8.31.2014

[film] The One I Love (2014)

26日の晩8時、LAのSundance Cinemaでみました。
まだ限定公開中で、LAでやっているのはここだけだったので、地下鉄とバスを乗り継いでいって、開始5分前に着いたら席が座席指定で殆ど残ってなくてあせった。

めちゃくちゃおもしろいー。

Ethan(Mark Duplass)とSophie(Elisabeth Moss)の夫婦が倦怠期で互いにうんざりしてて壊れそうで、でも仲を修復したいとは思っていて、出会った頃のときめきを、て、夜のプール(定番)に飛びこんだりしてみたりしてもダメで、セラピスト(Ted Danson)の勧めに従ってセラピスト指定の田舎のコテージに行くことにする。

そこは家具も食料も本もレコードもぜんぶ揃っている居心地のよい一軒家で、過去も同様のケースを抱えた夫婦が過ごしたりしていたらしいのだが、EthanもSophieもそれぞれがゲストハウス(離れ)に入ったときに変なことが起こる。

夫がその中で会った妻のことを彼女に話してもあたしそんなことしてない、ていうし、妻がその中でセックスしたこととかを彼に話しても同様で、確かめるためにそれぞれが家の外にいるときに中に入ってみるとやっぱり自分の相方はそこにいたりするので、これはぜったいなんかおかしい気持ちわるい、てそこを出ることにする。

けどSophieは、たしかに変だけど、ひどく悪いことが起こっているわけでもないのだから前向きに対処してみるべきだわ、て言って戻っていくの。

Ethanがゲストハウスで会うSophieはとってもスイートで、Sophieがゲストハウスで会うEthanは実感対比20%くらい本人よかユーモアがあって思慮深くて素敵(個人の感想です)で、だからSophieはちょっとあっちのほうに惹かれていって、猜疑心たっぷりのオリジナルEthanはそこも含めてなんか気にいらない。

そもそもあいつら(?)はいったい何なのか、誰なのか、ドッペルゲンガーなのか幻覚なのかお化けなのか。 仲直りするのが目的のはずだったのに正体探しみたいなところに熱中してそれどころじゃなくて、でもあいつらの存在を通して自分たちがそれまで互いにどう見えていたのかがわかってきたりもする。くやしいけど。

作りようによってはサイコサスペンスになっておかしくない題材をひねくれたラブコメ - 意図せずして関係がぶっこわれていく他人事のおかしみ - に転化してみせた見事さと、Mark DuplassとElisabeth Mossの会話運び、睨み合いの巧いこと絶妙なこと。
特にElisabeth Moss、すんごくすてき。 これまで”Get Him to the Greek”のJonah Hillの奥さん役くらいしかしらなかったけど、”Mad Men”シリーズも見たいなあ。

客席は終始大笑いで、最後は拍手たっぷりだった。

最後の晩だし、このあとレコード屋行こうと思ったけど、バスがなかなか来なかったので諦めた。

[film] Guardians of the Galaxy (2014)

25日のごご、ビバリーヒルズ(だと思う、たぶん)のモールで買い物をしていたらそこにシネコンがあって、あと5分くらいで始まりそうだったし、陽射しが強くて休みたかった(またかよ)ので吸いよせられるように中に入って、みた。 3D。
NINのライブに遅刻したのはこんなの見ていたからなのね。

あと少し我慢すれば日本でも見れることはわかっていたが、日本の宣伝の「アライグマが」とかいうのに少し頭にきていたので米国で見ることにした。 あれはぜったいアライグマじゃない。アライグマは凶暴だけど宇宙にいないし喋らないし火器を扱わない。 Hello Kittyがネコじゃないのと同じように、あれはアライグマじゃないんだってば。

88年の地球で最愛の母を失ったばかりのPeter Quill(Chris Pratt)が宇宙船にさらわれて26年後(つまりは2014年のいま)、宇宙盗賊みたいなことをしている彼がめっけた銀玉をめぐって、逃げて囚われて逃げてやられてやりかえしての攻防が銀河系ぜんぶに大騒動を巻き起こし、彼とその仲間がGuardians of the Galaxy、て呼ばれるようになるまで。

いやーおもしろいったら。しかもなんか泣けるし。

Mix tapeとFootloose (Kevin Bacon)と77年Star Warsへのオマージュの嵐。
それがこの微妙にどうでもいい宇宙やくざ追いかけっこ物語のなかでスパークしてパーフェクトに機能してしまう不思議、というか奇跡。

“A long time ago in a galaxy far, far away…”の物語を”far away”からなんとしても今の、自らの手元に引き寄せたかった、その強い意志が、まるでこれ自身がMix Tapeのようなこの映画を異様に燃えあがらせている。 手を握ってあげられなかった母へのお返しであるかのように、渾身の想いを込めて作られたMix tape。
(Mix tapeがどういうもので、それを作ることがどれだけ大切で重要な作業だったか、それがわかんないとこの世界に入りこむのは難しいかもしれない)

ママが作ったMix tapeの一曲目は”I’m Not in Love”だった。 これを一曲目に持ってきてしまうようなひとがどういう状態にあるのか、ようくわかる。 それだけで泣きそうになる。

監督のJames Gunnさんは、“Slither” (2006) ー “Super” (2010) ー “Movie 43” (2013)(アニメ猫とElizabeth Banksが喧嘩するやつ)ときてこれ。 なんかすごいねえ。

母やGrootとのエピソード、「銀河系」における善悪とは、とか分析のネタになりそうなあれこれもいっぱいあるけど、たんじゅんにわーわー楽しんでよい映画、だとおもった。
続編では「父」がでてくる気がする。

8月も終りなんだねえ...

8.29.2014

[film] What If (2013)

戻ってきました。 この湿気は嫌味とか拷問とかー。

24日のごご、Chinese Theaterの横のシネコンでみました。日中は陽射しがすごくて出歩いていられないし。  場内はがらがら。

Wallace (Daniel Radcliffe)は、メディカルスクールをやめて、彼女にもふられて薄汚れて虚ろな目をしてぼろぼろで、呼ばれたパーティでイラストレーターをやっているChantry (Zoe Kazan)に出会う。 ちょっと惹かれるのだったが、彼女にはずっと同棲している彼 - Benがいて、そいつは国連で働くエリートで料理も語学もできるしどうしたって勝てそうにない。

でもお互いちょっとずつ、なんとなく意識したりしつつも、映画みたり食事したり買い物したり - お友達の域を超えない関係がずっと続いて、そのうちBenはダブリンに半年くらいの長期出張に出て不在となり、彼女にも台湾での仕事の機会が出てきてどうしたいんだよおまえ、になるの。

いまどき珍しいくらいプラトニックで、星空とかイラストとか夜の海辺とかいっぱい出てきて友情か恋愛かでじたばたつんつんするしょうもないラブコメで、しかも主人公達の横に超肉食系(同じパーティで出会ってすぐくっついてあっという間に子供ができて結婚)のAdam Driver+Mackenzie Davisを配置するとこも含めて、どこを切っても漫画みたいな構成と展開なのだが、なんかいい。

"Ruby Sparks" (2012)もそうだったが、それ以上にまんま夢見るお人形さん(でも30過ぎてるの)なZoe Kazanがすばらしいのと、魔法使いにはなれたのかもしれないがにんげんの医者にはなれなくてどっちにしても恋愛はだめだめのDaniel Radcliffeの暗い目が絶妙にはまっているのと、"Ruby Sparks"とか"(500) Days of Summer”とかにあった「オレにとって理想のー 」やそれに付随してくるであろう歪んだ邪念/悪意みたいのがなくて、すべては"What if ..”というたどたどしさのなかに留まって踏みこもうとしなくて、それはそれでじゅうぶん恋愛において正直で大切ななにかではあるはず、と。

そんなのをつまんねえ少女漫画、て唾棄するのはかんたんだ。 けど、トラウマも病気も障害もない殺傷もないし誰も死なない - 流血するのはBenを2階から突き落とすとこと、彼女をダブリンまで追っていったWallaceがBenにぶんなぐられて階段落ちするとこ、くらい -  そういうのを作りたかったのだろうし、そういうのを見たかったのだ、と言ったっていいじゃんか、と思った。

音楽はThe New Pornographers (祝新譜!)の A.C. Newmanさんで、これもいいんだねえ。

8.27.2014

[log] August 27 2014

というわけで、帰りのLAXまできて、ということは夏休みが、夏が終ったことをしみじみと。
どっかで蝉は鳴いていないかしら。

いまに始まったことではないが、仕事はおわんないのに休暇だけはあっというまにおわるねえ。

あっというまで、ぜんぜん時間なかったけど、慌てず騒がず寝たけりゃ寝る、をテーマにしたのでのんびりはできた気がする。 (だからライブだって遅刻するし)

ライブ1、映画3、美術館ゼロ、本屋1、レコード屋1、食べものいっぱい、こんなもんか。

あたりまえのように陽射しが強力で、そこだけきつかったけど、湿気ゼロだし夕方の気持ちよさときたら、それだけで泣きたくなるくらいいかった。

わかっていたことではあるが、LAはSFともSeattleともちがう。このへんを改めてしみじみと。
これまで自分の文化圏、みたいなのについて考えるのをしてこなかったのだが、やっぱし見つめなおしてみようかな、と。 もう先あんまなくなってきたし。

あとは日本て、なんであんなに違和感おぼえるのか、と。 いまいちばん居心地わるくてきついのが日本かも、と。

まあいいや。 とにかく戻って、また終らないモグラ叩きみたいのがはじまるの。

では。 ライブ以外のもだらだら書いていきます。

[music] Nine Inch Nails - Aug 25 2014

25日、月曜日の晩、Hollywood Bowlで見ました。 こんどはキャンセルなかった。

7:00pm、てチケットにはあったので、8:00に行けばじゅうぶん、と思って、なにかに引き寄せられるかのようにぞろぞろ歩いていく一団(でぶ、はげ、やせ、びっち、のいづれか)と一緒に山を登っていって、頂上にたどり着いたら、聴こえてきたのが”Spoonman”だったので、自分で自分を思いっきりぶんなぐった。
この、直前までよそ見して遊んでいるバカ、なんとかしろ。

ようやく見ることができたSoundgarden、悪いわけがあろうか。
ドラムスはMatt Chamberlainで、このバンドの渦巻きの核であるMatt Cameron独特の、あの絶妙なタメがないことが懸念されて、それは確かにくっきりと出ていてしまっているのだが、しょうがない。 とりあえず手数の多さで補う、と。

曲でいうと”Badmotorfinger”からのがすばらしく冴えていて、”Outshined”にしても
“Jesus Christ Pose”にしても、最後のほうの”Rusty Cage”はもちろん、みんな天に拳を振りあげて絶叫していた。 聴こえてきた瞬間に絶叫したくなるKim Thayilのギターの太さと強さ。

ハードロックの“正統”であろうとしつつ纏わりついてくる時代のあれこれからどこまでも自由で、勇猛果敢であること、野生を失わないことの奇跡を目の当たりにする。
ラストのシアトルは盛りあがるだろうねえ。

80年代の無邪気な清潔さを嘲笑うかのように泥のなかから現れて、なにもなかったかのようにごりごりとハードロックを鳴らしてみせたSoundgardenと、同様にお前らは既に豚のミンチ以下だ気取ってんじゃねえ、と屍体解剖をしてみせたNINと、このふたつの90年代バンドが一緒にライブをする意味はどこにあるのか。 たぶんどっかにあるのだが、それは、今ここで探してどうなるもんではない、という気がする。 誰もが20年前を回顧したがっている今は特に。

そしてNIN。

なにもないシンプルなステージにむきっとしたおじさんがすたすた歩いてきて新譜の”Copy of A”を始めて、そこから89年の”Sanctified”に行って、また新譜の"Came Back Haunted”へ。このへんに今回のライブは集約されている気がした。

ぼくはコピーのコピーのコピーでなかみはからっぽなんだ、という””Copy of A”と、君の内側でぼくは始めて自分になれるんだ、という”Sanctified”と、でもやっぱしどうしようもないやめられない、という"Came Back Haunted”と。

最初の3曲のあと、”1,000,000”から”March of the Pigs”に入っても、これまでのような大突破とか大爆発とかは起こらない。 メンバーが4人になったから、とかそういうことではなく、Ilan Rubinのドラムスは明らかに自分の内側を、頭蓋骨の内側を蹴っ飛ばしてくる。

それがつまんない、というのでは勿論なくて、電子音のトーンや拡がりも含めておそろしく練りこまれ捩じこんでくる”The Downward Spiral”の頃のスタンダード、そのリリース当初の臭気を(熱気を、ではなく)忠実に再現 - というより再構築しようとしているかのようだった。 まず内側をみっしりと電子音で満たして固めて、それでもそこからうにょうにょとはみ出し漏れだしてくるなにかとは。

そのへんはモノクロでスタイリッシュに構成された冒頭(FRFのときのたどたどしさが懐かし)から次第にコントロールを失って暴走していく(ように見える)ビジュアルからも。

セットリスト全部が使い古されたマテリアルばかりのようで、でもぜんぜんそうではなく聴こえる、そうではないふうに聴こえるように強いてくる、というのはどういうことか、というと、”The Downward Spiral”がリリースされた20年前と今と、なんも変わっていねえじゃねえかバカ、というのもあるのだろうか。

ではこのあと、”The Fragile”方向に向かうか、というとそうでもないことも確か、な気がするのだった。

喋りは一切なし、曲の間に一回”Thanks”と言っただけだったのでご機嫌ななめなのかしらと思ったのだが、終演後のInstagramとかを見ると、寛いでんじゃねえよ、ておもった。


会場のHollywood Bowlは初めてで、到着したときは暗かったのでよくわかんなかったのだが、いちばんん後ろまでびっちり埋まった様はなかなか圧巻だった。 またそのうち、こんどは明るいうちに。

8.23.2014

[log] August 23 2014

なんで週末になると天気くずれるのか、とかぶつぶつ言いつつ成田まできました。

NEXのなかで聴いていたのはRandy Newmanせんせい(”Trouble in Paradise” - “I Love L.A.”)と、Rocket from the Cryptで、RFTCはSan Diegoであるが、とにかくこれからLos Angeles, Californiaに向かうの。

こんどのは、だんこバ(ヴァ)ケイションであって、いろいろ持たされ背負わされてはいるものの、仕事なんかしない。しないんだから。

メインのだしものは有名なHollywood Bowlで行われるみんなが知ってるバンドのライブで、それ以外は、映画館もレコード屋も本屋もあんま行かないし、走りまわらないし。たぶん。
だって夏休みなんだから。

ほんとは9月頭のBAMのNext WaveのNonesuch祭りにするかこっちにするか、或いは同じバンドのポートランドのにするか、3ヶ月くらいだらだら悩んでいた。
そのうちポートランドは日程が難しくなり、NYは考えだしたらあれもこれもが止まらなくなり、とても休暇とかリフレッシュとかになるとは思えなくなってきたのでアボートした。

もういっこ、このバンドは昨年のFRFで再起動したのを見て、その秋にBarclays Centerで大所帯編成のを見て、その流れの〆、ていうのもあるの 。しかもそこにSoundgardenまでついてくるんだったらなんもいうことない。

あともういっこはね、5年前、2009年の6月にNINJAとかいってJones Beachでやった後、Goodbyeするなんていうからその9月のあたまにすごい無理してLAにきたのに風邪ひいたとかでキャンセルくらった、そのリベンジな。  執念ぶかいんだからな、貸しは返してもらうぜ、なの。
こんども風邪ひいたら笑うな。

映画は見たかったのがさーっと引いてしまった後くらいで、あんま見たいのはない。ので時間があいたら、程度。
ライブもいろいろあるのはあって、Aimee MannとTed Leoのとか、まだ悩んでいるのはあるのだが、土地勘もないので無理しない。 お休みするんだ。

ではまた。 ぱたん。(閉PC)

[film] 土砂降り (1957)

16日、土曜日の午前、シネマヴェーラの特集「甦る中村登」で見ました。

結構いっぱい入っていた。 やっぱしさー、こういうクラシックなメロドラマ、見たいんだよみんな。

旅館の娘の岡田茉莉子は女将の母と弟と妹と暮らしてて、お役所の机向かいに座っている佐田啓二とは恋仲で、ある日飲み屋に呼ばれて行ってみるとご機嫌の上司がいて「健全かつ模範的な」社内結婚の事例になってくれたまえ、とか言われる。(げろげろ)

とっても舞いあがって幸せいっぱいの二人なのだったが彼女のお母さん(沢村貞子)はお妾さんで、父親(山村聰)は悪いひとではないし仲も良いけどたまにしか家に来なくて、しかも旅館といっても怪しげなカップルが出入りする連れこみ旅館で、そのへんを挨拶にきた相手の母親に知られたあと、一方的にこのお話はなかったことに、てされてしまう。

なにもかも嫌になった彼女は家出して、そこから2年後、神戸のキャバレーみたいなところで働いているところに突然佐田啓二が現れるの。 彼女もやつれているけど、彼のほうも上の泥をかぶって収賄事件で追われてやつれてて、でも再会したらなんだか燃えあがって、失うものがなにもない二人は逃避行に生きる夜の人々になってしまうの。

やがてどこにも行き場がなくなった二人は彼女の実家に戻ってくるのだが、ふたりとも荒んでてへとへとで、土砂降りの晩にー。

お妾さんがやっている連れこみ旅館、ていうのが世間体的によくなくて、虐められたりもするのだから、お父さんとお母さんは別れて依存関係を絶って再出発すべきなんだわ、ていうのが子供たちの総意で、そうしようかー、となったときにお母さんが爆発する。
やさしいけど終始受け身でぼんやりとしていた彼女の感情の糸がぷちりと切れる、これも土砂降りの晩に起こってしまう修羅場で、なんかすごい。
寂しいネオンの点滅の手前に浮かびあがる岡田茉莉子の顔、怖いくらいに冷たくて強烈なのだが、沢村貞子の暴発するエモもすさまじいったら。

あんな男と付きあわなかったら出会わなかったら家族みんなが朗らかに幸せに暮らしていくことができたのに、ていうのは岡田茉莉子の件だけではなく、沢村貞子の件でもそうで、それは明らかに母から娘に連鎖していく不幸のように見えて、でも好きになったんだからしょうがないんだ。 わたしの幸せを決めるのは世間とか家族とかじゃないの、わたしなの! って大声で叫んでみたところに土砂降りがざぶー。

とってもよいドラマだった。 土砂降りでぐしゃぐしゃになるけど、雨降って地固まる、みたいなふうになるわけでもないけど、崩れないものはあるのだ、って。

8.22.2014

[film] Sharknado (2013)

15日の金曜日の晩、新宿で見ました。

むかしだとシアターN渋谷とかでやっていた系のやつ。
アサイラムは知っていたけど、特に見てはこなかったけど、これはなんとなく気になった。
GleeのFinnが生前最後にTweetした作品、としても有名であるが、空からシャークがネードして降ってくる、てすてきじゃん、特に夏には。

冒頭、南の海上ででっかい竜巻が発生して、鮫がぐるぐる空に飲みこまれていく。
なんで鮫だけ? イルカは? くじらは? とかそういうことは聞かないの。

で、その竜巻を含んだでっかいハリケーンがカリフォルニアの浜を直撃するの。
サーファーの主人公と海の家バーのおねえさんと、その仲間は内陸に逃げようって、主人公の家族を拾って内陸に向かうのだが竜巻はぐんぐん追っかけてきて、その間、落ちてきた鮫に食われたり潰されたりあれこれのパニックが。

プロットだけ見てみれば、竜巻で巻きあげられるパニックと鮫が降ってきて食われてしまうパニックの↑↓ 2方向があるはずなのだが、前者はあまり問題にはならず、後者が大変であると。 
そうだよね、鮫が降ってきたらびっくりするよね。 鮫もひとも。

降ってくる鮫は、でっかい魚というよりは、来てほしくないところに突然現れるゾンビとか化け物みたいな扱いで、そこがちょっとなー。 わかんなくはないけど、そこらへんの作為 - B級C級なんてこんなもんもしくはこういうもん - が見えてしまうとこが惜しかったかも。  もっとふつうにまじめにやればいいのに。 主人公の家庭内のごたごたとかも、ありがちだから、ということで入れたのかもしれないけど、別にいらないよね。

ラスト、チェンソーとヘリと爆弾にいくのはよいけど、ここもあと一歩がんばれればなー。
おもしろいけどね、竜巻のまんなかに爆弾をぶちこめば温度差がなくなるので竜巻は消えるはず、とか。

CGを使えば低予算でもこれくらいのことはできるのね、というのがわかった他方で、鮫が渦を巻いて降ってくる、どしん、とした重量感みたいのがでていればなあ。

どうでもいいけど、鮫ってあの高さから落ちてきても死なないの?
それなら昔、"Twister"で巻きあげられた牛(たしか2頭いた)もだいじょうぶだったの?

現地でこないだ放映されたパート2が来たら行くべきなのか? 
TVでじゅうぶんな気は、ちょっとした。 

[film] So This is Paris (1926)

やるきヌルもはなはだしい14日の木曜日の晩、シネマヴェーラの映画史上の名作から2本。

Road to Zanzibar (1941) -  「アフリカ珍道中」

見世物小屋でいんちきアクロバットみたいのをやっている二人組(Bing CrosbyとBob Hope)が、ちょっとへましてあたり一帯大火事にしてしまったので米国にいられなくなってアフリカに逃げたら女詐欺師ふたり組(Dorothy Lamour+1)にはまって、こんどはアフリカ大陸をぐるぐるまわる羽目になるの。
なんのために、なにが楽しくて、アフリカを彷徨ってどたばたしているのかあんまわかんなくて(だから珍道中)、でも二人は能天気で怖さ知らずでまったく気にしてなくて、コメディだからそれでよいのだろうが、この気にしなさ、てほんとうによいのか、って。
 
現地のひと達の扱いとか、PC的には相当ひどいし、すっぽんぽんでへーきでそこらの池に入っちゃうし、それしぬぞ、みたいに息をのむ瞬間が満載なの。これ前に映画史上の名作の7でやった ”Zamba" (1949)のときにも思ったなあ。 でもへらへら鼻歌でのりきっちゃうんだから、すごいったらすごい。

でもふたりの歌がうまくて楽しいから、とりあえずいいの。


So This is Paris (1926)  -  「陽気な巴里っ子」

初日のピアノ伴奏つきは見れなかったけど、サイレントで。
だってルビッチなんだもの。

ダンサーをやっている夫婦と、医者と有閑マダムをやっている夫婦 - どちらもぼんやりしててあんまし仲よくない - が道路をへだてたアパートにそれぞれ暮らしてて、マダムはハーレクインとか読んでふうって窓の外を見たらアラブ風の半裸ダンサー夫が見えてうっとりして、もともと浮気性でいいかげんな医者夫のほうはダンサー妻とは昔からの遊び仲間で再会したら盛りあがって、クラブで狂熱の一夜を過ごして、でも駐車違反でしょっぴかれて嘘がばれちゃって、もう至るところにいろんなボロが見えてどうしようもなくて、収拾する余地があるとは思えないのに最後にはなんとなく落着してしまうのでおかしいの。

1926年というのに、窓を隔てて飛びかうエロ光線がなんともいえないし、クラブで踊りまくるとこは低音がどすどす響いてくるようだし、とにかく巴里っ子は陽気で能天気でいいなあ、の気分になれるの。

アフリカもパリも遠い、あまりに遠い夏だったら。

8.20.2014

[film] Transformers: Age of Extinction (2014)

13日の水曜日の晩、六本木でみました。  3Dのほう。
2時間45分を週末に使うのはもったいないので平日の夜でいいや、とか。

なんでこんなのを見たいんだろう? ていつもおもう。
過去の3作も見ていて、その際にも自問自答している - なんでこんながちゃがちゃ目に悪いし耳にも悪いし頭にもよくなさそうだしとっても爽快になるわけでもないし、もうちょっとなんとかすればとかいつも思うし。

いろんなでっかいのが豪快に激突して火花が散ってビルがぶっ壊れて、みたいなのをあんま生々しく肉々しくないところで見たい、というのはあるのかも。(←まじめに分析する)

冒頭、恐竜の時代に宇宙船が飛んできて恐竜を金属にしちゃうとこがあって、その氷漬けみたいのが極地の氷のなかから発見される。
現代、5年前にトランスフォーマー同士が喧嘩してシカゴの街をぼろぼろにしたので、トランスフォーマーも宇宙人も禁止令が出ている。 そんなアメリカの田舎でダメ発明家をやっている貧乏なパパ( Mark Wahlberg)がどこからか怪しげなトラックを拾ってきて、そいつが身を隠していたトランスフォーマーのオプティマスプライムだとわかって、パパと娘と娘の彼のレーサーは政府と、政府と契約している殺し屋ロボみたいのからも追われるようになるの。

追っかける人間の側は殺し屋ロボと契約しているCIAとか、トランスフォーマーの成分を解析してメガトロンを再生しようとしている会社の偉いやつ(Stanley Tucci)とかいろいろで、オプティマスプライム側は仲間をほとんどみんな壊されて無勢で、圧倒的に不利なのだが、そういえばあいつらが... て恐竜ロボをつれてくるの。 (書いててバカらしくなるねえ)

ターミネーターの時代もX-MENの時代も既に知っている我々としては、どこのどんな人間が勝とうが、ロボットが勝って人類が絶滅しようが、なにが起こったって構わないし、むしろまじで絶滅した後のなんもない映像が見たくてたまらないくらいなのだが、ここらへんの物語の周辺にはびこる「正義」ていうのは(あるいは「悪」ていうのは)いつまでも、どこまでもしぶといったら。

シカゴの街をこれ以上ぶっこわすのはよくないと判断したのか、舞台は途中から香港になって起伏だらけ、高層ビルだらけの中で激闘を繰り広げるの。 要は車がぶーんて走りまわれる道路と、重い金属ブツが派手に落っこちていくための高さが必要、なのね。

これまでのシリーズの人間だいひょうだったShia LaBeoufは、ずーっとえんえん走り回ってばかりだったが、今度のMark Walburgは、そういう芸当がないかわりにべったべたの娘愛とか、そういうので勝負しようとする。 (んで、勝つんだよね)
しかし、意固地なまでにダイバーシティを排除するふうに物語は動いていくのね。

んでさあ、そんな恐竜の昔からロボみたいのがあったのなら、なんで連中は車からトランスフォームする仕様になっているの?
車とか機械のない時代はどうしていたの? て疑いを持ちはじめるのだが、そう思い始めたとたん、創始者に聞いてこよう、とか言ってオプティマスプライムは宇宙に飛んでいっちゃうの。  宇宙のどこかにはハズブロの神がいるんだねえ。

80年代初、われわれはさんざんジャーニーをバカにして唾棄していたものだが、今そういうひとはあまりいない。
マイケル・ベイもそんなふうに評価される時代がきてしまうのだろうか? 

8.18.2014

[film] Die große Stille (2005)

10日の昼間、岩波ホールで見ました。  個人的には前日の「イーダ」で修道院・お祈りモードに入ってしまったので、その流れで。
台風? じゃんじゃんこい。

「大いなる沈黙へ  -グランド・シャルトルーズ修道院」。 英語題は”Into Great Silence”。

アルプスの山奥、冬は雪で閉ざされてしまうような場所にある修道院の冬から夏の終わりくらいまでを追ったドキュメンタリー。 169分。
取材許可を貰うまでに16年かかって、取材の際の条件は、音楽なし、人工照明なし、ナレーションなし、中に入るのは監督ひとり、インタビュー的な対話もなし。 横にいてカメラをまわすのはよいが、一切干渉してはならぬ、と。

もともとが静かな修道院だから、大騒ぎが捲きおこるわけもなく、画面はとにかく静かでぴーんと。 客席の寝息のほうがうるさい。  でもまったく眠くはならなかったねえ。

たまに祈祷書だかなんだかの一節が文章で挟まったりするが、言葉で入ってくるはその程度。
お祈り、鐘つき、お食事、独居房へのお食事配布、猫へのお食事配布、新入居者、食後の歓談、事務処理、雪遊び、気候天候の変化、などなど。

例えばワイズマンの「エッセネ派」(1972) がそこに暮らす個々人の語りを通して宗教者の、宗教組織の苦悶・葛藤のあれこれをくっきり浮きあがらせたのに対して、こっちでは宗教的に、宗教のなかで、神と共に生きる、神になるべく生きる、というのはこの光、この時間、この外気、この無音のなかで生きることなのだ、というその環境と佇まいまるごと、総体が映しだされる。
彼らの宗教的な苦悶や葛藤や悟りを追跡追体験することなんてできるわけないが、彼らの精神が向かおうとしている境地、浄土のありよう、はこんなふうなんだろうな、というのは柔らかくわかる。 射しこんでくる朧げな光とか彼らの顔だちとかそういうので。

ふだんノイズのなかにどっぷり浸かって生きないわけにはいかない我々は、ああ、て思うしかない。 あそこにはぜったい行けない、ああはなれない、と。 同時に、あまりのギャップの激しさに、この隔たりをもたらしているのはなんなのか、これもまた神の思し召しなのかね、とか。 まあいろんなことを考えるわけさ。 ノイズまみれの汚れたあたまは。

デジタル撮影されたであろう画面はところどころ粗かったりするものの、結果としておもしろい効果を生んでいて実際に我々の目には見えそうにないようななにか、まで映っているような気がした。 聖なるもの、なんかではもちろんないのだが。

世界がこんなにひどくなっているなか、こんなふうな場所に籠って祈ることになんの、どんな意味があるのか、は当然出てくるであろう野次で、でもそんなやわなもんでないことはこの映画を見れば、ひとりひとりの顔を見ればわかる。 彼らはなんの代償も求めず命を懸けてお祈りしていて、神の顕現を信じていて、それはまだ道半ばなのだから、われわれが口を出すような性質の話ではないの。

猫に餌をあげるおじさんのとこがおもしろかった。 がんばってぬいぐるみで猫をあやそうとするけど、猫しらんぷり。


「リヴァイアサン」の真逆バージョン、として見ることもできるかも。

このあと、「トランスフォーマー」でも見ようかと思っていたのだが、やっぱし罰当たりな気がしたのでやめて、本屋もレコード屋も行かずにまっすぐ帰った。  よいこ。

[film] Ida (2013)

9日の昼間、イメージフォーラムで見ました。 やっと見れた。
「イーダ」。 NYのバンドのIda(アイダ)、とはちょっとちがう。 たぶん。

60年代初、修道院で修練するイーダは誓願式の前に唯一の親戚であるらしい伯母に会ってくるように勧められて会いにいく。 初めて会う伯母はおっかなくてスモーカーで飲んだくれで、その伯母の車に乗って亡くなった両親の行方、その事情を探す旅に出る。 そのうちにわかってくる両親のこと、自分の出生、かつて「赤いヴァンダ」と呼ばれていた伯母の過去、などなど。

清く正しく箱のなかで育てられてきた少女イーダが世の中や自分の家族やポーランドでかつて起こったこと、ジャズバンドの男の子との出会い、などを通して自分は誰なのか?、世界はどういうものなのか、に目覚めていく話、のようでありながら、そんな単純な成長の物語ではなくて、それは並行してヴァンダが自身の過去を取り戻す物語でもあり、歴史と神を巡る物語でもあって、そういう単純さに還元させない意志、みたいのが漲っている。 最後まで仏頂面を崩さないイーダの、その目に宿るなにか -  って一体なんなのか、を考えさせる力があるの。

神様がほんとうに神様としてあるのだとしたら、なんで歴史は、自分の家族は、あんなことになって、あんなふうに埋められてしまったのか、殺戮を実行した奴は既に寝たきりで、自分はたったひとりの身寄りすら救えなかったのか、そして世界とか文化とかは、なんであんなふうにして人々の間にあるのか、それはたんに過去を知った程度で、ジャズやセックスを知った程度でどうなるものでもなくて、じゃあどうするのか - ヴェールを脱いで誓願やめて堕靡泥の星にでもなるか、いやだからこそ真剣に神と世界に向きあうのだ、と言うか。

イーダとヴァンダのふたりの女性 - 終盤、どちらも自分の生を必死で自分の手元に手繰り寄せようとする - その眼差しを自分のものにしろ、これは自分のこと、あなたのことで、ポーランドのことでもホロコーストのことでも60年代のことでもないんだ、と。
モノクロのスタンダード、ずっと固定されていた画面がラスト、イーダの歩みに合わせてゆっくり動きだす、そこだけちょっとあざといかも、と思ったりしたが、そういうことであれば。

エンドロールの謝辞のなかにスコリモフスキの名前があったが、画面から伝わってくる必死さとか切迫感には彼の映画にあるのとおなじようななにかを感じることができる。 連帯。

イーダが今も生きていたら、映画のなかのヴァンダとおなじくらいの歳になっているはずだ。
今きみはどこにいるの? イーダ。

8.17.2014

[film] The Devil and Miss Jones (1941)

8日金曜日の晩、シネマヴェーラで見ました。「悪魔とミス・ジョーンズ」
シネコンは怪獣とロボとアニメと、そんなのばっかしでくそつまんねえったら。暑苦しいったら。

マンハッタンの38thにあるデパート(場所だけだとLord and Taylorだね)とかいろんなのを経営している大金持ちのMerrick(Charles Coburn)は、自分の人形を曝し首吊りにして組合を作って団交しようとしている従業員達をとっちめるべく探偵を雇ってその首謀者を探ろうとするが、やってきた探偵が頼りなさそうだったものだから自分が従業員になりすましてデパートの靴売り場に潜入するの。

店員になって配属されてみると売り場責任者がやなやつだったり、売り場の同僚Mary(Jean Arthur)とかElizabeth(Spring Byington)には身寄りもお金もないかわいそうな老人と思われてやさしくされたりいろんな経験をして、やがて組合を作ろうとしているのはMaryの彼 - Joeであることがわかったりするのだが、彼らにはコニーアイランドに誘ってもらったり迷子になったところを助けてもらったりして、そういうのを通して本来の目的から外れて働くこと生きることの意義みたいのを彼らと共に学んだりして。

これ、びっくりするくらいおもしろかったんですけど。

ベースのテーマはとっても青臭いはずなのに、MaryやElizabethやJoeの処遇はどうなっちゃうのか、Merrickの正体はいつばれちゃうのかはらはらどきどきで、脚本がよいのだとおもった。

コニーアイランドでMaryがMerrickにJoeとの恋愛について語るとことか、警察に拘留されそうになったMerrickのためにJoeが演説をうつとことか、いちいちほんとにすばらしいんだよ。 なんてすてきな人達なんだろ。

でも最後、労働万歳!みたいになっちゃうのはなー。
やっぱし経営者はどこまでもブラックで反省しないクソ野郎であったほうが話としては盛りあがるのかもね、とか少し。

でもさあ、こんなのが未公開だったなんてブラック映画興行団体の陰謀だわよね。

あと、一番高いのから2番目のツナ缶が12セントだったのかあー、とか。

[film] Monte Carlo (1930)

7日の木曜日の晩、シネマヴェーラで見ました。 だってルビッチなんだもん。

どしゃぶりの結婚式の日、いきなりRunaway Brideしてしまった伯爵令嬢マラは、行先も決めずにメイドとふたりで列車に乗りこんで、そのままなんとなくモンテカルロに行くことにして、着いたら早速カジノですってんてんになって(だって、ルーレットでずっと"16"に賭け続けるんだもの)、そんな様子を見てて彼女に一目惚れしたルドルフ伯爵が、ヘアドレッサーになりすまして彼女に近づいて、彼女はごりごりわがままし放題で、でもルドルフはどんな難題もさくさくこなしちゃうのでこれって恋かしら、みたいになるのだが、お互いへんな見栄はったりするもんだからなかなか落ちるところに落ちてくれない。

そもそもマラはなんであんな馬みたいな侯爵と結婚することにしたのか、伯爵はなんであんな気が強くてわがままで自分勝手なマラなんかに一目惚れしたのか、などなど腑におちないことばっかしなのだが、クラシックな少女漫画なんだと思ってしまえばそういうもんかもと思うし、実際に感極まるとみんな楽しげに歌いだすオペレッタで、電車で走れば窓の外の人たちはみんな手を振ってくれる。

最後に観劇にいったオペラで身分違いの恋が取り沙汰されていたのでその流れでひっくり返ったりするのかと思ったら、以外とストレートに納まってしまって、そうでもなかった。

ルビッチの劇って、こちら側とむこう側でそれぞれ勝手に思いこんだり妄想したりで運んでいたことが(想定通りに、想定外に)ぶつかったり行き違ったりすれ違ったりでじりじりままならないまま最後に奇跡的にどこかにはまって落ちて、ていうパターンが多くて、これもそうで、つまりはラブコメってことなのね。

あと、これもいつものことだが、ほんとにちっちゃくてどうでもよくてくだんないネタを執拗に繰り返したり、ところどころが微妙にエロかったり、気になってぜんぜん目が離せないの。

8.12.2014

[film] RIP Robin Williams

午前中、会社で訃報を知ったときはそうでもなかったのに、帰りの電車でTLとかを見ているうちにどんどん悲しくなってきて泣きそうになってこまった。

だってこのひと、ポパイだったし、ガープだったんだよ。
なんで自分からいなくなっちゃうんだよ。 こんなことがあってよいわけがないわ。

単に笑わせるひと、というよりはひとを笑顔にさせる、そのためにジョークや演技や変態を運んでくるひとで、さらにそのために金持ちにもホームレスにも子供にも老人にも白人にも黒人にも小人にも巨人にも妖怪にもロボットにも男にも女にも、何にだって誰にだって化けたし変わったし、どんな言葉だって喋ることができた。 それはみんなを笑顔にするための魔法であり確信だった。

映画で描かれる「希望」とか「元気を貰う」とかそんなのはしぬほど嫌いだが、彼のはそういうのではなかった。 くすぐったいところを熟知した揺るぎない道化のマスターとして、いいから笑っとけしぬまで笑え、てどこまでも容赦なく留まることを知らず。

でも最近の”The Butler”(アイゼンハウワー)とか、こないだ機内で見た”The Angriest Man in Brooklyn”とかは、ちょっと疲れちゃったのかなあ、くらいは感じた。 ”The Angriest …”、最後はしんみりよいかんじなんだけどね。 

彼があと10人いたら、世界はもうちょっとよくなっていた気がする。
何度も何度も何度も(TVでやってるもんだから)見て、一時期禁止令まで出たという”Mrs. Doubtfire” (1993)とか、いまとっても見たい。 でも泣きながら見たくなんかないよう。

ご冥福をお祈りします。
天国の底板を外して落っこちてきてね。

[film] Nothing Sacred (1937)

8月2日と3日の土日は銚子で花火大会でした。
今年のあんず飴は2本。 それよかでろでろに暑くてしんだ。

3日の夕方に戻ってきて、なんか見ないと嫌かも我慢できないかも、とふと思い立ってシネマヴェーラで見ました。 そんなふうにふらっと見れるのがこの特集のよいところよね。 「無責任時代」

これ、どっかで見てたかもと思って後で調べたら、2011年暮れの「映画史上の名作6」で見ていたのだった。でもあのときはデジタルじゃなくてカラーの色味にちょっとがっかりした記憶があったのだが、今回のカラーはいかった。 Carole Lombardの唯一のテクニカラー作品。

冒頭、アフリカの国の大使として挨拶していたのがそこらの靴磨きのおっさんだったことがばれて死亡記事係に左遷されたWally (Fredric March)はもう一回チャンスを貰って田舎町でラジウム中毒で死にそうだというHazel (Carole Lombard)の取材にやってくる。 そこはいきなり膝に噛みついてくるガキとか変な人達ばかりがいるとこで、Hazelの主治医も飲んだくれでおかしくて、Hazelもぜんぜん死にそうじゃないの。

でもとりあえず彼女をNYに連れてきて、悲劇の主人公として盛りあげてみたら、それはそれは盛りあがって取り返しのつかないところ - 彼女はもう感動的にお亡くなりになるしかない - まで転がっていく、ていうスクリューボールコメディ、なの。

スクリューボール・コメディの醍醐味のひとつて、主人公達の認知・関知しないところで事態が勝手に進んでいってあららどうしましょう、になることなのだが、ここでのHazelのなんなのかしらねーみなさん、ていう超然とした態度はそれだけで十分おかしくて、更にそういう収拾つかない状態のなかでふたりの恋愛 - 説明不能な恋愛 - が勃発してしまうものだからこれってなんなの? になる。

最後にふたりが殴りあいするとこなんて、おかしいんだけど、ほんとうにおかしいんだけど、あとで考えてみるとあれってなんだったんだかよくわかんない。 べつにおかしいからいいけど。
これがあるので、大メディアの胡散臭さを嗤う、みたいな本来あるべきだった(と思われそうな)テーマも骨抜きされてしまって、しかしそれでも一向に構わないの。 

あと、「生きるべきか死ぬべきか」の「シュルツ!」のおじさん(Sig Ruman)が出ていた。
そういえば「生きるべきか死ぬべきか」みたいなところを軽々と嘲笑うふたりなのだった。

8.10.2014

[film] RIP Menahem Golan

Menahem Golanさんが亡くなられました。 享年85歳。

わたしはこの人が監督したりプロデュースしたりした映画を語れるほどは見ていないのだが、従兄のYoram Globusと組んで作ったCannon Filmsのことなら、80年代に映画を少しでも見ていたひとなら誰でも知っている。知らないとは言わせない。

2010年の11月、リンカーンセンターでCannon Filmsの特集 - “The Cannon Films Canon" - があって、そのとき滞在していたので何本か見て、Menahem Golan + Yoram Globusふたりのトークもあったりした。 そのときの様子は以下に;

http://talkingunsound.blogspot.jp/2010/11/film-love-streams-1984.html
http://talkingunsound.blogspot.jp/2010/11/film-runaway-train-1985.html
http://talkingunsound.blogspot.jp/2010/11/film-apple-1980.html

とにかく彼らがいなければ、Jean-Claude Van DammeだってSharon Stoneだって世に出ることはなかったのだし、Chuck Norrisがあんなふうな伝説になることだってなかったはずだ。

そして何よりも、John Cassavetesの遺作 - “Love Streams (1984)”だって、全てのスタジオで断られたのを最後に拾いあげて、病床にいたCassavetesに最後までやりたいようにやらせてあげたのは彼らだった。

トークのなかでは、とにかく金になりそうなのはなんでも狙ってやった、とホラみたいなことばかり言う楽しいおじいちゃん達だったが、金目当ての連中がこれとか、JLGの”King Lear” (1987)とかAltmanの“Fool for Love” (1985) とかを製作したりするだろうか。 たぶんマジで狙ったんだろうと思う。 そういう時代もあったのだよ、と。

Roger Cormanがあれだけ再評価され、Asylumが喜ばれるのであれば、Cannon Filmsだってじゅうぶん評価されてしかるべきだと思うんですけど。

とくに、あの特集の目玉でもあった”The Apple” (1980)はぜったいやってほしいですけど。
オーディトリウムかカリテか、来年のカナザワでもよいからー。

ご冥福をお祈りします。

[film] Enrico IV (1984)

ふん、たまに台風なんかよこしたからって許してやらない。


27日の日曜日ごご、イメージフォーラムのベロッキオ特集でみました。
最後のお楽しみにとっておいた『ポケットの中の握り拳』は結局見れなかった… ばかばかばか。

『エンリコ四世』 英語題だと”Henry IV”。
原作はピランデッロの戯曲で、邦訳もいくつかある(「ヘンリイ四世」、「エンリーコ四世」、等)ようだが読んでいない。

車でどこかに向かっている男女がこれから会いにいく男の写真を見ていて、車の外では過去に起こったらしいことが再生される。 仮装パーティでエンリコ四世に扮した男がみっともなく馬から落ちて、自分はエンリコ四世なのじゃ無礼者〜て、おかしくなって暴れだす。

車が向かっていたのは男が収容されている施設で、そこで男はエンリコ四世のまま、当時の服装とか慣習とかそのまま従者を従えて王として尊大に振る舞っているの。 手がつけられないくらいひどいのか治療の一環なのかわかんないけど。 で、そこに「地獄の黙示録」よろしく乗り込んでいく現代人たち。

エンリコ四世の狂気が現代のいろんなのにぶつかって巻き起こる悲喜劇かと思ったらそういうのではなくて、どちらかというと掻き回されてあたふたじたばたするのは現代人のほう、というのがおもしろいのと、やがてエンリコ四世の狂気はほんもんなのか演技なのか(演技だとしたらいつから?)疑惑が起こってくるので混迷の度は加速していく。 要するに声がでっかいやつが勝つのか、とか、そもそもエンリコ四世て名乗っているあんたって何者なの? とか。

マルチェロ・マストロヤンニはとにかく圧巻。 いまこれやるんだったらアル・パチーノだろうなあ。 でっかい声で恫喝できて、でも同時に抱えこむ虚ろななにかが滲んでしまうひと。

音楽はアストル・ピアソラで、昼と夜、過去と現在、とりわけ現在のなかの過去を、うねうねのたくる狂った物語にぴったりと寄り添って画面に陰影を与える。

それにしても、「肉体の悪魔」にしても「愛の勝利を ムッソリーニを愛した女」にしても「眠れる美女」にしてもベロッキオの映画で描かれる狂気のスリリングで甘くて危うくて、漲ってすぐそこにある感じ、その強く美しいことときたら。
「あなたがここにいてほしい」

8.08.2014

[film] Babes in Arms (1939)

なんどでもいう。 こんな夏、ぜったい、いらねえ。

26日土曜日の昼間、シネマヴェーラの『映画史上の名作11』で見ました。 『青春一座』。
Busby BerkeleyにJudy Garlandの組み合わせなら見ないわけにはいかない。

初期Judy Garlandでは、“Listen, Darling” (1938) があって”The Wizard of Oz" (1939)があって、これ。 最強無敵。
この映画史上の名作の特集、Judy GarlandとCarole LombardとErnst Lubitschの全作品制覇をやってほしい。

20年代、ボードビル芸人一座のどさまわりの途中の劇場で産声をあげたMickey (Mickey Rooney)は大きくなって、自分が書いてPatsy (Judy Garland)が歌った曲も売れたりしたのでぼくらも巡業に出たい、て親達に申し出るもトーキーの登場でボードビル芸は落ち目になりつつあって、だめって言われてあたまきて、留守のあいだにPatsyとかそのたの子供たちと組んで子供一座をつくって、興行をやろうとするの。

当然のように地元のやかましいおばさん(Ozのいじわるおばさん/魔女)が介入してくるわ、他方で見守ってくれるおじさんもいるわ、セレブ子供女優が割り込んできてPatsyがむくれちゃうわ、興行当日には大嵐がくるわ、いろんな困難があって大変で、でも子供たちみんなで一生懸命練習してがんばる、ていう美談なの。

もとは1937年のブロードウェイミュージカルで、音楽はRichard Rodgers、振り付けは George Balanchineで、"My Funny Valentine"とかもここの出だったりするのだが、それとは別 ー 重なっているのは2曲だけだという。

子供たちが立ち上がって自分たちの音楽を!って行進していくところは楽しくてかっこいいのだが、最後は時節柄かお国ばんざい! みたいになっちゃうところが残念だったかも。 いちばんよかったのは最初にMickeyとPatsyが自分たちの歌を売り込みに行って、その場でいきなりMickeyがピアノをぶぎうぎ叩いてPatsyがわーわー歌いだす"Good Morning"のとこだった。 あんなふたりが売り込みに来たらすぐに買うべし、ておもう。 あの無敵感はすごいわ。


このあとで、六本木に行って”Godzilla”を再見しました。
一回目よか、でっかい動物のつがいを追う別の動物のしっぽを米軍が追っかける、太平洋を東に横切るその線がやたらリアルに見えて、そのリアルさというのは怪獣映画にとってどうなのだろうか、と少し考えてしまった。  やはりオキシジェン・デストロイヤーに相当する何かによって倒されるべきだったのではないか、とか。 あそこで核が爆発したらどうなっていたか、とかね。

8.05.2014

[film] Escape from Tomorrow (2013)

もうなんもやるきになんない。 夏なんてだいっきらいー。

22日の金曜日の晩、銀座でみました。
いつだって、どこからだって、エスケープしたいし。

ディズニーランド(東京じゃない)らしい場所に家族が来ていて、朝、ホテルのベランダで電話しているパパは会社から突然クビって言われたり子供にロックアウトされたりついてなくて、家族4人でアトラクションに行っても周りの客がみんな咳をしていたり不穏で怪しげだったり変なかんじで、子供たち(兄と妹)は当然のように思うように動いてくれない。

家族の楽しい思い出を作るんだ、ていうのと、なんでやなことばっかし起こるんだ、ていうパパの苛立ちがややコントラストきつめのモノクロ画面でぐろぐろと浮きあがって、どう考えてもこりゃおかしい、呪われてる、みたいなことも起こり始めて、華やかで愉快なワンダーランドは阿鼻叫喚の地獄に...  ていうほど恐ろしい事態に引きずりこまれるわけではなくて、それってだめなパパの被害妄想じゃないの? 程度のことが言えるくらいのなかなか微妙なホラー、ていうより怪奇譚。 でも、傷口から止まらない血とか喉から突然出てきた毛玉とか、そういうのが嫌な(怖い、というより嫌な)ひとにはたまんないかも。 

途中で怪しげなSFぽい設定も出てきたりするのだが、あんなのなくてよかったかも。
なんかわざわざ手作り自主映画ぽさが出てしまった気がして、どうだろうか、と。

あのシンボルのでっかいネズミが悪意たっぷりに猫インフルを撒き散らした、というだけでじゅうぶん説得力あるし怖いし。
東京のディズニーランドにしたら、浦安のどざえもんとか、もっといろいろじっとり土着のおっかない要素を出せたかもしれないね。

でも、ディズニーランドていう帝国ブランドに対する直接の批判にはなっていないのね。(なっていたら文句が入ったのだろうが)
その辺をもうちょっとうまく掘り下げることができていたらなあ、とか。

あと、"Edge of Tomorrow"(All You Need Is Kill)とはちょっとだけ似てるかも。
自分の居場所じゃないところに来て、体液みたいのかけられてループしちゃうとことか。

しかし、モノクロ画面でオーケストラがでっかく鳴るとそれだけでなんかうっとりしてしまうのは、よくないねえ。