8.30.2021

[film] Seize printemps (2020)

8月25日、水曜日の夕方、ユーロスペースで見ました。ユーロスペースに来るのは帰国後はじめて。
そしてここのスクリーン2の入り口のとこの段々でまた躓く。もうここで50回くらい躓いているとおもう。

邦題は『スザンヌ、16歳』、英語題は“Spring Blossom”。
この夏の青春映画として”Summer of 85” (2020) とセットになっているかんじもあるのだが、映画としてはこっちの方が遥かにおもしろい – 「物語」を噛みしめたいひとにはオゾンの方がうれしいのかな。

主演のSuzanne Lindonが15歳のときに脚本を書いて、20歳のときに監督(デビュー)して主演もした74分の作品。2020年のカンヌのオフィシャルセレクションに選ばれて話題となった。

Suzanne (Suzanne Lindon)は16歳の高校生で、家族(父、母、姉、姉の彼も)ともそこそこ仲良いし、同級生はガキばっかしであーあ、と思いつつもなんとかやっている。部屋にはバンビのポスターと”Suzanne”と大書きしてあるMaurice Pialatの”À Nos Amours” (1983) -『愛の記念に』-のSandrine Bonnaireのポスター(役名はSuzanneで、”Suzanne”は映画のworking titleだった)が貼ってある。

ある日通学路のカフェでひとり物思いにふける舞台俳優のRaphaël (Arnaud Valois)の姿を目にして気になる。彼は近くの劇場でマリヴォーの戯曲 “Les Acteurs de bonne foi” - 『本気の役者たち』を演じることになっていて、彼が劇団スタッフと話しているところを見ると、彼自身も上演に向けてなんかもやもやを抱えているようで、近寄ってみたくなる。

でもそれだけ。 彼女はなんでどうやってRaphaëlに近づきたい、近づこうと思ったのか、親密になったのか、そして離れることになったのか、を背景をとばしたラフスケッチのようにざっくり描く。ピアラ映画のように生活や家族に不満や軋轢があったわけでも、学校生活が嫌になったわけでも、Raphaëlのどこに惹かれていったのかも、明確に説明されることはなくて、この辺はまだロメール映画の主人公たちの方が会話のなかで意見・意思表明したりしてわかりやすいのだが、それもない。彼女の彼を(彼の赤いスクーターや稽古風景を)追ったりする目線とか物思いにふけったりメイクをしたりする様子から、そうなのかも、って思うくらい。所謂「初体験」なんてカケラも出てこない。この辺の撮り方・追い方はドキュメンタリーのように危なっかしく不安定に見えないこともない。

それが鮮やかに明らかに転換するのがSuzanneがこれは恋なんだわ、って確信する瞬間の描写で、ここの演出はあきれるくらい段差も作為もなく見事に繋がってフィルムがまるごとスイングする。そしてRaphaëlとふたりでカフェのテーブルや舞台の上で、オペラに合わせてダンスをするシーンの共振の、あわせる、というより共に震えるかんじのぎこちなさ。ここからどこに向かうのやら、って。 でも、ここに大人の男性の恐がらなくていいんだよ/教えてあげるから安心して - のどこから来るのかやらしい目線はぜんぜんないの。最後なんて、男の方が迷い犬みたいに頼りない目になっちゃうの。 このすっこ抜けたクールさって”Diabolo menthe” (1977) - “Peppermint Soda”とか、Claire Denisの”US Go Home” (1994) とかにあったやつに近いかも。こんなもんなんだよ、おら、ってふてぶてしく投げてくるやつ。

みんなが言っている/思い浮かべるであろうCharlotte Gainsbourgとの比較はまだ自分のなかでうまく整理がついていないのだが、やっぱりこれはSuzanne Lindonとしか言いようがない、そういうデビュー作になっているとは思う。ラストに流れる彼女自身が歌う主題歌も素敵で、EPほしいったら。

グレナデンにレモネードを入れたやつ、飲みたい。こうしてもう夏は行ってしまうのかしらん。


海の彼方からLaura Nyroの箱がやってきた。8月を生き延びることができたお祝いに少しづつ聴いていこう。

8.29.2021

[film] Beware, My Lovely (1952)

8月23日、月曜日の夕方、シネマヴェーラの「恐ろしい映画」特集で見ました。

新作だけじゃなくてクラシックももちろん見たいのに今回のこの特集にあまり行っていない理由は、「恐ろしい」から、でただでさえこの夏はじゅうぶんしんでるのにそこでわざわざ恐ろしいものを見て怖がりたくないし。でもこれはIda Lupinoが出ているので。

邦題は『優しき殺人者』。元はMel Dinelli原作の短編をDinelli自身が舞台劇 – “The Man”に脚色して1950年にブロードウェイで上演されている。その前に同原作はラジオドラマとしても放送されていて、その主演がFrank Sinatra & Agnes Moorehead (1945)とか、その後にはGene Kelly & Ethel Barrymore (1949)とか、なんかすごい。

Howard (Robert Ryan)が人の家の掃除仕事を終えて、声をかけても家には誰もいないので置いてある代金を受け取って、クローゼットの扉を開けたら女性の死体が(瞬きしてるけど)転がっていて ...  Howardはひとり動転して一目散にどこかに走り去っていく、という冒頭。

クリスマスが近いある日、閑静な住宅街にある自分の家で下宿屋をしているらしい未亡人のHelen (Ida Lupino)がいて、休暇で部屋を開けるおじさんの相手をする姿はとてもよいかんじの女性で、出ていくおじさんとすれ違いに依頼を受けていたHowardが入ってきて片付けの仕事を始める。最初はごく普通にあれやってこれやって、ってやっているのだが、なにかの質問なのか指示なのか、床にあたる光とか調度なのか、なにかをトリガーにHowardの態度が少し変わって、Helenに「自分のことを仕事できない奴だと思っているだろう?」のようなことを言い始める。その目に見えない気質なのか人格そのものなのか、会話のプロトコルを外れて勝手に変わっていく間合いとかトーンとかがわかるようでわかんないので絶妙にこわい。

Howardは自分はすぐやったことを忘れてしまうのだ、といい、その言葉通りに行動や気性に一貫性がなくて、自分は兵役検査で不合格になった - でも戦死したHelenの主人は立派な軍人だったのだろう、って彼の軍服に袖を通したり、そういう彼女にとって嫌な振る舞いあれこれが困惑からぐるぐる巻きの恐怖に変わっていく過程、それがはっきりとした暴力 - 殴る蹴るナイフに鈍器に – として表出するのならまだそれと戦う覚悟や底力も湧いてこようもんだが、Howardは、まずHelenを外に出さない、外と連絡を取らせない、自分の監視下に置こうとするのが第一で、ドアの鍵を取りあげて内側からロックしてしまう。

何度か外から電話が鳴ったりドアがノックされる機会もあるのだが無情にも不運にも潰されてしまう。近所の子供たちがクリスマスのパーティ券を売りに来たときはもうだめだろ、って思うのだがぎりぎりですれ違ってしまうやりとりとか、Helenの企てもことごとく潰されて、ついてないーかわいそうーしかないのだが、Helenが泣きながらも床に這いつくばってなんとか対峙していこうとすると少しづつなにかが変わってくる… ように見えるのも実は、くらいに救われない状態は気づいた時と同じような薄さ - 見ている方は思いっきり手に汗 - で平穏に戻ってしまう。 これはこれで恐ろしいことも確かだが。

前年の“On Dangerous Ground” (1951) - 『危険な場所で』- でも緊張の糸を紡いだIda LupinoとRobert Ryanはここでも見事なふたりで、内なる暴力を抱え込んだ暗い目のRobertと盲目状態に落とされてもがくIda、という図が絵になってしまうのって、運命的ななにかを感じてしまうくらい。


そういえば、ルイジアナの方にハリケーン・アイダが来ているって。このアイダもだし、バンドのアイダもあるし、どうかみんなご無事でありますように。
 

8.26.2021

[film] Jungle Cruise (2021)

8月22日、日曜日の夕方、二子玉川のシネコンで見ました。2Dだったがこれは3Dで見るべきだったかも。

ディズニーランドのアトラクションを映画化したもの、だという。東京ディズニーランドは30年以上前に一度だけ行ったことがあるのだが、なんで行ったのか誰と行ったのか何をやったのかまったく憶えていないので、これも「体験」したことがあるのかどうか思いだせないし、いまの時点で「ジャングル」を「クルーズ」することになーんの意義も見い出せない。でもなんか"The African Queen" (1951)みたいだし、Emily BluntもDwayne Johnsonも好きなので、見る。 産業としてのディズニーについては、どうのこうの言ってもしょうがないので、適当にやり過ごしていくしかない(そんな態度だからだめなのかも)。

1916年のロンドンで、Dr. Lily Houghton (Emily Blunt)が弟のMacGregor (Jack Whitehall)にRoyal Societyで演説をさせて、アマゾンの伝説の樹の花の研究がもたらす効能について熱く語るのだが相手にされなくて、でもその隙にLilyはその伝説にたどり着く鍵となる矢じりを収蔵品庫からなんとか盗みだして、追っ手を払ってMacGregorを連れてアマゾンに向かう。

アマゾンではボロ船でやらせたっぷりのいんちきツアーをやっている船長のFrank (Dwayne Johnson)をひっかけたのかひっかかったのか、彼とジャガーのProxima(かわいい)のボロ船をチャーターしてクルーズしていくことになり、出発の時には船主のNilo (Paul Giamatti)とも一悶着あって、ドイツの栄光のために、って同じ花を狙う王族Prince Joachim (Jesse Plemons)も潜水艦(どうやって来たんだろ? 海から?)で追っかけてくるし、ちっとも安泰じゃない。

もうひとつ、16世紀の征服者Aguirre (Édgar Ramírez)が不思議の花に執着しすぎてジャングルによってかけられた呪いの伝説も絡んできて、要するに近寄るとろくなことにならんぞ、って脅しも入ってくるのだがLilyは女性だからってなめんな & 学問なめんな、で突き進んで、やがて明らかになるFrankの正体(ラテン語だってわかる)とAguirreの亡霊たちと手を結んだJoachimたちが立ちはだかって…

インディ・ジョーンズふうの宝探しにマッチョ筋肉男子とフェミニストガリ勉女子の凸凹コンビの道中が絡むだけでじゅうぶん面白くなると思うのだが、ここに4世紀に渡る呪いとか第一次対戦の趨勢とかが加わって詰め込み過ぎてぐじゃぐじゃに、なりそうでなっていないかも。割とバランスよく纏まっているのではないかしら。

でも、これはディズニーだからしょうがないのか、あのふたりだからなのか、やはりロマンスは期待できないのだろうか。 互いに手動カメラで撮りあったりするシーンはあっても、Lilyが彼を好きだと叫んでも、ロック様とメアリーポピンズじゃ水と油になってしまうのか。難しいねえ。

彼らの横で一貫して女々しくじたばたロンドンっこであろうとするMacGregorくんがよくて、ゲイの香りぷんぷんで、Kensingtonに戻ったらもう二度とこんなとこ来ない! とかBoodle’s(ロンドンの社交クラブ)でランチしたい! とか叫んだり、たまんない。”The Mummy”の頃のBrendan Fraserにちょっと似ているようなとこも。

アトラクションに近いところだと、船が出ていくところの潜水艦も巻きこんだじたばたが面白くて、うまくやったらキートンの蒸気船みたいになれたのにー。滝に巻き込まれそうになるところはややあっさりめだし、ジャングルの奥に進んでから先の上下運動が激しい冥界巡りみたいなのはあんまし来なかったかも。 どうせならアクションコメディじゃなくて「地獄の黙示録」みたいにしちゃってもよかったのではないか、とか。

でも、おもしろいけど、最後にはこういうのを「アトラクション」として楽しんでしまおう、っていう植民地主義の目線そのものが、なんか。 あのラストとかも。 それ言ったらまるごと成立しなくなることはわかっているけど…  
 

8.25.2021

[film] Adam (2019)

8月22日、日曜日の昼、日比谷シャンテで見ました。
邦題は『モロッコ、彼女たちの朝』。静かで素敵な映画なのに上映前のTOHOの宣伝がぜんぶぶち壊してくれる。いつもながら。

モロッコはずっと憧れで、最初は当然ポール・ボウルズで、ダニエル・ロンドーの『タンジール、海のざわめき』があって、90年代にNYから一週間くらいかけて旅行でまわった。そのあと、2018年には仕事でカサブランカに行った。何度でも行きたい大好きな土地。

カサブランカの旧市街で、職を求めて美容室の扉を叩いたSamia (Nisrin Erradi)の表情から始まる。職は決まりそうだったのに、そこで寝させて貰えないか? と尋ねたら断られて追い払われた彼女が外に出ると大きなお腹を抱えていることがわかる。なんでもやるから、と数軒訪ねても断られて、小さなパン屋をやっているAbla (Lubna Azabal)のところでも同様だったのだが、店の外でしゃがみ込んでいるSamiaを見た彼女は、表情は硬いまま数日間だけ、と家に入れて寝床を与える。

Ablaの家には小学生くらいの女の子のWarda (Douae Belkhaouda)がいて、夫/父親はいないらしい。WardaはSamiaのことを大好きになるが、Ablaの方は難しくて、でもパン焼きを手伝ったり、もう店では出さなくなっていたルジザ – ひょろひょろのパンケーキ – を作って売ったりしながら3人は少しづつ仲良くなっていく。

そのうち、父親がわからない(正体不明 or 所在不明)Samiaの子は生まれて一緒にいても母子ともに虐待されることが見えているので、生まれたらすぐ養子に出して自分は里に帰る、というSamiaと夫を突然の事故で失って(遺体に会うこともできなかった)から心を閉ざしていたAblaのそれぞれの事情が明らかになる。だからといって事態が好転するわけではなくて、自分たち女性だけではどうすることもできない境遇への苛立ちを抱えたまま、許しあっているけど近づけない、そんなふたりの葛藤が最後まで続く。その緊張の糸がちょっとしたことで撓んでいくのが見えたり、カメラはそのぎりぎりの位置に置かれている。

男性はAblaに勝手に求愛し続けている近所のおっさんと客達が出てくるくらいなのだが、彼女たちに絡みついて身動き取れない状態にしている男性社会の見えない糸の強さが常に彼女たちの表情を凍らせて、故にほんの一瞬の解けたときの笑顔やまだなにも知らないWardaの笑顔が最後まで残る。Ablaが夫と一緒にずっと聴いていた人気歌手のテープ - 夫の死後は聴けなくなっていた – をSemiaがかけて、強張って泣きながらふたりでぎこちないダンスを始めるところとか、アイラインのメイクを入れるところとか、地味だけど静かで強い女性映画。

そして、それでも原題はSemiaでもAblaでもなくて、男の子の名前 – Adamであるということ。あの終わり方からふたりの、さんにんの、よにんのその後を考えてしまう。どうかみんな無事でありますように。

やや暗めの室内を中心とした陰影の画がよくて、Semiaはドラクロワの絵に出てくる女性のようだし、Ablaの表情はPatti Smithのような一瞬の激しさを見せたりもする。カメラはちょっと揺れたりしているので手持ちじゃなくて固定にしてくれてもよかったかも。

カサブランカの市街の様子はあまり出てこないのだが、遠景に建物の連なりとその線が少し出てきて、それは素敵ったらないの。場所によっては遠くの海も見えたりして(だからカモメの声がいつも)。白かったり茶色だったり古かったりの建物が重なるその下にはいろんな生活があるのが見える。そりゃどんな場所だってそうなのだが、モロッコって、フェズの旧市街もそうだけど、その下にあるであろうぐじゃぐじゃぶりがなんかたまんなく愛おしくて、矢野顕子の「ごはんができたよ」が被ってきたり。

そして何を食べてもおいしいところー。 またいつか行けますように。



RIP Charlie Watts.  あのバンドでいちばん好きでした。
彼がウェールズの牧羊犬協会の会長だったという話は、ずっとそうだと長いこと信じてきたのだが、それがデマだったかもと知って揺れている。 なんとなくチャーリーっぽい話だけど。

8.24.2021

[film] Free Guy (2021)

8月21日、土曜日の午後、渋谷から日比谷に移動してみました。

新作映画あれこれを見れていないので移動やむなし。 ゲームの世界のことはやったことないし全くわからない - アニメーションだったら”Wreck-It Ralph” (2012)とかあったけど、これは実写で、予告を見るとまるで漫画だし、Ryan Reynoldsだし、どうしようかな、だったのだがこれはRom-comだというので、見る。

Free Cityっていう架空の都市にゲーム参加者が入っていろいろやるゲーム(たぶん)の世界で、Guy (Ryan Reynolds)は銀行の窓口係をやってて、ゲームの背景(モブキャラ)として毎日決められたことを繰り返したり言ったりするだけの毎日を送っていて、別にそこに不満はない。ところがある日、向こうから”Fantasy”を口ずさみながら歩いてきてすれ違ったMolotovgirlというヒーロー型のプレイヤーキャラにときめいてしまったGuyは、ヒーローになれるサングラスを手にいれて、失敗を繰り返しながらもヒーローのような動きができるようになっていく - 彼女に会いたい - 近付きたいという一心で。

ゲームを管理している側は、そういう行動属性を持たないはずのモブキャラが勝手に動きまわっているので、これはバグかしら? って潰そうとするのだが、ここでも彼は想定外の動きで逃げ回ってうまく捕捉することができない。なんだこいつは?

現実の世界では、Keys (Joe Keery)とMillie (Jodie Comer)のふたりが学生の頃に自分たちが開発したプロトを盗用してこのゲームを作って儲けているゲーム会社社長のAntwan (Taika Waititi)を訴えるべくその証拠を探していて、MillieはMolotovgirlというプレイヤーになってゲーム世界を内側から漁り、Keysはゲーム会社の運用側でゲームの世界をモニタリングしたりMolotovgirlを助けたりしているのだった。

そのうちGuyはなんとかMolotovgirlに対面できるところまで自身のレベルをあげて、距離を縮めながらふたりで手を組んで内部の機密にあと一歩に届いたところでAntwanに察知されて、Antwanはゲーム運用側にはとにかくGuyを消せ、っていう指示を出して、ゲームの外ではなんか知っているに決まっているKeysに小賢しいマネすんじゃねえぞ、って脅してすべて帳消しにしようとするのだが、単なるモブキャラの変な挙動はゲーム・コミュニティでも話題となって、他のモブキャラの動きにも影響を及ぼし始めて…

少しネタバレすると、Guyは学習しながら進化していくAIとして作られていて、それがMolotovgirlとの恋(ここにも謎が)によって暴走して無敵になっていくの。Guyを作ったのは誰なのか? そしてなんで? ていう恋の – そう、恋の話と、終盤のサーバー壊してもなにがなんでもGuyを消せ、っていう話と、果たして盗用の証拠は見つかるのか、っていう話が絡みあってラストになだれこんでいく。

現実世界のRom-comで「僕は君と出会うために生まれてきたんだ」なんて言葉はもう陳腐すぎて使えないかもだけど、ここではゲーム内のAIがそういうような決め台詞を吐きやがって、それがゲームのなかだから見事に決まってしまう。今後、ゲーム内部でこのセリフを使ってナンパするバカが出てきたっておかしくないであろうくらい。自分がAIであることを自覚したAIこそが最強、ていうのは古代SFからずっとあるテーマだが、そこが見事なタイミングで的確に機能していて、やりやがったな、って。

それにしても、これはRyan Reynoldsの勝利としか言いようがない。彼のプレーンでスタンダードな、モブキャラとしての顔や挙動や台詞回しが見事にはまっている。少し前だとここのポジションはJim Carreyだったのかも。記憶や学習からどこまでもちゃらちゃら遠くに逃げようとしつつ、最後に振り返ってなんか言って決める奴。

続編は、ゲームのなかのGuyとの恋がよすぎて(そりゃそうよ)抜けられなくなったMolotovgirlに現実世界の彼が嫉妬して or  GuyがMolotovgirlとずっと一緒にいたくてストーカーのようなモンスターになって、っていうよくある話かしらん。 それか”Matrix”のあれみたいなのが..

あとね、これは他のスパイものとかでもいつも思うことだけど、サーバーを再起動したら消せるとか、サーバールームに入ってサーバーを物理的に壊したら消せるとか、そんなの10年前のお話だからね。



ムーミンの件、思ったより早く決着してくれたよう(だよね?)でよかった。 ムーミン谷を守る民があんなに出てきたのはちょっと嬉しかった。敵はまだまだいっぱい。

8.23.2021

[film] Let Him Go (2020)

8月21日、土曜日の午前、シネクイントで見ました。
シネクイントってたしかパルコ Part3の上にあったやつね、って行ってみたらパルコ Part3がなくなっていて少し慌てた。ここ、昔は別の映画館だったよね?

邦題は『すべてが変わった日』。Larry Watsonの同名小説(2013)をThomas Bezuchaが脚色・監督した作品。

60年代のモンタナで、引退した保安官George Blackledge (Kevin Costner)と元馬術家のMargaret (Diane Lane)の老夫婦と、息子のJames (Ryan Bruce)とその妻Lorna (Kayli Carter)と生まれたばかりのJimmyが質素ながらも幸せそうに暮らしている。

ある日Jamesが落馬事故(? 明確には描かれない)で亡くなり、数年後にLornaはJimmyを連れてDonnie Weboy (Will Brittain)と再婚して家を出ていく。結婚式の様子からこの再婚がみんなにとってやや仕方のないものであることがわかるのだが、暫くしてMargaretはショッピングモールの車のなかからDonnieがJimmyとLornaをビンタするのを目撃してショックを受け、暫くしてからどうしても気になった彼女がケーキを焼いて彼らの家を訪ねてみると、親子3人はどこかに越していった、と言われる。

虐待のことと行き先も告げずにいなくなってしまったことが気になって仕方ないMargaretはやや渋るGeorgeを引っ張って車に乗ってどこにいるのかもわからないWeboy家を目指して – このふたりの道中もなかなかよいの - ノースダコタ州まで渡って、ようやくDonnieの叔父であるBill Weboy (Jeffrey Donovan)に会うことができて、これがすごくやな野郎なのだが、折角だからとWeboy家にディナーに誘われて、時間に行ってみると家長のBlanche (Lesley Manville)がポークチョップを食べな、って彼女に統率されたでっかい家族の男たちがいて、Margaretは少しだけJimmyを抱っこできたものの、Blancheに散々嫌味を言われて罵倒されて塩を撒かれる。

翌日Lornaの仕事場を訪ねたMargaretとGeorgeはJimmyを連れて一緒に逃げるべきだ逃げよう、とLorenaを説得して、深夜に彼らの泊まっているモーテルに来るように言う。のだがモーテルに現れたのは鬼の形相のBlanche一家で、Margaretを殴って、銃を構えたGeorgeを取り押さえて彼の指を斧で叩き切ってしまう(Blancheが指示をだしてDonnieにやらせる)。

翌日、Georgeが横になっている病院に現れた現地の保安官はWeboy家側の言い分を全面的に認めてそのままここから立ち去れば罪には問わないから、とどこまでも非情で非道で、帰る途中、Georgeの具合がよくなくて、来るときに知り合った先住民の若者Peter (Booboo Stewart)の小屋で世話になった晩、Georgeはたったひとり車でWeboy家に向かって...

途中まで現代を舞台にした物語かと思っていたくらい、家族のこと、DVのこと、中西部の血族のこと、先住民差別のこと、などテーマはちっとも古くなくて、ここに老いた夫婦、亡くなった息子への情、束縛からの解放、先住民差別、などが絡んでくると、これは西部劇としか言いようがなくて、実際それでなんの問題もないかんじ。Clint Eastwoodあたりが作ってもおかしくなさそうなテーマだけど、彼はああいう女性(たち)を描かない気がする。

静かなトーンで進んでいた前半がBlancheが登場した辺りから突然沸騰してバイオレンスの方になだれ込んでいく。Lesley Manvilleはいつもの通りこわいくらいに巧いのだが、なんでここに英国女優を、というのはちょっとあるかも。米国にも演じられるひとはいっぱいいそうなのに。あと、Blancheという名前からはやはり”A Streetcar Named Desire”の彼女を連想してしまう。ああならなければ生きていけなかった女性の業..

“Let Him Go”と言っているのはずっと馬を操ってきたMargaretで、この映画の中心にいるのはDiane Laneで、Kevin Costnerを引っ張っていくところからとにかくすばらしいの。あの後、Weboy一家の追っ手から逃れるために彼らは姓をKentにして、Jimmyは名前をClarkに変えて.. 



日本のムーミンはなんであんな会社とコラボしてるの? もうじき”Tove”も公開されるというのに、彼女が知ったらなんて思うか…

8.22.2021

[memo] Augut 22 2021

ここ数日、フジロック出演を決めた音楽関係者の苦悩とか反省みたいのを切々と綴った長文の文章などを読んで、主催者の社長のメッセージとかも読んで、なんかモヤモヤするので書く。これを書いている時点でまだライブは続いているのかも知れないが、今回ストリーミングでも一切見なかった。ライブを見もしないで言うな、という書き方にはしないで、また、誰が悪いとか誰の責任だとか責任とれとかそういうことではなくて - 責任は自分も含めてみんなが負うこと - ただ終わったからいいでしょ、にはしたくないので頭のなかを整理しておきたい。

わたし自身はでっかい音の野外フェスは好きだし、フジも5〜6回は行ったことがあるし、好きなミュージシャンが出ていればごくふつうに見にいってきた。だからスポーツも音楽もとにかく大規模イベント反対という立場でもない。ただ音楽に感動や高揚感を求めたりとか、それらをでっかく共有したり頭をからっぽにするためにフェスに行く、ようなことはない。そっちの方にはちっとも興味がない。

主催者の社長は周囲からは「大将」と呼ばれているらしいことからも、要はでっかい居酒屋営業なんだな、って。フジロックは最良の環境にある評判のよい居酒屋で、音楽はもちろん、食べ物も場所も居心地もさいこーで、地元の人たちやサプライヤー(音楽も食べ物も)からも好かれてて、客からの信頼も支持も厚い。それが今回のコロナ禍でこのチェーンとか業界全体が危機に瀕している、そんなみんなを救うためにも万全の対策をとるから開催させてほしい、と。でもこれって、感染爆発して医療崩壊しているいま、なぜ開催しなければならないのか? の答えにはなっていない。 そしてそこから話は突然、みんなが苦しんでいる今、自分たちにできることはこれくらいのことしかない、って音楽のもたらす感動とかパワーの方に飛んで、フェスや音楽が好きならわかってほしい、わかるよね? みたいなところにおちる。

医療従事者や自宅で苦しんでいる患者達への言及は一切ない(そこに思いが及んだらすぐに止めるよね、いまは)。政府に対する批判や具体的な要求をすることもない。自分達が賛成も反対も含めてあれこれ飛んでくると想定しているサークルへのメッセージ(通じようが通じまいが)にしかなっていない。

この構図は、オリパラをなにがなんでも開催したいって矛盾だらけのメッセージと挙動でスポーツやアスリート(がもたらすであろう感動)を担ぎあげて、終わってからも感染拡大とは関係ないよ、いっぱい感動を貰ったろ?、って居直る政権側のやりくちとどこが違うのか? 自分たちはこれとは違うの? 成功してみせると? ひとがばたばた死んでいっている横で成功ってなに? これは戦争でもなんでもないのよ。

このあとフジロックから戻った彼らは街や職場で数日後に陽性になっても、多少具合が悪くなっても、ぜったい「フジロックに行ったからです」とは申告しないだろう。こうして感染は各地で拡がって散らばって後には関係者の外側に苦しみと惨状ばかりが残る。 夏の思い出? そりゃよかったな。 そして、本来こういうケースでの追跡や解析を想定していたはずの政府アプリはちっとも機能しないときてる(あれなに?)。

もちろん、こんなことになったおおもとの責任は今の政府と政治にあるのだから政府関係者を追及していくのは当然として、今回の強引な(そう見えた)開催はあのバカ共の思惑の片棒を担いでしまったという点でダメだし、考え方やり方以前に人を(見)殺しかねないことに繋がるから許せない。

少なくとも、みんな楽めたのだし、よい思い出になったからよかったしゃんしゃん、にはしないでほしい。できればこのあとの感染がどう、どのくらいの速度と規模で広がったのかのデータは採って次に役立ててほしいし、停止できなかった理由のひとつである金銭的補償は政府に対して求めていくべき - 政府はできたじゃないですか、とか言ってとりあわない - 泥沼化..

あと、ライブで音を出してみんなに聴いて貰うようにする、っていうことはそれだけでとっても政治的な責任を伴う行動なのだ、ってわかったと思う。ミュージシャンだから政治からは距離を置くなんて許されないのだから、だから次の選挙には行け、って。

みんな、少なくとも死にませんように。
 

8.21.2021

[film] Pig (2021)

8月18日、水曜日の晩、米国のYouTubeで見ました。

世の中にはNicolas Cageの映画が来たら見たくてたまらなくなる人たちがいるし、豚さんの出てくる映画が来たらなにがなんでも見たくなる人もいる。自分は後者で、宣伝とかを見たり読んだりすると、いつものように傷だらけになっているNicolas Cageが「おれの豚を返せ」とかすごんでいるので、豚を奪われたNicolas Cageが命がけで豚を奪還しようとぐさぐさするシンプルなヴァイオレンス・アクションなのだと思っていた。91分だし。

そしたら心地よくぜんぜん違った。どちらかというとノワール。ファム・ファタールは”Pig”なの。

ポートランドの山奥の掘っ立て小屋で世捨て人のようにぼうぼうのRob Feld (Nicolas Cage)がいて、黒トリュフを掘りおこす豚さん(かわいい)と暮らしていて、豚はなにしてもかわいいし、ふたりはとても幸せそう。 なのだがある晩、小屋に現れた暴漢に襲われてRobは殴られて床に転がされて、その隙に豚が攫われてしまう。

怒りに燃えるRobはいつもスポーツカーで森の奥までトリュフを買いにくるちゃらい若者のAmir (Alex Wolff)を呼んで脅したり凄んだりしながら、思い当たる都市の暗部に分け入っていって、その過程で明らかになっていくRobの過去とは.. そして豚を奪った犯人は? その動機は?

3パートに分かれていて、Part 1が“Rustic Mushroom Tart”、Part 2が“Mom’s French toast and Deconstructed Scallops”、Part3が“A Bird, a Bottle and a Salted Baguette”と、それぞれ料理のお皿の名前がついていて、実際にそれらしいのが出てくる(あれだろうなー、くらいだけど)。少しネタバレになるが、実はRobはポートランドでは伝説のシェフで、なにかがあって職を捨てて世を捨てて、豚さんと暮らすようになった、ということ。

RobがAmirに指示して連れていけという場所とか人とかは、Amirも唖然とするようなやばい場所だったり人だったりで、やがてその糸を手繰ってAmirの富豪の父Darius (Adam Arkin)のところに行きつく。

Robは殆ど喋らないし喧嘩もそんなに強くないのだが、厨房に立つと殺気というかなにかが漲って、やがて彼の一皿がなにかを引きだすことになる。ここには食や食材を巡るとっても深い話が横たわっているのかもしれない。泥のなかからトリュフを掘りだす(でも自分はそれを食べない)豚さんをRobはなんであんなに愛でるのか - トリュフの在り処は自分でもわかるというのに。シェフはなんで他人のためにあんな変な一皿を考えだしてサーブするのか、料理というもの、あるいは美食というものを巡る闇と不思議が渦を巻く。これはノワールになりうるものだと思った。

最初のバージョンは2時間以上あったそうなので入っていたのかも知れないが、やはり食材を拾ったり調達していくところと調理のところはその手元と工程をきちんと見たくなるねえ。設定の建てつけとしてはなんとなく”John Wick” (2014) とかに似ているのだが、これは殺しあうのではなく生かしたりケアしようとするお話しなの。

ようやく日本公開が決まった”First Cow” (2019) も(時代は違うけど)オレゴンで人間の料理に特別ななにかを供する動物(牛)を巡る騒動で、この作品も現代のオレゴンを舞台にした動物(豚)を巡る騒動 - 追跡劇で、どちらの動物にも名前はなく、どちらの動物も♀で。 オレゴンにはいったいなにがあるのか?  あそこのPino Noir - ものすごく変で、特殊なワインのこととかも。

John Wick同様にシリーズ化してくれてもいいよ。毎回動物替えて。



街なか、まだひとでいっぱいなのね。だめね。

8.19.2021

[film] Joy Division (2007)

8月14日、土曜日の午後、低気圧にうなされながら、死んじまえって悪態つきながらMUBIで見ました。

Joy Divisionに関するドキュメンタリー。監督はRadioheadの”Meeting People Is Easy” (1998)等をつくった英国人ドキュメンタリー作家のGrant Gee。同年にはAnton Corbijnによるバンドの評伝ドラマ - ”Control” (2007)もリリースされていて、”Control”の方は見た記憶があるのだが、こっちは自信がなくて、たぶん見ていなかったかも。

シナリオをJon Savageが書いているので、きわめて落ち着いた、腰の据わった目線。まずは70年代中期のマンチェスターの地勢と産業のようなところから入り、そこに76年、Sex Pistolsという爆弾が投下されて地下であれこれが蠢き始める。

基本は生き残っているバンドメンバー - Bernard Sumner, Peter Hook, Stephen Morris - と周辺関係者 - Tony Wilson, Peter Saville, Pete Shelley, Genesis Breyer P-Orridge, Paul Morley, Terry Mason, Richard Boon, Anton Corbijn, - へのインタビュー、そこにTV等の資料映像、バンドの演奏シーン、演奏シーン以上に印象に残る(なんでだろう?)Kevin Cumminsによるモノクロのポートレート等を並べて、単なるバンド結成とシーンでのしあがって成功が約束された米国ツアー前日に潰れてしまうストーリーを語るだけではなく、バンドの生と死を担ったIan Curtisの挙動にフォーカスするのでもなく、あの時代に - 音楽的にはポストパンクと形容される - 英国の音楽シーンで、彼らのドラムス、ベース、ギターはどんなふうに鳴ったのか、Ian Curtisの痙攣ダンスや咆哮はどんな影や像を残したのか、をバランスよく配置して、現代のイギリスに繋げている。

なんでそれが大事なのかというとあの頃のIan Curtisの死は、その悲劇はほんとうに悲劇で、あんなふうに震えてぐしゃぐしゃになっている若者はあの頃そこらじゅうにいて(もちろん比較はできるものではないけど)、そんなのばっか掘ってもしょうがないだろ、というのはずっとあったの。

David Bowieの”Low”の、弾けるA面(パンク)と対照的に陰鬱なB面の1曲目 - “Warszawa” - からその名前を取ったバンドが、ドラマーの正式加入に併せて”Joy Division”と名を変え、ぶつかりあい絡み合って脈打つベースとドラムスに拘束され、そうありながらも彼はステージであんな異様な動きをしてあんな声を絞り出してなにかを振るい落とし解き放ち、同時に自ら絡め取られようとしているようだった。そうやってバンドの全員が互いに縛りあって固まって震えていて、そしてMartin Hannettによって加工された人工音はその帯域を確保するトーチカのように機能していた。

映画のなかでコメントするGenesis Breyer P-Orridge - 彼のバンド名も脈打つなにか - を見て、そうやってパンクの反対側で壁の内側を蹴り続けていたバンドがいっぱいあったことも思い出したり。Buzzcocksだって、ずうっと流しているとそういうかんじになるし。

でも80年くらいに聴いた当時は曲のタイトルも含めて「暗いな」、しかなくて、そのくせ金縛りで聴いて残ってしまうのがなんか嫌であまり聴かないようにしていた。初めて映像で見たのは森脇真末味さんの漫画で見た後だったか前だったか、やっぱり…  しかなかった。この映画で映像を見てもああ、しかなくて、でも懐かしいかんじは見事にこなかったかも。エバーグリーン、というのとも違う、相変わらずやってくる偏頭痛と同じようなものかも、って。

それにしても、この映画の撮影当時に生きていたひとも随分亡くなってしまったねえ、って。橋の向こうに行ってしまうんだなあ。 

映画のなかで結構喋っているStephen MorrisとPaul MorleyはSparksのドキュメンタリーでもいろいろコメントしていた。いまはこっちを早く大画面で見れるようにして。



フジロック、ほんとうにやるつもりなんだ..   音楽関係者の苦悩もわかるしそういう文章もいっぱい読んだしフェスを楽しみたい人たちの気持ちもわかる(いや、いまはわからない)けど、4〜5月頃の状態だったらまだわかるけど、いまの感染状況ではだめだと思う。 対策は万全(はいはい)で地元の協力も得られて政府もなにも言わない(言うわけないよ全員あたまおかしいんだから)。 でも今は何をどうしたって、大勢の人が動けば感染者は増えて会場の外に散るのを止められない。 そしていまはとにかく苦しんでいる医療従事者のことを、自宅で病院のベッドが空くのを待って死にそうになっている人たちのことを考えるべきなの。 清志郎やJoe Strummerがこの状態を見たらなにを言ったか、どう行動したか、そんなことも想像できないバカばっかりになっちゃったんだ日本の音楽業界はー。 こんなことで、ここまでして「成功」して、盛りあがって、なにが楽しいの? (以下えんえん。ほんとがっかり) 
 

8.17.2021

[film] My Salinger Year (2020)

8月15日、日曜日の午後、Amazon UKで見ました。
UKタイトルだと”My New York Year”となっていて、”New York”が付いているとだいたいすぐ騙される。

Joanna Rakoffが2014に発表した同名回顧録(翻訳は『サリンジャーと過ごした日々』 - 未読)を原作としたカナダ/アイルランド映画で、2020年のベルリン国際映画祭のオープニング作品だったそう。

1995年、Joanna Rakoff (Margaret Qualley)は詩を書きたいでも小説家になりたいでもないなんかぼんやりとした状態でNYの老舗出版エージェントHarold Ober Associatesの扉を叩いて厳しそうな編集者Margaret (Sigourney Weaver)と面接してアシスタントとして採用される。

壁にはJ. D. SalingerやAgatha Christieの肖像写真が掛かり、コンピュータもなんもない、電子メールは信用されてない(95年だとまだそういう人いっぱいいた)どころか厳禁のオフィスで、彼女の主な仕事は“Jerry”(サリンジャー)宛に来たファンレターを全て読んで、やばい人がいないか選別し(ジョン・レノンの暗殺犯が『ライ麦畑..』を読んでいたことからきた予防措置)、定型の返事(ありがとうさようなら)を出してからシュレッダーにかける、というもので、手紙でいろんな人がいろんなことを書いてくるのその声に囲まれつつ、新しい彼に取り替えて新しいアパートに越して、エージェントの仕事について怒られたり優しい仕事仲間から学んだりしながら成長していく。

様式としては“The Devil Wears Prada” (2006)の鬼上司 vs がんばる新入りのそれにそっくりで、ただあそこまでのコメディとかドラマ性はなくて、主人公の仕事に対する情熱も仕事そのものの魅力についてもそんなに表明されていなくて、その辺の軽さ薄さをどう見るか、かしら。

やがて”Jerry”からの電話を取って名前を憶えてもらった彼女は、New Yorker誌に一度掲載されただけだった"Hapworth 16, 1924"の書籍(日本では荒地出版社から出てたよね?)を出す計画を田舎の小さな独立系出版社と進めるべくワシントン DCに向かったり、サリンジャーファンからの手紙に自分の名前で返事書いて怒られたり、Margaretとの関係も変わってきたり、いろいろあって、でもまあがんばりましたわ、みたいな内容。

主人公がサリンジャーを読んだことがなかったのはしょうがないとしても、手紙を書いてくる読者たちをあんなふうに出して、最後までサリンジャーの顔を見せないのであれば、その真ん中にあるサリンジャーの作品世界について - 少なくとも『ライ麦畑.. 』くらいは - もうちょっとその魅力とかその世界への繋がり(サリンジャーが隠遁したことも含めて)まで踏みこんでみてもよかったのでは、とか。それかサリンジャーがいなくなってしまった今の世界からその段差を振り返ってみるとか。

Joannaを遠くから見守る優しい編集者Daniel (Colm Feore)に妻がふたりいてやがて自殺してしまうエピソードはNew Yorker誌のWilliam Shawn(『「ニューヨーカー」とわたし』の)のことかと思ったけど、違うみたい。

JoannaがWaldorf Astoriaでひとりケーキを食べるシーンがあるのだが、90年代、あそこにあんな洒落たケーキはなかったと思う(実は奥の方にはあったの?)。でもあそこの古本屋のウィンドウケースはあんなふうで、宝石箱のようだった。今はホテルの中にはなくてMadison Ave.に移転したのね。

“Never Rarely Sometimes Always” (2020)に出ていたThéodore Pellerinがサリンジャーに挑戦的な手紙を書いてくる読者として印象的な影を落としていて、よいの。

音楽はThe Magnetic Fieldsの”No One Will Ever Love You”なんかが地味に聞こえてきて、一番派手なのでもElasticaの”Connection” くらい。

もうちょっとだけ、90年代のNYを感じさせてくれたらー に尽きるかも。



災害とかアフガンとか大変なのでニュースを見たりするのだが、コロナについては医療逼迫の惨状について散々報道するけど、対策については結局政治家のステートメントを垂れ流すだけで、誰もがわかっている経済面の補償(金くれれば動かないよ)とかには一切踏みこんで語ろうとしないのって、バカとしか言いようがない。ロックダウンしたら罰則が.. とかばっかり。ロンドンで期間中は毎日買い物に出てたけど行くとこは近所のスーパーしかなかったから警察になんか言われたことなんて一度もなかったわ。戒厳令とかと勘違いしてない? 
 

8.16.2021

[film] The Suicide Squad (2021)

8月13日、金曜日の夕方、TOHOシネマズの日比谷で見ました。2Dで。

低気圧でげろげろだったが、週末にかけて更に酷くなるというので諦めて出る - ほんとひどすぎ。
そこまでして見たいやつだったのかというと微妙なのだが、とにかく日々あだくることばっかしなので派手にどんぱちするのが見たかったの。

RatingはUSではRで、UKではなんでこれがR15なのか?って話題になっていた。15ではないよね、って思った。

2016年のDavid Ayerによる”Suicide Squad”と、一部被って出てくる人たちはいるけど、まったく別モノとして見ることができるし(というかほぼ憶えてないし)関連について考える必要はない。出来はこっちの方が断然おもしろいかも。

前作でも組織を統括していたAmanda Waller (Viola Davis)が刑務所とかから怪しい連中をリクルートして、ミッションに従って成功すれば減刑、でも指示に叛いたり離脱したりしたら頭ばくはつ(後頭部に爆弾しこんでリモートで)、って取引して、Savant (Michael Rooker)とかColonel Rick Flag (Joel Kinnaman)とかHarley Quinn (Margot Robbie)とか、他にイタチ男(あれ♂よね?)とか変なの満載の小隊が飛行機で南米の小島に向かって飛んでって上陸する。のだが、イタチは泳げなくて溺死して、他の連中も待ち伏せされていた軍隊にやられて能力もくそもなくほぼ全滅する。

その頃、同じ島の別の浜に別の部隊が上陸して、この部隊の紹介 - リーダーのBloodsport (Idris Elba)とか銀の便器の蓋を被ったPeacemaker (John Cena)とか、ネズミを操ることができるRatcatcher 2 (Daniela Melchior)とか、水玉を操ることができるPolka-Dot Man (David Dastmalchian)とか、なんでも食べちゃうKing Shark (Sylvester Stallone)とか – がいて、任務は島の独裁政権がナチス時代に造って、アメリカが宇宙開発時代に持ち帰った機密Starroを隠している施設をぶっ壊すことで、部隊はそこに行く前に反政府軍と合流したり、最初の突入から生き残ったRick FlagとHarley Quinnも加わって、全体としては現地情勢や政権の後継者云々も含めてわけわかんなくなっていくし、ミッションの正当性とか悪とかはどうでもよいものになっていくかんじがする – そして誰もそこは期待していないの。

ここから先はKill! Kill! で敵味方ぐだぐだの何か見たら動いたらKill!の殺戮合戦が繰り広げられていって、最後にヒトデ星人Starroがでーんと登場して全体をぐじゃぐじゃにする。

これの明るい版 - “Guardians of the Galaxy” (2014) にあったような、各キャラクターがこういう事情で戦って故に生き残る/ガーディアンになる、という視点は見事になくて、各人の事情はどうあれ最後は死んで終わり - だからSuicide Squad - という荒んだ冷たさというか、投げやりな世界観に貫かれている。誰がどんな死に方をしようが誰もおまえの名前も顔も覚えていないし能力なんてどうでもいいし。Starroが吐く小さいヒトデに顔を覆われて誰が誰かも分からずに死んでいくのに象徴されている - そんなもんだろ、って。

そういう状態であるからこそ、Harley Quinnは神がかりとしかいいようがないかっこよさだし、Ratcatcher2と父のRatcatcher (Taika Waititi)の話しはなんかよいし、Polka-Dot Manはわけわかんないし、サメ男はたまんない - こんなんでいいのか? と思いつつも。 いや、ほんとはうざい軍隊男共の筋肉使った取っ組みあいは全部なくして、この3人と1匹(頭?)の動物たちだけで突撃して欲しかったくらい。

あと、終わりの方のヒトデ星人との闘いのとこは怪獣映画好きとしてはサイズ的にも構図的にもなかなかたまんないものがあった。時系列通りに再構成したら立派なSF怪獣映画にもなる気がした。

で、これでJames Gunnばんざい! おかえり! になるかというと、まだ信じきれていない。保留。

あと、Johnny Cashから始まる音楽は相変わらずセンスばつぐん。

結局、イタチ男の必殺技はなんだったのか?



先週ロンドンのRoyal Festival Hallで行われていたTubular Bellsの50th anniversary live(Mike Oldfield本人は出ない)だが、Southbank Centreがその初演ライブ (1973)のときのプログラムをUpしてて、そのメンツに驚愕した。 Henry Cow 〜 Gong周辺にKevin AyersにMick Taylorに..  予定していたSteve WinwoodとRobert Wyatt(例の大怪我で)は出れない、とか。

8.15.2021

[film] Zola (2020)

8月9日、月曜日の午後、米国のYouTubeで見ました。
A24制作で話題になっているから、程度。 実話ベースだとかそういうの全く知らずに。

冒頭、Zola (Taylour Paige)とStefani (Riley Keough)がバスルームでぎんぎんにメイクをしている。Zolaはブラックで、Stefaniはホワイトで、ふたりがどういう関係かはわからないが、どっちも魚のようにぴーん、と突っ張っていてどういう商売をやっているのかは推測できる。

やがてZolaの語りで、なんでこんなことになっているのか、その経緯を説明しようか、ってダイナーでウェイトレスをしていたZolaのところに客としてStefaniがやってきて、StefaniがZolaをひと晩、ポールダンスのバイトに誘って、Zolaはそれを受けてさらっと踊ってお金貰って、すると今度はStefaniから電話があって、週末にフロリダのタンパの方に出かけてちょっと稼いでくるクチがあるんだけど、乗らない? という。Zolaがいいよ、って返事すると車がきて、そこにはStefaniの他にStefaniの彼だというDerrek (Nicholas Braun) - ホワイト - と名前がしばらくわからない運転手のX (Colman Domingo) - ブラック - がいた。

タンパに到着して、ひと踊りするとXが寄ってきて、ある客がZolaを指名しているので会ってやれ、というので、自分はポールダンスしかしない、男とやるなんて言ってない、って突っぱねるとXは怒るのだが、しょうがないのでStefaniのところに来る客の受付とか集金をやれ、と言いつけられてホテルの部屋で客を待ってStefaniがひと仕事したら客からお金を受けとる。最初のが終わったとこで、いくら貰うことにしているの? とStefaniに聞くと$150、というので、冗談でしょあんたなら$500は取れるわ、ってその場で撮った彼女の写真に値札を付けてSNSに撒いたら腐れた男共がわらわら寄ってきて(ここ、みたくない映像いっぱい)、Stefaniはへろへろになるものの、ひと晩の稼ぎは$8000になって、Xからその手腕を認められて、じゃあ次のカモを、ってふたりでメイクをする冒頭のシーンに繋がる。 でも次の客はなかなかやばいやつで..

これは2015年の10月にA’Ziah “Zola” Kingという女性が彼女が過ごした週末に起こった出来事をTwitter上に148連投して話題になったのをベースに映画化したもの - というのは見終わってから知って、そう言われてみると、出来事がZolaの視点に寄りすぎていること、その割に(それ故に)彼女の内面があまり描かれないこと、結果として事実を並べただけの平板なものになっていること - よいわるい含めて - とかの理由がなんとなくわかるのだったが、映画を作るひとつのやり方としておもしろいかも、とは思った。そんなのもちろん、題材によるのだろうけど。

フロリダの方の何が起こるのかわかんないけどどう見てもやばい空気いっぱいだからやめた方がいいよ、っていうところになんも考えていない顔してパーティー! って突っこんでいく(のでハラハラする)系の昼と夜の映画として”Spring Breakers” (2012)とか、”Starlet” (2012)とか、”Tangerine” (2015)とか、”Sun Don't Shine” (2012)とか、怖いのも含めていっぱいあって、いつもはらはら見て怖いよう、って思う。

元々James Francoが監督する予定で準備していたのが例の事件で降りることになって、女性のJanicza Bravoが監督することになり、結果、たぶん、女性間があれこれ張り巡らす微妙なラインが見え隠れするおもしろいものになっている気がした。ZolaがTweetしなかったこと、絵文字の連なりに込めたもの、あるいは改変した何かもあったはずだし、男たちはどいつもこいつもしょうもないろくでなしばかりだし。その点で、男性からの文句や中傷は山ほど来そうだけど、そんなのぜんぜんつーんと跳ね返しそうな冷たさはよいと思った。

こわい夢のトンネルを抜けていくトリップのスコアはMica Leviで、ふてぶてしさと背筋が凍る冷たさと眩暈が交互に刺しにくるすばらしいやつだった。


帰国して丁度3ヶ月が過ぎた。お片付けしていない自分が悪いのだが、まったく戻ってきたかんじがない。
並行して、この数日間だけでもものすごく嫌なことがいっぱい起こって絶望してばかりなので、というのもあるけど、いまはまず、いろんな人命救助を優先して、そっちにリソースを割くことに全力を尽くしてほしい。 のだが、向こうはまともに対応しないではぐらかすようなことばかりしてくるので、余計にあったまくるのよね。 ひとの命をなんだと思っているの?  ということに尽きるのだが。

8.12.2021

[film] Blood Red Sky (2021)

8月8日、日曜日の晩、Netflixで見ました。Netflixは英国で使っていたアカウントをそのまま使えたの。
オリンピックでTVを見たくないときはここで「きのう何食べた?」とかを見ていた。なんも考えなくていいやつ。

ドイツ/英国合作映画。別のタイトルは”Transatlantic 473”。

ハイジャックされた機内に乗り合わせた吸血鬼親子が.. というだけでなんかおもしろそうで、Guillermo del Toroの”The Strain”を思い起こしたり、子連れ吸血鬼ものだとTwilight Sagaを思い起こしたり、自分ではぜったいに遭遇したくないけど、っていうあれ。

冒頭、スコットランドの空港にハイジャックされたらしい飛行機が誘導されて着陸し、厳戒態勢のなか、クマのぬいぐるみを持った男の子ひとりが機体後部から保護される。機内ではなにがあったのか、なんでこの子だけが?

時間が巻き戻って、母親のNadja (Peri Baumeister)と息子のElias (Carl Anton Koch)がドイツからNYに向かう深夜便 - Transatlantic 473 - に乗ろうとしていて、Nadjaはどこか具合がよくないらしくNYの医師のところに治療に向かおうとしていて、荷物チェックのところで機内に持ち込む薬剤について説明したり、トイレでも自分で注射をして呻いたりしている。

離陸した後で、怪しい動きをしていた男性たちが操縦席のパイロットも巻き込んであっさり機を乗っ取ってハイジャック宣言して、NadjaとEliasも素直に犯人グループの指示に従うのだが、Eliasを守ろうとしたNadjaの動きが犯人の癇に障って彼女は撃たれてばったり倒れる。

このあたりから彼女がシングルマザーの吸血鬼になってしまったエピソードが挟みこまれる。彼女は家族で田舎をドライブしていた時に吸血鬼に噛まれてそういう状態になってしまったのだ、と。

で、そういうことなので撃たれても死ななくなっている彼女はむっくり起きあがり、Eliasを守るためにも犯人グループに噛みついて血みどろになってぐさぐさ反撃していくのだが、噛まれた犯人側も時間が経てば吸血鬼になって起きあがってくるし、Nadjaを正常状態に戻そうとしていた薬剤もなくなっていって(そうすると彼女は牙とか目とか吸血鬼ルックに変容していく)、そんななか、ほぼ唯一まともなEliasと善玉乗客のFarid (Kais Setti)は操縦席に立てこもったりして戦っていくのだが、吸血鬼の感染はふつうの乗客の方にも広がっていって..

吸血鬼ものというよりゾンビものにしても通用しそうな逃げようのない閉ざされた空間内で攻防が繰りひろげられる航空機パニックで、母子のドラマとか吸血鬼ものにつきものの人の血を吸わなければいけない辛さ悲しみみたいのがパニックの洪水で後退してしまったのはやや残念かも。あとはアクションが結構ぶつ切りであれよあれよになっていかないもどかしさも少しある。 まあ、血も涙もないドイツ的なリアリズムというか – 機内だったらこうなるしかないじゃんさよなら – はわかんないでもない。

でも冒頭の空港着陸後のEliasのところに戻ったあとの展開はすこし大技のびっくりがあって、あれじゃDie Hard 2じゃないか、みたいな。でもやっぱり、1時間半くらいに収めてほしかったかも。

ハリウッドがリメイクしそうな気もする。実は機内にもうひとり、別の吸血鬼の一族が紛れていて..  とか。


あんなふうになってもいいから飛行機に乗ってどこかに行きたいよう。
 

8.11.2021

[film] In the Heights (2021)

8月8日、日曜日の昼、TOHOシネマズの日比谷で見ました。ここの日比谷のは初めて。
2005年にLin-Manuel Mirandaを中心に初演されたミュージカルの映画化。

冒頭、どこかの浜辺でUsnavi (Anthony Ramos)が子供たちを前に、マンハッタンの北西にあるWashington Heightsの物語を語り始める。

Usnaviがやっている街角のボデガを中心にリモ会社をやっているKevin (Jimmy Smits)、そこで働く親友のBenny (Corey Hawkins)、美容室の3人娘、Usnaviが思いを寄せるVanessa(Melissa Barrera)、Kevinの娘でStanfordから戻ってきたNina (Leslie Grace)、ボデガで一緒に働くいとこのSonny (Gregory Diaz IV)、彼らを育ててくれたおばあちゃんのAbuela (Olga Merediz)がいる。

Usnaviはいつか故郷のドミニカに帰りたいと思っているし、でも幼い頃にここに来た若いSonnyはそうは思っていない(パパのMarc Anthonyもそういう)し、Vanessaはここを出てイーストヴィレッジに引っ越そうとしているし、Ninaは学費のこともあるからStanfordはやめようと思っているし、美容室はブロンクスに移転しようとしている。みんなそれぞれに夢と現実のはざまで留まるべきか行くべきかで悶えていて、そこに等しく夏の暑さが被さって、とどめに大停電がやってくる。

ミュージカルとしてはひとりひとりの登場人物とそのコミュニティを音楽と共に軽やかに紹介して、そのなかでもUsnaviとVanessa、BennyとNinaのカップルにフォーカスして彼らの夢と現実とその行く末、悲喜こもごもを歌いあげる。音楽も作劇もとってもよくできたストレートな作品だと思った。

でもたぶん、この作品が狙っていたのはそれだけではなくて、このWashington Heightsに暮らす人たちひとりひとりの事情 – どこから来てどこに行くのか行きたいのか、を「多様性」なんて適当な用語で胡麻化そうとせずに見つめようとしたのだと思う。その時に彼らが先祖から背負ってきたそれぞれの音楽とリズムは格好の万能の道具になるはず – だけどこれまでのこういうとこの音楽って違いを際立たせたりとりあえず踊ってしゃんしゃんだったり、そんな使われ方ばかりだったんじゃないか、って。

プエルトリカンがいてドミニカンがいてペルビアンがいてメキシカンがいてジャマイカンがいてチャイニーズもいて、彼らの話す英語にいろんなクセがあるのと同じように音楽もぜんぶ違っていて、サルサでもマンボでもチャチャでも、彼らと会って話をしてて(話のネタはそういうとこにしか持っていけないので)音楽の話になると必ず、ちょっとステップを踏んでみようよ、簡単だよ! って誘われる。そんなの簡単だったためしがないのだが、でもいつもああ素敵だな、って思ってて、そういうのを思い出したり。

ちょうど”American Utopia” (2020)が四角四面のキューブにブイヨンの塊のように煮出した音楽のコクとフレーバーを、夏の路面にそのまま干して広げて風に散らしたかのような。

Washington Heightsには一回だけ、会社の同僚のお父さんの葬儀で行ったことがあった。会ったことも話したこともない、若い頃にTony Bennettの運転手をしていたという棺に横たわる彼にお祈りをして、本当に来てくれてありがとう、と暖かく言われてなんか行ってよかったかも、って思った – そんな記憶と共にある場所。たぶん偏見交じりだけどHarlemよりも緩くて居心地よさそうなかんじはした(もちろん、瞬間滞在風速での印象)。

あと、真夏の大停電はNYの2003年8月のを経験しているのだが、あれは楽しい思い出だった(辛い経験をした人がいたらごめんなさい)。道路の信号が消えているのでみんながボランタリーにマニュアル誘導してたり、バーは冷蔵庫がだめになるので大盤振る舞いしてたり、冷房が切れて暑いのでみんな外をぶらぶらしていたり。エレベーターも動かない(から外に出るのはめんどい)のでみんな開け放った窓からそれらを見ていたり。今のコロナ禍でこれが起こったらちょっと、相当怖いけど。

ミュージカル観点だと、Film ForumとかMoMAとかMoving Imagesとかの定期上映館でNYのミュージカルを特集するときに必ず論じられるBusby Berkeleyは押さえているし、同様にこんがらがって語られることの多いChita RiveraとCarmen Miranda(バナナはこっち)にも触れられているし、Fred Astaireの”Royal Wedding” (1951)への参照もあるし、今後特集のラインナップに加えられることであろう。

ミュージカル以外でも、実際の地域問題を少し東に寄っていったドキュメンタリー”In Jackson Heights” (2015)があるし、60年代のハーレムが舞台の”The Cool World” (1963)とか、ローワーイーストだったら”Raising Victor Vargas” (2002)とか、ここから繋がる新旧の素敵なNY映画がいっぱい浮かんでくる。

Usnaviの店で最初の方に出てくるFirmlandの箱ミルクも懐かしかったが、それよりも棚のとこにあるAdvilをひと箱ください..  低気圧でしんでしまう…

ボデガなのに猫が出てこなかったのは明らかにキャスティングミスではないのか。

8.10.2021

[film] F9 (2021)

8月7日、土曜日の夕方、TOHOシネマズの六本木で見ました。2Dで。 帰国後六本木行ったのははじめて。

“Fast & Furious”シリーズの最新作で9作目。”F9”がオリジナルタイトルで、他の国ではだいたい”Fast & Furious 9”みたい。    大漁旗とか暴走族の幟みたいな邦題はおもしろいと思うけど、ほんとバカだとおもうので書かない。

“Fast & Furious”のシリーズは英国でのロックダウン期間中に順番でがんがん放映してくれたりしていたので、それなりに語れるかんじにはなっていて、最初の方の西海岸ローカルのどっちが速いどっちがヤバい合戦がエリアを広げてインターナショナルになって地場のちんぴら悪合戦がなんでか悪の世界組織と戦っていくようになって、という流れは、このシリーズそのものが持つばかばかしい力業の痛快さに連なってて悪くないと思ってきた。Mission Impossibleというよりとにかく力ずくでPossibleに持っていってしまう愚連隊のお話し。ただいいかげん、あそこまでのどんぱちやっても誰も死なないし牢屋にも行かないし最後はファミリーで仲良くまったりやっているのはどうなのか、とかいいかげん思い始めたところ。 ブラジルで金庫を走らせたF5あたりがいちばんバランスがよかったような。

冒頭、70年代のアメリカのサーキットで、レーサーだったDomの父が事故で亡くなった時の記憶が再生されて、でもいまはアメリカのどこかの隔絶された地でLetty (Michelle Rodriguez)と子供と平和に暮らすDom (Vin Diesel)がいて、そこに世界中のどんなネットワーク防御も無効化できるデバイス強奪(もしこれが実現できたら世界中でIT奴隷にされてる労働者たちが解放されるからそんなに悪くない気がする)の件が持ちこまれる。なんでCIAでもMI6でもなくここなのか、ちっともわかんないのだがMr.Nobody (Kurt Russell)案件でCipher (Charlize Theron)も関わっているのだと。

そしたら反対側でデバイスを追っているのが、冒頭の父の事故死にも関わっていたDomの弟Jakob (John Cena)であることがわかり、当然ここは俺がやる、になっていつものメンバーが集まってくるのと、F6の最後で爆死したはずのHan (Sung Kang)と彼の養女のElle (Anna Sawai)が加わって、デバイスふたつとそれを起動するキーを求めての世界中での追っかけっこが始まる。父の死を巡るDomとJacobの確執はテーマとして掘り下げれば重みもあるし面白くなったかもしれないのだが、とりあえずはぼかすか殴り合うのみ。

前作で見どころのひとつだった車をハッキングして一括でコントロールする(これは無理だよねってすぐ言われてた)は、今回、強力な磁力で車を寄せたり剥がしたりになって、原始的だけどこっちのほうがおもしろいかも。あと地雷原を突っ走る(車が速ければかわせる)ところとか。結局シンプルな重力とのバトルが一番つよいってことか。

あと、前作の氷上で原潜とやりあった後は衛星を無効化するためにRoman (Tyrese Gibson)とTej (Ludacris)が宇宙まで飛んでいって(誰も聞いてない)不死身伝説を更新する。ここはベソスのはげが宇宙に行ったのに呼応しているのだと思った。 彼ら、宇宙線を浴びてスーパーパワーを、とかになってもよかったのに。

車とかメカが出てこない肉弾のほうのバトルはHobbs & Shawが出ていない分、DomとJacobの割とオーソドックスな兄弟喧嘩がメインになってしまい、やはりちょっと弱かったかも。同様にずっと恒例だったはずのびちびちの女性たちがレースを煽る場面もやや減ってきているかも。レースしている場合じゃないか、と。

Hanの帰還も含めてファミリーのReunionがテーマになっているのかも。車でぶんぶんぶっちぎってあーすっきりした、はあんまなかったかも。 F10ではきっとCipherの妹とか出てくるんだよ。 Hanだけじゃなくて実はGiseleも生きてました.. だったらよかったのにな。

東京よりもロンドンやエジンバラが出てくる方にきゅんとした。Helen Mirren、貫禄だねえ。



感染症対策も温暖化対策も、政府のなかに科学のことをちゃんとわかる人がいないとだめよね。
いまいないから、まちがいなく連中に殺されるよね。

8.09.2021

[film] Black Bear (2020)

8月7日、土曜日の昼間、英国のMUBIで見ました。
“Ingrid Goes West” (2017)がすばらしかったAubrey Plazaが主演で、プロデューサーとしても入っている。
二部構成で、第一部が“The Bear in the Road”、第二部が“The Bear by the Boat House”。クマ好きなので。

冒頭、Allison (Aubrey Plaza)がひとり、やや靄のかかった湖畔に突きでたデッキの上で、赤いワンピースの水着を着て湖水の方を向いて座っている。笑ってはいないし寛いでいるかんじもない。このイメージは映画の中で数回繰り返されて、これが何かの起点としてあるのか、何かが起こってしまった後の状態なのかはわからない。

第一部は、Allisonが車で人里離れた湖畔の家にやってくる。そこにはGabe (Christopher Abbott)とBlair (Sarah Gadon)の夫婦が住んでいて、元女優で映画を何本か撮っているAllisonは新作を書きにやってきたらしく、GabeとBlairとは特に親しい間柄ではなく、知り合いの知り合いを介してこの家を紹介して貰った程度で、夕食の席でGabeは売れないミュージシャンだったこととか、Blairは妊娠していることとか、ふたりの口論する様子から、夫婦仲があまりよくなさそうなことも伺えて、でもAllisonには関係ないしどうでもいいし、って夜中に湖で泳いでいるとGabeがやってきて、Blairの妊娠は間違いだったんだとか言ってべたべた始めたらその現場に怒り狂ったBlairが現れて、その際のどたばたでBlairは出血したって大騒ぎになって、Allisonは車を出して医者に向かうのだがー…

第二部は、第一部とはぜんぜん関係ない、というかひょっとしたらどこかで繋がっているのかも知れないが明確ではなくて、ここでのAllisonは湖畔 - 同じ湖畔 & 建物もおなじ - で撮影中の映画の主演女優をしていて、Gabeはその映画の監督で、Allisonの夫でもある、という設定。Blairも同じ映画に女優として出ていて、Gabeとは仲がよくて、Allisonもそのことを知っている。 撮影現場でのGabeはAllisonにきつくあたって、気に食わないならBlairを主演にすればいいでしょ、とか言うのだが聞き入れられず、Gabeが虐め続けた状態でなんとか撮影を終えて、終えたあとのパーティでやはりGabeはBlairとくっついていくと…

第一部でAllisonが書こうとしたストーリーが第二部の映画に繋がっていくのか、第二部で撮影している映画のなかみが第一部で展開された内容だったのか、それともまったく関係のない2本なのか、どうとでも取れるかんじで、どちらにしてもGabeはやや情けない浮気性のミソジニストの役で、Blairはやや不安定で落ち着かなくて、男性に寄っていくタイプの女性で、AllisonはBlairとは対照的に自分のやりたいように強く出るタイプで、この3人が静養にやってきた山荘で、あるいは映画撮影の現場で、どんなふうに交錯したり衝突したりするのか。 そしてそこに唐突に出現するクマ。そいつがどんなふうに現れるのかは書きませんが、クマとは一体なんなのか? なんでここにクマなのか? などなど。

精神分的の観点から、言おうと思えばなにか言うことができるのかもしれないし、こないだの”The New Mutants” (2020)に出てきたようなあれ、なのかもしれないとか、いろんなことを考えることができて楽しい。なによりもAubrey Plaza = Allisonがいて、彼女があんなふうになったところにクマが現れることについて、ちっとも違和感がないところがすごい。ここはヘビでもアリでもカエルでもありなのかもしれないけど、クマの説得力には敵わない気がする。

第一部にはフェミニズムを巡る議論も出てきたりして、たぶんAllisonがデッキに座って見つめる湖の奥にあるのはその辺の靄で - 撮り直しを要求されたりもしてるし - ここに山の獣を放ったのは間違っていない。やっちまえ、の怒りが渦を巻いていて、Aubrey Plaza かっこいいなー、しかない。

クマの出没は増えているけど、できれば駆除しないでそのまま山に返してあげてほしい。



低気圧とかウィルスとか、まだまだ困難は続くものの、ずうっと吐き気を催させ続けてくれたイベントがひとつ、ようやく終わった。昔からだいっきらいなやつだったが、改めてぜんぶ嫌になった。特にメディアとか代理店とか、要は間で媒介する連中のレベルの低いこと。もちろん、それらを背後から操ろうとしても無能すぎてバカを晒すクズな委員会の連中とかも。こんなふうにしてファシズムは立ち上がるし戦争も起こるのだってようくわかったので、やはり脱出計画を考えよう。
 

8.08.2021

[film] 消失的情人節 (2020)

7月31日、土曜日の午後、ヒューマントラストの有楽町で見ました。
最近こういうの見てないなー、くらいで。邦題は『一秒先の彼女』、英語題は”My Missing Valentine”。 「情人節」っていうのがバレンタインのことなのね。

開幕したばかりの20th New York Asian Film Festivalでもかかる予定の1本。

こういうアジアの - この場合は台湾の - 恋愛ものには土地勘みたいのがまったくなくて監督のことも知らない。けど見る。

アラサーで郵便局に勤めている一人暮らしのシャオチー(李霈瑜)がいて、子供の頃から他の子より何事もワンテンポ早くて(これが「1秒先」の由来)、写真を撮れば必ず目を瞑っているし、かけっこはフライングばかりだし、目覚ましアラームは鳴る手前で目覚めるし、そんな特技があっても結局周囲にうまく合わせたり溶けこんだりすることはできないまま、仕事場の窓口ではしょうもない客の相手ばっかりしてて、お家ではラジオのDJとかヤモリとかがお友達で、でもなんとかやっているし不幸せなかんじはしないし、周囲には断固そんな目で見るんじゃねえよ、になっている。

もうひとり、彼女の真逆で何をやるにもワンテンポ遅くなるバスの運転手のグアタイ(劉冠廷)がいて、彼も周囲には馴染めないままにカメラを抱えて(カメラは一秒後の世界を捕まえる道具)大きくなってしまったひとりで、彼もどうにか生きている。

お話はもうじきやってくる七夕情人節(チャイニーズバレンタインデー)に向けて、ひょっとしたら彼ができそうになってきたシャオチーの息詰まる動向を小刻みに追いつつ、でも突然、気がついてみればバレンタインの日の記憶が無くなった状態で - 顔が何故か日焼けしている - どうしちゃったなにがあった? わたしの恋はどこに? ってパニックになっている彼女がいる。

ヤモリたちからアドバイスを受けたりなにかの鍵を貰ったりしつつ失われた1日を追う彼女がその背後に広がる失われた過去、失踪した父親とのこととかも - を取り戻してグアタイと出会うまでを、日々のアパート暮らしから明るい海辺のリゾート地にまで敷衍した偶然と必然の織物のようなお話 - 奇跡という程の驚きや煌めきはないかな - として描いていて、物語の座りはしっかりしているのでよかったねえ、にはなる。

あえていうと、1秒前の世界に生きる彼女と1秒後の世界を生きる彼の間の時差(計2秒)や段差がふたりの偶然の出会いやふたりの過去の発見にがっちりと作用したり揺さぶったりしてくれたら、もうちょっとおもしろくなったかもなー、とか。 1秒先の彼女を1秒後の彼が追いかけるのは当たり前として、そういうのがあってもなくても、こんなふうにふたりは出会うし恋は起こるもの、っていうのはある。でもでも、それにしても彼女と彼は - 過去に何があったにしても - 今現在の彼女と彼として見つめ合ったとき、本当にスパークしたのだろうか?  っていうのはお節介かもしれないけど、少し… (← ひねくれやろう)

それか、最後を“Last Christmas” (2019)みたいな方に持っていっていきなり梯子外して泣かせる、みたいのがあってもよかったかも(←ひとでなし)

あとは、Michel Gondryの”Eternal Sunshine of the Spotless Mind” (2004)にも少しだけ似ている。恋愛における記憶ってなんなのか、とか。

豆花たべたい。台湾、行ってみたいな。



船便荷物のお片付け状況はどうかというと、あと残り箱十数個くらいまできた。でもこの調子で開けていっても床に積まれている山の高度を上げていくだけで、ほんとうにやらなければいけないのは、部屋のレイアウトをばっぽんてきに変えて、向こうから持ってきた本棚(John Lewisで買ったふつうの。IKEAのよりは軽い)3つを入れて、そこに(積むんじゃなくて)並べることよ。あったりまえよ。でもそれをやるために床に積んであるのをぜーんぶまた..  (以下略) それをこの連休にやろうと思ったわけだが低気圧のやつらがさー。

8.06.2021

[film] The Sparks Brothers (2021)

7月31日、土曜日の晩、米国のYouTubeで見ました。
いろいろやばくなった時のさいごの切り札としてとっておいたが、もういいかげん我慢できなくなった。ほんとうはもちろん、大画面の爆音で見たかったのだけど。

Edgar WrightによるRon Mael & Russell Mael – Sparksの評伝ドキュメンタリー 140分。

こういうのって、見たい人はなにがなんでも見るだろうし、Sparksを知らなかったりあまり興味ない人はどうせぜったい見ないだろうし、知らなかったり興味なかったりする人に見て!とはあまり言いたくなくて、これから見ようと思っている人に、やっぱりとんでもなくよかったからぜったい見て! ってすごく強く言いたい、そういう1本。

ロスに生まれて育ったRonとRussellの兄弟はママにThe Beatlesのライブに連れていって貰ったりしながら当時の西海岸音楽シーンにどっぷり浸かって育って(いいなー)、あたりまえにバンドを組んでTodd Rundgrenのプロデュースで1st (1971)を作って、でもぱっとしなくて、英国に渡って3枚目 - ”Kimono My House” (1974)の"This Town Ain't Big Enough for Both of Us"でブレークして、その後もGiorgio Moroderと組んだ”No. 1 in Heaven” (1979)が当たって、90年代初のお休みの後に再び~ といったバンドの変遷は当然のように押さえつつも、おもしろいのは本人たちのコメントと膨大な量の関係者とかファンの人々のいろんな言葉なの。

モノクロ画面になるコメンテイター - Todd RundgrenやTony ViscontiやGiorgio Moroderといった歴代のプロデューサーたちやバックを支えた人たち、BeckにFleaにRoddy BottumにJane WiedlinにJack AntonoffにThurston Mooreといった米国のミュージシャンたち、Neil GaimanやAmy Sherman-Palladino & Dan Palladinoといった作家たち、Mike Myers、Fred Armisen、Jason Schwartzman、Patton Oswaltといった俳優たち、そして監督Edgar Wright自身もここは自分が言わないと(言いたいの!)というところで発言していたり。

でも個人的に一番興味深かったのは、”No. 1 in Heaven”が当時の英国音楽に与えた影響を語る- ここは監督の世代的なものもあるのだろう- Nick Rhodes & John Taylor、Stephen Morris & Gillian Gilbert、Martyn Ware、Vince Clarke、Andy Bellなどなど。他にはSteve JonesとかBjörk(声のみ)とかBernard ButlerとかChris DiffordとかNick HeywardとかAlex Kapranosとか。Joy Divisionの”Closer”(1980)のレコーディングの時にスタジオで常にかかっていたのがシナトラのベストと”No. 1 in Heaven”だった、とか。

Pet Shop Boysがここにいない理由もわかったり。あといないのは誰だろ - Soft Cell? こういうののコメンテイターとして必ず口を挟んできそうなJarvis Cockerもいないな。

確かに”Terminal Jive” (1980)以降の作品の英国での扱いってなんだかよくわかんない特別なものだった気がする。
自分が初めて聴いたのは、高校生の頃、みんなとおなじく”Kimono My House”で”、This Town Ain't ..”はまったく聴いたことのないかっこよさに溢れていた。それはパンクの錯乱ともグラムの繚乱ともちがって、真似してよいのか戸惑う(もちろん真似なんてできない)類の、口に出すのも憚られるようなかっこよさで、The Number One Song in Heaven"もそうで、これらの曲にある変な高揚感とかジャケットの怪しいのと曲のギャップ、なによりもこいつら何者?? がきた。

映画は誰もが彼らの音楽に最初に接した時に感じるであろう - そしていまだに世界の至る所で続いていると思われる - こいつら何者? の正体をクロノロジカルに追っていく。でももちろん、あの漫画みたいなハイトーンのヴォーカルとちょび髭コンビの創作の秘密なんて最後まで明らかにされることはないのでご安心を。

ひとつあると思ったのは冒頭に「xxxファンファーレ!」って連打するところで、彼らの音楽って突撃するときの不敵で不穏なファンファーレのように鳴ることがあるなあ、って。勝ち負けなんてどうでもいいけどよくわかんないけどとにかくいくぜ! っていう時にどこからか響き渡ってくる威勢のいいやつ。

あと、Intermissionのパートで明らかにされる映画との関係。頓挫したJacques Tatiとのプロジェクト、同様になくなったTim Burtonとのアニメのプロジェクトのこと、でも最後の最後に、こないだのLeos Caraxとのあれが。 見た翌日に”Annette”のサントラ盤 - 緑のポスター付き - が英国から届く(レコードはまだ英国から買ってる。日本の高くない?)。これがまたSparks & Adam Driverとしか言いようがない変態なやつで.. 映画”Annette”と一緒にSparksにもスポットが当ってまたライブに来てほしいなー。

形式としてはドキュメンタリーなのだが、アニメもあるし(Simon PeggとNick Frostもここに)、いろんな引用たっぷりだし、中心のふたりと一緒になって遊んでるし、Edgar Wrightによる渾身の講談とか紙芝居一巻! のようなかんじ。とにかくずっと楽しくて幸せになれる。



”Annette”のサントラ盤と一緒に届いたのがThe Durutti ColumnのEP - ”Deux Triangles”のRSD Dropで出たやつ。おまけに付いていた81年8月のブリュッセルのライブ(既発のだけど)をかけるとあの頃の空気がとげとげ吹いてくる。この音とThe Cureの”Faith”だったねえ。

8.05.2021

[film] 四畳半物語 娼婦しの (1966)

7月27日、金曜日の夕方、シネマヴェーラの成沢昌茂特集で見ました。

これがこの特集で見た最後の1本で、始まってから昔に見たことがあるやつだとわかった。それにしても、今回の特集を通して成沢昌茂の作家性みたいのはあんまよくわからなかったかも。どれもとてもおもしろかったのだけど。もっと見ないとだめよね。

原作は永井荷風の『四畳半襖の下張』(の春本版と呼ばれる方?)で、東映の「文芸」路線らしい。冒頭廃墟のようになった古い屋敷に上からカメラが入っていって(ここすばらし)、そこの離れの四畳半の襖の下張にあった昔の人の綴ったおはなしをおっさん(語りは東野英治郎)が愛おしそうに懐かしそうに語っていく。

ある日そこの四畳半にやってきた客 - 糺(田村高廣)を相手にした娼婦しの(三田佳子)は彼のことを気にいって、彼も財布を彼女に贈ったりするのだが、その財布は元々彼女のもので、それを彼女から巻きあげた情夫の竜吉(露口茂)から糺がすったものだった。そういう縁も含めて糺のことを気に入ったしのは自分の本当の名前を教えてふたりで頻繁に会っていくようになるのだが、おもしろくない竜吉はふたりの仲を裂こうとやっきになって、そうしていると糺はよいところから縁談がきたのでスリもやめてそっちに行くよ、と。竜吉はそのまま逃げるなんて調子よすぎじゃねえかおらって突っかかってきて..

この他に厳しくて計算高い宿主の種子(木暮実千代 - 明治一代女)とか、初めてで客の老人を腹上死させてしまう若娘のきみ(野川由美子)とか、それで見境を失って彼女に突っかかっていくその未亡人の浦辺粂子とか、男性はどれもろくでもないクズばかりなのだが女性はみんな強くて逞しい – だからよい、っていうことではなくて全体としてはやっぱり悲惨な時代だったのだと思う。

襖の下張りにあるのを読んだり現れた春画を眺めたりしてよい時代だったのおーって懐かしんだり涎を垂らしたり、昔のポルノグラフィをそのまま楽しむことってもうあんましできないのかも - 少なくとも自分は。 そうやって産業(含.映画)として構造に組みこまれた快楽のありようがセックスワーカーや女性を長く苦しめたり搾取したりしてきた、そのことを知ってしまった今となっては - ポンペイの昔から春画なんてあるし今後もなくなるとは思えないけど – 時代と性産業の過去と現在を、特にその表象のされ方については無神経になりたくない。(これは人種や歴史認識についても同様。特にその見えないようにされてきた箇所については)

その点で、男性たちの影の薄さ – 小悪党でみみっちくて空威張りしかできなくてなんとなく向こうに消えていってしまう – はなんかよかった。ラストに四畳半にやってくる客のやらしいかんじも含めて。

それはそれとして、構図と長回しのカメラがとらえた遊郭宿の佇まいとそこにJazzふうの音楽が被さって見ている我々を連れていく昔の路地とか窓からの景色とかは悪くないと思った。これを「悪くない」って思わせてしまうもの - 上品さ? それってどういうこと? はあるとしても。



もう散々悪口言ってきているけど、ほんとに酷すぎるよねえ。こんな酷いのないわ。
英国のだって相当酷かったけど、彼らは誤りや考慮不足があれば非を認めて謝罪したし、亡くなった人たちや苦しんでいる人たちや前線でがんばるNHSの人たちへの弔意と敬意は常に表明していた。それが彼らを動かしていた。 今の政府の連中ってなんとか委員会で寄り集まってお触れとか注意喚起とかを出すだけで、なんもしないで居直って関係各所に丸投げしておわり。 政治(家)に殺されるってこういうことよ。

8.04.2021

[film] The Human Voice (2020)

7月24日、土曜日の晩、英国のMUBIで見ました。

監督Pedro Almodóvar - 新作が今年のNYFFのクロージングに選ばれた - 主演Tilda Swintonによる30分の短編で、2020年のLFFで公開されて翌年1月にシアター公開される予定だったのだがロックダウンにより見れないままになっていた作品。30分という短い作品なのでシアターではPedro AlmodóvarとTilda Swintonの対話を収めたフィルムもおまけで上映されるはずだったのだが、それは今回見ていない。

原作はJean Cocteauの戯曲”La Voix humaine” (1930)を”Freely”に翻案したもの、同原作からはプーランクが一幕のモノオペラにしている(1959年初演)。

タイトルやスタッフ・キャストの人名表示は工具や金具がぎろーんと並んで、Carcassの”Surgical Steel”のジャケットみたいなかんじ。

冒頭、赤いドレスを着たTildaさんが撮影用ステージのようなところにいて、別の衣装に着替えて、そういうモデルや女優のようなお仕事なのか、と思う。続いてペットの犬を連れて荒物屋に行ってナタを一本買い、家(?)に戻る。そこに並べてあるDVD – “Kill Bill” (2003)とか”Jackie” (2016)とか”Phantom Thread” (2017)とかDouglas Sirkの”All That Heaven Allows” (1955) – どれも男性監督による女性映画 - とか本 - フィッツジェラルド、カポーティ、リチャード・スターン、ルシア・ベルリン、アリス・マンロー等が映されて、どういう人かなんとなくわかるのと、クローゼットの大量の服とか室内で履いている靴とか、コスメ棚にはNatura Bisséとか自然系(高め)のがいっぱい並んでいたり、経済的に成功していて余裕があるひとであることもわかる。(あと、この家は冒頭に出てきた撮影用ステージの中に作られたセットであることも俯瞰ショットでわかる)

部屋の隅にはスーツケースがふたつ – これから旅立つのかどこかから到着したのか、ベッドの上には男性のスーツが広げてある。彼女は買ってきたナタでスーツをずたずたにして、錠剤(13錠)をがぶ飲みして横になる。やがて犬がぺろぺろして目が覚めて、iPhoneに着信が来ていることに気付いてううぅってなると、暫くしてかかってきた次のCallで彼との対話が始まる。

その内容については映画を見てほしいのだが、彼とは4年間一緒にいて、この3日間でこの場所に荷物を引き取りに来ると言っていたから待っていたのに来ないっていったいどういうことか? 犬はあなたのものだしどうするんだ、とかいうもので、電話の向こうの声は聞こえないので、向こうがどういうトーンとモードであるのかは最後までわからない。

コクトーの戯曲は1930年の時点で電話でのやりとりをテーマにしていて、対面でも手紙でもない、今であればビデオの対話もできるはずだがそれはせず、一方の声のやりとりだけで関係の途絶と別れが起こる瞬間を捕まえようとする。関係そのものがどうなる、ということよりもそうやって捕捉されながらも電話線の向こうで声の痕跡だけを残して消えてしまうあなた – そしてそれを受けとめる自分 - について描いているのではないか、と思った。

プーランクのオペラが悲劇で終わるのに対して、こっちはそうでもなくて、Tilda Swinton!としか言いようのないかっこよさと共に閉まるので見てほしい。音楽はAlberto Iglesiasによるクラシカルなやつだが、Bowieの”Low”のA面あたりがいちばんしっくりくると思った。

やはり、Covid-19での動けない、どこにも行けない、出会いも別れもままならぬ状態を背景にして作られたものなのだろうか。

そして2020年3月、英国のロックダウンが始まる直前まで(というかロックダウンによって中断された)BFIで行われていたTilda Swintonの回顧上映で毎日のようにシアターに来て自身のいろんな作品についていろんなことを語り、質問に答えてくれていた彼女のことを思い出すと改めて感謝の思いでいっぱいになる。 こういう見方をするのが正しいとは思えないが、あの時の彼女の颯爽としたイメージとこの映画のラストは繋がってしまう。

これから今年のカンヌで公開されたJoanna Hoggとの、Wes Andersonとの、Apichatpong Weerasethakulとの新作を見ていくのが本当に楽しみ。


それにしてもあれこれしんどい。史上最悪の8月になるのかも。