2.25.2011

[film] Gnomeo & Juliet (2011)

JFKなう。 
どしゃどしゃのどしゃぶりで、当然のようにひどい渋滞で、げろげろに車に酔った。 さいてー。

最後の木曜の晩、9時過ぎにみました。
日本で吹き替え版のみだったら悲惨なので、いちおう見ておくの。

クレイアニメ、なのかな。 3Dだけど、あんま3Dじゃなくてもいかったかも。

ぐにょーめお。 (言ってみたかっただけ)

隣りあっていて、でも仲がわるいお家の隣り合っている庭に置いてある置物たちが勝手にうごいてロミオとジュリエットやるの。 青組がロミオで赤組がジュリエット。 他にフラミンゴとかカエルとかきのことか、庭に置いてある大抵のやつは動く。よくよく考えてみると怖い。 けど、造型はどれも愛嬌あってかわいい。

ストーリーは極めてスタンダードで、安心してみていられる。
変なひねりも説教もない。 人形劇をみているみたいなほんわかしたかんじ。
Doomed Loveだし、シェイクスピア本人も出てきて、どうすることもできないわ、っていうの。 悲恋なの。 たぶん。

この設定でシェイクスピアをかたっぱしからやったらおもしろいだろうなー。
悲劇系はみーんな最後粉々になっておわるの。

Executive ProducerはElton Johnなので、彼の曲が古今の名曲が死ぬほど流れる。でも原曲そのまま流してくれればうれしかったのに。

ガーデニング、シェイクスピア、エルトン・ジョン、と英国人が大好きな要素がいっぱい、なので声優陣はなにげに豪華だったりする。

メインのふたりは、James McAvoyにEmily Bluntで、これはまったく問題ないの。 ほかに、Michael CaineにMaggie SmithにJulie Walters、シェイクスピアはPatrick Stewartだよ。 さらにOzzy OsbourneにDolly Parton、ついでについでにHulk Hoganまで。

これで日本公開時にくだんない芸人の吹き替え版のみだったりしたら、ふざけんな、だわよ。
日本でこれをやると、たぬきとかになるのかしら、やっぱし。

では、飛行機のほうに。
日本に戻ると、また映画とかいくペースがおちて、更新は滞って、血流も体液も滞って、そこを花粉が直撃するんだわ。 やだなあ。

[music] Fred Frith and Laurie Anderson duo

水曜日もThe Stoneでした。 ほんの少しだけ滞在が延びたので行けた。 

8時の回だったので6時半くらいから並んで(前方には20人くらい)、7時過ぎに順番に中に入って一旦お金($25)はらってスタンプ押してもらって、で、もう一回そのまま外にならぶ。  この時点でチケットは売り切れてしまうから、わかりやすいといえばわかりやすい。

入口でカウンタをかちかちしつつ中に入るひとを仕切っていたのは、John Zohnさんでした。 
えらいよねー

風がなかったのできつくはなかったものの、でも1.5時間外にいるとがたがたになって、中もそんなに暖かくはない(隙間風がね)のでコートを着たまま見る。

前の列右手のすぐ手の届くとこにLou Reedさんがいた。
昨晩みたいにはしゃぐのかしら、と思ったら、最初のうちだけFred Frithのギタープレイを前傾姿勢でじーっと見てて、そのあとはそのまますうっと丸まって寝てた。たまにすごい音が出たときだけ、いかんいかん、て起きるのだがまたすぐ落ちる。 
おじいさんみたいだった。 もうじき70だもんね。 おじいさんだよね。(失礼な)

えー、音は、ぴろぴろ、さわさわ、ひりひり、系の、あんましやかましくない弦楽でした。
がつん、と来るような音とか波、はこない。(だから彼寝ちゃったのね)

ふたりとも弦楽器としてのヴァイオリンとかエレクトリックギターの楽器としての可能性を極める、というよりも、それらの音がどんなふうに我々の耳を直撃するか、そして我々の感覚や認識を更新するか、という方向からライブ演奏にアプローチしてきた人たちであった、と思っている。

Fred Frithさんの場合、弦の震えがじかに鼓膜をなでたりさすったりするさまを、その生々しいかんじを弓とか豆とか小道具を使いつつ模索し、Laurie Andersonさんの場合、いまのテクノロジーランドスケープのなかで愛撫のようなかたちで現れてくるような音のありようを、エレクロニクスなんかも使いつつ探ってきていて、で、このふたりの競演、というのは耳元とか頭のまわり30cmのところをいろんな音がちゅんちゅん飛びまくっていてうるさいけどなんか心地よくて、たまにえらく壮大でかっこよくなったりする。 そんなかんじ。

即興に近い演奏かと思っていたのだが、ふたりの他に交互にReadingをする男女がいて("Stingy"にかんするstatement, みたいの。 出典不明)、これらのタイミングはきっちりと計られていたようだったので、事前に打合せとか練習はしていたもよう。

Readingは男女共、静かに、抑揚なく、進んでいって、これも音の微細なうねりと見事に調和しているのだった。

こんな具合で、55分くらい、ノンストップ。 アンコールはなしで、気持ちよくおわった。

あと、Fred Frithさんのやさしい木こりみたいな笑顔と、Laurie Andersonさんの子供みたいな笑顔(ほんとにいくつになってもこのひとは)を見ているとそれだけで、なのだった。
ここまでほあほわとあったかくなるライブ、というのも珍しいとおもった。音だけ聴くとまたぜんぜん違う印象でありえないのだが。

で、場内の空気もきんきんにはりつめてて、写真を撮れるかんじではぜんぜんなかったの。

終ってから、しばしのお別れをゆいに、Porsenaにいった。
ほんとうにここのLasagnaは、ありえない、しんじらんない。


さっき戻ってきたら、LateShowでBright Eyesをやってた。
おもってたほど悪くなかった。

さらに、Jimmy Fallonの音楽ゲストは、Laurie Andersonさんだった。
新譜のジャケットとおなじ男装化粧で(男声)ヴォイス加工と管と鍵盤のトリオ。
ほんとにこのひとは…


ぱっきんぐはー …  朝でいいや…

2.24.2011

[music] Hal Willner and Philip Glass perform for Allen Ginsberg

ほんとうは火曜日に発つ予定だったの。 金曜日にのびた。 ちょっとだけね。 ちっ。

前に書いたかもしれんが、2月のThe Stoneのカレンダーは、"curated by Laurie Anderson and Lou Reed"であって、メンツがすごい。 

このふたりによるValentine's Day duoがあったし(2/15だけど)、日曜日毎に午後ずっといろんなひとを招いてレクチャーとかしてる。 あと教授とかもやる。

ここが面倒なのは、前売りとかないので、当日小屋の外に並ぶしかないことなのね。2月の寒い晩に。
しかも並んだところで、もともとちっちゃいとこなので、招待客とかが多い場合はすぐアウトだし。
でも、こういう地道な苦労をして音楽を聴く、というのもわるくないのよ、子供たち。

そんななかのいち企画。 2/22の10:00pmから。 8:30くらいから並んで、それでも結構あぶなかった。 お代は特別料金で$20。

Hal Willnerは生前のGinsbergとレコードつくっていたし、Philip Glassもそう、このふたりによるDuo。
いちど生Hal Willnerは見ておきたかったし、Philip Glassもソロピアノ、というのは珍しいので聴いておきたい。 Poetry Readingだけど、という点については、こないだの映画"Howl"でも、Patti Smithのリーディングでもはっきりしているように、Allen Ginsbergの詩は読んでいるだけで音楽になってしまうものなの。

会場(ていうか室内)にはLou Reedさんがすごくよい御機嫌で立っていたので、ぼくはきのう、約40年前のきみを見たよ、すごく機嫌わるそうだったよ、て言ってあげたくなった。

10:10くらいにHal Willnerさんが出てきたので、みんなでわー、て言ったらピアノの裏にあるお手洗いに行っただけで、手を振りながらそのまま地下の楽屋に戻っていった。 へんなの。

そのあとすぐにふたりで出てきて、最初にやったのが1960年の"The Magic Song"から。
いちおう、どういう詩なのか簡単な説明をしてくれるのだが、あんまよくわからず。

でも、ピアノと声はびっくりするくらいあってて、おもしろい。
特に合わせている素振りなんかこれぽっちもないのに、なんともいえない破綻した調性、みたいなただものではない凄みをきかせるDuo。

ふたつめのが、これは有名だし、Webに本人が朗読する動画もある"C'mon Pigs of Western Civilization Eat More Grease"。 ほんとに音楽だし、たのしいし。

Philip Glassのピアノはでっかい音でひたすら力強く、たまにミニマル寄りのフレーズも入るが、それでもダイナミックにがーんと鳴る。 このひとはなぜかいっつも57thの地下鉄のホームにいるとこを見かけるのだが、こんなピアノを叩くひとだったのね。

一番音楽的で美しく鳴ったのが、もともとレコードにもなっているらしい"Wichita Vortex Sutra"。 カンサスのだだっぴろいランドスケープがふわっと目の前にくるかんじ。

Halが話したAllenとのエピソードでおもしろかったのは、Brooklynからふたりでtaxiに乗ってマンハッタンに帰ったとき、車内でサルマン・ラシュディの話題になって、運転手が「殺されてもしょうがない」みたいなことを言ったら、Allenが猛り狂って運転手の後ろのガラスをばんばんぶったたいて荒れて、橋のまんなかで降ろされちゃった、ていうやつ。 熱いひとでもあったのね。

ラストはやっぱし"Holy"で、しかしこの"Holy"はすごかった。 映画でJames Francoがやったのよか、ぐいぐい迫ってきた。 なんでかしら。 やっぱし年季?

終わった瞬間、「ブラボ~!!」てひとり絶叫したのがLou Reedさんだった。 はいはい。

で、楽屋に引っ込まないアンコールで"I am the King of May"をやっておわり。
Lou Reedさんが、こんどはひとり立ち上がって熱烈に拍手しているので、みんな立ちあがらないわけにはいかなくなって、なんとなく立って拍手した。

いや、でもほんとにすごくよかったのよ。

[film] The Velvet Underground and Nico (1966)

"The Panic in Needle Park"の後で、地下鉄で上にのぼってLincoln CenterのFilm Comment Selectsから。    Andy Warholがバンドを撮った2本。

べつにどっかでDVDでも出ているだろうし、見なきゃいけないってもんでもないのだろうが、ここで見ておかないとたぶんずっと、一生見ないことになりそうな気がしたし、あそこだと音もでっかいし、行っておこう、と。

最初が”The Velvet Underground in Boston” (1967)ていう33分の中編。

ライブフィルムだとおもうでしょ。 たしかにライブ会場でカメラをまわしているのでライブフィルムにはちがいないのだけど、でも音楽はほとんど聞こえてこない。 どこか遠くでがんがん鳴っているのは聞こえる。 なんの曲かはあんましわからない。

最初は上映機材が壊れたのかしら、と思っていたのだが、そうでないことがわかってくる。
バンドはほとんど映っていなくて、ライティングを操作しているとことか、ぼーっと立っているだけの人とか、気がふれたみたいに踊っているひととか、そんなのばっかり。

半分くらいのひとは、またアンディがやってるよ、てかんじで寝てたかも。
でも、これだってライブフィルムなのだよ。 
3Dのジャスティン・ビーバーのとおんなしカテゴリーのね。

で、次の "The Velvet Underground and Nico"がメイン。

最初のNicoのショットだけでわーい、になる。

これも相当変、ではあった。
モノクロでバンドが演奏しているとこを撮っただけ、なのだが、カメラはびゅんびゅん揺れたり振れたり寄ったり離れたり、音もミキサーとか勝手にいじるんじゃねえよこの白あたま、というわけでところどころで伸びたり縮んだりしている。 適当にあそんでみました、みたいな。

バンドのコンセプトをつくったのは白あたまだし、自分のお金で撮ってるんだからなにが悪いの?なんだろうが、たまにこのやろうはー、というかんじにはなる。 しかし、バンドはそんなのとは無縁に引き締まった轟音を延々鳴らしているだけ。 クール。

曲は、"Sister Ray"みたいなガレージサイケを1曲だけ、ヴォーカルなしで延々、がんがん演奏していくだけなのだが、"Sister Ray”がそうであるように、ひたすら気持ちよくずるずる引き摺られていくかんじがたまらない。
あと1時間でも2時間でも聞いていられる。
特にJohn Caleのヴィオラがベースに変わったあたりから、すんばらしくうねる音になる。

メンバーもかっこいいよね。 Nicoは勿論、Lou Reedも、Sterling Morrisonも、John Caleも、Maureen Tuckerですらも。 まんなかでずっとはしゃいでるガキはNicoとAlain Delonの子供らしいが、いいよな、あんな連中に遊んでもらえて。

半分を過ぎたくらいで、だれかから通報があったのかポリスが(バンドじゃないよ、もちろん)きて、圧力をかけるのだが、なにゆってんだか、てかんじでほぼ無視して演奏を続けるLou Reedもえらい。

最終的にはもっと沢山のポリスがきて本格的に撤収、となって、そこから暫くのあいだも放置されたカメラはまわり続けるのだが、みんな適度にばらけていて、バンドていうかんじがしなくて、そこもいいなあ、て。

終わってから待合室でDJパーティがあって、みんな寄って楽しんでいってね、だったのだが水だと思って飲んだのが白ワインで、目がまわってしまったので退散した。


Film Commentの特集の目玉と書いた"Straight to Hell Returns"であるが、Walter Readeの翌日、92Y Tribecaでも上映することがわかった。しかもこっちはAlex CoxとJim Jarmuschの対談つき。 どっちにしても行けないけど...   ちぇ。

[film] The Panic in Needle Park (1971)

月曜日はだいとーりょの誕生日で会社はおやすみ。で、朝は雪でまっしろだった。
木の上に積もった雪玉が道路に落ちると石灰みたいに白い線を描いてきれい。 
前の日、寒かったわけだー。

お昼にPrime Meatsにしばしのお別れをしに行って、Mast BrothersのチョコとStumptown Coffeeがまぜまぜされたチョコレートタルトをたべた。 
きょういてき、だった。

で、夕方にFilm Forumでこれをみました。
先週から"Pacino's 70s"ていう一週間特集がかかっていて、Pacinoの70年代の主演作とかをやっている。週末は当然のようにThe God Father Marathonなんかもやっていたのだが、そんな体力ゼロだし。

もう何回やってるんだかしらんが、まぁた再上映される”Taxi Driver”の予告がかかる。
"You talkin' to me?"のところは、もうほんとギャグにしかならないのよね。 
そういえばスコセッシの新作はドキュメンタリーなの。 見たい。

http://www.filmforum.org/films/publictrailer.html

"The Panin in Needle Park"、邦題は『哀しみの街かど』だって。 うーむ。

Needle Parkていうのは、70年代当時、売人とかジャンキーがたむろしていた72nd stとBroadwayの辺りのことを言うのだと。 はじめて知った。 
いまはTrader Joe'sなんかがあってふつうに食料品調達エリア、だよね。

そこで出会ったBobby(Al Pacino)とHelen(Kitty Winn)の薬に溺れてずるずるべったりの日々を描く。  それだけの映画なの。

お互いすごく愛しあっているようにも見えず、ヤクとおなじようにお互いがお互いから抜けられないまま、薬ほしいお金ほしい堅気になりたい健康になりたいでもぜんぶだめでずるずるずる・・・

そのずるずる感が暗めの映像、主人公ふたりの暗い目と同調してよいかんじ、とは言わないがはっきりと70年代初のNYの空気を呼びこんでくる。 やりたくてやっているわけじゃない、でも抜けられないんだようどうしたらいいんだよう、みたいなのを、声高にぎゃあぎゃあ騒ぐのではなく、静かに控えめにむこうから投げてくるかんじ。

それはたぶん、当時のNYの町ぜんたいがそんなふうだったのかも、というふうに見えなくもない。
それはたぶん、NYだけじゃなくて東京でもLondonでもそうだったのかもしれない、光の量を絞って、人物をほぼふたりに絞りこむことで、そんなふうな拡がりがでてきたのかもしれない、とか。

音楽は一切ない。 あの町の騒音、いまもずっと続いているノイズがわんわん鳴っているだけ。

なんかね、時間も場所も全く別の物語ではあるのだが、例えばここに"The Social Network"が描いてみせようとした人の集まりの原型、みたいのを見ることもできるように思ったの。
薬のために走りまわって喧嘩してばかりの人たちとか、ネットのために走りまわって喧嘩してばかりの人たちとか。 その奔走する様を通して、その世界の底にあるもの、底で動いているものを抽出しようとした、みたいな。

しかし、アルパチの演技(ぶちきれ)はこの時点で既にできあがっていたのだなあ。
でも、この映画の彼はなんか小さくて汚れてて、犬みたいでよかった。

あと、注射がだめなひとにはきついのでは、とおもった。
HIV前の時代にはあんなことを平気でやっていたのねえ、って。

ラストの、ふたりが歩いていくところはいいよねえ。
ほんと、二匹の犬みたいなんだけど。

2.23.2011

[film] Cave of Forgotten Dreams (2010)

美術館のあと、Lincoln CenterのFilm Comment Selectsの特集から1本みました。

Werner Herzogの"Cave of Forgotten Dreams"。
Herzogが3Dでドキュメンタリーを、ということで、ふうん、とか、ぼーっ、とかしているうちにチケットは売り切れてしまい、しかたなくStand-byの列にならんだ。

しかし外は風がものすごく冷たくて、待っている約1時間強で、凍死するかとおもった。(しんでろ)

とりあえず中には入れたものの、がちがちでコートも脱げないありさまだった。 そういう状態で見た、と。

南フランスの山奥で94年に見つかったショーベ洞窟(Chauvet caves)、そこにある3万5千年くらい前に描かれたといわれる壁画の謎に迫る、と。

現在フランス政府の厳重な管理下にあるこの穴倉の撮影に、なんでHerzogが、よりによってHerzogが、選ばれたのかよくわからんが、撮影スタッフはHerzogを入れて4名のみ、1回の撮影で許された時間は1時間のみ、しかも踏み板があるルート内しか動いてはいけない。  そういう条件下でばりばりドキュメンタリーを撮れそうなチーム、というと確かにそんなにはいないかも。  キャメロン? じょうだんじゃねえ、とか。

冒頭の、畑道を超低位置からなめるように上がっていくところから、おお3Dだわ、と単純に盛りあがれる。
或いはラストのラジコンヘリ(?)で上空から撮ってみたやつとか、やってみたかったんだろうなー、とか。

このシンプルさがなかなかよくて、洞窟のなかの、鍾乳石だらけででこぼこのルートを3Dだからこんなふう、こんなもん、とざくざく切りこんでいく。 3Dの可能性とか視覚がどうの、とかぐじゃぐじゃ言うのではなく、3Dてのはでっぱったとこがでっぱって見えて、へこんだとこがへっこんで見えるんだろ、みたいなどまんなかアプローチがよい。

そういうふうにして壁画をなめるようにしてみると、なんかすごいわけ。
よくこんなもんをこんなとこに、と素直にびっくりするし、何人ものひとが感嘆しているように、描かれている絵そのものがアートとしてすんごく力強いのね。 
牛とか馬とかサイとか。 しかも何重もの線の遷移でムーブメントまで表現している。
描いているのはひとりのひと(たぶん...)で、身長が180cmくらいあって、小指の先が曲がってて、みたいなことがわかっているのだが、ほんとにあんた誰よ? 

捏造疑惑がだいすきな日本人として、ドラえもんに慣れ親しんできた日本人としては、こんなすごいわけないよね、とか思ったりするのだが、時間の問題は置いとくとしても、絵としては、単純にすげえ、と思った。
女性のシンボルを描いた絵にピカソのミノタウロを対比させるのはえぇー?、だったけど。

3Dの力は、とにかくこんなディテールをとりあえず黙って見とけ、て見せてしまうとこにもあるのね。

考古学をこつこつやっているひとは尊敬するけど、じじいとかが太古の夢に思いを馳せる、とかいうのは勘弁しておくれよってずうっと思ってて、この映像の堂々とした明快さはそんな蘊蓄じじいのパイプのもくもくに小便をひっかけるようなもんなのかも。

もしこれがほんとにほんとに3万年以上前のやつらだとしたら、わけわかんないし、想像のしようがない、というかどう想像していいのか、すらわからん。
ここに遺されてて目に見えるかたちとしてあるものが全てで、そこからわかることしかわかりようがないよね、って。 それでも夢だのロマンだの言えるんだとしたら、そいつらは相当おめでたい。 映画のなかにそういう連中もでてくるけど。

そういうわけで、タイトルのは、Forgotten Dreamsであると同時にDeams to be Forgottenでもあるのかも、とかおもった。

更に、いちばん最後のPostscriptが痛烈だった。 ふん、てかんじ。

あと、ここからくだんないおはなし、しぬほどいっぱい作れるよね。

壁画が実はうごく。
壁画が実はいきものだった。
壁画にキリストの顔が。
壁画が高松塚に。
中にまだひとがいた。
中に猫がいた。
中に巨大アリが。
中にゾンビがいた。
中に宇宙人がいた。
中に病原体が。
中に座敷わらしが。
中に別宇宙への扉が。
中に入ると若返る。
中に入ると妊娠する。
中に入ると性転換。
中に入ると吸血鬼に。
まるごと方舟だった。
まるごと怪獣だった。
まること発泡スチロールだった。
まるごと半導体だった。
まるごと食べ物だった。
....

[art] George Condo: Mental States

日曜日は、寒くて風邪ひいてしまったので、美術館ふたつ、映画ひとつだけ。
連休が終ったら帰らなくてはならないのだが、美術館は月曜休みだからさー。

最初がBoweryのNew Museumで"George Condo: Mental States" 。

http://www.newmuseum.org/exhibitions/431/

George Condo (和名:近藤譲二 - うそよ)は米国の画家/彫刻家で、こないだのカニエのCDジャケットでいきなりメジャーになってしまったひとね。
New Museumとしては、オープニング時以来の動員数になっているのだそうな。

3階と4階のスペースぜんぶつかって、彼の肖像画、大作とか黄金彫刻も含めてがーっと紹介する。

例えばYBAsの連中に見られるような計算高い、ねっとりしたとこはあんましなくて、よくもわるくも無邪気でおおらかでアメリカ。でもそれゆえの底意地の悪さ、みたいなのもあるんだろうなー、くらいのかんじはする。

絵を見て思うのは例えば漫画のわかりやすさ。誇張された顔のパーツや表情の歪み具合にF.ベーコンからの影響を云々することもできるのだろうが、あそこまでパラノイアックなかんじはなくて、思い浮かべたのは湯村輝彦とか谷岡ヤスジとかのほうだった。 彼らの絵に認められる、直情的に叩きつけられた力強い線や膨張したフォルムとおなじ何かが、はっきりとGeorge Condoのカンバスにも音楽的な、リズミカルな線としてうねりをもたらしていると思った。 こうして絵のなかの顔だの首だのは現実にはありえない姿かたちなのにはっきりと生きて、ソウルフルに動きだす。  カニエが反応したのも彼の絵のもつこんなような要素だったのではないか。

もういっこやってたのが、Lynda Benglis。
でろでろのエロともにょもにょオブジェと。 こちらはざーっと流した程度。

ここから久々のMetropolitan Museumにむかう。

見たかったのはセザンヌの"Card Players" 3点盛り特集。
セザンヌの「カード遊びをする男たち」にはいろんなバリエーションがあるのだが、世界中からそのうち3点と、関連する絵画も集めてみたらどうなるのか。 

企画はMetropolitan MuseumとロンドンのCourtauld Galleryの共同。
最初に雑誌でこの展示を知ったときは、うむむーなんてマニアックな、というかんじだったが、思っていたよかおもしろかった。

集まった3点は、Metropolitan所蔵の(3人版)とMusee d'Orsay所蔵の(2人版)とCourtauld Gallery所蔵(2人版)のと。 Metのがいちばん古くてCourtauldのがいちばん新しい。

集まれなかったのは、個人蔵のとThe Barnes Foundationの2点。こいつらは写真のみの展示。

もちろん、いろんな角度からの分析が可能なのだが、初期のほうがプレイヤーの顔とかひとりひとりの姿が色彩の鮮やかさも含めてくっきりと出ているのに対して、時間が経つにつれて焦点が各プレイヤーからカード遊びをしている部屋の情景、空間そのもの、のようなところに移行してきているのがわかる。色彩はより地味に、ひとりひとりのフォルムは空間内のパーツとして固くあるだけ、になっていく。 彼の晩年の「林檎」が石ころのように冷たく、しかしはっきりとそこにあったのと同じように、ある空間のなかの存在をその空間ごと切り出して、しかもそこに在ることを見せる、そういうアプローチが、しっかりと。

これまでの中~後期セザンヌの作風の変遷をきちんと裏付けるだけで、別の新たな発見とかそういうもんではないのだが、お勉強にはなったかも。

それから、写真コーナーの"Stieglitz, Steichen, Strand"。 近代写真の祖としての3人(ぜんぶ"S"ね)を横並びで。
殆どはここの写真コレクションのパーマネントだし、何回も見ているので言うことないのだが、個人的な好みでいうと、Steichenがやっぱしすごいかも。 StieglitzとStrandはどうしてもスタンダードを作ったひと、みたいなイメージがあるのよね。

もういっこやってた展示で、ええー(Metがこんな展示を)、みたいなかんじだったのが"Guitar Heroes: Legendary Craftsmen from Italy to New York"。

http://blog.metmuseum.org/guitarheroes/

Guitar Heroていってもプレイヤーではなくて、クラフトマンのほうだった。
19世紀にイタリアからNYにギター職人がいっぱい移民してきて、そうやってできたNYのギターブランドとその作品あれこれを紹介する。 D'Angelico とかD'Aquistoとか。 アコースティックもエレクトリックも。
時間によっては実演とかもやっていたみたい。

鳴っているとこ見ないとなんとも、だったのだが、子供も含めて普段こんなとこには来そうにないマニアみたいな人たちがいっぱいいた。
いちおうプレイヤーの写真とかも貼ってあって、ロック系だとPete TownsendとかMark KnopflerとかSteve Millerとか。 JimmyPもJeffBもいないよ。

あと、楽器コーナーのとこに、リンゴスターの黄金のドラムスが!ていう貼り紙があったので行ってみたら、64年のエド・サリバンショーに出た時に彼が使った金色のスネアがいっこ、ころんて置いてあるだけだった。
リンゴはバスドラムのほうがみたかったんだけど。

時間がなかったので大急ぎで走ってまわって、このあとバスで西に向かう。

2.22.2011

[film] I only want you to love me (1976)

The Pajama Men〜 がおわったのが(まだ)8:30くらいで次の選択肢は3つあった。

ひとつは、Mercury LoungeのVersusで、ただこれはLate showなので0:00くらいの開始になるだろうて。

もうひとつは、Gramercy TheaterでのImmortal。
だって、ノルウェー黒パンダメタルって聴いてみたかったんだもの。 
それくらいまで精神的に追いつめられているんだよう。

で、やっぱしこれだ、とおもって辿りついてみたら売り切れよ。 
ええええ、だって暗黒パンダだよ、邪悪なんだよ、とかつぶやいてみてもしょうがない。
同じように呆然と立っている子供たちもいっぱいいた。 おぼえてろよ。

しょうがないので最後の案、Lincoln CenterではじまったFilm Comment SelectsシリーズからRainer Werner Fassbinderの76年作"I Only Want You to Love Me"をみる。 
邦題は「少しの愛だけでも」。

極悪パンダからVersus和み熊に行くのは少し違う気がして、逆にめらめら沸きあがったこんな世の中なくなっちまえモードにファスビンダーの陰険さはぴったしだ。
道ばたに立っているだけで凍え死にそうなくらい寒いしな。

Film Comments Selectsは、雑誌のFilm Commentsが定期的にやってる世界中の変な映画をピックアップして紹介するやつで、今回、日本からだと園子温の「冷たい熱帯魚」とかが上映される。 あとは南京大虐殺のやつとか。

でも今回の目玉はなんといってもAlex Coxの"Straight to Hell Returns"だよね。
かの"Straight to Hell" (1987)を監督自身が編集しなおしたやつで、監督自身も来て、上映後にDJとかライブイベントとかもあるの。 
でもこれの上映の頃にはもういないの。 ちくしょうー。

えー、で、この特集でなんでファスビンダーのこれが1本だけ入っているのかはわからん。 けど見てなかったので、見る。 もとはTVムーヴィーだったらし。

両親にあまりやさしく育てられてこなかった左官屋のピーターがエリカと結婚して、エリカに喜んでもらうためにいっぱい買い物して借金地獄にはまっていくの。
最初はいっぱい残業して稼ぐからだいじょうぶだよ、ぼくは自分の家族には貧しい思いをさせたくないんだ、と精一杯がんばるのだったが、子供も生まれてさすがに持たなくなって父親からお金借りたりするようになって、精神的にもきつくなっていって、やがて。

ピーターはほんとに犬のようにいいやつで、そういう無垢な忠犬顔してて、だからそんな彼が蟻地獄にはまっていくと余計にああなんてかわいそうな、とか思うんだけど、でも、毎日お花買って帰ることないよね、とか、しょうもないとこもないことはなくて、だからいつものファスビンダーのようにこりゃしょうがねえよな、と十字切って溜息つくしかない。

タイトルも含めてサークのメロドラマみたいなところもある。
だれにもどうすることもできない。 世の中はつめたくてしどい。そして怪しくて変な人たちばっかりだ。

撮影はMichael Ballhausさんで、例によってかっこよい。
ピーターが駅で電車を待っているだけのシーンにあれだけの緊張感を持ちこむことができるのはこのカメラならではかも。

ラストの余韻もすごい。 あれにはパンダも尻尾をまるめるしかねえ。

2.21.2011

[theater] The Pajama Men - The Last Stand to Reason

土曜日、"Just Go with It"の後、寒さでがたがた震えつつレコ屋を経由してBrooklynのSt.Ann's Warehouseでみました。 久々にSt.Ann'sに行きたかった、というのもあって。
3日間4回公演(土曜日だけ2回)の3回目のやつ。

ピンポンパンで育ったみんなの場合、パジャママン、つったら夜の9時になるとやってくる正義の味方なのだが、これはThe Pajama Men(複数)ですから。 
だれもそんなの気にしてないか…

英国とかシドニーとかで賞もらっているので英国のDuoだと思ってたらアメリカ人だったのね。 それにしちゃ器用で変に細かいよね。

舞台には椅子がふたつあるだけ。あと伴奏者がひとり、こじんまり。
ヴィジュアル仕掛けはなくて、明るいか暗いか、青か赤か、みたいな基本照明のみ。

ふたりはパジャマ姿でどおもー、て出てきて、べらべらべらべら、シチュエーション説明もなにもなく、いきなり切り込む小コントをノンストップで繋いでいくだけ。 
これが切れ目なく80分間がーっと続く。 ほんとそれだけ。

でもこれがしぬほどおかしくて、見ているほうは笑い疲れてぐったり。

名人芸みたいなやつではないの。モノまねとか形態模写とかにそれなりのテクがある、というわけではなくて、ひたすら変な声とか変な訛りとか変な格好とか変な動きとか、そういうのを変な鳥が突っつきあうみたいに、すごいスピードで流して転がしていく。べらべらべら。
これだけで、なんであんなにおかしいのかわからん。 なんでパジャマなのかもわからん。

電車内でチケット見にくる車掌とか、ゾンビ少女と不死身少年とか、監獄の殺人鬼と刑事とか、なんだかよくわかんないやつ(でもおかしい)とか、そんなふうなコントが何回かまわっていくうちに、何周目かでぜんぶ繋がっていることがわかったりするのだが、それは割とどうでもよくて、もういいよおもしろいんだから、みたいになってしまうの。 

下ネタもいっぱい、どれもばかばかしくていかった。
馬のやつとか。

英国でうけたのはなんとなくわかる。
この延々ころがってってどこに辿り着いたかわかんないようなナンセンスは、どちらかというと英国のものだよね。

日本でも間違いなくうけるはず。 
英語わかんなくてもだいじょうぶだよ、たぶん。

このふたりです。
http://www.thepajamamen.com/

[film] Just Go with It (2011)

土曜日、風がつよくて冷たくて、昼は雪まで舞っていてあきれた。
だもんだから体調はさいあくで、映画2本にコメディ1本。

予告でかかった "Battle: Los Angeles"。 ルースターズの「CMC」の世界だわ。

先週オープンした"Just Go with It"。 これはいかった。
Adam Sandlerの作品のなかでは、"The Wedding Singer" (1998)とか"50 First Dates" (2004) の流れに次ぐ(あそこまでは行かないかな)、中年ラブコメの傑作だとおもう。
じゃあDrew Barrymoreじゃないの? という点については、今回の筋だと彼女はちょっとちがう気がした。

整形外科医のAdamは偽の結婚指輪つかって女の子をひっかけるのが得意で、このたびもすごくきれいな娘さん(Brooklyn Decker)をひっかけるのだが、指輪をみつかって問い詰められて、妻とは離婚協議中だから、って嘘いうの。そしたら彼女は奥さん連れてきてみせて、て騒ぐもんだから、しょうがなくアシスタントのJennifer Anistonに妻の役をやってもらうことにして、Jenniferが来たらこんどは彼女に子供がいることもばれて、そんなふうに嘘が転がりに転がってみんなでハワイに行くことになるの。

筋がどこにどうやっておちていくのかは子供にだってわかる。
最後のエレベーターで誰が出てくるか、とかそういうのまでぜんぶわかる。

でも、ぜんぜんいいの。
Jennifer Anistonは真面目で従順なアシスタント、でもたまにハメ外して、実はプロポーションとかすごくて、という漫画みたいなキャラを軽々やってて、まったく悪くないの。

そして、出てるなんて知らなかったよの、Nicole Kidman。
Dave Matthews(!)の連れであばずれで、Jennifer とNicoleのハワイアン・ダンスバトルはまちがいなくMTV Movie Awardsのあれにノミネートされること確定。
ブラピとトムのEx-対決なの。しかもケツふりで。

音楽は、今回はなんでかPolice/Stingが今ふうのカバーもふくめてがんがん。
ラストのパーチーで流れているのが"It Must Be Love"で、エンドクレジットに切り替わったとたんに"Next to You"がばりばり走り出すところとか、よかった。

Adam Sandlerのキャラ説明(by Jennifer)で、95年以降の音楽はわからない、とか言っててそうだねえ、としみじみした。
あと、彼って、なんかハワイが似合うよね。
"50 First Dates"も、"Punch-Drunk Love" (2002)も。

そういえば、Rob Schneiderがいなかったのがちょっと寂しかったかも。


日曜の晩9時からNBCで"Saturday Night Live Backstage"ていう特番やってて、要は関係者へのインタビューを通してこの長寿バラエティーの秘密を探る、ようなもんだったのだが、おもしろかった。  なつかしいネタもいっぱいでてきたし。

やっぱり、ProducerのLorne Michaelsのパワーってすごいんだなあ、とか。
変な番組だよねえ。シーズンごとにキャストががらっと変わって、そのたびにぜんぜんだめだな今シーズン、とか最初はみんないうのにいつのまにかなじんでたり。
それを延々繰り返してきて軽く30年。


しかしなんで外には雪が...

[film] Out of the Past (1947)

暖かくなった、と思ったらまた寒くなった。 こうやって春は。

ほんとうはーこの週末で帰国の予定だったんだけどね。 ほんのすこしだけのびた。

金曜日の晩は、Museum of the Moving Imageでリオープン記念のリストレーションシリーズ、自分がみるのはこれが最後のやつ、Jacques Tourneurの"Out of the Past" (1947)。 ノワールのきわめつけ。 といわれる。

この作品を最初に見たのは2003年、MOMAのフィルム部門が改装中に、いまはGramercy Theatreになっている元映画館で臨時営業やってて、そこでかかってた50年代映画特集で、Otto Premingerの"Angel Face" (1952)との2本立てだったの。

これでえらくびっくらして、昔の映画にずるずる引き摺られて、なんでも見るようになっていったのはこのあたりからだった。 ずるずるずる。

プリントはLibrary of Congressのでぴかぴか。
そして、あらためてしびれる。 

引退して田舎でガソリンスタンドをやっている元私立探偵(Jeff)のところに昔の雇い主からお呼びが掛かる。Jeffには結婚しようと思っている彼女がいて、彼女には話しておいたほうがいいかも、と彼は彼女に昔あった仕事 - $40000もって消えた女(Kathie)を探して恋におちて - のことを話す。 で話は一旦この過去に飛んでから、現在に戻ってきて、で、要するに逃れられない過去と、それでもそこから逃れようと静かにあがくふたりの顛末を冷酷に追う。

派手などんぱちも熱い喧嘩もほとんどなく、場所は田舎の町、NY、アカプルコ、西海岸、と結構動きながら、台詞は最小限で、時間が過ぎたことを示すこと、登場人物が変わったことを示すことの難しさを、ひっくり返していうと、なんで時間も登場人物もがらって変わってくれないのか、変わってくれたらどんなによいだろう、という主人公の祈りと諦念をあぶりだす。
(ガソリンスタンドで働く聾唖の青年 -ずっとひとりでそこにいる- はその想いを静かに体現しているのね)

Jeffを演じるRobert Mitchumのとろんとした目と静かな、しかし確信に満ちた語り、ファム・ファタールKathieを演じるJane Greerの猫のかわいさと凶暴さを併せもった表情がほんとにすばらしく、このふたりなら、あの結末しかありえないかんじ。

白黒のコントラストがくっきりと出た撮影のNicholas Musuracaもすばらしく、配布されたレジュメに、この作品こそリストレーションされた版で見るのがふさわしい、とあったが    ほんとにそうだと思った。

アカプルコの陽の光もスコールも、サンフランシスコの町の固い建物も濡れた舗道も、登場人物全員の、なに考えているんだかわからない顔の陰影も、すべてがくっきりとした存在感のなかにそこにある。 闇のなかにはっきりとそこで生きていた存在とその時間を、そこにあった物語を際立たせることがノワールの定義であるとしたら、これはやっぱしノワールの名作、と言わざるをえないのだわ。

何回でも見たい。 これからも見る。

この"Recovered Treasures"特集のあとは、アラン・レネ特集がはじまる。
日仏でやったのとほぼ同じかな。 

2.19.2011

[music] Mitch Easter Band - Feb.17

急にあたたかくなってきたと思ったら花粉が飛びはじめてしまい、どうしようもない。

ぜんぜんライブがないのでむくれて映画ばっかしの日々であるが、木曜日の晩、いっこだけあった。

Mitch Easter Band。
Mitch Easterさんは、70年代、Sneakersを経てthe dB'sのベースを作ったひとで、80年代はLet's Activeで、Don Dixonと一緒にR.E.M.の最初の2枚をプロデュースしたひとで、あとは、Pavementの"Brighten the Corners"なんかもプロデュースしている。

個人的にはAlex Chilton, Chris Stameyと並ぶ米国の偉大なProducer/Composerだと思っていて、Alex ChiltonとChris Stameyのライブは結構見てきたのに、Mitch Easterのライブって、そういえば見たことがなかった。 ていうかまだ音楽続けていると思わなかったし。

これはだれがなんと言おうとも行かねば、と思っていたらBrooklynVeganだけはちゃんと直前に取りあげてくれた。 えらいねえあそこは。

Let's Activeをちゃんと認めてくれた - "I like everything they ever did but 1986's Big Plans for Everybody is especially great, one of my favorite albums of that decade" -  ひとなんてはじめてみたよ。 (だからそれは友だちがいないってだけなの)

http://www.brooklynvegan.com/archives/2011/02/mitch_easter_bn.html

場所はBrooklynに去年くらいにできたThe Rock Shopていうとこで、こないだTim Kasherさんが単独でやったのもここだったし、3月にはEdwin Collinsもここでやる。

でも行ってみたら街道(4th Ave)ぞいのただのバーで、普段はKaraokeとかもやってて、奥にちっちゃなライブスペースがあるだけのとこだった。 いいけど。

前座の2番手のBoy Geniusていう地元バンドから。 男女5人組、うちギター3台で、わんわんうるさくて、へたくそだけどなんかあじのあるパワーポップだった。 最後の曲でフロアにいたMitch Easterをむりやりステージにあげて競演してて、なんてずうずうしくて強引な連中、とおもったら最新作はMitsch Easterがプロデュースしているバンドだったのね。

客はぜんぶで30人いたかいなかったか。 ほとんどが前座のバンドとその友達とか関係者とかだった気がする。 いいけど。

中年ベース、中年ドラムス、女の子のオルガン、そしてギター兼ヴォーカルのMitch Easter。
外観だけだど、晩年のレンブラントの肖像画とか、しおしおに枯れたJohnny Cashとかそんなふうで、小さくて、薄い白髪の長髪で、ギターをかかえたノームみたいなかんじ。 公園で日向ぼっこをしているおじいさんによくいそうな。

しかしバンドの音があまりにパワフルでがんがん耳にくるのでびっくらした。
ギターもリッケンバッカーをばりばり弾きまくりで、相当うまいし。

基本は昨年出ていたらしい新譜からがほとんどで、昔の曲で(自分が)憶えていたのは"Every Word Means No"くらい、"In Little Ways"ですらやってくれなかったのだが、音が活きていたのでいいや、と。
とてももうじき還暦のひとが出す音ではない - 若いひとには出せないような年季の入った音を出す -  ということではなく、たんにぱりぱりきらきらとあきれるくらい音が弾けて瑞々しい、というところがね。

Alex Chiltonが亡くなり、Chris Stameyがなんとなく籠ってしまったいま、このひとがこんなふうに出てきてくれてうれしい。 がんばってるんだよ、みたいな無理をまったく感じさせないところもすばらしい。

本編1時間、アンコールは1回。
ベースの人ががらがらのフロアに降りてきて、くるっとステージのほうを向いて「ベース! すげえぞー!!」ってひゅーひゅー騒いで、そのまますうっとステージに戻ったのが、漫画みたいでおもしろかった。

なんだかとつぜん、Game TheoryとかThe Three O'Clockとか、あのへんを聴きたくなってきた。

3月末にMason HallでやるBig Starの3rdをよってたかってカバーするライブ、行きたいなあ。
でてくるのは;

Jody Stephens (Big Star)
M. Ward
Matthew Sweet
Mike Mills (REM)
Norman Blake (Teenage Fanclub)
Mitch Easter (Lets Active)
Chris Stamey (db's)
Will Rigby (db's)
Ira Kaplan (Yo La Tengo)
Tift Merritt

Alex Chilton追悼イベントとしては、これが決定版ではないか。

2.18.2011

[film] Porky's (1982)

企画したやつ出てこい!てかんじだが、BAMのCinematekで"Grass & Ass" - 「はっぱとおしり」 - という小特集があって、2本だけ、晩の2回だけ、上映されていた。

初日(15日)が”Cheech & Chong's Nice Dreams” (1981)で、2日目(16日)が"Porkey's" (1982)。
どちらも35mmのNew Print。

なんでこの2本が選ばれたのか?、しかもNew Printで?  
なんの説明もないのでひょっとしたらなんかのシンジケートとか秘密結社の符牒とか信号かもしれず、だとしたらおおごとなので、念のため行っておくことにした。

もちろん、なんも起こらなかった。 映画にでてくるSlacker達の30年後、みたいな風体のおじさんおばさんたち(含.じぶん)数十名が、どこかしら後ろめたい目をしてたむろして、うつろに笑っていただけだった。

(でもひょっとしたら、チーチー&チョンのほうでなんかあったのかも。 ← ねえよ)

"Porky's"、公開当時はみていない。
だって生まれていなかったんだもの。(殴打)

えー、たぶんそのころは大学に入ったばっかりくらいで、映画を見るお金があるんだったらレコード買っていた。 ていうか、お金が入ったらレコードか本にしか使わなかったので、映画に流れる余裕はゼロだったの。

しかも、当時の評判だとくだんない、しかもそうとうくだんない、と聞いていたので行く必要もないか、って。
いまは、仕事でへろへろになった晩の9時すぎに、わざわざBrooklynまで下りてって、$12払って見るわけさ。 どっちもどっちで、どっちみちバカだわ。

寝ても覚めても女の子とやることしか考えていないガキ共のお話し、て当時は聞いていた。
それはたしかにそうだったのだが、それ以上に、おはなしはとっても豊かで楽しいものだった。

やりたいが故にあれこれ手をだして、結果、大人たちに傷めつけられたり騙されたりしてきたガキ共の復讐、というのがベースにあるの。 
ここには、なんでやっちゃいけないんだよ、やらせろようー、という魂の叫びと、大人ってずるいよやりたいようにやりやがってさ、ていう怒りの拳の、ふたつがあるの。

Porky'sていうのは、場末のヌードクラブで、それは子供たちにとって憧れであると同時に、へたしたら恐い大人にぼこぼこにされて痛い目にあう、おっかない場所でもあるの。 それはセックスとおなじような通過儀礼とか象徴のようなものとしてあって、子供たちはみんなで協力して団結して、悪い大人をやっつけるのと同時にその場所を解体して、結果、彼ら自身も解放されて、大人になる。

もちろん、みんながみんな悪い大人というわけではなくて、よい大人もいるところにはいて、彼らを導いてくれる。 女の子達も(一部のおばさんを除いて)、ゴールのところではちゃんと待っていてくれる。

きれいによいこにまとまりすぎてないか? というかもしれないが、これが50年代のハイスクールのお話しであることを考えるとなんか許せてしまうのよ。 いいよね、って。
で、更にこれが80年代初という(別の意味で)おめでたい時代に描かれた50年代であった、ということもね。  ”Back to the Future” (1985)なんかもこの枠に入るよね。

シャワー室のところの鷲掴みと、そのあとにおばさんが職員室でわーわーいうところは死ぬほどおかしい。
とにかく出てくるはなしの9割以上、本人以外にはそれがどうした? ってやつなのね。

SATCのSamantha - Kim Cattrall - が、ほとんどSamanthaの役そのままで出ているのにもびっくら。 50年代からずうっとここまできているのだとしたら、ほとんど妖怪の域だよね。

ガキ共のしょうもないエロ話しだからしょうがないのかもしれないが、ここにひとりでも素敵なおんなのこが出てきたら断然違ったかもしれないのだがなあー。 かえってぼけちゃうかー。

おもしろかった。 けど、やっぱしなんでいまごろやったんだろうね。

2.17.2011

[film] The African Queen (1951)

前の晩からのKatharine Hepburnまつり(続かない)、ということでFilm Forumでやってたやつを見てきました。

60th Anniversary ~ New 35mm Restoration!   だそうです。

当時でいえば超大作、プロデュースがSam Spiegelで監督がJohn Huston, 主演がHumphrey BogartにKatharine Hepburn、アフリカで大々的にロケした冒険活劇で、Bogartはこれでオスカー獲ってるし、アメリカ人だったらみんなが知ってるクラシック。

ポスコロ~グローバリゼーション~ダイバーシティ云々を経てみんなが反省したいま、当時の現地(人)の描写について、いまさらあれこれ言ってもしょうがないことは、みんなわかってるし、素直にふつうにたのしめる時代になった、と言ってよいのかしら。 よいよね。

第一次大戦後のアフリカで宣教師の兄に先立たれてしまった妹が、おんぼろAfrican Queen号に乗って河をくだっていく。 行く手にはワニがいてカバがいてサルがいてゾウがいてキリンがいてライオンがいて、締めにいちばん凶暴なドイツ軍がいる、と。 
実際に急流攻め、豪雨攻め、火攻め、集中砲火攻め、蚊攻め、蛭攻め、あらゆる攻めプレイの挙句に船は沈没してとっつかまって首つり、と。

こんなふうにさんざんな目にあいながらふたりはどんどんきったなく、くさく、よごれまくっていくのだが、まあ自業自得だよねーかわいそうにー、て見ておくのがいいの、かなあ。

はらはらどきどき波乱万丈、最後に感動の波、みたいな大作の貫録はぜんぜんなくて、なんも考えなくても画面が紙芝居みたいにきれいに変わっていくので観光してるみたいだし、ふたりのやりとりも修羅場みたいのはほとんどなく、都会でちょっとがさつな男とてきぱきした女が出会って喧嘩しながら恋におちていくのと同じようなかんじで進行していく。 

この辺のかるいかんじが素敵。 いまの時代には。 たぶん。

テクニカラーで、撮影はJack Cardiffなのだが、今回のRestorationでは、そのモダンな色づかいにびっくりした。 もうちょっとどぎつくて鮮やかな、アフリカの色彩、みたいのがテクニカラーで強調されているのかと思ったが、むしろ逆で、冒頭の密林とか水面のうねりとか、淡いけど瑞々しく撮られていてすばらしい。 とても60歳還暦を迎えたフィルムとはおもえない。 公開当時もこの色だったのかはわかんないけど。

Humphrey Bogartというひとのどこがどうよいのか、わたしはいまだにぜんぜんわかんないのだが、この映画での彼は、髭そる前はShane MacGowanみたいだし、髭そった後はSteve Buscemiみたいだし、そんな悪くなかったかも。 やられてもやられても、あんま堪えてないようで、かわいそうじゃなくて、もうちょっとしばいてやってもよかったんじゃないか、みたいなかんじ。

同様にKatharine Hepburnも撮影中は赤痢にかかったりして大変だったみたいだが、そんなかんじはこれぽっちもなくて、彼女ならどんな苦境にあってもじぶんでさばさばコントロールできるよね、へいきだよね、みたいに思わせてしまうとこが -少なくともこの映画では- よかったかも。  
じょうだんじゃないわよ、て本人は思っていたのかもしれないが。

水浴びした彼女が船尾からひょろんと長い脚をひっかけてあがろうとするシーンがあって、あそこは素敵だった。 ”Holiday”でも「あたしはキリンなの」ていう箇所があったが、ほんとそんなかんじ。

ラストはハッピーエンドなのかもしれないが、ああいうふたりは陸にあがったら1週間ももたないよね、てみんな言ったとおもう。

あああもうぜんぜんじかんがないようー

2.16.2011

[film] Holiday (1938)

月曜日はValentine's Dayで、日本ではチョコの日、ということになっているようだが、言うまでもなく、ほんとは恋人同士がロマンチックに過ごすことができればそれでええやないか(←誰?)、と、そういう日なのです。

で、かのすんばらしいBAM Cinematekは、いつもこの日になるとクラシックなラブコメと同じ建物内にあるレストランのDinnerを合わせたパッケージを出したりするの。 もちろん、映画見るだけでもいい。

これまでだと、Howard Hawksの"Ball of Fire" (1941) - 『教授と美女』 とかね。粋でしょ。

で、今年は、George Cukorの"Holiday" (1938) - 『素晴らしき休日』 をぶつけてきた。
ほんとにえらいわ。

なのにー、仕事の会食が入ったの。 ありえない。 断固阻止。 でも病気ネタはこないだ使っちゃったしな、と途方に暮れつつも念を送っていたらキャンセルになった。 ばんざい。 

上映は6:00の回と8:15の回の2回だけで、8:15の回。
更にすんばらしいことに、でっかいシアターの席が若い男女でほぼ一杯になるんですよ。 
日本ではぜったいありえないよね。

プリントはLibrary of Congress & UCLAのやつ。 
つまりはぴっかぴかの、どんなHD画面だってかなわないしっとりとしたフィルムのオーラを纏った芸術品なの。

Johnny (Cary Grant)がLake Placidで出会って結婚することにしたJulia(Doris Nolan)のおうちに行ったらマンハッタンのすごい豪邸で、父親は資産家で、びっくりするのだがとにかく結婚の許しを得なけりゃいけなくて、そこにはJuliaの姉のLinda(Katharine Hepburn)とか飲んだくれで目がうつろな弟のNedとか、いろんなひとがいて、とにかく婚約披露パーティーとかを通してあれこれ学んで、んで旅立っていくのね。

もともと戯曲だった、というのもあるが、ここにはたくさんの問いかけとか教訓とかがあって。

結婚って、なんのためにするんだろうか、とか
仕事って、なんのためにするんだろうか、とか
休日って、なんのためにあるの、とか
お金って、なんのためにあるの、とか
でもお金持ちだって、いろんなひとがいる、とか
でもでっかい美術館みたいなおうちだって、くつろげる場所はある、とか

つまりは、うんと簡単にいうと、自分はどうやって生きていったらよいのだろうか? というあたりまえの問いが、資産家の娘との婚約、という出来事を通してJohnnyのとこに一挙にがーんとくる。

お金がいっぱいあれば、そんなこと心配する必要ないから、というのがお金持ちの理屈で、いやいやいやそれって順番がちがうし、お金ってそういうもんじゃないし、そんないらないし、てJohnnyはいう。

Johnnyは金持ちサークルの外にいる無垢な青年として描かれていて、その無垢な動作と問いかけはお屋敷のPlay Roomという場所を経由して金持ちサークルの内側の人たちにも投げられて、そのシグナルに敏感に反応したのが、例えばLindaだったのね。

こうやって書いてしまうと深くて重くてめんどうな作品に見えてしまうが、堅くてめんどうなのはJuliaとその父親くらいで、それ以外は極めて軽い。 Johnnyの友人の教授夫妻はすぐに人形劇はじめるし、飲んだくれの弟はすぐに楽器を叩きはじめるし、Lindaは、べらべらべらべらおしゃべりしてJohnnyとソファで一回転して、それで幸せなのね。 

くるん、て宙返りできる運動神経があれば、世の中渡っていけるってもんよ、ていうのがとりあえずのメッセージ... だとおもうよ。

それにしてもKatharine Hepburnのおしゃべりってすごいよね。 スピードといいキレといい半端じゃないし、しかもそれが相手のおしゃべりとの相対として出てくるからカンフーの試合みたいに見えることがある。
そう、これも一種の運動神経で、だから彼女のでてくるラブコメはどれもとってもスリリングでたのしいのね。

終わってからは当然みんな大拍手でしたわ。
アパートに帰ってソファのばったんをやったり宙返りやってみたりした組が4つくらいはあったとおもいたい。


なんとなく、今これのリメイクやるとしたら誰だろ、とかぼんやり思ってて。

Johnnyは、Ashton Kutcher ...
Lindaは、Anne HathawayかKatherine Heigl ...
Juliaは、Amy Adams ...
弟のNedは、Joseph Gordon-Levitt ...
父親は、Jack Nicholson ....

うーん、もうちょっと考えてみる。

2.15.2011

[film] My Brilliant Career (1979)

疲れた、というのとはちょっと違って目がまわってて、2本目が終わってロビーに出てしゃがみこんでいたら、すぐ目のまえにJonas Mekasさんがいたので、せんせいー、って平伏しそうになった。 トレードマークのつば広帽ではなくて、ぴっちりしたニットを被っていた。

この日の3本目は、7:00から、Gillian Armstrongによるオーストラリア映画"My Brilliant Career" (1979)。

だからなんで香港電影の武闘映画からオージー乙女映画に突然飛ぶよ? 
客のこともすこしは考えたらどうかね、とか思ったが、両方見てたひとって殆どいなかったかも。

マイルズ・フランクリンの同名自伝小説の映画化で、邦題は『わが青春の輝き』、翻訳本は岩波少年文庫から出ているもよう。 
映画のほうは、オーストラリアン・ニューウェーブ(ヌーヴェルバーグ)の古典と言われているやつで、殆ど女性のみのスタッフで撮られているそう。

"My Brilliant Career"とかいうと、今の日本だと就活のはなし? みたいになってしまうのかもしれないが、ここでのCareerは野望とか志(こころざし)とか、そういうやつのほうね。

とにかくすばらしかった。 これは青春の輝き、としか言いようがないし、それ自体が堂々と輝いている作品だとおもった。

まだぴちぴちですっぴんのJudy Davisが主人公のSybyllaで、茶色のちぢれ毛のそばかすだらけのはねっかえりで、生活が苦しいので祖母の邸宅に預けられていろいろ学ぶ。 母は由緒ある旧家の出なのに出自ではなくて愛で結ばれる結婚を選んだが故に苦しい生活を強いられている、と説明を受け、ぼんくらとの縁談とかいろいろ来るし、ほんの少しのロマンス(これもまだぴちぴちのSam Neill)もあったりするのだが、あたしは小説を書きたいんだ、と断固つっぱねる。

いつの時代にも、どこの地方にも必ずある「現実をみなさい」というばばあの国からの警句に対して、彼女のちぢれ毛が逆立ち、瞳が怒りに燃え、「このくそあまー」と口が歪む。 あたいは絶対負けない。 そんな少女のあらゆる表情と挙動を一瞬も、一滴もとりこぼさないことにスタッフは全神経を注いでいるかのようだった。

だから終盤、更に家が苦しくなって、農家の大家族に丁稚奉公にだされて糞まみれみたいな生活に入ってもまったく画面のトーンは揺るがず、湿っぽくきついかんじにはならない。

Brilliant。 

この強くて断固負けないかんじは、最近でいうと”Bright Star” (2009) のなかにもはっきりとあった。
あれもオーストラリアで、オーストラリアの少女映画にはウォンバットのように地味だけどどっしりとしたなにかがあるのかもしれない。

リストレーションのおかげかも知れないが、全体に画面が、屋外でも室内でも、どこを切ってもレース織りみたいに見事にきれいで、ずうっとうっとりしながら見てた。
ふたりが走りまわって枕でぼかすかやるシーン、いいよねえ。 やってみたいねえ。

監督のGillian Armstrongにとってはこれが劇場長編デビューで、このひとはこの後、94年に『若草物語』を - そういえばBAMのSusan Sarandon特集でなんでこれを上映しないのか? -  Winona Ryder - Trini Alvarado - Kirsten Dunst - Claire Danes - というすんばらしいキャストでつくった。
昔の『若草』にくらべて弱いとかあるのかもしれないが、94年という年に、この映画がこのキャストで作られたことの意義を、そろそろ誰かちゃんと書いたりしない? もうどっかにある?

ああそれにしても、79年か80年頃に、ちゃんとこの映画に出あっていたら、こんなザマにはならなかったかもしれないねえ、としんみりしつつ帰った。

[film] The Valiant Ones (1975)

日曜日は、BAMのSusan Sarandon特集もヤマだったのだが、アストリアのMoving Imageの特集"Recovered Treasures: Great Films from World Archives"から、地味に3本みました。

同館内で並行してやっている別の特集"Avant-Garde Masters"のなかで、Jonas Mekasの”Lost, Lost, Lost” (1976)の上映+本人によるQ&A、もあって、これも見たかったのだが、あきらめた。
"Lost, Lost, Lost"を最初に見たのはまだ四谷にあったイメージフォーラムで、84年くらいだったか。 これが実験映画みたいのを見た最初でもあって、いろいろびっくりしたものだった。

最初のが2時からの"Lonesome" (1928)、ていうやつ。 監督はPaul Fejos。 69分。
Universal Picturesで、音楽と、効果音と、部分だけだけどダイアログに声が入って、一部でうっすらとカラーが入った最初の作品、映画史的には結構重要な1本、なのだそうな。

マンハッタンの電話交換台で働く女の子と穴あけ工場で働く男の子の朝起きるところからはじまる。
目覚ましでびっくりして大急ぎで支度してカフェで朝ご飯とって、ラッシュの電車にうんざりして、単調な仕事で更にうんざりして、やあっと休日になるとばんざいー、てこれは、今とあんま変わらないよね。

で、休日のConey Islandでそんな男女が出あって、ビーチで遊んで、アトラクションであれこれ遊んでだんだん仲良くなって、ダンスホールで踊って、でもひょんなことからお互いはぐれちゃって、更にすごい夕立ちが来て泣きっ面に蜂で、お互いめそめそ泣きながらアパート戻って、男は彼女と踊った思い出の曲をレコードでがんがんかけて、女は泣きながらうるせえよ癪にさわるんだよ、て壁をどかどか叩いてたらそこにいたのは彼だった、と。

こんにちのデート映画、Boy meets Girlものの原型、ロマンチックなところも、失望もやけくそも、突然の、一旦の破局も、夢のようなハッピーエンドも、既にぜんぶ入っているのね。

しかし、当時の通勤電車は今の通勤地下鉄よか混んでいた、とか、20年代、全盛期ののConey Islandがすごかった、というのは聞いたことがあったが、これほどだったとは、とか、いろいろおもしろいなあ、と。


この後で4時から見たのが、香港のKing Hu(胡金銓)による"The Valiant Ones"(1975) -
『忠烈図』 。

20世紀初のNew Yorkから16世紀の中国にとんだ。

上映前に、これを見るためだけにわざわざどっかから飛んできたという映画史家のDavid Bordwellさん(http://www.davidbordwell.net/)による、ものすごく短い講義があった。

King Huのアクションの京劇(Beijing Opera)からの影響とか、彼のフレーミング(一瞬、中心がどこにあるのかわからなくなる)の特殊さ、などについてざっくり。

お話しは、16世紀の明の時代、日本の海賊が沿岸で悪いこといっぱいしてて、それをやっつけるために7人の勇者が呼ばれて、えんえんバトルするの。 いじょう。

勇者のなかに夫婦がいて、この2人がべらぼうに強くてかっこよくて、賊のアジトに乗りこんでって日本代表みたいなかんじの連中と勝負するのだが、日本側、まったく歯がたたない。 もうちょっと殺陣がちゃんとできるやつを、とかそういうこといわない。
たまにでてくる日本語、「ばきゃーろー」とかも相当変だが、そういうこともいわない。

日本側の親玉がサモハン(武術指導も彼)で、Hakatasu - 中国語字幕だと津多博てなっていたが、博多津ていうのか? - なんでか白塗りのバカ殿仕様なのに、とうぜんめっぽう強くてすごい。

で、ラスト、海岸でのバトルは、なんというか、ものすごくありえなくて唖然。
しぇー、しか出てこなかった。
モモンガじゃないんだから。 いや、モモンガだってあんなふうに飛ばないし。 
そもそも彼ら殺し合いしないし。

冒頭の講義でも触れられていたが、一瞬で相手を倒す、一瞬にしてコトが起こる、それをわからせるためにフレームとかカット割りはどこにどんなふうにあるべきなのか、King Huの偉大さとユニークさは、そのありようを独自に発明した - イタリアのウェスタンとは全く別のアプローチで - ことにある、というのがようくわかった。

ただ、案外適当につないでいたらたまたまそれなりにできてしまった、というのも結構あるのでは、とか失礼なことも思った。 だってあんなのまねできないし、まねできないから伝承しようがないし。 そうか、だから偉大なのか、とか。

DVDがどっかで出ているのだったら、もう一回見て、それなりに納得してみたいところ。

でもやっぱし、あんなふうにひとは飛べない。

[music] Don Giovanni Records Showcase -Feb.12

前にも書いたがこの週末はライブがほんとになくて、St. Ann's Warehouseで3日間上演されたBrooklyn Youth Chorusの”Tell the Way” - Nico Muhly (他にThe Nationalのひととかが参加)か、Mercury LoungeのScott Kelly (Neurosis)とWinoのアコギ対決か、これくらいしかなくて、Screaming Femalesが見れるのなら、とこっちにした。

"No Strings Attached"を見てから、地下鉄でWilliamsburgに着いたのが7:40くらい。小屋の手前の中古盤屋で小1時間ほど彷徨ってしまい(4枚買ってしまった。あまりにマニアックなのでかかない)、中に入ったのは8:40くらい。

チケットは当日で$12、前売りで$10。
まだ$12でも、これだけのものが見れる。 ほんとさあ、チケットの値段を$100とか$200にしてもいけるモデルを作って広めたやつ、それで儲けて喜んでいるやつら全員にJames Murphyじゃないけど「おまえなんかだいっきらいだ、この寄生虫野郎!」って言ってやりたいよ。

ぜんぶで5バンド出るうちの最初のをのがしてしまい、2番手のLemuriaから。
先は長いし、最初は座ってればいいや、と床にずるずる転がっていたのだが、とてもそんなかんじではなくて、ちょっとびっくりして立ち上がる。

女の子ギターにベースとドラムスのトリオで、音が固くて、強い。
ほんとにふつうのかっこで、レスポールをがしゃがしゃ鳴らしつつ懸命に歌っているだけなのに、なんでこんなによいのか、よくわからん。
今は亡きRainer Mariaをちょっと思いだす。 ああいう、素気ないけど、ただひたすら固く、まっすぐにあろうとしたギタートリオのよさ。

Don Giovanni Recordsの方針がそうなんだかしらんが、この日のバンドは女の子がほとんどフロントだった。 女の子バンド、はいなくて、野郎との混成のなかで、女の子パワーを見せつける、みたいな。

次のShellshagもびっくりでー。
ギター(♂)と太鼓(♀)のデュオで、ふたりは実際にパートナーらしいのだが、ステージ中央で向かいあって睨みあってばりばりどかどか。 太鼓はスネアとタムとフロアタムのみっつだけで、これを足をふんばり暴れ太鼓でひっぱたきまくり、ギターは稲妻系のがりがりガレージでヴォーカルは交互に。

そんなにジャンクではなくて、StoogesとかRamonsの香りがして、つまりなんかひとなつこくて、太鼓の手数と勢いはキ―ス・ムーンのそれだし。 White Stripesがいなくなっても、彼らがいるのであればだいじょうぶ。
Liz Phairの"Fuck and Run"のカバーとかもはまってていかった。

彼女がギターかきならして、彼がみっつの太鼓を上に上に積み上げてタワーをつくってから、ふたりで抱き合って床に転がってエンド。 がんばれ、めおと鷹。

次のLaura Stevenson & The Cansは、テレキャスター抱えて歌うLauraさんにG, B, D, アコーディオン兼トランペット。 この編成で、静かな歌いだしから入るのでアコースティックかと思っていると、がん、がん、がーんと3段階くらいの波が来て突然スプリングスティーンになったりする。

それにしても彼女の声。 この、いきなり天に抜けるもんだからびっくりするかんじは、The SundaysのHarriet Wheeler以来、だったかもしれない。 本人は「なんかびびるわここ」、とかわいらしく緊張しているようだったし、実際そうだったのだろうが、音の伸びがすばらしくひたすら盛りあがっていくので野郎どもがみんな萌えて吠えまくっていた。

この晩のバンドのなかではいちばんメジャーに行ける要素をもった連中かも。 それがどうした、だけど。 
彼女、帰りに物販のとこにいたのだが、ほんとにきらきらした瞳のお嬢さんでした。 将来でぶになりそうだけど。

そして、大トリのScreaming Females。出てきたのは11持過ぎだったか。

いやはや。 ROふうにいうなら(赤面)、ロックの未来は(うううぅはずかし)、ここにあるのであって、まちがってもStrokesだのArcade商店街なんかにはないのである。

子供体型で、いつも学芸会用のワンピースみたいの着てて、でも顔はときどきおばさんみたいにすごむので怖い、けど(ごく)たまに笑うとかわいい。 とかそういうことではなくて、このちびっこのギターはすごい。

ませたガキが駅名覚えるみたいにギターをマスターして技を見せびらかしているのとはちがうし、ストラト1本だからジミヘン、というわけでもない。 この娘の力強いカッティングと自在かつラフなフレージングははっきりとグランジ以降のそれで、J.Mascisあたりの影響をみることもできるのだが、彼よか相当うまいよ。

しかもあれだけがしゃがしゃぴろぴろやりながらも、しっかりと歌って吠える。女性にありがちの絶叫きんきん系ではなく、落ちついてどすのきいた、初期のPatti Smithみたいながなりっぷり。

そしてまた、ドラムスとベースもすんごくよいのよ。 Experienceがそうであったように、Nirvanaがそうであったように。 固く、しかしボールドで、どれだけギターのナイフが刺さってきても飛んできても平気で受け止められる器のでっかさ。

フロアはとてつもないモッシュとダイブの嵐で、あそこまでひどいのは90年代初以来だったかも。
まあ、やってなされ。

帰りに出てたバンドのアナログ何枚か買った。 
でもどの連中も、ぜったいライブだとおもった。





日曜の晩、アストリアから帰って、途中からグラミーみたけど、ひどかったねえ。
こんなのどうせ業界による業界のためのイベントなのだし、レコード大賞がひどくて見ていらんないのとおんなじだし、嫌なら見なきゃよいのだが、いやーそれにしたって。

Arcade Fireも、もういい。 彼らは例によって無邪気に「これがあたしたちのアートなの!」とか言うのだろうが、カナダ人の無邪気もいいかげんにしろ、だ。 
あれならCirque du Soleilとおなじようにテント建てて興業でもしたほうが儲かるよ。 
ええ、ええ、Cirque du Soleilもじゅうぶん「感動的」だわね。

2.14.2011

[film] No Strings Attached (2011)

この週末は、なんでかほんとに見たいのとかがあんましなくて、土曜日はかろうじで映画1本、ライブ1本。

映画は、これも新しいやつで、Ivan Reitmanが監督、Natalie PortmanとAshton Kutcherによるラブコメ。

"Black Swan"でナタリーがオスカー獲ったらもうこういう軽いのやってくれないだろうなあ、でも、こっちのがぜったいはまってるし、いいんだけどなあ、てみんな口には出さずにぶつぶつ言っているやつね。

エマ(Natalie)とアダム(Ashton)は15年くらい前から知ってて、お互い少しは気になってはいたものの、結局仲良くはならずに来てて、そんなふたりがたまたまなんとなく寝ちゃったら割とよかったもんだから、お互いやりたいときにやれる仲、それだけの関係(No Strings Attached - 運命の糸なし)を維持しようて決めて、ルールつくって、その通りそこらじゅうでやりまくるの。

でもなんとなくごく普通のデートしたらそっちも割とよかったもんだから、やだこれじゃはなしが違うし普通のカップルになっちゃうから別れましょ、て別れるの。

それで6週間が過ぎて、悶々しすぎて我慢できなくなったエマがごめんやっぱしあたし…  ていうんだけど、もうアダムは。

やりまくり、ということでいうと昨年の"Love and Other Drugs"と比べてみて、例えばエマの役をAnne Hathawayがやったらどうだったか、とかイメージしてみるのだが、彼のつくってくれたPeriod Mix(※)に入っている”Bleeding Love”をぼろ泣きで絶唱しつつドーナツやけ食い(しかも運転中)みたいな、あーあ、ていうしょうもない姿を曝してそれなりに様になるのは、Natalieのほうだとおもった。

実際、ここまで彼女の危なっかしさが真に迫ってくるのは"Garden State" (2004)以来、といってよくて、つまりはすてきなの。

今回、Ashton Kutcherもまた、すばらしいとおもった。
頭はそんなに鋭くないけど人なつこくてよいハートをもってて、短パンにパーカーの後ろ姿が似合う青年、こいつはどの映画出てもほんとにこれだけだけど、偉いよ。 そんでこいつがエマに言う決めの一言がさあ。

「いいか警告する。これ以上近づいてみろ...(以下略)」

彼の父親として、久々に見た気がするKevin Klineもいいの。
息子のEx-を寝取ってもさばさばしていられる軽さと余裕と懲りないかんじと。

Ivan Reitmanにとっても久々のヒットなのでは。 やっぱ息子なんかよかぜんぜん安定してて、余裕だよね。

※Period Mixていうのは、彼が彼女のためにつくったプレイリストなの。
どういうのかは見ればわかる。
http://www.nostringsattachedmovie.com/#/periodplaylist/

2.13.2011

[film] Cedar Rapids (2011)

金曜の晩だというのに、ライブも昔の映画もあんまなくて、へろへろに疲れていたし、最近の映画を1本だけみてかえる。

いくつか候補はあったのだが、あんま重くなさそうなやつ、ということでCMの予告がおもしろそうだったのとレビューもまあまあだったのと、John C. Reillyが出ているということでこれにした。

地方の小さな町に保険会社があって、そこの若い社長がひとりがんばって引っ張っていたのだが、そいつが突然急死しちゃって、その下にいた中堅のTimが代理で保険会社のコンベンションに参加することになる。 そのコンベンションでがんばった会社に与えられるTwo Diamondsていうアワードを前社長は2年連続で獲っていて、会社のオーナーからも絶対獲ってこいってプレッシャーかけられて送りだされる。

タイトルのCedar Rapidsていうのはコンベンションが開かれるIowaの町の名前で、Timは出張も飛行機にのるのも殆どはじめてで、やっとホテルに着いたらホテルはオーバーブックでJunior Suiteに3人相部屋にさせられるの。

その部屋で一緒になったのが黒人のRonaldとJohn C. Reillyで、彼らはコンベンションには慣れっこで、いろいろ指導してくれるのだが、当然連中もライバルなわけで、いろいろ腹黒かったり、他に女のひと(Anne Heche)とか近寄ってきたりしてたいへんなの。

根は真面目で、(故に)他人依存で、でも(故に、実は)自己中心主義の困った主人公に"The Hangover" (2009)で歯抜けの恐妻家を演じていたEd Helms。 今回も基本のキャラはおなじかんじで、なにかあると年上の恋人(Sigourney Weaver…おいおい)におろおろ相談したり泣きついたり。 いそうだよねえ。

で、基本はこいつがいろんな変な連中にいじられて引っぱりまわされて大変な目にあいながら仕事に目覚めて成長していく、という、よくある、ふつーのコメディなのだが、ひとりひとりのキャラとアンサンブルがとてもよく描けていて、ものすごいSmall Worldではあるのにうんうん、て見れてしまった。 営業のお仕事って、ほんとたいへんだよねえ。

最近の作品だと"Up in the Air" (2009)なんかに近いかんじ。
仕事ひと筋の男が大切ななにかに気づいて、と。 
とっとと気づけよそんなの、てみんなが気軽に突っ込めるやつね。

監督はHBOの"Six Feet Under"のいくつかとか、”The Good Girl” (2002)を撮ったひと。
うんうん。

John C. Reillyは絶好調でした。酔っ払ってプールにはいって、ゴミ箱のふたをかぶるとこなんてさいこう。

イケメンも美女もひっとりも出てこないので、日本ではぜったい公開されない。
もうほんとにあの国やだ。

2.12.2011

[film] Romance & Cigarettes (2005)

木曜の晩から、しばらく行っていなかったBAMのCinematekで"The Susan Sarandon Picture Show"ていう特集上映がはじまった。 本人がちょこちょこ出てきてQ&Aとかをしてくれる。

チラシにはわれらの時代のBarbara Stanwyckとか書いてあって、それはいくらなんでも誉めすぎだよね、と思ったものの、この筋金入りアクティヴィスト&卓球屋のおばはんが出てきて睨みをきかせている映画にそんな悪いのはない気がする。

木曜日はオープニングで、時間を少しずらして2本あって、もう1本のほうは、"Light Sleeper" (1992)で、上映後に監督のPaul SchraderとSarandonのトークがある。
こっちも見たかったのだが、Paul Schrader & Susan Sarandon とJohn Turturro & Susan Sarandonだとどっちかなあと思って、ミーハーなので後者のほうにした。   

2005年にはまだ米国にいたはずなのにこんな映画があったなんて知らなかった。
おかしい、と思ったら米国ではMGMとSonyの間のごたごたのせいでちゃんとしたかたちでリリースされなかったのね。
ヴェネチアに持っていって、英国では公開されて、イタリアでは8ヶ月のロングランになったんだって。
日本では... (溜息)

おもしろかったです。 ていうかめちゃくちゃだわこれ。

Executive ProducerがJoel & Ethan Coen。  監督がJohn Turturro。 撮影はTom Stern。

主人公夫婦の夫(橋の修理工)が"The Sopranos"のJames Gandolfini、妻がSusan Sarandon、夫の愛人にKate Winslet、娘たち3人がAida Turturro、Mary-Louise Parker、Mandy Moore(いまどこに?)、仕事仲間にSteve Buscemi、妻のいとこにChristopher Walken、などなど。

Brooklynの労働者クラスの、既にじゅうぶんぶっこわれた家庭を中心に繰り広げられる狂騒のミュージカル。 Gleeよか5年早く、こんなのがあった。

全員、歌はそんなにうまくないし、ダンスもユニークだけどそんなに技巧に走らず、できることをやっているかんじ。
でもその地味な平熱感がなかなか素敵で、それが最後のほうでじわっと効いてくるの。

まともな登場人物はひとーりもいなくて、みんな歌って踊ってそれぞれが自分のあたまのなか(含.妄想)をぶちまけるかんじ。 消防士もおどるし妊婦もおどる。
Kate Winsletがー、あれはイギリスのどこの訛りなんだか、ものすごい赤毛のあばずれで、歌って踊って水中に沈められて、あばれまくっててたのしい。

Christopher Walkenは、あのへんなかんじのまんま。 まばたきしないし。

たまに、ほんとにばかみたいなとこがあって、しぬほど笑う。

ところどころCoen兄弟の、あのこてこてに作りこんだかんじとかがあって、あれがだめなひとはだめだろうし、実際うんざりするとこもないことはないのだが、たまにしんみりしたとことか、冬のブルックリンの冷え冷えしたかんじがとってもよく撮られている。 JFKのまわりを飛んでいく飛行機も素敵でさあ。

音楽はいろいろあるのだが、いっぱい流れるのは"Piece of My Heart"で、Dusty SpringfieldのとJanisのと、あとSusan Sarandonが教会でぶちきれて歌いだすシーンでは、彼女がこの曲を熱唱する。

あとは基本John Turturroがずっと好きだった歌ばかりを集めて流してて、Irving Berlinから、JBから、The MoonglowsからSpringsteen("Red Headed Woman")まで。 
権利関係をぜんぶクリアするのに2年くらいかかって、生前のJBとは直接交渉した、ってQ&Aで言っていた。

でも後半、あんな展開になるなんてさー。 それはそれでびっくりだった。
病床の夫を見舞いにきたSarandonが包丁を出すシーンはおもしろかったけど。

上映後のQ&Aで監督が言っていたのは、みんなこれをクレイジーだっていうけど、自分にとってはぜんぜんふつうで、だって音楽好きだし、歌うの好きだし、踊るの好きだし、ファックするのも好きだし、妄想も好きだろ、だからそういうのをぜんぶぶちこんだだけだ、って。  
そういわれてみれば、そうよね。 おかしくないよね。

Q&AでのSarandonさんの発言のなかでは、あなたの政治的スタンスから出演作を決めたりしますか? と聞かれて、あらゆる映画は政治的なものなのよ、映画で描かれる人間関係がすべて愛にまつわるものであるのとおなじように。 て熱く、ではなく淡々と語っていたのが印象的だった。 かっこいいねえ。

あと、映画のなかで飛び交うBrooklyn言葉について、隣地区のQueensで育ったSarandonさんでもよくわからない言い回しがあったのだそう。 John Turturro(Brooklyn born)のおじいさんがよく使っていた言い回しとかがあるそうで、このへん、おもしろそうだねえ。

終わって、Sarandonさんがふつうに立ち話とかしていたので近くによってみた。
身長は170cmてあったけど、実際はたぶん165くらい。  でもすてきなおばさんだったわ。

2.11.2011

[film] You Only Live Once (1937)

水曜日の晩、Film ForumのFritz Lang特集はやっぱしちゃんと見ておけばよかった、という気に突然なって、もう残り時間も限られてきたし、”You Only Live Once” だしな、ということで帰りぎわ、9時半の回だけ見る。 併映の"You and Me" (1938) - 『真人間』 は見れず。

"You and Me" で 『真人間』 もそうだが、これの邦題 - 『暗黒街の弾痕』 - も相当よくわからない。 けどいいや。

国選弁護人の秘書をしている明るく気だてのいい娘さん(Sylvia Sidney)が刑務所から出てきた暗い彼(Henry Fonda - もう3回ムショに入れられているので後がない)とようやく一緒になれて、結婚しておうちも買って、彼も今度こそ更生してがんばるぜ、だったところにいろんなケチがついて、ホテルは追いだされるわ失業するわ強盗にさせられるわでどんどん転落していってもう世間なんてしらん、になってふたりで絶望的な逃避行にでるの。  しみじみついてなくてかわいそうなの。

DVDのパッケージには"Bonnie & Clyde"や"Natural Born Killers"の先がけとなった作品、とあったが、あれらほど強烈ではないし、『夜の人々』 - ”They Live by Night” (1949) ほど泣けるものでもなかった。  なんでだろ。

恨みがあったりやけになったりして世間に反撃に出るはなしではないし、さんざんひどいめにあったということとふたりの境遇や強い愛を対比してどちらかを際立たせるようなつくりにはなっていない。  タイトルの主語は"They"ではなくて、"You"で、つまりは更生しようとがんばる(でもどこか目が虚ろで変だ)Henry Fondaとそれを簡単には許さない世間と、それでも彼を盲目的に信じて愛する彼女と、彼の理解者である神父と、それらが織りなすドラマとして描かれているからかも。

牢獄の延長としてある格子模様の社会、それでも"You Only Live Once" と言い放つ冷たさ。
この冷たさがベースにあるが故に、Sylvia Sidneyのうるんだ瞳とか頬をつたう涙がほんとに美しいのだし、そんな彼女がずうっとそばにいてくれて、最期に神父の声も聞こえたし、上出来なじんせいだったのでは、とかおもったらいけないのかしら。

そういう冷たさとか異様さ、というのはLangのドイツ時代のねっとりした影を引き摺っているようで(この作品はLangがHollywoodに渡ってからの2作目)、主人公が出所するときの刑務所の描写とか、けろけろカエルの前で愛を誓うふたりとか、進み方がそのはじめっから全く穏やかではないので、そういうことよね、とか。

なんか似ているかも、と思ったのは溝口の『近松物語』(1954)あたりかも。
あれもかわいそうなお話しだったけど、暗くてねちっこくて、でも全体としてはなんか美しいのよね。
あれとかこれとかを美しいと言ってはいけないのだろうか、と倫理のねっこに目を向けさせるようなところもね。 で、世紀の名作というのはこういうのを言うのだとおもった。

で、まだ氷点下なの。

2.10.2011

[music] Gang of Four -Feb.08

チケットがあまり売れていないようだったし、ひどく寒くなりそうだったので行っておくことにした。

7時開始とあったので7:20くらいに行ったら隣にすんごい列ができてて、後で知ったのだがThe Nationalが小さいほうのスペースでライブやったのだった。 
本体のほうは最初はがらがらで、バンドが出てくるのは8時からと貼ってあったので、小屋の隅にしゃがんで震えて待つ。   会場は老人だらけだった。 ほらね。

前座はカナダの4人組、Hollerado。

彼らのなんともいえない(こぎたない)サイトそのまんまの音なのだが、なんだかよい。 ガレージほど荒れてなくて汚れてなくて、エモみたいにねちっこくなくて、かしゃかしゃしたギター2ピースを絶えず鳴らしつづけてて楽しい。自分たちの音に酔って溺れていないかんじもいかった。
おなじカナダでいうと、Broken Social Sceneからスノッブでやらしいかんじを抜いて元気にしたような。


Gang of Fourは2005年のCoachellaとその後のIrving Plaza以来、かなあ。

ベースとドラムスが若返って果たしてどうなるか、であったがあんま心配いらなかった。
ドラムスは角刈りのいかにもセッション野郎、てかんじだし、ベースはスレンダーなドレッドだし、でも、このバンドのボトムにかんしては、ひたすらタイトで、ほんの少しだけファンキーで、ギターのじゃまをしなければ半機械でもよいくらいだと思うので、スペック的には問題なし。

新曲からはじまってしばらくして"Ether"。まんなかくらいで"Anthrax"。
新譜から結構やっていて、それが実のとこぜんぜんわるくない。

Jon Kingはあいかわらず、狂犬とか不機嫌な猿みたいにうろちょろ吠えまくってて、これはもうしょうがないのだが、とにかくこの日はAndy Gillのかっこよさに痺れる。

"Anthrax"の冒頭のギターソロ(ていうのかな)のとこなんて、顔をしかめることもなく、ギターを振りかざしたりの大げさなアクションもなく、鶏の首をしめるみたいな手つきで、花瓶を落とすみたいにギターをごん、て床に落として殺す。 
まさに殺し屋の手つき。 クール。

そして改めて、なんてギターの音なんでしょう、と。
ギターノイズでも、ノイジーなギター、でもなく、ブルージーでも狂熱のなんとか、でもなく、ギタリストやギタープレイに貼りつきがちな情緒的で熱い形容から遠く離れて、ひたすらわんわんと鳴り続けるエレクトリックギターの音。 弦の震えを電気的な振動に置きかえて増幅した、エレクトリックギターの音というのはそういうもので、それだけなのだ、というのを殺し屋が札束でほっぺたをびしばししばくみたいに(よくわかんないけど)、即物的にたたきつけて、わからせる。 

2005年に最初にライブで聴いたときは、楽しみにしていたほどギターが聴こえてこなくて、少し残念だったのだが、今回のは、もうだんぜんちがった。

ああこれでヴォーカルにほんのちょっとだけでもカリスマのオーラがあれば・・・ と完全にへんなおじさんとして化してたこ踊りをしまくる横の彼をみながら思ったが、もうこのふたりの絆がほどけることはないのね。

1回目のアンコールの最後が”At Home He's A Tourist”で、間奏のギターのはじけかたがはんぱじゃなかった。 脊髄が削られていくみたいに気持ちいかった。
2回目のアンコールは"Return the Gift" ~"Damaged Goods"で、Gang of Fourは絶対 1st! 主義者としてはとりあえず満足して、氷点下のなかぴーぴー泣きながらかえったの。


帰ってから見たLate Showでもライブの1曲目と同じのをやってて、ごくふつうにかっこよいのだった。
でも売れることはないよね。 たぶん。

2.09.2011

[film] Clash by Night (1952)

日曜日は、久々にからっとしたよい天気で、そんな寒くもなかったし、Chinese New Yearでもあるし、Chinatownに飲茶にいった。 獅子舞パレードもあるのですんごい人混みで、そのくせ歩道はあちこち姑息にブロックされててぱんぱんで身動きが取れず、上院議員だかなんだかが晴れやかにスピーチをする「日々一生懸命働いているMiddle Classのみなさん・・・(おいおい)」、その背後5mの柵の間では入ってくるひとと出ていくひとの間で圧死するんじゃないかと思うくらいのありえない攻防戦が繰りひろげられてて、ああこれが中国なんだわ、とおもった。

で、いろいろ見たいのはあったのだが、夕方からSuper Bowlだし、疲れがたまっている気もしたので、Film ForumのFritz Lang特集で2本だけ見ることにした。

最初が52年の"Clash by Night"。
フィルム・ノワールの名作として必ず名前があがる作品なのだが、犯罪や犯罪に近いことが描かれているわけではなくて、あとちょっとで犯罪に至ってしまうかもしれないような、それをもたらす夜の情景とか衝突する波風とか、それらを正面から捕えたすんばらしい作品だと思いました。

最初の、港にいるアシカで西海岸だとわかって、船に書かれた文字でMontereyだとわかる。

大きく分けて2種類の人達がでてきて、ひとつはPaul Douglas(夫)とMarilyn Monroe(缶詰工場で働く娘)とかのグループで、この人達は素直に実直に結婚とか家庭とか、それがもたらしてくれる幸せとかをしんじて、ぶつぶつ言いながらも毎日がんばって働いているのね。
もうひとつはBarbara Stanwyck(妻)とRobert Ryan(遊び人)のグループで、いろんな世界をひと通り見てきて、嫌な思いもいっぱいして擦りきれてて、どうせ先なんてないんだから遊んで暮らせりゃいいや、なのね。

ワケありっぽいBarbara Stanwyckが生まれ育った港町に帰ってきて、Paul Douglasと一緒になって子供もできて、真面目に暮らそうとするのだが、Robert Ryanに出あい、その暗く複雑な魅力にだんだん惹かれていくうち夫とは合わなくなってきて、彼と駆け落ちしようとする。

最初はあんなごろつきさいてー、て言っていたBarbara Stanwyckが、自分と同じような影を引き摺るRobert Ryanのほうにずるずる揺らいでいく様がものすごくリアルで、でもこわくはなくて、どこにでもありそうな夜の衝突(Clash by Night)をきちんと、それらが起こる部屋から部屋、更に船といった場所の遷移も含めて冷静に追っていて、すごいなあとおもった。

だからあのラストもごくふつうに納得できるのよね。
例えば同じ材料をサークが扱ったらどんなふうになっただろうかね、とか。

でもこれは監督の映画というよりは俳優さんの映画で、Barbara StanwyckとRobert Ryanのふたりのなんか錆びついたように疲れた佇まいに尽きるよねえ、とおもった。

続いて、同じ52年の"Rancho Notorious"。
こっちはテクニカラーで、西部劇。
"Clash by Night"が凍りついたようなモノクロでストレスたっぷりに進行していったのに対して、空気は少しだけ弛んだかんじになる。

でも衝突、というかアクションはいっぱいあって、冒頭でキスしたとおもったらその婚約者が強盗にあって殺されて、そいつらを追って荒野を渡って、床屋で殴り合いがあって、脱獄があって、銀行強盗があって、内紛があって、だがしかしこれら全てをかわいそうな主人公の激情と復讐の念がドライブしていったのか、というと必ずしもそうではなくて、どっちにしてもなるようにしかならなかったよね、みたいな描き方をしているところがおもしろい。

ノワール、というよりすべてが露わでわかりやすい昼間の明るさのなかにある映画で、そこにテーマ曲の”Chuck-a-Luck" - 盗賊達のアジトがあるとこ - チャカラック - の歌がちゃかちゃかまぬけに流れてくると、もうなんでもいいや、すきにしろい、てかんじになってしまうのだった。 よくもわるくも。

”Clash by Night”でじりじりと流れていく夜の時間、"Rancho Notorious" - というタイトルはスタジオ側がつけたやつでほんとは"The Legend of Chuck-a-Luck"というのになる予定だった - でこびりついてくる土地の固有名、どちらにしてもなにかコトが起こる/或いは結局起こらなかった - 舞台装置としては見事に揺るぎなく、そこにあるのだった。

Marlene Dietrichがブロンドで、盗賊団のボスをやっていて、こんなひとがメキシコ近辺まで流れてくるわけねえだろ、と思う一方で、ウェルズの"Touch of Evil" (1958)なんかにも姿かたちを変えてふらーっといたし、きっと本人はそういうふうに南の方に流れていたかったのだろうな、とおもった。

終わったらもうほぼ6時で、ゲームは始まってしまっていたのでせめてChicken Wingでもーと思ってDean & Delucaに行ったら店内がらがら、もう殆どなにも残っていなくて、しょうがないのでチーズとパン買ってかえった。

久々のSuper Bowl、ゲームはそこそこわるくなかったが、CMとかはあんまおもしろくなくて、後から動画で見れるせいもあるからかあんま集中して見れず、盛りあがらなくて、ソファでそのまま落ちて気がついたら1時で、Gleeのスペシャルを見逃して、ああこうやって歳とっていってしんじゃうんだわ、てしくしく泣いた。



久々に氷点下が戻ってきていて、今TVにはマイナス6くらいて出ているのだが、ぜったいそれよか寒い。で、そんなTVのLate ShowにはさっきまでライブみていたGang of Fourが出ていて、なんかへんなかんじなのだった。

2.08.2011

[film] Doomed Love (1978)

土曜日は、ほんとは雪かみぞれのはずだったのにいやったらしい小雨で、なんでいやったらしいかというと、傘をさすべきかささないべきかの判断に迷うくらいの半端な降りぐあいで、みんな傘ささないのでいいかと思っていると結構びじゃびじゃになってしまってうんざりするのと、雨のせいで氷みたいにかちかちだった雪が溶けだしてあたりがぜんぜん美しくない泥水まみれになってしまうことなの。

で、髪を切りにいってご飯をたべて、Museum of the Moving Imageで1本見ました。

Manoel de Oliveiraの78年作品、"Doomed Love" (Um amor de perdicao)、- 英語字幕では"Ill-Fated Love" となっていた - 262分。 間に一回休憩がはいる。

もともとは45分 x 6回のTVシリーズとしてあったようだが、その辺はよくわからず。
リストレーションはオリジナルの16mmフィルムを35mmにブローアップしてて、その堂々とした力強さに叩きのめされる。

19世紀のポルトガルの小説家、Camillo Castelo Brancoの小説”Amor de Perdicao” - 『破滅の恋』(1862) - 読んでない - の映画化。 舞台も18世紀頃のポルトガル。

敵対するふたつの家族の間で引き裂かれた恋、ロミオ&ジュリエット的な悲恋のお話で、ストーリーも登場人物もそんなに複雑ではない。 シモンがテレサに恋をして、でも両家は断固それを許さず、テレサにはそのいとこがアプローチしてくるが、シモンはそいつを撃ち殺して牢獄に幽閉されるの。 あとはシモンに献身的に尽くす鍛冶屋の娘マリアナがいて。 
ずうっと救いのない、どんづまりの恋の顛末がふたりの間の手紙を通して切々と語られ、最後にインドに島流しになるシモンを窓から見送ってテレサは・・・ 

この究極のロマン小説の映画化にあたり、Oliveiraは小説の言葉と世界を安易に映像に置き換えるようなことはせず、小説の語りをそのまま映像のなかにぶちこんでいる。 つまり、主人公たちの会話も、彼らのやりとりする手紙も、小説のナラティブも、全て映画のなかにあって、映画を見るわれわれは、小説のページをめくるのと同じスピードで、同じ密度で、小説世界/映画世界のなかに入りこむことになる。

映像を小説の補完的な役割のなかに置くのではなく、小説が描こうとした絶対的などんづまりの愛を可能な限り緻密に詳細にあぶりだすために、言葉と映像はしっかりと撚りあわされて目の前に提示される。
人物のクローズアップは殆どなく、ナレーションと共に出来事は語られ、手紙は文面と共に読みあげられ、時として主人公たちはこちらに向かって語りかけてくる。

元々16mmだったせいもあるのか、映像は全体にぼうっとした輪郭のなかにあり、暗い室内だとなにが映っているのかよくわからないところもあったりするのだが、それ故にふたりの強い強い意志が、それだけが世界を浮かびあがらせ、絵画のような佇まいのなかにその光をはっきりと認めることができる。
その造形の力強さが、冒頭の格子から建物の中から奥から差し込む光と共に、ずうっと持続していくので、すごーい、って口をあけて見ているしかない。

あと、これはもうしょうがないのだが、喋られるのも語られるのも、とにかくものすごいテキストの量なので、英語字幕を追っかけるのがほんと大変でしぬかとおもった。 

あと、Oliveiraの最近の作品、”Eccentricities of a Blond Hair Girl”とか"The Strange Case of Angelica"のモティーフ、例えば窓越しの眼差しでやられちゃうとか、生死の境を超えて結ばれるなにか、とか、は既にこの時点からあったのだなあ、としみじみした。 
そしてこんなふうな愛とかロマンとかに対する絶対的な服従とか献身とかが、このおじいさんを映画に駆りたてているのだとしたら、それってなんてすごいことでしょう、と。

終わったのが7時前で、ぼろ雑巾以下の状態だったのだが、このまま帰ったら夢でうなされそうな気がしたのでVillageのIFCで音楽ドキュメンタリーを1本見て帰ろうと雨のなか突っこんでいったらチケット売り切れてて唖然。 前の晩の悪夢を思い出したが、ここから先に踏みこんでがんばる気力がでるとは思えなかったので、しょんぼりと帰ったのだった。

2.06.2011

[film] The Big Heat (1953)

金曜日は、ほんとついてなかった。

Anthology Film Archiveの40周年記念イベント(去年もやってなかったか?)で、John Waters先生の紹介つきでDouglas Heyesの”Kitten With A Whip” (1964) (邦題『セクシー・ダイナマイト』!)が上映された。 7:30からの一回きり。

ひょっとしたら予約でいっぱいになっている可能性もあったので、3時くらいに、オフィス間の移動時間を使ってわざわざダウンタウンまで下りて確認しにいった。そしたら7時から窓口で先着順にチケット売り出すからそれまでに来ればだいじょぶだよ、て言われた。

少し安心して、夕方6時少し前に出て、つるつる滑りまくりつつペンギン歩きで6:20頃着いたら50mくらいのありえない行列。でも並ぶしかない。もちろん外に、氷点下で凍りついた雪氷が北極みたいにこびりつく歩道に並ぶわけさ。 帽子も耳当ても手袋もなしでね。(下の写真みたいな)

さすがに7時よか前に窓口は開いたのだったが、自分の手前14人のとこでStand-byになってしまう。唖然。声もでない。 でも待つしかないよね。 開始予定の7:30になってもまだどうなるかわからず、じりじりさせられたあげく、手前3人のとこでアウト、になった。「ごめんねー」だって。 自分も含めた40人くらい愕然。

まあしょうがない。半端じゃない寒さの中1時間以上立ちんぼで待たされて結局入れてもらえなかったことについて、そういう不親切さとかについて、文句いうひとはいうのだろうが、こういう上映館のひとにんなこと言うのは筋ちがいだし、John Watersであの映画のこんなイベントだったらこうなるであろうことをちゃんと予測できなかったじぶんが甘かった、と。

でもその時点ではそんなことを思う余裕はなくて、間接がはずれそうなくらいがたがたに寒くて、体にあったかいもの入れないと死にそうな気がしたので、とにかくどっかに入ってなんか食べる、と。 

すぐ思いついたのはVeselkaのボルシチで、でも7ブロック歩く前に行き倒れる気がしたのでとりあえず目にはいったHoustonのWhole Foods目がけて走ろう、と足をむけてみたものの、うまく体が動かなくてペンギンのきもちがようくわかった。

そういうわけで、這うようにして辿りついたWhole Foodsのお惣菜コーナーであったかい食べものの湯気をあびて、なにかがしゅるしゅる戻っていくかんじがして、キャロットジンジャースープと湯気惣菜のいくつかを体にいれて、ようやく正気に戻る。

で、そんなふうに正気に戻ると、ああばかばかばかばか(4 times)、だから当初の計画通り7:00からのアストリアの"The Match King" (1932)にしておけばよかったんだよ、とか、今から見れるやつなんかないか、とか、うじうじぐしゃぐしゃ考え始めるわけさ。 脳なんてずっと低温で氷結してればいいのに。

でも時間帯と場所をかんがえたらあんましなくて、うううってさんざん悩んで(帰ればいいのに…)、結局Film Forumにした。
いま進行中のFritz Lang特集のオープニングだった"The Big Heat" (1953)を、この1本だけ好評につき単独で上映しているの。 本来の特集のほうは『恐怖省』と『マン・ハント』だったが時間がうまくあわなかったの。

映画がはじまって、最初の拳銃自殺のとこで、あー見たことあったねえこれ、しかも3回目くらいで、2回目のときもおなじとこでおなじこと気付いたねえ、と思ったのだったが、こいつは面白いからいいの。 (いいのか…?)

警察内部の腐敗もので、なにもかも失って暗い目になった主人公(Glenn Ford)が別の狂犬共(Lee Marvin)を追いつめて行くの。

出てくる人たちがみんな強烈に変で頭から離れなくて - 情婦のGloria Grahameもガレージのおばさんも - ずうっとそこにいるかのようなすごい存在感で、そういう人たちの暮らす世界とか空気とかが、犯罪捜査という横からの一撃でがらがらと崩れ、みんな蟻のように必死であたふたする様の描きようがすごい。
その必死なかんじを冷徹に切りとる手口がすごい、というか。

というわけで、散々だったけどこれ見れたからいいや、になったのだった。


土曜日の晩、Saturday Night LiveのホストはDana Carveyで、オープニングでWayne's Worldが復活してた。 先週の"The Social Network"のほんもの登場よか、こっちのがだんぜんいいよね。
 

2.05.2011

[film] Ip Man 2: Legend of the Grandmaster (2010)

木曜日、あまりにうまくいかないことが多すぎるので、とりあえず、気をおちつかせるために 映画みました。

上映前の予告で"Jane Eyre"がかかった。 ジェーン役は"Alice"のMia Wasikowska。

"Ip Man2", 日本でも公開が始まっているようですが、こちらでもほぼ同タイミングで公開されている。
英語のタイトルは、“Ip Man 2: Legend of the Grandmaster”。  
マンハッタンでは1館のみ。 客は夜の回で10人くらい。

簡単な"Ip Man"のフラッシュバックの後、英国統治下の香港でIp Manが道場を開くところからはじまって、貧しいながらも弟子ができはじめて、地元のボスからの嫌がらせがあって、英国の悪いやつの嫌がらせもあって、最後は中国武術 vs ボクシングになるのね。

主人公はいつも寡黙で無表情で木の型みたいの相手にべきばき練習してて(その音がいいの)、でも奥さんは美人で、子供がひとりともうじき産まれそうなのがいて -このむっつりやろう - 、そういう人の周りにわざわざいろんなひとが集まってきていろんなことが起こって、最後にぶちん、て切れて立ちあがるのね。

むかーしの映画とか時代劇とか西部劇によくあるこてこての展開でどうなってどうなるかもすぐわかってしまうのだが、いいの。

詠春拳(英語字幕だとWing Chun)のとっくみあいが沢山見れるから、それだけでいい。
しかも武術指導&コレオグラフはサモハンだし。

とくに、ドニー・イェンとサモハンが揺れるテーブルの上で組みあうところは前半の山で、決めのところも含め、みごと、ぱちぱちぱち、としか言いようがなくて、ここだけでもお金はらう価値あるとおもった。

で、地元のボスである傲慢なサモハンにも家族がいて、病気があって、格闘を通じてわかりあえたところがあって、というところをちゃんと描いているので彼が英国人ボクサーにぼこぼこにされるところはきつい。

英国人はもちろん、腹黒くて愚かなかんじに描かれているのだが、もうちょっと英国の暗くいやらしいかんじを出せたかもしれない。 あれじゃ単細胞なヤンキーと区別がつかないかも。

で、前半の中国武術同士のとっくみあいのダンスのように軽やかでかっこいいかんじからすると、クライマックスの試合はどっちにとってもひたすら重く、辛く、痛そうなばかりで、異文化間の衝突って、そういうものなのだな、と見せつつ、でも、あれだけずるされてぼこぼこにされたのに、しっかりと仇はうって、でも最後に彼は人種も立場も違うけどお互いリスペクトすべきだ、って静かにいうの。

いくらなんでもそれはくさいだろ、のぎりぎりのところで、ここはなんとか収まっていたかも。
ノーベル平和賞なみよね。

そしてその試合が終わった後、ラストに、そこから数十年後、中国武術を世界中に解き放つ命を担った李小龍(まだ子供)が登場するのは象徴的だったかも。

サイモン・ヤムがあんな役で出ていたのでへーとおもった。 (なにがあったのか、1のほうもみたい)

Ip Manものは、他に現在ウォン・カーウァイが、トニー・レオンとチャン・ツィイーで撮影中のもよう。 格闘シーンで今回のに勝てるとは思えないので、"Lust, Caution"並みのむっつりエロ路線でいってほしいものだ。

2.04.2011

[music] Best Coast / Wavves - Feb.2

最近リリースされた映画もぜんぜん見れていないが、最近の若いバンドのライブも行けていない。
べつに見なきゃいけない義務があるわけでもなんでもないし、若いとか年寄りとか関係ないことはわかっているのだが、なんかね、見ておきたいのね。

でも最近のって名前がぜんぜん憶えられないの。 Beach HouseとかBest CoastとかMorning Bendersとか、ばかにしてんのかてめーら、てかんじだし。 
憶えらんないのはこっちのせいか。 そうか。

でもがんばって憶えようとはしてみて、Best Coastは猫ジャケの、というふうになんとか憶えて、チケット買うときもこれこれ、ねこねこ、というかんじで取った。 
いちおう、Webster HallはSold Outしていたもよう。

仕事がばたばたで会場についたら9:00まわってて、既にWavvesがやってた。
うしろには2バンドの名が彫られたゲロ猫のでっかい垂れ幕がさがっている。(写真)

いっぱい入ってて奥に進めないので、後ろのほうで見ていたのだが、まわりを見てみると結構おなじような年代のじじい達が腕組みして、どうしたもんかねこれ、という顔で立ちつくしている。

あとでSan Diego出と聞いてなるほどー、と思ったのだが、とっても威勢のいいガレージサーフパンク。
ぜんぶおなじに聴こえたってかまうもんか、Go!  てかんじの青々したぶちかまし感がここちよいし、へたじゃないし、全然わるくはないのだが、これほんとに、2010年代の音なのかなあ、て少しだけ。

立ちつくしていた人たちも同じかんじだったのではないかしら。
もうちょっとジャンクに走ってもよい気がしないでもないが、あまりに心地よく耳になじんでくるガレージの、そのなじみ感に逆に違和感を覚えてしまうような。 
もうちょっとイライラさせてくれたほうが、とか。

いや、ぜんぜん悪くないんだけどね。
ライブではない録音物のほうはそうではないのかもしれないが。

Wavvesが1時間くらいで、10時半からBest Coast。
ここではじめて、このバンドにかんして、猫ジャケ、以外の情報をほとんど持っていなかったことに気づく。
きれいめのお嬢さんと中野ブロードウェイによくいるタイプのでぶ男と、"Ghost World"のまるっこいほう(イーニド、だっけ?)の女の子ドラムス。

で、こっちはなんかよかった。
最初の一曲から、あ、いいかも、て。

キャンディポップをどたばたがりがり、ローファイの居直りも照れもなく、クールにこなしていくところが素敵。
ヴォーカルのお嬢さんの声と息が、たまにクリッシー・ハインドとかコートニー・ラブみたいなBitchぽくけだるげに抜けるとこがあって、そのへんがいいのね。
あとは、ドラムスの女の子のぶっとい腕から繰りだされるどったんばったんも気持ちよい。

アンコールなしで1時間強。 ラストにがーん、とかじゃーん、とか無邪気にぶちかますとことか、よかった。

Village Voiceのこの記事、おもしれー。
http://blogs.villagevoice.com/music/2011/02/best_coast_snac.php#

夏だの愛だの猫だの、もってくりゃそれでいいのか? という問いに、もちろんそうよ、だってどれも永遠だもの!てしらっと答えそうな軽さとふてぶてしさがたまんないし、猫を抱えた小娘に萌えて猫踊りさせられるCritics、という間抜けな図もいいよね。 でもぼーっとしてると引っ掻かれるのよ。

で、しかも、それにしては、こんな音だし。 猫だし。

この2バンド、対バンの相性としてはお互いなんだかとってもよかったかも。
Wavvesの、がーがー押し寄せてくる波と、そんなの適度に無視して浜辺(Best Coast)で日向ぼっこしている絵と。  そんな一見ほのぼのとした、まっさらの海辺のランドスケープが、これからの10年代の波のなかでどんな変転をみせるのか、楽しみなかんじはした。 

なんか、かんじとして、80年代末にDinasaur Jr.が、ぼくらなんも考えてないもんーという顔して登場してきた頃を思い出したりもするのだが、あの頃とどう違うのか、あるいはおなじなのか。

帰るとき、やっぱし負けて猫ジャケのアナログ買ってしまった。
だーかーらーアナログはー、1枚買ったら、5枚も10枚も40枚もおなじになっちゃうからだめだってあれほどー。


     
 

2.03.2011

[film] Dancing Dreams /Tanz Traume (2009)

火曜日の朝から10年に一度のStormがくる! てTVは大騒ぎしてて、実際に中西部のほうではすごいことになっていたので、わくわくして待っていたのに、結局はみぞれみたいな雨がぼたぼたきて、寒く冷たくなっただけだった。

あんまりにあんまりなので、うそつき! て文句をいいに外に出て、 映画みました。

Walter Readeのイベント"Dance on Camera"のクロージング作品。

Pina Bauschの2008年の”Kontakthof”上演のために集められた若者たちのリハーサル風景を追ったドキュメンタリーフィルム。 昨年NHKで放映されたみたいだし、輸入DVDでも見れるので既に見たひともいることでせう。
でもこれは、でっかいスクリーンで見たほうがぜったいにすごい。

演目としての”Kontakthof”は初演が78年で、その後65歳以上のダンサーによるバージョンが2000年にあって、今回はそれのTeenagerバージョン。 彼女が手掛けたほぼ最後の作品。 
Pinaの「ぴ」の字も、ダンスといったらヒップホップくらいしかしらないガキ共にPinaのピースを教えたらいったいどんなことになるのか。

ものすごくおもしろかった。 
優れた作品の、リハーサルやデモがおもしろいのは当然であるがそれ以上にいろいろ。

冒頭の、若者たち全員がこっちを向いて体を揺らす、そこから一挙にひきこまれる。
ダンス・フィルムとしても、ひとつの目標に向かう若者たちの像をとらえたフィルムとしても、すばらしいと思った。

リハーサルは2人のリハーサル・ディレクターが仕切っていて、彼女たちがほんとにつきっきりで面倒をみてて、細かく細かく指導して、Pinaはたまに顔をだして全体を見て、静かに指示をだして帰る程度。

Pinaのコレオグラフのメソッドとかリハーサルのやりかたについては、これまでもいくつかのダンサーのインタビューなどで明らかになっているが、今回のはダンサーではない、ダンサー志望というわけでもない素人相手に、いちから教えていかないといけない。 

体の動き、テンポ、表情。 まず若者たちには、なんでそういう動きをするのか、しなければいけないのか、それすら謎で困惑してて、Pinaのダンスって、それを見ている我々ですらなんじゃこれ?みたいなとこはあったりするので、道のりの困難なことといったらすさまじかったのだろうな、とおもう。

でも、とにかく動きとか身体の使い方を辛抱強く教えていくと、おもしろいことにその動きや動作に、そこに求められていた感情とか情動のコアみたいなところが穴とか型とかに吸い寄せられるかのように入っていく。
こうして最初はぎこちなかった動きや表情が、新たに注入され新たに獲得されたエモーションを伴うリアルで切実な動き -ダンスとして彼らの身体を新しいものにする。

そんなような化学変化が、これは彼らの若さゆえに起こったものなのか、あるいはそこに資質みたいのがあるのか、あるいはPinaのダンスがそういう方向に身体をガイドすることになっているのかしらんが、とにかく起こって、それを見る我々は、そこにPinaのダンスを見たときにいつも感じるあの、愛おしさとか、哀しみとか愛とか憎悪とかがむきだしにされた、丸裸にされたエモの姿を目撃することになる。

とにかく、うわー、この子すごい! てなるくらい変わるのね。

Pinaのいつものメンバーだと枯れてたりやさぐれ系だったりが多いのでそんなでもないし、それが味だったりするわけだが、この映画のなかでぴちぴちの若い子の間で起こるそんなような変化は、とにかく新鮮でまぶしくて、若いっていいねえ、と。

そういうのとは別に、実にいろんな子供たちがいて、ボスニアからの難民の子もいれば、死を身近に経験した子もいれば、ごくふつうの若者としてだらだらしている子もいる。 そうだよね。

あとはたまに登場するPina本人がさあ。 彼女がリハーサルの光景を、目を細めてたまに微笑みながら見ていたりする姿が映ると、それだけでなんだか泣けてきてしまうのだった。 彼女はあんなふうにして彼女のダンスとダンサーを繰り返し繰り返し作って、育ててきたんだなあ、って。
そして、彼女はもういないんだなあ、って。

上映後に監督とのQ&Aがあった。

監督の女性は73年頃からPina - Tanztheater Wuppertalのダンスを撮り続けてきたひとで、だから今回も許可が出たらすぐにオールアクセスで出入りができた、と。

このおばさん、別にたいしたことやっていないのよ、みたいなこと言っていたが、この映画のカメラは、ダンサーの動き、表情、Pina特有の群舞とそこから突出する個人の動きを実に見事に的確に追っていて、ただものじゃないねえ、とおもった。

以下、いくつか言っていたこと。

-撮影は、基本彼女とカメラマンのふたりだけで、使ったカメラは1台だけ。 どういうカメラかはしらない。 クライマックスの舞台のところだけは、カメラを2台つかった。

-オリジナル版、65歳版とTeenager版の異同については、まず、ダンサーにしかできないテクニックがいるところは外したのと、あとは上演年やバージョンごとに細かく変えていく部分が(いつも)あるのでそういう調整はあったが、それ以外にTeenageだから、ということで特に修正したりした箇所はなかった。

-子供たちはいろんなレベルの学校8つくらいから、最初は150人程集まった。土曜日フルに参加できること、という条件が入ったところで、それが半分に減った。そこから更に50人くらいに絞った。

-この舞台のあとで、本格的にダンサーや演劇の道を進みはじめた子も4~5人いた。

-照明はほとんどなにも考慮していない。 Pinaの姿を撮るときだけ、ちょっと配慮して調整した(笑)。

-映画製作の資金はTanztheater Wuppertalからとあとはパブリックの援助金、それだけ。


Wuppertalの町って、いつか行ってみたいなあ。 あのモノレール、いいなあ。

次は、ヴェンダースの3D, "Pina"だな。
Pinaが霊界から飛びだしてくるんでしょ?

2.02.2011

[film] Moonfleet (1955)

月曜日、ねむいし、低気圧頭痛がひどかったので早めに抜けてFilm Forumにむかう。

久しぶりにここのCarrot Cakeをたべる。
こいつの少しざらっとしたテクスチャにエスプレッソが絡まった瞬間のめくるめく感覚って、ほんとすごいのよ。 あと一歩でドラッグだわよ。

んで、ケーキを頬張りながら2月から5月のレパートリーのプログラム(紙)を見る。

3月8日、Lydia DavisのintroductionによるMinnelliの"Madame Bovary" (1949)!!!
みたいよう。 けど、むりだねえ。

4月の特集、"5 JAPANESE DIVAS"。5人にするとすぐわかってしまうねえ。

先週からはじまった特集"Fritz Lang in Hollywood"のなかの1本。
Lang作品のなかでは唯一のシネスコで、18世紀の英国を舞台にした冒険活劇で、母の友達だったという理由だけで盗賊の親分(とは知らずに)を慕ってやってきた男の子のお話。

丁度、こないだの”True Grit”をひっくり返したような形になっていたかも。 
昔の米国と英国、女の子と男の子、父の仇と母の友達、保安官と盗賊、荒野と海辺、などなど。

子供がならず者、はみだし者の大人(不良だけど味方なの)との交流を通して未知の世界に目を開いていく、というトーンは共通している。 そしてその世界が悪や死といった要素も含めて雑多で畏怖と驚異に溢れている、というところも。  

で、最後に不良の大人は、子供になにかしら大切なものを残してすうっと消えていくの。

そしてこの映画でのLangは、カラーとシネスコをフルに使って、めちゃくちゃ楽しそうにこんなふうな世界を、英国の農村や墓場や屋敷をゴスにブリリアントに組みあげている。

美術もそうだが、アクションも見事で、長い剣をつかったちゃんばらのとこなんて、ぶうんて振りまわすたびに3Dみたいに飛んでくる(ように見える)。 

他のノアール系のと比べると、Lang作品のなかではあまり評価されていないみたいだが、これはこれでほんとに見事で、こんなふうに子供をまんなかに置いた世界をちゃんと描けるからこそ、あれらダークで非情な作品群を量産できたのだと改めておもった。

あと、"Moonfleet"って名前、すてきだよね。

併映のもういっぽん、"American Guerrilla in The Philippines" (1950) は疲れてたので諦めて帰りました。

[music] The Dismemberment Plan - Jan.30

あした2/2は、Groundhog dayであるが、この寒さではふざけんな、て穴に戻っちゃうよね。

映画3本を済ませて、雪の間をぬけて36th Aveの駅まで走ってNの地下鉄で14th迄。
Webster Hallに着いたのは9時半少し前。

Webster Hallの2 daysは、ずっとSold Out印がでてて、それが3日くらい前に外れていたので、買った。
なんとなく。 なにがなんでも、てかんじでもなく、ほんとになんとなく。

着いたときは、前座のJukebox the Ghostの最後の2曲くらい。 GとKeyとDrのトリオで、なんだかかわいいかんじ。 ラストがThe Cureの"Close to Me"をパワーポップ仕様にカバーしたやつで、いかった。
Dismemberment PlanとおなじDC出身だそうな。

フロアの奥に入っていく途中で、彼らの解散ライブのときはね... とかいう昔話ネタであきらかに女子をおとそうとしている中年が2組くらいいた。 よくないよね。
とか言いつつ、わたしが彼らを最後にみたのは、たしかDeath Cabとの対バン(2002年くらい?)
で、あのときははっきりと先攻のDeath Cabのほうの勢い勝ちだった。 

彼らが今なんで復活したのか、どこかで語っているのかもしれないが、たぶん適当な理由なのではないか。
Nerdが逆襲できる時代になったから、とか、Vampire Weekendがあんなに売れるんだったら、おれらのほうが先なんだし、とか、あるいは、たんじゅんにお金、とか。

べつにいいのよ、理由なんかなんでも。 どうでも。 とおもった。

そして、そんなふうに、解散~復活というよか、ちょっと長い休暇だったのね、としか思えないくらいに、ぜんぜん変わっていないのだった。

GのJasonの声ががらがらで、Motorheadのひとがいます、て紹介されていたくらいか。 

ぼこぼこべきべきぱしぱし、無機的な、でもパワフルなボトムにがしゃがしゃしゃりしゃりの、DCハードコア直系のギター、その上に親しみやすい鼻歌メロとびにょぼにょしたKeyがのっかると、なんだか気持よくぴょんぴょん歌って踊れるの。

2曲目に"A Life of Possibilities"。
久々に聴いた。この曲の後半から、やはりぐいぐいあがっていくのだった。
このツアーの基本トーンはやはり、ヴァイナルで再発されたばかりの"Emergency & I" (1999) で、みんな買ってね!もちろんいっぱいやるからさー と言って”The City”を -。

ものすごくバウンドするフロア、そしてみんな歌う歌う。 
"What Do You Want Me to Say?" とかももちろん。
こんなにみんなで歌うバンドだったか? 歌いたいのはなんとなくわかるけどね。 

歌の部分はふつうに楽しいのだが、このバンドはインストパートに入った瞬間に飛びちる火花がすごい、と改めて思った。 指を切りそうなくらいスリリングで気持ちよい。 
より正確には普段のだらだらパートとのギャップがよいのかしら。

00年代初にこのバンドが残したものって決して小さくはなかったのかも、とおもった。
カッティング中心の軽くさくさく進むギター中心の音、決してシリアスにならず、どこまでもへらへらと明るくて、でも無反省な明るさではもちろんなくて。 -ものすごく誤解されやすい気はするし、既に誤解しているバカなバンドもいっぱいいるのだろうが。

本編ラストは、"Back and Forth"をがーっと。
アンコールは長めに5曲。
最初の"The Ice of Boston"は客をいっぱいステージにあげてわいわい。
その後はヴォキャブラリーの豊富さを見せつけるかのように余裕でいくつか。

こうして、ラストにやけくそのようにぶちかまされた"OK Jokes Over"は、最初の頃のハードコア仕様の強さとしなやかさが際立ってかっこよく響いたのだった。 
これでずっと走ってほしいのだけど。

来週?の来日は(もう2月なのかー)、行ってそんはないとおもうよ。

写真の右は売ってたポスター($10)。デザインがよいでしょ。

2.01.2011

[film] The Mayor of Hell (1933)

長くなりそうなので、いったん切りました。

"Upstream"が終わって外にでたのが6時20分くらい。次の映画が7時からで、ライブは映画が終わってからダッシュしないとやばいかも、だったので晩ご飯を食べておくのだったらこのタイミングしかない。

なので、試しに5 Napkinに入ってみる。
ここはバーガースタンドではなくて、テーブルで食事するとこなのでひとりで入るのは気がひけたのだが、とりあえず入ってみる。 そしたら案内されたテーブルの両脇はどっちも同じ映画見てた人たちだった・・・

で、いつものこってりした5 Napkin BurgerではなくていちばんシンプルなChuck Steak Burgerにしてみて、これを20分でがぶついて、すぐに出る。 それでも、すんごくじゅうぶんおいしかった。 だから危険なんだってば。

7時からの映画は、"The Mayor of Hell" (1933)。 監督はArchie Mayo。

シアターの入口のおばさんがチケット切りながら「...The Mayor of Hell... 地獄の市長がなにしてくれるっていうのさぁ?」 とかぶつぶつひとりごと言ってておかしかった。

上映前に館員のひとから、この作品はpre-Code時代の傑作のひとつで云々、という説明があって、そのあとで客席から"pre-Code"ってなあに? という質問がとんだ。
とその瞬間、その館員のひとがものすごい早口で年代も含めてべらべらべらべら、で、「いじょう、一分間映画史講義でした」 と。 全員「おぉー」(拍手喝采)。 プロってすごいねえ。   

リストアもプリントもLibrary of Congress - 国会図書館ね - によるもの。
あそこはすごいんだよー、って館員のひとも言っていたが、たしかに、おっそろしくきれいなプリントだった。

どっかの町の不良少年5人が悪事でとっつかまって裁判にかけられて州の矯正施設に送られるの。
そこでは意地悪な所長が看守たちと一緒になって子供たちをがじがじに支配してて、そこにどうみても元ギャング、のJames Cagneyが政治的はからい、かなんかで副長官として送りこまれてくるの。

施設内の異常な空気に気づいた彼は、そこの女医さんと一緒になって(一目惚れしてそのついでに)改革してみようと試みる。
所長に暇をだして館内の看守とか警備員をはずして、子供たちの自治に任せるように彼らのなかから市長とか警察署長とか財務長官とかを任命してやらせてみると、子供たちがはっきり変わって活き活きしてくる。

でもJames Cagneyも、彼は彼で昔のしがらみだのなんだのでトラブル起こして、姿を隠さなきゃならなくて、その隙に前の悪所長が戻って、前みたいな圧政をはじめるの。

とーにーかーく、おもしろいよう。
描写がやばい、とかえぐい、いうよりも話のなりゆきとして、これはなんかあってはいけないかも、というのがpre-Codeなのだとしたら、まさにそうとしか言いようがないのだが、話としてはスリリングで、目が離せない。

特に圧政にぶちきれて立ちあがった子供たちが暴動を起こして悪所長を追い詰めていくところの勢いとか、すごいったらない。

俳優さんもさあ、James Cagneyはいつものパワフルなとこは当然よくてすごくて、あとは不良少年のリーダーのFrankie Darroの面構えとか、判事役のArthur Byronとか。

今週金曜日の晩の"The Match King" (1932)も、pre-Code時代の必見の一本、だと言われた。
だからそんなような必見があとどれだけあるのよ?

[film] Upstream (1927)

日曜日、天気はとってもよかった。でもお天気とは関係なく、映画3本みて、ライブ1本いった。 

この日はアストリアのMuseum of the Moving Imageで、昨年ニュージーランドのアーカイブで突然発見された75本のフィルムのうち、John Fordの"Upstream" (1927)のリストアされたやつがNew Yorkプレミア上映されるということなので、これは行かないわけにはいかないの。

そうすると、その前後もついでだし、ということになって3本。 
そのあとのライブは、これはこれでしょうがないのね。(人生て、しょうがないことまみれなのよね)

昼間の明るい時間帯に久々にアストリアのあの辺を歩いてみる。
周囲はいろいろ変わっていておもしろかった。

通りの反対側にFrank Sinatra School of the Arts ていうでっかい建物ができていた。
でかでかと、"Founded by Tony Bennett" て書いてある。
ここに入学したらみんなSinatraとかTony Bennettみたいなぎんぎんのエンタテイナーになって出てくるのかしらん、とか。 校歌はやっぱし"My Way"なのか、とか。

おなじく通りの反対側に5 Napkin Burgerができていた。
これは、はっきりと危険だ。

Moving Imageに1時半くらいに入って、カフェでりんごのデニッシュとコーヒーを頂いて、やっぱしなんか洗練されちゃったねえ、と思ってシアターに入ってみたら、いた。

金曜の晩の映画は若者向けだったからか、かつて常連だったじいさんばあさんがぜんぜんいなかったの。
けど、この日は演目のせいもあるのか、うようよいて、例によってどうでもいいような映画のことばっかりべらべら喋ってる。
なんか、放流していた鮭が戻ってきたのをみたような、いや、戻ってきたのは自分のほうなのだが、なんとも言えないかんじになった。 この、映画を取ったらあとになにも残んなさそうな老人たちの居場所を奪ってはいかんよね、て。

で、2時から上映されたのが、メキシコ産のサイレント映画で"The Ghost Train (El tren fantasma)" (1927)ていうの。 電車もの、タイトルからするとオカルトホラーみたいなのか、ひょっとしたらブニュエルのメキシコものみたいにシュールなやつかと思っていたら、結構ちがった。

ある駅に赴任してきた電車技師が、駅員の娘にひとめぼれするのだが、彼女にはアプローチかけてきている別の男がいて、そいつが実は闇の電車窃盗団のリーダーで、女もふたまたかけてて、結構悪いやつなの。
で、窃盗団をなんとかやっつけるのと、彼女をこっちに寄せるのと、ふたつの話のあいまに電車(蒸気機関車ではなくて、当時最先端の「電車」)がびゅーん、て走っていくかんじ。

殴り合いとかどんぱちとか、馬から電車に飛び乗るとことか、スタントなしでがんばっているのでそれなりに迫力あっておもしろいのだが、どちらかというと窃盗団のなかのいろんな顔キャラ、特にいつも煙草ぷかぷかふかしているガキ"Chango"とか、そっちのほうがよりおもしろかったりする。

この作品、当時世界を侵食しつつあったハリウッド映画に対抗すべくメキシコが国の威信をかけて作ったやつで、国内では大ヒットして、そいで世界のマーケットにうってでようとしたら世界大恐慌でおじゃんになった。 
と解説には書いてあった。   でもメヒコ! てかんじでおもしろいよー。

尚、作品のピアノ伴奏は、ここでのサイレント上映には欠かせないDonald Sosinさん。
ひさしぶりでしたね。


5:00からはJohn Fordの”Upstream” (1927)

今年の元旦、一番はじめにみたのがJohn Fordだった。 だから今年はJohn Fordの年なの。

この作品は長らく、John Fordの失われたサイレントの1本(Fordのサイレントは全部で60本以上はあって、残っているのは1ダースくらいだって)、とされてきたやつで、こいつが昨年NZで見つかった。 発見されるやいなや20世紀FOXが即座にこいつをひっつかんで西海岸に運び、強制入院、袋叩きするかのようにリストアしたのがこれ。 早かったねえ。

今回の特別上映では、伴奏がDonald Sosinさんだけでなく、バイオリン、クラリネット、ドラム、ヴォーカルのバンドが入る。 当初は有料、て書いてあったが、結局Museumの入場料だけで、メンバーは勿論タダ。

本編の前に、同じく今回の発見のなかに含まれていたFordの"Strong Boy" (1929) - これも失われた1本とされている - の修復された予告がかかる。  ううう、これもめちゃくちゃおもしろそうなのに(涎)。

”Upstream”はバックステージもので、NYのどこかの貧乏下宿屋に間借りしている劇団・芸人一座の変なひとたちをざーっと描いて、そこからひとり、演技はさえないけど、苗字(家系)だけはちょっと有名なやつがロンドンのハムレットの上演に呼ばれるの。 下宿のみんなは喜んで、そのなかにはそいつの彼女もいたのだが、とりあえず送別会して、送りだしてあげる。 
そういうみんなの支援とか祈りもあって、彼の演技は異国で認められるのだが、そのけっか、もともと嫌なやつだったのがすんげえ鼻もちならないやろうになっていくの。

他方、彼女は彼女のことを好きだったナイフ投げの若者と一緒になることにして、よりによってその結婚式の日にそいつが帰ってきて-。

とにかく、ぜったいおもしろいんだよう。 
下宿の変な住人ひとりひとりを紹介するかたちでディナーのテーブルがはじまって、そこで一気にいろんなことを説明してしまうとことか、演技にまったく自信のないやつがハムレット俳優として目覚める(勝手に思いこむ)瞬間の描写とか、ナイフ投げが彼女にプロポーズする(ぼくはナイフを投げるけど、きみはぼくにお皿を投げるんだよね)とことか、最後、かつての恩を忘れたやろうにみんなして仕返しするとことか。

作品解説の紙には、当時FOXに招かれて"Sunrise"を撮り始めたムルナウからの影響について、或いはこの作品の前後にベルリンに渡ってムルナウのとこで映画製作のノウハウを学んできたFordに、当時のドイツ映画からの影響はあったのかなかったのか、ようなことが書いてあったが(わたしはムルナウをそんなに見ていないので判断しようがない)、例えば、いまMOMAでやっているワイマール映画特集のあいだに挟んでも、そんな違和感ないかんじはした。 
表情やひとの動き、部屋や建物の組みかた、とかすべてがすごくきちんと組みたてられた枠のなかにあって、でもどこを切っても不思議とチャーミングでおもしろい。 このおもしろさは、けっこう謎の秘薬なのかも。

[music] Iron & Wine - Jan.29

前にも書いたがこの週末はいろいろあって悩んだの。

The Muffsが復活してBrooklynとHobokenでライブをした。土曜日にはBrooklynでMission of Burmaもあった。微妙なところではTodd RundgrenのUTOPIAの復活ライブ、というのもあった。

この日のIron & Wineは、会場がでっかいRadio Cityだし、売り切れることもないだろうから直前でいいや、と思っていた。 新譜のプロモーションでConanとかFallonとかTVにも露出していたので、それらを見た上で、でもこのバンドにとって大きな、記念碑的な一歩となるライブには違いないのでやはり見ておくべきよね、程度には。

そしたら2日前にSold Outの貼り紙が出てしまってびっくらよ。 その直後にTicketmaster行ったら、まだ上の上のほうの席はあって、でもあそこの上のほうの席ったらほんとに上で遠くて、これに$50かあ、ということで一旦保留にした。

そしたらやっぱりシリアスに売り切れてしまったようで、前日の金曜日はいくらアクセスしてもぜんぜんだめで、でもいちおう未練たらたら30分おきくらいに繋ぎに行ってたら(仕事しろよ)、2:30くらいにようやくひっかかった。
ここまでくるとひっかかってくれただけで感謝、ということであんま確認もせずにとりあえず買って、当日中に入ってみたら1階の前から6列目くらいのどまんなかだった。 
ありえない。 あの仕組みはなんかおかしい。

というわけで久々のRadio CIty Music Hall。 最後にここに来たのは2004年のModest Mouseだったかしらん。

前座はEddie Brickellさん。 バックに4人編成のバンドがついて、ギターと柔らかいキーボードの音が心地よく、ボトムはタイトでシャープな都会の音。 一曲一曲がほんとに素敵で、その流れのなかで"What I Am."みたいなヒット曲(なつかしー)もさらさらと流してしまう。

ちなみに、バンドのギターはCharlie Sextonさんでした。 なかなかよいかんじの中年男になっていた。

さて、Iron & Wine。
最初にSam以外の男2(弦とKey)、女子コーラス2が出てきて"He Lays in the Reins"から。
静かに澄んだ上澄みのおいしいところ、しかしはっきりとなにかが漲ったこの状態が30分くらい。 
この編成でずっと、でもぜんぜんよかった。

そのあとでぞろぞろ、パーカッション2、管3、B1が加わり、総勢11名の大所帯になる。
バンドの頭数でいうと、こないだのSufjanとおなじだ。

しかし、やはり、どんなに音数が増えてもSamの歌のまわりに透明な膜が被さっていくだけのようで、決してHotにもBoldにもならない。 どこかさめざめとしていて、そんななか歌だけがまっすぐに突きぬけてくるような。
例えば、Todd RundgrenのSomething/AnythingのD面のセッションみたいな、あんなかんじよ。

新譜はまだ聴けていないが、Calexicoとの競演以降、歌のコアは変えずに、しかしスタイルを変え編成を変え、ひそやかに実験を繰りかえしてきたこのバンドの、とりあえずの成果報告がこのライブなのだろう。

そしてそれはこれからもバンドが変化していくことをまったく恐れない、恐れる必要がどこにあろうか、ということをにこにこと揺るぎなく語っているのだった。

よい意味で落ち着いた、雪の晩にはとってもよくしみるライブでした。

アンコールはSamひとり、ギターで1曲だけ。 "Trapeze Swinger"
ここまで来ても、これだけの拍手と喝采で迎えられても、おびえる空中ブランコ乗りは"Remember me"と、それだけを切々と訴え続けていて、それは確かにそういう歌として静かに、しかししっかりと届いたの。