3.28.2019

[talk] Viv Albertine and Tracey Thorn

26日、火曜日の晩にBritish Libraryであったトーク。

昨年チケットが発売された時、当日に取ったら夕方には売り切れていた。そういうものよね。お代は£15。
司会はジャーナリストのAnita Sethiさん。男女比は女性の方がやはり多くて、年齢層は相当高め寄り。若い女子はぽつぽついたけど、若い男子はほとんどいなかったような気が。

このふたりなら70年代末から80年代初のUKシーンのこととか、こんなことあんなことあったよね話をいっぱい聞けるのではないか、というこちらの間抜けな思惑を軽く蹴っ飛ばす、とても深い内容でいまだに反芻しながら自分のことも含めてあれこれ考えている。 纏まっていないかもしれないけど、書かないと忘れていってしまうので、とりあえず書いてみる。

まずはTraceyから、こないだ出版された彼女のメモワール”Another Planet: A Teenager in Suburbia”からの抜粋 - 彼女が13歳の時に書いていた日記を朗読する。これがほんとに冴えない、ぼーっとしたやつで、友達に電話した、けど出なかった、とか、買い物にいった、けど閉まってた、そんなのばかり(場内爆笑。でも彼女のあの声だと歌のようにも聴こえたり)。こまめに日記に残していたわけではなく、そんなネタしかないくらい退屈で、八方ふさがりの日々で、70年代の中頃にロンドンからちょっと離れたサバービアに暮らす、というのは10代の子にとってはこういうことだったのだ、と。

続いて 昨年、同様のメモワール”To Throw Away Unopened”を出版したVivが朗読はしないものの、本のジャケットになっていて本文中にも写真が載っている、彼女の母親が亡くなった後に遺品の整理をしていて出てきた古いAer Lingusのバッグ – “To Throw Away Unopened” - 「開けずに捨てること」と表に殴り書きされたその中から出てきた母の60年代の日記(開けちゃったのね)のことを話す。 そしてやはり死後に彼女が見つけた60年代の父親の日記のこと - 丁度この時期、両親は離婚協議中で、それがあったので双方で記録を残していたのかもしれないが、これらを通して当時の両親が自分や妹のことをそれぞれどう見ていたのかを、父と母の見方の違いを知ることになった、と。

あまり時間を置かずに発表されたふたつのメモワールに共通しているのは、自分が10代の頃に書かれた日記(自分のであれ親のものであれ)を通して当時の自分の像を見つめ直し、そこから何故あの時の自分はやがて音楽活動に向かわざるを得なかったのか、を掘りさげてみる、そういう注意深さ生真面目さで、それ故にこれはありがちな田舎から出てきて成りあがったぜ!な自慢話からは遠い、普遍性を湛えたお話しになっているのだと思った。(Vivの本は父母の日記だけじゃないいろんな引用の織物になっていてすごくおもしろいので、誰か翻訳しないかしら)

話はそこを起点として、70年代(40年代並みに退屈だったって)に女性としてあるのはどういうことだったのか(真ん中を過ぎた頃になって突然Patti SmithやSiouxsie Sioux が現れるまで女性不在、誰もいなかった)とか、常にOutsiderであること、Boredomを受け容れて理解すること、それはほんとつまんなくて耐え難いものだったけど、今振り返ってみればmixed feelingで、あそこでの苛立ち - rageがあったから音楽や創作に向かうことができた、というのは言えるよね、と。

話は更にそこからWoman LiberalismやFeminismの方にも広がって、そりゃそうでしょとしか言いようがない。
Men’s Worldである音楽業界は当時からちっとも変わっていないよね、って。

過去の自分の日記から何かを見出したTraceyと、自分では決して日記を書かない(断言してた)けど両親の遺した日記から何かを発見したViv、どちらも自身の創作の根っこをあの頃のあの環境や境遇に置いているのはおもしろくて、それはきつくてつまんないとこで我慢しないとだめとか、あるいは腐れおやじが言うように若い頃に苦労しなきゃいかんとか、そういうことではぜんぜんないの。

そこに埋もれて浸かってしまうのではなく、常にOutsiderで、異端であれ、ということで、それは彼女たちの音楽を初めて聴いたとき – “Cut”は80年、81年くらい? ”Plain Sailing/ Goodbye Joe”の7inchは82年?- に感じた強烈な違和とも共鳴して、これまでの音とぜんぜん違って聴こえたなにか、ってそういうところから来たのかなあ、と。

で、さらに、そうやってoutside - 外側に立つ目線が過去に向かって今回のようなメモワールを書かせたのだとしたら、それがなぜ今、同じような時期に揺り動かされて発信され読まれなければならなかったのか、は自分たちで考えてみよう。

Traceyがティーンの頃にサバービアで見ていた景色と、自分が高校の頃「ニュータウン」で見ていたそれ - 圧倒的な退屈さつまんなさ – は同じなのか違うのか。 おもしろいと思うのは例えば岡崎京子が『東京ガールズブラボー』で描いた「東京」への憧れ、あそこにはEBTGとかも含まれていた気がするが、その彼らも似たようななにかを抱えてそこにたどり着いていたのかもしれない、ってこと。

そして、今の子達が抱えている(かもしれない)退屈さつまんなさ、って我々が見ていたそれとはおそらく違う。
どう違うのかは想像しようもないけど、彼らの退屈や苛立ちをそのまま吹かせておくようにするのが大人達の役目よね(退屈させないようにする、のではなくてさ)。

それにしてもViv、かっこよすぎ。Isabelle Huppertさま(Vivより一つ年上)みたいな問答無用感いっぱい。

[film] Plaire, aimer et courir vite (2018)

22日金曜日の晩、CurzonのBloomsburyで見ました。タイトルを直訳すると“Pleasure, love and run fast”と出るのだが、英語題は”Sorry Angel”。 昨年のルイ・デリュック賞を受賞している。

大好きなChristophe Honoréの新作をふつうの映画館で、(特集上映じゃなくて)ふつうに見れるのってうれしいな。

1993年のパリ、劇作家のJacques (Pierre Deladonchamps)  - 39歳 - がいて、ゲイで小さな息子がいて(この子はとてもできたよいこで、パパが恋人と抱き合って泣いていても動じない)、AIDSでぼろぼろになって現れた前の恋人とのやりとりとか、同じアパートに住む少し年上のゲイの友人Mathieu (Denis Podalydès)とのやりとりとか、イベントにいった先で出会った - Jane Campionの”The Piano” (1993)がかかっている映画館で - 若くて青いArthur (Vincent Lacoste)とのやりとりあって、それなりに名も売れてて落ち着いて不自由なくみえるJacquesでもいろいろ揺れたり悩んだりぼろぼろで泣きたいときは泣いていいのよ、ていうゲイたちのあんまぱっとしないアンサンブルドラマなの。

で、そのうちJacques自身もAIDSで倒れてしまい、口では強がりを言うもののどうしようもなくて、そんな彼にもArthurは辛抱強く愛のちょっかいを出してきて、それが ”Sorry Angel” – どちらにとっても – になる。

AIDSで崩れていく関係とか喪失感とか、そこからの立ち直りとかを描く、というよりはミドルエイジの危機がまずあって、ああもうだめかも、ってなったところにAIDSがきて更に落ちてどうしようもなくなるのだが、それでもくっついてくるものはあるから - そういう普遍性はあるかも。

ゲイの劇作家というとJoe Ortonが思い浮かんで、彼がもしああいう事件にあわず、フランスにいてAIDSの時代を生きたらこんなふうになっていたかも、というのは少し思った。
(あるいは、ここに出てくる登場人物みんなR.W.Fassbinderの映画の世界にいるような)

もういっこ、90年代初、AIDSの脅威が吹いた時代のドラマでいうと、”120 BPM” (2017)がまだ記憶に新しくて、あそこにあった刹那とか膨れあがっていく鼓動とか高まり、はこちらにはなく、寧ろ逆に、どこまでも静かに、これまでの関係や生活をなんとか保とうとしていて、でもそうしようとすればするほど萎んでいって、でも、それでも残るものはあるから、と。

Christophe Honoréなので音楽は問答無用ですばらしくて、The Sundays - “Can’t Be Sure”, Prefab Sprout - “Cars and Girls”, Cocteau Twins - “I Wear Your Ring”, Ride - “In a Different Place” , Cowboy Junkies, The The - “This is the Day” なんかが遠くで聞こえたりして、その遠さがまた絶妙で、ラストにはHarry Nilssonの”One”がくるの。 夜、Arthurがひとりで座っているところにこれが流れてきただけで泣いちゃったし、思いだしただけでいくらでも泣ける。

レビューはあんまよくないみたいだけど、そんなの関係ないわ。

3.27.2019

[film] Joni 75: A Birthday Celebration (2019)

こっちから先に書く。 24日、日曜日の午後にPicurehouse Centralで見ました。

昨年11月7日にLAで行われたJoni Mitchellの75歳の誕生日をいろんなミュージシャンが集まってお祝いしたライブの模様を収録したもので、DVDはこないだ発売されて、それを記念したものなのかいくつかの映画館で特別上映があって、Joni Mitchellだいすきだし出てくる人たちもみんな好きだし、こういうのはでっかい音で聴くに限るので見にいった。
春に向かう日曜の午後に丁度よい気持ちよさだった。

冒頭にJoni Mitchellそのひとが会場に現れたのでおおーってなる。一時危篤が伝えられたときはどうなることかと思ったけど、ここまで回復したんだねえ。

オープニングはNorah Jonesによる"Court and Spark"で、ものすごく緊張しているようで、そりゃそうよね。
次のGlen Hansardの"Coyote”はアコギがしゃがしゃが気持ちよく、間奏でコヨーテの咆哮がきれいに響き渡る。バンドはJon Cowherd (p)とBrian Blade (perc)を中心としたややJazz寄りのコンボで重心低め、しっとりさざ波のように伝ってくる。

続くDiana KrallやEmmylou Harrisのきんきんに張りつめた糸もすごくて、本人が客席で見ている緊張感があったのかもだけど、誰が出てきて何を歌ってもすばらしくて、それは何人かの人が語っていたように自分は彼女の歌に救われたのだ、という感謝とリスペクトに溢れたものだったから、としか言いようがない。

Rufus Wainwrightは”Blue”をやって、そのしばらく後には”All I Want"を(いいとことったね)、あとはChaka Khanの”Help Me”でバックコーラスとか。日本のライブもじきだね。

バックスクリーンには彼女のポートレートの他に彼女が描いた絵画なども映しだされて、曲間には彼女の過去の発言(客席に向かって「あんたたちみんなツーリストみたい、もってアーティストをリスペクトしなさいよ!(怒)」)とかいろいろ。
Skype経由で遠くから挨拶したのはPeter GabrielとElton Johnだった。

Graham Nashの時、ここではみんなJoniの歌を歌うんだろうけど、僕はちがうよ、と"Our House"を歌って(Joniも歌ってた)合唱の渦をつくる。これを書いた時、僕は27、彼女は26だったな、て言うそのバックにはJoniのLaurel Canyonのおうちだろうか、ふたりが並んだ写真が出てきて、じーん。50年前のことなんだねえ。

James Taylorは客席のJoniとかっこよく目配せをしてから”River”と、しばらく後で”Woodstock”を。

あとは、Brandi Carlileに支えられたKris Kristoffersonのほんとすてきな笑顔。舞台に上がる前、BrandiがKrisにJoniのことどれくらい知っているの?って聞いたらKrisは”Only Everything”だよ、って答えたって。かっこよすぎ。

歌でやんやの大喝采だったのはSealの"Both Sides Now"だったかも。久しぶりに聞いたけど、彼の声はほんときれに伸びて響く。

音楽的にいちばんきたのはLos Lobos with La Marisoul, Xochi Flores & Cesar Castroの"Dreamland"だった。Joni Mitchellの音楽の裾野の広がりを見せつけてくれる豊かさ気持ちよさだった。このライブのバックバンドはすごく上手くてよいのだけど、それ故にテクだけでは実現の難しそうな初期のおてんばなかんじを湛えていたのがこの人たちのノリだったような。

最後は当然、お祭りのような”Big Yellow Taxi”で、でも聴きたい曲は当然のようにもっといっぱいあるよね、になってじたばたする。

これを見た翌日に、2年前、Royal Albert Hallで同様のトリビュートライブをやった(でも本人は来なかった)Scott Walkerが76歳で亡くなったとの報が来た。 わたしにとってこの人はソロになってからの荘厳なあれらではなくて、ずっとWalker Brothers だったかも。初期のBowieにめそめそしてしまうのと同じように”The Sun Ain't Gonna Shine (Anymore)”とか”Make It Easy On Yourself”はずっと聴きつづけていくことになるに違いない。 ありがとうございました。

そして、亡くなった方に重いも軽いもないけど、Ranking Rodgerさんのは、とても悲しい。RIP
〜 “Save it for later - Don't run away and let me down”

3.26.2019

[log] Bollocks to Brexit

23日、土曜日の午後、Brexitなんかやめちまえ、のデモに参加した。 天気もよくて、気持ちよかった。
日本人なのに、参政権も投票権もないのになんで英国の政策のデモに行ったのか、について少しだけ書いておきたい。

確かに参政権もないし投票権もない数年間の滞在ではあるが、ここ数年、英国に税金は払っている。だから英国政府やその機関から受けられるサービスについて文句を言ってよいしと思うし、そのサービスが大きく変わったり劣化したりする可能性がある場合は、声を出して抗議したって構わないはず。

特にこんなふうなでっかい台風とか洪水みたいのが来て自分の住む世界の境界が揺らぐときに「自分は日本人だから」なんて澄ましてみたところで誰も聞く耳もたない。自分で正しいと思う方向に動いたり逃げたりして「おーい」って叫ぶべきよね。

ていうのもあるし、やっぱりAmerica First (Great Again)もUK Firstも都民ファーストも、やっぱしだめだったじゃん、ていうのは強く思う。 これが浮かんできた2016年当時はそういう気分だったり雰囲気だったのかもだけど、気候変動がこれだけやばくなり、景気が上向いてきたわけでもなく、これをやることで景気が上向いてくれる気配もなく(逆っぽい)、難民や格差の問題も顕在化して深刻になり、「自分の国がいちばん」は彼らを受容するどころかはっきりと排斥したり隔離したりする方向に機能しがちであることが見えてしまった今、これを無理やり実行してなにかを取り戻したり美しくなったりすることができるか、というとぜんぜんそういうのではないんじゃないか。 むしろどっかの東方の島国みたいに自分たちをすごく見せたいがために嘘ついたりごまかしたり隠蔽したり、更にそのために強要したり恫喝したり、そっちの弊害の方を予測できる(あそこまでひどいのはないと思うけどね)。  今必要なのは壁を作ることではなくて橋を築いて手を差し伸べることでしょ、「先進国」がそれをやらなくてどうするのよ、というのを道端の実感としてすとんとぶちまけたのがあのデモだった、と思うのね。

首相のリーダーシップがどうの、ということよりも、どれだけ議論して案をひねり出してもEU側もUK側も両方が幸せになれそうな絵姿やシナリオをひねり出すことができなかった、それなら無理に動くことはないだろ、って。 いま無理してブリブリ言う方がよっぽど醜悪で後々うんざりげんなりをもたらすことになるに決まってる。 し、もう十分うんざりなんだ。アメリカの今にもにっぽんの今にも。 今ならまだ止めて、引き返せるかもしれない、ここの国はどっかみたいに卑怯な強行採決なんてすることはないし。

ということを思って、空から見れば黒ゴマの一粒に違いないのだが、それでもその面積を物理的に示すことができる(ゼロではない)機会であることは確かなので参加した。 怒りをぶちまけてわーわー当たり散らす型のデモではなくて、大人も子供も犬たちもみんな笑って騒いでどかどか行進していて楽しい。 みんな思い思いの衣装でシールべたべた貼って手作りの看板掲げて、ラジオかなんかではSteve Cooganさんが楽しく煽っていて、これに参加した子供たちにはきっとよい思い出になるだろうな。

とにかくものすごいひとの波で、終点はどの辺にあるのかを見たくて少し遡ってみたのだが、いくら行っても辿りつかなかった。
ので途中から抜けて、Royal Academy of ArtsのBill Viola / Michelangeloの展示を見て、生と死と再生について考える。これらはぜんぶ繋がっているんだよ。

そして、Scottも …

3.25.2019

[film] Under the Silver Lake (2018)

21日、木曜日の晩、Prince Charles Cinemaで見ました。

昨年日本では公開されているようだったので、なんでこっちではやらないのかしら? と思っていたらMUBIでのリリースを受けてかここ1館でだけ、1日1回くらいのペースでの上映が始まって、初日にはAndrew Garfieldが来てトークしていた。見にいった回は満席になっていて結構人気ある模様。

David Robert Mitchellの”The Myth of the American Sleepover” (2010) – “It Follows” (2014)に続く(と勝手に思っている)、アメリカの気持ちよくない神話シリーズ3つめ。舞台はLAに移って、更に混濁して錯綜してわけわかんなくなってて、よいかんじの139分。

冒頭、”Beware the Dog Killer”ってガラスに大書きされた落書きを消しているカフェ(BGMはThe Associationの”Never My Love”)でSam (Andrew Garfield)がぼーっと突っ立ってて、アパートに戻る途中には瀕死のリスがべたっと落ちてきたり不吉で、彼は失業してふらふら適当に生きてて家賃も滞納であと5日で追いだすよ、って警告が来て、でも特になにか始めるわけでもなく、GFを呼んでセックスしたり部屋から外を覗いたり、そんなのをしてばかりでしょうもない。なんかぷーんと臭ってきそうだし実際に臭い(って指摘される)ゴミ男のかんじがてんこ盛り。

ある日アパートの向かいに越してきたと思われる白犬連れの女性が気になって声をかけて部屋に呼んではっぱ吸って楽しく過ごすのだが、彼女 - Sarah (Riley Keough)の部屋には怪しげな男女が出入りしていて、暫くして部屋を覗くとみんな忽然と消えていたので唖然として、気になって行方を追い始めると、やがて失踪していたビリオネアの死体発見の現場から彼女の帽子が見つかって。

で、これと並行するかたちでzineにあったメッセージとか目についたシンボルとか暗号とかを探偵みたいに探っていくと行く先々で死体とか夢か、みたいな話がごろごろ出てきて完全に嵌って抜けられなくなる。”It Follows”は死がどこまでも追っかけてくる話だったが、今度のは追っかける先に死が先回りして転がっている。 “Beware the Dog Killer” -

たぶん出てくる個々の謎や符牒や「なにこれ?」を追いだすときりがないような不思議の国のアリスのお話しが、金とカルトとドラッグとポップミュージック(バンド)、そして勿論Hollywoodとか - 割とどうでもよいもの - にまみれたLAで展開していって、原因はともかくその根っこはプールの底とかUnder the Silver Lakeにあるのよ、くらいに留めておいて、そのだんだらが広がっていくさま、その腐臭(スカンク)が蔓延して目がまわっていくさまを楽しめばいいのだと思う。もちろん、Sam本人がじゅうぶんにいかれちゃっているのだ、という線は残しつつも最後までそっちに寄せなかったのは偉いかも。

そして、“The Myth of the American Sleepover”の頃から続く水に関わる、水を介して伝播伝染していくように見える不穏ななにか。それは明確にこいつだ、ってならないから”The Myth”なのだろうが、裾野ばかりでっかくてぜんぜん終わっていそうに見えないところはよくて、ありそうなさそうでいうと、とてもありそうなかんじではあって、だからといってどうすることもできず、結局部屋とか原っぱでぐだぐだするばかり – そんな横に広がっていくアメリカの風景が。
(これが英国だと屋根裏とか地下室とか、建物にこびりついているかんじがする)

音楽はいろんなのがいっぱい流れて西海岸なかんじ、だったがあの空気感に一番合いそうなかんじがしたのはPavementとかSlint("Spiderland”のジャケット..)あたりではないか、とか。

Andrew Garfieldさんの汚れっぷりは見事で、この彼なら”Spider-Man: Into the Spider-Verse”が実写化されたときにPeter B. Parkerをそのままできるねえ。されないだろうけど。

DTLAのAce Hotelのプールサイドとか、Lost Bookstoreとか懐かしかった。LAはほんとに遠くなってしまったなあ。

[film] Forty Guns (1957)

16日の土曜日の午後おそく、BFIのBarbara Stanwyck特集で見ました。

翌日から出張で国の外に出てしまったので、これがこの特集で見た最後の1本になってしまった。
結局、“There's Always Tomorrow” (1955)も”Sorry, Wrong Number” (1948)も見れなかったよう。

邦題は『四十挺の拳銃』。 監督はSamuel Fullerなのに、これ、日本の映画館ではリリースされていないのね。

荒野の一本道をGriff (Barry Sullivan)、Wes (Gene Barry)、Chiko (Robert Dix)のBonell三兄弟が馬車で移動していると向こうから白馬一騎に率いられた野郎馬40騎(数えてないけど)が大名行列どけどけおらーの勢いでざざーっと通り過ぎて、なんじゃありゃ、てあっけに取られつつも、町に着く。
Griffはここに強盗を追って州の法執行官として着任したのだが町はさっきの騎馬団の先頭にいたJessica Drummond (Barbara Stanwyck)の組だか団だかに政治警察も含めて牛耳られていて好き放題に荒らされていて、さてどうする、なの。

町で狼藉を働いていたJessicaの弟のBrockie (John Ericson)を眼力だけでとっちめたGriffはJessicaとサシで会って話すと、ふたりは過去にもいろいろあったようで、一緒に竜巻から逃げたりしているうちに仲良くなっていくのだが、収まりのつかない駄々っ子のBrockieはだんだん凶暴になっていって、町には暴力の嵐が吹き荒れていく。

話の展開も決着も日本の昔の時代劇にいくらでもあるこてこての、既にどこかで見た気のするやつだらけなのだが、冒頭のすれ違いから銭湯で歌が入るとことか、GriffとBrockieとのにらみ合いとか、JessicaのとこのDinnerにひとり乗りこんでいくとこ(あのテーブルのばかみたいな長さ!)とか、銃器屋でのやりとりとか、竜巻から逃げるとことか、Wesの結婚式での悲劇とか、こういうシーンを映画的に捉えるというのはこういうことだ見とけ、みたいなのがごろごろ、はっ、て息をのむシーンばっかりでとにかく楽しい。

他方でタイトルの『四十挺の拳銃』が一斉に火を吹いて蜂の巣にするようなシーンはないし、Jessicaの手下の40人くらいいるはずの男たちはなんか薄くて、彼女とどういう契約になってて、どこに寝泊まりしているのか、家族はいないのか、とか、心配になることもいろいろあるのだけど。

そういうのを全て吹っ切って - 吹っ切っていいのかはあるけどそういうのすら吹っ切って - ラスト、馬を捨てたJessicaのう・う・う・ぅ・ぅ・どっこいしょ(やれやれ)、なかんじのGriffの馬車を走って追っかけのたまんんないことときたら。 本当はもっと意地悪なエンディングになっていたらしいのだが、これはこれでありだと思うし、あのままGriffが気づかずに行っちゃって取り残されて「… 」になったらもっとおもしろかったのになー、って。

Barbara Stanwyckさんは、男のスタントマンたち(女性役も可)ができないっていった嵐のなかのスタント - 馬に片足だけ引っ掛けて抜けない状態のまま延々引き摺られる - を「やったるわ」の一言でやっちゃって、Samuel Fullerも惚れた、って。

彼女の特集、今回やらなかったのもまだ見てないのもいっぱいあるので、続けてやってくれないかしら。 
Christmas in Connecticut (1945)はやってくれると思ったのになー。

3.23.2019

[film] Girl (2018)

15日、金曜日の晩、CurzonのSOHOで見ました。初日、だったのかな?
2018年のカンヌでQueer Palmていうのを受賞しているベルギー/オランダ映画。

手足の長いLara (Victor Polster)がバレエのレッスンをしているところが冒頭で、そのレッスンを見た教師は、難しいところもあるけどまずは7週間様子を見ましょうか、という。暫くするとLaraはtansgenderの元は男子で、医師にかかりながらホルモン治療をして性器切除を準備していることがわかる。家族は父Mathias (Arieh Worthalter)とまだ幼い弟のMilo (Oliver Bodart)が一緒で、ふたり共Laraのことを常に考えていてとても暖かい。

Laraは7週間のレッスンをクリアして次の一年間、スクールで本格的に学ぶことになるのだが、女子であればできているはずのPointeの基礎がない、ということで爪先を血まみれにしながらの特訓が続いて、でもバレリーナになるのが夢だから歯を食いしばる。

更衣室もシャワーも女子用なので少し気がひけて隠したりしていると女子からの虐めにあったり、男子を好きになったほうがいいのか、と無理して向かいのアパートの男を訪ねてみたり、レッスンのストレス以外にも辛いことが重なって食べれなくなり、食べないと体力が続かずにレッスンについていくのが難しくなり、これ以上体重を落として体力がなくなると次のステップ(切除)に進むのは難しい、と医者に言われて塞いで暗くなっていって。

最後にLaraはあんなことをしてしまうので決して明るい話ではないのだが、それでも最後までバレリーナへの夢に向けて火花を散らして負けないから、どよーんとしてしまうやつではないし、ラストシーンはちょっと清々しさすら感じさせて、よいの。

transのひとの悩みや痛みが生々しいくらいに伝わってきて、勿論それが当事者の目線でそれなりに正しく適切に描かれているのか、について議論あるのかもしれないけど、彼女が父親になんでもかんでも「大丈夫か?」ばっかり言うな、って噛みついて喧嘩するところとかはとてもよくわかる。 悩みって、あんたにわかってたまるか、と、じゃあどうしろってんだ黙ってるわかにいかない、の狭間に落ちるのよね。

実際に米国ではtransの批評家がレビューでこき下ろして評価はガタ落ちしたらしいのだが、でもどこがひどいのかよくわからないくらい、悩み苦しむ若者の像としては(変な言い方だけど)よく描けていると思った、よ。 ”On the Basis of Sex”は法における性(差)、の話だったが、こんなふうに内面に顕在化してくる性差の話は複雑で厄介で、結局はひとりひとりのこと、になってしまうのか。 いや、でも、だから、こういうのこそ社会が最低限のケアや受容はできるようになっていないといけない気がする。

Laraを演じたVictor Polsterさんがとにかくすばらしいのだが、Laraには実在のモデルのひと - Nora Monsecour - がいて、クレジットはされていないものの脚本には全面参加していて、彼女はまだダンスを続けている。その辺のことが書かれている監督のインタビューはここに。

https://www.theguardian.com/film/2019/mar/12/lukas-dhont-defends-his-trans-film-girl-victor-polster-dancer

あとは、バレエのレッスンのシーンがよいの。LaraをつきっきりでコーチするおばちゃんはMarie-Louise Wilderijckxさんていうコレオグラファーで、”Suspiria” (2018)のもこれくらいシャープだったらなー、とか。

3.22.2019

[film] Moses und Aron (1975)

14日木曜日の晩、BFIで見ました。

BFIというより、Goethe-Institut(こっちにもあるの)の主催で、この3月から6月まで、”The Films of Jean-Marie Straub and Danièle Huillet”ていう彼らのComplete Retrospective(Completeは英国初らしい)をロンドンのいくつかの定期上映館でやっていて、Straub and Huilletは日本だとアテネでちょこちょこ見ていたくらい、ものすごく大好き、というほどでもないのだが、たまにあの土壁みたいな世界に向かいたくなることがあって、見る。

最初にSam McAuliffeという大学の先生 - Lecturer in Visual Cultures, Goldsmiths, University of Londonのイントロがあって、まあ頭に入ってこないことときたら…

Einleitung zu Arnold Schoenbergs “Begleitmusik zu einer Lichtspielscene“ (1972)

英語題は”Introduction to Arnold Schoenberg’s Accompaniment to a Cinematographic Scene”、
邦題は『アーノルト・シェーンベルクの《映画の一場面のための伴奏音楽》入門』。
“Moses und Aron”の前にかかる序章のような短編。シェーンベルクが、カンディンスキーの反ユダヤ主義的発言に対して書いた絶縁状の朗読にシェーンベルクの音楽が被さる。屋外でそれを語る人、スタジオで朗読する人、それを反対側で録音する人、その関係のなかで切りだされるそれらの言葉の「現在」のありようと、勿論、「映画」と。

続けて、”Moses und Aron”。英語題は“Moses and Aaron”、邦題は 『モーゼとアロン』。

前の短編に出てきた反ユダヤ主義へのアンチを「出エジプト記」に乗せてぶちまけたシェーンベルクの3幕ものオペラ(3幕目は未完)を、野外のそれらしいセットと衣装で、オーケストラと歌の同録 – ライブフィルムの生々しさで撮ったもの。指揮は先頃亡くなったMichael Gielen。ここには3つの視点と時代があって、実際にMosesとAronの兄弟が生きていた頃と、彼らをテーマにした(せざるを得なかった)シェーンベルクの生きた時代と、そしてこれらが演奏され歌われて映画として問われる現代と。 映画はこの3つをひとつの調性のもと総括的に包摂する、というよりも、それらの間にある断絶とか違和を顕わにするかのように、にらみ合いとかダンスとか動物とかが現れては消えて、未完の3幕まで容赦ない。

古典や昔話を読む(聴く)ことの意味はこういうことなのよ、ていうのがよくわかるおもしろさだった。  まあ、こういうのって見ない人はいっしょう、ぜったい見たいのだろうけど。

Geschichtsunterricht (1972)

16日の土曜日の昼、BFIで見ました。 英語題は“History Lessons”。邦題は『歴史の授業』
この後、この上映に続けて“History lessons: Brecht, Straub-Huillet and the British context”ていう約100分のパネルがあって、参加したかったのだがBarbara Stanwyckと被ったのでごめんなさいした。

イントロは、King’s College LondonのMartin Brady氏。ものすごく歯切れよくおもしろかった印象だけ残っているのだが、なかみが… (メモ取らないとだめねもう)。

原作はブレヒトの未完の長編小説「ユリウス・カエサル氏の商売」の一部、らしい。
ローマの市街を移動するオープンカーの後部座席にカメラを置いて、あとで銀行家とわかる若者の運転で彼の後ろ頭の向こうに広がるローマの街なかをぐるぐる回っていくのと、カエサルとその取り巻き連中が周囲の国をずるく騙して植民地支配して資本主義を持ちこんで肥えていく過程を詐欺師ふうにべらべら喋る(たまに客席からは”Shit…” とか)姿と、カエサルとその末裔(だろおまえ)としか思えない銀行家のにらみ合いと。

とにかく車でローマの狭い路地とかを移動していくだけでじゅうぶんにおもしろくて、更にここでも上にあった3つの視点のせめぎあいがもたらす緊張は生きていて、だから歴史を、そのありようを正しく学ぶということの意味って(以下略)。 あとここから歴史修正主義のありえない詐術っていうのも..

あとはRenato Bertaのカメラ、なんであんなふうに世界がいっぺんに入ってくる(ように見える)のか、とか。

なんか、昔は題材によっては退屈よね、とか思っていた彼らの映画がこの頃とてもおもしろくなってきた気がしてならず、 これってなんなのかしら、って。

ただの歳か..

3.20.2019

[film] Ball of Fire (1941)

10日、日曜日の夕方、BFIのBarbara Stanwyck特集で見ました。 わいわい大入り。

邦題は『教授と美女』。 監督はHoward Hawksで、脚本はCharles Brackett & Billy Wilderで、撮影はGregg Toland で、音楽はAlfred Newmanで、衣装はEdith Headで、どこを切っても問答無用の最強で、これが80年代にVHSで出た時、1万円以上したのにどうしても見たくて欲しくて飛び降りるようにして買って、何度も見たので、自分にとってのコメディ(スクリューボールでもロマンティックでも)の原点みたいなやつだし、いまだにValentines Dayになるとどこかで上映されたりしている。 それにしてもおそっろしいのは、Barbara Stanwyckさまはこの年、Preston Sturgesと”The Lady Eve”を撮って、更にここで共演したHenry Fondaともう1本、”You Belong to Me” – これは未見 – を撮って、”Ball of Fire”のGary Cooperとはどシリアスな”Meet John Doe”も撮っているって、なんなの? ただの最強ってこと?

マンハッタンの邸宅で教授たちが百科事典編纂のために慎ましく共同生活をしていて、彼らは全員研究仕事に身を捧げているのでずっと独身(妻が亡くなってしまったひとはいる)で、一番若いのがPotts (Gary Cooper)で、彼はアメリカのスラングの研究をしているのだが、ある日ゴミ収集のおじさんの喋っている言葉がぜんぜんわからなかったのに衝撃を受けて(ありがち)、もっとフィールドに出ねば、って町に出てスラングの収集を始める。(どうでもいいことだけど、そのなかに”Slap Happy”って言葉がでてくる)

で、その収集活動でナイトクラブに行ったときにそこで元気いっぱい歌っていたKatherine (Barbara Stanwyck)にぼーっとなりつつも彼女の操る威勢のいい言葉(やはりちんぷんかんぷん)にやられて、自分は言葉の研究をしているのでもしよかったらここに来ていろいろ教えてもらえないだろうか、と自分のカードを渡して帰る。KatherineはギャングのJoe (Dana Andrews)の情婦で、彼が暫く身を潜めなければならなくなったので、彼女もガサ入れで見つからないように隠れろ、って指示をだして、そうだあの教授のとこに行けあそこならぜったい警察も踏みこむことないから、って。

で、深夜、ナイトクラブのびろびろの恰好で教授たちの前にKatherineは現れて、教授たちは瞬殺のめろめろで、Pottsは研究対象だからいてもいいけどその恰好はやめて、といい、家政婦のMiss Braggはありえない辞めさせてもらうわ、ていうのだが、とにかくKatherineは居座って、Pottsとも仲良くなって、うぶな彼はKatherineとの結婚を考えるようになるのだが、Katherineからすればそんなのありえない話なのにPottsは夢中で指輪まで用意して、でもやがて彼女はJoeと結婚することになっているから、とウェディングに去ってしまう。 しょんぼりのPottsだったが、彼女が去り際にしたあることからひょっとしたらこれって.. と教授たちみんなでNJの式場に車で突撃していくの。

“The Lady Eve”もこれも、手練れの詐欺師だったり情婦だったりする彼女が、愚直に真面目にやってきたいいとこのガリ勉くんをぽーっとさせてつき落とす痛快なコメディで、Preston Sturgesのが相手をどこまでもサディスティックに痛めつけてひっくり返すのに対して、Haward Hawksのはどちらかというと一族郎党引き連れて転がっていく痛快活劇で、その爽快感ときたらない。

”Meet John Doe”との比較をすると、Gary Cooperはどっちのでも無骨で正直でいっぽん筋が通ったシンプルな「男」で、彼女は常にその上位にいて見守っていたり女王になったりで、あれじゃ結婚しても尻に敷かれるのは見えているのだが、そういう関係像が求められていたのかもしれないし、なんにしてもBarbara Stanwyckさまがこの生態系宇宙の頂点にいることは、だーれにも否定できまい。

Pottsが間違って入ったコテージに彼女がいて、暗闇でその目だけがぼうっと光っているとこ、何度見てもすごいったら。

とにかくコメディの一丁目一番地なので、見たことないひとは見てね。

終わったら大拍手なのはとうぜん。

[film] Outside the Law (1920)

10日、BFIの日曜日の定例のサイレント上映会で、見ました。 いつもながらほぼ一杯。
そしていつものようにBryony Dixonさんによるイントロつき。

San Franciscoのチャイナタウンを舞台にしたアンダーグラウンド、犯罪モノの先駆けで、この2年後にDashiell HammettがContinental Opのシリーズで描いていくことになる要素のいくつかを見ることができるので、HammettはSan Franciscoの映画館でこれを見ていたのではないかしら、とか。
初期にこんなアクション活劇を撮っていた監督Tod Browningはこの10年後 - 1930年にEdward G. Robinsonを主演に同タイトルでこれをリメイクすることになる。気にいったテーマだったのかも。

冒頭に孔子曰く、法から外れたことをせず従っていればすべて丸く収まるのよ、みたいな、よくよく考えてみればあたりまえじゃね? な教えが説かれて、それを言っているのがチャイナタウンを仕切っているぽい老師Chang Loで、聞いているのが地場のギャングのMadden とその娘のSilky Moll - Molly(Priscilla Dean)で、そうかやっぱ堅気にならなきゃねと思っているとMaddenは続けて起こった銃撃事件の容疑者としてはめられて留置所に送られ、Mollyはギャング友達のDapper Bill Ballard (Wheeler Oakman)とNob Hill (Knob Hillってなっている)のアパートに身を潜めつつ宝石泥棒の計画を練っていくことになって、最後は父をはめた大ボスのBlack Mike Sylva (Lon Chaney)とぶつかることになる。

おもしろいのは潜伏生活中のMollyと隣の部屋に住む洟垂れ小僧とのやりとり- 初めは馴れ馴れしく寄ってくるんじゃねえよ、ってつんけん無視していたのだが、ガキにわーわー泣かれて首に手を回されたらみるみる表情が溶けていくとこ - と最後のチャイナタウンに戻ってのどんぱちで、ここって冒頭からそうなのだが、いまであれば警察とか探偵とかヒーローのような正義を諮ったりその線を引いたりする立場・役割のキャラが普通にいておかしくないのに、そういうのが一切出てこない - 警察はいるけどわらわら混乱を増幅させるだけ - なのでラストのどっちが悪でどっちが、がまったく見えない状態 - Outside the Law - で撃ち合いをしている&それが迷宮のようなチャイナタウンの深部で連鎖して暴発していくわけわかんない混沌模様はすごいと思った。

ただ全体としてはPriscilla Dean の女優としてのすばらしさ - 善人とか悪人とか娘とか恋人とかの狭間でうむむこんにゃろーって悩むとこがぜんぶ表情にでる - が最後まで残って、ああ彼女の出演作もっと見たい、になった。 彼女と相方のWheeler Oakmanて夫婦だったのね、後で知ったけど。

これと、Lon Chaneyのどこから見ても極悪にしか見えない悪役- Black Mike Sylvaのどす黒っぽさで、彼はもう一役Chang Loのとこにいる謎のアジア人(典型的なアジア人ツリ目メイク)てのも二役でやっていて、その怪傑ぶりもすげえなー、で、要は怪人と美女が蠢く魔宮のようなチャイナタウンの闇 – ふつうのひとは絶対立ち入ったらだめ、なさまが見事に活写されていて、つまりはOutside the Lawなのね、だった。

で、このチャイナタウンの底が抜けた恐ろしさを現代に蘇らせたのがJohn Carpenter師による”Big Trouble in Little China” (1986)で、そういえばあれも正義のなんか、とは程遠い、でもかっこいいなんかだったねえ。

3.15.2019

[film] The Kindergarten Teacher (2018)

9日の土曜日、午前に”Captain Marvel”見て、午後にPicturehouseでこれ見ました。

昨年のSundance Film FestivalでDirecting Awardを貰っている。Nadav Lapidによるイスラエル映画”Haganenet” (2014) – 未見 - の英語によるリメイクだそう。

スタテン島に暮らすLisa Spinelli (Maggie Gyllenhaal)は、キャリア十分、仕事熱心な幼稚園の先生で、子供たちを見守る目も暖かいし誰も心配してないし文句も来ないのだが、自分の家では夫との間も冷めてて、息子も娘ももう自分たちでやるから構ってこないで、ってゲームやSNSに没入、の年頃で、自分は週に一回フェリーに乗ってマンハッタンの詩の教室に通っている(教師はGael Garcia Bernal)。そこにもそんなに情熱を込めているわけではなくて、続けていけたらいいな、程度。

ある日、おとなしい園児のひとりJimmy (Parker Sevak)がぼうっと突っ立ってて、何かに撃たれたように歩きだしたと思ったら詩みたいな文句をぶつぶつ呟いていて、Lisaがなにこれ? と書きとめてみるとなんか素敵な詩になっているではないか。ちょっと驚いて、彼を迎えにきたNannyの娘に聞いてみると、あーたまにあるみたい、とかいうので、彼がこんどなんか呟いてたらそれを書きとめておいてくれる? と頼んで、暫くして彼女があいよ、って持ってきた紙切れを見ると、やっぱり詩みたいで、しかもすごくよいの。自分の詩の教室に持っていってみんなに聞かせても、いいね、って言われる。

ひょっとしたらこの子はモーツァルトみたいなあれかもしれない、この才能がこのままで埋もれていってしまうのはもったいなさすぎるのでなんとかしてあげたい、と思うもののクラブ経営をしている父親は忙しくて顔を出さない、母親もいないらしい、Nannyはちゃらい娘でなんも考えてなさそうだし、なので自分で面倒をみることにして、無口なJimmyが何か呟けば書きとめ、美術館(MOMAだわ)に連れていったり、リハーサルとかしてBowery Poetry Club – なつかし – の素人ステージに立たせてみたり、熱狂するようにつきっきりで世話を始めてしまう。

この辺の空気をつくっていくかんじが巧くて、孤独で年齢もあっていろんなことに焦り始めた幼稚園の先生がもともと教育熱心だったし自らの寂しさを紛らわすためにちょっと変わった園児に付きまとう、というのが新聞記事ふうの書き方になるのだろうが、コメディにもスリラーにも転びうる微妙に居心地の悪い空気の舵をLisa - Maggie Gyllenhaalの表情とひょろっとした物腰 - 眼差し、喋り方、立ったり座ったり、それだけでも –  は見事に操って統御していて、こないだの”Hannah”と同じように不安定な女性像を見せてくれてすばらしい。 

そしてそんな彼女の先にいるJimmyは外見だけだとそこらにいるただの、ひとりぼっちのガキで、突然詩を呟きだすところなんてだいじょうぶなのこの子?  なのだが、こんな子であんな詩って、ちっともおかしくないかんじは間違いなくあるの。

そしてなによりも、今の時代の詩ってネットの隅っこに浮かんでくるとか、こんなふうに行き場を失った中年女性と半孤児みたいなガキの間に突然浮かんだり消えたりするものなのかもしれないなー、って。 それでいいじゃんかべつに。

ラストは戦慄、といってよいくらいものすごく後に残る。 そういうものか、と。

劇中に出てくる詩は、Kaveh AkbarとOcean Vuongによるものだそう。

3.14.2019

[film] The Miracle Woman (1931)

8日、金曜日の晩、BFIのBarbara Stanwyck特集で見ました。
International Women’s Dayにふさわしいタイトルかも、と思ってみたらなかなか暗いやつだった。監督はFrank Capraだし。

邦題は『奇蹟の処女』.. あーあー
原作はJohn MeehanとRobert Riskinによる劇作 ”Bless You Sister”で、これの10年後、Robert RiskinはCapraとこないだ見た”Meet John Doe” (1941)も書いているの。

教会で長いことお務めをしてきた牧師が亡くなって、その娘のFlorence (Barbara Stanwyck)が説教台に立って彼の死を伝えると共に、これまでの教義が説いてきたことの欺瞞とか、てめえらのアタマがいつまでも空っぽだから父は苦労して死んじゃったんだボケ! とかパンクに糾弾したら客は怒って帰ってしまうのだが、こいつは使えるかも、と思った賭博師Bob (Sam Hardy) が彼女を伝道師に仕立ててSister Fallonと"Temple of Happiness"として売り出してツアーすると救いを求める人たちが寄ってきて当たって、じゃんじゃか儲かるようになる。 この辺、Florenceのモデルは実在した伝道師 - Aimee Semple McPherson (1890–1944) なんだって。

そんなある日、Florenceは盲目のピアニストで腹話術とかもできていろいろ器用な元空軍の飛行機乗りのJohn Carson (David Manners)と出会って、Johnは身投げしようとしたところを彼女の言葉で救われたといい、その純真さと多芸っぷりに打たれて仲良くなっていって、そうすると彼女はだんだん自分のやっていることが恥かしくなってくる。Johnの方も小憎らしくて人形使って愛の告白したり、家政婦を使って練習(歩数と位置を事前に把握)してぼくは目が見えるようになったよ! ってやったり盛りあがるのだが、ここで金づるのFlorenceを持っていかれたらあかんわ、ていうBobがひどいことをして… 

最後、Johnのことを考えるともうこんなことは続けられないから白状しようと決意した彼女の背後で教会が燃え上がってすべてがおじゃんになってしまう設定は”Meet John Doe”のラストと同じようで、これを見るとCapraって大衆とか公共というものの幸福と、たったひとりのひとを救う or あなたを救う、ということの間に線を引いた - あれとこれとは別、な人だったのだなあ、って。
人々のかたまりになった意識が戦争を起こす、恐慌を起こす、分断や貧困をもたらす、これらの恐ろしさ救いようのなさを十分にわかっていて、そういう状態から、それでもすくい上げたり拾い上げたりできる何かはあるのだと信じていた、のだろうか?  なんかべつに信じてないけどスタジオから言われたし、そういうケースもあるかも、くらいにやっていたような気がしてならない。

でもとにかく、Johnからの(見えないのに)Florenceに対する愛の一途さと、そこに(Johnには見えないのに)とんでもない極上の笑顔で応えて顔を近づけていくFlorenceのスパークがすばらしくて、それがメインのいんちき宗教のお話からやや浮きあがってしまって見えてしまうとこがやや残念だったかも。

これの撮影を終えたBarbara Stanwyckさんは一日だけ休んで次に控えていた”Night Nurse” (1931)の撮影に入ったって、まるで売れっ子伝道師じゃないか …

Brexit、とりあえずよかった。 あんなのもうやめちまえ。

3.12.2019

[film] Hannah (2017)

7日の木曜日の晩、CurzonのBloomsburyで見ました。日本公開はない気がするわ。

74thのヴェネツィア映画祭でCharlotte Ramplingさんが主演女優賞を獲っているイタリア映画。
上映にあわせて彼女のトークイベントもあったりしたのだが行けなかった。
レビューにChantal Akermanの”Jeanne Dielman, 23 Quai du Commerce, 1080 Bruxelles” (1975)とかMichael Hanekeへの言及があったので、なら見たいかも、と。

Hannah (Charlotte Rampling)は演劇のレッスンだかワークショップだかをしていたり、裕福なおうちに通いの家政婦をしていたりする主婦で、でも夫との会話は殆どなくて、食事中に電球が切れても黙って夫が球を取り替えたりしている。翌朝になると夫は刑務所と思われる施設に入っていって、彼女はひとりきりになるのだが、特に生活は変わらずに、プールで泳いだり、花を替えたり、夫の方にしかなついていない犬の世話をしたり、カメラはこれらの静かな無言の生活、地下鉄に乗って同じルートを往ったり来たりの日々を送る彼女の後ろ頭を中心に追っていく。

少しだけ笑みを見せるのは収監中の夫と面会する時と家政婦をしている家にいる目の見えない男の子の相手をするときくらいで、あとはずっとむっつりしているのと、演劇のレッスンで少しだけ自分ではない誰かを演じてみたり(その演技は – あたりまえかもだけど – ものすごくうまい)、それくらいが伺うことのできるちょっとした変化。

一度、孫の誕生日にケーキを焼いて作って手紙を書いて、誕生会で賑やかな息子の家に持っていくのだが、息子からはここには顔を見せるなと言っただろう、ときつく叱られてトイレでわんわん泣いてしょんぼりして帰る。そして夫との面会で孫は笑って喜んでくれたわ、という。

どういう事情でそういうこと - 言葉や叫びになって出てくるわけではないがどちらかと言えば疎外され抑圧されているかんじ、でも何によってかはわからない - になってしまったのか、家族や夫との間の過去の出来事は一切明かされないまま、それでも彼女の日常の動き、表情、表情の奥のもやもやはとてもよくわかる気になってくると、やがて彼女が犬を他の家族にあげてしまい、戸締りをして家を出て、なんの表情も表に出さずに階段を降りていくそれだけでものすごくこわくて。

“Jeanne Dielman …”にあった日常の動作の反復がラストのあれに向かって撚られながら整然と積みあがっていく恐怖ほどではないものの、彼女の頭のなかで静かに進行して止められない、これをどこかで断たないと自分はもう... がわんわんこだましている底なし穴を覗いているかんじ、はどこかで繋がっているようでおそろしい。 そしてこれを「おそろしい」と感じてしまう自分はどこに立って、どういう目で彼女(たち)を見ているのか、についても考えたい。

少し前の”45 Years” (2015)も、昨年みた”The Little Stranger” (2018)にしても”Red Sparrow” (2018)にしても、不機嫌で不穏な老婆の表情を変えず、でも自分は一切の手を下さずに加えずにただそこにいて血が流れおちるのを見ている、その目その姿のおっかないことときたらなくて、いまこんなような、家具とか置物みたいな演技ができるひと、誰がいるだろうか、と。

他方で、Hannahはわたしだ、というひとはいっぱいいるのではないかしら。

[film] Captain Marvel (2019)

9日、土曜日の朝9時にBFI IMAXで見ました。こんなの当然初日に見るよね、だったのだが8日のは気付いたときにはぱんぱんで。 International Women’s Dayのリリースは極めて当ったり前のよいことで、それに乗れないどっかの国ってさ …

冒頭のMarvelのロゴシークエンスが「ありがとうスタン」なのは当然よね。

どっかの宇宙のどっかの星の軍の小隊みたいなとこに属しているVers (Brie Larson)がそこの隊長らしいJude Lawに訓練を受けて、更にそこのでっかいAIみたいのから感情をコントロールせよ、とか説教されて、でもとりあえず敵をやっつけるミッションについたのだが、逆に引っかけられて捕まって無理やり記憶の一部をほじくられながらも逃げだしたら地球って星の1995年のLA の Blockbuster(ていうビデオ屋チェーンがあったのよ、子供たち)の天井を突き破って落っこちる。(でもしなない)

そこから先は姿を自在に変えながら襲ってくる追手をかわしつつ、そこにいてぶつかったS.H.I.E.L.D.のNick Fury (Samuel L. Jackson)とPhil Coulson (Clark Gregg)の助けも借りながら、自分たらひょっとしてこの土地に縁があるみたいだけど、それってなに?自分はだれ? を追っていくJason Bourneモノ、でもあるの。

このひとが地球人が変態したウルトラマン型なのか宇宙人が擬態したウルトラセブン型なのかは気になるところだったが、とにかくかつては空軍の飛行機乗りでAnnette Bening - 彼女はVersの悪夢のなかにいつも出てくる – が主導するプロジェクトに参画していたことを知って。

宇宙スケールの自分探しの旅と、宇宙難民の話と侵略勢力の話と、自分がどこに属しているのかによって敵味方も変わってくるのと、外宇宙からのアタックをまだ想定していなかった地球の話が、じゅうぶんに平和だった95年のLAの上でごたごた絡みあいながら展開していく。 攻める方も攻められる方も、どっちがどっちのなんなのかわかっていない状態なので最初の方のバトルはやや締まりのわるいかんじで、でもそれらが「わたしの名前はCarol」と彼女のまんなかで覚醒して発火した途端に弾みがついてパスが回りだすのが心地よい。 けど、ほんとはここのとこ、もっともっと鳥肌たてさせることできたと思うのよ。

95年のアメリカなので、BlockbusterもRadio Shackもオフィスの文房具もPager(ポケベル)も、当時のインターネットやWindowsの画面とかそのトロさ(みんな吹いてた)とか、懐かしいのだらけだったが、わかんなかったらパパママに聞こう、でいいのかな。
セット以上に来るのが音楽で、90年代中期(日本ではサブカルに向かっていった頃ね)の王道のがわんさか流れてくるのでたまんない。個々の選曲にもおそらく意味があって、どれも当時のテーマだった自分とかあなた探しに近いとこのやつばかりで、だからNINはTシャツは出てくるけど曲は流れないのではないか、と(Nirvanaは流れる)。 あと、ボードにPJ Harveyの”Rid of Me”のポスターが貼ってあったけど、95年だとちょっと遅いの。全米ツアーがあったのは93年で、NY公演の前座はRadioheadだった(とか、そういうのはいくらでも湧いてくる)。 90’sのあれこれもこんなようなノスタルジアと共に綴られるようになったんだねえ、とか。

で、この地点から次のAvengers(来月!)までの約25年間、あんたいったいどこでなにしてたん? はあるにせよ、Captain Marvel(この映画のなかで彼女がそう呼ばれることはない)の生誕・降臨のお話しはこれでよしとしよう。 看過できないと思われるのは – 既にあちこちで報告されているように – 彼女がどれだけ暴れてそれがAvengers立ち上げのきっかけになったとしても、あの茶トラ猫にぜんぶ持っていかれているのでは、ということで、そもそもあれはネコなのかタコなのかはっきりしろ、とか。 地球を存亡の危機に落としこんだ青光りする例の石を毛玉みたいにげーげーしているあの猫(?)はなんなのか。 そのうちこいつで1本できることを強く望む。”Goose” ...

しかし、Brie Larsonさんが猫アレルギーって、笑っちゃいけないけど、なんとも..

3.11.2019

[film] Remember the Night (1940)

5日、火曜日の晩、BFIのBarbara Stanwyck特集で見ました。
最近はこの特集ばかりで新作をほとんど見れていない。 けどちっともかまわないの。

監督はMitchell Leisenで、脚本をPreston Sturgesが書いている。Leisenが自分の脚本をざーっと削ったりしているのを見たSturgesは自分で監督するのを諦めちゃったのだという。

クリスマスに向かうNYの街中の宝石店で、Lee (Barbara Stanwyck)が万引きをして捕まって、彼女は常習だったので有罪は見えているのに、担当検事となったJack (Fred MacMurray)は陪審員のみんなはクリスマス前で判決下す気分でも雰囲気でもないでしょ? と審議を年明けに延期する細工をしたらLeeが怒って、クリスマスと年越しを牢獄で過ごせっていうわけ? て騒ぐのでかわいそうになって保釈してあげたらこんどは行く場所がないどうしてくれる? てわーわー言う。そのうち彼女の郷里はIndianaであることがわかったので、自分が里帰りする車に乗っけていくことにするの。

前半はふたりの道中の凸凹あれこれで、ペンシルベニアで迷って農場で車止めていたら逮捕されてやや面倒な連中相手に面倒な裁判にかけられそうになったとこでLeeが放火して(すごいことする)一緒に逃げたり、Leeの母親に会いに生家にいったら再婚していた彼女にもう会いたくないので来ないで、と冷たく言われたり、笑ったり泣いたりいろいろあってだんだんに距離が縮まってきて、JackはLeeを自分の実家に連れていくことにする。

Jackの実家には彼の母(Beulah Bondi)とEmmaおばさんといとこのWillieがいて、みんなLeeのことを暖かく迎えてくれて、それはJackが彼女の素性と事情を明かした後でも変わらなくて – ここさあ、ほんとにいいシーンでしみじみいいひとたちなの。ああいう人になりたいもの - 大晦日もコルセットぎゅうぎゅうされてママのドレスを着せられて、みんなで歌って踊って楽しんで、JackはLeeにキスをする。 この頃にはもうふたりは互いに愛しあっているのだが、Jackがどれだけ家族から愛されて誇りに思われているかも、この時が終わったら戻らなければならないことも、戻ったら裁判があって牢獄行きで離ればなれになることもじゅうぶんにわかっていて、だから帰りの道行きはちょっとしんみり穏やかで、ペンシルベニアを迂回してカナダ経由にしてナイアガラまで来たところでJackはLeeにプロポーズして、保釈後失踪したことにしよう、ていうのだがLeeはそれはできない、って。

とにかくねえ、前半は威勢よくてガラっぱちだったのに後半はLeeの瞳がずっと濡れたようにきらきらしていて、それだけでこっちもうるうるしてきて、喉の奥がずっとひくひく引き攣っていた。 みんななんていいひとたちなんだろう、なのに自分はなんであんなことしちゃったんだろう、この時間ももうじき終わってしまうんだなあ、終わらないで(祈)、って。だから”Remember the Night”で、この年のクリスマスと年越しのことはぜったい忘れられないねえ、って。 不思議なのは彼女の瞳を見るとほんとに彼女の気持ちが乗り移ってしまって、なんであの時万引きしちゃったんだろう、この先更生できるかしら、とか次々浮かんできて自分のあたまぶん殴って止まらなくなるの。

で、このふたりが同じような立ち位置で再会して火花を散らすのが、誰もが知っている“Double Indemnity” (1944)で、こっちはノワールでふたりしてまっ暗闇の破滅に向かうことになる。これの前にこういう話もあったことがわかって、よかったかも。

終わって(いつもは必ず起こる)拍手がこないので、あれ? って後ろを振り返ってみると、みんなうつむいて涙をぬぐったりしているのだった。いいなー。

[film] Meet John Doe (1941)

4日、月曜日の晩にBFIのBarbara Stanwyck特集で見ました。 邦題は『群衆』。
主演女優に最初はAnn Sheridanか、Olivia de Havillandを考えていたがどちらも都合がつかずに結局Barbara Stanwyckになったんだって。 へえ。

リストラが進む新聞社で肩を叩かれてしまったAnn Mitchell (Barbara Stanwyck)がやけくその最後っ屁で放った フェイクの読者投稿 - 失業者のJohn Doeが社会に対する怒りと呪いをぶちまけてクリスマスイブに身を投げて自殺してやるんだ - がセンセーションを巻き起こしたので、これいけるかも、と思った社は浮浪者たちを集めてJohn Doeのオーディションをやって、その中から野球選手だったというJohn Willoughby (Gary Cooper)を起用して軟禁しつつアイコンに仕立てて、彼のぐっとくる写真にAnnが捏造した彼の発言つきの記事(当然フェイクね)を書かせるとこれも当たって「いいね」がいっぱいついて、我こそがJohn Doeである、という人々が「John Doeの会」を作って社会現象にまでなっていく。

自分のものではない言葉 - でも内容はそれなりに共感できる - が一人歩きして有名人に祭りあげられて戻れなくなっていくJohnと、同様に周囲からいいぞもっと書け売れるぞ、って褒められ煽られて他人の言葉を捏造し、セレブになりあがっていくAnnと、同じ言葉と双方向の後ろめたさを共有しているふたりは恋に落ちていって、他方でこの盛りあがりを利用しない手はない、と出版社のD.B.Norton (Edward Arnold)は彼を担いで自身の政党立ち上げと大統領選への布石とすべく、スタジアムでのJohn Doe集会をぶちあげて、AnnにJohnのスピーチ原稿を書かせる。

直前にその企てを知ったJohnは全てを白状する決意でスタジアムに向かうのだが、企画した側もこれを察知して先回りして「John Doeはぜんぶフェイクでしたひどいね」の号外を出し、スタジアムがブーイングの嵐で騒然となるなか、Johnのマイクは線を切られ、彼は逃げるように放り出されて闇のなかに消える。 この雨のなかのスタジアムのシーン、カットも含めてすごい臨場感と緊迫感ですごい。

で、果たしてJohnは最初の投書の通りにクリスマスイブにビルの屋上から身を投げてしまうのか。
ラストをどうするのかは決めずに撮影に入り、撮影の際にも、華氏20度(氷点下6度くらいよ)以下の状態で5つの異なるバージョンを撮ってBarbara Stanwyckを病院送りにしたというそのシーンは、これしかないよね、て思った(けど他のバージョンも見てみたい)。

AnnとJohnのラブストーリーとして見てもよいけど、それ以上にいろーんなことを考えさせられるやつだった。 ぜんぜん古くない、いまのドラマとして。 メディアと政治家が”John Doe”の名のもとに、匿名として現れる緩い社会意識の隙につけこんで彼らを扇動し、ファシズム(と明言されないけどそうよね)に練りあげていく手口 - 売らんがための捏造、弱いところに付け入って持ちあげ、反対側でスター(スポーツ選手だし)を起用して夢を煽って - が整然と描かれている。(時代ゆえかもしれないけど、人種差別や性差別はここには出てこない。あくまで白人男性にとってのユートピア)

これを見ると今のSNS - Twitterが体制派 - 国体を維持しようとする連中のフェイク・捏造のための装置としていかに適していて、実際に運営側も含めてそういう振る舞いをしていることとか、なんか納得できるし、炎上という名の粛清とか、あーあー、って思った。 あれ、ロクなもんじゃないよね。

これとか、8日に見た”The Miracle Woman” (1931)を踏まえて、名作といわれる“It's a Wonderful Life” (1946)に出てくる宇宙だの天使だのを振り返ってみると、めちゃくちゃシニカルで暗い(よい意味でよ)作家だったのではないかしら。

例えば、Frank CapraならBowieの”Ziggy Stardust”の世界を映画にできたかも、とか。

3.09.2019

[film] Union Pacific (1939)

3日、日曜日の晩、BFIのBarbara Stanwyck特集で見ました。邦題は『大平原』。

Cecil B. DeMilleによる大陸横断鉄道敷設に関わる歴史ドラマ。知らなかったけどカンヌのPalme d'Orの受賞作第一作だったのね(授賞式は第二次大戦に突入したため実施されず)。

このテーマの列車ものとしてはJohn Fordの”The Iron Horse” (1924)が鉄板鉄壁の決定版だと思っていて、そこは揺るがないのだが、これもなかなか素敵。

オープニングの字幕が地の彼方に遠ざかっていくのって、その後、Star Warsで使われるやつよね。

リンカーンの承認を受けて東から西に延びようとするUnion Pacific鉄道と西から東に延びようとするCentral Pacific鉄道があって、それらの鉄道はふたつが繋がるまで工事現場の先端に労働者たち(と彼らを賄う食料とか酒とか給料までなんでも)を運んでそこから先の建設を進めていくやつなのだが、その進行を遅らせるとこでお金儲けを企む悪い奴らがいる。 Mollie Monahan (Barbara Stanwyck)は機関士のパパと列車に乗って風を切ってる威勢のいい郵便屋(”End of Track”が発信地になる)で、見るからに悪そうな悪玉がSid (Brian Donlevy)、その手先の小悪党の博打屋がDick (Robert Preston)で、ワシントンから送りこまれた正義の味方として乗ってくるJeff (Joel McCrea)がいて、Dickは独立戦争でJeffに命を救ってもらった恩義があるという。

移動中に、停車している先々でふっかけられる様々ないちゃもんに苦難、トラブルを知恵と力技でかっこよく蹴っ飛ばしていくJeffにMollieはぽーっとなっていくのだが彼女に激しくアプローチをかけるのはDickの方で、JeffもMollieが好きになっていくのだがDickが無邪気なのでつい黙ってしまって、ていう三角関係が続いて、やがてMollieはJeffの危機を救うためにDickの求婚を受けいれることになり、Jeffはそうかわかったよ … って。

というふうに、どっちが先なのか前景なのか後景なのかわかんないけど、鉄道建設の血と汗の物語に黄金の三角関係ドラマが絡んで原野を転がっていくと最後のほうにはインディアンによる給水塔ぶちまけとか水責めの後に火事の火責めとか襲撃だの応戦だののスペクタクルも待ち受けててお腹いっぱいになる。すごいと思うのは三者間の恋愛も列車事故も襲撃もぜんぶ同じ強さと濃度、絵巻物の迫力で迫ってくることなの。 ”The Iron Horse”は揺るぎなく世界に誇れる正史、ってかんじだけど、こっちはありえたかもしれない波乱万丈の外伝で、どっちもロマンはたっぷりで。

あと、Mollieの背後に控えている毛むくじゃらの炭鉱野郎みたいな二人組がいて、こいつらが最強で最高なの。 気がつくと姫の後ろでげへへ、とか笑って軽く敵を始末していたり。

そんななか、Barbara Stanwyckさんはなにに燃えているのか漲ってて、でも軽く爽やかで、あんな地の果てでなんであんなふうにクールでいられるのか不思議で、上映前に配布されたノートにはCecil B. DeMilleがこれまで仕事をした女優の中で、控えめに言っても彼女が断トツでやりやすくて完璧だった、って。 とってもそんなかんじだよ。

R.I.P. Carolee Schneemann.
一昨年にMOMAのPS1で見た回顧展はすばらしかった。 The Guardianの追悼記事。

https://www.theguardian.com/artanddesign/2019/mar/08/carolee-schneeman-performance-artist-taught-us-how-to-live

3.08.2019

[film] How to Train Your Dragon: The Hidden World (2019)

3日の日曜日の昼、Leicester Squareのシネコンで見ました。2Dで。 これももう終わりそうで。
DreamWorksのアニメーションシリーズの3つめ。前2作はとても好きで、特に2作目はすごいと思ったのだが誰も騒いでなかった気がする。

前作から1年後くらい、Hiccup (Jay Baruchel)とドラゴンのToothlessとその仲間たちはドラゴンハンターに捕えられたドラゴンのとこを急襲して逃がしたりをやっているのだが、他方で自分のとこではドラゴンがうじゃうじゃ増えすぎててこのままでいいの? になってきている。

Hiccupが案として考えているのが前作で亡くなった王(彼の父)が言っていた地の涯にあるという理想郷- Hidden Worldで、それを見つけることができればそこに、っていうのと、そういうのを父の後継として仕切ってリーダーシップを取れる大人にならなきゃ、っていうのもある。

今回はToothlessのNight Furyの種を絶滅寸前まで追いやったGrimmel the Grisly (F. Murray Abraham)ていうドラゴンハンターが出てきて、そいつは白いFury  - Light Furyを捕まえてて、こいつをダシにToothlessを捕まえようと、近寄らせてみたらToothlessはめろめろの猫みたいになってはしゃぎまくり、その様子を見たHiccupは彼の幸せも考えてあげないとな、になるの。  

というわけで、ドラゴンハンターとの戦いの裏側でドラゴンたちの永久の住処(ユートピア)を探す話とか、Hiccupが王を継ぐ話とか、子(Toothless)離れの話とか、白黒ドラゴンの恋バナとか、Astrid (America Ferrera)とHiccupの恋バナとかが進んでいくのだが、ちょっと詰め込みすぎてふつーの、ヒトの王国を巡るそこらに転がっている神話みたいなお話しになりすぎちゃったかも。

前作は山のようにでっかいドラゴン – Alphaの登場とバトル(監修:Guillermo del Toro)がなかなか盛りあがったのだが、そういうヤマもなくて、ちっちゃいのが隅々までごじゃーっと湧いているかんじがせわしなくて、近寄ってみればブリューゲルの絵みたいなのだがストーリーには関係ないし、ドラゴンハンターも薬でドラゴンをコントロールするとかやり口がつまんないし、悪魔のように悪かったり性根が腐っていたり手強かったりするわけでもないので、なんかな。

ヒトとドラゴンが敵味方で戦ってばかりなのはよくない、けど友達になってみれば楽しくて無敵でこんなにすごいこともできるんだよ、ていうのが前2作までで、でもずっと犬猫みたいにべったりしているのも、ヒトの側にいろんな敵を生んでいくことになるし、ドラゴンにはドラゴンの事情があるはずだし、別々に暮らしたほうが互いにとっていいんじゃないの?  ていうのが今作で。どことなく”Pete's Dragon” (2016)のようなかんじで終わるの。 もちろんそれでいいんだけど、ファンタジーの、アニメーションの世界なのになー。 “How to Train Your Dragon”は、Trainできるけどそこそこに、無理すんな、猫みたいにほっとけ、ってことなのかなあ。

ということでドラゴンたちが飛び回るところはいつものようにすばらしいのだが、たぶんもう地の涯の隠れ里に行ってしまったの。 次に出てくるとしたら宮崎アニメみたいなかんじになっちゃうんだろうなー。ちぇ。

ところでHidden WorldのビジュアルってほぼRoger Deanの絵の世界だった。 あそこに70年代のYesを流してくれたらぜんぶ許したのにな。(テーマ曲はJónsi)

3.06.2019

[film] The Mad Miss Manton (1938)

2日の土曜日の晩、BFIのBarbara Stanwyck特集で見ました。 止まらないおもしろさ。

NYのPark Avenue界隈のパーティガール - Melsa Manton (Barbara Stanwyck)が午前3時にパーティ帰りの恰好で犬の散歩をしていると売りに出ている空き家から車で出ていく男を見かけ、なんだろって中に入ってみると男の死体があったのでパニック起こして警察を呼ぶのだが、警察が踏みこんでみると死体は消えていた.. Melsaとその仲間のパーティガール達はそもそも連中に評判よくなかったので警察はただの悪ふざけとして処理して、新聞記者のPeter (Henry Fonda)もそれに乗って悪意たっぷりのいじわる記事を書く。

それであったま来たのがMelsaとその周りの7人のガールズで、それなら自分達で突きとめたるわって、いろいろ気になるところを嗅ぎまわっていくと、狙われたりきな臭いことが起こってきたのでほうら、ってなったところですっとこ刑事(Sam Levene)とかPeterもようやく動きだす。 で、そうやってケンカしたり追い回して逃げたり隠れたりしていくうちにMelsa とPeterは恋におちて..

謎解きミステリーとしてはそんなでもない(工事中の地下鉄駅を使うのはおもしろい)けど、どたばたスクリューボール・コメディとしてはとってもおもしろくて、特にMelsaと仲間たちのかしましさと、この後の”Tha Lady Eve” (1941) でびりびりの水面下SMバトルを繰り広げることになるBarbara StanwyckとHenry Fondaの顔合わせ第一弾で、ここでのHenry Fondaはまだ偉そうにつんけんしていて、Barbara Stanwyckはこいつはカモとしてどんなもんかな .. って様子を伺っているかんじだけど、そういうのも含めていろいろたまんないの。

きらきらゴージャスでパーティでは無敵なのにちょっと謎解きに首突っ込んだら男どもに叩かれてくそーって奮起するあたり、とっても古いようで新しくて、誰かリメイクしないかしらん。

Annie Oakley (1935)

2日の土曜日の午後、↑の一つ前に見ました。これもBarbara Stanwyck特集で、邦題は『愛の弾丸』。 宣伝コピーは「ウズラもオトコも百発百中よ!」(なんて)
彼女にとっては初めての西部劇なのだそう。

うずら撃ちの名手Annie Oakley (Barbara Stanwyck)がいて、どさまわり興行のBuffalo Bill's Wild West Showでやってきた拳銃使いToby Walker (Preston Foster)と張り合って、コンビでツアーしているうちに恋におちて、でもやがてTobyは目が悪くなってしまい。

男女組の銃使いコンビというと『拳銃魔』が有名だけどあの息詰まる重苦しさとは正反対の軽さ明るさに溢れてて、見終えた後の爽やかさったらないの。ラストの射的場のシーンなんてたまんないの。

ありがちなお色気ウェスタンみたいになっていないのは当然としても、マテリアル都会娘も純朴田舎娘もなんでもござれって、ありえないわ。 なんなのこのひと。

Annie Oakleyって実在した女性 (1860 – 1926)で”Annie Get Your Gun”のAnnieって彼女のことなのね、とか今頃知る。  今Annieを演じるとしたら誰ができるだろうか?

[film] Fighting with My Family (2019)

1日の金曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。公開初日なのにがらがらでたまに笑い声が後ろの遠方から聞こえてくるかんじ。とってもおもしろいのになー。
前の日のに続いて実話ベースの家族みんなで戦うドラマで、こっちの舞台は法廷ではなくてプロレスのリングなの。

英国のNorwichで小さなプロレスジムをやっているパパ(Nick Frost)とママ(Lena Headey)のもとでプロレスをやりながら大きくなった兄妹 - Zak "Zodiac" Knight (Jack Lowden)とSaraya "Paige" Knight (Florence Pugh) - がいて、ふたりをメジャーなとこでデビューさせたい両親はビデオとかをいろんな団体に送っていたらついにO2アリーナでのトライアウトに来るように言われて燃えあがって参加するのだが、選考の結果、トレーナーのHutch Morgan (Vince Vaughn)が選んだのは妹Paigeのほうで、彼女はちょっと戸惑いながらもみんなに暖かく見送られてフロリダでのトレーニングに参加する。

Paigeは英国の田舎とはぜんぜん違うフロリダ、モデルあがりのつーんとしたアメリカ娘たちとのギャップとかMorganの地獄のトレーニングで疲弊して孤立していって、他方で地元に残ったZakは選考で外されたことが傷になってだんだん荒れてぐれていって、Paigeはみんなに溶け込もうと、ゴスメイクを落として髪を染め、日焼けまでしてみるのだがプロレスの方は力を出しきれなくなって一旦諦めて戻ってくる。

戻ってきたPaigeに家族はやさしいのだがZakはそうではなくて、ざけんな、って。中途半端に諦めてんじゃねえよ、って。それで目をさましたPaigeはもう一回フロリダのトレーニングに戻ってがんばって、ついにデビュー戦のときがやってくるの。

アメリカの女子プロレスの世界はわからないのだが、いきなりWWE Divas Championていうのと戦うことになっていて、家族親戚はみんなTVを囲んで固唾で、Paigeは出てきてもマイク握って啖呵きるとこで喋れなくて固まって、でも始まったら体がぐいぐい動いてDivaをぶっつぶして、こちとらNorwichのFreaksじゃなめんなおらぁー、って思いっきり叫ぶの(←痛快ったらない)。

これ、フィクションだとしても相当コテコテで、でも実話で、プロデューサーでもあるDwayne Johnsonさんがプロレスの星として燦然と輝きつつもPaigeを盛りたててているのでほんとうにあったことなのだろう。すげーとしか言いようがないわ。 あの家族もDwayne Johnsonも。

家族ドラマなのでしょうがないのかもだけど、少しだけあるとしたら女子プロレスラー同士の友情物語がサイドにあってもよかったかな。よいかんじになっていたし。

Paigeを演じたFlorence Pughさんはどこかで見たなーと思っていたら佳作 -”Lady Macbeth”(2016)でなかなかゲスい少女をやっていた娘さんだった。お兄ちゃん役のJack Lowdenはかの”England Is Mine” (2017)でSteven Patrick Morrisseyの若い頃を演じていて、田舎でもんもん燻ってるけど根はよいこ、をやらせたらめちゃくちゃうまいの。

豪快さんのDwayne Johnsonが素敵なのはいつも通り、その横にいるVince Vaughnはいつもと違うかんじで渋く抑えてて、これもなんかよかった。

スコアはVik SharmaとGraham Coxonのコラボで、Graham Coxonの、あの乾いてひしゃげたギターの音がとっても英国の裏町感に溢れてなじんでたまんなかった。

エンドロールで現物の彼らの映像も流れるのだが、空港でのお別れシーンとかほぼそのままなので笑った。
特典映像にはぜんぶ入れてほしい。

3.05.2019

[film] On the Basis of Sex (2018)

2月28日、木曜日の晩、CurzonのAldgateで見ました。

合衆国最高裁判事のRuth Bader Ginsburg(以下、RBG)については昨年にドキュメンタリー映画 – まだたまに上映されている & オスカーの候補にもなった - ”RBG”を見ていて、そこでの監督ふたりとのQ&Aでもこの映画のことは触れられていた。撮影していることは知っていたけど、RBGのキャリアの最初の方の話でもありそんなに被るところはないのであんま気にしなかった、と。

どちらもぜったい見た方がよいと思うけど、やはりドキュメンタリーで彼女の偉業と思想の全貌をきちんと抑えた上で、のがよいかも。

RBG (Felicity Jones)がHarvard Law Schoolに入学するところからで、周囲は男だらけで校長からしてすげえやなかんじで、既に彼女には夫のMartin (Armie Hammer)と娘がいて、やがてMartinが癌であることが判り彼がNYの法律事務所に入ったこともあって彼女はHarvardを蹴っとばしてColumbiaに移って、でもそこを出ても女性の彼女には就職先がなくて、仕方なくRutgers Law Schoolで女性たちを相手に教え始める。

やがてMartinが持ってきたケース – デンバーの男性が老いた母親の介護をした際に税金控除を受けられなかった – 控除を受けられるのは女性のみ(その女性が動けない場合は男性でも可)、という税法上の規定があって、この法令って性差別 - 性別を起点とした差別 - だよね、ということで戦うことにすると、そこにはものすごくいろいろ面倒くさいあれこれが横たわっていて、彼女が法廷で戦うのも初めてだったからリハーサルも含めた準備も大変で、でも。

法律は現実 - 日々の天候 - に縛られるものではないけど、気候変動には敏感であるべき - “A court ought not be affected by the weather of the day, but will be by the climate of the era” ということと、ただそれにしてもまだ少し早い、もう少し人々の意識が変わるのを待てとか、いろいろ言われ、でもめげずに法廷に赴いて、序盤はコンピューターまで使って判例研究までしてきた敵方にぼこぼこにやられるばかりで、でも最後の方で向こうが嘲るように言い放った"radical - social - change"ていう言葉で彼女に火がついて、性別を根本的な理由に置いた差別は憲法が定めた法の元での平等に違反している、という彼女の拠って立つフィールドに判事たちを引っ張りこむことに成功して、そうしたら..

今では当然.. と誰もが思っていそうな性差に根差した差別が違法であること、それが当然になったのは約50年前に緻密に立証しようとした彼女たちの努力があったからよ、なのだがそれでも理不尽なことってまだまだいっぱいあるよね。特にうちの国は。そもそもRBGがいない、RBGが出てこれるような状況にも環境にもなっていない - 50年前のHarvardみたいな –

ドキュメンタリーと違うとこは、ボクシングの試合みたいな法廷ドラマっぽい仕立てがあるのと、Martinと娘と家族みんなで戦った、みたいになっているとこかしら。 ドキュメンタリーの方では、Martinはほんとにいい人でRBGはべたべたで、くらいだったのに。

Felicity Jonesさんはとってもすばらしいのだが、彼女が戦闘モードに入るとどうしても”Rogue One” (2016)のJynに見えてしまうの。あと、Armie Hammerもすんごくよくて、でっかいこのひとの抱擁力って男も女も子供もぜんぶめろめろにするマタタビみたいな劇薬だよな、って。

そして最後にじゃーん、て登場するRBG本人にはひれ伏すしかない。

邦題は相変わらず、しみじみどうしようもない。何百回でも言うし恨むし。2015年の『未来を花束にして』、2016年の『ドリーム』、そして今回(書きたくもねえや)といい、これを決めた連中、なに考えてるの?  映画が売らなきゃならない商品であることは、そうなのかもしれない、けど、これらの邦題はそれぞれの映画が訴えようとしたメッセージを不当に、いびつに歪めて貶めているし、それによって見るひとを騙して去勢している。これらの女性映画がなぜ今になって出てきているのか。 なーにが『ビリーブ』だよ、信じて救われるんだったらRBGはあんな努力してないわボケ。 赦せないのはこれらの映画はみんな差別を、泣いたり苦しんだりした人たちがいっぱいいた現実、実際にあった苦難を描いた映画なのに、その入り口で飴玉渡してまあまあ、とかやるわけ?   なんでそんな酷いことができるわけ?  これらのタイトルをほざくのは、女性の地位なんとか委員会みたいので高いお金もらって高いところから見下ろしている鼻毛たらしたぼんぼんくそじじい連中なんだわ … そんな人の痛みのわかんない連中に金払いたくないし。(以下えんえん)

[film] Clash by Night (1952)

2月23日、土曜日の晩、BFIのBarbara Stanwyck特集で見ました。邦題は『熱い夜の疼き』。

Fritz Langによるノワールで、冒頭のMontereyの波止場の描写でこれ見たことあったかも、て思ったが見たことなかった。たぶん。 でも…  Fritz Langのって、おもしろくてもすぐ忘れてしまうのでほんとうのところはわからない。

朝の波止場にMae (Barbara Stanwyck)がどこからかふらりと気だるげに戻ってきて、弟で船乗りのJoe (Keith Andes)のところに転がりこんで、でも彼女はそれまでどこでなにをしてたのか過去のことは余り語りたがらなくて、そのうち弟の船の船頭のJerry (Paul Douglas)とデートするようになって、Jerryは昔から彼女に憧れていたこともあってぼうっとなって熱狂して、やがてふたりは結婚して女の子が生まれる。

そのうちJerryはMaeに映画館で映写技師をしている友人のEarl (Robert Ryan)を紹介して、なんか無礼で変な奴、と初めは敬遠しているのだが、EarlはMaeに自分とおなじ影とか博打気質とかスナフキン体質とかを見たようで、おまえはこんなとこで家庭に収まっているようなタマじゃないだろ、とか執拗に迫って誘うようになり、他方でJerryの子煩悩で家庭人としてのあまりの凡庸さ退屈さとか、Joeと彼のGFで缶詰工場に勤めるPeggy (Marilyn Monroe)の青くいちゃつく様子とかを見ていると、だんだんいろんなことがバカらしくなってきて、Earlと一緒に外出することが多くなり、やがて..

フィルム・ノワールと言われているにしては殺人もあからさまな暴力もないし闇の犯罪集団が出てくるわけでもない、筋だけ追ってみればどこにでもありそうなひと時の家族ドラマでしかないのかも、だがそれだけのお話をそのうち大量殺戮でも起こるかのような怒涛の殺気と緊張感 - 人物配置だけじゃなくて、海辺の朝夕の光とか雲の様子とか湿り気を帯びた波風とか – も含めて描いていて目を離すことができない。そしてタイトルは、”Clash by Night”。

小さな映写窓から日がな映画ばかり見ていて、ここはオレの居場所じゃない、オレはきっとそのうち.. とかそんなことばかりぶつぶつ言ってて、ふたりになるとやさしいし奢ってくれるしちょっと陰があって見てくれも悪くないからくっついてみると、実はネトウヨのレイシストのDV野郎で、ストーカー気質でどうしようもなかった、って、現代にっぽんにもものすごくいそうでありそうなリアルさと、それだけじゃなくて実際に絡まれて噛まれて毒を盛られてだんだんに感染して麻痺して周囲がどうでもよくなっていくそのかんじがとてつもなく怖い。 ホラーとしか言いようがないくらい。

Earl - Robert Ryanのクールで得体の知れない爬虫類の触感も、Jerry - Paul Douglasのホットでなりふり構わずのおっさんの体臭もたまんないのだが、そのふたりの間と負けてばかりだった自分の過去、自分の娘との間と、なによりもあんたそもそもなにをしたいのよ? の間で引き裂かれながらも、どっちを選ぶとかどっちに付く、ではなく、何度ものClashを繰り返しながら最後の最後にばん! って自分で自分の結論を出すBarbara Stanwyckさんがいつものようにかっこよすぎる。

一番最後に一瞬彼女が見せる笑顔がとても素敵で、それってもろ”Stella Dallas” (1937)にあったあの笑顔なの。 
数年後、彼女が大阪のおばちゃんみたいになっていてもちっとも構わないわ。

3.04.2019

[film] Mary Queen of Scots (2018)

2月23日土曜日の昼間、CurzonのVictoriaで見ました。もう終わっちゃうそうだったので。

邦題は『ふたりの女王 メアリーとエリザベス』。 前日に見た”Il mistero di Oberwald” (1980)に続く王室幽閉ドラマ。

英国人(含.スコットランド人)には割とふつうに知られているQueen Elizabeth IとMary Stuartの対立を描いた歴史もので、ふつうに知らない異邦人なのでちゃんと(にはならないかも知れないけど)勉強したいなと思って見る。 この辺のこと、英国で暮す以上はちゃんと知っておかないと失礼かなとか、英国の映画とか演劇に触れていくなら必須かな、とか。

Elizabethものとしては、昨年みたZenaida Yanowskyさんによるダンス公演 - ”Elizabeth”以来。
16世紀、イングランドとスコットランドの、カトリックとプロテスタントの、確執や対立、支配に和解を通して国ができあがっていく、その背後にいたElizabeth Iとその側近、そこでぼうぼうと流された策謀陰謀に裏切りに大量の血、などなどを主にMaryの目線から描いていく。

1561年、夫のフランス国王の死に伴い19歳のMary Stuart (Saoirse Ronan)が4人の侍従(名前はみんなMary)とスコットランドに帰還して、でもそこは既にQueen Elizabeth I (Margot Robbie) の治世下で、互いになんかやりにくいなあっていらいらし始めたあたりで、Maryがあたしはあなたのいとこ(系図を見るといとこの娘 – これもいとこなの?)だし、あたしそもそも王位継承権あるよね、ね? って突っこんだらなんじゃとおー(怒)ってなって、かわいそうにMaryは処刑されてしまうの。

ごつごつした野蛮人だらけのあの時代に女性として権力者の座に置かれたふたりのそれぞれの苦難と競争意識と孤立感と、でも案外互いに解りあえるところはあったのではないか、というあたりで本当にそういう場があったのかどうなのかはわからないけど、映画としてはふたりが直接に会って対話をするシーンがひとつのヤマで、でも結局… になってしまう。

日本だと頼朝と義経、みたいなもんになるのかしら - 過去の映画化では”Elizabeth: The Golden Age” (2007)- 未見 – での Elizabeth (Cate Blanchett) – Mary (Samantha Morton)があり、古いところだと”Mary of Scotland” (1936)での Elizabeth (Katharine Hepburn) – Mary (Florence Eldridge)ていうのもあったりする。 Katharine HepburnのElizabethは見てみたいなー。なんにしても昔のElizabethは惚れ惚れかっこいいーって崇め奉られるようなクールな女優さんが演じてきていて、その点今回のMargot RobbieはSaoirse Ronanときれいな反転模様を描けるような危うさ脆さが端々に出ていて、ここは賛否あるのかもだけど、アンサンブルのコントラストとばりばりの緊張感、劇物感は悪くなかったかも。

本当はScarlett Johanssonが演じる予定だったというMaryの方 - Saoirse Ronanは盤石で、想いをこめてひとり海を見つめる姿 - 服は青緑系 – が世界一似合う – “Brooklyn” (2015)でも”On Chesil Beach” (2017)でも - 女優としてこれからもがんばってほしい。最期の衣装のとこはすごいなー。

それにしてもMary Stuartのひいひい孫が”The Favourite” (2018) のQueen Anne - Olivia Colmanになるんだから英国王室っておもしろいよねえ。

音楽はMax Richterさんで、ちりちり民謡ぽい楽器を使いつつも、メインのとこはMax Richterのアンサンブルになっててよいかんじだった。

あのスコットランドの牛、ほしいなあ。

3.02.2019

[film] Al di là delle nuvole (1995)

もう3月なんだねえ。
2月21日の木曜日の晩、BFIのAntonioni特集で見ました。
英語題は“Beyond the Clouds“、邦題は『愛のめぐりあい』.. めぐりあわないのに。

『赤い砂漠』の時にイントロに登場したEnrica Fico Antonioniさんが、彼は10年以上かけてこの作品を完成させたので是非見てほしい、と言っていた(これの別の上映回では彼女とのQ&Aもあった)ので。
闘病していたAntonioniを助けるかたちでWim Wendersがプロローグとエピローグを担当している。

冒頭、なんかを考えている機上(雲の上)の映画監督(John Malkovich)がいて、着陸すると霧のなかを車で走っていく。 ここから4つのエピソードが展開されるのだが、これが監督の頭の中で構想されたなにかなのか、それとは別に監督が遭遇したり見聞きしたりしたことなのか、両者のミックスなのかはわからない。個々の話の詳細には触れませんけど、それなりに(今も)有名な俳優たちが2-3名、だいたいは出会ってセックスして別れて、とか、別れ話があってやはり別れて、とか、出会いと別離をめぐる決着のない(すれ違ったままの)いろんな関係がスケッチされていく。

初期の「愛の不毛3部作」では、地形とか昼夜とか建物とかが介在して決してひとところに落ち着つこうとしない、どう転んでも決着しないまま引き摺られていく愛の行方を描いていたが、ここのは当事者のふたりに寄って立つところのものがなんもない状態の、肉とかより実存に近いところでの決定的な断絶があって、なにをやってもどうしようもない、みたいなところまで来ているかんじがする。ただそれって映像にするとほぼ何も起こらないに等しいか、せいぜいミニマルで凡庸なメロドラマにしか見えないので “Beyond the Clouds”って煙に巻いたりしたのだろうか。 雲の向こうにはあるものがあるのか、それは誰にもわからないので黙るしかない。

というのを自身の長編監督作のラストに持ってきたAntonioniはすごいなあ、って。

そういえば“La Notte” (1961)に出ていたMarcello MastroianniとJeanne Moreauが出てきて、あそこでは作家の設定だったMastroianniがここでは画家になっていて、巨匠のまねっこをしとくのがいちばんじゃよ、とかいうの。

Il mistero di Oberwald (1980)

2月22日の晩、BFIのAntonioni特集で見ました。これが自分にとってはこの特集の最後の1本、かな。

英語題は“The Mystery of Oberwald”で、原作はJean Cocteauの戯曲 - ”L'Aigle à deux têtes” (1946) 『双頭の鷲』。Cocteau自身が映画化しているが見ていないし読んでいない。

19世紀の昔、山を越えいろんな動物(なめくじとか)をかきわけてお城にやってきたSebastian (Franco Branciaroli)はずっとお城に籠っている女王 (Monica Vitti)を殺して国を解放しようとするのだが、殺そうとした手前で気絶して、こいつは婚礼の日に王を暗殺した奴で、でも王に瓜二つで、で女王が愛する詩の作者でもあった、と。女王は彼を殺すのか彼が女王を殺すのかー。

全編ビデオ撮影されていて、字幕の書体はメタルのロゴみたいなゴシックで、この時代のビデオなので解像度はちりちりで、その辺も含めたなんかの効果を考えているのか、色遣いも割とけばけばしていて、当時流行っていたメディアミックスとかコラージュみたいなことをやりたかったのかしら、CocteauをベースにしたAntonioni、しかもミステリー仕立てという意外性も含めて。

ここで描かれた世界を含めて全体がVHSの箱(当時はね)に封じこめられて、その中で延々再生と巻き戻しを繰り返す – そういう歴史のありようをパッケージする、対象化する、そのへんを狙ったのかなあ。 BGMはゴスメタルみたいのにしたら結構はまったかも。


4月にRoyal Albert Hallで予定されていたRyan Adamsのライブ、チケットを取った2日後にあの問題が露呈してあーあ、って思っていたら今日通知がきてキャンセルだって。 まったくねえ。