7.31.2013

[art] David Bowie is

まだロンドン。

20日の夕方にV&Aに行った時点で、これのチケット、土日分はぜんぶ売り切れ、と貼り紙がしてあった。 もう会期終わりに近いのに、と衝撃を受けつつも引き返すわけにはいかないので、窓口のひとに明日は何時から並べばいいの? と聞いてみたら9時くらいからかも、というので朝8:30に行ったら前から2番目だった。 でもそのあと、オープンの10時迄にはありえないような行列ができていたので、結果的にはいかったかも。

展示の入口のところで、ヘッドホン付のデバイス(たしかシーメンス製だった?)を渡されて、これをOnにした状態で会場をまわれ、と。
それぞれの展示物から垂れ流されている電波を拾う、それは音楽だったり語りだったり当時のいろんな音源だったり、ちょっと古めのマルチメディアふう。

Bowieの生い立ちからデビューから直近までのキャリア全般まるごと、遠くない将来世界のどこかにできるであろうDavid Bowie記念館を先取りしたような内容で、衣装にグラフィックはもちろん、ライブで彼が拭った口紅つきのティッシュとか、そんなのも含めてDavid Bowieのすべてにどっぷり浸かることができる。
そしてそれは、David Bowie was... はなく、あくまで現在形の is なのである、と。

Bowieは好きだけどこういう浸かり方はあんまし得意ではないので早く出ようと思ったのだが、展示の前で曲が流れてくるとつい聴いてしまったり見てしまったりするので全然進めず、困りながらも場内を1時間以上うろうろしてしまった。 同じようにヘッドホンを外そうか外すまいか頭に手をかけた状態で困った顔で彷徨っているおばさんとかがいっぱいいた。 わかるわかる。

展示の終りのところの大きなスペースで過去のライブ映像を4面ででかでか映しているところがあって、これ、向かいあう画面にちゃんと反応してライブ音源も切替わるの。
後頭部に目がついているひとはちょっと困るかも。

映画部屋、というのもあって、「戦メリ」とか"Absolute Beginners"とか"Labyrinth"とかの抜粋映像が流れていた。 当時、「戦メリ」はふつうに見ていたけど、あとの2本は見ていなかったねえ。

あとはベルリン3部作部屋。 あの音をつくったEMSのシンセ(90年にイーノから貰ったって)が置いてあって、こんな小さいんだー、とか。

あらためて、Aladdin Saneまでの彼は、ほんとに宇宙人だったんだ、と今見ても改めておもった。
新譜も、そりゃ悪くはなかったけど、もう宇宙人が作ったあれではないんだよね。
で、これだけぎんぎんのヴィジュアルや衣装がてんこ盛りでも、出たあとでいつまでもあたまに残っていたのは彼の高い声、低い声、叫び声、孤独な声、歌う声、だったの。 そういうのが残った、という点ではとてもよい展示だったような。

おみあげコーナーでは、カタログはやめて、ポストカードにした。
ほんとはTerry O'Neillによる"David Bowie and Elizabeth Taylor" (1974)のプリント, £1,680がちょっとほしかったなー。

7.30.2013

[film] Le Ciel est à vous (1944)

ロンドンのお話に戻ります。21日、日曜日の晩に見たやつ。

ロンドンに行ったら、最低一回はBFIにお参りをして、あそこの本屋で買い物をして映画を見る、というのを掟化している。
本屋さんではBFIのScreen Guides "100 Silent Films"とFilm Comment誌(表紙:Lindsay Lohan)とSight & Sound誌(表紙:Greta Gerwig)を買った。

今回やっていた特集は、ヘルツォークとインド映画と「ローマの休日」とかで、どれもなんかちがう、だったのだが、Jean Grémillon特集、もやっていて、これのうちの1本だけ、この晩に見ることができた。 邦題は『この空は君のもの』。 英語題は"The Woman Who Dared"。

フランスの片田舎で暮らしている家族 - 妻と夫と子供ふたりにおばあちゃん - がいて、飛行場建設のために町に引っ越すことになって、その引越しのじたばたから始まって、車の整備工場をやっている父親も母親も腕と働きがよいので、もっとでっかくやらないかと誘われてて、そんなある日、飛行場にできた飛行クラブのお披露目飛行で飛行機の整備をした父親は、女性飛行機乗りとその整備に夢中になっちゃって、街場で営業のバイトをやっている母親はむくれてふたりの仲は最悪になるのだが、自分も飛行機乗ってみたらうきーあたしもやってみたい! になって、自分達で飛行機を作ろう!女性の連続飛行の記録に挑戦しよう! てなるの。 

ふたりの子供がいてこつこつ地道に堅実にやってきた夫婦が突然全てを賭けた飛行機狂いになってしまうとか、そんな簡単に記録を狙える飛行機乗りになれてしまうものなのかとか、よくわかんないところもあるのだが、危なっかしく上下に揺れながらもふたりの幸せの行方をカメラはしっかりと追っていて、すばらしい。 ずっとピアノのレッスンをやっててコンセルヴァトワールに行かせるべし、と言われた娘のピアノは飛行機のために売られちゃってかわいそうなのだが、パパとママが幸せになったのだからきっとよいことがあるよ。

というかんじで中味はほんのりあったかいのだが、冒頭とラストには隊列をなしてゆらゆら歌う孤児院の子供たちの影がしんみりと映って、それもまたよかったの。

[music] FRF2013 - July 26 そのた

FRF2013の1日目のあれこれ、NIN以外のやつらを。

FRFに行くのは、たしか2007年以来で、もちろん毎年行こうかどうしようか考えこんだりするものの、このフェスとか場所にそんなに思い入れがあるわけではなくて、でも行ったらはしゃいで、疲れてしみじみ後悔する。 で翌年になるとすっかり忘れてまた行こうかどうしようか悩む。

8:04の新幹線で越後湯沢行ってシャトルバス乗ってリストバンド貰ってゲートをくぐって、ここまで既に11:30を過ぎていたので、ううむ。
GreenのRoute 17 Rock‘n’Roll Orchestraは、大江慎也だけ見たかったのだが、もう終わっていたのだろう、チャボが「ぶんぶんぶん」してた。それから"Hey Hey, My My"になって、The Poguesの"Fiesta"の日本語版(そんなのあるのね)なんてやってた。

とりあえず奥に行こう、と木道亭のとこを抜けてOrange Courtに行ってTurtle Islandを少しだけ。お祭りだねえ、まだお昼なのに。というかんじにあがってくる。
そこからField of HeavenでSoil & "Pimp" Sessionsを横耳で聴きながらマルゲリータに並んで食べて、ついでにルヴァンでしそジュースと生トマトを追加して、Whiteで怒髪天。
バンドのねちっこさとバタくささを音の切れと抜けが気持ちよく裏切る。そこまでの強さ、と言ってよいのかどうか。

どうしようかなー、と再び木道亭のところを通っていったらKensington Hillbillysをやっていて、気持ちよすぎたので立ち止まる。 ギター2本とペダルスティールが風のように自在で軽くてもうずっとここにいるこれだけでいいぜんぶ投げだしてどうでもいいこのまま森の奥に消えたい、というのと、ここでスイッチを入れてなんとかしないでどうするていう焦りと、いろんな煩悩とか雑念とかぼたぼた落ちてきて、山の天気とおなじくらい脳内の天気もふったりやんだり変わってばかりで、みんながいうエンジョイ!とかリフレッシュ!とかとは全然ちがって結構疲れてばかりなのだが、でもそうだ音楽だと気をとりなおしてうろうろする、というのが自分にとってのフジだったのだ、ということを改めて。

そのまま木道亭に座って次の畠山美由紀さんの最初の3曲を、やっぱし気持ちよいな極楽だわ、と思ってSuzanne Vegaの"Gypsy"のカバー(なつかしー)を背後に再びOrange Courtに向かってThe Sea and Cakeをみる。  最初の5曲くらいまで。このバンドの魅力は2台のギターのぱりぱりした絡みあいだと思っていたのだが、この日はドラムスとベースが結構前に出ていて、悪くはないもののなんか違うのでは、という気がして、Field of HeavenのGentlemans Pistolsにいく。
長髪と髭とメガネとでぶ。 ごりごりのサザン・ヴギ、というか直球のロックンロールで、これがぜんぜん悪くなくて気持ちよいのだった。夏の昼間はこれよね、ていう。

そこからGypsy で、サルサのちゃかぽこが聞こえてきて、これ、最初はレコードまわしているのかと思ったら生演奏 - Los Guanchesだった。 これも夏の昼間よね、だった。 だいすき。
ここの奥にはちみつものの屋台があって、Field of Heavenでせっかくルヴァンのバターはちみつカンパーニュを我慢したのについに決壊して、はちみつ酢カッシュていうのを飲んだ。

だらだらRed Marqueeに向かう途中でGreenのFun.(ふん?)を横目で。すごいなー宗教みたいだなー、だった。 Local Nativesはとってもよくうねる好きな音で、やはりThe Nationalの影響が濃いかなー、と。 特にあのリズムパターンていくらでも広がるよね。

そこからGreenのMy Bloody Valentine。見るのは初めてで、悪くはないとおもうもののなんか音ちいさいよね、と誰もが感じたのではなかろうか。 わたしがこのバンドでいちばん好きなのはColm Ó Cíosóigのドラムスなの。 ふたたびRed Marqueeに向かう途中、ガラケーを握りしめてすごい難しい顔で座っている渋谷陽一がいた。おじいちゃんだいじょうぶ? てかんじだった。

もち豚の豚汁を食べてからCharaをみる。ほんと久々。 最初のほうがなかなかサイケで重厚でBjorkみたいになっちゃったかも、とか適当なことをおもって、でも自分は駄菓子みたいなCharaが好き(Bjorkもだ)なので、うーむ、とうなっていたが「しましまのバンビ」でこれこれ、になった。あとは吉村さんの思い出に、と「タイムマシーン」をやってくれたので、そうだねえ、てしんみりした。
Charaの間はずっとすごい土砂降りで「テントの中は勝ち組だね!」て高らかに宣言していた。 そう、このときはね…

そこを出て鮎の塩焼きを食べたら3口くらいでなくなってしまったので悲しくなってクロワッサンソフト、ていうのもいただく。どんなもんじゃろ、だったのだがバニラ&チョコのソフトクリームにあったかいクロワッサン(じゃないけどなあれ)の切れ端はなかなかはまっていた。
 
続けてまたRed Marqueeに戻り、Tame Impalaの最初の数曲を。 外国人比率がすごい。ライティングとかを見て、これってはっぱ音楽だからかー、と納得する。ドラムスとベースの絡みはすごくユニークでおもしろいのだけど、上っかけのところがちょっと弱いかなー、くらい。

で、21時前にグリーンの前にいってスタンバイしました。

NINの後は、富士映劇でWilkoとかDJ Shadowとかまだまだ遊ぼう、とか思っていたのだが、どっと疲れがでたのと、あれの後でべつの音を耳のなかに入れるのはなんかもったいない気がしたのでバスで駅に戻ることにする。

戻ったら、当然のように駅は閉まっててあらあら(空港と勘違いしてたわ)、と思って駅の壁に寄りかかって始発までまるまってねた。
屋外で夜明けを迎えるときには、「レネットとミラベル/四つの冒険」の"Blue Hour"ごっこをやるのが恒例なのだが、ひとりでやってもちっともおもしろくないのだった。

こうして週末は完全にしんでつぶれて、わたしの夏は終わってしまったのだった。
終わったんだってば。

今回、知り合いの皆さんとはぜんぜん会うことができず、ご挨拶することもかないませんでした。
日頃の不義理をかさねがさねお許しください。 またそのうちどこかで。

7.27.2013

[music] Nine Inch Nails - July 26

これのためだけに26日の一日券買ってFRFにいった。 会社はどうしたとか、聞かないでほしい。

2009年のWave Goodbye Tourで一旦ばいばいしたはずのバンドである。消えたのに戻るなとか、消えるっていうからわざわざロスままで行ったのに風邪ひいてキャンセルされた(ずっと言い続けたる)とか、言ってやりたいことは山ほどあるが、日本を再起動後の初演の場に選んでくれたらしいので許してあげる。 一応この目で確かめた上でな。

夕方のRed MarqueeでのCharaの間を除いてずっとよい天気だったのに、21時を過ぎてから雷が鳴り出す。べつに驚かない。雷神だって内容によっては天誅を加えようとしているんだよ。

まず肩だし半ズボンのTrentがひとりで出てきて卓上のちっこいデバイスをいじり始め、ぴろぴろエレクトロの新曲から。おなじような操作卓がメンバー5台分、順番に出てきて、やがて横一線に並び、ほぼこの状態で3曲。
ひょっとしてこの仕様で最後までいくのでは、行ってもおかしくないし… と不安になり始めた3曲目 "Came Back Haunted"のおわり、Trentがタンバリンを振りかぶって自身の胸でばりばり叩き始め、われわれはそれで、今宵の王がとんでもない上機嫌にあることを知るのだった。
で、その直後、壇上にきれいにならんだ白パネルが前面に張りだしてきてメンバーが消えた、と思ったら、"1,000,000"のドラムスが雷鳴を迎え撃つかのようにどかどか鳴り出したので、みんなでバンザイして跳びはねた。

しかしよく降って、鳴ってくれたもんだよ、雨と雷。
"March of the Pigs"のときなんて、".. doesn't it make you feel better?"の後の一瞬の間にごごごご、って絶妙の合いの手入れてくれるし、ストロボだか雷光だかわかんないし、ここに落ちたら全員黒焦げだな逃げらんないし、という圧迫感、しかも雨合羽のフードで視野視界は前方のみに限られ、しかも曲は "Piggy" 〜 "Reptile"と金縛りでミンチにされるのを待つのみ。 Mの方(特に雷嫌い)にはたまんない舞台設定だったのでは。

全体のトーンはThe Downward Spiral"と"Year Zero"で、この二作に共通しているテーマ - 腐蝕、中毒、依存症、といったあたりを考えてみると、今回の再起動の意味が見えてくるのかも。世界はふたたび、はっきりと腐り壊れ腐臭を放ち始めている - Atticus Rossらと作りはじめた音の肌理と濃度をこの腐れた世界にぶちかましてやろうとしたとき、レコーディングの参加メンバーよか、即効力、機動力、なによりも破壊力、などからしてかつて纏っていたNINというスーツが最適最強であることにある時点で気づいたのではなかろうか(Gipsy Danger…)。  メンバーが結果的に直近のNIN仕様に馴染んだ連中に落ち着いたのも、この緻密な、同時にぐにゃぐにゃのたくるアンサンブルを雷爆撃としてのNINモードで効率よく威勢よく放射できる術をようく知っているから。
そして今宵、天より降りたった雷神も彼らを承認した、と。

初回だからかも知れんが、瑞々しく漲って端から端まで気持ちよく張りつめた音だった。ラストの定番の流れ"The Hand That Feeds" 〜 "Head Like a Hole" 〜 "Hurt"ですらこれまでとは違う鳴りに聞こえた。稲妻が放電する先、一本一本の糸先まで見えるような。研ぎ直した刃物。

後半パートで顕著となったエレクトロとパワープレイの融合のあたりは、はっきりとAlessandro Cortiniくんの復帰効果だよね。 あと、Ilan Rubinのドラムス、改めてすごし。

ビジュアルはパネルとライティングを黒子の方々が丁寧自在に動かし、陰影含めてとってもいろんなことを。このひとのツアーでのパネル使いはいつも見事なのでそんなに驚きはしなかったが、今回の人力はなかなか素敵だった。単に間にあわなかっただけ?

それから、久々に再現された"Hurt"のビジュアル。
改めて、ふたたび闘いに出るんだね、雷神を取りこんで、と思った。

終ったらきれいに雨はあがり、月まで出ていやがったの。
冗談(ときどき伝説)みたいな1時間半でしたわ。

こうなったらTension Tourも見たくなるよねえ。 やっぱし。


7.25.2013

[art] Club to Catwalk: London Fashion in the 1980s

書けるやつから書いていってしまおう。

土曜日の夕方、V&Aで見ました。 V&Aではもういっこ、本命のをやっているのだが、そっちは土日共チケット売り切れ、と。 (でも負けなかったもん)

展示の御代は£5。 1階と中2階で、基本は服の展示、関連映像すこし、雑誌すこし。

http://www.vam.ac.uk/content/exhibitions/exhibition-from-club-to-catwalk-london-fashion-in-the-80s/

80年代初期~中期のロンドンのファッション。 BlitzとかThe Faceといった雑誌が揚げて煽って、すうっと消えた。
それは、洋楽とか洋画とか洋雑誌とか、そういうのと同じ意味で、手の届かない海の彼方の「洋服」、で、もちろん買えるわけでも着れるわけでもないので、(いろんな意味で)いいなー程度のもんだった。
これの少し前、Punkとこれの中間くらいに、一応Post Punk系の真っ黒 - カラス系、というのもあったりしたのだが、あれらはファッションという程のもんでもなかった... よね。

Metropolitanでの"PUNK: Chaos to Couture"の展示内容のが、まだ現在に繋がるあれこれの軌跡・痕跡を示していたのに対して、こっちのはほんとうに時代の徒花というか、日本に入って下品なボディコンに変貌したくらいで、すうっと消えて跡形もない。
(そのあとに来たのがゴミ溜めにしか見えなかったグランジで、あまりのゴミ具合になんじゃこりゃ、とわれわれはおもった)

入口にMichiko Koshinoがあって、Katharine Hamnettがあって、Betty Jacksonがあって、John Gallianoがある。 Betty JacksonもJohn Galianoもまだとっても若作りで気負ってぴちぴちしたかんじ。 全体としてはあの頃の音楽 - 分厚いシンセとダンスビートとリンクして、やたらとフレッシュできんきんつんつんしてて、元気だねえ、としか言いようがない。 実際に着ている連中は、やたら恰好つけて粋がってて、彼らははっきりと選民、だった。

これらの記憶って90~00年代にかけて、特に90年代以降顕著になった「ぼくらの時代」「みんなの歌」的な意識と共にメディアからは意図的に排斥排除されてきたような気がしていたのだが、もうだいじょうぶになったのか。 なんかだいじょうぶになってきたような気が、ここんとこするの。
今の子供たちの目にはどんなふうに映るんだろうねえ。

というようなことを考えたのは会場を後にしてからで、いる間はなんか、恥ずかしさと懐かしさで胸がいっぱいで、なんだこのかんじは、だった。
こういうのぜんぶ保存してあって、再現できちゃうんだねえ、とか。

バンドの再結成ライブとか再現ライブとかを見るのとはちょっと違って、当時の服がそのままある、というのは変な生々しさがあったのだった。

7.23.2013

[log] July 23 2013

帰りのHeathrowに来ました。

キャサリンとそのガキがいる病院がPaddington駅のそばで、昨日からの騒ぎのおかげであそこまで到達できない可能性があるかも、といらん心配(だった)をして、Heathrow Expressはあきらめて車で来ました。 電車、乗りたかったのにな。

お昼前に仕事が終わって、バッキンガム宮殿に行って、あのイーゼルに乗ったやつを見たいというひとがいたので行ってみた。
地下鉄からあがったら小雨で、でも門のところはぱんぱんのごちゃごちゃで、ぐだぐだの状態で並んだら列がぜんぜん動かなくて、陽射しが強く暑くなってしぬかとおもった。誰か暴動を起こして衛兵のひとが撃ち殺してくれないだろうかとかおもった。
こないだCronutに並んだときのがずっと楽だったわ。
で、やっとイーゼルのとこにたどり着いたらただの紙切れが飾ってあるだけだった。
なんなのあれ?

 











今回の滞在、仕事が冗談みたいにうまく転がって(片付いて、とは言わない)しまったこともあり、土日は、1.5日分自由に動くことができた。 ついてた。
見れた映画は、4本、まわれた美術館・博物館は6つ、そこで見れた展示は計13個、だった。
陽射しがまぶしくてあっついので、地下と屋内を逃げまわっていたかんじ。

ロンドンは、あまり詳しくなくて、書店だとFoyles、レコード屋だとRough Trade East、くらいしか行くとこないし、食べものはPoppiesでFish & Chipsを食べられれば幸せ、という程度なので、割と集中してまわれるのだとおもった。

追ってたらたら書いていきますけど、なんか夏のいい気晴らしになったかも。
日本はきつそうだなあ、やだなあ、ということで。 では。

7.22.2013

[film] The World's End (2013)

おめでとう、キャサリンとそのガキ。

金曜日は深夜までぱんぱんに仕事で、土曜日の仕事は午前中でおわって、20日の晩に見ました。
Londonの映画の看板はこればっかしで、とにかく見たかったの。

2013年に、なんでか米国コメディ映画の精鋭達が"This is the End"を作り、英国勢も同様に"The World's End"を作る。 どちらも酔っ払いの不良青年・中年達がアルマゲドン - 世界の終り(みたいな事態)に突然遭遇してじたばたする、というバディ・ムーヴィーで、どちらもそれぞれにすばらしくすてきだ。
あいかわらずのほほんと平和なニッポンは、今回の選挙後にいよいよリアル世界の終りがやってくるざまあみろ、ということで。

これ、骨格だけだとJohn Carpenterなんだけど。 なにかどこかがちがうんだけど、なんだろ。

今から20年くらい前の若かった頃、田舎のちいさなホームタウン - Newton Havenでつるんでいた(自分達では自分達を「伝説」と思いこんでいた)5人組がいて、当時成し遂げられなかった街中に12軒あるパブをひと晩で完全制覇する、という野望をもういっかい実現すべく、リーダーのGary "the King" (Simon Pegg)が残りの4人に召集をかける。 すでにふつーの社会人として平穏に暮らしていた彼らは嫌がるのだが、Garyの異様なテンションに押されてしぶしぶ集まって、街に戻って端からパブ制覇を始めるのだが、だんだんにそこの住民の様子がおかしいことに気づいて、それはやがて"Pacific Rim"並みの ....  (ううう書きたいよう)   
"The World's End"ていうのは、12軒のリストの最後にあるパブの名前で、酩酊の果てに辿り着くであろう夢の場所で、つまりそこには。

5人組は、Simon Pegg、Nick Frost、Paddy Considine、Martin Freeman、Eddie Marsanの最強の5人で、これにRosamund Pikeさんが加わる。
最初のほうは割とぐだぐだでどうなるのかしら、だったのだが、進んでいくにつれ、事態の進展と共に、つまりはパブを渡り歩いて酔いが進んでいくにつれてぐいぐい上がっていく。 そのぶちあがりようと来たらとんでもなく素敵でたまんない。  GaryはずっとThe Sisters of MercyのTシャツ着てて、胸にロゴのタトゥーまでしている。 そういうやつ、そういう半端なゴスの酔っ払いが危機に直面したときにどんなふうに暴れだすのか、と。

Edgar Wrightの前作、"Scott Pilgrim vs. the World" (2010) と同様にひとりひとり、ひとつひとつの壁を突破していくにつれて「世界」の掌握、制覇は近づいていく、ように見えて、実のところ「世界」は...  という流れではあるのだが、思春期の若者だったScott Pilgrimに比べると今度の5人組ははっきりと中年で、割と中途半端などんづまりにあって、そこらへんのきつさ、せつなさ、痛さ、みたいのがある。 年寄りなら先短いからそんなのどうでもよいし、若者だったら勢いでやっつけることもできるかもしれない、でも40過ぎたくらいの彼らは、どっちにも行けずにやけになって酔っぱらうしかない、という。

そして「世界」は、"This is the End"がLos Angelesだったのと同じように、こっちはNewton Havenという半径数キロ圏内の「世界」でしかない。
でもそれはまちがいなく「終わり」で、世界が終わるのはここで、他に行きようがない、という覚悟と約束の地でもある。

それにしても、最後の「対決」の叩きつけるような啖呵がかっこよすぎる。 たんなる酔っ払いのロジック、なのかもしれないけど、鳥肌がたった。
過去の失われた時への哀悼、そこに一緒にいた友達仲間、将来への絶望、目先の欲望(とにかくビールくれ)、それらのぐじゃぐじゃが突然現れた不愉快な敵めがけて思いっきりスパークする。

あと、今回も格闘アクションがいいんだよねー。 重すぎず、軽すぎず。 やはりNick Frostのぶっとさと重力に痺れる。

音楽もたまんない。  Happy Mondaysの"Step On"とか、Jamesの"Come Home"とかPulpの"Do You Remember The First Time"とかあの時代の半端にきゅんとくる酔っ払いソングばっかし、 どこのパブに行っても必ずBeautiful Southの"Old Red Eyes Is Back"が流れているし、エンディングは The Housemartinsの"Happy Hour"からThe Sisters of Mercyの"This Corrosion"になだれこむ、この前代未聞さ加減をだれかわかって。

7.19.2013

[film] Pacific Rim (2013)

ロンドンはとっても暑くて、どういうもんかはしらんが、Level 3 Heat Warningていうのが出ていて、今朝もニュースでわあわあ言ってた。
ホテルに入ったのが18時くらい、そこからお食事に出て(集団行動だってする)、ホテルに戻ったのが20:30頃、ひょっとしてこの時間ならと思って、ネットでチケットあることを確認して取って、地下鉄にびゅーんて走って、20:50にはシアターについて、21:10の回のをみました。

英国いちの規模を誇るBFIのIMAX、ここはほんとうに音がすばらしくばりばりで、画面もでっかくて、もりあがる。 

日本でももうじきかかるやつであるが、だって見たかったんだもの。

海の底から現れるようになったKaijuとそれをやっつけるべく人類が開発したロボット - Jaeger達との果てなき死闘を描く。
Jaegerはコクピット内で、二人一組の人間が脳神経繋いで自分達の動作をシュミレートして操作する。 (バロム1+ジャンボーグAね)

二人一組だからそこに二人の関係とか相性とか家族とか過去の記憶とか自己犠牲とかいろいろ入ってくるのだが、Kaijyuはそんなの知ったこっちゃなくて、ばうばうがうがう襲って壊しにくるばかり。 疎通不可、という点ではエイリアンとかゾンビとかと同じかもしれないが、破壊のスケールがぜんぜん違っていて、それ故に宣伝文句にあるように "To fight monsters we created monsters" となって、敵としてのKaijyuと対抗兵器としてのJaegarのふたつのMonsterと渡りあわねばならない人類の大変さ、みたいのが前面に出てくる。 こういう、敵でもなく味方でもなく、それ自体が危険物にもなりうる、危険物を抱えこんでしまった異物としての人類(これを裏替えして、じゃあ怪獣、怪物って?)、というあたりは、Guillermo del Toroの基調にあるテーマだと思うのだが、どうか。

こういうKaijyuモノにありがちの、未来を託する子供、という視点は潔いくらいないし、憧れの対象となりうるようなヒーローも出てこない。 これ見て自分もJaegarに乗って戦いたい!ていうひとはあまりいないだろう(運転したい、はあるか)。 かわりに、怪しげな畸人(Ron Perlman!)とか博士とかが裏で暗躍するところとか、なんかよい。
あってもよかったかなー、と思うのは土地の伝承とか呪いとか起源とか、そういう伝奇系の要素かなあ。 "The Strain"のシリーズにあった東欧のような。

いろんなおたくの人たちがわーわー言うだろうし、Guillermo del Toroのことも(勝手に仲間だと思って)わーわー言うだろうけど、そういうのから離れて、わたしは断固支持したい。
昭和ノスタルジアに訴えるCMの中とか、これならお父さんも一緒に見れるとか、なめてんのか、としか言いようのない状況のなかでしょぼくカバーされるか縮小再生産するかしかできなくなってしまった怪獣特撮モノをハリウッドメジャーが渾身の力でぶちまけてみると、ここまでのものが作れる。 怪獣もロボットも、どちらの映像も夢みたいだ。

これの後に"Transformers"とかみると、建てつけとかちゃちだよなあ、と思ってしまうにちがいない。まあ、Michael BayとGuillermo del Toroを一緒にするなよ、ではあるのだが。 ただ、ハリウッド版の"Godzilla" (1998)がすごく微妙だったこともあるので、題材・素材ではなく、やっぱり作るひとなのかなあ、とか。

ひとつだけ難をいえば、画面中の情報量がすごすぎて、いろんなものががちゃがちゃ動きすぎるので、戦闘のとことかなにがどうなっているのかわかんない箇所がいっぱいある。IMAXの3Dだったりすると特に。 実際にそうなっちゃうんだろうなー、というのはわかるもののそこまで精根つめなくても、というのはおもったかも。

観客は最後のとこではみんなわーわー拍手するくらい盛りあがっていて、そんな彼らが一番どっと笑ったのが 「ジプシーはアナログだからだいじょうぶ」 のとこだった。

芦田愛菜さんはさすが、ブルドックとおなじくらいすてきだった。
もうひとりの日本人とその日本語は、もうちょっとだけなんとかしてほしかったかも。

エンドタイトルで捧げられた二人の名前を見ると、やっぱし、あぁ...と思いました。


そして、それでも、今のロンドン中の映画看板はほぼあの作品で埋めつくされていたのだった…

[log] July 18 2013 - Ldn

ぶじロンドンに着いています。

今回の飛行機映画は、あんまし見たいのなかったし、眠かったので、1.5本くらい。

G.I. Joe: Retaliation (2013)
パート1を見ていないのであんまよくわかんなかったけど。
指揮官がChanning Tatum からBruce Willisに替わるって、なんか納得がいかないんですけど。
全体に漫画みたいで、最初にちゃんと殺しておけばこんなことには、という後ろ向きの後悔みたいのが延々続いていく。
だから格闘シーンもなんか半端なかんじがしてならない。 とどめを刺さない生殺しみたいな状態とか崖から落ちておわり、とか。
映画の途中でロンドンが全壊してしまったので、どうしよう、これじゃ向かってもしょうがないね、とか。

最後、いちおう落着したように見えたけど、英国は米国に戦争仕掛けるよね、あのままだと。

見終わったら途端に眠くなって、そのままおちた。 飛行機での眠りは浅いほうなのだが、これは久々に深かった。
すごくへんな、でも鮮明な夢をみた。 クイズだかなんかの抽選にあたったから、とNick CaveとWarren Ellisが歌をうたいにじぶんの家にやってくるのだが、二人ともものすごく不機嫌で、なにを歌ってほしいんだ?と聞くので、"From Her to Eternity" とか"The Mercy Seat"とか言ってみるとどれもそんなのだめだ、とか散々叱られておっかなくて汗をびっしょりかいて目覚めたの。  あれ、なんだったのかしら。

という具合に、どんより目覚めてから"Annie Hall" (1977) を久々にみた。 これ、ぜんぜん古くないのね。 AlvyとAnnieが出会うところとか。 今みるくらいで丁度よいのかも。
途中でまた眠くなって落ちたのだが、もうさっきみたいのじゃなかった。

そして、新しいコントローラはやっぱし使いにくいのだった。 面倒なので直接画面を触ったりしてた。

夕方5時くらいのロンドンは夏の日射しがかんかんで、みごとに湿気がなくて、気持ちよすぎて気持ちわるくなった。

7.18.2013

[log] July 18 2013

ここんとこ、ほんと頭痛持ちはしね、て言っているようなしんどい陽気が続いておりますが、これからLondonに行って、来週水曜日に戻ってくる。

行きのNEXでは久々にThe Waterboysの"Fisherman's Blues"を聴いていた。
すごくはまって、たまんなかった。(11月から欧州でこれの再現ライブをやるのね..)

もちろん仕事で、土日も仕事で、あいまにキャサリンがんばれ、とか言ってみたりするのか。

ついこないだ、60周年のばあちゃんのお祝いの日に戻ってきた気がするが、こんどはひ孫だってな。めでてえ家だな、あそこんちは。

頼むからお祝いで突然地下鉄止めたり橋を封鎖したりしないでね。こっちは先も時間も限られた年寄りなんだから。

ちょうどこないだ、コニー・ウィリスの「ブラックアウト」を終えて「オール・クリア」に突入したばかりなので、気分(だけ)はとってもLondon Calling、ではあるの。

どうしても見たい展覧会は1、欲をいえば3、映画も1、欲をいえば3、いや、ぜんぜんきりがなし。ライブはいろんなとこでちっちゃいフェスみたいのやっているようだが、むりだわ。

不在者投票は、した。どうせ負けるに決まっているのだが、なけなしの怒りだけは鉛筆の先にこめて、箱にぶちこんでおいた。 開票速報の、気持ち悪い茶番を見なくて済むのはよいこと。

あとは、なにがなんでも来週の金曜日、いや木曜の晩までには戻ってこねばならないの。
回収チームが来てくれますように。

ではまた。

7.17.2013

[film] Chasing Mavericks (2012)

7日の昼間、"Angel"を見たあとで、暑さとかんかん照りでしにそうになりつつ、うみ~、なみ~、とか呻きながら渋谷の町を渡ってヒューマントラストで見ました。
もう昼間の1回しか上映しなくなっていて、みんな等しく涼を求めにきたのか、席は最後の2つくらいしか残っていなかった。

90年代の西海岸に実在した伝説のサーファーとその師のおはなし。 
大波(Mavericks)に憧れる若者が師と一緒に体を鍛えて成長して、ついにやってきた伝説のMavericksに突っこんでいく。
お話しはそれだけなのだが、監督が Curtis Hanson(だけど途中で病気のため途中で交替)なので、ざらざらかすかすしたどっちつかずの生活のかんじがよく描けていて、やがて世界の果てからやってくるクライマックスのどでかい怪獣みたいな波のすごさに震える。 

隣の家に住む師匠が Gerard Butlerで、彼も万能の仙人、超人ではなくていろいろ苦労して疲れてて、たまにメル・ギブソンに見えてしまうところがあれだったが、いかにもいそうなかんじ。
大波に臨むにあたって必要なのは、フィジカル、ロジカル、メンタル、スピリチュアル、の4つの「ル」、で、更に水中で4分間息を止められないとだめなんだと。

ぜんぶだめだわ。 大波が来たらしぬわ。

訓練の日々はごく普通に青春してて微笑ましいの。 少し年上の女の子への憧れとかいじめっことかバイトとか母親(Elisabeth Shue)とか。
そういう地味な日常故に大波のすさまじさが際立つ、というより大波は大波として既にじゅうぶんとんでもなくて、そういうのをぜんぶなぎ倒してぶっとんでいくだけ。
そのギャップがあまりにばかばかしくでっかいので、ぎゃくに生活だのなんだの、ぜんぶなにもかもどうでもよくなってしまう。  サーフィンしたい。  … 言ってみただけ。

かなしいことに音がちいさい。 彼らが大波を待って待って待って被りにむかったように、これはもう爆音を待って、再び頭から被って殴られてぐしょぐしょになるしかないわ。

ほのぼのと90年代した音楽もよくて、夜のプールの逢瀬 - 屋根からぽちゃんで流れるMatthew Sweetの"Girlfriend"とか、夜の海のMazy Star(定番)とか、なかなかびっくりしたのが普通のサーフィンシーンのバックでふつーに流れるButthole Surfers の"Pepper"だったり。

7.16.2013

[film] Angel (1937)

7日の日曜日の朝、シネマヴェーラの「映画史上の名作9」で見ました。『天使』。

ルビッチを35mmプリントで見れるのであれば、それはなにがなんでも、どんなもんでも見るんだ。

第一次大戦開戦前夜、マリア(ディートリッヒ)が仮名を使ってパリのホテルにチェックインして、そこからロシア大公妃おばさんがやっている怪しげなサロンに出かけて、そこに来ていた軍人のトニー(メルヴィン・ダグラス)とドアの開け間違いのようなかんじでぶつかって、デートをする。 お食事してヴァイオリンの演奏聞いてロマンチックの潮が満ちて、夜の公園でこれから、というとこで彼女は忽然と消えてしまう。 彼女が残した名前は"Angel"とだけ。

舞台はイギリスで、彼女の夫フレデリック(ハーバート・マーシャル)はSirが付くくらいのばりばりの外交官で、お屋敷も使用人もいて裕福で、夫婦仲もぜんぜんわるくはなくて、妻は不平をもらさないし、夫は妻が幸せだと信じて疑わない。 そんなある日、夫が旧友のすごいいい奴なんだと言ってお屋敷に招待したのがトニーで、お互い目を見てすぐに察するのだが、とりあえずしらばっくれるその裏側で男二人と女一人の間で手裏剣の投げ合いがはじまって、これがすごい。 

フレデリックは自慢の妻マリアをトニーに紹介してお互い仲良くなってもらいたいねーえへん、と言い、トニーはそりゃ心底仲良くなりたいけど、そのままいっちゃってよいんですかという目でフレデリックを見てから、べつにいいみたいだけどどうする?とマリアを突っつき、マリアは調子に乗ってんじゃねえばれたらてめー両サイドから串刺しで地獄に堕ちるぞ、という目でトニーを見て、夫にはあんたがこんなあけっぴろげのお人よしだからこんなことになってんだよわかってんのかボケ、と夫をにらむ。
犬(フレデリック)と猫(マリア)と爬虫類(トニー)のやりとりで、先のみえない神経戦の空中戦がじりじり続いて目が離せない。

さいごは再びパリのサロンで、各自最後の決着をつけるべく見届けるべく、それぞれに現地に出張っていって、そして。
ドアの向こうから誰がどんな顔で現れるのかですべてが決まる。 そのスリルと恐怖(or 歓喜)ときたらはんぱなくて吐きそうになる。
絶交だ、お家断絶だ、切腹じゃ、とわーわー騒ぎたてる男性陣を冷たく一瞥し、ディートリッヒは "This is where I belong"とか言い残してドアの奥に静かに消える、というのがいちばんかっこいいシナリオだとおもうのだが、当然そうはならないの。 そのへんのぐにゃぐにゃ柔らかくやさしいとこも含めて、ルビッチなの。

第一次大戦は回避できなかったが、こっちのはできた。 ディートリッヒさんはふん、て言うかもしれないけど、これはルビッチのお手柄なの。

7.15.2013

[film] とべない沈黙 (1966)

6日の土曜日、『愛のあしあと』のあと、Uplinkの『<イワサヒサヤとはナニモノだったのか?> 追悼 映像作家・岩佐寿弥特集』の初日に見ました。

北海道の男の子がナガサキアゲハを見つけて、がっこの先生からはそんなの北海道にいるわけない、と言われるのだが、そこから遡ってアゲハの幼虫が長崎から萩 ~ 広島 ~ 京都 ~ 大阪 ~ 香港 ~ 横浜 ~ 東京と流れて行く股旅と、他方でとべない幼虫がしがみつくニンゲンには愛とか原爆とかヤクザとかいろいろごたごた面倒なことがいっぱいあり、それをなかなか豪華な俳優さんが演じていて、そんな運命のうねりのなかではアゲハが北海道の原っぱを跳んでいくことになんの不思議があろうか、という。

季節とか土地とかの制約を受ける蝶の生態と一生に対比するかたちでヒトの過去とか因襲とか集団とか戦いとか恋愛とかのあれこれをドライに切り取って、横に並べてみたらどんなふうに見えるのか。

という見方のほかにも、映画を撮る/作る、という行為が切り取った世界を我々に見せて伝えることの意味、それが64年(撮影された年)に起こることの必然、など、所謂「実験映画」が実験室で追求するテーマよりももう少し我々の視野とか日常に近いところで「映画」を再定義してみる、してみよう、という強い意志が伝わってくる。

誰も撮ったことのない、見たことのない映像を撮る、どうやったらそんなことができるのか、を知りたければ、例えばこの映画がやろうとしたこと、岩佐寿弥を含む3人がこの脚本を考え、改稿していったプロセスについて考えてみること。

例えば加賀まり子の美しい、と単純には言えない透明な生き物のような表情と蝶の目線になったカメラの動きのとんでもなさ(どうやって撮ったことやら)とか。
広島の原爆追悼集会でヒトがアリみたいにひしめいている中、加賀まり子を追い回す蜷川幸雄、をロングで捉えるところのおもしろさとか。

録音のひと以外、スタッフにプロフェッショナルはいなかったというのもびっくりだが、その後彼らはどんなふうに変わっていったのだろう。この映画の旅は、スチールで参加していた森山大道のその後にどんな影響を与えたのか、とか。

上映後、NFCの岡田さんによるトークは岩波映画の青の会から始まり、この映画の脚本やタイトルの変遷を通してこの映画のスタッフが、スタッフ間の友情と情熱がどうこの映画を作り上げて - 「映画して」いったのかまでを語り尽くすすばらしいものでした。これを聞いたらこの特集の作品ぜんぶ見たくなる。 ... 見たいんだけど時間があ ー。

7.14.2013

[film] Les Bien-Aimés (2011)

6日の土曜日の朝、新宿で見ました。

Christophe Honoréの新作(じゃないけど)が、日仏(もうちがうけど)以外のふつうの映画館でふつうに公開される(2週間だけど)、というのでびっくりして見にいった。

やっぱしCatherine DeneuveにChiara Mastroianniの母娘共演にLouis Garrel、ともなれば違うのね。
"Les chansons d'amour"とおなじようなダウナーなミュージカルで、ここぞというときに主人公達はぼそぼそうつむいて歌いだす。

『愛のあしあと』、英語題は"Beloved"。

64年、靴屋さんに勤めるマドレーヌ(Ludivine Sagnier)は、お店から持ちだしてきちゃった靴を履いてみた途端、「いくら?」て男が寄ってきたので娼婦になることにして、そんなある日、チェコからきた医師のヤロミルに運命を感じた彼女は彼についてチェコに渡る。
68年、娘のヴェラが生まれて、プラハが侵攻されて大わらわのとき、どっかの女と寝ているヤロミルに愛想をつかした彼女は彼と縁を切ってパリに戻る。
78年、パリで憲兵と再婚しているマドレーヌのところに突然ヤロミルが現れて一緒に寝て、やっぱり好きだからより戻そう、ていう。彼女はちょっとだけ揺れて、でもやめとく。
97年~98年、ヴェラ(Chiara Mastroianni)は恋人のクレマン(Louis Garrel)とロンドンに来ていて、パブで演奏するバンドのドラマーのヘンダーソン(Paul Schneider)に一目惚れしてしまうのだが、彼はゲイだったの。 それと、Ludivine SagnierからCatherine Deneuveに変身したマドレーヌは未だにヤロミル(こちらもMilos Formanに変身)と切れずにだらだら続いているのだが、その糸は雪の日にぷつんと。
01年、NYに向かっていたヴェラは911のためモントリオールのホテルに足止めをくらっていて、ヘンダーソンに車で来てもらうのだが、彼は恋人(男)を連れていて、3人で寝た翌朝、やはり糸が。
07年、マドレーヌの誕生会にクレマンが来て一緒に歩いていると、ふたりはすべてがはじまった64年のマドレーヌのアパートのところに引き寄せられていた。

40年以上に渡る愛の大河ドラマ、のようなもんではなくて、国を跨いだ運命のドラマでもなくて、情念とか愛の強さとか、そういうのから遠く離れて、偶然の出会いからずるずるだらだら引きずって引きずられていってしまう愛というもののしょうもなさをAlex Beaupainのミュージカルスコアと、それぞれのそれぞれにしみったれた歌いっぷりが盛りあげる、というか盛りさげる。
楽しくも嬉しくもないし苦しいことばっかしなのに、なんで恋なんかに堕ちてしまうのでしょうー、と。

んで、その感極まる(はずの)エンディングにとぼとぼ流れてしまうのが、The Gistの"Love At First Sight" (1983)だったりする。 しみじみああ同士よ、とか思ってしまうのね。

Chiara MastroianniとLouis Garrelて、そんなに相性よいように見えないのだが、今回の距離感はよいかも。 Louis Garrelて、世界で一番ビンタされるのが似合う男優だと思っていて、今度もちゃんと。

しかしなんでこんなふつーのドラマをR15にして、バカみたいにでっかいボカシ入れるんだろ。
つくづくあきれた。

7.13.2013

[film] Listen, Darling (1938)

いくらなんでもあっつすぎる。

3日の水曜日の夜、シネマヴェーラの「映画史上の名作9」から見ました。
今回のもいろいろ見たいのが散らばっているのだが、もうぜんぜん時間がさあ。

Judy Garlandは言うまでもなくいろんなよろずの神様を司る大權現とか大源流みたいなもんで、そんなJudyの初主演作(「オズの魔法使い」はこれの後だったのか)ということであれば、これは見ないわけにはいかないの。

14歳のJudyがPinkieで、同級生のBuzzとお友達で、このふたりがねえ、まるでMolly RingwaldとAnthony Michael Hallなんだよねえ。絵に描いたようなアメリカの女の子と男の子なの。

中学を卒業したPinkieは音楽の専門学校に行く予定だったのだが、パパが亡くなって以降、やりくりするママが寂しそうに夜泣いたりしているのが気になってて、更に家が貧乏(パパは保険に入っていなかった)なので町のいけすかない銀行家と愛のない再婚をしようとしているのが嫌で、法律家志望のBuzzに相談してママを誘拐しちゃえばいい(… いいのか?)、ということになって、決行するの。 ママは当然激怒… するよね。

でも旅先で生前のパパみたいな自由で楽天家の弁護士(でも保険入ってない)とか、大金持ちの保険屋(保険入ってる)とかと出会って、ああそれなのにママはあなた達姉弟の愛に生きてるのだから心配しなくていいの、て意思を曲げないので、あたし達なんかいなけりゃママは恋愛できるんだから、て保険屋のところに行ってあたし達をおじさんの養子にしてください! てびーびー泣いて訴えるの。

なんのひねりもなくよくできたホームコメディで、でもJudyの唄だけはしみじみ素敵で、みんなで車に乗って楽しく歌うとことか、家族であることの幸せが失われることへの病的なまでの恐れとか、少し後の"Meet Me in St. Louis" (1944)を思い起こさせたりもするのだが、あそこまでではないにしても、Judyがもたらす幸せのかんじってやっぱし独特なのかも、とおもった。

7.08.2013

[film] 3人のアンヌ (2012)

29日の土曜日の午後、神保町のあと、新宿でみました。

英語題は"In Another Country"だって。
"Another Country" (1984)と間違ってレンタルしたひとがいたらちょっとかわいそうだ。

冒頭から、あーホン・サンスだあ、になってしまう。よくもわるくも。

3つの独立したエピソードからなっていて、それぞれに3人のアンヌ(イザベル・ユペール)が出てきて、彼女は韓国を訪れている①映画監督だったり、②夫から離れて密会する人妻だったり、③韓国人女性に夫を寝取られてしまったりで、それぞれのエピソードで出てくる周囲の人物に多少の異同はあって、アンヌもちょっとずつ違うアンヌだったりする。 3つに必ず出てくるのは浜辺でライフガードをやっている若者で、英語はあまりしゃべれないけど声がでかくてひとなつこくて、夜はペンションで給仕のバイトをしていて、ペンションと浜辺の中間くらいの場所にテントを張ってそこで暮らしている。あと、ペンションの鍵とかを管理している若い娘さんも必ず出てきて、彼女もふつうに親切なの。

アンヌは既に進行中の、もしくは過去の恋愛を引き摺ったりしているので、ライフガードの青年とアンヌの出会いが恋愛に転んだり、ということはない。 ないのだが、酔っぱらったアンヌの挙動とか土地に詳しくないのにすたすた無頓着に歩いていく姿を見ていると、なにが起こってもおかしくないかんじが十分して、でもそれが万が一転んだからといってどうだというのか、それがどうした、で、だーかーら結局どうすんだよ!ふん、 みたいなところにいらついたりしたら、それこそがホン・サンスの罠で、落とし穴なの。

酔っぱらったり、心ここにあらずのOn the Road状態でキスしちゃったり手をつないじゃったり、そういう状態、そういう動き、そういうドラマって、恋愛を起点としたあれこれとはどこがどうちがうのか。 たとえば情熱、たとえば修羅場 - それらはこの映画でもちらっと垣間見えたりするのだが、やっぱりそれがどうした? なんだよね。

なんでさー、映画にきれいな女の子が出てくるとみんなそこに「恋愛」を期待するのかしら。「恋愛」ってなんでそんなに特権視されてしまうのかしら。 やってらんねえやー、ってぐだぐだと酔っ払いの戯言みたいになっていくの。 恋愛に至りそうで至らない状況とかプロセスを描きつつ、我々を着地点のみえない、ボタンの穴が見つからない居心地のわるさの只中に曝して、さらにそれが何度でも、性懲りもなく繰り返されることを予告する。

これ、タイトルの「3人のアンヌ」を「3人のライフガード(仮)」に置き換えることだってできるはずで、そうするとこないだの「女っ気なし(仮)」のシルヴァンものみたいになる。

ぜんぜんぱっとしない観光地(?)のぱっとしない宿屋、ぱっとしない登場人物たち、からっとしない天気、これらはすべて、世界はときめく恋愛で成り立っているわけではないことを冷酷に宣言しつつ、でも、だって、たとえば、といった砂を噛むようなくどくどした半熟の、よっぱらいの世界に我々を引き摺っていこうとする。
その一貫した態度というか倫理というか、はすごいなあ、っておもう。 なにが彼をそこに向かわせているんだろ。

あと、イザベル・ユペールさんもすごいよねえ。
①のサンダル、②のハイヒール、③のぺったんこ靴、それらをつっかけてぺたぺたすたすた歩いていく後ろ姿が本当に素敵で、惚れ惚れする。背中に惚れるの。 かっこいいー。

なんとなく、2003年にイザベル・ユペールさんが権利を買い取った"Wanda" (1970)を思いだした。
Wandaが彷徨いの果てに韓国にたどり着いたら、例えばこんなふうになったのかも。

7.07.2013

[music] Mouse on Mars - June 30

6月30日、6月最後の日曜日の晩、渋谷で見て聴いた。 当日券で。
もうぜんぜんライブに行けない境遇になってしまったので、なんでもいいから聴かせろ状態になっている。 鼓膜のばうばうした震えと響きを感じる、それだけでうれしい。

Mouse on Marsを最後に見たのはいつだったじゃろ、と調べたら2002年の9月だった…
場所はたしかBowery Ballroom、Thrill Jockeyの10th Anniversaryライブで、トリはもちろんTortoiseで。 もう10年以上もまえなのかあー。

前座は砂原良徳。オープニングの世界地図とその次の失敗した花火大会みたいな音がすてきだった。
というかこの辺は、久々のライブの電子音の気持ちよさにひたすら浸ってじーんとしていた。

そしてMouse on Mars。 相変わらずテーブルの上に機器ごちゃごちゃのジャングルジムを築いてて、サスペンダーしている、お茶目なネズミ2匹。 さすがにややくたびれた風体にはなっていたけど。
10年前の音としか比べられないのが申し訳ないのだが、当時のチープでおもちゃな音の網目を残しつつもより凶暴でジャンクな塊をせっせかポンプで汲みあげているのだった。
背後のグラフィック、ベースはモノクロのパターン染めで固めていて渋いなあ、だった。でもストロボだけはだめなので、ほぼ目をつぶっていた。
アンコール1回、1時間ちょいも丁度よいかんじでしたわ。


この日は昼間映画行かなくて、なぜかというとようやくオーディオ機器が届いたからなの。
まだアンプとCDプレイヤーとスピーカーだけだけど。 アナログプレイヤーは今月中旬だけど。スピーカーケーブルもまだ来ていないけど。

2006年の帰国以降、mp3の劣悪な音を脳内補正しつつ聴いてきた時代、聴こえてこない音を求めてひたすらアナログをストックし続ける時代、家で音楽聴けないので映画館に篭り続ける時代、これらがようやく終わろうとしているのか、あるいは。

いちおう、ヘッドフォンでCDプレイヤーを通して聴いてみた。
最初に手近に置いてあった"Quadrophenia"の箱から1枚。その横に積んであった"Larks' Tongues in Aspic"の箱からPart OneとTwoを。 それからEnoの"Another Green World"を。それからPeter Hammillの"Over"を。 あまりに70年代すぎることに気づいて、Fugaziの"Repeater"とかも。

よい音って、なんてよい音なのかしら、と改めておもった。

[film] 人情馬鹿 (1956)

25日火曜日の晩、時間が空いたので京橋の清水宏特集で見ました。
これも「もぐら横丁」に続いて、題名でなんとなく。

清水宏が溝口健二に誘われて、大映で撮った最初の作品、だそうな。

キャバレー歌手のユリ(角梨枝子)はいろんな客にもてもてで、でも結婚したり落ち着いたりするつもりはぜんぜんなくて、そんななか自動車の営業をしている由男(菅原謙二)は特に熱心で彼女にいっぱい貢いで結婚しようよ一緒になろうよー、て誘い続けている。

そんなある日、由男が逮捕されて、聞くと契約した客の前金をユリのために使いこんでいたのがばれたそうで、ちょっとだけ後ろめたく思ったユリが彼の実家に行ってみると彼の母親がしょんぼりうちひしがれていて、その姿に心打たれてしまったユリは検事のとこに行ってなんとかならないでしょうか? ていう。 検事は、可能性があるとしたら彼の受けとった仮領収書を借用証に書き換えてもらってごめんなさいの示談にしてもらうくらいだね、でも被害を受けた客をぜんぶまわって頭を下げなきゃいけないから大変だよ、と。 ここでユリは人情馬鹿に変身し、やってみせますわ、ていうの。

でもその客達ときたら、世界のミゾグチ作品においてもとびきり金にはうるさい(「祇園囃子」参照)進藤英太郎とか浪花千榮子とかだったりするもんだから大変なの。

いちおう喜劇なので彼女はなんとかやりとげて、でも釈放されてやってきた由男に向かって、誤解しないで、これはあなたのためじゃなくてお母さんにちょっとまともなことをやってあげたくなっただけなんだから、て告げて、忘れておくれよ~♪ てしっとり歌いあげるの。

映画はここまでなのだが、由男が次にやるべきことは再びお母さんに出てもらって孫の顔が見たいよう、て泣いてもらうことだろう。

7.06.2013

[film] Thérèse Desqueyroux (2012)

22日の晩、"Lola"の後(フランス女の子シリーズ)、これもフランス映画祭のなかのいっぽん。"Lola"の当日券を買った直後にチケットを買って(もう端っこしかなかった)、晩には売り切れていた。
『なまいきシャルロット』(だけじゃないんだよ)のClaude Millerの遺作。

原作はフランソワ・モーリアックの『テレーズ・デスケレウ』(1927)。
原作はテレーズが免訴になるところから入るが、映画は少女時代の、まだテレーズ・ラロックだったテレーズと幼馴染のアンヌが過ごす夏の日々から入る。 二人で狩りをしたり野鳥の首をぽきりと折ったり、この夏の少女たちの描写がすばらしく素敵で、そこからテレーズはアンヌの兄と結婚してテレーズ・デスケレウとなり、アンヌとは義姉妹となる。

でもテレーズはこの結婚は両家が勝手に決めたものだし、夫のベルナールを素敵と思ったことなんて全然ないし、もちろんそこに愛なんかなくて、かといって子供のように拒否したり逃げたりするわけでもなく、彼女の聡明さとそれ故の冷徹さでもって凡庸なデスケレウ家での結婚生活とベルナールを眺めている。 なんでこの夫は、この家族はこんななんだろう、なんで自分はここにこうしてあるんだろう。この不快感はなんなの?

やがて夫の服用薬の量を操作して彼を毒殺しようとした(あとちょっとだったのにな)として訴えられ、でも世間におおっぴらになると家の恥だから、と家族から隔離・幽閉状態に置かれて。 
(原作はふつーに古典なので読もうね)

テレーズを演じるのは"Amélie"のAudrey Tautouで、見る前ははてどうかしら? だったのだが、この映画についてはぜんぜん悪くないの。 ダーク版アメリ、とでもいうような粘着系の眼差しと仏頂面で夫も自分もじっとりと追い詰めて罪の業火に浸かり、憔悴し、それでも断固自身を見失わない女いっぴき、を力みゼロでやっている。 そしてラスト、全てから解き放たれるパリのカフェでの彼女の清清した姿もまた。

もちろん、女の一代記、というだけではなく、少女時代、無垢であること、田舎、結婚生活、家族、体面、秘密、忘却、などなどいろんなのが入っていて、映画でそこまでぜんぶは難しかったのかもしれないが、でもどっしり見応えあるし、これ、ほんとに公開しないつもりなの? はずかしくないの?

7.05.2013

[film] Lola (1961)

22日の土曜日の夕方、もぐら横丁を抜けてナントの港町へ。

上映前の会場でサイン会をしていたのはナタリー・バイ ?  わー。


この映画はほんとうに大好きで、何回も見ていて、それのリストレーションであればなにがなんでも必見、のはずだったのに気がついたら前売りは終わっていた。

美しいー。 溜息しかでないー。
でもなんで美しいのか、単にAnouk Aiméeの猫目・猫しなりがよいのか、Raoul Coutardのカメラなのか、Michel Legrandの音楽なのか、どいつもこいつもすばらしいことに間違いはないのだが、それだけではない気がして、そこが何度みてもあんまわからなくて、わからなくたっていいだろ、とおもう。

大金持ちぽい謎の男が車から降りたち、ローランは職場をクビになり、ローラとその息子はアメリカ人の水兵フランキーと仲良しで、14歳の誕生日を迎えるおませな少女セシルと母親の未亡人がいる。 ローランは幼馴染のローラと再会して彼女こそ自分の運命のひとだと思うがローラが愛したのは息子を残していなくなってしまったミシェルだけで、こんなふうにそれぞれがそれぞれに未練とかわだかまりとかを抱えつつ寄せたり引いたりの玉突きをしながら、今の暮らしから離れてどこかしらに行きたい行くしかない、と思っていて、結果としてナントの街から散っていく、それだけなの。

ミシェルに連れだしてもらうローラは、別々の男からトランペットをふたつ貰ったローラのガキは、ほんとうにこれから幸せになれるのか、やけになってアフリカに旅立つローランは? 軍に戻っていったフランキーは? ローラを羨ましそうに見ていた他の踊り子さんたちは? 望郷とか運命とか予兆とかありきたりの大文字のテーマには乗っからず、ひとりひとりの眼差しや足取りやステップを大きな貝殻のうえでゆっくりまわしてみること。 で、やがてその真ん中に浮かんでくる小さな光の粒を真珠、と呼んで、それはAnouk Aiméeだったり、Jeanne Moreauだったり、Catherine Deneuveだったりして、美しい女のひとがいないと世界はまわっていかないんだ、ていうことだけをJacques Demyはずっと言っていて、ミシェルもローランもフランキーもぜんぶ彼の分身で、女たらしで、ほんとうにいいの。 銃も戦争もいらない(はずの)世界がここにはあるの。

7.01.2013

[film] もぐら横丁 (1953)

22日の土曜日は、朝からフランス映画祭の当日券を買うために並んで(忘れちゃったんだよ、前売り買うの)、午後に京橋の清水宏特集でこれ見ました。

あんま理由はなくて、題名がおもしろそうだったから、ていど。

作家尾崎一雄とその妻をモデルにした実録愛妻モノ、でよいのかしら。
売れない作家(佐野周二)とその妻(島崎雪子)がほのぼの暮らしている。
それはそれは、唖然とするほどほのぼの天真爛漫でハリセンで思いっきりひっぱたいてあげたくなる。 よくこんなの小説にしたもんだわ。 原作読んでないけど。

たとえば。

− 質に出してお金が入ったというのにそのお金で大量のどら焼きを買う。
− どら焼きを食べているそのすぐ後ろで野球やっているのに気付かない。
− 妻がお産で病院に入ったら、そこでできるだけ長く暮らしてやる。
− 病院から新しいアパートへの引越は病院の職員のひとに当然手伝ってもらう。
− 新しいアパートに行ったらなんだか空いていて入れそうだったので、そのまま荷物を運びこむ。
− 家主に怒られたのでたまたまそこにいた学生に出て行ってもらって部屋をあけて、そこに住む。

などなど。

妻が幼馴染と夜遅くまで飲んでて、迎えにでた夫が雨でずぶ濡れになっても、赤ん坊を置いて小銭稼ぎのために妻が勝手にのど自慢大会に出て、その隙に子供が病気になっても、その後で想像しうるようなちゃぶ台ひっくり返す修羅場はやってこない。 気がつくと忘れちゃったのかなんとなく収束して朗らかモードに戻っている。
万事がこの調子で、こんなんだとそのうち天罰がくだるぞ、とか思っていると芥川賞が降ってきたりする。 なんてラッキーな。

ふたりともものすごい人格者か、どこかのネジが壊れてしまった人格破綻者かのどっちかだと思ったのだが、そこまできてようやく「もぐら横丁」の意味に思いあたる。
ふたりとも「もぐら」だから、大抵のことには目をつぶっているか、お互いに見えないかで無邪気に餌を求めて掘り進んでいて、周りにいろんな抜け穴がいっぱいあって繋がっててみんな互いに助け合うのでだいたいのことはなんとかなってしまうの。 ムーミン谷のように幸せな場所なんだとおもう。

横丁の外にでたそんなふたりのもぐらが雑踏のなかではぐれてしまい、お互い必死になって探しあってようやく再会してハグするラストは、芥川賞の感動を遙かにこえるすばらしさなの。

[film] 祇園の姉妹 (1936) / 祇園囃子 (1953)

もう結構前になってしまいますが、シネマヴェーラの溝口健二特集で見たやつ。
5/25だった。 祇園の2本だて。豪華。

『祇園の姉妹』(1936)

祇園の花街に働く姉妹 - 情に厚くて真面目な姉が梅吉(梅村蓉子)、ちゃきちゃきクールな妹がおもちゃ(山田五十鈴) - がいて、姉は潰れた木綿問屋の大旦那の世話をしてやったり、妹に言い寄ってくる小僧がいたり、しょーもない男が周りにうじゃうじゃ溢れて寄ってきて、でも結局は男共にやられてしまっておもちゃの「ほんまこんなもん、なかったらええんや!」という怒りと嘆きが響きわたるの。

これ、まちがいなく30年代に生まれたガーリーパンクムーヴィーなんだよ。 おもちゃ、っていう名前からしてそうでしょ。

これを最初に見たのは2003年、NYのJapan Societyで、上映前に紹介したのはSusan Sontagさんだった。 格子状の祇園の小路をすたすた駆け抜けていくおもちゃがどんなに生きていてすばらしいかを静かに、しかし熱く語っていた。 あれは、1917年生まれと1933年生まれの女の子ふたりにやられた晩だったなあ。


『祇園囃子』(1953)

祇園で働く芸妓・美代春(木暮実千代)のところに、母を亡くした栄子(若尾文子)が舞妓になりたいとやってきて、美代春はそれを引き受けて、栄子は芸妓デビューしたらいきなり自動車会社の専務(河津清三郎)に見初められ、美代春は美代春で自動車屋の契約のため役所の課長を落とすのに色彩方面で協力するように迫られてて、ふたり東京に呼ばれたと思ったらそれが罠で、栄子は専務の舌を噛みちぎって大騒ぎになって二人は商売から干されてしまうの。 他にも金をせびりにくる栄子のダメ父(進藤英太郎)とか、二人の「おかあはん」(浪花千栄子)の陰険な鞭とかいろいろあって、「祇園の姉妹」と同様、二人の生きる道はぜんぜん楽じゃなくて、結局すべてを解決したのは美代春の体を張った「接待」だった。 で、それでも、それ故に美代春と栄子の絆は堅くなって、世界の平安は保たれるのだった。

外国人が「ゲーシャ」といって喜ぶ祇園なんて、こんなふうなパワハラにセクハラ、世のあらゆるハラスメントの緩衝地帯として何百年も機能して、腐れた男社会に奉仕してきたんだわかってんのかおら、だった。

けど、木暮実千代のしっとりした濃厚さとか若尾文子の瑞々しさとか、これらって今の映画では見ることができない質のものだよねえ。 で、こないだ60年後の栄子の本物を見たのって信じられない、えらくすごいことなのかも、と思った。


それからこれは、6/2の日曜日に見たやつ。

『近松物語』(1954)

これも何回見てもきつくて、かわいそうなお話し。 祇園もの2本が古くからのしきたり縛りであるのに対し、こっちはコンプライアンス案件。 逃げても逃げても追ってくる。

お金を都合してくれないと家がつぶれると身内に言われた妻が大旦那である夫には言えずに職人の茂兵衛に頼んで、彼はなんとか致します、て言って裏処理しようとするのだが、いろんなことのかけ違いが転がって膨らんでふたりは家にいられなくなって、家からもお上からも実家からも追われて疎まれる身となる。
今ならコンプライアンス委員会みたいなところに報告すればいっぱつなのに、こればっかりはどうしようもない。 

その辛さときつさがベースにあるのだが、ポイントはここにはなくて、このがんじがらめの縛りがあるところを境に怒涛の恋愛に変態してしまう驚異と、それをもってしても超えられない現実の壁の非情さ、それでもふたりは、我々には知りえないどこかの高みにいったんだよね、たぶん。  という、そういう段々の仕掛けというかからくりが明らかにされる人形劇で、どっちにしたって現世に救いなんてないんだ。 かわいそうに-。

ひとつだけ、どうしても気になってしょうがないのは、逃避行に出たふたりがその道行きの最初のほうで泊まった宿屋の部屋に置いてある丸いうさぎみたいな置物なの。 あれがほしくてしょうがない。