまり集中できなかった。
建築は基本建ったやつを見ないと、と思っているのだが、彼の図面はどれもかっこいいねえ。

Making Space: Women Artists and Postwar Abstraction

戦後から68年頃(フェミニズムが起動された頃)までの女性アーティストの抽象表現 - 絵画、写真、彫刻、テキスタイル、セラミック、などなど - の流れを同館の収蔵品を中心に並べたもの。 これも走り抜けるかんじだったのだが。

時間軸の切りとり方とこの時間で切るとしたときに、なぜ女性なのか - この時代にプロフェッショナルとして自立する女性アーティストが(男性と比べると)より多くでてきたから - というのが美術館の説明にはあるのだが、それと個々の展示内容があまり同期していない気がした。 だってふつう、大抵の抽象表現て、そういうクロノロジカルな同期や同調をぶっこわしたり拒絶したりする方向に機能するもんじゃないの?  いや、そういうとこも含めて”Making Space”したのだ、と言われればはあそうですか、なんだけど。

美術館まわりは以上。 Brooklynも行きたかったよう。

8.04.2017

[art] Rei Kawakubo / Comme des Garçons: Art of the In-Between

美術館関係をどうやって書いていくべきか、わかんないけどとりあえず書いていってみる。

29日の朝に、まずMetropolitanに行って10:00のオープンをまつ。

Irving Penn: Centennial

Metの壁の横断幕にでかでか貼ってあったのがこのExhibitionので、その写真はPennが1950年に奥さんのLisa Fonssagrives-Pennを撮った”Rochas Mermaid Dress”。
入口に彼の使っていたRolleiflex が置いてあって、そこから彼の70年に渡る全キャリアを約190枚で総括する。
ファッション写真は勿論、労働者や移民、静物、オブジェ、実験モノまでほんとにいろいろ。

元々画家志望だったせいもあるのか、いかに対象やモデルを美しくきれいに、かっこよく撮るか、ということ以上に、いかにその対象が印画紙上にその存在を、その影を、それがそこにある、ということを正確にきっちりと写し取るのか、ということに注力しているように思えた。
その点ではファッションモデルもタバコの吸い殻も同列の強度でそこにあるのだった。

動きをいかに流麗に、動きそのものとして撮るか、というテーマもあるし、その動きをもたらす軸や重心はどこにあるのかを見極めようとフレームを置く、そういうのもあって、Pennが追っているのは明らかに後者で(August Sanderとかも)、そういうのって見れば見るほどこっちも固まってしまうことになる。
ペルーの人々の存在感のすごさ、強さ、ってなんなのか、とか。

あと、彼がポートレート撮影の際に背景幕として使っていたもの - パリの古い劇場のカーテンだったという- が展示されていて、その爛れたようななんともいえないグレイの質感がよくて、写真と同じように眺めてしまうのだった。


Rei Kawakubo / Comme des Garçons: Art of the In-Between

METの今夏のファッションもの展示。
Fashion Instituteの方でやってるのかと思って行ったら反対側の西洋絵画の方だったので走って戻った。

展示会場のライティングは白で、青山のブティック(入ったことないけど)みたいに明るく見渡すことができて、フロアだけじゃなくて上の方にも並んでいて、一見お店みたいなのだが、展示されているもの個々のブツを覗きこんで、更にそのタイトルを見てみると結構戦慄する。

テーマは"Art of the In-Between"で、これだけ見れば日本的な「間」の追及かと思えないでもないが、勿論そんなんではなくて、西欧的な二項対立 - Absence/Presence, Design/Not Design, Fashion/Anti-Fashion, Model/Multiple, Then/Now, High/Low, Self/Other, Object/Subject - などなどが果てしなく生み出す分断とか融和の(無意識も含めた)ふるまいを個人の知覚触覚の一番近いところで着脱される衣服というものに適用してみたらどんなフォルムやシェイプやカラーが出てくるのかしら、ていう。

朝から晩まで、生まれてから死ぬまで、ずっと皮膚、表皮、(あるいは生殖器)の上に被さったり包んだり乗っかったりしているヒトの衣服というものは、成長とか老いとかいろんなイベントに応じたり適応したり飾りたてたり場合によっては逆らったりしながら、どんなふうにその貌を変容させていくのか、あるいはその逆に衣服のありようが、どんなふうにそれを着るひと、生、性、それを見るひとの意識や動きを縛ったり解いたりしていくのか、ていう思弁とデザインとの、あるいは思弁と欲望との、あるいはそれらと実際のブツとの、あるいはそれが置かれる空間との、いろんなIn-Between(s)とその果てしない掛け算。

例えば数年前のAlexander McQueenの回顧、あの展示内容を大ざっぱに”Primitive"と形容するのであれば、あれとの対比で"Avant-Garde"という形容を使うのはわかんなくもない。 でも個人的にはRei Kawakuboのファッションて、成り立ちと原理が明快で判りやすくて、それゆえに強い、てずっと思ってきた。 その結果として"Avant-Garde"と呼ばれてしまうのはあるのだろうけど。

なので、あーすげえかっこいいー、ばっかしだった。 これを80年代のわかりやすさ、と言ったら怒られるのかしら。

カタログと会場の詳細が描かれたExhibition Albumをふたつ買った(あわせて買うと割引で)。 Irving Pennのカタログは悩んで買うのやめて正解だった。両方買ったら重くてしんでた。

そこから上の方にのぼって11:00に開くNeue Galerie New York。

Richard Gerstl

ドイツの(分類上)プレ表現主義の画家 - 6年間の活動の後、25歳で殆どの作品や手紙を焼いて自殺してしまった彼のことはあまり知らなかったのだが、宣伝で使われているニカってかんじで笑う自画像とか青をバックにセミヌードの直立不動でこっちを睨んでいる自画像とか、ふつうこんな自画像は描かないだろやばいだろ、と思っていたらやはり相当にやばかった。
米国の美術館では初の回顧展だそう。

彼が描いた66点の絵画と8点のDrawingのうち55点が展示されていて、数はあまりないのだがどれも個々の作品がもたらす印象は強烈で、特に最後のほうの、ぼやぼやの輪郭だけになった人体とか、Schoenberg一家の塗り壁状態の肖像とか、同様に溶け崩れ始めている風景とか、なんかすごい。 Schoenbergとの交流 - 彼はSchoenbergの妻と関係を持ってそれが自殺の原因だったとされる - についてはSchoenbergの部屋がひとつあって、そこにSchoenbergの描いた自画像複数 - "Gaze" (1910) のほんものがあった- と、Gerstlの最後の作品と言われるSchoenberg夫人の顔のないヌードがあって、沢山のSchoenbergの顔と、顔のないヌードと、Schoenbergの音楽に囲まれてなんとも異様なかんじにとらわれる。 肉とか輪郭とかより、魂ってあるのかないのか、やっぱりあるように思えて、だとしたらそれはどんなふうに現されるのか、とかその辺をダイレクトにえぐってくるの。

カタログを買わないわけにはいかなくて(だってここのずっと買ってるし..)、結局重くて死にそうになりながらバスに乗って下のほうに向かった。

ここで一旦切ります。

8.03.2017

[film] Strange Weather (2016)

30日の午前11:00、Panoramaに向かう前にVillage East Cinema - ここもなくなりませんように - でみました。
日曜の午前だと$8で入れるの。 客はぜんぶで4人くらい。

理由はSharon Van Ettenさんが音楽をやっているのと、こないだの"The Big Sick"でも見事なお母ちゃんぶりを発揮していたHolly Hunterさんがここでも母親をやっている、というのと、それくらい。

ひとりでどこか殺伐と暮らしているDarcy (Holly Hunter)は、旧友と会話しているうち、自殺した息子が死に至った原因は、彼が企画していたホットドッグチェーンのネタを当時の仲間に横取りされたからではないか、と直感的に思いあたり、当時を知る彼の友人達を手繰って今はそのチェーンで成功している野郎に会って真相を確かめるべく、Deep Southに向かって車を走らせる。

ストーリーとしてはこの程度で、母の怒りが渦を巻いて血が血を呼ぶ復讐の物語でも、埋もれてしまった過去を泥臭く掘っていく謎解きサスペンス、でもないの。
死んだ息子がもう帰ってこないことは十分わかっていて、それでもひとり残された家族としてなんらかの落とし前をつけよう/つけられるかも、って息子が自分の頭を撃ち抜いたときに使った銃を懐に入れて南に向かう - ガタガタした車と一本道が続いていくロードムービー的な色合いが濃い。

"The Big Sick"のときはややウェットだったHolly Hunterの母親っぷり(まあ、ここでの娘はまだ生きているし)は、この映画ではかさかさに乾いてそれでも最後のなにかを振り絞るような、刺し違えることだって厭わないような凄絶さがあって、特に最後に起業野郎のとこにたどり着いて問い詰めていくところなんて怖くて泣きそうになるのだが、容赦なんてかけらもないの。 失うものがなにもない女の強さを思いっきり叩きつけて振り返らずに去る。

そしてここにカントリーでも南方のR&Bでもなく、靴底を叩くようなSharon Van Ettenさんの重心低めのざらっとしたギター、そのモノクロの響きが空と道路を埋めていくのは正解としかいいようがなくて、そこだけ繰り返し何度でも見ていられて、ここがあるからこの映画はいいや、になる。

映画としての難をいうと、Holly Hunterさんひとりが突出してすごくて、そういうドラマなのでしょうがないのだろうが、ちょっとバランスがわるいかも。 旅の相棒にしても息子の旧友にしても、彼らをもっと面白く見せておけば、後でもっといろんな表情が出て、”Strange Weather”と呼べるような膨らみが出たとおもうんだけどー。

日本にも来てほしいけど、まずは”The Big Sick”からよ。

[film] Brigsby Bear (2017)

場所はこないだCloseが発表されたHouston st.沿いのLandmark's Sunshine Cinemaで、Webster Hallといいここといい、Bowery BallroomもMercury Loungeも買われちゃうというし、かつての思い出の場所がみーんな取られていく。 取られるんだよ、文化なんて金づるとしか思ってない頭からっぽの金持ち共に。 東京でもLondonでもそうだけど、ほんとに胸糞わるい。

この映画館はブロックバスター系とシネマテーク系の中間にある、あんま当たらなそうな作品をあれこれいっぱい上映してくれて、広々としていて見易いし、ゆるゆるなので部屋を渡ることもできたし、本当に素敵なとこだったの。 残念でならない。

James (Kyle Mooney) とパパ(Mark Hamill)、ママの「親子」3人は隔離された施設のようなところで暮らしているけど一見普通の家族で、Jamesは毎日クマの被り物が悪いのをやっつけるTVショー"Brigsby Bear Adventure"を楽しみにしていて、ショーについてのコメントをネットで発信したりもしている。 でもある晩、星空を見ていたら彼方からパトカーがいっぱいやってきてJamesは連れていかれてしまう。

どういうことかというと、Jamesは子供の頃に彼がパパママと思ってきたふたりに連れ去られ、外界・外気に触れたら危険て摺りこまれて25年間の軟禁状態に置かれていた、と(パパママは当然逮捕)。 Brigsby Bearもパパママが自分たちでこまこま全てを手作り自演していて、ネットも外に出ていかないやつであったと。

まったく事情がのみこめないJamesのところにほんもんのパパとママと妹が現れてなんとか周囲に適応させようとするのだが、これまでの自分の生活とBrigsby Bearを失った衝撃があまりに大きくてセラピスト(Clair Danes)の言うことも耳に入らない。 他方で、彼の持っていたBrigsby BearのVHSが妹の友達とかに広がっていって、Jamesをかわいそうに思った刑事(Greg Kinnear)が押収された着ぐるみ一式を返してくれたあたりから、自分でBrigsby Bearのエピソードを作ってみよう、っていう方に転がっていくの。

もちろん、早くふつうの世界に馴染んでほしい実のパパママはおもしろくないし、彼自身がBrigsby Bear以外の世界・世間を全く知らないので困難は山のように降ってくるのだが。

これ、ものすごくおもしろかった。 人さらい〜拉致監禁犯がその子をものすごくちゃんと育ててしまったら、というのは里子に出す物語のバリエーションとしてあるかもと思うのだが、その「教育者」として微妙にかわいくない着ぐるみ熊を置き、さらにその子にオタク的な素地を植えこんでおいたら、単なるcoming-of-ageの物語に留まらない変てこなやつができあがる。

まともなところでいうと、自分でコンテを描いて、協力者を見つけて、俳優を志したこともある刑事に出演してもらったり、爆破シーンのために火薬を調合してみたり(→大事故)、刑務所の旧パパを訪ねて声を当ててもらったり、そういうこまこました自主製作を通して彼はいろんなことを学んでいくの。そうだよねえ、ていう納得できるとこがあるので、見たあとはとても爽やかな感触が残る。
やっぱり熊は変だけど。

上映後のQ&Aは、前日のBene Coopersmithと同様、主演のKyle Mooneyの、Jamesがそこにいるとしか言いようのない佇まいが強烈だったが、ふたりともSNL出身なのでずっと笑いが絶えない寄席状態になっていた。 このふたりがアイデアを出し合いながら練っていったらあんなんなった、と。 そうじゃろうなー。

音楽の話になって、たまに現場でGin BlossomsとかThe Mighty Mighty Bosstonesとか(Kyleのだって)、90'sの一発屋がかかると雰囲気がよじれた、とか言ってて笑った。

これは日本で上映されないとおかしいって。

"Brigsby Bear"って、Grizzly Bearがよじれたやつだから。 たぶん。 ねんのため。

[film] Person to Person (2017)

28日の5時くらいにJFKに着いて、入国手続きは済んでいたので、空港の外には裏通路みたいなとこを通って簡単に出ることができて、こいつはいけるかも、だったのだが、Uberでマンハッタンに向かうとこのしょっぱな - Van Wyck Expyの夕刻の渋滞に見事にはまってうんざりして - もうさあー、ここの渋滞って30年くらいそのまま放置よね - ホテルに入るまでに1時間強かかって、でもなんとか、Russ & Daughters Cafeで新物のオランダニシン(! すごい)を頬張ってからMetrographの21時の上映に間にあった。 この映画はこの日が初日で、でも上映はこことLincorn Centerの2箇所だけで、監督たちは19時にあっちで挨拶して、21時にこっちで挨拶すると。

同じ時間枠、もういっこの部屋のほうではChantal Akermanの”From the East” (1993)をやってた。 

この回とあと何回かは35mmフィルムでの上映(ちなみに撮影は16mm)で、NYが舞台で、っていうこと以外はあんま知らずに。
NYに暮らす、あんまぱっとしない人々のそれぞれのエピソードが並行して流れていって、交錯するとこもあればしないとこもある。 ロメールの短編オムニバスあたりが一番近いかも(「格言」はないよ)。 ちょっと変な人と人がじたばたうろちょろして、特になにがどう、ってもんでもないのだが、彼らが駆け抜けていった通りや街の空気感や季節のかんじだけが残り香のように漂う、そんなやつ。 最近あんま見ないかんじのインディペンデント映画どまんなかで、嫌いじゃない。

Red Hookの中古レコード屋のおやじ(Bene Coopersmith)がCharlie Parkerの超レア中古(赤盤)が手に入るかも、ていう電話を受けるところから始まる追っかけっことか、タブロイド紙(?)の記者・Editor(Michael Cera)と彼の元に見習いとして入った女の子(Abbi Jacobson)が金持ち未亡人のスキャンダル疑惑を追っかけて奮闘する話とか、自身のセクシュアリティとか体型とかにぐしゃぐしゃ悩んでカリカリしてばっかり、友達や近寄ってくる男の子とうまくいかない高校生(Tavi Gevinson)とか、個々のエピソードがものすごくおもしろい、というよりは、個々の登場人物が独特の臭気とか癖とか、いかにもそこらにいそうで、でもできればあんま関わりたくないかんじを醸していて、その連中のリレーとかそれぞれのトラックが勝手にお構いなしに流れていく、その、こっちだって忙しいんだしがんばってね、みたいな人と人の関わり模様は、確かにNY - マンハッタンでも下の方、それかBrooklynとかQueensのほう - で見たことがある気がして、その風景に昔のR&Bやソウルが被さるとそれだけでたまんないかんじになるのだった。

個人的にたまんなかったのは、取材対象を前に車内でメタルをがんがんに流して頭ぶんぶん吠えてから近づいていくEditorのMichael Ceraで、ああいうのなんかいそうかも。

上映後のQ&Aでは、監督のDustin Guy Defaと登場人物のBene Coopersmith、Isiah Whitlock Jr.、Eleonore Hendricksの4人が並んだのだが、なかでも中古盤屋のおやじを演じたBene Coopersmithさんのあまりのオーラのなさ、というか画面からそのまま出て来たでしょあんた、なかんじに圧倒されたのだった。

映画は2014年の同タイトルの短編を膨らませたものだが、違うアプローチでいろいろ試してみた、だって。

とっても好きな何度でも見たくなる作品だけど、日本での上映は200%ない気がする。 おもしろいのにー。

8.02.2017

[log] August 01 2017

7月28日のお昼くらいにCity Airportを発ったBAの1便ていうのはなんか小さい機体でほんとにアメリカまで飛ぶのかしらと思ったら、席がぜんぶビジネスで、直行せずにまずアイルランドのShannonに停まってそこで全員荷物もって一旦降りて、アメリカの入国審査はここでやって、1時間後にもう一回同じ席に戻る、ていう変なやつだった。 機内TVとかなくて、欲しいひとにはiPadとヘッドホンが配られるの。

帰りのは7月31日の19:30にJFKを発って、8月1日の朝7:00少し前にHeathrowに着いて、約22kgに膨れてしまったガラガラを転がして地下鉄のって、フラットの60数段の階段昇っておうちに入ったのが9:00少し前。 たるいので会社はやすむ。 洗濯して買いもの行って、昼寝は気持ちよかったけど半端にしか寝れない。

実質2.8日の滞在で、映画4本、美術館5つ、ライブひとつ、レコ屋2軒、本屋いっぱい、レストランあれこれ、アイスクリームいっぱい。 そんなもんか。
BrooklynにもQueensにも行けなかったし。Uptown2時間、Midtown1時間、あとはDowntown。

天気は土曜日だけ少し曇っていたけど雨にはならず、あとはひたすら気持ちよい陽射しかんかんのNYの夏で、本当は公園とかカフェでだらだらごろごろできればねえ、だったのだが。「本当はさー」の世界を騙し騙し生きているのがずうっと、20年以上続いている気がする。 やあねえ。

それと同じようにもっと感慨に浸ってぼーっとすべきだったのかもしれない。 でも町はものすごい勢いで変わり続けていてあーあー、なところだらけだった。新しい店ができていてもわーこれなんだろ、ではなくて、前にあったあれ、どこに行っちゃったのかな、の方が気になるとか、Closeや移転が決まっているお店はなくなっちゃうまでにもう一回来れるかな、とか心配のが先に来てしまう。 Trumpのやろう、とか言う以前にもうどうしようもないところまで来ていて、ノスタルジックななんかがそれ(を推進する連中とか)に抗するなんかになるわけがない、ということもわかっていて、じゃあどうするのか、ていうと古い映画でも見るしかないや、って。 70年代の映画に映っているNYはなんか素敵に見えて、じゃあそれと同じことが今のNYを撮っておいて40年後にそんなふうに見えたりするのか?  そうは思えないのよね。
マンハッタンのスカイラインをあんな、歯並びのよくないガキみたいにしちゃって、誰に文句言ったらよいのだろう。

でもそうは言っても、歩いたり地下鉄に乗ったりバスに乗ったり町のある地点からある地点に移動している限りはひたすら心地よくて、(地下鉄の駅構内のうだるような暑さですら)心地よいままに目的地に着いたりしてしまうのでこれは魔法か、と思ったりしていた。 いや、ただの夏休みだっただけよ。

これと同じような感覚がやがてLondonでも湧いてきたりするようになるのだろうか? たぶんなる。 その感覚を呼び覚ます要素って、どんなものなのだろうね。 本屋? レコ屋? 映画館? 乗り物? 食べ物? 建物? 人々? 異国であること? 時間?
というようなことばかり最近考えるようになってしまったのは、やっぱりあれかー。

やっぱりさー、時間がなさすぎるんだよね。 ずっといられるんだったらこんなにジタバタしない。
ほんとに限られてるんだなーやだなー、って思ってばかりになったのは、歳とったからかしら。
いや、たぶんそいつがNYだからだ。

8.01.2017

[music] Nine Inch Nails

NYから戻ってきました。他のPanoramaのも素晴らしかったが、こいつのために来たのだから、やはり別なんだから、先に書いておく。 30日の晩、21:20からの。

先にリリースされたEPも新曲郡も殆ど聴かない状態、"Twin Peaks"の映像も余り見ない状態で臨んだ。
事前の情報としてはAtticus Rossをライブメンバーに組み込んだということ、Bowieのカバーをやっていること、くらい。 これだけで数えて何度目かのリブート・ライブはどんなふうに見えて聴こえてくるのか。

ステージの背後には映像投影用の、ガーゼのように包帯のようにところどころ解れた大布が重なってはためき、各機材には夥しい量のテープの切れ端がこんがらがって絡みついてどうしようもない状態、ライブ直前にバンドからリリースされた写真はやはり同様にこんがらがったケーブルワイヤーの束どっさりがあり、Tシャツを買ってみれば"Add Violence"と書いてある(EPも)。 つまりは。

これまでレコーディング時の、コンソールとかモニターとかスクリーンとかの背後で隠密黒子として働いていたAtticusを表ステージに引っ張り出し、ベースは雇い入れずに Alessandro Cortiniにいいからおまえやっとけ、と押しつけて、つまりこれは総動員の即時の臨戦状態である、思いっきり、目一杯働け、音を出せ、ぶちかませ、そういうモードに入った、という理解でよろしいのか? 

なんて冷静に思えるようになったのはライブ冒頭の洪水のような轟音とその音圧にパニックになってこれはなんじゃなにが起こったのじゃとあたふたしてだいぶ後になってからで、それくらいに問答無用のとんでもないやつだった。彼らのライブは節目節目でそれなりに追っかけて(ふられたりもな)してきたつもりなのだが、それでもまだこういうことが起こるもんなのね。だからライブは止めらんないなのよね。

3日間のフェスの大トリを務める貫禄もその復活祭を最大級の歓迎をもって迎える観客に応える慎ましさも余裕もない、なぜか塹壕トンネルに篭って決死の、最後の反撃を繰り出そうとする、あっけに取られている我々を半泣きしながらタコ殴りする、なにを/なんでそこまで? と思うもののその必死さがぶちまけられる音の壁から伝わってくるので圧倒されて、なんだろうこれは?  と不思議な感触がやってくる。その繰り返し。

それでもこれは劇的な変貌を遂げた、というかんじはしなくて、ついに(うすうす解っていた)その本性をViolentに剥きだしにした、というのが正しいのではなかろうか。前作の「ためらい傷」、それに続くTension tour (2013) で自身が追求し続けてきた自虐、中毒、自壊、傷痕、腐蝕、といったテーマをひと通りなぞってみた後で、ためらっていてもしょうがねえ、と開き直って思いっきり踏みこんでみる。 そこにエスカレートしていくSMプレイの快楽やDavid Lynchふうアートの倒錯を見てもよいのだろうが、それだけだろうか?  今の「アメリカ」に対する何かがあったりはしないだろうか?

ここで彼らがカバーしたDavid Bowieの“I Can’t Give Everything Away”の冒頭のフレーズ - “I know something's very wrong - The pulse returns the prodigal sons” - 更にこの曲が参照している“A New Career in a New Town” (1977)、或いは彼らの最初の共演である”I’m Afraid of Americans” (1995)。 アメリカ(人)に対する畏れをわかっちゃいるけど再定義して、半ば諦め半ば開き直りでモグラ叩きをやっていくしかない。 もうだめかもだけど。 Blackstar -★
パーソナルな追悼という以上に、Bowieの遺作の最後の曲をおおまじで継ごうとしているのだと思った。もっとViolentな、彼の畏れたAmericansのやり方でね。

それにしても、何度でも繰り返すけど、とてつもなくぶっとく、分厚い音だった。 ライブでのAtticus Rossがあそこまで変則自在な飛び道具を用意してくるなんて想像もしていなかった。彼の電撃とIlan Rubinの爆撃、この2ピースが攻撃の軸で要で、残りの3人はその上で好き放題に引いたり押したり叩いたり - その辺の自由度と可変度は倍加していて、これがバンドとしてのNine Inch Nailsで、最後にTrentがぎこちなくメンバー紹介をしたのもそういうことなのよね。

ヤマは死ぬほどあったのだが、”Wish”とか”Reptile”の冒頭、鈍器で殴られてなにが起こったんだかわからなくなるような真っ白の瞬間がたまんなくて、あれはクセになるとおもった。
ヴィジュアルは一部過去の再利用しているのもあったものの、殆どがモノクロの塹壕のなかを小型カメラを持ちこんで撮ったような生々しいやつで、でもそれで十分だった。音に集中しろ、と。

Trentはタンバリンを死ぬほどぶっ叩いていたし、トラメガで怒鳴りまくっていた。 ご機嫌であった。

月曜日に発表になったWebster Hallのはさー。 予知能力があったら一泊延ばしていたのに、そしたらあの小屋にお別れもできたのに、ホテルまで歩いて3分だったのに。ちぇ。

Londonにもきてね。