12.31.2016

[log] 年のおわりに

恥しらず! て思いっきり罵倒してやりたいくらいにしれっとふつーの顔した12月の31日が今年も来てしまって、例年だとまだ感想を書いていない映画がなん本くらいあって、とか呑気にやっていて、でも今年はー、この2016年はさー、こんなふうに年内の仕事終わったし映画みるくらいしかすることないし、なんてやってる場合ではなくて禅堂にでも篭って見つめ直したり反省したり立て直したりしないとほんっとうに来年なにが起こってもしんないんだから、ひどくなるに決まってるんだからね。だからせめてあの償いと弔いをたっぷりこめた、お片づけの一撃ってやつはーどうだ? どうなんじゃ? どうするつもりじゃ?  と、ここから先はいつもとおなじぐるぐるの虎バターになって焼きあがるのを待つのみ。 焼かれちまっていいのかおら。

でも今回の歳末お片づけはほんとにしゃれになんなくて、昨年末~年始にほとんどなんもしなかった結果、まじで床が抜けるか地震がきて埋もれるかで、下に落下するのと上から潰されて埋もれるのとどっちがよいか、の二択を悩むようになっている(落下のほうが新しいなにかが見える気がするのでそっちを希望)のと、読みたいときにどっかにあるはずの本とか雑誌とかぜーんぜん見つけられなくて自業自得でざまーみろ、じゃなくて、困ったりつまんなかったりするし、本もきっと同じ思いを抱えて身動きとれずに固まって泣いているのだろうし、あともういっこ、1ヶ月後(あと1ヶ月しかないんだ… )に起こりそうなことが動いていて、これらをなんとかしないと、なんとかしないと、いったいどうなるんじゃろう …

だからお休みにはいった29日の午後に少しがんばってみようと、ある山の一部を切り崩して床の表面が見えているところに持ってきて、いっこいっこ手にとって、右にやるのか左にやるのか悪いけどさようならか、おお君はこんなとこにいたのねとか、なんで君はふたりもいるの?とか、あんたどこのだれ? とか一通りやって、でもフレッシュな表面が見えている床がそもそも少ないものだから、既にある山の上にとりあえずで重ねてみるでしょ、そのとりあえずが重なっていくと最初のとりあえずから忘れていくので、ぜんぜん進んでいるようには見えなくて、これをやってると終わらないよ、終わらないものを終わらせるには手を止めることだよね、て約2時間で引きあげて、シネマヴェーラにいってホークスの「永遠の戦場」を見て、ついでに「はるねこ」も見て、壮大な戦争と命をめぐるドラマに打たれて、更に数十年ぶりにBo Gumbosの歌なんか聴いてあああもう、になって帰ってきたら、なんも変わっていなかったのでこれはこれで心うたれた。 やばいな。おわんないよ。昨年とおんなじだよ。

そういえばこないだのクリスマスは、英国からブツが届いた(追加で税金とられて納得いかない)”Metal Box”の40曲と、米国からリンクが届いたNINの”The Fragile: Deviations 1”の37曲の計77曲を落としたり変換したりしてて、いったい世界で何人のひとがクリスマスに(どうしようもねえ、と腐れつつ)こんなことをしているのだろう、て思ったりして、で、こいつらをお片づけのBGMに流してみたのだが、びっくりするくらい効かないので笑った。 火をつけて灰にするための音楽だったのよね。 道具はちゃんと選ばないとね。

あと、ぜんぜんどうでもいいけど、Metal Boxの缶カラ、ぺこぺこで贈答用のおかきの缶箱みたいで残念だった。
片付けの途中でまちがって蹴っとばしたらぺこん、てへっこんだ。

で、とにかくこういうことばかりやっていると2017年は2016年とおんなじくろくでもないことになって、つまりぜんぶ自分に跳ね返ってくるんだからね、しんないからね、て最初の虎バターに戻る。 やるきはこーんなにもいっぱいあるし(しかも3年くらい続けて同じことを.. )、手も動かしていないわけじゃないし(これも3年くらい続いているし..)、これって締め切りに間に合わない作家の言い訳とおんなじだよね、とか思ったがあんたのやってるのはお片づけで、お掃除で、創作活動とはちがうの、いまのあんたなんかレレレのおじさん以下だし、そんなこと言うことじたいまじめなレレレのおじさんに失礼だし、とかひと通りぶつぶつ言いながら、今年は行ってしまうのだわ。

さようなら2016。 2度と戻ってくんな。

Mac McCaughanさんの”Happy New Year (Prince Can't Die Again)”を聴きながら
https://macmccaughan.bandcamp.com/track/happy-new-year-prince-cant-die-again

みなさんもよいお年をお迎えください。

12.29.2016

[film] Don't Breathe (2016)

元のトラックに戻るのだが、この年の暮れ、書いてないやつのどこから始めたらいいのか悩ましいので、簡単に書けそうなやつから。 おもしろかったし。

24日、クリスマスイヴの昼間に日比谷でみました。
なんでクリスマスイヴかというと、これって”Home Alone” (の creepyじじい版)& “Die Hard”(の少しわるい女の子版)で、これらはどっちもクリスマスの映画だからさ。

Rocky (Jane Levy)とAlexとMoneyの3人組は警備会社にいるAlexのパパの道具を使って空き巣とかしていて、その次に狙うことにしたのは交通事故で娘を失って、その補償金を家のなかに貯めこんでいるらしい一人暮らしの盲目の老人で、うるさい犬がいる以外、家は過疎が進んだ町外れにあって警察も見回りに来ないし、少しだけ後ろめたいかんじはしたが、トラッシュな親から妹を連れて西の方に逃げたいRockyは決行することにする。

決行の晩、犬を眠らせて警報機と鍵をくぐって、まずは家のなかに入れたので楽勝と思われたのに、起きだしてきた退役軍人のじじいは目が見えないことを除けば常人離れした粘り腰の強さをもってて、3人は”Home Alone”のJoe PesciとDaniel Sternよか散々のひどい目にあって、逃げたいのに逃げられなくて許してください助けてください、になるのだが、やがてRocky vs. じじいのDie Hard対決になって、そのうちじじいの驚くべき正体も明らかになって、殺るか殺られるかの狭い家、暗闇の手探り窮屈な追っかけっこになっていく。

被害者になるはずだったじじいがRockyの目の前でおっそろしいモンスターに変貌していくプロセスと、最初のうちに抱いていた少しの後ろめたさがひっくり返って「くそじじいぶっ殺したる」に転がっていくプロセスの交錯がおもしろくて、どっちも悪いといえば悪いんだけど、でもやはりRockyがんばれ、になってしまう、よね。

ひとりにされてもよいこは神さまが守ってくださる、ていう“Home Alone”からも、どれだけ傷モノボロカスにされてもよいこは神さまが死なせてくれない、ていう”Die Hard”からも離れて、どす黒いじじいとやさぐれた女子のどっちを神さまはなでなでしてくれるのか、或いはどっちも地獄に堕ちるのか、息を詰めて見ているしかない。

土地とか家とか軒下は、”It Follows” (2014)とか”A Band Called Death” (2012)に出てきたデトロイトの宅地の赤茶けて寂れて崩れたかんじで、なかなかおっかなくて素敵で、続編作るとしたら蘇ったじじいが”It Follows”してくるのだろう。 ていうかじじい、”It Follows”に出ていなかったか? (あの、屋根の上とかにいたやつ)

いちばんついてなくて損したのはAlexだよね。 かわいそうにー。

12.28.2016

[log] NYそのた2 -- December 2016

ひとはもちろん勝手に生きて死んでいくわけだし、自分から死を選ぶこともあるけど死はそれぞれ個々の事情によるので、そういうのが重なったとしても、それはそれぞれの勝手の連なり、つまりは偶然 - たまたまそういうことが連続して起こったのだと、それだけのことなのだと言い聞かせるわけだが、それをずっと自分で自分に言い聞かせるようなことが続いていくと、偶然の向こう側にある死の世界を知らない我々はそこに識域を超えたありえないなんかが働いていると思い込みたくなってまったくしょうもない。
亡くなったひとに「ご冥福をお祈りします」とか「Rest In Peace」とか言うけど、本当に心の底からJohn Lennonの"Mother"みたいに絶叫したいのは、「置いていかないで」とか「好きなひとを連れていかないで」ていうことなの。 なんでかって今のここってほんとうにひどいありさまで、残された我々に見えているのは焼け野原の無間地獄みたいなやつで、みんながいなくなっていくので余計にそう見えてしまうのかもしれないけど、彼らの喪失がもたらした穴だか壁だかの向こう側にわらわら見えてくる連中ときたら、ゾンビよりひどいし臭いし、なにをだらだら言っているのかというと、そりゃいくらでも悼みますけど、まずは自分を立て直さないと、気がついたらレッドゾーンにいて、奴らの思うままになっちゃうから、そうなりませんように、って。 (わりと必死)


さて、NYの滞在中に食べたものたちあれこれを書いておく。 時間順で。
ふだん朝ごはんは食べないのだが、2.5日しかいないのでとっても切実が止まらない。

15日の夕方に着地してマンハッタンに入ったのが20時、”Rogue One”は22:15開始。
昨年はPorchettaのサンドイッチだったが、まさかのクローズをしてしまったし(涙)、外はマイナス7℃で、ほんとうであればあったかいラザニア(そう、PorchettaがなくなってもPorsenaがある!)て思ったのだが寒すぎるしぜったい映画館に遅れたくなかったので、映画館の近所のShake Shackにしてしまった。 ここは屋外まで列ができていることが多かったのだが、寒さのせいかそこまでではなくて、久々に戴いて、こんなに寒いのについシェイクまで頼んでしまった。 
そういえば日本のはまだ行っていないねえ。

16日の朝、お腹へって目覚めて、映画を見るまえになんか食べたい、になっていたので。

Lafayette Grand Café & Bakery

●Anton Mills Oatmeal, fruit stewed in cognac, toasted almonds と、デニッシュ。

ちりちりの寒さに朝の光がやや眩しすぎたが、オートミールはそれよりもっと沁みてたまんない。
あったかいお粥みたいのにお酒に浸かったフルーツが絡んであったまるよう。

で、ここを出て、どんな寒さでも来やがれ、になった状態で”Manchester by the Sea”をみた。
で、東海岸の海の映画だったので、Clam ChowderのNew Englandだよねえ、と歩いて西のほうに向かってランチを。

Pearl Oyster Bar

●New England Clam Chowder with Smoked Bacon
●Lobster Roll with Shoestring Fries

Grand CentralのOyster BarのN.E. Clam Chowderはいっぱい食べ過ぎて自分の体液の一部になっているのだが、ここのはダシがぜんぜん違うかんじがするの。 Lobster Rollは「時価」ていうのがどきどきで、でもバターがほんのりじんわりロールにでっかい塊(たぶん一匹ぶん?)がぱんぱんに挟まっているので文句いえない。 あと、その上にがさがさ盛られて靴紐みたいにこんがらがった極細のフレンチフライは油と紙一重のスリルがたまんなくてとまんなくなり、あとでじっとり後悔する。

晩は、”La La Land”のあと、22:30の予約が取れたここに。

Augustine

場所は昔は食の不毛地帯だった気がするCity Hallの近所にできたBeekman Hotel(Thompson系列)のダイニング。 フードライターでもなんでもないのでRestaurateurの動勢なんてどうでもいいのだが、Keith McNallyというひとがNYに作ってきたお店のいくつか(ぜんぶは行ってない)はとっても好きで、それはそこで供されるお料理が好き、というより(それもあるけどね)、彼のつくるお店の記憶にのこるかんじ - 壁とかタイルとかライティングとかのほのかな柔さ - がたまんないのだと。

で、デコールは彼の作ってきたお店の典型 - 来たことないのにいつかどこかで訪れたかんじのする、少しノスタルジックな調度が入ったとこからはまって、ああ、になる。 金曜の晩なのでとっても混んでいた。

●Salt-baked oysters
●Spaghetti with Sea Urchin
●Leg of Lamb "Aux Fines Herbes"

お料理もKeith McNallyで、少しフレンチブラッスリー少しイタリアンけっかたぶんアメリカン、みたいな。べつにおいしけりゃいいじゃん、とは言いたくないなにかも、確かにあるの。
ウニのパスタはなんでか今年のトレンドらしいが、あったりまえにおいしかった。麺はふつーの乾麺で、ちゃんとそこそこ硬くて、量もじゅうぶん。 次回はバーガーを狙いたい。

●Armagnac Mille-Feuilles with poached pear, and marinated prunes
彼のお店に行ってデザートいただかないのなんてありえなくて、とにかくハズレはなくて、そのまま酔っぱらってでろでろに崩れて帰れ、ていうことなの。


くどいようだが17日の朝は雪で雨で、でもごはんは食べたいのでUnion Squareのマーケットを見たあとでバスで西に流れてWest Villageのここで食べた。 予約とらないとこで10:00でもぱんぱんで、でも外だと雨に濡れるのでエントランスの隅でじーっと待つ。

Buvette

●Scrambled eggs with chorizo and grated parmesan
本日のスペシャルで、がりがりの堅パンの岩盤にふわとろタマゴの溶岩がかかって、塩辛みたいにチョリソが食いこんでて、そのうえにかつぶしみたいなパルメジャーノがはらはらと。
フレンチだけどね。 もうなんか絶句するよね。だってパンと卵とくず肉とチーズだけなのよ、なのになによこれ。
驚異の、驚愕のレイヤー責め。どのどことの組み合わせしたってぜんぶ溶けてきやがる。

●Tarte Tatin
で、雨でぐしゃぐしゃなんだからデザート食べずに出たくなんかない、と。
すりおろしたリンゴがなんか、胡麻豆腐みたいな特殊技術で固められたとしか思えないような、そういう密度と粒度のたると・たたん。フランスおそるべし。

レシピがあった。 レシピが。
https://houseandhome.com/recipe/buvettes-tarte-tatin-recipe/

パリのお店もぜったい行かねばなるまい。


地下鉄でMetrographに行って、”ParaNorman”みた後で2階のレストランカフェでフレンチトーストたべた。 こんなのが映画館の真上で、午前2時までやってるなんて、入り浸るよねえ。

The Metrograph Commissary

https://metrograph.com/eat-drink/

そして最後の、土曜日の晩はいつものここしかない。

Prune

いつものパイナップル頭のマダムがいらっしゃらなかったのが残念だったけど。

●Snack Tray
●Braised Tongue and Grilled Octopus with Salsa Verde and Mimosa'd Egg
●Braised Rabbit Legs in Vinegar Sauce

ぴょんぴょんうさぎの脚。いっつも思う、Pruneのバターソースの謎。あの絶妙にまろやかな酸味はどこのどういう化学変化によるもんなのかを知りたい。そのなかでほぐれて縒れて泳いでいくうさぎの繊維。

●Salt-Baked Whole Pear
お皿に突ったった洋梨いっこまるごと塩で固めて焼いただけであーら不思議、塩キャラメル風味のお菓子になるの。 日本の洋梨でできるかしら。無理だろうなー。

またきっと来るからね、Prune。

18日の、最後の朝ごはんは、ホテルから歩いていった。日曜の朝なので早い時間からやっているとこはあんまなくて、24時間のにならざるを得なくて、そうするとここくらいしか。

Veselka

Borscht(Christmas Borschtていうのがでてた)を食べたかったのだがまだ準備できてない、というのがショックで、泣きながらホットケーキにした。
おいしいからべつによかった。

こんなかんじ。 今年の食べもんはこれでおわり。 とうぶんなにを食べても反応しなくなるから。

まだなんかあった気が。

12.26.2016

[log] NYそのた1 -- December 2016

映画とアート、と食べ物以外のあれこれ。

行きの飛行機はへろへろに眠くて、新しい映画見る気力なくて、そんなに見たいのもなかったので、ご飯を食べながら”Silver Linings Playbook” (2012)とか見てた。まともな人がただのひとりも出てこない変な映画だけど、なんか好きなの。

帰りは、これ1本だけ見た。 できれば映画館で見たかったが日本の公開は3月だというし、3月なんて。

The Light Between Oceans (2016)

原作の小説『海を照らす光』 - はまだ読んでいない。見たらとっても読みたくなった。
第一次大戦から戻ってきた軍人のTom(Michael Fassbender)は空きがでた孤島ヤヌスの灯台守に自ら望んで赴任して、やがて対岸で見初めたIsabel(Alicia Vikander)と結婚して島で幸せに暮らし始めるのだが、幸せはそんなに続かなくて、子供ふたりを続けて死産して悲しみに暮れていたころ、島に流れ着いた船に父親と思われる男の亡骸と女の赤ん坊を見つける。 本土に連絡しないと、ていうTomに対しIsabelはこの娘は自分たちの子供として育てたい、と彼に懇願して、こうして娘Lucyはすくすく育っていくのだが、本土に行ったとき、夫と娘を海で失ったというHannah(Rachel Weisz)と出会って …

戦争に疲れて灯台守という孤独な仕事を選んだTomと、夫を愛しながらも更に愛する対象として子供を望むIsabelと、不慮の事故で夫と娘を一遍に失ってしまったHannahと、登場する誰もが自分の内側に疎通不能な地獄を抱えてて、それって相対的な不幸の話ではなくて誰も悪くはなくて、それぞれが海に浮かんだ孤島になってて、そういうとき、なにが人を導く灯台になるのか、なにが人にとって光に、救いになるのか、と。

監督は”Blue Valentine” (2010) 〜 “The Place Beyond the Pines” (2012) のDerek Cianfranceで、前2作の鉄条網のようにあがけばあがくほどぐさぐさ刺さってくる愛の地獄のかんじはあんまなくて、そこは原作にある倫理的なトーン、のせいかもしれないけど、まず原作読んでないし。

みんなそれぞれとっても可哀想なのだが、そんなに暗いかんじはしないの。それはたぶん。

(さっき邦題を知って絶句した。ねえねえ、ぜんぜん違うでしょ。なに見てるの? ばっかじゃないの?)


そうそう、LESの映画館、Metrographのはなし。

http://metrograph.com/

平屋の2階建(エレベーターがない、っていいよね)で、1階にシアターふたつ、2階に本屋(もちろん映画関係、古いのも新しいのも)とちゃんとしたカフェレストラン(フレンチトーストを食べたけど、あきれるくらいちゃんとしてた)があって、1階ロビーの大きめのソファも含めてゆったりしてて素敵で、売店にはポップコーンはもちろん手作りお菓子とかサンドイッチが並んで、ポッキーに日本のグミまである。
びっくりするのが受付でただで配っているスケジュールが記されたプログラムの冊子で、なんであんなに豪華でちゃんとしたやつがFreeでできるの? なのだった。

で、プログラムはいくつもの小特集を1日に並行して流していて、行ったときにはLAIKA特集の他にクリスマス映画特集(すごいよ、ばらばらで)に、Maggie Cheung特集に、30日には”PUNCH-DRUNK LOVE” (2002)やるのかー。いいなー。みたいな、いいなー。ばっかしなの。
椅子は沈みこんで寝ちゃうかんじのではなくて木製の背筋が伸びるかんじの。でもでっかくてとても心地よい。

歳とったらここでいちんちだらだら過ごしてあの暗闇のなかでしにたい。
難点があるとしたら、ポップコーンかなー。その場でマシンからハジけて吹き出してほしいなー。

レコ屋は、Brooklynを諦めざるを得なかったのでマンハッタン内の2軒で7inchを数枚、くらいだった。
かわいそうに。

本屋も、17日のごごにMcNally Jackson行って、さらにMast Booksに流れたくらい。
雪→雨の午後のMcNallyはものすごい人だかりでびっくりだった。 ああいう天気のときにいっぱいになってごった返す本屋さん、いいよねー。
雑誌以外では、Lillian RossがかつてNew Yorker誌に書いたTruffautの評論をまとめた小冊子$8。
そういえばこないだおなじシリーズのJohn Hustonのも買ったけど、あれはどこに消えてしまったのか。

Mast Booksでは古本ひとつと、あとこれ。 Susan Sontagの有名なポートレートが表紙の。

https://steidl.de/Books/Lost-Downtown-0708364251.html

Strand Bookstoreにも行った。 Johnny Marrのサイン本、Zadie Smithのサイン本をどうしようか悩んだが、とにかくもう積みすぎなんだから、読む時間ないんだから、と諦める。

あと、金曜の夕方、MoMAのあと、5th AveをのぼってクリスマスのBergdorfに行った。
途中、どんなに嫌いでもTrumpのあそこの前を通らざるを得ない。勝手に道塞いで占拠してんじゃねーよくそったれ、と中指を。

Bergdorfのクリスマスのウィンドウ、今年は例年よかちょっと地味だったかも。
7階でオーナメントを少しだけ買った。

ロックフェラーセンターのツリー、最後の晩のミッドナイトに行ったら、なんと消灯してやがった。
昔はもっと遅くまでやってたはずだ。 しかも向かいのSAKSのライティングも消えてるし。
Anthropologieのディスプレイもやるきねえのか、ていうくらい地味だし。

しょうがないので翌朝、旅立ちの前にもう一回行ってみた。
ツリーのシェイプは、ここ数年でいちばんよかったかも。

[art] Kai Althoff: and then leave me to the common swifts

16日のごご、"Manchester by the Sea"の後でランチしたその後、美術館まわりに向かうことにして、今回は上のほう - Upper Eastはやめて、WhitneyとMoMAにした。
(理由はあんまない。まだWhitneyの新しいのまだ一回しか行ってなかったし、寒かったし、くらい)

Whitneyでみた展示ふたつ。

Human Interest: Portraits from the Whitney’s Collection

一番上のフロアふたつ使って、収蔵品から「ポートレート」を中心に絵画も写真も彫刻もあらゆるメディウムの作品をテーマ別 - 顔、ボディ、路上生活、セレブ、New York、自画像、人のないポートレート - などなどで並べてあって、年代別、アーティスト別でもなくて、動物園とか水族館のように面白いったら。
20世紀初からの、肖像が従来の意味での「肖像」ではなくなっていく/崩れていく過程 - そこには現代史のいろーんな問題 - 多様性、差別に疎外、都市化、近代化、メディアの発達、肥大化するいろんな不安、セルフィ、などなどがあるものはストレートに、あるものは屈折したかたちで反映・表象されていて全然飽きないの。
こういう展示が収蔵品だけでできてしまうって、改めてすごいねえ、だった。

Dreamlands: Immersive Cinema and Art, 1905–2016

Whitneyに行こうと思ったのはこの展示のタイトルだけ見て、映画となんか関係のあるやつかも、と思ったからなのだが、ふだん映画館に見に行く映画との関係はほとんどぜんぜんなくて、タイトルの”Dreamlands”はラヴクラフトのクトゥルー神話からとったのだという。

フロアがいくつもの区画で区切られていて作品ごとにいろんな暗室(光も壁も床もぜんぶちがう)があって座ってみるもの立ってみるもの転がってみるものいろいろで、インスタレーションみたいのから3Dグラフィック動画まで、ものによっては見るのに時間が掛かるやつもあったので、さーっと流す程度で終わってしまった。 夢の国には時間がいっぱいあるときに行くべきってことよね。

あまり知っている人の作品はあまりなくて、Bruce ConnerとかJoseph Cornellくらい。 夢に没入するにはいろんな方法があるしその夢のありようにもそもそもの作り方にもものすごくいろんなヴァリエーションとか可能性とか、あるんだねえ、あたりまえだけど。

寒かったけど夕暮れ近くて光のかんじが素敵だったので外のテラスにも出てみた。
雲の切れ間から光が抜けてハドソン川の一部を照らしていてロマン派してて、こういうとこも素敵なの。

で、そこから地下鉄のEで53rdの5th Aveまで行ったのだが、ホームから地上までの昇りのエスカレーターが動いてなくてよじ登って死ぬかとおもった。自分よかもっと上のお年寄りの人たちも立ち止まってみんなぜえぜえしてた。 そうやって石段を登ってお参りする先はMoMA。

金曜の夕方から晩にかけて、MoMAはユニクロのおかげで入場料タダになる。ユニクロばーんざい。(ぼー読み)

Kai Althoff: and then leave me to the common swifts
(und dann überlasst mich den Mauerseglern)

Picabiaを見にいった同じフロアでやってて、入り口で入場制限をしていたので、なんだろと思って入ってみた。 ギャラリーいっぱいに使ったドイツの人Kai Althoffによるインスタレーションで、会場全体を彼 or 誰かの部屋とかアトリエのように仕上げてこまこまつくりこんであって、デリケートすぎるので一度に入れる人数を抑えてて、写真もだめで。

床とか壁とか至るところに200点以上の絵画とかオブジェ - 普通の絵画の他にドローイング、下書き、落書き、書き込み、チラシみたいの、等々が床に散らばったり立てかけられたり、その床やソファにも布 - 使用後、みたいに汚れてたり - だのなんだのが掛けられ散らばり玩具みたいなガラクタみたいなゴミみたいないろんなモノが散らばり、それらもぜんぶ彼のアートである、と。

近いところだとこないだの写真美術館であった「杉本博司 ロスト・ヒューマン」展に似たかんじなのだが、あれにあった、だれそれの部屋、というとこではなくて、あくまで作家であるKai Althoffの、いま生きている部屋というかんじはする。

絵画を彼のアートの中心に置くとすれば、ドイツ表現主義ふう - Egon SchieleからMax Beckmann - 或いは丸尾末広の漫画あたりまでを思わせるその作風から、こんなふうに脳みその裏側までべろんと立体的に見世物小屋ふうに見せてしまうのはありなんだろうな、て思ったし、実際にものすごくおもしろいのだった。 あそこまで、大小のゴミにホコリにチリまで含めて見せてしまうことができるなんて、相当の粘力がいったのではないか。 ドイツのひと。

こういうよくある「私の部屋」的なインスタレーションって、そいつの体臭まで寄ってきそうな露悪的ではいはいわかりましたよ、ふうになりがちなのだが彼のこれに関しては不思議と開かれているかんじがあって - 「そしてあとはわたしをそこらのアマツバメに乗っけといて」。

なんかおもしろかったのでカタログかった。

Francis Picabia: Our Heads Are Round so Our Thoughts Can Change Direction

今回MoMAに行ったのはこの展示を見たかったから。
入り口に、いい歳した彼が三輪車に乗ってはしゃいでいるでっかい写真が貼ってあって、それが全てを表しているかんじ。
彼のキャリア全体を見渡した今回のような展示は米国初だそうで少し驚いたが、そうなのかもしれない。 印象派でもキュビズムでもダダでも未来派でも、そういう特集展のはじっこには(よくわかんないけど)ほとんど彼の作品は置いてあったりする。 けど、彼の表現が追っていったものって全体で俯瞰してみるとどんなだったのよ? と。

というわけで、初期の印象派の時代に始まって、部屋ごとに笑っちゃうくらい意匠や仕様の異なる作品が並んでいて、しかもそのどれもがそれなりに巧くておもしろいので感心する。

流行り廃りや時々の共演者によって新しい技術取り入れて自身のスタイルをころころ変えて渡っていくミュージシャンみたいに、彼は自身のスタイルを直感的に変えていった、ていうかたぶん、かっこいい! て思ったらそっちに走っていっちゃう男の子の態度で時代やアートに接していった最初の世代のひとだったのではないか。 いまの時代、そういう人はいっぱいいるし、いてもけっ、て思うことが多いけど、この人はそういう形でアートへの関わり方そのものを変える、そういうふうにArtist's Artist、のようなかたちでモダンアートの外延を作っていった、かんじがした。

タダ、ということもあるのか混雑がなかなかすごくて、ほんとはNan Goldinももう一回見たかったし、コレクションに加わった絵文字も見たかったのだが、あきらめて外にでたの。

12.25.2016

[film] Office Christmas Party (2016)

17日の土曜日の晩、Union SquareのRegalで見ました。滞在最後の晩は悲しくて辛くなるばかりなのでバカでくだんない(褒め言葉よ)映画を見ることにしているのだが、これはそういうやつで、昨年も同じように"Sisters"でそれをやろうとしたらまさかのSold outでがっかりで、今度はおなじことを繰り返さないように前日に買っていった。

ZenotekていうIT会社のシカゴ支店でCTOをしているJosh(Jason Bateman)は離婚のごたごたを抜けたばかりで、でも支店は成績よくないので支店長(T.J. Miller)の姉のCEO(Jennifer Aniston)は人員削減とかボーナスなしとかお店取り潰しかもとかパーティもやっちゃだめとか言ってて、そこをなんとかすべく業界内セレブのWalter(Courtney B. Vance)を引っ張って建て直そうとしてて、そういういろんな思惑をすべてひっくるめて、いちかばちかとにかくぱーっとやっちまおうぜ、のオフィスあげてのクリスマスパーティが開かれて、仕切り魔の人事の頭のMary(Kate McKinnon)とか張り切り過ぎてとてつもない大騒ぎに転がっていくの。

DJが入って歌合戦とか恋愛合戦とか下半身コピー/スキャンくらいならわかるが、ドラッグの入った大袋を扇風機の前で弾けさせちゃったもんだからあーら大変、になるの。 こないだみた『ハイスクール マリファナ大作戦』のような全員らりらりのなんでもあり、になる。

で、こんなふうに社内の乱痴気騒ぎに留まらずになぜかロシアのギャングを巻き込んでシカゴの街にまで拡がっていくとこがすごい。割とどうでもよい、ざわざわやかましめの、義理でいるだけみたいなパーティで気がついてみればあんなこととかこんなことが、てなことが勃発しあとでわかってびっくりしたりすることがあるが、そんな無責任に放置された無法地帯の勝手にすっとんでいくノリがあってたまらない。どこかのお店やホテルのボールルームを借りてやるのとは違って自分たちのオフィスでやるパーティだと、このどうせ誰も見てないしやっちまえのどうでもいい感も増幅されて適当に抜けてしまったりするもんだが、その裏ではこれだけのことがこんなにもいっぱい起こっていた/起こりうるのだ、というのを見たいとこ見たくないとこ含めてなかなか丁寧に描写していて、それ故に後半オフィスをぶっちぎって夜の街に飛びだして大停電まで引き起こすそのスケールの拡がりが活きてくるのだった。失礼だけどこんなにきちんと作ってあるコメディだなんて想像もしていなかったわ。

学園モノだと「校長」にあたるCEOのennifer AnistonのとてつもないドSっぷりがたまんない方にはたまんなくて、”Ghostbusters”に続いて「普段はひとり勝手で空気読めない変なひとなのに土壇場でとてつもないかっこよさを発揮するキャラ」を確立してしまったKate McKinnonとか、Joshの部下のOlivia Munnとか、なんか女性ばかりが突出して前に出てくるやつだった。 そもそもは主演のはずのJason Batemanの薄いことときたら。

見終わってご飯食べて部屋に戻ったらSNLでKate McKinnonのヒラリーが"Love Actually"をやっててさー(あれをパロディとは言うまい)。今年はほんもんのヒラリーよりもあんたの1年だったよね、て改めておもった。 この人がいなかったらほんとうに真っ暗の1年だったよ。

エンドロールでNG集もちゃんと流れるの。これこれ。


今年のクリスマスソングは、Best Coast の "Christmas and Everyday”とMelvinsの“Carol of the Bells” くらいだった。
もう終わろうとしてるけど、みなさんよいクリスマスを。

12.24.2016

[film] ParaNorman (2012)

先に書いたように17日、土曜日の朝は目覚めたらびっくりの雪世界で、雪はまもなく雨に変わって夕方まで続く、とか言っているのでBrooklyn行きはとりあえず諦めて、ずっと行きたかった映画館に行ってみる。 丁度お昼にこんなのやっていたし。

朝ごはんを食べたWest Villageから地下鉄のF LineでEast Broadwayまで。 Lower Eastの最深部、近所にはMission Chineseがあって、Doughnut Plantの本店もある。

映画館で映画を見る/映画館に通うことが日常の大きな部分を占めていて、そこを通して世界のおおよそ半分を見たり学んだり呼吸したりしている者は「理想の映画館」ていうのを割とよく夢想したりするわけだが、このMetrograph、ていう映画館はそういうののものすごく近いところに寄ってくるやつだった。 この辺は長くなるのでもうまた後で。

上映前のくだんないCMなんてなくて、かかった予告はこれだけ。

http://www.imdb.com/videoplayer/vi751744537?ref_=tt_pv_vi_aiv_1

トルコの猫映画。 見たいなー。

さて、”ParaNorman”。 この館は35mmフィルム上映が基本なのだが、これはやっぱり3DのDCP。
この12月、ここでは”From Coraline to Kubo: The Magic of LAIKA”ていう小特集があって、イブとクリスマスのお昼にはいよいよトリで“Coraline” (2009)がかかるの。

Norman(Kodi Smit-McPhee)は自分の祖母(Elaine Stritch)を始めとして、いろんな死んだ人達が見えたり彼らと会話できたりしてしまうので少し困っていて、そんなある日、やはり同じように死者が見えてしまう叔父(John Goodman)がNormanのとこに来て、ある日の日没までにある本を読んで町を呪いから守るように言ってそのまま死んじゃって、Normanと仲間たちはなんとか本を手にしてがんばるのだが何故かそいつは効かなくて魔女に呪い殺された7人が墓石を倒してゾンビとして蘇り、町は大混乱に陥って、更に森の奥では伝説の魔女が蘇ってくる。 セイラムの魔女狩りを題材に、これはアニメのなかの話ではなくて、今の世でもごくふつうに起こりうること、のように描いている。

最後の、Normanと女の子の対話のところはほんとうに悲しくて、とても刺さって迫ってくるの。

虐げられていたちょっと変な子がたったひとりで邪悪な何かに立ち向かい、世界を背負って戦ってみると、その邪悪な何かっていうのは実は世界そのものだった … ていうのがちょっとダークなLAIKAの3Dアニメの基調にあるような気がするのだが、ここのも正にそうで、魔女を魔女にしてしまったのはなんだったのか、それはね。 こないだSeattleで見た”Kubo and the Two Strings”にしても、子供にとっては試練と冒険かもしれないけど、ほんとは子供 - Normanと女の子 - にこんな思いをさせちゃいけないのだし、世界をこんなふうにしちまったのは自分たち大人なんだから「彼ら」に謝って反省しなきゃいけないんだわ、て強く思う。

で、ゴミみたいなアニメに塗れた日本ではこういうのはやっぱり上映されない。どれだけ邪悪で腐っているんだ、って。
(ジブリのアニメにあんま乗れないのは彼らが当たり前のように描く大人衆や権力の醜さとか悪さとかって、主人公が戦う相手でしか、安全圏から高みの見物できる奴ら、でしかないからなんだ)

音楽はJon Brionで、ジャンクにゴスに神経線維のちりちりまで濃厚かつ繊細にかき鳴らしてくれる。
アナログのサントラ買う決心ついた。

この日、この映画館、21:00の上映は”Carol”で、結構早くから売り切れてた。 いいよねー。

12.23.2016

[film] La La Land (2016)

16日、金曜日の晩、Union SquareのRegalで見ました。
20分前に行ったら席は半分以上埋まってた。 ガキ共はぜんぜんいないかんじ。

オープニングから昔のテクニカラーのロゴとかのレトロ風味で、ああそういうかんじなのね、と。

車がぱんぱんに糞詰まって身動き取れないLAのハイウェイで、車からひとり降りてふたり降りて歌って踊りながら群舞のうねりに連なっていって、これがワンカットのしゃんしゃんで決まって、終わると客席はみんなわー、て拍手する。ほう、そうくるのね、と。

この渋滞のなか、車と車ですれ違ったのが売れない女優のMia(Emma Stone)と売れないJazzピアニストのSebastian(Ryan Gosling)で、このときはつーんやな奴て互いに無視して遠ざかり、その後、オーディションに行っては失敗しているMiaとレストランでピアノ弾いては追い出されたりしがないウェディングバンドで演奏したりしているSebastianは、出会うべくして出会って、そこから先は歌って踊って恋をして、それぞれの女優になる夢・ピアノ弾きになる夢に向かって突っ走るミュージカルで、なんも考えなくても楽しく見ていられる。 最後はめでたく幸せなハッピーエンド、ではなくてちょっと甘苦いツイストもあって、なるほどなー、ひととひとがくっつくっていうのはー、てきゅんとする。

歌もダンスもふたりの絡みもとっても洒落てて考えてあって、それはNYというよりはやはりLAの街とか建物とか道路の間(ま)とか昼間の/薄暮の/街灯の光とかの開けた空間のなかで見事な弧と輝きを描いて、カメラが切り取る枠のどこにもぴったりの色(Miaのドレスの色)と形にはまるようにデザインされている。(エンドロールでコレオグラフ - Mandy Mooreだって! とざわざわする人たち多数)

クリスマス前、たぶんみんな大好きになるに決まっているデート映画で、あんま異論はないのだけど、あえてなんか言うとしたらね、GAPとかの冬のCMのダンスを延々繋いだだけみたいなかんじもして、それのどこが悪いのさ? ていうのはまだ考えているのだが、物語の底流に流れる主人公たちの「自己実現」とか「ゴールイメージ」みたいな生真面目な根性道とアクロバティックで流麗で軽く弾けるダンスの間の溝が微妙なぎこちなさを生んでいる気がした。 これと同様のじたばたのぎこちなさは監督の前作”Whiplash” (2014)にもあって、(あとちょっと毛色は違うけど、”Silver Linings Playbook” (2012)のダンスとか)、そんなのがんばるのが嫌いなやつの気のせいじゃろ、かもしれないのだが、例えばね、渡米直前までFilm Forumで特集をやっていたBusby Berkeleyのあの怒涛の至福の波状攻撃と比べてみたとき、いったいどこのなにが違ってみえるのだろうね、とか。

おいらは自己実現とか聞くとシラけておちょくりたくなって我慢できなくなくなる80年代のひとなので、ついそんなふうに見てしまうのだったが、監督にとっては80年代のほうがそういう蔑視の対象なのかしら、と”Take On Me”とか”I Ran”の扱いを見てておもった。べつにいいけどさ。

ただやっぱり、歌って踊って恋をすることの掛け値無しの歓びとか、天に昇って突き抜けるような爽快さとか、そういうのにどこまでも、バカなんじゃないかっていうくらい溢れていてほしかったかも。 それだけでひとは何度でも恋をするのだし歌うのだし踊るのだって…  昔のミュージカルが教えてくれたのって例えばそういうことだったのだし。

でも、そういうのぜんぶぶっとばすくらいにEmma Stoneがすっばらしいので黙る。Ryan Goslingは時としてしょうもない薄らとんかちの腑抜けに見えることがあって、これはこの映画に限ったことではなくて - “Blade Runner 2049”が楽しみ - 本人も意識しているんだろうけど、この映画ではその辺がきちんと機能していた、ていうかEmmaのあの瞳に勝てる歌もダンスもあったもんじゃないねえ、て気がした。

あと、とてもLAに行きたくなる映画だった。 今はクローズしているAngels Flightとか、この映画用に動かしたんだって。
ら ら らん。

12.21.2016

[film] Manchester by the Sea (2016)

16日、金曜日の午前10:05の回、ダウンタウンのAngelikaで見ました。
壁の向こうの地下鉄の音がごとごと聞こえてくる(大好きな)シアター。 平日午前なので4人くらいしかいなかった。

なんで日本で公開されなかったのかまったく理解できない青春映画の傑作"Margaret" (2011)、演劇の"This is Our Youth”などを経てついに放たれたKenneth Lonerganの監督作。しかもなんかとっても評判がよいので戸惑うくらい。

このManchesterはみんなが知っている英国のあそこではなくて、アメリカ東海岸、マサチューセッツ州にあるManchester-by-the-Sea、ていう海辺の町の名前。

アパートのSuperintendent(修繕係)をしているLee (Casey Affleck)は住民のいろいろ我儘な修繕・修理のリクエスト(アパートってもともと配管系とかがしょぼい・弱いのよね)にも投げやりな対応しかできないので評判はあんまよくなくて、そんなある日、心臓を病んでいた兄Joe (Kyle Chandler)が亡くなったと連絡を受ける。 親しかった兄の死は彼にとってショックで、車でManchesterまで駆けつけて、その後しばらくすると兄は高校生の甥Patrick (Lucas Hedges)の後見人に自分を指名していたことがわかり(他に船の面倒もみろ、とか)、そんなの今の自分には絶対無理だからと狼狽して、さてどうするか。

父が亡くなり、昔に別れた母とも疎遠でたったひとり残されたPatrickは驚くほど冷静に死を受けとめていて、忌引も取らずに学校に行ってホッケーの練習しようとするし、Leeにも自分は大丈夫だしあと2年で後見人不要になるんだから放っておいて、といい、おろおろ狼狽えて途方に暮れるLeeの逡巡のほうがだいじょうぶかよ、なかんじで、そのぎこちない叔父と甥のやりとりの合間に、Patrickがまだ幼い頃にみんなで船で海に出ていた頃の思い出とか、なぜLeeはManchesterから離れた土地でひとりで暮らしているのか、といった事情とかがLeeの脳裏に次々と現れてパニックを引き起こしたり、ほんとに危なっかしい。

ぼろぼろでしょうもないLeeの後見人としてしっかり生きなきゃ、という日々と、Patrickのいろいろあるけどしっかり生きよう、てガールフレンドふたりとデートしたりバンドしたりホッケーしたりふつうに青春する日々を交互に追いつつ、大切なものを全て失って行き場のない荒んだ男と、始めから空っぽでどんなものでもまずは受けとめようとする若者の互いにぜんぜん望んでいない、まったく噛み合わない出会いとすれ違いとぶつかり合いと、しぶしぶへなへなのぎこちない抱擁を描く。
みんなが彼らの元を去っていく、でも傍にいてくれる人もいるよ、船もあるよ、寒くてきついけどね。

登場人物はそんなにいない、場面やストーリー展開にもあまり動きはなくて、最後にすごい落としどころやどんでんがあるわけでもなくて、これで137分。 なのにあっという間に過ぎてしまう不思議。("Margaret"は150分あって、これもあっというまよ)
なんとなく、小津の映画みたいなかんじもした。 釣りの場面とかあるし。

無頼の野良猫で得体の知れないCasey Affleckがほんとうに見事で、彼の元を去った妻Michelle Williamsもいうまでもなくて、Patrick役のLucas Hedgesのなんにもない軽さもよいの。 Casey Affleck、アメリカの俳優にはあまりないタイプ - Vincent Macaigne型の変態を演じることができそうなかんじの。

映画に出てくるわけではないのだがNew England Clam Chowderが無性に食べたくなって、このあとお昼に食べた。

12.20.2016

[film] Rogue One (2016)

19日のごごに成田に着地しました。
ぜんぜん寒くなくて、それだけでつまんなくてくるっと回れ右して引き返したくなる。

15日木曜日の晩、Times SquareのAMCでみました。
今年はいくつかのシアターで座席指定ができるようになったのでよかった(でも発売日には予約できなくて出遅れてなー)。 座席早いもんがち方式だと、この寒さのなか時間帯によっては外で並ぶことになってなかなかスリリングなの。それはそれでお祭りで楽しいけど。

上映前の予告は来年夏迄の大作の予告を延々、ほとんどIMDbとかで見ていたやつでもでっかい画面で見るとぜんぜん違うわ。
いちばん「あーあー」が出ていたのはもちろんMichael Bayのあれね。

さてRogue One。これ、ネタバレもくそもなくて、主人公達のミッションは完成間近のDeath Starの設計情報を盗んでくることと明示されていて(それが達成されたこともわかっていて)、時間的にはEP4の直前までの世界を描いていて、ここに出ている人たちはEP4の時にはどこにもいないわけだからつまり… というあらかじめ相当きっちりと仕切られた(限定された)設定のなかで登場人物たちはどこまでどう暴れてEP4への遷移も含めてすんなり納得して貰えるのか、これが正の「外伝」としてうるさいマニアの連中に認められるのか、が勝負で、ていうか、これはシリーズ化されないことが既に宣言されているから勝負もくそもないわけだが、出始めているレビューは当然のようにだんだら模様で、そんなのは最初からわかっているので、好き嫌いだけでいうと好きなほうなの。 監督がGareth Edwardsで脚本がChris Weitz - 冷酷非道の世界にも人間万歳の世界にもじゅうぶん浸りきれないちぐはぐでほんの少し崩れた世界を描いてきたふたり - なんだから支持しないわけにはいかない。

幼い頃、目の前で父親を連れ去られて、反乱軍過激派のSaw (Forest Whitaker)に育てられたJyn (Felicity Jones)がCassian (Diego Luna) にぶつかって、Death Starの設計情報を盗むべくRogue Oneを組織して帝国のセキュリティの前線基地につっこんでいく、これだけのお話。 Rogue Oneには元帝国軍のパイロット(Riz Ahmed)とか座頭市(Donnie Yen - かっこいい)とか鉄砲撃ち(Wen Jiang)とかロボット(K-2SO)とかその他ボランティア参加のならず者たちがいて、こういうのの見どころってこいつらがどれくらいしょうもない不良の腐れた愚連隊なのか、だと思うのだが、なんかみんな割といい人たちっぽくて、つまりそれだけ帝国が極悪非道、ていうことなのだろうけど、それでももう少しはダイバーシファイしてもよいのでは、とか。

基本はレジスタンスのゲリラ戦で、Forceもレーザーブレードもあんま関係ない。Star Warsサーガの世界観の中軸にあってあの世界を二分していたForceの要素がない(いちおう座頭市が念仏のように唱えている、くらい)ので、ドラマは正に兵力・軍事力による数や力の差が全てを決めるように動いていて、そこにおいて圧倒的に不利なRogue Oneがどこまで刺さって撹乱して戦えるのか、がポイントで、だからつまり、帝国のシールドをどうやったら破ることができるのか、データはどこに置かれていてどんなパスワードでガードされているのか、どうやってデータを自分達の側に伝送できるのか、とかが決め手になって、つまり、SFていうより今のふつーの戦争とあんま差はないかんじ。

帝国側に奪われてしまった父親を取り戻す/取り戻したいというJynの強いエモが底流にある、というところからEP5 - EP6に、特に全てが塞がれて潰されて敗走していく、という点では「帝国の逆襲」に割と近い、という指摘はたぶん当たっているのだが、個々のエモや想いがややばらけていて大きなうねりに撚りあっていかないところがなー。 あのラストに不満はないけど、もっともっとドラマチックにできたよね。 で、そういう悲愴感の反対側でならず者たちの軽妙で適当でユーモラスな、でも過激な破壊工作をいっぱい見たかったよなあ、とか。

ホークスやペキンパーだったらどんなふうに撮っただろうか、ていうのは無理な妄想かもしれない、でもそこまで行けたような。 Leigh Brackettさんの魂をここに ー。
でも全体としては、なんか悪くなくて、少しほっとした。あっちまで飛んでいった甲斐はあったというもの。

でもなー。 あんなふうにデータ保管するかよ、90年代の方式だよ、あれ。 データ伝送も線引っ張ってワイヤー結線しないとだめなの? とか。

EP4の画の世界に直結したかのようなノスタルジックなかんじはなんだろう、と思っていたら、EP4の頃の素材を加工して使っていたと(by HelloGiggles)。
でもそれならさー、反乱軍のパイロットにWedgeがいないよ。 EP7はしょうがないけど、ここにはいないといかんでしょ。

上映後の拍手はEP7の終わったときよか大きかった。 また見よっと。

12.18.2016

[log] December 18 2016

すべての、いつもの週末や夏休みや冬休みがそうであるようにとにかくあっという間に過ぎ去って飛んでいってしまい、すべての、いつものウィークデイのお仕事がそうであるようにとにかくあたふたじたばたするばかりでなにひとつ達成できない感たっぷりの不満たらたらで終わる、そんな(約)3日間だった。 ほんとに毎度のことながら。そしてこれもいつもと同じように、何ごとも起こらなかったかのように次の計画に着手し始めるしかないの。 カラカラを喜んで転がし続けるハムスターみたいに、これをもう10年くらいやってる。 きっとしぬまでこの状態でいくんだわ、かわいそうに。

とにかく土曜日の朝、起きたら8:30(いつもであればぜったい早く目覚めるはずだった)で、さらに外を見たら雪、の二重の致命傷が致命的だった。雪がやがてびじょびじょの雨に変わって、あれで地下鉄を中心とした機動力は剥奪されて、Brooklyn行き - つまりはレコ屋巡りの愉しみはなくなって諦めて、靴先びじゃびじゃになりながらマンハッタン歩き回るしかなくて、結局のとこ、映画はごほん、美術館ふたつ、本屋3、レコ屋2 - 7inch数枚だけ - そんなもんだった。 食べもの関係は不思議と当たり。 そういうもんよ。

木曜の晩、金曜の晩の氷点下の寒さはなかなか痺れてたまんなかったのだが、雪と雨のあとは適度に緩んでしまって、これもがっかりのひとつだった。雪と雨のあと、せめてがりがりつるつるの氷地獄がやってきてくれたら氷のうえで滑って転んで絶命、でも本とレコは決して手放しませんでした、みたいにうっとり素敵なことが。

土曜の晩、ロックフェラーセンターのツリーを見にいったら消灯していたのもショックだった。
むかしはもっと遅くまで点いていたよね。

日本帰っても周りはインフルエンザばかりみたいなので、無理して飛んでくれなくてもいいんですけどー、て一応言ってみる。 こないだみたいに滑走路上で4時間、みたいのだけはやめてね。

ではまた。

12.15.2016

[log] December 15 2016

しわす.. とか言われただけでううううるせえ穴にもぐってだまってろ!!  って怒鳴り返したくなるくらいにばったばたでなにもかも嫌になりすぎてバケツ被って途方に暮れたところで、そういえば去年は公開される週の木曜日の晩に飛びたったもんじゃのう、と思いだし、逃げたいなー行きたいなーとちらちら舞う雪のように海の向こうのことを考えはじめたところで、あらぬ方角からひとを簀巻きにするような猫をかん袋におしこむような話が現れて、今年はほんとうに沢山の大切なひとが亡くなってさんざんのさいてーの1年だったけど、そういうのをふっとばしてくれるのか丸めこんでくれるのか結局のところ棺桶行きなのかよくわかんないけどやっぱり行こう・行きたい - どうせSuicide missionのお話しなんだから、Suicide missionでいったれ! とクリックしてみたら意外と簡単にチケットとか取れてしまい、仕事場ではこわごわ2日と半日休みますけど、と言ってもだれも目をあわせてくれないもんだからもういいや、って成田まできました。

昨年とまったくおなじ、木曜の晩に飛びあがって木曜の晩に着地して、22:15の回の映画を見て(まったくの偶然で劇場はちがうけど、去年も22:15の回だった)、日曜のお昼の便で向こうをたって月曜の夕方に戻って、そのまま年内は会社は行くけど脳みそほぼしんだ状態でおわる、あるいは現地で白目むいてしんじゃうかもしれない、Rogue Oneだから、そんなんでいいの。 

寝る時間をのぞけば30時間もないくらいなので、いつもと同じように東西南北を走り回ることになって、見られるものを見て、食べられるものを食べて、買うものを -  になる - 映画は木曜の以外ではできれば3本、ライブは無理 - のだろうが、本とレコといったお荷物に関しては今回ある事情によりちょっと控えることにしたほうがよいのかもしれなくて - いややっぱしそんなの無理だね欲しいの見つけたら買うよね、とか、ひとりでずっと押し問答して止まらない。

忙しいとかへろへろとか、そういうのはしょうがないけど、誰もがぶつぶつ言っているようにこの2016年はほんとうにきつくて辛くて救われない、今だってシリアとか胸がつぶれそうだし、これからよくなるとも思えないし、このまま年を越して、ジャバ・ザ・ハットの数百倍醜悪なあのガマガエル野郎に自分のだいすきなアメリカとNYがやりたい放題やられてしまう前に(やられないけどな、そう簡単には)、その(自分にとってはしばし)最後の輝きをあたまに留めてあそこのクリスマスツリーにお祈りをしておきたい、ていうのはある。 どうせRogue Oneなんだし。

到着するあたりのタイミングですごい寒波がくるらしい。
きてほしい。 ぜんぶ凍らせちまっておくれ。

あと、このタイミングでこの円安はなに?

あ、行き先はNew Yorkだよ。

12.14.2016

[film] Niewinni czarodzieje (1960)

12月2日の金曜日の晩、新宿のポーランド映画祭で、一本くらい見なきゃ、ということで見ました。

今回はアンジェイ・ワイダ特集で、企画を進めていたら監督が亡くなってしまいそのまま追悼特集になってしまったのだと。
で、上映前に今回の特集に向けた監督のインタビュー映像が流れて、これが追悼として流れちまうとは、って監督は天国で憮然としていると思うわ。 背後でずっとばうばう吠え続けているわんわん達はきっとなんか警告していたんだよ。

『夜の終りに』 英語題は、”Innocent Sorcerers”。

イエジー・スコリモフスキとイエジー・アンジェウスキーが脚本に参加している、ということだがとてもそんなふうには見えないなかなかぼんくら系、ふぬけた青春映画。

散らかったアパートの一室でバスローブを着た若者バジリ(Tadeusz Lomnicki)が髭をそったり電話したりしてて、とっても自信家のかっこつけ野郎ふうで、これから身支度して出かけようとするところ。 彼はリングサイドドクターらしくて、仕事場に行ってもボクサーみたいな足さばき口さばきで適当に仕事をやっつけて、そのままクラブみたいなとこになだれこんでバンドでドラムを叩いて、ひとりかわいい娘をみつけるのだが、彼氏と一緒だったので、相棒に指令だして男のほうを車でどっかに連れ去ってもらい、彼女を自分のアパートに連れ込むのだが、女の子のほうもなかなか一筋縄ではいかなくて、部屋から突然消えちゃったりしてなんなのでしょう、どうしろってんでしょ、ていう夕方から朝までのおはなし。 
「罪のない魔法使い」 - 魔法にかけられたやつの負け惜しみよね。

なにかに追われているわけでも目的地に向かっているわけでもないのだが、ずっと主人公の後ろ頭を中心にえんえん追っかけ続けるカメラからは止まってしまうことへの、或は終わってしまうことへの問いとか焦燥とか、やっぱしこうあるべきなのではないか、みたいなのがじんわり滲んでくるかんじはして、つまりは、例えば、”Slacker" (1991)に始まるリンクレイターの時間と町と女の子をめぐる諸作の源流として、あそこまでの計算づくはなさそうだけど、なんかあるのかもしれない、とか。 スコリモフスキの果てなく終わりのないかんじとか。

当局の検閲で相当ひっかかった、と上映前のインタビューで監督は言っていて、でもそれらのシーンはあんまピンとこないのだが、そういうもんなのな。

マッチ箱を宙に投げて立った転んだで服を脱がせる/脱いでいくゲームをふたりがやるとこが出てきて、おもしろいねえ、と思ったけど、結局脱がせないのね、ありえないわよね。

夜明けの探索のシーンでバンドの連中がでてきて、そのなかに音楽担当のコメダもいる、あとどこにいたのかポランスキもいたらしい。 いろんな連中が混じっていた朝までの青春で、そういう青春はいつも朝までで白々しく終わって、終わらない。

12.13.2016

[film] Miss You Already (2015)

4日の日曜日の昼、日比谷でみました。

邦題は例によってあれだし(「マイ・ベスト・フレンド」?)、友情ものも難病ものもタスキ掛けで泣かそうとしてくるようだし、ふだんならぜええったい見ないようなやつなのだが、Drew Barrymoreさんが出ているので見る。 彼女のインスタとか見てると、もう女優やらなくなっちゃうんじゃないか、て思ったりして、そういうのを考えただけで、頭ぶんぶんして見ておかなきゃ、になってしまうのだった。
で、実際、Drewのとんでもなさを目の当りにする。リアルな不機嫌をまき散らすことができる女優さんはいっぱいいるさっこん、彼女みたいのはそういないんだから。

冒頭、お産のヤマがきてひとり絶叫してもがきまくるJess(Drew Barrymore)に助産婦さんが誰か会いたいひとはいる? て聞いてJessは、”Milly…”って言って、そこから回想にはいる。

JessとMilly(Toni Collette)はJessがアメリカから転校してきた子供の頃からずっと一緒の親友同士で、大きくなってMillyは頭かるそーなパンク寄りミュージシャンと子供ができて結婚して、Jessはガテン系の採掘熊男と結婚して、でも子供はできなくて、そんなある日、Millyが乳ガンの宣告を受けて、化学療法とかをはじめることになって、最初のうちは治ることだってあるし、と家族でがんばるのだが結果はよいほうには転ばず、他方で不妊治療をしていたJessには子供ができて、でもMillyのこともあるから言えないままで。

豪快でエモまるだしでなんでもすぐ顔と言葉に出してしまうビッチ系のMillyと、そんなに強いわけでもないのにMillyが攻めまくるもんだからなんでも図太く受けとめざるを得ない聖母系のJessとのそれぞれの一大事を巡るやりとり - このへんはコメディて言ってよいと思う - がスリリングでおもしろくて、でも終盤の絶対にくるとわかっている別れのところはきついけど黙って泣くしかないの。

しかしまあ、Drewの女優としての懐のでっかさ、というかとんでもなさときたら。こんなの、いくらでもべったべたの泣きまみれ坩堝に落とすことだって簡単だろうに、彼女は決してそうさせない。 親友の体をぼろぼろにしていくがん細胞を見つめつつ、自分の体内に現れた自分のとは異なる細胞の塊を見据え、そのどちらにも等しく暖かい眼差しを注いで、やってくるお別れにはなにもかも解った顔をして、でもなにもわかっちゃいないんだ、ていう不安で爆発しそうになって、でも最後の最後まで泣かない。

Jessの動じないかんじは、結果的にはああするしかない、というものであると同時に、その内側でものすごいこんがらかった葛藤の毛玉を抱え込んでいて、ふたりが抱擁するとそれがポケットからぽろぽろこぼれてくる。 彼女はMillyのために泣くんじゃないし自分のために泣くのでもなくて、取り返せない、戻ってこないなにかのために泣くんじゃなくて - “Miss You Already”だから -  ふたりが一緒にいるいまのここ、その瞬間のためだけに泣いてて、そんな紙一重の演技ができるのは彼女だけなんだよ。

酔っ払ってやけくそになったMillyがJessと一緒に「嵐が丘」のHaworthに行くぞぉ!って夜中にタクシー捕まえてぶっとばして、ラジオから流れてきたR.E.M.の”Losing My Religion"を運転手も入れて肩を組んで歌うとことか、たまんないの。 この歌がどんな状況のなかから出てきたどういう歌か、を思うと更になんか… (泣) 最初に聴いたときはあーあR.E.M.もつまんなくなっちゃったなーて散々ぶうぶう言ったものだが、いまはしみじみいい曲だなあっておもって、”Out of Time”の25th anniversary盤を買おうかどうしようかと。

あと、Toni Colletteさんもあたりまえのようにうまい。のだがとにかく、顔演技がすごすぎて。

物語としては、Jessのお産をSkype経由で見守った夫の乗る荒波のむこうの石油採掘船も悪天候でやられちゃって、Jessはひとりぼっちに … というのもありだったのではないか。 そしたらNicholas Sparksになっちゃうか。

12.12.2016

[music] Ryan Adams

12月9日の金曜日、いつものように新木場なんてかんべんして、と泣きながら7時ちょうどに小走りで滑りこんで、みました。

彼のライブを最後にみたのは”Rock n Roll”を出した直後(2003年...  13年前て… )くらいで、やたらきんきんぶっとんでいて面白かった記憶があるが、その後の彼の変遷を追っていってもとてもおもしろいし外れないにきまってるし、新譜リリース前の新バンド編成だというし。

バックはキーボードとドラムスとギター1、ベース1で、ものすごく普通の、よい音を聴かせるための編成で、それは彼の音楽がそもそもそうで、ここ数作の、奇をてらわずにソングライティングとアレンジに注力して、売れているんだかいないんだかわからないが、とにかくすばらしい音楽を作ってリリースして歌ってそれらを繰り返すことに関して、止まらないことに関してはNeil Youngくらいのレベルまで行っていると、強く思っている。

そういうわけで、ステージに派手な演出やライティングがあったりバックに変に目立つひとがいたりすることの一切ない、遠くからだと彼の表情すらはっきりうかがうことができない、彼から唯一注文がでたのは最後のほうで、お願いだからカメラのフラッシュ焚かないでほしい、という慎ましいのがあったくらいの地味な地味な流れがあるのみ、音もボトムはバスドラのゆったりとしたキックを中心に深く濃い青緑(色でいうとたぶんこう)の澱みの壁ができていて、そこに2台のギターがじゃりじゃりと切りこんで、その奥で時折力強く刃のように魚の背のようにギターが蠢き閃く、そんなふうで、いったんこの深みに耳をはめてしまうと、あとはひたすら気持ちよいばかりで抜けられず立ちあがれず涎をたらすしかないの。

一曲目からこないだ発表されたばかりの新曲 - ”Do You Still Love Me?”で、他にも新譜からの新曲は結構あって、"New York, New York"も"Come Pick Me Up"もやらず、あとはCardinalsとの曲も多くて、たぶん新バンドでの編成ていうのを意識したのだろうが、でもそもそも盛りあがって一緒に歌ったり踊ったりする系の音ではないし、突っ立ってぼーっと聴いているだけで滋味がしみて、あったかくなる、そういうやつでした。 
( でも”SYLVIA PLATH"は聴きたかったなー。 “1989”からも1曲くらいは聴きたかったなー )

とくにすばらしかったのは終盤の"I Love You But I Don't Know What To Say"〜 "Cold Roses" 〜 "When the Stars Go Blue" 〜 "Wonderwall" の流れだろうか。 このひとの"Wanderwall"は何度聴いてもOasisのよかだんぜんよいとおもう。

(お空にお願いしたとおり)ミラーボールの星がぐるぐる瞬いてまわる"When the Stars Go Blue"を聴けたのでそれだけで十分で、天井を見あげて今年の締めはこれでいいんだ、になった。

本編約90分、アンコール1回2曲。 理想的な映画の長さとおなじくらい - 見終わったあとでああ夢のような時間だったわ、てしみじみ思えるような、そういう経験がそこにはあったの。

今年のライブはこれでもう終わりだろうなー(嘆)。

[film] 俠女 - A Touch of Zen (1971)

11月27日の夕方、有楽町でみました。 
フィルメックスで1本くらいはみたいかも、て思っているうちに最終日になっていて、ほとんど最後のほうに滑り込んだ。
コンビニでチケット買わされて、幕前にたけしの説教臭いCMばかり見せられる、そんな映画祭な。

70年代の中国の格闘劇、昔リンカーンセンターでリストアされた同じようなのを見た記憶があって記憶を掘ってみたら、なんか違ってたもよう。  
これ、原作は「聊斎志異」なのね。 部屋の本棚の奥の奥の、中国の奥地みたいに届かないどこかにいるはず。

冒頭、白い蜘蛛の巣が闇夜に怪しく瞬き、中国の人里離れた山奥になんとか砦ていうのがあって、むかし何があったのか寂れて廃れてぼろぼろの一角に母親と独り身の息子が暮らしていて、息子は町に出てバラックの一角で肖像画を描いて生計を立てている。ある日少し身なりのよいお武家さんみたいな男が訪ねて絵を描いてくれと言って、はいはいと受けて、そのあたりから砦の周囲も含めてざわざわ騒がしくなっていく。 砦では突然よぼよぼの老婆とものすごくきりっとした若い娘が隣の廃屋に住み始めて、母親は嫁に貰えとせっつくのだがあっさり断られて、でもそんなことでくよくよしていられないくらい周囲は更にざわざわしてくる。

やがてその娘は国の偉いとこのお嬢さまで、官僚の間の覇権争いで父親は殺されて、追手から逃れてきたようなのだが、砦のまわりにも不穏な影が蠢きはじめて、娘のまわりにも味方がぽつぽつ現れ、肖像画描きからすればそんなの勝手にやってろ、なのだがなんとなくお嬢さまのほうについて、でも武力のほうは全くだめなので知恵(でもたいしたことないのがなんとも...)をだすことにして、砦を囲んだ敵方とぼろ屋の扉・壁の裏表、藪、獣道、などなどを潜ったり隠れたり襲ったりの攻防が繰り返されていく。

70年代の中国のこういう映画にある至近距離、血まみれの痛そうなぼこぼこの殴り合い肉弾戦にはならずに、カメラは相当な遠くでじたばたしている人影とランドスケープ - 蜘蛛の巣にひっかかる虫みたいなシルエットをとらえようとする。 闇夜の雨風、虫や鳥のざわめき、夕刻の光の層、その縞々と、そこに渦を巻く殺気に妖気に邪気に侠気 - いろんな気配と、それらのコントラストを切り裂いてカンガルーみたいにぴょんぴょんものすごいスピードで跳ねまわって敵を倒していく剣客たちのシルエット - 全体としてとっても美しい円舞になる。

終盤の引っぱりかたもすごくて、森の奥からジェダイのような僧侶たちが現れたあたりから敵味方も善悪も超えた彼岸での延々終わらない闘いになだれこんで最後には空(くう)が見えてしまうかんじ。- “A Touch of Zen”ていうのはそういうことね。
銃や矢ではなく、自身の体を飛び道具にして闘う反重力/無重力の世界、そこにおいて権力だの妄執だのなんて一体なんになるというのか、とか。

あのお嬢様の目、すごいねえ。
1月の終わりにユーロスペースで公開されるらしいが、”Dragon Inn”、見たくてもその頃はたぶん …

12.07.2016

[film] The Childhood of a Leader (2015)

27日、日曜日の昼間、日比谷でみました。 『シークレット・オブ・モンスター』

まずはなんといっても、冒頭から炸裂するScott Walkerのスコア - がじがじのゴスオケがとんでもなくすごいので、まずはそれだけでも。 日比谷のしょぼい設備でもあんなだったので、鳴りのいいとこで浴びたら鼻血に耳血に。

1919年、ヴェルサイユ条約締結のためパリ郊外の古屋敷に滞在しているアメリカ人官僚の一家がいて、不在がちで厳格な父(Liam Cunningham)と、数か国語を話せる少し謎めいた母(Bérénice Bejo)と、小学生低学年くらいの男の子Prescott(Tom Sweet)がいる。 最初のほう、教会の仮装劇のあとに何が気にくわなかったのか暗がりから関係者たちに石を投げて捕まって、こいつは問題児なんだな、ということがわかって、その後、Tantrum(癇癪) 1 〜 3までの各章で、主に彼の母、メイド(ばあや)、フランス語の家庭教師(若い娘)と彼との間の不機嫌や諍いを経て癇癪が弾けるさまが並べられていく。

基本は子供のおむずかりなので、なんか気に食わなかったんだろうな、くらいで、映画を見る限りでは明確な理由づけも説明もされるわけではなくて、それの後処理についてもこっぴどく叱って矯正した、みたいなところもないので、放置された癇癪玉が閉ざされた環境のなかで膨れあがっていったんだろうな、くらいのことはわかる。

Prescottの挙動、目つき、言葉遣い、などなどから彼の内面にある邪悪さ、不寛容、頑固さ、強靭さ、等々はうかがえるものの、周囲の大人たちもそれなりに腐れているので、それらがカルト・オカルトを孕む映画っぽい惨劇に転がっていくことはなくて、だからいっつも突っこんでわるいけど邦題の『シークレット・オブ・モンスター』の「シークレット」が明らかになるわけではないし「モンスター」なんて欠片も出てこない。 後に独裁者になってしまうかもしれない男の子供時代はこうでした、というだけで、でも、だからこそいろんな想像が広がっていく。 彼はあの後、父と母をどうしたのか、アメリカ人という箍をどうしたのか、とか。

いろいろ不安定な戦時下、不機嫌を増幅させていくガキ、というと「ブリキの太鼓」(1979) があったりしたが、あれは大人になることを拒否した子供の話で、こっちは子供であることを拒否した子供の話、という簡単な区分けは、例えばできるのかもしれない。 あるいは成長を歪めてしまう戦争という装置とか。 いや、でも、そんな単純なもんでもないでしょ、あのぐずぐずした天気と荒んだ土地とあの古屋敷があって、とぐろを巻いた親たちがいて、頭の奥であんな音が鳴っていたら、大人だって子供だって十分蒸されてできあがってしまうのではないか、のような描き方をしているところがよいの。

で、最後に出てきたあのハゲが”Leader”なの?  東條英機かとおもった。

とにかく音楽が。

あーあ。SWANS …

12.06.2016

[film] Louder Than Bombs (2015)

11月26日、土曜日の昼、渋谷でみました。 『母の残像』
“Louder Than Bombs”ていうとThe Smithsの87年のコンピレーションなんだけど。

冒頭、Jonah (Jesse Eisenberg)は子供が産まれる妻の病院にいて、外に食べ物を買いに出ようとしたところで昔の彼女に出会って、彼女は同じ病院にいる母を見舞ったところでめそめそしていて、あなたもなのね...  ってJonahのことを慰めてハグしてくれて、Jonahはとっても気まずくなる。
そういう小さくて微妙な気まずさが、ひとつの家族のなかでそこらじゅうに転がっていてなんだかとっても愛おしくなるの。

Jonahの母親Isabelle(Isabelle Huppert)は戦地に赴く報道写真家で3年前、地元に戻っていたときに自動車事故で亡くなってしまう。 彼女の回顧展の準備で、遺された作品の整理(+育児でやかましい妻からの逃避)のために実家に戻ってきたJonah - 大学で社会学の教授になることが決まっている - の彷徨いと、思春期なのか少しぼんやりして危なっかしくなっている次男のConrad (Devin Druid)と、そんな彼をどう扱ったらよいのかわからずおろおろ見守っている元役者の父(Gabriel Byrne)のすれ違って気まずさだらけの日々 - その中心にはまだきちんと受けいれることのできない母の死が ...  を描く。

そして母の死についても事故だったのか自殺だったのか、自殺を仄めかす視線で彼女の追悼記事を書こうとしている同業者 - あとで彼女と関係があったことがわかる - とのやりとりとか、そんなこと何も知らないConradに与える影響はどうなるんだとか、そもそもなんでいなくなっちゃったんだよう、とか、ぜーんぶ彼女のせいにする。 彼女が戦場の取材のとき至近距離で炸裂した爆弾のように暴力的に鳴り止まない耳鳴りのようにずっとわんわん襲ってきて止まない。

ただ全体としてはみんなどん底で苦しんで救いを求める家族も修羅場のぐさぐさ大喧嘩もなくて、地雷原をこわごわ避けながら互いにそうっと近寄ったり遠ざかったり、ちぐはぐで噛みあわない家族を遠くから透明な目線(幽霊?)で眺めているかんじ。 これをさらさら緊迫したドラマとして成立させている俳優さんの演技がすばらしい。 でも地雷は。

Conradがパーティで酔っ払った女の子を夜明けまで歩いて送っていくときのどうしようもない/どうすることもできない底抜け途方に暮れたかんじがたまらない。 ここの数分間だけでとてつもない青春ドラマになっている。
これと”Every Thing Will Be Fine”と”The Childhood of a Leader”で11月に見たお小便3連作(最後のはおねしょだけど)になるの。 どれも意味ある放尿。

そしてIsabelle Huppert。 口をひんまげてつんとした彼女の顔、好きだなあ、て改めて思った。

ノルウェイ映画なのね。 ロケ地はスタテンらしいけど。

12.04.2016

[film] Fantastic Beasts and Where to Find Them (2016)

11月23日の夕方、公開初日に新宿でみました。 どうせだからIMAXの3Dで。

うん、おもしろかったよ。
変な動物たちがうじゃうじゃ湧いてでて20年代のマンハッタン中が大騒ぎになるの。それだけなの。

いちおう大騒ぎの背景には、魔法動物学者のNewt Scamander (Eddie Redmayne) - ついScavengerって言ってしまう - の運ぶトランクケースから逃げた魔法動物たちとそれを追っかける地元の魔法使いたち + 人間1匹(人間は”No-Maj”ていうの )のお話と同時期に行方不明になった指名手配中のヨーロッパの魔法使いの話と、そのふたつの狭間で人間との間にこれ以上厄介ごとを持ち込みたくないNYの魔法使い連合 vs. 魔法使いまっぴらごめんの人間側の過激派組織の話が三つ巴でごちゃごちゃと。

いろんな人種の人たちがいろんなところからやってきて、いろんな歴史とか宗教とか念とか声とかが吹き溜まって唸りをあげるNY - マンハッタンという場所、しかもその狂い咲いた20年代に、魔法動物(Fantastic Beasts)の多様性とか、人種問題とはちょっと性質の異なるヒトと魔法使いの確執を絡めるのは、ホグワーツ魔法学校という人里離れたひとつの場所 - 閉ざされた学校組織での愛と憎しみと抗争の起源と歴史と子供の成長を掘って掘って掘り下げたハリポタ神話の後には丁度よいのかもしれない、とか。 こっちはゲゲゲの鬼太郎みたいに変な妖怪を探して捕まえて袋につっこむだけだから。

トランクの奥に魔法動物のサファリパークみたいなのがひろがっている、普通のビルの奥に魔法使いの要塞がひろがっている、ていうのはNYではいかにもありそうで、この魔法の箍が外れてこいつらみんなが幽霊に変態して暴れ始めたのが”Ghostbusters”に出てくる奴らね。これから残りの4部をかけて80年代まで転がっていってほしいところ。  あと、同じく80年代に現れて町を大混乱に陥れたGremlinもこいつらの仲間でしょ? (そういえば日本の80年代には「帝都物語」ていうのもあったねえ)

たぶんもう少し後の世になると、この作品が2016年の世界に放たれた「意味」はくっきり明らかになるのだと思うが、いまはあんましそういうのは考えたくなくて、あのカモノハシみたいなやつかわいー、とか、あのふんころがしでっかいー、とか、わーわー騒いで楽しんでいたいの。

とにかくどうせ最後には記憶を消して壊れたものもぜんぶ戻してなかったことにできちゃうんだから、こんな素敵なことってないわ。 ああ魔法使いさん、今年起こった嫌なことぜんぶなかったことにして …

人間代表として出ていたKowalski役のDan Foglerさんはとってもがんばっていてよかったが、たまにああこれがJohn Candyさんだったらどんなに … とか思ってしまうのだった。

あと、最後の魔法使いの人相が変わるとこはなんか芸がなさすぎるわ。 ただのおなじ犬顔じゃん。性別くらい変えてみろって。

12.03.2016

[film] Julieta (2016)

11月23日のごぜん、新宿でみました。

もうそんなに若くないけど美人のジュリエッタ(Emma Suárez)は住んでいるアパートで片付けをしていて、恋人のロレンソ(Darío Grandinetti)のいるリスボンに引っ越すらしい。 片付け荷物のなかに気になる封筒もあったりするのだが、再出発なんだから、ていうかんじに前を向いていたら町で娘の幼馴染だった女性とすれ違い、彼女から娘のアンティアを偶然スイスで見かけた、と言われて動揺してその晩、引越し片付けで処分しかけていたのを掘り起こしてしまう(そんなことしちゃぜったいだめよね)。

次に彼女がしたのはロレンソにはごめんあたしやっぱりリスボン行かない、て告げて、以前娘と暮していたアパートに同じ部屋は無理だったけど戻って、つまり娘探しを、娘となんとしても再会するんだと覚悟を固めて、でもそれって振り返らないことにしていた自分の過去を掘り返すこととおんなじで、ここから若い頃のジュリエッタ(Adriana Ugarte)のお話になる。

80年代、古典の代用教員だった彼女は旅先に向かう夜行電車で真向いに座った男がちょっと気味悪かったので食堂車のほうに行ったら漁師のショアン(Daniel Grao)と出会って、そしたら電車が急停車して、やな予感がしたら向かいの男が自殺してしまったことがわかって怖くなり混乱と衝動に任せてショアンと寝てしまう。
ショアンは結婚していたがジュリエッタが彼の海辺の家を訪ねてみると丁度亡くなっていて、入れ替わるように娘のアンティアができて家族3人で暮らすようになる。

で、娘がサマーキャンプでいない間にショアンとちょっとした諍いがあって、その直後にぷいっと漁にでた彼に被さるように嵐が襲って彼は亡くなり、衝撃を受けて動揺した彼女はアンティアに彼の死をきちんと告げることができず、けっか娘は母に不信感を抱いたまま親友と旅にでて、そのままどこかの教団での合宿生活に入り、母は娘を取り戻そうと手を尽くして手紙をいっぱい書いて、誕生日にはケーキを用意していつまでも待ったのだが会えなくて、そのまま12年が過ぎて、現在のジュリエッタに戻る。

誰にも必ず起こりうる死別や離別、他者からすればそれ自体はそんなに大したことでもなさそうなことを、でもそれでも痛みを伴って引き離され去勢されてしまうことの不可思議や驚異を皮膚のレベルからラテンのマチズモにエロに母性、へんてこリアリズムまで駆使して情念たっぷりにオーケストレートする、ていうのがアルモドバル映画の特性のひとつだと思っていて、それはたまに主人公の嗜好とか臭みでついていけなかったりもするのだが、この作品は原作がカナダのアリス・マンローというせいもあるのか、とてもさらさらするりと入ってくるものだった。

電車の男の自殺も、夫が海に出ていって帰らなくなったことも、娘がどこかに出ていって戻らないことも、自分の周りから人がいなくなってしまうのはぜんぶジュリエッタのせい、と言おうと思えば言える、けどそんなのは... ていうふつうの物言いはなんの慰めにもならなくて、じゃあなんかを信じて祈るか、てなことも言えない、そんなの正解とか落としどころなんてないのよ、ていう、これもまたアルモドバル映画を貫いているまともさ、といおう。

12.02.2016

[film] The Girl on the Train (2016)

11月20日、日曜日の夕方、日比谷でみました。

Rachel(Emily Blunt)はMetro-North(鉄道)のハドソンラインでマンハッタンに通勤していて電車の窓から見える幸せそうなカップルを見てその幸せっぷりを妄想したりするのが日課で、でもある日いつものように覗いてみたら彼女が別の男といちゃついていて、あら何かしら誰かしらのパニックになって、妄想は更にとんでもなく膨らんで、電車を降りて問い詰めにいったら途中で記憶をうしなって倒れていて、しばらくしたらその彼女の遺体が森の奥で見つかって警察も来るようになって、いったいどういうことなのか、になる。

単調な通勤の往ったり還ったり、そこの窓から見えるいつもと同じはずの光景の線上でいろんなことが起こってとにかく大変なんだったら。
レールの上を走る電車に幽閉されてもがくRachel、奔放で素敵にみえるMegan(Haley Bennett) - Rachelが見ていたのは彼女、そこから数軒先に住んで落ち着いているマダムのAnna(Rebecca Ferguson)、この3人の女性のオン・レール、オフ・レールの関係、電車のなかから見えるもの見えないもの、いろいろあって、それらの線の絡み具合が見えてきたと思ったらその中心部で記憶が白濁してしまってそれってだれかのせいなのかあたしが悪いのか、どれもありえそうだからどうしていいかわからない。

で、彼女たちの周りに現れる男たちも3人、どいつもこいつもそれなりに怪しいのだが、でも”Gone Girl” (2014)みたいなケースだってあるわけだしな。 ここにあるのは単なる謎解きの面白さ、というより謎が謎として固められていった過程も含めて見守って納得して、最後には戦慄する、ていう。 ものすごい怨念とか狂気とか恨み妬みが蠢いていたわけではなかった、穏やかなハドソン川の脇を走る通勤電車に乗っていただけで済んだかもしれなかったこと、じゃないの? って。

そういう動機とか闇のなかで転がっていく妄執は確かにおっかないのだが、でもあの決着のつけかたを見るとそんなのぜんぶふっとんでしまう。 あんな痛いことやっちゃいけないわ。

Emily Bluntさんて、いろんな情念が凝り固まりすぎて自分でわけわかんなくってこんがらがって放心、の表情がほんとにうまくてこわくて。この作品の彼女はそのモードが全開なの。

日本でおなじことやろうとしたらやっぱり団地妻系になっちゃうのかしら。ニュータウンかしら。

しかし今年のハドソン川、映画とは言え、まんなかには飛行機おちてくるし、川べりではこんな事件起こるし、いいかげんにしてほしい、って川は思っている。

12.01.2016

[film] Le cancre (2016)

もう12月かよ。 ありえないわよ。
11月19日の夕方、アンスティチュのディアゴナル特集でみました。 『劣等生』

ヴェッキアリのこともディアゴナルのこともよく知らなくて、お勉強として見る。
上映前に監督が出てきて「映画監督の仕事は夢を具体化することです」なんてさらりと言う。

筋はシンプルで、南仏の一軒家で老いてだらだらしている - でも十分なお金持ちらしい - ロドルフ(監督本人)がいて、その息子ロランも特に目的ももたずにてきとーに生きていて、父の健康がよくないようなので面倒を見たりしているもののふたりの間にはわだかまりのようなものがあって、距離を置いてて、どっちにしてもだらだら無為に、ろくでなしとして生きている。

過去にいろいろあったらしい父のところにはいろんな御婦人がたがひとりひとり訪ねてきて、過去にロドルフとの間にあったいろんなことや現在のことを一方的にまくしたてたり怒ったり泣いたり、いったいどうしてほしいのか、というかんじでやってくる。 インタラクティブな会話にはなっていなくて、だから、ひょっとしたらロドルフの妄想なのかもしれないし、死んでしまう前の走馬灯なのかもしれないが、とにかくいろんな女に手を出していったのねこのじじいは、ていうことはわかる。

ロドルフがいつもその消息を気にしているのは初恋のひと、すべての女達の出発点としてあったマルグリット(カトリーヌ・ドヌーヴ)のことで、彼女の甥であるロランに居場所を教えろ、て訴えていて、そんなに想っているのになんで一緒にならなかったのか、とか、それなのになんでいろんな女と付きあっては別れを繰り返したのか、とか聞きたいことはいろいろ出てきて、そういうのを男のロマンとか言うのはただのバカみたいで、そのへんを単に「劣等生」と呼びたかったのかもしれない、とか。 でも「劣等」って、なにとなにを比べているのかしら、とか。

そして終わりのほうでようやく登場するマルグリット = カトリーヌ・ドヌーヴは夢の人、としか言いようがない貫禄で薄青緑色のすてきな服でゆらーりとロランと話をして、果たしてロドルフと彼女は話をしたのかできたのか、これもまた夢のようでなにひとつ確かなかんじはしなくて、でもあの終わり方だとよかったねえ、でよかったのか、ひょっとしたらロランていうのはロドルフの頭のなかにいる仮想の分身みたいなもんで、だから「劣等生」なのかも、とか、ぜんぶまるごと死にかけた老人の白日夢なのかも、とかいくらでも広がっていって、その広がり具合がとても心地よくラストの海に溶けていく。
最後に遠くで鳴っている(ように感じられる)のは"Love, Reign o'er Me”(老人版)か。

監督はこれは自伝ではないと言い、でも会社のところとマルグリットが読む手紙は14歳のときにほんとに書いたものの抜粋だって。かっこいいよねえじいさん。
あと、ジャームッシュの”Broken Flowers” (2005)とはちょっと違う、と。

上映後のトークもおもしろかったが、とにかく彼とフランソワーズ・ルブランさんのふたりがあきれるくらいおしゃれでさー。 特にルブランさんの緑のスカーフ。

11.29.2016

[film] Every Thing Will Be Fine - 3D (2015)

11月20日、日曜日の昼間に渋谷で見ました。 3Dのほう。 小さい画面でも3Dで見るべき。

一度どこかの機内で見ようとして、ちゃんとした形でみなきゃ、と途中で抜けていたやつ。

Tomas(James Franco)は雪原の掘っ立て小屋に籠って創作に苦しんでいる作家で、妻のSara(Rachel McAdams)とは電話で話す程度で疎遠になってて、雪のなか車で買い物に出た際に、一瞬の不注意で家のそばで橇で遊んでいた兄弟のうちのひとりを轢いてしまう。 轢いてしまったのは母子家庭の絵本作家のKate(Charlotte Gainsbourg)の子供で、信心深い彼女は嘆き悲しみながらも彼を赦して、Tomasは自殺未遂までして苦しみながらなんとか次作を書きあげ、数年後、編集者のアシスタントだった子連れのAnn(Marie-Josée Croze)と結婚して成功した作家になっている。 やがてKateから精神障害を抱えているという息子(事故で生き残ったほう)のChristopherの相談を持ちかけられて - -。

こんなふうに冒頭の死亡事故を除けば大きな事件もなく子供たちは育ち、親たちは右往左往して、Tomasの父は老いて、Kateのわんわんも老いて、住処は変わり、危なっかしくも移ろって歳を重ねていく。 とても小さな世界、誰の身にもありそうな出来事の連鎖連続を扱いつつ、最初の事故の、そこから飛び散っていった複数の出来事の絶対質量、可視不可視をミクロに丁寧に拾って積みあげていく。 3Dというのは、3Dといえどもあるディメンションから見た様相が他では見えない or まったく異なってみえる、ということを提示・暗示する道具だてで、心理的な騙し絵として機能するところも含めて、このドラマの、このドラマを生きる人々の視野のありようを示す重要な役割を果たしている。 特に終盤、夜中にChristopherがTomasの家に侵入しているところとか、なんかすごい。

もうじき書くとおもうが、母の死から始まる『母の残像』- "Louder Than Bombs"とおなじように、残された家族たちの意識の流れや揺れを、そこから掻き出して救いださざるを得ない悲しみをぽつぽつと置いていくかんじ。
爆弾よりもでっかい音で全方位で鳴って、走って逃げても襲ってくる音 - (この映画だと3D)。
そんなことをしてなんになるのかわからない、そんなことわかっているけど、でも...  こんな、それこそ何百万回も重ねられた問いのなかを泳いでいくこと、その傍で、陽が昇るまでそばにいてあげること。

ひとつの死を中心にこんなふうに周囲の生は危うく廻って重なっていくのだと、これって昔からあるテーマのような気もするのだが、とても今日的なものであるようにも思える。 そんなにも今の我々(特に子供たち)の生は分断され断片化されてひとつになっていかない、ということなのか。

邦題の「誰のせいでもない」は違うと思う。 その文脈で使うのであれば「誰のせいでもある」であって、そのあとでようやく、息絶え絶えに"Every Thing Will Be Fine"とつぶやけるのではないか。 この作品を見て「誰のせいでもない」なんてどうして言えるんだろ。 なんでも両論併記で責任を回避してなかったことにしようとするのと同質の昨今の気持ちわるさがあって、それってなんなのかしら。

ゆらゆら深く澱んで足元を金縛りにするAlexandre Desplatの音楽はすばらしくて、これを2日間で仕上げて録音してしまったヨーテボリのオーケストラ、えらい。

11.28.2016

[film] Our Kind of Traitor (2016)

14日の月曜の晩、日比谷でみました。 『われらが背きし者』

原作はル・カレので、彼の原作のは基本読んでから見るようにしているのだが、ぜんぜん時間なくて、映画はここでしかやってないみたいだししょうがないか、と見てしまった。

スパイものではなくて、ロシアマフィア、ギャングのおはなし。

大学で詩を教えているPerry(Ewan McGregor)は妻との壊れた関係を修復するのにやってきたモロッコで、怪しげで豪放そうなロシア人Dima(Stellan Skarsgård)と出会って仲良くなり、彼の娘の誕生パーティで陰に呼ばれたところでUSBを渡され、ここにマフィアと癒着している英国の政治家のリストと口座番号があるのでMI6に持っていってほしい、と言われる。

もちろん簡単に信用できるわけない渡された英国側とぜんぶ渡したら組織に即刻消されてしまうので最後のピースを渡すのは自分の家族の安全が確保されてからだ、と動じないDima側と彼らの動きを察知して潰しにかかるマフィア側の駆け引きが国を跨いで山を越えてじりじりと進んで狭められていって。

最初は見えなかった細かな、微細な関係の糸、企ての全貌が物語の展開と共にゆっくりと顕わになっていって、並行してその蜘蛛の糸のぷちぷちがちょっとした感情の揺れや弱さによって脆く簡単に崩れさって落下する、そのありさまを淡々と描く、ていうのがル・カレのドラマの中心にある魅力だと思うのだが、今回のはその辺がちょっと弱かったかも。

たぶん、例えばスパイの世界だと行動の様式や振る舞いや掟がその世界のなかである程度均質化されていて(だから、その上での裏切りとか寝返りとかができる)のだが、今度のはマフィアの世界と情報機関の世界と一般人の世界、これらのばらけた、別個の論理で動く世界を強引に物語のうえで融和させようとしたとこに難しさがあったのではないか、あるいはその見えないかんじと難しさのなかにこそ今の時代の「取り引き」とか「駆け引き」はあるのだ、ということを示したかったのかもしれない。 けど、そういう難しさって別にふつーにそこらにあるもんよね、ていう見方だって。 

いや、原作はそのへんも含めて十分に深くしっとり網羅されているのだ、ということかもしれないけど。
たしかにDimaのキャラクターとか小説のなかでは相当に深く趣き深く描きこまれているんだろうなー、とか想像できる、ていうかこの映画のStellan Skarsgårdの得体の知れなさわけわかんなさがすばらしくよくて、そう思ってしまったの。

あとさーでもさー、Ewan McGregorが大学で詩を教えているひとには見えないのよねー。

[film] Jack Reacher: Never Go Back (2016)

13日、日曜日の夕方に新宿でみました。

カバンもクレジットカードも携帯も持たずによくわかんない旅を続ける、近寄ったらたぶんいろいろ臭ったりするはずの謎のアウトロー - Jack Reacher(Tom Cruise)の映画第二弾。

Jackが昔いた軍内の調査機関の少佐Turner(Cobie Smulders)がアフガンで部下ふたり殺人の容疑で拘束された、ていうのと、自分に娘がいるって訴えがあったよ、ていうのと、両方に直面しなきゃいけなくなるの。 そんなのどっちも嘘に決まってるし自分には関係ないから、って軽く無視して逃げようと思えばじゅうぶん逃げることができるのに、積極的に関わろうとしてて、なんて真面目な奴なんだろう。 そんなに真面目だったら体いくつあっても足んないよね、とか少しおもった。 寂しかったのかしらん、とか。

Turnerのほうは移送途中のところを強引に引っぺがして連れて逃げることにして、でも周囲で関係者が殺されたり、やがて軍の追手だけじゃなく自分とTurnerのとこにも殺し屋が来るようになって、野良猫みたいに育っていた15歳の娘Samanthaのほうは扱いが面倒だったのだが、追われる自分とセットで狙われていることがわかったので一緒に連れていかざるを得なくて、この3人で逃げたり隠れたりしながら真相を追っていくとほうらやっぱり、兵器調達会社と軍の間のでっかい陰謀にぶちあたって、こいつも真正面から受けて、Never Go Backだ、ってがんばるの。えらいの。

前作では得体のしれないアウトローの挙動に変てこなじいさん(Robert Duvall)を絡ませることでうまくお話しが機能していた気がするのだが、今度のは自分のよく知る古巣で事件が起こったのでより深くクビ突っ込まざるを得なくて、更に一緒に逃亡するTurnerとSamanthaと3人の疑似家族みたいのもできちゃって、あんまりアウトローの無軌道な、乱暴な動きができなくなっちゃったのは残念だったかも。 あと、ネタだけだとなんとなく"Mission: Impossible”シリーズの縮小版のようなかんじもして、べつにJack Reacherじゃなくてもよかったのでは、とか。

ただ、とってもシンプルなクライムサスペンスとして、なんも考えずに見ていられて、そこはよかったかも。

あと、Jack ReacherはITガジェット系弱そうだから、そっちで攻めれば勝てるかも。

あと、Tomの顔がたまに顔が薄桃色のおじいちゃんのように見えてしまうことがあって、これはもうしょうがないのかのー。

11.27.2016

[film] Crazy About Tiffany's (2016)

11月5日のごご、新宿で見ました。 ほんとは”Everybody Wants Some!!”を見たかったのだがタイミングが合わなくて、すぐに見れたこっちを。 『ティファニー ニューヨーク五番街の秘密』

同じ監督による“Scatter My Ashes at Bergdorf’s” (2013)で描かれたバーグドルフ・グッドマンとは対照的に、地理的にはその対角線上にあるティファニーに関して思い入れみたいのはそもそもまああああったくなくて、むしろなんであの青い箱とか紐とか見ただけで異様に興奮したりきーきー騒いだりする人々がいるのか、その謎の答えをとってもしりたい。 あそこの上階にある桁の違ういくつかの品々とか初代デザインのMETに展示されているようなのは別として、下階(下界)の人々がギフトやお土産として買い求める品々って、デザインは凡庸だし繊細さのかけらもないし、それはねアメリカンスイーツとおなじくアメリカなのよあんなんでいいのよ、なら好きにすれば、だけどこのブランドのがそんなにすごくおいしいとは思えないし。 NFLのトロフィーだって、あんなの貰ったってあんま嬉しくないよね。 貰えるわけないが。

このドキュメンタリーは、当然のようにティファニー全面協力なんでも御開陳で、いまのデザインの責任者のおばさんまで出てきて懇切丁寧に歴史もブランドコンセプトもはりきって説明してくれるのでお勉強にはなるし、Blue Bookの魔法とか、古今の映画作品での引用例 - “Breakfast at Tiffany’s” (1961)は勿論、あーらなつかし”Sweet Home Alabama” (2002)のプロポーズのとことか、最近だと”The Great Gatsby” (2013)とか、ハリウッドセレブの熱狂 - Jessica Biel .. だとちょっと弱いか .. まで、なかなかてんこ盛りでふむふむ、にはなる。

割とへー、だったのがNYヤンキースのロゴのデザインもティファニー、とか、グランドセントラル駅の時計のステンドグラスも、とか。 お店も最初はダウンタウンの259 Broadwayにあってだんだん北上していったのね、とか。 NYのどまんなかを貫いて、ガキから老人まで、長きに渡って夢とかうっとりの大きなところを占めたり売ったりしてきたことはようくわかった。

見ていくうちにこれ、いったいどこに着地させるつもりなんだろうか、と不安になってきて、ほれ、名前おもいだせないけどあのバンドのあの曲でシメたりしてね、と思っていたら本当にそうなってしまった(しかも結構ひっぱった)のでびっくり。 しんない子もいると思うが、Deep Blue Somethingていうバンドの”Breakfast at Tiffany’s” (1995)ていうワンヒットワンダーがあって、ある時期は毎日毎朝、MTVでやっていたの。(よい歌だよ)

当時この歌を聴いていたティーンがメインの購買層に育ってきたから、ていうことかもしれないけど、どっしりしているようでこんな一発屋にもちゃんと気を配る、そのへんがすごいところよね。
ださいださくないは別として。

11.26.2016

[film] Storks (2016)

11月5日の昼に新宿でみました。当然字幕版。 『コウノトリ大作戦』

こういうアニメ、ふつうであれば見ないようなやつなのだが、監督として”Forgetting Sarah Marshall” (2008)とか、”Get Him to the Greek” (2010)とか、”Neighbors”シリーズを、脚本家として”Yes Man” (2008)とか、”The Muppets” (2011)を書いたNicholas Stollerさんの監督・脚本作であるのだから見ないわけにはいかないの。

むかしむかしは、お空に向かってお願いをするとコウノトリが赤ん坊を運んでくれて、割と最近ではCornerstore.comていうサイトに行ってポチッてすると運んでくれたもんなのだが、事故があってから赤ん坊配達はNGになって、それでも通販サイトとしては十分成功していて、そこで元気に働くコウノトリのJunior(Andy Samberg)が手違いで赤ん坊製造機械をOnにしたら女の子の赤子が出てきちゃって、そんなのだめだろとか、でも配達はしなきゃだろとか、そこから巻き起こる大騒動をスラップスティックに描く。 

Juniorの会社にお願いのメールを出したのはパパママ(Ty Burrell & Jennifer Aniston)が忙しくて一緒に忍者ごっこができる弟がほしくてたまらなかったNateで、他にJuniorの会社での事故で身元不明のままそこに残っているヒトの娘 - Tulipとか、事故を起こしてしまって以来すこし変になっちゃったJasper(Danny Trejo)とか、Juniorの前に立ちはだかる社長とかそのスパイの鳩とか、赤ん坊を狙いながらメロメロになっていく狼たちとか、ふつーの判断ができるまともな奴はただのひとり/一羽/一匹もいなくて、最後には会社か赤ん坊か顧客か、みたいな意味不明・傍若無人の追って追われてとにかく逃げろ! 走れ! になるとこはこれまでのNicholas Stoller映画とおなじなの。 少子化への配慮なんてこれっぽっちもないから念のため。

なんも考えていないくりくりの赤ん坊を中心に大人たちのいろんな思惑が渦巻いて大騒ぎになる、ていうのだとJohn Hughes先生が脚本を書いた“Baby's Day Out” (1994)を思いだしたりもした。
けど、コウノトリが赤ん坊を運ぶ、ていうおおもとの、太古からの設定を受け入れられるのであれば、だねえ、と思って、でもよくよく考えてみれば近未来にはありえない話ではないのかも。
ワンクリックの向こうには精子バンクと卵子バンクと養子バンクがあって、どんなカップルのどんなお願いも実現可能なように子供は「製造」できて、コウノトリてのはドローンのことでしょ。

まあそんな心配しなくても、なんも考えなくても、ぜんぜんおもしろいってば。

11.25.2016

[film] Caught (1949)

10月30日の夕方、NFCのUCLA映画テレビアーカイブ特集で見ました。
この特集のチラシのカバー写真になっていたやつ。『魅せられて』。

売れないモデルのLeonora(Barbara Bel Geddes)はモデル学校でマナーの勉強とかしながらどっかで大金持ちに拾われたりしないものかしら、て子供のころから夢見ていて、しぶしぶ出かけたパーティでセレブの超大金持ちSmith Ohlrig(Robert Ryan)と出会って、お金儲けにしか興味がない彼は幸せな玉の輿を夢見ているLeonoraをおもしろがって結婚してやろうじゃないか、てすることにしたら、メディアは花婿の側ではあの女嫌いが! て騒いで、花嫁の側はシンデレラストーリー! て騒いで、とにかく大きな話題になる。

でも結婚してみるとSmithは鬼のように冷たくて殆ど家にいないし、いるときは犬のように絶対服従を強いるし離婚は認めないっていうし、うんざり嫌になった彼女は家を出てダウンタウンの貧乏町医者Larry(James Mason)の受付で働きはじめる。 町医者は絵に描いたようないい人で魅かれていくのだが、彼女がちょっと家に戻ったとこでなんでか彼女は妊娠してしまい、それをダシにSmithは別れるんなら子供は渡さないからな、とか言ってきて底なしの地獄が見えてしまうのだが ー。

ふつうだとここから血みどろの修羅場展開になってもおかしくないのだが、そっちのほうにはいかなくて、ひたすら威圧的で高慢ちきでおっかないひと、ひたすら純朴に愛を求めるひと、ひたすら人助けのことしか考えてないひと(医者だし)、の3者のエモが織りなす典型的だけどゴージャスなメロドラマになって、決着のつけかたも含めてものすごく納得できてしまうドラマだったの。

とにかくSmithのLong Islandにある豪邸のとてつもないでっかさ(天井のバカ高いこと)とその空間をフルに使って倒れたり崩れたり地団駄ふんであたふたする人々の描写がすばらしい。 特に薬がきれてがらがらどっしゃんと崩れ落ちたSmithを遠くから眺めるLeonaraの遠さ・冷たさに戦慄する。 震えおののきながら「行け! トドメをさすのは今だ!」てつい。

それにしても、Robert RyanとJames Masonの対決、どっちもうまいし爬虫類だしすごいったら。役柄逆にしてもよかったかも。

今年のRSD Black Friday、あんまりかなあ。 Big StarのThirdって、いったい何回出せば気がすむんだよ。

11.24.2016

[film] Everybody Wants Some!! (2016)

シアトルから戻った翌日の土曜日 ー 12日の昼、新宿でみました。
そういえば、オースティンて”Slacker”の舞台だったのよね、とあそこから戻ってきて思いだした。

ものすごくおもしろい、て断言してよいものかどうか、最近の子供たちが見たらちょっと不真面目すぎやしないか、ていうかもしれないし、でも文句なしであることは動かしようがない。さいこーにおもしろいんだから。

野球の推薦枠で大学に入って、寮不足なので普通の住宅を共用の寮として買いあげて与えられている野球部員の巣にJake(Blake Jenner)がレコードとか一式抱えて越してきて、その木曜日の午後から学校が始まる月曜の朝までの3日とちょっとの時間をリンクレイター得意の時間縛り、イベント/語りドリブン(逆行・振り返り不可)で描く117分間の魔法。

Jakeが同居するのは体育会野球部の連中で全米から優秀な野球野郎が集められているところなので、みんながみんな自分が一番強い偉いと思いこんでいて負けず嫌いで、酒でも女でもスポーツでも自分を気持ちよくしてくれるもんはなんでもOKで、周囲も自分にそうしてくれて当然だと思っていて、要するに鼻持ちならねえ能天気おお馬鹿野郎ばかりが掃き溜まっている。

しかも時代はみんな反省という言葉を知らない80年代なので、もう底なしにどうしようもない。
Day1でげろげろ、Day2でげろげろげろ、Day3でげろげろげろげろー。 でもへっちゃらなの。
なんでそんなだったのか、だれも説明できない。 だれも反省してないから。 More - More - の生理現象たれながしみたいなところで生きていたから。

基本は彼らのねぐらであるぼろい一軒屋とそこから先のバーとかディスコとかカントリーのところかパンクのとことか、を欲望のままに彷徨いてどんちゃん騒ぎして戻ってきてばったん、みたいなそういう3日間なのだが、それはひたすら「やり残したこと」を探しまわる取り憑かれたような旅で、とにかくなんにも起こってない、けど全てが起こっている、起こり続けている、そういう時間がいろんなところで鳴り止まない音楽と共に移ろっていく。 それを見るわれわれはそういう時間がどれだけかけがえのないものかを知っている。 そして映画のなかのEverybodyはそんなのどうでもいいと猿みたいにきーきーやっているばかり。

ふつうだったらメインでもおかしくない野球のシーンは自主トレの練習試合で少し出てくるくらい、あとはJakeがぽーっとなった女の子Beverly(Zoey Deutch)に詩を書いて送って彼女の部屋に行って、でもそれらも一筆書きの伸びていく一本の線の結び目でしかなくて、でもそれはひたすらずっと伸びていくのだよ、って。 それは"Boyhood"のラストから繋がる光景なのかもしれないし、向こうからえんえんやってくる"Before"の予兆 - "Before"はどんなものの"Before"でもありうるのだし。

で、あーあ、ってでっかい溜息をつく。何に対してなのか、考えたくねえや、っておもう。
でももういっかい見たい。 ここにはドラマというより、なんかとんでもなくしょうもないものが埋まっている気がする。

音楽はいろんなのが絶妙のタイミングと音量で流れていって、そのどの粒も見事に輝いていてよいの。
これが90年代に入ると少しトーンが変わってグランジの泥沼になっちゃうのかな、とか。


Beverly役のZoey DeutchはLea ThompsonとHoward Deutchの娘さんで、つまりは”Some Kind of Wonderful” (1987) に繋がるんだよ(タイトルもどことなく - )。 これがどんなにすばらしい映画かしってる?
あとねえ、ママのLea Thompsonが出た”Howard the Duck” (1986)での役名がBeverlyっていうんだよ。 これもまたすばらしいやつなんだよ。アヒルだけど。

[film] Francofonia (2015)

11月13日、日曜日の昼、渋谷でみました。
『フランコフォニア ルーヴルの記憶』原題は「フランス語圏」。 
「フランコフォビア」、だとちょっと違う意味になるねえ。

かつてソクーロフがエルミタージュでやったようなひとつの美術館内のめくるめく全方位体験、とは違う、不動の、世界に誇れるルーブル美術館の成り立ちとかありようをナポレオンの時代から現代まで俯瞰し、ある/複数の美術品がある特定国/地域の美術館に収蔵され、展示され、享受されることの意味・意義を問う。

エピソードは3つあって、中心にあるのが第二次世界大戦中、ナチス・ドイツがパリに侵攻してきて、ルーヴル美術館長ジャック・ジョジャールがナチスの将校メッテルニヒと対峙するのだが、ジャジョールは既に重要な美術品のパリ郊外への移転を進めていて、本来であればナチスはふざけんな、て強制収監 → ドイツに移送 or 徹底破壊となってもおかしくないのに、メッテルニヒはそれをしないでパリの生活を楽しんだりしていた。ふたりとも芸術に対する理解と愛があったのでは、と。

もうひとつはルーブルの館内をひっそり徘徊するナポレオン一世といろんな収蔵絵画に描かれている自由の象徴であるマリアンヌの亡霊。 あたしたちが世界中からルーブルの美術品を集めて(略奪して)、その反対側で自国の自由と正義の共和制を敷いて、ルーブルの礎を築いたんだから、偉いんだから、ていうのだが、なんか彼らは憔悴しきっている。亡霊だからか。

最後のは現代で、悪天候のなか美術貨物を積んで船出しようとしている船員と映画作家とのSkypeでのやりとりで、会話はぶちぶち、画像はぼろぼろでたびたび途切れ、嵐で船も貨物もどうなっちゃったのかわからないようなありさまが延々続き、なんでそんなもののために命賭けてるの? みたいな。

これらを時系列で追ってみると、まず力と勢いで周辺各国から美術品を略奪し放題だったナポレオンの時代があって、他国との緊張関係のなか、おとなしく、神妙にならざるを得なかった時代があって、国というよりはお金の力でいくらでも国境を越えていく/いける - 或はテロによる無差別破壊や天災で理不尽に消滅してしまうようになった - 時代が今で、「フランス語圏」(だけではないが)の変遷としてみると、それなりに納得できる流れだねえ、ておもった。

ていうのと、直接のテーマではないのかもしれないけど、この流れのなかで「美」は一体どこにあるのか、ありえたのか、ていうとこ。 例えばナポレオンが略奪してきた美術品・肖像画に描かれた顔、その表情が湛えるものに美的な意味はあった(だからナポレオンは持っていった)と思うのだが、いま、ルーブルに長々と塩漬けにされている美術品からどんな美的経験が可能になるのだろうか。 これってもちろんルーブルだけの話ではなくて、「何百年に一度」とか「数十年ぶりの」とか「これを逃したら最後」とかいう宣伝文句に踊らされて美術館まで来て、ぜんっぜん意味わかんない有名人とやらの音声ガイドを聞かされて(やったことないけど)、律儀に行列に並んで作品の前に立つ5分間のうち3分は他人の後ろ頭を眺めざるを得ない、そういう高いコストと苦行を通してしか美術品に接することができない哀れな我々の前に「美」は現れてくれるのだろうか、と。

ほんとにくそったれでくだんないけど、それでも好きだから絵は見にいくわけだけど、なんともめんどくさい時代であることよ、ねー。 って肖像画のなかの顔に話しかけてみたりする。 

最近そういうことをやって楽しかったのはなんといっても「クラーナハ展」の面の皮たちでしたわ。

11.23.2016

[film] Star Trek Beyond (2016)

もう時系列無視で適当に書いていくことにする。
11月3日、文化の日の夕方に新宿でみました。

エンタープライズ号での航海が長くなってみんなそれぞれ退屈したり喧嘩したり地上勤務のことを考え始めていて、でっかい宇宙駅に寄っていろんな人と会ったりおじいちゃんの訃報を聞いたりしていると更にその思いは強くなって、そこを出て航海を始めたとたんに虫みたいに束になって渦巻いて襲ってくる連中に襲撃されて、船はぼろぼろ虫食いにされてどっかの星にわらわらと脱出して、ほとんどの連中はその襲撃した奴らに拉致されて、動けるのはScotty(Simon Pegg .. 脚本も書いてる)とSpockとBonesとKirkとChekovと、ぐらいで、もう船もないのにどーすんだよ、になる。

いろんなヒト、ていうか族ていうかがいるものでScottyがそこで出会ったどっかの星のJaylahていう姐さんが地道にメンテしていた昔の地球の宇宙船フランクリンが使えそうだったので、そいつを使って、仲間を救出して、反撃にでようじゃないか、と。

いきなりやられた → ちりぢり → 新しい仲間と出会って古い仲間を救いだす → やり返す → どんなもんだい

おおまかな流れは昔のヤクザ映画みたいなもんで、「組」が多種多様な宇宙人(族)になっているだけで、なーにが"Beyond"だよ、とか思わないでもないが、SFの普遍性ってこういうもんよね。 ちがうか。

なんといっても再び襲いかかってきた敵の虫軍団に対して、連中は閉域網を使って全体をコントロールしているんだから妨害電波を出して混乱させればいい .. そうだラジオだ! って、「クラシック」を爆音でぶちまけてやっつけるとこ、ここだけで十分許してやらあ、になってしまうの。 あの感動的なまでにバカバカしいノリはJ.J. Abramsには作れまい。(音楽をエディットしないで、Spike Jonzeみたいにカット割りをこまこまやればもっともっとかっこよくできたのにな)

これまでのJJAのやり口だと、亡くなった父親の歳になってしまったKirkの感傷とか逡巡とか、同胞に裏切られて棄てられたKrallの絶望とか怒りをシェイクスピア風ぶんぶんでドラマチックに描いたと思うのだが、"Wild Speed"育ちのJustin Linは気持ちよいくらいに吹っ切ってしまう。 ぶっとばして気持ちよければいいじゃん、みたいに。

しかしなあ、Public EnemyとかBeastiesとか聴いていても、あんなふうに邪悪な暴君になっちゃうんだねえ、ていうのはちょっと残念だねえ。

Anton、バイバイ。

[film] Genius (2016)

10月14日、金曜日の晩に日比谷で見ました。 『ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ』

20世紀初のアメリカ人作家Thomas Wolfeと彼を見いだし育てた編集者Maxwell Perkinsの交流を軸に、この編集者と当時のアメリカ文壇 - とまではいかないが - を描く。

大恐慌前夜のNYで、出版社Charles Scribner's Sonsの編集者 Maxwell Perkins(Colin Firth)のところにトーマス・ウルフ - Thomas Wolfe(Jude Law)の大量の紙束原稿(1100ページ)が持ちこまれ、少し読んで紙束のなかに何かを見たMaxは、その紙束を辛抱強く摘んで編集して彼のデビュー作 “Look Homeward, Angel”に仕立てあげて、それは成功して、それだけじゃなくてMaxは恋人のAline Bernstein(Nicole Kidman)と昭和枯れすすきみたいな切ないごろつき文士生活をしていたThomasを郊外の自宅に呼んで家族(奥さんはLaura Linney)に会わせて食事して親密になって、そうするうちに更にとてつもなくでっかい第2作も仕上がり、評判もよかったのだが、2作の成功がThomasを鼻持ちならねえ我儘高慢ちき野郎に変えていって、どーする どーなる。

史実なのでThomasがいきなり更生して聖人のようになるわけはなく、こういう人にありがちなように37歳という若さでこの世からすうっと消えてしまうのだが、Maxの彼に向けられる目は最後まで変わることはなく穏やかで暖かくて、”Kingsman: The Secret Service” (2014)でもそうだったように、こういう無軌道な若衆を相手にするときのColin Firthの落ち着いた教育者というか編集者っぷりってすごいなあ、て思った。

あと、Maxって、Ernest HemingwayやF. Scott Fitzgeraldも世に出して、ということからこの映画のなかにも彼ら - Zeldaも - は登場するのだが、Thomas Wolfeはともかく、HemingwayとFitzgeraldがいないアメリカ文学史なんて考えられない今の時代、よくもまあこういう連中を右に左に、というかまったくキャラの異なる彼らの作品を彼らの作品として成立させたのってすごいことだねえ、とかあたりまえの ー

おそらくもっとねちっこい、匂いたつような文壇サークルドラマにすることもできたのかも知れないが、イギリス人監督だからだろうか、メインのふたりがイギリス人俳優だからだろうか、その辺はとってもさらりとした駄々っ子と動じない大人のやりとりになっていて感心した。
そんななか、Nicoleだけはつーんと突出して毒を吐き続けていてすごいねえ、としか言いようがないのだった。

Thomas Wolfe、読んでみたいなー。

そしてWilliam Trevorさんが。 R.I.P.

11.22.2016

[film] Salad Days (2014)

さらに少し戻って、10月13日、木曜日の晩、新宿でみました。

この辺のロックのドキュメンタリー映画って、こないだのThe DescendentsのにしてもBad BrainsのにしてもThe Damnedのにしても、なかなかなんか難しい。
ライブだったら晩の9時ってありがたいのだが、映画で9時だと、よっぽど目を見張るような内容でもない限り座った途端に子守唄になって安らかに寝ちゃうのよね。

でもこの映画の題材に関しては少し別で、D.C.のハードコアシーンていうのは、ふつうの(ふつうってなんだよおら)パンクのドキュメンタリーで示されるのとは別の枠で - RamonesやPistolsやClashの歴史を描くのとは別のかたちでやり方で - 描かれなければならない気がしていて、それは簡単にゆってしまうと当事者の視点(当事者ってなんだよおら)が不可欠で、そいつを欠いてしまうと、このD.C.のパートについては、麻疹とか水疱瘡みたいな拡がりかたをした妙な熱病、伝染病のように見えてしまうよう、そんな気がしてならないの。 それでもいいんだけどね。 "Salad Days"ていうタイトルなんだし。

具体的にはDischord Recordsを作った Ian MacKayeとJeff Nelsonへのインタビューを中心に徹底的にマイナーで手組みのネットワークを掘って作ってひろげて維持していった、ぜんぶ自分たちだけでやった、その手口やり口を聞き出してみる。 それだけなの。 ブレーク、みたいなポイントも閾値もなくて、作って出してライブして、を繰り返していっただけ、と。  Farm-to-tableみたいなことを35年前からやっていた、と。

それだけなんだ、ということをどこまでおもしろいと、すごいと思えるかによってこの作品の受け取り方は変わってくるとおもう。
最初期のパンクが掃き溜めのなかから火花起こして好き勝手にやっていたのとは異なり、彼らは既に見え始めていたパンクの産業化・消費化を明確に冷静に見据えて、そうならないような形で自分達の音楽を自分達で制御してリリースしていった、こういうのをネットもなんもなかった80年にそこらの若者がインディペンデントではじめた、やった、ということの驚異は、今の子達には伝わりにくいかもしれない。

自分にしても、全貌を見渡すことができてこれはとんでもないわ、と思ったのは2002年に出たコンピ"20 Years of Dischord”あたりからだったもん。

あとは音そのものね。 Minor ThreatにしてもFugaziにしても、なんであんなに固く強くがりがりぎざざぎざ、どこまでも気持ちよく鳴るのか。 デザインだってかっこいいし。 それをつまんない御託ならべてないでさくさく出して、あとはライブで勝負、ていう潔さ。

ラストのIan MacKayeさんの一言がさいこーだった。「もういいだろ、あっちいけ」みたいな。

それにしても、Fred Armisenさんはなんで?

11.21.2016

[film] Bridget Jones's Baby (2016)

10月29日、土曜日の夕方、新宿で見ました。

なんか、ぜんぜん悪くなくてびっくりする。SATC2みたいになっていたらやだな、だったのだがふつーのコメディとして爽やかに笑えるかんじだった。

まずは冒頭でHugh Grantが飛行機事故でしんでて笑える。
Bridget Jones(Renée Zellweger)はMark(Colin Firth)と別れて以来どこにも行きようがなくて誕生日も痛いかんじにひとりで、女友達とふたりで野外フェス(グラストンベリーみたいな)にいって酔っぱらってハメはずして知りあったJack(Patrick Dempsey)のテントで寝ちゃって、その数日後に再会したMarkともよいかんじに盛りあがって寝ちゃって、しばらくしたら妊娠していることがわかってあらどうしましょ、になって、中年男ふたりにこわごわその旨伝えてみるとしがらみフリーで収入も申し分なく安定しているふたりはどっちも前のめりでのってきたのでこれはこれでどうしよ、で子供の父親はどっちなのかていうのと、ふたりのうちどっちかと一緒になるべきなのかそもそもこれって子供ができたからそうなっているのか、いやそれとは別にとまでは言わないけど自分と一緒になりたいってことなのかどうなのかとか、いろいろ心配してみたりするのだがそんなの関係なく極めて能天気に話しは大団円に向かって豪速球ですっとんでいくので楽しいの。 こんなもんでいいのよね。

あんなうまくいくかよ、ていうひとはいうのだろうが、他の落着地点を見いだすのはなかなか難しい。
それくらいラブコメとしては完成されていて崩しようがないかんじ。 これに関してはよい意味で。

どっちとどうなるのかはだいたいわかっちゃうのだが、やっぱりあのセーターの魔法と結界は裏切らない、てこと。 ていうかあんな怪しいマッチングサイトで儲けた奴があんな爽やかなわけねーじゃん、とか。

でもさー、Patrick Dempseyがでてくるラブコメ、結構好きなんだけどー。
”Enchanted” (2007) とか “Made of Honor” (2008) とか、いいよね。

邦題の「ダメな私の最後のモテ期」てなーんか微妙で、Bridgetはダメだからモテなかった、それが最後になぜかモテるようになった、わけではなく、これまでの前2作でもダメだったけど、でもずっとモテていたんだよね。 ダメなことを嘆いたりぼやいたりグチったりするのは芸風みたいなもんで、ヒトのせいにも自分のせいにもしないでひたすら無反省を貫き、何百回でもおなじ失敗を繰り返して、でもへっちゃらなの。  いいなーこういうの。見習いたいなー。

さすがに子供も生まれて結婚したら落ち着いちゃうのかなあ、と思ったのだがラストの新聞記事でわからなくなってきたかも。 たぶん、もうじき夫はガキを連れて出ていっちゃうんだとおもう。

音楽はCraig Armstrongさん。 どうでもいいけど、Ed Sheeranの外見て、ほんとぱっとしないねえ。

11.20.2016

[film] Too Late for Tears (1949)

元のトラックに戻りま。 どこまで挽回できるかな。

10月29日の昼間、京橋の特集「UCLA映画テレビアーカイブ 復元映画コレクション 」で見ました。

『遅すぎた涙』。

TIFFの本編のほうは誰がいくもんか、だったのだがフィルムセンターでのこの特集はそういう訳にはいかねえ。 NYの定期上映館では珍しめのクラシックがかかるとき、UCLA Film & Television Archiveが修復したバージョンです、ていうだけでひゅう、って唸るおじいさんとかいっぱいいるんだよ。

LAに暮らすJane(Lizabeth Scott)とAlan(Arthur Kennedy)の夫婦は気乗りのしないパーティに車で向かう途中、車に鞄を投げ込まれて、鞄の中には札束が入っててびっくりするのだが車が追っかけてきたのでとりあえず逃げて撒いて、その札束 - 6万ドルあった- を警察に届けようというAlanとちょっと待って様子を見ようというJaneで意見は別れて、やがてほうら来た、というかんじで探偵だという怪しげなDanny(Dan Duryea)が現れて緩やかに彼女をゆすり始め、やはり警察に行こうというAlanとの溝は深まって、いったん鞄は駅の荷物預かりのところに行くのだが暴走を始めた彼女の妄執は留まることなくやがてひとり死んでふたり死んで…

突然手にした、手にすることができるかもしれない大金で狂っていく女 - 根っからの悪女という訳でも誰かに唆された訳でもなく、彼女の内面は一切明かされないまま、お金を諦めようとしない彼女の周りでいろんなことが起こって、それらは誰のせいでもない、ということも誰かみんなのせい、ということもできる、どっちにしても誰も助けてくれない、そういう冷たさが貼りついた作品で、その冷たさ暗さをノワールといったのね。

プロットだけだととても地味なようでいて、最後はメキシコまで行ってしまう驚くべき広がりをもった作品で、それはフィルム・ノワールの底なしにも通じるそれなのだった。


これの後にUCLAアーカイブのJan-Christopher Horakさんによる講演会をきく。
『デジタル時代の映画保存』- “Film Preservation in the age of Digitality”

フィルム保存の歴史を概観し、その方法がデジタルの時代になってどう変わってきたのか、変わらざるを得なくなってきたのか、そこにUCLAのArchiveはどう関わってきたのか。

フィルムは、なんもしないと劣化して見れなくなる→ デジタルで保存できるよ → デジタルで保存するためには元素材をきちんと修復しないとだめ → 修復はお金かかる & デジタルの仕様はどんどん変わる → ちゃんとしたアナログのマスターがないとお話しにならない → やっぱりオリジナルから修復しないと(し続けないと)だめじゃん、結局お金かかるじゃん  → アナログでいいんじゃね?

デジタル化への移行って軽くなる/軽くできる/メリットいっぱいのようで結局ものすごい継続的な投資が必要で、結局これって文化の話ではなくて、産業(構造)とかインフラを巡るくだんないパワーゲームの話に向かわざるを得ない。 このへん、言いたいこといっぱいあるのだが、とにかく。

デジタルアセットの急激な進化がアナログへの回帰を促している、という指摘は映画フィルムの話に限った話ではなくて、音楽もそうだよねえ。
デジタル仕様の変更に伴うオリジナルマスターの修復や調整もやがてはAIさんがやるようになるのだろうが、そんなのあまり考えたくないので、自分にとってのアナログ決定版を脳に刻んだり手元に置いたりしておくようにしよう、っと。

11.19.2016

[log] Seattleそのた2 -- Nov 2016

シアトルの本とか食べものとかそのた。 あんまりないけど。

着いた日の6日はとってもすてきな秋日和で、最初に行ったのはもちろんThe Elliott Bay Book Companyで、その前にお昼を食べなきゃ、でこんどこそ隣のOddfellows Cafe+Barで食べたかったのだが半端ない人だかりだったので(なんだろう? なにがあるんだろうあそこ?)、諦めて本屋のなかにあるLittle Oddfellowsのほうでパニーニ食べた。 これでもじゅうぶんおいしい。

入ってすぐ、Laurence “Lol” Tolhurstのメモワール - ”Cured: The Tale of Two Imaginary Boys”のサイン本があったので、スーパーでミルクを買うみたいにひっつかむ。

あと、Pitchfork誌とかに書いているJessica Hopperさんの“The First Collection of Criticism by a Living Female Rock Critic” ていうの。 最後にまず謝辞を捧げているのはTim Kinsellaさん。背表紙でコメントを寄せているのはTavi Gevinson, St. Vincent , Sara Quin (Tegan and Sara)、など。 まだパラパラつまんでいるだけだけど、なかなかおもしろ。
あと、Nick Caveさんの2014年の北米ツアー日誌 - ”for Motion Discomfort: The Sick Bag Song” - 「乗り物酔いゲロ袋の歌」とか。

本屋をだらだら1時間くらい幸せにうろついて、向かい側のEveryday Music (レコード屋)を見て、その近所のグランジとかジャンク系がいっぱい置いてあるとこ(名前憶えられない)も見て、すこし我慢して、その近所のグリーンマーケットをうろうろして(もちろん買わない)、少し遠くのレコード屋に行ってみよう、ということでUberでWest SeattleにあるEasy Street Recordsに行った。 以前、Queen Anneにあったお店には行ったことがあって、そこがなくなってしまってから行かなきゃ、になっていたの。

車を降りたところでもグリーンマーケットをやっている日曜日。 お店は1階にカフェ(よいかんじ)とCD, DVDがあって、木の階段をぎしぎしあがって階がアナログで新しいのも古いのもいっぱいあって、でもそんなに高くないの。 楽しく悩みながらあれこれ買った。
TADの再発盤(3つ一緒に買うと1枚ボーナスつき)だが、そんなすごいファンでもないので”8-Way Santa” (1991) だけ買った。 9日の水曜日には店にメンバーが来てトークをすると。 “8-Way Santa”とは何ぞや? その謎がついに! とか書いてあった。

その辺をしばらく散策してお腹へってきたのでパイ屋に入った。 パイとドーナツには勝てない。
http://www.alamodeseattle.com/

そこの反対側にQFC - Quality Food Centerていうシアトルにいっぱいあるでっかいスーパーマーケット - Whole Foodsみたいなやつ - があったのでしばらく遊んだ。 こんなのが24時間やってるんだからなー。いいなー。

いっかい昼間に食べたバーガー。
Li'l Woody'sていうとこの”The Fig And The Pig”ていうの。
大きめふかふかバンズに酢漬けイチジクのソースにベーコンにざく切りしたゴルゴンゾーラがまぶしてあって、外見はまっ黒ぐちゃぐちゃでわけわかんないのだが、こんなのおいしくないわけがないだろ。

9日の水曜日、夕方に解放されてデモで叫んだあと、映画を見る前にもういっかいElliott Bay Booksに行った。平日の夜なのでがらーんと静かで、それもよいのね。 向かいのEveryday Music ももういっかい、なんかやりきれなくて追加で買った。A Perfect Circleの1stの初版とか。
店内ではSparklehorseの”It's a Wonderful Life” (2001)が流れてて、それがとってもしみた。よかった。

どうでもよいことだけど、シアトルのレコ屋も本屋もなんで紙袋なのかしらん。

10日の朝、空港に向かう前、ホテルから歩いていけるとこにあるPike Place Marketに向かい、外は霧でまっ白なんも見えなかったけど、ぐっちゃぐちゃのCorned Beef Hashたべた。 市場に魚がどんどん並べられていくのだがどうすることもできなかったの。

空港ではいつものようにSub Popでいくつか買って、Beecher's Cheesesでクラッカーとか買った。

[log] Seattleそのた1 -- Nov 2016

もうぜんぜん書く時間とかないわ。なんでだかわかんないわ。

シアトルの行き帰りの機内で見た映画をまとめて。
片道8~9時間だとちょっと短いよね。 まとめて映画をみるには。

My Bakery in Brooklyn (2016)
ブルックリンのFort Greene(Myrtle Ave. and Adelphi St.)のあたりで100年以上ブーランジェリーを営んでいるおうちで店主のIsabelleおばさんがふたりの姪(いとこ同士)に店を頼むわね、て言い残して突然亡くなってしまい、それぞれの道を歩んでいた性格正反対のふたりが喧嘩しながら店を立て直そうとするのだが、おばさんは巨額の負債を残していて、うちひとりの恋人が負債取り立て側の銀行にいたりしたので、それぞれの恋とかも含めてどうなるのどうするの、みたいなお話し。
結末はなんとなくわかっているとはいえ、パン職人もパティシエも出てこないし、なのにふつーに店は営業してるし、あまりにご都合主義でみんなハッピーすぎやしないか、みたいには思った。

でもエンディングでThanksのところにAmy's BreadとかFrankies Spuntino とか並んでいたので許すしかないわ。

The Family Fang (2015)

監督・主演がJason Batemanさん。
Fnag家のパパ(Christopher Walken)とママ(Maryann Plunkett)はソーシャルなどっきりを仕掛けてみんながびっくりする姿を撮影するのをアート稼業としてやっていて、姉弟ふたりは幼い頃からその手先として使われていて、その経験は彼らにとってトラウマだったりもするのだが、姉(Nicole Kidman)は女優(あんま売れてない)、弟(Jason Bateman)は作家(あんまぱっとしない)として巣立ってからは疎遠になっていて、ある日弟が怪我をして気を失っているうちに病院に親が呼ばれたことから家族みんなが再会して、久々に昔みたいなことをやってみたら見事に空振り、ついでに過去のいろんな恨みとか再燃するのだがそのまま別れ、そしたら強盗が頻発している地域の路上で両親の車が荒らされた状態で発見され、両親は行方不明、車内の血痕は父親のものと一致した。 両親は犯罪に巻き込まれたのかひょっとしてまたしても彼らの「アート」なのか? 

これらってアートなのか議論の他に、こういうのに子供を巻きこんじゃだめだろ、とか、だからこんな大人になっちゃったんだ、とか、でも家族だろ家族ってなにさ? とかいろんな問いが怨の字と共に渦を巻いてなんとも言えずすごい。
特に最後のほう、Christopher WalkenとNicoleの対決シーンときたらぞくぞくするくらい。

音楽、最初のほうの銀行強盗のどっきりのとこで流れるYesの"I've Seen All Good People”とかよかったかも。


The Infiltrator (2016)

80年代、フロリダの米国税関当局のエージェントRobert Mazur (Bryan Cranston)がマネーロンダリングして大儲けしていたコロンビアの麻薬カルテル+銀行を2年間に渡る別人なりすましの囮捜査で壊滅させた実話 - Mazur自身の回顧録を元に映画化したもの。

メインのお話しははらはらどきどきの連続なのだが、それ以上に、仮名に架空の婚約者(Diane Kruger)まで用意したりここまで作り込むんだねえ、ていうほうに感心した。 それと、複数の名前を使い分けていた“Trumbo”と同様、どれが本人なのかわからないとこまで自分を追いこんで仏頂面と紙一重で脂汗をたらしまくるBryan Cranstonの凄みが全開で、ほとんどそれがすべて、みたいなかんじ。

音楽は、最初にRushの”Tom Sawyer”が流れて、EndingでThe Whoの”Eminence Front”が流れて、あとLeonard Cohenの”Everybody Knows”も流れて素敵で、それで飛行機降りたらLeonard Cohenさんが… 

11.13.2016

[film] Kubo and the Two Strings (2016)

飛行機が成田に着いたらLeonard Cohenが天に召されていた。 そしてLeon Russellまで …

9日の晩の9時、シアトルのダウンタウンのシネコンで見ました。客は最後まで自分ひとり。
ほんとは8日 - 火曜日の晩に見るはずだったのだが、大統領選でとてもそんな気分ではなくなり、ほんとはAustinで見たかったあれにしたかったのだが、やっている場所がちょっと遠かったので諦めた。

“Coraline” (2009) ~ “ParaNorman” (2012) -見れてない ~ “The Boxtrolls” (2014) -見れてない - ときたLaikaのアニメーションの4作目。 監督はこれらでLead AnimatorをしていたTravis Knight。

Laika特有の紙片をストップモーション動画にした風合い(だいすき)はそのままなのだが、キャラクターとかお話しの土台は日本の昔話のようで、最初に予告を見た時はその作画とか造型が、土曜の朝に米国の民放でやってるアニメみたいに安っぽくしかも紋切型のアジアっぽくて、どうしたもんかー、だったのだが、なんか評判よいので見てみたら、びっくりするくらいによかった。

Kubo(名前なのか苗字なのか)は男の子で片目を失った状態で母親とふたりで何かから逃げて海岸にうちあげられて、彼らを追って殺そうとしているのは、彼の片目を奪ったのは祖父だと言われる。 Kuboは弾くと紙や折り紙を自在に操ることができる不思議の三味線を持っていて、賢く優しい白い猿とやや間抜けなクワガタ侍が加勢してくれて、彼は襲いかかる悪の手先と戦いながら黄金の鎧を探して自分の出生の謎を追っていって、やがて。 
そして”Two Strings”とはなにか?

基本は“Coraline”と同じく子供が歯をくいしばりたったひとりで邪念に満ちた世界に立ち向かう”Kubo vs. the World”なのだが、最後の対決を経てあんなとこにいっちゃうとは思わなかった。泣けるの。
ポートランドをはじめ西海岸の日本人会が協力しているようだけど、外国のアニメにあそこまでやられちゃったら、だめじゃん日本。 髑髏の怪物は日本の餓者髑髏を元にしている、とかIMDbにはあったけど、餓者髑髏なんてみんなしってる?

声優はやたら豪華で白猿がCharlize Theron、クワガタ侍がMatthew McConaughey、悪の仮面シスターズにRooney Mara、大悪の月の王にRalph Fiennes。 Charlize TheronはFuriosaとしか言いようがなく沸騰するし、Matthew McConaugheyはMatthew McConaugheyとしか言いようがないし、Rooney MaraはとにかくおっかなくてドS全開だし。

エンディングは”While My Guitar Gently Weeps”が流れるの。
でもギターじゃなくて三味線で、歌うのはRegina Spektorさんなの ...

機会があったら見てみてね。

11.10.2016

[log] November 10 2016

帰りのTACOMA空港まで来ました。

やれやれ。 あーあー。 あー。 あ。(深呼吸)
まさかこんな気持ちで帰りの便に乗ることになろうとは。(飛ぶのかしら。どっちでもいいけど)

月曜の晩、ホテルの部屋に戻ったらSNLの選挙特集をやっていて、これまで個々の動画は見ていたのだが、まとめて見てみると強烈にバカらしくて、どっち陣営もひどいのだが、トランプのしょうもなさは際だって強烈で、それをげらげら笑ってあー明日以降はこのバカツラを見なくて済むんだわ、と思ったものだった。

ところが。 火曜日の昼頃からなんかみんなそわそわし始めて、そんな面白くもない会議だったこともあって、みんなWebとかスマホを分刻みで追っかけだして、夕方に某巨大企業のオフィスを見にいったときは、そこのロビーのばかでかいディスプレイにライブで進捗が流れていて、それを階段状になった待ち合わせエリアで見ているそこの社員の人たちはみんな呆然としてて、ホテルに戻ってTVをつけても気持ちわるくなるばかり、朝になってもまだ悪夢の只中にいるようで、目が醒めてくるにつれてひたすら怖く恐ろしく、悲しくなっていった。

119とはよく言ったもので、心象の動きは911の時とほんとうによく似ている。
この日を起点にアメリカだけでなくいろんな国で起こりうるであろう暴力沙汰、罵りあい、憎悪の連鎖を思うと、ただただ恐ろしい。

なにが/なんで怖いのか。 他者を傷つけることを公の場で平気でいう人(←「悪人」の定義)、かつそれに伴う他者の痛みや苦しみをまったく想像することができない人(←「バカ」の定義)、つまりこのどうしようもない「バカ」の「悪人」が世界一強大なパワーをもつ国のなんでもできる権力者のてっぺんの座についてしまった。
そしてこいつ(とその取り巻き、その支持者)は、今回の勝利を彼のこれまでの行いや言動に対する国レベルでの承認、と受け取るだろう。 シンプルにバカだから。バカとはそういうものだから。

そしてこれはぜったい向こう岸の、他の国の話ではないの。 トランプが米国で「承認」されたことを受けてただでさえ米国追従でヘイトの下地たっぷりの、バカで幼稚なこの国の政治家も御用メディアもますます調子に乗ってへらへらと弱者を傷つけ痛めつけて、そのことに対して鈍感になっていくに違いない。 劣化と腐敗の連鎖と加速がおこる。

英国に続いてまたも予期しない結果、とかポピュリズム云々はもはやどうでもいい。
メディアも含めてみんなの頭が悪くて鈍くていろんなソーシャルの煽りに浮かれていただけ、としか言いようがない。 頭を切り替えて今回の結果に怯えている人たち/傷つく可能性のある人たちを助けてあげないといけない。

かつて911の光景をハリウッドの映画のようだ、と言ったひとがいたが、119もそうで、米国(成金バカ)/ロシア(筋肉バカ)/日本(真性バカ)の腐れたトライアングル・バカ(でも最高権力者)が手を取りあうところを想像しただけで虫酸が走る。どんな悪党野郎のヴィジュアルよりひどいわ。

でもこれは映画の話ではないの。 現実なんだ。
まず守れるひとを守って、助けてあげよう。 間違ったことを間違っている、といえる視座と知識と行動に移す勇気を持とう。そして悪いやつを倒す。

9日の夕方4時頃、別の建物に向かう途中で広場に何人かの若者がわらわら集まってプラカードを掲げて騒いでいた。それが5時半に帰るころにはデモのうねりになって大通りを埋めていた。ちょっと増えた程度かと思ったらどこまでも途切れなく列は続いて、警察がいっぱいいてヘリも飛んでいる。
メッセージはそれぞればらばらの手書きで、紙のひともいれば旗を作ったひとも、シャツに直に書いているひともいて、みんな大声でなんか怒鳴るのだが、各自てんでばらばらに叫びたいことを叫んでいる。コールを合わせるのももどかしいくらい切羽詰まって怒ったり泣いたりしているかんじ。
方角が一緒だったのでしばらく一緒に歩いて声をあげたら、すこしだけ気が晴れた。
みんなそれぞれに傷ついたり泣いたり頭にきたりしたのだね、ていうのがようくわかった。

気晴らしに近所に映画を見にいって深夜に戻ってきたらなんか警察のひとたちがいて、なんじゃろ、と思ったらホテルの傍で発砲があったんだって。 そうらきたぜ、て思ったわよ。

ふん。まけるもんか。

戻ったらJimmy FallonでMartha Wainwrightさんが歌っていた。
おかえりなさい。ありがとう。

今回、映画は1本だけ。本は少し、雑誌ゼロ、レコードいっぱい、そんなもんか。

ではまた。

11.06.2016

[log] November 06 2016

10月22日にオースティンから戻ってきたところで、いつものように熱が出て風邪になって、思っていた以上にあっという間だった翌日には上海に飛んで、頭がぼおっとしてなんだかよくわからないまま2日間打ち合わせにでて25日火曜日の夜中に(飛行機2時間遅れ)戻ってきて、風邪さんにはその翌週くらいまでずるずる引き摺られられて、ようやく文化の秋だわ走り回るぜ、のよい天気になったと思ったら今は成田で、これからアメリカに飛ぶの。

出張から戻るたびに熱だして風邪ひいて体調を崩すということはよっぽどこの国に帰りたくないようって体が訴えているのか、嫌だからって逃げてばかりいるバチじゃ反省しろ、と神様が仰っているのかどちらか、と考えてしまったりするのだが、でもこんな国にずっといるのってどっちみち体にはよくないんだわ。

こんどのはシアトルで、割と急に決まったので大統領選とかなにも準備してないし(←関係ないだろ)。
ほんのちょっとしかいないし、月曜の朝から秋鮭みたいな団体行動 - オースティンのとどっちがましか - なので勝負をかけるとしたら着いた日曜の午後だけで、そうなるともう行くところはだいたい決まってしまうのだった。

こないだのオースティンでレコードはじゅうぶん、たくさん買ったでしょう、というのはあるし、あらゆる言い訳が封じられているのは承知の上で、でもせっかくシアトルに行くのだし、TADの再発盤をどうすべきか、とかいろいろ悩ましいことはあるし、じゃあどれくらい我慢したら次を買ってもよいのか、とか子供みたいな問いで返してみたり。 本屋なんて、日本にいたって頻繁に通っているのだからべつにいいじゃんか。

向こうに着くのは午前10時。 夏時間さいごの日、一時間だけ一日の長さが延びる日。
秋のシアトル、晴れてるといいな。 ほんとに素敵だからー。

ではまた。

11.05.2016

[film] In Jackson Heights (2015)

10日の晩、新宿に移動してラテンビート映画祭で見ました。 まあ一般公開は難しいだろうしな。

Frederick Wisemanがクイーンズのジャクソン・ハイツにカメラを持ちこんだドキュメンタリー。
これの前に見た“The Beatles: Eight Days a Week”からだとShea Stadium(クイーンズだよ)でつながっている。

なんでクイーンズなのかというと、いろんな移民がいっぱい生活しているから。でもそういう町なら他にもありそうだし、もう少し突っ込むと、移民がいっぱいいるのにあんまざわざわしていなくて、町の佇まいとしてはなんか落ち着いてある、それってなんだろうか、ていうあたりではないかしら。

もう少し分解すると、Make the Road NYていう支援団体やDaniel Dromm市会議員の人を中心に据えた地道な活動とか、BID - Business Improvement Districtとしての全体の開発の話とか、そういうのが引き起こすさざ波の波間にユダヤ教のお寺があってイスラムのお寺があってイスラム文字の塾があって、ハラルの鷄食肉工場、人の爪切り、犬の爪切り、タトゥー彫り、顔剃り、タクシー教習所が東西南北を教えるとこ(なんかすごい)とか、編み物しながら無縁墓地の話をするおばさんたちとか、ふつうのストリートフェアにアイスクリーム売りに、ようするに人種もジェンダーも生活も家業も多様であたりまえで、問題があったらそれをみんなで露わにして話しあうのもあたりまえで、で? それがどうした? だからどうした? な穏やかさがある。

そもそもその穏やかさが尋常ではないのだ、と言うことも可能なのだろうし、確かに変てこで怪しげな建物とかお店はいっぱいあっていろんな人がいるけど、お散歩してみればなんかゆったり落ち着いてご機嫌になるんだよね。 

わたしにとってのクイーンズはまずアストリアで、Museum of the Moving Imageがあるし、隣にはカウフマン・アストリア・スタジオがあるし、素敵な地下鉄の高架があるし、よいところなんだようー。 老人になったらMuseum of the Moving Imageの特集上映に毎日通うのが理想なの。
(今日 - 11/5なんか『大菩薩峠』 (1966)の50周年記念上映で仲代達矢が登場するんだよ)

それにしても面白いのはBrooklynとの違いだねえ。どっちも移民が多いけど歩いてみるとかんじがぜんぜん違う。 それこそCaptain AmericaとSpider-Manくらい違うの。

なんかねえ、Frederick Wisemanの映画って、自分の半径とあまりに違う世界のが割と多くて感心するばかりなのだが、この映画に関しては少しだけ自分にもわかるところに触れていて、そうするとどうなるかというと、更にいろいろ足元を見て考えてしまうのだった。あ、”National Gallery” (2014)もそうだったけど。

でもここんとこ、映画の中でも少しあったけど、Brooklynもそうだけど、高層ビルがいっぱい建ち始めているのが不安かも。 目に見える風景が変わると人たちの目とか姿勢も変わっていくでしょ。

そうそう、香川京子さんも結婚して夫の海外赴任についていって暮らしたのがクイーンズで素敵だったって。

[film] The Beatles: Eight Days a Week - The Touring Years (2016)

10月10日、連休最終日の昼、有楽町でみました。

Ron Howardによる、Beatles初期 - 欧米のチャートを席巻し世界中をツアーして前代未聞のスケールのバンドに膨れあがっていった時期のドキュメンタリー。
残されているライブフィルムやTV出演時のクリップを音質も含めてものすごい肌理細かさで(たっぷりお金かけて)復元して画と音を同期させて、決定版の、誰も文句の付けようがないであろうクオリティのライブフィルムを作っている。

わたしはBeatlesはふつーに好き、程度のものなので、日本にうじゃうじゃいるマニアのおっさん達の目から見てどんなレベルのものなのかはわからないし興味もないのだが、このフィルムはあの頃のBeatlesはこんなにすごかったんだねえ、さいこーだねえ、ていうだけのものとはちょっと違うのではないか、と思った。

Beatlesがすごいこと、彼らがものすごい努力をして苦労を経てその結果当然のように有名になって、それだけじゃなくて音楽的にも革新的なことを成し遂げていって渋谷陽一観点でだんとつの申し分のない存在である/になったことは言うまでもないのだが、この映画のまんなかにいるのは彼らをその熱狂と共に世界に放った女の子たちだ、というかんじがとってもした。

とにかく彼女たちの絶叫、失神(寸前)も含めたいろんな、ものすごい表情と笑顔に泣き顔、その迫力とヴォリュームがものすごくて、The Beatlesは彼らの楽曲にのせてこれら少女たちのすべてを全世界に思いっきり解き放ったのだ、と改めておもう。 その、60年代初めに世界中で起こった痛快としかいいようのない事態がしっかりと記録されていて、このフィルムは彼女たちのものなのだと思った。
おまけで上映されたShea Stadiumのライブなんて、女の子たちの面白さにばかり目がいっちゃうし。

その観点からすると、このフィルムはこれの少し前に見た”Teenage”とおなじようにある時代が発明した特定の世代・年代の話なのかもしれない、と思ったらJon Savageさんが出てきてなんか言っていたり。

なので、コメントとしては当時あの群れのど真ん中にいた熱狂的ファン - Whoopi GoldbergとかElvis Costelloのがやっぱりしみじみとおもしろいの。
これに対して日本の写真家のコメントとかって、いっつもそうだけど半端に文化人しようとしててつまんないのよね。オレは黒船を見たんだ、とか、そもそもThe Beatlesというのは…  とかそんなオヤジの自慢話にしかなっていない。そんなのどうでもいいのに - なんでストレートに自分の熱狂を、頭に血がのぼった様を語らないのかしらん。

最後のほうでは”Let It Be”のときのビルの屋上セッションが出てきて嬉しかった。
小学生のとき、映画の”Let It Be”がTV放映されて、買ってもらったばかりのラジカセのマイクをTVのスピーカーにくっつけて(ケーブルなんてあるのさえ知らなかった)懸命に録音して、これを繰り返し何百回も聴いてた。これが最初のBeatlesで、あとでレコード買って聴いたらなんかがっかりした。

しかしまあ若い人たち、見事に見にきていないよねえ。 なんとかならないものか。

11.04.2016

[film] Jason Bourne (2016)

10月9日、日曜日の夕方、新宿でみました。

前のBourne三部作(?)ていうのは見てない。けどぜんぜんだいじょうぶだった。

Jason Bourne (Matt Damon)は闇ボクシングとかでいろんなとこを渡り歩く野良犬の生活をしていて、そこにかつてのCIAの同僚Nicky (Julia Stiles)が声をかけてくる。

彼女はアイスランドのハッカーの巣からマルウェア使ってCIAのサーバーに攻撃を仕掛けて(ぷぷ)、そこで盗ってきたファイル(盗れるんかい)にBourneの過去に関わるものがあると。 そうして機密を彼に渡すとNickyは目の前で死んじゃって、盗まれて頭から湯気だして怒ってるCIA長官(Tommy Lee Jones)と彼の差し向けた殺し屋工作員(Vincent Cassel)と、CIA内でこの件の指揮をとるHeather Lee (Alicia Vikander)がBourneを追っかけまわすことになる。

盗んだ機密にはBourneの過去だけじゃなくてCIAが今やろうとしている闇の陰謀 - メガITベンダーのクラウドから個人情報をそのまま横流し(ぷぷ)- もあって、始めはBourneを追っかけていたLeeも彼の味方をするようになって - そりゃTommy LeeとVincent Casselが並んでたら悪顔すぎて働くの嫌になるよね - 国の平和とかなんかよりも30年前の父ちゃんの仇、とか、殺るか殺られるかのどつき合いになっていくの。

Jason Bourneは誰だとか、彼の記憶がどこでどうしてどうなったとかは割とどーでもよかったので、今回みたいに敵味方くっきり分かれてぼかすかやりあうのは悪くなかった。のだけどいろんなアクション - 特に取っ組みあいが早過ぎて目がついていかない。あれってパワーありすぎるので豪速球みたいになっちゃうってこと? あと、あんなさくさく蝿みたいに蟻みたいに人を殺していってよいのか、とか。 ベガスでのカーアクションだって技術もなんもないまま勢いでぶつかって潰して壊してがーがー走っていくだけなの。 あんな車をお粗末に壊しまくるのって”The Blues Brothers”以来ではないか、とか(誉めてる)。

最近の情報機関の悪企みって、たいてい個人の情報をぜんぶ持っていって可視化しようとするのね。Captain America然りX-Men然り。 でもその前に立ちはだかる圧倒的にすごくて強い個(たち)- 彼らはだいたい自分がなんなのかよくわかっていない - に叩き潰される、ていう構図ってどういうことなんじゃろか。 あれだけ車壊して大騒ぎ起こしてみんなに顔見られてて、個人情報だなんだ言う前にこんなやつ野放ししといていいの?
べつにいいけど。

あと、最後に流れるMobyによる主題歌の字幕があまりにださいので吹きだす。
歌詞の訳として正しい正しくない以前のところで、なにかが決定的にズレているとしか思えないかんじ。

11.03.2016

[film] The Sisterhood of Night (2014)

9日の青春映画学園祭、”Teenage”に続けてみました。 このお祭りの最後の1本。
『シスターフッド・オブ・ナイト 夜の姉妹団』
スティーヴン・ミルハウザー の原作短編は読んでいない。

これも“Tanner Hall”とおなじ女の子4人のお話しで、でも女子寮ではなくてみんな自宅で家族と住んでいて、でも姉妹団ていう目に見えない夜の秘密の絆で結ばれていて、それを繋いだのはSNSで、彼女たちは闇夜にこっそり集まるので謎だらけで、ある事件があったことから学校を含むコミュニティ全体の大騒ぎに転がっていく。

Mary (Georgie Henley)はなんでもできそうなカリスマ性もある番長格で、Emily(Kara Hayward - “Moonrise Kingdom”の彼女ね)はそんな彼女に憧れたり妬んだりで、わたしを見て!かまって! てBlogやSNSでわーわー言うしかなくて、この二人の散らす(というかEmilyが勝手に火をつけまくる)火花を軸に、アジア系でちょっと謎めいたCatherine (Willa Cuthrell)と素直なふつーのお嬢さんのLavinia (Olivia DeJonge)が加わって、エキセントリックなようでいて実はふつーにそこらにいる女の子たちだった - わかんないけどほんとのとこは - みたいな描き方をしている。

SNSとかネット系に寄ったりしているものの、NY州Kingstonという小さな町で起こった魔女狩りのような事件の顛末を追っていて、それがネットに起因するものなのかコミュニティの捩れによるものなのか、そこらへんがややぼやけてはいるもののポイントはたぶんそこにはなくて、女の子たちはやっぱり女の子たちだった。ていうあたりなのか。 男の子だったら秘密基地をつくってぜったいの誓いみたいのをやるようなやつ。 それがどれだけ特別なものだったのかは彼女たちにしかわからない。 誰もその跡を追うことはできない。 そういうもんでしょ、と。

冒頭の語りからある事件をきっかけに彼女たちの関係が暴かれてしまうことはわかっていて、だから見ているのはややきついところもあるのだが、終りのほうの展開は素敵で、更生しましただいじょうぶになりましたー。 たぶんな…  のような突っぱねた描きかたをしていて、だってあたしら夜の姉妹団なんだから、という。

彼女たちの夜の逢瀬や彷徨いがPVみたいな撮られ方をしているのはちょっと普通すぎて残念だったかも。 もっと野良猫みたいなふてぶてしさと闇に寄り添う姿があっても。
他方でこれは家族のお話し - ファミリーアルバムとしてもあろうとしていて、それもわかるの。
Catherineのママとかおじいちゃんとか。

巻きこまれてえらい目にあう教師役でKumarが。

10.31.2016

[film] Teenage (2013)

9日の青春映画学園祭、最初の一本。 朝はひどいざーざー降りだった。

英国製作のドキュメンタリー、といっても特定の史実や出来事をそれにまつわる映像記録や関係者証言と共に綴ったものではなく、昔のアーカイブ映像、ニュース映像をある筋書きに沿うよう恣意的に繋いで、そこに現代の俳優の声を被せてある現象、というか、ある時代の要請によって作り出された集団人格の誕生とその趨勢を追う。

題材は"Teenage"で、時代は1904年から1945年まで、それまでは「子供」と「大人」という区分しかなくて、「子供」は産業革命以降の労働力 - 大人の奴隷 - として要請された年齢枠で、その「子供」と「大人」の中間に形成された"Teenage"は迫りくる戦争の予兆を背景に兵力 - 国の奴隷 - として要請されたもの。具体的にはボーイスカウトの設立がそれを準備したのだと。

「子供」も、その後にやってきた「ティーンエイジャー」も、力と声を持たない(かに見えた)社会的弱者をある要請に基づいて集約して使い倒すため意図された人狩りの枠組みで、現代の”Teenage”のイメージがもつ甘酸っぱくてポジティブで無軌道なパワー、のようなものはなかったのだ、と。 これだけだとああそうなんだねえなのだが、時代の別の事情 - 軍需がもたらした好景気とメディアの発達 - が異なる風と光を呼びこんで、ティーンエイジャーは大人たちから離れて自分たちで、自分たちの声や歌やダンスやファッションを、スタイルを作り、語り、広め、互いに影響しあいながらダイナミックに世界を青く染めていくことになる。

それはもちろん、英国だけの話ではない同時多発で、源流となったアメリカがあり、更にはナチスが台頭するドイツでも"Teenage"が巻きおこしたうねりや爆発、それに伴う軋轢の悲劇やごたごたはあり、他方で彼らの勝手な動きが国や体制の想定した枠を逸脱して新しい文化的な何かを生み出していったことは確かで、この映画の作者は可能な限り若者たちのほうに寄り添うことでそこにあったかもしれない希望、可能性 - それはもちろん今に連なる - を摑まえようとしているかに見えた。

原作はPunk関連のテキストやコンピの編纂をしている人だとばかり思っていたJon Savegeさんで、その視座は一貫している。 ノスタルジックにあの時代の若者たちや事象を賛美したり回顧するのではなく、古地図を見ながらそれを現代の地図にremapして新たな革命や扇動の可能性を、その進路と退路を探っているのではないか。
ここに現代の若者(Ben Whishaw、Jena Malone、Jessie T. Usher、等)の声を被せ、現代の音楽(DeerhunterのBradford Cox)を被せたのはそういうことよね。

なのであまり暗いトーンはなくて、バトンは渡ってきているからね、という意志のようななにかが漲っている作品だった。 トラックを作ったのは誰か、というのはあるにせよ。

あともういっこは、おそらくはマーケティング用語として80年代くらいから出てきた(気がする)「ジェネレーション」ていうのをどう見るべきなのか、とか。
こっちのほうが手強くて、めんどいかも。


関係ないけど、Austinで買ってきたCursiveの”The Ugly Organ (Deluxe Edition)”のアナログがあーまりにすばらしいのでびっくりしている。リリース当時のオリジナルもすばらしかったけど、もうぜんぜん別物のクオリティ。チェロは縦横に暴れ回っているし、オリジナルラストの”Staying Alive”の冒頭で広がる星屑の深さと細かさときたら。
あ、それでも彼らのライブにはまったく敵わないのだが。

10.30.2016

[film] High School (2010)

10月8日の2本目、”Tanner Hall”に続けて見ました。 『ハイスクール マリファナ大作戦』。
学園モノってこういうやつよね、てかんじの楽しいドタバタ満載。

Henry (Matt Bush)は奨学金つきで大学に行ける手前の優等生なのに朝に校長の車にぶつけてしまい、その原因はラリって運転していた幼馴染のTravis (Sean Marquette)にあって、これがきっかけとなって久々に打ち解けたふたりは子供の頃に籠ったツリーハウスでマリファナを吸って将来のことを語りあう。

翌日校長はマリファナをやっているふしだらな連中がいるようだから全校生徒に薬物検査をする、て宣言して、前日に吸っていたHenryは陽性になったら奨学金100%アウトなので焦ってTravisと一緒に考えて、PTAが校内のBake Saleで作るブラウニーにはっぱ混ぜて食べさせて学校にいる全員らりらり陽性にしちゃえばいいじゃん! (天才じゃん!)になる。 だから”High” School なの。

こうして大量のマリファナを怪しい元弁護士の売人(Adrien Brody)から盗んでブラウニーに混ぜてバラまいてから先は、らりったPTAとか生徒達が巻き起こすしょうもない大騒ぎと、あのふたりが怪しいと付けねらってくる陰険な校長と、怒り狂って追いかけてくる売人と、Henryを成績Topの座から引きずり落とそうとする二番手のガリ勉と、などなどがぐじゃぐじゃに入り乱れて、果たしてHenryは落第しないで奨学金を得て、明日を掴むことができるのか? なの。

あーこういうふうに落着させて丸めこむんだねえ、ていうか、こっちにもマリファナの煙が漂ってきてもうどうでもええわになってしまったかのような変な酩酊感(やったことないけどねもちろん)があって、おもしろかった。
よいこは正しく生き残って報われて、悪いこ - 大抵校長なんてそういうもん - は徹底的に叩かれて地獄におとされて爽快でたまんない。

マリファナによるらりらりを巡る大人も子供も横並び(ラリったら皆同じよ)の狂った群衆劇で、そういう点では従来の学園モノとはちょっと違うのかもしれない。 抜け目なくとび抜けた優等生 vs 高慢ちきな校長、ていう線だと例えば、”Ferris Bueller's Day Off” (1986) という神のような古典があるのだが、ここにあったのが倫理とは? 成長するとはどういうことか? ていう極めて真っ当な問いだったのに対し、この映画のは、へーいどうしようってんだい? どうなっちゃうんだい? ていうアナーキーで根源的なかんじので、最後は学園を離れた新聞ネタでおわるの。

Harold & Kumar みたいにシリーズ化してもよいのに。 ちょっと弱いかしら。

[film] Tanner Hall (2009)

元のトラックに戻ります。

10月8日、9日の土日に渋谷で行われた青春映画学園祭、ていうので計4本みました。
この土日、ちゃんとした映画マニアのみんなはアンスティチュのフランス幻想怪奇映画特集のほうなのだろうが、わたしはちゃんとしていないのだな。

どっちも雨のなか朝から並んだ。

映画を見れるのはうれしいしありがたいし、学園祭ていうお祭りなのだろうから偽IDとか作って楽しそうでよいのだが、学園も学園祭のノリもそもそもだいっきらいで、でも学園モノ映画は好きていう客もいることを忘れないでほしい。

8日の最初の1本。

Fernanda (Rooney Mara)が休み明けに女子寮のTanner Hallに母と戻ってくるところから始まって、その時ちょうど彼女の幼馴染のVictoria (Georgia King)が入寮してきて、幼い頃、VictoriaはFernandaのおばあちゃんのオウムをわざと籠から逃がした悪い子、ていう印象がFernandaからは消えなくて、ちょっとやな予感がして、実際そのとおり寮の玄関の鍵をコピーして好き勝手に外出できるようにしたり、ずけずけきんきんしたビッチの振る舞いをたっぷり披露してくれて、この他に奔放な小悪魔(←死語)ふうKate (Brie Larson)と、内気で絵を描くのが好きなLucasta (Amy Ferguson)と、この4人の寮生活を巡るいろんないざこざとか和解とか赦しとか。

Fernandaと彼女の母の友人の夫との切なくどんよりした(互いに突き抜けることができない)逢瀬とか、Victoriaのコピー鍵を使って抜け出して夜の遊園地にみんなで出かけたりとか、Kateと冴えない教師Chris Kattan (! Mango !)の火遊びとか、なにをやるにも悪いことばかりのVictoriaとか、どれも学園ドラマにありがちの設定ばかりなのだが、彼女たちはこの中で生きるしかない(Live Through This)、というのとなにをどう呪っても吐き出してもしょうがない、どうしろっていうのよ、というそれぞれの強い眼差しとその交錯を静かに追う。 誰も信じない。頼らない。でも。

それを美しいとも言わないし愛おしいとも思わない、最後にFernandaがVictoriaを受けいれるように、それは秋のTanner Hallの扉の向こうで、ただ起こったこと、それだけ。
車の窓越しに外を眺めるRooney Maraの姿は、"Carol" (2015)でのThereseにすうっと重なってくる。それは諦念ではなくて、決意と覚悟を固めて扉を開こうとしているとしか思えないの。

でもねえ、デートでレコ屋に行ってThe Replacementsのアナログを買うような中年男はしょうもないろくでなしだから注意しろ、てFernandaに言ってあげたい。

とにかく、ラストに流れるStarsの“Your Ex-Lover Is Dead”が見事に締める。 2010年9月にBrooklynでこのバンドのライブを見たとき、ライブの最後がこの曲で、イントロが鳴り出した瞬間に周囲の女性ほぼ全員が深く頷いて拳を握り、前を向いて一緒に歌いだしたことを思いだす。 この曲はこの時代の子達にとっての”Love will tear us apart”であり”There is a light that never goes out”なのだとおもう。

そして、同じようにエンディングにStarsの”Dead Hearts”が流れる”Like Crazy” (2011)もぜひ上映してほしい。 Anton Yelchin追悼もまだしてないでしょ。

10.29.2016

[log] NY Austinそのた2 -- Oct 2016

帰りの飛行機で見た映画ふたつ。

Les héritiers (2014) 『奇跡の教室 受け継ぐ者たちへ』
パリ郊外の、割と貧しい層の子たちが通う、人種も宗教もばらばらで荒れ放題の高校のあるクラスで歴史と美術史を教えるアリスがいて、教えるのが大好きという彼女のいうことを子供たちは割と静かに聞くので、彼女は国の歴史コンクールに参加しよう、という。
テーマは「アウシュビッツと子供」で、始めガキ共は暗いしわかんねえし、とか言っているのだがのめりこむようになって、みんなでがんばってやがて一等賞をとりました、ていう実話の映画化。
実話そのもの - アリスの教育者としての姿にもいろんな境遇の子供たちの努力にも - あまり感動はしない - いやよい話だとは思うけど - のだが、歴史を学ぶ/歴史から学ぶ、っていうのはどういうことか、歴史っていうのはいったい誰のものなのか、などがとても具体的に描かれているなあ、て思った。「悲惨な歴史を繰り返してはならない」って口先だけのスローガン掲げて「自分たちにとって」都合の悪い歴史を削除しまくろうとするどっかの国の文科省連中に見せてやるべきだわ。

Criminal (2016)
ロンドンのCIA支局のBill (Ryan Reynolds) がある機密 - 米国の全ての兵器を遠隔でコントロールできるハッカー+ワーム一式 -とその見返り報酬を隠そうとしたところで敵につかまって殺されてしまうのだが、CIA側は脳外科医に依頼して死んで時間が経ってない彼の記憶を生きた人間に移送してBillの最期の記憶を甦らせようとする。
移送される側は超凶悪犯罪常習の死刑囚Jerico(Kevin Costner) で、なんで彼かというと幼い頃から脳の一部が欠損していてそこがこの手術の場合は適合するのだと、怪しげな医者(Tommy Lee Jones)は言って、この件に執念を燃やすCIA支局長(Gary Oldman)もやるしかねえだろで、こうして素行はめちゃくちゃ凶暴で血も涙もないが頭脳やスキルはCIAのスパイ並み、ていうフランケンシュタインが誕生して、彼は頭痛の波に悩まされて頻繁に勝手に再生されるBillの記憶にも悩まされて、彼の記憶が導く彼の妻と娘にも悩まされて、当然機密も確保して世界を平和にしなくちゃいけなくて、とにかく大変なの。
でも改造ヒーローもののような威勢のよさとか爽快感は全くなくて、遺された家族のところに帰ろうとする記憶とエモ、勝手に変なもの埋めこみやがって、と怒るJerico、薄汚れたおじさんの登場にひたすら怯える家族(妻がGal Gadot)、勝手な行動するんじゃねえ、て切れまくるCIA、などなどの絡み合いが面白くて、ぼろぼろのKevin Costnerもびっくりするくらいよくて、周りもみんなうまいし、拾い物でしたわ。


レコード屋、NYではAcademyの12thに行っただけで、でも我慢して買わなかった。
本屋、Academyの後のいつものコースでMast Books行って、McNally Jackson行って、本と雑誌を少しだけ。

MastではGraham Macindoeの”All the Young Punks”。
自分の持っているパンクの7inchとかチラシとか切り抜きをぼけぼけの写真で撮っているだけなのだが、なんかよいの。

Under the Radarのthe Protest Issueとか、Hillary表紙のBustとか。
http://www.undertheradarmag.com/issues/31576/

Austinは、空港内にレコード屋があってばんざいして、ホテルに入ってからGoogle mapで”Record Store” って検索したら周辺にわーっと赤いのが立ったので鳥肌がたって、こんなの、出張に適した土地とはいえませんわね。

手始めに会場から歩いて10分くらいのとこにあったEncore Recordsていうのに、ちょっとだけ抜けて行った。
お店の前に”45s for 45¢”て張り紙がしてある(7inchいちまい50円)。
ハイウェイ脇の薄暗い倉庫みたいなとこで、アパレルとかも売ってて、アナログとCDがざーっと箱から出しただけ、みたいな状態で積んであるようなとこで、品揃えは悪くなかった。けど買って帰るわけにはいかない状態だったのが少し残念だった。 あと通過するハイウェイの高架の下で半裸でごろごろしている人たちがいっぱいいて、通るときちょっと緊張したかも。

Waterloo Records空港内に出店していたのはここで、水曜日の晩、ホテルからだらだら歩いて20分くらい。
あーここあるわ、て店を見たかんじでわかるのだが、まあそういうとこ。
平屋でCD, DVDが半分、アナログが半分。中古も結構ある。
12inchと7inchを割といっぱい、ひさびさに買った。
ようやくめっけたCursiveの”Ugly Organ”のデラックス盤とか、SUMACの"The Deal"とか、"Carol"のサントラ - 10inchの2枚組とか、中古だと、昔のThe Fallとか。
7inchは、ColossalとOwenのSplitとか、Charli XCXの”No Fun”とか。

それにしてもなんか、日本に入ってきているアナログ盤の種類、少ないよね、て最近よく思う。
せいぜい週一回、Disk UnionとタワレコとHMVくらいしか行ってないくせにいうな、かもしれないし、そもそも全部輸入できるわけなんてないんだし、ていうのはわかっているけど、現地のお店に出ている分量からすると圧倒的に少ない印象がぬけない。あと値段高い。 洋雑誌とかもそうだけど、為替105円としてもなんであんな倍近い値段になっちゃうの? いつからこうなっちゃったのかしら。

つまりは洋楽は売れない、マーケットとして小さいから、ていうのがあるのだとしたら、ぷーん、だし、でもそうやっていると本当に聞きたいひとはデジタルで落としたりストリーミングで聴いたり、ますます店頭には向かわなくなってスパイラルで縮小していっちゃうよね。 別にいいけど。 ぷーん。
この傾向 - 確実に売れるのしか入らない/入れない - って洋楽だけじゃなくて洋画もだけど、これが国内のものを見よう聴こう! それでいいじゃん - の大きな志向とか流れのなかの話だとしたらつくづく気持ちが萎えて嫌になる。 やはり移住するしかないのかなあ。

とにかくなんでAustinで”Waterloo”なのかわかんないけど、すばらしいお店だった。

で、その通りを隔てた反対側にあったのがBookPeopleていう2階建ての本屋で、中にカフェがあってゆったりしていて(SeattleのElliott Bay Bookみたいなかんじ)、雑誌くらいしか買わなかったけど、いやー素敵、だった。 どっちのお店も23時までやってるし。

更にその反対側(Waterlooからみると対角線向こうの角)にはでっかいWhole Foodsがあって、これで角の3/4が埋まって、もういっこの角に映画館でもあったら、もう引っ越すしかないわ、になる。 いいよねー。

10.28.2016

[log] NY Austinそのた1 -- Oct 2016

先週土曜日に米国から戻ってきたとこで風邪ひいて、そのまま上海いって、戻ってきて少し熱ひいたと思ったらもう片方の目に結膜炎がうつった。 さいてー。

NYとAustinの食べものとか。今回はあんまないけど。

NYでは日曜の昼と夜だけ。昼はCafé SabarskyでBeet SaladとUngarisches Rindsgulasch mit Spätzle(グラーシュね)とWiener Eiskaffee (ウインナーアイスコーヒーね)をいただいて、相変わらずおいしかったのだが、それよりとにかく目を覚ましたかったかんじ。

晩は、21:00から映画で時間もなかったしお腹もそんなにすいていなかったのでLincoln Center内に数年前にできた”Lincoln”ていうイタリアンに初めて入った。 オープンキッチンでとってもしゃれたデコールでパスタもおいしかったのだが、ここに来るときってだいたい映画目的だから、ポップコーンでいいのよね(Walter Readeのポップコーン、おいしいし)とかしょーもないことも思った。

Austinでは、月曜日の晩がWelcomeのパーティご飯で、火曜日がいちんちホテルのコンファレンスのご飯で、水曜日以降はでっかいイベント会場でのコンファレンスご飯だった。
ホテル内でのご飯はふつーにホテルのステーキランチみたいので、どちらかというと休憩時間に廊下に並べられる地元のドーナツとかお菓子がたまんなくおいしくて、店名書き留めておくんだった。 あとBourbon infused Iced Teaていうのがあったので飲んでみたらふつうにバーボンでなに考えてんだ、ておもった。おいしかったけど。

イベント会場でのコンファレンスご飯、ていうのはふつうケータリング業者が一括で仕切って大抵まったくおいしくない、刑務所の飯とかいう人もいるくらいなのだが、地元の屋台を呼び込んだここのはおいしかった。
朝はさすがにふつーのベーグルとかデニッシュとかヨーグルトとか、なのだが、朝7:30から地元のシンガーとかバンドの人達がフロアの真ん中でライブで演奏してて、大変だねえ、て思いつつさらさら歌っていてとっても気持ちよく素敵だった。 音楽の都なんだねえ。

水曜の晩と木曜の晩はひとりレコードを求めて町に出て、帰りにハンバーガーとホットドッグ食べた。
ハンバーガーに関して、わたしはグルメバーガーみたいのは信じてなくて、たんにぺたんこでシンプルでぱくぱく食べれのがよくて - 起源は90年代に出会ったP.J. Clarke'sあたりかしら - だから最近の日本のバーガー動向にはなんか辟易、なのだが、水曜日のレコード屋の帰りになんとなく入ったHut's Hamburgersていうとこはすてきだった。 店内には昔のテキサスの洪水のときのAustinの様子とか昔のアメフトヒーローの写真とかがべたべた貼ってあって、よいかんじで、バーガーはあっという間に消えてしまったのだが、あんなふうに軽く食べれるのがいちばんよね。

http://www.hutsfrankandangies.com/extra/hutsmenu.pdf

木曜日レコード屋の帰りに入ったホットドッグ屋 - Frank Restaurantていうとこに入って、Chicago Hotdogてのを頼んだのだが、まあおいしいの。ぱりぱりぎゅうぎゅうのソーセージとふにゃふにゃのパンの組合せがおいしければそれだけでよいの。 あと、ベリーとシリアルの粒がまぶされたシェイクもすごくおいしかった。

http://hotdogscoldbeer.com/austin/eats/

ハンバーガーとホットドッグとドーナツがおいしい町、ていうのは理想だよなー。
て何度もおもいました。

10.26.2016

[talk] Malcolm Gladwell

20日の木曜日、イベントのクロージングでパネルがあって、そこに出てきたふたりの話をメモとして書いておく。 主催者とかスポンサーとかからは一切フリーなふうで、テーマは一応”Innovation”周辺、らしい。

最初に出てきたのがMalcolm Gladwellさんで、彼の話を一番聞きたかったの。
わたしはまだBlackberryユーザーなんですけど… と始まって、プレゼン資料とかは一切使わず、立って喋るだけのその姿はコメディアンのようにも見えなくもないのだが、今は偉人とされている人たちの”Innovation”がかつてSocialなところとの境界でどんな波風を立てたり影響を与えたりしたのか、について。

一人目は60年代、当時治癒率はほぼゼロだった小児の白血病の治療法 - 4つの薬を同時に与えるのではなく投与の順番を変えることで治療法を開発した - これが現在のChemotherapyの礎となった - Emil J. Freireich, Jrのこと。
彼のまわりで子供がばたばた亡くなっていくので周囲からは散々攻撃され、ナチスとまで呼ばれた彼は決して研究の手を緩めなくて、それを支えていたのは彼のなかにある” Sense of Urgency”だったという。

もう一人は誰もが知ってるSteve Jobsで、79年、Xerox PARCの研究所でGUIとマウス(鼠じゃないよ、ころころだよ)を見せられて、それまで仲間と進めていたLISAの開発を止めてもっと安価に提供できるGUIとマウスの開発に切り替えた。 この時の彼を突き動かしていたのも” Sense of Urgency”で、一緒にやっている人達からみたら”Disagreeable”なかんじで、この辺はあの映画にもあったけど、意固地で何考えているかわかんないふう、なんだよね。

最後のひとりは、IKEAを創ったIngvar Kampradで、スウェーデンで家具屋やっていたのにコストを抑えるためにポーランドから組み立て前のぺたんこな状態で配送することを考えた ? このひとも現状にまったく満足していなかった変なひとだった、と。

Malcolm Gladwellさんの次に出てきたのがKevin Kellyさんで、Wiredの創刊メンバーで、『テクニウム』とか『インターネットの次にくるもの』とか、日本でもゆーめーなひとよね。

次の25年でテクノロジーのランドスケープはどう変わっていくのか。

きたぞ大風呂敷。

スライド上にBig Questionをでーんでーんと放り投げ、その解を与えないまま次に転がしていく。
サービスのありようとか、その優位性が「所有」から「アクセシビリティ」に変わってきたところで、数十億の人達とデバイスが同時に繋がっている共時性/リアルタイム性が常態化した今を”Technological super-organism”と名付けて、我々は始まりの始まりにいるのだ、次の20年を代表するような圧倒的な発明はまだ生まれてきていない − 今からでも遅くはないのじゃ、ていうの。
じじい、あんたがやれ。 て会場の何名かは思ったはず。

3人目に出てきたのはサブスクリプション・サービスを始めたBrooklynのベンチャー企業のひとで、これからサブスクリプションの時代が来る! ていうのはとってもわかりやすいし、そうだよねえ、て思うのだが、なにかがちょっとだけ早すぎる気がしないでもない。 それはなんなのか?

で、この3人を置いたパネルディスカッションなんて纏まるものになるとは思えず、時間切れであっというまに終わった。 でもおもしろかったなー。

[art] Klimt and the Women of Vienna’s Golden Age, 1900 - 1918

NYとAustinの美術館関係 - ふたつだけど - を纏めて。

もう書いたけど、NYに着いて最初に地下鉄で向かったのはNeue Galerieで、行列ができているのにびっくりしつつもCafé Sabarskyでお昼を食べてから中に入る。

Klimt and the Women of Vienna’s Golden Age, 1900 - 1918

展示はいつもの3階ではなく2階のワンフロアのみで、Klimtの描いた当時の女性のポートレートが中心。(3階では”Masterworks from the Neue Galerie New York”ていう入門篇を)

既に十分にゆーめーなAdele Bloch-Bauerのポートレートがふたつ - 1907年のと1912年の。映画で有名なのは1907年の。ふたつをいっぺんに見れるのはたぶん、今のここだけ。

それよりもよかったのは"Portrait of Mäda Primavesi"  (1912)のふんばった二の足。 1912年のパンク女子、ってかんじの目つきとおしゃまな妖気と。
これも1912年のAdele Bloch-Bauerも"Portrait of Elisabeth Lederer" (1914-16)も、背景がとてもカラフルでこまこま楽しいのと、全身足の先まで描いているところがおもしろくて、かっこよいの。 Klimtって、猫のひとなんだよねえ。

やや暗めの別室にあったデッサンもどこか箍が外れていてなんかたまらない。

カタログは買うしかないでしょ、てかんじで買う。 相変わらず重いけど、ここのカタログはぜんぶ揃えてやらあ。


Warhol By the Book

20日の木曜の午後、タクシーで向かった先のBlanton Museum of Artで見ました。
テキサス大学オースティン校のキャンパス内にある美術館。
木曜日は入館タダの日だそうで、校外授業みたいので来たらしい子供たちがいっぱいいた。

「本」にフォーカスしたウォーホルの展示。今年の1月までAndy Warhol Museumでやってその後にThe Morgan Library & Museumに行った展示の巡回と思われる。
有名な80年代の日記は勿論、ブックカバーのデザインをしていた最初期の頃のとか、彼のアート全般は、「本」 - 印刷物、大量コピーもの、を意識しながら動いていったようなところもあるので、あーそうかー、とか思いながら見ていた。 シルクスクリーンだとカポーティとかゲーテとか、作家に関係したのものや、いつもの”Screen Test” (1966)もリピートしていたし、彼の雑誌の”Interview”の古いのとか、彼がデザインしたレコードジャケットのアナログ盤は自由にかけられるようになっている。

おもしろかったのは彼の学生時代の蔵書の一部。「世界美術史」とか、教科書の他にGertrude Steinの"The World is Round" ("Rose is a rose is a rose..”で有名)とか、マティスの小さな画集 - 「彼の色使いは案外マティスに影響を受けているのかもしれません」て解説にはあった。

あとはブックデザインで見ることができる初期のデッサン画のなんともいえないよいかんじ - 猫とか豚の丸焼きとか。
この時代を押さえておくと、彼をスープ缶のひと、なんて言えなくなると思うわ。

もういっこ、Warholの隣の部屋でやっていた展示が -

Xu Bing: (徐冰) -  Book from the Sky (天書) 1987 - 91
かくかくの漢字が壁4面にびっちり。更に天から布にびろびろと織り込まれて降ってくる。
デザインとしての漢字、ひとつひとつが意味のキューブであるところの漢字に囲まれていることの安心感と不安と。 考えてはいかん、見たら石になる、とか思ってしまうのはなんでか。

パーマネントコレクションも見たかったのだが、ここは改装中でやっていなかったの。

[film] Masterminds (2016)

20日木曜日の午後、Austinの高速道路沿いにぽつんと建っているシネコンでみました。
仕事のイベントは午前で終わりで、午後には週末のF1(車が走るやつ?)に向けたセットアップが始まるとかで追い出されて、日本人向けの市内観光ツアーとかもあるらしいのだが、そういうのは聞かなかったことにしてホテルに戻り、お出かけ準備をして、ホテルのとこでUberを呼ぼうとしたらアプリから、AustinではRegulationで認められていない、とか言われてしょうがないから普通のタクシーでまず美術館に行った。もんだいはテキサス大学内にあるその美術館からどうやって映画館に行くかで、しばらく道端で突っ立っていたのだがタクシーなんて来そうにないので、地元のものと思われるタクシーアプリを落としてなんとか呼ぶことができた。

こういうシネコンてショッピングモールのなかにあることが多いので、なんか暇は潰せるじゃろ、とまずは行ってみたものの、周りにほんとなんもないところで、4:30の上映開始まで1時間以上あったので、なかに入って途中から見ちゃった。 客は他にひとりだけ。

監督が“Napoleon Dynamite” (2004)、”Nacho Libre” (2006)のJared Hess で、Zach GalifianakisにOwen Wilsonが出てて、更に新Ghost Bustersの4人のうち3人が出ていて、プロデュースにSNLのLorne Michaelsの名前があるんだからこんなの見ないで帰るわけにはいかないでしょ、だったの。

97年の10月、North Carolinaで起こったLoomis Fargo Heistて呼ばれる現金輸送車による米国強盗史上最大額(17million)の事件の実話がベースで、このキャストだと余計にほんとかよ、感が滲んでしまうのだが、いまは出所している当事者たちがコンサルとして入っているとか、どうも割とまじに作っているらしい。

現金輸送車の運転手をしているDavid (Zach Galifianakis)はアツい婚約者(Kate McKinnon)もいてふつーに幸せのはずなのだがなんか物足りなくて、職場のKristen Wiigが気になったりしているときにSteve (Owen Wilson)に身近な現金の強奪に誘われて、倉庫にあった札束をがしがし車に運んでなんとかやっちゃうのだが、監視カメラの映像とかからFBI (Leslie Jones)に目をつけられて、やばそうなので偽名を使っていったんメキシコに高跳びするのだが、Steveの差し向けた狂った殺し屋 (Jason Sudeikis )が追ってきて、Steveのやろう~、てなって、さてどうするのか。

ていう実話なので、あまり荒唐無稽ではないふつーの犯罪話 - 誰が首謀の、いちばん悪い奴- Masterminds - なのか、一番金を貰うべきなのは誰や -  に各登場人物の、というより各俳優のギャグやドタバタが練りこまれていて、映画の焦点がそこをおもしろいと思えるかどうか、になってしまっているとこがきつかったかも。TVドラマでもいいんじゃないか、とか。

でもわたしは彼らみんなのバカバカしい冗談も挙動も大好きなのでふつーにへらへら見て楽しかった。
Kate McKinnonとKristen Wiigの取っ組みあいとか、Jason Sudeikisの狂いっぷりとか、エンドロールのNG集も、おもしろいよう。

この日の晩から金曜日オープンの"Keeping Up with the Joneses"ていうのも上映されることになっていて、監督は"Superbad"(2007) - "Adventureland" (2009) - "Paul" (2011)のGreg Mottolaで、Zach GalifianakisとかJon HammとかGal Gadotが出るスパイもので、こっちもおもしろそうだったので続けてみようかなー、だったのだが、Zach Galifianakis漬けの一日になってしまうのはどうか、て思ったのと、もういっかいレコ屋に行きたくなってしまったので、あきらめたの。

10.21.2016

[log] October 21 2016

けさ - 金曜日の朝の4:44に起きて支度して、6時にホテル出てAustinを発って中継点のChicagoまできました。

ほんとはほんの少し遅めのDallas経由便のはずだったのだが、昨日の午後に携帯が鳴って、嫌だったらそう言っていただいてぜんぜん構わないのですが、便をChicago経由のに替えてくれないでしょうか? 見返りにシカゴ - 成田はファーストにしてあげることができます、あと成田ついたら3000円あげます、て言われて、3000円あればレコード一枚買えるよね、と どちらかといえばそっちに負けてこうなった。

Austin、初めてだったけどなんだかとってもよかった。 この近辺 - Texas周辺 - でこんなによい印象 - ここなら住めるかも - をもてた街はこれまでなかった。
よいレコード屋があってよい本屋があって、食べものは基本は南部の濃い口だけど不思議と洗練されてて(わかんないけどね)、暑くもなく寒くもなくて夜歩きしていると必ずどこかからライブの音が聞こえてきて。

大きな湖 - 川だと思った - があって、雲の形がいつ見あげても素敵で、ひこうき雲も沢山あって、ぎーぎー鳴く変な鳥がいっぱいいて、モダンな建物はどれも基本ださいけど古い朽ちたような建物も沢山残っていて、悪趣味が適度に受容されていて、いくら歩いても飽きない。
でも夏はあっついんだろうなー。

お仕事のイベントも、Alabama Shakes - Brittanyのシャウトを聞けたし、Malcolm Gladwellさんの立って喋る姿も見れたし、いろいろお勉強になったし。 あ、日本人のみなさんにはほんとにごめんなさいね、ああいうとこでの集団行動ってまぢ耐えられないの。

NYも合わせると美術館2、映画2、演劇1、レコ屋3(買ったのは一軒だけ)、本屋3、Whole Foods1。
こんなもんかー。
空港でもレコード屋開いていたのだが、さすがにもう買わなかったわ。

最大の誤算はUberが営業していなかったこと。 ちょっと痛かった。

日本には土曜日の夕方に着いて、日曜日の午前には上海 - 仕事に決まってる - に飛ぶことになっていて、そこには私用のPCは持っていかないので2〜3日ここの更新は止まる。
カニなんて別にさあー。 ぶつぶつ。

ではまた。

[film] Billy Lynn's Long Halftime Walk (2016)

16日の晩、21:00にLincoln Centerで見ました。
NYFF (New York Film Festival)の公式の上映は15日の晩で終っていて、メイン会場のAlice Tullyも片付けられていて、でもこの日はアンコールのようなかたちで何本かが周辺のシアターで上映されていて、まだNYFFやってるんだから。チケットだって$45もするんだから。 ほら、Kent Jonesさんがあそこで談笑しているし。

この晩は他にMia Hansen-Løve さんのも上映されていたのだが、なぜかこのAng Leeの新作にした。 2012年のNYFFのオープニングを飾った“Life of Pi”(ライフオブ ”ぴ”)のお祭りのイメージがあるからかしら。

上映前には毎年恒例のNYFFの上映作品をこまこま繋げたかっこいいトレイラーが流れる。 これだけでとても盛りあがる。
TIFFのチケット騒動をこっちに来てから知って、ご愁傷様としか言いようがないのだが、元々そういう映画祭なんだよ。あの映画祭は国と企業スポンサーと金払う必要のない評論家やバイヤーのためのもので、運営する人たちにとって我々一般の観客なんてどうでもいいの。だから驚かない。ほんとうに頭にくるし軽蔑するし恥ずかしいし悲しいことだ。 くそったれ。

19歳のBilly Lynn (Joe Alwyn)と彼の属する小隊は911に対する報復として行われたイラク戦での勇敢な行為(上官のVin Dieselは死んじゃうのだけど)が讃えられ、2004年のThanksgivingのNFLゲームのHalftime Show - 音楽ゲストはDestiny's Child -もちろん本人達じゃない - にお国の英雄として呼ばれて、小隊の仲間とスタジアムでのHalftime Showに参加する。

自身もいろいろ問題を抱えた姉のKathryn (Kristen Stewart)は弟の挙動にPTSDの徴候を見て医者に行くように勧めるのだが、メディア関係者、映画化を狙う人たち、政治家、いろんな人たちが寄ってきていろんなこと言ったり誉めたり喧嘩売ってきたり慌ただしいし、他の仲間はべつに平気みたいだし、ここで萎んだり錯乱したらみっともないし、とにかくいろんなことが頭をよぎって涙や汗が勝手に溢れてきて大変なの。

映画はアメリカ、としか言いようがないHalftime Showと周囲の狂騒 - その轟音や電飾や花火に突っつかれる形でBillyの頭に蘇る戦場でのいろんな記憶や妄想を交錯させつつ、戦争の、というよりアメリカの狂っているんだか正気なんだか、のあり様を描きだす。 みんながそうなのだったらその状態を「狂っている」 なんてとても言えないよね、とか。

映画史上初の120 Frame rateを使って3Dで撮られていて、なので戦場での戦闘(殺しあい)のさまも異様にクリアでゲームやVRの映像を見ているようで、Halftime Showの大騒ぎもフットボールのぶつかり合いもおなじ粒度/光度のやたら鮮明なデジタルTVのキンキンする、しかし圧倒的な経験の矢となって温厚なBillyの頭を刺激してくる。

“American Sniper” (2014)が覗きこむ敵の頭を打ち抜くための照準レンズの視野をBillyの目に置き換え、360度拡げてアメリカ全体を捉えようとする。 なんのために? それは誰も問わない。ことになっている。
なんといってもBillyは英雄なんだし。 いけないことはなにひとつないじゃないか。

“Life of Pi”にもあった、人をつき動かす(死なさず生かしておく)得体の知れないでっかいなにかを丸ごと捕まえようとするAng Leeの野望はここにもあって、それは成功しているとも失敗しているとも言えないかんじなのだが、でもそれって映画の風呂敷がやることのひとつだよね、という気がするので、なんか好きなの。

Kristen Stewart、ほんとうにすばらしい。

今晩のSeth MeyersにはLena Dunhamさんが出ていた。 すてきだねえ。
音楽ゲストはLiving Colour ...

3時間後に立ちあがってパッキングをはじめるからね。

10.20.2016

[theater] Letter to a Man

16日の日曜日、15時にBAM(Brooklyn Academy of Music)のHarvey Theaterでみました。
チケットはあたりまえのように売り切れていたのだが、いつものように諦めずつっついていたら取れた。 そうあるべきよね。

演出Robert Wilson、音楽Hal Willner、で上演はBAM、となったらそろそろLou Reed追悼のなんかをやってもおかしくないと思うのだが、ここでなぜかニジンスキーの手記が出てきた。

Mikhail Baryshnikovによる一人芝居、というかダンス。 この(いろんな意味で80代な)3人が揃うのなら見なければいけない、というかんじにはなる。 70分、一幕のみ。

会場のHarvey Theaterはメインのオペラハウスから歩いて5分くらいのとこにある古い廃墟のような劇場で、雰囲気も含めて大好きなところ、久々に行けたので嬉しかった。
Harveyに行く前にオペラハウスの方にも寄ってシネマテークのパンフとかをピックアップする。行けないのにさ。

猫映画特集がはじまるよ。
http://www.bam.org/film/2016/13-cats

降りた幕の真ん中に仏壇の遺影のようなかんじで金縁のニジンスキーの肖像写真が飾ってあって、時間が来るとそこに白塗りのニジンスキー(Baryshnikov)が浮かんでいる。
「戦争のことはわかるんだ。義母とさんざんやったからさ」というフレーズが英語、ロシア語、いくつかの言葉で反復される。

以降、第一次大戦時にハンガリーに拘留された後の1919年、統合失調症を発症して精神病院に入院するまでの間に書かれた手記の断片をコラージュ/反復し、壊れてしまったニジンスキーが20世紀初の輝かしいキャリアも含めてノスタルジックに回顧しつつ、舞ったり宙づりになったりするその身体を。

ミニマルな舞台装置に照明、ところどころノスタルジックな音楽(Arvo Pärt, Tom Waits, Henry Manciniなど)がふんわりと転がり、これらの暴力的な切断、緩慢で芝居がかった動き、上の空、白塗り、などなど、Robert Wilson的な記号がいっぱいで、ここでのニジンスキーを”Einstein on The Beach”のアインシュタインと同じような位置で見てよいものかどうか、はまだ少し考えている。 物理学に、バレエに革命を起こした人たち、彼らと20世紀の戦争との関わり、そこでの個人の心象風景を現代の我々が見ている風景・歴史観にまで敷衍してみせること、その可能性も含めて舞台上にあげてしまうこと、などなど。

“Letter to a Man”の”Man”、ていうのはニジンスキーと同性愛の関係にもあったディアギレフのことで、後半は彼に対する愛憎 - 彼に凡人て言われたとか、そんな嘆き節みたいのばかりで、やがて”Man”の言葉は神の言葉として彼の精神をぎりぎりと縛っていくようになって。

壊れてしまったバレエの天才の晩年を演じるのに68歳のMikhail Baryshnikov以上に適した人がいるとは思えなくて、舞台で見たのは00年代の彼自身が主宰していたThe White Oak Project以来だったが、ぶるぶる震える肩の動きとか瞬間で逆さ吊りになったり(あれ、どうやっているんだろ)、変わらず素敵だった。 もうちょっとだけ動いてほしかったけど、しょうがないわよね。

あと、この”Man”って、”I’m Waiting for the Man”の”Man”と同じようなあれだよね、とか。


BAMの周辺、駐車場がいっぱいあったのにきらきらした高層ビルが建ち始めていて、なんかやなかんじになっていた。 あんなふうに風景を変えてほしくないんだけどー。

10.19.2016

[music] Alabama Shakes

けさ(10/18)、清々しく目覚めてしまった気がして時計を見たら8:40だったのでたいへんびっくりして、起きてすぐにびっくりすることも慌てて支度することも滅多にないのでああなんか社会人みたいだ、とか思いながら12分で支度おえて9時開始のやつには間にあった。 同じホテルのなかでやっていたのがラッキーだった。

で、日中はいろいろあってとっても消耗したためになったそのイベントのWelcomeでAlabama Shakesのライブがあったの。 20:00 - 21:00の1時間だけだけど見れるなら行くわ、ていうのがここにきた一番のひとつの動機なの。

会場にはテキサスご飯の屋台がいっぱい並んでいて、BBQにチーズサンドイッチにナチョスにチリにバーガーにピザに(これらほとんどヴィーガン対応してる)、カップケーキにアイスクリームに、いくらでも出してくれるしぜーんぶ食べ放題の飲み放題のお祭りなの。 BBQとチーズサンドとチリとアイスクリームたべた。どれもふつーにおいしい。 他には変な格好とか顔とかの写真を撮って加工してくれるのとか、Haiku Guysっていうタイプライターでオーダーメイドの俳句を作ってくれるおしゃれな4人組とかがいた。

会場のまんなかに円形のステージがあって、でもここは前座用でThe Peterson Brothersていう4人の若者が演奏してて、彼らはAustinのUnder18のバンドコンテストで1位になったと。めちゃくちゃ落ち着いててうまいったら。

メインのステージはこの円形のではなくて奥のほうにあって、食べ終わったらすることもないので(ネットワーキング? けっ。)、前のほうで立って待ってた。

イベントなので20:00きっかりに現れて、”Future People”から始まって、4人のほかにキーボード1人とバックヴォーカルが3人。 大好きな音なのでもうよだれ垂れ流すしかない。
例えばAl Greenの音にある内に籠るような中毒性 - ヘッドホンして音に浸っていくらでも、が彼らのしなる音にもあって、気持ちいいこと。 ライブはもうちょっと緩くなっていたが。

それにしてもBrittany Howardさんのかわいいことすごいことおもしろいこと。
ギターも耳にひっかかる箇所はぜんぶ彼女が弾いていることがわかったし、とにかく表情がすばらしくよいの。 最近の顔だと”Me Before You”の彼女とRooney Maraの仏頂面に匹敵するおもしろさだった。 音も顔も、見ててまったくあきなくて、まっすぐこちらに向かって刺さってくる。

真ん中くらいからの”Always Alright” - “Joe” - “Sound & Color” - “Don’t Wanna Fight” - ”Gimme All Your Love” - これがラスト - まで、ほんと、泣きたくなるくらいよかった。 久々にライブに浸かった気がした。

東京公演も追加が出たようなので行こうかなあ。

Seth Meyersのレイトショーの番組バンドのドラムスをToolのDanny Careyさんがやってる。
すごく楽しそう。

10.18.2016

[log] October 17 2016

NYには日曜日の10:30過ぎ、ほぼ定刻に着いた。
機内はなんでかものすごく混んでて割と直前にNY行きを追加したもんだからビジネスは取れなくてプレエコで、しかも片目状態なので小さいスクリーンだとあんまよくわからずだし、ほとんど見てるやつだったしそんなに見たいのもなかったので体まるめてしんでた。 周りは席につくなり靴下を脱いで裸足になってしまうおっさんだらけで、あれはなんだろうねえ、て思った。

映画はJALのNY便就航50周年記念でお勧めのNY映画、て書いてあった"Autumn in New York" (2000)ていうのを見た(見たことなかった)。
まだまだだいじょうぶですから、ていうかんじのRichard GereとWinona Ryderがしみしみと凍える冬に向かってがんばって、でも萎んでいくメロドラマだったが、後におっそろしくなんも残らない、ただの洞穴みたいなやつだった。
あとは”X-Men: Apocalypse”のQuicksilverによる”Sweet Dreams (Are Made Of This)"とJean Greyがさいごにぜんぶ持っていっちゃうとこだけみた。

ホテルに入って荷物バラして地下鉄のって86thに着いたのが12:30頃。
Café Sabarskyでご飯たべてNeue Galerieで展示みて、買ったカタログが重かったので一旦ホテルに戻って置いて、Brooklyn Academy of Musicで舞台みて、マンハッタン戻って12thのAcademyレコ見て(買わなかった)、Mast Booksみて、McNally Jacksonみて、Lincoln Centerいって食事してからNYFFの最後のいっぽんをみた。

あの界隈で深夜まで安くておいしいヌードルとか点心とかを出していたOllie's Noodleがなくなっていたのがショックだった。

こんなふうにNY滞在はあっというま、気がついたら終ってて、ずっと焦ってじたばたしているから視野は驚異的に狭いし元々見えないし、なにしてたのかしら? の印象しか残っていない。毎度のことながら。

今朝は大慌てでパッキングしてチェックアウトして、8:00から会議に入って11:30にそこを出てNewarkに向かったのだがTimes Squareまでの道路がぱんぱんでいっこうに前に進まず、空港着いたらぎりぎりで、こういうときに限って持ち込み荷物がセキュリティで引っ掛かって、でこういう場合のいつものように中にみっしり詰まった本とか雑誌を見るなりいいから視界から消えろ、てかんじでリリースしてくれて、朝からなんも食べていなかったのでバナナとシリアルバーとポテトチップスだけ買ってゲートに着いたらもう搭乗は始まっていてすごい列で、途中ででっかい持ち込み荷物はもう入りませんから、って扉のとこでチェックインさせられて、機内に入ると「ハドソン川の奇跡」にあったのと全くおなじ角度でぱんぱんの乗客のみなさんから睨まれて、3列の真ん中で小さくなるしかなくて、この状態でハドソン川に着水したらしんどいねえ、とか思いながら食べ物つまんだりうとうとしたりの3時間半、なかなかしんどかった。

着いたのはAustinで、初めて降りたつ土地で、空港内に”Austin City Limits”のあのロゴとレコード屋さんがあったので途端にご機嫌になって、でも荷物ピックアップしてから先は脱出の余地ゼロのこてこてのパッケージで21:30過ぎに部屋に戻ってきたらばったん、でさっき起きてなんかつまんないのでこれ書いて、また寝る。

とってもあったかくて通りを夜歩きしているといろんなとこからライブの音が聞こえてくる。
よいとこかも。

まだ月曜日がおわったとこ ... かあ。

10.16.2016

[log] October 16 2016

こないだの連休明け、片目がごろごろしたので医者にいったら結膜炎て言われて目薬貰ったのだがどんどん腫れていって視野が狭くなり、大丈夫なほうの片目はというと緑内障で元々視野が欠けているのでPCの画面とか手元があんまよく見えなくなっていて(映画館の画面はおーけー)、こんな状態でどうするんだという声はあるものの、Ryan AdamsとAlabama Shakesで頭を満たしてなんとか成田まで来て(NEXぱんぱんだった)、これからNYに飛ぶの。

でもNY滞在は例によって24Hours - 月曜の昼には西の方に飛んで金曜の朝までそこに軟禁されるもよう。

いつものように無理やりねじ込んだ感たっぷりだが、だってBAMのNext Wave Festivalは始まっているし、New York Film Festivalも - ちょうど今ごろFinalのJames Gray新作ががんがん流れているだろう - ほんのすこしの残り香みたいの(いちおうある、じたばた)はあるはずだし、これだけじゃなくて掘りゃいくらでも出てくるし流れてくるし、とにかくこうでもしないことにはあんまりにも報われないしみったれた文化の秋になっちゃうよう、て思った。

しゅしゃせんたく。ぜんぶは無理なんだからどれを拾ってどれを捨てるか捨てるにしてもその周りになんか落ちてないか、とか、でもどっちみち時間は過ぎて行っちゃうのだし、機転きかないし集中力なんてはじめからないし、結局はああ神様、ていいながらうおうさおうするだけなんだわ。 右目は休んでてよいけと左目がんばれ、とか。

まあ無理しない程度にじたばたします。
火曜日以降はすこしはゆっくりできる、はずなので溜まっているいろんなのを書いたり。

ではまた。

10.15.2016

[film] Trouble Every Day (2001)

7日の金曜日のごご、『高慢と偏見とゾンビ』のあと、新国立で「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」を見て、夕方にアンスティチュの『フランス幻想怪奇映画特集』でこれをみた。
何故かさいごまで血まみれの金曜日でしたわ。

『ガーゴイル』
おもしろかったー。

道路に佇んでいる女 (Béatrice Dalle) がいて、ちょっと挑発的に見える彼女のところに男が寄っていって、ふたりはキスしたりしているのだが、少し時間が経つと女を探しにきたと思われる男が現れて、女の傍らで血まみれで横たわる男の死体を見つけるが、とくに驚く様子もなく淡々と後片付けをする。

パリに向かう機内でハネムーンに向かうアメリカ人新婚夫婦のShane(Vincent Gallo)とJune (Tricia Vessey)がいて一見幸せそうなのだが、夫のほうは妻を血だらけに切り刻んでしまう悪夢にうなされて機内トイレに籠ったりしている。

フランスの女は迎えにきた男が邸内に監禁のようにして囲っていて、その夫であるらしい男はかつて研究所にいたらしいのだが、いまは普通の病院で開業医をしている。留守番をしている女はぶっきらぼうに鍵を壊しては外に彷徨い出て同じことを繰り返す。

ShaneとJuneはホテルにチェックインして、ふつうに観光とかもするのだが夫はなにかを探しているように頻繁に出かけていくしなんか深刻だし落ち着かないし、ベッドに入っても肝心なところにくるとシャワーに行ってしまうのでJuneは悲しむ。

このぜんぜん関係なさそうな二組のカップルが過去に同じ臨床研究を通して発見された症例だか病だかに関わっているらしいことがなんとなくわかってくるのだが、彼らのことが周囲を巻きこんだ大騒ぎに発展するかんじもないし、その病の起源が解るわけでもそれを治す決定打が現れるわけでもない、彼らが誰かに退治されるわけでもない。 彼らは夜の闇の奥、地下の部屋や扉の影、過去の関係者の記憶の隅でひっそり忘れられたようにいて、セックスの快楽の紙一重、その向こうで血みどろのがぶがぶが繰りひろげられて、始末の悪いことにそれは本人の意思では止められないらしい。 “Trouble Every Day” - それはそうなんだけど、それってパーティで酔っ払いが殴り合いするのとあんま変わらないのかも、とか。

頻繁にクローズアップされる人の後ろ頭、その向こう側に何かがあるんだかいるんだか、全くわかりゃしないのだが、その後ろ頭が怪物のような惨劇を引き起こしてしまうその怖さ。でもあんま怖くないの。これを怖いというのなら夜の闇は、人の頭はぜんぶ怖いんだ。

Béatrice Dalleの、Vincent Galloの不気味な暗さ、あの目の硬さがぼん、てスクリーン上に投げ出されるようにして置かれていて、たまんなかった。

音楽はもちろん、Tindersticks。 血が滴るようなストリングスの艶。

これがデジタルで上映されてる姿ってちょっと想像つかないかも。


このアンスティチュの特集もスウェーデン映画特集もぜんぜん行けないのでずっとむくれている。

[film] Pride and Prejudice and Zombies (2016)

いろいろあたまきてやってらんなくなり、7日の金曜日のごごに会社休んで、新宿でみました。
こないだの8月、LondonからNYへの渡りの機内で半分まで見ていたやつ。

『高慢と偏見とゾンビ』

恋愛争奪・サバイバルにおける生きるか死ぬかの殺しあいとゾンビとの接近遭遇の、これも生きるか死ぬか - 咬まれたら染まって元の姿には戻れなくて頭潰されるしかない - の殺しあいと、これらをひとつの世界にまとめあげるのにゾンビ討伐・隔離を進める19世紀の英国とJane Austinワールドのかしましさを持ちこんだのは天才としか言いようがなくて。 あとはキャラクター設定だけど、そこには最強の5人姉妹と暗く陰鬱なダーシーと、勇ましいけど裏のありそうな奴と、ふつーの美男と、お調子もの坊主を入れたらいっちょうあがりで、そのまわりに恨めしそうなゾンビがわらわら群れてくる。

英国階級社会の腐れた、鼻持ちならないありようにもゾンビって実にうまくはまっていて、その平穏を脅かすものとして異国からやってきた彼らをやっつける女の子たちっていうのはそういうくそったれた社会に対する中指でもあって、痛快ったらない。

まんなかにあるのは勿論リズ(Lily James)とダーシー(Sam Riley)のいちいちつんけんした絡みあいで、でも互いの「高慢と偏見」をめぐる言葉の応酬ではなくて、武術でどんなもんだい、てやりあうの。
当時、お金持ちは日本に武芸修行にでて、そんなでもない人は中国で少林寺とかを習ったそうで、リズは中国で修行したと。 それならもうちょっとかっこよくても、とか思った。
ダーシーが放ったゾンビ識別用のハエをリズがいちいち手掴みするとこはおもしろかったけど。
(箸でやればもっとなー)

でも”The Virgin Suicides” (1999)にしても”Mustang” (2015)にしても、5人姉妹がなにかに立ち向かう、ていうのはなんか絵になる。 親は彼女たちの結婚のことしか考えていないとか、その辺も共通項だけど。

格闘か恋愛か、でもっと格闘のほうに振り切ってもよかったのかも、て少しだけ。
俳優さんがなー、Colin Firth(95年のTVシリーズでダーシー)くらいのがいてくれたらなー。
2005年の映画版”Pride & Prejudice”て、今にしてみればすごいのね。 Keira Knightley - Rosamund Pike - Jena Malone - Carey Mulligan。 今回のも数年してみれば... かも。

日本でも「細雪」 - 四姉妹だけど - と妖怪の組み合せでなんかやればいいのにー。

10.11.2016

[film] Me Before You (2016)

2日の夕方、新宿で見ました。向こうで公開された時からずっと見たかったやつ。
邦題で見逃すとこだったわ。 『世界一キライなあなたに』

Will (Sam Claflin)はきらきらばりばりのヤングエグゼクティブで、ある朝つきあっている彼女を部屋に置いて仕事に出たところでバイクにぶつかる。 Lou (Emilia Clarke)は田舎のカフェで地味に働いていたのだがある日いきなり仕事を失う。 どんな仕事でも受けますやりますモードの彼女が見つけたのが、地元のお城に引き籠っているWillの介護で、両親も専任の医師も邸内にいるので簡単そうに見えたものの、事故で半身不随となってしまったWillの閉塞&ひねくれ具合は半端じゃなくて、おまけに元カノと親友が自分の介護を通して仲良くなって婚約という地獄の事態になったのを目にしてしまい、こりゃなんとかしてあげなきゃ、と焼け石でいろんな世話を焼いているとだんだん彼の表情が緩んで喋ったりするようになってくる。

彼女がいろんなお出かけやイベントを企画してふたりが親密になっていくところまでは少女漫画ぽい展開なのだが、やがて彼が自身の固い意思でもってスイスでの安楽死契約を結んでいることを知って、彼の決意は親でも梃でも変えられなくて、でもそれを知る頃には、それを意識すればするほど彼のことを想うようになって止まらなくなって、どうするLou、どうするWillなの。

一見よくある難病モノ or 難病 vs 奇跡もののようでいて、これは恋愛ものどまん中みたいなやつで、"Me Before You" - 君と会う前の僕 - 君と出会う前の僕が今の君と出会っていたら、ていうのは彼女の側では反転して、あなたと出会った後のわたしが昔のあなたと出会っていたら、になったり、つまりは、ひとは恋すれば変わるし、しなくても変わるし、どっちみちいつかは死んじゃうんだし、こんなふうに変わっていくのを変えることはできない。ぜったい。 じゃあどうすればいいのか。

「愛するんだ」「愛することはできる」と。

奇跡を起こすことはできないし、時間を止めることはできないし、ずっと一緒にいることもできない。
でも、だから - - 赤い糸も虎の穴も未来計画もない、そこらの安っぽい運命論を軽く蹴っ飛ばして、いま/ここにいるあなたに向きあうのよ、ていう恋愛のど真ん中に立ち返る強さと清々しさがあるの。
で、それを可能にしたのはLouの驚異的な眉毛とおでこの皺の動きと変てこな日々の服装なのだとおもった。 
(あれはねえ、必見よ。あれがさいごにWillを救ったのよ。)

そんなLouとWillのあいだの恋の行方は、あれでよいのだろう。
こういうのを一般論でえらそーに言うことほどとんきちで野暮なことはないよね。