8.30.2022

[film] Opéra de Paris, une saison (très) particulière (2021)

8月27日、土曜日の昼、ル・シネマ(のでっかい方)で見ました。

邦題は『新章パリ・オペラ座 特別なシーズンの始まり』。元はTV用に撮られたものらしく、いい商売だよな、って思ったけどバレエ好きなので見る。とてもよく纏まった作品だった。 監督のPriscilla Pizzatoさんは、William Christieのドキュメンタリーを撮っているのね。

パンデミック下のバレエ団、ダンサー達についてのドキュメンタリー、というだけでなく、日付と共にあの頃のあのかんじ - バレエだけでなく - を思い出させてくれて、別の意味でいろいろ感慨深いものがあった。

パリでは2020年3月16日から始まったロックダウン期間が明け、6月15日にパリ・オペラ座のレッスン場にダンサーが集まって練習を再開して、ヌレエフ版”La Bayadère”の上演に向けて張りきって積みあげていったものの11月に再度のロックダウンが宣言されて、無観客のストリーミングのみの上演となる。その後の2021年5月、ようやく観客ありの公演が行われた”Romeo Et Juliette” まで(以降は平常運転へ)の行程を追っている。

久々に広いところで跳ねたり踊ったりができる歓び ~ ロックダウンが続いていくことへの懸念 ~ ドレス・リハーサルの緊張 ~ 無観客上演への失望 ~ それでも踊ることができて嬉しいな(リハーサルでくるくるぴょんぴょん跳ねるHugo Marchandおみごと)というのに加え2名のダンサーがエトワールになれてよかったね、というのもある。そんなのバレエだけじゃなくてあの頃ってそういうドラマばっかりだったし、なのだろうけど、人前で踊っていないと死んじゃうに違いない、時間も限られたダンサーたちの焦りや歓びが生々しく浮きでていてよかった。

ロンドンでがちのロックダウンが始まったのは2020年の3月19日からだった。3月18日の午後から美術館とか映画館などがばたばたとアナウンスしながらクローズしていって、BFIのTilda様の特集もやめになって、えーやめてようーって泣きながらNational Galleryの“TITAN”の展示を最後に(3回め)を見にいって、晩にCurzonのBloomsburyでPeter Bogdanovichの”The Great Buster” (2018) - Keatonのドキュメンタリー - を見て、終わった。それはそれはきれいにロックされてダウンしてくれて、スーパーの食料品の棚はがらがら、大通りからも人が消えて、あーこの世とか都市とかはこんなふうに終わって消滅するのかもー、って。

ロックダウン下でも、一日一回、お買い物に行くのと、一日一回、エクササイズで外に出ることは許されていたので、(苦しんでいる人達が沢山いることはわかっていたので申し訳ないと思いつつも)全体としてはなんか楽しかった。毎日マーケットに行ったり公園に行ったり。(仕事はリモートだろうがなんだろうがそもそもどうでもよかった)

Opéra de Parisのニュースレターも入ってきたし、Royal BalletもABTも同様にそれぞれがんばってますー だったので大変だなあ、て思っていると、バスティーユの方で公演をやるから! ってアナウンスが出て、ガルニエ宮(クラシックな方)の方じゃなくてバスティーユ(モダンな方)かあ、って思いつつ - 緊急の用事以外の英仏間の行き来は禁止されていたにもかかわらず希望を捨てずに、年末のパリへの買い出し(恒例だった)も含めてじりじり渡仏の機会狙っていたのだが、ここはやっぱしだめで、なにをどうあがいてもだめなものはだめ、ってなった時の失望は、この映画のダンサーたちのそれとあわせて、とってもよくわかる。なにも負けてないのになんか負けたかんじ。

で、映画にも出てきたように無観客での”La Bayadère”の配信の案内も来たのだが、わたしにとってバレエはライブだから、結局見@ないままにしてしまった(今回、同時上映でやってくれてもよかったのに)。などなどほんとにいろいろ思いだす。

あと、世界にはいろんなバレエ団があるよねえ、って改めて思った。ひとりひとりの技術がとんでもないことはベースとして、Opéra de Parisは複雑な(わざと複雑にしている)ガラス細工みたいだし、Royal Balletは細密なタペストリーを縫おうとしているようだし、おもしろいなー、って。久々に踊り始めた時の感触をプルーストのマドレーヌに例えるとか、あんたそんなの言い過ぎだろ、とは思ったけど。

そしてこんないまがあって、まだコロナ禍は続いているのだった。こんなにも続くもんだったとはねえ、って思ったし。 とにかくみんなご無事で.. しかない。

そして8月がもう…

8.29.2022

[film] A feleségem története (2021)

8月21日、日曜日の午前、新宿ピカデリーで見ました。

ハンガリー映画で、ハンガリー語のタイトルを翻訳にかけると「妻の話」。邦題は『ストーリー・オブ・マイ・ワイフ』、英語題も”The Story of My Wife”.
監督のIldikó Enyediさんは”On Body and Soul” (2017)と”My 20th Century” (1989)を撮った人(なので見たくなった)。 原作はハンガリーの作家Milán Füstによる同名小説 (1942) - 正式タイトルは”The Story of My Wife: The Reminiscences of Captain Störr”で、監督がティーンの頃から愛読して、映画化を切望していた一冊だそう。

1920年代のヨーロッパで船乗りで船長をしているStörr (Gijs Naber)は仕事の信頼も厚くて責任感もあるのだが、ずっと独り身で体調もよくなくて、停泊していたパリのカフェで、そりゃ嫁を貰えば解決するよ、って言われたのでじゃあ次にカフェに入ってきた女性と結婚する、って宣言する。そこに現れたのがLizzy (Léa Seydoux)で、Störrが申し出るとLizzyはあの目で「いいよ」って即答して、ふたりの結婚生活が始まる。

まるで昔の(最近のは知らない)村上春樹の小説みたいにおとぎ話ぽく身勝手な男のやり口や目線から入るのだが、とにかくStörr から見たLizzyは魅力たっぷりで、でも家族とか交友関係とか自分がいないときになにをしているのか、など謎だらけで、その戸惑いとか混乱ぶりが女性監督の目線から – Léa Seydouxのあの目と佇まいを通して - 綴られているのがおもしろい。

いや結婚するならふつうもう少し付きあって互いのことを知り合ったりした上でじゃないの? そんなの設定からしてありえない、というような人は見ないほうがよいかも。どれだけ付きあって結婚したってうまくいくのもあるしいかないのもあるし、わかりあえるわけでもないし、結婚なんてどうせばくちなんだから、って7章 – 169分にわたってこのふたりのくっついたり離れたり - 夫が見た(ぐしゃぐしゃ推測ばかりの)妻の物語が女性監督の視点で細かに暴かれていく。

Lizzyはおしゃれだし社交にも長けていて貴族のぼんのDedin (Louis Garrel)との付き合いとかStörrには気になる点がてんこ盛りで、自分がいない間に彼女はなにをやって過ごしているのか、探偵を使って調査させてみても怪しい何かはでてこない – でも不安で気掛かりでしょうもない… そもそも彼女は自分を愛しているのか、割と軽蔑してるんじゃないか(←あるかも)、など。

Störrは船上の生活と陸上の生活、どっちもどっちで落ち着かず、安定した収入を求めてハンブルグに引越したり、豪華客船の船長をやってみたりいろいろあって、その過程で客船で知り合った娘と浮気もしたりして、そんなでもLizzyは変わらずについてくるし、ふたりで官能に溺れたりもするし。一緒にいる時間の長短でもない、近い離れているの距離でもない、欲望や快楽でもなさそう、その状態でふたりの人間が一緒にいるというのはどういうことだったのか、って。

人と人がわかりあう(わかりあわらせる)ことを前提として成り立っている粗雑で乱暴な男の社会で、「わかりあえないこと」のあったりまえさとか「わかりあえること」の不条理・不可能性とか、そのしんどさにどう決着をつけうるのか、の精が例えば”On Body and Soul”の夢のなかの鹿とかだったと思うのだが、ここではどこのなにを見ているのか、どこに向かってなにを求めているのかよくわからないLéa Seydouxのあの冷めた眼差しにすべてが込められている気がした。鹿だと「がんばれー」って念を送るくらいしかできなかったけど、Léa Seydouxだと、ここでナイフを..とか、ここで毒薬を.. とかそういう妄想が膨らんでいくので楽しくて本人もわかって演じているような - 実際には(原作もあるだろうし)そういう場面は見事なくらいにないの。消去法でじわじわとあぶり出されたり焼かれたりしていくrom-comみたいなかんじ。

あえて言うとすれば、これだとあまり”The Story of My Wife”として語られるような内容にはなっていないかも - 彼女はいつもそこにいたよ、っていう「ぼくの妻はレア・セドゥ』みたいな(注:昔、そういう邦題のがあったの。シャルロットの)、それだけの話で。 あと、“The Worst Person in the World” (2021)は、本当はこんなふうに描かれるべきだったのではないか、とか。

あと、ずっと不敵な貴族の仏頂面してるので、てめえなめてんのかおら、って思いっきりどつかれて顔面血まみれになるLouis Garrelとか、ちょっとかわいそうだけど笑えた。

で、この後に歌舞伎町の方に向かってThe Fallのイベントにでて、すこし元気になった。

8.28.2022

[film] La passante du Sans-Souci (1982)

8月20日、土曜日の昼、ル・シネマのRomy Schneider特集で見ました。

邦題は『サン・スーシの女』、英語題は”The Passerby”。
監督はJacques Rouffio、助監督にはClaire Dénis 、原作はJoseph Kesselの同名小説(1936)- この人はLuis Buñuelの『昼顔』やJean-Pierre Melvilleの『影の軍隊』の原作も書いている。音楽はGeorges Delerue (すごくよい)。
これがRomy Schneiderの遺作となって、映画は撮影が開始されてから亡くなった彼女の息子とその父に捧げられている。

パリの空港にMax Baumstein (Michel Piccoli)がやや疲れたかんじで降りたって、再会を心待ちにしていた妻のLina (Romy Schneider)が暖かく迎える。彼は国際人権擁護委員会のようなところの偉い人でその会議のために来たらしいのだが、泊まっている部屋に届けられた封筒に入っていた報告と写真をみると顔色が変わって、その後、パラグアイ大使館の大使と面談中に「おまえはMichelとElsa Wiener夫妻のことを知っているだろう?」と聞いてから彼を撃ち殺してしまう。

当然、人権擁護の委員会の長が! って大騒ぎになって、突然すぎてLinaにも何が何だかわからないのだが、法廷の場でのMaxの回想に入っていく。

1933年のベルリンで子供だったMaxは道端でナチスの暴漢らに襲われて目の前で父親を殺され、自分も片脚を不具にされ、そんな彼を救ってそのまま自分達の子として引き取って育ててくれたのが近所にいたMichel (Helmut Griem)とElsa (Romy Schneider - 二役)のWiener夫妻だった。

出版社を経営していたMichelはナチスの弾圧が酷くなってきたのでパリに亡命しようと3人で列車に乗りこむのだが、彼だけは逃げきれないことを知ると、そこに居合わせた商人のMaurice (Gérard Klein)に札束を渡してElsaとMaxの面倒を見てもらいたいとお願いしてから捕まってしまう。

パリのElsaは地下に潜って細々とMichaelの生存情報をつかみながら彼を手元に取り戻すべくクラブで歌ったりホステスをしたりなんでもやってぼろぼろになりつつ、ようやくナチスの将校Federico Logo (Mathieu Carrière)に行き当たって彼に自分を売って、ようやくMichaelを迎えることができたと思ったら…

Elsaの傍でその様子をずっと見てきて復讐すべき相手を捜索し、その機会を探ってきたMaxがようやくこの歳になって、敵が亡命して名前を変えパラグアイ大使となっていることを知って今回の犯行に及んだのだと。

ナチスのユダヤ人虐殺という戦争犯罪、戦犯に対する執念の追跡〜復讐劇、というよりは、『マックスとリリー』と同じく、”Max”という名のMichel Piccoliの鉄の意志がじっくり積みあげてきた過去からのものを最後にがらがらと自分でぶち崩してそれがなにか? っていうやつと見ることもできて、これは更にものすごく熱くて、人権とは何か、それはなぜ守らなければいけないのかを自身の仕事として(おそらく数十年に渡って)問いながら、それでもなお絶対に許せない過去が彼のなかでは沸騰し続けていたという重さが広がるのと、更にRomy Schneiderが二世代に渡って彼の庇護者のようなかたちでその目を腫らしながら彼の手をとってずっと覆いかぶさるように彼の痛みを受けとめていた、ということと。

ここに何度も撮影が中断したRomy Schneiderの晩年のエピソード - 愛息の死 - を重ねると言葉を失ってしまう。この作品の惜しみなく愛を与える(二役のどちらも)という役柄を見てしまうと特に。

少しだけ思ったのはLinaはMaxの過去の苦しみとか彼がずっと追い求めている暗い何かについて、全く聞かされてこなかったのか、というのと、世界中の人権問題に仕事として携わりつつも、そこまで押し殺した痛みが彼のなかにはずっとあったのか、消せるものではなかったのか、っていうのと。消せなかったのだろう - だから/それでも人権のことは蔑ろにしてよい、というものではないというのと。(映画のなかでは、裁判の結果は執行猶予で、その半年後にLinaとMaxは殺害された、と字幕で出る)

教科書で人権を教えることをやめたその状態の反対側でヘイトを放置し差別主義者を称揚するこの国がどこに行くのか、ほんとうに恐ろしいし吐き気がするし。 列車で亡命できたらよいのに。

Romy Schneider特集、もうちょっと長くやってほしかった。まだ見れるやつは見るけど。

8.27.2022

[film] Crimes of the Future (2022)

8月19日、金曜日の夕方、メキシコのMUBIで見ました。
今年のカンヌでも話題になったDavid Cronenbergの新作。同監督による同名作品 -『クライム・オブ・ザ・フューチャー 未来犯罪の確立』(1970) - 未見- とは関係ない、とのこと。

冒頭、ごく普通の家の男の子が、トイレに入ると置いてあるポリバケツをばりばり食べ始めて、その様子を絶望的な表情で見ていた母親が、彼の頭の上に枕を乗っけて泣きながら圧殺してしまう。- なんだこれは。

Saul Tenser (Viggo Mortensen)はぐにゃぐにゃしたフォームに包まれ横たわって虫のような変な触手に斬られたり掘られたり内蔵をいじられたりして、新しい臓器がでてきましたー、とか臓器に彫られたタトゥーをご覧ください! とかやっているボディ・アーティストで、それを操作したりサポートしたりするのが彼のパートナーで外科医のCaprice (Léa Seydoux)で、この人たちが「アート」によって達成しようとしているのって何? とか、彼らの違法性をチェックしている捜査官(Don McKellar & Kristen Stewart)とか、彼らに新しい何かを供給しようとしている闇医者とか裏警察とか、怪しげな連中などが一連隊でてきて - まともな人はひとりも出てこない - ここで描かれようとしているひと繋がりの「未来の犯罪」とその顛末、というよりはこういうのが起こったり成り立ってしまっている社会とか身体とか知覚のありようってどういうものか? それって今の社会のあれこれからどれくらいのギャップがあってどうやったらここまでの地点にまでトランスフォームしうるのか? とかそっちの方を考えてしまう。

まず、ピアスとか整形とか移植とか、ふつうに行われるようになっている今現在があって、それらは昔に比べると相当手軽に簡単になっている。 ヒトからだけじゃなくて豚とか鼠からだって移植できるし性の転換(形成)だってできるし、ここから先ってやっちゃいけない線とか境目って治療とか生死に関わりそうなところを除いてしまえば、限りなくどうとでも、どこまでも拡張できそうなところまで広がってきてはいないだろうか? それをドライブしているのは快楽で、欲望と対になっているのかもだけど、とにかく終わりも果てもないじゃぶじゃぶのー。

で、これも快楽の対とか表裏みたいなものなのかもしれないけど痛み、という要素もあって、これが本人に感じられなくなったら、身体をどんなふうに調整加工しても痛くも痒くもないへっちゃらになってしまったら、ひとは(少なくとも)自分の身体に対してそうとういろんなことをやってみたくなったりはしないだろうか? (たぶん、一番大きな未来の犯罪はここ - 痛覚を無くしてしまうこと、にある)

SaulとCapriceはその快楽 - 身体を改造していくこと、それをアートとして提示すること- にはまって抜けられなくなってしまっていて、更にその周囲には改造変異を内側から促進するチョコバーみたいのを製造する連中とか - 冒頭のポリバケツを食べる少年もその産物で、なんでもありになっていっちゃうのではないか、という懸念があって、でもたぶんこれってCronenbergがこれまで偏執的に描いてきたバイオレンスやセックスの畸形的な変奏 - “surgery is the new sex” - とか、死と紙一重のところにある生のありようを浮かびあがらせる反宗教的な思索の例えば.. なのかも。

そうやって見たときに、Saulが横たわるフォームとかぶにょぶにょ虫みたいなコントローラーとかのガジェット類とか、ころころした内臓とかあまりにB級っぽくしょぼかったりださすぎたりしないだろうか、とか、痛みがない世界の痛痒さみたいのとか血とか粘液みたいのはもうちょっと生々しく噴出させてもよかったのでは - ものすごくおっかない外科手術みたいのを延々見せられると恐々だったのでやや拍子抜けしている。

そういうのを背景にViggo Mortensen(M系)とかLéa Seydoux(S系)とかKristen Stewart(両方)とかのすばらしい俳優たちが重厚に眉を顰めたり呻いたり喘いだりしてくれるので、だんだら模様の宗教ドラマ、くらいの格調はあるかも。真似できるとはまったく思えないし。

例えば、David Lynchがこのテーマでやったらもっともっとアクティブに、変態合戦絵巻みたいになったのではないか。そこまで行かずにとち狂ったIngmar Bergmanくらいのかんじにはなっているかも(←ほめてる)。

あとは、どこまで、なにが未来の犯罪となりうるのかについて考えてみること。尻尾とか角くらいはつけてみたいし、ポッケも肉の方に付いていれば便利だし、耳はあとふたつ追加であれば助かるし、などなど。そしたら脱毛とか美白とか、あまりにくだんなくなるよね。

8.26.2022

[film] 春の戯れ (1949)

8月18日、木曜日の晩、国立映画アーカイブの山本嘉次郎特集で見ました。山本嘉次郎のことはほとんど知らないのでお勉強。

マルセル・パニョルの戯曲『マリウス』(昔翻訳が出ているのね)を山本嘉次郎が翻案したラブロマンス、とのこと – 「ラブロマンス」として描けているとは思わなかったけどー。

明治に入ったばかりの頃、横浜までの陸蒸気が通って活気づく品川の海辺の村(?)で居酒屋をやっている金蔵(徳川夢声)と息子の正吉(宇野重吉)がいて、その近所で蛤を剥いたりしているお花(高峰秀子)と母親のおろく(飯田蝶子)がいる。

正吉とお花は幼馴染で、周囲からはそろそろ結婚でも、という話もあるのだが、正吉は近所に姿を見せた外国船ノルマンジャ号が気がかりで、居酒屋にやってきた乗組員や船長から話を聞いてああシンガポール ~ ロンドン ~ ニューヨーク.. ってひとり船員になって海を渡る妄想が止まらなくなっている。

越後屋の主人で独り身の徳兵衛(三島雅夫)は年齢がずっと下のお花を嫁に貰いたくておろくに伝えるのだが本気にして貰えなくて、お花からもまじめに無理です、って返され、お花は正吉にわたしたち一緒になるしかないでしょ、と迫るのがだ正吉は海外に行く/行きたいって頭がいっぱいできちんと返事ができず、でも一緒になるとしたらやはりお花しか考えられないし、って彼女と一晩一緒に過ごした後、出港の時が近づいてきて、もうそんなに行きたいのなら行って、って突っぱねるお花と、でもそんなわけには、っていじいじする正吉がぶつかって、でも結局彼は旅立ってしまう。

とにかく、優柔不断で独りよがりでずっと勝手に悩んでいる宇野重吉が大変にむかついてハエたたきで叩き潰したくなるのに対して、高峰秀子の抑えられた熱と想い – 走り出す瞬間とか - すばらしすぎて震える。

共に過ごしたあの一晩でできてしまった子供もこみで高峰秀子を引き取って自分の家族として一緒に育ててくれる徳兵衛のよい人ぶりに対して、海外に出てもろくに手紙も書いてこない宇野重吉、地獄におちろとしか言いようのない腐れた態度と考えと共に戻ってくる宇野重吉のくずっぷりときたらものすごい。あのまま海外で野垂れ死んでほしかった。
『四季の愛欲』(1958)ではあんなによい旦那だったのにな..

あと、男に棄てられて狂ってしまい、ノンストップで踊り続けるおろくの妹(一の宮あつ子)が出てきてちょっとホラーのように怖くて、お花もああなっちゃうのかしらん.. と思ったけどそれはなかった。


花の中の娘たち (1953)

8月20日、土曜日の夕方、同じ国立映画アーカイブの山本嘉次郎特集で見ました。

東宝初のカラー - 総天然色映画だそうで、テクニカラーの上からさらにこってりお化粧したような濃いめの色づかいで、きれいだけど漫画みたいに見えてしまうところもあった。

戦後、東京と神奈川の間の川に橋がかかって、電車も含めて交通の行き来が激しくなり始めた頃の神奈川県側 – まだ梨農家や田畑が広がって東京は川向うの都会というイメージ。

誇りっぽい田舎道を花嫁行列が通っていって、終わって家に入ろうとすると、あー嫁は玄関から入っちゃいかん勝手口から、とか、ものすごく嫌なかんじ。

梨農家の石井家がいて長女のよし子(杉葉子)は東京のホテルに客室係として働きに出ていて、次女のもも子(岡田茉莉子)は家業の畑仕事を手伝っていて、近所には次男坊でうだうだしている小林桂樹とか典型的なただの赤鼻のおっさんの東野英治郎がいる。

ある日突然、石井家の長男の清太郎が道端で事故死しちゃって、跡継ぎ問題が浮上する。よし子はホテルの電気技師の小泉博とよいかんじで、彼はホテルの客から沖縄(当時は海外)に来ないか、と誘われて意気も前途も洋々で、よし子にもついてきてほしいって言うのだが、この跡継ぎ問題 - よし子にはどこかから婿養子を – のせいでわからなくなってきて、それならもも子のとこに小林桂樹を、って話になるので、隣の下宿生にほんのり憧れていたもも子は犬猫じゃあるまいしじょうだんじゃないわよ! ってなる(当然)。

ふたりの恋愛よりもお家(農家)の存続が優先(家父長制ばんざい)ていうのが口を尖がらせた年長者(なぜ彼らはこういうのを言う時に口を尖らせるのか?)からは当たり前のように告げられてそれについて物語的に何の批判もなされないままにみんな素直に転がってしまうので、結構げろげろになった。これでもハッピーエンディングて呼ぶの? 呼びたいの? 当時の人たちはこういうのを見ても「んだんだ」とか思っていたのかしら? ふつうに思っていたんだろうな、だからいまだに田舎から若者たちは逃げだそうとするのだし、岡山県はあんなパンフを平気で作っちゃうのだし。

映像としてはほっぺたを紅くしてぷんすか怒りまくるもんぺ姿の岡田茉莉子が新鮮だったが、ほんとにそれだけ。 でよいのか?
こういうのって戦時下のプロパガンダ映画よりタチが悪い気がした。『春の戯れ』とか『花の中の娘たち』とかタイトルのボカしてあるかんじもなんかやなかんじよね。
 

8.25.2022

[film] Brian Wilson: Long Promised Road (2021)

8月17日、木曜日の晩、パルコの上のシネクイントで見ました。

Brian Wilsonのドキュメンタリーで、Brian自身や妻のMelindaもExecutive Producerとして関わっているので、本人公認のと言ってよいやつ。昨年のTribeca Film Festivalでプレミアされた、と。

内容は、Rolling Stone誌の編集者で、Brianとは以前からインタビューを通して馴染みがあって信頼されているJason FineとBrianが語り合う - Jasonの運転するポルシェの助手席にBrianが座って、カーステで音楽を流しながらLAのBrianのゆかりの地 - 生家、最初にレコーディングした場所、最初に結婚して住んだ家、等を巡って – Brianが行きたくない場所には寄らない - という、その時々の思い出などを語っていく。このやりかたで3回の週末に渡って – Brianのシャツの色が変わるのでわかる - 70時間分の映像が撮られたという。

そこに過去のBrian自身が持っていたのを含むいろんなアーカイブ映像とBruce Springsteen, Elton John, Jim James, Linda Perry, Nick Jonas, Taylor Hawkins(あぁ..), Jakob Dylan, Don Wasなどへのインタビュー映像が挟まる – 誰もがみんな、彼は、彼の音楽はすごいすばらしい、しか言わない - 他になにが言えるというのか?

Brian Wilsonのドキュメンタリーというと、かつてDon Wasの監督による”Brian Wilson: I Just Wasn't Made for These Times” (1995)があって、これはある程度わかっていたこととは言え、彼の音楽を「理解」する上で必修であることも了解した上で、それでも見るのはややきついやつだった。今度のは、それとはまったく異なる角度で、Brianがなにを見たり聴いたりしてきたのか、なにが好きでなにが嫌だったのか(今も)、などを知ることができる。そうだったんだー! っていう新たな事実のようなものが出てくるというより、そうだよね/そういうことね、っていうのを追っていく。いつもの、いつか見た風景を巡っていくので、道に迷うことはない。でも吹いてくる風のかんじは少し違って、やや心地よいのだった。

自分が始めてBeach Boysの音楽を聴いてBrian Wilsonの世界に触れた時、彼はすでに向こう側にいってしまった人 – Syd Barrettと同じような – という扱いだったので、最初のソロの“Brian Wilson” (1988)が出た時にはとても驚いて、でもこの時点でもEugene Landyの件があったのであまり信じてはいなくて、でもその後、ライブで歌う姿を数回見ることができたし、”Smile”までリリースされることになったのだから、彼がまだ音楽に関わってくれている、音楽について語ってくれるだけでうれしい。そういうファンにとって、彼がリラックスして車に乗っていたり、過去を思い出してちょっと涙ぐんだりしている姿を見るだけでああよかった、になるの。

それと、そういう空気のなかでBrianがその場所で聴きたいと思った曲をJason Fineが車内でかけて聴こえてくる彼の昔の音楽が、どんなにスイートに美しく、軽快に響いてくるものか、これはこの映画を見てはじめて感じられるなにかかも。それまでのBrianの音楽について散々語られてきた - ぶっとんだ、ありえないコード進行とか楽理を超えた狂ったハーモニーのようなもの – 最初の方でDon Wasが強調している – がとてもわかりやすくしっくりくるように響いてきて、それってちっとも興味なかった教会音楽が教会の中に入った途端に光と影と共に降り注いでくるのにも近いかも - 大げさかな。- "Add Some Music to Your Day”.

あと、“What a Fool Believes”がこわい、きらい、というのはおもしろかったのと、一番びっくりしたのはDennis Wilsonの“Pacific Ocean Blue” (1977)を聴いたことがなかった、というところだったかも – 終わりの方で幸せそうに聴いていくシーンが出てくる。

流れる曲とそれに対する彼の反応を通してCarlとかDennisに対するBrianの思いは伝わってきて、そこはもちろん感動的なのだが、Brian本人もがんばって – がんばらなくていいから幸せに長生きしてね、無理しないでね、って改めて思った。この間のJoni Mitchellのライブのときにも思って泣きそうだったけど、この人たちは音楽と共に生きて生かされているんだなあ、って。

全く関係ないのだが、”Long Promised Road”って聞くと、頭のなかで勝手にTodd Rundgrenの”Long Flowing Robe”に変換されてそっちが流れ出す。べつにいいけど。

これも全く関係ないのだが、The Smithereensはなんで今頃…

こんど西海岸に行くことがあったらBeverly Glen Deli に行くんだ。

8.24.2022

[film] C.R.A.Z.Y. (2005)

8月14日、日曜日の昼、シネマカリテで見ました。

“Dallas Buyers Club” (2013)とか“Wild” (2014)とか”Big Little Lies” (2017–2019)の監督で昨年末に逝去したJean-Marc Valléeの半自伝的なドラマで、カナダのケベック州の映画の歴史のなかで最大のヒットとなった、そう。 ケベックなのでほぼフランス語なの。

1959年のクリスマスの日、Zac (Marc-André Grondin)はBeaulieu家の4番目の男の子として生まれて、生まれた時に死にかけていたり、抱っこしようとしたところを落っことされたり、こいつはなんかあるのかも、って思うのだがなんかありそうであまりなかったりする。

兄妹は上から本と活字の虫のChristian (Maxime Tremblay)、ジャンキー志向のRaymond (Pierre-Luc Brillant)、スポーツばかのAntoine (Alex Gravel)、Zacのあとに生まれたYvan (Félix-Antoine Despatie) - 上から頭文字を並べるとC.-R.-A.-Z.-Y.になる。父 - Gervais (Michel Côté)は一見問題ありそうだけど典型的ながんばっている父で、酔っぱらっていい気分のときに歌うお気に入りはCharles Aznavourの"Emmenez-moi"(1968) -『世界の果てに』で、あとはレコード盤で大切にしているのがPatsy Clineの"Crazy" (1961)で、これもタイトルに関わっている。

30年にも渡る家族のストーリーには、結婚式とかお葬式とかあったりするものの、大きな流れとかうねりとかどんでんがある、というわけではなくて、父母と5兄弟が年を経ていくなかで、特にZacにおいて顕著になってくる「男らしさ」へのアンチや同性愛への傾斜、とはっきりと対立するようにして立ちはだかる父のホモフォビア & ヘテロセクシズムにいかにぶつかったり逃げたり絶望したりイラついたりしながら向かっていったか、結果彼がどんな大人としてできあがっていったのか、をいろんなエピソードを中心に描いていく。父が常に前面にいて、男ばかりの5人兄弟の世界で、なんの反省もなく当然のものとされてきた男の性のありようがどんなに居心地悪く、場合によっては正面から傷めつけにくるものであったか。

現代となっては普通に受け容れてもらえそうなZacの生来の傾向も、父からすれば俺の息子に限ってはそんなのありえない、となるし、でもZacにしてみればどうすることもできない切実な何かで、認めてくれとは言わないまでも、それで父との縁を切る程ではないし彼のことは嫌いになれないし、どうしたらよいのか.. って空を仰いでしまう。そしてこれは(幸いなことに、と言ってよいのかどうか)Zacだけではなく、たまに破壊屋として現れてなにかをぶち壊して消えていくRaymondについても同じことが言えて、(ほんの少しではあるが)どいつもこいつも、だったりする。

やがて家族にその居場所がなくなったZacがやけくそのように(母の小さな夢でもあった)エルサレムに巡礼に向かいそこから砂漠に迷いこんで死にそうになるところは後の“Wild” (2014)にも繋がるような。どれだけ八方塞がりの絶望的な状態にあっても、隣のひとも自分も捨てるわけにはいかないのだ、っていう業、みたいなところは“Dallas Buyers Club” (2013)を思い出す。どれもそれぞれの苦難を懸命に生きて、実際にそこにいたちょっと変わった人々の話で、これらの起源にこの少し狂った物語を置いてみると、なんかしっくりくるかも。世界のどこかに必ず居場所はあるんだから、だいじょうぶだから、って。

あとは、ドラマの節目とか背後に流れてくるJefferson Airplane “White Rabbit”とかDavid Bowie “Space Oddity”とかThe Rolling Stones "Sympathy for the Devil"とかPink Floyd "Shine On You Crazy Diamond (Part One)" とかCureの”10:15 Saturday Night”とかの音楽がもたらす厚みとか意味合いもきちんと考えられている(時系列はどうみてもきいても”?”なところがあったけど)。 あえて言えば、音楽的なところだと、主人公がZiggyのメイクをしたりしているとこからも、やはりグラム→パンク or グラム→ゴス でがんがん攻めるべきだったのではないか。70年代のPink Floydって、最近いろんなサントラで聴く気がするのだが、どうしてもWetな変態として張り付いてくるかんじになって、あんま気持ちよくなかったりする。

でも、Patsy Clineの“Crazy”の歌詞とかみると、あー、ってみんな腑に落ちてくるような:

I knew, you'd love me as long as you wanted
And then someday, you'd leave me for somebody new

Worry, why do I let myself worry?
Wondering, what in the world did I do?
Crazy for thinking that my love could hold you
I'm crazy for trying and crazy for crying

C.R.A.Z.Y. って、実はそんなにぜんぜん、Crazyでもないのよ、って。
(ていうのと、ここに”Shine On You Crazy Diamond”を並べてよいのかなあ、とか)

Zacの役って、もろ”Boogie Nights” (1997)の頃のPhilip Seymour Hoffmanがイメージなんだけど。そうすると父役は.. ?

8.23.2022

[film] Max et les ferrailleurs (1971)

8月7日の夕方、ル・シネマのロミー・シュナイダー映画祭で見ました。
邦題は『マックスとリリー』- ビデオ公開された時のタイトルは『はめる/狙われた獲物』、英語題は”Max and the Junkmen”。 日本では1990年にビデオリリースされて、今回のが劇場初公開、米国でも公開されたのは2012年だって。

監督はClaude Sautet、原作はClaude Néronの同名小説。音楽はPhilippe Sarde。

冒頭、警察内部で「Maxの件は残念だった...」という声が聞こえてきてそこから回想に入る。

パリから少し離れた労働者の町に、元裁判官でとても正義感が強く見える刑事のMax (Michel Piccoli)がいて、銀行強盗をちっとも阻止できないのに静かに苛立っていて、友人のスクラップ屋 – これが英語題のJunkman - をやっているAbel (Bernard Fresson)の知り合いとか内部に入り込んで次の強盗の計画を引き出す計画を立てる。

その流れでMaxはホテルに滞在する離婚した(やや)裕福な銀行家、を装ってAbelの周りにいた娼婦のLily (Romy Schneider)を呼びだす。彼女経由で連中の情報を引き出したりこちらの偽情報を吹きこんだりするために。

MaxはLilyとセックスしたりするわけもなく、一緒にワインを飲んでとりとめのない話をしたり、トランプしたり、Lilyは好き勝手にお風呂に入ったりだらだら過ごして、このふたりのどうってことない会話とそれらを通してなんとなく近づいていく – Lilyは当然Maxの思惑なんて知らないしMaxは自分の正体も含めてほぼなにも語らない – ここでの経過がすばらしくよくて、でもAbelの方には何の動きも見られないのでもうないか、って諦めかけた頃に..

内とか過去に何かを秘めて隠した(絶対に任務や狙いを知られてはならない)不愛想な男とそういうの知らんぷりで無垢にふるまう(ことを求められる仕事でもある)女のやりとりが続いて、そういうのが/それでも、ふたりが思いもよらなかったようなところに彼らを追いやる、というかそんなふたりの場所が気が付けばできていたことに彼ら自身も驚いたりしている – そんなふたりの姿がとてつもなく素敵で、この、部屋に追いやられた二匹の野良猫みたいなシーンだけで何十回でも見ていたくなるし、この邦題でよいのかも、って。

これがあるので、終盤の一味が実際の強盗に向かうシーンはカットとかすごいと思って見入ってしまうものの、見ていくのはとても辛い。MaxもLilyもどちらも泣き叫んだり激しく動いたりするわけではないのに、それぞれのなかで何が起こっているのか、彼らの頭のなかで何が暴れているのかわかるので張り裂けそうになって。冷戦下のスパイものというわけではない、ただの泥棒の騙し合いなのになんでこんなに痛切に見えてしまうのだろう。

どちらかというとMichel Piccoliがすばらしくて、彼は刑事でも探偵でも軍人でも銀行家でもスパイでもおそらく”Max”という名前(『サン・スーシの女』でもそうだった)で、あんなふうに硬くごわごわで – それが少しだけ緩んだり崩れたりしたときには世界のなにがどうなるのかわからない - 取り返しのつかない事態が起こってしまう – その佇まいが彼をある時期のフランス映画のああいうような「男」にしたのだろうなー、って。

あとは、ここで描かれたような職業男性像 – 刑事とか探偵とか、黒め厚めの服を着た堅い職業の男たちって、今はどうなっていたり、ここからどう変わっていったりしたのだろうか、って。これって映画とか小説の中だけの話だったのかしら? 60~70年代の冷戦のなかの世界のありようと関係があったのかしら? とか。

仕事とか任務によって非情に冷酷に引き裂かれてしまったり殺されてしまったりする男女のドラマって、随分減っているのでは、っていう気もして、これっていろいろ引き裂かれてしまうような局面が減ってきたということなのか、引き裂かれても再生しちゃう/できちゃうからへっちゃらさ、になってきたということなのか。

なにを言いたいのかというと、Michel PiccoliもRomy Schneiderもこの時代の額縁の絵としてものすごくパーフェクトにクラシックにはまっていて、このふたりの像のようなのってここ以降の映画では余り見ることができないものになっている、と。だから必見としかー。


8.22.2022

[film] Prey (2022)

8月8日、月曜日の晩、Disney+で見ました。こんなのふつうに劇場で見せてほしいんですけど。
監督は”10 Cloverfield Lane” (2016)の人なのね。邦題は『プレデター: ザ・プレイ』。

プレデターのシリーズは、Arnold Schwarzeneggerが軍人で戦ったりしていた最初の方は怖くて近寄れなくて見ていなくて、見れるようになったのはAlienが出てきたり怪獣ものみたいになってきた頃から。要はただの喧嘩好きの単細胞な虫みたいなやつなんだな、って思うことにしたの。

お話しはとってもシンプルでそれだけで好感がもてる。(のはなぜか?)

今から300年くらい昔(1719年)のコマンチ族が暮らしているアメリカの森林地帯で、まだ若いコマンチのNaru (Amber Midthunder)は兄のTaabe (Dakota Beavers)のようにみんなに認められる一人前の狩人になるべく愛犬のサリィと一緒にライオン(クーガー?)を追っかけたりしながら修行しているのだが、なかなか難しい。

そういう日々を送るある日、遠くの空に光る物体みたいのが現れて消えて、しばらくするとバイソンの群れがみんな皮を剝がされて転がっていたり、熊とかでっかい獣が変なふうに殺されているのが見つかる。食用、というわけではなさそうで、明らかに戦った後の勝利の見せしめのような見せかたをしているのでなんだこれは? になっているといきなりよくわかんないプレデター一匹が現れて村人を殺しまくってNaruは殺されずに罠にかかった状態のまま捨てられて。

アメリカを探索しているフランス人の一団がNaruを拾って拘束した状態のままプレデターのことを聞いたりするのだが結局連中も現れたあれに端からばさばさとやられてしまったあと、彼女はTaabeと合流して、あとはフランス人が持っていた銃とか、敵に察知されないようにするために体温を下げる薬草とか、切り落とされた片足とか、連中の追尾システムとか、知恵と機転と勇気を総動員した戦いになるの。

大勢で武装してそこの星を侵略するためにやってきた、というよりもそこの強そうな奴と対決して自分が一番であることを誇示したい、そういう動機の変なやつが一匹で飛んできたのがまだ幸いで、それを受ける側は筋肉とかパワーでは勝てないので、伝わる知恵とか土地についての知識とかそこにあるものを駆使して戦うしかない。この設定 - 負けん気の強い女の子と犬ころ、一族のリーダーとして有望視されている兄 – が束になって戦う、っていうのがおもしろくて、ふつうに負けるながんばれ! って手に汗握る。

敵はこちらの年齢も人種も性差も性向もなにひとつわかって考慮してくれるわけがない、向こうにとってはライオンも熊も人もぜんぶ一様にエイリアンで、こちらにつっかかってきたら倒すだけ、それだけの単細胞動物で(ひょっとしたら彼らも裏ではいろいろ悩んだりしているのかもだけど)、相対するこちら側には昔からの伝承とか伝統とか掟しきたりみたいなのがいろいろ付きまとってくるので、あーうぜえ、って思っていたりもしてて、互いに生きるか死ぬかの泥まみれの戦いのなかで、いろいろ剥がれ落ちて咬みあう獣のようななりふり構わぬところに行くの。

宇宙船で飛んできたからといって設定を近代以降に置く必要なんてない – Schwarzeneggerもいらないのだ、っていうのは当たり前のようでなかなかなかった発想の気がする。『捜索者』 (1956)ではコマンチ族ってここのプレデターみたいな扱いだったかも。あとこれの前日に見た – “7 Women” (1966) -『荒野の女たち』のTunga Khanって、まさにここのプレデターと同じようなやつだったかも – Anne Bancroftは戦わなかったけど - とか。

それにしても、プレデターって単独でなにをしに来たのかしら? あいつはNaruにやられなかったらあのままずっとあの場所に居座って、でもひとりでなにをするつもりだったのかなあ、って。

時代も地域も設定フリーになったので、次はどこに、の期待が膨らんで、白土三平の時代とか、ガチの侍時代劇の頃のが見たいかなー(プレデターって日本昔話だとふつうに「鬼」だよね)とか。それか”Star Wars”の”The Mandalorian”の無法者の世界とか、X-Menのミュータントと戦うとか。 テーマとしては「戦争」よりも軽く、力比べ知恵比べみたいなところでシャープにぐさぐさやりあうのがおもしろいのではないかしらん。

8.21.2022

[film] 7 Women (1966)

8月7日、土曜日の午後、シネマヴェーラのジョン・フォード特集で”Tobacco Road”に続けて見ました。
邦題は『荒野の女たち』 - この邦題からあの内容はあんま想像できないよね。
原作はNorah Loftsの短編 - ”Chinese Finale”、これをJanet Greenともうひとりが脚色。 で、これがジョン・フォードの遺作なのだと。

1935年の中国の辺境の地にキリスト教の伝道施設があって、伝道に携わるのは厳格なシスターAgatha (Margaret Leighton)の下、全員白人、一人を除いて全て女性 - キャストも女性ばかり - で、AgathaのアシスタントのMiss Argent (Mildred Dunnock)と妊娠していて辛そうな中年女性Florrie (Betty Field)とその夫のCharles (Eddie Albert)、あとはまだ若いEmma (Sue Lyon)がいて、英国ミッション代表のMiss Binns (Flora Robson) とMrs. Russell (Anna Lee)、ここに医師のDr. Cartwright (Anne Bancroft)がシカゴから赴任してきて、これで7人? はっきりと7人それぞれの個が前に出てくるわけではなくて、追いやられて閉じこめられて散々な目にあうのがこの7人の女性たちだった、ていうだけのような。

Dr. Cartwrightは張り切って新天地に颯爽と現れる、というよりシカゴのスラム街の医療で散々苦労してここまで来た叩き上げなので、患者の治療は大事だけどキリスト教がどうのなんてどーでもよくて、タバコは吸うは酒はあおるは館長のAgathaと正面から衝突しまくるのだが、難民のようになって逃げてきた人々の間にコレラが確認されたり、高齢出産で心身衰弱しているFlorrieへのケアに不安があるとか、ここの環境は医療を施すにはよくないので早く他に移るべきだ、ってAgathaに何度も訴えるのに彼女は聞かない。(災害パニック映画の定番のようにこの態度と選択が後になって…)

教会の外で原野をうろついていた山賊みたいに野蛮なTunga Khanの一党の勢いを地元の軍も抑えきれなくなって逃げだして、そんなことが.. って様子を見に出ていったCharlesが簡単に殺されて消えちゃってこれはまずい、って思ったときには一味は施設の敷地内に侵入してきて銃殺とか格闘とかやりたい放題を始めてしまう。キリストさまがどうなんて聞くわけない、ほーら言わんこっちゃないだろ、って。

筋肉と武力で自分たちのやりたいようにやって言うことを聞かせたいだけの男たちは女性や子供たちの解放する条件としてDr. Cartwrightを妾にしたいって言ってきたので、彼女は舌打ちしてそれを受けて…

Anne Bancroftの最後っ屁の捨て台詞がかっこいいとか言われているようだが、やっぱりこれはお話しとしてはさいてーのひどいやつで、彼女はただ筋肉しかない動物以下のクズ男たちといざとなったら何ひとつできない女性たちとの間で自ら犠牲になった(毒をあおって自死する)だけでヒーローでもなんでもないの。本当に過酷で悲惨で救いのない話 - なんでジョン・フォードはこんな話を最後に撮ろうと思ったのかしら? 自分のやってきたことなんてこんなもんでしかなかった、とでも思ったのかしら?
(確かに、”So long, ya bastard!”は最期に世の中にぶつけてやりたい一番汎用的な台詞かも。中指つきで)

これが1966年にリリースされた意味ってあるのかないのか、 とか。

開拓時代のアメリカ中西部でもウェールズの炭鉱でも船の上でも、コマンチ族との間ですらキリスト教的な倫理とか家族観(のようなもの)がぎりぎりで機能してくれたり被さってくれたりした(と思わせてくれた)世界から遠く離れて条理の通らないところ - あ、”Mogambo”の世界だけはちょっと違うか - で、人は(通じなくて動物に近いところにいる)人とどうやって渡りあうのか、ってなったところで現れるのはAnne BancroftだったりAva Gardnerだったり、ってどうなのか。やはり荒れ果てた世界での最終兵器となるのは彼女たち、なのか? - あんま異論はないけど。

でもなんというか、この1本があることで世界の深さというか奥行きが - 大凡どうしようもない/どうすることもできないやつであるという点も含めて、でっかい絵姿となって改めて現れるというか、ここに宗教もコメディも捜索者もリバティ・バランスを射ったやつもみんなみんな呼びこまれて一列に並ばされていくような、そんなかんじになったの。


ここに書いてもどこの誰にも響かないと思うけど、今日(8/21)の午後、ロックカフェロフト(西新宿の方に歩いていったらなかった)で行われた上村さん鈴木さんによるThe Fallのイベント、すばらしくよかった。これまで時期とかレーベル別にきちんと聴いたことなかったかも、って。いまだに開けられていないどこかの箱のどこかにある奴らをはやく解き放たなければ。


8.19.2022

[film] Tobacco Road (1941)

8月7日、日曜日の昼、シネマヴェーラのジョン・フォード特集で見ました。
日曜日の昼に見るのにちょうどよいかんじのどたばた田舎コメディ。

Erskine Caldwellの同名小説 (1932)をJack Kirklandがブロードウェイの演劇に翻案して(1933)ヒットした作品の映画化。舞台版とは随分違うものになっているらしい。

それにしてもジョン・フォードって1940年に『怒りの葡萄』を撮って、同じ年に『果てなき航路』を撮って、この作品を撮って、これの後に『わが谷は緑なりき』を撮っている。とんでもなくないか?(どこを切ってもすごいのだが)

世界恐慌の頃、ジョージア州で綿花農家をやってきたLester家がいて、でも主人のJeeter (Charley Grapewin)を始めとして、仕事もなくて路上でごろごろしている。(ちなみに『怒りの葡萄』の初版は1939年、あれはほぼ同じ時代のオクラホマ州のお話し。映画『怒りの葡萄』のキャストとは5人が被っている)

他の家族は妻のAda (Elizabeth Patterson)との間に子供はぜんぶで17~18人くらいいた(絶句)らしいがこの時点で残っているのは息子のDude (William Tracy)と娘のEllie May (Gene Tierney)くらい。あとはどうなったか知らん、って。みんなうだうだなんもしてなくて怠け癖があって盗み癖があって人のものは自分のもので、なんでも先延ばしの生産性ゼロでも、やっぱり自分からはなんもしようとしないし、できるもんならやってみろ、くらいのかんじで路上に寝ている。

でも銀行からもうこの土地は接収するから/文句言われてもどうすることもできませんから、って突然言われてどうしよう、ってなり、かわいそうに思ったTim Harmon (Dana Andrews)が毎月$100で土地を借りられるようにしてくれるかも、ということで舞いあがって地の果てに向かって走り去っていくのと、Dudeが生命保険料$800を受けとった近所の未亡人Bessie Rice (Marjorie Rambeau)と結婚してでっかい車を買って歌いながら走り回るのと、Ellie Mayも誰かと結婚させたらお金が入るんじゃないか、とか、そういう狂騒がメイン。

同じ悲惨にどん詰まった貧農一家の物語のはずなのに、『怒りの葡萄』の土地を追われてどこまでも果てなく引き摺られていく悲壮感や無常感はまったくなくて、「なんとかしないと」というよりは「なんとかなるやろ」って歌を歌ったりカブを齧ったりしながらやりたい放題やっていく。ノリとして、車をぼこぼこにしていくところは「全員集合」のあれだし、だれも突っ込まないまま転がっていくのは「天才バカボン」とか”Adams Family”だったりする。たぶん教育上はたいへんよろしくないかんじ。

でも結局はどうすることもできずに救貧院に入るところはちょっと泣けたり、でも家族 - Lester家のお話しというより”Tobacco Road”っていう家のまえにのびている道路の、その上をすちゃらかで走り去っていく車とかのお話し、でよいのかも。

こういうの - 逆境を、逆境とも屁とも思わない強い家族のお話として描いて、それがブロードウェイで何度も上演されていく、ってやはりすごいな、って。「強い」と言っても家族の絆とかすばらしさなんて微塵もなく、ただある土地の上に家族があって、子たちは生まれた端から散っていって家の中にいたり外に転がっていたり適当にいるだけ、程度で、そのありようって『捜索者』(1956) で示されたような家の外に吹いている厳しさとか、『怒りの葡萄』のように家がなくて車の上に乗っている乗っていないの過酷さとか、そういうのとは違っていて、ただ違って、こんなふうにある、っていうそれだけのこと。こういうのもあるのだ、と。

あと例えばここに、この世界に「悪」とか「正義」とかってありうるのだろうか、って。『怒りの葡萄』には間違いなくあったと思うのだが、たぶんここにはなくて、この - 少なくとも登場人物たちにとって - 「悪」の存在しない世界、というのはどういうものなのか、っていうのを考えてしまったりする。それはどうやってもたらされるものなのか、バカボンのパパみたいにとりあえず「これでいいのだ」のままでよいのだろうか? とか。

あとどうでもいいけど、Dudeがとにかくやかましくてうるさくてうざくて、この神経にさわるかんじのやかましさって、昔どこかで見た気がする、ってずっと思って、あ、”Police Academy”のZed (Bobcat Goldthwait)ではないか、とか。

今回のジョン・フォード特集、やっぱり最後のほうは(自分が)ぐだぐだになって通えないままで終わってしまった。
パート2はがんばりたい。

8.18.2022

[theatre] National Theatre Live: Prima Facie (2022)

8月9日、火曜日の晩、Tohoシネマズ日本橋のNTLで見ました。

Harold Pinter Theatreで上演されたJodie Comerさんのウェストエンドデビューとなる一人芝居。原作はSuzie Miller、演出はJustin Martin。音楽はSelf Esteem (Rebecca Lucy Taylor)。

Harold Pinter Theatre、最後に行って見たのはTom Hiddlestonの出た”Betrayal”だった。
ロックダウンの時には入り口がやけくそのようにテープぐるぐる巻きだったことが思い出される..

これ、ぜったいものすごく必見なのだが人によって内容的にはきついところもありそうなので、上映されるところにはカウンセラーの人が待機していた方がよいかも、と思った。

Tessa Ensler (Jodie Comer)は法廷弁護人(barrister)で性的被害を訴えられた男性の弁護を中心にやっていて、冒頭には彼女の活動ぶりがスポーツの実況のようにかっこよく華々しく描かれる。ロジックも振る舞いも鉄壁で、競争心たっぷりで自信も勢いもあって無敵で、その起源はワーキングクラスからケンブリッジ大学のロースクールに入った頃にまで遡って語られる。温室のパブリックスクールで育った坊ちゃん嬢ちゃん達とは違うんだなめんな、って。

最初のパートで紹介される法廷における彼女の「手口」 – 訴えられている性的暴行はあくまで仮説であり、被害者は「被害者とされる人」であり、実際の真実というよりも証明可能な「法的真実」の正当性が優先される世界なので、そうやって「被害者」の沈黙や説明の穴を突いて(訴えられた側の)勝利に導く。そうやって法的には被害者とされずに消えていったJennaという女性(空っぽの椅子で表現される)のケースとか。

その前途洋々怖いものなしの流れのなか、残業後にオフィスのソファで同僚の弁護士とセックスして、彼とはいいかんじかも、って次の機会にはもう少しおしゃれしてパブで強めの飲酒をして、今度は彼の家に行ったところで気持ち悪くなってトイレで吐いてしまい、ぐったりしたところで彼にベッドに運ばれて、気分悪いし嫌だというのに彼はのしかかってきて…

翌朝になって、ショックでぐらぐらしながらこれは合意のないレイプだ許せない、って病院に行って警察に行って、でもこれを自力で法廷に持っていくにはここから数百日を要して、彼女が原告となる法廷での対決シーンが後半。

被告の彼だってもちろん凄腕の弁護士、彼の家族一族全員も弁護士で、こういう場合のこちらの打ち手も攻め筋もぜんぶお見通しだし、彼女にだって不利有利は十分にわかっているし、法廷にいるのもほぼ全員男性、そういう状態で彼女はどうやって戦うのか勝ち目はあるのか。

勝ち負けがどう、ということよりも、どうやったら勝てるのか、とかよりも、この法廷の場でのやりとりや法理のありようが被害者である女性にどれだけ不利で理不尽な負荷やフラッシュバックの苦痛を強いるものなのか、裁きの視点がいかに「正常」な男性の立ち位置に置かれたものなのか、を彼女の怒りと絶望と共に明らかにしていく。

とにかく、法廷の場で女性の側からそれはレイプ=犯罪だった、と告発するためにはそこに当事者間の合意がなかった、ということを証明する必要があって、でもそんなの男性側は「少なくとも拒否されなかった」って言うだろうし、女性側は酔って気持ち悪かったしそれどころじゃないし明確に憶えていたり証拠として残していたりするわけなく - 助けを求めて叫んだり抵抗して戦ったりする、わけもないし - そうすると疑わしきは罰せず、の原則で相手はほぼ自動でシロになってしまう。これが法廷における「真実」のありようで、これってあまりに男性にとって都合のいいように - 傷を負った女性が泣き寝入りするしかないように – できていないか、って。これが公演のサイトのトップに出ている数字 – 告訴したうちの3人に1人が途中で取り下げている – にも表れている。 単純にこわい。  https://primafacieplay.com/

これを無反省に、そういうものだから、って放置しておいてよいのか? よくないに決まっている。法律って何を守るものなのか? 法廷って誰のためにある、何を裁くものなのか? 等々。
“MeToo”だって最初は無理だ無謀だ、って散々言われたけど少しづつ変わっていったのだし。

そういうことを始めると男性側はなんでもかんでも加害者として告発されまくるから、とかクズみたいにわかりきった理屈を百も並べて必ず抵抗してくるけど、一度逆の立場になってみればいいんだわ、って強く思う。

あとこれって、絶対男性が – 特に法曹関係者が見なきゃいけないやつだと思うんだけど.. 見ないよねえおそらく。日本なんて、伊藤さんの例を見たって、ここに関してはまったく法治国家じゃないわ、って思うもん。

Jodie Comerさんはすばらしい。この勢いのまま”The Last Duel” (2021)の裁判シーンも彼女中心にして撮り直してほしい。

8.17.2022

[film] L'enfer d'Henri-Georges Clouzot (2009)

8月5日、金曜日の晩、ル・シネマのRomy Schneider特集の初日に見ました。邦題は『地獄』。

Henri-Georges Clouzotが1964年に撮ろうとして未完に終わったままとなっていた映画 – “L'enfer” - “Inferno”の撮影の後に残された膨大なフィルム – 185のフィルム缶が2007年に発見され、それをSerge Brombergがドキュメンタリーとして再構成して2009年のカンヌでプレミア上映したもの。2010年のセザール賞でベスト・ドキュメンタリーを受賞している。

タイトルはダンテの『神曲』の地獄篇から取られていて、人物の設定はプルーストの『失われた時を求めて』からMarcel (Serge Reggiani)とOdette (Romy Schneider)から取られている、と(でもそれならスワンとオデットじゃないのか?)。

ドキュメンタリーとして、この作品はなんで失敗して未完で終わってしまったのか、を考察するというより、この作品が、Clouzotがどういうところを狙って何を実現しようとしていたのかを当時のヌーヴェル・ヴァーグやClouzot作品の文脈からも追おうとしていて、でも結局のところ、そこに夏の陽光とか大量のRomy SchneiderとかDany Carrelとかが散りばめられているので、その完成形をイメージして楽しむデモ音源とか遺稿集のような趣きになっているかも。

そもそものドラマは、42歳でホテルを経営する中年男性 Marcelとその26歳の若い妻 Odetteを巡るどろどろで出口なしの嫉妬~妄想のドライブ(矢印としてはMarcelのOdetteに対する)をモノクロ、カラー、いろんな視覚効果、撮影技術を織りこんで描くめくるめく倒錯変態ドラマになったはずで、ラッシュを見たアメリカの方から大規模な資本投下があったのでプロジェクトそのものが膨らんで制御統制できなくなり、3人のカメラマンを使って6ヶ月に及んでいた撮影期間と現場での俳優の酷使と酷暑にぶち切れたSerge Reggianiが役を降りて、Henri-Georges Clouzot自身も健康上の理由(心臓)でやめることになって、放棄するようにしておわった、と。

奔放で美しい若妻 - Romy Schneiderを底抜けに魅惑的な悪魔のように描けば描くほど夫の疑念と嫉妬の地獄の釜の口は広がってお話しとして面白くなるに決まっているので、いろんなメイクをしたり水着だったりヌードだったり横たわっていたりボートで引っ張られていたり、素材としてのRomy Schneiderがスクリーンテストのも含めてこれでもかと並べられてこちらをじっとり見つめてくるので、これが一本の映画として纏まった形で見れなかった無念さ(ここを「地獄」というほどではないけど)が広がってきて、それでもSerge Reggianiが悶えて死にそうになった理由はこれな、っていうのは十分な説得力で伝播してくる。夏の最中にこんなのばかり撮っていたら止まらなく/止められなくなっていったのもなんかわかる。

今回のこれを見る5年ほど前、ロンドンのBarbicanで行われたFashion in Film Festival 2017というので、”The Inferno Unseen” (1964)ていうのを見ていて、これってiMDBにも載っていないしどういう扱いのものなのか不明なのだが、これはこのドキュメンタリーでも使われなかった(unseen)素材を束ねて65分に再構成してRollo Smallcombeによる電子音楽を被せたものだった。

音楽による効果もあったのかも知れないが、とにかく古さを全く感じさせない生々しさ瑞々しさときたら驚異で、今となってはこの『地獄』と併せて改めて見たいかも。

ドラマの文脈から少し切り離されたところで、切り離されてもなお、ファム・ファタールの輝きを見せるRomy Schneiderの肖像を見せる、そういう作品として特異に突出していて、よくある女優の光と影、を見せるタイプのドキュメンタリーとは別に、半生状態でそこにいるだけでなんかすごい – Romy Schneiderという女優の魅力はまさにそういうあり姿にあったのではないか、って - いうのをまだ特集でこれともう1本しか見ていないけど思ったのだった。

でもRomy Schneider自身も、この延々続く撮影にはうんざりしていたそうなので、こういう形で公開されても嬉しかったのかしら? というのが少しだけ。

8.16.2022

[film] The Iron Horse (1924)

8月6日、土曜日、シネマヴェーラのジョン・フォード特集で見た2本を。

この日のプログラムの最初の方は(近代)乗り物特集で、船(『果てなき航路』 (1940))→ 飛行機 → 鉄道 → リンカーン、だった(リンカーンは乗り物の一種)。乗り物に揺られたり持っていかれたりして遷ろう魂と、断固としてそこに留まってあろうとする – 自分だけは不死身であることを信じて疑わない何かが激突して火を噴いて渦を巻くやつ。

Air Mail (1932)

邦題は『大空の闘士』。ロッキー山脈のふもとの飛行場で航空便の配送を請け負う会社をやっているパイロットのMike (Ralph Bellamy)がいて、日々事故とかに見舞われて大変だし自分は目がもう良くないので医者からは飛ぶのは危険、と警告されている。そこに向こう見ずで自信たっぷりのパイロット”Duke” (Pat O'Brien)が雇われてきてパイロットの間に波風が立ち、"Dizzy” (Russell Hopton)の飛行機が吹雪のなか事故にあって、クリスマスメールの配送に遅れを出してはならない、ってMikeが飛びたったら雪山のなかに落っこちて、Mikeの無事は確認できたものの飛行機で救出に向かうのは無理な場所にある、ってなったところで”Duke”が俺ならできるぜ行けるぜ、って飛び立っちゃうの。

こないだの”Top Gun: Maverick” (2022)にもあった「死なないパイロットはどんなことがあっても死なない伝説」の原型のような作品で、でもその起点がクリスマスのメール郵便をなんとしても届けるんだって.. 大陸を行き交うクリスマスのメールがどれだけ大切で切実なものだったか、って、アメリカのクリスマス・カードの文化とか、少しはわかるので、そういうのを思うとなんか泣けてしまうかも。


The Iron Horse (1924)

150分のサイレント。見たことあるやつだったけど何度見たって怒涛の圧巻の大河 – ただ河が流れていく - ドラマなので。

イリノイ州のスプリングフィールドで、測量技師の父と息子のBrandonはリンカーン(Charles Edward Bull)に大陸横断鉄道の夢を語ってから測量の旅に向かって、それを息子のDavyの仲良しだった少女Miriamと鉄道屋の父Thomas Marsh (Will Walling)が見送る。でも途中の夜の森で父は二本指のコマンチ族の男に殺されてしまってDavyの行方もわからなくなる。

時が流れて大陸横断鉄道の建設が本格的に始まり、東のオマハからユニオン・パシフィック鉄道が、西のサンタモニカからセントラル・パシフィック鉄道がそれぞれ線路を延ばし続けて最後に接続させようって計画で、ユニオン・パシフィック側の鉄道敷設を請け負うのはThomas Marshで、娘のMiriam (Madge Bellamy)は父の下で働く技師Jesson (Cyril Chadwick)と婚約している。

工費と工期削減のための近道探索でJessonに地権者からのやらしい誘導があって近道なんてないと断言されて、でもどこからか現れた青年が近道を知っているという - 彼こそ逞しく成長したDavy (George O'Brien)であった。

近道の在り処を確かめに行ったDavyとJessonだったがDavyは何者かに命綱を切られて消えて、でも傷だらけで生きて戻ってきてこのやろーってJessonをぼこぼこにして、その背後にいた白人なりすましの二本指を見つけて父の仇をうって、でもそれどころじゃないインディアンの襲撃がきて、みんなで銃をとって力を合わせて立ち向かうとか、飢えて死にそうだったところに牛の大群が地の果てからやってくるところとか、嵐のように見どころが次々と襲いかかってくるので目が離せないのだが、でっかい「歴史」のうねりみたいなのをがーんと見せてくれるようなうざい演出は一切ないの。イタリアンやアイリッシュや中国人といった移民が総動員された国家事業だったはずなのだが、大きい小競り合いとかただの喧嘩とか奪いあいとか酔っ払いとか、そういうのの絶え間ない連続のなかで描かれて、クライマックスなんてちっちゃい金の釘を打ちこんで西からのと東からの機関車同志がごっつんこするだけで、盛りあがらないこと凄まじく、だからこそとっても感動したり。

生きた馬でいろんな土地を走り回って競ったり戦ったりしてきたあれこれが鉄の馬に替わる、ただそれだけのことで、そこには勿論生きた馬のときと同じようなドラマがいっぱいあるし、『誉の名手』(1917)や『砂に埋れて』(1918)で見ることができたダイナミックな馬の大暴れが更にすさまじい勢いでやってきて、どんなもんだい、って隠すようなことも騒ぎたてるようなことも何もないし、そういうのを「歴史」的イベントみたい飾りたてるとなんかおいしいことあるの? って。

思慮深げなポーズをとったリンカーンも映ったりするものの、だからなんやねん? くらいの勢いで酔っ払いをはじめとしたいろんな顔の人々とか彼らが勝手に歌う歌とかが画面に溢れてきて、「大義」みたいのをなぎ倒していく、そういう痛快さがあるの。それは歴史のドラマに触れた重みのようなのとは無縁なやつでー。

船の旅には果てない地獄があって、飛行機も落ちたらほぼ死ぬしかなくて、でも馬だけは生でも鉄でも – そりゃ死ぬ危険はあるけど – 乗り物としてはものすごく生きてどこまでも走っていく、という。自動車は? - となるとなんとなく『怒りの葡萄』の積みすぎて死にそうなぽんこつが浮かんできたり、あんま冴えないかも。

8.15.2022

[film] 香港の夜 (1961)

8月2日、火曜日の晩、新文芸坐の宝田明追悼特集で見ました。
英語題は”A Night in Hong Kong”。香港の映画会社キャセイ・オーガニゼーションと東宝の提携によって作られたメロドラマで、このあとシリーズで2本続いたそう。監督は千葉泰樹、脚本は井手俊郎。

新聞社の海外支社(ポルトガルだかスペインだか)にいた田中弘(宝田明)が本帰国の途中、香港に48時間滞在して(いいなー)、同僚の石河(藤木悠)に夜の香港を案内してもらい、ダンスホールで片言の日本語を喋る現地の女性謝玉蘭(草笛光子)と知り合うのだが、突然具合が悪くなり彼女のアパートの一室に寝かせてもらって、同じアパートにいて薬局に勤めている呉麗紅(尤敏 - ユー・ミン)に介抱される。朝になると回復したのでお礼に残りの十数時間をユー・ミンと共に過ごして、あっという間に恋におちてしまう。宝田明は彼女に告白するのだが、戦時下に日本人の母に置き去りにされた過去をもつユー・ミンは日本人の彼をどうしても受けいれることができない。

宝田明が帰国するとスポーツカーに乗った木村恵子(司葉子)が迎えに来ていて、画家として自立している彼女は颯爽と爽やかに彼の行くところにどこでも付いてくるのだが、彼にはユー・ミンのことが忘れられずにぐじぐじ引っかかっているので盛りあがることができない。

そしたら香港の藤木悠が自動車事故で突然入院してしまったので回復するまでの間香港で勤務してくれないかと言われ(いいなー)、もちろんです!って喜んで行ってみるとユー・ミンは薬局を辞めて行方がわからなくなっていた..  彼女を探し求めて香港の暗部にまで潜入して草笛光子にあんたそこまで惚れとるのかって呆れられて、マカオの叔父のところにいる彼女の居場所を教えてもらうと、そこに突然司葉子と父親の上原謙が現れたり(ちなみに母親は東郷晴子。妹が浜美枝。なんかすごい一家)。

ライバルになるかと思った司葉子とユー・ミンはすっかりお友達になっちゃうし、『その場所に女ありて』(1962)ではあんなに仲の悪かった(あ、時系列だとこれがきっかけで互いに憎み始めるのか..)宝田明と司葉子はなんだかずっと仲よしのままで、ユー・ミンの母親を探し始めた宝田明は柳川で旅館を経営していた母 - 木暮実千代(後夫は加東大介)をつきとめて、ユー・ミンを東京に呼んで母娘の再会と和解を実現して、ようやくユー・ミンの蟠りも解けたようなので、なんとか結婚するところまで行けたと思ったらー。

メロドラマ、というのはわかっていたので、そううまくいかないであろうことは覚悟していたのだがあーんな昼メロみたいにこてこてなかんじのメロでばっさり終わってしまうなんてー。

香港―東京―雲仙―香港―マカオー東京―福岡―柳川―ラオスのようにいろんな土地を新聞記者が巡っていって、そこに謎の女が絡む – 堺左千夫とか天本英世が顔をだす香港の奥地の描写はすごく面白そうで、香港ノワールみたいなかんじにしたらおもしろくなっただろうにー、とか。

あとは、戦争で母に去られて残されて傷を負った女性にしても、仕事の帰路に立ち寄って48時間の逢瀬を楽しもうとする会社員男性(当然のように彼をそういう場所に案内する現地社員)にしても、高度成長期の日本のビジネスの中心にいた男どもの挙動とか指向などが当たり前のように描写されていて、これだよなー、って思った。90年代くらいだとこういうのがまだ普通にマニュアルになってて、いまだに土地によってはそういうとこもあるようだけど、海外に偉い人がやってくると「お連れする」男文化ってほんとクズのままだよな、って。 (彼らのアタマの中ではユー・ミンみたいな女性が現れることになっている)

見知らぬ土地で滞在48時間ね、って言われたら、その土地の一番でっかい美術館か博物館行って、有名な遺跡とか遺構があったら見て、でっかいか古いかの本屋に行って、おもしろそうなライブか行っておくべきライブハウスがあったら行って、市場があったら行って、そういうのでいっぱいいっぱいになるので「案内しましょうか?」って言われると「いえ、お構いなく」って即レスして抜け出してしまうので、会社のサークルには永遠に入ることができないまま..

それにしてもこの頃の香港、いいなー。もう完全に「向こう側」に行ってしまって映像の中でしか見ることができない世界になってしまった…(どこでもそうだけどね)


京都に行っていたのだが、夏の京都があんなに暑いものだとは。これまで行った世界でいちばん暑かったかも。

8.10.2022

[film] Mogambo (1953)

7月30日、土曜日の夕方、シネマヴェーラのジョン・フォード特集で見ました。

やはりClark Gableが主演したVictor Fleming監督による”Red Dust” (1932) –『紅塵』のリメイクだそう。この時の相手役はJean Harlowで舞台はインドシナだった。原作はWilson Collisonによる戯曲。

邦題は/も『モガンボ』。 これ、虫の名前でも料理の名前でもなく、最初の予告では“The Greatest”ていう意味だと説明されていたらしいが、ほんとはLAにあったナイトクラブの名前の一部を変えただけの、べつになんの意味もないものなんだって。

そんな、なんの意味もないタイトルがテクニカラーで、でかでかと表示されて、でも舞台はアフリカらしいしポスターには美男美女が描かれているのでなんかあるのかも、って引き摺りこまれる。アフリカのジャングルの奥地とか湿地帯とか砂漠とか。

この舞台はジョン・フォードが描いてきたアメリカ西部とか大平原とは同じなのか違うのか? ふだんJack BlackやDwayne Johnsonなんかが出てきて逃げたり隠れたり大騒ぎで目指したり冒険したりするあの場所とも違うようだし、いったい何が/何を起こすことを期待されて設定された場所なのだろう ?
(たぶん、あんなふうなAva Gardnerが出没する、それだけの土地としてー)

ケニアで、珍しい動物を捕まえて動物園におさめる仕事のために現地でずっと暮らしているVictor Marswell (Clark Gable)がいて、黒ヒョウが出たとか、なにかが罠にかかった、って声がかかると仲間とそこに赴いて捕まえて檻に入れて依頼された国に向けて発送する。

ある日、アフリカには何の縁も興味もなさそうなNYの社交界からEloise Kelly (Ava Gardner)がNYで暮らすそのままの恰好 - すばらしいコスチュームたち - で現れて、インドの王族だかの誰かとここで落ち合う約束をしたのだと言うが、彼はもう帰ってしまっていたので、damn shit って戻ることにするのだが、なんだかんだ起こって戻ることができない。

もう一組、英国から新婚の研究者(は夫の方)- Linda (Grace Kelly) & Donald Nordley (Donald Sinden)の夫婦が野生のゴリラを見て捕まえにやってきて、着いた早々に夫の方が熱だして倒れて、夫婦は一部屋占有するのでEloiseはVictorの部屋に追いやられて、そうやって始まるどろどろにもrom-comにも向かわない、獣にも人類にも寄らない男女のドラマで、アフリカの辺境なので出ていくのも逃げるのも戻ってくるのものたれ死ぬのも勝手なところに、現地の異文化とか自然とかいろんな動物たちが絡まったり挟まったりしてくる。解き放ったり抑止したりするものがなにもないどうぞお好きに、の世界 – そこらの動物たちはそうやって暮らしている「自然状態」で容姿もプライドも地位もそれなりに満たされている/きた主人公たちはどんなふうに恋に向かっていくのかいかないのか。

というテーマがあるのかないのかすらよくわからない、極限状態とは異なる、でもそんなにまともではない - 神も悪魔も法も道徳も慣習も家族もついてこないし従う要請もされない環境で、この状態で、意味不明のタイトルが地平線上に浮かぶ。

Clark Gableはほぼなんもしない、僻地での駐在が長すぎて性格が歪んでしまった鼻持ちならないやな男(よくいる)の役で、あのまま猛獣とかに喰われちゃえばよかったのに、くらいで、メインはふたりの女性を見せるだけ、となるとやっぱりAva Gardnerのかっこよさに痺れるしかない。ほんとここだけと、あと動物たち。

この3年後の、あの歪んだ変てことしか言いようがない『捜索者』(1956)の心象風景ってここで描かれたアフリカの変奏なのではないか、という気がしないでもない。理解しようがないなにかに触れて、帰属とか理解とかを諦めた男が捜し始める「なにか」とその背後にひろがる”Mogambo”。

あとなんか、五所平之助の特集で見た井上靖原作で佐分利信がまん中にいるやつ - 『わが愛』(1960)とか『猟銃』(1961)とかを思い出した。どこが魅力的なんだかちっともわからない佐分利信の周りに決して幸せになれるとは思えないのに女性たちがなんとなく傍にいて暮らしてて、それでも全体としてあんまし幸せにはなれないようなやつ。なんとなくだけど。

ドラマとして、というよりそういう事態や状態はありえて、映画はそういうのも当然、あるものとして、ある種の驚異のように描くのだ、とか。


昨晩寝る前にThe PoguesのベーシストDarryl Huntの訃報を知る。初来日で見たときからステージの上を軽やかに駆けていく彼のベースがだいすきだった。RIP.

8.09.2022

[film] 女の座 (1962)

7月31日、日曜日の午後、新文芸坐の宝田明さん追悼特集で2本見ました。Cary Grantの特集を見ているかのような安定感。

接吻泥棒 (1960)

監督は川島雄三、原作は石原慎太郎 - 何度か「原作者」として画面にも出てきて笑わそうとしているのだろうがちっとも面白くない。脚色は松山善三。

ボクサーのチャンピオン高田明(宝田明)がいて、ぶいぶいでバーのマダムの新珠三千代とデザイナーの草笛光子とダンサーの北あけみの3人と同時に付きあって行ったり来たりしていて、明が車で急いでいるときに音楽会に向かおうとしていたお嬢さま女子高生の美恵子(団令子)の車と衝突事故を起こして、気絶した美恵子に口移しで水を飲ませている写真を撮られてしまい、それが彼女の学校でも愛人仲間の間にも波紋を起こして、ていうドタバタコメディなの。

ボクシングのシーンとかもう少し真面目にやれば、とか、女性たちのヒステリックな取っ組みあいとか美恵子の子供みたいな描きかたとか、やがて明らかになる石原慎太郎の女性蔑視目線がこの時から既にありありとうかがえて、ちっとも笑えないのだった。当時のってこんなのばっかりだったのだろうが。


女の座 (1962)

監督は成瀬巳喜男、脚本は井手俊郎と松山善三の共同。↑の後に見るととてもたいへん落ち着くかんじ。

昔からある石川屋っていう荒物店を中心にした家庭ドラマで、父の金次郎(笠智衆)が倒れて療養中で後妻のあき(杉村春子)が傍らにいて、前妻との間の長女松代(三益愛子)は近所で下宿屋をやっていて、その夫の良吉(加東大介)は女性とどこかに消えたりして戻ってきて、生け花教室の先生をしている次女の梅子(草笛光子)はシングルで、次男の次郎(小林桂樹)と蘭子(丹阿弥谷津子)の夫婦は近所でラーメン屋をやっていて、四女の夏子(司葉子)がそこを手伝ったりしていて、五女の雪子(星由里子)は映画館の切符売りをしながらラーメン屋にも顔を出していて、ひとりで荒物店の店先に立つ長男の未亡人芳子(高峰秀子)は一人息子の健(大沢健三郎)だけがよりどころで、あとは金次郎が倒れたのを聞いて九州からは三女路子(淡路恵子)と夫の正明(三橋達也)が上京してきて、なんだかんだ誤魔化しつつそのまま居候してしまう。

あとはラーメン屋の常連で気象庁に勤める青山(夏木陽介)が、夏子とどうなるか – でも夏子にはお見合の会社員も現れたりとか、松代のところに下宿してきた六角谷(宝田明)という若者はあきが最初に結婚していた相手との子であることがわかって、話とか趣味があうので梅子とよいかんじになるのだが六角谷は芳子を好きになって、とか。

『娘・妻・母』(1960)と同じように戦後の大家族を構成する人々のだれそれ間の位置関係 – 亡くなっている人も含めた - がいろんな会話の流れのなかで説明されたり物語のなかで動き始めるまでが楽しくて、本だとページを戻したりして追いそうなところを、どうやっているのか、魔法みたいだな、とか思ったりする。ストーリーが転がっていかなくても、そのやりとりを通して誰かがふくれっ面をしたり溜め息をついたり奥に引っ込んだりするだけでなんだかぞくぞくしてここだけでいいや、って思ってしまったり – 甘すぎかしら?

全体として、お約束のように男共はディザスターとしか言いようがない生産性マイナスのどうしようもないのばっかりが見事に揃っていて、笠智衆は転がったままほぼなにもしないし、加東大介はろくでなしだし、小林桂樹はラーメンしか作らないし、三橋達也は遊び人だし、夏木陽介は変人だし、宝田明は詐欺師だし、夏子のお見合相手の会社員はブラジルに行くというし、最後の頼みの綱の芳子の息子は事故(自殺か?)で… これも毎度のことのように高峰秀子がかわいそうすぎで。

この辺が小津の家族ドラマを見ていて感じる辛さ(あくまで個人の感想です)とは一線を画していて、見るべきところが違うのかも知れないけど、とてもおもしろいし好きなところ。「女の座」を同性異性間で争ってどうこうするドラマ、というより「女の座」的な場所というかありようってこんな場所と時間と共にあるのだ、ということを静かに示す、それだけの話なのかもしれないのに。

それにしても、『接吻泥棒』から続けてみると、草笛光子が宝田明に迫っていく、というところは同じでも、ここまで違うものになるのか、宝田明の複雑(そう)でちょっと狂った静けさに解れが見え始めるところに走る緊張、同様に溜めこんでいた何かを振り払う - 途端に輝きを増してくるかのような草笛光子の動き - 彼女が玄関に入ってくるところだけでもなんかすごいし。


今日は、Olivia Newton-Johnと中井久夫と三宅一生とLamont Dozierが亡くなった。 長崎でも。

8.08.2022

[film] The Man Who Shot Liberty Valance (1962)

7月30日、土曜日、シネマヴェーラのジョン・フォード特集で見た2本を。
この日見たのはぜんぶで3本だが、”Mogambo”  (1953)はもう少し転がしていたい。

The Grapes of Wrath (1940)

原作はJohn Steinbeckのピュリッツァー賞受賞作『怒りの葡萄』 (1939)。

2010年にNYのFilm Forumで公開70周年でニュープリントが焼かれたときのを見ているので少しだけ。
刑務所から仮出所してきたTom Joad (Henry Fonda)とずっと暮らしてきた農地を追われた家族の西方に向かう果てのない彷徨いを怒りをこめて叩きつける。家族だろうが個人だろうがある土地に暮らす、生活するというのがどういうことなのか、それが常に戦い(誰との? どういう?)と共にあったこと、なんでこうなるのか、こんなことでいいのか? 等などを何度も何度も。

彼らから土地を奪って向こうに追いやる側って「我々にもどうすることもできん」ていうの。そういう竜巻のように理不尽な力がなぎ倒そうとして、そういう力に対して葡萄の房になってどう戦うか、というより我々はどうあるべきなのか、という歌。TomもMaもずっとここにいるから、と歌う。そんなふうに幽霊のようにそこにずっといる/ある魂のありよう(楽しいのであれ悲しいのであれ)をSteinbeckもFordも描いてきた、その基本の根っこみたいなところにある影。 レンブラントの絵画みたいなやつ。


The Man Who Shot Liberty Valance (1962)

原作はDorothy M. Johnsonによる同名小説 (1953)。邦題は『リバティ・バランスを射った男』。この年なのに、カラーではなくモノクロの、西部劇? なのか?

上院議員のRansom "Ranse" Stoddard (James Stewart)と妻のHallie (Vera Miles) – どちらもやや老けメイク - が自分たちが出た村に戻ってきて、偉い人たちなので歓待されて、でも目的はTom Doniphon (John Wayne)の葬儀だと言われて、みんな誰それ? って、回想シーンに入る。

若い弁護士として張りきって新しい村に赴任しようとしていたRanseが村の手前でLiberty Valance (Lee Marvin)の一味に襲われてぼこぼこにされて、TomとPompey (Woody Strode)にHallieのいるステーキ屋に連れられていって手当して貰い、Liberty Valanceは暴れん坊でどうしようもないし、保安官は頼りないし、ここは法がどうの言ってもしょうがない無法地帯だから、って言われるのだがRanseは聞かずにステーキ屋でバイトをしながら法律事務所を立ちあげて、地元の新聞社のPeabody (Edmond O'Brien)に手伝ってもらって読み書きができないHallieたちのために教室を開いたりしながら、でもやっぱり敵の荒れ狂う暴力の前にはなすすべもないので、言い訳しつつもTomに銃の扱いを教えて貰ったりする。

TomはずっとHallieのことが好きで結婚することを夢みて一緒に暮らす家を建てていたり、妨害を受けても負けないPeabodyの新聞社 - 報道の自由とか、やっぱり選挙はみんなにとって大事だからとか、やっぱり教育の大切さとか、修行しながら村にとけこんだり学んだりしていくRanseの姿を描いて、全体としては当時の合衆国を作っていくそのありようがひとつの村の騒動に集約されているかんじで、そこに暴力的に挟まってくるあまりに暴力的なLiberty Valanceの所業をRanseは、Tomは、村はどうするのか。

結局ガリ勉くんのRanseは番長のLiberty Valanceに行きがかり上避けられないようなかたちで決闘を申し込んで、ふたりは相対するのだが、銃も満足に扱ったことがないしろくな喧嘩もしたことないRanseは嘲笑われて絶体絶命になったところで..

有名な話でもあることだしネタバレすると、Liberty Valanceは影からTomが援護して一発で仕留めて終わりで、でもRanseはこの件で「リバティ・バランスを射った男」として有名になり、法曹界から政界に出て、Hallieとも結婚しちゃって、Tomは反対にぜんぶ失ってやけになって家も燃やして、亡くなるまでPompeyひとりしか傍にいなくて棺桶のなかも映して貰えなくてかわいそうすぎで。むかしの日本の任侠ものみたいな「美しい」オチになっているように見えるけどそんなことでよいのか、きちんと検証されるべきではないのか、なんてもちろん誰もいわない。

またしてもかわいそうで報われないJohn Wayne、ていうのはべつにJohn Wayneのせいにしても面白いけど、それよりも、「合衆国」の建国の神話なんて例えばこんなふうに - 温厚な誰かが凶暴な誰かを射ったとか - いい加減にてきとーに作られてきたものが大部分なのではないか、とか、本物の「リバティ・バランスを射った男」はTomみたいにひっそりと亡くなっていくものなのだ、とか、”It's a Wonderful Life” (1946)でJames Stewartがやった役をJohn Wayneがやろうとして、でもやっぱりJames Stewartにもっていかれてかわいそうすぎ、とか。

『怒りの葡萄』のTomがべつの形をとって現れて、ひっそり消えた、そういうお話なのかも。

あと、クライマックスの対決〜銃撃のところはやはりモノクロだからあれだけかっこよく映えたのかも、とか。

8.07.2022

[film] Jurassic World Dominion (2022)

7月29日、金曜日の晩、109シネマズの二子玉川のIMAX 3Dで見ました。夏休みだし、恐竜すきだから。

“Jurassic World” シリーズの最後の作だそうで、言われるまでこれが”Jurassic Park”のシリーズとは別の束なのだということを知らなかった、その程度のー。(恐竜にとっては”Park”だろうが”World”だろうが関係ないよね)

前作で”World”のあった火山島が爆発して、その退避先だったロックウッド・エステートから恐竜たちが逃げ出して4年、恐竜たちは密売取引されたりカラスとか狸みたいに人里のなかを出たり入ったりするようになって生態系への影響が危惧されていて、ゲノム研究大手のBiosyn社は、イタリアの山奥に恐竜たちの保護区と研究所を作っていた - だからどうしてそういうのを私企業にやらせちゃうの?

Owen (Chris Pratt)とClaire (Bryce Dallas Howard)と前作のエステート騒ぎでひとり残されてしまったMaisie (Isabella Sermon)は、Maisieにかけられたクローン疑惑から彼女を守るために3人でひっそり山奥に暮らしていて、近所には恐竜のブルーもいたりするのだが、ふたりの過剰な保護と干渉にMaisieは少しうんざりし始めている。

突然巨大なイナゴが畑を襲い始めて、そのイナゴが特定の畑 - Biosynの種から育った農作物だけは襲わないことと、そのイナゴが古生物ぽいこと知ったDr. Ellie Sattler (Laura Dern)は地味に化石採掘とかをしている昔馴染みのDr. Alan Grant (Sam Neill)に声をかけて、Biosynの本社に行ってみることにして、行ってみるとそこに飼われていたDr. Ian Malcolm (Jeff Goldblum)とも再会する。

Owenのいる山奥では狙われていたMaudieとなぜかシングル生殖しているらしいブルーの子が拐われて、Owenは怒りに震えるブルーにぜったい連れ戻すからな、って約束してClaireと一緒に奪還の旅に出る。

こうして遺伝子操作で世界征服を企む悪徳企業に立ち向かう旧”Park”のおじさんおばさん組と、その企業に拐われた子供と恐竜の救出に向かう”World”の連中がイタリアの山中の企業施設で一緒になるのだが、そこにたどり着くまでのあれこれも含めてそれがどうした? っていうくらいにごくふつーのことしか起こらない。 つまり陰から正面から恐竜たちががううーって現れて、ひぃぃって慄いて逃げたりごまかしたり喰われたり、今回はChris Plattの手かざしが、あんま効いているとは思えないのに万能薬みたいに使われててややしらける。

そもそもこのお話って、DNAとか遺伝子操作をして生みだしてしまった巨大生物に逆襲されて痛い目にあう話とそれを技術(使えたためしがない)を使ってなんとか制御しようとする人類の終わらない戦い - そのなかで悪い奴らは地獄に - という話のはずだった気がするのだが、ここに来てそもそも引き起こした企業たち - 全部企業とか創業者とか - の罪はさしたる反省もなく忘れられて、やっぱりちゃんと共存しないと、みたいなメッセージが前に出ているのはいいの? Maisieの件だって彼女のママはすばらしい科学者だったから、で落着しちゃうし。

そこのところが特に引っかからないのであれば何ひとつびっくりするようなことは起こらなくて、それは生物/動物だからほぼなにも考えてない or あんまなに考えているかわからない、それだけの話で、でっかいイナゴが一斉に羽ばたけば嵐が巻きおこるし、でっかい恐竜はでっかい恐竜同士で顔をあわせれば殺し合う、ほんとにそれだけのこと、ここの善玉はぜったいやられることはないだろうし、悪玉はどんなふうにやられたり喰われたりするのかで、あーあんなふうにはやられたくないな - ってそこだけしか見るところはないの。

あとは空中とか水中とか地上に昔の恐竜図鑑で見てきたあんな奴こんな奴らがどんないでたちで現れてどんなふうに動いたり暴れたりしてくれるのか、それが見られれば幸せなのかも。(恐竜好きをなめてるだろ)

映画的にはLaura Dernさんのびっくり顔を出してくれなかったのがだめ。あと、Jeff Goldblumの意味なしフェロモンの行き場のなさときたらかわいそうすぎ。

巨大イナゴで農業界にパニック引き起こすよか、巨大ゴキブリ&巨大ハエ - 特定殺虫剤以外効かないの - で都市部に大パニック引き起こすほうが映画としては断然おもしろくなったのに、わかってねーなー、って思った。

ブルーの子があのままどんどん殖えていったらどうするんだろうね?

8.05.2022

[film] Boiling Point (2021)

7月27日、水曜日の晩、ヒューマントラストシネマ有楽町で見ました。

邦題は『ボイリング・ポイント/沸騰』。ロンドンの人気エリア(ってどこさ?)にあるレストランのクリスマス前の金曜日の修羅場となったひと晩を全編ワンカットで撮ったもの。最近だと“Birdman” (2015)とかあって、この撮り方が描こうとしているテーマとどう絡んでどこまで貢献しているか、だと思うのだがこいつはどうか?(あんまし.. かも)
このやり方でいちばん好きなのは『エルミタージュ幻想』(2002)、かなあ。

レストランの名前は”Jones & Sons”、シェフのAndy Jones (Stephen Graham)が遅刻して開店前の職場に現れた時には、衛生局の検査官が衛生状態の定期検査で改善ポイントあり(→減点)の指摘をして(あの慇懃無礼な口調、たまんない)あーあ、になっていて、Andyも言いたいことはあるものの、遅刻して現場にいなかったのだし、家庭内で気にかけていることがあるようで頻繁に電話を掛けたりしている – 彼のこの状態はこの後もずっと続く。

オープンしてからも – ワンカットで撮っているけど撮られる側の時間の流れはそこに同期していない – 人種差別野郎のテーブルがあったり、プロポーズしようとしているカップルがいたり、アレルギーの情報が厨房に伝わっていなかったり、「インフルエンサー」がやらしく注文つけてきたり、Andyの恩師であるセレブシェフAlastair Skye (Jason Flemyng)がフードクリティックを連れてきていたり - 君のとこを応援しにきたんだって言いつつ注文を - 厨房の方では遅刻してきて仕事しない奴、持ち場を変えられて戸惑っている人、袖をまくりなさい、ってまくってみるとリストカットの痕だらけで気まずくなったり、チームとして簡単に動いてはいなくて、Andyはまとめ役として辛抱強く切れることなく対応していくのだがずっと中味のわからないプラボトル(中身はアルコール)を口にしていたり。

キッチンとフロアの双方を繋いで繰り返されていた小爆発がもう我慢できないぃぃ!って大噴火、というかあーめん、になってしまうまで、カメラはずっと律儀にちょこまか追っかけているわけだが、おまえ見てばかりいないでなんとかしてやれよ、ってちょっと思った。当然カメラはずっと動いて揺れているので、酔いやすい人は注意かも。

あと、描きたいのはそこじゃない、のかもしれないけど、レストランを舞台にした作品でお料理がきちんと撮れていないのって、致命的にだめではないだろうか。

こういう、これから売り出そうとしているレストランも、既に名声が確立されているレストランも、その状態を維持しつつレベルを上げていく(ことを求められる)、その労力って本当に大変だしそこにかかるストレスも半端じゃないんだろうなー、っていうのがAnthony Bourdainの件とか、Gordon Ramsayの番組とか、Mario Bataliの件などを通して見えるようになったここ数年 - 7~8年くらい? きばって無理してそういうとこ行かなくてもいいや(Covidもあったし)、になってしまって随分たつ。そこに行かないと得られない一生に一度のなんか、があるのかも知れないし、あってもいいとは思うしそこを目指してがんばる人々がいるのもわかるけど、別にそうじゃない形でもおいしいもの、って追及できる – そっちの可能性の方に興味がある、というか。

あんま関係ないけど、BBC Oneで土曜日の午前にやっていた(現地ではまだやっている)"Saturday Kitchen"ていう番組があって、あれが本当に好きで、会いたくて恋しくて泣いている。

司会者(Matt Tebbutt、少し前はJames Martin)は料理もできる人で、ゲストがいて、割と有名なシェフ(Tom KerridgeとかYotam Ottolenghiとかいっぱい)も呼ばれていて、ゲストとトークをしながらテーマの食材とかゲストの思い出の料理についてのトークをしながらシェフたちと料理を作って(レシピはそんなに詳しく説明しない)、番組のソムリエがそこに会うワインとかリカーの紹介 - 近所のスーパーで買えるやつ – をして、みんなで一緒に食べたりするのと、料理の合間に別のところで撮ったりアーカイブだったりの、Nigel Slater(かっこいい)とか、Nigella Lawson(かっこいい)とか、Nadiya Hussain(すてきなママ)とか、Raymond Blanc(フレンチ!)とか、Mary Berry(おばあちゃん – 『ブリティッシュ・ベイクオフ』は彼女に会いたいから見る)とか、Rick Stein(旅がらす)とかの楽しい食材とか料理の映像が挟まって、この番組は自分のなかの英国~ヨーロッパに対する食や料理に対する見方・考え方を大きく変えてくれた気がする。
(まだ見ている途中だけど、HBO Maxの”Julia”ってこういう番組の先駆けだったのでは)

いまだに日本の「グルメ番組」って料理店の苦労話か大食い大会かタレントが「うまいー」って悶えるのばかりでなにがおもしろいのか、まず食=欲望で、食べることとか食文化に対する敬意がゼロでうんざりする。これらを見る限り、いまだに一部の駐在員が偉そうに信奉する日本食=世界一!なんて冗談としか思えないわ。

とにかく、この映画で描かれたようなきりきりしたレストランの運営のありようってドラマとしてわかんなくはないし、本当にこんなだったらがんばって、しかないのだが、別世界でいいや、ってなってしまう。そうなってもおかしくない作りかなあ、って。

8.04.2022

[film] 都会の横顔 (1953)

7月26日、火曜日の夕方、国立映画アーカイブの東宝特集で見ました。
英語題だと”TOKYO PROFILE”って最初に出た。監督は清水宏で、このタイトルなら間違いないはず、とか思って。

冒頭、道端に人だかりができていて、寄っていくとひとり女の子の迷子がいて、靴磨きの女性(有馬稲子)が彼女にいろいろ聞いていくと、自分の名前(みちこ)もはぐれたお母さんの名前(としこ)も銀座に何しにきた(お買い物)のとかも落ち着いてはっきり返していて、泣き喚いたりもしないので、慌てなくてもだいじょうぶか、ってそこに居合わせた広告看板を持って宣伝で歩いている男(池部良)が、仕事でどうせその辺歩いていくから一緒に連れていくわ、って彼女を引き取って並んで大通りを歩いていく- カメラは彼らを正面に後退りする - と、途中でいろんな知り合いに会って、交番にも迷子を預かっていることを伝えて歩いていくのだが、見つかりそうで簡単には見つからないのと、女の子は彼女の見える範囲で目にとまった人に半自動でくっついていってしまうので、じきに池辺良からは見えなくなって、それと入れ替わるように困っておろおろしている母親(木暮実千代)とか、ちっとも探すのに協力しているようには見えない勝手そうな友人 - 沢村貞子 - たち(木暮実千代と沢村貞子に放置されてもへっちゃらな女の子すごい)とか、道端のへんな占い師(伴淳三郎)とか、女のことしか考えていなさそうなそわそわきょろきょろした会社員(森繁久彌) - 森繁って『東京の恋人』(1952)でも同じような役じゃなかった? - とか都会の街角にしかいないような人々が次々と現れては消えていく。

そんな人々の群れを流していく銀座の数寄屋橋のあたりとか、ミュージックホールがあったあたりとか、いろんな飲食店、もちろんデパート - 三越と松屋と両方でてくる? とか、これまでいろんな昔の映画で見ることができた戦後の銀座の賑わいが目の前にちょっと異なるパースペクティヴで広がっていて、入り組んだ路地とかはなく大通りがほとんど、歩道がちゃんとあるので、行き交う人々を追っていればそのうちぶつかりそうなものなのに、なかなか見つからなくて手強い。

やがてここにやってきた母娘の目的 – みちこちゃんにちゃんとした靴を買ってあげたくて – とその難しさが迷子の件以上に母親には重くのしかかっていることがわかって、最後の方では万引き騒動まで起こしてしまうのだが、そうやってうまく纏まらずになすすべもなく解れたり壊れたりしていったなにかが、最後にどうにかなって悪くなかった - というあたりはいつもの清水宏かも - 魔法とか奇跡というほど強いものではない、近代になって強引に負わされた面倒なあれこれを少しだけやさしく解いてその後ろ姿を暖かく見送ってくれるようなー。

でも上映中はその辺の人と人の間に起こるほっこりを見ていく、というよりは画面を食い入るように見つめて、ここはあそこ? とかあそこに映っているあれっていまは? とかそっちの方に没入してしまうのだった。これってNYやロンドンの昔の映画を見る時にも起こるのだが銀座もそういうことができる数少ない街だと思う - 渋谷でも新宿でももうとても無理だし。

女性と子供の映画、でもあって、ここに出てくる池部良も森繁久彌もすごく線が細くて弱いし、『東京の恋人』の三船敏郎みたいのが入ってくる余地はなさそうな。あと英会話教室をやっているトニー谷の英会話のすさまじさ - “AT TODAY NO MORE SHOW” →「あとでのみましょう」ってなんなの? (あれなら毎日通いたい)

あと、有馬稲子が靴磨き仲間の男の子に「あとでよし田のコロッケそば奢ってあげる」っていうの。いまのコロッケそばは軽く奢ってあげられるような値段じゃなくなっちゃったけどねえ。

木暮実千代って、情に厚い母親のように描かれていて、ここでも最後はよいかんじになるっぽいのだが、『香港の夜』(1961)でも娘を中国に置いてきちゃったし、離れるときは案外冷たく突き放しちゃうのかも。その後で悶えて嘆くのかも。

Tokyo Profile - で写真集を出すとしたら誰がメインになるかしら? Erwitt? Doisneau?

8.03.2022

[film] Copshop (2021)

7月25日、月曜日の晩、Tohoシネマズ日比谷で見ました。

邦題は『地獄のデス・ポリス』。邦題もポスターもB級アクション感満載で楽しいのだが、内容にはB級っぽい胡散臭さもぶっ飛びすぎたところもない、どこかで起こっていてもおかしくない、ものすごくきちんと作られたアクションスリラーだと思った。

長髪を束ねた胡散臭いTeddy Murretto (Frank Grillo)が盗んだパトカーで逃走していて、それがカジノの近くで壊れたので車を降り、乱闘の混乱のなか新米警官のValerie Young (Alexis Louder)を殴って捕まって刑務所に連れていかれる - 明らかにわざと。

そこからしばらくして、べろべろに酔っ払った男がMurrettoの捨てたパトカーにぶつかって、名前も言えないような状態のまま同じ刑務所に連れていかれて、Murrettoとは別の牢屋に入れられるものの、檻に入ったところで絡んできた別の酔っ払いを叩きのめしてMurrettoと話をはじめる。それが殺し屋のBob Viddick (Gerard Butler)で、なんかこいつらおかしいと思ったValerieがふたりの檻を分けておくのだが、外から風船を抱えた別の殺し屋Anthony Lamb (Toby Huss)が現れて機関銃で中の警官たちを片っ端から殺し始めて、そこにダメな奴って署内でバカにされていた警官Huber (Ryan O'Nan)が加わり、これはやばいと思ったValerieはMurrettoとViddickのいる牢屋セクターに暗証番号を変えて逃げこんで、でもお腹に銃弾を受けて動けなくなる。

Murrettoは闇の仲介屋として州検事総長の買収工作に関わっていて、工作が失敗して検事総長が殺された際、保身のために録音していたテープをFBIに売ろうとしていて、それでマフィアが殺し屋一揃いを送り込んで、ついでに彼の前妻や子供は殺された、と。

押し入ったLambとHuberが牢屋の壁を壊し始めたので、MurrettoもViddickもこっちに鍵を渡せ、時間の問題でどっちみち破られたら全員やられるだろ、ってValerieの説得を始める。殺し屋Viddickも殺し屋Lambも狙いはMurrettoなのだがViddickはLambのクビに賭けられた賞金の件も知っているので、やっぱり自分も出たい。結局ValerieはMurrettoの方に鍵を渡して…

砂漠のまんなかにぽつんとある要塞警察に、そこなら火器もあるし守ってもらえるだろうと飛びこんできた悪漢と、それを狙って飛びこんでくる別の殺し屋たちと、本来であれば酒場とかカジノとか彼らのテリトリー内で繰り広げられるべきバトルがよりによって警察の建物の中で、というおもしろさ。警察のなかでまさかそんなことが、って誰もが思うから救援なんて来ないし、でも警察署内にだっていろいろ歪んだり緩んだりしているところはあるので盤石ではなく、案の定生き残ったのは若い女性警官ひとり - ”Die Hard”シチュエーションだが自分は出血多量で簡単に死にそうなかんじなので、ぜんぜん信用できない悪漢ふたりの申し出をうけて協力せざるを得ない。これはたしかに「地獄」の「デス」「ポリス」としか言いようがない。

Valerieが鍵をMurrettoに渡して、檻から放たれて出ていくMurrettoが”Last Samurai”がどうの、って呟きつつ丸めていた長髪を解いてぎらーんって本性を露わにするとこからまた面白くなって(鍵なんてとっとと渡しちゃえばよかったのに)、どいつもこいつもまったく思い入れできない狂犬同士の殺し合いはどうなるのか、どこで獰猛なGerard Butlerが現れてぼかすかどつきあいを始めてくれるのか。敢えて言うと、流れとしてはわかんなくもなかったが、もっと彼にめちゃくちゃに暴れて壊しまくってほしかったかも。彼の役、最初はLiam Neesonのとこに行ったって。でもLiamだとちょっと違うかなー。

誰と誰がトーナメントのように撃ちあったり火を放ったり殺し合いながら、最後に生き残ってそこから走り去るのは誰なのか、最後の方に割りこんでくる「組織」の大物も含めて、全体の絵姿としてはとってもよいかんじで、あーおもしろかった、でおわる。

これ、大阪のIR案件をネタにガチのやくざ/警察ものとして日本でも誰か撮ってくれないかしらー。当然、宗教法人も政治家も絡んでくるの。昔はこんなのいっぱいあったと思うけど。

8.02.2022

[film] Judge Priest (1934)

7月24日、日曜日の午後、シネマヴェーラのジョン・フォード特集での2本。
『プリースト判事』とそのリメイク版を続けて。ジョン・フォードって悲しいのとか楽しいのとか泣けるのとかの起伏が激しいと思うのだが、これは間違いなく「楽しいフォード」の方の1本。

原作はIrvin S. Cobbの人気シリーズ – 70くらいストーリーがあるって - で、なんとか捕物帳、というほどではないけど、町の騒動記、みたいなかんじの。公開した年の大ヒット作品だったという。

1890年、プリースト判事(Will Rogers)は南軍の退役軍人で、ケンタッキーの小さな町の判事をやっているのだが、裁判中に新聞読んでいたり平気で脇道に逸れていったりあまり真面目に仕事をしているかんじはなくて、みんなに好かれる気のよいおじさん、ふうで、親友は黒人の使用人のJeff Poindexter (Stepin Fetchit)だったり。

プリーストの甥のJerome (Tom Brown)が法律の勉強を終えて実家に戻ってきて、判事の隣の家に暮らす少女Ellie May (Anita Louise)をちょっと好きになるのだが、Jeromeのママはそんな父親が誰かもわからないような娘との結婚は許しません、て言ってて、そんなある日、無口で怪しげな男Bob Gillis (David Landau)が巻きこまれている刺殺事件の裁判が開かれ、日頃から判事をよく思っていない検事がいきなりプリーストの罷免を要求してきたので、判事ははいよ、ってあっさり下りちゃって、でもBobの弁護を担当したJeromeが劣勢になってくるとプリーストが弁護人として立ちあがり、そこで彼が語ったある過去のこと..

途中から筋立てとか人間関係はなんとなくわかるし、それらに乗せられるに決まっているのに、やっぱりまんまと乗せられてじーんとなったってぜんぜんよいの。みんなよく知っているフォスターを中心に南部の民謡が心地よく流れて、裁判の山場になると裁判所の外で南部のDixieがじゃんじゃか鳴り始めて、そのなかで語られる南北戦争の伝説のようなお話し – でもこれって伝説なんかじゃないよ、って。

陪審員席にいるFrancis Fordが痰壺めがけてspitして正確に落っことす - 壺をどこに移動してもぜったいに! - そのクリアな音も含めて、お見事! よかったねえ、ってなるの。


The Sun Shines Bright (1953)

『プリースト判事』に続けて見ました。邦題は『太陽は光り輝く』。
映画館に貼ってあったポスターがきれいな緑のカラーだったのでカラー作品かと思ったらモノクロだった。

プリースト判事を主人公とする原作は同じのシリーズだが、いくつかの短編をミックスしたもののようで、話の流れも登場人物も結構違ってて、通常のリメイクとはややちがうかも。

プリースト判事役はCharles Winningerに替わっていて、前のWill Rogersよりも丸っこく朗らかでおしゃべり好きで暖かみがある南部/南軍の人、というかんじ。Will Rogersの一見したところ暗そうで、なに考えてるのかわからない得体も底も知れない方が個人的にはやや好きかも。

蒸気船で若いAshby Corwin (John Russell)が故郷に帰ってきて、地元の医者の養女であるLucy (Arleen Whelan)のことを好きになって、という↑に似たエピソードと、黒人の少年のU.S. Grant Woodford (Elzie Emanuel)がレイプ容疑をかけられて町の連中と犬に追われてリンチされそうになる話と、町に現れて突然行き倒れて亡くなった女性が誰なのか、もうひとり、法廷に現れた謎めいた黒衣のMallie Cramp (Eve March)は何者なのか、という話に、次の判事選挙を控えたプリーストは北部出の宿敵Horace K. Maydew (Milburn Stone)に勝つことができるのか - あんま勝とうとしているようには見えないけど..  などが絡んでいって、最後にはそもそも我々はどこから来たのか、のような地点まで連れていかれてしまう。

プリースト判事の朗らかな笑顔の反対側で、1934年版のより個々のエピソードはシリアスで重くて、裁判とか選挙だとかを放ったままたったひとりの無音の行進がうねりをもったパレードに変わっていく様は圧巻で、これはなんだ? ってなる。攻撃的な人種差別があり、当然のような顔で現れてくる女性差別や偏見があり、生々しい戦争の傷と記憶もあり、それはともかく南軍も将軍 - General Fairfield (James Kirkwood) - も万歳で、こんなんでよいのか? という問いかけは一切なく、将来よりも死者に対する弔意が優先なんだから、ひとは救われなければならないものだから、って。これに関してはそういうもんだよね、って見ただけで納得させられてしまう問答無用の強さがある。  ”He saved us from ourselves.”

これが最後の映画出演となるFrancis Fordのよれよれぶりも素敵ったらない。彼だけじゃない、どんな人だってどこを向いたってがっちりそこにいて、太陽は光り輝いて、その – どう形容したらよいのかわからない圧倒的なそこにいる/ある正しさというかなんというか。お手あげ。

そしてこれって最近の「国葬」を巡るグロテスクなあれらとはまったくぜんぜん別の話だからー。

それにしても、蓮實重彦インタビュー(後編)の「次はヴァージニア・ウルフ」にはちょっとびっくりした。そうなの?…

[film] Straight Shooting (1917)

7月23日の夕方、シネマヴェーラのジョン・フォード特集で『捜索者』から1本おいて、見ました。
この日、これの前の『香も高きケンタッキー』+トークなんて気がついたら売り切れでぜんぜん無理だった。

フォードの、現存していて見ることのできる最古の作品だという。
もちろんサイレントで、邦題は『誉の名手』。画面上の監督名の表記はJack Ford。

最初のショットはこちらに向かってくる牛の群れと彼らが降りていった平原を見下ろす馬たちと人、なの。

ずっとそこに暮らして帝国を築いてきた牧場主と、そこに入植してきた者たちの対立が続いている土地で、入植者のSweet Water Sims (George Berrell)とお兄さんのTed (Ted Brooks)と妹のJoan (Molly Malone)の3人家族がいて、粗末な掘っ立て小屋で真面目に平和に暮らしているのに牧場主側はなんとか追い出そうとしていて、お尋ね者の凄腕 - Cheyenne Harry (Harry Carey)を味方につけようと、$1000の張り紙をだす。そしたら木の切り株から「呼んだか?」っていきなり顔を出すHarryがなんかすごい。

入植者側は水飲み場も柵で囲ったりしているのだが、ある晩あんま考えずにそれを跨いでしまったTedが撃たれて亡くなって、父と妹の嘆き悲しむ姿を見たHarryは彼らの側につくことにして、Harryの悪仲間も後で合流して束になってやってくる牧場主側を入植者たちが迎え撃つの。それだけ。なんだけど、ロングでとらえた丘や谷を走り抜けていく馬たちの姿とか、家のなかから外の景色をとらえるところ - 『捜索者』(1956)のあれを既に - とかがすばらしく素敵で、それだけでうっとり盛りあがるのと、それに加えて牧場主たちが家のまわりを囲んでぐるぐる回るところとそれを屋内から狙って倒していくとこなんて『天国の門』(1980) - 『天国の門』の舞台って1890年だからこの映画の頃とそんなに違わないのか ー。

遠くで動いているものをまっすぐ狙って撃って(Straight Shooting – それだけの意味じゃないかもだけど)倒す、そのためには遠くのものがどんな動き(こちらに全速力で向かってくるのであればなんかやばいかも)をしているのか、それはいったい敵なのか味方なのか、などがわかっている必要があって、そのためにはそれがどこから来たどんな奴で、なんで倒されなければならないのかが説明されたりしている必要があって、こうして西部劇と呼ばれるジャンルを構成する基本要素みたいなのが明らかにされて、そうやって得られるカタルシスのようなものも遠近の解像度こみで既に繰り広げられていたりしていて、これが最初期の1本って、すごくないだろうか。

Harry CareyってThe FallのMark E. Smithにどこかしら似ているかんじがしてすき。


Hell Bent (1918)

7月24日、日曜日の昼のジョン・フォード特集で見ました。53分。邦題は『砂に埋もれて』 - 直訳の「地獄絵図」ってほどでもないかも。

最初に書斎にいる小説家が、ヒーローなんていないのだからもっとふつうの人とかを題材にした方が.. って出版社から大きなお世話の手紙を貰って、ふうむって壁にかかった額縁の絵 - 酒場で複数の人が倒れている - 絵としてはあんまし - を見ているとカメラが寄っていって、絵のなかのあれこれが動きだすの。

これもCheyenne Harry (Harry Carey)のお話しで、さっきの絵にあった酒場からいかさまで逃げ出した彼は馬と共に川を超えてダンスホールの裏手にあるホテルに流れ着いて、でっかい馬ごと階段を上がってCimmaron Bill (Duke Lee)が寝ていた部屋に押し入って、ふたりは相棒になり、馬は寝具を食べちゃうの。

それと極悪連中を率いた悪党のBeau Ross (Joseph Harris)がいて、こいつら馬でものすごい高いところから駆け降りて強盗でもなんでもやっちゃう奴らで、Harryがちょっと好きになったダンスホールの踊り子のBess (Neva Gerber)の兄となんか企んで、そのうち彼女を浚ってしまうので、Harryは捜索者になって地の果てまで追っかけていくの。

↑の『誉の名手』と同じように遠く馬の暴れようとか坂道を下りていくところとか馬車が崖から転げ落ちるとことか魔法のようによく見える(特殊なことなんもしてない)のでなんか(彼方であれこれ動いているだけで)すごいぞ、って痺れっぱなしなのと、ロバとか子犬とか大量の馬のお尻とか、同じ顔のウェイターふたりとか、サイレントなのに音痴なCimmaron Billとか、怪しげなのもいっぱい出て来て、最後は↑にあった馬のぐるぐる回りと同じように幻惑効果たっぷりの砂漠をいく馬の影とか蜃気楼とかが見えて、みんな砂嵐に埋もれていって、お馬を横にして毛布被せて一緒に横になったりしてて、実際そうやって生き延びようとしたのだろうなー、とか。

こうして、砂に埋もれてひとりは生き残るのだが、これって冒頭の小説家せんせいの件とはどう繋がるのかしら?

8.01.2022

[film] The Searchers (1956)

7月17日から22日の朝まではインドネシアとシンガポールに行っていた。機内では2本見た。

7月23日、土曜日の昼、シネマヴェーラで始まったジョン・フォード特集で見ました。
これだけ感染が酷くなっているし、フォードの映画なら探せばストリーミングでいくらでも見れるはずなのだが、大画面でおさらいしておきたい(これが最後だから)って思っていそうな老人たちが押し寄せている印象。 念のため、と朝の9時に並んでも前には結構いたのでびっくり。

たぶん、この特集の直接のきっかけとなった、出たばかりの蓮實重彦著 『ジョン・フォード論』の影響はもちろんある。この日の窓口で副読本として買ってとりあえず読んでいくと、ものすごくいろんなことがよくわかって見えてくる(気がしてしまう)のがすごいったら。

邦題は『捜索者』。ゴダールが泣いた、だので問答無用のクラシックとされていて、そうかも?/どうなの? って問いかけながら見て、ものすごく集中して自分が捜索者となって彷徨いながら見てしまうのだが、あと2~3回は見ないとわかんないかも。前回見たのは確かNYのFilm Forumだったと思うが、このときもそんなことを思ったのだった。

オープニングとエンディングの暗い(黒枠の)室内から明るい荒野の光景が切り取られていて、その枠に遠くの向こうから入ってくるEthan Edwards (John Wayne)がオープニング、その枠に入ることができずに外でひとり佇んで背中を向けてしまうEthanの後姿がエンディング。 フォード曰く「家族の一員になることの出来なかった一匹狼の悲劇」である、と。家族の一員になれない一匹狼はかわいそうなのかえ? ってやや突っ込みたくなる今日この頃。

1868年のテキサス、南北戦争に南軍として従軍していたEthanが故郷の兄の家に久々に戻ってきて歓待されてすぐ、コマンチ族に牛を盗まれたという連絡がきて、近隣の男たちが揃って探しにでるのだがそれが罠で、戻ってみると家族は皆殺しにされ、姪のLucy (Pippa Scott)とDebbieが拐われていた。復讐の鬼となったEthanはMartin (Jeffrey Hunter)とLucyの婚約者のBrad (Harry Carey Jr.)の3人でコマンチ族の足取りを地の果てまで追ってそのまま5~6年、Lucyが殺されているのを見つけたBradは絶望にまみれてひとり敵地に突撃していって死んじゃって、残った2人でようやく見つけたDebbie (Natalie Wood)はコマンチ族の宿敵Scar (Henry Brandon) - 彼も白人に家族を殺されている - の娘として育てられていて、Ethanたちのことなんて言葉も含めてちゃんと憶えていないらしいのを発見してしまう。

背景とか経緯にはいろいろあって、Ethanと兄嫁のMartha (Dorothy Jordan)はかつて想いあっていたらしいとか、血の繋がりのないインディアンの混血の子MartinのことをEthanはよく思っていないとか、おそらく南北戦争のPTSDとか、そこにはそもそもの歪められた愛とか偏見とか差別意識とかがいろいろ埋めこまれていて、全体としてEthanの中で煮えたぎる憎悪の炎とそこにかけられた鍋はドラマの向かう先としてわからなくはないがまったく感情移入できるものではなくて、見れば見るほどおそろしい化け物に変貌していくのをドラマはそのまま放置している。

捜索行為そのものは正当化されるものだろうし、憎悪の連鎖があったとはいえ、そもそも無差別に殺して拐っていった連中が悪いのは百も承知の上で、Ethanを傷を負って呪われた、取り憑かれてダークサイドに堕ちたものとして描くことにどんな意味があるのかないのか。 さらにこの作品のテーマに倫理的ななにかを求めようとしてしまうのは自分の中のなにが要因だったりするのか、等について、考えて始めると止まらなくなる。

そういうのが全て集約されているのが、最後にEthanがDebbieを高く抱きあげるシーンで、Debbieが抵抗して暴れてEthanがやむなく締めあげたっておかしくない - いろんなぎりぎりのところを回避してああいうことになる、あの瞬間を引き起こしたのはどちら側のなんだったのだろう? って。あれは、あの描き方は、果たしてよいことだったのかしら? とか。

もしEthanが現代に生きていたら、ネットに入り浸るだけの変質者になっているかもしれない。そのまま気がつけば5年が過ぎている。それくらい彼のなかみも彼に流れている時間も空っぽになったまま穴があいてて、なんだか薄らこわい。

最後に再びひとりになってしまうEthan、あれってなんだかかっこいい態度のように思われがちだけど、結局面倒な家のなかの家事雑事を放棄して映画館やパチンコ屋に入り浸ろうとするやくざな男たちと変わらないのでだめなんじゃないか、いきなり新キャラの誰か - Maureen O'Haraしか思いつかない - が出てきて、あんたなにひとりで佇んでんのよ料理手伝いなさいよ、って耳を引っ張って屋内に引きずりこむべきではなかったか。

[film] The Gray Man (2022)

もうとうに彼方に去ってしまった7月の16日の土曜日の夕方、シネマート新宿の音のでっかいとこで見ました。おうちのNetflixでも見れるのだが、画面も音もでっかい方がよいに決まってるし。

監督はAnthony and JoeのRusso Brothers、原作はMark Greaneyによる2009年の同名小説。2011年にJames Grayによる映画化が発表になったあと、監督としてBrad PittとかCharlize Theron(男女反転バージョン)の名前がでて(どれも見たい)、ようやく兄弟のとこに落ち着いた、と。

2003年、CIAの捜査官Donald Fitzroy (Billy Bob Thornton)が父親を殺して収監されている男に取引を持ちかけて、ずっとこのままここにいるか、我々の仕事に協力するためにここを出るかを迫って、男はそのプログラム”Sierra”に入ることにしてCIAの殺し屋”Sierra Six" (Ryan Gosling)になる。 立ち位置としては正義の白でも悪の黒でもない、けどおおっぴらに人を殺したりできる「グレイマン」である、と。

最初はバンコクで。SixはCIAのDani Miranda (Ana de Armas)と協力して国家機密を盗んだとされるターゲットを暗殺する任務について、でもその場に子供がいたので実行できず、ターゲットと直接やりあうことになるとそいつは実は”Sierra Four”で、国家機密というのはCIA内の昇り竜Denny Carmichael (Regé-Jean Page)のいろんな闇の悪事が詰めこんであるのだ、と語る。

そのドライブを手にしたSixはCarmichaelの説得を無視してそれをプラハの元CIAに送って、Fitzroyに脱出要請をするのだが、Carmichaelは情け容赦ない元CIAの殺し屋Lloyd (Chris Evans)を雇い、Fitzroyと彼の姪のClaire (Julia Butters)を誘拐してFitzroyを拷問しておらおら駆け引きして、Lloydは世界の殺し屋ネットワークに呼びかけてSixを葬るべくLone Wolf (Dhanush)とかやばいのが集まってくる。 他方でドライブの中身を見ちゃったSixとMirandaはー。

プロットとしては、最近の007でもMIでもお馴染みの諜報機関にはびこるコンプライアンス問題を自身もアンチコンプラの塊のようなエージェント(たち)が駆け引きして裏切ったり裏切られたりしながら世界中に莫大な迷惑をかけつつ転がして追いかけっこしていくのと、そこに彼/彼女しか頼る先のないひ弱な子供 - たいていちょっと生意気な美少女 - が絡まってくるやつ。 目新しいところは見事に、なにひとつないったら。

アクションについては”Captain America: The Winter Soldier” (2014)や”Captain America: Civil War” (2016) - これらはよかった - で見られた真近で組みあう接近戦とそれをやや俯瞰した角度からの迎撃とか爆撃とかを遠近交互の組合せでかっこよく見せていくやつで、これってAvengersみたいに多様な敵味方や乗り物が入り乱れるときにはおお、ってなるけど今回のようにある程度やりあう連中が固定されていて秘密兵器や飛び道具もない状態だとどうしても単調になってしまうかも。

あと、多少偏見が入っているのかもだけど、Ryan Goslingのアクションて至近距離の突いたり刺したりのダンス寄りのは向いている - “Drive” (2011) のような - けど真正面からどつきあう系のストレートなパワーバトルだとどうしても線の細さが出てしまうような。そしてChris Evansの方は - なんであんたチョビ髭であんなシャツ着てるの? ばかりが気になってやはり集中できないし、彼のあの終わり方はあんましではないか。

あと、場面場面でちょこちょこ過去の出来事 - DVのこととかが挿入されてくるのが適度に勢いを削いでくれて、あんま好きになれない。最近のTVみたいなかんじなのか、ああいう注釈の入れ方がなにかを説明してくれてそれでああーってなったりする、とでも思っているのかしら?

あと、Russo兄弟の世界観としては、HYDRAがそうだったように悪(人)の世界は決して消滅しない - 特に世の中を動かすお役所の世界では、ってことよね。わかんなくはないけど、結局シリーズ化するためにはそうするしかないのか、とかそっちの方を思ってしまう。

次、Ryan Goslingで継続なら敵方はEmma Stoneにしてほしい。それからなにかがあって適度に記憶を失っててほしい。あと、彼の映画ってアナログプレイヤーがよく出てこない? - “Crazy, Stupid, Love.” (2011)とか。(彼に関して注文ばかりつけたくなるのはなんでか)