6.30.2020

[film] Take Me Somewhere Nice (2019)

24日、水曜日の晩、MUBIで見ました。あと4日で見れなくなるよ、って言われたので。

ボスニア出身でオランダで活動するEna Sendijarević監督の長編デビュー作となるオランダ映画。このタイトルと水着の女の子が寝そべっているパステル系色調のスチールで寄っていくと騙されるはず。それもまたよいこと。

冒頭、Alma (Sara Luna Zoric)が母親 – すばらしい猫を抱いている – に会話のレッスンのようなものをして貰っていて、どこの言葉かわからないのだがAlmaはこれから旅に出ようとしていることがわかる。

Almaが降りたったところはがらーんとした空港で誰もいなくて、離れたところに車で待っている若い男がいて、彼女はその車に乗り込む。はじめは誰が誰でどういう目的でどこに行くのかとか一切わからないのだが、Almaは休暇でボスニアの病院に入院している父親を訪ねるところで、空港に来ていたのはいとこのEmir (Ernad Prnjavorac)で、まずは彼の住むこれもがらーんとしたアパートに来る。

外に出たらアパートに戻れなくなったりスーツケースが開かなかったり散々で、そこに現れたのがEmirの仲間なのか手下なのかDenis (Lazar Dragojevic)で、少し優しくしてくれる。EmirもDenisもなにをやっている連中なのかわからないのだが、忙しいとかで父親のいる病院には連れていってくれないので片言でバスの切符を買って乗れば酔ってげろげろになり、休憩所で放心しているとスーツケースごとバスは出発しちゃってAlmaひとりが取り残される。

しょうがないのでひとり夜道をてけてけ歩いていると少しお金のありそうなおばさんがあんた正気か? って拾ってくれて彼女のホテルに滞在して、そこで知り合った中年男と夜遊びしていると駐車場で男ふたりに襲われて男はぼこぼこにAlmaはさらわれてもうだめかと思ったらそれがEmirとDenisで、父親の病院に連れて行ってやるという。その前にバス会社からスーツケースを見つけたって連絡が来たので取りにいったらぜんぜん知らない人のやつで、開けてみたら中には白いテニスウェアとドラッグぽいきな臭い包みが。

こんなふうにいろいろあってようやく病院にたどり着いたら..(まだまだ続く)

本来であれば、贅沢ではないかもだけどそれなりに楽しいバケーションになるはずだったのに相当にしょうもなく悲惨なことが立て続けに起こるスクリューボール(コメディじゃない)で、治安が良くなさそうなボスニアが舞台だからといって余りに酷すぎないか、って唖然とするのだが、Almaは泣いたり怒ったりしながらもめげずに立ち向かってふてぶてしいし、無口でぶっきらぼうなEmirとへらへら優しそうなDenisはなんだかんだついてきて、3匹が引っ掻き合ったりぶん殴られたり傷だらけになりながら転がっていくのがよいの。ロードムーヴィーでもないしクライムムーヴィーとも違うし、やっぱり青春映画.. になるのだろうか。

ちっとも”Somewhere Nice”とは思えないボスニアについて、そこで暮らすEmirからはナショナリストとパトリオットという言い方で部外者はすっこんでな、みたいなことを言われるのだが、それがなんなのよ、みたいな空気になってしまうところもおもしろい。 こっちはプールサイドでごろごろしていられればいいだけなのになにさぷん!  みたいな。
(いまのにっぽんでも同じようなドラマが撮れる気がする)

音楽は、みんなで車をぐるぐる乗り回すシーンでSonic Youthの“Kool Thing”が弾けるところが素敵。 ほんとうは遊園地のゴーカートなんかで楽しく遊ぶとこだったかもしれないのに。

とにかく、Almaが最後までぜったい負けないので、そこだけでも。


だれもが”Take Me Somewhere Nice”って思いながら一年の半分が過ぎてしまった。だれもがこんなひどいことになろうとは、って思いつつまだ収束していないし、亡くなってしまった沢山の人達とか家族のことを思いつつ、これからの半分はもう少しだけ動けるようになったりしますように、って誰にどう言ったらたらよいのかお祈りすればどうにかなるのかわからないけど、お願いだからー。

6.29.2020

[film] Little Joe (2019)

23日、火曜日の晩、BFI Playerで見ました。先の2月に劇場公開された際にBFIで監督のJessica Hausnerの小特集が組まれて、この新作も見なきゃと思った矢先にCovid-19がやって来ちゃったやつ。パンデミックの前に見ておけばよかった。

Alice (Emily Beecham)は植物お花会社のラボの植物のブリーダーで、フラワーショウ向けの新品種開発とかをやっていて、長期の研究の成果として手間を掛けてあげればあげるほど持ち主を幸せにしてくれるという新しい花の開発に成功して、自分の息子の名前をとって”Little Joe”と名付ける。あとはマーケットに出す前にアレルギー反応とかの治験をクリアするのみだが、自信があるAliceは規則を破って一鉢を自分の家に持ち帰り、息子のJoe (Kit Connor)に、これがLittle Joeで、しっかり世話をして大切に育てるように言う。

最初に異変に気づいたのはラボの同僚のBella (Kerry Fox)で、彼女が職場に連れてきた愛犬の様子が変わってしまった、と。もうひとりの同僚でAliceを崇拝して思いを寄せているChris (Ben Whishaw)もなんだかAliceに対する接し方が変わってきて、Bellaのクレームは以前に精神科に通ったりしていたし、そのせいでは? とか言われる。でもAliceにとってショックだったのはJoeで、離婚して別居している元夫からもJoeの様子が変わったんじゃないか? と言われ、GFを部屋に連れ込んでいたりこれまで決してなかったようなことがあって、なんかおかしいので問い詰めると、僕は変わっていない思春期だしそういうもんでしょ気にしないで、と言われる。アレルギーテストの治験に参加した人たちのビデオを見ても、だいじょうぶ、っていう人と、でもなんか.. という人に分かれていて、Little Joeを開発したAliceとしては会社からの期待もあるので進めたいものの、Joeのことが気掛かりで…

植物が人を食べたり刺したり殺したり、っていうのではなくて、植物は実験用の温室でひたすら花粉を撒き散らしているだけだし、その花粉が科学的にこれこれこういう影響を及ぼすのでやばい、というのが明確に示されるわけではない(それっぽい仮説のみ)ので、とっても薄ら怖い。ドラッグで人が変わるのとは別で、普段の社会生活はこれまで通りにきちんとしているのだが、日常の関心の向き方が変わる – Little Joeを大切にすることがなにより大切でそれ以外はどうでもいい – それが飼い主様の幸せにも繋がるはず、ていう利己的な幸せのデザイン。

ここで想定されている「幸せ」の考え方がうまいな、って思って、なんかの花粉にやられるとみんな政治に無関心になって排他的になって、でもお国すごいになっちゃうとか(どっかの国だとスギ花粉とか?)、そんなふうにいくらでも転嫁転用できるネタかも。Covid-19の場合はウィルスとしてもっとダイレクトに社会のありようを変えてしまったが、ここで変えられた社会の仕組み(distancing – new normal)は長い時間をかけて我々の行動様式を変えていくことになるだろう、なんて。

誰かに/何かに献身的に奉仕すること=幸せ(がやってくる)っていうのはおかしいよね、っていうのが、これまで研究とJoeの教育に没頭してきたAliceにブーメランで跳ね返ってくる、そういうドラマなのだが、どっかの国を見ていても(自分でない誰かの)幸せ信仰ってほんとタチが悪くて怖いな、って。

結末は書きませんけど、Jessica Hausnerさんなので明るくはない。そうだよね、としか言いようがない底冷えのする怖さがあとからじんわりと。”Lourdes” (2009)にあったのと同質の。

Emily Beechamさんは安定の巧さなのだが、不気味研究者モード全開のBen Whishawがお見事。このキャラのままQとかやってくれてもいい。

音楽はMaya Derenの作品でも知られる伊藤貞司の和楽器を使ったスコアと犬のばうばう声が重なって吹きまくっててなかなか異様で、最後にこれまた異様なMarkus Binderの”Happiness Business”ていうのが流れる – ちっともHappiness感のない嫌な風味のやつ。


もうじき6月も終わりで、こんなふうにPCの画面で映画を見始めて3ヶ月が経ってしまった。
こうやって映画を見ることと映画館で映画を見ることの違いについてそろそろなんか書いた方がよいのかしら、とも思うのだがそんなことより見たい映画が拾っても拾ってもぜんぜん無くならない方が恐怖で…

6.28.2020

[film] Chanson triste (2019)

20日、土曜日の昼間、BBCがやっているOnline Film Festivalというので見ました。
66分の、ドキュメンタリーのようなフィクションのような作品。英語題は”Sad Song”で、このタイトルだとルースターズのあれがやってくる、そういう世代なのだが、とにかく。

出演者はすべて本名で出ていて、彼らの職業も立場もリアルなそれで、パリに暮らすÉlodieはロマン派とかバロックのクラシックの歌い手 - DuparcやSzymanowskiの曲を歌うシーンがある - で、アフガニスタンからの難民であるAhmadは、Élodieの家に難民申請が許可されるまでステイしていて、たまにその声が聞こえる本作の監督のLouise Narboniは彼の姿をフィルムに収めつつ実際に進行中のAhmadの難民申請手続きを助けたりしている。

アフガニスタンにいたAhmadはタリバンからの迫害を受けて父と兄の行方はわからなくなり、自分も危なくなったのでいくつかの国を転々としてフランスまで来て、でも現地にはまだ母と妹がいるという。
AhmadはÉlodieと片言の英語で会話しつつ彼女からフランス語やフランスの文化について教わっていて、性格も素直でよい子のようだし、お返しに彼が披露する幼い頃に習ったという現地の歌と歌唱は見事で、監督が撮る彼のGentleな姿からも、ÉlodieがAhmadを見つめる目からもこの青年をなんとかしてあげなければ、という思いは伝わってくる。

でもそういう幸せな - 現地で続いている地獄のような苦難と比較すればだけど - 難民の適応/適応支援の物語もAhmadが極めてストレートにÉlodieに愛を告白するとトーンが少し変わってきて… ここから先は書かない方がよいかも。 

タイトルの”Sad Song”にはいくつかの様相というか側面があって、それは彼がアフガニスタンから来た「難民」だから、と最後はそこに行ってしまうのかもしれないが、こうして具体的に解してみれば文化とか恋愛とか、もっと直截に家族とはもう会えないかもとか、いろいろな線が見えてきて、それって例えば”Talentime” (2009)にあった淡い希望とか思いと比べてみると相当に残酷なものではないか、とか。 こういう場所で状況で、果たして音楽は、あるとしてもどこのどんな音楽でありうるのだろうか -  どうにもならないだろ? ってストレートに。

本当にシンプルな構成と最小限の登場人物で(だからこそ?)可能となったのかもしれない深さを持ったドラマで、最後の方のÉlodieとAhmadの恋愛を巡る対話のスリリングなことときたら。ふたり共母国語ではない英語で会話をしているとは言え、救いとはなんなのか、とか、愛の不可能性みたいなところまで入っていってしまうかのよう。

そしてこのトーンに見事にはまるのが19世紀の作曲家の楽曲であるという..


この週末は、本来であればGlastonburyの50周年だったので、BBC2(TV)ではずっと過去のライブ映像を流していて、日課の映画の合間にへーこんなのもあんなのも、って見ていた。そりゃいっぱいあるわよ。  今日の晩の9時過ぎからはDavid Bowieの2000年のライブだった。 自分が最後に見たのは2002年のBrooklynので、これがベースだったのかー、って。(ほんとうに最後だったのは2005年のArcade FireのCentral Parkのに飛び入りで出てきた時、だった)。

いまはEd Sheeranをやってる。ずーっと歌ってる。すごい人気なんだねえ(ひとごと)。

来年はチケット取れますように。

[film] Fourteen (2019)

21日、日曜日の晩、BAMのVirtual Cinemaで見ました。音楽もついていない低予算映画だけど、すばらしかった。

最近よく見ている気がする14歳の女の子たちの話、ではなく、14歳の頃からくっついたり離れたりを繰り返していくふたりの女性のお話。 コメディではなくて、レスビアンの映画でもない。

Brooklynで教師の仕事をしながら作家になりたいと思ってがんばっているしっかり者のMara (Tallie Medel)とSocial Workerをしている豪快さんのJo (Norma Kuhling)がいる。 MaraはちっちゃくてJoはでっかくて、JoはよくSocial Workerのエージェントから契約切られたり、その度にエージェント探してたり、同様に彼も頻繁にころころ変えたり変えられたりして、Joからそういう電話をもらうとMaraはJoのところに行って話を聞いてあげたり、新しい彼と会ってあげたり、場合によっては一緒にいる彼からJoが手つけられない状態になっているから来て助けて、って電話があったり、そうするとMaraは必ずJoのところに駆けつけるし、でもふたりで会う約束してもJoが現れないことは頻繁で - ごめん寝てたわー っていう言い訳(このB型やろう) - 始めの方はふたりのそういうやりとりが続いていく。

Maraの方だって彼は変わるし、でもちゃんとした彼もできてやがて妊娠して子供が生まれてシングルマザーになって、そういうMaraの環境の変化は時間の経過を表していて、気がつくと1年-2年-5年-10年-みたいにどんどん時間が過ぎていって、そういう節々でJoと会う回数は減っていって、たまに会うと今度こそはだいじょうぶそう、な気がする彼と一緒なのでようやく落ち着いたかな、って思うのだが、それもやっぱり続かなくて、更にしばらくぶりに会うと公園でジャンキーみたいにやつれて、傍にいる男もカタギではなさそうなかんじで、でも今のMaraにはなにかしてあげられそうにない。

これって側から見ているとなんでそこまでしてあげるんだろ? ってよく思うようなやつで、でもそれって当人たちにとっては謎でもなんでもない、理屈とかで割りきれない、はじめからそういうものとして成り立っている関係、というだけのこと。他がどうこう言うようなのではないそういうの、あるよね。

でも最後の方で、Maraが少し大きくなった娘に14歳だった自分たちに起こったことを語るやりとりはじーんとする。 最後までMaraはJoを受けとめようとしたし、JoはMaraに会いたいと思っていたし、14歳の頃の自分と自分たちで変わったこと変わらなかったこと、変わっていないと思っていること、などなどが浮き彫りにする時間の経過と自分の変化と。 ずっと友達でいられると思っていたし時間ごときになにができるか、って思っていたし。 そういう現在とあの頃を行ったり来たりしつついろんな痛みと辛さと甘みが渦を巻いてこちらにやってきて、それは複雑だけど普遍的ななにかを語ろうとする。

ふたりが過ごした14歳という断面が特別なんじゃなくて、その断面を覆いにくるカサブタとか苔とか接木とか湧いてくる虫とかそういうのの重なりあいが後々に形作る植生とか森とかのありようが独特なのだと。  日本でも公開されてほしい。


ついにようやく、午後にThe Second Shelf(古書屋)に行った。小さい店なので予約制で一回にひとり(ひと組み)しか入れないから棚を独り占めできるよ。ここは開店した頃からずっと通い続けていた店なので自分の書棚の延長のようなかんじ(まさにSecond Shelf)がしていて、だから並んでいる本たちにやあ久しぶりとか、まだいたのねとか、自分でもちょっと危ないかも、って思った。 
ところで、3月からここまでずっと、本もレコードもオンラインでは一切買っていなかった。散歩のついでにスタンドでNew Yorker誌を買うくらいだった。 つまり、数字だけだとひと月に費やしてきた本代レコード代ライブ代(いくらだか知らんが)の3ヶ月分をぶっこんだって構わないはずで、でもいきなりそこまで飛んでいくのは大人じゃない気がしたので、少しだけ。とにかくうれしかった。

6.27.2020

[film] Yourself and Yours (2016)

21日、日曜日の昼間、Lincoln CenterのVirtual Cinemaで見ました。日曜昼間のホン・サンス。

今ここでは『浜辺の女』(2006)、『自由が丘で』(2014)、とこれの3本がかかっていて、これだけ見ていなかった気がしたので。
『あなた自身とあなたのこと』。2016年の東京国際映画祭で上映されているのね。

画家のヨンス(Ju-hyuk Kim)のところに友人が訪ねてきて、ヨンスの婚約者のミンジョン(Yoo-Young Lee)がバーで酔っ払って暴れているところを見た、という。彼女は昔そうだったけど今はもう暴飲はしない、って誓ったはず、ってヨンスは返して、でもミンジョンに聞いてみたらあたしはもう飲まないし飲んでないしそんなこと言ってるのは誰? って激怒して家を出て行ってしまう。(夜中に身に覚えないことをあんなふうに言われたら頭くるよね)

今度は別のカフェで彼女はジェヨン(Hae-hyo Kwon)に声をかけられて、前バーで一緒に飲んだじゃんとか言われるのだが、それも覚えがなくて、あーあたしは双子だから、もうひとりの方かも、とか言って打ち解けて、でも何度か会ってやっぱお別れしましょう、になって、同様に映画監督のサンウォン(Joon-Sang Yoo)にも同じカフェで声をかけられて、そこにジョエンも現れて、一瞬険悪になるけど同じ学校であることがわかってなにそれ、だったり。そして何回も妄想したりミンジョンのことをめそめそ忘れられないヨンスもやはり同様に..

ここでタイトルになっている「あなた」がミンジョンから見た男性のことを言っているのか、男性から見たミンジョンのことを言っているのか、作者から見た登場人物のことを言っているのか、もっと一般的なことなのか、どこに置くのかによって映画から受ける「教訓」みたいなのは変わってくると思うのだが、見ている間はこんなのどこがおもしろいんだろうか… ってなってて、終わってこういうのを書きはじめるとじわじわ湧いてくる、あたりがホン・サンスだねえ、って。

ミンジョンは冒頭に一緒にいるヨンス以外のここで出会う誰に対しても「あなたとは会ったことない、誰?」といい、下心しかない男はそれをきっかけにあれこれ突っこむ、というゲームみたいな駆け引きのなかで、男たちの過去の記憶とかイメージにある「あなた」とそれらを一切受けつけようとしない「あなた自身」がぶつかって、「恋の駆け引き」みたいのってこの両者を一致・統合させようとにじり寄っていくやりとりが快楽だと思う(なので男たちはがんばる)のだが、ここでのミンジョンは、それをはなっから放棄するのでこれってどういうことなのか、って。

他方で、そんな事情はどうあれ酒のんでだらだらやっていればなんとなくできあがってしまう、という(ホン・サンスの)いつものあれもあって、こういう世界を深いというのか酷いというのかわたしにはよくわからないしわかりたくもない。でもそういう条理みたいのがあること、それがホン・サンス的世界のひとつの根幹をなしているらしいことはなんとなくわかる。

恋愛をどこそこの到達点まで行ったら勝ちとか負けとかのゲームからできるだけ遠くに置いて、最初のぬるま湯というか冷や水というかの緊張感をだらだら持続させるためにずっとうろうろ彷徨ってひたすら飲んで、を繰り返して懲りないの。 本人たちが幸せならそれでいいやって、こっち側から眺める。

で、ただそういう目で改めてこの作品を見てみると、もうちょっと突然偶然のびっくりとか、え? そっちにいくの? っていう惨劇を目の当たりにするような崖から突き落とされるようなお手あげ感はあんまなかったかも。あまり遊びがなくてきれいに纏まりすぎているような。

でも久々に見ることができてなんか懐かしかった。


2日前からずっと書いているけど、とにかく暑すぎてなにもかも嫌になって夕方にWhole Foodsに駆けこんだら、ちょうど店内で”Friday I'm in Love”がかかった、っていうのが唯一のピークだった金曜日。

6.25.2020

[film] Salt of The Earth (1954)

19日、金曜日の晩、映画監督のCarol Morleyさんが毎週やっている#FridayFilmClubで見ました。ふつうのYouTubeで無料で。このフィルムクラブ、こないだ『勝手にふるえてろ』(2017)をやっていたのだが逃してしまった。邦題は『地の塩』で、77年に公開されているもよう。このタイトルってマタイによる福音書の「地の塩、世の光」から?

ニューメキシコの亜鉛鉱山の炭鉱夫の妻Esperanza Quintero (Rosaura Revueltas)がいて、妊娠中の彼女は冒頭、生活は苦しいし - よいことなんもない - こんなんで生きていてもしょうがない、みたいなことを言う。

彼女の夫のRamon (Juan Chacón)はメキシコ系アメリカ人の炭鉱夫で、他の仲間と一緒に白人労働者と同等の待遇改善を求めてストライキに出るが会社はどこまでも交渉を拒否して、警察を呼んでRamonを逮捕したりする。で、あんたが牢屋に行っても特に生活に支障なかったし、って冷たく言うEsperanzaとの仲も最悪になる。

会社側はストに参加した労働者は逮捕できるんだぞ、っていう法的根拠を示して男たちを脅すのだが、それならあたしたちが、って炭鉱夫の妻たちが立ちあがってピケを張って、そしたら彼女たちが逮捕されちゃって残された夫たちが家事をすることになって、そういうのを通して男たちは自分たちには見えていなかった家事労働の大切さを知るの。そこから先はそうか一緒に闘えばいいんだ、になって..

炭鉱という仕事場での差別、と言っても賃金だけでなく人種とか階級とかいろんな側面があって、その差別への着目が家庭内での性差や「あたりまえ」に基づく別の差別のありようも明らかにして、それらを解決するにはひとり、ひとつの家庭ではだめでみんなで団結して声を集めて立ちあがるしかない、そうすれば変えることができるよ、って今だと割とふつうの視点(プロテストを潰したい側はこれとは逆に分断を煽る)だと思うのだが、当時はこれが「共産主義プロパガンダ映画」とか「アメリカ人一般に対する脅威」として上映禁止処分をくらってアンダーグラウンドで細々と上映されていったというのだから。

もういっこ、この一連の闘争を通して映画の冒頭では死んだ目をしていたEsperanzaが闘う女性としての自分に目覚めていくフェミニズム的な側面もあるのだと。うん、確かにこの映画の主役は彼女だと思った。

監督のHerbert Bibermanはハリウッドの赤狩りでパージされたThe Hollywood Tenのひとりで、他のスタッフのみんな赤狩りでやられていて、このため制作は分散で極秘で行われて、でもチーフ編集者がFBIからお金を貰っていたことがばれたり、この映画の制作から流通までの困難とかごたごたの方がドラマになったりして。

キャストもプロの俳優は5人だけ、他は実際の労働者をそのまま使っているのでヘタウマ感はあるし、もっと巧く盛りあげられそうなところもある気もするのだが、それでもこの時代に差別と闘争を正面から取りあげたという点だけでも十分おもしろい。これをアメリカ人に対するヘイトにしてしまう視点の方がすごい(ほめてない)かも、って。

しかし今の日本も相変わらず顕著だけど、共産党、共産主義を病的に嫌うあれって、たぶんこの時代から植え付けられたあれなんだろうが、首相を病的に崇拝するのと同じでどっちにしてもカルトの思考停止としか言いようがない。思考停止しているので連中には何言っても通じない。 でもそういうのがゾンビみたいにうじゃうじゃいる(ゾンビごめん)、っていうのは単純におそろしい。これは明らかに仕組まれた教育の失敗で、だからあの国はもう..

あと、上映後のTwitterのやりとりで、英国の映画にも炭鉱モノっていうジャンルというか括りがあるんだって。掘っていったらおもしろいかも。


今日は今年の最高気温 - 33℃? - を記録した日で、午後はもう完全にだめでどうしようもなくて、夕方にチェルシーの方に買い物に出て西瓜を買って食べるのだけを楽しみにしていたのに、行ったら西瓜売り切れ..  ここの西瓜だけは他のとこのと違ってしゃりしゃりしておいしいのにー。

6.24.2020

[film] Deux moi (2019)

18日、木曜日の晩、Lincoln CenterのVirtual Cinemaで見ました。
ここが毎年やっているシリーズ - ”Rendez-Vous with French Cinema”からの1本でこの日が最終日だったから。 英語題は”Someone, Somewhere”。なかなかおもしろかった。

パリで、オンライン通販の倉庫で働くRémy (François Civil)がいて、なんかの研究所に勤務しているMélanie (Ana Girardot) がいて、ふたり共シングルで、隣り合ったアパートに暮らしていて、フロアもだいたい同じで、仕事から帰ってくると別の建物の入り口から入って別のベランダから下の線路や電車を見下ろしてぼーっとしたりしてるのだが、まだ知り合いでもなんでもない。

Rémyは不眠症で仕事場ではロボットによる自動化が進んでいて、その流れにびくびくしていたらほうらやっぱりコールセンターの方に配置換えになって、彼女もいないけど別にどうでもいいかんじで、でも一応マッチングサイトには登録してみたり。 Mélanieは毎日ずっと眠くていくらでも寝れてしまうのが悩みで、研究所の仕事では規模大きめの発表会でのプレゼンを任されてちょっと緊張して、それにしてもこのまま前の恋を引きずっているのはよくないわ、ってマッチングサイトに登録して何人かと会ってみるのだがぜんぜん乗れないし続かないし。

こんなふうにあんまぱっとしないふたりがある日ぶつかって、なにかが回りだす(キラキラ)、っていうのがこういうドラマの定番だと思うのだが、このふたりについては本当に最後の最後のぎりぎり(残り3分くらい)までぶつからなくて、それぞれどんよりした状態でそれぞれ別々のセラピストのところに通って、そこでのセッションを通して彼らの過去が明らかになっていって、セラピストに言われるままに新たな出会いや機会を求めたりしてみて、でもだからといってそこでふたりを結びつける決定的な因子が見つかるわけではなく、でも近所のオリエンタル系食材店ではふたりとも同じような時刻に同じようなものを買っているし、Rémyがなんとなく貰ってしまった白猫(かわいい)は彼のとこからいなくなったあとにMélanieに拾われたりする。でも、そこまで行っても、物理的には割と近くにいるふたりが巡りあうことはない。

べつに意地悪をしているわけではなくて、そういうもんだよねふつう? ていう描きかたをしていて、それはいつか王子様がお姫様が..の甘い幻想を叩きつぶす、って程のもんでもなく、そんなに強く望んでいようがいまいがこの程度のものだからきっとなんとかなるんじゃないか、っていうその明るくも暗くもない見通しの立てかたがなんかよいの。で、その見通しを押し売りするわけでもなく天気予報みたいにパリの夕暮れの景色と一緒に示してくれる - Someone, Somewhere -  確率60%くらい?

ここで滲んで並べられるふたりの日々の暮らしって、日本の女性誌によく出ているパリの若者の暮らしとはぜーんぜん違うものすごく地味で色彩も奥行きもぺったんこのやつで、四六時中恋愛しているわけでもなくて、やはりこっちのがふつうな気がする。同様にこういうBoy Meets Girlもので元気を貰うとか、そういうのを期待したことはないのでこれはこれでとてもよいのだけど、でもやっぱり、最後はあの白猫が何やらしでかしてくれると思ったのになー。それすら甘いよ、ってことかなあ。

でも、くどいけど、こんなパリの恋物語だってあっていいはず。

Rémy役のFrançois Civilさんは4月に見た”Celle que vous croyez” (2019) - Who You Think I Am ではJuliette Binocheの若い恋人役をしていた人。SNSによく出てきそうな頼りない寂し犬系の人、というか。

すごくどうでもいいことだけど、ふたりが通う近所のオリエンタル系食材店で、お米を買うシーンがあって、店主がクリーミーなやつだったらUonumaのがいちばんだ、って薦める銘柄、こっちでいつも買ってるお米だった。あれを買っていると出会いがきたりするのかしら。


いよいよがーんとした夏日がきて、アパートにはエアコンなんてないので改めて戦慄した。この温度条件下で在宅勤務なんてできないわ(炎天下にプレハブで授業する小学生のイメージ)。でも同様に冷房のない地下鉄に乗って会社行くのもありえないわ。もうこの際こんな時だから夏休みを2ヶ月とかに..  

6.23.2020

[film] Woman Make Film: A New Road Movie Thorough Cinema Part 3 (2019)

13日、土曜日の昼間にBFI Playerで見ました。

“Part 3”はChapter 18から25まで。紹介された映画は114本。ナレーションはAdjoa Andoh → Kerry Fox→ Shamila Tagore → Jane Fondaとリレーされた。このパートで扱われたテーマこそ、一番男女間の性差・ジェンダー観のようなものが現れやすい領域、という気もするのだが、あえて深掘りをせず、他のChapterと同じ温度での紹介に徹しているような印象。ここは評価が分かれるところかも知れないが、考えるネタを提供する - あとは各自勝手に掘れ – でよいのでは、と思った。 以下メモ。

Chapter 18  Bodies

彫刻でも絵画でもBodyは常にセンターにあった。映画でもサイレントの時代のチャップリンからガルボにモンローにウェインに -  女性監督はBodyをどう描いてきたのか。

“One Sings, the Other Doesn't” (1977)のベールに隠された顔、”Chocolate” (2009) by Yasmin Ahmadでの女性と店員のやりとりのシーン等から、隠された体 - 曝される体のありようが示すカルチャークラッシュ、ジェンダークラッシュ、更に裸であること(nakedness)はReligion, Gender, Classの前に来るのかどうか、という問い。

“Beau travail” (1999)  や”Olympia Part Two: Festival of Beauty” (1938)で描かれる男たちのむき肉、その反対側にあるかのような”Mustang” (2015)での少女たちの体の嘆き。
手や足への着目とそれがダンスとして織りなされる形としてLeni Riefenstahlのマスゲームと”The Last Stage” (1948)でのアウシュビッツの女性たちの対比。
ブルジョアや権力を体現するボディとして”American Psycho” (2000)のChristian BaleのぴかぴかのBody、更に怪我や出産で引き裂かれたり痛みを体現するBody。一番最後に”Evolution” (2015)でのありえないBody。

Chapter 19  Sex

女性監督は画面上でSexをどう描いてきたのか、そのやり方から我々は何を学ぶことができるのか。
最初は”Peppermint Soda” (1977)や”But I'm a Cheerleader” (1999)での、少女の脳内や規範としてあるSexから入って、”Dogfight” (1991)での「準備」のシーン、そこから Sexをどれくらい近くから撮るか、その一番近い例として”American Honey” (2016)の草の上のとか。”Le Bonheur” (1965)での20カットの固定ショット重ねとか、いくつかの撮るスタイルを例示する。

そこから”Complex but Good sex”として”The Future” (2011)の中年男との変なやりとりとか”La captive” (2000)のバスルームのシーンとか。

なんだかんだ楽しんでいる例として ”American Psycho”とか”The Diary of a Teenage Girl” (2015) – やりすぎ - とか。 逆に痛みや苦痛の側面については取りあげられていない。これが意味するところはー。

Chapter 20  Home

過去の名作 - “The Wizard of Oz” (1939)でも”The Apartment” (1960)でも”E.T. the Extra-Terrestrial” (1982)でも、Homeが大きな意味をもつ映画は多い。

夢の家、理想の家を現実 - アウトドアとかコテージとか - との対比で描いたり、Safe Placeとしての家 - 家の外は危険なのか安全なのか - とか、家を失うことの恐怖を通して家ってなんなのかを問う、とか、兵士が壊れた家に戻る、失われていく村の描写を通して家のありようを再定義したり、とか。 ここも、「家」に対するイメージって男女間で結構異なる気がするのだがその差に踏みこむことは敢えてしていないような。

Chapter 21  Religion

救いを求めて彷徨う巡礼とか、ひたすら祈る少女とか、そこに群れをなす人々(蜘蛛の糸)とか、そういう描写の反対側で、救われないことの絶望 – “Priest” (1994)とか、信仰は本当にひとを救いうるのか、という例として”Lourdes” (2009)や”Persepolis” (2007)とか。

このChapterで取りあげられたのは8本で、とっても少ない。 やはりちょっと難しいテーマなのかな。

Chapter 22  Work

“The Future” (2011)や”American Honey” (2016)でのSales – 売りこみというお仕事の大変さから入って、自然を相手にするソヴィエトの草刈とかベネズエラの塩田とか、それとは逆の食事の準備とかのDomestic workの延々続く繰り返し、その反対に対置される無邪気な子供の遊び。

あと忘れてはいけない”Jeanne Dielman, 23, quai du commerce, 1080 Bruxelles” (1975)のベッドメイキングするシーン – YouTubeみたい - とか、ワイルドの『わがままな大男』が原作の”The Selfish Giant” (2013)でのゴミ漁りをする少年たちとか。

仕事のdesperateな側面として雇い主側の傲慢を描いた”Monster” (2003)とか、仕事を貰えるならなんでもやっちゃう”Sherrybaby” (2006)とか。あとこの並びなのかどうなのか、”Devotion: A Film About Ogawa Productions” (2000)での大島渚や原一男のインタビューが。

Chapter 23 Politics

ここまで日々の生活における大切な側面 – Sex, Home, Religion, Workときて5つ目に忘れちゃいけないのがPoliticsです、と。(政治ってそれくらい大切なことなのよ)

わかりやすいというところもあるのか、社会主義の国における理想とかシンボルの表象から入って、プロパガンダについて(idealism → symbolism → propagandaという流れ)。一般市民とか子供の目線をうまく使うやり口とか。

法廷の判決シーンとかプロテストにストライキ、政治のありようが見える瞬間の描写、political aftermathの表現として田中絹代の『恋文』(1953)での兄弟の会話 - 復員後の仕事のこととか。
最後に紹介された”The Hidden Half” (2001)でのイラン革命時と現在の対置があー、だった。

Chapter 24  Gear Change

この次のChapterから個々のジャンルに入っていく前に、ギアチェンジをしましょう、ところで映画のギアチェンジって例えば―。

“Selma” (2014)の冒頭の爆破のところとか、”Girlhood” (2014)で洗い物をしていた少女がそっとナイフを忍ばせるとことか、”Orlando” (1992)が迷路を抜けていくところとか、最後の”The Connection” (1961) by Shirley Clarkeでのカメラの切り替わりの鮮やかさ、とか。

Chapter 25  Comedy

ここから各ジャンル別の紹介で、最初はコメディ。一番最初はまずアクションありき、ということで”Jumpin' Jack Flash” (1986)のWhoopiが電話ボックスごと引き摺られていくシーン。子供やお金持ちをネタにしたもの、”The Trouble with Angels” (1966) by Ida Lupinoの楽しいしゃぼん玉のシーンとか、Sex comedyにPolitical comedy、死体が歩きだしたり、とか。
この辺、ジャンルで括ったらもっともっと出てくるのではないか。    

で、Part 4に続く。


政府が7/4から映画館とか美術館とか美容院とかレストランとかパブとか開けてよい、って。
3ヶ月前の3/23、一日の死者74人の時点で家からぜったい出るなって言っておいて、いまの6/23、死者が171人いるのにパブ開けますーって頭おかしいんじゃないか、ってみんながいうのはもっともだわ。
こういうのに乗ってはしゃいだらあかん、てわかっているのだが、なんとなくSecond Shelfにアポ入れてしまった。 見るだけだから。

6.22.2020

[film] Tommaso (2019)

15日、月曜日の晩、Lincoln CenterのVirtual Cinemaで見ました。
Abel Ferraraの新作で、Willem Dafoeが主演、と聞くとすごくゴスでおっかないイメージしかなくて、でもスチールを見るとかわいい女の子も映っているので、ひょっとしたら”The Florida Project” (2017)みたいなやつか? って思って、でも勿論そんなことはないのだった..

アメリカ人のTommaso (Willem Dafoe)はローマにいて、女性講師とイタリア語の個人レッスンをしてて、その帰りにはデリで食材を買ってコーヒーを飲んで、アパートに戻るとヨーロッパ人で相当年下に見える妻のNikki (Cristina Chiriac)とかわいい3歳の娘のDee Dee (Anna Ferrara)がいてお料理作ってあげたりする。ここまでだとふつうに生活している幸せそうな男で、カメラは暫くそんな彼の日常を追っていく。

Tommasoは定職にはついていないようで、妻子の世話 - 料理とか公園に散歩とか - をしたりしつつ、若者向けのダンス(演技?)のワークショップをしたり、映画のシナリオ - エスキモーと狂暴熊 – みたいのを書いていたり、夜にはグループのセラピーセッションに出て自分の経験を泣きながら話したりしてて、それによると怒りを抑えきれない性分でアメリカにいた過去に暴力沙汰とかいろいろあったらしい。これに加えて彼の頭の中の妄想なのか、過去に作成した or これから制作する映画なのか、現実との境目が曖昧ないろんな映像 - 妻の浮気、自分の浮気、などなどが脈絡なく入り乱れて、そういうのと共にだんだん”The Shining” (1980)のあれになっていっちゃうのかしら.. という緊張感を孕みつつ、とにかく目を離すことができない。

Tommasoを現実に繋ぎとめてくれている唯一の希望で命綱の愛する妻と子は、意図的ではなくふつうに連絡取らなかったり取れなかったりがあって、そうすると彼は心配してキレて、すると妻も子も怖くて近寄らなくなって、だんだん ..  という誰も悪くないはずなのに、の典型的な溝の循環にはまって、怒りをコントロールできなくなっていく。そのミリ単位で狂気が寄ってくる/狂気に寄っていくかんじの不気味なことったら。

ローマという土地で、映画制作者の妄想が暴走して現実と見境つかなくなって、というとフェリーニの世界みたい、なのかもしれないけど、あの完結したお花畑の世界を穴だらけ隙間だらけのあばら家のすごくLowでRawなところに転移させると、こんなふうになるのかも。快楽、といっても被虐のそれで、スプラッターに転ぶ一歩手前のところをごわごわに白く乾いたWillem Dafoeの頭部 – からっぽでなんも考えていないような - がぐいぐい彷徨っていく。いちど睨まれたらもう終わり、のかんじしかない。

彼のアパートの屋内の照明が映しだす陰影もすごくて、あの変な影はなに? とか電球が切れたら取り替えればいいだけなのになんでそんなに、とか。もういっこは言葉で、彼は妻と片言の英語かイタリア語でしか会話できなくて、ひょっとしたらぜんぶ家のせいとか言葉のせいにできたのかも知れない。けどここではそっちじゃないこの狂気はおれのものだ絶対渡さない、ってとにかく彼は強くて、最後までその勢いで行ってしまう。 とにかく死でも悪魔でもいいから構ってほしかったみたい。

ひょっとしたら”The Florida Project”もTommasoのキャラでやったらおもしろくなったかも、とか。それか彼の具合が悪くなったのはひょっとして”The Florida Project”に出ていたときだったのかしら、とか。

とにかくこの映画はWillem Dafoeという俳優の顔の造形とか頭蓋の形とか皺の深みとかしわがれ声がその頭と体が闇と光の間を行ったり来たりするのを眺めて浸ってううぅって唸る、そういうやつだという気もする。はやく“The Lighthouse” (2019)も見なきゃ。


朝 〜 午前中はひんやりした風が吹いて上着を着てないと寒いくらいで、午後になるとなにがどうなるのか気温がぐいぐい上がって扇風機(の羽のないやつ)をかけないとやってられなくなる。 その大気の境目とか推移がどうなっているのかどうしても知りたい。

Prefab Sproutの”Steve McQueen”がリリースされて35年、だそうです。くどいけど、35年て、人が生まれてから軽く萎れたおっさんになるまでの歳月 - 35歳を過ぎて生きてるなんてありえない、ってかつては蔑んでいた、そういう時間のかたまりなわけです。つまり … 以下延々。

6.21.2020

[film] Tigermilch (2017)

14日、日曜日の晩、MUBIで見ました。
2013年に出版されたドイツの小説家Stefanie de Velascoさんの同名のデビュー小説(未読)を映画化したもの。英語題は”Tiger Milk” - Belle and Sebastianのデビュー作”Tigermilk” (1996)とは違うの -  で、かつて書店に積まれているのはよく見かけた。

ベルリンに暮らす14歳のNini (Flora Li Thiemann)とJameelah (Emily Kusche)は親友で万引きをするのもなにをするのもずっと一緒で、Tiger Milkっていうのはパッションフルーツジュースに学校の牛乳とブランデーを混ぜたドリンクで、ふたりはこれを景気づけにぐいーって飲んで妄想まみれの元気いっぱいで街に駆けだしていくの。

ちょうど夏休みの前で、ふたりはヴァージンを捨てようぜ、って互いに誓ってカモを探して間抜けなおっさんから金くすねたり天下無敵なのだが、家(集合住宅)の前でいい気分になってバラの花びらを撒いていたらすぐそこで殺人事件を目撃してしまう - しかもご近所の同級生の家の人だったから動転して、どうしようっておろおろして、イラクからの移民でママ(シングルマザー)の滞在許可について国からチェックが入ったりしているJameelahは、こういうのに首を突っ込むと自分の滞在に影響するかもなので、しばらく黙っていようよ、っていう。

けど、事件の犯人として複雑な家庭にある同級生が自首したことを知って、彼じゃないことを見て知っているふたりはなんとかしないと、になるのだがJameelahはやっぱりやめといてって言って、でもこの辺からふたりの間に溝ができて、そうこうしているうちにJameelahは …

ふたりの女の子がベルリンの街に飛び出すところの勢いは文句なしに素敵で、それが物語の進行と共にスローダウンしていって、殺人事件から移民問題にまで及んでしまうところは少し驚いたが、でもそれは不可解でも理不尽でもなんでもなく、現実にあっておかしくないことで、それを自分たちの問題として考えるよいきっかけにはなるはず - なんて他人事のような言い方は嫌なのだが。

今起こっているBLMから入って差別の問題に目を向けて見たとき、国境(アメリカだと州境)とか国籍ってなんなのか、って改めて思う。 原因結果いろんな見方はあるのだろうが、国境って今やただの経済権益を確保するための線でしかなくて、それって誰のための? とか考えると心底うんざりする。誰かの利益のためにその当事者でもなんでもない子供達とかその友情が犠牲になるのはいい加減なんとかできないのだろうか。 とか言い出すともっと悲惨なあんなことこんなこと、なくなったらどんなことになるか、とかいろいろ湧いてくるのが目に見えるので、シンプルに無くしてしまえ、って強く思う。いまのバカな大統領とかバカな総理大臣がいなくなったら世の中どんなに.. っていうのと同じ理屈で。

もちろんそういうテーマの映画ではなくて、おなじ桶に注がれたTiger Milkを飲んで育ったふたりがいかにすばらしく輝いていたのか最後の夏を過ごしたのか、っていう映画で、その点はじゅうぶんだった。

あと、4月に見た“Systemsprenger” (2019) - “System Crasher” - もそうだったけど、ドイツ映画ってこんなふうに社会問題と女の子の生き難い生をきちんと繋ごうとしているかんじはあるのかしら。

音楽はよく知らないドイツ語のエモみたいなメタルみたいのがいっぱい流れて、それらもなかなかよかった。 


今日は夏至で、夜22時になってもまだ空は少し白かったりする。
でも自分にとっての1年はここまでで、ここを頂点としてその先は日が短くなって暑くなっていくばかりだから既にとっても暗い。 生き延びられるだろうか、はやくどっかに行きたいな、とか。

6.20.2020

[film] The Big House (1930)

11日、木曜日の晩、Criterion ChannelのFrances Marion特集で見ました。 MGMで、Frances Marionで、こんな男臭い監獄アクションを彼女が書いたのかと思ったのだが、実際は1929年に起こった刑務所の暴動事件を元に監督のGeorge Hillが原案を書いたのをFrances Marionに渡した、ということらしい。で、この作品でMarionはオスカーのBest Writing Achievementを受賞している。

飲酒運転で人を殺してしまったKent (Robert Montgomery)が、刑務所に送られてきて、Butch (Wallace Beery)とMorgan (Chester Morris)ていう強烈なふたり - 親分肌のButchとなにかと優しくしてくれるMorgan - と同じ房になって、食堂でこっそり盗んだナイフのやりとりで独房に出入りしている隙をぬってMorganは脱獄する。 彼はKentの妹Anne (Leila Hyams)の勤める書店に行って助けて貰ったりして、AnneはMorganを脱獄囚と知りながら好きになるのだが、彼はやっぱり見つかって監獄に送り返されてしまう。

Morganが刑務所に戻るとButchはサンクスギビングで警備が手薄になるとこを狙って一斉蜂起の暴動〜脱獄を計画していて、看守側も囚人たちがなにか企んでいるらしいことを感づいているのだが、はっきりとはわからない。 Kentは自分の自由と引き換えに看守側に計画をばらすのだが、それでも暴動は勃発して..

暴動シーンの敵も味方もくそもないやけくそ一揆の勢いがなかなかすごくて - オスカーの音響でオスカーを獲っている - でもめちゃくちゃかというと囚人側もそれなりに計画していて悪賢くて、苦戦した看守側が戦車まで投入してきやがるの。 結末は書きませんけど、MorganとAnneの恋のエピソードも忘れられていない。

監獄映画の起源がどの辺にあるのかわからないけど、囚人のキャラクターがきちんと描き分けられているという点は見事で、特にWallace Beeryのちっとも悪漢に見えない濃さとしぶとさは”The Champ”(1931)の遥か上空を行っている気がする。


Riffraff (1936)

16日、火曜日の晩、Criterion Channelで、これもFrances Marion特集からの1本。
邦題は『港に異常なし』..  いや展開はそうとう異常なかんじなのだが..

港の傍の掘っ建て小屋に暮らす家族 - 大パパがいて、Lilおばさんがいて、ガキがいっぱいいて、Hattie (Jean Harlow)もそこに暮らすイキのいい姐さんで、港いちのマグロ釣り漁師のDutch (Spencer Tracy)はそこのツナ缶工場の経営側との間の組合運動を率いてて、彼も元気いっぱいで、そんなふたりが結婚してぶいぶい舞いあがるのだが、Dutchのことを憎くてたまらない経営側の策謀とかでふたりの生活は破綻、Dutchは家出して浮浪者で公園暮らし、Hattieは刑務所に行ってそこで出産とか、もうこれは無理だろう、ってふつうは思うのだろうが、脱獄とかなかなかとんでもないことが起こって意地でも解決しちゃうんだから、って勢いだけはすごい。

おれは男だ最高なんだとにかくなんでも解決するんだ、のSpencer Tracyがとにかく濃くて強くてうんざりなのだが、Jean Harlowが一歩も退かずにやり返してて、いちおうしぶとく負けない夫婦のドラマとして成立している気はするのだがここまでくると好きにやってれば..  にちょっとなる。 てめーがしっかりしてねえから刑務所入れらたんだから、脱獄してそいつ見かけたら真っ先にぶん殴らないか? とか。


土曜日の朝なので近所のファーマーズマーケットに行ったら、ついにようやくKent産チェリーの屋台がでていた。よかったよかった。
これで元気になったので午後、公園をつっきって、Rough Trade(の西の方)に行ってみた。すごい混んでいるかと思ったらぜんぜんで、ほんとに欲しいひとはオンラインですぐに買っちゃうんだろうな、って。
ノッテイングヒル界隈のマーケットもほぼ復活したかんじで、でも一番賑わっているのはパブの周りだった。外でみんなわいわい立ち飲みしていて幸せそうで。 そんなに外で飲みたかったのか、って..

6.19.2020

[film] Babylon (1980)

14日、日曜日の昼、Criterion Channelで見ました。こないだ見た”Smithereens” (1982)と同系の、自身の起源を再訪する旅。

当時、これの輸入盤を売っていたことはよく覚えている(買えなくてううって唸っていたから)のだが、映画を見れる日が来るとは。

ストーリーはシンプルで、サッチャー時代の南ロンドンでsound systemを組んで闇ライブをやっている若者達がいて、彼らのライブとかダンスフロアにかける熱だけじゃなくて、家族とか警察やNational Frontとのごたごた – 怒鳴られる、追っかけられる、殴られる - 壊される - とか日々の差別に曝され苦闘するぐだぐだなどを描く。決して音楽好きがてきとーに楽しくやっているわけではなくて、理不尽なところに挟まれて苦しくてきつくてやってられない。

脚本を書いているのが”Quadrophenia” (1979)のMartin Stellmanなので - 出演者も一部被っている - あれにあったのと同様の若者のイキがりと無軌道、それに伴う苦さのかんじ、そこにどんなふうに音楽が被って彼らの生を支えていたのか、あるいは差別や貧困がそれだけ彼らを疎外し隅に追いやっていたのか、などドキュメンタリーのような感触も含めて、似た感触はあるかも。

ていうのと、当時のロンドンの裏町のかんじ – まだ二次大戦後の瓦礫(← なんだって、後の解説で知った)が残っていたり、火が焚かれていたり、SOHOの裏手のやばい暗がり - 等が出ていて、それはBabylonとしか形容のしようがないのと、その反対側で結婚式前夜のパーティのほんわかあったかいかんじもあって、よい映画だと思った。

音楽は俳優としても出演しているAswadとDennis Bovellのが中心で、あの頃のレゲエ・ダヴの硬くざらついたボトムが全編を覆っていて、それに浸っているだけでたまんない。当時は硬くうねって暴れてくれる音ならなんでもよくて、心底かっこいいって思っていた。今だとメタルとかドローンに該当するやつとして聴いていたのかも。 Steel Pulse, Aswad, Basement 5, Linton Kwesi Johnson, などなど。(事情わかんないけど聴いてないだけなのかもだけど、レゲエってなんでいつの間にあんな踊れりゃいいみたいなのになっちゃったんだろ?)  

更に勉強になる参考ドキュメンタリーがふたつ。時代は遡って60年代頃、ジャマイカから英国に来た移民がどうしてどんなふうにsound systemで音楽を楽しむようになっていったのか、を描いた“Rudeboy: The Story of Trojan Records” (2018)、もういっこは日本でも公開された(のよね?)”White Riot” (2019) – Steel Pulseの名前が出てくる。

Criterionのサイトには本編のおまけでVivien Goldmanさんによる解説インタビュー映像があって、とても勉強になる。撮影されたLadbroke Grove - Lancaster Rdの辺りは当時AswadのメンバーやJoe Strummerが住んでいて、まさにそれが起こっていた爆心地だったのだ、とか。当時の英国は国としてのアイデンティティを模索して揺れていて(← いまだにそうじゃん)、その対岸に現れたのがBabylonという概念だったとか。

このトークでVivienさんの聞き手をしていたAshley Clark氏の記事 ↓。まだ見ていないのがいっぱいあるねえ。

https://www.theguardian.com/film/2020/jun/19/from-pressure-to-the-last-tree-10-of-the-best-black-british-films?CMP=share_btn_tw


Right On! (1970)

12日、金曜日の晩、MoMAがリリースしていておもしろそうだったので見てみた。
“Babylon”から10年遡ったアメリカ – NYでThe Last Poetsの3人がビルの屋上や瓦礫の上で順番に歌っていくだけ – 同録のように見える、どうやっているのかしら? -  なのだが、約70分間、ぜんぜん緩まないの。バックはボンゴをぽこぽこやってる2人だけなのに、力強くてなんだこりゃ?のテンションがずうっと続いて、気がつくと拳を握りしめている。

HipHopの起源? とか掘っていけば諸説ありそうだけど、まずひとつはこれ見せてみれば、とか。ほぼ手ぶらの素手の普段着でも言いたいこと - メッセージはこんなふうにビルを越えて橋を渡って伝播していくものだよ Right On!  て。プロテストの時代にふたたび。

90年代、Tha Last Poetsは全員ではなくてひとりとかふたりでよくいろんなイベントに出ていた。当時にこの映画の姿を見ていたらなー。


今日はSwedenではMidsummer Eveだし、在宅始めてちょうど3ヶ月だし、金曜日 - いろいろお店が開いて最初の金曜日だし、3時くらいに切り上げて外に行きたかったのだがぜんぜんだめで、低気圧の渦もひどいし野菜売り場にもろくなのなくてさあー。 こういう日もあるわ。金曜日なのに。

6.18.2020

[film] But I'm a Cheerleader (1999)

10日、水曜日の晩、Criterion Channelで見ました。なんか新しく入っていたので、程度。
邦題調べてみたら『Go!Go!チアーズ』だったのね。これなら既にどこかで聞いていたかも。

Megan (Natasha Lyonne)は17歳でチアリーディングしてて、フットボール部の彼とはべろべろにキスしまくってるのになんか乗れず、頭のなかはチアリードする仲間のことばかり浮かんできて、なんでかしら? と思って家に帰ると家族 - パパがBud Cort - みんなとMike (RuPaul)が揃っていて、あなたはヴェジタリアンだしMelissa Etheridgeなんか聴いているので間違いなくゲイよ!っていきなり宣告を受け、えええ?って本人もびっくりするのだがなんも聞き入れて貰えず、彼女はMike - 彼も矯正されたex-gay - のいる矯正施設 – True Directions (TD)に送られてしまう。

施設には同じように送りこまれて暗い目をしたゲイの子達がいて、創業者で女校長のMary (Cathy Moriarty)とその息子とMikeで運営されてて更生までの5ステップとかあって、見るからにバカらしそうなのだが、修了しないと家に帰して貰えないようなので渋々、たまに口あんぐりしながらやらされることになる。

その5ステップ – ①自分がホモセクシュアルであることを認め、②自身のジェンダーアイデンティティを認め、③家族セラピーを通して自分がホモセクシュアルになった「根」を発見し、④ヘテロを理解し、⑤ヘテロセクシュアルを模擬体験する -  にげろげろしながらつきあいつつ、Megan以上にてきとーにやっているGraham (Clea DuVall)と仲良くなったり、TDを出た後に再びゲイに戻ってアンチ – アンチゲイの活動を繰り広げているLarry & Lloydに連れられてゲイバーに行ったり、そういうのを通してGrahamと御法度の恋におちるのだが、それがばれてTDを放り出され、Grahamも一緒に来てくれると思ったのに彼女は親の圧力に負けて来てくれなくて、そのうち卒園式の日がやってくる。

というのがJohn Watersふうのケバケバした色調とこてこてお下劣「アメリカンジョーク」の連打と共に語られて、それはこの約20年後に作られる同様の矯正施設に送られる少女の物語 - ”The Miseducation of Cameron Post” (2018)とは全く異なるトーンなのだが、それは問題がより深刻化してきたから(それもあるだろうけど)というより、問題が地続きのすぐそこで起こることとして認知さるようになってきた、ということなのだろうか。でもだからといって、本作においておちゃらけつつも提示されたテーマが古くなっているとは思えないし、極めて真面目なやつだよ。

「自分らしく」あるようにって言うときにイメージする「自分」に対するブレが拡がっていって翻って自分に撥ねかえってきたり、多様性を謳いながら特定のイメージ偏重で語りたがる典型的な学校の所作とか、これは淡々と追っていくとセクシュアリティやジェンダーのありようを問う、というだけでなくて、自分を発見する→他者を受けいれる/好きになる、っていう社会的な体験の基本についても語っているようで、そういう点で明るく楽しいテキストのように見るのがよいのかも。そんな簡単じゃないしまだ苦しんでいる人が大勢いるのもわかるけど。

Meganがわたしはゲイだけど、でもチアリーディングも好きなの、って言ったり、彼女の両親がPFLAGに参加することになったり、その辺のとこ。 いつか、”But I'm a Cheerleader”じゃなくて”So I'm a Cheerleader”になったらいいな、って映画そのものがチアしているような。

こういうのを矯正院ではなくて学園ドラマの枠でやってみることは可能なのだろうか? ”Love, Simon” (2018)は眩しくてキュートで大好きだけど、あそこまではまだ遠いかなあ..

TDの生徒にはMichelle Williamsがいたり、ゲイバーで横切る謎の少女にJulie Delpyがいたり。

音楽がまたたまんなくて、April MarchとかSaint EtienneとかLoisとか。懐かしいK Recordsの香り。


夕方、チェルシーでお買い物をしていたらものすごい轟音が響いて道路の真上を隊列を組んだ戦闘機がびゅーんて飛んで行った。
パリ陥落後にロンドンに亡命したド・ゴールがBBCを通してレジスタンスを呼びかけたのが80年前の今日で、フランス大統領が来ているのだった。 だからってびっくりさせないでほしい。

6.17.2020

[film] The Wedding Night (1935)

3日、水曜日の晩、Criterion Channelで見ました。監督King Vidor – 主演Gary Cooperなので、rom-comのクラシックかなあ、くらいに思った。ら、最後にその梯子外されたけど。邦題は『結婚の夜』。

NYに暮らす作家のTony (Gary Cooper)はデビュー作の後でスランプが続いていて、新作のゲラを見せて編集者に前借りをお願いしてもこのクオリティじゃだめ、とか言われてしまったので、妻のDora (Helen Vinson)は田舎に籠って執筆しなさい、ってコネティカットの農村にあった家に引っ越すことにする。

そこにはタバコ農家をやっているポーランド移民のコミュニティがあって、暮らし始めると隣家のJan (Sig Ruman)と娘のManya (Anna Sten)が来て、この家を$5,000で売らないか、っていう。寒いしこんな田舎は面倒なので売るわ!ってDoraは手続きのためにNYに戻り、ぼろい家にはTonyと執事 – 日本人の俳優、日本語でぶつぶつ言うの – が残され、執事があれこれ耐えられなくなって出て行ってしまった後にManyaがやってきていろいろ世話をやいてくれて、ふたりはだんんだん仲良くなって、Tonyは新作への意欲も湧いて原稿に取り組み始めて。

でもManyaには父親が決めた村のぼんくら婚約者がいて、MayaとTonyの仲良さそうな様子を見た父親は来週の月曜日に結婚式やるぞ、って勝手に決めちゃうの。結婚式でMayaと女性たちは悲しそうで、宴の晩に新郎たち男どもははしゃいで騒いで酔っ払って、ますますやなかんじになって、見ていられなくなったTonyはMayaを自分の家に連れていくのだが..

少し疲れたふうのGary Cooperと純朴Anna Stenのふたりがとてもほっこりよいかんじ vs. 父&婚約者男がすごーくやなかんじなので、最後にGary Cooperが蹴散らしてくれるとかと思ったんだけどな..

父親役のSig Rumanはルビッチの『生きるべきか死ぬべきか』(1942)で「シュルツ!」って怒鳴る間抜けなナチスの将校をやってた人ね。いま公開されたらポーランド人団体から描き方について抗議が入ってしまうかも。でもプルーンスープ飲みたいな。


Olivia (1951)

8日、月曜日の晩にCriterion Channelで見ました。なんとなく。

Colette - Vincente Minnelli - Leslie Caronによる”Gigi” (1958) – 大好き - のひとつ前の”Gigi” (1949)を撮ったJacqueline Audryの監督作品。原作は英国のDorothy Bussy - Lytton Stracheyの姉でAndré Gideを英国に紹介したひと - の半自伝的小説(未読)で、Leonard & Virginia WoolfのHogarth Pressから出版されている、つまりBloomsbury groupので、だからこそ可能だったかもしれないレスビアン小説の古典。

英国人のOlivia (Marie-Claire Olivia)がフランスのFinishing Schoolにやってきて、女学生たちと過ごすうちに校長先生のMademoiselle Julie (Edwige Feuillère)が好きでたまらなくなって、でも彼女に憧れる女子は沢山いたので嫉妬と羨望の嵐が渦巻いて事件も起こって、結局Oliviaは..

原作の小説と比べるとレズビアンの要素は薄められているそうだが、それはそれとしてFinishing Schoolの様子 – ラシーヌの朗読とかパリに遠足とか – そのディテールひとつひとつが丁寧に丹念に重ねられていて、そういう中で描かれる恋愛にはいかがわしさもqueerみもまったくなくて、きれいな絵画にうっとりしているうちに終わってしまう。それでぜんぜんよいの。


湿気がひどかったし - 関係ないか - ピカデリーのHatchards(本屋)が開いたというのでバスで行ってみた。ここには新刊だけじゃなくて古本もあるの。 ああ本屋だわってしみじみして、空気をいっぱい吸って、それだけで出てきてしまった。辛くなったらここに来ればいいんだわ、って。 よかったよかった。

6.16.2020

[film] The King of Staten Island (2020)

13日、土曜日の晩、ふつうのYouTubeでお金払って見ました。
待望のJudd Apatow新作。日本の洋画好きの人たちがClinton Eastwoodの新作を待つのと同じようなかんじ(いや、違うかな..)で待っていた。

前作(ドキュメンタリー以外)の”Trainwreck” (2015)が主演のAmy Schumerの原作だったように、今度のも主演のPete Davidsonが脚本に参加している。長さは136分。

Scott (Pete Davidson)は24歳、高校を中退して職につかないまま、タトゥーアーティストになりたいけど特に努力もしないで仲間とマリファナ吸って、恋人未満のKelsey (Bel Powley)とセックスしたりだらだらしている日々。消防士だった彼の父は彼が7歳の時にホテル火事の消火作業中に亡くなり、母のMargie (Marisa Tomei)は病院のERでナースをしてて、妹のClaire (Maude Apatow)はよいこで対岸の大学に進学するので家を出ていくところ。 Scottだけ、幼時に父を亡くした経験とADHDもあるので母も妹もとっても気にかけて心配しているのだが、彼はそんなの気にしないで地元Statenの王様として傍若無人に振舞ってて懲りない。

ある日みんなでだらだらしているところに子供が寄ってきてタトゥーを彫りたいっていうので、いいよって少し彫ってやろうとしたら痛いって逃げちゃって、その後にその子の父親 - Ray (Bill Burr)が彼の家に文句を言いに来て小競り合いになるのだが、Rayは翌日に戻ってきてMargieに丁寧にお詫びしてお食事でも、って誘うの。こうしてRayとMargieは親密になっていき、ScottはRayのふたりの子供の学校の送り迎えまでやらされて、そういうのがおもしろくない彼は自棄になってめちゃくちゃしたら家を放り出され、行き場がなくなった彼の前にはRayの仕事場で、かつての父の仕事場でもあった地元の消防署が…

Judd Apatowは、初期の“The 40-Year-Old Virgin” (2005)とか“Knocked Up” (2007)といった下ネタ満載のおふざけコメディ(個人的にはそう思ったことないけど)から少し離れて時間も長尺になってきて、”This Is 40” (2012)あたりからぶっ壊れて周囲から相手にされなくなった主人公がなにかを見つけてもち直す - 実はそんな変わってないけど - ようなドラマを語るようになって、そういうのって苦手なはずなのだが、彼のがなんかよいのはなんでだろうか?

単純にいうと、ダメだった人が洗濯されてきれいなよい人になるのではなくて、ダメな人は多少はよくなるけどダメなまま、周囲がそれを受け入れてなんとかするようなお話しになっているのと、更には周囲にいて絡んでくる連中も決して「まとも」とは言えないみんな傷を抱えて穴に嵌まった人たちであることが明らかになる – そういう構造のドラマになっているから。それは同調や適応を促してくるようなドラマではなく、出会いと発見が転がしていくドラマで、恋愛ですらそういうやつで、それは我々みんながふだんうんざりしたりしてるしょうもない世界のそれと地続きだから。そして、そういう地続きのありようを説明するには2時間以上必要なのだと思う。
(あと、”Trainwreck”もそうだったけど、これらをいつも父の不在、がドライブしている)

Scottが消防署のなかでみんなにからかわれたり弄られたりしつつ、署員のSteve Buscemiたちから生前の父の姿 – 決して母から語られることはなかった – を聞くところなんてたまんないし、他にもいろんなエピソード – 薬局襲撃とか、消防署に現れる血まみれ男とか、ScottがRayにタトゥーしてあげるのとか – があって、どれも王様のそれとしか言いようがないの。

とにかくPete Davidsonはすばらしいのだが、それ以上にすんばらしいのがMarisa Tomeiで、ScottのママとしてRayの恋人としてせわしなく立ち回って、彼女の瞳がじわってなって声が震えだす瞬間て、なんでいつもこっちまで震えてしまうのだろう、って。

あと、Scottの彼女役で出てくるBel Powleyさんも、そういえば”The Diary of a Teenage Girl” (2015)で激怒したママに家を追い出される役だったねえ。

音楽は今回はヒップホップ系がやや多めであんまし来なかったのだが、ひとつだけ、消防署のみんなと歌うThe Wallflowersの”One Headlight”が。これってPete Davidsonが実のパパと車のなかでよく歌っていたんだって。そしてエンドロールに出てくるそのパパ - Scott Davidsonって... (あとは劇場で)

いまのきつい時代、ほんとうに必要なのはApatow印のコメディだって改めて思った。
なんか彼の映画って見ていくのって好きなバンドを追っていくのと似ていて、最初の頃は勢いだけのバカバンドって見ていたのに、だんだん上手くなって深みも出てきて新譜が楽しみになって、一緒に成長してきたようなかんじ。あくまでもかんじ。

スタテン島、一度も行かないままだったけど、やはり行ったほうがよいのだろうか。でもほんとなんもなさそうだねえ..


曇って晴れて通り雨が来て湿気があって、という夏の前夜模様が続いていて、そうなってくるとLunaの”Penthouse" (1995)を出してかける。 NYの6月にも合うけどLondonのにも割とあうの。

6.15.2020

[film] I Don't Belong Anywhere: The Cinema of Chantal Akerman (2015)

7日、日曜日の晩、MUBIで見ました。
前日の6日はChantal Akermanの生誕70周年で、土曜日だったので彼女の作品をいろいろ見ていた。”Family Business” (1984)を見て、”Sud” (1999)を見て、”La chamber” (1972)を見て、まだいろいろ見続けたいし、”Sud”は別で書いた方がよい気もしているのだが、このドキュメンタリーがとてもおもしろかったので、まずこちらから。

いくつかの作品をピックアップしつつChantal自身がこれらを通して自分の映画観のようなところを解説していく。

まず、“Hôtel Monterey” (1973)  - “La chamber” (1972)について、ゲイポルノの映画館でバイトをしていた21歳頃にアバンギャルド - 実験映画に目覚めてデビュー作の”Saute ma ville” (1968)をJonas Mekasに見て貰ったりしていた頃から、一箇所に定住しないノマディックな性分なのだ、と”News from Home” (1977)や“Histoires d'Amérique: Food, Family and Philosophy” (1989)に出てくるNYを見せながら語る。これが基本 – “I Don't Belong Anywhere” - です、と。

そこから、ポーランド移民の子としてブリュッセルに生まれた自分の世界を、母や叔母がいた風景としての”Jeanne Dielman, 23, quai du commerce, 1080 Bruxelles” (1975) – 固定された枠の内側でひたすら家事をこなす – と”Saute ma ville”で靴墨を自分の足に塗りたくって(自分ごと)爆破してしまう自分との対比で語る。... おもしろい。

更に”Jeanne Dielman..”のフレームの扱いに影響を受けたケースとして、”Last Days” (2005)での主人公がキッチンにいる時の動きを監督のGus Van Sant自身が説明してくれる – “No Sideway Shots”とか”Architectural Representations”という言い方で。

そこから、単に映像を見せるのではなく、その時間を経験させるのだ、という”No Home Movie” (2012)の砂漠 ~ ブリュッセルの公園とか、”La folie Almayer” (2011)で主人公にあたる光の揺らめきとか、更にあのすばらしい”Les rendez-vous d'Anna” (1978)でのカーテンを開けるシーン - カーテンを開ける = 世界が開かれるようなかんじがするところとか、ヒールの高さとそれがたてる音にまで配慮すること、とか。

では自分の世界は、というところで ”Toute une nuit” (1982)の、バーで隣り合った男女ふたりのシーン(ちょっとPina Bauschぽい) - バーでひとりでお酒を飲むようなことって自分の世界ではなかった、とか。”Je Tu Il Elle” (1974)のレズシーンはゲイ・レスビアン映画祭には絶対出品させなかった、とか、”Un divan à New York”で、Juliette BinocheがWilliam Hurtにパンチするとことか、William Hurtがアドリブをやりたがったけど決して許さなかった、とか。

終盤は後期のドキュメンタリー作品について、”No Home Movie” ~ ”Là-bas” (2006)のイスラエル~”D'Est”  (1993)の東欧 (+そのインスタレーション作品)~ ”Sud” (1999)のアメリカ南部と流していって、ドキュメンタリーを撮るときにはなにも考えない、と。世界に開かれていることが大事って言いながら砂漠の大地の向こうにひとりですたすた歩いていくの。

インタビュー部分は1時間強で終わって、最後はここで紹介された彼女の作品映像を音抜きテキスト抜きで順番に流していく。これがまたよくて。

彼女が四角く切り取った世界って問答無用に、圧倒的にそこにあるよね。ここに出てくる“Histoires d'Amérique..”のマンハッタンも、出てこなかったけど”O Estado do Mundo” (2007)の上海も、”D'Est”のターミナルも”Sud”の(死体が引き摺られていった)道路も、すべてがそこに集まってくる、そこからすべてを見渡せる、そういう場所から世界を捉えようとしているような。 最後の無音の映像もサイレントでそのまま使えるような強さがあるの。

この点、Agnès Vardaとはやはり違っているような気がした。Agnèsのは人物の動きやエモーションに連動するかたちで世界に色とか視野とかパスが与えられて、その動きと共に世界はオーケストレートされて積みあげられて、そうやって生成されていく世界を我々は体験する。Chantal Akermanの場合、彼女が開げたカーテンがあり、切り取った窓があり、佇んだり寝転んだりする部屋と家があり(或いは車や船があり)、そこから射してくる光や吹いてくる風を感じることができて、これらはどちらがどうだからよいわるいどうする、というものでは勿論ないの。 旅に何を求めるかで旅の仕方もひとそれぞれ、それだけのことよ。

どうでもいいけど、彼女の”La chamber”って、猫動画のいないいないばあ、と同じかんじよね。


今日からリテール系のお店は開けてよろしい、ということで、じゃあいきなりスキップして買い物に出るかというとそこまでの元気はなくて、でも夕方に買い物に出てみると大通りのユニクロとかZARAは行列ができてざわざわ賑わっていた。みんな服とか買いたかったのね、って。
古本屋が本格的に開いてから、かなあ。 あ、でもRough Tradeは明日から開くのか…  

6.14.2020

[film] Days of the Bagnold Summer (2019)

9日、火曜日の晩、Cursor Home Cinemaで見ました。なんとなく。なかなかほっこりするいいやつだった。
原作は同名のグラフィック・ノベルだそう(未読)で見てみると絵の方も味があるのだが、映画も滋味深い。

英国のどこかの郊外に暮らす母と息子 - Sue Bagnold (Monica Dolan)とDaniel Bagnold (Earl Cave)がいて(あと老犬もいる)、ママのSueはずんぐりむっくりの短髪メガネで、息子のDanielはべったり黒髪長髪黒ずくめのメタル野郎で、まずこのコントラストがたまんないのだが、夏を前に、Danielは夏休みを過ごす予定だったフロリダ - 離婚した実父が住んでいる - に行く予定が直前にキャンセルされて絶望してカリカリしてて、SueはDanielの気持ちはわかるもののどうすることもできないし、一方的にやつあたりされるのは違うと思うので毅然としなければ、って踏ん張ってて、とにかく他人からすればどうでもよいかんじに漲っておかしいふたりの緊張関係が最後まで続く。

せっかくのティーンの輝けるサマー!のはずがなんで.. の呪いで、互いに憎みあって陰惨なふうになるかというとそうではなくて、フェミレスみたいなとこに行けば目を合わせずにむくれあっているくせにデザートのケーキは分けあったり、ママが今日は海に行く日だから、と言えばDanielは黙ってついてくるし、なんかよいの。

することないならバイトでも行けば、と言われたのでDanielは履歴書を適当に書いて、いろんな店に入ってチラシみたいにぶっきらぼうに配るのだが採用されるわけもなく、本当はメタルバンドで歌いたいのでメンバー募集のビラを貰ってきてそいつらが練習している家の前まで行くのだがいくじなしで思いきれない。

学校の図書館で司書をしているSueは、窓口業務をしている時に歴史の先生に声をかけられて電話番号を貰って、かけてみようかどうしようか散々悩んで、息子に隠れて思いきって電話してレストランでぎこちなくデートしてみたりする。

どっちも他人とうまく会話できないのでそれぞれに対しても小声で愚痴とか悪態しか吐けない母と子が小さく溜息ついて天を仰ぎながら負けるもんか、ってにじり寄っていくんだか離れていくんだかの日々(Early Days, Salad Days, Dog Daysとか小見出しがつく)を重ねていく、そのとことこしたリズムが素敵で、音楽はこれしかないだろう、というくらいにBelle and Sebastianの楽曲がはまっている。はまり具合としては“About a Boy” (2002)のBadly Drawn Boyと同じくらい、というのがわかるひと?

Danielのメタルバンドの方は、意を決して一軒家のガレージのシャッターを開けてみたら中で演奏していたのは小学生の3人組で、ヴォーカルとしてオーディションを受けたら入れてくれて、決まっていなかったバンド名は彼の提案で、”Skull Slayer”になるの。 聴いてみたいな。 というわけでBelle and Sebastianの隙間にたまにデスメタルみたいのがごーごー聞こえてくる。 英国郊外にありそうな風景、でもある。

SueとDanielがふたりで部屋にいるシーン、向かい合うシーン、エスカレーターを移動していくシーン、食事をするシーン等の画面の色味、割り方、家具の配置とかとってもよいの。 いろいろ考えて作ったのかも。

Danielを演じたEarl Cave氏はこれが映画デビューで、みんなが知っているNick Cave氏のご子息なの(事故で亡くなった彼とは双子の..)。 声も素敵なのだから歌ってもよかったのに。
Sueのママも、実際に見たこと会ったことはないのにいかにもその辺にいそうな英国のママのかんじで、Bridget Jonesが年頃の息子をもったらこんなふうになるのかもしれない。

子供の頃の夏休みなんてこんなもんだったなー、って。そんな友達もいないし塾なんてなかったしお小遣いとかそんなになかったし、一日がとっても長くて、「することない」がいっぱい -  そんなことを思い出させてくれたり。


今日でGrenfell Towerの火災から3年、だそうな。 朝起きたら西の方に煙が立ち昇っていた平日朝のことを思い出す。そこからずっと被災者の人たちは苦しんで闘っていて今もそうで、それを言うならBlack Lives Matterの人たちもずっとそうだったのだ。 そういうずっと続いてきた痛みや苦しみを、そういうのが常に存在する/存在してきたことを正しく伝えるのが歴史とか社会の授業というもので、そういうのの理解なしに奉仕も貢献も感謝もあったもんじゃないでしょ、ていうことを学校の人たちに言わないといけないのって、なんか絶望的よね。

[film] And When I Die, I Won’t Stay Dead (2015)

7日、日曜日の晩、Criterion Channelで見ました。
Billy Woodberryによるドキュメンタリー作品 - “Bless Their Little Hearts” (1983)とこれは必修のやつで、まずこちらから先に。

ビートニクの詩人としてAllen Ginsbergのような「スター」と比べるとやや謎めいた存在として語られてきたBob Kaufman (1925-1986)の評伝で、ほんの40年くらい前、こんなふうに、まるで詩人のように生きた詩人がいたんだねえ、って感銘を受ける。

1925年、ニューオーリンズに、ドイツ系ユダヤ人の父とマルチニークから来た黒人の母の間に生まれ、二次大戦後の労働争議と赤狩りで堅気の仕事から放り出され、1958年にNorth Beachに流れ着いて、JazzクラブにたむろしながらGinsbergらとzine - “Beatitude”を立ちあげて詩を発表し始めて地元では有名になるものの、常に飲酒とドラッグらりらりでホームレスのような路上生活をしていたので警察に逮捕される常連で、すこし離れようかとNYに渡って、でもそこでもやはり逮捕されて、挙動に問題ありということで電気ショック療法を受けて、その後にSFに戻ったときには別人のようになってて、数少ない知り合いに面倒を見て貰ったりしながら野良状態のままで亡くなる。

彼の滞在していたホテルが火事になったとき、草稿の束ねられた革装本が救いだされるとことか、彼がやはりホテルで亡くなる時のエピソードとか、伝説みたいなことも沢山語られるのだが、一番ダイレクトにこちらを捕らえるのは何度か映しだされる彼の顔の写真ではないか(彼の動く映像は最後の方に少しだけ出てくる)。 JewishとBlackのハーフで、それが原因とは思いたくないが警察の標的となって虐待されてきた業が折り重なったような顔。無頼とか不屈とか、そう簡単には言えないような複雑な顔。

ドキュメンタリーは彼のSF時代から入ってNYに行って、SFに戻ってきてからのうち棄てられた生活を関係者証言と共に追いつつ、詩人としてのビジョンや言葉はその最後まで失われていなかったことを示し、最後に彼の生涯全体を家族や親戚の証言を加えて総括する。 旅の終わりにひとりの人間として彼の像が立ち上がって改めてこちらに語りかけてくるような、そういう構成。

インタビューでフランスの人は彼をボードレールとランボーに喩えていたが、ここで紹介される彼の詩句は確かにそれくらいのかんじは受ける。シンプルで強く、体臭のようにそこに残って漂う言葉たち。タイトルも彼の詩の一節だが、ジャームッシュの新作のタイトルと響きあっているかのようで、それが今、というのは決して偶然ではないと思う。

本屋が開いたら(あさってだよあさって)探してみよう。


ピカデリーの方に行ったので、先週開いていることを確認したFortnum & Masonに行った。
普段は観光客でごった返しているところも、まだ静かで、いつも行っていた地下の食材売り場の方に。ここの生鮮食品は値段高くてあんま買えないのだが、たまーに変なもの - 海鳥の卵とか - があったりする。 人もあんまいなくて品揃えもまだまだのかんじで、でもスコーンがあってさ..

6.12.2020

[film] Woman Make Film: A New Road Movie Thorough Cinema Part 2 (2019)

5月30日、土曜日の昼間、BFI Playerで見ました。”Part 1”の後、紹介された映画のリストを手書きからメモ帳にタイプしたのだが、これってせめてExcelにしとかないとだめよね、って変換したりしていたら時間経ってしまった。ばか。

“Part 2”はChapter 9から17まで。紹介された映画は121本で、ペースはよりスローに、重複で出てくる映画も増えてきた。各Chapterのテーマが絞られてくるとそうなるんだろうな、くらい。映画を作るひとはこういう視点とか角度で映画を作ったり考えたりするのかー、というのが解るのでとにかく勉強になる。以下、簡単なメモ。

Chapter 9  Staging

“Part1”の最後に、visual aspects of shots としての”Framing” → “Tracking”ときて、その最後、劇場等でも用いられる最も古典的な手法 – どうやって人やモノをカメラの真ん中に持ってくるのか。どうやって四角のスペースをステージに見立てるのか、観客の目をどうやってそこに向けさせるのか。

最初に田中絹代の「月は上りぬ」(1955)のシンプルなふたりの右左移動(X-axis)から入って、In-Out移動(Z-axis)、その組合せとか、暗闇 → 照明On、とか、コレオグラフィとしてのStagingとして移動、草刈り、最近のだと”Faces Places” (2017)でAgnèsの指揮にあわせてコンテナが移動するように見えるやつとか。

最後に、音も含めてStagingのいろんな要素が絡まって見事な余韻を残す例としてMaria Schraderの”Stefan Zweig: Farewell to Europe” (2016)のラストの8分半が。 

Chapter 10  Journey

登場人物の旅、動き - エモーションの動きも含めて – は、フィルムの中でどう表現されてきたのか。
旅の始まり、起点を紹介するところでは、Nan GoldinのアシスタントだったValérie Massadianさんの”Nana” (2011)とかが印象的。トラムの車内から見る移動、ひたすら歩く、階段を降りて外に - “Mikey and Nicky”(1976)、追ったり追われたり、そういう人の移動から車による移動 - 車そのものの移動 - がテーマのひとつになって、その例としてAlice Guy-Blachéの”Course à la saucisse” (1907)による犬と鵞鳥の追っかけからその83年後 - Kathryn Bigelowの”Point Break” (1991) での車がカメラになったかのような動きとか。
更には夢なのか現実なのか、どこに向かうのか、どこに逃げるのか、というイメージも入ってくる。

Chapter 11  Discovery

映画史の中のDiscoveryとして「市民ケーン」の”Rosebud”とか、「帝国の逆襲」の”I am your father”とかがある。けど、ここではDiscoveryの諸相を”Childhood” – “Adulthood” – “Old Age”に分けて紹介していく。こーれーはいっぱいあるよね。

“Childhood”のは子供達がお買い物して、お金でモノを買えることを発見する、とか、”Big” (1988)で自分がTom Hanksであることを発見する、とか、鏡で自分の顔や姿を発見する、とか。

“Adulthood”は、田中絹代の「乳房よ永遠なれ」(1955)で妻が夫の愛人を発見するシーンとか、”Wonder Woman” (2017)で裸の成人男性を見てしまうとことか、”Silent Waters” (2003)で女性が殺されていることを発見するとことか。

“Old Age”は、Carol Morleyさんの”Dreams of a Life” (2011)で、死後3年経って発見されたJoyce Vincentさんのこととか。

Chapter 12  Adult-Child

人間関係の基本のひとつである大人 – 子供関係を映画はどう描いてきたのか。
映画のなかで登場人物がこの人が母なんだ親なんだ子供なんだと発見する瞬間もあれば、見ている我々がこのふたりは親子だったんだという発見する瞬間もある -  その逆の喪失もあり、絆への希求があり、破断があり、対話があり、恐怖があり、いろんなバリエーションがあって、最後に”A Portrait of Ga” (1952)の母(監督は娘)の背中を見てなんかほっこりするの。

Chapter 13  Economy

ここまではVisual Design & Scriptingの話で、ここからはそれをどうCutしてEditするのか、という話。
画面の中で発生する連続した出来事や行為を(そのまま撮っていたら時間がいくらあっても足らないので)どう切って割って簡素化して伝えるのか。
画面から余分なものを削いでミニマリズムで表したり、古典絵画のようなFixの構図に声を被せてStoryを語ったり、Storyを飛ばして絵だけにしたり。”Appropriate Behavior” (2014)で3人がバーで出会って話をしてアパートに行くまでの流れ - コメディにおける省略の手法とか。

Chapter 14  Editing

Action Editingの例としてSarah Maldoror, Leni Riefenstahl, Kathryn Bigelowを並べて、そこから隔たった時間 - 過去から現在へのジャンプや、異なる場所にいる複数の人々を繋いだり、生(赤子)と死(体)を対置したり、別の場所にテレポートしたり、センセーション/コンフュージョンを生みだしたり、早送りしたり抽象化したり、ただすべては時間に関わることで、映画のなかで流れる時間を殺すようなEditingはやってはいけないのだ、って。

Chapter 15  Point of View

どこに視線の起点・基軸を置くのか、これもいろいろあって、material PoV, visual PoV, sonic PoV, unconscious PoV, PoV of the inner eye, Intimacy PoV, refusal PoV, などなど。
Kelly Reichardtの”Meek's Cutoff” (2010)で、牛のところにある女性のPoVとか、それを語ろうとしているのは誰なのか、どこから、なにを語ろうとしているのか、を表に出そうとすること。

Chapter 16  Close Ups

PoVとの関連で、カメラの反対側にある対象のどこにどう寄っていくのか。サイコロジカルZoomとしてのClose up、マイクロスコープとしてのカメラ、Close upの連続が生む効果 – 増幅とか抽象化、Close upによる目覚め、Close upが作りだすoff screen space(背後の音とか)、”The Ascent” (1977)で、つるし首のシーンでのひとりひとり – つるされる人々とそれを見つめる少年 – のClose upの連鎖が生む恐怖、とか。

Chapter 17  Surrealism and Dreams

パラレルなリアリティのありようをこんなふうに描いてきた、と。
最初が”Wayne's World” (1992)のGarthの妄想で画面がゆらゆらするとこで、あ、こういうのね、って。”Oz”のDorothyのように別の世界に入ったりスリップしたり、クラシックとしてMaya Derenは勿論、天体やピラミッドのイメージとか、やっぱり素敵なのはAgnèsの”La Pointe Courte” (1955)でふたりが浜辺の町を彷徨っていくシークエンス、とか。


ナレーションはPart 1からのTildaさんが始めはやってて、途中でJane Fondaさんに代わって、そこからAdjoa Andohさんに代わって、Sharmila Tagoreさんに代わった。これからもリレーしていくみたいで、楽しみ。

これはRoad Movieなので、どんな道を通ろうがカセット(mixtape)でどんな音を流そうが好きにしていいやつで、人によってはこっちのがあっちのが、は当然あると思うしあってよいし、でもちょうどここの道行きがなんか気持ちよく馴染んできたところ。 途中で似たような風景が出てきても、その理由も含めて推測できたり納得したりできるようになってきた。 学び、ってそういうことのはず。


週末を前に在英国日本国大使館さまから再び注意喚起メールがきたよ。デモの場所と時間を教えてくれてありがとう。
相変わらず、『米中西部ミネソタ州において,5月25日に黒人男性が白人警官による過剰な拘束が原因により死亡したとされる事件』なんて言ってる。「白人警官の過剰な暴力により殺害された事件」なのに。明確に殺人て断定されているのに。

そして、『抗議活動の現場周辺に居合わせた場合には,周囲の状況に常に注意を払い,不審な人物や状況を察知したら速やかにその場を離れるようにしてください』だってさ。 このあっぱれな、ザ・他人事の言い草。うちの国民はこんな野蛮な活動にまさか参加なんていたしませんよね、ってか。修学旅行の引率教師かよ。 ちゃんとした人権教育とかやってないから、あの国はこんなに鈍感な薄らバカばっかりになっちゃうんだよ。

6.11.2020

[film] Losing Ground (1982)

5日、金曜日の晩、Criterion Channelで見ました。こういう時なのでAfrican Americanの歴史や人や女性に関する映画がいっぱい出ていて、こういう時なので、なんて言わずに見なきゃいけないものなのだが、がたがた言わずに見ようと。

映画を2作しか残さずに88年に46歳で亡くなった黒人女性監督Kathleen Collinsの作品(脚本も自身)で、発表当時はLarge Distributionには乗らず、2015年にリストア版が公開されて大きな話題となった。 日本では公開されていない模様。

Sara (Seret Scott)はNYの大学で哲学の先生をしていて、冒頭はその授業風景で黒板にはサルトルとかカミュの名前、”Absurdity”(不条理)とか“Existential Thought”とか書かれていて、彼女は人間の自然状態とかカオスとか戦争とかについて喋っていて、授業が終わっても生徒が来てジュネ論について話をしていたり(いいなー)、とても生徒に慕われている先生であることがわかる。

家に帰ると夫のVictor (Bill Gunn)がいて、彼は画家で最近美術館に絵が売れたので得意で鼻高々で、そのお祝いもあるしUpstateに家を借りて夏の間そこで過ごそう、という。仕上げたい論文もあるし図書館がないところは嫌だ(うんうん)、ってSaraは渋るのだが夫が行きたがるので一緒に行くことにする。

着いてみるとVictorは大喜びで風景や人物のスケッチを始めて、プエルトリカンのコミュニティがあるその地域の佇まいにも惹かれて、そこの女の子Celia (Maritza Rivera)と仲良くなって彼女の肖像を描いたりしていて、つまんなくなったSaraは図書館を求めてNYに行く。そしたらそこで自主映画を撮っている生徒(ジュネ論の話をした彼)が声をかけてきて、先生映画に出てみない? っていう。少し考えていいよ、って返して始めてみると映画作りはおもしろくて、共演者で生徒=監督の伯父のDuke (Duane Jones)とも仲良くなって、Victorには用事があるので滞在を延ばすことにした、っていう。

やがてSaraはCeliaと一緒で楽しそうなVictorのところに戻って、そこにDukeも現れて..

夫婦間の決定的な不和とかそれによる陰惨な事件を描くわけではなくて、NYに暮らして文系で比較的裕福な夫婦の間に生じるちょっとした溝のありようを主に女性の視点で描く。そこにはジェンダー間の役割、職業意識の差から、アフリカンアメリカンとプエルトリカンの間の人種意識の差、未知の世界(映画)に臨む女性と郷愁に籠る男性の違い、など実に多様な論点があって、それは結婚生活における溝というのかただのすれ違いなのか、それらをどちらがどう見るのか、といったところまで微細な表情の変化と共に炙りだしていく。成瀬のメロドラマみたいなトーンの女性映画だと思った。

映画の中で描かれる都会の風景、そこでの男女のクールな立ち姿にダンスと、郊外のプール際でだらだらしている男女(群)のコントラスト、Saraが教えていた実存主義、書こうとしている恍惚体験に関する論文、等が”Losing Ground”というタイトルに収斂していって、見事なラストショットと共に弾け飛ぶの。あそこはなんだか鳥肌もので。

まだ知らない映画、いっぱいあるねえ。『風と共に去りぬ』での表現を問題にするのはわかるけど、Criterion Channelで特集の始まった”The Watermelon Woman” (1996)のCheryl Dunyeとかこれとか、あまり見られてこなかった黒人女性による女性映画、をきちんと掬いあげられるようにしたい。


なにも起こっていなければ、今日の晩はJawboxのライブがあるはずだったの。拷問のようなオンライン飲み会の最中にスケジューラーからポップアップが上がってきて泣きそうになった。 一年後(に延期されてる)、見ることができますように。

6.10.2020

[film] Friends with Money (2006)

4日、木曜日の晩、Criterion Channelで見ました。ここでNicole Holofcener監督の3本、というのが始まって、まだ見たことがなかったので。日本ではビデオスルーで、邦題は酷すぎてむかつくので書かない。アンサンブルドラマとしてとてもおもしろいのに。

LAのお金持ちエリアで、Olivia (Jennifer Aniston)はシングルで家政婦のバイトで日銭を稼いでいて、でも彼女の同窓生だった3人は夫もいて子供もいて仕事もあって経済的にはとても裕福で安定していて、Oliviaも昔は学校の先生でちゃんとしてたのにねえ、なんて言ったりしている。

遺産相続もあって大金持ちのFranny (Joan Cusack)は、そのお金の使い道でいつも夫のMatt (Greg Germann)としょうもないおしゃべりをしてばかりだし、 Christine (Catherine Keener)とDavid (Jason Isaacs)の夫婦は仕事をしながら向かい合わせの机でいっつも口喧嘩ばかりしているし、ファッションデザイナーのJane (Frances McDormand)はやたら怒りっぽくなって周囲に当たり散らしてばかりで、その横でおとなしく傍にいる夫のAaron (Simon McBurney)は彼っていい人だけどたぶんゲイだよね、ってみんなに噂されている。

そのお金持ちサークルの内側から見たOliviaの振る舞いは昔通りで、デパートでコスメの無償サンプルを集めたり掃除している家のをくすねたり、昔のノリで仲間にお金を借りに行ったりすると男 – ほんとしょうもないチャラ男 – を紹介されてあーあなにやってんだろ、になったり、昔の男にしつこくCallしたり、なんでこんなに違っちゃったのかね、っていうのと、3組の夫婦も社会的地位はあるのかもだけど、ごたごたしているその中味ときたら犬も食わない系のばっかりなのに、みんなそれぞれ他の連中を指さしてかわいそうに、とか言い合ってて、こんなもんなのさ、っていうのが乾いたタッチで描かれていて、この辺の延々転がっていく会話に巻きこまれて止まらなくなるかんじって、Jane Austenの小説を読んでいく感覚にとても近い。 それなら別れちゃえ、それなら離れたほうが、それなら付きあっちゃえ、そんなのぶん殴っちゃえ、みたいに四方八方からいろんな声がこだまして、気がつけばそうっとこぶしを握っていたり。

社会的に安定したところにいる劇中の彼らの中身とか考え方は変えようと思っても変わらないし、特に邪悪なことを企んだりもせず、ふつうに隣人を愛して礼儀正しくて、そんな彼らがどうして何に引っ掛かって小規模の諍いを起こしてじたばたはらはらするのか、ていうのを通して、やっぱし結局のところ愛なのかしら、って。 友達は友達 - with Money でもwith no Moneyでも。

彷徨い続けるOliviaは掃除した先にいたぷーんて匂ってきそうな小太りケチ男(掃除代を値切ってきた)にみんなが参加するチャリティディナーへの同伴を頼むことになって、そしたらこいつが..
舞台を現代のLAに持ってきた“Dinner at Eight” (1933)とか”My Man Godfrey” (1936) のかんじもあったかも。

とにかくJennifer Aniston - Joan Cusack - Catherine Keener - Frances McDormandの4人が並んでいるだけで最強にかっこよいかんじはする。結婚とかキャリアとか、そういうのを巡らない・巡る必要がない - 男なんかもはやどうでもいい - ていう女性たちのおしゃべりで成立してしまうやつ。


Scritti Polittiの”Cupid & Psyche 85”がリリースから35周年..  きりがないのでいちいち言わないけどさ。
でももうじきAnne Briggsのカバーシングルを出すGreenがそれに寄せた文章がおもしろい。 76年のSex Pistols, Clash, Dammed, Heartbreakersのギグに行った時、彼はモリスダンスの格好をしていて、実は14歳でAirport Conventionの”Liegh and Leaf”に魅せられ、The WatersonsとかMartin CarthyとかAnne Briggsとかに夢中だった、って。 そうかーそうだったのかー。

スヰートポーヅが..  日本に帰る理由がどんどん失われていく。

6.09.2020

[film] Shirley (2020)

6日、土曜日の晩、Film ForumのVirtual Cinemaで見ました。

予告を見た多くの人がそうだったと思うが久々にビジュアルだけでぞくぞく来るやつで、しかもElisabeth MossがShirley Jacksonを演じる、それだけでもう必見マークが。

Virtual Cinemaだからか最初に監督のJosephine Deckerさんが出てきて明るく挨拶する。感想を書かないままになっているがこの人の前作 - ”Madeline's Madeline” (2018)は5月にMUBIで見ていて、Molly ParkerとMiranda Julyの母娘と演劇について、おもしろいんだけどどう書こうかねえ、とかやっているうちにいつの間にー。

小説家Shirley Jacksonの評伝、というより2014年に出版されたSusan Scarf Merrellの小説(未読)に基づくもので、Martin ScorseseがExecutive Producerをやって、今年のサンダンスではU.S. Dramatic Special Jury Award: Auteur Filmmaking、というのを受賞している。

若いRose (Odessa Young)とFred (Logan Lerman)のカップルが列車でいちゃつきながら旅をしてて道中、Roseは『くじ』を読んで、これ怖いわ、とか言っているのだが、ふたりは Bennington Collegeの教授Stanley Hyman (Michael Stuhlbarg)とShirley (Elisabeth Moss)夫婦の家に着いて彼らの家に間借りして暮らしていくことになる(FredがStanleyの助手としてBenningtonで働くので)。

でも着いた途端にShirleyはRoseが妊娠していることを見抜いたりいろいろ陰険に意地悪してくるのでRoseはこんなとこにいたくない帰る、って泣くのだが、暫くの辛抱だからってなだめて暮らしていく。
こんなふうにShirleyその人は最初からえらく不気味で怖くて(反対に夫Stanleyはバカ明るくて)、どう見ても怪異の館にたどり着いたカップルの吹きだまっていく戦慄と恐怖を描くホラーの仕立てなのだが、夫たちが学校に行っている間、Benningtonで起こった女子学生の失踪事件を元に『処刑人』(1951)を書き始めるShirleyと渋々家事をしながらその様子を恐々覗いて怒られたり怒鳴られたりして散々のRoseの間にだんだんと共犯関係のような奇妙な絆が生まれてくる。

現実の事件とミステリーの成立を対置し、その背後に彼女たちそれぞれの置かれた孤独、不安に不満に不機嫌、バカで陽気な男共とジェンダー、家事に育児、教授会を中心としたサロンソサエティ、家屋や部屋の暗がり、窓の向こう側、などを緻密に置いていくうち、ひとりの女性が姿を消してしまう/消えてしまうその因果が向こうから ― それはどこからやってくるのだろう、感覚や視覚の襞にカビやキノコの菌糸のようなのがびっちり繁っていって気付いたら森の奥とか穴の奥の戻れないところに来ている。 ShirleyとRoseはその感覚を共有したまま立ち竦んで互に離れられなくなっていくかのよう...

Shirley Jacksonの作品をそんなに読んできた訳ではないのだが、読み進んでいくときに背筋近辺に湧いてくる言いようのない気色悪さってまさにこういうのだったかも。そして彼女はああいう屋敷の光と影の狭間で作品を編んでいった、その光景がありありと浮かんでくるのだった。

いろんな人がいろんな映画を参照するのかも知れないが、例えばふたりの女性の旅、としてLynchの”Mulholland Drive “(1996)とかはあるかも。でもあそこにあった芝居小屋の見世物を眺めているような感覚はない。お茶の間の、ちゃぶ台とかソファの隅で生まれる生々しい恐怖と不機嫌に浸かって翻弄されて世界が歪んで縮んでいって、その先にあるのは..

変幻自在の容貌に表情の歪みに翳り、ミソジニー野郎が逃げ回っていく退路をあらゆるバリエーションでもって断って追い詰めていく催眠術師のようなElisabeth Mossがとにかくすごくて、かっこいいったらない、と言おう。

神経の襞を撫でにくる音楽は、こないだの”The Assistant” (2019) でもきりきりさせてくれたTamar-kaliさん。

これまで”Shirley”といえばBilly Braggの”Greetings To The New Brunette”のことだったのだが、この映画の登場で少し意味が変わったかも。でもどっちにしてもShirleyって最強である。


今日は6月9日なのでロックの日なのかしら? それにしてはなんも聞こえてこなかったかも。まあそれどころじゃないよね。
まだ火曜日だし。

6.08.2020

[film] Smithereens (1982)

2日、火曜日の晩、Criterion Channelで見ました。

いまの映画館に通えない状態というのは、これまでずっと見よう/見たいと思いつつも見れていなかったのを捕まえるよい機会だと思うのだが、折角だから映画史に残る名作とか巨匠の作品を網羅的に見よう学ぼうという方にはなかなか向かわず(べつに研究者とか批評家になるわけでもないし)、歴史的には割とどうでもいい辺境のマイナーなのを突っついてばかりになってしまう。これは音楽でもアートでもそうかも。しょうもない。

で、Criterion Channelを掘っていたら引っかかったこれもそういうやつ。80年代初のNYのダウンタウンの端っこ音楽シーンを知るために必須の作品なの。

Susan Seidelmanが”Desperately Seeking Susan” (1985) - 『マドンナのスーザンを探して』 - の前に撮ったインディー作品。”Desperately Seeking Susan”については2010年にLincoln Centerで行われた25th Anniversaryの上映会、2015年にMoMAで行われた30th Anniversaryの上映会に行って(どちらも滞在していた時にたまたまやっていた。すごい偶然。今年は35thだね)、Susan Seidelmanさんのお話しを聞いてきて、そこでもこの作品については言及があったりしたのだが - こういうフィルムってきちんと保存しておかないとやばいよね - 自宅のクローゼットにフィルム缶突っこんでおいたら香ばしいピクルスの匂いになっててびっくり、とかそんなお話。

最近見た”Starstruck” (1982)や”La Brune et moi” (1979)にも連なる、まわりが余りにクズだけどあたしはなんとしても有名になりたいんだ! っていうひとりの女の子の無茶で無謀な冒険を描く。

Wren (Susan Berman)はNJから出てきて拡大コピーした自分の写真に"WHO IS THIS?”って殴り書きしたのを地下鉄とか街中にチラシみたいに撒いたり貼ったりしてて、そんな彼女が目に留まったPaul (Brad Rijn)は彼女を追いかけ始める。 彼女はそんなの気にしないでライブハウスに入っていってそこで演奏しているバンドのメンバーに声をかけて、でもあんま相手にされなくて、やがてEric (Richard Hell)の家に転がりこんでうだうだする。 彼は一発屋だったSmithereensっていうバンド(この時期に実在したNJのバンド - The Smithereensとは違うの。あれはよいバンドだったな)をやって、もう業界から逸れて落ちぶれているのだが、まだ周囲にはいろんな連中がたむろしている。

不良のEricを追いかけるWrenがいて、Wrenに憧れる純朴なPaulがいて、EricはLAに行くっていうし、Paulは車でNew Hampshireに行くっていうし、家賃の滞納で自分のアパートを追われたWrenはEricを頼ってPaulを頼って、やがて宿なし彼なしの野良猫としてどうすんだよ、になっていく過程が、当時のNYのダウンタウンの荒んだ風景をバックに映し出されて、話だけだと悲惨に映るかも知れないけどなんか痛快に見えてしまうのはなんでなのか。

誰も信じないし誰にも依存しない、自分のことだって信じてない、貰えるお金は貰うけどそのために自分を安売りはしない、幸せなんてどうでもいい、やばくなったら逃げるけど覚えてろよ、ていう具合でWrenみたいにその日を生きててへっちゃらな人達って当時は結構いたのね(本当にやばくなっちゃう人もいたけど)。自己責任なんて誰も言わず、そういう隙間があって許されていた社会って、やはり豊かだったのだろうか。「豊か」っていうのとはちょっと違う気がするけど。

生活に何一つ不自由のない主婦のRoberta (Rosanna Arquette) = 不思議の国のアリスがこんな野良世界に迷いこみ、一匹猫Susan (Madonna)と出会って何かを掴む痛快活劇が、この後の”Desperately Seeking Susan”で、ここでもやはりチンピラをやっているRichard Hellは殺されてしまうの。

WrenもPaulもEricも、ダウンタウンのぎすぎすした空気と風景に見事に馴染んでひとつになっているのがすごい。ストーリーもキャラクター設定もどうでもよいかんじなのに、彼らが生きる世界と彼らの生が壁の落書きのように風に曝されてびくともしない。そうやって描かれた世界が問答無用で目の前に現れる、そういう強さをもった映画。

音楽は”The Kid with the Replaceable Head“も流れるけど、全体のトーンを決定しているのはか細く消え入りそうなギター - The Feeliesの”The Boy with the Perpetual Nervousness”であり、”Loveless Love”であり、”Original Love”であり、これらがWrenの彷徨いにとってもよく浸みる。 主人公が男の子だったらJohnny Thundersあたりでもよかったのかも。

贅沢を言えばちょっとぼろい映画館で、16mmで見たかったねえ。


デモに行った翌日はいつも、これで少しは世の中も変わってくれたかしら、って起きあがって、もちろんそんな簡単に変わるもんでないことは百も承知なのだが、この闘争が簡単にコロナの日々の思い出としてどこかに行ってしまいませんように、というのはずっと思っている。そんな時に外務省の注意喚起メールとかNHKの動画とかに触れると、もうなんなの? しか出てこない。世界の田舎(悪い意味の)どころか、はっきりと悪に寄って加担しているよね。

6.07.2020

[film] Hermia & Helena (2016)

1日、月曜日の晩、MUBIで見ました。

監督のマティアス・ピニェイロについては、アテネフランセ文化センターでの「マティアス・ピニェイロ映画祭2015」で3本 - “Rosalinda” (2010), “Viola” (2012), “La princesa de Francia” (2014) - 見ていて、この作品も『エルミア&エレナ』という邦題で、同センターの「マティアス・ピニェイロ監督とアルゼンチン映画の現在」という特集で、2017年6月に上映されているのだが、この時はもうロンドンにいたので見ていない。

2015年に見た“Rosalinda”が『お気に召すまま』の、“Viola”が『十二夜』の、“La princesa de Francia”が『恋の骨折り損』の翻案であったように、ここではシェイクスピアの『真夏の夜の夢』が題材となり、例によって主人公(たち)の名前がタイトルになっている。

更に最初に「原節子に捧ぐ」と出る。 原節子とシェイクスピア。

冒頭、NYのLower EastのColumbus parkを見下ろすアパートからCarmen (María Villar)が1年間のフェローシッププログラムを終えてアルゼンチンに戻るところで、今度はアルゼンチンからCamila (Agustina Muñoz)が同じフェローシップでNYにやってくる。 彼女の使命は『真夏の夜の夢』のスペイン語への翻訳なのだが、その翻訳の扉の奥からいろんなものが飛び出してくるという話ではなくて、NYでできた恋人とか、旅をしながら絵葉書を送ってくるDanièlle (Mati Diop)とか、子供の頃に別れた父親をNYのUpstate (Rhinecliff)に訪ねたりとかが、”Carmen & Camila” - “Camila & Danièlle” - “Gregg & Camila”とか1対1関係(最終章だけ5人)のタイトルと共に取っ替え引っ替えで綴られ、進行する時制も1ヶ月前、2ヶ月前、3ヶ月前、と遡るのも現時点からなのかその章の時点からなのか明確ではなくて、それはおそらく、Camilaのなかにセットされた1年間のなかで、あ、そういえば、のようにクリックして戻っていくようなものだからよいのか。 展開される舞台もその時間によってアルゼンチンとNYを行ったり来たりして、アルゼンチンの空港に向かう景色とNYの橋の格子が交錯して、さてわたしは戻っているのか向かっているのか、どちらの方へ?

書いてみると難しそうで面倒くさそうに見えるその構造も、パーツはひとりとひとりの対話やキスや振り返りで出来ているので、ふんふん、て軽く流すことができて、そこらの壁に貼りつけられる『真夏の夜の夢』のテキストとか、Greggの作ったフィルム、などの他のアート作品によってかき回されて(でも実はそうでもなくて)、そもそもこれって誰の話だったかしら? 自分事? 他人事? みたいになって楽しい。  で、この楽しさはシェイクスピアのお芝居にお馴染みのもの、という気がするし、NYに暮らして、そこで起こる日々の冗談みたいなどたばたをスケッチしているようにも見える。 という点で、異国のひとが捉えたNYの映画としてとてもよいかんじになっているのではないかしら、って。 多層多面の解釈を可能にするオープンな作品にありがちな弱さ、がないこともないけど、NYの映画と置いてしまえばなんかよいのではないか(あまい?)。

で、そういう楽しくぴょこぴょこ跳ねたり転がったりの感覚にScott Joplinのラグタイムピアノがとてもよくマッチして素敵なの。

いろんな登場人物の自分勝手な目線とか妄想に曝されながら、自分でもあっぷあっぷしているだろうに、でも一応笑っとくか、みたいについ微笑んでしまうので、君の瞳に乾杯とか言われてちょっとかわいそう、というあたりが「原節子に捧ぐ」、だったのかしら。

次にくるシェイクスピア作品はなにかしら? チェーホフとかやんないのかしら?


日曜の午後にBlack Lives Matterのプロテストに行ってきた。 昨日のは逮捕者が出たとか聞いていたのだが、結果はとっても平和に地味に怒って膝をついてコールしてきた。 感染リスクはもちろんあると考えるべきなのでマスクして、でも行きの地下鉄の混雑ぶりにすこしびびったくらいで、みんなそれなりに距離はとって怒鳴る。 “Enough is Enough!“とか、”No Justice, No Peace!”とか、もちろん“Black Lives Matter!”も - コールしやすいし気持ちいいし。なんでUKがやるの? は結構立て札に書いてあった”UK IS NOT INNOCENT !”とかわんころも首から下げていた”SILENCE IS VIOLENCE !” ていうことよ。

あと、ボリスに対してはみんな相変わらず怒っていたので安心した。

[film] The County (2019)

5月31日、日曜日の晩に、Cursor Home Cinemaで見ました。
アイスランド映画で、原題は”Héraðið” (.. 読めない)。
監督のGrímur Hákonarsonさんは日本でも公開されて見た記憶がある羊兄弟ドラマ - ”Rams” (2015)のひと。

ヨーロッパ(英国も)って農業もの、みたいなジャンルがあって、人里離れた田舎で酪農畜産農産業は過酷で先の見通しも暗くて、遠く孤立した人間関係のなかで貧困とか後継を巡るドラマが湧きあがってどうするどうなる? と。 どれだけデジタルだなんだって言っても、この部分は土とか生き物が相手なので太古から変わりようがない(変えてみせる、とかデジタルの連中は言うけど、みんな地獄に堕ちろ)ところは間違いなくあって、そのへんがおもしろいと思うの。

"Rams"は兄弟のお話だったが、これは夫婦と彼らの暮らすコミュニティ - The County(郡)のお話。

Inga (Arndís Hrönn Egilsdóttir) - 妻とReynir (Hinrik Ólafsson) - 夫の夫婦は、もう初老で子供達も成人していなくなって、ふたりで酪農をやっているのだが生活は楽ではなくて、朝から晩まで働きづめでもう3ヶ月も休暇を取っていない。Ingaは牛の出産でもなんでもひとりで淡々とこなすプロで、それにしてもこの状態はおかしいのではないか、と訴え、寡黙なReynirはそれを認めつつも黙々と仕事をこなして、でもなんか思い詰めているようにも見える。

そんなある晩、トラックを運転していたReynirがトラックごと崖の下に落ちて亡くなってしまい、事故なのか自殺なのかなんで..?   と途方に暮れているIngaに仕事仲間がReynirのやっていたことを打ち明けると..

Countyで農業をやっている人達はみんなCo-op(生協)に属していて、Co-opはメンバーからミルクや肉を買い上げることで安定的な市場を保証し、かわりにメンバーに飼料やローンを提供して、そういう堅めの縛り - 互助関係を維持しながら続いてきたのだが、でもCo-opの外に直接売りに出た方がもっとよい値段で売れるんじゃないか/買ってくれるんじゃないか、っていうのがここんとこIngaが思っていたことで、そこでReynirのやっていたことというのはー。

昔から継がれてきた経済共同体のありかたが、市場経済のオープン化だのなんだので保てなくなってきた時、旧体制はどんなふうにそれを維持しようとするのか、昔だとやくざの恐喝とか村八分とかそういう方に向かいがちだったお話は現代だともうちょっと内に篭って不透明になり、結果Ingaのたったひとりの戦い - Facebookにすべてをぶちまけて訴える - みたいなことになる。でもその辺ぜんぜん無理なくありそうな方に転がっていくので見ていて気持ち良いの。

これをもう少し過激に荒唐無稽に推し進めると“Woman at War“ (2018)みたいになるのかも。(これもアイスランド- ウクライナ映画だった)
こういうお話、にっぽんでもとってもありそうだけどなー、そうかー「民度」が高いからなー(恥)。

もういっこ、Ingaは80年代に野外フェスに行った話とかをブログにあげてて、夜中にそういう音楽(ぜんぜん聴いたことないや)をレコードで聴いたりしている。そんな彼女がひとりでああいう行動を起こすのはとってもよくわかることだし。

アメリカでリメイクするとしたらInga役はやはりFrances McDormandかなあ。


本日、Parliament Squareで行われたBlack Lives Matterのプロテストは、上空をぐるぐるしている低気圧による偏頭痛がひどかったので行くのを諦めて、家で今日が誕生日のChantal Akermanさんの映画を見たりしていた。 “Golden Eighties”と同時期に撮られたという”Family Business”とか、すごくおもしろいの。

明日は行きます。

6.05.2020

[film] Jeanne (2019)

5月30日、土曜日の晩、Film at Lincoln CenterのVirtual Cinemaで見ました。
この日はJoan of Arcが火刑にあった日だったので..  くらい。 英語題は”Joan of Arc”。

ここでやっている映画のうち、見ようかどうしようかずっと悩んでいるのがAlbert Serraの”Liberté” (2019)で、最初の舞台版を見るのにベルリンまで行って、その後のインスタレーション作品を見るのにマドリッドまで行ったやつなので、きちんと見たくて、そうするとこの映画には絶対映画館の暗闇が必要だと思うし、でも英国でやってくれるか – やってくれるよね、とかぐだぐだしているの。

Bruno Dumontの監督作で、これの前作で同じくLise Leplat PrudhommeさんがJeanneをやっている“Jeannette: The Childhood of Joan of Arc” (2017)の方は見ていない。1月に近所のInstitut françaisで監督のトーク – Masterclass - と今作の上映があったのだが行けなかった。Bruno Dumontて、昔は残虐屠殺でおっかないのばかりだったのだが、”Slack Bay” (2016)あたりからコメディと呼ぶ程ではないけど、なんか明るくなった気がする。明るい、というより作為的にふわっと気を抜いているだけのようで何が起こるかわからないハラハラは変わらずなのだが。

Joan of Arcは戦争の真っ只中で、でも雰囲気はのっぺり穏やかで、彼女が率いた戦闘のシーンがあったり前線の兵士とのやりとりがあったり英雄としての活躍を見れたりするわけではなく、左右上下に開けた平地 – まるで舞台のような - “Slack Bay”のと同じような - に、彼女とその上の偉いひと - 教会関係者とか – とその下の兵士代表みたいなひとが寄り集まって、今後進むのか止めるのか決めるのは誰だどうすんだ、を延々切り返していく議論があったり、静かで滑らかな馬の行進があったり、ここにChristopheによるエレクトロ聖歌みたいのが被る(変てこだけど気持ちよい)。彼女はほぼずっと正面を向いてしかめ面でうーん、て顔をしている。

後半と映画のメインはでっかい聖堂の中で行われる彼女の異端審問のシーンで、皺まみれの塩っぽいゴスじじい共(悪魔みたいなの)に囲まれて陰険な引っかけ質問 - 有名な「神の恩寵を受けていたか?」とか - をされても眉ひとつ動かさずに「あなたに答える必要はない」って毅然としてロジカルに潰していくので、だんだん我こそは教会なりのじじい共がうろたえてイラついていくのが痛快で、ああーあんなふうにメンツ潰されたじじい共が狂って彼女を火炙りにしちゃったんだな - 魔女裁判もおなじよね、今だに世界中に残っているやつよね、って思った。

この部分の緊張感がほぼすべてで見事で、この後は田舎の牢獄に送られてなんも考えてない家畜みたいな牢番に見張られて、男装した状態で髪の毛もぼろぼろになって火刑を待っているの。

ここで展開されるイメージが欧米の人たちが持っている聖Joan of Arcの像や彼女の物語(伝説)とどう違うのかどれくらい合っているのかはわからないのだが、少なくとも彼女の目の強さが最後まで揺るぐことはないので、そこだけ見ていればなにかわかったかんじにはなれる。(U2の”Boy” ~ ”War”のジャケットの男の子の目とおなじような)

とにかくこんな昔から男は - 特に宗教と権威にかぶれた奴らは、戦争以上にタチが悪かったのよ気をつけな、って。


TVを見ているとアメリカの警官による暴力の映像が延々流れてくるので目を塞ぎたくなって、日本のニュースを見れば人のクズみたいのばっかりで開いた口が塞がらなくなって、イギリスのが少しはましかも、と思っていると、そろそろBrexitの議論を、とか言っているのでちがーう、いまExitすべきはそっちじゃないだろーまだ毎日100人は亡くなっているのにー、って。

走っているバスから確認しただけだけどピカデリーのFortnum & Masonが開いたみたいだった。なんかおいしいのあるかなあ。

6.04.2020

[film] Papicha (2019)

5月29日、金曜日の晩、Film at Lincoln CenterのVirtual Cinemaで見ました。
昨年のカンヌの「ある視点」部門にも出品されたアルジェリア – フランス映画。

“Based on the true event”と出て、本当だとしたら恐怖で震えるしかないが、それでも、それ故にすばらしい輝きを放つ女性映画。

90年代の終わり、アルジェリア内戦でイスラム武装集団によるテロが日常化していたアルジェリアで、女子大生のNedjma (Lyna Khoudri)と友達のWassila (Shirine Boutella)は夜中に女子寮を抜け出して馴染みの闇タクシーの中で着替えてメイクして検問にあったりはらはらしながらナイトクラブに行って、自分が作った服を売ったりしている。

寮の門番に融通してもらって戻ると寮にいる仲間のひとりは妊娠しちゃったけど親が決めた婚約者の子ではないのでやばい、とか、ひとりはカナダ大使館の門番の子と仲良くなってVISAを手に入れて高飛びしたい、とかいろいろ抱えていて、学内には厳格な風紀委員のような女子たちが巡回していて、ちょっとでも左寄りの授業をしていると乗りこんできて妨害したり大変そう。

Nedjmaは”Papicha” - アルジェ語のスラングで”Cool Girl”って呼ばれていて、ファッションデザイナーになることを夢見てずっとデッサンしたり布地を買いに行ったりしていて、状況がきつくても夢は絶対捨てない、って元気なのだが、自宅の前で大好きだった姉が殺されたり、何度もヒジャブ着用を強要されたり、布地を調達していたお店がヒジャブ専門店になってしまったり、寮の門番に犯されそうになったり、自分たちのショーのために準備していた服やミシンを風紀委員にずたずたに破壊されたり、あまりの惨状に … になってしまうのだが、それでも彼女と仲間たちは立ちあがって、手作りでショーの準備とリハーサル(モデルは仲間たち)を始めて、開催はぜったい許さぬ、っていう校長も説き伏せて、ようやく当日の晩を迎える。

つき合い始めた大学生の彼からこの国はもうだめだ、一緒にフランスに渡ろう、って誘われても、周囲の男子からも女子からもどれだけ呆れられて嫌われても、それでも私はこの国が好きだしここでやるんだ! ってNedjmaは強くて負けなくて、離れていた仲間も戻ってきてみんなで海にいってやるぞ! ってやるシーンはすばらしい、と同時に悲しくなる。

なんでここまで迫害されて辛い思いに曝されてしまうのか。べつに反政府組織で活動するとか、そういうのではないの、自分のデザインした服でもってみんなでファッションショーをやりたい、それだけなのになんで?  今アメリカや日本で起こっていることを追っていると根はおなじことなのかな、って。 自身や世間さまが設定した規範から外れて何かが行われてしまうことへの一貫した不寛容と排除と暴力。想像力と反省力の決定的な欠如。

でもファッションは – もちろん文学でも映画でも音楽でもアートでも – そういう闇とゴミを裂いて光を与えてくれるものだったはずだ(ヒジャブを強制させられるような社会では特に)、ということを改めて思い起こさせてくれて、手元にそれしかないのであればそこにすべてを託すだろう。 それは捨て身の、生き残るための最後の賭けで、政治もくそもないのだが、それ故に極めて政治的な挙動として、みる奴はみるだろう。

最後のほうは目を疑うくらい悲しいのだが、それでもNedjmaたちの強さと輝きの方がその上をいく。
いまも世界に数千万くらいはいる(もっとかな)はずのNedjmaに向けて放たれた強いメッセージだと思った。
Nedjmaとその仲間たち、みんな素敵で、”Mustang” (2015)のかんじもあるかも。

日本でも公開されますようにー。

揚げパンがおいしそうだった。


いきなり寒くなった。まだ木曜日..

6.03.2020

[film] The Champ (1931)

5月27日、水曜日の晩、Criterion ChannelのFrances Marion特集で見ました。とっても有名なクラシックだよね。Frances Marionと主演のWallace Beeryはこれでオスカーを獲っている。

子供の頃、Franco Zeffirelliによる同名のリメイク(Champ役はJon Voight)があって、読み始めていたScreen誌とかであらすじを読んで、なんて悲しいお話しなんだろうこんなの絶対見ない、って思ったことだけは覚えている。殴り合いも父子ものもお涙ちょうだいもどれも苦手だし。

でも殴り合い(ボクシングね)は最後の方に少しあるだけで、かんじとしては”Kramer vs. Kramer” (1979)みたいだと思った。どっちにしても泣かされるのだけど。

かつてボクシングのチャンピオンだったChamp (Wallace Beery)は息子のDink (Jackie Cooper)とふたりで酒場の上の小屋みたいにぼろいところに暮らしてて、すっかり落ちぶれて酒と博打に浸かってぐでぐででしょうもない(でもこの辺りの描写はほんとうに楽しくてよいの。ずっと見ていたい)。

博打で勝って馬 – Little Champと名付ける - を手に入れてこいつの出走する競馬場に行ったらChampと別れて今はお金持ちのマダムになっているDinkのママLinda (Irene Rich)と会って、LindaはDinkの置かれている環境にショックを受けて彼を自分の元で育てられないか画策を始めるのだが、Dinkはやだ、って言って、でもChampは転げ落ちてばかりなのでもう連れて行ってくれ、ってLindaに頼んで、そうこうしているうちにChampの再起をかけた対戦が決まって…

もう設定も筋書きもぜんぶとうにどこかで見たようなやつだし、結末だって見え見えなのだがどんなにぼろぼろでもいつも笑って楽しそうなChampとDinkのふたりの掛け合いがほんとに素敵で、それを見てるだけで泣かしてくれるので最後なんてもうさー。

いまリメイクするとしたらChampは誰だろう? John C. Reillyかなあ。冒険かもだけど、”Marriage Story” (2019) のあの父子とか – 泣かせることしか考えてないようなこてこてのやつ。

Cynara (1932)

5月31日、日曜日の昼間、同じCriterion ChannelのFrances Marion特集で。監督は↑と同じKing Vidor。Pre-code時代のロマンス。

ナポリにJim (Ronald Colman)とClemency (Kay Francis)の夫婦がいて、Jimはこれから仕事で南アフリカに行こうとしてて、これで君とはもうお別れだ、って決意は堅そうで、なんでこうなったかというと… ってJimが過去を語り始める。

ロンドンで弁護士をしているJimはずっとハードに真面目に働きづめで、Clemencyが妹とベニスで一ヶ月くらい遊んでくるので独りで羽でも伸ばしてみれば、ってからかわれても相手にしなくて、でも友達と食事に出た時に隣のテーブルにいた女子ふたりを友達がナンパして、そのうちのひとりDoris (Phyllis Barry)と仲良くなって、DorisはJimのことをとっても好きになって、彼は既婚者だからと言っても構わないって情熱的に寄ってきて、そのうちClemencyが帰ってきて、もう会えないって知ったDorisは..

単なる悲劇で終わるわけでも円満のエンディングでもない、やや複雑な味わいをもったドラマで成瀬を見た後に残るかんじに近いものがあったかも。

そういえば、“In Name Only” (1939)でのKay FrancisはCary Grantの奥さんで、彼がCarole Lombardを好きになっても断固として別れない邪悪な妻を演じていて、あれも妙に残るやつだったねえ。

タイトルは、Ernest Dowsonの詩 (1894) から、その最初のフレーズが”I have forgot much, Cynara! gone with the wind,”で、ここの”gone with the wind”からMargaret Mitchellはあれを。で、終わりではこういう。”I have been faithful to thee, Cynara! in my fashion”.


仕事しながら音を消したBBCをずっと見てて、ああやっぱり抗議のデモに行けばよかった、と反省した。 明らかな不正に対して立ち上がるのって選挙と同じで市民の務めだよね、こんなの仕事以前にやらなきゃいけないことだった。 週末のには行こう。でもまだ水曜日が終わったところ...

6.02.2020

[film] Le Double amour (1925)

5月28日、木曜日の晩、La Cinémathèque françaiseのHENRIで見ました。

HENRIに日々やってくる映画ってどれも見たいのばかりなのだが英語字幕がないと難しいので我慢してて(Raúl Ruizのとか)、でも英語字幕があるのはできるだけ見るようにしていて、なかでもJean Epsteinのは大好きで、ドキュメンタリーの“Jean Epstein, Young Oceans of Cinema” (2011)も含めて見ている。英語題は”Double Love”。もちろんサイレント。

20世紀の初め、サロンで歌ったりして貴族たちの羨望の的になっているLaure (Nathalie Lissenko)がいて、でも彼女が付き合っているのは大きな車工場のとこのぼんぼんで博打狂いのJacques (Jean Angelo)で、バカラですっからかんになって自殺しそうになっているからLaureがチャリティでなんとか集めたお金を渡したらそれも使いこんで、Jacquesは父親から愛想つかれてアメリカに送られ、Laureは社交界から追放されて、さらについでにJacquesは赤ん坊がまで残してくれて..(なんてひどい奴)

そこから20年くらい時が流れて、Laureはシングルマザーのまま歌手として成功していて、そこまではいいのだが、Jacquesとの間の息子のJacques (Pierre Batcheff)が父と同様に博打に狂っててどうしようもなくて(溜息)、ママもうこれで終わりにするから、とか言ってお金をせびりにくるのでちょっとぶん殴りたくなる。

そんな母子のところにアメリカで実業家として成功したJacquesが戻ってきて、みんながお大尽さまって右往左往するディナーの席でLaureが歌う姿を見るとJacquesは、あ.. って逃げるように席を外して博打のテーブルに行って、久々だしやってみるか.. ってやり始めたら強いので注目されて、それを見ていたのが彼を父とは知らない息子Jacquesで、流れてきたいかさま札を試したかったっていうのもありやっつけてやるぜ、って父と勝負して、でもあっさり負かされちゃって、更にそのいかさまがばれちゃうの。

身に覚えはなくてもいかさま事件に巻き込まれてしまったということで警察から申し訳ないけど相手を確認してほしい、とJacquesの家に連れていかれるとそこにはLaureがいて..

夫からも息子からも裏切られて酷い目にあってぼろぼろになった女性が復讐するのでも泣き寝いりするのでもなく、そうだよねそこしかないよね、みたいなところに落ちるのがよくて、因果は巡るよ自然派メロドラマとしてよくできていると思った。
タイトルの二重の愛って、LaureからふたりのJacquesに向けられたものなのか、ふたりのJacquesからLaureの懐に向けられたものなのか、ひょっとしてふたりのJacquesの博打愛とか..

最初の方には海の波が寄せてくる映像が頻繁に映されるので、最後はみんな海の藻屑.. を想像したのだがそれはなくて、それにしても彼の撮る海っていつもなんであんなに素敵なのかしら、って。

Jean Epsteinの映画のどこがおもしろいのかというと、台詞がそんなになくても表情と動作と人物の位置関係、そしてカメラがどこにいるか、でなにが起こっているのか、なにがやばいのかがが見渡せてしまうことなのね、って思った。 だからどこを切りとってもかっこいいの。

他のHENRIのでおもしろかった短中編 - どちらも英語字幕;

La Brune et moi (1979)

当時のフレンチパンクバンドがいっぱい出てきて演奏する。
いつも元気でパンクなちんぴら女の子AnouschkaがPierre Clémentiの会社員とぶつかって、会社員は彼女のことが気になって追いかけて、Anouschkaからあたしはパンクのバンドで歌いたいのでバンドを見つけてきてくれたら付き合ってあげる、って言われたので、真面目に探して彼女と引きあわせるの。その選考とかリハーサルの間に、いろんな場所で当時のバンドがライブを繰り広げてくれる。
知らないバンドばかり(知ってたのはEdith Nylonくらい)なのだが、どのバンドもかっこいいったらよう。 見たらびっくりするよ。

Dans le vent (1963)

Jacques Rozierの短編、音楽がSerge Gainsbourgで、街のおしゃれさん、を追った記録スナップ、スケッチみたいなやつなのだが、しみじみどう見てもおしゃれでシャープで。こういうの見るとファッションてパリねえ、しか出てこない。


アメリカが、NYがとっても心配で、行けるものならすぐにでも飛んでいきたい。なにかできないか。
こんなとき在英日本大使館から『「米国における黒人男性の死亡事件」に対する抗議活動についての注意喚起』ていうメールがくる。ロンドン市内でこれから行われる抗議活動の場所と時間を教えてくれて巻き込まれないように注意しろ、って。
教えてくれてありがとう。 明日の昼のは無理だけど週末のは行こうかな。
あと、「死亡事件」じゃないから。無抵抗の市民に対する警官の「殺人事件」だから。(にっぽん、よねえ)

6.01.2020

[film] River of Grass (1994)

5月26日、火曜日の晩、Criterion Channelで見ました。ここの5/31迄で見れなくなるよリストにあって、月が変わって見れなくなるとやなのは他にもたくさんあったのだが、これはとにかく。

Kelly Reichardt作・監督のデビュー作で、彼女の作品はぜんぶよくてどれも大好きなのだが、特に”Wendy and Lucy” (2008)は必見なの。

“River of Grass”は舞台となるフロリダ州の南に広がる草地帯のことで、先住民ですら草しかないなんもないしょうもない土地って呼んでいた土地である、と。

Cozy (Lisa Bowman)はそこに暮らす平々凡々な主婦で、夫も子供も父親もいるけどもう全てがどうでもよくてやる気ゼロで、なれるもんなら体操の選手とかダンサーとか.. なーんちゃって..  って呟いてみたらおわり、のようなかったるい世界で生きている。バーで明らかに自分と同種の夢遊病者Lee (Larry Fessenden)と会ってどうでもよい同士でなんとなく盛りあがってどこかの家のプールに忍びこんで泳いでいたらその家の人が出てきたのでLeeが持っていた銃 – これはCozyの父親が勤務中に落としたものだった – を突発的にぶっ放したら当たっちゃった気がしてやばいぞって車で逃げてからふたりでモーテルに籠って、ボニー&クライド気取り – なんてものではないけどひょっとしたら.. - の逃避行が始まる。

ふたりには始めから犯罪をするつもりも人を殺してしまったという確証も逃げて潔白をはらす意思もなんもないような空っぽ空っけつぶりで、でも車に乗って逃げるとなったらモーテルだろうし、外からのノックには気をつけるし、金はないのでお店には押し入って食べ物盗ろうとしても失敗して、Leeとかを見るとほんとに隅から隅までダメダメで、筋書きだけだと十分ノワールになれるのに、このふたりの緊張感とやる気のなさのせいでただホワイトトラッシュがぐだぐだしているだけのように見えてしまう。

でもそれでも怒る気にも笑う気にもなれないのはCozyもLeeも我々が暮らしていて通り過ぎたりすれ違ったりしている世界の住人で、彼らは今もきっとCovid-19の隔離でしぬほどつまんないしんだほうがましかも、とかぶつぶつ言いながら腹をだして転がっている我々の隣人だからだ。 彼らの定まらない眼差し、どうでもよい方に寄っていってしまう目線、殺したいなら殺せばーの態度ぜんぶ、こういう人たちで構成されている世界、というのがKelly Reichardtのその後の映画にも出てくる。ものすごく邪悪でも天使がちらちらする花園でもない、目につく鼻につく連中がごそごそなんかやってて、そうやって維持されてしまう、決してxx Lives Matterにはなっていかない日々。不条理? それを言うならわたしの生そのものがそう。でも、だから。 

で、デビュー作から既にこういう世界のこういう人々を描いていた、というところでKelly Reichardt作品て本当にすばらしくて、かんじとしては初期のジャームッシュの映画にあったようなざらっとした粗い布の薮のなかを猫背で横移動していくような。横移動してもどこにも行かないし行けないし。 でも彼らはだーれにも依存しないでそこにいる。 彼女はずっとそういう人達を描いているの。

CozyとLeeを並べてみると、どっちもぼんくらだけどどう見てもCozyの方がまだ立派にそこに立っているふうで、”Certain Women” (2016)のなかに出てきてもおかしくなかったのではないかしら、って。

エンドロールでSammyの“Evergladed” (1994)ががんがん流れてきて懐かしく、そういえばBeckの”Loser”は93年、Pavementの”Crooked Rain, Crooked Rain”は94年だったな、と。この辺りの空気もたしかにある。


6月になって外に出てみるとやっぱり車の量が増えて店も少しづつ開きだしているみたい。でも最寄駅はまだ開いてない。美術館も映画館もまだ。今月は行けるようになったりするのかしら(期待しない)。
ところで3月から5月の日照時間はトータルで600時間を超える記録的なものだったそう。確かに毎日外に出ていっても降られたのは一回だけだったし。こんなによい天気なのに、というのか、こんな状況だから天気くらいは、というのか。 熱波だけはこないでね。

[film] Never Rarely Sometimes Always (2020)

24日、日曜日の晩、ふつーのYouTubeでお金払って見ました。

こないだ見た“It Felt Like Love” (2013)のEliza Hittman監督の最新作。 *It Felt..*も決して明るいトーンの映画ではなかったが、これもまた、テーマも含めて重く、でも少女の後ろ姿を追っていくすばらしい少女映画 - Coming-of-Ageがあり、友情があり、ロードムービーでもあり - だと思った。

冒頭、学校の学芸会で、メイクをしてひとりギターでThe Exicitersの”He’s Got the Power”(この歌の歌詞を読むと..)を暗く歌うAutumn (Sidney Flanigan)がいて、客席のちょっとしたからかいで歌が止まってしまうほどぴりぴりしている。

17歳の彼女は妊娠しているようで、地元ペンシルベニアの田舎のクリニックに診察に行ってもそうだと診断されて、どんよりして薬飲んでも自分でお腹を叩いてもだめで、クリニックを再訪してやはり中絶したい、というと怖いビデオを見せられて親の同意も必要というので、こんな田舎ではだめだって、いとこのSkylar (Talia Ryder)と一緒にネットを調べて、そういうのを必要としないNYのクリニックまで旅をすることにする。ふたりでバイトしていたスーパーのレジのお金を少しくすねて。

バスを乗り換えてNYのPort Authorityに着いて、メトロカードを買って地下鉄に乗ってブルックリンのクリニックに行くと、その前には中絶反対派の人達がデモをやっていて、そこを抜けて診察を受けるとペンシルベニアで10週間と言われていたのが実は18週間で、これだと検査も含めて丸2日掛かるので明日また来るように言われて、ホテルに泊まることは想定していなかったのでダイナー 〜 チャイナタウンのゲーセン 〜 カフェと流れて夜を明かす。この辺はふたりにとって初めてとなるNYの街を彷徨い - でも内心はそれどころではないドキュメンタリーのように見えて、でもふたりは途中で折れないように手をとりあって行くの。

Autumnは終始どんより硬く無表情なのだが、唯一我慢できずに泣きだしてしまう箇所が、処置の前日の検査でカウンセラーの女性から質問を受けるところで、その内容が相手の男の挙動についての一連の質問 - 例えば「彼は嫌だと言っても強引にやろうとしますか?」とか - これの選択肢が四択の”Never” - “Rarely” - “Sometimes” - “Always” なの。 思い出したくもない男の行動についてはその暴力も含めて選択肢があるのに、わたしの今はこんななのか..  ってことだと思う。

予定が一日伸びてしまったことでお金がなくなり、行きのバスで声を掛けてきた青年のところに連絡してお金を貸して貰ったり、最後まではらはらしっぱなしだし、Autumnの表情も晴れることはないのだが、絶対に負けないふたりとか彼女の側に立ってくれるカウンセラーも含めて、そのテンションと情のバランスがすばらしい。

主人公の硬さ寡黙さが彼女の置かれた不条理と言ってよいくらいの悲惨な状況を暴いていく、という点でこないだの”The Assistant” (2019)と似ていないこともない。 ここでは彼女の受けた/受けている傷について処方箋や将来が示されるわけでもなく、相手のことを「こいつだ」と指し示すこともないのだが、徹底的に微細に詳細に彼女たちのありようを描くことで、これは暴力であり虐待であり差別であり人権の侵害であり、あってはいけないこと、なんとかしなければいけないことなのだ、と強く訴える。

こういうのって絶対に男性 - 性に関して小中学生並みに幼稚な成人男性 - に見せないといけないやつなんだけどどうしたらよいのか。

これが映画デビューとなるSidney FlaniganさんはSSWでもあるそうなのだが、今度は音楽も聴いてみたい。あと、Sharon Van Ettenさんが彼女のママ役で出ている。すんごく地味でわからなかったけど。

彼女たちが見せてくれるNYの風景は、これまでの映画で描かれたNYとはちょっと違って見える。例えばふたりが夜まですごすゲーセンで、鶏(ほんもの。生きてる)と○Xをやるゲームがあるのだが、あれほんとうにあるの? やってみたい。


5月が終わってしまって、明日から6人までは外で集まってもよいことになるみたい。よくわかんないけど。 そんなことよりアメリカのことが心配だわ。