11.30.2015

[art] 久隅守景展

10月24日の夕方、”Insurgent”のあとにサントリー美術館でみました。
展示の正式タイトルは「逆境の絵師 久隅守景 親しきものへのまなざし」。 はいはい。

この辺の流派の話し - 狩野探幽門下とか - 日本画だとなんかべつにいいか、になってしまうのはなんでか。たんに面倒だからか、どうでもいいかんじがするからか?

四季の農耕の工程を右から左に展開した「四季耕作図」の図鑑みたいな楽しさ。 世界のパノラマをひと塊の時間として示すことで保たれる世界の調和。 世界はこんなふうにある、のではなくこんなふうに流れて円環をなす(少なくとも四季がまわっている限りにおいては)、と描くことでなんか安心できてしまう不思議。 今だとライブカレンダーみたいなもんかしら(ちがうか)。

そして有名な「納涼図屏風」のへなへな、へなちょこの線、であるが故にこそ現れる絶対的な幸福感、みたいなやつ。 夕顔棚の下で親子3人、ごろごろしながらうっすら浮かんだ月を眺めていて、きっと虫とか蛙とか鳥の音も響いていて、そこにはなんの目的も要請も作為もなくて、ただ彼らはそこにいて、ぼんやり涼んでいるだけ。  どこにも行かない、行く必要がない、全てが満ち足りてそこにある、という感覚がその余白に表象されている。

鍋をいっぱい重ねて頭に乗っけた女性と、なにも被っていない女性が描かれた「鍋冠祭図押絵貼屛風」。
乗っけている鍋の数がこれまでに情を重ねた男の数だという - それって今やったら大変な事になるとおもうけど、なんかそういうお祭りで、これって示威行為みたいなものなのか、だからといってどうしろというのか。 鍋もって列に並べとでも?

あとはかわいい動物とか - 「花鳥図屛風」のミミズクでも、都鳥でも、「虎図」の虎でも - 若冲にもたまに感じる人間なんてどうでもええ、こういう動物だけ相手にしていればええのや - ていうまなざしは確かにあるかも。


この世もあの世も跨いだ「親しきものへのまなざし」というと水木しげる先生のことを想う。
ほんとうにいろんなことを教えて戴きました。 ありがとうございました。

11.29.2015

[film] John Wick (2014)

25日の夕方、フランチェスコで心を洗われた後に六本木で見ました。 どっちも真似できねえ。

かつて組織の凄腕の殺し屋だったらしいJohn Wick (Keanu Reeves)は愛する妻が亡くなった後は殺生から足を洗って、妻が最期に贈ってくれたわんわんと一緒に慎ましく暮らしていたら、どっかの組織のちんぴらに因縁つけられて夜中に家に押し入られぶん殴られて車を盗られて大切なわんわんまで殺されてしまう。

しょんぼり静かに怒髪天になってしまった彼は自宅の床下にセメント固めにしておいた武器火器群を掘りかえし、かつて自分も仕事をしていたそのちんぴらの組織(そいつのパパが親分)を叩きつぶすことにして、宣戦布告する。 組織もその周囲もあのJohn Wickを怒らせちまったのかそいつは相当にやばいぞどうすんだ、と敵味方いろいろざわざわして血みどろのどんぱちが始まるの。

ストーリーはそんなもんでシンプルなんだが、とにかく自分の大切なものを奪われてしまったときの孤絶感を、その悲しく寂しい目をKeanu Reevesほど絶妙に体現できるひとはいなくて、この状態の彼に「子犬を殺されたくらいで…」なんて言おうもんなら五寸釘で瞬殺されてしまうこと確実だし、そういうのは柔術とカンフーと射撃がミックスされているらしい彼の変てこな殺し技の数々を見てから言ったほうがいい。 (あれ、素人がマネしたら - するバカいないと思うが - 自分の膝とか打ち抜くよね)

夜のNew York、そこの闇社会を舞台に、かつて自分の所属した組織を敵に回して殺戮大会、という設定はLiam Neesonの“Run All Night”と同じ(一方は逃げまわり、一方は追い回す)で、更にギャングの息子がしょうもないバカで手に負えない、ていうとこも同じ。 LiamもKeanuも負け犬(だけど実は狂犬)をやらせたら一級品だし。

Willem DafoeとかJohn Leguizamoも、どこからか現れる死体の掃除屋のおじいさんもとってもいそうな夜の人々のかんじがあってよい。  夜のNYの現場のかんじ、みたいなとこだと“Run All Night”のがちょっと上だったかも。 おそらく初冬のNYだと思われるのだが、なんでこんなに寒くなっちゃったんだろ、のきつさみたいのがもう少し出せていればなー。 俺は燃えてるんだほっとけ、なのかもしれんが。

あと、あんなホテルを定宿にしたい。

[film] Francesco, giullare di Dio (1950)

10月25日、日曜日、シネマヴェーラの特集『映画は旅である ロード・ムーヴィーの世界』ていうので見ました。
『神の道化師、フランチェスコ』。 英語題は”The Flowers of St. Francis”。

おおむかし、千石に三百人劇場(ていうのがあったのよ)で見てから、これは世界で一番好きな宗教映画で、キリスト教映画で、神様映画で、何回見ても飽きがこなくて、NYに赴任したときも海賊版みたいなVHSを買ったし、紀伊国屋からDVDが出たときもすぐに買ったし。

フランチェスコとその弟子の修行僧たちが固まって大雨のなかを旅しているところから始まって、粗末な掘っ建て小屋を修行寺みたいにして、布教とか修行のなかで起こるいろんなことをエピソード形式でおもしろおかしく、でも大真面目に神の子たちの姿を追っている。

なにが面白いのかというと、フランチェスコは勿論、その弟子たちもほんとうに、心の底から神様に全てを捧げていてどんなひどいことが起こっても神が与えた試練とか自分がまだ未熟だからだとか言ってて、それはそうなんだろうけどさ、と思うものの、その盲目の、無償の愛の度合いが強烈にすごくて、ばかみたいー、というよりも、なんでそこまで… (神様の愛を信じることができるの?) というところに胸をうたれてしまう。 身も心も捧げる、ていうのはこういうことなんだな、と。 

フランチェスコに拾われたジョバンニていう浮浪者みたいなおじいさんが生ネギをそのままばりばり齧っていたり、煮ているスープに蒔を突っこんだり、訪問してきたキアラ尼にでれでれになったり、 若い小僧のジネプロが暴君ニコライオの餌食になりそうになるのにニコライオは彼のつぶらな瞳にやられちゃったり、みんなあまりに直線でまじめで結果変なかんじにはみ出していて、神様はそんなようなところに現れるんだろうなー、とかはらはら感動していると、みんなそれぞれ地の果てに旅立って行ってしまう。 

もちろん映画に描かれたようなほのぼのしたエピソードばかりではなかったろうけど、でも彼らは神の道化師として超然と我々を笑かして、すうっと画面の向こうに消えていく。 消えていったのだろうなー。

リスペクト、とかありがたやありがたや、とか、心を洗われたり洗いたくなったり、というのとは別の次元で人が信仰に向かうその根源みたいのが生々しく、わかりやすく描かれていて、画面の向こうに消えた彼らの痕跡がいつまでも残る。 ひとがいろんな絵とかアートとかに向かう理由のひとつがここにあるのだと思う。

[film] Insurgent (2015)

もう失われた過去を取り戻すのは無理かもしれないよう。けどがんばる。

10月24日、土曜日の昼、新宿でみました。
邦題はほんとにバカみたいだねえ。 次の"Allegiant"になったら"NEONEO"とかいうのか。

前作のおわりで、どこの派閥にも属さないDivergentたちはやっぱし危険集団、という話になって逃げたり他の派閥に匿ってもらったりしているTris (Shailene Woodley)とFour (Theo James)は、逃げきれなくなって捕まって、他方でなんでこんなふうになっちゃったのか、これからどうするんだ、のメッセージが入っているとされる怪しい箱の存在が確認されて、その箱を開けられるのはDivergentの連中らしいので、Trisは繋がれて箱開けを強制されて大変なの。 あと、反乱軍のリーダーとしてNaomi Watts - Fourのママ - が登場して、極悪Jeanine (Kate Winslet) と対峙するの。

人が自身の属する派閥(Faction)で仕切られている社会とか、そこに収まらないDivergentの存在とか、法律の人たちが使う自白剤とか、ひとは可視化された属性から逃れられないし嘘つけないし隠せないし隠れられないし、ていうのと、でも分類不可能でわかんないのはなにやりだすかわかんないから、ていうのの間で、そうは言ってもひと(特に若いガキ共)の潜在能力ははかり知れないのだから要注意だね、とかそのあたりのわかりやすさはしょうがない。

それにしても、これのKate Winsletにしても、”Hunger Games”のJulianne Mooreにしても、"Maze Runnder"のPatricia Clarksonにしても、"The Giver"のMeryl Streepにしても、一旦世界がリブートされた後で現れる新しい女性リーダーはなんできまって白を着ていて、裏があって陰険そうでおっかないのか。 腐った男共が世界をさんざん潰して壊して、その後に(一見)白い女性リーダーが現れて、その野望策謀を俊敏な子供たちが打ち砕いたりすり抜けたりする、ていうのがこういうお話しの基本公理なのだろうか。

髪を切ったShailene Woodleyさんとその周りの男どもの動きはとにかく一生懸命に逃げて走って泣いて怒って、それだけでなんかよいの。 同じように走って逃げてばかりのMaze Runnerたちと比べたとき、Maze Runnerたちのほうがぜんぜん来ないのは、やはり背後に抱えこんだものが見える見えないの違いなのかもしれない、とかおもった。 こっちには悩んだってしょうがねえよ、の思い切りのよさがあるの。

あと、Kate Winslet vs Naomi Wattsていう対決もなかなかのもんだった。どっちも敵にまわしたらおっかなそう。 ぜったい許してくれなさそう。

あと、あの箱、せっかくがんばって開けたのに、作りだけは仕掛けいっぱいのくせに、そのなかみときたらさ...

でも見続けるから。

11.27.2015

[music] Shellac

25日の水曜日の晩、代官山でついに。

こういうののライブに会社帰りのスーツでいくのなんてありえないので、ちゃんと一旦家に戻って着替えていると小屋につくのは19:30になってしまうのはしょうがない。 もうあきらめてる。 ほんとばかみたいだけど。

入ったときはMONOがまだやってて、聴いたのは何年ぶりか、前のときはExplosions in the Sky と一緒だったんだっけ?
最後の曲の、ふたつの力がごりごり押したり引いたりしているかんじがちょっとすてきだった。


Shellacはこれまでなんでか見る機会がなかった。

Bob WestonさんはMission of Burmaのライブとかだと必ずコンソールに座っているし、Steve AlbiniさんはNew Yorker Fesのトークとかで(おしゃべりを)見たりしているのだが、バンドとして見るのははじめて。 

ライブではこうなるだろうな、と想像していたそのままの音が、アンプを通してダイレクトにびりびりやってくる。 そしてそれがどれだけすごい肌理のやつか、甘美で官能的なことかを思い知る、そんなすばらしい時間でした。 ライブってライブなんだねえ、と。

腕が振り下ろされ腰が揺らされ指が動いてその指が弦を擦って撫でて弾いて引っ掻いて(時には噛みついて)、そこで発生した摩擦音、打突音、擦過音、唸り声、喘ぎ声、呻き声などなどの音がマイクロフォンとケーブルを伝ってアンプに流れ込み、アンプの回路を経由して増幅されたその音は再びケーブルを伝ってスピーカーの膜をびりびりと震わせ、その振動が空気を伝って同じように我々の鼓膜を震わせて、その震えとか律動がわれわれをとっても、ものすごく興奮させる。

ライブというのは単なる音源の再生とは異なる、これだけフィジカルな工程を経て現れるアートで、このバンドのライブでは、このフィジカルな作業工程がぜんぶ、隅から隅まで、機材のセッティングからお片付けまで、ケーブルを走り抜ける電気信号まで(見えないけどね、見えるんだよ)徹底的にアナログで可視化されていて、そこで見たままの音の姿がそのままに耳の穴にぐりぐり入り込んでくる。 ライブで目が向かいがちな轟音とか激しく性急なアクションとかとは別の次元のおはなし、それらはどちらかというと抑え目、それ故に際立つさざ波の快楽。

こんなふうにこのひとたちのライブを形容しようとするとセックスそのもののようになっていって、だからとっても官能的でエロくて気持ちよくて、肉体運動の官能に溢れていて、そう思い始めるとAlbiniさんの腰巻ギターも頻繁のメガネふきふきも、なんかやーらしいのよね。
断然褒めているんですけど。

一週間の間にMelvinsを見れてShellacまで見れてしまう至福。 今年はこれでもう幸せはこないんだわ。 たぶん。

Albiniさんがシカゴで一番おいしいと言っていたのは、たぶんここね。 おじさんたらこんなねちっこいのを...

http://chicago.eater.com/2015/3/4/8150539/usa-today-ricobenes-breaded-steak-sandwich-is-the-nations-best

[log] Seattle - SFそのた November 2015

今回、SeattleとSan Franciscoでの本とかレコードとか食べものとかをまとめて。

まず今回はたった3日くらいだから荷物は機内に持ち込めるがらがらいっこ、会社のひともずっと一緒の旅(出張だって言ってるだろ)なので、12inchとかでっかい本とか荷物を預け入れしないといけない瓶入りジャムとかを買うことはできないのだった。 いちおう、現地は寒そうだからということでコートを持っていって、そのコートをつっこむ用にずた袋を別途用意した。 どうしようもない場合はそのずた袋にコートと一緒に隠すべし、と。 ほんとかわいそうだ。

15日の日曜午後のSeattle。
前回、9月のSeattleで、Space Needle近辺のレコード屋が壊滅していることが明らかになったので今回は別の地域を攻めることにして、Uberを捕まえて向かう。

The Elliott Bay Book Company
www.elliottbaybook.com/

昔いっかい来たことがあって、とてもよいかんじの本屋なのよ。木造でゆったりしてて1階と2階の2フロアで、McNally Jacksonを田舎ふうに幅をもたせたふうで、いくらでもだらだら時間潰せる。

今回買ったサイン本(いつのまにかサイン本マニアになっている)は、Ethan Hawkeの”Rules for a Knight” とKristin Hershの”Don’t Suck, Don’t Die: Giving Up Vic Chesnutt”のふたつ。

どっちも小さい本だし。 前者は子供向けに書いた騎士のお話し(→ “Boyhood”か..)。
後者は友人Vic Chestnuttの晩年を綴ったメモワール。おもしろくて、でもちょっと辛いかも。

ここの隣にOddfellows Cafe+Bar( www.oddfellowscafe.com/ )ていう素敵なカフェがあってブランチでごった返していたが、そこの小店 - Littele Oddfellowsてのが店内カフェとして出店してて、軽くお茶するだけのつもりが、豆腐みたいにみっしりした塊のLemon Olive Oil Cakeを見ているうちにたまらなくなって食べてしまう。 見た目通りの、豆腐の塊を頬張ったときの至福が甘酸っぱさと共にぞわぞわ。

Everyday Music
www.everydaymusic.com/

Elliottの向かい側にあるレコード屋。本店はPortlandらしい。 がらんとした倉庫みたいな店内にアナログとCDの新しいのと中古がいっぱい。 んで、7inchを4枚くらい。もうRecord Store Dayなのね。

もう一軒、たしかPine St沿いにレコ屋があったはず、と坂を下りていったのだが、そのお店はなくなっていた。小さな店だけど変な実験音楽みたいのがいっぱい置いてあって、その時は、北米のカエルの鳴き声レコード買ったのに。

で、その近辺をふらふらしていたらでっかい建物があって、入ってみたらスタバだったの。

Starbucks Reserve Roastery & Tasting Room
roastery.starbucks.com/

まんなかにでっかいタンクみたいな焙煎マシン(?)があってガラガラライブ稼働してて、厳選した豆を個々に特別な煎れ方で供するのでおいしいよ、ということらしい。 スタバはNeil Youngさんとの件があって以来やや疎遠になっているのだが、他にないので使っている、程度。
(Tully’sなんてプン、だし、ドトールは煙いし。 Think Coffeeあたりがこないかなー)

折角なので頼んでみる。 苦いの甘いの濃いの、どんなのが好きなのか、ふだんミルクや砂糖は入れるかどうか、などなどお話しして、これでどうかな、みたいなかんじで決めてもらう。 小さいカップで$6くらいしたけど、やっぱり(そりゃ)おいし。 さっきコーヒー飲んじゃっていたので、いっぺんに沢山飲めなかったのが残念(お茶だったらいくらでもがぶがぶ飲める)。

店の奥にはパイのお店が繋がっていて、店内には雑貨とかアナログレコードまであった。
コーヒーに合うやつ、というセレクションでJazzからR&Bからエレクトロまで古いの新しいの、いろいろあったけど、べつにコーヒーに合わせて音楽聴かないしねえ。

そこを出て、まだ未練たらたらその界隈(おいしそうなカフェとかバーばっかし)を歩き回っていたら、怪しげなレコ屋をもう一軒みつけた。

Zion's Gate Recordsていう、NYだとEast Villageあたりにあるような小汚いとりあえずごっちゃり積んである系のお店で、しかしさすがにグランジ系の中古はアンオフィシャルのも含めてざらざら置いてあるし、壁の高いとこにかかっているのはMerzbowとかBorisだったりするし、店員は愛想だけよくてなんも考えてないぼんくらふうだし、なんかとっても居心地よくて7inchを3枚買った。

この辺で時間が来たので行きと同様、Uberで戻った。

17日、火曜日の朝は朝6時くらいに暴風雨のなか空港に行って、San Franciscoに飛んだ。
ここの空港では、いつものようにSub Pop Shopで7inchを3枚買って(うち1枚は前回来たときに買っていたことが判明。ばかばか)、Beecher'sでチーズを2種類試食した。 ほとんど自動で、こそこそ隠れたりしつつ。
ターミナルのなかで、いろんなアーティストによるPearl Jamのポスターアート展やってた。

つぎの自由が与えられたのは同じ晩のSan Franciscoで、20時にホテルに入ってそこの食堂でみんなで食事をしたあと、21時に解き放たれてそのままtaxiで坂を昇ってCity Lights Booksに行って何冊か。 7inchがおまけで付いていた雑誌 - Pitchfork Review - Robert Wyattのインタビュー、ベルリン時代のBowie - とかを買って、ふたたび坂を下って、”Brooklyn”を見たのだった。

翌朝、飛行機が発つのは午前11時、部隊の半分は既に別のところに旅立ち、残りは空港で集合なので、つまり、それまでは単独で動ける。 となったらミッション地区に朝ご飯を食べに行くしかない。 7時にチェックアウトして、がらがらと共に車で、まずはCraftsman and Wolves。

もう何回も来ているのだが、同じものが置いてあったことはほとんどなくて。

“the rebel within”ていう、外見だけだとマフィンなんだけど、スパイスとか薫製肉の香りがほんのりして、まんなかにとろとろの半熟卵が入っている。おまけにチューブに入ったバスクの塩をくれる。 朝パンとしてはとってもパーフェクト。
他には角食みたいなjapanese milk breadていうのとかがカウンターに並んでいた。

おみあげを少し買って、そのまま歩いてTartine Bakery、まだ開いて10分くらいなのにもう列ができてた。 既に割とお腹にはいっていたので、すこしだけ。前から狙っていたBread Puddingを。
まあるいカップにひたひたとろとろに漬かったパンの残骸と同じ汁に漬かって暖まったフルーツの酸味が見事なだんだらを描いて、すばらしい。 和食だと雑炊とかおじや系、になるのかしらこれ。

お腹いっぱいになって、でもこれだけで空港に向かうのはもったいないので、Tartineの並びにあるBi-Rite Market の開店(9:00)を待つの。 でもまだ40分くらいあったので界隈を散歩してた。出張のがらがらを転がしながら。 朝の散歩のわんわんがいっぱいいた。 この近辺の犬になりたい。

Bi-Riteは地元のおいしそうなおやつとかいっぱいあるので楽しいの。 Sourdough & Olive Oilのチョコとか。 帰って食べたらおいしくてねえ。

で、この後に空港に向かって、さすがにもう本とか買う気にはならず、ラウンジ行ったら芋洗いで、しみじみうんざりしたのだった。

11.23.2015

[log] November 19 2015

行きとか帰りの飛行機(今回はANA便)で見た映画とか。

Seattle行きから。 8時間なので寝る時間を引くとあんまし見れない。

まず"Trainwreck"があったので大よろこびでもう一回見る。何回でも見るよ。
ベースはラブコメなんだけど、家族の物語でありパーソナルな面倒ごとの物語であり仕事の物語でもあって、これらが地続きで全部繋がっていることのおかしさ - しんどさではなく、それをおかしさと、それ故の愛おしさとかけがえのなさに着火させようという意思(そしてそういった嗜好そのものが、既にじゅうぶんに怪しくておかしい)がJudd Apatowのコメディには常にあって、だから大好きなんだなあ、と改めて思った。フランスで好かれる理由もこの辺にあるのでは。(アンスティチュのフレンチ・コメディ特集で上映されるドキュメンタリーは絶対いくべし)

それから、なんでかWim Wendersの"Every Thing Will Be Fine"があったので見始めたら、ぜんぜんタイトル通りとは思えない内容のようで、ディスプレイの解像度もどんよりと暗くて、寝よう、と思って寝た。こういうのはちゃんとシアターで見ないとね。

起きてから到着まで何見ようかしら、で、Star WarsのEp4から6までがあったので、しょうがないか、とEp4を見る。 そういえば、ANA便、San Jose行きにしておけば、R2-D2仕様の飛行機になったのだった。もうそんな歳じゃないでしょ、ではあるもののちょっとだけ、な。

Ep4は、97年の改訂版だった。これ、あんま好きじゃないんですけど。 オリジナル版をもういっかい、ちゃんとリストアしてくれないかしらん。

SFからの帰りの便で見たやつ。

Infinitely Polar Bear (2014)
Mark Ruffaloが名家の出で優秀だったのに精神を病んで病院から出てきたところで、妻は娘ふたりを養うために資格とらなきゃ、とNYの学校に通うことにして、その間病みあがりのパパが娘の面倒を見るべく奮闘するの。 ぽろぽろでどん底に堕ちたMark Ruffaloなんてもう何千回も見ている気がしたのだが、映画はパパが家族を振り回すというより娘ふたりがパパもういいかげんにしてよ! て立ち向かう系ので、でもそれで修羅場がどうにかなるもんでもないので大変で、いつパパが緑の怪物に変身するのかはらはらしたりしたのだが、ひとりの死者・負傷者もなくなかなか甘めのファミリーアルバムとして終わったのでよしとしたい。

Fantastic Four (2015)
機内では2005年の同名作も見られるようにしていた、けど見比べたいと思う人なんているのか?
子供の頃からの科学マニアだった仲間達が物資伝送に夢中になって大人になっても辛抱強く続けてたらうまくいって、自分達で実験したら手足が伸びたり火だるまになったり岩石になったり透明になったり、ひとりは異次元に置き去りになったり大変で、でも政府は彼らの身体特性を兵器として使おうとして、彼らは彼らでなんとか治療法を探そうとしてて、そうしているうちに置き去りにされた奴が恨み節全開でやってくるの。
全てのやりとりが彼らと政府の間の敵か味方か、みたいなわかりやすい図式のなかで閉じてて、さらになにもかもが既決事項ですからみたいにするする決まって流れていくので、人類の運命とか平和とかはあんまどうでもいいかんじなの。
最後は、ありのままの姿を受け入れよう、俺らがファンタスティック・フォーだ!  って宣言するのだが、なんだよそれ、なにがファンタスティックじゃぼけ、なのよね。
これならJessica Alba版のほうがだんぜんましだわ。

まだ時間があったので、The Holiday (2006)を再び。
Nancy Meyersばんざい、ということで。
もうだいたい10年前の映画だけど、とってもおもしろいし、この設定からいくらでも拡がるねえ。
数年後にどこかでリメイクされればいいのに。

なんもしないまま3連休が終ってしまったよう …

[music] Melvins

22日の日曜日、Hostess Club Weekenderに行きました。
平日の晩のライブなんてありえないかわいそうな洋楽好きの子供たちにとって、週末に数バンドまとめてコンパクトに見ることができるありがたいやつ。 ほんとは週末のいちんち潰れてしまうのって、それはそれできついのだけど。

今回はMelvinsがあったのでMUSTだった。

2011年の3月11日の晩、クアトロでライブがあるはずだったの。
いま思い返せばバカみたいだが、あの日の午後、あんなことになってしまって日比谷からとぼとぼ歩いて帰宅している最中も、夜は彼らのライブに行くのだ、だから早く帰って着替えなきゃとか思っていた。 渋谷までの電車は動いていないかもしれないけど歩いていけばいい、彼らはちょっとびっくりしたような顔をして、でも地震を跳ね返すような怒濤のライブをぶちかましてくれるに違いない、と確信していた。

家に帰ってTVを見たらそれどころではないらしいことがわかってライブは(しぶしぶ)諦めたのだが、彼らみんな、だいじょうぶだっただろうか?  ちゃんと帰れたかしら?  と気になってしかたなかった。
チケットは払い戻ししなかったなあ。

で、そんな彼らが戻ってきてくれる、戻ってきて演奏してくれる、というのだからなにがなんでも聴きにいくのが礼儀ってもんよ。 戻ってきてくれて本当にありがとう、と。

ひょっとして物販があったらどうしよう、と思ったので会場には2時半くらいに着いた。
MelvinsのアナログとかプリントをWeb経由でこつこつ買い集めるのが数少ない趣味のひとつなのだが、今回そういうのなんもなかった。 ざんねん。

彼らを最後に見たのは2008年、竜巻警報が出ていたシカゴの夏の晩、Lollapaloozaの裏番で、とても小さい小屋、”Nude with Boots”が出た直後で、ドラムスが2台で、ほんとに吹き飛ばされた。
その前は2005年で、Jello Biafraと一緒のだった …  もう10年前かあ。

何人編成で誰と来るのか何もチェックしていなかったのだが、3人編成で、ベースはButthole SurfersのJeff Pinkusさんだった。 Paul Learyさんも来ればよかったのにな。

リハーサルの音出しからして笑っちゃうくらいばりばり。 とりあえず空砲を10発くらい。避難するならお早めに。

18:45きっかり、両手を上に掲げたDale Croverさんの、両足のみのどかどかちきちき、で厳かに始まり、20:15きっかり、同じポーズの同じ音でしめやかに閉じる。 いじょう。

なにを言っても書いてもしょうがない、竜巻豪雨に雷神風神、海の怪獣山の怪獣、ぜんぶいっぺんに襲ってきてフロアにいた我々は1000メートルの彼方までなぎ倒されてふっとばされて大惨事で、それでも全員歓喜の電撃にうち震えて笑っていた。 感動の涙なんてないの、なんだこりゃ、ありえないー、て絶句して、あとは自分の鼓膜と脳の無事を確認して笑うしかないんだ。

ほぼ無停止、King Buzzoがヤギみたいにベエエ、とか鳴いた以外は喋りも煽りなし。アンコールもない。
どの曲をどの順番で、なんて書いてもあまり意味ないけど、最後のほうの”Your Blessened” 〜 “Night Goat”は凄すぎてこのまま死んでもいい - 殺して夜山羊、になったわ。

こないだ彼らのFBに載ってた85年のDaleの自宅でのリハの10分間 - 最初と最後にDaleのママがTVの音が聞こえないよ、って怒鳴りこんでくる - を聴いてみ。 その完成度にも呆れるけど、30年間ずっとこれなんだから、そりゃ最強だよねえって。

怪獣はまた回遊して戻ってくるよね。

これの前に見たふたつも。

Christopher Owens

Girlsは好きなバンドで来日したときも、行ったのだった。
4人編成で、音も小さめで、Girlsよりもふんわり柔らかい音、初期のFeltとかThe Pastelsみたいなかんじで、たまに50年代ロックンロールの香り、そりゃ嫌いになれないわよ。 Girlsの曲もやっていたし、延々聴いていられる。
あの寝巻きみたいなファッションもよいなー。 変なひとなんだろうなー。

Daughter

これまで聴いたことありませんでした。 どんどこ背後で壁をつくるドラムスをつんざいてナイフとヤスリのギターと冷たく浮遊する女性ヴォーカル、過去にいくらでも聴いたフォーマットながら緩急とかエッジのつけかたはデジタル世代のかんじも。
こういうバンドのフロントにいる女性ってつんつん意地悪ぽい人が多かった気がする(気のせいよね)のだが、ここの彼女はとってもフレンドリーでお茶目ぽかった。 ミスしても「ごめーん」とか。  音はとっても好き。

で。  このふたつのあとにMelvinsかよ、てみんなが思ったはず。 べつに関係なかったけど。

11.22.2015

[film] The Hunger Games: Mockingjay - Part 2 (2015)

20日の金曜日の晩、六本木でみました。 先に書いておこう。
米国と公開日を同じにしたことは誉めてあげてよいのかもしれないが、どちらかというと年末年始のリリースラッシュを避けるためにとりあえず出しとけ、みたいな投げやり感もある。

六本木でも小さいほうのシアターで、初日の18:30の回なのに空席いっぱいだし自分の周囲にいたのは英語喋ってる人たちばかりだったし。 邦題で『レボリューション』なんて言ってるけど、レボリューション的なわかりやすい威勢のよさからほど遠いテーマの映画であることは前作までを見ていれば簡単にわかるのにね。

日本ではこんなもん、ていうのはいつも思うことではあるが、なんでこれが本国では少年少女にあんなに受けているのか、自国の荒唐無稽なばかりでひたすら幼稚な「革命」映画を売ることとか、そのためのくだんないコラボとかを考えるまえに少しは立ち止まって周りを見てみれば? ← 業界のひとたち。

前作Part1の最後、政府によって洗脳されたPeeta (Josh Hutcherson)に絞め殺されかけたショックが消えないKatniss Everdeen (Jennifer Lawrence)は、自身のイメージが反乱軍のプロパガンダに利用されていることを知りつつも、President Snow (Donald Sutherland)へのたぎる憎悪のみで首相官邸のあるキャピタルに小隊と共に突っ込んでいく。 その行軍は政府の仕掛けた罠と、反乱軍の思惑との間でまるでHunger Gameとしか言いようのないサバイバル戦になっていくのだが、このGameに勝つのはどっちなのか誰なのか、そしてそこでの「勝利」とは誰の、なんのためのものなのか、と。

延々と止まない局地戦が続いて仲間はじりじり死んでいくばかり、最後にものすごいカタルシスやどんでんが来るわけでもないし、ハッピーエンドなんて望めるわけもなくひたすら苦くてきつい。 その苦さとしんどさを前線で最も体現しているのがKatnissで、前作に続いて彼女の表情はどんよりと暗く苦渋に満ちていて、とても勝利の女神、救世主のそれではない逡巡と彷徨いのなかにある。 なにを言いだしてなにをやりだすかわかったもんじゃなくて、彼女から目を離すことができない。

最初のほうの戦いを巡るKatnissとGale (Liam Hemsworth)の会話が興味深い。
この状況は戦争なんだから私情なんて挟みようがない(反乱軍側の犠牲だってやむを得ない)、というGaleに対し、Katnissは、わたしには私情しかない、わたしが殺したいのはSnowひとりだけなのだ、と。 この点で彼女は最後まで一貫していた。 進めば進むほど私情と私怨でぱんぱんに膨れあがっていくにせよ。

このシリーズを最初から見ているものとしては、この完結編は当然見てしまうわけだから冷静な目になっていないのかもしれないが、この137分のテンションは相当に異様で変で、その中心にエモ全開のKatnissとか半分壊れたPeetaとか半分狂ったSnowとかがいる。 もはやディストピアを生き抜くカリスマ少女のお話しなんかではなくて、後半の為す術もなしの展開はなんだかRW Fassbinderを思い起こさせた。 具体的にどこがどう、はもう少し考えてみたい。

最後の、猫との対決シーンがすごい。 やっぱりこいつは猫だったのね、と。

Philip Seymour Hoffmanの最後のフィルム。 彼の最後のフィルムでの最後の姿があんなふうだったことになんともいえない感銘を受ける。 Game Makerの笑い。

このシリーズを字幕で見たのは初めてだったのだが、Mockingjayの訳のなんとかカケス、気になってしょうがなかった。なんだよあれ。そのままでいいじゃんか。

イスラエルでこの映画のポスターからKatnissの姿が消されてしまったように、ファシストの国からは相当都合悪いものに見えてしまうらしい。 わたしにはPresident Snowの姿に今の総理大臣の姿が被って見えてしょうがない。あんな風格はないけどね。

11.21.2015

[film] Brooklyn (2015)

17日の火曜日の夜中、San FranciscoのEmbarcadero Center内の映画館でみました。(Landmarkのチェーンだった)

とにかくこれはなんとしても見たくて、もういっこ見たかったのは"Man Up"だったのだがそっちはSFではまだやっていなかったの。

予告で”The Danish Girl”と”Carol”がたて続けに流れておお、だった。 なんか、いいなー。

50年代の初め、母と姉Rose (Fiona Glascott)と一緒に暮らしていたアイルランドから海の向こうのアメリカ - Brooklynに渡ったEilis (Saoirse Ronan) - 小説の訳では「アイリーシュ」だったけど - がミセス・キーホー (Julie Walters)の女子寮みたいなアパートに居を定めデパートの店員として働きつつ、イタリア系のTony (Emory Cohen)と出会って仲良くなって、やがてRoseが突然亡くなってアイルランドに戻ったらそこで旧知のJim (Domhnall Gleeson)とも仲良くなって、Tonyのところに戻るべきか母とJimのところに留まるか、で揺れるの。

原作の小説との違いでいうと、小説は小説ですばらしいし、そこは映画も同様で。
小説がEilisの揺れ動く感情のひだひだを織り目縫い目までちくちく追ってくるのに対して、映画はそこに見事な色(色味が全体にとてもよい)と陰翳を被せて夢のようなシークエンスを作り出している。 クラシックなメロドラマを見ているときに湧いてくるこの感覚なにかしら? がゆっくり、静かに満ちて襲ってくる。

「愛してる」を連発するTonyに「あなたに言わなきゃならないことがあるの」てEilisがいうところは小説のまま。 初デート映画で「雨に唄えば」を見にいくところ(ここはもうちょっと)も、コニーアイランドで水着に着替えるとこ(昔はあんなふうだったのね)も、いちいちじーんときたり熱くなったり。

New YorkもBrooklynもしっている。職場で出会ったアイリッシュのおじさんやイタリアンのおばさんもしっている。 今から60年くらい前のあの辺りの路上で、教会で、ダンスホールで、彼らの父親や母親がひょっとしたらこんなふうに出会ったり恋をしたり別れたりしていたかもしれない、そこにあったに違いないいろんな偶然とか魔法とか躓きとか、その重奏感にうっとりして泣きたくなったり。

大戦後、大西洋を超えたひとりの女性の… なんて目で見なくても見るひとそれぞれがいろんなところでちくちくしてため息ついて空を仰いで、になったりする、そういうスケールをもった映画。

とにかくSaoirse Ronanが本当に本当にすばらしい。彼女にとっても生涯の1本になることでしょう。 薄い青緑の目で、あんなに緑色が似合う女の子、見たことないし。

ラストは小説にはないおまけがちょっと付いていて、あれは脚本のNick Hornbyのファンタジーなんだとおもう。 全面的にゆるす。 泣いちゃうし。ずるいわ。

11.20.2015

[film] The Peanuts Movie (2015) - 3D

19日の晩、9時半くらい、シアトルのホテルの裏のシネコン - いつも通っているところ - でみました。

今回の旅でなんとしても見たかったのは2本あって、でも2本ともシアトルではまだ上映していないのだった。がーん。
で、他に見たいのはあんまないし、これはどっちみち2~3回は見ることになりそうだし、と。

上映開始より少し遅れて入ったら中には誰もいなくて、独り占めで喜んでいたら、少し遅れて子供を連れた家族連れが入ってきて、ここのガキがわーわーぎゃーぎゃー泣いて喚いてやかましくて、これはこれでPeanutsなかんじかもしれない、とか思った。

本編の前座で短編が流れて、主人公は”Ice Age”のどんぐり命のリスみたいなあいつで、たぶん誰もがそうだと思うのだが、あいつ、とても他人事とは思えなくて涙なしには見れないの。 どこまで行ったら、いつになったら幸せのどんぐりを掴むことができるのかしら、って。

さて、スヌーピーとチャーリー・ブラウンをなんでアニメーションに、しかも3Dなんかにする必要があるねん? ていうのは誰もが思って危惧したり嘆いたりしたことだと思うが、でも結果としては、ぜんぜんわるくないのだった。
こないだの”Paddington”もそうだったけど、こういうのを映画にしたいと思うひとは、やっぱしキャラクターとかそこに描かれた世界に愛とか想いをそれなりに抱いて生きてきたひとに違いなくて、だから自分も含めてそんなことをしたら世界がどう思うかについても真面目に真剣に考えていて、だから基本あんまひどいものにはならないのではないか。 この映画について、そういう溢れる愛はなんとなく感じていて、しかも、さらに、ProducerにPaul Feigがいる、と聞いた時点でああだいじょうぶかも、と思ったの。

でも例えば、ドラえもんの映画には、そういうのはかんじない。 あそこには小学館とTV朝日の営業の匂いしかない。

ある冬のはじめから夏休みのはじめまでの、チャーリー・ブラウンと仲間たちのおはなし。
チャーリー・ブラウンのおうちの反対側に赤毛の女の子が越してきて、学校も同じクラスになって、チャーリー・ブラウンは彼女の気をひこうと、ダンスを練習したり、「戦争と平和」の読書感想文を書いたりしてがんばるの。 でも当然のようにうまくいくわきゃなくて、じたばたする。

タイムトラベルも宇宙旅行もジャングルも大都会もないけど、チャーリー・ブラウンとスヌーピーが住んでいる世界は、とにかく落ちつきなくじたばたする、それもひとりじゃなくて、みんなを巻き込んで、みんなは巻き込まれてじたばたする、ていうのが基本で、みんなが - ウッドストックも含めて束になって「わぁぁーーあああー」てなってじたばたあたふた右往左往して、そこにシュローダーの軽快なピアノ - “Linus And Lucy”とか - が被さってくればそれで十分でご機嫌で幸せで、それができているんだからなーんの文句があろうか。 表情のアップになると微妙な線とかは3Dじゃなくて、2Dの線画になるし、じゃあなんで3Dなのかというと、たぶん飛行機の空中戦とかあるから...  程度かなあ。 

とにかく、Charles M. Schulzが長い長い時間をかけて作りあげた紙の上の素敵な世界を、なんとかぴょんぴょん動く世界、弾む音楽の世界に持ってこようとして、うまくいっている。 とっても楽しくて大好きなバンド - 楽隊のおはなしなの。音を鳴らしてセッションをしているのを見ているだけで幸せがやってくる。
だから(さっき日本語版の予告みたけど)吹き替えはぜんぜん違って、彼らのしゃべる英語のリズムがこの音楽/映画には必要なんだよ。

ラストのショットはなんだかじーんとして、ずっと焼き付いている。 
でもそれはずっと何十年も焼き付いたまんまのファミリーアルバムのなんだよね。

11.18.2015

[log] November 18 2015

たった3日のあいだだけど/なのに、ほーんとバカみたいに面倒臭い手口やり口でそらしたりかわしたりを延々やってて、なんとか帰りの空港まで来ました。 ここはSan Franciscoで、前日の昼にSeattleから入って、でも仕事はSan Joseのほうで、ダウンタウンのホテルに入ったのは19時くらいだった。 San Franciscoなのにさ。

だから今朝は、7:00にチェックアウトして、まず7:00に開いているはずのCraftsman and Wolvesで食べて、そこから7:30オープンのTartineに移動して(このふたつが近所というのはよいことなのだろうか?)食べて、相当にお腹いっぱいになって、そこから9:00オープンのBi-Riteの入り口で待って、開いてすぐに買いものして(でもあんまなかった)、というような最後のあがきとじたばたを出張の荷物ぜんぶ抱えて、しかも木曜に成田に着いてから会社にそのまま行くので半分仕事の格好でやってて、ほんとばかみたい、てしみじみおもった。

もうこういうのやらない。たぶん。

これを叩いているのはUAのラウンジで、ものすごい芋洗いで、これ書いたらとっとと出る。

今回じゆうになったのは、日曜日のごご5時までと火曜日の晩から水曜の朝まで。
とりあえず映画2本、レコ屋3つ、本屋ふたつ、食べもの関係は水曜の朝までは、ほとんどさっぱり、でした。 しょうがないよねえ。

ではまたー。

11.15.2015

[log] November 15 2015

パリで、ベイルートで、韓国で、立て続けに悲惨で悲しいことが続いているのでとっても滅入るのだが、いまは成田で、これからちょっとだけシアトルとかに飛んで、木曜の夕方に戻ってくる。
現地の人たちの悲しみや苦しみと比べたら小さなことではあるが、今回の日本のTVを中心としたメディアの対応には改めて、しみじみ嫌になったので、いま国外に出てそれらから目を背けることができるのはよかったと思うくらい。

対応の是非、その良し悪しということよりも、これってどれだけ他者の悲しみや痛みに寄り添うことができるのか、ていう想像力や体温の問題で、今の日本(のメディア)は、ぼくらを見て!(ほらこんなに素敵なんだから)はいくらでもわーわー言うけど、他者を他者として受けとめる感受性がどうしようもなく鈍化していると思う(そしてそれを矯正しようとする力が働かない - それの何が悪いの? - になってしまう)。  これがメディアの問題に留まらず嫌だと思うのは、日本人一般の感じ方を代表しているかのように捉えられる可能性があるからなんだよ。 そういうのが例えば海外で暮らす日本の人たちにどんなふうに波及することになるのか、わかる?  それでいいんだったら、勝手に幼稚なナルシストしてろ、気持ちわるい。

今回はシアトルで2泊、もう一ヶ所で1泊、びっちり打ち合わせなので動きようがないねえ。シアトルはダウンタウンの方じゃないし、しかもずっと雨みたいだしー。

日本に残してきて残念なのは、アンスティチュのフレンチタッチ・コメディの特集とメナヘム・ゴーラン映画祭、だなあ。

来るときのNEXでは12inch x 2で再発されたPeter Gabrielの3 (1980)をずっと聴いていた。(誰もが抱くであろう感想のひとつとして、こんなに軽く、薄くなかったよね..)  当時高校生だった自分の知覚野を拡げてくれた音のひとつ。  例えばこれと、Pop Groupの”For How Much Longer Do We Tolerate Mass Murder?”と、Cabaret Voltaireの"Three Mantras”がある柱(群)をつくった、と。

とにかく、Melvinsまでにはぜったい戻ってくるし。

ではまた。

[film] La Patota (2015)

まだ10月の12日、月曜日の午前にラテンビート映画祭でみました。

最初に29分のドキュメンタリー。
La parka (2013)

メキシコの食肉処理工場の描写 - 狭い視角のなかに牛が送りこまれて、それががたんと崩れ落ちる映像が続いて、彼らが死に、彼らが仕事をする工場の映像、そこで若い頃から働いている男の独白 - 仕事に対する思いや罪の意識 - が被さる。例えば、”Meat is Murder”が流れる隙間なんてこれっぽっちもない、どうしようもない冷たさが支配する。

たぶんもうじき自分は菜食になってしまうんだろうな、という最近の予感を後押ししてくれるかんじがした。
映画とは関係ないけど、なんでみんなあんなにTVでも雑誌でも肉肉言ってるのか、ぜんぜんわかんないの。

そのあとで、「パウリーナ」。英語題も”Paulina”。
1960年の同名作品(未見)のリメイクだという。

28歳のパウリーナ (Dolores Fonzi)は、冒頭、アルゼンチンの法曹界の重鎮であるらしい父親と議論していて、どうやら都会で弁護士として精進する安易な道を捨て、ソーシャルワーカーとして田舎の村に赴き、若者たちに民主的権利を教えるプログラムの教師になろうとしているらしい。

結局父親を振りきってその村に赴任するのだが、村の若者は勉強へのやる気ゼロでかんじ悪くて(例えば “Dangerous Minds” (1995)なんかの数倍不気味で手がつけられないふう)、でも同僚の教師とは仲良くなって彼女の家に呼ばれてお酒を飲んだりして、そこからバイクで帰る途中、村の若者たちに襲われてレイプされてしまう。 でもそれは間違い - 自分の彼女に浮気をされた若者が仕返ししようと待ち伏せしてて、そこにパウリーナがたまたま通りかかった - で、更に悪いことにパウリーナは妊娠してしまうの。

気丈な彼女はへこたれないのだが、父親はだから言ったろうが、と強制捜査に入って容疑者たちをしょっぴいて、殴る蹴るで自白をさせて、パウリーナにも確認を求めてきて ー。

この後、お腹の子供は当然堕ろすべきだ、という父親と、それはしない、というパウリーナとの議論がなかなかすさまじくて、考えさせられる。
父親が一般論として語る社会的正義とか使命とかはわかる、けどこのまま単なるレイプの被害者として、暴力に満ちた世界の結果のような形で収束させて消してしまいたくないし、このお腹にいる子はいまのままでは全く意味のない何かでしかなくなってしまう、けどいまここに、このなかにいるのだと。

(向こうはそう思っていない)暴力や野蛮とどう向き合うべきなのか、ということを極めて具体的な問いと共に突きつけてくる、よい映画だった。 きちんと公開されるべき。

ラストはカメラに向かって歩いてくるパウリーナのショット。その強い目。
Giovanna Mezzogiornoさんの強靭さを思い起こしたり。

11.14.2015

[film] Fathers and Daughters (2015)

11日の日曜日の夕方、サンチャゴから岸辺を経由して、おなじく新宿で見ました。
『パパが遺した物語』

ふだんこういう傾向のはあんま見ないのだが、監督が”The Last Kiss” (2001)のひとだというので、なんとなく。

89年のNYで、作家のJake (Russell Crowe) は交通事故で妻を失ってから一人娘のKatieと二人暮らしになるのだが、事故の後遺症とかスランプとか不安とか意地悪金持ち義妹夫婦がKatieを養子に欲しいのでくれ、て言ってきたりとか頭痛のタネがわらわら出てきて、そういうなかで書いた新作は酷評されて、パパは更に孤立して苦悩してとってもかわいそうなの。

ていう話しと、そこから25年が経って成長したKatie (Amanda Seyfried)は大学院で心理学を学びながらソーシャルワーカーとして心を閉ざしてしまったLucy (Quvenzhané Wallis - “Annie”ね)の面倒をみたりしているのだが、あんまうまくいかなくて、恋愛のほうもぼんやりどんより、どうでもよくて行きずりの男とやっては離れ、みたいなのを繰り返していて、要はなんか愛が足りていなくて、特に求めているわけでもない、つまんないかんじなの。

というふうに、パパの報われないお話しと、そこから25年後の荒んだ娘のお話しが交互に絡みあうように進んでいって、それがパパの遺した”Fathers and Daughters”ていう物語に収斂していく、ていうええお話やなあ、なんだけど。

でもねKatie、物語なんてどうでもいいから、もうちょっとちゃんとしないと、パパは頭ぶつける洗面台が何台あっても足らなくなっちゃうよ。 幽霊になって出てくるよ。

ほんとはKatieが子供だった頃にパパがおっかない本を書いて、読んであげればよかったんだよ。
その本のタイトルは”Babadook”ていうの。 パパがあの声で読んであげたら効果てきめん、やばいことなんかやらなくなるよ。

もうちょっと泣けると思ったんだけどなー。

[film] 岸辺の旅 (2015)

11日のごご、「アジェンデ」の後に数ブロック歩いたとこで見ました。

瑞希(深津絵里)が疲れて帰ってきて白玉を作って置いておいたら3年間失踪していた夫の優介(浅野忠信)が突然現れて、自分は死んだのだ、ていう。瑞希は特にびっくりしたり嘆き悲しんだりすることもなく、靴脱いでよ、とか言って、翌朝、いなくなっちゃったかな夢だったのかしら、と思っていると彼はふたたび現れて旅にでよう、と彼女を誘う。

で、幽霊(たぶん)と生人(たぶん)が一緒に旅をして、失踪していた夫が生前世話になったところを訪ねて泊めてもらったりする。 夫が再会するひとのなかには同じく幽霊になっているひともいて(その違いは瑞希にはわからない)、こう書いていくとふたりで死 - 消滅に向かう旅路のように思えてしまうのだが、そういう重さからは遠くて、瞬く蛍の光点があちらこちらを楽しげに/哀しげに漂っているようなかんじ、その距離の取り方はひとによって異なる。そういう自由さもある。

ここでいう岸辺、の岸はおそらく彼岸と此岸で、その境界は常に揺れてこちらに来たりむこうに返したりしていて、こちらの人、むこうの人、それぞれ見えているものは異なる。でもそこに流れている時間はひとつで一緒で、それが旅というもので、そんなふうに端から考えていくと、これは幽霊譚でなくても十分に成立するわれわれの日々移ろっていく旅の話し - 当然生死も織りこまれた - であるのかも知れないね、とか。

でも、この幽霊はただそこに一緒にいるだけではなくて、宇宙についてみんなに講義してくれたりするの。 まるであちら側で見てきて知っているかのような説得力で。
なんかね、あのぐだぐだとっちらかったTerrence Malickの”The Tree of Life” (2011) を日本的にわかりやすく整理するとこんなふうになるのかもしれない、とか。 ”The Tree of Life”、決して嫌いではないのだけど。

最初に優介が出てくるとき、カメラがちょっと左に行ってそこにある闇を凝視するかんじになるところがとても好き。学校の講堂で灯りが奥からだんだんについていくところも。 瞳孔にそのままくるような光と闇のかんじ - それが幽霊に触れるということなのだろうね。

見るひとによって、ほんとうにいろんな印象 - 印象というよりもう少し強い痕跡 - 霊的体験みたいなのをもたらす作品で、まだずっと一緒に旅を続けていくようなかんじが残っている。

[film] Allende, mi abuelo Allende (2015)

旅に出てしまうと(旅じゃない。出張。 し・ご・と・だ)、その記憶はあっというまにどっかに消えてしまう(仕事のも、ね)気がして、だから早めに書かなきゃと思って書くのだが、そういうのが続くと普段の週末とかに見てキューに溜まっていたやつが膨れあがってどうしようもない。 書かなきゃいけないルールなんてもちろんないのだが、せっかく見たのだから感想を少しでも書いておいたほうが、と思うので、ちょっとずつでも書いていきま。

もうひと月以上昔、10月11日の11時、新宿のラテンビート映画祭で見ました。
『アジェンデ』 英語題は、”Beyond My Grandfather Allende”。

73年、ピノチェトによるクーデターで崩壊したアジェンダ政権、それと共に亡くなったサルバドール・アジェンダ大統領の孫娘がクーデター後にばらばらになった家族の軌跡を追ってファミリーアルバム(映画)を作ろうとする。 彼女(監督)には祖父の記憶が殆どなくて、でも家族ひとりひとりになんらかの記憶は残っているはずで、でも誰も当時のことを語りたがらないようだった。

撮影開始時、祖母のテンチャは90歳を超えてまだ存命していて、監督はなんとか彼女からの証言を引き出そうと突っこんでいくが、肝心なところにいくと「疲れた」とかわされてしまう。
他方で母や伯母からは写真を含めて当時のいろんなことが箪笥の奥から出てきて、クーデター後、離散した家族 - キューバに亡命した後で自死した伯母のこととか、あたりまえのことではあるが、政変は国だけでなくひとつの家族をぶっ壊してしまったのだなあ、と思うし、それでもこんな形で繋ぎあわされることもあるのだなあ、とも思った。

あと、(特に祖母からは)言葉として殆ど表に出てこなかったが故にその重さ辛さは条理を超えたものだったのだろうな、と。 誰もが偉大だった大統領のことを知っている、アジェンデは偉大だったという、でも彼は夫で、父で、祖父で、チチョと呼ばれて家族の中心にいたひとでもあったのだ、それがあんな形で突然引き離され、自殺か他殺かの確認も遺体の確認も出来なくなってしまう。それは家族ひとりひとりにとって、彼らの40年という時間のなかで、どういう位置を占めていたのか、フィルムはそれを丹念に拾いあげていく。 わたしにはそれしかできないんだ、という無念さも。

これが上映された週、山形のほうでは丁度『チリの戦い』三部作をやっていて、合わせて見ればもっといろいろなことが見えてきた、のかもしれない。 見たかった。
90年代、サンチャゴに仕事で何回か行ったことがあって、そのとき通っていたオフィスはクーデターのあった宮殿を見下ろせる場所にあって、あれがクーデターのときの、とか聞いたのだったが当時はあんま知らなくて関心もなくて、もったいなかったなあ。


パリの事件、本当に残念で悲しい。
金曜日、アンスティチュ・フランセのフレンチタッチ・コメディで楽しんだばかりだったのに。

11.12.2015

[log] NYそのた2 - November 2015

NY、食べもののほう。

体調がぜんぜん優れなくて、そうなるとひとは冒険を避けてお決まりの定番に向かうようになる気がして、今回のはまさにそれだった。

いか、食べた順で。

Porsena
着いた日の晩にそのまま歩いて行った。エスカロールサラダとパスタ(アサリ)とポークと、パルミジャーノの塊。
相変わらず、ほんとふつうにおいしいねえ、と思ったら丁度Village Voiceにこんな記事が。

http://www.villagevoice.com/restaurants/five-years-in-porsena-remains-a-palace-for-pasta-7885133

Sara Jenkinsさんのレシピ本、悩ましいなー。 再現できない壁がでっかい気がして。

Big Gay Ice Cream
Porsenaのレモンオリーブオイルケーキ(これもおいしいんだよ)をあきらめて、こっちの方に向かう。
歩く途中、ガス爆発で1ブロックまるごと無くなってしまった一画に合掌。
ここにPommes Fritesていうおいしい芋屋があったのに -  でもさっきWeb見たら2016年に再開するらしい - よかった..

Big Gay、店舗ができてから行ったのは初めて。 ここのSalty Pimpをずっと舐めたくてよう。(やーんー)

Dough
ドーナツを半ダース会社の朝ごはんにみんな用に買っていく。(という言い訳)
 Doughnut Plantよかもっちりみっしり詰まってて、「ドウ」ってかんじ。 お腹はとってもふくれる。

The Clam
http://theclamnyc.com/

“Heart of a Dog”を見たあとに、初めて行った。 アサリと地産の野菜のお店。
ハマグリみたいにでっかいアサリが殻ごとごろんと入ったClam Chowderがおいし。
Thanksgivingのコースもすてきだねえ。

土曜の午前はよいお天気で、Green Marketを流して、秋の枯草とかかぼちゃにしんみりした。
いろんなジャガイモ種別の自家製ポテトチップがあって、つまんでみたが、あんま違いが..

Beecher's Handmade Cheese
シアトルの空港内にもあったチーズ屋のNY店が、ABC Carpetの並びにできていた。
土曜日の朝で激しく調子わるかったのだが、Grilled Cheese Sandwichがどうしても食べたくなったので店内でたべた。
2種類の自家製チーズとライ麦ブレッドのミックスが破格。ずっと口のなかで転がしていたい。

ハロウィンの晩は近所のWhole Foodsでヨーグルト買ってたべた。それくらいひどい具合だったの。

Locanda Verde
ここも久々に、日曜の朝のブランチ。 
Uova Modeneseていうのがおいしくてさあ。粗挽きの豚にポーチドエッグをまぶしてオーブンでこんがり、なんだけど。 あと、秋のサラダって、割とどこもおんなじかんじだねえ、とか。 
入口のかぼちゃ中心のお飾りがうつくし。

Gansevoort Market
Whitneyの近所にできていた、古い建物を再利用したフードコート、みたいなとこ。
ピザとかクレープとかセヴィーチェとか屋台フードみたいのがびっしり並んでいるのだが、なんかあんま来なかったのはなんでか。
天井の高さとかスペースの使い方かなあ。 割と近所にChelsea Marketもあるし、難しいかも。
とか思いつつ、ジェラートたべた。

このあとでThe High Lineに行って秋の草花に浸ってしんみりした。
秋のCentral Parkとは違う良さがあるの。設計と造園したひと、ほんとえらい。

Blue Hill

"Suffragette"を見たあと、夜の10時から。
前回はPruneで、今回はBlue Hill。 どまんなか。
ここって、NYの郊外にStone Barnsていう食材供給ベースと実験ラボが出来てからどんどん進化しているのね。
進化っていうのは、おいしいのであればカブをそのまま出すことだって平気だし、ものすごく手の込んだ複雑なやつでも平気だし、でもやっぱし柱は素材で、ラディッシュ、とか、カモ、とか、マメ、とか、タマゴ、とか、ミルク、とかスカッシュ898(そういう野菜)、とか、キクイモ(Jerusalem Artichoke)とか、異様に繊細なチリソースとツナ、とか、プラム、とか、どれもこれもびっくりしてばかりでおてあげなの。 何回でも来たい。

いつかStone Barnsにも行って、questloveさんがやった46品コースに臨んでみたい。

まだぜったいなんかあったはずなのだが、でてこないー。

[log] NYそのた1 - November 2015

NYで買った本とかレコードとかざんねんだったのとか。

でも今回はあんましなかったんだよう。
Union Squareを中心に本屋レコ屋をまわっては戻り、を繰り返すしかなくて、一箇所で深く潜って掘って、みたいなのができなかったので、残念としか言いようがなかった。

あとね、2週間前にでっかい本ふたつを含む収穫ブツを持ち帰って部屋にでん、と置いた(積んだ、とは書きたくない)とき、奥のほうでなんか床がみし、とか言った気がして、本は積むためのものではありません読むためのものですいったいいつになったらあなたは、とか聞こえた気がして、そもそもここは部屋なのか倉庫なのかどっちなんだ床はいったいどこにあるんだ、とか目が彷徨った気がして、いろいろ幻覚幻聴疑惑も含めて考えてしまったりもしたのでー。だからー

Other Musicに行って、Generation Recordsに行って、Barnes & Nobleに行って、Rizzoliに行って、Strandに行って、Academy Recordsに行って、Mast Booksに行って、St. Mark's Bookshopに行って、McNally Jacksonに行って(だいたいこの順番で、何回かに分けてぜんぶ歩く)、でもあんまし買わなかったのよ。 地下鉄でBrooklynまで出ると腰も据わって攻めのモードになるのだが、なんか近所でおつかい、みたいなかんじになってしまうのだった。

だから本はMast Booksで買った64年のスイスの古雑誌とか、サイン本ふたつ - Carrie Brownsteinさんのメモワール(なんか、とっても..)と、Jesse Eisenbergさんの短編&コント集 (?) "Bream Gives Me Hiccups & other stories” その程度。 Jesseさんの表題作 - 9歳の男の子によるレストラン・レビュー - がおもしろくてさー。

Mast Booksのガラスケースに入っている古本はとんでもない高額なやつらであることがわかった。
 
雑誌で異様に重くて、でも表紙がMiss Piggyだったからつい買ってしまったのがこれ。

http://oddamagazine.com/

St. Mark'sでは地味にハロウィンをやってて、パパに連れられた子供がハロウィーン!とか入っていくと、レジの女性がめんどくさそうに持ってけ、て入口にお菓子入れを指さしたりしてて、微笑ましかった。

レコードはアナログで、Joanna Newsomさんの新譜と、オムニバスで
“[cease & desist] DIY! Cult classics from the Post-Punk era (1978-1982)” 、ていうやつ。
これ、半分くらい知らない人たちなのだが、どいつもこいつも音はへっぽこ、スカスカのカスカスで、なんかたまんない。
80年代後半以降に絶滅してしまった音だよねー、ておもった。

あとは、Third ManからでたCourtney Barnettさん(ううう...)の7inchとか。
あと、Numeroから出ているOak Recordsのアンソロジー箱(Num060)をどうするか、延々悩んで、今回はやめた。

やっぱりレコードは対岸に渡らないとなー。

他に映画は、11/4の"Brooklyn"にぎりぎり間に合わなかったのがかなしかった。 週末だけ先行でやってくれないかしら、と祈っていたのだが、ほんとざんねん。 
あと同じく4日からBAMでの"OUT 1"上映。
ハロウィンの晩、BAMではTod Browningの"The Unknown" (1927)  - サイレントをやってて、でも夕方に立ち上がれなくてあきらめた。(で、”Crimson Peak”に行った)

そしてMOMAでは毎年の”To Save and Project: The 13th MoMA International Festival of Film Preservation”が始まっている。 見たいのばかりだけど、やはりChantal Akermanの2本 - ”Jeanne Dielman, 23, quai du Commerce, 1080 Bruxelles” と”Je tu il elle (I, You, He, She)” を見たいよう。


そうそう、ハロウィンの夕方、ぱたぱた歩いているとき、走っている車にぶつかったの。
青信号で横断歩道渡っていたら左折したのがこっちに突っこんできて、転倒しなかったけどよろけてフロントにぐんにゃりして、周りが騒がしくなったけどめんどうだし急いでいた(ほんとに時間ないんだってば)ので、そのまま逃げるように立ち去ってしまった。
こんどからあの場所は「現場」と呼ぶことにする。

11.10.2015

[film] Suffragette (2015)

1日の晩、HoustonのLandmark Sunshineで見ました。ここもとっても大好きなシアター。
タイトルとポスターだけ見て、例えば"Pride"のようなみんなで困難乗り越える系の、威勢のよいかんじの、エンディングにはBowieの"Suffragette City"でも流れて、みたいなのを想像していたらぜんぜん違った。 どシリアスで、重い。 よい意味で。

1910年代、ランドリー工場に勤めるMaud (Carey Mulligan)は夫と息子と質素に暮らしていて、でも仕事はきつくてやってられないことばかりで、婦人参政権運動(Suffragette)に参加している職場の同僚になんとなくついていってデモに参加して以来、仲間と一緒に運動するようになり、そのうちしょっぴかれて警察に目をつけられて、それが重なるうちに夫からも職場からも疎まれるようになり、家にもいられなくなって最愛の息子も養子に出され、教会で寝泊りするようになり、並行してデモに対する弾圧も厳しさを増していって、進むことも戻ることもできなくて、という悲惨な状態が延々描かれる。

最近のネットや雑誌で語られるフェミニズムのパワーやポジティビティなんてこの映画の上には微塵も欠片もなく、あらゆる抗議も要望も懇願も端から男性(権力者)の手で容赦なく叩き潰されていくばかりで、最後の最後には英国王に直訴するしかない、という絶望的なところ - それは本当に絶望的なイチかバチかの賭け - まで追い詰められていく、そのリアルなどん詰まり感ときたら胃と頭がいっぺんに痛くなる。 ここまで激しくてきつくて、それでも彼女たちは立ちあがらないわけにはいかなかった。

今や誰もがしごくあったりまえと思っている女性の選挙権、参政権ですら自らの手にするまでにこれほどまでの血と涙が流されて犠牲が払われたのだ、ということを改めて認識して周囲を見回してみること。 SEALDsのデモを見て、民主主義なんてあたりまえじゃん、きまっているじゃん、とかネットで(高みから)冷笑しているような人たちにこそ見てほしい。 おかしいことはおかしくて、それは声をあげなければ、あげ続けなければ変わらないようなことが殆どなのだ、と。 女性蔑視にしても人種問題にしても最近の難民問題にしても、まだぜんぜん途上の、継続しているテーマ(問題)なんだ、てエンドロールのところでわかると思う。 

(エンドロールで女性に選挙権が与えられた年と国の名前がリストで列挙されていくのだが、そこになぜか日本の名前はない -  まだないと思われていたりして)

最後に残るのは希望というより祈りに近くて、それを受けとめる我々はその祈りは叶えられなければいけないものだ、と強く思う。
それだけでいいの。 あとは日本でちゃんと公開してほしい。 頼むからくだんない邦題なしで。

あと、権力者側 - この映画だと警察とか - は、なにが正しいとかではなくて、国の方針に逆らうのは基本全自動で相手を敵、脅威とみなして、それをバネにして行動=弾圧するのだ、というのは改めて思った。 彼らにはどんな希望も期待も抱いたところでしょうがないのだ、と。 リマインダーとして。

女優陣は誰もみんな真剣で命懸けで演じているようですばらしい。 叩きのめされてしおしおになって、でもぜったいめげないCarey Mulliganさんも、びっくりするほど繊細な演技をみせるHelena Bonham Carterさんも。 Meryl Streepだけ、いつもどおりの威風堂々なにか文句ある? だったけど。

音楽はAlexandre Desplatさん。 相変わらず見事な繊細さ。


こういうの見ると「一億総活躍」なんてほんとおめでたいバカの戯言でしかないとおもうわ。

[art] Jim Shaw: The End is Here

1日、新しくなったWhitneyを見て、その近辺を散策したあと、そうだICP (International Center of Photography)に行こう、とこないだ来たときに新しいとこの広告をみたBoweryの場所に行ってみた、ら再オープンは2016年春だった …  なんでそんな勘違いをしたのか腹立たしくて思いだしたくもないのだが、とにかく気を取り直して通りの反対側のNew Museumに駆けこむ。 どうせ見るつもりだったし。 地下鉄にも広告出てたし。

Destroy All MonstersのメンバーだったJim Shawの展示。

http://www.newmuseum.org/exhibitions/view/jim-shaw-the-end-is-here

2階、3階、4階のフロアをぜんぶ使って初期のドローイングからばかでかいインスタレーションから彫刻から、ありとあらゆる”The End” - 終末の絨毯爆撃、もう終ってるんだよ、いいかげんわかれ(→ アメリカ)、をやってる。

2014年のはじめにMOMAのPS1で見たMike KelleyのRetrospectiveの記憶と重ねてみると荒廃、荒れ野、悪趣味、危険物、廃棄物なかんじは最強最悪に増幅されて、Mike Kelleyがデトロイトの子供時代を積み上げていたのと同じようにミシガン郊外からカリフォルニアにかけての煤けた子供時代の記憶を、おもちゃやTVやコミックや図鑑、などなどを箪笥の引き出しから引っぱり出してずらずら並べていく。

平面作品が多いせいか、Mike Kelleyほどとっちらかっていなくて、端正でみっしりびっちり詰め込んであるかんじ、そのぶんたちが悪くてどす黒い邪念がたんまり籠っているふう。とにかくいくら見てても飽きないの。 ほんとバカみたいにおかしい。

怪獣どもをぜーんぶぶっつぶすには、これだけの怪獣どもが必要だったということよ。

ここのルーフトップにも久々にあがってみた。
前回来たときにはまだ視界に新しいWorld Trade Centerはなかったのにねえ。

帰り、カタログは買わなかったけど、Destroy All Monstersのアナログ - 75年頃の録音の - があったので買った。 Printer Matterから2009年に出たやつ。 
さっき聴いてみたらすんげー退屈でたまんなかった。

11.09.2015

[art] Whitney Museum of American Art

1日の日曜日の午前、やっぱし行っておかないわけにはいかんじゃろ、ということで行きました。
わたしはそもそも前のMadison Aveにあった旧館の、ただの白い箱、みたいな佇まいが大好きで、特にあのやたらでっかくてゆっくり機械みたいに(機械だけど)動くエレベーターを愛していたので、今回のリニューアルはあんまし賛成でもなかった。  交通の便よくないし、High Lineは木とかお花を眺めて愛でる場所でいいじゃないか、と。 でも行くけど。

列が長くて入れない、ということはなくてすんなり入れて、そのまま8Fまで昇ってそこから下りていく。Renzo Piano設計の建物は、いつものように透明すぎてあんまいうとこはないの。
以下、だいたい見た順くらいで。

Archibald Motley: Jazz Age Modernist
祖父は奴隷で、New Orleansで生まれてChicagoに移ったArchibald John Motley Jr. (1891–1981) のRetrospective。 アメリカの都市、特に20年代のハーレムやAfrican Americanカルチャーの黎明期を描いた最初のほうの画家。名前は知らなくても絵を見たことがある人 - 見たことある気がする人(相当いろんなところでそのスタイルは模倣されている) - は多いはず。

館内の解説では同様に近代アメリカの風景を描いた画家としてEdward Hopper, Thomas Hart Benton, Reginald Marshといった名前が挙げられていたが、彼らよかきちんと紹介されたことはなかった気がする。

滲んだ輪郭でゆったりと舞うような仕草、動作をするみっしりした人たち、「群像」として括られがちな、でもある存在感を示す肖像たち。
女性のヌードになった途端にとっても艶かしく艶っぽくなる偏向ぶりがとっても素敵。
あと、遺作となった“The First One Hundred Years” (1972)のイメージの強さ、豊かさの見事なこと。

Frank Stella: A Retrospective
別枠でちゃんと書いたほうがよいかもで、まだいろいろ考えていたりもするのだが、少しだけ。
いろんな人たちやメディアが賛否も含め既に書き始めていて、それぞれおもしろいねえ。
5階のでっかいスペースと屋外のバルコニーまで使って最近のでっかいのも含め容赦なくがんがん置いてある。
50年代中頃の地味なミニマルの断線とか断層とか突端とかがだんだん膨らんでいって80年代、色彩と共に大爆発してヴィヴィッドで曲線だらけの強烈なオブジェ群へと華やかに変貌した、そういった彼の突然の変化に関する論考を80年代の美術手帖とかで散々読んだ記憶があるが、もうなんも残っていないや。

最近の作品はでっかいのばかり、それだけで場所を取ってしまい初期からの変遷をこまこま追うかんじにはなれないのだが、ものすごい断絶や飛躍は想像していたほどには感じられなくて、むしろその表象を辿っていくと、なんかよりシンプルでわかりやすい方向に向かっているのかも、ていう気がしたくらい - それは近年のオブジェの節操を欠いた肥大化のように見えなくもなくて、評に賛否の否が出ているとしたらそっちのほうかも。

テーマとしてどう、というのはあるのだろうが、彼の50-60年代の平面の抽象は色彩もエッジもまずかっこよかったんだよね。 あのままでよかったのにさー、ていうのは簡単なのだろうが。

The Whitney’s Collection
7階で収蔵品からの抜粋を。 この辺がいちばんおもしろかったりもするの。
近代美術を扱うと言っても、MOMAのグローバル指向と比べてWhitneyは米国Localで、とっても勉強になって、ここで教わったアーティストも随分いたし。
新装開店再お披露目ということで御馴染みのWillem de Kooning, Edward Hopper, George Bellows, Charles Demuth, Arshile Gorky, Gerald Murphy(見たことないやつだった), Charles Burchfieldとか、あとは古いフィルムや記録映像を延々上映している部屋があって、Maya Derenとかも。

当然のようにどれもこれもてんでばらばらなんだが、そこがなんともいえず心地よい。 心地よいって変だけど。

あと、ルーフトップも高さがちょうどよくて気持ちよい(お天気次第だろうけど)。 自由の女神も割と近くに見えるし。 Orson Welles(ああ特集ぜんぜん行けなかったよう)の”Too Much Johnson” (1938)で、Joseph Cottenが屋上をぴょんぴょん飛び回っていたビルはあの辺かしら? とか。

エレベーターはいっこ搬送用と思われるでっかいやつがあって、それが少しだけ旧館の面影を。内側に少し装飾があって変な色気だしてたのがすこし残念なことでした。

1FのMuseum Shopのほぼなーんもないそっけなさは前と変わらず。

11.07.2015

[film] Crimson Peak (2015)

31日の土曜日、ハロウィンの晩にホテルの裏のシネコンでみました。
既に書きましたが、この日は仕事でホテルに軟禁状態で、メールしたり電話したり、その合間にちょこまか外に出て、を繰り返し、やがてそれに疲れてうたた寝とかして、暗くなった頃に起きあがり、McNally Jacksonのハロウィンはどんなかしら、と見にいって(割とふつうだった)、そのあとで、ハロウィンだし、ひとつおっかない映画でも見てみようか、と思ったの。

ほんとに怖そうなのはLincoln Centerで毎年やっている特集”Scary Movies 9”でかかっていた奴らで、予告とかスチール見ただけて窒息しそうなくらい怖そうで、でもシネコンでやっているようなやつなら、ハロウィンでもあることだし、みんなわーわー楽しく見れるかも(希望)、とか思ったの。
で、20:00の回はほぼ満員になってた。

前日の”Heart of a Dog”とおなじ、Ghost Storyなの。

19世紀末、お金持ちのお嬢さんのEdith (Mia Wasikowska)は小さい頃から母の亡霊みたいのを見ていて、大きくなってからは夢見がちの小説家志望のお嬢さんになって、そんな彼女のおうちに採掘技術への投資を募って英国からLucille (Jessica Chastain)とThomas (Tom Hiddleston)の姉弟がやってくる。 ThomasはEdithに近づいて、Edithは彼のミステリアスな雰囲気にちょっとぽーっとなったりするのだが、投資話のほうはなんか怪しげなふたりだし、過去を探ってみたらいんちきぽかったので父はお断りするの。 そしたら父は洗面所で何者かに頭を潰されて殺されて、そういう混乱のなかEdithはThomasと結婚して、彼の英国の人里離れたお屋敷にやってくるの。

ここから先はもういいよね。エントランスの天井にでっかい穴の開いたお化け屋敷とか亡霊とか怨念とか暴かれた過去とかあいつら姉弟なのかとかうじゃうじゃ出るわ湧くわのオンパレードで、もちろんEdithは入り口をくぐった途端こんなのやだ出ていきたい、になるのだがそう簡単に抜けられるわきゃがないの。

古いお屋敷の地下のからくりどんがらとか蝋管の蓄音機とかぼろぼろの心霊写真とか、そのへんはGuillermo del Toroの趣味とセンス全開で、わたしは彼のそのへんの嗜好はまるごと信頼しているのである意味、へんな意味、心地よく(ほうらやっぱし、とか)浸ることができた。

たぶん、ガチのホラー映画マニアの方々から見たら - “Pacific Rim”がガチの怪獣映画マニアから見れば甘々だったのと同じように - もっともっとぶっ刺せ食いこめえぐりだせ、なのかもしれない。けど、Mia WasikowskaとJessica ChastainとTom Hiddleston、この3人が三つ巴のどろどろをやる、それだけでなんもいうことない。 こいつらが不機嫌な顔して互いに睨みあっているだけでじゅうぶん不穏でこわい。 

Mia Wasikowskaなんてはなから新婚花嫁の顔してないし(まるで”Stoker”の..)、Tom Hiddlestonは”Only Lovers Left Alive”以上に冷血な変態だし、そしてそして包丁もってどこまでも追っかけてくるJessica Chastainときたら泣いて穴に籠りたくなるくらいおっかないんだよう。
元々のキャストはBenedict CumberbatchとEmma Stoneだったらしいが、こっちでもなんの問題ないわ。

色のかんじ、特にクリムゾンの赤味がとてもよいの。 血はとっても苦手だけど。

客席は当然のようにきゃーきゃー盛りあがって楽しかった。
そのままパレードに流れたらこわいもんなしだっただろうなー。 Union Squareの人混みは夜通し延々だったの。

11.06.2015

[film] Heart of a Dog (2015)

30日の金曜日の晩、Film Forumで見ました。 Film Forumで見ました。 Film Forumで.. (わーんうれしー)
ロビーに入った途端、あのポップコーンの匂いに囲まれて泣きたくなる。映画を見る場所としては世界で5本指に入るくらい真剣に好きで、映画を見ながら死んでいい、て言われたらここのキャロットケーキとポップコーンを食べながら死にたい。
それにしてもここのポップコーンの香りはなんであんなに素敵なのか謎。 ここのと比べたら日本のシネコンのはケミカルの匂いしかしない。

さて、Laurie Andersonさんの映画、というよりフィルムコラージュのようなパラパラアニメのようなサウンドコラージュのような映像詩というかなんというか。
彼女独特の柔らかな親密な語りと共にいろんな映像、いろんな音楽、いろんなテキストの引用、それらの断片が繋げられていく。

最初に2001年の911の、突然沢山の人々が街から消えてしまった日のPenn Station(おそらく)の映像、長年連れ添って亡くなったラットテリアのLolabelleの話になって、晩年目が見えなくなったけど演奏する犬として活躍した姿を愛おしそうに語っていくあたりで、これは死についての、向こう側に行ってしまった親しい人とか犬とかへの/或は自分自身への問いかけなのだな、とわかる。 他にはGordon Matta-Clark(家の半切りアート)の死とか、自分の幼年期にプールの飛び込み台から落ちて死にそうになったときの回想とか。 生と死との境界を巡るいろんな考察とか思いとか。

いなくなってしまった人たちを嘆き悲むようなトーンではなく、淡々と彼らはどこに行ってしまったんだろうね? ていうトーンで、例えばチベットの死者の書ではBardo(中陰)ていう中間地帯に49日留まるって言ってる、とか、Goyaの"The Dog" - だいすき - に描かれた犬は何を見つめているんだろう、とか、誰それはあんなことを、とか、誰の場合はこんなふう、とか、とりとめもなく、なにかの隙間や沈黙を埋めるかのようにどこかに向かって掘り進んでいくような。 

どんなに叫んでも喚いても死の世界、向こう側のことはわからない、知りえない、それが故に、だったら、ひょっとしたら、いやいやでも、みたいに彷徨いを止めない思考。 彼らも向こう側ではそんなふうにしているかもしれない、とか。

引用されるDavid Foster Wallaceの“Every Love Story is a Ghost Story”。
“Every Ghost Story is a Love Story” .. ではなく “Every Love Story is a Ghost Story” という転倒。

とりとめのない独り語りのようでいて、彼女はかつてマルチメディア・アーティストと呼ばれた自身の技術(アート)を駆使して向こう側のひとにコンタクトを、或いは、向こう側のひとを通してぽつんとある自分自身にコンタクトを試みようとしている、かに見える。 そこに甘さや感傷は一切なくて、まずはアートとしてこちらの胸をうつ。 

なんで胸をうつのかというと、彼女は最後まで繰り返し繰り返しひとつのことしか言っていないから。
もういっかい会いたいよう、どうしたら会えるんだろうか、と。  アートってそういうもの。

そして、やはり最後に、Lou Reedの“Turning Time Around”が流れるなか、Lolabelleと幸せそうに微笑んで横になっている彼の写真が大写しになる。 この映画は彼に捧げられていて、彼へのラブレターで、すべてわかっていたとはいえ言葉を失う。

いっぱいだった客席からは当然のように拍手が、控えめだけどごくごく自然に。

[log] November 3 2015

戻っています。毎日ものすごくねむい。
行きと帰りの飛行機で見た映画とか。

米国行きの飛行機、夕方発のJALは787だった。
ちょっと前までは、わーい787だ!(うれしいな) だったのがそんなでもなくなっているのがちょっと不思議だった。
スマートでかっこいい、から、安くてコンビニエント、なふうにイメージが変わってしまったのはなんでかしらん。

2週間前に飛んだときと食事メニューはまったくおなじ、映画のメニューもまったくおなじ。
じゃあ前と違うのを食べてみよう、にはならないし、映画も、じゃあたまには邦画でも見てみるか、にはならない。
関係ないけど。前の方の席のおじさんはずっと寝ないでMission Impossibleのシリーズを見続けていた。 きっと大変なミッションを抱えているにちがいない、とか思った。

映画、殆どのは見ていたので、もう一回、"Me and Earl and the Dying Girl"を見始めて、そしたらやっぱりきつくなってきたので離脱して、旧作で未見だった、Nick CassavetesとCameron Diazの"My Sister's Keeper" (2009)ていうのにしてみたら、これが"Me and Earl.."に輪をかけたガチの難病モノでしぬかとおもった。 具合悪い状態でああいうの見るべきじゃないねえ。 

白血病になってしまった姉のドナーとなるべく生まれてきた妹(Abigail Breslin)が、あたしドナーになるのは嫌だ、と自分の親を訴える。 母親(Cameron Diaz)はなにバカなこと言ってるのよ、て裁判になるのだが、そうしているうちに姉の病状は悪化していくの。 なんで妹はそういう行動にでたのか、家族の回想と共にひとりひとりの想いが綴られて、やがて。
とにかくアメリカ人(て一般化すべきではないのかも、だけど)の痛覚 - 痛みを痛みとして感じるその回路 - ってなんかおかしいよね。 痛みなんてたんなる感覚/電気信号としか思っていない、だからあんな体になっちゃうのか、あんな体だから痛みなんて、になっちゃうのか。
裁判官Joan Cusackがすばらしくよかった。

で、リカバリ、というかリハビリ、というかのために、"Aloha"を再訪する。 3回目くらい。
これ、やっぱりすごい傑作だと思った。 一回見ただけだととっちらかった与太話、に見えてしまうかもしれないけど、なんというか、ぶっとい芯がいっぽん通っているの。 ハワイとか理想郷とか、言ってしまうのは簡単だけど、それだけじゃないの。

犬(or コヨーテ)二匹に猫一匹の映画。 Emma StoneがBradley Cooperの部屋にベランダを超えてひょい、って入ってくるとことか、たまんないよね。

帰りの便は、11月になっていたのでいくつか見ていないのが入っていた。

Pixels (2015)
見なきゃ、と思いつつ見れていなかったので、とりあえずうれしい。
82年のアーケードゲームチャンピオンとその仲間は、現代にはナード電器屋(Adam Sandler)だったり大統領(Kevin James)だったり童貞(Josh Gad)だったり囚人(Peter Dinklage)だったりするのだが、宇宙から当時のゲームをそのまま模した攻撃を受けて、地球を守るために彼らが立ち上がる、という。
同じようなのを何度も見た気がする、結果も簡単に見えてしまうバカ映画なのだが、Adam SandlerとKevin Jamesがセンターにいるだけで、そりゃやっちゃうでしょとうぜん、ていう説得力のレベルがぜんぜんちがう。

かつての天才児の行く末と未来社会、ていうテーマを扱う"Tomorrowland"とかにもこの軽さがあったらなあ、とか。
あと、よりバカなほうに振れた"Space Cowboys” (2000)とも言えるかも。

一点だけいうと、アメリカとは事情が違うかもだけど、当時ゲームができる子って、お金持ちだったんだよ。
それなりにゲームにお金つぎ込むことができないと上手くはなれなくて、それがわかった時点でゲームはとっとと諦めて、レコードとか本とかに走ったんだよ。  あそこでゲームの道を選んでいればなあ、ゲームがなくなったところですんなり大人になれたのに、レコードとか本とか未だに漁りつづけるかわいそうな大人になってしまったのは、この辺の選択を誤ったからかなあ、とかしんみりした。

Cheap Trickの"Surrender"が気持ちよくがんがん流れてご機嫌なのだが、これ82年じゃないよね。
あと、ここに出てくるアーケードゲームをやりたくなったらアストリアのMuseum of Moving Imageに行くと遊べるよ。

She's Funny That Way (2014)
もうじき公開されることは知っていたが、我慢できなかった。
もう、めちゃくちゃおもしろいったら。
演出家のArnold (Owen Wilson)がNYのホテルでコールガールのIsabella (Imogen Poots)を呼んだら彼女がとってもおもしろくて楽しい時間を過ごすことができたのでお礼に3万ドルあげよう、て言って彼女はそれを元手に夢だった女優になろうと思ってオーディションに来たらそれがArnoldの演出する舞台で、そこには彼の妻Delta (Kathryn Hahn)も女優としているので気まずくなるのだがIsabellaの評判はすばらしくよくて、脚本家のJoshua (Will Forte)も夢中になって、でも彼女を追っかけているのは彼らだけじゃなくて、その周囲でDeltaとかJoshuaの妻Jane (Jennifer Aniston)は目をひんむいて叫びまくり、いろんな関係の糸が顕わになって広がるにつれて、ビンタしたりぶんなぐったり、でもみんなぜんぜんめげずに懲りずに愛を求めて駆けずりまわる、ていう艶笑喜劇なの。

誰もがWoody Allenみたい、て思うかもしれないが、萎れてないし、ダイナミックだし、笑えるし、楽しいよ。
Alllenのエロは、視線のそれに集約される気がして、そこがたまんないひともいるんだろうけど、この無尽に跳ねまわるリズムを知ってしまうと、だんぜんこっちだなあ、とか。
最後にぜんぶばらしちゃう(ふとっぱら)んだけど、ルビッチなんだよね。しかも"Cluny Brown” (1946) 。
女の子を育てる/育てたい、ていうおやじのやらしい欲望を軽くビンタでけちらす痛快な女(共)のおはなし。

Executive ProducerにWes AndersonとNoah Baumbachていうのもたまんない。
どっちもどたばたしないじたばた劇の名手だよねえ。

あとは寝起きのぼうっとしたあたまで”Ant-Man”をふたたび。
なんでアリなんじゃろ? てずっと思っていたの。

11.02.2015

[log] November 2 2015

ひーこら言いつつなんとか帰りのJFKまで来ました。

土曜日の晩はハロウィンで、日曜日の朝はNYマラソンで、土曜の晩に夏時間が終って、MetsのWorld Seriesも終って(まああんなもんよね、とみんな冷静)、例年より温暖だけど気がつけば暦は11月になっている。 ニューヨーカーにとってはばたばた楽しく大変な週末だったみたいだが、出張者にとっては不機嫌で不条理であちこち具合わるくてあんまし盛りあがらなくて、そのギャップに悶え苦しんでばかり、結果ぐんにゃり、みたいな正味3日間だった。
どんなふうであれ、あっというまはあっというま。

風邪が治りかけだか慢性のなんか(仕事いやいやみたいな?)だかわかんないのだが、とにかく体調があんまよろしくなくて、微熱で半分ぼーっとしてて、夕方頃は電池切れで横にならざるを得ないかんじだったの。 仕事も仕事で、缶詰/監禁状態とまではいかないにしても、メールや電話でやりあっては小休止、みたいな軟禁状態がえんえん続いて、だからBrooklynに出るとか、長時間ホテルの部屋から離れることはできなくて、外に出ては戻り仮眠して仕事して外に出て、ていうのを繰り返していた。 べつにじっとしてりゃいいじゃん、てふつうの人なら言うな。

そういうかわいそうな状態だったので、映画は3本、美術館ふたつ、この程度だった。
到達した北限は28th stくらい。 ホテルのすぐ裏にシネコン(Regal)があって、書店(Strand)があって、Lower Eastまで歩いていける、ていうのは大きかった。 ホテルを中心に衛星のように歩きまわってそのたびになんか怪しげな袋をさげて戻ってくる、ただの変な客。

あと、天気が穏やかで気持ちよかったのは救いだった。この時期は極端に冷え込むことが多いのだがコートなしで歩くことができて、一番よいかんじのNYの秋 - 食べものも含めて - だったの。
であればこそー、体調が万全でたっぷり1週間くらいあったらなー、ていうのは別にいつも思うこと。 めそめそしないの。

またこよっと。

* Jerusalem artichokeがキクイモのことだと知って、ちょっと動揺している。

ではまた。