9.30.2011

[film] The Future (2011)

BAMの後でマンハッタンに戻って、IFCでMiranda Julyの"The Future"をみる。
1日1回の上映になってしまっていたが、見れていかった。
むかしむかし、IFCに始めて行ったのが、彼女の"Me and You and Everyone We Know" (2005)の公開初日で、Q&Aとかがあったのだった。

シェルターで引き取り手を待っている壊れ猫Paw-Pawの独白からはじまる。
子供相手にダンスの先生をしているMiranda Julyと同居している恋人が、Paw-Pawをひきとることにして、Paw-Pawがくるまでの30日間にいろんなことをやってみよう、と彼女はおもうのだが、あんまうまくいかない。

The Future。 Paw-Pawにとっては外にでられるようになる時間、彼女にとっては、彼にとっては-

共有されえない未来、永遠のDay1、どこか遠くの、声が聞こえない、届かない場所。

未来 - The Future - と呼ばれる不確かな時間とその時間が導く、かもしれない不確かな場所に、いろんなひとが、猫までもが、ごにょごにょ言ったりやったりするし、裏切られたりもする。 
未来という概念に、言葉に、そこにこめられたいろんな思いが交錯する様を、他方でそんなのがあるが故に途方に暮れてしまう、情けなくて変なかんじを、時と場合によっては愛と呼んでも許されてしまうようななにかを、ほんわかと描く。

彼も彼女も、内面をがーがー吐いて大騒ぎするようなことはせず、つい踊ってしまったり、ついエコの変な団体に入って木を売ったりとか、その「未来」からひっぱられてひょっこりやってしまう「つい」なかんじがものすごくよくわかって泣ける。
だいじょうぶ、未来はぼくらのものだ。 たぶん。 でも。

それはかつて黒沢清が「アカルイミライ」(2003)で切り取ってみせたような、ざらっとしたコンクリートむきだしの、でも手応えありそうな「ミライ」とは別の、月のように、卵のようにまるくてしろくて危ういなにか、殻のむこう側でなにが動いているのかわからないようななにか、としての、"The Future"。

前作もそうだったように、そこらの映画の空気とはやはりちょっとちがう、アートのひとの作った工作、のかんじはするが、でもこれはやっぱり映画だし、なによりもMiranda Julyだねえ、としか言いようがないのだった。
冷たいところとあったかいところがだんだらの三毛模様になっているところが。

でもほんとに、未来ってなんなんだろうねえ。
どうでもいいけど。

と、ふたたび滞在が延びて、でも風邪ひいて動かなくなった頭でおもうのだった。
 

[film] Two Weeks in Another Town (1962)

BAMの"The Complete Vincente Minnelli", 土曜日の"The Bad and the Beautiful" (1953)は、晩の9:30の回があったのだが、ホテルに着いたのが8:30過ぎで、やっぱし諦めた。

日曜日はなにがなんでも、ということでこれを。

ちなみに朝ご飯は、Carrol GardensのButtermilk Channelで、パンケーキとFried Porkchopをたべた。  ここのは、ほんとになに食べてもおいしい。
Fried Porkchopは、とんかつとはかなり違った。 Fried Chickenがチキンかつとちがうのとおなじか。

Buttermilk ... の待ち時間(45分)に近所のBlack Gold Recordsにいく。
小さくて暗めのお店で、レコード(アナログのみ)と骨董とコーヒーを売っている。 

http://blackgoldbrooklyn.com/

もしたんまりお金があって道楽で店をだせるなら、こういう店作るよねえ、ていうかんじのとこなの。
アナログ、まじめに掘っていたらしぬかも、の予感がしたので、なにも買わずに切りあげました。

Buttermilk... の後で、これもいつものBook Courtに行って、Cousin Corinne's Reminderと、もう1冊、よくわからん独立系地下出版ぶつを買った。

で、そのまま歩いてBAMまで。 日射しが強くて、なんでかセミが鳴いてた。

BAMで見たこれの邦題は、『明日になれば他人』。 よくわからんが。

神経を患って療養中の俳優(Kirk Douglas)が、かつて多くの作品を一緒に作った監督(Edward G. Robinson)からの手紙でローマに呼ばれて、戻ってきたらどうだ、とアテレコのDirectionを任される。 自分が壊れる元をつくった撮影の現場なのでぴりぴりしていたのだが、過去の作品を見返したり(ここで上映されるのが、前の日に上映された"The Bad and the Beautiful"なの)、ローマ娘と会ったりするうちに良くなったり、大金持ちに囲われてぎんぎんのかつての恋人(Cyd Charisse)に会って悪くなったり、そうしているうちに映画監督が心臓発作で倒れたり、いろんなことが起こる。

コスチューム(by Walter Plunkett )もデコールも、なにもかもとてつもなくゴージャスでかっこよくて、溜息しかでない。 出てくる人たちはみんな大人で複雑で、恋の視野外にいるような他人なんてどうでもよくて、Another Townでの2週間の濃厚な時間と感情の揺れ - それは現在の自分を作り支えてきた過去の時間の反射としての濃厚さでもある- をあるときはきめ細やかに、あるときは怒涛の勢いで描きだす。 最後の暴走シーンのとてつもないこと。 
こうして、Kirk Douglasの横にぴったり寄りそうカメラを通して、この時代の大スターがどんなに輝いてて、しかし同時にどんなに壊れていたかを知るの。

LondonのNPGでみたハリウッド黄金期のポートレイトの展示でもおもったが、ぜんぜん別の生き物だよねえ。 実際はどんなにしわとかしみがすごくて、修正まみれだったとしても。

で、こういうの見ると、"Somewhere"がどんだけ浅くてしみったれていたか、それが現代の俳優さんのアトモスフィアに共通したものであるにせよ、ほんとにいつからか、どこからか世界は貧しくなってしまったのだなあ、って。

この特集、しみじみぜんぶ見たいねえ・・・

9.27.2011

[art] John Martin : Apocalypse

NYにおります。 あいかわらず低調。

土曜日、ロンドンのさいごのあがき。 午前中だけ。

21日から始まったこれに行くのは決めていた。

http://www.tate.org.uk/britain/exhibitions/johnmartin/default.shtm

ちなみに、2009年に亡くなったSSWの彼は、John Martynですから。

19世紀初、英国ロマン派を代表する画家の英国過去最大規模の展示。
展覧会のタイトル"Apocalypse"が示すように、主に神話起源の大惨事とか破局とか天地がひっくりかえるような大事を、そのスケールのままで描き続けたへんなひと。

ロックを聴くひとには、Roger Deanの地獄版、というと解りやすいかもしれない。
ハリウッドの大惨事ものでおおー、てなるランドスケープの殆どは、この人の絵筆で19世紀に幻視されていたのよ。

でっかくて、構図がかっこよくて眺めがいい、それだけでうおおーて盛りあがれて楽しいのだが、ようく見てみると前景に描かれた人物とかはわりとへたくそで、苦労の跡がうかがえる。
勿論、いいじゃんそんなの、ちいせえよ、でよいの。
遠くでぴきーんて光る稲妻のシャープなこと。

ポンペイ、バビロン、失楽園、大洪水、と続いていくと、あんまにあんまりなかんじで、このひと普段なに考えて生きていたのかしら、と思いはじめた頃、晩年の最後の審判3部作ががんがんがん、と並ぶので、なにも言えなくなるのだった。

短い時間で見たわりには相当おなかいっぱいになった。 
カタログはあれこれ悩んで、結局やめた。

その後は、いつものように常設のOpheliaのとこに行って、相変わらずずうっと流れているねえ、と挨拶して、Lucian Freudの部屋に行ってご冥福をお祈りしたり。(彼の肖像画にフォーカスした回顧展が、2月からNational Portrait Galleryであるの)

そこを出て、いつもだと船に乗ってTate Modernの方に渡るのだがここは時間がないので、Museum of Natural Historyに行こうと思ってSouth Kensingtonに戻り地下通路を歩いていたらV&Aで今日からこの展示が始まることを知る。

"Postmodernism: Style and Subversion 1970–1990"
http://www.vam.ac.uk/content/exhibitions/postmodernism/

このテーマだと行かないわけにはいかないので、しょうがなくV&Aのほうに行った。

入ってすぐのところに横尾忠則による土方巽の舞踏のポスターがあったりしてふうん、だったが70年代から始まるのだった。 建築からインダストリアルデザインから都市風景まで、盛りだくさん、スタイルの転覆(subversion)とその変奏 - Remix その際限のない反復、ということをきちんと追っかけようとすると、ひとつひとつの領域は必然的に薄くなるよね。

ファッションだと最初に置いてあったのが、83年のVivian、そしてRei Kawakubo。異議無し。

音楽は、それなりにいっぱい。でもやっぱし薄いか。
"I want my MTV"のとこで視聴できるクリップは、Neneh Cherry, Visage, Kraftwerk "Robot", Devo "Whip it"、でした。 David Byrneのあのでっかいスーツの実物とか、Grandmaster Flashが使っていたTechnicsのターンテーブルとか。

あとはGrace Jones, Kraus Nomi, Laurie Andersonあたりは当然。
Robert Longoによる“Bizarre Love Triangle”のクリップとかも。

レコードジャケットだと、当然のようにPeter Saville, あとはXTC,  Buzzcocks, Bauhaus, Elvis Costello (Armed Forcesのオリジナル), それくらい。 まだあるだろうあれもあれもあれも。

日本人でちゃんとコーナーがあったのは大野一雄、そして倉俣 史朗。 このへんは当然。
あと、雑誌コーナーに80年頃の流行通信が展示されていた。

Postmodernismていうのはこういうものですよ、というのを紹介するのが目的なので、その内容としてはそうだろうねえ、としか言いようがないのだが、もうちょっとね、なんでこれらがPostだったのか、90~00年代はどうなっちゃったのか、なんで跡形もなくなってしまったのか、云々がもうちょっとわかるとよかったかもしれない。 よく見ればどこかにあったのかもしれないが。

展示の外にでたところで、ほんものかしらんがObserverの記者だというひとに感想を聞かせてくださいと言われたので、ものすごく適当に答えてしまった。あとでとっても反省した。

カタログもいろいろ考えてやめた。この展示にあわせた2CD+DVDのセットも売っていたが、これも悩んでやめた。

んで、ホテルに戻ってからHeathrowに向かいました。

Heathrowでは、前回と同様、Gordon RamsayのPlane Foodでチーズバーガーたべた。
今回のロンドンでは、到着翌日に近所のAubaineていうカフェで食べたEgg Benedictと最後のこれだけが、まともなお食事のぜんぶ、だった。

Terminal5のPaul Smithの古本屋(自分にとってはブティックではない)は、40分くらい、うんうん悩んでやめた。きわどいのはいっぱいあったんだけどねえ。古雑誌 - 昔のFaceとかは持っているのがほとんどだったし、今回中古レコードのコーナーができてて戦慄したのだが、これもほとんど持っているやつばかりだった。 

Jo Maloneで新しいのがでてて、嫌いじゃなかったのでかった。

機内では2本見ました。

"Paul" (2011)をやっと。
だーかーらー、ぜったいおもしろいってゆったじゃん。
なんでこんなよい映画が、なんとか映画祭とかで一回しか上映されないんだよ。
配給会社の目はくさってるよ。 ちゃんと見てみろよ。 でした。

それから"Win Win" (2011)を。

これも見たかったやつ。    NJのちいさな街で、ちいさな弁護士事務所をやってて、いろんなことに疲れているPaul Giamattiがクライアントの孫を拾って、他にやりようがないので、おうちに置いて面倒をみてあげるの。 その男の子もどこか壊れててぜんぜん笑わなくて、でもレスリングがすごいことがわかって、弁護士がコーチをしている学校に入れて、試合をさせていって、だんだん明るくなっていくの。 でもその男の子のあばずれの母親とかが現れて…と。

すんごい傑作ではないのだが、男の子の寂しそうなかんじがいかった。

弁護士の奥さん(Amy Ryan)が男の子と話しをしてて、彼の背中のTatooの話しになったとこで、自分が昔足首に彫ったちいさなTatooを見せて、これBon Joviなの、だってあたしはJersey Girlだもん、ていうところがなんかよかった。

エンドロールで流れるThe Nationalがすごくよくて、あーこのバンドの場所はこういうところにあるんだなあ、とおもった。

あとは"Bridemaid"をはんぶんくらいまで。

着いたら湿気がすごくてうんざり。

9.24.2011

[film] The Change-up (2011)

仕事は例によってぼろかすでしょうもなくて、これは間違いなくNYにも横滑りで持ち越されるにちがいなくて、そうなるとあっちで自由に使える時間はなくなる。 まちがいなく。

なので、こっちで見れるものは見ておくしかない、よな? と夜中にLeicesterのシネコン(前日とは別の)で見る。

どうしても、なにがなんでも見たい、わけではなくて、でもなんか収まりがつかなくて見ておかないと気がすまねえ、みたいな。 かわいそうに。 ただのバカ映画なのに。

監督は"Wedding Crashers" (2005)のひと。

Jason Batemanがローファームに勤めるばりばりのエリートで、でっかい家に住んで妻がいて、子供が3人いて、仕事も順調で、とくに不自由ない暮らしをしているやつで、(なんでかぜんぜん見る気にならなかったGreen Lanternの)Ryan Reynoldsが役者のバイトみたいのをしつつ日々ふらふら楽しく流している遊び人で、このふたりが幼馴染で、ある晩、酔っ払って互いの境遇のぐちを言い合った後、公園の女神さんがいる噴水のとこで立ちしょんして、お互いに君みたいな生活ができたらどんなによいことかー、て声をあわせていうの。

そして翌朝起きたら入れ替わっていた、と。 体はそれぞれの家にあるままで内側の心が入れ替わっていてさあたいへん。  
パニック起こして、あの噴水の女神だ!と思って公園に戻ったら、なんと噴水は撤去されてて、役所に聞きにいったら調べてみるけど3週間くらいかかるかも、とか言われて唖然。

Jason Batemanの妻のほうに、こういうことになった、と説明するのだが相手にしてもらえない。それぞれの家族とか仕事とか恋人とか、友人の口から聞いていただけのあれこれがぜんぶ目の前に落ちてきて、ちゃんとこなさなきゃいけないし、それぞれの家族から自分がどう思われてるのかもわかっちゃうし、びっくりするわ落ちこむわ、とにかく退屈しない。 
当然のように下ネタいっぱい。 糞尿系もたっぷり。

遊び人が入ってしまったかつての自分の体に会社員の服装とかマナーとかお買いものを仕込んでいくところとか、おもしろかった。 感覚としてはやっぱり自分の体じゃない、かんじなんだろうな。 西洋人にとっては体って、心が乗っかる乗り物なんだろうな、とか。

自分が自分じゃなかったらいいのに、とかって誰もが普通におもうし、でもそんなの起こり得ないことはわかっているところから妄想みたいに拡がっていくネタはいくらでもあるので、こういう入れ替わり映画は過去にもいくらでもあるし、結末もだいたいわかるしおなじだし。 
でも大抵おもしろいよね。 安心して見ていられる。

境遇も容貌もそんなに大差ない、ごく普通の若者ふたりにこれが起こって、最初は慌てるものの、周囲は殆ど気づいてくれないので、まあいいかー、って諦めて、結局その体のままで平々凡々な一生を終える。 みたいな映画、誰か撮らないかしら。もうある?

Jason BatemanとRyan Reynoldsのふたりはなかなかよいコンビだった。
でも、こういうふたり組だと、"Dumb & Dumber" (1994) のJimとJeffにかなうのはないよな。


今日の夕方に大西洋のむこうに渡ります。

9.23.2011

[film] 30 Minutes or Less (2011)

水曜日の晩、なにもかもいやになってLeicesterのシネコンに駆け込んで、みました。
そういえば、ここは去年も、なにもかもいやになって駆けこんで、"Predators"(2010)かなんかをみたのだった。

座席は指定(ぜったい意味ないね)なのだが、部屋が屋根裏みたいな変な場所にあって、横長で4列くらいしかなくて、火事になったら確実にいちころ。

夜8時すぎだったからかしらんが、きっぷのもぎりもなにもないの。チケット買わなくてもはいれる。あんなゆるゆるのシネコンはじめてみた。 あれなら毎晩かよって見放題できるわ。

"Zombieland" (2009)のRuben Fleischer & Jesse Eisenberg組の新作。
プロデューサーにはBen Stillerの名前もある。

30分以内に配達できなかったら自分が代金払わなければいけないルールのピザ屋でデリバリーをやっているあんちゃん(Jesse Eisenberg)が悪党(でもぼんくら)の二人組につかまって、爆弾チョッキ着せられて、10時間以内に$100000持ってこい、て言われるの。
で、インド人の友達(こいつも早口、ふたりで言いあいしてると鶏のけんかみたいになる)と一緒に銀行強盗するのだが、当然いろいろあって簡単にはいかない。

83分。 "Zombieland"もそうだったが、ものすごいスピードと落ちつきのなさでちゃかちゃか走っていく。責任とらない、やりっぱなしで放置して、とりあえずカタをつけられそうなところ目指して走って、さあどうだ、みたいな。

ちゃかちゃか具合がTVみたいかというと、そうではなくて、たまにロングの、なかなかかっこいいショットががーんと入ってきて、ふん、とかいう。 "Zombieland"もそうだったけど。

"Zombieland"は、どちらかというとWoody Harrelson(とBill Murray)の映画だったが、これはJesse Eisenberg全開の映画でもある。 "The Social Network"の、あのこずるくて底意地のわるいとこもちらちらしつつ、とりあえず置かれてしまったLimitに向かって全力疾走する。

悪党ふたりと、そのひとりの父親(Fred Ward)とか、悪党のさらに上にいるギャング(Michael Pena)とか、でも悪のピラミッドをつくるわけでもなくて、そこらをうろついている、脇にいるそんな連中もいちいち強烈でおかしいの。

この監督、西部劇とかやらないかなあ。 ぜったいおもしろくなるはず。


REM、解散かあ。
そうだろうなあ、とかぶつぶつかんがえる。

9.22.2011

[music] Brian Wilson - Sept 18

日曜日の続き。
おなじくSouthbank内のRoyal Festival Hallでの、UK公演3日間の最終日(ヨーロッパツアーのまんなかあたり)。 ほんとは到着した日に行こうと思っていたんだが、さすがにしんでてむりでした。

Brian Wilsonは、NYのBB KingでPet Soundsをみて聴いてて(2002年)、おなじくNYのCarnegie HallでSmileをみて聴いてて(2004年)、今回のは、こないだ出た”Brian Wilson Reimagines Gershwin”(まだ聴いていない)をフォローしたもの。

開演は前座なしで7:30きっかり。 バンドは、Brianをのぞいて、でるわでるわの14名。
ストリングスが5人。 ドラムスにパーカッション、ギター2、B、管、Key2、そして、Jeffrey Foskettさん。

最初にオーケストレーションで、"Heros and Villans"とGershwinメロの雑種みたいなやつ - こういうことなんですよ(ネタばらし)みたいなイントロを。 そこから新譜を順に追っていく(たぶん)構成。

音はどこまでも分厚く、でも軽快なBrianの、でもメロは誰もがどこかで聴いたことがあるはずのGershwinで、それはいつもの、どこかで聴いたことがあるはずのBeach Boysとおなじかんじで、どっちがどっちと問うことにさほど意味があるとは思えないし、めんどうなのでアメリカの20世紀の音、とぶちあげてもびくともしない、そういう黄金の音。  
たとえば、正真正銘のアメリカのポップスを、と言われたらこの音を聴かせてあげればいい。

ここで演奏された"It Ain't Necessarily So"とか”I've Got a Crush on You”とかのはんぱない軽さと正体不明のなかみのなさと突き上げてくる、こみあげてくる感傷のような陶酔のような。 
あまりにすばらしすぎて泣きそうになる。

BrianもGershwinも、どっちも不動の、完璧な作曲家だと思ったことはあまりなくて。
それは舌に乗せたら一瞬で溶けて消えてしまう魔法のスイーツで、消えてしまうからもっと食べたいと思うのか、もっと食べたいと思うから消えてしまうのか、ほんの少しジャンキーでドラッギーで、でも、だから、もっと食べたい、ちょうだい、と脳がいう。 だからおてあげ。

45分、ほぼノンストップで走りぬけて、20分間の休憩。
なんでかみんな売店にアイスクリームを買いに走る。(ここのはおいしいんだけど)

第2部、”California Girls”のイントロがふわふわ鳴りだして、それに乗って熊みたいにのっそりつーっとBrianが出てきて、あとはずうっとがんがんのヒットパレード。

ストリングスは基本はひっこんでて、途中の"Surfer Moon"とおわりのほうのPet Sounds ~ Smileのあたりで入ってくる程度。

Pet SoundsとSmileに関していうと、今回のライブのこの編成が、いちばんオリジナルに近い鳴り方をしているように思えた。 "Wouldn't It be nice"のゆったりたのしく馬車が加速していくかんじ、"God Only Knows"の星空がふわっと降ってくると思ったら自分が空に昇っているのだった、ような感覚。 
そして改めて、すごく変で、変なのにきゅんとなるところが不気味で、しみじみ変な音楽だわとおもった。

Pet Soundsのとこでやった"Pet Sounds"がどんなに変てこなものに聴こえたか、うまく説明できない。 夜中に子供とかに聴かせたら、ぜったい泣くとおもうよあれ。

最初のアンコールは、"Johnny B Good"から、”Fun Fun Fun”までてけてけの5曲。
続いてのアンコールは、みんなでしんみり"Love and Mercy"。 はいはい。

終わったら10時を軽くまわっていたので、後半だけで1時間半やってた、と。

しかし、Gershwinを真正面から、堂々と乗っ取ることに成功してしまった先生は、これからどうするんだろう、次になにやるんだろう、と少しだけ心配になってしまった。

9.20.2011

[film] Black Jack (1979)

先に1本書いてしまいましたが、18日の日曜日は、久々のお休みらしいお休みになった、気がした。
映画2本、ギャラリー3つ、レコード屋1軒、ライブ1箱。

”Tinker Tailor...” の前に30分くらい開いていたので、映画館の近所にあったNational Portrait Galleryで、"Glamour of the Gods:  Hollywood portrait" というのを見る。

http://www.npg.org.uk/glamour/index.htm

John Kobal Foundationていうとこがアーカイブしているハリウッドの20年代~60年代までのポートレイトを並べたもの。 有名なのばっかりでしたが、しっとりゴージャスで、堂々としたプリントばかりで、溜息しかでない。
モンローはフルヌード、キャロル・ロンバードはセミヌードだった。
おもしろかったのが、修正(Retouch)はこうやるの、ていう実例展示があって、なるほどねえー、と。
今のデジタルの修正よか、露骨ですごいかも。 でもきれいになるならいいよね。

”Tinker Tailor...” の後は、Rough Trade Shopの東のほうに行って、ざーっと漁った。
けどあんまなかった。 買ったのは7inchを4枚だけ。 TindersticksとかScreaming Jay Hawkinsの"I put a spell..."の別テイクとか、そんなの...

Rough Trade Shopの反対側のスペースで、Nirvanaの"Nevermind" Deluxe版リリース記念、と思われる展示をやってた。 当時のポスターとかちらしとかチケットとか雑誌とか、本物かしらんがドラムキットとか、奥ではライブフィルムの上映もやっていたもよう。 ふんふん、てかんじ。

そのあとで、Southbankに向かう。
今回、ガイドブックとか地図とか持ってくるのを忘れてしまっていて(うん、仕事だしな)、割と好きに動き回れるとしたら、Rough Tradeの東と西のあるあたりか、Southbankくらいなのだなあ、と改めておもったのだった。

晩のライブのチケットを買って、そのあとでBFI。
Ken Loachの回顧上映をずっとやっていて、でもKen Loachはじつは見たことなくて(たぶん)、せっかくイギリスにいるのだし、ということで見ることにしたのがこの作品。

つぎはぎ医者のおはなし、ではなくて。
カンフーパンダの声優、でもなくて。
Leon Garfieldていう英国の児童文学作家の原作をローチ自身が脚色したもの。

18世紀の英国のどこかの村で、でっかくて臭くて悪そうなひとが絞首刑にかけられようとしてて、こいつがBlack Jackらしいのだが、最初のナレーションからして、なに言ってるのかほとんどわからず。
でもこういう、エィとかオィとか、そういうのたくり英語のごにょごにょした物いいがすごく好きなの、むかしから。なんでかわからんが。

で、そのBlack Jackの棺桶がある家に運ばれるのだが、彼はじつは生きてて、そこで見張りをしてたガキ(少しは怖がれよ)を連れて旅にでるの。なんでかわからんが。

その途中で、頭がおかしいという理由で家族から疎まれて矯正院かどこかに送られるとこだった女の子を拾って、市をまわっていく旅芸人の一座に合流して、みんなでわあわあ旅をしていくの。

子供たちはイギリスのガキなので、そんなにかわいくもなくて薄汚れてて、大男Black Jackもそんなに悪でもそんなに善でもなくて、つまりそんな勧善懲悪してなくて、でもよいこは、よいこにしてればなんとかなるから、子供は放っておいても育つもんよ、どこに行くのかしらんが、程度の適当で朗らかなかんじがよかった。

あと、頭のおかしい(実はあとでおかしくなかったことがわかる)女の子が夜中に男の子のとこにきて「あたしのことずっとあいしてくれる?」てじーっと訊くところがすごくいかった。

音楽は、British FolkバンドのMr.FoxにいたBob Peggさんで、ぴーひゃらどかどか系の民謡がずうっと鳴ってて、これもとっても素敵でしたわ。

で、映画終わってからBFIの売店でちょっとだけ本と雑誌買って、ここの上のHayward Galleryがまだ開いていたのでなかで、"John Cage: Every Day is a Good Day" ていうFreeの展示をみた。

John CageのDrawingを集めて展示してて、当然彼の音楽もいろんなのがずうっと鳴ってる。
John Cageなので、圧倒的、というわけでも胸にせまってくるわけでもなくて、きのことかその胞子とかのように散らばって散らしてそこにある、だけの線と点と面の ー。 そして音楽も同様、と。


変なアメリカ人による変な音楽。 それはこのすぐ後にもきた。

9.19.2011

[film] Tinker Tailor Soldier Spy (2011)

こんかいの旅、仕事は19日からだったので、到着は18日でもよかったの。
でも18日のチケットがキャンセル待ちになり、17日の予備を押さえて、少し時間が経ったところで、ぎりぎりまで粘ればなんとかなったのだろうが、さっさと諦めて17日発にした。

それはこの映画が公開直後であることを知ったから。
今のこの時期、ロンドンを訪れて、この映画を見ないで済ますような英国好きなんているだろうか?
そんなのありえない!  いまはそんな英国好きでもないのだが。

というわけで、日曜日の朝11時から、LeicesterのOdeonの一番でっかいスクリーンで見ました。
ここはほんとにでっかくて、音がものすんごくいかった。 NYでもこのレベルのは、あんまないかも。

"The Girl with the Dragon Tattoo"の予告、ここのゴージャスなサラウンドで見て、改めてぶっとぶ。
終盤の、ぶっといベースがセンターから襲いかかってくる瞬間、鳥肌が立ちすぎて鶏になるかとおもった。
それくらい、すごいわ。 "Social Network"よか驚異の音像かも。

さて、これの原作を最後に読んだのはもう何十年も前なので、筋憶えているだろうか、と不安だった。
スマイリー3部作のなかでは、最後のがいちばん好きで、最初の(これ)と2番目のはなんかつらいのであまり読み返さないしー。
ネタばらしたところで、この作品(原作も)の価値を貶めるようなもんではぜんぜんないのであるが、いちおうばらさないように書いてみよう。

スマイリーにGary Oldman, コントロールにJohn Hurt, ビル・ヘイドンにColin Firth, ジム・プリドーにMark Strong, リッキー・ターにTom Hardy, パーシー・アレリンにToby Jones, こんなぐあい。

他はともかくとして、誰もがGary Oldmanによるスマイリーには驚いたとおもう。 
自分のイメージだと、もっとよれよれで、くたびれた喪失者、というかんじがあったので、スマートすぎやしないか、とか。 でもびっくりするくらいよかった。 昔のTVシリーズで、この役をAlec Guinnessがやっていたことを考えれば、そんな違わないのかも。 それに原作のル・カレがExecutive Producerをやっているのだから、そこはもう黙るしかない。
でも、原作をまったく読まないでこれ見たらどう見えるのかは、わからないねえ。

ジム・プリドーがブダペストで撃たれて、コントロールとスマイリーがサーカスを追われるところから始まる。
原作の膨大な襞襞あれこれとその厚みを再現しようとするのは無謀なだけなので、メインは彼のモグラ探しとそれに関わる協力者、彼らの記憶にある過去の出来事を手短に積み上げていく、というやりかた。

派手なアクションも大規模な移動もない、かわりにあるのは複数の、いろんな声とその音。
証言であり、報告であり、テレックスであり、暗号であり、緊急だったり、助けを求めたり、隠蔽されたり、無視されつづけたり、モグラ(二重スパイ)を巡って世界中のあらゆる場所から寄せられた声を、出来る限り映像の上に積みあげていくこと。 (再生される音声のクオリティがすばらしいの。メディウムに応じた使い分けも)

冷戦の時代、そうした無数の声によって形作られた地図が確かにあって、その交錯のなかで沢山の血が流され、その上で苦闘する人々の姿と像があった、それがそれなりにきちんと描かれているので、あとはいいかな、と。
誉めすぎかもしれないが、アサイヤスの"Carlos"と比べてみるとおもしろいよ。

スパイでありながらも、であるが故に、過去のいろんな声だの亡霊に向かい合い、束縛をうけ、最後には自分で決着をつけるしかない。 この作品でもアンの背徳と宿敵カーラの影、はきちんと背景として映りこんでいた。
ル・カレのスパイもののもつ普遍性、というか揺るぎなさはこの辺にあって、というかこれしかないの。

モグラが現れるまでの最後の30分の編集と音の演出は、なかなかきもちいかった。

あとはファッションがすんごい。部屋の調度や壁にかかった絵画まで含めたプロダクション全体の力の入れようも尋常ではなく、間違いなく今後、映画のなかの70年代英国ファッションのリファレンス(でも誰もまねできねえ)になることでしょう。
コスチュームはJacqueline Durran、Special Thanksには全面的にPaul Smithとあった。
女子の影なんてあとかたもない、救いようもないくらいかちかちのMan's Man's Worldであるが、ここまでやってくれればいいわ。

ビル・ヘイドンとジム・プリドーはみごと。 Colin Firthは、「王様」よかよかったかも。
Mark Strongはこれまでの狂犬系の演技は押さえてて、よかった。 あ、それをいうならGary Oldmanもか。
リッキー・ターもいかったねえ。Michael Fassbender版も見てみたかったかも、だけど、彼でもぜんぜん。
コニーはあんなもんかな、ジェリーはちがうんではないか? とか。

音楽は、Pedro Almodovar作品を多く手掛けてきたAlberto Iglesias。
ちりちりこまこました丁寧なかんじがいかった。 ぶあついストリングスだと、ちょっとちがうし。

ジム・プリドーと小学生のエピソードは、もうちょっとちゃんと描いてほしかったかも。

そういえば彼、首折られてしんだんじゃなかったっけ?

[log] Sept 17, 2011 (2)

ロンドンにおります。 例によってくたくた。
行きの機内でみたのはー

- Fast Five。 なんとかメガマックスとかいうへんな邦題でもうじき公開されるやつ。
ブラジルで、車つかって強盗するおはなし(だよね?)。 このシリーズのを見たことないのでなにが速い5人、なんだか最後までわからず。 
速いのは車だけのようで、筋の展開はおっそろしくとろい。
よかったのはVin DieselとDwayne Johnsonがぼかすかやりあうとこと、でっかい金庫を2台の車で引き摺りまわして街中ぐじゃぐじゃにぶっこわすとこ、かなあ。

- 『単身男女』 - ジョニー・トーの新作。 ウォン・カーウァイとの共同プロデュース。 なんとラブコメ。
『文雀』系の軽めのやつかと思ったが、あれよりも遙かに穏やかでほわほわした、ほんもんのラブコメよ。 
流れる血ときたらすけべ男の鼻血とカエル ... くらいよ。

7年間同棲していた彼に女と子供まで作られて逃げられて、男の遺したフィギュアだのカエルだのの間でどんより暮らしていたOLのところにふたりの男が現れて、じりじり言い寄ってくるの。

ひとりは隣のビルの投資会社のトップで金持ちで尻軽で、リーマンショックで会社が潰れたあとで、彼女の会社に入って強引に上司になるの。 もうひとりは落ちぶれて飲んだくれた建築家で、でもこいつは彼女と出会ってから人生に目覚めて、彼女のことを一途に何年も想い続けるの。

女のほうもとっとと決めちまえばいいものを、それぞれのアプローチにいちいちうるうるしたりするもんだから、ちっとも決着つきやしない。 
そう、ようく見てみると、これは間違いないジョニー・トーの新作なの。撃たれても撃たれてもなかなか死なない(死ねない)主人公とおなじように、SMとしか言いようのない濃厚さで右に左に容赦なく鞭が打たれ、じりじり決着がつかないままラストになだれこんでいく。 
最後のトライアングルなんて全員の頭上にバズーガが見えたわよ。

そしてこれは、ウォン・カーウァイの新作でもあるのね。
決着つくまで延々校庭走ってろ、みたいな。

食べ物は、今回はムール貝だった。
それにしても、あのカエル(生)かわいすぎ。 ほしい。

あとは、"Super8" をとばしとばし、と”Midnight in Paris”をとばしとばし。
とにかく眠くてさあ、今回はとくに。


そういえば、前回の訪米の機内で見た映画書くの忘れてた。 いちおうざーっと書いておこう。

- How do you know?  (2010)

James L. Brooksによるラブコメ。 なんかよくわからなくて、行きと帰りで2回みた。
Reese Witherspoonが女子ソフトボールの全米代表メンバーから外されて先を見失ってしまった女子で、Owen Wilsonが彼女に寄っていくMLBのスターでへらへらいつものOwenで、Paul Ruddが父親(Jack Nicholson)の尻拭いで起訴されて全てを失うことになった若いエグゼクティブで、これまで積み上げてきたキャリアが総崩れして途方にくれているReeseとPaulが、どうやって出会うことができるのか、こんなふたりに恋愛はありうるのか、という-。

ふたりとも、ポストイットに格言だの箴言だの書いて冷蔵庫とか洗面台とかにべたべた貼って(いるよねー)、それをぎっちりフォローして自分とか周囲を律してがんばってきたのに、そういうのがぜんぶちゃらになってしまったとき、どうやってひとはひとを愛したり、「本当のじぶん」(げろげろ)を見つけてもらったりできるのか? みたいなのがテーマなのね、たぶん。

自己啓発とかセラピーとかが好きなアメリカ人も、こうやって見るとあれこれ面倒でやっかいだねえ、とかしみじみ思うのだったが、この面倒くささをラブコメの文脈できちんと出してみよう、とがんばってみたのは、えらいなあ、って。 (でも映画としてはあたんなかったんだよね、たしか)

で、Reese WitherspoonとPaul Ruddって、こういうのをきちんと演じられる稀有な人材だよねえ、そして、Owen Wilsonは、どこまでいってもOwenなんだねえ、って。

- Limitless (2011)

Bradley Cooperがぼろぼろの作家で、たまたま会ったex-義弟にあやしい薬を貰って飲んでみたらあーら不思議、脳の能力が100%引きだされて活性化されて、本はばりばり書けるは、昔習った語学だのなんだのは蘇るわ、喧嘩に巻き込まれてもカンフー映画で見たいろんな技が脳内再生されて相手を倒すことができるわ、万事快調になっちゃうの。
Hangoverの逆、というか。

でも薬がきれると副作用がげろげろなので、なんとか薬を手に入れねば、とあがくのと、同じように薬を狙う連中がいたりするのとで、ごたごたするの。

ごくふつうのB級、なのだが、絶体絶命になった主人公が取った行動がなかなかすごくて、そこまでやるか、そんなにまでして生きたいか、みたいな、変なとこに感心したのだった。 

- "Ha ha ha" (2010)   ホン・サンスの新作。
カナダに移住することになった男ふたり(あ、片方だけだったか?)が、酒を飲みながら昨年の夏、韓国のどっかの土地を旅行したときの話をかわりばんこにしていくの。 こんなことがあってさー、みたいに。
そのふたりの酔っぱらいながらのぐだぐだ話しを交互に映像で綴っていくだけなのだが、そこで語られるふたりの周りの人たちは恋人とかも含めて、実はものすごく近いところで交錯しておりました(でもふたりは最後まで気づかないの)とさ、おもしろいねえ、SNSだねえ、というそれだけの話。 格言にも教訓にも落ちていかない、単なる酔っぱらい話でしかないのだが、でもなんでおもしろいのかねえ。

すっとぼけたかんじがいつものホン・サンスなんざんすが、このおもしろさを説明するのはなかなかめんどくさいので、しない。 でもおもしろいんだよね。  

- "The Notebook" (2004)   -  きみによむものがたり、だっけ?

映画のクライマックスのどしゃぶりシーンが、最近しょーもないアテレコされて米国の携帯のCMに使われてて、久々に見返してみたくなったの。

"Blue Valentine"(2010) のRyan Goslingは、この映画の彼が現代に生まれ変わったやつなのかも、っておもった。  あと、Rachel McAdamsは、どうがんばってもGena Rowlands にはなれないのではないか、とか。

えーと、あとなんかあったか。

9.17.2011

[log] Sept 17, 2011

昨年の今頃もぐるぐるしていた気がするのだが、いまは成田で、これからLondonに飛ぶの。
もちろん仕事で、逃げようのない渦とか罠とかに嵌ってしまった感がある。

みんなの仕事を楽にする仕事だから、と首を突っ込んでみたのに、気がついたら保証人地獄の多重債務で首が回らなくなって塩漬け、そんなかんじよ。

今週は旅立ち前のあれこれで死にそうだったのだが、日仏のカイエ週間でガレルの『自由、夜』(1983)とグーピルの『三十歳の死』(1982)を見ました。
どちらも死を、敗北に見えないこともない死を扱った作品なのに、どこまでも強く、豊かで暖かかった。 

Londonのあとは、New York。 どちらも1週間。  たぶん。
仕事だし、やっつけ系のやつなので余裕はまったくないの。

BAMで"The Complete Vincente Minnelli"をやっているし、NYFFも始まるようなのだが、しらない。 ふりをしよう(泣)。

犠牲は小さくない。 PJ20(あ、チケットどうしよ)も、アテネのアナログばかも、Sebadohも、目の前にきていた文化の秋がぜんぶふっとんでしまう。

ついてない。 けど場所が変われば。

9.13.2011

[music] Joe Lally - Sept.11

この週末もぜんぜんだめで、土曜日は気がついたら夕方だった。

宿題みたいに見たい映画が残っているのだが、宿題はきらいだし、午後4時を過ぎるとこのへんのテンションが一挙に落ちてどうでもよくなってしまう。

で、土曜日はほとんどなにもせず、日曜日だけ、遅くにごそごそ動き出して当日券でみました。
本当はおうちでしんみりお祈りでも、という案もあったのだが、いや、いまはそうすべきときではない、と勝手に思いこんで強引につっこむ。

まずは、10年目のその日、あれが起こった時間帯に異国でのロングセットのライブを組んでくれたJoe Lally氏に敬意を表したい。 いろいろ言いたいこともあったろうに、311への言及はあっても、911のことは何も語らなかった。 でも、それでもじゅうぶんに伝わったよ。 (特に最後のとこで)

ライブは、Liteの途中から。 
むかーし新宿で行われたMike Wattさんのイベント以来だったが、この人たちも数段でっかくなっていた。
ポストロック的なダイナミズムの探究、というよりは、ガレージ寄りのシンプルな錐揉み/巻き込みの運動のなかに、ほんのちょっとの陶酔と狂熱をまぜこんで、行けるところまで行ってみよう、というか。
ダニエル・ラノアあたりにプロデュースさせてみたい。 ぜったいおもしろくなるよ。

Joe Lally組は、前回来日時(2年前?もう?)と同じラインナップ。
ギターの女の子も含めて、全員坊主頭で、研ぎ澄まされた兵士の顔をしている。
この3人がメインで映画とか作れそうだ。 設定は丸腰で前線に投げだされてしまった小隊、これしかない。

さて、このバンドの音をどう形容したらよいものか。
ハードコア起源のなにか、ではあるのだが、一般的なイメージにあるハードコアとは結構ちがう(よね?)し、パンク、といっても最近認知されているようなGreenDay以降のお子様向けの、ああいうのともちがうし。

ドラムスは地面に向かってひっぱたき、ギターが刻んで、ベースはうねる。
こういう通り一遍の形容を常に裏切るかのようにあらゆるヴァリエーションを示しつつ、しかしどこまでも淡々と平熱状態で演奏は進み、しかし醒めている、というのともちょっとちがう。 
客ひとりひとりの目を見て語りかけ、歌いかけながらも、じりじりとアグレッシブに跳ねあがっていく。 どこまでもモノトーンで、カラーにはならない。

あるいは、Fugaziの音を凡百のパンクバンドから隔てている固くごつごつしていながらものたくる、鋼鉄のうなぎみたいなベースの音、そいつにびっちりと絡みつくドラムス、それらをひっぺがそうとするレーザーメスのようなギター。 
結合と離反分裂を繰り返す3ピース、3分間の音のドラマ、とか。

PJとかFFとかRHCPとか、所謂大文字のロックが見せてくれるハイウェイからの眺めとはまったく異なる、周囲数キロを走るための車と、そのためのガレージ。 組み立てるのではなく、整備するためのガレージ。
ほんとに生活に必要なのはこっちなの。 消耗するばかりだとしても、生活は生活で、続いていく。

そんなふうに本篇約1時間、やや長めのアンコールが終わって、もうないかもと思ったら、もう一回あった。
楽器も持たずにひとり静かにフロアに降りてきて、みんなに囲まれた状態で、"Sons and Daughters"をうたう。 へたくそだけどね、と少し照れながらも、語りかけるように。
その有名な一節はこんなふうなの。

“The word is not the thing, we say war when we really mean rape and murder”

このひとは中国に行ってもイラクに行っても、戦地のまんなかにいたとしても、同じことを言うし、やるんだとおもう。   ねえねえ、パンクっていうのはこういうのを言うんだよ。

世界にはまだこういう人がいて、こういう音がある、それを確認しておくためにもこのライブには足を運んだほうがいい。 そして、なんどでも言うが、これを10年目の911に接することができたのはほんとうによかったと思ったの。

[music] Leave them all behind - Sept.4

まだ9月の最初の土日のおはなし。

金曜日の晩になんで発熱したのかぜんぜんわからないのだが、週末のふつかかん、転がっているのは我慢ならなかったので、日曜日の夕方によろよろ外にでました。

"Leave Them All Behind"というRideのEPがむかーし、あって、ジャケットの写真がたしかJock Sturgesで、そのかんじからなんとなく夏の終わりにぽつんと何かを残して去る、ようなイメージがあって。

今回のはぜんぜんちがうよね。 内向きにこちょこちょやっているような連中はほうっておけ、みたいな。

海外にいるとこの3バンドの名前はほんとにいろんなとこで目にして、それは有名だからとか人気があるからとかそういうのではなく、そういう「渡り」の動きのなかで音楽を届ける、そういうのが基本動作になっているバンドなのだと思っていて、向こうのライブ好きはそういう要素で会場に足を運ぶことが多いし、そういうのの積み重ねでここまできた、というのはほんとうにえらいとおもう。

なので、この3バンドを一緒に、一遍に見れる、というのはそれなりにすごいことなの。惑星直列みたいな。 わかっているよね、と。

会場に辿りついたのが6時過ぎで、当日券で入った時には、まだMonoをやってた。
もうずいぶん昔に、なにかの一時帰国のときになにかの前座で見た気がしたのだが、あのときよか格段にぶっとい、ばりばりのがんがんになっていた。 成長するものなのね。

それからBoris。 先のことを考えて階段のとこに座ってみてた。
Borisは、昨年のSunn O)))と一緒にやったALTARのとき、Brooklynの寺院で、電源が飛んで警官隊に包囲された、あのとき以来か。
バンド形態がちがうからだろうか、ぜんぜん違って聴こえた。

なんか美しいし。きれいだし。
時折鮮烈に刺さってくるバスドラとスネアがまじめに律儀に穴を掘り続け、突然なにかが決壊して怒涛のノイズがなだれこんでくる。 
きらきらした導入部の美しさと雪崩れこんでくる轟音の美しさ、どちらが美しいとか、どちらが正しいとか、そういうことではなく、この均衡とコントラストをもたらすのは、音を思いっきり叩きつけて統御しようとする強靭な力と、そこに向かう意志に他ならなくて、例えばジャームッシュを魅了したのも、彼らのそういうところなのではないか、とか。

トリはEnvyで、貼ってあった幕には、"I fly this day with the crooked wings"とあった。

こちらもBorisと同様、なにかに立ち向かおうとする意志と共にある轟音、Voiceが入る分、やや情緒的なかんじがしたが、それでも、音量も含めて圧倒的であることに変わりはない。
飛びたつことに対してなんの躊躇も撞着もない、言い訳もしない、羽根が壊れていようが腐っていようが、たったひとりでも、おれはやる、さいなら、そういう潔さが漲った、ひたすら強い音。 
強くあろうとする音。

なんとなく東映任侠映画みたいなかんじもあるのだが、あれってぜったいグローバルスタンダードだからね。 よいいみで。

そういうようなところも含めての"Leave Them All Behind"というのがようくわかる晩でした。

9.11.2011

[log] Sept 11, 2001

ある時期、ある時代の東京の人たち、東京に憧れていた人たちにとっての東京タワーが特別なものであったのと同じような意味で、WTCというのは自分にとっての東京タワーだったのだと思う。
エンパイアステートでも自由の女神でもなく、理由はわからないが、WTCこそがNYを象徴するものだった。
「だった」としか言えないことが、いまだに信じられないし、納得がいかない。

10年前のこの日から、ここは"Ground Zero"と呼ばれ、忌まわしい記憶を封じ込める場所、その象徴として歴史のなかで機能することになってしまった。
その転換を強行したのがテロリストと呼ばれる人たちと、彼らをテロリストと呼んでおきたい政治家たちで、でもあの場所は、やはりワールド・トレード・センター(WTC)で、それ以外の呼び方を知らないの、だってほんとうに素敵な場所だったんだから、と、そういうことを書いておきたい。

深夜に仕事を終えてEquitable Building(一時期ここに職場があった)から出ると、目の前にはいっつも彼らがでーんと建っていた。午前2時でも3時でもずうっと明るく建っていてくれた。 

クリスマスになると、その視線の間にある小さなZuccotti Parkにはイルミネーションが置かれ、その光の線と渦がWTCのてっぺんまで上っていく様は誰がなんといおうと世界一で、あれに勝るものにはまだ出会えていない。 ロックフェラーの100倍美しいものだった、と今でも断言できる。

あるいは、BAMから帰るバスの途中、Manhattan Bridgeから見ることができる彼らもほんとうに美しいものだった。
当時のBrooklynはまだ危ないと言われていて、バスでマンハッタンに戻ってくると少しだけほっとした。ほっとさせてくれたのはやはり彼らの棟が放つ柔らかい光だった。

あるいは、ランチスポットとしてのWTC。 Church st側から入って、少し地下に降りると、SbarroがあってMenchankoがあって、なんといってもEcce Panisがあった。当時、マンハッタンでおいしいパンが食べられるのはここだけだった。BordersのCafeも後からできた。 
これらが無くなってしまった後、ランチ探しがどんなに困難になったか、誰に文句を言ったらよいものか、どれだけ途方に暮れてしまったか、わかるひとにしかわかるまい。

Church st側のエントランスの広場にはよくグリーンマーケットが出ていて、アプリコットやチェリーを買ったりした。
2001年5月、約3年ぶりに復帰したとき、プエルトリカンの相棒とここで再会して、ここ特有のビル風に吹かれながら彼らを見上げ、戻って来たんだねえ、さてどうしたものかー、と思ったことを憶えている。

最初に赴任して、3ヶ月が経った93年2月、North Towerの地下ガレージで爆破があった。
2回目に赴任して、4ヶ月が経った01年9月、こんどはビル全体が倒壊してしまった。

それはよくある9月の始めの、日射しだけがくっきりしたよい天気の日で、そういうのが数日続いていたこともあって気分はだれだれだった。 こんなお天気の朝に仕事する気になんかなれないよ、というよくあるー

まず、Equitableのオフィスで働いている同僚から電話があって、WTCが燃えている、といわれた。
なにそれ? ということで南側の窓に行ってみると、たしかに。 
上の方に穴が空いて煙が昇っている。
なんかの爆発? とおもった。 だれか死んじゃったのだろうか? 修理に時間かかるだろうな、などなど。 

しばらく見ていて、そうしていても仕方ないので、デスクに戻る。 
そしたら日本からメールがどかどか落ちてきて、みんなだいじょうぶか?とか聞いてくる。 みんな早いな、でもなんか変かも、と思い始めたころに、もう1棟も燃えてる! と言われた。  
これはどうみてもおかしいし、ありえないし。 このへんでビル全体に避難命令が出たのでぞろぞろエレベーターのほうに向かう。  
誰かが「飛行機が・・・」とか言っているのが聞こえた。 

で、ちゃんと聞いてみると、飛行機がつっこんだのだという。 
そんなのぜったいおかしいし、なんでふたつともなのよ? とか困惑しているうちに下に降りたら、とにかく一刻も早く逃げるべし、ということになっていた。
地下鉄が動いているとは思えなかったので、バス! と決めてMadisonを走ってた一台に飛び乗る。

バスはそんなに混んでいなくて、乗客はみんな下を向いていた。泣いているひとも何人かいた。
北の方に向かうバスの窓から、人たちがみんな南を向いて口を抑えて叫んでいるのが見えた。
怖くて恐ろしくて、後ろを振り返ることができなかった。

バスを降りた後、食料が枯渇することが目に見えていたので、スーパーで数日分の水と食料を買った。
レジには長い行列ができていたが、ここでもみんな下を向いてしょんぼりしていた。
買い物するのがなんだかとっても辛かった。

アパートに着いたら、ドアマンが放心した表情でタワーが崩れおちた、と言った。
うそでしょ、と部屋に戻ってTVを見たら、ほんとうだった。
どのチャンネルもぜんぶそうで、そのうちに気持ち悪くなってきたのでスイッチを切った。

部屋にいても滅入るだけだったので南のほうの血液センターに献血に行くことにした。
10ブロックくらい歩いて着いてみると、献血希望者が殺到してて既にCloseしていた。
2nd Aveから南のほうを向いてみると、奥のほうは煙で黄色く濁っていた。
たまに戦闘機が上空を飛んでいって、その響きで怯えてビルの下に駆け込む人たちが沢山いた。

部屋に戻ってからは、することもないので職場の人たちの安否を確認をした。
確認が取れて直接話しができて、NJに渡った、という人もいれば、河に飛びこんで船に助けられているのを見た、という人づてに聞く情報だけの人もいた。 連絡の取りようもない、どこにいるのかぜんぜんわからないひともいた。
仕事を再開できる目途なんてまったくないのに、仕事場の人たちのことを心配するなんて変だな、と少し思った。

音楽は聴くことができなかった。これっぽっちも聴きたいと思わなかった。
なんで聴けなかったんだろう、必要としなかったのだろう、と今でもおもう。

ようやく聴くことができたのは、9/20、何かから何かを無理やりひっぺがすようにして足を向けた、Lincoln CenterでのMemorial Concertでブラームスのレクイエムを聴いたときだった。
なにかがそうっと触れて、ふんわりと撫でてくれたような気がした。

その一週間後の9/27、Town HallでWilcoを聴いた。
聴く側は疲れきっていて、バンド側はわれわれを煽ろうとも盛り上げようともせず、静かに、しかしがたがたとなにかを揺らしていった。
その音に揺られながら、"Jesus, Etc."  のあたりでちょっとだけ泣いて、ようやく戻ることができる、と思った。
だからWilcoは今でも、ほんとうに特別なバンドなの。

で、音楽を聴けない、本も読めない状態になっていたあの日、電話機に向いあいながら、いろんなことを考えたはずだ。
その内容は殆ど憶えていないのだが、ひとつだけ、10年後に自分はどこでなにをしているんだろう、と思ったことは憶えている。 
死んでいなかったら、もし憶えていたら、それについてなんか書いてみろ、と思ったことも。

だから書いてみた。
でも、10年経っても、あれらがどういうことだったのか、ちゃんと整理がついていない。
だからとりあえず時系列で並べてみたのだが、だめだわ。

ひとつだけ。  世界はあいかわらずくそで、嫌なことばっかしだ。
ほれ、じゅうぶん予想がついたことだろ、と10年前のバカに言っとく。

そして、あの日の空に昇っていった数千人の魂の横に、あの日の地に向かって崩れていったタワーの横に、ずっと彷徨っていろ、そこにいろ、とおもう。 

 

9.05.2011

[film] Piranha 3D (2010)

8月はなんだったんだ。

金曜の晩、湿気と気圧で脳も髪もまぶたも、要は首から上が完全に死んだ状態で、最初は吉祥寺で爆音"Clean"か、渋谷で「唐獅子警察」にする予定だったのだが、どうもなんかちがう気がしてきて、これはぐさぐさがぶがぶしかねえな、ということで六本木にむかう。

エンドロールのSpecial ThanksにはJoe DanteさんとEli Rothさん(本人もでてる)の名前があって、まさにこの2名をきちんと継承したかんじの、ネイチャースプラッター教訓系ファミリードラマの佳作、だとおもいました。

冒頭、おじいさんがのんびり湖の上で船釣りしていると、地震が起こって湖面に渦ができて、舟がひっくりかえって投げ出されて、がぶがぶにされるの。 これだけのシーンに、なんでRichard Dreyfussが。(JAWSなんてもんじゃねえんだ、てこと?)

地震で湖の下にあった地底湖の間にパスができて、そっからピラニアの御先祖みたいの(ピラニアじゃねえじゃん)が大量に流れてくる、他方、湖畔の町はSpring Break(字幕では「春フェスタ」って。ファミレスかよ)で大量のびろんびろんの若者たちでごったがえしてて、さあどうする、と。

町のシェリフがElisabeth Shueさんで、その息子(たぶんよいこ)はSpring Break絡みのエロビデオを撮りにきた悪監督にくっついて弟と妹の世話をほっぽりだして船に乗ってしまって、母親と子供3人という設定はオリジナルPiranha (1978)のJoe Danteの最新作”The Hole”でもおなじだったし、先は見えるのだが、よいの。

親子兄弟 x エロビデオ撮りの(やや)どきどきと並行して古代ピラニアが大挙して押し寄せた湖畔の惨状がこれでもかと描かれて、それはそれはEli Roth風味のぐさぐさ噛みちぎり食いちぎり管とか穴にもぐっては食い破りとか、そんなのが満開で、それはがぶがぶ食肉系だけではなくて、水難惨劇系(ボートのスクリューに髪が絡まってべりべり、とか逃げようとするボートに轢かれてずたずたとか)がまんべんなく網羅されててなかなか気持ちがこもっているかんじだった。

ぜんたいにお魚ががんばってて、2万年ぶりに明るいシャバに出た魚さん達(しかもまだ稚魚)にとってはおいしそうなお肉ばっかり踊っているので、これはしょうがないかと。ぜんぶ自然現象だし。ある意味。

そういう悪意のあんまない爽快さがあって。

3Dということで、水中と水上の間で遠近あれこれあるのかと思ったのだが、そういうのよか、船上から降ってくるゲロを水面下から、とか、くいちぎられて漂うあれがぼよーんと(画面どまんなかを)漂い、それを魚ががしっと銜えるもののすぐに吐き出す、とか、やりたかったのはそういうことか、と。 でもそんなんでいいの。

あのガキは、自分と彼女が助かりたいからといって瀕死のひとを生贄にしたり、ダイナマイトで魚を大量にふっとばしたりして、いいのか? いいんだよおもしろけりゃ。

Christopher Lloydさんがすごいおじいさんになっててびっくり。テイストはあのままだけど。

もうじき本国で公開される3DDはどんなもんか。 いまんとこまったく見たくないけど。

で、これ見た晩になぜか突然発熱して、週末はほぼしんでました。