4.30.2015

[log] San Franciscoそのた - April 2015

ううう。まじへろへろ。

先週のSFあれこれ。 滞在2日だったのでぜんぜんないけど。

行きの飛行機、深夜0時発なのでシートベルトサイン消えたら即しんで、到着2時間前に目が開いたので、映画1本だけみた。

Taken 3

1は見てないの。 2も機内で見て、父娘がどっかのスラム街で居場所を知らせるために爆弾ぶっぱなしてて、なんて勝手なやつら、て思ったことだけ憶えている。

こんどのは、Liam Neesonのex妻が何者かに殺されて、状況からもろに彼が犯人て疑われて、彼は激怒してなりふり構わず犯人を追いまわし、警察側ではゴム紐であやとりをするForest Whitaker(いい味)が彼を追うの。

使命遂行のために無茶をやっても許されるのはTom Cruiseくらいだと思うのだが、Liam Neeson(Tomより10歳上)の場合はTomほどスケールがでっかくないのと、一見弱めの初老のひとに見えるところがよいのだと思う。 ハゲじゃないし。
でも、最後のあれはいくらなんでも危険すぎるのではないか。
4はたぶん、孫になんか起きて、じいちゃんが怒るんだよ。

帰りの便は午前1時半発だったのでこれもすぐ横になって、やはり到着2.5時間くらい前に目覚め、でももう見たいの殆ど残っていなかったので、2回目の”Annie”をてきとーにみた。
昨年のSPEの件は、911と並ぶ歴史的な惨事となってしまったわけだが、それと共に必ず参照されてしまう運命となったかわいそうな映画。 Quvenzhané WallisさんとRose Byrneさんがいいの。

最後の追跡のとこ、”Furious Seven”のあの機械があったら一発なのにね、とか。

82年版の”Annie” (by John Huston)も見たいなあ。

お食事関係とか、ほとんどない。(憮然)

着いた直後に連れていかれたCajunのお店、亀スープと蛙足とワニ、のひと皿があった。(けど頼まず) あとはHakkasan、ていうチェーンのモダン中華とか。

月曜の晩、映画の前に少し時間あったのでCity Lights Booksに行った。 20分しかなかったけど。
今読むべき女の子本として、Kim Gordonさんの”Girl in a Band: A Memoir”かViv Albertineさんの “Clothes, Clothes, Clothes. Music, Music, Music. Boys, Boys, Boys”があるわけだが、ちょっと考えて後者にした。 まだぱらぱらだが、英語わかりやすいし、内容、なんかすごいの。

火曜の朝、奇跡的に10時まで時間があいたので、朝7時に起きて、タクシーとばしてTartine Bakery行った。(この情熱が仕事に行ったらねえ ...)
どうしようか悩んで、Morning BunとFrangipane Croissantの両方買って食べる。
ここの魅力って、やっぱしサイズ - あのでっかさだよね。 代官山に来たって、このサイズが再現されないんだったら行かないよ。

それから歩いてCraftsman and Wolvesにも行く。ここも朝7:30からやっている。
ここも進化していたねえ。 ミルクトーストとか、めちゃくちゃおいしそうで。
既にお腹ぱんぱんだったので食べれなかったけど。
悔しかったので、Winter Citrus Cocoa Nib Marmaladeの瓶とバラ売りしてたヌガーかった。
店内のディスプレイは相変わらずかっこよかったが、ハードコア系のポスターとか今回はなし。

それからまた少し戻って、Bi-Rite Marketの前で9:00の開店まで待った。
ここ、やっぱりいいねえ。 地元ローカルのお菓子コーナーがほんとによくて、今回はこれが当たりだった。

http://pocodolce.com/collections/tiles

あと、ハンドメイドのトルティーヤチップス。 ぶあつくて、濃いの。

こんなもんかなあ。 ほんとちうとはんぱで残念だったわ。

4.29.2015

[film] Inherent Vice (2014)

19日、日曜の昼間、渋谷で見ました。 この晩にSFに発つ予定だったので、西海岸映画でいこう、と。

ピンチョンの原作「LAヴァイス」は、読んだ。いちおう。
とにかく絡んで捩れた世界とか奇人変人とかをずらずら並べてぜんぶぶっこむ、というピンチョンのやり口は、PTAのそれともどこかしら重なるんだろうなー、とまずはじめに思った、くらい。

小説の登場人物が映画・映像のなかのくせ者、としてリアルに動いて喋ることで現れるなにか、というのは確かにあって、そのギャップは他のふつーの小説の映画化よかぜんぜん強烈な気がして、そこら辺が評価の別れるところなのかもしれないが、この段差もまたピンチョン的世界の変容、変奏として見る、そういう愉しみもあるなあ、と思った。 いちばんでっかい段差は、語りの人称が主人公ではなくSortilège (Joanna Newsom)になっていたこと、だろうか。 あの性差の反転、ていうのもまたLA。

筋(ストーリー、とは言わない)にかんしては原作を読め、と強くいう。
読んでいないとわからないから、とかそういうことではなくて、本を読む愉しみ、映画を見る愉しみ、がどっちにもものすごく溢れていて絶対おもしろいんだから、てこと。
148 minはぜんぜん長くない。 ピンチョンの小説が長くないのとおなじく。

70年代の    LAであんま冴えないらりらりの探偵をやっているDoc (Joaquin Phoenix) のところに昔の恋人が現れて、彼女が囲われている不動産王の妻とその愛人の企みを暴いて、て言ったと思ったら不動産王もExも失踪して、殺人の濡れ衣着せられて、警察はうるさいし怪しい組織とかいっぱい出てくるし、つまりそれって陰謀?   いやそもそもそういうもんだから、とかいう、そういう世界のおはなし。

いやそもそもそういう壊れもの、ていうのが、保険求償用語であるタイトルの”Inherent Vice”の意味で、保険が必要になってもしもし? て電話したら、それ以前のとこで反撃されてあらら、てなるの。 まともなやつはひとりもいない、まともな法、のようなものすらない、そこにおいて世界はどんなふうに機能するのか、というのを70年代のLAていう土地に置いてみたところ、いろんな焦点があわさって極彩色のパラダイスみたいになった。
(PTAが邦題を「LAヴァイス」ではなく「インヒアレント・ヴァイス」にしろ、と指示したのは正しい)

俳優のだれもがみんな身悶えするくらいよくてはまっていてたまんないったら。
Joaquin PhoenixにJosh BrolinにOwen WilsonにBenicio Del ToroにReese WitherspoonにMaya RudolphにJena MaloneにMartin Shortに… 男はぎらぎらと怪しく女はぬらぬらとエロく、どこからが演技でどこからが… 的な演技をする紙一重系のみなさんばかり。 特にOwen Wilsonの万能薬ぶりときたらあきれる。

音楽は、Jonny Greenwoodさんじゃなくて、Jon Brionさんにすればよかったのにな。LAなんだし。

あとはねえ、やはり35mmプリントで見たかったなあ。

[music] Adrian Sherwood At The Controls

18日の土曜日の晩、代官山で見ました、というか聴きました。
C​harli​ ​X​C​Xに行けなかった腹いせ。

この晩は下北沢かどこかでアナログばか一代のフィル・スペクター特集もあって、どっちの音の壁を取るかで悩んで、よりやかましいほうにしたの。 フィレス・レコードは歳とったら自分で集めるんだ。しんでなければ。

6時開場、7時くらいにAdrian Sherwoodせんせいが登場して、コンソールをいじり始める。太鼓のバチを手にご機嫌なご様子。 そういえば前の晩からハゲばっかしだな、てふと思った。

Adrian SherwoodとかON-Uの名前を最初に意識したのはなんだったのかしら。
“New Age Steppers” (1980)の頃はたしかそんなに知らなくて、Depeche Modeの”People Are People”の12inchのどしゃぐしゃmixの、あまりのぶち壊れようにのけぞったあたり、だったかも。

最初のコーナーは、MIX 1:“HEAD” AT THE CONTROLS - ’79 ~ ’89 CLASSIC DJ SET
ていうやつで、クラシック、ていうならついていけるかも、と思ったのだが、基本あんま変わってないふうよね。 岩場にクサビ打ちこんで亀裂つくってその隙間に爆竹つっこんで吹っとばして粉塵ぱらぱら煙もうもう耳きーん、みたいな。 音圧はなかなかだった。

せんせいを最後に見たのは2004年のBowery Ballroom、再結成されたTACK>>HEADのときで、あれはなかなかすさまじかった。 けどあれ、コンソールいらないかんじもしたこともたしか。

次のコーナーは、MIX 2:NISENNENMONDAI X ADRIAN SHERWOOD LIVE DUB SET
ていうやつで、にせんねんもんだい、のライブのコンソールをAdrianせんせいがライブでミックスする、ていうもの。
にせんねんもんだいご自身がすでに緻密な壁を築いてしまうので、アプローチはその上に更に積んで重ねるか壊すか、どっちかだな、と予想していたとおりのかんじで、でも全体の波やうねりを止めるような野暮なほうにはいかなくて、そのへんはさすがだったかも。 女の子3人が輪を作っていて、あまり手を出しようがないところにハゲがどう突っ込んでいくのか、がスリリングでしたわ。

次の    MIX 3は最近のやつ、らしかったので年寄りはおとなしく帰りましたの。

4.26.2015

[film] Furious Seven (2015)

17日の金曜日の夜、新宿でみました。
歌舞伎町の新しいシネコンのオープニング、IMAXの3Dで。
施設はできたてできれいだけど、あの場所にたどり着くまでが人によってはしんどいのではないか。
渋谷行ってもセンター街に近寄るのが嫌なひとにとってあの辺一帯まるごとセンター街みたいに見える。
(昔はあんなじゃなかったよねえ?)

このシリーズ、見るようになったのは機内のやつからで、だから最初の1〜3くらいまでは見ていない(と思う。たしか)。 ブラジルででっかい金庫をえんえん引きずって街中ぐじゃぐじゃにしたのは「5」だっけ?

こんなの、筋なんて書いてもしょうがない系なのだが、書いてみよう。
ハゲ1 - Jason Stathamが弟の仇とかいって、東京で長髪のアジア人を殺して、ハゲ2 - Dwayne Johnsonを病院送りにして、ハゲ3 - Vin Dieselのファミリーも狙われて、あったまきたところに謎の老人 - Kurt Russellが現れて、神出鬼没のハゲ1を見つけるには天才ハッカーの作ったある機械がいるのじゃ、とかいうので、仲間を呼び寄せて飛行機から車ごとダイブして、囚われ搬送中だった天才ハッカーを救い出して、そしたらそいつはもしゃもしゃ髪の女の子で、機械はアブダビに送っちゃった、とかいうので、こんどはアブダビに飛んで、高層ビルの上のほうでビル2棟ぶちぬきダイブしてそいつを手に入れるのだが、それでハゲ1を見つけて捕獲に行ったら返り討ちにされて、じゃあこんどはロスだぜ、と最後の闘いに赴くの。 周りの迷惑もちょっとは考えろハゲ。

レールの上ではないところの横移動をいかに速く重く強く乱暴に無軌道にやるか、という車に与えられた最低限の、本来の機能とか使命を無視して、とりあえず上から下に飛んで(落下して)、地上数百メートルの空中をビルぶち抜きで飛んで、最後は下から上に飛んで、そういう無理ばっかするもんだから車はどれもぐしゃぐしゃになるのだが、ハゲ共はつるつるとただのひとりもしなねえ。 ハゲつええ。

でもビルドアップハゲ同士の肉弾戦て、ひとによるのだろうけど、あんまこないかも。
なんかただのプロレスに見えてしまうのよね。

ハゲ共はいいとしても、つっこみどこの嵐はものすごく吹き荒れて、なんもしなくてもハゲ1はおらおらって寄ってくるんだから、あの機械、べつにいらないんじゃないか、とか、Kurt Russellはやたら偉そうだけどベルギービールのことしか頭にないただのぼんくらではないか(だから最高なんだけどさ)、とか、ハゲ2はギプスのことをいったいなんだと思っているのか、とか、とにかくしぬほどいっぱいある。

もういっこ、これってPaul Walkerさよなら、の映画でもあるわけだが、彼の爽やかで儚い笑顔は、もうぼく、君らハゲにはついていけないんだよ、だってハゲじゃないんだもの、と言っているように見えてならないのだった。

「8」には、Die Hardのハゲでも入れとけ。どうせしなねえから。

あと、ここのIMAX、ちいせえ。 団地サイズ、ていう言葉がうかんだ。

4.25.2015

[film] While We're Young (2014)

20日の月曜日の晩9時30くらい、Market Stのショッピングモールの上にあるシネコンで見ました。
これだけはなにがなんでも、の1本だった。

ここのシネコン、昨年の2月に”Winter’s Tale”を見たときに途中で上映が中断しちゃって、そのお詫びでタダ券を2枚もらったの。 うち1枚を昨年10月の深夜、”The Skeleton Twins”のときに使い、もう1枚をこれで使った、使えた。 とっても得したかんじ。

上映前の予告がたまんなかった。Brian Wilsonの“Love & Mercy”がかかって、Judd Apatowの”Trainwreck”がかかって、Ian McKellen卿の“Mr. Holmes”がかかって、とどめがCameron Croweの”Aloha”なの。 日本のシネコンの予告は気持ちわるくて不快なのばっかしで目を瞑っていることが多いのだが、映画の予告で久々にうるうると幸せになりましたよ。

昨年のNYFFのSecret Screeningだった(発表されたときは歯ぎしり)Noah Baumbachの新作。
すばらしくよかった。 今年のベスト5にはぜったいはいる。

前作の”Frances Ha” (2012)はGreta Gerwigとの共作で、Frances = Greta Gerwigのための映画だった。 こんどのは“The Squid and the Whale” (2005) ~ “Greenberg” (2010)の流れにある、Noah Baumbach自身の魂の放浪の物語、であると同時に、カップルのお話し、でもある。

44歳でドキュメンタリー映画作家のJosh (Ben Stiller)とCornelia (Naomi Watts)は結婚してから長くて、最近友達夫婦のFletcher (Adam Horovitz ... わるくない)とMarina (Maria Dizzia)の間に子供ができてから、なんとなく付き合いにくくなっていて、そんなときにフレッシュなカップルJamie (Adam Driver)とDarby (Amanda Seyfried) に会う。

Jamieもドキュメンタリーを撮っていて、Darbyはハンドメイドのアイスクリームとかを作っていて、若いのにアナログレコードとかVHSのコレクションとか -「俺らが捨てちゃったようなのをぜんぶ」持っていて、でもデジタルもふつうに使いこなしてて、要するにセンスがよくて、人当たりもよくてめんどくさくなくて、最初は「こいつやるねえ」だったのが「こいつすごいかも」になってくるの。

Jamieとドキュメンタリーを作っていく過程で噴出してくるあれこれ(Joshの義父は高名なドキュメンタリー映画作家だったりしてそのへんの軋轢も)とJosh自身の才能に対する焦りと苛立ち、更には自分たちの周りの二組のカップルとのつきあいの中で出てくる、あたしたちずっとこんななのかしら、このまま成長もなく腐っていっちゃうのかしら、みたいのとか。

エイジングに対する「あーあ」、というと最近では“This Is 40” (2012) とかがあって、あれはすばらしく素敵な漫画だったが、”While We’re Young”は、これってわたしの物語でありあなたの物語だよね、というふうに控えめに差しだしてくる。 その手口の巧みさこそがNoah Baumbachのよさで、(ならないだろうけど)Woody Allenみたいに老成しないでね、とおもう。

あとはねえ、すごく笑えるの。
CorneliaがDarbyにつきあってヒップホップダンスのクラスに行ったときのNaomi Wattsの珍妙なダンス(これに対してAmanda Seyfriedのダンスのおっそろしくシャープなこと)とか、怪しげな瞑想パーティで液体のんでみんなゲロまみれになるとことか、あとはBen Stillerだからなにやっても ...
”Frances Ha”の疾走シーン、ダンスシーンでも思ったが、ひとの動きの変てこなこと、おかしなことを捕らえるのがほんとにうまいなー。

音楽はJames Murphyさんなので、なんの心配もいらない。
"Kramer vs. Kramer" (1979) でも使われたヴィヴァルディのコンチェルトに、Survivorの”Eye of the Tiger”に、David Bowieの”Golden Years”に、こういうのがなんの違和もなくすいすい繋がって流れていくの。

あと、冒頭にイプセンの”The Master Builder” -「棟梁ソルネス」からの引用が。

Noah Baumbachが表紙のBrooklyn Magazine、Brooklyn文化年表なんかも載っていておもしろいのだが、Noah Baumbachインタビューのすぐ後に載っているThey Might Be Giantsの姿とか見ると、While We’re Young … とか思わず呟いてしまうのだった。

“Prime Meats”のウィンドウがいっしゅん映った、よね?

[film] Birdman: Or (The Unexpected Virtue of Ignorance)

12日の日曜日の午後、ダライラマ法王のライブヴューイングの終わって時計をみたら15:37で、これの15:30の回を予約していたので慌ててエスカレーターで上に上ってみました。

これ、昨年10月にNYで見ているのだが、もう一回見ることにした理由は、やはりなんでこれがオスカー獲ったのかしら、とか、みんなカメラがすごいすごい言うけどほんとかしら、とか、そのへん。

『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』

映画の世界から演劇の世界への転身にあたって悶々としつづける主人公の姿と少し前の講義の世界が重なって、主人公は空(くう)を見たのか、見るために発砲したのか、とかいろいろ考えてしまうのだったが、単純に、ステージ上で、ライブで、演技をすることの恐怖とか異様さとかを鳥男の飛翔に譬えて描いただけ、なのかもしれない。

映画の世界では超人的な力を持つヒーローだった主人公でも、実生活では離婚し、娘はジャンキーで、舞台のリハーサルはうまくいかないし、共演陣はろくでもないし、批評家もおっかない、というあらゆる恐怖がおそう。 無難、というか微妙なところで台本はカーヴァーあたりでやってみるが、そこもまた叩かれてしまう。 なんでこんなにうまくいかないんだ? というところで現れる恩寵 (Grace)、でもタイトルは"Virtue"..  (邦題は「奇跡」としているが、なんか違う気がする)

という彼の覚醒がめくるめくカメラ(時として神の目に転移する)と、どかどか鳴り止まないドラムス(雷神・風神)をバックに仰々しく描かれるのだが、なんかね、2回見るとなに悩んでんだこいつ? みたいになるの。 芝居が嫌で不安なら、やらなきゃいいじゃん、とか。映画なら合成とかトリックとかなんでもできるよ、この映画みたいにさ、とか。

サンダンスかなんかのイベントでやった、Antonio Sanchez さんがライブでドラムスを叩いて被せるやつは見てみたかったかも。

あと、冒頭とエンディングのスペイン語。 なんか、きんたま映画だよね。

4.23.2015

[log] April 23 2015

今朝、23日の朝4:30くらいに羽田に着いた。
こんなタイムテーブルにした責任者でてこい! なのだが、とにかくSFの空港を発つ時間は午前1時半くらいなのだった。

火曜日の夕方5時からホテルの部屋でずっと缶詰の電話会議が8時過ぎまで、空港に行ってもカウンターなんて開いてないのでクラムチャウダーとかを食べつつ、ずっとレポート書いてて(書かされてて)、22時半にカウンター空いて中に入っても売店ほとんど閉まってて、ラウンジ行ってもずっとレポート書いてて(書かされてて)、そのまま午前1時まで、ラウンジはおやじ共がすするカップヌードル(あんなの置くなよ)の匂いが充満してて気持ちわるくなった。 この間、というか日曜の夕方の到着後からほぼずっと監視下に置かれて、1.5メートルの鎖で繋がれているかんじで、30回くらい死ぬか死んだかとおもった。

で、おうちに着いたのが6時10分前くらい、荷物置いてシャワー浴びて、ふつうに会社行ってえんえんいろんな打合せに引きずられて、ずうっと耳鳴りして星がとんでてやはりしぬかとおもった。

というわけで、いまはものすごくすさんでいて、どれくらいすさんでいるかというと藁を詰めたバケツに頭をつっこんでそのまま肥だめにダイブしたい(というイメージがうかんだ。なぜか)くらい。
やっぱし仕事ってきらいだ。 そして仕事でひとに会うのもきらいだ。 (今頃いう)

とにかく、何度でもいうけど日曜の晩からずううううっとこんなだったの。
で、とにかく、逃げ去る機会を探していて、希望は深夜0時までやっているCity Lights Booksと、22時23時の回がありうる映画館で、もういっこは朝7:30くらいからやっているTartineとかCraftsmanとかのベーカリーだった。 可能性は月曜の晩と火曜の朝のみ。 ほんとに必死で、これらに行かないことには海を渡ったいみない! てまじで思っていた。

で、けっか、なにがなんでも、いった。
ので一応満たされた、特に映画はほんとうにすばらしかった。

これらの詳細はあとで。
ああなんてなかみのない文章なのかしら ...

ばたん。

4.19.2015

[log] April 19 2015

というわけで春はお勉強の季節だし「ここにはいたくない」の季節でもある、であるからして、今は日曜の晩の羽田で、これからお仕事でSFに飛ぶの。 でもこんどのは機中二泊の現地二泊のとんぼ帰りで、しかも同行は大所帯でタイムテーブルは朝から晩まで既に勝手にぱんぱんにされててしょうもなくて、さらには日本側だって山火事洪水でぱんぱんだもんだから上からも下からもいかがなものかとか嫌味言われるし、楽しくなれそうなとこがただのひとつもねえ。 ぞ。
例によって寝くじいて首まわんないし。

そういえばこの週末はRSDで、日本のって手に入れることの歓びよか手に入らない(入ってきてない)ことの苛立ちのが大きいものだからどうでもいいのよね、という顔で土曜日、開店10分前に新宿に行ってみると結構なひとで、整理券もって並んでいたりしたのでびっくり。 いちおう並ぶことにして、並びながらリストを眺めてえーと、て考えて(ぜんぜん準備してない)、うん、The Dresden DollsとMission of Burmaだけ買えればいいや、と思って、でも並んでいるうちにいろんな雑念とか煩悩が渦を巻きはじめて、結局あれこれ買ってしまうのだった。

このあと渋谷のHMVにも行ったが、あっちのがあったかも。 SWANSのとか。

でも欧米のがみんなわいわい並んでて楽しそうだよねー。

土曜日、Rough Trade NYでライブをやってたDresden Dolls、盤が手に入ったのは嬉しかったけど、ひとつしか入ってきていないとか言われた。 ほんとか?
封入されていたポスター、素敵だねえ。 りんご飴かぶりつき。

あと、Ryan Adamsの7inch -“ Come Pick Me Up" (alternate take)のエンディングがなかなか。

で、いちんち遅れとはいえ、RSDの翌日にSFに着く、というのはナイスではないか、と最初は思ったのだが、上に書いたような事情が事情なのでつまんない。 あーつまんないったら。(ばたばた)

向こうで見たい映画は一本だけ。
これが見れたら、この報われず救われない4月を少しだけ許してあげよう。

ではまた。

[lecture] 2015年ダライ・ラマ法王14世来日法話

12日の日曜日の午後、日本橋のシネコンのライブビューイングで見ました。
最近、あんま見たいのやってないねえ、とシネコンの時間割を探していたら見っけて、春だしおべんきょしたいかもモードになっていたのでチケット取った。 法王さまが降臨するライブ会場はおうちから歩いていけるところにあるのに、わざわざ遠くに行かないと見れない。

でも午前は起きあがれそうになかったので午後1:30の回にした。
会場に同時通訳は付いてて、でもセンテンスごとに切って訳すのではなく、事前に渡されたものからパラグラフごとに纏めて訳していて、その間、法王は暇そうにきょろきょろしていた。

壇上には僧侶の方々が左右から囲んで、背後にはでっかい仏画がかかっている。
その絵の下方、仏様のまえに6個のカラフルなソフトクリームみたいのが描いてあってとっても気になったけど、あれなあに?

にこやかに登壇した法王さまは、座るなり般若経について話します、と「じゅうまんじゅはんにゃきょう」とか「かんじざいぼさつ」とか「ちゅうろん」とか「けろんはくうによってめっせられる」とかいきなりトップギアで走り出したかんじで、ちょっと慌てる。

別に世界平和とかグローバルとローカルとか今の世の宗教とか、そういうお話しを望んでいたわけではないし、今回の法話のタイトルは「般若心経・菩提心の解説・観音菩薩の許可灌頂」ということなので、それに沿っただけなのだろうし、仏教徒のみなさんにとっては痺れるほどありがたい機会なのだろうから文句はなくて、がんばってメモだけはとる。
それにしてもさー、会場、あんなに照明落として暗くしなくてもいいよね。メモを取る手元くらいは見えるようにしておいてほしかった。

わたしのいた学校はキリスト教のだった(でもわたしはサルトルの信者だった)ので、キリスト教の講義は割と多くて、仏教については世界観とか時空観とか神のありようをざーっと、キリスト教との対比でやった程度だったので、どっかに埋もれていた記憶の掘り起こしも含めて、なかなかへろへろになった。 こんなだったら予習しとくんだった。

般若心経における「空」の意味をナーガールジュナの『菩提心の解説』を通して説明して、それを通して煩悩とか自我とか、そういうのが実体レスで捉えようがないことを、なにを以てどう認識し見極めるのか − まあ、修行じゃ、ひたすら修行するのじゃ、ということなのだろうが、たとえば、インテリジェンスの獲得て、こういうことよね(最近AIとかビッグデータで言われるインテリジェンス、てぜんぜん違うよね)、とか思った(個人的な感想)。

でもたまにこういうの聞くと、ほんとうにがしがし勉強したくなる。学生だった頃のとは別のかたちの勉強欲がむらむら湧いて、それって食欲に近いものかもしれないけど、いちからちゃんと勉強したいな、て時間がなくなってから気づくの。

ええ、ええ、まちがいなく逃避なんでしょうけどね。

4.18.2015

[film] Mes séances de lutte (2013)

見る時間も書く時間もない。 物理的にない。ありえない。

11日の土曜日の午前、渋谷で見ました。
「ラブバトル」英語題も“Love Battles”。
おもしろかったねえー。 こんなおもしろいやつずっと放置していたなんて。

並んでやってる「神々のたそがれ」とおなじ泥仕合映画なの。

お天気のよい田舎道、ドビュッシーの「子供の領分」のつんのめるようなピアノに乗って、、向こうからすたすた歩いてきた女(Sara Forestier)がそこにいたむさい農夫の男(James Thierrée)に話しかけて、二人は昔から知っていていろいろあったようで、微妙な空気が流れる。 ふたりの会話から、女は父が亡くなってその葬儀のために帰省してきて、過去にいろいろあったその男とかつてのあれこれをしみじみ振り返る - というよりわざわざ蒸し返そうとしているようで、男はそんな過去にこだわって噛みついてくる女に戸惑いを見せながらもあれこれ応える。

女は遺品整理で貰えると思っていた思い出のピアノを貰えずに姉とぶつかってあたま来ていて、そういえば父はぜんぜんあたしのこと愛してくれなかったとかぶつぶつ言い、男に対しては昔Tシャツ一枚で夜這いに来てやったのにあなたは手を出そうとしなかった、とか、要するになにもかも逆恨みの困ったちゃんなのだが、いちばん困るのはそういうのを男にきーきーぶつけに来ることなの。

男はうるせえいいかげんにしろ、って扉を閉めて追い出しちゃえばいいのに、そうはせずにやり返したりしているうちに初めは言葉の応酬だったのが押したり引いたりのどつきあいになり、男はあきれて「おまえなにしにここに来てるんだ?」とか言うものの、やがて戦いのゴングが鳴る(鳴らないけど、なんか聴こえる)。 でも殴ったり蹴ったり噛んだり刺したり、流血や失神はなし、武器も器具もなしで、押しては引いてこずいたりどついたり組みあったり、要するにダンスやタンゴのコレオグラフのようで(むかし見たJiri Kylianにこんなのあったような)、この戦いのPas de deux は、日をまたがってラウンド6とか7くらいまで続いて、どれもスリリングでおかしくて、カメラはレフェリーの目となって取っ組みあいをえんえん追っかける。

で、どろどろの取っ組みあいの果てにあるのは愛か別れか死か生か、たぶんどれが来ても不思議じゃない、そんなふうな妙な切なさと徒労感が残って、これって恋愛のそれか喧嘩のそれか、とかちょっと考えてしまうの。

台詞がよくてねえ。「あたしがあたしの愛のすべてをあなたに注ぎ込んだら、あなたは壊れる」とか「ペニスと毛皮だけ」とか「闘いはタンゴのように無言で。しゃべりすぎ」とか。

パート2とかやらないかしら。 「還ってきたラブバトル」、とか。

4.14.2015

[film] Dior and I (2014)

5日の日曜日、日本橋で「小さな恋のメロディ」が終ったあと、渋谷まで走って12:30の回に駆け込んで、見ました。

最近はぜんぜん追えなくなってしまっているが、昔は毎週正座して『ファッション通信』を見て、HF誌を読んでいたので、その雑巾みたいなナリでよく言うわ、と言われたってこういうのは大好きだから見る。所謂ストリートファッションにもファストなんとかにもスナップにも全く興味はないのだが、こういうのはアートの一種としてぜったいおもしろいんだから。

2012年4月、John Gallianoの狼藉により空席となっていたDiorのCreative Directorの座に指名されたRaf Simonsのパリコレまでの8週間を追ったドキュメンタリー。

Jil Sanderのメンズでミニマルでシャープなスーツなんかをやっていた(かっこよかったよねえ)彼はオートクチュール未経験で、ベルギー生まれでフランス語もあんまし、でほんとうにできるのかやれるのかどうするんだろ。
ついでに、Raf Simonsが昔やっていたのは、例えばこんなことなの。 いいやつかも。

http://agnautacouture.com/2015/02/15/raf-simons-inspired-by-richey-edwards-ian-curtis-kraftwerk/

困った彼はポンピドーにGerhard Richterを見にいって、でもRichterだと版権料高すぎると思ったのかカリフォルニアのSterling Rubyに流れてあのだんだら色を布の上に再現したい、ていう。

で、そういう無茶をアトリエに投げてプロジェクトなんとか風の苦労話が展開されるだけならおもしろくもなんともないのだが、映画のタイトルにある”Dior and I”の”I”ていうのが 30 Avenue MontaigneにあるHouse of Diorに夜な夜な現れて、昔の映像と共にぶつぶつなんかいうの。
それはDiorの亡霊かもだし、館の霊かもだし、地霊かもしれないのだが、とにかくそれがDiorの美とその歴史を司っていて、へんなもん出しやがったらただじゃおかねえ、とは言わないけど、いまの”Dior”であるRaf Simonsとアトリエの作り出すクチュールになんか魔法をかけるように見える。

いや、もちろんそれなりの苦労話も描かれて、職人ひとりひとりの奮闘もおもしろいのだが、それは千手観音としてのDiorの手の一本一本なの。 そういう手に支えられてRaf Simonsはびくびくおどおどしつつもとにかくパリコレ初日までたどり着く。

監督のFrédéric Tchengさんは、“Diana Vreeland: The Eye Has to Travel” (2011)のco-directorのひとりで、そういえばあの映画も、Diana Vreelandの亡霊がファッションの愉しみを教えてくれる、そんな映画だったよね。 

Diorにとってはほんとによい宣伝になったよねえ。

これ、NYのWalter Readeでもちょうど今、10日から16日まで公開しているの。


ぜーんぜん関係ないけど、Other MusicのPop-Up ShopがJFKのTerminal5に ー!!

http://www.othermusic.com/blogs/news/18009868-other-music-pop-up-shop-at-jetblue-t5-april-14

4.12.2015

[film] Melody (1971)

5日、日曜日の午前10時に日本橋でみました。
前日に”Jupiter Ascending”見たとき、ここの「午前10時の..」でやっていることを知って、なんとなく。

例えば今回のラインナップの「ニュー・シネマ・パラダイス」なんかは見たくもない(実は見たこともない)けど、こっちは見てもよいかも、とか。 子供の頃、TVではさんざん見たけど映画館でちゃんと見たことなかった気もしたし。 「小さな恋のメロディ」。 お客さんはいっぱい入っていた。

これと同じようなやつが"Harold and Maude" (1971)で、これもTVでは見ていて映画館では、だったのだが、米国で何回か見た。 あと、映像と音楽のつながりがもたらすエモのうねりや波を - 前者はThe Bee Geesで、後者はCat Stevensで - 教えてくれた、というところもこの2本だった気がする。

昔話ばかりでしょうもないのだが、むかしむかしの小学生の頃、「ロードショー」と「スクリーン」ていう2大洋画雑誌というのがあって、わたしは「スクリーン」派だったのだが、どっちにも必ずトレーシー・ハイドさんの近況をお知らせするコーナーというのがあって、あれはなかなか謎で、つまりあんなに可愛かったMelodyだって歳をとるとこんなふうになってしまうのだ、というこれも教育的ななんか、だったのかもしれないと今はぼんやり思う。 大きなお世話だったわね。

筋はとってもシンプルで、小学校でマーク・レスターとトレーシー・ハイドが出会ってお互いころりと恋におちて、でも親とか級友とか周囲はうざいのばっかしで、ふたりでどっかに行こう! てトロッコで旅立つの。 それだけなの。 音楽室のシーンとか、今見てもいいよねえ。

親とか教師とかはどこまでも愚かで醜くて、子供のほうもひたすら薄汚くてバカでアホで、でもふたりの愛は、愛だけはピュアで美しい。 今のドラマだともうちょっと難局とか障害とか表裏とかあれこれいっぱい出してくるのだろうが、ふたりの眼差しに全て託して一気に一直線に攻めてくるところがかえって新鮮だなあと思った。 ていうか、やっぱし原点だよね。

帰ってからほんと久々にBLANKEY JET CITYの「小さな恋のメロディ」を聴いてみる。

行くあてはないけど、ここには居たくない。

そうだよねえ。 国とか家族とか学校とか仕事とか、たまたまそうなっただけの、いたくもないとこにややこしい物語敷かれて勝手に愛だの絆だの忠誠だのを強いられる(ように思えてならねえんだくそったれ)今の子供たちがかわいそうでならないわ。

で、この曲ですら15年以上昔のだという …

4.11.2015

[film] Jupiter Ascending (2015)

4日の土曜日の夕方、日本橋で見ました。 3Dで。 なんかB級ぽいのを見たくなり。

天文学者のパパと数学者のママがモスクワで出会って幸せに暮らしていたのに、自宅に強盗が押し入ってパパはあっさり殺されちゃって、もうこんな国きらい、て国外脱出した船の上で産まれたのがJupiter Jones (Mila Kunis)で、シカゴあたりで成長してロシア人コネクションのなかで家政婦(トイレ掃除とか)やって地味に暮らしているの。

望遠鏡欲しさに卵子売りに行って、そしたら突然殺されそうになって、そしたらChanning Tatumがいきなり現れて銃撃戦やって救ってくれて、わたしはあなたの犬なのです陛下、とかいわれて、ずっと怪しい連中に追いかけられるので逃げていると木星まで行っちゃって、マザコンのEddie Redmayneになぜか恨まれてて凄まれて殺したる、とか言われる。 ママは9万歳だったんだ、とか言われてもどう反応したらいいのかわかんないよね。 ていうスクリューボールSFなの。

そんなママとDNAが完全一致したからあなたは陛下なのです、とか言われたってしんないわよ、だと思うし、証拠はなんなのよ? ていうと、さっき蜂の群れがうやうやしくあなたの周りに寄ってきたでしょ、とか言われる。 たんに香ばしい匂いだしていただけかもしれないのに。

でもまあとにかく、そいつら異星人にとって植民星だったらしい地球の運命はJupiterとその人質で捕られた家族の手にゆだねられて、はらはらどきどきしろ、て言われてしまうのだが、そんな星なくなったったって構わないし、君たちの植民計画はこの星に関しては失敗しちゃったねえ、て思うわ。

ウシャウシャスキ兄弟(正しくは、The Wachowskis、ね)は”The Matrix”の頃からこういう寄生とか植民とかその上位にいる超越的ななんかがすごいパワー持ってて、みたいのが大好きなようだが、こういう考えかたの枠って取り憑かれるとなんでもかんでもこれになりがち(最近の邦画なんかみんなそう)なので気をつけないとね。

まあとにかく、いろいろ突っ込めるところいっぱい。 家族の命と引き換えに、て言われて婚姻にOKするJupiterとか(さんざん虐められてきたのだから、そんな連中捨てちゃえよ、とか)。

アルビノの犬(もしくは狼)として登場したChanning Tatumさんは忠犬としか言いようのない献身ぶりが泣ける(最後にご褒美もらってよかったね)のだが、アニキ犬であるSean Beanとのやりとりがもうちょっとあればよかったのに。

あと、ひとりで癇癪起こして大騒ぎしてめんどうくさかったEddie Redmayneくん、あんた弱すぎ。

こうしてJupiter陛下はトイレ掃除生活に戻るのだった   ... この辺もよくわかんないわ。

4.09.2015

[film] 阿片台地 地獄部隊突撃せよ (1966)

4日の土曜日、久々のシネマヴェーラに行ってみる。
こないだの神代辰巳特集は結局ぜんぜん通えなくてしょんぼり反省して、こんどのはちゃんと通わなきゃ、て思った。 けど朝11時のは起きあがれなくて、12時過ぎに行ってみたら結構なひとでふつうにびっくりした。
まあね、いろんなひとが一緒に見るのが映画館てもんだし、それが嫌なら部屋でDVD見ていればいいんだけどさ、なかなかびっくりしたのよね。 普段あんま見かけないからああいう方々とか。

「祝・芸能生活50周年 安藤昇伝説」ていう特集、だったの。

大地の向こうに馬に乗った一団が現れたと思ったら彼らは突然銃撃されて、ひとり逃げる兵隊がいてそれを助ける地元の女がいて、そうやって命からがら逃げたのが安藤昇の少尉なのだが、瀕死でたどり着いたところが地獄部隊で、彼がもともと送られる予定だった最前線にある囚人の部隊で、上官はどSだし、囚人は囚人みたいだし、安藤昇はむっつりして言うこときかなくて、いじめられたり罰うけたり、やりかえしたり、いろんなことがあるの。

でも最前線でいつやられてもおかしくない、という点を除けばあまり「地獄部隊」なかんじはしなくて、みんな歪んで変で、変なりに獄中、じゃない戦線で下着ドロしたり身内の物品ドロしたり楽しく過ごしているし、安藤昇はどこまでも頑固でひとのいうこと聞かずに女に会いに行ってよいかんじになっていたり、義賊みたいなことしてかっこいいのだが、やっぱし幸せは続かなくて、一挙にどかどか攻撃されて、でも信じていた日本軍(菅原文太とか)の援護はこなくてみんな爆撃されて死んじゃうの。たったひとりを除いて。

舞台設定は中国の大地の戦争、なのだが、これを例えば陣地合戦をしている戦後の渋谷の町に置き換えたってぜんぜん違和感なくて、ということはヤクザ映画なのかもしれないのだが、最初と最後のお馬さんのショットは西部劇(片言喋るインディアン - 地元民も)みたいで、つまり戦争映画とヤクザ映画と西部劇のぜんぶ盛りで、つまり極限状態における正義とは、人間の尊厳とはなにか、をおおまじめに問うているのだった。たぶん。

この特集だけBunkamuraでやればいいのにて思った。
いまの渋谷とむかしの渋谷の激突。 おばさん vs やくざさん

4.05.2015

[film] ドドンパ酔虎伝 (1961)

29日の午後、「ハナコサン」に続けて、なんかおもしろそうだったので見ました。

そもそも「ドドンパ」ていうのも、それがブームを起こしたらしい事情も世相もよくわかっていないのだが、そんなんでもじゅうぶんおもしろかったねえ。

元禄の江戸でドドンパが大流行してみんな盆踊りみたいに輪になってレイヴしてて、ドドンパでええじゃないかの新興宗教とか台風組ていう怪盗団とかが跋扈していて、そんななか、オリジナルドドンパの作者である中山安兵衛(勝新太郎)と大高源吾(小林勝彦)の二人は貧乏長屋でへらへら暮らしていて、でも長屋の娘が借金のカタで金貸しに連れ去られ、その借金5両のために安兵衛が飲み屋の酒飲みコンクールに出てぐびぐび飲んで勝って、その辺りからいろんな組織とか悪人とか善人とかバカとか陰謀とかが酔っ払いのまわりをぐるぐるまわってわけわかんなくなってきて、やがて高田馬場で叔父たちがやばい、と聞いて安兵衛は走りに走って「高田馬場の決闘」(ていうのもよく知らん、のだけど)になだれこむの。

勝新太郎がまだぎんぎんに若くて漲っていて、呑みも歌も踊りも走りももちろん殺陣もフル回転で豪快で爽快で文句なしなの。 その走りのフォームの見事なことったらなんなの? あんた侍なんでしょ? なのだった。

それにしても最後の決闘のとこ、勝新を含めて3人で結構な数の悪党をばっさばっさと斬りまくって大量殺戮をしてしまうのだが、それを柵の外では観客がわーわー歓声をあげて眺めていて、なんかすごいねえ、ておもった。

この時代からあったパクリに洗脳にふんだくり、へぼ警察、中央と地方、などなどの問題がヴィヴィッドに描かれていて、でもそんなのもみーんな酔っ払いの妄想かも、レッツドドンパ! みたいなノリの軽さが春爛漫してて気持ちよいのだった。

[film] ハナコサン (1943)

29日の日曜日、阿佐ヶ谷で見ました。
バウスがなくなってから吉祥寺からすっかり足が遠のき、そういえば阿佐ヶ谷も最近行ってないかも、と思ったらおもしろそうな特集 - 『春爛漫 歌と踊りの銀幕祭典 Dancing,Singing!』 - をやっていたので行ってみよ、と。

日曜日のお昼から満員になっていました。
杉浦幸雄が『主婦の友』に連載していた漫画『銃後のハナ子さん』が原作で、冒頭に漫画のキャラクターの書割りの裏から彼らを演じるひとりひとりが紹介されて出てくる。 昭和14年、ハナコさん(轟夕起子)は両親と兄夫婦(兄は出征中で留守)とその息子と住んでいて、近所に丸の内で仕事をしている婚約者の灰田勝彦もいて、いつ結婚しようか(照)の状態から、結婚して新居を構えて子供が生まれて、夫に召集が来て、というあれこれが「お使いは自転車に乗って」とか「隣組」とか、みんなもよく知っている歌と踊りで朗らかに、という国策映画なの。

銃後の緊張を想起させるような出来事や世相が出てくるわけでもなく、二人や家族の絆を試したり強調したりするようなドラマがあるわけでもなく、ひたすら無邪気に朗らかにみんなが歌って踊って万事快調! のままに時間が流れていくので、どこかの国との間で戦争が起こっているなんて映画を見ているだけだとわからない。 勿論、映画を見ている我々はこのとき何が起こっていたのかを知っているわけで、そのギャップのなかに「圧力」とか「無理」とかを見てしまう - 彼らは明るいふり楽しいふりして歌って踊らされているのだな、と。  そしてマキノのすごさというのは、そういうのをわかっていながら寸分の違いもない舞踊とか笑顔の束として構成してつーんとしていることなの。

終りのところ、ハナコさんは出征が決まった夫に何かしてあげたいわと言い、夫は「お前の好きなことをすればいい」と応え、ハナコさんはじゃああたしでんぐり返りするわ、と言って楽しそうにでんぐり返しを繰り返す。 更にその後でおかめのお面をつけて踊りまくる。 出征の、別れの場面でぜったいに楽しいわけがないのに異様に楽しそうにやる。 ほんとはびーびー泣いてハグとかしたいに決まっているのに。

で、この後で親子3人の後ろ姿が畑の向こうに消えていくところで終るのだが、その前があんなふうに不気味で変なので、ああこの3人は地の果てに消えようとしているんだな、と思えてしまう。
どんなに国策がぶいぶい言ったところで、ざまあみろ、みたいな意気を感じるの。

最近の国策プロパガンダ映画としか思えないようなあれらよかぜんぜん格上なのは言うまでもないわ。
あ、比べちゃいかんか。

4.04.2015

[film] The Theory of Everything (2014)

28日土曜日の夕方、神保町から日比谷に移動して見ました。
そういえば、アラン・レネも”The Theory of Everything"のひとだったかも、とか思いつつ。

邦題「博士と彼女のセオリー」は、少女漫画ぽい解りやすさを狙ったのかもしれないけど、やっぱりしょうもない矮小化だと思う。
愛の誕生も子供の誕生もALS発症も障害者生活もあらゆる疲労も閃きも浮気も別れも赦しもよれよれ続いて生きていくこともそこで流れていった時間もそれらがまわしていった家族や学校のサークルも、そういうのをぜんぶぜんぶひっくるめての”The Theory of Everything"だというのに。 

大学で出会ったStephen Hawking (Eddie Redmayne)とJane (Felicity Jones)が恋におちて、彼は天才で、でも難病がでて余命2年て言われて、でも結婚して、子供を作って、でも病気は進行して、でもお勉強も進行して、膨れあがる宇宙のように時間すらも飲みこんで黙ってろ、ていうの。

博士が生涯をかけて追っかけているグランドセオリーのスケールに負けないでっかさで、彼と彼女の愛と運命がでっかく描かれて、なんかすがすがしいの。 余命2年? 車椅子? それがなんなのよ。あたしたちが追っかけているのはそんなもんじゃないんだからね、と。

そんな怒濤の献身介護の物語かというとそうでもなくて、ふたりはずっと一緒にいるわけでもなくて、じゃあそこで泥沼の修羅場がやってくるかというとそうでもなくて、相当いろんなこと、やなことうんざりなこともあったに違いないのに、なんかさらりとしている。 原作がJane - 当事者だから、ということよりも、そこに事実を受け容れた上で「セオリー」を探す・撚りあげるひとの目があったから、と見るのが正しいのかも。

時間の始まりはどこから、どんなふうに始まったのか、を脳みそいっこで追いつづける博士の旅が向かうところは二人の頭上で花火が炸裂したあの晩、だったのか。 恋愛のただなかに身を投じることとグランドセオリーを探求することは似ている。あらゆる矛盾や不合理をはねのけるのではなく取り込もうとする野望。 Stephen Hawkingというひとは、一生をそれに、それだけに捧げている。 この映画はその凄絶さ、というよりそういう一生を送ることのできる幸せ - だって君がいてくれたからさ - のほうに寄ってうまくいっているの。

これでオスカーを獲ってしまったEddie Redmayneさんが上手なのは当然として、でもすばらしいのはFelicity Jonesさんのほうだ、と思うの。 あのすてきだった”Like Crazy” (2011)も結局日本では公開されなかったよねえ。

そういえばStephen Hawkingさんの本物て、90年代にサンチャゴの空港で見たことがあったなあ。

4.02.2015

[film] Aimer, boire et chanter (2014)

28日の土曜日、神保町で見ました。

アラン・レネの遺作、「愛して 飲んで 歌って」。
英語題はアラン・エイクボーンの原作戯曲のタイトル - “Life of Riley”。

舞台は英国のヨークシャーの田舎、というのだが見るからに嘘つけ、で、道路を走るところは実写だけどお家はぼんやりした絵だし、ドアはなくて布切れだし。殆ど屋外 - 家の外側 - で進行するし(屋内に入るのは2回くらい)、それよかみんなフランス語しゃべってるし。
という具合にまるごとフェイクな舞台セットがそのまま映画のうえに載ったかんじ。

コリン(Hippolyte Girardot)とカトリーヌ(Sabine Azéma)は永年連れ添った夫婦で、医者のコリンが友人で教師のジョルジュは病気で余命あと数ヶ月、て妻に言ったら、お喋りのカトリーヌはあら大変てそれを友人の夫婦ジャック(Michel Vuillermoz)とタマラ(Caroline Sihol)に言って、みんな大騒ぎになる。 カトリーヌはかつてジョルジュの恋人で、ジャックはジョルジュの幼馴染で、演劇をやっているカトリーヌとタマラはそれなら、とこれから上演する芝居の空いた役にジョルジュを引っ張りこむの。(そんなことして死んじゃったらどうする)

他にはジョルジュと別れていまは農夫(Sandrine Kiberlain)と暮らしているモニカ(André Dussollier)とかコリンとカトリーヌの年頃の娘とか。

お芝居そのものはうまくいったようで、ジョルジュと女たちの関係もとってもよくなって、芝居のあとで、休暇をスペインのテネリフェ島で過ごそうとカトリーヌは誘われてまあジョルジュったら(ぽっ)、になるのだが、彼が誘っていたのは彼女だけじゃなかったの。

最後まで姿を見せることのないジョルジュ、死を目前にしたジョルジュの前で、彼はもう死んじゃうんだから、と眠っていた女たちの恋が再燃して、その隣にいた男たちもやきもきじたばたする - お話しとしてはその程度なのだが、そこはいつものアラン・レネで、ひとつの死と複数の生という境界 - 過去の自分たちと今の自分たちの境目、夫婦の境目、などなどを演劇の仕掛けを使って浮きあがらせている。
そしてジョルジュがいちばん得してて、いいなあ死者は、て思っていたら最後の最後にあんなのが。

おなじ原作者 - アラン・エイクボーン - による『六つの心』"Cœurs" (2006)でわりと厳格に仕切られていたアパートの壁 - ひとの垣根を緩めにとっぱらって陽気にしたかんじ、というか。
生も死も割とどうでもいいというか、死者がいちばん楽で関係なしで、その反対側で生者がぐるぐるまわって踊る。
あるいは、「死」をテーマにしたのであれば、あのすばらしい『死に至る愛』"L'amour à Mort" (1984)に出てくる複数の死、臨死、それらを通してみた生、とか。

アラン・レネ映画の常連 - Sabine AzémaとSandrine Kiberlainの老人のような妖精のようなほんわかした風体を見るのもこれが最後なのかなあ、としんみりした。

あとは、なんといっても「もぐら」よ。  もぐら映画なのよこれ。
(つかれているな…)


R.i.P. Manoel de Oliveira . 最後のおじいちゃん監督。