5.29.2023

[film] Holy Spider (2022)

5月20日、土曜日の昼、武蔵野館からシネマカリテに移動して見ました。

邦題は『聖地には蜘蛛が巣を張る』。この邦題はちょっと引っかかる。原題は「聖なる蜘蛛」なのに、なんで「聖」を土地の方にずらしてしまうのか? 聖地が舞台なのは確かだけど、はっきりとそっちじゃない、それって犯人側の視線をなぞっているだけではないか。

監督は“Gräns” (2018) - 『ボーダー』がおもしろかったイランのAli Abbasi。

冒頭、夜中に具合の悪そうな女性が派手めのメイクをして子供にお別れをして町に出ていって、男性に拾われて連れていかれ、首を絞められ殺されて埋められるまで、があっさり描かれる。

2001年、イラン北東部の都市マシャドで16人のセックスワーカーを殺害して“Spider Killer”と呼ばれ、逮捕後に売春を一掃する聖なる使命があると主張して宗教右派のヒーローとなったSaeed Hanaeiの事件に題材をとったもの。

犯罪サスペンス - 犯人を捜したりその動機を探ったり追ったりのドラマとは違って、犯人もそのプロファイルも動機も最初から明らか – むしろ明らかに声高に宣言していて、これをテヘランからハラスメント絡みで仕事を失って流れてきたジャーナリストのRahimi (Zar Amir-Ebrahimi) - 彼女は架空のキャラクター – がこの事件に取り組むべく犯人から犯行声明の電話を受けたりしている地元紙記者Sharifi (Arash Ashtiani)の協力を得て、証拠証跡を追ったり被害者たちの足跡を追ったりし始める。 が、警察に行っても女性蔑視の根は当然のように深く空気のようで、協力なんて得られそうにない。

犯人のSaeed (Mehdi Bajestani)は、建築作業員で、イラン・イラク戦争の帰還兵で、モスクにも通う敬虔なイスラム教信者で、妻と子供が3人、義父ともうまくやっているし誰がどうみてもふつうの幸せそうな家庭の長で、たまに陰で苦しむ様子も見せるが、それがPTSDによるものなのか自身の罪に対するものなのかはよくわからない。

犯人はセックスワーカーがたむろする辺りにバイクでやってきて連れ去る、くらいの情報しか得られないまま、Rahimiが具合悪そうにしていたところをカフェで介抱した女性が翌日に死体で発見された – その遺体を見ると自分がおとりになって突きとめるしかない、と決意を固める。他方でSaeedの方も自宅に連れ込んだ女性に抵抗されて傷を作って家族に指摘されたり痕跡を残されたり、自分の犯した罪が新聞に取りあげられないことへの焦りや苛立ちも絡まって思うように運べなくなっていく。

こうしてセックスワーカーになりすましたRahimiがバイクに乗ったSaeedにピックアップされてそれをSharifiの車が追う – そして車はバイクを見失い... ひとりでSaeedに立ち向かうことになったRahimiはどうなってしまうのか? - が映画のヤマではなくて、本当に地獄でおそろしくなるのは彼が逮捕・収監されてからなのだった。(そしていまだに地続きで)

Saeedは自分の犯した罪を(これまでの態度の延長で)隠そうとはせず、自分のしたこと – 聖都を浄化したのだ – に賛同してくれそうな世論や旧知の軍関係者や(なによりも)信じて認めてくれる家族がいることを自覚していて、裁判でも極刑はないだろうと - 精神異常で情状酌量を狙って自信たっぷりなのが怖くて、実際に彼を讃えるデモがありRahimiによる家族へのインタビューでも彼は英雄のように讃えて取り扱われていて、裁判の結果が出るまでの、そして審議の後の展開はなかなかスリリングでこわいし、見せ方もうまいと思った。

こんなふうに怖いところだらけなのだが、一番ぞっとするのはこの光景 - 浄化の名のもとで行われるヘイトや排除、それによって保たれる誰かの体面だの欲求だの - がイランの聖地だから起こった、というよりも世界のどこにでも起こりうるし起こっていることだ、って気付かされるからではないか。ダイバーシティだのSDGsだのが謳われる裏側なんてこんなもの。

言うまでもなく神の国とかこの国すごいとか自画自賛して誇りながら、反対側でセックスワーカーやホームレスや難民たちを見えないように隠したり強制排除したり(or やるなら国外で、とか)、なのに誰ひとり加害者や家父長のグロい欲望には立ち向かわずなぜかみんな被害者ヅラしたがる(うつくしー)自分の国もおなじだなー、って。 そっくりの大量殺人などもあったし。

でもどうしたらよいのだろう? というのがいっつも。
連中の頭の中のなにがどうなって人を殺す、というところまで行って/行けてしまったのかを知りたい。その中のいくつかの要素とか成分は我々の頭の中にも確実にあるはずのものだから。

5.27.2023

[film] 金都 (2019)

5月20日、土曜日の午前、新宿武蔵野館の《新世代香港映画特集 2023》というので見ました。

邦題は『私のプリンス・エドワード』、英語題は”My Prince Edward”。 作・監督は香港のPrince Edwardで生まれ育ったというNorris Wong。

金都市場(ゴールデン・プラザ)の古いショッピングモール内のブライダルドレスレンタルの店で働くフォン(Stephy Tang)は同じモールのウェディング専門写真屋を経営するエドワード・ヤン(Chu Pak-hong)のアパートに暮らしてて、このまま結婚するのかなー、くらいでいるのだが、エドワードの母は今の賃貸のボロアパートを買えないかしら、って勝手に大家に交渉していたり、なんであんたが? … のすっきりしないどんよりが続き、冒頭でもペット屋で仰向けになってもがいていたミドリガメを買って帰ったりしている。

結婚に前向きに乗れないところで、結婚証明書に過去の離婚歴が載る、という話をきいて、そういえば自分が10年前にお金のために軽く本土の男と偽装結婚していた件 – たぶん書類上はまだ既婚のまま – が気になりはじめて、あーなんてめんどくさー結婚しなくていいかー、になったところでエドワードが自分のお仕事スキルを全開にしたこてこてのプロポーズ作戦をキメてくる。ぜんぜん嬉しくならない。

周囲 – というかエドワードとその母 - は結婚(式)に向けて大はしゃぎでスケジュールを組んで動きだしてしまったので、自分の過去に向かわざるを得なくなったフォンは、新聞広告まで出して当時の偽装相手のヤン(Jin Kai-jie)を探したらようやく本人が現われて、彼が計画しているNYへの移住のための申請に(偽夫婦としてフェイク写真や記録をつくったり)協力してくれるのであれば、その許可が下りたところで即離婚するよ、という。

そうやってエドワード母子によって勝手に決められていく自分の結婚の衣装や日取りと、並行して水面下の離婚作戦が進行していたところで、フォンのスマホを見てしまったエドワードがパニックを起こして彼女の結婚していた過去を問い詰めて、ヤンとの計画についてもわーわー言うのだが、もうぜんぶうるさい! ってヤンの移住に向けた面接で本土に向かって、で、戻ってきたら彼女のミドリガメがエドワードの母によって捨てられていたので、もうこんなの無理だな、って...

片方にはマザコンですぐ切れがちな粘着男がいて、もう片方には大らかすぎる大陸男 - あの後、同棲していた彼女が妊娠していたことがわかって移住の件はあっさり諦める – がいて、天秤かけてどちらを選ぶ? という話に向かうと思いきやそっちではなく、もちろんはやく結婚したい/しなきゃの話しでもなく、香港の古くて家賃も高くて人も家屋もごちゃごちゃした中で、自分は結婚とかも含めてこれからどうやって歩いていこうか? を深刻に悩んだり対話したり戦ったりするのでもなく、自分でさっさか決めてひとり歩いていく – もう歩いていけるんだぞ、というのを見つけるところがなんかよいの。

ひとつあるとしたら、エドワードのどこがどうよいのかちっともわからないことだろうか。とりあえずアパートに置いてくれたから、程度だったのだろうか? あんなの早く切っちゃえば、階段で突き落としちゃえばいいのに、って誰もが思いつつ見ていたのではないか。

彼女の部屋には(明らかにエドワードの趣味ではなさそうな)ジャームッシュの映画のコラージュ、“Rebecca” (1940)、“Eternal Sunshine of the Spotless Mind” (2004)のポスターなどが貼ってあって、なんとなくわかる。あと、それとなく隅っこに映りこんでくる「ごろっとグラノーラ」の袋が気になったかも。

あと、タイトルにもある「金都」がどんな場所なのか - おそらく、古く寂れたものも新しいものも雑多にてきとーに飾られて並べられていて - NYのチャイナタウンにもあった - そういう中で若者も老人もわーわー言いあったり喧嘩したりしながら過ごしていく、長屋のかんじ? それは失われつつあるなにか、なのか?

あとは、本土の言葉と香港の言葉の違いがわかったらもっと楽しめたのかも。英語なら土地による違い(なまりとか)は結構わかるようになってきたのだけどー。

5.25.2023

[film] Four Sons (1928)

シネマヴェーラのジョン・フォード特集、明日で終わってしまうのかー。 楽しかったのになー。

Kentucky Pride (1925)


5月13日、土曜日の昼に見ました。 邦題は『香も高きケンタッキー』。
見るのはもう3回目、最初は京橋で、次は前回だか前々回のこの特集で、でも何度見たってよいの。サイレントで、これは伴奏もついていない完全な無音上映なので、始まると寝ちゃうかな、って思うのだがまったくそうはならない。頭のなかでがんがんいろんな音だの行進曲だのが威勢よく鳴りだすのを止めることができない。

金持ちの栄枯盛衰、親子間の愛、動物への愛、馬同士の愛、都会のワル、レースの興奮、などいろんなのが次々にやってきてそれぞれできりきり胸が痛んだり熱くなったり慌ただしい。

フルバンドを横に置いて音をつけさせたらすごく盛りあがったり泣いたりのジェットコースターができそうな気がする。

あと、農場のシーンでちょこちょこ猫みたいのが横切ったりしていて、Fordの映画ってたまに猫とか、隅っこにいるよね。


The Prisoner of Shark Island (1936) 

5月13日、↑のに続けて見ました。 邦題は『虎鮫島脱出』。 虎鮫? 虎鮫はおとなしい子だよ。

劇場でリンカーンを暗殺した際に足を骨折したJohn Wilkes Booth (Francis McDonald)を逃走中に治療した(もちろん暗殺犯とは知らず)として監獄島に送られてしまったSamuel Mudd医師(Warner Baxter)の実話をベースにしたドラマ。

妻と娘で幸せな家庭をもって真面目に医者をやっていたMuddにとっては全てが突然のこじつけすぎて不条理劇としか言いようのない裁判を経て、絞首刑にならなかっただけましの彼が送られたのは周囲に生鮫がうようよしているShark Island(でも映画の中でこの名前で呼ばれることはない)で、陰険な看守とかがいっぱいでもうだめだ、だったのだがご近所でMuddが12人の赤子を取りあげた家のBuckが看守として忍びこんでいて、彼の協力で義父を中心とした救援船がやってきていけるか? ってなったのに失敗して、地下牢に繋がれて今度こそだめだ、になるのだが監獄で蔓延した黄熱病で医師がいなくなってしまったので彼にスポットがあたり…

いじわるな看守役のJohn Carradineがすごくよくて、彼はやはり自分の知るCarradinesのパパだったねえ。

とても荒唐無稽な話のように思えなくもないが、Muddが島送りになった理由は911以降に怪しいと決めつけた移民をグアンタナモ基地に問答無用で送りつけたのとほぼ同じ理屈なのであんまし笑えないのだった。


Four Sons (1928)

5月14日、日曜日の午後に見ました。
邦題は『四人の息子』。サイレントで、原作は英国のサフラジェット運動にも関わっていたI. A. R. Wylieの小説"Grandmother Bernle Learns Her Letters" (1926) - George Cukorの”Keeper of the Flame” (1942)『火の女』の原作も彼女。無名時代のJohn Wayneが出ているって(..あれかな?)。

ドイツに暮らす未亡人のBernle母さん(Margaret Mann)には自慢の4人の息子 - 上から軍人でぱりっとしたFranz、次男ぽいJoseph、力持ちのJohann、末っ子でまだ子供っぽいAndreas - がいて、兄弟と村人はみんな母さんが大好きで誕生日になるとお菓子を焼いてお祝いをするのだが、第一次大戦が忍び寄ってきて、Franzは当然ドイツ軍に従軍して出て行くことになるし、アメリカに渡りたいというJosephに母さんは渡航費を渡してあげて、やがてまだ若いJohannとAndreasにも召集がかかって、息子がみんないなくなってしまった母さんは息子たちのことが心配で張り裂けそうになっていてかわいそうなの。

渡った先のNYで結婚して息子もできてデリカテッセンを(場所はあの辺かな)を開いたJosephはアメリカの参戦を知ると実家にやってきたドイツ軍のやな連中を思い出し、あいつらをやっつけるべく米軍に入って戦地に赴くのだが、その戦場で負傷したAndreasと会った - 途端に彼はJosephの腕のなかで亡くなってしまう。

JosephがNYに戻るとデリが大繁盛していてこれなら母さんを呼べるぞ、って手紙を書くのだが、当時ドイツからアメリカに移住するには英語のテストがあったらしく、一生懸命アルファベットとか数とか憶えて、現地の試験はなんとかパスして、でもエリス島に着いてからのテストは緊張と疲労できちんと答えられなくなって(かわいそうすぎてこっちが泣きそう)、ひと晩待ちましょうかってなった後で、彼女はふらふら町に出て行方不明になって…

最初の方の家族みんなで一緒にいる場面とか、運河のある日当たりのよい町の描き方が至福すぎるので、そのあとの試練が骨の髄までしみてきて、そこからはなにが起こってもかわいそうで、これは母さんを演じたMargaret Mannがすごいのだとおもった。 戦争と母ものだと”Pilgrimage” (1933)があるし、戦争で引き離される家族だと”The World Moves On” (1934)とか戦争が大嫌になるのがいっぱいあるけど、これはものすごく強いやつかも。


Fort Apache (1948)

5月15日、月曜日の晩に見ました。『アパッチ砦』。

誰もが題名くらいは聞いたことあるかも、の西部劇クラシック、と言われているがちっとも痛快ではない、むしろ逆のやつで、無理やり一件落着に寄せようとして変なふうに撚れてしまったような。原作はJames Warner Bellahの短編"Massacre" (1947)。

Thursday (Henry Fonda)と娘のPhiladelphia (Shirley Temple)がどこかから左遷されてアパッチ砦に、こんな土地とか野蛮人とか、蔑視まるだしでやってきて、受け入れ側のYork中佐 (John Wayne)たちはやれやれなのだが、Philadelphiaは若いO'Rourke少尉 (John Agar)のことを好きになってしまったらしい。

短期間で全員に嫌われて呆れられたThursdayはアパッチ族との交渉もYorkが信頼ベースで築いてきた関係をぶち壊して討伐に行くぞ、って号令をだして、結果的に軍がまるごと自滅してしまう – Yorkと若O'Rourkeは無事。

上がバカだとみんなリアルに死ぬ事案、が極めてわかりやすく描かれていて、でもこの解決法は現代に至るまで特にないっぽいので、本当にきついホラーになっていて、最後みんななんかしんみり笑っているようなのがわからない…

Henry Fondaって、若き日のリンカンよりもやっぱりこっちのぼんくら系の方がはまっている気が強く、した。

5.24.2023

[film] Memory (2022)

5月18日、木曜日の晩、109シネマズ二子玉川で見ました。なんとなくー。

監督は”Casino Royale” (2006)など、英国(生まれはニュージーランド)のMartin Campbell。 2003年のベルギー映画 - “De zaak Alzheimer” – 邦題『ザ・ヒットマン』(未見)のリメイクだそう。B級アクションとしてそんなに悪くなかった。

冒頭、テキサスのエルパソで子供の人身売買組織を追うFBIのVincent (Guy Pearce)とメキシコから派遣されているHugo (Harold Torres)のチームがおとり捜査に失敗して、被害者の少女Beatriz (Mia Sanchez)は保護できたものの証人として捕まえるはずだった彼女の父親を殺してしまう。

メキシコの殺し屋Alex Lewis (Liam Neeson)は看護師を装って病室に隠れて、そこに見舞いにきた男をあっという間に殺したり、手口は冷酷で鮮やかなのだが、上のMauricio (Lee Boardman)から、エルパソで仕事があるから行ってくれ、と言われる。お前が生まれ育ったところだろ、と。

Alexは初期のアルツハイマー型認知症で薬を常用して忘れていけないことは腕にペンで直接書きこんだりしている。エルパソに着いてから施設にいる兄を見舞うと、彼も同じ認知症のようでほとんど動けない状態になっていて、自分もやがては、って…

Alexに依頼された複数の殺しのうち最初のは簡単に実行できたものの、ふたりめのターゲットはVincentのチームが保護施設から引き取ってケアしていたBeatrizで、Alexは驚いて銃を下して、おれは子供は殺さない、なんだあれは? って上に文句を言ってから押収したUSBなどで背景などを調べて、自分の仕事が人身売買の証拠人殺しであることを知ると、その背後にいた連中を勝手に追い始めて、でも敵のほうも(そもそも消そうとしていた)Beatrizや通りすがりの無関係な女性を殺したりしたので、ブチ切れたAlexは組織の指令から離れて連中を殺し始める。

FBIとして人身売買の件を追いつつ、それに関連して追っていた連中が端からプロの手口で殺されていくのを目の当たりにしたVincentたちはどこからの圧力なのか納得できないままチームを解散させられたところでAlexにぶつかって、彼も自分たちと同様に敵を憎んでいることがわかるのだが、最後の大物としてメディアを牛耳る慈善家のDavana Sealman (Monica Bellucci)の手前まできて…

記憶の喪失に怯えながら、でも怒りだけを糧に殺し屋としての腕だけは記憶と関係なく動いてしまうらしい孤独な老人と、捜査へのパスを潰されたその脇を抜けて自分たちに代わって悪い連中を捌いてくれる老人の登場にうろたえる半端な中年たちがぶつかって、でも一緒に戦うようなことにはならなくて、最後も殺し屋Alexの生涯、のような話として終わらないところがよいの。

映画としてはテーマも含めてもう少しノワールの暗さと闇があった方が締まったと思うし、”Memory”の効かせ方があんな程度か(記憶を失っていく恐怖を際立たせてほしかったのに)、というのはあるけど、だんだんぼろぼろになって、でも誰にも何の助けも求めずにただ孤立していく老人Liam Neesonはなんかよかった。

あと、先日亡くなられたRay Stevensonさんが、敵方のやーなかんじの刑事役で出ていて、あの圧が吹いてくるような佇まいとか彼ならではだと思うので、追悼で見てあげて。


The Mother (2023)

5月14日、日曜日の晩、Netflixで見ました。 監督はNiki Caro。

元特殊工作員のJennifer Lopezが軍の仕事をしていた時に人身売買の証拠を掴んでしまい、通報して抜けようとしたら、悪い軍人のGael García BernalとかJoseph Fiennesに狙われて一部隊まるごと襲われてしまったので、生まれた娘も里親に預けてひとりアラスカの原野に身を隠して12年、娘Zoe (Lucy Paez)の身元がばれて敵がやってくることがわかったとき、母はFBIのCruise (Omari Hardwick)の助けを借りてZoe - はじめはJLoが本当の母親であることを知らない - を連れて逃げて、やがてCruiseもやられるとふたりで山小屋に籠って、母はZoeに銃や武器の扱いやサバイバルのしかたも教えて、そのうち雪山での対決の時がくるの。

途中でどこかにいなくなってしまうGael García Bernalとか、Zoeの父親は誰なのかとか、全体の構成はえらくがさつで中途半端で、JLoさまのシャープな殺戮の舞い(としか言いようがない)が見れるのだけがよくて、母娘モノとしてもなんか、おかあちゃん! てなる瞬間がなくて、残念だったかも。あの白オオカミ親子とかももっと使ってあげればよかったのに。

5.23.2023

[film] Fast X (2023)

5月20日、土曜日の晩、109シネマズ二子玉川のIMAXレーザーで見ました。

このシリーズは時間が経過するとものすごい速さ(Fast)で脳から泡のように消えてしまうので先に。既にひとつ前の”F9” (2021)なんて欠片も残っていないし(よいこと、でもある)。Fast & Furiousフランチャイズの10作目で、監督は撮り始めてからJustin LinからLouis Leterrierに変更となった。邦題は「ファイヤーブースト」とかいうの(ああ恥ずかしい)。

でも、そんなちっとも憶えていないシリーズではあるが“Fast Five” (2011)のリオの町中と橋を車に引っ張られたでっかい金庫がどかどかぶち壊しながら進んでいくシーンはアクション映画史に残るくらいすばらしいやつだったと記憶していて、今回のはあの時に海に投げ出された悪役の息子Dante (Jason Momoa)が復讐の炎に燃えてやってくる。

このシリーズのここ数作では「ファミリー」というのがキーとなって危機とか試練のなか「ファミリー」ひとりひとりの絆が試される(じゃーん)、みたいな局面が多いように思うのだが、Dom (Vin Diesel)を中心としたあの愚連隊って、血縁のファミリーもあるし、そうでない繋がりもあるし、でもその絆って昔のヤクザやマフィアや暴走族の映画で描かれてきた「一家」とか「ファミリー」とは違う、場合によってはCIAとか軍関係者も含まれているやつで、どういう集団なんだろ? と考えるに、とりあえず速い車に乗ってぶっとんできて悪の組織とかをやっつければよいのか、とか。それくらい緩く見ておかないとだんだんバカらしすぎてやってられなくなる – シンプル愛と金と車、でよいのかと思っていたのが、いまや金はどうでもよいみたいだし、車だけじゃなくて潜水艦とか飛行機もあるし、愛は…

冒頭、Domが息子のLittle Bに運転を教えている。流れに身を任せろ、とか言ってる。波乗りかよ。
そんなふうにDomとLetty (Michelle Rodriguez)と息子たちが家族の絆を確かめたあとで、ローマで小銭稼ぎに出かけたチームがDanteの罠にはまってローマの街中で中性子爆弾の大玉を転がして大パニックを引き起こして – おもしろいけどめちゃくちゃ。Rioの金庫のはわかるけど、ローマであれはさすがに無理ではないか。あれだけぶっ壊した後に高台から街を見下ろしてるとか。  並行してこれまでの宿敵だったCipher (Charlize Theron)はやはりDanteに身ぐるみ剝がされて傷だらけで転がされててやばいぞ、ってなる。

でもやっぱり仁義きらないとな、ってRioに乗りこんでお決まりの睨みあいとレースをして、その裏でLittle BをおじさんのJakob (John Cena)に預けて匿おうとするのだが、やっぱり見つかって追っかけっこになる。その過程でDanteが単なる復讐に燃える子ではなく、そうとうに狂った根っからの変態であることが明らかになる - 悪役のタイプとしてはBatmanの方に出てきそうなやつ。

車に乗っていないときのDomは突っ立って眉間に皺寄せているだけでつまんないので、今回はなんとか車に乗っけてしまえ、にしているようで、とにかくこいつさえ車に乗っけてしまえば、彼が乗るその車にはなぜかぜったいブーストのスイッチが付いていてやばくなるとぶっ飛ぶ仕様になっているので安心。

あとはローマで怪我してMr. Nobodyの娘Tess (Brie Larson)に引き取られたLettyが目を覚ましたら横にCipherが寝てて、ふたりとも大けがしているのに即座に飛びかかってぼかすか殴り合って、外に出てみたら南極だった.. とかわけわかんないし(なぜ南極? なぜ南極とわかる?)。今作での殴り合いバトルはここくらいなのがやや弱い。

こんなふうに敵も味方も世界中に散らばって飛んだり飛ばされたり、”Mission Impossible”並みにお金と技術をつぎ込んだアクロバティックなことをやっているのだが、その理由ときたら敵討ちとか子供をさらうとか、とてもシンプルなムーブなので、そこからぶちかまされる火花の散るアクションのばかばかしさときたらたまんない。こないだの”The Super Mario Bros. Movie”みたいなことを生身の人間でやっているのでばかばかしさも倍増(ほめてる)だよね。地球上のあらゆるところでえんえんやってろ、って。

よく死なねえよな、とか思うのだが、最後の方をみると、ここに出てくる連中はたぶん、ぜったい死なないのな。きちんと遺体の身元確認とかしてないとしか思えないし。

これの完結にはまだあと2作あって、次は2025年なのか(それまでにこっちがしぬな)。次は『帝国の逆襲』になるだろうから、誰かがセメント漬けにされる - でも死なない…

5.22.2023

[film] Le otto montagne (2022)

5月14日、土曜日の午前、新宿ピカデリーで見ました。 英語題は”The Eight Mountains”、邦題は『帰れない山』。
原作はPaolo Cognettiによる同名小説 (2016) – 未読 - をベルギーのFelix van GroeningenとCharlotte Vandermeerschが脚色して監督した147分。昨年のカンヌで審査員賞を”EO”と並んで受賞している。

冒頭、帰ったときにずっとそこにいてくれる何かがあるのってすばらしいことだ、ってトトロのいそうな大きな樹が映される。

1984年の夏、11歳のPietro (Lupo Barbiero → Andrea Palma → Luca Marinelli)は母Francesca (Elena Lietti)と一緒にイタリアアルプスの山荘を借りて滞在して、そこの村で同い年で一人っ子のBruno (Cristiano Sassella → Francesco Palombelli → Alessandro Borghi)と知り合って仲良くなる。山の滞在はひ弱な都会っ子のPietroを鍛えるのと、トリノでエンジニアをしている多忙な父Giovanni (Filippo Timi)にとっては年数回の大切な休暇でもある。

GiovanniはPietroとBrunoを連れて山歩きに出掛けたりするが、Pietroが高山病に掛かったり、家の手伝いばかりで十分な教育の機会を与えられていないBrunoをトリノに引き取って高校に行かせようとしてもBrunoの親に反対されたり、いろいろ思うようには運ばない。やがてBrunoは石工職人になるべく実の父親に引っぱられていったまま姿が見えなくなり、Pietroも父の休暇都合で山に引っぱっていかれるのはもううんざりだ、って喧嘩して山からは遠ざかる。

そこから15年が過ぎて、職を転々としながら31歳になったPietroは父の突然の死で呼び覚まされ、久々にあの山に向かうと、Brunoと再会する。BrunoはPietroを連れて山の上の廃屋に連れていき、Giovanniが生前この土地を買ってBrunoにこの小屋を再建することを約束させていたのだ - Pietroが実父と疎遠になっていた間もGiovanniはBrunoと頻繁にあって面倒をみたりしていた、って。

こうして夏の間に木を運んだり石を積んだりを始めたBrunoに付きあう形でPietroも山小屋作りを手伝って汗にまみれて、ここは以降ふたりが好きなときに好きなように使う小屋になるのだが、Pietroは自著の執筆のためネパールとの間を行き来するようになり、麓の村で酪農を始めたBrunoはPietroの彼女だったLara (Elisabetta Mazzullo)と一緒になって子供も生まれて、PietroとBrunoの関係はその距離を保ちつつもBrunoのとこの酪農では家計の維持が難しくなっていって… そういう中でBrunoは突然姿を消してしまう。

原題にある「八つの山」は、古代インドの世界観にある須弥山(しゅみせん)を中心とした8つの山と8つの海が囲む世界まるごとで、真ん中のは決してたどり着くことができない(帰れない)山で、それは徳を積んでいないからとか修行が足らないからとか、そういうのではなく、なにをどうしたって人は別れたり死んだりするし、土地も暮らしも変わっていって何が起こるかわからないし、みたいな諸行無常に繋がっていて(たぶん)、そんなこと言ってみてもどうしようもないじゃん、っていうただそれだけの話なのかもしれないが、PietroもBrunoも、Giovanniもずっと見つめてきた山の風景の向こうにそういう山の影をうっすら見ていたのではないか、って。でもそこからそうやって山を見つめる人/山に向かう人の哲学、のような臭いところには向かわず、ずっとすれ違い続けて、でもどこかで繋がっていた .. のかもしれない.. そうだったらよかったのにね … くらいの。

山を巡る、場合によっては悲痛で酸欠をもたらしたりしてしんどい、どこまで歩いていっても届かない象徴的な無駄足のありようを、ありがちな雄大さとか神々のなんとか、のようなところに落としたり徒に讃えたりせずに、3人のそれぞれの道行き – ぷっつり切れたり消えたり、にうまく合わせているというか。おわりは鳥葬でいいじゃん、とか。 このスケールにスタンダードサイズの画面がちょうどはまる。

こうやって筋だけ並べてみてもなにがおもしろいのかさっぱり、かもしれないが、男たちの強そうでいてぜんぜんそんなではない内側とちっとも劇的な現れかたをしない山のコントラストはなんかよかった。”Brokeback Mountain” (2005) のほうに行ってもおかしくなかったのに、行かない。これが海の近くだとまた違ってくるのではないか、とか。


RIP Martin Amis - 彼やZadie Smithが俳優として出ていた”Good Posture” (2019)などを思い出して、また見たくなった。

5.21.2023

[film] Nightclubbing: The Birth of Punk Rock in NYC (2022)

5月11日木曜日の晩、K’sシネマで見ました。
邦題は『ナイトクラビング:マクシズ・カンザス・シティ』。Danny Garciaの作、監督、製作によるドキュメンタリー。

Max's Kansas City (1965-1981)はマンハッタンにあったライブヴェニュー&食堂で、もうとうになくなってしまったその住所は213 Park Avenue South - Union Squareの北東、ChelseaからもGramercyからも歩いていけるし、地下鉄でアップタウンにもダウンタウンにも行きやすいし、今も昔もレストランやバーが並んでいる界隈 - Anthony BourdainのいたBrasserie Les Hallesもこの辺りにあった。

そういう地の利もあってか若者も年寄りも寄って来やすいとこにお金のない若者たちがタダ飯狙いで溜まるようになったついでに上の階のスペースでどかすかやるようになり、それを面白がったAndy Warhol一派が立ち寄ったりするようになるとそこから先は雪だるま式で、Studio54ばりのセレブ(観光)スポット化して、この場所の名前を冠した「伝説の」ライブ盤もいっぱい出ているし、かっこよい写真もいっぱい残っているし。

というわけでここにたむろしたり演奏したりしていたミュージシャンたち - Jayne County(猫かわいいねえ)とか、Alice Cooperとか、Billy Idolとかの演奏シーンを含む語りと、ブッキングや運営をしていたスタッフによる思い出 - あんな人がきた、こんなこともあった、などが流しそうめん式で。もうひとつの「伝説」小屋 - CBGBとはやっぱり少し傾向が異なって、こっちの方がよりグラマラスというか見せ物小屋とかよりショービズぽい性格がみえてきたりする。

原題にもあるパンクの起源はだれ? とかどこ? について、個人的にはもうどうでもよくなっていて - ドキュメンタリーであれば、Don Lettsのいくつかのが一番きちんと追えて網羅していると思う - だって、そんなの掘ったり探ったり元祖決めたりとかいちばんパンクから遠いあれ(アティチュードとかいうの?)じゃない? なんであんな先のないどん詰まりの生ごみみたいに腐って干からびていかれてやかましい音楽が海を越えて大陸またいで感染拡大して、いまだにドブネズミやゴキブリみたいにサバイブして若者や年寄りを救ったり殺したり、世間的には鼻つまみ状態なまま、ずーっと耳もとで鳴り続けたりしているのか、そっちのほうだよね  -  あーこれもまたどうでもよいしクールじゃないか。

それでもなんでこの手のドキュメンタリーが相変わらず出てくるかと言えば、やっぱり最初の頃に変なことを始めた連中の、ちっとも狙っていなかったが故の胡散臭さとか慌てようが見事に晒されてておもしろいから、それだけ、ではないのか。 果たしてそれが始まるのは場所なのかバンド(の音)なのか、パンクに関してはなによりもまず、個々のあたまの中なのだ、ということだけは忘れないようにしたい。ソーシャルなんてしるかよ。

関係者の映像でCBGBのトイレがひどい、とか散々言われていたけど、確かにいろいろ堆積したりこびりついたりしていたけど - それらを削ったりめくったりして調査したわけではないけど、そこでなにをやるのかにもよるのだろうけど、そんなにひどくもなかったよ、と一応証言しておく。他にもひどいとこはいっぱいあったし、傾向で言えばロンドンのいくつかの小屋のが衛生面ではやばそうなかんじはたっぷりだったし。


Sid: The Final Curtain (2022)


おまけで上映された↑と同じ監督による20分の短編。
NYに来てからのSid ViciousとNancy Spungenの一連の事件を↑と同じ映像や関係者証言を使ったりしながら纏めたもので、わたしはこのふたりの痛ましい殺し合いのようなあれらはパンクでもなんでもない、メディアがおもしろがって煽りたてた悲惨で最悪の自殺のようなものでしかないと思っているので、それに対する批判的な視点が一切ないまま ↑と同じように懐古して上っ面に「パンク」ってラベル貼っているだけのこれにはちっとも乗れなかった。

5.19.2023

[film] When Willie Comes Marching Home (1950)

シネマヴェーラのフォード特集からみっつ。もうほんとにフォードすごいねえ(になってしまった季節)。

5月4日の午後に見ました。『ウィリーが凱旋するとき』
原作はSy Gombergの短編” When Leo Comes Marching Home” (1945)で、ロカルノで金獅子賞を受賞している。

ウェストバージニアの田舎で両親や恋人とうだうだしていたBill (Dan Dailey)が真珠湾攻撃の報を聞いて真っ先に陸軍に入隊して戦場にいくぞ! って張りきるのだが配属されたのは地元の基地で、教官として都合よく重宝されちゃってそのまま数年、周囲からは「まだいる」って白い目で見られるしうんざりしていたところで飛び立つ直前の戦闘機の欠員が出て、乗れ! って言われてばたばた乗りこんだらイギリスに向かう機は燃料不足で他のみんなは脱出して、居眠りしていた彼は遅れてドイツ占領下のフランスに落下傘で降りることになる。

そこでYvonne (Corinne Calvet)をリーダーとするフランスのレジスタンスに拾われて、そこで彼らが撮影した怪しげなロケットの打上げのフィルムを持って英国に渡って関係者や軍の上層部に話したりするのだが誰も相手にして貰えず病院送りになってついてない…

すっとぼけ戦争コメディで、Bill自身にすごい運や才覚があったり、その帰結としてなにかを成し遂げたわけでもなんでもなくて、すべてが法螺話みたいに格言みたいにご都合よく転がって収まるところに収まってしまう(この場合は勝ち負けか)。戦争なんてそんなもの。 アルトマンの”M*A*S*H” (1970)で参照されたのもわかるかっこよい適当な投げやり感がたまんない(けどどこだったか?)。


Young Mr. Lincoln (1939)

5月8日、月曜日の晩、連休が終わってしまったのを嘆きつつ。邦題は『若き日のリンカーン』。

1832年のイリノイで、お金はないけど手にした法律の本が好きで法律家になろうかな、と友人と法律事務所を設立した若き日のLincoln (Henry Fonda)が独立記念日のお祭り騒ぎのなか起きた喧嘩沙汰のどさくさで起こった殺人事件の裁判で、絶体絶命のどうみても善人な被告兄弟Matt (Richard Cromwell)とAdam (Eddie Quillan)とその家族を陰険な検事 (Donald Meek)と怪しい被害者友人のJ. Palmer Cass (Ward Bond)らと渡りあいながら弁護して救うお話し。

よき家族がいて、貧しく弱い立場のものがいて、驕れる強者やいじめっ子がいて、それらを利用する連中がいて、昔からずっとあるアメリカを凝縮した風景のひろがる法廷で、若い頃のリンカーンはすでにこんなふうに振舞っていたのだ伝説を置いてみて、それって聞いただけでちゃんちゃらおかしいや、になっておかしくないのに、ここのHenry Fondaのどっしり落ち着いて不遜な態度ときたら – はっきりとおまえ演技してるだろ!って言いたくなってしまうのになんだかぎりぎりのところでブリリアントで素敵に見えて、感動してしまったりするのってなんでなのか。(自分にとってのHenry Fondaのイメージは”The Lady Eve” (1941)なので余計に)

こういうのが作られてしまったので、若き日のリンカーンはこの後もゾンビと戦ったり大活躍することになったのさ。


Stagecoach (1939)

5月10日、水曜日の晩、まだ連休が終わってしまった痛手から立ち直るべく見ました。そんなの立ち直れるわけないし。みんなが知っている『駅馬車』。何度も見ているのだがつい。

原作はErnest Haycoxによる短編” The Stage to Lordsburg” (1937) 。これをDudley Nicholsが脚色している。
西部劇の金字塔とか代表作、みたいに言われることが多いのだが、見た後の感触はものすごく軽くて後にはなんも残らない、残していかないふうなのがすごい。

リンカーンの法廷と同じように、いろんな職業とか境遇の人達がひとつの駅馬車に押し込まれるように乗り合わせて、高慢ちきな人、嫌な顔をする人、される人、されたくない人、どうでもよい人、お尋ね者、などの9人が団子になって西部を横切っていくのを、その団子をまるごと敵として憎んで殺そうとするインディアンが追いかけ、追いかけられる方もインディアンまるごとモンスターのような脅威として見なして速すぎて互いが見えない距離感で撃ちあい殺しあいをして、そこから逃れて町に着いたら今度は個別の復讐で撃ち合いをしたり、子供が生まれたり、恋が生まれたりする。これらぜんぶを運んだのが原野を横切っていく「駅馬車」で、これはアメリカのパンドラの函だったのか。 清水宏の「バス」とは同じなのか違うのか。

この次にフォードが作ったのが上の『若き日のリンカーン』で、これ以降はもう問答無用の巨匠としか言いようのないフィルモグラフィーになっていくねえ。

[film] Prénom Carmen (1983)

5月2日火曜日の午後、ヒューマントラスト渋谷のゴダール特集で見ました。

今ここでやっているゴダール特集は、昔に見たのも含めてちょこちょこ見に行ってて(さっき数えたらここまでで6本)、やはり一本にかかる時間が短いのでふらっと入ってさっさか見れるのがよいのかも。

でもゴダールの映画って感想は書きづらい。映画のなかにぜんぶ書かれて曝されていて、読めばわかるようになっているというか、そのストーリーとか表象の「わかる」かんじが他の映画のそれとは違って表に出ているので筋みたいのを文章で追ってみてもつまんなくて、結果としてかっこいいー、とか、うつくしー、とかで終わってしまう。べつにそれでもよいのだが。 で、そうやって書いてとっとと忘れて次に見るとまたいちいちおおー、とか唸ったりしてる。

邦題は『カルメンという名の女』英語題は”First Name: Carmen”。 いちおう原作はメリメの短編小説『カルメン』(1845)と画面にも出るが、ふーん、程度。シナリオ・脚本はAnne-Marie Miéville、撮影はRaoul CoutardとJean-Bernard Menoud。

自分にとって一番好きなゴダールの1本(これと”Soigne ta droite” -『右側に気をつけろ』(1987)のどっちか。世代的なものか?)で、子供の頃シネヴィヴァンの”Passion” (1982)でなんかわけわかんないけどすごいぞ! ってなった後のこれで痺れて、LDまで買ってまだどっかにある。

高架を電車が走っている夜の街とか昼の海があり、弦楽四重奏を奏でる一団がいて、Carmen (Maruschka Detmers) と「呼ばれるべきでなかったかもしれない」彼女が、なんの病気だか定かでない、たぶん仮病で療養所に入っているうさんくさい - 映画監督だという - 叔父さんのJeannot (JLG)の所有する海辺のアパートを借りて、あたまの悪そうなJoseph (Jacques Bonnaffé)とどたばた絡んだりずっこけたりしながら冗談みたいな銀行強盗を実行して大金を奪って海辺にふたりで引き籠り、強盗の際に知り合った弦楽四重奏の楽団にいたClaire (Myriem Roussel)が絡んできて、裁判があり誘拐があり映画撮影があり痴話喧嘩があり銃撃があり、最後にはだれかが倒れされて、「夜明けだ」とかいうの。

筋はあってないようなあれなのだが、でもわけわかんないかというとそんなことないの。B級ジャンク・ノワールの切った張ったをおそろしくかっこいいコレオグラフと音(残響)と声で重ねて転がしていって、ほつれも破れも放置する無添加の冷たさがすごくて、それは”Passion”が見せてくれた労働とハイ・アートのコントラストの次として – 美男と美女と変人しか出てこないパルプフィクションをこんなもんかー くらいの勢いで並べててさくさく見れる。

夜の電車も海も、好きなカットが気持ちよい音と共に全部盛られて映っている。
あたまくるのはこんな40年前の映画に未だにボカシなどが入っているとこ。


Le Petit Soldat (1960)

5月2日、↑のに続けて同じとこで見ました。『小さな兵隊』。
撮影は1960年、『勝手にしやがれ』(1960)に続く長編2作目として制作されながらアルジェリア戦争関連の政治的コンテンツを含むから、って1963年まで上映禁止となっていた1本。

フランス軍の脱走兵が軽いかんじでテロ組織と関わったら軽く暗殺を依頼されて、軽く女の子とつきあってみたら彼女も裏でテロ組織と繋がっていて首が回らなくなり、国外に脱出しようとしても失敗して散々な目にあうの。

Anna Karinaのゴダール映画最初の一本であり、カメラ越しにみるみる恋におちていく経過がうかがえる以外は、なんか延々ぶつぶつ小理屈ばかりこねて喋ってるだけで笑えるとこもなくて(笑えるかどうかはだいじ)、”Carmen”みたいなのの直後に見るともどかしいしまどろっこしいー、とっととやっちまえー、みたいなかんじにはなるかも。同じ「戦争映画」だったら断然『カラビニエ』(1963)の方だなー、とか。


Two American Audiences: La Chinoise - A Film in the Making (1968)

5月5日の晩、渋谷で”Week End” (1967)を見た後にK’sシネマに移動してみました。
40分の短編で、邦題は『ニューヨークの中国女』。監督はRichard LeacockとD.A. Pennebakerのふたり。”La Chinoise” (1967) -『中国女』の米国公開にあわせて訪米したゴダールが、NYUの映画学科の学生たちとティーチイン - という程がっつりしたセッションではないQ&Aを記録したもの。監督ふたりも画面上にいて、たまに質問の意図などについて間に入ったりしている。

今回『中国女』も上映されていたのであわせて見ればよかったのだが、できなくて、これを見るとあー見ておけばよかったかも、に少しなった。

映画を学んでいる学生ならもっと鋭いこと聞けば? みたいな緩めの質問ばかりなのだが、ゴダールの答えは - 英語だからというのもあるのかもだが – ものすごく礼儀正しくまともに応えていてちょっとつまんなかったかも。『中国女』の場合だとあれくらいの温度感でちょうどよいのかな、とか。

5.17.2023

[film] Esterno notte (2022)

5月7日、連休最後の日曜日の午後全部つかったイタリア映画祭2023の最後の1本、として見ました。
邦題は『夜のロケーション』- ?  英語題は”Exterior Night”。

映画祭のサイトに行ってみると、会場がだいっきらいな朝日ホールだったのであーあ、ってなってチケット取ろうとしたらIDを、とか言われたのでうんざりして閉じてしまった。こうして結果的に取るのが遅れてとても遠くの席になってしまったばか。

Marco Bellocchioの、昨年のカンヌでも上映された新作。TVシリーズとして放映された6エピソードからなる全300分 – 休憩入れて5時間半。
1978年のイタリアで起こった赤い旅団によるアルド・モーロ元首相誘拐暗殺事件を追ったドラマ。こんなすごいのがTVで見れてしまったらお茶の間は。

冒頭、緊迫した空気のなか、知らせを受けた政治家たちが病院に呼び出されて病室に入ると憔悴しきったAldo Moro (Fabrizio Gifuni)が涙を浮かべて手を振るので見ている方は ??? となりつつ、時間は誘拐前にまでに遡る。

第一部は”Aldo Moro”で、キリスト教民主党のAldo Moroがイタリア共産党の支援を得て新政府を樹立しようとする施政について内外で波風が立っていて、反対派の説得をしていかねば、という朝にMoroの乗った車が赤い旅団に襲撃され、護衛たちはすべて射殺、Moroは連れ去られて大騒ぎになる。その知らせを受けた部下のGiulio Andreotti (Fabrizio Contri)はたまらず嘔吐してしまうのだった。

第二部は内部大臣に任命されたFrancesco Cossiga (Fausto Russo Alesi)が赤い旅団とのやりとりのフロントに立って、報道が過熱する中、人質のMoroの生々しい写真が送りつけられできて騒然となり、やがて旅団からの死刑宣告に続き湖に彼の遺体を捨てた、という声明が。

第三部は法王パウロ6世(Toni Servillo)が友人であるMoroと彼の妻Eleonora Moro (Margherita Buy)のために政界に掛けあおうとするものの対応は冷たくて、他方でバチカンの力で200億リラを集めてMoroの解放に向けて旅団側と接触すべく動くのだが、ローマ法王ですら.. という

第四部はテロリストたちの側から - Adriana Faranda(Daniela Marra)が祖母に娘を預けて赤い旅団に入って、襲撃~誘拐に向けた銃撃の訓練をして、実行後はMoroを殺害するかどうかの議論が続くなか高まっていく旅団への懸念と葛藤など。

第五部は妻Eleonoraが見た事件当日の朝のこと、亡くなった護衛官の葬儀から、交渉にあたっている政治家たちとの確執、ローマ法王とのやりとり、ぎりぎりの条件交渉とそれでも動こうとしない連中に対するものすごい失望、というか絶望。

第六部はエンディングで、やはりMoroを救うことはできずに遺体は発見されて、その後になって彼をいろいろ祀りあげたり国葬とか群がって言いだす政治家たち、そのMoroの没後3カ月後にパウロ6世は亡くなり、ぱたぱたと時が流れていく。2010年にEleonoraが亡くなるまで。

誘拐されたAldo Moroを中心とした政界、バチカン、メディア – その反対側にいるテロリスト、その隙間に挟まってしまった各自の怒りや焦りをそれぞれの目線で日付入りの怒涛の緊張感と共に追って、そのタッチが精緻であろうとすればするほど、どす黒い(わけわかんなくて真っ黒な)政界=ほぼマフィアの闇が – これに比べたらテロリストの方がまだわかりやすい – 浮かびあがってきて、そのありようときたら「真相」? こんなのが?? なのだが、そんな煮え切らない全容が窓の向こうに広がる(エクステリアとしての)夜、なのだろうか。

Bellocchioがこの事件を扱うのは“Buongiorno, note” (2003) -『夜よ、こんにちは』に続けて2度目(他にもあるのかな?)で、ここでもタイトルに「夜」が使われている(こちらのタイトルはEmily Dickinsonの詩から、だけど)。彼にとっては眼前に永遠に明けないまま黒点となってこびりついている何か、なのだろう。この作品を見ると45年前のことでもなんでもない、どこまでものっぺり変わらない夜の風が枯れた怒りと共に吹いてくる。

それを目の当たりにして経験したかどうかもあるのかどうか、でもそんなの関係なくこのドラマの喚起するいまのかんじときたらすさまじい。最近の近めの時代劇 - “Argentina, 1985” (2022)なんかと比べても(比べるな、か)圧倒的な訴求力、というか、なぜあれを止められなかったのか、なぜ朝を迎えることができなかったのか、を300分間えんえん、画面上の粒をぜんぶ束ねて練って繰り返し問うている。

あと、Bellocchioの映画はどれもだけど、俳優がみんな上手いというかアンサンブルの見事さ。Moroと法王は言うまでもなく、駆け引きで建物の隅を這いずり回る政治家や交渉役たちのどいつもこいつもパルパティーンのクローンのような面の厚さ、そのダークサイドの怖さときたら。

5.16.2023

[film] Sur l'Adamant (2023)

5月6日、連休の終わりが見えてどこかに旅立ちたくなった昼間に見ました。 『アダマン号に乗って』。英語題は”On the Adamant”。

Kristen Stewartさまが審査委員長のベルリンで金熊を獲ったのでややびっくりして、でも彼女が決めたのだから、って。でも、だいすきだけど、Nicolas Philibertのドキュメンタリー映画が金熊とはなー。

アダマン号はシャルル・ド・ゴール橋のすぐそばのセーヌ川に永久に係留されている船で、ここで10年以上地元の精神障害者のための浮遊式デイケアセンターとして使われている。ここのスタッフは(個々にきちんと紹介されるわけではないが)精神科医や心理学者をはじめとして看護師、病院スタッフ、作業療法士、ケアコーディネーターなどの治療の専門家の他に外部から招いたアーティストやアートセラピストで構成され、船内(院内?)のバーや映画上映会などの運営には患者自身も関われる範囲で自発的に関わっている(様子がわかる)。朝になると陽光に照らされて船のブラインドが一斉に開いていくさまがよいの。

冒頭、(患者の?)Françoisが、Téléphoneの『人間爆弾』- “La Bombe Humaine” (1979) をアコギをバックにフルで歌いきるのでびっくり。それが見事にパンクだったりするので、それだけでおーう、ってなって和らぐ(同世代か)。

そこから患者のひとりひとりの活動や彼らとのインタビュー(聞き手や聞く内容は画面からほぼ隠されている)が流れていって、どうしてここに来ているのか、もあるし、ここに来ると何をするのか、とか、それをするとどんなかんじになるか、もあるし、今後はこんなことをしたいあんなこともしたい、の話もある。誰もが自分が病気(重いの軽いの)を患っていること、いまの自分のふるまいのままでは社会に馴染めず(or 馴染めないと言われて)ここに来ていることは自覚している。

そういう彼らの(「正常」な我々からすれば時として危なっかしく見えてしまう)ふらふらした動きが、彼らのこんな事情や病状によるものなのだ、ということを示す – 一般市民とはやや異なる - というよりは、朝起きて何をやろうか? から始まる我々の日々の惑いや気怠さとそんなに変わらないんじゃないか、という方向感覚と共に描いていくので、見ていてなんだかすんなり気持ちよく入ってくる。我々も別の船や地下鉄などに乗っていて、その向かう先が少し違うだけなのだな、とか。

繰り返し映しだされる船からの眺めがよくて、それは陸から緩く切り離されて浮いているし、でも海の上のように茫洋としてもいない。川を進んでいけば(この船は動かないけど)眺めも人も変わっていくし、草木も季節も動いていくし。そういうところに乗ってあるState of Mindってわるくない気がする。海だと見ててたまに入っていって死にたくなることあるけど、川だとそれはないような。

あとは、ここで提供されるデイケアが隔離された監獄島で施されるようなものではない、患者の自発性に委ねられている限定的なものだ、っていうあたり。患者のひとりが自分がここに来れているのは投薬しているから、とあっさり語るように薬なども併用しながらここまでやってきて活動できる。治療の観点からの是非はあるのかも知れないけど、映画を見る限りではきちんとWorkしているように思えた(もちろん、撮られなかったあれこれはあるのだろうが)。いろんな人々と関わること、関われる状況を作って出帆することがいかに大切か – それはこのドキュメンタリーの根幹でもあるような – その揺るがなさが気持ちよい河上の風を運んできてくれる。

こういうのさー、日本/東京だって日本橋とか神田川とかに作って浮かべてみればいいのになー。絶対そういう方向には向かわないよね。ホームレスは断固排除だし共用トイレひとつで大騒ぎだし、どこまでクリーンな均質化と同調すべし! を意識/無意識込みで揃えて求めたがって、しみじみ気持ち悪くて居心地悪くて、そういうのでさらにおかしくなっていくんだわ、と – 後半はそんなことばかり考えてしまった。

あと、ここに来る患者さんたちは自分の親とか家族のことを語ったりするけど、船の上で決して(擬似)ファミリーを作ったりそうであろうとはしない、ひとりひとりなのもよかった。ここに来たら皆ファミリーだから、の押し付けがない心地よさもあるかもー。

5.15.2023

[film] Un beau matin (2022)

5月5日、初日の初回、新宿武蔵野館で見ました。

Mia Hansen-Løveの新作。邦題は『それでも私は生きていく』。英語題は原題と同じく”One Fine Morning” -「ある晴れた朝」なのに。 邦題の、とりあえずフランス映画なら「パリ」を入れとけ対応と同じく、やたら「生き方」みたいのを訴えようとする(or 「背中を押す」とか?)の、本当に根が深くて気持ち悪い(加齢や美白の宣伝とおなじ)類のやつ。「ターゲット」にしているであろう女性層をバカにしているよね。 例えば『アダマン号に乗って』にだったら(同様に生き方に近いとこのテーマだけど)そんな邦題つけないでしょ?

同年のカンヌでLabel Europa Cinemasというのを受賞している。35mmフィルムでの撮影はDenis Lenoir。

冒頭、通りをすたすた歩いてきたSandra (Léa Seydoux)がアパートに入っていって父のGeorg (Pascal Greggory)を見舞う。彼は神経変性疾患(ベンソン症候群)を患って、視力も記憶力も低下して現在のアパートに住み続けるのが危険であることは本人にもわかっていて、ケアホームを探して越さなければならない。でも本人もSandraも、彼の本棚、本に囲まれたこの部屋が彼の生のすべてであることがわかっているので引き剥がしてしまうようで辛い。

Sandraは英語と独語の同時通訳や翻訳の仕事をしながら8歳の娘Linn (Camille Leban Martins)を育てているシングルマザーで、髪もメイクも服装も最小限のビジネス最適のシンプルなのにして走り回っていて、それでも父の介護だけでなく自分の仕事にも十分に集中できずに失敗したりするので、自身のこれからについても漠とした不安を - 誰にも言わないけど - 抱き始めていることがわかる。

Sandraは既に父とは別れている母のFrançoise (Nicole Garcia)、現在の父のパートナーで、彼が娘以上に信頼しているLeïla (Fejria Deliba)らと一緒に介護施設を探し始めるのだが、公営のはひどいというし、評判がよいところは空きがないし高いしで、それらを理由に転々とさせられるのは本人にもストレスだろうし、という誰もが直面する葛藤や困難があり、Georgは申し訳なさそうに何も言わずに施設に入るのだが、自分ではどうすることもできない無念さが彼の背中からは滲んでくる。

そんななか、Sandraは旧友で、宇宙の塵がどうしただのを研究する“cosmo-chemist”だというClément (Melvil Poupaud)と久しぶりに再会して、彼には妻子があるのだがずるずる会って親密になっていくのと、環境デモに参加したりマクロンにぶうたれたりGeorgとは対照的にアクティブなFrançoiseとか、ずっと脚が痛いというLinnを医者に見せに行ったらおそらく成長痛、と言われたりとか、ひとには些細なことかも知れないけど、日々こういうのの海に溺れたり潮に流されたり浮上したりへろへろに疲弊しながら生きているのだ、というあたり、Mia Hansen-Løveの自伝的な要素が相当入っているそうで、遠いパリのお話しであるにしてもわかりすぎるところがものすごく沢山ある。

父の病が進行していくにつれて、彼の視野や記憶域からSandraの姿はどんどん遠くなっていくし、Clémentとの関係も一緒に過ごす時間は楽しいのだが、彼もそのうち妻と子供のところに戻ってしまうかもしれないし、そうやって大切なものが向こうに遠ざかって小さくなっていくことに対して自分は余りに無力で動くことができなくてこんなのでいいのか? と問いつつ、いやそれでも残るものはあるのだ、と控えめになにかを掴もうとする – “L’avenir”(未来)よりも少しだけ手前のある晴れた朝に、そうやって踏みだそうとするSandra - Léa Seydouxの像はすばらしいの。(それでも彼女は『それでも私は生きていく』なんて言わないと思うけどね)

そうやってきて最後に静かに流れだすBill Fayの”Love Will Remain” (2020)が。彼女の映画の音楽はどれも本当にすばらしくて、今回はそんなに流れないなー、と思ったらこれかがくる。

Georgの本は、大学の生徒たちがアパートまで取りに来てくれることになったのだが、Sandraがこの本棚は父以上に父そのものだと思う、ていうところにじーんとなる。部屋の床に積んであるこいつらだって(ごめんね)... (大学の哲学教授にしては本が少なすぎはしないか、きっと別の部屋にもあるよね)。

きっぱり夫と別れて次に踏み出そうとする女性の姿だとIsabelle Huppert主演の“L’avenir” (2016) - “Things to Come”が思い起こされて、あれと対のようにして見ることもできるかも。そしてここにも哲学教師の本棚が出ていたなー、とか。
 

5.14.2023

[film] What Price Glory (1952)

シネマヴェーラのジョン・フォード特集、第一次大戦ものをみっつ。

What Price Glory (1952)

5月2日の午後に見ました。邦題は『栄光何するものぞ』

Raoul Walsh監督による1926年の同タイトル(邦題が『栄光』でちがうけど)のリメイク。John Fordはノンクレジットでこれのセカンドユニットの監督だったとか、このオリジナルのを脚色したのはPhoebe & Henry Ephron - Nora Ephronのご両親 - であるとかいろいろあるのでいつかきちんと見比べしたい。

第一次大戦下のフランスの泥沼前線に疲れ果てたアメリカのFlagg大尉 (James Cagney)の隊が戻ってきて、昔から馴染みらしい酒場の娘Charmaine (Corinne Calvet)とべたべた再会して結婚するしないの話になったところでやはり昔からのライバルで顔をよく知る軍曹のQuirt (Dan Dailey)が配属されてくる。

Charmaineとの結婚までは考えていなかったFlaggは彼女をQuirtに押しつけて逃げるようにパリに発ち、その間にCharmaineとQuirtは結婚しよう、になって、同じく隊の若者Lewisohn (Robert Wagner)と村娘のNicole (Marisa Pavan)も恋に落ちて結婚しよう、になるのだが、Flaggが戻ってきて結婚式の準備が進められるなか、上から新たな特攻任務が告げられて、これをうまくやったら休暇やるから、って人参が。

全部が戦争だから、指令だから、で猫の仔をやるように彼女を渡して結婚させたり、式の手前で止めさせたり、それで前線で死んじゃったり、なんとか生き残ればはい次の戦場へ、って「何するものぞ」どころじゃないわよ何さまだよてめーら? っていうひどい話なのだが、James Cagneyの速射砲の喋りがそれらを考える隙を与えないねえ、というところで冒頭と全く同じ様相で疲弊して戦場にやってくる兵士たちの影が。本来ミュージカルにするつもりだったらしいが、それか底抜けコメディにするくらいでちょうどよかったかも。


The Black Watch (1929)

5月3日の昼、町田から戻ってきて見ました。 邦題は『黒時計連隊』。 John Fordの最初のトーキーだそう。

第一次大戦で、これからフランスの前線に向かおうとしているスコットランドの黒時計連隊の連中がテーブルを囲んでいて、その出陣式の席で大尉のDonald (Victor McLaglen)が偉い連中に呼び出されて、お前はインドで生まれ育ったそうだから向こうの言葉には堪能だな、って確認されてから現地の山奥で山岳宗教の祖となったYasmani (Myrna Loy)が暴れて困っているのでなんとかしろすぐ行け、っていうミッションを与えられ、隊に戻って悪いけど行けなくなった、と告げるとえーってみんなに失望されて、でも現地に潜入して活動を始めたらYasmaniと穴に落ちるようにまっすぐ恋におちてたりしてあんたなにやってんの? なのだがとにかく任務は完了して、黒時計連隊も無事でよかったな、って。

でもこれ、黒時計連隊の活動とか活躍とはちっとも関係ない話なんだけど。バグパイプ鳴らして腕を交互に組んで辺な誓いの踊りをするとこしか印象に残らない.. (The Black Watchって、Wikiなどによるとスコットランドに実在する伝統的な歩兵部隊らしい)

こういう筋立てをインド側から見ると”RRR”みたいになったりするのかしら?


Four Men and a Prayer (1938)

5月3日の夕方、『せかいのおきく』のあとに見ました。 邦題は『四人の復讐』。
これもノンクレジットでWilliam Faulknerが絡んでいるらしい。

第一次大戦のインドに駐屯していた英国軍の将校Leigh (C. Aubrey Smith)が四人の息子に向けて不名誉の除隊になったので帰国すると手紙を出して、四人は父さんがまさかそんなことに.. と実家に集まって父を迎えて、父もこれは冤罪で嵌められたのでこれから反撃するぞと言っていた晩にそのまま何者かに殺されて、息子たちは真犯人と事件の全貌を暴いて父の名誉を回復すべく、インドや南米に散って捜査を始める。

法曹界にいるWyatt (George Sanders)とか、ワシントンDCの大使館駐在のGeoffrey (Richard Greene)とか、パイロットのChristopher (David Niven) - 彼がパイロット役だとどうしても”A Matter of Life and Death” (1946)の影が… とか、まだオックスフォードの学生のRodney (William Henry)以外はみんな優秀そうな息子たちなのだが、一番冴えてて神出鬼没で自在に動きまわって解決に導いてしまうのがGeoffreyの恋人のLynn (Loretta Young)で、なんでそんなに横から割りこんでくるのかわかんないけど、とにかく彼女がかっこいいの。

背後に国際的に暗躍する武器商人の闇があり、南米の兵器工場で搾取されていた現地民の一揆とかあちこち波乱にとんで大作の風格もあっておもしろいのだが、最後はめらめら復讐/敵討ちというよりまずは名誉回復と愛よね! の方に寄せてあっさり閉じてしまうてきとーなかんじ(に見える)も素敵で。

5.12.2023

[film] Guardians of the Galaxy Volume 3 (2023)

5月4日、土曜日の晩、109シネマズ二子玉川のIMAX 3Dで見ました。
この日は朝に『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』をみて、午後にJohn Fordをみて、晩にこれで、『ぬいぐるみ…』からの流れにはなんだかうまくはまった気がした。

シリーズの完結篇で、作・監督は前2作をつくったJames Gunnで、Vol.3の監督にあたっては一度解任されて再任されてとかいろいろあった。(あんまし興味ない)

冒頭、”Creep”のアコースティックバージョンをバックにRocket (Bradley Cooper)がこちらに向かって歩いてきて、今回の主人公が彼であることがわかるのだが、90年代以降がちょこちょこ入ってくる選曲からしてこれまでとちょっと様子がちがうかんじ。よくもわるくも。

突然襲いかかってきたWarlock (Will Poulter)のよくわかんない乱暴狼藉によって重傷を負ったRocketにキルスイッチが埋めこまれていることがわかって、そのコードを解除するためにそれを作ったOrgocorp社にみんなで乗り込んで暴れていくのと、その過程で明らかになるHigh Evolutionary (Chukwudi Iwuji)の野望と彼が生みだしたRocketの幼い頃 + 彼と一緒にいた実験動物たちとの思い出など。

過去2作の主人公だったPeter Quill / Star-Lord (Chris Pratt)も当然出てくるのだが、彼は失われたGamora (Zoe Saldana)との思い出にめそめそ囚われていて元気がない。彼との記憶を初めから持たない彼女が現れて前と同じようにぼかすかしばいてくれてもなんだかすっきりしない。"Since You Been Gone”、ね。ああやってほぼ無能状態でぐだぐだしている彼も、それはそれでよいかんじ。

同様に失われていない記憶の塊たちが意識が朦朧としているRocketのところに蘇ってくる。アナーキーな暴れん坊という設定の彼には、子供の頃のかわうそお母さんのLylla (Linda Cardellini)とせいうちとうさぎのファミリー - どれもRocketと同じ目的で同じように改造されて檻に入れられた実験動物たちとの日々があった。そこを出てからどうする? って夢を語りあった日々の思い出が美しすぎて辛くなるばかりで、あんなのずるい。しゃべるぬいぐるみ(じゃないけど)たちみんなが目でじーっと語りかけてくる。(だまされちゃいかん)

こうしてHigh Evolutionaryの名前通りに高度に進化した動物たちによるパーフェクトな箱舟構想をぶっつぶすべくぶつかったり壊したり怪我したりしながらいつものように向かっていくGuardiansがいて、このシリーズというかフランチャイズの特徴として常に上には上が、とか、完璧な創造物とか優生とか超人、などが果てのない外宇宙妄想と共にたちこめていて、それをぽんこつ愚連隊が冗談言いあいながら撃破していく、というラインはいつもの通りなので、やや食傷気味だったりもするのだが、今回のに関してはまずはそういうのの背後とか底辺には虐待された動物や子供たちがいて、彼らを救え! ていう抵抗しようのないメッセージを旗印に、どこからさらってきたのかヒトの子供たちも救おうとして、あんま文句言えないかんじ(なのが映画としてつまんないといえばすこし)。 

あと、しゃべるわんわんのCosmo (Maria Bakalova)とか、ずるいわ。あと、これはStar Warsなんかを見ていても思うのだが、動物の子供のかわいさって宇宙を貫いてWorkするものなのだろうか? Workしないからあんな酷いことするんだよね?

それで、それでもいちおうシリーズの締めなので最後はPeterの帰還シーンで収めようとするのだが、もはやどうでもよい蛇足っぽくて、よかったね.. (隠居かよ) くらいなの。なので映画としてはとても中途半端というか、座りのわるいかんじがある。

あれらの動物たちがみんなわーわー楽しく遊んでいるだけの映画でいいんだけど。(Holiday Specialがそれなの?)

音楽については、これまでの70’s懐メロのミックステープから80-90’sまでかなり節操なくなっていて、動物テーマだからいいんだ、なのか、Radioheadに始まり、Heartの”Crazy on You”があってThe Flaming Lipsの"Do You Realize??”があってFaith No Moreがあって、盛りあがるところでThe Theの"This is the Day" (1983)がかかり、The Replacementsの“I Will Dare” (1984)がかかる。これまでで一番好きなかんじかも。あと、こないだの”The Super Mario Bros. Movie”でもかかっていた Beastiesの"No Sleep till Brooklyn”も。宇宙にもバーチャルにもコネクトするBrooklynという場所。

どういう選曲なんだ? と思っていたら最後に"Badlands”がどかどか鳴り出して、単にこれ、好きなの流してるだけではないか、って。


5.11.2023

[film] ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい (2022)

5月4日の午前、シネクイントの白の方で見ました。
監督はこれが商業デビュー作となる金子由里奈。原作の小説は文庫本買ったけどまだ読めていない。

「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」という命題の正しい正しくないについて問う、というよりはそういうのが成りたってしまう今の若者たちとそのありよう、についてのドラマなのだと思った。ぬいぐるみとしゃべる人はずっと大昔からいるのだし。

冒頭、七森(細田佳央太)が女子から「つきあってほしい」と言われて「ありがとううれしい、けど..」って固まってしまい、困惑した彼女は向こうに行ってしまう。

大学(立命館、とわかる)に入った七森は麦戸(駒井蓮)と知り合って、一緒に新入生のサークルを探すなか「ぬいぐるみサークル」のチラシを見ておもしろそうだね、と扉をたたく。と、壁いっぱいにぬいぐるみが並んでいて、ぬいぐるみを作ると説明されていたチラシとは違って、みんなどれかのぬいぐるみを相手にぶつぶつしゃべったりしている。自分がそういうのを目にしたらそのまま何も見なかったことにしてさいなら、って去る気がするのだが、このふたりは興味をもって、作るというよりはぬいぐるみとしゃべるサークルで、好きなことをいくらでもしゃべってもいいし、他人の話していることを聞いてはいけない(イアホンは経費でおちるから)、そういうサークルのメンバーになる。

以降、サークル内部の人間関係ごたごたとか、サークルの外からの荒らしとか虐めとかの波乱が起こるわけではなく、なんとなくそこに参加して自分でぬいぐるみを作ったり、他の部員を眺めたり、他の部員よりは社交家でふつうの人っぽい新人の白城(新谷ゆづみ)と付きあってみたりとか、そうしていると麦戸が外に出られなくなってしまったり、そんな彼らのぬいぐるみに対してでなければ言えなくなっているような内面と外面が、たまにぬいぐるみViewで捕らえられたり、ほつれたぬいぐるみの吐息のようなおならのような音楽が聴こえてきたり。

前半はそんなかんじの、今どきの傷つきやすい若者百景みたいで、これが続いたらちょっと恥ずかしくてよくわかんなくてむずいかも、と思っていると後半に白城とのつき合いにひびが入って、麦戸がどうにか外に出てきた辺りから様子が変わってくる。なぜ彼らには(我々には)ぬいぐるみとしゃべることが必要となるのか、が教訓や格言のような形ではなく、切実な叫びのように響いてくる – ぬいぐるみとしゃべるひとのしゃべることとして。

とにかく怖くて野蛮でやってらんない、支えあうとかそばにいるからとか、そんなのだって攻めてくることや耐えてがんばることを前提にしているし、なんで最後の最後に「愛」だのを持ちだしたりチラつかせたりしてくるのか。みんなうそばっかりだ、っていうちっともやさしくない世界に、ぬいぐるみを介してなんか言ってみる。そしてその表明はだいたい間違っていない。

世界なんてどうせうそとくそばっかりだし知る価値も生き抜く価値もない。知らないだけ? いくら知っても掘っても恐ろしいことしかでてこないじゃないか、というようなことをそこらの大人に言ってみ? 連中の返すことなんてぜんぶロボットみたいに同じだから。 でもぬいぐるみは、と。

ナイーブで変な若者を中心に置いた若者のドラマはこれまでも沢山作られてきたと思うが、それらの中で彼らは周囲に同調(=成長)するか、それに失敗して破滅(自殺)するかのどちらかを取るしかないようだった。この作品の主人公たちはそのどちらの道もとらなくて、その傍で彼らを見て、彼らの傍に張りついているのがぬいぐるみ、という変に歪んだ成り行きをとる映画なのだが、自分にはそんなに違和感なかった。 現代日本のクリストファー・ロビンたち。

自分のぬいぐるみ熱は過去何度か波があって、防虫剤入りの袋に押しこまれて海を渡ったりした大量の彼ら(ごめんね)が家のどこかにいるはずなのだが、自分はそんなに話しかけるほうじゃなくて、目があうとやあ! っていうくらいなので、まだだいじょうぶ。たぶん。なにが?

5.10.2023

[film] Men without Women (1930)

シネマヴェーラで見たジョン・フォード特集からみっつ。

Men without Women (1930)

4月29日、土曜日の夕方にみました。『最後の一人』。脚本はDudley Nichols。

トーキーからの移行期に作られた1本で、台詞の多くが字幕でありながらもバーの音楽は聞こえるたりするのと、潜水艦の内と外の音 - 外から叩く音とか。 中国海の潜水艦に乗り込む(自称最強)一団がバー(ずらーっと長くておもしろ)で出撃前の名残惜しい飲みをやっていて、いつもの楽しい酒場のシーンなのだが、これが後半になると..

翌日、Burke (Kenneth MacKenna)たちが乗り込もうとしていると、彼を遠くから認めた英国人中尉が、あれはスパイの嫌疑をかけられて海に沈んだはずのQuartermaineではないか..? という。

で、彼らの乗り込んだ艦はなにかをぶちこまれてあっさり沈んで、艦長とかもいなくなり絶体絶命、まだ若いPrice (Frank Albertson)が指揮を執ることになるのだが試みた脱出策はどれもうまくいかずに艦内の酸素不足などで船員は次々と倒れていって..

前半のバーの賑やかなシーンが後半の生きるか死ぬかの緊迫した密室でのやりとりに変わって、そこに戦犯の疑いがあるBurkeが艦の外からは幽霊のように、内からは死を恐れぬ鬼のように動き回るのが見えて、そして最後に”Men without Women”というタイトルがしみる。あんなふうになって死んじゃうのはほんとにさいてーだわ、最後の一人だろうが意味なしー と誰もが思うはず。


The World Moves On (1934)

5月1日、会社いかない月曜日の昼間に見ました。『世界は動く』
ハリウッドで最初のCode Approved (プレ=コードではない)フィルムだそう。同年のヴェネツィアでSpecial Recommendation Awardというのを受賞している。

1825年、ニューオーリンズの綿花農家のGirard家と英国のWarburton家がずっと一緒にやっていくファミリーとしての誓いを立てた席で、若いRichard Girard (Franchot Tone)とMary Warburton (Madeleine Carroll)が出会って、ふたりは互いに強く惹かれるなにかを感じたのだが、Maryは既に婚約が決まっていてRichardはあーあ、っていうかんじで彼女を見送る。

そこから時代は20世紀の初めに移って、両家のビジネスの地盤は米英だけでなくフランスやプロイセンまで延びて、ファミリーの集まりは賑やかで楽しくて(プロイセンの親戚にSig Rumanがいる!)、19世紀から数代下って転生したRichardとMaryはやはり恋に落ちてしまうのだが、今度は世界大恐慌と第一次大戦の危機がファミリーとビジネスの両方を襲って、英国の繊維工場は国から軍事転用を求められるし、欧米間の船に乗っていた親戚はあっさり沈められちゃうし、フランスの部隊に参戦していたRichardも危うし、になって。

国と時代を跨いで不屈なファミリーの絆を描いた大河ドラマで、いろいろ波乱万丈なのにおそろしくするする流れていってしまう。Fordが脚本を気に入らなかったのもなんとなくわかるような。タイトルの力強さはその通り、なんだけど。

第一次大戦の戦場の描写はフランス映画 - ”Wooden Crosses” (1932) -『戦場の墓標』 - これはすごくよいの - から持ってきているって。どっかで見たかも、と思った。


Submarine Patrol (1938)


5月1日の昼間、↑のに続けて見ました。『サブマリン爆撃隊』
スクリプトの一部をWilliam Faulknerが書いているってほんと?

大富豪の一人息子で遊び人のPerry Townsend III (Richard Greene)は機械には抜群に詳しいからって父親のコネを使って海軍に入って駆潜艇の機関長になるのだが、配属された船も乗組員も全員ぽんこつでしょうもなくて、その横につく補給船Maria Annで働くSusan (Nancy Kelly)と出会ったPerryは彼女に一目惚れしてプロポーズする。 けど、その船の船長で父親のLeeds (George Bancroft)からふざけんな、って張り倒されて、でもめげない。

そのうちPerryの船にはほんもんぽい船長Drake (Preston Foster)とプロ軍人ぽい船員達が入ってきて、イタリアの港にいる暴れん坊のやばい潜水艦をやっつけるべく現船員たちに猛特訓を始めるのだがイタリアに着くと我慢できなくなったPerryはSusanに改めて求婚して大使館経由で手筈を整えたりして、でも土壇場でやはりLeedsが割り込んで、でも今度はPerryが勝って、とにかくふたり一緒の船で敵艦襲撃作戦に参加することになるの。

戦争どたばた & ぽんこつ部隊 & 格差Ron-com & 父娘愛もの、などのてんこ盛りなのに、てんこ盛りだからこそすべてが奇跡のように収まってしまうのでびっくり。海面下の不穏なあれも結局はPerry一家がぜんぶイタリアに一式揃えて仕組んでおいたのではないか、って。

5.09.2023

[film] せかいのおきく (2023)

5月3日、水曜日の午後、ユーロスペースで見ました。シネマヴェーラのフォード特集 - 『黒時計連隊』と『四人の復讐』の合間に。スコットランド – インド – 江戸 – インド – イングランド - 南米。

脚本・監督は阪本順治。彼の映画はたぶんそんなに見ていない。

江戸の安政から万延に移る頃、序章と終章を入れた全9章からなる90分。ずっと鉛を溶いたような重めのモノクロ – かと思ったら各章の終わりに、季節が動くように淡いカラーが入って温度が変わる(ちょっと素敵)。

冒頭、雨が降ってきたので小屋の軒下で雨宿りをする3人の若者、下肥買いの矢亮(池松壮亮)と紙屑買いの中次(寛一郎)とお武家の娘のおきく(黒木華)が並んで、それだけでなんかよいの。下肥買いはお屋敷や長屋からでる糞尿を買って農家に肥料として売る商売で、汚くてきついけど人の家から糞尿がなくなることはないので商売としては割と安定していて、そこに紙屑を売るよりはましと思ったのか中次が加わって、ふたりでぶつぶつ喧嘩したり客に蹴とばされたりこぼしたりこぼされたり糞尿にまみれながらやっていく。

おきくの父・源兵衛(佐藤浩市)は勘定方をやっていた藩を去っておきくとふたりで貧乏長屋に暮らし、おきくはお寺で字の読み書きを教えたりしている。長屋も糞尿が溢れたりで騒がしくやっていると源兵衛のところに侍数名が訪ねてきて彼を連れ去って、それを不審に思ったおきくが後を追うと…

源兵衛は道端で斬られて殺されて、おきくも少し離れたところで喉を切られてそれ以降声を出せなくなってしまう。倒れている源兵衛が動こうとして、でも動かなくなるところのイメージの強さ。

タイトルにもある「せかい」は厠にしゃがんだ源兵衛が呻きながら中次に語るでっかく広がっている「せかい」のことで、くそにまみれていても、くそのためにしゃがんでいても、すぐそこにそういうのがあるんだぜ、って。そのあとすぐに殺されちゃうんだけど..

そういうのがあるにしても父を失い、声も失ったおきくに「せかい」は甘くなくて、でも最初の章で「むてきのおきく」だった彼女は首に布を巻いて外に出ていって、子供に字を教えてやっていくと、矢亮との喧嘩が絶えなくてひとりぼっちの中次が彼女のせかいに映りこんでいく。そこでおにぎり。

本当にせかいの片隅の、頻繁に映しだされる肥溜めの、そこから自然と溢れかえる糞尿とおなじような、でも確かにそこにあって生きている人々や若者が片隅だろうが鼻つまみだろうが「せかい」にあることを、「せかい」がどんなもんなのかをぼんやりと意識するまでの「青春だなあ」としか言いようがない青春映画だなあ、と思いながら見た。今の若者や子供たちが見るアニメなどで描かれていそうな「世界」- 自分を受容してわかってもらえる人々がいる側と、そうでない側が頑としてあり、すべては最初から見渡せていて、その境目で悲劇が起こって泣いたり喚いたりする(推測だけど)のとは根本的にちがう。「せかい」はくそにまみれて/介して遠くまでずっと向こうまである(らしい。しらんけど)って。

そうして「字を教えてほしい」ってやってくる中次とそれを見つめるおきく、自分の胸をどんどん、て叩いてそれに応えるおきくの姿、しゃがみこんで向かい合うふたりに降りかかる雪が見れたのでそれで充分だったかも。

それにしても黒木華さんはすばらしいねえ。

矢亮と中次が「青春だなあ」とか「ここ笑うとこだぜ」とか言い合いながらくそにまみれていくのって、いまの若者が居酒屋で飲んで帰りにげろまみれになるのと同じようなかんじなのかなあ、なのだがこの青春時代劇がいまの若者にどれくらい届いたりするのかしら。(客席は老人だらけだったような)

あと、やはりエコとかSDGsの文脈になるのかー、うんこなのにな。うんこそのものはそういうふうにおもしろおかしく扱えるのだろうけど、それを仕事で扱う人たちを差別的に見てしまう昔からある傾向が、SDGsなんて被せることできれいに薄まってしまう懸念 - どころか悪癖て、これはここだけじゃなくて今の世にごくふつうにあるので、そっちの方がさー。 結局さいごは金儲けとイメージじゃねえかくそ(企業・代理店)が! ってなあ。

5.08.2023

[film] Russkiy kovcheg (2002)

5月1日、月曜日だけど会社やすんだ夕方、ユーロスペースで見ました。

Aleksandr Sokurovの最新作『独裁者たちのとき』の公開にあわせて『歴史をみつめるソクーロフ』という彼の過去作を35mmで上映する特集が組まれていて、そこからの一本。

彼の新作『独裁者たちのとき』は見たほうがよいかなーと思う反面、おもしろがれないままものすごく気分が悪くなりそうな気もして、まずはいまの自分の国(日本ね)の異様な一党独裁の方ではないか、とか思ってしまうのでまだ。

邦題は『エルミタージュ幻想』、英語題は”Russian Ark”。最初に封切りされた時にも見て、その時はうぶだったのですごいなー、って目をまわしてばかりだった。これを見てやっぱりエルミタージュ美術館は死ぬまでになんとしても行きたい! って強く思って念じて、2019年の秋に実際に行くことができた(… 行っておいてよかった)。 そのあとにこれを見たらまた違うのかしら、とか。

当時まだ先端技術に近かったHDで90分間全編ワンカット、切れ目・編集なしの撮影をしたものをそのまま。今だと全編ワンカットって宣伝文句にもなっていて驚かないしほんとかよ、みたいのもある(だって編集で繋いでそれらしく見せるの簡単だし)けど、当時のこれは本当ぽかったし、実際に最初の3回の撮りは失敗して4回目でようやくできた、とか。

邦題に入っているし宣伝文句にもあるのでエルミタージュ美術館のなかを探索していく美術館紀行みたいなのをイメージするかも知れないが、そういうのではなく、原題の「ロシアの箱舟」のような建物に迷い込んだらしい人物 - 19世紀ヨーロッパ(フランス)に実在したキュスティーヌ伯爵(Sergey Dreyden)がその内部を彷徨いながらぶつぶつ言ったり人にぶつかったり、そんな彼の声に応える別の声(ナレーション/タイムトラベラー: Aleksandr Sokurov)がある。所蔵品の紹介はほとんどないし、あっても細部が映されることもないし。

エルミタージュ美術館と明示されないその内部にはここ数世紀 - 300年分くらいの人物も含めたいろんなのが何かに乗り遅れたかのように滞留して並べられていて、例えばピョートル大帝とかエカテリーナ大帝とかプーシキンとかニコライ2世とか、将軍、軍人、スパイ、メイド、外交官、ふつうの観光客、などいろんな有象無象がそれらしい扮装をして幽霊のように彷徨っていて、その幽霊たちが近寄ってきたり遠のいたりの時間のありようときたら生々しい - 夜が明けたら.. とかではなく、彼らがいま目の前にいて振り返ったら消えてもういない… そういう触感、湿り気、温度感がある。

はじめは玄関口のざわざわ雑然とした混沌と困惑があり、それが奥に進んでいくにつれてやばいところに迷いこんでしまった背筋を撫でるのに変わり、そこからボールルームでの舞踏会の誰もが自分と同伴者しか気にしない雑踏になると少しほっとして騒がしいほうに近づいて、だんだん大きく鳴ってくる音楽に身を委ねる。

Valery Gergiev(ほんもん)が指揮するマリインスキーのオーケストラとバレエ団を中心としたきらきらひらひらした羽とか布でぬたくる雲のようなところに踏みこんだ、と思ったらメリーゴーラウンドですべてが回りだしてそこに身を委ねるしかないことがわかった瞬間のスリルと陶酔ときたらちょっと比べようがなくて、このままずっとここでだらだら過ごしたい暮らしたい! くらいになるのだが、どんな宴にも終わりはくるらしく、やがて人々は渦を解すように出口の方に向かって流れをつくって行進して、そこに加わって帰ろう、と – ここまでくると彼らひとりひとりがなんだか愛おしく見えてくる不思議。

こうして描かれる箱舟内部の様子が夢のなかのものなのかリアルなのか、は実はどうでもよくて、どっちにしても現実離れした古のロシア、としか思えない映像が頭のなかに侵入してくるその異物感がたまんなくて、それは甘美なだけではなく腐臭ぷんぷんだったりかもだけど、でもそれでもよいの。

これがプーチンが大統領になったばかりの頃のロシアが夢見て(見ようとして)いたかもしれないひとつの像、なのかも。わかんないけど。そして、繰り返されてきた血生臭い凄惨な歴史を横に置いて、ではなくて今現在の暴力も含めて並べてみたときにリアルの逐次で撮られたこの墓石の断面がこれからどう変わっていくのか。(変えないと。もう殺さないで)

エルミタージュ美術館については、こんなだったよなー、っていうのが蘇ってきてたまんなかった。メトロポリタンやルーブルやプラドと比べると、格段に迷宮感が濃くて絵画を鑑賞する場所としては照明が変に暗いし、でもその分彫刻とかは艶めかしく浮かんでいるし、油彩の匂いが不思議と漂ったりしていて、「ラファエロの回廊」も「ルーベンスの間」も懐かしいー 2日間うろうろしたけど全然足らなくてまた行かないと、になったのだった。 また行きたいよう。

5.07.2023

[theatre] Hamlet à l'impératif !

『ハムレット(どうしても!)』

4月30日、日曜日の夕方、ふじのくに⇄せかい演劇祭というのが行われている舞台芸術公園 野外劇場「有度」で見ました。 GW中ほぼ唯一の - あと町田の国際版画美術館にいった - 遠出で、静岡の駅に降りるのもその先の東静岡に行くのも初めて。 29-30日の2日間公演の2日目。この地域の30日の天気は数日前から雨マークで覚悟していったのだがなんとか持ちこたえてくれた。

シェイクスピアの「ハムレット」(1601) を元に作・演出・監督のOlivier Pyが2021年のアヴィニョン演劇祭で上演した10エピソード、町中の公園で無料で見ることができたという10時間に及ぶオリジナル版のエッセンスを150分(休憩なし)に凝縮したエピソード11として上演するもの。

無料の送迎バスで謎の山の上に下ろされ、ステージも屋外で奥には木が植ってて、ステージの上には本棚(リアル本はほぼなし)が並んで手前に黒板が一枚、左手にはドラムセットとコンソールが。俳優は男性3人女性1人、場面によって複数役を演じ分けながらずーっと走り回ったり喋ったり歌ったり。

「ハムレット」の有名な台詞や場面について、これまで分野を跨いで研究者や哲学者等があれこれ解釈したり、自身の論考の補強や裏付けとして引用したり適用したり、ものすごく柔軟で幅広で今なお謎に包まれていろんな香りを放つ最強のクラシックをそれらの「読み」と「悩み」を一緒にぶちまけつつ併走してみる。特に若きハムレット王子が悶え苦しみながら舞台の上に撒き散らす倫理的要請 - わたしがこれをやるべきなのか? いま本当になにをなすべきなのか? といった根源的な問いの数々について。

エピソード1.は有名な一句 - “To be or not to be”が提起する問いのありようについて。2.はデリダとウィトゲンシュタインを引きながら道徳上の要請(って何?)について。3.はイヴ・ボヌフォアの『時間の蝶番が外れている』- “Time is out of joint”のいろんな訳と解釈を巡って。4.は演劇について語る演劇、という自己言及性のぐるぐるについて。5.は『言葉、言葉、言葉』- “Words, words, words”について、ウィトゲンシュタインのあれとか。6.は王殺しの先延ばしについてのいろんな仮説と解釈。7.はハムレットとガートルードの間のエディプス・コンプレックスについて、フロイトからラカンまで。8.はTate Britainにある”Ophelia” (1851–2) の表象を巡るあれこれ。9.は掘り起こされた道化師ヨリックの頭蓋骨から死のイメージについて。10.はハムレットの分身、語り手としてのホレイシオについて。

このメニュー構成なら各エピソードに1時間掛けたって、大学だったらこの内容で通期のクラスがあったっておかしくないと思うのだが、これの全部盛りを150分にぶっこんで走り抜けるのはやはり相当の無理があった気がする。

ひとつは(テーマにも反映されていた)英語の原典を仏語に翻訳する過程で生じる解釈のギャップを消化したり説明したりしながら演じていく必要があったこと、更にそれを日本語の字幕(4行だて)に落として、それでも追記や脚注が必要なところ(あるよね)は都度配られていたデバイスから音声ガイドが入ったのだが、とにかく目から耳から入ってくる情報量が半端なく洪水で大変で。後半はラップバトルのような。

でも一番大変で苦労まみれだったのは元の台本とそれが参照している元テキストも含めて字幕に丸めて落とした翻訳の平野さんだったのではないか(Twitterで何度もしんでておもしろかったけど)。「ロゼ氏とギル氏」とか。

では小難しくてついていけなくてお手あげ、かというとそんなでもなくて、それは「ハムレット」の劇そのものの展開 - 主人公のしょうもない自家撞着とかお悩みの涙と涎でがんじからめになりつつ転がっていく - にうまくリンクしていたのからなのか、ハムレットの謎がメタ・ハムレットに反転してそれが更にやけくそ・開き直り気味にメタ・演劇の方にまで刺さろうとする。そんなふうに広げられてしまう風呂敷も若いからしょうがないか、とか。

最初のうちは割と落ち着いて参照項やメタな諸説を紹介していったのが、最後の方になるとすごい速度と勢いで「演劇」がすべてをなぎ倒して突っ走っていくようだったのもおもしろかった。それが山の、陽が落ちてからの冷え(いきなりすごく寒くなってびっくり)に同期しているかのようで。

ただ、最後の方の、こうして広げた風呂敷の上にあらゆる人文系の生の、世界の謎があり、その答えもきっと - だからこそ演劇はえらい!すごい!(どうしても!)みたいな怒涛のもっていき方はわかんなくはないけど少しやりすぎな気もした。この世には小説も詩も絵画も音楽も映画もあるし、それぞれの作家にそれぞれのやり口があるし、シェイクスピアの、ハムレットの世界の幅と深度がすごいのは確かだけど、でもそれを言っちゃあー、みたいな。

取りあげられるテーマとしては、ではどうしてこれが「悲劇」とされているのかとか、ここにあるのかないのかの「悪」についてとか、あったら見たかったかも。あったのかしらん?


連休が終わってしまう。1日2日を休んでの9連休だったが、フォードを9本、ゴダールを5本、ゴダール関連1本、ソクーロフ1本、アケルマン1本、ベロッキオ1本、新作5本、演劇1、美術3、くらいでなーんもしなかった。なんもしたくない。

5.05.2023

[film] Up the River (1930)

シネマヴェーラで始まっている特集『蓮實重彦セレクション 二十一世紀のジョン・フォードPartⅢ』については、「フォードを、断乎、観るのだ」とか元総長が改めて煽ってくるし、今回のは10回見たらおまけも付いてくるというし、どうせ他にすることもないGWだったりなので、ちょこちょこ通ってしまう。(もうおまけもらった)

やっぱしJohn Fordは選ばずになにを見てもとりあえず絶対それなりにおもしろい。パーフェクトな至福体験かというと案外そうでもなくて、そんな有名じゃない作品なんかだと思っていたほどの巨匠感もなくて軽くて、そんなんでいいの? とか、そっちの方か? とか突っ込みながら見れて、それでも振り返るとちゃんと場面場面が残ってそういうことだったのかー、って納得させられたり、いろんな点で極めて教育的な映画 - 映画とは?を考えさせてくれる - でもあるなあ、とか。


Arrowsmith (1931)

4月23日、日曜日の昼に見ました。
邦題は『人類の戦士』、原作はSinclair Lewisの同名小説(1925)で、翌年のピュリッツァー賞を獲っている(けど作家本人が辞退)。オスカーの4部門にノミネートされて、後にラジオドラマやテレビシリーズにもなった。
主人公のMartin Arrowsmith (Ronald Colman)は架空の人物だが、Gottlieb博士の研究業績などは科学ライター(有料)のアドバイスに基づいているそう。

大学に入って、そこで床掃除をしていたLeona (Helen Hayes)と出会ってほぼ命令のように妻にして、恩師からは将来を期待されていたのに生活しなければならなくなった、と田舎の町医者になり、それでもその地域の牛に蔓延していた病を治したりしたのでNYの研究所に招かれて、そこでの権力抗争も実力で勝ち取り、家族もでっかくなってよかったねえ、っていう人類の戦士。

疫病の現場の前線に立って研究も含めてすごいことを成し遂げた偉人、というだけでなくそれなりの権力志向 - 出世欲とか支配欲とか家族愛 - でも少し浮気もして - にまみれて、そういう人の肖像ってこんなもんよね、くらいの。重厚じゃないかんじがよいかも。


Up the River (1930)

4月29日、土曜日の昼に見ました。邦題は『河上の別荘』。
冒頭、夜の刑務所からSaint Louis (Spencer Tracy)とDannemora Dan (Warren Hymer)のふたりがすたこら脱獄して、でもまたあっさり捕まって自分の定宿のように戻ってきたりしている傍で、東海岸の名家の出なのに嵌められて監獄に送られたうぶなぼんのSteve Jordan (Humphrey Bogart - この人、こういうキャラの方があってると思うんだけど)と女囚のJudy Fields (Claire Luce)がもじもじと恋に落ちて、先に恩赦で外に出たSteveのところにSaint LouisとDannemoraが現れて- 家族は彼が牢屋にいたことなんて知らない - なんとか後から出てきたJudyとSteveを軽くくっつけて、ついでに彼を嵌めた詐欺野郎をやっつけて、自分たちは監獄対抗野球試合が行われているグラウンドに揚々と戻っていくの。

河上にあるあの住処もそんなに悪くねえだろ? 俺たちがいる限りはなあ? みたいに極めてご機嫌で威勢がよくて粋なやつで、たまんないの。大好き。


The Plough and the Stars (1937)

これも4月29日、↑のに続けて土曜日の午後に見ました。
邦題は『鍬と星(北斗七星)』。アイルランドの劇作家Seán O'Caseyの同名劇 (1926)がベース。 Barbara StanwyckさまがこんなJohn Fordの作品に出ていたなんて。

1916年のEaster Rising - 「イースター蜂起」の前夜〜当日のダブリンで、蜂起した側にいた夫婦のドラマ。
Jack (Preston Foster) とNora (Barbara Stanwyck)はごく普通の夫婦でNoraは最近の政治のゴタゴタに夫が参加したり連れていかれてしまうことを危惧していて、彼に確かめてみると大丈夫だよ、って言うので少し安心したら速達が来て、蜂起軍の司令官に任命したから来い、って。 Noraが恐れていたのはこれだ! お願いだから行かないで、って頼んでもJackは大丈夫だよ、しか言わない(言えない)ので、なにが「大丈夫」なのか、わたしはぜんぜん大丈夫じゃないんだよ! 死んじゃうかもしれないんだよ? わかってんのか? って泣いて怒る。

Noraが言うことの方がどう見ても聞いても正しいのだが、Jackはやはり出ていっちゃって…

この件だけじゃなくて、戦争でも反乱でもぜんぶそうだよな。「大丈夫だから」を言うために平気で人を殺して殺されて、大丈夫じゃない事態を常態にして、それって誰のためのもんなのか? と問う。 紛争を扱うドラマとして規模は大きくない、ほぼひと部屋のなかで進行するとても演劇的な小品だけどすばらしかった。

5.04.2023

[film] The Super Mario Bros. Movie (2023)

4月28日、金曜日の晩、109シネマズ二子玉川のIMAXレーザーで見ました。
Illuminationのアニメーションなら見たいし、ゲームものだと好きだった”Wreck-It Ralph” (2012)みたいなかんじもするし、批評家の評判は散々でも興行的には成功している、その辺も含めて。

任天堂のゲームについては、ファミリーコンピュータもゲームボーイも、家庭用のゲーム機器というのに触ったことがなくて(見たことはあるかも)、そんな奴が軽々しくレビューするんじゃねえ、っていう子供らの声もネットにはあるらしいのだが、そんな奴が見ても楽しめるものなのだろうか - 楽しめるんだろうな、ポケモンの映画がそうだったし、くらいで。 数年前の実写版のは見ていない。

MarioとLuigiは別々のキャラクター - だからブラザーズなんだ! - っていうのも映画が始まってから知ったくらい(ひどい)。

冒頭、とっても悪くて強そうなBowser (Jack Black)が侵略を仕掛けるべくぶいぶい空中に出現して、それを迎え撃つべくペンギン軍団みたいのが来るなら来い! って待ち構えてて、そのペンギンたちがあまりにかわいいのでそれだけでいいや、になる。

Mario (Chris Pratt)とLuigi (Charlie Day)の兄弟はブルックリンのイタリア系移民の家族で、Plumber - 配管修理の会社を立ちあげて、こてこてのTV CMとかも作って意気揚々なのだが、実際の仕事はさっぱり - 別の穴あけたり広げて壊しての事故起こしてばかり - だからアメリカでPlumber businessって大事 - で、そういう修理のどこかでできたのだか元からあったのかものすごい大穴に引き摺りこまれて異次元に連れ去られ、途中で兄弟離れ離れになって、LuigiはBowserのところに囚われて絶対絶命になるの。そこに同様に囚われてカゴに入れられたメルヘンぽくデスでネガティブなことを呟き続ける青い星の子みたいの - Lumaleeっていうのか - がとっても素敵。

Marioの方はマッシュルーム頭のToad (Keegan-Michael Key) - 日本だとキノピオ? - どっちもなんで? - と出会って、彼にPrincess Peach (Anya Taylor-Joy)のところに連れていかれ、それは大変! 一緒に戦いましょう! になるのだが、その世界で戦う術 - 所謂ゲームテクのような - というのがなかったので、まず飛び越えたりすり抜けたりかわしたり、といった技とスピードを身につけて、仲間をつくらねば、ってお猿の国に行ってCranky Kong (Fred Armisen)とその息子のDonkey Kong (Seth Rogen)に加勢を依頼して、でも連中も簡単には合意してくれないので勝負して負かしたらな、って。

技を習得して仲間をつくって増やして、一緒に戦えば道は開けて怖いものなんてないし、悪い奴にも勝てるし。というのがゲームに勝ってみんなにやったぞ! & やったね! ってなるための鉄則というか暗黙の了解で、その流れに沿っていろんなキャラクターとかいろんなワザが出てきて、それらは豪華な花火とか電飾を見ているようで楽しいし、ゲームをプレイしたことがある人にとっては、それが掟というものなのだそんなの知っとけ薄らとんかち野郎ども! ってなるのだろう。

それは勝ち負けをその結果として求めるスポーツと同じで、この場合は小さい頃からゲーム機に向き合って泣いたりがんばったりした鍛錬の記憶が主人公であるMarioの視点と共に(おそらく)併走してくれるので、こんなに包んでくれて馴染めてなんも考えず没入して楽しむことができるなんて! になるのだと思うし、そういうふうにして楽しめるように作ってあるのだろう。その感覚はゲームに触ったことがない、熱狂したことがない自分にもなんとなくわかる。

でもその反対側で、なんも考えずに楽しむことができる - その「なんも考えずに」ゲームの世界に没入することができていたその状態とか、その状態が持続していたことの異様さ不自然さ、についても今は考えないわけにはいかない。それは自分が年を取ってそういうことへの集中力が続かなくなったなどもあるのだろうが、やっぱりこれだけ現実の差別や虐待や不正が横行しているなかで、ヒーローだの退治だのもう無理、になってきた - これは自分だけかもしれないし、それでぜんぜんよいけど。それは丁度Illuminationの”Despicable Me”のシリーズが「悪」、「悪者」について考えさせてくれたのと少し似ているかも。

出てくるキャラクターが悪者ですら丸っこくてカラフルでかわいく動きもスムーズで、ストーリーもきちんとパッケージされてまとまりがよくて、そうであればあるほどなんだか気になるとこが出てきて、そういう点ではよい作品なのかも。

あと、音楽は楽しいねえ。 80年代のがなんであんなになじんでしまうのか、とか。

5.03.2023

[film] Red Rocket (2021)

4月26日、水曜日の晩、ヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。
“The Florida Project” (2017)のSean Bakerの4年ぶり(!)となる新作で、A24の配給。Judd Apatowも絶賛と(だろうな)。
脚本はずっと一緒にやってきているSean BakerとChris Bergoch。2021年のカンヌに出品され、大賞は逃したものの、わんわんのSophieが”Palm Dog”というのを受賞している。

2016年の夏(TVでヒラリーとトランプが選挙戦をやっているのでわかる)、NSYNCの“Bye Bye Bye”にのって、顔じゅう痣だらけにしてやや痛々しいMikey (Simon Rex)がLAからテキサスの製油所がある町に戻ってくる(バスで)。

17年ぶりの帰郷で一軒家のドアをノックすると顔を出したLil (Brenda Deiss)はMikeyの顔を見るなり「やばい」って娘のLexi (Bree Elrod)を呼びにいって、彼はやあやあ久しぶり、の後でしばらくここに居させてくれないかここで働き口は探してみるし迷惑かけないから、ってはっきり嫌がられているのに勝手に居座ることを決めてしまう。

MikeyはMikey Saberっていう名前でLAでAV男優をやっていて何度か業界のアワードにもノミネートされたし、”The Fast and Fury Ass”(見てみたい)のシリーズではPaul Walker役で当たったのに彼が亡くなってしまってからパッとしなくなったり(他にもありそう)で戻ってきたと。その仕事経由で知りあったLexiともこれを機にヨリを戻せるかも? というと、あたしたちまだ夫婦だけど? って返される。

近所で仕事やバイトの口を探してみても全滅だったので隣近所に暮らすLilの友人で高校の同窓生のママLeondria (Judy Hill)とその娘のJune (Brittney Rodriguez)にマリファナの売り子をさせて貰うと、やはりその筋には馴染みがよいのかそこそこの稼ぎを出せたので暫くはそれでやっていくことにして、Lexiとの仲も少しだけ戻ってきたような。

こうして昼間は隣の、やはりふらふら遊んでいるっぽいLonnie (Ethan Darbone)と車でそこらに出かけたり、ひとり自転車で散策したりしていると、ドーナツ屋のカウンターにいるStrawberry (Suzanna Son)にやられて、年齢は17歳だという彼女に近寄って、彼女を連れてLAに戻って再デビューすることを考えるようになる。

というのが極めてお調子者で自分に都合のよいことしか言わず語らず考えずでやってきたMikey目線で広げられるそんなに悪くない彼のこれまでとこれからで、それは同乗していたLonnieの車が巻き起こしてしまう大規模玉突き事故とそのとばっちりを恐れてこの家を出るわ、ってLexiとLilに告げた後に…

テキサスのまだ稼働はしているもののじゅうぶんに廃れた工業一帯に落ちぶれて戻ってきたMikeyがその朝夕の景色を背にとぼとぼ歩いたり自転車でうろうろしているだけでじゅうぶん絵になっておもしろいのに、彼がオレはまだまだやれる、今は休んでいるだけ、こんなもんじゃない、ってあれこれ懲りずにわうわう吠えてて、その反対側でStrawberryの元カレの家族にボコられたり、立派な家(Strawberryにここに住んでいるように見せかけていた)の住民に銃で脅されたり、Juneたちに裸で放り出されたり、まあ懲りない。 そんなふうになっても、それでもあの、しょうもないの底を抜かすようなラスト。

あの時、トランプを大統領に選んでしまった国の根幹にあったっぽい - 2021年に振り返ってみると猶のことそう思えてならない - 俺はこんなもんじゃない/まだまだやれるんだメンタリティをリアルとギャグの境界ぎりぎりのところでロケット(これもまたバカとしか思えない)としてぶち上げてみせる。最後まで湿っぽいところを見せなかったのはよかったかも。

もちろん、そう思っててなにが悪い? 前向きでポジティブでいいじゃないか、という声もあろう、あってよいのだ、だからとにかく厄介でめんどくさーで、そうやって放置しておくと後になって幾重にもめんどーなことに(暗黙知的ななにか)。

たぶん、Adam Sandlerがもう少し若かったら絶妙なかんじで演じてくれそうな、“Boogie Nights” (1997) のMark Wahlbergだったら、ちょっと重くなってしまいそうなところをSimon Rexは極めて軽妙に、そこらにいそうなかんじを出してくれてて、そういうのを引き出すことにかけては、Sean Bakerって“The Florida Project”の頃からうまいなー、って。

5.02.2023

[film] The Whale (2022)

4月23日、日曜日の夕方、Tohoシネマズの日本橋で見ました。
監督はDarren Aronofsky、これが久々の主演作となったBrendan Fraserはオスカーの主演男優賞をとってその復活を印象付けた。ボディースーツで身体を自由に動かせない中での演技は確かにすごいかも。

カメラはほぼ部屋のなかと、ドアを出たところにとどまる。外は雨が降ったりしていてずっと暗く、部屋のなかも雑然としていて同様。原作はSamuel D. Hunterが2012年に書いて、ワークショップ形式で作られた同名戯曲作品だそう。

Charlie (Brendan Fraser)は病気と診断されて治療が必要な肥満を抱えて不自然に膨れあがって自分では自由に動くことができない状態で、オンラインで大学の英語教師 - 論文の書き方とか - をしているのだが、自分を映すカメラは壊れたことにしてずっとオフのまま。 食事は同じ宅配ピザのひとが玄関に置いてから、郵便受けの$20を取っていく - 顔はあわせない - というのをずっと続けている。 唯一頻繁に家のなかに入ってくるのは友人のような看護師のLiz (Hong Chau)だけで、彼がゲイポルノをみていて突然現れた新興宗教の伝道師Thomas (Ty Simpkins)のせいで心臓の発作が起きたときには、もう病院に行かないとやばいよ、と強くいうのだが、医療保険に入っていないから無理、って返される。

映画はその動けない彼 - この状態では病院に行かない限り長くはないことが彼自身にもわかっている - の月曜日から金曜日まで、世話をしにやってくるLizと、宗教いらないから、って追い払ったのになぜかやってくるThomasと、離婚していてずっと会っていないけど突然会いにきたティーンの娘のEllie (Sadie Sink)とのやりとりを通してだんだん明らかになってくる人物たちの関係とか背景 - 特に彼の過去になにがあって、なにを飲みこんで溜めこんでそんな鯨のような巨体になってしまったのか、を追っていく。

Charlieがホモセクシュアルであることは最初のほうで明らかになり、Thomasの新興宗教を毛嫌いするLizから彼女の父がそこの信者で自分も幼い頃に入信させられてどうしても馴染めなくてやめたこと、更に彼女の兄がその教団の宣教師として南米に赴き、その後に自殺していること、その彼の最後の恋人がCharlieだったこと、Charlieはその彼のために8歳だったEllieと妻を捨ててこの家に移ったこと、などが曜日を追うごとにCharlie本人からというより周囲の人々との会話よって明らかにされ、最後のほうでは妻のMary (Samantha Morton)まで現れて対話する、とても演劇的な作品。

でもそれでも、それは彼のお通夜の席で語られるようなことに思えて、肝心なことは彼が食べてしまった後のお腹の中にあるのではないか、って。Charlieを薬で眠らせてEllieとThomasがあれこれ探るシーンなどを見て思ったり。 ひたすら食べて風船のように膨らんでしまった彼をケアする、ようでいてみんな陸に打ち上げられた瀕死の鯨にたかりにやってきているように見えてならなくて。

でもそれでもCharlieは、たったひとつでもよいからなにかよいことを遺しておきたいんだ、って悶えて泣いて、最期には救済のイメージもやってきて彼を包んでくれたりもするのだが、ほんとうに彼はあれでよかったのかしら? という坐りのよくないかんじは少しだけ残る。 ひとが幸せに消えるのって難しい。

Charlieが最後まで手元にとっておいたEllieのeighth gradeのときの”Moby-Dick”についてのレポート、あそこで言及されているテーマや記述の先送り - とにかくなんでも先送りで飲みこみ続けたのが彼をあんなふうに変貌させてしまったのだ、っていう寓話なのかしらん。ずっと雨が降っていたので、最後は洪水で海に還っていくのかと思った。

最近はどうか知らないけど、少し前のアメリカだと年に1〜2回は肥満で動けなくなった人を搬送するために建物の壁を壊したり重機が出動したりの大騒ぎニュースがあったり、町を歩いていてもカートを押しながらどっしり山のように動いている人を見かけたりし、なんであんなふうになるまで? は誰もが思うにしても、そこにはアメリカの食文化とかコミュニケーションとか教育のありようとか家族観とか宗教観とかいろいろな事情があるので、簡単にくじら〜 などと言い切れるものでもないのなー、って改めて。

5.01.2023

[film] Les passagers de la nuit (2022)

4月23日、日曜日の昼、シネクイントで見ました。
英語題は、”The Passengers of the Night”、邦題はいつもの恥ずかしい「パリ」縛りで『午前4時にパリの夜は明ける』 - 午前4時だと夏でもまだ暗いよ。

監督は”Amanda” (2018) が素敵だったMikhaël Hers、音楽はSuzanne VegaやJim Carrollと一緒に活動していたAnton Sanko。 予告と邦題だけだったら絶対行かないかんじのやつだったのだが流れてくる音楽のことを聞いたら、これは行かねば、になった。

いくつかの年で区切られていて、最初は1981年のパリ、大統領選(ミッテランのとき)で騒がしい町にTalulah (Noée Abita)がひとりやってくる。希望に溢れて、ではまったくなく夜の町を背後に不安と焦燥しかない目でこちらを見つめてくる。

次が1985年、Lloyd Cole and The Commotionsの”Rattelsnakes”にのって自転車を漕いでいく(←これこれ)Mathias (Quito Rayon Richter)と友達がいて、彼の母 - Elisabeth (Charlotte Gainsbourg)は別のだれかとくっついた夫と別れたばかり、眺めのよいアパートと子供たち - Mathiasと政治活動をしている姉のJudith (Megan Northam)は彼女についてきたものの、先が見えない不安からかよく眠れないし、そういう時に聞いていたラジオの深夜番組 - この映画のタイトル - のアシスタントとして夜のバイトを始める。

その番組は視聴者からかかってきた電話に大人のパーソナリティのVanda (Emmanuelle Béart)が落ち着いて応えてくれたりするもので、たまに常習の変態がかけてきたのを繋いでしまって怒られたりするものの、だんだん馴染んでいく。

そんな夜勤明けにElisabethは道端でぐったりしていたTalulahを拾ってアパートに連れて帰り、空き部屋とシャワーと食事を与えて、いられるだけいていいからね、とだけ軽く伝えて置いておく。

そこに同様にふらふら落ち着かないMathiasが絡んでみんなで映画を見に行ったり - “Birdy” (1984)を見ようとしたら開映時間過ぎで入れて貰えず、他の映画の終映のどさくさに紛れて(←やったことある)中に入ったら別の映画 - “Les nuits de la pleine lune” (1984)『満月の夜』をやっていて、見たあとで悪くなかったかも、あたしは好きかも、って言い合ったりのやりとりがたまんなくよい。

そうやってMathiasと少しだけ年上のTalulahはぎこちなく恋仲になる/なった - と思ったある日、Talulahは部屋を片付けてどこかに消えてしまう。なんだか幸せすぎてこわくなって … と当時のこういうドラマの主人公はよくいったもんじゃよ。

そして1987年(だったか?)、Elisabethはラジオでの仕事も落ち着いてVandaの代役で喋ったりができるくらいにはなり、昼間は図書館の窓口でも働くようになって恋人もできて、上向いてきたかな、っていう頃にアパートのロビーでぐったりしているTalulahを見つける。彼女の腕には注射針の痕がいっぱいあって…

この時代のドラマの常として、TalulahはAIDSに… っていう流れになるかと思ったらそちらには向かわず、Elisabethを含めて全員がぼんやりと酸欠状態で、そんなに動けずに頭のなかだけは大変なまま、もう少し小さいところに引っ越そうか、っていうあたりで終わって、そこらが弱い甘いっていう人もいそうだけど、これで丁度よいかんじもした。 みんなばたばた自分のことでいっぱいいっぱいで、そりゃ少しは他者のことも見るけど、でもそんなには無理、ごめん、って。 そういう人たちの真ん中に疲れきって、いつまでこうなんだろう? って座りこんでしまうCharlotte Gainsbourgがいる、というのがなんだかたまらない。

Talulahみたいに危なっかしい人、『満月の夜』のPascale Ogierみたいな人、岡崎京子の漫画に出てきそうな彼女たち、結構ふつうにいたなあ(いまもいて、見えなくなっているだけだろうけど)、みんなどうか無事でいてくれますように。っていう映画なのかしら?

Lloyd Cole以外に聞こえてきたのは、The Go-Betweens、The Durutti Column、The Pale Fountainsなどなど。 みんな酸欠金魚でじたばたするばかりだった彼ら。

映画は『満月の夜』の他には”Le Pont du Nord” (1981) 『北の橋』が映るし、”Va savoir” (2001)の屋根をあげるのとそっくりのところもある。どれもパリの町を彷徨っていくやつで、映画の中でも誰かが言っていたけど、繰り返し見たらもっと好きになる、って。ほんとにそうだからー。