4.27.2024

[film] Sometimes I Think about Dying (2023)

4月19日、金曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。上映後に監督のRachel Lambertと主演のDaisy RidleyのQ&Aつき。

オレゴンの小さな町の小さな会社 – なにをやっている会社なのかはわからず – で事務をしているFran (Daisy Ridley)がいて、出社するとすぐ机に座ってPCをONにして仕事にかかる。同僚への朝の挨拶もしているかしていないかくらい小さくて、職場でドーナツが出ても手をつけず、世間話にも興味がなくて、髪も適当のほぼすっぴんでPCに向かっているだけ。

という典型的に地味で最近の「ワークスペース」なんて呼び方とは程遠い殺伐としたアメリカの職場の描写が続いて、それだけでなんか嬉しくなってしまったので、以降、レビューとしてあんまちゃんとしたものになっていないかも。

パーティションが切ってあって、見たくない話したくないときは逃げることができて、窓から見える風景もどうでもよい殺風景なもので、少しケミカルの匂いがしてて、給茶コーナーではいつも誰かだらだらしていて、文具コーナーはいつも出しっぱなしで殺伐としてて、要は朝来て仕事をして夕方になったらばらばらと帰る、それだけの場所でしかなく、孤立しているというより別に誰とも仲良くなりたいと思わないしこのままずっと仲良くなくて構わないと思っているFranは”Sometimes I Think about Dying”で、窓から見えるクレーンで首を吊られたり、自動車事故にあったり、蛇に襲われたり、森のなかで横たわったまま虫にたかられていたり、といったことを夢想してうっとりする。自殺したい、というのとはまた別で(わかんないけどたぶん)、自分が打ち棄てられてそのまま朽ちていく - それが持続している状態でありたくて、それを別の自分が見つめて夢想する - 心理学的に説明できるなにかはあるのかもしれないが、その状態の解析や分解に向かうことはなく、Franの職場でのそういう状態 - 仕事というよりはSpreadsheetが好き、って言ってしまうとか、独り暮らしのアパートでレンジご飯を食べたらTVも見ずに22時には寝るとか - のそういう無風で無表情な状態と自分の死んだ姿が対置されていく。 自分も職場ではそういう妄想を30年以上続けているので賛同しかない(のでレビューとしては…)。

ある日、彼女の職場にRobert (Dave Merheje)というハゲの中年男が中途で入ってきて、人柄は悪くなさそうで危険なかんじもしない、彼がFranにチャットで事務のことなどを聞いてきたことをきっかけに少しFranの方から近寄ってみて、仕事の後に映画を見て食事をして、というのをやってみる。でも映画オタクっぽい彼とは何一つ嚙みあわず気まずいままで転がっていくだけで、翌日の彼は前より素っ気なくなっていて、でもここで引き下がったらこれまでと同じになってしまう、と思ったのかどうなのか、飛び降りるかんじで彼の家でのパーティに参加してみるのだが、でもやっぱり…(以降、既視感たっぷりというか、いたたまれないあのかんじの繰り返し)。

という、ふつうのラブストーリーのようなところに落ちる要素がまったくない地味な映画で、最後のほうでしょんぼりしたFranが退職したばかりの女性 - 職場の同僚だった頃は特に親しくもなく、彼女への寄せ書きを書くのも困ったくらい – と偶然再会して少し話してほんの少しだけ何かが… というお話し。

それだけで、映画としてはあまりにも地味すぎてなんもなくて - 厚めの音楽とタイトルの書体とかはちょっとゴージャスかも - こういう不愛想でどん詰まった主人公を描くのであれば同じくオレゴンを舞台にするKelly Reichardtみたいなやり方もあるのに、とか思わないでもない。のだが、Daisy Ridleyの演じるFranはSWのReyの1/10000も動いていないけど、たったひとりだけど、間違いなく一貫した像をつくってそこにいる。そこはよいと思った。

上映後のQ&Aはそんなにおもしろい話はなかったのだが、Franの死体にたかっていた虫たちは本物だったんだって。

4.25.2024

[film] L'ombre de Goya par Jean-Claude Carrière (2022)

4月16日、火曜日の晩、Curzon BloomsburyのDocHouseで見ました。

英語題は”Goya, Carrière and the Ghost of Buñuel”。監督はBoschのドキュメンタリー”El Bosco. El jardín de lossueños” (2016)などを手掛けたJosé Luis López-Linares。

Jean-Claude Carrière (1931-2021)がスペインのGoyaの生家やゆかりの地を訪ねたり、プラド美術館の前で個々の作品の前に立ったりしながら、自分の作品に決定的な影響を与えた - のはもちろんだがそれ以上に幽霊として取り憑いて離れないGoyaの世界について語っていく。彼にはMilos Forman監督によるフィクション – “Goya's Ghosts” (2006)があったりするのだが、そこには触れずに初めて絵の前に立ったときの驚きと共にひとつひとつ。 最初の方で出てくるのがプラド美術館にある“The Threshing Ground or Summer” (1786) -『脱穀場』で、ここにどれだけ多様で雑多なものが描かれているか、いかに構図としてすばらしいものか、描かれている人たちが、その階級も含めてそこで生々しく生きているのか、向こう側の世界、過去に向けた親密な目とともに語って、その目線が表面から想像の世界にまで降りてくると、少しづつLuis Buñuelが顔を出すようになる。このドキュメンタリーにCarrière自身がWriterとして関わっているのでこの辺の組み立ては十分に狙ったものなのだろう。彼の他にCarlos SauraやJulian Schnabelもコメントしたりするが、彼らは別になくてもよいかんじ。

Goyaの個々の作品と掘ればいくらでも出てくるその深さ – 映画のポスターになっている肖像画“The Black Duchess” (1797)から展開していく「指」のおもしろいこと – などについて語りながら、実は自分自身(の作品)について語ってしまっている – 相手がGoyaのような巨匠に対してそれが許されるのは限られた人だと思うのだが、ここではすべての語りが単なる絵画の解説の域を越えて、すんなりとこちらに入ってくる。まるでGoya自身が何かを言わんとしているかのように。

Carrièreはこれを撮りながらおそらく自身の死を十分に意識していて、でも、だからこそ作品やその土地を前にして自分の言葉でGoyaが見ていた何かを語りたかったのだと思う。その相手、向かう対象が一緒に仕事をしていったBuñuelではなくGoyaだった、というのは、それ自体がCarrière/Buñuel ぽいというか。

今度マドリッドに行ったらあの教会には行かねば。


John Singer Sargent: Fashion & Swagger (2024)

4月16日、火曜日の晩、↑のの前にCurzon Bloomsburyで見ました。最初にGoyaのチケットを取って、その前になんかやっていないか見たらこれがあったので、この晩は美術のお勉強映画2本立てで。

日本でも見られるのどうかは不明だが、Exhibition On Screen (EOS)というシリーズがあって、話題の展覧会とか画家とかテーマを取りあげて、英国だと配信で£4.99とかで見ることができる(映画館だと£6.99だったか)。そのシリーズの1本で、ここでも感想を書いたTate Britainでやっている展覧会 – “Sargent and Fashion” – 昨年ボストン美術館では”Fashioned by Sargent”のタイトルで開催された - を取りあげたもの。Tateのはすごくよい展示だったのでまた行きたいと思っている。

内容としてはキュレーターやいろんな専門家が展示の内容に沿ってJohn Singer Sargentの足取りを説明していくもので、日曜美術館あたりとはやはりレベルがぜんぜん。

Sargantの絵に出てくる実在の人物 - 多くはスポンサーのお金持ちやセレブ – Swagger – こちらに向かって見得を切ってくる人々のポーズや表情、目線や指先の仕草の独特さ、ジェンダー(クイアー)アイデンティティ、そんな彼らひとりひとりの身体を覆う、その上に被さったり覆ったりする布や衣服の、ブラッシュ・ストロークの調味料の怪しさと不思議なかんじ – それがどんなふうにその人物の威厳や特別さ、ずっと残るその人の像を引きだすことに成功しているか、について、例えば写真家のTim Walkerが熱く語って、彼がTilda Swintonをモデルに撮ったポートレートなども参照される。

そして絵画の横に彼らが纏っていた衣装(のほんもの、それに近いもの)が並べられることで、その魔法の効力と不思議さを改めて思い知ることになるの。画家以前のスタイリングやコーディネーションのようなところで、既にとんでもなく見る、というより引き出す力があったのではないか、と。

制作当時にしては規格外でスキャンダラスに見えるものもあったみたいだけど、今見ると割とふつうに入ってきて、かっこよいったらないしー。

今週末はTate Modernで始まった”EXPRESSIONISTS KANDINSKY, MÜNTER AND THE BLUE RIDER”にいくんだー。

4.24.2024

[film] El sol del membrillo (1992)

4月17日、水曜日の晩、BFI SouthbankのVíctor Erice特集で見ました。

これはまだ見たことがなかった。英語題は”The Quince Tree Sun”、米国でのタイトルは”Dream of Light”、邦題は『マルメロの陽光』。1992年のカンヌで審査員賞と国際映画批評家連盟(FIPRESCI)賞を受賞している。

どうでもいいけど、QuinceはQuinceってかんじで、「マルメロ」ってなんか違う気がするんだけど(ポルトガル語由来か)。「かりん」の方はなんかわかる。

Ericeが”El sur” (1983)に続けて撮った3本目の長編作で、138分のドキュメンタリー。

マドリッドの画家Antonio López García (1936-)が改築中(?)の自宅に入って木枠からカンバスを作り、一本のQuinceの木の前にイーゼルとカンバスを据えて、自分の足の置き位置にも釘でマークをして、重しを吊るして中心線を決めて、Quinceの実にも縦横の白い線を引いて、自分がこれから描く、描こうとする世界を固定 – することはできないので、基準線を沢山引いて、時間の経過と共に変わっていく世界 - 果実は熟して重くなって下方におりてくるし、差し込む陽の角度は冬に向かって傾いていく – に備えている。雨が降り出すと木の周りにビニールの囲いを作ってその中で作業をするが、激しい雨風にはどうすることもできない。

ものすごく厳格な料理人のような、修行僧のようなきっちりタフな作業をしていくのかというと、そんなでもなくて、ラジカセから音楽を流したり、友達ととりとめないことを話したりしながら描いていく。家の改装で壁を壊したりしている3人の大工さん達と同じような緩さと風通しで日々の時間が流れていく - 日付やその経過は字幕で表示される。

こんなふうに創作の過程を追っていくことで、Antonio López Garcíaの絵画観や創作の秘密を明らかにする、というよりは”The Spirit of the Beehive” (1973)の父親がやっていた養蜂や、”El sur”の父親がやっていたに水当て、のような仕事との相似を描いているような。 相対するのは自然物で、その背後にはよくわからない法則や原理がありそうだが、とにかく変わりやすく絶えず動いていくので思うようにはならなくて、その断面を捕まえるしかない。絵は途中まで油彩で、途中からデッサンに変わって細密で正確であろうとすることに変わりないものの、写真ともハイパーリアリズムのそれとも異なる、「絵」としか言いようのない表象が現れる - でも完成形がこれ、というのは示されない。 そこでは目を見開いて捉える、と同時に「目を閉じる」ことも必要で – 目を閉じることについては”The Spirit of the Beehive”にも”El sur”にも言及があって、Ericeの最新長編作ではタイトルにまでなってしまった。- 目を閉じてみること。

職人的な技巧や時間をかけなければ到達できない境地 や成果 – Ericeの映画もそのひとつかも - についての映画ではなくて、目を開いて見つめること – 目を閉じること、その間に現れる世界のありようを捕まえる、その作法についての映画なのではないか。彼の最初のふたつの長編ではそれを担っていたのは「父親」だったわけだが…

彼の作業と並行して同じく画家である妻のMaría Morenoの作業 - ベッドに横たわるAntonio Lópezをモデルとした絵が描かれているところ、とか彼の家の周囲、マドリッドの住宅街の夜景 – TV画面がぼんやり光っていたり – が映しだされて、どれもシンプルに美しい。いろんな人が出てきていろんなことを喋ったりで楽しくて、138分あっという間なのだが、全体に漂うぽつん、とひとりであるかんじ、はなんなのだろう? ってずっと思っている。

3月の頭にマドリッドに行った時にMuseo Nacional Thyssen-Bornemiszaで見たIsabel Quintanillaの回顧展(すばらしかった。まだやっているので近くの人はぜひ)では、彼女の夫の彫刻家Francisco Lópezの作品の他に、この映画に出てきたMaría Morenoの絵も、モデルとしてポーズをとるAntonio Lópezの(Isabel Quintanillaによる)絵もあったりしたのだが、彼らに共通していると思われる対象 - 静物、家具、壁、家の周り、景色とそれを絵のなかに置く置き方、などがどういう背景(土地、はあるの?)や意識のなかで生まれてきたのか – そこでしばしば対照されるVilhelm Hammershøiの絵画とか。スペイン内戦(の記憶)、はそこにどんなふうに絡まっているのかいないのか、など。

日本は湿気があるので難しいのだが、果物がゆっくりと朽ちて黒ずんで形が壊れていくさまって、こちらではよく目にして、それが妙に美しかったりするので困ったもんよね。(だからといって食べ物は粗末にしないように)

[theatre] Opening Night

4月15日、月曜日の晩、Gielgud Theatreで見ました。

原作はJohn Cassavetesの同名映画(1977)、演出はIvo van Hove、ミュージカルの楽曲はRufus Wainwright、と自分の好きなのが三つ揃いだったのでこれは行かねば、と楽しみにしていたら予定より早く打ち切りの話が出てきたので、やや慌ててチケット取った。

映画の”Opening Night”は大好きで(でも”Love Streams”(1984)のがもっと好き)、昨年7月のイメージ・フォーラムの特集でも見ているのだが、結論からいうと、映画とは別ものとして見た方がよいのかも、とふつうに思った。映画版のどっちに転ぶのか、何がどこでどう破綻してしまうのかの緊張感、そのこんがらがった組まれよう– Opening Nightに向かって冷たく固化していくかのようなそれが、映画と舞台とでは、さらに舞台劇でもミュージカルとなると、薄まるとこ濃くみえるとこ、違ってくるのは当然だと思うし。

映画版でGena Rowlandsの演じた、疲れていろんな妄想や過去のあれこれに怯えて頑迷に閉じこもりシャッターを下ろそうとする、自分の役柄にどうしてもコネクトできない主演女優Myrtleの存在感、その輪郭の強さは圧倒的で、彼女は演技だろうがなんだろうが… って居直るかのようにくっきりとそこにいたのだが、そういう状態にある人がミュージカルで歌って - ミュージカル的な輪を作ってそこに入ろう、入ってもらおうと思うだろうか? (”A Woman Under the Influence” (1974) -『こわれゆく女』で彼女が歌うシーンはあったけど、あんなふうに凍りつくかんじになっちゃうのではないか)

舞台は左手にフルバンド(9人くらい?)がいて、真ん中にあるのは枠の外れたリハーサルルームで、カメラを抱えた撮影クルーが俳優たちの動きを追って、その様子がリアルタイムで正面のプロジェクターに映しだされる(劇場の外に出たり、頭上からのアングルのもたまに入ってきて、これらは録画かも)、といういつものIvo van Hove仕様 – すべては地続きで逃げ場なんてどこにもないのだ、という。

舞台版のMyrtle (Sheridan Smith)は、外見は – その笑顔も含めてなんかかわいらしいかんじで、Gena Rowlandsの超然とした大女優のオーラと磁場はなく、どちらかというといろいろ気をまわし過ぎて疲れて壊れちゃったのかな、という程度で、彼女に憑りつく亡霊のNancy (Shira Haas)も演出家のManny (Hadley Fraser)もプロデューサーのDavid (John Marquez)もMyrtleの元カレで共演男優Maurice (Benjamin Walker)も、全員が爬虫類か化石のように冷たく頑固でとんちきだった映画版に比べるとまだリテラシーがあるというか、彼女なら立ち直ってくれるのでは、というやや暖かめでポジティブな空気のなかにいる。

公演初日に向けたリハーサルとその苦難の旅を秒読みで追っていく舞台、というとこないだ見た舞台 - ”The Motive and The Cue”が思い浮かんで、これは演出家と主演男優のふたりが演劇とは?演技とは?という根源的な問いのまわりをぐるぐる掘っていこうとするものだったが、こっちにはそういうのがなく、鍵となるMyrtleの苦悩や挙動についても、そもそもなんで? が十分に描かれていないので、あーやっちゃったよ… と だいじょうぶ、やれるはず! の間のどたばたとその繰り返しで終わってしまう。それはそれでスリリングだからよい、という見方もあるのだろうが。

で、でも、それを救うというか補うのがRufusの音楽で、バンドサウンドだからか、”Want One” (2003)~ ”Want Two”(2004)の頃のファットで暖かめの音と歌 – これの次の“Release the Stars” (2007)ほどぎらぎらしない - が見事に鳴る。基本のストーリーラインはどん底からの復活、だと思うのだがそこに感動的にはまってしまうよい曲ばかりで – “Opening Night”ってそういうドラマだったっけ? はあるとしても。

帰り、劇場の通路から出口に向かうところにRufusがいたの。最初は人違いじゃないかと思ったけど、何度も彼のライブは見ているし、他の人もあっ、て言ったりしていたので彼だと思う。とっととそのうさんくさい髭を剃って、今回の曲も含めたバンドでのライブをやってほしい。

そういえばRufusがカバーした”Perfect Days”、すごくよかったよねー。

4.22.2024

[film] Eno (2024)

4月20日、土曜日の晩、Barbican Centreで見ました。

この日はRecord Store Day 2024だったので朝早く起きようと思っていたのに起きて立ちあがったらよろけてクローゼットの扉に激突して流血はしなかったもののでっかいたんこぶを作り、半分やるきを失って、Rough Trade Eastに8:30に着いたらとんでもない行列だったので1時間並んで諦めて(昔は6:00に来ていたことを思いだした)、他にもついてないことまみれのしょんぼりだったのだが、晩のこれで救われた。

Brian EnoのドキュメンタリーのUKプレミアで、上映後にEnoと映画関係者とのQ&Aがある。

Barbicanに着いたところで会場に入るEnoさんを見たり(偶然)、有名な人もいっぱい来ていたようで確認できたところだと斜め後ろにPeter Gabriel氏がいて、だれにでもすぐわかる(キリンみたいだから)Thurston Mooreとかも。

監督はGary Hustwit – Dieter Ramsのドキュメンタリー”Rams” (2017)の音楽をEnoが担当してからの付きあいだそう。

上映前のイントロで、上映時間は約1時間半だが、これはGenerative Art作品なので今後同じバージョンのものが上映されることはない、と言われる。?? になるのだが100時間以上のEno自身の発言や関連するインタビューやライブやイベントのフッテージ映像、彼の作品をAIに読みこませてあって、それらをAIがランダム(ではないことが後でわかる)にジェネレートして見せてくれる、と。

で、このアーキテクチャを構築したBrendan Dawesと監督がスクリーンの前にあるなんかの機械(上映後のトークによると、ストックホルムの若者に作ってもらったそう、Sandanceでの上映時にはまだラップトップだったって)の起動ボタンを押して映画がはじまる。

というわけなので、このバージョンについて感想を書いても、これと同じバージョンのものが上映される可能性がそんなにないのだとしたら、どうしたものかー になる。(一般公開時にどうするか/どうやるかについてはまだ検討中、とのこと) 

こうして、池や川のある自宅近くを散策しながら寛いでいろんなことを話すEno、アートスクールの頃からRoxyに入って音楽活動を始めた頃から、Bowieとの共作のこと、80年代に過ごしたNYでのこと、Omnichord1台で作ったApolloの音楽のこと、などのクリップなんかが出てきて、場面が切り替わる時にはスクリプト画面が出てうにゃうにゃやっているので、なんかをGenerativeしているのだわ、というのはわかる。

上映後のトークで、クロノロジカルに纏められたドキュメンタリーは嫌いだしそういうのは作るつもりもなかった、そうで、時代は昔にいったり現代に来たりを散漫に(でもないのだが)繰り返していく。映像の中にも出てくるEnoとPeter Schmidtが1975年に作ったカード作品”Oblique Strategies” - カードを一枚ひくとインストラクションが出る – と同じように何が出てくるかはその時にならないとわからない。 今回の上映会の様子もどこかのタイミングでマテリアルとして加えられ、いつか上映されるかもしれない、など。

個々の中味についてあれこれ言ってもしょうがないのかも知れないが、ひとつだけ、”Discreet Music” (1975) の話から入って、EnoがBowie(の声)について語り、BowieがEnoについて語るところ – Enoってなにをやっているのかよくわからないんだ..とか - のところはなるほどなー、ってものすごく腑に落ちた。あと、客観的に見て- というのが「ない」ことは承知の上で、やはりRoxy MusicとFripp & EnoとCluster & Enoのところ、彼がプロデュースしたいろんなバンドたちについては余りに触れられていなさすぎではなかろうか、とか。あと、先のBowieのコメントの他ではEnoの活動について第三者が何かを述べたり位置づけしたり、ということはしていない。あくまでEnoによるEnoの総括が主 - “Taking Tiger Mountain (By Strategy)”のジャケットみたいな。

あと、あのラスト(だけ?)は決めてあったのではないか、と。

これを従来のドキュメンタリー映画作品と同列に並べて見てよいものか、については議論があるところだろうし、すべきだと思うけど、アート作品(or アートについてのアート作品)として、おもしろいことは確か。対象がEnoだから、というのはあるのだろうが。どうせだから見る側で上映時間の長さまで指定できればよいのに。3時間版とか。- できるはず。

上映後のQ&Aというよりトークがものすごくおもしろかった。

Eno自身からGenerative Artをつくっていく4つのステップが紹介され、これは技術的なるところも含めてこういうものであるとして、それでは従来の映画のEditorはいったい何をすることになるのか? - トークに参加していたEditorの人によると、コントロールフリークであるべき編集の仕事からするとものすごく難しく大変な作業だった、と。作業の流れとしては素材をある塊りで編集して、それをカテゴライズして食べさせて、ロードマップとかストーリーラインのようなものを作って食べさせて、AIとの間でそのやりとりや調整を何度も繰り返し、それでもアウトプットがどうなるのかの予測はつかない、と。

Enoが強調していたのは、すべてをAIのアルゴリズムに委ねてしまうことの脅威と危険性で、なぜならいまの世に出ているアルゴリズムの殆どはMuskとかZuckerbergのようなお金を儲けたい白人男性のために作られている - ソーシャルメディア上のComplexityは分断を作りやすく、分断(差別化)はお金を生むから。そうではなく、ComplexityからSimplicityの方に向かうストーリーを考えていかなければいけないのだ、と。(個人的にはSimplicityにもいろいろあるし、軽く潰されやすいので注意が必要だとは思うけど) ここは本当にそう - 勝手に埋め込まれているAIの怖さ - なんだよ、旧Twitterのいまの気持ちわるさを見てみ。

(アルゴリズムの白人男性優先バイアスについてはドキュメンタリー “Coded Bias” (2020)がわかりやすい)

2018年にBritish Libraryで行われた彼のレクチャー”Music for Installations”の時のメモを見ると、この時点で彼はすでにSimplicityとComplexityの話をしているのね。今回のドキュメンタリー用のネタでもなんでもなく。その時にも思ったけど、この人の自分でおもしろがって多少わからなくてもまず始めてしまうところも含めて、アーティストとしても教育者としても本当に理想の動きのできるひとだなあ、って。

この映画と一緒にツアーしてくれないかしらん。

[film] El espíritu de la colmena (1973)

4月13日、土曜日の夕方、BFI SouthbankのVíctor Erice特集で見ました。

BFI Southbankの一番大きいシアター、NFT1が改修工事でしばらくクローズになっいて、4つあるシアターが3つになり、その影響なのか4月からの特集プログラムが取りにくくて困る。これも直前までSold out印がついていた。

英語題は”The Spirit of the Beehive”、邦題は『ミツバチのささやき』。 日本の公開時にシネ・ヴィヴァンで見て、最初にDVD化された時にもすぐ買って、でもなんかもったいなくて開封してない。

Víctor Ericeのデビュー作で、これはものすごい1本で、どうものすごいかと言うと、デビュー作にその作家のすべてが込められているというのが本当だとしたら、ここには彼が映画を通して語ろうと思った何かが、子供が目の前に広がる世界まるごとを - その誤解も妄信も畏れも込みで - 飲みこもうとするかのようにぜんぶフィルムの上に広げられているから。ミツバチの群れが女王蜂のためだろうがなんだろうが、とにかく花に押し寄せて輝ける花粉の粒をかっさらってくる勢いで箱の中を蜜の光で満たそうとしているかのようで、実際にそうなっていると思うから。

学校に通うまだ小さな姉妹がいて、養蜂をしている父と母と古い家に住んでいて、村に巡回の映画がやってきて、それはフランケンシュタインの映画で、平原が広がって遠くには打ち捨てられた小屋があって、線路があって列車が走っていて、手紙のやりとりがあって、まだ内戦は続いているらしく、大人の世界は子供にはわからないことばかりできょとんとしている。

姉妹ふたりにとっての世界の謎が解きほぐされるわけではなく、そういうものだから、と放置されてしまうわけでもなく、どこからか現れるフランケンシュタイン - まだ恐怖の対象とはなっていない - のような、精霊のようななにかはいるのだ、と目を閉じてごらん、と父は言う。あれだけ果てしない原っぱや、伸びていく線路や、世界の広がりを見せておいて…


El sur (1983)

4月14日、日曜日の晩、BFI Southbankの同じVíctor Erice特集で見ました。原作はスペインのAdelaida García Moralesの短編小説。

↑のデビュー作から10年後に発表された長編2作目。 10年かけるのかー という驚きと、これなら10年かかるかも、という納得がぐるぐる果てのない追いかけっこをして、それはリリースから40年経ったいまでも変わらず。

今回、暗がりを抜けようとしている淡い光のなかに浮かびあがる娘はひとり、前作より少し大きくなり初聖体拝領式のお祝いを前にして、そのために南の方から祖母と父の乳母がやってくる。前作で姉妹たちの目の前に映し出されていたいろんな世界とその謎は、少女の父の - 自分の生まれる前も含めた父のよくわからない過去や水源を見つけだす不思議な能力にも向けられ、その多様なカケラたちと現在を結ぼうとする。

“El sur” - 南 - というのがその方角で、そこにも世界の中心はあり、冒頭で少女Estrellaが父の失踪を知る際も、父が頑なに語ろうとしない過去のその根っこにあるのも、祖母たちがやってくるのも「南」で、そこに行けば過去も含めてすべての謎は解かれて明らかになるのか、そうはならないだろうと思いつつも、自分の知らない土地とそこに(そこでも)流れていた時間に思いは飛んでいって止まらない。自分の大好きな人たちが過ごした土地で、かつて何があったのか? それを知ったら自分には何が起こるのか - 父を嫌いになったり、父は自分を嫌ったりするのだろうか?

どこにでもありそうな家族の、父と娘の柔らかなありようを追いながら、歴史やしきたりのようなものが彼らにしたこと、するであろうことを我々の家族や土地の物語に敷衍できそうなところまで広げてみせる。魔法でもお伽噺でもなく、そうやって動いて、たまにダンスしたりしつつ生きられてきた近代の家族の物語として。

前作に続いてここでも映画は小さくない役割をして、フランケンシュタインが、アナの目の前に現れてみせたように、今度は父親が、スクリーンに現れる女優 - Irene Rios(Aurore Clément)の方に向かって - 映画の世界に消えていってしまうかのような動きを見せる、というのと成長したEstrellaと父との再会に繋ぐことで時間を飛びこえる装置としても機能しているようで、だからこんなふうに。

だからこんなふうに映画はあるし、世界もまた、と。
Víctor Ericeが地面を歩いて水のありかを教えてくれるのを驚嘆の目で見つめるしかないのだった。

4.19.2024

[film] Back to Black (2024)

4月13日、土曜日の昼、CurzonのAldgateで見ました。

Amy Winehouseの評伝ドラマで、彼女については既にドキュメンタリーの”Amy” (2015)とBBCが制作したドキュメンタリー”Amy Winehouse: Back to Black” (2018)もある – どちらも未見 - のだが、こちらはSam Taylor-Johnsonの監督によるドラマ。音楽はNick CaveとWarren Ellis。

冒頭、Amy Winehouse (Marisa Abela)が懸命に走っている姿を少し上から捉えて併走していくショットがあって、最後の方でも反復されるこのがむしゃらで懸命な姿がずっと残る。

Amy Winehouse (1983-2011)については一般の人と同じ程度にしか知らない。彼女が登場した00年代の、特に後半の方は自分が英国音楽から一番遠ざかっていた頃かも。そういう人でも十分にわかる – 楽しめる内容になっている。映画は一部で酷評もあるみたいだけど、地元Camdenの住民からも当時の雰囲気はちゃんと出ている、の声はある、とGuardian紙は。

最初にユダヤ人の家族にいるAmyと彼女が大好きだった祖母のNan (Lesley Manville)と、やはり音楽が好きなタクシー運転手の父Mitch (Eddie Marsan)との関係が描かれて(母との関係は薄い)、歌手としてのデビューはあっさりさくさく進んで、成功もすぐそこにやってきて簡単なのだが、そんなことよりCamdenのパブでBlake Fielder-Civil (Jack O’Connell)と運命の出会いをする。ビリヤードをしていたBlakeがジュークボックスでShangri-Lasの”Leader of the Pack”をかけて口パクと振りでAmyを完全に虜にしてしまうシーン、その瞬間のすばらしいこと。

こうして怒涛の恋におちた二人だったが、Blakeには抜けられないexがいたし彼自身が薬中のちんぴらでいいかげんだし、Amyはそれに負けないアル中の暴れん坊の寂しがりだし、くっついては喧嘩して離れてまた… の繰り返しで、ようやくマイアミで結婚して間もなく彼はあっさり逮捕されて刑務所に入り、彼を信じて面会に通う彼女に離婚したい、と告げる。他にも祖母の死による悲しみが彼女を襲ったり、辛いことばかりが彼女を追いたてていくように見える。

Amyが音楽の世界でいかに、どうやって自分の世界をつくりあげ、その息づかいでのしあがっていったのか、その反対側で酒やドラッグがどれだけ危うい状態を掘り進めていってしまったのか、これらの陽と陰のコントラストのなかに浮かびあがらせる、というより父と祖母とBlakeのそれぞれの関係のなかでキスしてハグしてうんざりして喧嘩して、そういうのの繰り返しの背景というか、その状態のなかで呼吸するように、走り抜けるように彼女は曲を作って歌っていったのだ、という構成。

最期の一番辛そうなところ - 誰も見たくなさそうなところ - は描かれなくて、それでよいのだと思った。最近見た映画で思い浮かべたのは”Priscilla”(2023)で、ここでの歌手でアイコンは男性の方だったが、一途にひとりの男を思って家族をぶっちぎって走っていくその姿はなんだか似ていて、ところどころそっくりの画面もあったようなー。おばあちゃんがよい役割をするところとかも。音楽映画というよりは女性が走り抜ける恋愛映画、として見るのが正しいのかも。

誰がやったって似てない、って文句言われたり嫌われたりしておかしくない役柄をMarisa Abelaはとてもよくこなしていると思った。彼女の柔らかさとJack O’Connellの愚直な筋肉バカっぽい硬さと。 あとはNanaを演じたLesley Manvilleの見事なこと。彼女の役柄でそのまま1本映画を撮れそうなくらい。

挿入されるAmyの歌以外のスコアはNick CaveとWarren Ellisのふたりが楽器演奏も含めて全て自分たちで作っていて(プロデュースはGiles Martin)、エンディングで流れるNick Caveの新曲- "Song for Amy"はとんでもなく沁みてくる名曲 – Nick Caveってこういうのをやらせるとほんと天才 - なので、これを聴くためだけにシアターに行ってもよいの。


ところで明日はRecord Store Day 2024なのだが、どうしたものか、まだ悩んでいる。レコード買っても、まだ聴けないしなー。

[film] Monkey Man (2024)

4月12日、金曜日の晩、CurzonのAldgateで見ました。邦題は『猿男』になるの?

主演のDev Patelの監督デビューで、ストーリーを書いて共同脚本、制作にも関わっていて、制作には
Jordan Peeleの名前もある。B級アクションとして2時間を超えるのはちょっとしんどいのだが、テンションが途切れることはない。

舞台は現代インドのYanataという架空の都市で、村に暮らす子が母に半猿の神Hanuman - 孫悟空のモデルといわれる - の話を何度も聞かされたり読んだり幸せな日々を送っていたのに土地を手に入れようとする町の教祖的な指導者Baba Shakti (Makarand Deshpande)とその手下の腹黒警察署長Rana (Sikandar Kher)に村を焼き討ちされ、母は子供を匿ってRanaに殺され、子供の掌には母を救おうとした時に負った火傷の跡が残っている。

成長した子(Dev Patel) - Kidsって呼ばれてる - は、闇のファイトクラブで、猿のお面を被ったファイターとして生計を立てていて、でもそんなに強くはなくてぼこぼこにされたりしている。

そういうことをしながら、Ranaへの復讐の機会を探るべく彼が出入りする高級売春宿にバーテンダーとして雇われて中に入り、そこで働くギャングの下っぱを味方にしたりしながら階段、ではなくエレベーターを上っていって、ついに対決することになって。

でもそこからtuk-tukで逃げる時に瀕死の重傷を負った彼はヒジュラのコミュニティに助けられて匿われて、そこでよくわかんない薬を嗅いで謎の特訓を受けるととてつもなく強くなって、かつてのファイトクラブでは無敵で、とうとう頂上に立つBabaと対決する、という復讐までの道のりの一段一段と、そこには常に子供の頃の母との思い出と守護神であるHanumanが傍にいるのだった、と。

昔からありそうな敵討ちのお話しが軸で、でも舞台は新興めざましく発展途上で、新しいの旧いのがだんだらごちゃごちゃのインドの都市で、でもカーストや差別のありようは変わっていなくて、ここにこうして伝説の猿の神も絡みヒジュラの人達の蜂起もあって、でも主人公はスリムなスーツに猿の覆面 - 要は聖と俗と新と旧を入り混じらせたなんでもありで、カンフーでもタイの格闘技でも武器の方もなんでもありで – ただ銃器はあまり使わない – 同じ復讐ものでもJohn Wickみたいにスタイリッシュなのにはどうあがいてもなれず、結果“The Raid” (2011)のような泥臭くねちっこい肉弾戦に向かわざるを得ないのだった… というか。

Dev Patel自身のキャリアが”Slumdog Millionaire” (2008)から”The Best Exotic Marigold Hotel” (2011)から“The Personal History of David Copperfield” (2019) - のDavid Copperfield から”The Green Knight” (2021) - のGawain から、なんかめちゃくちゃ雑多で多様で、この流れに猿のお面を被った復讐鬼、を置いてもなんの違和感もなくて、次は虎でも象でもなんでもよいのでは、になる。いや、なんでもよいというよりは、一匹の細い猿が傷だらけになって生きていく様を描くのに(かつてどこかで見た気がする辺りも含めて)ものすごくよい絵になっている、とは思った。そういうところで生きたいか(生き残りたいと思うか)どうかは別として。

最初から無敵ではなくて、何度もやられては立ちあがり、最後に謎の同胞や謎の薬、という辺りもわかりやすいのかも。ただ痛そうなところはどこをどう見たって痛そうなので、痛いの(痛めつけられるの)がだめで嫌な人にはきついかも - 最近そういうのがしんどくなってきた。 修行(なんの?)だと思えばよいのかなあ。

続編はないかもだけどシリーズにして、いろんな動物の神を揃えてAvengersか、彼をモダン版の孫悟空にして西遊記みたいのをやるか、RRRみたいな大風呂敷路線に向かうか。それか『燃え上がる女性記者たち』(2021)の新聞社に彼が入社するとか…

最後にStonesの”Monkey Man”が流れてくれたらなー、と思ったけどやはりそれはなかった。

4.17.2024

[film] Civil War (2024)

4月9日、火曜日の晩、BFI IMAXで見ました。週末の本公開に向けた20:45からのPreview。
予告では日本の『SPY FAMILYなんとか』、の予告もがんがんに掛かっていた。

あと、これの前、18時過ぎには『ドレミファ娘の血は騒ぐ』(1985) – こちらでのタイトルは” Bumpkin Soup”の上映がBFI Southbankであって(実験映画枠)、そちらを見てから(もう何度も見ているのでこの感想はいいかー)。 『ドレミファ娘…』は、NYのJapan Societyでも上映があるようで、グローバルでなんかの陰謀でも動いているの?

英国のAlex Garlandがアメリカ合衆国の内戦を描く、A24で過去最大規模の予算を投入したパニック映画、というより戦争映画、というよりジャーナリストが見た紛争映画。戦争映画に必要な善悪や大義の軸 – どっちがどうだからこう動く - の話はない。

冒頭、国民向けのTV演説の準備をする合衆国大統領 (Nick Offerman)も、まずは自分がどう見えるか、映るかを気にして、説得力をもって蜂起した反乱軍を抑えこむのだ、自分にはそのパワーがあるのだ - というのを伝えることに注力していて、カリフォルニアとテキサスを中心とした反乱勢力が何を訴えていて、合衆国側はこういう立場なのでこういう対応をとる、という説明は一切ない。大統領が赤い方か青い方かによって「反乱」のトーンも変わってくるはずなのだが、それがない。

主人公は報道写真家のLee Smith (Kirsten Dunst)で、長年世界の紛争の前線で写真を撮ってその世界では有名な人で、彼女がクイーンズかブルックリンの方でのデモ(なんのデモかはわからず)~自爆テロ発生 を取材している時に暴行を受けた駆け出しの写真家Jessie (CaileeSpaeny)の面倒をみたら彼女がついてきて、ワシントンDCの大統領にインタビューすべく、同僚の記者Joel (Wagner Moura)とNY Timesのベテラン記者Sammy (Stephen McKinley Henderson)の4人で車に乗って大陸を旅していく、その過程で遭遇するあれこれ。 すこし『地獄の黙示録』(1980)ふうで、実際に前線でどんぱちしている兵士に聞いてもどっちがどっちだかわからんし知らんしどうでもいいし、という返事が返る。車で旅をしながらそういう戦争だか内戦だかのありようを追っていく。

旅の途中でJesse Plemonsの率いる不気味な小隊に捕まって、Joelが「誤解しないでくれ、ぼくらはアメリカ人だ」と言った後にJesse Plemonsが(あの目と言葉で)静かに返す“What kind of American are you?” にどう答えればよいのか、正解があったりするのかの冷や汗、というか、殺されたら終わり、のじゃんけんみたいなゲームでしかないの。 このシーンでもうひとつ衝撃だったのはちゃんと英語で答えを返せないと…)

そういう状態で、冷徹な行動原理で前線の混乱状態をクールに捌いて動いて、すぐに怯えて泣きだすJessieをお母さんのように指導して引っ張ってきたLeeが少しづつおかしくなっていく。ここは自分が相対してきた戦場の現場とは違う、そこで通用しなかった何かが支配している – そしてその反対側でJessieは何に目覚めたのか止まらなくなっていって。

終盤、DCに着いてみれば、過去にいくつかあったホワイトハウス襲撃パニック - 絶体絶命の大統領府を過去に傷があったりするヒーローがダイ・ハード風になんとかする、のおめでたさは微塵もなく、正義とは、倫理とはいったいなんなのか、の問いかけも意味を持たず、その基準線がない状態で報道写真家 – ジャーナリスト、ジャーナリズムは何を伝えるのか、どうあるべきか – それはそのままこれを受けとる我々の方に降りかかってくるだろう。AIの作ったフェイクも含めて大量の暴力的な映像が溢れかえり、「リテラシー」なんて通用しない野蛮な世界で、なにをどうできるというのか? やっちまっていいんじゃないのか? というのが2021年1月に起こったあれで世界に堂々と曝されてしまった。そして、ガザであれだけの殺戮が起こっているのにどうすることもできていない。 その状態に対する極めて冷めたひとつの見解だと思った。それをどう見るか、はあるだろうけど。でもふつう、民間人がひとりでも殺されたらそれは非常事態、だよね。

あの終わり方には賛否あるのかも知れないが、オールド・ジャーナリズムの終わり、ということにしてよいのかしら。『地獄の黙示録』の(35mm版の)終わりみたいにホワイトハウスを焼き払ってもよかったかも。

音楽は”Ex Machina” (2014)の頃からのBen Salisbury & Geoff Barrow。全体としては鳥の囀る静かなところに突然暴れまわる何かがやってくるかんじ - ディストピアの荒んだ光景に見事にはまっていて、とにかく音だけはでっかい方が気持ちよい(たまにびっくりするけど。あとに何も来ないけど)。

政治的なのが嫌な最近の子たちは見ないんだよね?

4.16.2024

[log] New York April 2024

こないだのNYの続きの残りの。
今回の旅の目的は音楽ライブ3つだったので、美術館などは行けたら程度だったのだが、書いていなかったのを少しだけ。

行きの機内で見た映画は2本。

Freud's Last Session (2023)

Mark St. Germainによる同名戯曲を映画化したもの。
第二次大戦が始まった直後のロンドン、闘病中のいろんな苦痛に苦しむSigmund Freud (Anthony Hopkins)のところにC. S. Lewis(Matthew Goode)が訪ねて来て神や神話について議論を重ねる、というところにオーストリアへのナチス侵攻に関わるFreudの回想、Lewisの第一次大戦時のトラウマや、レスビアンであるFreudの娘の話が絡んでいくお話しで、FreudとLewisのふたりが直接会った記録はない(推測)らしく、会ったらこんな対話をしたのでは、というところがちょっと弱くて、これなら本で読みたいかなー、くらい。最近のAnthony Hopkinsって死にかけのおじいちゃん役ばかりよね。

Miller's Girl (2024)


機内のガイドには”comedy”ってあったのにほぼホラーみたいなこわいやつだった。血はとばないけど。
Jenna Ortegaがテネシーの豪邸で独り暮らしをする家の娘で文学に浸かっている高校3年生で、Martin Freemanは本を出版したこともあるクリエイティブ・ライティングの教師で、彼女の文学の才能に驚いてYaleに入学するためのエッセイ執筆に向けて仲良くなっていくのだが、彼女が友人にそそのかれてエロ小説を書いて彼に送ったことからいろいろ巻きこんだ騒動になっていく話で、そんなのJenna Ortegaが勝つに決まっているので、なんかMartinがかわいそうになってしまうのだった。文学の先生ならナボコフ読んでいれば防げたかもしれないのにね。

今回の旅は後から追加で1泊入れたりしたので最初はブルックリンの宿で、次の2泊でマンハッタンに移動して、ちょっとばたばたであまり回れなかった。以下、見た順で。

ICP at 50From the Collection, 1845–2019
1974年に設立されたICP (International Center of Photography)の50周年記念展示。

David Seidner Fragments, 1977–99

同じくICPで、70~80年代のファッション写真のかっこよさ。Tina Chowの肖像とか素敵ったら。

ICPの後、金曜の午後にはPark Avenue Armoryでやっていた

64th Annual New York ABAA International Antiquarian Book Fair

ロンドンでも行ったことあるBook Fairだったが、並んでいる古書の価格が最低でも$1000くらいから、店先に並んでいる安めのでも$600とか、べつにお買い物に来たわけではないのでいろいろ見て回るだけ。ウィトゲンシュタインが1911年に取得した特許「航空機に適用されるプロペラの改良」の原本などが$25000とか。

ロンドンで入ったことのある古本屋もいくつか出店していたが、ここにも買える値段のものはなくてとんでもないわーと思っていたら肩を叩かれて、振り返るとThe Second ShelfのAllisonさんだった。 ロンドンに戻った、というと、じゃあまたね! って。あなたから買った沢山の本たちはつい先週、船便で戻ってきたところですよ。

Giants: Art from the Dean Collection of Swizz Beatz and Alicia Keys

6日の土曜日の午前、桜がきれいだったBrooklyn Museumで。

コレクターとしてのSwizz Beatz and Alicia Keys夫妻がそのコレクションと、これもコレクションなのかBang & Olufsenのすごくよい音のオーディオ。コレクションは素朴系からバスキアからでっかいオブジェからいろいろ、やはりGordon Parksの写真たちのなんともいえない桑原甲子雄のかんじとか。

土曜日の午後は地下鉄で上にいってNeue Galerie NYから。

Klimt Landscapes

Klimtの風景画を集めた展示。実物ではなく複製のも結構あった。
緑の点々が敷きつめられたものが多く、美しいし見ていて飽きないのだが、やっぱり変態がやることっぽいよね、と。 カタログは想定以上にでっかく重かったので次回にする。

そこからMetropolitan Museum of Artに。これまでいろんな人がパニックになっていた入口の券売機はなくなって窓口かモバイルかになっていた。入場料、$30ですってよ。

The Art of the Literary Poster: Works from the Leonard A. Lauder Collection

1890年代のアメリカに登場した、本を読みましょう、みたいなカラーのポスターいろいろ。猫と女性の揃いが絵になるって発見されたのはこの頃からなのかしら?

Indian Skies: The Howard Hodgkin Collection of Indian Court Painting

Howard Hodgkin (1932–2017)の抽象画は大好きなのだが、この人がこんなコレクションをしていたとは。いろんな象さんを描いた絵が沢山あってたまらず、Hodgkinの抽象にある輪郭などを思った。

The Harlem Renaissance and Transatlantic Modernism

1920年代から40年代にかけてのGreat MigrationによりNYのハーレムではどんな形で文化やコミュニティがつくられ、形となっていったのか、を当時の絵画、彫刻、写真などから多角的に追う。プライベートなのからダイナミックなのから、ものすごくよい絵がいっぱいある、見応えのある展示だった。半日いてよいくらい。
アフリカン・アメリカンの側だけでなく、ヨーロピアンであるマティスやピカソやムンクの絵も並置されて、そのインパクトを示していた。

Hidden Faces: Covered Portraits of the Renaissance

ルネサンスの肖像画で、側面とか蝶番とか箱の中とか、いろんな仕掛けによって隠された「肖像」のありかを追う。解説見ないとぜったいわからない。 こないだプラド美術館で見た”Reversos”の展示にも似ているが、あれよりも巧妙かつ陰険な香りがたまんない。画家はHans MemlingとかLucas Cranachとか、いかにもーな奴ら。

お食事系はかつてのPruneのような「いつもの」がなくなってしまった悲しみはまだ続いている(ほんとにかなしい)のだが、Roman’sとか、Estelaとか、朝ごはんでBakeriとか。Korean Townの賑わいにはびっくりだった。

今回、始めのほうがWilliamsburgだったので久々にあの辺を散策したのだが、もう随分変わってしまってびっくりだった(遊んでいたのって10年以上前だしな..)。90年代の終わり、SOHOにフェラガモやシャネルが出来てみるみるつまんなくなっていったのと同じ道をすでに辿っているなー。でもどこかの誰かにとってはすばらしい町になっているのだろう(か)。

かつて猫がいた本屋のSpoonbill & Sugartown Booksはまだがんばっていたので何冊か買った。
本は、以前ほどでっかいのは買わなくなったかも。英国にもある/ありそうだから、で選別したり(よいこ)。

そして、土曜日の夕方18:30にJFKを発って、朝の6:30にヒースローに着いて、地下鉄でお家に戻って、荷物置いて着替えて会社行った。この時間帯のにはもう二度と乗らない。

4.15.2024

[film] Mothers' Instinct (2024)

4月2日、火曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。
監督はフランスのBenoît Delhomme、Barbara Abelの同名小説 (2012)をベルギーのOlivier Masset-Depasseが映画化した”Duelle” (2018)のリメイクだそう。でもこれはアメリカ映画。

60年代アメリカの郊外の閑静な住宅地 - ぜんぶ一軒家 - で隣り合っている家の主婦Celine (Anne Hathaway)とAlice (Jessica Chastain)は歳も近いしそれぞれの男の子の歳も近いので、学校への行き来も出迎えも、子供らがずっと一緒に遊んでいる時間も一緒で家族ぐるみで付きあっていて親友のように仲がよい。

Celineの誕生日のサプライズ・パーティーも少しだけ波風がたったりしたが楽しい会となり、でもその翌日、Celineの息子Maxが具合を悪くして学校を休んで、母が一瞬目を離した時、Aliceが直前に気づいて知らせようと騒いだもののMaxはベランダの高いところから転落して亡くなってしまう。いつも一緒だった親友のMaxが亡くなって混乱するAliceの息子のTheo。

悲嘆にくれるCelineはAliceと距離を置くようになり、抱えられるようにどこかに連れられていなくなって暫くして戻ってきて、なんとか昔のように仲直りしたかに見えたのだが、前よりもTheoのことを気にかけてずっと傍らにいるようになったり、Aliceの家に同居していた義母が心臓の病で亡くなったり、定期的に薬を飲んでいた彼女の死を不審に思ったAliceはCelineの挙動に疑いをもって追い始めたり、Celineの家でTheoがピーナツアレルギーで倒れて病院に運び込まれたり、これもCelineがわざとやったのではないか、と思うようになったり、だんだん視野が狭まっていく。

とても愛していた一人息子を失った喪失感が母たちの思いや振るまいをどんなふうに狂わせていくのかを追っていく、というよりはCelineが悲しんでいるのはわかるし、友人としてなんとかしてあげたいけどどうすることもできないAliceの目で見て、ふたりの間に起こっていく不審な出来事や、Theoに彼女が何かしたりしないか・企んでいないか、という懸念などが具体的な恐怖としてどう立ちあがっていくのか、を中心に描くサスペンス(少しホラー)になっている。のと、反対側に立つAliceのTheoに対するやや過剰ともとれる防御姿勢もどこかで一線を越えたりしないか、というスリルもあり、後半は証拠を探してAliceがCelineの家に忍びこんだり、互いに猜疑心の塊りになって動けなくなっていく金縛りの、エモのジェットコースターのこわさ。(引っ越すか旅行に出るかしようよー、ってずっと)

そして、これはわざとなのだろうが、彼女たちと比べて父親たちの影の薄く頼りないこと – ほぼなにもしないで、自分の都合と機嫌でぶちきれて感情的に突っかかる程度で、真面目なよい人たちぽいけど、それだけ - になっちゃうか、あのふたりの前では。母たちの方がよほど理知的に全体を見ようとしているというー。

Anne HathawayもJessica Chastainも、過去作のなかではおとなしく耐えたり従ったり、というのとはぜんぜんちがう、ざけんじゃねえよ、って一度キレたらものすごく怖くて行くところまで行く(行ける)女性たちを演じてきたと思うのだが、その二人が正面からぶつかって大喧嘩したら.. というところまでは行っていなくて、え、そんな程度で終わっちゃうの? になったのは残念だったかも。飛び道具とかワイヤーアクションまでは求めないけど、向かい合って会話するだけであれだけのテンションをあげられるふたりなんだから、なんかもったいないー。

Theoがどんな大人に成長するのかが楽しみだわ..

あんま関係ないけど、ふたりのお洋服の配色とかセンスはさすがとしか言う他なく、これもMother’s Instinct的ななにかなのか、とか。


少し前に回転ガラス扉に激突して目の上を流血したのに続き、歩道の手前で躓いて転んで膝小僧をきった。もうどうしようもなくダメな老人になってしまった。 次はきっと階段から落ちるか、車にぶつかるかだと思うんー

4.14.2024

[theatre] Plaza Suite

4月1日、月曜日の晩、連休の最後にSavoy theatreで見ました。
この日は、パンダ → 怪獣 → Sarah Jessicaという流れ。

わたしは『フェリスはある朝突然に』を1987年の封切初日に(たしかシネセゾン渋谷で)見て、あまりに楽しかったのでそのまま2回続けて見た(昔はそういうことができた)ものであるし、1998年、”Sex and the City”がHBOでエアされた時にも見て、これはすごいのが始まったわ、ってなったし、Matthew BroderickとSarah Jessica Parkerのふたりが結婚したときもそれはそうでしょうとも! だったし、ある世代の人々にとっては彼らの共演舞台は夢のようなもので、どれだけ酷評されていたって、チケット代が高くたって(高いわ)行くしかないやつだったの。

Matthew Broderickは2019年、Kenneth Lonerganの”The Starry Messenger”の舞台とBFIでの “You Can Count on Me” (2000)の上映があった際のトークでお姿を見たことはあったのだが、Sarah Jessica Parkerははじめて、彼女にとっては初めてのWest Endの舞台となるそう。

原作は1968年に書かれたNeil Simonの戯曲 - ブロードウェイの初演時、演出Mike Nichols, 主演はGeorge C. ScottとMaureen Stapletonだったって。演出はJohn Benjamin Hickeyによる3幕もの。

どの幕も1968年から69年にかけてのNew YorkのThe Plaza Hotel、少しづつ季節が異なる719号室に滞在する目的とどこから来たのか、がそれぞれ異なる1組のカップルのやりとりが中心で、彼ら意外の登場人物はホテルマンなどの3人だけ、ほんの少し。

1幕目が“Visitor from Mamaroneck” - 冬の午後。最初にSarah Jessicaが現れて(それだけで客席がわぁーってなる)、ホテルマンとのやりとりで、ここは本当に719号室? って何度も確認して、20年前に結婚式をあげたこの日、その晩にここに泊まったのよ! ってはしゃぎまくって嬉しそうで(彼女が足をばたばたさせるだけでたまんなくなるのはなぜ?)、でもやがて入ってきたややかっちり堅物ふうの夫のMatthew Broderickは仕事のことで頭がいっぱいらしく彼女の相手も適当に流してばかり、仕事のやり残しがあるのでオフィスに行かねば、とか手続きで秘書を部屋に呼びつけたりで、やがてSarah Jessicaは水面下の夫の浮気に勘づいて…

アニバーサリーの華やぎが会話の進行やちゃんと聞いていなかったりのすれ違いと共にじわじわ萎れて失望に変わっていく悲劇 - とまでは行かない暗い雲のうねりがうまく表現されていて、地味だけど3つの中では一番おもしろかったかも。

2幕目は“Visitor from Hollywood” - 春の午後、ハリウッドの有名プロデューサーをしているMatthewの滞在する719号室に同窓生だったSarah Jessicaが訪ねてくる、という設定で、今度は先に部屋にいるMatthew がぎんぎらセレブの格好と挙動で彼女を迎え、彼女は彼女で、こんな有名な彼と今晩この先ひょっとしちゃったりしたらどうしましょう! って舞いあがってくるくるおかしくなっていくのだが、Matthewの腰の動き(&メガネ)って誰がどうみてもAustin Powersのそれで、怪しすぎて変すぎて話に集中できなくなってしまう。これさえなければあの後どうなったのか、もう少し考える雰囲気になったかも。

3幕目は“Visitor from Forest Hills” - 初夏の午後、ひとり娘の結婚式当日、新郎やゲストを階下に待たせ、ドレスを着た状態で719号室のトイレに鍵をかけて籠城してしまった娘を親であるふたりが互いにあんたのせいよ、って罵って、娘をなだめたりあやしたり、いろんな汗まみれになりながら出ておいでー、ってやるのだが、娘からは何の反応も返ってこないので、つまりこういうことに違いない、ってそれぞれが勝手に憶測の翼を広げて、結果的にふたりの結婚観、夫婦観(の違い)を露わにしていくの。ピンポンのようなやりとりはおもしろいけど結末はだいたい見えているこてこての喜劇なので… まあしょうがないか。

クラシックなホテルを舞台にしたNeil Simonの60’sクラシックだからとは言え、新しい要素などはカケラもなく、これでいいの? にはちょっとなるかも。 Ivo van Hoveにでも演出させてみればよかったのに(やらないか..)。

ふたりが演じた良くも悪くも凝り固まってがちがちの男女をFerris BuellerやCarrie Bradshawだったらどんなふうに見たり評したりしたかしら? など考えてしまう or ということを思い起こさせるために仕掛けた、とか?

帰り、出入口のようなところに人々が溜まっていたので少し待ってみることにした。15分くらいして現れたふたりは疲れも見せずに丁寧にサインしたり話したりしてて、あああのふたりだわ、って改めて噛みしめて帰ったの(サインはまた次回に)。

4.13.2024

[film] Godzilla x Kong: The New Empire (2024)

4月1日の月曜日、Easterの四連休の最後の日のごご、BFI IMAXで見ました。
3Dと2Dの2種類が上映回によって分かれているのだが2Dの方でいいや、にした。3Dでも天地がころころひっくり返ったりおもしろいかも。

お話し、設定は”Godzilla vs Kong” (2021)から繋がっているが人間の登場人物たちは繋がっていない。どんな怪獣が出てきてどんなことをするのかなど、知りたくない人はここから先は読まない方がー。

たぶんもういろんな人が指摘していることだとは思うけど、タイトルの怪獣の間にあった”vs”が”x”になっていて、メインのビジュアルはゴジラとコングが並んでこちらに向かって走ってくる、そういう絵になっていて、これでいいのか? と。怪獣たちが、①向かい合って取っ組み合うのではなく、手は繋いでいないけど一緒にこちらを向いて、②走ってくる。かつてあったゾンビが走るのはありなのか、の議論と同じく、これで、こういうことでよいのか? という原理原則的な問いがまずはくる。

昭和の東宝ゴジラが怪獣同士で手を組んで共通の敵を一緒にやっつける、ということをやりだした途端 - ゴジラがみんなのヒーローみたいになった途端につまんなくなってしまった過去をありありと思い起こさせる。これがなんでつまんなくなるかというと、制御・予測不能であるはずのモンスター(だからモンスター)が人類の味方であるかのような動きをする、それに対して識者(だいたい政府系の御用学者)がその理由 - 宇宙からやってきた外敵から守るという本能だ、など - をもっともらしく説明してきたり、こうしてモンスターはモンスターでもなんでもない、無害なでっかい着ぐるみを被ったキャラ、でしかなくなってしまうからなの。我々の想定通りに動いて火を噴いたりしてくれる怪獣、そんなのを見て何が楽しいのだろう? 特撮? 確かに今回のはピンク色などが多用されててカラフルで楽しいかも。

なので、今回のゴジラはローマのコロッセオを巣にして寝転がったり、コングは地底のホロウアースで虫歯に悩んで人間界で治療してもらったり寂しそうにうろうろしていると、ホロウアースの奥地で、見るからに悪そうなやくざ大猿に支配されている大猿の国を見つけて、その猿帝国が魔法の石を巡って盛りあがって蜂起するのと、そこには人類もすこしだけいてその末裔の少女が地上界にいる… などなど。(大猿の国の野蛮さときたら昔の東映映画なみの)

人間側は怪獣を研究している理知的な科学者のRebecca Hallと彼女が養子にしている孤独な少女(もちろん彼女が救世の鍵となる)と、かっこつけてて無鉄砲で何でも調達屋のDan Stevensと、笑わせ担当お調子者のブロガーBrian Tyree Henryと、もう絵に描いたようにかつてどっかで見た怪獣ものの定型類型をなぞっていて、これこそが僕らの! って喜ぶ人たちもいるのだろう... かね。

ゴジラはGuardian of natureでキング・コングはProtector of humanityという説明があって、まあ仮にそうだとしても巨大な連中が好き放題に暴れまくるおかげでおそらく沢山の人々が亡くなっていて、そこはnatureだのhumanityの名において許しておけ、って。結局”New Empire”なんて言っても強くてでっかいのがのさばって民は潰される – ロクなもんじゃないのね、と。

あと、どうでもいいかもしれないけど、怪獣のデザインがあんましよくない。ぜんぜん恐くないし残らない。あれじゃJurassic Park(まあそうなのだろう。環境的にも)だし、あのモスラはあまりに蟲すぎるし(モスラって妖精じゃないの?)。


Kung Fu Panda 4 (2024)

4月1日、月曜日の昼間、ゴジラの前にCurzon Aldgateで見ました。
前日の晩にマルセイユから帰ってきて、連休の最後の日、目を覚ますのによさそうなやつを、って。

パンダは好きだけど、このアニメーションは何がおもしろいんだろ? と昔は思っていて、でも2とか3を飛行機で見たら結構おもしろかった記憶があり、これが興行収入で”Dune: Part Two”を抜いたのってなんか痛快じゃない? どっちもいろんな生物とか魔法が出てくる弱肉強食の世界だし。

今回、Po (Jack Black)は相変わらずなのだが、老師からDragon Warriorはもう卒業して次の位に昇るべし、って言われて、えー、ってなり、すばしこいキツネのZhen (Awkwafina)と出会い、悪い魔術師のChameleon (Viola Davis)が現れてPoの過去の宿敵(?)たちを呼びよせてそのエネルギーを吸い取って世界を支配しようとする、っていうお話し。

カンフー映画なんだから(ちがうの?)、魔術師なんか出しちゃったらだめでしょ – ていうかカメレオンなら素で十分カンフーできるし、おもしろくなるのに - と思ったが師弟のありようとか償いとか、そのあたりの倫理系はわかりやすく筋が通っていてよいと思った。

しかしこのシリーズ、このままでいくとPoの一生を描くだけになりそうなのが少し心配になった。カンフーは強いけど、それだけでずっと独りぽっちで老師みたいになって消えるのか。歳を重ねてもあの調子で子供っぽく無邪気でうるさいばかりなのか。 それかすべては動物園で飼われていたパンダの夢でした、になるとか。

エンドロールでTenacious Dによる"...Baby One More Time"が大音量でがんがん流れて、これは気持ちよかった。

4.12.2024

[film] Kim’s Video (2023)

4月7日、日曜日の昼、夕方のロンドンに戻る便に乗る前に、Quad Cinemaで見ました。

監督はDavid RedmonとAshley Sabinのふたりで、David Redmonがカメラを抱えてナレーションもしていくドキュメンタリー。

90年代にNYのイーストヴィレッジにできて、ビデオのレンタルと小売り、あとレコードやCDも売っていて、2014年に閉店したカルト/マニア向けのお店で、St Marks pl.の本店の他にBleecker stにも”Kim's Underground”ていうのがあって、”Underground”の方はレコード等を買いによく通った。底なしの穴倉のように暗くてごちゃごちゃ怪しく、なにもかも見つけにくいのだが、実験音楽やプログレも含めて英国盤や欧州盤を入手できるレコ屋は珍しくて - 価格は決して安くない - で、The Magnetic Fieldsなんかも確かここで出会ったのではなかったか。映画のVHSなどは、90年代はそんなに映画を追っていたわけではなかったし、レンタルしたのって返しにいくのが面倒だし、『神の道化師、フランチェスコ』のブートレッグみたいなVHSを買ったくらい(まだ自宅にあるはず)。

で、ドキュメンタリー映画になった”Other Music” (2019)のあのお店もKim’sにいた店員らが立ちあげた、と聞いたので、Kim’sはその親玉みたいなもの – だからそのドキュメンタリーはあのお店がどんなふうにできあがって、あのコレクションとか品揃えは誰がどこからどう持ってきたのかとか、或いは”Other Music”のようにあの場所に入り浸っていた人たちにとって、どんな意味のあるお店だったのかを聞いたり語ったりしていくようなやつだと思っていた。 ら、ぜーんぜん、ものすごくちがった。階段を6段くらい踏み外したかんじ。

まずは街角のひとにKim’s Videoを知っているか? って認知度を聞いたりしてどんなお店だったのか、の簡単な概要を説明してから、閉店した後に店にあったビデオたちがどうなったのか? を追って話は突然イタリアのSalemiに飛ぶ。現地を襲った震災からの復興を目的とした観光資源のひとつとすべくお店のコレクションを町に寄贈したのだ、って。

で、カメラを抱えて現地に飛んでみると、ビデオたちは段ボールに入れられ積まれたまま倉庫で雨ざらしのひどい状態になっていて、その場の誰に聞いても責任者がわからないので、警察とか市長にまで話がとんで、追求があまりにしつこいのでやばい人たちも出てきそうになって、最終的にはビデオたちを救え! って深夜の強盗に近いようなところまで転がっていく。監督本人が楽しそうにナレーションしているので、どこまで本当なのか、仕込みじゃないのか、みたいな気がしてくる。

Kim’sが特徴的にコレクションしていたカルトで変てこな犯罪映画みたいなノリの話が寂れた裏町で – というより陽が降り注ぐ言葉も通じないイタリアの田舎町で起こる - 店の名前は”Kim’s Upland”だし。本当のところは… なんて大多数の人にはどうでもよい話なので、まあどうでもいいか、になっちゃうところも含めてー。

途中で今は普通のビジネスマンになっている(たぶん)Kim氏本人も登場するのだが、これだってひょっとしたら… かも知れず、他方でKim’s Videoは通い詰める、というほどではなかったにせよ、間違いなく存在したので、そういう謎と真実の間のどこかに大量のVHS – 必要としている人はそんなにはいない - が積まれていて、発見されるのを待っている、のだろうか…? 相当いろんなものが「プラットフォーム」上にあると思われる今、VHSでしか見れない(ので救われなければならぬ)ものって、どれくらいあるのだろう? フィルムを残そう! はなんとなくわかるのだけど。

最後、米国に戻ってきたコレクションはAlamo Drafthouseにまるごと買い取られた、と。この映画のDistributorがDrafthouseなので更に怪しいかんじがめらめら湧きあがってくるのだが、こういうのは破棄されるよりは残された方がよいに決まっている派、なのでとりあえずはよかった、にしておく。ぜんぶ冗談でしたー、でも怒らない。


映画の後はUnion Squareの辺りを少し歩いた。みんなどこかで配られたチューリップを抱えていて羨ましかった。

NYでの残りのは、このあとだらだら書いていきます。

4.11.2024

[film] The Greatest Hits (2024)

4月6日、土曜日の晩、Times Squareのシネコン – AMC25で見ました。

The Magnetic Fieldsのライブが終わったのが22:22くらいで、映画の開始は22:30で、映画館は歩いて5分くらいのところなのでぜんぜん余裕。土曜日晩のTimes Squareのど真ん中、久々に歩いたけどぎんぎらすごいねえ。

少しライブの余韻などに浸ったほうが… というのはもっともなのだが、そもそもそんな時間があったらなあ、だし最後の晩だし、見れるものを見れるときに見ていくしかないの。

作・監督は”The Disappearance of Eleanor Rigby” (2014)のNed Benson、先月のSXSWでプレミアされて、12日からHuluで配信される前の先行上映。Rom-comではないようだったが音楽(SF?)映画みたいだから、くらい。
アメリカのシネコンの、うざいCMなしで予告だけをがんがん流していくの、いいよねえ。

近しい人を亡くした人たちのセラピーセッションに出てもぼーっとしてしまうHarriet (Lucy Boynton)は恋人のMax (David Corenswet)を同乗していた車の事故で失って、いまだにその喪失感から立ち直れない状態なのだが、自宅に戻るとレコードをかけて、実験のようなことをしている。

ある曲(or レコード)をプレイヤーでかけてヘッドフォンで没入すると、その曲をMaxと一緒に聞いていた幸せだった場所と時間にスリップして、その時の自分に乗りうつれることを発見して、片っ端からレコード棚のレコードをかけて聴いて、「テスト済」とか「失敗」とかせっせと仕分けをしている。

それで何をしたいかというと、Maxと出会ったところ – 野外のフェスで踊っている時にMaxが寄ってきて誘われた - まで時を遡って、彼と会わなかったし誘いにものらなかったことにすれば、彼は事故で死ななくてもすむはずだから、というもの。

曲が体に入ってくると自動で過去にスリップしてしまうので、外出先ではヘッドフォンをして外の音を聞かないようにするし、勤め先は静かな図書館にしているし、彼女があまりにそれに真剣に没入してばかりなので友人たちは心配し始めている。

そんな時、セラピーセッションの場でDavid (Justin H. Min)と出会って、彼女も少しづつ変わり始めるのだが…

えーと(いろいろ言いたいことはある)。
音楽と記憶はものすごくきっちり絡みあうもので、ここにあるようにある曲がどこか別の場所に連れていってくれる、というのはよくわかる。だから音楽をいつでもどこでもずっと聴いてきたのだし、でもだからといって音楽をそのための乗り物みたいな道具にしちゃうのはどうか、っていつも思うのよ。はっぱ吸ってトリップしている人とか見ても。音楽にはそういうパワーがある、というのとそれを使ってなんか別の(例えば)快楽にひたる、は別にしたいな、って。 (注:政治的なメッセージや抗議に使うのはよいの。音楽、というより、アートはそもそもそういうものだから)

あと、HarrietがなんでそんなにMaxに死んでほしくないのか、Maxのどこがそんなに魅力的なのか、思い出の中でもう少しきちんと描かれていたら、そうだねえ、って泣きたくなるのに。それに彼が本当に素敵な人だったら自分と一緒にいた記憶をずっと抱きしめていたい、とも思うのではないかしら? でもHarrietは自分と会わなかったことにしたい – そこから始まる彼との思い出も(彼が連れてきたであろう友人らとの出会いも)全て無くなっちゃって、無かったことにしてよい、と。ここから、ひょっとしたらMaxは優しいときは最高だけどDVの傾向もあってHarrietは嫌になりかけていたのではないか、とか思ってしまったり。

新しく登場したDavidにしても、どうして彼ならよいと言えるのか、また同じことになってしまうのでは? – など、考えてもしょうがないことだとは言え。

”The Disappearance of Eleanor Rigby”でも”Her”, “Him”, “They”の3つのバージョンを用意して、はじめから整合しているとは思えない「ラブストーリー」(のようなもの)を作っていたので、この監督のひねくれた志向なのかもしれない。この設定だけ使って、どたばたコメディにしてしまった方がおもしろくなったのでは、とか。

音楽はいろんなのが流れるのだが、そんなに”The Greatest Hits”ぽいゴージャスなかんじがしないのは残念かも – これも狙ったのか? 最後の方で唐突にでてくるRoxy Musicのライブ、あれは一体なんなのか。

Lucy Boyntonはもちろんよいのだが、David役のJustin H. Minの透明なかんじがまた素敵で、彼、”After Yang”(2021)のYangだったのね - Davidって、その中身はYangだったのでは..?


映画が終わったら0時を回っていて、地下鉄のホームに人がぐっちゃりいて、ぜんぜん電車こなくて、ああこのかんじ.. ロンドンのとはまた違って懐かしいったら。そしてホテルに着いたら丁度SNLが終わるところで、これもまた既視感たっぷりので、あーあ、って…

4.09.2024

[music] The Magnetic Fields

4月5日の金曜日と6日の土曜日の二日間の晩、Town Hallで見ました。これのために大西洋を渡った。

BAMと同様、Town Hallも懐かしい場所。最後にここに来たのは2013年のLiza MinneliとAlan Cummingのショーだったかも。

前世紀末のマスターピース(感はゼロだけど)“69 Love Songs” (1999)の全曲披露公演、Day1で35曲めまでを、Day2で残りの34曲を順番通りに演奏していく(だけ)。前座はなし、途中20分の休憩が入り、アンコールもなし、だいたい22:30少し前に終わる。

このサイトにきて日本語でこういうのを読むひとのなかに”69 Love Songs”が熱狂的に好きでそのために飛行機に乗るようなばかはそんなにいないと思うので、少しだけいうと、ここには幸せに浸れるような愛とか希望の歌は殆どなくて、だいたいがバーで酔っぱらった負け男がひとりぶつぶつぐちぐち吐き続ける失望とか呪いとか恨みとか卑下とかそんなのをCharles IvesとかStephen Sondheimとかが書いてきたようなアメリカのしなびたメロディー艶歌・哀歌に乗っけておもしろおかしく歌うだけ、ほんとにただそれだけなので今の若者がこれらを聞いても「きもい」で終わりだと思うのだが、こっちはこっちで、ほっとけ、って飛行機にのる - 例えばこんなすれ違いにもならないようなしみったれた境遇についての歌とか、とにかく健康的でなく生産的でもないやつはぜーんぶここの虫かご(or 箱)に入っている、はず。

そしてこんな曲たちにとって、25年とは一体どんな時間であり歳月でありえたのか? - 若返るわけがないので全員が等しく老いてボケて、もちろん、バカは死ななきゃ でも 死んでも でも、どっちにしても客たちにしてみればこの場所にたどり着ける程度には生き延びることができてよかったね、くらいしか出てこないし言ってくれないし。 ところでリリース時に生まれていなかったやつは?(ってClaudiaが客席に聞いてた)

わたしが最初に彼らのライブを見たのは”i” (2004)のとき、カーネギーホール内の小さいとこで、その時はClaudia GonsonとStephin Merrittの掛け合いが最高におもしろくて、その後の彼らのライブにClaudiaは出てこなくなったので、今回の再登場はとてもうれしい。漫談コーナーはあまりなかったけど。

ステージ上にいるのは7名 - レコーディングに参加したSam DavolもJohn WooもShirley Simmsもいて、袖にはDudley Kludtがいて、曲によって歩いてきてマイクを握る。

Stephin Merrittはステージの右端で、高い椅子に座って楽器も持たずにお腹を突きだして朗々と吠えるように歌うだけ - 二日目、一瞬だけハシゴに登ってClaudiaと掛け合いで歌ったり。

多くのひとがそうであるよね? と思うのだが3枚通してずっと聴く、というよりどちらかというと最初の方を聴きこんでばかり、そのうち別の用事が入ったりで時間がなくなって最後までたどり着けない、というのが多い気がして、だから客席のノリとしては初日の方が圧倒的によかったような。個人的にも最初のほうの”I Don't Want to Get Over You”から”The Book of Love”あたりまでの流れは本当に至福で、このパートだけでも十分に名盤入りだと思った。「レコードに入っている以上、やらないわけにはいかないのだ」と暗く不吉な表情でStephinが言った”Punk Love”もなんとかやっつけていた。

全体として25周年の祝祭感は微塵もなく、どちらかというと25年も経ってしまってどうするんだよ? ねえ? の徒労感や後悔や自嘲に溢れていて、これだよなー、しかない。他方でドラムマシーンやエレクトロを少しだけ、でも効果的に盛りこんだアンサンブルの繊細さ緻密さは揺るがず、ダメな人たち(曲の世界で、だよ)のシュールなミュージカル・レヴューとしてはすばらしい出来だったのではないか。何度もよく見る夢のなかをだらだら彷徨って抜けられなくなっていく感覚、というか。このままずるずる40年でも50年でもいったれ。

物販は入ったとき(開始30分前)にすさまじい行列ができててこりゃだめかー、と諦めたのだが、休憩時間にダメもとでいいや、って並んだらサイン入りのポスター2枚(Day1とDay2で別)をどうにか買うことができて、丸めたのを無傷で英国に持ちこむことに成功した。問題はこの丸まったのを額装できるかどうか、だな -(日本にはまだ丸まったままのいろんなのが20-30枚くらいある)。

4月9日(今日、今晩)、NYのFilm Forumではこの25周年を記念して彼らのドキュメンタリーフィルム” Strange Powers: Stephin Merritt and The Magnetic Fields” (2010)が上映されて、StephinとClaudiaがトークのゲストとして登場する。一回だけ。見にいける人いいなー。

次はロンドンだ。それまで生きていられますようにー。

4.08.2024

[music] Caetano Veloso

Easterの連休があけて、2日しか経っていないのに3泊(+機中1泊)でNew Yorkに行ってきて、朝に戻ってきた。

そもそもは、The Magnetic Fieldsの”69 Love Songs”(1999)の25周年記念の全曲通し公演が2日間にわけてある、という話から。そもそも、2002年のAlice Tully Hallで全曲を通してやったときの公演を逃したのをいまだに(20年以上経っているのにね)強くねちねちネに持って抱えていて、これは行かねば、と。告知があってチケットが出たのが昨年の7月頃、その時に英国に行くことはもう決まっていたと思うのだが、うるせー(距離的に近いじゃないか)、って取った。(で、こっちに来てから、同じのがツアーで英国にも来ることを聞いて泣いた – さらに近くなったよ)

で、ライブが金土だったので、金曜日だけ会社を休んで月曜の朝に戻ってくることにして、NYの宿も取って飛行機も取ってから暫くたってから、4月4日の木曜の晩にBrooklyn Academy of MusicでCaetanoの公演がある – しかも最後のUSツアーになるかも、とかいうのでばたばたとチケットを取り、ホテルを足して飛行機も変えた。英国に来て3ヶ月がんばっ(てないけど)た、記念でいいや、と。

こういうのについては、「しょうがない」ばっかり言っていて、見逃すのだって「しょうがない」カテゴリーに入るわけだが、きつくても見れる状態がそこにあるのであれば、そっちを取りにいくようにしよう、と思うことにしたの。こういうバカなことをできるのは体が動ける今のうちだけだしー。(今とは)

Caetano Velosoは1990年の初来日 - ”Estrangeiro” (1989)のツアーのときに地の果てにぶっ飛ばされて以降、ブラジル音楽を追うようになり、サンパウロの中古レコード屋の床を這ったりカーニバルの時期のリオにもバイーアにも行ったり、そういうことをさせやがった人で、ライブはNYにいた頃にソロもGilberto Gilと一緒のも、David Byrneと一緒のも、Tom Jobim追悼でJoão Gilbertoと並んでいるのも、いっぱい見てきたし、これが本当に最後になってしまうのであれば(あまり信じていないけど)、やはり見に行かねばならぬ、と。

しかも場所がBAMときたもんだ。年一回のNext Wave Festivalの拠点としてPina BauschからRobert WilsonからComédie-FrançaiseからLou Reedまで、知ってたのも知らないの(が圧倒的に多かった)も相当見て、チケットを買う都度、請われるままに寄付をしていたので、90年代のどこかの1年間、BAMのプログラムの終わりに自分の名前が載るところまでいった。あの頃はまだ治安がよくなくて地下鉄には乗れずにBAMbusっていうバスでマンハッタンとの間を往復して通っていた(片道$5)。マンハッタンへの帰路、このバスが橋を渡るときに見えるツインタワーの姿が大好きで.. など思いだしただけで泣きたくなるの。

というわけで久々のBAMの大きなホール、トイレからなにから、なんも変わっていなかった。
さてCaetano Veloso、3/3〜4の二日間公演の後半。前座も休憩もなしの1時間半。

新譜の”Meu Coco”のリリースにあわせたもので、バンドはステージ左手にギター、ベース、キーボードの3人、プラスチック板で仕切られた右手にパーカッション3人。Caetanoはギターを抱えたり、直立不動だったり、軽くサンバのステップを踏んだり。こないだのRoger Daltreyより2つも若い81歳なので、それはそれは安定している(誰比?)。

とにかく、あの声 – 震えるぎりぎり手前で内と外との境い目を維持しながら冷たい水の重さと孤独を湛えてそこにあり、ハーモニーをつくらない、いらない。その声が伸びていくところにできる空気のうねりと震えが世界のぜんぶ、それだけで音楽なので、バックはシンプルな太鼓でもギター1本でも十分だし、なくてもよいし、めちゃくちゃやかましいアバンギャルドでも負けずに賄えてしまう - という発見と探求を続けた60年近くだったのだな、というのがよくわかる舞台だった。(これと同じことをやっているのがBjörkだとおもう)

ステージ左手のちょっとウェットで、よくしなる弦たちが彼の単一の声に絡まったり絡まなかったりしたかと思うと、そのツタのうねうねを時として工事現場の喧騒 - と言ったら失礼か、めちゃくちゃかっこよい - を叩きだすパーカッションが粉々に粉砕したり押しつぶしたり、それでも最後に残って光を放つのは彼の声、でしかないというマジックの見納めになってしまうのか。

後半は過去作から満遍なく選ばれたベストで、”Trilhos urbanos”もやるし”O leãozinho”(小ライオンさん)はもちろんだし、最後は”Odara” 〜 ”A luz de tieta”であがりまくり、客席の方はわーわーそれぞれの声で気持ちよさげに歌っていて、それでもやかましく歌を邪魔するものにはちっともならない不思議。

イタリア映画が本当に好きで好きで、と言ってから始めた“Michelangelo Antonioni”。映画にマトを絞ったインタビューとか、あるのかしら? あったら読みたい。

他のも忘れないうちに早めに書かないとー。


4.03.2024

[film] Baltimore (2023)

3月23日、土曜日の晩、CurzonのMayfairで見ました。
タイトルのBaltimoreはアメリカのではなく、アイルランドの南、コークにある村の名前。アメリカでの公開タイトルは”Rose's War”だったそう。

監督はJoe LawlorとChristine Molloyの共同で、1974年に実際に起こった絵画の盗難事件とその中心にいたRose Dugdale (1941-2024 – ついこの間、3/18に亡くなっている)の姿を描いている。90分と長くないのだが、すばらしく濃く詰められた時間がある。

冒頭、Rose Dugdale (Imogen Poots)はお屋敷の床に倒れていて、布を巻いた手は血まみれで、でも立ちあがって屋敷にいた仲間と思われる男たちと共に絵画を運び出そうとする。

でっかいお屋敷 - Russborough Houseに押し入ってそこにいた家族を縛ったり殴ったりして、仲間に運び出す絵画の指示をして、という荒れた犯行の現場と並行して、お嬢様だった頃の家族でのキツネ狩りの記憶、オックスフォードで学生運動に参加しながら英国の貴族のお嬢様としてデビュタントへの参加も求められたりしつつ、学生運動の方はやがてIRAの闘争に繋がって今はそこに彼もいるらしい。

襲撃事件にありがちな自分の身元がばれそうになった時、そこにいた人~人質とか隠れ家の宿の主人とか、痕跡を覚られたり騒がれたりした時にその相手を殺すべきかどうか、Roseにそれをやる覚悟と度胸があるのか、が常に問われて、その都度クローズアップになったり振り返ってこちらを見つめるRoseの表情にはキツネ狩りで傷ついたキツネや他の子よりは大切に育てられてきたであろう過去が浮かんで、でもその反対側で組織と使命と革命にはコミットして燃えているので、やっちゃえ.. でもどうする.. ってこんがらがっていく複雑さがすばらしい。タイトルの”Baltimore”は、彼女が他のIRAメンバーと落ち合うことになっているアイルランドの約束の地、なの。

押し入ったお屋敷で主人とその妻は縛られて転がされ、Roseは怯えている小学生くらいの坊やの相手をしつつ、でも騒いだら殺せ、と言われているので自分はこんな子供を殺せるのか、というのと、仲間からはびびっているように見えないか、の方も彼女をひきつらせて凍らせる。

お屋敷を出て車で行った先の小さなコテージでは、盗ってきた絵画19点が並べられ、そのなかにはルーベンスやゴヤやフェルメールの「手紙を書く婦人と召使」(1670-1671)があったりして、絵画の来歴や価値についてすらすら語るRoseはお嬢さまだねえ、なのだが、その知識をもって電話がある村の雑貨屋にいってアイルランドのNational Galleryに対して絵画の身代金の交渉にはいる。その会話でちょっとしたフランス語アクセントに気づかれてしまったり、目の不自由な宿屋の主人を殺して掘った穴に埋めて出ていくことはできるのかとか、犯罪の成り行きや成否よりも、彼女のなかの何が踏みとどまらせたり、悩ませたり、前に進めたりするのか、が時間の経過と共に、映しだされる過去の思い出のなかに現れては消えていく、そのとても犯罪映画とは思えない静けさと、フェルメールの絵画が置かれた室内で、フェルメールのと同じ構図で人が動いていたり、おもしろい。その静けさのなかで被害者ではなく、加害者側にいる女性がずっと悲鳴をあげている、と。

貴族のお嬢様が過激派テロリストに! というコメディになってもおかしくない設定をImogen Pootsは極めて真面目に真摯に - 本当に起こったこと(本当に起こったし)として演じていて、彼女のずっと見開かれた目を見るだけでも、の必見のやつ。


Easterの四連休が終わったばかりなのだが、明日からまた別の四連休にはいります。 昨年、まだ日本にいた時に取っちゃったやつなので、しょうがない(しょうがなくない)。

4.02.2024

[film] Radical Wolfe (2023)

3月23日、土曜日の夕方、Curzon BloomsburyのDocHouseで見ました。
ニュー・ジャーナリズムの旗手として知られるTom Wolfe (1930-2018)の評伝ドキュメンタリー。

映画化された“Moneyball” (2003)や”The Big Short” (2010)の作者としても知られるMichael Lewisが2015年にVanity Fair誌に発表した記事”How Tom Wolfe Became … Tom Wolfe”(Webで読める)をベースにMichael Lewis本人やTom Wolfeの家族(娘さん)も登場して、WolfeがどうやってWolfeになっていったのか、どんな人だったのか、等について主要著作 – 主に初期のドキュメンタリータッチのもの、後期の小説は軽めに – を紹介しつつ追っていく。Tom Wolfe自身の声はJon Hammがあてている(すごく巧い)。

全体としておしゃれでかっこいい(かっこよかった、誰もがかっこいいと言う)Tom Wolfe – Michael Lewisももろにそういうかんじだし - を肯定的に捉えて、彼のファッションも含めたああいう語り口が当時の言論やジャーナリズムにどんな影響を与えて、それはいまのとどんな形で遺ったりしているのか、というところまで行けばよかったのだが、そこまでは広がらず、あくまでTom Wolfeの主要著作の紹介(とその同時代への影響を少し)に留まってしまったのは少し残念だったかも。彼のなにがどうして”Radical”だったのか、最後まであんまわからなかったような。

大学に通いながらマサチューセッツの新聞社に勤めて、その後Washington Post等にも記事を書いたりしながら、新聞社がストをやっていた時に取材した西海岸のホットロッド、カスタムカーの人と文化についての記事 - "There Goes (Varoom! Varoom!) That Kandy-KoloredTangerine-Flake Streamline Baby" (1963)をEsquire誌に発表して、これが当たって評判になって、ライターとしていろいろ書いていくことになる。

ニュー・ジャーナリズムという切り口だとTom Wolfeといろいろ対照的なHunter S. Thompsonとの違いについてはあれこれ言及されたり、Gay Taleseがコメントしたりする程度、Joan Didionも申し訳程度しか出てこないのはなんかー。

誰もが知っている気がする題材を取りあげて、掘りさげる角度や深度が新しげなので読み物としてまずおもしろくてへーってなり、ちょっとだけセンセーショナルなネタもあって、読後はなんだかためになって自分が賢くなった気がする、というのが自分にとってのニュー・ジャーナリズム(読み物)で、それならその分野の研究書とか難しめの小説とか読んだ方が、だった。いやいやそうじゃない、ここのところが当時としては画期的だったのだ – なぜかというとー、というのがあったら学びたかったのだけどー。

いまはそこ(方法論的な正しさ)に行く手前で、逆張りだの揚げ足取りだのいちゃもんがいくらでもあって触るとノイズにまみれてしまうし、ジャーナリズム自体がろくでもないとこに堕ちてしまっているので、そうじゃないやつ、となった時にあの時代のこれらはかえってストレートで新鮮でおもしろく読めるのかも、というのは少しだけ。読まないよりは読んだほうがいいのは言うまでもなくー。

あと、彼のファッション的なところも含めたテキストのありようって、はっきりと彼を推してくれる白人の共和党支持層のウケを狙ったもので、そういうのをやってそれなりに成功したケースとして珍重された、というのはあるんだろうなー。この辺を暴露、じゃなくて事実を並べて淡々と描いてくれてもおもしろくなっただろうにー。

あとね、監督もMichael Lewisも、Wolfeを今でいうインフルエンサーのようにしか見ていないところがある気がして、もっとWolfeの語り口とか展開のおもしろさそのものに着目して、だからこんなにもWolfeは! みんなWolfeを読もう! っいう方に向かわせてもよかったのでは、とか。 見たあとで特に読みたい! ってならなかったのはどうなのかー。

[film] The Persian Version (2023)

3月23日、土曜日の午後、CurzonのAldgateで見ました。 日本でももうじき公開される。 昨年のサンダンスで観客賞などを獲って、同年の東京国際映画祭でも上映された作品。

作・監督のMaryam Keshavarzが自分と自身の家族を題材にしたアメリカ映画で、冒頭に、”TRUE STORY - A Sort Of …” って出る。

イランから移民してきた家族の一員で、NYでインディペンデントで映画を撮っているLeila (Layla Mohammadi) はハロウィンパーティーの一夜のどんちゃん騒ぎでHedwigの舞台に出ていたアメリカ人の男優 (Tom Byrne)と寝ちゃって妊娠してしまう。それまで彼女には同性のパートナーがいて別れたばかりの不安定で自分でも何やってるの? のぐちゃぐちゃで、更には彼女の父のAli (Bijan Daneshmand) は心臓の病で倒れ、心臓移植のドナーが現れないと助かりそうになくて、親戚兄弟(8人兄妹におばあちゃん)が病院に一堂に集まってきてそんな騒がしい状態のなか、そういう状態だからこそか、自身の幼かった頃の記憶も絡めて、なんで一家がアメリカに来てこんなことになっているのか、母Shireen (Niousha Noor)やおばあちゃんに聞いてみる、と…

若い頃、将来を約束され希望に燃える若い医師だったAli (Shervin Alenabi) と、親の決めてきた結婚で一緒になったShireen (Kamand Shafieisabet) は、医師のいない砂漠地帯の開業医として赴任して慌しい日々を送り、じきに男の子が生まれ、次の子も身篭って、その間Aliはずっと忙しいまま家にいなくて … という話と、一家がNYに来たばかりの頃、お金がぜんぜんないし英語もわかんないしでShireenは不動産屋になるべく家事の傍ら猛勉強を始めて事業を成功させていく話があり、いまのLeilaにはもちろん自分のお腹のなかの子をどうするのか、どうしていくのか問題もあり、あれやこれや山積みの問題をせわしなく言いあったり怒鳴りあったり積みあげたりしながらどうにか渡っていく - これがペルシアン・バージョン - うちらのやり方で他にどんなバージョンがあるのか知らんが、ようく見とけ、って。

ずっと過去と現在の、父母と自分に起こったことをランダムに行ったり戻ったり繋いだり忙しなくて、これ、どこに持っていってどう決着つけるのだろう? … と思い始めた頃、最後の数分で唐突に天空から落っことしてくれて、ぶわっと一瞬で泣かされて、これかー、って。 あんなのずるいわ。

過去から続いているイランとアメリカの関係の難しさ、そこに起因した生き難さとか面倒さ、更にはイラン(だけではないが)でずっと続いている男系社会の理不尽が背後にあるのかも知れない、いや間違いなくあるのだが、それでも、そんなでもこんなふうにやれるんだ、やってます、という力強い花火になっていると思った。 Leilaもママもおばあちゃんも、みんな本当に素敵だ。(パパは割とどうでもよいらしく、心臓の件もどこに行ったんだか忘れられてしまう)

最初と最後に老若男女が勢揃いして盆踊りするCyndi Lauperの”Girls Just Want To Have Fun" (1983)の「これでいいのだ」満載の泣きたくなるようなすばらしさ。この曲を聞くたびCyndi Lauperにはノーベル平和賞をあげるべきだ、って強く思う。

このお話、これはこれでよいけど、でもやっぱり差別とかはだめだから。あたりまえに。いうまでもなく。

[log] Easter 2024

3月の最後の週末から4月頭にかけて4連休がある - そういえば - となったのは2月の頭くらいで、このままロンドンにいても映画見たりするだけでムダになくなってしまうだけなので、どこかに行こうと思った。

マドリードは日帰りしたばかりだしもうじきバルセロナもあるし、ならフランスかアイルランドかポルトガルか、となり、そういえば(.. ばっかし)、セザンヌのアトリエにいく、というBucket Listのがまだあった - と見てみるとこの週末の後は修繕のため長期間閉めます、とあって、土曜日のチケットはもうなくて、金曜日のをとりあえず1枚取ってしばらく置いておき、飛行機はマルセイユ往復になるので一泊をエクス・アン・プロヴァンス、一泊をマルセイユにして、それで満足してしまう(← タイプ、よくない)。

おうち/仕事場を訪ねる旅、結構好きでVirginia Woolf、Vanessa Bell、Wittgensteinなどがよかった。Derek Jarmanのにも行かねば。

29日、金曜日の朝7:10の便でヒースローを発って10時くらいにマルセイユに着いて、バスを乗り継いでエクス・アン・プロヴァンスのだいたい真ん中あたりに着いて、その古い町並とか建物の並びをぐるぐるしてわーとか楽しんでいるうちに予約していた15時に近づいたので歩いて向かった。緩やかながら割と陰険に攻めてくる上り坂で、ホテルの人がバスで行った方がいいよ、と言っていたのを思いだしたが既におそし。

ところでアトリエの前の通りの名前は、Avenue Paul Cézanne となってて、住所がそれってかっこいいなー。

アトリエの閲覧時間は一回30分で区切られていて、チケットはガイド付きのとそうでないのがあり、ガイド付きでない方にしたのだが、そんなに広くない同じひとつの部屋で時間帯も同じだと、ほぼガイド付きの状態となり、でもガイドと言ってもアトリエの中のものを端から全部説明するわけではなく、だいたい厚紙の説明書きにあるからそれ読んで好きに見て眺めて聞きたいことがあったら言って、で10分間もかからずに終わる。

でっかい窓があり、こないだThe Courtauld Galleryにあった古典 - “Still life with Plaster Cupid” (1895) - のキューピッド像のもとのとか、彼のいろんな絵画に出てきた気がする陶器に骸骨に… でもセザンヌにとってのこれら、はただそこにいるだけのモノたちでしかなく、その、そこにいる/あるだけの状態とはどういうものか、を光と一緒に考えたり問いかけたりするかのように彼は画布に向かっていたはずだ、というのを確かめるべく、そこから歩いて(上って)15分くらいのSainte-Victoireの山が見える場所 - 彼がその山を描きに通っていたもうひとつの部屋 - を目指して、ふだん体を一切動かしたりしていないのでへろへろになったのだが、上り坂のとこをいきなり左に折れてまたしばらく上って振り返ると、かの山は銭湯の絵みたいにでーんとあるのだった。

曇って雨が降ったりやんだり、という視野のどんよりもあったのかもしれないが丘の上と同じ目の高さ - の何キロ先かは知らんが - にあるそれは聳えたりそそり立ったりしているわけもなく、ただの岩の塊のようにしてそこにあり、それがまるでセザンヌの絵そのものみたいにそこにいたので「わぁ.. .. ..」というかんじだった。(海外の人がはじめて富士山をみたらあんななのかしらん?) あの山があんなふうにある/見えるのだとしたら、そりゃ何枚も描きたくなるだろうな、すごく不思議なかんじ、よく中国の古い絵にある岩山の、どこまで行っても辿り着けない異界のアウラがあるのだった。

帰りはバスで戻って近くのMusée Granet などを見てから部屋に戻って意識を失うかんじで寝てからご飯に行った。

以上がほぼメインのとこで、翌日は小さめの美術館をいくつか - いっぱいある - 見てからバスでマルセイユに移動した。マルセイユのメインはブイヤベースと(わたしはどちらかというと海の人なので)海を見ることで、ブイヤベースの前、波がたまにかかるくらいの岩場に座って日の入り迄の2時間くらい、ずっと海と雲をみていた。そうやって体が冷えた状態で戴いたブイヤベースはそれはそれはおいしくて、ブイヨンを3回おかわりしたらお腹がぱんぱんになり、帰りのバスはやばかった。

ブイヤベースは具のお魚(この日は5種類、ホウボウがいた)とお芋が別皿で出てきて、かりかりのにルイユとアリオリの塗りもの、これらをブイヨン(とお店の人は呼んでいた)の海に好きなように浮かべたり浸して戴くのだが、ブイヨンだけだとコンソメのように割とあっさりめなのに、浸す具材とその時間、時間によるブイヨンの温度変化などで絶妙にその風味を変えていくので終わりがない。おでんに近いのか、お茶漬けの主従を転倒させた版というか、潮汁のもったいぶった版というか、なんでこれをここにこう漬けるとこうなるのか? おもしろいったらなくて - だからぱんぱんになったのね。

それにしても、エクス・アン・プロヴァンスで見た土曜日のマーケット、いいなー しかなかった。葉っぱも魚もぴかぴかで、生活が豊かであるって、こういうのをいうんだよ。

マルセイユにきたらもうひとつ、生牡蠣も食べないとよね、だったのでお昼に1ダース戴いた。ムール貝も半ダース。牡蠣、あと20個はいけたかも。

あとは、エクス・アン・プロヴァンスのチーズ屋の上で戴いたTartiflette - チーズグラタン? も、とってもよかった。

マルセイユの街のかんじ、なんとなくリオのようだった。建物の光と影とか、ちょっと危なそう、やばそうなかんじとかー。

日曜の晩に戻ってきて、連休最後の一日は、映画2本みて、演劇1本みておわった。

4.01.2024

[theatre] The Motive and The Cue

3月21日、木曜日の晩、Noël Coward Theatreで見ました。24日で終わり、と聞いて駆け込みでチケット取った。

原作はJack Thorne、演出はSam Mendes。元は2023年の4月にNational Theatreで上演されて好評だった作品がWest Endにきたもの。

1964年、John GielgudがブロードウェイでRichard Burtonを主演にシェイクスピアの”Hamlet”のモダン版を演出しようとした際のリハーサル現場のごたごたはらはらの緊張にまみれたありさまをRichard L. Sterne(当時それを横で見ていた俳優)の手記 - “John Gielgud Directs Richard Burton”などを参考にして書かれたドラマ。

1964年、名声は十分だが俳優としてのピークを過ぎた - ので演出家の方に向かおうとしているJohn Gielgud (Mark Gatiss)が俳優としてのりのりでElizabeth Taylor (Tuppence Middleton)と結婚したばかり、いろいろ脂ぎって燃えたぎるRichard Burton (Johnny Flynn)主演の”Hamlet”を演出する。

俳優としてシェイクスピア劇もHamletも散々演じてきて、世界の誰より隅々まで「向こう側」を知り尽くしているであろうGielgudは、当然のように「普通」の演出なんかしたくないし世の期待もそっちだと思っているし、Burtonの方は、このライブの舞台こそ俳優としての自分の真価を世に知らしめる格好の機会なので、このHamletを変に凝ったり捻ったりした珍妙な作劇のなかで見せたくない、と思っている。でも俳優として先達であるGielgudには敬意を払うべきだろうし、かといってウェールズの田舎者が調子に乗るんじゃねーぞ、みたいに舐められたくもないし.. など、真ん中にいる2人の意地とプライドをかけた第三者からすれば滑稽な闘鶏みたいな張り合いがある。

全員が集まる顔合わせの初日から、日を追ってリハーサルや中心のふたりのご機嫌、キャスト・スタッフ全員の雰囲気まで、時にElizabeth TaylorのいるBurton邸でのやりとり - どちらも正気の状態はあまりなく、Burtonはほぼずっとべろべろに酔っ払っている - も挟んで追っていくのだが、人間関係はぐじゃぐじゃの雪だるま式に酷くなっていって、見ている分にはおもしろいのだがどう収束するのだろう? と思っているとー。

ここでのElizabeth Taylorの絡み方がどうにも微妙で、この暫く後に出るBurtonとTaylorの映画 - ”Who's Afraid of Virginia Woolf?” (1966)を意識しているのか、ってどこかにあったけど、そうかもしれない。彼女を背後に隠して、えんえん主演のふたりに喧嘩させていた方が、おもしろくなったのでは。

そして最後の方では、芝居の演出とは、舞台における演出家とは? 演技とは? のようなところまで行って - タイトルはここに絡まる - だから演劇はすばらしいのだ! 演劇ばんざい! みたいなところにまで到達してしまうの。あれだけ罵り合ったり引っ叩いたりやり合って嫌いあっていたのに。まるでハラスメントまみれで問題だらけのプロジェクトが本番開始日になったら何事もなかったかのように互いを称えあったり涙したり、あれってなんだったの? … しらーってなるあのかんじというか。(そういう世界があることはあるので、別にいいけど)

史実として本公演は無事に行われて当時のブロードウェイの興行記録もつくって、双方のキャリアに見事な足跡を遺しているようなので間違いなくめでたしめでたしなんだろうけど、なんかなー そういうもんなのかなー。 あと、あのラストの場面は余計だと思った。

真ん中のふたり - Johnny FlynnとMark Gatissの互いに一歩も譲らない押したり引いたりのやり合いがすばらしいことは確かで、それだけでも見る価値はあると思うのだが、少しだけー。

National Theatre Liveでもやると思うのでぜひ。

[film] Love Lies Bleeding (2024)

3月24日、日曜日の昼にBFI Southbankで見ました。この前日にクロージングのあったBFI Flareで見た最後の1本。この作品、Flareで3回上映があったのだがどの回もぱんぱんにSold Outしていて、普通だとSold Outした回でも当日の昼くらいに何枚かリリースされたりするのだが、この作品だけはまったくそれがなくて、しょうがないので当日に窓口のキャンセル待ちに並んだ。それくらいの人気だったと。

監督Rose Glassの長編2作目。デビュー作の“Saint Maud” (2019) - 日本では配信のみみたい-はすばらしく極上のホラーで、この監督すごい! と思っていたら2作目は(やっぱり)A24だよ。これがまた、すばらしくよかったの。ホラーというより、ロマンティック・アクション・クライム・スリラー、みたいな。音楽はClint Mansell。

1989年、ニューメキシコで場末のジムのマネージャーをしているLou (Kristen Stewart)がいて、ひとりでやりくり - 便器に手をつっこむトイレ掃除までしていて大変そうなのだが、そこにボディビルをやっていてもうじきベガスの大会に出るというJackie(Katy O'Brian)が流れてくる。Jackieの笑顔とぴきぴきの筋肉にやられてしまったLouはうちに泊まっていいからここにいて、って闇で流れてくる筋肉増強剤とかをあげたりしてふたりは親密になっていく。ずっとLouの世話になるのも悪いから、とJackieが近所の射撃場にバイトの口を探しに行くと、そのオーナーLou Sr. (Ed Harris)はLouの父で、Louは彼を毛嫌いしているのであいつのところには近寄るな、と強く言ったりする。

ここでのEd Harrisの極悪っぽいメイクと喋り方がすごくて、ハゲ頭の脇後ろだけ長髪のしわしわで、どういうかんじかというとJohn Carpenterの“Big Trouble in Little China”(1980)に出てくる妖怪Lo Pan(の変身前)だ、ってようやく思いだした。

Louの姉のBeth (Jena Malone)の夫のJJ (Dave Franco)が酷い恒常的DV野郎で、ある晩にBethが病院送りになるくらいひどい怪我をして、いい加減にしろよあのくそったれ、ってLouが怒り悲しんでいるのを見たJackieは、ひとりでJJのとこに向かって素手で簡単に殴り殺してしまう。まさかJackieがそこまでやるとは思わなかったLouは、JJの死体をカーペットに丸めて車に入れて町はずれの崖の上まで運んで火をつけて落っことす。ここの崖の下にはLou Sr.にとって都合の悪いいろんなのが…

そのうち警察の手は近くに迫ってきて、通常であれば軽く警察に手を回せるLou Sr.がなんとかするから取引しよう、とか、他方でLouに憧れる町娘があたしなんか見ちゃった… って寄ってきたりとか、そういのをめぐってLouとJackieの間に亀裂も走って、Jackieのボディビル大会の本番もうまくいかなくて追いこまれていって、どうなる…? って最後まで目が離せない。

監督の前作 - “Saint Maud”でも宗教・信仰を起源とする肉体の変容表現がおもしろかったが、ここでは愛や怒りが絶頂に達するのにあわせて筋肉を膨張・爆発させるさまがとても巧みかつ自然に描かれていて、それがスーパーヒーローものでもなんでもない文脈で唐突にまき起こるのになんの違和感も感じさせないのがすごい。

これ、男女間のノワールのような形式であればいくらでも転がっていそうなネタだが、女性同士 – しかも周囲にいるのがジャンクとしか言いようのないクズ男ばかり、という設定にしているところがよいのかも。その状態でどん底に置かれた彼女たちが立ちあがる、というよりも火をつけて焼き払って知るか、という。最後のところは評価が分かれるかも知れないが、荒唐無稽のなんだこれ?になるぎりぎり手前でふたりの愛の物語 - “Love Lies Bleeding” - 血のようにほとばしる愛 - になっていると思った。

場内はずっと拍手と爆笑の嵐で、やはりKristen Stewartの超絶としか言いようのないクールネスとかっこよさ、があるから、としか言いようがない。最初から最後まであんなに汚物とゲロと血と煙まみれなのになんであんなふうな笑みを浮かべて爽やかに立っていられるのだろう? って。

とにかく、そんな彼女たちがEd HarrisとかDave Francoとか、いかにもな「男」たちをぼこぼこにするのがたまんないの。

3.28.2024

[film] Ghostbusters: Frozen Empire (2024)

3月22日、金曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。
公開初日の金曜日の晩なのに、10人くらいしかいなかった…  考えられる理由:①金曜日の晩に映画を見る奴なんて ②アメリカの幽霊話なんてちゃっちくて見てられない

“Ghostbusters: Afterlife” (2021)からのキャストと背景/事情をそのままNYに持ってきた続編で、監督だったJason Reitmanは脚本のほうに、前作で脚本を書いていたGil Kenanが監督になっている。

舞台がNYに移ったというのに”Ghostbusters” (2016)が完全になかったことにされているのはまことに腹立たしい。このシリーズもこれを最後に消えてくれていい(というくらいこの件については頭に来ている – SONYに)。

Callie (Carrie Coon)、Gary (Paul Rudd)、Trevor (Finn Wolfhard)、Phoebe (Mckenna Grace)の半家族はオクラハマの田舎からNYに移ってきてWinston (Ernie Hudson)の所有するFirehouseを拠点にGhostbustersをやっていて、Janine (Annie Potts)もRay (Dan Aykroyd)もDr Venkman (Bill Murray)も出てくる(顔をだす口を挟む、という程度だけど)し、かつていじわるだったWalter Peck (William Atherton)は市長になってて、相変わらずいじわるで。

そこに怪しげなNadeem (Kumail Nanjiani)がやってきて、彼の持ちこんだ祖母の遺した丸い塊りからなんでも凍らせてしまうお化けがでてきてびっくり… というそれだけなの。

1984年の最初の”Ghostbusters”が大好きだったので、ついあれを基準にして見てしまうのだが、なんかやっぱり…  Ivan Reitmanに捧げる、って最後に出てきて、過去のシリーズの人たち(2016年版を除く)もみんなやってきて楽しいのだが、これ、基本であるべき幽霊退治のどたばたコメディ、ではなくなっているような。なんでも凍らせるモンスターが古代のなんかから解き放たれ蘇ってパニックを巻き起こす – それをやっつけろ! ってだけで、大切な人に幽霊 or お化けが取り憑いてどうしよう.. 助けにいくから待ってろ! のちょっと怖くてどうなるんだろう? の従来の路線のはどこかに行ってしまった。かわりにあるのが、幽霊退治の活動を禁じられ、家族から孤立してひとりぼっちのPhoebeが幽霊のMelody (Emily Alyn Lind)に儚い恋をするとこで、ここ、悪くはないけど全体の流れの中ではなんか浮いてしまっている。

あと、NYの街を氷まみれにしたってあそこの住民はそんなの慣れているので効かないと思うよ(だから町中が騒然となるようなシーンがそんなに描かれないし、囲われた狭いエリア内でバトルしているだけ、に見えてしまう)。

1984年版でマシュマロマンの頭がビルの隙間から見えた瞬間の鳥肌、というのが自分のなかにはまだはっきりと残っていて、あれと同じくらいでっかいのが現れて圧倒してくれないのはとってもつまんない。代わりにちっちゃいマシュマロマンがグレムリンみたいに大量に出てくるけど… (あれはずるいわ)

オリジナル版のRick Moranisに相当しそうなおとぼけキャラ、と言えそうなのが今回のKumail Nanjianiで、彼のまわりだけ変な風が起こるのだが、ここ以外の若いバスターズ – 特にぜんぜん活躍しないFinn Wolfhardとか - は極めて弱いと言わざるを得なくて、あれじゃ幽霊たちには勝てなさそうな。

この週末にやはりサブタイトルに”Empire”の付いたフランチャイズで、ポスター見ただけでろくでもなさそうな怪獣ものが公開されるのだが、あれ、だれも止める人がいなかったのだろうか?


自分のなかで文化とかアートとか、その周辺について見たり考えたりする時の基本線のようなものを教えてくれたのは、まずRaymond Williams、続いてTerry Eagletonで、いま英国にいるのも彼らの著作に触れたことが大きかったと思うのだが、今日ついに、Terry Eagletonのレクチャー(&歌)を聞くことができた。 なんとなく節目の季節にうれしいことでした。

3.27.2024

[theatre] The Hills of California

3月13日、水曜日の晩、Harold Pinter theatreで見ました。演劇を見ていこうシリーズ。

作はJez Butterworth、演出はSam Mendes。Sam MendesのとIvo van Hoveのは、なんとなく入りやすい気がするので見る。Sam Mendesの”Empire of Light” (2022)は、評判よくなかったけどわたしは結構好きで、この舞台にはあの世界にも似た失われてしまった過去から吹いてくる風を感じるような。

1976年、熱波に見舞われた海沿いのリゾート地、ブラックプールで宿屋をやっている木造の古い家屋がある。3階くらいまでの急な階段があって、部屋にはアメリカの州だか町の名前が付いていて、癖のある宿泊客がふうふう言いながら階段を昇っていったりする – そこの上の階だか袖の方だかにある見えない部屋に寝たきりになった病人がいるようで、それはここの主人だった母、その介護をしているのが真面目そうな末娘のJill (Helena Wilson)、その上の姉Ruby (Ophelia Lovibond)も、更にその上の姉Gloria (Leanne Best)も実家に戻ってきて、どちらも今の生活とかこれまでのことで疲れて愚痴と悪態を吹きまくりで大変そうで、Jillがひとり黙々と真面目にがんばっていて、一番上の姉のJoan (Laura Donnelly) – かつて姉妹の希望の星で、一番成功してカリフォルニアに渡っていて、いくら手紙を出しても返事が戻ってきたことがない – でも誰よりも一番待たれている伝説の、最強の長女 – だけが帰ってこない。彼女さえ戻ってきてくれたらー。

第二幕は同じ家で、まだ母(Laura Donnelly二役)が若くて、彼女を囲む四人姉妹がみんなで歌って楽しく夢を見ていた頃の思い出が浮かびあがる。姉妹の歌と振付はずっと練習しているのでみごとに決まっていて、これなら揃って芸能界デビューも、とか言っているとアメリカからそういうのを仕事にしているぽい男が泊まりにきて、彼の前で姉妹がレパートリーを披露すると、彼はJoanひとりを指さして、上の部屋で直接聞いてみたい、と不気味なことを言い、それがどういうことかなんとなくわかっていながら、誰も止められずに…

第三幕はRolling Stonesの”Gimme Shelter”にのって華々しく、というか彼女も別なふうに疲れてやつれて苦しんでいるようなJoanが登場して、家を出てからここまでの悲惨に見えなくもないあれこれを土産話のように語り、そんなのいいから母さんに会ってあげて、というJillとぶつかったりしつつ…

こないだNational Theatreで見た”Dear Octopus”も、数年ぶりに父母のいる実家に戻ってきた子供たちの話 – でもこちらが金婚式のおめでたい集いだったのに対し、こちらのは悲しく辛く、それぞれの目に見える重荷を背負って傷だらけの再会で、でもタコみたいに絡みついたら離れない「家族」的ななにか、はおそらく共通している。その吸盤の痣はこちらの方が深く痛々しいかも。

Joanが家を出てカリフォルニアに渡ってどさまわりのロックスターみたいなヒップで荒れたやりたい放題をしていたその反対側で、Jillは結婚もせずにひとり真面目に暮らして、真ん中のふたりの姉妹にもそれぞれいろいろあって… この劇でちょっと残念なところがあるとしたら、彼女たち(母も含めて)の家を出てからの、或いは残ったままの苦難の旅をひとつ屋根の下になんの縛りも拘りもなく寄せ集めて宙に浮かせてしまったこと、だろうか。それぞれの立場や似た境遇の誰かを思ったり思いだしたりしてしんみりすることはあるのかも知れないが、それだけだととっ散らかって弱いかも。 JoanとJill(or 他の姉妹)は正面からぶつかって大喧嘩すべきだったし、(無理だとわかっていても)母になにかを語らせるべきだったのでは、とか。

昭和くらいの昔の、都会と田舎の話、四姉妹の話、家族のどこかで止まってしまった時間、など日本の寂れた町を舞台にしたドラマに翻案しやすい要素もいっぱいあるか、な?

英国の西海岸とアメリカの西海岸と。ブラックプール、行ってみたくなったかも。

3.25.2024

[film] Sex is Comedy: la révolution des coordinatrices d'intimité (2024)

3月16日、土曜日の晩、BFI SouthbankのBFI Flareで見ました。
英語題は”Sex is Comedy: The Revolution of Intimacy Coordinators”。

映画やドラマ制作の現場でIntimacy Coordinators(以下IC)という仕事、職種が使われるようになった、というのを聞くようになったが、それってどういう要請に基づいてどういうことをやる仕事なのか、をフランスの現場と比較のために英国にも行ったりしながら説明していくドキュメンタリー。とても勉強になった。

フランスの映画制作の現場 - 監督も含めて女性スタッフが多く(映画の中では言及されないが撮影されているのはIris Brey監督による“Split” (2023))そこに主演するふたりは女性で、うちひとりはSavegesのJehnny Bethさんで、彼女が昔、初めて映画の撮影でセックスシーンを演じることになった際の戸惑いと恐怖を語り、雇われたからにはやらなければいけないと焦るし、悩んでいると進行に影響がでるので従わざるを得ないのですごいストレスだった、と。ここには単なる労使関係以上の明確な力関係があって、それがセックスというその人の存在の根幹に関わるものである以上、撮り方、その結果どう見えるか、どう見られたくないか、等については撮る側/撮られる側それぞれできちんと話し合って合意した上で進める必要があるよね – という事情と、だからそこでIC(的な存在)が必要とされるのだ、というのがわかる。

こうして現場で、ICと女優たちと監督を含むスタッフは都度話し合い、場合によってはダメだししたりしながら撮影を進めていく様子が描かれる - 割と楽しそうに笑ったりするとこもあったり。そうやってどれだけ注意深く撮ったものでもレーティングで12+をくらって悔しい… って監督は泣いちゃったり。

いやいや - 現場で監督は神のはずだし作品は彼/彼女のビジョンをアートとして具現化するものなのでそこに第三者との合意形成のようなものが挟まるのはおかしいのではないか - 実際にフランスでICはまだセンサーシップや検閲の文脈 - 表現の自由への介入としてとらえられることが多いそう – なのかも知れないが、このやり方が女優にとって苦痛でしかない演技を「体当たり」として賞賛する傾向とか、知らないなら教えてやるよ、という(つい最近もあった)性加害の土壌になりうるのであれば、正されないとだめよね。

Weinsteinのケースもそうだし、最近の日本の映画関係者の性加害のケースを知ると、これまで見てきた映画の見方やクラシックのありようも変わってくる気がして、でもそれでよいのだと思う。

この方向、日本だと、そういうのなんだか面倒だから俳優を使わないアニメやAIが加工したやつでいいや、の傾向に向かって加速する気がして、これはこれですごく嫌なんだけど…

あとこの役割って、映画撮影の現場だけじゃなくて、パワハラがまかり通りそうな過酷な大規模プロジェクト全般にあっていいもんよね。- こうしてプロジェクトの予算は更に膨らみ…


Hidden Master: The Legacy of George Platt Lynes (2023)

3月17日、日曜日の午後、BFI Flareで見ました。

アメリカの写真家George Platt Lynes (1907-1955)については、Jack WoodyのTwin Palms Publishersの写真集(必携)で知っていたぐらいだったが、存命中の関係者 – Bernard Perlinなど - にもインタビューして彼の写真を中心とした業績とその全容を明らかにする包括的なドキュメンタリー。思っていた以上にすごい広がりのあるお話しだった。

NJに生まれて1925年にパリに渡ってGertrude Steinのサークルに入り、戻ってからNJに書店を開いて周りの友人たちの写真を撮るようになり、またフランスに戻ってJean Cocteauや画商のJulien Levyらと親交を持つようになり、その友人たちを撮り始めたりしつついろんな裾野が広がったり開けたり。

Harper's Bazaarなどのファッション写真やGeorge BalanchineのNew York City Balletを撮った写真のコマーシャルかつソーシャルな成功だけではなく、友人たちのゲイ・サークル内で撮ったプライベートなものも(そっちの方が)おもしろい(... 当時としては相当すごいことをやっているのでは)のが多くて、Robert Mapplethorpeなど、彼なしには登場しえなかったのではないか。

今回の映画では(あの)Kinsey Instituteに残されていた膨大なアーカイブ資料(の発見)が元になったそうだが、映画の最後にChristopher Isherwoodと一緒にいる動いて笑っているGeorge Platt Lynesの映像(撮影はDon Bachardy) - 一瞬だけど - を見ることができて、おおーってなる(これを発見した際の興奮もすごかったって)。

上映後のQ&Aで、現在彼の大回顧展を企画中だがアメリカのメジャー美術館はスポンサーがつかない状態のまま止まっていて、パリの美術館(名前は絶対明かせない、って)と交渉中だそうな。ロンドンにも来てほしいなー。


Orlando, ma biographie politique (2023)

3月17日、↑のに続けて見ました。これもBFI Flareから。
英語題は”Orlando, My Political Biography”。これもドキュメンタリー。カラーをつけたフレンチブルのポスターがかわいい。

作・監督は哲学者/作家のPaul B. Preciado、昨年のベルリン映画祭でTeddy Award (ベストドキュメンタリー)を受賞している。

Virginia Woolfの小説”Orlando: A Biography” (1928)で、主人公のOrlandoは物語の途中で性別を変える(時間も超えたりする)。 現代フランスのいろんな年代(8歳から70歳まで)の26人のトランスジェンダーやノンバイナリーの人たちを集めて、彼らのこれまでの苦難の旅の物語を語ってもらい、自分はOrlandoである、と宣言することで解き放たれるものがある、と – やらせには見えない。本当に苦しんできた、大変だったんだねえ、というのと、文学は(音楽だって絵画だって映画だって)こういう形で人を救うこともあるのだよ → 「なんの役にたつの?」とか言っているバカども。 最後に判事役の人がひとりひとりに新しいパスポートを渡していくところはなんだか感動的なの。

短編の”Old Lesbians” (2023)を見た時(3/14)にも思ったけど、性差とか男女間の恋愛がいかに社会や制度・権力のありようと密に、都合よく結ばれて広められたもの - 生物としてのそれと関係ないものであったか、昔は無反省にどうでもよくて酷かったんだなあ、というのと、今は今で… というのもまだまだあるねえ。

[film] Merchant Ivory (2024)

3月16日、土曜日のごご、BFI Flareで見ました。内容からすれば、べつにFlareの枠にしなくても。

プロデューサーのIsmail Merchant (1936–2005)と監督のJames Ivory (1928- )と脚本のRuth Prawer Jhabvala (1927-2013)、他に音楽のRichard Robbins (1940-2012) 等からなる映画制作プロダクションで、いまや”Call Me by Your Name” (2017)の原作者としての名の方が先に来るかもしれないJames Ivoryが監督した”A Room with a View” (1985)〜 “Maurice” (1987)〜”Howards End” (1992)などについて、あれらって何だったのか、を振り返っておきたい季節に、このドキュメンタリーはちょうどよかったかも。

E.M. Forsterを原作とする文芸大作の雰囲気と格式を持ちながら、見てみると中身は空っぽのすかすかで、でも衣装と雰囲気だけはとてつもなくうっとりさせられて、あの土地に、あの世界に行きたい浸りたい! って強く思うけどほんとにただそれだけで、でも興行的には当たったりしたので映画マニアの人々からの評判はよくない(気がする)

他方で80年代中頃、カラスで真っ黒のゴス連とか頭悪そうなニューロマのだっさいファッションとか、周囲の「音楽好き」の傾向とセンスにしみじみうんざりしていた若者にとって、これらの映画で展開される表層を滑っていって後になんも残らないふうに構築されたドラマの、登場人物たちの纏うファッションの世界がどれだけ輝いて見えたことか。 これらとThe Style Council(2枚目まで)がいなかったらどうなっていたことか、ていうのはよく思う。 “Downton Abbey”のヒットだって、若い頃にMerchant Ivoryの世界に触れた人たちが動かした部分も小さくないのではないか。

映画は、当時のキャスト - Helena Bonham Carter、Emma Thompson、Hugh Grant - なぜ彼が話しだすと人は笑ってしまうのか? - やその中心にいて唯一の生き残りであるJames Ivoryへのインタヴューとスタッフの声を集めて繋いでいく証言集で、給料の未払いでプロダクションに訴訟を起こしたAnthony Hopkinsはやっぱりいないし、Maggie Smithは参加していない。Maggie Smithさんはお話ししてもいいけど憶えているのは毎日がカオスだったこととカレーのことくらいなのよ、だって(後の監督とのトークで)。

プロダクションの力学としては三権分立が機能していて、James Ivoryが大統領、Ismail Merchantが議会、Ruth Prawer Jhabvalaが最高裁判所だった、と。わかったようなわかんないような(なんとなくわかる)、でもIsmailが亡くなったりしてこのバランスが失われると自然消滅していった、と。

どのスタッフからもキャストからもくどいくらいに強調されていたのが、どの作品のプロダクションも財務的には破綻してて誰もどこからどうお金を調達できてまわせるのか、まわしてよいのか、まわっているのかがわからない - いわゆるふつうの謎と「カオス」にまみれた状態であった、と。そういう混沌と破滅状態のなかであの華麗っぽい貴族王朝ドラマが撮られていた、というのは痛快かも。

最初の方ではインドで”Shakespeare-Wallah” (1965) - これはおもしろいよ - などを監督として作ってそれなりに成功していたIsmail Merchantの姿や、彼とJames Ivoryの出会い、インドとの関わりなどが紹介されたりするのだが、そこから何がどうなってあの破綻まみれの自転車操業 - なのにゴージャスで素敵なドラマに繋がっていった/いけたのかはあんまわからなかったかも。これはこれでおもしろいのでよいけど。

階級とか階層とかしきたりとかモラルっぽい壁とか、もちろん恋とかいろいろ、殆どの人にもれなく纏わりついてきて悩ましいったらないけど、そんなのどんだけ泣いて悩んだってお金や身分で解決できるもんでもなし、どうすることもできない - そういうものもある - だから悩んでないで着飾って踊って恋して遊んじゃえばよいのだ主義(どうせ2000年になる前に世界は滅びるさ)というかスタンスというか、これって中長期的にはどろどろは見たくない聞きたくないの事勿れ保守とか「アートに政治を持ち込むな」派に向かいがちなものであったのかもしれない。

でもよく見てみればここには政治や権力や制度にまつわるあれこれが重層で押し込められていることがわかるし、これこそが文芸の、アートの力なのではないか、というのはコロナの頃に彼らの作品を見返して改めて思ったことだった。

あと、あれらのかっこいいコスチュームをどうやって作っていったのか - コスチューム担当のJenny Beavanさんのインタヴューもあって、上映が終わったら彼女が真後ろに座っていたのでありがとうございました、とお礼した。

当然のように見返したくなったので主要作品だけでもスクリーンで再び見れますようにー。


Maurizio Polliniが亡くなった。
90年代のカーネギーホール(ベートーヴェンソナタの全曲演奏、出張で2回逃したのがいまだに悔やまれる)をはじめ、いちばんコンサートに通ったクラシックの人でした。柔らかさと強靭さというのはひとつの楽曲のなかであんなふうに共存しうるものなのか、というのを返す波のように教えてくれた。ありがとうございました。

3.23.2024

[film] Robot Dreams (2023)

3月17日、日曜日の昼、Curzon Aldgateでみました。

正式公開は22日からなのだが、先行でやっていた。こないだのオスカーにもノミネートされていたアニメーションで、予告でEW&Fの”September”が流れてくるシーンだけであーこれはぜったい泣くやつだわ、と思って、こういうのは早めに見る。

原作はSara Varonのグラフィックノベル、脚本は彼女と監督Pablo Bergerの共同。

シンプルで素朴な線とぺったんこのカラーでできたアニメーションで、人間は出てこなくて、動物たちが服を着て都会で暮らしていて、表札とか広告はだいたい英語表示だが、彼らが英語で言葉を交わすシーンはなくて、「あー」とか「おぅ」とかそういうのを発するだけ。ナレーションもない。 いろんな動物がそこらじゅうにいる社会。「ペット」はいない。「君たちはどう生きるか」に出てきそうな謎な生き物もいなくてその欠片もない。地下鉄のホームで太鼓を叩くタコ、には笑う。

舞台は明らかにNYのイーストヴィレッジ(みたいな町) - 地下鉄も、アイスクリーム屋の音楽も立ち食いピザスタンドとか歩いて抜けていく町のかんじも - で、主人公は”Dog”で(表札にも”Dog”、ほかに”Chicken”などもいたり)、なにをして生計を立てているのか不明だがアパートに一匹で暮らしてて、初期のTVゲームをしたり、マカロニチーズをレンジで温めたり、ソファの後ろには”Yoyo” (1965)のでっかいポスターが貼ってあって、窓際にはマジンガーZらしきフィギュアなどが並んでいる。

設定は80年らしいが、後で借りてきた”The Wizard of Oz” (1939)のレンタルビデオにKim’s Videoのロゴがあったので、だとしたら95年くらいではないか ← うるさいよ。

Dogは毎晩退屈でつまんないので、通販で友達ロボットを購入して、自分で組み立てて起動してみたら動いて、一緒に公園とか町中とか浜辺に連れて歩いて友情を深めていくことになる。このシーンのバックに”September”が延々流れてたまんなくなるところ。喋りがないので手を繋いで並んで歩いて目で合図したり、それだけなのだがそれだけなのにほんとにまったく。

ふたりでビーチに行って、楽しく遊んで浜辺に寝転がって、帰ろうとしたらロボットが動けなくなっている – でも目は開いて頭は少し動く - 錆びついたのか燃料がなくなったのか、重くてDogいっぴきでは動かすこともできず、一旦もどって修理マニュアルを携え道具を揃えて浜辺に向かうのだが、その日がシーズン最終日で鍵がかかって入れて貰えず、無理やり入ろうとしたらゴリラの警察だか警備員だかがきて、何度突破を試みても追い出されて入れて貰えない。

春になってビーチがオープンしたら絶対に迎えにいくから、ってDogは決意するのだが、浜辺でずっと横になっているロボットは季節が変わるたび - 冬になると雪で埋もれる – いろんな楽しかったりはらはらしたりの夢を見て過ごす。これが”Robot Dreams”なの。

主がいなくなっても動き続けるロボットのお話、というと”Silent Running” (1972)とかラピュタとかが思いつくけど、そのロボットがお友達ロボットだったら、という辺りがちょっと切ない。

そしてつまらない日々に戻ってしまったDogのほうは…  ここから先は書かないほうがよいか。

これじゃ絶対に泣いちゃうぞ、と見る前に思っていた方にはいかない、ちょっと苦めの、どうすることもできない都会の、NYだったらいかにも、なラブストーリーのようになっていて、それをあのシンプルな線と動き、しかも会話のない動物とロボットの間の目線や切り返しのみで作りあげたのはたいしたもんかも、と思った。

これ、Dogを中心に置いておくだけだと寂しさ退屈さをどうにかしてほしいのね、という話になってしまっておわり、なのだが、彼に買われたRobotの目線や夢を持ちこんだところがおもしろくて、ちょっと考えてしまったりして、そこはよいかも。大人向けかなー、子供に見せたらちょっとどんよりしてしまうかも。

[music] The Who

3月20日、水曜日の晩、Royal Albert Hallで見ました。
最後にここに来たのはいつだったか、調べたら2019年のRichard Thompsonの70歳記念ライブだった。

The WhoのRoger Daltreyがずっと取り組んでいるベネフィット・イベント - Teenage Cancer Trustの一環で、18日と20日の2日間行われて、チケットは当然売り切れていたわけだが、辛抱強く狙っているとそれなりの – もちろん正規の - が取れる。チケット代は演劇の高い席よりはぜんぜん安い。

The Whoは1996年にMadison Square Gardenで”Quadrophenia”+αを6晩くらい続けてやったとき、そのうち3晩くらい行って以降、見れる範囲でずっと見てきて、もうそろそろ彼らの方か自分の方かどちらかがくたばってもおかしくない季節になってきたので、そうなる前にもう一度見たいな、と思っていたところ。

Rolling StonesはCharlieが亡くなられた時点でもういいや、と思っているのだが、The Whoについては、RogerかPeteがこれはThe Whoだ、って言っている限りは、The Whoなのだと思うことにしていて、でもそれも危うくなってきた気がしてきて ... 失礼な話しだけど。

前座は19:10きっかりに始まったSqueezeで、彼らのライブも久しぶり、最後にみたのは1994年(ひー30年前..)のAimee Mannと一緒にやったNYのBeacon Theatreのだった。あれは鳥肌まみれになるすばらしくよいライブだったなー。

Squeezeは”Argybargy”の頃からずっと聴いているので、The Whoよりもなじみあるかも。いまのバンドは7人もいるのね。(ピアノとドラムスとギターとChrisだけでよいのに)

“Take Me I’m Yours”から始まって”Cool for Cats”で終わるベストヒットで、よい曲ばっかりでみんな知っているし、それにしてもGlenn Tilbrookは声とかぜんぜん枯れてないし、ギターは相変わらずずっとうまいし、すごいよねえ。彼らはこの夏、The Heartのアリーナのライブの前座もやるの。どうしようか悩み中。

ベネフィット・イベントなのでMCがいて、みんなで寄付しよう!ってくるのでTextしたりしつつ、気がつくとオーケストラが入って、The Whoの時間になっている。客席はみごとに白人の老人たちばっかし。ここだよなー。なんでこうなるのか。アジア系もあまり見ない。なのでひとりで座っていると「だいじょうぶか?」「楽しんでるか?」ってよく声をかけられる。大きなお世話だわ。

構成は、休憩なしの3パートに分かれていて、オーケストラが入った”Tommy”中心のと、オーケストラがいなくなって、初期のを中心としたバンドセットと、再びオーケストラが入った”Quadrophenia”中心のと。アンコールはない。

冒頭の”Overture”~”1921”はオーケストラがいるとやっぱり盛りあがるなー、なのだがRoger、変わらず声はでっかいもののものすごく音を外したり、マイクぶん回しもよれて危なっかしく、Peteもギターのタイミング間違ったり(それも”Won't Get Fooled Again”で…)、しょうがないか... なところはいろいろある。

あと、オーケストラが入った“Who Are You”がなかなかすてきなのは発見だった。

今回、バンドは7名、最後に見た時のBassはPino Palladinoだったが今回のは別のひとで、KeyのJohn "Rabbit" Bundrickの後も知らないひと – どちらもアメリカのセッションミュージシャンらしく、初期のレパートリーをやるとベースの絶望的な弱さ、線の細さが際立ち、フロントの2人もよれよれなので、これじゃ老人のカヴァーバンドじゃん.. に聞こえてしまうのが悲しかった。そんななか、少し丸くなってますますパパ・リンゴに似てきたZak Starkeyだけがすばらしく全体を支えている。彼、ものすごく過小評価されているドラマーのひとりだと思うわ。

バンドセットの最後にストリングスを入れてこじんまりとやった“Behind Blue Eyes”は、客席の老人たちもみんなうっとりしていた。

最後のパートの頭でRogerが「シアトルから友人に来てもらいました」というのであーあの人かー、と思ったらやはりEddie Vedderで、“The Punk and the Godfather”を(もう全員Godfatherじゃねえか)。18日のライブはここが”The Real Me”で、えー”The Real Me”やってくれないのー、って少しだけ。

最後はお決まりの、”Baba O'Riley”で、お祭りでしゃんしゃんだった。

前に住んでいたとこはここから歩いて帰れたのだが、いまは地下鉄に乗らなきゃならないのがかったるかった。

Melvinsいいなー。また見れますようにー。

3.21.2024

[film] Drive-Away Dolls (2024)

3月15日、金曜日の晩、Curzon SOHOで見ました。
初日の金曜日にしては - 金曜日だからか、がらがらだったかも。

Joel & Ethan Coen兄弟のEthanの方のソロプロジェクトで、Joelの方は”The Tragedy of Macbeth” (2021)で重厚な歴史ドラマを構築 - ってかんじで作ってきたが、そっちを意識したのかしないのか、ものすごく軽くてふざけててお下劣な84分の(ほめてる)コメディを持ってきた。脚本はEthanと彼の妻のTricia Cookeの共同。

1999年、もう少しで世紀が変わろうとしているフィラデルフィアの酒場のブースで、金属のブリーフケースを抱えて怯えた身振りのPedro Pascalが座っていて、何かから逃げようとしているのだが結局捕まってさらりと殺されて首を切られる。Pedro Pascalたったこれだけ。

別の場所で、同居していた恋人同士のJamie (Margaret Qualley)とSukie (Beanie Feldstein)が爆発的な痴話げんかをして、Jamieは家を出て、友達のMarian (Geraldine Viswanathan)が計画していたフロリダ旅行の車に乗っけてもらうことにする。まじめできちんとしたMarianはがさつで乱暴なJamieに引っ掻きまわされたくないのだが、ねじ込まれてどうすることもできず、片道だけのレンタカーを借りようとしたら、それが窓口にいた不機嫌なBill Campの手違いで、他人に割り当てられていれた車を押しつけられ、そこにPedro Pascalの抱えていたブリーフケースが隠されていてー。

彼女たちが発って暫くして、彼女たちが乗っていった車を借りるべくやばそうな3人組 - Arliss (Joey Slotnick), Flint (C. J. Wilson), Chief (Colman Domingo)が現れて、自分たちの車が間違って持っていかれたことを知るとBill Campをぼこぼこにして、電話口で動揺するクライアントを落ちつかせてとにかくふたりを追っかける。相手はガキ娘だからちょろい、と。

Marianは早くフロリダに行きたいのだがJamieはいろんなことをして楽しみながらいきたい – 特にMarianを自分たちのレズビアンの世界に引きこみたくて、そのうちにそうなった、と思ったら車がパンクして、スペアタイヤを出そうとしたら、ブリーフケースと氷で冷やされたPedro Pascalの生首が。そしてブリーフケースの中に入っていたもの、とは。

いけいけ女子(死語)vs. まぬけギャングたち、の珍道中&追いかけっこで、最後の方では知事としてMatt Damonも出てきたりする。 – どうでもいいけど、こういう映画の端役で出てくるMatt Damonてなんでいっつもあんなふうなの?  ふつうにこの先どうなるか簡単に予測できて、意味不明のサイケだんだら模様とか、お下品なあれこれとか、John Watersみたいな(一見)極彩色の世界が広がっていく。たぶんリファレンスとしている過去の映画は他にもいっぱいあるのだろうが、そういうのよりもさらさらと軽く、レズビアンの女子たちの底抜けのオープンな明るさと身内で固まってぐさぐさやりあってしまう男たちの対比、それを嘲笑うかのようにその間で交換される「あれ」と生首、という構図のおもしろさがある。どうせなら”Home Alone”スタイルでギャングをズタズタにしちゃってもよかったのに。

あと、道中でMarianがずっと読んでいるHenry Jamesの”The Europeans” (1878)、と思うとギャングの親分のChiefは車のなかで”The Golden Bowl” (1904)を読んでいるし、Sukieの飼っている犬の名前は Alice B. Toklasだし、世紀の変わり目、を意識していることはなんとなくわかる – いや、見えていないだけで他にもあるのかも、いや、そんなのどうでもいいか… になってしまうくらい話としてはしょうもないかも。

でも好き嫌いていうととっても好きで、真ん中の3人の女性のコントラストがよくて、特にこういうのに出てきた時のBeanie Feldsteinさんの爆裂ぶりは実に気持ちよく、しょうもなくなりそうなオチを引っ掻きまわしてくれる。後になんも残らないのは変わらないかもだけど。

[film] Chasing Chasing Amy (2023)

3月14日、木曜日の晩、BFI Southbankで始まったBFI Flare (3/13~24) で見ました。

BFI Flareはここでずっと昔からやっているLGBTQIA+のフィルム上映を中心とした映画祭で、この期間中はBFI Southbankの通常の上映プログラムはなくなって、チケット発券の仕組みも変わって、少しだけあーあなのだが、いくつか見始めると当然のようにおもしろいの、勉強になるのが出てきて止まらなくなる – ここもこれまで通り。

これがデビュー作となる監督のSav Rodgersが自身のqueer identityに悩み始めたティーンの頃、Kevin Smithの”Chasing Amy” (1997)に出会って惹かれてのめり込み、何度も見ているうちに救われた – あれってどういうことだったのか、を映画の関係者へのインタビューを通してchaseしていくドキュメンタリー。あの映画の魅力や秘密を解きほぐして明らかにする、というよりも(それもあるけど)、彼自身がなぜ救われたのか、の方にやや重点が置かれている。

”Chasing Amy”は、すごく簡単にまとめるとごく普通のぼんくら男子Ben Affleckがレスビアンの女の子Amy (Joey Lauren Adams)を好きになってしまったことから巻き起こるrom-comで、いまでは割とふつうに転がっている話かもしれないけど当時としては珍しいテーマで – でもそんなの意識しないで楽しんだ記憶があり – 評判もよかったので映画館で見て、DVDも買って日本の積まれているどこかにある、はず。

監督のSavは自身の切ない”Chasing Amy”体験をTED Talkで語り、その内容が話題を呼んでKevin Smithからも声が掛かって、カメラマンを連れて” Clerks” (1994)のあのお店を訪ねたりした後にKevin Smithの家に行って彼といろいろ話して、その後にAmyを演じたJoey Lauren Adamsにもインタビューする。 Ben Affleckは出てこない。並行して、悩んでいる時期に出会ったRiley- 彼女はレスビアンだった - と絆を深めていってプロポーズしたり。

”Chasing Amy”の秘密というか、おもしろさについては、映画を見てもらうしかないのだが、この映画のどこがどうで、ということ以上に、恋愛も含めたレズビアンのありようを「ふつうの」がさつな男子の視点も絡めたドラマとして世界に置いて波を起こしてみせた、という点で、ここにGuinevere Turner - 彼女も登場する。さいこう - の“Go Fish” (1994)が並べられると、やはりこの頃に何かが動いたのかも、というのはわかる。そういうのが当時それらについてなにも考えていなかったであろうKevin Smithという若者から(意図していなかったにしても)出てきた、というのも含めて。

Queerカルチャーに与えた影響、というやや大きめの話と、これの裏というか地下ではっきりと進行していたハリウッドの性加害の話も出てくる。”Chasing Amy”はMiramaxの配給で、Kevin Smithはその頃のHarvey Weinsteinのお気に入りだった – その頃、というのはWeinsteinがRose McGowanらに性加害をしていた、まさにその頃のこと。(この件についてのKevin Smith本人のコメントも出てくる)

という文化史的な話、というより一本の映画がこんなふうに苦しんでいた若者を救うこともあるのだ、というドキュメントとして見たほうがよいのかも。上映後に登場したSavとRileyの佇まいもすごくよいかんじで。 ただ、”Chasing Amy”に出会ったから、というよりRileyというパートナーを見つけたことの方が大きかったようにも見えて、まあ幸せならよいではないか、って。

四半世紀前にふーん、って見ていた映画にこんな形で再会してその成り立ちなどを”Chase”することになるなんて思ってもみなかった。それは80年代終わりから90年代初の、なんでも冗談にしてふざけていた時代の男子で、そういうノリで映画を作り始めたKevin Smithにしても同じで、そんな彼が複雑な表情をつくりつつ、でも大人としてきちんと対応していたのはよいと思った。


Lesvia (2024)

3月14日、↑の前にBFI Flareで見た、これもドキュメンタリーで、78分の中編。
サッフォーの生地であるギリシャのレスボス島は、レスビアンの語源になった聖地で、70年代頃からここの浜辺に女性たちが集まってキャンプしたり愛しあったり自由に過ごしたりするようになった。この土地で育った監督のTzeliHadjidimitriouさんが、自分でカメラを抱えて記録していた土地の、女性たちの変遷をまとめたもの。

村の人たちから変な目で見られたりしつつも女性たちにとっては天国のような場所になり、でもSNS等も含めてオープンな議論ができるようになった現代では、かつてのような賑わいもなくなった、って。
ネコがいっぱいいる島はよい島。


Old Lesbians (2023)


↑の前に上映された29分の短編。
ヒューストンのArden Eversmeyer (1932-2022)さんがOld Lesbian Oral Herstory Project (OLOHP)を立ちあげて、「レスビアン」なんて言葉も概念もなかった時代の愛の語りや手紙をアーカイブとして残しておくことする。彼女が集めた手紙や記憶の一部が紹介されていくのだが、他の人がどう思っているのかも含めて、自分の女性に対する感情をどう扱えば、表せばよいのかわからないことに対する不安、そこから愛する人を見つけることができた奇跡などについて。 とてもピュアな言葉がいっぱいで、周りは結構泣いている人もいたの。

3.20.2024

[film] Copa 71 (2023)

3月11日、月曜日の晩、Curzon Bloomsburyのドキュメンタリー専門のDocHouseで見ました。

1971年メキシコで、前年に同国で行われたサッカーワールドカップの後に、女性によるサッカーのワールドカップが行われていた、と。その後の歴史から意図的に、完全に抹消されていたそのイベントがどんなふうだったかを50年ぶりに発掘されたアーカイブ映像と関係者へのインタビューと共に明らかにする。

あんま関係ないけど、英国に駐在すると、誰もが一回くらいはサッカー場に行くものらしいが、実はまだ行っていない(NYにいた時は、野球もNBAもUSオープンも一応行った) 。(めったに行かないけど)パブとかに行くと必ずどこのチームのファンか、などの話題がでて、その度に「アーセナル」とか「チェルシー」とか極めててきとーに返してきたのだが、(選手名とかになるとわかんないので)きつくなってきた気がする。別に何返したって誰も聞いてやしないのだが。

最初に90年代の女性サッカーワールドカップが公式イベントになって、そのチャンピオンになったUSサッカーチームの女性に70年代に女性サッカーのワールドカップがあったことをご存知ですか? と尋ねてタブレットでその映像を見せると、わーおこんなの知らなかった! ってびっくりする。(本当に知らなかったのかな?)

そこから女性サッカーの簡単な成り立ちとか歴史 - イギリスでは男性サッカーの盛りあがりと共に女性サッカーも立ちあがるのだが、女性については医学的見地からこのスポーツはよくない、と禁止された時期もあったりしながら、でもやっぱり、と細々とサッカー協会のようなものが組織されて70年にイタリアでFIFAが関与しないインディペンデントな形で第一回が実施され、71年、ワールドカップ後の熱がまだ冷めていないメキシコで代理店が第二回をやろう、とぶちあげて、FIFAの手が及ばないスタジアム(でもでっかい)で実施してみると予選の段階からものすごい熱と共に動員数もあがっていった。

というのと並行して、当時の各国の代表選手たちが初めて飛行機に乗ったりしながら未知の国メキシコに向かい、現地でのスター扱いにびっくりしたりしながら試合を進めていって、最後の決勝戦は、とてつもない動員 – いまだに女子のスポーツイベントの動員記録になっているそう – となって、見ると確かにとんでもない盛りあがり、ではある。

いまは高齢になっている各国の選手たちと一緒に見ていくそれぞれの試合の中味もスリリングでおもしろくて、それは映画を見て貰いたいのだが、問題は彼女たちが帰国後、FIFAのお触れだかなんだかで一切の風が止まって、女性サッカーが規模の大きなイベントとして開催されることはなくなり、振り返られることすらなくなり、歴史から消されてしまったこと。これは今の地点から見たらはっきりと差別としか言いようのないアレで、それを指示した当時の関係者を呼び出してもっと怒ったり罰したりしてよいくらい酷いことだと思った。ほんとFIFAでもIOCでも、スポーツ関係を仕切るあの黒服のじじい達、ただの利権団体のくせに偉そうにやりたい放題やりやがって、ほんと吐気しかないわ。あのスタジアムの熱気と興奮が連中にとっての恐怖・脅威になったのだとしたら、ちょっと痛快でざまあみろ、だけど。

当時の選手だった女性たちの、あそこで試合できて本当によかった楽しかった! という笑顔を見るだけでもよいの。この反対側に、そういうのが我慢ならなかった男たち、っていうのがいて、今も間違いなくそこらに。

Geena DavisやMadonnaが出ていた野球映画 - ”A League of Their Own” (1992) - 邦題は嫌いなので書かない – は、Tom Hanksがうざくてそんなに好きでもないのだが、エンディングで、Madonnaの曲に乗ってモデルになった女性たちが心底楽しそうにプレイしている姿を見るたびにじーんとなってしまう、あのかんじがくるの。

3.19.2024

[film] Nu aștepta prea mult de la sfârșitul lumii (2023)

3月9日、土曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
Previewで、上映後に監督とのQ&Aつき。英語題は”Do Not Expect Too Much from the End of the World”。2時間43分もあった…

ベルリンで金熊を獲ったルーマニアの監督Radu Judeの”Bad Luck Banging Or Loony Porn” (2021) - 『アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ』に続く作品。

ブカレストで映像関係のコーディネーションをしているAngela (Ilinca Manolache)が朝起きてうううーって呻きながら車に乗って、オーストリアのクライアントDoris (Nina Hoss)に依頼されている職場の安全啓蒙ビデオに出演する障害者 - 職場で事故にあって車椅子生活になってしまった人や家族の家を訪ねて、ビデオ出演にふさわしいかどうかを含めてインタビューをしていく。

AngelaがDorisと直接やり取りをするわけではなく、映像制作の注文を受けた会社からの下請けのようなかたちで、すぐ上から適当にスケジュールをねじ込まれたり突然連絡が取れなくなったり、インタビューに向かった先の家の生活も楽ではなくて悲惨だったり、いろいろしんどいのを見たり聞いたり消化したりしつつ、だがそれが仕事なのでー。

Angelaの登場する場面は粗めのモノクロなのだが、彼女の中でいろいろ溜まってきて毒を吐きたくなると、スマホでTikTokに向かってBobițăという別キャラ - フィルターをかけて声も変えてスキンヘッドにチョビ髭、革ジャンのマッチョな男 – に変貌してむしゃくしゃするあれこれをぶちまけて言ってやったぜ、ってやる。ここの映像はカラーになる。

Angelaの車でいったりきたりの仕事と並行して、ブカレストの女性タクシードライバーを描いたLucian Bratuの“Angela merge mai departe“ (1981) - “Angela Moves On” – チャウシェスク時代に作られた – からのクリップが挿入されて、ここは昔のフィルムのかんじが出たカラー。この作品の主人公だった”Angela” - 女優本人といまのAngelaが並ぶ場面もある。

最後の40分は採用された障害者とその家族の撮影場面でワンショットの静止画。障害者となった当人が仕事場での危険と安全を訴えるそのメッセージがステークホルダーの意向だの「適切」な用語への変更だのにより漂白されていくさまが当人たちの苛立ちや当惑もそのままに映しだされる。

あとはAngelaが最上位クライアントのDorisを乗せて高速道路を走っている時、ここの危険な区間で交通事故による死者がいっぱい出ている、という発言の後に、道端のいろんなお墓が次々とモンタージュされていったり。死者も障害者もこんなふうに静かにしていてくれればよいから…(最近、どっかの国でも)。

搾取され酷使されるばかりの労働者、レイヤーになったブルシット・ジョブのしんどさ、ミソジニーに障害者差別にポリコレに、現代を生き抜いてどうにか暮らしていくためにこれだけのゴミやクソやノイズを浴びて耐えていかなければならないのだ、という状況をいろんなアプローチで引用したりコラージュしていって、最後に”Do Not Expect Too Much from the End of the World” – このタイトル自身も引用 - という。

このタイトルも含めてひどいでしょ、しょうもないでしょ、という便所の落書きみたいな作品であろうとしているのだと思うし、でもここを起点に考えるところや「アイデア」はいっぱいありそうだし、観客は大喜びで大ウケして(あんなに笑うのか...)見ているのだが、なんかものすごく不快で見ていて嫌になった。 前作の”… Loony Porno”でもなんでこんなことがあんなふうになっちゃうの? という事態をこれでもか、って仔細に描いてあーあ、だった記憶があるが、こんなのSNSにいくらでも転がっているムカつく動画とどこが違うのか、ていうとそこだよ!それ! って即座に返ってきそうな。

エンドロールでは、映画内の発言は以下の方々の言葉から引用されています、ていうのと、小林一茶と与謝蕪村と松尾芭蕉の俳句(の英訳)まで流れてくるのだが、そういうのも含めてなにこれ? って。

ブカレストがチャウシェスク政権時代からの膿を引き摺ってひどい状態になっていることはわかるし、(どっかの国もそうだから)想像できるし、でもそれってこんな形で笑ったり、いいね!してよいものかどうかがわからない。もう笑うしかないんだよ、なのかもしれない。でもわたしはこの映画で描かれていることについて、この映画が(おそらく)求めているふうに笑ったり頷いたりしてすませるのは嫌なのだと思う。

いろんなレビューでは60年代のゴダールとかゴダールが生きていたらこういうのを、とか言われているのだが、60年代のゴダールなんて「60年代の」ゴダールっていうあの時代のものでしかないし、ゴダールの「いま」は自分で死を選んだんだよ、その意味をちゃんと考えるべきじゃないの?

なんかすごく疲れてぐったりしたのでQ&Aには参加しないで帰ったの。

3.18.2024

[theatre] Nye

3月9日、National TheatreのOlivier Theatre、土曜日のマチネで見ました。
しばらくの間、演劇などを見てみようシリーズ。

脚本はTim Price、演出はRufus Norris。
英国のNHS - National Health Serviceを創った政治家 - Aneurin “Nye” Bevan (1897-1960)の生涯を振り返る - ところどころで歌や踊りが入ったり、そんなにシリアスで重くなく、でも軽すぎるわけがないドラマをMichael Sheenがすいすい引っ張っていく。自分の席からは見えなかったけどブラスバンドのような楽隊がどこかにいて、でも音楽が舞台を強く揺さぶることはない。

Nye (Michael Sheen)は最初から病院のベッドの上、いろんな医療機器に繋がれて妻Jennie Lee (Sharon Small)に付き添われて、意識があったりなくなったり夢のなかだったり、赤の縦縞のパジャマ一丁 - 彼の衣装はエンディングまでこれだけ - でウェールズの炭鉱の坑夫の大家族の10人兄弟(うち4人は子供の頃に亡くなっている)の6番目として生まれてから炭鉱で働いて組合活動を経て政治家になって、あとは妻Jennie - 彼女も政治家 - と出会って、戦争があって、など現在までを振り返っていく。

いろんな患者がいて制服のきちんとした医者やナースもいて、カーテンの仕切りがあって可動式のベッドは自在に動けて、アラームや呼び出しが頻繁に鳴ってせわしなく右左に動いていく病院/病室というのはセットの基礎枠としてはクールにふさわしくて、これがオフィスになったり図書館になったり審議の場になったり、スムーズにトランスフォームしていく。

Nyeの横たわる病院のベッドが起点、というのにはいくつかの意味があって、もう長くないけどここまで来ちゃったねえ、というのと、まだやることは沢山あるのだから早くここを出なきゃ、というのと、出るにしてもくたばるにしても縛られて動けないのはきついし勘弁して、っていうのと。こんなふうに分裂して引き裂かれた状態にある苛立ちや焦燥や居直り等を描くのにMichael Sheenの軽やかなステップと流れるような喋りが絶妙に効いている。パワフルで饒舌で(たぶん)寂しがりで、いろんな人の間を動き回って構ったり構われたりが大好きなひと。

始めはNHSのこともその設立の事情〜政治的背景や経緯も、なによりAneurin Bevanその人のことも十分に知らない状態で見てもだいじょうぶかしら? というのはあったのだが、ぜんぜんだいじょうぶだったかも。もう少し真面目にシリアスに訴えかける内容のものにすることもできたと思うが、その辺を軽めにしてあるのは賛否あるところかもしれない。

国民ひとりひとりの収入ある/ない、多い/少ないによって受けられる医療の質やレベルが違ったり制限が出てきたりするのはおかしいよね? 医療って、誰もが同等に知識を得る機会を持つことができる図書館のようにあるベきではないのか? 政治はそこに手を入れないといけないのでは? というそもそもの目線からNHSを構想して政治の現場、医療の現場それぞれからの嘲笑や大反対、圧力をひとつひとつクリアして現在の形にもっていくのって想像しただけで気が遠くなるのだが、彼はそれをやってのけた、と。

いまだにいろんなニュースのネタに定期的になっているように、NHSには賃金や過労や要員不足で問題がいっぱい、ずーっとあることは確かだけど、それでもこの仕組みを作って維持しているのってすごいことだよね、と思うし、コロナ禍での彼らの踏ん張り - あの時いたからよく知ってる - はまじであの時の英国を救ったと思っている。そう思って感謝している人は少なくないはず。

できればその辺 - Rise of NHSに限った流れと語りにすればもっとストレートで感動的なものにできたと思うのだが、父とのこと、妻とのこと、チャーチルとの駆け引きなど、いろんなことを盛りすぎて、さらに歌や踊りもあるのでややとっちらかったかんじになってしまったのは残念だったかも。Michael Sheenは文句なしだけど。

そして思いがいく先は、働かない奴、稼ぎのでない使えない奴らはこういう公共サービスを受ける資格ないとか迷惑だから自決すべきとか、そういう方向に向かいつつある今の日本の方なのだった。はっきりと教育の失敗だと思うのだが、国として劣悪で最低だし、とても恐ろしい。ムラで固まって他者に分け隔てなくやさしくできない社会ってどれだけ恥ずかしいことか、ってみんなが思うようにならないと。

もうじきライブ配信があるのでそのうちNational Theatre Liveにも来るのかも。なったらよいな。

3.16.2024

[film] La notte di San Lorenzo (1982)

BFI Southbankでのタヴィアーニ兄弟特集の続き。最後に見た3本はどれも題材が悲惨で重かった。


La notte di San Lorenzo (1982)  - The Night of the Shooting Stars

3月2日、土曜日の午後に見ました。 邦題は『サン★ロレンツォの夜』。売り切れていた。
1982年のカンヌでグランプリを獲っている。

星が美しい晩、母親が寝ている子に流れ星の夜にはね.. って自分に言いきかせるように第二次大戦の頃、自分が子供だった頃に町の人たちや家族に起こった話をしていく。

まだ町のあちこちにドイツ軍が残っていて、ファシストもパルチザンもいて、アメリカ軍も入っていて、それぞれの手先が裏に隠れたりしていて、みんなで戦況の話を聞いたり噂を聞いたりどこそこからの指示があったりで固まって教会に逃げたり農村に逃げたりしていくのだが、噂が間違っていたり思い込みに囚われていたり突っ走ったり頑固に留まったり、だれのなにを信じてよいのやらの状態でパニックになったりしながら、結果的には草陰とかどこかからか現れた敵か味方かもわからない連中にあっさりどさどさ殺されていって、どこに逃げても隠れても死はやってくる。

星空にすてきな農村、田園の穏やかでのどかな光景があっても、おとぎ話の正義の味方を夢想しても、戦時にはなんにも、どうにもならずによい人もわるい人も等しくランダムに殺されて消えていって、全体としては悲惨な悲劇なのだが、こんなの悲劇として機能していないでしょ、それくらい唐突に虫のようにひとが殺されていく。わかる? 星に願うくらいしかないのよ、って。


La masseria delle allodole (2007)  - The Lark Farm

3月10日、日曜日の晩に見ました。 邦題は『ひばり農園』。
Antonia Arslanの原作をもとに、第一次大戦期に起こったトルコによるアルメニア人の大虐殺の史実を描く。(兄弟はこのテーマについて、これがジェノサイドかどうかを決めるのは歴史家の仕事で、我々はこれを悲劇、として描いたと)

裕福なアルメニア人の家族がいて、トルコ軍が不穏な動きを見せるなか、自分たち一家はずっとここに暮らしてトルコ側の知り合いも多いから大丈夫、と思っていて、でも実際に軍がやってくることを知ると自分たちの保有する田舎にある「ひばり農園」の屋敷にみんなを匿うのだが、一家に出入りしていたトルコ人の乞食がその場所を伝えてしまったので軍はそちらに向かって、まず男たちは無条件にその場で全員殺されて、女性たちはアレッポの海の方に強制的に行軍させられて…

他の女たちや子供たちを守って最後まで屈しなかった一家の娘Nunik (Paz Vega)を中心に、どんなふうにその地にいた家族や人々が殺されていったのか。タヴィアーニ兄弟の作品のなかでも一番陰惨でむごたらしいものなのではないか。(兵隊に殺されるくらいなら、って自分の赤子を..とか) でも実際にはもっともっと酷かったはずだし、こういうことは今も行われているのだ。そこに住んでいる人たちを、そこにいるからという理由だけで殺していく - どんな理由であろうとも殺してはいけない、って、そこに必ずもどる。


Una questione privata (2017)  - Rainbow: A Private Affair

3月11日、月曜日の晩に見ました。  
タヴィアーニ兄弟が「兄弟」として撮った最後の作品で、Vittorioは病床にあったので、エンディングクレジットの監督のとこにはPaoloの名前だけしかなかったりする。84分と短いし。

第二次大戦中のイタリアでファシストと戦いながら野山を駆けていくパルチザンのMilton (Luca Marinelli)がいて、疲弊した彼の目の前に同窓だったFulvia (Valentina Bellè)の屋敷が現れて、がらんとした屋敷に入れてもらうと、頭にはあの頃、”Over the Rainbow”のレコード – これがタイトルに繋がる - をかけて口ずさんだりうっとりしていた彼女と親友のGiorgio (Lorenzo Richelmy)のことが浮かんで、Fulviaは同じくパルチザンとなったGiorgioのところに行ってしまった、と聞くとGiorgioを探しださねば、になって、ファシストに捕らえられてトラックで連れ去られたという彼を求めてひとりで山奥に入っていくの。

最初はFulviaを恋しがっているのかと思っていたらGiorgioを見つけて辿り着くほうに狂ったようになって、Luca Marinelliなのでその狂いっぷり、明らかにおかしくなっていく目の光がすごくて、ここだけでも見るべき、なのだがそれと同等か、それ以上に靄や悪天候でぐじゃぐじゃの山奥の戦争も狂っていてこりゃどうしようもないわ、って。

Georgioを求めて狂っていくMiltonの姿が、VittorioとPaoloのそれに..  というのは考えすぎか。

[film] Paolo e Vittorio Taviani

こないだまでやっていたBFI Southbankでのタヴィアーニ兄弟特集は、全部で8本見て(しか見れなくて)、”Kaos”(1984)については感想を書いたものの、他は書けていなくて、書きたいのだがそれぞれに内容が詰まっていてきちんと(したことなんてないけど)書こうとすると結構たいへんだよなー、と思っているうちに溜まってしまった。思いだせる範囲で簡単にメモしておきたい。


Un uomo da bruciare (1962) - "A Man for Burning"

2月2日、金曜日の晩に見ました。 邦題は『火刑台の男』。
ふたりに加えてValentino Orsiniも監督に名を連ねている長編第一作。

実在したシチリアの農業労働組合のリーダーSalvatore Carnevale (1923-1955)の生涯を描いたモノクロ作品。冒頭からSalvatoreが帰ってきた! って農民たちの人気者の帰還からリーダーになってストを組織して、悲劇的な暗殺まで。正義の労働者・指導者を描いて割と時代のこてこてしたところもあるが、原っぱを走ってくる人を遠くからとらえるショットは既にこの頃からあった、とか。


Le affinità elettive (1996) – The Elective Affinities

2月21日、水曜日の晩に見ました。邦題は『ある貴婦人の恋』。
ゲーテの『親和力』が原作で、Isabelle HuppertとJean-Hugues Angladeが出ているのに劇場未公開なんだ… (だめじゃん)

久々に再会したかつての恋人同士が恋におちて結婚して、田舎の邸宅で貴族の暮らしをしていて、そこに夫の友人と妻の養女が訪ねてきて、どろどろの四角関係が転がり始めた - と思ったらばちか呪いに当たったようにみんなぱらぱらと亡くなっていっちゃうの。でも誰が原因っていうわけでもないの。

ゲーテの情熱と突き放して冷たく転がっていくところが絶妙に混在するこういうドラマにタヴィアーニのタッチがはまっているのと、割とずるずるお手上げ系の展開のなかに佇むIsabelle Huppertはほんとによくて、いくらでも見ていられるねえ。


Tu ridi (1998) - You Laugh

2月28日、水曜日の晩に見ました。邦題は『笑う男』。
ピランデルロの原作2本が元と聞いて、それならば、と。

最初のエピソードは“Felice” – 幸福。オペラ歌手になる夢を失い、会計士をやっている小太りの男が、寝ている間に不気味に笑う癖があり、起きても笑っていたこととその内容について一切憶えていなくて、苦悶の果てにようやくそれがなんなのかわかるのだが…

次のエピソードは“Due sequestri” - 二つの誘拐。現代で男の子を誘拐した男が彼を連れていろいろ点々としてて、子供とも馴染んできた、ように見えたところでばれるのを恐れて殺してしまった実際の事件(”Sicilian Ghost Story” (2017)として映画化されている)に、そこから100年前のイタリアで山道を歩いていた老人が目隠しをされて誘拐されて、でも狭い世界なので誘拐犯の名前と素性はすぐに老人にはわかってしまい、結局彼らと一緒に暮らしていくことになって – が挿入されている。

見たあとのかんじだと、これもあまり気持ちのよい話ではない - 意識するかしないかの紙一重のところで、ひとはすぐ傍の人に対してひどく残酷なことをしてしまっていて気付いた時には取返しがつかないところに行っていた - この辺はピランデルロかもー、って。


Sovversivi (1967) - The Subversives

3月1日、金曜日の晩に見ました。邦題は『危険分子たち』。
Valentino Orsiniなしで、兄弟がピンで監督した最初の作品。
Paoloが亡くなったことを聞いた直後に見たので、葬儀のシーンが… というのは前に書いた。

1964年、イタリア共産党指導者Palmiro Togliattiの葬儀のリアルフッテージを置いて、そこに参加する4人 – 不治の病にかかったことを知らされる映画監督、両親とか恋人とかの間でうだうだするカメラマン、妻がレスビアンであることを知って錯乱する会社の偉い人、恋人を捨てて軍政下のベネズエラに帰ろうとしている革命家など、それぞれはまったく関係ない別の世界を生きていて、葬儀に参列はするものの最後まで互いに、葬送の列にも交わることのない彼らの迷いやうんざりをランダムに並べていくモノクロの群像劇で、葬儀の記録映像だけじゃなくてゴダールの『気狂いピエロ』のラストがそのまま挿入されていたり、映像的にはかなり乱暴に好き勝手にやっているかんじ。 他方でストーリーとしては、みんな共産党で、イコール「危険分子」「破壊活動家」って言うかもだけど、実際にはこんなもんなんですけど(棺桶)… っていうのを67年に世に出してしまう、ってすごいかも。


ここでいったん切ります。

3.13.2024

[film] Rapito (2023)

3月7日、木曜日の晩、Curzon Mayfairで見ました。
英語題は”Kidnapped”、邦題は『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』 - 昨年イタリア映画祭かなんかで上映されていたなー。

英国の公開予定は4月なのでPreview扱いで上映後に監督Marco BellocchioとのQ&Aがある、と。なのですぐにチケットを取ったのだが客がぜんぜん入っていなくて普通に上映前の予告が始まったので、ああQ&Aはキャンセルになったのだな、と思ったら上映前にやあやあ、って現れた。個人的には最後の大巨匠。

実際に19世紀のイタリアで起こった実話。
教皇領のボローニャでユダヤ人のMortaraの家に夜中、警察のような一団がやってきて、6番目の息子Edgardo (Enea Sala)を強制的にどこかに連れ去ってしまう。

子供本人はなにがどうなったのかわけわからず、家族全員が嘆き悲しみ取り乱すなか、長い旅を経てローマ教皇庁の側にあるユダヤ人の子供たちの収容所のような寄宿学校に預けられ、他の子供たちとキリスト教の教義を学びながら一緒に暮らすことになり、後から親たちもやってきて面会して説得したりユダヤ教のグループが取り戻すべく工作したりするのだがどうすることもできない。

やがてEdgardoは熱心に学んで法王にも気に入られ、母から渡されたユダヤ教のお守りもどこかに消えて、十字架に張りつけられたキリスト像が降りてきて降りたつイメージ(すばらしい動き)を見たあたりから本人も戻ることのできない地点まで行ってしまう。というか幼い頃から摺り込まれたユダヤ教のお祈りも、新たに教え込まれたキリスト教のそれも、おそらく違いがあるとはわかっていない。

はじめはカトリックの上位者を中心とした組織的な小児への性的虐待のような場面/事件を想像していたのだが、それらしい雰囲気もなくはなくて、法王は明らかに邪悪な変態ぽかったりするものの、そういうシーンがはっきりと描かれることはない。他方で、あるのは人を救うはずの宗教が家族を引き裂いてキリスト教とユダヤ教の間の対立と分断を煽って平然としているところで、特に親からすれば神もくそもない状態だと思う。だから法王が亡くなった後に、葬送の途中に棺が襲われるシーン - 実際にあったんだって - のテンションなんてギャング映画のそれだし。

Marco Bellocchioの前作 - ”Esterno notte” (2022)も、時代は現代だったが実際に起こった誘拐事件を取りあげて、拐われて残された者たちの緊迫したドラマが描かれたが、今回のは拐った側、拐われた側の中間地帯に置かれた少年Edgardoの大きな穴 - 空虚のようなものがまず前面にきて、彼の表情や佇まいが、彼の魂はいったいどこに、どっち側にいるのか、のとてつもない緊張感を生む。彼の父(Fausto Russo Alesi)と母(Barbara Ronchi)のふたりの演技もものすごくよいのだが。

この筋運びの巧さというかまったくだれずにぶれずに最後まで一気に連れていってくれるところがMarco Bellocchioの強さで、比べるものではないけどTaviani兄弟とはやはり随分ちがう。

上映後のQ&A、客席からの質問に正確に応えていたかどうか定かではないのだが、宗教による世界の分断、というだけでなく、かつて被害者だったものが大きくなってから加害者の側に立ってしまう - これは間違いなく現代の - ガザの件とリンクしているテーマだ、ってなんの躊躇も迷いもなく明晰にコメントしていて、すごいなこの人、って改めて思った。

元はスピルバーグが別の原作本(この件について書かれた本は複数ある)と英語圏の役者 - Mark Rylanceが法王だったそう - を使って映画化しようとしていていたのだが、よい子役が見つからずに断念したのでまわってきたのだそう。スピルバーグだったらユダヤ人側をどう描いただろうねえ…


3.12.2024

[film] Origin (2023)

3月4日、月曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
この時点ではまだPreviewという扱いで(今は公開されている)、上映後には別の部屋で更に掘り下げていくレクチャーとディスカッションがあった(がこちらは参加できず)。

“Selma” (2014)のAva DuVernayによる新作。1994年にアフリカン・アメリカン女性として初めてピュリッツァー賞(ジャーナリズム)を受賞したIsabel Wilkersonが“Caste: The Origins of Our Discontents” (2020) - 翻訳は『カースト アメリカに渦巻く不満の根源』(2022) -岩波書店(未読) – を書きあげるまでのお話。AunjanueEllis-TaylorがIsabel Wilkersonを演じる評伝ドラマの形式をとっている。

141分の長さで、仮説を確かめるべくドイツやインドの現場を訪ねていったりもするし、Isabel Wilkerson本人にインタビューしたり関連する資料映像を集めたりのドキュメンタリー形式にした方がよかったのではないか、という議論はあることはわかるが、肉親を次々と亡くしていく悲しみのなかで本を仕上げようとした彼女のエモーショナルな旅を描くにはこの形式が必要だったのではないか、と思った。構成としてやや散漫でとっ散らかったになってしまったことは否めないが、彼女がどうしてこの本を書こうとしたのか、の切実さはこちらに刺さってくる。(いっぱい泣くよ)

2012年のTrayvon Martinの射殺事件 – 地元のヒスパニック・アメリカンが自分たちの居住地区にいたアフリカン・アメリカンを射殺した事件に対する周囲のコメントや見解がひっかかったIsabel (Aunjanue Ellis-Taylor)は、その思索をナチス占領期のドイツへ、さらにはカースト制度が残るインドへと広げていく。アメリカで今も続く人種差別とナチスがホロコーストで行おうとしたユダヤ人の絶滅は同じものなのか違うのか? 人種としては同じなのにずっと解消されないままのインドのカースト制は? ディナーパーティーの席で友人からはアメリカのは労働力確保のため、ナチスのは経済政策の一環だったので違うものだよ、と言われたり..

こうして、ナチス・ドイツ下でのナチス党員の彼とユダヤ人の彼女の間に起こった悲劇や、”Deep South” (1941)の本で、地域の差別のありようを研究・執筆したAllisonとElizabeth Davis夫妻のこと、インドのダリット(不可触民)から研究者となったDr. Ambedkarのこと、人種隔離で白人と同じプールに入ることを許されなかったAl Brightのことまで、再現ドラマを交えつつ考察していく。

それと並行して、よき理解者でもあった最愛の夫Brett (Jon Bernthal)を突然に失い、母Ruby (Emily Yancy)を、仲良しだったいとこMarion (Niecy Nash)を亡くしてしまう。これら連続した肉親の死と彼女の探求の繋がりが明確に語られることはない。のだが、ひとつの軸としてあるのは家族や一緒にいる人のかけがえのなさ、共に過ごした時間のことで、それは差別がどう、というのとは全く相容れないなにかで、それなら/それなのになぜ? という根源的な問いがくる。Isabelが水浸しになった家の地下を見て貰うのに呼んだ配管工(Nick Offerman) – MAGAの赤帽子を被って終始不機嫌 – に家族のことを尋ねてみるシーンは象徴的だと思った。

彼女の本はジャーナリズムの文脈で書かれたもので学術論文ではないからその真偽は、とか信憑性については、などという話ではなく、この映画でIsabelが、Ava DuVernayが繰り返し切々と語っているのは、差別は人を殺し、愛する人同士を死と同じように引き裂いてしまう、その根が歴史だろうが文化だろうがなんだろうが – だからとにかく絶対にだめなのだ、というのと、Isabelの説が正しいとすると、支配層が上位にある社会はその根幹に「カースト」と呼ばれるある属性をもった集団を(可視であれ不可視であれ)仕立てて隔てて、差別する(ひとによっては区別と呼んだりする)仕組みを巧妙に組み込んでその構造を維持しようとするのだ、と。そうすると、そこに「社会」がある限り、差別は不可避なものなのか? そうだったのかもしれない – けど社会って自分たちで変えられるものだし、変えようとしないと、だから。 だから、過去に何があったのかを直視することは大事だし - だからその構造 - 差別を維持したい社会は歴史を隠したり修正しようとするのだしー。

とにかく、何人殺せば気が済むのか、いいかげんにしろ、ってガザの方を見ていうし、日本がどれだけしょうもない国に堕落しようとしているのかとか… (溜息)

それにしても、ここでのAunjanue Ellis-Taylorのすばらしさときたら。怒りと絶望をもって過去を見つめようとする強さとすべての隣人を抱きしめようとするやさしさがひとつにかためられて人のかたちになっているような。口をつぐんでいる彼女の姿を思い出すだけでなんかくる。

教科書のように繰り返し見られてほしい。ちょっと長いけど。

3.11.2024

[theatre] My Neighbour Totoro

『君たちはどう生きるか』(2023)のオスカー受賞よかったね(棒)。これと『ゴジラ -1.0』(2023)と”Oppenheimer” (2023)の受賞で、アメリカは日本に対する戦争なんてぜんぶ屁でもなかった - 戦争してやったんだ感謝しろ、エンタメ消費ばんざい、ってはっきり言っているんだよ。昔からだけど。

3月5日、火曜日の晩、Barbican Centreで見ました。

映画『となりのトトロ』(1988)をThe Royal Shakespeare Companyが2022年に舞台化して、大評判になった作品のリバイバルで、昨年11月から今年の3月末までロングラン上演しているやつ。チケットを取ろうとしても確かにずっとSold Outしていてすごい。

宮崎駿による映画版は、トトロとか変な動物たちが出てきて動くのは好きだけどお話しとか設定はぜんぜんだめ – 彼の作品で一番好きなのは子供のころに見た『パンダコパンダ』(1972)だけど、これも同じか… 要は父親がなんでそんな偉くて勝手に決めることになっているのか、母親も含めてなんで女性はみんな女神か女中(おばば)でしかないのか、旧式左翼の甘ったれてやなとこぜんぶが詰まっていて子供がかわいそうになるやつ。

脚色はTom Morton-Smith、演出はPhelim McDermott - 2023年のLaurence Olivier Awardsを受賞している - 黒子もいっぱい出てくる人形遣いはJim HensonスタジオのBasil Twist、音楽は久石譲で、日本人キャストもいるし、節目で歌を歌うのは日本人のひとで日本語で歌ったりもするのだが字幕はない。

客席は子供連れも当然いるものの、半分以上は大人だったのでは。週末だと変わるのかもだけど。

開演前、降りているもふもふした幕には”My Neighbor Totoro”ってあって、時間になると上から”u”が下りて来て”o”と”r”の間にぎゅいぎゅい割りこんで”My Neighbour Totoro”、になる。これだけでみんな大喜びで、なんかうれしい。ステージの真ん中には家 – 木造の家だけど地面と床が同じ高さなのが... 縁側がほしいなあ - と奥の木の上には楽隊がいて、そんな舞台上にメイとサツキとお父さんがトラックで越してきて、ストーリー展開は映画版とおなじ。まっくろくろすけ - "black soots"もざわざわいっぱい出てくる。

メイとサツキはやかましいくらい元気で丁度よくて、その点で彼女たちは十分によくて、(ストーリーは割とどうでもよくて)、あとはトトロやネコバスがどんなふうに出てくるか、だけなのだが、最初に小トトロと中トトロがちょろちょろ出てきただけ(背後に人形遣いがいる)でみんなわあああーってなり、そしてあの木の穴のなかに転がっているトトロの山のような腹のでっかさにやられる。口を動かすときに中に黒子のひとがいっぱいいるのが見えたが、大変そうだった。ポスターでのトトロは緑色で、え? 緑? ってやや心配だったのだが色はだいじょうぶ(でもどんぐりはなんでか緑だったな)。

トトロはこの場面に出てくるやつが一番でっかくてたまんなくて - 富豪になったらこいつをいっぴき買って部屋に入れておきたい – あと3メートルくらいの立ちあがっているやつと、空を飛ぶときの小さ目のと、3バージョンくらい出てきた。3メートルのは重力の事情によるのかやや顔が海獣ぽく見えてしまう傾向があり、もう少し横に膨らませてもよかったかも、とか。雨のなかのバス停で奥からトトロがぬうって出てきて突っ立っているとこ、そしてネコバスもきたきたきたー、っていうかんじで現れるのだが、あのネコ、顔があまりにアリスのチェシャ猫に似たふうで、あんなふうだったっけ? ネコバスに人が乗りこむところはやはり無理でヒトのシルエットだけなのだが、離陸して飛び回るところはやはり盛りあがる。

他方で、そういうところだけでえらく盛りあがれてしまうのはよいことなのかどうか、森の奥深くの神秘みたいなところは音楽とライティングに頼っていて、それなりの効果はあったかも。ただ、原作だとトトロは森の精とかではなくてリアルな獣のはずなので、その生々しさをどう残すか、残せたのだろうか? ひとつ残念だったのはトトロが大口をあけて「う“ぶああぁぁー」って咆哮して風が起こるとこが見たかったかも。風を起こすのは衛生上むりなのだろうが...

家族愛とか隣人愛みたいなのはどうでもいいというか、母親が入院している時に適当に隣人に任せてあんなふうに子供をほったらかしておく父親って、欧米ではまずいんじゃないか、くらい。舞台版のあのエンディングって、子供たちは神隠しにあって消えてしまった(or 親たちがどこかになくなってしまった)、ようにもとれた– そうあってもおかしくない – のだがどうか、とか。

全体としては人形遣い - ニワトリとかも - がとにかくすばらしく、Neighbourのかんじは伝わってきたのでよかったかも。
帰り、ぬいぐるみ類はなんとか買わずにふりきった。がんばった。

書いていると「ト・ト・ロ♪ ト・ト・ロ♪」が頭のなかで回りだして困るのだが、これとパンダ・コパンダのテーマは、どっちが脳に巣食う殺傷力があるのか、だれか結論をだしているのかしら?

『千と千尋の神隠し』の方は見ないかも。


3.10.2024

[art] March 03 - Madrid

3月3日の日曜日、日帰りでマドリードに行ってきました。

パリと同じようにここの日帰りは前の駐在の時にもやっていて、当初はパリのMarmottan MonetのMorisot展に行きたかったのだが、マドリードの方でもこの週末で終わってしまう展示があり、飛行機で往復£80くらい(パリだとどうしても£100超える)のがあったのでこっちにした。朝6:30ヒースロー発の便だとバス&地下鉄で午前3時にアパートをでないとならないのだが、しょうがないー。

なんでマドリードかというと、街の真ん中の歩いていける距離に大きめの美術館が3つあって、丸一日美術につかっていることができるから。その分、食べ物とか他の市内観光は諦め、になるのだが。 ヨーロッパで他にこれができる街となると、ベルリン、フランクフルト、ウィーンくらいかなあ。あと、絵を一枚一枚じっくり見たい人には向かないねえ(宮川淳 vs. 吉田喜重)。

空港からバスで美術館の前まできて11時少し前。

Museo Nacional del Prado

Reversos - On the Reverse

3月3日が最終日で、これを見るのが目的だった。
絵画作品は画布上に描かれた二次元のアートで、ふつうはその「表」に描かれた絵とかイメージを見ていく訳だが、その実体 - 物理的な - はカンバスとか紙とかまず物理的なモノとして存在するものであり、芸術家にとっては商品でもあったり、なので人目に晒されない裏側がそもそもある。絶対ある。その裏側に意図的に別のなにかを描いたり、メッセージを記したり、落書きしたり、シールが貼られていたり、そういう絵画の裏面に着目してみよう、という展示。

レコードのB面? というのが分かりやすい説明だと思うし肩の力抜いて好きにやってるB面におもしろいのがあるのも周知のことだと思うが、それより遥かに自由に好き勝手なことをやってきているなあ、って。

画布に向かう自分を描いたレンブラントから、「裏が表である」っていう正攻法の(いつもの)マグリットから、表に聖母さま、裏でそのケツを描いていたり(鏡で両方見ることができる)、表の絵とはまったく関係ない花鳥画とかアブストラクトな落書きみたいのを描いていたり、自画像の表と裏のタッチがぜんぜん違っていたり、どれもものすごく自由で勝手で、まあそうあっても当然。

絵画の両面を見せている作品が多いので、展示スペースは限られたりしてしまう(1フロアのみ)のだが、画家は表面だけに向かって仕事していたわけではなく - もちろんそうでないまっとうな人も沢山いたのだろうが - 教科書を落書きまみれにしてしまうであろうこんなタイプ - その他いろいろ - もいたのだなー、と。

そうして因数分解していくと最後は素材のようなところまでいってしまうわけだが、当然そこに切り込んでいくアーティストだっていたり。しみじみ奥が深いこと。

この後は、小企画でやっていたEduardo Rosales (1836-1873)を見て、常設を見ていくわけだが、ここの「常設」ときたらルーヴルか、場合によってはそれ以上くらいによく充実していて、ボッシュにラファエロにフラ・アンジェリコにベルメホに、2階ではベラスケスにルーベンスにたっぷりのゴヤに、ゴヤは(階段だとしんどい)3階にも「猫のけんか」とか見逃せないのがあるし、歩きだしたら止まらなくなって時間を忘れる。

あと、以前は確かOKだった絵画の撮影がNGになっていた。ここみたいに有名なのが多いところだと名画と一緒に自撮りをする人たちが多くて(← なにが楽しいのかまったくわからず)うざかったのでよいことかも。


Thyssen-Bornemisza Museo Nacional

ここの常設も古典から近代までよいのが結構揃っていて、企画展がなくても楽しいの。 クールベの漁師の子供とか、ムンクの鵞鳥とか、ボナールの女性の肖像とか。

1階に纏められたCarmen Thyssen Collectionに自分の好きなのが固まっていることを発見した。

Isabel Quintanilla's intimate realism

まだ始まったばかりの企画展で、いっぱい人が入っていた。 Isabel Quintanilla (1938-2017) はスペインのリアリズム系の画家で、なんかどこかAntonio Lópezに似ているとこあるかも、と思ったらドローイングのなかに夫Francisco López - 彼は彫刻家 - のモデルになっているAntonio López、というのが出てきたり。この3人は50年代からずっと知り合いなのだそう。(FranciscoとAntonioは兄弟なのかと思ったが違うみたい)

彼女と同時代の女性画家たち、というのも少し紹介されていて、この静かなリアリズムの傾向ってなんなのか、とか。

台所とか部屋の隅を見渡す冷たく不動の様子はハマスホイを思わせるところもあるが、あれほど凍結されたふうでもなく、いちじくとか鰯とか、食べものの柔らかく少しぬるいかんじもたまんなくて。

ここまでで15時くらいで、
Museo Nacional Centro de Arte Reina Sofíaに向かって歩いていったら人がいなくて閉まっていたので全身の毛がさかだった。日曜日は14:30までだなんて…

ああやっぱり日曜じゃなくて土曜日 - Dune 2なんか見ていないで - にくるんだった…. しょんぼり。

気を取り直して古本屋もあるSan Fernando Marketに行ってみたら入場制限しているくらい中でみんなわいわい酔っぱらって飲み食いしていて、これは無理だわと、もういっこのMercado de San Miguelの方に行って、こっちはまだ隙間があったのでパエーリャとかチーズとか少しだらだらやけ食いして、空港に向かったの。ちぇ。

アパートに戻ったのはほぼ23時だった。

3.08.2024

[film] Anyone But You (2023)

2月29日、木曜日の晩、West EndのVueっていうシネコンで見ました。

監督は”Easy A” (2010)とか”Friends with Benefits” (2011)とか”Peter Rabbit”シリーズなどのWill Gluck。最初のふたつは割と好き。

シェイクスピアの“Much Ado About Nothing”の現代翻案もので、シェイクスピアをベースにした実写ものとしては最高興行収入を更新しているそう。確かに公開は随分前のことで上映館数も減っているのにまだ賑わっていた。(実写じゃない方の興収記録 - 数字はこっちの方が断然上 – となると”Gnomeo & Juliet” (2011)なんだって。わかる)

Glen Powellという男優ってどうなのか? 筋肉はいっぱいあるし軍服とか着せると見事でぱりっとするものの、中味はわりと不気味にからっぽふうに風が吹いてて結果的にはふられたりする役が多い – つまりrom-com的には格好のフィギュアではないか、と思い始めたところにこれが。

金融業界に勤めるBen (Glen Powell)が法曹界志望の大学生Bea (Sydney Sweeney)とコーヒーショップのトイレ待ちでぎこちなく出会って、おしゃれで空虚な彼のアパートで楽しく過ごし、Beaは朝にカウチで目覚めるとそっと抜けだして、でもやっぱり一言なんか言っといたほうがよいかも、って戻ってみると、いなくなられて傷ついたBenが親友のPete (GaTa)に負け惜しみのように彼女の悪口を言っているとこだけを聞いてしまい、こいつ最悪だわ、ってふっきる。

それから半年くらいが過ぎて、Peteの妹のClaudia (Alexandra Shipp)とBeaの妹のHalle (Hadley Robinson)がオーストラリア – シドニーの先の方にあるリゾートで結婚式をあげることになり、そこに向かう機上でふたりは顔を再びあわせることになって、さらにBeaの両親が彼女の幼馴染のJonathan (Darren Barnet)をヨリを戻させるべく招いていたり、BenのExのMargaret (Charlee Fraser)も来ていたり、既に過去のものである彼らと再び、なんて想像しただけであれこれ面倒だしそんな気分ではないので、みんなの前ではできあがった恋人同士のフリをしよう、ってふたりでじたばたしたりしているうちに。

結婚や将来にかけてのことはもちろん、Beaは自分の今後ぜんぶを気にかけて口を挟んでくる両親のことがうざいしめんどいし、Benも過去になにがあったのか踏みだせなくてもじもじしてて、ふたりが上がったり下がったり寄せたり引いたりのサイクルは通常のrom-comより小刻みだし下ネタもBenのヌードときんたまくらいの小規模だし、他人(or親族)の結婚式 - 定番でぐしゃぐしゃになる、リゾートの解放感、変な家族に友人、過去のフラッシュバックなど、お決まりはそれなりに用意されているものの、ふたりがよりを戻すのは一緒に歌う歌(あれ誰の曲?)とか、手作りのチーズトースト – こんなのやられるに決まっている - とか、ヘリコプターくらいで、はたしてこれらに決定的なマジックや驚きがあるかというと、ううむ…

Benがなんでそんなに暗いかんじでなにかを抱えている(ように見える)のか、Beaはなんでロースクール行きを諦めてしまうのか、最初の晩にふたりでどんなことを話したのか、そこらがないとちょっと磁力とか説得力とか出てこなくて、”Anyone But You”って地点まで行けていないかも。

なんて言いながらもGlen PowellとSydney Sweeney - 彼らふたりがはしゃぎまわる絵がもたらす空気とかケミストリーはまったく悪くなくて、このふたりいいなー、になるし、見ていて楽しいことは確かなので、よいかも。 ただこれなら「シェイクスピアの」はいらない気もするけど。

3.07.2024

[film] Dance, Girl, Dance (1940)

BFI SouthbankでのDorothy Arznerは2月でもう終わってしまって、ここで見たのは14本 - 全部見ることはできなかったのだが、まだ書いていなかった分について。


The Bride Wore Red (1937)

2月23日、金曜日の晩に見ました。邦題は『花嫁は紅衣装』。これは2018年のBFIのJoan Crawford特集のときに見ていた。製作はJoseph L. Mankiewicz。

腐れた伯爵がカジノで酔っぱらって、人生なんてルーレットのからからで、貴族とそれ以外を隔てているのは綺麗な服装とかそんなもんだけだぞ、って自説を検証すべく、場末のバーで歌っていたAnni (Joan Crawford)をスカウトして、お金と衣装と肩書を与えてチロルの高級リゾートホテルに送り出す。

そこで出会った郵便配達夫のGiulio (Franchot Tone)と貴族で婚約者もいるRudi (Robert Young)の間で巻き起こる恋のどたばた、それぞれのいろんな焦りと絶望、そして最後にAnniはどっちとくっついてどこにいくのかー など。ほんとあれこれいい迷惑ったらない。

あの鼻もちならない(と今は思う)“Pretty Woman” (1990)よりも少しだけ複雑でいろいろ考えさせてくれるよいrom-comだとは思うが、なぜ伯爵は最初に男性ではなく女性を選んだのか、とかの辺と、結局貴族のお遊びでしかないのならやっぱり貴族なんていらねーよな、って。

あそこまで行ったら、もうあたしはひとりで生きるよ - ばかばかしい、にならないのかなあ?


First Comes Courage (1943)

2月25日、日曜日の昼に見ました。
Dorothy Arznerが最後に監督した作品で、終わりまで仕上げることができずにCharles Vidorが関わった、と。

ノルウェーの海辺の小さな町で、Nicole (Merle Oberon)は抗ナチスのレジスタンスとして活動していて、その流れでナチスの司令官をおとして結婚しようとしているのだが、ナチスが彼女を疑い始めたので、元恋人の工作員Allan (Brian Aherne)が彼女を救出すべく英国から送りこまれて、でも海から入国した途端に見つかってばれて(なかなかまぬけ)やばいことになり.. というル・カレがテーマにしてもおかしくなさそうな戦争スパイ・アクション。結婚式以降の逃走~追跡 – 新郎にはほんとなんの未練もないのな – などはらはらどきどきなのはよいとして、最後、もうわたしの身の上を疑うやつは誰もいなくなったから、って再びナチスの巣に戻ろうとする彼女を「そうか…」みたいに止めずに眺めている連合国側の男たち、だめじゃん。

この前年のルビッチ『生きるべきか死ぬべきか』(1942) に設定としては近い - 占領が進む中でのぎりぎりの騙し合いからの脱出 – ので、コメディにしたらおもしろくなったかもしれないのになー。全体としてはとてもまじめに、まじめすぎるくらいまじめに作ってあるような。

男たちはみんなぼんくらなのに、結婚した瞬間に未亡人になってそのまま戦地に戻っていくMerle Oberonさんだけがすばらしくかっこよかった。


Dance, Girl, Dance (1940)

2月27日、火曜日の晩に見ました。邦題は『恋に踊る』。英国でも日本でも見ている。

上映前に映画(史)研究のLucy Boltonさんによるイントロがあり、いま見ても問答無用のクラシック、ですごくおもしろいところだらけなのだが興行的には惨敗で、問題はなぜこれが当たらなかったか、なのです。 と、いうことで上映後には別の部屋が用意されて更に深く掘ってみたいひとはそちらで議論しましょう、って。(こちらは不参加)

ダンスも好きだけど裕福な天辺暮らしを狙うぎんぎらのBubbles (Lucille Ball)とダンスが好きでバレエを習いながらその道を極めたいと切に願う熱血のJudy(Maureen O'Hara)、NYに出てきたまったく異なるタイプのふたりのダンサーが離婚手前のお金もちバカ男とか、すれ違ってばかりの有名な振付師とかの間に揉まれ、じたばた喧嘩をしたり落ちこんだりしつつ、のしあがっていって最後はよかったね、になる。

男どもに喝采されるBubblesのお色気ダンスと、そこに(わざと)割って入って野次と顰蹙を全身で浴びるJudyのクラシカルバレエの対比、その両者をミックスしたショーが大当たりする、っていかにも、なのと、最後にパニックになったステージ上でブチ切れたJudyが男たちに向かってきる啖呵 - 『笑ってろよ、モトを取りたいだろ、誰もあんたたちを傷つけたりなんかしない、家に帰れば奥さんやママには見せられないようなにやけ顔をしたあんたたちをこっちがどう見ているか、なんのためにそこでそんなふうに笑ってるん? かわいそーな人たち 云々(意訳)』 ここのほれぼれするかっこよさと台詞の今でもまったく古くなってないところとか、いろいろ噛みしめたい。


今月末から4月にかけての特集は”Out of the Shadows: The Films of Gene Tierney” だって。たのしみー。

3.06.2024

[film] Memory (2023)

2月26日、月曜日の晩、Barbican cinemaで見ました。なぜだか他のどこの映画館でもやっていない..

Jessica Chastainさんが好きなので見た。作・監督はメキシコのMichel Franco。昨年のヴェネツィアでは、Peter SarsgaardがBest Actorを受賞している。

冒頭に患者(?)たちから感謝の言葉を受けているSylvia (Jessica Chastain)は、ソーシャルワーカーでケアワーカーで、ティーンの娘Anna (Brooke Timber)のシングルマザーで、ブルックリンかクイーンズの外れの方に暮らしていて、ちょっと疲れているように見える(後でアルコール依存症だったこと、などがわかる)。

妹のOlivia (Merritt Wever)に誘われてぜんぜん乗り気のしない高校の同窓会に出てもやはり乗れなくて – この宴会場、たぶん、”Somewhere in Queens” (2022)に出てきたのと同じ場所だ - 隣に来て笑いかけてきた男が不快だったので、ひとりで席を立って帰ることにしたら、その男もゆっくりついてきて、地下鉄に乗っても隣の車両にいて、彼女が降りても降りてきて、アパートに逃げ込んで鍵をかけて安心するのだが、翌朝そいつは雨に濡れてアパートの下で寝ていて、体を壊されたらあれなので世話をすると、男はSaul (Peter Sarsgaard)といい、初期の記憶障害があっていろんなことを憶えておらず、面倒を見ている兄のIsaac (Josh Charles)親子と一緒にアパートに暮らしていることがわかる。

SylviaはSaulを公園に連れだして、なんで彼女を尾行したのか問い詰めるのだが、Saulはわからない、憶えていない、と言う。Sylviaは自分は憶えている、高校の時、あなたは同級生に命じてわたしに酒を飲ませ、その後に性的暴行をした、憶えていないのか? Saulは憶えていない、と返すので彼女は激怒して彼を置き去りにする。 ここでドラマの様相ががらりと変わり、”Promising Young Woman” (2020)のような復讐の物語になっていくのかと思いきや、そっちには行かずに、SaulはIsaacの娘Anna (Brooke Timber)からSylviaが転校したあとで学校に入ったので彼はその件の犯人ではないはずだ、と言われて、それならそうなのかも(あれれ?) になり、彼があなたを気に入ったようなので暫く面倒を見てあげてくれないか、という依頼も受けてしまう。

こうしてSaulのアパートで彼のケアを始めたSylviaはだんだん彼と仲良くなっていくのだが、どこかの時点からの記憶がなくなっているSaulと過去のトラウマなどで何かが失われているSylviaの関係は危うくて、家族からの反対もきつくなって、Olivia と母Samantha (Jessica Harper)のいる場で幼時に父親から受けた性的虐待のことを掘り返されたSylviaは塞ぎこみ、Saulもそれで動揺したのかアパートから落ちて病院に運ばれて…

現在の自分を構成している - と誰もが信じている「記憶」の不確かさと、それを不確かにしているのはまた別の辛い記憶だったりして、そうすると過去に辛いことばかりが重ねられた人のありようって ... というテーマに心理学的な概説や知見に踏みこまず、愛があれば、みたいな便利箱にも突っこもうとせず、そうなっても人は誰かを抱きしめることができるのか、という問いに、なんか難しいかも、って首を傾げつつも真剣に繊細に追っていくドラマ。 医者が何かを告げたり裁判や捜査のように真相が暴かれる場はないので本当のところは最後までわからないのだが、本当のところ、ってなんなのか? そこにあって本人が認識できるMemoryくらいしかなくて、でもそこがどうなっているから/いないからひとを愛するってわけでもあるまいに? など。

非常に難しいキャラクターの造形だと思うのだが、表面張力ぎりぎりを滑っていくJessica Chastainと自分のなかの大きな穴を見つめてうなだれ、苦しむPeter Sarsgaardのふたりの演技のぶつかり合い、というより重ね合わせがすばらしいったらない。

Saulが何度か部屋でかけるProcol Harumの”A Whiter Shade of Pale”、この曲があんなに浸みたことはなかったかも。

あと、クイーンズだかブルックリンだかの、ああいうアパートのインテリアって、なんであんなに素敵なのか - 映画だからだよ – にしてもさあー。


ガラスの回転扉 - と思って通り抜けようとしたところがただのガラスだったので顔面をぶつけて星が飛んで片目の上を切ってしまい、夜になってだんだんはれてきた。ガラスって、硬いよね。

3.05.2024

[film] Dune: Part Two (2024)

3月2日、土曜日の朝9:00~ BFI IMAXで見ました。

チケット発売日の朝にそういえばー、と思だして11時くらいに入ったら初日(1日)は深夜も含めてほぼ全滅で、翌朝の分をようやく取れた。話題作だと英国ではこれ(発売日に殺到→売り切れ)があるのを思いだした。 BFI IMAXって、並みの席の椅子で長時間座っていると絶対エコノミークラス症候群になりそうなやつなのだが、しょうがない。

間違いなく今年いちばんの待望のスペクタクル超大作で、予告編を見ただけで壮大な砂漠にぶおおおーんていう例のHans Zimmer音響 - 今回のは特にやかましい - が鳴り渡り、豪華な俳優たちが虫のようにうじゃうじゃ湧くように出てきて、みんな揃って噴きあがりまき散らされる砂(スパイス)を被りにいく、そんな映画体験になる。

これに合わせて”Part One” (2021)の上映もされていて、確かにストーリーとかすっかり忘れてどっかに行っていたのだったが、大丈夫。スパイスのおかげでなんとなく。貴重な鉱物資源を産する砂漠の惑星アラキスで、クーデターにより追い出されたPaul (Timothée Chalamet)とママ - Jessica (Rebecca Ferguson)が砂漠の先住民フレメンに合流して復讐を誓うまでが前のー。

砂漠の戦士Stilgar (Javier Bardem)からいろんな試練を与えられて試されて、それを平気な顔して次々とクリアして救世主として認められのしあがっていくPaulと、彼に寄り添うChani (Zendaya)の恋があり、いろんな悪夢を見てしまうPaulと身重でカルト的な預言者のサークルのなかにいるJessicaがいてたまに胎児が呼びかけてきたりして、Paulの父を殺したハルコンネンのBaron (Stellan Skarsgård) と甥のBeast (Dave Bautista)とFeyd-Rautha (Austin Butler) – つるっぱげの浮遊するデブ & ただのバカ & サイコパス、の悪役トリオに立ち向かうのと、政治+カルトの上層部を舞台にした人間ドラマも - 砂漠の戦闘スペクタクル・アクションを損なわない程度には機能していて、ここまでのところのバランスは悪くない。年代記の語り手となるPrincess Irulan (Florence Pugh)や、めちゃくちゃかっこよいLéa Seydouxや、一瞬だけ登場するAnya Taylor-Joyなど、女性たちの層の厚さに比べるとTimothée Chalametがなんであんなに独りでのし上れるのか(横につくのがJavier BardemとJosh Brolinって、同じような取締役タイプ)わかんなかったりするけど。

土地と貴重な鉱物資源を巡る争奪があり、その覇権を巡る先住民と富裕貴族(白人)との対立があり、そこには偏見と陰謀とオカルトが渦を巻き、結局は騙し合いの殺し合いがその規模を広げていって、最終的には自分たち以外の民はなくなってしまえばよい、ってみんなふつうに思っていて、だから喜んで銃と剣を手にして敵を殺しにいく。それにしても彼らの決闘って、なんであの短い剣なの? すでに十分に卑怯でずるいんだからなんでもありでやりあえばいいのに。

映像や音響も含めたプロダクションのすごさ、圧倒感はいろんな人たちが手放しで絶賛している通りだと思うものの、いまガザで起こっていることを考えるとちっとも楽しむことができなかった。地平線上に巻きあがる爆風に向かってひとり仁王立ちするグランドでスパーヴなヴィジュアルを見てもあの下に埋められ棄てられている子供たちが見えてしまう。 原作に、映画に罪はない? のだろうが、原作だって1965年に書かれた、あの時代の空気のなかから出てきたものだし、それを言い出したら「神話」そのものが、みたいな話になるのかもしれない、けど、いくらそんな議論をしたところで今のイスラエルに虐殺をやめる気はない。むしろこの映画を自分たちのプロパガンダや景気づけに使おうとしてくるだろう。そこにChalametは喜んでのってくるだろう、など。 あーあー。

昔はそんなことは感じなかった。自分が鈍かっただけなのかもしれない。でも、相当な規模の虐殺が本当にいま、この同じ世界で起こっているのだ、って。 それなら映画館なんて行くな、になるのだろうが(行くけどさ)。

“Oppenheimer” (2023)もそうだったけど、「圧倒的な映像の力」のようなものの裏側に間違いなくある数万もの人の死や破壊などについて、これらを「すげえ..」で済ませたり、「そんな数なんてどうでも」で片付けるようになったらいかん、て自分に。向こうはそうやって片付けさせたいのかも知れんが。

最後は確かに『帝国の逆襲』みたいなかんじは残って、Chani負けるな、になるのだが、ここにはForceも、正義もないの。みんながスパイスでラリってて暴力万歳、のそういう世界だって。

なので、サンドウォームがんばれ、もっと暴れてめちゃくちゃにしちゃえ! っていうのと、ウサギネズミのとこだけ、ほんわかしてよかった。

誰もが思うことだろうけど、あのセットの端っこをちょっとだけ借りてナウシカの実写版つくれば?

[film] Kaos (1984)

2月25日、日曜日の午後、BFI Southbankで見ました。

2月から3月にかけて、ここではTaviani兄弟とPaolo Taviani(1本だけ)の回顧上映をしていて、冊子とは思えない分厚さのプログラムが無料で配られて、Paolo Tavianiのトークも予定されていた(と記憶。やったのかな?)のだが先週お亡くなりになられてしまったのでしょんぼりしている。

彼の亡くなられた晩には丁度” I sovversivi” (1967) - The Subversivesの上映があり、棺桶を墓穴にどん! ってぶっこむシーンで終わっていて、ああ、って。常に死と隣り合わせにある夢とか記憶を描き続けてきたふたりだったなあ、と気づかされたり。

邦題『カオス・シチリア物語』は、公開時に六本木で見て、原作のピランデルロのことを知ったのもこれがきっかけで、数年前に翻訳本が出たときもすぐに買って読んで、ここ数年ずっと再見したい1本の上位にあって、今回の特集上映でもメインのビジュアルはこの作品のエピローグの少女が高いところで翼のように両手を広げて世界を見下ろしているあれで、2回ある上映のチケットはどちらもあっという間にSold Outしていた。みんなあの世界に浸りたかったのだと思う。

雄のくせに卵を温めてやがる、って捕まってよってたかって虐められ、首にベルを付けられたカラスがちりーんちりーんてベルの音と共に旋回しながら物語を拾って案内する、という導入から4つのエピソードとやや長めのエピローグ、188分あっという間。

L’altro figlio - "The Other Son"
14年前にアメリカに移住した2人の息子たちからの手紙を書いては送り – でも手紙の代筆がめちゃくちゃだったことが後でわかる - 彼らからの返事を路上で待ち続ける母の傍らには牛の世話をしながら彼女のことを気にかけている三男 - "The Other Son"がいた。母がどうしても彼に冷たくなってしまうその理由とは。侵略者に襲われた忌まわしい村の記憶 ~ 生首のサッカー。

Mal di luna - "Moonsickness"
新婚の夫婦がいて、全ては円満のようなのに、夫のほうが満月の晩になると豹変して狂ったようになるので、夫は妻に家から出るな、って命じて、かわりにその晩はハンサムなサロに妻の相手をさせようとするのだが…

淀川長治さんがこの映画の解説で、満月になると狂ってしまうのはわかる、と語っていてふーん、だったのだが歳とってその感覚がなんだかわかるようになってきたかも。

木に繋がれた夫が月に向かって吠えるとことか、吠えたてる犬に子猫爆弾をぶつけるとことか、素晴らしいシーンがいっぱいあるの。

La giara - "The Jar"
オリーブ畑のブラックな領主が、お金をかけてオリーブオイルを入れる特大の壺を作ってすげえだろ、って自慢していたらある晩にその甕がぱっくり割れちゃって、壺修理の達人が呼ばれて修理にかかるのだが、彼は自分を壺の中に入れたまま割れ目を塞いでしまって外に出られなくなり、でも領主は壺を割ることは許さん、ていうの。

Requiem
町から遠く離れた集落の村人たちが、自分たちの土地に自分たちの村の死者を埋葬する権利を貰うべく陳情直訴するのだが領主はこれを拒否して、拘束した村人たちを兵隊たちに村まで護送させ、そこで村人らが作り始めた墓地を壊そうとするのだが…

Colloquio con la madre - "Conversing with Mother"
老いたピランデルロが久しぶりに実家に戻ってきて - 馬車の御者はサロだった – しんとした家のなかでマルタ島に航海に出た時の思い出を見えない母に向かって語る。白い軽石の山の上にたって地面と海を見下ろした時の感覚が、いろんな土地、いろんな時代を巡っていった物語を改めて呼び醒す。

母子関係、夫婦関係、使役関係、死後の世界との関係、大昔の、どこかの土地での、一筋縄ではいかない関係の変転とその顛末を描いて、最後にそれがレモンの香りと鳥の目により彼方の空に散っていく。散っても残るものは、ある。

とうの昔に読んだ本、誰かに聞いた話、どこかで見た映画の欠片だけがあって、それがなんだったか十分に思いだせないでいたところのピースを繋ぎ合わせて形にしていく感覚、エピローグでピランデルロがああ、サロだったね! っていう思いだすときのあの感覚が再生される。

Taviani兄弟の他の作品でもそうなのだが、力強くストーリーテリングの力で引っ張っていくというより、次になにが起こるんだろう? という自在さに毛穴が端から開いていって、そしてほんとうにことが起こる!という瞬間の歓喜や失望に絶望、あれれ.. などに繋がっていって、これらを通してその世界に没入すると、とても近しい物語がやってくる。

そしてこれらはみんな亡くなってしまった人、どこかに行ってしまった人 - 死の世界を想うことに繋がっているのだと思う。こっちの世界がこんなだからって、行かないで! って死者を抱きしめようとする、そんな映画たち。


4月にはVíctor Ericeの特集が!