5.30.2020

[film] Starstruck (1982)

22日の金曜日の晩、しょうもない一週間終わったし連休前だしぱーっと、って思って、前から気になっていた#FridayFlimClubでやっていた1本を見ました。 別にいつでも見れるみたいだけど。
#FridayFlimClubは映画作家のCarol Morleyさん - “Out of Blue” (2018)はなかなかかっこいいノワールなの - がやっている映画同好会みたいなやつで、毎週なにか1本選んでTwitterとかで感想を言い合ったりするやつ(だと思う)。

オーストラリアのGillian Armstrongさんの監督長編2作目で、このひとは最近の”Little Women”のひとつ前の1994年の”Little Women”が有名で、わたしは(最新のもよいけど)これもとっても好きで、でも一番好きなのはデビュー作の”My Brilliant Career” (1979)。 ここの枕投げシーンときたらたまんないのだが、この格調高めぽかった文芸ドラマからの次作を期待するとこれは..

日本ではビデオスルーのみのようで、邦題は『スターストラック/わたしがアイドル!』。

シドニーのティーンJackie (Jo Kennedy)はいつもあー有名になりたいー注目されたいー、って地元のクラブのタレントショーで歌ったりして、いとこの小僧Angus (Ross O'Donovan)はマネージャー役でいろいろツテやコネを探していて、実家はホテルにくっついたパブでおばあちゃん(すてき)とか猫とかいるけどぼろぼろで、いろいろうまくいかないみたいだけどみんな能天気に飲んで歌って幸せそうな一家なの。

とにかくまず有名にならんと、てビルの間の綱渡りとかで騒いでTV局のディレクターに目をつけてもらって、その人にくっついていったらバックバンドでギターやっている彼にはそっぽ向かれて、実家ではママが大金持ち逃げされてすっからかんになって、でもディレクターはゲイだったのでバンドの彼ともより戻して、じゃあTVの大晦日のバンド勝ち抜き合戦で優勝して賞金もらってぜんぶ解決だ! って意気込んで、バンドがステージをまるごと乗っ取って解決しちゃうの。 それだけなの。

でもドレスと歌と踊りと恋のことしか頭にないJackieの軽さと空っぽさは素敵だし、ステージで歌うとこはばっちり決まるのでいいんだ。わかりやすいとこだと、デビューした頃のCyndi Lauperとか、映画のなかのステージでいうと”Streets of Fire” (1984)とか”Howard the Duck” (1986)とか、上っ面ばかりの、だからこそすばらしいあれらを思い出す。

いちおうコメディ・ミュージカルなので、ストーリーはこんなもんかーと思うのだが、とにかく流れてくる曲が素敵で、書いているのだれ? と思ったらSplit EnzのTim Finnとかだったりする。Split Enz、好きだったなー。この時期に聴いていたオーストラリアのバンドというとFlash and the Panとか、The Go-Betweensの “Send Me a Lullaby” (1981)はもう聴いていたかしら?  The Birthday Partyは聴いていなかった。

今はこういうの、設定からして無理なんだろうなー。日本のアイドル界ってまだこういうのあるのかしら?


土曜日朝のファーマーズマーケットに行くと、そろそろさくらんぼの屋台が出ていい頃なのにまだ来ていないので心配になる。 日本のともアメリカのとも違って、そんな甘くなくて果実っぽくて軽く1kgくらい食べられる(はず。怖いのでやったことないけど)。
はやくたらふく食べたいな、とか言っているうちに5月がー。

5.29.2020

[film] The Flavour of Green Tea Over Rice (1952)

21日、木曜日の晩、BFI Playerで見ました。この日はInternational Tea Dayだというから。

小津安二郎の映画は自分にとっては言語が日本語であることを除けば洋画で - 洋画を見るようにここで起こっていることはなんなの? を頭のなかで変換したり転がしたりしながら見る楽しみがある。 邦題は(というかこっちが原題よね)『お茶漬の味』。

50年代の東京で丸の内の商社に勤める佐竹茂吉(佐分利信)と妙子(木暮実千代)の夫婦がいて、稼ぎがよいから一軒家で、子供はいなくて家には女中がいて、寝室は別で、ふたりはお見合い結婚で、妙子は上流階級出で、茂吉は庶民の家の出で、生活態度からなにからすれ違ったりなに考えてるのかわからなかったりするので妙子は奥様仲間うちで茂吉のことを「鈍感さん」て小バカにしつつ、ずっと漠とした不満を抱えている。

姪っ子の山内節子(津島恵子)は周囲みんなからそろそろお見合いね、と言われて席までアレンジされたのに「嫌です!」ってサボったりして膨れていると、茂吉の後輩でこいつも「庶民的」を看板にする岡田登(鶴田浩二)が寄ってきたりする。

お茶漬けの味、っていうのは茂吉の好物でご飯に味噌汁とかなんでもかけてずるずる食べるのをインティメイトでいいな(英語字幕では”cozy”)、って主張するのだが妙子はそれを貧乏くさくて犬みたいでやだ、って我慢ならなくて、そういうのでふたりの亀裂が決定的になって、妙子は須磨の方にひとりで帰ってしまう。

要するにこれは高慢ちきな妻に対して例えばおれはお茶漬けみたいにお手軽で簡単なのでいいんだよ、っていう夫の下手にでる優しさとか寛容さをアピールしているように見えて単に夫の嗜好を強要しているだけなのと、そういう優しさ(仮)と抱き合わせで、いちいち言わなくてもこっちのことを察しろよ妻なら女なら、っていう傲慢さ - 本人はちっともそう思っていない - がぷんぷん漂って、そんな奴には毎日毎晩お茶漬けだけを出してやればいいんだ、とか。

結局お茶漬けだろうがビフテキだろうが昭和の昔にあった「ぼく食べる人わたし作る人」の役割分担がベースになっている時点でだめで、でも皮肉なことにいざお茶漬け食べようかってなったらふたりとも自分たちでは作れなかったりする(女中さんがやっているから)。ぜんぜんだめじゃん。

岡田の方もおなじ匂いがして、パチンコやって競輪やってとんかつとラーメンが好きで、ぼくはこういう安いのでいいんですよ、とかしれっと言うのだが、ほぼ会ったばかりの節子にそんなこと言ってなに期待してるんだ? 博打好きだけど食費は安く済むからお得とか?  仕事はやるしできるし、博打好き、食事は安くていい、そのうち仕事の絡みでゴルフとかやりだして、ぜったいそのうち手料理食べたいな、とか言いだして、なんか目に見えるようだわ(なんか見てきたらしい)。 だから節子さんはずっと結婚しないほうがいいよ。

全体として女たちはみんなでおいしいもの食べて温泉行ったり遊んでいていいけど男は会社もあるし出張もあるしなのにお茶漬けでいいよって言うんだから健気じゃねえか多少鈍感さんでも不器用でも許せや、っていうおっさんたちが飲み屋で言い合うようなことがそのまま滲んでいて、わかるだろ - わかってやれや、って言われているようでとってもくさいかんじ。

これって明確な女性差別とか蔑視の描写とか脚本がどう、っていうことではなくて、最近だと”The Perfect Candidate” (2019)にもあったように、そういうやばくてきな臭い状態・事態なのですよ、っていうことを明らかにしているだけで、小津の映画ってそういう登場人物間の意識の構成とか建てつけが和の建物とか間取りのありようとかに連動しているかのようにパノラマで見渡せるようになっていること、その連動に押し出されるようにエモや怒りがぽん! て噴出するところがおもしろくて、そういうところを洋画っぽく感じるのかも。

ただ現実としては、この時代にうまく丸めこんで/丸めこまれてしめしめ、になった連中が先輩後輩関係もそのままに上にあがって政治経済の天辺にのさばって、このやり方の延長で「まあいいじゃないか」とか言いながら無自覚で無反省なおっさん的抑圧をしまくっているのがいまのにっぽんなので、本当に早期にいなくなってほしい。こいつら聞く耳まったくもたないくせに追求されるといやお茶漬けが.. とか言いだしやがるんだわ。

自分が見てきた木暮実千代って、『雪夫人絵図』(1950)でも『赤線地帯』(1956)でもいつもかわいそうな役ばかりで今度のは元気でよいかも、と思ったのだが、ろくな男が傍にこない、っていう点では変わらずなのかも。最後本人は幸せになったみたいだからいいのかしら。

英語字幕も勉強になるの。「南京虫」ってBed Bugだったの?、とか、「鈍感さん」は”Mr. Bonehead”なのか、とか、「甘辛人生教室」は”Bittersweet School of Life”だって。


Bright Eyesの”Fevers and Mirrors”のリリースから今日で20年、とか聞くとさすがにちょっと待て、になる。 納得できる20年前とそうじゃない20年前があってね、これはいくらなんでもね..

5.28.2020

[film] Women Make Film: A New Road Movie Through Cinema Part 1 (2019)

5月の終わりの三連休にやっつけたかった大物のひとつ。 23日の昼、BFI Playerで見ました。179分。

監督Mark Cousins、ナレーションTilda Swintonさまによるこのドキュメンタリーについては、3月のBFIでのTildaさんの特集のとき、3/13の”Peter Ibbetson” (1935)の上映前のふたりのトークで軽く紹介があって、その時はみんな見てねー、とか笑っていたので、もちろん見るよ!って思って、でもその後に全容を知ってびっくり、全部で14時間..  BFI Player上ではこれからPart5まで出てくるらしく、これがその最初のパート。

映画館とか映画祭とかにちょこちょこ通ったりしていると、たまに映画に脳髄脊椎やられちゃった生粋の映画バカ、みたいな人(褒めてる)に出会うことがあるが、もう十年以上、スコットランドの田舎で自分たちの自主映画祭をやってきたこのふたりはまさにそんなふうで、スコットランドのキルトを履いたMarkとTildaは”The State of Cinema”の旗を掲げ、”Tainted Love”にのってくるくる踊りながら映画を見るのよ! って訴えていた。

そんな彼らが女性の監督した映画についてのロードムービーを作った。女性だって男性と同じくらい沢山映画を作っている、けど紹介される機会は男性のそれと比べるととても少ない(事実として)のはおかしいよね、と。 それは単にその映画がおもしろくないからだけじゃないの? いやいやそうじゃないと思うよ、これを見てみ、って。 そもそも、男性の映画、女性の映画どっちが優れているとかそういう議論をしてもしょうがないし、そういうことを言ったり競ったりするためのドキュメンタリーではないの。ここ100年くらいで女性が作った映画の断片を並べていく、そこで見えてくるのはなにか? 彼女たちが見せようとした世界はどんなものだったのか? 彼女たちはそれらをどう見せようとしたのか? 

Mark Cousinsの組みたてた車に乗って、Tildaが運転席に座って、あのすばらしい声とわかりやすい英語のガイドで幹線道路を走っていく。 脇道獣道には入らないかもしれないけど、いろんな景色が見えることは保証つきの14時間の旅。 こんなの乗るしかない。

このサイトに感想を書いている映画は女性が監督した映画が多いし、いまのこの時期にオンラインで見る映画も割と意識的に女性のを選んでいる。 男の監督したやつはどうせ誰かが見るだろうし書くだろうし、偏見だけどつまんないだろうし、って。なぜみんな宣伝するときに「女性監督の」って付けるんだ? とか。 日本だと邦題に「幸せの」とか「未来の」とか付いて宣伝はパステルカラーに丸文字お花畑のメルヘンになって、いい加減にしろよ、っていうのはずーっとあって、でも、それでも実際見るとおもしろいからね。

ま、こんなこといくら言っても見ないひとは見ないだろう。音楽でも絵画でもおんなじよね。

というわけで見始めたのだが、始まってすぐにこれはメモ取りながらじゃないとだめだ、って思って、止めては書いて(オンラインのいいことわるいこと)をやっていたので軽く4時間くらいかかった。 こういう映画の授業って歴史のも制作のも批評のもきちんと受けたことがないのでとにかく新鮮で、仕事のときの100倍の熱でノートをとる – そして字が汚いので書き起こすときに読めない..

13 decades - 6 continents - 40 Chapters (40 roads) というのがTildaさんの前説で、サンプルとしてクリップされた映画はPart 1の8 chapters で130本(重複あり。がんばってリスト作った。大変だった)。

イントロとして紹介されたのは次の4本。

- “We Were Young” (1961)  Binka Zhelyazkova
- “You and Me” (1971)  Larisa Shepitko
- “On the Twelfth Day...” (1955)  Wendy Toye
- “Brief Encounters” (1967)  Kira Muratova

ここから”What’s an engaging way to start a film?” – “How do you set its tone?” – “How do you make it believable?” – “What’s an inventive way of introducing character?” – “What’s a great way to show love, tension, memory or death?” といったような映画制作に関わる実践的(practical)な問いが出されて、以降のチャプターに落ちていく。映画史的な総括を目指すというより映画を作る= 世界を構成する/しよう、と思ったとき女性作家たちはなにをどうやってきたのか、を紹介するAcademy of Venus - 講師は全て女性である、と。

このPart 1で紹介されたchapterを順番に。

Chapter 1  Opening

よいオープニングショット、シーンはどんなものか、映画の始めに世界はどんなふうにその姿を現すのか、24本のクリップと共に紹介する。俯瞰とか上から見下ろすとか、顔のアップとか、いきなりパニックとか、いきなり足とか、いきなり質問とか、主人公は誰だろうとか、お目覚めとか、キスとか、気配とか、世界はいろんなところから始まる。ぜんぶ見たくなる。

Chapter 2  Tone

音楽のメジャーマイナーと同じように、映画のトーンはどんな要素で決まるのか、それはどんなふうに決まるのか、を14本のクリップと共に紹介する。階級とかソーシャルなものへのフォーカス、クリスマスとかのイベント、人物の間のテンション、ダブルトーンによるグラデーション、フリルとかカーテンといったガールスクールアイテム、死を暗示させるもの、などなど。

Chapter 3  Believability

これはものすごく大切なの、ということで、スクリーン上に展開される世界を本当にそれってそうだよね、って確信させる力とか要素ってなんなのか、を15本のクリップと共に紹介する。ドキュメンタリーの直截さとは別に、映画における「真実」のありようを”Tiny needles of truth” (バルト)、ディテールの確かさ、リアルタイムで追うこと – Kelly Reichardt の“Meek's Cutoff” (2010)  、子供たちの動き、服を脱ぐ動作、欲望に直結させる、実際にそれが起こった場所で撮る、複雑さ (Complexity)の表現にショットを細かく切る - Kathryn Bigelowの”Point Break” (1991)  、などなどから示していく。これもいっぱいあるねえ。

Chapter 4  Introduction to character

次からの3章は映画の中の人々(People)と我々はどうやって出会うのか、で、その最初としてキャラクターの紹介のところを11本のクリップで紹介する。玄関の表札から入っていく田中絹代(Japan’s Bette Davis)の『月は上りぬ』(1955)が最初で、登場人物が自分でカメラに向かって紹介する3本 - ”The Connection” (1961) - Shirley Clarke、”The Watermelon Woman” (1996) - Cheryl Dunye、”Wayne's World” (1992) - Penelope Spheeris - とか、ぐるぐる同じところをまわるとか、変容(metamorphose)していくとか、 いろんな人がいるようにいろんな撮りかたがある。

Chapter 5  Meet Cute

映画の中で人々はどんなふうに出会うのか、を14本のクリップで。最初がAstrid Henning-Jensenの”Kranes konditori” (1951)の橋の上と下の出会いで、これが撮られたのは”All That Heaven Allows” (1955)の4年前なんですよ、とか。 “Grand Central” (2013)  Rebecca Zlotowski のLéa Seydouxのキスとか、ロマンスだけじゃなくてゴスやホラーとしての出会いもあるし、”Wanda” (1970)がバーテンを殺すところとか、”Vagabond” (1985)の目が見えないおばあちゃんとの出会いとか。

Chapter 6  Conversations

前章の出会いが持続するために必要な会話はどんなふうに描かれるのか? を18本のクリップで紹介する。ほーんときりがないけどおもしろかったのは、”Girlhood” (2014) - Céline Sciammaの女子たちのお喋りが男子が来ると静かになるとこ、Agnès Vardaの”One Sings, the Other Doesn't” (1977) のテニスのラリーのような会話、そうそうこれよ! だった”The Virgin Suicides” (1999)の電話越しに音楽を聴かせあうとこ、他には1+1=3になるような会話、言葉のない会話、手話、音楽がブロックする会話、死んでしまった人とのLipsync、締めはCéline Sciammaの”Tomboy” (2011)  で、「彼」に名前を聞くとこ(じーん)。

Chapter 7  Framing

ここからの3章はvisual aspects of shots、ということでまずはFramingについて、22本のクリップと共に紹介する。最初に ”One Sings, the Other Doesn't” (1977) の3人→2人→1人→他者、というフレームの遷移から入り、全体が映りこんだフレーム、”Wanda” (1970)の彼女がひとりで小さく歩いているところにズームするとことか、フェルメールの、モネの、表現主義の、やはり絵画に例えられるものが多いとか、この章だけで3本紹介されているIda Lupinoのどれもシャープでかっこいいフレーミングとか。   

Chapter 8  Tracking

切り取られたフレームはどんなふうに移動 (track)していくのか、を8本のクリップと共に紹介する。最後のとこで、映画史上の最強トラッキング野郎たちとしてOrson Welles、Alexander Sokurov、Max Ophülsの名前を挙げて、だけどこれもすごいと思うのよ、って紹介されたのがChantal Akermanの”D'Est” (1993)のターミナルの横移動で、そうこれもあったこれ! だった。

これはロードムービーなので、この道来たことある/この景色は知ってる/これよりすごいの知っている/わかってる、のようなコメントはいくらでも出てくるのだろうが、わたしは十分おもしろかったしスリリングだったし、まだまだ見てないな、見なきゃな、になってばかりだった。

そして、ここに集められた作品がぜーんぶ女性監督の手によるものだということは何度でもゴシック太赤で強調してよいことだと思うし、これらを「女性らしさ」とか「女性ならではの優しさ」「繊細さ」「感性」のような言葉も概念も一切使わずにどこまでも優しくクールにガイドし続けたTildaさんはなんて偉いのかしら。(って言うと偉いのは映画とそれを作った女性たちよ、って返すの。あの笑顔で)

BFI Playerでは、ここで紹介された映画もいくつか見れるようになっているので、part 2-3くらいまで行ったところで見てみよう。


日差しはきんきんに強く眩しいのに風だけは冷たい - 年に数回あるかないかの、すんごく気持ちのよい5月の日。 これが来てしまうと、ここから先はもうあんまし、の気分になるのでかなしい。(夏至以降の日々とおなじ)

5.27.2020

[film] Diabolo menthe (1977)

20日、水曜日の晩、Criterion Channelで見ました。 
丁度ここでDiane Kurys監督の3本、の特集が始まって、目玉は”The Children of the Century” (1999) - 『年下のひと』らしいのだが、同時にピックアップされているこのデビュー作の方もおもしろそうだったので、こっちから見よう、って。

同年のルイ・デリュック賞を受賞している。英語題は”Peppermint Soda”。日本公開はされていない? すんごくよいのに。

冒頭、「セーターを貸してって持っていったまま返してくれない妹へ」ってメッセージがでる。ビーチで遊んでいる姉妹が列車でパリに戻る時、父親と思われる男性がひとり見送りにきているので両親は離婚しているのかな、と。

1963年の秋、13歳のAna (Eléonore Klarwein)と15歳のFrederique (Odile Michel)の姉妹がいて、学校が始まって新しいクラスになるのだが先生たちはものすごく厳しかったり変だったり(いつも毛皮を羽織って指導する体育教師とか)、Anaは勉強はさっぱりで作文の課題も姉が昔提出したのをそのまま持ってって注意されたり、注意されてもがんばるつもりも動機もまったく見いだせないし、どうしたらいいのかまったくわからないのでどうする自分、になっている。他方でFrederiqueは彼(候補)と遠出したくて遠出したら幻滅して戻ってきたり、アルジェの辺りから政治に興味を持ち始めたり、突然行方不明になったクラスメートのパパと会って話しているうちになんとなくキスしちゃったり、でもふたりとも学校なんてどうでもいいかんじで、でも行かないで遊んでいるとママも教師もうるさいしで、いかに友達と適当にやりすごして自分のやりたいことをやるか – やりたいことなんてないけど、に集中している日々。

そのどうでもいいかんじが思春期の入り口のじたばたと、すっとぼけたAnaの表情と物憂げな顔でいたいFrederique、ぶっきらぼうに投げ出された棒の足、などと重なってすばらしい景色 - 特に色彩を作りだす。 ひとりひとりの事情にも都合にも立ち入らず、学園ドラマにあるような「学園」も「ドラマ」もあまりなくたって、彼女たちが群れたり散ったりわーわーしたりしょんぼりしているだけで、なんでこんなにおもしろくなってしまうのだろう。

ラストでまた彼女たちはビーチに戻って父親と再会して楽しそうで、でもビーチが嬉しいのか父親が嬉しいのか季節が楽しいのか適度に乾いたところもよくて、そんな彼女たちのペパーミントソーダ。

Criterionのサイトには今回の特集に合わせて監督のインタビュー映像もあって、そこでは77年の少女たちに63年の少女たちを演じさせることの難しさはありました? って聞いてて、答えは思っていたほどなかった、と。狙うと却ってしらじらしくなりそうなところを縫って今見てもちっとも古さを感じさせない。女の子達がてきとーに好き勝手にやってびくともしない、というあたりでJacques Rozierの『オルエットの方へ』とかを思いだした。いまとっても再会したい1本。

どうでもいいけど、Anaに最初の生理がきて、ママに伝えにいったらママがいきなりAnaの横っ面を思いっきり張りとばしたのにはびっくりした。そういう習慣なの?  すごいねえフランス。


近所でまた猫みつけた。 ここまでに見つけた猫スポット5つ。 なかなか会えないけど。

5.26.2020

[film] Mistérios de Lisboa (2010)

5月23, 24, 25の3連休はでっかいやつをやっつけなければ、ということでそのひとつがこれ。

この作品は272分の映画版が2011年にリリースされて、自分もBAMで見ているのだが、これの元は55分 X 6回のTVシリーズで、今回そのバージョンが米国で初めてFilm at Lincoln CenterのVirtual Cinemaで公開になった。こんなの見るしかないので、EP1と2を土曜日の晩に、EP3と4を日曜日の昼に、EP5と6を月曜日の昼に見た。一気に見る、というのもありかもだけど、緻密な美術品を端からじーっと眺めてじんわり、っていう作品なので時間をおいて咀嚼しながら見ていった方がよいかも。

映画版を見た時は頭のまわりを小鳥がまわってひたすらその物量に圧倒されたかんじだったが今回は違って、でも改めてすごい作品だと思った。このタイミングでもう一度映画版を見直したくなる。

原作はポルトガルのロマン派作家Camilo Castelo Brancoの“Os Mistérios de Lisboa” (1854) - Manoel de Oliveiraの “Amor de Perdição” (1979)の原作『破滅の恋: ある家族の記憶』は翻訳されたけど、できればこれも読みたい -  で、監督はRaúl Ruizで、これが彼の遺作となった。英語題は“Mysteries of Lisbon”、邦題は『ミステリーズ 運命のリスボン』。ポルトガル – フランス合作映画。

TV版、各エピソードのタイトルは以下のようになっている。

Episode 1: “The Boy With No Name”
Episode 2: “The Count of Santa Barbara”
Episode 3: "The Enigma of Father Dinis"
Episode 4: "The Crimes of Anacleta dos Remédios"
Episode 5: "Blanche de Monfort"
Episode 6: "The Vengeance of the Duchess of Cliton"

EP1ではキリスト教の寄宿学校でJoão (João Arrais)とだけ呼ばれて、裏で私生児って蔑まれている少年が喧嘩した後、ベッドに横たわり動けなくなっている時に幻影なのかなんなのか母のような女性を見て、Father Dinis (Adriano Luz)が彼の傍らで、彼の出生の秘密と母の禁じられた恋を語って、彼が実はPedro da Silva、であることがわかる。

冒頭でイギリス人の婦人から、この子はちっとも動かないのね、って言われてスケッチされたPedroのドローイングと彼の母が部屋に残していった人形劇の舞台装置 - 場面が切り替わる際、紙人形が現れて動いたりする – を起点に、名前も色もついていない人の像とその背後の糸が選り分けられ束ねられてぎこちなく動き出す。

EP2以降のタイトルには主要登場人物の名前が入っている。

EP2では、Pedroの母Ângela de Lima (Maria João Bastos)がお金と家柄のためにThe Count of Santa Barbaraと無理やり結婚させられることになることと、その裏でPedro da Silva(Pedroの父)と密会を重ねてPedroとなる男の子を身籠り、その子を救うためにFather Denisが立ち回りやくざのKnife Eaterと裏取引をして生まれてすぐ殺される運命にあったPedroを救出したこと、Pedroの父は怪我を負ってFather Denisの腕のなかで息絶えたこと、やがてThe Count of Santa Barbaraが亡くなったのでその遺産も継いですべて安泰、と思ったらママは修道院に入る、っていったのでPedroはショックで..

EP3では、PedroやÂngelaの保護者としてどこからともなく現れて暗躍するFather Denisの出生の秘密とかつて取引をしたKnife Eaterが今や謎の富豪 - Alberto de Magalhaes (Ricardo Pereira)として貴族社会に入りこんでいることなど、いろんな因果が明らかにされる。

EP4では、Ângela de Limaが入った修道院で再会した親友の修道女とFather Denisから彼女の母であるAnacleta dos Remédiosの犯した罪と償い、妹とFather Denisの悲恋の話を聞く。

EP5では、Alberto de MagalhãesのところにフランスからElisa de Montfort (Clotilde Hesme)が現れて彼への復讐に燃えているようで、そこでまたFather Denisが現れて彼が若い頃に滞在していたフランスで巻き込まれたElisaの母Blanche de Montfort (Léa Seydoux)の恋 - 相手はLacroze (Melvil Poupaud) - とその悲劇的な結末を語る。

EP6では、詩人として成長したPedro da Silva (Afonso Pimentel)が現れてEliseと恋に落ちて、Alberto de Magalhaesとの決闘をすることになり、Eliseの業の深さを思い知り、更に母Ângelaの死を知ってすべてが嫌になってタンジールに渡り、最後はブラジルに流れ着いて、これまでのことを回想していくの。

こんなふうに、ある人の名前とか面影を起点として貴族社会の表面を漂う人物の背後に広がる無数の糸や闇や歪みを表に出す。大抵の恋は叶わなかったり引き離されたり破れたり壊されたり葬られたり、大抵の人は死んだり殺されたり修道院に入ったり恨みを抱えたままだったり後悔に苛まれていたり、そうやってその最期を知る人(ほぼFather Denis)がその顛末を、彼の胸元でこと切れた最後の吐息と共に表に出す。そうやって見いだされる時間といろんな人たちの顔、それらを貫いてある色恋のあれこれ。あの人形劇を動かして操っていたのは誰だったのか?  神でも悪魔でもなく、それはミステリーと呼ぶしかない不思議さと生々しさでそこにあった。みんな亡霊、なのかもしれないけど、彼らは間違いなく生きて恋をしていたのだと。

この原作の60年後くらいにコンブレーを舞台に膨大なオムニバスミステリー/メロドラマを書いたのがプルーストで、Raúl Ruizはこちらも映画化しているの - “Le Temps retrouvé” (1999) - 見てない。見たい。

とにかく美術が美しくて、リアリズムに徹しているようで、でもパーティのシーンで見つめ合うふたりが浮かびあがってすーって滑っていくとことか、鏡の奥にぼうっと髑髏が浮かびあがったりとか、細かいところで目を離せない。

最初に映画版を見たときはまだリスボンは行っていなかった。リスボンに何度か行った後で見ると違って見えるかしら? と期待したけど、そこはあまり関係なかったかも。


6月15日から生活必需品でない(non-essential)ものを売るお店をオープンしてよいことになったようなのだが、ルールがなんだかめんどくさそう。本屋のWaterstonesも開くっていうけど、客がいちど手に取った本は、棚に戻す前に72時間検疫の時間をもうける、って…
レコード棚でぱたぱたやったらその箱ぜんぶだめになっちゃうの? 72時間? ... 手に取ったら迷わず買えってこと?   

5.25.2020

[film] Les choses de la vie (1970)

18日、月曜日の晩、Film ForumのVirtual Cinemaで見ました。この日、Michel Piccoliの訃報が届いて、なにか見たいな、と思ったら丁度Film ForumのRomy Schneider特集の1本としてかかっていた。
英語題は”The Things of Life”、邦題は『すぎ去りし日の…』。原作は Paul Guimardの同名小説で、ルイ・デリュック賞を受賞している。

冒頭は道路脇の交通事故現場で、タイヤがふっ飛んでて、突っ込んだ車と一緒に木が燃えてて、死んでるの? 生きてるの? という声と、その場にいた人たちの証言などが聞こえてきて、車の外に放り出されてかろうじて生きているっぽいPierre (Michel Piccoli)の頭のなかなのかフィルムと時間が逆に回っていって車が雨の道路を逆走して走り始めた地点で止まる。

ここからPierreが恋人のHélène (Romy Schneider)と過ごした甘い日々と、これからHélèneとどうしていくのか関係を続けるのかやめるのか、そこからどこかの地点で放り出してしまった妻Catherine (Lea Massari)や息子Bertrand (Gérard Lartigau)とのこと、事故の現場で救急車の到着を待ちながら秒単位で死に向かっていく時間と、そこからランダムに戻っては戻って回転していく過去の時間を交錯させつつ、”The Things of Life” - 生活の中にあるもの - を拾いあげていく。事故現場の上空でPierreのでっかい走馬灯が回っているようなかんじ。

自分と比べて若くて輝いているHélèneを見つめつつ自分に彼女を愛する資格はない..  ってその反対側で自分の家族のことも思って、Hélèneに宛てた手紙を書いていたことも思いだして、なにやっているんだろう? なのだが、ああもう体が動かないわ..

いろんなシーンをジャンプしつつもカメラは常に事故現場に戻っていって、それがPierreの朦朧だったりとびとびだったりする意識の流れと同期しているようで、終盤はそれが決意を胸に車に乗って夜明けの道路を(死=破滅に向かって)疾走する車とPierreの焦燥に収斂していく。 のだが草の上に横たわって動けないけど意識はあるらしいPierreの容態から想像できるであろう悲惨さ、悲壮感には繋がっていかない。 寧ろユーモラスに記憶の断片を拾い集めて転がしているような。どーしようもねえな、はは..  って。

救急車で病院に運ばれてからは、どうなるんだろう? 助かるのかな? なのだがここでの映像はそれまでの生々しい記憶から少しずつ離れていくようで、ああ、って思っていると。

訃報を聞いたその晩に見ると、どうしてもMichel Piccoli自身の死について想ってしまう。彼はその最期にどんなことを考えたり思い出したりしたのだろう? どの映画のどんなシーンを? 監督は? 女優は?

わたしにとってのPiccoliって、ほんとうに普通の、典型的なフランスのおじさん(胸毛もうもう)男優で、思い浮かぶ映画も『美しき諍い女』から『パッション』から『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』から『ロシュフォールの恋人たち』から『軽蔑』から、ほんとにスタンダードどまんなかだと思うのだが、並べてみればこれはこれですごいな、って。

ここんとこ自分も歳をとって、どこでどんなふうに死ぬのかしら?  とか思うようになってきたのだが、想像しただけで怖ろしいのは、死の間際 - 意識が途絶える手前で、ほんとにくだんないどうでもいいこと - それこそ書くのも憚られるようなしょうもないことが頭に浮かんで離れなくなってしまったらどうする? っていうことなの。 そんなの抱えてゲートに立ったら神さまはぜったい天国には行かせてくれないようなひどいやつ。

映画を見たあと、映画のなかでは使われていないのだがRomy Schneider & Michel Piccoliによるデュエット - ”La chanson d'Hélène”を聴いてしんみりした。 これもよいし、劇中で流れるPhilippe Sardeの音楽もよいのだが、頭のなかで流れていたのってBryan Ferryの“Can't Let Go”しかありえないのだった。


連休が終わっちゃったよう。って書くとこれに続くのは会社行きたくないよう、だったのだが今は会社には行っていないので、シンプルに仕事したくないよう、になるの。 いじょう。

[film] Min and Bill (1930)

17日、日曜日の昼間、Criterion ChannelのFrances Marion特集で見ました。
Lorna Moonの原作をFrances MarionとMarion Jacksonの女性ふたりが脚色していて、”Dinner at Eight” (1933)でも強烈だったMarie DresslerとWallace Beeryのふたりが主演している。
邦題は『惨劇の波止場』 .. いやいやいや。泣ける母娘ものなのに。

波止場で飯呑み屋旅館をやっているMin (Marie Dressler)がいて、漁師のBill (Wallace Beery)はそこの常連で、ふたりはしょっちゅう言い合いをしつつも仲良くやっていて、MinはNancy (Dorothy Jordan) っていう娘 - 実の娘ではない模様 - を育てていて、Nancyには学校から日頃のつきあいからとりわけ厳しく口やかましくて、Nancyによい教育を受けさせるのに必死のようで、その甲斐あって彼女はよい学校に進んでそこでよいお家の男子と結婚するところまで行く。

のだが、Minのかつての仕事仲間であばずれのBella (Marjorie Rambeau)がMinのところに現れて、どうも彼女がNancyの実の母親で、MinはNancyを惡母から遠ざけて守ろうとしていたのだ、ということがわかって、でもめでたいNancyの結婚式の当日にBellaが現れて、あたしの娘がなんてめでたいこと .. これであたしもお金持ちの仲間入り、とか言っているので、ふざけんじゃねえよ、ってMinは銃を..

Minが最後にNancyに見せるいろいろ混じった笑顔がすさまじく泣けて、結婚式当日に花嫁を遠くから見守ることしかできない母って、”Stella Dallas” (1937)にもちょっと似ているかも。細かい設定はあれこれ違うけど。 泣くのはいつも母親で、父親の方はいい気なもんなのね。

とにかく始終酔っ払っているようなMarie Dresslerの演技がすさまじいこと。 これでオスカーの主演女優賞に輝いているの。


Blondie of the Follies (1932)

19日、火曜日の晩、これもCriterion ChannelのFrances Marion特集で見ました。
監督はEdmund Goulding、名編”Grand Hotel” と同じ年、続けて撮ったのがこの作品。軽く作りました、てなかんじなのだが十分におもしろいの。 日本では公開されていない?

Blondie (Marion Davies)とLottie (Billie Dove)のふたりはずっと親友で、Lottieがブロードウェイの踊り子をしててお金儲かるしいいわよ、っていうので口きいて貰って舞台で踊り始めたら頭角を現して豪華なアパートも手に入れたりしていくのだが、Lottieのお気に入りでお金持ちのLarry (Robert Montgomery)には手を出さないで、って言われていて、でも一回ふたりで呑んだらLarryに火がついちゃったみたいで向こうから追っかけてくるのでどうしましょう、っていう踊りと成功と恋と女の友情が入り乱れて火花を散らすバックステージものなの。

最初の方のBlondieとLottieのアパートの階段のところの取っ組み合って殴り合うとこととか最高で、ストーリー展開は普通かもだけど、Folliesのダンスシーンも含めてまったく目が離せないのと、ラストに仲直りするところの会話の粋で素敵なことったらない。


お買い物で外に出て歩いているとそこらの庭先にばらばらバラが咲いてて、それがいっぱいでいろいろあるのですごいなバラ、って写真を撮りまくっている。 こんなに一編に咲いてきれいって、それが毎年ってなんなの。

5.23.2020

[film] The Long Voyage Home (1940)

15日、金曜日の晩、Criterion Channelで見ました。監督John Ford、撮影Gregg Tolandによる問答無用のクラシック。邦題は『果てなき船路』。

原作はEugene O'Neillによる貨物船Glencairnの航海と船員たちのドラマを描いた一幕もの4本 - “The Moon of the Caribbees” (1918) -  “In the Zone” (1917) - “Bound East for Cardiff” (1914) -  “The Long Voyage Home” (1917) をひとつに束ねたもの、なのでエピソードとしては4つに分かれている(あと第一次大戦期の話から第二次大戦期の話に替わっている)のだが、それがどうした、というくらい同じ船の上のしょっぱ臭い男たちのお話としてひとつにまとまっていておもしろい。

親分というか牢名主みたいなDriscoll (Thomas Mitchell)がナシをつけてきたぜって地元の女たちがいっぱい乗船してきて飲んで歌って踊ってキスして喧嘩してのどんちゃん騒ぎをする導入部で癖のある船乗りたちをざっと紹介して、そこから急落下して嵐の中の作業で大怪我して死んでしまうYank (Ward Bond)の話とか、下船禁止のなかこっそり降りようとしたSmitty (Ian Hunter)が捕まって、おまえドイツのスパイだろ、ってみんなで疑って取り押さえて、彼がひたすら隠そうとする手紙を無理やり読みあげたら、家族との泣けるやりとりだったので全員が気まずくなって、そのあとにようやく陸が近くなったところでドイツ機の襲撃を受けてSmittyは亡くなってしまって、なんとか下船したところでまだこれからのOlsen (John Wayne)を故郷のスウェーデンに帰してやらなきゃ、って、でもみんなでじゃあお別れの一杯を、いやほんと一杯だけだから、ってやっているうちにぐでぐでになってOlsenも潰されて悪徳貨物船に連れ去られそうになったところでみんな得意の大喧嘩で蹴散らして、でもDriscollだけタイミング悪くて。

最初のふたつは古典絵画のような陰影に溢れていて、みっつめは浪花節の叙情と哀切たっぷりで、最後のは落語のどたばたした楽しさがあって、でも最後にDriscollのバカやろ …  ってみんなでしょんぼり呟くの。

陸に居場所がないのでやってきたやつら、船の上にしか居場所のないやつらのいろんな顔とか業が揺れて傾いてやかましい世界の上に長く伸びた影を作って、いつまでも残って消えない。こないだ見た”Wooden Crosses” (1932)の十字架みたいに。


Anna Christie (1930)

16日、土曜日の昼間、Criterion Channelで見ました。
前日の”The Long Voyage Home”からの流れだと、これも原作はEugene O'Neill、彼の四幕ものの同名戯曲で、1922年のピュリッツァー賞を受賞している。もういっこ、前々日に見た”Dinner at Eight” (1933) からの流れだと、Frances Marionが脚色をしていて、忘れがたい脇役としてMarie Dresslerも出てくるの。

波止場の貧乏長屋でご機嫌なおばさんMarthy (Marie Dressler)のところにこれもご機嫌なおんぼろ友達Chris (George F. Marion)が訪ねてきて、飲み屋で飲まねえかって。 Chrisの話を聞くと15年前に別れたきりになっていた娘のAnna Christie (Greta Garbo)が今日ミネソタからやってくるという。

飲み屋にそのままやってきたAnnaはなにやらやつれて引き摺っているふうなのだが、行き場もないのでChrisの船の上で父と暮らし始めて、そこで遭難したところを救助した船乗りのMatt (Charles Bickford)と仲良くなり、明るく気前のよいMattとコニーアイランドでデートしたり、Annaはセーターを編んであげたり、もうこれはあれしかない、ってMattはAnnにプロポーズするのだが、Annaはごめんなさい結婚できない...  って。

”The Long Voyage Home”が船の上でしか生きられない男共のお話だとすれば、”Anna Christie” はそんな男共のロマンだかなんだかに付き合わされて勝手に捨てられた女性の、それでも船の上の男に惹かれてしまう自分や周囲に対するもう何もかも大っ嫌いだ!くそったれー になっていて、これって極めて現代的なテーマだと思うし、いろいろ考えさせられる。

でもMattみたいに上げ下げ激しい男は結婚した途端にDV野郎に変貌して先々の港で女作るし、ひょっとしたらもうどっかにいるに違いないし、やめたほうがいいよ、って。 でも舅が一緒についてくるから大丈夫かな?

これがトーキー初めてとなるGreta Garboはいつものように申し分ないすばらしさ(本作ではオスカーにノミネートされている)なのだが、サイレントの頃から彼女を見ていた人たちは彼女の声がローキーなのに驚いたのだという。スクリーンで喋っている彼女をふつうに見てきたのでそういうことはなかったのだが、驚いてみたかったな。


昨日から英国の上空を冗談みたいな渦渦の雲がぐるぐるしていて(台風ではないらしい)、雲の形がめまぐるしく変わっていって楽しいのだが、天気もめちゃくちゃでお天気なのに土砂降り、ついでに雹まできて風が朝から晩までぼうぼうに吹いている。 ターナーと嵐が丘の国だねえ、って思う。

5.22.2020

[film] Beyond The Visible - Hilma af Klint (2019)

17日、日曜日の晩、BAM (Brooklyn Academy of Music)のVirtual Cinemaで見ました。日曜美術館。

今はいろんな美術館がオンラインで収蔵品を公開していてアクセスできるのだが、美術に関してはやっぱし直に見たいからやっていなくて、美術関連のドキュメンタリーだと、”Lucian Freud: A Self-portrait” (2020)とか、既に見た展示に関する奴を見ている程度。何が言いたいかというととっても絵と対面したい。4月初でチケットを取っていたゲントの”Van Eyck. An Optical Revolution”が見れなくなった(中止だって)のは本当に悲しい。

Hilma af Klint (1862-1944)はスウェーデンの女性画家で、海軍士官の裕福な家庭に生まれ、スウェーデン王立美術院で学んで肖像画や風景画の世界ではそれなりに認められ、その後1900年前後から抽象画 - 彼女はそう呼んではいなかったが - を描き始めて、没後に1500枚の絵画と、26000ページに及ぶ文書・メモが遺されていることがわかった。

映画は彼女の生い立ちと遺族(彼女の甥の息子やその妻)の証言、20世紀初の世界観の揺れと抽象絵画の創生、彼女の作品を併行して追いながら、彼女の絵画のエッセンスと何故彼女は抽象画壇(みたいのがあるとして)から一切無視されたままで来たのか、を描いていく。美術ドキュメンタリーとしてとにかくおもしろい。

最近のドキュメンタリーとしては”Bombshell: The Hedy Lamarr Story” (2017)、”Be Natural: The Untold Story of Alice Guy-Blaché” (2018)に並ぶ、女性を無視/軽視して(男性によって)書かれてきた歴史に対する異議申し立て。 こういうのはもっともっと出てくるべき。

2012-13年にMoMA – “モダンアートのヴァチカン” – で開催された展示 - ”Inventing Abstraction, 1910–1925”にも彼女の絵も名前もなくて、でも彼女の絵画との対比でJoseph Albersが、Paul Kleeが、Cy Twomblyが、Andy Warholまでもが引き合いに出されて、彼女は彼らの構図やモチーフとそっくりの絵を1910年代の時点で既に描いていたりする(映画の中で実物が対比されるのだがびっくりよ)。もちろん偶然、はい偶然、なのだろうが、今のモダンアートの世界でこういうの発見されたら「知らなかった」では済まされず即座に抹殺されるよね。

そしてそれが偶然でもなさそう、ということが、彼女が後の抽象画家たちと同様の問題意識や世界に対する時代の目をもって絵画を創作していたことが、遺されたメモや絵画から明らかになっていく。19世紀末の科学の進歩 - 不可視の領域で起こった数々の新発見 - によって我々の見ている世界、我々がリアルだと思っている世界が一枚板ではなく、その背後の闇や隙間にある無数の数理や定理によって、偶然のようなバランスによって統御されていることを知ったとき、画家は世界になにを見る/見ようとするのか - “Beyond Visible”。これはもちろん、絵画の世界だけで起こっていたことではないし男性だけがそれを知っていたというわけでもないし。

彼女が最初に描いたとされる抽象画は”Primordial Chaos” (1906)、その前後の絵画のタイトルだけ並べてみても”Radiowave” (1889), “X-Ray” (1895), “Quantum Theory” (1900), “Relativity Theory” (1905) - などなど。 光は波 (wave)であり同時に粒子 (particle)でもある、という当時の発見に触発されて何枚も描いている。 でも画家は科学者じゃないんだし? はぁ? ダヴィンチは?

彼女の探求の熱を当時の画壇では受け入れようがなくて、やがて彼女は神智学を見つけて、Rudolf Steinerにも会いに行くのだが断られている(Steiner、Kandinskyには会ってあげるくせにさ)。そっちの方に行っちゃったのなら違うんじゃないの? はぁ?  Kandinskyは? Malevichは?  Mondrianは?   女性だと絵画ではなくてお絵かき(お絵かきごめん)とかポエム(ポエムごめん)みたいな扱いにされちゃうってこの頃からなのね。

Kandinskyが「パブリシティ」という言葉まで使って太鼓鳴らしてアメリカの方に自身の「抽象絵画」を売り込みに行った(J.B. Neumannへの手紙)のに対し、行き場を失った彼女は創作を続けながらも田舎に隠遁してそのまま。 70年代に遺族が美術館に個展の申し出をしても見もせずに即座に断られている。

実物を見れていないのがとっても悔しいのだが、映画の中で見る限り彼女の絵はどれもすばらしそうで、名誉回復とまで行かなくても、普通に認知されて見られるようになってほしいし見たいし。 歴史の書き換え? そんなのすればいいじゃん。 Guerrilla Girlsの例の美術業界における男性偏重主義についても言及があるのだが、そういうことなのだとしたら(そういうことなんだろう。見たくない考えたくないんだろう)あーあ、だわ。 誰に文句言ったらいいのかわからんし。

早く美術館いきたいなー。 今日、Rijksmuseumは6/1から開くってメールが。

三連休だよ。

5.21.2020

[film] Dinner at Eight (1933)

14日、木曜日の晩、Criterion Channelで見ました。George S. KaufmanとEdna Ferberによる同名戯曲をFrances MarionとHerman J. Mankiewiczが脚色してGeorge Cukorが監督したもの。こんなの見るしかない。邦題は『晩餐八時』。

Cukorにとって最初のMGM作品で、MGMとしては”Grand Hotel” (1932)に続くオールスターキャスト映画である、と。 あのすばらしい”The Women” (1939)との繋がりでいうと舞台版の原作(by Clare Boothe Luce)に今作のGeorge S. Kaufmanがリライトで加わっていた(という話が国書刊行会のキューカー本 – こっちにも持ってきた - に出ている)。

いまのこんな時期、籠ってこういうクラシックばかり見ていたいのだが、あまりに世間にずれてしまうのもよくない気がしてたまに新しめのとかドキュメンタリーとか見る。けどこういうのに出会うとこれだけで十分じゃないか、って。だってまじでほんとにおもしろいんだもの。

舞台はNYなのに摩天楼も公園も劇場もバー出てこなくて、替わりにホテルの部屋、オフィス、おうちの中、最後に小さなパーティ会場などを繋いで繰り広げられるドラマ。

NYの海運業の大物Oliver (Lionel Barrymore)と社交大好きMillicent (Billie Burke)の夫婦が晩餐会を企画してて、英国の大金持ちFerncliffe卿夫妻が来てくれるわ!ってMillicentははしゃぐのだがOliverはそんなことより自分の会社が大恐慌の大波で傾きかけているのが心配でなんか体調もよくない。

それからOliverは、ヨーロッパから戻ってきたばかりの伝説の大女優Carlotta (Marie Dressler)を呼べないか、と。彼のオフィスに現れたCarlottaは見事に落ちぶれて昔の栄華の話しかせずに株とか宝石を売ろうとしているのだが、彼女が持っていたOliverの会社の株も実は不況すぎて売れなくて、他方でがめつい投資家のDan Packard (Wallace Beery)はOliverの会社の乗っ取りを企んでいて、やんちゃな妻のKitty (Jean Harlow)と一緒に晩餐会の招待を受けとる。

Millicentはもう一人、サイレント映画時代のスターLarry Renault (John Barrymore)を招いたのだが彼のホテルの部屋にいたのがMillicentたちの娘のPaula (Madge Evans)で、Larryはもう3回の結婚全部失敗しているし君はまだ若いのだから、とやさしく諭すのだが、Paulaはめろめろで聞く耳もたないの。ヨーロッパから婚約者が戻ってくるというのに。で、そうやっている様子を同じホテルに滞在していたCarlottaに見られてしまう。

下品でがさつな夫にうんざりのKittyはかかりつけの医者のWayne (Edmund Lowe)に恋していて、彼の妻Lucy (Karen Morley)もそれを知っているのだが、具合が悪くなったOliverが担ぎこまれてきたのでそれどころではなくて、診察したら彼は冠動脈血栓症であまり長くもたないかも、って。で、それをMillicentに告げると主賓のFerncliffe卿から晩餐のキャンセルをくらったばかりの彼女はしにそうになる。

晩餐会じゃなくてワシントンD.C.に行きたいDanとKittyは行く行かないで喧々囂々の大げんかして結果Kittyが勝つのだがこの喧嘩シーンのすさまじいことおもしろいことときたら。

Larryはマネージャーと彼が連れてきた大物プロデューサーとも大げんかして縁切られて、ホテルからも出て行ってほしいって言われ、ひとり静かに部屋の隙間を詰めてガスの栓をひねる(自殺を決意した彼が横たわるまでの一連の動作がとてつもないの。大スターなの)。

こんなふうにMillicentが思い描いていた理想の晩餐会はその日その時に向けてがらがら崩れていって、ひとりひとりもそれぞれの事情を抱えてぼろぼろだったり暴発寸前だったり(色恋してもどうにもならん)、しかも大恐慌でうんざりぐったりで、いややっぱりこんな時だからこそ、と愛想笑いと共に開こうとした晩餐会が更にみんなを右往左往させて、悲しい事故も起こるのだが、とにかく最後の最後に晩餐会は開かれる。

え? 開かれちゃうんだ? って思うのだが開かれることで、別のなにか – それがソサエティっていうもの? - が現れてひとりひとりの顔が違って見える気がするおもしろさ。これって”The Women”にもあった、小さなサークルの小競り合いがある点を越えたら鮮やかにひとりひとりの顔色を変えしまう魔法で、それがアンサンブルの魔法であることをちっとも感じさせないという点において魔法としか言いようがない。

最後にみんなに向かってKittyが最近読んだ本に書いてあったんだけど - 今みたいに機械化が進んでいくと人間はいらなくなっちゃうみたいよ、って。 Carlottaが返すその答えが極めて現代的で素敵で、パーティ禁止の今だからこそ見られるべき映画なの。

で、これを見て唸っていたらCriterionでFrances Marionの特集が始まって、いまパーフェクトにはまっている。 原因ふめい。


今週に入ってTVで”Fast & Furious”のシリーズを延々 - なぜか”6”まで、”6”のあとに最初のに戻る - 流し続けていて、なにがおもしろいのかあんまわかんないのだが、なんとなく流している。 やっぱし”5”がいちばん痛快かなあ。

5.20.2020

[film] It Felt Like Love (2013)

13日、水曜日の晩、アメリカのMUBIで見ました。
新作”Never Rarely Sometimes Always” (2020) – VODではもう見れるのね - が話題のEliza Hittman監督のデビュー作。

冒頭、波立つ海に向かって立っているLila (Gina Piersanti)の後ろ姿がすばらしい。波がどどーんてうねって鳴って”Quadrophenia” (1979) 並みに鮮烈で。(あの映画は"Love, Reign o'er Me"だった。こっちは”It Felt Like Love”)

Lilaがこちらを振り向くと顔に塗った日焼け止めのだんだらが白い子供のようで(実際に子供で)、一緒に浜辺にきたChiara (Giovanna Salimeni)とそのBFは彼女の前でずーっとべたべたいちゃいちゃしていて、あたしもなんとかしなきゃ、って(言葉には出さないけど)思いつめてて、Chiaraと一瞬じゃれていた大学生のSammy (Ronen Rubinstein)のところに行って、なめられたくないから表面はつーんとしながら暇だし遊んであげるわよ、みたいなふりをするのだが裏ではどきどきで、そんな彼女のひと夏の冒険。

ブルックリンの外れの住宅や通りの寂れてぎすぎすしたかんじと、ママはいなくてもっさりしたパパとよくできた弟がいて、なにもかもぱっとしないのだが家にいるのは嫌なのでとにかく外にでていって誰かと会ったり、ダンスの練習 - ぜんぜんだめっぽい - に励んだり。

SammyにもChiaraにもLilaの背伸びとか困惑は見透かされて、でもLilaもなんとか意地張りたくて引かないのでSammyの仲間のちんぴらとかやばい連中がなあなあ寄ってきたり、パーティではげろげろになったり誰もがどこかで覚えのありそうな若者のある夏が描写されるのだが、それが至近距離(うんわかるわかるよ)でもなく遠く(あーあなんてバカな娘)でもない距離から捉えられていて、よいの。 ”It Felt Like Love”について「それはLoveだ」とも「そんなのLoveじゃない」とも言わない優しさと慎ましさがあるの。

Lilaがコニーアイランドの観覧車に乗るシーンがあって、これは深く考えず(知らず)に乗るとものすごく怖くて死ぬかと思う(ほんとに。乗ってみ)やつなのだが、彼女はぼーっとつまんなそうな顔をしているのでこいつただものじゃないと思った。

続けて同様に夏の水際でばしゃばしゃする子供達の映画をもう一本。


Transnistra (2019)

16日、土曜日の晩、これもアメリカのMUBIで見ました。
これも女性監督Anna Ebornのデビュー作で、16mmによる撮影も女性。

トランスニストリアっていうのはモルドバの東の川とウクライナの国境のところにあるロシア域の小さな未承認国家で、その地名がそのままタイトルになっている。未承認の国でぼんやりと夏から冬を過ごす若者達のお話し。一応登場する若者たちの名前は本名(ファーストネームのみ)に近いみたいだしドキュメンタリーと分類されているのだが、あるテーマを掘りさげてドキュメントする、というより川や野原で遊んだり廃墟でうだうだしたり、彼らの「なにもしないをする」日々のスケッチ。

出てくるのは16歳のTanyaと他同い年くらいの男子5名で、ばしゃばしゃ泳いだり石を投げたりじゃれあったり見つめ合ったり、誰と誰が好きになったとかできたとかこんどやるとか別れたとか、とにかくすることがなくて、カメラに映っていないところでは「あーつまんねー」「なにするどーする?」を軽く500回くらい言い合っているような、野良猫たち野良犬たちの日々を追っているような。それでも十分におもしろい。本人たちはまったくそう思っていないだろうが。

他には目が不自由で就業資格なしと言われた男の子のこれからどうするんだろう.. とか、Tanyaの家には母親とよくできた弟がいて、弟は(あんな小さいのに..)勇ましく国軍に入隊して家を出て、最後の方ではTanyaも町を出て旅立つ支度をしてて、季節はもう冬なの。

Apichatpong Weerasethakulがアドバイザーとして参加した“Hale County This Morning, This Evening” (2018)にも少し近いかんじ。田舎の孤絶や貧困を「問題」として露わにするのではなく、そこにいる人たちの眼差し、息遣い、家とか部屋に差し込む朝夕の光とかを通して、いるんだよ、って。

アヒルとかねずみ(でっかい)とかカエルとか、動物も出てきてよいの。


夏の日々が始まったようで、午前中は10℃台で寒いくらいなのだが午後になるとあがってきて、15時くらいに25℃くらいまでいって、なんもやるきなくなる。冷房なんてないし。 これが水曜日で、水曜日にこれがくるということの意味、というのはあって、これが木曜日とか金曜日だったらまだなんとか持ちこたえよう、って思うのだが、水曜日にこれはいけない -  これは水曜日病と呼ばれる例の。

5.19.2020

[film] Talentime (2009)

12日、火曜日の晩、日本の「仮設の映画館」の中にあるジャック&ベティ(もう何年も行っていない。行きたいなー)で見ました。

日本でもいろいろ見放題のサイトが出てきていて、そりゃ見たいのはてんこ盛りなのだが、そこまで手を伸ばしていたら時間がいくらあっても足らないのでここしばらくは自分がお世話になった欧米の映画館の支援(一日一本、週末は二本)に集中したい、けどこれだけは見ておきたかった。 邦題は『タレンタイム~優しい歌』。マレーシア映画。

生徒も先生もいろんなのがいそうな学校(高校?)で、毎年卒業前に行われる音楽コンクール「タレンタイム」 - Talent + Timeのマレーシア英語 - の7回目、まずは7人のファイナリストを選ぶオーディションが行われる。このオーディションだけで十分におもしろくて1時間くらいやってほしいのだが、ここで7人が決まり、本番までのリハーサルの間、彼らを送迎するために7人の生徒が選ばれる。

映画はここでファイナリストに選ばれたピアノの弾き語りをするMelur (Pamela Chong)、ギターをじゃかじゃか鳴らして歌って楽しいHafiz  (Mohd Syafie Naswip)、Melurの送迎係になったMahesh (Mahesh Jug al Kishor)とタレンタイム本番まで – リハーサルの期間中に起こるそれぞれの家族のいろんなことを綴っていく。

いつも送迎してくれてありがとうだけどあんたなんで口きいてくれないのよ! で始まった口のきけないMaheshとMelurの恋はそれぞれの家族の違い - いつも賑やかで幸せそうな大家族のなかにいるMelurと母の手ひとつで苦労してきたのであれこれに厳しくて辛いMahesh - を乗り越えてどうなっていくのか。あと成績優秀でひょうきんだけど病院で寝たきりの母を看病しているHafizの親子も。

いろんなところに苦しみや悲しみがある。結婚が叶わないままずっと相手のことを想って独身を通し、やっと結婚することになったら事故で亡くなってしまうMaheshの叔父さんとか、同様にずっとパパを想っているMaheshのママとか、病で苦しむHafizのママとか、楽しそうなMelurの家族のなかで孤独を抱える中国人メイドとか、彼らの苦しみは、なんでこの想いはあの人に伝わらないんだろう? なんでこの痛みは消えてくれないでずっとあるの? どうしてくれるの?  ってひとりひとりの応えのない問い(相手は死んじゃったりしているから)に収斂していって溶けてなくなることはない。苦しみは止まない。まだリハーサルの間だというのにさ。 多宗教、多言語の国で、そのために宗教はあるのだろうしそれぞれ信じている神様もいるのだろうが、それらを通した救いや効能が描かれることはなくて、一緒にいようとかひとつになろうとか臭いことも言わなくて、でも、最後にタレンタイムの発表会がきて歌が。

もちろん歌も音楽も救いになるわけではないし、せっかくの大舞台なのにMelurは歌えなくなってしまうのだが、でも歌は空の上にまで届いてそこにあるの – だから優しい歌。

という誰にも等しく降り注ぐ歌の下によい意味でばらけたいろんな顔がある。笑う顔、おちゃらけた顔、がっかりの顔、心配する顔、怒った顔、泣いた顔、そして人を好きになった顔。それらの顔の集成がタレンタイム、なの。 (自分にとっては)久々で懐かしいアジアの映画の湿り気、そこに浮かびあがるいろんな表情が繊細にとらえられていて、いいなー、ってそればかりだった。 どれも/だれもがみんな”Appropriate Behaviour” なの。

宗教は関係ないみたい、と思ったけど車椅子にのったおっさんと公園であそんでいる子供たち、あれって神様と天使たちだし、叔父さんの結婚式前のやりとりの構図は宗教画、だよね。

いまって誰に対しても優しくならなきゃいけない時だと思っていて、そういう時にこの映画はとってもよいの。(そういう時にまったくしょうもないことしかしないどっかの国の政府はMaheshのママにぼこぼこに叩かれてほしい)

ヨークシャー訛りのMelurのおばあちゃん素敵。


暑さが戻ってきて午後の遅くには25度くらいまでいくようになって、外に出るとなんかの綿毛がいっぱい飛んでいる。なんの綿毛なんだか。 綿毛いいなー。(どこかに飛んでいきたいらしい)

5.18.2020

[film] La Gomera (2019)

10日、日曜日の晩、Curzon Home Cinemaで見ました。ルーマニア映画で、英語題は“The Whistlers”。
関係ないけど、”Whistler”や”Whistlers”が含まれる映画のタイトルってホラーやサスペンスを中心にすごくいっぱいあるのね。

冒頭、ひとり船でどこかの島に向かうハゲの中年男- Cristi (Vlad Ivanov) - がいて、背後にIggyの”The Passenger”ががんがん流れる。島のリゾートっぽい雰囲気とはCristiのくすんだ表情も含めてぜんぜん合っていない。

船が着いたのはカナリア諸島のラ・ゴメラ島(これがオリジナルのタイトル)で、やはり怖そうな男(笑わない)が待っていて携帯もOffにされて、山の上のお屋敷みたいなところに連れていかれ、そこにはぴりっとしたお姐さん – Gilda (Catrinel Marlon)とかどうみてもやくざなおっさんとかがいて、やはり笑わないのでこれからなんかおっかないことをする/されるのだな、と思う。

ここで始まったのはこの島に昔から伝わるシルボ(el silbo gomero)っていう口笛言語のトレーニングで、折り曲げた指を口の中に入れて口笛を吹くのだが、ただの信号とか合図ではなくてちゃんとした文章の伝達までできる(ユネスコの無形文化遺産なのね)。最初は口笛すら満足にできなくて大変そうなのだが、Cristiは怖い人たちに教え込まれながら上達していく。

ていうのと並行して(時系列は遡るのか)、殺伐としたブカレストでCristiのところにGildaが訪ねてきて、監視されているから気をつけろ、ってふたりはコールガールと客の振りをして部屋で会って情報をやりとりし、そういうのからCristiは当局に監視されている警察側にいて、Gilda達マフィアがロンダリングしたお金をどこに隠してどう運ぶのかを捜査している側でもあることがわかる。金の在り処を知ってて拘束されているZsoltをどう使って連中をおびき寄せて潰すのか逃亡させるのかお金を懐にできるのか、最後にCristiはどっち側に転ぶのか殺されちゃうのか。警察側もマフィア側も全員が無表情に仕事してて何考えているのかわからないスリルがあって、そういうとこにマフィア側の通信手段として使われる口笛が鳴り響く。

監視したりされたりし放題だし携帯の暗号化通信だっていくらでも使える荒んだ都市の真ん中で西部劇のインディアンが使うような口笛を使って救出・逃亡劇を仕掛ける(Cristiが捜査側のボス – 女性 -と会って計画にGoを出す映画館でかかっているのが『捜索者』(1956) ってできすぎ)のがおもしろい。夜の闇のなか、口笛を頼りに全員でうろうろして、どっちが敵か味方か背中に気をつけな、って。秘密兵器もないしものすごく強くて鋭い男も宿命の女もいない、こういうところでダブル・エージェントの物語は成立するのか、っていう試みでもあるのか。

やたらマッチョでブルータルになりがちな(気がする)最近の犯罪モノのなかでは静かで口数少なくて爽やかなかんじすらして、悪くなかったかも。

シルボってやってみたいけど、やっぱりスペイン語の文法や単語知らないと無理よね。それ以前にあんな音でないや。


最後に映画館に行ってから2ヶ月が経ってしまった。 WFHが始まってから2ヶ月が経ってしまった。
なんか信じられなくてうう、ってなっているところにBright Eyesの新曲がとってもしみてべそかきながら10回くらい聴いた。

5.17.2020

[film] Secrets (1933)

10日、日曜日の昼間にCriterion Channelで見ました。 日曜昼間のクラシック鑑賞。邦題は『秘密』(以外にあろうか?)。

Frank Borzageの監督作で、1924年に同監督で制作されたサイレント(主演はNorma Talmadge)のリメイク。主演のMary Pickford自身がプロデュースもしている。

東海岸の裕福な銀行家の娘のMary (Mary Pickford)は両親によって英国の貴族と結婚させられそうで、でもそいつがとっても薄らバカっぽかったからあれは嫌だ、って彼女に好意を寄せていた丁稚のJohn Carlton (Leslie Howard)と一緒になりたい、っていうと父親は当然激怒してJohnをクビにして、お別れに来たJohnは西に行って稼いでくるからそれまで待っていてほしい、とMaryに告げると、彼女は待てないあたしも一緒に行く! って馬車に乗って旅立つの。(道中のふたりが本当に幸せそうでねえ)

やがてカリフォルニアの原っぱに家を構えて下男のSunshineと家畜と赤ん坊を得て、でもJohnとSunshineが外出しているときにならず者たちが家にやってきて家畜を持って行っちゃうの。Maryからこれを聞いたJohnは仕返しに出ていって連中の何人かをやっつけて、するとまたその仕返しで連中が家を襲撃してきて、なんとか撃退するのだが、その最中に具合が悪かった赤ん坊は亡くなってしまい、ふたりは悲しみに暮れるの。

時は流れて、ふたりの間には子供が4人できて、Johnは州知事に立候補して立派で幸せそうなのだが、選挙のためのパーティーの場に見るからにって女性が現れて、あたしはJohnの愛人だJohnと結婚させないと選挙に不利な情報を拡散するぞ、って脅してくるの。 Maryはあらお好きにどうぞ、って言うのだがJohnは土下座してごめんなさいして、Maryは許してやるけど過去の交際関係をぜんぶあたしにぶちまけろって。なんか調子を狂わされた愛人側は関係を公表してしまうのだが、選挙はJohnの勝ちで、影響なくてよかったね、と。

更に時は流れて、上院議員としてワシントンD.C.に長いことお勤めしたJohnはまだ定年前だけどカリフォルニアに帰るぞ、って宣言する。 既に大きくなっている子供達はなんで? って言うのだが、これまでに積みあげてきたいろんな秘密を噛みしめる時間がいるんだよ、ってふたりは笑いながら車に乗って出ていっちゃうの。

お話はこんなふうに紙芝居みたいにとんとん進んでいって、なんか軽いし泣かされることもないよね、って思っていたら最後のショットでやられて、じーんとして、更にじわじわくる。走馬灯のように重ねて回して盛るんじゃなくて、たったのひとつで。 憎いったらない。 「秘密」っていうのは暴かれなければいけない不穏ななにか、ではなくて、なんでこのふたりはこんなに楽しそうに幸せそうに笑っているんだろう? っていう問いのなかにあるやつなの。

火の玉のように強くて堂々として負けないMary Pickfordと、出会った頃、蜂に目の周りを刺されて自転車から転げ落ちたりちょっと間抜けで飄々としたLeslie Howardの組み合わせが素敵でねえ。

脚本はFrances Marionさんで、Criterion Channelでは彼女の書いた15本の特集が始まった。たまたま見ていた他のも彼女ので、どれも当たりだしすばらしそうなので、順番に見ていくのが楽しみだわ。


ロックダウン段階的解除にむけたガイドラインが出て最初の日曜日、公園に行ってみるとやっぱり人は増えていて、家族連れも含めてみんなわいわいシートを敷いて転がったり散歩したり楽しそうだった。でも犬の倍くらいいるガキ共がわーわーうるさかったのかリスさんが出てきてくれないのがかなしかった。

5.16.2020

[film] The Strange Love of Martha Ivers (1946)

9日、日曜日の昼間、アメリカのMUBIで見ました。邦題は『呪いの血』… いやいやいやこれホラーじゃないし極上のノワールだし。すごくおもしろいから。 脚本はRobert Rossen。

1928年、ペンシルベニアのIverstownていう町で、13歳のMartha IversとSam Mastersonが列車に隠れてどこかに逃げようとしていて、でも捕まってしまったMarthaは厳格で意地悪な伯母とWalter O'Neil親子の館に連れ戻される。激しい雷雨の晩で、館にMarthaを奪い返しにきたSamと伯母とMarthaの喧嘩と停電の闇が重なったとき、伯母は階段から転げ落ちて死んじゃって、ちょうどSamが去って扉がばたばたしていたので犯人がそこから逃げたのを見ました.. ってMarthaが言うと、Walter Jr. もそれに合わせて、やってきたWalter Sr. はではそういうことにして、これ以上のことは一切言わないように、と子供たちに告げる。

時は流れて1946年、大きくなってちょっとやくざのSam (Van Heflin) がIverstownの近くを移動中に事故にあって車を修理に出して、それが戻ってくるまでの間、懐かしい町じゃねえか、って思っているとちょっと困って途方に暮れている女性Toni (Lizabeth Scott)と出会ってホテルの部屋とか世話してあげて、でも彼女は執行猶予中の身だったので拘束されちゃって、そういえば、って昔馴染みで地方議員になっているWalter (Kirk Douglas) - Walter Sr. は既に死亡 - のところに顔を出して彼女をなんとかしてくれないか、って頼む。

WalterとMartha (Barbara Stanwyck)は結婚して(Walter Sr.によって結婚させられて)いて、でも二人の間の愛はとうに冷めたのか初めからなかったのかWalterは酒浸りで、Walterは28年の伯母の事件のことでSamが彼らを脅迫にきた(事件は別の犯人をたてて解決済みなのだがSamは真相を知っているから)のだと思って裏でいろいろ手を回し、その反対側でMarthaとSamはかつての絆を思いだして取り戻して仲良くなり、その様子を見たWalterは嫉妬に狂ってSamをぼこぼこにして町の外れに放り出し、でもそんなので引きさがるようなSamじゃなかったの。

18年前の事件で、大人達によって大きく狂わされた運命と将来を引きずって未だにぐだぐだの男と女(いちおう夫婦)と、そこに18年前と同じように割り込んできた幼馴染の男、彼が拾った薄幸の女、ヒエラルキーを巡る諦めと執着、再燃した愛と積もり積もった憎しみ、しがらみからの自由への希求 - などなどがいり乱れる四つ巴のドラマで、どうやって決着つけるんだろ、とはらはらして見ていると、やっぱしあれしかないのか..  って。

大人になってから土地の名士として君臨するMartha - Barbara Stanwyckさまと彼女を慕いつつも相手にされないので卑屈になっていくばかりのWalter - Kirk Douglas - これがスクリーンデビュー - のガリ勉へなちょこぶりと、気立てはいいけど怒らせたら怖いぎらっとした流れ者のSam - Van Heflin、これ以上失うものは何もないToni - Lizabeth Scott、全員が見事なくらいその場所から逃れられない、留まらざるを得ないものの哀しみと苛立ちを抱えてどうしようもないくらいそこにいる。
でも全体としてはやはりこれはMartha Iversの魂の軌跡 - “The Strange Love” のお話なのだと思って、彼女を演じられるのはBarbara Stanwyckさま以外に考えられない。

今なら軽くシリーズドラマ化できそうな濃さとヴォリュームだと思うのだが、よく116分に収めたもんだわ。


ロンドンのロックダウンも一部緩和に向かっているようなので、どんなもんかと思って久々にピカデリーの方に行ってみた。 地下鉄もバスもまだがらがらで、街中も一ヶ月前より少しだけ人が出ていた程度。 店が開けば人もやって来るのかしら? まだちょっとイメージできないねえ。

5.15.2020

[film] Le lit de la vierge (1970)

8日、金曜日の晩、MUBIで見ました。MUBIってアメリカとイギリスでやってるの違う(同じのもあるけど)ことに気づいた。これはアメリカのMUBIでやっていたやつ。昼間にCriterion Channelに繋いで、VPNをそのままにしていたらアメリカの方にいってた模様。

Philippe Garrelのモノクロので、英語題は”The Virgin’s Bed”、邦題は『処女の寝台』。

まだ若くていろいろ悩んでいるらしいキリスト(Pierre Clémenti)とマリア - キリストのママ・マリアとマグダラのマリア (Zouzou) - がいて、マリアは横たわっていたり部屋で座っていたりあんま動かず、キリストは白の聖衣を着て原野をロバで行ったりうろうろして(どこでなにをしたいのかわかんないけど)絶叫したり錯乱したり苦しんでいるっぽい。でもなかなか解決しないのか納得いかないのか、ママのとこに行ったりマリアのとこに行ったりして何か言われるとまた外に出ていく。前半はこちらに向かってくる姿が多くて、後半は向こうに遠ざかっていく姿が多い(気がした)。

ふたり以外にはロバの行軍にちょっかいを出してくる若者たちとか、拷問や虐殺が行われている洞窟とかが出てきて、そういった野蛮で荒れた俗世間の原野や水辺を痩せこけて悶々したキリストがぜんぜん懲りないふうに進んでいく。モノクロのスクリーン上に描かれる受難図。コントラストと構図、カメラのゆっくりとした動きがすばらしくて、窓の小さな四角の隅に小さく映りこむキリストの顔まできちんとわかる。シンプルで、でも世界の全体を俯瞰できるような強さがある。

基本は、他のガレルの映画とおなじく、個人の悩みなんて個人の悩みなんだから知るかボケ - 勝手に叫んで泣いてろ、っていうのを天下のキリストさまにもぶっつけているのが痛快なの。キリストさまも悩んで大きくなった、のではなくて、割とどうでもいいことで悩んだり叫んだりしてて、なかなかうざかったのね、って。

Zouzouが素敵で、お腹の大きいマリアが、キリストに「行きなはれ」って言った後にぴょん、て立ちあがって踊る瞬間がすばらしい。彼女が横になっている映画というと断然“Love in the Afternoon” (1972) - 『愛の昼下がり』のChloéだよね。(こっちの方が後なのか)


L'amant d'un jour (2017)

9日、日曜日の晩、MUBIで見ました。こっちはイギリスのMUBIでやっていたやつ。
英語題は “Lover for A Day”、邦題は『つかのまの愛人』。

撮影はRenato Berta、脚本にJean-Claude Carrièreが参加している。
La jalousie (2013) 『ジェラシー』- L'ombre des femmes (2015)『パリ、恋人たちの影』に続く愛の(不毛?)三部作の最後の1本なのだそう。(前のふたつ、もうすっかり忘れているわ.. )

冒頭、学校の倉庫の暗がりのようなところでセックスする中年のGilles (Éric Caravaca)と若いAriane (Louise Chevillotte)がいて、続けて道端でひとりわーわー泣いているJeanne (Esther Garrel)がいて、彼女がひくひくしながらアパートに入るとそれはGillesとArianeが一緒に住んでいるところで、JeanneはGillesの娘で、JeanneとArianeは同い年なのだった。

Jeanneはずっと一緒だった恋人にふられたって飛び出してきたところで、Gillesの家のソファで寝泊まりしながらArianeとそれぞれの恋のこと過去のこと性欲のことなどいろんなことを話して仲良くなっているようななっていないような、併行してGillesとArianeの関係の揺らぎとかJeanneの彼との復縁とか、結婚のような永続的ななにかなんてまったく視野に入ってこない関係の断面が描かれて、それはどんな修羅場を呼びこんでも、悲惨な状態になっていってもべったりすることはない。

どれだけ強く熱く愛していてもセックスしても愛の孤独はひとが孤独である限り(そしてひとは孤独なものなの)絶対に癒されたり解決したりするものではないのだ – 相手がどこかに行ってしまっても死んでしまっても自分が死んでしまっても - ていうのがガレルの愛に対する態度で接し方で、そしてそれは孤独のありようがそうであるように永遠にそこにあって、そんな永遠についてはそのまわりをダンスするしかないのだ、って。 なのでいつものガレル作品のようにダンス・シーンが圧倒的によくて、ここに生も死も愛も別れもぜーんぶ入っている。

3部作のなかでは一番好きなやつかも。


ここ数日間、頭のなかでずっとぐるぐるまわっていた曲がCamera Obscuraの”Lloyd, I'm Ready to Be Heartbroken”と"Let's Get Out of This Country”で、後者はほんとに心の底から歌っていた。 できることなら亡命したい。 あんなクソ以下の政治家たちが自分たちの好きなようにやりたがって、それが許されてしまうような国に暮らすのはいやだ、出よう。 家出、脱藩、亡命、なんでもいいから縁を切りたい。切らせて。

5.14.2020

[film] The Whole Town's Talking (1935)

8日、金曜日(この日はBank Holidayでお休み)の昼間、Criterion Channelで見ました。
英国でのタイトルは“Passport to Fame”、邦題は『俺は善人だ』。めちゃくちゃおもしろいねえこれ。

広告会社で遅刻しないで皆勤していることだけが取り柄の真面目事務員のArthur (Edward G. Robinson)が目覚まし時計の故障で遅刻して唯一の取り柄を失ってしまうのが冒頭で、その日新聞を賑わせていたのが凶悪な"Killer" Mannion (Edward G. Robinson – 二役)の脱獄の件で懸賞金がかけられてて、その写真を見た同僚がこれ、Arthurにそっくりじゃね?って、本人も否定できないくらいなのだが、そのまま町を出たら彼を見た市民が通報して警察に引っ立てられ、一緒にいた同僚のBill (Jean Arthur)も捕まって、なんとか誤解は解けるものの紛らわしいので「わたしはMannionではありません」パスポートを持たされることになる。

釈放されて戻ったら新聞でArthurのことを知ったMannionが彼の部屋でおっかない顔で待ってて、パスポートをよこせ、って夜間の出入り用に持って行っちゃって朝になると返す(夜が明けるとその間に彼の起こした事件が.. )。気弱なArthurは震えあがって、でもなんもできなくて、でもそのうちArthurが今回の件についてコメントする新聞記事が警察とMannionの両方に疑念を巻き起こして、MannionはArthurの周りのBillとかおばさんとかを人質にして、警察は銀行に包囲網敷いて、どっちがどっちだの大騒ぎに発展していくの。

ふつうだと凶悪犯と瓜二つだったが故に事件に巻き込まれてしまう男の不条理悲喜劇(悲惨なのは当人のみ)、になるのだろうし、Edward G. Robinsonの雰囲気や顔の造作はもろにこのダブルA面(or B面?)ドラマにはまっているのだが、ここでおもしろいのが会社なんていつだって辞めてやるわよ、ってやたら威勢のいいBill姐さんと、逆に会社の仕事さえしてくれればそれ以外のことはどうでもいい、のArthurの堅物上司と懸賞金欲しさにArthur/Mannionを追っかけまわす市民とかが、(彼らの素性故に)いちいち場面場面に挟まって絡まって、しつこく引っ掻きまわすのでどっちに転ぶかはらはらしっぱなしで、結果的にはスラップスティック・コメディみたいになっているの。その時にEdward G. Robinsonはどっち側のどんな顔をするのか。

ドラマとしておもしろいのは、ArthurとMannion、このそっくりな二人が衝突してとってもやばい事態になったとしても、それは起こるべくして起こっただけで、まんなかの二人も周囲の連中もその挙動振るまいを何一つ変えないところ。Mannionは凶悪犯のまま、Arthurは生真面目会社員のまま、彼らの周囲の連中もそのまま、それぞれの役割に忠実に立ちまわって動いているだけで落語のように冗談のように事件は解決してしまう。こういうドラマに求められる主人公の一念発起とか勇気をだして一か八かの瞬間は最後まで訪れないの。唯一あるとしたらArthurとBillのロマンスか。 まるで手品みたいなの。なんだこれ? って。

これと同じような設定のどたばたドラマ/コメディって他にもあるのだろうけど、いっこ思いだしたのが”Desperately Seeking Susan” (1985) - 『マドンナのスーザンを探して』。これは日常にうんざりした主婦(Rosanna Arquette)が新聞の尋ね人欄を通してちょっと首突っこんでスーザンになりすましてみたら巻きこまれてぜんぜん関係ないのにえらい目にあって、でも結果めでたしめでたしになるやつ。

いまCriterion Channelに入っているJohn Ford - あと2つ?  もっと見なきゃ。


店先に白アスパラがでて、さくらんぼがでて、アプリコットがでて、桃がでて、とうもろこしがでてきた。 毎日八百屋に行っているとわかるの。 当たり前かもだけど、なんか得意になるの。(会社いきたくないらしい)

5.13.2020

[film] Appropriate Behaviour (2014)

5日、火曜日の晩、BFI Playerで見ました。子供の日とかにちょうどよいタイトルかと思って。

“The Miseducation of Cameron Post” (2018)が日本でも少しだけ話題になったDesiree Akhavanさんの長編監督デビュー作。彼女がストーリー書いて監督して主演してNYで撮った英国映画。低予算の手作りながら同年のサンダンスでは話題になって、次作の”The Miseducation.. ”ではいきなりChloë Grace Moretzが主演やるって言ってきたのでものすごくびっくりした(と監督本人が言っていた)。 あと、この作品でストーリーを一緒に書いてプロデューサーもしているCecilia Frugiueleさんとのコンビは”The Miseducation.. ”でも続いていて、このふたりの粋なバディっぷりときたらたまんないの。

よくわかんないけど配信サービスでは『ハンパな私じゃダメかしら?』っていうタイトルで見れるの?

ブルックリンに暮らすShirin (Desiree Akhavan)はある晩一緒に暮らしているGFのMaxine (Rebecca Henderson)と大喧嘩して飛びだしてホームレスのジョブレスになって、どうする?の彷徨いが始まる。どうにかして幼稚園で5歳くらいの子たちを相手に映画作りを教えるクラス(いいなー)を任されるのだが、ガキ共はめちゃくちゃだし、どこ行ってなにやっても外しまくってぼろぼろで、イランからの移民で裕福な両親は娘がまさかそんな状態だとはちっとも思っていない(彼女がレスビアンであることすら知らない)。

女性でお国はイランでムスリムでゲイで家も職も不安定、というぐるぐる多重苦でしんどいShirinがこの社会(ブルックリンだけど)で Appropriate Behaviourを保ちつつ(保てないけど)やっていくのはこういうことなのだ、ていうスケッチ。 これらを主人公のやや入り組んだバックグラウンド - “Appropriate Behaviour”を浮かびあがらせることが容易なフェミニズムや宗教といった枠は背景のひとつでしかない - を除いて単純化してみると、手痛い失恋を機に理想の愛と相手を探し求めて諦めないでじたばた、というromcomの範疇に入ってくるお話で、先日見た”Romantic Comedy” (2019)にもほんの一瞬出てきたりする。

”The Miseducation.. ”もそうだったけど、どこにも居場所がない、どこに行っても仲間外れ、でしょんぼりと視野狭窄おこして消えたくなるか、やけくそ起こして犯罪でもやったるか、になるところでどちらかというと後者に近いけど、ぜんぜんめげなくて、かといって自虐ネタになることもなく、それが基本ですがなにか?  みたいにつーんとしている。実際にそうやってきたんだろうな。それをそのまま4トラックのカセットで一発撮りしたかのような、生々しいデモのような力強さがある。 ”The Miseducation.. ”の上映後のQ&Aで、主人公たちのその後について、「未成年のホームレスのゲイとして扱われるに決まってるでしょ」ってさばさば答えていたあの強さはここにあったのか、って。

なのでこの作品が多くの人に愛されて評判を呼んだ、というのはなんだかとってもよくわかる。見方によってはものすごく悲惨な話のようなのに、まったくそうは見えず/見せずに笑っちゃえ、それもやけくその大笑いじゃなくて、はは..  くらいのやつ。

これ、男性を主人公にしたらどうなっていただろうか、例えば”Midnight Cowboy” (1969)あたりと比べてみて、この50年間でなにが変わったのか - 変わってないのか、考えてみるのはおもしろいかも。

あとは、ヘテロでホワイトだけど弾きだされた女子の彷徨い、という点では”Lola Versus” (2012)とか“Frances Ha” (2012)といったあたりと、ブルックリンやLower Eastという土地の空気とか、いろいろあるなー。


猫も杓子もNew Normalとか、もう元には戻れないとか言っているのだが、だから無理して戻らなくていいのに。 この状態で会社に戻っても会社のためにネジ巻いてお金稼ごうなんて気にならないよね。自分だけじゃなくて世界じゅうみんなそうなんだから、今年の残りはみんなだらだらお散歩して過ごせばいいのに。(いろいろやるきゼロらしい)

5.12.2020

[film] Diana Kennedy: Nothing Fancy (2019)

3日、日曜日の晩、Curzon Home Cinemaで見ました。英国でよいドキュメンタリーを沢山出しているDogwoofの配給。
(ロゴがばうばう!って吠えるのがよいの)

Diana Kennedyさんは1923年に英国で生まれたシェフ - 料理研究家で(今は97歳)、特にメキシコ料理の世界では料理本を出して、TVにも出ているし、2014年にはJames Beard Cookbook Hall of Fameを受賞している。 名前を知っているくらいだったけど、こんな人だったのかー、って。

英国のエセックスで生まれ、第二次大戦の時は戦場に行って不在となった男性達の替わりに林業をする女性の市民組織に入って、そこからカナダに行っていろんな仕事をして、57年に滞在していたハイチでNY Timesの中南米特派員だったPaul P. Kennedyと出会って結婚してMexico City駐在となって、そこからメキシコ料理の世界への旅が始まった、と。

90を過ぎた現在もひとり車で町に出て行って、マーケットでいろんな食材を見て調べて持ち帰って、という様子が描かれる。彼女は50年代からそんなふうにメキシコ各地、奥地に赴いて、土地によって異なるスパイスや食材や調理方法を調べて写真や文章にして、ていう文化人類学者みたいなことをしていって、65年に夫と共にNYに戻って69年に夫を癌で失うと、することがなくなったのでアパートの台所でメキシコ料理のCooking Classを始めて、それが評判になったので本に纏めて、本が増えたらTVに出るようになって、その間も現地で調べることは継続していった。

こういうのを50年以上続けている彼女はすごいのだが、それを続けさせてしまうメキシコ料理の方もすごくないだろうか? 彼女がメキシコ内で探索を始めた頃、地域によって唐辛子やとうもろこしの種類も使い方もあまりに違うことに驚いて、その違いが旅をより遠く深くに誘っていったと言っていて、たぶんそれってメキシコに限った話ではなくて、南米のそれぞれの国でも中国でもロシアでも、もちろん日本でもそうだよね。食と人々の暮らしが古くからその土地に根差したものであればそうなること、そこからの学びが終わりのない旅になることは容易に想像がついて、そういった地域性の追求から離れて食が汎化・共通化して流通していくこと、更にはその共通性が地域の台所を壊してその土地の食を画一化していくことの危惧も語られる。これってお皿から一口頬張って「おいしいー」って点数つけて競争ばかりしている今の食のありようと表裏だよね。

そして、だから彼女はアメリカでほんもののメキシコ料理を教えて、広めてきたのだと思う – こうした方がいい/こうしてもいい、ではなく、これはしてはいけないのよ、というやり方で – “Nothing Fancy”。この姿勢は、例えばAlice Watersさんがカリフォルニアという土地でやってきたことにも似ていて、このふたりがハグしている場面はちょっといいの。

彼女がワカモーレのつくり方を講義するところがあって、わたしにとってのワカモーレって、(それが正しい作り方なのかどうかはわかんないけど)、NYのRosa Mexicanoのテーブル脇でしゃかしゃか5分で作ってくれるやつで、ここのを食べてしまうとペーストみたいなワカモーレはお呼びじゃなくなるの。食べたいよう。

メキシコ料理の不思議な繊細さ、というのは確かにあって、粉の粗さ、トルティーヤの焼き具合、スパイスやハーブのちょっとした加減ですべてが劇的に変わってしまうあれってなんなのだろう、とは思ってきた。魔術.. とか言いたくなるけど彼女は自分の庭園でハーブや植物をきちきち育てて調べていったの(彼女は英国人だった.. )。

ロンドンにはなんでおいしいメキシコ料理店がないのだろう - 探せばあるのかしら?


BFI Playerのsubscriptionに“BFI Japan 2020: Over 100 years of Japanese Cinema”ていうタイトルで日本映画がいっぱい入ってきたのだがリストにぜんぜん見たいのがない。
黒澤なんていまちっとも見たくないし、Distancingの小津はあんま笑えないし、成瀬はいま見たらぼろぼろに泣いちゃうだけだし。

いまは清水宏とか川島雄三とか三隅研次とか加藤泰とかを見たい(根拠ない)。
あと、マキノの「次郎長三国志」をとっても狂おしく見たい(根拠ない)。
 

5.11.2020

[film] The Booksellers (2019)

2日、土曜日の晩、Film at Lincoln Center’s Virtual Cinemaで見ました。VPNで繋いだらすぐ見たかったやつ。
フィルムとしてどうとか、どうでもいいの。本と本屋とNY(と猫)が好きであれば涎垂らして見ているうちに終わってしまう99分のドキュメンタリー。語りはParker Poseyさん(制作も)。

昔はマンハッタンのそこらじゅうにあった書店(昔の書店はぜんぶインディペンデント書店だったの)が90年代から大規模チェーン店の登場で刈り取られ、更にAmazonの登場で物理書店も不要となり、デジタル化の波で紙の本ですらなくて済むようになってきて、こんなふうに何年かおきに本の、書店の危機が言われてきてこれからも言われるだろうけど、それでも本とか本屋って必要なやつなのかしら?

そんなの必要に決まってるだろこれを見てみ、っていうのがこの映画で、うんべつに本とかいらないかも、っていう人は見なくていいの。

最初にPark Avenue Armory(ぼろくてでっかいホール。ライブもある)で 行われるNYC Antiquarian Book Fairの様子を映しだす。日本の古書市と同じように各古書店がブースを設営して売っていくとこで、ここで問題とすべきなのは獲物を漁りにくるコレクター(こいつらはどっちにしても死滅しない)ではなくて、そこに店を出しにくるBooksellerの方なの。店頭で本を売る場所も機会も理由も失われつつある今、アンチークみたいな古書を売りにでるってなんかあるの?どういうことなの?  ていう辺りをBooksellerという商売の面白さ難しさという点から掘る、というより大昔からある本という紙束が持ついろんな魅力を中心に語っていく。誰も店の自慢とか宣伝しないの。本がどんなに素敵で厄介な困ったやつか、こいつらのせいでこんなことになっちまったぜ、って楽しそうに言うの。

オブジェとして本を捉えれば革装の豪華本とかアンチークみたいな側面もないことはないけど、まず本って、ページをめくってそこに書かれているものを読んではじめて本になる、っていうのと、前の所有者もそれを読んでページを追ったり書き込みしたり、当時の書評の切り抜きが挟まっていたり - 読み継がれてきた、ことを知るっていうのもある。 中古レコードも似たところはあるけど、本みたいに「継いでいく」感覚ってあんまないかも。60年代のアイランドレーベルの1stプレスとか、そりゃ欲しいけど、それがどういう音なのか元の曲を知っていればおおよそのイメージはできるし、でもきちんと知るにはそれなりの機材揃えないとだし面倒だけど、本は文章を追う目とページをめくる指とカニくらいの脳みそがあればなんとかなりそうだし。

本ていうのには他の収集嗜好品と比べるとやや特殊なところがいろいろあって、少なくとも自分はそれらにはまってしまったので売ってますー  将来? わかんねー(笑)みたいな人たちがいっぱいで安心する。なんでNYなのか、は昔から橋を渡って人が沢山集まって移動してモノが落ちていく、そういうところだろうか。これが西海岸だとやや事情が異なってくる気がする(車移動が必須、とかね)。

映画に登場する本屋ではArgosy Book StoreとSkyline Booksかなあ。Argosyは90年代に住んでいたアパートの並びだったので何回か入ったけど、当時はまだそんなに興味なかったしとっても敷居高いかんじがしたし。この他にもちっちゃくて素敵なの(名前思い出せない)はいっぱいあった。

わたしが古本にはまった(なんてまだとても言えないけど)のはロンドンに来てからで、レコード盤の世界が箱とか180gとかそんなのばかりでいいかげん重くなってきたし、英国でこれにはまると生きて帰れなくなる気がしてきたのと、本なら小さいのもあるし滞在していた記念になるかも、程度だったのだが、そろそろとてもそんなこと言えない事態になりつつあるかも。だって見たことないいろんなのがいっぱいあるんだも(殴)。

映画にも出てくるけど、20年代30年代のダストジャケットの本て表紙の絵とかその刷り具合とか擦れて掠れた紙のかんじとかタイポグラフィとか素敵なのが多くて、めくっていくのが快楽なの。あと映画のなかで実演してくれる紙カバーに被せるビニールのカバー、あのかんじも好きで、でも自分でできるもんじゃないのね。

自分は売り手でもコレクターでもないけど、それでも古本の – ひとはなんでああいうのを集めてしまうのか - はなんとなくわかるかんじに作られているかも。 あと直接触れられていなかったと思うが、ひとはなんであれらを積んで(さらに変なひとは歓んで)しまうのか?  実はこの重力にならって/抗して「積める」っていう要素がデジタルにはない重要なパートなのではないか。 だから得意になれるってもんではまったくないのだが。

オープニングとエンディングに登場するFran Lebowitzさんがいつものように最高。本を借りるのって好きじゃないのよね。読み始めると熱狂して返したくなくなっちゃうし、人に貸したやつはちゃんと返ってきたためしがないし。うんうん。

いまは本屋に行けない悶々した日々のなかにあるので、見てて余計に恋しく狂おしくなって、やばい。 店が開いたら錯乱してとんでもないことをしてしまう気がする。(まだ先みたい。期待しない)

でっかい本棚ほしいなー。


昨日、日曜日の午後にBorisが解除のための大枠の指針みたいのを出して、みんなでなに言ってるのかわかんねー、ってなって、今日の午後には具体的なガイドラインみたいのが出たのだが、これはこれで細かすぎてわかんないの。なぜそうする必要があるのか、の背後に具体的なデータもあるのでちゃんと読めばわかるんだと思う。「絆」とか言わないだけまだましよね。

例えば本屋はいつ開くんだ? とか言っても、そこに行くまでの経路はOKなのかとか、従業員のひとは来て働ける状態なのかとか、いろんな事情や機会の組み合わせで見る必要があって、ああ日々の社会活動ってこうしたいろんなことの連なりからなっているのだわ、って改めて思って、それらを振り返るのは決して悪いことではないの。 自粛なんて思考停止と封じ込め以外のなにものでもない。

5.10.2020

[film] Les croix de bois (1932)

5月に入って、どうしようかうじうじ悩んでいたやつを実行した。映画館が再開される目処がぜんぜんたちそうにないのでVPNを張っちまうか、と。 英国から米国のCriterion ChannelとかTCMとかFilm Center of Lincoln Centerで流している映画は見ることができないのだが、この仕掛けを仕込めば見れる。もちろん別途お金がかかって、長期で契約すれば安い。けどそのうち飽きる可能性があるからとりあえず一ヶ月だけ。

というわけで2日、土曜日の昼、Criterion Channelで見ました。
Wes Andersonがおもしろかった、と言っていたRaymond Bernardの作品。
英語題は“Wooden Crosses”。第一次大戦のフランス - ドイツ間の戦争。とにかく怖い。

原野一面にずらりと整列した兵隊の像がそのままきれいに十字架の列に置き換わるのが冒頭。

1914年、学校を出たばかりのGilbert (Pierre Blanchar)が第一次大戦に志願して小隊に加わってプロバンスの方の戦闘に参加する。小隊にはいろんな職業のそれぞれの事情を抱えた人たちがいてみんな暖かく迎えてくれて、でも向かった先の戦場は一寸先は闇のとてつもない地獄だった。

夜のシーンが恐ろしくて、当たり前だけど真っ暗でなにも見えないところに向こうからびゅんびゅん飛んでくる。なにがなんだかわからない。映画であれば奥行きを見せるために奥の方もある程度照らしたりしそうなものなのに、ここでそれはなくて、表情も敵味方すらもよくわからない、ぺったりした岩の固まりの闇の向こうから突然銃撃されて、隣のだれかがばったり倒れる。
揺れて流れていく照明弾が遺体のシルエットを照らし、その影が亡霊のように立ち上がってくるように見える。ホラー。

この映画の戦場シーンがあまりに凄まじかったので、アメリカではこういうのをやれ、ってHoward Hawksの“The Road to Glory” (1936)ではこの映画の戦場シーンから使われているのだそう。

兵士には家族がいてそれぞれ事情があって(妻を呪いながら死んでいったり)、Gilbertにも田舎には彼女がいて、手紙を握りしめつつ彼女とのダンスを夢見たり、その反対側で夜にも昼にも何度かの衝突があり、そのたびに何人かの仲間を失い、ようやく帰還が許されてみんなとお別れの宴をしていたその最中に攻撃が激しくなったので帰還はキャンセル、支度をしろと言われる。

戦局に翻弄されるひとりひとりの運命と死、でもその先はぺらぺらした木の十字架いっぽんで、どこのに誰のが立てられたのかもわからず、それが数千数万と平原に並べられる、それが戦闘の、戦争の結果(戦争がもたらすのは平和、って本当に言えるのか?)。

これ、第一次大戦を描いた映画としてはG.W. Pabstの”Westfront 1918” (1930)、”All Quiet on the Western Front” (1930)と並ぶ傑作と言われていて、このふたつがドイツ軍目線なのに対し、これはフランス軍目線、という違いがあるらしいが、どっちにしてもおっかない。2018年にBFIで見た”Westfront 1918”も逃げ出したくなるくらい恐ろしいやつだった。 こないだの”1917” ? これらに比べたらぜーんぜん。

どうでもよいけど、小学校の体育の時間に「きをつけ!」ってやらされていたのって、”Attention!”のことだったのか、って。あれ、まだやってるの?


Anne-Marie (1936)

これは3日、日曜日の昼間に同じCriterion Channelで見ました。やはりRaymond Bernardの作品。邦題は『夜の空を行く』。
サン=テグジュペリがスクリプトを書いている(どこまで書いているのかしら?)女性飛行機乗りのお話。

ピアノを弾いてバラを育てているお調子者の発明家 (Pierre Richard-Willm)がいて、彼が売り込みに行った飛行場で機体部品エンジニアのAnne-Marie (Annabella) と出会って一目惚れする。試験飛行でパイロットから機器の不調を指摘されたAnne-Marieは、そういうのって実際に飛んでみないとわからないわよね、あたしもパイロットになれるかしら? なりたいの! って言うと、そこのパイロット5人(仲間うちで本名ではなく”Boxer”とか”Thinker”とか”Peasant”とか”Detective”とか”Lover”ってあだ名で呼んでいる)は承知して、彼女を仲間に入れてパイロットとして育てていくの(ここでセクシズムとかいろいろあるけど)。 

やがてパイロットのうち一人が彼女を好きになってしまうのだが、匿名の手紙のやりとりでいろんな矢印の行き違いがあって、悲しい事故もあって、最後、Anne-Marieの卒業と記録をかけた勝負の飛行に悪天候がぶつかって絶対絶命になるの。

思わぬ方に二転三転する恋のトライアングルにどこに行っちゃうかわからない飛行のスリル 〜 パニックが重なって、ラストの決着のつけ方ときたら手に汗握るすばらしさ。”Die Hard 2” (1990)なんかよりも画期的。あとでめちゃくちゃ怒られたかもだけど。(ここ、Wes Anderson的、と言えなくもないかも)

これ、ぜったいにおもしろいよ。 ミュージカルにできちゃうと思う。


数日前に米国を襲っていた(と思う)北風がやってきていきなり寒くなった。こういうとき、地球はまるい、って思う。

TVで久々に”Seabiscuit” (2003)の後ろ半分をみて泣きそうだった。これ、大好きなのよね。

5.09.2020

[film] The Assistant (2019)

1日、金曜日の晩、Curzon Home Cinemaで見ました。 いまとにかく必見の一本。

Jane (Julia Garner)がまだ暗い朝にアストリアの自宅を車(運転手はいる)で出て、橋を渡ってマンハッタンに入り、誰もいないオフィスに着いて、電気を点けて、掃除をしたりコピー機を確かめたりコーヒーいれたり、そのうちオフィスに人がぽつぽつやってきて、どこにでもありそうな会社の一日が始まる。

この会社はTV・映画の制作会社(場所はトライベッカ辺り?)で、Janeはそこの、業界の大人物(最後まで顔をださない)らしい男の秘書室のアシスタントで、そこには上に男性ふたりがいて、彼女の仕事は会議手配に出張手配、やってくる訪問客の案内その他雑用全般で、カメラはJaneに張りついて一番早くオフィスに来て一番遅くにオフィスを出る彼女の仕事(の丸一日)を追っていく。 それだけ。

彼女は仕事の用件以外の声を出さず私用のお喋りもせず、オフィスにある機械(コピー、スキャナー、コーヒーメイカー)と同じようにすべてを機械のようにこなし、同僚(男)の妻からの電話に出てその文句も黙って聞けば、会議の後に残されたデニッシュを片付けたり(残りを頬張っているのを見られる)、重役室に落ちていたイヤリングを拾ったりソファのシミを消したり、使途不明の領収書を処理したり、偉い人からの鬼のような文句も黙って聞いて、その後に謝罪のメール - “I won’t let you down again”を入れたり。

いきなり西の田舎から若い女性が現れて秘書の面接に来るように言われた、というので、突然その面接場所(ホテル - “The Mark”だって。なんでわざわざ?)に彼女を連れて行くことになったり、そのせいでその後に予定した会議がおじゃんになって苦情くらって、いくらなんでもこれは、と思ったJaneは意を決してHR(人事部)のところに行って話をしようと思う。

面談に応じてくれたHRの偉い人(Matthew Macfadyen)に一通り今日の出来事やイヤリングが落ちていたこと等を話すと、慇懃に君は優秀な大学を優秀な成績で卒業し、競争を勝ち取って今の仕事を得た、ここに来て何ヶ月だっけ? 2ヶ月? 今は本当に大変な時期だと思うよ、でも君のポジションに応募をかけると数百人が殺到する、それくらい難関なんだ?  で、君はそれでどうしてほしい? 会社になにができるかを言ってほしいんだ、とかいうのでこりゃだめだ..  って泣きながらそこを後にする。

彼女の仕事そのもの(手を動かすところ)に難しいところはない。会社勤めをしている人なら誰もがそういう仕事をしているアシスタント、事務担当がいることを、その仕事の内容も知っている、だから彼女の直面していること、その面倒さ辛さも容易に想像がつくだろう。で、その裏側で、こんなことあんなことが行われていることを知ったとき、なにができるだろうか? って。

カメラも音楽も必要最小限の動きで彼女の(無)表情と場面場面の小さな嘆息や絶望をクローズアップで追い、その緊張感ときたらとてつもない。いつ彼女がナイフやハサミを手にしてそれをどこかだれか(or 自分)に突きたてないか、ドアを蹴破って突撃しないか、はらはら見つめるしかない。

ここで描かれている虐待、セクハラ、パワハラから誰もがHarvey Weinsteinのケースを(電話の向こうの怒鳴り声からみんなあのじじいの顔を)思い浮かべるだろうし、制作者(監督はこれまでドキュメンタリーを撮ってきた女性 - Kitty Greenさん)もそこを突いているのだと思う。 ここのJaneの置かれた牢獄のような職場環境からどうやってその屋根と格子をぶち破って腐れ外道じじいを外に向かって告発することができるのか?  #MeTooがいかに偉大でものすごいことを成し遂げたムーブメントだったか、改めて思い知るの。

Janeがここで経験していることについて、こんなの虐待と呼べないとか、みんな君と同じように大変な思いをしているんだよとか、辛かったら努力して上にいけばとか、嫌なら辞めて別のキャリアをとか、あるいは、仕事をまわすためにはある程度の強制や指導も..とか、自分も上司では散々苦労して.. とかのコメントはなんの解決にもなっていないし、こういうはぐらかしは世界的にはもう無効なんだよ、って(浸透するにはまだまだかなあ、にっぽんは特に)。

時間を遡ることが許されるなら、告発して葬ってやりたいのが軽く10人くらいいる。できないだろうか? とか。
みんなでそういうのやったらすこしはにっぽんの「ザ・会社」のしょうもない空気、少しはきれいになると思うわ。
あと、いまのWFH (Work From Home)は、ハラスメント撲滅、ていう観点では貢献しているのでよいのではないか。

会社のHRの人たちと偉い人たちは全員これを見てちゃんとディスカッションして自分で議事録書いて残してほしい。
10年後、この映画を見た若い人たちが、なんなのこれ?わけわかんないわ って不思議に思うくらいに変わってほしい。

こんなふうについ熱くなって書いてしまうのだが、映画自体はクールで釘付けですごいからー。


昨日のVE-Day、みんなでお祝いしたいけど、いまはコロナで難しい、でも会いたいよう - ”We will meet again”  ってとても暖かく切ないかんじのものになっていた気がする。 それはそれでよいのだが、これが「国威」みたいのに結ばれて語られだしたりしたら怖い、って少しだけ。 

5.08.2020

[film] Romantic Comedy (2019)

きのう7日、木曜日の晩、MUBIで見ました。とってもよくて興奮しているのでこっちから先に書いておく。
昼間にMUBIから今晩これやりますー、のメールが落ちてきたときは嬉しくて夕方が楽しみで仕事が手につかなくなった(で、実際につかない。在宅ってこれだから..)。
以下、各映画の邦題は調べるの面倒だし、いちいちうんざりするし恥ずかしいし、なので邦題は併記しません。知りたいひとは各自勝手に調べてね。

わたしはこのジャンルが本当に好きで、ホラー映画好き、SF映画好き、犯罪映画好き、戦争映画好き、そういうジャンルのなかだと圧倒的にromcomで、B級だろうがC級だろうが好きで、日本の映画ファンの傾向が少年ジャンプ - 映画秘宝的なガキ汁満載(の結果としてのromcom軽視)なのに対する幻滅とうんざりもあって、昔からずっと好きで、英国でも映画チャンネルでなんかやっていると必ず見るし、在宅が始まってからBridget Jonesのシリーズはもう2回転くらいみているし、Notting Hillは3回くらい見ているし、とにかく何度見てもぜんぜん飽きないのよね。

さて、あの見事な学園ドラマ考察ドキュメンタリー - “Beyond Clueless* (2014)で音楽を担当していたバンド - Summer Campの片割れ(ヴォーカル担当)のElizabeth Sankeyさんが監督し、同様の手法で古今のRomantic Comedyをちぎって繋いで解析する。 Summer Campのもう一人のJeremy Warmsleyさんは劇伴音楽とProducerをしてて、“Beyond Clueless*の監督 - Charlie LyneさんもContributorとして参加していて、ご近所制作ドキュメンタリー。(彼らはみんな御近所に暮らしているって、2017年のSomerset Houseでのトークイベントに登場したSummer Campのふたりは言ってた)

“Beyond Clueless*が章立ても考えた論文のような体裁になっていたのに対し、まず自身がどれだけこのジャンルを愛してきたか、冒頭が”Made of Honor” (2008)の結婚式のシーン(最初がこれ、っていうのがすごくうれしい)で、自分の結婚式はこんなふうになるのだと思っていた、っていうところから自分がいかにromcomに描かれる愛や結婚の理想形を崇拝し妄想し影響されてきたか、結婚したらしたでこんなことが起こるのだと思っていたわ、って自分にとってのromcomをざーっと語り、そこから時代別にスタイルの変遷を語っていく、ただところどころジャンプしたり巻き戻ってみたり、基本は彼女のromcomに対する火山のように噴き出して抑えきれない愛がドライブしていく。 ついてこれるやつはついてこい! の78分。

時代的には30年代のスクリューボール・コメディ - “Twentieth Century” (1934)、”Bringing Up Baby” (1938)、“His Girl Friday” (1940) - あたりから入って、強い女性が男どもを引っ掻き回す、というスタイル(これらをromcomと呼ぶのは諸説あると思うけど)から、50年代のMarilyn Monroeの登場とそれに続くDoris Dayによりセックス・コメディとなり、それらのエッセンスを継いで、理想に向かって突っ走る愛のどたばたを描くものとして80年代に浮上し、”When Harry Met Sally” (1989)や”Pretty Woman” (1990)のヒットを機にジャンルとして90年代以降に爆発する。

”When Harry Met Sally”以前の80年代で紹介されているのは、“Splash” (1984)、“Roxanne” (1987)、“Working Girl” (1988) とか。まったく異議なし。 (自分にとっての最初のは“Splash” (1984)だなあ。日比谷映画で最初に見た時、3回続けて見たの。いまだにTVでみると最後の方で泣いてしまう)

ジャンルとして確立された頃のromcomは、白人 - ヘテロセクシャル - ミドルクラスの女性をターゲットとした、彼女たちの理想の男、愛、結婚、人生を獲得する or そこに向かうぐじゃぐじゃを描いていくもので、それが今世紀に入って男性にとっての理想(含. 失恋)も入るようになり - ”500 Days of Summer” (2009)とか”Ruby Sparks” (2012)とか、さらにLGBTQの目線で”Kissing Jessica Stein” (2002)とか”God’s Own Country” (2017)なんかも入ってきて、他人種のもあり - ”The Big Sick” (2017)、”Crazy Rich Asians” (2018)、最近はかつてのバディ・ムービーの女性版のようなところ - “Bridesmaids” (2010)、”The Other Woman” (2014)まであり、“Silver Linings Playbook” (2012)のあたりからはオスカーまで狙えるくらいになった、と。

ここまでくるとなんでもありなんじゃねえの? とも思うが、全体としては彼を/彼女を独り占めしたい! っていうところから始まってどうしたら彼を/彼女を幸せにすることができるんだろ(もちろん自分も!)、っていう理想と妄想が引っ掻き回すhuman connectionを描くコメディ、っていうことだと思う。そして、そこにおいてリアリティはあんま関係ないの(これ重要)。

というようなことは見た後でぼやーっと浮かんでくることで、これを見ている最中は、クリップのひとつひとつにあーこれ! えーとこれなんだっけ? あーそうそうこれ! とか鳥肌とか瞳孔そんなのばっかりで、途切れ目なしに100万発ぶちあがる花火大会のまんなかにいるような喧騒状態だった(頭の中が)。 後半の怒涛のキスシーンの連続のとこなんて特に。(ここ、一番好きなのはどれだろ? って思って、”Punch Drunk Love” (2002)かなあ、とか。いやまて.. )

おそらく、監督自身がこれを作っている最中そんな状態だった - それこそromcomの主人公のような嵐とパニックの只中にあったのではないかしら。 だって、ところどころで被さってくるSummer Campの曲がromcomのサントラのようにエモに乗ってサーフィンしていく、その爽快さときたら。  自分で流れを掌握していればこそできること、よね。

たぶん、もう少し客観性を保ちたかったら時代とか経済(バブル)とか女性の地位向上とかフェミニズムとか、そういう角度からの考察あった方がよかったのかも、とかやっぱしMeg RyanとJulia Robertsにはセクションを作ったほうがよかったのでは、とかあるのかもしれないが、監督はその辺をわかった上で外したのではないか。 すばらしい勢いで一気に見れるMix Tapeでもあるの。

そしてもちろんやっぱりいろいろ見返したくなるなー、って。 いろんなベストを考えてしまう。 そのうちもう一回見るかも。


今日(5月8日)は75回めのVE-Day(戦勝記念日)で、忘れてぼーっとしていたら朝10時過ぎ、ものすごい爆音が向こうからやってきて、窓あけたら9つの戦闘機が真上をぶっ飛んでいった。 震えあがるくらい極上の轟音だった。 戦争反対。

5.07.2020

[film] Somersault (2004)

30日、木曜日の晩、BFI Playerで見ました。 Abbie Cornishさんが好きなので、くらい。

Cate Shortlandさんの監督デビューとなったオーストラリア映画で、その年のカンヌの「ある視点」部門で上映され、オーストラリア国内でもいろんな賞を受賞した。日本ではDVDリリースのみらしく、邦題は『15歳のダイアリー』だって。 サマーソルト – 「宙返り」、でいいのに。

キャンベラの郊外に暮らすHeidi (Abbie Cornish)は退屈でしょうがないので、家でごろごろしていたママのBFとキスしていたらそれを見たママが激怒して(ま、するかも)、すごい剣幕なので家を飛び出して電車で東の方に逃げて、昔に仕事の紹介するよって言っていた男のところに電話するのだが、ごめん記憶にないって切られて、そこから vagabondの彷徨いが始まる。

バーで知り合った男とするする寝たり、優しいおばさんと出会ってモーテルの一角で寝泊まりさせて貰って、ガソリンスタンドでバイトできるようになったり、とりあえず当面の宿とお金をなんとかして、やがて地元の農家の子 - Joe (Sam Worthington)と出会ってお互いに忘れられないかんじになっていくのだが、JoeはJoeで自身のセクシュアリティについて悩んでいて、うまく応えられないのでHeidiは中華料理屋で唐辛子を口いっぱいに頬張って..(それはぜったいやめたほうが)。 そこから更にJoeの父親に嫌なことを言われやけくそになって深夜に騒動を起こしたHeidiはもう出て行ってくれ、っておばさんに言われて、身寄りないしお金もないしJoeとは微妙になっちゃったのでどうしよう.. になる。(全体として親の目でずっとはらはらしっぱなしに)

というのがオーストラリアのきれいな光に満ちた景色(寒そうだけど)と夜の心細い冷たさの中で描かれて、外の世界はこんなに美しいのになんであたしの周りは.. っていうHeidiの宙返りの顛末。ぜんぶ彼女が自分で火をつけて出て行ったのだから酷い目にあって当然、とかそういうお話しではなくて(なんでそういう方向に持っていきたがるのか本当に解らない – 腐れた大人たち)、Joeもずっと悩んでいるしモーテルのおばさんも家族の過去で苦しんでいるそういう地面とか大気を - 一回転して立ったのはそういう地面であることを知る季節のお話。

母親の男に手をだして、互いにブチ切れて、というのはこないだ見た”The Diary of a Teenage Girl” (2015)の設定にも似ていて、でもあの映画のMinnieが威勢よくやったるぜ! モードでぶちかますのに対してこの映画のHeidiはどこまでも弱く頼りなく周囲にされるがままで、たぶん殆どの子たちはこんなふうに家にいられなくなって外に飛びだして、こんなふうに傷だらけで心細くしているのではないかしら、っていうところまで広げてみせる視界の広さとやさしさがあるの。

こういう女の子の彷徨いドラマの極北にAgnès Vardaの”Vagabond” (1985) - 『冬の旅』があると思うのだが、あそこまでしんどくない。けどHeidiが見ていた人々とか世間とかをまっすぐに見せてくれる。

わたしはJohn Keatsの評伝ドラマ - “Bright Star” (2009)が大好きで、ここでFanny Brawneを演じたAbbie Cornishさんの重心が低くて揺るがないとこがすばらしいと思ってて、その系譜にあるFlorence Pughさんが登場するCate Shortland監督の最新作 - ”Black Widow” (!) が今はとっても楽しみ。


ああ、Bergdorf Goodman (とNeiman Marcus)がChapter 11(破産申請)を..
ここでお洋服を買うことなんてなかったけど、7階の雑貨インテリアは世界一センスよくてかっこよかったのでお勉強になったし、クリスマスのオーナメントでここより充実している売り場はなかったし、どこから仕入れていたのか置いてある古本は見事なセレクションだった(ので、よく買ったりした)。
ここでいつの日か値札なんて見ずに買いまくるのが夢だったのになー。 

5.06.2020

[film] Romance (1999)

4月29日、水曜日の晩にBFI Playerで見ました。  ここの”Female Desire on Screen”ていうコレクションのなかで結構でっかく推しているようだったので。 R18だけどヨーロッパではふつうに上映されてドイツでは深夜にTV放送もされたのだそう。日本で上映されたかは知らないが『ロマンスX』のタイトルでDVDが出ている模様。

女性監督Catherine Breillatによるフランス映画。
小学校の先生をしているMarie (Caroline Ducey)には一緒に暮らしているBFのPaul (Sagamore Stevenin)がいて、ベッドもひとつなのに彼はぜんぜんセックスしてくれない(ということを話題にしてもはぐらかされる。ひとりでなにをしているのか追ってみると日本料理屋のカウンターでひとり御飯していたり)ので、諦めて自分で町にでていろいろやってみる、というのをMarie自身の語りで綴っていく。

最初にPaolo(演じているのはイタリアのポルノ男優)っていう妻を亡くしている男と出会って、やって、続いてお金持ちの初老の男(雇用主)にやさしくがっちり縛られて、やって、それからアパートの階段で通りすがりの男にレイプされる。それらの動きを通して得られる快楽も苦痛もin – outのように右から左に即物的に流れていって、どちらかがオーガニズムに達したらとりあえず終わり、のような構成にはなっていない。

通常、男性の欲望を満たすことを目的に作られるポルノ映画であれば、この映画は性的に満たされない状況にある女性(人妻とか)が、その欲望を満たすためにいろんな場面でいろんな相手とやりまくる、ということになるのだろうが、問題はそこで消費される「欲望」が常に男性の視線を前提としたそれだったのではないか、ということなの。女性の側からみたとき、セックスとは、欲望が満たされるとは、オーガニズムとは、どういうものなのか、なぜそれを求めるのか、等をMarieのモノローグと行動を通してドキュメンタリーのように(実際に撮影現場でしているという)追っていく。 この観点に立ってみると、これは従来のポルノ映画ではないし、「女性のためのポルノ」という呼び方ですら汎化しすぎている気がする。 男性の側から「病気」という角度でこれに近い描き方をしているのがLars von Trier の“Nymphomaniac” (2013)だった気がするが、あれも今にして思えば..  だねえ。

結局それは穴なのね、と。 後半、妊娠していることがわかったMarieが病院にいくと医学実習生たちにかわるがわる無造作に指を突っこまれ、出産のところではその穴から胎児の頭がにょろりと現れる。女性にとってはその穴を中心とした出し入れの運動、ということに集約されるんだよくそったれー、というところで唐突に弾け飛ぶラストシーンがすばらしい。 そして人はこんなもんを「ロマンス」とか呼んだりするのだ。 呼んどけ、って。  愛? 知るかそんなのうるせえよ、くらいの。

これの前の日に見たベルイマンの”From the Life of the Marionettes” (1980)の夫婦のありよう・視線の矢印とはいろんな点で対になっている気がした。ただの偶然だろうが。

とってもフランスぽいドライさ、とも思うのだが、日本のようにポルノも変態も先進的に機能分化している国(ほめてない)では既にこういうのはあったりしないのだろうか。あったとしても日本すごい、になるとは思わないけど。

Allcinemaとかに載っているミソジニー臭たっぷりのコメントとかみんな大好き映画秘宝とか見ると(見たことないけど)、こういうのはぜんぜん遠いんだろうなー、って。


日本が休みだと朝に落ちてくるメールの数が劇的に少なくなるのでうれしい。それも今日までなんだわ。あーめん。

5.05.2020

[film] Aus dem Leben der Marionetten (1980)

4月28日、火曜日の晩、MUBIで見ました。

脱税容疑で逮捕されてスウェーデンを去ることにしたIngmar Bergmanが出て行った先のドイツでドイツ語で撮ったTV & 劇場公開フィルム。英語題は”From the Life of the Marionettes”、日本ではビデオリリースのみで、邦題は『夢の中の人生』??

そういえばこないだMUBIで見た”Riten” (1969)もTV用に撮られたもので、似た構成であるようなないような。”Riten”は関係者のインタビューが続いて最後に殺しの「儀式」がくる。こっちは最初に殺しがあって、その後に関係者のインタビューが続く。ベルイマンの他の作品との関連でいうと”Scenes from a Marriage” (1973) - 『ある結婚の風景』にPeterとKatarinaという夫婦が出てくるという(未見)。

冒頭とエンディングだけカラーで、Peter Egermann (Robert Atzorn)が娼婦Kを殺して自分で友人の精神科医のところに電話する。それ以降、検屍官などによる関係者 - 妻のKatarina (Christine Buchegger)、Peterの母、(Katarinaと関係があった)精神科医、Katarinaの仕事仲間でPeterに娼婦を紹介した男(ゲイ)、等々へのインタビューと、ふたりのぎすぎす張りつめた結婚の風景がモノクロで描かれる。寡黙でストイックで真面目に仕事をしていくPeterとファッション業界で人に囲まれて多忙な日々を送るKatarinaの間に子供はいなくて、互いの嫌いなところ、互いの違いとそれぞれの自由を認めあった上で夫婦をやっていて、Katarinaの浮気がばれてもPeterの自殺未遂(アパートから飛び降りようとした)があってもどれだけ冷えこんでいても嫌いだって言っても別れない、別れないことで安定的に続いている、という点では揺るがないように見えたのに、なんでか? 

精神科医の分析は明るく快活な母とKatarinaの間で勤勉さと正常性を保ってきたPeterがKatarinaの同僚のゲイの男経由で娼婦を紹介されて、その世界に触れたことで何らかの均衡を崩されてemotional blackoutに陥った、とかいうのだがそれっぽいようなちょっと違うような。

この件に関するPeterからの言葉が出てこない。これは裁判をしてどっちがどっち、とか、動機や真相を探る、というような犯罪映画ではなく、ここで並べられたような夫婦の光景の先にどういうことが起こったのか、ということを描いているだけで、それだけなの。たぶんKatarinaはこの先仕事も環境も振る舞いも変えず、彼の母はわたしのよい子のことをずって想っていくだけなのだろう。 で、ラスト、淡いカラーのなかでテディベアを傍に置いて横になるPeterの姿がなんかしみるの。

ドイツを舞台にした先の見えないどんづまり愛憎ドラマ、というとR. W. Fassbinderが思い浮かんで、確かにどっちがどう悪いって言えない出口なしの自虐っぽい心情は似ていないこともないのだが、ベルイマン映画の登場人物がいつもなんとなく抱えている(神様からの?)宙吊りのかんじ(← タイトルの”Marionettes”)はファスビンダー映画の登場人物にはない – ファスビンダー映画に出てくる連中は天井からの糸を切られたおらおらの状態で横滑りして刺し違えようとしているかのよう。

そしてこの作品の制作中に構想されたのが次の監督作 “Fanny and Alexander” (1982)で、それは家族全員に加えて神から悪魔までぜんぶが宙から吊り下げられているかのような壮大な人形劇となったの。


ライブに行くことができないみんなのためにBrooklynVeganがいろんなライブ映像を紹介してくれているのだが、今日、"Lloyd Cole & The Commotions @ The Marquee, London 1984" ていう約38分のが出ていたので見てみたら、これ、昔にLDで出てたやつだわ(持ってた)。
“Rattlesnakes”がJoan Didionの”Play It As It Lays”の“Life is a crap game, and there are rattlesnakes under every rock”というラインから来ていることは知っていたのだが、“Rattlesnakes”をやった後にちゃんとLloydがそう言っているのだった。

5.04.2020

[film] Down and Out in America (1986)

4月27日の晩、Film ForumがやっているVirtual Cinemaで見ました。見れないかしら? と思ったら英国からもアクセスできた。

女優のLee Grantさんによるドキュメンタリーで、同年のオスカーを受賞している(制作のHBOにとっても最初のオスカーとなった)。
3つの場所でレーガンの時代のアメリカの貧困と困窮が描かれる。

ミネソタの農業地帯で地元の地方銀行に委託していたローンが中央からの評価替えで紙切れ同然になり自分たちの家や農地を失いつつある農家たちの戦い。LAで失業して家を失った人たちを収容・支援していた施設 - Justice Villeが取り壊されてしまう話。NYでも同様に家のない家族を収容するwelfare hotel - 廃墟となったビルに暮らす家族の話。

衝撃的な困窮の実態を暴きたてる、というより、どれもじゅうぶん想像できる範囲のこと - 見ているだけで辛くなる話 - 以前はこうだったのに突然こんなことになってしまって本当に困っている、というものばかりで、彼らが直截的に政府や政治に訴えるようなことはないし、それを受けた政府や自治体側の言い分や見解や打開策が出てくることもない。レーガンの名前が出てくる箇所はあるが「レーガノミクス」は出てこない(たしか)。政策の是非や欠陥や勝ち負けを具体例をあげて検証するのではなく、とにかく困って途方に暮れている人たちがこれだけいるのだという事実のみを提示して、これが今(当時)のアメリカなのだ、と。なんかおかしくないか? って。

もう30年以上経っていることなので今なら検証も可能だろうし、当時だってなぜこうなってしまったのか、を描こうと思えばできたと思う。国内外へのアピールを含めたキャンペーンのような大規模国策が世間の実態・実情との乖離軋轢を生んで日々の暮らしを破壊する - 容易に想像できるのだが、そういうことではなくて、なんでそのために大量にでてきた苦しんでいる人たちを放っておくのか救えないのか、国とか政治ってなんのためにあるの? っていう極めて根源的な問いがここにはある。

それは根源的であるが故に現在にもきれいに刺さってくる。強者と弱者に分離された格差社会がプロパガンダし続けている弱者は弱いから弱者なのだ、というしょうもない修辞。やろうと思えばできたはずの撤回や回避をどこまでも拒んで先延ばしにする強者(=卑怯者)の論理(屁理屈)。日本のメディアとかの(一見もっともらしく見える)弱者と強者の両方の言い分を並べて分断に向けて誘導していくような手法とか。こういった格差社会の論調とか基盤を想像力の貧しさ不寛容さ(見たくないものは見ない)と結果が全ての経済が下支えしてグローバルに広げていったのがこの30年だったのではないのか。

話が逸れてしまったが、このドキュメンタリーが今のパンデミックの世界に公開される意味は十分にあって、それは苦しんでいて救われるべき人たちは無条件で救われなくてはいけなくて、それができない社会は当たり前だけどどこかが腐って機能していないんだ、って。バブルってこういう腐食の上に成立していたんだ、って。

まず病気で苦しんでいる人たちがいたら(どんな人でもぜんぶ)救われなきゃいけないよね。それが伝染病だったら全体に影響が及ぶから当然よね。ぜんぶ一遍には無理だから統計値と専門知に基づいていろんな軸で対応の優先順位を決めて予防策も立てられて、あとは順番にやるだけ。そこで政治家がやるべきことは予算の確保とリソースの調達と国民へのアナウンス、これだけのはず。よね。

どっかの国を見てて絶望的になるのはその順番もやり口もめちゃくちゃだから。正しい方向に向かう気配すら示さずに曖昧で情緒的なことしか言わない言えない。(書いててやんなってきたので切ります)

いま日本でもっとも見られるべきドキュメンタリー。どっちみち地獄なら手遅れってことはないの。


今日はSWの日なので、”Ep IX - The Rise of Skywalker”がTVでかかった。(On Demandではもう少し前からやってた)  ふたり、いろいろ遠隔で会話しすぎよね。 あれもDistancingなの?

5.03.2020

[film] Wittgenstein (1993)

4月26日、日曜日の晩、BFI Playerで見ました。この日がWittgensteinさんの誕生日だったので。

Derek JarmanによるLudwig Wittgenstein (1889-1951)の評伝ドラマ。
元はUKのChannel 4(TV)で哲学をテーマにした教育用プログラムの企画があって、4人の哲学者(ソクラテス、スピノザ、ロック、ウィトゲンシュタイン)がピックアップされ、その時点でWittgensteinのスクリプトはTerry Eagletonが書くことに決まっていて、監督は紆余曲折の末、Derek Jarmanになった、と。
で、最初はTV用の50分で撮っていたものが、Pre-Productionの段階でBFIから72分の映画にするように言われた、というようなことがBFIから出ている”Wittgenstein - The Terry Eagleton Script - The Derek Jarman Film”という冊子には書かれている。

この冊子にはTerry Eagletonのオリジナルのスクリプトと映画の実際のシナリオの両方が載っていて、両方をきちんと読み比べて比較したわけではないが、Terry Eagletonのそれは登場人物から何から(JarmanとKen Butlerによって)相当改変されていて、それは冊子の序文でColin MacCabeが書いているように現場でいろんな人の声を聞きながら取りいれていくJarmanの演出・制作スタイルにもよるのだろうが、Eagletonの方には少年のWittgenstein (Clancy Chassay)もLydia Lopokova (Lynn Seymour)もLady Ottoline Morrell (Tilda Swinton)も火星人も出てこないの(そりゃそうかも)。

映画はウィーンの裕福なおうちに生まれたWittgenstein (Karl Johnson)が英国に行ってケンブリッジに入って、師のBertrand Russell (Michael Gough)やJohn Maynard Keynes (John Quentin)との交流を通して自身の思索と思想を深めていく様をじっくり、ではなくてショートコント風のスケッチの連続の中に描いていく。  少年時代の彼を出すのは彼自身の思想の深化を外から追おうとしているのだろうし、火星人を出すのは人間じゃない知性がそれをどう捉えるか、とかそういうこと、かしらん。

Wittgensteinの哲学って、前期の方の、世界はどういうロジックのもとで成り立っている/成り立っていると考えられてきたのか - というテーマについて、そのラストでその枠で語り得ないものは黙るしかないよな、って開き直ったあと、後期になるとその枠組みを構成している言語とかそれを組みあげる文法とかやりとりとか規則(ゲーム)に寄っていって、細かいところに入ると難しいのだが、大枠で俯瞰してみると第一次大戦期から20-30年代までの「世界」(ヨーロッパ、ウィーン)のとらえ方 - 歴史・芸術・科学・宗教、などなどに対する揺らぎや混沌のなかに位置づけることができる。すんごく大雑把だけど。

で、Terry Eagletonはマルクス主義批評の観点から文学の領域でそういう捉え直しをしてきたのだし、Derek Jarmanは散文調で直感的ではあるが英国文化や歴史の成立について映像を使って表現してきたので、彼らがWittgensteinの評伝を取りあげるのはとっても正しいと思うのだが、この作品に関してはものすごく軽い。 ヴィジュアルのセンスも含めてNHKが小・中学生向けに作った入門番組みたいにださくて、もうちょっとなんとかー。

一箇所だけ、Lydia Lopokovaが夫のKeynesに、彼をBloomsbury Groupに入れましょうよ、っていうとこ。どうなっただろうねえ。 Bloomsburyがやっていたようなことって、彼にとっては火星人並みに一番理解不能なやつだったかも。


この週末、TVではずっとTwilight Sagaをやっていてついだらだら見てしまうのだが、へんなお話だよねえ。 でも見ちゃうのねえ。 週末終わっちゃうよう、って泣きながら。

5.02.2020

[film] La bête humaine (1938)

4月25日、土曜日の昼間、MUBIで見ました。なんとなく。何度でもみたいJean Renoirのクラシック。
原作はゾラの『獣人』。このタイトルだと怪奇ものみたいになってしまうが、そのまま英訳すると“The Human Beast”なので「人間の獣」で、たいして変わらないかも。

Jacques Lantier (Jean Gabin)はパリとル・アーブルの間を行き来する蒸気機関車の運転士で、代々の先天性の遺伝で女性に対する暴力衝動を抑えきれなくなる性癖があり、本人はそれを苦にして社会には関わらず、機関車の運転をしているときだけ大人しく真面目になれて、地元にいる許嫁のFlore (Blanchette Brunoy)との関係もぎこちない。

ル・アーブルの駅の助役のRoubaud (Fernand Ledoux)とその妻のSéverine (Simone Simon)がいて、猫のように奔放なSéverineと名士でお金持ちのGrandmorinとの過去の関係に逆上したRoubaudが、妻と一緒にGrandmorinを電車の個室内で殺して、たまたまそこの廊下に居合わせたJacquesは見て見ぬふりをしてくれたので、それを機にSéverineとおっかなびっくり仲良くなっていく。

事件を機にぎこちなく険悪になっていく夫婦、逆に親密になっていくSéverineとJacquesは、卑しく堕ちて陰鬱で目障りになっていくRoubaudを殺してしまおうとするのだが、Jacquesの獣性が思わぬところで.. (驚愕の展開)

ゾラの原作とはFloreとのこととか、ラストも違った気がする(たしか)のだが、映画の方はそれぞれの性(さが)をコントロールできないまま犯罪の方にゆっくりおちて破滅していくトライアングルのコントラストを描くノワールなの。 先天性の闇が思いがけない形で表に出てきてしまうJacques、衝動で犯してしまった殺人を機に転落していくRoubaud、ふたつの影の間を気儘に狡猾にすり抜けていく猫としてのSéverineと。 都会のノワールにない要素があるとしたらひとつ、問答無用、制御不能のパワーですべてを暴力的になぎ倒していく機関車があって、これに身を任せていたJacquesは最後これによって自身を終わらせる。

ヘッドフォンで聴いていると冒頭の機関車の音とか凄まじくて音量をあげてしまう。昔の映画って音が小さめのが多い気がするのだが、これを劇場の爆音でやったらぜったいすごくなるはず。うるさいわこわいわ。

Jacquesの職業は、この時代だと蒸気機関車の機関士だけど、少し後になれば自動車とかオートバイとかトラックとかのドライバーになるのかも。で、思い出したのがこないだCinémathèque françaiseのHENRIで見たJean Epsteinの”La Glace à trois faces” (1927)。 これは自動車による同様の悲劇だったかも。

また、先天性の病気を隠すために人と関わらなくて済むような仕事 .. っていうと今ならプログラマーとか。で、殺人を目撃した主人公はSNSで彼女に近づいて..  ここからは割とどこにでも転がっていそうな犯罪話になっちゃう気がする。
これ、疫病が蔓延してDistancingが行き届いた社会だったら、ひょっとしたら起こらなかったかしら?

あと、猫映画よね。 Séverineがそもそも猫(♀)だし、彼女は最初猫を抱いているし、夜、Roubaudがこっちに歩いてくる(Jacquesは彼を殺そうと待ち伏せしている)シーンで後ろの方にいるの。


5月の空と雲は4月のそれとはやっぱり違うねえ、って思って、しかも毎年おなじことを思うねえ、っていうのとそれを思うのはいつも4月と5月の間と9月と10月の間だけかも、って。 そういうお天気の日でした。

5.01.2020

[film] The Diary of a Teenage Girl (2015)

24日、金曜日の晩、BFI Playerで見ました。
BFI Playerにはジャンルの他にコレクションていう分類があって、”Woman with a Movie Camera”とか”Comedy Genius”とか”Coming of Age”とかいろいろあるのだが、最近立ちあがった”Female Desire on Screen”ていうコレクションにあった1本。それの記念なのか、この日の19:00からBFIのキュレーターの人が入ったLive watch-along viewing 、ていうのがあって、それとは1時間くらい遅れで見た。

日本では公開されていなくて『ミニー・ゲッツの秘密』というタイトルでDVDが出ている。
“Can You Ever Forgive Me?” (2018)のMarielle Hellerさんの監督デビュー作。

76年のサンフランシスコで15歳のMinnie (Bel Powley)がひとり外をずんずん歩きながらせいせいした顔で“I had sex today... Holy shit!”って呟くのが冒頭で、彼女はそのまま自分の部屋に戻るとテープレコーダーに向かって同じことを繰り返して喋って、それが彼女のDiaryになっていくの。

家にはボヘミアンのママのCharlotte (Kristen Wiig)と妹と猫のドミノがいて、そこにママのBFのMonroe (Alexander Skarsgård)がだらしなく入り浸っていて、MinnieはMonroeに軽くアプローチかけて彼のとこで最初のを済ますとそれでつっかえが取れたみたいに彼のとこに出かけてはやりまくって、友人とつるんで当時の自由な空気のなか絵を描いたりZine作ったり遊びまわるのだが、そのうちママにMonroeとのことがばれて.. (ママ狂乱)

よくある初体験モノ、というのをそんなに見ているわけではないので他のと比べてどう、ってあんま書けないのだが、この作品はティーンがいろんな経験をしてその最後に通過儀礼のように卒業のようにSexがきて何かを改めて知る/更新するというのではなくて、まず冒頭にやっちまったぜ! があって、そこからあーすっきりしたこれからだー、ってDiaryを吹きこんであれこれセキララに晒しまくってどんなもんだい! っていうあたりが新しい、のかな?

身体も含めて自分はだめだぜんぜんいけてない、と思っていた重石や縛りがあれをやって解かれたあとに目の前に広がっている世界、同様にやたらぶつかってくる世界(含. 親)をその当たりの強さとか降りかかる埃とか塵とかも含めてストレートに広げてみて、結構傷だらけになるけど別にいいじゃん、上等だわ、って。

あれをすることがなんで縛りからの解放になるのか、これってなんで女子だとこうなっちゃうのか、女の子は「女」にならないと動けないもんなのか、っていう批判でもあるし、70年代の西海岸ていう土地と時代のお話でもあるし、大人とかいろんな境界に対する「けっ」ていう観点だと“Ghost World“ (2001)も出てくるし、Minnieの数年前の姿として“Eighth Grade“ (2018)のKaylaもいるし、相当いろんな風呂敷を広げてくれるのだが、この広がりは決して「こうでなきゃけない」ありようを示す、方には動いていかない。それって“Can You Ever Forgive Me?”にもあったやさしさ、にも繋がっている気がした。

音楽はMinnieと女友達が部屋のIggyのポスターを舐めまくるThe Stoogesの“Down on the Street“とか、ブチ切れたMinnieの脳内でがんがん流れるTelevisionの“See No Evil“がすばらしいの(”See No Evil”は77年の東海岸だけど)。

主演のBel Powleyさんは”A Royal Night Out” (2015)でマーガレット王女を演じていた彼女。ぶれてない。


5月になって、5月はどうだ? どうなるんだ? どうするんだ? って穴からでた春モグラみたいに暴れたくなっていたところで、J.Crewが破産申請って…  自分が着るものに関しては気にしてどうなる/どうするもんでもないのでどうでもよくて、そのどうでもよいかんじにうまくはまって、あんま考えずに買えるのがありがたい唯一の銘柄だったのに。 タンスの2/3くらいがここのなのに。
大好きなレストランを奪って、外に着ていく服を奪って、そんなに家に閉じこめたいのか。