1.31.2015

[art] 岡崎京子展 ー 戦場のガールズ・ライフ

25日日曜日の午前、世田谷文学館で見ました。
世田谷文学館、これまでなんども行こう行かねばと思いつつ、世田谷線~京王線の旅が面倒でこわくて不安で踏み出せなかったやつを、ついに。

岡崎京子さんのイラストを最初に見たのは雑誌「ポンプ」の頃(展示されていた号もよく憶えてる。実家にはまだ残ってるかしら)で、それは当時のどんなNWやポストパンクのアイコンと比べても圧倒的に女の子としてかっこよくて素敵でぼんくらはみんなぽーっとなるやつだった。  「彼女の描く女の子みたいな女の子」がいつかどこかに現れることを信じたぼんくらども - 「東京ガールズブラボー」の犬山のび太は自分だ、と思ったぼんくらども - でもそんなのどこにもいない -  は決して少なくないはず。 ツバキでも間違いなくすれ違っていたはずなのだが、当時の自分は誰とも目を合わせようとしない糞野郎だった(ツバキで憶えているのはかかっていた音楽だけ)ので勿論面識なんてなくて、漫画は「バージン」くらいまでしか読んでも買ってもいなくて、それってなんだったのか、というあたりを書いてみたい。

読むまでもないことだ、というのがあった。絶対安全剃刀で、彼女が描いているものに関してはきれいなものでもきたないものでもしょうもないものでも、そういうもんよね、という地続きの安心感が常にあって、そのくせ同時代/同世代的な共感、みたいなものを極度に嫌う傾向があった。 世代論を語ること、世代論の肥やしにしてしまうこと、そういうふうにして80年代を語ってしまうことへの嫌悪、というか、そういうのを語りだしたらにんげんおわりだ、みたいのが常にあった。
いくら80年代を(or 90年代を)よかったすばらしかったと言おうが、今がこんなにクズでさいてーならどうしようもないじゃん? とか。 80年代が今の世界のこのひどい腐れようと無関係だなんてぜったい言えない。

とにかく、けっか、岡崎京子を読むことでそういうサークルに括られてしまうことが嫌だったのだろう。「根拠レス」とか言いながらなーんで文化や時代の後ろ盾を共感だのつながりだのを求めるのよ、と。 寄りかかってんじゃないわよ。 そういうおしゃべりに加わるくらいなら、他に見るべきもの読むべきもの聴くべきもの、お勉強することは山ほどあって、歯向かうべき敵は確実にむこう側にいるじゃないか、と。

だから90年代以降に「みんな」とか「リアル」とかいう言葉でべちゃべちゃした囲い込みだの馴れ合いだのが始まったときはほーんとうんざりで、でも、そんななかでも、岡崎京子はだんぜん岡崎京子だった。(はずだ。読んでないけど)(「みなさん」「みんな」については展覧会カタログの小沢健二のテキストがおみごと - 「みなさん」に対峙する戦術として現れた最近のフェミニズム、とか)

その圧倒的な軽さと女の子っぽさ - “ザマアミロ” と ”ざけんじゃねえよ” - をもって、”言っちゃった”と”やっちゃった”の原理主義で、ケツをまくって駆け抜ける線のしなやかさとかっこよさを存分に堪能できる展示だった。
だからこその「戦場のガールズ・ライフ」であり「あたしは、あたしがつくったのよ」宣言なのだった。

時代が岡崎京子を作ったわけではないし、岡崎京子が時代を作ったわけではないの。
あたしをつくったあたしがいるとこ、その場所や時間をどう名付けようが、そんなのどうでもいい。
(だから「時代」に対置されがちな「日常」ていうのもあんまし、ね)
そして男どもは、どこまでいっても蠅のように汚くてうざくて、更にどうでもいい。

それにしても「新作」の、 “To Be Continued”の彼方に聞こえる高笑いの痛快さときたら。

音楽もがんがん流しとけばよかったのにな。

[film] National Gallery (2014)

18日の日曜日の午前、ぶんかむらで見ました。げきこみ。まあ、そうか。

Frederick WisemanがロンドンのNational Galleryを撮る。
そんなのおもしろいに決まっている、のだが、期待をはるかに超えて、おもしろさが渦を巻いて、あの美術館にいるときの「ああ時間がないのに見たい絵はこんなに」の焦燥が蘇ってしぬかと思った。180分? ぜんぜんたんない。

通常のWiseman作品であれば、Galleryで仕事をする人々いろいろとか、Galleryでの仕事あれこれ、とか、その仕事場で巻き起こるいろんな出来事とか、そういうのにフォーカスしていくはずなのだが、Galleryで絵を案内して語る人々、その眼や言葉を通して、その先にある絵画、美術館の光のなかに置かれた絵画と、場合によってはそこに描かれたヨーロッパの17世紀とか19世紀の世界にまで踏み込んでいく。 その地点から、その世界に没入している現代の人々の姿を浮かびあがらせる。

過去の世界に遡らない、時制フリーであるがゆえに語りうるいまここの垂直方向のありようを、そのあるいみ定常的な、普遍的な仕事の形を表に出す、というのがWisemanの映画の世界なのだと思っていた。 が、絵について語るひとの語りの豊かさおもしろさが絵の世界に点滅する光、彷徨える影、生々しい魂の交錯、などなどを語り、そこにもうひとつの像をつくるの。 絵を見つめる人、絵を模写する人、絵を語る人、絵を踊る人、それぞれの美しさ、そして絵のフレーム - そこに重なる人の像 - それを包みとる映画のフレーム、この投射の重なりと連なりの美しさに気付いたとき、この映画は実にみごとに映画になった。

そしてNational Galleryはそういうのが頻発する地雷原みたいなところなの。館員が館内に地雷を撒いているの。

こういうふうにして例えば、Camille Pissarroの”The Boulevard Montmartre at Night” (1897)が、Peter Paul Rubensの”Samson and Delilah” (1609-10) が、Rembrandtの”Portrait of Frederick Rihel on Horseback” (1663)が、その表面と背後にあるなにかが語られる。 美術の授業で散々やったような内容も一部あったけど、なんど聞いても言葉の遷移が眼の裏側に滲みていく爽快さは変わらない。

あとは特集展示の場で起こるマジックと、そのとんでもなさ。
映画で紹介された展示のいくつかは、幸運なことに現地で見ることができた。(このログのどっかにある、はず)

・”Vermeer and Music: The Art of Love and Leisure” (26 June – 8 September 2013) とか
・”Turner Inspired: In the Light of Claude” (14 March – 5 June 2012) とか
・”Leonardo da Vinci: Painter at the Court of Milan” (9 November 2011 – 5 February 2012) とか。

見れていないのは、
・”Metamorphosis: Titian - a unique collaboration with The Royal Ballet” か。

なかでもda Vinciのは2011年12月17日、映画にあったみたいにぶるぶる震えながら2時間並んで、映画にあったみたいに、絵画にぼこぼこにうちのめされた。
映画の中でも館員のひとが言っていたが、da Vinciの絵画が一箇所に纏まることで、あそこには尋常ではない空気が溢れかえって、見ているひとたちもみんな黙って画の表面を追っていた。とくに前と後ろに切り返しで置かれた『岩窟の聖母』の2バージョンの圧迫感、強さときたら。 ぜんぜん好きな表現ではないが、「da Vinciの魂」としか言いようのないものが、あの場所には展示されていて、それはどんなTVでも映画でもデジタルアーカイブでも再現できるなんかではないとおもった。

”Turner Inspired: In the Light of Claude”もTurnerが魅せられた金縛りになった薄暮の、あの圧倒的な光の霧に会場全体が包まれているかのようだった。 (ああ、Tateの”Late Turner”、見たかったよう)

というわけで、この映画に関してはWiseman先生えらい、というよりはNational Galleryえらい、なのだった。 これと比べると(比べようもないけど)日本の映画興行とアート興行にはほんと失望と絶望しかないわ。

“At Berkeley” (2013) - 244分 - もはやくみたいよう。

1.27.2015

[film] Macbeth (1948)

17日の土曜日ごご、シネマヴェーラでみました。

ちょうど、NYのFilm Forumでは元旦から2月の頭まで”Orson Welles 100"ていう生誕100年の回顧特集上映が組まれていて(オープニングは"Citizen Kane"の4Kリストア版。みたいー)、しかも現地16日の晩は、これとおなじ"Macbeth"のScottish version(108分)が上映されてて、Q&AのゲストはWellesの娘さんのChris Welles Federさん(映画ではマクダフの息子役で出ている)だという。 なんかどうでもいいかもしれないけど、無視できない共時性を感じてしまったの。

ちなみにFilm Forumの特集ではアメリカンアクセントの英語でオーバーダブされた89分のU.S. release versionていうのも上映されている。 見比べたいな。

荒野で3人の魔女がうにゃうにゃ運命だのを吟じているところから、シェイクスピアの原作には忠実なふうで、見通しの悪いもやもやした視界、閉塞感たっぷりの至近距離の間に踏ん張って立ち、ひとり熱弁を振るって妄執妄想にかられ、ほぼ自動で孤立して破滅していくMacbethの存在感がすごい。カメラはそんなMacbethの自撮りであるかのようにコントロール可能な距離範囲を保ちつつ、突然バンクォーの亡霊が現れるとことか妻の投身(これって原作にはないよね?)のところで、決定的な距離と救いようのない断絶とを表に出してきて、こういうのを示すことができるのはやはり映画だからだねえ、とおもった。

ものすごいスペクタクルとか、すべてを一瞬で変えてしまう魔法の仕掛けや瞬間があるわけではなくて、Macbeth = Wellesの狂信的な言葉と身振りがあらゆる空間を作り、拡げ、自らをその中に縛りつけていく、そのありさまをMacbethと真正面から向き合わされて見て聞いていく体験。これってシェイクスピアをきちきち読んでいくのとほぼおなじ、というかそれ以上の没入を強いてくるのだった。

こんなの、演技へたくそだったら絶対見ていられないのだが、このMacbethはほんとすごくてやかましくてうざくて、誰が見たって首斬り落とさないことには気が済まなかったのだな、というのがようくわかるのだった。

いま製作中(? もうできたの?)の”Macbeth”の主演ふたりは、Michael FassbenderとMarion Cotillardで、これはこれで楽しみなのだが、ここでのOrson WellesはJack Blackに見えてしまうのだった。


SWANS行けなかった。 今年さいしょのお先まっくら…

1.25.2015

[film] Love, Rosie (2014)

3連休さいごの12日のごご、新宿で見ました。 満員になっていたのでびっくり。
『あと1センチの恋』。 なにが「1センチ」なんだろ。 「5杯のテキーラ」でも「ゴム皮1枚」でも。

原作は “P.S. I Love You” (2007)のひと、ということで、この映画は今にして思えば”Gone Girl”の先を行く底意地の悪さを湛えたやつだった。 病気でフィジカルに”Gone”してしまったGerard Butlerが、めそめそ泣き続けるHilary Swankに黄泉の国からえんえん手紙で指令を送り続けて、恋の地獄のおそろしさの前に震えてただ途方に暮れるしかないのだった。

英国の田舎町にいるRosie (Lily Collins)とAlex (Sam Claflin)は幼馴染で友達以上恋人未満(ううはずかし)てやつで、大学は一緒にボストンに行こうぜ、て誓うのだが、Rosieは一緒にねたぼんくらにコンドーム破られて奥に置き去られて、結果妊娠しちゃって、生まれた子は”Juno”みたいに養子に出そうとするのだがあんのじょう情が移ってシングルマザーでがんばることにしたらあのコンドームやろうが再び現れて一緒になる。 医学生としてボストンに渡ったAlexも現地で彼女みっけて結婚することになって、でも相手の女は性悪で、こんなふうに互いが互いにぎったんばっこんしてタイミングとか想いとかが噛み合わないまま12年 - “Boyhood”とおなじだけの12年 ... (原作では12年どころか45年なんだと ... )

12年間こうだったんだからよっぽどご縁がなかった(さよなら)、と見るか、12年間煮つまったんだからこんどのはほんもの(がっちり)、と見るか。

ふたりの恋の行方にはらはらやきもきするようなヤングではないので、その往生際の悪さというか依存症というか、たんにふたりとも不器用でうまくいかないときについ相手の方を見てしまうだけなんじゃないか - その「つい」が肝心なんだよ、て言われたらそれまでだけど。

そういえば彼が/彼女がいつもそこにいた/いてくれた、ていうあるときの気づきがふたりの関係を次の段階にひっぱりあげる、ていうのはわからないでもないのだが、その向かう先はやっぱり一緒になる/暮らす、ということになってしまうのだろうか。 いや、これで一緒になって互いにとって最低なやろうであることがわかった日にゃ、「あたしたち」の12年はなんだったのよきーっ、てなるよね。 ものすごくお先まっくらになっちゃうよね。 そうかここから“P.S. I Love You”の地獄の釜のフタは開かれるのかー。

主演のふたりの演技はとってもきちんとブレがなくてよかった。
あと、エレベーターのおじさんのエピソードはおもしろかったねえ。

“P.S. I Love You” も、音楽だけは素敵だったが、これもなかなかで、Elliott Smithの”Son of Sam”とか久々にしみた。  パパCollinsの"Against All Odds”でも流せば結構はまったはずなのに。

1.24.2015

[film] Jimmy P. Psychotherapy of a Plains Indian (2013)

11日の午後、"The Lady Eve"のあと、イメージフォーラムに移動して見ました。 (前の日とまったく同じパターン) 『ジミーとジョルジュ 心の欠片を探して』。

こういう邦題の映画、見ただけでまっぴらごめん、なのだが、Arnaud Desplechinであれば話はまったく異なる。
でもさらに、わたしにとってのArnaud Desplechinは、女性映画の名手なのだが、この映画の舞台はアメリカで、しかも男ふたりの物語だという。 どーなの? だったのだが、まったく問題はなかった。

二次大戦後まもなく、帰還兵のJimmy P. (Benicio Del Toro)が原因不明の頭痛とかめまい、身体の硬直とかに頻繁にやられるようになって、PTSDかも、と姉に付き添われて軍の病院に入るのだが通常の検査での異常は特に確認されず、精神科医になりたがりだった人類学者ジュルジュ(Mathieu Amalric)に依頼が飛んで、彼が面倒を見ることになる。

映画のほとんどは、ジョルジュがジミーの語る過去、戦争も含めた体験、子供時代、家族、女性、夢、運命、未来、などなどをふむふむ、て聞いて、それに沿うかたちで流れていく映像がほとんどで、外側から見るとそれは犯人が取り調べ室で自白したり、教会で告解をするのと同じようなのだが、実際にはインディアンであるジミーの(ネイティヴのも含めた)言葉と言葉も含めたコミュニティや文化や象徴を理解し尊重しているジョルジュとの間で相互に交わされていく対話 - 互いにいろんな気づきをもたらす - になっていて、明確な目的やメソッドに基づいた治療とは思えないのだが、ジミーはだんだん良くなっていくの。

それはたんなる闘病~治療日誌、というよりはひとりのでっかい無口な男の内面を時間と共に巡っていく旅で、その横にはジョルジュのところにやってきた既婚女性マドレーヌ(Gina McK- すてき)とのひと夏の逢瀬もあって、そこに世界の風穴が開いていて、そういうのも含めてびっくりするほど豊潤でダイナミックなドラマがそこにある。それを愛と呼ばなくても、ひとはこんなふうにひとの神経や魂にふれて、やわらかくなでであげることができる。 

「病んでいる」「異常だ」とは言わずに「君の魂はケガをしている」とジョルジュは言い、その傷を横に置いて一緒に眺めている - 解釈でも分析でもなく、どんなふうに見えるのかも含めて彼の辿ってきた道や夢に立ち返って眺めるかんじ - この、横に置いて見る、というところに「映画」のものすごい可能性が拡がっているような気がした。

ここには彼の種族の、更には合衆国の建国からの歴史があり、所謂トラウマとして括られるいろんな事象の根があり、男女の機微挙動あれこれがあり、それは被治療者だけの話ではなく治療するひとの、その様子を見る我々にも問いかけて記憶の根を揺らしてくる。 彼の話が「わかる」、としたらそれってどういうことなのか、と。

対になっているのは"Kings & Queen"、だろうか? あの作品でEmmanuelle Devosが独白という形で彼女の過去・周囲にいた複数の男性のことを語り、この作品では対話を通してジミーの周囲に現れた複数の女性のことが語られる。 "Kings & Queen"のどろどろした彼女の反対側に、その脇を軽やかに駆け抜ける狂人としてMathieu Amalric扮するIsmaëlがいて、この作品でのMathieu Amalricはお茶目な分析医として再登場してジミーを救いあげる。

民族精神医学 - その民族に蓄積された歴史の記憶、夢、宗教や自然などなど - 古来から擦り込まれてきたサバイバルの知恵を近代科学(精神医学)の目で補填して補強する - ていうようなものかしら、と素人は思うのだが、そのひとの民族(性)がそのひとの無意識にどの程度縛りを入れているのか、そもそも民族的ななにか、て何をもってそういうのか、とかいろいろありそうだねえ。
でも、このふたりに関しては効いた、と。 よかったよかった。

ジョルジュって、M.ミードを介してベイトソンと接点てあったのかしら? とネットで調べてみたけどあんまよくわかんなかった。 ラカンとはなんもなかったのかしら? とか。

NYFFのプログラミング・ディレクター Kent Jonesさん(Richard Peñaさんの後任ね)が脚本に参加している。 Richard Peñaさんもそうだったのだが、このひとも映画の前説がほんとに素敵なんだよねー。

あと、これの撮影中、監督はずっとBowieの"Panic in Detroit" をずっと聴いていたていうのを知ってなんかなごんだ。 ”Aladdin Sane”て激しくてひりひりしているけど、同時になでてさすってくれるようなとこもあるよね。

1.22.2015

[film] The Lady Eve (1941)

11日、日曜日のお昼、シネマヴェーラで見ました。 まだ旧作まっしぐら。
年明けからここまでで、Buster Keaton → Billy Wilder → Howard Hawks → Ernst Lubitsch → John Ford → Jean-Luc Godard → Preston Sturges だよ。 わるくないでしょ。

そして、今年に入って2本目のBarbara Stanwyck。
どっちもヘビ系の詐欺女。きらいじゃない。 死にたくはないけど。

アマゾンでのヘビ研究から戻ってそのまま豪華客船に乗り込んだエール会社のとこのぼんぼんCharles (Henry Fonda)を船内の女子はみんな捕まえようとして、でも彼は恋とかに関心なくて、そんな彼をカモだぜ、て狙う詐欺師のJean (Barbara Stanwyck)が近づいていって、騙し騙されを超えたとってもとろける仲になりかけたところでJeanの正体がばれておじゃんになるのだが、陸にあがっていらいら我慢できないJeanは諦めなくてこんどは詐欺師のおじさんの姪 - 英国貴族娘になりすましてCharlesに近づいて(オレオレ詐欺)、彼は彼女にどっかで会ったかも、て思いつつもぽーっとなって絡みとられていって。

ヘビ研究やってた奴がでっかいヘビに食われたか、ヘビがリンゴを食わせちまえばこっちのもん、というか、恋にはまるのも詐欺にはまるのは同じようなもん、というか、相手がヘビだろうが詐欺師だろうが恋は勃発するのでどうしようもなくて、そのたびに男はずっこけたりタキシードを台無しにしたりする。 恋なんて嬉し楽しいもんとは思えなくて、はまったりおちたり散々で、笑っちゃうの。 ハネムーンの列車の中なんて頭抱えてばっかしなのをみてこっちはお腹痛くなるくらいおかしい。

ルビッチのラブコメの主人公たちは画面の向こうで幸せになれそうな気がするけど、こっちのはそうなるとは思えなくて、えんえん騙して騙されて頭抱えてを繰り返す気がして、でもその懲りない姿をみて笑って、われわれが幸せになる。 のかもしれない。

Henry Fondaはなー、あとちょっとだけガリ勉ぽいほうがおもしろいのに、なんかただのぼんくらに見えてしまうとこがあるのよね。 Rufusにも少しだけ似て見える。

今リメイクして別のエンディングを作るとしたら、彼の身を案じてぴったり貼りつく御付きのMuggsy (William Demarest)とCharlesが結ばれるんだよ。 そのふたりを誰が演じるべきか、を考えちう。 やっぱしあのふたりかー。

1.20.2015

[film] Alphaville, une étrange aventure de Lemmy Caution (1965)

10日の午後、”The Iron Horse”のあと、イメージフォーラムに移動してみました。

もう何回も見ているし、どちらかというと「華氏451」のほうが見たかったし、更にどちらかというと「ジミーとジョルジュ…」のほうが見たかったし、これを”The Iron Horse”の後に見たらインディアンもリンカーンも出てきたから盛りあがっただろうなー、とあとで思ったものの、時間が合わなかったの。 ここまで来てもまだ新作を見れていない2015年。

探偵のLemmy Caution (Eddie Constantine)が銀河の彼方から車でアルファビルに現れてフォン・ブラウン教授を連れだそうとして、そうしていくなかで明らかになるアルファビル、とは。

設定があんま現実ぽくないからSF、ていうのだったらゴダールの作品はぜんぶSFだろ、て思う。
たしかにさっき見た“The Iron Horse”と比べると夜しかないし領土はくっきり分断されているし列車は高いとこを走っているし、記号と信号と警報ばっかしだし…

そこには鏡とガラスと廊下がいっぱいあって、記憶をもつこと、愛について語ること、泣くこと、意識すること、詩、などなどが禁じられ、アルファ60ていうAIで監視され、破ると捕まって尋問されたり処刑されたりしてしまう都市だか国だか星だか。 どこがSFなんだ? いまとたいして変わらないじゃないか? 

「近未来SF」ていうジャンルに要請される(代表的かつ単純な)機能として警鐘と啓蒙、ていうのがあるとしたら、この作品は後者のほうで、いろいろ経験してきた凄腕のおじさん探偵が首にチップを埋め込まれバーコード管理されたおんなのこをその世界から引っぱりだして新世界に連れ出す - 辞書にない言葉を教え、愛を教え、エリュアールの詩が導く。 ていうことをLemmy Cautionの名を借りたゴダール(大人の男)は、Anna Karina(おんなのこ)に対してやりたかったのか、そんな単純なもんでもなかろうに、とか。

B級の探偵モノ、B級のSF、ノワール、映画のはじっこ、世界のはじっこのジャンルをそれらしく摘んで繋いでみたとき、世界はどんなふうに見えるのか、ひとはどんなふうに動いて愛の冒険に赴くのか、ていうような問題設定に貫かれた映像の集積をひとはいつしかゴダールの映画、て呼ぶようになって、ゴダールの映画がものすごく「映画」に見えてしまうのだとしたら、それはこういう場所、こういう光と目線のもとで撮られたからなのだ、というのがとてもよくわかる、画面は暗くてもきらきらした愛と正義の1本なの。

1.18.2015

[film] The Iron Horse (1924)

10日の土曜日の昼間、シネマヴェーラで見ました。

昨年11月の京橋のMOMA特集で、“Kentucky Pride” (1925)と“The Shamrock Handicap” (1926)の2本のJohn Ford馬映画にぴーぴー泣かされたものとして、この馬映画(だと思ったのよ、題名で)を見ないわけにはいかなかったの。
150分のサイレントだけど、馬みたいに速くてあっというまで、あっけにとられる。

冒頭、大量の羊がどわどわ横切っていくので、羊年映画だあ、て喜んだ。
シカゴで、大陸間横断鉄道を夢見る測量技師とその息子Dave(George O'Brien)がいて、父と子は測量のために西に旅立って、その背中を黙って見つめるリンカーンがいるの。 で、西を目指している途上、いいか、あの谷の間に電車を通すんだ、て父が言った後、彼は二本指のインディアンに殺されてしまう。

そこから十数年が過ぎ、リンカーンは暗殺されてしまったが大陸間横断鉄道の夢はまさに始まろうとしていて、オマハから西に向かうUnion Pacific鉄道とサクラメントから東に向かうCentral Pacific鉄道が互いに競うように地を掘って杭を埋めて線路を延ばしていって、でもそこにはインディアンの襲撃とか労使問題とか予算超過とか労働力移民問題とか町ごと民族大移動とか、いろんな問題が渦を巻く、要は国家事業の困難と課題がぜんぶ詰まっていて、そういうバックグラウンドを貫いて父の夢を継ぐべく突然地の果てから現れたDaveと、幼馴染のMiriam (Madge Bellamy)の恋 - でもMiriamにはUnion Pacificの社長である父の右腕の婚約者 - いけすかねえ野郎 - がいて、父の仇討ちの件もあって、はらはらさせられるばっかりで、でもまずは鉄道を繋ごうぜ! で、クライマックスにはインディアンと地権者と労働者達のぐじゃぐじゃの決闘(「天国の門」か、みたいな)があって、ものすごいったら。

でも、これは血と汗と涙で勝ちとった成功物語、勝者の物語というより、見るべきなのは馬でも牛でも鉄道でも人でも動くもの全てを総動員して、地面を掘って這って踏んばってとにかく西に、或いは東に向かおうとするその愚直なまでの動きの強さ、そこに立ちのぼる蒸気のすごさなんだと思う。 だってDaveは二本指をやっつけたあと、こんどはCentral Pacificのほうに行って手伝うんだよ。 働きすぎよあんた。

こうして、機関車”#116”と機関車”Jupiter”(英語字幕には、映っている機関車はほんもんのです、てあったけど、ほんとは違うんだってね)が東からと西からでこんにちはして、 合衆国は線で繋がってひとつの国になったのです。 ぱちぱちぱち。 それにしても、29歳でこんなの撮るか - John Ford。

2011年に出たこれの英国盤DVDには米国版(150分)と英国版(133分一部別テイク)に加え、Tag Gallagher先生のvideo essayがついているって。 見たいなー。

この作品でアメリカというものができて人がしっかりと立ちあがってしまったので、そこからさらに“Kentucky Pride” (1925)では、ここはお馬さんの国でもあるんだよ、て言って、さらに“The Shamrock Handicap” (1926)ではアイリッシュとお馬さん、の映画も作ってしまったのだね。


あんま関係ありませんが、米国で働いていたとき、よくクッキーを焼いて職場に持ってきてくれたおばあさん - 彼女がリタイアしてから会う機会はなかったけど - が先日亡くなられました。アメリカのクッキーのほんもんの深さ凄まじさを教えてくれたのは彼女でした。 
ご冥福をお祈りします。 おいしいクッキーをありがとうJoy ...

1.17.2015

[art] Willem de Kooning

9日金曜日の晩、7:20くらいにブリ美でみました。 終っちゃいそうだし。
このさき、John and Kimiko Powers Collectionのde Kooningを纏めて見れる機会があるとは思えないし。

時間ないかも、と思って少し慌てたら10分で見終わってしまったので、びっくりして何回かぐるぐる回遊してみる。 たった35点しかなかったのね。

ピンク、というか肌色に波うつたぶたぷの、おそらくこっちを向いて立っている女性像。
この肌色が画面上に踊ったり浮かんだり擦れてかさぶたになっているのを見ているだけでたのしい。

“League” (1964)の、新聞紙の文字の上に塗り重ねられる肌色、“Untitled” (1969)の、和紙の上で奔放に跳ねる桃色、「xxの女」的な記号として読まれたり書かれたりすることに対する圧倒的なNO!であると同時に、であるように見せつつ、それって単なる画家の涎でしかなかったりして。

Francis Bacon(b. 1909、de Kooningより5つ下)が筋肉や臓物からにじみ出る苦汁とか酸で捩れて変容していく男性(の時間)を描いたのに対して、de Kooning(b. 1904)は外からべたべた塗られたオイルとか蜜とかでゆるゆる溶けていく女性(の空間)ばかりを描いた。 この差をどう考えるべきなのか、とか。

あるいは、紙の繊維の束を浸して上から下に滑っていく油と重力に対して、画面と垂直にドリップされ均質に散らされていくJackson Pollock(b.1912)のペイントとの違いは、じゃあMark Rothko(b.1903)は?  とか。 拡がりはいくらでも出てくる。

Abstract Expressionism - 「抽象表現主義」ってなんだよ、ていつも思う。 これを言われるといつも頭に浮かぶのは谷岡ヤスジとかなのだが。

de Kooning、50年代から「女」のシリーズで崩れはじめる前はこんなにかっちりした - Lucian Freudみたいな - のも描いていた、というのも。

http://www.metmuseum.org/toah/works-of-art/1984.613.1  (The Glazier, 1940)
http://www.moma.org/interactives/exhibitions/2011/dekooning/archives/296  (Portrait of Elaine, 1940 - 41)

彼の全体像を見るにはここのサイトとか。
http://www.moma.org/interactives/exhibitions/2011/dekooning/

あと、この展示の横でやっていた堂本尚郎とザオ・ウーキーもよかった、と備忘で書いておく。

1.14.2015

[film] Ninotchka (1939)

4日の午後、これもシネマヴェーラで一本だけ見ました。
年末年始にはルビッチ! ていうのが世界のあるところではあたりまえで、こないだの大晦日までの一週間、Film Forumでは”The Shop Around the Corner” (1940)(桃色の店)をやっていたし(あーみたい)、数年前の暮れにも”Cluny Brown” (1946) をやっていたし(これはいった)、自分も昨年の大晦日にはシネマヴェーラで“Die Austernprinzessin” (1919) (牡蠣の女王)を見ていて、今年は年始にこれ。

ローレン・バコールの翌日はガルボなのよ。 なんて豪華なお正月なのかしら。

ロシアの怪しげな3人組 - ブルジャノフ、イラノフ & コパルスキ(これって”To Be or Not to Be” (1942) の冒頭の「ルビンスキ - クビンスキ - ロミンスキ - ロザンスキ & ポズナンスキ」とおなじかんじよね)(あとどうでもよいただの偶然だけど、前日が”To Have and Have Not”なのよね)が、貴族から没収した宝石を売りにパリに現れて、その挙動を見たフランスのロシア貴族側はこれはやばいと思って、そうしたところにロシア側は3人の監督のためにがちがちの赤色堅物官僚兵器ニノチカを送りこんでくるの。

パリで迎え撃つレオンはニノチカ見た途端に電気が走って、でもニノチカは頽廃した西側文化なぞ、て表情ひとつ眉ひとつ動かさなくて、でも食堂でレオンが西側ジョークを連射して、最後に捨て身で椅子から転げ落ちてみたら、ついにニノチカは陥落するの。 このとき世界がひっくり返るの。

そうして恋の味を知ってしまったニノチカはへろへろぐにゃぐにゃになって、バカにしていた変てこな帽子も被ったりするようになるのだが、ロシアへの強制帰国命令が出て3人組と一緒に帰国しちゃって、果たして恋の大逆転はあるのか…  なの。 (もちろん、あるにきまってる)

こてこて王道のラブコメ、相当な少女漫画設定なのだが文句をいうやつはぶっとばしてやらあ、なの。 漫画でいうと青池保子の「エロイカより愛をこめて」あたりかも。 「エロイカ」よかずっとずっと昔にいた「ニノチカ」。


ここまででお正月休みは終ってしまって、結局なんもしてなくて、今年はあと350日もある。
最初に買った本はブランショの評伝でした。(デリダのよかちょっとだけ安い)
最初に買ったレコードはオンラインで、Office of Future Plansの7inchとJAWBOXの12inch x 2、店頭で買った最初のは、”Blue Valentine”のサントラ2枚組 - 当然盤色はブルー、でした。

Golden Globeでいちばん嬉しかったのは、”How to Train Your Dragon 2”の受賞だった。
だからおもしろいってゆったのに。

1.12.2015

[film] To Have and Have Not (1944)

3日の午後、シネマヴェーラで1本だけ見ました。 Howard Hawksの「脱出」。
Lauren Bacallの追悼、ちゃんとやっていなかったよね、と。

第二次大戦中、フランスが陥落した直後の仏領マルチニークで、インディー系の釣り船の船長をやっているハリー・モーガン(Humphrey Bogart)とアル中の相棒エディー(Walter Brennan)がいて、反独レジスタンスの活動家の移送を頼まれて、悩んだ末に引き受けて、彼らを連れて帰る途中で銃撃戦になったりねちねち警察とやりあったりして大変なの。

ハード・ボイルドの傑作、とかよく言われるけどHumphrey Bogartひとりが無愛想でむっつりしているだけの、基本はどこかで誰かが何かをしていて、時局も境遇もどっちに転ぶかわからない緊張感にあふれた群衆劇だと思う。コトの行方や方針を決めるのはバーや室内に集まったみんなの熱で、Humphrey Bogartはそれを実行するただの使いっ走りで、その彼を有無を言わせずに操るのが、どこからか流れてきた謎の女 ”Slim” - Lauren Bacall - で、そのつーんとした猫のかっこよさときたらあんたなにもの? なの。(しかもこれがデビュー作だなんて)

で、特に最後の方、Cricket(こおろぎ)て呼ばれるピアニスト- Hoagy Carmichael - との絡みでSlimが”How Little We Know”を歌うとこなんて、その場の視線がぜんぶ彼女に集まって釘付けで(ていうふうにカメラが動いて)、Humphrey Bogartが完全にやられちゃうところまではっきりと映っている。


Hoagy Carmichael(本人だよ本人)もよくてさあー。昨年翻訳がでた名著 - 『イージー・トゥ・リメンバー アメリカン・ポピュラー・ソングの黄金時代』には彼の懐かしさを呼び起こさせるメロディーと歌詞について『目的地への道を急がない放浪の旅人のよう』とあって、そのかんじのまま、ちょっと背中を丸めてピアノをぽろんぽろん叩きながら歌うところなんて、すばらしくて必見なの。

原作はヘミングウェイの『持つと持たぬと』or『持つものと持たざるもの』(1937)で、脚本をフォークナーがリライトしてて、と文芸濃度で言ったら前日の『深夜の告白』よか遥かに上なのだが、そんなんでも、いちばん偉いのは断然ホークスだよねえ、と映画のひとはみんな言って、その通りとしか言いようがないことが見ればわかるのだった。

1.11.2015

[film] Double Indemnity (1944)

年明け最初のいっぽんは旧作とか古典を見ることにしているので、今年も当然のようにシネマヴェーラの特集「映画史上の名作12」に通って、キートンみてワイルダーみてホークスみてルビッチみてフォードみて、とかやっていて、それはそれでぜんぜん楽しいし幸せでよいのだけど、いまシネコンでかかっている新作でこれっぽっちも見たいのがない、ていうのは問題じゃないのか、と少しおもう。 いいけどさ。

というわけで2日の午後に見たやつ2つ。

Steamboat Bill, Jr. (1928)  「キートンの蒸気船」

ミシシッピでぽんこつ蒸気船屋をやっている頑固おやじがいて、そこに大金持ちがでっかい最新鋭の蒸気船を引き連れてやってきたので、けっ、とか険悪になっているところに東の大学に行っていた息子(キートン)が戻ってくるの。 立派な一人前のオトコになっていることを期待したのに、ちびでなよなよでいけてなくてパパはがっかり、ちょうど金持ちの娘も戻っていて若者ふたりはよいかんじになるのだが、親同士は喧嘩ばっかしで、そのうちキートンのパパは牢屋に入れられてキートンは助けに向かうのだが、そこにばかでかいハリケーンがやってきて大変なことになるの。

ほうれん草なしでポパイみたいに大活躍する - しかも実写でしかもスタントなし - キートンのことは映画史でも有名だからよいわね。 漫画みたいなことを漫画みたいにクールにクリアしていくのであんぐりなの。

偶然だろうが、おなじ1928年の“The Wind”で同じようにかわいそうなリリアン・ギッシュを襲ったすさまじい砂嵐と並ぶ、こっちは台風の暴風雨の風、しかもキートンはそれに立ち向かってへっちゃらで、しかも勝っちゃうの。 かっこいいねえ。

わたしはバスター・キートンとハロルド・ロイドがいればこの世界はなんとかなる、保つことができる、とおおまじで信じている。 いまの地球に必要なのはMarvelのヒーローなんかじゃないの、キートンとロイドなんだよ。


Double Indemnity (1944) 「深夜の告白」

正月よりは暮れに見る映画 - 白状して清算だから - のような気がしないでもなかったが、こんどこそはうまくやるんだ、の願いを込める意味で正月でもいいか、と。

これ、フィルムノワールの特集があると必ずかかるやつなので、これまで何回も見ているのだが、わたくしの場合、ノワールって何回見てもどんな話しだったか、ノワールの彼方に消えてしまうのでこれもちっとも憶えてないのだった。 お得、と思いたければ思うの。

最初に保険の営業をやっているネフ(Fred MacMurray)が深夜のオフィスに息たえだえでやってきて録員装置のスイッチを入れ、調査員で上司のキーズ(Edward G. Robinson)に向けた報告を口述するところから始まる。
なんかやばいことをしてネフはこんなふうになっているんだな、というのはわかって、そこから彼の回想でどうしてこんなんなってしまったか、が謎解きのように明らかにされるの。

ネフが裕福な人妻のフィリス(Barbara Stanwyck)のところに自動車保険の更新の話しをしにいったら色仕掛け練り込みで別の相談 - 夫の保険金殺人を持ちかけられ、その計画作りにはまっていって、完璧な計画 - しかも倍額補償(double indemnity)だぜ、てなんとか実行に移して、うまく行ったかに見えたのだが、はじめのうちあれは事故、と言っていたキーズも何かに気付いたようで身動きが取れなくなっていく。

成績も悪くない優秀な営業マンだった彼がなんでそんなことに? は単純に性悪ファム・ファタールであるフィリスの存在だけではなく、彼自身のプライドとかキーズに対する意地とかいろいろ単純ではなくて、そういうのもぜんぶ含めた倍額で、確かに高くついちゃったねえ、の生々しさはなかなかなのだが、ちょっと平坦でわかり易すぎかも、と意地悪くいうこともできて、この辺がチャンドラーがワイルダーのことをぼろくそに言っていたとこなのかも。

でもチャンドラーがカメオで出ていたりもするので、村上訳でチャンドラーを知ったひとも見てみよう。

1.10.2015

[film] 眞心英雄 (1998)

30日の晩に六本木で見て、これが2014年の締めの1本となった。

『ヒーロー・ネバー・ダイ』、英語題も”A Hero Never Dies”。

90年代のジョニー・トー作品は見たことなかった気がしたし、香港ノワールていうのもあんまよくわかんなかったし。 高倉健も菅原文太もしんじゃった2014年はこれで、と。

ジャック(レオン・ライ)- クールな二枚目 - とチャウ(ラウ・チンワン)- ねちっこいがんばり屋さん - は対立する組織の凄腕の殺し屋で、凄腕すぎて互いに退かないもんだからどちらの組織も死人いっぱいで疲弊してて、互いのボス達も嫌気がさして占い師に先を見てもらったりしている。 で、ジャックとチャウは酒場で会うことにして、それぞれの銃の実力見せつけあって、それぞれの彼女たちも一緒になって朝まで飲んで、ふたりでワインのボトルをキープすることにする。

で、ジャックがタイの隠れ家に行ったところをチャウの組織が急襲して撃ち合いになり、ジャックは意識不明に、チャウは両足切断の車椅子になってしまう。 のだがそれぞれのボスは二人のことはトカゲの尻尾切りで協定結んで忘れる、それどころか掃除のために殺し屋を送ってきたりする。
ジャックの介護をしていた彼女は彼を守ろうとして全身大火傷をして、チャウの彼女は組織にがうがう吠えたてて殺されてしまうの。

チャウはたったひとり車椅子でリハビリを重ね、ゴミ捨て場から銃を見つけてきて復讐をしようとするのだがあと少しのとこで失敗してうぐぐぐ、となって、でもそこに復活したジャックがぎらん、て現れて二人で最後の、決死の殴り込みをかける。

笑っちゃうくらい凄すぎる技を互いに認めあった殺し屋のひねた友情とか、非情の二重塗り三段重ねとか、ワインとか歌(スキヤキ)へのどうでもいい拘りとか、定点観測とか、撃たれたらとっても痛そうなとことか、後のジョニー・トー作品にも見られる徴はいっぱいあって、だから最後もどうなるかはまるわかりのザ・犬死に、なのだが、これを「ヒーロー・ネバー・ダイ」てやってしまうところがたまんないのね。

でも、ものすごく不謹慎かもだけど、最後のとこのチャウって、”Weekend at Bernie’s” (1989)のバーニーだよね…  

1.09.2015

[film] Maps to the Stars (2014)

まだ2014年ぶん。12月29日のごご、新宿でみました。

中西部からLAにやってきたMia Wasikowska (MW)がリモの運転手Robert Pattinson (RP) - バイトで俳優したりしている - と出会ってハリウッドのあるアドレスに連れていってもらう(そこにはなにもなかった)。
旬をとうに過ぎて売れなくなってきている女優のJulianne Moore (JM)は伝説的な女優だった母の伝記映画の主演を死ぬほど取りたがってじたばたしている。 コメディドラマが当たって子役セレブになった傲慢なガキ(♂)を抱える金持ちでドクターのパパJohn Cusack (JC)とママがいて、過去になにかあったのかガキの保護に変に過敏になっている。 

MWはTwitterで知り合ったCarrie FisherのツテでJMの秘書として雇われて、JMは変てこなマッサージセラピーをJCに受けていて、という具合に登場人物たちの過去も含めた関係の線がだんだん顕わになっていって、やがて。

ハリウッドという夢工場 - 全てが虚構、どんちゃん騒ぎの海のなかで、セレブ/金持ちの登場人物たちが祈るように懸命にしがみつき、畏れ、或いは捨て去ろうとする血縁の縛りと呪い、昔だったらひとこと「びょーき」で片づけたくなるようなあれこれを、悪趣味に走ることなく、ダークでシニカルなファンタジーとしてストレートに投げてくる。
なのに、しかも、ラストはロマンチックな風味すら(そして、しかし、これもまた..)漂ってしまうのだからすごい。"Maps to the Stars"

同様のばかばかしさを取りあげつつも、イタリア人的ソウルの過剰さに溢れていた”The Great Beauty" (2013)と比べると、カナダ人のしらーっと突き放した目線が心地よくて、おもしろいねえ。

キャスティングが絶妙で、中も外もぼろぼろのかすかすで3Pから放屁に排便、さらに脳天に穴まで開けてしまうJMはすごいとしか言いようがないし、一見成功した家庭人のパパ、なのにうさんくささ満載のJCとか、なんともいえない腐臭がぷーんてきそうなRPとか、そしてなんと言っても"Stoker"の不機嫌を炸裂させるMWが一瞬見せる眉と顔の歪みとか。(やはり「嗤う分身」で彼女はJesse Eisenbergをぶっ殺すべきだった)

そして、ところどころに挿入され反復されるエリュアールの“Liberte”、というと、やはりどうしても大島弓子の「ローズティーセレモニー」(1976)がちらついてしまうのは単に自分が年寄りだからなのか。
髪の毛がくるっとして天使のようなのに実は邪悪なガキとか、華やかなのに外側だけ取り繕って裏は腐りきっている家族とか、どこまで行っても叶えられない想いとその裏につきまとう死の影とか、これらをケレン味たっぷりに描ききってしまうところとか、David Cronenbergと大島弓子の間に線が引けてしまうことに驚いたが、あってもおかしくなかったかも。 どちらの生も過酷で、楽じゃない。

最後、Rufus Wainwrightの“Release the Stars” あたりがきらきら流れたらすごいかも、と期待したけどさすがにそれはなかった。

それにしても、なんでこんなおもしろいのが単館でしかやってないの?

1.08.2015

[film] La Vénus à la fourrure (2013)

28日の日曜日、「白夜のタンゴ」の後、渋谷を横移動して見ました。 「毛皮のヴィーナス」
これもダンスの映画、と言えないこともないかも。

ザッヘル=マゾッホの”Venus im Pelz”をベースにしたDavid Ivesの戯曲"Venus in Fur”が原作。
原作の戯曲は読んでいない。

大雨嵐の夕方、オーディションに遅れてきたワンダ(Emmanuelle Seigner)が劇場に入ると演出家のトマ(Mathieu Amalric)しか残っていなくて、オーディションはもう終ったからと追い返そうとするのだが、折角来たんだからやってくれたっていいじゃん、てワンダは捩じこんできて勝手に着替えて照明をいじってトマを相手に演技を始めてしまう。

この日のオーディションにろくなのが来なかったり婚約者との約束があったりであれこれげんなり、居残りもうんざりだったのだが、しぶしぶ始めてみたらガラが悪いわりには本をきちんと読み込んでいるとしか思えないワンダに目を見張って、彼女のペースに - つまりは彼を劇中そのままに「奴隷」として扱うその眼差しや態度にずぶずぶとはまっていくの。

隔絶された空間、時間は夜に向かっていて、そのなかで演出家と(まだ採用されていない)女優の使役関係が、芝居のなかの主従関係にシーソーがばったりと倒れるように変容・反転していく。 それは誰かが仕向けたものなのか、芝居そのものの引力なのか、自らが望んだものなのか、それともワンダは神が仕わせた夢の女なのか、そんなことよりも、ふたりの一筋縄ではいかない一進一退の、芝居と現実が混淆となったやりとりと、それがわかっちゃいる方角にじりじりと向かっていくアンストッパブルの快楽、がなんだかとってもおもしろいの。 それは前作の “Carnage” (2011)(おとなのけんか)にもあったアパートでの小爆発にも似た絶妙さで気がつくと間に挟まれて固唾を呑んで見守るしかない。

んで、最後にふたりはダンスをするの。変な鳥のつがいみたいに。嵐の晩に。

虐められるにつれてだんだん虚ろに瞳孔が開いていくMathieu Amalricは「見て! 虐めて!」てずっと言っているし、Emmanuelle Seignerのおらおらのガラの悪さもたまんない方にはたまんないはず。(個人的にはもう少し冷たく締まったかんじのひとのがよかったけど) でもこのひとって、Polanskiの奥さんなのね。 やるねえ、Romanたら。

Alexandre Desplatさんの音楽もいつものように素敵で。

1.06.2015

[film] Mittsommernachtstango (2013)

28日の日曜日、午前中に渋谷でみました。

「白夜のタンゴ」。 英語題も"Midsummer Night's Tango"。

冒頭にプロデューサーでもあるAki Kaurismäki先生が登場して、俺は結構怒っているんだ、とかいうの。
タンゴはフィンランドが発祥でアルゼンチンに渡ったのに、アルゼンチンタンゴばかりが有名になって、タンゴと言ったらアルゼンチンみたいに言われるのはおかしいしあたまくるぜ、と。

で、カメラはブエノスアイレスに飛んで、現地のタンゴミュージシャン3名(ヴォーカル = Vince Vaughn似、ギター = 若い頃のAdam Sandler似、バンドネオン)にフィンランドがタンゴ発祥て説があるんですけど、と言うと、わはは、って笑ってじゃあおれらが行って見てきてやらあ、ていうことになる。 逆のコース - フィンランドのミュージシャンがブエノスアイレスに行って追っかける/問い詰める - にしなかったのは、まあまあまあ、とか丸めこまれちゃう可能性がたっぷりあったからよね。

ミュージシャン3名(+撮影スタッフ)はフィンランドで車を借りて、地図を頼りに現地ミュージシャンのところを訪ねて話を聞いたりセッションしたり、パーティに飛び入りして演奏したりもする。 文献や証跡・証拠を手繰ったり掘ったりして実地検証する、みたいなアプローチではなく、彼の地でタンゴと呼ばれる音楽がどんなふうに土地や人々の間に流れて彼らの体を揺らしたり愛を呼んだりするのか、を白夜の光や風といったところも含めて感じてもらう。 こっちのが元祖でしょほうら、とか威張ってもしょうがないことは最初からわかっている。 この辺の慎ましさ。

人は旅をする生き物で、旅に出た先で人を恋しくなって歌いたくなって踊りたくなったらそこに音楽は現れる - その土地にあるものであれ持ち込んだものであれ - こうして人と同じように音楽も旅をして空気を震わせて時間を積みあげてそこに留まる。  音楽ってそういう自由な旅をするものなのよね、ていうことがアルゼンチンとフィンランド、ていう辺境同士でも確認できる、というか半端な辺境を結ぶことでよりくっきりと浮かびあがったりする、のかしら、と。

結果、ゆるゆるのフィンランド音楽紀行、みたいなのにならざるを得なくて、短い夏、日照時間を惜しむように薄着の体をふよんふよん重ねていく、或いは昼間の熱からクールダウンしていくフィンランド・タンゴに対して、深まっていく闇夜に剃刀の脚回しできりきり切り込んでいくアルゼンチン・タンゴ、どちらもぜんぜん別のものだし、別で一向に構わないんだ。

音楽は世界を繋ぐ、とか、この音楽はクールだ! とか偉そうに言うのはなんてかっこわるいことだろう、て改めて思うの。 向い合わせる体と体、絡ませる腕と脚があるのならそれで十分じゃないか。
ていうところに考えを運んでくれる、というだけでこの映画はよかったのかも。

ラスト、機材を片付けるKaurismäki先生は明らかに御機嫌を損ねていたようだったけど。
(おれがやったらこんな緩いもんには….)

ブエノスアイレス、また行きたいなあー。

1.04.2015

[film] 下町(ダウンタウン) (1957)

27日の午前、京橋の千葉泰樹特集での二本立て。この年最後の京橋、千葉泰樹特集の最終日。
10時過ぎに着いたら館外に列が延びていたのでびっくりした。
二本とも極上の女性映画でした。 男性も割と安心して見ていられる、という点でもな。

下町(ダウンタウン) (1957)
原作は林芙美子(読んでいない)。 58分。

山田五十鈴がシベリアからの夫の復員を待ちながら下宿屋に間借りして一人息子を育てつつ一軒一軒まわりながらお茶を売っていて、でも夫の生死は不明だしお茶は売れないしで疲れきっている。
川べりでくず鉄屋をやって暮らしている三船敏郎のボロ小屋で休ませて貰ってお茶をあげてお弁当を一緒にしてから仲がよくなって、息子も連れていって、家族みたいになっていくの。

彼もシベリアの復員兵で、でも妻は別の男のとこに行ってしまったので別れていて、山田五十鈴の辛い状況もよくわかっているのだが、互いに惹かれていくのを止めることができない。 他方、売春の斡旋のようなことをしている下宿屋のおかみは仲良しのおやじに頼まれて山田五十鈴にどう? て言ってきたりする。

三人で遊園地に行って映画を見て外にでると土砂降りで、そこらの安旅館にみんなで泊まるのだが、ふたりともなんか眠れなくて我慢できなくて一緒になってしまう(ここのもどかしいやりとりもよいの)。 翌朝さすがに気まずくなるのだが、覚悟みたいのは固まってきて、そしたら…

ぼろぼろだけど妙に艶っぽい山田五十鈴と粗っぽいけど俺はやるぜみたいな三船敏郎がひとつの画面に収まっていると怪獣映画みたいに溢れんばかりの力強さがあって、これ、どうするんだろ、とか思っていたらあんなふうに終らせちゃうとは。

やっぱしとにかく山田五十鈴がすばらしくて、出会ったばかりの頃、息子と三船敏郎をトラックで送り出すときの笑顔のあまりの温かさに泣きそうになっていたら隣に座っていたおじいさんが「ええ笑顔やなぁ..」て小さな声でいうので決壊した。

あとは下宿屋の2階の彼女の部屋から遠ざかるカメラがとらえた下町の家屋と部屋の灯りと。
遠くでぽつんと灯っているかんじがたまらないのだった。

みれん (1963)
原作は瀨戸内晴美(読んでいない)。 99分。

織物の彩色デザインをしている池内淳子には自分の借家に週半分くらい来て泊まっていく愛人男(仲谷昇)がいて、彼には正妻の岸田今日子と子供がいて、もうこの生活は8年くらいになるので全員がその関係をわかっていて、いいかげん疲れてきた頃に、かつて自分の不倫生活をキックしてくれた仲代達矢が落ちぶれたダメンズ姿で現れてなにかを燃えあがらせてくれて、仲代達矢は池内淳子の現在を知るとそんなのよくない、とわなわなしてくれたので、やっぱし別れよう、て仲谷昇に告げると「殺す」とかさらりと言われたり、こうして四つ巴の意地とみれんのたらたら合戦がじっとり続いていくの。  でもずうっとそういう状態が続いていくので、そういう境遇の中で始めから生きている人たち、のように見えてそれはそれでありなのでは、とか思えてしまうのだった。

だって仲谷昇と仲代達矢が自分のために真剣に怒ってくれるんだから、向こう岸で岸田今日子がどろどろ呪ったくらいでやめようとは思わないよね、とか。 疲れたらやめりゃいいだけだし。
でもこんなの嫌なんだよもういいかげん、て空き缶をかんから蹴っ飛ばすシーンが素敵なの。
あんまし演歌ぽくない、というか。


この後、ブリヂストン美術館にデ・クーニングを見にいったらもう年末休暇に入っていてしょんぼり、みれんたらたらで帰った。

1.03.2015

[art] 高松次郎ミステリーズ

仕事納めの26日、金曜日の晩、竹橋まで歩いていって見ました。 19時過ぎ、がらがらでよかった。

さて、ハイレッドセンターのうち、赤瀬川原平と中西夏之は本を読んだり個展に行ったりを結構やってきていたのだが、高松次郎だけはあまりきちんと追いかけていなかったようにおもう。

その理由はたぶん、見なくてもわかりそうな気がしていたから。 設計図であるところの彼の文章や文章の断片、素材やタイトルを繋ぎあわせて、大学の哲学の基礎でやる認識論とか認知科学を練りこんでいけば、或いは当時の(コンセプチュアル)アートに対する時代の要請(アートに何が可能か?)、などを背後に置いてみれば、彼のオブジェや彫刻や絵画が指し示すところのものは、良くも悪くも読解できてしまうのではないか、と思っていた。

ただもちろん、そんな「読解」がなんになるのか? という別の問いも現れる。
点と線、ヒモ、光と影、空間(認識)、括弧付きの「絵画」、などなどこの展示で確かに「問い」と「答え」のように、彼のテーマ関心と作品は呼応、対応関係にあってなかなかわかりやすいのだが、でもそれでも、最後に残る「?」 -  美術作品が目指そうとする「美」(あるいは「反-美」)はいったいどこに、どのようなかたちで表象されるのか、或いは隠蔽されるのか、というテーマは、展示作品、展示構成とそれを観にきたふつうの観客(在2014年)の間にどう現れてくるのか。
例えば、「影ラボ」で見ることができる光と影の間の微妙な陰翳や、彫刻等を通して感じられる空間の歪み(感 - 空間そのものは歪まないから)は、どんなふうに見えるのかしら、とか。
なるほどねー、くらいだけど。

ただ、点や線から始まる彼の一貫した問題意識の拡がりと探求のプロセスを「ミステリーズ」として謎解きのなかに置いてしまうのはどうなのかしら。 高松次郎の作品に向き合うのって、謎解きなんて言われなくたって、「見ろ」「考えろ」ていうことじゃないの? 他にすることないでしょ? 言うだけ野暮じゃねーの? 荒川修作でも宇佐美圭司でも同じこと言うの?
だいたいさー、最近の美術の謎解き本とか、あんなの思考停止だろうがありえねーよな、とかそっちのほうにもぶつぶつ言いたくなるのだった。 

常設展のほうには河原温とかがあって、ああ彼も亡くなってしまったなあ、とか。
2014年はここで工藤哲巳展もあって、あの時代への回顧があったりするのかもしれないが、パロディとか毒とかのケツまくり系はあんまないよね。

もういっこ、「奈良原一高 王国」も見た。 1958年にあった「王国」の遠さ、孤絶感が擦れた白黒に滲んでくる。 闇の黒ではないの。

[film] Struktura krysztalu (1969)

昨年12月の23日、シネマヴェーラで「性盗ねずみ小僧」のあと、イメージフォーラムに移動して見ました。
曽根中生 → ポーランド映画祭のパターンが2回続いた。 どちらも束縛と不安の間をぐるぐると。
「結晶の構造」。英語題も“The Structure of Crystal”。

真っ白の凍える原野で男女ふたりが待っていると車が現れて、降りてきた男がふたりと再会のハグをしている。 彼はハンサムで快活でとってもよいひとっぽい。
待っていた男女は夫婦らしいJan (Jan Myslowicz)とAnna (Barbara Wrzesinska)で、やってきたのはMarek (Andrzej Zarnecki)、JanとMarekは大学の同窓でかつて同じ研究室にいたらしいことがわかる。

Janは自宅のそばに自製の測候所みたいのを作ってこつこつ観測と研究をしていて、Annaはそこの学校の先生をしていて、家にはおじいさんがいて、犬と猫と鶏もいる。 家はがたぴし寒そうだし電気も不安定だし家計のやりくりも大変そうなのだが、Marekを一生懸命もてなして、休みの日はマーケットに繰りだしたり、凍えるけどのどかで楽しい田舎の生活を一緒に過ごす。

Marekは学会でアメリカに行ったり自身の華々しい研究生活を紹介しながら、どうやら優秀な研究者だったJanを都会に連れ戻しに来たらしい。 機関の上も君に是非来てほしいと言っている、とか。
でもJanは揺るがずにここの生活を選んで、Marekもそれに納得してひとり帰っていくの。

振り返ってみればストーリーとしてはこの程度なのだが、最初のほうはいつ氷上の殺人が起こるのか、ふたりの関係が崩壊しやしないか、ひやひやどきどきで、そういう(それだけではない)緊張を孕みつつ進んでいくドラマはすばらしく、決して田舎生活ばんざい、みたいなものにはなっていない。 そこには彼らが科学者として取り組む対象である「結晶の構造」のように内部と外部の拮抗のなかに見出される規則性、見出された規則性があって、そこに依拠する生、生活のありようが提示されていて、それは84年の「太陽の年」でも反復されることになるテーマだったように思う。
あの映画で試されたのは「愛」の領域で、人の生を生に繋ぎ留め、生たらしめるその背後にあるのはどういう構造なのか、時間(歴史)なのか、とか。

この映画で語られる「結晶構造」については、ドゥルーズの「シネマ2」の第4章「時間の結晶」のなかで、「現働的イメージと潜在的イメージの識別不可能性」というかたちでより詳しく書かれているのよ、とこれは自分向けのメモ。

1.01.2015

[log] Best before 2014

新年あけましておめでとうございます。

2014年最後に見た映画は、六本木での”A Hero Never Dies”でした。
2014年最初に聴いた音楽は、もちろんアナログで、The Cureの"Disintegration"を聴いて、そこからMorrisseyの”Bona Drag”にいった。 こんなかんじになりそうな一年、と。

2014年最後に買う本を買いに大晦日に紀伊国屋に行って、ブランショの評伝にするかデリダの評伝にするか悩んで、結局どちらも買わず、雑誌アイデアの「日本オルタナ精神譜 1970-1994 否定形のブックデザイン」とユリイカのゴダール特集だけ。 元旦はこれらに加えて、前日のお片づけで発掘されたあんなのこんなのを斜め読みしていた。とにかく低気圧があんまりで動きは鈍くて。

というわけで2014年のベストあれこれ。

[film]

新作の20本;(順番は見た順。下のほうが古い) 2014年、10本では収まらなかった。

■Maps to the Stars
■Gone Girl
■Boyhood
■Tonnerre「やさしい人」
■Whiplash
■Listen Up Philip
■Under the Skin (2013)
■The Skeleton Twins
■Pride
■The One I Love
■Guardians of the Galaxy
■What If (2013)
■The Fault in Our Stars
■The Grand Budapest Hotel
■Palo Alto (2013)
■Трудно быть богом (2013)  「神様はつらい」
■Blue Is the Warmest Color (2013)
■The Secret Life of Walter Mitty (2013)
■Ain't Them Bodies Saints (2013)
■Anchorman 2: The Legend Continues

上の20本からはもれたけど、すばらしかった10本。

■自由が丘で
■Sharing
■Birdman or (The Unexpected Virtue of Ignorance)
■Jersey Boys
■Stories We Tell (2012)
■Ida (2013)
■22 Jump Street
■A Touch of Sin (2013)
■La bataille de Solférino (2013) 「ソルフェリーノの戦い」
■The Wolf of Wall Street (2013)

旧作。 泣いたりじんわりしたりした15本:

■Struktura krysztalu (1969)  「結晶の構造」
■下町(ダウンタウン)(1957)
■Kentucky Pride (1925) 「香も高きケンタッキー」
■It Should Happen to You (1954) 「有名になる方法教えます」
■Too Much Johnson [work print] (1938)
■夜の片鱗 (1964)
■土砂降り (1957)
■Rio das Mortes (1970) 「リオ・ダス・モルテス」
■大佛さまと子供たち (1952)
■河口 (1961)
■The Life and Times of Judge Roy Bean (1972) 
■Hævnens Nat - Blind Justice (1915)  「復讐の夜」
■Monte Walsh (1970)
■夜の終り (1953)
■Lumière d'été (1943)   「高原の情熱」

[music]

ライブもの。 あいかわらずぜんぜん行けないよう。
大晦日のNY、Bowery BalllroomではRainer Mariaの復活ライブがあったのだねえ。
見たかったなあ。 Caithlinさん、ふとった?

■The Philip Glass Ensemble & Steve Reich and Musicians   - Sep. 09   @BAM
■Nine Inch Nails, Soundgarden   - Aug. 25    @Hollywood Bowl
■Cloud Nothings  - June 22   @Studio Coast
■The Faint - May 14  @Music Hall of Williamsburg
■Core Anode May 02    @Baus Theater
■Quasi  - Mar 02    @O-Nest
■The National  - Feb.16    @Studio Coast
■Savages  - Jan. 22   @Liquid room

録音もの。 CDで買ったのは箱モノくらい、あとはアナログがほとんど。

■LCD Soundsystem “The Long Goodbye: LCD Soundsystem Live at Madison Square Garden”
■Ex Hex “Rips”
■Sharon Van Etten  “Are We There”
■Spoon “They Want My Soul”
■Frankie Cosmos “Zentropy”
→Liz Phairさんが出てきたときを少し思いだした。
■Charli XCX  “Sucker”
→音はほんとに大っ嫌いなのだが、なんかね。くいこんでくるの。
■Mica Levi  “Under the Skin: Original Motion Picture Soundtrack”
→渋谷とか新宿の雑踏ででっかい音で聴くとなかなかよい。

あと、Merge Recordsの25周年記念の隔月7inch subscriptionは、12/31に最後の回が届いた。
最終回のおまけは12inchのカバーEP(ジャケットはDave Eggers)で、ものすごくお得だった。

Reissueもの。 だんだんこっちの方にアンテナが行きがちなのがさみしい。

■Pixies “Doolittle 25”
■Wilco “Alpha Mike Foxtrot: Rare Tracks 1994-2014”
■The Afghan Whigs  “Gentlemen at 21”
→ ここまでの3つは、どれも本当におもしろくて、深い。 全員現役だし。
■The Posies  “Failure”
■The Clientele “Suburban Light”
■The The  “Soul Mining 30th Anniversary Deluxe Edition Boxset”
→おまけの新聞がすばらし。
■Pauline Murray and the Invisible Girls
■Josef K  “The Only Fun In Town”
■American Football “American Football”
■Bob Dylan and the Band  “The Basement Tapes Complete: The Bootleg Series Vol. 11”
→どこからでもだらだら聴けるところが。

まだ聴けていないが、聴いていたら絶対に入ったであろうやつらとして;
Cursive “The Ugly Organ (Deluxe Edition)”,  Fugazi “First Demo”,  Slint “Spiderland (Remastered) Boxset”。

[art]

■Living as Form (The Nomadic Version) @アーツ千代田3331
■Death Becomes Her : A Century of Mourning Attire  @Metropolitan Museum
■Egon Schiele: Portraits    @Neue Galerie
■菱田春草展   @東京国立近代美術館
■The Glamour of Italian Fashion 1945 - 2014 @V&A
■Charles James: Beyond Fashion    @Metropolitan Museum
■あなたの肖像―工藤哲巳回顧展   @東京国立近代美術館
■Mike Kelley  @MOMA PS1
■Vasily Kandinsky: From Blaue Reiter to the Bauhaus, 1910-1925  @Neue Galerie

[theater]

■This is Our Youth @Cort Theatre
■Green Porno @BAM Fisher Building

[book]
とにかく自動で(のわけないけど)積み上がっていくやつをどうにかして。

ボラーニョ・コレクション、金井美恵子エッセイ・コレクションの4冊、「ストーナー」、などなど。 慌ただしくてあんまし集中して読めなかった1年でした。「重力の虹」もこれからがんばる。
洋書は食い散らかしだが、”Women In Clothes”と”Worn Stories”の2冊はおもしろかった。男性が読むべき本。   あとは、“Fictitious Dishes: An Album of Literature’s Most Memorable Meals”とか。

他方、政治方面があまりにうんざりだったこともあって秋口くらいから久々にお勉強熱が出てきて、いろんなのの復習をはじめた。 現代思想の特集「社会学の行方」にあった大澤真幸「社会学理論のツインピークスを越えて」とか、思想「十年後のジャック・デリダ」にあった「アメリカ独立宣言」とか。


今年もたくさんのよいものに出会うことができますようにー。
出会うことができるくらいの時間が取れますように。

お片づけは、わりとがんばったので新年の抱負には書かなくてもよい、はず。