2.27.2022

[film] Los Bando (2018)

2月19日、土曜日の午後、シネマヴェーラから走っていってシネマカリテで見ました。

邦題は『ロスバンド』。子供たちが中心にいるバンドもので、子供映画だし結末よいのに決まってるじゃん、なのだが、Feel-Good Movie、っていうのかなんだかそういうのが見たかったの。

ノルウェー映画で、北欧の子供バンドものというと(これはスウェーデン/デンマーク映画だけど)Lukas Moodyssonの”Vi är bäst!” (2013) = “We Are the Best!”があるし、あんまり外れるかんじがしない。

ノルウェーの南の方に暮らすGrim (Tage Johansen Hogness) - ドラムス-とAksel (Jakob Dyrud) - ギター&ヴォーカル - のふたりはLos Bando Immortale - 「不滅のバンド」つまりは不失者 - っていうバンドを組んでガレージや庭先でがしゃがしゃやってきたのだが、Akselの歌がどうしようもなくへたくそなのでGrimは補正ソフトでなんとかごまかしたりしながらどうしたものかー、と思っているとそんなの気にしていないし自分がへただとはちっとも思っていないAkselが北の方で開催されるお国レベルのロックのコンテストに勝手に応募して本選に通ったから行こうぜ! って盛りあがっている。 でもベースもいないし現地までの足もないしそれにあんたのその歌唱力ではぜったい…

そしたらひとり学校の隅っこで孤独にチェロをぎこぎこやっていたThilda (Tiril Marie Høistad Berger)が現れて、でも9歳とかいうので子供じゃん! なのだが合わせてみたらなんか合っちゃうし、車は父親の下でレーサーになるべく日々しごかれていいかげん嫌になっていたMartin (Jonas Hoff Oftebro)が(家から逃げるように)手を挙げて車を持ってきてくれたので北方(距離感がよくわからないのだが数日かかる)に向かっての無頼旅が始まるの。

旅の途中でGrimは離婚寸前でつんけんしている両親のことがずっと気になっているし、Akselはクラスの人気者の彼女に来てほしくてそわそわ妄想してばかりだし、Thildaはうその外出許可を取って両親に無断で飛びだしてきたことがわかるし、Martinはまだ車の免許を取っていなかったことがわかるし、車が故障して立ち往生していた花嫁を助けて式場まで運んであげて喜ばれたり、Grimがずっと憧れていたドラマーの人のところに立ち寄ったらぶくぶくの不健康になっていたそいつにバンドなんてやるもんじゃない諦めろって言われてしょげたり、お金がなくなったのでパブのカラオケのど自慢に参加してみたAkselが、ようやく自分の歌がへたくそであることに気づいたり、いろんなことがてんこ盛りで、Thildaの件では行方不明で公開捜査の貼り紙がでるし、Martinが勝手に持ち出した車のことで怒り狂った父と兄が追っかけてくるのだが、引き返すことだけは選択肢にないらしい。

クライマックスのライブ会場に向かって"The Blues Brothers” (1980)みたいなカーチェイス&ジャンプ!はあるし、警察に保護されてしまったThildaのはらはら救出作戦はあるし、ライブ本番になるとまずぶうーがでるし、でもほぼだいたいなんとかなる(に決まってる)ので安心して見ていられる - これはこれで大事なことよ。 Martinの兄はあれでよいのか、とか、Thildaの親はどうした.. とかいくつか残ったのはあるけど。

しっかり者だけど裏であれこれ心配したりくよくよしてばかりのGrimと対照的に能天気で目先のことしか見ない考えないAksel、実はいちばん大人でぜんぶコントロールできているThilda、冷たそうでも最後にはしっかり助けてくれるMartinと、バンドメンバーのキャラクターがちゃんと描けているところもよいのと、あとはそれぞれが旅を経ていろんなことを学んで、っていうロードムービーとしても楽しい。車が左から右につーって走っていくだけでも絵になっている。

音楽はGrimの両親の思い出の歌がMotorpsychoの”Feel”だとか、車内でThe Hellacopters - いたねえ - がかかったりとか、2018年の映画だったとしても、なんかどこかしら辺境のかんじはある - けど憎めないねえ。

続編があるとしたら、目指せ Eurovision ! しかないだろう。


Sylvia Plathが自作を朗読しているレコードが届いたのだが、まだ針を落とす気にはなれない。

2.26.2022

[film] 逆光線 (1956)

2月19日、土曜日の昼、シネマヴェーラの渡辺美佐子特集で2本見ました。

逆光線 (1956)

『太陽の季節』-『狂った果実』に続く「太陽の季節シリーズ」の第三篇で、今回はその女性版だそう。原作は岩橋邦枝の原作を池田一朗が脚色。『太陽の季節』の古川卓巳が監督。太陽族だのなんだの、まったく興味なくここまで生きて来たので、連中の挙動が異次元SFのように見える。

女子大生の玲子(北原三枝)には恋人(リーベ、という)の真面目な大学生の真木(安井昌二)がいて、子ども会とかの厚生組織で子供たちと遊んだりしているのだが、玲子は真木の学生服のボタンを食いちぎって(後で縫ってあげてたらおもしろい)キス(ベーゼ、という)したりしていて、その勢いで同じ女子寮の元子(渡辺美佐子)の恋人でバーでバイトしているトッポい寺村(青山恭二) とも軽く付きあったり、家庭教師のバイト先の中学生石本直彦(田中正憲)の父で船会社の重役の博彦(二本柳寛)にも覆いかぶさっていったり、なにがわるいのよやりたいようにやるわよ、の勢いが突出してすごくて、すごいな、って思っていると、最後は上高地の野っ原で水着いっちょうになってぐいぐい向こうに歩いて行っちゃうの。それだけなの。
(もう少し待ったら向こうから円盤が現れたはず)

たぶん当時はその考え方とか勢いがそのつんとした容姿と共にすごいぞ、だったのかも知れないがいろんな邦画を見てきてしまったのでそういうもんよね、しかない。 大文字で「健康」な気もする。

不満があるとしたら玲子の前に現れるのがろくな男たちではないことで、真木の退屈さは言うに及ばず、ランニング姿であんなキレのないでんぐり返ししかできない寺村にしても、金と別荘があるだけで中味空っぽなにっぽんの金持ちの典型の博彦にしても、周囲があんなのばっかりじゃぶち切れてああなるわよ。

おもしろいのは『月は上りぬ』(1955)で湿っぽくねちっこく北原三枝に迫ってべそをかかせていた安井昌二が、ほぼ同じキャラ - 伝統的な家父長男子としてリボーンしているのに対し、北原三枝は180度異なるキャラに変貌して - まるでSMの役割が交替するみたいに - 安井昌二をどつきまくっているので、それが気持ちいいったらないの。見る順番が逆だったらあれだけど。

あと、あの頃の学生さんて、みんなあんなふうに集って歌って踊って活動して、それらをあんなダンゴになって真剣に取り組んでいたのだとしたら、そりゃ疲れてやってらんないばっかじゃねーの、になるよね、とか。

あと、「静かな湖畔の森の影から」ってあんな歌詞だったかしら? ひつじとかぶたとか?


真田風雲録 (1963)

原作-福田善之、監督は加藤泰、助監督は鈴木則文、音楽は林光。カラーのミュージカル時代劇。

関ケ原の乱の頃、戦乱で親を失った、でもたくましい子供たちが彷徨っていて、彼らが透明人間になったり変な能力を持つ佐助(中村錦之助)と出会って、お霧(渡辺美佐子)は彼にちょっと惹かれて、大きくなった連中はそのうちギターを抱えた由利鎌之助(ミッキー・カーチス)に会って豊臣の方に行こうぜって、真田幸村(千秋実)に仕えることになって、風雲を呼ぶ十勇士 - 他にジェリー藤尾、米倉斉加年、常田富士男、河原崎長一郎など - が徳川に立ち向かっていくお話し。歌あり踊りあり殺陣あり忍術あり恋愛あり権力闘争あり、結末は悲劇なんだけど、それらを全部背負って振りかえらずに突撃していく無常感がたまんない。正義もくそもない。こんなもんだから、って。

戦いのシーンは低めに固定された画面に横流れしていくのがかっこよくて、でも、接近戦のぐさぐさがこないだの『忠烈圖』(1975) みたいだったらもっと素敵だったろうなー、とか少しだけ。

自分にとって『真田十勇士』と言えば辻村ジュサブローの人形劇なので(『新八犬伝』と並んで)もう一度みたいなー、しかない。十勇士って円卓の騎士とかAvengersみたいなもんなのだから、もっと海外も意識して映画化すればよいのに。

上映後の渡辺美佐子さんのトークで、元の演劇版では、佐助はずっと透明人間の設定だったので物理的に存在しなくて、その舞台を見に来た中村錦之助が気に入って彼自身が佐助をやることになり、いきなり生の錦之助とラブシーンをやることになったとか、当時の60年安保の挫折のモチーフがあったとか。女忍者くノ一の編みタイツは千田是也の考案だったのか、とか。 役に生きて、映画に育てられる、ってよいなー、えらいなー。


週末なのにぜんぜん楽しくない。 映画館にいてもなんかしんどい。

2.24.2022

[film] The Humans (2021)

2月16日、水曜日の晩、BFI Playerで見ました。

劇作家Stephen Karamの同名戯曲 - 2016年のピュリッツァー賞のファイナリストに残って、舞台はトニー賞のBest Playを受賞している – をStephen Karam自身の脚本・監督により映画化したもの。制作はA24。このキャストなら見ないわけにはいかない。

冒頭、Erik Blake (Richard Jenkins)がひとり、アパートの部屋の窓際に佇んでいる。窓から見えるのはそんなものを見せる意味があるとも思えない中間領域のような中庭で、雨なのかなにかの廃棄物なのかもわからないような細かい塵が絶えず舞っていて、階上の住人のたてるものなのか、アパートそのもののノイズなのか、壁の奥や向こうから時折どぉん、てでっかい音が響いたりする。ここまでに映りこんだ光景とErikの表情を見る限りだと全体はタルコフスキー風味のSFホラーになるとしか思えない。

Erikの娘のBrigid Blake (Beanie Feldstein)とRichard (Steven Yeun)のカップルがマンハッタンのチャイナタウン(Allen St. – Grand St.の辺りかしら?)の古いアパートに越してきていて、メゾネット式の各部屋にはまだ家具も揃っていない状態なのだが、サンクスギビングのランチのためにErikと妻のDeirdre (Jayne Houdyshell)と車椅子に乗った痴呆症のおばあちゃん - Momo (June Squibb)がペンシルベニア州のスクラントンからやってきて、そこに長女でBrigidの姉のAimee (Amy Schumer)が加わる。登場人物はこの7名のみの一幕劇。

サンクスギビングの集いってどこでもそういうものだと思うが、家族での再会を朗らかに祝う場であるだけでなく、各自の直近の(or 積もり積もった)難題や痛みに弱み、恨みに文句が直接間接に刺さったりかわしたりが同時多発して、例えばうつ病から回復したばかりのErikはキリスト教右派である自分らを捨ててNYに出てさっさと行ってしまった娘たちと老いた自分達のこれからの経済的不安について嘆き、Deirdreはそれらを消火したり油を注いだり、弁護士のAimeeは自身のキャリアと健康上の不安を抱えつつガールフレンドと別れたことでお先真っ暗で崩れそうで、Blake一家からすれば唯一のよそ者であるRichardは無邪気に料理を作ったりスマホで暖炉の動画を投影したり盛りあげ役としてなんとか外側に立とうとして、その努力はわかるものの人種の違いからくる無用な緊張は避けられそうになく、全体としてはコメディというよりはどうなっちゃうんだこれ? のベルイマンぽいサイコドラマのようにゆっくりと捩れていくかんじ。

家族同士のやりとりを切り返しや全景と共に追っていく、というよりは自身の内面(やスマホ)や窓辺に向かってどんよりしているそれぞれの表情の反射や横からのクローズアップが印象的で、そこだけだとほぼ喋らずに固まって動けなくなっているMomoの姿と変わらない。団欒の炬燵に足を突っこみつつ誰からも切り離されて自分が想うところの不安や不満しか吐きだせなくなっている家族のありようって、誰もが帰省時に経験したりしているところなのではないか。

という家族描写を背後でもりあげてくれるアパートの錆びれた調度がすばらしくて、壁の塗りこみが適当に失敗してできた凸凹の半端さ - そのついでのようにネズミごと固められているような天井のイボのような塊、そこにあるシミは明らかに近々の水漏れを予告し、むき出しのパイプにくっついた塵だの端切れ、誰が踏んだのか何が転がっていたのかの床の歪みと壁の境目、窓の桟にへばりついた鳥の羽、ここまで来ると匂いまで漂ってきたり、突然鳴り出すエレベーターの轟音、などなど。壁に響いてくる轟音、というと、”Memoria” (2021)にあったやつを思い出したりもするのだが、そういえばあれは..

でも、向こう(NYもロンドンも)のアパートって基本あんなだったねえ、って懐かしかった。住んだ当初はものすごく頭きたりもした - 水漏れなんてふつうにくるし - ので、今となっては、だけど。居住空間のあるべき姿からは程遠いし体にもよくなさそうなのだが、なんか「適応」するってこういうことか、とか「生活」って、とかいろんな意味でわかるよ。とか。

で、タイトルからすればこの内容は”The Humans”としか言いようのない、ヒトはこんなふうに暮らしを維持してその生態を保つのだ、ってパイプに仕込まれた顕微鏡スコープを通して宇宙から覗く、みたいな。 たぶん“Hereditary” (2018)とセットにして見ると、あぁ..  って(だれが?)


戦争絶対反対。殺さないで、ってずっと思っていると頭痛と吐き気が。お願いだから-

2.23.2022

[film] The Beatles: Get Back - The Rooftop Concert (2022)

2月12日、土曜日の夕方、109シネマズの二子玉川のIMAXで見ました。

Disney+でやっていた長いやつ(本編?)は年末に流しておくと、部屋の隅で連中がわいわいやりながらなんか出来上がっていくかんじ(あくまでかんじ)がそもそもやる気のないお片付け仕草にちょうどよいかんじで嵌まってくれて - 目を皿にして追っかけるようなマニアでなくてもなんか楽しめた気がした。あんなのよく出したよな、っていうのはあるにせよ。

これはこの記録映画がそもそもやろうとしていた(そのためにずっとスタジオから撮っていた)ライブ・パフォーマンスを編集してでっかい画面とでっかい音で。ただライブと言ってもビルの屋上だし、観客いないし、お金とってないし、許可もとってないし、通常のそれとはまったく違うやつで、演るほうも久々で撮るほうも初めてで、やっぱり許可とってないから警察とかが来るし夕方で寒いし、コンディションとしてはさいてーで、だからこそ、なんて言うほどのものでもない、ただの記録。 でもそれが1月の終わりの凍える夕方、Regent St. 近辺にがーんと鳴り響いたのだとしたら、それはそれは素敵だったであろう、くらい。

Michael Lindsay-Hoggによるドキュメンタリー - “Let it Be” (1970)は子供の頃にTV放映されたことがあって、その時は買ってもらったばかりのラジカセをTVの前に置いて(ケーブルなんてあるわけない)、ものすごい緊張感(家族には何があっても喋らないで、って)と共にTVから出てくる音を録音して、そのテープを毎日毎日聴いていた。そうやったのちにようやくお年玉で”Let it Be”のLPを買って聴いたらそれまで聴いていたテープの曲たちとぜんぜん違ったのでものすごく当惑してなんだこれは? になったことを思いだす。それくらいドキュメンタリーの”Let it Be”で流れていた音やバージョンが馴染んで好きになっていたからで、だからずっと後に”Naked”が出た時も恐くて聴けなかった(未だに)くらい。

だからあのドキュメンタリーの雰囲気がクリアな音と映像でだらだら流れていくのはたまんなくて、そのクライマックスにくる屋根上のライブがあんなに音も画面もなにもかもでっかいIMAXで見られる日がくるなんて、ラジカセを抱えてTVの前で正座していたあの子に教えてやりたいわ。べつにだれもなんも偉かないけど。

とにかく屋根の上だろうが下だろうが裏だろうが、ライブなので別々の機材から別々に鳴っていた音がせーので同時に鳴って絡まって畝りをあげながら楽曲を形作って歌と共に転がっていく、その様がたまんなくて、それは最初の”Get Back”がそういう曲だからというのもあるが、始めに2回もやってくれるので嬉しいったらないの。続く”Don’t Let Me Down”も”I’ve Got a Feeling”も、ライブで鳴ったときの「いま」「ここ」の感情ののぼりくだりが生々しい - そういう曲だし。

ライブとしては、ライブを演る、というよりもライブを撮るために演る、そういう目的のものなので、無理に盛ったりあげたりする必要もなく、みんなひたすら演奏に集中しているのがよくて、その集中力の反対側に現れた警察 - あの人たち今どこで何を - がもたらす「今すぐやめろ、逮捕するぞ」があって、結果はわかっているのでどうってことないけど、あの現場で撮影していたクルーとかビルの人たちにはぴりぴりしんどかっただろうなー、っていうのが伝わってくる。

あと、どうでもいいけど英国のビルの屋上 - フラットとかもそうだけど - の適当でいいかげんな造り- べこべこの板が張ってあったり、あれって共通なの? なんで? っていうのを思いだした。でもそういう屋上から見る眺めとか、夕暮れとか、気持ちよくて素敵だったなー。

あのビルの場所は、Burberryの裏手で、もうなくなっちゃったみたいだけど、あそこのBurberryの店内 - 2Fにあったカフェは居心地よくて、Hatchardsで本を買った帰りによくだらだらしていた。あんな場所に突然わんわんThe Beatlesが聴こえてきたら..   やっぱり最高かも。

Peter Jacksonをこんなので儲けさせるのは癪なのだが、一日どこかのIMAXシアターを押さえて、”Get Back”の全編を休憩なしでずっと流し続ける - チケットは1日券で何回でも出入り自由、っていうのをやってくれないかしら。

2.22.2022

[film] Flugt (2021)

2月13日、日曜日の晩、米国のYouTubeで見ました。英国では公開が始まったところ。

昨年のSundanceでドキュメンタリーのGrand Juryを獲って、もうじきのオスカーにもドキュメンタリーとアニメーションと国際長編映画賞の3部門にノミネートされているJonas Poher Rasmussen監督によるデンマーク映画。 英語題は”Flee”、原題を翻訳にかけると”逃れる”、になる。 Executive ProducerにはRiz AhmedやNikolaj Coster-Waldauの名前が。

監督のRasmussenの友人で、Aminと呼ばれている男が主人公で、でも本名や容貌は晒されると彼の身に危険が及ぶ可能性があるので伏せられている – だからアニメーションで、でも一部には実写映像 - 昔の携帯で撮られたような粗い映像と荒れた光景 - が挿入される。

物語はRasmussenによるAminへのインタビュー、というほど固くない、聞き書きのようなスタイルで、Aminがどういう経緯を経てここにいて話をすることになったのか、を今と過去を行き来しながら明かしていく。今のAminには苦しくて臥せってしまい喋れなくなるようなこともある - Rasmussenとの対話というスタイルを取ることで目の前の友人にすら語ることができない内側の辛さ、があることもわかる。

Aminは、80年代のアフガニスタンのカブールで家族と幸せな子供時代を過ごしていたのに勃発した内戦と、ムジャヒディンに連れ去られた父親の失踪によって家を追われ、母と兄とどうにかモスクワに辿り着いたものの、腐敗したロシア警察から度重なる虐待や脅迫を受けて、苦労して貯めたお金でブローカー経由でヨーロッパに密航しようとするのだが、失敗して戻されて、次の密航で家族は散り散りになって… (いまだに再会できていない)。

更に10代で自分をゲイであると自覚したAminは、当然それを世から隠す必要があって、こんなふうに世界のどこからも弾かれて家族からも切り離されなければならなくて、そんな彼がいまはコペンハーゲンにフィアンセと一緒に暮らして、アメリカの学会に参加することだってできる、どうしてここまで来ることができたのか、いったい何が起こったのか。

ポジティブに明日を信じろとか、希望を持て、なんて一言もいわない。彼が子供の頃から目にしてきたこの世の暴力、不寛容、怠慢、腐敗、戦争、絶望など、自分のセクシュアリティから家族から国籍まで追いたてるように敷きつめられてきた地獄を、どこまでも疎外されて弾かれて一所に留まることなく流されてきた彼の決して笑わない – でも沈みこんでいるわけでもないプレーンな表情と共に描く。

アニメーションのシンプルな線と色、そのちょっとした線の歪みや震え、濃淡/明暗は彼の辿ってきた複雑な逃走の線と、それがAminの生にもたらした感情の襞や揺れ、彼の目に映った壁の色、空の色、いまだに続いている畏れや迷いを面や段をうまく使って繊細に映しだしてくる。主人公の内面というより、彼を囚われの身とした世界の狭窄感が生々しく被さってくる。もっと見せるべきだし見なければ、と。

なんとか生き延びて異国に暮らすAminの後ろには彼のように逃げることの、生きることのできなかった沢山の子供達や若者の顔があって、彼らの心細い顔がAminのそれには重なっている - 彼の輪郭と表情はそういう見せ方をしているように思えた。

大昔から地獄絵巻を、過酷な現実を(もまた)描くために用いられてきたアニメーションという技法がここでもきちんと「機能」してしまうことにうんざりしなければいけない、といつも思う。子供たち - 彼ら彼女らの素の笑顔が映っているだけでよいのに。 フィクションだけど“The Breadwinner” (2017)などを思いだした。”Is it a Happy Story or Sad Story?”..  

そして今またウクライナが。 国なんてほんとどうでもいいのに。被害が広がりませんように。
 

2.21.2022

[film] Operation Mincemeat (2021)

ひとつ前に書いた「クマ王国」とシチリア侵攻繋がり(こちらは実話ベース)なので、先に書いておく。
2月18日、金曜日の晩、Tohoシネマズの日比谷で見ました。『オペレーション・ミンスミート ―ナチを欺いた死体』

これの少し前に同名のバーレスク・ミュージカルもあるようだが、こちらはシリアスな歴史ドラマで、監督はJohn Madden、原作はBen Macintyreの”Operation Mincemeat: The True Spy Story that Changed the Course of World War II” (2010)で、原作者自身もコンサルタントとして参加している。 英国でのリリースは4月、米国は5月だそう。

“Minced Meat”だったら『ひき肉大作戦』になって最高だったのだが、Mincemeatなので、ミンスパイのフィリングの乾物と軟物の混じったあのぐじゃぐじゃ(割と好き)になる。それでも作戦名としてはなんか素敵かも。

冒頭、暴風雨のなかの深夜、隠れ家で息をひそめて祈るように連絡を待っているチームがいて、そこで突然電文機ががしゃがしゃ唸りをあげて電文を打ちはじめる..

第二次大戦中の1943年、シチリア侵攻を計画していた英国軍だったが、あそこはドイツが最新鋭兵器でがっちり固めていて正面から攻めるのは無理。それならば、と諜報部 - MI5が計画したのが、英国はギリシャへの侵攻を計画中、というそれっぽい偽機密文書を用意した偽の軍幹部の溺死体に持たせて、スペイン沖に流す。あの近辺に何かを抱えた英国軍人の死体があがった、となるとその沿岸はドイツスパイの密集地帯だから食らいついてくるに違いない、というやつで、冗談にしてもおもしろいよな、みたいに思っていたらチャーチルからまさかのGO! が出てしまったので、全員がこれの捏造工作に向けてばたばたしていくことになる。

中心にいたのは少佐のEwen Montagu (Colin Firth)と大尉のCharles Cholmondeley (Matthew Macfadyen)で、Charlesは兄がインドで戦死していて、Ewenは弟にロシアでのスパイ疑惑がかけられていて、それぞれに家族の事情がある。

まずは身寄りのない/出自が割れない適当な死体の調達から始まって、そっくりさんを探して彼の写真付きIDを作り、彼が持っているであろうGFの写真のことからチームにJean (Kelly Macdonald)が加わって、死体に持たせる機密文書の精度や折り目に蝋印、海に浸っても落ちないレベルのインクとかから、死体とGF – Pamという名前にしてふたりはどんなやりとりをしていたかまで、ストーリーを拵えたり、死体のコートに彼女のまつ毛を付けたり、その細かさとどうでもいいとこまで含めた頭の使いようのねちっこくて暗いことときたら、英国人だなあ、って感心する。

あとはスペイン側で、漂着した死体の回収に始まってドイツ側のどこをどう経由して情報が行き渡るようにすべきかのシナリオ作りもあって、そんなのは実際に始まってみると当然のように思っていた通りにはいかなくて…

並行してシチリア沖合には英国海軍が配備展開されていて、後戻りできなくて、この作戦が当たったか外れたか(ドイツがまだ沿岸にいるか情報を真に受けてギリシャに移ったか)は実際に突撃してみないことにはわからない。(これ、攻めにいく兵隊からすればすごく嫌なかんじだよね)

作戦がどうやって組みあげられていったのか、のメインの流れの他に、JeanとEwenの恋とかEwenの二重スパイ疑惑とか、ドイツ側にばれてるばれてないの話とかの横槍もてんこ盛りで、ややとっ散らかった印象はあるものの、捏造~騙しに戦局を賭けるっていういちかばちかの危うさとおかしさ、後ろめたさがこれまでの戦争ドラマとは異なる緊張感を生んでいておもしろかった。

英国では2016年頃からなんでか英国万歳寄りの戦争ドラマがいっぱい作られていて、”Their Finest” (2016)とか“Dunkirk” (2017)とかChurchillモノ - “Darkest Hour” (2017)とか”Churchill”(2017)とか、そのなかでは”Their Finest”と同じくらい好きかも。どちらも戦時下にフィクションに賭ける、というドラマ。 

真ん中のふたり - Colin FirthとMatthew Macfadyenは、どっちも“Pride & Prejudice” -『高慢と偏見』でMr. Darcyを演じていたりする。要するにそういう奴らがさー。 彼らとは別に、揺れ動いていくKelly Macdonaldさんがすばらしい。

あと、本当かどうかは知らんが、作戦チームのなかにはIan Fleming (Johnny Flynn)がいて、スパイ小説を書いていたりするの。

2.20.2022

[film] La fameuse invasion des ours en Sicile (2019)

2月12日、土曜日の午後、新宿武蔵野館で見ました。
『シチリアを征服したクマ王国の物語』 - 英語題は”The Bears' Famous Invasion of Sicily”。 
“The United States vs. Billie Holiday”を見た後に『クマ王国 vs. ヒト王国』を見る。

原作はイタリアのディーノ・ブッツァーティ(Dino Buzzati)が1945年に発表した児童文学(未読)のフランス・イタリア合作によるアニメーション。
脚本・監督はイタリアのイラストレーター/バンドデシネ作家のLorenzo Mattotti、製作は『レッドタートル ある島の物語』を手がけたPrima Linea Productions - 最近だと“The French Dispatch”のアニメーションパートにも関わっている。  

ヨーロッパのアニメーションの柔らかい夢の中で動いているようなかんじをカラフルでマットな色彩のなかで実現している。アニメーションの表現様式に新しい何かを求めているわけではないので、絵本の世界が緩やかにこちらに向かってくるようなこの感覚はなんか嬉しい。

旅芸人のジェデオンとアルメリーナが山越えの途中で吹雪にあって洞窟に逃げ込んだらその奥から冬眠の途中らしいでっかい老クマが現れてふたりの前にどっしりと座る。食べられたくないふたりは「シチリアを征服したクマ王国の物語」を紙芝居ふうに語り始めるの。

平和に暮らしていたクマの国の王レオンスがこぐまのトニオに魚の取り方を教えていた時、トニオは網で捕らえられてどこかに連れ去られてしまう。悲しみに暮れるレオンスに、長老クマが人間の暮らすシチリアに行けばトニオが見つかるかもしれないと進言して、王はクマの大群を引き連れてシチリアを目指して出発して、シチリアの街を治める人間の大公は、魔術師デ・アンブロジスからクマの群れの到来を知らされると奇襲をかけて友好的に挨拶しはじめた長老を殺してしまう。

レオンスは近づいてきた魔術師に交渉してトニオを探してくれと頼むが、魔術師は自分の使える魔法の数は限られているからと断って逃げて、その後も猪とか化け猫とか、ヒトとクマの駆け引きは続くもののクマは負けなくて、ようやくサーカスに出ていたトニオと再会したら大公がトニオを殺しちゃって、でも魔術がトニオを生き返らせて大公は殺されて、レオンスがシチリアの王になってめでたしめでたし。

ジェデオンがではこれにて.. って退散しようとすると老クマが、いやまだこの先があるのじゃ、って勝手に語り始めるので逆らえず..
この後は盗まれた魔術師の杖を巡って、ヒトがわるいクマがわるい、の表に裏にの騙し合い化かし合いになり、実際にどちらにも悪いのはいるしよいのもいるし、トニオが活躍するのだがレオンスはー。

いまのシチリアをクマが支配していないことから分かるようにクマとヒトの共存・共生はうまくいかなかった(きっと食べ物とか冬眠をめぐる税制とかでなんかあった気がする)、その訳と事情をカルヴィーノやフェリーニのようなイタリア法螺咄のてきとーな語り(大好き)でぺらぺら並べて、学びや教訓のひとつも残していかないのは素敵。でも、やっぱり一緒になれなかったんだね.. っていうちょっとした寂しさつまんなさは残る。(これが宮崎アニメだとやっぱり泣きながら最後まで殺し合って白黒はっきりさせて、なのに生きろ! とかわけわかんないこというの。勘弁して)

子熊をサーカス用に捕まえて持っていっちゃうのも、それを取り返そうと乗りこんでいくのも、そうやって向こうから来たのを侵攻だって騒いで戦争にしちゃうのも、権力が行き渡ったあとで、腐敗や謀略が蔓延ってまた乱れてごたごたするのも、そんな統治や平和を巡って当たり前のように数千年も繰り返されてきたことをクマとヒトの間の諍いに転写して、シンプルなアニメーションにしてみることで、なんだろうねえこれ、になる。 ヒト同士の、民族間の争いだって、互いに相手をクマだと思ってやっているんだろうな、とか。

でもやっぱりクマの方が高尚で穏やかでちゃんとしているよね。そしてそんなクマたちが冬眠できなくなっているのだとしたら、いまの世の中相当にやばいとしか。

洞窟にいた老クマは誰だったのか? 洞窟の奥に行ってみたアルメリーナが見たものは.. ?  これが続編 -「地底を征服して温暖化で地上を壊滅させたクマ王国の物語」だっ。

2.18.2022

[film] The United States vs. Billie Holiday (2021)

2月12日、土曜日の昼、シネクイントで見ました。お客はやっぱりぜんぜん入っていなかった。

原作はJohann Hariによる“Chasing the Scream: The First and Last Days of the War on Drugs” – この本は1910年代から始まる米国の麻薬規制 〜 麻薬戦争をドキュメントしたものらしいが、ここがこの映画の”The United States vs.”の基調をなしている。 監督はLee Daniels。

アメリカでは1918年、リンチによる殺人を犯罪とする法案が起案されてからずっと通っていなくて(2018年に上院は通った。両院では未だ)、そうやって見過ごされて吊るされたまま放っておかれている白人の黒人に対するリンチのありようを”Strange Fruit”として歌ったBillie Holiday (Andra Day)は、これをはっきりと人種差別に抵抗する歌、として歌ってライブでも人気があった。

連邦麻薬局の頭だったHarry J. Anslinger (Garrett Hedlund)は、この歌が歌われて人々の間に広がっていくことを忌み嫌って、Billieはぜったい麻薬をやっているはずだからその証拠を掴んでしょっ引け、それを曝してどん底に貶めるのだ、と黒人の捜査官Jimmy Fletcher (Trevante Rhodes)をBillieの近くに送って、彼はファンとして近づいて彼女の信頼を得て、その後に正体を明かして彼女は1年間刑務所に送られる。

これらと並行して彼女へのインタビューがあり、インタビュアーは白人で、歌手としての彼女をリスペクトしつつもバイアスまみれの結構酷いことを平気で聞いたりしている。

彼女の夫もマネージャーも、みんなドラッグとバイオレンスに躊躇も容赦もなくずぶずぶの状態で - この辺、Arethaの”Respect” (2021)にも近いかも。子供の頃のレイプ体験も- それでも彼女の歌は広がって、それに伴ういろんなプレッシャーや狂騒が更に彼女を沼に追いやって苦しめていく。 Jimmyは彼女を牢屋に送ってしまった後悔と罪悪感から改めて彼女に近づいてなんとかその沼から救いだそうとするのだが..

テーマはタイトルにある通り、彼女はいかに合衆国(の捜査と、人種差別と、身の回りの鬼たちと)戦ったのか - サクセスストーリーではない、40-50年代の搾取と苦役にまみれたショウビズ界にあって、どんな酷いことをされても歌うしかなかった-歌うことでどこかに向かおうとした彼女の目が強く残る。Andra Dayのオスカーノミネーションは当然だったかも。

でも結果からすれば薬漬けのミュージシャンなんて彼女の後に山のように海のように登場して後を絶たないのだし、それが音楽(家)の評価(売上はしらんが)に影響したことなんてなかったのだし、”Strange Fruit”は彼女がどんな生涯を送った/送らされたにせよ、彼女の世紀をとうに跨いだ異国の我々の目の前にもその腐臭とそれを見つめる絶望が漂ってくるのだから、連中の企ては失敗に終わったとしか思えない。向こうは勝ち負けではない、とか言うのかしら。

捜査局側の白人たちのどいつもこいつも意地悪な犬のような描かれ方の反対側で、Jimmy Fletcher役のTrevante Rhodesさんの苦渋と葛藤にまみれた表情がすばらしくよかった。ここにBillieの疲れて諦めて呆けたような表情が重なる。

最近のBillie Holidayのドキュメンタリーとしては、”Billie” (2019) があって、ここでは彼女の周辺にいたミュージシャンや関係者のインタビューテープから彼女の生を浮き彫りにしようとしていて、更にそれがインタビュアー(女性)の謎の死と絡めて語られてぐるぐる巻きの謎が残されていて、もういっこのドキュメンタリー – “MLK/FBI” (2020)は、やはりFBIがMartin Luther King, Jr.を陥れるべく、彼のセックススキャンダルのネタを探し回る話で、この頃のFBIって碌なことしなかったんだなー、しかない。もちろん、いまのFBIがまともになったとはまったく言い切れないわけだが。

今から70年以上前のアメリカの話なのだが、思い浮かべたのは隣の韓国の文化あれこれをみんなが熱く暖かく受け入れているのに、その反対側の政府の周辺では歴史戦とか言ってヘイトを容認し垂れ流してなんとか貶めようと躍起になっている自分の国のことだったり。そんなことしてなんになるの?なにしてんの? っていうあたり。

とにかくBillie Holidayを聴こう。話はそれからだ、になる。
 

2.17.2022

[film] West Side Story (2021)

2月11日、金曜日の夕方、109シネマズの二子玉川で見ました。なんとなくIMAXで。
シネマヴェーラで競輪に浸かったあと、NYのWest Sideに飛ぶ。みんな必死で漕いでいた時代。

問答無用のクラシックであるRobert Wise - Jerome Robbins - Leonard Bernstein - Stephen SondheimがWilliam Shakespeareの”Romeo and Juliet”を元にした1957年のブロードウェイ・ミュージカルを61年に映画化したのをSteven Spielbergが約60年ぶりにリメイクしたもの。マトリョーシカ。

今回の脚本は“Angels in America” (1991)の、Spielbergとも何度も組んでいるTony Kushnerで、ダンスパートにはJustin Peckが振り付けに加わっている。

ルネサンス時代のヴェローナから戦後復興期のニューヨークにかけて夢の軌跡を描いたクラシックをなんでいまリメイクする必要があるのか? ブロードウェイの方でも3年前にIvo van HoveとAnne Teresa De Keersmaekerによるリバイバルがあったが、民族や種族の居場所の取りあいを巡る諍いとそれによって引き裂かれる恋とか家族とか、というテーマが世界の至るところで - になってきている今、そこにおける(例えば)「正義」とか「善」ってなんなのか、が問われるようになっている、のかしら?

Lincoln Centerの建設のため、建物が取り壊され地面に穴がぼこぼこ掘られ、近辺の住民に立ち退きが迫られていた時代、地元の白人の若者たちが中心でRiff (Mike Faist)がリーダーのThe Jetsと、プエルトリコ系移民の若者たちが中心でボクサーのBernardo (David Alvarez)がリーダーのThe Sharksはことあるごとに対立していて、とにかくなにごとにもぶつかって犬のように吠えまくって止まないので、一晩だけ実験的に両方を呼んでダンスパーティーをすることにしたら、そこで出会ってしまった敵同士のMaria (Rachel Zegler)とTony (Ansel Elgort)がおちてはいけない恋におちて..

冒頭から両部族がばらばらと寄り集まってきて入り乱れていくダンスシーンのキレとスピードはとんでもなくて、レミングの突撃みたいな怒涛のうねりに巻き込まれてやられるような臨場感で、ここだけでもすごくて近寄れない(ので映画館で見よう)。これらの踊り場とか乱闘の場 – どちらにしても彼ら全員の明日は(あまり)ない - の反対側にValentina (Rita Moreno) がいるDoc’s Drugstore という定点というか磁場があって、ここは歴史の溜まり場でもあって - Rita Morenoは61年版でAnitaを演じていた - ここで更生したTonyは世話になっていて、でもValentinaはプエルトリカンなので、両方の人たちがくる。そういういろんな場所を巡るドラマの、その場所そのものが無くなっちゃうのだとしたら。

ポーランド系移民のTonyは傷害事件を起こしたムショ帰りで、でもThe Jestsのなかでは孤立しているふう、他方でMariaの兄はBernardoで、Anita (Ariana DeBose)とは結婚の手前で、一族ががっちり固まっているふうで、でもというかだからというか、好きになっちゃったんだからどうしようもない、とか言っていると悲劇が。

なのだが、最後の悲劇(ナイフではなく銃による)は穴に落ちた、くらいの軽いかんじに見えるし、ふたりが一瞬で恋に落ちる、瞬間の魔法とか殺法がなんか薄いような。Ansel Elgortの例の件があったのでそう見てしまう、だけではなくて、なんだかTonyの生気がないしダンスもさえない。ムショ帰りの悪(のはず)なので”They Live by Night “(1948)や”Thieves Like Us” (1974)のBowie & Keechieくらいの明日なき暴走を見せてほしかったのにな。

そんなのも飲みこんで、だからこそ人は歌うのだし踊るのだし、だから大丈夫でしょ - と人々の家は取り壊されて後にはでっかい「文化施設」ができて、ここではバレエやオペラが毎日演じられていて、お金持ちが毎日やってきてお金をおとして経済はまわって、という俯瞰図。

NYのWest Side(のここよりは少し上の方)でいろんな国の人たちのうねりがもたらす強烈な磁場、その揺るがない強さを示したのが例えば昨年の“In the Heights” (2021)で、あそこにあった重力を歪めてしまう(壁が90度回転)ほどのカメラの動きは、Janusz Kaminskiなのでさすがになかった。けどレンズフレアが少し多めのテクニカラーでは切り取れないような瞬間をうまくとらえていてすごいと思った。

“In the Heights”は見終わって映画館を出てスキップしたくなった。けどこれは背中を撃たれてうぅ..  ばったり、でおわり。 ダンスして喧嘩して終わり、みたいなB級のでもよかったのに。

ああNew York行きたいよう - 結局はそこに。

2.16.2022

[film] 人間に賭けるな (1964)

2月11日、連休の初日にシネマヴェーラの特集『役を生きる 女優・渡辺美佐子』から2本見ました。競輪映画ふたつ。

競輪上人行状記 (1963)

原作は寺内大吉の短編小説『競輪上人随聞記』 - これを大西信行と今村昌平が脚色して、西村昭五郎が監督デビューした。

昔からいろんな人が名作として挙げていて、小沢昭一なのですちゃらかコメディかと思っていたらものすごくどす暗いやつだったのでびっくりした。今村昌平だった。

お寺の次男で、寺を継ぐのが嫌で教職に就いていた春道(小沢昭一)だったが長男の突然の死をうけて呼び戻されてみると、寺の経営はぼろぼろで、犬の葬儀を受けてその肉を焼き鳥屋に横流ししていたり、存命中の父(加藤嘉)からは長男の亡妻(南田洋子)と結婚しろとか言われたり、彼女の子供は実は父の子であることがわかったり、勝手に学校に退職願いを出されていたり酷いことばっかりが積み重なっていって、でもお寺の再建資金をなんとかしなきゃいけない中、たまたまやってみた競輪の最初のが当たったものだからずるずる嵌って抜けられなくなり…

春道が勤めていた学校でも生徒の家出や妊娠とか問題は山積みで、そこから聖なるものを探究する坊主になって偉そうなことを語ってみても身の回りの現実に引き摺られて俗界に堕ちていく重力のありようは変わらず、その抗いようのない格闘をものすごく生々しく執拗に描いていく灰汁の濃さときたら。

春道が競輪に嵌らなかったとしても取り扱う現実はたぶん十分にゴミで泥まみれだし、ヒトとしての春道の中味だってクズで本人もわかっているし、そんなところで何が宗教で修業で救いだよ、っていう苛立ちと絶望がラストの競輪場での講釈 – これもとってもやばい - に収斂されていく。あの詐欺師のような語り口は橋下某そっくりに見えたねえ.. 


人間に賭けるな (1964)

これも原作は↑と同じ寺内大吉で、監督は前田満洲夫。企画が水の江瀧子。

外資系の会社(ディレクターが外国人女性)に勤めるサラリーマン坂崎(藤村有弘)は競輪でスッてばかりで客先からの入金も使いこんでやばい状態だったが、すれ違った上品そうな女妙子(渡辺美佐子)に次のレースは飯田栄治(川地民夫)に賭けるのよと言われて、その通りにしたら大当たりして借金も返すことができたのでびっくりする。

妙子に興味を持った坂崎は再会しても他人のふりをしようとする彼女の周辺を追っていくと、彼女は収監されている極道松吉(二本柳寛)の妻で、極道の姪の美代子(結城美栄子)は飯田栄治の恋人で、彼に競輪をやめて貰いたくて圧をかけて骨抜きにしている。

やがて飯田栄治がでるレースに賭けることを止められなくなって家庭も捨てた坂崎に美代子に反発する妙子が加わって、ふたりは彼が出走する地方のレースを追って地獄の底まで堕ちていって、そしたらそこに松吉が出所してきて…

最初はクールなふつうの会社~公団住宅~和服極妻で抑え気味に展開していた都会の見えたり消えたりの駆け引きが人間に賭け始めた途端にタガを失って転げ落ちていって.. という見事な巻き込まれ型ノワールで、最後にタバコを吸うように刃を突きたてて突っ立つ渡辺美佐子のかっこよさときたら。

最初は人間に賭けて負けるのはバカらしいからやめな、って言ってたのが人間に賭けない生なんてどんだけつまんないことか、にでんぐり返っていくわかりやすい罠 – 賭け事はほどほどに - その真ん中でぐるぐる回る競輪のサーキット。カメラの構図がどこを切っても素敵(撮影は間宮義雄)。

『競輪上人行状記』が日本土着のコミュニティの泥を穿り返して並べていくようなドラマだったのに対し、この『人間に賭けるな』は高度成長期の真ん中で小綺麗に洗練されたかに見えて、でもその根っこは変わらない、どちらも賭博に宗教的な意味や救済(前者がもろ仏教で、後者はキリスト教っぽい)を求めてやまない/やめられない人間の業を切り取っているようだった。そのどちらの画にもミューズのように自分を縛りつけて佇んでいる渡辺美佐子。

でもそもそも、競輪てそんなにおもしろくて危険なやつなの?  映画館とか古本よりやばいの?

2.15.2022

[film] Babardeală cu bucluc sau porno balamuc (2021)

2月5日、土曜日の晩、BFI Playerで見ました。映画館が開いているのでストリーミングの方にはなかなか行けなくなっていて(帰ってくるとばったり寝てしまう)MUBIもCriterion Channelもちっとも追えていない。よくない。

英語題は”Bad Luck Banging or Loony Porn”、邦題は『アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ』。監督はルーマニアのRadu Judeで、2021年のベルリンで金熊賞を受賞している。

冒頭、あらあら、みたいな品質の明らかにプライベートで撮ったっぽいポルノ動画が流れる - 棒と穴と喘ぎ声でぐでぐで - みたいなやつ(日本公開のとき、ボカシは入るのかしら?)。

全部で3チャプターから構成されていて、最初のは“One-Way Street”。 名門中学校で歴史の先生をしているEmi (Katia Pascariu)がブカレストの町を横切っていく様子が描かれる。Covid-19下で、マスクをしている人もいればいない人もいて、市場で花を買ったり、通りを歩いていてもしょうもない車がいてイラついたり、この途中で、彼女が夫のEugenと電話で会話して、冒頭の動画が彼女たちの性行為を彼が撮ったものであること、それを彼が自分のPCに入れておいたらPCが故障して、修理に出したらそれが勝手にポルノサイトにアップされていて、削除要請をしたら削除されたものの別のサイトに現れて、いたちごっこになりつつあるのでなんとかしてくれ、と。

で、これを見た生徒だか生徒の親だかが学校に連絡してきたのでEmiの教師としての明日がどうなるのか - 確実にやばいことになりつつある、そんなトゲトゲ困惑してあったまにくるありようがCovid-19の日々のイライラに被さって描かれる。

次のチャプターは“A short dictionary of anecdotes, signs, and wonders”で、辞書形式でEmiがいま直面しているしょうもない現実たちが彼女たちを囲むどういった歴史や宗教やモラルや地勢や民俗や文化の諸要素によって成り立ち、もたらされ、繋がったり捻じくられたりして現前してきたものなのか、をアニメとか寸劇とかのコラージュで戯画化して提示する。 ね、ひどいでしょこんなのばっかし、やってらんないわよ、みたいに。

最後のチャプターは“Praxis and innuendos (sitcom)”で、今回のEmiのインシデントを巡って、彼女を解雇すべきかどうかを協議する父兄会が開かれるというげろげろの展開に。 Covid-19で全員が十分な距離を取りながら、そしてその距離がまた別の苛立ちを掻きたてる中、司会の校長は女性で、制服を着た極右のおやじはいるわ鼻の下を伸ばして寄ってくるのはいるわ、モンスターは当然、女性はそれぞれが微妙なかんじで、結局最後は多数決でEmiが留まるか去ってもらうかを決めましょう、ということになって.. Emiからすれば、なんなのよこれ(怒)? しかない。

最後にこの後に起こりうるシナリオ3つが示される。どれもあってもおかしくない(最後のだけは.. )のだが、自分だったらこれをどう裁定して行動したか - 自分がEmiだったら、自分の子がここに通う生徒だったら、自分が校長だったら - などいろいろ考える。ほんとどうでもよいのだけど、忌々しいったらありゃしない。この忌々しさって、なんなのか、どこからくるのか? 映画は執拗に、くどいくらいに突きつけてくる。

自分のイメージが自分の意図しないところで自分の望まないかたちでいつの間にか勝手に晒されていて、それについて第三者が勝手なことを言ったりひどい場合だと殴りかかってきたり、そういうのを平気でする(しても咎められない) - この作品のポルノは極端な例かもしれないけど、これと同様のことって今のネットカルチャーでは割とふつうに起こっていて、でもこれってネットだからというよりも本来は人権に関わることとしてちゃんと考えられなければいけないし、それを支える政治とか公共とか歴史とかがないとどうしようもない..   って、これが今の日本で起こったら、とかちっとも笑えない。そんなの撮るのがわるい - とか平気で言いそうだけど、そういう態度がもんだいなんだよ、ぜんぶ。

あと、映画というよりは演劇に向いているテーマかも、とか少しだけ。

2.14.2022

[film] The 355 (2022)

2月7日、月曜日の晩、Tohoシネマズの日比谷で見ました。前日に見た”Ghostbusters: Afterlife”よりぜんぜんおもしろいじゃん、と思った(ああでも、Ivan Reitman.. RIP)。124分はちょっと長かったけど。

冒頭、コロンビアのボゴタで、悪組織がどんなネットワークもハッキングして中に潜入して破壊工作をすることができる魔法のデバイスをお披露目する - と思ったらそいつは銃撃戦の末にどこかに持ち去られる。

CIAエージェントの"Mace" Browne (Jessica Chastain)とNick (Sebastian Stan)はハネムーンのカップルを装ってパリに飛んでそのデバイスを奪還しようとしてて、昔から知っているふたりは新婚のフリをしよう、ってそのまま寝てしまったりして、そしたら当日の土壇場でドイツの諜報員Marie (Diane Kruger)からの横やりが入り、それを持っていたコロンビアの諜報部員Luis (Édgar Ramírez)は殺され、Luisを引き取りにきた精神科医のGraciela (Penélope Cruz)が残され、現場から姿が消えたNickについては死亡した.. と言われてしまう。

組織同士で張り合っている場合じゃない、とMaceはかつてMI6にいたサイバーセキュリティ専門家のKhadijah (Lupita Nyong'o)を訪ねて、デバイスを追い始めるとそれはやっぱり悪い奴に渡っていて - 試しに飛行機がいくつか落とされる - 上海でオークションにかけられる予定であることがわかる。

ここまでずっと喧嘩していたMaceとMarieと、彼とのデートを引き伸ばしてきたKhadijahと、あたしは戦闘の訓練は受けていないので帰らせてというGraciela(でも帰ったら家族が狙われるかもよ、と言われて留まる)に上海の組織のLin Mi Sheng (Fan Bingbing)が加わって、闇取引と連動したオークション会場での奪還作戦が繰り広げられるの。

てことは、“Ocean's 8” (2018) みたいに華麗に着飾った女性スパイたちが.. と思ったらそんな簡単にはいかなくて、このあとで更にひどいことになったりするのだが、とにかくみんなしぶとくがんばる。

監督はX-Menの一番新しいやつ - ”Dark Phoenix” (2019)で監督デビューしたSimon Kinbergで、その前には”X-Men: Apocalypse” (2016)や”Logan” (2017)の製作とか、”Mr. & Mrs. Smith” (2005)の脚本をやっていた人なので、敵対する組織のメンバー同士がハードにいがみ合いながらもタフな事件を解決するお話しには割と親和性が高い、のかもしれない。

なので、“Charlie's Angels”のようにおちゃらけてはいなくて怒りが充満していて、“Mission: Impossible”みたいに組織化されてはいなくて、James Bondに対しては彼って現実の生活とは無縁だし一人でやれていいよね、みたいな皮肉(MaceがKhadijahにいう)も出てきたり。この辺、最後の方で女性にとってきついのはここだろ、みたいな取引(脅し)の場面が出てきてなるほど、ってなったり。 あと、タイトルの”355”は独立戦争の時に活躍した女性スパイのコードネームで、彼女(たち)の歴史における無名性も皮肉のように貼り付けられている。

製作も兼ねているJessica Chastainさんは”Dark Phoenix”の撮影時にSimon Kinbergとこの辺のドラマ込みのスパイアクションをやってみたいと思ったらしく、だから尺が長くなっちゃったのか、とか。とにかくJessica Chastainさんのべらべら喋りつつざっけんじゃねえぞこのクソ男どもがー!ってなる顔や態度が好きなひとには思いっきり炸裂してくれるので勧めたい。 そして、この苛立ちは父親が二重スパイであることを自分が発見して告発した、というトラウマをもつDiane Krugerさんの内面に向かう苦みと対になっているようで、結構しみてくるかも。

ただ、あれこれてんこ盛りになってしまうことは承知しつつも、ファッションとかもうちょっと凝ってくれてもよかったのではないか。やってサマになるみんななのだし。

あと、このデバイスの脅威(と恐怖による支配)に立ち向かったのがなぜ女性の彼女たちだったのか、という視点が – たぶんこれは掘れば出てきそうなことだけど、そんな明確になっていない – あったらなー。その場の怒りと成り行き、のような形で展開してしまうのだが、実はそうではないのだ、という持っていきかたもあったのでは。

最後の方で、Penélope Cruzが脅迫された先の家族のビデオにJavier Bardemが映っていたらおもしろくなったのにな、とか。 あと、もし続編が作られるのだとしたら、ぜったいMelissa McCarthy(とMiranda Hart)は入れてやってほしい。

2.13.2022

[film] 好人好日 (1961)

2月6日、日曜日の昼、神保町シアターの淡島千景特集から2本見ました。

好人好日 (1961)

中野実の原作を松山善三とが渋谷実が脚色して渋谷実が監督している(あー、また『もず』を見れなかった…)。音楽は黛敏郎。文房具のイラストが素敵なタイトルバックは真鍋博。

冒頭、登紀子(岩下志麻)が奈良の大仏さんに向かって「大仏さん!」て話しかけて彼女の置かれた事情が明らかになる。父の尾関等(笠智衆)は大学の数学の教授で変人で、お母さんは万能の節子(淡島千景)で自分は「みんなは佐田啓二に似てるって言うけど私はグレゴリー・ペックに似てると思う」という同じ職場の佐竹竜二(川津祐介)と結婚したいけど万事うまくいきますように。あといまの両親はほんとうのお父さんお母さんじゃないの、と。

尾関等には実在のモデル(数学者の岡潔)がいるらしいが、数学のことしか頭にないと言う割には近所のコーヒー屋に入り浸ってTVの野球中継ばかり見ていたり、晴れでも長靴履いていたり、学者なのに自宅に机ないの? とか、いきなり白ウサギ貰ってきたり(あのウサギどこにいったの?)、プリンストンからの招聘の話を断ったり、とにかくとっても変。

佐竹の家はお徳婆さま(北林谷栄)が厳格に仕切る慶長以来続く墨屋で、なにかあると分家の筆屋と蝋燭屋に指令が飛んでいくのでえらく大変で、そんなところに変人数学者の家でしかも貰い子の登紀子が嫁ぐことができるのか。

というのと尾関が文化勲章を貰うというので夫婦で上京して、昔馴染みの高峰三枝子と会ってやはり昔馴染のぼろ旅館に泊まったら夜中に三木のり平のこそ泥に勲章盗られちゃったり(金目のものを持ってけ、とか泥棒に指導する)いろいろあって、でも終わりは雑にどうとでもなる系なので安心して笑っていられる。

でもやっぱりいちばん偉いのって節子=淡島千景だよねえ。尾関にあんなに好き放題させて、自分はたまにお酒かっくらって気持ちよくなれればいいのだ、って。それをこんなふうな美談にしてへらへら語ってきた(それを見にきているのも毎度のじじいばかり)この文化圏生活圏のどうしようもなさときたらどうしたらよいものかー、っていつもの。

主人公の笠智衆をおもしろおかしく見せる映画なのだろうが、rom-comとしては結婚するふたりがもう少し切実に真剣に恋してくれたらなー、ていうのは少し思った。あの状態だとどっちの家からもじわじわ攻められて別れることになる気がする。

笠智衆と岩下志麻の父娘、だと『秋刀魚の味』(1962)があるし、奈良に暮らす結婚を前にした父娘のお話、というと『月は上りぬ 』(1955)があって、どっちもよいけど、笠智衆は枯れていそうでいてとにかく強くてしぶといやつ、っていう印象がー。


縞の背広の親分衆 (1961)

原作は八住利雄、監督は川島雄三。『赤坂の姉妹より 夜の肌』に続けてこんなのを撮っているなんて。
タイトルバックで森繁がねっとりと歌う「べサメムーチョ」がたまんない。

埠頭に降りたった守野圭助(森繁久弥)は森の石松の末裔で、大鳥組の兄分だったが人を殺めて(実はただの傷害事件だったことが後でわかる)で15年間、南米に高飛びしていて、戻ってみると組の守り本尊のお狸さまは高速道路の工事で取り壊しの話が出ているし、組は亡くなった大親分の女房のおしま(淡島千景)と子分で住職の浄慈 - スモーキー・ジョー(フランキー堺)と桂小金治くらいしかいない零落ぶりでしょうもない。 後継になってほしい良一(田浦正巳)は道路公団の技師だし、その妹でビートガールの万里子(団令子)は花売りをしながら敵対する風月組の風月三治(有島一郎)のバカ息子・シゲル(ジェリー藤尾)と猫みたいなシマ争いをしていたり。

しょうがないので圭助は賭博の現行犯で留置所に入ったり、昔の愛人を頼ってクレーム係として就職した象屋デパート(のCMソング by 松井八郎 - がすごい)で口八丁で成功したりしていると、お狸さまの迂回か取り壊しかの騒動は政界と道路公団とヤクザとチンピラを巻き込んだ大ごとになっていて、やいやいやい! って揃いの縞の背広で騒動に突っ込んでいくの。

あれこれ沸いたり降ったりが賑やかなノンストップのスラップスティック任侠コメディで、でも淡島千景と森繁久弥とフランキー堺が固めているし、反対側には有島一郎とか西村晃とか渥美清がいるので、多少ばらけていても安心して見ていられて楽しい。

マキノ雅弘の『次郎長三国志』の『海道一の暴れん坊』(1954)の石松=森繁久彌がものすごく、泣きたくなるくらいに好きなので、その末裔として森繁がそのまま出てくるのはふつうに嬉しい。ついでに越路吹雪も出てくればよかったのになー。

2.11.2022

[film] Ghostbusters: Afterlife (2021)

2月6日、日曜日の夕方、TOHOシネマズの日本橋で見ました。
文句も含めていろいろ言いたくて、故にそれなりのネタバレはしているはず。なので読むひとは注意を。

おおもとの”Ghostbusters”(1984) - “Ghostbusters II”(1989)に続くもので、Paul FeigによるReboot版 ”Ghostbusters”(2016)はきれいになかったことにされている。

オリジナルの84年版の監督だったIvan Reitmanは製作にまわり、監督はJason Reitman。
オクラホマのSummervilleという畑と遠くに廃坑となった鉱山の山が聳える一帯で、あるおどろおどろしい晩、車で農家に突っ込んできた男がゴーストを仕留めようとして失敗して.. というのが冒頭。

シングルマザーのCallie (Carrie Coon)は破産して住むところがなくなったので亡父の遺した↑の農家に子供たち - Trevor (Finn Wolfhard)とPhoebe (Mckenna Grace)を連れて越してくる。落書きとガラクタだらけの廃墟にうええーってなっているとあーら懐かしJanine (Annie Potts)が顔を出して、ここの資産管理をしているものですが、とか言うの。

Trevorはダイナーでバイトを始めてLucky (Celeste O'Connor)に近寄っていって、科学大好きのPhoebeは家にあったガラクタをいじったり変な現象 - チェスの駒が勝手に動いたり - を追っているうちに学校の科学の先生 - Gary (Paul Rudd)と知り合っていろいろ教えてもらったり、同様の変な子 - Podcast (Logan Kim)と仲良くなったり。

いろんな変なガラクタはすべてPhoebeのおじいちゃんが遺していったものらしく、それが家の中でもちらちらしているゴーストにまつわるものであること、更におじいちゃんはGhostbustersであったことがわかって、あの車とか「彼らの」防護服が発見され、それがわかった時には既にそこら中にゴーストが溢れていて、NYで活動していたおじいちゃんがなぜここに来たのか、なにをしようとしていたのか、が明らかになってくる。そして久々にGozerとGatekeeperにKeymasterが現れて..  

筋としてはこんなかんじで、これがオリジナル版を見ていない人たちにどれくらい訴えるものなのか.. はわからん。そしてこれがオリジナル版をとっても愛していた人たちにどれくらい届いて響くものなのか..   

あのさー、まず、”Ghostbusters”ってコメディなのよね。少なくとも原作を書いたHarold RamisとDan Aykroydは大都会NYを舞台にした笑える怪談SFコメディ活劇としてこれを作ったのだと思う。2016年のReboot版もそう。でもこれはそういうところを志向したものにはなっていない。趣旨がHarold Ramis追悼だったのだとしても、であればなおのこと、どこまでも転がっていって唖然として笑いが止まらなくなるようなものにすべきだったのではないか。Jason Reitmanではムリであることはわかるけど。

オリジナルの84年版は、科学者としてはどこからもお呼びがなかった除け者たちがゴーストを発見して仕留める方法を見出してそれが結果的にNYと世界の危機を救う、そういう痛快なやつで、この部分 - 逸れものの逆襲 - は母親と打ち解けることができないPhoebeのエピソードを軸に受け継がれているとはいえ、ほぼそれだけのようで。

ストーリーの真ん中くらいでGhostbusterのおじいちゃんは(ある程度わかっていたとは言え)Egon Spengler (Harold Ramis)であることが明かされて、すると最初の方に出てきたJanineって.. ?  SpenglerはJanineと一緒になったんじゃなかったの? じゃあ他に誰がいたっていうの? って混乱するし。

Paul Ruddだってさあ、Ant-ManなんだからPhoebeとタッグを組んで大活躍してくれると思ったのに、Rick Moranisの役どころかよ、とか。

あとさー、ゴースト少なすぎ。 あの廃坑が総本山なのだとしたら怪獣みたいなとんでもないやつをじゃんじゃか噴出してくれたってよかったのに、マシュマロマンはちっちゃいのがうじゃうじゃいるだけで、あれじゃまるでグレムリンじゃないか。想像してなかったようなすごいのが登場してはじめて最後の揃い踏みが活きて感動するんじゃないかー。84年版のマシュマロマンは、そういうやつだったのだし。

あともちろん、Paul Feig版を無視したのが、どうにも釈然としない。こんな世の中なんだから繋いじゃったってよかったのではないか。Pheobeが電話してみたらChris Hemsworthの方に繋がっちゃったら、それはそれで面白くなったと思うし。そんな支離滅裂で破天荒なことが起こる深く壮大な世界のお話だったはずだ。それが「アメリカ」なのか、は(つねに)あるにせよ。

“Afterlife”でしょんぼり - とまでは言わないまでもあんなふうにしんみり感動してしまうのって、84年版を体験した老人たちには辛いと思うのよ。その辺わかれよJason。
 

2.10.2022

[film] Kárhozat (1988)

1月31日、月曜日の晩、イメージフォーラムの特集『タル・ベーラ伝説前夜』で見ました。
英語題は”Damnation”、邦題は『ダムネーション/天罰』。 「“タル・ベーラ スタイル”を確立させた記念碑的作品」 - の4Kリストア版、だそう。

そういえば『サタンタンゴ』(1994)は向こうでのロックダウン中に見ることリストに入れたままになっていた。
いつもつい「サ・タンタン・ゴ」ってなる..

冒頭、工場の/からの廃棄物を運ぶケーブルのゴンドラが稼働するノイズと一緒に延々と向こうにループして流れていく – のを身動きしないで見ているのか見ていないのか - の男の背中が映りこんでくる。それから(たぶん)同じ男が鏡に向かって剃刀で髭を剃るところ。元気な男ならあんなふうにゴンドラを眺めないし、絶望の底にいる男なら髭なんて剃らない気がする。

外はずっと曇天か雨ざあざあで暗くて、もう陽が沈んで暗くなってから男は”Titanic”というバーの前に佇んで、イヌが通ったり車が出ていくのを眺めたりした後にバーに入る。
バーでは、どこかに荷物を運ぶ仕事の話のできるできないと、男がずっと好きで付きまとっているらしい女 – 人妻のところにいって、話ぶりからすると相当自分に自信があるっぽいのだが、実際にはあまり相手にされているようにも見えないので、そうすると切羽詰まったただのストーカーのようにも見えてくる。

ケーブルのゴンドラが不穏な音を出しながら毒を積んで同じところをぐるぐる廻っていくのと同じように男もバーとアパートの間を廻っているだけ、その間に挟まってくる雨だの人だのでぐだぐだになって、なんでこんなにひどい状態に晒されているのかわかんなくて、これはなんかの天罰なのか? って。天罰なのだ、ってなると終わってしまうのでそうではない続いているなにかとして、例えばバーのフロアでバンドが演奏しているさまを眺めていたり。

ふだん映画を見ていて長まわしとかあまり意識したことはないのだが、この作品のは長いねえ、って思うくらいには長くて、ただその長さは主人公が待ったり待たされたりしている頭のなかの時間感覚と密にシンクロしているようで、そこに広がる景色がみっしり全部入ってくるのであまり「長さ」として認識されない。何を待つのかによるよな、って思いながらただ時間が過ぎていくのと同じで、そうやって2時間はあっという間に経ってしまうのだった。これは『ニーチェの馬』を見たときにも感じたこと。そういうふうに見せてしまう詐術のようなものが「タル・ベーラ スタイル」というものなのか。

ヒト相手のやりとりが天罰的に潰されてぐだぐだになってしまった後、男のやけっぱちはイヌに向かって、イヌの時間でもって噛みあうことになる。そのダンスのような動きと共にカメラが引いて雨と錆びれた廃墟の全体が露わになって、そこに「ダムネーション」っていうのが土砂降りになって落ちてくる。因果みたいのは余り見えないし、自業自得、でもない気がする。ただどこかに引っかかった状態で重力に晒されて、イヌといい勝負で並べられて、いるだけ。

単に粘着ダメ男が雨粒と共に地べたに到達するまでの軌跡をスローに描く、というよりはそういう要素ぜんぶが包含されてなにからなにまで腐ってしまった汚染地帯を隅々までまるごと見せているような。そこでは起こることすべてが天罰のように上から下への落下で、よいことなんてただのひとつも起こらない。そんな塊まるごととして世界をきちきち追う。これなら10時間でも見て、じっとり浸っていられるのかもしれない。

ちょっと怖くなったのはこのまま浸っているのもよいかも、って思ったりしたこと。

映像と同期していないバンドが延々演奏している曲が、だんだんボウイの"Rock 'n' Roll Suicide”のように聴こえてきてならなかったのだが、そんなことない?

これが88年。うん、そんなかんじかも。

2.09.2022

[film] 青色革命 (1953)

1月30日、土曜日の昼、シネマヴェーラの猪俣勝人特集から2本見ました。

朝霧 (1955)

監督は丸山誠治、原作は阿部知二の同名小説(1940)。
信州のどうみても旧制松本高等学校 – 現信州大学の寮に暮らす椿普一(久保明)が冒頭、マラソンでやけ起こしたように爆走して倒れたりしている。両親のいない彼は姉彰子(杉葉子)からの仕送りでやりくりしていたが、彼女が父の友人だった倉賀(志村喬)の秘書になってから途端に羽振りがよくなったのを見てなんだかもやもやしているのだ、と。

寮の友人庄司(山田真二)は近所の林檎畑で知り合った娘菊江(青山京子)のことが好きになって、でも彼女の家は貧乏なので身売りされる話が出ていて、こちらもなんだか心配で。

西洋史の先生(土屋嘉男)から夏休み中に翻訳の手伝いに来ないかと請われて行くことにした普一の近所のホテルには避暑で滞在しにきた倉賀と彰子がいて、普一の幼馴染で倉賀の娘八千代(岡田茉莉子)も来ていて、勉強どころじゃない状態で、でも先生はお姉さんを信じろ大丈夫だと言い、他方で八千代からはちょっとあのふたりやばいのでどうにかして、と言われうわあ、ってなる。

そして、いつの間にか身売りされてしまった菊江を取り戻すべく大阪の兄の紹介でハードな現場仕事に身を投じていた庄司は..

家の事情で身売りされてしまう娘があり、弟のために秘書としてじじいに(どこまでかは不明だが)尽くさなければならない姉があり、いろんな階層にある「現実」に直面して自分らは学生なのでどうすることもできなくて悶え苦しむ若者(男)たちの青春ドラマ。こういうナイーブさがバンカラとか呼ばれて幼稚にナルシスティックにイキっていた旧制高校体質の表裏にあったことはわかるけど、結果としてなんも変えることができないまま、おやじどもは薄汚いままで戦後にっぽんを作ってそのままずっときたんだわくそったれ、って。


青色革命 (1953)

製作は藤本真澄、原作は石川達三(1952-53に連載された新聞小説)、脚本は猪俣勝人、監督は市川崑、音楽は黛敏郎。

大学を失職中の元教授の小泉達吉(千田是也)がいて、妻の恒子(沢村貞子)とふたりの兄弟 – 大学と高校くらいの順平(太刀川洋一)と篤志(江原達怡)がいて、そこの下宿人でつけまつげでオネエ言葉を使う怪しい福沢クン(三国連太郎)がいて、しょっちゅう家にやってくる親戚で映画雑誌編集部に勤める美代子(久慈あさみ)がいる。

することがないので日々ぼーっと宙を見つめて過ごす達吉(いいなー)の疲れた - オーラのまったくない背中を中心に回っていくいろんな世界 - それでも小料理屋のお須磨さん(木暮実千代)にぽうっとなってちょこちょこ通ってみたり、大学の権力抗争の傍らでじたばたする伊藤雄之助とか選挙ブローカーの加東大介とか、薄汚れた世界があったり。その反対側で若者たちは変わらず無邪気な恋と政治に生きようとしていて、革命といえばアカだった時代の、そうじゃない青いやつだってこんなふうに – そこから革命ってなにさ? という目線も含めてあれこれ転がしてみせる。

ただ最終的にはやっぱりなにがあっても家のなかで動かない動じない沢村貞子と、身軽に動き回りつつもちゃっかりしっかりの久慈あさみと、どんな男でも魚のようにばさばさ捌いていく(小料理屋=調理場の)木暮実千代と - 彼女たちがすべてを掌握して愚かものの世界を操っているとしか思えないの。

そして、そんな彼女たちの用意した穴や網から逸脱した挙動と言葉遣いでそのアルゴリズムを脱構築していく福沢クンの可能性と未来について、ほんとうはもっと語られるべきだったのかも。

スクリューボールコメディ、という言葉があったけど、社会階層間の段差や巻き込み/巻き込まれがそんなにない、フラットな世界でのじたばた – 大きな転覆なし - のアンサンブルのみだったので、スクリューボールとはちょっと違うかな、って思った。

シネマヴェーラの猪俣勝人特集はここまでだったのだが、おもしろかった。揺るがないでっかい社会の基盤や壁を前に人はどこまで裏に表に抗うことができるのか、それで結局どうなるのかを掘りつつも、それ自体が揺るがない物語としておもしろく機能してしまう不思議さ。



RIP Douglas Trumbull ..  
子供の頃にTVで見た”Silent Running” (1972)がどれだけ自分の宇宙 - SF観に影響を及ぼしたことか。いまだに夜空を見上げると、そこにはロボットをのっけた宇宙船がゆっくりと飛んでいるのだと思いこんでいて、心のなかで手を振ってしまう。
ありがとうございました。

2.08.2022

[film] CODA (2021)

1月30日、日曜日の午後、新宿のWalt9で見ました。
前の晩に”TITANE”を見て、あとほんの少しだけ家族のよい話がほしいかも、とか。

フランス映画 - “La Famille Bélier” (2014) -『エール!』-未見- をSian Hederが脚色・監督して昨年のサンダンスでいろいろ受賞して、オスカーの作品賞までノミネートされているUS、フランス、カナダ合作映画。

“Coda”というと自分にとってはLed Zeppelinの最終楽章で、あれはジャケットを一瞬見ただけであたまの中で"Bonzo's Montreux"がどすどす鳴り出したりするのだが、もちろんまったく関係ない。ここでの”CODA”は“Child of Deaf Adult”のこと。

マサチューセッツのGloucester(英国から渡ってきた人々の街ね)で高校生のRuby (Emilia Jones)は早朝から自分ちの船で父Frank (Troy Kotsur)や兄Leo (Daniel Durant)と漁に出るのを手伝って、港に戻ってくると魚の競りも含めた交渉事をやったりしている。彼女の家族は母 - Jackie (Marlee Matlin)も含めて彼女以外は全員聴覚障害者なので彼女の手話による通訳がないと仕事ができない – ずっとこのやり方でやってきているので、家族全員が明るくさばさばそういうもん、程度で。

漁をしながら大声で歌うのが好きだったし、ちょっとよいと思ったMiles (Ferdia Walsh-Peelo)がエントリーしているのを見て学校の部活はコーラス部に入ることにする。教師のBernardo Villalobos (Eugenio Derbez)はやや癖があるかんじなのだが、RubyとMilesの歌の才能を見抜いて、ふたりにデュエットしてもらうから、って活動後の補講をやるようになって、ふたりの仲がよくなっていくのと、歌のタレントを認められてその歓びに目覚めてバークレーに行けるかも、になっていくのと、反対側で家業の漁の仕事はやなかんじの仲買人を通さずに自分たちで直売できる仕組みを考えよう、っていう試みのなかでRubyへの負荷と期待が高くなっていくのと、が同時に起こって、自分のこれからと家族のこと、どっちをどうしたいの/どうするの、になっていく。

家族はオオスジのタテマエではこれはお前の人生なんだから、というのだが、現実には彼女がいないとうまくいかないところも多くて、実際に彼女がいない時に監査が入って操業停止まで勧告されたり、お互いのストレスをわかっていながら変な(or 当然の)意地をはって結果双方疲れて嫌になって - 誰もなんにもわるくないのに。

邦題には『あいのうた』 -なんでひらがな? - って付いているけど、うたや音楽がみんなの危機を救ったとかそういうぼんやり暖かいお話しではなくて(そう思っても別にいいけど) – うたはまず家族の分断を引き起こしたきっかけとしてあって、そもそも音楽がどういうものか(不寛容以前のところで)理解できない家族とどう折り合いをつけたか、つけることができたのか、という家族の人情噺なのだと思った。(十分に暗くて辛い)家族の役割や歴史をきっちり押さえつつ、べったべたのえぐみたっぷりに描く人情噺ではなくて、スラップスティックに近いかたちでなんだかうまく収まってしまったことに誰もが驚き、ちょっと泣いて笑顔になれる、そういうやつ。

ものすごくダークに、例えば漁のところを”Leviathan” (2012)のようなぐちゃにちゃの閉塞感満載にして、それを延伸して突っ走るのもありかも、と思ったけど、そんなの誰もみないか…

聞こえない側と聞こえている側、それぞれの感覚をきちんと描いて、聞こえる側が歌ったり流したりする音楽が地味に素敵なのもよかった。頻繁に流れる”You're All I Need To Get By”も、真ん中くらいで少しだけ流れて、この曲だわ!って思っていたら最後にきちんとやってくれた”Both Sides Now”もどちらも大好き。響き渡る不朽の名曲が一網打尽にするというより、こんな小さな曲だからこそすぐそこに届いてノックした、そういう距離の近さ。

最後の試験のとこはなんだか”Flashdance” (1983)を思い出してつい力瘤が。

アンサンブルもよくて、Rubyはうまいし、パパのTroy Kotsur(祝!助演賞ノミネート)はよいし、Miles役は“Sing Street” (2016)に出ていた彼だし。先生役の人も悪くないけど、もっと押しとアクの強そうなHarry Connick Jr.とかLin-Manuel Mirandaとかだったらなー、とか。

続編はRubyが家族のみんなにやっぱり音楽をわかってもらおうと、バンドを組んでヒップホップかデスメタルに向かうやつに。
 

2.07.2022

[film] Alaverdoba (1962) + 2

1月29日、土曜日から始まったジョージア映画祭 2022、既に何本か見て、あと何本見れるかわかんないのだが、ものすごくできるだけいっぱい見たい。

見たことがない映画ってひとつひとつが星のようなもので、近いところにも遠いところにもあっていろんな星座を形作ったりしつつ瞬いていると思うのだが、この特集の映画たちは大きなひとつの星雲のように自分にはでっかく見えて、われら漂流民の虫たちは近寄ったらぜったいやばいってわかっていながらやられたくて幻惑されて突っこんでいくの。あとは食い破られたり乗っ取られたりどうとでも - それで構うもんか、になる。

はじまりはワインでもパンでも料理でも文様でも衣装でもなんでもいい、我々にとって地の果て(別惑星)のように見える山奥や大地で羊たちと暮らしたり戦禍に見舞われたりしながら我々と同じように家族とか恋とか歳月とかの移ろうさまを100年前から映画に撮ろうとしていた人々がいたという驚異。それに出会うことができるという幸運。

国がとてつもなく愚かな鎖国政策を取って目隠しをしようとしている今、ウクライナが大変なことになっている今、視野狭窄を起こさないためにも淡々と見ておいた方がよいの。

というわけでその初日、「シェンゲラヤ家の栄光」という枠から2枠、3本見ました。

Eliso (1928) - エリソ

サイレント。英語題は”Caucasian Love”。 字幕に出てくるグルジア文字のフォントがかわいくてそれだけで..

コーカサスの山奥に集落をなして暮らしている少数民族の人々がいて、ロシア帝国側は自分たちの都合でチェチェン人のトルコへの強制移送を計画して - そこにコサックを住ませようと - 地元の官僚はいいよやっといてー ってそいつに軽く判を押しちゃって、配下の連中は突然村に現れて出ていくように、と告げると家に火を放つ。

その企みを知った村長の娘Eliso (Kira Andronikashvili)の恋人でヘヴリス人 - キリスト教 - 異教徒のVajia (Kokhta Karalashvili)がひとり役所に乗りこんでいって、束になってかかってくる衛兵をさくさく痛快に片付けちゃって、役人に撤回の一筆を書かせてElisoの待つ村に急ぐのだが… 村の中にも穏健派の村長と武闘派がいて、その一部は帝政側と裏で繋がっているし異教徒への態度も違っているし、そう簡単にはいかないところは現代と変わらないかも。

とにかく、そこで平穏に暮らしている人々の生活を外部の連中がなんとかしようとかどうとでもできるなんて思えてしまうことがおかしいしおそろしいし。そして、原作の結末は映画よりも悲惨なんだって..


Alaverdoba (1962) - アラヴェルディの祭

監督Nikoloz Shengelaiaの息子 - Giorgi Shengelaia (1937–2020) の25歳の監督デビュー作。

東ジョージアにある11世紀に建てられたアラヴェルディ聖堂で毎年秋に行われるお祭りの取材に出かけたジャーナリストのGurami (Geidar Palavandishvili) - なんか宇宙人のようにかっこいいんだけどこの人 - の目がとらえた祭りの様子。はじめは祭りの様子を追う半ドキュメンタリーのように進んでいく。

いろんな民族、いろんな宗教の人々が聖堂の前に集って輪になってひたすら飲んで歌って踊って、熱狂があり酩酊があり無関心があって、時間がくるとなんとなくしょんぼり終わっていく - ただそれだけ。映画の前半でお祭りは終わっちゃって、それは冒頭の新聞記事に書かれていたようにお祭り本来の宗教的意義からとうに離れて堕落しているように見えて、そこでGramiはある行動にでる。

それまでのゆったりだらだらした祭りの終わりモードから裸の馬に飛び乗って疾走するテンションへの転調がびっくりで、あの場にいた人々と同じように見ている我々も度肝を抜かれる。映画はこんなふうに見ている人の瞳孔をこじ開けて、そこにとつぜん聖堂が放つ聖なるなにかを…

祭りとか宗教(性)ってなんなのか、なんのためにあるもので、そこに到達するには.. というテーマを聖なるものへのそれとは別の視点 – 宇宙人の目で追ってみて改めて目を醒まさせる、そういう強さと鮮烈さがあると思った。


Tetri karavani (1963) - 白いキャラバン

監督は、Nikoloz Shengelaiaの息子で↑のGiorgi Shengelaiaの兄Eldar Shengelaia (1933- )。

コーカサスの山岳地帯で、年のうち3ヶ月くらいしか家に戻らずにカスピ海沿岸に羊を放牧地に移動させながら暮らしている村の人々がいて - だからここの子供たちはいつも同じ時期に生まれるんだって - そんな家の長Martia (Spartak Bagashvili)の率いる羊飼い団が野山を進んでいくうちに息子のGela (Imedo Kakhiani)が空き家で雨風を凌いでいた漁師の娘Maria (Ariadna Shengelaia)と出会って恋に落ちて、結婚しようよってなるのだが、この機にGelaはこんな暮らしをやめて都会で暮らしたい、という。 Mariaはどうして? って戸惑うのだがGalaの都会暮らしへの思いは止まらなって家族を振り切って..  そうしているうちに大嵐が来てパニックを起こして水辺を暴走する羊たちをなんとかしようとしたMartiaが…

放牧の風景や気候は変わっていくけど単調で過酷な日々のなかに突然現れたMariaのために、ずっと一緒にいられる都会の生活を目指そうとしたのに彼女はそんな変化を特に望んではいなくて、でも後には引けないしきっと何かがあるはず.. って。

田舎と都会と家族のいろいろ、それぞれの理想と現実の間に起こる割と普遍的な「縛り」を巡る物語だと思うのだが、過酷な自然とかなまもの(羊)とかが挟まってくるのでほんとに大変そうだし、自分だったらそんな定めを呪うと思った。なのでGelaはちょっとかわいそうだなー、とか。

あと、Mariaが捕っている魚.. カスピ海のチョウザメだよね。あれすごいー。

2.03.2022

[film] TITANE (2021)

1月29日、土曜日の晩、メキシコのMUBIで見ました。
昨年のカンヌでパルムドールを受賞したJulia Ducournauの”Raw” (2016)に続く新作。
いつものように少しネタバレしているので直に見てびっくりしたりしたい人は注意。

監督の前作の“Raw”はすごく変な映画で、人肉喰い少女、というと怖くて見れないホラーなのかも知れないのに、カニバリズムと家族の絆と青春映画が絶妙にブレンドされていて、なんだか見れてしまった。

今回のも予告とか評判を読んだ限りではクローネンバーグ混じりのぜったいやばそうなやつなのだが、ひょっとしたら.. の怖いもの見たさで突撃してみる。

冒頭、小学生くらいのAlexia (Adèle Guigue)が父親と車に乗っていて、彼女はだるそうに運転している父親に後部座席から不機嫌にちょっかいを出したら車は路肩に衝突して、彼女は病院で頭にチタンの板をはめ込まれた身体となる。

大きくなったAlexia (Agathe Rousselle)はモーターショーとかで車の上でくねくねして客を寄せるエキゾチックダンサーをしていて、でも目とか態度は変わらず不機嫌まるだしで周囲から切り離されている。ショーが終わって強引に追いかけてきたファンの男にキスを求められたのでキスをして、その状態で男の頭を簪で一突きして、その後に昼間に踊っていた車とセックスをする。

その快楽を引き摺るようにパーティの場にいた男女複数をさくさく殺していって父親も火事の現場に閉じ込めて、そのうち連続殺人犯のニュースが騒がしくなって顔も見られたり、並行してなんでか彼女のお腹が大きくなってきて、黒いオイルのような液体が自分の股や傷口から流れ始める。これはいろいろ相当やばいぞ、と幼い頃に行方不明になったまま十数年経っているAdrienという少年 - 貼り紙にあった失踪当時の顔が少し似ている - になりすますべく、駅のトイレで自分の顔をぶん殴って洗面台で自分の鼻をへし折って(ひー)、出っ張っている胸と下腹をテープでぐるぐる巻きにして女子であることを隠し、ショックで口がきけなくなっている、という設定にして賭けにでる。

Adrianの父親として現れたVincent (Vincent Lindon)は、DNAの鑑定なんていらん、こいつは間違いなくAdrianだ自分が守る、って周囲に宣言して彼女を引き取って世話を始める。Alexiaはなりすましがうまくいって世間から身を隠すことができればよいので、Vincentの態度はありがたいのだが消防団員をしている彼は明らかに別種のやばいモンスターで、日々のいろんな苦痛や苦悶を太腿への注射でなんとか凌いでいるジャンキーなのだった...

そのうち消防団員はAlexiaってどうも怪しい、って見るようになるし、Vincentの妻(Adrianの母)は簡単に彼女がフェイクであることを見抜くのだが、AlexiaにVincentのことを頼むとかいうし、あれこれ噴出してきて、もううざくなってきたVincentを殺したろか、ってなるのだがAlexiaにはどうしても彼を殺すことができないの。

最後、お腹が膨れあがってどうしようもなくなったAlexiaとそんなAlexiaの正体を見てしまったVincentは..

“Raw”と同様、いやあれ以上に捩れてそっくり返りながらのたうつ「家族」と女性の物語で、こんなのがパルムドールを獲ってしまったのだから痛快としか言いようがない。頭蓋骨に嵌め込まれたチタンの板がAlexiaにどんな変容をもたらしたのか、なんであんなことが起こるのか、なにひとつ説明されないまま、横から現れた息子を失ってどこかのなにかが壊れてしまった男とのクラッシュが物語を更に異様な方に転がしていく。Drive Their Car.

単なる人と機械(or 金属)のインターコースのお話に狂ってしまった父の情念が絡んで、結果として化け物のようなエモが絡んでのたうつ怪異小説のようになっている。思いに寄り添うことなんて到底無理だし、どう処理したらよいものか、って遠巻きに、それでも見てしまう。

これが長編デビューとなるAgathe Rousselleさんは見事だが、それ以上にVincent Lindonのごりごりノワールの狂ったオーラがすばらしい。このふたりが寄り添う絵のなんともいえないかんじときたら。

続編とかやらないかしら。ぜったいおもしろいのになる。

2.02.2022

[film] 刀馬旦 (1986)

1月28日、金曜日の晩、国立映画アーカイブの「香港映画発展史探求」で見ました。
『北京オペラブルース』、英語題も”Peking Opera Blues”。監督は徐克(ツイ・ハーク)。

京劇って英語だとPeking Operaで、「刀馬旦」というのは京劇で立ち回りを中心とした女性が演じる英雄の役柄、なのだそう。客席はほぼいっぱい、すばらしくおもしろかった。

1913年の辛亥革命直後、袁世凱政権下でめちゃくちゃな無政府状態になっていた北京で、お家の出入りで流出した財宝を追いかけて京劇の芝居小屋に迷いこんだ歌手のションホン(鐘楚紅 - Cherie Chung)とそこの劇団長の娘で芝居をやりたくてたまらないパナウ(草倩文 - Sally Yeb)と、海外から戻ってきて将軍の娘でありながら政権転覆を狙う組織にいる男装のチョウワン(林青霞 - Brigitte Lin)の3人が出会って、チョウワンの父将軍の金庫に収められた袁世凱失墜のカギになる書類を巡って政府側と転覆を狙うゲリラ側がじわじわどたばたやりあっていく活劇で、その活劇の真ん中に偉い連中がやってくる京劇の芝居小屋とそこで演じられる京劇 - 演目にも意味があったりしたのだろうか? - が挟まってくるの。

当然のように政権側は人もいっぱいいて悪賢くて強くできてて、反体制側の特に女性3人はチョウワンを除くと巻き込まれていい迷惑な娘たちで、その後ろにつく男子も筋肉とメガネのふたりくらいのそんなに強くない連中で、善玉は圧倒的に劣勢で、絶体絶命のなんとかしなきゃいけないところで劇的にひっくり返ったり人がびょーんて飛んでいったりが頻発してフロントとバックがぱたぱた切り替わっていくバックステージものなの。

京劇はよく知らないのだが、二十世紀の初めまで、北京では女性が公共の劇場で演技をすることが禁止されていた(なのでパナウは芝居したい、って嘆き悲しんでいる) - そんな世界の舞台の上でその役割を反転させた女性たちが華麗に舞って踊りながらその柵を含めたすべてを転覆させようと立ち回る。こんなの痛快に決まっているのに、なんでタイトルに”Blues”がつくのか、だけあんまよくわからない。

真ん中にいる女性3人が巻き込まれた事情はばらばらでなんで仲良くなれるのかわかんないし、チョウワン父娘の情はあるのかないのかよくわかんないし、男は色と金に目がなくてだらしなさすぎだし、向かいあったら取っ組み合いや撃ちあいを始めるし、すぐに泣いたり気絶したり沸騰するし、すべてが浅はかでなんも考えていないふうに転がって着地だけなるようになって(して)しまうところがすばらしくて、そういえばオープニングとエンディングで京劇のメイクをしたおじさんの顔面がぜんぶ笑ってごまかしてくれるのだった。

結構血は流れるし拷問は痛そうだし人も結構ぱたぱたと死んでいくのだが、善玉にぜったい弾は当たらないし殺されないし、全体のノリがとっても軽いので全員が大きなダンスのうねりのなかにいるように見える。危機が迫ったり山場がくるとびょんびょんびょんびょんてJohn Carpenterみたいなエレクトロが鳴り出して、人が跳ねたり飛んでったり落ちたり - 最後のびょーんの後に蜂の巣のとこなんて最高..  ああ86年だわ、って。

あとは、チョウワン - Brigitte Linの痺れるようなかっこよさ。あの衣装にあの目と声で請われたら誰だって地獄の果てまでついていきます、になるよね。

ラストも西部劇みたいでかっこよくて、そうか西部劇のサルーンがこの映画では芝居小屋だったのかー。

上映後、拍手がおこって当然のやつだったねえ。

2.01.2022

[film] 女給 (1955)

1月23日、日曜日の昼、シネマヴェーラの特集『あなたは猪俣勝人を知っているか』で見ました。知っているか? と聞かれたら、知らない、って返すしかないくらい知らない。

フィルム上に出てきたタイトルは『女給』だけだったのだが、チラシとかWebでは『まごころの花ひらく 女給』となっている。よくわかんないのだが、映画の内容からすれば洋画につけられてしまうくそったれた邦題みたいなタイトルかも、って思った。 監督は千葉泰樹で脚本が猪俣勝人。

ふつーの会社に勤める伊藤順子(杉葉子)と石井毅(伊藤久哉)は婚約していて、でも順子の家には旧華族のプライドを引き摺って節制ができない母(英百合子)がひとりいて、置いていけないし十分な結婚資金も貯まりそうにないので、友人を頼って銀座のバーQuail(うずら)に勤めはじめる(行ってみるとその友人はもう辞めていた)。昼間の会社勤務はそのまま、母には会社で接待係をやることになった、と嘘をついて、婚約者は心配してバーにやってくるのだが順子は面倒だから来ないでという。お金が貯まったら抜けるし抜けられるはずだし、と。

バーにはベテランでクールなシングルマザーの澄江(越路吹雪)がいて、一人息子の和夫(設楽幸嗣)をアパートに残して遅くまで働いていて、そこに夫の戦友だった杉浦(上原謙)が訪ねてきて妻子ある彼だけどちょっとよいかんじになったり、でもその結果和夫がかわいそうになってしまったり。

やがて順子はバーの常連の上客のビジネスのためにと嵌められて処女を奪われて妊娠して、それを石井に知られても開き直るしかないし、嵌めた男は収賄で捕まっちゃって散々だし、そんなこんなでバーのマダムと大喧嘩してQuailを辞めても、別のところに移って女給を続けるしかなくて、そこには『女ばかりの夜』(1961)のように一度入ったら軽く抜けられなくなってしまう闇の世界があって、その反対側で澄江は和夫のこともあるから、と杉浦を振り切った後にバーを辞めて美容師になろうとする。

女給の世界から抜けられなくなっていく女と抜けようと決意する女と、どっちが正しいとかよいとか悪いとか、そういうことではなくて、その反対側には「この程度のこと」ではびくともしない男の世界があって、それは夜になると現れて、そのやらしい連中は昼間はがんばって働いていろんなのを「支えている」ことになっていて、なんだこの回転は、とか思うわ。

例えばバーの常連でいつもご機嫌の漫画家(山形勲)の漫画 - 『銚子好男とうわのそら子』とか。ほんと男はどいつもこいつも調子よくて偉そうでやらしくてむかつく。なにが楽しいんだろ、って映画でこの時代のバーの様子とか見ると思う。ああいうとこでみんなえんえん何話したり騒いだりしていたのかしら? ほんと謎。いまだに。

最近見た邦画だと『月は上りぬ』(1955)の杉葉子 - これも1955年だ - がいて、あの役柄からここにそのまま来てもおかしくない気がしたし、息子の和夫は『黄色いからす』(1957)でも変わらずかわいそうな子 - 戦争の不幸が絡んでいる - だったり、マルチバース.. ではなくて戦後の庶民が囲われて囚われたひとつの閉じた世界だったのだろうな、とか。

で、これらは70年くらい前のにっぽんの断面っていうだけでなくて、ぜったい今もその影とか残滓みたいのはそこらじゅうにあって、今日亡くなった元都知事なんかもそこにいた奴らの仲間で、いいじゃねえかっていう人もいるのだろうけど、ぜったい嫌だ、って言い続けてやろう、って、そのために見てやる、というとこもある。

越路吹雪、一曲歌ってくれてもよかったのになー。

[theatre] The Lehman Trilogy (2019) - National Theatre Live

1月22日、土曜日の午後、National Theatre Liveの上映をしているシネリーブル池袋で見ました。休憩2回の全3時間半。

イタリアの劇作家Stefano Massiniによる三幕劇をBen Powerが脚色してSam Mendesが演出したもの。2013年にフランスでプレミアされて2015年にイタリア版(演出はLuca Ronconi)が上演されて、2018年にNational Theatreに来て(ここからSam Mendes版)、その後でNYのPark Avenue Armory → Broadwayに行って、その後にWest Endに戻ってきた。NTLの撮影はWest Endのそれで、これを上演しているシアターを横目で見ながら毎週土曜日、古本屋に通っていたことを思いだす..

冒頭、2008年のLehman Brothersの経営破綻前夜(あと数時間で..)のニュース音声ががらんとしたオフィスに響いている。

1840年代、ドイツのバイエルンからアメリカに渡ってきた3人の兄弟 – Henry (Simon Russell Beale), Emanuel (Ben Miles), Mayer (Adam Godley)のLehmansが、アラバマ州モンゴメリーで雑貨店を開いて、地元の綿花の売買、銀行、コーヒー、鉄道事業からパナマ運河まで事業を拡大してでっかくなっていく様を3名の男性俳優 - Simon Russell Beale, Ben Miles, Adam Godleyのみで、開祖の3人から出てきた子孫 – 特にEmanuelの息子Philip (Beale)、Philipの息子Bobby (Godley)、Mayerの息子Herbert (Lester) あたりまで - みんなWikiとかに載ってる偉人だよ - さらに花嫁たちから関係者までぜんぶこの3人が演じ分けている。また、舞台の袖のピアノで絶妙な合いの手となるライブの伴奏をつけて160年間を走り抜けるCandida Caldicotさんも、第四の演者として休憩時間に紹介されていた。音楽はNick Powell。

セットは全幕を通して宙に浮かんだような仕様のガラスの箱で、この中で兄弟たちは生きて動いて、ここに兄弟たちが書きこむ手書き文字が看板となり目標となり取引メモとなり、積まれた箱がオフィスを形作り、このガラスの仕掛けが回転しながら周囲のいろんなものを反射させて鏡のようにその奥行を無限に増幅しながら拡がっていく。資産がどれだけでっかくなっていっても量的に重くのしかかってこない - その内部にいたとしても。

一族の、王朝のドラマとして、あってもおかしくない血生臭い抗争や苦渋に満ちた愛憎が壮大かつドラマチックな劇画調で描かれることはなく、ユダヤ系移民一家がどんなふうに置かれた境遇を受け容れ、知恵を絞ったり閃いたりしながらそのビジネスを広げていったのか、いろんなエピソードを挟みながらユーモラスに寓話風に綴っていく。奴隷制度をうまく利用した綿の売買にしても、大恐慌時のパニックにしても、歴史の断面としてありうる悲劇的なところを周到に避けて、知らんぷりして乗り切りましたー、くらい。

ここは作者と演出家がヨーロッパと英国の出であることも関係しているのかもしれないが、従来の「アメリカン・ドリーム」の積み上げ山盛り方式の描きかたとは随分違う。おもしろいけどあんま替わり映えしないいくつかの漫画っぽいキャラクターたちが、同じような書割のなかで同じような仕草や表情でじゃんけんやビンゴをやっているかのように勝ちあがっていく。この辺、映画の世界でWes Andersonがオールスターキャストでカラフル絢爛に展開する史劇コメディと表裏のようなかんじもする。Wesの場合は、アメリカ人がヨーロッパを描く、というところも対照的だし。

でも、なんであんなふうに事業領域とかビジネスを広げていったのか/いけたのか、なんでそれらが突然あっけなく破綻して消えてしまったのか、この劇を見てもあんまよくわかんないの。演者をミニマムにして、装置を限りなくシンプルにして、結果的に示されているのはそういう空虚としか言いようのないなにかが回転したり稼働したり停止したりしているさまで、最後にめまぐるしい光量のプロジェクションが走馬灯のように回っていった後、ガラスの箱には放心状態になった我々観客自身の顔が映っている。

でも、想像していたような難しさ取っ付きにくさがなくて軽いのはよかったかも。