10.31.2016

[film] Teenage (2013)

9日の青春映画学園祭、最初の一本。 朝はひどいざーざー降りだった。

英国製作のドキュメンタリー、といっても特定の史実や出来事をそれにまつわる映像記録や関係者証言と共に綴ったものではなく、昔のアーカイブ映像、ニュース映像をある筋書きに沿うよう恣意的に繋いで、そこに現代の俳優の声を被せてある現象、というか、ある時代の要請によって作り出された集団人格の誕生とその趨勢を追う。

題材は"Teenage"で、時代は1904年から1945年まで、それまでは「子供」と「大人」という区分しかなくて、「子供」は産業革命以降の労働力 - 大人の奴隷 - として要請された年齢枠で、その「子供」と「大人」の中間に形成された"Teenage"は迫りくる戦争の予兆を背景に兵力 - 国の奴隷 - として要請されたもの。具体的にはボーイスカウトの設立がそれを準備したのだと。

「子供」も、その後にやってきた「ティーンエイジャー」も、力と声を持たない(かに見えた)社会的弱者をある要請に基づいて集約して使い倒すため意図された人狩りの枠組みで、現代の”Teenage”のイメージがもつ甘酸っぱくてポジティブで無軌道なパワー、のようなものはなかったのだ、と。 これだけだとああそうなんだねえなのだが、時代の別の事情 - 軍需がもたらした好景気とメディアの発達 - が異なる風と光を呼びこんで、ティーンエイジャーは大人たちから離れて自分たちで、自分たちの声や歌やダンスやファッションを、スタイルを作り、語り、広め、互いに影響しあいながらダイナミックに世界を青く染めていくことになる。

それはもちろん、英国だけの話ではない同時多発で、源流となったアメリカがあり、更にはナチスが台頭するドイツでも"Teenage"が巻きおこしたうねりや爆発、それに伴う軋轢の悲劇やごたごたはあり、他方で彼らの勝手な動きが国や体制の想定した枠を逸脱して新しい文化的な何かを生み出していったことは確かで、この映画の作者は可能な限り若者たちのほうに寄り添うことでそこにあったかもしれない希望、可能性 - それはもちろん今に連なる - を摑まえようとしているかに見えた。

原作はPunk関連のテキストやコンピの編纂をしている人だとばかり思っていたJon Savegeさんで、その視座は一貫している。 ノスタルジックにあの時代の若者たちや事象を賛美したり回顧するのではなく、古地図を見ながらそれを現代の地図にremapして新たな革命や扇動の可能性を、その進路と退路を探っているのではないか。
ここに現代の若者(Ben Whishaw、Jena Malone、Jessie T. Usher、等)の声を被せ、現代の音楽(DeerhunterのBradford Cox)を被せたのはそういうことよね。

なのであまり暗いトーンはなくて、バトンは渡ってきているからね、という意志のようななにかが漲っている作品だった。 トラックを作ったのは誰か、というのはあるにせよ。

あともういっこは、おそらくはマーケティング用語として80年代くらいから出てきた(気がする)「ジェネレーション」ていうのをどう見るべきなのか、とか。
こっちのほうが手強くて、めんどいかも。


関係ないけど、Austinで買ってきたCursiveの”The Ugly Organ (Deluxe Edition)”のアナログがあーまりにすばらしいのでびっくりしている。リリース当時のオリジナルもすばらしかったけど、もうぜんぜん別物のクオリティ。チェロは縦横に暴れ回っているし、オリジナルラストの”Staying Alive”の冒頭で広がる星屑の深さと細かさときたら。
あ、それでも彼らのライブにはまったく敵わないのだが。

10.30.2016

[film] High School (2010)

10月8日の2本目、”Tanner Hall”に続けて見ました。 『ハイスクール マリファナ大作戦』。
学園モノってこういうやつよね、てかんじの楽しいドタバタ満載。

Henry (Matt Bush)は奨学金つきで大学に行ける手前の優等生なのに朝に校長の車にぶつけてしまい、その原因はラリって運転していた幼馴染のTravis (Sean Marquette)にあって、これがきっかけとなって久々に打ち解けたふたりは子供の頃に籠ったツリーハウスでマリファナを吸って将来のことを語りあう。

翌日校長はマリファナをやっているふしだらな連中がいるようだから全校生徒に薬物検査をする、て宣言して、前日に吸っていたHenryは陽性になったら奨学金100%アウトなので焦ってTravisと一緒に考えて、PTAが校内のBake Saleで作るブラウニーにはっぱ混ぜて食べさせて学校にいる全員らりらり陽性にしちゃえばいいじゃん! (天才じゃん!)になる。 だから”High” School なの。

こうして大量のマリファナを怪しい元弁護士の売人(Adrien Brody)から盗んでブラウニーに混ぜてバラまいてから先は、らりったPTAとか生徒達が巻き起こすしょうもない大騒ぎと、あのふたりが怪しいと付けねらってくる陰険な校長と、怒り狂って追いかけてくる売人と、Henryを成績Topの座から引きずり落とそうとする二番手のガリ勉と、などなどがぐじゃぐじゃに入り乱れて、果たしてHenryは落第しないで奨学金を得て、明日を掴むことができるのか? なの。

あーこういうふうに落着させて丸めこむんだねえ、ていうか、こっちにもマリファナの煙が漂ってきてもうどうでもええわになってしまったかのような変な酩酊感(やったことないけどねもちろん)があって、おもしろかった。
よいこは正しく生き残って報われて、悪いこ - 大抵校長なんてそういうもん - は徹底的に叩かれて地獄におとされて爽快でたまんない。

マリファナによるらりらりを巡る大人も子供も横並び(ラリったら皆同じよ)の狂った群衆劇で、そういう点では従来の学園モノとはちょっと違うのかもしれない。 抜け目なくとび抜けた優等生 vs 高慢ちきな校長、ていう線だと例えば、”Ferris Bueller's Day Off” (1986) という神のような古典があるのだが、ここにあったのが倫理とは? 成長するとはどういうことか? ていう極めて真っ当な問いだったのに対し、この映画のは、へーいどうしようってんだい? どうなっちゃうんだい? ていうアナーキーで根源的なかんじので、最後は学園を離れた新聞ネタでおわるの。

Harold & Kumar みたいにシリーズ化してもよいのに。 ちょっと弱いかしら。

[film] Tanner Hall (2009)

元のトラックに戻ります。

10月8日、9日の土日に渋谷で行われた青春映画学園祭、ていうので計4本みました。
この土日、ちゃんとした映画マニアのみんなはアンスティチュのフランス幻想怪奇映画特集のほうなのだろうが、わたしはちゃんとしていないのだな。

どっちも雨のなか朝から並んだ。

映画を見れるのはうれしいしありがたいし、学園祭ていうお祭りなのだろうから偽IDとか作って楽しそうでよいのだが、学園も学園祭のノリもそもそもだいっきらいで、でも学園モノ映画は好きていう客もいることを忘れないでほしい。

8日の最初の1本。

Fernanda (Rooney Mara)が休み明けに女子寮のTanner Hallに母と戻ってくるところから始まって、その時ちょうど彼女の幼馴染のVictoria (Georgia King)が入寮してきて、幼い頃、VictoriaはFernandaのおばあちゃんのオウムをわざと籠から逃がした悪い子、ていう印象がFernandaからは消えなくて、ちょっとやな予感がして、実際そのとおり寮の玄関の鍵をコピーして好き勝手に外出できるようにしたり、ずけずけきんきんしたビッチの振る舞いをたっぷり披露してくれて、この他に奔放な小悪魔(←死語)ふうKate (Brie Larson)と、内気で絵を描くのが好きなLucasta (Amy Ferguson)と、この4人の寮生活を巡るいろんないざこざとか和解とか赦しとか。

Fernandaと彼女の母の友人の夫との切なくどんよりした(互いに突き抜けることができない)逢瀬とか、Victoriaのコピー鍵を使って抜け出して夜の遊園地にみんなで出かけたりとか、Kateと冴えない教師Chris Kattan (! Mango !)の火遊びとか、なにをやるにも悪いことばかりのVictoriaとか、どれも学園ドラマにありがちの設定ばかりなのだが、彼女たちはこの中で生きるしかない(Live Through This)、というのとなにをどう呪っても吐き出してもしょうがない、どうしろっていうのよ、というそれぞれの強い眼差しとその交錯を静かに追う。 誰も信じない。頼らない。でも。

それを美しいとも言わないし愛おしいとも思わない、最後にFernandaがVictoriaを受けいれるように、それは秋のTanner Hallの扉の向こうで、ただ起こったこと、それだけ。
車の窓越しに外を眺めるRooney Maraの姿は、"Carol" (2015)でのThereseにすうっと重なってくる。それは諦念ではなくて、決意と覚悟を固めて扉を開こうとしているとしか思えないの。

でもねえ、デートでレコ屋に行ってThe Replacementsのアナログを買うような中年男はしょうもないろくでなしだから注意しろ、てFernandaに言ってあげたい。

とにかく、ラストに流れるStarsの“Your Ex-Lover Is Dead”が見事に締める。 2010年9月にBrooklynでこのバンドのライブを見たとき、ライブの最後がこの曲で、イントロが鳴り出した瞬間に周囲の女性ほぼ全員が深く頷いて拳を握り、前を向いて一緒に歌いだしたことを思いだす。 この曲はこの時代の子達にとっての”Love will tear us apart”であり”There is a light that never goes out”なのだとおもう。

そして、同じようにエンディングにStarsの”Dead Hearts”が流れる”Like Crazy” (2011)もぜひ上映してほしい。 Anton Yelchin追悼もまだしてないでしょ。

10.29.2016

[log] NY Austinそのた2 -- Oct 2016

帰りの飛行機で見た映画ふたつ。

Les héritiers (2014) 『奇跡の教室 受け継ぐ者たちへ』
パリ郊外の、割と貧しい層の子たちが通う、人種も宗教もばらばらで荒れ放題の高校のあるクラスで歴史と美術史を教えるアリスがいて、教えるのが大好きという彼女のいうことを子供たちは割と静かに聞くので、彼女は国の歴史コンクールに参加しよう、という。
テーマは「アウシュビッツと子供」で、始めガキ共は暗いしわかんねえし、とか言っているのだがのめりこむようになって、みんなでがんばってやがて一等賞をとりました、ていう実話の映画化。
実話そのもの - アリスの教育者としての姿にもいろんな境遇の子供たちの努力にも - あまり感動はしない - いやよい話だとは思うけど - のだが、歴史を学ぶ/歴史から学ぶ、っていうのはどういうことか、歴史っていうのはいったい誰のものなのか、などがとても具体的に描かれているなあ、て思った。「悲惨な歴史を繰り返してはならない」って口先だけのスローガン掲げて「自分たちにとって」都合の悪い歴史を削除しまくろうとするどっかの国の文科省連中に見せてやるべきだわ。

Criminal (2016)
ロンドンのCIA支局のBill (Ryan Reynolds) がある機密 - 米国の全ての兵器を遠隔でコントロールできるハッカー+ワーム一式 -とその見返り報酬を隠そうとしたところで敵につかまって殺されてしまうのだが、CIA側は脳外科医に依頼して死んで時間が経ってない彼の記憶を生きた人間に移送してBillの最期の記憶を甦らせようとする。
移送される側は超凶悪犯罪常習の死刑囚Jerico(Kevin Costner) で、なんで彼かというと幼い頃から脳の一部が欠損していてそこがこの手術の場合は適合するのだと、怪しげな医者(Tommy Lee Jones)は言って、この件に執念を燃やすCIA支局長(Gary Oldman)もやるしかねえだろで、こうして素行はめちゃくちゃ凶暴で血も涙もないが頭脳やスキルはCIAのスパイ並み、ていうフランケンシュタインが誕生して、彼は頭痛の波に悩まされて頻繁に勝手に再生されるBillの記憶にも悩まされて、彼の記憶が導く彼の妻と娘にも悩まされて、当然機密も確保して世界を平和にしなくちゃいけなくて、とにかく大変なの。
でも改造ヒーローもののような威勢のよさとか爽快感は全くなくて、遺された家族のところに帰ろうとする記憶とエモ、勝手に変なもの埋めこみやがって、と怒るJerico、薄汚れたおじさんの登場にひたすら怯える家族(妻がGal Gadot)、勝手な行動するんじゃねえ、て切れまくるCIA、などなどの絡み合いが面白くて、ぼろぼろのKevin Costnerもびっくりするくらいよくて、周りもみんなうまいし、拾い物でしたわ。


レコード屋、NYではAcademyの12thに行っただけで、でも我慢して買わなかった。
本屋、Academyの後のいつものコースでMast Books行って、McNally Jackson行って、本と雑誌を少しだけ。

MastではGraham Macindoeの”All the Young Punks”。
自分の持っているパンクの7inchとかチラシとか切り抜きをぼけぼけの写真で撮っているだけなのだが、なんかよいの。

Under the Radarのthe Protest Issueとか、Hillary表紙のBustとか。
http://www.undertheradarmag.com/issues/31576/

Austinは、空港内にレコード屋があってばんざいして、ホテルに入ってからGoogle mapで”Record Store” って検索したら周辺にわーっと赤いのが立ったので鳥肌がたって、こんなの、出張に適した土地とはいえませんわね。

手始めに会場から歩いて10分くらいのとこにあったEncore Recordsていうのに、ちょっとだけ抜けて行った。
お店の前に”45s for 45¢”て張り紙がしてある(7inchいちまい50円)。
ハイウェイ脇の薄暗い倉庫みたいなとこで、アパレルとかも売ってて、アナログとCDがざーっと箱から出しただけ、みたいな状態で積んであるようなとこで、品揃えは悪くなかった。けど買って帰るわけにはいかない状態だったのが少し残念だった。 あと通過するハイウェイの高架の下で半裸でごろごろしている人たちがいっぱいいて、通るときちょっと緊張したかも。

Waterloo Records空港内に出店していたのはここで、水曜日の晩、ホテルからだらだら歩いて20分くらい。
あーここあるわ、て店を見たかんじでわかるのだが、まあそういうとこ。
平屋でCD, DVDが半分、アナログが半分。中古も結構ある。
12inchと7inchを割といっぱい、ひさびさに買った。
ようやくめっけたCursiveの”Ugly Organ”のデラックス盤とか、SUMACの"The Deal"とか、"Carol"のサントラ - 10inchの2枚組とか、中古だと、昔のThe Fallとか。
7inchは、ColossalとOwenのSplitとか、Charli XCXの”No Fun”とか。

それにしてもなんか、日本に入ってきているアナログ盤の種類、少ないよね、て最近よく思う。
せいぜい週一回、Disk UnionとタワレコとHMVくらいしか行ってないくせにいうな、かもしれないし、そもそも全部輸入できるわけなんてないんだし、ていうのはわかっているけど、現地のお店に出ている分量からすると圧倒的に少ない印象がぬけない。あと値段高い。 洋雑誌とかもそうだけど、為替105円としてもなんであんな倍近い値段になっちゃうの? いつからこうなっちゃったのかしら。

つまりは洋楽は売れない、マーケットとして小さいから、ていうのがあるのだとしたら、ぷーん、だし、でもそうやっていると本当に聞きたいひとはデジタルで落としたりストリーミングで聴いたり、ますます店頭には向かわなくなってスパイラルで縮小していっちゃうよね。 別にいいけど。 ぷーん。
この傾向 - 確実に売れるのしか入らない/入れない - って洋楽だけじゃなくて洋画もだけど、これが国内のものを見よう聴こう! それでいいじゃん - の大きな志向とか流れのなかの話だとしたらつくづく気持ちが萎えて嫌になる。 やはり移住するしかないのかなあ。

とにかくなんでAustinで”Waterloo”なのかわかんないけど、すばらしいお店だった。

で、その通りを隔てた反対側にあったのがBookPeopleていう2階建ての本屋で、中にカフェがあってゆったりしていて(SeattleのElliott Bay Bookみたいなかんじ)、雑誌くらいしか買わなかったけど、いやー素敵、だった。 どっちのお店も23時までやってるし。

更にその反対側(Waterlooからみると対角線向こうの角)にはでっかいWhole Foodsがあって、これで角の3/4が埋まって、もういっこの角に映画館でもあったら、もう引っ越すしかないわ、になる。 いいよねー。

10.28.2016

[log] NY Austinそのた1 -- Oct 2016

先週土曜日に米国から戻ってきたとこで風邪ひいて、そのまま上海いって、戻ってきて少し熱ひいたと思ったらもう片方の目に結膜炎がうつった。 さいてー。

NYとAustinの食べものとか。今回はあんまないけど。

NYでは日曜の昼と夜だけ。昼はCafé SabarskyでBeet SaladとUngarisches Rindsgulasch mit Spätzle(グラーシュね)とWiener Eiskaffee (ウインナーアイスコーヒーね)をいただいて、相変わらずおいしかったのだが、それよりとにかく目を覚ましたかったかんじ。

晩は、21:00から映画で時間もなかったしお腹もそんなにすいていなかったのでLincoln Center内に数年前にできた”Lincoln”ていうイタリアンに初めて入った。 オープンキッチンでとってもしゃれたデコールでパスタもおいしかったのだが、ここに来るときってだいたい映画目的だから、ポップコーンでいいのよね(Walter Readeのポップコーン、おいしいし)とかしょーもないことも思った。

Austinでは、月曜日の晩がWelcomeのパーティご飯で、火曜日がいちんちホテルのコンファレンスのご飯で、水曜日以降はでっかいイベント会場でのコンファレンスご飯だった。
ホテル内でのご飯はふつーにホテルのステーキランチみたいので、どちらかというと休憩時間に廊下に並べられる地元のドーナツとかお菓子がたまんなくおいしくて、店名書き留めておくんだった。 あとBourbon infused Iced Teaていうのがあったので飲んでみたらふつうにバーボンでなに考えてんだ、ておもった。おいしかったけど。

イベント会場でのコンファレンスご飯、ていうのはふつうケータリング業者が一括で仕切って大抵まったくおいしくない、刑務所の飯とかいう人もいるくらいなのだが、地元の屋台を呼び込んだここのはおいしかった。
朝はさすがにふつーのベーグルとかデニッシュとかヨーグルトとか、なのだが、朝7:30から地元のシンガーとかバンドの人達がフロアの真ん中でライブで演奏してて、大変だねえ、て思いつつさらさら歌っていてとっても気持ちよく素敵だった。 音楽の都なんだねえ。

水曜の晩と木曜の晩はひとりレコードを求めて町に出て、帰りにハンバーガーとホットドッグ食べた。
ハンバーガーに関して、わたしはグルメバーガーみたいのは信じてなくて、たんにぺたんこでシンプルでぱくぱく食べれのがよくて - 起源は90年代に出会ったP.J. Clarke'sあたりかしら - だから最近の日本のバーガー動向にはなんか辟易、なのだが、水曜日のレコード屋の帰りになんとなく入ったHut's Hamburgersていうとこはすてきだった。 店内には昔のテキサスの洪水のときのAustinの様子とか昔のアメフトヒーローの写真とかがべたべた貼ってあって、よいかんじで、バーガーはあっという間に消えてしまったのだが、あんなふうに軽く食べれるのがいちばんよね。

http://www.hutsfrankandangies.com/extra/hutsmenu.pdf

木曜日レコード屋の帰りに入ったホットドッグ屋 - Frank Restaurantていうとこに入って、Chicago Hotdogてのを頼んだのだが、まあおいしいの。ぱりぱりぎゅうぎゅうのソーセージとふにゃふにゃのパンの組合せがおいしければそれだけでよいの。 あと、ベリーとシリアルの粒がまぶされたシェイクもすごくおいしかった。

http://hotdogscoldbeer.com/austin/eats/

ハンバーガーとホットドッグとドーナツがおいしい町、ていうのは理想だよなー。
て何度もおもいました。

10.26.2016

[talk] Malcolm Gladwell

20日の木曜日、イベントのクロージングでパネルがあって、そこに出てきたふたりの話をメモとして書いておく。 主催者とかスポンサーとかからは一切フリーなふうで、テーマは一応”Innovation”周辺、らしい。

最初に出てきたのがMalcolm Gladwellさんで、彼の話を一番聞きたかったの。
わたしはまだBlackberryユーザーなんですけど… と始まって、プレゼン資料とかは一切使わず、立って喋るだけのその姿はコメディアンのようにも見えなくもないのだが、今は偉人とされている人たちの”Innovation”がかつてSocialなところとの境界でどんな波風を立てたり影響を与えたりしたのか、について。

一人目は60年代、当時治癒率はほぼゼロだった小児の白血病の治療法 - 4つの薬を同時に与えるのではなく投与の順番を変えることで治療法を開発した - これが現在のChemotherapyの礎となった - Emil J. Freireich, Jrのこと。
彼のまわりで子供がばたばた亡くなっていくので周囲からは散々攻撃され、ナチスとまで呼ばれた彼は決して研究の手を緩めなくて、それを支えていたのは彼のなかにある” Sense of Urgency”だったという。

もう一人は誰もが知ってるSteve Jobsで、79年、Xerox PARCの研究所でGUIとマウス(鼠じゃないよ、ころころだよ)を見せられて、それまで仲間と進めていたLISAの開発を止めてもっと安価に提供できるGUIとマウスの開発に切り替えた。 この時の彼を突き動かしていたのも” Sense of Urgency”で、一緒にやっている人達からみたら”Disagreeable”なかんじで、この辺はあの映画にもあったけど、意固地で何考えているかわかんないふう、なんだよね。

最後のひとりは、IKEAを創ったIngvar Kampradで、スウェーデンで家具屋やっていたのにコストを抑えるためにポーランドから組み立て前のぺたんこな状態で配送することを考えた ? このひとも現状にまったく満足していなかった変なひとだった、と。

Malcolm Gladwellさんの次に出てきたのがKevin Kellyさんで、Wiredの創刊メンバーで、『テクニウム』とか『インターネットの次にくるもの』とか、日本でもゆーめーなひとよね。

次の25年でテクノロジーのランドスケープはどう変わっていくのか。

きたぞ大風呂敷。

スライド上にBig Questionをでーんでーんと放り投げ、その解を与えないまま次に転がしていく。
サービスのありようとか、その優位性が「所有」から「アクセシビリティ」に変わってきたところで、数十億の人達とデバイスが同時に繋がっている共時性/リアルタイム性が常態化した今を”Technological super-organism”と名付けて、我々は始まりの始まりにいるのだ、次の20年を代表するような圧倒的な発明はまだ生まれてきていない − 今からでも遅くはないのじゃ、ていうの。
じじい、あんたがやれ。 て会場の何名かは思ったはず。

3人目に出てきたのはサブスクリプション・サービスを始めたBrooklynのベンチャー企業のひとで、これからサブスクリプションの時代が来る! ていうのはとってもわかりやすいし、そうだよねえ、て思うのだが、なにかがちょっとだけ早すぎる気がしないでもない。 それはなんなのか?

で、この3人を置いたパネルディスカッションなんて纏まるものになるとは思えず、時間切れであっというまに終わった。 でもおもしろかったなー。

[art] Klimt and the Women of Vienna’s Golden Age, 1900 - 1918

NYとAustinの美術館関係 - ふたつだけど - を纏めて。

もう書いたけど、NYに着いて最初に地下鉄で向かったのはNeue Galerieで、行列ができているのにびっくりしつつもCafé Sabarskyでお昼を食べてから中に入る。

Klimt and the Women of Vienna’s Golden Age, 1900 - 1918

展示はいつもの3階ではなく2階のワンフロアのみで、Klimtの描いた当時の女性のポートレートが中心。(3階では”Masterworks from the Neue Galerie New York”ていう入門篇を)

既に十分にゆーめーなAdele Bloch-Bauerのポートレートがふたつ - 1907年のと1912年の。映画で有名なのは1907年の。ふたつをいっぺんに見れるのはたぶん、今のここだけ。

それよりもよかったのは"Portrait of Mäda Primavesi"  (1912)のふんばった二の足。 1912年のパンク女子、ってかんじの目つきとおしゃまな妖気と。
これも1912年のAdele Bloch-Bauerも"Portrait of Elisabeth Lederer" (1914-16)も、背景がとてもカラフルでこまこま楽しいのと、全身足の先まで描いているところがおもしろくて、かっこよいの。 Klimtって、猫のひとなんだよねえ。

やや暗めの別室にあったデッサンもどこか箍が外れていてなんかたまらない。

カタログは買うしかないでしょ、てかんじで買う。 相変わらず重いけど、ここのカタログはぜんぶ揃えてやらあ。


Warhol By the Book

20日の木曜の午後、タクシーで向かった先のBlanton Museum of Artで見ました。
テキサス大学オースティン校のキャンパス内にある美術館。
木曜日は入館タダの日だそうで、校外授業みたいので来たらしい子供たちがいっぱいいた。

「本」にフォーカスしたウォーホルの展示。今年の1月までAndy Warhol Museumでやってその後にThe Morgan Library & Museumに行った展示の巡回と思われる。
有名な80年代の日記は勿論、ブックカバーのデザインをしていた最初期の頃のとか、彼のアート全般は、「本」 - 印刷物、大量コピーもの、を意識しながら動いていったようなところもあるので、あーそうかー、とか思いながら見ていた。 シルクスクリーンだとカポーティとかゲーテとか、作家に関係したのものや、いつもの”Screen Test” (1966)もリピートしていたし、彼の雑誌の”Interview”の古いのとか、彼がデザインしたレコードジャケットのアナログ盤は自由にかけられるようになっている。

おもしろかったのは彼の学生時代の蔵書の一部。「世界美術史」とか、教科書の他にGertrude Steinの"The World is Round" ("Rose is a rose is a rose..”で有名)とか、マティスの小さな画集 - 「彼の色使いは案外マティスに影響を受けているのかもしれません」て解説にはあった。

あとはブックデザインで見ることができる初期のデッサン画のなんともいえないよいかんじ - 猫とか豚の丸焼きとか。
この時代を押さえておくと、彼をスープ缶のひと、なんて言えなくなると思うわ。

もういっこ、Warholの隣の部屋でやっていた展示が -

Xu Bing: (徐冰) -  Book from the Sky (天書) 1987 - 91
かくかくの漢字が壁4面にびっちり。更に天から布にびろびろと織り込まれて降ってくる。
デザインとしての漢字、ひとつひとつが意味のキューブであるところの漢字に囲まれていることの安心感と不安と。 考えてはいかん、見たら石になる、とか思ってしまうのはなんでか。

パーマネントコレクションも見たかったのだが、ここは改装中でやっていなかったの。

[film] Masterminds (2016)

20日木曜日の午後、Austinの高速道路沿いにぽつんと建っているシネコンでみました。
仕事のイベントは午前で終わりで、午後には週末のF1(車が走るやつ?)に向けたセットアップが始まるとかで追い出されて、日本人向けの市内観光ツアーとかもあるらしいのだが、そういうのは聞かなかったことにしてホテルに戻り、お出かけ準備をして、ホテルのとこでUberを呼ぼうとしたらアプリから、AustinではRegulationで認められていない、とか言われてしょうがないから普通のタクシーでまず美術館に行った。もんだいはテキサス大学内にあるその美術館からどうやって映画館に行くかで、しばらく道端で突っ立っていたのだがタクシーなんて来そうにないので、地元のものと思われるタクシーアプリを落としてなんとか呼ぶことができた。

こういうシネコンてショッピングモールのなかにあることが多いので、なんか暇は潰せるじゃろ、とまずは行ってみたものの、周りにほんとなんもないところで、4:30の上映開始まで1時間以上あったので、なかに入って途中から見ちゃった。 客は他にひとりだけ。

監督が“Napoleon Dynamite” (2004)、”Nacho Libre” (2006)のJared Hess で、Zach GalifianakisにOwen Wilsonが出てて、更に新Ghost Bustersの4人のうち3人が出ていて、プロデュースにSNLのLorne Michaelsの名前があるんだからこんなの見ないで帰るわけにはいかないでしょ、だったの。

97年の10月、North Carolinaで起こったLoomis Fargo Heistて呼ばれる現金輸送車による米国強盗史上最大額(17million)の事件の実話がベースで、このキャストだと余計にほんとかよ、感が滲んでしまうのだが、いまは出所している当事者たちがコンサルとして入っているとか、どうも割とまじに作っているらしい。

現金輸送車の運転手をしているDavid (Zach Galifianakis)はアツい婚約者(Kate McKinnon)もいてふつーに幸せのはずなのだがなんか物足りなくて、職場のKristen Wiigが気になったりしているときにSteve (Owen Wilson)に身近な現金の強奪に誘われて、倉庫にあった札束をがしがし車に運んでなんとかやっちゃうのだが、監視カメラの映像とかからFBI (Leslie Jones)に目をつけられて、やばそうなので偽名を使っていったんメキシコに高跳びするのだが、Steveの差し向けた狂った殺し屋 (Jason Sudeikis )が追ってきて、Steveのやろう~、てなって、さてどうするのか。

ていう実話なので、あまり荒唐無稽ではないふつーの犯罪話 - 誰が首謀の、いちばん悪い奴- Masterminds - なのか、一番金を貰うべきなのは誰や -  に各登場人物の、というより各俳優のギャグやドタバタが練りこまれていて、映画の焦点がそこをおもしろいと思えるかどうか、になってしまっているとこがきつかったかも。TVドラマでもいいんじゃないか、とか。

でもわたしは彼らみんなのバカバカしい冗談も挙動も大好きなのでふつーにへらへら見て楽しかった。
Kate McKinnonとKristen Wiigの取っ組みあいとか、Jason Sudeikisの狂いっぷりとか、エンドロールのNG集も、おもしろいよう。

この日の晩から金曜日オープンの"Keeping Up with the Joneses"ていうのも上映されることになっていて、監督は"Superbad"(2007) - "Adventureland" (2009) - "Paul" (2011)のGreg Mottolaで、Zach GalifianakisとかJon HammとかGal Gadotが出るスパイもので、こっちもおもしろそうだったので続けてみようかなー、だったのだが、Zach Galifianakis漬けの一日になってしまうのはどうか、て思ったのと、もういっかいレコ屋に行きたくなってしまったので、あきらめたの。

10.21.2016

[log] October 21 2016

けさ - 金曜日の朝の4:44に起きて支度して、6時にホテル出てAustinを発って中継点のChicagoまできました。

ほんとはほんの少し遅めのDallas経由便のはずだったのだが、昨日の午後に携帯が鳴って、嫌だったらそう言っていただいてぜんぜん構わないのですが、便をChicago経由のに替えてくれないでしょうか? 見返りにシカゴ - 成田はファーストにしてあげることができます、あと成田ついたら3000円あげます、て言われて、3000円あればレコード一枚買えるよね、と どちらかといえばそっちに負けてこうなった。

Austin、初めてだったけどなんだかとってもよかった。 この近辺 - Texas周辺 - でこんなによい印象 - ここなら住めるかも - をもてた街はこれまでなかった。
よいレコード屋があってよい本屋があって、食べものは基本は南部の濃い口だけど不思議と洗練されてて(わかんないけどね)、暑くもなく寒くもなくて夜歩きしていると必ずどこかからライブの音が聞こえてきて。

大きな湖 - 川だと思った - があって、雲の形がいつ見あげても素敵で、ひこうき雲も沢山あって、ぎーぎー鳴く変な鳥がいっぱいいて、モダンな建物はどれも基本ださいけど古い朽ちたような建物も沢山残っていて、悪趣味が適度に受容されていて、いくら歩いても飽きない。
でも夏はあっついんだろうなー。

お仕事のイベントも、Alabama Shakes - Brittanyのシャウトを聞けたし、Malcolm Gladwellさんの立って喋る姿も見れたし、いろいろお勉強になったし。 あ、日本人のみなさんにはほんとにごめんなさいね、ああいうとこでの集団行動ってまぢ耐えられないの。

NYも合わせると美術館2、映画2、演劇1、レコ屋3(買ったのは一軒だけ)、本屋3、Whole Foods1。
こんなもんかー。
空港でもレコード屋開いていたのだが、さすがにもう買わなかったわ。

最大の誤算はUberが営業していなかったこと。 ちょっと痛かった。

日本には土曜日の夕方に着いて、日曜日の午前には上海 - 仕事に決まってる - に飛ぶことになっていて、そこには私用のPCは持っていかないので2〜3日ここの更新は止まる。
カニなんて別にさあー。 ぶつぶつ。

ではまた。

[film] Billy Lynn's Long Halftime Walk (2016)

16日の晩、21:00にLincoln Centerで見ました。
NYFF (New York Film Festival)の公式の上映は15日の晩で終っていて、メイン会場のAlice Tullyも片付けられていて、でもこの日はアンコールのようなかたちで何本かが周辺のシアターで上映されていて、まだNYFFやってるんだから。チケットだって$45もするんだから。 ほら、Kent Jonesさんがあそこで談笑しているし。

この晩は他にMia Hansen-Løve さんのも上映されていたのだが、なぜかこのAng Leeの新作にした。 2012年のNYFFのオープニングを飾った“Life of Pi”(ライフオブ ”ぴ”)のお祭りのイメージがあるからかしら。

上映前には毎年恒例のNYFFの上映作品をこまこま繋げたかっこいいトレイラーが流れる。 これだけでとても盛りあがる。
TIFFのチケット騒動をこっちに来てから知って、ご愁傷様としか言いようがないのだが、元々そういう映画祭なんだよ。あの映画祭は国と企業スポンサーと金払う必要のない評論家やバイヤーのためのもので、運営する人たちにとって我々一般の観客なんてどうでもいいの。だから驚かない。ほんとうに頭にくるし軽蔑するし恥ずかしいし悲しいことだ。 くそったれ。

19歳のBilly Lynn (Joe Alwyn)と彼の属する小隊は911に対する報復として行われたイラク戦での勇敢な行為(上官のVin Dieselは死んじゃうのだけど)が讃えられ、2004年のThanksgivingのNFLゲームのHalftime Show - 音楽ゲストはDestiny's Child -もちろん本人達じゃない - にお国の英雄として呼ばれて、小隊の仲間とスタジアムでのHalftime Showに参加する。

自身もいろいろ問題を抱えた姉のKathryn (Kristen Stewart)は弟の挙動にPTSDの徴候を見て医者に行くように勧めるのだが、メディア関係者、映画化を狙う人たち、政治家、いろんな人たちが寄ってきていろんなこと言ったり誉めたり喧嘩売ってきたり慌ただしいし、他の仲間はべつに平気みたいだし、ここで萎んだり錯乱したらみっともないし、とにかくいろんなことが頭をよぎって涙や汗が勝手に溢れてきて大変なの。

映画はアメリカ、としか言いようがないHalftime Showと周囲の狂騒 - その轟音や電飾や花火に突っつかれる形でBillyの頭に蘇る戦場でのいろんな記憶や妄想を交錯させつつ、戦争の、というよりアメリカの狂っているんだか正気なんだか、のあり様を描きだす。 みんながそうなのだったらその状態を「狂っている」 なんてとても言えないよね、とか。

映画史上初の120 Frame rateを使って3Dで撮られていて、なので戦場での戦闘(殺しあい)のさまも異様にクリアでゲームやVRの映像を見ているようで、Halftime Showの大騒ぎもフットボールのぶつかり合いもおなじ粒度/光度のやたら鮮明なデジタルTVのキンキンする、しかし圧倒的な経験の矢となって温厚なBillyの頭を刺激してくる。

“American Sniper” (2014)が覗きこむ敵の頭を打ち抜くための照準レンズの視野をBillyの目に置き換え、360度拡げてアメリカ全体を捉えようとする。 なんのために? それは誰も問わない。ことになっている。
なんといってもBillyは英雄なんだし。 いけないことはなにひとつないじゃないか。

“Life of Pi”にもあった、人をつき動かす(死なさず生かしておく)得体の知れないでっかいなにかを丸ごと捕まえようとするAng Leeの野望はここにもあって、それは成功しているとも失敗しているとも言えないかんじなのだが、でもそれって映画の風呂敷がやることのひとつだよね、という気がするので、なんか好きなの。

Kristen Stewart、ほんとうにすばらしい。

今晩のSeth MeyersにはLena Dunhamさんが出ていた。 すてきだねえ。
音楽ゲストはLiving Colour ...

3時間後に立ちあがってパッキングをはじめるからね。

10.20.2016

[theater] Letter to a Man

16日の日曜日、15時にBAM(Brooklyn Academy of Music)のHarvey Theaterでみました。
チケットはあたりまえのように売り切れていたのだが、いつものように諦めずつっついていたら取れた。 そうあるべきよね。

演出Robert Wilson、音楽Hal Willner、で上演はBAM、となったらそろそろLou Reed追悼のなんかをやってもおかしくないと思うのだが、ここでなぜかニジンスキーの手記が出てきた。

Mikhail Baryshnikovによる一人芝居、というかダンス。 この(いろんな意味で80代な)3人が揃うのなら見なければいけない、というかんじにはなる。 70分、一幕のみ。

会場のHarvey Theaterはメインのオペラハウスから歩いて5分くらいのとこにある古い廃墟のような劇場で、雰囲気も含めて大好きなところ、久々に行けたので嬉しかった。
Harveyに行く前にオペラハウスの方にも寄ってシネマテークのパンフとかをピックアップする。行けないのにさ。

猫映画特集がはじまるよ。
http://www.bam.org/film/2016/13-cats

降りた幕の真ん中に仏壇の遺影のようなかんじで金縁のニジンスキーの肖像写真が飾ってあって、時間が来るとそこに白塗りのニジンスキー(Baryshnikov)が浮かんでいる。
「戦争のことはわかるんだ。義母とさんざんやったからさ」というフレーズが英語、ロシア語、いくつかの言葉で反復される。

以降、第一次大戦時にハンガリーに拘留された後の1919年、統合失調症を発症して精神病院に入院するまでの間に書かれた手記の断片をコラージュ/反復し、壊れてしまったニジンスキーが20世紀初の輝かしいキャリアも含めてノスタルジックに回顧しつつ、舞ったり宙づりになったりするその身体を。

ミニマルな舞台装置に照明、ところどころノスタルジックな音楽(Arvo Pärt, Tom Waits, Henry Manciniなど)がふんわりと転がり、これらの暴力的な切断、緩慢で芝居がかった動き、上の空、白塗り、などなど、Robert Wilson的な記号がいっぱいで、ここでのニジンスキーを”Einstein on The Beach”のアインシュタインと同じような位置で見てよいものかどうか、はまだ少し考えている。 物理学に、バレエに革命を起こした人たち、彼らと20世紀の戦争との関わり、そこでの個人の心象風景を現代の我々が見ている風景・歴史観にまで敷衍してみせること、その可能性も含めて舞台上にあげてしまうこと、などなど。

“Letter to a Man”の”Man”、ていうのはニジンスキーと同性愛の関係にもあったディアギレフのことで、後半は彼に対する愛憎 - 彼に凡人て言われたとか、そんな嘆き節みたいのばかりで、やがて”Man”の言葉は神の言葉として彼の精神をぎりぎりと縛っていくようになって。

壊れてしまったバレエの天才の晩年を演じるのに68歳のMikhail Baryshnikov以上に適した人がいるとは思えなくて、舞台で見たのは00年代の彼自身が主宰していたThe White Oak Project以来だったが、ぶるぶる震える肩の動きとか瞬間で逆さ吊りになったり(あれ、どうやっているんだろ)、変わらず素敵だった。 もうちょっとだけ動いてほしかったけど、しょうがないわよね。

あと、この”Man”って、”I’m Waiting for the Man”の”Man”と同じようなあれだよね、とか。


BAMの周辺、駐車場がいっぱいあったのにきらきらした高層ビルが建ち始めていて、なんかやなかんじになっていた。 あんなふうに風景を変えてほしくないんだけどー。

10.19.2016

[music] Alabama Shakes

けさ(10/18)、清々しく目覚めてしまった気がして時計を見たら8:40だったのでたいへんびっくりして、起きてすぐにびっくりすることも慌てて支度することも滅多にないのでああなんか社会人みたいだ、とか思いながら12分で支度おえて9時開始のやつには間にあった。 同じホテルのなかでやっていたのがラッキーだった。

で、日中はいろいろあってとっても消耗したためになったそのイベントのWelcomeでAlabama Shakesのライブがあったの。 20:00 - 21:00の1時間だけだけど見れるなら行くわ、ていうのがここにきた一番のひとつの動機なの。

会場にはテキサスご飯の屋台がいっぱい並んでいて、BBQにチーズサンドイッチにナチョスにチリにバーガーにピザに(これらほとんどヴィーガン対応してる)、カップケーキにアイスクリームに、いくらでも出してくれるしぜーんぶ食べ放題の飲み放題のお祭りなの。 BBQとチーズサンドとチリとアイスクリームたべた。どれもふつーにおいしい。 他には変な格好とか顔とかの写真を撮って加工してくれるのとか、Haiku Guysっていうタイプライターでオーダーメイドの俳句を作ってくれるおしゃれな4人組とかがいた。

会場のまんなかに円形のステージがあって、でもここは前座用でThe Peterson Brothersていう4人の若者が演奏してて、彼らはAustinのUnder18のバンドコンテストで1位になったと。めちゃくちゃ落ち着いててうまいったら。

メインのステージはこの円形のではなくて奥のほうにあって、食べ終わったらすることもないので(ネットワーキング? けっ。)、前のほうで立って待ってた。

イベントなので20:00きっかりに現れて、”Future People”から始まって、4人のほかにキーボード1人とバックヴォーカルが3人。 大好きな音なのでもうよだれ垂れ流すしかない。
例えばAl Greenの音にある内に籠るような中毒性 - ヘッドホンして音に浸っていくらでも、が彼らのしなる音にもあって、気持ちいいこと。 ライブはもうちょっと緩くなっていたが。

それにしてもBrittany Howardさんのかわいいことすごいことおもしろいこと。
ギターも耳にひっかかる箇所はぜんぶ彼女が弾いていることがわかったし、とにかく表情がすばらしくよいの。 最近の顔だと”Me Before You”の彼女とRooney Maraの仏頂面に匹敵するおもしろさだった。 音も顔も、見ててまったくあきなくて、まっすぐこちらに向かって刺さってくる。

真ん中くらいからの”Always Alright” - “Joe” - “Sound & Color” - “Don’t Wanna Fight” - ”Gimme All Your Love” - これがラスト - まで、ほんと、泣きたくなるくらいよかった。 久々にライブに浸かった気がした。

東京公演も追加が出たようなので行こうかなあ。

Seth Meyersのレイトショーの番組バンドのドラムスをToolのDanny Careyさんがやってる。
すごく楽しそう。

10.18.2016

[log] October 17 2016

NYには日曜日の10:30過ぎ、ほぼ定刻に着いた。
機内はなんでかものすごく混んでて割と直前にNY行きを追加したもんだからビジネスは取れなくてプレエコで、しかも片目状態なので小さいスクリーンだとあんまよくわからずだし、ほとんど見てるやつだったしそんなに見たいのもなかったので体まるめてしんでた。 周りは席につくなり靴下を脱いで裸足になってしまうおっさんだらけで、あれはなんだろうねえ、て思った。

映画はJALのNY便就航50周年記念でお勧めのNY映画、て書いてあった"Autumn in New York" (2000)ていうのを見た(見たことなかった)。
まだまだだいじょうぶですから、ていうかんじのRichard GereとWinona Ryderがしみしみと凍える冬に向かってがんばって、でも萎んでいくメロドラマだったが、後におっそろしくなんも残らない、ただの洞穴みたいなやつだった。
あとは”X-Men: Apocalypse”のQuicksilverによる”Sweet Dreams (Are Made Of This)"とJean Greyがさいごにぜんぶ持っていっちゃうとこだけみた。

ホテルに入って荷物バラして地下鉄のって86thに着いたのが12:30頃。
Café Sabarskyでご飯たべてNeue Galerieで展示みて、買ったカタログが重かったので一旦ホテルに戻って置いて、Brooklyn Academy of Musicで舞台みて、マンハッタン戻って12thのAcademyレコ見て(買わなかった)、Mast Booksみて、McNally Jacksonみて、Lincoln Centerいって食事してからNYFFの最後のいっぽんをみた。

あの界隈で深夜まで安くておいしいヌードルとか点心とかを出していたOllie's Noodleがなくなっていたのがショックだった。

こんなふうにNY滞在はあっというま、気がついたら終ってて、ずっと焦ってじたばたしているから視野は驚異的に狭いし元々見えないし、なにしてたのかしら? の印象しか残っていない。毎度のことながら。

今朝は大慌てでパッキングしてチェックアウトして、8:00から会議に入って11:30にそこを出てNewarkに向かったのだがTimes Squareまでの道路がぱんぱんでいっこうに前に進まず、空港着いたらぎりぎりで、こういうときに限って持ち込み荷物がセキュリティで引っ掛かって、でこういう場合のいつものように中にみっしり詰まった本とか雑誌を見るなりいいから視界から消えろ、てかんじでリリースしてくれて、朝からなんも食べていなかったのでバナナとシリアルバーとポテトチップスだけ買ってゲートに着いたらもう搭乗は始まっていてすごい列で、途中ででっかい持ち込み荷物はもう入りませんから、って扉のとこでチェックインさせられて、機内に入ると「ハドソン川の奇跡」にあったのと全くおなじ角度でぱんぱんの乗客のみなさんから睨まれて、3列の真ん中で小さくなるしかなくて、この状態でハドソン川に着水したらしんどいねえ、とか思いながら食べ物つまんだりうとうとしたりの3時間半、なかなかしんどかった。

着いたのはAustinで、初めて降りたつ土地で、空港内に”Austin City Limits”のあのロゴとレコード屋さんがあったので途端にご機嫌になって、でも荷物ピックアップしてから先は脱出の余地ゼロのこてこてのパッケージで21:30過ぎに部屋に戻ってきたらばったん、でさっき起きてなんかつまんないのでこれ書いて、また寝る。

とってもあったかくて通りを夜歩きしているといろんなとこからライブの音が聞こえてくる。
よいとこかも。

まだ月曜日がおわったとこ ... かあ。

10.16.2016

[log] October 16 2016

こないだの連休明け、片目がごろごろしたので医者にいったら結膜炎て言われて目薬貰ったのだがどんどん腫れていって視野が狭くなり、大丈夫なほうの片目はというと緑内障で元々視野が欠けているのでPCの画面とか手元があんまよく見えなくなっていて(映画館の画面はおーけー)、こんな状態でどうするんだという声はあるものの、Ryan AdamsとAlabama Shakesで頭を満たしてなんとか成田まで来て(NEXぱんぱんだった)、これからNYに飛ぶの。

でもNY滞在は例によって24Hours - 月曜の昼には西の方に飛んで金曜の朝までそこに軟禁されるもよう。

いつものように無理やりねじ込んだ感たっぷりだが、だってBAMのNext Wave Festivalは始まっているし、New York Film Festivalも - ちょうど今ごろFinalのJames Gray新作ががんがん流れているだろう - ほんのすこしの残り香みたいの(いちおうある、じたばた)はあるはずだし、これだけじゃなくて掘りゃいくらでも出てくるし流れてくるし、とにかくこうでもしないことにはあんまりにも報われないしみったれた文化の秋になっちゃうよう、て思った。

しゅしゃせんたく。ぜんぶは無理なんだからどれを拾ってどれを捨てるか捨てるにしてもその周りになんか落ちてないか、とか、でもどっちみち時間は過ぎて行っちゃうのだし、機転きかないし集中力なんてはじめからないし、結局はああ神様、ていいながらうおうさおうするだけなんだわ。 右目は休んでてよいけと左目がんばれ、とか。

まあ無理しない程度にじたばたします。
火曜日以降はすこしはゆっくりできる、はずなので溜まっているいろんなのを書いたり。

ではまた。

10.15.2016

[film] Trouble Every Day (2001)

7日の金曜日のごご、『高慢と偏見とゾンビ』のあと、新国立で「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」を見て、夕方にアンスティチュの『フランス幻想怪奇映画特集』でこれをみた。
何故かさいごまで血まみれの金曜日でしたわ。

『ガーゴイル』
おもしろかったー。

道路に佇んでいる女 (Béatrice Dalle) がいて、ちょっと挑発的に見える彼女のところに男が寄っていって、ふたりはキスしたりしているのだが、少し時間が経つと女を探しにきたと思われる男が現れて、女の傍らで血まみれで横たわる男の死体を見つけるが、とくに驚く様子もなく淡々と後片付けをする。

パリに向かう機内でハネムーンに向かうアメリカ人新婚夫婦のShane(Vincent Gallo)とJune (Tricia Vessey)がいて一見幸せそうなのだが、夫のほうは妻を血だらけに切り刻んでしまう悪夢にうなされて機内トイレに籠ったりしている。

フランスの女は迎えにきた男が邸内に監禁のようにして囲っていて、その夫であるらしい男はかつて研究所にいたらしいのだが、いまは普通の病院で開業医をしている。留守番をしている女はぶっきらぼうに鍵を壊しては外に彷徨い出て同じことを繰り返す。

ShaneとJuneはホテルにチェックインして、ふつうに観光とかもするのだが夫はなにかを探しているように頻繁に出かけていくしなんか深刻だし落ち着かないし、ベッドに入っても肝心なところにくるとシャワーに行ってしまうのでJuneは悲しむ。

このぜんぜん関係なさそうな二組のカップルが過去に同じ臨床研究を通して発見された症例だか病だかに関わっているらしいことがなんとなくわかってくるのだが、彼らのことが周囲を巻きこんだ大騒ぎに発展するかんじもないし、その病の起源が解るわけでもそれを治す決定打が現れるわけでもない、彼らが誰かに退治されるわけでもない。 彼らは夜の闇の奥、地下の部屋や扉の影、過去の関係者の記憶の隅でひっそり忘れられたようにいて、セックスの快楽の紙一重、その向こうで血みどろのがぶがぶが繰りひろげられて、始末の悪いことにそれは本人の意思では止められないらしい。 “Trouble Every Day” - それはそうなんだけど、それってパーティで酔っ払いが殴り合いするのとあんま変わらないのかも、とか。

頻繁にクローズアップされる人の後ろ頭、その向こう側に何かがあるんだかいるんだか、全くわかりゃしないのだが、その後ろ頭が怪物のような惨劇を引き起こしてしまうその怖さ。でもあんま怖くないの。これを怖いというのなら夜の闇は、人の頭はぜんぶ怖いんだ。

Béatrice Dalleの、Vincent Galloの不気味な暗さ、あの目の硬さがぼん、てスクリーン上に投げ出されるようにして置かれていて、たまんなかった。

音楽はもちろん、Tindersticks。 血が滴るようなストリングスの艶。

これがデジタルで上映されてる姿ってちょっと想像つかないかも。


このアンスティチュの特集もスウェーデン映画特集もぜんぜん行けないのでずっとむくれている。

[film] Pride and Prejudice and Zombies (2016)

いろいろあたまきてやってらんなくなり、7日の金曜日のごごに会社休んで、新宿でみました。
こないだの8月、LondonからNYへの渡りの機内で半分まで見ていたやつ。

『高慢と偏見とゾンビ』

恋愛争奪・サバイバルにおける生きるか死ぬかの殺しあいとゾンビとの接近遭遇の、これも生きるか死ぬか - 咬まれたら染まって元の姿には戻れなくて頭潰されるしかない - の殺しあいと、これらをひとつの世界にまとめあげるのにゾンビ討伐・隔離を進める19世紀の英国とJane Austinワールドのかしましさを持ちこんだのは天才としか言いようがなくて。 あとはキャラクター設定だけど、そこには最強の5人姉妹と暗く陰鬱なダーシーと、勇ましいけど裏のありそうな奴と、ふつーの美男と、お調子もの坊主を入れたらいっちょうあがりで、そのまわりに恨めしそうなゾンビがわらわら群れてくる。

英国階級社会の腐れた、鼻持ちならないありようにもゾンビって実にうまくはまっていて、その平穏を脅かすものとして異国からやってきた彼らをやっつける女の子たちっていうのはそういうくそったれた社会に対する中指でもあって、痛快ったらない。

まんなかにあるのは勿論リズ(Lily James)とダーシー(Sam Riley)のいちいちつんけんした絡みあいで、でも互いの「高慢と偏見」をめぐる言葉の応酬ではなくて、武術でどんなもんだい、てやりあうの。
当時、お金持ちは日本に武芸修行にでて、そんなでもない人は中国で少林寺とかを習ったそうで、リズは中国で修行したと。 それならもうちょっとかっこよくても、とか思った。
ダーシーが放ったゾンビ識別用のハエをリズがいちいち手掴みするとこはおもしろかったけど。
(箸でやればもっとなー)

でも”The Virgin Suicides” (1999)にしても”Mustang” (2015)にしても、5人姉妹がなにかに立ち向かう、ていうのはなんか絵になる。 親は彼女たちの結婚のことしか考えていないとか、その辺も共通項だけど。

格闘か恋愛か、でもっと格闘のほうに振り切ってもよかったのかも、て少しだけ。
俳優さんがなー、Colin Firth(95年のTVシリーズでダーシー)くらいのがいてくれたらなー。
2005年の映画版”Pride & Prejudice”て、今にしてみればすごいのね。 Keira Knightley - Rosamund Pike - Jena Malone - Carey Mulligan。 今回のも数年してみれば... かも。

日本でも「細雪」 - 四姉妹だけど - と妖怪の組み合せでなんかやればいいのにー。

10.11.2016

[film] Me Before You (2016)

2日の夕方、新宿で見ました。向こうで公開された時からずっと見たかったやつ。
邦題で見逃すとこだったわ。 『世界一キライなあなたに』

Will (Sam Claflin)はきらきらばりばりのヤングエグゼクティブで、ある朝つきあっている彼女を部屋に置いて仕事に出たところでバイクにぶつかる。 Lou (Emilia Clarke)は田舎のカフェで地味に働いていたのだがある日いきなり仕事を失う。 どんな仕事でも受けますやりますモードの彼女が見つけたのが、地元のお城に引き籠っているWillの介護で、両親も専任の医師も邸内にいるので簡単そうに見えたものの、事故で半身不随となってしまったWillの閉塞&ひねくれ具合は半端じゃなくて、おまけに元カノと親友が自分の介護を通して仲良くなって婚約という地獄の事態になったのを目にしてしまい、こりゃなんとかしてあげなきゃ、と焼け石でいろんな世話を焼いているとだんだん彼の表情が緩んで喋ったりするようになってくる。

彼女がいろんなお出かけやイベントを企画してふたりが親密になっていくところまでは少女漫画ぽい展開なのだが、やがて彼が自身の固い意思でもってスイスでの安楽死契約を結んでいることを知って、彼の決意は親でも梃でも変えられなくて、でもそれを知る頃には、それを意識すればするほど彼のことを想うようになって止まらなくなって、どうするLou、どうするWillなの。

一見よくある難病モノ or 難病 vs 奇跡もののようでいて、これは恋愛ものどまん中みたいなやつで、"Me Before You" - 君と会う前の僕 - 君と出会う前の僕が今の君と出会っていたら、ていうのは彼女の側では反転して、あなたと出会った後のわたしが昔のあなたと出会っていたら、になったり、つまりは、ひとは恋すれば変わるし、しなくても変わるし、どっちみちいつかは死んじゃうんだし、こんなふうに変わっていくのを変えることはできない。ぜったい。 じゃあどうすればいいのか。

「愛するんだ」「愛することはできる」と。

奇跡を起こすことはできないし、時間を止めることはできないし、ずっと一緒にいることもできない。
でも、だから - - 赤い糸も虎の穴も未来計画もない、そこらの安っぽい運命論を軽く蹴っ飛ばして、いま/ここにいるあなたに向きあうのよ、ていう恋愛のど真ん中に立ち返る強さと清々しさがあるの。
で、それを可能にしたのはLouの驚異的な眉毛とおでこの皺の動きと変てこな日々の服装なのだとおもった。 
(あれはねえ、必見よ。あれがさいごにWillを救ったのよ。)

そんなLouとWillのあいだの恋の行方は、あれでよいのだろう。
こういうのを一般論でえらそーに言うことほどとんきちで野暮なことはないよね。

[film] I Saw the Light (2015)

2日の日曜日の昼、新宿でみました。

Country Westernシンガー - Hank Williams (1923 - 1953)の評伝映画。 亡くなったとき、29歳だったんだねえ。
上下が白服のポスターだけだとDavid Byrneさんかと思ったり、タイトルだけだとTodd Rundgrenの曲かと思ったりしがちだが、そうじゃないの。

Hank (Tom Hiddleston)は子連れのAudrey (Elizabeth Olsen)と結婚したばかり、ラジオ番組やライブに出させろ歌わせろってうるさい(でもへたくそな)Audreyに周囲は辟易していて、ていうところから始まって、歌手として努力して営業してのしあがって、念願だったNashivilleのショー - The Grand Ole Opryに出て大スターになるまでと、並行してふたりの関係がゆっくり崩れていくところ、いろんな女性にすぐ惚れてつきあって結婚して、酒に溺れてぼろぼろになってころりと死んでしまうまでを描く。

当時の関係者証言(モノクロ映像)みたいなところまで登場する俳優さんを使ってきっちり作りこんでいて、歌もTomが - “Only Lovers Left Alive” (2013)の漆黒のゴス野郎から転身して - がんばって自ら歌っていて- ちょっと細すぎる気もしたが - 愛に溢れた音楽映画だと思った。 けどなんか昭和の破天荒な落語家一代記、みたいなかんじもした。 とにかく高座(Nashville)にあがりたい、歌をうたいたいし売れてほしい、好きなひとにはそばにいてほしい、て言いながら思いっきり壁にぶつかる、懲りずにそれを延々繰り返す、みたいな。

タイトルになっている曲 - “I Saw the Light"の歌詞もまさにそんなふうで、光が見えた光が見えたよ神様神様光が見えたよ~♪  ていうかんじ。  歌詞だけだとゴスペルみたいな。

カントリー音楽の映画というとJoaquin PhoenixがJohnny Cashを演じた"Walk the Line" (2005)が音楽的にも(担当:T Bone Burnett )飛びぬけていた記憶があって、この作品のようにいろんな音の粒がみっしり詰まったかんじはしないものの、南部のむせかえるような空気のなか、彼はずっと汗をかいて何かに追われるように移動していて、それにくっついて音楽も走っていて、とにかく生き急いじゃったんだねえ、と。

くっついたり離れたり、彼を思いのままに操るElizabeth Olsenさんは最強で、"Avengers"のScarlet Witchのまんまにも見えた。 で、負けるなLoki ! とかつい ...

10.09.2016

[Theatre] The Hard Problem

10月1日土曜日の昼、日本橋で見ました。
National Theatre Liveの”The Hard Problem”。

原作がTom Stoppard 、演出がNicholas Hytner 、ていうとっても(よくみる気がする)モダン演劇のオーソドックスな組み合わせなのでどんなもんかしら、程度で。

ふつーの大学で心理学の修士を終えて就活中のヒラリー(Olivia Vinall)はJerry Krohlていうヘッジファンドの大金持ちが設立した最先端の脳科学研究所に面接に来て、でもそこに応募にくるのはすげー大学で先端研究ばかりやっている頭きれそうな人たちばかりみたいなのでまただめかー、になるのだがたまたま通りかかった研究所の上のひとと少し議論をしたらそれが引っかかったらしく採用される。

最先端の脳科学研究で日々解析が進んでいる脳の構造とか思考の仕組み、それらをいくら突き詰めていっても解けそうにない厄介な問題 - The Hard Problem - が例えば「意識」について - 意識はどこでどうやって生まれて自分が自分であることを受けとめてそれを維持しようとするのか、とか - で、この劇はそういうのに対する解法とかアプローチとか、を研究所の様子とか研究者の像とかを通してハードに追うのではなく、ヒラリーのエリートで傲慢な彼との難儀な関係とか、若い頃の事情で養子に出してしまった娘への想いとか、そういう日々のなか普通に自然に出てくる「祈り」とかを通して浮き彫りにしようとする - のかな。

ここにはものすごく沢山の古来からの問題に命題、生命と霊魂とか、思考と実存とか、いろんなのが含まれているわけだが、この舞台では、割とダメ系理系女子ヒラリーの日常 vs 最先端の脳科学の現場とのギャップとか、脳の動きを完全に押さえて数式化できればじゃんじゃかお金を儲けられるはずじゃん? ていう企業とかファンドの論理とか、でもいくら解析していっても「意識」のとこだけはわかんないんだよう、て嘆く研究現場のどん詰まりとか、で、でも結局みんなあんま幸せを掴めてないよね、とか、そういう身近なわかりやすい角度から描かれる。

理系的なアプローチで世界を詰めて解いていけばすべては明らかにされて世界平和がもたらされる - 科学技術万能論みたいな愚かで幼稚な世界観がどこでどうやって形成されて蔓延してしまったのか、ちっともわからないしわかりたくもないが、ここで展開されるのはそのひとつの典型的な症例で、結局お金なのかー、でも最後に人を動かすのは愛だからね、みたいなとこに落ちるお話し。

理系の世界って、あるパラダイム置いたらそこを掘るだけのこと、あとはお金とリソースがあればいい、ていうやり方(もちろんすべてがそうとはいわない)で動くので、企業や政治の論理(→ 社会貢献。ふん)との親和性が高くて御し易くて、この状態でナチスドイツ以降、原子力以降の世の中は動いていて(いまのにっぽんの政策は基本それ - 思考放棄も甚だしい)、もう少しその辺に突っこんでくれるかと思ったのだが、そうならなかったのが残念だったかも。

別に理系(含.IT)のひとを責めるわけじゃないけど、責めるべきは予算(= 権力)握っている連中なのかもだけど、世界観の置き方がなんか無邪気すぎるわよね、とか文系はふつうに思った。心理学の領域では割と昔からあるけど、すべてはニューロンの経路がとか、すべては幻想とか、そういう枠内でなんでも説明したがるやつ。

あと、テーマとして決して小さくないので、どちらかというと小説向きのお話しではないかしらん、とか。 演劇でやるにしてはあまりにお茶の間ドラマのほうに纏まりすぎていたようなー。

[film] Sully (2016)

9月25日、日曜日の夕方、日本橋でみました。「秋日和」でほんわか空に浮かんだあとで、極寒のハドソン川につっこむ。

『ハドソン川の奇跡』。
映画を見ればわかるのだがそこに奇跡と呼べるような要素はぜんぜんなかったことがわかる。
唯一それらしいのは、両方のエンジンに等量の鳥さんが同時にぶっこまれてしまったこと、かしらん。

機長 - Chesley 'Sully' Sullenberger(Tom Hanks)と副機長のJeff(Aaron Eckhart)がラガーディア空港を飛び立ってすぐにカナディアングースたちにぶつかって両方のエンジンが機能しなくなって、機長は最寄りの空港に引き返すことも検討したのだが、その余裕はないと判断してハドソン川によっこらせと着水して、結果的には乗客全員を救った。

事実としてはこれだけ。 だとおもっていた。

割と最近(2009年1月)の実話だし、誰もが経緯と顛末を知っているので安心して見ていられる、100分切ってて短いし。とか思っていたがとてもはらはらどきどき機体は蛇行して上下に揺れて、ぜんぜん落ち着いて見れるものではなかった。 ひょっとしたら最初の悪夢のシーンが本当でその後に進行する実際のドラマは幽霊がみた幸せな夢なのではないか、くらいの気持ちわるく落ち着かないかんじで進んでいく。

特にストーリーの根幹をなす - Sullyの悪夢の根源にもなる - 国家運輸安全委員会内に設置された事故調査委員会がシミュレータの出した結果を根拠にこのときのSullyの取った行動をつっつき始める、この辺の「ねえねえなんのためにそんなことすんの?」の気持ちわるさは実話であることを思うとなんだかとってもぐったりする。
つまるところはシミュレータのバカ、それを愚直に信じた事故調のバカ、というだけなのだが、2009年の時点ではこんなもんだったのよね。 今はAIとかもあるし、ここまで間抜けではないと思うけど。  想像力のとてつもない欠落、どうしようもなくズレているので何をどう言ったらよいのかわからないキツさ、これって日本の政治家とか官僚でもまったく同じだけどさ。

というわけで、安定していてかっこよいのはSullyの操縦する姿 - 若い頃のとても楽しそうに操縦する様子も挿入される - と、最後まで電話を通しての会話しか描かれない妻(Laura Linney)とのやりとりと、同志Jeffとのやりとりと、着水後にNY沿岸警備とか水上タクシーの連中がわらわらよってたかって救出しちゃうところで、でもそれだけで十分なの。

たまんないNY映画でもあるの。 朝のラガーディアのごちゃごちゃ狭苦しくて慌ただしいかんじ、直前になってゲートに駆けこんでくる客、遅れて機内に入ったとたん客全員から浴びせられる冷たい目、ぜんぶものすごくよくわかるしほぼやったことあるし。 そして普段は野球の話しとかちんたらしててちっとも仕事しないくせにコトが起こるととてつもないパワーと集中力を発揮してしまう警備・救助関係の野郎ども。
これらぜんぶNYの名物なんだよ。

あとあれ、真冬のハドソンの凍てつくかんじ。 入ったことないけど、ぜったい即死する。

10.05.2016

[music] Teho Teardo & Blixa Bargeld -- Oct 01

1日、土曜日の晩、代官山でみました。 椅子が入ってた。

何を見たかったのかというとブリクサに決まっていて、横に並ぶブラック・フランシスみたいな太っちょではないの。
どれくらいブリかというと、当時半分人間だった連中の1割くらいは行ったと思われる89年(?..)の浅草以来だったのではないか。

『東京ドイツ文化センターが、ダダ100周年を記念して実施する「DADAHACKEN」プロジェクトの一環として実施』したもんらしく、このハイパーでサイバーな今のじだいに何がダダなんじゃろ? とか思っていると、同センターのサイトには

『メインストリームに逆らう闘争的なパンクの姿勢には、アンチ・アートとしてのダダ的理念が違った形で現れています。』

とか書いてある。なるほどなー。 でも「メインストリーム」て。

弦楽カルテットともうひとりチェロと、バスクラリネット、Teho氏はギターとチャイム4つとそのた電子音とかループとかなんでも。
音のベースはバスクラリネットとチェロのえんえん止まない不穏な音の壁。壁の向こうでもその彼方でもずっと耳鳴りのように鳴り続けている。

そしてブリクサは、かつて若いニワトリみたいだったのに、デニス・ホッパーみたいになっていて驚いた。
イタリア語で、ドイツ語で、英語で、いろんな言葉で歌う。ラジオのノイズの向こうからところどころ判別可能な文字列と声が途切れ途切れに聞こえてくるような、あるいは例えば、唸りとか囁きとかぼそぼそとか、そういう声帯の震えが感じられればそれでよいかんじ。 ハーモニカを取り出して鳴らす場面もあったが、その音も声帯の延伸として同じトーンでふるふると揺れていた。
(あれで”Blue Velvet”の酸素吸入器とか、やってくれたらうけたのに ... )

二人の新譜のテーマが”黒”ということで、明るく跳ねるのもぎざぎざ尖がったのもなく、遮光カーテンが下がっていったりどんよりと波間に沈んでいったり壁の反射音で揺らいだり、みたいな視覚を失っていくような、気配を手探りしていくような音が満ちていく。
そういう中で、声の孤独さが際立つ"Still There?"  - “Still Smiling" とか、メイ・ウエストがドアをばんばん叩き続ける "Come up and see me"とかがとてもよかった。

あらゆる金属を打ち鳴らして地面を掘って揺らして、とにかく目をさませ、とか、生きてんのか死んでんのか? とか ここ掘れわんわん とか、執拗に存在の根っこを鷲掴んで揺らし続けたノイバウテンから、あまり変わっていないのかも、とも思った。道具が即物的なやつからより霊的なあれになっただけ、みたいな。 肉に触れる(それも執拗に)、みたいな核心はそのままに。

音全体のトーンはダークで重いのに、でも全く陰々滅々としないところもすごいなー、と。後半になるにつれてもっと聴きたいよう、になっていった。 おいしいけど重めのイタリアンでだんだんお腹いっぱいになって苦しいのにもっと食べたくてたまらなくなるのに似ていたかも。 ちがうか。

果たしてこれをダダの文脈に位置づけてしまってよいのか、ちょっと気にはなったかも。
あれもダダ、これもダダ。


Caroline Crawleyさん(Shelleyan Orphan)のご冥福をお祈りします。 すばらしい歌声をありがとうございました。

10.03.2016

[film] ざくろ屋敷 バルザック『人間喜劇』より (2006)

24日、土曜日の午前、渋谷の『日本映画の現在』の深田晃司監督の特集 - 1日だけの - で見ました。
中編2本立て。 監督の過去作も含めまったく知らない状態で見て、どちらもすばらしい見応えだった。

ざくろ屋敷  バルザック『人間喜劇』より

原題は”La Grenadière” (1832)

バルザックの原作が入っている『知られざる傑作』の文庫は探してみると2冊あって、ついでに『「絶対」の探求』もなぜか2冊でてくる。 過去になにかあったのかしらん。。

トゥール近郊 - ロワール河沿いの館 - ざくろ屋敷に小さな男の子ふたりを連れたヴィレムセンス夫人が越してきて、暗い影があって病弱そうで近寄りがたい夫人、夕方になると橋の上に佇んでいる夫人には過去なにがあったのだろうか、ていう話と、大人になった大きい方の子のルイ・ガストンがざくろ屋敷でのほんのりと幸せだった日々を振り返る、ていう話が、夫人の衰弱とやがて訪れる死に向かってゆっくり暗闇に沈んでいく、その様がテンペラ画 - その柔らかく仄暗い肌理のなかで紙芝居のように展開していく。

原作の小説だと冒頭の描写でその土地やざくろ屋敷の様子がとても精緻に綴られて、この映画だとおおきな静止画一枚、その静止画そのものを暗がりとかカーテン越しにじっと見ている感があって、文章をたどりながら情景をイメージするのとテンペラ画の表面に目を凝らすことの違いとかを思って、どちらの経験は似ているのかどうか、似ているとしたらどんなふうに? とか。

成長して船乗りになった兄ルイが、海上で目を凝らして掘り起こそうとする幼い頃の記憶と、罪を犯して社交界から追われて田舎に身を隠し、そのまま身を屈めて全てを無に帰そうとする母と、それぞれの異なる方向の想い、異なる声を受けとめながらもざくろ屋敷はひっそりとそこに建っていて、そういう記憶のありようをパノラマで定着させるのに、テンペラ画というのはすばらしい平面かも、ておもった。
映画館の暗闇で、大きな画面で見れてほんとうによかった。

まだ現地に現存しているようなので、いつかはざくろ屋敷行きたい。

いなべ (2013)

これは実写で、今のにっぽんの「いなべ」ていう土地のお話し。三重県にあるらしい、のだが、自分は三重県の所在とかあんまよくしらない。

とにかくそこの養豚場で働く男のところに赤ん坊を抱えた女の人が訪ねてきて、ふたりのいろんな会話のなかで、彼女は男の姉で、17年ぶりに実家に戻ってきて、祖母は既にぼけてて、母はそのとき不在、母が再婚したときに姉は家を出て、なのでその後に生まれた義妹とは会っていなくて、更に義父は当時姉の家庭教師をしていて恋仲かもしれなかった、とかいろんな事情もだんだん見えてくる。

電車と自転車が競走するカーブとか、公園とか滝とか、いろんな場所をふたりで巡りつついろんな話をして、昔ふたりで埋めたなにか - ふたりだけしか知らないはずのなにか、を探して掘っていく。 
その過程で姉はもうこの世のひとではないのだな、というのがわかる場面があったりするのだが、17年間音信不通で姿が見えなかった姉は弟にとって、家族にとってどんな存在だったのだろう、とか。
カーブを曲がって追いつきそうで、でも追いつかない電車と自転車 ?

家族がひとり消えてしまうということ、消えてしまってからの時間と、それぞれ/いろいろに都合の悪いことがあったり起こったりして、身を隠して見えなくなって、そういう時間と、亡くなったことがわかってしまったあとの時間と、それらの時間は家族のあいだにどんなふうに共有されたり埋められたりしてひとつの時間になる/なっていくのだろうか、そのとき場所はいつもの場所なのか、違って見えるのか、とか。

いなくなってしまった人と時間を想う、という点では「ざくろ屋敷」とも少し似ている。
違うのは、ざくろ屋敷は過去と一緒に届かないところに行ってしまったのだが、いなべ(市)はずっとそこにある、ていうこと。

あと、ふたりが姉弟ではなく、かつての恋人同士だったらどうだろうか、とか。
そうしたらやっぱり怪談になるのかしら。

10.02.2016

[film] The Adventures of Iron Pussy (2003)

ずっと見たかったやつを、30日の金曜日の晩、渋谷のライブハウスで爆音でようやく見ることができた。

『アイアン・プッシーの大冒険』。 原題は、ぜんぜんわかんないけど、”หัวใจทรนง” (Hua jai tor ra nong)。

VHSみたいな画質で、もうこれしか残っていないらしいのだが、これでぜんぜんよいの。

冒頭、街はずれのドライブインみたいな食堂にちんぴら連中が現れて因縁つけ始めると、バイクの後ろに乗っていた女装(どう見てもそう見える)のひとが圧倒的な強さでやっつけてバイクで去っていく。それが”アイアン・プッシー”と呼ばれるラムドゥアン(Michael Shaowanasai - 共同監督でもある)で、バイクを運転する彼もかつて麻薬で暴れていたところを彼女に救われて僕になったのだった。
ラムドゥアンはふだんはつるっぱげのやはり♂で、セブンイレブンのレジ係をやっていて、やばい仕事の依頼はレジスターのディスプレイに表示されるの。(そのシステム、やばくねえか)

で、依頼が来たので行ってみるとそこは寺院で、亀を川に投げたりしていると坊さんが現れて奥に案内され、お金持ちのポンパドーイ家に出入りしているヘンリーっていうのが怪しいのでそこにメイドとして潜入して捕まえてほしい、ていう依頼で、この辺からミュージカルの要素も加わって、邸の内部に入ってみると意地悪なメイド頭とかが普通にいて、ポンパドーイ家の息子のテーンと仲良くなってぽーっとなるのだが、テーンとヘンリーが麻薬で悪いことしているのを目撃してショックを受けて、アイアン・プッシーの運命やいかに、なのだが、シンプルなおかまヒーローものかと思ったらアイアン・プッシーの出生の秘密まで遡り禁断の蓮の葉みたいなとこまでいくので、とにかく目が離せないの。

「人生の困難は麻薬ではなく仏法で解決すべきよ」とか、「パリの上流階級なんかよりタイがいいの」とかいろいろ名言は飛び出すし、虎とか変な果実とかつっこみどころの数ときたらそれはそれは凄まじく、なんにしても物語の核心に関わるとこ - 「彼女はあなたの双子の妹なのよ!」にはたいへんびっくりした。

アピチャッポンの他の作品と比べると、識閾下で見てはいけませんて脳が排除しようとしている何かが画面上にびろびろしてしまっているやばさ、というのは共通しているかんじがした。アートプログラム中短編のいくつかにもあったべたな歌謡曲指向みたいのが全開になっているところも。
あと当然のように仏教・仏法の世界ね - 諸行無常ふう、なんとなく。

でもこれが『ブリスフリー・ユアーズ』と『トロピカル・マラディ』の間に作られた、ていうのはすごいわ。

途中からアイアン・プッシーはGenesis P-Orridge で、テーンは高橋幸宏で、ヘンリーはMorrissey、にしか見えなくなって、この三者が三つ巴になるドラマ、として見ても楽しいの。

10.01.2016

[music] Morrissey -- Sept 29

29日の木曜日の晩 、渋谷でみました。 チケット買うのをすっかり忘れていて3日前に慌てて買った。
会社帰りのスーツ姿でBunkamuraでMorrisseyを見るなんて自分にはだんこ耐えられなかったので一旦帰って着替えてからいった。

Morrisseyは、25年前(うぅ)の初来日で2回みて、97年のセントラルパークで見て、04年のApolloで2回みて、12年の台場と恵比寿でみて、このかんじだと今回も2回行くべきだったのかもしれない、と今となっては思うがしょうもない。

Orchard Hallなんて初めて行った。 Ry Cooder & Nick LoweもKing Crimsonもケツまくって行かなかったのに今回、12000円でも行くことにしたのはやっぱし彼だから、なのだろうか。
だってさ、BowieもPrinceもいなくなっちゃったんだもん、今年。

開演前のスクリーン上では『裁かるるジャンヌ』のジャンヌが虚ろな目でこっちを見ていて、それが動画に変わると、RamonesとかAlice Cooper “Elected”とか、Lou Reed “Make Up" - 映像はJoe Dallesandro - とか、New York DollsとかPistols “God Save the Queen”とかThe Damned “New Rose”とか、”Queen is Dead”のジャケットのAlain Delonとか、いいから見ろってかんじで流れて、これは彼の邸宅に呼ばれたとき、執事にこちらでお待ちください、って通された部屋で延々見せられる映像なんだろうな、とか夢想してみる。 はっと気づくとベルベットのガウンを纏った彼が後ろに立っているの。

バンドメンバー6人が揃って登場して、3 - 3で向かいあってお辞儀して、さあ“Suedehead”だわ(いちおう、Setlistは趣味で追い続けている)、と思ったら“Let Me Kiss You”だった。 2012年の恵比寿のオープニングとおなじ。
この曲のエンディングでもうシャツを脱ぎ捨てちゃって、あらあら。 次がゴージャスに弾ける“Everyday Is Like Sunday”で、あーこれはこれまでのとちがうねえ、と思ったそのかんじがこの後ずっと続く。

「わたしはヨーコ・オノが好きです。みなさんはきらいでしょうけど、わたしは好きです」の後で、“First of the Gang to Die” とか。
スクリーンにGertrude Stainを映して「これはアメリカ合衆国大統領のGertrude Steinです」の後で、”All the Lazy Dykes” とか。

つまりは、“World Peace is None of Your Business” てことでよいのか。
あとはとにかく「殺すな」と。

“Speedway”は後半をキーボードのGustavo Manzurさんにスペイン語で歌わせて、自分はタンバリン叩いてた。 このGustavoさんはプーみたいな黄色シャツでアコーディオン抱えてラッパとかディジュリドゥとか、ピアノは当然、なんでもやるので器用で楽しいのだが、例えばこの鍵盤がMike Garsonさんだったらなあ、とか思うことは少しあった。
Morrisseyバンドは、歌謡ショーのオケでよいのだけど、ね。

結局この日やったThe Smithの曲は、前回来日時と同様ストロボがんがんの”How Soon Is Now?” だけだった。
これはとっても変てこな事態、と言わねばなるまい。 それを楽しみに来たひとだっていただろうに。
ラストは「みんなもう帰りたいよね?」を繰り返したあとで、”Ouija Board, Ouija Board”。
ああ、やっぱり帰りたかったのかなあ。

だがしかし、彼の声はじゅうぶんに伸びてて艶っぽくて漲ってて、これまでのライブ史上最強のレベルにあったと思う。 あんなに強くくっきり糸をひいて響いてきたことはなかった。 なにかが王様の気に障ったのかねえ。
でも深い忠誠を誓ったわれわれは黙って聴いて、4年後くらいにまた通うのだ。
だってもうBowieもPrinceも…

アンコールは、これまたびっくりの”Judy Is a Punk”。Brooklyn限定だと思っていたわ。
大むかし、やはりNYのライブ、アンコールのラストですさまじいRamonesを聴かせてくれたKirsty MacColl さんを思いだした。

帰るときに振り返ると、スクリーンのジャンヌも泣いてた。