5.31.2021

[film] The Brother from Another Planet (1984)

5月27日、木曜日の晩、Criterion Channelの5/31でいなくなるリストを見ていて、あら懐かしい、になったので見ました。UCLAがリストアしている。

大昔の公開当時、まだ桜丘町にあったユーロスペースで見て以来かも。ミニシアターっていう分類もあったかなかったか、たんに米国のインディペンデント映画、とか呼んでいた気がする。

冒頭、中学の自主映画みたいにちゃちいCGとただの鉢みたいなコクピットの中で慌てている人がいて、錯綜したぴろぴろ音の後に、それはしゅん – ぽちゃ、って紙ゴミのように一瞬で水に落ちる。エリス島のそばに落ちたその中に入っていたと思われる男 (Joe Morton) – 後で”The Brother”と呼ばれたりするが喋れないので名前は不明な - がイーストリバーから這いあがってきて、片方の膝から下がなくなっているのだが、しばらくじっと念じていると再生されていたりする(足先は三本指)。彼 – かどうかも本当は不明 – が廃墟になった駅のようなところに入ると誰もいないのにいろんな人の声が聞こえてきたりするのだが、マンハッタンにあたる朝日を眺めてから再び川に落ちて、そこから船に乗って125th - ハーレムに降りたつ。ここまでが導入部。なぜAトレインでハーレムなのか?

彼は喋らないので、彼の旅がどこへ向かおうとして何をやろうとしていたのか、そもそも彼がどこ星の何某なのかは一切わからない。地元の人達がたむろするバーに入ってもジェスチャーのみなのだが、相手の喋る内容とか、人が困っていることについては察して理解して、アーケードゲームを直すのを一瞬の手かざしでやってしまったり、不思議な力を持っているらしい。最初は怪しまれながらもそうやってゆっくりハーレムのコミュニティ – それを成り立たせている行政とかどさまわりの歌手とかやなかんじの白人とか多種多様な人達のあいだ - に馴染んでいく彼と、どういう理由かは不明だが彼を追っているらしい白人二人組の男たち(監督のJohn SaylesとDavid Strathairn!)が立ちはだかってきて..

これって別に彼をわざわざ地球に落ちてきた男、としなくても、他所(他の土地、国)から流れ着いた変な男、としてもふつうに成立する話で、ただそこには、彼が黒人でべらべら喋らなくて無害でどちらかというと有益である、とか、その土地はハーレムとかクイーンズのジャクソン・ハイツのような場所である、といったような条件がついて、その条件って政治的かつ歴史的ななにかとして規定されうるものだよね、と思う。というようなことが最後までいくとわかって、つまりこれはそんなふうにして成り立ってきた社会=合衆国の姿を描いているのだ、というのと、でもそれにしてもいろいろ大変なこともあるし - 最初に出てきた声たちとか  - これからもこうなのか、とか。

最初に見た頃はそこまで考えずに、見るからに低予算だけど不思議で謎めいててよいわ、とか洟を垂らしてぼんやり思っていただけだったかも。かわいそうでバカな子..

あの二人組はMen in Blackだったのかー。Tommy Lee JonesとWill Smithの映画はこのテーマを180度転換させて地球を防衛する話にしてみせたのね、と。そういうふうに見てみると、MIB、なんかやなかんじに見えてきたり。

これが白人 - David Bowie -だと”The Man Who Fell to Earth” (1976) になるし、見るからに宇宙人だと”E.T. the Extra-Terrestrial” (1982)や”Alien” (1979)になる。 なぜ”Sister”ではなく”Brother”なのか、とか、当時ややブームとなっていたSF映画たちと並べてみると、いろいろ見えてくるものがあるが、決して彼ひとりではなかった、というあたりはひとつのポイントかも。

あとはNYという街 - エリス島から入って、Brooklynに入ってハーレムに至る、その形成の過程を宇宙人も同様に反復しているという。 そうそう、“140 Broadway”という建物があったけど、あれは..

John Sayles、”Baby It's You” (1983)も久々に見返してみたいな。


禁外出が解けたし、明日はとうとう会社に行かねばならないし、区役所とかもあるので、しぶしぶ外にでる。
久々に見た町は、なんだか疲れて寂れて見えた。シャッター街になっちゃう手前くらいかも、とか。
でも区役所も銀行も相変わらずの光景 - 非効率、という点ではアメリカともイギリスともそんなに違わないと思うのだが、なんで日本のって悲惨に見えてしまうのだろう? だし、歩道を自転車がびゅんびゅん走っていくし、人はディスタンシング関係なく寄ったりぶつかったりしてくるし、車いなくてもきちんと信号守っているし、電車のなかは緊急事態宣言下とは思えないし.. 慣れてくるのだろうけど、いろいろ疲れた。

そうして疲れてばかりいてもかわいそうなので新宿の紀伊国屋に行って、少しだけ。本だけは戻ってきてもオンラインのクリックはしないで本屋に行こうと思っていたの。2年ぶりに日本語の本の本屋に行くと、なかなか来るものがある。パニックにはならないけど、ほぼ知らない本ばかりが入ってくる、ってすごい。 握りしめていたリストのうち、目についたのだけカゴに入れた - 『デヴィッド・ボウイ 無を歌った男』、『生の館』、『ミルドレッド・ピアース  未必の故意』、『かわいいウルフ』、とか、必殺で喉元にきた奴らから。文庫と料理本関係はまたこんど。

自分史上最悪だった5月が終わる。20年前の5月は二度目のNY駐在が始まったときで天に昇る思いだったのにな(でもその4ヶ月後に911が.. )。 6月はもう少しだけよくなりますように。

5.30.2021

[film] Rare Beasts (2019)

5月26日、水曜日の晩、BFI Playerで見ました。 最近の英国映画なのだが、いくつかのレビューを読むと、“anti-romcom”とか書いてあって、なんか見た方がよい気がしたので見た。

女優のBillie Piperさんが一人で書いて主演した監督デビュー作。
TV制作会社に勤めるMandy (Billie Piper)がレストランでPete (Leo Bill)と恐らく最初のデートをするのが冒頭で、Peteはマッチ棒みたいな頭でもうじきハゲるのが見えてて眼鏡で声だけはでっかくて、べらべらべらべら尊大で自分が正しいと思っていてMandyのあれこれを決めつけてかかって、発言すべて女性蔑視満々で、全体としてとってもあんた誰? で(でもそこらにいそう。日本にはいっぱいいそう)、食事をしながら口論になって、喧嘩のように別れた直後に彼女は吐いてしまうくらい嫌な野郎だった。

で、ふつうであれば、こいつを最低基準線として、いちおうこいつに指摘されたことを正視して変わらなきゃとか思っていると、やがてそこそこの彼(or 雲の上のかんじのやつ)が現れて.. というのがふつうのromcomのパターンだと思うのだが、ここの場合はそっちに向かわない。 OCDの疑いのある男の子Larch (Toby Woolf)をもつシングルマザーで、仕事も恋愛も自分には後がなくて、自信もなくて、Peteの指摘した欠点に反発する握り拳も勢いもない彼女は、驚くべきことにPeteと付き合ってみようと思うの。

もうひとつ、家には老いてひとりタバコを吸ってばかりの母Marion (Kerry Fox)ともう別居しているもののやたらいい人として顔を出してくる - けれど経済的な支援は一切しないゴミのような父Vic (David Thewlis)がいて、この両親のようになってはいかん、というのもある。 理想に向かって走る季節は過ぎて、消去法で手元に残るなにかを積みつつ最悪を回避する、もうそういうアプローチしかないのだ、と。

こうしてLarchも連れてPateとデートを重ねたりしていくのだが、Peteは徹底的にやな奴なのでほうら、って事あるごとに上から乗っかってくるし、でもふつうにやられたらやり返せ、になるし、こんなふたりに未来はあるのか未来ってなんなのか。

この辺のリアルな認識 - もちろん、これがどれくらい今のUKの女性にとってリアルなのか知らずに書いているのだが - と、それに対するMandy - Billy Piperの全方位の怒りと苛立ちをどう受けとめるのか、そこを起点にしたPeteとのその後のぜんぜん前に進まない、相変わらず喧嘩まみれのどたばたは、人によっては見てて辛くて痛いだけのものかもしれない。 のだが、最後に全てがおじゃんになった後に「奇跡」が訪れる定番のromcomよりは普遍的なドラマとして機能しているように思えた。タイトルが「珍獣」であったとしても。

最近の近いドラマでいうと、やはり”Fleabag” (2016)だろうか。でもあのドラマにある笑いへの志向(こんなわたしを笑って)はなくて、すごく生真面目に、自分と周囲に小怒りをぶっつけながら錯誤迷走していく姿がよいの。やっぱりそんなの生々しすぎてちっとも見たくない、という人がいるのはわかる。

最後の雑踏(あれ、Alexandra Palace?)での告白シーンは、笑っちゃうような既定romcom路線へのパロディのようで、でもなんか悪くないかも。あの結末についてあれこれ語るのはやらない。いろいろ考えてしまうところもあると思うが、なんとなく強めに言い寄られていてこいつどうしようと思っている男を連れて一緒に見ると、いろいろ開けてよいのではないか(← やな目線)。

あと、結構いろんなひとのレビューが”Punch-Drunk Love” (2002)を引き合いにしているのだが、そうかなー。あの映画は結構romcomどまんなかだと思うんだけど。もう一回見てみないとー。

Tate Modernの前での子連れのデートシーン(散々の失敗におわる)、Tateの壁にChristian Marclayの”The Clock”の段幕が貼ってある。行ったなあ(泣)。

Johnny Lloyd and Nathan Coenによるサントラが素敵で、本人たちが語るようにHarry NilssonやJohn Brionの世界。それかThe Magnetic Fieldsとか。最後に流れるJohnny Lloydの“Next Episode Starts in 15 Seconds”(よいタイトル)がすばらしいの。


今日で自宅隔離は終わるらしい。ちっとも外に出たくないが、Uber Eats漬けから抜けられるのであればいいか。

エコバニの”Heaven Up Here”から40年経った、と。お茶の水のCISCOで、買おうかどうしようか1時間くらい悩んで棚の前で泣きそうになっていたあの時間からもう40年だというのか。もうしらん。

5.29.2021

[film] Exhibition (2013)

5月18日の晩、BFI PlayerのSubscriptionで見ました。Joanna Hoggの長編3作目。日本公開は.. されていないねえ。
元は“London Project”と呼ばれていた作品で、映画のロケーションとしては前2作のタスカニー → シリー諸島 → ロンドンときている。

これの前日に見た”Archipelago” (2010)には音楽がないのだが、最後に女性 - 姉Cynthia役のLydia Leonardのアカペラで”Cynthia's Song”という歌が静かに流れる。それのクレジットが詞:Joanna Hogg, 曲:Viv Albertine、となっていて、あ、って思ったのだったが、感想に書くのを忘れていた。

事前に調べたりしないで見ているので、まずViv Albertineのクレジットとお姿を見て、前日に続いてあっ、となる。主演は彼女が演じるD (Viv Albertine)とH (Liam Gillick)のほぼふたり。前2作で中心にいたTom Hiddlestonがぱりっとしたスーツを着た小綺麗な不動産業者として少しだけ出てくるのみ。

舞台はDとHが暮らすロンドンの西のモダンな邸宅。 この映画が捧げられている建築家James Melvinのデザインによるもので、調べてみるとHolland ParkとKensington Palaceの中間くらい - 高級住宅街どまんなかにあって、惜しいことに2019年に取り壊されている。で、DとHはどちらもアーティストで、子供はいなくて、18年くらい暮らしたこの家を離れて、ふたりの関係もどうにかしようとしているらしい。

Dは、パフォーミング・アーティストのようなのだが、それが見えてくるのは後半くらい - 全裸にテープを巻いて照明をあてたり - で、初めのうちはデスクワークをしていて、上のフロアにいるHとインターホンで連絡を取り合ったりしていて、Hの方もどういうアートの人なのかは、明示されない。ただ、生活に困っているかんじはまったくなく、お金持ちのボヘミアンであることは確か。

ふたりの関係はあまりうまくいっていないようで、一緒のベッドでなにかやろうとしても一方が死んでいたり、Dは椅子の縁で自慰のようなことをしていたり、裸で猫のようにごろごろしていたり、でもそれが不仲の原因ではないようで、その不仲も、喧嘩や殴り合いをしているからそう、というわけではなく、ただ刺々した断絶とか分断があることは確かで、それがこの家に起因するのか、それぞれのアートの志向に起因するのか、年を経たからなのか、一切説明されることはない。

とにかく、ふたりとも漠とした不安や苛立ちを抱えたままずっとそこにいて、互いを愛せる状態にないことはわかっていて、でもなんとしても別れないと嫌なのかというとそれほどでもない、家を手放そうとしているのもそれ故なのかどうなのか、それすらもわからない。ただ、1階(日本では2階)と2階(日本では3階)の間に丸い吹き抜けと階段と変なエレベーターがある、やや特殊な構造の家にずっと一日中暮らして、家のなかの細かな音や周囲の工事の音などに晒されていることで、ふたりになにかが起こったのではないか、ということはなんとなく伝わってくる。

少し話は逸れるのだが、NY(マンハッタン)を舞台にした映画って、NYのビジュアルが出てこなくてもアパート内に聞こえてくる音ですぐそれとわかる。それと同じようにロンドンもフラット内の床がたてる音、外から聞こえる工事の音、教会の鐘の音、などでわかるの。 工事の音なんてどこも同じじゃないの? 違うんだよ。

“Unrelated” (2007)も”Archipelago” (2010)もひとつの家空間に家族や親戚が集まってくる話だった。その人数は作品を経るごとに減っていって、今作ではついに夫婦のふたりだけになった。更にこの作品は家に集まる話ではなく、家から離れる話で、その因果関係(家なのか人なのか)はわからないけど中心にいる家族はなんらかの不和や傷を抱えて互いを信じたり愛したりすることを止めている、とか。ひとつ屋根、というのはそういうものなのか、家族集団、というのがそういうものなのか。 というあたりを映画というよりパフォーマンスを収めたフィルムの固定画面のテンションで並べていく。かんじとしてはMiranda Julyのやっていることに近いような。

でもまあ、家族は仲良くあるべし、なんて別に誰も言っていないから。絆とか言って興奮してるのはどこかの国のバカな政府だけだから、この描き方はよいの。 家は古くなれば壊れるし朽ちるし、家族だってそれだけのこと、というのを淡々と伝えていて、ふたりのノン・アクター - H役のLiam Gillickも2002年にTurner Prizeを受賞しているアーティスト - の「演技」から遠い挙動がそれを支えている。タイトルの”Exhibition”は、アーティストが目指すところのもの(≠ Home)くらいの?

それにしてもViv Albertineの堂々としてかっこよいこと。映画を見ながら彼女の毅然とした目と動き、誰かを思い起こさせるなー、ってずっと思っていたのだが、ひょっとして、Agnès Vardaかも、って。

では、そうすると、Joanna Hoggの現時点の最新作 - “The Souvenir” (2019)をどう位置付けるべきか、になってくるの。 やはり彼女のデビュー短編 - “Caprice” (1986)に遡って考えるべきなのか。今年のどこかで絶対公開されてほしい”The Souvenir: Part II” (2021)には、”Caprice”の主演だったTilda Swintonさまが出られる(共演者もすごい)し、“Caprice”と“The Souvenir” Sagaの関係について(どういうものかは言ってないけど)、監督自身がトークで語っていたし。

なので、今年いちばん見たいのは”The Souvenir: Part II”なの。LFFかNYFFでやるのなら、なんとしても飛んでいきたい。


シアターや美術館が開いてとっても楽しそうな英国(泣)で、ついにKelly Reichardtの”First Cow”が公開されて、公開記念で、ShoreditchのCrosstownドーナツの店に行って「MOO」って鳴くとドーナツ貰えるんだって。いいなー。Picturehouse Centralで映画みるとき、よくCrosstownのドーナツ食べてた。恋しい..

5.28.2021

[film] Archipelago (2010)

5月17日、月曜日の晩、BFI Playerで見ました(日本からもなんとか見れた)。

この日の昼にMoMAで”Quick Millions” (1931)を見て、いまはクラシックしか見たくないなー、と思ったその裏側で、でもそのうちどうせ奴らはやってくる、というのも当然のことながらわかっていて、いいかげん子供ではないので布団に包まってばかりというわけにもいかず、そうしたらBFIのSubscriptionに丁度見たかったのが入っていた。

Joanna Hoggが彼女のデビュー作 - ”Unrelated” (2007)から最新の(Part2はまだかの)”The Souvenir” (2019)までの間に撮った2本が。ここではまず2作目の”Archipelago”から。日本ではWOWOWで放映されたのみで、邦題は『家族の波紋』。

舞台は英国コーンウォールの先にあるシリー諸島(”Archipelago”は諸島とか多島海とか)にあるトレスコ島(すばらしい景観。行きたかったなあ)。 冒頭、風景画のような抽象画のような絵を描いている男Christopher (Christopher Baker)がいて、でも彼は登場人物であっても主人公ではない。

ここにEdward (Tom Hiddleston) がヘリで降りたって、母のPatricia (Kate Fahy) と姉のCynthia (Lydia Leonard)が出迎える。Edwardは銀行勤めの真面目な自慢の子だったのに突然辞めてアフリカにエイズ救済のための教育ボランティアプログラムに参加しようとしていて、その出発前の家族全員が揃っての休暇、になるはずだった。離れているらしい彼の父親にもPatriciaはここに来るように幾度も電話で説得しているのだが、Patriciaの声のトーンだと交渉は難航しているらしい(結局最後まで現れない)。

家族が滞在するフラットには、家族の他に雇われ料理人の若い女性 - Rose (Amy Lloyd)がいて、彼女がいることで和らぐなにかがあるような - 家族の久々のリユニオンなのにそういうテンションを感じさせてしまう何か/誰かがいたりあったりすることは、すぐわかる。PatriciaとCynthiaは、父親に続いてEdwardまで自分たちを捨てようとしているのだと思い、Edwardは自分の彼女を連れてくることもやんわり断られるし、自分の計画がふたりによって頓挫させられるのではないか、と疑っている。そして、PatriciaとCynthiaの間にも過去から積もってきたなにかがあるようだ。

もうひとり、家族の人ではないのが地元の画家の(実際に画家であるらしい)Christopherで、Patriciaの絵の先生である彼は、絵の描き方 - 風景の捉え方、心象や精神を画布にどう展開するか、などについて抽象的な私見を述べたりする。料理と絵画、がこの家族の空気抜きとなってその場と集いを保たせている。

画面は固定、クローズアップはほぼなく、自然光とも異なる独特な照明(すてき)の下で、部屋全体とそこで向かい合うそれぞれの言葉や思いを浮かびあがらせたり反響させたり。音楽はなくて風の音や海の音のみ。気晴らしに自転車に乗ったり屋外にピクニックに出てみても光のトーンも表情の浮かなさもあまり変わらなくて、Edwardが、Roseも入れて一緒に食事に行こう、という提案すらごにょごにょ反対意見がでて、それでも無理してみんなで出かけたレストランではCynthiaが爆発して大惨事になってしまう。

もちろん、この程度の修羅場なんてどこにでもあるし、映画はそういうのをずっと描いてきた、のかもだけど、ここのはロメールの教訓に向かう会話劇ともカサベテスの堂々たるとっちらかった修羅場とも違う、どこにも向かわずに潮の合間に点々とする群島のように、ただそこにある - そこにあった、と。 だからだいじょうぶ、とかそういうのではなくて、ただそこにあるものをChristopherの描く抽象/具象画のように浮かびあがらせてみること。それだけで、こんなにおもしろいドラマになってしまう不思議。

Joanna Hoggの長編デビュー作 - “Unrelated” (2007)も、タスカニーの田舎の一軒家にバカンスにやってきたやや疲れた女性と複数の家族の間で、起こるべくして起こった”Unrelated” - ほっといてよ - なごたごたを描いたものだった。ここでのTom Hiddlestonは無軌道なティーン役で、今作での彼の立場は主人公の女性のそれに近いものになっている(Roseを誘ってみたり)。でもどちらも、表出する亀裂の深さと修復不能なかんじは、同じような。

この翌日に次作の”Exibition” (2013)をみて、いろいろ思って、まだ転がしているのだがー。


週末になった(のね)。 でもまだ隔離期間なので外には出れない。外の世界はどんなんだろう? って白々しく思ってみたりするが、どうせだめだわ、ってため息しか。

5.27.2021

[film] Me and My Gal (1932)

ここからは日本に来てからの、になる。5月17日、まだあのホテルにいた時に見ました。

目の前の現実にうんざりしているときに最近の作品を見るのは、どこか地続きなかんじがして嫌で無理で、見るなら昔のクラシックがいいな、になってしまう。そこで見つけたのがMoMAのストリーミングで“Pre-Code Fox Rarities from the MoMA Archive”ていう特集。MoMAのアーカイヴにあるPre-Code時代の作品のうち4Kリストアされたものを3本選んでいる。(他にももっとあるはずだいっぱい見せろ)

見た順番は、日替わりで“Quick Millions” (1931) → “Me and My Gal” (1932) → “Sherlock Holmes” (1932)。どれもそれぞれにおもしろかったのだが、やっぱし書くならこれかな、と。

監督はRaoul Walshで、たぶん大昔にFilm Forumとかで見ているやつ。Busby Berkeley - Judy Garlandの”For Me and My Gal” (1942)とは別のだから。邦題は『金髪乱れて』 - ここのJoan Bennettはショートでちっとも乱れないんだけど。

NYの波止場 – Pier 13近辺で働く警官のDan Dolan (Spencer Tracy)がいて、日々よれよれ酔っ払い爺さんの相手をしたり忙しいのだがアイリッシュ系で腕っぷし強くて威勢がよくて、海に落ちたよれよれを救って刑事に昇進したりする。彼がそこのダイナーのレジで働く、これも威勢のいいねえちゃんのHelen (Joan Bennett)とぶつかって、なんだおめー、なによあんた、って互いにプチ火花を散らしながらもなんとなくにじり寄っていくの。

Helenの妹のKate (Marion Burns)はかつてギャングの大物Duke Castage (George Walsh - Raoul Walshの弟さん)と付き合っていて、でも彼が南米に高飛びしちゃったので堅気に戻ろうと、メガネの生真面目がり勉くんと結婚しようとして式もめでたく執り行われるのだが、Dukeが戻ってきて牢屋に入れられたという新聞記事を見てひとりざわざわする。案の定、Dukeはさっさか鮮やかに脱獄してKateの実家に現れて、そこの隠れ部屋に潜伏する(Kateは動揺して、でも誰にも言えないまま平静を装う)。そこにいるのは体が不自由でずっと椅子に座っていて、目の瞬き(信号)だけで会話する父のPop (J. Farrell MacDonald)だけで。

なんだかんだHelenとつき合い始めて彼女の実家にもやってくるようになったDonは、Kateの様子が少し変わったのとPopの様子でここにはなにかあると気付き始めて…

79分の長さなので、なにをやるにもちゃっちゃか進んでいってあっという間、この小気味よいテンポにSpencer TracyとJoan Bennettの素敵すぎる波止場のふたりのやりとりがぴったりはまって気持ちいいったらない。最初の方のつんけんした弾きあいが事件の進行と共になし崩しで溶けていって、最後に… は、表も裏もないrom-comの王道でもあるの。どーってことない帽子をめぐるやりとりにいーなー、ってなる。

あと、いっつも感心するのはRaoul Walshの喧嘩アクションの見事さよね。John Hustonもそういうとこあるけど、決してあんなふうに殴られたくないけど、コレオグラフィとしていつもひー、ってほれぼれ見てしまう。

これがPre-Code時代の作品で、でもPre-Codeだから、Codeを意識して好きに作ったからおもしろい! ってものでもなくて、Hays Code以降だって工夫しておもしろいのはいっぱいあるし。ていうのを考えていると、これとは全く別の次元の話だけど、最近ちょこちょこ目にするポリコレが表現を殺す、とかいう議論(にすらなっていない)を思い出す。政治嫌いの子供がボクは政治が嫌いだから嫌いなんだ、って駄々こねているだけの浅くて幼稚で愚かなやつ。こういうボクを大勢で育ててしまったのが、日本のメディアと業界なんだねえ。本当にやだ。


日々なんか眠くて、そのまま寝てしまうので、時差ボケが消えない、というか単に時差ボケのせいにしているだけなのかもしれない、というくらいどうしようもなく眠い。元々WFHの頃から眠くなったら昼寝する、とかふつうにやっていたので時差が来たって関係ない、とか思っていたのだが、午後遅くになると寝てしまって、朝は3時くらいに目が開いてしまう。 なにか熱中できる仕事とかがあればまた別なのかもしれないが、あんまなさそうだし、世界はひどいし、外には出れないし出たくないし。 このまま芋虫になってしまえばいいんだわ、とか。 

5.25.2021

[film] Touchez pas au grisbi (1954)

4月26日、月曜日の晩 - もう一ヶ月も前なのかー、MUBIで見ました。
英語題はなくて仏語のままで、USの公開時のタイトルは”Grisbi”(獲物)、UKの方は”Honour Among Thieves” 、邦題は『現金に手を出すな』(げんなまにてをだすな)- これなら聞いたことある。原題をそのままDeepLにかけると『灰色のものに手を出すな』 - 灰色のもの? 。

監督はJacques Becker、原作はAlbert Simoninの同名小説で、原作者は脚本にも参加している。小説の方はここのMaxを主人公とする三部作になっていて、どれも映画化されている模様。 Jean GabinはこのMaxでヴェネチアで男優賞を獲っている。

フィルム・ノワールの闇に蠢く非情さはあまりなくて、でも、だけど、すばらしくおもしろいギャング映画だと思った。

初老のギャングMax (Jean Gabin)は相棒のRiton (René Dary)と若いキャバレーの踊り子ふたり - Josy (Jeanne Moreau)とLola (Dora Doll)と行きつけのマダムの店で遅めのディナーをとって、そこに若弟子のMarco (Michel Jourdan)も加わって、みんなでキャバレーに行く。ここでの彼らの会話や目のやりとり、表情、態度などでMaxもRitonもギャップをかんじて疲れていて(あれこれついていけなくなっていて)、でもやや必死でそれらを取り繕おうと - なんでもないし、って顔をしていることがわかる。

MaxとRitonはこの少し前に5千万フラン金塊の塊8つをまんまと強奪していて、あとちょっとで幸せな老後になるはずだったのに、Ritonがそれを付き合っていたJosyに話して、Josyは二股かけてた若ギャングのAngelo (Lino Ventura)にそれを話してしまったものだから、帰宅途中に怪しい連中に追われたりして、Josyの二股の様子を見てしまったMaxはRitonに、知られているようだから気をつけろ、っていうのだが既に遅くて、彼はAngeloの一味に連れ去られてしまう。

MarcoがAngeloのとこの間抜けなちんぴらを捕まえてMaxがそいつをクラブのオーナーで盟友のPierrot (Paul Frankeur)のところにひったてて拷問しようとしたところでAngelo側からRitonと金塊の交換取引の電話があって、Max, Pierrot, Marcoの三人はそれなら、って武装して取引の場所に向かうの。怒りも脅しもなく、そうですか行きます、みたいなかんじで。

最後の20分くらいはどきどきはらはら怒涛の結末、というよりもものすごく落ち着いた、食事でもとるかのような優雅な身振りと、でもミスしたらぶっ殺す - 実際しぬよ、っていうつーんとした緊張感に溢れているのに、激しい銃撃と手榴弾の炸裂とカーアクションが連続してて痺れる。でもじたばたどたばたしていない。

所謂やくざっぽいダーティワードや不良っぽい素振りや下品な慟哭とか怒りとかエモの乱れみたいのは一切なくて、全員が最後まできちんとスーツネクタイで、やることをやるだけみたいな迷いのない直線の動作に貫かれていて、カメラはそれを向こう側とこちら側でひたすら追っていくだけ。銃撃戦ですら釣りでもしているかのような落ち着きがあってスタイリッシュで、あれってなに? 銃撃戦だけじゃなくて、例えばAngeloの手下を縛りあげて拷問することになったときの、太った丸メガネのPierrotのきびきびした無駄のないバレエのような動き - それだけで真性ギャングの凄みが伝わってくる。

Jean Gabinも同様で、身内への面倒見とか気前のよさはたっぷりで、恋人になるBetty (Marilyn Buferd)にもずっと紳士として振る舞うし、迷いとか悩みは一切ださなくて、基本はぜんぶひとりでやる、やるとなったら徹底的で、ふつうに喋りながらビンタしまくるのとか冗談のようにすごくて怖くて。このひとは寝る時もタイとスーツ姿なのではないか、とか、不死で数百年生きているのではないか、とか、やや古いけど『さようなら、ギャングたち』で定義されたギャングってこういうのだった気がする - そういう抽象性みたいのがあって。ああいうギャングには憧れるなー。

あと、あのジュークボックスがほしい。


まだ自宅隔離期間だし、ろくな調理器具もないのでほぼずっとUber Eatsでなんか取って食べているので、近辺の出前事情には結構詳しくなったかも。それにしてもすごく肉肉しいし、麻婆豆腐とか辛くて濃いのが多いし、これがフードコートだったら「ないわ..」って素通りしちゃうかんじかも。若者向けなんだろうな。

壁の奥に埋め込まれていたハブを取り替えて、ようやくWifiが使えるようになった。なにから見ようかしらん。

5.24.2021

[TV] The Pursuit of Love (2021)

各1時間 x 3エピソードあるTVミニシリーズで、5月9日の日曜日の晩にBBC Oneで最初のエピソードが放映されて、ストリーミングの方では3ついっぺんにリリースされていたので、引越しの箱詰め作業の合間、日-月-火の3日間かけて見ました。水曜日から怒涛の引引越しに巻き込まれたので、これが英国で最後に見た作品となった。日本からもVPN繋いでBBC iPlayerに入れば見れるよ(見れたよ)。

原作はNancy Mitfordの1945年のベストセラー小説(未読)で、これを女優で本作にも出演しているEmily Mortimerさんがひとりで脚色して監督している。

冒頭、1941年のチェルシーのフラットの屋上で黒のフレンチブルと一緒にのんびり日向ぼっこをしているお腹の大きいLinda Radlett (Lily James)がいてふぅって息をついた途端にフラットが爆撃されて視界から消える。

瓦礫のなかを向こうから歩いてきたFanny (Emily Beecham)がブルと一緒に焼け出されているLindaを発見して抱きあって、2人で車に乗ってオックスフォードシャーのAlconleighに向かう。語り手はFannyでLindaとは同い年のいとこ同士。LindaのRadlett家の屋敷 - Alconleigh - がふたりが幼い頃から一緒に過ごした場所で、着いたところで時代を遡り1918年から3年くらいのクリスマスの思い出 - げろしたり叱られたりしょうもないLinda - の思い出が回想された後、1927年、ふたりが17歳になったところから彼女たちの輝ける人生が始まる。

敷地内を全力疾走するLindaを見つめるFannyの声 - 大声で元気いっぱいに笑ってはしゃいで、でもすぐ泣いて塞いで、動物だいすきで動物のように愛とエモむきだしのワイルドなLindaを中心に、彼女の父で外国人が嫌いでヘイトをまき散らす雷おやじのUncle Matthew (Dominic West)、Fannyの母で一人娘のFannyを妹の家に預けて(捨てて)愛人をとっかえひっかえしているThe Bolter (Emily Mortimer) とかに隠れて屋根裏のリネン部屋でHons Societyを組織して恋愛や将来について夢と妄想を語りあう日々。

近所の変わり者貴族のLord Merlin (Andrew Scott) - 怪しすぎてさいこー - を少し気にしつつ銀行家の息子のぼんぼん - Tony Kroesig (Freddie Fox)と一緒になって結婚して、もちろんその程度で終わる話ではなく、ここから財と時間を手にしたLindaと自分も結婚したFannyとがLondonに出て、大戦の合間のキラキラ浮かれた時代と場所で、主役は自分たちだって愛を求めて - The Pursuit of Love - 浮かんでは沈んで追って追われての狂熱の愛に爛れた日々と、それでも互いにずっと大切に思っていたふたりのお話し。

衣装とか(ふたりのも貴族のも)がとっても素敵で、これってNational Portrait Gallery (NPG)でやってた”Cecil Beaton’s Bright Young Things”の世界だわ、って。2020年の3月12日に始まったと思ったら同17日にロックダウンでCloseしてしまった展示。このままNPGは大規模改築工事に入って2023年までクローズになってしまったので見ておいてよかった。写真家としてのBeatonの初期のキャリアを作った1920-30年代の英国貴族のぼんやじょう達のBrightでYoungなThings。

とにかくあれこれ爆発的に弾けまくるLily Jamesとそれを少し困った顔をしつつも優しく見つめるEmily Beechamのふたりがとても絵になるのでどこまでも見ていられる。最後はちょっと切ないけど。 日本だったらぜったい朝の連続TV小説になりそうな話。

あと音楽がすばらしくてー。The WhoはくるわGeorges DelerueはくるわRossiniはくるわT.RexもNew OrderもLe TigreもMarianne FaithfullもSleater-KinneyもJohn CaleもBlossom DearieもNina SimoneもKaren Dalton もCat Powerも、こういうのって音楽が外れてしまうと悲惨なのだがこれは見事だった。 “Marie Antoinette” (2006)のサントラもこれくらいだったらー。

映画館で見たいなー。


自宅のWifiはまだ壊れているのだがなんとか障害箇所の特定までいった。あんな壁の奥だったとは。

5.23.2021

[TV] Around the World with Orson Welles (1955)

Orson WellesがイギリスのTV(いまのITVだって)用に制作した各26分 x 6エピソードの世界紀行ドキュメンタリーがMetrographで順番に見れるようになっていって(今も全部見れる - Metrograph でなくてもふつうに転がっているみたい)お片付けの合間に見るには丁度いいのでちょこちょこ見ていた。5月の6日に最初の半分を見て、10日に残りの半分を見ている。

制作過程のエピソードを見ると最初に25週間で25回分撮るとかめちゃくちゃ言ってて(当然実現できず)実際にはほぼ撮りっぱなしで権利関係も含めた調整や編集はぜんぶ番組側に投げて、でも個々の挿話や内容は細切れだったりしたので、インタビューの半分(Orson Wellesが訊くパート)は後から撮って足したり、進行役を加えたり(闘牛のとこ)、後から知るとなるほどそういえば、って思った。

形式は最初に、やあみなさんわたしがOrson Wellesです、って登場した彼が彼による彼を取り巻く世界 - とりわけ彼もよく知らない異世界 - のことにフォーカスしていく。 Orson Wellesにとって異なる(ヨーロッパ)世界は当時の視聴者にとってもそうであるに決まっていたのかも知れないが - そこから約60年後の世界を生きる我々にとってはどうなのか、どう見えるのか、とか。

エピソード1と2はバスク地方、エピソード3はウィーン、エピソード4はパリ(Saint-Germain-des-Prés)、エピソード5はロンドン、エピソード6はマドリード。ものすごく新しいもの見たこともないもの珍奇なものを見つけ出してレポする、というよりずっと昔からあって続いているモノ - スポーツとかザッハトルテとか闘牛とか - ヒト - 子供か老人 - の話を訊いて、こういう世界はずっとあるしこれからもこうなのではないか、というように終わる。

この後、冷戦が終わってEUができて「世界」は「グローバル」になって宗教や民族間の軋轢が顕在化して移民・難民が問題になって、英国はEUを離脱してカタルーニャもスコットランドも独立したいと言ってて、そうなってもこれらの「世界」はこの頃と変わらない世界 - “Around the World” - を保ってきている、と言えるのだろうか? ここでWellesが捕まえようとした「世界」といまの我々が見たり感じたりする国々のあれこれはどれくらい違うのだろうか?

例えばここの、彼の”Around the World”にアジア・アフリカ・中近東地域は含まれていたのだろうか? - いなかった気がする。 アメリカ人映画監督である自分とそこに光や影を与えたであろう欧州(ロシアは含まれる)まで、彼の関心の先はそこまでで、自然や野生の風物も入っていなくて、でもそれはそれであの時代の世界のありようだったのではないか。いまの我々が見つめようとしている「多様性」とは別のもののような気がする。サステイナブルだのレガシーだの、そんなのもちろん考えない。

というところと、ロンドンの社会から離れて引退した老人たちやパリのアメリカ人として登場するRaymond Duncan - Isadoraの兄ね - の語る言葉のごくふつうの正しさ、のようなものは(普遍的とまでは言わないけど)いまのそれらと地続きだと思うし、そういういろんな要素を乱反射させながら投げてくる(そして投げっぱなしの)強さはOrson Wellesではないか、とか。

自分が世界をどう見るかを考えるとき、世界が自分をどう見ているかもそこに強烈に入ってくる。はずで、ここでのWellesと”Around the World”はそうして交錯するふたつの矢印がきちんと調和している気がする。最近のSNSとか見ているとその辺がどうしようもなく、病的に崩れていて修復しようがなくなっているようなー。

あと、闘牛ってやっぱり残酷よね、とか。あれが許されて喝采されるのに捕鯨はダメってわからない - いまはもうどっちもダメ、でいいと思う。

Saint-Germain-des-Présでちらっと出てくるJean CocteauとSimone de BeauvoirとJuliette Grécoのとこ、ここはWellesが撮っていなくて後から載せたかんじがした。


土曜日は頭痛で一日動けなくて、今日、日曜日の午後から積んである本の山に取り組みはじめた。2年前の一時帰国のときに買った本はかろうじて憶えているのだが、その前の帰国のときとか、赴任直前に買っておいたのとかはあまり憶えていなくて、ああこんなのがある、とか新鮮で楽しい。けどまあどうやっても山を動かして同じサイズのとかシリーズのを合わせていくのが精一杯で、合わせるのはトランプの神経衰弱でこれはさっきあそこにあった、って山を崩して戻してを繰り返すばかり、それって前に進んでいるかんじゼロで、そうして遊んでいられるのもいまのうちだ、とか。
あとは雑誌類がばかみたいに多い。90年代のNew York Magazineとか懐かしくてついめくってしまって時間が。
あと思い出したのは本ってある高さを超えるとコントロールうしなって崩れる、とか。

5.22.2021

[film] Heaven Can Wait (1943)

ああ自分はなんてひどい棄民の国に来てしまったのだろう、と絶望するしかないような事態や発言が上の方から恥ずかしげもなくわんさか流れてきて、こんなことならヒースローに行く手前でとんずらして向こうで捕まった方がまだましだったかも、てしみじみ思うのだがもう遅い - 外には出れない - 映画は見れない - 仕事はなんか降ってくる - 寝て忘れようにも寝すぎ - 低気圧頭痛の嵐 - なのでなんか書く。

5月9日、日曜日の昼、Amazonで見ました。4Kリストア版があるはずなのだが再生された画質はそんなによくなかった。邦題は『天国は待ってくれる』 - うん、待ってくれるよね、という想いをこめて見ていたのだが、いまは、待ってくれるのが天国というものなのだから待っていてね、という祈りの方に変わりつつあるかも。

Leslie Bush-Feketeの戯曲 “Birthday”を翻案したもの。Lubitsch作品としては”To Be or Not To Be” (1942)に次ぐやつで、初のカラー作品。この次の”Cluny Brown” (1946) も大好き。

Henry Van Cleve (Don Ameche)は天国と地獄の手前のオフィスみたいなところにやってきて、そこの受付にいるHis Excellency (Laird Cregar) - ていうけどサタンだよ - と相対して、自分はたぶん地獄におちるのだと思う、というHenryに、後ろからやってきたおばさんを地獄に叩き落としたりしつつ、まあ話しを聞こうじゃないか、とサタンが言うのでHenryは生まれたとき - 19世紀後半のNY - からのことを話し始める。

それはもうただひたすら女性のケツを追い回す、という点においてDNAだの手癖だののようなところから一貫していて、それはフランスのマダムにこう言われた - “Kiss is like candy. You eat candy only for the beautiful taste, and this is enough reason to eat candy” - ときから、どこまでも呪いのように彼を促し縛りあげて、加えて孫に甘い祖父のHugo (Charles Coburn)が煽りまくるのでどうしようもない。

こうして街の本屋 - 5番街にあったBrentsno’s だわ - で見初めたMartha (Gene Tierney)がまじめな従兄弟のAlbert (Allyn Joslyn)の婚約者として目の前に現れたときは快哉を叫んで彼女を堂々と略奪して結婚しちゃうの。

この調子で結婚したあとも彼は女性を追い回すのをやめなくて、Marthaは悲しんで出ていったりもするのだがその都度どうにかなって、月日は流れてはっきりと語られないまま祖父もMarthaもいなくなっていくのだが、それでもなんだかんだ総合すると彼は最後までMarthaのことを愛したのでした、というお話し。

よくありがちな女たらし一代記で、”To Be or Not To Be”とか迷おうにももう死んでるし、その人生に裁決をくだすのも魔女ではなく男のサタンなので、どこまでも男に都合のよい男性ムービーのようでありながら、待っているのは天国ではなくてMarthaだから、というその一点だけで言い訳のようにぐだぐだと切り返してくるの。 Martha、あんたって女はほんとにバカのお人よしだよ、って沢村貞子あたりに怒られてほしい。

Don Amecheのすごいプレイボーイにはとても見えない、なにを考えているのか余りよく掴めない薄ぼんやりとした表情もよいの。 Don Amecheというと、なんといっても”Cocoon” (1985)で、公開当時一回のチケットで3回続けて見たりしていた”Splash” (1984)の次にきたRon Howard作品で、これも泣いたのよねえ。ここのDon Amecheも天国の手前にいる役だったねえ。

こういう死ぬ手前の行列ドラマだと”A Matter of Life and Death” (1946)がとっても好きかも。天国か地獄か、でも、生きるか死ぬか、でもなく、わたしは生きたいのです、とはっきりと言うやつ。この映画のDavid Nivenて、Don Amecheにちょっと甘くてもやもやしそうなところが似ている気がする。

今のように地獄の蓋がでっかく広がりまくっているときでも天国は待ってくれるのかしら?

5.20.2021

[log] May 20 2021

19日 水曜日の午後、ホテルでの隔離監禁70時間(だれか映画化すべき)を終えて - 最終日のテストも陰性 - ホテルからバスに乗って捨て犬のように元の羽田に送り戻され(なんで?)、別送品の手続きをしてから公共交通機関は使っちゃだめだそうなので(なんで? みんなふつうに乗ってるのに)ハイヤーで自宅に戻る。

ホテルでのあれこれについて恨めしいことおかしいってあたまきたことは相当にあるしそれについて纏めて書こうかとも思っていたのだが既にあの3日間は「思い出したくもない無駄で最悪の3日間」の棚に分類されてしまわれているので、いいや、って。でももう二度とあのホテルには泊まりたくない - これってすばらしい宣伝効果だと思う。

夕方6時過ぎに戻ってきた自宅、いちおう換気がされているマンションではあっても1年以上誰も入っていなかったので、なかでなにかが干からびてのびていたり、誰かの洗濯物や食べカスがあったり、見知らぬ生物が床に這っていたりしたらやだな、ってびくびくしながら入ったのだが、だいじょうぶなかんじ。いまのところ。

床に積んである本たちも、もちろん一番上のには埃が積もっていたけどみんな静かに穏やかに読まれることを待っていてくれた(殴)。しかしこの上にUKから40箱分くらいが運ばれてきて積まれるのかと思うとすこしこわい。やっぱり整理しないとだめだわ。

ここから10日間、自宅で自主監禁となって、食べ物も飲み物もなんもないし買い物にも出れないのでAmazonとかお取り寄せとかでいろんなものを買いまくっている。わかんないのはここよね。UKでは一番厳しいロックダウンのときでも生活必需品の買い物は一世帯にひとり、一日一回であれば許されていた。いまの「緊急事態」なんてその辺はずるずるで市井の人たちはいくらでも外で拾ったり拾われたりの機会に晒されまくりなのに、海外から戻ってきて過去一週間に3回検査受けて全部陰性でワクチンも一回受けている人をなんでそんな厳重に監視する必要があるのかしらん?

戻ってきた晩はあちこち掃除をしまくって最低限の生活ができる状態に戻して午前1時くらいに横になり、次に気がついたら午前11時だったので大変びっくりした(会社を休んでいるわけではないので)。 ホテルに隔離されていた時は朝6:30に館内放送で起こされたのだがそれがなかったせいもあるのか、刑期を終えた直後というのはこんなもんなのかしら。

家のWifiがどうも壊れているようなのでしばらくは映画も見れない。でも本だけはいっぱいあるし残しておいたレコードもあるし、あと今回、本当に大事な本数冊は手荷物の方に入れて運んできている。これらはホテルで少しづつ読むつもりだったのだが、あそこの部屋に置いてあったカルト本(ほんとにあんなの置くなんて)の毒に大切なGertrudeやVirginiaを晒したくなかったのでやめたの。

あとはやるきみたいなとこよね。そもそもほぼてきとーにやってきたのでやるきなんてカケラもないし持ちたくもないのだが(特に仕事の方面には)、さすがに消耗してすべてがどうでもよくなりつつある。恋しいのは過去のあれこればかりなり、って。 一週間後にはどうなっていることやらー。(ということを週単位で思ってばかりの今日この頃)

5.18.2021

[TV] Smiley's People (1982)

UKを去るにあたってこれだけは見ておかねば、というのは当然いっぱいあって、でも普段メモとか取っているわけではないので、終わりの方は(いつものように)ぐだぐだになっていったわけだが、でもやっぱしこれだけはなんとしても、というTVシリーズがふたつあった。

Alec GuinnessがGeorge Smileyを演じたJohn le Carréの「スマイリー三部作」のうち、TVシリーズ化されたふたつ。2019-20年にかけてBlu-ray化された“Tinker Tailor Soldier Spy” (1979) - 7エピソード; 315分と”Smiley's People” (1982) - 6エピソード:349分。これらがAmazonで見れるようになっていたので、”Tinker Tailor..”を5月4日から3日くらいかけて、”Smiley’s People”をそれに続けて5月6日から2日くらいで、箱詰めのあらゆる隙間の時間を狙って使って見た。

“Tinker Tailor Soldier Spy” (1979)の方は2019年9月にBlu-ray化記念でBFIで第一話だけ上映された時に見て、監督のJohn IrvinとPeter Guillam役のMichael Jaystonのトークを聞いた。これって2011年の映画版『裏切りのサーカス』よりもすごいんじゃないの、と思ったのだったが、改めてそう思った。

もちろん映画版の方だって悪くないのだが、16mmで映画と同等規模の予算とスタッフをちゃんと使って、Alec Guinness自身が人選したキャストが醸しだすリアル70年代の雰囲気と空気感ときたらそもそもの色艶からしてぜんぜん違うかんじでー。

あと、3部作でいうと、”Tinker Tailor..”は入り口で、サーカス内に絶対に潜んでいるもぐらを暴いていく推理ものなのでわかりやすくて明快で、次の『スクールボーイ閣下』は結末があまりに悲痛すぎてあまり読み返す気にはならなくて、最後の『スマイリーと仲間たち』はパリの老婆の元に現れた訪問者とロンドンの「将軍」の殺人を緒にすべてを操ってきたソ連の影の首領を「こちら側」に引きずり出そうとする総力戦で、単なるスパイものとは思えない「むこう側」との糸の引っ張りあいがすばらしくて大好きで、何度も読み返したりしてきた。

この”Smiley's People”はJohn le Carré自身が脚本を書いているので、台詞のいくつかは小説そのままだったりしてたまんないし、シーンのいくつか - ラストの橋とか - は読んでイメージしていたのととっても近かったり。

他の登場人物 - Madame Ostrakova (Eileen Atkins)も、将軍 (Curd Jürgens)も、Mikhel (Michael Gough)も、Anton Grigoriev (Michael Lonsdale)も、それぞれにたまんなくそこにいるし、”Tinker Tailor..”からのConnie Sachs (Beryl Reid)のすばらしさときたら。 でも、Peter Guillam (Michael Byrne)だけは”Tinker Tailor..”の方がよかったかも。 細かいとこだけど、Ostrakovaを匿った妻から電話を受けたPeterがパリの街を車で爆走して家になだれ込むシーンがTV版になかったのは、少しだけ..  あと、まだぴちぴちのAlan Rickmanが少しだけ出ていたり。

でもなんといってもAlec Guinnessだよね。 John le Carré自身がこの役はAlec Guinness以外に考えられない、と語っていたように(何度か聞いた)、シャーロックホームズは誰でもいくらでもできるかもだけど、George Smileyは彼にしかできないと思う。 彼はObi-WanではなくてGeorge Smileyなんだよ(もちろん、他にもいっぱい)。

とにかく全員が、スパイという業態からしてもうピークを過ぎたよれよれのぽんこつか変態ばかりで、それぞれに過去の傷とか後ろめたさにやられてどこまでも後ろ向きになってて、向こう側にいるのは間違いなく敵なのに狂ったように追い続けているうちにConnieのように深く、絶望的に愛するようになってしまう、その人としての弱さとやさぐれぶりがたまんない。これはJohn le Carréの作品ほとんどに言えることだと思うが、この作品ではエモ全開でなにもかも曝け出してしまっている感がある。

これとか”Berlin Alexanderplatz” (1980)とかを、出た当時に見ていたらもう少しまともな大人になれていたかも、とか。

UK滞在中に自分で買ったDVDは一枚だけ - “Leonard Cohen: Bird on a Wire” (1974)に監督がサインしてくれたやつ)だったが、これも買っておけばよかったかなー、って。


明日の朝のPCR検査でなにもなければシャバに戻れる。ここまでひどいとは思わなかった、ほんとにただドブに捨てたようなここ数年間で最低の3日間(ぶじ出られれば)でしたわ。

しかし日本のTVって相変わらずどうしようもなくくだんないのね。

5.17.2021

[film] La permission (1968)

グチみたいなことばかり書いていても滅入ってくるので見てきた映画のことを少しづつ書いていきたい。

5月8日、土曜日の晩、Film Forumのヴァーチャルで見ました。英語題は“The Story of a Three-Day Pass”。日本公開はされていない?

アメリカ人監督Melvin Van Peeblesの長編デビュー作なのだが、これはフランス映画で、映画監督になりたかった彼はこれを当時のフランスの制度を使って、彼自身がフランス語で書いた小説 - “La permission”の映画化という名目で映画監督になって撮ったのだという。音楽担当ももちろん彼。

冒頭、フランスに駐留するアメリカ軍の伍長Turner (Harry Baird)がひとりでバスルームの鏡に向かって昇進できるかできないか、みたいなことをぶつぶつ言っていると、鏡の向こうからもう一人の自分が話しかけてきて、それはお前の功績によるものではなく、白人上官のCaptain Lutz (Harold Brav)におべっかを使った結果にすぎないのだ、とか言われる。

けど実際には昇進できて、上官から3日間の休暇を貰った彼は喜び勇んででパリに出ていくことにして、目一杯おしゃれしてかっこつけて街に出ていく。ここでのパリのラフで雑多な街角、カフェ、戦争記念館の見学、ストリップクラブ、ナイトバーのドキュメンタリーのような描写が向かっていく彼をあげて煽って、Turnerが直面する現実と膨れあがった期待と妄想 - 鏡の向こうに現れるもう一人の冷静な彼も含まれる - の衝突がぐちゃぐちゃ落ち着きなくておもしろい。

ここまでだと都会(パリ)に出てきた田舎者(アメリカ人)のやや痛めの教訓話になってしまう手前でMiriam (Nicole Berger)が彼の前に現れて、彼の方を見つめてきて英語とフランス語のぎこちない会話にものってくれてダンスして、そのままノルマンディの海の方への旅行に誘ってみたら乗ってくれたので、大盛りあがりで準備をする - 残されたのはあと2日。

こうしてふたりの車での小旅行になると、これはパリの夜の行き当たりばったりのどたばたをよりミクロに鼻息荒く拡大して見せたようなものになって、そこには人種差別の要素も入ってきたりして大変なのだが、道中に(Turnerが捕えた)Miriamのいろんな表情や動きがきらきら入ってきて素敵ったらないので、Boy Meets Girlものの古典だと思った。そういえば少し前に見た”Death Takes a Holiday” (1934)も外から休暇で現れた男 - Death - が3日間で相手の女性をどうする、っていう話だった。

最後にはまた上官が絡んできて怒られるかも懲罰委員会かも、になるもののその辺も含めての“La permission”のお話になっていて、いろんなものをぶち込んでかき混ぜてみたその勢いはどこまでも瑞々しいったらない。

なお、Miriam役のNicole Bergerさんは映画が公開される1年前に亡くなってこれが遺作となってしまった。すばらしく素敵な笑顔なので見てほしい。

[log] May 17 2021

隔離ホテル1日目で、外に出られないので時差と戦う必要もなくて、調整するやる気も湧かず、だらしなく眠くなったらそのまま寝る、を繰り返している。いくらでも寝ていられる。

所謂「隔離飯」と呼ばれてきたあれについて少し書いてみたい。「飯」というのは権力を持っている側(ご主人様とか)がそれを行使する時に使われる用語だと思っていて、その意味ではこれはまさにそう - 刑務所の「くさい飯」なんかと同じような。

着いた昨晩のと、今日17日の三食分について。時間になると放送があって窓のところに掛けられている。

大きいパレットと小さいパレットと水(夜だけお茶)のペットボトルの組み合わせは同じで、小さい方には味のないシュレッダーされたキャベツとプチトマトいっこと缶詰フルーツ(カクテルとかパイナップル)の破片と消しゴム大のスイーツ。大きい方には埃みたいな申し訳程度のふりかけがかかった白飯とメインの肉とか魚とかコロッケに副菜1(どろどろ煮物とか)と副菜2(お漬物とか)、日本にいたときの会議弁当みたいな、体育会系男子が喜びそうなのがずっと続いていてしんどい。

味についてはコメントしない。この型のお弁当は昭和の時代からお茶で流し込んで丁度よくなるしょっぱさで加減されていて、このしょっぱさのレベルってずうっと不変のスタンダートなのではないか。(なんとかしたいけどどーしようもないのはなぜ?)

これでもTwitterとかで先人が騒いでくれたお陰で量も含めてここまでのものになったのだとすれば、自分も多少は文句は言っておいてもいいのかも。クオリティについてはしょうがないけど、この仕様の連続って、食べ残す人が相当数いる(含. 自分)気がする。 それを減らすにはやはりもう少しバリエーションを持たせた方がいいよ。ヴィーガンやハラル対応はもうやっているのだろうけど、パンかご飯かシリアルか、キャベツとプチトマト以外の野菜多めとか、缶詰じゃない生果物とか、ヨーグルトとかミルクとか。3日間 x 3の9回分だけなんだから事前に選択指定できるようにするだけで食べ残しも相当減るのではないか。

ていうか、この施設って、検査で陰性が確認された人を3日間隔離してモニタリングするためのものだよね? そこに入ってきた人たちの健康管理って、コロナと同じくらい重要なテーマのはずだよね? こんな狭いところに完全密閉させられてドアの外に出ることも許されなくて、それであのご飯(の出し方)って、それでいいと思っているのね? この国は。

タダなんだから黙ってお食べ、についてだけど、これはタダじゃなくて、払った(正確にはかつて払っていた)税金なのだから、これについて文句をいうのは間違っていないと思う。税金はこういう非常時に盛大に使われるべきだし、それがどこでどういうふうに使われているのかはきちんとモニタリングされないといけないよね。マスクもなにも、これまでまったくザルで隠蔽されたままだけど。

こうなることはじゅうぶん予測していたので、常温保存できるミルクを1L、ずっと通っていたフランス系のデリでトリュフ塩のポテチと、英国のとフランスのビスケット数種類、日本のだとサラダせんべいとか、いろんなティーバッグ山ほど、そういうのをいっぱい持ち込んでなんとかしのいでいる。

それでも、久々に帰国して最初に食べたご飯があの弁当って、残念としか言いようがないわ。
空港でやってるサイネージでの日本すごい、ほんと看板汚しだからやめたらー
 

5.16.2021

[log] May 16 2021

にっぽんに着きました。
英国での出発はいつもとは異なるターミナル5で、なじみのBAのラウンジを使えたのは嬉しかったけどDuty Freeのブティックはどこも18:00で閉まってしまったのが悲しかった。
チェックインのカウンターで機材が変わったのでお席を改めて指定ください、と言われて、でもビジネスはお客さまだけなのでどこでもお好きにって言われて、ほんとにそうだったのでなんだかとても申し訳なかった。

こういう具合なので離陸の際も渋滞も待ちも一切なしのあっという間で、羽田には14:19に着陸した。
機内の映画はほとんど見たことがあるやつだったが”The War with Grandpa”と少しは日本に適応しないと、って『花束みたいな恋をした』を見た。後者はふうん、くらいだったが焼きそばパンと紅生姜天そばのとこだけぐっときた。機内食の2回めはそれに影響されたのか「そばですかい」と「うどんですかい」を両方いっぺんに頼む、とかをやってみた。

到着後については既にいろんな人々が文句を言っていると思うし見てるしこの後の数日間も続くと思うけど、自分も書いてみる。まだ怒りがふつふつ膨れあがってきているのでちゃんと書けるかわかんないけど(深呼吸)。

まずいちばん最初に輪ゴムのついた緑のプラ板を付けられて、要するに家畜のドナドナか、よく言えば会社の健康診断のような窓口曳き回しが始まって、そのポイントポイントにぜんぶ人がいて、ぜんぶ細々人が人を誘導していく。ところどころにものすごい数の人がいて、面倒を見てくれているようなのだが、単に効率が悪く繋がっていかないのを人力でカバーしているだけ。デジタルのタグを付けてタブレットを持たせればよいのに、最後まで人力と紙とシールと。

必要ドキュメントの確認を申請・申告内容別の窓口ごとに個別にやっていく。それから唾液検査をして、隔離期間中の追跡とか対応に必要なアプリ(来る直前にまた変更になった)の確認をして、入国前の誓約書の確認をする。窓口毎にいちいちばしゃばしゃ手先の消毒をさせられながらここまでで約1時間強くらい。

その後で唾液検査の結果がでるまで病院の待合室のようなところで結果がくるのを待つ。
ここが長くて自分の場合は椅子(間の距離は適当)に座って1時間半くらい。検査結果のわからない人たちと決して少なくない人数の対応スタッフの人たちもここでダンゴになって滞留させられている。

17:15に番号を呼ばれて結果(陰性だった)を知らされて、さっきの結果待ち集団のすぐ隣 - 壁とか無し - のスペースで強制収容所行きのバスを待たされる。

バスの用意ができたところで、そこからながーい廊下を延々歩かされて - お年寄りとかには相当酷い - 入国審査を通ったのが18:00くらい。 自分の荷物をピックアップしてバスに乗って空港を出たのが18:22。着陸してから空港を出るまでだいたい4時間。成田だと9時間とかいう話も聞いたのでまだましな方、なのかもしれない。

これがいまの、要警戒国・地域から渡航してきた海外からの人たちに対する今の「国」の対応。一回でいいから、全員からじゃなくていいから、ちゃんとサーベイして今の問題がどこにあるのか、ちゃんと把握してみるかとか、それが無理なら自分たちでシミュレーションしてみなよ。10時間のフライトの後に経験させられる曳き回しがどんなものか、それがどんな苦痛を強いるものなのか。原因は誰もがなんとなくわかっている - お役所とか銀行の堅いとこで残っている縦割りのあれら - 責任者でてこい! っていうと「現場」の人たちが10人くらい現れて擦りあいとたらい回しを始めるあれら。 そういう縦割りの機構の上に綱渡りの複雑なトレースやモニタリングを組み込もうとするとあんなふうになる - ITの教科書だと、小学生レベルでやってはいけないこと、のはず。

自分はそれでも渡航前に旅行会社とか航空会社からしつこいくらいに事前連絡がきて、こうなるはず、と知ってから来たのでなんとかなったのだと思うが、自分で準備してきた日本語ネイティヴではない人たちからすれば、恐怖でしかないのではないか。全体の流れと自分がどこにいてなにをされているのか明確にされない不安 - コロナのそれに加算される。

コロナは非常事態なんだから少しは我慢すべし、なのかもだけど、バカな首相が開き直っていうようにコロナが今後もずっと続くのであれば、ちゃんとセンターとして構えて整えないとだめだと思うし、この状態でオリンピック関係者は別待遇、とか言うのであればそれこそふざけんな、って暴動になってもおかしくないことだと思う。みんなくたくたになっているのでおとなしいけど。

空港を出たあとは、両国のホテル - 名前も書きたくないくらい嫌で、思想信条が異なるのでなんでここに入れられるのか説明してほしい - ホテルでの禁煙を我慢できない人は相談してほしいとか書いてあったけどそのレベル - に着いたのが19:15。バスの中で待たされること30分で部屋に入ったのが20:00くらい。

とりあえずTVでBBCが映るのでそれを見てめそめそ泣いてる。
 

5.15.2021

[log] May 15 2021

家を引き払ってホテルに移動して、いろんな解約の手続きとか渡航前のコロナの検査(陰性だった)とかを済ませて(ぜったいなんか忘れてる)、明日は(もう今日か)いよいよ日本に帰国する。

さよならをするイギリスに対しては特に「国」を意識しないような書き方をして、それで十分だったのだが、これから向かう土地については、思いっきり「国」を、あの国の統治や支配のことを意識しないわけにはいかない。なぜならそれらは国の入り口のところから自分の自由や人権を縛ってやる思い知らせてやるってうずうずしながら立ちはだかってくるものだから。

あの国の政治家とメディアがその薄汚れた手を組んで、自分たちのいいように「国」のイメージを作りあげて、それに従うようにこっちの離陸前からあれこれ指示注文をしてきて、従わなければ入国不可とか言うそのやり方がどうしようもなく嫌だし、そのやり方(水際対策と内陸施策の乖離)ではまったく意味がないと思うし、結果として毎日沢山の人達が国の無策あるいは失策によって亡くなっている。原因を追っかけようにもどこにもデータはないし採るつもりもない。金持ちと老人(男)、人でなしに卑怯者がでかい顔と声で恫喝と脅迫を繰り返している。こんな「国」に誰が帰りたいと思うだろうか。

みんながんばっているのだからがんばれ、とか言われても、そんな的外れのがんばりはただあんたらの失策をカバーするダンゴムシにしかならないし、あんたらがその裏で人命や人権をゴミのようにハエのように扱っていることも知っているし、おまえのようなやつは国民失格だから追放、とか言われたってちっとも構わない。それくらい離陸前からうんざりとどんよりが止まらない。なーんであんな欠陥アプリを入れないとあかんねん、とか。

アプリの監視から逃れようとか好き勝手にやらせろとか、そんなつもりは毛頭ない。沢山の人達がいるなかでの自分の身勝手なふるまいがすぐ隣の人々を殺してしまうかもしれないことはこの1年で嫌というほど見てきたので、日本のいまの大ザルの惨状をみたら隔離期間が終わったからって1ミリも外に出る気にはならないわ。ひょっとしてそこまで追い詰めていくことが狙いなのか。

こんなことを書いていても滅入るばかりだし、着いてから打ちのめされてなんもしたくなくなることも確実なので、あいつらが一刻も早く滅びることを念じつついま苦しんだり悲しみの底にある人達のことを、彼らの側に立てるようにしよう。あとは楽しみにしていることだけを考えていよう。

もう仕事がどうなるどうするはどーでもよくてやけくそなので、ずっとリモートで仕事して5時になったらとっとと離れて、神保町シアターとシネマヴェーラと国立映画アーカイブに通えるようになりたい。英国では時差もあって視聴できなかったいろんな講座やトークで勉強したいのもいっぱいあるし、そのための本だけはいっぱい運ばれてくるだろう。 ちゃんと家に入ってくれれば。

あと、まる2年以上、日本語の本も雑誌も買っていない。この状態ででっかい本屋に入ったらいったいどうなってしまうのだろうか、とか。これは人体実験になるのかならないのか。ま、読みたいとおもったら手に入れてしまう病気であることはわかっているので適度に冷たく放っておけばいいの。

入国(できたとして)から始まる隔離下でのあれこれもレポートしていきたいのだが、それはやはりTwitterとかの方が向いているのだろうか。短文でやるの苦手なのよね。

今年の6月10日に延期されていたJawboxのロンドン公演が2022年の6月9日に延期されたという連絡が入った。そのときに戻ってくることを当面の生きる目標としたい。
 

5.13.2021

[log] May 12 2021

今週に入って漸く初夏のかんじが見えてきて - 昨年のこの時期はロックダウン初期で気候には敏感だったのでつい比べてしまう - 来週からは映画館も美術館もオープンするので、こんなにうれし悦ばしの時期はあろうか、なのだが、自分はここから離れようとしていて、なんとか引越しを終えて(ぼろぼろ。年齢的にもう二度とムリ)、アパートを引き払ってロンドン内のホテルに移った。どのタイミングでその場所を離れた/その場所と別れたと言えるのか、というとふつうに物理的には飛行機がそこを離陸したところかと思うのだが、4年間のあれこれで積もったり溜まったりした荷物が一旦全部手元を離れて、住んでいたところを離れて、なのかなあ、って。いまはスーツケースがいくつかあるだけなので、旅の準備を済ませた旅行者のかんじになっている。

向かう先のことは向こうに着いてから書くとして、ここでは4年間よかったなーありがとう、ということについて書きたい。ありがとう、の宛先をどこに置くべきか。英国、という国に向かってそういうのを言うのはちょっと違うかんじがして、身の周りとか旅先とか日々の周辺100mくらいで起こったことに向かって、になるのだと思う。

赴任が決まったとき、仕事がどうなるかとか職場がどうだとかは割とどうでもよくて、まず思ったのは絵画とか映画をいっぱい見れたらいいな、見よう、と強く思った。もう歳とって目も耳も頭もその奥のほうもぜんぶ濁って悪くなって腐り始めていて止めることはできそうにないので、これがいろいろ見たり学んだりすることのできる最後の機会になるだろう。ヨーロッパのあの辺でそういうのができるのであれば、これって目が眩むくらい素敵なことではないか。

こうしてExcelに行った場所(遺跡旧跡)、見た映画、見た展示、などを1行づつ入れていったら4年3ヶ月で2520行くらい入っていた。「フィルム」でフィルタかけると1602、とでる。アートだと639。映画には短編も含まれるしロックダウンに入ってからのストリーミングで見たのも含まれるからそんなもんだろうけど、結構みた方だと思うし、日本にそのままいてこの本数を見れたかというと、たぶんムリのような気がする。美術館のほうも、これだけは絶対、とかイキらずに見れるのを見たい時に見よう、って地味に追っていったらいろいろ見れたしよかったな、って。 もちろんまだ見れていない必須のなにかは山ほどあるけど、そういうのばかり追っかけていくのも、それはそれでつまんなくないかしら。

あと、生活に近いところだと食べ物がすばらしく素敵だった。イギリス飯はまずい、というよく聞く物言いは一切無視して - だいたいさあ「飯」っていうのがお前だれ? だし、まずいってどの舌がいうのか、これって駐在のじじい共が偉そうに語りたがるどこの国に美人が多いか、とかと同じものすごく破廉恥で高圧的なあれよね - ヨーロッパのいろんなところから来る野菜はおいしいし、チーズ – フランスのはもちろん、英国のチェダーやスティルトンのすごいのなんて冗談みたいに安くて豊富だし、肉も魚もとても濃い風味だし、スコーンとクロテッドクリームの恐ろしさときたらなんなのか、って。ロックダウンでレストランが開かなくても、葉物とパンとチーズだけでもぜんぜん平気になってしまう芯の強さ。

レコードと本の話はもう書いたけど、ここは改めて文学の土地なんだなー、って。レコ屋も本屋もいっぱいあって天国というか地獄というか、それを巡る旅のあれこれを書いていったらきりがないのでどこか別の機会にしたいのだが、古本との出会いは本当に大きかった。特にThe Second Shelf - 最後に訪ねたのもこのお店だった – については感謝しかない。この店がある限りロンドンにはこれからも通うことになるのだと思う。

そして、こういうのが至るところにあるのがロンドンなので – NYがいまだにそうであるように -  1日でも2日でも戻って走り回ることができるように日々を過ごしたい。とりあえず、当面のねらいは2022年のラファエロ展、だろうか。

なんかまだいっぱい書きたいことだらけなのだが、眠すぎるので切ります。

5.11.2021

[film] Death Takes a Holiday (1934)

5月1日、土曜日の晩、Criterion ChannelのMitchell Leisen特集で見ました。

いろいろ切羽詰まってしにそうなので、2時間を超える映画は見れなくて、最近のではなくてクラシックが多くなって、TVシリーズも多くなって、映画もこれ(長さは79分)とか、”They Live By Night” (1948)とか”Heaven Can Wait” (1943)とか、内容は生死の境目みたいのばかりになっている。ほんと境目だから。

邦題は『明日なき抱擁』、ブロードウェイの同名劇作を翻案したもの。タイトルだけだとコメディのようだが、どちらかというと暗い、ヨーロッパの耽美譚とか日本の怪談のような。“Meet Joe Black” (1998) - 未見 - はこれのリメイクだそう。

なにかのお祝いで花吹雪が舞って人々が楽しそうにどんちゃん宴をしているその脇でGrazia (Evelyn Venable)が物憂げな表情でひとり教会でお祈りしていて、そのまま彼女を引っ張って車に乗せて二台の車でみんなでわいわい山道を走っていく。が、それでもGraziaは不吉ななにかを感じているらしく、ロバを轢きそうになったりしながら、みんなで滞在するLambert公爵 (Guy Standing)の館に到着する。

Graziaは公爵の息子のCorrado (Kent Taylor)と婚約していて(Corradoは一ヶ月後に結婚したいと思っていて)この滞在はそんな両家の夢と希望に溢れた温かい集いになるはずだった、のだが、ふたりの将来を熱く語るCorradoにもGraziaは乗ってこなくて、なにか確かめたいことがある、と夜のバルコニーに出ていったら突然卒倒して冷たくて恐ろしいものが、暗い影がとかうなされてたりしている。

念のためぜんぶの窓に鍵をかけて寝ようとしたら公爵のところに暗い影が現れて、自分は“A sort of vagabond of space”であるとかなんとか – 要は自分は「死」であり、 わざわざ3日間の休暇を取ってここにやってきて、人はなんで自分のことをそんなに嫌うのか、とか人が自分を嫌わせるなにか、人をその人の人生にしがみつかせるなにか、たとえば美の意味とかそういのを知りたいのだ、と。そんなの3日間でが無理じゃねーの? とか思うのだが男爵は彼を受けいれることにすると、「死」は丁度館を訪れる予定だったPrince Sirki (Fredric March)として姿を現す。

人の姿になった時点で「死」は不死の存在から死に向かう存在へと変わってしまうのだが、そのことが館の人々にパニックを引き起こすことはなく - いちおう彼もホリディなので - ふつうに館の人々と交流していくのだが、唯一その到来を予知していたGraziaだけは、彼だ! ってあろうことか恋に落ちてしまったのでさあ大変。

彼女の傍にいるCorradoにとっても実母にとってもそんな.. って懇願するしかないし、滞在時間が残り少なくなった「死」もいやこれは冗談じゃないから、って押し返そうとするのだが、彼女はこれは恋だから - “Love is greater than illusion and as strong as death”とか強くて揺るがなくて、全員を説得してしまう。この辺の問答がすばらしくスリリングでおもしろい。自分は死にたいから死ぬのではなく、愛してしまったから死ぬのだ、と。これには誰も勝てない。愛に向かおうとすればするほど「死」はすぐ傍に現れた、と。

こうしてふたりは(闇ではなく)光のなかに消えていくの。 でもやはり祝福はできなくて、みんなお葬式モードになるしかない。

なぜ「死」が若い独身男性の姿をとって現れたのか、その予兆を感じて吸い寄せられていくのがなせ若い独身女性なのか、いろいろおもしろいけど、物語としては無理がないし、ベルイマンのよりもわざとらしくなくてわかりやすいと思った。 “Death Becomes Her” (1992)とかはこれの反対側にくるやつ? - いやこれよかひどいかも。


もう腰も背中もばりばりで指先はがさがさで寝くじいて首が回らなくて、いまここに「死」が現れてこっちを見たら自分の存在意義を見直したくなるであろう程度にはどうしようもない状態になっている。連れていってほしい、って頼んだらあいつは無言でどこかに消えてしまうにちがいない。

どうでもいい話だけど、見かけている途中のTVシリーズとか、しばらく見れなくなるのはやや残念かも。こんなこわいの嫌だ、っていいながら(まだずっと言ってる)見始めた”Game of Thrones”とかはどこでも見れそうだから別にいいのだが、まだ途中の”Mare of Easttown”の今後は少し気になる。

あと、日曜日にBBCで放映された”The Pursuit of Love”がすばらしいったらない。Nancy Mitfordの1945年の小説をEmily Mortimerが脚色して監督している。中心のいとこ同士にLily JamesとEmily Beecham。 まだ2/3だけど全部見終わったらなんか書きたい。  

5.09.2021

[film] Conte d'automne (1998)

4月28日、水曜日の晩、Film ForumのVirtualで見ました。ロメールの四季の物語を順番に見ていくシリーズの、これが最後の。英語題は”Autumn Tale”、邦題は『恋の秋』。

フランスのローヌでワイン農家を営んでいるMagali (Beatrice Romand)がいて、40代半ばで子供ふたりは既に大きくて未亡人だけど仕事にも打ち込めるし充実した日々を生きていて、髪はぼさぼさでノーメイクで格好も自由きままで、でも笑顔が素敵だしお話していて楽しいし、このままずっとひとりでいるのはもったいないのでは、ロメールの映画の主人公であるならなおのことって、周囲は思ってしまうらしい。

親友のIsabelle (Marie Riviere)はもうじきの娘の結婚を前にMagaliの農場で一緒に午後を過ごして(一瞬出てくる猫がかわいい)、新聞に恋人募集の広告でも出してみたら? と振ってみるのだが彼女からは冗談でしょ? って軽く蹴られてしまったので自分で広告を出したらGerald (Alain Libolt)が現れて、3回くらいデートしてふたりがなんとなくよいかんじになったところで、Isabelleはごめんなさい、つきあってほしいのはあたしじゃないの、って告げる。え? なにそれ? ってGeraldは未練たらたらになる(なるよね)のだが、なんとか堪えて持ちこたえてMagaliと会うことに同意する。

もうひとり、Magaliの息子のLeoと結婚直前まで行ったRosine (Alexia Portal)も、Leoはどうでもよくなってしまったものの、Magaliのことが大好きなので、Leoの前につきあっていた哲学教師のEtienne (Didier Sandre)はどうだろうか、って思って、自分が捨てた男をあてがうのってどうなのか、って少し思うし、EtienneはやはりまだRosineの方に気があるようなのだが、Rosineが強く薦めるのなら会ってみようか、と。

こうして決行の時はIsabelleの娘の結婚式の披露宴、て設定されて、Magaliのまったく知らないところで二組の - こっちも互い計画のことは知らない - お見合い作戦が、それぞれに執り行われようとしてして、どうなっちゃうのかしら。

これまでのロメールの四季のって、主人公である恋愛の当事者たちがそれなりの時間と考察を経て自分で決断をくだす物語だった気がするのだが、今回のは、Magaliを恋愛の主人公に引っ張りあげようとする周囲の駆け引きがまずあって、Magali本人が恋愛のステージに立つまで、をMagaliの周囲の人々がそれぞれの頭のなかで妄想したりシミュレーションしたり、そうやって他人の恋に酔っぱらっていく様がおもしろい。

そして披露宴の人混みのなかでふたりの男性と偶然とは思えないようなかたちでぶつかって出会ったMagaliも、これってどういうことなのだろう、って考えこんでしまう。恋愛のケミストリーとは違うかたちでこちらにやってこようとしている何かを自分はどう受けとめるべきなのか、これに乗るべきなのか、乗ってしまうのは正しい選択なのか、とか。そして、こういう思考とか逡巡のプロセスって既に恋愛のそれと言えるのだろうか? (本屋やレコ屋で買うか買うまいかうーむ、って腕組みして悩んでいるのってこれと同じなのか違うのか?)

友人たちの企みに気付いて激怒したMagaliが披露宴の夜闇と喧騒のなか、ひとりまたひとりと殺戮を始める、方にはもちろん行かなくて、この宴の賑わいが彼女(たち)を深い沈黙と静かな決断に向かわせる。これを『緑の光線』で恋愛とか運命に恋していたMarie Riviereと、『美しき結婚』で自分は自分が最高と思う男と絶対結婚するのだ、と爆妄していたBeatrice Romandという、恋愛中毒ど真ん中だったふたりが演じている、のが趣深い。いくつになっても恋愛ばんざい、なんていうのとはもちろん違う。

これが凍てつく孤独な冬に向かう手前の仕込みとか準備なのだとしたら、なんかいいかも。Magaliがワイン農家である、というのもそういうことなのかも。で、これがロメールの今の時代の恋愛模様を描いた最後の作品となった、というのはなかなか感慨深い。

自分の子供の披露宴なのに家族をほったらかして親友の恋愛にはらはらしているIsabelle、すごいなえらいな、とか。


いよいよ箱詰め大会がはじまったにのでこういうのを書いている暇もなくなってきたのだが、あまりの物量にあきれ慄いている。ヴァーチャルの見積もりを貰ったら船便の規定枠より少なかったので「おみやげ」を深く考えずに買っていったバチ、というか。前回NYから帰国した時のそれはレコード中心だったのでOther MusicとかAcademyでじゃんじゃか買いまくったものだが、今回のは圧倒的に本で、これってネットでも買えちゃうし容積も重さもレコードとは比べもんにならないのだわ。 おてあげだわ。 あと、いろんなとこのチケットの半券とかチラシとかパンフとかの堆積も。 むかしはチケットを手でもぎっていたんだねえ、って.. 2020年6月にいく予定だったJawboxのチケットとか出てきてさあ(泣)。

5.07.2021

[film] Effie Gray (2014)

4月22日、土曜日の晩、有料のYouTubeで見ました。日本では公開されていないもよう。

John Ruskinの妻だったEffie Grayを描いた英国の評伝ドラマで、脚本を(出演もしている)Emma Thompsonさんが書いている。ちなみにこの作品でJohn Ruskinを演じているGreg Wiseさんは彼女の夫。

誰もがそうであるように幸せな花嫁を夢みていたEffie (Dakota Fanning)がJohn Ruskin (Greg Wise)と結婚して、彼の父 (David Suchet)と母 (Julie Walters)のいる実家で同居の新婚生活を始める。この家の最初の晩にEffieが彼の寝室に入っていって彼の前でガウンを脱いで裸を見せると彼は見事に凍って固まってしまい、その姿に動揺した彼女は自分の部屋に戻って、そのまま南極のような結婚生活に突入する。

彼の両親は彼を誇りにして溺愛して(ママが入浴させてくれる)、社交でもアカデミーの世界でも賞賛と羨望の嵐のなかにあった彼の傍で、ただそこに立っているだけのEffieは孤立し、脱毛症になり、不幸のどん底で固まってぼうっとしているのだが、それに気付いたのは家に遊びにきたElizabeth Eastlake (Emma Thompson) - 彼女自身も芸術批評家で夫はNational GalleryのDirectorだったCharles Lock Eastlake - くらいで、でも気付いたからといって初めのうちはどうすることもできない。

やがてJohn Ruskinが持ち上げていた新進画家John Everett Millais (Tom Sturridge)と知り合ったEffieは、滞在していたスコットランドで彼の絵のモデルになったり、少し仲良くなるもののそれ以上には発展しようがなくて、ますます塞ぎ込んで幽霊のようになっていくEffieを見かねたElizabethが彼女を医師に診察させ、彼女が未だに処女であることを確認すると、これは離婚の理由になるわって、行動を起こして…

頭の切れるエリートで評判もよいのに結婚したらどうしようもないマザコンで結婚生活どころではなくて、というのは現代でも転がっていそうな話で、それを19世紀のアート界隈におけるスキャンダルのように描くことにどんな意味があるのか? あんまりない気がするのだが、これが当時の絵画や建築における「美」とか芸術運動のありようを考察したり自分でも絵を描いて浸ったりしていたJohn Ruskinの足元で起こっていた、というのがなんかおもしろい。実際には本件についてふたり共それぞれの見解をきちんと残しているので、それを少し広げて架空の法廷劇にしてもよかったのでは。

Ruskinて、”Mr. Turner” (2014)でもろくでもない奴みたいに描かれていた(演じていたのはJoshua McGuire)けど、本当のとこはどうだったのかしら? まあこれらが本当だったとしても彼の著作を読まないでおくことなんて不可能 - それくらいRuskinの著作って英国のアートを見たり考えたりする上で基本の基本みたいになっている - のだけど。

ここで見るべきは夫に家庭内放置されて、そんな自分をどうしてよいのかわからずに幽霊のようにホラー映画の主人公のようになって彷徨うDakota Fanningさんで、ここでの彼女は”War of the Worlds” (2005)で宇宙人の襲撃をうけて目の奥を空っぽにして叫ぶこともできなくなってしまったあの娘の姿に近くて、それは傷ましさを通り越してすごいとしか言いようがない、彼女にしかできない演技で、これがあるので見事な女性映画になっていると思う。Ruskinが彼女の表情を見たらなんと言っただろうか。

映画の最後でRuskinの元を去るEffieは後にJohn Everett Millaisと一緒になるのだが、彼の“Ophelia” (1851–2)のモデルがEffieであったかのように描かれているのって、違うよね?(モデルは当時19歳のElizabeth Siddal)

まだ美術館が開いていなくて絵を見ることができないので、本屋の美術書のコーナーに通って端からめくりながらどうしよう、とかやっている。いくらでもやっていられて楽しいけど、楽しくない。美術館で絵を見たい。

5.06.2021

[film] La mort en ce jardin (1956)

4月15日、木曜日の晩、アメリカのMUBIで見ました。

Luis Bunuelの監督作で、英語題は”Death in the Garden”、邦題は『この庭に死す』。原作はJose-Andre Lacourの小説で、脚色には『地下鉄のザジ』のRaymond Queneauの名前があって、元はJean Genetも雇われていたとか。日本では劇場未公開で放映のみっだったらしい。今から見るとなかなか豪華なフランス人のキャストだし、きれいなイーストマンカラーだし、とってもお金が掛かっているふうで、でもこれもメキシコ時代のLuis Bunuel、なのね。

南米のどこか – たぶんメキシコの鉱山でそこを支配する軍と労働者が衝突するのが前半で、まるでGoyaのあの絵のように禍々しく混沌とした地獄図が展開されて、その混乱のなか、町のごろつきっぽいShark (Georges Marchal)と娼婦のDjin (Simone Signoret)と宣教師のLizardi (Michel Piccoli)と鉱山の労働者 Castin (Charles Vanel)とその聾唖の娘 (Michele Girardon)の5人が命からがら船で逃げ出してブラジルの方を目指すことにする。ここまでだと、途中でアナコンダが襲ってきてもおかしくないパニック冒険活劇ふう、に見える。

そのうち船がダメになり、船を捨ててジャングルに入り込んでからが更に地獄になって、ブラジルに向かうどころか、ジャングルの同じ地点をぐるぐる回っていることに気付いて、そこに飢えと湿気のびたびたが加わると、とにかくここから抜け出したい、自分らをこんなふうにした張本人はどこのどいつだ? って。

一触即発になりかけたところでジャングルに落下した飛行機の残骸から酒とか衣料とかいろんなものを見つけることができて、やや落ち着いたかに見えたのに、やっぱりどうにも満足することはできなくて。

人のあらゆる類型とか業とか欲とかを容赦なく横並びにしてほうら… っていうLuis Bunuelのパノラマ技は十分に冴えていて、冒頭の支配者 - 被支配者同士の諍いの図から離れたところにいて生き残った5人 - アウトロー、娼婦、坊主、老人、障害者 - ですらジャングルの自然状態に晒された途端に弱さ狡さ無力さなどなどをむき出しにしてそれぞれの立場から小競り合いを始めて、自然状態の残酷さや気色悪さを露呈していく。 というより、その気色悪さこそがヒトの世界 - 自然状態そのものなのだ、って。目をひんむいてようく見やがれ、って。

ジャングルはヒトの手が入っていない野生のなにか、としてあることは許されず、ヒトもまた歪められることのない野生状態をそのまま生きることは許されず、ジャングルにヒトが踏み入れた途端にそれは人為的なガーデンと化してしまう運命にある。ヒトというのはそこで、どうあがいても「ガーデン」でしか死ぬことができないような愚かで哀れな生き物なのだ - かわいそうにー、という世界とか生死のありよう。Bunuelの映画ってなにを描こうが常にそういうスケールで万象を測るべくジェットコースターのように自在に乱高下しながら、我々はだれで、どこにいるのか、を問うてくる。コンパスの針はぐるぐる回り続けて役にたちやしない。

なので、ここに悲惨な残酷な絵図を見ることはなくて、ああそういうものなのだ、って納得させられるしかない(これもまた地獄なの?)。どうしても嫌なら、関わりたくないのなら人間をやめるしかないのかも、とまで。 日々SNSとかであまりに酷いくそみたいなのばかり見せられているところでこういうのを見るとかえって清々しかったりする。

そして、こういうギリギリのドラマを生きるSimone SignoretもMichel Piccoliもなんと壮絶に生きていることだろうか、って。

おおむかし、『メキシコ時代のルイス・ブニュエル』っていう特集が千石の三百人劇場(もうない)、っていうところであってものすごーく衝撃と影響を受けたのだが、そこにこれを加えてもう一回俯瞰してみたいところ。


いよいよ滞在も残り少なくなってきて、送別会のようなものをやってくれるというのでここ数日、夕方になると出かけている。今の規則ではオープンエアの着席6人までなら飲食ができるようになっているので、オンライン飲み会ではなくこっちの方でやろう、と。 でもここ数日は異様に寒いし雨がぼたぼたくるし、お酒飲めないのでお茶をとってもあっというまに冷茶になってしまう。こうなるとあのバカバカしいオンラインの方がまだよかったかも。つまんない会話のときは好きなことやって遊んでいられたし。そんなことよりさすがにいいかげん荷物箱詰めをどうにかしないと。

5.04.2021

[log] Isle of Wight, etc.

4月30日にWalesに行って、それに続くBank Holidayの連休の間もうろうろし続けてしまった。お片付けと引っ越しどうするのか。

5月1日の土曜日はワイト島に行った。このシリーズでは東のNorwichに行って、北のHowarthに行って、西のSt. Ivesに行って、北西のWales - Cardiffに行って、次は南かな、くらい。本当はずっとジャージー島とガーンジー島に行きたくて、昨年計画たてて決行直前まで行ったのだが、直前に飛行機が飛ばなくなってしまったの。 ワイト島なら日帰りで行けそうだったし。 基本は電車とバスのみを使う日帰りでも、こんなふうにネタはいくらでもある。やろうと思えば北北東でも南南西でも東東南でもなんだって。なんでこれまでやってこなかったのかバカ、っていうのはいつもの。

距離的にも時間的にもこれまでのよりはやや楽なかんじなのだが、乗り物に乗っている時間が多かったのがやや難点で、ワイト島も最初の目的地 - Osborne Houseに行くにはロンドンから電車 〜 バス 〜 ホバークラフト 〜 バスだったり、なにもかもGoogle頼りというのがややきついけど、それでも便利になったもんだわ。

Osborne Houseは19世紀にヴィクトリア女王とアルバートのために建てられたイギリス王室の離宮で、館内はまだ見られない(..あーみたかったよう)ものの庭園には入ることができる。敷地がでっかいことはあたりまえとして、すばらしくよいシェイプのでっかい樹々がいっぱいあって、春の花々が咲き乱れていて、カラスがやかましいことを除けば極楽としかいいようがない。

そこからバスで島の真ん中のバスターミナルに行って、さらに乗り換えて島の西のJulia Margaret Cameronの館 - Dimbola Lodgeに向かう。いまはMuseum & GallaeriesとTea Houseになっていて、Book Shopもあった。MuseumとBook Shopは閉まっていて、外のテラスでTea Houseはやっていたが寒くて天気が崩れそうだったのでやめる。 

写真家としてのJulia Margaret Cameron - ヴィクトリア朝の頃のアートと人々 - に興味があるのはもちろんだが、ここも(どちらかというと)Virginia Woolf絡みで、彼女の唯一の劇作 - “Freshwater: A comedy”(1935)は、彼女の大叔母であるJulia Margaret Cameronが主人公で、このDimbolaが舞台になっていて、どんなかしら、というのはずっと思っていたの。(もういっこ、この作品にも登場するAlfred Tennyson卿の館 - 近所のは行けなかった) あと、Patti Smithがここで撮影した写真を発表していて、その展示を見たのはDulwich Picture GalleryのVanessa Bellの展覧会だった、とかいろいろある。 Vanessa Bellのスタジオで上演されたこの劇 - 演出: Virginia Woolf、出演:Bloomsbury Groupの面々って、どんなだったかんじだったのだろうか - 館の中に入れればなー。

この館も、Dylan Thomasの生家と同じく、ごくふつうの住宅街のなかにあった。外側だけでも見れてよかった。

そこから、どうせここまで来たので、西の端っこのThe Needlesにも行ってみるか、とバスで行けるところまで行ったのだが、終点は小さな遊園地のアトラクションがいっぱいあって、そこの展望台から遠くに並んでいる3つの岩と切りたった崖が少し見えたくらいだった。ここの全体像はそこから更に上の道を抜けて山の上まで行く必要がありそうだったので諦めて帰った。崖の草のところに牛みたい?な四つ足のがいっぱいいた。

なんとか戻りの電車には乗れたのだが、午後遅くに急激に寒くなってなにこれ? だった。


5月2日の日曜日は、天気も不安定そうだったし足腰が既にじゅうぶんがたがただったのでもう遠出はやめて、ロンドンの北東にある森 - Epping Forestにいった。 Epping Forestは、ロンドン市が管理している(公園ではなくて)森で、チューダー朝の時代にヘンリ8世とかエリザベス1世の狩猟場だったり由緒ある森らしいのだが、なんといっても有名なのはGenesisの”Selling England by the Pound” (1973)に入っている”The Battle of Epping Forest”よね、ってあたまの中で鳴らしながらいく。そんな有名でもないか?

地下鉄に1時間くらい乗って30分くらい坂を登っていくとおおよそ森の真ん中くらい、に着く。のだが、森なので中心とか案内とかがあるわけでもなく(事前にちゃんとWebとか見ておけばいろんなルートがあることを知ったバカ)、ひたすら人とか自転車が流れているところを見つけて一緒に歩いていくしかない。途中雨がばらばら来たりしたものの、いっぱいの木と緑が気持ちよければひたすら気持ちよいので、歩くのが止まらない状態になった。途中ツノのあるでっかい牛(English Longhorn Cowっていう)が数頭いたり。

あと、この時期はBluebellsの青紫の花がきれいで、本当はNational Trustの管理するAshridge Estateのがすごいらしいのだが、ここはやや遠いので諦めて、でもここの森には数カ所見れるところがあるのを知って、それだけは見て帰ろうかと。音楽を”The Battle of Epping Forest”からThe Bluebellsの"Forever More" (1982)に切り替えて探していったら、あった。遠くからみるとそこだけ浮かびあがって見えるのが不思議だったねえ。


5月3日、Bank Holidayのまだ行っていないとこに行ってみようシリーズは、天気予報では雨風ひどい、って出ていたので、近場のLondon Zooにした。 ここは4月12日からオープンしていて、歴史も伝統もあるところなので行かねば、だったところをようやく。朝の10時から並んで入って、でも動物たちが出てきていないのとか屋内展示のは見れなかったりとか結構あった。 カバとかゴリラとか、ここまで寒いとしょうがないよね。かわいかったのは、ミーアキャットとマングースと豚とペンギン(いつもの)。柳の下のペンギンが、絵になってて素敵だった。

動物園に対する視点とか期待って、動物保護や教育の観点では必要と思う反面、やっぱりこれって虐待だよね、って(歳をとってから割と)思うようになっていて、足が向かなかったのはその辺もあったのだが、驚いたりはしゃいでいる家族とか子供たちを見るとしょうがないのかな、とか。 いろんな看板とか表示が昔からのも含めてかわいいのがいっぱい残っていて、かわいかった。 ブロンクスのほど茫洋としていないしセントラルパークのほどごちゃごちゃしていない。正常になってからまた来たい。


で、とにかくこんなふうに4日間を過ごしてしまったので、もうほんとうにほんとうに引っ越しモードにはいらないとやばい。

5.01.2021

[log] Wales

もう4月も終わりで悪あがきを続ける時間もなくなってきたので少し焦ってじぶんでじぶんを追いこんでみようか、と金曜日(30日)にまた休んだ。そうすると翌月曜のBank Holiday祝日とあわせて4連休になるし。

どこに行くかはほぼ決めていて、まだ行ったことのなかったウェールズ。英国に来たとか言ってウェールズに足を踏み入れていないのはだめじゃん、とずっと思っていたので。

ただウェールズといっても行きたいところはいっぱいで、ほんとは北の方のスノードニアとか、『わが谷は緑なりき』のブレナヴォンとか行きたくてさんざん悩んで、あまり無理強行すると4連休しんでしまうかもしれないので、わかりやすくカーディフにした。ここならロンドンから直行の2時間くらいで行けるし。

でもここだけだとつまんないので、少し北にあるお城と少し西のスウォンジーを足してみる。スウォンジーにはDylan Thomasの生家があるし、その先をぐるっとまわってみると灯台もあるし、程度のノリで。

お天気は数日前からずっと雨マークが70-80%くらいだったのだがそんな程度のことで揺らいでいる余裕なんてないはずだ、って突っぱねて決行する。

電車はパディントン駅を7:48にでてカーディフ中央駅に9:38に着くやつで、朝のうちはほぼ快晴だった。毎週電車で遠出していると緑がはっきり濃くなってきているのがわかって頼もしいったら。

カーディフに着くと駅の表示からアナウンスからぜんぶ二か国語になって外国みたいで楽しい。まずはメインの通りを抜けた突き当たりに見えるカーディフ城に行く。城のなかには入れないがお濠の周りとか敷地をうろつくことはできる。ウェールズにはお城がどかどかいっぱいあって、戦うためにみんなお城をつくったのかお城を作るために戦ったのかしらんが、大変だよねえ、って思った(←この程度の)。いまはどれもかっこよく朽ちて寂れてよいかんじだけど当時はいちいち憎悪と称賛が渦をまいてこれらの石のあいだで人がいっぱい死んでたのね、とか。

カーディフの街中の建物はどれも素敵に古くて、昔のアーケードも沢山残っていて、そこに世界最古のレコ屋があるというので行ってみる。看板には"EST. 1895" ってある。ほんとかしら。外観はふつうのレコ屋で、営業時間は11:00-16:00だというので中には入れない。でもこれで世界最古の本屋(@リスボン)と世界最古のレコ屋を見ることができた。それがどうした、だけど。

お城をもうひとつ、カーディフから電車で30分くらいのところにあるカエルフィリー城にも足をのばす。名前にカエルってあったから、程度だったのだが、お濠がでっかくて廃墟としての腐り具合も申しぶんなくて痺れた。竜とか巨人とかが出るならこういうスケールのところだよねえ、とか。

お城に向かう途中で雨がらばさばさ来たのだがお城に着いたら魔法のように晴れたり。

で、ふたたびカーディフの中央駅に戻って、電車で1時間くらい西にあるスウォンジーに向かう。Dylan Thomasと灯台(がある)以外は予習もなんもしてなくて、でもとりあえず駅でバスに乗り換えてDylanちにむかう。結構きつい坂の上にあるほーんとふつーの住宅の並びにあるふつーの家だった。中には入れない。で、次に行くかって振り返ったら坂の上から遠くに海が広がっててうわーってなった。サンフランシスコの坂の上からのよりなんかでっかくて感動したかも。

そこから灯台の方に向かうべく坂を延々くだってバスが走っている通りまで出たのだが、バスが来るまで30分くらいあったので浜辺の方に歩いていってみた。潮が引いているのか砂浜の向こうに干潟のような湿地帯のようなのがざーんと広がっていてかっこいい。干潟って海が近いのだか遠いのだかわからない錯覚のようなのを引き起こして、それを確かめるべく先の方に行きたくなってうずうずしてしょうがないのだが、バスの時間になってしまうので突撃は諦める。

バスは湾をぐるっと回って岬の先の方まで連れていってくれるのだが、バスの窓から広がる浜とか干潟のかんじがすごくよくて今度ここにきたらぜったい半日ここで過ごそうと思った。干されているのか湿っているのか人を寄せつけない(実際ぜんぜんいない)陸と海の境い目の攻防とそれが織りなすだんだら模様と。

灯台が見えるところでバスを降りてみると人はほぼいなくて、海の方に降りていって大きめの丸石がごろごろしているところを抜けると半乾物の海藻がべったりしているところと波をうった砂の浅瀬とごりごりの岩場が折り重なるように広がっていて、その合間にヒトデがいっぱいくねっていて、とってもこの世の果てのかんじがした。先週のGodrevyの岩場の(風ぼうぼうだったにしても)人懐こいかんじからはほど遠く人を凍りつかせてそのまま死滅させる。

雨がひどくなってきたのと帰りの電車(に間に合うバスがつかまるか)が心配だったので引き返すことにしたがウェールズの海おそるべし、って思った。 Dylan Thomasがこんな海を見て育ったのだとしたら、海のように歌った彼の「海」がこれなのだとしたら.. とか。

カーディフに戻って、ロンドンへの便までの20分くらいでアーケードの奥にあったお土産もの屋で羊のぬいぐるみかなんかを買おうと思って走っていったのにもう閉まっていたので悲しかった。

帰りの電車も2時間なので少しうとうとした程度。ディスタンシングでよいのは横に人が座らないことよね。 この日、歩いた距離はたったの8.9マイルで階段も30フロア分だって。 ものたりないんじゃないのか?

ぜったいまた来る。戻る。言うのはいくらでも言って、繰り返しておくとそのうち。

パディントンに降りたったら、あいつがいたの。