11.30.2018

[film] Le Baron fantôme (1943)

17日の土曜日の午後、BFIで見ました。英語題は“The Phantom Baron”。日本公開はされていないみたい。

BFIでは10月から11月にかけて(ああ11月が飛んでいく)、Jean Cocteauの4Kリストア版“Orphée” (1950)のリバイバル公開(ああ見逃した)にあわせてSight & Sound誌の選による”Fantastique: The Dream Worlds of French Cinema”ていう特集をやっていて、フランス産の怪奇・幻想・スリラーを古いのから新しめ(2004年くらい)のまで上映しているのだが、そのなかの1本。 これ以外はぜーんぜん見れなかったわ。  他に上映されたのは、Jean Epsteinの”The Fall of the House of Usher” (1928)『アッシャー家の末裔』とか、Marcel L’Herbierの”La Nuit fantastique” (1942) -『幻想の夜』とか、Georges Franjuの”Eyes Without a Face” (1960) -『顔のない眼』とか、Anna Karinaがでてくる”L’Alliance” (1970) – “The Wedding Ring”とか、Orson Wellesがでてくる”Malpertuis” (1970) とか、”Innocence” (2004) -『エコール』とか… 書いててうんざりしてきた。なにやってたんだろ自分。ばかばかばか。

スクリプトをJean Cocteau が書いて(出演もして)て、衣装はChristian Dior(40年代のDior)。Cocteauは今作に続けてトリスタンとイゾルデもの – “L’Eternel retour” (1943) - 『悲恋』も書いている。まだ戦時中、占領下なのに。

フランスの田舎の朽ちかけたような古城にSaint-Helie伯爵夫人とElfy (Odette Joyeux)とAnne (Jany Holt)の娘ふたりが馬車でやってきて暮らし始める。ここの主の Julius Carol (Jean Cocteau) – 彼が亡霊男爵ね – は城のどこかに消えてしまったとか言われていて、猟場番の息子のHervé (Alain Cuny)とElfyとAnneの3人はいつも納屋の干し草のなかで一緒に遊びながら大きくなる。

美しく成長したAnneはHervéと恋仲になっていて、Elfyはどっかの貴族ぽい若者と恋のゲームを始めたりするのだが、やがて消えた男爵の祟りだか魔法だかがどこからか滲みだしてきてお日さまを遮りはじめて。

ストーリーそのものは、3人の子供たちが成長してからの恋のあれこれ、貴族社会でのあれこれ、これに古城にまつわる伝奇とか怪奇譚 - 男爵とか猫とか - と、それらの渦のなかで怨念とか情念とか黒い計算とか - のせめぎ合いがあって生き残るのはどっちだ、と言う程、四角四面の息詰まったものではなくて、怪談にもならなくて、ジュブナイル要素の入った幻想小説のような、とてもフレンチな小品。

最後に明らかになる謎とそれに対する登場人物たちの対応もなんかあっさりしていて、ぬぁんだとおおおおー(憤)みたいに目をむいてでんぐり返ったりせず、最後に回想シーンを入れてあんなだったのにね、って甘酸っぱい夢のように閉じたりしてて、大人なの。

「嵐が丘」やJane Austenモノといった英国の荒野、貴族サークルが出てくるのとは材料は似ているようで、これも違う。

冒頭の霧の中、馬車がゆっくりと城に近づいていくシーンとか、陽が昇るころにHervéがAnneを抱えて森や岩の上を彷徨うシーン(ドレスのひだひだ)とか、息を呑むくらい絵画的な美しさに溢れていて、ドイツ表現主義の”The Cabinet of Dr. Caligari” (1920)とか“Nosferatu” (1922)の影響が指摘されているようだが、これもやっぱりちょっと違ってて、そんなにおどろおどろしてないの。 Cocteauが夢遊病歩きしたりするとこもあるのだが、なんかさまになってないし。

というか、そんな様式云々より、Cocteauはこれをはっきり若い少年少女に向けて書いているのよね。

11.29.2018

[film] Exit Smiling (1926)

9日の金曜日の晩、BFIのComedy Genius特集で見ました。 71分のサイレントと66分の中編の2本立て。

Exit Smiling (1926)

ピアノ伴奏つきのサイレントで、カナダ生まれの英国人女優Beatrice Lillieのデビュー作(彼女のサイレントはこれだけ)。  Morrisseyの本との関連は不明。

どさまわり劇団で見習い女優兼メイドをしているViolet (Beatrice Lillie)の日々の奮闘 - 主演女優が開演時間になっても現れないのでついに自分の出番が、と思っているとぎりぎりで現れやがったり、劇団に転がりこんできた銀行員Jimmy (Jack Pickford – Mary Pickfordの弟)の面倒を見ているうちになんかよいかんじになってきたのでひょっとしたら ..  とかを描く。

どちらも彼女の思いこみが暴走していただけであらら残念、になってしまうのだが、そんなことよりも彼女の妄想でどこかにいっちゃった目つき、フルスイングの挙動振る舞い、リアクション、どれもおもしろすぎて彼女が動き回るだけで大笑いが起こる。
今のひとでいうと間違いなくKate McKinnonの元祖。 奮闘が空振りに終わったあとの取り繕いも、聞こえてきそうなぼやきも、ちぇっていう表情もいちいちすばらしい。

彼女、歌手としても活躍したそうなので歌声も聞いてみたいなー。

She Done Him Wrong (1933)

邦題は『わたしは別よ』 ..  なにが別なのか?

20年代中頃、当時のセンサーシップぎりぎりのいかがわしい自作の戯曲でブロードウェイの寵児になっていたMae Westがこれも自作の”Diamond Lil”を – 戯曲はHays Codeでは発禁になっていたにも関わらず別のひとが映画用に脚色したもので、映画は当たってよかったね、になったそう。

1890年代、NYのBoweryでLady Lou (Mae West)が酒場の女王みたいに君臨してて、そこにギャングみたいのとか闇の帝王みたいのがいっぱい寄って集ってきてLady Louにひれ伏したりしている。そこに軍服を着たちゃきちゃきのCary Grantが現れてなんだこの坊やは? になるのだがこいつが実は覆面で、最後にガサ入れになるとCary GrantがLady Louをさらってにんまり運んでいくの。

とにかくMae Westの声とオーラの本物なかんじ(本物だよ、伝説の)がものすごくて、Cary Grantは彼女をさらった後でどうしたのかしら、どうなったのかしら、とかそういう方が気になって。


The Cohens and the Kellys (1926)

サイレントをもうひとつ、Barbicanの月いち上映会 - Silent Film and Live Musicの11月の分。
25日、日曜の午後に見ました。ライブ伴奏はアコーディオン、サックス、フィドル、チェロの4人編成。
リストア元のプリントがベルギーのアーカイブにあったやつだったので、字幕はフランス語とフラマン語で、その上に英語が被ってせわしなかったけど、がんばった。

NY(1124 2nd Ave だって。昔住んでた近所)の同じアパートの同じフロアに暮らすユダヤ系のCohen家とアイリッシュ系のKelly家はずっと犬猿で、まず互いの犬がいがみ合って、それぞれのガキが取っ組み合いになって、それぞれ関取みたいな母親ふたりが組みあって、父親同士(George SidneyとCharles Murray)も当然殴り合いで、でもCohenの長女とKellyの長男だけは妙な顔して後ろで控えてて、なぜかというとふたりは恋仲だから(あーあ)。

基本は典型的なユダヤ系のあれこれとアイリッシュ系のあれこれの応酬と総力戦で、互いになにを見ても聞いても喋っても気にくわないし理解するつもりも毛頭なく子供みたいにムキになって罵りあうばかりなのだが、見ていて気持ちいいくらいにすぐ沸騰して向かっていったり(Kelly)、ぼろぼろ泣きだしたり(Cohen)するので飽きない。

ある日Cohen家に大叔母の遺したという遺産$2億が転がりこんできて彼らは大邸宅で成金の暮らしを始める、っていうのと、それの前に長男長女はこっそり結婚していて子供も生まれる、ていう火種が炸裂して大騒ぎになるの。喜劇なので昭和のホームドラマみたいに最後はめでたしめでたしよかったねえ、になるのだが、人種とか家族っていう括りじゃなくてひとりひとりがきちんと描かれているので見終わったあとの余韻がとってもよいの。 なのでこのシリーズは当たって、この後に全部で8作作られたんだって。 オールナイトでマラソン上映しないかしら。

伴奏は見事で、アイリッシュのどんどこ民謡からクレズマーまで変幻自在だし、フィドルがあると犬の吠えるのまで再現できるのね。

これを見たあと、お食事をどうするかで喧嘩になるかしら? デリに行くかパブに行くかで。

11.28.2018

[film] The Lady Eve (1941)

Screwball Comedy3つ。BFIのComedy Genius特集ではレンジがでっかいせいか、いくつかのカテゴリーで区切っているようで、その中に”Screwball Sunday”っていうのがある。日曜の午後にクラシックなScrewball Comedyを、ってとっても素敵だと思うのだが、べつに日曜の午後以外にも(本数は多くないけど)やっていて、とにかく見れるならうれしいので行く。

The Lady Eve (1941)

10月22日、月曜日の晩に見ました。

夏から秋にかけてずっとJoan Crawford一筋だったがやっぱりBarbara Stanwyckも好きだし、監督はPreston Sturgesだしな、と見てみたら、冒頭のヘビのアニメであーこれだったかあ、になった(←ちゃんと憶えとけ)。

Jean (Barbara Stanwyck)とパパともう一人の詐欺師一家がいて、ビール会社の御曹司でヘビ専門家のCharles Pike (Henry Fonda)がアマゾン探検からの帰途、豪華客船に乗ってきたので、こいつを落としたれ、ってパパがカードですってんてんにして、Jeanでめろめろの骨抜きにするのだが、船を下りる直前に正体がばれてご破算になって、こんにゃろー、ってなったJeanは貴族お嬢さま"Lady Eve Sidwich"になりすましてCharlesのおうちに近づいて、今度はまんまと結婚までこぎつけるのだが、ハネムーンに向かう列車のなかでJeanが過去の男遍歴大告白大会を始めて止まんなくなって… (悲鳴をあげて突っ走る暴走機関車がめちゃくちゃおかしい)

蹴躓いてばかりのぼんくらHenry Fondaにねっちりヘビ女のBarbara Stanwyckが絡みついてぎりぎり絞めあげていくSMコメディで、とにかく彼女がとてつもなくキュートでこれならどんな王様だろうがドMだろうがいくらでも落とせるだろ、て思うのだが、最後はなんだ結局好きでやってたのね、になる。 ずっこけてばかりのヘビ好きCharlesのいったいどこに惚れたのか、ここだけは最後まで謎。

でもあのふたりは長続きしないとおもうわ。


The Awful Truth (1937)

11月17日、土曜日の午後に見ました。 邦題は『新婚道中記』..?

Jerry (Cary Grant)とLucy (Irene Dunne)の夫婦がいて、Jerryはウソついてカラ出張したり、Lucyは音楽家とデートしたりしているのでそれじゃもう離婚しようか、って手続きを始めて、Lucyは越した先の叔母のアパートでオクラホマの成金 - 人あたりはよいけど中味は牛のようにからっぽ - Dan (Ralph Bellamy)と知り合ってつきあってみるのだが、どうも違うかんじで、やっぱしヨリ戻そうかと思うのだが、うまくいかなくて、他方でJerryは金持ち令嬢のBarbara (Molly Lamont)と婚約手前までいって、妨害すべくLucyはJerryの妹になりすまして乗りこんでいくのだがやはり失敗して、離婚手続きの期限が迫ってきて、どうなっちゃうのか。

 “The Awful Truth” – おぞましい真実、っていうのはふたりがやっぱり互いを好きなのに断固認めたくなくて、それぞれの都合で隠そうとしたり暴こうとしたりじたばた - Lucyのアパートで関係者全員が鉢合わせして収拾つかなくなるところ最高 -  すればするほど事態は真実から遠ざかっていって、最後には犬猫がしょうがねえなあ、ってなんとかするようなところまでいっちゃうの。おぞましい真実をわかっていたのは犬猫だけだった - そういうのも含めておぞましいことだねえ、なにやってたのかねえ、ていうお話し。

元気なわんわんのSkippy (Mr.Smith) は、次の“Bringing Up Baby” (1938) - 「赤ちゃん教育」でも大活躍するあいつで、映画史的にはCary Grantと同じくらい偉いと思う。
監督のLeo McCareyはこれで同年のオスカー監督賞を貰っているの。


The Palm Beach Story (1942)

11月18日に見ました。日曜の午後、BFIのいちばんでっかいシアターがこれを見る客(そりゃ老人が多いけどさ)でほぼ埋まっている、っていいよね。

Tom (Joel McCrea)とGerry (Claudette Colbert)の夫婦は結婚5年を過ぎて(公開当時の邦題は『結婚五年目』だって)、もう続けるのは無理かもって思い始めたGerryは離婚してもっといい金づるを探すべくPalm Beachに行くことにするのだが、出払おうとしていたアパートで怪しげなソーセージ王の老人から札束を貰い(いいなー)、なのに列車のなかでは狂乱の酔っ払い集団 - The Ale and Quail hunting clubのどんちゃん騒ぎに巻き込まれて身ぐるみ失って、すると今度はとてつもないお金持ちのJohn D. Hackensacker III (Rudy Vallée)と出会って見初められて、こいつはすごいかも、になるのだが、やはりソーセージ王からお金を貰ったTomが後を追っかけてきて面倒になりそうだったので彼を兄ということにして、そしたらJohn D.の姉だか妹だかでいっぱい結婚してて変な愛人を連れたPrincess Centimillia (Mary Astor)がTomのことを気に入ったみたいで嬉しそうに寄ってくるので、ふたりはどうなっちゃうのか、になる。

これもPreston Sturgesの監督作品で、“The Lady Eve”にもあった、人はやっぱし外見、とか、走り出した列車はなにがあっても止まらない、とか肝心なところは変わらず、人から聞いたら法螺話かよ、みたいなのが整然と問答無用に展開していくのでお手上げで、どうしようもない。 ナンセンス、ていうのとも違って、あるのはぜんぶちゃんとした意味の上に乗っている or 乗っけようとしている、のだがその途上でなにかどこかが過剰になって、でもそこにしがみつくしかないのでしがみついているとでんぐり返って大火事に..    そしてこれはあなたの身に起こってもおかしくないのよ、って。

しかし、お金なんてあるとこにあるもんよ、って結構めちゃくちゃな”The Lady Eve” (1941)とこれの間に”Sullivan's Travels” (1941)を撮っている(主演は同じJoel McCrea)Preston Sturgesって、なんなのこのひと? だわ。

“Christmas in July” (1940)も久々に見たいなー。

11.27.2018

[film] Suspiria (2018)

21日の水曜日の晩、CurzonのSOHOで見ました。

これもダンス・ホラー、というよりは1977年のDario Argentoの、あの鮮血のなんとか、のリメイクということで、怖いけどがんばって見てみよう、って行った。 昨年Dario Argentoのトーク付きの”Suspiria”上映会に行ったときも、今作についてはいろいろ聞かれるのでアドバイスしている、がんばっているようじゃの、って言っていたし。
見たかんじではオリジナルより数段いろいろ練りこまれたものすごいやつだった。 オリジナルから40年たって、魔物たちも程よく腐ってきたんだか発酵したんだか。

6 Acts + epilogueからなる152分びっちり。
77年、寒そうで天気のよくない秋のベルリン、RAFによるLufthansa機のハイジャック事件だのがラジオから流れてくる暗く荒んだ時世、何かに怯えて挙動がおかしくなっているPatricia (Chloë Grace Moretz)が精神科医のDr. Josef Klemperer (Lutz Ebersdorf) のところにやってきて、所持品を残して消えてしまう。同じ頃、アメリカ人(from Ohio)のSusie (Dakota Johnson)がダンスシアターを訪れて、Madame Blanc (Tilda Swinton)によるオーディションを受けてシアターの一員となりそこの寮で暮らし始める。ダンサーのOlgaはMadame Blancとぶつかって追い出されて、Susieがその後を継いで(そしてOlgaは…)。

他にアメリカと思われるだだっ広い農地の一軒家で死にそうな形相の女性がいたり、Dr. KlempererがPatriciaの残していった冊子の書き込みから何が起こっているのかを探り始めたり、東ドイツ側を訪問したり、シアターの代表人の選挙とか、いくつかのエピソードが並行していって、最後はSusieがリードに選ばれた演目”Volk” - 40年代に作られた作品のお披露目の日がきて、そこにはDr. Klempererもやってきて。

こわくないところを並べてみるとこんなふうで、あとはダンスシアターのからくり屋敷みたいな建物の内部で起こる禍々しいあれこれ、そこを支配している魔女みたいな(魔女なんだけど)女性たちと生徒たちのあれこれ、その中でMadame Blancに認められてのし上がっていくSusieのお話しとが重なって、あの時代のベルリンで、ダンス(Tanz)を軸に展開される集団劇として、それがぐしゃぐしゃのホラーに向かっていくしかないような暗黒の設定ができあがっている。

それはLuca Guadagnino が前作“Call Me by Your Name”で、80年代のイタリアの田舎の陽の下、古代彫刻や音楽を愛するブルジョワジーの家庭に彫刻みたいな身体のアメリカ人の男が現れたらあんなのふつうに起こることよね、というふうに描かれていたのにも似ている。 今度のはあれ以上に周到に過去も含めた情景がこまこま厚く深く描きこまれていて、なんかすごい。一冊本を書けそうなくらい。

ダンス(コレオグラフ: Damien Jalet)のところはコスチュームも含めて誰のマネだパクリだが既にいっぱい出ているようだが、ダンスの元なんて胴体ひとつに手足4本、頭と首しかないんだからパクリもくそもないじゃろ、とか思うもののMartha Graham, Mary Wigman, Pina Bausch, Sasha Waltzといった女性コレオグラファーの名前は簡単に出てくるし、演目の”Volk”からはLeni Riefenstahlの名前も浮かぶし、”Climax”にあったような何かに酔っぱらった集団の狂熱、みたいのもあると思うし。一番近いと思ったのはMadame Blancが所属していたというMartha Grahamかなあ。 Pina Bausch以降だとダンスを異化したりメタしたりする要素が入ってくるのでちょっと違うかんじがする。

77年のオリジナルのが即物的で血の色とかも含めて目で見てわかりやすい怖さがいっぱい、今回の方がダンスの身体とかフィジカルなとこにフォーカスしているのに観念的で頭をいっぱい使わせて、あとから怖さじんわり、ていうのはおもしろい。

映画だと冷戦時代のドイツの根っこ、のような観点からR.W. Fassbinder的なものは掘ればいっぱい出てきそう - 単に変な動きをする変な顔のひとたちが横並び、というだけでも、All Female Castの”The Bitter Tears of Petra von Kant” (1972)とか。(Fassbinderとの交流についてはDario Argentoも語っていた)
最近のホラーだと、”Hereditary” (2018)の宙に浮いて遠隔で飛んでくるやつもあると思った。

美術だとFrancesca Woodmanの他にいくらでも出てきそう。

これらはみな女性がその中心にいて、それってなぜ、どういうことなのか、というのが最後の方で明らかになると、そのエピソードはものすごく悲しくて辛くて、見ている間は怖さではらはらがたがたしていて泣くどころじゃなかったのだが、できればもう一回みてきちんと泣きたいところかも。

Tilda Swintonさんは”Orlando” (1992)のあたりから得意とする転生、転移、変態の(時代)劇で、こういうのを演じるときの石鹸とか大理石みたいな輝きと安定感ときたらものすごい。 他方でDakota Johnsonさんの(現代の女の子の)顔はどうかしら? これはこれで、なのかなあ。

Thom Yorke氏の音楽は、RadioheadでThe Merce Cunningham Dance Companyの伴奏(Sigur Rosとの共演、2003年のBAM)をやったこともあるくらいなので、一昔前(ここがポイント)のモダンとの相性はとてもよい。台詞の少ないドラマなので、サイレントにして音楽のみで、というのがあってもおかしくないかも。むしろそっちの方が盛りあがるかも。

これも3部作になるのだろうか。この調子で魔女みんなに付きあっていたら体がもたない。べつに戦うつもりないし勝てないし。

あと、こないだの“Widows”にもあったけど、針で中途半端にぐさぐさ突いたり、鉤爪で引っかけたりとかって、魚じゃないんだからやめてほしい。

11.26.2018

[film] Climax (2018)

ずいぶん前、10月6日の土曜日の午後、Curzon SOHOで見たやつを。

これの予告篇がおもしろくて、踊って騒いでサングリア!踊ってぐちゃぐちゃそれでもサングリア!みたいなかんじのいけいけで、なんかすごそうだぞ、って。あと、どこかのレビューに”Busby Berkeley goes to hell” とかあったのでおもしろいかも、と。

Gaspar Noéの新作で、Gaspar Noéってダークでゴスでおっかなくて、というイメージはあったけど、これまで見たことはなかった。
たしか。

冒頭、雪が吹雪いて真っ白の中を半裸で血まみれの女性がひとりずるずる滑るように動いていくのを上からの俯瞰でとらえて、視界はそのまま真っ白になっちゃって、ちっちゃく”Inspired by the true event”とか表示されるので震えあがる。

続いてダンスグループのオーディションと思われるインタビュー映像が流れて、あなたにとってダンスとは? とか、将来はなにをやりたい? とか、公演でNYに行ったらなにをする? とか聞いてて、それぞれみんなダンスが大好きでポジティブに真面目に答えているよいこたちで。

次が稽古場でのリハーサルで、これが10~15分くらい続いただろうか、ノンストップのワンカットで撮ってて、そんなにテクニカルではない、最近のポップカルチャー寄りの群舞でところどころ雑だけど、それも含めてなかなかかっこよくて威勢よくていいの。コレオグラフはRihannaとかの振りつけをしているNina McNeelyていうひと。 しばしの休憩が入って、こんどは天井目線で捕らえたリハーサルで、少し疲れてきたのか乱れも見えて、カットも入る。 そうやってこのグループがやろうとしてるダンスの大枠を紹介したところで、今日はこれでお開きなのでサングリアでも飲んでリラックスして休んでってね、になる。

ここのサングリアは特製だから是非飲んでいって、という台詞は何度か聞かれるものの、誰かがそこになにかを仕込むところもそれを飲んですぐにおかしいと指摘するようなところもなくて、どこの立ち飲みの場でも見られるような光景 - 数名が集まって談笑したり、誰かが誰かを口説いていたり、ダンスの議論をしていたり、子連れの女性は子供を預けなきゃとか、音楽はリハーサルからの延長でいろんなのががんがん流れていて、そこからこれもどこでも見られるようなちょっとした小競り合いや小突き合いがぽこぽこ出てきて、それも始めのうちはまあまあまあ、の仲裁が入って分離されたり収まったりしているのだが、それを抑える勢力がなくなったのかなんか暴れたい方が多勢になったのか、ダンスのうねりが連鎖してより大きなうねりになっていくように、あちこちで殴り合いとっくみあい凶器手にして..  が止まらなくなっていって。

怖いのは個々のぶつかり合い殴り合いの描写やその重なり方ではなくて、そこに至るまでの流れがあまりにスムーズで気がついたら誰も止めることができないパニック状態になっていた、と後になって言われるような、そういうコトの顛末が神の視点でもなく特定の当事者AやBの視点でもなく、全方位の、これっぽっちも救いのない場所(孤絶した雪山の奥)から描かれていることで、これってアルコールなのドラッグなの、それともひょっとしたら  … ダンスなの?  という問いが雪山の向こうからぴゅーっ、て吹いてくるのだった。

知っている俳優さんはSofia Boutellaさんくらいで、始めは彼女とわからないくらいグループに溶けこんでいて、彼女がそのしなやかな脚でキックを繰り出してその場をなんとかするなんてことはなく、むしろグループ全員が”The Mummy” (2017)のあの魔物にやられてしまったかのようなずぶずぶで、ダンスっておっかないよう、ということで ―

11.22.2018

[film] Fantastic Beasts: The Crimes of Grindelwald (2018)

17日、土曜日の夕方、Picturehouse Centralで見ました。2Dでも結構目がまわったので3Dだったらしんだかも。

Harry Potterの頃からそうだけどタイトルが長くて、”Fantastic Beasts”ですらちゃんと覚えられないので自分のなかでは「妖怪大戦争」って呼んでいる。
だいたいさあ、ScamanderとかGrindelwaldとかDumbledoreとかCredenceとかCredenceとか長すぎて(”d”がいっぱいで)憶えらんないわよ。 本で読むなら別だけど、ってそうか元は本だったよね。

前作の最後にColin FarrellからJohnny Deppに変態したGrindelwald がNYから移送される途中で逃げだして、Newt Scamander (Eddie Redmayne)はロンドンにいて、かつての先生だった Dumbledore (Jude Law)からGrindelwaldはパリにいるみたいだからなんとかして、とか無責任に振られて、気がつけば前作のメンバー(含.パン屋)が揃っていて、Grindelwaldはやはり前作で呪われた子だったCredence (Ezra Miller)を仲間に取りこもうとしていて、捕物だか争奪戦だかの追っかけっこが始まるの。

前作”Fantastic Beasts and Where to Find Them” (2016)がどういうのだったか思いだしてみると、駆け出しの魔法使いで変てこ動物使いのNewt Scamanderが悪い奴らって魔物動物みたいなもんよね、って巻き込まれて捕物をやってみる、そういうやつで、一番の魅力はHarry Potterのシリーズで画面の隅っこをちょろちょろしていた変な動物たちが前面に出てきたこと、それだけでじゅうぶんで、Colin FarrellやらJohnny Deppやらの暗い顔なんてべつに見たくもなかった。

でも今回のは登場人物ほぼ全員、ずっと景気のよくない顔しててちっともFantasticじゃないし。前作で面倒みてたあの動物たちはみんなどこに行っちゃったんだよう。

基本はハリポタでも重要なテーマだった血縁探し = 自分探しみたいなとこで、自分がどこの誰から生まれたどういう奴なのかを知ることがとっても大切なことらしい。わかんないと怖くて魔法も使えないんだったら魔法使いなんてやめちまえ、って思うし、魔法をいっぱい使える使えないって、彼らの生活 - お給金とか査定とかそういうのと関係あるの? 生活に支障きたさないんだったら放っておけばいいんじゃないの? とか。もちろん、ファンタジーの世界に浸るというのは向こうの世界の約束事に身を置くことでもあるので我慢するけど、今回、明確にハリポタの世界と繋がってしまったことで、またあのパワーとかそれによる制覇だの覇権だのを巡るぐぁあああー(悶)ばっかりの世界になるのかあ、って。箒に乗ってびゅーん、とかもないから子供が見てもおもしろくないんじゃないの?とか。

強大な魔法のパワーが脅威になるのはわかるけど、Beastがうようよいる世界だったらほんとにすごいのは人の形していないかもしれないし、英語しゃべんない仙人みたいのかもしれないし、そういう中で*Crimes*って、何に対するものなのさ? とか、なんかね、今回の物語の方角って見ている我々の想像力をわざわざ縛って、ほうらおっかないだろー、ってやってるだけのような気がしてならない。
20年代のロンドンやパリ、っていう設定、Johnny Deppのケレン味たっぷりの振る舞いとか (彼の海賊のをあんま好きになれないのも同じ理由かもね)。せっかくの楽しい化け物たちがさあー。

お話しはまだ続いていくみたいだけど、どうせ続くならこの闇の戦いが第二次大戦の引き鉄となった、くらいのでっかい法螺話にしてほしいもんだわ。

なんども書いているようにこの映画で見たいのは動く変てこ化け物なので、カモノハシみたいなのとか緑のナナフシみたいのが出てきてくれれば幸せで、今回だと中国のでっかい獅子みたいなあれかなあ。 あいつをあやすガラガラみたいやつ、忘年会に向けて売りだせばぜったい当たるよ。

11.21.2018

[talk] Tracey Ullman on Ullman

14日の水曜日の晩、BFIで見ました、というかTracey Ullmanのお喋りを楽しんだ。

BFI Southbankでは10月から12月まで、”Comedy Genius”ていう古今のコメディ映画(だけじゃなくてこういうトークとかも)大特集をやっていて、宣伝も含めて規模もでっかくて、すでにいくつか見始めているのだが、英国の笑いと米国の笑の違いとか、いろいろ考えさせられる。(考えていないで、笑え)

一概には言えないと思うけど、英国の人がげらげら笑う箇所って、ちょっと独特で、英国人は米国のコメディも英国のコメディも同様に楽しむのだが、英国人がおもしろいと思うギャグって米国人にはそんなでもないのではないか、ツボが違うというか、英国好きの米国人にしか喜ばれないとこがあったりするのではないか、自分のなかにはそんな仮説がある。

なので、英国のコメディエンヌTracey Ullmanがアメリカでブレークしたのはなんでだろう? – 90年代に見ていたHBOの”Tracy Takes On …”は本当におもしろかったけど -  ていうのはずっと謎で、このトークで彼女のキャリアを振り返ってその辺の謎が明らかになったらよいなー、程度で。

BBCのアナウンサーと対話をしながら、時代時代の彼女のクリップを振り返り、その頃の思い出話をしていく。 だけど基本は彼女の独演会になってしまい、なにをどう喋ってもおかしくてしょうがない。

舞台で即興のギャグをやっていた頃にTVから声がかかって、それを見て見初めたアメリカ人のAllan McKeownと結婚して彼に請われて米国に渡り、子育てをしながらNYのMuseum of Television and Radioとかに通ってアメリカの笑いを勉強したりして、Foxのコメディショーに出たらそれが当たって、そこからは映画も含めてみんなが知っている世界のTraceyに。

わたしが彼女を知ったのは83年、当然の、必殺の名盤 “You Broke My Heart in 17 Places”から、Stiffレーベルのシンガーとしてで(だから昔は音楽をやめてコメディの方に行っちゃった人だと思っていた)、話が音楽のことになって、なぜ突然に音楽を? と振られた彼女はひと言 - ”Kirsty MacColl!” - 続けて、彼女の”They Don’t Know”を歌いたかったのよ!(客席から拍手いっぱい。じーん)。それに当時のStiffといったらElvis Costello, Nick Lowe, the Damned, Devo, Wreckless Eric(Wreckless Ericの名前まででる)なんかがいて、こんな人達と一緒のレーベルになるなんてめちゃくちゃクールだと思った、って。

音楽クリップは"They Don't Know"のPVとBBCのTop of the Popsに出て"Breakaway"を歌ったときのが流れて、BBCに出たときに、両脇で踊ってくれたのは高校のときのクラスメートで、よくロッカーのとこでブラシを手にして一緒に歌ってたからそれをそのままやったんだ、って … 最高だよね。

米国で子育てもあって暇してた時は、よくBrooklynの中古車ディーラーのとこに電話かけて彼らがどんなふうに喋るのかを聞いてマネできるようにしたりしてた、とか、Museumのアーカイブを見て昔のコメディを勉強したり、SNLのGilda Radnerを見てあたしもあんなふうにやりたいんだ、って思った、って(じーん)。

米国でのクリップもいくつか紹介されたが、空港のセキュリティのとこに立ってるラティーノのおばちゃんのマネ、とか最高。
(彼女って世界最強の権力者よね、どんなセレブが来たって思いのまま身ぐるみはがすことができるのよ)。

映画のところはMeryl Streepと共演した”Plenty” (1985)とかWoody Allenとの諸作のはなしが勿論でたのだが、後のQ&Aで客席から”A Dirty Shame” (2004)って重要だと思うんですがどうなんでしょう? って(拍手おこる)。
あの映画、最初の30分はすごいと思うのよね、ていうのと、John Watersは偉大だと思うわ、って(どちらも同感)。

英国に戻って2015年にBBC(BBCだってさ、はぁ?ってかんじよ)に出るようになってからは政治ネタもやるようになって(歳とったら政治の世界がおもしろくてたまんなくなってさー。うんうん)、Maggie SmithとかJeremy Corbynのネタは彼女がなんかいるだけでおもしろい世界になってしまうし、全体の締めはもちろん、Theresa Mayのマネをやったクリップで。

コンサートで好きな曲をやってくれてうわーってなるのと同じかんじで、彼女の口からコメディアンや映画の名前が出るたびに、いちいちじーんとしてばっかりだった。そして彼女はみんなを笑わせてお腹をよじらせるプロで、自分もそうやってずっと笑わされてきた - そのことの幸運をあらためて噛みしめて、コメディっておもしろいよねえ、としみじみ。

11.20.2018

[art] Picasso: Bleu et rose

いろいろばたばたしていたのでその辺の備忘も含めて。

5日から7日まで仕事でドバイで、ドバイは昨年に続いて2回めだったのだが、やっぱし酸欠の金魚状態になった。 気候(だいたい30℃)のせいだけじゃなくて、都市が聳え立ってきらきらしているかんじがあわなくて、これはシンガポールでもそうなって、ドバイやシンガポールを訪れるとめらめら燃えてくる、っていうビジネスに恋した人々も間違いなくいるのだろうし、そういう人を非難するつもりもぜんぜんないのだが、自分はそうじゃないんだわ無理だわ、て思った。いまの東京も都市としては間違いなくそっちの方に向かっているのよね。あーあ。

で、7日の午前3:30にドバイからミュンヘンに飛んで、ミュンヘンに直行する飛行機はエミレーツだけだったのでそれにしたのだが、あのターミナルもラウンジも、ばかみたいにでっかくてすごくて、あそこまで行くとサービスがどうこう、ていう世界じゃなくて、とりあえずなんでも用意しておくから勝手に使えって。 これでじゅうぶんじゃないのか、この世界に「おもてなし」なんかで向かっていっても疲れてしぬだけじゃんそんなのやめちゃえば、とか思った。

で、8日の朝6時過ぎにミュンヘン着いて、薄暗いなか車で街中に入っていったのだが、もう車の窓から通り過ぎる建物を見ているだけでなんか、体中が解れて溶けていくみたいだった。 お湯がでなくても冷蔵庫がしんでも洗濯機が詰まってもしょっちゅうブレーカーが飛んでも地下鉄が止まってもバスがいいかげんでも、基本のインフラがどれだけしょぼくてその中で小突きまわされてぐったりになっても、こっちのが、こんなんでいいんだわ、って思った。

8日の晩のお仕事食事の前に少しだけ時間があいたのでDallmayrの本店とか行って、ああお菓子もお惣菜もハムもソーセージもこんなにすごくて呼んでいるのに、池みたいなとこには青いザリガニ(?あれなに?)までいる、のになんで手も足もだせないのか、とか呻きながら気づいたらお菓子とかハムとか手にしていた。自分でもなにやってるのかわからないかんじ - レコードとか古本漁っているとたまにやってくるあの忘我の感覚がー。

15の晩から16の夕方までは仕事でパリに行った。15の晩、木曜日のMusée d'Orsayは21:45までやっているので、とりあえず行くしかない。美術館に駆け込んだのは20:40くらいだった。

Picasso: Bleu et rose

昨年から今年にかけて何気にピカソが続いていて、パリのピカソ美術館で” Picasso 1932. Année érotique”をみて、それが英国にきたTate Modernでの“Picasso 1932 – Love, Fame, Tragedy”を何度か見て、昨年はマドリッドで「ゲルニカ」も見た。”Picasso 1932”は、パリとロンドンでタイトルが少しだけ違うように違っていて、ロンドンのがやや厚めの構成で丁寧だったかもしれない。”Pablo vestido de arlequin” (1924) とかも展示されていたし。

この展示は「青の時代(1901-1904)」とそれに続く「バラの時代(1904-1907)」に的を絞った内容で、この時期のピカソというと97年(20年前かあ..)にWashington DCのNational Galleryで行われた企画展 - “Picasso: The Early Years, 1892-1906” - が圧巻で、ピカソはどうやってピカソになっていったのか、がものすごい物量と共にわかりやすく示されていた。ピカソってこの時代を通過してしまえば、あとはどの年(1932年とか)でスライスしようが、どのテーマ(エロとか牛とか戦争とか)で切り出そうが十分な幅と厚みがあって、それは牛のいろんな部位みたいにどこをどう味わってもピカソでお腹いっぱいになるからそれはそれでよいのだが、なんといってもおもしろいのはこの初期の、悩んだり(青)萌えたり(バラ)して不安定に揺れながら線が撚りあわされていく、色とその肌理が定まっていくその過程にあるのだが、その過程を追えるようにするにはWashington DCの時のような圧倒的な量がないとだめで、その点はだいじょうぶだったかも。世界中から個人蔵のも含めて相当数来ていたし(広島とかからも)、必見のもほぼ網羅されていたとおもう。のでどっちにしても必見。 ピカソに少しでも興味があるひとは行ったほうがいい。 自分もたぶんもう一回、できれば行きたい。

Renoir père et fils:  Peinture et cinéma

ピカソと同じかそれ以上に見たかったやつ。(シュナーベルのはどうでもよいかんじ)
PhiladelphiaのBarnes Foundationで9月まで行われていた展示が総本山でも。

2008年にBunkamuraで行われた「ルノワール+ルノワール展」、それの元になった2005年の”Renoir / Renoir”との異同は不明なのだが(「ルノワール+ルノワール展」の時、ふん、とか言って行かなかったのね..)、こっちはルノワール一族というより、父と息子、絵と映画の関係に的を絞っていて、それをやるには後から来たジャン(ルノワール)の映画作品から入っていくのが適切だよね、と各セクションは暗くしてあってジャンの時代ごとの代表作が投影されていて、それに関連したテーマのパパ・ルノワールの絵が展示されている、というもので、パパ視点からすればナメられたもんじゃの、になるのかもしれないが、息子からすればいやいやこれは最大級のRespectなのですよパパ、ということになると思う。

冒頭から”Partie de campagne” (1936) - “A Day in the Country” - 『ピクニック』で、これだけでぜんぶ入っていて十分じゃないの、とか思うのだが、そこから”Madame Bovary” (1934)とか、”French Cancan” (1955)とか、最後はお約束のように”The River” (1951)で おわる。

転換期にあったアートのありようを親子二代でいちばん解りやすく、その表現形態も含めて示すことができる稀有なケースで、いやそういうことよりも、このふたりのっておいしい料理とおなじでうっとりして、それだけで幸せになる、とってもお得なやつ。あとはそのまま映画館に向かえばいっちょうあがり。

Alphonse Mucha

16日の金曜日、この日は夕方にはロンドンに戻る必要があってぜんぜん時間なかったのだがMusee du Luxembourgに駆けこんで見た。 今年はチェコ建国100周年の関連なのかPragueでもここでもMuchaの企画展があって、これまであんま見てこなかった(ほれなんか子供向け、ってかんじだし、国民的なんとか、って嫌だし)のだが、見てみようかな、くらい。

どこかで見たことがある気がするポスターとかがいっぱいあって、この見たことがあるかんじ、とか統合されてかっこよく見えるかんじ、がくせものなんだろうな、とかやっぱし神さまとかやりだすといろいろ似てきちゃうんだろうな、とか。途中で投げちゃったみたいに燻んだり滲んだりしたぼんやりした作品のほうが素敵に見えた。  7月にポーランドのMuzeum Narodowe w Krakowieで見たWyspiański展もおもしろかったのだが、あれにも近いと思ったし、こういうの、日本だとアニメの世界になっちゃうんだろうなー。でも今の日本のアニメって、明らかに大政翼賛のあれだよね。

そこから食材屋のLa Grande Epicerie de Parisに走って、ヨーグルトとかパンとかブドウとか目についたのをざーっとカゴに入れて買ってホテルに戻りメトロで北駅に向かってなんとかユーロスターに間に合った。

11.19.2018

[music] MC50

12日の月曜日の晩、Shepherd's Bush Empireで見ました。

結成して40年のバンドを見た翌日に結成50年を機に再編されたバンドのライブ。
月曜日だったし、いろいろあってぐったりだったのでスタンディングのフロアではなく2階の椅子席(指定なし)にした。2階はもう老人の寄り合いみたいに年寄りだらけでよれよれ挨拶しながら(それでも)ビール飲んでて、UKってライブに結構お年寄り(←きみもな)が来るし、それはとってもよいことだと思うのだが、この日は特に多かったかも。どんなに盛りあがってもだれひとり椅子から立たないし、立てないし。

これよりずっと前、2004年にWayne KramerさんはDKT/MC5ていうプロジェクトでMC5の曲をやるライブをやっていて、Boweryで見たことがあった。そのとき”Kick Out the Jams”を歌っていたのはEvan Dandoで、他のヴォーカルにはMark Armさんもいて、コンソールの前ではJim Jarmusch氏が満面の笑顔で首を振っていて、その姿が目に焼き付いている。

よい席で見たかったので早目に行ったら、前座に出てきたのはMichael Monroeで、まだやっていたのね、だったが、音は大変元気なバケツ転がしどかすかロックで、本人も走って飛んで煽って客と歌って、元気でよかったね、としか言いようがない。しぬまでやっててほしい。

MC50は、少しは貫禄ある重厚なふうに出てくるかと思ったらWayne Kramerがひょこひょこ跳ねながら昔のドリフみたいなかんじで現れて、元気なのはわかったけどもうちょっとさあ、だった。
で、最初の”Ramblin' Rose”は彼がそのまま気持ちよさそうに歌って、2曲目はもう”Kick Out the Jams”で、ステージの端に突っ立っていたアンドレ・ザ・ジャイアントみたいなアフロ野郎がマイクを握って痙攣しながらぶちかましてくる。アクションだけだと体がでっかすぎてコントロールがきかなくて一層やばくなったJames Brown、みたいなかんじ。

バックの音は申し分ないの。Kim ThayilもBrendan CantyもBilly Gouldも元のバンドでは人力のグルーヴを作り出す天才たちで、MC5というのはWayne Kramerさんが終わりのほうで述べていたように、ホーンセクションをギターに置き換えたソウル・ミュージックをやるバンドだったのだから、MC5が10倍に濃縮されたMC50が高機能グルーヴィーミュージックマシーンになるのは必然だったし、それは一旦スイッチが入ったら止まらずに回り続けて気持ちいいったらない。特にKim ThayilとBrendan Cantyの編みだすぐるぐるときたら初期のThe Whoみたいで、気持ちよすぎて卒倒もん。 立ちあがれない老人たちも嬉しそうに首を振っていた。

特に終盤の”Tonight” – “Shakin' Street” – “Future/Now” からラストの”Call Me Animal”までの音の拡がりと豊かさときたらR&BもガレージもR&Rのリフも軽くすっとんで、MC5ってこんなすごい曲あったんだっけ?と思ってしまうくらいにすばらしいのだった。

アメリカから来てこんなこと言うのもさー、と言いつつもやはり今の政治状況に対する危機意識と今こそ立ちあがるべし! はここでも毅然と表明されて、客もわあわあーで、これを言うためにWayne Kramerさんは50年前の亡霊(かつてのメンバーの名前もきちんと紹介される。Respect! って)と共にここに現れたのだな、と思った。

アンコールではMichael Monroeがサックスで入った。本人はとっても歌いたかったようでサックスのマイクになんとか口をもっていこうとするのだが、飼い主(Wayne Kramer)に犬みたいに止められていておかしかった。

このメンツでMC5をカバーするレコード作ってくれないかしら。ライブだけで終わるのはあまりにもったいないわ。

11.18.2018

[music] Alison Statton, Stuart Moxham and Spike

11日、日曜日の晩、Café Otoで見ました。

Young Marble Giants (YMG)としてはもう活動しないようなのだが、このメンツであれば、と。
70年代の終わりから80年代の初め、今はpost-punkとしてカテゴライズされる彼らの音ってなんだったのだろう、といまだに考えてしまうことがあって、簡単にいうとそういうことをいまだに考えさせてしまうくらいに後継のない、ぽつんとそこに出てきた音であり声だったのだなあ、と。 変なところに置かれってそのままにされた大理石のようなやつ。

7時半にドアが開いて、開演は8時半で、右手からStuart, Alison, Spike、Stuartはちゃんとした身なりのスーツ姿で、ぜんぜん関係ないけどSlapp Happyの時のPeter Blegvadさんとおなじような佇まいと雰囲気。 お客さんの前で演奏して、何かを広めてるのだからね、って。

で、彼が新しいのだってやるもん、と新曲の弾き語りから始めて、ぜんぶ新曲だったらどうしよう… と思ったけど続けて”Salad Days”をやったので少しほっとして、そこから先の流れはリラックスして次なにやろうか、と3人で目配せしたり相談して、Alisonは歌詞を探して譜面台に乗せて、せーの、で始まって、時折間違ったりして、2分くらいでしゃん、と小石に躓くようにしてぷつりと終わる。

2台のアコギの絡みは悲しいほどぺらぺらで爪と弦がぶつかる音まで容赦なくぎこちなくて、そこに乗っかるでも被さるでもなく、爪と弦と等間隔で波を寄せてくるAlisonの歌と声。 融和しない、でも分解もできない、石ころ(大理石)のように冷たくそこにあるだけのすかすかした音と言葉と。

愛想 - 不愛想とか暖かい - 冷たいとか、そういう形容から離れて弦が爪弾かれて物理的に震えるのとおなじように声もそこにある。 "Final Day"が終わったところでStuwartが今時点で米国政府が保有している核兵器の数は..  とニュースキャスターのように喋り始める、そんなようなトーンで奏でられていく静かで喧しい音楽。

欲を言えばもうちょっとだけWeekendの曲があればなー、だったけど、The Gistの曲を結構やっていたのが嬉しかった。”Love at First Sight”なんて何十年ぶりに聴いたけど、いい曲だよね。(Stuartも自分が書いた中で一番いい曲かも、って)

1回のアンコール含めて1時間半くらい。お喋りが半分くらいだった気もしたが、すばらしく充実していた。彼らのキャリアをおさらいする、というだけでなく、それを通して我々のここ30 〜 40年の”La Varieté”を考えさせてくれる、そんな隙間と余裕がいっぱいあって。

Stuartが、初めてロンドンでライブをやった時のことを話して、その時一緒に出たのがThe Raincoatsで、フェミニストみたいな人達がいっぱい来ていて怖かったことを思いだす、と。その時に端の方がざわざわしていたのでRaincoatsの関係のひとがいたのかしら。

お土産にStuartの詩が載っている小冊子 - 挿画はWendy Smithさん、ものすごくちっちゃくStuartのサインがある – を買った。(£10)

直接関係ないけど、今年も音楽関係のドキュメンタリー映画祭 - Doc'n Roll Film Festivalがあって、ばたばたしているうちに気づいたら終わりそうで、その頃になってメニューを見てみれば”The Wedding Present: Something Left Behind”はあるわ、RaincoatsのGina Birchさん監督による“Stories from She Punks”はあるわ、ばかばかばか、って頭を抱えたのだが、10日の夕方にBarbicanで1本だけ見たやつ。

Anne Clark: I’ll Walk Out Into Tomorrow (2018)

Anne Clarkさんは80年代初にVini Reillyと、更にはJohn Foxxとの共演盤を出していた人で、いつの間にか消えちゃったなあと思っていたのだが、実情はVirginから全米進出をする手前でマネージャーとかにお金とかぜんぶ持ち逃げされて、沈黙せざるを得なかったのだと。

でも彼女は北欧に渡ってずっと音楽(ややエレクトロ寄り)を作り続けていて元気です、という近況も含めた報告ドキュメンタリーだった。 上映後にはAnne Clarkさんも登場してQ&Aもあった。80年代初期のあたりのことをもう少し知りたかったんだけどな。

11.17.2018

[film] Widows (2018)

10日、どしゃぶりの土曜日の晩、CurzonのAldgateで見ました。

現代のシカゴで、Harry Rawlins (Liam Neeson)と3人の仲間が強盗をしたら車で逃げる手前から銃撃戦になり、ようやく逃げこんだ倉庫でなぜか待ち伏せしていたSWATに車ごと吹っ飛ばされて、Harryの妻のVeronica (Viola Davis)は嘆き悲しむのだが、そんな暇もなくやくざっぽいJamal Manning (Brian Tyree Henry)からHarryがうちから盗っていった$2milを返さないとただじゃ… て脅されて、途方に暮れているとHarryが遺したノートに次の強盗計画の詳細が書かれているのを見つける。これをうまくやらかせば$5mil - 借りを返してもおつりがくる。 Veronicaはこの襲撃で亡くなったHarryの仲間の未亡人たち - Linda (Michelle Rodriguez) とAlice (Elizabeth Debicki) – どっちもそれなりに絶望して自棄になっている – に声を掛けて、やるかやらないかを決めさせて、やると言ってきたふたりと共にこまこま準備と下調べと訓練にとりかかる。 のだが、当然その行動はやくざ側(Daniel Kaluuyaがとってもこわい)にはぜんぶマークされていて運転手とか知り合いは消されていくし、その金ときたら地元の有力政治家(Robert Duvall)の2世(Colin Farrell)の選挙戦絡みのやつらしく、きれいごと汚れごと混じってきな臭いことこの上ないし、でもどうせ先はないんだからやるよ、って。

夫たちを殺された妻たちが玉突きのように同様の犯罪に走っていく、そういうシンプルな流れのやつかと思っていると、白テリアのOlivia(かわいいー)の思わぬ発見から物語はどす黒いとぐろを巻き始めて、でも後戻りはできなくて、いよいよ決行の時がやってくる。

夫への仇討ちとか復讐、というよりは夫の死によって今後の生活が(希望みたいなとこも含めて)どうにもならなくなった未亡人たちが突破口として選んだ次の手、その世界に戸惑ったりどきどきしたりしつつ、退路も断たれてハラを据えて突っこんでいく、顔面のアップが多用される緊張感が延々続き、Veronicaの過去やそれぞれの家族の事情も語られたりするので裏街道犯罪スリラーとして130分はちょっと長いかもしれないが、3人 + 運転手として加わったBelle (Cynthia Erivo)も含めて女性それぞれの真剣な顔を追っかけるドラマとして見ごたえじゅうぶんで、特にラストなんてほんとに。

なので拳を握って、やったれ! みたいな興奮も決行後の爽快感もあんまない、けどこのお話しであればこれはこれでよいの。
(邦題はぜんぜん違うし、日本語のWikiにあるあらすじもでたらめ。 なんで日本て極妻みたいな方に落としたがるのか? なんかの病気じゃねーのか?)

元はイギリスのTVシリーズだったのをシカゴに持っていった、元のドラマは見ていないのだが、シカゴ郊外の治安があまりよくない地域、人種と格差の問題が顕在化していて、政治や宗教がそこに程よく介在することを求められている、顔の知れた連中はほぼ裏や傷のある悪人 - そういう地盤に展開される女性たちのドラマとしてとっても適切かつありそうで、なぜ彼女たちは? が状況の説明と共にくっきりと浮かびあがる、そういうところも含めて極めて政治的なドラマだよね、とも思った。

俳優さんたちに知った顔がいっぱい出てきてオールスターキャストみたいに紹介されているのだが、ひと昔前だったらいそうなDe NiroもPacinoもいない(かろうじてRobert Duvall)。あたり前だけどオールスターっていうのも世代が変わっていくんだねえ。

Viola Davisさんはいつものように”ど”が付くすごさなのだが、Alice役のElizabeth Debickiさんがすばらしい。 ポーランド系移民の娘がだんだん強くなっていくの。 彼女だけでスピンオフできるな。

もし続編が作られるのだとしたらViola DavisとMichelle RodriguezがColin Farrellをぼこぼこにするやつを期待したい。
(こんどは爽快なやつで)

11.14.2018

[film] Wildlife (2018)

11日の日曜日の午後、CurzonのBloomsburyで見ました。上映後にCarey MulliganさんとのQ&Aつき。

原作はRichard Fordの同名小説(1990)- 未読。これをPaul DanoとZoe Kazanが一緒に脚本にしてPaul Danoが監督したもの。映画製作は初めてとなる文芸オタクの二人が膝付きあわせて、どんな議論を重ねて練りあげていったのか目に浮かぶようだが、出来あがったものは微笑ましい、なんてところをはるかに越えたすばらしいものだった。

60年代、モンタナの一軒家にJeanette (Carey Mulligan)、Jerry (Jake Gyllenhaal)、彼らの息子で16歳になるJoe (Ed Oxenbould)が仲良く暮らしていたのだが、ある日突然Jerryが勤務先のカントリークラブをクビになって、後日それは勤務先の方のミスだったと言ってくるのだがプライドを傷つけられたJerryに戻るつもりはなく、失業状態となった彼は家や車のなかでぼーっとしていることが多くなる。 Jeanetteとの関係も危ういかんじになってきたところで、Jerryは頻発している山火事の消防隊の支援に手を挙げて、ひとり山奥の方に消えてしまう。

Jeanetteはパニックを起こしつつも仕事を探さなきゃと、どうにか地元のスイミングスクールのトレイナーの職を得て、親子の生活を立て直していくのだが、スイミングスクールに来た生徒として知り合った年寄りでそこそこ金もあるWarren Miller (Bill Camp) に吸い寄せられるように近づいて親しくなっていく。

というような、ついこの間までみんな幸せだったのに突然なんで? と目の前に迫ってくる山火事を見ているかのような光景(実際に彼が間近にそれを見るシーンがある)が多感なJoeの目を直撃し、ママのところにやってくるやらしそうなMillerやMillarとの密会に向かうママ、彼女の外観や挙動が荒んでいくのを信じられない思いで見つめ、彼は学校よりも町の写真館でのバイトに精を出すようになったころに、Jerryが山から戻ってくる。

少しやつれたJerryの目、突然消えた夫に対するJeanetteの憎悪の目、元に戻すことができない山火事になることは目に見えているのに、Joeの目はふたりをはらはら見つめるしかなくて、でもここから先の展開とラストの切り取りかたがとてもよいの。 あのラストはねえ、思いだしただけで身もだえするくらい素敵で、ここだけのために何回でも見たい。

激しいシーンはあまりなくて静かでスローで、モンタナの山を眺めつつ遠くに汽笛が聞こえたりバス停に散りはじめる雪の見事なこと、色彩や構図はEdward Hopperの絵画で、アメリカの60年代の田舎だからこそ描けたような情景、あるいは“Little Miss Sunshine” (2006)で言葉を失ってしまった男の子を演じたPaul Danoだからこそ描けた家族のドラマ、この映画については繊細すぎるくらい繊細に考え抜かれたディテールがすばらしく、だから全体を通して一回だけ口にされる”Wildlife”という言葉も活きてくるのだと思った。

ぜんぜん関係ないけど、山火事が出てくるせいか成瀬の『山の音』を思いだしたりした。成瀬のメロドラマにある、こまこまどこかしら狂っていて戻ってこれなくなる怖さと切なさ、あるかも。

上映後のCarey MulliganさんとのQ&Aは、ひとりの女優としてJeanetteのような女性をどう演じ、彼女の挙動についてどう思ったか、というところに集中して、それに対する彼女の答えもとても納得いくものだった。突然愛する夫が失業して家を出て行ってしまったとき、混沌と共にショック状態がくるのは当然で、そこでまずしなきゃいけないのは子供を守ってその食い扶持を確保することなので、彼女が取った行動に特別おかしなところはなくて(実際に母親になって – もうじき次のも、って - わかったところもある)、少なくともそういう状態をもたらした男の側がそっちの論理であれこれ判定したりするのはおかしいと思う、というようなことを実際にはこれよりずっと長く喋っていて、彼女も相当考えながら役作りをしていったことは明らかで、そういえば彼女のこれまでの作品も理知的な眼差しと獰猛な眼差し、その隙間に現れる羞恥の間を微細に揺れ動いていくスリルに満ちた、そういうものだったねえ、と思った。

Paul Danoはこのまま映画監督になっちゃうのかしら?  俳優としての彼が演じてきた変てこなキャラが好きだったので、そっちも続けてほしいのだけど。

邦題、こんどふざけたらただじゃ..

11.13.2018

[film] The Nutcracker and the Four Realms (2018)

2日の金曜日の晩、CurzonのVictoriaで見ました。いろいろあってへとへとだったのでなんも考えずに見れるのがよくて、Disneyだけど監督はなぜかLasse Hallström(とJoe Johnston)だし、どんなもんかしら? くらい。 日本でももうじきやるよね。

原作はバレエのくるみ割り人形、というよりE. T. A. Hoffmannのくるみ割りの方、というので楽しみにしていったのだが、はて、あーんな筋だったかしらん?

ヴィクトリア朝時代のロンドン、母を亡くしてしょんぼりしているStahlbaum家の姉弟のところにもクリスマスは来て、Clara (Mackenzie Foy) への贈り物は鍵のかかったタマゴみたいので、でも鍵はついてないので、ちっ、てなって、今度はDrosselmeyer (Morgan Freeman)氏のパーティに行ってそのタマゴを見せるとふふーんとか言われて、今度はそこの家のプレゼントを貰うときに、張り巡らされた糸を手繰っていくとなぜか雪山のなかに出てしまい、いい加減にしろよ、てなったら鍵があったので手を伸ばしたらネズミがそれを咥えていっちゃって追いかけていくとCaptain Philip Hoffman (Jayden Fowora-Knight)と会って、彼を案内役にして進んでいくとでっかいネズミのおばけとか張りぼてのロボットみたいのが現れ、妖精のSugar Plum (Keira Knightley)のところまで行くと、ここはあなたのママが作った世界なのよ、とか言われて、でもママは死んじゃったんだよ、というとええーって悲しまれて、そうすると突然無政府状態になって鉛の兵隊が束になって襲ってきて、Mother Ginger (Helen Mirren) はおっかないし、Claraどうする? になるの。

かんじとしては節操なく場当たり的に進行して余りにご都合よく収束してしまう「不思議の国のアリス」とかジブリ系(てきとー)のなんかで、これがクリスマスじゃなかったらぜってえ許さねえからなてめー、くらいのかんじ。

本来であれば怪しげな魑魅魍魎が跋扈して戦争状態にある4つの王国(「指輪物語」?)を理系の知恵と技術をもったClaraがなんとか丸く治めて、ママあたしがんばったのえらい? になるはずだった、のかなあ。

そもそも4つの王国がなんなのかよくわかんなかったし、それになんでママは家族に内緒であんな世界をこしらえて、そこでなにをしようとしていたのかよくわかんないし、Drosselmeyer氏はなんで解ったふりしてニタニタしているのか不気味だし、なんでまた思わせぶりにフクロウを飛ばすの、とかいっぱい出てきて、そうかこの混沌こそがヴィクトリア朝時代のロンドンなのね、でいいの? ドイツロマン派の夢を土足で踏みにじるヴィクトリア朝の野蛮、ていうこと?

Keira Knightleyは楽しそうに狂いまくってはしゃぎまくっていてよいけど、もうちょっとSugar Plumなかんじになっててもよかったし、Helen Mirrenは生姜婆あ、みたいにもっと脳につんとくるかんじがあってもよかったかも。

主役のMackenzie Foyってどっかで見た気が、と思ったら、あの(”The Twilight Saga: Breaking Dawn – Part 2”(2014)の)Renesmeeか! パパがRobert Pattinsonで、ママがKristen Stewartなら最強(の吸血鬼)に決まってるよね。
そうか、だからヴィクトリア朝なのか(←ひとりで納得してる)。

あと、ABTのMisty Copelandさんがくるくる踊ってくれるシーンもあるので、バレエの「くるみ割り」を見た気分にちょっとだけ浸れてお得、ていうのもあるよ。

11.12.2018

[film] Play It As It Lays (1972)

Barbicanで3日の土曜日、丸一日開催されたNew Suns: A Feminist Literary Festival、ていうイベントで見ました。

“New Suns”っていうのはOctavia Butlerの”There is nothing new under the sun, but there are new suns”から来ていて、この日Barbicanの施設内では映画上映、講演、ワークショップ、ブックフェア、等々が開かれていた。映画はこれの他に、アーシュラ・K・ル=グウィンのドキュメンタリー - ”Worlds of Ursula K Le Guin” (2018)もあったのだが、これは売り切れてて、見れたのはこの1本だけ。

原作はJoan Didionの同名小説(未読)、脚本はJoan Didionと夫のJohn Gregory Dunne、監督は(JoanはSam Peckinpahに監督してほしかったようだが)Frank Perry、プロデュースは監督と義兄のDominick Dunne – この製作陣は前の年に作られた”The Panic in Needle Park” (1971)とほぼ同じ。 日本での公開はされていない模様。 あったり前の35mm上映。

LAに暮らすMaria (Tuesday Weld)が、どこかの療養所と思われる施設のきれいな庭園の通路を往ったり来たりしながらぶつぶつと過去を回想していく内容で、ネヴァダからモデルとして出て、女優になってお色気アクションみたいなTVシリーズをやっていたものの、プロデューサーのCarter Lang (Adam Roarke)との間は結婚生活も含めて破綻していて、娘のKateも障害を抱えて施設に入っていて、いろいろ面倒みて話しを聞いてくれる友人のB.Z. (Anthony Perkins)はゲイで、彼女がまっ黄色のシボレーで道路をブッ飛ばしても何しても結局捕まったりでろくなことがなくて、とにかく全体として不幸でどうしようもなくて、だから施設にいるのだと思うのだが、で、だからどうしろと?  って、彼女はこちらに問いかけてくる。

まず思い浮かべたのはJohn Cassavetesの”A Woman Under the Influence” (1974)  -『こわれゆく女』- で、あれもそうだったけど、彼女たちからすれば混沌としたメンズの荒野を極めてロジカルに、誰にも頼らず頼まず前に行こうとしているだけの話しで、Cassavetesよりは散文的で緩いものの、力強いことは確かで、かっこいいの。 ただ、”A Woman Under the Influence”にあんな邦題を付けてしまうようなメンタリティも含めて、これを受け取る男共のしょうもない反応(and 無反応)のどん詰まりはじゅうぶんに予測できて、最後にB.Z.が服毒自殺してしまうのもそういうのがあったからではないだろうか、とか。

そしてもういっこ思い浮かべたのは、見たばかりだったこれ。

The Other Side of the Wind (2018)

3日、土曜日の昼にCurzonのBloomsburyで見ました。こちらではNetflixだけでなく1週間くらい劇場でも上映されていた。

Orson Welles については9月の頭に同じ場所でドキュメンタリー”The Eyes of Orson Welles” (2018)を見ていて、それはWellesの三女がNYのチェルシーのどこかの倉庫に眠っていた彼の遺品が入った箱を開けてみて、そこから出てきたメモやドローイングを元にWellesが映画を通してやろうとしていたことをShakespeareやKafkaへの言及も含めて追っていく、というもので、どちらかというとドキュメンタリーを作成した監督のWellesへの思いに溢れかえったやつだったのだが、なんにせよ、まだWellesは生きているのだ、のかんじはとってもした。
(チェルシーにWellesの資料が保存されている件については、昔どこかで聞いたことがあって、それがどこだったか思い出せない)

“The Other Side of the Wind” - 70歳を迎える著名な映画監督Jake Hannaford (John Huston)の未完の、ところどころ欠落して(いつまで経っても終わらない)作品を巡って周辺のいろんな関係者が、よりによって監督のお誕生日に合わせてわーわー言うのと、その映画にも登場するミューズ - Oja Kodar – が映画の中からなのか外からなのかいろんな妖気を送ってくるのと。

こまこま筋やロジックを追うのがばかばかしくなるくらい多彩なイメージが次から次にやってきて時系列を無視した支離滅裂な追っかけっこを繰り広げる。 これらがほんとにWellesの晩年の頭のなかにあったのだとしたら、先の”The Eyes of Orson Welles”で出てきた映画の魂を求めて彷徨う求道的なのとはよい意味で違う、映画についての映画なのでおもしろいのと、どっちにしてもすごいのはWellesのことなんて殆ど知らない、今回の復元の意味やありがたみをちっともわからない連中にもなんだこれ.. って見入らせてしまうとらえどころのなさ、だと思った。

印象としては70年代のAltmanの群像劇の、どこまでも即物的に行こうとするところをふわふわ骨折脱臼させてわけわかんなくしたような、そんなかんじで、あそこで無言のミステリアスな位置に置かれていたOja Kodarに言葉と行動を与えてリアルワールドに解き放ったのが”Play It As It Lays”のMariaなのかも。

どうしてあれもこれも70年代のアメリカだったのか。”The Last Movie” (1971)で映画が終わった辺りから始まっている気がするあれこれ、風の向こう側にあるのはなにで、こちら側にあるのはなんなのか、それらをそう置いているのはなんなのか、等については引き続き考えていきたい。

New Sunsの会場ではフェミニズム関連のブックフェアもやっていて、PenguinからLondon Review of Booksからぜんぜん知らないマイナーなZineみたいのまで10店くらい出店していた。
古本を売ってたコーナーでMuriel SparkとDerek Stanfordの選/編によるMary Shellyの書簡集 - “My Best Mary”を買った。いつになったら読めるのやら。

11.11.2018

[film] L'Hirondelle et la Mésange (1920)

LFFのずっと前、9月30日の日曜日の午後、Barbican Cinemaで見ました。

ここでは9月から11月にかけてSilent Film & Live Musicていう小特集をやっていて、それの最初の1本(ぜんぶで3回)。
日本でも昨年アンスティチュとかで『ツバメ号とシジュウカラ号』として公開されて、いいなー見たいなーと思っていたやつなので、見れてよかった。

英国でタイトルがフランス語原題のままなのは、”la Mésange”に該当する鳥が英国にはいないので適切な訳語が出てこなくて、ということらしく、主催のひとが「だれかしってるひと? ”Titmouse”でいいの?」とか会場で聞いていた。

音楽はライブ伴奏で、ピアノとハープのふたり、ちょっと切ないメランコリックな旋律で、ピアノはアコーディオンとかフルートも兼務するし、ハープは爪弾くだけじゃなく縁を叩いたり引っ掻いたりふたりだけとは思えない多彩なアンサンブルを聴かせてくれてすばらしい。音だけでご飯おかわりできる。

20年の頃、ツバメ号とシジュウカラ号 - アントワープからフランスに向かっていく束ねられた2隻の船があって、ベテラン船頭のピエールが動かして妻のグリエとその妹のマルテがそれを助けて順調に運行仕事をしているふうで、積み荷の様子とかを横でみていた若者ミッシェルが雇ってほしいと言ってきて、試してみるとミッシェルは仕事もしっかりやるし、だんだん家族の信頼を得てマルテとも仲良くなっていくのだが、ミッシェルの狙いは闇で運んでいる積み荷のほうにあって、やがて..

タイトルからふたつの船が仲良く並んで川面を滑っていくのをみんなで助け合ったりの爽やかなやつかと思っていたのだが、結構ダークなのがギラリとするのではらはらしていると、展開はその想像のうえをいくやばい方に行ってしまい、でもそんなのお構いなしに川は流れて船は滑っていくねえ、という全体に漂う無常感が、一次大戦でところどころ破壊された川辺の町の風景にも合って、何とも言えない詩情を引き起こすところがすごい。どいつもこいつも必死だったんだなあ、って。
とにかく川辺の風景がゆっくり後ろに流れていくだけでたまんないの。


St. Wenceslas (1929)

BarbicanのSilent Film & Live Music特集の10月の。28日、日曜日の昼間に見ました。

この日は丁度今のチェコが建国されて100年の記念日で、この日からロンドンで始まるCzech100: Made in Prague Festivalの第一弾で、この作品はチェコの映画史にとっても記念碑的な一本なのだと。
演奏はCappella Marianaていうプラハで古音楽を演奏するグループで、太鼓&笛、ハープ、男性ヴォーカルの6人編成で、男子のコーラスが入るサイレントって珍しいかも、と。

チェコ(というかボヘミア)の建国に貢献したSaint Wenceslaus I, Duke of Bohemia (907-935)のお話しで、当時ものすごいお金をかけて千人規模のエキストラをいれて作った歴史超大作、だそうなのだが、あんまそんなかんじはしなくて、ものすごい数の外敵が襲ってきてもオーラと人徳でへへーって捻じ伏せてしまうものの、それを妬んだ劣等感まみれのブサイクな兄に殺されてしまう、というシンプルな筋で、あんま超大作には見えないの。

それでも撮影は、後にMichael Caineの“The Ipcress File” (1965)や”Alfie” (1966) を撮ることになるOtto Hellerが参加していてなかなかエモでドラマチックで、宮廷ドラマとしては悪くなかったかも。
音楽は、生の声の重なりがあんなふうに映像に合うのかー、ておもしろかった。群像劇だと特に映えるねえ。

サイレントの世界って底なしにすごいかもやばいかも、になりつつあることを改めて。

11.10.2018

[film] Juliet, Naked (2018)

4日、日曜日の夕方、Leicester Squareのシネコンで見ました。公開直後のはずなのに、なんでこんな変なとこでぽつぽつとしかやってないんだよう。こんなにおもしろくて素敵なのにさ。

原作は(プロデュースも)Nick Hornby、プロデュースにはJudd Apatowもいて、音楽は(元Shudder To Thinkの)Nathan Larsonで、ここんとこの活動に外れなしのEthan Hawkeが主演しているRom-Comなんだから、悪いわきゃないの。必見なの。

英国のSandcliffていう海辺の田舎町の博物館で学芸員をしているAnnie (Rose Byrne)がいて、彼女には15年くらい一緒に暮らしているBFのDuncan (Chris O'Dowd)がいて、彼は90年代に一瞬有名になってツアーの途中に忽然と消えてしまった伝説のミュージシャン - Tucker Crowe (Ethan Hawke)のファンサイトを作ってそれをこつこつ幸せに運営してて、Annieはその様子があんま気に食わないしDuncanとの間に子供も欲しいけど彼は嫌みたいだし、少し距離を置き始めたところ。 ある日、家に届いたDuncan宛の包みを開いたら”Juliet, Naked”と書かれたCDが出てきて、どうやらTucker Croweの昔のデモ音源らしい。ぼーっと聴いていたらDuncanがやってきてなんだこれ? って彼は驚愕して狂喜して(泣いてんの)、サイトにもUpして得意になってて、Annieは腹立ててそこに自分のシニカルなコメントを書き込んでみたらTucker Crowe本人らしいアドレスからメールがきて、そんなことを正しく指摘してきたのは君が初めてだ、とかいう。半信半疑でメールのやりとりを始めたら互いに止まらなくなってだんだん惹かれていったあたりでDuncanが町女と浮気していることを知った彼女は彼を家から追い出す。

Tuckerの方はペンシルベニアかどこかでEx-妻のガレージに彼女との間の息子のJackson (Azhy Robertson) - かわいい - とごろごろ適当に暮らしていて、Ex-Ex妻との間の娘Lizzieが出産で相手の男の住むロンドンに行くとかいうので、ついでに行ってみるから会わない? てAnnieに連絡して会うことにするのだが、ロンドンに着いたところでTuckerは突然倒れて入院してしまう。病院からの彼の求めに応じて本を持って(Foylesの袋をさげてる)、病院に行くと、Tuckerはもうしんじゃうに違いないと思ったLizzieがEx-Ex-ExとかEx-Ex-Ex-Exの子供とか家族・コロニーまるごとをみんな呼んでいてものすごい状態で、こりゃ世界がちがう、無理だわ、とあきれたAnnieは一旦田舎に戻る。

やがて回復したTuckerはJacksonを連れてAnnieのところに現れるのだが、ほほうAnnieに新しい彼ができたか、と軽く寄っていったDuncanが見たのは、彼が20年間追い続けてきた伝説の…  だったと。ここから先、3人それぞれにとってぐるぐるの惑いと悶えに巻かれてまみれての修羅場がめちゃくちゃおもしろい(他人の不幸は..)、に決まってるの。

傷を抱えたまま突然音楽をやめてしまい、そのままぶくぶくゴミにまみれている元音楽家、田舎でそんな彼の消息を追いながらぶつぶつ燻っているひねくれ男、そんなろくでなしとの関係を引き摺ったままあーあ、って溜息ばかりの女、どいつもこいつもよい具合に枯れて腐れて救いようがなくて、だからこそ惹かれあうのかなんなのか。そして子供たちだけはいつも元気いっぱいで輝いていてよかったね(というNick Hornbyの世界)。

“Before …”シリーズでも見ることができたある瞬間に突然スイッチが入ってそこからの世界をがらりと一変させてしまうEthan Hawkeの魔法をここでも見ることができてとても興奮するのだが、Chris O'Dowdのぶれのない高慢ちきぷんぷんの臭気もたまんないし、Rose Byrneの眉間の皺(たまにJulie Delpyを想起させる)もすばらしくて、要は、Rom-Comとしては”High Fidelity”より断然すてきで好きだと思いましたの。

若い頃 - 90年代のTucker Crowe – 当然90’sのEthan Hawke - の写真はとても90’sしていて、そこに被ってくる彼のバンドの音もオルタナの少し前にあったようなのに近くて、このかんじってやっぱり00年代のとは違う、なんだろ、とか思った。

そんな昔に録音されたデモの音が20年以上経ってから恋の嵐を巻き起こす、ってやっぱり素敵で、音楽は聴きつづけておくにこしたことはない、と。(CDプレイヤーは捨てないでおいたほうがいいのか)

[film] They Shall Not Grow Old (2018)

10月27日の土曜日の晩、Imperial War Museum (IWM)で見ました。

第一次大戦の際に残された大量のアーカイブ映像をPeter Jacksonが復元して纏めたもの。第一次大戦終結から100年の今年、英国ではいろんな追悼イベントが行われていて、その中のひとつとしてこれがLFFでプレミア上映された際にはウィリアム王子も列席して、そこでの上映は売り切れでぜんぜん見れなかったのだが、LFFの後にイギリスやロンドンの外れの方でぽつぽつ(一日一回くらい)上映していて、IWMではこの週末の2~3日、17時からと19時からの2回だけFreeで上映すると。入場は先着順だから早目に来てね、というので1時間くらい前から並んだ。

IWMていうのは戦争関係の資料とかいろんな実物とかを収集保存展示している国の機関で、戦争はきらいなので行ったことはないのだが、反戦のポスター展とかもやっていたりするのでやっぱ一度は行ったほうがいいよね、くらいは思っていた。でもここの終了時間間際に並んだので他の展示などは見れないまま。

映画を上映した場所は映画以外にレクチャーとかもできそうな隙間風が来るだだっ広いホールで、でも画面も音も申し分なかった。LFFのときは3D上映されたようだが、ここのは2Dで、一番最初にPeter JacksonがIWMに見に来てくれた皆さんありがとう、見てね、って画面の向こうから挨拶する。

最初は開戦が宣言された時の晩から、これはこの前に見たサイレント”Blighty” (1927)にもあったように静かであっけなくて、こないだまでドイツの連中とはラグビーの試合してたのになー、くらいのトーンで起こって、みんな1ヶ月くらいでとっとと終わるよね、くらいの楽観的なかんじで、そのかんじのままの勢いで軍に志願してくる若者はいっぱいいて、年齢を偽ってでも入隊したい、と言ってきた連中のいろんな手口まで紹介される。

音声はおそらく当時の記録として文書とかに残されていたものを起こして複数の声優がフィルムに被せていく、後の方の戦場での声は、フィルムに映しだされた口の動きを読唇の専門家がお喋りとして復元して、声優がそこにあわせていく。後者のリアルさときたらすごい。デジタルすごい。

軍に入った若者たちは服とか靴とか銃とか日用品一式を支給されて、6週間だかの訓練を経た後、川辺から船に乗せられてフランスに渡って… という具合に、市民が戦争に参加するまでの過程が極めて具体的に描かれて、ふつうのひとが戦争に行くっていうのはこういうことなんだ、ということがわかる。 

で、フランス国内を隊列組んで平坦な陸地を移動していくところから画面がするする大きくなって、色がついて、背景音、喋っている声も含めて音声がいきなりリアルな臨場感をもって、戦場のなかに入っていく感覚がやってくる。(ここはちょっとびっくり)

それと共に兵隊たちの顔から笑顔が消えて何が起こってもおかしくない緊張感のなかに放りこまれていることがわかる。そこから先の前線の塹壕の描写は泥まみれのぐじゃぐじゃ、ひどい衛生状態のなか死体がそこらじゅうに転がっていて、蠅がたかっているその羽音まで聞こえて、ネズミもうようよ、炎症を起こした足先が腐っていくようなところもぜんぶ映されている。人だけじゃなくて馬もそこらじゅうで重なって死んでいて、走っている馬車ごと爆弾で飛ばされるようなシーンまである。大砲をぶっぱなすと衝撃で周囲の民家の瓦がぼろぼろ落ちたり、大砲の後は戦車がめりめり進んで行って、最後に歩兵部隊の突撃、となるのだが、指令が出るときに向けて彼らが銃の先に剣を据えるとこなんて胸が張り裂けそうになる。向こう側には機関銃の掃射があるかもなのに(実際にあったことを我々は知っている)、どんな気持ちだったのだろう。そしてその先には死体の山があって、その血は泥と一緒くたになってどす黒いだけ。

映画みたいに見えるところもあるけど、これらはぜんぶリアルの、本当に撮られたもので、こんなふうにしてイギリスでは少なくとも100万人が戦死した。

そういうの以外には休憩時とかみんなで酒飲んで歌うところか、ドイツの捕虜とのやりとりとかもあって少しだけ笑顔も見えたりするのだが、ここでの笑顔はもうやけくそのそれにしか見えなくてとっても痛ましいし虚しいし。

映像は彼らが故郷に戻っていくところで再び縮んで最初とおなじサイズのモノクロに戻るのだが、見るだけでもぐったりしすぎて安堵どころじゃない。あんなところにずっといたら後遺症にもなるよね。

“As You’ve Never Seen It Before”というコピーがあって、確かにそれは映像の異様な生々しさも含めてそうなのだが、なんでこれまで見ることができなかったのか、ていうのと、こういうのがありながらも次の大戦は起こったし、未だに世界中で戦争は起こり続けているし、なんなのかしら、っていうのはふつうに思う。

同様の戦場での記録は二次大戦でもベトナム戦争でもあるのだろうが、近代になればなるほど、兵器の破壊力殺傷力は増して、ここまでスローな(という形容は嫌だけど)、見た目にはっきりとわかる地獄はなくなっているのではないか(地獄はどっちみち地獄、であるにせよ)。

タイトルはLaurence Binyonの詩"For the Fallen"から取られていて、映画は従軍したPeter Jacksonの祖父に捧げられている。

こないだの”The Great Victorian Moving Picture Show”といいこれといい、英国の古い映像の復元や保存にかける情熱ってすごいな。
古いものを大事にっていうのは英国人のベースにあるんだろうけど、それにしてもえらい。

映像どころか日報ですら平気で隠蔽しようとするきれいごとだいすきの国にっぽんでも見られるべきよね。

*英国のひと、11日日曜日の21:30からBBC Twoでまるごと放映するみたいよ。

[film] Rudeboy: The Story of Trojan Records (2018)

LFFからの1本、10月15日、月曜日の昼間にBFIで見ました。

チケットを取っていなくてSold Outしてて、でもStand-byに並べばなんとか、と勝手に思って行ったらシアターが小さいせいかぜんぜん戻りチケットがなくて、ぎりぎり直前で中に入れた。

Trojan Recordsを中心に据えた音楽ドキュメンタリーで、このレーベルの生み出したスカやレゲエがなぜ、どうやって英国の音楽シーンに浸透していったのか。 個人的には、これらの音はなんであんなふうにパンクとくっついてポストパンクのあれらを生み出したのか、とかその辺。

映画は50年代、まだイギリスの植民地だったジャマイカから始まって、関係者証言や資料映像だけでなく、ところどころ役者さんによる再現ドラマも交えながらなにが起こっていったのかを追っていく。まずは倉庫にサウンドシステムを構えて工場や農場での労働の後に歌って踊れる場所をつくって、それが当たってヒット曲とかが生まれたのが始まり。62年にジャマイカが独立すると、ジャマイカから労働力として大量の移民が英国に渡るようになり、そこで、故郷を懐かしむ人々が同様のサウンドシステムを組んで、あそこでやっていたのと同じようなダンスミュージックを作って流していこう、と68年に始まったのがTrojanで、それは単にレーベルを作って音楽を「流通」させよう、とかいうのではなく、移民たちマイノリティの置かれた社会や文化的な状況を反映した生活に不可欠ななにか、メディアとして立ちあがっていったのだと。 その音楽もジャマイカ本国でスカやロック・ステディが流行ればそのまま取り入れられて、やがてそれは同様に社会の隅っこにいた白人の労働者階級の若者たちを取りこんで、スキンヘッドでかっこよく踊る子供たちが現れて、Chris BlackwellのIsland Recordsを経由した音楽シーンへも拡がりを見せるのだが、レーベル自身は7inchや廉価盤の量産の繰り返しで膨張して、経営が悪化して潰れてしまう。

最初のほうに出てくるミュージシャンはほぼ知らなくて、Lee "Scratch" PerryとかDesmond Dekker, Jimmy Cliff, The Maytalsあたりから知ってるかんじになるのだが、そういうのよりおもしろいのは週末に向かう酔っ払いのための音楽として白人の子達を取りこんで、ちと洒落たRudeboyの音楽としてでっかくなっていった、という辺り。この辺て、パブロックがパンクの下地を作っていったのと同じような流れを感じる。酔っ払いの憂さ晴らし、週末に向けたひと暴れのためのBGMがこれら「革命」の音楽を準備していったって、なんかね、金曜の昼からパブでうだうだしているロンドンの人達を見ると納得するし、いいなって。 ああいうのを見ると生産性を巡る議論なんてブロイラーの鶏(鶏ごめん)のための妄想だわくそったれ、って改めて思う。

60年代にジャマイカから渡ってきたスカ、レゲエ、70年代にNYから飛び火してきたパンク、これら外からやって来た音楽が英国でどうやって内在化 - 肉化していったのか。 ダンスでよってたかってフロアを踏み鳴らす、っていうのはあったんだろうなー。パンクがレゲエやダブにくっついていったのも、まず音としてかっこよかった、ていうのもあるのだろうが、辺境コミュニティの芯を貫いて鳴るその強さと太さと雑多さ、ていうのもあったのではないか。

そこのところ - 音楽が流行り歌からぶっとい本流に練りあがっていくところ – って、音楽メディアが7inch – 12inch – CDを経て、ヴァイナルとストリーミングにまで来た今もあまり変わっていないのではないかしら。むしろストリーミングでいろんな音を簡単に摂取できる今の方がそれらの流れをより俯瞰しやすくなっていて、こういう音楽ドキュメンタリーが沢山作られるようになったのもその辺の事情と関係あったりするのかしら。

関係ないけどむかーし、”Rude Boy” (1980)っていうThe Clashが出てくるドキュメンタリーとフィクション半々みたいな映画があったのだが、あれ、今みたらどんな印象もつだろうか? 当時見たときはさあ…

11.04.2018

[film] Bohemian Rhapsody (2018)

10月25日の木曜日、Picturehouse Centralで見ました。BFIのIMAXで見るべきだったのかもしれないが、Dolby Atmosのとこでいいや、にしてしまった。

英国のレビューは全般にあんまよくなくて、まあそうかな、って。
音はものすごくよいし、これだけでもでっかい音のシアターに聴きにいく意味はあると思うし、Freddie Mercury を演じたRami Malekもよいと思うし、ところどころバンドのよい絵が描けているところはあると思うけど、でもこれがQueenというバンドを描いたドラマなのだとしたらだめだ、っていう。だってQueenなんだからさ。

世界的な大成功の裏側ではこんな.. ていうバックステージものの定石で、しかもそこに人種のことやHIVやLGBTQのエッセンスがちょっとづつ入ってくるのであれば、いまどきこんなにおいしい話はないのかもしれない、けどQueenに関してはそんなの見たくない。だってQueenなんだから。

Queenは自分が中学生の頃に最初のピーク - AerosmithがいてCheap TrickがいてKissがいてQueenがいた洋楽の幸せな時代 – があって、でも自分にとってのQueenは2ndまで、「手をとりあって」のあたりに来るともうこれ無理、になってSex Pistolsの”God Save The Queen”を聴いたあたりから離れてしまうことになる。(でもラジオで今泉さんのQueen情報はちゃんと聞いていたからそんなに疎遠でもなかった気がする)
であったとしても、そんな彼らの全盛期がいかにゴージャスで圧倒的だったかを知るものとしては、あれがFreddie Mercuryの実像だったのだとしても見たくなんかないし、なによりFreddieがこれ見たら怒るとおもうよ。

Freddie Mercuryはワイルドで異形で獰猛で傲慢で問答無用で、周囲をあんぐりのぼけナスに変えてしまう圧倒的な、完全無欠の、パーフェクトな変態だった。その解析不能な変態を天文物理学者とか歯医者とか電気技師とかの理系ギークが取り囲む奇怪な花園に仕上げたのがQueenで、ビジュアルも漫画みたいにわかりやすくて、こういうのが奇跡的にそろっていたからこそ彼らの音楽 – ハードロック -はどれだけ言葉を尽くしても語りきれないくらいのきらきらとスリルと華麗さに溢れたものとして襲いかかってきたのだが、そういう魅力を正面からぶちかまして客を鷲掴みにしないでどうするよ、てことなの。
彼らがどれだけ華麗なレースを繰り広げて伝説のチャンピオンとなったか、そこらにいくらでも生えていそうなステージパフォーマーとか、60-70年代のロック泥沼物語と同列に置いて矮小化しないでほしかった。 Queenを知らずに来ている若い子たちにこんなめちゃくちゃをやってスターになった連中がいたのだということ叩きつけてほしかった。

1985年、Wembley StadiumでのLive Aidのパフォーマンスが始めと終わりに置かれていて、ここでの「奇跡の」復活に至るまでが物語として描かれるのだが、当時、Freddieやバンドがあんな状態にあったなんて殆どの者は知らなかったし、でも、それでも圧倒的なパワーを見せつけたことを聞いて、あ、戻ってきたのね、とふつうに思った。だからこの映画を見てやってくる感動と、当時の人達がパフォーマンスを見て感じたそれはおそらく異なる、そこが(そこも)なんかなあ、だったの。
Queenはそんな配慮しなくたって、Freddieの拳を振りあげたあのポーズだけで圧巻だったのだからそこを掘りさげてほしかった。 ていうか、Live Aidのとこはあんな小細工しないで当時の映像まるごとそのまま使えばよかったんじゃないの? (Bob Geldofとかかっこよすぎやしないか)

あとね、John Deaconはただのよいひと、Roger Taylorはいらいらしてるひと、Brian Mayはなんも考えてないひと、みたいに描かれているけど、そんなわけないの。バンドのひとりひとりのキャラがばらばらに立ってて、でもそこにすばらしいケミストリーがあった、Freddie Mercury物語じゃなくて、Queenのバンドストーリーであるなら、そこは最低限押さえてほしかった。(ひょっとしたらこれ、Freddie Mercury物語なの?)

もういっこいうと、彼らの音楽の志向 - オペラ的なトータルアート、美への執着 - 特にファッションのとこはフォーカスして欲しかった。レコーディングしてツアーして内輪の喧嘩、そんなのばかりじゃなかったに決まってるのに。

タイトルにもなっている”Bohemian Rhapsody”がフルで流れないのもなんかさー。
“Wayne's World” (1992)で再発見されたこの曲の魅力をあの映画がもたらしてくれた以上のカタルシスで本家にぶちかましてほしかったんですけど。

なんかどうでもいいことばかり書いてるけど、Live Aidのとこ、改めてあの日、日曜の昼間にTV中継ぶち切られたことを思い出して当時の怒りが再沸騰した。あのせいでいまだにフジTVはだいっきらいだし、ああいう恨みって30年以上経っても消えないもんなのね。

11.03.2018

[theatre] Link Link by Isabella Rossellini

LFFのがまだ少し残っているし、その前のやつも後のやつもいっぱい溜まっているのでとっとと書いていく。

10月24日の水曜日の晩、SouthbankのQueen Elizabeth Hallで見ました。直前の週末にSouthbankからこれやるから来てね、っていうのが来て、よく読むと”Green Porno”の続編で、2日間しか公演しないというので慌てて取った。

“Green Porno”は2014年の1月にBAMで見た。それまでいろんな動物のセックスや生殖に関するなんだこりゃ?な短篇動画を発表していたIsabella Rosselliniがそれを纏めるような形で講義の檀上に立ち、奇天烈な被り物を身に纏ってくねくねしたりして、なんておもしろい世界なんでしょう! ← いやいちばん変てこでおもしろいのはあんたや、って客のみんなが突っ込む、そういうパフォーマンスだった。

ステージ上には”Link Link Circus”ていう垂れ幕が下がっていて(いちおう、Ringling Bros. Circusへのしゃれ、だと思う)、ステージ上にはおもちゃみたいな小道具が散らばってて、アリストテレスとデカルトとスキナーの像みたいのが置いてあり、時間になると黒子(日本のシアターからインスパイアされた、って言ってた)のおにいさんが出てきて挨拶してルールの説明して、あと小型犬のPan、ていう元気いっぱいのわんわんが登場して、曲芸というほどではないけど、くるくる回ったりジャンプしたり、別の動物に変態したり、いろいろやってくれる。

Isabella Rosselliniさんは”Green Porno”の時のように檀上には立たず、サーカスの団長さんのかんじでステージ上を動き回りながら、わんわんによる実演を交えておしゃべりしていく。

今回のテーマは「動物はヒトと同じように考えたり感じたりするものなのか?」で、”Green Porno”がとっても下半身寄りの内容だったのに対して、こんどのは上半身のほうだから、だいじょうぶなのよ、って強調するのだが、話題はつい下の方に寄っていってしまうようで、棒を突っ込まれても相手の♂が気にくわないと棒を横にそらす技をもつ♀Duck、とか、メスが発する低周波を聞きつけるとNYからボストンまででっかいのをぶらぶらさせて泳いでいくクジラとか、いちいちあらごめんあそばせ、とか言ってる。

“Green Porno”のときも彼女はちゃんと大学に通って勉強した上でプレゼンしていたのだが、今度のもそうで、ヒトと動物の違いからきちんと入って(アリストテレス)、ヒトを人にしているのは何なのか(デカルト)、さらに動物の行動はどんなふうに定義されるものなのか(スキナー)とかを、(時々つっかえるところもあったけど)テキストなしで解説していた。

結論からいうと、動物だって感じるし考えるし、でもそのやり方や成り立ちは人間のそれとはちょっと違うところがあるので、そこをきちんとわかった上で付きあってあげるととってもよい友達になれるよ、とか、そんなかんじかしら。動物を大切にしよう、なんてのはああああったり前の話しなので言わなくてもよくて、大事なのはそこに至るまでに、どれだけ動物が我々の想像を超えたところでいろんなことをしているのか、我々の視野思考の範囲内で彼らを見てしまうことがどんなによくないことなのか、それらを正しく知ることなのだ、と。それは上半身でも下半身でもそうで、げー気持ちわるーじゃなくて、まずふつうにRespectしてつきあってみようよ、って。

そこのぶれのなさは”Green Porno”から一貫しているので、彼女がどれだけ変態したってついていくから。

それにしても彼女の小さい頃の写真 – ママ(大女優)、パパ(大監督)、いろんなペットたちと一緒の – どれもすさまじくかわいいのだが、ママもパパもなんとなくペットと同列、なのね。 

第三弾はふたたび下半身に戻ってほしいかも。VRとか使って。

11.02.2018

[music] The Dresden Dolls -- Oct 31st 2018

10月31日、ハロウィンの晩のDay2。場所はおなじLimehouseのTroxy。ハロウィンなのでそれなりの恰好のひともいるが、そーんなでもない。米国のハロウィンライブときもこんなかんじだったのだが、まじめなファン(含.自分)が多いんだろうな、と勝手に推測する。

前日、ぎりぎりに入って後悔したので19:30くらいに会場に入ったら、前座の – ミュージシャンというよりコメディアンのAndrew O'Neillというひとがギター抱えて客席まきこんで煽りまくってて、なかなかおもしろい。この人、”A History of Heavy Metal”ていう本を出してて、Alan Mooreが絶賛してたりするのね..

Day1は1階のスタンディングで、遅れていったので後ろのほうで、でっかい酔っ払いの壁に視界を阻まれて苦労したのだが、Day2は2階の椅子席で、見るのは楽になったけどちょっと遠くなった。

Andrew O'Neillさんの煽り – “We Will Rock You”までやる - に乗って20:00頃に登場して、”Good Day”から。あくまで印象だけど、前日よりも足がついて、じっとり、ねちっこくなっているかんじ。2曲目の”Missed Me”なんか準備体操みたいな曲だと思うのだが、より手数が増えて手脚も目一杯のびたり縮んだりしていておもしろい。

まず、今日はこのバンドができて18回目のお誕生日だから、18歳っていったらアメリカじゃ選挙できる年頃なのよやーねー、とか、昨日ここに来たひと~? で手を挙げたみんなに、いくつか同じ曲やっちゃうけど我慢してね~でも昨日やらなかったのとか新しいこともやるから楽しみにね~、とか。

全体のかんじとしては、Day1が割とポリティックス寄りの、こんな世の中だから戻ってきたぜ!って威勢よく啖呵を切った、のに対し、Day2は記念日っていうこともあるからか、そこにしっとりエモが込められて、ここまでやってこれたよありがとうみんな and 自分たち、みたいにちょっとWetになっていた。政治とエモ、どっちもだいじよね。

おしゃべりは、Trumpネタ - Trump風船を英国は受けいれてくれてありがとう、あんなしょうもないの、どこに保管されるのかしら? Tate Modern?  とか - と選挙の話し(とにかく投票しろ。まじやばいぞ)は前日と同じトーン – でも内容は結構変えていたのと、結成記念日なので、Brianと出会ったときのエピソード - これは2010年のライブ時にも喋っていたけど、Amandaの家のホームパーティーでハロウィンの晩であたしはまだ派遣社員で.. この辺、いつか誰かがThe Dresden Dolls伝(略:どれどるでん)として纏めたほうがよいと思うわ。

曲のピークは  - デビュー当時あたし(Amanda)は相当こんがらがった関係のなかにいて、当時の曲って殆どがこの頃のことをネタにしているんだけど、これは当時の彼とまだつきあっているときに彼との別れを予感したように書いた曲で、そんだけどうかしてたってことなんだけど、リハーサルで歌ってたらあたし泣いちゃってさあ .. (実際にはもっと長くずっと喋ってた)なんてバーのカウンターにいるかのようなおしゃべりの後に演奏された”Boston”で、もともと大好きな曲だったのだが、とっても深い情感を込めて歌っていてしんみりした。改めて、いい曲だよね。

前日もそうだったのだが“Delilah”のときは、Brianの奥さんのOlya Viglioneさんがコーラスで入るの。彼らの夫婦バンドScarlet Sailsは4日にLondonでライブやるからみんな来てね!って。

今日はすごいゲストが来るからって、Amandaから前の日に言われて、誰だろってどきどきしてたら、終わりくらいにAndrew O'Neillさんが出てきて、皆の衆ついにこの時がきた!って、今宵この場にいる我々はSex Pistolsの伝説のManchesterのライブと同じくらいすごいものを目撃することになるのだ!!とか散々煽って(このひとの煽り芸、天才的)、では登場してもらいましょう - ”OASIS !!” とかいうのでおいおい、と思ったらそれらしいださい恰好したバンド(5人)が出てきて” Don't Look Back In Anger”を始める。よく見るとドラムスはBrianで、さっきまで上半身裸だったのに薄緑のもこもこしたスウェットとか着て、その叩き方ももっさりどかどかやってて、そうかこれが彼らにとってはハロウィンの仮装なのか、と。歌も演奏もとっても中途半端にうまかったり下手だったりするとこがミソなの。みんなげらげら笑いながらもつい一緒に歌う。

前日もそうだったのだが、”Coin-Operated Boy” 〜 ”Killing in the Name” ~ “Half Jack”の流れは、”Killing the Name”の後半のインストの応酬から鍵盤と太鼓のどやし合いみたいになっていて、この人達、演奏技術と集中力もすごいのよね、て改めて思いしらされる。ほれ、BrianはずっとSabbathとSlayerが大好きなメタル小僧で、あたしはDepeche Modeだったからさ、とAmandaは言っていたが、それでなんでこういう音になって出てくるのかはよくわからない。

新曲も披露されて、まだ作業中で完成していないから撮ってもWebとかにはUpしないでね、と言っていた。けど既に十分Dresden Dollsの音にはなっていたのはさすが。
今回のロンドン公演は12年ぶりだったけど、次は間置かずにまた来るから、って。 自分も今回は8年ぶりだったけど、次はもっと短い間隔で見れますように。アメリカでも見たいな。

エンディングの"Sing"、前日より多くの人たちがステージにあがったのだが、あの中にNeil Gaimanいたよね。

とにかく何度でもいうけど、おかえり。

11.01.2018

[music] The Dresden Dolls -- Oct 30th 2018


10月30日の晩、ロンドンの東、Limehouse、ていう名前だけは素敵だけど謎の土地にあるTroxyていうホールで見ました。初めて行くとこで、調べたら30年代からある貫禄たっぷりのホールだった。

彼らの復活と30-31日の2 daysが5月に発表されたときはぜったい、なにがなんでもチケット取ったる、ってNIN以上に意気込んで(なんで?)、がんばった。これの少し前、27日にこことは別の小屋で、リハーサルぽいライブもあったのだがそちらの方には行けず。

彼らを最後に見たのはNYのIrving Plazaで2010年10月31日ハロウィンのとき、これも復活に近いやつで、あのときはロンドンからNYに滑り込んだその晩、ぎりぎりで見たのだった。このときは彼らふたりが出会って10年、というアニバーサリーでもあって、今回、そのハロウィンにあわせて蘇る、というあたりもとっても彼ららしい。

18:30ドアで、サポートもあるだろうから21時くらいを目指して行けばいいか、でも念のために.. と20時ちょうどくらいに着いたら、小屋の前にあまり人はいなくて、扉の向こうにAmandaみたいな女性が見えて、え? なに? と思ったら1曲目の”Girl Anachronism”が始まったところだった。なんだよサポートなかったのかよ、だった。あぶなかった。(注:実はあったみたい)

音はもう雷のようにばりばりで(この2日間のためだけに米国からミキサーが来てくれたのだそう)、そもそも調子悪かったらライブなんてやるわけない連中なので、始めっからつんのめって飛ばしまくる。 このけたたましい、すばらしいエッジをもって転がっていく音が太鼓と鍵盤とふたりの声だけでできているなんて、何度聴いても信じられない。

あの大統領のせいで、すっかり”GREAT”になっちゃって鼻が高くてしょうもないアメリカから来ました - それだけじゃなくてBrexitだのHarvey Weinsteinだの(他にも最近のうざいのをいっぱい列挙する)、The Dresden Dollsが動きだすのにちょうどよい(relevantな)状況になってくれちゃったのよねまったく、とか言いながら”Mised Me”の変態骨折脱臼音頭に入って、マイムの応酬とかBrianの帽子芸とかが始まって、ああこれ、こいつらだわ、てしみじみ噛みしめる。

この辺からAmanda節も全開になって、Trump政権はトランスジェンダーのみんなをInvisibleにしようとしているけど、我々は断固LBGTQRSTUVWX.. (て言ってた)の側に立つし、決してみんなを消したり(erase)なんてしないんだから!! って叫んで”Sex Changes”のピアノが鳴りだし、そこにドラムスの一撃が思いっきり叩きこまれた時はちょっと泣きそうになった。

いまアートをやっている以上、政治的なあれこれに向き合わざるを得ないのはしょうがないことで、でも個人的にはそんなのやりたくないんだけど、でもさ.. ていうぐしゃぐしゃしたところを歌にしたのがこれです、と”Small Hands, Small Hearts”に行ったときは場内爆笑(興味あるひとは歌詞を読んでみてね)。

いまはなんでもかんでもインターネットで、あたしが旦那と知り合ったのもtechnicallyにはインターネットだからあんま言えないけど、次の曲はインターネットなんかできるずうっと昔にネットが作りだす野蛮なろくでなしひとでなし状態みたいなところをブレヒトって人が書いた曲なの(作曲はクルト・ヴァイルね)、と『三文オペラ』から”Pirate Jenny”をやったり。
とめどないおしゃべりからシリアスな方、コミカルな方、それぞれに振れるタイミングとかバランス(ていうのとは違うな、綱渡り芸みたいな)が絶妙なの。

アメリカのことは関係ないって言うかも知れないけど、向こうは11月6日に本当に大切な選挙がある、このことを君たちの周りにいるアメリカ人に伝えてほしい、って背中にでかでか”PLEASE Fucking VOTE”って書いてある着物を羽織って、この写真を撮ってTwitterでもインスタでもなんでもいいから拡散してほしい、って。言われたので自分のインスタには載せた。 これを読んでいてアメリカの投票権があるそこのあなた、つべこべ言わずに投票に行くのよ。

カバーはHozierのと、RATMの” Killing in the Name”と、アンコールでBrelの” Amsterdam”をやった。2010年のときは”War Pigs”だったねえ。

彼らのライブに初めて触れたのは2005年のNINの復活ツアーの前座の時で、あの時は第二次Bush政権に対する抵抗の嵐が米国では吹き荒れていた。この2018年、NINとDresden Dollsが共に復活としかいいようがない勢いで土煙と共に立ちあがったのは、決して偶然ではないと思う。 Bushの時にもみんな相当怒っていたけど、Trumpの方が想像をはるかに超えるひどさがあるよね。

アンコール、ステージから離れて階段のところでキャバレーみたいに”Amsterdam”を歌ったあと、ステージに戻り、こないだまで育児もあったからロンドンとアメリカを往ったり来たりしてて、9月にCamdenのヨガ教室にいたときのこと、そこで迎えた9月11日、異国から911のことを思ったことについて語り、バンド結成直後、911の起こったすぐ後に書いたという”Truce”を歌う。

彼らがなぜ何度でも墓場から蘇り、異国にいても、あれから十数年が過ぎた今になってもなお、なぜ911のところに立ち返って歌わなければいけないのか、全てが説明される。そして、それを聴く我々もまた、なぜ彼らの音に向かい続けるのかを問われる。

そしてこの曲は、エンディングの後に“Amanda, you're telling me a fairy tale” ていう声が入るの。

これで終わり、かのように少しだけひっこむものの、でも、それでもわたしは歌うんだよ、って最後に”Sing”がくる。
そして、だから我々も歌う、歌いはじめる。

本編2時間強、アンコール40分くらい。
おかえり人形たち。

2日間のを1本にまとめて書こうと思ったけど、2日目はぜんぜんちがうかんじのだった(予想してたけどね)ので、別にします。