1.31.2013

[film] This Is 40 (2012)

日曜日の11:50、飛行機を降りてから2時間半後、Union SquareのRegalで見ました。
この映画はなんとしても、なにがなんでも見たくて、公開に合わせて何度か出張も画策したのだが相次いで失敗し、最後はもうプライベートで行くしかない、と腹を括ろうとしていた、それくらいの。

”Knocked Up” (2007)(くだらなすぎた邦題は忘れた)から派生したおはなしで、あれに出てきたPete(Paul Rudd)  Debbie(Leslie Mann) の夫婦がメイン、他にもJason Segelとか、あれに出てきたキャラは何人か出てくる。

"The 40 Year Old Virgin" (2005)や"Knocked Up"が童貞喪失や出産といった人生の一大イベントを扱っていたのに対して、これは共に40歳になっていろんなことにいらいら焦ってガタが来始めた夫婦と家族のおはなし(うー "Funny People" (2009) 、見たいよう)。 
イベント、というより時間と共にやってくる避け難いなにかとどんなふうに向き合うのか、その事態を我々はどう笑い、何をおかしいと思うのか、とか。

へたをすると糞みたいな中高年向けの安心/元気/幸せガイドのようなとこに落ちてしまいそうな話を、見事にファミリー・コメディに仕上げている。 134分はぜんぜん長くかんじない。
ほんとうにファミリー・コメディで、Maude & Iris Apatowのふたりの娘のほかに、Judd Apatow映画の常連もいっぱいでてくる。Lena Dunhamさんも。

小さなエピソードの積み重ねから大事故が勃発し、さらに和解から絆の再確認へ、みたいなつまんないパスは通らなくて、自転車乗り、車の移動、エクササイズにダイエット、夫婦の会話、子育て、子供の学校、学校のあれこれ、職場のあれこれ、庭のパーティー、などなど、回廊のように果てしなく延びながら反復していく一連の動きと会話をえんえんと繋いでいく。 個々のエピソードにいちいち共感できるとか、わかる(くすくす)とか、そういうことよりもこの際限のない堂々巡りとはらはら、溜息、諦念を経て"This is 40…"と空を仰いで白目を剥いてしまう、その波と瞬間がくっきりと、時として残酷に刻まれている。

どうすることもできないし、かといって放り投げるわけにもいかない、滑稽すぎて笑えるようで、笑えない、でも笑うしかない、そういう状況なんだ。 40ていうのは。

Paul RuddとLeslie Mannのふたりの、なんなんだろうあのあたりまえのようにそこらにいる夫婦みたいな有様は、そして輝けるMaude Apatowの産湯の頃からそこにいるんだし反抗だってするわ、のノリは。 役作りとか、そういう域の話ではない。そういう揺るぎないベースの上で彼らを自在に動かして、彼らも勝手に動いていく。

そして、脳の底から痺れるくらいにすばらしい音楽映画でもあるの。 音楽全体はJon Brionで、主人公がとっても敬愛していて、自分のレコード会社で契約しているのがGraham Parker、という設定で、彼本人も、ライブもいっぱい。 The Rumourの名前だけで痺れるような人たち - Steve Goulding, Andrew Bodnar, Martin Belmont, Bob Andrews, Brinsley Schwarz - の演奏する姿も見ることができるし、最後のほうではRyan Adamsのライブが(Ian McLaganて、いま彼のバンドにいるのね)。

家族が一緒に乗っている車のなかで、Pixiesの"Debaser"を熱唱しつつ、それがいかに画期的な楽曲であったかを力説するも、「パパうるさい」の一言であっさり切られてしまうとことか、わかるけどね、でもそんなもんなんだよね(泣)。
他にもAlice in Chainsの"Rooster"とかThe Replacementsの"I Will Dare"とか、ラストにはWilcoの"I Got You (At the End of The Century)"のぜんぜん別バージョン(あれなに?)とか、いろいろたまんないの。

あーなんてすばらしいー、と余韻に浸ろうとしたのだが、エンドロールで流れるMelissa McCarthyの止まることを知らない爆裂NGでなにもかもふっとんでしまうのだった。


昨晩のJimmy FallonはBad Religionだった。 かっこいかったー。

1.29.2013

[log] January 27 2013 - NY

27日の日曜日、New Yorkに着いたのだが、ぜんぜん時間がないし、期待してたほど寒くないし、どんよりしまくり。

行きの飛行機、こないだ機内食の全面リニューアルを発表した日系の航空会社で、どんなもんか食べてみたのだが(どんなもんか、とか言うより食べないわけにはいかないのね)、そんな劇的においしくなったかんじはしなかった。 葉っぱとか野菜が増えたのは嬉しかったけど。 洋食にしたのだが、冷製鰤大根、とか言っても要は薫製した鰤の切り身と大根のサラダだし、メインのトリュフハンバーグは、トリュフの数減らしていいからもう少しよいお肉を使ってほしかったし。 二回目の食事の「フミコの洋食」(なんだそれ)、ていうのはなかなかよかった。 あと、アイスクリームがハーゲンダッツからDean & Delucaに変わっていた。

でもさー、こういうとき悩みもせずにアタマから和食って決めているようなビジネスおやじの脳が変わらないといくら機内食のレベルあげたってきついよね。 このおやじ連中は、搭乗するとまずおやじ週刊誌をキープして新聞をばさばさ風を立てながら繰り返し読んで、映画はほぼ必ず「釣りバカ」を見るの。 それはそれはものすごい確率で、こういう連中が横の席に来る(なんかの嫌味か)のだが、彼らの間での「釣りバカ」の定着率は相当のもんで、日本のビジネスを動かしているのはおおよそこんな奴らで、いくら変革だの維新だの言っても、自民党以前にこの連中をどうにかしないことには、なんだと思うの、いつも。

機内で見た映画は3本。

最初は"Pitch Perfect" (2012)。
前回の滞在時の最終日が、"Looper"とこれの初日で、結局"Looper"を選んでしまったのだが、これもとっても見たかった1本で。
大学に入学後、アカペラ部に入ったAnna Kendrickさんとそこの仲間とか、ライバルの男子チームとの精進と戦いの日々あれこれを楽しく、スポ根にちかいノリで描く。結末は当然のように。

ベースにあるのが"The Breakfast Club" (1985)で、行き詰まって落ち込んだ主人公がこれのラストシーンを見ながらぼろ泣きするとこがあって、それなら甘くても許してあげようか、となる。(ちょっと遅いけどね、大学に入ってからこれ見てどうする)
で、あとから振り返ってみれば、父親の描き方とか彼(候補)の風貌とか、Anthony Michael Hall的なおちゃらけ野郎(Christopher Mintz-Plasse)とか、John Hughesぽいネタはいろいろあるのだった。(でも、John Hughesはコンペティションのようなテーマは描かなかったけど)

アカペラそのものにライブ感がゼロだったのは惜しかったかも。
この映画の場合、そういうのあってもよかったような。

それから"End of Watch" (2012) -  Jake GyllenhaalとMichael Peñaのロス市警もの - を途中まで見てつまんなそうだったのでやめて、"The Expendables 2" (2012) を見て、これもなんかあんましだねえ、と思った。 Chuck Norrisなんてもう、一匹狼どころか枯れた羊飼いみたいじゃん。
Van Dammeの後ろ回し蹴りが久々に見れたのはよかったけど、あんなにあっさり始末できちゃっていいの? とかさ。

それから、続編の予告が気になってしょうがない"Despicable Me" (2010)をついに。
やっぱし面白かった。 声優陣がSteve Carell、Jason Segel、Russell Brand、Kristen Wiig、Mindy Kaling、Ken Jeong、などなどめちゃくちゃ豪華だし("2"ではAl Pacinoが!)、なんといってもMinionsがたまんないの。

ホテルに入ったのがごぜん10:30、Duane Readeに行って水とかAdvilとかを調達し、スタンドでNY Timesを買って、シャワーを浴びて支度して外に飛び出し、11:50からばたばたと映画を2本みました。

それらはまた後ほど。 それにしても今回はほんとに (溜息)…

1.27.2013

[log] January 27 2013

ありえないくらい時間がないのだが、これからNew Yorkにとぶの。

信号機故障でNEXが止まってしまったので日暮里から京成という、京成に乗るのなんて高校通学以来で乗り降りしていた駅名が変わっていてびっくりしたりして、車内は満員の立ちづめでうんざりなのだが、とりあえず空港まできて、ラウンジでチーズとクラッカーを食べている。  もぐもぐ。

カイエ週間のカラックスもAlabama Shakesも、あと少しのとこまできた「2666」もとっても残念なのだが、お仕事だからしょうがない。 お仕事だから。

向こうではライブもあんまないし、映画もほんとに見たいのは1本とか2本で、これも残念なのだが、お仕事なんだから、ね。

ではまた。

1.26.2013

[film] Seeking a Friend for the End of the World (2012)

22日、火曜日の晩、日曜日のリベンジで見にいった。 『エンド・オブ・ザ・ワールド』。
だからさー、みんなこういう駄菓子みたいなラブコメを見たいんだよきっと、と思っていたのだが、そんなようなどたばたコメディではなくて、割としんみり切ないやつだった。悪くはなかったけど。

小惑星を破壊する予定だったスペースシャトルのミッションが失敗したので、あと3週間で地球は終ります、というラジオのアナウンスが流れて、Steve Carellの妻はどっかに消えてしまい、彼はがらがらのオフィスで仕事を続けようとするのだが、ばからしくなって自棄になって、そんななか同じアパートに住むKeira Knightleyと出会って、彼女と旅をすることに - 彼は高校の頃のガールフレンドを探して、彼女は飛行機がないと無理なのだが家族に会いたいし - なるの。

世界がもう終わっちゃう、家族も仕事もいろんな愉しみもぜんぶ消えてなくなる、となったときになにをするのかどうしたらいいのか、自殺もどんちゃん騒ぎもしないでお友達を探す、探すというより気づけば横に、たまたまついてきたかんじの犬と娘が。 ふうーん。

Keira Knightleyは割とビッチな娘で、一旦寝るとなかなか起きなくて(寝顔だけはかわいい)、でも同棲していたex.彼の部屋から逃げるときに「あたしのJohn Cale("Vintage Violence"だった)とWilcoだけは!」、とアナログ何枚かだけを束にして抱えこむような娘だもんだから、けっして嫌うことなんてできないの。

最後の最後にSteve Carellがぶち切れて、とかバカになって、とかそうでなければ"The 40 Year Old Virgin" (2005)のラストのようなパラダイスのビジョンが現れるかと思っていたのだがそうはならず、彼は終始むっつりシニカルで、まるで村上春樹の小説の主人公みたいなかんじで、ここだけなんかなー。 例えばJim Carreyだったらどうだったろう、とか。

世界の終りが近づいて、携帯もTVも繋がらなくなって、そうなってもアナログレコードは不滅なんだと、そういう映画なの。(電気はぜったい通っているのね)

最後、主人公がひとりで部屋で(他にはLeonard Cohenの"Death of a Ladies' Man"、The Magnetic Fieldsの"69" なんかがみえる)ターンテーブルに載せるのがThe Walker Brothersの"The Sun Ain't Gonna Shine (Anymore)〜♪"なんですよ。(でもレコードジャケットは”Scott”なんだけど…)

というわけで、あたりまえのように、R.E.M.の"It's the End of the World as We Know It (And I Feel Fine)" も Tubeway Armyの"Are 'Friends' Electric?"も流れないのだった。
このほんわかしんみりしたエンディングは、90年代の子供達のそれだよねえ。

べつにいいんだけど。

[film] 刺青 (1966)

20日の日曜日の昼間、たまには軽いやつでも、と渋谷に"Seeking a Friend for the End of the World"を見に行ったら売り切れてて唖然(だからぁ…)。 なんかないかー、と探したらこれやっていたのでとりあえずオーディトリウム渋谷に向かって、見ました。

映画で合コン、みたいなイベント(?)の一部で、土曜日には若尾文子さんのトークもあったらしいのだが、この回の客は10人くらいだったかも。

冒頭、どこからか攫われてきたらしいお艶(若尾文子)が麻酔を嗅がされぐったりして、露となったその背中に彫師がざくざくと(この音がまた…)刃を入れていく、朝にそれを彫り終わったとき彫師は魂を抜かれているのだが、見ているこちらもそれは同じで、彼女の背中に宿った女郎蜘蛛がこちらの頭のなかでもじょろじょろ動きだす。

こうして彼女は襦袢の裏に蜘蛛を潜ませる染吉 - スパイダーウーマンに変容し、彼女に集ってくる悪党共に糸を絡めて血祭りにあげていくの。

あるいは、それは皮膚とその裏側に流れる血のせめぎ合いでもあって、権次とか徳兵衛とか旗本の芹沢とか、それらぎとぎとの悪人(顔)を殺める際の決して簡単にはいかないどろどろの縺れあいと流れだす血の赤さ、蜘蛛はそのなかで、そいつらを食べて生きて死ぬ、ということがラスト、蜘蛛の巣の上での新助(子蜘蛛)と彫師(親蜘蛛)のやりとり、彼女の背中に突き立てられた刃によって鮮やかに - あの瞬間の光の美しいこと - なるの。

それは単なる皮膚の上、たった皮一枚(あるいは、その皮膚を覆い隠し、露わにする布切れ数枚)の上で隙間で、いろんな人たちが滅んでいくドラマであって、その場所において愛とか欲とかって、一体なんなのか、何でありうるのか、と。

というようなことよりも、どのイメージもすさまじくて、暗く陰惨なところ、色艶やかなところはどこまでも、レンズに取り込んだ光と画面の端から端までぜんぶ使って、彫師がフィルムに彫りこむかのようにお艶 - 染吉の姿を浮かびあがらせている。
美しく奇妙な蜘蛛の生態と一生、を捉えるにはここまでやる必要があったのね、と。

1.24.2013

[film] Monkey Business (1952)

13日の夕方、シネマヴェーラで見ました。
ルビッチとスタージェスとホークスなら、なんだってみる。

ホークスの映画にケイリー・グラントが出るのならおかしいことが起こるのは決まっていて、それがわかっているから、冒頭のやりとりからして既におかしい。 「まだだよ、まだ」。 犬かあんたは。

若返りの薬を研究している製薬会社のケイリー・グラントは研究に没頭してぼーっとしがちで、反対に奥さんのジンジャー・ロジャースはきびきびしっかり者で、試薬にチンパンジーくんが細工したのを飲んじゃったら20歳くらいのヤンキーに若返って、会社の秘書のマリリン(かわいい)を連れておおはしゃぎして、それが人から人に伝染して、かん違いにかけ違いがあって、雪だるま式に収拾がつかなくなっていくメディカルパニックもので、こないだの"Rise of the Planet of the Apes" (2011) はこれの近未来リメイクなの。 たぶん。

薬なんか使って若返ろうったってろくなことにはならねえぜ、みたいな教訓ぽいとこ、若返り礼讃社会への警鐘のようなとこに落ちる気配がこれっぽっちもないとこがすてき。
奥さんも会社の役員連中もみんなガキ、というか動物手前のところまで後退してぎゃーぎゃーどんちゃん騒いで、大人も子供の男も女も猿もみんなで輪になって踊る。 その有り様を映画はずるずるに放置しておく。 

若返りによってなにかを得られる、と思っていた、そのなにかを予測しうるのはあくまでも現在の生真面目な自分であって、若返った自分ではなかった、というごくあたりまえのことが、ごく普通に描写されてて、そこにはなんのトリックも飛躍もないのにバカみたいにおかしい。

実際にやったのはチンパンだった。
でもチンパンもそれを狙ってたわけじゃない。
それは薬じゃなかったのかもしれない。ただのお酒だったのかも。
誰もこんなふうになるとは思わなかった。
結果は… 結果て、なに?
でもだれも不幸にはならなかった。
とりあえず楽しかった。とりあえず。
責任は… 責任て、なに?
そこにチンパンが。

こうして、あんま反省しないでふだんのサイクルに戻るのね。

ばーっかじゃねーの、くすくす、だからMonkey Businessなの。
そんなことよか、とにかく面白いんだよ。 あっけにとられるくらい。

[film] The Garden of Allah (1936)

12日の土曜日の朝、シネマヴェーラで2本見ました。

最初のが、『沙漠の花園』。 
テクニカラー初期の宗教ドラマ。 宗教のお話しはともかく、色彩はうつくしー。

修道院で育ったドミニ(ディートリッヒ)は、ずっと看護をしていた父の死後、魂を抜かれてしまい、修道院のおばさんの勧めでアルジェリアに向かう。 そこで端正なボリス(シャルル・ボワイエ)と出会って恋に落ちて、結婚して沙漠に旅立つの。
沙漠でふたりはうっとりしっとり楽しい時間を過ごすのだが、ボリスはほんとは修道院で秘伝の極上ワインを造っていて、そこから逃げ出した坊主であったことが明らかになって、しゅんとしたふたりは反省して、ボリスは修道院に戻ってさようならするの。

中東の都会の喧騒、アラブの猥雑さ、狡猾な人々、に対照される沙漠の静けさと美しさ、ふたりの純で一途な愛で砂嵐並みに盛りあがるのであるが、神様の愛はそれらを全て超えて強く崇高でお手上げで、御慈悲もくそもなくて、これじゃ一旦僧院に戻ったボリスは再びぶち切れて逃げ出してしまうだろうし、ドミニはますます生きる希望を失って抜け殻になってしまうにちがいない、とおもった。

とにかく、沙漠のディートリッヒが冗談みたいに美しくて、しかもそれが動いたりするので、すばらしいの。 沙漠の変な動物とか、天から落ちてきたあれとか。

美人さんが出てくる宗教ドラマ、というとこないだ見た『雁の寺』を思い出す。
どっちも破戒僧がいて(一方は雁の絵を切り出し、一方はワインをもちだし)、女は堂々と揺るがなくて強くて、他方で光といい湿気といい、ものすごくちがう。 あたりまえだけど。  そもそも神様がちがう、ということで。


次に見たのが"King Solomon's Mines" (1950) - 『キング・ソロモン』。

『沙漠の花園』はデジタルだったが、こっちは35mmプリント版のテクニカラーで、傷んではいるけど、やっぱしこっちのがいいや。 沙漠からジャングルへ。

アフリカでずっとガイドをしている男のとこに、ダイヤモンドの山を探して落書きみたいな地図をもって地の果てに消えてしまった夫を探してほしい金はいくらでも出す、て、デボラ・カーが現れて、男はいやいや旅団を組んで旅に出るのだが、いろんな獣とか人食い人種とかいろいろ現れて人がだんだん減っていく秘境アドベンチャー映画で、最後は変てこな髪型の原住民のお家騒動に巻き込まれてどうしよう、なの。

リアル動物(フェイクは大蜘蛛さんくらい)がいっぱい出てくるのが楽しいのと、野生動物と原住民をほぼ並列に扱うのってPC的にどうなんじゃろでも当時はこんなもんだったのじゃろ、みたいな間抜けっぽいところがすてき。

それにしても、これのひとつ前の名作特集で見た"Zamba" (1949)でもそうだったが、アフリカの奥地にやってくる白人女性はなんでこうも傍若無人で偉そうでつーんとしてて助けてもらって当たり前、みたいなふうなのか。  猛獣よか人食い人種よかよっぽどこわいわ。

1.22.2013

[film] 打擂台 (2010)

見る時間も書く時間もぜんぜんないようー。

11日の金曜日の晩に、六本木に逃げこんで見ました。

『燃えよ!じじぃドラゴン 龍虎激闘』。英語題は"Gallants"。

不動産屋に勤めるひょろひょろのダメ社員が、田舎の村に取りたてのために派遣されて、不良とのいざこざに巻き込まれたところで片足を引き摺る老人(ソン)に救われる。彼についていくとそこはお茶屋で、その土地の権利を巡ってさっきの悪党連中が嫌がらせに来たりしてて、もうひとり強い老人(セン)がいて、彼ら二人は昏睡状態の老人 - どうも彼らの師匠らしい - をずっと介護していて、その師匠が悪党の夜討ちで30年の眠りから醒めてしまう。 でも目覚めた師匠はずっとそばにいてくれた弟子とか幼馴染をそれと認識せず、ダメ社員の若者を弟子と思いこんで悪党一味主催の格闘技大会に向けて猛特訓を開始するの。

カンフーものに御馴染みのフォーミュラがひと通り揃っていて、寂れてしまった道場があって、古くからの絆や因縁や伝説があって、弱いもの、強いもの、ずるいものがいて、弱いものは貧しいが鍛錬すれば強くなれたり復活したりできて、ずるいものをやっつけることもできるのだが、格闘は痛いのは痛いしきついし、楽ではないの。
そして、なんといっても目覚める、復活する、ということ。師匠の昏睡状態からの目覚め、弟子二人の復活、若者の目覚めも。

目覚め、がやはりひとつのテーマとしてあった「カンフー・ハッスル」のカエルおじさんがソンさんの役で、ほとんどひとりでがんばっている。

これまでにない要素、それは主人公達の老い、昔のように体の自由が利かず勢いも出ない、その厳しさと、でも30年眠り続けていた師匠にはそれが解っていないので容赦がない、という二重の縛りと痛みがある、という。 それでも歯を食いしばって立ち上がるじじい達、というところがせつなくて泣けるのかしら。

でも、これだけいろいろあるのに、あと少しなんかが、なの。
格闘のところはよいのだが(画面がぎざぎざしたりアニメみたいな効果が入ったり、はいらないけど)、老師匠はほんの少ししか戦わないし、結局決着はどっちにどうなったのか、あの若者はあのままでいいのか、とか、四角い顔のお婆さんは、あの娘っこはだれ? などなど周りに謎の人たちがいっぱいいるし、最後はあんなみんな団欒でよいのか、とか。

目覚めたばかりの混濁した記憶、老いと共に捨てられてしまった記憶、すべてがぼんやりと、誰が誰やらわからないなか、それでも彼らは訓練を重ねて歯をくいしばって立ちあがるしかない。 そこは道場で、彼らは格闘に身を捧げたのだから、とそう思ってしまえばよいのだろうか。

あひるのエピソードはよかったけどなー。
 

1.14.2013

[film] Sullivan's Travels (1941)

6日の日曜日の午後、シネマヴェーラの名作特集で見ました。 『サリヴァンの旅』
ルビッチとスタージェスなら、なんだって見る。ぜったい見る。 35mmだし。

ハリウッドで軽めのコメディを撮って成功しているお金持ち映画監督のJohn L. Sullivanは、もっとシリアスで社会に影響を与えるような映画を撮りたい、そのためには貧しき人々の生活と格差を自ら体験しなくては、と浮浪者の格好をして旅に出るの - 執事とかメディアとか取り巻き連中を周囲にがっちりと固めた状態で。
途中でルビッチの映画に出たいんだけど無理そうなので諦めて国に帰ろうとしていた女優 - Veronica Lakeと出会ったり、それなりに経験を積んだと思いこみ、一旦は自分のソサエティに戻るのだが、やり残したことが、といって外に出たところで予期せぬトラブルに巻き込まれ、再び旅をすることになるの。

スクリューボールな前半とどうなることやらの後半とで映画のトーンはくっきりと分かれるのだが、前半はSullivanが社会のなかの自分の位置を見つける(ぼくはやっぱりお金持ちだ)パート、後半は社会における自分の仕事を改めて確認する(映画は客を笑わせてなんぼや)パート、というかんじ。

タイトルの"Sullivan's Travels"は、スウィフトの『ガリヴァー旅行記』- "Gulliver's Travels"を参照していて、「ガリヴァー…」がイギリス社会への風刺を通して当時のアイルランドの貧困を訴えようとしたのと同じように、「サリヴァン…」はハリウッドへの風刺を通して恐慌時代のアメリカをー。
(ケルアックの"On The Road"のハリウッドの描写のとこでこの映画が参照されているのは偶然でもなんでもないの)

いろんな他者・異者との出会いを通して発見するのは相手ばかりではなく自分自身、でもあって、この作品は最も初期のRoad Movie、とも言われる(BFIの"100 Road Movies"にもちゃんと出てる)。 更に、そうやってせっかく発見した自分自身が後半で一旦死んじゃうことで全部ちゃらになる、そういう落語みたいなコメディでもあるの。 そう、これはなんといってもコメディで、そういうわけで自分はコメディを撮るんだ、映画で世界を笑わせてやるんだ、というスタージェス自身の揺るぎない宣言であり、上級詐欺師みたいにかっこいい大見得、でもある。

ていう教科書的ないろんな見方を、映画のいろんな場面や役柄に様々に展開できて、その「アメリカ」的なスコープのでっかさに感動することも確かなのであるが、単純におもしろいんだ。
それに、Sullivan役のでっかいJoel McCrea(191cm)と女の子(彼女には名前がない)役のちっちゃいVeronica Lake(151cm)の組み合わせが素敵なんだよなー。

彼みたいな映画監督と彼女みたいな(ルビッチの映画に出たい〜、っていう)女優さんがいっぱい出てくれば、世の中はもうちょっと明るく楽しくなるに違いないよね。

いまの映画監督でSullivanて誰かいるか、というとPTA、かなあ。 彼ってもともとコメディのひとだと思うんだけど。 次のピンチョンのでそろそろ戻ってきてほしいんですけど。

[film] 今年の恋 (1962)

雪のやろう ー …

年初めの映画がSM ~ 吸血鬼大戦とあんまりな方向に向いてしまったので、少しはお正月ぽいのを見なくては、と4日の夕方、オーディトリウム渋谷の特集「イケメン天国! 知られざる木下惠介」で見ました。  イケメンも木下恵介もあんまよく知らないので、お勉強させていただく、と。

横浜の金持ちぼんぼん息子の光(田村正和)と銀座の小料理屋の息子の一郎(石川竜二)は仲良しでいつも揃って空き地に呼び出されて袋叩きにあったりして、一緒にぶつぶつ言い合いながらボクシングの試合に行ったり遊んだり、成績と素行は悪くなるばかりで、ふたりの保護者担当である光の兄の大学院生(吉田輝雄)と一郎の姉の小料理屋の看板娘(岡田茉莉子)は彼らの劣化の要因はお互いの家庭からの影響である、と思いこんでいて、実際に会ってからも互いの印象は最悪でつんけんいがみあうばかりなの。 ふたりの少年は無垢にやけくそに(今リメイクするのであれば間違いなくBLモードで)突っ走るのを兄と姉はじたばた追いかけていくうちに惹かれあっていって、それを見越してあざ笑うかのようにガキ共は熱海から京都へと逃走を続けて、最終決戦の舞台は大晦日の京都にー。

設定が素敵で、小料理屋の父親(三遊亭円遊)と母親(浪花千栄子)はゆるゆる適当な楽天家で、勉強なんかしなくてもどうとでもなると思っているから放任で、ぼんぼんのほうはみんな忙しくて家にいないのでばあや(東山千栄子)がひとりで口うるさく抑えこんでいて、吉田輝雄も岡田茉莉子もそれをわかっているが故に弟たちの教育には熱くなるのだが、でもそんなのどうなるもんでもないこともわかっていて、そんなことよか自分たちの恋はどうするのよ、って。

で、そういう設定の上の脚本もさらさら見事に決まってて、ふたりが何度かの衝突を繰り返しながらとげとげが溶けて仲良くなっていくとこなんてわかってはいるのにうますぎるー。

岡田茉莉子がいつものことながらすばらしい。やっぱり京都に行くべきかしら、と半ばうきうき悩んでいるとこで父親に「暮れの京都はいいぞぉー」って冷やかされて「アホ!」って切り返す秒速の間合いなんてとてつもないし、廊下を走りながら一瞬スキップする後ろ姿とか、いいの。
62年というと、『秋津温泉』と『秋刀魚の味』にも出ているわけで、最強だねえ。

まだジャニーズのようにぴちぴちの田村正和は、既にあの喋り芸を完成させていて、それがばあやのぼやきと組み合うところもほのぼのおかしい。

というわけで、とってもお正月映画のかんじがした。 今年の恋はどうかー。

1.11.2013

[film] The Twilight Saga: Breaking Dawn - Part 2 (2012)

3日の夕方、渋谷でみました。 ちょっとだけお正月ぽいし。

Twilight Saga4部作の終り、最後の第4部のパート2。これでおわり。 これでお別れ。
パート1は変てこな結婚式~怒涛の初夜を経て、最後は出産でろでろという、どうしろってのよ、的な展開だったのに対して、こんどのはだいじょうぶだから。

前作のラストで血も身体もヴァンパイアとして転生したベラと、あっという間に小学生くらいに成長してしまった娘のレネズミ(て字幕にはあったけどレネズメ、だよね ...)の社会適応物語と、まだ当時人間だったベラとの間に生まれてしまった子供ってコンプライアンス違反だから、とバチカンの懲罰委員会のみなさんが懲らしめにやってくるのだが、こっちはこっちでローカルなはぐれヴァンパイア軍団を組織して、狼団も援軍で加わって、オレゴンの雪原で妖怪大戦争が、ていうのと。

はぐれヴァンパイアそれぞれのキャラと特技が興味深い。こいつらと比べたら第一作に出てきた悪ヴァンパイア達の弱さはなんだったのか、という。 ていうか君たち別にヴァンパイアじゃなくても十分やっていけるでしょ?

キーとなるメッセージは、ダイバーシティと過去の歴史から学ぶことの大切さ、なの。 ほんとなのよ、おおまじで。

ぼんやり暗くて不機嫌でやるきなしの女子高生だったベラが、地場のモノノケ - ヴァンパイアと狼男と出会って恋愛して、でも純潔は守って結婚して子供を作って、そうやって成長していく、話の柱って実はそれだけなのだが、そのまわりに有史以来のいろんな生物共存の知恵と歴史がしっかりと織りこまれている。 よくもまあここまで持ってきた、じゃない、成長したもんだ、とベラを見ているみんなが思って、でもそこには狼男とヴァンパイアが必要だったのね、ふつうのオトコじゃなくて、という。

American Natural History X というか。 実のところ、そこにはなんの闇も影もない、極めて健全で草食なヴァンパイア・サーガ。

あとはねえ、なんだかんだ言っても、自分はこのSagaが好きだったんだなあ、と改めて思った。
周りからどんだけバカにされようと笑われようと、学園ドラマから始まって底抜けに悪いやつはひとつも出てこない、音楽も含めてさらさら系のエモいっぽんで流れていくこのお話しを自分は愛していた。

それにしても。 これは米国の初日に見たかったよう。
ジェイコブがベラのパパの前で裸になっていくとことか、戦いのクライマックスで、え? ってなるとことか。 あそこ、日本で隣の女子高生ですら「うそ、なに?」と絶句していたくらいだから、これが米国だったら大騒ぎになっていたにちがいないなー。

後日譚をつくるとしたら、ひとりと一匹で世界探訪の旅にでたジェイコブとレネズメによる「子連れ狼」とか、ベラがパパの犯罪捜査に協力して悪者をお仕置きする刑事もの「ヴァンパイア刑事」とか、生活のためベラが高校教師になる「ヴァンパイア教師」 - 同窓会にいっても先生はまったく歳をとらない - とか。

最後に人間の友達 - Anna Kendrickさんとかにも出てきてほしかったなー。
そういえばパパはかわいそうだ。 周りはみんな化け物になってしまってとうとうひとり。

音楽は最後のほうがほんとによくて、"A Thousand Years …"とかで泣きそうになったりしたのでこんなことではいかん、と頭をぶるぶるしたの。

全5作を爆音オールナイトでやってくれないかなあ …  1万円でも行くけどなー。

1.09.2013

[film] Martha (1974)

ここから2013年のあれこれ。

2日の夕方に、イメージフォーラムで見ました。『マルタ』。
年の最初に見る映画は昔の洋画、となんとなく決めていて、でも今年はあんましこれというのをやっていないし。 今やっているファスビンダーの3作品のなかでは、これだけ見たことなかったし、程度。

なかなかごりごりのハードコアSMだった。(あ、"M"はないかも)

割と拘束力のつよい父と彼にべったりの母に育てられたマルタは旅先で父が突然亡くなり、母が精神のバランスを失って病院に消えたあと、突然現れたヘルムートという男性に導かれるように半自動で結婚するのだが、こいつがとんでもない野郎で言いたい放題やりたい放題する。 身寄りのないマルタは彼のいうがままにされてかわいそうでならない。

日焼けは体にいいと言われて全身まっかっかになったり、噛まれるわ殴られるわ、仕事を勝手に辞めさせられたり、自分はずっと留守のくせに家を留守にするなと言われたり、寂しいからと猫を飼ったらあっというまに退治されちゃったり、ドニゼッティの「ルチア」なんてべたべたの屑だオルランド・ディ・ラッソを聴け!と怒られたり(そうなんだ…)、仕事の本(ダムのなんとか力学)を読まされたり、電話線まで切られたり、ほんといろいろ大変なの。

SとMのおはなしでいうと、Mの歓びとか、それでも少しは結婚生活の愉しみとか、そういうのはほとんどなくて、あまりにたたみかけるようにSが絡まってにょろにょろと続いていくので、ヒトの性愛のおはなし、というよりは吸血鬼モノに近いのではないか(彼噛むし)、とか。 あるいはこれの前年の"Welt am Draht" - 『あやつり糸の世界』と同系の、遠のいていく意識のなか、どこかで操られているばかりの人形のおはなしなのか、とか。

最後の最後までみごとに救いはないのだが、ほんとうにそうか、まだなにかが … というのが、ラストのぱりっとしてロボットのように見えないこともないふたりの姿を見ると。 ほんとうの幸せがやってくるのはあらゆる希望と自由を奪われたこれからなのだ、と言っているようで。

そして、こんなにも暗くて歪んだ世界なのにファスビンダーを見ると元気になるぜったい変だ、といつものように思うのだったが、年の初めだからこれでよいことにした。

しかし、『あやつり糸の世界』もそうだが、これもTV Movieだった、というのが信じられない。
同様に、バルハウスのカメラも。彼女が勤務していた図書館のあの色模様とか、鏡の向こうの奥深さとぺったり感の両方を併せ持つ画面構成とか。

1.08.2013

[film] Mrs. Miniver (1942)

31日の午後、シネマヴェーラで見ました。シネマヴェーラでも今年最後の上映だったみたい。
ほんとは、前日の走る映画2本で一年を終われたら美しかったのかもしれないが、大みそかって、お掃除と片付けを諦めて(目をつむってなかったことにして)しまうと、することなくなっちゃうのよね。 と、映画館はそういう老人たちで溢れているのだった。

そうして見たのが『ミニヴァー夫人』。

英国の地方都市の典型的なミドルクラスの暮らしをおくるミニヴァー家は、デパートで見かけた素敵な帽子を我慢できなくて買っちゃったり、夫のほうは車を衝動買いしちゃったり、ちょっと背伸びした消費生活を楽しんで、幸せに暮らしていたのだが、英国が戦争に突入し、大学に行っていた長男は軍に志願して、旦那が船で敵の探索に駆り出されたり、ドイツ兵におうちに入ってこられたり、空襲に丸まって耐えたり、長男の許嫁が死んじゃったり、波乱万丈で大変なのだが、みんなでがんばるの。 エピソードが次から次へと流れていって慌ただしいのだが、個々のおはなしは戦時下の話とは思えないくらいに落ちついて、ちゃんとしている。

監督のWilliam Wylerが明確に言っているとおり、これは戦争プロパガンダ映画で、米国から英国へのエールで、みんな大変だけど持ちこたえて一緒にがんばろうー、えいえいおー、ていうのがまんなかにあって、それが牧師さんの最後のスピーチにくっきりとでる。 結構長くて有名なスピーチらしいのだが、『...これは人民の戦争、我々の戦争なのだ!我々は戦士なのじゃ! 戦うのじゃ! 神もそこはわかっておる』 とか言うの。 ほんとかよじじい地獄に堕ちるぞ、とか思うのだが、このスピーチの後でカメラがひいて、でっかい穴があいた教会の天井の向こうの空を戦闘機がV編隊で飛んでいくの。 じゃーん。

でもほんとこれくらいで、これ見て戦争しなきゃと思うひとはよっぽどポジで元気なひとなんだろうなー。 幸せな暮らし壊されるんだったら断固戦争反対にいくよねえ。 というのと、これを戦争プロパガンダ映画というなら、朝の連続ドラマ小説なんてほとんどそうではないか(うん、きっとそうなんだ ... たぶん)、とか。  あんま関係ないけどそれにしても、オリンピック招致運動って、なんであんなに気持ちわるいんだろうか、とか。

この作品、1943年のオスカー、作品、監督、撮影、脚本、主演女優、助演女優の6部門を受賞している。
そうなのかー、すごいんだー、と思ってから、でも最近のオスカー受賞作に感心したことなんてないから案外そんなもんなのかも、と思った。

というわけで、慎ましく穏やかに、でも戦争なんてぜったいやだからね、の決意を胸に年を跨いだのだった。

ここまでで2012年の分はおわり。 ふう。

1.07.2013

[film] Unstoppable (2010) - 爆音

30日の晩、吉祥寺のバウスで。
今年最後の爆音、この映画も権利切れで日本で最後の上映となるという。 行くしかない。
冷たい雨がざあざあだし、お客さんはそんなに入らないのではと思って19:30に行ったら結構並んでいた。 誰もがこいつは行かなきゃと思った、ということだろう。 思わなきゃね。

午前中に見た「駆ける少年」もひらすら走る映画だった。走ることを止められない子供の映画。
これは、走ることを止められない列車の映画。 子供も列車もなかなかコントロールが効かない。 でも、子供が走っても危害は加えないけど、暴走列車は止めないと大変なことになる。 その程度の違い?

最初に見たのは2010年の11月、NYのシネコンで、音響が格段にすごい別料金の部屋だった。
見るのはそれ以来で、その間に311があった。 あれの後では映画の受け取り方は変わる、というのはじゅうぶんわかっていて、それも上映から足を遠ざける要因のひとつだったのかもしれない。
暴走する機械とそれに立ち向かう人々(しかも実話)、というネタはなんというか、とっても微妙だったのである。 … でもそれが覆ったのがこないだの選挙だったという。

暴走する列車を既存のシステムや組織は止められなかった(想定外、考慮不足)。組織の上層やメディアはわーわー集まってきていろんなことを言ったが、何一つ状況を変えられなかった。 そいつを止めたのはたまたまそこに居合わせた二人の知恵と勇気と意志だった。 たとえものすごく小さな確率であってもそれができた、本当に起こったということをもう一回、きちんと見ておくべきだと思ったの。

と、いうのとは別に、これの爆音はひたすら気持ちよくあたまの中の煤をさらっていってくれるので、単純にいけー、やったれー、みたいになってしまうのだった。
それとか、「駆ける少年」にもあったけど、走っている列車に全力で走って寄っていって届きそうなところで届かずにかーっとなって、だんだんわけわかんなくなっていくあのかんじ、とか。

複数のプロットがマルチトラックで重層的に流れていく、というよりはぶっとい1本のレールの上をぜんぶが一挙に流れていくワントラック録りの、ジェットコースターの怒濤の勢いがあるの。 レールに乗れるか乗れないか、がすべて。 "One Track Mind"。 停止するまではぜったい動きを止めるな、という挑発であり、呼びかけであり、あとは向こうが止まるかこっちが止まるか。あーめん。

ぜんぜんどうでもいいとこだけど、馬を運んでいた車に列車が激突する直前に線路の上をまるっこい動物が横切るの、あれってなに?

そしてこれが、Tony Scottの最後の作品で、こんなにメジャーで楽しい映画を沢山撮ったひとなのに、どこも追悼特集やってくれない。いくじなしー。
"True Romance"みたいなー、"Enemy of the State"みたいなー。


今年の夏には「天国の門」のDirector's cutが見れるという。それまではなんとか持ちこたえたい。
でもこれって、完全版の219分より3分短いのね。

映画が終わって外に出ると雨はあがっていて、寒いけど洗われたようでとっても気持ちよかった。
そういうとこも含めて、とっても素敵な映画体験でしたの。

1.06.2013

[film] 駆ける少年 (1985)

30日の午前中、渋谷で見ました。嫌な雨がずうっと降っていたが、しょうがない。

冒頭、大きな船に向かって大声で叫びながらぴょんぴょんする少年がいて、それが主人公のアミル。
彼は飛行機も好きで、海辺で瓶拾いをしたり水売りをしたり靴磨きをしたりして、廃船のなかでひよこと古雑誌と暮らしている。 友達はそんなにいないけどへっちゃらで、なにかあると走る。

とにかく、アミルが走る、少年が走る、全力で走る、それだけの映画といっていい。
仲間との競争だったり、飲み逃げを追っかけたり、飛行機と走ったり、理由はいろいろあるが、とにかく走るのが大好きらしく、いつも思いっきり走っている。
何かの目的に向かって、何かを達成するために、何かを確かめるために、走るのではない。

走るひとは、走るために走るのであって、そこには吐息と叫びと両手両足の歓びしかなくて、ひとはそれを生と呼び、その状態を生きている、という。
そこに「生きる力」なんて必要あるだろうか。 間にあってる。力も金もいらねえ。

これも"Les Misérables"なのかもしれないが、いま見られるべきなのは、断然こっちだよ。

振りあげ、振りおろされる両手と蹴りあげる両足、頬を切る風の音、肺と心臓、狭くなったり広くなったりして近寄ってくる風景、笑い、これらがひとつの像を結び一本の線となってスクリーンの右から左へと走っていく。
そこで呼び覚まされる全身の感覚の瑞々しさは永遠で、ただただ美しい、という。

船があり、飛行機があり、電車があり、自転車があり、海と水と氷と火がある、これらが全てスパークするラストの疾走はどんなライブフィルムより、ネイチャーフィルムより、かっこよく、力強く、盛りあがるの。 こんなガキに、こんなガキに...

上映前の監督の発言によると、アミルはやがて成長して「Cut」の西島秀俊になったのだという。
そうだったのか…  どこで整形したのか、その金はどこでどうやって手に入れたのか。
ナデリ監督、上映回ごとにずっと映画館にいて、みんなに挨拶してパンフにサインしている。
えらいよねえ。

見てあげてください。 アミルの瓶を買ってあげよう。

1.05.2013

[film] Les Misérables (2012)

こういうの、年が明けてから見るのはなんだし、と29日の晩、六本木で見ました。
それに、TV-CMとかのコメントによると「感動ってものを超えちゃう」らしいので、ぷぷ、それってどんな境地なのかしら、とか。

ユーゴーの原作を英国人がミュージカルにして、そのミュージカルを英国人がオーストラリア人をメインキャストに据えて映画化した、という伝言ゲームみたいな作品。
もっというと、ミュージカル版での集客(金儲け)に見切りをつけたCameron Mackintoshが"Les Misérables"ブランド戦略の最終兵器(最後の最後まで搾り取れ)として映画化をやってみた、と。
なので、いろんな意味で歪んでしまっていてかわいそうな「映画」、ではある。

だいたいさあ、歌の口パクを排してライブレコーディングで、ってその時点で映画を、映画の技術とその歴史をばかにしてるよねえ。
こうして、歌にフォーカスした結果、カメラはひどい運動神経でさして美しくもないアップばかりを追い、更には演技からアクションを、ダンスを奪った。 それでも、ミュージカルのブランド維持のために、歌はフルコーラスで歌われなければならなかった、と。

もちろん、こんな見方は間違っているのかもしれない。19世紀フランスの波瀾万丈の物語に、かわいそうな運命に翻弄されながらも愛を貫こうとして倒れていった「悲惨な人々」の物語に素直に目を耳を預けるべき、なのかもしれない。
でも、あのがちがちのカメラ、意味不明の横顔アップばかりとか、いろんなもん(歌もね…)が邪魔をするんだよ。 これらは監督の前作 - "The King's Speech"では(そのテーマ故に)うまく機能したのかもしれないけど、ここではうまくいっていない。 主人公たちの激情が、エモが、革命に向かって突っ走っていかないの。

せめてBaz Luhrmannの、愛のためならと恥も衒いもなく古今の名曲をぶちこんであげてみせるあの勢いと魂があってくれたら。 そう、一言でいうと魂がない。

若者も子供も蜂の巣の藁人形にされていって、そのことに対する裁きも決着もなにもない、こんなんで、なんでみんな最後にフランス国旗を掲げて合唱できるのか、そんなんでも「生きる力」が湧いてくるのだとしたら変な薬でもやっているのだとしか思えない。
そうか、だから「あゝ無情」なのか。

あとさあ、歌って踊れるミュージカルスターでもあるHugh Jackmanをあんな無様に地面に這いつくばらせた、ていうだけで犯罪だよね。
それに、せっかくのGladiator vs. Wolverineなのになんでお互い辛気くさい顔で睨みあって低音でぶつぶつ歌うだけなのさ。

あとさあ、ぜんぜん笑えるとこがない。 なんのためにSacha Baron Cohenがいるわけ? 糞まみれになるためだけ?   Tom Hooperって、笑いのセンスまったくなさそうだしな。

これがオスカー獲ったら反乱起こすわ。そいで全員討ち死にするの。

1.04.2013

[film] Ich möchte kein Mann sein (1918)

29日、お正月休みの初日の朝、シネマヴェーラで見ました。
『男になったら』。英語題は"I Don't Want to Be a Man"。
ルビッチなら、もうなんだって見ることにしているので。

サイレントで、ライブのピアノ伴奏つき。12月のサイレントはずっと、柳下美恵さんのピアノ伴奏でした。 すばらしいんだよ。

おじさんの家に預けられているお嬢様オッシは、煙草は吸うわ酒は飲むわ博打好きだわ脇毛すごいわのしょーもないあばずれで、おじさんが遠くに遠征に出ると聞いて羽根伸ばせるわーい、と一瞬喜ぶのだが替わりに堅物で陰険そうな家庭教師がやってきたのでうんざりして、女なんてもうやめやめやってらんねー、と洋服屋で男服を作ってもらって男装してダンパに出かける。

そこの乱痴気騒ぎで鉢合わせしたのが例の家庭教師野郎で、向こうは彼女に気づかなくて、そいつがナンパするの邪魔したりして楽しむのだが、酔っ払ってぐでぐでしているうちに仲良くなっちゃって、帰りの馬車のなかではキスまでしちゃったりして、さてどうする、と。

初期のルビッチの映画に出てくるパーティって、いつもこんなふうにめちゃくちゃだけど、ほんと楽しい。 なにが起こってもおかしくなくて、なんでも起こりうるの。 魔法、っていうよか、単にみんなぐでんぐでんに酔っ払っているからなの。

ところで、オッシ役をやっているのはLena Dunhamさん、としか思えないんだけど、どうか?

[film] Unfaithfully Yours (1948)

12月28日、仕事納めの晩、シネマヴェーラで見ました。『殺人幻想曲』。

世界的に有名な指揮者のAlfred (Rex Harrison)は義弟がおせっかいで雇った探偵の自分の妻に関する調査報告 - 彼の不在中の夜中に、彼の秘書と妻が一緒にいた - をふざけんじゃねえ、と破り捨てて焼き捨てるのだが(ここまでの展開からして十分おかしいの)、演奏中にその疑念が勝手に暴走をはじめて、演奏曲ごとにいろんな計画(①ふたりをぶっころす、②小切手渡して妻にさようならする、③ロシアンルーレットで自分がさようならする)が頭のなかで沸騰して魔人の如く振り回す指揮棒が嵐を呼び演奏会は大喝采の大成功を収めるの。

で、その後で、彼は妄想のなかでは完璧に機能した計画を実行に移そうとするのだが、ぜんぶ見事に空回りしてしっちゃかめっちゃかになって、でも、結果だけ見るとすべてはなにごともなかったかのように落ちついてしまうのでよかったか、となるの。

妄想ではうまくいくことでも現実ではうまくいかないことばっかりできびしーっ、という落語みたいなオチの話、というよりは、変なひとのテンションとアクションは妄想も現実も超えてひたすらおかしいのだ、ということを横滑りに転がっていく事実のなかに示す。 Preston Sturgesのおもしろさって所謂ネタとかアイデアのなかにあるのではなくて、ドミノがぱたぱた倒れていくように出来事が繋がって流れて(流されて)いく、その歯車の動きのなかにこそあるの。

アナログ録音装置の操作がマニュアル見てもぜんぜんうまくいかないとこなんて死ぬほどおかしい。 古くならないんだねえ。

これ、CriterionのDVDが出たときにすぐ買ったのだが見れていなかった。また見よう。
ちなみに、DVDのライナーはJonathan Lethemが書いていて、全文はここで読めます。

http://www.criterion.com/current/posts/772-unfaithfully-yours-zeno-achilles-and-sir-alfred

1.02.2013

[film] 猫と庄造と二人のをんな (1956)

まだ2012年の暮れ。
23, 24のクリスマス前の連休の日月は、神保町シアターの山田五十鈴特集で短編も含めて4本みました。

『國士無双』(1932)
23日のお昼、ライブピアノ伴奏つき。

うまい飯と酒にありつきたいから、有名な剣豪と同じ名前を名乗れよ、と言われた片岡千恵蔵がいいよ、って適当に答えてタダ飯作戦はうまくいって、こんどは乱暴されそうになっていた若い娘(山田五十鈴)を助けたら、そこで剣豪の本物と鉢合わせして、勝負じゃ!って対決したら剣豪にあっさり勝っちゃっうの。剣豪は修行のため山奥に篭ることにするのだが、そこで山奥の仙人にどこからでもかかってきなさい、って言われてかかってみたら仙人はやられちゃうの。

たった16分しかないのだが、なんでそんな方に… ていう無茶な転がりかたをする。江口寿史の漫画みたいだった。

『嬉しい娘』(1934)
『國士無双』の後に続けて、ピアノ伴奏もおなじく。

父親のリタイアに伴って会社を継ぐことになった遊び人のバカ息子(杉狂児)が町で見かけた山田五十鈴に一目惚れして追っかけてみたら、彼女は自分が後を継ぐ予定の会社で事務員をしているのだった。 というお話と、彼女の弟がお腹を壊して病院に運ばれるのだが、簡易保険に加入していたお陰で急なときでも助かりましたの、ていう簡易保険のプロモーションもあるの。

最後に心を入れ替えたバカ息子のスピーチに彼女がまっすぐな目線で応える場面が素敵なの。 といっても彼女はそこに立っているだけ、目だけ、それであの堂々と揺るぎないかんじ、すごいねえ。

あと、彼女の父親役で志村けんが出ていた。


『新篇  丹下左膳  隻眼の巻』(1939)
『國士無双』+『嬉しい娘』の次の回に見ました。

全部で4巻作られたらしい「新篇 丹下左膳」もので、現存するのはこの3巻のみらし。

冒頭、狂ったような奇声をあげてよろけながら向こうに走っていく男、その後に橋の上で果たし合いがあって、その半狂乱だった男は片目を切られてしまい、みんなが知っている丹下左膳(大河内伝次郎)になるのだが、ずうっとすごく血なまぐさくて暗い雰囲気、殺戮前夜の緊張感とその表裏にある虚しさが全編を覆っている。
そんななか、彼を匿ってくれた家の娘(高峰秀子)とお相撲さんみたいな下男との会話だけが別世界のようにほのぼのしていて楽しい。

ラストの多勢に無勢の敵討ちシーンは暗い風が渦巻く中あっという間でなにがなんだかわからず、決着がどうなったのかも不明。 絶体絶命のようにも、これはもうだめでしょ、にも見える。

かっこよくてよかったのだが、なんだか疲れたので次の『折鶴お千』は諦めて帰ったのだった。


『猫と庄造と二人のをんな』(1956)

クリスマスイヴのお昼に見ました。 原作は谷崎潤一郎。
とっても素敵なファミリームーヴィーだったよ!

冒頭、荒物屋の庄造(森繁)の妻(山田五十鈴)が姑(浪花千栄子)に悪態ついて出ていくとこで、姑は持参金目当てでぴちぴちであばずれの香川京子を後妻に据える。 最初は若妻を喜んでいた庄造だがだんだん耐えられなくなって愛猫リリーとの愛とその深みに溺れていく。 他方、妹夫婦宅に潜伏し諦めきれない山田五十鈴はリリーをだしに庄造奪還計画を企てる。

最後は山田 vs. 香川の怪獣映画みたいなどアップの修羅場取っ組みあい喧嘩で、やっぱし愛は猫のところにしかないんだな、るるるー、って流れていくの。

タイトル通り、エコシステムの頂点にいるのが猫リリーで、その下に庄造、最下層にふたりのをんな、というツリーになっているのだが、じつは、反対側のあやつり糸の突端には鬼の姑がいて、紡錘形の両極で猫とばばあが招き招きで引っ張りあうという女系の構図がある。
それがどうした、であるにせよ。

でもこんな話、へたな役者がやったら猫だって跨ぐに決まってるのに、さすがにぜんぜん違うのね。
みんなうますぎ。猫ですらまったくぶれないという。

猫と庄造と二人のをんなは、あの後どうなったのか結局わからない、のかも知れないし、或いは同じ場所をえんえんぐるぐる回り続けているだけ、なのかも知れない。
で、それでぜんぜんいいんじゃないか、と。 わかりあえるとか、絆とか、そんなの猫の餌にもならねえし。

[film] Design for Living (1933)

まだ2012年に見た分がいっぱい残っているのでだらだら書いていきます。

これは22日土曜日、三連休の初日で、でもこの日は朝から缶詰仕事で、解放されたあと、シネマヴェーラで見ました。 ルビッチの『生活の設計』。

劇作家のTom(Fredric March)と絵描きのGeorge(Gary Cooper)がパリに向かう電車のなかでGilda(Miriam Hopkins)と知り合って、男ふたりは彼女を好きになって、彼女も彼らを好きになるのだが、どっちの男か決められないので3人で一緒に暮らしてみるけどセックスはなしよ、の協定を結ぶの。
でも、やっぱしうまくいかなくて嫌になった彼女は彼女を見守っていた年寄りの広告屋の金持ちとNYに渡って結婚しちゃうの。

もとはブロードウェイのお芝居で、芝居用の脚本はNoel Cowardが書いてて、初演時には自身で出演もしている。

真面目でやや堅物のTomと自由で豪快なGeorge、ふたりの間を鳥のように気侭に飛び回るGilda、この男二人女一人の設定がよくて、タイトルにある"Design"ていうのは、この3人の三角形配置のことなのかと思うくらい。 トリュフォーの映画に見られる男二人女一人の三角関係の原型がここにある、らしいのだがどうなのかしら。

でも単なる会話ドラマかというとルビッチなので当然そうではなくて、なんともいえずエロい空気が漂う。最初のほうでGeorgeが階段のとこでGildaといちゃつくとこなんて、彼が体を折り曲げるように座って彼女の腰のあたりを触る程度なのに、あれはなんなのだろう。あれじゃ我慢できなくて協定だって破っちゃうよね。

彼女がNYに渡ったあと、二人は彼女を取り戻すべく金持ちじじいの家に乗り込んでいって、格式とお世辞まみれのパーティをぶち壊すのだが、その痛快で楽しいことったらないの。

金持ちじじいが格言のように繰り返す "Immorality may be fun, but it isn't fun enough to take the place of one hundred percent virtue and three square meals a day." ていう台詞があるのだが、不道徳のが絶対楽しいんだから! と強く強く確信してしまうのだった。


1.01.2013

[log] Best before 2012

新年あけましておめでとうございます。

2012年最後に見た映画は、"Mrs. Miniver" (1942) - 『ミニヴァー夫人』でした。
2013年最初に聴いた音楽は、Kirsty MacCollの"Free World" (1989) ~ "Happy"で、そこからNeutral Milk Hotelの"In the Aeroplane Over the Sea" (1998)に流れた。なんとなく。

昨年とおなじように2012年のベストをやってみる。

[film]

なんとなく選んだ新作の10本;(順番は見た順)

■21 Jump Street (2012)
■The Hunger Games (2012)
■Moonrise Kingdom (2012)
■Lola Versus (2012)
■Radio Unnameable (2012)
■Magic Mike (2012)
■Take This Waltz (2011)
■Cosmopolis (2012)
■The Perks of Being a Wallflower (2012)
■The Master (2012)

ぜんぜん足らなかったので以下も;(これも順番は見た順)

■Road to Nowhere (2011) - 『果てなき路』
■Damsels In Distress (2011)
■American Reunion (2012)
■Le Gamin au Vélo (2011) - 『少年と自転車』
■The Raid: Redemption (2011)
■Jane Eyre (2011)
■To Rome with Love (2012)
■Neil Young Journeys (2011)
■ なみのおと (2011)
■For a Good Time, Call... (2012)
■Camille Redouble (2012) - 『カミーユ、ふたたび』
■Bella Addormentata (2012) 『眠れる美女』
■Après mai (2012) - 『5月の後』
■The Day He Arrives (2011)『次の朝は他人』

2012年、個人的にはGreta Gerwigさんの年で、でも、Noah Baumbachの"Frances Ha"を見れていないのがほんとうに悔しい。

旧作もの(含. 再見)でじーんとしたのは;

■Return of the Secaucus Seven (1979) - 『セコーカス・セブン』
■mon oncle antoine (1971) - 『僕のアントワーヌ叔父さん』
■The Sandpiper (1965) - 『いそしぎ』
■On a Clear Day You Can See Forever (1970) - 『晴れた日に永遠が見える』
■Dans la Ville de Sylvia (2007) - 『シルビアのいる街で』
■Tren de Sombras (1997) - 『影の列車』
■The Lady Eve (1941)
■Ludwig- Requiem für einen jungfräulichen König (1972) - 『ルートヴィヒII世のためのレクイエム』
■Dans Paris (2006) - 『パリの中で』
■...All the Marbles (1981) - 『カリフォルニア・ドールズ』
■To vlemma tou Odyssea (1995) - 『ユリシーズの瞳』
■Design for Living (1933) - 『生活の設計』


2012年はいったい何本映画見たのかしら? と数えてみたら260を超えたあたりでわかんなくなり、もう一回数え直してみたら260近辺で再びよくわかんなくなったので、たぶんそれくらいなのだろう。
ふつうの会社員にしてはちょっと多すぎる気がする。なんかずっと忙しかったし。
人事評価でも「もう少し社交的になるように」とか言われた(この歳で言われる…)ことだし、今年はあまり映画館に逃げこまずに社交的な、ソーシャルなひとになるようにがんばります(棒読み)。

[music]

まずはライブ; 2012年も20回くらいしか行けなかった。その悶々がぜんぶ映画に行ったと考えたい。

■Jeff Mangum  - Jan.20  @BAM
■My Morning Jacket  - Mar.29  @Shibuya AX
■Lambchop  - Apr.19  @(le) poisson rouge
■Grizzly Bear  - Sep.24   @Radio CIty Music Hall
■David Byrne and St. Vincent  - Sep 26  @Beacon Theater

続いてAlbum; もうCDをほとんど買わなくなり、新譜の入手先はiTunesとアナログ盤についてくるダウンロードだけ、というひどい状態がずっと続いているので、いいかげんオーディオを揃える、というのが今年の目標。 あと、いいかげんお片づけをする、というのも今年の目標。

■Lambchop "Mr. M"
■Sharon Van Etten "Tramp"
■M. Ward "A Wasteland Companion"
■Tracey Thorn "Tinsel and Lights"
■Swans "The Seer"

箱モノだと、CANのLost TapesとKing Crimsonの"Larks' Tongues In Aspic"の大箱が決定的。
特に後者の、レコーディングセッションを1時間以上録ったやつ。

あと、暮れに突然リリースされた約1時間50分のThe Fragile (2012)。
3日に分けて聴きましたけど、"The Fragile"って化け物みたいな作品だなあと改めて。

[Theater]

■Death of a Salesman - Apr. 18  @Ethel Barrymore Theatre
■Einstein on The Beach - Sep.23  @BAM

ほぼこのふたつ。後者は音楽作品でもあるのだが、見れてよかった。

[Art]

■Turner Inspired: In the Light of Claude @National Gallery
■Lucian Freud Portraits  @National Portrait Gallery
■Christian Louboutin  @Design Museum London
■Picasso Prints : The Vollard Suite  @British Museum
■Rineke Dijkstra: A Retrospective  @Solomon R. Guggenheim Museum
■Regarding Warhol: Sixty Artists, Fifty Years  @Metropolitan Museum of Art
■Le Préau D'Un Seul 『たった一人の中庭』@にしすがも創造舎

日本の展覧会はもういいかげんにしろ、になってきたので行く気がしない。
国立近代美術館の特別展がどんなに充実していようとも、あんなヒトを馬鹿にしたタイトルの展示になんて絶対行かない。
そこにあるのは「いましか見れない」だの「ここでしか見れない」だの、貧乏人根性と田舎者根性に成金趣味をまぶしこんだ極めて醜悪な集金の構図、だけではないか。
そういうのが美に向きあう場所であるはずの美術館でおおっぴらに行われているのが信じられない。

展覧会だけではなくて最近の邦画(幸せになれる、元気をもらえる)も邦楽(さみしいからそばにいて)もぜーんぶ、正真正銘のクズの糞だわ。 歴史と世界に対する意識の欠如と無配慮、それをなんとも思わず内輪受けで解消して満足してしまう気持ちのわるさ。
このモードが今の日本の、例えばああいう政権を選んでしまった根底にはあるのだと思う。

[book]

時間がなくて積みあがっていくばかりだったので余りない。
フランゼンの「コレクションズ」、ジェイムズの「ワシントンスクエア」とか。
イーガンの「ならずものがやってくる」は素晴らしかった。
いまは「2666」を1日10ページくらいのペースでだらだら読んでいる。

今日(1日)の午後、少しはお片づけでもしてみようかな、と部屋の奥の足を(足すら)入れなかったエリアに吹き溜まっていた袋(複数)を引っ張りだしていくつかを開けてみたら、2010年から11年にかけての英米の雑誌、アナログ、チラシ、チケット、レシート等が大量に出てきたのでびっくりした。 出張で滞在していた時に買いだめておいたものを帰国後そのままつっこんで知らんぷりして、それをさらに知らんぷりして忘れてしまったのではないか、と。
年の始めに、果たしてこれは良いことなのか悪いことなのか。

というわけで、今年もたくさんのよいものに出会うことができますようにー。
おかたづけも忘れませんようにー。