7.28.2017

[log] July 28 2017

英国上空を低気圧がぐるぐる回っていてずうっと雨が降ったり止んだりで肌寒くて、誰になんと言われようとこんなのを夏休みと呼ばせるつもりはないので、私事都合で休みます、としか言わないのだが、金曜日と月曜日と火曜日に休みを取って海のうえを渡って戻ってくるのを夏休みーと呼びたがっている奴らがいる。 うるせえわ。

早起きして、クリーニングだしてゴミをだして、窓を少し開けていくべきか閉めていくべきか悩んで、これから空港 - Heathrowではなくて東のCity Airportに向かい、Shannon経由でJFKに飛ぶ(BA001便、だって)。 お願いだから止まったり遅れたりはやめて。
主な目的は昨年と同じやつなのだが、さっき振り返ったら昨年のは木曜日から出かけて現地で4泊している。
今年は現地3泊で、なんだよ短くなってるじゃんだめじゃん - みんな休みを取りやすい環境作りをとか言ってるくせにさ、と思ったのだが、もうじたばたするには遅すぎる。

昨年のPanoramaは土曜日、日曜日と通ったが今年は日曜日の1日だけで、もちろん2005年のCoachella(もう干支が一回転してるの…) あたりからどっかのフェスで再起動をかけるのが常態化いるあのバンドを見に行くの。 いつまでこんなことやってんだよ、と自分でも思うが、それはバンドのあのひとにこそ言ってやるべきなのだろう。 2005年のときはあんなナイーブそうなナルっぽいナリしてポーズとってたくせにさあ、今やトンネル掘りみたいになっちゃって。 あーたのしみ。

滞在は実質2.8日くらいなので動ける範囲は限られているのだが、昨年の、日本から行った時ほどの切迫感というか焦り、がないのは、映画は無理やり追っかけなくてもこっちでなんとかなりそう(そのうちやるよね)なのと、ライブも日本にいるときよりは行けるようになっているのと、アナログ盤も本も穏やかに - 聴けていないくせに読めていないくせに - 日々調達できているから、だろう。 どうしようもないのが現物を目にしないことには、の美術館系と、この国のそれと明らかな違いを認識できるようになってきたNYの食べ物系、これらだけはできる限り触れてまわりたいのだが、食べてばっかりいるわけにもいかないので難しいねえ。 で、こうして結局、ああ時間がああ、と空を仰いでしまうことになる。

でもかんじとしてはやっぱり里帰り、なんだなー。 ロンドンの天気、臭い、小汚さ、そういうのに馴染めば馴染むほど、明らかに様相も臭気も異なるNYのあれこれを - 夏の地下鉄のもわもわ、その轟音とか夜中のサイレンとか - 浴びてまわりたいもんだわ、て思う。

今回は時間もないしPCは持っていかない、ので、これで蓋閉じます。
戻ってきたらもう8月で、こっちに来て半年、が過ぎてしまったことになるのだが、そんなことはもちろん、ちっとも考えたくないの。 だから蓋閉じるってば。

ではまた。

ぱたん。

7.27.2017

[music] The Songs of Scott Walker (1967-1970)

25日の夜遅く、Royal Albert Hallでみました。

ロンドンの夏の文化イベントとしてBBC Promsていうのがあって、夏の夜長にクラシックを気軽に楽しんでもらおう、とRoyal Albert Hallを中心にTalkとかConcertとか、9月頃までいっぱいやっている。 クラシックはあまり詳しくはないのだが、安いチケットは£10くらいからあるし、とってもよさそう。 ガチのクラシックばかりかと言うとそうでもなくて、これとか、9月に"Stax Records: 50 Years of Soul"とか、現代音楽もちょこちょこある。 シリーズの番号でいうと、これはProm 15。

ドアオープンが21:45、開演22:15て、いいよなー。 NHKホールはこんなの逆立ちしてもやってくれないよね。

Royal Albert Hallのコンサートホールの方は初めてで、ステージ前はStandingになってて、そこは売り切れていたので、そのすぐ外側の椅子席。 Standingはぎっちりではなく、寝っ転がっているひともいるくらい。

さて、これ、事前にBBCのラジオでJavisとScott Walkerの対話とかも流れていて、本人は昔のにはあんま未練ないだろうなー、とは思っていたので、そうかー、くらいだったのだが、でもやっぱり、The Walker Brothersも”Scott” (数字)も好きなんだもの。

配布されたプログラムに既に曲目はプリントされていて、大所帯のオーケストラ(Heritage Orchestra)だしコーラス隊も入るのでそうなっちゃうよね、と。
シンガーは、Javis Cocker以外にJohn Grant, Richard Hawley, Susanne Sundførの計4名で、彼らが全18曲を、最初は2曲くらいずつ、終わりのほうは一曲ごとに交替しながら歌い、最後の"Get Behind Me"だけ全員で何小節かづつ歌った。  確かにこれ、ひとりで全部歌うのはものすごくしんどいかも、と聴いていておもった。

曲構成は67年から70年まで、と指定があるように、The Walker Brothersのではなく、"Scott”の1〜4と、"'Til the Band Comes In"(1970)からで、比率でいうと、①から1曲、②から2曲、③から4曲、④から8曲、"'Til the Band …” から3曲。 最初の2枚はJacques Brelとかのカバーが多い(これはこれで聴きたい)というのもあるのだろうが、やはり③ 〜 ④のやたら荘厳で秘境めいた世界をライブでぶちまけてみたい、というのがあったのだろう。 Co-DirectorのDick Hovengaさんもプログラムに掲載されたインタビューでそういうようなことを言っていて、もうひとりのDirectorであるSimon Raymonde(...やっぱり)とこの頃のScottの世界をなんとか形にしようと画策していたところに指揮者であるJules Buckleyさんが現れて、企画として纏まっていった、と(アレンジャーはJules 氏を含めて4人)。 これらの曲がこれまでライブで演奏されたことはなかったんだって。

というわけで、一曲目"Prologue"の冒頭のコントラバス(?)が流れ始めたところで、驚愕したのが音のよいことで、このホール、めちゃくちゃ音がよいのね。 有名なホールだし、あたりまえかもだけど、ああここでBowieとか聴いたらどんなにすごかっただろうか(あと、昨年のIggy Pop…)。

最初に登場した歌い手がJavisで、割と低めの、後期Bowieのように微妙に揺れる不安定な声ではらはらするのだが、Scott自身もそんなに歌が巧い人ではない、という点を合わせると、いちばん「らしい」かんじはした。
他の3名の歌はプロフェッショナルな安定感に溢れていて、これはこれで感動的に響き渡って震える。

すばらしかったのは中盤の”The Amorous Humphrey Plugg” (Susanne Sundfør) 〜 “Montague Terrace (in Blue)” (Richard Hawley) 〜 “Little Thing That Keep Us Together” (Javis Cocker)のあたり。 Javisのくねくね悶絶が最高に輝いていた。

バックのオーケストラは、The Walker Brothersの頃のPhil Spectorぽい音の壁とは違って、Sandy ShawとかDusty Springfieldのレコードで聴くことができる英国製の滑らかしなやかな音の織物で、時折激しく炸裂したりして、気持ちいいったらない。

そして、Scottはこれらの音の生地にポップスの常套である愛や恋だけでなく、生や死のことから政治や戦争のことまで -「世界」を織り込んで我々のもとに届けようとした。世界はこんなふうにある/見える、というのを美しさだけでなく混沌も混乱も込みでいっぺんに示そうとした。
ポップスの流れに身を置いてこんなことをやったのは、やれたのは彼が最初で、BowieもNick CaveもMorrisseyもRufusも、みんな彼の子供なんだと改めて思った。

終わったのは23:35くらい。
TVではBBC Fourで金曜日の22時にやるみたい。 見れないけど。

7.26.2017

[film] The Slumber Party Massacre (1982)

21日、金曜日の晩、BFIで見て、そのあとにDiscussionも。

5月にPrince Charlesで”XX” (2017) の上映会を主催したThe Final Girls - ホラーフィルムとフェミニズムの交点を模索する上映企画(共謀)集団 (でいいのかな?) - がBFIでなんかやる、というので、とりあえず行ってみる。 BFIの小さいシアターだったけど、Sold outしていた。 いつもBFIが配るペーパーとは別に、例によってこまこま綺麗なカラーの手作りパンフを作って配っている。えらいねえ。

上映前のイントロでFinal Girlsのふたり(ひとりは"Greta Gerwig"て文字だけのTシャツ着)が出てきて、この作品は女性監督と女性ライターのふたりが明確にフェミニズムを意識して作ったホラーです、って。

郊外のどこにでもありそうな住宅街で、子供の頃のお人形や縫いぐるみを捨てようとしている女の子と、彼女を置いて旅行に出ようとしている両親がいて、凶悪犯が脱獄したというニュースが流れていて、そこからハイスクールの女子の部活 〜 シャワールームとそれを眺めている男子のコンビがいて、その隅で脱獄囚と思われる奴による最初の殺人が起こって..  前半はこんなふうにかっちりと定石通りに運んで、あとは夜、両親がいなくなった家で女子だけのパジャマ・パーティが始まって、酒飲んで薬やっての現場にさっきの男子組とか、そこに来ている彼女をなんとか連れ出したい男とか、隣の家で留守番をしている姉妹とか、ピザのデリバリーとか、いろいろやってきて絡みはじめるのだが、ドリルを手にした男が家に入ってひとりまたひとりと...

スラッシャーもスプラッターも基本だめな人なので、びくびくしながら見ていたのだが、これはそんなに血しぶきが飛んだり穴とか切れ目とか切り身とか見えないのでそんなに怖くなくて、客側もほうらきたやっぱりきた、とかみんなげらげら笑いながら見ているのでだいじょうぶだった。(そんなんでいいの? はあるけど)

上映後のディスカッションは、Final GirlsのふたりにBFIのClut Programmer(いいなーそれ)の男性に批評家とプロデューサーの女性ふたりが加わる。
どうしてこの映画を、というところでは、昔は田舎のレンタルとかで借りてくるホラーVHSの束のなかのひとつだったのだが、その後フェミニズムを含めていろいろ学んだりして、その上で再見してみるとものすごくいろんな発見があって、是非みんなに見てもらいたいと思ったのだ、って。 そうだよねえ。 だからおんなじ映画を繰り返し見るって、だいじなのよね。

あとはこれ、Roger Cormanプロ傘下の作品でもあって、彼の映画の必須アイテムであるところの女性の乳、尻、血、といった要素をフェミニズム観点で逆手に取って監督はどう料理したか、を親子のシーン、部活のシーン、姉妹のシーン、などからこまこまと分析していく。 いや、分析ていうほど鋭くはないしこじつけじゃね?みたいのもあるのだが、でもおもしろくて腑に落ちてすっきりするならそれでいいんだ。

でも、おもしろいの。 あの場面はオーガズムのメタファーなのよ、とか言われて、ええー… でも言われてみれば..  とか。
確実に映画を見る楽しさに新しいなにかが加わって、それは勿論、なにもだれも邪魔しない。
それを言ってデートで相手の男が引いたりしたら、あんたつまんねえ奴、って砂かけちゃっていい。

あと、ネコは何匹でていたか、そいつらぜんぶ違うやつだったか? とかをまじで議論してたり(たしか.. 3?)。

この後、同じシアターで"The Slumber Party Massacre II" (1987) も上映するから! ぜったいおもしろいから!!  て言われたがやっぱりさすがに帰ることにした。

なぜホラーとフェミニズムなのか、については、怖がらせているのは何か、地獄を見せようとしているのは誰か、それを見て(見せられて)いる側の意識はどうか、といった辺りを考えていくことになるのかしら。
日本でも読書サークルみたいなノリでやると楽しいのに。 怪談とフェミニズムとか。もうやっているかー。


BFIのCult Programmer)のひとのお知らせで、9月にStephen Kingの大特集をやる、って。 彼原作のはもちろん、彼のピックアップしたのとかStephen Kingクイズもサミットもあるよ! って。 さっき本当に案内が来たので震えている。 がんばって通ってみよう。

7.25.2017

[film] Dunkirk (2017)

もう夏は彼方にいってしまったかんじの冷えこみ。

23日、日曜日の午前10時、BFIのIMAXで見ました。
公開前の週までの宣伝攻勢はすさまじくて、空港に向かう道路のビルボードはこれと"Game of Thrones"のSeason 7ばっかりだった。
(GoT、見たいな。 どうやったら見れるのかな)
この前売りも公開2週間くらい前に取ったのに、もう端っこの時間のしか空いてなかった。

上映前の予告は、”The Last Jedi” 〜 “Blade Runner 2049” 〜 “Justice League”のみっつ。
みんな腕組みして「うむ」って。

年内にチャーチルの評伝映画が2本も公開されるとか、"Their Finest"みたいな戦時下ドラマが当たるとか、BFIでも女性が中心のプロパガンダ映画特集を組むとか、これとか、TVでもDunkirkの真実、みたいな特集番組がいっぱいとか、やはりBrexitを前に英国がんばれ、英国ばんざい、になっちゃっているのだろうか、とは思う。 ただ日本の(特に最近の)右傾化とは背景も含めてやはり全然ちがうよね、ではあるのだが。

説明みたいのは冒頭にすこしあるだけ。
英仏の約400,000人の兵士がダンケルク(発音は「ダンケ(クに近い)ーク」なんだけど)の浜辺に追い詰められて逃げようがなくなった、ていう状況と、①浜辺に延びた堤と ②英国の対岸からの船団と ③英国空軍からの3機 のそれぞれの時間軸の説明が字幕で出たあとは、これら3つの局面がなんの説明もなしに繋げられ切り替えられていく。

ここからの画面で追うことができるのはそこに関わっている人達だけで、その背後でどのような判断や決断がどうなされたのか、それがどう伝えられて個々の行動に繋がっていったのかの場面、状況は一切出てこない。 ①はまだ若い、冒頭で武器を失ったまま右往左往敗走する兵士Tommy(Fionn Whitehead)の目線、②は船でそこに向かって救出に向かう民間船の船長(Mark Rylance)と息子たちの目線、③は空軍の戦闘機乗り - Tom Hardyともうひとりの目線 - 全体の戦況は全く不明、指揮命令もくそもない、自分で判断して生き延びる(生きたいのであれば)しかない状況に投げこまれた彼らの半径数メートルの視線と思考 - 立ち止まって考える時間はないのだが - を中心に描かれる。

陸海空の連携とか、苦渋の決断とか、危機を乗り越えた先の解放(勝利)感、といった従来の戦争映画に求められそうな構図や展開は殆どなく、全員がひたすら逃げたり、死なずに生きるための目の前のことにいっぱいいっぱいになっていて、視点が切り替わってもその切迫感としんどさは生々しく手元に残って休まらない。 これを106分間に収めたのはよいことで、これで2時間超えたら見ているこっちもぐったりになっていたのではないか。

Nolanのひとつ前の"Interstellar" (2014) でも ①滅んでいく地球 ②地球のどこかで糸口を探す人たち ③それを宇宙に探しにいく人たち、の異なる3つの時間軸をシームレスに繋いで、逃げ場のないところに我々を追いこんでいったが、手口としては同じようなかんじで、でもこっちはSFではなくて史実がベースだし、結果がどうなるかわかっているぶん少しは楽かも、と思うかもしれない。 実際には結末がわかっているんだからぐいぐい虐めてやれ、でとにかくサディスティックなこと容赦ない。

包囲されているほうに行けば銃撃される、浜辺で待てば飢えて凍えてしんどいばかりの出口なし、船に乗れば爆撃されて火責めか水責め油責め、味方であっても誰も信用できない、どこに行っても底なし出口なし地獄、の厭戦感を目一杯あおる、という点では「野火」に近いかもしれない。
これが名誉ある撤退だの、勝利に向けたマイルストーンだの、そんなのだれが信じるかボケ、という地点まで我々を連れていく。「戦争映画」? どうでもええわ。
それで十分ではないかしらん、て思った。 手に汗だけは死ぬほど握ってぐったり。

IMAXの70mmがもたらす視野はすばらしかった。ネットのどこかにIMAX70mm、フィルム70mm、フィルム35mmのレンジの比較があったと思うが、海上、空中、浜辺(水平線、防波堤の線)、水面下、といった場面を水平に、垂直に往ったり来たり横切ったりしようとするとき、この映画の場合はIMAX70mmの画角は適正なのだな、というのがよくわかった。

もういっこ、とんでもねえのがHans Zimmerの音楽。 爆撃とか砲撃が炸裂するシーン以外、延々、それ以上に煩く拷問のように偏頭痛のように圧してくる耳鳴り系轟音のやかましさがあって、これ、老人とかの体によくないんじゃないの、と余計なことを思ってしまうくらいうるさい。 最初からどうしようもない殺人的な爆音。

間違っても「奇跡」の話でも美談でもない、大量の犠牲者も出た悲惨で残酷な実話で、今の日本みたいに軍部の上が日報を握り潰すようなとこでは間違っても起こりえないお話だから。 最近の洋画のプロモーションはほんんっとにバっカみたいところに行くから念のためね。

BFIでは、こないだのEdgar Wrightと同じように、この映画に影響を与えたChristopher Nolan選のクラシックを上映している。
やはり戦争映画ではなくて、サスペンスなんだよね。

http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/films/news/dunkirk-film-movie-christoper-nolan-war-inspirations-bfi-southbank-season-a7753831.html


バターとジャムを塗っただけの食パンが食べたくなる。 あれ、売店で売ればいいのに。

7.24.2017

[art] Photographs Become Pictures. The Becher Class

7月のアート関係つづき。

7/4

Picture This: the Music Photography of Sheila Rock

BarbicanのLibraryでやっていた展示の最終日、お昼休みに駆けこんで見た。(駆けこめば見れることがわかった)
Shiela Rockさんがパンク初期の頃から撮っていた写真の一部を、撮り続けて40年記念、てことで。
わたしは彼女の元夫のMick Rockさんとかゆーめー男性写真家(Bob GruenとかAnton Corbijnとか)がミュージシャンを撮った「ロックだぜ!」みたいなやつ(別に写真からロックが聴こえてくることを期待していないの)よか、彼女とかPennie Smithが撮った若者たちがぼーっとしているだけみたいな、淡いかんじの写真のほうが好きで、とても懐かしくみた。
まだ直毛だったころのRobert Smithとか、ClashもSiouxsie Siouxも、初期のモノクロは、静かにこちらを見ているのが多いし、少しあとの雑誌"Face"の表紙群のカラフルなかんじも、薄くて空っぽでよいの。 ひとりだけ日本人の写真が展示されてて、それは高橋幸宏さんでした。

私家版みたいなサイン入りの写真集”Punk+”かった。

7/12

Photographs Become Pictures. The Becher Class

11-12とFrankfurtに出張があって、帰りの日の午後にStädel Museumに行ったらやっていたのがこれ。
ほんとはもっと動きまわりたかったのだが、雨風がひどくて諦めた。

Bernd and Hilla Becherのふたりが70年代から90年代までDüsseldorf Art Academyで行った写真の授業 -  The Becher Class - ここを卒業した写真家の作品を纏めてみた展示。

http://www.staedelmuseum.de/en/exhibitions/photographs-become-pictures

展示されているのは師匠のBernd and Hilla Becherの作品に加えて、以下の門下生たち。 並べてみるとなんかすごいし、展示作品を流していくと圧倒される。

Volker Döhne, Andreas Gursky, Candida Höfer, Axel Hütte, Tata Ronkholz, Thomas Ruff, Jörg Sasse, Thomas Struth, Petra Wunderlich

絵画と写真は違って、絵画は自分の意図でコントロール可能(これが揺らいでいったのが近代)だが、写真には意図と関係ないものまで映りこんでしまう。 では3次元の被写体を2次元に落としこむ写真表現で写真家はどこまでその表象をコントロールすることができるのか、といったあたりに関わる - 「写真を絵画にする」技術を教えたのではないかしら、と推測できるのだが、実際の作品群はそんな簡単に括って総括できるようなものでは当然なくて、共通していそうなところでいうと、画面縦横の端から端までの均等均質なテクスチャーというかぺったんこ感、くらい。工芸品のような細部の緻密さとか。
あとは、全体に漂う冷たさ。 対象や風景が安易にこちらに寄ってくることを許さない、厳格な距離感、みたいのはどの作家からも感じた。Jörg SasseやThomas Struthは自分にとっては新たな発見だった。
どれも十分すばらしいので、べつに"Picture"でなくても、"Photograph"でもいいじゃん、とは思った。 カタログ買った。

ここに来たのは3回目で、ここの常設は大好きだしフライトまで時間があったので、ゆっくり見て回った。
地下の近代絵画のセクションで、出張の合間だろうか、背広を着た日本人の集団がいて、女性の学芸員(?)に日本語の作品ガイドをさせながら「いや、おれはこういうのわかんないんだよな、なあ?」とかやっている。 もう何回も同じような光景みてるけど、①出張の空き時間にこういうとこ来るのはいいけど、集団で来るんじゃねえ  ②モダンアートの前で声にだして「わかんない」とか言うな、それに周囲の同意を求めるなくそバカおやじ。 わかんないのはあんたがバカだからだ  ③何度でも繰り返すけど、わかんないなら、頼むから来ないでほしい。 邪魔だ。 いじょう。


7/16

The Encounter: Drawings from Leonardo to Rembrandt

National Portrait Galleryの展示。 こんなすごいのをなんで大した宣伝もしないでやってるのかしらここ。
タイトルのとおり、da Vinciから Rembrandtあたりまでルネサンスからバロック期あたりのドローイングが中心なのだが、da VinciもRembrandtも1点づつしかなくて、でも他の、Pontormo, Dürerとか、なかでもHans Holbein (Younger) の法廷の人々を描いたシリーズは問答無用ですばらしく、"The Encounter"としか言いようがなかった。 優れたドローイングって、描き手の対象に対する愛も、描かれる側のエモの機微も、すべて一望に露わにしてしまうんだなあ、とか改めて。
コレクションは女王陛下のものが多くて、いいのいっぱいあるんだねー、とか。

もういっこ、毎年恒例の"BP Portrait Award 2017" - これは無料で見れる。
貌を描く - Portraitの技術はここまで進化している、笑っちゃうくらいにすごい。

7/22

Raphael: The Drawings

で、National Portrait Galleryのを見てしまうと、こっちも見ないわけには、がOxfordのAshmolean Museumでやっているこれで、電車で、馬とか牛とか羊の間を抜けて1時間半くらいかけて行った。
同館所蔵のを中心にRaphaelのドローイングを120点。 我々のよく知る神の高みに昇りつめたRaphaelだけではない、同じモチーフをなんども試行錯誤して紙の隙間を埋めていく - でも最後はがっちり決める、みたいな魔法があちこちで起こっていてきょとん、しかない。
最後の、キメの調味料はなんなのでしょう、せんせい?

他のフロアもざーっと見た。 ヨーロッパ絵画は、教科書のようにすごくきちんと纏まっていた。

[art] Dreamers Awake

絵画・アート関係のが溜まってしまったので、時系列でまとめて書いておく。

6/17

Michelangelo & Sebastiano

National Galleryの展示。 平面でも立体でも、なんかものすげえな、これにRaphaelとかも絡んでくるんだからお手上げだよね。
そうかこれがルネサンスてことなのよね(今更ながら)、と、そういうわかりやすい、悪く言えば大味なやつだった。
いま日本の三菱一号館美術館でやってる『レオナルド×ミケランジェロ展』に、ここで展示されていたミケランジェロの『十字架を持つキリスト』が行っているのね。

Rubens and Rembrandt
同じNational Galleryの無料の展示。 Rubensはアントワープの、Rembrandtはアムステルダムの巨匠である、と。
地味めの肖像画がそれぞれ並んでいて、もちろんよいのだけどなんか、女性を描いているやつはどちらもぜんぜんやる気なさそうだよね。

6/30

Cranach - Meister Marke Moderne
6月30日にデュッセルドルフに日帰り出張にいって、飛行機はこっちの都合に合わせて飛んでくれるわけではないので打合せまで2時間くらい時間が空いた。こっちはひとりしかいない。
そうなったら美術館しかなくて、でもよく調べてなかったので、空港についてからざっと見てMuseum Kunstpalastにして、行ってみたらやっていたのがこれ。
クラーナハは昨年の国立西洋美術館のも見ていて、これと同じテーマの記念展(でも500年とか明確には言ってなかった)のようだったが、内容は結構違っていた。同じのももちろんあるのだが、やはり地元だからか、ここ所蔵のとStädel Museumから相当数来ていて、それらがドイツ・ローカルのぐろぐろした奇怪さとかあの目線/口元の不穏さをより一層際立たせていて、うううぞくぞくする、絵が多い。 
制作の工程に踏みこんだコーナーもあって、カンバスの木枠はどこの森の樹を使ってどうやって作ったか、とか絵の具の作り方とか、工房の様子とか。
あと、”Moderne”のコーナーは日本の展示のと被るのもあったが、これも地元だよなー、Otto Dix, Katerina Belkina, Ernst Ludwig Kirchnerとか、ドイツ特有の臭気みたいのがぷんぷん。

常設のほうも見なきゃ、とModernのところを見始めたら暇そうな係員のおじさんに手招きされて捕まれて、おまえの見たいのはこれじゃろう、みたいに裏通路からRubensの部屋(?)、に放りこまれて、いやあの、Modernのが... と思ったのだが、そこにはばかでっかい"Assumption of the Virgin" - 「聖母被昇天」 (1616-18) とか"Venus and Adonis"- 「ヴィーナスとアドニス」 (1610)があって、ありがたやありがたや、と跪いて拝んだのだったが、でもModernも見たかったよう…

もういっこの棟のほうは全く見れなかったし、また来なきゃ。

7/2

Wayne Thiebaud  1962 to 2017
White CubeていうFortnum & Masonの裏手くらいにあるGalleryでやっていたやつ。点数は少なかったけど彼の描くケーキとかお菓子の絵の砂糖が半溶けになったようなかんじが大好きなので、涎たらしながら見る。

Dreamers Awake
同じ午後、同じWhite Cubeの東のほう(こっちのがでっかい)でやってた展示。
シュルレアリスムに影響を受けた女性アーティストのみの作品を集めたやつで、これだけ聞くとどろどろしたかんじになっちゃうかと思いきや、どれもクールでかっこよいこと。 シュルレアリスム - 超現実主義 - ここからもう即物的に子宮だの男根だのにいっちゃうのではなく、観念的にジェンダーミックス or デフラグみたいなとこにいっちゃうのでもない。 超現実の夢の世界に誘うのではなく、いったん向こう側に行った"Dreamers"が目覚め、立ちあがって淡々と女性「性」みたいのを食事を並べるみたいに、お片付けをするみたいに「おらよ」って感じで並べていく。 意図的なのだろうが、壁にはアーティスト名も作品名もなくて、手元の紙リストを見るしかないのだが、さほど気にならない(見ちゃうけどね)。  あとは壁に並べられたいろんな言葉 - "I warn you, I refuse to be an object" - Leonora Carrington - もいちいちかっこいい。

http://whitecube.com/exhibitions/dreamers_awake_bermondsey_2017/

オブジェから彫刻から絵から写真まで、Louise Bourgeois, Kiki Smith, Lee Miller, Leonor Finiといった有名どこから、個人的には70年代のJo Ann CallisやFrancesca Woodmanがすばらしくよかった。

タイトルだけだと”It’s The Buzz, Cock!” とかLaurie Simmons - “Magnum Opus II (the Bye-Bye)”とか、日本の作家だと樫木知子とか。

カタログ£25はとってもお得なかんじ。

Fahrelnissa Zeid
同じ日、White Cubeから更にTate Modernに移動して、トルコの女性画家Fahrelnissa Zeid (1901 - 1991)のレトロスペクティブを見る。
40〜50年代のバカでかい万華鏡絵画は圧巻で、でも、20年代のパリで学んで、どこからどうしてこんなふうになっちゃったんだろ? なかんじはあった。 抽象、てそういうものなのだろうが、極めて独自の進化を遂げたなにか、みたいな。

ここで一旦切る。

7.21.2017

[film] La mort de Louis XIV (2016)

16日、日曜日の昼、BloomsburyのCurzonでみました。 そばの公園ではひまわりが咲いてた。英国にもひまわりあるんだ。
英語題は、”The Death of Louis XIV (2016)”

Albert Serraの映画は2012年に日仏で2本 - 『騎士の名誉』(2006)と『鳥の歌』(2009)- を見て大好きになって、これのひとつ前の吸血鬼映画- "Story of My Death" (2013) - は楽しみにしていたのにぜんぜん見れないままで、これが最新作。 2016年のジャン・ヴィゴ賞を受賞している。

冒頭、鳥の声が聞こえる屋外で王様の「戻るぞ」ていう一言があって、そこからずっと屋内。
脚を悪くして寝たきりとなったルイ十四世(Jean-Pierre Léaud)の病床での臣下や医師とのやりとりと彼が亡くなるまで。

やりとりといっても病人の老人なのでがらがらごにょごにょ言う程度で、あとは臣下がへへいって、その下とか周囲で協議する程度。
室内の照明はカーテンが降りたままずっと暗めで、彼の身体は分厚い寝巻きと布団、それにぼうぼうに爆発したものすごい髪に覆われてこの世のものとは思えないくらいなのだが、クローズアップの距離感も含めてレンブラントの絵のようで、でもそれのどこが悪いのかわからない。 あの絵のあの光の世界が動いている、それだけでなんかたまんない。ずうっと見いってしまう。

最初は小さく黒ずんでいる程度だった脚の痣が広がって脚一本がまっ黒に壊疽して、というのがよく知られた死因で、それまでに脚を魚の水に浸したりいろんな医者が来ていろいろ怪しげなことを試して、でも進行を止めることはできなくて、あのときに切り落としておけば、と思うようになったのは手遅れになってから。

臣下の側にも医者の側にも、それを傍でみているマントノン侯爵夫人にも、それぞれ言い分はあるのだろうが、その間王様はぜいぜい苦しんでいるし食欲は落ちているのだからもう少しなんとかしてあげれば、なのだが殆どなんもしなくて、しようがなくて、そこに政治的な思惑とかが絡んでいるのかどうか、いろんな深刻な顔のショットが並ぶものの最後までわからなくて、わからないからじりじりするかというと、そんなことはないの。 そして、おもしろいのは - おもしろがっちゃいけないことはわかっていても - これはもうだめですな、て周囲が頷いて坊さんまで呼ばれるのに、そこから更にふん、てかんじで暫く生き続けるところとか。

前に見たAlbert Serraの2本でも、生も死も知ったことか、みたいに不遜でふてぶてしく投げ出された顔と身体の連中がごろんと画面のなかにいて、その即物感がとても素敵だったのだが、今回もそんなふうで、生きようにもじゅうぶん生きれず、死のうにもなかなか死ねない王様のぽつんと放置されてそこにある苦悶をみんなで眺めている風景、そのおかしみも、なんとなくレンブラントの絵ぽい。

そうは言っても、なんだかんだ言っても、この映画はやはりまんなかにいるJean-Pierre Léaudのもので、終わりのほうでモーツァルトの大ミサが鳴るなか、こちらをじっと見つめるその目、その眼差しのすさまじさ。 その目はAntoine Doinelのそれで、でもLouis XIVのそれで、無言でじっと睨んでいて、ここだけで30分続いたってもまったく問題ないくらいに捕らわれてしまう。

死は終わりの始まり、とか、死ぬときは王様でも乞食でも、とか適当なことを言うのではなく、死を描く、というのは例えばこんなふうに、みっともなく動けなくなった人体がまぐろみたいに横たえられて順ずることも抗することもできないまま、おそらくは腐臭をぷんぷん撒き散らしながらだんだんに空気が抜けて動かなくなって、その曲線がゆっくりフラットになる、そういう過程のことで、それが偉大なるルイ十四世の場合はこんなんでした、となる。それでは生は? - "The Life of Louis XIV"はどんなふうになるのか、ここから思いをめぐらすことも十分できるような、そういう存在の厚みというか重さというか。それらをイメージできる、というだけですごいのではないかしら。

最後にいきなりがばっと起きあがる、ていうのを期待したのだが、それはやっぱりなかった。
落語ならありなんだけどなー。

7.20.2017

[film] Don't Look Now (1973)

ここんとこ気圧がさいあくの動きをしていて頭痛がぜんぜんやまない。
19日の晩、BFIで見ました。 『赤い影』 イギリスでは昔からやたら評価が高い作品。ようやく見た。 

上映前にロンドン大学のRoger Luckhurst教授(英文学)による簡単なイントロがあった。
この映画の原作は誰もが知っているDaphne du Maurierの短編(『いま見てはいけない』で数年前文庫になったよね)なのだが、その前に知っておくべきこととして、John Ruskinのゴシック建築論 〜 "The Stones of Venice"に触れ、そこから小説ではなんといってもHenry James - 特にヴェニスが出てくる"The Aspern Papers" (1888)  - "The Lost Moment" (1947) -『失われた時』として映画化されてる - と"The Wings of the Dove" (1902)、さらに"The Altar of the Dead" (1895)  - トリュフォーの『緑色の部屋』の原案 - は無視できない、更にはWilkie CollinsとVernon Leeの影響もある、と。 要するにめくるめくゴシック建築の宇宙であり失われた都市であるヴェニスを舞台に死者の影を追って神経質な男が右往左往するホラー、ゴーストストーリーなのだ、というのと、冒頭の数カットの重要性と、Flashback / Flashforwardの巧みな編集を時間の連続性を断ち切って恐怖を加速させる装置と位置づけるのと。 あとはこれ、英国での公開時はX指定、米国ではR指定で、要するにポルノ扱いだったと。しかも2本立てで併映は"The Wicker Man"だったとか(すげえな)。あと、まんなか辺のセックスシーンについて、主演のふたりがあれを実際にやっているやっていないの議論がずっと続いていたが、Donald Sutherlandが数年前に「やってないってば」と宣言したので収束した。

というようなこと(たぶんもっといっぱい)を10分くらいでばーっと喋られて、ひえええー、と思っているうちに映画が始まる。

John (Donald Sutherland) とLaura (Julie Christie)の夫婦は自宅のそばの池で娘のChristineを亡くし、その後、揃って建物の修復でヴェニスに赴き、そこで奇妙な双子姉妹と出会う。 うちひとりは盲目だがChristineが見えるわ - 手を振って笑ってる - といい、Lauraはそれを聞いて喜ぶのだが、Johnはそんな不吉な、てやな顔をして、その後もいろんなへんなことや変なひとがいっぱい現れたり、近辺で連続殺人もあるようだし、息子の怪我でいったん英国に飛びたったはずのLauraを船の上で見てしまったあたりからJohnはおかしくなっていって、やがて。
先にも書いたようにFlashbackとFlashforwardが多用されるので、ストーリーの流れだけでなく、個々のカットが時間軸のどの地点のだれの目/意識で、どこに繋がっているのかを気に留めておく必要があって、でもその速度に追いつけなくて引き摺られた状態でヴェニスを同様に彷徨い、そういった点も含めるととてもFatで、ものすごくいろんなことを一度にいっぱい見たかんじになる。

こんなふうに頭のなかに積みあがっていく事実関係や人物関係の流れとは別に、鮮烈な赤ずきんの赤とか、路地の奥とか、壁や床、石の肌理とか、変な顔の人たち、なにをしているかわからない人たちとか、雨音とか、夢のなかのようにうまく説明のできないイメージが編集の切れ目切れ目にじんわりと浸食してきて、とにかく逃げ場を失う。抜けられなくなる悪夢の怖さ。

音楽も正面から堂々と鳴らない。控えめに頭の奥で、目覚まし時計のように鳴る。
(これのサントラ - 7inch、こないだのRSDで出ていたよね)

"Don't Look Now" - いま見てはいけない。 "Now"の底にあるのは水であり抜けた足場。 見るべきは、追うべきは過去であり未来であり、でもそこにあったのはどっちにしても...

この円環の閉じ方、どん詰まり具合の救いようのなさが、英国人にはたまらないのではないかしらん。

[music] Mercury Rev with Royal Northern Sinfonia

14日、金曜日の晩、Barbicanでみました。
前日の晩になんかないかなー、と探していたらひっかかったのでチケット取った。

Mercury Revは、なんといっても"Deserter's Songs" (1998)の印象が強くて、これとThe Flaming Lipsの"The Soft Bulletin" (1999)の音(ちなみにどちらも同じスタジオ、同じプロデューサー - Dave Fridmannによる)って、90年代末のある側面を象徴していると思うのだが、最近、どちらのバンドもなんかぼんやりしちゃったかなあ、と思ってて、でもライブは見てないし違うかもね、と。

あと、これはレーベルbella unionの20周年記念イベントのひとつでもあって、いまレコード屋でインディ系のなんかを買うとここのパンフ(いろんなミュージシャンがbella unionのこの一曲を選んでいる)とそれが収録された20曲入りのサンプルCDをタダで貰えるの。 ちなみにbella unionはCocteau TwinsのRobin Guthrie とSimon Raymondeが設立したレーベルで、それがなんで? というのはライブが始まってからわかった。

前座の途中で入ったら(ホールなので曲の合間にしか入れてくれない)、Lowlyていう男女5人組がやっていて、ばりばりと垂直に降ってくるサイケに堂々とした女性ボーカルがかっこよくて、ずっと聴いていたかったが、途中で時間だから、って止められてた。

本編は、 Royal Northern Sinfoniaていう24名編成のオーケストラ(指揮者付き、harpもいる)にMercury RevのJonathanとGrasshopper + バンド4名で、そのなかにSimon Raymondeさんがギターで加わっている。 そういえばMercury RevってCocteau Twinsの甥っ子みたいなもんかもしれないな、って。

"The Dark is Rising"の堂々たるインストから入って、誰がアレンジしたのか知らんが(たぶんSimon)オーケストレーションとバンド側の厚めのアレンジとゆったりしたドライブがこれ以上ないくらいに調和して音の粒がぜんぶ見えるような高濃度の壁というか森というか深溜まりを作っていて、彼らのライブは初めてだったけど、オーケストラ抜きのライブが想像できないくらいに融和の度合いが高くて、気持ちいいったらない。 まるでVan Dyke Parksみたいに聴こえることもしばしばあって、でもVan Dyke Parksよりもそれっぽかったかも(1988年のサンプラザ、行ってるもん)。

途中でSimon Raymondeさんの紹介があって、そこで彼のパパ - Ivor RaymondeはDusty Springfield やThe Walker Brothersのアレンジャーとして有名で、Joe Meekなんかとも仕事してた、要は60年代のブリティッシュ・ポップの重要人物であることがわかって、そんなパパへのRespect、ということでDustyの"I Wish I'd Never Loved You”(ゲストシンガーとして出てきたのはbella unionから"Golden Eagle"を出しているHolly Macveさん)が演奏されて、それは回顧モードとはぜんぜん無縁の強烈な生々しさ揺さぶってきて、これならたぶん、Cocteau Twinsを今聴いてもそんなに古く感じないのではないかしら、と思った。

終わりのほうはJonathan Donahueがやたら大真面目に感動的に"When You Wish Upon a Star"(ディズニー…)を歌いあげて、ラストは鉄壁の"The Dark is Rising"から"A Drop in Time"。  音の切れ目から"Dream"とか"Star"とか"Dark(ness)"といった単語がやたら切実に響いてきて、ああサイケの魂1000まで... とかそういうひと時だった。

終わって、サイン会があって、会場で売ってた"All Is Dream"の300枚限定のクリアヴァイナルにサインしてもらった。

そろそろレコードプレイヤー買わないと、ほんとバカみたいに溜まってきた。

7.18.2017

[film] Song to Song (2017)

16日、日曜日の夕方、Prince Charlesで見ました。

別に他のところでもよかったのだが、P.T.AndersonによるHAIMの”Valentine” の35mmフィルム上映がおまけ、ってあったので。P.T.A.はRadioheadの"Daydreaming"でも35mm缶を送りつけてたよね。
HAIMのはスタジオでのライブで最初はおおワンカットいっぱつ録りか? と思ったけどそうではなくて4カットくらい、これが最初の曲でその後の2曲(?)もスタジオの閉じた空気感と緊張感と、何より3人の魅力がぷんぷんくる。これで嫌いになれる人いないよね、ていう見本みたいなやつ。Radioheadのよか素敵と思った。

さて、Terrence Malickの"Song to Song”。
ひとつ前の”Voyage of Time”も、更にもうひとつ前の”Knight of Cups”も見ていないのだが、"The Tree of Life"以降の彼の作風について、もはや物語ではなくて詩になってしまって云々とか、言うのは簡単で、でも、そこには詩だから、ってぽいできるほどの奔放さや取りつくシマのなさに溢れているかというとそうでもない気がしていて、そこにはいつも川(大河)とか風とか星とかのゆったりゆっくり移ろいゆく自然のイメージがあり、その反対側でいつも取り返しのつかないところまで、戻りようのない地点まで来てしまった後悔や傷痕に苛まれて輪郭の揺れている人工の社会を生きる人々がいて、彼らは決して幸せになることもどん底に堕ちることも許されないような状態(なんでだろう?)で泣いたり喧嘩したりを繰り返している。 そこには必ず女神のように美しい、でもどこか悲しげな女性が現れるし、魂の苦しみみたいのはあるけど生活の苦しさとかお金ないよう、みたいなのとは無縁で、でもなんか世界の連続性とか継続性みたいのはちゃんと保たれているような。

今度のもMichael Fassbenderがバンドのマネージャーだかプロモーターだかで、Ryan Goslingが彼に育てて貰ったミュージシャンで、世界じゅうのフェスとか街を渡っていくなかでRooney MaraとかNatalie Portmanとかと出会って恋に落ちて、その幸せはやがて壊れて、哀しみにくれる、そのさまが彼らひとりひとりの独白と共に綴られていく。

観客も含めていろんな人々がわらわら交錯して、いろんな音楽が降り注いでお金もじゃぶじゃぶ湧いてくる「楽園」としてのフェスの舞台を中心に、それでもぜんぜん幸せになれずにどんよりしている人達に何を託しているのか、どうなってもらいたいのかあんまよくわかんないので、がんばってね、くらいしか言いようがない。

フェスの楽屋裏だろうか、John Lydon, Patti Smith, Iggy Pop, RHCPといった人達がロックとは、音楽と人生とは、みたいなありがたそうなお言葉を呟いてくれるのだが、それがなんになるのか、少なくとも主人公たちにはぜんぜん効かない - そんな御託聞く暇があったら音楽を聴け、ライブに向かえ、だと思うのだが映画のなかで彼らが音楽に向き合うことは決してなくて黄昏ているばかりなの。 ねえねえ、なんで音楽を志したの? 金になるから?

例えば、ゴミみたいな世界で、きちんと正しい視野や軸をもって生きるとか、そういう意思を撒いたり羅針盤になったりするのが先に書いたようなミュージシャンの人達のやってくれたことだと思っていて、でもそういう音楽の(かつての?)ありようと今のフェス興業のステージを渡り歩いて輪になって盆踊りって相容れないもんだよねえ、いや違うそんなことあらへん、ていうひともいるんだろうけど - なにを言いたいのかというとね、あそこでPatti Smithにあんなこと語らせてどうしたかったんだろうかね、とか。

しきりに出てくる"Life"という言葉、主人公たちの親まで含めた様々な"Life"の断片とLive musicと、それでもしょうもなく流れていく河とか雲とか。 歌から歌へ。歌わば歌え。
まあ、そういうのもあるよね、でいいの?

MFもRGも上手い俳優さんだと思うし嫌いじゃないのだが、こういう緩い設定のドラマのなかだと、MFはAIみたいに見えてしょうがないし、RGは詐欺師みたいに見えてしょうがない、というあたりも残念だったかも。  あと、折角"Carol"のふたりが出ているのになー。

でも画面は例によってきれいだからー。

[film] The Thing (1982)

15日の土曜日の晩、Prince Charlesで見ました。

もうなに言われたって驚かない - 35th Anniversaryだってさ。
(ちょっとだけ揺れたのはこないだやった"Withnail & I"の30th Anniversaryと、もうじきやる"Spice World"の20th Anniversary..)

Howard Hawksの"The Thing from Another World" (1951) はおお昔に見たけど殆ど覚えていない。

82年、南極のアメリカの測候所で、ヘリがハスキーを狙って延々と追っかけるのが冒頭で、銃を撃ちまくるのに当たらなくて犬は観測所の小屋に入れられて追っかけていたほうはそこの隊員にヘリもろとも吹っ飛ばされて、なんだこれ? 状態の冒頭。

その連中が拠点にしていた観測所に行ってみると焼き払われていて焼け跡からF. ベーコンの絵みたいなぐにゃぐにゃの肉の塊が見つかったので自分たちのところに持ち帰る。(.. 持ち帰るなって)

戻ってみるとやはりさっきのわんわん(こいつ、すごく巧いの演技)の背中が開いてなんかしゅるしゅる湧いてきたり大変なことになっていって、いろいろみんなで調べて考えあわせてみると、そいつ(The Thing)は生き物にこっそり寄生してそいつになりきってあるとき突然肉の殻をやぶって出てきたりするらしい、で、するってーと既に我々のあいだにも既にそいつは... と全員が疑心暗鬼になって、ここからそいつを脱出させないために乗り物とかもぜんぶ潰しちゃう奴なんかも出てくるの。 で、思ったとおりにひとりまたひとりとやられていって、どうすんだよこれ、になる。

無線は全く通じない、隣にいる奴も全く信じることができない、生き残れたとしてもここは南極で、事の顛末を説明したって納得してもらえるとも思えない。"The Thing from Another World"は、ここを"Another World"に変えてしまって、やがてはヒトではない"The Thing"しか残らないようにしてしまう。

でもこの状況って、ちょっと考えてみれば南極でなくても、「そいつ」がどこから来ようが、「そいつ」にやられなくてたってじゅうぶん起こりうるし、それっぽい奴いる(→ "They Live") - そこらじゅうにわらわらいるよね + わらわらいすぎて誰もなにも信じられない状況 - このふたつが恐怖の渦を巻き起こす - がやってきたとき、ひとはなにを拠り所にして、どういう行動を起こすべきなのか、ていうのを具体的に教えてくれる極めて政治的で倫理的で教育的な映画なの。そしてそれを問答無用で(たぶんあんま考えずに)実行してしまうMacReady (Kurt Russell) の軽さとかっこよさ、John Carpenter の映画がいつもすごくて痺れるのは、ここのところがまったく揺るがないからなの。 どんな状況にあっても主人公はやるべきことがなんなのかを感覚的にわかっていて、それをなんの躊躇もなく極めて軽薄にやっちゃうの。 かっこいいっていうのはこういうこと。 だからJohn Carpenterの映画って、すごく怖いのだけど、あの黒くてぶっとい電子音が鳴りだすと、魂が立ちあがってくるかんじがする。

それとおなじかんじを与えてくれたのが(or それを彼に伝授したのが)George A. Romeroさんで、彼の映画から受ける印象も同様の力強さなのだった。 2010年の5月、BAMで"Survival of the Dead" (2009)の上映後の&Aに現れたとき、学校の先生のような暖かくてやさしい語り口にびっくりしたものだったが、そういうひとだったのよね。たんにゾンビの恐ろしさを描くだけでなく、行き場を失って淘汰されていくゾンビの視点も、そこにはあった。

ご冥福をお祈りします。 おっかなくて泣いちゃうかもだけど、回顧上映、どこかであるのであればがんばって通う。

7.15.2017

[film] The Beguiled (2017)

9日の日曜日の昼12:00、Hyde Parkに向かう前にBloomsburyのCurzonで見ました。
“The Midwife"の時と同様、メンバー向けのPreviewで、この1回だけ£5で。 Previewといってもここの一番でっかいスクリーン - “Renoir"で、椅子はゆったりでいつもがらがらで、こんなんでいいのかしら、と思いつつ。

これも夏のたまんない1本。 うだるような夏の晩に見るとよいかも。
Don Siegelによる71年の『白い肌の異常な夜』は未見。 Thomas P. Cullinanの原作も未読。

1864年、南北戦争の終わり頃、あちこちで砲撃の轟音が轟いているVirginiaの奥のほう、女の子が森でひとりキノコ狩りをしていると北軍の負傷兵のJohn McBurney (Colin Farrell)を見つけて、なんか死にそうみたいなので背負って自分の暮らす女学校に連れて帰る。
そこには校長のMartha Farnsworth (Nicole Kidman)と教師のEdwina Morrow ( Kirsten Dunst)、ほかにAlicia (Elle Fanning)をはじめ女学生5人がいて、Johnを見たMarthaはしばらく考えて、でも放っておけないから、脚の傷をぬいぬいして、看病することにして、引き渡すべき南軍からも匿ってあげる。 しばらくしてJohnは回復するのだが、その頃までに女子(含.教師)のJohnに向けた興味関心はしゃぎっぷりは相当なものになっていて、Johnももてはやされるうちにだんだん態度がでっかくなっていって、やがて。

ここから先がものすんごくおもしろいのだが、書くとネタバレとか言われちゃうのかしら。

とにかくColin Farrell, Nicole Kidman, Kirsten Dunst, Elle Fanning - この4人(だけじゃないけど実は)の四巴の睨みあいとか引っ掻きあいとかだっきん、とか、すばらしいったらないの。
Sofia Coppolaがメインの女優3人(猫)の習性というか特性というか魅力を最大限に引き出しているのは言うまでもない、そりゃそうよね! なのだが、それ以上に Colin Farrell(犬)をこいつらの真ん中に配したことで、この作品の成功は約束されたものになった、のよね。 優雅なレース編みの袋の鼠で転がされて案の定ぼろぼろにされていくColin Farrell、たまんないひとにはたまんないはず。

戦場の地獄で負傷して死にかけたところを救われて、王子様扱いされて天国に昇ったとおもったらふたたび地獄に叩き落とされて、なめくさっとんじゃねえぞアマ、て逆上して … とこいつのエモのジェットコースターを中心に描いたほうがおもしろい、のかもしれないが、そうじゃないの。規律できちきちの修道院のような、編み物したり楽器演奏したり料理したり洗濯したり見張りしたりといった学校生活のなかに、ふだん見たこともない犬ころが飛びこんできたらどんな波風波紋が立つのか、それを女たちはどんなふうに建てなおすのか、そっちのほうが面白いんだよ、このメンツだととくに。

あるいはこれは、戦争の時代、砦に篭らされた少女たちに起こったもうひとつの、だれも死なない版”The Virgin Suicides” (1999)、なのかもしれない、とか。

音楽はPhoenixがものすごく静かな、でも臨場感たっぷりのを。
でも画面の隅から隅までを鳥の声、戦争の大砲や銃声が埋めている。

邦題は「お・も・て・な・し」、でよいのでは?

BBC One、なんでこんな深夜に”Blades of Glory” (2007)やってるのよ。 見ちゃうじゃんか。

7.13.2017

[music] Warpaint

ところで手前の土曜日・日曜日の日付がちがってた。 変だとおもった。
10日の月曜日の晩、もういっこの野外ライブに行った。

会場のSomerset Houseは、もともとは何のための建物か知らんが、ファッション系のセンスのよい展示をしていたりするのと、印象派のゆーめー作品の所蔵で知られるCourtauld Galleryはここにあるの。 で、ここの中庭のスペース、冬はスケートリンクをやっていたりして、夏はこういうライブのシリーズと、8月になるとフィルム上映をやったりする。(”Donnie Darko” と “The Omen”の二本立てがある)

ライブシリーズは先週くらいから始まって、他には日替わりでNorah JonesとかGoldfrappとかFoster the Peopleとか。

サイズは結構ちいさい - Summerstageよか小さくて、見易いし、会社帰りぎわにふらりと寄る、てのをやりやすいかも。

Warpaintは2014年2月のHostessで見て惚れて、なんてクールでかっこいいんだ、と、自分のなかではLuscious Jackson以来のクールネスを湛えたバンド、なので単独で改めてちゃんと見たくて。

前座はYak、ていうWolverhamptonの3人組で、ほんとごめんなさいなのだが頭んなかでYuckと間違って変換してて、Yuckみたいなー、て無邪気に行ったらYakだったと。 でもやけっぱちで叩きつけるガレージの勢いはなかなかで、おおー、と唸っていたら20分を過ぎたあたりでギターの子がなんかが気に触ったらしく途中で投げて帰っちゃった。 よい音だったのにな。

Warpaintは割と肌寒くなってきた9時 - でもまだ明るい - からで、最初の"Heads Up"からばりばりどかどかと気持ちよい。
改めて不思議だと思ったのは、特にキャッチ—だったりクセになるようなメロやリフがあるわけでもない、披露された新曲もよりアブストラクトで複雑になっているのに、音の粒は調和せずに不機嫌に漂うのに、おもしろく聴かせてしまう。 こういう(ってどういう?)バンドってある時期になるとなにを演ってもかっこよく聴こえてしまうことがあるものだが、そんな状態と勢いがいまの彼女たちにはあるのではないか。 左の奥にドラムスのStella Mozgawaがいて、右の奥にベースのJenny Lee Lindberg がいて、真ん中のふたりはちょこちょこ動きまわっていて、見ていた角度から右側が見えなかったりしたのだが、たまにベースが真ん中に寄って4人が固まると、途端に音に色がついて弾けだしたり。

ドラムスのStellaさんがすばらしいの。 自分にとってはJanet Weissさん、Kate Schellenbachさん、Carla Azarさんに連なる凄腕さんだと思った。 特におわりの方の"Intro"のドラムスなんて臭い言い方だが稲妻としか言いようがない垂直な楔で、そこからラストまではドラムス中心になにもかもバウンドしていた。 本編ラストの"Love it to Die"のエンディング、小刻みパンキッシュに弾けまくって終わるところも素敵だったなー。

去らずにそのまま続けたアンコールは"New Song"〜"Disco//Very"で、お祭り、盆踊り状態になった。
でもみんなで輪になって束になって踊る、じゃないの。ひとりでふてくされて地面を蹴っ飛ばしながら踊るかんじ。 なんでこんなので踊ってるんだろ、てなりながら。

物販コーナーでWarpaint+Robin Laananenの写真集”US / Then”を売ってた。
Warpaintのツアーマネージャーで写真家でもあるRobin Laananenさんが7年間の各国各地へのツアー中のオン/オフ時の彼女たちの姿を撮りためて纏めたもの。 これがすごくよくてさあ、見本みて買ってしまった(サイン入りが£50、なしが£35)。 被写体としてもすてきったらないの。 7inchも付いてるし。 2011年の苗場とかもあるよ。

内容はここに少しだけ。

https://www.theguardian.com/music/gallery/2017/jul/07/warpaint-band-music-world-tour-robin-laananen-in-pictures

ここで買えるよ。

http://setantabooks.co.uk/warpaint/

7.12.2017

[music] Tom Petty and the Heartbreakers, Stevie Nicks

9日の日曜日、ごご3時くらいからHyde Parkに行ってみた。
この夏 - 去年もだったのだろうが - ロンドン近郊だけでもものすごい数の野外とか公園のフェスがあってどれにしたものか、雰囲気とかもわかんないので、とりあえず手近なところの野っ原で様子をみてみよう、と。

Hyde Parkのは昨年のCarole Kingのが見たかったよう、で、今年の(BST - British Summer Timeていうの)は5夜連続、あっというまに売り切れたのが4夜め土曜日のThe Killersで、これは割とどうでもよいのだが、Phil CollinsもGreen Dayもなんかちょっと微妙だしJustin Bはちがうし、で40周年で大規模なツアーはもうやらないとか言ってるこの人達にした、ていうよか一番見たかったのはStevie Nicksだったの。
チケットはぜんぜん余裕で取れて2日くらい前にSold outがでたくらい。

夏の公園ライブというと自分にとってはCentral ParkのSummerstageで(あと少しだけProspect Park)、あれと比べると砂場とサッカー場くらいサイズが違って、気が遠くなってうんざりするくらいでっかくて、ステージはぜんぶで4つ、一番でっかいステージの前のエリアはお金持ちの貴族のみが入ることができて、われわれ平民(チケットは3階層くらいあって、平民は£70くらい)はかんかん照り(雨は来てくれそうで、結局こなかった)の原っぱで木陰を求めて彷徨うことになり、他のステージはどうでもいいか、ととりあえずスペースがあったとこにごろんと横になる(←体調わるくてあんまやるきなし)。音はまったく申しぶんなくばりばりクリアで、スクリーンも横側についてるので見れるからいいや、になったの。
客層はお年寄りから子供まで、ほんとにふつーに公園に遊びにきた市民、てかんじでTom PettyのTシャツを40年間着てます、というナリのおじさんたちと、なんたってあたしらのStevie Nicksだからさ、ていう見ればわかるのおばさんたちは、市民の海の波間の浮くか浮かないか微妙な線上でからから笑っている。

着いたときにやっていたのがThe Sheltersていう人達で粘っこくばちばちうねるロケンロールで夏の午後には流しておくには丁度よいふう。スイカとかとうもろこしが欲しくなった。夏祭りか。

続いてがThe Lumineers で、これも初めてだったがアコースティックでどかどか、大声で気持ちよさそうに歌ってて、客のほうもわあわあ応えて歌ってて、なんか、Mumford & Sons みたいというか、ああいうキャンプファイヤーみたいのが最近はやってるのかねえ(ひとごと)。

ご飯は、フェス飯みたいなのの屋台はひと揃いあって、ふつうに行列もあったりして、でも今回はだるすぎたので悩むのやめてバーガーと、しばらくしてからソフトクリームを食べただけ。

Stevie Nicks姐だけは起きあがって豆粒より小さいけど一応ステージが見えるとこ(フジのGreenよかぜんぜん遠い)に移動して見た。 バックはコーラス入れて7人くらいで、フロントでギター弾きまくっているのは誰がみたってわかるWaddy Wachtel氏で、なので西海岸の鉄壁なかんじ。
"Gold and Braid"から始まるヒットパレードで、この曲をやるのはxx年ぶり(ライブでやったことない曲やるわよってBuckingham Nicksの”Crying the in the Night” なんかやる)、とか思い出を語りながらたまに目頭を押さえてたり、地味めな衣装替えもいっぱいあって、タンバリンも叩いてくれて、くるくる回ったりもしてくれて、こちらの期待をまったく裏切らないStevie姐さんだった。客のほうも歌う歌う、みんなががーがーあひるみたいにフルで歌うので相当やかましくて、イントロから大爆発したのはやはり”Edge of Seventeen” 〜 “Rhiannon”、一回ひっこんでからラストの”Landslide”だったねえ。ぜんたいとしてはとっても満たされたかんじになって、Fleetwood Macも見ておきたいなー、と。
(彼女、来年70歳なんだよ。 歳のこと言っちゃいけないけど、ありえないわよ)

Tom Pettyは20:15からで、最初から2時間て書いてあったし、どうせ盛りあがるに決まっているので再び木陰 - でも西日が傾いて木陰じゃなくなりかけていたのがきつかった - で寝っころがって聴いた。
Tom Petty and the Heartbreakersのライブは行ったことなくて、でもMike Campbell は最高のリッケンバッカー弾きだと思うし、Benmont Tenchは最高のキーボード弾きだと思うし、見ておきたかったのよね。

出てきて、わあわあやんやの歓声のなか、この曲はデビューして初めてロンドンに来て最初にやった曲だよ、って"Rockin' Around (With You)" をやって、そこからはこちらも40年間の総括みたいな、あれもこれも聴いたことあるやつばかりだった。こんなに知ってる曲あったのね、で、Tomはずっとご機嫌でcall & responseはもちろん、いろんな思い入れも込めて詰めていっぱいお話しして声かけてて、もっと尊大で気難しいひとだと思ってたらぜんぜんちがってこんなにいっぱいサービスしてくれるひとだったのね、って。 真ん中くらいで当然のようにStevie Nicksが呼ばれて"Stop Draggin' My Heart Around"をやって、このあとは"American Girl"が聴けたら帰ろうと立ちあがったのだが、結局これはアンコールの最後なのだった(まあ、そうよね)。いちばん湧いて歌われてたのはやはり”Refugee”だったか。 エンディングでMikeはリッケンバッカーの6弦をぶち切ろうと格闘したのだが結局できなくて、たっぷりたわんだ弦と共に横たわるギターが映しだされて終わった。

"You Got Lucky"とか"So You Want to Be a Rock 'n' Roll Star"とかも聴きたかったなー。

終わって、みんな地下鉄の駅に殺到してすごい列になって帰れなくなるかしら、というのが恐怖だったが、礼儀正しく固まって路上を移動するのではなくて、灯りのない公園の木々の間の獣道をてんでばらばらに走り抜けててすごいと思った。 方々で立ちしょん/連れしょんしてるし。
マナーとかあんま言いたかないけど、みんなタバコ(以外のはっぱも)吸い過ぎ、見てて楽しい酔っぱらいが多いのはおもしろくていいけど、ぜんたいに野生化しすぎなかんじがした。

さて、これから野外のライブをどうしていくべきかしら?

7.10.2017

[film] Spider-Man: Homecoming (2017)

8日、土曜日の昼、BFIのIMAXで見ました。 こんなの見るに決まってるわ。

言うまでもなく、すんごーくおもしろかった。 この夏はよい映画がいっぱいあるねえ。

“The Avengers” (2012) がNYのミッドタウンをぼろぼろにした後の瓦礫収集現場で働いていたAdrian (Michael Keaton) は、いきなりここは政府が仕切るからもう来なくていい、て言われて、でも頭きたので裏で瓦礫をこっそり運びだしたりして、そこから8年後、"Captain America: Civil War"(2016)で夢のようなデビューを飾ったあと、Peter Parker (Tom Holland)は地元のQueensで地味に悪い奴らを懲らしめたりするのをやっていて、でもそれを友達のNed (Jacob Batalon)に見られたり、 Tony Stark (Robert Downey Jr.) には頼むからバカなことをするな、と言われたりしていて、そんなある日、あやしい取引をしている連中を追っていったらAdrian - Vultureにたどり着く。Michael Keatonが、また羽付けて(前よりうまく)空を飛んでる。

ていうのと、彼にとっては学園生活もだいじなのでLiz (Laura Harrier)にぽーっとなったり、ワシントンDCでの学力コンテストに行ったり、HomecomingのParty行ったり、でも行く先々でいちいちVutureの一味とぶつかって大騒ぎになって、そのたびにTony Starkに助けられたり怒られたり、が繰り返される。 そしてもちろん自分のこと、これからのことでも当然あたまはいっぱいいっぱい、なの。

過去のふたつのSpider-Man - Tobey Maguire & Andrew Garfield - の物語が、複雑な過去 - 自分は蜘蛛に噛まれて変な能力を持ってしまった - を背負って異形の蜘蛛男として戦い、葛藤しながら自身の使命と責任に目覚めていく、というヒーローものの王道を行ったのに対して、今度のは噛まれた、とか、両親が、とか、おじさんが、とか、そういうのは(とりあえず)一切置いといて、始めから自分にはそういう能力がある状態で、彼はごくふつうの高校生としてあって、だから学園では注目されたいし、認められたいし、嫌われたくないし、それはメンターみたいな位置(過去シリーズにそういうのはいなかった)のTony Starkに対しても同じで、ヒーローに対する目線がぜんぜんちがうの - ここでのCaptain Americaの扱いを見よ。(これ、ひょっとしてあいつがBrooklyn出だから?)
ここに「ミレニアル世代」のうんたら、を冠してなんか語ることは果たして適切なのかしら。 (→ 代理店かおまえは)

といったミレニアルからすればどーでもいいような話とは別のところで、学園モノとしての水しぶきが飛び散ってとっても瑞々しく楽しいので、そういうのが好きなひとは見たほうがいいかも。

いろんなところにJohn Hughesの記号どころか映画そのものも引用されていたり、メッセージのありようは明確で、要は"Homecoming"てことなのね。 あんな大統領がでかい顔をするようになったいまのアメリカでこないだの"Civil War"みたいなきりきりする良質な政治ドラマを作ったところでしょうもない、ような大きなうねりはあったりするのだろうか? - 丁度レーガンの時代に良質な学園ドラマが量産されたように? - いやいやいや今のあれはレーガンの数倍やばいでしょ、という話は置いといて。  お茶の間の、グローバルの誰もが認めるスーパーヒーローではなく、同じ校内の、ご近所の危機や窮地をささやかにでも救える存在であればよい -  それ、”Kick-Ass"がいるけど... とか言わないこと。

そして、でも、そのご近所はQueensなんだよ。 Frederick Wisemanが"In Jackson Heights" (2015)で描いた、あそこもQueensなの。
おいしいデリとかギリシャの魚屋とかいっぱいあって、猫もいて、アストリアの映画スタジオを含めて、世界のいろんなのがモザイクで集約された町なの。

そして、テーマ曲はQueensが世界に誇るRamonesなんだから、まったく文句ない。 これまででいちばん正しくかっこいいRamonesの使いかただとおもった。
他にも、パーティの支度するシーンでのThe Beatの“Save It For Later"とか、あんたねー、と頭をぐりぐりしたくなるようなネタばかり。

でも学園モノとしていくつか注文つけるとすれば、エロとかファンタジーの要素がなさすぎ - ちょっと気になるMichelle (Zendaya)なんてSylvia Plath のシャツ着てるし - とか、すべてをおじゃんにしてしまうようなバカがいない - Nedはギークでバカじゃないし - とか、父親的ななにかが(あるにしてもあれは)..  とか、2時間超えるのはきついよね、とか、いろいろあるけど、まあいいの。

もんだいは、こいつらとAvengersの宇宙をどうやって繋ぐのか、だけど、べつにパラでもいいのよね。


ああなんかばたばた。

[film] Boy (2010)

6日の木曜日の晩、Prince Charlesでみました。 2日続けてここに来る、というのはなんか行き場を失った感があるのだが。

Misc.Filmsていうあんまり劇場でかからない作品をピックアップして上映していこう、て共謀したがる変な集団がいて(共謀ばんざい!)、こないだはCurzonで"In The Cut" (2003) + Jane Campion Q+Aなんかをやっていたのだが、その人たちの企画による上映会。

https://www.miscfilms.com/

UKではDVDになっていなくて、劇場でもめったに見ることができないよ、てこまめに呼びかけていたせいか、珍しく行列ができていた。

1984年、New Zealandのどこかの湾沿いの小さな村にBoy (James Rolleston )がいて、内気な弟といとこたちとおばあちゃんの家で暮らしていて、母親はいない、父親はどこかに行っていて、BoyはMichael Jacksonが大好きで、いつもしょうもないことを夢見てへらへらぼーっとしてて、学校でもバカにされたりしている。 ある日父親(Taika Waititi)とその仲間のチンピラふたりが車で戻ってきて、この父親もしょうもない遊び人のちんぴらで、いろんなことが起こって、Boyとは喧嘩したりもするのだが、でも結局、ていうそれだけのおはなし。

すっとぼけた田舎のホームコメディというか、ガキがほんの少しだけ大人になるお話で、ものすごい展開やドラマがあるわけではないのだが、全体としてめちゃくちゃおかしくて、なんだこれ? と唖然とするばかり。 場内は爆笑の連続。 かんじとしては"Napoleon Dynamite"(2004) を見たときのあれに近い。 最近のだと『セトウツミ』あたりもそうかしら。

まず、オーストラリア英語を脱臼捻転させたような英語がよくわかんない、わかんないけど、ネジが抜けているんじゃないかっていうくらいいつも朗らかに笑っているBoyとか、その怪しい目つきも含めてどうしようもない小物チンピラ感の漂ってしまう父親 - 字幕にするときっと「父ちゃん」だよね - の通じているんだか通じていないんだか、たぶん間違いなく通じていない親子の会話とそれが転がっていく先のしょぼい顛末と、でもまあなんかいいかー、なかんじ、これらが自主製作とかホームビデオみたいな内輪ウケ狙いのなんかに終わっていないのは、学校とか車とか墓のシーンが編集も含めてとても丁寧に作られているからだと思った。 つい笑っちゃいながらもMJのビデオについ首を振って、たまに感動までしてしまったりするかんじ、というか。

あとはこのガキどもが見ている世界への態度、というかその見せ方だよね。 弟やいとこたち、友人、やくざなパパ、もういないママ、親戚の大人たち、MJ、ヤギ、全員横繋がりの総動員のAvengersなんだっていうことを、大人がわかったふうにその調和や統合や帰属を謳うのではなく、散らかし放題のチョークの落書き状態でそのまま台の上にひろげて、底の抜けた笑顔やしかめっ面で放り投げてどうかなー、みたいに見ている。
これはこれですばらしいことだと思うのだが。 
U2の"Boy”のとは全く異なる、もうひとつの - すばらしい笑顔なのよこのガキときたら。

父ちゃん役のTaika Waititiが監督もやっていて、このひとはこの秋、"Thor: Ragnarok" (2017) でついにメインストリームに躍りでる。
映画館では予告がかかり出しているが、"Boy"を見る限りぜったい外れないと断言しよう。(しちゃっていいのか…)

日本での公開は…  100年後だな。

7.07.2017

[film] Howard the Duck (1986)

5日の夕方(21時過ぎまで明るいと線引きがむずかし)、Prince Charles Cinemaで見ました。
これも"Kramer vs. Kramer"とおなじく、昔見たやつの再訪。

ここの映画館では、たまにCinematic Jukeboxていうのをやってて、名画座の特集上映なんかからは漏れがちで、でもとつぜん、そういえばあんなのあったよね、って、なんかいきなりむずむず見たくなったかも、ていう衝動 - 音楽でもよくある - を拾いあげて単発で上映してくれるの。 ここの地下にリクエスト用の黒板があって、チョークで書きこんでおくと上映してくれる、のかもしれない。

見逃したので痛かったのはJohn Carpenterの"Big Troublr in Little China (1986) の70mm - でももうじき"The Thing"の35周年記念やるよ - とか、Michael Mann作品6本オールナイト(とってもつかれそう)"Michael Mann-A-Thon"とか既に何回かやっている21時間ぶっとおしの"The Ultimate Harry Potter Marathon"とか、もうじきやる"Teen Movie Pyjama Party"(6本連続)とか、こういうの見てるとまだまだ名画座にやれることはいっぱいあるよね - あんま儲かるとは思えないけど - て思うの。

これもそんなような1本で、1回きり上映なのに客は30人くらいしかいなくて - みんな同年代よね - 全員前のほうにびっちり行儀よく座ってた。
わたしはこういうバカなのが大好きなバカなので、公開時に何回か見て、Thomas Dolbyのサントラ - Prefab Sproutがやってもおかしくないくらい、だんぜんいいんだから - まで買って、まだどっかにあるはず。 下敷きもあったかしら?

最初のタイトル、"Howard: A New Breed of Hero" て出るのでなにこれ? と思ったら、"Howard the Duck"の評判がさんざんだったのでヨーロッパでは名前変えたのね。 でも、これだって相当...

あひる(て書くとなんか変だな)のHowardは、あひるの星でふつうのあひる民として暮らしてたのになんかの光線に捕まって地球のクリーブランドに落ちてきて、売れないバンド- Cherry Bomb - のBeverly (Lee Thompson)に拾われて、Beverlyがこれどうしよう、って研究所に連れていったら、Howardはなんかの実験が滑って間違って落っこちてきたらしいことがわかって、そしたらそこの博士(Jeffrey Jones)にも - こいつはちょっと前にシカゴでFerris Buellerに散々痛めつけられて校長クビになったはずなのに - 宇宙の変な化け物が乗り移ってきて、大騒ぎになるの。

実験のミスで地球におっことされたいっぴきのアヒルが実験を引き起こした張本人とバトルしてついでに地球を救う、それだけなんだけど、あまりにてきとーで身勝手がすぎるというか、巻きこまれてもとの星に戻れなくなったHowardがかわいそう、というか。
音楽も衣装も髪型も、おろおろ頼りなく叫んでばかりのギーク - Tim Robbinsも、これのあとに"Some Kind of Wonderful" (1987)ていう青春映画の傑作に出るLea Thompsonも、ここ数年、TVとかでバカにされがちなエイティーズのエッセンスがみっしり詰まっているのだが、別にいいんだもん(こればっかし)。

これ、Marvel Comicsがベースになっている最初期の1本で、へんな光線に乗っかると空間に穴があいて異次元間を渡ることができる、とか、目とか手からへんなびりびり光線を出してものをぶっ壊すことができる、とか、最後に親玉みたいなでっかいやつがでてくる、とか、もう元に戻る/戻すことはできないんだ、とか、最後瓦礫の下で死んじゃったかなー、とこわごわのぞいてみると実は生きてた、とか、人間以外でも流暢な英語をしゃべることができる、とか、結局地球を救うのはふつうの人間じゃないやつら - とか、いま我々があたりまえのように受け容れているMarvelモノのフォーミュラは30年前に一式揃っていたことがわかる。 やっぱりHowardは、あの狂暴なアライグマがいるチームに入れてあげるべきだと思うのだが。

Paddington熊はこれに近いけどちょっとだけちがうのよね。 ペルーは同じ地球なのよね。
ImmigrantとAlienのちがい。

[film] Kramer vs. Kramer (1979)

暑さがぶりかえしてきたねえ。

2日、日曜日の夕方、BFIのDustin Hoffman特集のなかの1本で、みました。 35mm上映。

これ、日本で公開されたとき(80年の春? 確か公開初日だった)に有楽町で見ていて、たぶん、"The Graduate"と"The Deer Hunter"を続けて見ていた頃、それに出ていたふたりが出ている、程度だったのではないか。 

大手の広告代理店でADやっててうまくいっているTed (Dustin Hoffman) は帰宅すると妻のJoanna (Meryl Streep)にあたしもう無理で我慢できない出ていくから、て突然言われて、翌朝から息子のBilly (Justin Henry)の面倒を見なきゃいけなくなる。家事も育児も学校の送り迎えもやったことなかったのでとっても大変で、それに伴って会社の仕事は遅れがちで没頭できなくなるのだが、いろいろちゃんと廻せるようになってきた頃にJoannaから子供と一緒に暮らしたいとまたいきなり言われてふざけんな、て怒鳴ったら裁判起こされて、丁度そのタイミングで会社をクビになったりしたこともあり、結局裁判には負けてBillyはJoannaと暮らすことになって、TedとBillyがお別れする日がやってくる。

最初に見た頃には、これがNYのお話だなんてわからなかったし、言われたってNYがどこにあるかもわからなかったし、Tedがどんな仕事をしているのかもわからなかったし、親権なんて言葉もわからなかったし、フレンチトーストをあんなふうに作る、というのも知らなかったし、トレイの上でくちゃくちゃ切ったりしているあのへんな食事はなんだ? とか謎だらけだったと思う。 のだが、すごくおもしろかったの。 田舎の高校生(当時)になにがそんなに訴えてきたのかわからんが、自分のいまいる世界とはぜんぜん違う都市の世界がそこにはあって、違うからといってそこでも夫婦は喧嘩したり子供を取りあったり、それで子供は泣いちゃったして、それらが淡々と裁判で処理されるくらいにふつうに起こったりしているんだな、とか。

改めて見てみると、カメラはずっとTedの立場と目線で動いていくので、Tedはあんなにがんばってよいパパになったのにかわいそう、に見えてしまって、他方でJoannaもやつれててかわいそうだけど、彼女が行動に移すまでに見たかもしれない孤独や絶望は隠されていて、BIllyを育てる適性や環境はどっちがどう、という観点では公正に描けていないじゃん、とか言えるのかも知れないが、これはもちろんそういう証拠映像集みたいなもんではなくて、子供をめぐる夫婦間の諍いは例えばこんなふうに転がってエモのドラマを形作ったのだ(70年代末には)、とかそういうお話なのだろう。

でも子供部屋の壁紙とか、だいじなんだよね。 ていうところに話がいったのはいいなーって。
アパートの壁紙文化、ってあるの。

カメラはNéstor Almendrosなのね。 ダイアログを妨げない柔らかさと落ち着きがヨーロッパ映画のそれだねえ。

7.05.2017

[film] The Big Sick (2017)

こっちから先に書こう。

4日の晩、BFIで見ました。  Q&A(with actor/co-writer Kumail Nanjiani, actor Zoe Kazan and co-writer Emily V Gordon)つきのプレビューで、最初にアナウンスされたゲストはKumailとEmilyだけ、チケットも簡単に取れたのだが後からZoeの参加が決まった途端、あっというまにSold Outした、ということ?

米国ではまだ限定公開中のようだが、製作のJudd ApatowもKumailもZoeもTwitterとかでものすごい熱と勢いで宣伝している。
それだけこの作品に自信があって愛しているということよ。 そして実際に見てみると、この作品には本当に当たって、いろんな人に見てほしい、と心の底から思う。

実話ベースで、作者のふたり - Kumail NnjianiとEmily V. Gordonの間に5年前に起こったこと。
その後ふたりは結婚してこういうトークにも揃って来ているのだからだいじょうぶ、悲しくつらいお話じゃない。ハッピーエンドの映画。

Kumail Nnjiani (Kumail Nnjiani - なんであんただけ本名で出たのさ?てトークで突つかれていた) は、パキスタン移民家族の子で、Uberの運転手をしながらスタンダップ・コメディアンの修行をしていて、そんなある日、ライブを見にきたEmily (Zoe Kazan)とあっというまに恋におちて楽しく過ごすのだが、彼はムスリムのおうちだから家族が結婚相手を手配するしきたりがあって、実家で定期的にお見合いさせられていて、それがばれて大喧嘩になったり、いろいろ大変。 そんなある日、Emilyの具合が悪くなって病院に運ばれ、Adult Onset Still's Disease (AOSD) - 成人発症型スティル病 - のようなので医学的に昏睡状態(medically induced coma)にしていろいろ検査する、と言われて、Emilyの両親 - Holly Hunter & Ray Romanoもやってくるのだが、医者の説明聞いてもちんぷんかんぷんだし、良くなってるのか悪くなっているのかわかんないし。 でも病院に通って付きっきりで看病していくうち、はじめはKumailと目を合わせようとしなかった彼女の両親とも打ち解けていって、やがてEmilyは目覚めるのだが。

よくある難病〜昏睡の悲劇とか、そこからの奇跡の生還と歓喜を謳ったようなやつではぜんぜんないの。 Emilyが起きてからKumailへの第一声は「なんであんたがここにいるのよ?」 だし、そんなに簡単にはいくもんか。
EmilyがComaになってすべてが「とほほ」になってしまったKumailは、どうやって自分の仕事や家族や将来と折り合いをつけていくのか、それは早く同じムスリムの女性との結婚を望んでいる家族やEmilyの家族からはどう見えてしまうのか、そしてなによりもEmilyはどうなっちゃうのか - 彼女の部屋にあったふたりの写真を見ながら、妄想に近いところまで彼の想いは転がって膨らんで乱反射して、それは愛というよりはふたりを巻きこんだばかでかい病気 - The Big Sick - のようになっていく。 それってコメディそのものとしか言いようがない。

くどいけど、愛は万能のお薬で病も人種も越える、みたいなお話ではないの。 彼らに起こったことは彼がパキスタンから来たムスリムで、彼女がアメリカ白人中産階級のおじょうさんじゃなかったら、ありえなかったことだと思うし、でもこんな状態でも愛は身勝手に勃発して、病のように広がって人々の顰蹙かったりうわ言を言わせたりして、じゃあどうするかというと、なんかおもしろいからrom-comにしちゃえ! ていうのがこれよ。

ロマンチック・コメディとは何か、みたいな話はしたくないけど、自分にとってのそれは、単に恋とか願いが叶ってよかったねえ、ではなくて、ラストの至福に向けてどれだけのこんがらがったやり取りや事件が起こるのか、その背景にどこまで紛糾した「世界」をぶっこむことができるのか、これがあるかないか、が大きい。 Judd Apatow製のコメディがなんでどれもあんなにすばらしいのかというと、どんなテーマや題材であっても、そこにぐしゃぐしゃ面倒でしょうもない「世界」がまるごとある - あろうとしているからなの。 そして、我々が常にJohn Hughesの世界に立ち返っていくのもおなじ理由による - そこには憧れも絶望も含めて世界が、ぜんぶが、あるから。

練りあげられたダイアログもさることながら、もうひとつ特筆すべきは、俳優陣のアンサンブルの細やかさと間合いの的確さ。
KumailとZoeの間で起こるケミストリーも、Kumailの家族も、Emilyの家族も、楽屋裏のコメディアンたちも、全員思いっきりハグしたくなる。 Holly HunterもRay Romanoも、泣きたくなるくらいよくてさあ。

映画終わった途端に当然の大拍手で、それに続くQ&Aも爆笑の連続だった。Kumail Nnjiani、あんたおもしろすぎ。なんでHugh Grantが来てないんだ? から始まって。
最初は5年前の出来事をいろんなひとに話していたら、それおもしろいから映画にしよう、とJudd Apatowが言いだして、彼のハードな監修のもと、脚本は相当に推敲とかバージョンを重ねて、でも事実をあまり変えるわけにもいかないし、その辺が難しくて大変だった、と。

他にはアメリカで暮らすアジア人にフォーカスしたこととかマイノリティの話もでて、そうするとZoeさんが目の色変えて発言したり(えらいよねえこの娘)。

最後はロボットとかスーパーヒーローとか怪獣とかスパイとか、そんなのばかりの最近のアメリカ映画のなかでこんなふうに会話ばかりのrom-comはどうなっていくのか、ていう話題で、AmazonやNetflixの登場にも触れつつ、やるわよ、 てZoeは力強く言った。

見終わったあとに「いいね」をポチして終わるんじゃなくて、ふたりでカフェにでも行っていろんなことを話してほしい、そういう映画でもあるの。ものすごく沢山のことを話して止まらなくなる映画、止まらなくなったら、それは、その相手のひとは、あなたにとってのBig Sickなのかも。

だれもが期待した、 かもしれない"Girlfriend in a coma"は流れないから。

Zoeの赤いヒール、かっこいいーと思ったらLouboutinだったのね。

7.04.2017

[film] Sage femme (2017)

口内炎がみっつあって、とてもつらい。

2日、日曜日の昼、CurzonのBloomsburyで見ました。 メンバーだと£5だっていうから。
英語題は"The Midwife" - 「助産婦」 
こないだのフランス映画祭のオープニングだったやつ、ね?

病院でベテランの助産婦をしているClaire (Catherine Frot) がいて、仕事の腕には自信があるものの病院は彼女のいる産院を切ろうとしていて、そういうのの交渉もあって少し疲れてきている。
そういうときにBéatrice Sobolevski (Catherine Deneuve) から電話が入って、最初はなによあんた? みたいな感じだったのだが会うことにして、そしたらそこでの会話からBéatriceは長年音信不通になっていたClaireの母で、なぜつんけん仲悪いかというとBéatrice が家を捨てた後で、父が自殺してしまったからで(Béatriceはそのことを知らなかった)、突然彼女が連絡を取ってきたわけは脳のガンで手術しなきゃいけないとか、あまり長くなさそうなのがわかったからだという。
かつての母がしでかしたことに対する治まらない憤りと、でも突然現れた母の変わらないところ、変わってしまったところに対する戸惑い、そんな病人を放っておけるわけないでしょ、という溜息と、いろんなところでClairは揺れ始めて、それだけじゃなくて息子のSimone (Quentin Dolmaire)がガールフレンドを連れてきたと思ったら彼女は妊娠しているとかいうし、医大をやめて助産婦になりたいとかいうし、なれなれしく菜園で声を掛けてくるむさいおやじ (Olivier Gourmet) は誰? とか、もちろん自分の仕事がどうなるかもわからないのだし、となにもかもがなんでよりによって! なの。

というくそ真面目なClaireに対して放蕩ばばあの帰還、としか言いようがないBéatriceは豪快な魔女で、酒は飲むはタバコは吸うは食事は制限しないわ金なくなったら博打で稼いでくるわ、Claireの服装や態度についてぶうぶう言うわ、自分の生まれについても嘘ついてるわ、でもところどころで具合悪くしてぜいぜい言っているのでClaireは面倒みないわけにはいかず、そうしているうちにだんだん打ち解けてくる。 赦す赦せないでいうと、赦せないのだが、なにかが満ちてくるようなかんじで彼女の過去、自身の過去、そしてそこに連なる現在が被さってきて、そのでっかい布団に包まっていけないってことはないよね、って。

なにか決定的なきっかけや瞬間があるわけではなくて、画面はむしろその瞬間や兆しを周到に回避しつつ、それぞれの老い(や生)と向き合わざるを得なくなったふたりの女性の葛藤にやさしく寄り添っている。無理やりなにかを促したり押したり引いたり、ではなく、助産婦みたいに声を掛けて少し調整したりさすったり、そうしながらやがて出てくる何かをじっと待っているかのような。
かと言って映画がゆるゆる締まりない、というわけではなくて、逆に息をひそめて見守ってしまうようなかんじで。
物置から出てきた亡くなった父/夫のスライドを見ながらふたりでべそべそ泣いていると部屋の扉が開いて現れたSimon - スライドの亡夫にそっくり - にびっくりしてうろたえてキスしちゃうBéatriceとか、笑えるところもいっぱいある。

Catherine Deneuveのふわふわ、でもどっしりしているわけではない不思議な存在感 - 汝にすべてを与えるしすべてを赦す、だからそちらもすべてを赦して与えよ、ほっとけ、みたいな超然とした老猫の凄味 - "A Christmas Tale” (2008)もそんなだったかしら? - そして、同系の猫なのにすべてに予防線と結界を張っていないと息ができなくなってしまうClaireと。 このふたりの女優(魂 - 使いたくない言葉だねえ)のぶつかりあいと化学変化がすばらしい。 Catherine Frotて、"Marguerite" (2015)もそうだったけど、外殻を固めてつくるのがすごくうまくて、しかもその殻のもろさを始めから堂々と晒してしまう。

ラストの流しかたもよいの。 野良猫がすうっといなくなるような、ちょっと寂しいけど力強さもあって。

いっつも言ってるけど、邦題に「幸せ」とか「讃歌」とか「絆」とか付けるのぜったい禁止ね。


さっき、”The Big Sick”を見てきたの。 いやーすんばらしいわ。

7.03.2017

[film] The House (2017)

1日の土曜日の夕方、Leicester Squareのシネコンでみました。 公開直後なのに半分くらいしか入ってなかった。

Mariah Careyのcameo騒動があったり、↓みたいな意地悪な記事を書かれたり、上映前から散々だったようだが、ぜんぜん悪くない、どこが悪いんだかちっともわかんないわ。 ぷん!

https://www.theguardian.com/film/filmblog/2017/jul/03/the-house-film-flop-mariah-carey-will-ferrell-amy-poehler

Scott (Will Ferrell)とKate (Amy Poehler)の夫婦はひとり娘Alex (Ryan Simpkins)の大学入学を前に落ち着かないのだが、あてにしていた自治体からの奨学金が地元民のプール施設建設のためになくなったと聞いて頭まっしろになって、同様に愛想つかれた妻に出ていかれちゃって絶望しているFrank (Jason Mantzoukas)と一緒に、初めはヴェガスに行ってみたりするのだがだめで、彼の自宅の地下に非合法カジノを作って儲けよう、て企んでやってみたらこれが当たってお金はじゃんじゃか順調に貯まってゴージャスに成りあがっていくのだが、他方で近頃住民がこそこそなんか怪しいと疑い始めた警官とかお役人がやってきたり、指を間違ってだっきんされたチンピラの親分(Jeremy Renner)が殴りこんできたり、でも彼らも必死だから相手にしてると当然大騒ぎになって止まらない。

これが初監督作となるAndrew Jay Cohenはあのすばらしい”Neighbors”シリーズのライターをやっていた人なので、お茶の間のちょっとした諍いや火遊びがUnstoppableのとんでもない大火に燃え広がって為すすべがなくなっていく様を、どうしようもなく下品でスプラッターな小ネタの連続と共にたのしく痛快に描いている。 これをつまんないとか荒唐無稽とかいうひとはとおってもお行儀のよいPTAなひと。  昭和のドリフを毎週楽しみに見ていたよいこには、とっても親和性の高いギャグだと思うのだけど。(わかんないか…)

こんなふうに燃え広がっていく火に気がつけば油を注いでいる傍若無人の暴走キャラをやらせたとき、Will Ferrellの鍋底が抜けたかんじはSeth Rogenの遥か上を飛んでいく不気味さで、そこに天然ドSのAmy Poehlerが金切り声をあげつつ横から思いっきりアクセルを踏み込むので、誰も止める奴がいない。 唯一難をいうとしたらここ、適度なボケをかますやつがいないことなのだが、別にいいじゃん、ホームドラマなんだしさ、とか。

結末は、決着は果たしてどうやってついたのだったか、おととい見たやつなのにもう憶えていないくらい(汗)の、そういうやつなのだが - でも火だるま簀巻きにされてしまうJeremy Rennerとかはしっかり憶えてる - とにかくおもしろいから見にいったほうがいいよ、って、日本ではぜったいやらないだろうなー。 こーんなにおもしろいのになー。

“The House2”があるとしたら、やっぱりあれよ、Neighborsに”Neighbors”の連中が越してくる、しかないよね。

[film] Okja (2017)

もう今年あと半分を切ってしまった。 ふつうにありえないわ。

1日の土曜日の昼、SOHOのCurzonで見ました。
木金の晩にでも見たかったのだが、ぱんぱんで動けなくて、でもすぐにでも見たくて。

予告を見たときからこれはずるいだろう、としか言いようがなくて、だってバカでっかいカバみたいなブタの話だよ。

冒頭は2007年、Mirando Corp.のCEOになったばかりのLucy Mirando (Tilda Swinton)から、Non-GMOの画期的なスーパー子ブタができたのでそれを世界中の信頼できる養豚家にばらまきました。 10年後にどこのスーパーブタがスーパーなのかコンテストするから待っててね! とアナウンスして、そこから舞台は2017年の韓国に移動する。

Mija (Seo-Hyun Ahn)は山奥ででっかいOkjaと柿を採ったり水浴びしたり、のんびり過ごしていて(いいなー)、そこに動物タレントのJohnny Wilcox (Jake Gyllenhaal) とMirandoの連中が現れて、いやあすばらしいブタに育ててくれたねえ、て賞賛してちょっとした隙にOkjaを連れていってしまう。必死に追いかけるMijaのところに黒頭巾の集団 - ALF (the Animal Liberation Front)が現れて、そこのリーダーのJay (Paul Dano) が言うには、ぼくたちは動物の権利を守るために闘っている君の味方だから安心して、なのだが、ここでも手違いがあって(英語はだいじね)、Okjaはコンテストの開かれるNYに運ばれていってしまう。

他方で、Okja(+ ALF)がソウルの街中で逃げよう/逃がそうとして大暴れした映像をネットに出されてしまったMirando側はそれをソーシャルに取り繕うべく、NYの会場でのOkjaとMijaの感動の再会シーンを演出しようと画策、MijaをNYに呼ぶことにして、やがてイベントの当日がやってくる。

前半の山奥のシーンは実写版トトロみたいなのどかな楽しさに溢れていて、そこからOkjaを巡る追いかけっこのはらはらどきどきになって、最後は腹黒い奴らは剥いても剥いても、のディストピア状態のなか食肉のありようについて深く考えさせられて、と、てんこ盛りで、とってもおもしろかった。 あの後、Mijaはどんな大人になっていくのだろうな、とか、そういう点ではパパママが子供連れで家族で見に行ってもすてきな娯楽映画だと思った。

かわいいもの大好き!のペット産業と、おいしいもの大好き!の食肉産業の根っこは人間サマの快楽にどこまでも奉仕し、その充足のためにモノ言えない動物たちをいくらでも虐待して犠牲にする、という点で繋がっている、それをドライブするのは結局のところお金で、お金がないと誰もが生きていけないし  - と、そこまで深く掘ったり訴えたりしているわけではないけど、そういったことを考えるひとつのきっかけにはなるかも。 それでうんざり絶望してヴェジタリアンになっても別にいいじゃん、て思う。

あるいは、最後にでてくるスーパーブタの養豚場、あそこで飼われているのは我々なんだな、とか。
あるいは、Mijaの両親は『千と千尋の神隠し』みたいにブタに変えられてあそこにいるんだな、とか。

といったような方に思い詰めなくても、Okjaの耳とか四つ足を眺めているだけで、なんかいいの。 "Dave"もそうだったけど、基本ブタにはめっぽう弱い。

俳優陣も見事で(韓国のひとはよく知らないのだが)、Tilda SwintonもJake Gyllenhaalも、狂喜しながら米国人の下品なマネージャンキーっぷりを披露しているし、Paul Danoはこれをやれるのは俺しかいないんだ、の勢いで見得切って輝いているし、彼らの間を『千と千尋… 』の千尋みたいな顔の女の子がばたばた走り回って叫んでいるの。

Netflixなので日本ではTV画面なのかもしれないけど、これはでっかい映画の画面で、Okjaの超ブタっぷりを見てやってほしい。

音楽は"Free Fire" (2016)でも流れていたJohn Denverの"Annie's Song"が唐突に流れて、こっちのが痛快で気持ちよいかも。

ラストは"Meat Is Murder"でも流してやれ、とまじで思ったが残念ながらそこまでは。