4.30.2018

[music] A Certain Ratio

21日の晩、Islington駅前のライブハウス - The Garageで見ました。

ここで17日に行われる予定だったGoat Girlsのライブ(→メンバー急病のため5月2日に延期だって)のチケットを取るときに彼らのスケジュールも見つけて、ついでに取った。恥ずかしながらまだ活動していたなんて知らなんだ。

このバンドについてはJoy Division - New Orderの隣、というかB-Sideにいる人達、という認識でそんなに熱狂的には聴いていたわけではなくて、例えばジャケットデザインがいいなー、とか。けど、そういう意味ではJoy Division – New Orderもそんなに熱狂的に聴いたわけではなくて、たぶんそれはダンスミュージックというものに対する当時の(今もだけど)距離感、というのもあって、80年代初なんて今で言うところのクラブカルチャーもレイブカルチャーも、そこらにあるもんではなくて、ツバキでNew Orderがかかっても途中で脱臼して立ちつくしてなんだこれ、ってなるのがせいぜいだった、そんな程度の。

今の、Peter HookがいなくなったNew Orderのライブがどんななのか、前とそんなに変わらないんだろうなと思いつつ、このバンドは、と調べてみるとギターとベースはオリジナルメンバーが残っているので、そんなにギャップはかんじないかも、そんな程度の。

前座のあと、20:30くらいからとあったので、20:00くらいに行ってみたら(一応、Sold Outしていた)、前座が始まったばかりで、Sink Ya Teethていう女の子ふたり組が演奏している。 ベースとヴォーカル+パーカッション+ダンスで、リズムトラックは準備してあるのを機械が流してて、これがもう笑っちゃうくらい80年代後期のダンスナンバーふう(パーカッションのカカッカカッていう合いの手とか)ばっかで、ヴォーカルの子の思わせぶりな動きももろで、なんか凍りつくねえ、と思ったら客席からの反応はとても暖かく、要は年配の客みんなが孫を見るかのように微笑んで見守っているのだった。 いや、悪くなかったけど。

本編が始まったのは21時少し前で、5人編成、曲によって女性ヴォーカルが入って、ベースのJezは歌わないときには座って演奏している。

音はこう言ってよいものか憚られるのだが、鳥肌がたつくらい気持ちよくてたまんないの。硬いとこ柔らかいとこが五月雨に交錯しながらうねっていく音数多めのドラムスに、これにぴったり張りついて唸ってのたくる重めのベースに、このぶっといやつをしゃきしゃき鮮やかに千切りにしていくギターに、その上空を埋めたり吹いたりしていく管楽器とシンセの空っぽさと。

かつてTony Wilsonが"having all the energy of Joy Division but better clothes"と語ったエナジーは結成40年を過ぎてやや枯れてきているのか、客も高齢化して動けなくなっているのでそう見えてしまうだけなのか、あるいはこういう音ってギター系のがりがりのよか風化しないもんなのかも、とか、とにかく今の彼らの耳触りのよさ気持ちよさは大したものだと思った。

知っている曲はそんなになかったけど、2曲目の”Do the Du”とか本編ラストの” Shack Up”とかアンコール1曲目の”Knife Slits Water”あたりはまだ憶えていた。12inch EPのデザインがFactoryしててかっこよかったのよね。

昔だったら芝浦インクスティック辺りでかかっていた音。今だとブルーノートとかビルボードあたりになっちゃうのだろうか。どっちにしても金持ちの行くとこで、本当はそういう音じゃないのにな、ていつも思う。クラブ系のどうどう圧迫してくるのとは違うこういう音って、これはこれで必要だと思うのになー。

まあとにかく、再発のたびに伝説ぽく語られがちなこの手のバンドがこんなふうに淡々と生きて(ライブして)いるのを見れたのはよかったかも、でした。

[film] Rampage (2018)

21日の午後、Westendのシネコンで見ました。予告みてこれは見なきゃって即思ったわ。

軌道上の宇宙ステーションの内部ででっかいネズミみたいのが大暴れしてやばいことになってて、乗組員の女性がなんとか避難ポッドまで逃れるのだがガラスがぴきぴきってなってだめで、でも吹っ飛ばされる直前に船内で実験していたカプセルみたいのを地球に向けて放り出す。

そこには遺伝子会社の実験からうまれた病原体だかウィルスだか、DNAを急激に進化暴走させてしまうという危険なやつが入っていて、そいつがアメリカ大陸に3つ降ってくる。

San Diegoの動物園で霊長類学者として働くDavis Okoye (Dwayne Johnson)はでっかいアルビノゴリラのGeorgeと仲良しで、Georgeは頭も気もいいよいこで、Davidとは手話で簡単な会話もできたりする。

で、さっきの落ちてきたカプセルを見つけたGeorgeにそこからなんかがプシュって吹きつけられて、同様のことが荒野のオオカミと河のワニにも起こる。 よりによってなんでオオカミとワニ。

で、Georgeは突然Davidのいうことを聞かなくなって凶暴になってでっかくなっていって、同様にどこかからでっかいオオカミとでっかいワニが現れて暴れだしたので騒ぎが広がっていく。そいつらは激しく攻撃すればするほど耐性ができて巨大に変態して、軍も手がつけられなくなっていって、元米軍の特殊工作部隊にいた - でも人間不信になって動物のほうに行ったんだって - という過去をもつDavidはここはおれがなんとかする、Georgeは俺のダチだから、って遺伝子会社を不当解雇されて家族も殺されて連中に恨みを持つ遺伝子学者のKate (Naomie Harris)と共に動きだす。

遺伝子会社の悪玉ふたりは特殊電波を使って巨大化した連中を操作して、3匹のでっかい暴れ獣が電波発信元のシカゴの街にどかどかやってきてビルを昇り始めて大変なことになって、シカゴは、Davidは、おさるのGeorgeは、どうなっちゃうのか、なの。

進化していく究極のDNAは「シン・ゴジラ」にあったやつだし、宇宙から落ちてきたなんかで地球上のなんかが突然変異して巨大化、って昔からある怪獣映画のあれだし、怪獣を遠隔操作するのはX星人がやってたことだし、進化していく猿だと、2011年以降の”Planet of the Apes”のテーマとしてふつうにあるし、単にでっかくて強い猿ならこないだのKing Kongもあるし、変態した怪獣の造型でいうとあいつらどう見たってアンギラスとバランだし(できればラドンかモスラもほしかった)、相変わらず軍も官僚もマヌケ揃いでどうしようもないし、特に新しいなにかがあるわけではない既視感に溢れたつぎはぎ怪獣パニックなのだが、でもこのありそうでなさそうででもあってほしい、と拳を握りしめてしまうおもしろさときたらなんなのだろう。

とにかく最後は目が覚めたGeorge & David vs. アンギラス & バランのガチな肉弾戦 - ほんとに肉弾なの - で、彼らはシカゴの街を壊滅から救うことができるのか、になってしまうのだが、いまこんな途方もないことができてしまう人間はDwayne Johnsonさまくらいしかいない。 こんなのTom Cruiseにだってできないし、昔のSchwarzeneggerとかでもちょっと違う気がする。

元は80年代にあったゲーム(... Ready Player..)だそうだが、こんなのおもしろきゃいいんだわ、なので、次作もあればいいのに。 次はGeorgeが喋り始めたっていいし、”Kong: Skull Island”の次のにマージしたっていいし、”War for the Planet of the Apes”の次のに合流したっていいし、”Fast & Furious”の次に …。

4.27.2018

[film] Big Trouble in Little China (1986)

7日の土曜日の夕方、”Love, Simon”のあとに、Prince Charles Cinemaで見ました。
爽やかに甘いお菓子のあとにこってり排骨麺を食べるかんじ。

この映画館、どういう理由なのかこの作品の70mm版上映会を割と定期的にやっていて謎すぎるのだが、この事実だけで十分よい映画館だと思うわ。(そういえばRecord Store Dayには”High Fidelity”(2000)の35mm版を上映してた。 他には”We ❤️ Greta Gerwig”て特集をやってる)

これ、日本で公開された時に夢中になって何回かたて続けに見た記憶があって、とにかくバカバカしてておもしろいから大好きなの。

San Franciscoのチャイナタウンに立ち寄って路地脇の賭けテーブルの勝負に勝ったトラック野郎のJack (Kurt Russell)が負けたほうのWang (Dennis Dun)を連れて彼の婚約者を迎えに空港に行ったら婚約者は出てきた途端にギャングにさらわれちゃって、後を追ってチャイナタウンに戻ったらお葬式の行列しながら二つの勢力が殺し合いしたり人が空から降りてきたりしてて訳わかんなくて、でもとにかく彼女を救わなきゃということでチャイナタウンの深部に分け入っていくと、そこは魔人みたいな妖怪みたいなLo Pan (James Hong)が支配している闇の迷宮になってて、Lo Panは永遠の命を得るために緑の瞳の若い娘を探して捕えて生贄にしようとしていて、Jackと一緒に探しに入ったGracie (Kim Cattrall)も捕まっちゃって、娘を救うのか地球を救うのかそんなのどうでもいいけどなんか気に食わねえぞ、みたいなノリで最後は善悪入り乱れて稲妻轟く大戦争になっちゃうの。

いちおう、チャイナタウンなので中国ぽいお化けとか妖術とかカンフーとか出てくるし、基本のアクションはたぶんカンフー、のようなのだが、ぜんぜん怪しくてこれらの記号はぜんぶわざと上滑りしているかのようで、一番強そうな敵は怒りながら風船みたいに膨らんで自爆しちゃうし、決めはナイフ投げだし、音楽はJohn Carpenter先生がシンセでびょんびょん中華三昧だし、隅から隅までいいかげんでめちゃくちゃなこと夥しい。そのノリが中国何千年をチリトリにぽい、してしまう痛快さ。

こういうごちゃごちゃの、典型的なB級アクションを70mmで見る意味あるのかというと、とにかくすごい迫力と勢いで争いに巻き込まれて地下迷路をひーひー逃げ回りたくなるので、見てみるといいよ。

あとは、Kurt Russellのトラック野郎の匂いたつような大雑把で適当なノリ、ぜんぜん強そうじゃなくてべらべら喋ってるだけなのに気がつけば勝っていてかっこいいっていう不思議。
ついでに、このひとが約10年後、NYに現れて性の妖気を吸いまくるSamanthaとして世界に君臨することになろうとは、のKim Cattrallも楽しいし。

これを見た頃って、この世界は”Gremlins” (1984)のあそこと繋がっているのだと思っていた。この頃の「世界」ってそれくらい謎にあふれた、しかし適当に出来あがったやつだったし、San Franciscoのチャイナタウンなんてぜったいやばいよね、だったのに、いまやあそこのチャイナタウンは世界のチャイナタウンのなかでは一番おいしい素敵なとこだと思っていて、あーまた行きたいよう、になのだった。

4.26.2018

[film] Love, Simon (2018)

7日の土曜日の午後、Picturehouse Centralでみました。

これの少し前にBFIで毎年恒例のFlare: London LGBTQ+ Film Festivalていうイベントがあってなかなか盛況で(チケットなんか全然取れないの)、そこでもかかっていた1本。

アトランタの郊外に暮らす10代のSimon (Nick Robinson)がいて、両親(Josh Duhamel, Jennifer Garner)と妹と仲良く暮らしていて、幼馴染の2人- NickとLeah、少し後から仲良しになったAbbyといつも一緒に車で通学してて、学業も素行もなんの問題もない – Simon自身が語るところでは – でもひとつだけ、自分はゲイなんだ、と。 で、これをいつかはきちんとオープンにせねばと思うのだが、それにしてもなんで世の中の恋愛って男+女がデフォルトになってるんだ? とか根源的な問いをぶつぶつ呟いててかわいいの。 Simonはやがてメールコミュニティで知り合った自分はゲイであるという”blue”とメールのやりとりを始めて、だんだんに自分の視界が広がっていくのを感じて、彼はどういう人なんだろうか、てドキドキし始める。

物語は学園モノのふつうの手続き - 誰が誰をどうした切ったの貼ったの振られたのの挙句にAbbyへの恋に破れた奴のやっかみでSimonの恥かしメールと彼がゲイであることが大々的に暴かれて学校中にばら撒かれて、家族も含めてがーん、て大惨事の危機が訪れてどうなっちゃうのか、もう世界は終わっちゃうのか…

Simonの語り口はまるで”Ferris Bueller’s Day Off” (1986)のFerris - あんな自信たっぷりじゃないけど - のようだし、ラストはまるで”Never Been Kissed” (1999) のようだし、要は王道のRom-Comどまんなかで、なんでこれまでこういうのなかったのかしら、ていうくらい眩しくてまっすぐでキュートな青春映画になっていて、よいの。

友達にもいろんなのがいるけど最終的にはみんないい奴らで、両親もショックを受けながらも受け容れてくれて(父親とのシーンとか、すごくいい)、そんな恵まれた環境にあるのはなんといってもSimon、あんたがよいこだからだよ、って思う。 そんなのおめでたすぎるわ世の中は煮えくり地獄で溢れているのに、ていうのは簡単だし、そうなのかも知れないけど、でもこういう世界もありなのかもな、とか教えてくれたのは映画っていうあれ、だったのではなかったか。

“Call Me by Your Name”は問答無用のクラシックで、これを貶すひとを軽く軽蔑することができる。他方で”Love, Simon”は、ほんとうに危うくてたどたどしくて貶すことはとっても簡単(Bret Easton Ellisみたいに)なのだが、でもこの映画は無防備なSimonそのものだと思うので、味方になって、守ってあげなきゃ、ってそういうかんじにはなったかも。 中学高校で無料上映会すればいいのに、てまじで思うわ。

音楽はJack AntonoffとBleachersを中心にがんがんあっついのが流れて、これもどこまでも青くて素敵なの。

4.25.2018

[film] Look Back in Anger (1959)

遡って、5日の木曜日の晩、BFIのWoodfall特集で見ました。

ぜんぜん書けていないけど、この特集は地味に見続けていて、おもしろい – という言い方でよいのかどうなのか、ふたつあって、一つは自分が今、一年ちょっと住んでいる/住んできた英国で感じる英国だねえ、みたいな要素をどこまで見出すことができるのかできないのか、っていうのと、ここで描かれる若者たちの怒りとか鬱憤とかエナジーとかがのちのちのModsやPunksにどうして、どんなふうに流れ込んでいったのか、っていうのと。なかでも特に、まだ階級社会の壁が大きく残っていた時代、それを乗り越えたりぶち壊したりするだけのパワーを十分持てなかった若者たちはどうやってそれらと向きあったりやり過ごしたりしていたのか、その辺を。

これがWoodfall Filmの最初の作品で、Tony Richardsonの最初の長編監督作で、英国の映画としてここから始まったものが相当あるのだろうなと思った。完成度みたいのから程通いラフな日々のスケッチが続いて大事件も大悲劇も勝ちも負けもなくて、日は沈んで夜は明けて、日々は流れていくし路地は繋がっているし線路は続いていくし。

原作はJohn Osborneの同名の戯曲で、Woodfallに舞台作品からの映画化が多いのは、劇場でのそれなりの反応や熱に押されて、ということもあったのだろうか。

Jimmy (Richard Burton)が夜中のJazz Clubでトランペットをがんがんに吹きまくって啖呵きるのが冒頭で、その勢いで威勢よく自分のアパートに朝帰りすると妻のAlison (Mary Ure) は寝ていて、ここに一緒に仕事 - 市場の露店で地味に飴玉とか売ってる – をしているCliff (Gary Raymond)とか、Alisonの友達で女優のHelena (Claire Bloom) とかが絡んで、トランペットを吹きまくるようにはかっこよく動いていかない彼らの日々のこまこました諍いとか同様の仲直りとか諦めとかうんざりとか、これらが延々続いていってどこにも収束しない。 Alisonは妊娠していることがわかり、それが何かの区切りや納めどこをもたらすかのようで、実はどこにも行かないし、行けないし。どうするんだ?

で、なんか苛立つしかなくて、つまりは「怒りをこめて振り返れ」 - 振り返るけど、でも他方ではお茶とかビールとかを飲んだりするしかない – これがKitchen sink realism、てこと?  彼らの親たちも出てくるのだが、彼らは別に怒りをこめて振り返ってはいないようだ。 怒りをこめられる振り返りのレンジて、せいぜい2~3日くらいの気がする。それ過ぎたら忘れて再びお茶とか飲んで、を繰り返している気がする。

でね、なんか暗い、八方塞がりの救いようのない日々を描いたダークな作品(群)のように取られがちだけど、実は楽観的で陽はまた昇るよケセラセラな日々を描いていて、それはそれでよいのではないかしら。 と、先日、”A Taste of Honey” の上映後のQ&AでRita Tushinghamさんも言っていた。
世間でよく言われるような悲惨な現実を描いたものではぜんぜんないのよ、と。

そう。この映画の世界を悲惨で救いようがない、って言うひとは、どの場所に立ってそれを言ってるのか、ってことなんだよ。
この映画を材料に当時の格差とか差別とかについて語ることも可能かもしれないけど、それって違うよね。 この映画が表に出そうとしているのはそこではない。

例えばここのRichard Burtonが放つとてつもない生の臭気 - *Saturday Night and Sunday Morning* (1960)でのAlbert Finneyといいこいつといい - なんでこんなに力強く生きているんだろうな、って。

これこそが”Trainspotting”あたりにまで脈々と流れていく英国の若者 - ていうよりガキの原型で生態で、ありようで、英国音楽の根っこの一部を形作っているあれではないかしら、って。

まだわかんないけど。 そう簡単にわかっちゃうもんでもないと思うし。

[music] Peter Hammill

20日、金曜日の晩、リフォームして再開された(ただしリフォーム前は知らず)SouthbankのQueen Elizabeth Hallで見ました。

この日の朝にNYから戻って会社に行って、会社では目がしんでる顔がしんでるとか散々言われて、好き勝手言うくせに帰してはくれなくて、ぜったい寝ちゃうよなと思いつつ行ったけど、こういうのはぜったいに寝ない寝れない。

昔の話をすると、彼の渋谷Live Innでの初来日公演(86年?)はそれはそれはとてつもないもので(最前列に巻上さんが並んでいた)、それ以降しばらくの間、彼の来日公演は通うようになって、最後に見たのはおそらく川崎クラブチッタでの、John Ellis(ex. The Vibrators)と一緒にやったときのではなかったか。それでも軽く1/4世紀ぶりくらい。

昨年のCafé OTOでの3日間公演は売り切れてて見れず、自分にとっては最も英国的なアーティストのひとりでもあるので、なんとしても見たくてチケットは出てすぐに買った。前から2列め。 客席は断言していいけど圧倒的に50代以上ばっかし。若者なんていやしないの。

ステージ上にはグランドピアノとアコギ1本だけ。全身真っ白の服で、真っ白の短髪で、ひょろひょろで風吹いたら飛んでいっちゃいそうで、だいじょうぶかしら、だったのだが勿論だいじょうぶなの。 最初はピアノを前にした”Don’t Tell Me”で、昔からこの曲はオープニングで、打鍵も歌声も割れ鐘のように強く響いて鳴り渡る(ホールなのでやかましいくらい)。

曲は今世紀に入ってからのと昔の(70-80年代。”The Silent Corner and the Empty Stage” (1974)からのとか)を交互に演奏していくのだが、製作年代の間のギャップは全くない。ぜんぶ今のPeter Hammillの音にしか聴こえない。

途中でギターに切り替えての弾き語りになるのだが、いわゆる弾き語りではぜんぜんなく、ピアノをぶっ叩くのと同じ強さ、弦を切るような勢いで引っ掻いていく。このひとのエレクトリックギターの刃物のようなストロークが大好き(特に”Nadir's Big Chance”とか”Over”の頃)なのだが、その硬い質感はアコギでも十分に感じられて、ギターパートの最後にやった”La Rossa” – VDGGの – はみんな立ちあがって大歓声だった。再びピアノに戻ってからは新しめのが続いて、でも最後は、“Refugees” (1970) – これもVDGGだった。

所謂プログレッシブ・ロックの(思索系の)人達がやってきた自己認識(→ 狂気)や時間認識(→ 歴史)の相対化ということでいうと、この人は常に自分の内なる狂気と(そいつを飼い慣らしたり庭で育てるかのように)向き合ってきて、それはもう一人のPeter (G)の仮面や仮装に仮託したり反射したりしながら共犯者を増やしていくやり方とは異なり、極めて英国的に執拗で籠っていて表には気軽に出てはこなくて、でもこうして削がれて転がされて現れてくるのが彼にとっての生で、これ以外に何を歌えばよいのか、と。 これまで同様、ぜーんぜんメジャーなところとは関係ないところでこれからもやっていくのだろうけど、いやーそれにしても、強烈すぎる。 久々になにかを思い出した気になった。


(同じ系列で括ってしまうのには抵抗があるのだが)24日の晩、Tangerine Dreamを見た。
場所はUnion Chapelっていう教会のお堂で、これまで見たことなかったし、2015年にEdgar Froeseが亡くなってどうなっているのかとか、あと前座がRichard Barbieriだったので今どんなのやっているのかしら、と。

この日、BFIでの映画とぶつかっていて、映画見たあとに向かったので結局Richardは見れず、メインが始まっている状態だった。教会のでっかいホールに3人、そこの天井やステンドグラスをいかしたライトショウがんがんで、きれいで壮大で荘厳なのはよいのだが、やっぱりなんか違ったかも。70年代のこういう音が今の時代の技術によりテクノとかアンビエントとかニューエイジみたいなところに寄ってしまうのはしょうがないのかもしれないけど、なんかわかりやすすぎる適用のされかたで、でもかつてはそういう明快さとかわかりやすさを求めて彼らの音を聴いていたわけではないよね、とか。

4.24.2018

[log] NYそのた -- April 2018

NYでの食べもの関係は、前の時もそうだったように懐しいから食べたい系と、そうは言っても新しいとこも試したい系に分化する傾向があって、今回もそうでだからなんなのよ、と言うと、あんまよくわかんない。 これって別にこういう旅のときに限った話ではなくて、居住してたときもそうだったじゃん、とか。 以下、あんまないけど時系列でざっと。

White Gold Butchers
この店名、バンド名にしてもかっこいいかも。
BreslinやSpotted Pigの系列らしいUpper Westの肉屋兼肉料理屋。Live from Hereのあとに行った。
Upper Westで肉屋をオープンすることができるのであればそのお肉はおいしいに決まっているし、実際に十分おいしいのだった。 熟成系(もうみんな飽きてきたでしょ)とも英国の赤味とも風味はちょっと違う、シンプルで、お塩だけでもぐもぐ頬張っていけるやつ。
Smoked Chicken Riceとかもおいしかった。こいつが近所にあったらどんなにか。

Flora Bar
15日のランチ、The Met Breuerの展示を見たあとで。
ダウンタウンのEstelaとCafé Altro Paradisoの人達がMet Breuerの下にこんなの作ったよ、と。Shakshukaがあったので頼んでみた。 Shakshukaは辛めのトマトソースにポーチドエッグが落としてあるチュニジア起源~中東拡がり(?)の朝ごはんで、Londonに来てから知った。こんなのどうやってもおいしくなるだろ、かもしれないけど、しょっぱくなり過ぎたりもあるし、おいしいとこの複雑さときたらすごいし、レシピ本とか見るとハーブとかスパイスとか面倒くさそうだし、結構難しいと思うのよね。サイドのRye flatbreadとの相性が抜群だった。 デザートはJerusalem artichoke and chocolate parfait ていうのを頼んでみる。菊芋とチョコレートのパフェ。 最近のトレンドなのかレアチーズケーキをぺったんこにした豆腐みたいな外観で、でも崩して食べてみると菊芋とチョコレート、としか言いようがないじゃりじゃりさくさくとんろり感に痺れる。

Prune
15日の晩に。日曜の夜遅くで、すごく寒いのに結構混んでる。
ここのは何食べたっておいしいので、なんでもいいの。仕事なんてしなくていいお金持ちになれたら毎日ここのカウンターで出されるものを出されるままに食べる日々を送りたい。
今回もSweetbread(胸腺)とかキノコのラグーとかウサギの脚のコンフィとか、やられ放題だった。ここのベースのだしというか、バターソースなのかなんなのか、ずーっと謎でいくらお皿を舐めてもつっついてもわかんない。
それからデザートのLemon Semifreddoのオリーブオイルと岩塩、昼のデザートに続いてこの豆腐野郎が、てかんじだった。

Hwa Yuan Szechuan
16日の晩、なんとなく久々にChina Townの奥深いところ、ということで行ってみる。
ここ、NY Timesのレビューで星ふたつを採っていたの(Timesの星ふたつって、なかなかのもんなのよ)。小籠包に担々麺に豆腐に回鍋肉に、こういうオーソドックスなのはふつうにおいしい。ロンドンのChina Townって、まだ十分に掘れていないのであんま言えないのだが、値段まで含めるとアメリカのがややしっかりしている気がする。気がする、ってだけだけど。それがどうした、だけど。

もういっこそれがどうした、を書くと、ランチで食べたピザもそう。 同じマルゲリータでもNYのとロンドンのはちがうんだよ。粉の香りなのか焼き方か。

17日は1日、Nashvilleにいた。 ダウンタウンじゃないところなのでお昼もケータリングだし、特になーんもなかったのだが、ケータリングのBBQは南部のいつものおいしさで、でも置いてあったChess Pieがなかなかだった。 典型的な南部のお菓子で、パイの一片はぐだぐだべったべたに崩れてて、地獄のように沸きたってでろでろ甘いばかりなのだが、ドラッグとしか言いようがない(包み紙にはラりった豚さんの絵が。)。 材料はタマゴとミルクとバターとシュガーとシュガーとシュガーと粉とお酢(?レモン?)だって。 そりゃそうだろうけどいくらなんでもこれ。

18日の晩は最後だからディナーアレンジして、と言われた(なんで英国から来たゲストに頼むんだよ?)ので、えーわかんないし、とか言いながら前にも行ったAugustineを17:30に取ってやった(遅い時間だと絶対取れない)。 ここ、デコールは文句なしに素敵だしお料理もぜんぜんおいしいし。
17:30開始にすると早目に終わるので、終わってばいばいって散ってから再びMast BooksとかMcNallyとか行って最後のじたばたをやって、更にやっぱし締めは酢の物で〆たい、ということでRuss & Daughters Caféで酢漬け鰊を食べて、更に口内を酸っぱいままにして終わるのは胃によくないかも、ということで行列ができていたMorgenstern's Finest Ice Creamていうとこでアイスクリームを食べた。イタリア系のねっちょりとは全く異なる清々した、驚異的な滑らかさをもったアイスクリーム。 暑い季節になったらまた来たい。

で、この時点で23時をまわっていたのだが、Broadway – Lafayetteの駅構内ぜんぶ使ってやっているDavid Bowie (Bowery) Isの展示、月曜日にも通過してわああー、てなったのだが、この朝のニュースでMetroCardを売りだしたとか言ってて、もうそういうのには乗らないことにしているのだがみんなが並んでいるのを見るとつい。 こんな時間なのに結構並んでいて、人がいる窓口では売ってなくて2箇所くらいの券売機のみで、このタッチ式の機械がなかなかとろいし、みんな当然のように全種類買おうとしている(選べないのでどれが出てくるかわからず)のでぜんぜん前に進まないし、こんなの小学生のガチャガチャじゃねえんだし、とか思いつつも黙って並ぶしかない。ひとつ前にパパ(?)と一緒に並んでいたひょろひょろの女の子は、あたしはScary Monstersのはあんま好きじゃないけどZiggyのはぜったいほしいし、でも結局ぜんぶ買うことになるんだわ、とか小憎らしい口調で言い張っていて、こんなガキに負けたくなくなって、でも同じのが続けて2枚でたらやめよう、と思って、やってみたら4回続けて違うのが出たのでなんとなく満足して終えちゃって、今はなんで5回やらなかったのか死ぬほど後悔している。ほんとバカだった。

まだなんかあったかしらん。

4.23.2018

[art] Before the Fall: German and Austrian Art of the 1930s、他

15日、日曜日の美術館関係のつづき。
Neue Galerieのオープンは11時なのでMetを見た後にこちらに来る。

Before the Fall: German and Austrian Art of the 1930s

ナチスのダークサイドに堕ちて没落していく30年代ドイツ、オーストリアのアートはどんなふうだったのか。気分が晴れ晴れする展示ではないけど、こういうのは目の玉ひんむいてでも見ないといけないものなの。肖像画、静物画、風景画、人物写真、風刺画、メディアに掲載されたもの、などなど。

作家はMax Beckmann, Otto Dix, Oskar Kokoschka, Alfred Kubin, Max Ernst, August Sanderといった大御所以外にも いろんな作家が。 静物画ですら暗く、どこかしら誇張されたり歪んだりしているようで、これは単に心象風景というより実際にそうだったのだろうな、としか言いようがない迫力というか説得力に満ちていて、でもそれでなにかを止めることができたのかというとできなかった。できるとも思えなかった、そんないろんな力のせめぎ合いが縁から滲んでくるかのよう。

例えば米国のGrant Woodの一連の作品(Whitney Museumでの”Grant Wood's American Gothic”、無理しても見にいけばよかったかも)との違いとか、比べてみてもよいかも。

風景画のFranz Sedlacekとか、Georg School の”Female Nude on the Sofa” (1928) とか、すばらしいのもあった。カタログは、当然のように買った。
そこから少し下ってThe Met Breuerに移動してふたつ。

Like Life: Sculpture, Color, and the Body (1300–Now)

ここの2フロア分を使った展示。思っていたよかぜんぜんおもしろ。
彫刻作品における生々しさ – 生きてるみたいに見える – って、どういうことなのか、という角度から古今東西の人体(含. パーツ)の彫刻作品を並べてみて、例えば色がついているとどう? とか素材の肌理がこんなだとどう? とか、本物ぽいって、だからって何?(笑)とかいろんなことを聞いてくる。

それに対してこっちは、うーんなんかきもい、とか、やられた、とか、あとちょっと、とか、あんた誰? とか返したくなって、返してみればそいつは15世紀のやつだったりする。
太古の昔からいちばんこれの槍玉(ていうか)にあげられてきたのは言うまでもなく神さまで、それは神さまがここに現れたらぜんぶ解決するんだから、ていう強くしぶとい願望と共にあって、その熱が昂じてどれだけ上手く騙せるか、みたいなとこに行って、やがてはこんなことまでできちゃったのよ、になった、のかしら。時系列ではなくテーマ別の展示で、時系列だともう少し解りやすくなったのかもしれないが、たぶんこっちの方が頭を掻きまわしてくれておもしろい。彫刻のリアリティって、絵画のそれとはまったく別の角度から、生理的なとこも含めて揺さぶってくるんだなあ、って。

Leon Golub: Raw Nerve


NYのアーティストLeon Golub の1940年 から2004年までの作品を集めた展示。タイトルは彼のエッセイにあった”Artists manage extraordinary balancing acts, not merely of survival or brinkmanship but of analysis and raw nerve.”から来たもの。

入口に10人の裸の男達が延々殴り合いをしている大作”Gigantomachy II” (1966)が置かれ、今回の展示はこれと、生首がぶら下がる”Vietnamese Head” (1970)の収蔵を記念したものだという。戦時(彼の場合はベトナム戦争)に顕著に表れる独裁やテロによる暴力や野蛮をダイレクトに描いたRaw Nerveにびりびり来る作品ばかりで、でもそれのみではないbalancing actも確かにあって、それが作品に普遍のなにかを持ちこんでくる。(暴力が普遍、ていうことではなくて)

ランチを食べて、一旦荷物を部屋に置いて、レコ屋と本屋を経由してBoweryのICPに走りこむ。

Then They Came for Me: Incarceration of Japanese Americans during World War II

第二次大戦時、米国は自国にいた120,000人の日系人(合法滞在していた市民)を収容所に送った。その暗くて重い史実をDorothea LangeやAnsel Adamsの写真を通してドキュメントする、というもの。写真に写っているのは自分の祖母や祖父の写真と同じような服装で、顔つきと表情で、そこにいる。 そこにいた。彼らはこの写真のあと、どこに行ってどうなったのか。

日本人だからどう、ということではなく、普通に(悪いこともせず)暮らしていた人々が突然の号令と共に生活の場から引き剥がされて有無を言わさず監獄送りになって囚人として虐待されたり殺されたりした、それがある時期に世界のあちこちで起こって、それは今も起こっていたり起こる可能性がある(あるよね、特にあの腐りかけた国)、ということ。 それを具体的な出来事としてイメージするには『火垂るの墓』なんかよかこっちの方が確かかもしれないね、とか。

Edmund Clark:  The Day the Music Died

911以降のアメリカで、「テロとの戦い」の名の元にGuantanamo Bayからアフガンまで、CIAや合衆国が裏に表に繰り広げてきた公だったり闇だったりの暴力、拷問、虐殺等々を入手可能な資料やイメージから再構成して可視化したもの。こういう情報の常としてマスクされたものはマスクされたものとしてそのまま提示されているのだが、でももうわかるよね。我々が享受できている(と信じる)「平和」の床板ときたら薄いベニヤ板一枚っきりで、その下には国家によってオーソライズされた暴力や憎悪が渦を巻いているのだと。

受刑者を眠らせなかったり錯乱状態に置いて尋問する際に使われたBGMのリストが貼ってあって、この展示タイトルが含まれる”American Pie”もそのリストには載っていて、場内ではこの曲がエンドレスで流れている。このことを知った瞬間に、子供の頃から慣れ親しんでいた甘い音楽は死ぬ。でもそれ以上に、実際に死んでいる人はいっぱいいるのだと。

[art] Joseph Cornell, 他

15日の日曜日、NYで見た美術館のあれこれをまとめて。 Madridのをまだ書いていないのに。
細かい企画展まで書いたり調べたりしていったらきりないので、印象だけをざーっと。

とにかく前日の20℃台の陽気は完全にどっかに消えて、寒くてしょうもなくて、そういう中、まずはMetropolitanの10時オープンを待つ。後が詰まっているのでつんのめるかんじで。

The Poetry of Nature: Edo Paintings from the Fishbein-Bender Collection

いつも挨拶するみたいにただ駆け抜けるだけのここの日本美術コーナー。朝いちだとだーれもいない。自然のなかに詩を見ることが得意で(たぶん..)そういう作品がいっぱい生まれた江戸時代の絵画名品集。酒井抱一の月と葛の枝、応挙の鹿2頭、森狙仙の烏骨鶏とか鹿とか、若冲の亀とか。テーマとは関係なさそうだった襖に描かれた丸っこいわんこにやられる。

Birds of a Feather: Joseph Cornell's Homage to Juan Gris

53年、ミッドタウンの画廊でJuan Grisのコラージュ作品”The Man at the Café” (1914)を見て刺激を受けたJoseph Cornellはコラージュ箱の連作を作り始めて、この展示では元となったGrisの作品とCornellの箱のバージョンとかパーツとかを纏めて並べている。 Grisの作品はカフェで新聞を読む帽子を被った男(怪盗Fantômasらしい)のシルエットが多層に塗りこめられているようで、これのなにがどうなってCornellだと白頭のオウムの箱にトランスフォームしちゃうのか不思議なのだが、こういうふうに導火線を伝ってイメージの連鎖を引き起こしていくのがGrisでありCornellなのよね、と改めて思った。 おもしろすぎたのでカタログ買った。

Before/On/After: William Wegman and California Conceptualism

Video作品中心だったので通り過ぎただけ。ワイマラナー(わんこ)写真で有名なWilliam Wegman が70年代の南カリフォルニアでやっていたコンセプチュアルアート群をざっと紹介したもの。すでに彼の最初のワイマラナー “Man Ray”が参加している。他に同時期・同地域のEd Ruschaの作品とかも。コンセプチュアルだけど、それでもやっぱり西海岸、てかんじはするねえ。

William Eggleston: Los Alamos

Wegman展示の反対側でEgglestonの展示。William Egglestonの初期(1965 〜 1974)のカラー作品 - 彼の最初のカラー写真も含む – を並べたもの。彼がずっとテーマにしてきた米国南部の空気感や陰影が鮮やかに活写されていて、こういう光線を捕まえること、それを写真としてこういう会場に光ごと持ちこむことのすごさを思った。 Big Starのジャケット写真はなかったが、Alex Chiltonの最初のソロのジャケット写真(の元)は展示されていた。

Public Parks, Private Gardens: Paris to Provence features

フランス、パリの19世紀、後に印象派として括られることになる画家たちがアトリエから出て屋外で書き始めたことと、人々の暮らしにおける公園や庭園のありようはどんなふうに関わったりしていたのかいなかったのか。「自然」を描く、ということと「公園」や「庭園」の(物理的なというよりは概念的な)発達はどこかで切ってもきれない関係にあった気がしているので、とても面白かった。登場する画家たちときたら、Camille Corot, Théodore Rousseau, Monet, Morisot, Atget, Camille Pissarro, Renoir, Manet, Henri Fantin-Latour, Gogh, Degas, Matisse, Cézanne,   Édouard Vuillard, Pierre Bonnard, Delacroix などなど… 結局ぜんぶかよ! みたいなかんじで、こんなのを館内の所蔵品だけでできちゃう、というあたりを自慢したい、ていうのもあるのだろうな。

Thomas Cole's Journey: Atlantic crossing

米国の風景画家  - Thomas Cole (英国からの移民だったのね)が大西洋を渡って英国やイタリアを旅していろいろ学んで200年、を記念した展示。英国 - イタリアに渡って彼が見た各地の美術作品とそれが彼の作品にどういう影響を与えていったのかをわかるようにしてあって、おもしろい。うんと乱暴に言ってしまえば、遺跡とか歴史的なモニュメントみたいのをほぼ持たない米国が、例えばJohn Martinの幻視、J.M.W. Turnerの陰影、John Constableの廃墟、みたいのに触れたとき、自分が向き合うこの風景をどんなふうにしたい/できる、と思ったのか、ていう辺りがきちんとわかる内容で、カタログほしくなったけど、我慢した。
あと、“Visitors to Versailles”の展示はまだメンバー限定だったので見れず。
BalthusのThereseはまだ夢を見ていた。

ここまででだいたい1時間強。ここに来るといつも走り回っているなあ、走り回るのを20年以上やってて、全館をゆったり落ち着いて見たことってないかも、って気づいた。

ここでいったん切ります。

4.22.2018

[film] Blockers (2018)

15日、日曜の夕方、Union SquareのRegalで見ました。

今回の滞在中に”Zama” (2017) かデプレシャンの新作のどちらかは見たかったのだが、これらはもうじき英国でもかかるみたいだし、それなら英国では終わってしまいそうなこいつを見るべきではないか、と。 英国でもこういう米国のバカ系(失礼よね)コメディはほぼ同タイミングでかかるのだが、傾向として最初の2週間くらいに客がいっぱい入って、後はそれでコアなファン層が底をうってしまうせいかがらがらになってそのまま消えてしまう。 これも米国では絶好調で、前方までびっちり入っていたのに英国では街の外れの映画館で一日一回上映とか… なの。 こーんなにおもしろいのにー。

Lisa (Leslie Mann)とMitchell (John Cena)とHunter (Ike Barinholtz)の親たちトリオは、彼らの3人の娘たち - Julie (Kathryn Newton), Kayla (Geraldine Viswanathan), Sam (Gideon Adlon)を学校に入れた日からご近所絆を培ってきて、子育てに関するいろんなことを相談しあう仲だし、子供達もずっと仲良しなのだが、プロムを前にした子供達がプロムナイトに揃ってバージンを捨てようと計画していることを知って - チャットに現れる彼らの絵文字を解読するとこ最高 - パニックになり、親が干渉すべきことではないとはじゅうぶんわかっているけど、わかっているけど、あれこれ理由をつけてなんとかその計画を阻止すべく - これがBlockers -  子供達の背後でじたばた追っかけをはじめる。

映画は巨大台風のような一生に一度のプロムナイトにかける子供達ひとりひとり(娘たちだけじゃなくてそれぞれの相手のガキ共のほうも)、親達ひとりひとりの切実な想いとか事情を丁寧に追っていくのだが、例えばSamはレズビアンだったり、LisaはシングルマザーでJulieを育ててきたり、Hunterは離婚して遠くからSamを見ているとこしかできなかったり、いろいろあって、そういう細かい背景が最後までぜんぶきちんと活きていて、よいの。

で、それだからこそ、なんとしても捨てるんだ、という子供たちの意思、とにかくなんとしても勢いでやっちまうのだけはいかん、という親たちの意思、それらがぶつかり合う途上で起こるあれこれしょうもない壁とか横ヤリとか騒動とかそもそもそんなに騒ぐことかとか、コメディとしての破壊力は相当なもんで、おもしろいったらないし、ラストがどうなっちゃうのかはらはらどきどきだし、でも結末は.. だれもが納得できるあれよ。

プロム映画でありバカ親映画であり、総合してすばらしいファミリーコメディになっていると思った。 いまの子供たち、いまの親たちがこれ見てどう思うかはわかんないけど、とにかくアンサンブルが素敵だから。

それにしてもLeslie Mannのすばらしいこと。 Judd Apatowモノではあんま表に出てこないけど、”The Other Woman” (2014)での彼女にはCameron Diazを凌ぐあんぐりの過剰さがあって、今度のも思いが膨れあがりすぎて珍妙に暴走してしまうその様を、彼女ほど大胆かつ繊細にでもおもしろおかしく演じることができるコメディエンヌっていないよね、って思った。

日本でも公開されてほしいなー。ほんとにおもしろいから。


行きの飛行機では”The Greatest Showman” (2017)をみた。
英国でもまだ大人気で、Sing Along - みんなで歌おう上映会まで企画されたり続いているのだがなんかあんまし行く気になれないままだったのよね。
悪くはないと思うのだがHugh Jackman、いい人すぎないかとか、Michelle Williams、おとなしすぎないかとか、Zac Efron、もっと踊れるだろとか、サーカスの動きがちゃんと繋がっていかないとことか、そんなのばかり気になってしまった。 もっとどす黒くてどろどろのしょうもないところもぼろくそあって、それでも、だからこそ天上で芸は輝く、が正しい持って行きかただと思うのだが、なんかな。

あとは目が死んで眠くなってきたので、”Call Me by Your Name”を音だけで聴いてみる( =「闇の中の眠り姫」)、をやってみた。これ、すばらしくよかったの。 鳥の声、せせらぎなど水の音、夏の音、自転車の音、バイクの音、食べる音、桃をいじる、桃の種を取りだす、桃を… の音、ラストの暖炉の音、君の名前を呼ぶ君の声、などなど。  
やってみてね。

帰りの飛行機はさすがにへろへろで、でも食事の間だけなんか見ようか、と”Jumanji: Welcome to the Jungle” (2017) を流してみて、あージャングルが舞台の”Ready Player One”なのね、と思って、でも途中でしんでしまったの。 またこんど。

[music] Live from Here with Chris Thile

Heathrowには20日金曜日の朝6時過ぎに降りたって、日本人だもんだから部屋に荷物置いてから会社に行って(あ、ほんとうの日本人なら会社に直行するのか…)、その晩はPeter Hammillのライブで、その翌朝はRSD2018で、休まらないこと甚だしくて、どこまで遡れるのかわかんないけど、書けるとこから書いてみよう。

14日の土曜日の午後にNYに着いて、突然の20度超えの陽気に毛穴も含めておろおろしつつ、Town Hallで見ました。
Town Hall、久々で - そりゃなんだって久々だよな - 前回ここで見たのはLiza MinneliとAlan Cummingの共演だった - ここで見るライブときたら昔から外れたことがないの。

“A Prairie Home Companion”ていう74年から続いている老舗のラジオショーがあって - 2006年のアルトマンの遺作の舞台としても有名だけど - この番組がホストのGarrison Kellorの某事情によりCloseして、看板を”Live from Here”に替えて、ホストをChris Thileに据えて始まったのがこの番組で、”A Prairie Home...”もここTown Hallでやっていて、ライブで見るのはプチ夢だったのだが、それがようやく。

公開録音番組だからか開始は5時半過ぎ、客層はお年寄りから子連れの家族までいろいろわいわい。
最初にピアノのおじさんがじゃかじゃかブギウギを叩くなかバンドが登場して軽くジャムすると舞台の袖にある”ON AIR”のライトが灯って、アナウンサーらしいおじいさんがアナウンサーみたいに(紙を見ながら)滑らかに喋りだして始まる。 こういうの初めてなのですごく楽しい。
Live from Here。ここはNew York。

バラエティショーなのでバンドが演奏しながらChrisさんが突っこみ入れたりコントが入ったりゲストが演奏したり客席からリクエストも受けたり - 寄席みたいなかんじか - ちっとも飽きなくて楽しくて。

最初の音楽ゲストはStephen Malkmus & the Jicksで、ホストバンドの横に彼らの楽器セット一式が並んでて、番組が途切れないように番組進行中にそーっと入ってスタンバイして紹介受けたらすぐに始まる。 Pavementのだらだらノリからは想像もつかないような生真面目さで2曲続けて。 悪くないけどちょっとこじんまりしすぎていたかも(ドラムスはもうJanet Weissさんじゃないのね)

続いての音楽ゲストはDavid Crosbyで、隣にChrisを従えて、始めに2曲 - “Guinnevere”と“Naked in the Rain”、終わりのほうで1曲 - “Déjà Vu” - どれも透き通った水のような弦と声が満ちてきてすばらしいのだった。

漫談ゲストはJaneane Garofaloさんで、Chrisがひれ伏して崇め奉っていたが、彼が90年代のTVを見て育ったのであれば、それはなんかわかる。 すごくちっちゃい人で、でもあのべらんめえの啖呵は満載でよけいに好きになったかも。漫談は、べつに結婚もしてないし子供もいないけどそれが何か?ネタで、いいよねえ。

番組のサイトに行くと中継された番組を聞くこともできるのだが、ライブで聴いたのとは印象が随分違っておとなしいかんじで、ライブはライブなんだねえ、て改めて思った。
今晩(4/21)のゲストはSufjan Stevensで、来週のゲストはCalexicoなの(ああ盛りあがるだろうねえ)。 寄席みたいに通いたくなる。通いたいねえ。


今年のRSDは昨年の反省を踏まえて5時前に起きて地下鉄の始発で向かって、現地 - Rough Trade East - には6時少し前に着いたのだが前方にはそれでも50mくらいの列ができてた。 つまり前夜から並べってことなのね。
着いてから今年は何が出るのか何を買うべきなのか全くチェックしていなかったので震えながら(寒いったら)並んでいる間にいちおう見た。けどこんなの店に入れば結局無視になるのよね。

店に入ったら、Bowieものはみんな野菜をひっ掴むみたいにがしがし抱えているので同様にひっ掴んで、Princeさまのは命日なので買うしかないし、Wireの7inch箱は必携だし、NeilさんもVanさんもしょうがないよね、だし、Sufjanの10inchは買うしかないし、カゴがないので両手で山盛り抱えこんだまま死にそうになって、疲れてて動くの面倒になってきたのでそのままレジに持っていったら卒倒しそうな金額になってて、でも卒倒したらちょっと恥ずかしいので、買っちゃった。 どうしよう…

4.19.2018

[log] April 19 2018

いまは19日の夕方ちかくの午後で、JFKの、混雑しているとラウンジというよりはお好み食堂になってしまっているターミナル7の、そんなに混んではいないのでどんよりだれて眠いかんじの空気のなか、ぱたぱたやっている。

到着した土曜日の午後は20度を超えていてみんな半袖で、なんて気持ちよいのかしら、だったのだが、翌日はなーんて気持ち悪い、としか言いようのない寒寒のじっとり曇天がきて、コートを纏って震えながら歩き回ることになって、ほんとにもう、だった。ほんとにもう、じゃない状態なんてそう来るものではないのだが、よりによって、またよりによってかよ、って。

それもあったし日帰り旅もあったし仕事もなかなかあったので無理な遠出とか踏んばって深夜の徘徊とかはしないで、小さい範囲をこまこま動いて終わってしまった。 Brooklynも行かなかったわ。

ライブ1、映画1、美術館4つ – ほぼこんなもんで、お買い物だって行く店なんて限られているにしても、ぜーんぜんなかったの。もちろんそんなの釣りと同じような水物だから、行ったタイミングでどこかに隠れていなかっただけよ、なのかもしれないけど、それにしたってレコ屋でも本屋でもあんまりにもなくて、ここまでのは過去になかったので慄然として、いやそんなはずは、とか何回か戻ってみたりもしてみたのだが、久々にドツボにはまったかんじで、なかなかぐったりした。

いっこあるのはロンドンでいろいろ見たり漁ったりするのが1年経って定着してきたせいであんま驚かなくなったりじたばたしなくなったりした、ていうのもあるのかしらどうかしら。でも、どっちにしたってどっちにいたって出るときには出てくれるのだから、地味に待っているしかない、のだろうか。 って、いつまで同じところを回り続けているんだか。 
もちろん、それがわかるのだったらこんなことしていないわけだが。

でも、それに、だからといってNYを嫌いになったり飽きたりすることなんてあるわけないよね、と前の晩の遅くにBroadway - Lafayetteの駅構内のBowieの展示(というのかなんというのか)の、彼のNYに向けた愛の言葉を眺めたり、今朝のNY1(ニュースチャンネル)に登場してBronx Zooがテーマのラップを披露してくれたGrandmaster Mele Melとか見ると、たまんなくなる。 帰りたくないよう。

でも、それに、戻った翌日はRecord Store Day 2018なのだった。
やれやれ。 ではまた。

4.14.2018

[log] April 14 2018

イースターの連休で行ったマドリードのこと - とにかくいっぱい絵をみた、だけ - をまだ書いていなくて 、遊びに行った翌週に同じ場所に出張が入ってなにそれって憮然としたり、昨晩からシリアへの空爆が始まったり国会前があったり(ああ、行きたいよう)、気がつけば外気は急に春になっていたり、なんだか気忙しくつんのめっているのだが、いまは土曜日午前のヒースローにいて、やっぱりなんだか嬉しいのでぱたぱた打っている(ラウンジのWifiがしんでる…)。でもとにかく、これからNYに飛んで、途中日帰りでNashville行ったりするけど、金曜日の早朝に戻ってくる。 仕事はいつも通りになかなかいやでめんどうで、でも、この土曜の夕方からと日曜日はだんこ自分のものなんだから。

昨年の12月以来なのですごくいっぱい見たいのはあって、でもどうせいつものてきとーなノリとか乱高下しそうな気圧とか、なし崩しでまた次々と泡に消えちたり諦めたする可能性たっぷりで、まだ春になりかけだし、夏になったらまた来るからいいか、とも思ったり、今からそんな弱気ではいかん、て地面を蹴ったり。

でも決めてからこっち側で相当いろいろ廃棄処分になってしまうライブがわらわらあるのがわかって、それはそれでがっくりきている。14日はまるごとThe Pastels - フィルム上映、Q&Aにライブ(盛りだくさん) - だったし、17日にはGoat Girlsだったし、18日にはTyondai Braxtonの(なにやるかわかんないけど)World Premiereとかいうやつのはずだった。 がっつり集中してチケット買っておいた時期にぶつかってしまった。

渡ったあとだって、16日の(le) poisson rougedでのThe Nels Cline 4は売り切れてるし、Rough Trade NYCのThe Feeliesも売り切れてるし、帰国する19日にはMcNally JacksonでChris Stameyさんの本の出版記念でReadingとサイン会とミニライブ - Jane Scarpantoniさんが参加 - があるし、同じ18日からはTribeca Film Festivalが始まるし、St. Ann's WarehouseでRufusのライブも始まるし、なにげに踏んだり蹴ったりだわ。ちくしょうめ。
19日のごご、ターミナル7だけどうにかなってくれないかなあー。

でもとにかく、いいの。浸かってくるの。
ではまたー。

4.13.2018

[film] The Guernsey Literary and Potato Peel Pie Society (2018)

こっちから先に書く。 10日、火曜日の晩にCurzonのMayfairでのPreview & 上映後にQ&A。

Mary Ann Shafferの同名ベストセラーの映画化で、原作は - 邦訳『ガーンジー島の読書会』も出ているようだけど - 読んでいない。

冒頭が1941年、ドイツ軍占領下のガーンジー島で夜間外出禁止令が出ているのに飲んだくれて夜道を急ぐ島民が軍に捕まって、問い詰められたときにタイトルになっている読書会の名前をとっさに口にして、その後も口裏合わせのためにその名前の読書会を開かざるを得なくなった、という由来のお話し。

そこから46年のロンドン、売れない作家のJuliet Ashton (Lily James) は出版人のSidney (Matthew Goode)と二人三脚でがんばっていて – Foyles書店(!そんな昔からあるんだ)で朗読Q&Aとかをやっていて、アパートも探したりしているのだが、戦火で家と両親を失った記憶がまだ彼女を苦しめている。そんなある日、ガーンジー島から小さな読書会をやっているのだが、チャールズ・ラムの『シェイクスピア物語』(アーサー・ラッカムが挿絵のやつ)を送ってくれないかという手紙がきて、それをきっかけに文通が始まって、彼女はアメリカの金持ち軍人Mark (Glen Powell)とつきあい始めたりしていたのだが、島の読書会の方に惹かれて、船で渡ってみることにする(彼女、船に乗りこむ直前にMarkからプロポーズされて指輪を貰うの)。

島に渡って読書会のメンバーと会ってみるとちょっと変だけどよい人達ばかりで、手紙を送ってくれたDawsey (Michiel Huisman) のことが気になったりもして、でも彼女がこの読書会のことをTimesで記事にしたいのだけど、というと全員が表情を硬くしてやめてくれ、となる。

そういえば会には創設メンバーのElizabeth (Jessica Brown Findlay)がいなくて、彼女はどこに行ってしまったのか、44年頃、そこで何が起こって、そのことでなぜメンバーはみんな口を閉ざして暗くなってしまうのか。

ここから先は書きませんけど、戦争がひとりひとりに何をしたのか、それはいつまでも残って終わったり消えたりするものではないというのと、そこで本は、読書は何でありうるのか、とか、いろんなことを考えさせてくれる。でも永遠にこの島にいるわけにもいかないか、となったあたりでMarkが現れて戻ろうか、って言うので果たしてJulietはどうするのよ、って。

占領されたこともないし戦争で近い家族を失ったこともないしそれによって酷くだれかを憎んだことがあるわけでもないけど、本や音楽がそういう魂の難民状態をなんとかしてくれることはわかるし、そこから読書会が彼らにとってどれだけかけがえないものだったのか、なぜそこに(内に同様の難民を抱えていた)Julietが惹かれていったのか、そしてなぜ彼女はそれをなんとしても書かねばと思ったのか、もわかって、それだけで十分素敵なドラマになっていると思った。 あんなに島も海もきれいなのにな。

どうでもよいけど、死ぬほどおいしそうな豚のローストが出てくるので要注意。バターも粉も使わないお芋だけのPotato Peel Pieって、Webにはレシピもあるようだが、どんなもんなのかしら。

Lily James さん、“Darkest Hour” (2017)に続いて世界一タイプを打つ姿がかっこいい女優さんになったかも。

上映後のQ&Aには監督のMike Newell、脚本のThomas Bezucha、Juliet役のLily James、Mark役のGlen Powell、あともう1名(たぶんProducerの人)が並んだ。 Glen Powellさんて、”Hidden Figures” (2016)で気のいいあんちゃん風のJohn Glennを演じていた人ね。
話題は絶妙のキャスティングをどうやって – Mike Newellさんの映画っていつもキャスティングだけはいいよね – とか、原作との異同とか、時代を微妙に跨って進む物語をどうやって編んでいったか、とかその辺。

英国で行ってみたい場所リストにガーンジー島が加わった。きりがないわ。

[film] Kind Hearts and Coronets (1949)

3日の火曜日の晩、BFIで見ました。 これも英国映画の古いやつ、クラシック。

上映前にBFIでポスターとかをアーカイブしているセクションの人によるイントロがあった。
公開時のオリジナルポスターが出ていて、デザインは James Fitton、コピーには“A Hilarious Study in the Gentle Art of Murder”とある。Ealing Studiosの最良期の1本で、ダークで洒落てておもしろいんだから、って。
タイトルはテニソンの詩 - “Lady Clara Vere de Vere”から取られていて元のラインは、”Kind hearts are more than coronets / And simple faith than Norman blood.”ていうの。

1900年頃の英国、冒頭は監獄で、翌日の絞首刑を待っているLouis Mazzini公爵 (Dennis Price)がいて、自分の生涯を振り返ってメモワールを書きはじめる。

公爵家の生まれだった彼の母はイタリアのオペラ歌手と駆け落ちして、それ故に公爵家では認められず、父が亡くなった後、母は女手ひとつで彼を育てて、貧しい中亡くなって、亡くなる前に親戚のLord Ascoyneに彼の将来を頼むって手紙を送ったのに拒否されて、なのでLouisは呉服屋の丁稚の仕事から始まって苦労して、幼馴染のSibella (Joan Greenwood)まで奪われて散々なの。

こうして彼は公爵家の系図を手に、彼の上位にのさばって彼の先行きを阻んでいる親戚8人を片っ端から殺したり、殺した後で未亡人となったEdith (Valerie Hobson)を自分のものにしたり。
殺される側の8人はぜんぶAlec Guinness – Obi-Wan – がいろんな変装を – 含.女装までして演じていて異様なのだが、明らかに楽しんでいて、それを見るのは楽しい。

ストーリーラインだけだと、歓迎されない結婚故に公爵家から追われて不遇のままに亡くなった母の仇を討つため、謀略と殺人を駆使して成りあがっていくピカレスク・ロマンてかんじなのだけど、Louisの顔はおっとりとぼけた公家顔だし、イタリアンの血が混じっているせいかどこか軽くて、ただの貴族wannabeがお茶飲んだり洋服選んだり庭いじりするみたいに、ばさばさ殺していっちゃうし、公爵一族のどいつもこいつも堅くて愚鈍で家畜みたいに日々なんも考えてないふうで、殺される8役分のAlec Guinnessだって、あんた殺されるためだけに出てきたろ、って突っ込まれるためにいそいそのっそり登場して吹っ飛ばされたりしている。
で、そういう具合なのでLouisが逮捕されてもだれもびっくりしないし、本人もきょとんとしているようで。

英国風ブラックユーモア、というのがこういう場合に使われたりする形容なのだがあんまよくわかんなくて、ブラックをブラックたらしめる(ホワイトな)背景がなくて、ここで描かれている階級構造とか貴族社会の歯車とか挙動とか段々とかいろんなのまるごと、寸分の隙なくきっちりと組み上げられた箱庭のようになっていて、その揺るぎないことったら文句のつけようがない。例えば、Monty Pythonの世界をブラックとは呼ばないのと同じで、あれの、ただただ全員が揃って狂ってておかしいのをへらへら笑っていればよいのと同じようなかんじなの。

ただそういう変てこ世界のありようを眺めたってちっともさっぱりおもしろくもなんともない、ていう人がいるのもわからないでもなくて、でも自分はこいつらなんか変すぎてなにこれ?  と他人の不幸みたいなとこから入り始めたばかりなので、とてもおもしろかった。

ラストのあれは、すぐにおいおいって思ったし、ネタとしてはあまりおもしろくないのだけど、あれもお約束みたいなもんなんだよね。 あーめん。

あと、このエドワード調時代のこれと、Woodfall Filmsが描いている50〜60年代の英国は地続きなのか全く別もんなのか、そんな比較して意味あるのか、とか。

4.11.2018

[film] Saturday Night and Sunday Morning (1960)

イースター4連休の最終日、2日の夕方にBFIで見ました。 “Ready Player One”の後に。

BFIの4~5月の特集に” Woodfall: A Revolution in British Cinema” ていうのがあって、はじめはWoodfallって何よ? くらいだったのだが、このページに貼ってある予告みたら行かなきゃ、になった。なるよね。

http://www.bfi.org.uk/woodfall-revolution-british-cinema

そこから見た最初のがこれ。これを書いている時点で4本見たけど、どれもたまんない。
原作はアラン・シリトーの同名小説。Woodfall Filmsの創設者のひとりであるTony RichardsonがProducerとして参加している。

Arthur (Albert Finney)はバイク工場で油にまみれて労働をしていて、仕事が終わると両親のいる家に戻っての日々の繰り返しにうんざりしていて、そういうのがあるので週末はパブに飲みにいって憂さ晴らしして、そこで人妻のBrenda (Rachel Roberts)と落ちあって飲んで踊って寝て、それとは別に若いDoreen (Shirley Anne Field)とも知りあって、彼女のほうは母親がうるさいので深入りできないからなんとなく両方と付きあっている。 やがてBrendaが妊娠したと言ってきたので堕そうとあれこれするのだがだめで、彼女は産むことを決意して、やがてそれは彼女の真面目な夫 – Arthurの工場の同僚 – にも知れて、彼の差し向けた野郎ふたりに路上でぼこぼこにされて、回復してきたところで看病してくれたDoreenと結婚することにして、ふたりで将来の家のこととか話をするのだが、こんなのでいいのかなあ、ってArthurはどんより思っている。 そんな内容なの。

50年代の労働者階級の若者であるArthurが置かれた環境 - 路地とか横丁とか家のなかとかその明るさ暗さ、親とどんなやりとりをしてどうやって仕事に出ていき帰ってきてどんなふうに家に入って寝るのか、狭い路地でがみがみやっている近所のおばさんとかガキとか、そういうのまできちんと捕えているので、彼の鬱屈とかそこから抜け出せない縛りのきつさとか、なので余計に吹き溜まっていく持ってきどころのない怒りとか、ものすごくよくわかって、彼がその先に広がる、とりあえず週次でやってくる土曜の晩から日曜の朝にかけての憂さ晴らしの時間に掛ける思いとかもものすごくよくわかる。どれだけぶん殴られたってぜったい渡すもんか、ってなるよね。 飼い慣らされているって言われようがどうしろってんだ(と更にふつふつとどこにも向けようのない怒りが)。

こっちに来てBFIに通ううち、ここって英国の機関だから当然いろんな英国映画を見る機会が増えて、そうすると昔のを含めた英国の町とか村とかいろんなイメージが地図のように溜まったり繋がったりしていって、とても楽しい。この時代の若者が通過していく英国の景色は(例えば)こないだのMichael Caineのドキュメンタリー”My Generation” (2017) のそれに移っていくのだろうな、とか。 同じかんじはNew Yorkの映画を見るときにも起こって、それがあるので未だに昔のNY映画はつい見てしまったりするねえ。

この時20代前半のAlbert Finneyの生々しく強く生きているかんじときたら。ドキュメンタリーの中の登場人物のように汗かいてて、ぜんぜん演技しているようには見えないの。

あと例えば、ここで彼が抱えている鬱屈と、前世紀末にKevin SmithやRichard Linklaterが描いてきたアメリカの若者たちのそれと、今の日本のリアル若者たちが抱え込んでいる(ように見えてしまう)袋小路とは同じなのかどこがどう違うのか、とか。

調べていて知ったのだが、Woodfall Filmsの最後の作品て”The Hotel New Hampshire” (1984)なのね。
… シネマライズだねえ(じんわり)

4.10.2018

[film] Wonderstruck (2017)

6日の金曜日の晩、BloomsburyのCurzonで見ました。

これを見るはずだった昨年のLondon Film Festivalの日曜の午前、地下鉄が動いてくれなくて痛恨の見逃しをした悔しさがまだ燻ってたまんなかったので正式公開の初日に見た。でも大々的に公開するわけではない模様。こんなにすばらしいのにさ。

1977年、MinnesotaのGunflint Lakeで、狼に追われる夢にうなされる少年Ben (Oakes Fegley)がいて、彼は母 (Michelle Williams) を事故で亡くして親戚のところに引き取られて嫌な思いしてて、更に落雷で耳が聞こえなくなって踏んだり蹴ったりで、母の遺品のなかにあった本を携えて、父親の手がかりを求めてNYに旅立つ。

1927年、NJのHobokenには耳の聞こえない少女Rose (Millicent Simmonds)がいて、サイレント映画の女優Lillian Mayhew (Julianne Moore)のスクラップを作って、映画館で彼女主演の映画を見たりしているのだが、彼女主演の舞台を見にNYに向かう(やがてその女優はRoseの母親で、母親は彼女を避けたいと思っていることがわかる)。

77年のNYに降りたった耳の聞こえない少年の冒険と、27年のNYを行き場を失って彷徨う耳の聞こえない少女の冒険が交互に(77年はカラーで、27年はモノクロで)映し出されて、50年を隔てたふたつの物語はどこでどんなふうに絡みあってひとつの物語を、ひとつの星座を形作るのか -  でも実はこれらの結合の度合いとか物語としての必然性ってそんなに強いものではなくて、そうなったからといって奇跡のような素晴らしいことが起こったり現れたりするわけでもないの。

“Carol” (2015) は50年代のNew Yorkでなにかを喪失したふたりの女性がそこからふたりだけの愛を求めてひたすら逃走していくお話しだった。 Brian Selznick 原作のこの話は、ふたりの聴覚を失った孤児が、時間を超えて同じような場所にあるなにか – それは博物館とか古本屋とか、塵が積もったような溜まり場みたいなとこにあるらしいけど、十分にわかっていない - を探しだそうとして迷子になっていくお話。 ものすごく変な具合に入り組んで先は茫洋としていて、しかしなんとしてもロマンチックななにかに落とし込むんだから、という強引で理不尽としか言いようのない意思みたいのがあるばかりで、でも好き嫌いでいうとものすごく大好きですばらしいやつだと思った。

それはたぶん、夜空に勝手に適当に散らばっている星のいくつかを勝手に星座と呼んでそこに運命を託したり、文明だろうが動物だろうが鉱物だろうがなんでも集めて並べて博物館をつくったり、古今の紙束 - 書物を集めて図書館とか古本屋を開いてみたりするのに似て、それらを見つめて見えてくる何かの模様とか堆積とかに自身の痕跡とか軌跡を繋げてみる、そんなことをしてなんになるのか? たぶんなんにもならないのだが、自分がそれらをじーっと見つめれば見つめるほど、向こう側からもこちらを見てくれている気がする。病気かもしれないけど、それがなにか?

“Coco” (2017)で描かれた極彩色の死者の国も、”Ready Player One” (2018)でJames Hallidayが組みあげた仮想空間も、そういうゴミみたいなごちゃごちゃの集積のなかに隠された宝物を探す話だった。 この作品が探して差し出すのは宝物、というほどのものではないけど、一瞬で電撃のように彼らの身体を貫いてなにかを/すべてを解らせる - いつも「なぜ?」「なんで?」ばかり口にして混乱しているBenを黙らせる -  そんなようなもので、でもその電撃って、ふだん本を読んだり美術館に行ったり映画を見ているときに我々の頭のなかで起こることとそんなに違わないんじゃないかしら。そういうことが起こるからそれはやめられないのだし、そういうことが起こるのは「自分が」見たり読んだりしているから、だけではない気がする、よね?

最初のほうで、Benの母親の部屋のレコードプレイヤーではBowieの”Space Oddity”が流れていて、それはわかるのだが、エンディングにはThe Langley Schools Music Projectの”Space Oddity”が流れる。1976–77年にレコーディングされて2001年に「発見」されたこのレコードの曲が流れるのには意味があるの。彼らは”Can you hear us, major Tom?” って歌うんだよ。(オリジナルは”Can you hear me, major Tom?”) Carter Burwellさんの音楽もすばらしい。

ふたりの子役は本当に見事だし、3態(銀幕、舞台、--)を演じたJulianne Mooreもあの時代のひとみたいに素敵だし、彼らの表情がずっと、本のなかにいるように残る。 ”Carol”にもそういうところはあったけど。  “A Quiet Place” – すごーくおっかなそうだけど見たほうがよいかなあ。

映画館のCurzonて映画のプロモーション用の景品とかをTwitterでよく抽選/プレゼントしてくれたりしてて、昨年だと「お嬢さん」のタコTシャツとか、「犬ヶ島」のわんわんキットとかやってて、当たったことなかったし当たると思わなかったのに”Wonderstuck”のは当たっちゃった。本とDVDだって。こういうの当たるのってめったにないのでうれしい。まさに”Wonderstuck”だわ。 DVDプレイヤー持ってないけど.. (まずはブツがちゃんと届くかしんぱい)

4.09.2018

[dance] Bernstein Centenary

27日の火曜日の晩、Royal Opera Houseで見ました。

Leonard Bernsteinの生誕100年を記念したプログラムで、Royal Balletに縁の3人の英国人コレオグラファーによる3本の中短編プログラムでもって米国人のBernsteinをお祝いする。 レビューの評判がよかったせいか結構Sold outしていた。

Bernsteinのダンス(音楽)、というとNew York City BalletのGeorge BalanchineとかJerome Robbinsとかによる入門編のような - 音楽も、個々の動きの要素もその連なりもシンプルでわかりやすい - 定番のプログラムがいくつかあって、90年代に結構見たけど今見たらどんなふうに見えるのだろうか。
以下、上演順に。各演目の間には30分づつの休憩が入ってて、なかなか間延びしていた。

Yugen

振付はWayne McGregor。19分。
昨年ここで見たこの人による”Woolf Works” (2015) は Max Richterの音楽も含めてなかなか素晴らしくて(その時買った伴奏CDは未だによく聴く)、だから今回のも期待しないわけにはいかない。

曲はChichester Cathedralの依頼を受けて書かれたコーラス曲  - “Chichester Psalms” (1965)で、オーケストラに加えて結構大編成のコーラス隊による荘厳な合唱が被さる。

セットは”Woolf..”の時と似たかんじの中心が空洞になった縦長の構造物が背景にあって、これがゆっくり動いたり回転したりしつつ、11名のダンサーは時にスリリングに時に優雅に身体を絡ませあって、それらはものすごく複雑だったり緻密だったりアクロバティックだったりしているわけでもなく、これのなにがそんなに胸躍らせてくれるのか、まだ十分にわかっていないのだが、とにかく見ていてなんか気持ちよくてかっこいいのね。

“Yugen”ていうのは日本語の「幽玄」なのか「有限」なのかそれともぜんぜん関係ないなんかなのか、プログラムの冊子をざっと見た限りではあんまよくわかんなくて、なんとなく「幽玄」、ならありかも、と思わないでもないのだが、実際の動きはシャープで目を離すことができないかんじなのだった。

The Age of Anxiety

振付はLiam Scarlett。 39分。
“The Age of Anxiety”はW.H.Audenが1948年に発表した詩で、彼はこれでピュリッツァー賞を受賞している。 1939年、米国に移住した彼は18歳のChester Kallmanと出会って一緒に暮らしつつ、ポーランド侵攻や大戦に向かっていくどんよりした空気をNew Yorkから綴った"September 1, 1939"を書いているが、その流れのなか1944年に書き始めたのがこの詩で、Bernsteinはこれを受けて”Symphony No. 2 for Piano and Orchestra” (1948-49)を作った。バレエではこの曲をベースにJerome Robbins が1950年に、John Neumelerが1991年に作品を発表している。

場面は3幕構成で、NYのバー、アパートの一室、夜明けの路上があり、バーで飲んで騒いで、そのうち誰かのアパートに流れて引き続きはしゃいで、夜が明けて一日が始まっちゃうけどだいじょうぶ? .. よね、みたいな展開。ダンサーは7名。それぞれバレエのコスチュームではなくてバーテンダーだったら会社員だったり、舞台セットも含めて演劇的要素を持っていて飽きないし、たぶんもっともBernsteinの一般的イメージに近いやつだったと思うのだが、バレエとしてどうかというのは別のはなしで、“The Age of Anxiety”というテーマがやや空回りしていたのは残念だったかも。

Corybantic Games

振付はChristopher Wheeldon。33分。音楽は”The Serenade, after Plato: Symposium” (1954)。

それぞれが短めの全5幕構成で、延べ26名のダンサーがせわしなく出たり入ったりしつつプラトンの饗宴みたいな - 人々がわらわら好き勝手に言いあって統制がとれないような - イメージを作り出している、と言えばそうなのかも。 コスチュームはテープをぐるぐる巻きつけたようなタイトなやつで、動きのかんじはMerce Cunninghamの群舞のそれに似ていないこともない。一番従来のBernsteinのモダーンのイメージを踏襲しているふうで、このへんて難しいんだろうなー、て思った。

というわけで、順位つけるとしたら、1 > 3 > 2 か。 でも振り返りイベントとしてはとてもよかったかも。

4.07.2018

[film] Unsane (2018)

25日の日曜日の夕方、Picturehouseで見ました。 ”The Square”に続けてあんま日曜日ぽくない暗めのやつ。

Steven Soderberghの復帰(?)第二作で全編をiPhone (7 Plus)で、10日間で撮ったという。

職場でちょっと挙動の落ち着かないSawyer (Claire Foy)がいて、彼女はストーカーから逃れるために新しい職場に越してきたのだと言い、更に相談所に行ってカウンセリングを受けてその横の病院のようなところで書類にサインしたらそのまま別室に連れていかれて着替えるように言われて、え …ちょっと、なにこれ? とか言っているうちに隔離病棟のようなところに閉じ込められる。

冗談じゃないわよ警察に電話よ、て電話して警察も来るのだが、いつもあることらしく鼻歌で帰っちゃって、更に暴れてみたら拘束期間が更に延びてしまう。

始めは彼女の語るストーカーの件が本当に起こっていることなのか彼女の妄想 or 過去の話を誇張し過ぎているのかわからないようなかんじで進んでいくのだが、彼女の抵抗とそれに対する病院側の強硬で高圧的な態度が度を越していくのを見て、これはやっぱし本物かも、と思ったあたりでストーカーのそいつが施設の職員として現れる、というかそこにいる、その辺の「いる ..」っていう輪郭とかタイミングとか絶妙すぎて怖すぎて。

そこからは彼女の脱出 – その建物からの、そのストーカーからの – に向けた決死の抵抗と逆襲になって、収監されている男から携帯を借りて母親(Amy Irving)をCallして来て貰ったりいろいろ手を尽くすのだが、敵はそういう施設まで周到に彼女を追いこんだような奴だし、彼女の考え方も含めてぜんぶ解っている - 思いこみではなく、冷静に解っている - から、あれもこれもぜんぜん歯が立たなくて地獄なの。

後半は彼女がどうやってその地獄から抜け出そうとしたのか、を追って、確かに十分おっかないのでホラー・サスペンスと言えばそうなのだが、彼女の側にほぼぴったりくっついたカメラは、こんなんなった時、自分だったらどうするのか、どうすべきなのか、なんでこんなんなっちゃったのか、そんなことばっかり考えてさせてくれるので、怖がっている場合にはあんまならない、ていうのはSoderberghの他の映画にも割とそういうとこあるかも。

最後のほう、ストーカーと対峙した彼女がダブルバインドで相手を追い詰めるとこはなかなかすごかった。 なるほどなー、って。
あと、こういうのがほんとに怖くてやっかいのは終わらないことなのだな、ってしみじみ震わせる振りだしに戻ってしまったかのような最後のとことか、むかしのB級映画ぽくて素敵。

Claire Foyさんは過剰にわーきゃー騒ぎすぎず、自身が正気と狂気の狭間にあることを十分にわかっているような振る舞いで、さすがThe Crownだわ、って思った。

ほんとにiPhoneで撮ったのかしら? って最初は疑っていたのだが、画面の暗さとか視角の狭いかんじとか確かにそうかも、って。 でもそれなら10日もかかるかなあ。 黒沢清だったら同じ条件で半分で仕上げてしまえる気がする。


ぜんぜん関係ないけど、今TVで”1941” (1979)をやってて、あまりのしっちゃかめっちゃかなやかましさに感動している。 見たのは公開当時以来で、これと”Apocalypse Now” (1979) で自分の戦争映画観みたいのは形作られているのだよねえ。

4.05.2018

[film] The Square (2017)

25日の日曜日の午後、BloomsburyのCurzonでみました。 
邦題は『ザ・スクエア 思いやりの聖域』… くだんない都市計画のネーミングみたいだ。

2017年のカンヌのパルム・ドールを獲ったやつで、昨年からちょこちょこイベントとかで上映はされていたのだが、ようやく正式に公開された。

監督はRuben Östlund - “Force Majeure” (2014) - 『フレンチアルプスで起きたこと』の人で、あの映画にあったのと同じような小心男のひやひや底なし地獄がみっちりと展開される。

ストックホルムの宮殿跡にできたX-Royal Art MuseumのキュレーターであるChristian (Claes Bang)がいて、アメリカのジャーナリストのAnne (Elisabeth Moss) - なんも考えていないふう - に展示されているモダンアートの概念とかを説明しようとしてがんばったりしている。 そんな彼が通勤途中の舗道で携帯と財布をすられて、そのやり口が巧妙だったので結構あたまきて、同僚の助けも借りて携帯の場所はトラックできたから、じゃあそこのアパートの一戸一戸のポストに返しなさいって紙を配ってやれ、ってやってみたところ、携帯も財布も無事に戻ってきたのだが、それを拾って取っておいた子供は親から泥棒扱いされて怒られたどうしてくれる謝れって突っかかってくるのでうんざりぐったりする。

美術館の次の展示の目玉が南米の女性アーティストによる*The Square*で、ただの路面を四角で囲っただけの空間なのだが、これには指示書きが付いていて、"The Square is a sanctuary of trust and caring. Within it we all share equal rights and obligations.”ていうの。ここが邦題の「思いやりの聖域」の元なんだろうけど、これ、日本的な文脈で使われる「思いやり」とはぜんぜん別のもんだってわかんないのかしら?

で、これのプロモーションのために呼んだ代理店のバカ者たちがそのコンセプトを曲解して面白半分で作ったネガティヴ動画がネットで大炎上してメディアから叩かれたり、別の演し物の半裸の猿男パフォーマンスは猿男が芯までただの猿まるだしだったので大惨事になったり、ろくなことが続かなくて、携帯の件とかで結構消耗しているChristianにはとにかく勘弁していいかげんにして、になるの。

ここで美術館が展示しようとしているモダンアートだかコンセプチュアルアートだかって、ぜんぜんモダンでもなんでもない50 - 60年前からあるもんだし、それを受ける社会のありようが大昔とはぜんぜん変わっちゃっているところに、そもそもそんなの必要なかったキュレーターだの代理店だのを貼りつけるもんだから事態がよじれるのなんて火を見るより明らかなのにそんなこともわかんないのかこのキュレーターは、とかいろいろあるのだが、Christianの周辺にいるのも適度なろくでなしばっかしなので、ものすごくちっちゃくて狭苦しい修羅場がせめぎあうばかりでううう、ってなって、これらって普段の身近に結構転がっているやつな気もして、なんだろうなこれ、って思った。

そういう場所に来てから改めて*The Square*を振り返ってみると、その何事もなかったかのようにしれっと置いてある超然としたさまにバカにすんじゃねえよ、てなったりもするのだが、それってアートのせいなのか映画のせいなのか。

なんか底を流れるどこまでも底意地悪いかんじとか、どんよりの気持ち悪さ、ヒステリックに擦れていくかんじとか、こないだの*Loveless* (2017)にも*The Killing of a Sacred Deer* (2017)にもあった気がして、なんなのかしらこれ、って。

眠くはなんないし、つまんなくはないと思うけど、150分はないよねえ。

4.04.2018

[film] Ready Player One (2018)

ひょっとして同じディストピア系かも、ということで、こっちから書いておく。
Easter4 連休の最後の日、2日の午後にPicturehouse Centralでみました。

3Dだとなんか疲れそうだったので2Dにしてしまった。←だめよね。

予告とかを見て、ゲーム世界でのごちゃごちゃ蠢いたり一揆しているかんじから、『サマーウォーズ』(2009) みたいな、ゲーム上の仮想世界とそれを脅かすなんかと管理運営する側との攻防とか、上から降ってくる圧倒的で強大な力とかを描くシリアスで面倒な(なぜ面倒と思ってしまうのだろう?)やつ – “Minority Report” (2002)とか、”War of the Worlds” (2005)とか系 - だと思っていた。
ら、ぜーんぜん違ったわ。
(ここから先、実際に見てわくわくしたい人は見ないほうがよいかも)

基本は80年代のお気楽バカ映画のノリがぷんぷんのやつだった。“The Goonies” (1985)とかIndiana Jonesシリーズ みたいな、John Carpenterあたりが勢いで撮ってもおかしくないようなやつ。

オープニングでファンファーレのように鳴るのがVan Halenの”Jump” (1983) で、エンディングがHall & Oatesの”You Make My Dreams” (1981) で、そういう映画なの。 RushにTears for FearsにNew OrderにDepeche Modeに ... なんだこれ、って。

舞台は2045年のオハイオ州コロンバス、天まで伸びたでっかいスラム(壮観)ができてて、そこのトレーラーみたいな箱からWade (Tye Sheridan)が出てきて別の廃屋みたいな車のなかに入ってグラスを装着すると向こうには仮想世界のOASISが広がって、そこで彼はParzivalていうアバターになって日々の小銭稼ぎをしている。

で、OASISは設計/開発者であるJames Halliday (Mark Rylance) がOASIS内のどこかに隠した3つの鍵を見つければOASISの全部をあげる、て言って亡くなって、そこのゲーム運営会社を始めとしていろんな賞金稼ぎがやっきになって掘ったり探したりしているのだが、なかなか見つからない。

映画はWade/ Parzivalが仲間アバター(+生身の彼ら)とJames Hallidayの生前の行動とか嗜好とか言動をヒントに順番に宝探しをしていくのと、それをなんとか自分達のものにしたがるゲーム運営会社側の社長 (Ben Mendelsohn) 軍団との攻防を描きながら、Wade達のいろんなことへの目覚めとか学びとか、でもその旅ときたら80’sカルチャーのあれこれを俯瞰したり潜り抜けたり、なんだそれ?/どうしてそれ?  としか言いようがないのばっかしが降ってきてたまんないのだが、とにかく80’sとしか言いようがない楽観主義とご都合主義と反省しない主義であれこれ切り抜けていってしまう。

なぜ90年代でもなく00年代でもなく80年代なのか、単にJames Hallidayの幼年期へのノスタルジア、だけではない気もしていて、その答えを見つけるにはあと2~3回見たほうがよいのかもしれないが、とりあえずはJohn Hughesの映画があり、“Fast Times at Ridgemont High” (1982)があり、“The Shining” (1980)があり、さっきのような音楽がどこでもぱおぱおと渦巻いてて、ナードとかギークの起源がぜんぶあったから、くらいしか言いようがないかんじ。 2045年にもこれらの文化やマインドが継承されている、という点については、2045年にこの映画を見たときに当時の人々がどう思うか、ということでもあるのか。 “Back to the Future”。

“Ready Player One”という掛け声と共に始まるゲームへの入り口、そこから始まる仮想現実の、仮想でしかないということがありありとわかってしまうそのださくてしょぼいかんじ、全てはそこから始まって、そのしょうもなさゆえに真実の愛とか真理とか友情とかを求めて止まなかったあれらの日々が2018年に、2045年の世界の表象を通して投影される(半径おおよそ30年)、その意味は。
(たぶんどこにもないよ)

もういっこは、こうやって仮想の箱に永遠に封じこめられて、殺されても壊されても何度でもゾンビのように蘇えってくる80年代の幻影たちの怖ろしさ。そしてそこに(前述のように)実はあんま意味がないこと。この映画にディストピア的ななにかが描かれているのだとしたら、それは積み上がったスラムにではなく、こっちのほうに。

なんでSpielbergがこんなのを? ていうのもあるけど、たぶんそういう原作があったから、程度ではないかしら。 例によってCGもカメラの動きもさりげなくとんでもないかんじだし、いろんな商標ライセンスをクリアするのも彼だからできた、みたいなとこもあったのではなかろうか。

Mark Rylanceの演じるJames Hallidayって、どっかの映画のなんかで似たのを見た気がするってずっと思っていたのだが、”Independence Day” (1996) でArea 51にいた髪ぼうぼうの科学者にちょっと似ていたかも。

それにしても、2045年になってもポストイットにパスワードを書いて貼ってる経営者がいるとはね。

4.03.2018

[film] Isle of Dogs (2018)

3月24日、土曜日の昼、CurzonのVictoriaのPreviewでみました。『犬ヶ島』

ロンドンの映画館ではここ一カ月くらい、上映前に携帯を切ろう、のCMにChiefともう一匹が出てきて、Chiefが携帯が唸っているのを切らせて、.. いやまだ鳴ってる.. 犬にしか聞こえないかもだけど .. 電源を切れ! そう、それが肝心。”Silence your ringer” ってあの声(Bryan Cranston)で言ってくれるの。

Wes Andersonの新作で”Fantastic Mr. Fox” (2009) 以来のストップモーションアニメで、”Moonrise Kingdom” (2012)や”The Grand Budapest Hotel” (2014)のように少年と少女が得体の知れない大人たちの悪と戦ったり逃げたりするお話で、”The Darjeeling Limited” (2007)のように得体のしれない東洋エキゾチズムも満載で、これだけで見なきゃな、ていうかんじにはなる。

冒頭で大昔からの犬と人との物語が、隠れキリシタンのような史実として語られ、舞台は近未来の長崎ならぬメガ崎市に繋がって、独裁市長Kobayashiの元で犬の疫病蔓延への対策として犬をゴミの島流しにする政策が実行されて、その第一弾としてわんわんのSpotsが流されて、それを見つめて歯をくいしばる飼い主の少年Atariがいて、彼は両親の死後にKobayashiを後見人として育てられた甥でもある、と。

ゴミ島では5匹の元飼われ犬で今は強い野良派の5匹組がいて、Spotsを探しに飛行機でやってきてどすんと落っこちてきたAtariを匿ってぶつぶつ小競り合いしたりしながらもメガ崎からの追っ手をやっつけたりして、Atariと一緒にSpotsを探して島の隅々を彷徨うことになるのだが、そこに疫病を治すウィルスを開発する科学者の暗殺とかその謎を追いつつもAtariと恋におちる交換留学生のTracy (Greta Gerwig)とかいろいろ絡んできて、Atariとわんわん達の運命やいかに(ででん!)なの。

前のストップモーションアニメ- “Fantastic Mr. Fox” は、基本キツネ一家一族周辺に閉じた冒険譚でぼかすかどったんのこんがらかった様がアニメならではの手法で描かれているのが素敵だったが、今度のは、日本では「忠犬」と呼ばれてしまったりもする人間の終生の友達わんわんにまつわる裏切りとか、それでも変わらぬ友情とか因果応報とか、猫なのか犬なのかとか、いろいろ絡んできて、涙が流れてしまうようなエモいところをストップモーションアニメでどこまでどんなふうに描くことができるのか、この辺はちょっと難しいのかなー と思わないでもなかったけど結果はあんま問題なかったかも。 Wes Andersonがこれを実写にしたとしたらどう描いたか、というとあんま変わらなかったのではないかしら。むしろ、”The Grand Budapest Hotel” にあったような入り組んだ凸凹の建物や地図地形の上の迷走や遁走を紙芝居的な書割のなかにいかにおもしろくスリリングに落とし込むか、というところにアニメの質感とか仕掛けは使われているように思えて、どっちにしてもおもしろければよいわ、って。

わたしには映画作家としてのWes Andersonがどうとか、作家論的なそういうのはどうでもよくて、おもしろくてわくわくどきどきのが見れればそれで十分なので、その点ではとてもよかった。

他方で、ここで描かれた近未来のディストピア描写はあまりに今の日本(or アメリカ)しすぎているのであーあ、でもあった。 社会の害とか役に立たないものとの間に線を引いて排除して見えないようにしたい、そのためには手段を選ばず、そうやってキレイな状態をどんどこどんどこ太鼓叩いて煽って演出することで支持を集めようとする政権 - それが中央だけじゃなくて地方にも浸みていくって、近未来どころか余りにもろいまじゃん…。 わぁーすげー日本が舞台だわ、って喜んでいいの? 
しゃれになんないの。 それを打ち砕くのが野良犬たちであり少年少女である、ていうあたりもさ。 
最後に、”The Life Aquatic with Steve Zissou” (2004) にあったような”Destroy — !” に行かなかったのは、まあしょうがないか..

あと、海外では既に指摘されているけど、日本の登場人物が喋っている日本語は全てが英語字幕にされているわけではなくて、そういう状態で海外のひとに日本人の挙動はどんなふうに映っているのか? 自分達にはわからない言語でなんか会話している人々 - 犬同士は英語で会話しているのに - これってね、この映画に限った話ではないけど、考えてみる価値あることかも。

あと、主題歌(?)のThe West Coast Pop Art Experimental Bandの”I Won’t Hurt You”って、朝聴くといちにちずっと頭のなかをまわってしまうので注意。

もし自分がいくらでもお金だして映画とかも作れるのだったら、これの製作スタッフか、Laikaのプロダクションをまるごと雇って「新八犬伝」のリメイクさせたいな、てこれ見て思った。
(「新八犬伝」てほんとにおもしろくて大好きだった)