3.31.2012

[film] The Turin Horse (2011)

『戦火の馬』が朝9:50の回、『ニーチェの馬』が13:50の回。 ぜんぜん会社休んだ気がしない。

馬の映画ではなく、ニーチェの映画でもなくて、そういうのは頭に入れずに見たほうがいい。
父と娘と馬の、世界が終るまでの6日間。 世界はこうして終っていく、ということをシンプルに、同時にとてつもなく饒舌に描く。

ぼうぼうに吹き続ける嵐の音、不機嫌なおならのように鳴り続けるオルガンの音、モノクロで、画面全体に虫のように集って舞い続ける白と黒の粒粒。 目と耳に襲いかかるノイズにわんわん曝され続ける154分。
あんまりにもやかましいので画面に向かうことしかできない。
彼らが向き合う窓はそのまま映画のフレームで、呪われた嵐が我々をも椅子に縛りつけてしまう。

町から焼酎を貰いに来た男は世界と神の堕落、その終わりを説き、馬車できた男女のグループはアメリカに行けばなんとか、と言い、そいつらに「失せろ」と言った後、井戸の水が涸れ、馬がなにも食べなくなり、ランプが点かなくなり、ひともやがて食べなくなって闇が。

思索的な寓話、みたいな読み方もできなくはないのだろうが、そんなことしなくても、難しいところはなにもない。 彼らは殆どしゃべらないし、彼らの動きに不鮮明なところはなにもない。
力強い父親の顔、娘の顔、彼らが扉のむこうに出ていくショット。じっと見るだけ。
服を着せる、井戸水を運ぶ、洗濯物を干す、竃に薪をくべる、じゃがいもを食べる、皿を片付ける、その反復。  じっと見るの。

世界がこんなふうに終わり、光がこんなふうになくなるのであれば、映画もそういうふうに終るのだろう。だから映画はもう撮らない、という見方をするのはあまりにわかりやすくて短絡だし、あれこれ言うべきではない。
むしろこれまで、映画のなかで、世界は何万回でも終ることができるし、終ってきたのだ、ということに思いを馳せるべきなのだろう。 それがなんになるのか、をへらへらと躱しつつ転がしつつ。

いまの邦画だと「いや、それでもおれは生きる!(ぎんぎん)」とか、「そばにいてほしいの(べたべた)」とか、幸福だの奇跡だの、そんなのばっかりで、そういう症例(だよね)として示されるげろげろに気色悪い「終わり」と比べたら、こっちのがだんぜん潔くてかっこいいと思いましたわ。

3.30.2012

[film] War Horse (2011)

木曜日は晩にライブがあったので会社を休んだ。
なんで会社を休んだかというと、日本のライブというのはふつーに会社勤めをしているひとがその帰りにさくっと寄れるような時間帯に始まってくれないからである。(なんどでも言ってやる)

んで、昼間は映画を2本みました。
どうせだから(なにが「どうせ」だ)、馬映画対決、ということで『戦火の馬』と『ニーチェの馬』を続けて見てみることにした。 .... 死ぬほどつかれるのでおすすめしない。

『戦火の馬』はふつうによかった。
もともとお芝居だから台詞はなんか大仰だし、子供がこわがらないように陰惨な描写はないし、CGも同様にわかりやすくてなんかごてごてしてるし、うーむ、みたいなとこもあるけど、でもいいの。

ジョーイがエミリーと出会うあたりからぐいぐい引きこまれ、馬に引き摺られていく。どこに連れていかれるのかは馬にもわからない、ただなすすべもなく引き回され、同時に引き摺られていく妙な心地よさがあるの。 馬の映画だからぜんぶ馬が。

しかし馬がきつそうになっているとこって、ひとがそうなっているとこよりもずっと胸をしめつけられてしまうのはなんでなのか。 しかも戦争だし。 言われなくても戦争反対になるわ。

鉄条網に絡まって動けなくなったジョーイをみんなが口笛で呼んでいくとことかいいよねえ。
で、そこであの再会のシーンがわかっちゃうのね。 わざわざ。

あと、おじいちゃんが別れ際に「エミリーだよ」「彼女の名前はエミリーっていうんだ」ていうとこは泣いちゃうねえ。
おじいちゃんを演じていたのは、こないだ見た『預言者』で牢名主のセザールだったひと。強そうだけど、まわりにひとがいなくなっていく哀しさも出せるひと。

ああしかし、Emily Watsonも、あんなおっかさんを演じるようになっちゃったのな。

[film] Death Race 2000 (1975)

火曜日の晩に新宿で見ました。 
もうじきやるRoger Cormanのドキュメンタリー上映にあわせて週替わりで上映されるシリーズ『夜コーマン』の最初のやつで、バイオレンス編の1本。 この作品、彼は監督はしてなくてプロデュースのみ。

NYから大陸を横断して速さと轢いたひと(の数と種類)をスコアにして一番を決めるデスレース。
エントリーしたのは5組で、一番人気のFrankensteinさんと、ライバルのマシンガンヂョー、その他いろいろ。 いちいち書くのもめんどうだわ。

FrankensteinさんがDavid Carradine(キル・ビルのビルね)、ヂョーがまだぴちぴちのSylvester Stallone。 その他は轢かれたり脱いだり爆発したりいっぱいしているだけで、どうでもいいかんじ。

大統領と繋がっていて暴力レースの象徴でもあるFrankensteinを葬るべく、裏でレジスタンスが暗躍したりするものの、基本は裏も表もくそもないすっからかんで、しかも半端な近未来(2000年)だもんだからあらゆるつっこみはその手前でふにゃふにゃと萎えてしまう。
同じ近未来系のジャンクだったら2010年のCannon特集で見た"The Apple" (1980)のがまだ食いつきがいがあったかも。

んでも、こんなんでぜんぜんよいの。 映画なんてこんなもんで。

あと、バイオレンスという割にはこわくない。それはそれはこわくない。
車はめちゃくちゃ速いけど、それだけ。車に角とかいっぱい生えているけど、それらが殺人マシーンとして機能するわけではない。ただひたすらぶんぶん爆走するのみ。暴走族とあんま大差なし。
音楽もなんかとっても変だ。 プログレふーじょんみたいのがびょーん、て。

あと、実況アナウンサーとかの怪しくバカなかんじ、いまもSNLとかで普通にやってるあれ、の起源てどのへんなんだろうか? 

アナウンサーといえば、Will Ferrellの"Anchorman 2"がついに発表になりましたね。
監督はAdam McKay!!  今年いちばんの楽しみだわ。

3.28.2012

[film] Lemming (2005)

日曜日に京橋で見ました。 シャルロットが今回の特集のパンフの表紙になっているやつ。

エンジニアのアランは引き抜きで新しい会社に来て、それにあわせて郊外の新しい家に引っ越して、新製品のデモもうまくいって、奥さんはシャルロットだし、とっても幸せで、新居に会社の社長夫妻を招いてお食事することにする。

時間にすごく遅れてきた社長夫妻の奥さん(アリス)の様子がえらく変でサングラスしたまま、突然癇癪おこして帰ってしまうの。

その少し前、会食の支度をしているときに台所のシンクの水が流れなくなって、夜にアランが下の排水口を調べていると、間になんかが詰まっているのを見つけて、つまんでみると毛玉みたいのがずるずる出てきて(ちぎれた男根かと思ったのにさ)、なんかネズミみたいなやつで、夜中に見てみたらそいつは虫の息だけど生きていた。 で、翌日獣医のところに持っていったらそいつは北欧にしかいないはずのレミングで、どこから来たんでしょうねー、とか言われる。 レミングってあれですよ、向こう側に渡ろうとしてみんなばたばた死んでいっちゃうやつ、天井桟敷のあれ(とまでは言わないけど)。

それからあれこれ変なことが起こりはじめて、アランが残業しているとアリスが突然現れて誘惑したりするし、そのあとでアリスはおうちのほうにもふらりと現れて、しょうがないので中に入れてあげるとおたくのだんなを誘惑してみたとかあれこれ言った後で気分がわるい休みたい、と部屋に籠ってしまう。
夜になっても居座り続けるので、アランも帰ってきて説得してみたりするが、ふたたび癇癪をおこして室内をぐじゃぐじゃにして銃で頭ぶちぬいて自殺しちゃうの。 (... 一同ぼーぜん)

で、レミングは元気になって戻ってくる一方、不機嫌と不寛容がシャルロットにも伝染してきて、アランは変な妄想とかいっぱいするようになって、だんだんと家庭が壊れていくの。 
少し休んだほうが、とふたりで社長が持っている湖畔の小屋にも行ってみるのだが、更におかしくなってしまい... (なんとなく"Shining"みたいなかんじもする)。

プレーンな家庭に理不尽なかたちで浸食してきて伝染する不機嫌、みたいなテーマはなんとなく黒沢清、という気もするのだが(そこまで彼の映画見てない)、とにかくふたりのシャルロットがずばぬけておっかなくてこわくて泣きたくなる。 Lars von Trierはこれ見て"Antichrist"と"Melancholia"作ったんだと思う。  特にCharlotte Ramplingのほうがさあ、なんであんなおそろしい目できるかなあ。

あともういっこは、これって御家庭によくある配管のつまりみたいなもん、ていう見方もあって、アランが仕事で開発したプロペラ付き空中移動WebCameraがぶうんて活躍したりするのだが、でもそれであの怖さが和らぐわけではまったくないのだった。

ラストにほんわか流れるThe Mamas & the Papasの"Dream a Little Dream of Me"がものすごくしらじらしく聴こえておかしいの。

一度でよいので、シャルロットふたりがほのぼの嫁姑するホームドラマとか、見てみたいものだ。

教訓は、転職と上司には気をつけよう、かな。

[film] The Girl with the Dragon Tattoo (2011)

土曜日、サイレントの後で、やっかましいのをもう一回みました。

R18+バージョンってなんじゃろ、と思ったのだが、よくわかんなかった。
一番期待したのはケツの穴だったのだが、見してくれなくて、Londonで見たのと同じバージョンだったような。(ひょっとしたらR18- バージョンのほうに穴は ...)

やっぱし犯人が誰、というのは割とどうでもよくて、あの一族の物語、というのもどうでもよくて、結局のところ、傷を負ったもの、傷を曝すものが、なにか - 同様に傷を負っているなにか - を追っかけて暴こうとする、その過程がまんなかにある物語なのだとおもった。

"The Social Network"も、そんなようなお話だった。 この話の核は、Facebookがどういうふうにでっかくなっていったか、にあるのではなく、あの審問の過程で明らかになる、裏側で蠢いていたなにか、否応なしに引き起こされて波風をたてたなにか、だった。
そこにはっきりとした外傷はない、けれどもなにかによって傷ついた誰かが引き起こした一連のイベント、その痕跡のようなものがあの映画のベーストラックにはなかったろうか。 
かたちを持たない、なんかぐにゃぐにゃした健常ではないなにか(Fragile, Nerd... と言ってよいのかどうか)があの起業~大成功の裏にはあった、と。

"… Dragon Tattoo"は、傷への執着がより顕著にでている。
彼女の刺青って肌の表面に傷をつけて、それを曝すことだし、あのブタ野郎に受けた傷は別の傷でもってはっきりと返すし、LisbethがMikaelと親密になるのは彼の額の傷を縫ってあげたあとだし、彼女の瞳が憎悪に燃えあがるのは、ひとつの失踪事件が複数の死傷の軌跡として地図上の獣道にマップされたその瞬間、ではなかったか。

他から理不尽に受ける傷への尋常でない嫌悪と執着、自身は傷と共に、傷を負った状態で生きるという強固な意志、一つの人格のなかで、このふたつは分裂も矛盾もしない。 そして同時に奇妙な連帯 - 連帯への意志を生んでいく。  "The Social Network"のラストはEricaへの友達になってという呼びかけで終わるし、これはLisbethはMikaelのことを「友達」、と呼ぶ。 そしてどちらも結末は苦い。

この要素が原作に本来あったものなのか、David Fincherのものなのかはわからないが、傷や痛みをかつて"My Sweetest Friend"と呼んだTrent Reznorの音がここにみごとにはまるのは当然のことなの。 ラストには"Hurt"が鳴ってもおかしくなかったのにな。

3.26.2012

[film] For Heaven's Sake (1926)

土曜日、引き続きシネマヴェーラでサイレント特集みました。

最初のがグリフィス短編集で、わたしはグリフィスも映画史もぜーんぜん知らないのだが、でもおもしろかった。
上映されたのは以下の5本。 どれも100歳を超えている映画とは思えない若さ。

① The Renunciation (1909) 『断念』
② The Battle (1911) 『戦闘』
③ The Musketeers of Pig Alley (1912)  『ピッグ横丁のならず者』
④ The Girl and Her Trust (1912) 『少女と責務』
⑤ The New York Hat (1912) 『ニューヨークの帽子』

①はひとりの女性をめぐって決闘をすることになるふたりのぼんくらの挙動とその繰り返しがおかしいし、②は戦闘のただなかの混乱がそこらの大河ドラマの100倍はかっこよいし、③はならず者たちの顔がまあすごいし、④は汽車がむきになってトロッコを追っかけるとこが楽しいし、⑤はMary Pickford vs そこらのおばさん、がすてきだし、どれもそのまま中長編にできそうなスケールのでっかさでこちらに向かってくる。

③のブタ横丁のは、映画史上初のギャングもので、ロケのときのエキストラにはリアルギャングがいるって、imdbに出てた。 ほんとすごいんだよ、出てくる連中の目つきと目配せでぞろぞろ抜けていくとことか。 ぜんぜん堅気じゃないの。

あと③とか⑤はNJのFort Leeの撮影所で撮られているって。 この頃はあそこに撮影所があったんだね。

続いてみたのが、"For Heaven's Sake" (1926)。『ロイドの福の神』。

キャスト紹介がおもしろくて、The Uptown Boyがロイドで、The Downtown GirlがJobyna Ralston、ロイドは洪水のようにじゃぶじゃぶ金を使えるおお金持ちで、彼女はダウンタウンで浮浪者向けに伝道兼慈善事業でコーヒースタンドをやってて、ある日ロイドが誤ってそのスタンドを燃やしちゃった弁償で$1000の小切手置いていったのを寄付だと新聞に書かれて、そんなのするもんか、て文句つけにいったらそこにいたDowntown Girlに一目惚れしちゃうの。

コーヒースタンドは寄合カフェみたいのにリフォームされて、ひともいっぱい集まって(もちろんほとんど事故でだけど)、幸せになったふたりは結婚することにする。 Uptownの彼の仲間はそれを快く思わなくて、彼を改心させるべく式の当日に彼を拉致するの。
で、お祝いに集まった浮浪者連中は酔っぱらって怒りくるって、社交クラブに乗り込んでいって...  そっから先はわかるよね。

いろんなボタンの掛けちがい、小さな火の不始末が延焼していって大惨事の大火事に、というあれよあれよとコトが転がっていく楽しさと、それを適当な顔とふりで、でもありえないようなアクロバティックな身のこなしで、ひょいひょい片づけていく(で、そのお片づけも惨事の一部にぐるぐる巻かれていってしまう)爽快さがいつものようにたまんない。

この作品だと、社交クラブに乗り込んでいった5人の酔っ払いをロイドがなんとかバスに押しこんでがんがん走っていくとことか。
バスも酔っ払いも、なにひとつ制御できない、なのにとりあえずなんとかなってしまう、みんな幸せなとこに狙ってもいないのに超特急で転落していく、このいいかげんさがすんばらしい。

ここのUptownとDowntownはNYのそれではなくて、たぶんロスかどこか。
でも、リフォームされた浮浪者カフェは、どこかしらSOHOのUsed Book Cafeに似ているのだった。

3.25.2012

[film] The Student Prince in Old Heidelberg (1927)

19からの一週間はふんとにろくなもんではなくて、春分の日もずうっと仕事だった。
そいで、金曜日の午後は低気圧で更にがしがし踏んづけられて、もうだめぜったいむり、と抜けて8時から見ました。 シネマヴェーラのサイレント特集。

伴奏もなんもつかないほんとのサイレント、字幕映写機が壊れたとかで英語字幕のみ、ぜったい寝る、と思うでしょ、でも寝ない、寝れない。 試験会場みたいに静かで画面に向き合うことしかできない、ほかにすることがないので、映画がそのまま体内にがんがん入ってくるかんじ。
爆音の、映画に包まれるかんじとは180度異なるのだが、これはこれで変に気持ちよいの。

最初のが、"Three Ages" (1923) - 『キートンの恋愛三代記』
①石器時代 ②ローマ時代 ③現代の3つの時代、それぞれの時代における恋愛の各フェーズ - a) ライバルの出現とあっさり敗れ b) 別のを探すけどこれも失敗 c) 対決 - でもやっぱし無理 d) 大逆転 e) エピローグ - 毎に① → ② → ③が繰り返されていく。 どれもいちいちおもしろいよう。

動物がいっぱい出てくるの。
恐竜、マンモス(象だとおもったら牙が巻いてあった)、亀、馬(4頭だての馬車、とおもったらうち1匹はなぜかロバ)、犬車、犬車を人参になってひっぱるネコ、ライオン、などなど。

ビルに飛んでって落っこちるとことか、すごいんだよ。

それから見たのが、"The Student Prince in Old Heidelberg" (1927) - 『思ひ出』。

ところどころボケボケになるし(客が2回文句いいにいった)、ラスト15分は裏焼きっていうやつで左右が反転(どうなるかというと、英語字幕が左右逆さまになるのであっぷあっぷする。あと顔も左右が逆になるので印象がちょっと変わる)してるし、大変だったのであるが、でもそれでも、ほんとうに素敵だったの。 伴奏がはいったちゃんとしたバージョンで見たら大泣きしたかも。

みんなに慕われて大事に大事に育てられた王子様Karl Heinrichが彼の師であるDr.Jüttner(なんとなくベンヤミンに似てる)と共にハイデルベルクの大学に行くことになって、そこの学生達とバカ騒ぎして、そこの下宿屋の娘Kathiと恋に落ちるの。 結ばれない恋であることはふたりともぼんやりわかっているのだが触れないようにして、それゆえに激しく燃えあがるの。

で、王様が危篤になって彼は戻らなければならなくなって、ふたりは別れて、王はそのまま亡くなり、しょんぼりしているとこに昔の友と再会した彼はハイデルベルクに戻ってみるのだが、もう昔のようではなくなっていた…  と。

身分の違い故に結ばれない恋、青春の終わりをきちんと描く、思ひ出のなかでは全てが美しい、そこらによくある、それだけのお話ではあるのだが、そんなことよか、ふたりの恋がスパークする瞬間の眩しさが、眩しいままに描かれていて、その狂おしさが伝染してじたばたしにそうになる。 春だし、お花畑で恋したいー、とか。 

彼が彼女のケーキを食べて、「おいしい?」「おいしい!」「ほんとにおいしい??」「ほんとにおいしい!!」とか、ふたりが互いの名前を繰り返し呼びあうとこ "Karl Heinrich !" - "Kath i!!"とか、ほんとに彼らの歓喜の叫びが響きわたるんだよ。

Kathiを演じたNorma Shearerは、12月にLondonで見た"The Women" (1939)で気丈な妻Maryを演じてて、これもうまかったけど、これも素敵だったねえ。

ルビッチおそるべし(て毎回言う)。

ルビッチのサイレント、王室ものというと昨年MOMAで見た"The Oyster Princess" (1919)もおもしろくてさあ。 一部の動画があったので貼っておきますわ。

  

3.23.2012

[film] Carrément à l'Ouest (2001)

日曜日は土曜日以上に最悪で、でもどっかいかないとなんか死んじゃう気がしたので京橋に出かけて、みました。 ジャック・ドワイヨンの2001年作品、『フリーキー・ラブ!』 - タイトルはよくわからんが。  でもこれが500円なんだよ。

ヤクの売人でちんぴらのアレックスは、金払いの悪いぼんぼんをそいつの部屋で、彼女(フレッド)のいる前でどつき倒して、ちっ、て外に出るのだが、なぜか彼女のほうが後を追っかけてきて、絡んでくる。 なんだかよくわかんないまま夜のクラブに行くっつたら彼女も一緒に来るので、気があるのかと思ったら彼女はフロアにいた別の女の子(シルヴィア)を誘えとかいうので誘ってみたら、シルヴィアも変なかんじに乗ってきたので、3人でホテルに行くことにするの。

で、今の彼から離れたいとおもうフレッドと、恋人と別れたばかりのシルヴィアと、べつに愛はいらねえ金があればいいやというアレックスのじりじりもんもんした会話が続き、そうしているうちにぼんぼんがやくざを連れて乗りこんできて、アレックスの弟が対抗すべく加勢で入ってきて、ほんの少しだけきな臭くなったりするのだが、そのうちみんなに朝がやってくる、と。

昼からその翌朝までの、愛(と金)を求めてぼんやりと彷徨う約4人の若者の群像、ということでよいのか。
それにしても、たったこれだけなのに驚異的に底抜けにスリリングでおもしろいのはなんでか。

3人がホテル(安ホテルではなく、それなりにちゃんとしたとこ)に入ってからの3人の動き、それを追うカメラの動きがなんかすごいの。(撮影はカロリーヌ・シャンプティエ)

ぐさぐさの修羅場になったり乱交にいったりするわけではなく、押したり引いたりの駆け引き、誘うような誘われるような会話を続けつつ、ソファやベッドやバスルーム、エレベータホールをこまこま移動し、3人になったり、いろんな組み合わせの2人になっては離れたり戻ったりを繰りかえす。

Action Speaks Faster。 カメラの動きがまずあってその後に言葉がくる。 
「どうしてほしんだよ?」というときには既にその言葉の先のアクションが見えていて、絶妙なタイミングで返ってくるその答え、例えば「好きになっちゃったかも」は、また別の惑いと次のアクションを生んで人から人に転がっていく。 カメラの動きと連携したこの言葉の切り返しが一見ぐだぐだで煮え切らない若者たちの関係とそのなにやら切迫した様子をざっくりと切り出してくる。

ロメールの会話劇だと、言葉とアクションはぐるぐるごろごろどこまでも交錯しつつ延びていって、そのだらだら収まりのつかない感がたまんないのであるが、こっちはもっと厳格で冷酷で、あまり行き場がなくて、そのつんのめったかんじが静かな化学反応を引き起こし、別の関係や可能性を生んでいく。
でも、これって勝ち負けを決めるゲームではなくて、ゲームの手前のルールを作っているようなとこがあって、水面下で互いの像を探りあうようなそれは、恋に落ちるプロセスそのものに似ているのだった。 気がつくと外が明るくなっているのに気づく、あのかんじとかも。

あとは俳優さん - 特にまんなかの3人のすんばらしいこと。
みんなよいけど、監督の娘さん、フレッドを演じる「るー・どわいよん」- ひらがなで書くとかわいい - いいよねえ。

00年代のドワイヨン作品、ぜんぶ見たいなー。

3.21.2012

[film] mon oncle antoine (1971)

こないだの週末はお天気のせいもあって更に更にぼろぼろで、2本だけでした。
これはどしゃぶりの土曜日の晩、横浜に行ってみました。 

『僕のアントワーヌ叔父さん』。 ずっと見たかったやつ。
見てよかった。 映画のなかに出てくる鉱山から奇跡的に掘り出された宝石のような映画。

カナダのダイレクトシネマは数年前にアテネで特集があったのを見たくらい。 
あと、iPhoneのアプリのNFB/ONFにあるのとか、くらい。

ケベックの40年代、アスベスト鉱山のふもとの貧しい村で雑貨屋の丁稚として働く15歳のBenoitがいて、彼を育ててくれた雑貨屋のAntoine叔父さんがいて、叔母さんがいて、いっしょに働いている貧しい家の娘のCarmenがいて、店員のFernand(監督本人が演じる)がいる。

それから村のはずれにPoulin一家がいて、彼には子供が4人、子供達は貧しくて学校に行くこともできず、父親は鉱山で働いているがやってらんないと伐採の出稼ぎに出てしまう。
こういう村のクリスマス前から当日にかけてのいろんな出来事がBenoitの目を通して描かれる。

こないだ見た"Le Skylab" が夏の日、11歳の女の子が経験した笑いとときめきに溢れていたのに対して、こっちは凍える冬の日、クリスマスを前にしんみりと大人の世界を覗いてしまうBenoitの畏れと惑いとがまっすぐに描かれている。

大人の世界というのは、具体的には死と性とその他いろいろ。
最初のほう葬儀のシーンで描かれる遺体とか、Josの家の長男が突然亡くなってAntoine叔父さんと吹雪のなか、棺桶を持って遺体を取りにいくとことか、Carmenとのあれこれとか、コルセットを買いにきた女性を覗くとことか、叔母さんとFernandの関係とか、でもそんないろいろがある一方で、Antoine叔父さんは、遺体を取りにいった帰路、酔っぱらって動けなくなるし、おばさんはその隙に不倫してるし、途中で落としちゃった遺体を探しに元の家に戻って、刺されるように冷たい目で見られたり。

そういう世界に触れるたびに、じたばたびくびくおどおどするBenoitの目を通して、大人の世界の大変さや猥雑さを際立たせるわけでも、かといって子供の世界の無垢や純粋さを際立たせるわけでもなく、ましてや両者を融和・調合可能な幸せな理想世界として対照させることもせず、ただただその中間地帯にあるBenoitが経験していく世界、来るべきなにかと消えていくなにかを静かに描き出している。

彼が乗って前に進んでいく馬 - Red Fly - のでっかい背中の動き、同じようにでっかくてびくともしない雪のなかの棺桶、そしてそれらを見渡すBenoitのまっすぐな枯草色の瞳がとても印象的で。

Josの物思いに沈んだ顔、村人がうだうだ飲んでいるテーブル、クリスマスディスプレイのお披露目、炭鉱の上層のおやじが馬車からばらまくクリスマスのギフト、暖かいパーティ、冷たい食卓、冷たく固まった遺体、いろんな目線と眼差し、これら全てが、ほんとうにそこにある。 
ばらばらの点景であり、同時に全てが干渉しあってひとつの像を結んで、ひとつの世界としてBenoitの瞳の前に立ち現れる。 それをすべてきちんと収められる場所にカメラは置いてある。

フィルムを介して瑞々しく立ち上がる世界、というのは例えばこういうのを言うのだろう。
これが、今から40年前に撮られた、撮られた時点から30年前の世界の話だなんて、誰が信じるだろうか。 約70年前のケベックの風景、決してそれだけではなくて、でもそれだけでも十分な。

一生ずうっと本棚にいてほしい、ものすごくちゃんとした写真集に出会ったかんじ。 
でも映画館でしか出会えないの。
なあんでこれが、これまで未公開で、東では1回しか上映されないのかなあー。

[film] Sabrina (1954)

先週はなかなか殺伐とした映画が続いていて、情緒あれこれも同様に引き摺られてて、天気もひどすぎて、このままではなかなか相当よくない感じになりつつあったので、ちょっとは和めるかんじのも見ておこうと、金曜日の帰り、みゆき座でみました。 
午前10時の映画祭の映画を午後8時にみる、と。

Audrey HepburnもHumphrey BogartもWilliam HoldenもBilly Wilderもみんなそんなに好きでもないのだが、なんとなく。
Wilderって、基本はストーリーを語るひと、脚本を書くひとであって、彼に心酔するひとはその語り口とかドライブのしかたにやられてしまうのだろうが、転がし方がなんか暗いし、わざとらしいし、エロくないし、Wilder見るんだったらLubitschのが断然だよねえ、だったの。 
Wilderで一番好きなのって"The Major and the Minor" (1942) - 『少佐と少女』とかだし。

このSabrina、お話は一見楽しそうだし、なんも考えずに見ている分には楽しいのだが、なんかやっぱし変かもねえ、とか。
子供の頃からずーっとDavidのことが好きで、パーティの時に彼と彼が女をテニスコートで口説いているとことか全部見てて、それでパリに行ってからもずーっと彼のことを想い続けてて、洗練されたレディーになって戻ってきて彼と一緒になろうとする。

それって、よくよく考えるとなんかこわいんですけど。
折角パリに行って、周りにいろんな機会もいろんな男もいっぱいあったりいたりしたはずなのに、それもこれもぜんぶ断ってDavidのためだったとことか。
そして、そんな変な娘にみんな流れていくのも奇怪だ。 上流階級なんてそんなもん、かもしれんが。

べつにそこらのラブコメみたいにへらへら見て流しておけばよいのだろうが、そのへんが引っかかってあんま笑えない。Wilderが好きなひとはこのへんのとこをウィットとか苦みとかゆって、そこがたまんないのかなあ。

Humphrey BogartがCary Grant(ほんとは彼の予定だった)だったらなあ、とかね。
でも、彼がAudreyに最初にキスしたときに、彼女の首筋が動物みたいにぴくっと動くとこは好きだ。(嫌だったのかしら彼女)

95年版のSabrinaもそんなに嫌いじゃない。
でも、Julia Ormondはなんか輝きが消えてふけちゃったよねえ。 
彼女、今週公開のMarilynのでVivien Leigh役で出てくるけど、そうかあ?だったし。

それにしても、このシリーズの予告で『月の輝く夜に』が流れて、その次の本篇までの間に、『月の輝く夜に』と『麗しのサブリナ』の間に、映画泥棒のCMを挟む神経がぜんっぜんわからない。 こっちが泥棒に入られた気分だわよ。

3.16.2012

[film] Straight to Hell (1987)

木曜日の9時半くらいにみました。 ほんとは、St.Patrick's Day(17日)に見たかったのだが。

先日からのJim Jarmuschつながり、先週の"Sid and Nancy"の1年後、あのときSidが客席に向けて撃ちまくった弾が360度パノラマで大量に飛んでくる。

内容はいいよね。 自主制作レベルのぐじゃぐじゃのしっちゃかめっちゃかのどたばたが続く86分。

どいつもこいつもどっからきたのか、なにをどなったりしゃべったりしているのか、ぜんぜんわからない。 歌うたうところと、銃をぶっぱなすところと、死ぬところだけ、なにをやっているのか、なにが起こっているのかわかる。

んで、わかるとかわからないとかは、この映画の価値をこれっぽっちも左右するものではない。
そして、"Sid and Nancy"と同様、ここにはなんのドラマもない。 
車で流れてきて、犬みたいにばうばう喧嘩して、生き残った連中は去っていく、それだけなの。

例えばおなじようなのを作りそうなタランティーノなんかと比べても、だんぜん拙くて、へたくそで。

それなのに、なんでこんなに高揚してしまうのだろうねー、かっこよすぎるよねー、とほれぼれしつつ見ていた。  犬の喧嘩も撮りよう、ってことなのか。

とにかくみんな若い。 若い、というだけでこんなに笑えてしまう映画を他に知らない。
Joe StrummerもShaneもSpiderもTerry WoodsもPhilip ChevronもJim JarmuschもCait O'Riordanもみんなぴちぴち、Courtneyもぶりぶり。
公開時に見たときはJoe Strummerがあんなにさっさとこの世から消えてしまうなんてちっとも思わなかった。
そして、Shane MacGowanがずっと生き残っていることがなんか納得いかない。(一時期ほんとひどかったんだから)

やっぱしPogues行こうかなあ。

昨年の3月、Walter Readeと92Y Tribecaで2回だけ、これのDirector's Cut版、"Straight to Hell Returns"が公開されたの。 監督自身が編集とか色づけをやり直して、音も5.1 Stereoになって、オリジナルより6分長い。 いま爆音でいちばん見たいのはこれなんだけどな。

そういえば、エンディングで予告された"Back to Hell"は結局作られていないのね。

3.15.2012

[film] Broken Flowers (2005)

水曜日の晩、シネマヴェーラで見ました。ホワイトデーだし。よくわかんないけど。 
米国で公開時に見て以来の再見で、"The Limits of Control"(2009) の前の静かで落ち着いた作品、と思われているが本当にそうだったのか、とか。 

それは、はっきりと、"The Limits of Control"の序章だった。 Ip Manとおなじく、序章。 
謎めいた手紙と限られた情報を頼りに自分の息子を産んだかもしれない昔の女に会いにいく。
リストにあるのは4人、ひとりは死んでしまっている。

最初の元カノは親密で、ふたり目はぎこちなくて、三人目はやんわりと拒絶されて、四人目ははっきりと拒絶されてぶん殴られて、五人目はお墓のなかにいるので、なにも応えてくれない。 
で、彼は泣くの。
彼女たちのあてが全て外れると、今度は息子を探そうと思う。 
けど同様になにも明らかにはならない。彼はたったひとりのまま。

こうして、かつでドン・ファンと呼ばれた男は、世界中の女を自分の妻として、世界中の男を自分の息子にすることを誓って地下に潜り、やがて数年後に「自分だけが最も偉大と思っている男」として、強大な力をもって世界にその姿を現すことになるだろう。

"The Limits of Control"で、彼の本拠地がスペインにあるのは、そこがドン・ファンの里だからだ。

彼はピンクの花を持って昔の恋人のところを訪ねた。 その花は崩れ落ちて、こんどはギターの弦を武器とする男が彼を追う。
従順でひとなつこい隣人ウィンストンはもういなくて、同じ肌の色の男が、無愛想な刺客としてやってくる。

物語のポイントは、誰が最初の手紙を送ったのか、息子を産んだのは誰だったのか、という謎とその追跡にあるのではなかった。
謎の探求が頓挫し、手向けた花が萎れてしまったとき、男の頭に浮かんだ野望と彼が取るであろう行動(映画では描かれないが)を予測すべきだったのだ。 (Re: 911以降にブッシュがイラクに対してやったこと - 大量破壊兵器保持疑惑の追及はたんなる口実だった)

そこから、ブッシュが再選された時のジャームッシュの尋常ではない怒りと共に、それが発火点となって次作である"The Limits of Control"は用意されたのではなかったか。 
ジャームッシュの、倦怠と怒りに溢れた00年代の2本として。

Bill Murrayはものすごくよいねえ。 この役をGeorge ClooneyやRichard Gereができるとは思えない。 ソファにあんなふうに座って、あんなふうに寝るひとを見たことがない。

今回のシネマヴェーラの特集、そういえばBill Murrayばっかしかも。

あと、あの猫。 そう、猫だけが彼の企てを見破っていたのだよ。

エンドロールが終わったくらいのタイミングで建物がぐらぐら揺れだしたので、あ、Bill Murrayのせいだ、とすぐにおもった。

[film] Hugo (3D) (2011)

11日の日曜日は、家でTV見てたらあたまが変になりそうだったので、外にでてレコード屋いって、それからフーゴみました。

これ、昨年ロンドンで見ているのだが、あのときは、その直前に見た"Margaret"(2011)のすばらしさに没入しすぎて眩暈がしてて、どうも途中で意識を失っていたのではないか疑惑があったの。

なんか、気がついたらメリエスがにこにこ打ち解けたおじいさんになってて、あれはなんだったのか、と。 (てめーが寝てただけだろ)

で、今回、ちゃんと見て納得した。
やっぱしいい映画だし、まったく異議ないし、オールド映画ファンが泣いて感動するのもわかるけど、でもそれだけかも。 あまりにあの時代、あの場所、あの人たち、をきちんとクラシックにパッケージしているので、いいよなあ、で終わっちゃうかも。

ほんとは、メリエスとHugoの関係とおなじように、年老いたHugoとその孫(たち)という軸があってもよかったのに。 ガキがぼーっとスマパンの"Tonight,Tonight"のPVを見ていると、横にHugoじいさんがやってきて、これのオリジナルを知っているかね、ていうの...

The Film Foundationの会長でもあるスコセッシとしては、これを見て昔の映画のすばらしさを知ってほしい、映画の歴史を知ってほしい、という彼の思いを今の子供たちに伝える(伝えたい)、というのは間違いなくあったのではないか。 子供映画であっても。であるからこそ。

それって伝わったのだろうか? いまの、ごみジャンクにしか見えないデジタルアニメみたいのばかりに齧りつく子供たちに。  シネマヴェーラのサイレント映画特集にくるのって結局じじいばっかりじゃん、とか。

もういっこは、アーカイブの大切さを訴える(訴えたい)、というのもあったはずだ。 
けど、デジタルへの移行ばんざい!みたいな流れに乗ってしまうだけじゃないのか、とか。(デジタル化はあくまでアーカイビングのひとつの手段、だからね)

そういえば、こないだまで、NYのFilm Forumで"This is DCP"ていう特集をやっていたの。

http://www.filmforum.org/movies/more/this_is_dcp

Film Forumていうとこは、新しいのもやるけど、昔の映画をNew Printで焼き直して特集したり、ていうのを25年以上きちきちえんえん続けてきたとこで、自分の映画観、みたいのはほぼこことWalter ReadeとBAMとMOMAで形成されたわけなのだが、ここがついにデジタル移行の準備をはじめた、という。 DCP(Digital Cinema Package)ていう仕掛けでデジタル変換された素材が過去の名画をどんなふうに見せてくれるのか、をみんなでJudgeしよう、という企画。
で、判決はでたのか? Film Forumの常連のみんな?

でもね、デジタルがどんなすごくてちゃんとしててもやっぱしレコード盤がいい、ていうのと同じで、色落ちやキズやノイズも含めて、操作ミスで落ちたり切れちゃったりも含めて、フィルムのが好きなんだよう。 とっといてくれよう。 (←いちばん困るやつ)

3.13.2012

[film] Le Skylab (2011)

土曜日の3本目、『エデンより彼方に』の更にむこうに抜けて日仏、フランス女性監督特集で、Julie Delpyの監督作第3弾を見ました。 

子供がふたりいる働くお母さんのアルベルチーヌは、家族で帰省する電車の車中、ふと79年、自分が11歳だった頃の夏を思い出す。

フランスの海が近い田舎の大家族で、おばあちゃんとかおじさんおばさんとかいとことかよくわかんない親戚がうじゃうじゃ集まっている。
それは、スカイラブが世界のどこかに落っこちるかもしれない前の晩で、ひょっとしたら自分のとこに落ちてくるかもしれない、そしたらみんな死んじゃうし世界は終わってしまう。

11歳のアルベルチーヌは、メガネで小太りで髪はもしゃもしゃで、ファーストキスはハン・ソロにしてもらいたくて、両親(ママを演じているのがJulie Delpy)は68年組のばりばりの左翼で、そんなふたりに育てられたおもしろくて微妙なお年頃なの。

そして、実年齢からしても、アルベルチーヌは間違いなくJulie Delpyの子供の頃の。

フランス映画のこういうのって、田舎生活ばんざい、大家族ばんざい、人生(以下同)みたいなかんじになりがちで、あんまし(好きにやってろ)なのだが、この映画はそうはなっていない。 家族内のいろんな変なひとたちがそれぞれに勝手に小騒ぎを起こして、夜が明けたらなんとなく収束して、なんとなく別れる。 ほんのりたのしい夏の絵日記(by アルベルチーヌ)にとどまっている。

羊の丸焼き、突然の大雨、人形あそび、サッカー、首つり、ビーチ、ダンス、けんか、怪談、夜這い、もんもん、などなど。

いっこいっこの出来事を挙げていったらきりがないのでやめるが、少しだけ。

子供たちが夜にどっかの離れた家でやっているダンスパーティに行くの。 
そこでは昼に海辺で出会ってちょっときゅんとしたマチューがDJやってて、ぽーっと見ていると、彼がやってきて、これからパンクかけるけど、おどれる? っていうの。
そこでかかるのが、Dead Kennedysの"Too Drunk to Fuck"で、みんなでがんがん踊るの。
そいから、じゃあ次はスローなやつね、って、今度はGilbert O'Sullivanの"Alone Again (Naturally)"がかかって、ふたりでチークするの。
この2曲でアルベルチーヌはかんぜんにのぼせて舞い上がってしまうのだったが、ふと我に返ると彼は別の大人っぽい女の子とキスしてて ...  とか。

(ほんとは、Dead Kennedysのこの曲は81年のだからありえないのだが、でもおもしろいからいい)

ヌーディストビーチでこっちに歩いてくる女性の茂みがホームベースみたいにでっかい。Michael Fassbenderのちんぽこと並んで、最近の感嘆アイテム。

夜寝る前におばあちゃんのとこにおやすみを言いにいって、おばあちゃんは寝てる間に死んじゃうかもしれないから、ってぎゅーってするとこがたまんなく素敵。

羊の丸焼きがすごくうまそう。

アルベルチーヌのパパが、こないだのカンヌにこいつを連れてって『ブリキの太鼓』と『地獄の黙示録』を見せた、っていうの。 すごーいー。 いいなー。 
あと、お別れのときに街角に『エイリアン』のポスターが貼ってあって、これ見たい! っていうの。 そうそう、あのポスター、当時はこわかったんだよね。

結局スカイラブは自分たちのとこにはおっこちなかった。
おっこちなかったけど、おっこちなかったから、自分の夏はあの場所に確かにあったし、家族もみんないた。

そのことにはっと気づいた彼女は、電車のなかで家族4人同じ場所に座れるようにおばさん風を吹かせて周囲の客にむりやりどいてもらうのだった。

感傷とかそういうのではなく、さーっと蘇ってきたあれこれを横に並べて、それに「スカイラブ」って名前をつける。
その軽やかさと鮮やかさは、きりっとした女の子のもので、すばらしいったらないの。

字幕が英語だったが、日本公開の予定はないのだろうか。
三丁目のなんとかなんかの1000倍はおもしろいのにこれ。

上映後のトークは、頭痛がひどくなったのでパスして帰りました。 聞きたかったなー。

[film] Far From Heaven (2002)

シドナンに続けてみました。 『エデンより彼方に』。

これも未見だった。公開当時、BAMとかではサークの『天はすべて許し給う』-"All That Heaven Allows"(1955) とこれの2本立てを何度かやっていたが、サークのほうは見てもこっちはなんとなくパスしていた。

うつくしー。
シドナンは、パンクが世間の冷たい目に追われてパンクしてしまうお話だった。 こっちはハートフォードのゴージャスな家庭と夫婦がやはり世間の冷たい目に追われてゆっくりと崩れてしまうお話。  前者は都会の小汚い通りとか部屋とかを転々としつつ、後者は秋から冬の美しい郊外の景色のなか、物語は展開していく。

もちろん、ふたつは全くべつもんで、こっちはメロドラマ、なの。
21世紀にはいって、50年前に作られた50年代のメロドラマの骨子を再現、再解釈することの意義については、よくわかんない。 (そもそも50年代のメロドラマって、サークのくらいしか知らない)

そいから、50年間の真ん中あたりに、サークの同じのを下敷きにしたもう1本がある。
それがファスビンダーの『不安と魂』 - "Ali: Fear Eats the Soul"(1973) で、これはサークの持ち出したテーマをよりグロテスクにぶっとく、社会生活というよりは人間の業みたいなところまで落としこんでみせた。

で、Todd Haynesは、この作品で表象については50年代のスタイルを緻密になぞって、裏側のどろどろについてはファスビンダー的などんづまり(天が許し給わないすべて)を転がそうとしているかに見える。 "All That ..."にはなかった同性愛と人種問題が前に出てきていることで、それがあることによってメロドラマとしての骨格と臭気がよりくっきり浮きあがってくるような。

それは、同性愛も人種問題も、手で口を覆ってしまうようなタブーではなくなっているいまの時代、他方で世間の目と偏見と監視の網はより卑劣でやらしい形で入りこんできているいまの時代に、この頃のようなメロドラマを作ることの難しさを示す、というか。  
つまりは"Far From Heaven"である、と。  

その作為性をどうとるかによって多分評価は分かれるのだろうが、別によいのでは、とおもった。
昔の映画には確かにあった画面構成とか光や調度の美しさとか、そういう美しさをきちんと追求する、それが際立つほどにアメリカン・モダーンライフの闇が逆照射される、そのコントラストがもたらす効果を真面目に考えようとしているだけでも。

逆境に負けずに愛を貫くこと、貫くことによって失われてしまうなにか、がメロドラマのひとつの柱だとすると、55年の"All That Heaven Allows"が73年の"Ali: Fear Eats the Soul"を経由して、02年の"Far From Heaven"に至るまでに示した幅と射程はものすごくでっかいとおもった。
罪を許し給う天国から遠く離れてしまったところで、はたして救済もまた遠くなるのか、離れちゃったから罪はそのまま刺さってくるのか、そもそも罪って、ほんとうに罪と言えるのか、みんなが幸せになれるような天国って、そもそもありえるのか、などなど。

でもやっぱしオリジナルの"All That..."のほうがすきだなー。 
ロックハドソンのなんともいえないやらしいかんじがいいし、あとなんといっても、ラストの鹿さんがねえ。 

だから、あとはー、TVシリーズの"Mildred Pierce" (2011)をなんといっても見たいったら見たいの。

3.12.2012

[film] Sid and Nancy (1986)

10日の土曜日の午前中、シネマヴェーラでみました。

公開当時は見てなくて、今回はじめてみた。
当時は、あんなのたんなるバカとブスの痴情沙汰話で、パンクとはなんの関係もねえじゃねえか、と突っぱねていた。 この映画とパンクを結びつけて語るバカを心の底からケーベツしていた。

でも歳とったら、そんなのどうでもよくなってくる。
Sid Viciousを演じたGary OldmanがGeorge Smileyを演じる時代がくるなんて、誰が想像しただろうか。 (同様に、Meryl Streepがサッチャーを… 以下同)

それに、最近のゴミみたいな邦画では、ごくごくふつうにクズ以下の音楽がロックとかパンクの文脈で通用してしまうようであるし、そんななかひとり突っ張ってても虚しいだけだな、と。

それに、このへんで見ておかないと、たぶんこの先死ぬまで見ることないかもしれん、とか。

映画はなんだか、ぜんぜんよかったのだった。
すれっからしの男と女がずるずると堕ちていく、そのBGMとして"No Feelings"や"Pretty Vacant"がわんわん鳴っている、そんなかんじ。

音楽映画としても、見ててケツの穴がかゆくなった"24 Hour Party People" (2002)なんかよか、ぜんぜんちゃんとしていると思った。 さすがAlex Cox、というべきか。

カメラの距離感がとてもよい。 どんどんからっぽに、すっからかんになっていく二人を間近からではなく、からっけつであることがわかる、背中のキズやかさぶたがわかる、乾いたゲロが確認できる距離と位置から撮っている。 (カメラはRoger Deakinsだったのね)

このブタ野郎!と周囲を蹴りまくったふたりがそのままブタとして腐れて堕ちていく、そこにはなんの救いも、ドラマも、マジックもなかった。
気がついたらNYのスタテンあたりまで流されていた。 落ちるところにだんだんだんと落ちただけだった、というそんな目線。

なんとなくジャンク版『断絶』ていうかんじもした。

そしてこれが86年というなにもかも退屈で半端だった年に撮られた、ということ。

ふたりがライブハウスで拾ってきたネコ、最初は子猫だったのに突然巨大化してなかったか?

ああ、はしたない言葉をいっぱい使ってしまったわ。

[film] Tactical Unit - Comrades in Arms (2009)

ずーっと雨だった金曜日、あんまりにもあんまりだったので帰りに六本木で見た。
『タクティカル・ユニット 機動部隊 - 絆 -』。

ジョニー・トーのプロデュースだというし、世間では「絆」がはやっているみたいだしな。(けっ)

"PTU" (2003) もそうだったが(ていうか"PTU"のスピンオフなのねこれ)、彼の描く組織のあれこれは、警察モノであろうがやくざモノであろうが、おもしろい。
そこには、逃れられない圧倒的な、決定的な力(含.暴力)があり、組織は必ずしも一枚岩でまとまっているわけではなく(まとまっているところはすごく固いけど)、そういう状態でなにやら突発的な事態が噴出する。  というのが基本ルールみたいなものとしてあるの。

更に警察モノということだと、ここに正義、みたいな要素も入りこんでくる。 要するに全部こんがらがってて面倒で大変で、でも犯人とか犯行はいつも待ったなしで割り込んでくる。 
やってらんないの。

ヤム組とシュー組のふたつのチームが組織内でいつも手柄を求めて張り合ってて、シュー組が一歩リードしたとこで雰囲気は更に険悪になり、そんななか、現金強奪犯4人が山中に逃げこんだという報が入って全員山に入るの。

山のなかでは当然のようにいろんなことが起こる。
寄り目のへんなおっさんはいるし、子供が戦争ごっこやってるし、でぶは拉致されるし、本件とは関係ない刃物やろうがいるし、磁石はきかなくなるし、携帯は通じなくなるし、足を挫くやつはいるし、予測不能なことだらけ。 Predatorがでてこなかったのはざんねん。

で、最後は4人を古い教会に追いつめて、いつものような銃撃戦になるの。

ネタバレになりますけど、弾の消費量はいつもとおなじなのに、今回は誰も死なない。
つまり、絆というのはそういうことで、犯人側も含めて、みんななんらかの絆で繋がっていたのに違いない、とか。 (あの、寄り目の、妖怪みたいなはげおやじがどうもあやしい・・・)

それか、捕り物が落着したとこで、はーい特別訓練終了~ みんなごくろうさまーみたいになるのかと思ったのだが。

でも、それがなくてもみんな一生懸命走り回っているのはよかったかも。
でも、それをやったからみんな仲良くなるとも思えないし、あんま思いたくないのね。

3.11.2012

[film] Un Amour de Jeunesse (2011)

竹橋の後で飯田橋に行って、日仏の特集『フランス女性監督特集』。 
8日は「国際女性の日」でもある、と。

とにかく、昨年のNYFFで見たいようて地団駄ふんで涙をのんだMia Hansen-Løveの新作が見れる。
ついでにこの企画のなかでMiaのこれまでの3作が全部上映される、本人も来日してトークがある、というし、そんなら会社なんていくらでも休んだる。

3:00からがデビュー作の"Tout est Pardonné" - "All Is Forgiven" - 「すべてが許される」。
未見だと思いこんでいたが、2007年に日仏で見ていたことを直前に思いだした。

自堕落でヤクにはまっていく父親との幼い頃の暮らしと別れ、17歳になって父と再会し、その後に彼の死を経験するパメラの決して幸せではない、でも不幸でもなかった家族の記憶を丁寧に描く。
すべては起こってしまったあとにくる。 そして(故に)すべては許される(されねばならぬ)。

という彼女の初期3部作の基本テーマが既に出ている、ということが今になると、わかる。

6:00から、最新作の『グッバイ・マイ・ファーストラヴ』。これ、英語題だと"Goodbye First Love"で、別に「マイ」なんてなくてもよいのでは、と思うのだが、どうだろう。

映画はすばらしかった。 会社休んでよかった。
父親の喪失 - 家族の再生がベースにあった前2作と比べると、今回ははっきりと恋愛。しかも絶対不動不滅の初恋をどまんなかにもってきた。

98年の夏、情熱的に愛し合ってやりまくる15歳のカミーユとシュリバン、でもシュリバンは友達と10ヶ月の南米旅行に出かけると言って、むくれるカミーユを置いて旅立ってしまう。 そのうち彼からの手紙もだんだん来なくなって、なにもかも嫌になった彼女は薬を飲んで自殺をはかる。

2003年の夏、建築を学んでいた彼女は勉強ツアー先の北欧で少しだけ過去の傷が癒えた気がして、そのきっかけを作ってくれた建築家ロレンツと恋におちる。
2007年、ロレンツの事務所で働き、同棲も始めた彼女の前に以前とあまり変わらない(ちょっと疲れた)シュリバンが現れる。 最初はつんけん突っぱねていたものの、一時期自分の全てだった彼の登場と共に、なにかが揺れはじめるの。

ひとりの女の子の成長を描く、ということ、そして彼女は彼女であって、他の誰でもありえないこと、というその視座は、全3作を通して変わっていない。 こんな娘いるよねー、とか、わかるわかる、とかそういう共有できるなにか、汎化できるなにかを持ちこませないだけの強い目をもった娘として、パメラもカミーユもいる。

でも、ちょっとだけ意地悪な見方をすると、彼女たちの痛みや煩悶は他者からの虐めや迫害によってもたらされたものではない。彼女たちが泣くのは自分の想いが叶えられないからで、他人にひどい仕打ちを受けたことによるものではない。 彼女たちはずっと「よいこ」として育ってきて、他人にぶん殴られる辛さや痛みを知らない。

そんな彼女のまっすぐ澄んだ瞳に、彼女のような娘を育ててみたいカイエを始めとするおやじ批評家達がでれでれになってしまったことは想像に難くない。

もちろん、彼女はそうやってきたのだから、他に描きようがないのだから、しょうがないの。
この3部作の次こそがほんとうの始まりになるのだと思う。

しかし、ラストのロワール川の帽子のとこは素晴らしく素敵だ。
あれだけ堂々とした、見晴らしのよいラストで締められる恋愛映画なんて、そうないよ。

ここで流れるのがJohnny Flynn and Laura Marlingによる"The Water"。
そういえばMiaって、どことなくLaura Marlingにかんじが似てるかも。
すごい別嬪さんだし。(←ひどい偏見)

あと、彼女の音楽のセレクションは、よくわかんない。 あのケルト系みたいなやつとか。

[art] Jackson Pollock - A Centennial Retrospective - Mar.8

月の真ん中くらいでなにもかも嫌になって半休する(≒登校拒否)、というのがほぼ習慣化しつつあって、そんなふうに8日の午後休んだ。 先月は10日にやって、展覧会いっこと映画2本みた。 

この日も展覧会いっこと映画2本。 はたして休みなのかこれ。 

先月の展覧会は、書くのを忘れていたが『ルドンとその周辺 - 夢見る世紀末』でした。
見どころは、ほぼ「グラン・ブーケ」のみ、だったが、パリのグラン・パレでの全壁画の展示風景を見てしまうとなあ。 言ってもしょうがないけど、あの形で見たかったよねえ。 

今月は竹橋の『生誕100年ジャクソン・ポロック展』。
先月も今月も、昼休みに会社から歩いていくかんじ。

これも見どころは、ほぼ"Mural on Indian Red Ground" (1950) のみ。
確かに見事ではあったが、もうちょっと量がほしかったよねえ。
彼の絵はWall of Soundとおなじなので、全身を眼にして、ひたすら中に没入して、あとは物量で畳み掛けるしかないのだが、あれっぽっちだとなあ。

ポロックでいうと、98年のMOMAでのRetrospectiveが自分にとっては決定版で、あれと比べてしまうのよね。 アトリエの再現も、あっちのがリアルだったような。

あと、赤か青か、の話ではあるが今回のIndian RedとMOMAの"Full Fathom Five" (1947) - 「五尋の深み」 - を並べて見たいなー。 無理だろうけど。

それから、2階でやってた『原弘と東京国立近代美術館』も。
こっちは見事で楽しかった。 個人的にいちばん身近なのは『現代の眼』の表紙デザインなのだが、戦後のモダンアート展のポスターあれこれが、その下書きも含めてびっちりある。 おもしろいー。

彼の手がけたポスターのシンプルかつポイントを抉る、かっこいいデザインと比べると、(例えば)今回のポロック展のポスターの醜いこと。『↑評価額200億円!!』 それがどうしたよ? 
こんなポスター、10年後には恥ずかしくて正視できないよ。 それでいいんだろうけど。

それにしても、どの展覧会行っても最後の売店とこで、ほんとにうんざりするねえ。
あんなの、絵とは何の関係もないじゃん。ああいうのやらないと運営が成り立たないんだったら、やめちまえ、だわ。

3.10.2012

[music] Vinicius Cantuaria & Bill Frisell - Mar.7

たまっているのでとっとと書く。

にっぽんのライブ7時開始問題がなくならない限り、平日のそれは無理なのだが、でも最低月2回はライブに行きたいよう、ということで無理してもいく。

いちんち2セットで、これなら9:00開始のがあるから、と思ったのだが、当日ちょっと無理したら6:30のにぎりぎりで入れたので、入ってしまった。

場所は旧シネセゾン渋谷(の隣?)だった。 旧ライズXだったとこのように椅子を取っ払っているかと思ったら、座席はそのままにしてあった。 んなら映画もやればいいのにさ。

ギターデュオ、というほどそんなにデュオデュオしていない。
大企業のエグゼクティブにしか見えないBill Frisellと、ヤクの売人にしか見えないVinicius Cantuaria(なんでそんなに目つきわるいのきみ?)、水色のストラト(Bill)とアコギ(Vinicius)の2台のギターだけ。 

風と水のようにさらさら流れるBillのギターと土と火をぼこぼこ掻きあげるViniciusのギター、それぞれの音をそれぞれがフィードし、濾過し、相手側に投げて返す。 なめらかにするする流れて循環していくエコシステム。 でも胡散臭くはないの。 

2台のギターが交互に、追っかけっこしながら反響する、というよりは1台のギターとして、20本の指が弾く12弦のギターの音として聴こえてくる、そういう気持ちよさがあったし、そういうふうに聴こえる地点と帯域を探るかのようにふたりの指は滑っていく、のだった。

そんなギターの音から遠く離れてぼそぼそと囁きかけるViniciusの唄は、どこまでも孤独に、ひとりの肉の声としてギターの音にたんたんと対峙していて、これも美しかった。 こんなに美しくていいのか? というくらい。

ジャンルでいうとBillのやってきたJazzともViniciusのブラジル音楽ともちがう。というか違うことを、越境を志向してきた彼らであるが故に出てきた(それでもそれは)ギターの音。

愛想はわるくなかったがどちらもぜんぜん喋らず、曲にずーっと入り込んで1時間強+アンコール1回、まるまる1時間半やってくれた。 こういう音ならあと6時間だって聴いていられる。

だがしかし現実はとっとと戻れ、と。 すごすご仕事に戻ったの。
これなら9時の回にしておけば。

[film] 秘録おんな寺 (1969)

6日の火曜日の夕方、いろんなむかつきがむせかえるくらい溢れてきてむおおいやだなにもかもやだぁ、と外にとびだしたところ、そこにお寺があったのでつい駆けこんだのだった。

泣きながら駆けこんだのでなんの予備知識もなかった。 けどいかった。

根岸(ってどこ?)にあったという尼寺に岡っ引きに追われた若い娘が駆けこんできて、尼僧になるのだが、将軍の従姉妹が支配しているらしいそのお寺はなんか変で、その娘はいろんなお仕置きやしきたりに反撥しながらその奥に分け入っていくの。

どーってことない話しなのだが、モノクロの画面がすごく綺麗で、安田道代の黒目と白目の境目が見事に切れててかっこよいから、いいの。

お仕置き拷問の「針供養」は悪い子を半裸にして天井に吊るしあげて、蝋燭の燭台のとげとげでお尻を、えい、って突きあげるの。 それだけなの。

いくらなんでもぬるいんじゃないか、と思ったのだが、尼さんてみなさんすごく弱いのね。
ちょっと殴られる蹴られるされたくらいで舌をちょん、て噛んで即死しちゃうし、最後のほうの修羅場なんて、ちっちゃい剃刀でしゃーってやっただけですぐに死んじゃうの。 虫かあんたら。

でも一番情けないのはボス女に拉致されて、いたぶられて殺されちゃう男共だったかも。

というわけで、駆けこんではみたものの、あんま救いにはならなかったの。
最後は、燃やしちまえ! てことでよいのね。 要は。

[film] Un Prophète (2009)

4日の日曜日、新宿で見ました。「預言者」。

2時間半。 おもしろかったー。
19歳でフランスの刑務所に放り込まれたマリクの生き残りとのし上がりの日々をじっくり。
いまどき珍しい気もする女っけゼロ、ストレートプレイ、てかんじ。
ノアール、ってかんじとはちょっとちがうかも。

所内にはコルシカ系とアラブ系の囚人の勢力争いがあって、数の多いコルシカ系が所内を牛耳っていて、マリクはそこの使いっ走りとして、手始めにあるアラブ系囚人の殺しを強要される。
それをなんとかやりとげて認められた後、だんだんいろんな「仕事」「雑用」を任されるようになる。 法改正でコルシカ系が多く出所してパワーバランスが変わってくると、アラブの言葉も使える彼は両グループの間を表に裏に行ったり来たりしつつ、「副業」も含めて着々と自分の足場を固めていく。

基本は闇の力が支配する塀の内側でじりじりと複数の線と力が交錯していくのだが、例えばジョニー・トーの映画のように土壇場で闇の奥の奥からどうしようもなく非情ななにかが現れて、ごん、さよなら、みたいなことはない。 

それは時として、塀の外側の現実世界からの指令として入ってきたりして、外出許可を貰えるようになった彼は中と外の往復のなかで更に足場を広げていく。
塀の中と外、という線のほかに、もう一本別の線もあって、それがタイトルにも繋がってくるのだが、その出し方がなんかよいの。 イスラム教のなにか、どこか、もあるのかもしれないが、そいつが気がつくとそこらにいたりする。 なるほどぉ。

マリクの佇まいがなんかよくて、野心ぎらぎらでも、漲るなにかがあるわけでもなく(そのうちぶっ殺してやる、くらいはあるけど)、どちらかというと使いっ走りで周囲に揉まれながらじたばたやっていたら表に出ちゃった、みたいなとことか。

あとは周りの連中の極悪顔がどいつもこいつもすごくてさあ。 
刑務所とか、入るもんじゃないねえ。

[film] Images of a Lost City (2011)

土曜日、シネマヴェーラのSecaucus7のあと、アテネに行ってみました。
Jon Jostの特集から、1本くらいは見ておきたい、と。
今回の特集の最後の1本で、昨年の山形で上映された『失われた町のかたち』。

彼が90年代の後半、1年半くらいリスボンに滞在していた際に撮りためていた映像を昨年頃から編集していったもの。 上映前の挨拶では、この撮影は、そのままデジタルカメラで撮ることの練習でもあった、と。 フィルムだと撮ることがそのままコストにはねるが、ヴィデオはいくらでもまわしっぱなしにしておくことができる。 この違いは大きかったと。

というわけで、カメラはやや低めの位置に置かれたまま、ほとんど動かない。そういう置きっぱなしの垂れ流しが5~10分間隔くらいで「失われた町」であるリスボンのいろんな光景を切りとっていく。

なんか、リスボンということもあるのか、去年原宿のカフェでPedro Costaの「溶岩の家」スクラップブック刊行記念の展示があったときにみた、「ヴァンダの部屋」のアウトテイク映像みたいなかんじもした。

乾いた土と光、朽ちかけたような石造の家と壁、その向こうで動いている人影、とか。
撮っている自分は透明で、透明でありたくて、そうなるために置かれるカメラ。
そうやって息を潜めれば潜めるほど、ファインダーの向こうに踞る彼の姿と、彼がそこにおいて把握しようとする世界が、その緊張関係が現れてくる。

途中、Fernando Pessoaの"A Factless Autobiography"と、Pessoaのオルタナ人格であるÁlvaro de Camposの"The Tobacco Shop"が引用されていた(よね?)のが印象的だった。

どちらにも、"I am nothing"というフレーズが出てくる。昼間の自分はからっぽ、夜に自分は自分になれる。 昼と夜の切り返しのなかで静かに失われていく(失われてきた)町とそこに身を置く異邦人としての自分が。  

Jon Jostで見たいのは77年の"Angel City"なのだけど、今回の特集には入っていなかったの。

3.07.2012

[film] Return of the Secaucus Seven (1979)

みっかの土曜日の午前中に見ました。
今回のシネマヴェーラの特集のめだまの1本。この1本は1本立てで午前中の回しか上映しない。
John Saylesの監督デビュー作であり、アメリカン・インディペンデント映画史の流れのなかでは(その興行的成功も含めて)無視できない1本。
BFIのScreen Guide "100 American Independent Films" にももちろん出ている。

でも、John Saylesだと、"Baby It's You" (1983) - Rosanna Arquette! - とか"The Brother from Another Planet" (1984) とかのほうが見たいんだけどなー。

Secaucus 7のSecaucusっていうのはNJの地名で、アウトレットなんかがあるとこで、この映画のタイトルでもある7人は大学の頃にワシントンに反戦行軍に行く途中にSecaucusで捕まった、そんなイベントを青春の輝ける勲章としている彼らのそれから約10年後を描く。

(そして、そんな映画に約20年ぶりに再会する)

David Strathairnとかもまだぴちぴちだねえ。

7人のうちふたりは教師になって同棲してて、その家に夏の休暇を過ごしに仲間がやってくる。
誰それは誰それと別れて、今は誰それとくっついている、誰それはまだふらふらしてる、誰と誰はやりまくるにきまってるから床に転がしとけ、云々。

で、実際に会ってみると輝ける7人だった彼らはみんな微妙に変なかんじで、川遊びしたりバスケしたりバーベキューしたり酒飲んだりセックスしたりしているうちに、だんだん昔のなにかが戻ってくる気がして、でもそれがなんなのか、それがどうだというのか、誰も確証を持てないままその時間は過ぎて、ふんわりと別れて、それぞれの毎日に戻っていく。 成長? うーん。

30前後という微妙なお年頃、そして夏という季節、こいつこんな奴だったっけ、こいつやっぱり、これならまだ、こんなんじゃ、云々、それぞれがそれぞれにぼーっと思って悶々したり、会話して確かめては納得したり。 どの会話もどこに落ちたのかあまりよくわからないままにぷつん、と切れて次に移る。 うん、再会なんてそんなもんだしね。 どうせまた会うだろ。

それまで、こんなような微妙で半端な空気と倦怠をアンサンブルに持ちこんだ映画はそんなになかったのかもしれない。そして、それでも十分におもしろいのだという不思議。

そうそう、これ見て思いだしたのは、去年みた"The Myth of the American Sleepover" (2010)だったの。 ああいう映画の源流としてもあるのかも。

でも、もうこんなかたちの再会ってなくなっていくのかしら。facebookとかで趣味も動向もぜんぶわかっちゃうしねえ。 つまんないねえ。

3.05.2012

[film] Two-Lane Blacktop (1971)

1日の木曜日の晩、やっぱり「断絶」も見ておきたい、ということで見ました。 
映画の日だったのかー。

"Road to Nowhere"との対比で、いろいろある気がした。
もちろん、それぞれ単独で見ても十分おもしろいに決まっているのだが、約40年を隔てて世界がどう変わったのか、あるいは変わらなかったのか、そのへんが。 
Monte Hellmanの映画史とかいうよりも先に。

若者ふたり - The DriverとThe Mechanic が、公道でレースをやってお金を稼いでいて、そこにどっかから流れてきた娘 - The Girl とか、ふたりを勝手に競争相手と思い込んだ別の男 - G.T.O とかが絡んできて、最後はみんなまたばらばらになって、それだけなの。

構造的にはほんとにスカスカで、それは彼らの乗る車が速く走るために余計なものを全てとっぱらってしまったのと同じように、中味はなんもない。 戦慄も墓銘碑も教訓もなんもない。 
そんなわけで興行的にはみごとに失敗した、と。 そりゃそうかも。

物理的に前方に道が広がっていって車が走っていく - "Road to Anywhere" というそれだけのことが示されている。

あまりに中味がないので、何回見ても - もう4回くらい見ている - その内容を忘れてしまう。

他方、"Road to Nowhere"は、これと真逆で、いろんなものが積み重なって積み上がって、誰もその全体像を掴めない、そんな世界のありようが示される。  何かを見えなくさせるために、映画撮影の現場にいろんな思惑や密談が持ち込まれ、その総和と重みで舞台装置は内側から崩れてしまう。

こちらは、あまりに中味がありすぎて濃すぎて、たぶん何回見てもやっぱし忘れてしまう気がする。

どちらも、ものすごくあたりまえのことを言ってもいる。
軽くて、道があればいくらでも走れるし、重くて、道がないのであれば、走れなくて、そこに蹲るしかない。

もうちょっとふつうの重さにしとけば、とか軽くすれば走れるのに、とか言わない。
そうはなりようがない、そう簡単にはできないことはみんなようくわかっているの。

どちらの映画も、カメラは徹底して世界の外部に立とうとする。登場人物たちの内面には決して立ち入らず、解決策や方向性を示すこともしない。 世界観すらも提示されない。 未知の動物の生態を追うように、特定の集団とその周囲を追っている。

で、その結果どういうことが起こるかというと、「断絶」ではフィルムが火をあげて燃えだし、"Road to Nowhere"ではフィルムはまっくろに炭化していくの。 ここにきてはじめて、フィルムの向こう側の世界がこちら側に浸食してくる。 最後の最後に。
そのへんから70年代とか00年代とか、言えないこともないのかもしれんが、そこはあんまし。

「断絶」で好きなのは終りのほうで、The Driver"がThe Girlに車の運転の仕方を教えるとこ。
彼女が"I can't do this!"てキレて、彼がなだめてキスすると"I can do this..."てそっとハグするの。
彼女のシャツがピンクで、彼のシャツがブルーで、カメラの動きも含めて、ここだけなんか別の映画みたいなの。

3.04.2012

[film] Coffee and Cigarettes (2003)

シネマヴェーラの2本だては、(体力なさすぎのため)ここんとこ通しで見れたことなかったのだが、「リトアニア…」の後のこれは、これならいいかー、ということで見た。

これは2004年の米国公開時にみた。
もう7年前かあ、なのだが、一番最初のRoberto Benigniのエピソードは86年に撮られたものだし、Iggy PopとTom Waitsのは93年に撮られたものだし、公開時点でその一部は既に10数年の日々が流れていたの。 なのに全部のエピソードを通しで見てみると、17年間かけて撮られたものとはぜんぜん思えないし、同じように7年前の映画のようにもみえない。 それでいて不朽の名作、のかんじもまったく、ぜーんぜんないの。 軽くて楽しくて、他に何がいるだろうか。

"Alcohol and Drugs"ではなくて、"Coffee and Cigarettes" 。
ひとを酔っ払わせるのではなく、どちらかというとひとを正気にさせる、頭をはっきりさせるためにCoffee and Cigarettesはあるはずだ。
それなのに、この映画では、コーヒーと灰皿が格子模様のテーブルの上に置かれて、何人かのひとがその周りを囲むと、ぜんぜん尋常ではないネジの外れた世界が降りてきてしまう不思議。

そうはいっても極悪とか変態とか、そういうのではなく、どちらかひとりがおかしいから、というのでもなく、ひとりにひとりが加わる、或いはふたりにひとりが加わることで突然化学実験失敗、みたいな誰にも手の出しようがなく救いようのない(もちろんだれも救いなんて求めていないわけだが)世界が拡がってしまうの。

出てくる人たち全員が飲み過ぎ吸い過ぎはよくないよね、というのだが、いちばん「よくない」のは、正気に返りようがないのは、それを言っている本人達だ、ということを我々は簡単に突っ込むことができる。 その反対側で、もちろん本人達は自分のことを変だとはこれぽっちも思っていない。 
そういうのを、あえて、とりあえず、"Coffee and Cigarettes"のせいにしちゃえー、みたいな。

初期のJarmuschが放っていた無責任で奔放な香りがここにはあるの。

そういえば、この作品でもいくつかのエピソードに名前がクレジットされているSara Driverの初期作品、"You Are Not I" (1981)が昨年のNYFFで突然復活上映されて、その次の"Sleepwalk" (1986)も、先月のFilm Comments Selectsで上映(+ in person)されたの。
事情はよくわからんが、あー見たいったら見たい。

 

3.03.2012

[film] Reminiscences of a Journey to Lithuania (1972)

先週末からシネマヴェーラではじまった特集「アメリカン・インディペンデント魂!」。

このプログラムの中味について、いろいろ言いたいことがあるのはわかる。
ジャームッシュは"Down by Law"までだろう、とか、スコセッシやソダーバーグがなんで入ってるんだよ、とか。 でも、いちおう、あくまで「魂!」だから、ということで。

で、火曜日の晩に2本見ました。
プログラムにあれこれ注文はあろうが、この『リトアニアへの旅の追憶』が入っているから、この1本があるから、この特集はいいの、とおもう。 
それに、恵比寿映像祭でメカスの新作見れなかったしな。(まだいう)

Catskillの山の散策から始まって、BrooklynのWilliamsburgの移民("Displaced People"と言っている)コミュニティの話、そこから故郷であるリトアニアのセミニシュケイを訪ねたときの話、そして友人たち(以前は気づかなかったけどKen Jacobsがいたのね)とウィーンを訪ねたときの話。

最近見たメカスの一番新しい作品は、こないだのTIFFでのゲリンとの往復書簡に挟みこまれたやつだったが、「リトアニア…」で描かれた世界と基本は変わっていない。

いや、正確には、72年から40年が過ぎて世界が変わり、メカスが歳をとった、という点では変わったのだが、メカス自身がカメラを手にして自分がいま暮らしている世界と、他のひとが暮らす世界を対照させつつ、定点を持たないDisplacedな自分の痕跡を記録する、そのフィルムのぐるぐるのなかに世界を置こうとする、そのやり方、文体はメカス以外の誰のものでもありえない。

それは「安息の地、約束の地を求めて」のような胡散臭いものでもなければ、旅日記のようなお気楽なものでもない。 難民として世界から拒絶され、故郷を地図から消去されてしまった過去をもつ彼にとって、フィルム上に刻印された光の粒とその動きこそが世界と自身を繋ぐ線であり生き残るための方策だったのだ。

この切なさ/切実さと、どこに行ったってどっちみち失敗なんだから、という開き直りが、カメラを持つ手に何とも言えない揺れ(震えと笑い)をもたらし、メカスが切りとった世界はどこまで行っても初めて見るような世界として我々の前に姿を現すの。

セミニシュケイにいたあの猫は、子孫を残して、そいつらはまだどっかにいるのかなあ。

そういえば、「往復書簡」で出てきたピクルス、1月に大瓶を買って帰ったのだった。
すんごいおいしかったの。

http://www.mcclurespickles.com/

[film] The Phantom Carriage (1921)

26日の日曜日、恵比寿の映像祭の最後のプログラム、『霊魂の不滅』の上映+Jim O'Rourkeのライブパフォーマンス。 これは前売りを買っておいたの。

1時間半の映像に15時間分の音源を用意してきたそうで、まあ、不滅の霊魂に立ち向かうにはそれくらいの気合いと覚悟がいった、ということか。

冒頭、いきなりCriterionのロゴがでたのでずっこける。
字幕もないし、素材がDVDなら、お代の1500円はほぼJimの15時間分に行くってことね。
いいけど。 "How Physical" だしな。

死の床にある救世軍の女のひとが、気にかけていたごろつきのろくでなしを更生させるまでは死ねない、っていうの。
で、このごろつきは大晦日に酔っぱらいながら、しってるかおめえ、大晦日のカウントダウンの直前に死んだやつがその翌年の死人を馬車に呼びこんで回収してまわることになるんだぜ、とか言っていたら、自分が喧嘩でやられてそれになっちゃうの。
で、死神に連れられて救世軍の女のひとのとこに行って、それから自分の家に。そこには貧しさのあまり疲れ果てた自分の妻とふたりの子供が・・・

監督のVictor Sjöströmが主演のろくでなし - David Holmを演じている。

全体のトーンは真面目なのだが、ひとの情と因果応報がぐるぐるまわるとこはなんとなく落語の怪談モノみたいなかんじもして、このへんはSwedenかも。

亡霊とか体から抜け出した霊魂がするする透けてみえるところは絵としてとっても美しくて、その重なって、でも決して埋まることのない決定的な溝と隙間に、Jim O'Rourkeの電子音響はごろごろがりがりと、時に不機嫌に、時に優しく攻めいっていくのだった。 気持ちいかった。

でもタイトルが"The Phantom Carriage"とか「霊魂の不滅」だったりすると音楽はメタルでもよいのかも。彼の地の、あのメタルとか。

ベルイマンはこの映画を「映画のなかの映画」て呼んで毎夏見続けていた、というのはなんかわかるの。 で、こないだから"Fanny and Alexander" (1982)をひさびさに見たくてしょうがなくなっている。