2.28.2014

[log] February 27 2014

とりあえず、SFの帰りの空港まできました。 ねむい。

行きの飛行機では映画いっぽんも見ないで、ずうっと寝てた。 深夜便て、なんかもったいない。

月曜日の夕方に着いたときは21℃で暑くて、火曜日は曇で少し肌寒くて、水曜日はずっと降ったり止んだりびじょびじょで、木曜日はだんだんに晴れてきたかんじ。
フルで過ごしたのは2日間、3泊だけ、ていうのはやっぱし短すぎるねえ。

お仕事もおもしろかったりつまんなかったりと寒暖の差が激しく、だんだんどうでもよくなって最後はてきとーに流したりさぼったりになってしまった。 唯一、ほんとうにほんとうにくやしかったのは"Lucy in the Sky with Diamonds"を歌う生William Shatnerを見逃したことだ。

バス電車を調べている時間がないので移動はタクシーばっかし、夜は埋まってしまいそうだったのでBreakfastを中心に攻め続け、なんでかクロワッサン食べ比べみたいのが始まったのだったが、あんまし盛りあがることはなかった。 なんでSFでクロワッサンが。

見ることができた映画はぎりぎりで3本。 どれもすべりこみで。

新しくなったJimmy Fallonはどの日も途中からしか見れなかったが、火曜日のPaul Ruddの口パク合戦 - Tina TurnerとQueenの - にあぜんとして(やっぱこのひと天才だわ)、水曜日のAdam SandlerとDrew Barrymoreの歌にじーんとした。 その後番組を担ったSeth Meyersは、まだこれからかなー。Fred Armisenのハウスバンドはばりばりでっかい音が出ていてよかった。

と、こんな程度しか話題がないのよね。
では戻ります。

2.24.2014

[log] February 24 2014

こないだの土日は映画いっぽん見ただけで、土曜日の夜中からずうっとおこもり仕事で、朝までくらいは覚悟していたのだが昼過ぎまでぶっとおしでけつたたかれて久々にしにそうになって、今朝も早くから仕事でばたばたで夕方におうち戻って荷物つくってタクシーとバスと乗り継いで羽田にきて、これから深夜便でSan Franciscoに飛ぶの。

つまりは。  NINがあ… (大泣)
28日の22時すぎ、みんながじんわり浸ったり放心したり耳鳴りしたりしている頃に羽田に着地する。よてい。
ちくしょうー

ここんとこずっとそうだけど、とにかく気を失いそうなくらい慌ただしくて、しかも自分ではどうすることもできないようなやつでお手上げで、で、いっぱいいっぱいになるとどうするかというと、例えばこんなふうに海の向こうに逃げる。 それくらいかんべんして。

今回の旅のミッションはできるだけお行儀よくにこにこ愛想よくいろんなひとと握手してお話してふんふん話しを聞いてくるように、ということで、いちばん苦手で嫌いでできなくて、どうしようもねえ。 ケーブルカーに乗って気がついたらふっと消えて坂を転がりおちて向かいのケーブルカーへ、みたいな逃走劇をじゅんび中。 
でも、ほんの、たったの3泊でなにができるというのかー。

SFはずいぶん久しぶり。調べたら前回は2008年だった、けどあのときは空港の近所だったし、大雨ですげえつまなかった、ことくらいしか覚えていない。

本屋にレコード屋に食べもの屋、SFはどれもすてきなんだけどなー、どうやって抜けだすか、だよなー。 坂とか海とか霧とか、なんか道具はありそうなんだけど。(じゃあやってみろ)

City Lightsはいきたい。 牡蠣たべたい。 クラムチャウダーも。 Swensen'sも。

ではまた。

2.23.2014

[film] The Butler (2013)

18日の晩、たまたま時間があいたときに六本木でみました。 すぐ終わっちゃいそうだし。

すでに飛行機で見ていたので落ち着いてじっくり見ることができた。
あの邦題は「黒執事」と被ることを避けたけっか、妥協の産物だとおもいたい(殴)。

南部で奴隷の一家の子として生まれたCecilが母を強姦され父を撃ち殺され、かわいそうだからとハウス・ニガーとして教育を受け、家を出てから執事として精進して、やがてホワイトハウスの執事として雇われて、7人の大統領に仕える。

Cecil (Forest Whitaker)自身の人生と、長男Louisが身を投じた黒人解放運動の流れと、次男Charlieが殉じたベトナム戦争と、妻Gloriaを中心としたサークルと、Cecilの仕事場で来ては去っていく大統領あれこれと、いろんな柱があって、それぞれを通して見えてくる、互いに見えたり見えなかったりするアメリカ合衆国の歴史。 よくできた大河ドラマとか連続TV小説みたいに、人生の大波小波がざばざばと寄せては返し、アメリカて、人生て、とかいろいろおもう。

もちろん日本人とアメリカ人とでは、更にアメリカ人のなかでもAfrican-Americanとそうでない方々とでは、その受け取りかたは異なるはずで、その異なり・隔たりをあえて際立たせるような描きかたをしているように思えて、その隔たりを超えてアメリカ万歳とするとか、その隔たりの深さ多様さこそがアメリカなのだがどうか、と問いかけるとか、いろんな言いよう考えようがあるはずで、そういういろんな考えのパスを示しているところはえらいなー、というのと、でもそんな違いなんて別にどうでもいい - 吹き替えじゃないなら洋画なんて見たくない、て言うような最近の子供にはなにひとつ訴えないのではないか、とか。

たったひとつの歴史、ひとつの言葉しかない(それしか見たくない見なくてよい) - という愚かなアタマが修正主義だなんだ、というしょうもない議論を生んで、それが世界中から非難をあびる。 でもそれを言うひとにはそれのどこが悪いのかぜんぜんわからなくて居直る。 というバカのスパイラルをどうすべきか、みたいなことまでつい考えてしまう。

Cecilの、あるいはLouisの長い長い旅はオバマが大統領になったら終る、というものでは勿論なくて、そんなところで落着するように見えてしまうとこだけ、ちょっと、だったかも。

あとはいろんな役者さんたちがほんとに楽しそうにそれぞれの役を演じている - つまりそれぞれの時代に確かに生きていたそれぞれのひとを、彼らの見つめたもの、その動きをしっかりと受けとめるように演技しているように見えて、なんかよいかんじがした。 歴史を継ぐ/学ぶっていうのはこういうことでもあるの。

特にForest Whitakerの、サーブしている間自分はなにも考えていないというふりをしなければいけない、という多段の演技の切れ味ときたら。 座頭市みたいにすごい。

大統領だとJohn CusackのニクソンとAlan Rickmanのレーガンが圧倒的に楽しかった。
クリントンとブッシュは旧SNLのメンバーにやらせればよかったのに。

プロデューサーの数、多すぎだろう。 何人いるんだ。

[film] Thor: The Dark World (2013)

16日の日曜日、Hostess Clubに行く前に新宿でみました。
MarvelのAvengersフランチャイズ戦略にもろにはまってしまった感があるが、あんま悪いかんじがしないのはなんでか。
それぞれのSagaがぐだぐだに絡みあって積みあがって最後には下敷きにされたふつーの人類滅亡、みたいなヴィジョンを夢見てしまうからだろうか。

むかしむかしの世界のどこか、闇をもたらす万能物質Aetherをその行使手前でアスガード(Thorの国ね)の軍が阻止して、どっかに隠されたそいつが久々の惑星直列にあわせて瞬きはじめて、それをめっけたJane(Natalie Portman)をめぐっての闇の人たちが動きだし、助っ人で幽閉されていたLokiも加わって星(ていうのかなあ)とか国とかを跨いだ追っかけっこ - 大喧嘩になるの。

むかしむかしは闇しかなかったそうなので、それに戻したいんだったらいっそのこと戻しちまえよ、ぜんぶちゃらにできるから楽だよ、とか思うのだが、ThorとかJaneとかみんなはそう思っていないのでややこしくなる。 この騒動で車とか建物とか壊されたひとは誰に文句言えばいいのか、闇の国のうんたら? しらねえよ。 とこんなふうに壮大に時空を超える話とやたら卑近かつ矮小な話 - ThorとJaneの恋愛とかもそう - が程よくブレンドされたところにMarvelのシリーズの醍醐味(ううむ)がある、のかもしれないねえ。 

前作が父と子、兄弟間の確執を軸にした家族ドラマ風味の重さが少しあったのと比べると、今回はどかどか豪快に暴れまくるThorと、変な物質を飲みこんでしまった上にこんな風呂に入ったこともなさそうな化け物を愛してしまってよいのかしら、て悶々するJaneと、そのまわりできゃーきゃー走り回る地球人Kat Dennings(すてき)と、B級アクションコメディふうで、悪くないの。
どうせならSeth RogenとかSimon Peggとか入れちゃえばもっと楽しくなるのに。

Natalie Portmanさんは、あれが体内に入って、"Iron Man3"のGwynethみたいになっちゃうのか、あるいは"Black Swan"みたいに格分裂してしまうのか、ちょっとわくわくしたけどそうはならなかったねえ。 あんまそういうトランスフォーム系は興味なさそうだし。 でもさあ、ThorとJaneがなんで恋におちたのか、よくわかんないのよね。あの程度の筋肉バカなら地球にだっていっぱいいるだろうし。 あのとんかちが欲しいのか、とか。

そして"Only Lovers Left Alive"と今回のこれで、愛すべき嫌われ者 - でもかっこよいひと - の仲間入りをしてしまいそうなTom Hiddlestonは、これからもあんなふうになよーんとやらしくやっていくにちがいないの。

あと、最後の最後のあれで、"Pacific Rim"ともつながった。 そういうことだったのか、と。

2.21.2014

[film] La bataille de Solférino (2013)

中短編3本に続けてそのまま見ました。  あたまの中はすでにVincent Macaigneだらけ。
『ソルフェリーノの戦い』 英語題は"Age of Panic"。

2012年の仏大統領選の開票の日、TVのニュースレポーターをやっているLaetitia(Laetitia Dosch - 役名と実名ぜんいん同じ)はふたりのガキ(すんごいうるさい)をベビーシッター(ぼんくらぽい青年)に預けてアパートを出ようとしてて、そんなときに前夫のVincent(Vincent Macaigne)が子供の面会の日だよね、と彼女のアパートにやってくる。 Vincentには法的に正当な理由があって(一日ずれてたことが後でわかる)、それを忘れていたLaetitiaがわるいのだが、あんな野蛮なやつと子供たちと一緒にアパートに残していくのはぜったい嫌だ、とおもって、ベビーシッターとか階下の隣人とかには何があってもドアを開けないで、と言い残して選挙でぱんぱんのお祭り状態になっている通りのレポ仕事に突っこんでいく。 

でもベビーシッターくんがついドア開けちゃって、それを知って混乱した彼女は子供たちをこっちに連れてくるように指示して、それを知ったVincentはさらに猛り狂って群衆の奥までおっかけてくるの。

選挙でぐちゃぐちゃにごったがえして大騒ぎのパリの雑踏と、そんな現場以上に子供たちのことが心配で混乱して死にそうになっているLaetitiaと、それを更に上回ってごちゃごちゃわけわからなくなって吠えまくるVincentの、軸も層も噛みあわない泥沼の三つ巴の戦いを軸に、フランスにとっても彼らにとっても歴史的にだいじなことになったいちにち、を追う。

国の行く末を決める大統領選挙はもちろん大事だけど、自分たちの行く末だって、子供たちの行く末だってすごくだいじで、それを確実に幸せなほうにするためだったらどんなことだってしたい、しよう、てみんな思っている、みんな思っているその思いがぜんぜんひとつになったりわかりあったりすることなく、乖離して収拾つかなくなっていくところがものすごくおかしい。
にっぽんじんだったらよかったのにねえ(← 中指)。

ほんものの、リアルの選挙開票当日、その爆心地でロケしていて、人々でぱんぱんに膨れあがった道路を真上から撮ったとこが唖然で、そのまんなかに俳優とか乳呑み児とかを平気で放りこんでカメラまわして映画にしているとこにもびっくりする。
けど、そこには悪いほうの作為はぜんぜんなくて、むしろこの暴走と空回りを繰り返す愛の物語の背景としてこれ以上のものはないように思えてしまう。

お話しは選挙の決着がついたあとも続いて、殴りあいの警察沙汰もあったりして、しまいにはLaetitiaの家でVincentとその友人の法律屋(うさんくさい)とその老犬、Laetitiaの今カレと、とかが集まって深夜から明け方までぐだぐだやりあうの。
なんでそんなにタフなの? そんなにも議論が好きなの? とか思うのだが、だんじて負けるわけにはいかないのだ、これは戦争なのだ、と。

あの選挙の騒ぎとか見ると、ほんとに羨ましくなる。  あー都知事選くやしい。



ぜんぜん関係ないけど、これ、どれもこれもものすごーく懐かしい。ぜんぶ染みこんでる。

http://www.vulture.com/2014/02/dave-holmes-modern-rock-hits-1994-beck-loser.html

けど、20年前なんだねえ…

[film] Ce qu'il restera de nous (2012)

15日の土曜日、日仏のカイエ週間で2つみました。 雪なんかに負けないもん。
Vincent Macaigne絡みの中短編3本、どれもすばらしくよかった。

Ce qu'il restera de nous (2012)
『僕たちに残されるもの』、英語題は"What We'll Leave Behind"。 40分。

アーティスト気取りで偉そうなことばかり言いつつホームレスみたいな暮らしをしている男がいて、その兄はピアニストになる夢を諦めて企業のインターンとかしつつ結婚して妻とふたり真面目に生活してて、その父親は、兄夫婦が住んでいる家屋も含めて全財産をろくでなしの弟のほうに遺して突然亡くなってしまう。
おしゃれな服で身なりだけはまともになった弟は、皮肉なもんだなとかべらべら言いつつ変わらずさいてー野郎なので兄は弟をぶんなぐって家を出て、その車中で妻にひどいこと言って、妻もぶちきれて、リップを顔中に塗りたくり、ストッキングを引き裂いて、原っぱのまんなかで、夫にわーわーものすごい罵詈雑言を浴びせる。それはそれはすさまじいとんかちの嵐をワンカットで。 夫は完膚なきまでに叩きのめされ、ぜんぶ吐きだした妻はすっきりして仲直り、弟はたったひとり...

Vincent Macaigneのここまでで唯一の監督作で短編で、「僕たち」というのは妻も含めた3人で、ここでテーマになっているのは亡父→息子ふたりに遺されるもの、というだけではもちろんなくて、人が人と関わるところ、その接触面で残す痕跡とか爪痕とかそういうのを言っていて、それが残るところ、残らないところの境界をアートとか屋外の大喧嘩とかまで遡って情感たっぷりに考えさせるものだった。 すごくよい作品。


Kingston Avenue (2013)

39分。 登場するのはVincent Macaigneを中心とした4人。

冒頭に映しだされる街角はマンハッタンの2nd Ave - 59thで(すぐわかった)、ケーブルカーに乗ってゆるやかに東に向かうカメラが昔住んでいたアパートの正面にくる - 直前で切替わってしまったのでちぇ、だった。

Vincent Macaigneが元カノを追っかけてフランスからNYにやってきた男で(フランス語になる彼女との会話は字幕がないのでわからじ)、彼はなんとかよりを戻したいのだが彼女には同居している彼がいるので難しくて、ふてくされてバーで飲んだくれていると寄ってくる娘さんがいて、彼女と朝まで街を彷徨い、もういっかい元カノのおうちに行ってみるがやっぱしだめで、やけくそになって娘さんも追っ払ってしまってひとり、地下鉄のKingston Aveのホームでふて寝するの。

NYのはじっこで、ひととひとが出会ってくっついたり離れたり、ていう伝統的なNYインディー映画(それってなに? ていつも思うけど)の流れ、というのに加えて、『遭難者』/『女っ気なし』の頃から、さっき見たばかりの『僕たちに残されるもの』にもあった「ひとりになる」「ひとりである」というテーマがここでも反復されるので、なんなんだろ、とかおもった。
要するにひとりぼっちでじたばたする、ぽつんと佇むVincent Macaigneをみんなが見たい、ということなのか。 そんなのみてみんな楽しいか? とか。


La règle de trois (2011)

Louis Garrel監督による18分の短編。 『三人のルール』。
Vincent Macaigneが施設から出てきたばかりの不安定なひとで、Louis Garrelが彼を迎えにいって、これから彼の面倒を見てあげなくちゃと、というふうになっていて、他方で、Louis Garrelの彼女は放置されてしまうふうになって、これってなんなのかしら、て全員がきょとんて不思議なかんじになる、そんな瞬間のおもしろさ。
ここにあるテーマも複数の人たちのあいだの仕切りとかルールとか、その反対側でひとりであること、などがぽん、て公園のまんなかに蹴りだされる。
彼女 - Golshifteh Farahani が一瞬さらっと見せる涙がすばらしいのと、あと少し捩れたふうで疲れたLouis Garrelとスーパーのビニール袋をさげたVincent Macaigneが並んで歩いているとこ、これがあるだけで、もうぜんぶよいの。

しかしこういうの見ると、フランス人て、ほんとにおとなだよねえ、てしみじみする。 
今に始まったことではないが、邦画(の恋愛モノ)ってくそみたいに幼稚だ(見なくたってわかる)。

なんかねえ、PSHがいなくなっても、VMがいれば世界は保たれるかも、とかちょっとおもったりした。

2.19.2014

[music] The National - Feb.16

16日の夕方、映画いっぽん見てから新木場に行ってみました。 Hostess Club Weekenderの二日目。
場所だけだど、これまでの恵比寿のほうがよかったのになー。

これがあったので、日仏のカイエも、NFCのデジタル小津も諦めた。
今回はとにかくThe Nationalを見たかった、というのにつきる。 初来日ライブをのがして、米国でも数回ニアミスしてた。
最初のは08年のLollapaloozaでNIN待ちのとき、背後のステージでやっていたんだよね。 "Boxer"が出て、ぶいぶい言い始めた頃のこと。

Youth Lagoonのまんなかくらいに入った。
ひとりで地味にちゃかぽこやっているのかと思ったらバンド編成で、しかも結構どっしりばしゃばしゃやっていたので少し驚いた。
よじれた子供声じゃなくて、あと少しエモとか ゴスが入っていたらがんがんに上がっていきそうな、そういう地に足のついた音。よくもわるくも。

Warpaint

これも見たかった人たち - 女の子4人組。 両端のふたりがギターとヴォーカルとキーボードと、あれこれ動いて、ドラムスとベースはまんなかでばりばりゆらゆら。
4AD系、という形容がいまでも通用するのかわからんが、基本はそういう水の底とか闇の底でエコーとかリバーヴがわんわんするなかで、光が見えたり揺れたり弾んだり、童歌のように澄んだヴォーカルがこだましたりする。 最近のLAのバンド、というのもあるのか、決して底の泥まで沈みこむことはなくて、耽美、という言葉のまわりで小気味よく音を捩ったり切ったり貼ったりしていくかんじ。 そのアブストラクトな音色とか空間のつくりかた、に力みがなくて、繊細でセンスがよくて、ずうっと聴いていられる。  たまに「ダンス」とか言ってみるけどあんまし踊れない。
John Fruscianteが偏愛したのがよくわかる。

ドラムスの弾み具合が特に気持ちよくて、お気に入り女性ドラマーがまたひとり増えたかも。

The National

ほんと、ようやく見れたわ。 サポート2名を加えた7人編成。
新譜の3曲目→1曲目とじゃらじゃらあげて、"Bloodbuzz Ohio" 〜 "Sea of Love"のあたりで最初のヤマがきて、そこから更に破綻なくなだらかにあがっていく、あげていくかんじ。
なんの心配もいらない、ジャンプもモッシュも必要ない、エモはほとばしることなく、でも機関車のように着実にどかどか流れつづける。 ここのドラムスはほんとにすばらしいのよね。
 
個人的には中盤、"I Need My Girl" (このギターのリフってSufjanだよね)〜 "This is the Last Time" でしっとりしたところで、"Abel"でばくはつ!  ていうあたりがいちばん素敵だったかも。

Grizzly Bearとかもそうだが、今世紀に入って出てきたBrooklyn近辺の、ウェルメイドなバンド・サウンドってなんなのか、をずっと考えている。
80年代のThe ReplacementsとかREMとかの隙だらけの荒れっぷりとも、90年代のグランジ~オルタナの汚れっぷり/異臭感とも違う、分厚くて頑丈で巧くて、隅々まで練られて考えられている楽曲の数々。 もうちょっと暴れてみれば崩してみれば、とか思わないでもないのだが、でもこの日のこんなライブを見ると、ひとりがじゅうぶん暴れてくれるのでたのしい。

New Brooklyn Cuisine(て、もう言わないのかしら)が、そんなの絶対、あたりまえにおいしいに決まってるじゃん、とか思いつつも、口に入れたところで改めてびっくりしてしまうのに少し似ている。 ライブで耳に流しこまれる音の触感があまりに瑞々しくきもちよいので、ぜんぶゆるす、もういい、みたいな。

ヴォーカルのMatt Berninger の壊れっぷりがたのしい。 スーツ着てメガネして、無精髭のバリトンで、そんな彼がどんどん取り乱して荒んで解れていく、それを見つめる快感ときたら。
教え子と面倒なことになってしまった大学の准教授とか、オフィスで破廉恥なことをしてるのをばらされてしまった銀行員とか、妄想ネタとしても申し分ない。
なすすべもなく蜘蛛の糸に絡め取られ身動きがとれず、でもぜんぶ自業自得で、うるせえな愛なんだよ文句あるかよ、とマイクスタンド抱えて怒鳴りまくるひとりのオトコ。

アンコールは3曲、ほとばしる"Mr.November"のあと、マイク(紐つき)持って客席を練り歩いてぐだぐだになる"Terrible Love"、そのあとでしっとりとアコースティックで"Vanderlyle Crybaby Geeks"。  あと1時間やったってよかったのに。

Mattが「ここに来ているバンドはみんなだいすきだ、ひとつを除いては」て言ってたひとつって誰か?

[film] The Life and Times of Judge Roy Bean (1972)

10日の夕方、NFCのテクニカラー特集で見ました。 3本続けて西部劇になった。
ほんとにただの偶然。 なんででしょ。

監督: John Huston、脚本: John Miliusによる、建国記念日にふさわしい骨太のいっぽん。

砂漠と荒野の果てのぼろい酒場にRoy Bean(Paul Newman)が流れついたら、いろんなならず者が寄って集ってちょっかい出してぼこぼこにして、遠くの原っぱまで引きずり倒すのだが、Roy Beanはむっくり立ちあがって酒場に戻り、そいつらを皆殺しにしておれが掟だ、Judge Roy Beanだ、と宣言して、その辺にいたやつらを適当に保安官にして、助けてくれた娘Mariaをそばに置いて、宿屋とかお店とか、街をつくって治めはじめるの。

熊とか乱暴者とか次から次といろんなのが現れるし、頭のよさげなやつは取り入って裏でせこいことあれこれやろうとするのだが、どてっ腹に風穴あけられたりして、豪快さんであるRoy Beanには歯がたたない、ていうお話し。
Lillie Langtry (Ava Gardner) ていう当時の歌姫を崇拝してるのと、Mariaには弱くてやさしくて、Mariaは身重になって、そういう隙をやられて街を追われてしまうのだが、最初のときと同じように復讐のために戻ってきてあれこれぶっつぶして炎のなかに消えていくの。 かっこいいねえ。よくわかんないけど。

彼が自称するところの"Judge"ていうのは、法を作るひとであり守るひとであり壊すひとであり、要するになにをやっても許されてしまうのでめちゃくちゃなのだが、その天上にはLillie Langtryていう崇拝と憧れの対象(神)があって、その下にはちっとも言うことをきかない荒くれ共とかがいっぱいいて、街とか国とか道とか法とかは例えばこんなふうに作られていくんだわかったか、ていうのもあるけど、Roy Bean、理不尽でUntouchableでなんかすげえ、ていうことに尽きるのかも。

世界のはじっこに風のように現れて炎のなかに消えていった濃いのだか薄いのだか判別しがたいその生を、テクニカラーの淡い錆びたような色がきれいに映しだしているのだった。

このころのPaul Newman、"Sometimes a Great Notion" (1970)もすばらしかったが、ほんとうにかっこよいのな。 たったひとりで中指突き立てて生きていくとことか。

2.16.2014

[film] The Wolf of Wall Street (2013)

9日の日曜日「復讐の夜」のあと、六本木に行ってみました。

実在したトレーダーJordan Belfort  (Leonardo DiCaprio)の隆盛と栄華と没落を描いた実録もの。
最初は堅気の証券会社に入って上司のMatthew McConaugheyに金儲けの快楽と陶酔を叩き込まれたJordanがブラックマンデーで失業して、ロンクアイランドの田舎でクズ株のいんちき電話セールスから会社を興してぶいぶいに成りあがっていく。

金を儲けること、そのための組織を作って社員を支配すること、とにかく金を儲けること、その金を使って浪費すること、豪邸、ヨット、ドラッグ、女、とにかくなにがなんでも金を儲けること。
拝金主義とか、そういうのとも違って、ただただ金を儲ける、人の上を行く、その行為のためだけに走り続けるJordanの爆発するテンションといっちゃった表情がずっと前面に出ていて止まらない。

それが3時間も続いていくのはどうか、と思わないでもないが、その強引な身振り手振り表情に映画そのものが絡みとられてしまっているようで、いちいちバカみたいにおかしい、ていうかオチがないまま次につながり、だんだん麻痺してなにがおかしいんだかわからなくなってくるのだが、それでもそれすらもおかしくて、それのなにがいけないというのか(よくわかんないけど)。と開きなおって反省しないとこまでJordanとおなじく。 

金儲け(主義とか行為とか)に対する批判や警鐘は一切なくて、それはすべて需要と供給の関係のなかにあり、休まず徹底的にやって人の上に立つてっぺんを狙う、というのが行動のルールと原則で、それは例えばこんなこと、こんなふうにすればやくざだってギャングだって政治家だってアスリートだって。

あれだけやってもヒトはなかなか死なずに立ちあがってくる、ので、Jackassのシリーズみたいにげらげら笑って見ることができる。

創業時からの相棒Jonah Hillとのコンビが さいこーで、特に盗聴を避けてゴルフ場のクラブハウスまで電話かけに行ったJordanが突然やってきたドラッグの酔いにやられて体の自由が利かない状態のまま這って車に乗り込んで自宅に戻り、そこで同様にらりらりになっていたJonah Hillとくんずほぐれつになるところ、そのどたばたをひとつの流れに落としこんだのはMartin Scorseseの判断らしい* が、まあすばらしい。 いつもの編集番のThelma Schoonmakerさんも冴えまくってるし。大変だったろうなあ。

* http://www.vulture.com/2014/02/wolf-of-wall-street-martin-scorsese-favorite-shot.html?mid=facebook_vulture

監督としてのMartin Scorseseて、今回みたいに無軌道で反省しない連中を好きなように転がしてそこに音楽被せてじゃーん、とかやる、結末はどうでもいい - どうせバカは死んでも治んないんだから - みたいのが一番うまくできる気がした。 過去とか遺産とか善悪とか彼岸とか、そういう大樹とか大河みたいのはあんまし、かも。

そして同様にDiCaprioも、"The Aviator" - "The Departed" - "Shutter Island"の囚われ系の苦悩から解き放たれて実に楽しそうにイキんでフンフンいってて、これでオスカー獲るなら異議なしかも。 もうちょっと泳がせてもおもしろいかもだが。

音楽はRobbie Robertson。 昔の渋渋BluesやR&Bのあげあげノリと90年代のらりらり系懐メロが絶妙に混じって飛び道具してて楽しい。 主題歌なんてMatthew McConaugheyのゴリラだし。

Fran Lebowitzさんが出ていた。貫禄だった。

あとはSteve Maddenの懐かしいCMと、あれが突然消えた理由もそうだったのかー、とか。
それと、90年代後半から00年代前半に勤めていたオフィスのあった建物が入り口からもろに出ていて懐かしかったよう。

2.15.2014

[film] Hævnens Nat - Blind Justice (1915)

9日の午後、選挙に行っている間に売り切れてたら最悪なので、まず午前にチケット買いにいって、選挙行って、それから行った。 チケットは取れたけど選挙は最悪だった。
「トーキョーノーザンライツフェスティバル」から、最強のベンヤミン・クリステンセン=柳下美恵組による北欧サイレント上映。 
「魔女」も「密書」もすばらしかったから、見ないわけにはいかないんだ。 「復讐の夜」。

大みそか~新年の雪の晩、お金持ちの侯爵のおうちに赤ん坊を抱えた脱獄犯が忍びこんだところ、侯爵の姪に見つかってしまうのだが赤ん坊のミルクだけ、それだけを、てお願いして、やさしそうな彼女を信じて待っていたら逆にお縄になって14年間牢屋にぶちこまれ、模範囚で釈放されて孤児院に子供を引き取りにいったら誰かが養子に持っていったと言われてがーん(ここでなんとなく先はわかる)。 行くあてもないまま犬ブローカー兼どろぼー団の一員となった彼は仲間が盗んできた品物からかつて酷い目にあわされたあの家のだ、と気づいてわななきながら復讐に向かうの。

サーカスで怪力男をやっていた彼は人殺しの罪で投獄されてて、でもほんとはやっていなくて、彼を匿おうとしたアナも悪いひとではなくて、ほんとうに悪い奴らは出てこないのだが、でもほんのちょっとの縄のかけ違いが復讐の夜を呼んでしまう哀しさ。

でも怒濤のエモの嵐が吹きまくるどろどろぐさぐさの惨劇かというとそういうのではなくて、ものすごくかっちりと構築されたドラマになっている。 冒頭に邸宅の模型を女優さんに見せているシーンがあったが、そういうのとか切り替えの絵字幕のとこも含めて、縄のがんじがらめが14年間の年月を隔てて反転したり、服役後に魂が抜けたようになっていた彼が盗品をきっかけにぱちりと覚醒したりとか、いちいち鮮やかすぎ、それゆえのはらはらが止まらない。

「密書」と似たとこもいっぱいあって、家のセットそっくりだし、床下とかに閉じこめられて絶体絶命だし(わんわんがぞろぞろ出てくるとこはすてき)、家族のために全力疾走があるし、とにかく家族の絆てのはたいせつなんだねえ。

そして、このピアノなしのクリステンセンの映画がどんなふうに見えてしまうのか、今となってはまったく想像もつかなくて、そっちのほうが怖かったりして。

2.12.2014

[film] Monte Walsh (1970)

8日のごご、雪と共に無人地帯化していく渋谷から京橋に出て、みました。
NFCのテクニカラー特集、前回に続いてまたしても西部劇になった。

Lee MarvinがMonte Walshで、むかしからカウボーイで、相棒のChet (Jack Palance)と一緒にかつて働いていた農場に戻ってみると、そこはもうなくて、別の農場で働きたければ働けば、みたいに - 普通の日雇い出稼ぎ労働者みたいに - 言われてしまう。
東のほうからの「資本」(「カネ」とは言わない)の参入で仕事のしかたも変わっていくようなのだが、カウボーイひとりひとりにとってはそれってなに? でしかなくて、あんまし興味もわかないのだが、現実にはリストラがあったりあっち行かされこっちに飛ばされ、あれこれあって、あんまりぱっとしない。

Chetは金物屋の後家さんと一緒になるために離脱し、生活に困って銀行強盗をやったりする奴らも出てきて、やがてChetもそういう連中にやられてしまう。

冒頭、小金稼ぎになるので狼を撃とうとするChetに、狼に素手で立ち向かう男の話をしてはぐらかしたり、一見だらしなくて強そうに見えないMonte Walshなのだが、暴れ馬を馴らすところ(馬と一緒に街の一角を破壊しつくすところがすばらしい)とか、Chetの復讐に向かうところとか、どんどん顔の彫りが深く、険しくなっていくの。 Lee Marvin としかいいようがないの。

時代の流れと共に居場所を失っていくカウボーイの悲哀、とひとことで言いきれない各自の業の深さみたいのがあって、それがすっからかんに乾いたカラーの陰影のなかに映しだされている。  がんばっても泣いても砂漠は砂漠、みたいな非情さもまたよいの。(ひとごと)

恋人のMartine (Jeanne Moreau) - 'Countess' - 伯爵婦人て呼ばれる - とのやりとりも素敵で、巻きタバコのシーンとか髪を切るシーンのいちゃいちゃなんてこっちの顔が紅くなるくらいいちゃいちゃしやがって、で、だから突然遺体となってしまった彼女と対面する場面の寂しさがとってもしょんぼりする。 Jeanne Moreau、こないだ見たときはこんなのクロワッサンじゃないわ.. とかごねるいじわるばばあだったのに、このしっとりしたかんじはなんなの。

で、荒馬のとことChetのことMartineのことなどがあり、「会社」に別れを告げて(バックは青い空)、ひとりChetのかたき討ちに向かう闇中のシーンは派手さは一切ないのに、すばらしい。 最近だとClint Eastwoodがやりそうな役どころのようでもあるが、Clintはほっといても構わないような気がするのに対して、Lee Marvinはなんかかわいそうに見えてしまうとこが、ちょっとちがう。

音楽はJohn Barry、主題歌の"The Good Times Are Comin'"の詞を書いているのはHal David、歌うのはMama Cassで、これもまたよいの。


この作品、2003年にTNT(アメリカのTV局)がリメイクしてて、このときはMonteをTom Selleck、ChetをKeith Carradine、MartineをIsabella Rosselliniが演じている。 これも見たいかも。 今リメークするとしたら誰だろ。 Tommy Lee JonesとかBruce Willisとかにはやらせたくないの。 なんとなく。

2.11.2014

[film] 無人地帯 (2012)

都知事選の前に気を引き締めていこう、ということで8日の昼間、渋谷で見ました。
311以降、無人地帯 - "No Man's Land" - と化してしまった福島周辺の光景を記録したもの。

冒頭のナレーションにもあった通り、いまや我々はこうした災害映像のAddict(或いは犯罪現場映像の …  或いは癒し映像の … )になってしまっている。
そんな映像を見て衝撃を受け、例えばボランティアに走る、反原発のデモに参加する、自分でできることはないか、等々を考える、ということをする。 そんなふうな感情の揺さぶりとか行動を起こさせるような映像を見る側も作る側も求めていて、そういう需給サイクルが回っているなか、311関係はもううんざり、になってしまう。

そういう需給関係って、そこに留まることで状況にはなんにも作用しない(せいぜい、悪いのはこいつだあいつだ、と犯人捜しをする程度)ことがわかっていて、でも、じゃあみんな逮捕して裁判すればなにかよくなるというのか - ならねえだろ。  などなどなど。

冒頭、映像がぐるーっと360度まわって、そこに映し出されるありえない惨状。 べつに死体が映っていたりするわけではないが、本来あるべき場所にはない船とか逆さまの車とか崩れた建物とかむき出しの柱とか壁とかその破片とか瓦礫とか。ひとはいない(無人地帯)。風の音に鳥や虫の声みたいのは聞こえる。一瞬原発の煙突が見える。 ぐるり360度そう、ということはこれはセットではなくて、まちがいなく現実の世界を映したもので、それはかつてあった世界 - 有人地帯とは異なる、ぜんぜん異なるなにかで、それまであった世界がこんなふうな世界に突然変貌してしまったことの驚異が、まずくることになる。

この強い映像をまえに、我々が考えることってなんなのだろう、というのがこの映画の起点で、その思考は映された - 壊れている世界に対してどんな作用をすることになるのか、というところまで我々を運んでいく。 家や田畑や植木を潰され、家族から離された被害にあった人達のインタビューは、我々を怒りとか悲しみとかそれらへの共感とか、そういったところに導かず、彼らは幽霊のように漂っているかのようで、つまりは無人地帯に、ひとが無い世界にいるそれで。  で、そういう世界って… と考えはぐるぐるまわっていく。 黙ってみることしかできない。

動物とか草花はいるし、元気に動いていて、ひとだけがいない - その隔たりを作ったのは放射能という目に見えないもので、目にみえないそいつが、この無人の映像を生んでいる - ここに映っているのはひとの替わりとして置かれた放射能の姿そのもの、なのかもしれない。 とにかくみろ。

そこに柔らかな英語のナレーションが被さる - 身内のみの言葉から離れてしまうことで世界は改めて異化されたものとして現れて、でも同時に強い同化の要請のなかにある土地であることを改めて思い起こさせるの。

Barre Phillipsによるコントラバスを中心とした音楽は強い風となり波を呼んで道をつくる。
獣道を吹く風 - "Route One USA" - (1989) で鳴っていたのとおなじように無人と有人の間のパスを。

制作中というパート2には「時間」という要素が出てくるのかしらん。

2.10.2014

[film] The Wind (1928)

2日の日曜日、「夜の終り」を見たあとでまだ時間があったので、「トーキョー ノーザンライツ フェスティバル2014」の関連企画であるこいつに行きました。
始めて行ったホールだったが、渋谷のあんなところにこんなものが、とちょっと驚き、地方自治体が作るだっさーい公民館建築の典型みたいなとこだねえ、とよくもわるくも感心した。

かの「映画千夜一夜」の表紙になっていた映画をピアノ付きライブで見ることができるんだわ、と。

Letty (Lillian Gish)が故郷のウェスト・バージニアから従兄の住むテキサスへ出ていく汽車のなかから始まって、車内でうなりをあげるすさまじい風の音にびっくりしていると、この風はひとを狂わせるから気をつけるんだよおじょうさん、とか言われる。 到着して従兄の家に住ませてもらったもののその妻は冷たくて、頼りになりそうだった汽車のなかで声をかけてきた男には奥さんがいたりして居場所がなくなり、ふたりいた野卑な牧童のうちのひとりと結婚せざるを得ない羽目となり、かわいそうすぎて今にも壊れてしまいそうなLettyの姿に結婚した彼も手を触れることすらできない。 けど、砂吹雪のなか野性馬の捕獲にみんなが出て行ってたったひとり取り残されると、容赦ない風とかいろんなのが彼女を襲い始めてどうなる、なの。

風の猛威はたんにLettyを襲うだけでなく、我々のほうにも吹きつけてきて口のなかがじゃりじゃり言うくらいなのだが、その同じ風はそこに住んでそれを受ける人たちも十分おかしい状態にしてしまっていて、そこではなにが起こったっておかしくない、という点では、ショッピングモールとゾンビみたいな環境をつくってしまっていて、なんておそろしいホラーなんでしょ、とおもった。 自分が砂の下に埋まってしまう恐怖なら考えつくけど、砂の下に埋めたはずの死体が風が巻きあげる砂の作用で地表に浮かんでくるなんて、ありえない。おっかなすぎ、シェストレム。

上映されたのは(いちおう)ハッピーエンディング版(ほんとか?)だったが、ダークサイド転落版も見てみたい。

サイレントの伴奏って、主に映されている場所とか状況とかと主人公の心理状態を説明することが多いと思うのだが、柳下美恵さんのピアノはぼうぼう吹きつけてくる風をピアノの胴でぐあんぐあんに共鳴させつつ、そこをつんざいて聞こえてこない、届くはずのないLettyの叫びをはっきりと音化していた。
そしてそれが21世紀の東京、平和な日曜日の午後に、弛んだコミュニティの箱のなかで上映されることまで狙っているかのように冷たい砂嵐を送ってくるのだった。(...言い過ぎかしら)

音がライブで鳴ることの意義 (= 砂嵐のなかに埋もれようとしていた叫びを救いあげる)、みたいなのを改めて思い知らされた上映会、であった。

もっと砂嵐を、なのだった。

2.09.2014

[film] 夜の終り (1953)

2日の日曜日は、夕方から用事があったので日仏のグレミヨンは諦め(またやるよね?)、シネマヴェーラの谷口千吉監督特集からこれを見ました。

新橋の飲み屋で真面目に働くがんばりやの美代(岡田茉莉子)がいて、同じく真面目に下水道清掃人をしている木崎(池部良)がいて、ふたりは彼女のお店が終った深夜(彼の出勤前)に会うのが精一杯なのだが、お金が貯まったら家を見つけて結婚しようねとか言っていて、そんな仕事帰りの早朝、木崎は道の端で酔い潰れていた男が抱えていた札束に目が眩んで、そこで酔っ払いが暴れたものだから石で殴って殺してしまう。 彼は慌てて走って逃げて身を潜めるのだが身元はすぐにばれて、美代も警察にマークされてどこにも行き場はなくなり、でも行き場がなくて貧しいのは地方の農村から出て来た頃からずうっとであることがわかって、なんとなくニコラス・レイの『夜の人々』なかんじもしてかわいそうで、見ているのが辛くなるの。

幾度かの夜を経て自首しようとするのだが踏み切れず、どうなるのかはらはらするものの最後はー。
池部良が真面目さ故に思い詰め、真面目さ故に思い切れない地方の青年を情けなく演じ、他方で岡田茉莉子は同じように追いつめられながらも失うものなんてない強さで警察にぶち切れたりして、そんなふたりの清さ健気さが最後まで踏みにじられることがなかったのは救いだったかも。

昔の新橋とか浅草の町の様子がとっても興味深い。 でも町はきれいになったからと言って弱い立場の若者とか年寄りが金でいいようにされる構図は昔も今も変わらない。そんななか、あんな政党のあんなハゲが上にきて、しかもオリンピックだなんて、しみじみ嫌なこった。 おぼえてろよ。

どうでもよいけど、美代が働いている飲み屋の壁に貼ってあったメニュー札の「たこす」は、「タコ酢」なのかメキシカンの「タコス」なのか、どっちだったのだろう。 そりゃ「タコ酢」なのかもしれないけど、その隣の隣の札には「オイスター」とか書いてあるんだよね。

[music] Joan of Arc - Feb 08

大雪の8日、渋谷で映画見て、京橋で映画見て、一旦帰って、再び渋谷にでた。
雪のなかを散々歩きまわってペンギンの気分に浸る、ていうのが個人の趣味としてあるの。

この日はThe Lumineersかこっちか、と思っていたところでお誘いもあったので、こっちにした。

50代になって最初のライブでした。(うぅ)

着いたのは7:30くらいで、前座のDustin Wongの途中から。
前のときはたしか、Dirty Projectorsの前だった、よね。
テレキャスター一本から端切れのような音を裂いて砕いてループさせ、重ねて被せて潰してかきまぜて、その砕片を再び風で巻きあげて散らす。 基本はそんなかんじなのだが見事な雪の日の音楽になっていた。 刻々と変わっていく雪の表情はいくら見ていても聴いていても飽きない。

Joan of Arcはたしか、2008年以来。 あのときは5人編成だったけど今回は4人。
まんなか、Tim Kinsellaの横に布帽子を被って突っ立つ女性がいて、最初はローディの方かしら、と思ったのだが、演奏が始まってからもそのまま、無表情、というか途方に暮れたような顔 - 水草の上の蛙がするような困った顔、"Boo Human" な顔 - のまま立ってて、でもたまに歌に合いの手を入れたりしてて、あんた誰?、なかんじがおもしろい。

キャリア総括系の3日間、ということで前日のセットや演奏がどうだったかわからないのだが、この日のこのライブはすばらしかった。  例によって落ちつきなく勝手に自在に動き回るTim Kinsellaの歌とギターに適当に合わせる、というほど適当でもなく、かといってジャズ/インプロ系の自由と緊縛のなかに置かれる、というのでもなく、ロック/ポップの楽曲として成りたちそうなぎりぎりの線を踏んだかと思うと外して、歩いたと思ったら走って、を繰り返す。 でも歌、歌だけはなんとしても歌いたいらしく、その歌の流れのなかで全てのコンポジションがはまって、時に勇ましく、時にメランコリックに歌と伴奏がわんわん鳴る。 今回のはそのはまり具合が、まんなかの女性 - Melina Ausikaitisさんの存在、Theo Katsaounisのどかどかぱんぱん弾けるドラムスを含めなんかの罠みたいにかちりと。 気持ちよいったら。

怒濤でも圧巻でもないし、集中を強いるような親密さとか強さとかに溢れているわけではないのだが、歌やバンドサウンドの深いところで、それが指し示すアメリカのランドスケープ - 沼とか灌木とか岩肌とか、目の前にほっこりと浮かんでくる不思議。 アンコールの最後に繰り返されたギターの深い澱みの中でのきゅーんとした鳴りと揺らぎと。

"I Saw the Messed Binds of My Generation"を聴きたかったなあ(やらなかったよね?)

Timが最後に話した、言葉は喋れないけどダースベイダーだけはできるという甥っこの話、あのオチはなんなの?
"American Hustle"のワカサギ釣りの話もそうだったけど、みんなオチを言ってくれない。

Melina Ausikaitisさんのサイト。こんなひとだったのね。

http://www.melinaausikaitis.com/


都知事選、くそったれ。  オリンピックも、くそったれ。  嫌なことばっかし。


2.08.2014

[film] American Hustle (2013)

1日の土曜日、京橋から六本木に移動して見ました。
この週末は、いろんなのがいっぺんに封切られて賑やかで、でも見れていないほうのが気になって、でもそのうち1つくらいは新しいのも見たいよね、とか思ってこれにした。
えらく混んでいてびっくらしたが、1000円だったからなのね。

70年代の終り頃、生まれた頃からの根っからの詐欺師のIrving (Christian Bale)がいて、同じく詐欺の道に目覚めたSydney (Amy Adams)がいて、そんな二人が組んで人々を騙しまくっていると、それを嗅ぎつけたFBI捜査官のRichie (Bradley Cooper)が現れてふたりを拘束し、Atlantic City(カジノ)の立ち上げに纏わる政界の収賄を暴くべく囮捜査の大芝居をでっちあげるよう脅迫する。
ふたりはしぶしぶ市長(Jeremy Renner)に接近し、そこにはIrvingの妻Rosalyn (Jennifer Lawrence)も加わって、アラブの偽金を中心に置いた巻きこみは市長の上の上院議員とかカジノ周辺のマフィアにも及んでいくのだが、相手が増えるにつれ、当然いろんなボロも出まくってとってもやばくなるの。

警察が詐欺師を巻きこみ、詐欺師が市長を巻きこみ、市長がその上の大物達を巻きこみ、いろんな巻きこみがでっかい洗濯機の渦を作っていくものの、張りきっているのはFBIのRichieとカジノで町をよくしようと思っている市長くらい、そこから先は悪も正義もみんなどうでもよいと思ってて、なんのためにどこに向かっているのかわかんなくて、でもだれひとり自分が間違っているとは(あんまし)思っていない。

自分だけはぜったい正しい、と信じこんで疑わない一族郎党の妄信と猛進をおもしろおかしく描く、ていうのがDavid O. Russellの基本で、"The Fighter" (2010)でも"Silver Linings Playbook" (2012)でもそうだった、けど今度のはその一族の内部がぐさぐさでぼろぼろで互いに刺しあって、どっちにどう転んでもおかしくない、全員が勝つことも全員が負けることもない。
タマネギの皮タイプの詐欺師であるIrvingの反対に立つ、All or NothingタイプのSydney、そんな彼女に惹かれていくRichie、そしてひとりであらゆる欲求不満を抱えこんで超然としている猫、Rosalyn。 

結末はどうあれ、Rosalyn = Jennifer Lawrenceがほんとうにすばらしい。モチベーションがどうの、とかわけのわかんないことをかましながら夫Irvingを叩きのめすとこなんて、最高なの。
こういうやつが80年代的ななにか、を用意していったんだねえ。そういえば。

音楽は毎度のことながら、最高。 今回はテーマ的にもこてこての70年代歌謡が見事にはまるの。

2.04.2014

[film] Three Hours to Kill (1954)

1日の土曜日の夕方、京橋で見ました。 テクニカラーの色、あの色つきの絵が動くのって本当に好きで、だから『テクニカラー・プリントでみる NFC所蔵外国映画選集』はぜんぶ見たいくらいなのだが、なかなか行けなくてかなしい。

邦題は 『西部は俺に任かせろ』。 恋人の兄を殺した嫌疑をかけられて3年間逃げていた男が戻ってきて3時間で犯人をつきとめてやっつけて去っていく、ていうお話しにふさわしい邦題とは思えないけど、とりあえず。 77分だけどいろいろ詰まってておもしろかった。

Jim (Dana Andrews)が訳ありふうに村に現れるとみんながびくっとしてそわそわしはじめて、3年前にいったいなにがあったのか、という回想に入る。
パーティの晩、Laurie (Donna Reed)と仲良しのJimは、彼女と結婚しようぜとか話しているのだが、彼女の兄はおまえなんかじゃだめだ、とJimをぼこぼこにする。 と、突然銃声が響いて兄は背後から撃たれて死んでた。 疑わしいのはJimしかいないので人々は彼をリンチして木の上に吊るし首にしようとしたところでLaurieが縄を切って彼は命からがら逃げることができて、そこから3年、首に残った縄の痕をなでながら、復讐の鬼と化したJimが帰ってくる。 保安官はとっとと逮捕しようと思えばできるのに、Jimの頼みに応えて3時間だけ猶予を与えて、Jimはかつての友人とか隣人とかを端から追っかけて尋問とかをはじめる。

犯人捜しとか、群衆心理とか、別れたきりのLaurieはどうなった/どうする、とかいろいろ複雑でたのしいのだが、最後は結局 …     現れたとこですぐに逮捕しちゃえばあんなことには ...
Jimのことをずっと好きだった女将Chrisが、自分の家族を盾にぐちぐち戸惑っているLaurieに言い放つ一言がかっこよいったらないの。

あと、灌木のところでぼかすか殴りあうシーンはがさがさと痛そうでよかった。

色では、薄い青色に浮びあがる樹とそこにぶらさがった首つり紐の影がすてきで。


終ってから上の展示室に行って「小津安二郎の図像学」を見ました。

展示の規模はコンパクトながらすごい。 小津の文字とか自筆のいろんな絵とか装丁とか、その線の細さ、線の引き方、色の配置、構図、などなどがそのまま彼の映画世界に繋がり、敷衍されていることがなんの解説もなしでわかってしまう。 監督の美に対する意識や感覚が映画のなかに反映されるのはあたりまえ? のわけなくて、映画はひとりで作れるものではないのだから、それができてしまっていることにびっくり。

暮れ〜正月の神保町シアターは行けないままだったので、13日からのデジタル復元版上映会には行かねば。

2.03.2014

[film] RIP Philip Seymour Hoffman

月曜の朝に訃報を知って、もうこの一週間ぜんぜんだめだとおもった。 それくらい脱力してなんもやるきにならない。

90年代以降のアメリカ映画の流れのひとつの軸にPaul Thomas Anderson (PTA) を置くことができるのかどうか、わたしはできると思うのだが、その彼の映画に特徴的な色 - 淡い、漂白された、脱色されたかんじ - 例えば"Boogie Nights"のプールの色、"Magnolia"のあの光、などなどを決定づけていたのがPSHの存在だったようにおもう。 (PSHが出ていない"There will be Blood"ははっきりと異なる色をもった映画、のような)

たんじゅんに弱い、とは言えない、ぶよぶよ柔らかくて決めきれないなにかを内側に抱え込んでいることを、掌握しきれていないなにかがあること、それが手の尽くしようもないことを知って途方に暮れていることを、それらの弱点を外側にふにゃりと曝すことができる、それを演技として示すことのできる稀有な役者さんだった。
その弱さと優しさが演技とは別の次元でこちらにやってくる - こういう奴いるよねー とかそういうつまんないはなしではなくて、彼の演技を媒介として彼が演じたようなキャラクターの存在、在りようが世界(神、とはいうまい)に許される、場所を与えられる、そんなふうな動きと微笑みの愛おしさが常にあって、それが永遠に失われてしまったことをみんな悲しんでいるのだとおもう。

声もすばらしく、その細く透明な声と息づかいは、あるときは冷たく残酷に、あるときは絶滅危惧種の動物のような弱さと悲しさでこちらに聞こえてきた。 どちらも親密でダイレクトな声、それは例えばラジオの向こうの演説のように響くのではなく、いつも耳元で震え、囁くように聞こえてくるのだった。

思いだしてみると、生もののPSHを4回、見ている。

最初は2003年、ブロードウェイでの“Long Day’s Journey Into Night”で、 PSHは長兄Jamie役、父と対峙しつつ泥沼に沈んでいく家族を夜の、世界の縁に立ち、たったひとりで受けとめていた。

次がその1ヶ月後くらい、BAM Cinématekでの"Punch-Drunk Love"のDVDリリース記念のトークで、PTAの横の高椅子にちょこんと座り、短パン+サンダル姿でずっともじもじしているのだった。 あれこれ雄弁に語るPTAの隣で、コメントを求められると「fxxx...」と微笑みつつごにょごにょ言う姿がとってもチャーミングでたまんなかった。
そしてその場で披露されたあのマットレスのCMは場内を驚愕と爆笑の渦にたたきこんだのだった。

その次は2010年、Jonas MekasのAnthology Film Archivesの寄付金集めイベントで、Sonic YouthとかKenneth Angerとかが順番にライブをやっていったのだが、そこで突然登壇したPSHは、「いいかーみんなー、なんにも言わずにテーブルの上に置いてある紙にだまってサインしろ~、金を置いていけ〜。ぜええーったい価値あるんだから〜」とか怪しい宗教家みたいに煽りまくってすうっと消えたの。
(その直後に登場したのがLou Reedだったんだよなあ...)

最後に見たのは2012年、これもブロードウェイでの“Death of a Salesman”、だった。
このくらいになると、PSHが出ている、というだけで見たくてたまらずチケット買って行ったのだが、観客すべてを号泣の渦にたたきこんで、もう貫禄たっぷりだった。

これからもずっと見ていたかったのに。 彼が呆けた老人病んだ老人をその歳になったときにどう演じていくのか、どんなふうにひとを困らせ惑わしていくのか、そのとき彼はどんなふうに笑うのか泣くのか。

とにかく、もうあの微笑み、彼にしかできなかったあの笑顔は見れないんだなあ。

ご冥福をお祈りいたします。安らかに。


あー。 "The Hunger Games: Mockingjay" はどうなる?

2.02.2014

[film] I'm So Excited! (2013)

31日金曜日の晩、新宿でみました。
1月が終わって、2月になって、よんじうだいがいってしまうようー(泣)

原題は、"Los amantes pasajeros"。

スペインからメキシコに向けて飛びたったペニンシュラ航空のフライトで、整備士(ペネロペとアントニオ)のミスで機体がやばいことになり、エコノミーの客とCAをぜんぶ眠らせるのだが、おかまのCAトリオとビジネスの客はじたばたしはじめるの。 
飛行機好きにはとってもうずうずくる。 はず。

お客さんは、俳優とか融資スキャンダルが発覚した銀行の重役とか未来が見える処女の方とか裏SM界の女王とか殺し屋とかジャンキー新婚夫婦とか、機長はバイでCAと関係があって、副機長はストレートだが目が泳いでいる。 みんな機内で、ドラッグもアルコールもタバコもセックスも、天国に近いやつを、なんでもやりほうだいやる。

それまでそれぞれの事情のもとに秘匿、隠蔽されてきたある人物の過去がある出来事、ある企て、ある情念をきっかけに思いもよらない形で曝け出され、肌皮一枚のところで繋がったりちぎれたりしつつ周囲を巻きこんでいくチェイン・リアクションを追う、というのが、アルモドバルのこれまでのサイコものの基調だとすれば、この作品は、やばい事態に陥って最悪みんな死んじゃうかもという状況下、曝けだし上等、のゲイのCAのみなさんがアルコールとかドラッグとかの力を借りてみんなのいろんなあれこれをひっぺがしまくり、快楽の底に突き落とし、でも結果的に全員の命を救う。かんたんにいうと、へテロは死をもたらす、ホモもしくはバイは生きる/生かす、そういうこと。

飛行機のなか、お空の上って、なんか起こったらまあ死んじゃうわけで、しかも周りの知らない人たちみんなと一緒なわけで、そこにはよいもわるいもなくて、その点で畳の上の死とあまり違わないのかもしれんが、機上の場合は泡みたいに体は消えてほとんどなにも残らない、ちゃらにできる(希望)、というところが、なにかを体内外に抱えこんだひとにはたまんないのではないか。

おかまトリオが機内でThe Pointer Sistersの"I'm So Excited"を歌って踊るとこはそんなにおもしろくもないのだが、そのへんを起点にみんなが躁状態にまみれて快楽を貪りはじめるとこがたのしい。どうせしんじゃうんだ、やっちゃえ、と。

あと、完全に機上・機内のお話、ていうわけでもない、地上と空の上はタコ糸みたいので繋がって引っ張りあいをしている。そして過去も、どこまでだってついてくる。逃れられる場所なんてない。 そのことにみんなが改めて気づくラストはとってもすがすがしいの。

と、全体にどたばたおちゃらけているものの、けっかいつものアルモドバルだったような。

音楽は冒頭のラテンギターぺけぺけの「エリーゼのために」のほか極めて軽めで、もうちょっとゲイ風味のこてこてを入れてもよかったかもしれないが、あのあたりでちょうどよかったのかも。

2.01.2014

[film] Lumière d'été (1943)

日仏のジャン・グレミヨン特集、ものすごく行きたかったのに気付いたら半分過ぎててすごいショック・・・
25日、髪切ったあと、午後3時から2本続けて見ました。 髪切ったあとで日仏にいくとチケット売り切れのことが多いので、髪切る前にチケット買っていった。

「高原の情熱」(1943)

高原のホテル「守護天使」の女主人クリクリがいて、彼女が想っている近所のお金持ちパトリスがいて、そこにどこかからきれいなミシェルがやってきて滞在し、彼女を追ってよっぱらいのローランがやってきて、パトリスはミシェルが好きで、ミシェルは地元の工事現場できびきび働く青年技師ジュリアンとよいかんじになって、それぞれのいろんな過去とかそれぞれの勝手な想いとかが五角関係をつくって、お城とか高原とか工事現場とか舞台もなかなかドラマチックで、そういうのがお城の仮装舞踏会で爆発して、DV野郎のパトリスの銃弾が炸裂し、酔っ払いのローランの車(なんであんなやつに運転させる?)が暴走してみんな死にそうになって、救出にむかう医師を乗せたトロッコは宙吊りになって、結果、どうでもいいやつらはみんなしんじゃうの。 そしてその死はドラマの必然でもなんでもなくて、ただ死んじゃうだけで、高原だからすっきりするの。

いやーほんとになんておもしろいんだろ。  みんな金持ちで暇だもんだから情熱が渦を巻いてくだを巻いて、どろどろになっていく一方、真面目に地面に穴掘って働くジュリアンがひとりで輝いていて、勝ち組と負け組がわりとくっきり見えて、でもあんなふうに転がっていくなんてだれにもわからないの。

過去をひきずって悶々と生きる女主人クリクリと、前向きな現代娘のミシェル、どちらの女性の造形も、それぞれにかっこよくてさあー。
「この空は君のもの」の彼女もそうだったが、女性がたくましいよねえ。 男はしみじみバカだねえ。


「曳き船」 " Remorques" (1941) 英語題は"Stormy Waters"

見たことないやつ、と思っていたが、見たことあった。冒頭の「子猫の爪亭」であーこれこれ、になった。
「高原の情熱」もそうだったが、夜闇を切り裂いて走ってくるバイクが不吉ななにかを運んでくるの。

で、「高原の情熱」もそうだったが、ひとの幸せなんて、所詮ぴんと張られた綱のひっぱりあい、わかんないものなのよねー、だった。

曳き船サイクロン号の船長アンドレ(ジャン・ギャバン)はみんなに慕われるよい船長で、大嵐の日の救助で被救助船の悪船長の妻カトリーヌと知り合って恋に落ちて、でも彼の妻イヴァンヌは心臓の病を抱えていて篭りがちで、でも健気に彼を愛してて、でも悪天候と救助信号と波に揉まれる船とカトリーヌがアンドレをひっぱりまくるのでアンドレどうする、なの。 仕事で船を引っ張れば、別のところから引っ張られて、彼の頭のなかにも大嵐が吹き荒れるけど、引っ張るのがおれの仕事、なんだって。

カトリーヌの部屋でのカトリーヌとアンドレとのやりとりがものすごく繊細で、でもやってくる大波がすごくて、ああ大人ってこんなふうなのね、とか。

「高原の情熱」でクリクリだったマドレーヌ・ルノーがイヴァンヌ役で、幸せを求めてやまない不幸せな人のかんじが似合うんだねえ、とおもった。

[film] Ender's Game (2013)

NYから戻った翌日の日曜日の夕方、眠気ざましに六本木で見ました。

原作を読んだのは何十年も昔で憶えてないくらいだったが、いっぱい賞を貰っているわりにはなんかシンプルなおはなしだねえ、て思ったのは憶えている。

米国でのレビューがめためただったので覚悟して見たけど、そーんなにひどくはなかったかも。
原作に思い入れしてた人たちがぶーぶーになった、ていうのは、なんとなくわかるけど。

選ばれし特別な子供であるエンダーが宇宙防衛軍に送りこまれて、過酷な訓練、敵上官、味方上官、すてきな仲間のガキ共等々に囲まれて成長し、模擬戦でめきめき実力をつけて、最終模擬戦で大勝利してバンザイしたら実はそれが実戦だったのよガーン、ていうふつーの戦争アクションものみたいな線と、いくら地球が襲われたからってむこうにはむこうの事情があったはずだし、相手が蟻だろうが蜂だろうがちゃんと対話して理解しようと思えばできたのではないか、てやっちゃってから反省する厭戦もの、みたいな線があって、このふたつの線は現実におけるそれと同じくまったく交わって噛みあうことはないはずなのに、でも映画のなかではすぐ目に涙を浮かべて佇んでしまうエンダーの姿のもと、なんとなくこのふたつが共存できてしまっている - なぜならそれはゲームの世界だからだもん、ていう、ひとによってはバカにすんじゃねえよ、な内容なのかもしれないねえ、といま書いてておもった。

前半の海軍でも空軍でもなんでもいいけど、ハードな軍事訓練のさまは、それを子供たちがやっている分、なんか変、のだが、そういう訓練の成果が実際の戦闘に効いてきているとは思えないのよね。 エンダーは両手をぶんぶんふりまわして複数のコンソールみながら、あれこれ指示するだけ、指示された子供たちも了解!とか言ってかちかちクリックしてるだけだし。 それを背後から大人たちがふんぞり返って偉そうに見ているだけなの。
こんな地球人たちなんて、やられちまえばいいんだ、て思った。

主題歌がThe Flaming Lips、ときいて、ひえー、だったが思っていたよかはまっていた。ユートピア/ディストピアと子供。 なるほどー

Harrison FordもViola Davisも、楽だっただろうなー。 軍服着てむずかしい顔してるだけで。