6.29.2014

[film] 2 automnes, 3 hivers (2013)

27日の金曜日、いいかげんまじで死んじゃうくらいに頭が沸騰してて、ほんとは日仏の「満月の夜」に行きたかったのだが時間的に無理で、21:00のこっちはネットでチケット取れそうだったから取って行った。 フランス映画祭の「2つの秋、3つの冬」。 
Vincent Macaigneが出てるのと、なんとなく(タイトルだけだと)ロメールぽいかしら、程度と。

2009年、アルマン(Vincent Macaigne)は33歳、定職なし彼女なしでどんより生きてて、公園のジョギングでぶつかったアメリ(Maud Wyler)と仲良くなりたいなーと思ってて、そんなある晩、路上強盗に襲われていた彼女に遭遇してアダム・サンドラー気分で助けようとしたら腹をぐさーて刺されて病院送り、そっから仲良くなって、過ぎていった2つの秋と2つの冬、そしてエピローグの冬ひとつ。

このふたりのほかに、アルマンのアートスクールの頃からの友人のバンジャマンがいて、彼も脳血管障害で道端でぶったおれ、そのリハビリ中に言語療法師のカティアと仲良くなって、彼らも加えた二組のカップルとしてのあれこれもある。

第一部がこまこまチャプター24くらいまで数字があがっていって、第二部はチャプター20からカウントダウンしていく。 死にかけた男ふたりの病院から始まった恋が、ふたたび病院送りの破局でかなしく終る、のかと思ったらそうではなかった。 3つめの冬とその先を示唆するかたちでほんわかと終る。 わかんないけどね、てかんじで。

ストーリーよりもこまこまチャプターごとにアクターそれぞれがこっちを向いていろんなことを語る、そのスタイルのほうが面白くて、上映後のトークで監督は、映画では誰もやったことがないスタイル、とか言っていたけど、別にそんなことないよね。 MTVの”The Real World”とかを思いだした。

あとはいろんな引用。 Judd Apatowの名はチャプターのタイトルにまで出てきて、彼の”Funny People” (2009)がコラージュのように切り出されるし、他に映画ではEugène GreenやAlain Tanner(サラマンドル)、ロメロの”Night of the Living Dead"、アートだとヨーゼフ・ボイスとかムンクとか、音楽だとJoy Division(首吊り)とかいくらでも。

「2つの春、3つの夏」ではない、もう決して若くはない、臨死に近いところまでいった2人を含む4人の、晴れ渡った確かな未来、確かな絆と共にある恋愛、ではなく、家族や友人もふくめて誰も保証できないもやもやした明日の隙間にある、そんな恋愛の危うさと切なさは割ときちんと描けていたかも。
アメリが最初にアルマンのアパートに来た晩のこととか、エピローグでアルマンが見つめるアメリの後ろ姿とか、よいよね。

それにしてもVincent Macaigne、あんたってひとは。
2月のカイエ週間の彼の特集、”Kingston Avenue”あたりにもあった見事な恋愛亡者っぷり。
自身の容姿も含めて恋愛を呪いまくる癖に、恋愛から抜けられなくなって更に呪うもんだからゾンビのようになっていく、その生々しさとバカバカしさ、おかしさを全身で体現できるやつ。
こいつで"(500) Days of Summer”をリメイクしろ、とか、こいつでSeth RogenやSteve Carellが出てくるJudd Apatowモノをぜんぶリメイクしろ、とかおもった。

もう6月も終っちゃうんだねえ。

6.28.2014

[film] Pompeii (2014)

21日の晩、ファスビンダー2本見たあと、日本橋で見ました。 2Dで。

そのまま“Whity”見てもよかったのだが、ファスビンダー、はまりこむのはなんか怖くて、ちょっと軽めのが見たくて、しかもこれ終っちゃいそうだったし。 あと、3ヶ月くらい前にマルカム・ラウリー「火山の下」読みおえた(内容はぜんぜん関係ないよ)とこだったのと、こないだ読み終えたコニー・ウィリスの「航路」の大惨事マニア - メイジーの影響とか。

ぜんぜんわるくなかったです。 “Noah”よか楽しかったかも。

とうのむかしに本当にあったこと(だよね?)で、火山がどーん、でみんなしんじゃった…  いじょう。

噴火の迫力とか災禍の悲惨を生々しく描くのでも、なんとか生きのびたり逃げようとがんばる人々の奮闘ドラマでもないの。 ポンペイに連れてこられたケルトの奴隷マイロの親の仇討ちとか、奴隷同士の喧嘩トーナメントとか、戦いに勝って自由をとか、奴隷マイロと姫カッシアの適わぬ恋とか、ローマ帝国本体と地方の力関係とか、その犠牲で姫差し入れとか、そんな善いの悪いの陰謀の復讐の入り乱れて大変だぞどうなっちゃうんだろ、が最高潮になったとこでどっかーん、がくるの。そのタイミングがあまりに絶妙なので火山すごいぞ、神様かあんたは、て思うの。 でも神様なら全部ちゃらにしないよね。きっと。

こんなふうに時代劇の王道パターンと災害パニックの組み合わせってなかなかよいかも。
しかし、岩は降ってくるわ火は飛んでくるわ地面は崩れるわ津波はくるわ人は押し合いへしあいだわ、もうどうしようもない。 100%完璧な天罰(そう思いたければ)。

ローマの悪代官がKiefer Sutherlandで、ポンペイの良代官がJared Harrisで、その娘が”Sucker Punch” (2011)とかSleeping Beauty (2011)のEmily Browningで、配役もぜんぜん悪くない。 マイロ役のKit Haringtonだけ、もうちょっと強そうに見えるやつにしてもよかったかもだけど。

ラストのふたりだけのとこはいかった。「いいか、俺だけを見ろ」ぎゅうう。 ... じゅう。

[film] Rio das Mortes (1970)

21日、「悪の神々」に続けて渋谷で見ました。 「リオ・ダス・モルテス」。
カラー作品だったのでちょっとびっくりする。(なんでだろ)

冒頭、黒のランジェリーいっちょうで電話しているハンナ・シグラのショットだけで十分なかんじ。
ついへらへらと吸い寄せられて気づいたら。

ハンナ(ハンナ・シグラ)とミシェル(でっかい。金髪の長髪)は恋人同士で、ミシェルはかつて喧嘩別れしていたギュンター(でっかい。アフロの短髪)と再会して、つまんねーからペルーでも行こうぜ、とかいう話になって、行ってなにするとかなにしたい、とかいうのなしに、じゃあ資金調達しなきゃ、みたいなところで盛りあがって、でも実の伴った話ではないからお金はまったく集まらなくて、でも突然お金が落ちてきたのでふたりして空港に向かう。 怒り狂ったハンナは拳銃を手にとって。 ていう男ふたりと女ひとりの青春映画。

お話はあれこれ行き場のない若者たちが犯罪ではなく国外逃亡を企てる、というだけで、かんじは「悪の神々」に似ていないこともない。 無駄話とかあーなんかつまんねー、ていう嘆息がベースにあるの。爽やかじゃない、けどダウナーでもない。

で、その若者たちとその周りを演じるのがアンチテアターの面々で、後のファスビンダー映画の常連になる連中が顔見世のようにちょこちょこ出てくるのがたのしい。 “X-Men: First Class”みたいなかんじか(70年代だし)。

ハンナ・シグラとファスビンダーが酒場で向いあって「監獄ロック」で踊るところは、伝説と呼ぶにふさわしいものだった。いっちゃっている、ていうより、ふたりのテンションのギャップ、というよか生物動物のレベルで計り知れない段差のようなものが既にあり、でもなんかパ・ド・ドゥとしては成立していて、カメラはまったく動かないのにこういったことがしらじら曝されてしまう。

ランジェリーのハンナ・シグラに拳銃のハンナ・シグラ、合間に踊るハンナ・シグラ。
結局ハンナ・シグラの映画だったのかも。


関係ありませんが、Greenpointのレコード店、Academy Annexの店猫、Tiggerさんが亡くなられたと。 
店内でどんな変てこサイケがかかっても、大音量のメタルやノイズがかかっても、全く動じない気高さ崇高さを湛えたすばらしい猫さんでした。最後に会ったときは7inchの紙箱の角で頭を擦っていて元気そうだったのに。

ご冥福をお祈りします。

6.25.2014

[film] Götter der Pest (1970)

21日の土曜日、渋谷ではじまったファスビンダー映画祭から、まずは2本。

チケット並びそうな予感があったので、昼くらいに行ってみたらやはりなかなかの列ができていた。
ファスビンダーがようやく受け入れられるようになってきた、とかそういうレベルではなくて、みんな必要としているんだとおもう。 ファスビンダーの映画の逃れようのない暗さとか泥沼とか退行とかそういうのを。 人を元気に高揚させるのは簡単だが、おっことすのは難しくて、ファスビンダーの映画は見事にきちんとしたマナーで突き落としてくれるように思う。

「悪の神々」。英語題は”Gods of The Plague”。

フランツ(ハリー・ベア)が刑務所から出所するところから始まり、彼がカフェに入って電話かけたりして、彼を待っていた昔の女(ハンナ・シグラ)と再会して、でもうまくいかなくて、結局昔から付きあっていた悪い連中と再会して悪事を練るのだが、それが昔の女から警察に密告され、たいしたこともできないまま夜のスーパーマーケットでやられてしまって、救いなし。 それだけ。

フランツ自身から「フランツ・ビーバーコップ」の名前が出たりもするし「ベルリン・アレクサンダー広場」の中のいちエピソードみたいに見えないこともない。 刑務所から出てはみたものの、まっとうに生きる更生するなんてこれっぽちも気配なしやるきなしで、結局いつかきた道、悪い連中のサークルのなかにぐだぐだと巻き込まれていって、でも悪いことやっている自覚もないし実際やってもいないのに、あいつだ!て指されて撃ち殺されて後にはなんにも残らない。

こんなふうな生のありようと共に「悪」とか「罪」の居場所みたいなことが壮大かつ饒舌に語られるのが「ベルリン ... 」だとすると、これをとってもコンパクトに複数の女、複数の悪友とか、悪巧み、共謀とか復讐とか、極悪ではなくプチ悪だけどどっちにしてもどんづまりの袋小路のなかに描くのがこれ。 例えば、その反対側にありえたかもしれない真面目な生活とか善きひと善きこころ、とか、そんなのは初めからないんだわ。

ギャング映画でもファムファタールでもノワールでもない、どれにしたっていまいち中途半端で、どの場所に置かれてもうまくやっていけそうにない主人公が出所後、一瞬ふんわりと宙に浮かんだ数日間の記録。 焦点の定まらない青春映画として見るのはありかもしれない。

フランツが田舎の隠れ家に向かうときのゆったりとした空撮とか、唐突に始まるとっくみあいとか、ひつじへのアタックとか、どうでもいいおしゃべりとか、そのどれも本気じゃない投げやりな距離感がなんか素敵で、決して明るくない結末なのに妙にさわやかなのだった。 この辺はファスビンダーに共通する空気、でもあるの。

6.23.2014

[music] Cat Power - June 22 2014

22日の午後、新木場に行って3本立て見ました。 「婦警ジョーン」-「雲無し」-「猫力」。
3日前くらいに気づいて慌ててチケット取った。

PILの初来日公演(中野サンプラザ)からちょうど31年 …とか言われて壁にあたまぶつけて死んでたのでよい気晴らしになりましたわ。

Joan As Police Woman
Joan WasserさんのソロはThe Stoneとかで見ていた(調べたら2009年6月だった。5年前… )が、バンド編成で見たのは初めてだったかも。
彼女を入れて4名。 ベースはMoogでドラムスを含め、重心はどかどかずっしり低く重めに、その上に滑らかでこれも厚めのキーボードとギター。 全体のかんじはブルージーに沈みこんだR&B - ソウル。

Joanさんは曲によってキーボードにギターにヴァイオリンをとっかえひっかえ、でもなんといっても揺るがないヴォーカルの深さと艶がすべてで、これなら2時間だって気持ちよく聴いていられる。

Cloud Nothings

まだ新譜は聴いていない。 その前のAlbiniさんプロデュースのは聴いた。
開演前のリハ、ドラムスの出音が道路工事現場のようなけたたましさで、これは絶対すごいはず、と思ったら確かに。
3ピースが中央にこじんまりとした三角を描き、殺風景で愛想も愛嬌もなし、音の重さとかエッジとか技術とかよりも、道路工事の実直さと執拗さで地面を掘りまくってその破片をこちらに飛ばしてくる。 それはフォーマットとしてのパンクが煽るもの、高揚させるものとは全く別の力が内臓の奥で弾けて蠢いているような。 

Buzzcocksの後に現れたJoy Divisionは、例えばこんなかたちを取ってもおかしくなかった。たとえば。 それが米国のハードコアとポストロックとグランジを経由してこんな形をとって2010年代に現れた、という道、をおもったり。

ラストの”No Future/No Past”、地面にばしゃん、と垂直に落ちるドラムスの気持ちよかったこと。

Cat Power

2013年の1月、“Sun”のリリース直後のTerminal 5のライブを見て以来。バンドも配置もあのときと同じ。

時間通りに始まるのがおきまりなのに15分過ぎても出てこなくて、あーはじまったよ猫が、と思って、でも出てきたらぺこぺこお辞儀しているからご機嫌は悪くなさそうかも、て少し思い返し、だがやはりそんなに猫は甘くないのだった。

溜息にも似た声を吹き出せば素敵なのに曲間とかぜんたいの構成はぐだぐだで、帰ってしまう人々 - 特に外国の方 - 多数。 途中でどんな顔してやってるんだか見たくなって前のほうに降りてみる。

顔を見るとやっぱし引きつっててなんか頭が沸騰しているふうだった。
「ねえねえふつう財布に切手とか入れてるよね? 急ぎで手紙だしたりするとき用に。でもこないだみたいにGovernment Shutdownがあるとそれもできなくなっちゃうじゃん、Emailだけ、とか(中指)」みたいなことをぶつぶつ呟いていたので、たぶんなんかのコミュニケーションでなんかあってあったま来たのかもしれないねえ。

おもむろにギターを手にして”I wanna be your dog”をじゃかじゃかかき鳴らし、その流れのままあーうっとおしいぜ、てかんじで”Metal Heart”に突入したとこなんて殺気に満ち満ちてほんとすばらしかったのになー。

そのうちバンドが勝手に主導権とって演奏を進めるようになり、それに気づいた彼女は「あたしゃ馬車馬かよ」みたいに後ろに悪態ついたりしていたが、それでも最後の”Ruin”とか、やっぱしいかったよ。

“あたしらなにやってんだろね? 瓦礫の上に座ったりしてさー♪”

NYで見たときは随分素直に、エンタメするようになったもんだねえ、と感心したものだったが基本はやはり変わっていないのだった。 でも世の中にはこんなライブだってあるし、あったほうがいいのよ。 ライブなんだからさ。

6.22.2014

[film] Noah (2014)

15日の午後、渋谷で「罪の手ざわり」を見たあと、渋谷にはびこるバカの手ざわりをしみじみ呪いつつ日本橋に抜けてみました。 こんどはちゃんとしたDolby Atmosだったかも。

「罪の手ざわり」からの流れでいうと、仏教における罪とキリスト教における罪の起源、現代と古代における罪のありよう、とか2本並べてみるとおもしろいはず。 宗教学とかのレポートの課題にできるとおもう。

「ノアの箱舟」伝説の映画化で、(たぶん)ほんとにあったことではなくて、そもそもが荒唐無稽なホラ話(ごめんね、神様)みたいなやつだからなにをどう描いたってよかったはず、なのだが、これはこれでとっても真面目なドラマになっている。

誰もが想像するであろうディザスタースペクタクル史劇、ていう要素は薄くて、それらは雨でも降るように自然に起こってしまい、そんなありえない事態に直面したときの内面の葛藤、家族内の諍いと決着を具体的に描く、という点では同監督の"The Wrestler" (2008)や”Black Swan” (2010)と並べてもそんなに違和感はないかんじ。

Russell CroweがNoahで、最初にできた人間からの何代目かで、この世の中は腐っちゃったので洪水起こして一回初期化するから、ってお告げを受けて、そこらでごろごろしていたThe Watchersていう岩のお化けみたいな連中(元は光の精だったんだってさ)に箱舟を作ってもらうの。Noahには妻(Jennifer Connelly)と息子3人と拾った女の子(Emma Watson)と困ったときに助けてくれる万能のおじいちゃん(Anthony Hopkins)とかがいる。 あと、悪い人間の代表にはカインの末裔とかがいるの。

こういうふうに家族ドラマの基本様式みたいのはそれなりにあるから、少子化とか次男の嫁問題とか微妙に身近で切実なトピックもいろいろでてくるし、動物たちがどかどか箱舟に押し寄せてきたあとの騒音とか消臭とかそういうのもパパはなんとかしてくれる(眠らせちゃえばいい、ってまず人間が寝ればいいんだよ)。

誘惑から始まったひとの罪(て最初にはっきり言われる)が蔓延してどうしようもなくなったので少数限定のスペシャルパッケージを作ってそこから逃れてみたものの、やっぱし完全浄化は無理みたいです神様どうしましょう? て言ってみても誰も応えてはくれなくて、そこで神様にケツまくるのではなく眉間にシワよせて考えこんでしまうのがRussell CroweでありDarren Aronofskyなのだろうね。

箱舟に大挙してなだれこんでくる動物たち、楽しいけどペンギンとか飛べない鳥は、川魚は、植物はどうするの? とか、いろいろ考えてしまう。
多様性とかゆっても結局のとこシングルオリジンのツリーなのよねキリスト教。
箱舟モノとしてのリアルとかおもしろさとかでいうと、”Oblivion” (2013)あたりのが思い切っててよいかも。

ラストに流れるのはPatti Smithの新曲らしいのだが、別に”Land”をそのまま流したってよかったのに。

6.20.2014

[film] A Touch of Sin (2013)

15日日曜日の午前、ちょうどサッカーばかがひしめいていた渋谷でみました。
「罪の手ざわり」。中国語題は「天注定」。
129分。 米国でやっていたときは133分だったのだが、どこか削られているの?

4つの、人が死ぬ事件、その中心にいた4人の老若男女それぞれの事情。

炭坑で働く山西省の男(ダーハイ)は、村の所有だった炭坑を勝手に実業家(同級生)に売られて、私腹を肥やしている村長とかに頭きて、北京に手紙書いて訴えてやるていうのだが相手にされず、実業家に直訴したら側近にぶん殴られて、その様を見ていた村人からは「ゴルフさん」とか呼ばれ、猟銃に手を伸ばして街中を歩いていく。

重慶の三男坊の男(チョウ)は大晦日にどこかからふらりと帰ってきて妻と息子と少し寛ごうとしてでもあんまうまくできない。彼は実家に結構なお金を送ってくるのだが、どこでどうやってお金を作るのかしら、て妻が鞄を見てみると銃の弾倉(弾入り)が見つかって、夫はまた黙って出稼ぎに出ていくの。

サウナで働いている湖北省の女(シャオユー)は男と会うのだが彼には妻がいて別れてくれなくて、その妻に突然襲われたり、仕事場で洗濯していると客のブ男にマッサージしろ、て執拗に迫られたりで、もういい加減にして、とナイフを手に取る。

広東省の若者(シャオホイ)は工場で同僚に怪我をさせてしまって、そいつの分の給料払え、それまでお前は無給ねと言われてそこを飛び出し、もっと金を稼げそうな職場を求めて土地を移って、ナイトクラブのボーイになって、そこで知り合った同僚の女の子とデートするのだが、彼女からごめんね子供がいるの、て言われてがっくりきてまた別の工場に移って、それで。

中国で実際にあったらしい、いかにもそんなふうな4つの事件、4つの話は完全に切れているわけではなく、それぞれのエピソードの冒頭や終りに別のエピソードのひとがちょっとだけ横切ったり顔を出したりもするので、これらはひとつの世界のおはなしとして、連鎖して停まることのないなにかとして描かれている。 「ラルジャン」のような、誰にも止めることのできないあのかんじ。

ラスト、刑務所を出てきたらしいシャオユーの前で野外芝居の声が「お前は自分の罪を認めるのか?」て執拗に迫ってくる。 YesでありNoでもある、そういう場所に置かれたのは、この4人だけじゃないはず、ていうのと、罪のありかは微妙だとしても、悪とか暴力とかはある。 確実にある、罪に先立ってあるんだ、たとえばこんなふうに。 ていう映画。

ところどころに顔をだす動物たちが印象的でねえ。 鞭で飼い主に虐められていた馬が、ダーハイにぺこり、て頭を下げるとこはきゅんとくるし、シャオユーの前を唐突に横切るヘビは神様のように見える(ヘビ、動きが速すぎるけど)。

あと、出てくる人達の顔がどれもみんな、ジャ・ジャンクーの映画だなあ、て。
“Unknown Pleasures” (2002)のあたりからずっと、Joy Divisionな、動物みたいに無防備で不機嫌なひとたち。

6.17.2014

[film] 牝犬 (1951)

10日の火曜日の晩、神保町シアターの特集「エロスのある風景」で見ました。

「エロスのある風景」と「エロい風景」はちょっとちがうねえ。

志村喬は保険会社の会計部長で学歴ないところからの叩きあげが自慢で、毎朝乾布まさつとかして元気いっぱいで、でも妻(北林谷栄)はひょろひょろ病弱で、ロンドンにバレエ留学したいと言っている娘(久我美子)にはバカいうな、とか説教する。

会社の金を着服した部下が場末のクラブで踊り子のとこに入り浸っていると聞いた彼は、日帰り出張の帰りにそのお店に寄ってみたら、もんだいの踊り子のエミー(京マチ子)に会って、そこで会社のお金300万円が入った鞄を失くしてしまう。動転した彼はエミーの言われるままに彼女の部屋についていったらそこが思うツボで、まんまと毒蜘蛛に食べられちゃうの。

翌日から彼は会社に来なくなって家にも帰っていなくて、調べてみたら女と失踪しました、と。
それを聞いた妻は白目を剥いて(ほんとに白目むくの)へなへなと崩れおちてしまう。

秋が来て冬が来て、あれから1年、どこかの港町のどこかのバー、その横の床屋に突然ぱりっとリボーンした志村喬が現れるのでびっくりするのだが、彼は会社のお金で買ったのであろうそこのバーと踊り子集団(含エミー)のオウナーで、エミーは彼のことを「パパ」とか呼んで幸せらしいのだった。 が、エミーはバーの楽団に入ってきた若い白川くんにめらめら燃えあがってしまい、パパは嫉妬がすごくなって、でろでろのド修羅場になだれこんでいくの。

最後のほう、堕ちるとこまでおちたふたりの負のパワーが激突するあたりの暗い画面はほとんどホラーで、特に闇のなかで怪しく光るエミーの目は牝犬というより化け猫のようで、結末は意外でもなんでもなく、あたりまえのように救いようがなくてよかった。 鞄をなくしたらまず警察に行くことね。

ラストの志村喬の後ろ姿はすごい。きっとこの翌年(52年)の「生きる」はこれの償いで作られたにちがいない(見てないけど)。

6.15.2014

[film] GF*BF (2012)

14日土曜日の昼間、やっと晴れたねえ、と六本木で見ました。
英語題は、”Girlfriend Boyfriend”。

夏のはじめの青春映画、てかんじ。 見るなら今だよ。

冒頭、スカートいやだ短パンを!て、中学で抗議のダンスをして弾けている女の子たちが出てきて、その扇動者らしき双子の保護者が学校に呼ばれて、戸籍上は兄だけど彼女達の父なんです、とかわけのわからないことをいうその男は、据わった目で事情を語り始める。

85年、戒厳令下の台湾の高校には軍人教師がいて思想統制が厳しくて、忠良(張孝全)と美宝(桂綸鎂)は幼馴染で彼と彼女で、もうひとり、心仁(鳳小岳)がいて、心仁は美宝が好きで、3人は学校側をおちょくって騒いだり夜店で発禁思想誌を売ったり、輝ける青春の日々なの。

そこから90年の台北、民主化運動が激しい大学で、忠良と心仁はアパートで同居してて、美宝はジムでインストラクターをしてて、美宝と心仁は既に恋人同士だけど、いろんなことがあって、そこから更に97年に飛んで。 書くのは大変だし読めばつまんなくなるので、まず映画をみませう。

それぞれの想いを抱えていた3人の、入りくんでこんがらがった12年、そこから更に2012年までの27年を、笑顔も涙も光も闇もきれいに丁寧にその軌跡を追っかけて、爽やかに泣かせてくれる。

青春もいっぱいあるけど、これはやはり愛を描いた映画で、それって過去の記憶を慈しみ、溺れて泣き濡れる系のではなく、報われなかったあのときの自分にそっと光をあてて掬いあげてみせる。なにかが間違っていたのかいなかったのか、それはどうすることもできなかった。 その苦さを現在に抱き寄せること、そこで始めて過去は揺るがない、消えないなにかではなく、現在と共に呼吸するなにか、共に生きる、現在の愛として抱きしめるなにかになるのだと。 だから愛は永遠なのだし、我々はこうして正気を保っていられる。

たぶんひとによってそれぞれ永遠のモーメントはあることでしょうが、あの夜のプールのシーンはずるいや、あんなのずるいったらずるい。

あと、台湾という国との確執、ていうテーマも裏にはある。彼らがずっと闘い続けた国家権力、愛に勝ち負けなんてないけれど、でも。 そこから更にセクシュアリティの問題もね(3人の他に、いつも陽気なオカマのあんちゃんがいて彼の位置とか)。 そこに80年代から90年代への意識の変遷を重ねてみよう。 見えてくるもの以上に裾野は広くて深いよ。

音楽はちょっとべたべただったけど、これはアジア映画ではそういうもん、と思えば。

3人の俳優さんはみんな素敵だったが、美宝役の桂綸鎂さんは特にすばらしいとおもった。

それにしても。 週末はなんでこうも簡単にいってしまうのか。
 

[art] 桑原甲子雄の写真 トーキョー・スケッチ60年

8日の日曜日の昼間、展示の最終日に世田谷美術館で見ました。

桑原甲子雄の写真て、晶文社の「夢の町」と「東京昭和十一年」が昔からだいすきで、その理由をあまり深く考えたことはなくて、こういう展覧会でついでになんかわかったりするかも、ていうのと、戦後の昭和を撮ったものをきちんと見たことがなかったから、どんなもんか、と。

今の東京はぜんぜん好きではなくて、では写真に撮られた昔の、戦前の東京の町や東京の人々をノスタルジイみたいな感慨と共に愛することができるのか、というとそういうのでもなくて、昔の、通りすがりのひとがフレームの隅からこっちを胡散臭そうに眺めている、そういう距離感と共にある街角、いろんなノイズを右から左に流していく散歩者の目線で切り取られた風景がよいのだと思った。

もう戻ってこない届かない、記憶の彼方に消えてしまった人々や風景、それ故にそれらは美しく愛しいものに見えるのか、というとそうではなくて、そもそも美しいとか愛おしいとかそういう感慨を引き起こすような決定的ななにか、はあまり写っていない(ように見える)。 そうではなくて、たんにそのシャッターを押した瞬間、その瞬間に何かが止まったように感じられ、次の瞬間にざわざわした空気やノイズが戻ってくるその数秒間を、個々の写真の前を通り過ぎながら追体験できるような気が、その引っぱられる感覚、それって自分で写真集のページをめくっていくのとは違うかんじかも、とか。

しかし、戦時下のニューススタンドはまるで今の電車の中吊り広告とおなじように醜悪で、だからといって桑原甲子雄が生きていて今の渋谷とか池袋とかを同じように撮ったら同じような感覚はやってくるのか、というと80年代の写真はやはり決定的になんか(写真が、というより撮られる対象が)だめな気がして、やっぱし今の東京って、景観としてだんぜん劣化しているのかも、だった。

でもゆいいつ、ちょっとだけ動揺したのがあって、84年の港区青山五丁目、その写真のはじっこにPied Piper House(レコード屋だよ)が写っている。 ここに映りこんでいる場所を、あの店の奥の暗がりを知っている、と脳内シナプスに火花が走った瞬間のめまい。

おなじようなかんじがこないだ、NYのRough Tradeでレコードを漁っていたとき、外は小雨で、店内のBGMで突然Feltの”Evergreen Dazed”がかかって、それと共に部屋に籠って食パンのミミばかりを齧っていたある時代のある時間が蘇ってめまいが。

老いというのはこういうのが断続して起こることで、だからみんなよれよれくらくらしてして危うくなるのね気をつけなくちゃ、ておもった。  写真とは関係ないけど。

[film] むすめ (1943)

梅雨とひどい気圧の日々がきて、仕事の山が降ってきて、サッカーだかフッチボールだかが始まって、なにもかもうっとおしくて不快でしょうがない。 やるのはそっちの勝手だけど、こっちの視界聴界に入ってきたり巻きこんだりしないでほしい。

Palo Alto前に見たやつで書きかけのがあったので。
24日の土曜日の午後、”Withnail & I”のあと、吉祥寺から京橋に移動して見ました。
NFCのアンコール特集の1本。

久子(髙峰三枝子)は自宅で洋裁店をしてて、元料理人の父(河村黎吉)はWithnailみたいになんもしないでぐうたらぶらぶらしてて、弟は町工場で働いているのだがこのところ素行がよくないらしい。

近所の近所の角平(坂本武)とおかつ(飯田蝶子)の夫婦が、久子のすてきな縁談を持ってきて、父親もこんないい話はねえ、てはしゃぐのだったが、久子は歯医者をやっている上原謙が好きで、でもただ好きだってだけだし、そんなこと父親には言えないので黙ってむくれているのだが、話は結納のあたりまで勝手に進んでいって、どうなるよ、どうするよ、になるの。

タイトルは「むすめ」だし、もちろんむすめは出てくるのだが、そのむすめを「むすめ」ていう位置に置いているおとうさん - ぷらぷらなんもしないで近所に将棋指しに行ったらおかつに嫌がられて角平を押入れに隠されてほとんど落語だったり、でもむすめがふくれたりむすこが不良で警察にしょっぴかれたりすると「まあそこ座んな」とか言って、でも説教みたいなとこには行かずに、ひとりぶつぶつ言ってひとりなんかうんうん納得して、その語りでむすめもむすこもしんみりしみじみ反省して、なんでかおとうさんありがとうがんばるよ! になってしまう。
こんなの一番きらいなパターンだし、だいたいあんたは無産のぷーじゃねえかよ! なのだがこっちまでよかったねえがんばるんだよ、てなんだかじーんときてしまうのは、みんなうますぎるからだねえ。

髙峰三枝子もほとんど口をへの字に曲げてふくれてばっかりなのだが、そこがまたよいの。

戦時下のホームドラマ.. ていうとこを差し引いても押しつけがましいとこがなくて綺麗にまとまっていてよいとおもった。

6.08.2014

[film] The Grand Budapest Hotel (2014)

8日、日曜日のごご2時、日本橋で見ました。
すうっと見たくてたまんなくて、こないだの飛行機でもメニューにはあったけど我慢して、目に入ってくる写真以外は見ないで、関係記事も一切読まないできた。 これから見るひとはここから先は読まないほうがいいかも。

ほんとはシネマカリテで見たかったし見るべきと思っていたのだが、安易な予約の道を取ってTOHOにしてしまった。 お仕置きに気色悪い劣悪なCM群に目と耳を塞いで延々我慢する。

それにしても、この映画おもしろすぎ。
売切れ続出は当然だわ。 ざまあみろ、だわ。

85年、老作家(Tom Wilkinson)が孫に邪魔されつつ創作の秘密を語る。それを受けるかたちで68年、若い頃の作家(Jude Law)がZubrowkaていうヨーロッパの国の山奥にあるGrand Budapest Hotel に滞在してて、そこのコンシェルジュ(Jason Schwartzman)経由でホテルの所有者であるZero Moustafa(F. Murray Abraham)と知りあってディナーを共にし、そこで明かされるホテルの、Zero自身の数奇な運命と歴史と、それがなにか?  と。

更にここから話しは32年のホテルに飛んで、そこでのZeroはまだ駆け出しのロビーボーイで、神懸かり的に強烈なコンシェルジュ - M. Gustave (Ralph Fiennes)がホテルの全てを支配していた。
ホテルの上客でM. Gustaveともあれこれ親しかったMadame D. (Tilda Swinton)が突然亡くなり、電車で弔いに向かった彼とZeroは、遺言執行人(Jeff Goldblum)がいて使用人(執事がMathieu Amalric、メイドがLéa Seydoux)がいて、邪悪な親族(Adrien Brody, Willem Dafoe)がいるなか、主な遺産相続先がM. Gustaveだったもんだからざわざわして、やがては家のお宝である中世の名画 - ”Boy with Apple”を巡る騒動に巻き込まれることになって、しかも世間は戦争に向かいつつありなにがどう動いていくかさっぱりわからない。

そのうちM. GustaveはMadame D. 殺害の嫌疑で投獄されて、彼の脱獄〜救出と犯人探しと悪者退治と転がっていくなか、ホテルの、M. Gustaveの、Zeroの、運命やいかに! なの。

とにかく全部書いていったら本が1冊書けてしまうくらい、主人公達が画面の右左上下をすたこら移動するたびにいろんなことが連動して立て続けに起こりまくり、それはジェットコースターというよりはワイアーが突然切れたり捩れたりするゴンドラのようで、スリル満点で楽しいったらない。

師弟愛とか友情とかはもちろん、老獪な恋愛と無垢な恋愛があり、祈りと懺悔があり、殴り合いがあり人殺しがあり猫殺しがあり銃撃があり、脱獄があり雪上の追っかけがあり断崖絶壁のぶら下がりが(建物のぶら下がりも)あり、軍隊がいて謎の秘密結社がいて牢屋がいてお菓子屋がいる。 もうなんだってあるし、誰だって出てくる(ありえないオールスター映画だよ。That’s Entertainment !)。

そういうのが誰が見たって納得のWes Anderson的な縦横奥手前の、豊穣なカラー(これまでで一番色彩は豊か)、回り続けるオルゴール - バロック音響の世界のなかでぐいぐい展開されるんだよ。
テーマ的にもここ数作の中心にある領土とか境界を巡ってごたごたしていく一族郎党の物語に、歴史とか時間ていう要素が加わることで別のキツネ穴が掘られている。

歴史や運命に抗うとか、愛する誰それとかホテルのため、とかそういうのではなく、ただただすたこら走りまわって追っかけまわして、その動きとシルエットのなかに全てはある、で、そういうの全部が、最終章のタイトルである“The Second Copy of the Second Will”ていうとこに集約されていることに気づく。 なんていかれてて、しかし美しいこと。

配役も呆れるくらいにすごいー。
Ralph Fiennesの雇用主顔、Tilda SwintonとSaoirse Ronanのキツネ顔にAdrien BrodyとWillem Dafoe(”Streets of Fire”みたいなワル)の悪兄弟顔、弁護士顔のJeff Goldblum、脱獄王のHarvey Keitel、前作に続き軍隊顔のEdward Norton、フランス人か!のMathieu AmalricとLéa Seydoux、秘密結社顔(なんだそれ)のBill Murray、おべんちゃら使いのOwen Wilson、どいつもこいつもまったく。

Alexandre Desplatによる音楽もすばらし。特にエンドロールで嵐のように流れるバラライカとか。32トラックだそうだがもっとあるんじゃないか、ていうくらいびっちり埋まっている。

たぶんもういっかい見る。 サントラも買うしDVDも買おうか。

週末がいってしまうよう。

6.07.2014

[film] I Rymden Finns Inga Känslor (2010)

7日の午後に渋谷で見ました。 「シンプル・シモン」。  英語題もおなじ。
ほんとは新宿に”The Grand Budapest Hotel”を見にいったらぱんぱんの満席でぜんぜん無理そうだったので諦めてこっちにした。 雨なのにねえ。

シモンはドラム叩き(ブリキの太鼓ね)でドラム缶に籠って宇宙を漂っているアスペルガー症候群の若者で、兄のサムだけに心を許しているのだが、サムと同居していたフリーダはサムとシモンとの3人暮らしが耐えられくなくなって出ていってしまう。 サムのために新しい彼女を見つけるべく得意の科学的アプローチで人選をはじめて、やがて道端でぶちあたったイェニファーにつっかかっていくのだが。

恋人にふさわしいのは好みや嗜好がおんなじひとがいいのか正反対のほうがいいのか、そんなの関係ないただのケミストリーなのか本人のやるき次第なのか、人の気持ちとか恋とかよくわからないシモンは懸命に学習して悩んで考えて、なんでかというとサムは自分の唯一の理解者でサムにもそういうひとが必要と考えるから。そうすることで調和がうまれて宇宙とはそういうもので、自分のドラム缶が浮かんでいられるのもそういう場所にちがいないから。

兄の理想の恋人、恋人たちのための理想のデートをセッティングすべく、ヒュー・グラントのラブコメをいっぱい(あんなにあったか?)借りて勉強して、お財布はたいてお花に生演奏にディナーに花火に奮発して、サムとイェニファーのデートは決行されるのだったが、ねえねえシモン、それだけやったら恋愛マスターだよね、きみ? (て、イェニファーはじっと見つめてくる)

サムとシモンは同一人物で、シモンはサムのなかにいる凝り固まって怯えた子供、ていう解釈をすることもできるかも、なのだが、やっぱりシモンはそこにいて、宇宙のなかで彼を「発見」したのがあけっぴろげで屈託なくげらげら笑うイェニファーだった、ていうとこがとっても素敵なの。

ラストのシモンの笑顔がすばらしくて、そこで「でも、触るな」とか言ったら最高かも、と思ったけどさすがにそれはなかった。

しかしスウェーデンだった。 色づかいも含めておおらかでほんわかで、こんなのありか、と思いつつもそういう「世界」として、そういう「世界」があることを納得させられてしまうスウェーデン、アバとカーディガンズ(トーレ・ヨハンソン)の、ムーミンの、最近の映画だと「エヴァとステファンとすてきな家族」のスウェーデン。

音楽は知らないのが多かったけど、イェニファーがシモンにイアホンの片方を渡して聞かせてあげるとこ、音楽は世界とシンクするのよ、って教えてあげるとこ。この豪快かつ確信的なものの言い切り方。  そう、ムーミン谷はあるんだ。

だからこれを「ラブコメ」と呼んでよいものか、ちょっと悩むの。宇宙とか地球の成り立ちを描いたようなでっかいスケールのやつで、シモンもそっちのほうに合意するとおもうよ。


関係ないけど、午前中にようやくアナログの45回転を可能にする箱と共にプレイヤーが帰ってきたので、ドーナツ盤の穴につっこむあれ(なんていうの?)を買ってきて、これでぜんぶ揃って、だいじょうぶになった。

6.06.2014

[film] X-Men: Days of Future Past (2014)

気を失いそうなくらいだるくてねむい。

水曜日の晩、六本木で見ました。
2000年の最初のやつからすると7作目。 こんなに続いていくなんて誰が想像したであろうか。
Wolverineが死なない限り終るつもりはない、と。

"The Wolverine" (2013)のラスト、老人ふたりが現れてWolverineを拉致したところであらあら、となり、本作の予告を見たら両方の陣営が入り乱れているのでなんじゃこりゃ、と困惑した。 タイトルを訳すとすれば「過ぎ去りし未来の日々よ」、みたいなかんじ?  見終わってみればなんとなくわかる。

未来(Terminatorシリーズ風に暗くどろどろしている)ですごい強そうなミュータントとふつうのミュータント達が戦っていて、ふつうの方は劣勢で人間も一緒にどんどんやられていって、とってもやばい、と。
強いやつらはセンチネル、といってマグニートとザビエルによると、70年代、Mystique (Jennifer Lawrence)がある科学者を撃ったのが原因で生まれてきたのだと。 センチネル誕生を阻止すべく、Mystiqueのご機嫌をなおすべく、Wolverineの意識だけ70年代のWolverineの身体に飛ばしてなんとかしてもらおう、と。 なんでみんなで行かないでWolverineだけなのかというと、彼はとっても打たれ強いから… って。

こうして、70年代の"First Class"の連中と彼らを教育すべく未来からやってきたWolverineの間のあれこれと、過去が修正されるのをじりじりと待ちつつセンチネルの襲撃に耐える年寄たちのお話が並行して流れていくの。

70年代に来てみると、Wolverineの肉体はStrykerによる改造前の状態で、Charles (James McAvoy) は撃たれた腰の治療薬のせいでジャンキー&役立たずになってて、Erik (Michael Fassbender)はペンタゴンの地下牢に幽閉("Hunger"の世界ね)されてて、ミスティークはひとり、仇の科学者を追っている、と。
世捨て人になって拗ねているCharlesをなだめて、Erikを地下から引き上げてみんなでMystiqueを探してパリに行くまでのかんじはとても軽快で楽しい。 特にQuicksilver (Evan Peters) が走り回って地下牢からErikを出すとこなんて、おもしろいー。

Mystiqueの討ち入りは結局失敗し、「歴史」の修正が始まってからはじりじりと重苦しい歩みになって、そこに更に未来のどんづまり感も加わってやなかんじなのだが、覚醒したErikがヘルメットを手に取っていじわるく反撃に転じるあたりからまた盛りあがる。 のだが根本にある憎悪みたいのはスタジアムを持ちあげてしまうくらい強く、消えないんだねえ。 しぶといねえ。

あのときの一発の銃弾さえ回避できていたら歴史は、ていうんだったら、第一次世界大戦だってケネディだって、同じ手法で修正できるのに。 とか、"X-Men" (2000) ~ "X2" (2003) ~ "X-Men: The Last Stand" (2006) は結局起こらなかったことになったの? とかいろいろ出てくるのだったが、ミュータントの世界の話だと思えばいいことなの。 どっちみちお先はまっくらなの。

Michael Fassbenderの氷のような陰険さとそれを蹴散らすJennifer Lawrenceのビッチぶり(例によって)、そのスパークするさまがすばらしく、そこだけとれば殆どやくざ映画みたいで、でもこのシリーズを貫いている美学とロジックって、ほとんど善玉やくざと悪玉やくざの確執と対立のそれ、に他ならないのよね。 やられたらやりかえせ。 ひとを見たらミュータントと思え。

次のにChanning Tatumが出るというのなら、見てやらねばなるまい。
Jonah Hillも出してやれ。

6.05.2014

[log] Palo Altoそのた2 - May 2014

帰りの飛行機(すんなり飛んじゃった)では、映画2本とちょっと。

RoboCop (2014)
冒頭と最後に出てくるヅラ被りのうさんくさいTVキャスターのSamuel L. Jacksonがこの映画の禍々しいトーンを象徴している、というか明らかにB級ぽいから、そのかんじでがんがん行ってくれると思ったのに、87年版のロボコップにあった能天気なかんじはあんましなくて、気色わるいだけ。

犯罪撲滅のため街中にロボットを大量導入したいOmniCorp社がこの分野へのロボット適用禁止法案を掲げる政府&乗ってこない世論にアピールすべく、重傷を負った警官を半分ロボ化してヒーローに仕立てようとする陰謀のあめあられ、とそれに振り回されてかわいそうな真面目コップの肉と魂とその家族の姿が中心なの。

もうねえ、軍とか企業の策謀で超人化 - 半分人間じゃなくなっちゃった「ヒーロー」の葛藤と活躍を描くドラマ禁止法案作ってほしいわ。  悩みたいなら暴れんな、山に籠って停止しろ、だわ。

出てくるのは悪い奴らばっかし、Gary Oldmanの科学者だけ最後に寝返るいい奴ふうに見えるけど改造人間にしちゃったのはこいつだからね。  あと、にんげんの感情の判断が入る分、敵をやっつけるスピードが遅くなるからって開脳手術したり、犯罪者データをぜんぶ脳に直接ロードしたらオーバーフロー起こして感情オフになったりしているけど、こんなのIron Manみたいに横にAI侍らせてそっちに対応させとけばいいだけじゃねえの? とか。  つっこみの余地たっぷりなのはB級の証、かもしんないけど、なんかいまいち深刻で暗くて幸せになれないのよね。


3 Days to Kill (2014)

地下鉄の駅にださい邦題のポスターが貼ってあったわ。

Kevin Costnerがよれよれだけど腕は確かなCIAエージェント(ていうか殺し屋。スパイみたいなことはほとんどしない)で、難病のため余命わずかなことがわかったとこで、CIA長官直属のばりばりエージェントAmber Heard (...ありえない。"Machete Kills"とおなじか?) から、The Wolfていう大物を殺すのと引き換えに効能ある試薬をあげるからやってくんない? て言われるの(身内なんだから薬あげればいいのに、て思う)。 別れた妻や16歳の娘に未練たっぷりな彼はその仕事を受けて、つんけんした娘の顔色をうかがいつつ、娘がかわいかった少女時代のビデオをみてしんみりしたりしつつ大物狩りに向かう、っていうホームドラマなの。  ホームとしてはもういっこ、彼がパリのアパートを留守にしていた間、そこに勝手に住み着いてしまったアフリカの難民の大家族もいて、家族の絆の大切さをあれこれ切々と訴えてくるの。  

原作がLuc Bessonで、昔からこのひとの世界のどこがよいのだかちっともわからないのに加え、監督がMTV出のMcGなので、すべてにおいてがちゃがちゃごちゃごちゃうるさくてすっきりしないことおびただしいのだが、"The Bodyguard"のようにいたぶられ疎まれながらも寡黙な忠犬としてぴったり寄り添ってくれるKevin Costnerみたいのが好きなひとはきっと気に入るのでは。

The Wolfの大物感がぜんぜんないこととか、親同伴のPre-Promについていったら娘の彼の来賓でそいつが現れたりとか、核が盗まれて大変とかいう話はどこに行ったとか、有能らしいのにお化粧ばかりしてぜんぜん働いてくれないAmber Heardが最後持ってちゃうとことか、えー、みたいのが多いのだが、とにかくホームドラマなんだからしょうがない。


あとは、行きの便で途中だった"Anchorman 2" (なんどでも言う、ぜんぜんあきない)の最後のほうを見て、更に霧で着陸が遅れるとかいうので、その間に"(500) Days of Summer"のはじめのほうを見た。

"Born To Run"はないのに、"Sugar Town"とか"Here Comes Your Man"があるカラオケ屋なんてあるのか? とか。


映画以外だと、夜のTVくらいか(しくしく)。

David LettermanとJimmy Fallonが同じ時間帯になってしまったので悩ましくてがちゃがちゃ切り替えてばかりなのだが、Lettermanの方で木曜にElizabeth Olsen(Godzillaのプロモ - 再放送?)、金曜にShailene Woodley("The Fault in Our Stars"-「さよならを待つふたりのために」 のプロモ)を見た。 Shailene Woodleyさんて、すてきだけど、なんかおばさんぽいよね。なんだろ?

そういえば、"Palo Alto"のJames Francoによる原作本 - ペーパーバック、あまり宣伝されてなかった。 なんでか?


ほかにまだなんかー

6.03.2014

[log] Palo Altoそのた1 - May 2014

1日日曜日の夜の10時過ぎに飛行機がついて、月曜からはふつうに会社だったのでだるくてやってらんない。

31日の土曜日のあれこれ。 CaltrainでSan AntonioからSFの駅まで、そこからMuniの地下鉄とかバスとかを乗り継いで以下をうろうろした。

The Mill
Josey Bakerていうパン焼きのひととFour Barrel Coffeeが一緒に始めたトースト&コーヒーのお店で、オープンスペースの半分以上はパン焼きの工房で、カウンターでオーダーして各自テーブルで勝手に食べるの。

もちろん、テイクアウトも、パン屋さんのパンだけ買っていくのもあり。 シェルフに積んであるパン、おいしそうでさあ。

トーストは黒板手書きの4種類くらいとお菓子系のが4~5種類。 トーストは①なんかのパンを焼いて、②なんか塗って、③なんかかける(塩とか砂糖とか)、そういう形態で、あたりまえだけど喫茶店で出てくるトーストとはぜんぜんちがう。
自家製のNutella + Country Bread(当然自分とこの)ていう組み合わせとラテにした。 朝は陽がそんなに射してなくて寒くてしょうがなかったので、こういう選択になるの。

トーストは3センチくらいの厚さのが一枚だけ、これだけであたりまえのようにおいしい。
日本のCMによくある、パンを裂くとほぐれた白い繊維の間から湯気が立ちのぼる、みたいなふんわり系のトーストではなくて、おかきみたいにハードでこげ茶でがりがりばりばり顎にくるのだが、Nutellaのねっとりした密度と甘みにCountry Breadのばりりとした隙間感、でも粉の重みにサワードウの酸味と塩が絡まって、そこにコーヒーの苦み、その完成度と充足感ときたらすごいかも。
パンとスプレッド(だけ)の愉しみを広めたのってLe Pain Quotidienあたりだと思うのだが、それをさらに尖がらせたかんじ。
甘くて柔いものも、と思ってコーヒーケーキも頼んで、これもしっとり見事だった。 ぜんぶ制覇したい。

キッチンでトーストのオーダーを捌いている若者の動きがおもしろかった。 パンの塊をナイフの幅の厚さに切って、トースターに入れて、スプレッドをぬりぬりして、皿に乗っけて客を呼びだす。 のだが、オーダーが多くて種類もあるので、回転しながら必死の形相で捌いているの。

なんか、Nutellaが最近はやっているのかなあ?

店内チラシによると、毎週月曜の晩にはピザ焼きNight、ていうのをやっているって。 ぜったいおいしいだろうな。
Josey Baker製の瓶入りグラノーラ、悩んだ末にやめた。

入ったとき、BGMでOrange Juiceの"Falling and Laughing"がかかったのでよい趣味だねえ、と思ったら、彼らの1stを頭からずっと流しているのだった。 ちょっとできすぎだけど、よいこと。

外に出たらご主人待ちのわんわん(みんな毛並みよし)が5匹くらい並んでいて、なかなかたのしい。

そこから少し歩いてバスに乗ってRichmondのほうに出る。 道幅がひろくて枯れてて、クイーンズのアストリア、みたいなかんじ。


Green Apple Bookstore

City Lightsと並ぶ、San Francisco本屋の重鎮。 新刊本も古本もゲームとか雑貨みたいなのもある。
2軒隣には音楽本、映画本、レコード(新譜・中古)、DVD、雑誌を扱う別館もあって全体の在庫量はものすごそうなのだが、店のかんじとしては古本屋のほうに近いかも。  稀覯本・貴重本を扱う古本屋ではなくて、いろんな本を少しでも安い値段で出してみんなに本を読んでもらおう、本を好きになろう! ていう良心たっぷりの本屋。 本好きなら2時間でも3時間でも浸かっていられる。  NYだとStrandあたりに近いかも。  アナログレコードはあんま数はなかったけど、一箇所で済むんだからこれでじゅうぶんかも。

本棚をこまこま見ていく余裕はぜんぜんなくて途中で諦めて、雑誌のGather Journalとか、Pitchfork ReviewのIssue 1が置いてあったので買った、のと、Lisa Brownさんによる、世界の名作を3コマ漫画でやっつける"Depressed. Repressed. Obsessed" - よいタイトル - くらい。

そこからまた少し歩いてバスに乗って、Haight-Ashburyを抜けてMission地区にむかう。 この辺りでいきなり天気がよくなる。
バスで生猫を肩にのっけたスケートボードの若者がのってきて、すこしざわざわした。


Bi-Lite Market

オーガニック食材中心の小さめのマーケット。

規模と品揃えが丁度よくて、こんなお店が近所にあったら、の理想のお店。
売り子のおねえさんが、プラムがおいしいのよー、てその場で切ってくれて、食べたら目がうるんだ。 平べったい桃もアプリコットもレイニアのチェリーもぜんぶおいしそうー。
おみあげに、Bi-Liteブランドのクッキーとか、グラノーラとか、June Taylorのジャムとかを。 ピクルスのでっかい瓶は、あきらめた。

この通り(18th)沿いに混んでいるお店があったのでのぞいてみたら前回来たとき朝食したTartine Bakeryで、これで脳内地図のあっちとこっちがきれいにつながった。 昼間だとこんなに混んでいるのかー。

Tartineを通過し、18thからValenciaにぶつかったところで右手に曲がる。


Dandelion Chocolate

前回来たときは朝早すぎて開いてなかった。
The Millや隣のCraftsman and Wolvesと同様、半分以上のスペースが工房で、実際にものを作っていて(でもぜんぜんお菓子屋さんの雰囲気ではない。町工場みたい)、その端っこにイートインもできるカフェがある。 

アイスココアとかブラウニー系のお菓子とか、食べてみたいものはいっぱいあったのだが、お腹減っていなかったので諦めておみあげにチョコ板数本買っただけ。 この次はぜったい。


Craftsman and Wolves

前回来たとき、パンもおいしくてびっくりで、でもそれ以上に感動したのが店内ディスプレイの、タイル状に並べられた7inchジャケット大の紙にタイプされたBuzzcocks,  PJ Harvey, Joy Division, Deftones, Spoon, Metallicaといった固有名(+ 曲名)たち、今回はそれが大判のポスター4枚に変わっていた。  どういうのかというと、左からMelvins, High on Fire, SWANS, Faith No More (再結成時の)  ....まあ、ふつうパン屋の店内にこんなの貼んないよね。 ちなみにMelvinsのポスターは2013の大みそかにRed Krossとやったときの。 ノスタルジーではない、と。

で、ガラスのケースの中にきれいに並べられたパンやケーキの端正な佇まいとのギャップがものすごい。
でも、上の4バンドとか、その前のディスプレイにあったバンド達とかと粉仕事との連関は、ある。まちがいなくある。
バゲットサンドとかホットドッグもとってもおいしそうだったのだが、あきらめて生地にチェダーチーズとペッパーが練りこんであるポップオーバーだけいただく。 やっぱし、どう考えても変態的においしい。

更に、Valenciaを南に降りていったのだが、この通り、おもしろいねえ。 住むならぜったいこの辺だわ。
自転車屋とか剥製屋とかSF(Sci-fiのほうね)専門本屋とか、本屋だとDog Eared Books (ページの角折り本屋)ていうところがすてきだった。 壁に貼ってある昔のパルプフィクション本とか、さりげなくかっこよい。 

http://www.dogearedbooks.com/

ここの近所にAlley Cat Booksていうのもあるよ、と。


そしてさいごに行ったのが。
Aquarius Records

改めて、しみじみ変なレコード屋だとおもった。 わけわかんない水瓶座のてんけい。

地元Localのと、実験とメタルとVintageがほとんど、メジャーなやつはほとんどないの。
商品にPOPもあんま付いてない、店員の愛想もそんなよくない、これでよく商売になっているもんだ、と思うのだが、お客さんはたえまなく入ってくるし、なんかえらいのかも。

Cave Inの"The Sacrifice Poles"のアナログがあったので買う。ジャケットはAaron Turnerさん。 
はやく聴きたい。

それにしても、周りが知らないレコードばかりだと(本も、だけど)なんか燃えるねえ、とはしゃいでいたのだが、時間があんまないことに突然気づいて、慌てて出て戻りの駅にむかった。

長くなったのでいったん切る。

6.01.2014

[log] May 31 2014

日本はもう6月なのかあ、と帰りの空港に来て気がつきました。
5月も終っちゃって、週末も終っちゃったよう。

飛ばなきゃいいのに。

とにかくあっという間すぎてなんだかわかんないし、つまんないし、断固つまんないんだってば。

なんでここのラウンジのチーズはMonterey Jackしかないのか、クラッカーはRitzしかないのか、この組み合わせだとべたっとした塩っぽさしか残らないんですけど。 みんながビール飲めるってわけじゃないんですけど(← 荒れている)。

行きの便は座ったとたんにブラックアウトして爆睡で、目覚めたら到着まで30分だったので、”Anchorman 2” (なんじゅっかいでも見れる)を見れるところまで見て、それだけで終ってしまった。
着いたら着いたですぐお食事に連れだされ、まだ陽が落ちる前で明るかったのに終るころには真っ暗で外に出る覇気は闇に吸いこまれて、翌日の晩も同様で、しかも資料とか作らされることになったのでHBO(”Ted”やってた)とかLate Showとか横目で見るだけで終っちゃってとにかく心底、魂の底からうんざりだったの。

今日(土曜日)だけは自由を勝ちとるべく、SFのダウンタウン行きます、と毅然と宣言し、「フィッシャーマンズ・ワーフとか?」なんて聞かれたので、「はい、観光でもします」としゃあしゃあと返し、6:30にチェックアウトして荷物を預け、朝いち(7:20発で朝いち)のCaltrainでSFに向かってパン屋2軒、本屋2軒、レコード屋1軒、食料店1軒とか、そんなかんじで走りまわった。 
海?  バスとか電車から少しだけ見えましたわ。

映画は無理すればできれば、と思っていて午前中寒かったし映画館入っちゃおうかな、になりかけたものの途中からお日様がでてきて天気よくなったのでやめた。
“Blended”も”A Million Ways to Die in the West”も公開してくれるよね?

で、14:15発のCaltrain(一時間に一本しかない)で戻ってきてホテルで宿泊荷物ピックアップして買い物荷物を束ねて空港に来て、空港のGreen Apple Booksでもひととおり悩んでやっぱしやめてあきらめて、素直にラウンジにやってきたわけさ。

天気だけはずーっとよかったの。 朝夕がひんやり、昼間はかんかん、湿気がなくて、この気候なら普段の4倍くらい仕事できますしないけど、でした。

もんのすごい眠気がおそってきたのでここで切ります。 続きはそのうちー。