3.29.2018

[music] Brian Eno: Music for Installations

23日の金曜の晩、British Libraryで見た、というか聴いた、というか。以下ざっとメモの書き起こし。

ここには別に講義用のホールもあるのだが、閉館後のエントランスホールぜんぶに人を入れて、結構広いとこなのにSold Outしてて、19:30の開場時にはなかなかの行列ができてた。

お題は間もなくリリースされる彼の6枚組CD Boxセット”Music for Installations”に因んだもので、会場ではBowers & Wilkinsのばかでかいスピーカー(なんか「売り」らしい)から彼のInstallation musicがぼうぼうに流れている。

Enoのインスタレーションと言えば、83年くらいに赤坂でやったのがあって、その時は会う人ごとにあれ見なきゃだめよ、って散々言われ続けたのでぷーん、てむくれて当時はお金もなかったし行かなかった、そういう思い出があるの。

19:30開場で始まりは20:30から、ベンチみたいな椅子は後ろのほうにしかないので、ぶおぶお鳴り続ける彼の音楽に包まれて立って待つ。客層はほんと幅広くて、お年寄りから若者まで、普段図書館に来ている層とほぼ変わらないかんじ。

最初に図書館の偉いひとから挨拶があって、Eno先生が登場し、つかみで自分が最初のインスタレーションをやろうとした時のものです、と65年、ばかでっかいシルクハットを被ってなんかやってる写真が。

講義はOHPを使って手元の本を見せたり、PCの画面を映したり、別のPC経由でモニターから音も出したり、会場のあちこちに置いているCDプレイヤーからも音を出したり、ただのトークやレクチャー、というより明らかにパフォーマンスのよう。音楽そのものに加えて、音楽の置かれ方とかそこに向かう態度とか考え方とか志向といったところまで踏みこんであれこれ語ってきた彼であるからして、ここで展開されたのはBrian Enoのパフォーマンスと言うしかないの。

最初に”Discreet Music” (1975) から、当初Robert Frippの演奏のバックに - タペストリーのように - 流しておく ことを想定して作られたこれの原理をPC上のグラフィックで説明してくれる。 まずわかりやすいシンプルなノートを反復させて、ここにもうひとつ、長さもトーンも異なる別のノートの反復を重ねてみる、このふたつの重ね着だけで次の同じループにぶつかるまでに相当な時間がかかるようになる、そうやって生まれてくる複雑さが起点。これを別のかたちで説明するサンプルとして、机の上の振り子の実演 - 関節がいっこの振り子を回転させるだけだとその動きも減衰も予測できるけど、その腕の関節をいっこ増やしてみるだけで、予測不能な複雑骨折の動きを見せてくれるでしょ、と。
Simplicityの衝突がもたらす無限の、エンドレスのComplexity、その驚異。

それから昔、ヘルシンキのイベント会場で流されたサウンド・インスタレーションの簡単な再現。
会場のあちこちに置かれたCDプレイヤーからそれぞれ別個にシンプルなノートを流していくだけなのだが、ここには二度と起こすことのできない、常にそのフォームを変えていくので今ここでしか聴くことのできない音、常にnew versionとして聴こえてくる音があって、その創作過程は建築家が建物を作っていくというよりは、庭師のガーデニングに近いものなのだと。 整合、同期、同調を目指さない音。

この辺から彼のアートに対する考え方に入っていって、若い頃は画家にも音楽家にもなりたくて、あの当時の多くの若者と同じくまずはバンドに入ったわけだが、70年代頃から先のようなビートもメロもない(ということでプレスから散々に言われた)、多数のチャネルを持つが決して繋がっていかない音、空間を支配する – でも何もしない音への志向が出てくる。 ここではカンディンスキーの無題の絵画、ラウシェンバーグが町を散歩していく冒険のようでありたいと語ったアート、アートは常に哲学(Philosophy)を具現化(embody)するものだと教えてくれたケージ、等が言及され、自分のは川辺に座って川を見ているような気にさせる音楽 - 一瞬で現れて消えてしまい永遠に戻ってこない/永遠に去っていく音を目指すのだと。

これらの音は、複雑性(Complexity)がどのように世界にもたらされたのかについての洞察を、複雑性を軸として世界(の見方や概念)を変えるには何が必要なのか、そこにおいてアートはどんなふうにあるべきなのか、といったことを考えるきっかけを与えてくれるのだ、と。

そういうアートのありようは、今の社会のとにかくトップダウンで同期や同調や注意喚起を求めてくる流れや態度とは根本的に相反するものであり、我々のアートに接する態度にしても、とにかく写真撮ってInstaしたりTweetしたりすれば経験したことになって、今ここで生起する瞬間を生きようとしないのもトップダウンで降りてくるなんかのあれである、と。

自分の音楽をセラピーと結びつけて考えるのは好きではないが、ブライトンの教会でのインスタレーションをきっかけに現地の医師から依頼がきて、そのインスタレーションのミニ版を病院の一室に作ったことがある。そこでは、自分が別の人であるかのように感じさせてくれる空間、自分ではコントロールできない - 別の(Digestiveな)神経系が働いて、Surrender,  Let Go,  といった感覚を呼び醒ますことを意識した、と。 (いまもあるのかしら? 行ってみたい)

最後にまとめとして、昨年のカザフスタンの万博で建築家のAsif Khanと彼がデザインしたUK Pavilionで流していたインスタレーションの一部をPCから実演 - 昨晩ずっと作っていたので眠いけど、とか言いつつ。

さらにダメ押しというか念押しのように、とにかくアートが何になるのか、何をしてくれるのか、それが何を意味するのか、といったしょうもない問いとか、答えを求めるのをやめよう。日本の展覧会に並んでいる観客をみろ、彼らはみんなラベルの解説を見るばっかりで絵そのものをちっとも見ようとしないではないか。
(ほーら言われた。見なきゃ損、みたいに煽ってばかりの今の日本の美術マーケティングはほんとに最低だとおもう。競争原理みたいなことしか言わない政治家もクズだけど)

更に余談のように(ぜんぜん終わらない)、昨日ジャーナリストに聞かれた、これまで聴いたなかで最も非包括的(incomprehensive)な音楽は?という質問について。 ひとつはバンコクできいた中国のオペラ - 音楽はユニバーサルでカルチュラルなものであるという概念を軽く打ち砕いてくれた。もうひとつは、これとは全く異なる角度で、Derek Baileyの音だと。inadequateな、そこにあるだけの音に対する賞賛と共におわった。

あ、あと最後の最後にUniversal Basic Incomeについても言及してて、あーそこまで行くのかあ、そりゃそうよね、て思った。

とにかく、ある程度予想はしていたものの、約1時間強でここまで包括的に、わかりやすく語ってくれたことに感動した。アートと社会の、アートと意識のありよう、SimplicityとComplexityのせめぎ合いを実演込みで見せて、しかもそれはEnoその人のどこまでも一貫しているアート観に留まらず近現代アート史のある側面にも接続されているという魔法、そしてそれに触れることがインスタレーションの複雑系の経験にまで拡がっていくという。根っこからラディカルだよね。音だけだとぜんぜんそう思えないけど。

館内に期間限定で、EnoshopのPopupをやっているというので帰り際に寄ってみたが、食い荒らされてほとんど残っていなかった。Enoデザインの壁紙(PCのじゃなくて巻物の)がちょっと素敵だったけど、貼るとこないので諦めた。


あしたからMadridに行って絵をみてきま。

3.27.2018

[film] Red Sparrow (2018)

22日の木曜日の晩、CurzonのVictoriaで見ました。 もう終わっちゃいそうだったし。

現代のモスクワで病気の母を抱えながらDominika (Jennifer Lawrence) はバレエ団で踊っているのだが、舞台の上で相手の男に脚をへし折られて輝けるキャリアは潰されて、これから母をどうしよう、になっていたところに叔父で諜報局にいるIvan (Matthias Schoenaerts)がスパイみたいなことをやってみないかと言われるままにホテルに行ったらレイプされかけて、そういうのを通して彼女は使えると踏んだ叔父は地の果ての養成施設に彼女を送りこんで、そこには女衒みたいなCharlotte Ramplingがいてターゲットの誘惑の仕方からなにから厳しい訓練を通り抜けてDominikaは”Sparrow”ていうコードネームのロシアスパイになる。

Sparrowは、前にモスクワで怪しい動きをしていて、今はブタペストにいるCIAのエージェントNate (Joel Edgerton) に接触して情報を引きだすように指示されて現地に飛ぶのだが、CIA側でも彼女は使える、となんでか思っていて、彼女はこんなふうに縛られてばかりのロシアなんてもう嫌、でアメリカが助けてくれるのであれば、とNateに近寄って仲良くなってCIAのダブルとして動こうとするのだが、当然その様子も当局からはモニターされているので、いろんなのがいっぱい降ってきて大変なの。

モスクワ側の思惑、CIA側の思惑、Dominikaの思惑、それぞれがそれぞれで勝手にとぐろを巻いて情念と共に燃えあがってて、更に最後のほうに登場するモグラ(途中でわかっちゃうけどね、なんとなく)とか、いろいろ錯綜してて結局がんじがらめな様子だけはわかって、それらが最後にぜんぶきれいにSweepされるのかというとそうはならないとこがなんともで、「姐さん、あんたはほんとにそれでええんか?」てなぜか関西弁とかで聞きたくなるようなー。

あとはみんなそれぞれに後ろめたいなんかを抱えているであろう男達がもう少し野蛮にドス黒くて陰険で非情だったらSparrowの怨みの紅が映えたのにねえ。みんな彼女に最初から負けてるのよね。負けているが故のみみっちいねちねち、に見えてしまうのは残念だった。個々のしがらみの群れと戦うゲーム大会ではなくて、絶対権力みたいのと戦う、そういうのにしてほしかった。

Dominikaだって、せっかくバレエからスパイに転向したのに訓練の成果を十分に見せることができていない気がする。
Charlotte Ramplingの仕込みはどこに? って思った。

監督は”Catching Fire”以降の”The Hunger Games”シリーズを撮ったFrancis Lawrenceで、あそこでやったみたいにJennifer Lawrenceにあらゆる試練と忍耐を与えて、立ちあがれ乗り越えるんだ、って言っているように思えてならないのだが、原作モノとは言え、まずはだらだら長時間になってしまう壁をなんとかしたら?  140分もたせるようなネタじゃないよね。

70年代の梶芽衣子とか杉本美樹がやったようなのを期待するのだけど、やっぱし難しいのかなあ? 難しいんだろうなー。 Jennifer Lawrenceが、ではなくて作れるひとがいないような。タランティーノだと3時間の物語にしちゃうし。でも欲しいのは物語じゃなくて、激しく綺麗な(だけの)花火なんだけど。

皮剥ぎマシーンてあんな面倒なの? じゃがいものピーラーじゃだめなの? とか少し思った。

もし続編やるのだったらAngelina Jolieと対決してほしいな。塩 vs. 雀

[film] Walking and Talking (1996)

19日の月曜日の晩、BFIの”Girlfriends”特集で見ました。
これ、日本ではDVDスルーにすらなっていない? こんなに素敵なのに。

Amelia (Catherine Keener)とLaura (Anne Heche)は幼馴染(ふたりで寝転がって”The Joy of Sex”の図解ページとかを見てげらげらしてる)で、大きくなってから一緒に住んではいないけど電話で連絡は取りあっている。

セラピストのLauraはFrank (Todd Field)と一緒に住んでて結婚間近ふうで、いろいろ不安定でセラピーを受けたりしている方のAmeliaは近所の貸Video屋(ていうのがそこらじゅうにあったのよ前世紀には)のSiFi - ホラーマニアの店員と仲良くなって一緒に寝てしまったりしている。

この時代、スマホもテキストもないので、伝言はだいたい家のなかの留守電で、でも仲良しだとだいたいいるいないはわかるので、留守電が録音モードになっても「はろー、そこにいるのわかってるんだからー、出ろやー!」とか延々言っていたりして(いつも言われていた)、そこでいろんなことがばれたり気まずくなったり、実はする。

そういうところでAmeliaとVideo屋の彼の件はだめになって、これはさすがにやばいと元彼のAndrew (Liev Schreiber – まだぴちぴち)を呼んで相談したり、LauraとFrankの方も直前になって喧嘩してFrankが出ていってもうだめか、になったり、Ameliaのとこにずっと一緒にいたでっかい老黒白猫が癌治療中に窓から落ちて亡くなってしまったり、いろいろあるけど最後に隣にいて歩いていたり喋っていたりするのはLauraでありAmeliaであった、ていうこと。

こないだ見た”Girlfriends” (1978)からの影響がないとは思えないの。自分でさばさば決めて先に走っていってしまうLauraと、受けとめてはみるものの中でうじうじ転がしてばかりのAmeliaはそのままあの映画のAnneとSusanだし、思いつきみたいなとこで寝ちゃったり別れちゃったり、誰が誰の助けになっているのか妨げになっているのかわからず、とにかく先はまったく見えなくてしんどいけど君がいるならなんとかなるかもね、ていう。 ラストのLauraのウェディングはやや紋きりだけど、その前にふたりが公園の池でぷかぷか浮かんだりするとこはすばらしくて、見た後にはよかったねえ、しか出てこない。

音楽はなんとBilly Braggさんで、オープニングに” She's Got a New Spell”が、エンディングに” You Woke Up My Neighborhood”が爽やかにでっかく流れる。 他にYo La TengoとかJoe HenryとかFrenteとか。 
例えば、Billy Braggタッチの映画、という言い方で思い浮かぶところから外れていないの。

Le Gamin Cafeっていうのが出てくるんだけど、これ、今はGreenpointにあるあのCafe?
(昔はSohoにあったのね)


2 Friends (1986)

21日、水曜日の晩、これもBFIの”Girlfriends”特集で。 これが自分にとってこの特集最後の1本かも。

Jane Campionの長編デビュー作で、オーストラリアのTV用に撮られた76分の作品で、これが86年のカンヌに行って彼女のキャリアが始まった、と。

15歳くらいのKelly (Kris Bidenko)とLouise (Emma Coles)のふたり - 家からはぐれた野良でPunkのKellyと親に大切に育てられているLouiseのふたり - の物語を時間を遡るかたちで綴っていく。 ふたりの間に起こったことの起点には何があったのか - ふたりの友達はなにがあってどんなふうに友達になっていったのか。 まずふたりの絆ありきの物語というよりも、絆はどんな要素からできてて詰まったり解れたりしていったのかを遠めの距離から、折々のスケッチやスナップを重ねつつ追う。
このアプローチって、自分が過去を振り返っていく時のそれと同じなのでああ..  って痛切にきたりするものだが、それをこのふたりにあてると余計にじーんとする。

ふたりの着ている服がとても素敵でよいの。 ロメールのかんじとはまた別で。

3.26.2018

[film] Ekstase (1933)

17日の土曜日、BFIで見ました。英語題は” Ecstasy”、邦題は『春の調べ』。

Hedy Lamarrのドキュメンタリー - “Bombshell: The Hedy Lamarr Story” (2017)が英国でも公開されて当たり前のように話題になってて、その関連で彼女の昔の映画もBFIでやったりしている。
これはHedy Lamarrが米国に渡る前、まだ Hedy Kieslerだった頃の作品。34年のヴェネツィア映画祭で最優秀監督賞を獲っていて、映画史上最初に女性のヌード、ポルノグラフィックではない形でセックスとオーガズムを表現した(Lamarrによるとここの撮影は最低だったって)作品としても有名である、と。
サイレントかと思う程台詞は少なくて、他方で音楽はずっと鳴り続けている。

Emil (Zvonimir Rogoz)とEva (Hedy Kiesler)は新婚で、新婚なのにずっと歳上の夫はすごくかっちり整理整頓潔癖すぎなかんじの人(シルエットとかモノの置き方とかでぜんぶわかる)なのでEvaには辛くてだんだん嫌になってきて、実家に戻って父に離婚したいと言うのだが、ううむ、って言われる。

ある日、Evaは馬に乗って湖に出かけて、馬を繋いで裸になって水浴びしていると突然馬がどんどこ遠くに走りだして(しっかり繋いでおけ)、Evaはすっ裸で追っかけていったら馬を止めてくれたのが若くてかっこよいAdam (Aribert Mog)で、馬にかけてあった服も投げてくれるっていう昔の漫画みたいな展開で、ふたりは当たり前のように親密になってしまい、そのあとで、たまたまEmilの車に乗せてもらったAdamがEvaのネックレスを手にしていたので、真面目なEmilはハンドルを握りしめてがーーん、てなる。

その後、どこまでも潔癖まじめなEmilはホテルの部屋でひとり銃を手にして…  かわいそうにー、でそこからはなかなか謎なのだが、EvaはAdamと別の電車に乗って、Adamの夢(?)のなかでは光に包まれた赤ん坊が(いきなり赤ん坊?)顕現するの。

公開当時はセンセーショナルだったのかもしれないけど、やらしい要素はどこを探してもあんま見当たらなくて、どちらかというと光とか雲とかが鮮烈で神々しくてロマン派の絵画のようで、そこにHedy Lamarr – Kieslerのいろんな形状がきれいにはまってしまうのは言うまでもないこと。 そしてこれを見た彼女の最初の夫 - 武器商人の大金持ちが(上映させないように)プリントをぜんぶ買い占めようとしたって、なんかすごい。

それに、ほんとうに彼女の裸とかあれとかが映画史上初なのだったとしたら、そんな彼女がWifi技術のおおもと作ったってなんか痛快すぎてすごい。 「神」っていうのは例えばこういう壮大な影響力のことをいうのな。


これとはぜんっぜん関係ないけど、昨晩 - 日曜の晩のTVドラマで”The Durrells”っていうのをやってて、これまさかと思ったら、ジェラルド・ダレルがギリシャのコルフ島で過ごした子供時代を元にしたコルフ島三部作(むかし、池澤夏樹訳で翻訳が出ていた)のドラマ化(の今はシーズン3)なのだった。 この本、ほんとうに大好きで何度も読み返してて(こっちにも集英社文庫の1冊だけもってきたくらい)、暫く見ていたら、だいたい家族の誰が誰だかわかったし、あれは亀のアキレス、とかそういうのまで思いだしてたまんなかった。 来週はロンドンに戻った長兄のラリー(後のロレンス・ダレルだよ)がヘンリー・ミラーとかと出会うんだって。

3.24.2018

[film] Game Night (2018)

14日、水曜日の晩、改装中で一部が廃墟のようになっている(あの状態ならふつう営業しないよね)Leicester Squareのシネコンで見ました。

定期的に見たくなるアメリカのB-C級コメディ(褒)で、これを見るか”Gringo” (2018) にするか少し悩んでこっちにした、その程度。

Max (Jason Bateman)とAnnie (Rachel McAdams)はトリビアクイズのイベントかなんかで知りあって(でも「Teletubbiesの紫のやつは?」なんてトリビアでもなんでもないよね)結婚して、結婚してからもずっと一緒にゲームとかクイズばかりやっていて仲はいいのだし子供もそろそろほしいかもなのになんか調子がよくない。原因のひとつは成功した大金持ちになってぶいぶいしているMaxの兄 - Brooks (Kyle Chandler)にあるらしい。

いつものようにMaxの家でのGame Nightがあって、そこには友達カップル・夫婦の2組4人に加えてBrooksも来て、じゃあ次の会場は俺んちで、賞品はMaxが子供の頃に憧れていたCorvette Stingrayていう車(どれくらいすごいのか知らん)だとBrooksはいう。 あと、彼らのことを隣家のGary (Jesse Plemons) - 元警官だけどまだ制服着てて、妻が出て行っちゃったから寂しいのかいつも白犬(かわいい)を抱えている – がむっつりじっとり見ていてなんか不気味なの。

Brooks宅でのGame Nightにはいつもの3組が意気込んでやってきて、ホストのBrooksがルールの説明(あんまよくわからず)をしていると黒マスクの闖入者2名が押し入ってきて、Brooksをぼこぼこにして連れ去ってしまう。それを見ていた参加者たちはすげー本物みたいだわ、って感嘆してゲーム(の解)へのアプローチを考えながらそれぞれのやり方でBrooksをわいわい追っかけはじめる。

彼らがゲームと信じて疑わない画面上の出来事が本当にゲームなのかリアル犯罪なのかはわかんなくて、それのどこがどっちなのか、勝ち負けはどっちなのかとかを見極めるほうには全く興味が湧かないので、彼らが置いた仮定や想定が外れてぎゃふん、とか「 … 」とか大騒ぎとかのリアクションとそれが次のどたばたに転がっていくのを楽しむしかなくて、それでも十分おもしろいからよしとするか。フェイク(ゲームの小道具)と思っていた銃が本物で、床に落としたらMaxの腕を撃ち抜いちゃうとことか、間合いとかも含めて絶妙でよいわ。

Jason Bateman以外普段あんましコメディには出てこないかんじの、けどぼんくら系のキャストで固めたのもよくて、特にRachel McAdamsさんはニコラスなんとかのメロドラマでぴーぴーべそかいているよかよっぽどよいと思った。あと、謎の隣人 - 元警官のGaryを演じて最後に見事にさらっていくJesse Plemonsのどんより発光する犬みたいな様子もたまんない。

監督のふたりは“Horrible Bosses”シリーズとか” Spider-Man Homecoming” (2017)を書いていた人達で、どこか底意地の悪いとこを抱えながらなかなか抜けられない悪夢を描くところは共通しているかも。

でも、ゲームの世界ってやっぱりよくわかんないからいいや(← みんなと一緒に遊べない子)。

3.23.2018

[film] The Ice King (2018)

13日の火曜日の晩、BloomsburyのCurzon(のドキュメンタリー専用のシアター)で見ました。

フィギュアアイススケートをスポーツというよりアートの領域まで高めた最初の人で、94年にエイズで亡くなってしまったJohn Curryのドキュメンタリー。

こないだのオリンピックのフィギュアは(いや、フィギュア以外もだけど)なにひとつ、録画すら見ないまま、実況に熱狂する人たちのTweetとかTV画面に反応したりしなかったりの猫動画とかを見るだけで終わってしまって、こんな人でも見ておもしろい映画なのか。

でもこないだ、”I, Tonya”を見たときに、スケートってサーフィンと同じくらい映画との相性ってよいのではないか、と思って、そういえば中間にスケートボードっていうのもあるよね、とか思ったりして、見にいった。 当然サーフィンのドキュメンタリーとはぜんぜん違うのだが、例えばなんもしなければ滑って飲みこまれてしまうところをいかにバランスをとって毅然と美しくあることに集中できるか、というあたりをたった一人で突きつめていく、という点は近いのかも、とか。 サーフィンも実況を見たりやったりするわけではぜんぜんないのだが。

John Curryは76年のインスブルック五輪で金メダルを獲った英国人で、でもあまり知らなかった。カルピス劇場のCMのジャネット・リンでフィギュアを知った – ムーミンとロッキーチャック(山ねずみだよ)とジャネット・リンを並列の森の生き物として認識していた – ものとして、知らないってないんじゃないか、と少し思ったが記憶にはなくて、でもここで知ってよかった。

映画は今の地点から彼の友人知人が振り返るところと映像として残されている彼自身の歩みを交互に映し出しながら進むのだが、こういうことを成し遂げたひとに限って、なんて言ってしまってよいのかどうか、やはりぜんぜん幸せとはいえない何かを抱えこみながら進んでいくのだった。

本当はバレエをやりたかったのに父親に女々しいからだめ、って言われてスケートに進み、スケートでの美を追求すればするほどゲイ疑惑報道が膨らみ、選手引退後に自身で率いたカンパニーでは負債を抱え、ゲイをカミングアウトしたと思ったらエイズに倒れる。この人が本当に自分の思うままに滑らかに滑って翔んでいくことができたらどこまで行けたのだろう、って。

それでも、残された記録映像(ほとんどが唯一確認されているような客席から撮ったビデオとか)が示す彼のフィギュア(というかダンス) - “Don Quixote”や”Scheherazade” - は神か… と呟くしかない驚異に溢れていてものすごい。バランスといい安定感といいしなやかさといい、今のフィギュアのそれとは根っこから異なる美が統御していて、それは彼の身体でなければ実現できない類のものだったのだと思う。 だからこそKenneth MacMillanやPeter MartinsやTwyla Tharpといったバレエ界の大御所が彼のために振付をしたのだろうし、でもそれはもうニジンスキーやヌレエフと同様、擦りきれた写真や映像の向こうにしか存在しない。

最後に少しだけ出てくるJohnny Weirが羨望するのはとてもよくわかるの。

彼の時代のフィギュアと今のフィギュアの比較に意味があるとは思えないのだが、それを美しいと感じたのであればやはり自分の目で追い自分の首をまわしてきちんと見ておいたほうがいい、ていうことは間違いなくいえる。 METのオペラハウスに氷を張って滑ったなんて、見たかったなあ。

というわけで、自分はここしばらくバレエを追ってみようかな、と。

3.21.2018

[film] Now and Then (1992)

11日、日曜の晩、BFIの”Girlfriends”の特集で見ました。結局この日はいちんち、BFIでうだうだして3本みたことになる。外は寒いばかりなので別にいいの。 邦題は「Dearフレンズ」..

91年にインディアナの小さな町 - 彼女達のホームタウンに幼馴染の4人が集まってきて、なんでかというと12歳のときにこの4人になんかあったら集まろうねって誓ったからで、再会を喜んで、みんなそれぞれに成長していてかしましくて、語り手のSamantha (Demi Moore)  はSF作家に、Teeny (Melanie Griffith)は女優に、Roberta (Rosie O'Donnell)はお医者さんに、Chrissy (Rita Wilson)は妊婦さんになってて - 今回は彼女のために参集した - 4人がいつも一緒だった頃のことを思いだす。

そこから70年の頃に舞台は飛んで、Samantha (Gaby Hoffmann) 、Roberta (Christina Ricci) 、Chrissy (Ashleigh Aston Moore)、Teeny (Thora Birch) の4人はいつも自転車並べて走りつつ互いの家を行ったり来たりしながら昼も夜も一緒につるんでいて、夜中に抜け出して墓場で降霊術をやって墓石にあった”Dear Johnny”を呼んでみたら、1945年に12歳で亡くなった彼のことが気になって調べ始めたり(→怪談)、調べているうちに事故死したRobertaの母親の記事を見つけたり、気に食わない男子グループが水浴びしてる隙に彼らの服をかっさらったり、でもその中のひとりとバスケで仲良くなったり、母親の連れてきた恋人が気に食わなくて家を飛びだしたり、側溝に落ちたとこを浮浪者に助けて貰ったり、たぶん誰もがあーこれってあれだわ、て思い当たるような小さなエピソードが 積み重なって、その積み重ねが20年後に、というよりよりは、たんに91年の”Now”と20年前の”Then”を並べてみて、こんなんなった – おもしろいねえ、ていうだけなの。ありがちなcoming-of-ageの話でもないし同窓会的なReunionの話でもないし、その雑駁に並べてどうよ? みたいな手つきは90年代ぽいかんじかも、とか。

それって当たり前のように違ってしまったものもあれば変わらないものもあって、それぞれ彼女たち4人にしか見えないもの、我々に見えるもの見えないものなどもあるわけだが、こういうNowとThenを横並びで見渡せるような幅のぶっとい道路があるのはいいことだよねえ、て思った。風景が途切れて続かない土地では成り立たないお話しだよね。

それぞれの時代の4人のキャスティングもすばらしくて、Christina Ricci → Rosie O'Donnellはちょっとないのではないか..と最初は思ったけど、だんだんとこれありかも … になっていったり、他の91年の人達も、今からみると91年だねえ、ってかんじでなかなかたまんなかった。  ダイナーのウェイトレスで霊媒師のJaneane Garofaloとかベトナム帰りで薄汚れたBrendan Fraserとか、これらもいかにもいそうな臭気に溢れていたり。

過去の事件の真相を町の図書館で調べるとか、大雨の日に側溝に落ちるとか、昨年の”IT”と似たところもあって、これらってそのままホラーの方にひっくり返すこともできるのねえ、て思った。

音楽は微妙に懐かしいのがてんこ盛りで、最後の主題歌の声、誰だったかしら? と思ったらSusanna Hoffs さんだった。

3.20.2018

[film] The Woman under Oath (1919)

11日、日曜日の午後、BFIで見ました。

ここでいつもやっている日曜午後のサイレント映画のシリーズなのだが、この日はInternational Women’s Dayにちなんで、それに相応しい1本を、って。 邦題は『女陪審員』。

上映前にクリティックの女性が出てきて監督のJohn M. Stahlについて説明してくれた。
サイレントでは20本以上監督していて、女性を中心に描いたメロドラマのジャンルを確立したひとりで、特にDouglas SirkはStahlの”Imitation of Life” (1934)を1959年に、“Magnificent Obsession” (1935)を1954年に、”When Tomorrow Comes” (1939)を(“Interlude”として)1957年にリメイク/リリースしている、云々。

冒頭に女性の陪審員は気質的に(temperamentally)だいじょうぶなのだろうか?みたいな問いが出る。(← 1919年だからね)
若者Jim (Gareth Hughes)が銃を購入してそのまま立ち寄った酒場で意味深なことを告げてから建物に入っていって受付を抜けてエレベーターを昇ったあたりで銃声が鳴り、なんだなんだって駆け上ってみたらさっきの若者が茫然と立ってて、そこには雇い主のEdward Knox (David Powell)が撃たれて死んでて、当然Jimはしょっぴかれて裁判が始まるのだが、自分はやっていない、って潔白を主張するの。

NYに住む作家Grace (Florence Reed)は病に臥せっている妹のことが気がかりなのだが、裁判所から陪審員に選ばれたので出廷するようにとの通知を受けて、それが女性として初ということなので震えあがりながらも行くことを決意する。

裁判は被告の圧倒的不利で進んでいて、犯行前にはっきりと銃も買っているし周囲に言ったりもしているので殺意があったことは明確で、そこは彼も認めるのだが、でもやっていない、入ったときに既に倒れていたんだ、って散々力説するのだが誰も信じてくれなくて、傍聴していた母と彼の婚約者は憔悴しきってかわいそうったらない。とりあえず証言はぜんぶ出たので陪審員は別室に、と女はGrace1、男は11の審議が始まって、手を挙げたベースだと男11人は有罪当然、Graceだけ頑なに彼の無罪を信じていて平行線なので、クリスマスイブの晩にこんなとこに閉じこめられた男たちは早く帰りたいし苛立ってきて、でもGraceは…

最後のほうの展開は結構ええー、になって、つまりクリスマスっていうことよね、てしんみりする。
セクハラ、パワハラを許してはいけないのはもちろんだし、それに対する裁きもそういうの抜きで公正に行われないとだめでしょ。 そして悪いやつはやっぱし地獄の底に堕ちて頂かないと、ていうわかりやすい構図がきちんと示されて、これがだいたい100年前の話で、100年前でもこんなだった、ということについて、まだほんの100年前、とか100年も経っているのに、とかいろいろ言いたくなるのはわかるけど、Graceの力強さと正義と彼女のまっすぐ揺るがない瞳が勝利したのだからよかった、と言ってよいのではないか。 悪いやつはどこまでも悪いねえ。

100年前の正義と悪、っていう特集あったら見たい。 50年前でもいい。

3.19.2018

[film] Girlfriends (1978)

11日、日曜日の昼間にBFIの”Girlfriends”特集で見ました。
これの数日前の上映回は上映素材のトラブルかなんかでキャンセルになったらしく、上映前にBFIのひとが出てきて、予定していた素材ではなく35mmプリントでの上映となります状態はあまりよくないけどこれが唯一残っているやつなので楽しんでね! って。

今回のこの”Girlfriends”の特集のなかでもこれだけは見逃したくなかった1本。
上映された年のトロント国際映画祭でPeople's Choice Awardを受賞し、Golden GlobeやBAFTA Awardsにもノミネートされ、Stanley Kubrickが手放しで絶賛し、最近だとLena DunhamやGreta Gerwigが(特に”Frances Ha” (2012)への)影響を隠さず表明し、時にはBarbara Lodenの”Wanda” (1970) 並みの影響力をもつ女性映画と言われたりもする、でもこれ1本で監督のClaudia Weillは(いろいろあったらしいが)いなくなってしまった。

もしゃもしゃ髪で写真家を目指しているSusan (Melanie Mayron)と顔もスタイルもさばさば系のAnne (Anita Skinner)はルームメイトで、互いにそれぞれ楽しく暮らしていたのだが、Anneは突然あたし結婚することにしたから、ってアパートを出ていってしまう。
途端にSusanに降りかかってくるいろんなこと - 自身の写真家としてのキャリアのこと、恋人とか結婚のこと、家賃とかいろんな支払いとかお金のこと、それらを編みあげて総合してどんより絨毯のように目の前に広がってくる不安とか焦躁とか。 もちろんAnneとは友達なので彼女の新婚家庭に行ってみたりもするのだが、あんなの自分には無理だわ、って半ベソで戻るしかない。

いろんな軽めのエピソードのスケッチを通して主にSusanのやってられんわ、とか、あたしなにやってんだろ、の日々をコメディぽく重ねていって、他方で女性がひとりで生きていくことの困難を描いて、それは仕事上のパートナーとかボーイフレンドとか家族とかアパートとかいろいろあるのだが、最後にはAnneみたいな友達 - Girlfriends - がいればなんとかなるのかも、ずいぶん違うのかも、ていうあたりに落ち着く。

それは友達を作ろう!とか大事にしようね! とかそういうことではなくて、女性がひとりで生きていくのが本当に大変なのが今の世の中で、そこは余程の大変動や大革命が起こらない限り変わりそうになくて、でも当分はみんなそういう土壌のうえで生きていく以上、それぞれの人間関係とか社会的な位置とかを変えながら移動していかざるを得なくて、誰もがそれぞれずっと一緒にいられることなんてなかなかない。 けど、自分は自分でそう簡単には変われるものではないし、その自分が求める誰か - そういう自分と同じ空気のなかにいる人 - も変わってしまうものではないよね?  だからGirlfriendsなのだ - っていう特別だけど難しくない、割と簡単なことで、でも、だから彼女たちはいつだって最強になりうるのだと。

あとはNYのアパート暮らしとか、ひとり暮らしのいろんなディテールが、朝の光や夜のひっそりも含めて、そこにひとが一人余計にいるだけでどれほど違うものかとかも含めて、きちんと描かれているのは小さくなくて、そういうところにGirlfriendsという関係のありようはこういうふうにはまる、ということがわかる。 はじめに関係ありきのとってつけで美術やインテリアを組みあげていったかんじが全くないの。 ドキュメンタリー、って言ってもわかんないくらいかも。

割と最近の作品ですぐに思い浮かべたのが”Ghost World” (2001)のでこぼこコンビで、あの映画でEnidのパパを演じているBob Balabanはこの映画でAnneの新婚旦那だったりする。 世紀を跨いで継承された”Girlfriends”の普遍は、Lena DunhamやGreta Gerwigの登場によって新たな輝きを獲得してもはや無敵としか言いようがなくて、その突端にあってパンクと同じ時代に生まれたこの作品を見つめ直してみることは意義あることではないか。 もう一回、あと何度でもみたい。


この作品の前に上映された15分の短編 - Ackee & Saltfish (2014) がものすごくおもしろかった。
ふたりのジャマイカンの女の子がずっとかけあいみたいな調子で交互にわーわー言いながら街中歩いたりカードやったりご飯を食べたりしているだけ、すごい早口で何言っているのか半分くらいしかわかんないのだがなんかすげえー、ってやられた。


St. Patrick’s Dayの週末は、ずっと雪吹雪で(まだ降ってる?)、この時期にいいかげんにして、だった。 
BBCで”Brooklyn” (2015) やってくれたのですこしご機嫌なおった。

3.18.2018

[theatre] Long Day's Journey into Night

書くの忘れていたやつ。
2月22日、木曜日の晩、地下鉄のLeicester Squareの駅上にあるWyndham's Theatreで見ました。
(たまに地下鉄のごとごとが聞こえたりする)
上演時間は休憩一回いれて3時間20分。

Eugene O'Neill の1956年作の舞台、設定は1912年のアメリカ。
演出はRichard Eyre。キャストはJames: Jeremy Irons、Mary: Lesley Manville、Jamie: Rory Keenan、Edmund: Matthew Beard。

2003年にBroadwayのPlymouth Theatreで見たときは James: Brian Dennehy、Mary: Vanessa Redgrave、Jamie: Philip Seymour Hoffman、Edmund: Robert Sean Leonardで、それはそれはすばらしくて、演劇も見れるのは見たほうがいいかも、て思うようになったのはこのあたりから。

アメリカ人(家族)のドラマを英国人俳優たちが演じる、ということについては、ここの場合はあまり関係ない気がした。

舞台は一家のリビングルーム(のみ)で、真ん中にテーブルと椅子、右手にソファ、左手に天井までの大きな本棚、奥に寝室へと続く階段、大きな窓があるので光は十分に入ってきそうなのにランプの光が足りない、と家族はいう。

役者だった頃の過去の栄華にすがって生きるしかない父James、自分がしっかり支えて育ててきた家族を誇りながらも裏では不眠症とモルヒネ中毒でぼろぼろの母Mary、聡明なのに過剰な期待をかけられすぎて崩壊状態、アル中寸前の長男Jamie、病弱で喘息もちなのに家族の心配ばかりしている次男Edmund。全員が夢の中では幸せな理想の家族を抱えて生きているのに現実では各自それぞれにぼろぼろの問題だらけで、朝の光のなかにいるのか夜の闇に向かおうとしているのかよくわからない、理想と現実のどちらが先に転んでこうなったのかわからない、夜までの長い時間がJourneyを形づくったのか、果てのないJourneyが夜を求めたのかわからないし知りたくもないし。

現代のホームドラマに見られるあらゆるバリエーションとその原型を示しつつ、個々のエピソードや会話の交錯はこの4人でしかありえないような狂いようとか修羅場とかを見せてくれる。各自のどうしようもない弱さとか傷とかをそれぞれにどうしようもないところを抱えた連中が寄ってたかってどうにかしようしたり放置したりしようとするけどやっぱしどうにもならんよね、ていう、それがJourneyなの。 最後には長い夜が明けたような気がするのだが、実は何ひとつ解決していないし誰も救われていない、その状態を維持するために延々と続いていく家族という詐術を底の底まで見せることで、愛と呼べそうな何かが浮かびあがってくる気がする不思議。 この舞台は誰の演出でも誰の出演でも中味がいつも常に異なって見えるような気が、何度でも繰り返し見ることができる、そういう普遍性はあるかも。昔の(戦前の、とか、昭和の、とか)家族のかんじが全くしない。

2003年に見た舞台で圧倒的だったのは、Philip Seymour Hoffmanだったし、映画版ではKatharine Hepburnだったし(たしか)。今回のでいうと、Lesley Manvilleが際立ってすばらしいの。 彼女が休憩暗転前の最後につぶやく「さみしいよ..」て自身を抱きしめていうところと、それでも終盤、最後の最後にエモの奔流でもって家族をまるめこんで救われたかのように見せてしまう紙一重の繊細さと残酷さはとてつもないものがあった。 “Phantom Thread”でも、常に主人公の傍にいる役が彼女じゃなかったら、あのストーリーは成立しなかったのではないかと思うし。 声が透き通っていて素敵なのよね。

この舞台、これからもいろんな俳優さんが演じていくことになるのだろうけど、できるだけ追っていきたいな、て改めておもった。

3.16.2018

[film] You Were Never Really Here (2017)

10日の日曜日の午後、CurzonのSOHOで見ました。

Lynne Ramsayの新作。 予告編で上半身裸のJoaquin Phoenixが鏡に向かってにーってやるところだけで十分おっかなくて助けて、になるのだった。

Joe (Joaquin Phoenix)は湾岸とかに従軍していた元兵士で元FBI AgentでPTSDで苦しんでいて(これらは頻繁なフラッシュバックでそうらしい、ということがわかる程度)、今は誘拐されて虐待されたりしている子供の救出(闇の現金商売、当然手段を択ばない)をやっているようで、冒頭でひと仕事終えて自宅に戻ると、病気の母がいて細目に介護をしていたりする。

次の仕事の依頼は週末から戻ってこなくなった政治家の娘を救いだしてほしいというやつで、映画の前半はこれの綿密な準備(サウナとか)と実行で、実行のほうは銃ではなくて原始人みたいにハンマーでぼこぼこにしたりするやつで、ちっともスマートではなくて震えあがるしかないの。 廊下のつきあたりにハンマーもったJoaquinが立っているの見ただけでもうおれは死ぬ、って思うよね。

で、その救出はなんとかやれたのだが、やはり相当にきな臭い案件だったらしく、彼の雇い主とかみんな殺されていってやがて母にも手が及んで…

筋の流れはシンプルで、誰もが”Taxi Driver”をイメージするかもしれないが、Joeはあそこまで明確に狂ってはいない(どちらかというと苦しんでいる)仕事人で、親の面倒もちゃんと見ているし、でも、だから恐ろしいったらないの。そして、恐ろしいのは彼の頭のなかにある狂気だけでは勿論なくて、ここで描かれるような子供の虐待が平気で行われている今の世界のこと、でもある。

Joeが救出する女の子が常におまじないのようにカウントダウンを唱えているところがずっと残って、タイトルの”You Were Never Really Here”は、誰が誰に言っていることなのかを考えると胸が痛くなる。あなたはここにいるべきじゃなかった - そんな「あなた」とか「ここ」とかが世界中に多すぎる。
では、あなたはいるべき場所は、あなたにここにいてほしい、という場所はいったいどこに?

そして、NYの外れ(Brooklyn? Queens?)のアパートの萎びたかんじ、そこに遠くから聞こえてくる甘いポップスと最後に出てくる郊外の豪邸の澱んだかんじの対比、それらを突き崩して包みこむ水と下降(浮かないで沈む)のイメージ。これらの連鎖がとめどなくいろんなことを想起させてくるのだが、唐突に鳴る音と音楽が強烈に揺さぶってくるので常に考えは中断させられて、それはそれで別の不快、不安、恐怖を呼びこんでくる。そしてそもそも、これら一連の出来事は誰かが誰かの快楽を満たすために始めたことなのだ、という気持ちの悪さも。

音楽は誰かと思ったらJonny Greenwood。”Phantom Thread”とこれの音楽作家が同じなんて信じられない、というくらいに違っていて、なんか器用貧乏さん手前かも。

Joaquin Phoenixのぶにょぶにょした、傷だらけの熊みたいな体躯の言いようのない迫力についてはめろめろにされた人々がそれぞれいろんなふうに語るであろう。
Adam Driver氏がこの領域に到達するにはまだ時間がかかる気がする。

こわいけど見た方がいい。血がどばどば出るやつでもないからそういうの苦手なひとでもだいじょうぶ。
でもハンマーがだめなひとはやめといたほうがいいかも。

[music] Morrissey

10日、土曜日の晩、London Palladiumで見ました。 これがなければJohn Caleの二日目に行くところだったのだが、こっちは11月に取ったやつだったのでしょうがない。

ついに英国でMorrisseyを見る日が来たんだわ、という割には、新譜も聴いていないしLondon近郊数カ所でのライブもチケット取ったのはここだけで、いくいかないで言うと絶対いくけど、ぜんぶきゃーきゃー追っかけるかというと、そこまでは.. というのが今の彼に対する態度なのね。

発売日に取ったのにフロアの席は取れなくて、その点ではここの前から4列目が取れたのにキャンセルになってしまった(3月は彼の月になるはずだった)Randy Newman先生の公演が残念でならないよう。

前座はないから気をつけてね、というメールが会場から来ていたので少し早目に行ったら8:15~Film上映、8:45~ライブ、てあったので安心して近所をぷらぷらした。 Liberty(デパート)が傍にあるのでこのホールだと時間はつぶせるの。

席は2階だったけどとても近くにいるかんじ。昔に彼をApollo Theaterで見たとき(David Johansenが前座だった)の近さとおなじくらい。

Pre-ShowのフィルムはRamonesから始まっていろいろ。じーんとしたとこでいうと、The Human Leagueの“The Sound Of The Crowd”とか、Robert Gordon の”Someday Someway”とか、t.A.T.u. (..いたねえ)の”How Soon is Now”とか。  つまんない前座バンドよかぜんぜんおもしろい。

ここ数回の傾向で「国際的遊興男子」がオープニングかと思ったらElvis Presleyの”You'll Be Gone”に戻っていた。ちぇ。始まった途端にフロアの前方の人々は椅子なんか存在しないかのように液体のようにざざーっとステージ前に寄っていく。
あとはいつもと同じく楽しい彼のライブで、なかでも“November Spawned a Monster”は久々だったのでみんなでおおーって大喜びで歌っていた。 やっぱり”Bona Drag” (1990)からの曲って(便利なので散々聴いたせいか)どれも好き。

ライブの音とかバンドに関して言うと、ここ数年は変わっていない気がするし、彼が朗々と歌うのを妨げさえしなければなんでもよい、べつにJohnny Marrでなくてもいい、くらいになりつつあって、これはよいことではないかしらん。

“Who Will Protect Us From the Police?”と“The Bullfighter Dies”のバックに流れる映像の恐ろしさ。Morrisseyていうのはわれわれ迷える子羊にとっての教師でもあるので、教育の現場であるライブでああいう悲惨な現世の絵を見せるのはよいことなのだ、と思うことにしている。

今回やっているカバー曲”Back on the Chain Gang”も大好きな曲で、The Pretendersがどん底からこの曲で蘇ったときのことを思い出す。よく聴くとメロとかThe Smithぽいのね。

彼に抱きつきたくてどうにかなんとかステージを駆けあがろうとする無数の報われない魂もいっぱい見てつい握り拳を。あれじゃ普通に突進しちゃうよね(若ければ)。最後に投げられたシャツの取り合いも見た。 ああ、”Rank”のジャケットにあったやつと同じだわ、って。

おしゃべりで面白かったのはギターの音が出なくてバックが格闘している間に、この舞台に立ったすごい人々をランキングしてみました、っていうやつ。1位 - Frank Sinatra、2位 - The Beatles、3位 - Rolling Stones、4位 - George Raft (繰り返して言った) - George Raft、好きなのね。5位 - Noel Coward … あと8位にMarlene Dietrich。 London Palladiumってすごい場所なんだねえ。

アンコールは一回、てっきり”Irish Blood ...” かと思ったら”The Last of the Famous International Playboys”をやってくれた。気持ちいい曲だねえ。


これの少し前、8日の木曜日の晩にRough Trade Eastでイベントがあったので少しだけ書いておく。
ソロを出したばかりのTracey Thornさんと、彼女と共作もしているJohn Grantさんのトークで、トークの後にサイン会がある。レコードかCDを買うのがチケットのかわり。
彼女の新譜、音のかんじが最初はどうかしら? だったのが聴いているとだんだんよくなってくる。
Warpaintのリズム隊がすばらしいのね。

トークは、どっちも音楽を作るひとなので、John Grantさんが創作に向かうときの態度とか心構えみたいなのを聞くと、Traceyは、うーんあんま準備しないで、できそうだったらやっちゃうかんじ、とか言ってて、ふたりの違い - Johnはきっちり準備していろんなおまじないしたりして臨む - が際だっておもしろかった。EBTGのスタイルの変遷もひょっとしたら彼女のそういうてきとーなところから来たりしたのかしら。

最初のソロ - “A Distant Shore” (1982)のときも、これはバンド(Marine Girls)っていうよりひとりでできるやつだよね? - ひとりでやろう、って思ったから午後の2日間かけて£160で作った、最初はデモのつもりだった、って。

もちろんサインもらったよ。

3.15.2018

[music] John Cale (2018-1964): A Futurespective

9日の土曜日の晩、Barbicanで見ました。

9-10の二日間のシリーズの一日目で、これまでの全キャリアを総括する、といいつつタイトルは”A Futurespective”となっている。 Blue Noteでの公演メンバー4人(+エレクトロの人?)に加えて左手にLondon Contemporary Orchestraの弦楽(17人)がびっちり、奥手には同Orchestraの管の人達(7人)、右手にはthe House Gospel Choirていうコーラス隊(13人)が詰まって、曲によって入ったり入らなかったりするものの、ものすごく分厚く贅沢な構成。これにゲストでアコギを抱えたヴォーカルのCate Le Bonさんが数曲で参加する。

ビジュアルは奥にでっかいスクリーンと、左右にもノボリ仕様で垂れ下がるスクリーンがあって、計3面でいろんな映像 - 実験映画みたいのからゆらゆら模様まで - 流れていく。

9日と10日では曲目は結構違っていて(10日の”Heartbreak Hotel”、聴きたかったなー)、つまり2日間かけてほぼぜんぶを舐めていくかんじなのだが、基本はCageやLa Monte Youngといった米国前衛音楽の系譜に50〜60年代のポピュラーをぶつけてみて、結果的にものすごく裾野の広い豊かなうねりをもった音楽図鑑みたいなのを見せてくれる。

そこらへん、4人のみのバンド編成だと緻密なコンビネーションとか技巧を凝らした細工に驚嘆してばかりだった気がするが、今回のはやたらスケールがでっかくて深いので曲の特性がダイレクトに伝わってくるかんじ。
もう少し言うと、弦とか管はただ音を厚くしているだけではなくて、Deantoni Parksが右に左に変態ぽく散らしまくる細かなビートの断片を拾ってその延長で全体を揺らしまくるようにダイナミックに機能していて、もうひとつの曲の特性を決める彼のヴォーカル - ものすごく正統に朗々と響く声のほうは、ゴスペルのコーラス隊が正面から受けとめて増幅してくれるので笑っちゃうくらい感動的に響き渡るのだった。
ただ、決してメインストリームに来るような耳触りのよいポピュラー音楽ではなくて、どこまでマイナー道を行くかっこよさ、クセになるかんじがあって、曲のたびにうううって唸るしかないの。

何年前になるのか思い出したくもないけど、彼の初来日公演(パルコ劇場だったかしら?)のソロ(彼の声と鍵盤のみ)を聴いて、これは一生聴いていくやつだわ、って思ったあれが、今回の大編成になってもきれいな弧を描いてつながっている気がした。

あと曲名は忘れちゃったけど、数曲で立ち上がってギターを弾いてた。
エレクトリックギターは客席に背を向けてバンドの音に没入して戻ってこない。Lou Reedのライブにもそういうところがあったけど、えんえん引っ掻き続けて音に浸るのがたまんないぜ、ていう顔を(たまにこっちを向いて)していた。音はごりごりの電気鋸の拷問が渦巻いてて極Sの”Vintage Violence”としか言いようがない。
アコースティックギターのほうは、フォーキーで清らかなCate Le Bonさんのヴォーカルと絡むのだが、”Buffalo Ballet”なんて、泣きそうだった。こんなふうに鳴る曲だったのかよう、って。

Velvet Undergroundの曲は最後のほうの”I’m Waiting for the Man”くらいだったが、シューゲイザーの一歩手前くらいの火炎放射器みたいな音だった。男が寄ってきてもそのまま焼いちゃうみたいな音。

この日は彼の誕生日だったので、ゴスペル隊と一緒にみんなでHappy Birthdayを歌った。
76歳だって。 あんな嬉しそうに笑うのね。

3.13.2018

[film] The Mysterious Lady (1928)

4日、日曜日の晩、Southbank CentreのRoyal Festival Hallで見ました。

ここではたまにLive Screeningていう企画 - 映画上映にあわせてライブのフルオーケストラの音を被せるのをやっていて、いっつも隣のBFI Southbankばっかしなのでこういうのもいいのかな、くらいで。
今回のテーマはGreta Garboで、彼女が主演のサイレントThe Mysterious Lady (1928)とThe Divine Woman (1928)(の一部)にCarl Davis作、指揮のPhilharmonia Orchestraの演奏が被さる。
Garboって自分にとってはミケランジェロとかダ・ヴィンチと同列の神さまみたいなもんなので背筋を伸ばして見た。 どっちも驚異的におもしろかった。

The Divine Woman (1928)

このフィルムの完全版は残っていなくて、上映されたのはモスクワで発掘された9分間バージョンのみだという。

パリにいる兵士のLucien (Lars Hanson)は夜の9時に戦地のアルジェリアに旅立つことになっていて、最後に恋人のMarianne (Greta Garbo)のアパートにお別れを言いにいく。お別れまで残り40分くらいのとこで、彼女は彼がもうじき旅立ってしまうことを知っているのか知らないのか(たぶんなんか気付いている)ふたりでテンション高めにじゃれあってキスしまくる(Marianneの笑顔攻撃のすさまじいこと)。 で、Lucienが突然、僕が君のもとを去らなければならないとしたら? ほら、兵隊だし移動も多いしさ …て聞くと、Marianneは男なんていくらでもいるから次を探すわ、って即座に返したので、互いに気まずくなってむっつりしちゃって、Lucianは帽子を取って出ていこうとするのだが、Marianneは無言で寄っていって帽子とかを取りあげて椅子のほうに押して、彼の上に乗って彼の髪の毛を左右にぐいぐい引っ張りながら、いなくなったりしたら許さないからね、ってそのまま床の上に柔らかく押し倒して、キスの雨を降らせると、彼は君がいるなら世界なんてどうでもよくなった、とか言うの(そりゃ言うよ)。最後のシーン、時計の針は深夜を指してて、パリの夜景をバックに二人は互いに寄りかかってぼーっとしているの。

監督はVictor Sjöström。 ほんとすごすぎる。こんなの完全版みたらしんじゃうかも。

The Mysterious Lady (1928)  

こっちはフルバージョンの上映。
雨の晩、ウィーンのオペラハウスで軍の大尉のKarl von Raden (Conrad Nagel) が窓口に戻されたチケットを買ってボックス席に入るとそこで一人でオペラを見ている謎めいた女性(Greta Garbo)がいて、上演後も気になったので彼女を家まで送っていって、それ以上の関係になることを彼女はやんわり拒絶するのだが、翌日ふたりは田舎で楽しい一日を過ごすの。

そこから機密書類を運ぶ任務のためにベルリンに向かう彼に彼の叔父の大佐が、お前が会っている女はロシアの凄腕女スパイのTatianaだから注意しろ、と言われてびっくり、列車に乗ったら彼女がいたので冷たくしたら彼女は向こうに行っちゃって、でもKarlが寝て起きたら書類が忽然と消えていて、このせいで彼は階級剥奪されて牢獄送りになる。そこに叔父が現れてここから出してやるからワルシャワに行って彼女を見つけて書類を取り戻してこい、ていうの。

こうしてKarlはシベリアのピアニストに化けて国境を超えて、あるパーティで諜報局の将軍Borisに付き添われたTatianaを見るとめらめらして、未練たらしく二人で見たオペラの曲をピアノでじゃんじゃか演奏したりすると彼女ははっとびっくりして、さてふたりの恋は(or 憎悪は)どうなっちゃうのか。

敵同士の男と女で、でも好きになっちゃって、なのにいけないことやって憎悪が炸裂して、でも再会したら嫉妬の炎とか憎しみとかでもやっぱし好きなのかも、とかが一遍に燃え上がって、でもそんな火遊びしている余裕ない敵陣で絶体絶命で、最後まではらはらどきどきが止まらない。

あそこまで笑えないけど、どきどきのかんじはルビッチの”To Be or Not To Be” (1942) のそれに近いかも。戦争でまじ命がやばかったりするのに、なんでひとは(そんなときに限って)恋のほうに燃えあがってしまうのか、とか。なにやってんのよ? って。

もういっこルビッチでいうと、Garbo主演の“Ninotchka” (1939) – 大好き - も思い起こさせて、表面はロシアの氷点下の女なのに敵対する男と恋におちると極スイートになったりの落差がとんでもなくてたまんない。 Garboってこういう冷たさと柔らかさを表現するのが本当にうまいなあ、って。

サイレントの伴奏にフルオーケストラ、というのは自分にとっては初めてだったが、とにかくすごいの。
特に憎しみの火の玉になったKarlがTatianaに再会するシーンの音の濁流噴流の盛りあがりときたら凄まじく、これって爆音で見る映画と同じくらいの鳥肌が来るんだわ。

サイレントって、やっぱりいっぱい見なきゃね、て思った。

ところで今日はSouthbankのメンバー向けMeltdownのチケット先行の日で、発売20分前の9:40くらいにログインしたら前に2030人くらいのキューがあって絶望的になって、発売開始になってもキューはぜんぜん動いてくれなくて、11:20くらいに「まだチケットは十分あります。 NINだけ完売」とか出たのでほぼ死にたくなって、中に入れたのは12:00くらいだった。 とりあえずほしいのざっと取って(なぜかマイブラだけ最前列が)、でもくやしくてたまらない。
あのキュー処理はなんだよ。まるでロンドンの地下鉄じゃないか。

3.12.2018

[film] I, Tonya (2017)

4日の日曜の昼間、CurzonのAldgateで見ました。
オスカー授賞式の日の昼で、これを見とけば候補作はだいたい見たことになるから(”Get Out”だけまだ見てない。あとドキュメンタリーも)。

この実話 - 94年の1月に起こったNancy Kerriganの襲撃のときはアメリカに住んでいたので、ことの成り行きもメディアの大騒ぎもぜんぶようく憶えていて、その後の展開も含めてなんじゃこりゃ? の連続で、更にその後の6月に起こったO. J. SimpsonのFord Broncoによるハイウェイ爆走と併せて、なんかすげえ国、てしみじみしたことを思い出す。(これらにもういっこ加えると、97年6月のMike Tysonの耳齧り、ていうのもあったの。 最近は豪快なやつあんまりないねえ)

(どうでもよいけど、選手の名前も現在〜ここ数年のよか、ここに出てくる名前のほうが余程きちんと憶えているのね。 バンドの名前とかと一緒か…)

現在のTonya (Margot Robbie)とex-夫のJeff (Sebastian Stan)と母のLaVona (Allison Janney)の3名にインタビューしつつ、Tonyaの幼少時から振り返っていく形で映画は進む。極貧の母一人子一人からの逆転をフィギュアに賭ける母と毒親攻撃におぼえてろよこんちくしょーで耐えつつもフィギュアの楽しさに目覚めてのしあがっていくTonya、そんな彼女を見初めて寄っていくJeffと。
アメリカ人として初のトリプルアクセルを決める瞬間までの痛快に突っ走っていくかんじの気持ちよさったらない。

ここのカメラ、超人的なスポーツであり息をのむアートとしてもあるフィギュアスケートの撮り方として、音楽の使い方も含めてなかなか画期的だと思った。(あー”Blades of Glory” (2007)のときにこれがあったらなー)

主人公たちはこのあと、昇りつめたポジションの維持のために互いにひじ鉄くらわすようになって団子状態で転がり落ちていくわけだが、それぞれがそれぞれの事情を抱えて(本人達は決してそう思っていないだろうが)ぐだぐだに悲惨なその内面には踏みこまずに、とにかく当時のヒット曲とかを行進曲みたいにじゃんじゃか流して振りかけて次に行っちゃう、その音楽の使い方がすばらしいの。まるで彼らの頭の中でもあんなふうに鳴っていたかのように。

久々に聴いてきゅんとしたのはDire Straitsの”Romeo and Juliet”。 あと、Violent Femmesの”Gone Daddy Gone”。
そして最後にできすぎじゃねえか、ていうくらいかっこよすぎて痺れるSiouxsie and the Bansheesの”The Passenger”。

まあ本人たちが現在に至るまでこれぽっちも反省していない - カモ〜ン? ていうのが大きくて、その内容にも関わらず不思議と元気を貰える作品になっているのはよいこと、としよう。

Margot Robbieの狂気すれすれのところで爆発を繰り返すアメリカンあばずれっぷり(”Suicide Squad”のHarley Quinnの田舎版、とか言わないこと)は見事だし、オスカーを獲ったAllison Janneyの爬虫類のように揺るがないくそババアっぷりもすごい。それにしても今年の助演賞には男女共に強烈どSキャラが輝いた、ていうのはなんなのかしらねー。

これと同じようなやつがニッポン相撲界を舞台に作られることを望む。 
タイトルは“I, xxx”じゃなくて、”We, xxx” になるの。 やーねー。

3.11.2018

[film] After the Rehearsal (1984)

3日の雛祭りの晩、BFIのBergman特集で見ました。原題は”Efter repetitionen”。元はTV用に撮られたもの。

昨年9月にBarbican TheatreでIvo van Hove演出 - Toneelgroep Amsterdamによるこれの舞台版を見てから、その元の映画版は絶対に見たいと思っていた。

大御所の演出家のHenrik (Erland Josephson)が次の舞台 - ストリンドベリの“A Dream Play” -のリハーサル後、舞台セットの机でまどろんでぼーっとしていると、主演女優のAnna (Lena Olin) が忘れ物のブレスレットを取りに戻ってくる。 そのブレスレットの魔法なのかなんなのか、たわいない会話からHenrikがなぜ彼女を主演に選んだのか、彼が女優に求めるものはなにか、みたいなセンセの演劇論説教が展開される .. かと思いきや、Annaの母 - アル中でHenrikの愛人だったRakel (Ingrid Thulin)が現れて、さっきの問いのカウンターのようないちゃもんを若い頃のHenrikにか現在のHenrikにか投げつけてねっちりと絡んでくる。

時間の切り取り方が現在から見た過去に向かっているのか、過去のある地点を切り取ったものなのか、あるいはAnnaを通してかつてのRakelを ~ 老いて手に負えなくなったRikelを見ているのか。場面場面の繋ぎにギャップがないのでどの時点の、どの地点の話なのか見えにくくて、でもそれはマイナスではなく、過去から吹き溜まる時間や出来事の集積場としての舞台の上で、舞台の上でしか起こりえないようなことが、だからどんなことだって起こりうる、という形で舞台の全てを司る神である演出家の上に降りかかってきて、ううむ、っていうメタ演劇を映画にしたもの(演劇の可能性を映画にしかできない形で表現する)、ということでよいのかしら。 これが古くから続く演劇人一家を中心に据えた”Fanny and Alexander” (1982) の後に撮られた、ていうのは興味深いこと。

一瞬だけど、若い頃のHenrikとして、Alexander (Bertil Guve)の姿が映る。あの演劇人の家に生まれて舞台のミニチュアで遊んでいたAlexanderがやがてHenrikになる  ... 好色家の家系の血はそのままに、とかね。

昨年の舞台版との比較でいうと、舞台版はドラマが舞台上ではなく控室のような部屋で展開されて、時間はシーケンシャルにしか流れないし過去の記憶や夢との混濁を表現するのは難しいので、母娘とひとりの男の確執を描く(それだけじゃないけど)ような骨格のドラマになっていた(同時に上演された”Persona”との関係もこの線であれば整合するかしら? 安易すぎかしら)

シンプルで長くなくて、でもものすごくいろいろ詰まっているのでもう一回見たい。

Hour of the Wolf (1968)

3日の夕方、“After the Rehearsal”の前に見ました。これもベルイマン特集で、原題は”Vargtimmen”。 ベルイマンのホラーだって。

失踪した画家で夫のJohan (Max von Sydow)について語る妻のAlma (Liv Ullmann)の独白が、7年前に島の一軒家に船で渡ってくるところから始まって、初めは庭の木のこととか創作に集中できるとか喜んでいるのだが、だんだんにJohanが夜が怖い、眠れないって言い出すようになり、昼間の行動も常軌を逸してきて、やがて変な老婆が現れて彼の日記を読むように言うので見てみると…

島にあるお屋敷に暮らす怪しい住人たちとかの描写も既に狂っているJohanだけに見える世界なのかもしれないし、あるいはAlmaだってひょっとしたら、なのかもしれないし、後半の狂った世界は確かにゴスで暗くてMax von Sydowの長顔とかカラスとか洞窟とかピストルとか仮面とかおっかない要素はいくらでもあるのに、そんなでもないのはSven Nykvist さんのカメラが静かで落ち着きすぎててホラー向きじゃないからかもしれない。 というか、怖い映像ってどういうものかしら? って確かめながら撮っているようなかんじがあって、ベルイマンのだと、テーマ的にはこれよか深くて底なしに怖いのがいくらでもあるので、あんま来ないの。

多分、「呪い」みたいな要素が明確に出てくれば怖さは増したのかもしれないけど、ベルイマンの映画って、生きていること=すでに呪い、みたいなとこあるしねえー。

でもホラー苦手なのでこれくらいでちょうどいかったかも。

3.10.2018

[film] Una mujer fantástica (2017)  

3日の雛祭りの午後、SOHOのCurzonで見ました。アカデミーの外国語映画賞はこれがいく気がしていたら、やっぱし獲ったねえ。よかった。

英語題は”A Fantastic Woman”(そのまま)。 邦題はもう文句いう気にもなれないけど、なんで? しか出てこない。劇中でArethaの曲が流れるから?  でもこのお話しって、ナチュラルとかニュートラルとか、そういう物差しなんかからは一番遠いところの、そういう線とか枠とかに挑みかかるようなテーマの映画だよね? だからこその Fantastic ! だと思うんですけど? 

初老のOrlando (Francisco Reyes)が身なりを整えてマッサージしてバーに入っていくとそこではMarina (Daniela Vega)が歌っていて、ふたりは恋人同士らしく、一緒に誕生日のお食事してアパートに戻って親密な時を過ごすのだが、夜中にOrlandoは具合が悪くなって階段から落ちて、病院に運ばれて、そのまま亡くなってしまう。

突然だったので彼女は放心状態で、でも病院に行ったときから周囲の彼女を見る目は変で、明らかに彼女の何かと、彼の(階段から落ちたときの)外傷から彼女の関与を疑っているかんじで、それは彼の別れた妻を中心とした家族でも同じで、悲しみに暮れるMarinaの胸を容赦なく刺してきて、とにかく彼と同居していたアパートからは出ていけ、葬儀には来ないでくれ、と言われ、大切なわんわんも持っていかれてしまう。

ここに出てくる、あたしはノーマルざんすから、と思いこんで、それだけでなぜか偉そうにしているOrlandoの家族がとにかく憎らしくて、Marinaみたいにゲーセンのぶん殴りマシーンでどすどすやりたくなる(ここ素敵)のだが、そんなことをしてもOrlandoはもういなくて、たまに幻影のように幽霊のように出てきてMarinaをじっと見ているだけなの。飼い主に先立たれたわんわんみたいに哀れなMarina。

唯一、Orlandoが遺したなにかのキーと、亡くなる直前に彼の探していた封筒が連中をぎゃふんと言わせる何かになるのか…   なのだが、暴力による決着も含めてそういうほうに行かないのがFantasticなんですってば。
彼女を淵から掬い上げてくれるのは歌と音楽で、あのダンスのシーンはなにかが満ちていく感覚に溢れていてすばらしいったら。

トランスジェンダーへの偏見や蔑み、差別も、ハラスメントや暴力もぜんぜんなくならなくて、でもそれらをみな「本性」みたいな議論に落とし込んでは絶対いけなくて(だからあの邦題はふざけんな、なの)、というあたりを滲ませつつも、Orlando - あたしは生きるんだから、これはなんといってもあたしとOrlandoの愛の物語で、同じ歌を何度も何度も歌うのと同じようにその旋律のなかで生きていくんだから、という彼女の意思がみなぎって止まらない。 あのツラ構えを見よ。

とにかく彼女の顔を見にいくの。あんな強くて悲しくて、でも素敵なのないから。

あと、“Neruda”のひと(Luis Gnecco)が出てた 。

[film] Fifty Shades Freed (2018)

2月28日の水曜日の遅い晩、雪ががんがんでそんな翌日にモスクワに行くことになっていたもんだからあーやだやだ、て思いながらLeicester Squareのシネコンで見ました。もう終わっちゃいそうだったし。 モスクワで凍死しちゃったらこれが最後の映画になるのか.. とかすこし思った。

客なんていそうにない感じだったのが、CM予告の時間とかにだんだんに埋まっていって1/3くらいは入っていたかも。 みんな女性同士のグループで瓶とかグラスを手にしている。

冒頭から”Phantom Thread”か、みたいなAnastasia – Ana (Dakota Johnson)とChristian Grey(Jamie Dornan)の結婚式で、そこからクソ豪華なハネムーン(そうでしょうとも)をしている時に、Greyの会社に作業員のふりをして入りこんでデータを盗んでいくやつがいて(あのさーあんな大金持ちの会社なのにオフィス内にサーバー置いてるわけ? )、そいつは前作でAnaに迫ってきた前ボスの野郎で、こいつがねちっこくどこまでも追いかけてくる。

あとは結婚してもできるだけこれまでと同じ生活を続けたいAna – Mrs. Greyって呼ばれると「つい」戸惑ってしまうAna (ぷ)- に対して、彼女用のボディガードとかを付けてがちがちに管理束縛しようとする夫との小競り合いとか、妊娠していることがわかったAnaがそれを告げると僕には僕の人生設計があったのに…  てむくれてどっかに飲みに消えてしまう夫との小競り合いとか、書いてて恥ずかしくなるような犬も喰わないやつらがじゃぶじゃぶ満載で、見ているこっちはみんなでやーやーひゅーひゅー突っ込みを入れながら楽しむの。

前作”Darker”に出てきた刺客Kim Basingerはいなくて、唯一の闇要素であるさっきの前ボスは、保釈された途端にGreyの妹を誘拐してAnaにひとりで金持ってこい、て脅して、Anaは身内とかみんなを振りきって銃と札束を手に単身で乗りこんでいくのだが…  
(だれひとり、まったくはらはらしない)。

なんだかんだ言ってもあんたらとにかく幸せってことよね、ということでやらしいシーンはこれまでよかたんまり、道具仕立てSMもその延長の夫婦のおたのしみのような描かれ方で、これならもうこのシリーズ続けることないよね、ていうのはじゅうぶん解って、終わると客のほうはみんなでグラスを上に掲げてわーわー大拍手しているのだった。
いいなー気持ちよさそう、ていうのと、なにこれキモい、ていうのが交互にやってきて、ほぼそれしかないのだが、そういうだらけた見方をしたってよいの。

“Phantom Thread”とは真逆の、弛緩と迎合しかないだらだらの進行、でも少しだけ変態で辺境(シアトル)で、でも画面はそんなに貧乏くさくなくて、なんも考えなくてもへらへら笑って見ていられる、これはこれで貴重なやつかも、て少し思った。

3.09.2018

[film] Dark River (2017)

23日の金曜日、いろいろあったので会社を休んで、空いた時間にCurzonのBloomsburyで見ました。
理由ははっきりしていて、PJ Harveyさんが主題歌を歌っているから。

ヨークシャーの田舎のほうで羊の毛刈りとかをしているAlice (Ruth Wilson)は父親(Sean Bean)が亡くなったとの報を受けて実家の農場に戻る。本来であれば自分がそこを継ぐことになるはずだったのだが、戻ってみれば飲んだくれで喧嘩っ早い弟のJoe (Mark Stanley)はいるわ、手続きだのなんだの問題だらけで土地と同じくらい厄介でその泥々にぐったりする。

更にAliceには父親から性的虐待を受けていたトラウマもあり、実家の佇まいや物陰、いろんな音、などなどからその亡霊とおぞましい記憶が蘇ってきて彼女を苦しめる。 父親が残した土地には当然のように過去の残滓がこびりついていて、同時にそれは自然の一部でもあるので風雨があり濁流があり簡単に納まってはくれなくて、更にそれを継ぐにはいろんな義務だの手続きだのが降ってくる。 ではさっさと手放してしまえばよいか、というとそれも違って、自分はこの土地から離れて生きられるほど器用じゃない、ということも判っている。

主題歌の“An Acre of Land”は冒頭と終わりの2回流れて、”My father left me an acre of land~”で始まるその歌は、柊よ歌え~蔦よ歌え~諦めよ ~ のようなことが止まない風のように繰り返される。 そんな彼女の歌がぼうぼう吹けば吹くほど立ち去ることができず、吹きっさらしの中で立ちつくす強い想いがくっきりと浮かびあがってくる。

荒れて寂れた農場の辛そうな感じ、湿地、冷たく重い雨、川の深み、それらに囚われて動けなくなってしまうイメージの連なりは見事で、他方で物語は割と簡単に決着してしまうので、そこだけ少し惜しかったかも。

こっちに来て農場もの、みたいなジャンルがある気がしていて(気がするだけだけど)、昨年だと”The Levelling“ (2016) とか”God's Own Country” (2017) - 未見、見なきゃ – とかいろいろあって、あと米国だけどKelly Reichardtさんの映画もここに含まれると思うのだが、日々の辛い農作業労働とか農場経営とかの間に、それでもひとはどう生きるのか、例えば土とか泥とかのように爪の間に愛なんかがどう挟まってくるのか、をざらざらと具体的に描いていて、よいの。 日本でも十分ありうるテーマのひとつだと思うのだが。

あと、今作も”The Levelling“の監督もKelly Reichardtさんも、みんな女性だということ。
“The Levelling”とこの作品は少しだけ似ていて(あーでも違うか)、とてもよいので日本でも公開されてほしいなー。

この日、ぷらぷらしつつ、この近所で以下の展示も見た。

Living with gods: peoples, places and worlds beyond  @ The British Museum

宗教、とか大括りにしなくても、人は大昔からこんなところに、こんなふうに神とかその痕跡とか兆しとか効能とかを見たり近づこうとしたりしようとしたものなのじゃよ(ていう口調になる)、ていう具合に古代から現代まで世界まるごとを網羅した大風呂敷。 こんな壮大な展示、大英博物館以外にできるとは思えない。

お祈りやお祓いのためのいろんな道具、シンボル、お飾り、衣装、お化粧、楽器、などなどなど。
世界のあちこち、時代のそれぞれで不思議と似通ってしまっているもの、ぜんぜん違っているもの、が現れてくるのは当然だと思うし、日本からはちっちゃい神棚とか、なんとか権現の木彫りの男根とか(選んだのはだれだ?)。

あの木彫り、Shopで売ってみればいいのに。(御守りだし)

Fate Unknown: The Search for the Missing after the Holocaust @ The Wiener Library

タイトル通り、ホロコーストの後に後方不明になってしまった人々を探そうとする、延々と続いている活動の紹介。消えてしまった個々人からの手紙、写真、遺された品々から、複数の捜索機関がどのように膨大な情報の山の中から不明となったその人を同定し、特定し、不明と(あるいは死亡と)認定するのか、を具体的な書類や証拠物件から例示している。 戦争で人が後方不明になるのは当然、というかもしれないけど、自分の肉親や友人がある日突然消えてしまうような異常な事態は、今でもどこかの国で起こっていることだし、日本だっていつそうなってもおかしくないよね。あのバカが居座っている限りは。


今日(もう昨日か)は、International Women’s Dayで、Skyの映画チャンネルの番組リストには以下のような映画が並んでいる(いた)。 “Wonder Woman”(今日から)、Hidden Figures”、”Rogue One: A Star Wars Story”、”Suffragette” (2015)、”Dreamgirls” (2006)、”Erin Brockovich” (2000)、”A League of Their Own” (1992)。 

いいよねー。

(そういえば昨日はなぜか「この世界の片隅に」をやってた)

3.07.2018

[film] Viskningar och rop (1972)

2月20日の火曜日の晩、BFI Southbankの奥の方にあるBlue Room(まだ行ったことなかった)ていうとこで、トークがあった。

Bergman’s Portraits of Women

前(壇上、というほど広いとこじゃない)にいたのは、Dazed & Confused誌のDeputy editorのClair Marie Healyさん、film journalist, video essayistのLeigh Singerさん、Sight & Sound誌のcontributorのKelli Westonさん、全体の進行はサイト - “I am Dora“(すてき)をやっているJemma Desaiさん。

こういうトークってだいたい各自がそれぞれの思いとかイメージを勝手に語って時間切れになってしまうことが多い気がするのだが、これはなかなか面白かった。「ベルイマンにおける女性」なんて、「ベルイマンにおける神」と同じくらいテーマ的には曖昧ででっかくて、ほぼどの作品にも出てくるものだし、各自のベルイマンに対するイメージや接し方、フェミニズムへの傾斜度合とかでもバイアスかかってくるだろうに。

実際にだいっきらいなWoody Allenが崇拝する監督、ということであんま見てこなかった(でも見てみたらAllenとは違っていた)、という人もいたし、“Male dominated industry“である映画界で50年代からばりばりにやってきたベルイマンに真っ当な女性像なんて描けるもんかよ、とかいう指摘もごもっともだし。

自分にとって面白かったところを切り取ると、常にひとりの女性というよりは女性の複数の声(Polyphony of voices)を描こうとした、ということ。女性に対するObsessionやCuriosity、Incapable of understanding women – のようなところから始まって、結果的に思いもよらなかったようなところ - 当初のありようから(必然でもなんでもなくダイナミックに)変容しているところ - に連れていく – そしてその挙句に女性がこちらをじっと見つめてくるショット –  “Summer with Monika“にも“Persona“にもあった – が出てきて、そういう描き方はAllenやAltmanの映画に出てくる複数の女性 – 常にミステリアスなふうにできあがってしまって微動だにしない女性 - の描き方とは根本的に違っていて、その変容していく像は女性から見ても「わるくない」とか「割とちゃんと描けている」と言えるようなものになってはいないか、と。

あと、溝口の映画における女性とベルイマンのそれは似ていないか、という指摘(...考えちう)があったのと、ベルイマンの作品には女性の仕草や日常を描くことに対する熱狂のようなものがあって、それはFrançois Ozonのそれと似ているのではないか(... うーん、そう?)、とか。

あと、このテーマに関連して60年4月のEsquire誌に載ったJames Baldwinとベルイマンの対話はとっても深くて面白い、と勧められたので読んでみる(Esquireのアーカイブから読める)。もういっこ、Paris Review誌の“What Do We Do with the Art of Monstrous Men?“ - ベルイマンと直截の関係はないけど、Woody AllenやPolanskiのような女性に対して酷いことをした作家の作品にどう接するべきか、ていうテーマの記事(まだ読んでる)。

といったトークの後で、場所を移ってこれを見る。


Viskningar och rop (1972)  -  “Cries and Whispers”

19世紀の古い、なにもかも赤いお屋敷のなかで、Agnes (Harriet Andersson)が子宮癌で死にかけていて、彼女のことをメイドのAnna (Kari Sylwan) が献身的に介護していて、姉妹のKarin (Ingrid Thulin)とMaria (Liv Ullmann)がいて、他に医者とか医者との過去とか彼女たちの幼年期とかいろいろあるのだが、基本はこの3姉妹とメイドの女性4人の繋がりとか相克とか、Agnesが死んでしまうまでのドラマになっている。

相容れない姉妹の物語でいうと”Silence”からの流れもあるし、患者と看護する女性同士ということだと”Persona”からの流れもあると思うが、互いの見えない内面や弁膜のようなもので塞がれ断続的に表出してくる過去といったものは更に抽象度を増して、ひりひりとした苦痛とか自傷の痛みとか断末魔の叫びのみがリアルに耳元に迫ってくる。Silence – Whispers – Cries。その声のトーンやヴォリュームに呼応するかのように神さまは見えたり隠れたり消えたりして、ドレスやデコールの赤があり、黒があり、白があって、そのだんだら模様のなかに寝転がったりしている猫たち。

抽象画のもつ明確な線や面や色、境界とその距離を示しつつも、全体としては不思議とわかりやすい印象が残る、という不思議。どんなときに人は囁いて、どんなときに、どんなふうに人は叫ぶものなのか、そして死んでしまうものなのか、その後の沈黙は、死者への抱擁はなにをもたらすものなのか。
人が死んだあとに残る – 残されるものを描く、という点ではやがて”Fanny and Alexander” (1982)にも繋がっていくのかもしれない。

ただ、ああいうトークのあとだったせいか、あれこれ考えたり気にしたりしながら見てしまったのはよくなかったかも。もう一回まっさらな状態で浸って見たい。決して明るい話ではない、なんだろこれ、の連続のような作品かもしれないけど、なんか惹かれるところがある。 その美しさ? に、だろうか?

わかってないのになに言ってんだ、かもしれないけど。

3.06.2018

[dance] Giselle

昨晩のOscarはSkyで生中継をやっていたのだが、始まったのはこっちの深夜0時くらいからで、せめてSufjanの演奏だけは見たいよう、と思って粘ったのだが諦めて寝た。授賞式、日曜の晩じゃなくて土曜の晩にやればいいのに。 結果については毎年Oscarってさあー、と言い続けてうんざりいることが今年もで、とにかくComedyに冷たすぎる。 “The Big Sick”が取れなかったこと、”Lady Bird”が無冠だったこと、一生恨んでやるから。(で来年になったら忘れてまた見る、これを繰り返す)

Sufjanの出番、フェスでやるようなカルメン・ミランダ仕様の衣装で出ればいいのに、と思っていたのだが、そんな外れなかったかも。
でも短い。 もっと聴きたかったよう。

21日の晩、Royal Opera Houseで見ました。
Royal Balletの”Giselle”、見たいー見なきゃー、て念仏唱えているうちに気づいたら今シーズンのは終わりかけていて、慌てたとこで残りは3公演くらい、あったり前のように綺麗にSold Outしてて、例によって毎日未練たらたらサイトに通っていたら公演前日にキャンセルが出てて、深く考えずにとにかくえいっ、て押さえたらなぜか最前列の真ん中だったという …

前にも書いたかもしれないが、クラシックの演目で自分が一番見ているのは間違いなく”Giselle”で、特にABTのAlessandra Ferri & Julio Boccaのは何回見たかわからないくらい見た。 FerriのABT 20th Anniversaryの時のも見たし、他のGiselleだとKentのもAnaniashviliのも見ている。あとはLa Scala Ballet がNYに来たときのにも行って、このときのGiselleはSylvie Guillemさんで、あれはなんかとてつもない、宇宙人みたいなやつだったと記憶している。
今のABTだと誰がやってるんだろ、とさっき見てみたら、ほとんど知らない人ばっかりだった。
Gillian Murphyなんて昔は端っこにいたのにねえ(そりゃそうよね)。

この日のGiselleはMarianela Nuñez & Federico Bonelliのふたりで、Nuñezさんのように20年もやっている人がよいのか、こないだGuardian紙で絶賛されていたFrancesca Haywardさんのような若手がふさわしいのか、悩ましいところ。 ちょっと擦れたり逸らしたりぶつかったりしただけで崩れて壊れてしまうようなガラスの女の子がよい、のかもしれないし、救いようのない狂気の深さ、死んでも墓場から出てきてしまう情の深さを表現するのであれば経験のようなのがものを言ったりする、のかもしれないし。
(自分はどちらかというと後者のほうかも)

バレエを見るのって擦れる音とか床を踏みしめる音が聞こえる前のほうがよいのだが、一番前のほうは避けていて、何故かというと足先が見えたり見えなかったりのぎりぎりの線だからで(ちゃんと足先が見えないとだめなの)、ここのも背筋伸ばせばなんとか見えるくらい。疲れるけどしょうがない。  あとこれがあるのかー、と思ったのは指揮者のひとの鼻歌(ふんふふん♪)とかが微かに聞こえてしまうとこ(最初誰かの鼾かとおもったら)。

ABTもRoyal BalletもMarius Petipaの振り付けをそれぞれ改変してて、少しだけ違う。ステージはこっちのが狭くて、こっちの一幕目の背景はABTのと比べるとすぐそこに森が迫ってきているかんじ。

それにしてもMarianela Nuñezさん(BoccaとおなじArgentineなのね)はみごとだった。寸分の狂いなく狂気を表現しつつも、更に溢れて滲み出てきてしまう何か - 悲しさ? - があって、それが二幕のAlbrechtの前に、彼を衛ってゾンビの前に立ちはだかるところで稲妻のように炸裂する。 そのエモのぶれない強さと手先足先の繊細さがぴしーっと繋がっている。
彼女のMad Scene、Royal Opera HouseのYoutubeにあがっているので見てみて。すごいから。

あと、二幕目のホワイトゾンビの群舞は揃っててほんとすごいわ。 ABTって、たまにぼろぼろのことがあったりしたけど、Royal Balletはそのへん、まったく狂いがない。 Royalってかんじ。

あと、いっつも思うのだが、一幕目の村の若者たちがかわるがわる踊るとこ、どれだけダンス猛者がいる村なんだ、みんなどこで仕込んだり修行したりしてるのか? って。 拳法ならまだわかるけど、みんながバレエをやる村..

また来シーズンも見ようっと。バレエ見たことなくて、ちょっと興味があるひとはぜひライブで見てみませう。すごいから。

階上のバーは改装中だったので、アイスクリーム食べそこねた。

3.05.2018

[log] Berlinそのた -- February 2018

25日の日曜日も朝からきんきんの氷点下で、こたつで寝ていたいかんじだったのだがそうも行かない。

Bode-Museum
ここの側の川べりに日曜には古本・アンティークの市が出る、とガイドにあったのでご飯を食べてから行ってみたのだがモノも店もあんまなくて、それよか体が芯まで冷たくなりやばくなってきたので、建物のなかに逃げねば、ということで、退避するように入った。

どういう博物館なのかまったく知らず - ということは余り興味ない領域(のはず) - 古代とか考古学とか史学とか、と思っていたのだが思っていた以上にだらだら過ごせてしまった。
昔の素朴なキリスト教美術からゴシックにルネサンス - フランスにイタリアに、どの程度まで網羅されているのかはわからないのだが、とにかくいろんなのがいっぱいあるのでいくらでも見ていられる。
彫刻とか祭壇とかいろんな天使像とか、当たり前のように作ったひと崇めるひとにとっての神がいて、それぞれの「これだ」という形象があり、それらが時代と地域で纏められているので、質感とか触感のレベルで訴えてくるものが見える。

ミニ企画のようなかんじで、アフリカの同時代、同テーマ(or 単に似ている?)の彫刻とかを並べて展示したりしていたが、こういうのって安易に横に並べないほうがいいと思うけど。 よほど明確なきちんとした根拠と理由がない限りは。あと「比較」ではなく「優劣」みたいなとこに行かないようにしないとだめよね。

そこから地下鉄で少し移動して、Kraftwerk Berlinていうクラブ(?)に行った。

SKALAR
丁度CTMフェスティバルていうのをやってて(詳細ようわからず)、その中の一つの出し物で、SKALARていうインスタレーションをやっている、というので行った。この日が最終日だからか外に50mくらい列ができてて、20~30分くらい並んだかも。子供連れも結構いる。
Exhibition版と夜中にやるLive Performance版があって、これは13:00~17:00までのExhibitionのほう。

中はクラブというよりただのでっかい箱で、演目はノンストップで流し続けているらしいので音と光のある方に向かって階段昇ってこわごわ手探りで歩いていくと、みんなフロアに座ったり寝転がったりしているので、そのまま横になる(床に寝ころがるのすき)。
いろいろ能書き効能があるようだったが、天井から吊り下げられた大量の円盤状の鏡が音と光に同期して上下左右に動いたり回転したりして、きれいねー、ていうものだと理解する。

音はぶっとくぶあつく、ビートがどうどう鳴り続けるクラブみたいのではなくて、ノイズとかドローンの沼地獄でもなくて、ランドスケープぽいかんじのカラフルで荘厳なのが四方八方から降り注いでくる(ていうふうに表現される)やつで、音の質感とかクリアさはものすごく強くしっかりしている。光のほうは緑とか青とかオレンジとか(感情とリンクしているのだとか - でも別に悲しくなったりはしない)刻々と変わり続けるやつで、その色とか輝度に合わせて鏡の動きのパターンも変わっていく。

要するに音と光(色)とそれらの動き、そのパターンがデジタルで同期して緻密に制御されて、そのバリエーションとクオリティがすんごい、ということなのだと思うが、こういうライトショーなら大昔からあるし、知覚を変えるとかいうけど変えられたことないので、大抵はきれいねー、で終わってしまって、別にそれ以上のなんかを期待しているわけではないのでよいのだが、帰るときに割とはっきり薬物みたいな臭いが漂っているのを感じたのでそういう用途も(まだ、いまだに)あるのかな、と。

音と光の同期なら、花火大会でいいや(音と光がちょっとだけずれるのもすき)、って。

Deutsches Currywurst Museum Berlin
http://currywurstmuseum.com/en/

Currywurstていうのはカレーソーセージのことで、最初に食べたのはEssenの鉄道の駅だったかDüsseldorf の空港だったか、要は移動中とかに軽く食べる用の立ち食いそばみたいなもの、と勝手に思っていて、ブツ切りにされたのをたこ焼きみたいに突っついて、そのサイドにはポテトをつけたりパンをつけたりしていただく。カレーはインドのとも日本のとも違って、やや酸味があって辛みの調節はソースの上に振りかけるカレーパウダーでやって、これがカレーではなくてただのケチャップ(ケチャップすまん)だったらここまでの発達と進化(はしてないと思うが)を遂げたかというと微妙だと思う。更に、ポテトにつけるのにケチャップかマヨ(メイヨ、っていう)を指定すれば味の深みはジャンキーぽく散らばるし、更にソーセージには皮つきと皮なしも指定できて、皮なしのソーセージなんてただの肉団子ではないか、と思う人は思うのかも知れないけど、これはあえて例えるならば立ち食いそばの月見の卵を最初に潰すか最後まで潰さないかの違いくらいに匹敵するくらいのあれで、どっちにしてもおいしくて、なにをそんなに熱く語ろうとしているかというと、これはなかなか画期的な食べ物で、ベルリンはこれの発祥の地で、そのせいか割とどうでもよさそうな料理なのにこんなちゃんとした博物館までできちゃうんだから、すごいんだから、って。

博物館はどちらかというとファミリーが楽しむ系ので、料理の成り立ちというか沿革を古代から説明したり、カレーのスパイスの多様性とか、やってみようの疑似スタンドとかCurrywurstが出てくる小説とかTVとか映画とか。 入場券の半券で入口のとこにある売店でカップに入ったCurrywurstをくれる。

というわけで、24日の晩と25日の朝にはCurrywurstの屋台スタンドに行った。

・Konnopke's Imbiss
・Curry 36

前者はアストリアみたいな高架鉄道下にあるスタンドで、後者は街道沿いにあるスタンドで、どっちも吹きっさらしのとこにテーブルがあるだけで、みんな外の冷気に曝されてぶるぶる震えながら食べてる。おいしいのでどうしようもないかんじ。

もういっこ、ベルリン発祥の食べ物があって、それはドネルケバブで、へー、なのだがベルリンに来たトルコの人々が始めたのだそう。

上の”Curry 36”の並びにこれの有名な屋台 - Mustafa's Gemüse Kebap - があって、ここは11時開店なので少し早めにきてCurry 36を食べたあとで震えながら開店を待った(付近を少し歩いたけど墓地くらいしかない)。 11時になっても開かないし人が現れる気配もないので休みかなあ、と思ったら突然中から開いてそこに人がいたのでびっくりした。ずっと中にいたのかしら?

メニューの最初にあったHähnchen Döner mit Gemüse - 鶏野菜ケバブを食べたのだが、もうねえ、ほんとにびっくりだった。 食感だけでいうとふんわかしっとりしゃきしゃきもふもふじんわり -  こっちの歯ごたえたっぷりのサンドイッチ的ななんかを想像すると全然違うし、近所にある評判のケバブ屋さんのとも違うし、これって人によってはカレーとか餃子とか寿司とかラーメンとかチャーハンとかとんかつにあるとか見えるとかいう「宇宙」と同様のスケールのなんかが、このパンみたいなかたまりのなかに間違いなく渦を巻いているのではないか。 野菜たっぷりだし、毎日食べれるわこれ。

こんなもんかしら。
あ、ベルリンの壁もちょっとだけ行った。過去の分断の記憶、その象徴はだいじだけど、問題は今の我々をはんぱなく蝕みつつある内なる壁のほうだよね、て改めて思って、こっちの方が厄介だから、って。

あったかくなったらまた行きたい。 最近そんなのばっかしだけど。

3.04.2018

[art] Gemäldegalerie , 他

ベルリンでのそのた美術館とか。
今回の旅は1日乗車券で空港からの便も地下鉄もバスもなにもぜんぶまかなった。あれとっても便利。

Gemäldegalerie 絵画館

最初にBotticelliの、あの有名なUffizi Galleryにある「ヴィーナスの誕生」とは別のヴィーナスだけの像がにっこりしていて、至福の「歌う天使と聖母子」があって、宗教画のとこで動けなくなってしまう。こないだのウィーンもそうだったがヨーロッパってこういうのの数が多すぎて見れば見るほどはまっていく。個々の絵の宗教的なテーマや背景や意匠についてきちんと学んだわけではないのだが(大学で教えてくれた先生はひたすら絵の構成とか線とか面とかそんなのばっか)、数を重ねていくと「これはなに?」とか「これってこういうことね?」とかが頭のなかに溜まっていくので足が止まる(のだとおもう)。限られている時間がなくなっちゃうことを除けば、これはよいこと。

イエスさま曼荼羅のループを抜けたら古典地獄で、ざぶざぶあるわあるわ - Fra AngelicoにRaphaelにTitianにCaravaggioにDürerにCranachにHolbeinにRembrandtにVermeerに、Bruegelの「ネーデルランドの諺」にBoschの“Saint John on Patmos” – B面に”Passion Scenes” - ペリカンに、小企画ではJacopo de’ Barbariの「ペガサス」まであるし、ウィーンのあそことベルリンのここはまじでいちんち過ごしていられるわ。

あと、館のまんなかのスペースで”In Neuem Licht (in a New Light)” ていう、照明を落として映える絵特集(たぶん)をやっていて、これもおもしろかった。昔のひとがいまの美術館の白色光と同じ輝度の元で絵を描いたり見たりしていたわけではない、とすれば、それってどんなふう? と。
艶やかになまめかしく浮かびあがるものもあって、ふうんー、で、これって夜の動物園、とおなじような発想なのかもだけど、いまの絵画鑑賞ってさあー。

そこから同じ建物のなかの  Kunstgewerbemuseum - Museum of Decorative Arts

タペストリーに金銀の工芸装飾品からファッション・モードまで。ファッション系はなんかドイツらしくややお堅めなかんじで、まずモノとしてどーんとあるようで(あんまじゃらじゃらなし)、つまりドイツのDecorative、ていうのはこんなふうよ、って。

さらに同じ建物の Kunstbibliothek Berlin - The Berlin Art Library

“Unboxing Photographs. Working in the Photo Archive”ていう企画展示をやっていて、その名の通り、箱にどっさり詰め込まれたおお昔の写真をどうやって救いあげて分類して綺麗にして整理するのか、の工程をライブラリの立場からきちんと解説していて(ドイツ語なので推測)、おもしろそうー、だった。箱に結構たまった昔のチケットとかチラシとかどうしたらよいか教えてください、て思った。

そこからバスで博物館島(ってなんなのか結局よくわかんなかったけど)のほうへ。

Alte Nationalgalerie -  旧国立美術館

ここはまずこの展示に直行する。

Rodin – Rilke – Hofmannsthal : Man and His Genius 

世界中で今年も行われるロダン没後100年祭のひとつ、小さい展示だったけどいろいろたまんなかった。
リルケの芸術観にくっきりとした形を与えたロダン、その小さなブロンズ作品 “Man and His Genius” を中心に、これの石膏版を1900年にロダンのアトリエで見て惚れてブロンズ像を発注したのがホーフマンスタールで、やがてホーフマンスタールが経済的に苦しくなって像を手放さざるを得なくなったとき、間に入ったのがリルケで、それがやがてここの所蔵になったと。
世紀末、精神が危機的状況を迎えてみんなが迷える羊になったとき、芸術はいかにして(それでも)芸術になるのか、なぜ芸術は必要とされるのか、をそれぞれのやり方で考え、模索し、表現した3つの星がすてきなトライアングルを描いていた。

カタログ欲しかったけどドイツ語版しかなかったのであきらめた。

あとはCaspar David Friedrichの部屋があって、彼の代表作がいっぱいあってすごいーさすがー、とか、なんであんなに沢山のAdolph Menzel? とか、CourbetもManetも、こまこまおもしろい一点ものは割とあったのだが、絵画館のあの分厚さのあとだとちょっと.. だったかも。「新」の方のリニューアルが終わったらまたくる。

そこから隣のBerliner Dom - ベルリン大聖堂も閉館間際に入って、パイプオルガンがぶかぶか鳴るなか天国のほう向いてひたすら感嘆したり神だのみしたり、上のほう行けますの矢印に従って深く考えずに階段を昇ってみたら死ぬほどきつくて、もうこれ以上は無理、のとこまできたらまだあと132段あるからむりしないでね、とか貼ってあって、ああここでまじ昇天しちゃうかも、とか思って、ようやくてっぺんに出たら天気はよかったけどきんきんに寒くてでもすぐに戻るのはしゃくだし足がくがくだし、神さまのご試練なんだわ、ととりあえず思って、よれよれとホテルに戻って、晩は劇場に出かけた。

ここで一旦きりま。

3.03.2018

[theatre] Liberté

モスクワから戻ってきたところで、あそこってずっと氷点下数10℃の世界、川はぜんぶかちんかちんに凍っていてひー、だったのだが、先週のベルリンから今週のロンドンの大寒波で、モスクワ、とくると怖いものないわ、になってきた。春なんていらねえ。

2月24~25の週末にベルリンに行って、24日の晩にRosa-Luxemburg-PlatzていうところにあるVolksbühne Berlinていう見るからに重厚そうな劇場でみました。

Albert Serraの初の舞台演出作にIngrid CavenとHelmut Bergerが出る - これを知ったのが1月の頭で、あー見たいかも、と思って、曜日を見たら土日にやるし、ベルリンはまだ行ったことなかったのでついでに行くかーと思って、チケット取ってひと通り手配したらぜんぶ済んだ気になってすっかり忘れていて、直前の観光情報仕込みは一夜漬けで現地に行ったら顔を上げる気にもならないありえない寒さで、地点Aから地点Bまでを移動する(の繰り返し)だけで精一杯なかんじだった。

劇場の中に入ったら席はなんでか一番前のまんなかで、チケット取った時には気にしていなかったのだがこんなことでよいのかしら間違いではないか、ときょろきょろ見渡してみたのだがどうしようもない。
舞台の上には奥手に向かって土が緩やかに盛ってあって草が散らしてあって、端のほうに打ち捨てられたかんじの屋根付き馬車の荷台(?)が置いてある。村のはずれ、森のはずれ、のような場所。ずっと鳥とか虫がしーしーきーきー鳴いている。

幕が開くと奥のほうには緑があって川だか泉だかがあって、若い兵士ふたりが休みを取りながらぶつぶつ話し合っている。ふたりはフランス革命前夜、Louis XVI統治下のがちがちのフランスから逃れてきてドイツの自由思想の持主Duc de Walchen (Helmut Berger)と会って、更にはばりばりの底抜けに狡猾なあばずれDuchesse de Valselay (Ingrid Caven)をドイツの貴族社会に解き放ってぐだぐだのアンモラルな世界を実現しよう、ていう企みがあるようなのだがそんなのはどうでもよくなって、とにかくその広場みたいなとこには陽が沈む頃になると従者の若者たちが担ぐ荷台が運びこまれ(舞台上には打ち捨てられたのがひとつ、どこからかやってくるのがひとつふたつ)、その中で待っているひととそこを訪れるひとがその中でいろんなやらしいことをしてて、Duc de WalchenもDuchesse de Valselayもそれを荷台のカーテン越しに覗いたり自分もやったり家来とやりあったり、そういうのが延々続いていく。要するに18世紀末、カーセックスしたがりが集う公園の外れみたいな場所があって、王朝だの貴族だの社交だのあるけど、あるいは”Liberté”とか言ってるけど、やってるのはそんなようなことなの。荒地の果てのようなとこで。

Duc de Walchenが荷台から這い出てくるのは2回くらい、よれよれで倒れたりもしていて(「家族の肖像」の教授みたいな)後はほとんどただの覗きじじいで、Duchesse de Valselayは対照的に元気にきーきー騒いでいるが若者たちからすると変なおばあさんでしかない。彼らは若者から畏れられたり崇められたりしているものの、結局は色とエゴに狂ったエロ老人たちでしかない。

舞台に運ばれてくる2台の荷台と置かれている荷台の間で行き来し絡みあうねっちりした眼差しと、それが隠れている人達、荷台の外にいる人達に引き起こすヒステリックな挙動やじたばたがおもしろくて目を離せなくて、極めて映画的なテーマであり構図であるようにも思うのだが、これを舞台でやる、というのはどうなのかしら、というのは少しだけ思った。ワゴンのカーテンの影からDuc de Walchenがちらちら覗きをするシーンとか、前の方にいたらその動きがわかるけど、後ろの席のひとにはわかんないよね(と、NY Timesのレビューのひとも書いてた)。あと、これは自分のせいでもあるのだが、英語字幕の出る場所が舞台のすごく上のほうだったので、字幕を見て舞台を見る、その上下往復運動が結構しんどくて、もう少し後ろの席にしたほうが全体を見渡せたかなあ、って。

Albert Serraの“The Death of Louis XIV” (2016)での死につつある絶対権力者に向けられた視線と寝室という場所の磁気、重力のありようと、”Liberté”での屋外に点々と置かれた移動式個室の上/間をすごい勢いで飛び交う視線に哄笑におしゃべりに。更には前者で圧倒的な密度で描かれた「死」に対するエロス(リベルテ?)。やがて革命を起こされてしまう側と起こす側の態度とか身なりとか。
バックスクリーンに“The Death of …”を流しながら上演しても面白くなったかもしれない。

そして ”Louis XIV”のJean-Pierre Léaud から Ingrid Caven - Helmut Bergerというクラシカルな重鎮の起用と。最後に聞こえた力強い歌声はIngrid Cavenだと思ったのだが、あちこち見回してみてもどこで歌っているのかわからなかった。

それにしてもIngrid Caven、すごいわ。2012年のNYFFで彼女のライブドキュメンタリー - “Ingrid Caven, Musique et Voix” (2012)を見て痺れてから一度ほんもの見たいなー、と思っていた夢がようやく。ライブやってくれないかなあ。

休憩なしの一幕もの、2時間強で、終わってなんかもっと、のかんじがしたので地下鉄で隣のAlexanderplatzに行って、ああこれが”Berlin Alexanderplatz”だわ、って、Franz Biberkopf みたいのが歩いてないかしら、と思ったのだが、遠くでクラブミュージックみたいのが鳴ってて、ただ寒いばかりなので諦めて(なにを期待してた?)帰った。

ベルリンの他のはだらだら書いていきま。