4.29.2011

[film] Zombieland (2009)

24日の日曜日、何年ぶりかで早稲田松竹なんかにいって、見ました。

昨年見れなかった"Zombieland" (2009)のほうがメインだったのだが、時間の都合で、併映の"Kick-Ass"のほうも。

"Kick-Ass"は、米国で見たし、日米往復の機内で、5回くらい見ているしもういいよ、だったのだが、でもみる。
あんま言うこともないのだが、途中からHit-Girlのナラティブなんかを挟んでいったら、Kick-Assのぼんくらぶりがよりくっきり出てよかったかもしれないね、とか。

彼ら、闘いの後でブルックリンのほうに飛んでいくけど、おうちはNJのほうだよねえ、とか。


"Zombieland" は、よかった。

メインにあるのは、Zombieの世界となってしまった米国全土とその不条理、というよりは、そこを生き抜いて、生き残っていく自分(達)の技量とか度量とか、そういうのなの。

たしかに、Jesse Eisenbergは"The Social Network"、よか、こっちかもしれない。 あれも、ナードがある種のルールとか規範を自分達に敷いて(強いて)、その線上で現実世界をじりじりと裏切ったり裏切られたりしながらサバイブしていくお話だった。 ただ"The Social…"は、今の社会とそれなりにリンクしているが故の各種制約がそれなりにあって、Zombielandはフィクションである分、それなりの自由がある、のかなあ。

でも、その違いって結局のとこなんなのか、と。
Jesse Eisenbergの苦虫つぶした仏頂面はぶつぶつ言い続けるのね。
"Holy Rollers" (2010)みて、"The Social ..."みて、これ見ると、このひとがいかに非凡なとこにいるか、よくわかる。

あと、もちろん、彼だけじゃなくて、Woody Harrelsonなのよね。
あの最後のほうの撃ちまくりのとことか。(あそこは全部ちゃんと見せるべきだった)
彼、いつのまにかKurt Russellの領域に行ってしまったかも。(ああこれをJohn Carpenterが監督してたら ...。 でも、彼はナードのおはなしとか興味ないんだろな)

Bill Murrayもねえ。これができるのも彼だけだよね。
でも、「悔いがあるのは"Garfield"だけ」...って、そんなこと言わなくても。

女優陣は、あんなもんか。
もうちょっと強い、お姐さん系のひとがいてもよかったかも。Gina Gershonみたいなひとが。
Abigail Breslinさんは、ぶひぶひまっしぐらだねえ。

流れる曲も、鳴る音も、どれもとってもいかった。
The Raconteursの"Salute Your Solution"があんなにかっこよく鳴るなんて。

爆音向き、ということだと、"Kick-Ass"よかこっちかも。
"The Social Network"と共に、自我と世界の間で軋む音がはっきりと刻まれている。でっかく増幅されて聴かれるべき音として、はっきりと。

Kick-AssやHit-Girlがあと100人現れても、たぶん世界は変わらないが、Jesse Eisenbergみたいなのがあと100人現れたら、ひょっとしたら、世界は変わるかもしれない、そういうことでもあるの。

[film] Follow the Fleet (1936)

そういえば、今年のRecord Store Dayは、17日に新宿のDisk Unionに行って、とりあえずBig StarのThirdのtest press盤だけ買った(当たり、は当たらなかった)。あとは面倒だったので通販でまとめて。まだ届いてない。

あと、New York MagazineのApartment特集がおもしろかった。
なんといっても、Frank Gehryのアパート、8 Spruce Street。
レントはそんな高くないけど、場所がなー。あのへんなんにもないよね。

http://www.newyorkbygehry.com/

23日の土曜日は、ぜんぜん起きあがれず、気がついたら夕方4時で、しょうがないのでシネマヴェーラによろよろと這っていって1本だけ見ました。

Mark SandrichによるAstaire & Rogersもの、『艦隊を追って』 - "Follow the Fleet"。

アストリアのMuseum of the Moving Imageのリオープン記念特集上映の最後のほうで(2月のあたま)、これのリストア版がかかったのだが、行けなかったので、そのリベンジも兼ねて。 

こっちの版は結構すりきれてて悲しかったが、でも映画そのものはぜんぜん。

歌とダンスしかとりえのないアステアが、彼女にふられてやけになって海軍に入って、寄港先のサンフランシスコでロジャースに再会して、彼女も彼と別れたあとはなんとなく浮上できないままでいて、んで、あとはわかるよね。

このふたりのダンスは、なに見たっていいにきまっているし、これも前に見てたことを途中で思いだしたりしたのだが、でもいいの。

音楽は問答無用で、Irving Berlin。 ぜんぶいい。
"Let Yourself Go"も、"Get Thee Behind Me, Satan"も、"Let's Face the Music and Dance"も、ぜーんぶ、いい。

クライマックスの船上のダンスは期待していたほどばーんとはじけなくて、ラフで適当にやっているように見えるリハのほうが面白かったりするのがちょっとだけ残念だが、でもいいの。

途中から出てくるあの猿はなんなのか、とか、Rogersの姉役のHarriet HilliardとRandolph Scottのロマンスはめでたしめでたしのようでいて、結婚したらRandolph Scottのほうが姉を殺して船を自分のものにしようとするにちがいない、とか、割とどうでもいいことを考えがちなのだが、でもいいの。

4.26.2011

[film] The Perils of Pauline (1947)

16日の土曜日、シネマヴェーラで2本みました。

最初がルネ・クレールの『巴里の屋根の下』(1930)。
”Sous les toits de Paris” 、英語題は”Under the Roofs of Paris”。

ルネ・クレールには『奥様は魔女』 - "I married a Witch" (1942) ていうのがあって、それはすごくすき。
これは彼の最初のトーキーで、少ない台詞と、他方で音の使い方がなかなかおもしろかった。

ルーマニアから来たちょっとかわいい町娘さんがいて、通りで歌の詞集みたいのを売っている(街角でみんなでわーわー歌うたって、その横で歌の歌詞を売るの)青年が彼女のことをひとめぼれして、部屋を締めだされちゃった彼女を泊めてあげたりして仲良くなるんだけど、けっきょく彼女は彼の友達のほうにいっちゃうの。 かわいそうにー。 ていうお話し。 

彼女をアパートに泊めてあげるとき、彼女が服を少しぬいでベッドに横になったもんだからちょっとだけキスしようと近寄ったら猫みたいにしゃーっ、て威嚇されて指一本触れさせてくれないの。 ほんとにかわいそうなアルバート。  
で、ああどいつもこいつも巴里の屋根の下なんだわ、ってしみじみするの。


次がジョージ・マーシャルの『ポーリンの冒険』(1947)。 "The Perils of Pauline"。 
これはおもしろかったー。

『ポーリンの冒険』は、(淀川長治さんのお気に入り)パール・ホワイトの伝記を元にした映画で、縫製工場で働くポーリンが、工場主にケツまくって劇団に入ったものの、元気はあるけど大根でどうしようもなくて、ひょんなことから映画の仕事をやるようになって、そしたら持ち前の度胸で危険な仕事をがんがんやるようになって人気が出るんだけど、彼(劇団の座長)はこんな危険物につきあってられん、って別れるの。 こうして、恋も仕事も絶体絶命!になるんだけど、最後はけっきょく。

最後のほうの「落ち」(これがすごいの。あんぐり)からラストまで  - ポーリンのどじと大根が炸裂するも結局それがすべてを救うことになる -  はほんとに素敵で、元気をもらえる映画っていうのはこういうのだとおもう。
他方、彼女があそこでしんじゃってたら、関係者全員「このおおばか… 」ってあきれるんだろうな、って。

ポーリンを演じるベティ・ハットンさんは、『アニーよ銃をとれ』(1950)のアニーのひとで、とにかくでっかい声とどたばたダイナミックな造作と演技が文句なしによいの。 恋も仕事もがんばるあたし、の物語であると同時に、バックステージもので、更にミュージカルでもあって、てんこもりの割にはさらさらあっさり見せてしまうところがおみごと。

テクニカラーもほんとにきれいでねえ。 よかったよかった。

4.24.2011

[film] The Runaways (2010)

じしんから一ヶ月過ぎましたが、余震に続く余震のせいで、積んでも積んでも奥から何かが出てきて、水位が下がってくれない。まったく片付いてくれない。 













15日の金曜日、もうなーんにもやりたくねえ、というかんじで、自棄になりながらチケットを買ってしまった。

相当だめらしい、ということはわかっていたのだが、でも、いちおう、なんか。
この「なんか」がなんなのかは、ちゃんと問い詰めていけばどっかでなにかが明らかになるに違いないのだが、そんなことやりたくないのね。

基本は、メンバーの中で唯一サーバイブしたと言えるJoan Jett目線なので、そんなにどろどろと恨み節が入ったものにはなっていないし、甘くせつなく回顧したものにもなっていない。 
もうちょっと青春が入ってもよい気もしたが、残念ながらそういうものではなかった、ということなのだろう。

でも、Kristen Stewartはかっこよすぎはしないか、だし、Dakota Fanningは、なんかちがう、だし。

多くの他の年寄りとおなじく、Runawaysを最初にみたのは平日の夕方にやっていた「ぎんざNow!」であって、この番組では他にも(多分クリップで)Cheap Trickも、Aerosmithも出会っていたはずなのだが、あれらはおおー、ですぐFMラジオに向かったのに、Runawaysは、「牛」だとおもったのを憶えている。

もちろん当時、チェリー爆弾にやられてしまったティーンもいたっておかしくないと思うが、そりゃいるのじゃろ。 爆弾ならばな。

ロックとそうでないものの境界、というのは今の世の中ではどうでもよいものなのかもしれないが、当時はなかなかおおきな問題で(なぜってレコード買うからさ)、そういうスクリーニングのざるに、このバンドは引っかからなかったの。

当時はっきりと意識していたそういう境界のありようを改めて複雑、というよりは微妙、に思い起こさせてくれた。どっちにしろ、それがどうした、ではあるのだが、糞でも屑でも滓でもなんでもロックになってしまう今の世の中は...  はやっぱりどうにも機能しないのよね。 どうでもいいけど。

"Pretty Vacant"が流れるのも、どういう顔したらよいのやら、よね。

つぎは、The Nolansをおねがい。(もうやってたっけ?)

Museum of the Moving Imageで24日までやっている特集、みたかったなあ。
みたことあるのは、"Cobra Woman" (1944)くらいだなあ。

http://www.movingimage.us/films/2011/04/15/detail/fashion-in-film-festival-birds-of-paradise/

[film] The Wild Bunch (1969)

あいかわらずどんづまりの日々でございまして、とにかく見てる時間も聴いてる時間も書いている時間もないー。

『午前十時の映画祭』という、ラインナップを見てもほとんどぜんぜんそそられない、クラシック映画と年寄りを社会の隅に寄せようとする許せない企画が午前十時だけではなくて一日やっていて、4/10にみゆき座で『ワイルドバンチ』がかかっていたのでなんとなく見ました。
子供の頃に一回みて、何年か前の爆音でやったのも見逃してて、もう一度見たかったの。

さいきんの、タランティーノやジョニー・トーを通過した後でもう一回みたらどんなふうに見えるのかしら、とか。

結論からいうと、これはこれだよね、って。あたりまえの。
どんぱちで血まみれがあってひとがいっぱい死ぬとこは同じだけど、ここにタランティーノの緻密さ周到さはないし、ジョニー・トーの底知れぬ闇みたいのはない。

ラフで軽くてガレージのカセット一発撮りでがんがん撮って、ざくざく繋いで一丁あがり、みたいな勢いと、酔っぱらいのしみじみした絶望と厭世観が同居してて、とっ散らかってて、いつまでもだらだら見ていられるなあ、って。

かつての囚人仲間同士、インディアン、メキシコ、これらの間で伝染・伝播していく「内戦」、そして当時あったベトナムにおける「外戦」、いつの時代にも、どこの場所でもはっきりと存在した悪、暴力、野蛮さを内から外への「告発」という形ではなく仲間や家族、集落のあいだの不可逆な「絵巻」として、血の赤で染めあげ、崩れ落ちるひとの姿を焼き付けようとした。

このイメージを前に前に押しだそうとする強さと、終ってしらじらと、ゴミしか残らない潔さはペキンパーのものとしか言いようがなくて、それはシネフィルみたいな人たちがこのひとについてわあわあ言うのとは別のところでいいなあ、と思ったのだった。

あと、死にかたとしてはやっぱこれかも。(除. エンジェル)

4.17.2011

[film] Heaven Can Wait (1943)

9日からシネマヴェーラではじまった『映画史上の名作5』。
ほんとにまじで名作だから。 みれるだけみることよ。

でも土曜日は髪切ったあとで一本だけ、もちろんルビッチの『天国は待ってくれる』(1943) ね。
こういうどよーんとした時節にはホークスとルビッチさえあれば、あとはなんにもいらないはず。(いえ、言ってみたかっただけなの)

地獄の入り口に品の良さそうなおじいさん(死んでほやほや)がやってきて、地獄の門番がどうしました? って聞いたら、わたしみたいな輩は地獄に落ちるしかないと思ったものですから、と慎ましく身の上話を始めるのね。 どっかの落語噺みたいに。

19世紀末、NYの資産家のおうちに生まれた彼は、乳母との三角関係にはじまって、えんえん懲りない女遊びを繰りかえしていって、ある日、本屋(5thにあったBrentanoなの)で運命の女性と知りあって痺れてみたら彼女は従兄弟の婚約者だった、と。

従兄弟は彼とはちがって真面目で優等生でよいこで、でも彼女の夫になれるかというと、断固そうは思えない。ぜったい反対。そんなのがまんできねえ。
そういうわけで、かっぱらうことにした、と。

それにしても、彼が彼女を口説くときの台詞まわし、すごいねえ。
あんなふうに一本釣りで引っ掛けられるなんて、どこでどんだけどんなふうな修練積んだんだかたんなる天才なのか。 んで、詐欺師みたいにくどき倒して相手を混乱の渦に叩きこんで、婚約パーティーで、親族のまんまえ、どまんなかでその彼女をひょいって抱き抱えてすたこら持っていっちゃうとことか、被害者側のことを考えると地獄に堕ちるのもやむなしという気がしないでもないが、お見事、としか言いようがない。 

で、この略奪〜逃走は結婚後、怒ってあきれて実家に帰った彼女相手に再び繰り返されるの。
そんなに好きだったんだ... ていうよか、運べそうだったもんだからつい、みたいな軽いとこが憎めないの。 このぎりぎりのとこで憎めないキャラが強引なアクションと合体したところにルビッチのマジックの基本があるのね。

このかんじで、ものすごいどんでんや、大爆発が起こるわけではなく時間は淡々と流れて行って、やがて妻との別れのときがやってくる。 彼女との最後のダンスのとこは、誰が見たって泣いちゃうねえ。

妻のMarthaを演じたGene Tierneyの瞳のほんとうに透明に澄んだ青さを見ていると、「天国は待ってくれる」の前にくるのは、「あなたのなかに天国がある限り」なんだとおもう。 宗教とか天啓とかそういうの一切なしで、誰であろうと「天国は待ってくれる」ことを、ごくあたりまえのように叩きつけるのである。
ルビッチの神業て、こういうところにあるのね。

ラストで、エレベータで「上」にいくように指示されたDon Amecheは、この約40年後、おんなじように、死なない域としての「上」をめざすことになる。 
そう、"Cocoon" (1985)ですね。 あーなんか久々に"Cocoon"みたい。すごくみたい。

4.16.2011

[film] The Illusionist (2010)

3日、日曜日の午前中にLCD SoundsystemのMSGのファイナルをWebでみる。
いろいろ考えこんでしまいました。そのうちなんか書くかも。

で、その晩に六本木で見ました。 あんまし重いのはなー、とかおもって。

"Les triplettes de Belleville" (2003)のSylvain Chometの新作。
この人のアニメーションは、顔とか動きのおもしろさを楽しむかんじのやつなので、ストーリーのわくわくとか、カタルシスとか、ほんわかとか、そういうのを求めるのとは違うものなので ー。

オリジナルのスクリプトは、Jacques Tatiの遺稿で、つまり、ほんとうはタチの映画になるはずのもので、主人公の手品師のおじさんの名前はJacques Tatischeffといって、これはタチの本名でもある。

だから、タチが自身を主役に置いて撮られて撮るはずだった映画がアニメーションになった、ということが、タチだったらこれをどんなふうに撮っただろうか、ということが、常にあたまの隅にあって、あんまし落ちつかない。
そんなの気にするな、というのは、この場合には無理すぎた。

さえないどさまわりの手品師のおじさん(with うさぎ)が、アイルランドの田舎に行ったときに酒場の女の子と出会って、女の子はなんとなく後についてくる。少女が話すのはゲール語で、ふたりの間で殆ど言葉は通じない。通じないまま、通じないから追っぱらうわけにもいかず、そのままふたりはエジンバラまでやってくる。

おじさんは手品師なのであるが、最後に手品を使って奇跡だのドラマだのを起こすわけではなくて、でも、Illusionistではあるのよね、とか、そんなかんじの終り方。
それはまさにタチが映画で見せてくれるあれらと同じような - まあるいのにするするしなやかでたまにこっちを驚かせる身のこなしも含めて - なにか、ではあるのね。

でも、上から街全体を俯瞰してぐるーっとまわっていく鳥の目線とか、こまこまごちゃごちゃした絵の描きっぷりとか、たんなる好き嫌いになってしまうのかもしれないが、素敵だとおもった。

音楽は、Josef K - Orange Juice - Aztec Camera - と、ある時期、英国音楽のとある領域の裏側で、よくしなるギターを聴かせていたMalcolm Rossさん。
ふうん、てかんじ。

あと、うさぎが小さく、ちっ、とかいうとこがいいよね。

[log] Apr.02

ヒノキの粉は、きついったら。

もうむかしむかし、2週間前の2日のおはなし。

地震の揺れで崩れおちた箱のなかとかはじとかから、昔のCDとかが溢れてきたので、そういうのをPCに落としはじめたら止まんなくなって、なんとなく退行モードにはまって、おちている。それにお片づけをいくらやっても余震で端からがらがら崩れていくので、もうどうしようもない。 
The Bluebellsとか、Blue Orchidsとか、Blue Aeroplanesとか、Ian McNabbとか、Friends Againとか、Suddenly, Tammy!とか、そんなのばかり聴いてる。

で、見たい映画もあんまないし、東のはじっこに行ってみたのだった。
このたびの地震では一応被災地になっているようで、発生直後は岸壁にぶあーんと刺さっていく漁船とかの映像が出ていたのだが、その後、それどころではない津波だの原発だのの映像がどんどん被さってきてどうなっているかわからなくなっていたし、祖母のお墓はだいじょうぶだろうか、とか、いろいろ気になっていて。

特急のしおさいがまだ走っていないことを東京駅に着いてから知って、千葉まで快速で出て、そっから各駅で2時間弱、たっぶり映画2本分。でも、子供の頃はふつうに各駅だったわけだし。 途中で旭市も通過したのだが、電車から見たかぎりではそんなでもなさそうだった。

お墓はなんともなかったが、お寺の本堂のまわりに縄が巡らされてて、そのぼんやりとやばそうなかんじが、なかなかよかった。
お墓のなかではどんなふうに揺れたんでしょうかねえとか、お墓をお掃除しながらきいてみる。(だれに?)

そのあとで、銚子電鉄で外川まで出てみる。
駅を出て、細い道を海に向かってゆるーんと下りていくのだが、あっけないくらい変わっていなかった。 まあ、変わんないよね。意地でも。
船着き場の前には縄がはってあって一応入っちゃいけないふうになっていたし、警察の人たちがなんかやっているようだったが、ゆるゆるだったので、海のすぐ前までいってみる。 

海は波が落ちついていなくて、へんなぐあいにせりあがっている、ような気がしたし、おひさまの光とその周りの雲が変だなあ、くらいだった。(で、銚子の駅に戻ったら茨城で震度5が起こったのさ - 気がつかなかったけど)

やっぱし行ってみるとほっとするものだ。
駅前の閑散具合は、いまに始まったことではなくてじゅうぶんそれなりに悲惨なのだが、それでもいいの。それは震災のダメージがひどくなかったからよかったとか、そういうことではなく、「がんばろう」だの「みんな一緒だ」だの糞にもならねえ外野のおおきなお世話メッセージ群から遠く離れたところで、淡々とそこにあろうとする意志が、そこにはあった。
それこそ、ふーんだ、というかんじで、あるのだった。


4.09.2011

[film] Breaking News (2004)

もうなんか、ぜんぜん書いている時間がない。
ぐちはそのうち纏めてぶちまけてやるわ。

んで、これは先々週(かな?)日曜の分なの。

この日はほんとは、銀座のゴキブリ2本だてに行きたかったのだが、かったるかったのであそこまで辿り着くことができず、諦めておとなしくシネマヴェーラで2本だけ。

最初が2004年の"Breaking News"。 漢字だとでっかく『大事件』。
メディアがつくった「大事件」ね。

冒頭、カメラがすうっと下界に降りてきて(この縦運動はこの後も沢山繰り返される)、そのままごちゃごちゃした裏通りの雑踏、えんえん長回しでフレームのなかのどこかでなにかが起こるのを待つ、そろそろかなー、という頃にばん、て追っかけっこが始まる。 はじまったはじまった、てかんじ。

追っかけられる連中はたぶん悪い人たちなのだろうが、悪事を働いた現場とその光景は出てこないので、どれくらい悪いのか、どんなふうに悪いのか、は結局わからないまま、追っかけられたから逃げた、逃げて、しかも逃げる途中でひとを撃ったりした、目つきもよくないし、ということは悪いんだろうねやっぱし、程度。
でも、そもそも追っかけなければこんな大騒ぎにならなかったのにねー。

警察側で指揮をとるケリー・チャンは眼光鋭く眉毛くっきり切れものぽくて、すげえやな女、みたいなところを最後までちゃんと演じている。しかもこいつがいてもいなくても多分おとしどこは同じようなもん、というのが(もちろんわざとで)更にやなかんじ。 偉いやつらなんてそんなもんなのよな。

そうやってショー=ニュースを発信する側に対して、発信される側 - 対抗する盗賊団とたまたまぶつかった殺し屋組、彼らが転がりこむタクシー運転手宅の親子、ビル内で彼らを追っかける下っ端警察、などが鉢合わせして、団地の一角で繰りひろげられる緊迫してるんだか緩んでいるだかよくわからない、でもみんなそれなりに必死なやりとりがまた素敵なのよね。 ここの「食卓」のシーンはやはりすばらし。

Johnnie Toの映画において、しばしば出てくるみんなで食卓を囲む行為にあるのは、食べている間は、ひとみな兄弟みたいな平和原則、というよりもその「囲み」を180度ひっくりかえして銃を持たせればどんぱち、みたいな反転の、でんぐり返しの、紙一重の面白さにあるのだとおもう。 箸と銃と仲間、生きていくのに必要なこれらと、それでも死んじゃうあれら、の間にうまれるドラマとか。

んで、あの延々ひっぱる終り方、どこまでも伸びていこうとする逃走の線は、「大事件」は終るべくして終らない、と思わせておいて、でもやっぱし終わる、でも「終わり」ってなんなの? 誰のための? みたいな非情かつ微妙な余韻を、終りきれない何かを指し示すかのように残して、終わる。 
たぶん、Johnnie Toはこれ以降、この終りきれなかった残滓をずっと追い続けていこうとしているのではないかしら。


このあとに見たのは、ベニー・チャンの『インビジブル・ターゲット』(2007)。
これはおもしろかったー。ちょっと長かったけど。
世代的にブルース・リーかジャッキー・チェンかと言われたらジャッキー・チェンのほうなので、ひたすらうんうん、いいねえ、て頷いてた。
追っかけっこして、身体と身体でぼかすかやりあうだけ、もうほんとそれだけ。

えんえん、どこまでも続いていく追っかけっこ、手近のものをなんでもぶちまけていく肉弾戦、ガラス割り、回転書庫責め、エビぞり脳天落ち、対角線カウンター、ものすごく強い敵方、そしてあのフィニッシュ、おまけにNGまで。

ぜったい既にどっかで見ている、そして聴いている3コードのロックンロールなの。でもあざといかんじはしない。みんなものすごく必死だから。目玉むいて白目むいて。

違うとこはー、なんだろ、悪い方の死に方が結構陰惨なのと、追っかける側があんまし汚れないとこかしら。ジャッキーだと、上半身裸で傷だらけのへろへろになって、決死の一発逆転があったのだが、そういうドラマはあんましない。

でもいいの。 
いまのフ抜けて気色わるい邦画が永遠に失ってしまったもんが、香港にはまだ残っているのよ。