5.31.2012

[film] The Raid: Redemption (2011)

まだ日曜日の続き。 年寄り共との夕食がまだ明るいうちに終わってしまったので、映画でも見ておくことにした。
せっかくいっぱい展覧会みて楽しかったのに、締めがじじいとの会食なんてかなしすぎるから。

でも、静かめのとか字幕を追うやつなんて見たら爆睡するのが目に見えていたので、どかどかうるさい系にした。

前にTrent Reznorさんが、アクション映画を見たい気分だったら、今すぐ劇場に走れ! て呟いていたのがこれ。
4月にNY行ったときもやってて、行きたかったのだが、時間的に無理だったの。

たしかにアクションはすごかった。(英国では18禁) 
あのひと、こういうの見て鍛えているのかしら(そもそもなんのために?)。

インドネシア語(?)の英語字幕だった。 でも字幕見なくてもへっちゃら。
ポスターとかのかんじから、原作は格闘ゲームソフトかなんかかと思ったのだが、そういうのでもなさそう。
筋は簡単で、町のはずれに犯罪組織のアジトになっているアパート(30階くらい?)があって、難攻不落で、敵対するギャングとかが攻めに行ってもぜんぜん落ちない。 なので、壊滅させるためにフル武装した機動隊が20人くらいで乗りこんでいくの。

タイトルの"The Raid"は、ガサ入れのこと。 もういっこの"Redemption"は、見てればわかる。

最初のうちは順調に上のフロアに攻めあがっていくのだが、感づいてしまった住民(=組織のひとたち。Tシャツにジャージにサンダルはいたそこらのあんちゃん達)が銃で反撃してきて機動隊はばたばたとやられていくの。

機動隊側には主人公ぽい若者がいて、冒頭のシーンでは黙々と体を鍛えてて、身重の妻をなでなでして、必ず連れて帰るから、とか言っているのだが、こいつがめっぽう強くて速い。

最初は銃撃戦だったのに、いつの間にか銃の勝負ではなくなって、ナイフとかアジアの蛮刀みたいのを振り回すようになり、最後は素手での蹴りあい殴りあい。 首が飛んだり腕が飛んだり血しぶきぴゅー、といったあからさまなのがないかわりに、刺し身、切り身系がめちゃくちゃ痛そうなのでそういうのが苦手なひとはやめといたほうが。

例えばね、壁の向こうに隠れた若者を追ってきたやくざがでっかい刀で壁をはじからがしがし刺しまくって、隠れてねえかおらー、とかやるのだが、その最後の一刀が若者の頬をつーって切り裂くの。 すごく痛いのに声出したらばれちゃうから息をのんでて、刀が抜かれるときも指で血を拭わなきゃいけなくて。 思い出しただけでいたいよう。

格闘に言葉はいらない。ガン睨みも「ぶっころしたる!」みたいな見栄も切らない。
洗濯物を取りこむみたいなかっこでわらわら、刃物を手に出てきてほぼ無表情に襲いかかってくる。

設定としてはひとりでがんばるダイハード系なのだが、アクションはあれの100倍くらい速くて痛い。でも痛みを感じる前に次の動きが。
サンダルではたかれてもすぐに走り出すゴキブリとか、そういうのを思い出したりする。(ごめんね。失礼だよね)
どちらかというとやられる側のほうがほんとに痛そうではらはらする。 首のうしろからおちる、そっくり返って腰からおちる、ピンボールみたいに、もんどりうってから弾き返される、などなど。

フロアが下のうちは、ひとりで二人くらいべきばきなぎ倒せたのだが、だんだんに相手も強く粘っこくなってくるので見ているほうもぐったりする。 ふつうのひとだったらあんなことされたら軽く10回はしぬ。

ワイヤー吊りもストップモーションもない(たぶん)。 カメラは計8~16本くらいの腕と脚の動きを追うのにいっぱいいっぱい。でも見ないとやられちゃうから。
落着きのないダンスのフィルムを見ているようでもあるが、ダンスは相手の動きを継続させるためのものであるのに対し、こっちは相手の息の根を止めるためのものだ。 そういうダンス、といえないこともないけど。

音楽は、パーカッションの使いかたとか、ばったもんのNINみたいだったので誰? と思ったらLinkin P のひとだった(笑)。


もう6月かあ。 1年のおりかえしかあ。 なにやってんだろ。 (ひとりごと)

5.30.2012

[art] Damien Hirst, etc.

寝くじいて首がまわらなくて、口内炎もピークで、お腹もこわれてる。 なんかのバチだ、とか思ってはならないの。

もう美術展の残りはまとめて書く。

Design Museumを出て滞在しているホテルのほうへ、途中でtaxiがつかまりますように、と大きめの通りを歩いていったのだが、ぜんぜん来なくて、這うようにして部屋に辿りつき、荷物を置いて10分くらい横になり、でも夕方に仕事(お食事)があるので着替えねばならず、体力のなさをしみじみ呪いつつ、もういっかい外にでる。

Tate ModernはDesign MuseumとはLondon Bridgeを挟んで反対側にあって、これも川べりの中途半端な場所にあるので歩いていくしかない。
西に傾きはじめたおひさまの光とUVの直撃をくらいつつ、今日ってなんかついてないかも、とようやく気づきはじめた頃、とにかく着いた。

"Damien Hirst"

ごぜんにLucian、ごごにはDamien ♪

さて、大英帝国が総力をあげてお届けするDamien Hirstのレトロスペクティブ。
わたしは、ブリットうんたらとかがぶいぶい吹き始めた90年代の英国がはっきりと好きではなくて、だからYBAsも距離を置いてきた。
でもホルマリンの牛とか鮫とかだけは、なんか惹かれるのでつい、程度。

最初のほうの水玉模様とかでほんわかしていると、突然羊(?)の頭骨が床に置いてあって、さらにライブの蠅わんわんの箱があってその中に牛の生首がごろん、とか。
さらに厚いビニールのびろびろで仕切られた部屋があって、入ろうとするひとに、虫がだめなひとは止めたほうが... とか言っている。 
中はむんむんの温室で蝶とか蛾がぴろぴろ舞ったりしている。 まんなかのテーブルに蜂蜜みたいのを置いた皿があって、ちょうちょが群がっておいしそうに舐めているので羨ましかった。

ホルマリンは鮫も半分牛のでっかいのとちいさいのも全部あった。
それがどうした? なのであるが、なんだろうね、あれ。

あとは薬ケースのでっかいバージョンとかぐるぐるまわるやつとか。
きほんは、子供が見てもわーっとなる、ソリッドできれいな、そんなやつで、でもこれって「アート」として流通しているだけのあれよね、という印象は変わらなかった。 おもしろければいいかー、程度で。

展示の終端にあるショップがすごかった。
まさに成金ごきぶりホイホイ。 たぶんわざとなんだろうけど。 もちろん、なんも買うもんか。


"Alighiero Boetti: Game Plan"

イタリアのコンセプチュアルアーティストのTateでは初の回顧展。
有名な世界地図シリーズ(Mappa)が並んでいるのは壮観だったが、どちらかというとポールペンでかりかりこまこま描きこまれた70-80年代の絵画にものすごく惹かれた。
60年代を起点とするコンセプチュアルアートの運動(彼の場合だと、Arte Povera)を今のコンテキストに置きなおしてみる試み、ってもっとあっていいよね。

もうちょっと時間があればなー。
他には草間彌生の回顧展も有料でやっていたのだが、これも無理。
本屋でも時間なくて、Wes Andersonが表紙のSight & Sound誌と、"Lost in London"ていう雑誌だけ買った。

Tateを出たとこで奇跡的につかまったtaxiで、Victoria & Albert Museumに向かう。 
でも渋滞に巻きこまれて(ついてない)、入口に辿り着いたのは5時少し前。

"British Design 1948 - 2012: Innovation in the Modern Age"

メインのチケットカウンターは店じまいしようとしてて、おねえさんに、なんとしても見たいんだけど入れて、と言ったら、うーん、この展示はぜんぶ見るのに1時間20分かかるのよね、て返され、そんなのうそに決まってると思いつつも、だいじょうぶですがんばります、と言ったらじゃあ展示場のとこにあるチケット受付のとこはまだ開いてるはずなのでそこに行ってみて、と言われたので最後の力をふりしぼって廊下を駆け抜け(ここの廊下は前もなんかで走った記憶が..)、受付まで行ったら、そこのおねえさんに、あと40分で閉まっちゃうけど? と言われて、だいじょうぶですがんばります、と答えて中に入り、いつもの倍のスピードでぐいぐい流していったら10分で出口の扉にぶつかってしまったのでとってもびっくりした。

こないだのポストモダニズム展もそうだったが、大風呂敷系の展示が続いているV&A。
戦後の英国デザインを総括的に回顧する展示はこれが初めてだそうで、ま、御祝儀とかいろいろ浮かれているのだろう。

英国デザインだから見たい、ということはあんまなくて、ドイツでもイタリアでも北欧でも、好きなのもあれば嫌いなのもある。
かわいい犬猫はどこのだってかわいいし、かわいくないのはそうじゃない。

こういうのは、その国が、自国デザインをどう見ているのか、どう見てもらいたいと思っているのか、見てもらいたくないと思っているのはどんなのか、がわかるのでおもしろいの。

入口のとこにエリザベス女王の戴冠式のときのドレスとかがある。
でもファッション関係は出品点数も含めてそんなでもなかったかも。(これは別の展示↓のほうか)
全体の雰囲気は、かっちりしてて威風堂々、かっこいい英国を見せつけたい、かんじ。

だからパンク系は、SeditionariesもVivianもぜんぜんないの。

Aladdin Sane期のボウイ、山本寛斎によるステージ衣装がある。(でもこれ、British Designでよいの?)
衣装系だと、Roxy Music、フェリーさんの皮ジャン、イーノさんの羽羽(!)、マーク・ボランの金ラメ、とか。

レコードジャケットは、ボウイとストーンズとか、ふつうすぎる。
Peter Savilleは、さすがに彼のスペースが確保されてた。

音楽クリップで掛かっていたのは、SpecialsとPet Shop BoysとBlurと、あとなんだったか。

Damien Hirstの薬ケースはここにも置いてあった。 薬漬け。

最後の部屋はプロダクトデザインが中心で、かっこいい車(よく知らない)とか、BAのコンコルド(模型だよ、もちろん)とか、今やなつかしころころのiMacとか、そういうのがあった。 
プロダクトデザインて、自分にはほとんど興味の湧かない領域なのだな、と改めておもった。

でもあまりに適当に見過ぎてしまって英国に申し訳ないかんじがしたので、電話帳みたいなカタログ買った。(ただしソフトカバーのほう)

終わって、実はもういっこみたい有料の展示があって、そっちのほうに走ったのだが、もうだれーもいなくて入れなかった。
遠くから少し見れた程度。 それがこれ。

"Ballgowns: British Glamour Since 1950"

http://www.vam.ac.uk/content/exhibitions/ballgowns/
 
英国の50年代以降のボールガウンの、どこが、なんでそんなにすごいのかあんまよく知らないのだが、なんかよさそうだった。


んで、さっき、日曜まで滞在が延びた。 そうら、やっぱしばちだ。

5.29.2012

[art] Christian Louboutin

National Portrait Galleryから地下鉄でRough Trade shopまで出て、この恥知らず!というくらいアナログとか本とか買いこんで(だってあるんだも)、展覧会のカタログふたつとこれらでペンギンみたいになってしまったのでホテルに荷物置きに戻ろうと思ったのだが、ロンドン橋のとこで、このまま左折して川べりに歩いていけばDesing Museumがあるはずだから、とそのまま歩いて寄って帰ることにした。
のだが、あきれるくらい遠くて、暑さと陽射しで意識失うかと思った。 (日陰が多めだったのが救い) 

べつに靴マニアでもなんでもないのだが、Time Out Londonでもほめてたし、なんかおもしろそうかも、と。
場内は当然のように女性ばっかし。 いかにもなママに連れられた毛並のよさそうなガキもちょろちょろ。

階段のところから提灯みたいに靴がぶらぶらさがってて(あれ、ちぎって持って帰ったら売れるよね)、入口は沢山の木型がすだれみたいに掛かっていて、1階のフロア全部つかって、全体は見世物小屋みたいにほんのり暗くてあやしくて、真ん中にでっかくうねるランウェイがあって、ランウェイ沿いに靴が並べてあり、その奥にはでっかいスクリーンがあって、おねえさんが歌って踊る映像がながれていた。

靴はそこだけじゃなくて、いろんなところにいろんなふうに並べてあるのだが、どれもおもしろい。
履くとか歩くとか、そんなことよりも、木型のフォルムにめがけてぶち込まれた情熱とエナジーの量がはんぱではない。
かといって、成金趣味のぎらぎらしたかんじもなくて、要は靴作りがすごく好きなんだなこのひと、というのがよくわかる展示だった。

分量はそんなには。 伊勢丹の靴売り場みたいにいっぱいあるわけではない。
年代もブランドもランダムに、どちらかというとシェイプとか素材別に並べてある。
美術展であるから、そこらじゅう、それこそ10cmおきくらいに"Do Not Touch"て貼ってあるのだが、デパートのノリでつい手に取ってしまうおばさんも結構いたりする。 むりもないよね。

はじっこにカーテンで仕切られた更に薄暗い18禁ぽい部屋があって、そこに2007年、David Lynchとコラボ(Lynchがヴィジュアル担当)した"Fetish"のシリーズが展示されているのだった。 
かかとのメタルが30cmくらいのとんがったながーいやつ、とかがガラスのケース内に生き物のように入れられてて、歩くための靴ではない(たぶん)のだが、んーじゃあこれって、どうやってつかうのかしら? て目をぱちくりして振り返ったときにはもう遅い、そういう漆黒の世界が拡がっているのだった。 あのなまめかしさは、写真じゃわかんなかったねえ。 (だからFetishなんだ、と)

http://www.louboutin-fetish.com/accueil.html

午前に見たLucian Freudの絵のなかの登場人物たちが、これらの靴を履いたらどうか、とか。

あとは、Louboutinのアトリエの写真(たのしいガラクタだらけ)とか、本人が出演しているPV? CM? が流れているコーナーとか。

カタログがあるかとおもったら、こないだRizzoriから出た大型本がそれなのだった。(だから買わない)

[art] Lucian Freud Portraits

National Portrait Galleryで2月から始まっていたLucian Freudの肖像画を中心とした回顧展。
これこそが今回の渡英でいちばん、なんとしても見たかったやつだったの。
最終日が5/27のこの日。 当初予定していた日曜着のフライトだとたぶん無理、だったので一日早まってほんとによかった。

隣のNational Galleryから走りこんだのが10:40頃。 チケット売り場には柵があってそこそこの列ができていたので、並ぼうとしたら係のおじさんに止められて、列の終端はあっち、と指をさされたそのほうを見ると、階段の上のほうにまで延びるずらーっとした列が。
ばかばかばか、最終日にこうなるのはちょっと考えればわかったろうに、なんで最初にこっちに来なかったあほんだら、と頭を階段の壁にがんがんぶつけながら1フロア分上に昇って待って、でも11時には入れたのでよかった。

40年代からの線の細いフラットな人物画にだんだん肉がついていって、後期にもつながる人の独特のポーズ(あの獣みたいな横たわり方)やインテリアといったモティーフは50年代で既に(技術的にも)完成していたことがわかる。

60年代以降は肉とか皺とか、それらが肖像にとってなんであるのか、を床とか椅子とかリネンとかとの対比で示そうとする。肉のくしゃくしゃと布のくしゃくしゃは、カンバスの上ではどんなふうにちがうのか、とか。
Francis Baconにおける「肉」が情動とかオブセッションの動きに連動してダイナミックに変容を続けていくのに対して、彼のはあくまでスタティックに、そこにあるだけの、しかし屍肉ではない生きた肉に刻印として焼きつけられるなにか、を掬いとろうとしているように見えた。

それは単に説得力とか力強さ、といった印象だけでは片づけられない、そのひとの顔だちや肉があってそれがそのひとと認知されるその瞬間に頭のなかで起こるであろういろんなことを凝縮して示す、絵に描かれたそのひとがそのひと固有の表情を見せる直前のプレーンな顔 - そこにこそそのひと自身が現れるような -  を抽出しようとする、そんなような。 (彼はそこにDramaを作ろうとした、と)

これにくる直前、なんかあるかも、と思ってNational Galleryでレンブラントの自画像(若い頃のと老いてからの)を見ておいたのだが、どこかしらあれらに近い気もした。

00年代以降のは、"Big Sue"の連作も含め、ひたすらすさまじく、肉に乗しかかられて動けなくなるかんじ。 
肉や皺を貫いて骨も通り越して、ごりごりと固い存在そのものに到達してしまったかのような、異様な重さでもってそこにある絵画たち。
Kate Mossのはありませんでした。

上半期の展覧会、もんくなしのベスト。 カタログは当然、ハードカバーのを買う。


そのまま横の展示スペースで、"The Queen: Art & Image"というのも見る。 

Diamond Jubileeおめでとう企画(たぶん)で、エリザベス女王の肖像あれこれを50年代からざーっと集めて並べてみる。
ちなみにLucian Freudのチケットは、£14、こっちは£6。

50年代の、即位した頃の貴族か!(貴族だよ)みたいにかっこいい肖像画とか、Cecil Beatonの有名な王室アルバムはもちろん、年代順にいろんなアーティストの餌食になりつづけたその姿にはひれ伏してしまうしかない。 そういうのに加えて、これまでそこらのガキに教科書の写真に落書きされたりした分も含めて「アート」にされてしまった肖像の規模としては世界いちなのではないか。

もちろん、Jamie Reidの"God Save The Queen"のシルクスクリーンだって、ある。
他にはAndy Warholがあり、Gerhard Richterがあり、さっき見ていたLucian Freudもある。
(Lucian Freudの展示会場のほうには、彼が女王様を描いているところの写真だけあったの)

あとはHiroshi Sugimotoによる肖像写真(しぶい)、いちばん最近だとAnnie Leibovitzのが。

ほんとすごいなあーと思って。 
半世紀以上、ここまでいろんな芸術のネタを提供しつづけたアイコンて、前代未聞だよね。
だからこその女王様、なんだろうけど。

あと100年くらい生きてくれたらすばらしいのに。 
がんばれおばあちゃん、ておもった。

[art] Turner Inspired: In the Light of Claude

到着した土曜日は夕方なのにすごく暑くて、日曜日もその陽気が継続。 朝から逃げたくなるようなかんかん照り。

National Galleryでの有料の展示。
わたしはターナー好きのふつうの、平均的な日本人なので、喜んで見にいく。
12月のダ・ヴィンチ展の悪夢があったので、少し早めに行ったのだが、ぜんぜん心配いらなかった。

ターナーは死ぬ前に自分の作品の寄贈先と展示方法、特にNational Galleryに寄贈される作品については、大好きだったクロード・ロランの絵の間に置いてほしい、と特別の注文を出していた。(Tateとの調整あれこれをクリアしてこの願いが実現されたのは1968年)

ターナーというと、Tate Britainにあるコレクションがまず圧巻(あれはほんとに何回見てもすごい。単純に狂っている)なので、あっちかと思っていたのだが、こっちにもあったのね、でした。

この展示ではターナーがそこまで愛してやまなかったクロードとターナーの絵をざーっと並べて両者の影響関係を見てみよう、と。

クロードは17世紀のひとで、(フランス生まれだけど)ローマで風景画の基礎を作った、特に光を持ちこんで理想的な「風景」の原型を作ったと言われている。
それから1世紀以上後に生まれたターナーはクロードの光を含めた「風景」のありようを細かに分析し(その創作メモや模写デッサンも展示されている)、彼の構図をそのまま遵用したりしつつ、自身のスタイルを模索していく。 それはクロードの目に射してきた光をそのまま自身の絵に乱反射させるような試みだったにちがいない。 そこには、実際の(今自分の目の前にある)風景をいかにリアルに写しとるか、ということよりも、クロードが見た風景を、光を、いかに自分の「風景」に移植するか、クロードが多分に無意識的に追った光を自分もカンバスの上で追っていく、追ってみる、そういう、創作というより批評に近いような活動だったのではないか、と。

画面のまんなかに光のためのまるい空間、トンネルを用意して、そのまるい縁に沿って建物や樹木を配置すること。
それによって生まれるこちらの視野や瞳孔を拡げてくれるような効果、或いは渦の向こうにのまれていくような効果(→没落もの)が、風景(画)の見方を大きく変えてしまうことにターナーは気づいた。 どこかで。

こうしてターナーの絵は年を経るにつれて、絵のまんなかの光の円が大きくなり、光だけが突出して、やがて光の海に全てが飲みこまれるような方向に向かっていく。
これはターナーが光をそういうふうに見た、とからりらりに酔っぱらってなんでもよくなった、ということよりも分析対象としての光を彼なりに冷静に解析し咀嚼していった結果ではなかったか、と、そんなふうに思えるような展示になっていた。

展示作品のなかでいかったのは、ワシントンのNational Galleryから持ってこられた"Keelmen Heaving in Coals By Moonlight"。
ターナーの黄白色の光ではなくて、これは青白い月の光なの。 こういうのもいいなー、と。

んで、風景画の構成要素としてそれまであった主題と構図と遠近、これに加えて導入された「光」という要素はその後の印象派において、パンクさながらに炸裂していくのだった、と。

これの後で、 小走りで常設のJan van Eyckの『アルノルフィーニ夫妻』みて、Da Vinciの『岩窟の聖母』を昨年に続いて再び拝んで、レンブラントの自画像をいくつかみて、乳を垂らしたおねえさんに挨拶して、隣に行ったの。

5.28.2012

[film] Moonrise Kingdom (2012)

ロンドンは強い強い日差しの完全に夏で、目がまわって死にそうになる。
仕事で連れているひとがいたので、ホテルに入ってからお食事して、8時くらいに終わってじゃあおやすみなさいー、と手を振って部屋の扉を閉めて10分後、何事もなかったかのようにもう一回外にでてLeicester Squareに向かう。 9時過ぎても空は明るいんだよ。

先週、Moving Imagesでの試写にいったアストリアの住人に自慢されて悔しかったのだが、こっちに来たらちょうどやっていたので見る。
開始時間を9時だと思っていたら、9:50だった。 一番眠くなる時間なのにどうしてくれよう。
時間が少し空いたので、Foyles(本屋)まで歩いて、閉店直前のとこをざーっと見てGranta MagazineのBritain特集号だけ買った。

映画館はがらがらだった。 20人くらい。 土曜のこんな時間とはいえ、まだオープンしたばかりなのに、地下鉄にも結構ポスター貼ってあるのに。
でもなんとなくだけど、Wes Andersonの組みあげる世界のかんじって、英国人のセンスとは微妙にずれているかんじがしないでもないかも。  それ言ったら日本人にとっても同様だろうけど。

アメリカの東の上のほうのどっかの島に駐屯している(Camp Lebannon)ボーイスカウトの一隊のひとりSam (Jared Gilman)と地元の娘Suzy (Kara Hayward)がお互いを好きになって、逃げちゃえ、って逃亡するの。
で、仲間の子供たちとか、ボーイスカウトのリーダー(Edward Norton)とか、島のシェリフ(Bruce Willis)とか、娘の両親(Bill MurrayとFrances McDormand)とか、いろんなのを巻きこんだ大騒ぎになっていくの。 で、最後にとてつもない大嵐がくるの。

Wes Andersonの映画って、基本はxxごっこをやっているかんじで、つまりは、「こんなんなっちゃったりして...」とか「あんなんなっちゃいましたとさ...」、みたいのを延々冗談みたいに重ねていって、そんななかに突然、矢のように鋭く生々しい時間と瞬間 - そこにははっきりと永遠がある - を現出させてしまう、われわれはその手口に痺れてきたのだと思う。 それらは最初から合成着色料とか人工甘味料が満載の作りモノ、お菓子であることがはっきりわかっていて、でも彼が切り取ってみせる表情、ひととひとが向かい合ったときの動き、その動きの速さ、などなどに散々うっとりしたり、泣かされたりしてきた。 え? とか、なに? とかあっけにとられつつも、自分勝手でいいかげんな登場人物たちのお互いに対する揺るぎない思いとか妄信のなかには真実としか言いようのない美しいなにかがあって、だから彼らはいつだって死を恐れないし、たとえ死が引き裂いたとしても、へっちゃらなの。  なにがへっちゃらなのかはわかんないけど。

これまで"The Royal Tenenbaums"で一族郎党の物語を"The Life Aquatic with Steve Zissou"で探検隊を "The Darjeeling Limited"で兄弟愛とインドを、 "Fantastic Mr. Fox"でアニマル一家を描いてきて、こんどのはボーイスカウトと初恋と子供たち。 (コスチュームに対する偏愛ってあるよね、Wes Anderson)
いちばんきゅんとくる。 くるひとには。 こない人には当然こないであろう。

子供たちは大きな家の蜂の巣の中みたいに仕切られた部屋にそれぞれぽつんぽつんと暮らしてて、大人とは切れてて、本とレコードと猫が手放せなくて(これだけで泣けるねえ...)、ここと大人世界の中間にいるのがボーイスカウトなの。
そんななか、ふたりが逃げてふたりだけの世界をつくる入り江を彼らは"Moonrise Kingdom"と名付ける。

ふたりがここで過ごすシーンは、どこを切っても、なにからなにまで美しい。
最初のほうの猫とレコードプレイヤーから始まって、ふたりが両端からジャンプするとことか、Françoise Hardyで踊りまくるとことか、キスするとことか、ぜんぶすばらしいとしか言いようがない。

Wes Andersonのほとんどの作品を撮っているRobert D. Yeomanのカメラがよい。 絵本の淡い色彩なの。
Suzyの薄青のシャドウとか、緑のカナブンのピアスとか。

それに対して大人の世界は、いつものかんじで、でも今回は世界の向こう側(子供たちの届かないとこ)で、あたふた動き回る印象が強い。みんな鉄壁でうますぎるので全然心配いらないのだが。 今回はなかでもEdward Nortonが見事でした。 あの、子供みたいな老人みたいな表情と演技。

子供と大人、このふたつの世界が激突するクライマックスの嵐のシーンは、突然昔のノワールみたいになってしまう。("Manpower" (1941)とかあのへん) 
そして、こういう緩急のある波乱万丈の展開が、それ自体美しいひとつの絵本となって、子供たちの手から手へと、擦り切れるまで読みつがれて、語りつがれて、伝説をつくる。 Moonrise Kingdomはその真んなかにあって、やがて浮かびあがる月の光に照らされるのを待っているの。

会社とか仕事とか、ぜんぶやめて、レコードと猫抱えてどっかに逃げたくなった。

あと、音楽もすんごくよい。特にエンドロールのとこで流れるオーケストラの2品は必聴。
子供版チューブラー・ベルズ。











 



書くのはまだ先になってしまうかもしれないし、それまでに忘れないように日曜日の動きをざっとメモしておこう。

National Galleryで"Turner Inspired: In the Light of Claude" → National Portrait Galleryで "Lucian Freud Portraits" → 同 "The Queen Art & Image" → Rough Trade Eastでいっぱいお買いもの →  PoppiesでFish & Chipsとレモネード →  Design Museumで "Christian Louboutin" → 一旦ホテルに荷物置いて着替える → Tate Modernで "Damien Hirst" → 同 "Alighiero Boetti: Game Plan" → Victoria & Albert Museumで "British Design 1948 - 2012: Innovation in the Modern Age" → 仕事のお食事 → Empire Leicester Squareで "The Raid: Redemption (2011)" → 11:30pmにホテルに戻る。


5.26.2012

[log] May 26 2012

ああ時間がない、ぜんぜんない。

いま成田で、これからちょっとだけロンドンに行くの。

仕事は正味3日のやっつけで、遊んでいる時間なんてない。ないったらない。

日曜日いっぽん勝負。
日曜日発の便がいっぱいだったのね。 たぶん。

見たいもの、見れるものは決まっている。でも致命的に圧倒的に時間がなさすぎる。

この土日、ロンドンではATPをやってる。日曜日はAfghan Whigsがでる。
でもむりだ。 このくやしさの糞玉を誰にぶっけたらー。

しかもさらに、直前、日曜の晩に、むりやり捩じこまれてしまった。
計画ぜんぶ立て直しになっちゃったじゃねえかどうしてくれる。

やっぱし長期で行きたいよなー。

[art] ボストン美術館 日本美術の至宝

火曜日は、午前半休とって、久々の眼科でハンフリーだった。
いつも思うのだが、あれって低気圧だと結果変わるんじゃないか?

10時くらいに終わって、さてどうするか、だったのだが、映画を見ている時間はないので上野に行ってこれを見ることにした。 龍の年だし。

雨の火曜日の午前中なんて、そんな混むこともなかろう、と。
結果、美術好きのおじいさんおばあさん達にはそんなの関係ないことがわかった。
でもそんなに並ぶこともなくすんなり入れて、だがしかし、内部はぐっちゃり団子で。

ボストン美術館は、たしか2〜3回は行ったはずなのだが、あんま見たことがないのが割とあった。
ただもう、あのひと団子状態が耐えられず、こういうときはどうするかというと、動物探しをするの。 人とか仏はもう沢山、畜生が描かれたやつを中心になめていく。

だから、「吉備大臣入唐絵巻」だと牛がべちゃーっとしているとこしか、「平治物語絵巻」だとなにがなんだかわからない状態のなか、錯乱した牛とか、そんなのしか見ない。

「枇杷に栗鼠図」のキュートさにはたまんなくなるし、「松に麝香猫」の麝香猫のあの、麝香くさそうなにやけ顔はなんだ、とか。

「牧牛・野馬図屏風」の牛も馬も、家畜ではない、野良の肉感がすばらしい。

等伯の「龍虎図屏風」もいいよねえ。虎がむーんて右方向に念を送ると、龍がほほおうー、とか受けるの。 大喜利で、吹き出しをつけて会話させるとよいのに。

若冲の鸚鵡は、前見たことあった。しかし「十六羅漢図」、みんないかにも性格わるそうだ。

曽我蕭白コーナーの「雲龍図」は、たしかに、すごい。 あの角の線ときたら。 
しかしこれ、ど根性ガエルの元祖だよな。
あと、龍の鼻のあたりにある雲みたいのが心霊写真みたいでこわい。

でもこの龍よか、いちばん痺れたのは「風仙図屏風」の右のはじっこで 、びっくりして目を丸くしているウサギさん2匹だった。 ほんとびっくりしているの。

天気がああじゃなかったら、そのまま高橋由一まで走るところだったが、あっさり諦めた。


[music] The Drums - May.21

月曜日の晩、当日券で見ました。 恥ずかしい会社帰り状態。

この日、80年代に10代だったいま40代の啓蒙・世代検証・伝説好きのおじさんおばさんたちはみんな代官山のほうに行ったのだと思うが、そんなの行くもんか。

Girlsとおなじく初来日公演を見逃してたやつのリベンジ。 
あとブルックリンのバンドだから、というのもある。

ぜんぶで5人、ぜんいん子供の顔。 ガキというよりは。
メインのヴォーカルの子は、成長したダミアンみたいなかんじで、シャツのボタンを上まできっちりとめて、とくに乱れて踊りくるうこともなく、周囲を煽りまくることもなく、腰をくいくいする程度で、丁寧に歌っていく。  やたら「ありがとう」ばかり言っていたが、本当にそう思っていたのだと思う。

音はまあ、ベースがサーフィンなので、ずんたかずんた、の調子でずーっと走っていく。性急になることも、大波がくることも、大荒れになることもなく、ミディアムよかちょっと早め、くらいの速さを維持する。それをキープすることが肝心なのさ、と子供たちは真顔で言っているのだった。

で、その真面目さが終盤の"Forever And Ever Amen"まで来て、ぱーんとはじける。
それも、もっていったぜ、という力技ではなく、ふつうに花が咲きました、岩が割れました、というかんじで。 で、会場全体に大波を迎えた、きた! みたいな歓びがあふれるの。

1stしかちゃんと聴いていなかったのだが、音のかんじはあれよかどっしりみっしり、たまにベースが揺らいで、そこに反響板のようなギターが白い波を被せて散らす。

アンコール1回、1時間くらいしかやらない、でもわたしはこういう、地味に固いバンドが好きなんです。
The Walkmenとかもこんなかんじだよね。

あーなんか、もっとライブ行きたい。

[film] 王朝の陰謀 判事ディーと人体発火怪奇事件 (2010)

英語題は"Detective Dee and the Mystery of the Phantom Flame"。

日曜日、なんかないかなーと思って、でもくらくらだったので重いのはやだな、ということで1本だけ見ました。
王朝ものも陰謀ものもあんま得意ではないし、しかも中国の歴史が絡むなんてむりー、と思ったのだが、これはあきれるくらいにおもしろかった。

もうじき即位する女帝のお祝いに高くてでっかい女神さまの像が建てられようとしてて、その完成間近、建築現場の責任者がふたり、体から火を噴いて死んじゃうの(外じゃなくて中から。逆ローストレンジ)。 
なんでだろうーって皆の衆が言っていると、どっかから突然おしゃべりをする鹿さん(なんで鹿なのあなた?)が出てきて、判事ディーを呼ぶのじゃ、とかいうの。 判事は反逆罪で投獄されていたのだが、よくわかんないままに皇后の側近の女のひと(きれい、かっこいい)とか、地下都市に住む医者とかの仲間と一緒に捜査をはじめるの。

設定も必殺技も登場人物も、どれも微妙にありそうでなさそうで、でもそれらが塔を中心としたぐるぐるまきの中でダイナミックに動き回ることでぜんぜん「あり」な伝奇ものとしてこちらを引っぱりまわしてくれる。 中国の歴史をなめたらあかんのや。

体が火を噴いたって、鹿がしゃべったって、耳の裏のスイッチで顔がふにゃぐにゃ変わったって、ぜんぜんおかしくないの。
日本だと忍者とか忍法使うのかもしれないけど、基本は探偵捜査だからウソなんてありえなくて、全部ちゃんと説明できるんだから。

そしてラストのカタルシスがすばらし。破壊されたのではなく、恥辱のあまり崩れおちるの。
人は骨の芯から発火してしんじゃって、像は内側から崩れおちるの。

アクション全般、特に縦の動きの空気感がすばらしくよい。 ワイアーでぶんまわす、というよりも地面とか空がこちらに向かって飛んでくるかんじ。
これがあるから最後、重力のいいなりになって素直に崩れ落ちていく女神像がしみて、愛おしくなるのね。

あの虫、ほしいなー。
あれの変種が北西方面に伝播していって、トロールに取りついたんだな、きっと。

5.24.2012

[film] Au Fond Des Bois (2010)

土曜日、「草を刈る娘」のあとで、横浜に出て見ました。
横浜日仏学院シネクラブ presents 『森の奥』。

19世紀の南フランスの田舎、でっかい屋敷に医師の父と娘と召使が暮らしている。
娘は敬虔なクリスチャンのようだが、どことなくぼーっと日々を過ごしている。

そんなある日、彼女を遠くから見ていた男 - 片足をひきずってて猿みたいな、(当時だと)不可触賤民みたいな若者が家の扉を叩いて、父親は家に入れてあげるの。 言葉がしゃべれない(でもほんとはしゃべれる)その男は、不思議な力を持っているふうで、娘は気持ち悪がるのだが、翌日、彼に催眠術みたいのをかけられて犯されて拉致されてしまう。
彼女は当然泣き叫んで何度も彼の元から離れようとするのだが、そのたびに連れ戻されたり、戻らざるを得なくなったり、そんなぐさぐさの辛い状態で家を持たないふたりの放浪が続いていく。

始めのうち、彼女から見た彼は、ひたすら不潔で不気味で得体が知れない世界の向こう側からきた他者として描かれるのだが、旅が続いていくにつれて、こちら側とむこう側がゆっくりと反転していく。 つまり、得体のしれないなにか、が彼の側ではなく、彼女の側に転移してくる。 それと共にふたりの立場も単純な加虐(男)→ 被虐(女)ではないかたちに変容していく。 それがなんなのか、どこに向かうのか、なにがそうさせたのか、男にもわからなくなって、男は萎えるように力を失っていく。 そのスリルと恐ろしさ。 
いろんな光に溢れ、いろんな音(音響のとこにFrançois Musyの名前が)が鳴っている森の奥で起こるなにか。 とはなにか。

辛い旅が進んでいくにつれて、服は薄汚れていくのだが、肌が白いばかりでなんとなくぼよーんとしていた彼女の身体が、その顔が、どんどん透明に美しく、力強くなっていく。 その変化に相手の男もびっくりするが、見ているこっちも驚く。
彼の脚と絡まっていた彼女のすらっとした脚が、くるっとひっくり返るその瞬間、世界もひっくり返るの。
男が彼女を変えたわけでも、森の生活が変えたわけでもなく、おそらくは彼女が自分で変わったのだということ、それが最後のほうの凛とした顔つきに示されている。 その不思議を「森の奥」と呼ぶのかもしれない。

彼女を演じたIsild Le Bescoさん、すばらしい女優さんだわ。

南仏の風景のせいか、なんとなくRivetteの嵐が丘 - "Hurlevent"(1985)を思いだしたりもした。 あんな綺麗じゃないけど。

このシネクラブ、前回みたのは『僕のアントワーヌ叔父さん』でしたが(その次の『リグレット』は出張で見れず)、今回のもすばらしく当たり。 次も必見でせう。
しかし、こういう機会が余りにもなさすぎるねえ。 しかもやってるのは東京じゃなくて、横浜なんだよ。

5.22.2012

[film] 草を刈る娘 (1953)

土曜日は、昼過ぎまでお仕事で動けず、3時過ぎてからようやく1本見れた。
この日からシネマヴェーラで始まった『中川信夫の全貌』のなかから。
特に狙ったわけでも見たかったわけでもなんでもなくて、なんとなくやってたからさ。

原作は石坂洋次郎の『草を刈る娘』。
宇津井健のデビュー作だそうで、宇津井健といったらお父さんのイメージしかないので、お父さんたら、若い頃はこんな.. とか思いつつ見た。

年に一回、山の麓に大移動して1年分の馬草を刈って積んで帰る村の衆。みんなとにかく明るく朗らかで、なんかしゃべるごとにいちいち「あーっはっは」と付け足しで笑うのでなかなかうんざりする。そこのうるさいおばあさん(そでこ)が隣村のおなじようにうるさいおばあさん(ためこ)と、去年はあれとあれをくっつけてうまくいったから、今年は孫のもよこ(左幸子)と時造(ときじょー、と呼ぶ)をつがいにするなう、といやらしく企んで、彼らふたりは遠くの草むらに隔離されてしまうの。

ふたりは最初はぶつぶつ言っていたのに、なんとなく仲良くなって、ときじょーが大切にしていたライターを糞しているときに無くした、といったら彼女は、じゃあ糞の匂いを追っていけば見つかるじょ!と犬のように駆けだして行ってしまい、ほうれやっぱしおめえの糞のとこにあったぜ! と嬉しそうに戻ってくる。 ときじょーはそんな彼女を見てたまらなくなってのしかかってしまい、彼女はなぁにすんじゃわれー、と山猫の牙を剥いたもんだから流血して大騒ぎになるの。  

そんなほんわか楽しい農村痴話コメディなんですけどね。
まあみんな幸せになれるのならよいかあ。 あの「あーっはっは」はきっと心の底からのなんだろうなあ、いいなあ、と思った。

このあと、草むらを抜けて森の奥にいったの。

5.21.2012

[film] COLLABO MONSTERS!! (2011)

金曜日の晩、ユベール・ロベールの後、一週間前の残念だった天ぷらそばの復讐を上野の薮で果たして、そいから渋谷に行って見ました。

『TRASH UP!! presents コラボ・モンスターズ!!』ていうやつ。
http://www.collabomonsters.com/

どのへんが「映画の最前線」なのかあんまよくわからないけど、今の邦画ってほんとゴミみたいのばっかなので、よほどのことしない限り、じゅうぶん「最前線」になれるのだと思う。
見たのは以下の3本。

『kasanegafuti』27分

圓朝の怪談『真景累ヶ淵』がベースらしいのだが、圓朝のは随分昔に読んだきりで忘れてしまった。
男と女が一緒に暮らしてて、男は彼女と結婚したいので彼女の親に会わせろというのだが、彼女は、その妹も含めてなかなかうんと言わなくて、やがて男の父親が姉妹の父親を殺して服役中であることがわかるの。
単なる復讐譚に婚姻関係や父子関係という枠を上からすっとはめてみると、ほうらこんなに禍々しくどろんどろんになりました、なんででしょ? おもしろいなー、というお話し。

とにかく、おめでたい結婚がベースにある話のはずなのに、出てくる連中(特に当事者のふたり)がずっと暗い、呪われたような顔と目しかしていないとこが、おかしい。 「結婚したいんだから父親に会わせてくれよう」って暗い声でいうの。自分から呪いを呼びこんでいるとしか思えなくて、それはそのままそういう結果を呼ぶの。 でも話に変な跳躍があったりするわけではなくて、全ては起こるべくして起こる、でもなんかおかしい。 そのなんかひっかかってくるかんじを映像は過不足なく表現しているの。背中がよじれてくるような変な切り返しとか。

あと、冒頭と最後のほうに出てくる「淵」の映像がとにかくすばらしい。(撮影は芦澤明子)

『love machine』27分

小さい頃から女の子の尻を追っかけないわけにはいかない性分を持ったかわいそうな男子のお話し。好き嫌い、とか恋愛、とかいうよりも食べ物の形状がマッチさえすればとりあえず、取りにいく、食べにいく。 怒られても気持ち悪がられても刺されても、とにかくめげないしまったく陰惨にならない。
憧れていた親友の奥さんに手が届きそうになったところで、その奥さんが突然轢かれてしんじゃって、幽霊になってちょこちょこ出てくるのだが、恋するマシーンであるところの彼は、生死なんて関係なしに柵を飛びこえて向こう側に行ってしまうのだった。

これも落語にありそうな色男モノなのだが、どちらかといえば色機械で、情も因果も無縁で、主人公の顔も正にそんな、ひとりで死んでれば系のプレーンでどうでもいいかんじふうなとこがいかった。 マシーンならそうこなくちゃね、と。

『旧支配者のキャロル』47分

昨年見た『死ね!死ね!シネマ』 (2011) と同様、映画を真剣に撮るつもりがないやつは死んじまえ - 系のスポ根ドラマ。
映画学校にはいった女の子が卒業制作の監督に抜擢されて(映画のタイトルはここで制作される映画のそれでもある)、さらに憧れだった講師かつ女優のおばさんをキャスティングできて、がんばる。 でもそれはそれはありえないがんばりで、足らなくなったフィルムを買うために体まで売ったりして、で、がんばりすぎて絶命しちゃうの。

これはもちろんフィクションなので、過酷な映画制作の現場を考える/訴える、そのリアルさ確かさを云々するなんてことよか、支配者と被支配者間の、旧支配者と新支配者の間の殺るか殺られるかのぐさぐさしたやりとりを見るべきなのだろう。

映画で潰されることなんてないし、あってはならない、というまっすぐな彼女と、現場では心にスタンガンを持って臨むべし、と言って実質的に現場を支配してしまうベテラン女優の確執。
(松本若菜と中原翔子、このふたりの凄まじい激突、ここだけでもじゅうぶん見る価値がある)

でも、話が進んでいくにつれ支配者は、階層の最上位にいるのは彼女でも女優でもなくフィルムそのものであることがわかってくる。
映画の完成に向けて、フィルムのために心身を削っていく彼女と、フィルムに残ってしまうのは自分なの、だから中途半端に撮られたくないの!という女優と、どちらもなんか本質的ななにかを見失ったままぐるぐる回っているようだ。(それこそが支配の本質でもある、と)
そして、だからといって、そこに空虚な、やりきれないなにかが映ってしまっているということでは勿論ないの。 

だから映画はおそろしいんですよ、てこと?

5.19.2012

[art] Hubert Robert - Les jardins du Temps

終ってしまいそうだったので、金曜日の晩に少し慌てて見にいった。  『ユベール・ロベール-時間の庭』。
ここ(国立西洋美術館)って、たまにこういう渋いやつやるよね。ちょっと前のヴィルヘルム・ハンマースホイ以来かも。

これはユベールさんとロベールさんのユニット、ではもちろんなくて、18世紀のフランスの風景画家なの。
イタリアでお勉強して廃墟とかの変な絵ばっかし描いて「廃墟のロベール」て呼ばれて、国王の庭園デザイナーまでやって、最後にフランス革命で投獄されちゃったの。
そんな彼の作品をいっぱい所蔵しているヴァランス美術館の改築にあわせてごっそり持ってきた、と。

廃墟好き、チョーク絵好き、奇想系の絵好き、庭園好き、は見に行って損はない。
赤チョーク(サンギーヌ、といいます)の絵もいかったが、フランスに戻ってきてから描きはじめたでっかい変てこな絵がなかなか楽しい。
最初はちゃんとイタリアの遺跡とか建物を写実していたのに、フランスに戻ってきたら描く対象があんまなくなっちゃったもんだから、自分で好きにやってみることにする。 雲を森を樹を水辺を石を廃墟を遺跡を、そしてなによりも光を好き勝手に配置してみる。 そうするとひとの彫像とナマのひとの区別とか、なんかどうでもよくなってくるのね。

廃墟という、かつては栄えていたのにもうその役を終えて死んで、あとは崩れていくのみの、そこでの時間が止まってしまったものを、自然物の、四季と共に移ろい変わっていくあれこれの真ん中に置いてみることで、デザインのコントラスト以上に面白いものが、人間の考えだした「時間」というもの - 「時間」て人間が作り出したもん -  がだまし絵のように浮かびあがってくる。「時間の庭」というのはそういうのを言う。のかなあ。 
本人はぜんぜんそんなこと考えて描いたわけではないじゃろうが。

あとは、絵の真ん中に廃墟とか遺跡とか、そびえ立つどーんとしたものを置くことで、遠景とか奥行きとか、パースペクティブもなんか微妙に歪んで変になっているように見えたの。 時間だけではなく空間にも変な操作が。光とか雲の描き方もそういうふうで。 
造園なんてもともとそういうもんなのだろうけど。

でっかい絵のほんもんで見てみると、人とか結構稚拙なのがおかしい。
猿みたいに見えるひととか、牛のようにも豚のようにも見える(あれはたぶん)犬とか。
だから展覧会でじかにじーっと見たほうがよいです。

あと、洗濯女が多い。 洗濯女好き、だったのかしら。


5.17.2012

[film] Bridesmaids (2011)

月曜の晩、つい、という感じでだらだら流れて渋谷で見ました。 (あそこのビル、だいっきらい)
去年の5月、向こうで公開直後に見てから2回目、しかし本国公開時からもう1年も経っているのか...

この映画は何回でも見る。 おもしろいから、というのもあるけど、こんなおもしろいのに1年経たないと公開されないようなこの国で、今後Judd Apatowものが見れなくなってしまうのは、絶対にいやだから、チケットを買ってみる。 
"The Five-Year Engagement"も"This Is 40"も見れなくなるのは困る、耐えられない、いやだ。 (それと同じように、なんでPaul Ruddのって日本にぜんぜんこないのか)

昨年、BAMで行われたJohn Landis特集のトークで、John Landis先生は、この作品を2011年のコメディのなかで断トツでおもしろいとした上で、みんなが幸せになってしまうラストについて、最近のコメディ映画はみんなそうなってしまった、と嘆いていた。 破天荒に、アナーキーにぶっちぎって見るひとを呆然とさせるようなコメディは、今のマーケットのなかではリスクが高くてできないのだ、と。

先生の説に大筋では納得するものの、でもこの作品に関していうとなんか違う気もする。
あそこまでぼろぼろで救いようのない事態に主人公たちをゴミのように放りだしておきながら、Wilson Phillipsを導入して強引にハッピーエンドのほうに落っことしてしまう、これって十分アナーキーなことではないだろうか。 
結婚式とか葬式って、かなり強引なちゃらにしちまえイベントであることは承知の上で、それでも、見ているこっちは騙されて崖から突き落とされたような気分になって、なのにみんなはおめでとうーって笑っているので、大変へんな気分になる。

SATCは、ブランドも靴も男もみんな大好きだし必要だけど、でも女友達がいちばん最高なんだ、ていうお話しだった(おおざっぱ)。
こっちは、おれだってこんなにも屑でだめで最低の糞野郎なんだから心配すんな、こっちにこい、て抱きしめるお話しなの(おおざっぱ)。
でも、どっちも切実なんだよ。 女友達の大切さ、それがいかに特別なものであるかを、真剣に言おうとしている。

ひとつあげると、ミーガンが落ちこんでいるアニーのとこにいって、ソファの上でぎゅうーってのしかかるところ。ここにRyan Adamsの"Answering Bell"が被さるあたりって、ほんとしみじみ素敵だとおもう。

それにしてもKristen Wiigって、ぎすぎすした♀のかんじを出すのが最高にうまいよね。
それってもともとSNLの伝統芸でもあるのだが、ぎすぎす感を出し過ぎて疲れてどんより上乗せされた底なしの倦怠をちゃんと出す、それを演技と紙一重の微妙な線上で綱渡りできる、すごいひとだと改めて思った。 ("MacGruber" (2010) もおもしろかったなあ)

ちょっと前に買ってきたNew York MagazineのSpring Design特集にこれの監督のPaul Feigのマレーヒルにあるアパートがのってた。案外ふつーの趣味してた。

それよか、同じ特集には、Greta Gerwigさんのチャイナタウンのアパートが!
やっぱし猫がいた。 そして、”The Corrections”(原作:Jonathan Franzen、監督:Noah Baumbach)、なんとしても見たいよう−

5.16.2012

[film] The Black Power Mixtape 1967-1975 (2011)

日曜日も死んでて、夕方から新宿で1本だけ見ました。
向こうにいたとき、IFCでやってて見たかったやつ。

60年代末から70年代初まで、スウェーデンの放送局が米国におけるBlack Powerの盛り上がりをドキュメント映像として残した。
その素材を2011年、米国Brooklynの連中(主に)が、今を生きる人たちの証言を被せて、Mixtapeとして世に出した、と。

当時の声と今の声が共鳴しあい、当時の映像と現在の音楽(担当はQuestlove)がぶつかりあう。 
すんばらしくおもしろく、スリリングで、お勉強になる作品でした。

Martin Luther King Jr.  〜 Malcolm Xを経由し、"Black Power"という概念を広めた活動家Stokely Carmichaelのインタビューから入って、その後のBlack Pantherによる政党活動、これらが68年の闘争やベトナム戦争とも絡みあい、運動そのものが先鋭化していった時代 -更にUCLAの助教授だったのにレーガンによって投獄されてしまうAngela Davisさんの証言、ふつうの市民の発言、などなどを通して、あの時代とあの運動を概観し、かつ的確に切り取る。

よいのは異国であるスウェーデン(なんでスウェーデン?)の目を通すことで、変なバイアスがかかったものにはなっていないところ(勿論、異国であるが故のそれ、はあるにせよ)で、だから質問も答えも澱みなく核心を突いたものになっている。 タイトルから想像されそうな猛々しいイメージとか扇動的な発言はほとんどない。活動の中心にいる人たちの語り口はとても静かで穏やかだ。(最後のほうのLouis Farrakhanのだけ、ちょっと変だけど)

特に武装・非武装を巡ってなされるAngela Davisさんの発言の切実なこと。
目的と手段を取り違えるんじゃない、と。家のまわりに銃や爆薬を持って追ってくる白人たちがうろうろしている中、銃を持たずに生きていくことなんて不可能だったのだと。
差別反対! とかそんな幼稚なことは言わない。子供達を銃や麻薬から遠ざけておくにはどうしたらよいのか、というごく具体的な、普遍的な問いがテーブルの上に置かれる。

そして、その普遍性故に、この運動は現在に繋がる、繋がりうるのだと。
1%とか5%の富裕層が社会資本の大部を占めるような今って、あたりまえにおかしいでしょ、ありえないでしょ、という詩人のSonia Sanchezさんの静かな声で締まる。

これらの映像に被さる現在の声は殆ど音楽をやっている人たちので、それは意図的なもの、というよりとても自然なものだ。 彼らは映像のなかの昔の人たちの言葉を継ぐように自分たちで音楽を始めて、この映画のなかで、映像に向かって語り返している(対話が成立している)ようにも見える。

Erykah Baduさんの鈴のように美しい声(子供の頃学校で教わった歌をアカペラで静かに歌うところから入る)、Talib KweliやJohn Forté (The Fugees)の、やはり静かな、しかし力強い言葉たち。

そして音楽。Questloveさんの、あのかつかつした固いスネアを中心としたトラックが北欧としかいいようのない妙にスタイリッシュな映像(特に終盤の70年代のハーレムの、どこを切ってもR&Bのレコードジャケットになりそうな)に絡んだときの気持ちよいことったら。
ここにPublic EnemyやBad Brainsを流したらあかん、ということを彼らは知っている。

そんな、繰り返し聴いていけるMixtapeなの。

しかし、昨年の"Brooklyn Boheme" (2011)を見て、これ見ると、Brooklynのこの辺の人たちって、いま世界でいちばん理知的なミュージシャンたちではないか、とおもうの。

5.15.2012

[film] Lola (1981)

土曜日、ほんとは2~3本見たかったのだが、アテネのファスビンダー1本で終わってしまった。
この日からユーロスペースでポルノ特集も始まってて、でもなんか大がかりで人いっぱい来そうだし、なんか恥ずかしいかも、とか思ってやめてしまった。 そのうち行けはいいか、と。

今年、没後30年でいろんな特集とかお祭りが組まれる(んだよね?)ファスビンダーは、今いちばん見たがられている作家かもしれない。 暗いし、かっこよくないし、わかりやすくないし、1本1本ばらばらだけど。 
でもなんだろう、時代が求めているかんじがするの。 
だから今回のようなレクチャーがついてると、みんな行くよね。 

81年、ドイツ3部作のまんなか。
戦後の高度成長期のドイツ、土建屋と市長以下の官僚が癒着しまくりながらも発展しようとがんばる地方都市に新しい建設局長(フォン・ボーン)が赴任してくる。
清廉潔癖で紳士で汚職なんて関係なさそうな彼は、東プロイセン出の家政婦おばさんの娘のローラにぽーっとなるのだが、ローラは土建屋のシュッカートの妾で彼の子までいて、町の娼館で歌手として働いているのだった・・・

通常のファスビンダーの導線だと、フォン・ボーンはだんだんと道を踏み外していって最後は破滅して発狂して自殺、道連れにローラも、だと思うのだが、この場合はそうはならないのだった。 所謂Femme Fataleものではない。
一応そっちのほうに傾きかけるのだが持ちなおし(どっちに?)、最後、ポジティブに「自分は幸福だ」とまで言い切らせてしまう。

なにがそうさせたのか? ローラの魅力と強さなのか、フォン・ボーンの弱さなのか、高度成長期のいけいけムードなのか、制作された80年代初の雰囲気なのか、などなど。
すごいのは、筋書きだけを追うとハッピーエンドのはずなのに、ぜんぜん幸福なかんじがしないところだ。
彼に「自分は幸福だ」と言わせたのは、彼ではないなにか別の力ではないのか、という気がしてならなくなるの。

なにが主人公をそうさせたのか、を考えさせる力の強さが、そこらの映画と比べると(ファスビンダーの場合は)常に突出していて、しかもその分析の方向を主人公の特異な内面とか特殊な境遇とかではなく、社会とか世相とか、そっちの方に、更にそれを個人と社会、のような単線ではなく複数の網目としてガラス張りで見せてしまう変な気持よさ(変態のそれか?)、がある。
(これを演劇的、という人もいるのだろう) 

(あるいは、レクチャーにあったようにファスビンダーの各作品様式の比較分析を通して、内側からこれらの構造に迫っていくこともできるのかも)

こんなんでいいのか? と思わせつつ最後に幸せ方面に寄り切ってしまうエンディングは溝口健二の『赤線地帯』(1956)に似ていないこともないのだが、あの映画に出てくるのは基本いいひとばっかりで、そこでコトがころころ転がってしまうおもしろさ、みたいのがあった。 この映画の場合、はっきりと悪い - すごく悪いではないが - が出てきて、その小悪党が、普通のひとを捲きこむ、あるいは普通のひとが少しだけ悪いほうに歩み寄る。 んで、それだけではないところがまた始末に悪くて、この隙間に生々しく恋が絡んでくるんですよ。 娼婦にめろめろにやられてしてしまった真面目な壮年の男、という図が。

このなんともいえない始末の悪さがこの作品をハッピーエンドであるくせに居心地のわるい、でも十分にリアルなドラマとして成立させているのだと。 コンプライアンスだのなんだのをなぎ倒して垂れ流されていく愛のありよう。 
ファスビンダーが今も生きている理由はこんなところにもあるの。

ああやっぱし"Berlin Alexanderplatz"見たいよう。

5.14.2012

[film] Vivement Dimanche! (1983)

11日の金曜日、「おかあさん」のあとで天ぷらそばを求めて駅前に戻り(天ぷらそばしっぱい...)、日仏に戻ってみたら人で溢れかえっていた。

60周年の記念セレモニーがある、ということで上に登る二股の階段のとこがレッドカーペットみたいになってて、そこにフランス大使館の偉そうなおじさんたちがぞろぞろ集まっていて、その中心に女王さまのようにファニー・アルダンさんがふんわり浮かんでいる。 
ただの階段なのに、なんかの冗談としか思えなかった。

日仏には映画以外なんの御縁もないのでふーんと見ているしかなかったのだが、スピーチでおもしろかったのは、こういうとこに映画を見に来る人たちの顔は世界中どこでも同じようなかんじだ、ということをシネマテーク・フランセーズの館長のひとが言ったとこで、いやいやそれは自分のことじゃない、と目をそらした人が何人かいたはず(含.じぶん)。

式典のあとでいつものスペースに入れて、そこでも映画の前説があったのだが、誰がなにしゃべったか、そんなのよかファニー・アルダンさんのオーラにただただ圧倒されていた。 なんなのあの脚線、にっこり微笑みながら赤いバラを一輪右手にかざして。 そんなんであんた、49年(昭和じゃないよもちろん)生まれって、なんだよそれ、って。

トリュフォーはこれにやられたんだ、と。 アルダンさんのスピーチにもあったけど、フランス映画の監督は昔から、どいつもこいつも女性にやられ続けている(女性がいつも中心にいる)のだと。 そうだねえ、われわわも女性に全面降伏してなにもかも搾り取られた男がひくひくしている、そんなフランス映画を愛してきたのだなあ、と改めておもった。

そういうわけで、『日曜日が待ち遠しい!』(英題は"Confidentially Yours")であるが、冒頭の犬ころと一緒にこっちに向かってぐいぐい歩いてくるファニー・アルダンさんがぜんぶで、その勢いにやられっぱなしのまま最後までいく、そういう映画なの。

彼女がそのまま職場に入ったら、雇い主(Jean-Louis Trintignant)とのあいだでつまんない言い争いをして突然解雇を言い渡されて、そしたら警察が来て彼を殺人の容疑で引っ張って行っちゃって、そうしているうちに、第二、第三の殺しがおこって、彼女は仮釈放された彼をオフィスに隠して勝手に捜査をはじめて、周囲をあれこれ掻き回していく。

最初のうちは、なんで彼女がそんなことをしているのか、ピンボールの玉みたいにあっち行ったりこっちに来たりをやっているのかぜんぜんわかんなくて、それは上映前のトークで彼女が振り返っていた撮影当時のトリュフォーの指図「とにかく早く進まなければいけない、考える間を与えないくらい早く」にそのまま重なるのであるが、とにかく彼女は嬉々として犯人捜しの渦に巻きこまれていって、ほんとなに考えているのかぜんぜんわかんないのだが、最後の最後、モノクロの画面の隅々まで明かりが灯って、ああそういうことかと。 謎も仕掛けも鋭い推理もなんもないんだけど。

犯人と事件の全容がわかってのど自慢の鐘みたいのがかんかん鳴るのと同時にあたりがぱーっと明るくなり、それって恋ってことだったのね、というのが。 彼女が追っかけていたのは実は、と。

で、こんなのを見たら『日曜日が待ち遠しい!』になるに決まっていたのだが、実際の日曜日は立ち上がれず、日仏行けなかったの。 くやしい。

 

5.13.2012

[film] おかあさん (1952)

そういえば今日はおかあさんの日でした。 と、しらじらしく書いてみる。

金曜日はごご半休とった。 だるいしねむいししょうもないし。

午後が空いた場合の常として、まずてけてけ歩いてそこらの美術館に向かい『KATAGAMI Style 世界が恋した日本のデザイン』、ていうのを見る。
時間が迫っていたので20分勝負でがーっと流す。 最初のほうの日本の型紙はすごくよかったのだが、その後の世界展開のとこはあんまし。 すごいんだぞ! て言いたいのかもしれないが、文化の、とくにこういう文様とかイメージの受容/伝播ってそーんな単純じゃない気がする。 だってケルトの文様とだって似てるとこあるじゃん、とか。(←あんまちゃんと見ないで言ってる)

そこから日仏に移動して、見ました。
成瀬巳喜男の「おかあさん」は、もう4~5回見てて(うち、アメリカで2回)、どんだけ「おかあさん」好きなんだという話なのだが、そんなすごい好きでもないの。 でも、無料だし、日仏でトリュフォーとの2本立てで見る機会なんてそうないだろうから、見てみようか、と。
そもそも、ぜんぜん悪い映画じゃないしね。

当時の子供の綴り方コンクールの作文をベースに、会話も事件も最小限に、長女の読みあげる(語るというより読みあげる)、熱くも冷たくもない素朴な思いが、田中絹代と香川京子のこまこました目くばせとか切り返しに絶妙に絡んで、こちら側でなにかが起こる、向こうからやってくる。

おかあさんはえらい、すばらしい、大切にしないと、ということを切々と訴えるというよりは、おかあさんは大切である、という揺るぎない事実を父の死、長男の死、妹との別れ、などを通して、箒で部屋を掃き出すおかあさんの丸い背中の、そのやさしい丸さでもって示す。

ずるいよなー、と思いつつ、今回もやられてしまうのだった。

あと、香川京子に近づきたい平井パン屋のせがれ、岡田英次。 ピカソパンとかあんなの作るセンスがなあ、ぜったいもてないよ君。

この映画がなんでこの機会に上映されたのかというと、日仏が創設された60年前に公開された日本映画だからだそうで、しかし、あんなまだ荒れた野原が点々としてた頃(でも映画館はあったよ)に立ち上がったのかー、それはなんかすごいことだねえ、と思った。

映画のなかで、てっちゃんが「天ぷらそばを食べよう〜」と言っていたのがこびりついてしまい、次の映画までの間、天ぷらそばを食べることしか頭になかった。


[film] Le Gai Savoir (1969)

8日の火曜日の晩、相変わらす調子がでなくてさー、とか言いながら渋谷で見てかえった。

もうじき出る(出た?)『ジャン=リュック・ゴダール+ジガ・ヴェルトフ集団』のDVD箱は、昔だったら絶対買ったはずなのだったが、たぶん買わない。もうDVDは5年くらい買ってない。
買っても見る時間ないし、見る場所だったら映画館がいいし。

さて、「たのしい知識」。むかーし、同じ名前の『GS』ていう雑誌があったのだが、ぶあつくて面倒くさそうだったので結局買ったことなかったなー、とか。
英語題は、"Joy of Learning"。

たのしい。かっこいいー。 いじょう。

Jean-Pierre Léaud(役名はエミール・ルソー)とJuliet Bertoのふたりが、革命を起こすためにはいろいろ勉強せねばいかんー、お勉強はたのしーのだー、敵は思っている以上に賢いのだー、えいえいおー、というわけで、いろんなことをお勉強していく革命啓蒙教則ビデオ。

ゴダール自身のナレーション、ぴろぴろ電波系の電子音響に乗って、いろんなテキスト、広告、テレビ、コミック、メディアあれこれがゴダール・モードで右から左にわいわい流れていく。言葉と音、イメージの三者がそれぞれに自在に(ポップに)コラージュ/リミックスされ、そこに落書きとかト書きみたいのが被さって、画面は単なるアジびら以上の、安易な解釈と咀嚼を許さない特大のメッセージボードになる。

でも、デザインとかレイアウトという観点からすると、単にかっこいいーおもしろいー、しか言いようがなくて、語られる内容以上にそれらがフロントで突出しているので、口あけてほれぼれしている間に終ってしまう。

これが、われわれがよく知るところのゴダール革命のしっぱいのおおもとでもあるし、今となってはあまりにもあたりまえのゴダールなのだが、69年の時点でもうこんなことやっていたのね。
すごいったらすごいのだが。

あと、Jean-Pierre Léaudのつやつや髪の後ろ頭ととんがった嘴みたいのがついた横顔ね。
あんなのずるいや、とかおもった。

3Dになるというゴダールの新作が、どこまでたのしい知識してくれるのか、とっても楽しみだ。

5.12.2012

[film] 歌女おぼえ書 (1941)

連休あけでたるくてたまんないので、月曜日の晩に神保町で見てかえりました。

『清水宏の女性映画』の特集からのいっぽん。
歌女のお歌(水谷八重子)を含む旅芸人の一行が山道を歩いていってある宿に泊って、お金に困った一行はお歌を売り飛ばそうとするのだが、そこに居合わせた茶問屋の旦那がかわいそうに思ったのか彼女を連れて帰るの。

で、お歌は問屋の人たちからも子供達からも嫌われてかわいそうで、でも旦那さまのためにってがんばるのだが、そのうち旦那さまが突然しんじゃうの。

東京の大学から戻ってきた長男(上原謙)が店を建て直そうとするのだが、帳簿はぼろぼろで従業員ぜんぶに暇をだして自分も大学やめないとやっていけないことがわかる。
そんな彼にお歌は、弟と妹のふたりの面倒は自分がみるから大学はやめてはいけません、ていうの。
そしたら、彼のほうは自分と結婚してくれそれなら安心してふたりを任せられるし、ていうの。 (このへん、ちょっとびっくりする)

で、彼女は懸命に子育てして、昔つきあいのあったアメリカの会社との取引も再開できるくらいにまでがんばって、立ち直ったころに彼が大学を卒業して戻ってくるのだが、その日に昔自分を捨てた旅仲間と再会した彼女は、あたしを連れてって、と旅芸人の世界に戻ってしまう。(ここもまた、びっくりする)
突然消えてしまった彼女を彼は追っかけてきて、そいで。

最初のほうは、山道をぽつんと歩いて行く一行の遠くからのショットで、それだけで、あー薄幸の女のひとのお話だきつくて哀しそうだー、と思って見ていたのだがだんだんそんなかんじではなくなっていって、最後のあれは、めでたしめでたし、なのかしら?

お歌のクローズアップはほとんどなくて、彼女のぽつんとした小さい後ろ姿を収めた画面がほとんどなのだが、それだけでじゅうぶんすごい。水谷八重子がすごい、ということなのかもしれんが、安易に彼女に寄っていかず、徹底して彼女との距離を遠くから保とうとするカメラもすごいと思った。

べたべたしてなくて、でもさらっと泣けてしまうかんじが素敵でねえ。

しかし、上原謙はそんなにもてなかったのか。 いやとにかく一途だったんだから、ということ?

あんなふうにひょい、ってどさ回りに出たいなー。

[film] Le Gamin au Vélo (2011)

6日の日曜日、渋谷で見ました。

Bunkamuraのル・シネマってリニューアルしてたと思ったのだが、座席が指定になっていたくらいでぜんぜん変わっていないように見えた。 相変わらず無用に(案内とかの)ヒトが多いし。
Hikarieとかもそうだけどさー、箱作ればヒト集まるだろうみたいな発想そのものがブンカから程遠い、田舎モンのそれだよな。 いや、われわれはそうやってブンカを作るのです、とか言うんだよ。あーはずかしー。

それはともかく、『少年と自転車』。
タイトルとスチールから想像できそうなリリカルでエモーショナルなそんなのではぜんぜんない。
少年というよりはちっともかわいくねーガキが自転車が自転車が、ってじたばたする話しなの。
そのガキ(シリル)は父親がどっか行っちゃってそのついでに自分の自転車もどっか行っちゃって狂ったようになってて、その自転車を取り戻してくれたサマンサ(Cécile De France)に週末だけ里親になって、と頼む。 いきなり噛みつかれてとんだ出会いをしたサマンサなのになんとなくそれを受けてしまう。 やがてシリルは父親に捨てられて、サマンサからも捨てられそうになって。

いっつも赤いジャージと青いシャツを着て自転車を乗りまわすことしかできないシリルのタチの悪さに同情はしない。
癇癪起こしてばっかしでほんっとにかわいくねー。 ただ自転車がいればよいのかと。

彼がサマンサに懐いたのは彼女が自転車を買い戻してくれたからだし、彼がサマンサの言いつけを聞かずに襲撃犯の野郎のとこに行ったのはそいつが自転車のパンクを直してくれたからだ。
シリルはなんも言わない。 けど、あのタチの悪さはなんかわかる。

カメラはなんの判定をしようともせず、そんなシリルの赤い服を静かに追っている。
ガキの言い分なんて聞く必要はない。彼の後ろ頭からそっとのぞくようなカメラがぜんぶ。

でも、ラストはなんかいかった。 ちょっとだけほっとして、あらまあ、って。

あと、サマンサとシリルが川べりで2人自転車に乗って笑いあうところ。
あのシーンがあるだけで、あとはなんにもいらないの。 それくらいあれはすごい。

5.10.2012

[film] Tinker Tailor Soldier Spy (2011)

5日の土曜日に銀座で見ました。
4連休は、お天気のせいでぜんぜん動き回るかんじではなくて、1日1本がいいとこだった。

ロンドンのOdeonで9月に見てから2回目。 なんかちがうかなーと思って原作をもういっかいざーっと読み直したりしてた。

やっぱし原作のみっしりした砂時計の砂がちょろちょろ落ちていって、最後に落ちるとこに一気に落ちる、あの快感はなかった。
かつて一緒に働いていた仲間が割れて、ひとりは死に、ひとりは傷を負ってどこかに消えて、解雇されたひとりが味方ふたりくらいと一緒に昔の同僚の調査をはじめる。 
チェスの駒として置かれたひとりひとりがスマイリーに対して向ける肩越しの冷たい目線、その厳しさと辛さがまずあるの。 

冷戦時代のソ連、とくに宿敵カーラに対する憎悪は、それがなによりのモチベーションであるはずなのに、あからさまには出ないでスマイリーの無表情の奥に隠されたまま。 暖かく柔らかい色彩で繰り返し描かれる年末のパーティの場面(そこに幸福な時代がすべて詰まっている)と対比される冬の時代の過酷さ。 
でも表情にはでない。 それが仕事だから、とも言わない。 とりあえず。
基本は男同士の愛憎、長い歳月のなか、互いのイデオロギーを超えて培われてきた強い強い愛憎が不可避的に壊れ、剥がされていくさまを描いている。 二重スパイ、70年代英国、というのはそういうのの添え物でしかない。

そのまんなかにはなにがあったんだろう、と思う。 
国やイデオロギーに対する忠誠、手柄とか地位とか? そんな単純ではないことはわかるの。
まるで違うもんだけど、"The Social Network"(2010)で描かれたような男同士のありよう(Friends and Enemies)と比べてみてどうなのか、とか。

構成はシンプルだが、いろんな人物やエピソードがなんの説明も時系もなしに並べられていって、その流れというかモザイク模様がスマイリーのあのなんともいえない複雑な無表情に収斂していく、その描き方はよいかも。 
"The Social..."も、Jesse Eisenbergのあの無表情がなければ成り立たない映画だった。 

あと、これってやっぱり映画で、小説ではないんだなー、と改めておもった。 わかりにくいけど。

でもなー、ラストの追い詰めるところはもうちょっといろいろあってよかったかも。
隠れ家に向かうスマイリー達を静かに追っていた影とか。 もぐらが見つかったところでギラムが彼に激昂してつかみかかるとことか。
録音装置を確認するのに、原作では"Ol' Man River"を歌ったはずなのだが、あの詩はなんだろ? とか。

ラストはやっぱりジム・プリドーと子供のやりとりで終わってほしかったなあ。

5.07.2012

[film] Beresina oder Die letzten Tage der Schweiz (1999)

4日の午後にシネマヴェーラでみました。 お天気のせいで頭のなかぼろかすだったので1本だけ。

『ベレジーナ』。そのまま訳すと『ベレジーナ あるいはスイス最期の日々』?

イリーナはロシアからやってきた高級娼婦さん(本人はあんまそう思ってない)で、スイスの市民権が欲しくてたまんなくて(なんでそんなに欲しがるのかよくわからない)、ファッションデザイナー(Geraldine Chaplin)と弁護士が結託して政財界のお偉方の秘密とか交際関係を探るために彼女に市民権をちらつかせつついろんな客を紹介するの。

彼女のむっちりしたからだと天真爛漫な振るまいに客のすけべじじい共はみんな大喜びであれこれプレイをしてもらって人気者になった彼女のところにいろんな情報も集まるのだが、そのうちでっかいヤマにぶつかって、よくわかんないけど市民権(名誉市民権よ!)確実だわ、って家族を呼び寄せる準備までして舞いあがったところで、やっぱしこれはやばすぎるのでぜんぶだめ、強制送還、ということになるの。

彼女はくそあたまきて絶望して朝鮮人参の錠剤を(睡眠薬と思い込み)ウォッカで流し込んで、やけくそついでに客の退役軍人のおじいちゃんが言ってた伝説のコブラ団に電話してみたら眠れるコブラ達が目覚めてクーデターが発動されちゃうの。

東側の娼婦のおねえさんが騒いだら国まで潰れた、っていうブラックコメディなんだろうけど、今や(本作の製作は1999年)、ブラックでもなんでもないとこがなんかすごい。 
政財界とメディアがぜんぶぐるでコトを転がしていることも、そのぐるの図式とか構造がいろんな事故をきっかけに見えやすくなっていることも、コールガールが彼らにとってなくてはならないものであることも。 
要するにこんなの、今なら起こってもおかしくないんじゃないか、なの。 欧州の通貨危機とエロスキャンダルを連動させれば、国なんて潰せちまうんじゃないのか、とか。 やるなら今だ!

足んないのはコブラ団くらいだけど、これは今からでも作れそうな気がする。
国のため、子孫のために命を捨ててええ、ていうおじいさんたちを義勇軍とかいう名目で募れば、結構できてしまうのではないか、とか。 (実はもうあったりして)

ていう割と生々しい側面に目が向かいがちだが、これって力強い女の子の冒険譚とおとぎ話でもあって、ころころ変わっていく彼女の衣装とか挙動にじじい共がきりきり舞いさせられてざまーみろ、もあるし、ミュージカルみたいなとこもあるし、とにかく楽しいんだよ。

Renato Bertaのカメラは、女の子のぴっちりした衣装とかお肌のやらしいかんじの描写からラストの荘厳な戴冠式(案外まじ)までしみじみうっとりする。 こんな芸当できるのはこのひとのカメラだけだよ。

コブラ団が動き出すとこもおもしろいよねえ。みんなもうよれよれのおじいさん達なのに嬉々として銃とか持ち出して出かけて(人殺しに)いくの。

しかしこれがDaniel Schmidさんの遺作なの?
IMDBによるとアメリカでは公開されていないみたいだけど、これってやっぱし不適切、やばすぎ、と判断されたからなのかしらー。

5.06.2012

[music] Morrissey - May.3

シネマヴェーラを出たのが5時25分、ライブの開演は6時だったので結構ぎりぎりだった。

4.24のレビューに書いたとおり、今回の来日ツアーは1回見ればいいや、と思っていたのだが、連休前も中もあまりにひどい天候だし、映画のほかにあんま予定入ってないし、恵比寿なら台場みたいに消耗しないし、彼のライブも、愛想でまた来るて言うに決まっている(うん、言ってた言ってた)けど、その保証なんてもちろんどこにもないし、彼自身だっていつアサドの刺客にやられちゃうか知れないし、あとね、いまどき「一緒に死のう」って正面から言ってくれるひとなんていないのよね、 Bowieがいまあんなふうだし、とかあれこれ考えたのね。 ←要はひまってことよ。

6時きっかりに、"Let Me Kiss You"から始まる。 
曲間、背後のスクリーンには"Who is Morrissey?" て吹き出しで言ってるオスカー・ワイルドが。
バンドメンバーは上半身すっぱだか。 ギター番頭だけ、黒ラメのAlison Moyet。

音はZeppの最近のCDみたいに中域がみっしり詰まった結果粗めに聞こえてしまう田舎もんの音とは違って、こっちのがとっても繊細でよいかんじ。 ストロボすら控えめで好感がもてる。

本人もやたらご機嫌で"Welcome to the Tokyo Dome!"とか「どーもどーもどーも」とか、いろいろやってた。
しかしそんなことよか、彼のヴォーカルがとんでもなくすばらしかった。
どこまでも自在になめらかに伸びて、客席を極上のシーツで覆ってくれる。

特に終盤の"Ouija Board…" ~ "To Give … " ~ "Please, Please… "のあたりね。
あとは、"Shoplifters Of The World Unite" やってくれたし、アンコールも2曲やった。
24日の結構ぐさぐさしたモードと比べると、ほんとに穏やかでフレンドリーでまたね、だった。
アンコールの2曲にはっきりと。 "Come, Armageddon Come!" って。

ホールのステージ向かって左側の壁に時折、歌っている彼のシルエットが映るの。
背中を少し丸めて吐き出すように歌う彼の影があって、その足下に客の子達が携える花の影があって。
このひとは30年間こうやって、花を抱えた子供達の前で歌ってきたんだなあ、と思ったらなんだか泣けた。

とにかく戻ってくるからさ、と繰り返し言っていた。ぼくは飛行機で向こう側に行っちゃうけど、でも、ぼくは歌う - "I Sing" - と。 歌ってね。 聴くから。 一緒に歌うから。


The Smithsと同じ頃に最初のEPを出して、音楽ばかりではなく出版も映画も、チベット問題まで含めたIndependentな活動家として活躍されていたAdam Yauchさんが亡くなられました。
わたしはBeastiesについては、ふつーにすっげーとか言いながらライブに通ってぴょんぴょんする程度でしたが、彼らがTibetanで(今こそ再び!)、あるいは911直後の"New Yorkers against Violence"のライブでの実践を通して貫こうとした非暴力の思想を、あくまで自分たちの力で広めていこうという態度はぜったい継承していかなければいけない。

んでね、Beastiesの音って、追悼であがってきた動画あれこれを見ていて改めて思ったのだが、しんみりした感傷から最も遠いところでミラーボールとして輝いているのだった。 バカでやんちゃで落ち着きなくて、でも胸がすくほどかっこよくて。

追悼するんだったら動け! なんかやれ! と。 彼も彼の家族も言うことでしょう。 
心からお悔やみを申し上げます。

あ、映画に関して言うと、彼が設立メンバーであるOscilloscope Laboratoriesでの活動はもっとちゃんと評価されるべき。日本に来て当たったのは"Exit Through the Gift Shop" (2010)くらいですが、音楽関係だと、"Scott Walker: 30 Century Man" (2006)とか、"Who Took The Bomp? Le Tigre On Tour" (2011)とか、"The Other F Word" (2011)とか、文学関係だと"Howl" (2010)とか、"William S. Burroughs: A Man Within" (2010)とか、ここ数年の米国の独立系映画にすばらしい風を呼び込んでくれていたのです。

映画の冒頭にOscilloscopeのロゴと共にびにゅーぅんて音が鳴るとどきどきするんだよ。

http://www.oscilloscope.net/

そしていま、ここのTopに行くと、あのバンドのラストライブの予告が見れる。
彼の飼っているわんわん、かわいー。

このフィルムが日本に来ないんだったら、もうまじでこの国を棄てる。

5.05.2012

[film] Glen or Glenda (1953)


3日の午後、"The Honeymoon Killers" (1970)に続けて見ました。

「史上最低の映画監督」としても名高いEdward D. Wood Jr.の最初の長編監督作で、服装倒錯者(ここでは女装したがる男性)を正面から堂々と擁護すべく、監督自身が(Daniel Davisという名前で)男性のGlenとその女装版であるGlendaを演じている。

ベラ・ルゴシ演じる科学者が服装倒錯という非自然(と自然)とその是非を、科学者というより神様目線で論じ、その下の現実世界で服装倒錯故に迫害されて自殺してしまった若者(彼の名前はPatrickというの)を題材に警部と大学の先生が服装倒錯のいろんなケースについて語り合うの。

そのひとつがGlenとGlendaのやつで、彼は性的にはヘテロで彼女との結婚を前に自身の性癖を告白すべきかどうか悩んでいて、これは先生を入れた3人のカウンセリングで解決する。 もうひとつのケースは身体的に両性を持ってしまっていたAlanとAnneのやつで、これは大変な手術をしてなんとかする。 これらは大学の先生が間に入ってたまたま救われたケースで。

映像としては悪魔みたいのが出てきたり結構無茶をしてめためたなのだが、基本トーンはほんとに真面目に真剣に「女装してなにがわるいんだ?!」という魂の叫びを世界に(世界に!)ぶちまけている。
だから映画は、Glen/GlendaとAlan/Anneのうまくいったケースはともかく、これらに当てはまらない世界中に何万といる迷える子羊たちをどうしたらよいのか? という問いかけで終ることになるの。

そうはいっても、53年にこんなことを、こんな映像で訴えてもどうにもならんことは作った側にも十分わかっていたのか/或いは、どうやって訴えたらよいのやら途方に暮れていたのか、映像は軽くてつぎはぎで半端で錯綜しててしょうもない。(←だからいろんなWorstに)
でもおもしろいよ。 稲妻の音がずっとごーごー響いていたり、バッファローが走っていったり。

で、映画のなかで死んでしまったPatrickくんの無念に応えるべく、おなじPatrickを名前にもつ彼の歌を聴きに恵比寿に向かったのだった。

[film] The Honeymoon Killers (1970)

3日は、シネマヴェーラで2本みました。
このたびの天気には心の底から失望した。 あんたなんか、あんたなんか。

The Honeymoon Killers、つうたら70~80年代のベルギーのバンド(Crammed Discsね)か、Jon Spencerの副業バンドか、そんなもんかもしれないが、この映画のが先なの。

40年代に実在したカップルのほんとにあった事件をベースにしてて、このふたりは少なくとも12人の女性を殺したとされているのだが、映画に出てくるのはその一部だけ。

もっとジャンクで荒れてて救いようのない世界が広がっているかと思ったら、ぜんぜんそんなことなかった。 モノクロでシンプルで落ち着いてて、ちょっとだけ強い愛が描かれたすごく繊細な映画だった。 ガレージなんてとんでもない。 音楽はマーラーいっぽんだし。

厳格で真面目な病院の婦長さんのMarthaは、友達に進められて文通サークルに応募したら、結婚詐欺を生業にしているRayと知り合って恋に落ちてしまう。 彼の仕事がそんなんだということを知った後も彼から離れることはできなくて、彼の姉とか妹ていう役割で彼の縁談にくっついていく。
Rayの相手からお金を騙し取るまでは縁談を進めていくしかないのだが、時として嫉妬の炎が燃え上がり、それに応じて綻びが出て収拾がつかなくなり、うるさいなーというかんじで殺してしまう。

ぜんぜんぱっとしないまま真面目に生きてきた彼女がやくざなRayと出会って彼なしではいてもたってもいられなくなり、彼の方もうざいなあと思いつつそんな彼女が愛おしくなっていく。
ふたりの貧しくてしょぼい佇まいやしょうもないやりとりも含めて、ダウナーな恋愛のリアルがしっかり描かれていて、犯罪はその裏返しでしかない。 その裏返ってしまう、裏返らざるをえない苛立ちと切実さがこちらに刺さってくるの。

中盤の、思い詰めた彼女が海に入っていってトドみたいに溺れて、彼がたまんなくなって助けに行ってしまうとこ、それ以降、テンションはぐいぐいあがっていく。犯罪に向かうテンションではなくて、ふたりの関係が第三者によって壊されるか壊されないかていう、そういうー。
終わりのほう、ほぼ彼女のほうだけに寄っていくカメラ、そこにはもう彼女の暴走していく想いみたいのしか映っていない。

今これをリメイクするなら、MarthaはLena Dunhamさんにやってほしい。でも彼女最近きれいになっちゃったからなあ。 Rayのほうは、誰かなあ…

日本でやるなら、Marthaはマツコだろうね。

5.04.2012

[film] 東京の女 (1933)

とにかく天候がこうなのでもうどうしようもない。
連休前なのにぜんぜん盛りあがらなくて、溜息しかでない。 
しょうがないので帰りに神保町でサイレント見て帰りました。

最初のが「和製喧嘩友達」 (1929)。 15分くらいしか現存していないフィルムで、仲良くふたりで暮らしている男同士のとこに家なき娘がやってきて、娘が近所の男めっけて出ていっちゃうだけの話しなのだが、よかった。  ふたりの「喧嘩」があんまなかったのと、どの辺が「和製」なのかとか、謎もあったりするのだが、ラストの機関車と車の追っかけっこだけで十分すばらし。あんなの和製どころかもろアメリカ映画じゃねえか、とか。

それから「東京の女」。 こっちは47分。

姉(岡田嘉子)と弟(江川宇礼雄)の仲良し姉弟がいて、弟と仲のよい娘(田中絹代)は兄妹で暮らしていて、ある日、姉が水商売で働いている疑惑が持ちあがり、それを田中絹代から聞いた弟は激昂して取り乱して出てっちゃって、そのまま自殺しちゃうの。(ちょっとびっくりしたわ)

筋としてはそんなもんなのだが、後に残された女ふたりのかわいそうさと、体裁ばかり気にする男共のばかさ情けなさがしみじみと、強く残る。
もともと小津の映画に出てくる男性(特におやじ系)て、やらしくて愚鈍な連中が多いのだが、これもほんとにそうで、それにひきかえ、女優2人(ふたりが演じる2人)のすごいこと。 田中絹代なんてほとんどびーびー泣いているばかりなのに(そして泣き声や嗚咽なんて聞こえてこないのに)、あの泣き顔のすごさはなんなのかしら。

道路をすーっと這っていくカメラとか、時計とか、なかなか謎のショットも多くて、それもいいの。
ラストのあそこには弟の幽霊が映っているのが見えるの。

特集後半の『清水宏の女性映画』も見たいけどなー。


[film] Swamp Women (1956)

シネマヴェーラで始まった待望の『妄執、異形の人々 海外篇』。
まさに待望であったし、ラインナップはすごくがんばっていること全く異議なしなのだが、でも洋画ってそもそも全面的に妄執が支配する世界だよね、ヒッチコックだってブニュエルだってキューブリックだってみんなそうじゃん、とか思った。

なんてぶつぶつ言わずに火曜日の晩、これ1本だけ見ました。
5月のしょっぱなからこんなの見ていいのか?  でもどうせ沼みたいな陽気だからいいの。

こないだの夜コーマン、エロ篇だった『残虐全裸女収容所』(1972)に先立つこと15年くらい前、コーマン本人が監督した女囚脱獄モノはどんなものだったのか、と。 邦題は『女囚大脱走』。

上映されたフィルム上のタイトルは"Cruel Swamp"てなっていたけど、そっちもありなのね。

モノクロ、緊縛の劇画ふうイラストから入った中味は、すんごく軽い。よくもわるくも。
ダイヤ強奪事件で投獄されている女囚グループが強奪時に隠したダイヤのありかを探るべく囚人に扮して潜入した婦人警官の手引きで脱獄して、ルイジアナの沼地をずるずる行くの。
途中人質とったり、ワニに襲われたり、ヘビに襲われたり、いろいろあって大変なの。

映画としてのテンションというか盛り上がりだと 『残虐全裸女収容所』のが断然上なのだが、これはこれで悪くない。 
要するに、ホットパンツはいたおねえさんたちが沼でのたくる姿が見たい、それだけで作ったんだ文句あるか、て言っているの。 文句ない。
実際、取っ組みあって殴り合うシーンはべきべきぱちぱち結構痛そうだし、ほんとに泥でぬたくってて楽しそう、じゃない大変そう。どれも必然あんまないんだけど。

でもさあ、あんな蚊とか虫とかいっぱい集ってきそうな河べりでわざわざズボン切って短くしないだろ、とか突っこみどこは満載で、女の子を一瞬で丸呑みするワニってどんだけでかいんだ、とか、そもそもボブって誰だったんだ、とか。 

うん、一番の謎がボブだったのよ。 それでいいのか? と。

5.02.2012

[film] Small Roads (2011)

ほんとは午前のに続けて京橋で5:00から清水宏の『踊子』(1957)を見ようと思っていたのだが、毎年恒例の『イメージフォーラム・フェスティバル』でJames Benningの新作がかかる(東京の上映は1回きり)というので、こっちにした。 なんであんな半端な場所でやり続けるのか、毎年この時期になると不思議に思う。で、すぐに忘れる。

James Benningさんの新作は昨年のNYFFでもかかって、あーあ(見たかったよう)、だったのだが、それとは別のやつ(あっちのは"Twenty Cigarettes"ていうの)だった。
でもしかも、あの、"RR" (2007)の姉妹編だというのであれば、見るしかないではないか。

"RR"はRock'n Rollではなくて、Railroadのことで、映画はアメリカのいろんな線路と、その上を走るいろんな電車を固定のカメラで43カットぶん撮ったやつを、ナレーションも音楽もなく、ただ繋いで見せるだけ。 じぶんは電車マニアでもなんでもないのだが、レールの上を音をたてて電車が走って画面から消えていく、これだけで意味もなく高揚してしまうのだった。 理由はいまだによくわかんないけど、まじで"Unstoppable"とおなじくらい盛り上がるのよ。

こんどのはレールではなく、車道。 タイトルをなんで"SR"にしなかったのかはわからず。
あと、"RR"は16mmで撮られているが、今度のはDigital撮り。
"Small Roads"なので、でっかい幹線道路ではなく、ローカルの、小さい、二車線くらいしかない道路。 道路の右脇か左脇のどっちか、目線くらいの高さにカメラを固定して、道路の上を車が走りぬけていく。 車は向こうからやってきて手前に消えるか、向こうに去って消えるかのどっちか。 
円盤はこない。 怪獣もこない。

"RR"の場合、電車は必須だったが、今度のはそうでもなくて、待っていたけど車が来なかったショットも結構ある。遠くで人が横切ったり、止まっている車に人が丘から降りてきた人が乗りこむ(お手洗い?)、というのもある。
出てくるのはぜんぶで47ショット, 合計103分だからひとつで約2.19分。 一番多く車が通ったショットで、7台。 1台~2台通るのがだいたい平均。そんなSmall Roadたち。
おいしい、と思ったのは、道路脇の線路を電車が通って、それに併走して車が2台向こうに行って、更に向こうから1台くる、ていうやつ。 わぉ、てかんじだった。

"Two-Lane Blacktop" (1971) - 『断絶』が走り抜けていったのも、こういう道路のこういう風景だった、はず。

道路の周りにはいろんな植物(でっかい樹とかサボテンとか)があるし、土も黒だったり白だったり、いろんな鳥だの虫だのが鳴いていたりする。そんなのどかな風景の右側とか左側の奥とか遠くで、わーんてかんじの人工音が聞こえて、それがだんだん大きくなって爆音になり車と一緒に転がって消えていく。
ほんとこれだけなんだけど。 なんなんでしょう。

あと、景色は春から夏、冬へとだんだん変わっていくの。
最後の冬のほうは、ほんとに寒そうで車もあんま来ない。
ヨセミテみたいなでっかい樹があるとこの雪景色のなかの道路で1台、わーんと走って向こうに消えて、しーんとなったとこで、突然ゆらゆらがたがたみんなの携帯の警報がぶにょぶにょ鳴りだして、天井がみしみし言い出したとこで、丁度映画が終った。(あまりのタイミングに場内爆笑)  

はい、アメリカは以上、日本には地震があるよ、て言われた気がした。 


[film] へうたんから出た駒 (1946)

『地獄門』を見にいったときにNFCのパンフを見て、なんかやってないかなーと思ったらこれやってて、題名(へうたんだよ、へうたん)に惹かれて、見ました。
ほかに理由はあんまなくて、11:00始まりだし、日曜日ってこういうので外に出ないとずーっと寝たままで終わっちゃったりすることあるし、程度の。

冒頭の屋根の上の猫ショットがすてき。
焼野原の戦後の(たぶん)東京で、バラックみたいなとこに寝泊まりしている男二人 -熊蔵と三平 - たぶんゲイじゃない - が近所の同様のぼろ屋にいる母娘(母は病で寝こみがち)のために食糧を調達してやらうじゃないか! て買出し電車に詰め込まれて町 - ではないどっかの郊外に行って、食糧を分けてもらったり買ったりしようとするのだが、いいひともいれば変なひともいたりして振り回されてばかり、なかなかうまくいかない。 でも懲りない。

そのうち、元軍人の裕福そうなおうちの先に掘ってあった防空壕に逃げこんで入っちゃったら、そこにはずるして蓄えてたとしか思えない食糧とか酒とかがじゃらじゃらいっぱいあって、なんも考えずに呑んだり食ったりしてご機嫌になって、というお話し。 Occupy! movementに先駆けること60年前の、1%のお金持ちをやっつけろ! 格差転覆革命ムーヴィーなのだが(うそ)、そういうのよか、貧乏だけど暇とかいっぱいあるしだらだらしてていいなー、くらいの。

ほんとの見どころは、でこぼこしたまぬけな二人の踏まれてもぜんぜんめげないほんわかしたやりとりにあるのだろうが、そういうのよりも、この頃ってヒマはあってもモノがないし、瓦礫ばっかで大変だったんだろうなー、とかそっちのほうに行ってしまう。なんもないとああいうやりとりになるしかないのか、とか。
こういう、大金持ちと貧乏人が絡むコメディって、こないだ見た"For Heaven's Sake"(1926)もそうだったけど、からから楽しくすっこ抜けてて、なんかいい。

で、「へうたんから出た駒」ってどういう意味なのか、いまだによくわからないの。