2.27.2023

[film] Corsage (2022)

2月21日、火曜日の晩、英国のMUBIで見ました。

オーストリアのMarie Kreutzerの作・監督による、オーストリア/ドイツ/ルクセンブルク/フランス映画。主演のVicky Kriepsが製作にも入っている。

ハプスブルク家のオーストリア皇后エリザベート(1854-1898)の40歳の誕生日に向かう1877年頃の王宮/家庭生活を中心に描く。手法としてはSofia Coppolaの”Marie Antoinette” (2006)やPablo Larraínの”Spencer” (2021)でも描かれた王族~王妃のふざけんじゃねえよ‐やってらんねーや、の日々をフィクションとして綴っていくのだが、今作の破壊力は格段で、一番好きかも。

コサージュ、は装飾の飾り花のことではなくて、ドイツ語でコルセットのことで、冒頭、Empress Elisabeth of Austria (Vicky Krieps)は侍女にコルセットを付けて貰いながら紐をきつく締めるよう、もっと、もっと、って何度も指示して、そこからウェストのサイズを書き留めたりして、お湯につかったりダイエットしたり、こんな風に周囲やしきたりやソーシャルから求められること、夫のためにすること、自分でなんとかしたいと思っていること、などの間できりきり(でも)つーんと振る舞いながらずっと爆発しそうな何かを抱えこんだり飲みこんだりしている(ことが窺える)。”Corsage”というのは彼女の身体をきつく縛りあげる器具であり、それをまずコントロールする/できる - 失神したりも含めて - のは自分であり、でもその装着を要請してくるのは当時の社交界なり文化なりで、その縛り要請に応えることで彼女はその特権も含めて一員として認められる、そういうのの象徴(まずは器具・道具)としてあって、自分はその内側で絞られて締められて耐えるしかない。

16歳の時に皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と結婚したが、夫 (Florian Teichtmeister)はずっと公務で忙しく半別居状態で、彼の浮気の現場も目撃しているし、息子の皇太子Rudolf (Aaron Friesz) – 後にMayerling事件を引き起こす彼ね - も既に手を離れて好きなように動き始めているし、戦争が起こりそうな雰囲気もあるし、彼女が自分の才覚や美貌で彼らを繋ぎとめていいようにできるのはとうに無理であることは十分にわかっている。なのでハンガリーの貴族と浮気したり、英国の田舎に出かけていったり(会うのはダイアナのSpencer家)、鬱の解消のためにヘロインに浸かったり、好きなようにやらせて貰いますから、って中指突き立てて王宮の外に出ていく痛快さ。

それだけではなくて、女性の精神病患者がいるサナトリウムを訪れて、ヒステリーで拘禁されている患者をお見舞いする。この頃のウィーンの精神医学の発達の並びでクリムトっぽい肖像画を描いてもらっているElisabethのこと、更に当時の新技術として登場した写真や映画で撮られる自分の像と、どちらが真実と言えるのか、など虚像(虚飾)と実像、イメージを巡る当時の潮流 – その乖離や断層が、その周辺の欺瞞や腐蝕のなにもかもが彼女には見えていて、ぜんぶがうっとおしいし。

いろんなエピソードを重ねながら、自分を飾ってくれる美と、それらに対する愛しさと、自分の手から否応なく零れ落ちていくそれらと、でも失われずに終わりに向かってどん詰まっていく時間と、でもそんなの自分のせいでもなんでもないし大きなお世話だしうるせーよ、っていう普遍的なところは今の時代にもそのまま当てはめることができるので、”Marie Antoinette”にもあったような現代のアイテムもちょこちょこ出てくるのだがその現れ方は随分ちがう。”Marie Antoinette”がNew Waveの優しさと柔らかさで包んでくれたのに対し、こちらにははっきりとフェミニストPunkの刺々しさと不機嫌と毒がある(よいこと)。

こないだの『彼女のいない部屋』にひとり座っていたVicky Krieps、あの静かな切迫感 – とても大切なものが失われている – なにかが欠落してゆっくりと狂ったり腐ったりしていく、その事態をはっきりと自覚し始めたときの彼女の眼差しとかほつれて広がる髪の毛とか、それをいきなりばっさりしちゃうとことか、ほんとに強くて目が離せない。そこからのあの最後の方、タトゥーを彫ってからのー。 とにかくぜんぜん湿って暗くならないところがすごいったら。 

音楽は鼻歌のように脇を流れていくCamilleがよくて、他にはKris Kristoffersonの“Help Me Make It Through the Night”とか”As Tears Go By”とかも同じ宮廷音楽のようなトーンで流れてくるのがおもしろい。

ああなりたいもんだと思った。貴族じゃないけど。

2.26.2023

[film] The Black Windmill (1974)

2月19日、日曜日の昼、StrangerのDon Siegel特集で見ました。行きたいのにぜんぜん行けないー時間がないー。

原作はClive Egletonの小説”Seven Days to a Killing” (1973)、Don Siegelがヨーロッパで撮った最初の作品でスパイもの、主演がMichael Caine、こんなのふつうに見る。邦題は『ドラブル』。

冒頭、軍用基地の立入禁止エリアに入って模型飛行機を飛ばそうとしていた子供ふたりを注意した大人たちがそのまま子供らを車に押し込んで連れ去る。

MI6の諜報員John Tarrant (Michael Caine)はIRAに武器を売っているグループに潜入すべく、メンバーのCeil (Delphine Seyrig)の家で彼らと会った後に、会議中の諜報部に戻って大ボスのSir Edward Julyan (Joseph O'Conor)とすぐ上の上司のHarper (Donald Pleasence)に報告すると、そこに離婚した妻(Janet Suzman)から電話が入って、Johnの息子のDavidを誘拐した - 返してほしければ、最近おまえのとこが作戦の資金として調達した50万ポンド相当のダイヤモンドをよこせ、という。

「ドラブル - Drabble」と名乗る謎の犯人側(男)とやりとりを繰り返しながら、Harperはこんな直近のやばい内部情報を知っている奴とは? って局の内部にスパイがいる可能性についても疑念を抱いて調べ始めて、JohnはそんなことをしていたらDavidはどうなる? っていうのと、上の連中にそもそも取り引きするつもりがなさそうなことに気づいたので単独で行動をするようになり、その反対側でHarperはそんなJohnが怪しいと睨んで - Johnの部屋で寛ぐCeilのヌード写真が見つかったり(これ実は犯人側の仕込み)、彼の行動の監視も始める。

こうしてJohnは犯人側と直接交渉すべくHarperの命令と偽って貸金庫からダイヤモンドを引き出して、指定されたパリに向かうが、そこに息子はいなくて、渡したところで罠にはまってフランス警察経由でHarperに引き渡され、送還される途中で再びドラブル一味に襲われて、そのどさくさを切り抜けてなんとかイギリスに戻る - カレーからのホバークラフトなんてあったのね - あったまきたJohnはMI6内部に潜むモグラを炙り出すべく、ドラブルの名前で幹部に片っ端から電話をかけて、ブライトン近くの風車小屋 - ここにDavidがいると言われた - に来るように伝えるとー。

Johnのてきとーなフェイク声色でダイヤを引き出せたり、MI6幹部を呼び出せたり、いきなりCeilを殺しちゃったり、甘くておかしなところはいっぱいあるものの、007みたいな秘密兵器には頼らず(機銃仕込みのカバンくらい - でもそんなにヒットしない)、建物の上下に入りと出を多用した - アメリカだと原野の平屋とか納屋とかハイウェイになっちゃうところを狭い小路とか階段の昇り降りとかの細かな力技で通してしまった、しかも最後の決闘の場所が風車小屋 - なんで? 探すのも大変だろうし数が少ないからすぐ見つけることできるし - っておもしろすぎる。

とにかく敵でも味方でも、誰かがいたり待ったりしている目的の部屋にたどり着くまでの、路地の奥の先を抜けたところとか、オークション会場の裏側にあるオフィスとか、ぐるぐる階段ばっかりとか、ぜったいエレベーターを使わずに地下鉄の階段だろうが(地下鉄の階段なんてエレベーターが故障した時しか使わない、それくらいしんどくて無理)一気に駆け上がってしまう - そこからそのまま地下鉄に飛び乗ってあかんべーをするMichael Caineとか、建築物や乗り物のありようによってアクションを貫くテンションとスリルはこうも変わってくるものかー、とか。

今回の特集にはないけど、Don Siegelがこの2本後に撮った”Telefon” (1977)とか、小学生の頃に二本立てで見て、エスカレーターを使った追いかけっこがすごくおもしろかった記憶がある。必死に逃げる人はどんなことをしても逃げるんだなー、って。

あと、人間関係もあっさりしているのか複雑なのか、Johnと別れている妻(の最初の方のめそめそモードから、ある電話をきっかけに劇的に変わるとことか、Sir Edward Julyanの執拗かつ不気味にいやらしいかんじとか、部屋と同じように考えているところに奥まっていてなかなか到達しにくい。

欧州スパイものってこんなかんじ? というのを確かめつつ撮ってみた試論、のようなー。

2.24.2023

[film] Seule, Géorgie (1994)

2月19日、日曜日の午後、イメージフォーラムの特集『オタール・イオセリアーニ映画祭 〜ジョージア、そしてパリ〜』で見ました。

昨年の今頃は岩波ホールでジョージア映画祭だったあの季節枠、なのかしら。イオセリアーニはぜんぜん見れてこなかったのでこの機会にきちんと見たい。ここんとこ、他にいろんな特集があるのできちんと追える保証はまったくないけど、がんばる。

日本ではこれが初公開となる、全3部(第一部:91分、第二部:69分、第三部:86分)からなる TVドキュメンタリーとして作られた約4時間(あっという間)のドキュメンタリー。邦題は『唯一、ゲオルギア』、英語題は”Georgia, Alone”。

ソ連が崩壊した後、周辺各国で内戦が勃発して、ゲオルギア(ジョージア)もその最中にあって、このままでは祖国が無くなるかもしれないという危機感から製作されたという。

第一部が"Prelude"で、ジョージアとはどんな国なのか、その歴史と文化をざっと概観し、第二部の"Temptation”で、ロシア革命後、大国ロシア~ソ連との関係で国の輪郭が揺れ出すところを、第三部の"The Ordeal"で、(当時)試練のどまんなかにあって大変なジョージアの現在、を描こうとする。

第一部の冒頭で、壮麗な、おとぎ話のような山とか尖塔とかの昔から続く風景に続けて、内戦下で機関砲や機関銃を近距離で撃ちあっている首都トビリシの現状が対比される。なんでこんなことになったのか、を掘りさげるべく、まずはすぐそれとわかるバレリーナ - Nina Ananiashviliさんの - まだ米国に渡る前だろうか - 美しい舞いと、オペラ歌手(知らない)とピアニスト(知らない)の映像を導入として、ジョージアの豊かな文化とそれを培った歴史・風土が紹介されていく。太古から壺で作られているワインとか、33文字からなるかわいいアルファベットとか、あのたまんないパン(あーたべたい)とか、文明の真ん中にはカトリック~ジョージア正教を軸とした祈りの伝統、歌の伝統があり、中世のタマル女王の黄金時代を迎えるも地理的にはシルクロードはじめ、クロスロードのど真ん中に位置していたので常に戦火にさらされて、この辺はジョージアのいろんな映画で描かれてきた(その抜粋)、と。

そうして1914年に第一次大戦が起こり、1917年に十月革命が起こり、翌年に国として独立して1921年にソ連に移行する。昔からはっきりとした文化と国民意識でもって土地、大地に刺さってきたジョージアという国がより大きな歴史のうねりに巻かれるようになる、でもどんなにぼろぼろにされたって聖ゲオルギオスはそこにいて、見ているのよ、って。ジョージア文化の表象たちがどれだけ強固な意志とともに自分達のものとして形作られてきたものだったか、見ていけばわかるように構成されていて、揺るぎない。

第二部は、幸福な時代のはずだった独立~ソ連化が表と裏でどんなふうに進んでいったのか、ソ連(スターリン)の頃のプロパガンダ映像(スポーツ)、工業化、システム化がもたらす弊害とかやばさ(密告とか拍手を先に止めないとか)が国を蝕んでいくこわさがあり、他方でチャブキアーニ(舞踊)とかブレヒトの『コーカサスの白墨の輪』とか、止むことのなかった映画製作とか、文化は波に揺さぶられながらも常に饒舌だった、と。

第三部は伝統的な多声合唱団の紹介から入って、この様式のブルガリア~サラエボ~スペイン~ブルターニュ~アイルランドまでの伝播とか、キリスト教やユダヤ教など異教に対する寛容さ、共存へと向かう意識の高さが伝統としてあることを謳いつつ、でもな、って1989年のトリビシ事件に端を発した独立運動がなんであんなに泥沼化していったのか、を1991年に初代大統領となったガムサフルディア - 彼がジョージアを売った恥野郎 – の動き、更にその後のシェヴァルドナゼの動勢と共に追っていく。ニュース映像を繋いでいくスタイルながら、イオセリアーニの切迫感 - 国が失われてしまうかもしれないという危機感が前の二部とは全く異なるテンポとテンションを持ちこんで一気に走り切ろうとする。

この辺、こないだイメージフォーラムで見た『新生ロシア1991 The Event』(2015) – 感想書いてないけど – を思い出して、どちらを見ても(どちらの国でも)フロントに立って広場に押し寄せていくのは市民 - 大勢の市民で、この辺の不屈さって、当たり前といえば当たり前なのかもだが、すごいな、って。(自分のいる国が異常なんだよ。民主主義以前に)

そして、そういう市民(歴史も背景も異なっているので単純に当てることはできないにしても)が前に出ていって闘っているのを毎日のように目の当たりにしているのが、今のウクライナで、つまり人がどんどん亡くなっていて、この状態が独裁政権時代を通じて100年以上続いている。じゃあ何ができるんだよ、かも知れないけど目を逸らしてはいけない。

そして、今の日本 - 日本すごいって虚構のイメージに酔って、実体はがたがたで自滅/自壊しつつある – ここも国が亡くなってもおかしくないくらいのところに来ていると思うのだが、この国にイオセリアーニ的な視点で歴史や美についての映像を作れる人って誰かいるだろうか? って。 吉田喜重が最後だったのではないか。あーめん。

こんな唯一の貌を見せられたら、後のも見たくなるに決まっているー。

2.23.2023

[film] Ant-Man and the Wasp: Quantumania (2023)

2月18日、土曜日の午前、109シネマズ二子玉川で見ました。 IMAX 3Dで。

“Quantumania”には”ant”と”man”が入っている、と。そんな言葉遊びみたいなとこを含めて、不思議の国のアリスをやりたいのかと思った。 1作目がScottで2作目がHopeで、3作目はCassieのお話になる - ハンプティ・ダンプティみたいのも出てくるし。でも(みんなが悲鳴をあげていたように)狂言廻しとなるLuis (Michael Peña)がいない…

監督はAnt-Manの過去2作も作ってきたPeyton Reedで、Peyton Reedならばきっと... でも.. というNew Yorker誌のRichard Brodyのレビューを見て、ううむやはりそうかー、と思って、でも見る。
“Babylon”よりはぜんぜんましだと思ったよ。 コミックだし。

Scott Lang (Paul Rudd)はサン・フランシスコでご機嫌な日々を送っていて、City Lights Bookstore - 似てるけどレイアウトが変だ、と思ったらロンドンにセットを作ったって - で自伝の朗読会をしたり、でもCassie (Kathryn Newton)が警察に補導されたり、すべてが快調というわけでもない。

誕生日に家族みんな - Hope/Wasp (Evangeline Lilly), Janet (Michelle Pfeiffer), Hank Pym (Michael Douglas)でのお祝いの場でCassieが量子世界とのポータルよ!って得意げに披露したらおばあちゃんのJanetが怒り狂って、すぐ止めなさい! って言ったところで全員が向こう側に引き摺りこまれてしまう。

落ちた先の量子世界ではScott/CassieとJanet/Hank/Hope組で別れてしまい、変な連中とか生き物とかに遭遇しながら互いを探していく。Janetはこうなることがわかっていたふうなのでみんなでどういうこと? って聞くと、いろいろあったのよ.. しか言わない。

Janetがひとり向こう側にいた時に彼方から現れて困っていたところ助けてあげたKang (Jonathan Majors)が実は最悪・極悪の粘着野郎で、ひとりででっかい帝国を築きあげていて、Janetが間一髪でKangが再び外宇宙に出て破壊活動ができないようにしておいたのをなんとかしろ - 機械をもとに戻せ、ってJanetたちに迫って襲いかかってくるの。

というのがメインのライン - Kang軍 vs. Ant-Man&反乱軍 - なのだが、かつてJanetとなにかあったらしいLord Krylar (Bill Murray)とか、1作目で弾き飛ばされて改造人間(ハンプティ・ダンプティ)になっているDarren (Corey Stoll)とか、反乱軍のJentorra (Katy O'Brian)とか、いろんな連中が顔をだしてくるし、なんといっても蟻だから、とにかくわらわらごちゃごちゃしていても文句は言えない。

Janetはかつてここの世界で本当になにをやらかしていたのか - 家族の間に巻き起こる疑念とか、よくある父と娘の葛藤とか、Kangの背後にいるのは誰なのかとか、みんな無事に戻ることはできるのか - これだけあったら個々のパーツは薄まっちゃうし、テンポはどうしても鈍くなる。これまではLuisの3人組がうまく合いの手を入れてくれたのにそれもないし。戦争の規模からしたら”Avengers: Endgame” (2019)と同じくらいのぐじゃぐじゃ、のように見えるけどそこをなんとかしないと戻れない。

で、それらをカバーしてがんばるのがよくできたムコ殿 - Scott Langひとり - そういう話(ヒーローもの)なので仕方ないにしてもちょっとかわいそうだった。本来一緒に戦ってくれそうなHankはJanetの件で明らかに拗ねているし、Cassieは彼からすればまだ子供だし、Janetは劇薬っぽいし、Hopeは親の側と夫の側、両方を眺めてバランスを取ろうとしているようだし。

どうせならJanetがすべてを清算するの巻、にしてもよかったのに。それくらい今回のMichelle Pfeiffer、気合いが入っていると思った。Michael Douglasに対しても相当言いたいことありそうだし。

それかHankが、おまえが何をしていたかはすべて蟻たちに聞いたぞ! ってJanetに突きつけると、ほんとあんたってくそみみっちい男ね! って、Janetは返して、そのまま『ローズ家の戦争』(1989)の泥沼に(それどころじゃない)、とか。

Cassieの話に寄せるなら、Jentorraとの恋とかDarrenとのこととか、でもそれだけだと弱いかー。

へんな生き物もいっぱい出てくるのでなんでもありそうなのに、巨大化するのが父娘とアリくらい、ってなんかつまんないかも。ばかでかいチェシャ猫とか出してほしかったな。「可能性」のとこの増殖だって、もっといろんな可能性があったのではないか。

などというようなことを際限なくだらだら書いていける/書きたくなる、というのはやはりScott Langとこの世界が好きだからだと思った。

音楽はところどころで中途半端によくて、そしたらやっぱりChristophe Beckだった。
あと、ぜんぜんわからなかったが、あれってEelsのMark Oliver Everett だったのかー。

"Gangsta's Paradise" (1995)のPVのパロディをMichelle PfeifferとJonathan Majorsでやってほしい。

エンドロールで出てきたあの人については、今後のMCUのエンドロールぜんぶにいちいち出てきて「ほら、あれがあいつだ」ってお約束で言うようにしてくれないか。

2.22.2023

[film] 女性の勝利 (1946)

2月18日、土曜日の午後、国立映画アーカイブの「日本の女性映画人特集」で見ました。
監督は溝口健二、脚本は野田髙梧と新藤兼人、編集に杉原よ志、メイクに増淵いよの。 溝口の戦後第1作だそう。

新進気鋭の女性弁護士ひろ子(田中絹代)は恋人で評論家の山岡(徳大寺伸)が5年間の勾留から解かれて戻ってきたので嬉しい反面、獄中で衰弱しきってそのまま病院送りになったことについては頭にきていて、あの硬直した検事だの司法制度をどうにかしないと、ってぷんすかしていると呼んだか? って検事の河野(松本克平)が顔をだす。彼はひろ子の姉みち子(桑野通子)の旦那なのでどうにも面倒くさくてやなかんじ。

この後も戦後の司法への市民参加を巡ってひろ子と河野はことごとく対立して、河野はこの立ち回り如何によっては検事正になれるかも、って意固地で必死だし、彼を支える姉とのお家内事情だってあるし、でも山岡をあんな目に合わせた河野を許すことはできないし。

そんな時、ひろ子は同窓生だった朝倉さん(三浦光子)が乳児を抱えて道端で困窮しているのを目にして少し気にしていると、職場の事故で寝たきりだった彼女の夫が亡くなり、更にある晩混乱した朝倉さんが訪ねてきて、子供を誤って殺してしまった、と(彼女が訪ねてきて自分のやってしまったことを告白するシーン、カットなしでものすごいテンション)。

病状が日に日に悪化していく山岡からも励まされ、朝倉さんを弁護して河野と法廷で全面対決することになったひろ子は、そして挟まれてどうにも苦しいみち子は…

全体の分量からは大きくないが、これは”Saint Omer”から続けてみると、テーマとして連なるところの沢山ある(年齢差は70以上...)ど真ん中の法廷ドラマにしか見えなくて、司法は法を適正にドライブしたりエンジニアリングしたりの技術者に徹するべし、という河野と、世の中の事情や動きと乖離した法は人を殺すのでそんなのぜったいにおかしい、というひろ子の主張 - 要は法が先か人が先か - 正面からぶつかってすごい迫力なのだが、裁判の休憩時間に入ってみたら山岡は亡くなってしまうわ、みち子は河野の家を出るというわ、どんでんがあって、よし! って再びリングに向かうひろ子を正面からとらえて終わるの。

判決が結局どうなったかについて、映画のなかでは示されない - 圧力とか配慮とかいろいろあったのだろうか? - のだが、それでも十分「女性の勝利」と言いうるだけのいろんな材料は十分に示されていた気がした。

他方で、でもやっぱりごく最近になっても、司法って相変わらず法(と権力の、制度の)ドライバーにしかなっていないよね。まずは世の中のせいにして、だれに守られているのかなにを守りたいのか、目と耳を塞いで法と判例の方だけをみて適用/運用しているだけのしょうもない人たち(だらけのように見えてあたまくる)。

素敵な法衣(RBGの襟!)を纏ってヒールを履いて、しゃんと立つ田中絹代、かっこよいねえ。


胸より胸に (1955)

↑のひとつ前に見ました。
原作は高見順の小説、監督・脚本は家城巳代治、沼崎梅子が編集。独立プロ - 文芸プロダクションにんじんくらぶの第1作だそう。

戦後、浅草のストリッパーとして前向きにがんばる志津子(有馬稲子)がいて、彼女に勝手に思いを寄せる大学の助教授の波多野(冨田浩太郎)とその先輩で既婚(やがて離婚)の日下(下元勉)がいて、波多野は志津子と結婚してくれると思ったのにこいつらは高慢ちきの偏見まみれのなんでこんなのが大学にいるんだのどうしようもないクズ(あまりにひどすぎてびっくりよ)だったので見切りをつけて、彼女は結局傍に寄ってくるトランペット吹きの吉植(大木実)と暮らすしかなくて、でもこいつも結局はガサツな乱暴者のヒモでよくなくて、でもなんとか幸せを掴まなきゃってがんばって働いても踊っても疲れてきて…

北鎌倉で海に向かって突然走り出したり、弾かれたように踊りだす有馬稲子とか、町工場で明るく働く春江(久我美子)とか、ダメ男どもに「あんたが一番好きなのは「自分」だけなんだ」って冷たく言い放つ水戸光子とか、女性たちのすばらしさと比べて、あるいはみんなで合唱して(仕事は苦しいけれど~♪ とか)盛りあがる巷の暖かさと比べて、男たちのどうしようもなさばかりが最後までべったりと残って、しぶとく残るのがそっちの方ばかりなのはやはり残念だったかも。

この後に見たのが↑の 『女性の勝利』だったのでまだ救われたような。 逆だったらしんどかったと思うー。

2.21.2023

[film] Saint Omer (2022)

2月16日、木曜日の晩、米国のYouTubeで見ました。
2022年のいろんなベストの上位にリストされていたAlice Diop監督作品。確かにこれはすばらしかった。もっと早くに見るべきだった。

撮影は“Portrait of a Lady on Fire” (2019)や“Atlantique” (2019)のClaire Mathon。

39歳のFabienne Kabouが生後15カ月の娘を浜辺に置き去りにして殺した事件、2016年に行われたこの裁判を傍聴したAlice Diopが撮ったフィクション。この裁判での実際のやりとりも脚本には反映されているという。

冒頭、真っ暗な浜辺に向かって何かを抱えた女性が歩いている – 暗すぎてよく見えない – その夢でうなされているのを横にいた夫に起こされたのがRama (Kayije Kagame)で、最初の方は彼女が大学で教えている様子 - 『二十四時間の情事』(1959)で女性が丸刈りにされて引き回されるシーンを見せながらデュラスに言及する – と、夫と一緒に母のところに会いに行くところが映しだされる。そこでRamaの子供時代のビデオ、ビデオではない彼女の少女時代の回想?も出てくる。母は背中を向けてそっけない。

そこからSaint Omerの町に旅をしたRamaはそこで行われる裁判の傍聴の席につく。彼女はこの事件をもとに記事を書こうとしていることが後でわかる。

Ramaと同じくセネガルからフランスに来たLaurence Coly (Guslagie Malanda)が夜の浜辺に幼い娘を置き去りにして殺した事件についてのもので、遺体発見者の証言 - 最初は難破した移民船のかと思った – とか、逮捕の時の状況とか、セネガルの両親との関係、なぜセネガルからフランスに来たのか、フランスの大学では哲学を専攻したかったが父親と衝突して援助を切られ、かなり年上の既婚男性とつきあって囲われて彼の子供を妊娠して、病院にも行かずに部屋でひとりで子供を産んだ、などなど。大学でウィトゲンシュタインを専攻した彼女に対し、なぜセネガルから来てウィトゲンシュタインを?(という質問がとぶの。うるせえよ)

Colyの受け答えは終始落ち着いていて明晰で、子供の父親である男性の証言にも嘘はないようなのだが、ここで明らかにされた過去~現在までの事情や経緯となぜ彼女は娘を殺したのか、の核心に話が行くと彼女の供述がぶれたりよくわからなくなってくる – と追及する側も彼女も“sorcery” – 「魔術」について言及を始めたりする。果たしてそれは誰が誰にかけた魔術なのか?

法廷でのやりとりを聞いて誰もが困惑する。誰もが彼女を「理解」しようとする – でもできない/わからない – 彼女もわからない、という - それは何故なのか? 彼女の声を聴く、彼女を理解する、とはどういうことなのか?

法廷でのやりとりをじっと聞いてColyを見つめるRamaの姿 – それは彼女の内側にも向かっているよう - が何度もカメラにとらえられ – 更にホテルに戻ると倒れこむように横になったり、更にColyの母と話をしたりするうちに、妊娠4ヶ月であるRamaにとってColyの語ることがとても他人事とは思えない苦痛と共にやってくる – そこに彼女の幼い頃の記憶が重ねられていく。そして更に、やや唐突に接続される、パゾリーニの”Medea” (1969)の子殺しのシーンと。 混乱・錯綜している? おそらくそうではない…

ずっと無表情で感情を表に出さないColyとRamaが一瞬、目を合わせてColyが静かに微笑む瞬間の戦慄。

被告側の弁護士 (Aurélia Petit)による最終弁論 - カメラは彼女を正面から捕らえ、彼女もこちらを見据える – が凄まじい。これは人種、ジェンダー、階級、文化、権力、旧植民地と旧宗主国、歴史、などすべてに関わること - 見えていなかったこと、聞こえていなかった声についての、すべての女性に関わることだ、と。それを落ち着いて受けとめる裁判長 (Valérie Dréville)もすばらしい。見事な女性映画だと思った。

このシーンをやるために、Alice Diopは『私たち』のようなドキュメンタリーではなく、「物語」 - フィクションとして切り出す必要があったのだと思う。

同じことが日本で起こるとどんなことに/どんなふうになるか、容易に想像がつくし、いくらでも見てきた - 産後鬱による心神喪失状態、で片付けてなにも見ようとしない、見る必要がないという - ほんとにひどいわ。


NOUS (2021)

2月13日、月曜日の晩、Amazonで見ました。『私たち』、英語題は”We”。
Alice Diopによるドキュメンタリー。 同年のベルリン国際映画祭でEncounters Awardを獲っている。

冒頭、並んで森の奥の方を双眼鏡で眺める白人の親子がいて、どうも鹿を探しているらしい。
ここから始まって、パリのRER B線の沿線に暮らすいろんな人々のスケッチを、車の整備工とか大聖堂でルイ16世の死を悼む人々とか、姉の看護師についていく話、ドランシー収容所に収監された人々の記憶とか、作家Pierre Bergouniouxへのインタビュー - 自分の住んでいる場所に文学的アイデンティティを与えたかった - とか、監督自身の古いホームビデオのなかにいる母や家族たち、その記憶。そして最後に再び冒頭の親子たちを含む大勢での鹿狩り、に戻っていく。 

いろんな見えない、見えにくい、或いは自分のなかにしまわれていた人たちとその記憶。それらすべてを「沿線沿い」とか、「歴史」とかで適当に括って積みあげて、「私たち」として強引に引っ張りだして定義しなおそうとする試み、そしてそれは確かに「私たち」である/になるのだ、という強さ。こうして固定された画面が映し出す世界のなんと強く、くっきりと見えることか。

そしてこの強さ (=) 意志は”Saint Omer”にも継がれている。当然。Alice Diopのこれから撮る映画の出発点となる、宣言のような映像と「私たち」。なぜいま、これが必要なのか、ということ。

我々のよく知る「わたしたち」〜 矢野顕子の「愛するために愛してる わたしたち♪」にもこれは繋がるの。

2.20.2023

[theatre] National Theatre Live: The Seagull (2022)

2月14日、火曜日の晩、TOHOシネマズ日本橋で見ました。

上演はHarold Pinter Theatre - 日本食材スーパーのお向かい、なつかしい – で、チェーホフの同名の古典劇 (1895)をAnya Reissが脚色し、James McAvoyの”Cyrano de Bergerac” (2019) – あー見てないや – のJamie Lloydが演出している。

Previewは2019年の12月で、でも開始間もなくのCovidまん延によりPreviewのみで終わっていた – なのでこの公演は、2年間の中断を経ての(厳密には)リバイバルとなるのだそう。

NTLによくあるイントロ - 作家とか演出家へのインタビューもなしにいきなり始まる。ぼんやりした模様のように並んでいる影が形をとって、その焦点があうと簡素なステージ上に出演者全員が簡素な椅子に座って、横並びでこちらを向いている。服装も地味でシンプルで、壁はウッドチップの模様の壁紙がぺたんと、牢獄ほど冷たくはないがリビングのように暖かくもない。待合室? のような。

発話する場合は立ちあがって相手の方を向いてなにか言ったり合いの手を入れたりするものの、直接的なアクションに繋がったり激しい感情をのぞかせることもないし、その波動が周囲を急かして動かすこともない。どこか誰かに言わされているかんじ。言われなければぜったいチェーホフだとはわからない。ベケットとか不条理劇のような噛みあわないトーン。

母のIrina (Indira Varma)がいて、息子のKonstantin (Daniel Monks)の芝居が不評 – 貶されるというよりわかんないと言われる - で、母は人気作家のTrigorin (Tom Rhys Harries)と関係があり、そこに新進女優のNina (Emilia Clarke)が入ってきて..  会話が進むにつれて、舞台上にいる他の親族や村人たちとの関係も明らかになっていくのだが、家や場面の転換と共に扉をくぐったり抜けたりを通じてお喋りのアンサンブルやリレーが「物語」を「顛末」に向けて転がしていくチェーホフのコメディ/ドラマの騒がしさ、人々の密なかんじからは程遠い。

これってリモートワークでのZoomの会議みたいな建付けなのだろうか。ムダの塊のようなチェーホフの会話劇を効率化・生産性向上のツールであるZoomを介して洗濯してみたらどうなるか、って。 全員が縦横のグリッド上にいて等価で、派手に目立つことは憚られて、誰かひとりと話したくても全員に伝わってしまうので、ホットなやり取りは無理か、ってクリックして入ってからそこに居ることを強いられ、勝手に抜けるわけにもいかなくて、たまにフリーズしたりホワイトアウトしたり、などなど。でも、居心地わるくても伝えられるべきこと、決められるべきことはここでぜんぶ捌くべし、OK? などなど。

ぜんぶで二幕あって、幕間でライトが落ちている間もKonstantinは舞台上の椅子に座ってぼーっとしたり床に転がったりしていて – 夜の動物園のようにぼんやりと確認できる - 二幕目に入るとステージの一部が取り払われてより骨組みのみのメタ演劇っぽい広がりが現れ、Konstantinが劇作家として人気がでて有名になるにつれNinaとの距離も縮まっていくのだが、Konstantinのどんよりはっきりしない態度は変わらないままで… 名声とか影響力とか世代的なあれこれと同様、恋愛も芸術もとめどない片思いばっかしでなんか疲弊するねえ、どうしていったらよいのかしら.. みたいなところで終わる – 画面上からひとりひとり消えていくようにして。 はて、「かもめ」ってこんな話だったかしら? という圧倒的に腑抜けたかんじ(よい意味で)と共に。

これがWest EndデビューとなるEmilia Clarkeはきらきら圧倒的に光っていて、母役のIndira Varmaの過去に生きて動じないかんじも、ふたりに挟まれるTom Rhys Harriesの神話的に堂々としたかんじも、これに対してずっと途方に暮れた眼差しと表情で遠くを見たまま漂ってぼそぼそしたDaniel Monksがすばらしい。彼は障害者俳優なのだが、この人がこの位置にいることで芝居の像は変わるのか変わらないのか、それはどうしてなのか、などを考える。

他方で、このやり方でシェイクスピアでもイプセンでもピンターでもなく、チェーホフを上演することの意味を考える .. 程には自分はチェーホフを知らないのが残念だった。それなしでも十分おもしろいのだが。

ところで、直近の映画のMichael Mayerによる”The Seagull” (2018)って、結局日本公開はされなかったの? IrinaをAnnette Beningが、NinaをSaoirse Ronanが演じて、巧い人ばかりだったのでアンサンブルとしてはとてもスリリングでよくて、これと一緒に見たらいろいろ発見もあったかもしれないのにー、とか。

2.17.2023

[film] Hytti nro 6 (2021)

2月12日、日曜日の午後、シネマカリテで見ました。
”Babylon”で飛んできた飛沫だの糞だのを振り払おう、と。 英語題は”Compartment No. 6”、邦題は『コンパートメントNo.6』。

原作はフィンランド人作家/アーティストのRosa Liksomの同名小説、監督は1作目の『オリ・マキの人生で最も幸せな日』(2016)がとってもよかった記憶があるJuho Kuosmanen、フィンランド-ロシア-エストニア-ドイツの共同制作。2021年のカンヌでグランプリを受賞している。

冒頭、Roxy Musicの”Love is the Drug”ががんがん流れてくれてご機嫌。

90年代の初め、フィンランドからモスクワに留学している考古学専攻のLaura (Seidi Haarla)は専攻の教授のIrina (Dirana Drukarova)と関係を持っていて、ふたりで北方のムルマンスクにペトログリフ(Kanozero Petroglyphs - 紀元前2~3千年前頃の岩面彫刻)を見に行く旅を計画していたのに、彼女は突然行けなくなってしまい、送別パーティの後、一人しょんぼり旅にでる。

モスクワからの寝台列車(二等)に乗りこんでそこの6号コンパートメント(この数字が特に意味を持っているわけではなかったよう)に入ってみると、坊主頭でせかせかタバコを吸って酒の瓶を出して、目つきから何から見ただけでやばそうなロシア人労働者のLjoha (Yuriy Borisov)がいて、ムルマンスクで売春でもするのか、とか酷いことを言うので、これは殺し合いのホラーになる予感を帯びながら、女性の車掌のところに行って寝台を替えてほしい、って頼んで、別の客車も探してみるのだが空いていないので、仕方なく同じコンパートメントで向かいあって旅をしていくことになる。

Ljohaの言葉遣いがあれなので、Lauraは向かいの上の寝台にあがって恐々適当に相手をしていると敵はそのうちぐうぐう寝込んで動かなくなり、長めの停車時間のときに外に出て空気と光が変わるとふたりの様子も変わってLauraも言い返したり、よいかんじになってきたと思ったらフィンランド人のギターを抱えた若者が乗ってきて、Lauraとフィンランド語で会話を始めるとLjohaが拗ねて不機嫌になったり、LauraはIrinaと話をしたくて電話しても彼女がなんとなく避けようとしているようだとか、いろんなことを通過し、互いに「なんだこいつ?」を残しながらも少しづつ解けていく。

で、あとほんの少し雪が解ければ、というところで目的地に着いて(後ろ髪のようななにかが引っかかりつつも)気持ちよく別れてLjohaは勤め先の炭鉱に、Lauraは予約していたホテルに入ってペトログリフへのツアーを申し込もうとすると冬は危険なのでやっていない、と冷たく返され(そんなことも確認していなかった、と)、初めは仕方なく他のツアーに参加していたのだがやっぱり諦めきれず、聞いていたLjohaの勤め先を訪ねてメモを託すと..

ペトログリフがある場所の地の果て感がたまんなくて(行ってみたい!)、それに加えて地面に張りつくLauraを待っている間に雪原をぶらぶらしているLjohaの姿とかがよくてー。このふたり、なにやってるんだろう? って彼ら自身も思っているようなあったかいおかしみが。

既にいろんな人が言及している”Before” trilogyの、あからさまに仕組まれた魔法とはちょっと違う、詰め込まれた列車のなか、雪と氷の外界に挟まれて行き場を失った - あそこしか行くところがなかった - ふたりの、当人たちにも想像もしていなかったような溶解のお話。 甘い、というよりは温まり始めたカイロのように冷たいけどあったかい温度感。

主演のふたり - Seidi Haarla、Yuriy Borisovがとてもよいの。ふたりとも基本は笑わない仏頂面で刻々と変わっていく温度の変化に自分で驚き、寒さに震えながらなんとかそこについて順応しようとして、35mmのフィルム撮影だったというカメラはその微細な変化を捕まえている。(フィルムの現像がロシア国内ではできず大変だったみたいだけど)

“Olli Maki”の時にも思ったことだが、(よい意味で)少女漫画みたいだなあ、って思った。

2019年の初頭にモスクワからサンクトペテルブルクは列車で行った - 時間がなかったので夜行ではなく特急みたいなやつ – で、車窓の外の寒々しい暗さはとてもよくわかるし、Ljohaみたいにウォッカを水みたいにくいくい呑むロシアの人もいっぱい見たし会ったし、なんだかとても懐かしい。そしてかなしい。 プーチンがどれだけ酷いやつだとしても(やつだけど)、ロシアのこんな人たちとか土地まで嫌いになれるわけないじゃんか。また会いたいよう、行きたいよう、そのうちまたね、ということを改めて。

2.16.2023

[film] キクとイサム (1959)

2月11日、土曜日に国立映画アーカイブの特集『日本の女性映画人(1)―無声映画期から1960年代まで』から4本(うち1本は短編)を見ました。この日の1950年代の3本で描かれていることときたら、「教育」〜「就職」〜「結婚」それぞれのライフステージ(けっ)でのこと、それはそのまま今に繋がっているので、とっとと国を出たくなるやつ。

キクとイサム (1959)

監督は今井正、脚本は水木洋子で、彼女は成瀬のかわいそうで泣いちゃうやつを沢山書いている人なのでこれも覚悟して。キネマ旬報ベスト・テンの第1位を獲っている。

会津磐梯山麓の農村の学校でおもしろい歌で子供たちが縄跳びをしたりしている中にキク(高橋恵美子)とイサム(奥の山ジョージ)の姉弟がいて、子供たちの間で明らかに異なる外見のふたりは「くろんぼ」とか言われたり虐められたり蔑視を含む好奇の目で見られながらも、祖母(北林谷栄 – この時48歳って..)の畑仕事を手伝ったり母屋の若夫婦に助けてもらったりしながら暮らしている。ふたりの母は亡くなっていて父はアメリカに帰ってから連絡が取れないまま。

祖母が腰を痛めて病院に行った時の医師との会話(おらが死んだらふたりはどうなってしまうだ?)から、アメリカ人家庭に養子を送る取り組みがある、って話が転がってその団体の人が来て、キクはそんなの嫌だと拒むが、イサムはアメリカに行ってみたいな、というのでー。

ものすごく悲しい話になったらどうしよう.. だったがそうはならない(おばあちゃんも無事)し、キクがどこまでもドライで強いのはよかった。旅芝居の一座の前でタップを披露するところとか、ドッジボールで男子をぼこぼこにしていくところとか痛快で。

ふたりを養子に出す件について近隣親戚で議論するところで、「外国人」とか「ハーフ」に対する日本人の目線(偏見)や態度ってこの頃からぜんぜん変わっていないんだな… ってため息がでた。

どうでもよいけど、北林谷栄の顔がクリント・イーストウッドそっくりに見えることがあったり..


夕やけ雲 (1956)

監督は木下恵介、脚本は楠田芳子、撮影は楠田浩之。ポスターには「詩情あふれる名作」ってあるけど、こんなかわいそうな話ないし、なんでこれを「詩情」とやらで包んでしまえるのかしら。

洋一(田中晋二)は父(東野英治郎)が亡くなったあと、母(望月優子)とふたりで下町の小さな魚屋を切り盛りしてがんばっているのだが、金持ちのところに嫁いだ姉(久我美子)はしょっちゅう実家に戻ってきてはぶつくさ言っている。なんでこんなことに… って丘の上から夕やけ雲を見て思う洋一から始まるおはなし。

彼の小さい頃からの夢は船乗りになることで、叔父から貰った双眼鏡で窓から遠くの方を眺めたりしているのだが、父は病弱だし、恋人=金づるが信条の姉は相手をとっかえひっかえして、結婚式の日にもひどいことが起こるし、親友は北海道に行ってしまうし、双眼鏡経由でぼんやり憧れていた女性も嫁いでいなくなるし、やがて姉のことで激怒した父はそのままばったり亡くなって、妹は大阪の叔父のところに養子にだすしかないし、彼の道は魚屋になるしか残されていなかった、と。

金のことしか頭にない姉がぜんぶわるいんじゃないか、なのだが、そんな彼女の価値観を作って煽ってしまったのは当時の社会とか政治なので、そんなので洋一の我慢と選択をえらい、なんて言ってしまってよいのか(波風立てたり迷惑かけなければえらいのか)。でも、今もおなじような事情で諦めてしまう若者多数なんだろうな。

そして、洋一以上に一番かわいそうで報われないのはお母さんなのだと思うよ。彼女が決して自分の境遇や不満について口に出さない/出せないのってどういうことなのか、そこでも「詩情」なんてほざけるのか考えてみろぼけー、って。 映画はとてもよいのだけどつい。

木内克とその作品 (1972)

彫刻家の木内克についての30分のドキュメンタリー。脚本が楠田芳子で、↑で撮影担当だった夫の楠田浩之が監督をしている。
猫がいっぱいいたので、猫が彫刻をなぎ倒したり彫刻で爪を研いだりやらかしてしてほしかったのだが、それはなかった。


姉妹 (1953)

「きょうだい」って読むの。脚本は橋田壽賀子、監督は岩間鶴夫、撮影は厚田雄春。

犬猫病院をやっている笠智衆と沢村貞子には上から津島恵子、淡路恵子、美空ひばりの三人姉妹がいて、上ふたりの姉たちが誰と結婚するしないでひばりが歌ったり泣いたり怒ったりする。

まず建築会社の若原雅夫と津島恵子が同じ職場でつんけんしながらも津島恵子の方が想いを寄せていたらひばりが間に入って若原雅夫と淡路恵子を婚約させちゃって、今度は津島恵子がかわいそうだから、って金持ちの伊沢一郎を見つけてきたら淡路恵子がなんか彼の方がいいかも、って寄りはじめて、ひばりはいいかげんにしてよ、ってぶちきれて犬を連れて家出して…

結婚というゴールに向かって家の女性たちが総出でわーわー泣いて笑って喧嘩して、男性の方は大抵ずぼらかマザコンでなにもしないかにやにやしているだけ、というジャパンの「ホームドラマ」の原型は既にあって、その設定のソデで美空ひばりが歌ったり踊ったりする異様な世界なのだが、厚田雄春のカメラが笠智衆を捉えるとそこだけ別世界のようになるのがおもしろい。いや、あまりおもしろがりたくはないのだが。

これらで原風景のようなイメージとして近代化と共に受け容れられ広がっていった「ホームドラマ」の「ホーム」ってアメリカにも英国にもあるように思うのだが、これが今世紀に入った多様化うんたらへの反動として再び鎌首をもたげてきた、のがいまの家父長制ばんざい、の風潮なのかしら。とにかくうざいったら。

2.15.2023

[film] Babylon (2022)

2月12日、日曜日の午前、109シネマ二子玉川で見ました。IMAXレーザーででっかい糞尿を、というのも少し考えたがそこまでしなくても、と普通のスクリーンで。3時間を外で潰したくないのなら家で配信で – でも画面が小さすぎてもごちゃごちゃ過ぎてなにがなんだか、になるかも。むずかしい。

この“Babylon”も”Empire of Light”も作る側、受ける側の違いはあるけど、どちらも20世紀の「帝国」についてのお話で、どちらも人の生死を扱っている。(それがどうした)

既にあんな人もこんな人もみんな批判したりしているし、それぞれそうだよねえ、しかないのだがなんか書いてみる。いちおう、眠くはならないし退出する気にもならなかった。ただ終わってから3時間の肥溜めに浸かっていたようなかんじがじんわり、くらい。

上映前に「権利上の都合で一部に字幕が出ない箇所があるけど不具合ではないよ」 っていう表示がでる。これぞ”Babylon”、なんだわ(… どうでもよい箇所だった)。

Manuel “Manny” Torres (Diego Calva)が砂漠のなか生の象さんを運んでいて、ひいこらしながらお屋敷に運びこむと阿鼻叫喚のパーティが進行していて、女優になりたくてNJからやってきたNellie LaRoy (Margot Robbie)とか人気俳優のJack Conrad (Brad Pitt)が紹介され、でもそんなのお構いなしに雪崩のようなパーティは続いて、そのなかで死んでしまった女優の替わりにNellieに声が掛かり、JackはMannyに抱えられて家に戻る。 ここまで、30分以上経ってからタイトルがでっかくでる。

サイレントからトーキーに移っていく時代の変わり目、サイレントで膨れあがって爛熟期にあった産業のありようが冒頭のパーティの大騒ぎに集約されて、その宴の後、のようにトーキーの現場ではやり方や様子ががらりと変わって産業化・近代化され、そこにうまく順応するもの、適応できずに消えていくものいろいろ、かつて一世を風靡したJackには声が掛からなくなり、なんとかしがみついていたNellieはずるずる落ちていき、便利なラティーノとして使われていたMannyももう手に負えなくなっていくさまを撮影現場の様子と共に描いていく。

エピソードの重ねようはKenneth Angerの古典”Hollywood Babylon”から、登場人物もJohn GilbertとかClara BowとかAnna May WongとかDorothy Arznerとか実在した映画人への参照がいっぱいあるので、実際にかつてのハリウッドで起こったことを元にした歴史ドラマ、と見るのが正しいのだろう。そしてそんな変わり目〜栄枯盛衰を描いて、更にそれを1952年の時点からMannyが改めて振り返って泣く(あの1本でなんであんなに泣けるの?)、という構成をとっているのであれば、なんでこんなことになってしまったのか、の考察とか説明がないのって、あんまりではないだろうか。

リスペクトがない、とか年寄りくさいことを言うつもりはなくて、シンプルにわかんないのではないか、って思うの。なんでMannyやNellieはハリウッドを目指してそのサークルに入ろうと躍起になったのか、なんで彼らはそこから弾かれていったのか、なんでMannyは52年にあの映画を見て大泣きしたのか(←いまだにわかんない)。映画製作への夢とそれを実現しうる産業と資本があり、その構造が変わって、でもそれだけではない何かがあった/見えたからではないのか?

サイレント映画をいろいろ見る機会が増えて、それは見れば見るほど底なしの恐ろしい(きりがない)世界で、その後のトーキーのもプレ=コード時代のも、ものすごいことを達成し続けているのを知った(きりがない)。 そういうのをぜんぶなんとなく「映画」・「映画愛」みたいので括って人がわらわらモッシュしているなかに描くのって、とっても薄くて不誠実ではないか、そんなのITバブルの金勘定に浮かれていた連中と変わらない。歴史はそんなにシンプルなものじゃないし、映画が作ってきた表象にはとびきりの光とか美とか醜とか正義とか悪とかが現れていて、そのありようってそれまでの芸術が追ってきたそれらとははっきりと異なるなにかだった。その衝撃が画面から伝わってこない。こんな程度で”Babylon”て呼ぶのは100年早いわ。

もちろん、Damien Chazelleはそんなのわかっていて、そこも含めて描こうとしたのだろうが、フォーカスしていくのはやけくそみたいな糞とかゲロとかばっかりで、なんでかというと、やっぱりパワーとセンスがなかったから、としか言いようがない。 それか、げろげろのひどいシステムだったことに対して? でもゲロで済んでしまうのなら体制側にとってこんなに楽な話はないの。夢の裏返しとしてのゲロ - 「いいね」と同じ。

同じ映画史を扱っていても、“Nope” (2022)がどれだけ鋭いやつだったか、改めて噛みしめてみよう。

パーティのシーンだけみても、Baz Luhrmannのように(”Moulin Rouge!” (2001)と”The Great Gatsby” (2013))群衆を描けていない。90年代のPVで描かれるモッシュみたいに暴力的な粗さと雑さがあるだけで、惹かれない - あれを見て誘蛾灯のように吸い寄せられることなんてない、そういう弱さとか。

あと、動物全般に対する愛がないわ - ヒトに対してもそうか。 でも、ガラガラ蛇があんなふうに、あれだけの時間喉元に喰らいついたらふつう死ぬよね。(ここ、笑うべきシーンだったのかしら?)

2.14.2023

[film] Empire of Light (2022)

2月10日、金曜日の晩、米国のYouTubeで見ました。もう少しでこっちの映画館でも見れるのはわかっていたが、まずヘッドホンのでっかい音で籠って聴きたい/聴くべき、と思ったので。

Sam Mendesが監督、だけでなく初の単独脚本も手掛けていて、撮影(すばらしいー)はRoger Deakins、音楽はTrent Reznor & Atticus Rossで、冒頭、ピアノのシンプルなノートにぽつぽつと弦が絡まって膨らんでいくところに扉が開いてライトが点いて、無人だった映画館が開かれていくシーンに連なるところがたまらなくよくて、それだけでもうー。

1980年頃、英国のMargateの海岸沿いにある映画館(シネコンなんて下品なやつではない) – Empire Cinema(実際には1923年に建てられて2007年にCloseされたDreamland Margate Cinemaというとこ)があり、Duty ManagerのHilary (Olivia Colman)が朝に映画館を開けて、従業員がやってくる - 映写技師のNorman (Toby Jones)とか、よい面々が働いていて、支配人のDonald Ellis (Colin Firth)は、堅物できちんとしていそうだが、オフィスの裏の暗がりではHilaryと性的関係をもっている。

そこに新人のStephen (Micheal Ward)が来て、移民の母親と暮らしていて2 Tone Recordsのあれらに熱中している黒人の彼は、最初のうちは接客態度が酷かったのでHilaryに怒られて、Stephenは素直に謝って、休憩時間に館内の使われていなくて廃れてしまったエリア(4つあったシアターのうち、2つとラウンジは閉鎖されたまま荒れ放題)で怪我をしてうずくまっていたハトの世話をしたりしているうちに仲良くなっていく。

建築を学びたいという夢を持っていて人種差別に対する怒りを露にする若いStephenにHilaryは寄せられていくのだが、彼に惹かれれば惹かれるほど現在の自分との不相応 - 過去に病院に入っていて今も通っていること、Ellisとの関係、年齢のギャップ、等で苦しくなってきて、それが映画館の一大イベント - 市長などを招いた“Chariots of Fire” (1981)のリージョナル・プレミアの場で爆発する - 勝手に壇上にあがってW.H.オーデンの”Death’s Echo”を朗読して、Ellisの妻やみんなの前で彼との関係をなにもかもぶちまけて、そのうち自宅に籠っている彼女のところに施設の人がやってきて…

他方でStephenは、海岸沿いの道をいくNational Front(極右)の示威行動に巻き込まれて大怪我をして病院に運ばれ、病院に詰めて回復を祈るHilaryに看護婦をしている彼の母(Tanya Moodie)はわかるでしょ、もう会わないでやって.. って。

いろいろ傷ついて疲れきって、もう回復-復帰は難しいかも、と思われたHilaryはある晩、映画館が閉まった頃に現れて、Tobyに何か映画を見せて! と頼むと、彼がかけたのは..

過去の恋愛などで傷ついて動けなくなってしまった中年女性と人種差別などに直面してくすぶっている黒人の若者と、社会の片隅に追いやられている二人が恋をして、でもそこにはいろんな壁がー。でもこれって、話を追っていくとふたりがそういう壁を乗り越える話ではないし、Hilaryが映画によって救われる話でもないような気がする – どちらかというと彼女を救ってきたのは詩 – A. Tennyson, T.S. Eliot, W.H. Auden, Philip Larkin – のようだし、彼を支えているのはRude Boyのメンタリティだし.. そして彼女は彼に「あなたはここにいちゃだめ。町を出なさい」という。

TobyがStephenに映写室で映写の仕方を教えるシーンがあって、映画は一方の光源が向こうのスクリーンに像を結ぶ、一秒間に24フレーム動くけど、その間の暗闇は見えない、それだけのものなんだ、って。そんなそれだけのもの、と、実際の映画のなかで展開されるテーマとか物語がどうしてそんなふうに人を虜にしたり救ったりするのか、更には主人公のふたりにとってどんな意味を持ちえたのか、が示されないのはちょっと残念だったかも。言いたいことはわかるし、”Empire of Light”の域ってきっとどこかにあると思うし、貼ってある当時のポスターを眺めているだけでじーんとするのだが、どうも主人公たちの動きや伝わってくる痛みと像を結んでくれないような。

おそらく、Steve McQueenが“Small Axe” (2020)のシリーズ - “Lovers Rock”の回とか– でやりたかったことを映画を題材にやりたかったのではないか。いやわかんないけど。

音楽はHilaryが部屋でかけているJoni Mitchellの”You Turn Me on, I’m a Radio”とか、従業員が休憩で寛いでいるときにかかっているSiouxsie and the Bansheesの"Spellbound" (1981) - 「これだれ?」 の声に「MagazineのJohn McGeochが..」と言っているのが聞こえる(ここ、脚本に書いてあったのだとしたらえらいわ)(あの休憩室ではThe Fallとか流れたのかしらん?)。

あと、Hilaryが怪我したStephenをお見舞いするときに彼へのプレゼントとして持っていくレコードがThe Beatの”Wha'ppen?” (1981)なの ← えらい。他にThe Specialsの”Do Nothing”なんかも聞こえてくるよ。

それにしても、映画に出てくる映写技師の人ってみんなとても人間ができているよい人ばかり、っていう気がするな。

昔の古い映画館て、本当に素敵で扉をくぐってシートにうずくまるだけでなにかが満たされるかんじがあって、もう東京にはなくて、NYもダウンタウンにあったLandmark Sunshineを最後になくなった – BrooklynにはまだBAMのRose Cinemaがある。LondonはMayfairのCurzonとか(もう改装しちゃったかしら)。そういうのって、フィルムかDCPか、以上に大事なことだとおもうー。

この2日後に見たやつも、来月くる”The Fabelmans”も、最近はみんな映画が大好き/すばらしー、って隠そうともしていなくて、この映画も映画愛・映画館愛に溢れているようで、ここまで手放しで愛を語られると、映画、そんな好きじゃなかったかも、って言いたくなってしまうし、上に書いたようにこの映画は欠点だらけなのだが、でもこの映画はどうにもどうしても嫌いになれない..

2.13.2023

[film] Rien à foutre (2021)

2月6日、月曜日の晩、MyFrenchFilmFestivalで見ました。

先日発表されたここのコンペティション部門でグランプリを受賞したそう。
英語題は”Zero Fucks Given”、邦題は『そんなの気にしない』。
作・監督はJulie LecoustreとEmmanuel Marreの共同で、これが彼らの初長編作となる。

Cassandre (Adèle Exarchopoulos)はヨーロッパをベースとする架空の格安航空会社Wing - 青と黄色の派手な制服がRyanairに似ている – で契約社員として働く客室乗務員で、勤務中の彼女は真面目で、機内販売の売り上げ(ノルマあり)を少しでも上げるべくセールストークと愛嬌をふりまいて、搭乗開始までの短時間での機内掃除とかにも懸命で、でも勤務が終わってオフになると乗務員がベースとしているスペインの島のクラブで飲んで踊って、デートアプリ用の写真を撮って投げてその晩の相手と駆け引きしたり、むくんだ顔で遅刻することもあるけど、べつに切り替えてるんだからいいじゃん、て。

この辺の「うっせーんだよ知ったことか」(原題直訳)モードを演じるときのAdèle Exarchopoulosのふくれっ面と無表情と作り笑いの線上にある多重線の顔と流れ作業のどうでもいい感満載の態度ときたらものすごく巧くて絶妙で、それがこの仕事の働けど働けどーのかんじに見事にはまる。飛行機映画というジャンルのなかでパイロットでも乗客の側でもなく、客室乗務員同士のチームワークや友情にも踏みこまず、ハラスメントまみれ(あからさまなのも自動音声対応とかも)の労働としての過酷さとつまんなさにダイレクトに触れたのってこれまでそんなになかったのではないか。

年末で勤務の要請コールが入ったときも即受けて、実家には忙しすぎて帰れないから、と伝えて、やがて彼女の母親が事故で亡くなっていることがその理由のひとつであると。

そのうち会社との契約期間が切れて、このまま職場を去るかランクが上のパーサーになるべくマネージャーの研修を受けるか、会社からは選択を迫られ、このままでいいんですけど、と言っても受け入れられなくて、同僚とはやっぱし夢はエミレーツだよねえ、ずっとここにいてもなあーなどと話している。仕方なくそのままマネージャーの研修(笑顔とか事故対応とか)を受ける彼女の死ぬほどつまんなそうなかんじはとってもよくわかる。

で、そうやって少し偉くなっても責任(どうでもいい系)の面倒で重いのばかりが寄ってきて、変わらず傲慢な男性客のグチだの「ご意見」だのを聞かされ、機内で落ち込んで泣きだしたおばあさんを助けようと自分のカードで赤ワインを買ってあげたら重大な規程違反だって怒られてあーあ、ってなって、エミレーツは無理だったけどドバイのプライベートジェットの会社に移った友人の紹介でそこの面接を受けてみたりする。

終わりの方は、そうしてCassandreが会社を移る合間にベルギーの実家に戻ると、妹と父(Alexandre Perrier)がいて、父親は彼女の仕事のことでシジェクのようにねちっこく絡んでくるので、あーこれじゃ実家に帰りたくないのわかるわ、だったりするのだが、父は母の死因についても諦めず何度も困った再審請求をしていて、でも実際に事故の現場を訪れてみるとなんとも言えなくなってしまう。母の死は仕事のようにどうでもよいことではぜんぜんなくて、それは母との記憶を共有する父にも妹にとってもそうなのだった。

最後、Cassandreはドバイ – みんなマスクをしている – にいてショッピングモールの広場に突っ立ってライトショーを眺めている。ばかばかしいくらいにでっかくてすべてが嘘っぽくて – わかる – そういうのを前に改めて襲いかかってくるほんっっとあれこれどうでもいいわぼけー、なかんじがひたひたと満ちてきて、でももうたぶんだいじょうぶかも、って。ドバイの土地とその空気がそうさせたのかも知れないけど、それすらどうでもいいけど、べつにいいやー。

恋愛の話も結婚の話もちっとも出てこないし、前向きな将来とか希望とかも見えないしどうでもよいし、そこがまたすばらしくよいの。だってそんなのほんと大きなお世話だし、そういうものじゃん?
こういう映画、もっとあっていいのに。

2.12.2023

[film] Fall (2022)

2月5日、日曜日の昼、シネクイントで見ました。
監督はScott Mann - 彼の”Heist” (2015)は飛行機で見た気がする。 邦題は『Fall/フォール』。あのバンドとは関係ない。

冒頭、Becky (Grace Caroline Currey)とDan (Mason Gooding)の夫婦とHunter (Virginia Gardner)の3人が岩山の断崖絶壁を登っていて、Beckyが半泣きでもう無理ってなっているところをあとの二人が励ましているのだが、上にいたDanが穴に手を引っ掛けたところで岩穴の中にいた鳥に突かれて底に落っこちてしまう。

そこから1年経ってもBeckyは酒浸りの世捨て人となって家でごろごろしていて、心配してやってくる父 (Jeffrey Dean Morgan)にもどうすることもできなくて、でもBecky自身もほんとはそろそろどうにかせねば、と思っている。 と、Hunterがドアをノックして、このままじゃだめだー外に出てなんかやろうよ、って言う。

“Danger D”っていう名前でYouTubeの番組を持ってて物理的に高かったり脆かったりの危険な場所に自分で行って体当たりルポするやつでフォロワーが6万人いるHunterはあの件については自分も責任を感じているし二人で一緒に乗り越えなきゃいけないことだ、って次のターゲットとして原野の真ん中に一本だけ立っていてもう使われていない地上600mのB67 TVタワーに登ることを提案する。その上に行ってDanの遺灰を撒こう、と。

Backyはもう高いところは嫌だ、っていうのだが、Hunterはそこから踏み出さないとダメだ、ずっとダメなままだ、とかなんとか説得して、誰かに強く背中を押して貰いたかったBeckyも同意して、二人で現地に向かって立ち入り禁止の柵をまたいで下から登り始める。塔の下では死にかけた犬を禿鷹みたいのが突っついていたり、登り始めるといろんなネジが緩んでいたり、不吉なのだがそんなのは序の口なのだった…

高所恐怖症の人はだめかも、は確かにあるけど、それ以上にBeckyを誘いだす「親友」の誘い文句と、そもそもの根っこの動機が自分の番組のView数獲得にある、っていう辺りの方が怖くて気持ち悪くて、そうするとやっぱり、天辺に着いたところでその真下から数十メートルくらいの足場が落ちて戻れなくなってしまう。塔の下のほうに人影があったので騒いでみても気付かれずに車だけ盗まれてしまったり、スマホの電波なんて来るわけないし、撮影用に持ってきたドローンはバッテリー切れちゃうし、さあどうするのかー。

この先は高いところの恐怖との戦い、というよりはサバイバル・ゲームのようになっていって、飢えに寒さにハゲタカに嵐に、いろんな危機がかわりばんこにやってくる。あとさー、あの高さだと風で相当に揺れて船酔いみたいになると思うのだが、そこを描くと観客が酔っちゃうから外したのかしら。

とにかく塔の上に取り残されていることを誰でもいい地上の誰かに伝えて911してもらうしかないのだが、TV塔は一番近い道路脇のダイナーからも離れすぎているし、彼女たちはそこから更に600m上なので地上からは点でしかないし、誰かが来たとしてどうやって救うのだろう? 布団か?

こういう映画の常として最後まで落っこちないでなんとか引っ張るべく緊張感だけはばりばりにきて眠くはならない(ああ、日曜日の昼に見るやつじゃなかった..)し、シンプルなシチュエーション(棒が一本)でよくここまで詰めこんだ、と感心はするものの、やはり無理やりBeckyを巻き込んだHunterの身勝手さと、なんで誰にも伝えておかずにこんなとこに来てこんなことやるの? っていうあたりになんか腹がたって、これなら犯罪などに巻き込まれて否応なしにーにした方がまだ、とか思った。途中、ふたりのDanを巡るエピソードでそれらしくなるところでそうか、とは思ったけど。

すべては地上に向かって落っこちていく彼女の走馬灯だった… でも、落っこちていく彼女をGhostとなったDanが… でもなかった。 あと、iPhoneてああすれば丈夫なのだろうか?  実際にやってみれば宣伝にもなったかも。

彼女たちの撮った動画はあのあとどうなったのかしら? Discovery Channel?

“Fall 2”は平穏な日々を送っていたBeckyのところにJackassのチームが声をかけてくるとみた…

2.10.2023

[theatre] MET Opera: The Hours (2022)

2月4日の昼、東劇で見ました。
日本のタイトルは『METライブビューイング: ケヴィン・プッツ《めぐりあう時間たち》』

Metropolitan Operaは92年にFranco Zeffirelliのプロダクションの”Tosca”を初めて見て、なかなかの衝撃を受けて90年代の中頃くらいまで集中して(右も左も状態だったので)メジャーなのばかり見て、途中からバレエの方に興味が行ってしまったものの、寒さに震えながら窓口に並んだこともいっぱいある相当に愛着のあるシアターで、だからストリーミングなんて.. だったのだが、これは別かも、と。

Michael Cunninghamによる同名小説(1998)~『めぐりあう時間たち』、これを原作とするStephen Daldryの同名映画(2002)の両方にインスパイアされてMETが製作したオペラで、METにとってはRenée Fleming – METに通っていた頃、彼女はぴかぴかのスターだった - の5年ぶりの復帰、という話題もあるそう。
作曲はKevin Puts、リブレットはGreg Pierce、演出はPhelim McDermott。

Stephen Daldryの映画版は、脚色がDavid Hare、音楽がPhilip Glass、主演の(ひとり)Nicole Kidmanはオスカーの主演女優賞を獲って、こないだ改めて配信で見直してみたが、やはりすばらしかった(とても好きな1本)。映画の方はPhilip Glassの多重で多層な音を接着剤として3つの時代と場所をつなぎ目なしに繋いでいって、どんなに繋がっていたって人はみんな悲しい~(どうせ死んじゃうし)、というただの事実を放りだしてくる。この絶望に近い、かといって落ちこむこともない低体温の温度感が舞台、それもオペラだったらどう表現されるのか、など。

1999年のNY - マンハッタンで編集者をやっているClarissa Vaughan (Renée Fleming)と、
1949年のLAでどんより主婦をしているLaura Brown (Kelli O’Hara)と1923年の英国リッチモンドで小説『ダロウェイ婦人』を書こうとしている作家Virginia Woolf (Joyce DiDonato)、この3人のある一日を描く。(松竹のサイトにある年代は映画版のやつではないか? 映画版の設定だと最初に1941年 – Woolfの自殺した年、1923年、1951年、2001年)

映画版ではそれぞれの時代の登場人物の動作がぱたぱた自在に重ねられ連なっていったりしたが舞台でそれは無理なので、向かって左にClarissaの、真ん中奥にLauraの、向かって右にVirginiaのセット、というか場所(” A Room of One's Own”)があり、それぞれにその時代やそこで囲まれているものが構成するカラーのようなものがあり、でも出来事ややりとりは舞台の真ん中で起こり、局面によってはそこに大勢のシンガーやダンサーが群がって静かに波を起こす。更に、たまに男性のカウンターテナーが天使のように寄って歌声を添える。

Clarissaは作家で詩人で長年の友人Richardの授賞記念のパーティを開こうと花を買いに行くところから、LauraはLAの大きな一軒家で息子のRichardと一緒に夫の誕生日のケーキを焼こうとしていて、Virginiaは何度目かの自殺未遂のあと、新たな小説”Mrs Dalloway”を書きだそうとしているがうまくいかない。このすべてがどこかつっかえてうまくいかないかんじがそれぞれを鬱とか死に向かわせる or 夢見させる。(Clarissaだけはちょっと別の位置にいて、例えば映画版でVirginiaが“Someone has to die in order that the rest of us should value life more.”といい、Clarissaが“That is what we do. That is what people do. They stay alive for each other.”という、そんな違いが)

この感覚 - 朝起きたり夜寝る前に死んでしまいたい/死んでしまおう – と思い、そのうちやってくる出来事や人に対してすべての意識がここを中心にぐるぐる絡み取られ囚われてしまうかんじ、その時間(The Hour)がテーマなのだと思ってきたので、このような各個人の頭の中で反響しつつ閉ざされていくようなものをどうオペラの舞台上で表現するのだろうか、と誰もが思いそうな難題に正面からぶつかって、ある程度は成功しているように思えた。

ある程度、というのは、舞台上でそれが複数の声として重ねられてしまう以上、孤独な内面の声として閉ざされることはないので、そこに到達することはできないのだ、ということ。 でも他方で、そういう状態をそこらじゅうにあるものとして(だってあるじゃん)大っぴらにさらすことはできる。ここに希望とか共有とか、そういうのが持ち込まれたら台無しになったと思うのだが、そこまではせずに、VirginiaとLauraの、LauraとClarissaの声/歌や嘆きをひとつの舞台上で重ねることができる。Virginiaの書いた本の言葉がLauraに読まれて反芻され、それをRichardが眺めてClarissaに愛をこめて吐きだす、その時を隔てた連なりが人の波とその声によって形をつくる。

おそらく、もちろん、人によってその聴こえ方、見え方は微妙に異なってくるだろうし、配信の画面ではっきりと見える登場人物たちの表情が、あそこの客席から見たらどうか、というのはあるだろうが。あと、音楽劇としてみたとき、テーマの反復はあってその場は盛りあがるけど、後に残らない弱さと軽さはどうしてもある、かな。身も蓋もなくエモを揺さぶる旋律でもうねりでも、あってもよかったのでは。

Virginia Woolfの衣装がよかった。映画版の不満のひとつは「死にたい」ばっかり言っている彼女のいでたちがなんであんなにおしゃれなのかしら、ということだったが、今回のはとてもイメージに近いかも。

舞台でLauraが読んでいる”Mrs Dalloway”はVanessa Bellが表紙を描いたHogarth Press版のように見えた(けどちょっと違うような)。映画に出てくる本は、アメリカの普及版というかんじ。どうでもいいけど。

もう3年以上前になるけど、Monk's Houseに行った帰りに、Virginiaが自殺をした川にも寄ったの。また行きたいのだがMonk’s Houseは4月までCloseしてるんだ…

[film] The Northman (2022)

2月3日、金曜日の晩、シネクイントで見ました。節分ぽいかも、と思って。 上映後にトーク付きの回。 邦題は『ノースマン 導かれし復讐者』。

監督はRobert Eggers、ストーリーはRobert Eggersとアイスランドの作家・詩人Sjónの共同。
監督の前作”The Lighthouse” (2019)が男同士のどす黒いでろでろだったし、予告を見てもヴァイキングのむきむきべろべろで米国1/6のテロに参加していた白人バカを思い起こさせるし、あんま積極的に見たくないままで来て、でもこの回はトークでお勉強もできそうだったので見た、くらい。筋肉も男も、その喧嘩も基本まったく興味ない。

紀元895年、遠征に出ていたAurvandil王 (Ethan Hawke)が北の方の自分の島に帰ってきて女王のGudrún (Nicole Kidman)と息子のAmlethに暖かく迎えられて、でもその晩、王は何を予知したのか王子の即位に備えた儀式を道化のHeimir (Willem Dafoe)に執り行わせて、Amlethは王になにかがあったら絶対にその仇を討つこと、を脳に刷り込まれる。で、その翌日、前の晩は温厚に見えた叔父のFjölnir (Claes Bang)がAurvandilを襲ってその首を落とし、泣き叫ぶGudrúnを奪い、Amlethも殺そうとするが彼は押さえこんできた奴の鼻を食いちぎって海の方に逃げる。

数年後、ロシアの地で筋肉まみれの立派なオトコとしてできあがったAmleth (Alexander Skarsgård)はヴァイキングの一団として乱暴略奪三昧の日々を送っていて、村を襲った際に目の見えないBjörk(たぶんなんかの神)に会って妖狐の尾に従って行くのじゃ、みたいなお告げを受けたので、奴隷(スラブ→スレイブ)になりすまして奴隷船に乗りこみ、そこで出会った呪い師のOlga (Anya Taylor-Joy)と共にFjölnirのいるアイスランドに向かう。

王位を奪われ追われて普通の村の豪族になっているFjölnirはGudrúnと結婚して子供もいて幸せそうで、Amlethは彼に買われた奴隷としてこき使われながら、別の魔女に魔剣(Draugr)の場所を教わってそれを入手し、殺し合いゲームでFjölnirの息子を救ったりして認められ奴隷たちの間でめらめら頭角を現して、Olgaと一緒になって復讐の機会を狙っていくとー。

本当にシンプルでわかりやすい、男は食うか食われるかでぼかすか殺りあっててっぺんを目指す単細胞で、女は賢く謎めいた魔女みたいなのばっかりで、最後は見事になんも残らない復讐のお話し。狐とか、動物だけがかわいい。でもそういうのがヴァイキングのサーガとして残って広く読まれたりもしているのだから、筋肉を鍛えて戦ってよかったではないか、とか。

最初、Nicole Kidmanがキャスティングされたと聞いて、なんで彼女が(こんなのに?)って思ったものだが、そういうことだったのか。やはりEthan HawkeとかAlexander SkarsgårdとかWillem Dafoeあたりじゃ歯が立たないし、敵じゃないよね。 続けてNicole Kidman視点で、”The Northwoman”を作ってほしい。

1000年以上も前、極北の厳しい環境のなかではあんなふうにして体を鍛えて生き残るしかなかったのだ、生きろ、なのかも知れないが、同じような略奪とか復讐とか殺し合いはいまも世界中の愚かな男たちの間で大陸を跨いでいっぱい起こっていて、それでも飽きずに繰り返されているってなんなの?

同様に、世界を股にかけなくても、たったふたりで嵐の灯台に籠っているだけでもあんなふうになっちゃうんだからオトコの頭の中には殺し合うための変なムシでもいるにちがいない、っていうあたりがRobert Eggersの追っているテーマなのだとしたら、少しはわかるかも。わかってどうなの、はあるけど。

上映後の松本涼さん、小澤実さんによるトークは、映画のなかに出てくるいろんなシンボルとか表象が中世アイスランドの神話やヴァイキングの神話のなかにもきちんと出てくる、しかもそれなりの狙いや考察をもって持ち込まれたものであることがわかって興味深かった。

特にユグドラシル(世界の真ん中の大樹)とファミリーツリーの重ね合わせとか、サーガにおける女性の描き方とか。Neil Price教授の本 - ”Children of Ash and Elm: A History of the Vikings”は見つけたら読んでみたい。

映画で描かれたマスキュリニティぱんぱんの世界の生き辛さとかを見て、こんな世の中だったら生きたくないよなー、少子化進むよなー、って思ったところにサーガのいろんな要素が現代にも流れ込んでいるという件を聞いて、そうかだからかー、とか。

“The Green Knight” (2021)にしてもここのにしても、こういうのに出てくるキツネはなんでみんなあんなにかわいいの?

音楽、やっぱしデスメタルみたいなのにはしなかったのかー。サントラだけ置き換えるのやってみない?

2.08.2023

[film] Portrait of Jason (1967)

2月1日、水曜日の晩、国立映画アーカイブのAFA特集で見ました。
『ジェイソンの肖像』108分。監督はShirley Clarke。

1966年の12月、チェルシーホテルの一室で、カメラに向かって喋ったり歌ったりする42歳のアフリカンアメリカン - Jason Hollidayの姿を12時間に渡って撮ったもの(を編集した)。モノクロで、フィルム交換の際にもカメラは回っていて、Shirley Clarkeやスタッフの声も入ってくるし、Jasonの友人(恋人?)が声を掛けたりもするが、彼らの姿は見えない。煙や白い背景のなかに浮かぶのも消えるのもJasonのみ。

最初に自己紹介して、と言われると彼は詐欺師だ、ってにやにや笑って、生い立ちについては本名はAaron Payneで、サンフランシスコのノブヒルの白人のお屋敷でハウスボーイとして働きながら悪いことを覚えて、そのままずるずる流れていまはビッチでー、などの身の上を語りながらタバコを吸って酒を呑んで酩酊していって、なにを語ってもなにしろ自分は詐欺師なんだから信じるも信じないもー、のようなところを這いずりまわって怪しいったら。

彼の喋りが少し止まると、横から「あの話は?」「あの件は?」のような合いの手が入ったりするので、彼のこのような語りはレパートリーとしてすでに出来上がっているものらしく、それについて得意に喋りだしたり、”Funny Girl”からの曲を歌ったり、Mae Westの真似をしてご機嫌になったり、かと思えば横にいるらしい恋人の俳優 - Carl Leeから彼を「嘘つき」とかなじる言葉が投げられて「ひどいよ」って泣き出したり、フロアに横になっちゃったり、こんなふうに錯乱した酔っ払い – おそらく実際に酔っ払っている - の挙動百態を目の前でやられたらあれだけど、このフィルムについては、そのようなJasonの肖像が靄の向こうから形をとってくっきりと現れてくる。傷だらけで、でもアメリカの地下や扉の向こうでしたたかに生き延びてきた誇り高きクィアの女王が立ちあがるようで、それはJasonが自身で描いた自画像とShirley Clarkeがフィルムによって描こうとした肖像のギャップや重ね絵も含めて、そこに生きている人の像を確かにとらえている。

あと、Frederick Wisemanの人物に対するアプローチって、これに近いのかも(WisemanはShirley Clarkeの”The Cool World” (1963)のプロデューサー – これが彼のキャリア最初期)というのを改めて。


The Personals: Improvisations on Romance in the Golden Years (1998)

2月2日、木曜日の晩にAFA特集で見ました。↓の”Primary”との2本立て。
監督・編集の伊比恵子がNYUの卒業制作をもとに作った短編。アカデミーの短編賞を受賞している。

マンハッタンのダウンタウンにあるコミュニティセンターで、演劇をやってみよう、のようなクラスで演じることの楽しさに目覚めていく(←全員がそうではないけど)ユダヤ系の高齢者の男女の姿を捉えたドキュメンタリー。劇のタイトルは”Improvisations on Romance in the Golden Years”、内容はナンパや広告を介しての出会いから始まる恋とか、入れ歯を洗っていても手術しなければならなくなっても恋はしたいし起こるし何が悪いのさ? っていうもので、そこに参加者それぞれのこれまでの、そして現在の生の姿が被さって、更に、次の年次ではクラスが行われなくなるかも、ってみんなしょんぼりしたり。それでも最後にはリハーサルを重ねてきた劇の本番のお披露目で、ステージ側も客席もみんな幸せそうでよいなー、って。この辺を機に老人たちががんばるコーラスのドキュメンタリーとかいろいろ出てきた気がする。

撮る方が(おそらく相対的には)若くて、撮られる方は撮る側には思いもつかないような老いの境地にあるという撮る側 – 撮られる側の違い・ギャップについて、これは↑の”Portrait of Jason”にもあったものだが、いろいろ考えさせられる。

あと、自分もそろそろ人ごとではなくなってくるかんじとか。
ここに映っているおじいちゃんもおばあちゃんももうみんなこの世にはいないんだろうな.. とか。


Primary (1960)

ドキュメンタリー映画の潮流「ダイレクトシネマ」の発火点となった記念碑・教科書的な作品、として十分に有名な1本。 邦題は『予備選挙』。 製作・監督はRobert Drew、撮影にはRichard Leacock, D. A. Pennebaker, Terence Macartney-Filgate, Albert Mayslesといった錚々たるメンツが参加していて、手持ちの移動撮影がほとんどのはずなのに、モノクロ画面の風格というか、どこを切っても写真集、のような落ち着きっぷりときたらすごい。

1960年のアメリカ大統領選挙に向けた予備選挙 - 民主党の候補者指名を争うJohn F. KennedyとHubert Humphreyのウィスコンシン州での選挙戦の模様を追っていく。よく見るニュースフィルムとどこが違うのか、というと恣意的なストーリーとか結果とかへの誘導志向の薄さ、というか垂れ流しで撮っていったものをばさばさ編集しているかんじ。

なので、どこにでもいそうな野暮ったい田舎のおっさん風のHumphreyとジャッキーも含めて若くきらきらのJFKとの対決はなにが対決なのか、対決になりうるのかすらよくわからず、ふたりの人物の周りにいろんな人々が寄っていく、その波の揺らいでこっちに来るかんじ(ダイレクトななにか)が伝わってくる。

地域社会っていうのは確かにあるんだねえ、というのがこないだの”Harlan County U.S.A.” (1976)と同じように見えてきて、よくわかんないけど興奮してしまうのだった。

2.07.2023

[film] 특송 (2022)

1月29日、日曜日の昼間、シネクイントで見ました。
原題を翻訳にかけると、”Courier”とか”Express”とか。英語題は”Special Delivery”、邦題は『パーフェクト・ドライバー/成功確率100%の女』←ださい。

ウナ(パク・ソダム)は港湾の隅にある小さな(闇)搬送業者「特送」に雇われているドライバーで、依頼ベースでやばいブツとかヒトを高い成功率で目的地まで運びマス、っていうのをやっていて、冒頭のイントロでも依頼人を乗せて剛速球で港まで運ぶやつで、依頼人は車に乗りこむなりオンナじゃねえか!? ってなるのだが、直後に車内に叩きつけられシートベルトしな、ってそのでんぐり返った状態でジェットコースターのライドで攪拌されてへろへろの状態で任務完了、っていうお約束が楽しい。 彼女が戻った先の「特送」の社長のおじさん(キム・ウィソン)と移民のメカニックの青年とのチームもよいかんじだし、彼女のアパートにいる猫のポドンが(名前も含めて)かわいいのでそれだけでー。

野球賭博との関わりがばれてしまった元野球選手のタレントとその連れ子のソウォン(チョン・ヒョンジュン)のところに警察/やくざのギョンピル(ソン・セビョク)率いる一団が現れて父親を脅してぼこぼこにする。父親はこうなることを見越して偽造パスポートを用意して「特送」に密航するポイントまでの移送を頼んでいたのだが、自分が助からないことがわかると、ソウォンにブローカーとして稼いだ300億ウォンが入った貸金庫の鍵を託して彼ひとりでウナの待つ車のところまで走らせる。

泣きながら車に向かって走ってくるガキを見たウナは、子供嫌い(お約束)なので無視しようと思ったがしょうがねえ、って渋々乗っけて、車を取り替えたり(その場にある車を借りてさくさく逃げるところがよいの)ソウォンのお漏らしパンツを取り替えたりしながら束になってかかってくる難局とか敵とかを切り抜けていく。

その反対側で警察の顔ももつギョンピルは、ウナが脱北者であることを知ると、そこに国家情報院の職員ミヨン(ヨム・ヘラン)を入れて情報収集させたり(これが後で..)、ウナに冷酷な凄腕の殺し屋を差し向けてきたり、ふたりの運命やいかにー、になるの。

設定だけ聞くとJason Stathamの”Transporter”のシリーズとか、なめられそうな(でもばりばりの)子供ドライバーが悪い奴らに総攻撃される話だと”Baby Driver” (2017)とか、一匹狼の女性が好きでもない子供を守って戦うはめになる”Gloria” (1980)とか、似たような映画は既に巷にしぬほどあって、でも結局見たいところって、善車と悪車、善人と悪人が四象限マルチでどかすかやりあって、派手な大騒ぎに延焼していくさまで、その点からいうとカタルシスは前半のほうにあって、後半は、え.. まさかほんとに”Gloria”やるの? だったりもして、最後の決着のつけかたはあんなんでいいのかなー? って。

他方で総合点としては、主人公が脱北者で、国境越えが誰にとっても切実な肌感覚としてすぐそこにある突破口だったり、みんなが脛にキズものだったり、それゆえに見逃されたりやられたりのドラマの重ね方がうまく活きてきて一気に見れてしまうのはよかったかも。どこまでもクールなウナの面構えも素敵だし。 唯一、あの殺し屋の消し方があんなんでいいのか(つまんないわ)は、あったけど。

しかし、こういう一匹狼のドライバーのお話って、”Baby Driver”にしても”Fast and Furious”のシリーズにしても、必ず「ファミリー」が壊れるほう(あるいは壊れたそれを建て直すほう)を志向しがちなのはなんなのだろうか。走るひとには家族が必要(or 走るひとの家族は壊れる)、っていうことなのかねえ。そういう意味では、真ん中で逃げ回るふたりが”Parasite” (2019)の寄生する側とされる側にいた彼らだった、っていうのはおもしろいかも。 ほんとは預かったガキが”Home Alone”級のしょうもないやつだった、にしてもよかったのに。

“Fast and Furious”はもう終わっちゃうから無理だろうけど、スピンオフでHanと彼女を絡ませてついでにTransporterも引っ張りだして、アジアの家父長制をぶっ潰せアクション映画とかやってほしいところ。

2.06.2023

[film] Ennio (2021)

1月28日、土曜日の夕方、ル・シネマで見ました。
邦題は『モリコーネ 映画が恋した音楽家』。タイトルの横には”The Maestro”と付いている国が多い。

上映時間156分と聞いて、えー(長い..)、だったが見ていくとこれはしょうがない、これでも短く纏められたほうかも、になる。 監督は自作の映画音楽も書いて貰っているGiuseppe Tornatore。

Ennio Morricone(1928-2020)の生前行われたインタビューと膨大な量の映画のアーカイブ切り抜き、その映画の関係者等からのコメントを中心に彼の業績を振り返っていくドキュメンタリー。彼が亡くなった7月6日はロックダウン中のロンドンにいて、TVのニュースからは”The Good, the Bad and the Ugly” (1966)のあの音が一日中流れ続けてあたまがおかしくなりそうだったが、それだけの重鎮であった、というのはここに出てくる人々の顔と名前をみればわかる。

冒頭はマエストロの一日の始まり - 起きてストレッチをして書斎(すてき)に入って音楽を-音符を記しながら、彼の幼少期からの記録の上にマエストロの喋りがいつの間にか被さっていくような構成。 トランぺッター奏者だった父親にならってトランペットを始めて、奏者としてはそこそこだったものの音楽大学でGoffredo Petrassiに師事して作曲を学び始め、アカデミックなところに身を浸しながらもJazzバンドで吹いたりRCAでアレンジャーのバイトをするようになり、そこから劇場やTVの伴奏曲を書いたり、Paul AnkaやMinaといったポピュラー音楽の仕事で自分ができることの可能性や面白さに目覚めたりして、結果として学究からは遠ざかっていった、と。

そして映画音楽 – 特にSergio Leoneとの出会いがでっかく、以降は個々の映画のどの場面で彼のどんな音楽がどんなふうに使われたのか、の実例紹介コーナーになっていくのだが、この辺りから、見たことある映画の場合はあったあった、ここだよねえー、になるし、見たことない映画の場合はへえーなにこれかっこいいー(見たいなあー)、になるし、たいへんに頭のなかでの盛りあがりなどがやかましく、全体としては(自分が)見ていない映画の方が多すぎてお話にならない - 基礎からやり直し! になってしまう。

識者からのコメントの大半は、映画のこの場面(こんなに大事で重要で肝心な場面)にこんなメロディ、リズム、楽器、打音をぶつけるのか、という驚きが訴えられ、それが画面上で進行するドラマにどんな効果や鳥肌や背筋逆なでを加えるのかを少し冷静になって語り、更にそこから一歩踏みだしてそれが音楽としてもいかに革新的でユニークなものであったか、を讃える、そういうスタイルのものになっていて、コメントをする人も発注者である映画監督だけでなく、映画音楽作家 - Hans Zimmer, Quincy Jones, John Williamsから、音楽家の方からは Bruce Springsteen, Pat Metheny, James Hetfield などなど(大風呂敷系)。あとMike Pattonはコアな映画好きなのでわかるけど、いきなり出てきたPaul Simononはなんで?…

そして、ここまですごいこと - 順番に見ていくと驚異としか言いようがない - をやってのけながら米アカデミー賞からは(晩年を除けば)総無視、といってよい扱いを延々受け続けたというところは印象に残った。やはりヨーロッパからの感性と前衛が(たとえアメリカ映画に寄与したものだったとしても)アメリカには受け容れ難かった、ということなのか、亡くなられた時のヨーロッパでの扱いのぶ厚さを見てもああー、って思った。けど米アカデミーって今年のノミネーションを見ても相変わらずしょうもないし、そういう機関なんじゃないのか。

映画の中で、もう少し聞きたいかも、と思ったのはEnnio Morricone自身の映画観、というか彼が音楽をつける時に映画のどこを見たりどこに触れたりしようとしているのか - ストーリーなのか、テーマなのか、カメラの動きなのか、監督からの注文なのか – といったあたり。 特に決めずに勢いで書いてしまうような凄みはたしかにあったかも。映画音楽って - 映画もそうだけど - 映画以上にひとつの世界を作りあげようという - オーケストレートするかんじってある気がして、なのでその観点から彼がどこに到達したらその音楽はできあがったと言えるのか、とかその辺。 マエストロは決して語らないのだろうけどー。

あと、911の映像をあんなに長く流す必要あったのかしら。あれは劇映画じゃないよ。(まだ正視できない)。

[film] 流転の王妃 (1960)

1月24日、月曜日の晩、角川シネマ有楽町の『大映創立80周年記念企画 大映4K映画祭』で見ました。

邦画のなかで大映のいくつかのカラー作品はどんなのでも無条件で見たいくらいに好きなのだが、この特集はなんでか(時間割かな?)つめるのが難しい。かなしい。

2021年のTIFFで平日の昼間にしかやってくれなかったリストアされた田中絹代監督作品、その後に拾っていったもののこの1本だけはなかなか見れなかったやつを、ようやく見ることができた。鎌倉まで行ったりしながら、これでようやく彼女の監督作品すべて見ることができた。(こんなのおかしいよ)

愛新覚羅浩(あいしんかくらひろこ) - 嵯峨浩が自身の - based on true event - でベストセラーとなった原作 - を脚本-和田夏十で(登場人物名は実際から変えられている)。英語題は”The Wandering Princess”。原作、監督、脚本、主演すべてが女性による女性映画。

スチールの衣装とタイトルから『お吟さま』(1962)のような時代劇かと思っていたらぜんぜん違った。

冒頭、地面に横たわって亡くなっているらしい若い女性とそれに覆いかぶさるかのように悲嘆している(と思われる)女性 - 母だろうか - がいて、そこから回想シーンに入る。

お屋敷に暮らす女学生で見るからにお嬢様の竜子(京マチ子)は、絵を習っているらしく、次は油絵に行ってみましょうって先生に言われた! と祖母(東山千栄子)に報告したり楽しそうなのだが、彼女の父(南部彰三)と母(沢村貞子)は軍部の偉そうで嫌なかんじの役人の訪問を受けて、竜子と満洲国皇帝の溥文(竜様明)の弟との縁談を持ちかけられ、皇族である菅原家が満洲の王族と婚姻関係を持つことが両国間のこの時局においては..  云々高飛車に言われて、もう逃げようがない。 竜子は最初は当然泣いて、でも相手の溥哲(船越英二)とお見合いはして、親からも軍からも「あくまでも個人の意向に委ねますが」とか言われつつひっくり返せるわけない(というクソみたいな状況をすごくうまく描く)ので、式は国事として執り行われて、彼女の満州での新婚生活が始まる。

初めのうちは皇帝と皇后(金田一敦子)のもとに通されてロイヤル・ファミリーの生活かと思いきや、あてがわれた新居は原野の真ん中の寒そうな一軒家で、それでもふたりは木を植えたり、生まれてきた娘を一緒に育てたり幸せそう(幸せになろうとしている)で、でもやがて戦局が変わって日本軍-満洲国が危うくなってくる気配がひしひしと。

ここから先は溥哲が軍に連れて行かれて離れ離れの行方不明になり、竜子は娘の英生(実際には娘はふたりいて、連れていたのは次女だったそうだが)を抱えて、他の日本人や満州人と共に襲われては逃げ、収容されて移送されてを繰り返す日々となる。この辺の悲惨さは事情はまったく異なるものの原節子の『最後の脱走』(1957)と同じようなかんじを受けて、娘のこと以外はすべてのことを抑えて堪えて声を出さず、でも必死に、生き残ることだけに注力してひたすら我慢している。ようやく帰国の船に乗ることができて日本が見えてもよろこびは半分 – だって自分を酷い目に合わせた国だよ - のような。

他人が敷いた運命のレールに乗せられ、大陸を引き摺り回され流転していく王妃の悲劇を、自分がこれまで見てきた豪勢で奔放で無敵な京マチ子とはまったく異なる(結果として無敵ではあるけど)彼女が演じている。そしてこれを田中絹代監督作の3作目以降の流れ - 『乳房よ永遠なれ』(1955) 〜 本作 〜 『女ばかりの夜』(1961) 〜 『お吟さま』(1962) - の中に置いてみると、社会階層での上とか下はあるものの、そういうのを括弧で括って、悲運(自分のせいじゃないのに)と絶望のなかに身を置いて晒しながらも、とにかく懸命に生きる/生き残ろうとした女性のありよう - それを「強さ」と言ってしまうのは安易にすぎる - を見つめようとした視線がはっきりとある。情感に訴えるようなところ(クローズアップとか泣きとか)は避けて、同じテンポでなにが起こるのかを静かに見つめているような。そして、そうやって最後に現れるのが巷では「愛」と呼ばれていそうななにかで、でもそこもあえて問わずに置いておく。

かんじとしては『お吟さま』に近い、あれより遥かに過酷そうだけど、でも「翻弄される」とか言われがちな女性の生の「なにが」「どこが」「だれによって」を堂々とクールに見つめて描いていてすばらしいと思った。

2.03.2023

[film] The Woman on the Beach (1947)

1月20日、月曜日の晩、シネマヴェーラの『ヌーヴェル・ヴァーグ前夜』特集で、見たかったけど時間割が合わなくて、そしたらCriterion ChannelのJoan Bennett特集にあったので、見ました。この特集では他に”Big Brown Eyes” (1936)と”Wild Girl” (1932)も見て、どのJoan Bennettもすばらしいったら。

監督はJean Renoir、原作はMitchell Wilsonの小説 – “None So Blind” (1945)。邦題は『浜辺の女』。
Jean Renoirの最後のハリウッドでの監督作で、興行的にも批評も散々(公開当時)であったが、後年になって再評価された(らしい)一本。

沿岸警備隊のScott (Robert Ryan)は荒れた海で難破した船に絡みつくいろんなのの悪夢でうなされて起きることが多くて、そういうのから逃れようとしているのか、造船所に勤める朗らかなEve (Nan Leslie)と結婚しようとしている – でも彼の方はぜんぜん幸せそうに見えない。

ある日、馬で浜辺を歩いているときに打ちあげられた廃船のところでPeggy (Joan Bennett)という謎めいた女性と会って、やがて丘の上の一軒家に呼ばれて彼女の盲目の画家の夫Tod (Charles Bickford)も紹介されるのだが、TodのPeggyに対する高圧的な態度がちょっと気になって、Scottは彼女に惹かれていきながら(突然キスするのはびっくりする)、Todって本当に目が見えないのか? 見えないふりをしているだけじゃないのか? ってめらめら疑念が湧いて、意地悪に試してみたらTodは崖から落っこちて怪我をして、そんなことばっかりやっているのでEveはTodから離れて、これはなんとかしないと、って振り返ったらTodの家が燃えている…

まん中にいる3人全員が裏に暗い何かを抱えていて邪悪 - 善人はEveくらい - なので、最後は殺し合うしかないんだろうな、と思っていると唐突に遠くで燃えている家が飛びこんでくるの – そのタイミングとかが絶妙で痺れる。

「浜辺の女」- PeggyがScottをノワール的な悪の世界に誘うファム・ファタールとしてそこにいる、というよりもどう見ても考えてもどす黒いなにかを抱えこんでいるのはScott -こないだ見た“Caught“ (1949) 『魅せられて』でRobert Ryanはネジの外れたパラノイアの冷血漢認定 – もしくはTodのほうで、Peggyはそれぞれに火を点けただけのように見える – そこだよ! というのであればそうなのだろうが、それも含めて男社会の犠牲の典型例のようにして浜辺に立たされている彼女。

彼女のいる浜辺が一番水平な安定した場所で、海の方に行ったらのまれて即死だし、なんとか崖をのぼって遠くに見える家(ワイエスのクリスティーナの世界)に手を伸ばそうとしたら燃えていた.. って残酷だなー、って。

Renoirはこの後に舞台をインドに移して「川辺の女」を撮ることになるのだが、いろんな点で浜辺の世界とは違い過ぎていておもしろい。


Le Plaisir (1952)

1月26日、木曜日の晩、シネマヴェーラの『ヌーヴェル・ヴァーグ前夜』で見ました。これがこの特集の最後となった。

邦題は『快楽』。英語題はそのままのことが多いが、”House of Pleasure”というのもあるらしい。
監督はMax Ophüls、原作はモーパッサンの短編 - "Le Masque" (1889), "La Maison Tellier" (1881), and "Le Modèle" (1883) - を重ねて、前菜(しょっぱい)- メイン(てんこもり) - デザート(甘くない)、みたいな構成になっているドラマ。

Le Masque

夜のダンスホールに男女がわらわら集まってきて盛況で、仮面をつけた男が女を誘って、男のほうはのりのりのタコ踊りをするのだがやがてばったり倒れて、その場にいた医者が呼ばれて仮面を剝がしてみると干からびた老人が現れ、彼の家に運んでみるとやはり老いた妻が出てきて、このひとも昔は近所でぶいぶい言わせていたものでしたが… とか言うの。それだけなの。小津が撮ったらおもしろくなったかもしれない。

La Maison Tellier

小さな町のマダムTellierが経営する、小さいけど繁盛している売春宿 - Maison Tellierがあって、それが土曜日に閉まっていたことでいろんなはけ口を失った常連客の間で起こるどうでもいい波風の件が前半。後半はそうやって休んだマダムが、姪の初聖体式に出席するために従業員の娘たちみんなを率いて列車で実家の村に帰る道中記。

村で迎えたのがマダムの兄のJean Gabinで、彼が惚れる従業員娘にはDanielle Darrieuxもいたりするのだが、着飾った娘たちが聖なる式と穏やかな村に巻き起こす波風が朗らかで楽しいのと、彼女たちがお店に戻ったときに前半に出てきた男たちが小躍りして戻ってくるのがしょうもないなあ、って。 このパートは清水宏に撮ってほしい。

Le Modèle

ここまでのお話全体のナレーター(Jean Servais)が姿を現わす。友人の若い画家が美しいモデルのJoséphine (Simone Simon)と出会って一緒に暮して、彼女をモデルに描いた絵も売れて幸せだったのに時が経つと喧嘩ばかりするようになって彼は家に寄りつかなくなり、彼を探して追ってきたJoséphineは窓から飛び降りてやるから! って騒いで、彼がどうぞっていうのであっさり飛び降りて..

最後にナレーターが幸福にはなんの楽しみ(joy)もないのだ、って淡々というあたりがいろいろ深すぎる。ここは成瀬、かなあ。

「快楽」っていうのを生に付随してあるもの、というより生に先立っていたり場合によっては奪ったりする強く生々しいなにか=美しい女性の姿をしている – のように描いて、この描き方が女性への加虐に加担する方に転びやすいしょうもないものであることも含めて、この時代だったら文句ない.. しかない、か。

階段をぐるぐる昇ったり降りたりするめくるめく動きまわる映像も含めて、ほんとすごくて、うっとり眺めるばかりー。

2.02.2023

[film] Little Annie Rooney (1925)

1月21日、土曜日の晩、国立映画アーカイブのAFA特集で見ました。
邦題は『アンニー可愛や』(アニーじゃないの)。2014年にMary Pickfordが保持していたプリントから修復されたサイレントで、Andy Gladbachが新たに音楽(ややモダンな)を付けている。
“Little Annie Rooney”って1889年に作られた人気のミュージックホールソングだったそう(検索するといっぱいでてくる)。

監督はWilliam Beaudine、製作・主演・脚本(Catherine Hennessey名義)はMary Pickfordで、彼女が製作・主演した前2作 - ”Rosita” (1923)〜”Dorothy Vernon” (1924)の大人路線からファンのリクエストに応えるかたちで12歳の少女役に戻ってみたら同年の大ヒット作となってしまったというMary Pickford全開の一本。

これがまあ、元気いっぱいの子供映画かと思ったらずるずるに泣かせて引き摺り回してくれるのでびっくりよ。

長屋が並んで瓦礫が散らばるバワリーの下町(あれがセットだって信じられない)で子供ギャングたちが二勢力に分かれてわあわあ喧嘩をしていて、Annie Rooney (Mary Pickford)も参加して縦横に弾けまくってて、そんな雪合戦みたいにレンガを投げて当たったら死ぬぞ、とか思うのだがめちゃくちゃにやりあってて楽しそうで、それを通して彼女の父親(Walter James)はみんなに尊敬されている警官で、兄のTim (Gordon Griffith)は子供ギャング団のJoe Kelly (William Haines)のグループに入っていて、などが明らかになる。Joe Kelly団はダンスパーティ券を売ったり撒いたりしているのだが、Annieの父は堅気にならないとTimと遊ぶのも許さんぞって彼を優しくシメたりしている。

喧嘩で損害を被った果物屋への返済のために子供たちが街頭で西部劇をしたら馬が暴走してAnnie危うし、のところを救ってくれたJoeにAnnieがぽーっとなったり、パーティでの小競り合いが銃撃戦になってその流れ弾でAnnieのパパが亡くなったり - パパの誕生日なのでおうちでロウソクを灯して贈り物のネクタイを包んで楽しみに待っているAnnieに知らせが届いて倒れこんでしまうシーンの胸につまること - とか、今度はパパを撃った真犯人を追跡したところで重症を負ってしまうJoeをお願いだから助けて! って輸血を申し出るとこ(あたし死んじゃうのかしら…)とか、見どころ泣かせどころがどっさりで驚異的なのだった。

撮影当時32歳で154cmのMary Pickfordが12歳の小さな(すごく小さく見えない?)子供を演じていて、それがまったく不自然に見えなくて – こないだ見た”Rosita”はなに? とか - そんな「子供」にあんなふうな子供ど真ん中の演技で泣かされて、これじゃアンニ―こわいや、しかない。

Mary Pickford特集を見たくなるー。


Cock of the Air (1932) [uncensored version]

1月28日、土曜日の午後にAFA特集で見ました。邦題は『青空恋をのせて』。

製作はHoward Hughes、監督はTom Buckinghamによるプレコード時代の飛行機rom-comで、リリース前に検閲により削られてしまった箇所(約12分)を、2016年の修復の際に検閲前の状態に復元して、更に捨てられて残っていなかった音声部分については現代の声 - Hamish Linklaterなど - を別にあてた、って。上映時にはカット(修復)された箇所がわかるように画面の下にハサミのマークが表示される - 今の基準とか目線で見れば、ここを切るの? なんで? みたいなのが多い(それが検閲というもの)。

お話自体はほんとどーってことなくて、第一次大戦後のパリで、各国の高官が集まってクジを引いて言う人を決めて、その彼がその場に現れた舞台女優のLilli de Rousseau (Billie Dove - Howard Hughesの愛人だったって。なんてわかりやすい) に向かって、あなたとの逢瀬のために要職にある政府高官たちみんなが仕事をすっぽかして腑抜けになってしまうのが問題化しているのでイタリアに出て行ってほしい、って一方的に告げるの(正直だけど、ひでーな)。

こうしてヴェネツィアでお屋敷と後見人をあてがわれたLilliがふらふら遊んでいると(いいなー)、地元でドンファンとか言われている女たらしのアメリカ人中尉Roger Craig (Chester Morris)の噂を聞いて、近寄ってみればちょろく食らいついてきて、でもそう簡単にLilliは触らせてくれずにじらしまくってRogerがぶちきれて、みたいなやりとりが延々続いたところで、彼女からパリのリッツまで飛んでくれない? って頼まれたRogerは軍規違反上等、って勢いで飛行機で飛んで、そこで彼女はジャンヌ・ダルクの芝居にでて、着陸するなりとっ捕まったRogerとは…

冒頭のくじ引きの場面から、ヴェネツィアのカーニバルの描写から、ふたりのくっつきそうでくっつかないすれすれのすったもんだまで、カメラの動きの縦横-奥手前自在のおもしろいこと、艶っぽいLilli以上にくぎ付けになって楽しくて、ストーリーがシンプルな追っかけっこでよかったわ。

撮影はMaurice TourneurとかRené ClairとかJean RenoirとやっていたLucien Andriotだって。

2.01.2023

[film] Flaming Star (1960)

1月21日、土曜日の昼、菊川のStrangerで見ました。

特集『ぶっ放せ!ドン・シーゲルセレクション』からの1本。『燃える平原児』。燃える平原の児なのか平原児が燃えてしまうやつなのか。 原作はClare Huffakerの小説”Flaming Lance” (1958)で、最初のタイトルは”Black Star”だった、と。ウォーホルの有名なElvisのカウボーイの像は、この映画のElvisから取ったもの。

Don Siegelの特集はとっても待望だし見たいの - 2006年にFilm Forumで彼の特集があって結構みたの - だが、一本で1700円ってなあ(交通費足すと2000円超える)。こないだの東映の任侠映画特集もだけど、せめて二本立て1500円、よねえ。二本立てで見てしゃっきりする(ちょうどよくお腹がふくれる)のってあると思うのよね。昔のって特に。

冒頭、薄暗い牧場の家にPacer (Elvis Presley)とClint (Steve Forrest)の兄弟が戻ってきて、あまりに真っ暗で静かなので警戒しておそるおそる扉を開けてみるとサプライズで、近所のRoslyn (Barbara Eden)たちも交えたClintの誕生日のパーティになる。そしたらPacerが手も洗わずうがいもしないでそこにあったギターを手に取って歌い始めるので、そういうのかーと思ったけど歌はここだけだった。楽しいパーティでも、Pacerの母Neddy (Dolores del Río) に対して明らかに差別的な言葉が投げられて場が冷たくなったり、そういう空気を引き摺って自分たちの家に戻ったRoslynの一家はカイオワ族の襲撃にあってほぼ皆殺しにされてしまう。

翌日兄弟が弾薬を買いに町に出ても、おたくが襲撃されないのはカイオワ族が家族にいるからだろ、って嫌味を言われて、そこでPacerとClintは異母兄弟で、Pacerはカイオワ族だったNeddyの子であることがわかるのだが、なんでいきなり襲ってきたのかは族長が替わったから、くらいしかわかないでいると、カイオワ族から直接の訪問を受けて一緒に戦おう - 返事を待つ - とか言われて、でもそんなのできるわけないし、ってNeddyとPacerは一緒に直談判に向かって、そしたらその帰途に復讐に燃えるRoslynの兄に撃たれてNeddyは殺されて..   こんなふうにカイオワ族とPacerの家と町衆の間で憎しみがぐるぐる回って殺し合いの輪が広がっていく。

この土地はそもそも誰のものだから出ていけ、とか、お前は我々と異なる族だから出ていけとか、そういうそれぞれが背負って立つものによってお前はどっち側につくのだ? って引き裂かれて、「出ていけ」が「死ね」になっていって、彼らの周辺で巻かれていく憎しみと運命の渦がものすごく暗くて暗澹とする。

タイトルは「死を迎える時に燃える星を見る」っていうカイオワ族の言い伝えから来ていて、Neddyもそれを言った後に亡くなっていたしPacerも自分はあの星を見たから、ってひとり覚悟して死地に赴くところで幕を閉じるのだが、それにしても暗い。だってそれってなんの「解決」をもたらすものではなくて、ただ見たから、って言われて勝手に死なれても残された人たちはどうしろっていうのか? これなら猫を見たってロバを見たって、見なかったことにしたって同じではないのか? でもそれが彼の、彼の星が命じた決着のつけかたで、周囲からお前は自分の星に帰れ、って言われたのだから文句ないはずだろ? ってなる。そして後には野蛮と暴力の痕だけが残る、という絶望。

これが本当に、当時十分なアイドルスターとしてメインストリームにいたElvisに任せられた役なのだとしたらびっくりしかないが、それ以上に驚異なのは、激しい銃撃戦もアクションもなしに、彼がこの役をパーフェクトとしか言いようのない強さと弱さを使い分けながら演じきっていること、だろうか。主演スターに求められる尊大さだのナイーブさだのを軽く捨て去って、家族への思いと復讐に引き裂かれながらひっそり彼方に消えていくマイノリティの青年の暗い目をこの人は自分のものとして曝してびくともしない。

これのしばらく後にStar in the Night (1945)っていうDon Siegelの監督デビュー作の短編 - オスカーの短編賞を獲った – をYouTubeで見たの。クリスマスイヴの晩、砂漠をいく3人のカウボーイが地平線のあたりに見えるあの☆を目指していこうぜ、っていう。その☆はモーテルの主人がぶつぶつ言いながら飾りとして店先に取りつけたでっかい張りぼてので、その主人のところには難しい注文をつける困った客ばかり寄ってきて、彼はぜんぶそんなのダメとかムリとか突っぱねてて、彼の妻はその逆になんでも受け容れてあげてて、そのうちやってきた男女が奇跡のようなあれを…  Don Siegelがこんな素敵な人情劇を撮っていたなんて、というのと、これも星に縛られた運命のお話だなあ、って。(それだけだけど)

[film] 龍虎武師 (2021)

1月19日、木曜日の晩、新宿の武蔵野館で見ました。
邦題は『カンフースタントマン 龍虎武師』。英語題は”Kung Fu Stuntman”、英語版(?)ポスターにはでっかく”NEVER SAY NO!” ってブラック企業みたいなコピーが。

70〜80年代(もちろんまだ続いている)のカンフー映画を生みだしたショウ・ブラザーズやゴールデン・ハーベストといったプロダクションの興隆と、個々の映画を裏で表で支えたスタントマンたちはどんなふうにそこに関わったり働いたりしていたのか、アーカイブ映像と関係者インタビューを中心に紹介していく。インタビューはドニー・イェン、ブルース・リャン、ツイ・ハークとか、沢山の現場にいたスタントマンたち。ジャッキー・チェンが出てこないのが気になるところ。

映画のなかで何度も繰り返されるように、彼らの捨て身の勇気と献身(半ば強制によるものだったとしても)なしにこれらの映画は成り立たなかったし、彼らの中から後のスターも育って出てきたのだし、人材調達の仕組みとしてはよかったのかもだけど、そのうちに求められるアクションがあまりに危険すぎてレッドゾーンを超え、それらがワイヤーやCGによって代替可能になった辺りから下火になっていった – のはなんとなくわかる。

この程度のことなら映画を見なくたってわかっていたに決まっていて、なんで見に行ったかと言えば過去の映像を振り返ってあったあったねえ! これ! ってやりたい - それだけなの。

ブルース・リーが最初に盛り上がったのはまだ小学生の頃、でも見た人の話を聞くと氷で固められた死体を切り刻んで流すー、とか言われてそんなの見れないや(いまだに見てない)って。なので最初はやはりジャッキー・チェンのいろんなのに触れて、それらはまずコメディっぽくてとっつきやすい気がしたし、だいたい二本立てでお得で入りやすい気がしたし、実際にそうだった。今でもいくつかのシーンはキートンのスラップスティックに並ぶ至芸だと思っている。

最初は『おじいちゃんはデブゴン』(2016)に出て監督していたサモ・ハン・キンポー - おじいちゃんの回想から入る。まずは京劇だった。『覇王別姫』(1993)にあったような京劇の厳しい訓練で鍛えられた身体能力を活かして手っ取り早くお金に替える場として撮影現場でのスタントは需要があって、その場面がうまくいって映画が当たって儲かるとアクション = スタントに求められる難易度も報酬もあがっていって、それをクリアできる/できないでスタントマンのなかから主役をはったりする者が現れ、サモ・ハンもジャッキー・チェンもユン・ピョウもそうで、この辺はみんな知っているしスタントシーンの大変さも各映画のエンドロールにでてくるNG集と共に有名よね。

でもこんな命知らずの猛者たちに頼るしかないぎりぎりの現場をずっと維持できるわけはなく、ハリウッドに行ったりワイヤーアクションやCGも普通になってスタジオも潰れてスタントマンへの需要は減って、でも最近になってOBが中心となって後進を育てる取り組みを始めた、って。

関係者が口を揃えていうように、もうあんなことは二度とできない、って。確かに映像で見たらそりゃそうでしょ、しかないようなすごい怪我や惨事をみんないっぱい経験しているし、亡くなった人もいるって言っていたし、映画のなかで語っている人たちはみんな現場を生き抜いてきた「成功者」なので口を揃えて自慢して讃えあうのはわかるけど、きつい人には相当しんどい現場だったのではないだろうか...  なんの確証もないけどなんとなく。 そういうところも含めて、過去の、歴史の遺産として接するしかないかなあ、って思うとちょっと悲しかったかも。

カンフーアクションそのものの可能性、みたいなとこで言うと、登場人物の周りの事物や建物もふくめて洗濯機みたいにがらがら回して転がしてぶっ壊しまくる- EEAAOみたいのと、人と人の真剣勝負のなんでもあり格闘技の一部 – John Wickみたいなのに分化していって、これは好みの問題でしかないかもだけど、やはり前者のほうが楽しくて、そういう点ではEEAAOってすごくよい映画なのかも、って改めて思ったりした。

[film] The Banshees of Inisherin (2022)

1月28日、土曜日の昼、109シネマズ二子玉川で見ました。『イニシェリン島の精霊』

作・監督はMartin McDonagh、戯曲家としての彼がアラン諸島三部作 - ”The Cripple of Inishmaan” - “The Lieutenant of Inishmore” – “The Banshees of Inisheer” – として書いて、実現しなかった最後のパートを映画用に”The Banshees of Inisherin” - 島の名前を架空のものに据えて書き直したという。以下、なんとなくネタバレしている。

1923年、アイルランドの本島では内戦が続いてその爆音や砲声が聞こえてきたりするが、イニシェリン島 – 実際の撮影はイニシュモア島とアチル島などで – は普段通りののどかな時間が(一見)流れていて、酪農をやっているPádraic (Colin Farrell)はいつものように(午後2時)呑み友達Colm (Brendan Gleeson)の家の扉を叩いて呑みにいこう、って誘うと、Colmはもう君とは付き合わないことにしたのでもう話しかけないでくれ、と言う。その場は前日に酔っ払ってなんか酷いことしたのかな、って下がるのだが思い当たらないし、誰に聞いても別に? って言われるし、彼の機嫌が悪いのかというとパブで他の客とは談笑している。 なのでふつうに寄って掘り下げようと聞いてみると、自分は毎日毎日そういう中味のないバカ話みたいのを繰り返すのはもうやりたくないのだ、って。

困惑したPádraicは妹のSiobhán (Kerry Condon)と話したり教会の司祭に仲介してもらったりもするのだが、事態はよくならなくて、つきまとうのを止めないPádraicに対してColmはこれ以上話しかけてくるならそのたびに自分の指を切り落とすからな、って脅迫みたいなことを言いだす。フィドルを弾いて作曲をしているColmにとって指を切るっていうのは相当なあれなのだが。

話の軸としてはほぼこれだけ – 閉じた隣近所のロバも食わない喧嘩でしかなくて、なぜ突然Colmはそんなことを? っていう事情や背景があるのかというと、別にないの。単にもういい歳になって毎日呑んでバカばっかり喋ったりやったりの生活はもうやらない、ってそういう決意をちゃんと実行しようとしたらこうなる、だろうなーくらい。 仕事の後にちょっと呑んでいくか、みたいな会社文化が死ぬほど嫌だった(いまも)のでよくわかるし、付きあっていた恋人同士が別れるときだってこんなふうでは? 片方はもう会いたくないから会いたくないといい、片方はどうして?そんなはずはないを繰り返して付きまとうけど、決して元に戻ることはない。これ以上中味のないバカ話ばっかりを繰り返したくない、って言いながらバカ話のネタみたいなことを延々繰り返している、という…

でもPádraicはどこまでも納得いかなくて、これまでの自分の生き方がまるごと否定されたような気がして、それをSiobhánに相談したり、近所のちょっと間抜けな - Pádraicは少し見下している - Dominic (Barry Keoghan)と話をしたりするのだが、やはり我慢ならなくなって、Colmが指一本を羊ハサミで切り落とした後に彼の家にばーんって乗りこんでいって…

ブラックコメディ、というほどブラックでもコメディでもないような。昔こんなことがあったよ、くらいの。

タイトルの”The Banshees of Inisherin”はPádraicと縁を切ったColmが書いている曲の名前なのだが、アイルランドのバンシーって、魔女のような恰好で人の死を叫び声で予告すると言われていて、Pádraicの周辺にもMrs McCormick (Sheila Flitton)っていう黒ずくめの老女 – ベルイマンの死神みたいな - が道端にいたりして「あとふたり人がしぬー」みたいなことを告げたりする。でもこれにしても、Colmが教会の懺悔室で告解する司祭も、Dominicの父の暴力警官も、そこらにいるだけでなんの役にも立たないぼんくらだし、道化のDominicはあっさり死んじゃうし、海の向こうの本土は内戦で人が死んでいるらしい。

Pádraicが死ぬまでバカ話を続けても、Colmの書いた曲が歴史に残るものになったとしても、それがどうしたの? って穏やかな犬とロバと馬がじっと見守っている。

どっちもどっちのような愚か(自分がいちばん、て思いこんでいる)で野蛮な男たちの周りで聡明なのは畜獣たちと、このままではやばいいけない、ってひとりで本土に渡っていくSiobhánだけではないか、って。

記号みたいなところだと、みんな未婚なのと、母親がいない世界なのと、馬ロバ犬も含めてそのまま西部劇になる/ができる設定がひと揃いあるかも。銃や大砲だけは海の向こうに。これらをなぜ西部劇にしなかったのか、ならなかったのか? についてー。

でもそれにしても、Pádraicのあの挙動と眉毛はねえ(すごい)よな、って。

Brendan Gleeson、これと同じ演技仕様でもういちどPaddington (Ben Whishaw)と渡りあってみてほしい -「てめえの熊の掌ぶったぎるぞ」とか。
それにしても、ここ数日の政府の答弁があまりにグロテスクで気持ちわるくて、Colmが指切りたくなる気持ちはなんかわかる。

Guardian紙のMartin McDonaghへのインタビューを読むと、彼はThe PoguesのShane MacGowanと同じようにずっとアイルランドの外側に立っていた”London Irish”であった、と。アイルランド的なものを自身の発火点にしているようなところは近いような。

あと、Phoebe Waller-Bridgeとつきあっているって。

あと、音楽のCarter Burwellは控えめながらすばらしい。