12.30.2012

[film] Salmon Fishing in the Yemen (2011)

20日の木曜日の晩、なんとなく空いたのでなんか見たいー、と思ったらたまたまやっていたので見ることにした。程度でした。 『砂漠でサーモンフィッシング』。

うん、ぜんぜん悪くない。 Lasse Hallströmだし。

イエメンで鮭釣りしたいの、ていう大富豪からの依頼を持ちこまれた水産学者が、そんなの無理なんだってば、とか言いつつなんとなくがんばってしまうお話し。 実話じゃない。たぶん。

水産学者にEwan McGregor、大富豪の代理人にEmily Blunt、英国政府の広報担当にKristin Scott Thomas。 周りの強い女たちにあれこれいじくられて全てが嫌になり、じわじわ釣りと魚の世界に逃げ込んでいくEwanがなかなか素敵。

Ewan McGregorて水の俳優さんで、"Trainspotting" (1996)にしても"Big Fish" (2003)にしても、水に浸るシーンがあるとこのひとは素晴らしい演技をする。この映画もそうで、彼が釣り竿の一閃で狙撃手を仕留めるとこなんて、オビ・ワンのどのアクションよかかっこいいの。

イエメンの鮭に奇跡は起こるのか、にひっかけつつ、実はEwanとEmily Bluntの恋がどうなる(Ewanには不仲の妻が、Emilyには戦地で行方不明になっている恋人がいる)のほうにだんだん寄っていって、鮭にも恋にも環境がだいじなんだよ(あと、マネーもね!)というあたりに落ちるエコ(エセ、じゃないよ)・ヒューマン・ロマンスなの。

全てがとってもそれらしくて身近ぽい話のようで、よくよく見てみれば宙に浮かんだ荒唐無稽なお話であるところもよいのね。 あるわけねえだろ、ってやさしく軽く突き放してくれるとこが。

今年はもう書けないかしらー。 書けてないのいっぱいなのになあー。

12.29.2012

[film] Frankenweenie (2012)

16日の日曜日、『三惡人』のあとで選挙に行って、そのあと、選挙速報でほんもんの悪人どもが万歳するのなんか断固見たくなかったので、六本木に行った。

人形アニメを3Dで見る必要もない気がしたので、2Dにした。『フランケン・ウィニー』。
邦題は『腐乱犬・ウイニー』でいいじゃん、と思っていたのだが、犬の名前はSparkyなのだった。
Sparkyっていうと、むかしWilliamsburgにあった(今、"egg"があるとこね)ホットドッグ屋さんを思いだすのだが、それはさておき。

事故で愛犬Sparkyを失ったVictorは、失意のどん底で理科の授業で習ったとおりに落雷の電流をSparkyの亡骸に流しこんでみたら、Sparkyはつぎはぎのまま生き返るのだが、それを見てた学校の連中がまねしちゃって町は大混乱に陥るの。

Tim Burtonが大人になる前に撮った作品がベースで、彼が大人になる前だから Johnny DeppもHelena Bonham Carterも参加していない。(Winona Ryderさんはでてくる)

Tim Burtonが、過去の作品も含めてずっと言ってきたことが87分間にかわいらしく、しかしきっちりと入っている。 ほんとうの愛は生死の境を超えて、生物だろうが死物だろうが、永遠に生きるのだと。 でもその用法・使い方を誤ると大変なことになるんだよ、と。
こうして、使い方を誤ってしまった例として、かつての怪獣映画 - ガメラ、モスラ(幼虫)、グレムリン - へのオマージュがあって、でもそれら奇形動物だって、これだってそれなりに立派な、愛の成果なのではないか、と。 

しかしSparkyかわいいったら。最後の決闘のとこで彼がロープを滑り降りてくるところなんか、泣きたくなるくらい素敵なの。

でもこれってSparkyが犬だから成立したお話であることも確かで、猫だと無理だねえ。
Tim Burtonて、つくづく犬のひとなんだよねえ。

クレジットの最後に、Special ThanksでShelley Duvallさんと    Daniel Sternさんの名前があった。
音楽はいつものDanny Elfmanさんで、主題歌はKaren Oさんが歌っているのだが、Shelley Duvallが歌ってもよかったのにな。


というわけでほんわかあったかい気分になって、帰ってTVつけたらそこには「怒」とか「怨」とか「呪」とかが渦巻くどす黒い世界しか展開されていないのだった。
しみじみうんざりして、そのうんざりはまだ続いているんだよ。

[film] 3 Bad Men (1926)

16日の日曜日、選挙に行く前に自身を奮い起たせるべく、シネマヴェーラに向かう。

今回の特集、『映画史上の名作8』は、いつものように必見のやつばっかし。
デジタル上映が増えてしまっているが、構うもんか、なの。

で、この『三惡人』はライブのピアノ伴奏付き。こんなのぜったい見るでしょ。

19世紀の土地解放時代、黄金の土地を求めていろんな人がやってくる中、若いカウボーイ - Dan O'Malleyと娘が出会って、娘の父は馬泥棒にあって殺されてしまい、そこに気まずいかんじで居合わせた三人のお尋ね者、"Bull"とMikeと"Spade"がそこに合流してなんとなくみんなで行動を共にすることになる。
土地を求めて人々が集結するベースの街にはハンターっていう悪保安官がいて、こいつはほんもんの悪で、彼らと対立を深めていって、やがて土地獲得レースの日がやってくるの。

ロマンスがあって、男の友情があって、家族のような絆があって、明確な善と悪の線があって、怒濤のレース(とんでもなくすごい)があって、3悪人は… 

最後のほうはずうっとずるずるに泣いてた。
だって、3悪人はもちろん悪人じゃないし、それに、あのラストなんてさー。

この揺るぎなさ、力強さはなんなのだろう、どこから来るのだろう、と。
恋が始まる瞬間、三人が互いに目配せして覚悟を決め、遠くを見つめる瞬間、140年前に確かにあったそんな瞬間がはっきりと目の前に現れる。 声も音もないのに。
これって、今の映画にあるものとは根本的ななにかが違う気がして、でもそれは、はっきりと今の我々に必要ななにか、だと思った。 John Fordの映画と水さえあれば、人は生きていくことができる。

122分バージョンが見たいよう。

Lincoln Centerでは、30日と元旦に70mmプリントで"Cheyenne Autumn" (1964) -『シャイアン』をやるの。 これも見たいようー。

12.27.2012

[film] I Married a Witch (1942)

15日、アリス・ギイ特集のあとでシネマヴェーラで見ました。『奥様は魔女』。
フランス人による(ちょっと困った)女性映画つづき。(この映画はアメリカ製だけど)

むかしむかし、今から20年以上前、「リュミエール」っていう「スクリーン」とかよりちょっと難しくて、「映画秘宝」よりかっこつけてて、相当偏向して屈折した映画の雑誌があって、そこが「リュミエール シネマテーク」っていうシリーズの洋画のVHS(ていうメディアがあったんだよ、むかし)を何本か出したことがあって、そんときにルビッチの『生きるべきか死ぬべきか』とこの『奥様は魔女』を買ったの。

ビデオの発売記念イベントで『生きるべきか死ぬべきか』の上映はあった(すばらしかった)のだが、これの上映は当然なくて、それを今回、35mmプリントで見ることができる。 
長生きはするものだねえ、というか、これもJenniferの呪いの一部なんだと思おう。

17世紀、魔女とそのパパが魔女狩りで生贄になって樫の木の下に埋められるのだが、その直前に彼らはWooley一族の行く末に不幸な結婚をするんだから憶えてろ、って呪いをかけるの。
その呪いのとおり、Wooley家の男は代々みんな浮かない顔で馬車に揺られて結婚していって、時は現代、Wooleyは州知事選を前に、当選するにはつんつんした性格のやな女(地元権力者の娘)と結婚しなければならなくて、つまりは不幸な結婚の呪いは続いているのだった。

そのとき、落雷で蘇った父娘はさっそくにっくきWooleyのとこに行って目前に迫った結婚式を妨害すべく、そのトドメとして惚れ薬を彼に飲ませて魔女 - Jenniferを恋するように仕向けようとするのだが、間違ってJenniferのほうが薬を飲んじゃったもんだからさあ大変、なの。

恋にしても選挙にしてもすんごく大事なことのはずなのだが、魔女と薬の作用と勢いでものすごくいい加減に無責任に決まっていくので笑っちゃうしかない。 そんなんでも、とりあえず幸せになるんだったらそれでいいんじゃねえか、程度。

このすべてをナメきった態度がたまんなく素敵。(プロデュースはPreston Sturges)
そして、結婚式の愛の歌とか、酔っ払い父さんのドジとか、はっきりと目に見えるくどさしつこさ、がバカにしてんのか、みたいに辺りをぐるぐる回ってくる。

Wooley役のFredric Marchの表はしゃんとしているようで実はぼんくらなかんじ、Jennifer役のVeronica Lakeの狐みたいに猫みたいにぐにゃーんとしたかんじのふたりの相性も素敵でさあー。
(でも撮影現場では犬猿で、Fredric Marchはタイトルを"I Married a Bitch"て呼んでいた、とか)

ちなみにTVの『奥さまは魔女』- "Bewitched" もこれにインスパイアされているんだよ。

12.26.2012

[film] アリス・ギイ傑作選 1987年~1907年

15日の土曜日、オーディトリウム渋谷の『新・女性映画祭 "こんなふうに私も生きたい"』という特集から『アリス・ギイ傑作選 1987年~1907年』を見ました。

セレクションから興行の運営まで、学生さんの授業の一環だという。いいなーこんな授業。

世界で最初の女性映画作家、アリス・ギイ(Alice Guy)の作品集。
見たのは以下のような短編ばかり全20本、一番長い『キリストの生涯』でも37分。
20本と言っても1897年から1907年までの間にゴーモンで撮った約400本のうちの20本。
このあとアメリカに渡って1910年から1920年までに350本あまりを撮っているのだと。(会場の配布資料による)

ほんとに、始まりの始まりのころの映画なので、女性映画と言ってもいまの我々がイメージするそれとは違っていて、テーマがそれっぽい(ダンスとか、ひらひらとか、xx女、とかそんなような)だけで、基本は日常のあれこれをちょっとだけひねって、あらら、くすくす、みたいなかんじ。
でもおもしろい。見ててぜんぜん飽きない。

メニューは以下。

1897 「急流の釣り人」「ボブ・ヴァルテル 蛇踊り」
1898 「手品の場面」、「明け方の家の椿事 普仏戦争のエピソード」
1899 「おいしいアブサン」

1900 「帽子屋と自動肉屋」、「四季のダンス 冬/雪の踊り」、「管理人」、「世紀末の外科医」、「ピエレットの過ち」、「キャベツ畑の妖精」

1902  「第一級の産婆」、「あいにくの干渉」

1905「ビュット=ショーモン撮影所でフォノスコープを撮るアリス・ギイ」、「本当のジュウジュツ」、「フェリックス・マヨル 失礼な質問」

1906  「キリストの生涯」、「マダムの欲望」、「粘着女」

1907 「フェミニズムの結果」

最後のほうに特におもしろいのが多くて。

「キャベツ畑の妖精」というのが有名で、キャベツ畑に赤ん坊が湧いてでる、という。
フランスでは赤ん坊はキャベツからできるんだって。日本ではそんなキャベツを千切りにして揚げた豚の横に並べちゃうのにね。 キャベツ畑に赤ん坊のイメージは他の短編にもあった。

「マダムの欲望」っていうのは妊娠中のマダムが空腹でなんでもかんでも食べたくてしょうがなくてしょうがなくて、子供のでも乞食のでも、食べものを横取りして自分の口に入れちゃうの。

「粘着女」っていうのは、口が糊になってなんにでもひっついちゃう女のひとの話で、それだけなんだけど。その女のひとがあまりに地味で普通の顔しているのでなんかおかしいの。

「フェミニズムの結果」は、男性と女性の役割が逆転したらこんなんなります、というやつ。
男が下女とか子守とかをやってて、女衆は酒場で酒とか飲んだくれちゃって、でっかい女がか細い男をがっしり掴まえてむりやりキスしようとして、男のほうはいやいやするんですね~ (← 淀川長治口調でおねがい)

だいたいこんな具合なんですが、あーおもしろかった、と出るときに特集のタイトル"こんなふうに私も生きたい"を見てしまうと、なかなか笑えるのだった。 「粘着女」として生きる、とか。

12.25.2012

[film] The Crimson Kimono (1959)

14日の金曜日の晩、たまたま時間が空いたので渋谷で見ました。 お客さん、いっぱい入ってた。
ぼーっとしててFilmexの『東京暗黒街・竹の家』を見逃したのは、ほんと大失敗だったよう。

ロスのナイトクラブでSugar Torchていう踊り子さんが殺されて、彼女の部屋にあった絵とかから日本マニアの犯行と思われ、絵の作者だったChristineの助けを借りてロス市警のCarlieと日系二世のJoe (James Shigeta)の仲良しコンビが一緒に捜査にあたるの。
CharlieはChristineが好きになるのだが、Joeも彼女を好きになって、ChristineもJoeに惹かれていって、Charlieは諦めて身を引くのだが、Joeはふざけんじゃねえよ、って激怒して剣道の試合でCharlieのことをぼこぼこにしちゃうの。

このへん、なんでJoeがあんなに怒ってぶち切れるのか、よくわからない。
日系二世であること、日系二世として白人社会のなかで仕事をしていること、白人女性に恋をしてしまったこと、で彼がどこかに、どこかで感じているであろう負い目のようなとこを差っ引いて憶測してみても、この辺の心の機微はあんまよくわかんなくて、「赤とんぼ」のメロディと共にその闇にずるずる引っ張られそうになったところで、事件はシンプルな動機がもたらした、極めてシンプルなものであることがわかってあっけなく落着する。

このお話しの展開オルタナ版としては、
①JoeとCharlieの仲を壊してしまったことを気に病んだChristineが自殺、どん底に叩き落とされたJoeとCharlieはいつしか愛しあうようになる。
②日系人の男性がChristineにアプローチするようになり、どん底に叩き落とされたJoeとCharlieはいつしか(以下略)
③日系人の女性がChristineにアプローチするようになり、どん底に叩き落とされたJoeとCharlieは(以下略)

人種のノワールを超えられることがわかったら、次は性別のノワールだよね、という。

世間のどこかに間違いなくある闇とそこに嵌りこんで動けなくなっている(or 変な動きをする)人たちの社会周辺を斑の混沌まるのままフィルムに転写する、というのがフィルム・ノワールの定式のひとつであるならば、この映画はまさにそれを社会の表社会と裏社会、という従来のブリッジにはない、移民社会と非移民社会との間でやってみせる。 これが人種蔑視とかそっちのほうに受け取られてしまったのは、わかんなくはないけど、残念だねえ。

しかし、三角関係のよじれとぐじゃぐじゃがピークに行ったところで画面がロスの大通りでのチェイスになだれこんでいくところとか、鮮やかでかっこいいよねえ。 
しみしみと「赤とんぼ」とか流しておいて、これだもんねー。 
しかも、冒頭の殺人とも対になっているんだよねー。

じゅうぶんぼろぼろのへろへろだったので、上映後の討論はパスして帰りました。

12.24.2012

[film] Beats Rhymes & Life: The Travels of a Tribe Called Quest (2011)

13日木曜日の晩、仕事の帰りに渋谷で見ました。

自分はもともとHip Hopのひとではないのだが、90年代のNew Yorkに暮らして、MTVとVH-1がお友達だったりすると、Yo! MTV Raps(TV番組ね)でかかるWu-Tang ClanとA Tribe Called Questに触れることなく日々を過ごすことなんかぜったいできないのだった。

2008年のRock the Bellsでの再結成から振りかえるグループの歴史。 関係者発言は最小限に留め、ATCQという部族の、部族による、部族のための歴史を前後脈絡なく追っかける。

近所のガキ連から始まって、何度も何度も喧嘩して危機になって、結局解散して、復活して、また喧嘩して、もう蘇ることはないのかもしれないが、でもまたそのうち。 なぜなら彼らはおなじひとつの部族だから。バンドでもユニットでもなく、トライブ - 部族だから。

何度も映しだされるQueensのLinden Blvd & Farmers Blvdの交差点が彼らの聖地であり、トーテムであり、クロスロードであり、墓場ともなるのだろう。

初期の写真とライブ映像を除いて、映画のなかで3人 or 4人全員が同じフレーム内に納まっているショットはなかったような。 そんな部族の。

ドキュメンタリーとしては大きなヤマもなく、そこらの素材を適当にMixしました程度で、あれがあったこれが起こった、という歴史に関する発言はいろいろあるものの、ATCQの音楽そのものの内包とか製法に関する秘密に関する言及はない。 ひたすらぶいぶい鳴り続ける音にのって、レペゼンレペゼンとか唸りながらQueensの埃っぽい道路沿いを流していく感覚があって、ほぼそれのみ。
それでも十分満足できてしまうとこが、なんだか彼ららしい。 

あと、やっぱし、93年〜94年というのはアメリカ音楽にとって、とっても重要な時期だったのかも、とか思った。


遅くなりましたが、よいクリスマスをお過ごしください。
ノストラダムスに続いてマヤ暦にも見放されてしまった我々にとって、Saint Nicholasはさいごの…(なんだろ?)

12.23.2012

[film] First Position (2011)

9日の日曜日、『秋のソナタ』のあと、bunkamuraで見ました。
辛気くさいのじゃなくて、もうちょっと若い血を、と。

バレエを見るのは好きなのだが、ライブでないと嫌で、でも日本ではライブで見れるのは沢山お金を持ってるブルジョア階級の人々、ということになっていて、じゃあ映画で見ればよいかというと、映画のきれいきれいなバレエを見てもあんましこなくて、要はライブで聞こえる床を擦る音、衣の擦れる音、床を叩く音、肉の軋む音、そういうのが好きなの。 で、この映画に求めたのはそういう音、子供たちの歯ぎしり、それらが聞こえてくれば。

実際に練習しすぎでぼろぼろの爪先とか青黒くひんまがった甲とか、とっても痛そうでバレエの華麗さからは遠い骨肉の呻きがたっぷり見える。 それがどうした、かもしれないが。

New York City Centerで毎年開かれる若者のためのバレエコンペ(あれがローザンヌと肩を並べるやつだなんて知らんかったが)、そこでの勝利を目指して練習を続ける6人の子供、若者たちのドキュメンタリー。

彼らの境遇は、駐留米軍の子とか、日系ハーフの姉弟とか、内戦で両親を殺されて養子に来た子とか、コロンビアから来た子とか、ほんといろいろ。あ、ごく普通のアメリカの高校生もいる。 境遇はいろいろでもみんなバレエが好きで、コンペで勝ってプロのダンサーになりたい、という思いは一緒なの。

泣いたり笑ったりごねたり、みんなそれぞれに大変なのだが、そのベースはスポーツに求められる価値感 - 勝つために努力する&努力したって勝たなければダメ - というのとはやはり違っていて、そこもバレエなんだねえ、と思った。 なによりも美しくなければならない、そして美しさとはこの手足のどこをどう動かし、曲げて、宙に浮かせれば作ることができるのか、バレエとはそれを常に自分の身体と共に考えるプロセスであり、バレエのメソッドとはその考えの作法を叩き込むことだと、彼らの小さな頭と身体はその入り口に立って、その足はFirst Positionをとったばかり、と。

今から10年後くらいに、彼らの姿を英国ロイヤルバレエやABTで見ることができるかもしれない、見たいものだねえ。

12.22.2012

[film] Höstsonaten (1978)

9日の日曜日の昼、ユーロスペースで見ました。『秋のソナタ』。

ここんとこ、ドメスティックな昭和モノが続いていたので、そうでない方をちょっと、とか。

Ingmar BergmanがIngrid Bergmanを撮った(このふたり、"mar"と"rid"のとこしかちがわないね)。

娘(Liv Ullmann)がしばらく疎遠になっていた母(Ingrid Bergman)を手紙で自宅に呼びだす。 母が長年連れ添っていた友人(男性)が亡くなって元気をなくしているだろうし、と手紙には書いておいたが、これは娘の罠で、この機に幼少期の恨み - ピアニストとして多忙で、自分も妹もぜんぜん構ってもらえなかった - をぶちまけてやるんだ、というちょっとした意地悪心もあった。

で、実際母が来て、彼女をじわじわ追い詰めていって、酒の力も借りて謝罪の言葉を引きだすことに成功するのだが、アーティストであるところの母は実はぜんぜん懲りてなかったしそう簡単に変わるはずもないのだった、と、そんなお話し。

ドラマとして大きな起伏やうねりがあるわけでもないし、カメラが特にすごい動きをするわけでもない(手前-奥、横横、くらい)のだが、おばさんに向かいつつある娘とおばあさん域に突入しつつある母の際限なくねちっこいおばさん会話 - どっちがどっちを責めているのか責められているのかわからなくなってくる - にずるずるひきずられ、どこに連れていかれるのか不安になったころにぷつん、と終わった。 92分。

こんな犬も喰わないような母娘喧嘩をだれが好んで喰おうとするのか、仮に喰ってみたらどうなるのだらう、を目をそむけたくならない、存在感で勝負できるキャストで、べったり汗をかく必要のない寒冷地帯で撮ってみたら、というのがこれなのかもしれない。

だから、ここに重厚な人生のドラマとかしみいるようなソナタの美しさとか、そういうのを期待してはいけなくて、喜劇と呼んでもよいの。 Woody Allenあたりがやってもぜんぜんおかしくないような。

撮影のSven Nykvistさんは、Allenの"Celebrity" (1998)とか、"What's Eating Gilbert Grape" (1993)とか、"With Honors" (1994)とか、"Something to Talk About" (1995)とか、90年代のすごくおもしろいわけではないけど微妙に心に引っかかる米国映画をいっぱい撮っているひとで、この作品も、ベルイマンという巨匠の、バーグマンという大女優の映画としてではなく、これらの、ちょっとした家族の揉め事でぴーぴー泣いたり喚いたりする人たちの映画の流れに置いてみたほうがすんなりくるかも、とか少しおもった。

[film] 女は二度生まれる (1961)

『雁の寺』に続いて『女は二度生まれる』もシネマヴェーラでやってて、ここまで来たら見るしかない、と、8日に。

その前にお昼、フィルムセンターの日活100年特集でこれを見る。

『性談・牡丹燈籠』 (1972)。
牡丹燈籠て、お話しそのものがすきで、映画だと山本薩夫の『牡丹燈籠』(1968)とか、中川信夫の『怪談 牡丹燈籠・鬼火の巻』『同・螢火の巻』(これらはTV)とかみんな素敵なのだが、これは見たことなかった。

67分、結構ばさばさ省略してて、気がついたら突然人が死んだり殺されたりしてて、お露とお米が新三郎を奪いにやってくる。 情念とか因業とか、そういうのもふっとばして、とりあえず、機械みたいにターミネーターみたいにやってきて、連れていこうとする。
どのへんが「性談」なのかはあんまわかんないのだが、冷え冷えとした救われないかんじ、これはこれでなかなかよかった。

その後で渋谷に移動してみました。『女は二度生まれる』 (1961)

これ、昔、フィルムセンターの川島雄三特集で見ていたことを、フィルムがまわりだしてから気づいた。 よくあること。

靖国神社の裏手の花街で芸者をしている小えん(若尾文子)が板前(フランキー堺)とかお金持ちとか学生とかいろんな男としゃらしゃら楽しく遊んでいて、そのうち建築家のおとうさん(山村聡)に囲われて二号さんになって、おとうさんが病に倒れて亡くなってからいろんなツキが落ちてきた気がして、ひとりでしっかり生きなきゃよっこらしょ、と目覚める。  おとうさんが死んで、生まれ変わるわたくし、というのを劇画タッチではないふうに割とあっさり描く。

ここでの若尾文子さんも申し分なく素敵で、女性映画としてよく出来ているとは思うのだが、でもこれ、男性が絵に描いたお話しだよねえ。
彼女の態度のありようとか、「二度生まれる」ていうタイトルとか、男性にとって都合よい女性のあり姿、でしかないような。
この辺を、とんがった現代娘として登場した江波杏子が威勢よく蹴っとばして暴れてくれたら気持ちよかったんだけどー。

いや、肝心なのは彼女がどうやって生きたか、生きるかじゃろ、ていうのはわかるけどさ。 うん。

べたべたしてないし暗くないし、好き嫌いでいうと好きな映画なのだが、なんというか、こういう女性像をしたり顔で肯定し、それを継承してきた男社会で育ってきたんだからねあんたは、というのは忘れないようにしよっと。

[film] 雁の寺 (1962)

7日の若尾文子 × 金子國義イベントのあと、「カメラの位置がずっと異様に低くて着物の裾がはだけるところばかり撮られていた」とか「撮影中の一カ月間毎日すっぽんばかり食べさせられた」とか、そんな若尾文子さんのコメントを聞いたら見ないわけにはいかなくなった『雁の寺』に詣でるべく、2フロア上、シネマヴェーラの川島雄三特集にはいる。

最初にやってたのが『適齢三人娘』(1951) 。
突然一方的に婚約破棄されてしまったおっとり姉(幾野道子)の仇を討ちにいった勝気な妹(津島恵子)がたまたまそこに引っ越してきたばかりの雑誌記者(若原雅夫)と知りあって、仲良くなって、姉と、カフェのおねえさん( 小林トシ子)と3人でこの男をめぐって三つ巴のごたごたになるラブコメ。

こいつ(男)、そんなに取りあうほどいいか? ていうのと、会話の調子が昔の日本映画によくある「これはこれは」とか「失敬」とか「おやおや」とか、そういうなんかくすぐったいやつで、だからラブコメというよかサザエさんの漫画みたいな気もした。

3人の女性の争い、というと洋画だと"The Women"(1939)とか"A Letter to Three Wives" (1949) なんかが思い浮かぶのだが、これらに見られるおっそろしく洒落て高次の戦いと比べると、ほんとに稚拙で、それは最近の邦画なんかずっとそうだけど、なんとかならないものかねえ、と思ったりした。


続いて『雁の寺』。 原作は水上勉。
お寺の雁の襖絵を描いた南嶽(中村鴈治郎)の死後、彼の妾だった里子(若尾文子)が寺に流されて、エロ僧慈海(三島雅夫)にやりたい放題やられてしまう話と、口べらしで貧しい寒村から修行に出された慈念(高見国一)が慈海にさんざんこきつかわれる話のふたつがあって、セクハラとパワハラの嵐が吹き荒れる近代のお寺界のありようを世間に問うた問題作なの。 たぶん。

ぶくぶくと肥えたブタ野郎慈海となんも考えずにひたすら暖かい里子と殆どしゃべらずに強く暗い目だけが生きているような慈念の三角関係は、いかにもありそうで素敵で危険で、それを切りとるモノクロの画面も四角四面でなかなかかっこよい。 肥溜めの奥から、墓場の穴から覗いている四角い枠のやつ、いったい誰なのか。 もちろん仏さまではないよね、たぶん。

ここでの若尾文子は、あらゆる欲望の涯に、まんなかに愛しか残っていないような、これはこれで異様な生もので、冷たい四角四面の世界に生きる慈念を苦しめてしまうのもようくわかるのだった。

最後に突然小沢昭一さんが現れて、このしばらく後で訃報をきいた。 おじいさん鴨だったなあ ...

12.19.2012

[film] 妻は告白する (1961)

7日の金曜日、もういいかげんやだ! になってしまったので午後やすんだ。

このイベントの前売りは売り切れていたのでどうしようか、だったのだが、とりあえず窓口行ってみて、当日券あったら入ろう、にしておいた。 ら、チケット買えてしまったので、とりあえずそれで。

『妻は告白する』(1961)の上映後に、若尾文子さんと金子國義さんのトークショー。

最初は法廷ドラマで、登山中の事故で大学の薬学部の助教授が落ちて死んだ。 ザイルで繋がっていたのは高いほうから順に製薬会社の営業の若い男(川口浩)、彼と仲のよかった助教授の妻(若尾文子)、最後がその夫(小沢栄太郎)。
状況からすると、妻がザイルを切るか、全員まとまって落っこちるかしかなかったようなのだが、さて、妻に故意の殺意(保険金とかもかかっていたし)はあったのかなかったのか。

裁判の経過と共に妻と夫の関係、彼女と若い男の関係が回想シーンと共に明らかになっていって、教師-生徒のセクハラ&パワハラから強引に始まった不幸な婚姻関係から、たんなる同情といたわりの線を超えていく若尾文子と川口浩の関係まで、なかなかかわいそうで、もうこれは無実しかないでしょ、となって、実際にそうなるのだが、話はそこから先の、単なる三面記事以上のところまで転がっていく。

転がしたのは若尾文子で、彼女にとって体にくいこんでくるザイルを切るなんて蚊を払うのとおなじくらいどうでもよいことで、それ以上に耐えられなかったのは愛を失うことで、それなしではもう生きていけなかったのだと。
妻が告白したのは憎い夫を殺したことなんかではなくて、愛を救ったということなのだと。

後のトークで明らかになったのだが、彼女が着物まるごとずぶぬれになって川口浩の職場に現れ、愛と懇願と哀しみ辛さと自己嫌悪とでぐしゃぐしゃになった目で彼を見つめるあの目のシーン、撮影はここから始まったのだと聞いてびっくりした。
えー、と思ったのだが、でも確かにあの目、強い強いあの目がすべての始まりではあったのだから、これはこれで正しい進め方だったのかもしれない。

愛が全ての中心にあって、それが自分も含めた全ての歯車を狂わせていって止めることができない、ていうのをファム・ファタール、ていうの。

金子画伯とのトークはぐでぐでに崩れまくって収束しなくて、それはそれでおもしろかった。
雨で濡れた彼女のあのシーンをたまらずドローイング(会場に置いてあった)にしてしまったという画伯はこの映画をもう50回は見たといい、そのしばらく後で30回見たといい、あんたファンなのはようくわかったけど、酔っぱらってるだろ、みたいなかんじで、まともな会話にならなくて、実際にトークを仕切っていたのは若尾文子さんのほうだった。

「赤線地帯」の撮影のエピソードとか、映画史的には知られたことばかりだったのかも知れないが、でもまあ、すごい人だよね。(あ、若尾文子さんのほうね) 外見の驚嘆度合としては、5月の日仏のファニー・アルダンさん並み。
なにしろ夢中だったもので憶えておりませんわ、とか言いながらぜんぶすらすら出てくるの。

最後にサイン本も貰えたので、とっても幸せだった。

で、こういう話を聞いた後では、この後、2階上の映画館でやっている『雁の寺』(1962) を見ないわけにはいかなくなったことは言うまでもない。


ぜんぜん関係ないけど、"Home Alone2"、おもしろいねえ。 何回みても。
ふつう、死ぬよね、あれ。

12.16.2012

[music] The Colin Currie Group - Dec.5th

ライブなんでもいいからなんか行きたいー、と思っていたらそういえば、というかんじで出てきて、2日前だったけど前から4列目のチケットがあったので取って、行った。
12月5日、ふつか目のほう。

正式タイトルは、
The Colin Currie Group with Synergy Vocals and Steve Reich
Live at Tokyo Opera City "Steve Reich's Drumming" ていうの。

Colin Currie Groupが9人、Synergy Vocalsが3人、ピッコロが1、Steve Reichが1。
パーカッションの人たちはイギリスのパーカッション奏者、ていうかんじ。(それがどうした)
演目は4つ。 最初の3つの後に休憩が入って、その後で"Drumming"。

Clapping Music for two musicians clapping (1972)
Colin CurrieさんとSteve Reichさんが手ぶらで登場して、せーので手拍子を始める。
ブラジル音楽のひととかが練習で普通にやっているような、Stomp(なつかし)とかでもやっていたような軽いやつなのだが、パンフの解説によると、もともとは漸次位相変移作品になるだろうと思っていたのだが、これだと適切ではないことがわかって、で、『解説策はこうだ。… 』とそれ以降に書いてあることがわけわかんなすぎて、なんかすごいの。
漸次位相変移ってなに? と思って英語を調べてみたら"gradual phase shift"ていうのだった。

Nagoya Marimbas for two marimbas (1994)
マリンバ2台が気持ちよい。 なんで名古屋なのか、なにが名古屋なのか、を考えてて、マリンバの茶色がひつまぶしの茶色、味噌カツの茶色だから、と思うことにした。

Music for Mallet Instruments, Vocals, and Organ (1973)
木琴と鉄琴と声、他になにがいるだろう?

Drumming for voices and ensemble (1970-71)
Part Iがボンゴ・ドラムス4つ、Part IIが木琴3台と声、Part IIIが鉄琴3台と声とピッコロ、Part IVがこれらぜんぶ乗せ。 なんといってもPart IIIが気持ちよかった。太陽と戦慄からクリスマス・チャイムへとなだれこむ至福。

"Drumming"の最初のライブ体験は、2001年10月、BAMでAnne Teresa De Keersmaeker のRosasによるバレエ作品"Drumming" (1998) だった。

弧を描いてぐるぐるまわり続けるダンサーの背後で同様にまわり続けるパーカッションの音群はひたすら気持ちよく、虎がバターにとろけていくようで、ああこういうダンスも音楽もやっぱしライブでないと、としみじみしたものだったが、今回のライブは、まず音としてひたすら強く圧倒的で、それは出音のでっかさとかそういうことよりも、バチを手にした奏者が打楽器に近寄っていってふんふんとカウントし、それを振りおろす瞬間のスリルと、そこから吹き始めた音の粒が流れを作りうねりとなって雪嵐をつくる、その瞬間を目撃できることにあるのだった。 それはバンドでもオーケストラでもない音の組成とその(人力の)可能性を示しているようだったの。

12.15.2012

[film] To vlemma tou Odyssea (1995)

2日の日曜日の昼間、渋谷で見ました。『ユリシーズの瞳』。 
まだ見たことなかったし。アンゲロプロスさんをちゃんと追悼していなかったし。

オデュッセウスの凱旋よろしく、米国の不健全な映画監督として母国ギリシャに帰還したA(Harvey Keitel)が、マナキス兄弟の失われた最初のフィルム、ギリシャの最初のフィルムを探してバルカン半島を渡ってサラエボに向かう、という話。

前の日に見たホン・サンスに続いての映画監督モノ(映画監督自身と思われる映画監督が主人公)繋がり、となるが、両者はあたりまえのように、ぜんぜん、ものすごくちがう。 この違いを考えてみる意味はどっかにあるのかないのか。 (行く先々できれいな女性が現れるけど…)

英語題は、"Ulysses' Gaze"であって、邦題の「瞳」よりはダイナミックに見る、凝視する、という動きのイメージが出てくる。

タクシー、列車、船を乗り継ぎ、「国」を渡る旅を通して、目を疑うようなヨーロッパ、バルカンの現状、壊れていく「歴史」に震えてあきれて疲労困憊し、自身を喪失し、それでもそれらをじっと見つめ、フィルムが見つかる確証があるとは思えないのに旅に、移動に没入して誰かが勝手に敷いた国境という線を超えていく。 フィルムを探す旅は自分を探す旅なんかではありえなくて、寧ろフィルムに近づくにつれ、彼は自分を、国を見失っていく。

なんでそこまでしてギリシャ最初の未現像フィルムを探し求めのるかというと、最初に映画を撮った兄弟の世界に対する最初の眼差しが、そこに込められた最初の思いが、その思いを受けてフィルムめがけて突き刺さってきた世界の最初の光が、そこにあるから。 そこにある、と彼A - アンゲロプロスが信じるから。

荒地と化してしまったヨーロッパに、今必要なのは、その最初の光であり、最初のイメージなのであり、冒頭に映し出されたフィルムにあった糸を紡ぐ女性のように、映画監督である自分はフィルムという糸を紡いて、みんなに見せるのだと。
フィルムは世界にとって何でありうるのか。フィルムの行き着く先はデジタルアーカイブやデータベースにあるのではなく、世界の糸を紡ぐことであり光を注ぐことなのだ、と。

フィルムの現像まであと一歩のところまできたサラエボで最後の悲劇が襲う。
なにも見えない白い霧 - 光はあるのに見ることを阻む雲の向こうで行われる殺戮。
それでも、彼は霧の向こう側を見つめ(こちらには音のみ)、声も涙も涸れて空っぽになって、そのぼろぼろの穴に最初のフィルムの白い光が注ぎこまれる(こちらにはフィルムの回る音のみ)。 そして、今度戻るときは、他人の服を着て、他人の名を名乗り… ていうの。

Harvey Keitelの肉体がすばらしい。ギリシャ彫刻としか言いようがなくて、でも彼ももう73なのね…

で、こういうのを見たあとで、西欧文明の腐れなれの果ての典型のようなフィルム "Skyfall"なんかを見に行ったのだった。


ぜんぜん関係ないけど、明日の選挙は断固極左でいくから。

12.13.2012

[film] The Day He Arrives (2011)

なんでみんなあんなに楽しそうに忙しそうに毎日毎日宴会ばっかりやっているのか。ばっかじゃないのか。

ぜんぜん書けていませんが、1日の土曜日、神保町で『夜の流れ』を見たあとで新宿に行って、見ました。 ホン・サンス特集の『次の朝は他人』。

もこもこのジャケットを来た映画監督(『教授とわたし、そして映画』でもそうだったが、なんでみんなもこもこを着ているのか)がソウルに来て、街中を歩きながら先輩に電話をかけるのだがつかまらなくて、することもないまま酒を飲んで、更に酒場で知り合った学生3人組と飲んだりして、その後で、ふらりと突然昔の彼女のアパートを訪ねて、彼女は2年ぶりなのでびっくりしたりむくれたり、でもなんか嬉しそうで、そのままひと晩すごす。

その翌日にやっと先輩がつかまって、先輩と先輩が連れてきた女性と一緒に「小説」ていうバーに行って、後から現れたそこのオーナーである女性にびーんときてしまった彼は、店の外で突然彼女を抱きしめてキスして、翌日もまたお店を訪れて彼女とひと晩過ごして、それで別れるの。 それだけなの。

筋だけ書くとそこらのぼんくらの日記みたいに間の抜けた、いいかげんで適当な冬の3日間の行動(特になんの収穫もない、その後の生活とか人生に大きな影響を与えるとも思えない)が時系列で綴られているだけで、ジェットコースターでもスクリューボールにもならない、出会う人たちは先輩以外はみんなたまたま会った、たまたまそこにいたような人たちで、これがそのまま映画になってしまうことにまずびっくりしよう。

でもたとえば。
この主人公が映画監督ではなくて殺人鬼だったらどうか、とか。
昔の恋人の部屋を訪ねて彼女を殺し、翌日先輩とその友達の彼女を次々に殺し、バーのオーナーを殺して、みたいだったとしたら、これだったら映画になるかんじもする? それがどうした(どっちにしても)、 ではあるのかもだが。
出会いがしらのナイフの一突きを、ハグとキスに置き換えてみること。

寒そうな夜道で外に出たふたりが突然がしっと組みあって貪るようにキスをするシーンは、おいおい動物かよ、ていうくらい唐突で、その瞬間に嵐が巻きおこって、その生々しさも含めてそれはそれはすばらしくて、その瞬間に、あーこれは人殺しとおなじくらいすごいことだ、ひとを抱きよせて口と口をべったりくっつける、ていうのはそれくらい恐ろしいことなんだ、と思ってしまうの。 そんなところも含めて『次の朝は他人』てことなのか、と。(英語題だと『彼が着いた日』なのだが)

あとさあ、なんでホン・サンスの映画って、ぼんくら男(すけべのうすらぼんくらにしか見えない。わるいけど。どうみても)の周りに、きれいな女性がいっぱい現れるのだろうか。
あれはないんじゃないか、というと、だから映画なんだってば、て返ってくるの。

12.09.2012

[film] 夜の流れ (1960)

12月1日土曜日のお昼、神保町シアターの特集『追悼企画  女優・山田五十鈴アンコール』から1本見ました。ほんとは(ほんとうに)ぜんぶ見たいのであるが。

山田五十鈴が東京の料亭の女将で、司葉子はその一人娘でモダンガールの暮らしを楽しんでて、そこの料亭に呼ばれてくる芸者さん達とその置屋のお話、料亭の料理人の三橋達也と山田との仲に娘の司も割りこんでくる話、芸者の草笛光子に絡んでくるダメ男北村和夫とか、複数の線が流れていく。

成瀬巳喜男と川島雄三の共同監督で、製作ラインも完全に別だったようだが、どっちがどのエピソードを撮ったのかは、わかる人が見たらわかるのだろうし、若い人たちのエピソードが川島で、そうでないほうが成瀬? くらいの想像はできるものの、そんなの想像したところでどうする、であって、そんな段差があるとも思えない。

これは成瀬かなあ、と思った旅館の一室での山田五十鈴と三橋達也のやりとりはほんとうにすばらしくて、山田五十鈴の愛と焦りと哀しさと自己嫌悪と絶望と欲望と、そういうのがどちらかというと静かな対面のシーンの彼女のおっそろしく繊細な表情と首の揺れと、にぜんぶ現れてくる。 現実世界であんなの目の前でやられた日にゃ、とか想像してしまうが、そんなの想像したところで(..以下略)

その娘の司葉子は昭和35年当時の勝気で怖いもの知らずのいけいけ娘で、その彼女が古風な職人である三橋達也(どこがいいんだか)を好きになり、やがて母と衝突し、その衝突はどちらかというと旧い女であった母の背中を押し、その母の変化は娘を芸者の道に進ませることになる。
男との三角関係がふたりを変えたのではなく、ふたりはそれぞれに変わるべくして変わっていったのだと思う。夜の流れのなかで。

成瀬映画の多くがそうであるように、女性映画としての力強さがすばらしい。(単に強い、負けない女の姿を描く、ということではなく、縮んでいくことのない女の子の往く道を示す、というか)
草笛光子のはかわいそうだけど、金太郎(水谷良重)が最後に爆発するところとか、かっこいいったらない。

『流れる』(1956)には、流れの只中にある女性たちの決して戻ることのない何かに対する祈りにも似た思いがあって、それすらもまた流れていってしまうのでお手あげで、その切なさやるせなさが全面を覆っていた。

『夜の流れ』は昼の流れとは違ってよりいろんなものが流れていくのだが、女達はいつだってその流れにおける女王なのだ、女王になりうるのだ、例えばこんなふうに、と。

12.07.2012

[film] Skyfall (2012)

ねむすぎるので書き易いのから書いてしまおう。
2日の日曜日の晩、六本木で見ました。

James Bond 50周年記念作品の監督がSam Mendesと聞いたときはえーっと驚いたものだったが、ぜんぜん外れていなかったかも。
抗いつつも崩落の誘惑にずるずると溺れ、堕ちてていく英国、その突端で奮闘するスパイもまた、同様に腐っていく - という、こないだの"Tinker Tailor Soldier Spy"でも描かれたボロ雑巾な構図は007にも例外なく適用されて、みんな疲れてて、でもどうすることもできないし、もうスパイなんて毎日の生活に関係ないよね、とか。

そこらへんの疲労感を英国の慢性的な病 - あるい周知公認された「病」の定常化された日々として描く、このへんはSam Mendes演出のShakespeareでも見ることができたのだが、だからJames Bondはいつもいつも超人的でアクロバティックな技量を発揮するわけではない疲弊したスパイとしてそこにいて、だからよりリアルで、悪くないの。(まあ、よりリアルになった、というのは007の新作のたびに言われる惹句なわけだが)

そして、Sam Mendesが継続的に描いてきたテーマである家族もはっきりと出ていて、スパイみんなのお母さんであるところのMがあやうし、になったり彼の生家が出てきたり、必ずしも孤高のスパイではない、人の子としてのJamesも現れてくる。

だからといってアクションがつまんないかというとそんなことはなくて、穴から地下鉄が落ちてくるとか、トカゲに食べられちゃうとか、わかりやすくてよいの。
悪役のJavier Bardemも、マザコンでおかまで歯抜けで爆発白髪、というBondを180度反転させたようなくどいキャラをさらりと演じている。とどめの刺されかたもすばらし。

しかし、どこまで行っても英国。ここまでいくか、というくらい英国。
Mが聴聞会で諳んじるテニスンといい、007とQが出会うNational Galleryとターナーといい、地下道と地下鉄、Skyfallのある荒野といい、オリンピック記念だか即位60周年記念だか、大英帝国万歳!でどこまでも平気なツラして押してくる。
NATOの潜入スパイリスト漏洩というとんでもない事態が起こっているのにアメリカも他の国もなんも言ってこないし。

で、あるのだが、最後の対決の舞台とか、ヘリコプターでの追い討ちとか、まるで西部劇だったりする。
(Roger Deakinsのカメラ、かっこいい!)

新しい顔となったQ、人気がでるのはわかるのだが、敵方から押収したPCをそのままMI6の本番LANに平気でぶっこむ、という初心者かおめーは(殴)、みたいな信じ難いミスをしでかし、これが後半の大惨劇をもたらすことになったのだから、クビか、当分は自宅謹慎とせざるをえないであろう。

記念作品だからアメリカ人が監督することはありえなかったのだろうが、このプロットで、Tony Scottが撮っていたらなあー、とちょっとだけ夢想した。

12.06.2012

[film] Hendrix 70: Live from Woodstock (2012)

27日の火曜日に六本木で見ました。

11月27日がHendrixさんの70歳のお誕生日だそうで、それに合わせてリリースされたライブ映像 - オリジナルの16mmからデジタルリストアして、音も ライブ当時のエンジニアだったEddie Kramerさんの手で5.1サラウンドにリマスターされたやつ、が全世界でこの日だけ映画館上映される、と。

東京だと六本木と渋谷で上映されて、六本木のが音はよいのでそっちに行った。
こないだのLed Zeppelinのもそうだったが、最近ぜんぜんライブに行けていないので、こういうので音を浴びるしかない。 つまんない。

TOHOのシネコンで最近かかるメッセージ・ムーヴィーとかいうのに軽く死んで、予告でかかったO崎なんとかの復活で髄液レベルで悪寒が走り、映画泥棒CMでトドメをさされる。 ここまで不快・不愉快にさせてくれる娯楽施設も珍しい。

えー、Jimi Hendrixというひとの音楽も、Zeppと同様、そんなに詳しいわけでも熱狂的なファンでもなくて、数年前にBBC Sessionsを始めとしたきれいな音のがまとまってリリースされた頃に聴いた程度、このWoodstockの映像もまとまって見たのは初めて。
ものすごーくギターのうまいひと、程度のイメージしかない。(←最低)

最初にWoodstock、Jimi関係者の証言があって、このライブの大トリを最初から決めていたこと、それを前にした新バンドのこと、などなどが語られる。 早くはじめろよ、もあるのだが、その発言のトーンから、あとあとのフィードバックを意識したあらかじめの言い訳ぽいかんじがありあり。 別にいいじゃんもう。

Woodstockの最終日の大トリ、予定がだらだら押して月曜の朝早くに登場したバンド、自分がもしその場にいたら、を想定してみると、なかなか微妙かもしれない。 こっちの頭を叩き起こすような鮮烈な、鬼気迫る演奏、というわけでも、フェスの最後を飾る感動のヴァイヴをもたらしてくれるわけでもない。 Jimiはひたすら自身のギターの音に没入し、歌い、カメラはほぼその姿のみを追っていくばかりなので、ライブの全体は見えにくいのだが、しばらく遠くから眺めて帰っちゃった客も相当いたのではないか。

ここでの彼の音楽史、例えばギタープレイあれこれ、バンドスタイルの変遷といった角度からはなんも言えないのだが、このバンド構成 - パーカッション3、ベースにサイドギター - Bnad of Gipsysで、彼がやろうとしたこと、ギター中心のファンク、ジャムセッション形式の音がその後の米国音楽に与えた影響はじゅうぶんにうかがうことができるのだった。
音のぬたくるジャングルをぐるぐる切り裂きながら進むギター(とそのリフ)の気持ちよさ、それはやはりこのあたりからだったのか、とか。

もういっこ、シアトルというのもあって、現地に行ってみるとグランジとKurt、というのは当然出てくるのだが、このひとも必ず登場してきて(数年前にBoxも出たよね)、シアトルという土地の、あのうっすらと湿ったかんじ、はどこかに反映されているのかいないのか。

おおもとの音がこんななので、5.1サラウンドでもそんなにびっくりするほどの音は飛んでこなくて、たまに泥のハネが飛んでくる程度。

ライブの後も、後日談、というかんじの関係者コメントが暫く続くのがちょっと残念だった。 資料的価値を優先したかったのだろうが、音楽に集中したいひとはいらつくかも。

字幕はもうちょっとなんとかしないと。 縦レイアウトになるとカタカナの「ー」が横になって崩れるとか、翻訳以前のところも含めて。

12.04.2012

[film] W.E. (2011)

25日、連休最後の日、ほんとはもう一回ポーランド映画祭に行こうと思っていたのだが、なんか疲れてて、あそこの地下にまたもぐるのもなんかなあーと思って、銀座で1本だけ見ました。

単なるThe Duke and Duchess of Windsor - Wallis Simpson & Edwardのお話、ではなかった。
90年代末のNew Yorkに暮らす女性 - Wally Winthrop のおはなしだった。
Upper East(たぶん)のクラッシーなアパートに暮らしているが夫は医者で忙しくてなかなか帰ってきてくれなくてDVで、子供が欲しくて仕事まで辞めたのに、お先どんよりの日々。

丁度そのころ(98年の2月、たしか)、ふたりの遺した宝物のオークションのPreviewがSotheby'sであって、それは今だに語り継がれるお祭りだったのだが(前年に発売されたオークションのカタログは分厚い3巻本、出品点数は40,000、売り上げはぜんぶで$23million)、当時あそこに住んでいるひとだったら誰でも嫌でも、わんわん報道され続けるWとEの人生に向きあわされてしまうのだった。

要するにこれは"Julie & Julia" (2009)で、現代のJulieが偉人Juliaの足跡を辿ることで自分の今とこれからを見つめ直したのと同じように、WallyはWallisの人生に自身のなにかを重ねて(表面は満ち足りた生活、その裏側に愛の名のもとの孤立と迫害)、Wallisの手、Wallisの瞳に引かれるようにPreviewの会場(72nd & York)に通いはじめ、そこで会場のセキュリティガードをやっていたロシア系移民のEvgeni - もうひとりのEと出会う。

その会場で彼女は、後世に遺された宝飾品が語るW.E.の物語を聞き、Wallisの手袋に背中を押され、妄想でぱんぱんになった勢いで裕福なおうちを捨てる決意をするの。

たんに満たされなくてロマンに憧れる人妻のメロドラマ、それを世界を揺るがした世紀の恋に勝手に繋げ、崖から飛び降りるようなことをして、それでも全体が浮ついたしょぼい夢物語にならなかったのは、ひとりひとりの苦痛と、想いが叶わない地獄を存分に描いた上で、それでもこの恋を生きるのは自分だ、自分が行くんだ、ていうぶっとい決意が漲っているから。(Abbie Cornish、"Bright Star" (2009)に続いてすばらしい目の強さ)

主人公の妄想で都合よく切り取られたWindsor公のお話しも、妄想だもんだから、なかなかにすばらしい。らりらりのパーティーでPistolsの"Pretty Vacant"("God Save the Queen"にしなかったのはさすが)にのって、弾けたように踊りだす瞬間のすばらしいこと(横で一緒に踊ったのはJosephine Baker?)。
同じく、死の床にあるEdwardの求めに応じてゆっくりと舞い踊るWallisも。

Writerは、Madonnaと、彼女のべたべたにおセンチで甘い(でも大好き!)ライブフィルム - "Madonna: Truth or Dare" (1991) を撮ったAlek Keshishian。なるほどね。

すごくどうでもいいことだけど、WallyとEvgeniが最初にデートするMadisonのSant'Ambroeus - ジェラートがすんごくおいしい - あれって00年代にリニューアルする前のレイアウトじゃなかったかしら? 90年代、Big GayもVan Leeuwenもなかった頃、おいしいジェラートはここにしかなかったんだよ。

12.03.2012

[film] Matka Joanna od Aniołów (1961)

24日、ポーランド映画祭の初日、初回から3本続けてみました。
10時過ぎにいったら結構な行列でびっくりした。 で、毎回ずーっと立ち見が出ていた模様。

こんな人気があるもんだとは思っていなくて、もちろんこういう特集上映で映画館がいっぱいになるのはよいことなのだが、なんか雰囲気がすごくぎすぎすしてて、きつかった。 
映画を真面目に見るのはよいことだし、これらはそういう種類の映画なんだから黙れ、なのかもしれないけど、「20分前なのになんで中に入れないんだ」 て怒るひととかは、よくわからない。 そんなら自宅でDVD見てれば。


『尼僧ヨアンナ』 - Matka Joanna od Aniołów (1961) (by Jerzy Kawalerowicz)
人里離れた山寺で尼さんに悪魔が取り憑いて、退治に行った僧がやられた、ということでこんどは若い神父が退治に赴くのだが、やっぱり負けちゃって、恋って悪魔とおんなしよね、おそろしいわねーていうお話し。

画面はじめからおわりまで、おっそろしくかっこよくて、麓の宿場から遠くに眺める教会の位置からしてすごくて、そこを舞台に聖者と悪魔と俗人と権力者、男と女と、愛と憎しみ、正気と狂気、善と悪、上昇と転落の曼荼羅絵が展開される。それは地獄絵ではなくてー。

首が飛んだり首が回転したり、悪魔が前面に出てどろどろの聖戦になることはない。
でも悪魔はヨアンナの魂に取り憑いていて、それは取り除かれなければならない。今の世ならユングくんとかフロイトくんの出番かもしれないのだが、背中を押されたのはまじめな神父スーリンで、見るからに食われそう、とおもってたらほんとに食われちゃうのだった。

音楽ぽいのは鐘の音、尼さんたちの合唱、酒場の流し唄、それだけで十分なの。
登場人物はみんなカメラのほうを向いてて、なんとなく"The Shining"ぽいかんじもあった。


『エロイカ』 - Eroica (1957)  (by Andrzej Munk)
ワルシャワ蜂起での「英雄」のありようふたつ。 
ひとつは喜劇ぽくて、もうひとつは悲劇っぽいの。

喜劇のほうは、あらゆる障害をなんとなくすり抜けつつひたすら歩いていくラッキーなおじさんが楽しい。 特に戦車と干し布団のとこは、来る来る来る、と誰もが思ったとおりのことが起こるの。 悲劇のほうは、捕虜収容所内にいる伝説の「英雄」とその扱いをめぐるどんより暗く陰惨なお話しで、ただ暗いとは言え、大勢に影響を与えることなく済んだので表面上はいいかー て。

どっちのお話しも、戦局に決定的な影響を与えるような「英雄」ではない、みんなが崇め奉るような「英雄」ではない「彼ら」を通して、彼らがいようがいまいが、だれひとり救われることのない、喜びからも悲しみからも遠い戦争のありようを描いた、というか。  


『夏の終りの日』 - Ostatni dzień lata (1958)  (by Tadeusz Konwicki)
戦闘機が頻繁に飛んでくるどこかの浜辺で女のひとと男のひとが出会って、女は男を怪しんで初めは猫みたいに威嚇するのだが、男はなにかに傷ついて病んでいて、時間の経過、ぎこちないおしゃべりを通してふたりはそうっと寄りそっていく。
女も男も、彼らがどこから来た誰で何をしているのか、会話の内容からしかわからない。

ほかに誰もいない夏の終りの浜辺で、ごくごくふつうにありそうな出会いとお昼寝の微睡み、雨、焼き魚、そして虫さされとか擦り傷みたいな別れと。
これは夏の終りの日だから、翌日に夏はもう消えていて、こういうことは絶対に起こらない。
(ホン・サンスの映画だと、彼らは翌日また現れて酒を飲むのね)
彼らはこのあとどうなってどこに行ったのかー。

サイレントでもよかったくらい、飛行機と波の音で感情の浮き沈みがぜんぶ説明できてしまうくらい儚くてきれいで、夏の終りの日、としか言いようのない風景で。
いまこれにサントラをつけるとしたら、初期のThe Durutti Column。


あと、これは言ってもしょうがないことを十分わかってて敢えていうけど、3本ともデジタル上映じゃなかったらなあー。
デジタルに落とされた画面は、ものすごく綺麗でシャープで肌理細かくて、それのどこに問題があるのか、ではあるのだが、作ったひともこれを見た当時のひとも、こんなきんきんしたモノクロの画質では見ていないよね、おそらく。 
どんよりとしたモノクロのノイズとか雲の向こうから見えてくるものもあるはずで、ここで今回掛かるような作品て、どちらかというとそっちのに合っている気がした。

12.01.2012

[film] Mekong Hotel (2012)

23日の金曜日、Filmexの初日に見ました。結局今年のFilmexで見たのはこれだけになってしまった。 「千羽鶴」のあとで渋谷から移動したら、オープニングの『3人のアンヌ』も見れないこともなかったのだが、なんとなく、こっちは封切りされてからでいいかー、とか思ってパス。

アピチャッポンの新作、61分。
女の子がしゃがんで生肉らしきものを齧っているスチールだけでなんとなくわかってしまう、そんなやつ。
アピチャッポンとサントラのギターを担当しているひとが向いあっておしゃべりしながらリハーサルしている光景と、水量たっぷりの川に面したホテル?らしき建物で男と女の子と母親らしき人たちがそれぞれに話しをして、突然生肉を食べているシーンが出てきて、要は撮影する側と撮影される側と、その更に向こうで映画として描かれている世界の3つがゆるゆるおおらかに繋がっていて、それがなにか? なのだった。

それは「ブンミおじさん」(2010)にも" Phantoms of Nabua" (2009)にもあった死霊だろうが亡霊だろうが妖怪だろうが、そいつらがどこからやってこようが、そこにそうして見えて動いているのあれば撮る、そういう確信に溢れた、でもその強さはしばしば(西欧から見たときの)「アジア」的ななんかとして括られてしまいがちなのがちょっと気にくわないのだが、今回もそんなのがところてんのようにするする流れてくる。

で、受ける側としては、「ふむ」って頷いておわっちゃうんだけど。

ラスト、夕日に輝くメコン川?の水面を小鬼(たぶん小さいレジャーボート)がくるくるびゅんびゅん舞っていて、そこにアコギのリフが延々被ってくるとこはほんとに素敵で、いつまでも見ていられる。

これって、ミシシッピの流れにブルーズ(ヴードゥー)、ていうのと同じ構図のようにも思えるのだが、でもベースにあるのはクレオール的ななんかとはまったく異なっていて、民族間の紛争とかこないだの洪水とかそういうのがほんのり浮かぶ。 いや、それすらも偏見なのかもしれないけど。 たぶん、でも。 
民の血や肉や涙が、魂というのがそこに還っていってそれが伝承として延々まわって流れていくでっかい器としての川。汽車であり線路でもある川。 この映画は駅(ホテル)からそんな川を眺めているだけで、いろんな物語がわんわん湧いてくるさまをぼーっと見ている、そんなふうなー。