9.30.2016

[film] 秋日和 (1960)

25日、日曜日の午後、ようやく秋日和みたいのが出てきたし、原節子さんの追悼もちゃんとしていなかったので、1本くらいは、と、神保町の特集『一周忌追悼企画 伝説の女優・原節子』で。
でもチケット買ってから、川崎でオリヴェイラをやっているのを知って泣き崩れた。

結婚ロマコメの古典、何回も見ているけど、ほんとにおもしろいわ。
どたぱた展開していく四角いコマのなかでいろんな人たちがいろんなことを言う。 それだけなんだけど。

亡くなった夫であり父である男の7回忌に大学時代の友人3人 - 佐分利信、中村伸郎、北龍二 - それぞれ会社や大学でそれなりの地位を得ているやらしいおやじ共 - が集まって、喪主で未亡人の秋子(原節子)とその娘のアヤ子(司葉子)を見ていやあ美しい、て褒めたたえて、アヤ子の24という年齢を聞いたら、そろそろ決めないといかんな、と勝手に決めつけて、候補を立てていってひとりよさそうなの(佐田啓二)が見つかるのだが、彼女からまだ結婚するつもりありませんお母さんひとりになっちゃうし、と言われると、じゃあお母さんのほうからだな、と親友のうちで妻を亡くしている奴を勝手に起動して、そのシナリオを得意気にアヤ子に告げたら、彼女は取り乱して母親にも親友の百合子(岡田茉莉子)にもつんけん当たるようになって、その事情を聞いた百合子は怒髪天で佐分利信の会社に殴り込みにいって、おやじ共は全員しゅんとなるのだが、まあまあまあみたいな不思議な愛の力が働いてアヤ子は結婚することになって、なんだその生ぬるい水は、みたいな。

「しょうがないじゃないか。そういうもんなんだから」ていう勢力と「そんなのおかしいわ。ちぇ。」ていう勢力のせめぎ合いが中心で、枠の外/水面下で起こっているいろんな工作は画面には出てこなくて、そのたびごとの結果 - そうなっちゃったから・しょうがない - ばかりが(場合によっては突然)表に出てきて、その結果であたふたしたりむくれたり。 そのへんのじたばた、とか、がちょーん、とかが四角四面の画面に端正に切り取られてお澄まし状態で流れていくのがたまんない。

「しょうがないじゃないか」の与党は安定していて強くて、「そんなのおかしいわ」は革命とか具体的な行動に出ない限り覆されることはなくて、ここのもまたそんなふうなのだが、そうしている限りそれもまたずるずると「しょうがないじゃないか」に回収されてしまう。てごわい。

結婚しないと幸せになれない ていう(強迫)観念のしぶとさ。 自身の結婚に抵抗するアヤ子にしても、未亡人となった母はひとりでかわいそうだからあたしがいてあげないと、て思いこんでいる、という点ではこの線上にいて(or いると思われてしまうので)難しくて、さらに、親友だから共闘してくれそうな百合子も実のところは大阪のおばちゃんみたいなメンタリティの持ち主でいちばんしぶとかったりする。 こんなにも結婚に対するイメージとかスタンスは個々ばらけていて、でもおっさん共は基本おやじ脂でやーらしく凝り固まっている。 やらしい、ていうのは自分が正しいって信じて疑わない - 反論の余地をまったく与えないのをあたりまえに思いこんでる - ってことなの。

ほんとにみんな大きなお世話すぎ。 ひとりで生きてひとりで死んでなにがわるいんだよ!
ていっつも思うのだが、最近の邦画のタイトル(気持ちわるいので書きたくない)なんか見ても、結婚=幸せと考える勢力は変わらずしぶとくて、これはもう百年戦争だよな、ておもう。 
くーだらない、としか言いようがないけど。

最後のふたりの周遊の場面、あのまんまるい山の形とゆで小豆の思い出、だけがきらきら輝いている映画、として見るのがよいの。

そしてろくでもなかった9月はあ … 

9.29.2016

[film] Everybody Street (2013)

23日金曜日の晩、渋谷で見ました。NYの映画なら、見るの。
『フォトグラファーズ・イン・ニューヨーク』。

今も現役で活躍するNYの路上フォトグラファー - Boogie, Martha Cooper, Bruce Davidson, Mary Ellen Mark, Elliott Erwitt, Ricky Powell -  などなどのインタビュー映像をランダムに散らして、そこに美術史家による解説と、Henri Cartier-Bresson, Robert Frank, William Klein, Diane Arbus, Garry Winogrand, Saul Leiter, Sylvia Plachyといった巨匠たちがとらえたクラシックかつブリリアントなNYの写真たちも加えて。

Bill CunninghamとかSaul Leiterとか単独でドキュメンタリー映画がある人たちは殆ど出てこない。

これらを通して浮かびあがってくるのは被写体としてのNYの過去から今までを通してずっとある魅力で、場所が先か人が先か、みたいな話はあるものの、やばくて変な人がいっぱいいるから、とかそういう連中が野や通りに放たれて満ちているから、とか理由はそれぞれ、写真はその時間のその
場所を記録するものというより、流れていく時間を、動いている人を止める装置なのだ、みたいな発言もでてくる。

被写体として語られる場所は、例えばBrooklynだったり昔のLower Eastだったり70年代の地下鉄だったり、危険なので立ち入ってはいけません、と昔だったら言われていたような場所 - 90年代初めの頃は、Alphabet Streetはまだまだ危険だった - で、ではなぜそういう場所が写真家には好まれるのか、それらを撮った写真は魅力的に映るのだろうか。

危険で人がいない or 人がいなくて危険な場所はただの廃墟で(そういうのを好んで撮るひとがいるのはわかるが)、でもこの映画に出てくる写真家たちが撮っているのはそういうのではなくて、危険な場所、とか言いながらも子供たちが道路で遊んでいたりするし、ふつうに人が生活しているし地下鉄は使われているし、要するに"Everybody Steet"である、と。 編み目の通りが枝葉になって成り立つマンハッタン、通りの際に建つ建物の壁のすぐ裏側では沢山の人が暮らしている、という集積度とか密集度 → 長屋のおもしろさ、ていうのはあるかも。 あと、イタリアンもいればアイリッシュもいればプエルトリカンもいれば、ていう多様性はあたりまえの話としてあって、それを危険、て言うのもねえ。 (この映画に出てくる写真家たちの容貌の傾向は、少し気になったかも。ほんの少しだけ)

子供たちが笑って遊んでいる場所とか路地があるのであれば、それはとてもよい土地なんだよね、っておもう。 写真家は別にいなくたっていいの。
そして、今の東京には自撮りで笑う子供たちしかいない。

パリでやってるこの展示、みたいなー。
http://www.henricartierbresson.org/en/expositions/louis-faurer/

ああ、Hobokenの駅がたいへんなことにー。

9.26.2016

[film] Jag är Ingrid (2015)

バーグマンのデビュー作『ムンクブローの伯爵』を見た数日後、24日土曜日の午後、渋谷でみました。

『イングリッド・バーグマン~愛に生きた女優~』。英語題は”Ingrid Bergman in Her Own Words”。
原題を翻訳にかけると『わたしはIngridよ』。

10代で最愛の父を失いつつあった彼女の祈りの日記から始まって、19歳で『ムンクブロー...』で映画デビューしてスウェーデンのライジングスターになり、結婚して娘もいたけど、デヴィッド・O・セルズニックに呼ばれてハリウッドに飛んで、そこから世界の大女優になって、二次大戦中の前線への慰問でキャパと恋におちて、更にロッセリーニと恋におちて3人の子供をもうけ、全世界から大非難を浴びて、やがて求められて復活したあとは亡くなるまで映画や舞台に出ることを止めなかった彼女の、「なんでも取っておく人だった」彼女の、膨大に残された日記、手紙、家庭8mm、ビデオ、彼女自身のインタビュー映像、家族を中心としたいろんな証言、をもとに描く決定版。 古い映画が好き、というだけで彼女のすごいファンでもないのだが、そこらの女性一代記を遥かにしのぐそのスケールに圧倒される。

『私は多くを望まない。ただ全てが欲しいだけ』 ていうんだよ。 かっこいいなー。

米国に渡る前のスクリーンテストの映像が残っていて、すっぴんで、No Lipsで、とあるのだが、これがまず驚異的で、とんでもない動物を見るかのようなかんじ。 この顔面映像だけで作品になってしまうくらいすごい。

ここまで有名になって、生涯に渡ってあれこれ曝され続けた大スターの評伝なので、その真偽なんてあれこれ言えるわけもないし、隠された謎や秘密なんてあまりなさそうだし、そんなことよりもその中味の濃いこと渦巻くこと。 これだって編集の手が入ってこうなっているだけで、残された膨大なアーカイブを掘っていったらもっと別のなにかが浮かびあがるのかも知れない。彼女が映画のなかで演じた人物の数も含めたら、彼女の生の地平にはものすごい数の家族や恋愛がうごめいている気もして、それはそれでぜんぜんよいし素敵なことではないだろうか。
(書簡集は作ろうとしたけど、書かれているのは子供のことばかりだったのでやめた、とか)

世界中を飛びまわって映画を作って、いろんな人と恋をして、家族を愛して、を延々やっているだけ、という説も。(「女性の活躍」、とか本人が聞いたら嫌な顔するかも)

わたしが見たことあるのはIsabella Rosselliniさんで、彼女の"Green Porno”シリーズは大好きなのだが(邦題、つけるとしたらなんだろうな、『緑のアレに包まれて』 とかかな?)、あそこにある大らかなユーモアって、お母さん譲りなのではないか、と、このドキュメンタリーで楽しそうに母の思い出を語る彼女を見て思ったの。

あと、大好きだった父親がいつもカメラの向こうから彼女を見ていた、だから彼女は映画監督とかカメラマンに恋をしがちだったんだわ、ていう娘の指摘はあんま外れていない気がした。

これと同じくらいのヴォリュームでKatharine Hepburnの評伝映画が見たいなー。
(でっかい女性が好きなのだろうか)

[film] Munkbrogreven (1935)

19日、連休さいごの月曜日、渋谷のスウェーデン映画祭でみました。
ここんとこ見ていたのは新しい映画ばかりで、シネマヴェーラの「映画史上の名作x」にも行けなかったし加藤泰も終わっちゃったし、なんとなく古いのに飢えていたの。

『ムンクブローの伯爵』。 英語題は“The Count of the Old Town”。

ストックホルムの下町(ぽい)、ムンクブローで夜中の泥棒が相次いで、そいつはここんとこ新聞を賑わせていた大泥棒らしく、町をぷらぷらしているおっさんたちはあいつが戻ってきた!ってざわめくのだが、丁度そのタイミングで"City"ていうホテル - 下宿屋にひょろっとした若い男(監督のEdvin Adolphsonが兼務)が宿を求めて現れて、金払いもいいし、でも何やって稼いでいるか言わないし、あいつなんか怪しいんじゃねえか、というかんじになる。

その"City"に部屋を取って暮らしているのがエルザ(Ingrid Bergman)で、なれなれしく部屋に入ってくる彼に、あたしの目はごまかされないから、逃がさないんだからね、ていう顔で睨みつけたりしていて、他に「伯爵」 - ほんもんの伯爵ではなくて、そう呼ばれているだけで、日本だと「殿様」とかになる - ていう新聞社で日雇いしているおっさんとか、ひゃらひゃら笑う仲買のおっさんとか、おっかない魚屋のおばちゃんとか、朗らかにてきとーに日々を過ごしている長屋の連中の間で巻き起こる恋騒動とか泥棒騒ぎとかを明るく楽しく綴るコメディなの。

昼間から酒飲んで酔っぱらって or 酔っぱらいたくてへらへらしているおっさん達とか、普段はがみがみうるさいけど恋愛になるとしおしおになるおばちゃん達とか、当時19歳のイングリッドは当然のようにみんなに大切にされて愛される町のお嬢さんで、こういう長屋もののキャラクター設定て、世界のどこでもだいたい同じようになるのはなんでなのかしら、て感心する。

なので極めて安心して見ていられて、ハートは盗られてもお金は盗られないんだから、とか、多少うざったがられても傍にくっついておくべし、とか、いろんな教訓とか格言みたいのを残して最後はめでたしめでたし - 町をあげてのパレード - になっておわる。 これまで見てきた古いスウェーデン映画のような漆黒の陰謀のかんじはぜんぜんないの。

バーグマンさんは全体に大柄で堂々としているのは既に、で、まだむっちりみっしりしたかんじで、その後あそこまでの大女優に変貌してしまうかんじはないのだが、でも朗らかで楽しそうでそれだけで十分なかんじ。 目はとってもパワフル。

町中はごちゃごちゃしていても、建物の上の空は高くて遠くて、そこだけで北欧映画だなあ、てわかるのもよかった。

9.25.2016

[film] La tête haute (2015)

22日の木曜日、秋分の日のごご、銀座で見ました。 ずうっと雨だしつまんないし。
『太陽のめざめ』。 英語題は"Standing Tall”。 

乳呑み子の弟もいるので母親にはどうすることもできない暴れん坊のガキ - 6歳のマロニーは児童問題担当判事(Catherine Deneuve)のところに連れて来られて何度目かで、もうあたしにゃどうすることもできない、て母親も逆ギレしているので引き離し命令が出る、ていうのが冒頭で、その10年後、16歳になっても彼(Rod Paradot)は札付きのまま荒れ放題で狼藉を繰り返し、でも判事は変わらず我慢強く辛抱強く、世話人をBenoît Magimelに替えて刑務所ではなく、田舎の矯正院送りにする。

映画は、どこまでも変わらずてきとーな母親と変わらずどっしり不動の判事とこれまでとはちょっと違う陰のある世話人の三角形の真ん中で自棄になって引っ掻き傷だらけの矯正生活を送るマロニーの変わっていくとこ変わらないとこ懲りないとこ、で結局どうしたいんだおまえ? を追う。

不良少年更生ものによくあるなんかやなかんじ(それは難病モノによくある結局死んじゃうじゃん - にも似ている)、つまりは広義の外圧に屈して去勢されて妥協するのよね - はあんまなくて、もちろんぜんぜん予期しないとこで彼女と子供ができたとか判事が替わるとかいろいろあるみたいだが、彼はとにかく懲りないまま周囲に適応することを選んで、それはそれでリスペクトすべきではないか、それだけ暴れて傷ついたのであれば、みたいな本人合意の地点に注意深く落としこんでいて、そんなやなかんじにはなっていない。

あとは主人公を演じたRod Paradotの、半端ない野良猫の目つきと狂犬の演技、それを皇太后みたいに不動のオーラで受けとめているんだかいないんだか、びくともしないCatherine Deneuveの安定感と、あんたもまだ別のケアが必要なのではないか、のBenoît Magimelの抱える危うさ、見事な俳優のアンサンブルがある。

あと、誰もが一番よくないのはあんただよ、って突っ込みどころ満載のしょうもない母親の言動挙動と、それなのになのかそれ故になのか、どこまでも母親から離れられないで傍にいようとするかわいそうなマロニーの強い情とか関係の不思議さ、そして矯正院の教育係の娘さんとして出会った彼女(Sara Forestier)との獣みたいにすりきれて切ない(でもよかった ...)恋愛も素敵でねえ。

マロニーの目つきを見ているうち、”8 Mile” (2002)のEminemを思いだして、亡くなられたCurtis Hansonのことを想った。 ”8 Mile”も”In Her Shoes” (2005)も”Chasing Mavericks” (2012)も救いようのないところにいた人たちを何かが、誰かが掬いあげるお話しで、ほんとうに好きだった。
ご冥福をお祈りします。

9.24.2016

[film] 11 Minutes (2015)

22日、秋分の日の朝、ひでえどしゃぶりのなか、渋谷まで行ってみました。終わっちゃうっていうし。

ふだん会社勤務だもんだから、朝の9時から11時くらいまでが一番目がぱっちり開いているときで、ちょうどよいかんじでのめりこむことができた。 これで寝ちゃうやつは相当だとおもうが。

冒頭、スマホのビデオで撮ったと思われる映像で、男女のカップルの探り合いみたいな、仲がいいんだか悪いんだかのやりとりが撮られていて、他にも警察の監視カメラと思われるモノクロ映像で保護観察処分になったと思われる中年男の映像、とか、誰かが誰かを監視しているふう、名前も背景も関連もわからないいくつかの粗い映像や人々が重ねられていって、しばらくすると、登場したそれぞれの組や人物たちが17時を起点にあれこれ動きだしてすれ違ったりしていることがわかる。 

タイトルが”11 Minutes”なので、ここから11分間の物語なのだろうな、という推測はできるものの、ここまでばらけたお話しが並行しててきとーに(そう見える)動いていくものとは思っていなかった。 "Essential Killing" (2010) は時間も場所もわからない真っ白な平原をひとりの男が好き放題の線を描いて走りぬけていくお話しだったが、これは時間と場所がかっちり指定されたところに数千の監視カメラを置いて、そこで重なって見えてくるものを凝視し抽出しようとしている、かのような。

冒頭に出てきた二人の男女の女性の方が着飾って5時きっかりにホテルの指定された部屋に向かい、薬で眠ってしまっていた相手の男が慌ててそれを追い、ホテルのその部屋ではプロデューサーとその女 - 女優(になりたい?)との今後の仕事に関するお話しがされようとしていて、他にそのホテルのそばの路上で屋台のホットドッグ屋をしている男、ホットドッグを買う尼さんたち、届け物を届けようとするヤク中のバイカー、路地の奥の家で出産間際になっている妊婦を救いだした救急車、シェパードを譲り受けたパンクのお姐さん、質屋に強盗に押し入ったら店主がクビを吊っていて動転しまくる若者、低空で轟音をあげる飛行機、などなどなど、これらすべて、だれがいい人なのかわるい人なのか、ストーリー上だれのどこに力点が置かれているのか誰がサブなのか誰と誰がどう繋がっているのかいないのか、映画を見ている我々が前のめりになって填めて安心したがるストーリーや意味の枠を軽々と跳び越えて、彼らはてんでに勝手に動いていって、やがて。 

なにがすごいって、最後までいってもこれが誰のどういう(どこに着地する)話なのかほとんど掴めないことなの。 5:00 ~ 5:11までの間に起こったことをモザイク状に積んで重ねて見せているだけ。 起こってしまったことの記録のみ、監視カメラのみ、リテイク/編集/巻き戻しなし、みたいな。

張り巡らされた(監視)カメラの網に映らないものはあるのか、監視カメラにしか映らないものはあったりするのか、監視カメラに映ったものはほんとうに正しく映っているといえるのか、なにをもってそういえるのか、などなど。そんな問いをすべて嘲笑うかのように最後の最後にものすごいことが起こってあんぐりになる。 
テロ? 監視? 神の目? それがどうした? おら。

あの黒い点。 よくもまあ、って。 ほんとにすごいわ、じじい。

Tony Scottがやろうとしていたことを、よい意味で、ヨーロッパ的に意地悪く突き放している、というか。
"High-Rise"もほんとはこんなふうに描かれるべきだったのかも。

監督は以前、”Essential Killing”が自分にとって生涯ベストで2番目は『早春』、て言っていたが、これはどの辺に来るのかしら。結構上の方ではないかしら。

[film] The BFG (2016)

18日、日曜日の夕方、新宿でみました。
ディズニーだけど、ロアルド・ダールだし、スピルバーグだし、子供向けのかんじはぜんぜんしない。
子供向けだとしてもぜんぜんよいけどさ。
昨年亡くなったMelissa Mathison - ”E.T. the Extra-Terrestrial”を書いた女性 - に捧げられている。

児童養護施設に暮らす不眠症のソフィー(Ruby Barnhill)& 猫がある真夜中、いつものように眠れないまま窓辺にいったら路地の奥から突然でっかい巨人が現れてさらわれてしまう。
この夢の中のように流れていく導入が本当にすばらしい。髪の毛が半分逆立ったソフィーもかわいすぎる。

巨人(Mark Rylance)はソフィーをぶら下げて谷を渡り山を越えて彼のおうちに連れていって、そこは巨人の国で、彼はBFG - Big Friendly Giantていうのだが、そこには彼よりも遥かにでっかい9人のUgly Evil Giantsみたいな連中 - Bill Hader含む - もいて、BFGは彼らにいじめられていたぶられていて、ソフィーは見つかったら食べられちゃうので慌てて隠したり守ったりしてあげないとやばい。

BFGの仕事はいろんな夢を捕まえて瓶に蓄え、そのなかのよい夢を寝ている子供たちにそっと吹きこんであげたりすることでとっても素敵なのだが、ソフィーを食べたがる9人の野蛮な巨人たちがちょっかい出してあまりにうざいので、女王陛下に直訴して退治してもらおう、ってふたりで宮殿に出かけていって、まずは女王さまに悪い巨人たちの悪夢を吹きこんでやるの。 女王さまびっくりして飛び起きる。

ロンドンの下町と巨人の国を舞台にした前半はファンタジーとしてどきどき楽しくて、後半の宮殿でのやりとりから軍出動に至る巨人退治はいきなりリアルになって、これはこれで楽しいの。 巨人のでっかさとか人間にとって未知なるBFGが宮殿に巻き起こすパニック - よりによって女王さまの目の前で - がなるほどすげえー、って納得ずくのスケールで描かれて、ずっと上を見上げてばっかりになる。

BFGに吊り下げられて巨人の国にいったソフィーがいろんな冒険の果てに巨人をヘリで吊り下げてしまう、その痛快さ。 もういっこ痛快なのはちっちゃな孤児のソフィーと女王さまの女の子組が醜い9人の男野郎共をやっつけてしまうことなの。

あと、猫もコーギーもかわいい。

おばけきゅうりと飲むとおならが止まらなくなる緑の飲み物、業界得意のコラボでどっか出せばいいのに。

撮影はいつものJanusz Kaminskiで、なんか違うかも、と思ったらはじめてデジタルで撮ったと。
音楽もいつものJohn Williamsで、いつものように素晴らしかったけど、あんまり無理しないでね。

9.20.2016

[film] Slacker (1991)

17日の土曜日の晩、青春映画学園祭ていうのの前夜祭で、渋谷(渋谷TOEIなんて初めていった)、で見ました。

この日の昼間は『チリの闘い』を見て、あんなとてつもないものを見てしまったのでくたくたで、こんなへなちょこ映画つきあってられるかー、と脳は叫んだりしていたのだが、とにかく見るのだ、と。

Richard Linklater初期の91年作品。 上映されたのとおなじ素材 - CriterionのDVD - は持っているのだが、ちゃんと見た記憶がない。

怪しげな男(出てくるやつみんな怪しげ)が(たぶん)長距離バスから降りたってタクシーを拾い、自分を運ぶタクシーの運転手相手に車中で見た変な夢の話をして、そのタクシーを降りると車に轢かれた女性が倒れていて、そこを経由して女性を轢いた男にカメラは移って、こんなふうにカメラは交錯する人々の間を転々と渡っていく。 人々はそれぞれに勝手に動きながら適当なことくだんないことべらぼうなことをべらべら喋って、ひとしきり喋るとバトンを渡すかのように次のひとに替わる。これが朝から次の朝まで一日分。
"Before ..."シリーズはこれをふたり/数時間の枠でやった。 "Boyhood”はこれをひとり/16年でやった。

おなじ世界に生きる/その時間を描く、というのは例えばどういうことなのか、ということを追い続ける - Linklaterの最初の突端の。

ひとりひとりの会話の中身や断片をつないでいくと大きなストーリーや世界観や陰謀が浮かびあがる、というわけでもなさそう - わかんないけどね - だし、ひとりひとりが実は巨大な組織や会議の構成員だった、というわけでもなさそうで、でもかといって、まったく意味連環のない無駄話、法螺話をするばかり、でもない、気がする - わかんないけどね。

意味的な連なりや組織集団ぽい挙動を周到に避けるかのように、全員がロンドを舞う、バッタのように散りながら移動をしている、ように見えなくもない。そうでなけりゃこのばらけ具合は、ぼんくら濃度はなんか異常だし、全員酔っぱらっているようで半分くらいはとっても正気だし、でもありえない気もするし。
もちろんそんなの、誰にもわかるわけがない。 それをわかりやすく意味づけしたり組織化したり(して統治)するのが例えば政治家の仕事で、この映画はそこを迂回して迂回してすれ違いとはぐらかしを繰り返す - ていう(これもまた)政治的な身振りで。

というようなことを考え始めた時点でLinklaterの術中に、Conspiracy A-Go-Go に堕ちてしまったのかもしれない。
だって余りにもおもしろすぎるし。少し恐ろしくなったのはこれが4時間くらい続いたらどうしよう、てことくらい。

『チリとの闘い』との関連でいうと、ここに並べられたSlackerどもは果たして「武器なき民衆」として組織化しうる - あの映画の連絡会議みたいに - のか、とかそんなことを考えていたの。 連中は生活にはあんま困っていないようだから、まずは闘いたくねえというだろうし、「同士」なんて呼ばれることを断固拒否するにちがいない、他方であらゆる陰謀を研究しまくっているようなので、懐柔されたり巻きとられたり、も絶対なさそうかも、とか。 わかんないけどね、アジェンデ政権を潰した国の連中だから。

でも、これが"1991 - The Year Punk Broke"に、クリントン政権誕生の前年にリリースされた意義って、決して小さくはなかったのかも、とも思った。 全ては - どんな戯言であっても政治的ななにかであることを、映画はそれらを組織化する強力ななにかになりうることを、そのやり口みたいなのを、このインディペンデント作品は示したのではなかったか。
(SNSがまだなかった時代に ... なんていうのは野暮なだけ)

Poi Dog Ponderingの人が出ていたり、ジャケットの女の人はButthole Surfers のドラムスだった人だし。 当時のオースティンの音楽シーンもなんとなくうかがえる。


ぜんぜん関係ないけど、昨年ダラスに行って車(Uber)に乗ったとき、運転手のおじさんが策謀陰謀大好き系のひとで、ケネディ暗殺の謎をえんえん語ったあとで、あるサイトのURLとパスコードを教えてくれて、ここを読めばケネディの件から911まですべての謎が繋がっていることがわかるのじゃ、見てみるがよい、と言われたのを思いだした。 あの紙、どこにいったかしら。

9.19.2016

[film] La Batalla de Chile: La lucha de un pueblo sin armas (1975 - 79)

16日の土曜日の午前から午後にかけて、ついに、ようやく見ることができた。
今年の映画の大きな目標のひとつは達成。もういっこは「アウト・ワン」だったが、これは来年になるもよう。

『チリの闘い  武器なき民衆の闘争』 モノクロ。計263分。

75年から79年にかけて製作された3部構成のドキュメンタリーで、クーデターの前から現地で撮影され、クーデター後に逮捕・監禁された後に国外に亡命した監督パトリシオ・グスマンと共にフィルムは奇跡的に持ち出され、Chris Markerらの協力を得て完成された。  映画を捧げられたカメラマンのホルヘ・ミューラー・シルバは逮捕 - 尋問 - 拷問ののち「行方不明」となる。

第一部『ブルジョワジーの叛乱』の冒頭で炎に包まれていた大統領官邸、第二部で細かに描かれる1973年9月11日、軍の起こしたクーデターは「成功」し、アジェンデは亡くなり、ピノチェトによる軍事政権はその後90年まで続き、そのピノチェトは病気を理由に罪を逃れたままに亡くなってしまったので、もういいじゃないかというかもしれない(どっかの島国みたいに、な)、でも断じてそうではないのだ。 昨年の夏、国会前で怒りをこめて拳を振りあげていた人にとっては。まるでいまの腐れたにっぽんを見るかのように(も)見れる。

農民や労働者たちの圧倒的支持のもとに誕生したアジェンデ政権、でも中間層やミイラと呼ばれる旧体制を支持基盤とする野党が過半数を占める議会は政権の転覆を狙ってあらゆる手を繰り出してくる。
大統領の弾劾権をもてる議員数を確保できなかった議会選挙が野党側にもたらした動揺が第一部の最初にあって、以降、デモやストライキを扇動して物流を絶って国政混乱の責任を負わせ、なんとか政権退陣に追い込もうとするブルジョワ勢力 - 野党と、そのやり口を見抜いて自前のネットワークを構築して持ちこたえ、アジェンデを信じて支えようとする労働者たちの攻防。 その過程でアメリカ政府による野党や軍部の抱きこみやメディア統制のカラクリが明らかにされ、軍の一部が暴走してカメラに銃を向けるに至るまで、が第一部。

第二部『クーデター』は、誰もがクーデターの予感に脅えつつあらゆる手を尽くして国を建て直し持ちこたえようとするが、アジェンデが最後の手段として用意した国民投票に向かおうとしたそのときに、堤防が決壊したかのようにクーデターが勃発する。
グスマンのカメラも我々も、ただその映像を見ていることしかできない無念と絶望で真っ暗になるなか、アジェンデの最後のラジオ演説 - 「歴史は人民のものであり、労働者のものである」でおわる。

第三部は、クーデターが起こる前の72年に巻き戻って、ブルジョワが起こしたトラック運転手組合のストライキを巡る攻防に焦点を当て、沢山の労働者 - 当事者の証言を繋ぎながら彼らはどう闘ったのか、を詳細に追っていく。
それは、なぜクーデターを防げなかったのかでも、そもそもどう闘うべきだったのか、の反省でもないの。闘った民衆は、誰ひとり間違ったことは言っていない、ひとりひとりの決意と覚醒と団結しかなかったし、そこにしか未来はないのだ、ということを再確認して、大地を踏みしめておわる。

すべては軍と共産主義を病的に嫌うアメリカによって資金援助も含めて周到に準備・計画されていたという、どす黒い、滅入るしかない史実だし、ぶんなぐりたくなるような顔もいっぱい並ぶのだが、めちゃくちゃおもしろくて、拳を思いっきり握りしめてしまう。なんでなのかうまく説明できない。

そしてその渦の余りのすごさに、自分の足元を見てしまう、そういう見方や思考を強いる映画だとおもう。

政界と財界の癒着とブラック化の進行、おかしいことを追求しない(させない)メディアへの介入、暗躍する不可視の勢力に陰謀、アメリカ大好き/共産主義大嫌い、共通するところだらけだし。いやそれらに加えてこっちは、悪賢い与党の圧倒的多数、くそみたいな迎合・多数派工作、メディアに加えて教育への関与と干渉、ポピュリズムの嵐に幼児化、なにもかも絶望的でしょうもないんですけど。

アジェンデのお話しでも軍やピノチェトの話しでもなく、これの主人公は「武器なき民衆」で、すべては規模や経済や軍部の力が決するのではない - 政治的な闘争なのだと、自分たちがアジェンデを生産や流通を支えるのだと、この映画はそこに突破口があると、「あったはず」ではなく「ある」とそれだけを力強く言っている。
だからこれは、わたしの、あなたの話でもあるの。 必見なの。

昨年のラテンピート映画祭でかかった”Allende, mi abuelo Allende” - 『アジェンデ』をもういっかいやってくれないかしら。 アジェンデの孫娘がまだ存命だった祖母に当時のことを聞いてみようとするお話し。 家族にとって、あの政変、あの一日はなんだったのか、を追うの。

あと、8月にアテネでやった「パトリシオ・グスマン監督特集」もお願いだからもういちど。


一年前。 忘れてないから。

[film] High-Rise (2015)

16日の金曜日の晩、渋谷でみました。 最終日だった。

先週みた『アスファルト』がフランスの低所得者層向け集合住宅を舞台にした出会いの物語だったとすれば、これはイギリスの富裕層向け高層住宅を舞台にしたサバイバル階級闘争と瓦解を描いた、というか、そんなの比べてもしょうがないんだけどさ。

冒頭、死体が転がる廃墟と化したマンションのなかでみんな犬のもも肉とか焼いてサバイバル生活していて、さてなにが起こったのでしょうか、と。
医師のRobert Laing (Tom Hiddleston)は、高層マンションの25階に引っ越してきて、鼻歌うたいながらクリーンなモダーン・ライフを楽しもうとしていて、建物のなかにはスーパーマーケットもジムもプールもスパもなんでもあるし、住民同士の交流もハイソで洗練されているみたいだし。

最初に声をかけてきたのは26階に住むCharlotte (Sienna Miller)で、そのとき彼女に絡んでいたのがTV局に勤務するWilder (Luke Evans)で、彼の妻のHelen (Elisabeth Moss)は臨月なのになかなか子供が出てこなくて、やがて最上階 - 庭園があって羊(ヤギ?)とか馬もいる - に住むタワー全体を統治する神である建築家のRoyal (Jeremy Irons)とも知り合ううちに、上層階住人と下層階住人との確執も含めていろんな住人の見栄とか虚栄とか見下しとか妬みとか不満とかがどろどろ渦を巻いていることがわかってきて、繰り返されるいろんなパーティを通してそれらが雪だるま式というかドミノ倒し式というか、メルトダウンとパンデミックをいっぺんに起こして、上から下に重力で落下するかのように、一旦暴発したらそこから不可避的に着火して連鎖して手をつけられなくなっていくの。

で、逃げようにもみんなここに住んでいるもんだから逃げようがないし、実際誰も逃げないし警察なんか呼ばない。 だってこれはふつうに戦争で闘争で、闘って生き残りさえすれば生きられるんだもの、あたりまえだけど。

ねえねえ、みんな社会の上のほうに君臨するエリート、のはずだったんじゃ?  ていうつっこみが。

原作は75年発表のJ.G.バラードのSFで、まだテクノロジーや進歩や高度化、といったことに夢を見ることが許されていた時代、当時それらに対するカウンターとして機能したかもしれない近未来の寓話が、この21世紀、富裕層はじっさい高いところに住んで見下ろしてて明確に可視化された格差が360°問題視されている今、どんなふうに受け止められるのか。 建築家がLaingに説明するようにこの建物は「変化の坩堝」 - “a crucible for change” となるべくデザインされていて、その点では確かにそれは起こった、と威張って言えるのだろうが、坩堝がありえない、想定外の化学変化まで引き起こして、収拾不能になっちゃって。

引き起こされてしまった混乱、暴力と憎悪とその連鎖、映画でそれは描かれているのだが、手がつけられないカオスを描くのは割と簡単で、他方でもういっこ大きなテーマとしてある(はずの) - 快楽とはなにか? てとこまで踏みこめていない気がして、それは難しいのだろうなー。

音楽は痛快としか言いようがなくて、パーティでCANの”Outside My Door”が流れていたりするし、”Spoon”だって流れるし、”PortisheadがあのトーンでABBAの”SOS”歌ったりするし、ラストにはThe Fallの”Industrial Estate”になだれこむ。 これをやりたかったのだとしたら、まあいいか、とか。

でも、かちかちの英国映画のかんじでしたわ。 Jeremy ThomasプロデュースでJeremy Ironsが出演する、それだけでまあいいか、とか。 (こればっか)

9.17.2016

[film] Asphalte (2015)

11日、日曜日の昼、新宿で見ました。
『アスファルト』。英語題は、”Macadam Stories”

イザベル・ユペールさま、ていうだけでなんとなく。こんな話しだとはしらなかった。

フランスの郊外の、半分壊れて打ち棄てられたようなでっかい団地があって、雲が遠くに広がっていて、あーこれだけでいい、みたいになりがちな風景。

そこの一室で住民会議が行なわれていて、老朽化したエレベーターを住民負担で取り替える決議をしてて、ひとりだけ反対したのが二階に住むクマみたいな男(Gustave Kervern)で、他の住民の白い目を浴びながらも二階だし使わないもん、と譲らず、結局あんたには使わせねえからな、使わないよな、と念を押してエレベーターは新調される。

会議があったその部屋に置いてあった自転車漕ぎマシーンが気になったクマさんは、自分でも取り寄せてみて、気持ちよく漕いでいるうちに失神して朝まで機械にオートでもてあそばれて、結局車椅子の生活になってしまう。

で、一人暮らしの彼が困ったのが食糧の調達とエレベーター利用禁止の件で、エレベーターは利用状況をモニタリングして人がいない時間帯を狙い、食べものは病院まで車椅子を転がして、そこの自販機でなんとかしようとがんばるうち、タバコを吸いに外に出ている夜勤の看護婦さん(『イタリアのある城で』のValeria Bruni Tedeschi !)と知り合って、自分はカメラマンなんだとかウソついて仲良くなっていく。

もうひとつは、同じ団地の別の部屋で独り暮らししているらしい高校生(Jules Benchetrit)がいて、反対側の部屋に越してきた女優 - 80年代少しは有名だったらしい - Isabelle Huppertと知り合って、カギを開けてあげたり、一緒に彼女が出ている昔のビデオを見てあげたり、プロデューサーにオーディションをすっぽかされて酔い潰れて帰ってきた彼女の面倒を見てあげたりして、つんけんしながらも少し仲良くなる。

もうひとつは、団地の屋上に空から宇宙船のポッドが落ちてきて、中から這い出てきたのはアメリカの宇宙飛行士(Michael Pitt)で、NASAに電話したいから電話貸して、と言葉のまったく通じないアルジェリア系移民のおばあさんのとこに世話になる。電話が繋がったNASAはそんなとこで即時回収すると世間にみっともないからしばらくそこに滞在して時間稼げ、と冷たくて、息子が刑務所にいるらしいおばあさんと宇宙飛行士の数日間の同居がはじまる。 おばあさんの作るクスクスがおいしそうでのう。

住民それぞれがめんどくさい事情を抱えているのがあたりまえの壊れかけの団地 - 別に団地じゃなくてもよい気もするが - を舞台にした噛みあいそうにない、別世界を経由してきて壁の向こうの別世界に生きるふたり x 3組の出会いをぜんぜん劇的じゃないふうに  -  住民全体を巻きこんだり、それぞれの組がぶつかったり絡まったり、団地を物理的に壊したりすることなく - しらーっと描いている。 みんなそれぞれ忙しいんだからさ。

始めのほうは団地の上のほうに宇宙があって飛行士がいて、おもしろくなりそうな予感もあったのだがなんかしんみりと落ち着いちゃったところがなんかなー。 俳優さんがみんな上手かった分、なんかもったいなかったかも。

宇宙飛行士、Michael Pittもよいけど、あそこでMatt DamonかGeorge Clooneyかだったらうけたのになー。

9.16.2016

[film] Suicide Squad (2016)

10日の晩、六本木でみました。

横浜でメアリー・カサットみて、神保町で「めぐりあう日」をみて、母子の情愛にじーんとしたあとで、これを見るとなかなかぐったりした。

極悪人とか極変態ばかりが収容されている地の果ての監獄があって、そこの何人かの囚人を極秘プロジェクト用にリクルートする、ていう話を進めている政府の偉いおばさん(Viola Davis)がいて、その話のなかで極悪人もしくは極変態のプロファイルとか捕まえたときの経緯 - バットマン(Ben Affleck)が出てくる - が流れて、じゃあこいつらはなにをやるんだ、というとメキシコの山奥の洞窟で発掘された古代の魔女の話が出てきて、バットマンじゃあかんのか? とか思いつつも、逆らったり逃げたりしようとしたら首に埋め込まれた爆弾がふっとばすからね、と言われた囚人たちは軍の大佐(ややこしいのだが、魔女 -  Enchantressがのっとるのがこいつの恋人の体なのね)の指揮下で魔物狩りに乗りだすの。

囚人たちは鉄砲撃ち名人(Will Smith)とか、凶暴で手がつけられないあばずれ娘Harley Quinn(Margot Robbie)、とか、でっかい爬虫類みたいなのとか、火炎放射男とか、オージー(野蛮なだけ)とか、日本刀ふりまわす仮面女とか、そんなので、射撃男の一人娘とのエピソードとか、あばずれ娘とJoker(Jared Leto)の愛と絆、とか、火炎放射男のあたたかい家族の話とか、も紹介される。

魔女のほうは唯一の弱点だった心臓を人間から取り戻して、そこらの人間たちをゾンビみたいな自分の手下にして、その数をどんどん増やしていってゾンビまみれにして、更に世界を滅ぼす武器も作ろうとしていて、人類危うしなのはまちがいないの。

古代からの封印みたいのが解かれて、邪悪ななにかが急成長して世界がピンチになったときに世界の端っこにはじかれていた連中がより集まってそいつらをやっつける、というと、こないだの”Ghostbusters”がそうだし、”X-Men”だってそうだし、古代から来るやつと宇宙から来るやつにもう並みの人類は勝てないってことね。

で、そいつらと割とガチで戦うのがX-Menで、意外な飛び道具と冗談のミックスで乗り切ってしまうのがGhostbustersで、これはノリのあんまよくない不良のX-Menみたいなかんじ。 同じ不良犯罪者でもDeadpoolみたいに小気味よくちゃらちゃらやってくれればよいのだが、ひとりひとりのいろんな事情があるらしい、といちいちカメラは立ち止まってクローズアップしてあげる。

“Suicide Squad”なんだし、どうせ死んじゃう運命なんだし、と死を恐れない無軌道なならず者共が、好き勝手にむちゃくちゃをやって、気がつけば辺り一帯まるごと蹴散らしてそのまま暴走して地の彼方に消える、ていうのが理想に決まっているのに、なんかそれぞれがそれぞれののストーリーとか過去とかに引きずられて、なんかしめしめして重くなっているかんじ。 そんなに語りたいのか、見て聞いてもらいたいのかー。

いっそJokerとHarley Quinnの狂恋爆走ドラマにしちゃえばよかったのに。
このふたりのぶきちれたとこだけ、ストーリーから妙に浮いててよかったの(よくもわるくも)。

音楽は新旧のこてこて系名曲をやたら豪勢に贅沢に流しているのだが、なんか使いかたもったいないかも。
“Bohemian Rhapsody”をあんなとこで切っちゃうとかさ。

9.15.2016

[film] Je vous souhaite d'être follement aimée (2015)

10日、土曜日の午後、神保町でみました。
『めぐりあう日』。 英語題は"Looking for Her"。

お昼に横浜でメアリー・カサット展を見て、女性 - 主に母親のまあるい背中とか身体とか眼差しの像、イメージが残っていて、そういう状態で見たらとても沁みるものがあった。

理学療法士のエリザ(Céline Sallette)は生みの親を探すためにひとり息子、8歳のノエを連れて港町のダンケルクに滞在していて、夫とは離婚を考えているし、なかなか複雑らしい。 ノエは新しい学校に馴染めなくて、そこで清掃とか給食の配膳をしているアネット(Anne Benoît)がエリザの施術を受けにきて、ふたりが施術を通して少しずつ仲良くなっていく話と、エリザの家庭をめぐるいくつかの決断の話と、自分を産んですぐ養子に出してしまった母親(とその理由)を探す話が、ゆっくりと絡みあいながら、ひとつの物語になっていくさまが、ぜんぜんドラマチックに描かれないところも含めて、なかなかよかった。

実母が見つかる可能性がほとんどないことは冒頭で役所のひとから告げられていて、でもなぜそんなに懸命に探し続けているのか、育ての母にも夫にも息子にもよく見えない、彼女だけがその理由を抱えた惑いと葛藤のなかにいて、見つかりそうにないことは自分がようくわかっているし、見つかったからなにかがどうにかなるわけでもないこともわかっている。

そういうなかで、彼女だけの悲しみ、彼女だけの痛み、共有不可能なそれらが静かに淡々と描かれていって、最後にずっとこびりついていたかさぶたが剥がれるようにいろいろ明らかになって、よかったねえ、なのだが、でもこれはよかったねえ、で終わる話ではなくて、子供を棄ててはいけませんとか母と娘の普遍的なありようを示す、ような話でもなくて、縁とはまこと不思議なものじゃのう、みたいなお話。 だろうか。

撮影のCaroline Champetierのカメラはエリザとアネット、ふたりの細やかな表情の陰影を細かに正確に捕えようとしていて、それとアネットの丸く豊かな身体を滑らかに撫で摩るエリザの手の動きが重なると、ふたりそれぞれの行く末に明るい未来なんてぜんぜん見えないのだが、それだけでなんかよいの。 すばらしい女性映画。

最後に流れるブルトンの『狂気の愛』。
『バナナブレッドのプディング』のエンディングとおなじく。


昨年の11月に”Suffragette”を見て、感想に「頼むからくだんない邦題なしで」と書いた。
公開が軽く一年以上遅れて、それであのクズなタイトルかよ。 ふざけんな、だわ。
この映画そのものが悲惨な怒りの、捨て身の渾身の糞玉だと思うのに、映画を見ていないとしか思えない。
なにが「花束」だよ。
これに限らず邦題全般があったまに来るのばっかりなのでずっと文句や嫌味を言い続けてきたけど、改めて、ちゃんと映画のテーマや本質を見ることができない、その資格のない連中が暇つぶしで映画見るような連中に向けて売ることだけを考えてタイトルをつけているようなやりかたに改めて文句を言いたい。
あんたら、どこまでグロテスクで気持ち悪いのか。
これじゃあ洋画のマーケットなんて衰退するよね、で、「彼ら」は衰退しているからこそ懸命なんです、とか言うのだろうが、そんなこと以前にこのやり方/売り方は真剣に映画を作った人たちに対して失礼だし、この映画に描かれた戦いで亡くなった人たちにも失礼だし、そしてそれはつまるところ女性に対する侮蔑、他者に対する鈍感さ、に他ならないの。
こんなことやってるから、女性に参政権が与えられた国リストに日本は入れてもらえないんだわ。

9.13.2016

[film] Song of the Sea (2014)

4日の日曜日の午後、杉本博司のあとに見ました。 恵比寿まできたのはこっちがメインだった。

昨年のEUフィルムデーズ2015で見逃して悔しくて泣いていたアイルランド=ルクセンブルク=ベルギー=フランス=デンマーク映画 - をようやく見れた。 『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』。

ポスターを見てアザラシの大群が大活躍するお話しかと思っていたら、ぜんぜんちがった。
でもアイルランドの昔話とか海とか音楽とか民俗とかがだいすきなひとにとってはたまんないやつだった。
すんごくよかった。

島の灯台で暮らしているお父さんとお母さんと男の子のベンとわんわんのクーがいて、身重だったお母さんは海の音が聞こえる巻貝の笛を残して「ごめんね...」って海のほうに消えてしまう。 そこから6年たって、妹のシアーシャはまだ喋れないまま、ベンはお母さんがいなくなったのはシアーシャのせいだと思っているのであんま兄妹の仲はよくない。 お母さんの命日でもあるシアーシャの誕生日、白く輝くアザラシの妖精セルキーのコートを纏ったシアーシャが嬉々として海に入っていくのを見た家族はびっくりして、お父さんはコートを海に捨てちゃって、意地悪なおばあちゃんは、こんなところに母のいない孫たちを置いておけない、と海から遠く離れた町の自分ちに無理やり連れて帰る。
でもなんとしてもクーとお父さんのところに戻りたいベンは町がハロウィンで賑わっている隙にシアーシャを連れてふたりして灯台のほうに戻ろうとするの。

その道中、シアーシャの不思議な力を察知したいろんな妖精とかが(ハロウィンだし)寄ってくるのだが、そのなかの一派、フクロウの魔女マカとフクロウ族はその歪んだ愛でシアーシャの力を吸いとって、妖精の国を滅ぼそうとしていて、それを防ぐには夜明け前にシアーシャの歌とあのコートが必要なのだが、彼女はどんどん衰弱していって。 シアーシャを抱えて踏んばるベンとだんだんに明らかになっていくいろんな秘密とか伝説とか。 ひとの悲しみや辛さを安易に癒してしまってはいけないんだって。

かつてあった妖精たちの国と海の巨人伝説という横糸に母を失った兄妹の一途な物語が絡んで、そのまわりをアザラシの群れが取り囲むの。どこまでも切なく元には戻らない/戻れない妖精と人間と海と灯台とあざらしのお伽話 = 海のうた で、しみじみ不思議だとおもうのは、われわれはかつてこの歌を聞いたことがある、彼方に踊るケルトの波模様を見たことがあるかも、ということなの。

なんで海の遠くの一点を見つめてしまうのか、そうしているとなんで悲しくなってしまったりするのか。 そのわけは例えばここに。

アザラシさんたちは海の向こうから揃ってこっちをじーっと眺めているだけで、変にかわいらしくなくてよいの。

坂田靖子のファンタジーを好きなひとも必見だよ。

あ、これアニメーションなの。 ねんのため。

[art] 杉本博司 ロスト・ヒューマン

9月4日、日曜日の昼間、TOP MUSEUMというとてもとても恥ずかしい名前になってしまった(でも売店以外になにが新しくなったんだかぜんぜんわからない)東京都写真美術館でみました。

3階のスペースをぜんぶ使った『今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない』ていうシリーズ。てっきり写真の展示だと思っていたのでややめんくらう。

ぼろいトタン板などで仕切られた部屋がいっぱいあって、各部屋には紙に手書きされたその部屋の所有者と思われるいろんなひと - 理想主義者、比較宗教学者、養蜂家、古生物研究者、政治家、軍国主義者、安楽死協会会長(渋谷慶一郎)、美術史学者、コンピューター修理会社社長(宮島達男)、国際連合事務総長、隕石蒐集家、ジャーナリスト、耽美主義者、コンテンポラリー・アーティスト(ロバートキャンベル)、解脱者(千宗屋)、ラブドール・アンジェ(芋束)、善人独裁者、漁師、バービーちゃん(朝吹真理子)、遺伝子矯正医(橋本麻里) ー などなど - ぜんぶで33だって - による 『今日、世界は死んだ。もしかすると昨日かもしれない』ではじまるステートメントというか遺言というか、最後っ屁みたいのが貼ってあって、彼らが関わったり使ったりしていたであろうオブジェとか骨董品とか道具とかが置いてあって、たまに動いたり音をたてたりもする。

もう世界は終わっているのだからこれらはオブジェでも骨董品でもなんでもない、ただの無用のゴミでしかない - 終わっていなかったにしてもなんとか主義者とかなんとか研究者のものなんて大多数のひとにとってはどっちみちどうでもいいゴミでしかない - のだから持ち帰ったり触ったり壊したり燃やしたりしてもいいじゃん、とか思わないでもないのだが、いちおう、美術館の展示、ということで監視の目はきびしい。 さーすがTOP。

7月にNYで見たNew Museumの展示 - "The Keeper"は、あれはニンゲンの営みがそれなりに永続することを前提に、残したいものを残さねば、って残そうとする一握りのひとたちの展示だった。 
これに対し、ここの世界はもうすっからかんに終わっていて、それを使ったり愛でたりするニンゲンもいないわけだから、ほんとうに単なる、繰り返しになるがただの「ゴミ」でしかない。 じゃあいらねえだろ、ていうのと、「昨日かもしれない」というのだったらおとといだって、一週間前だってよいはずで、つまり、もうとっくの昔に終わっているんじゃないのか。 さらに踏みこんで、そもそもいらねえんじゃねえかこんなの。ていうのと、ヒトはほんとうにこれらのゴミと向き合ってあれこれやってきたんだねえ、ていうか最後に残ったのはゴミばかりなんだから ゴミ > 人間てことよね ... のようなことがぽつぽつと見えてくる。

でもゴミの展示にしては、とてもよい具合に枯れてて萎びてて美しいの。 同様のテーマだったらJim ShawとかMike Kellyとかのほうがゴミ感も臭気も爆裂満載で、やっぱり世界は終わり/終わってるんだよねえ、て思い知らされるのだが、こっちのは捨てがたい - だから骨董として残ってたのか。

で、2階のほうに降りていって、ふたつの2Dの展示 - 『廃墟劇場』と『仏の海』を見てみれば闇と光のコントラストがしみじみと爛れて美しく、彼岸の遥か彼方から「救い」みたいなテーマが蜘蛛の糸のように下がってくるのが見える気もして、ああそういうことなんだねえ、ておもった。 
ここにきて時間のアートとしての写真の意義、がくっきりと表れて、それって減衰を示すものなのか光明を示すものなのかどっちなのかしら、というと、3階の展示の始まりと終わりに貼ってあるフラットな海 - 水平線が浮かびあがる。

全体の印象としては、高級なゴミで構成された壮大な曼荼羅。 でもニンゲンいらない、みたいな。

たぶんひとによって受けとめかたはいろいろで、展覧会のサイトにあるように、『人類と文明が遺物となってしまわないために、その行方について、杉本博司の最新作と共に再考する』 ひともいるんだろうなー。 えらいなー(棒読み)。


もういっこやっていた報道写真の展示のほうは見ませんでした。

9.12.2016

[film] La vida útil (2010)

8月11日の昼、新宿でみました。 63分、モノクロ、スタンダードのウルグアイ映画。
『映画よ、さようなら』。 英語題は"A Useful Life"。

モンテビデオのシネマテークに勤務するホルヘはごくごく普通に真面目に映画の仕事を25年間こなしてきて、特にでっかい野望も展望もなかったし、恨みを買うことも買われることもなかったし、映画の世界に生きるものとしてキュレーションも椅子の修理もラジオ番組もチケットもぎりも常連客とのやりとりもノーマルにやってきて、不足も問題もない、と自分では思ってきた。

が、突然家賃滞納と財政難でシネマテークをクローズする、と言われる。
館長もふくめて全員、ということのようなので有無を言わせずで、どうあがいてもしょうもなさそうで、映画のなかでは多少ぶつぶつ言うものの、激しく怒ったり泣いたり叫んだりすることなく、淡々とそれに従って閉店後に店から追われるように職場を去るホルヘの姿が描かれる。

ここまでが前半で、後半は自由になった(まるで釈放されたかのような)ホルヘ - 頭の奥では勇ましい音楽が鳴ってる - が意を決してシネマテークのお客さんで気になっていた大学の先生を食事を誘って、床屋にいってきれいさっぱりして、デートして映画でも見ようかー、になるの。

この後半の展開がなかなかスリリングですばらしくて、やけくそになったホルヘがテロとか自決でもするんじゃないか、くらいに思わせて、たぶんホルヘの頭のなかでは当然のようにそういうシナリオも湧いていたはずなのだが、そうじゃない方に向かう。 そうさせたのは、たぶん彼が25年間漬かっていた映画の世界があったからだよね、と。

彼が図書館や美術館の職員だったら、ふつうの会社の人だったら(彼らがリストラで職場を追い出されたら)、こんなふうなドラマになりえただろうか?
25年間シネマテークに勤務したホルヘの傍でずっと回り続けていたフィルムリールがまるめこんでおとしこんだなにか、があったからだよね、とか思うし、だからこその"A Useful Life"なんだわ、とか思うし。 もちろんそんなのただの過剰な思い込みにすぎないのだけど、それでもなんかいいじゃん、と思わせる軽さがあるのだった。

自分も会社クビになったら、あんなふうに爽やかに誰かをデートに誘うことができるかどうか、そいつも試されているのだと思った。

でも、そもそも映画館て潰しちゃいけないもんよねえ。
恵比寿でやっている杉本博司の展示にもあったけど、映画館がなくなる、その灯がおちる、ていうのは、そこで流されたフィルムの長さとか、そこであてられた光の総量とか、それが照らしだした魂のでっかさとか考えたら、それらと同等の闇を引き受けるってことで、それはそれはおっかないことだわよ。

それに南米のシネマテークって、2008年だかにアルゼンチンでMetropolisの16mmが見つかったりしるしぜったいまだなんか出てくると思うし。 

ホルヘ役のひとはウルグアイ映画批評家協会の元副会長、ていうのは冗談みたいにおもしろいねえ。

9.11.2016

[film] Beyond Clueless (2014)

8月11日、木曜日(やまのひ?)の午後、新宿のカリコレでみました。
トークがついていたけど、途中で出ちゃった。

“Clueless” (1995)から”Mean Girls” (2004)まで、200本以上のティーン映画の断片をゴダールの“Histoire(s) du cinéma” (1988-1998)よろしくチャプター毎に繋いで繋いで語って、90年代に量産されたこれらの映画はなんだったのか、を考察する映画的エッセイ。

監督は批評家をやっていた英国のCharlie Lyne(Favoriteは”EuroTrip” (2004)だって)、ナレーションは“The Craft” (1996) のFairuza Balkさん。

シンプルにちゃらちゃらさくさくといろんなのを繋いでおもしろかったよねー! で終るのかと思っていたのだが、ものすごく真面目な内容だったので少しめんくらった。 学校が始まる初日から思春期、イニシエーションの恐怖(ホラー)や期待、カースト、プロム、学園生活全般をこまこま包括して並べて、あの時代の子供たちのエモとか好奇心とか挙動全般を大風呂敷のうえに散らして拡げてみせる。

製作している側は、たんに売れてて客が入るから盛って作っていった程度だと思うのだが、あれほどの広がりを見せた普遍的な背景や事情がきっとなんかあるはず、とどこまでも繋いで紡いで掘っていく。ベースの量が沢山あるのでどうとでも纏めることはできるよね、と嫌味のひとつを言いたくもなるが、とっても英国的、書誌学的にきちきちと詰めていて、けっか、この時代のティーン映画が描きだそうとしていたティーンの像を、あそこにあった彼らの生の輝きを結晶化することに成功している、と思う。

もちろん、英国のひと - 当事の当時者/非当事者が見る、日本の... などなど、によって受けとめ方は全く異なって当然だし、時間的に最初の起点である1995年から20年経過していること、等は考慮してしかるべきだし、結果、誰のためのどういう考察なのよ? という点はあるだろう - でもそれって、どんな文化を扱うときでも同じことだよね。

文化史ぽいことをもういっこいうと、この時代の盛りあがりは映画だけによるものではなくて、TVドラマとかMTV上のプロモーションの影響・連動も決して小さくはなかったわけで、そこをどう見るか、とか。

取りあげられている映画で自分が実際に見ているのは半分もないけど、でも“Clueless” (1995)の時も“The Craft” (1996) の時も”Mean Girls” (2004)の時もNYに住んでいたので当時の映画館の熱狂がどんなだったかは知っている。 で、いちばん不思議なのはあれらがいまはどこに行っちゃったのか、ということなのよね。 SNS ... とか言ってしまうのは簡単だけど、それだけなのかしら。
ていうのと、寂れた中年共を主人公にしたロマコメの佳作が割と沢山出てきているのはなんとなくわかる。あの当時の若者がいまだに愛を求めて彷徨っている、ていうことなんだな。

そして自分にとって最大の問いは、この文脈にJohn Hughesを置いてよいのかどうなのか、と。
いや、John Hughesにはすべてが入っているのでそんなのいらんのじゃ、でいいのか...


たまたま今日みかけたこの記事 ...
http://www.vulture.com/2016/09/freddie-prinze-jr-and-rachael-leigh-cook-reunite.html?mid=twitter_vulture

[film] VILLAGE ON THE VILLAGE (2016)

8月12日、金曜日の晩、新宿で見ました。

変な映画だった。もう1カ月前なのでストーリーとか登場人物とか細かいところは全然憶えていなくて、でも描かれていた世界が運んできた空気とか風、温度や湿度はその感触だけいつまでも漂って消えない夢のように残っている。  それが残っている場所っていったい頭のどこにあるの?  そもそもそれってなんなの? 夢はどこにどういう形で残るのか、残されるのか、残すことを許すのはどこのどいつのなんなのか、そういうことをずっと考えたり考えを転がしたりしていた。

日本の、どこかの、どこにでもあるような郊外、少しの住宅地、ひなびたお店、隙間だらけの森があって川があって、これから開発が進むとも思えないまま打ち棄てられて日本てこんなにすごいぞ系のTVにはぜったい出てこない、誰も好き好んでそこに住んでいるわけではないような、そんな場所に車からごろんと放りだされたらしいバンドマン(田中淳一郎)が転がって、ここがどこなのかこれからどうするのかぜんぜん気にしていなそうな(だから棄てられた)彼は拾ってくれたおっさん(鈴木卓爾)のうちの一部屋に住み始めて、酒をのんだりお喋りしたり歌をうたったり、無為な日々を過ごすの。 それだけなの。

おっさんは定期的にどこかに出かけていったりピザを持ち帰ったりなんかやっているようだし、酒場に集まってくる人たちもそれぞれに夢を語ったりなにかをしようとしているようなのだが、本当のところは何も、まったく明らかにされない。 みんな幽霊なのかもしれないし妖怪なのかもしれないし宇宙人なのかもしれない。 それがどうした? だからどうする? としか言いようがない。

いろんな人が指摘しているようにこの世界は『ジョギング渡り鳥』のあの土地、あの人々の風体とどこかで繋がっている(『ジョギング…』の世界で人々はなんかやらなきゃ、みたいな動きを示すのに対して、こっちの人々は見事なまでになーんもしないのだが)。 岡崎京子がここから先はバイバイ、と言っていた気がするリバーの端のその先のランドスケープはおそらくこういうもので、生きているんだか死んでいるんだかわからない得体のしれない何かが極めて中途半端にこちらの可視可聴領域を超えたところで蠢いていて、まったくお手上げで放っておくしかなくて、どうすることもできない。
なので『ジョギング…』では人々はジョギングするしかないのだし、この映画では人々は昼間から飲んだくれてだらだらするしかない。 他になにができるというのか。

自由とか支配とか、あるいは平和とか。  語りたければ語ってみろ。 ふん。

ヴィレッジの上のヴィレッジ。 現実のヴィレッジの上に仮構/仮想のように積みあげられたヴィレッジ - それって屏風や襖の上に描かれた桃源郷みたいな、モダンアートのように抽象化/可視化された世界(のありよう)で、それが「映画」になっているということ、そこに音楽 - 人の声と歌が被さることでなにかが起こる__ のだろうか。 むこう側だけではなくこちら側にも。

『ジョギング渡り鳥』のときにも思ったけど、こういう映画に出てくる男たちはどれもどうしようもないろくでなしのクズばっかしなのに、女たちはどれもみんな凛としていてかっこいいのか。
そういうもんだ、ってさ。


15年前。 あらためて。  祈 

9.09.2016

[film] The Secret Life of Pets (2016)

8月28日、日曜日の晩、六本木でみました。

“The Legend of Tarzan”は、動物が集団で悪い奴らをやっつけるお話しだった。 “The Jungle Book”はいろんな動物が寄って集って人間の子を育てる映画だった。 これはいろんな動物たちがマンハッタンを埋め尽くして喧嘩するお話し。

みんなそんな沢山の動物たちになにをさせたいのか。なにをしてもらいたいのか。

冒頭にミニオンの短編。 通販の商品がほしくなったのでアルバイトでお金を稼ぐことにしたミニオンたちの大騒ぎで、おもしろくなくはないんだけど、ミニオンがだんだんみんなに愛される愛玩動物みたいになっていくのがなんかなー。得体の知れない不機嫌で不愉快な害獣、みたいになってほしかったのになー。

はじめにマンハッタンのアパートに暮らすいろんなペットが紹介されて、彼らは人間とは別の世界(彼らが家を出ていった後の世界)でネットワークや近所付き合いを持っていて、そういうなか、女の子Katie (Ellie Kemper)に飼われているイヌのMax (Louis C.K.)は彼女べったりで幸せだったのだが別のでっかい茶犬のDukeが連れてこられて同居になって、あったまきたり喧嘩したりしながら散歩屋と外に出たらだまされて市のペット清掃係に捕まってどうしよう、ておろおろしてたらウサギのSnowball率いるレジスタンス軍が現れて助けてくれて、いちおう彼らの仲間になるのだが、やがて自分らを捨てた人間ぶっころしたるの組織 vs. ニンゲンたち、Maxを救おうとするご近所ペット連中との三つ巴になっていくの。

動物同士の争いは”X-MEN”のCharlesとMagnetoの戦いとおなじ構図なんだけどな。ややこしい世の中よね。
あるいは、”Fehér isten” (2014) - 『ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲』のおっかなくない版、というか。

Jungle Bookとおなじようにいろんな動物たちはニンゲンと同じような動きをしてエモを持ってて、ずうずうしかったり気弱だったり凶暴だったり邪悪だったりするわけだが、これらの動物たちは元々ヒトに飼われていて飼い主のことをじっと見ていたわけだから、そうなっちゃったのはしょうがないんだろうな、ていうのと、特にNYにはいろんなひとも変態もいっぱいだからなー、とか、あの街は裏ジャングルなのよね、ていうのとか、まあいろいろで、でも、だからこそ最後には(ひとと同じように)"Home"にむかう、ていうのはあるのかしら。 みえみえでくさいけどねー。でも相手が犬猫で、マンハッタンだと許せてしまうのなー。

続編には“Shrek”の長靴猫とGarfield(もちろんBill Murray)を出してほしい。

音楽は素敵で、Beastiesの“No Sleep Till Brooklyn”とか、Bill Withersの“Lovely Day”とかなかなか泣かせるの。 あと、System of a Downがすきなプードルとか。

ペットがジャックして暴走するバスの路線が”P15”だって。 M15はよく乗ったんだけど。
Katieのアパートはダウンタウンのほうにあるみたいだけど、あれだけ眺めがよいとこってないわよね。 アニメなんだよね、もちろん。

9.08.2016

[film] The Jungle Book (2016)

4日の日曜日の夕方、日本橋で見ました。

Tarzanの子供時代、と言ってもおかしくない(Tarzanの原作はキップリングのこれを参考にしたそうな)、森にひとり取り残されて黒豹とかオオカミに育てられたモーグリのお話し。
でてくる人間はモーグリ (Neel Sethi)ひとり(あと、すぐに殺されちゃうパパも)で、彼以外はいろんな動物たちがふつーに英語を喋ってる。 もういっこ、トラとクマとオオカミとヒョウとアナコンダがふつーに並んで共存/共生しているジャングル、少しへんなかんじはするけど、そういう世界がどっかにあるのかもしれないな、くらいに思っておいてもいいじゃん、みたいな。

トラのシア・カーン(Idris Elba)とモーグリのパパが果し合いをして、シア・カーンは片目を失ったもののパパを倒して、残された乳呑み児のモーグリをオオカミ一家が預かって育てるのだが、シア・カーンはモーグリをつけねらっていて、彼を鍛えてきた一匹オオカミ - じゃない、一匹ヒョウのバギーラ(Ben Kingsley)は、モーグリをこれ以上置いておいたら危険だ、と思って彼をファミリーから無理やり引き離すのだが、その過程でモーグリはひとりになって、放浪お気楽クマ(Bill Murray)とか殺し屋ヘビ(Scarlett Johansson)とかサルの大親分(Christopher Walken)とかに出会って逞しく成長していくのだが、やがてファミリーの長だったオオカミのアキーラ(Giancarlo Esposito)がシア・カーンに殺されたことを知って仇を討つために戻ることにする。
そこで彼はニンゲンの必殺兵器である「赤い花」を手にして立ち向かうのだがー...

過酷な抗争の果てにジャングルに置き去りにされたててなし子を巡る東映ヤクザ人情活劇(時々ミュージカル)、にそのまますんなり適用できそうなキャラクター設定とストーリーラインで、それはそれは、びっくりするくらい、なんの違和感もなく盛りあがれてしまう。 動物が人間みたいに喋ったり怒ったり笑ったりする、そこだけ変かもしれないが、ヤクザ映画では動物みたいな人間たちが動物みたいに噛んだり引っ掻いたり殺したりしているので、おあいこ、なんだとおもう。

ターザン見てこれ見ると、ジャングルで生きるのも楽じゃないのな、て思った。 必ずやさしいママは出てくるけど。 でもどっちにしてもサルは凶暴で邪悪でおっかない、と。

このお話し設定なら、”Fantastic Mr. Fox” (2009) みたいに作り込んでほしかったなー、とか。
動物たちが無表情に念仏みたいなのを唱えながら寄ってくるとことか、ぜったいおもしろくなるのに。

ヘビとクマの喧嘩はもっと見たかった。せっかくの”Lost in Translation” (2003)のリユニオンなのに。

大猿のKing Louiseって、オランウータンなのかゴリラなのか。 彼が出てくるとこって「地獄の黙示録」のカーツだよな。 続編では岩の底から掘りだされて復活した彼が復讐にやってくるんでしょ。

などなど、なかなかどうでもいいことを想いながら見ることができたので、よい映画なんだとおもった。

9.07.2016

[film] The Legend of Tarzan (2016)

ううう。
少し戻って8月9日、火曜日の晩に日本橋で見ました。

19世紀末のベルリン会議のけっか、ベルギー王室がコンゴの植民地支配を進めようとしていて、そのなかで英国貴族のJohn Clayton = Tarzan (Alexander Skarsgård) に助けを求めてきて、現地で動物たちと一緒に育った彼は妻のJane (Margot Robbie)と共に喜んで赴くのだが、それは現地で悪巧みを進めているLeon Rom (Christoph Waltz)の罠で、アメリカ大使のGeorge Washington Williams (Samuel L. Jackson) - すげえ名前 - と一緒にいろんな危機とか苦難を乗り越えていって、でもやがてぶちきれて半裸のジャングルの王となって逆襲していくの。

その過程で彼の生い立ちや現地民との関わりとか動物 - 特に育てのママゴリラとの関わりとか、Janeとの出会いとか過去と現在をいったりきたりしながら語られる。 いろいろあったけど、今はこんなに元気だしこの土地を愛しているし、そこらのよそ者には負けないからなめんなよ、と。

地位もお金もある紳士で貴族さんで妻も美人だし、でも一枚二枚と脱がせてみれば動物の言葉だって話せるむきむきの野生児で虫でも糞でも食べそうで、ていうギャップが、悪い奴との闘いのなかで明らかになっていく、ていうところがひとつの見どころで、でも結局は原野一面を埋めつくして悪いのも善いのもなぎ倒して突進していく動物たちには敵わない。 野郎どもやっちまえー! ばおおおー!!

ポスト・ポストコロニアル(くらい?)まで来ている今のこの時代、植民地の宗主国同士の馴れ合いとしか思えないような諍いをしゃあしゃあと描いていることのしょうもない臭さについては批判されてしかるべきだと思うが、原題で”The Legend of …”としているので許してあげてもよいかも、とか(邦題の”REBORN”、はまったく洒落になってないわ)。 でも伝説いうのだったらやっぱし動物共の大行進だよね。

Samuel L. JacksonとChristoph Waltzがタランティーノ作品の代理戦争みたいに血まみれ糞まみれになって戦ってくれると思ったのだが、そういうのでもなかった。 Margot RobbieのJaneももうちょっと暴れてくれると思ったんだけどなー。 Tarzanひとり楽しそうに走ったり飛んだりしてるの。

Tarzanには低気圧頭痛も目まいも関係ないんだろうなー。 いいなー。

9.04.2016

[film] X-Men: Apocalypse (2016)

もう9月かよ。

8月13日、土曜日の晩、六本木でみました。

X-Men: First Class (2011)、 X-Men: Days of Future Past (2014) に続く3部作の完結編。 たぶん。

紀元前くらいの大昔、エジプトで全知全能みたいな力を持った奴(ミュータント;Oscar Isaac)の封じ込め作戦が展開されて、ピラミッドの奥底に封印されて埋められるのだが、80年代に呪いを解かれて掘り起こされてそこらにいたミュータントを配下に置いて動き始め、それとほぼ同時に70年代のワシントンDCでの大騒ぎの後に姿を潜めていたエリック (Michael Fassbender)は不幸なかたちでその姿を暴かれ、再び復讐の鬼となってそのエジプト魔王と組んで全世界を敵にまわして壊しだす。 ミュータントの子たち向けの学校を始めていたチャールズ (James McAvoy)と仲間たちは再びエリックと、更にその背後にいる大魔王と対峙することになるの。

前作の戦いは近い未来に端を発していて、今度のははるか昔を起源としていて、つまりはこの一連の戦いは過去から未来までヒトの歴史ぜんぶをカバーして延々続いているようなのだが、これだけではなくて、3部作通すといろいろ見えてくるのもあって、よく考えているんだなあ、本当にこのシリーズを愛しているんだなあ(→ Bryan Singer)て改めておもった。

"First Class"が60年代のキューバ危機に始まる冷戦のきっかけ(への関わり)のところを描いていて、"Days of …”が70年代のテロに始まる民族紛争のきっかけ(への関わり)を描いていて、今回の"Apocalypse"はなんだろ..  原理主義の台頭? .... 苦しいかしら。

あるいは、”First Class”でチャールズは半身不随になって、"Days of …”でチャールズは覚醒して、今回のでチャールズはハゲになっちゃった、という流れとか。

人間同士の戦いであるところの戦争、本来起こってはならないはずの争いに、実はミュータントという人間ではない異形の連中が介在/関与していた、というふうにすることで、それは例えば、シンプルな害獣(=ミュータント)駆除のストーリーに回収できてしまうのではないか。 としたときに、ここにはふたつのメッセージがあって、人間のあいだで現実に起こっている争いごとは、なんなのか、あれらはやはり人間同士のあいだでの害獣駆除みたいなものになっているのではないか、ていうのと、実際にミュータントっていない(たぶん)わけだから、あれらってほんとうは起こるべきことじゃなかった、はずだよね? なんかの間違いだったんだよね? ていうのと。

もちろん、こんな問いかけはバカみたいなのだが、とても真剣で切実なものに見えてならないの。
なんで彼らミュータントは(親からすらも)虐められたり蔑まれたりしなければならなかったのか。
それは彼らがミュータントだったから、なのか? おそらく違うよね。(例えば)みんながそう言ったから、とか。「みんな」って誰なのか、とか。

絶滅して(駆除されて)しまった沢山の動物のことを思ったりした。

ここで提示されている善悪の成り立ちや境界の問題、その決着のつけ方、あるいは歴史上のイベントの取りあげかた、があまりにもアメリカ人によるアメリカ人のためのものであることは、こないだの”Captain America: Civil War” においてもとっても顕著で、あれも世界の至るところを舞台に繰り広げられる「合衆国」を中心とした過去から未来までの異形のもの同士/を巡る諍い、だった。 どちらも「超人」のはなしで、一方は疎まれ畏れられる異形/異能の連中、もう一方はヒーローと呼ばれて崇められる連中で。

物語の設定もそうだけど、決着のつけかたとか言い訳のしかたとかもアメリカ合衆国、としか言いようがなくて、生真面目なとこしょうもないとこも含めておもしろいなー、って。

ここから”X-Men” (2000)までの十数年で、Michael FassbenderはIan McKellenにトランスフォームしてしまうのか。 きっといろいろ大変だったんだろうなー。