5.31.2011

[log] May.31

成田におります。

なんでこんなに寒いのかわかりませぬが、少しだけあったかい、というかあっついらしいNYにもう一回行ってきます。またみっかだけ。日曜に戻ってくる。

だからー、みっかじゃなんもできねえってゆってるだろ、とか、くそ低気圧に浸かってぐったりするだけだったんだからそのまま置いといてくれればよう、とか、連休明けでアメリカ人はみんな使いもんにならないとおもう、とか、ぶつぶつ言ってみたのだが、311以降、世界は変わってしまったのだという。ふん。
2週間前みたいなずうっと雨だけは勘弁してほしい、朝はいいから夕方以降は降らないでかみさま、といちおうお願いしているのだが、ライブも映画も、みごとになんもないわ。

新作のあれとあれ、くらいしかない。
しょうがないかー

5.30.2011

[film] Inside Job (2010)

ああ、あまりに時間がなさすぎる。

土曜日はいろんなのがあってまるいちんち塩漬け。
日曜日もごご3時まで立ちあがることができず、でも時間ないし、しょうがないので杖(傘)ついてぶるぶる震えながら新宿に出て見ました。

2010年のNYのいろんなCritics Pollでは結構上位に出ていたドキュメンタリー。
リーマンショックに端を発したごたごた - グローバルな金融危機て、あれはいったいなんだったんでせう、と。
ほんとはねー、これくらい字幕なしで昨年中に見ておけよ、てはなしだったんだけど、経済用語とか法律用語とかだめなのよね。(殴)

冒頭、アイスランドの国全体の金融破綻を静かに総括する~直前までみんな健全だ問題ないって言ってたよね。 なのになんで? と軽くなげてみたとこで、「でもNYだっておなじようなもんだったろ?」て。

ここで画面が摩天楼に切り替わって、Peter Gabrielの"Big Time"がフルで流れる。かっこいい。
Matt Damonのプレーンなナレーションも、統計情報のはいった画面構成のグラフィックも含め、全体の印象は極めてクールにすらすらと流れていく。

衝撃の真実とか現場とか阿鼻叫喚の修羅場とか、見えなかったなにか、隠されていたなにかを暴く、のではなく、みんながうすうすそうだろうなーと感付いていたものを調達可能なデータと関係者証言(コメントしてくれなかった関係者もぜんぶ名前を出す)を駆使して並べて整理してみました、と、そういうアプローチ。
M.ムーアだったら確実に泣きが入りそうなところもセーブして、最後に、
「勝ち目はないかもしれない。でも戦うだけの価値はあるかも」 と静かに締める。

要するに金融界、政界、学会、格付機関、ぜんぶがぐるになった茶番(inside job)で、組織犯罪みたいなもんで、悪賢くて貪欲なやつらがいちばん儲けてやり逃げで、結局ひとりの逮捕者も出さないまま、これらを引き起こした張本人たちはいまだにワシントンの中枢にいる。

「ものごとはそんなに簡単ではないのだよ」というのが頭のよい人たちの常套句で、実際のところもそうなのかもしれんが、なんか、世界中に迷惑かけて、なんの落とし前もつけられないまま、なにも変わらないまま、というのがえらくあたまくるのよね。

で、みんなすぐわかると思うが、この映画で描かれている図式はそのまま、いまの原発をめぐるあれこれにそのまま適用可能なのね。
電力業界と政界と財界と学会の癒着、予測できるひとは十分予測していたし、とっくに予測できたはずのものが、なんの手も下されないままに事故が起こり、被災者の救済優先というお題目のもと、誰も、何の責任も取ろうとしないまま、いち環境事故のようなかたちで処理されようとしている。

もし逮捕者がでたら関係者芋づるに決まっているから、鉄板の弁護士軍を揃えるしメディア対応も万全、これまでの御厚情(利権ばんざい)に背くようなことは決していたしません、と。

ちっ。

リーマンショック以降を総括というわりには質問者の追い込みは緩いし、ちょっと物足りないとこも多いのだが(こないだNYのホテルのエロ狼藉で逮捕されちゃったDominique Strauss-Kahnが告発する側で出てくるのでああ、とか)、こういう、ここ数年顕著になった社会の上層にある「ぐる」の図式、構図、みたいのをきちんと展開してくれるとこはよかったかも。
敵の強大さをちゃんと知っておくためにもね。
Twitterでわあわあ言ってりゃなんとかなるなんてもんではないのよな。

でも、そうやって社会のことをぶつぶついうよりもなによりも、まず自分の、今のこの状態をどうにかすることだな。

[film] Four Nights with Anna (2008)

金曜日の夕方、シネマヴェーラとどっちにするか悩んで、雨だし、やや近いし、監督挨拶もあるし、500円だし、でこっちにしたの。 

監督は昨年のリンカーンセンターでの"Deep End"(1970) - 『早春』の前の挨拶以来だったが、このときの殺気ぎんぎんのやばそうなおやじ、という印象はなくて、ほっこりしたやさしそうなおじいさん(表面上は)というかんじだった。

田舎の、どこかの寒そうな町で暮らすレオンのあんまぱっとしない、明日はどっちだの日々。
育ててくれた祖母は亡くなってしまうし、焼却場の仕事はうまくいかなくて、解雇されてしまうし。
なにかを探すわけでも、目標をさだめて行動を起こすわけでもなく、かといってその救いのなさに悲嘆したり自棄になったりするわけでもない。
そしてこういったケースにありがちな、ほんのりとぼけたおかしみ、が纏わりつくわけでもない。
全体の色調はあくまでダークで、風景は荒れてて寒そうで、牛ですらのたれ死んで川に浮いてる、そんなような土地と空気。

ほとんどのショットはレオンの背後から彼がどこかに向かって歩いていくところ、彼の目のむかう先、を捕えようとしており、その先に、家の向こう側に住むアンナがでてくるの。

アンナは美人さんというわけでもなくて、ふとってて、猫のトーチカと暮らしてて、いびきかくし、ふつうにそこらにいる町娘さんなのだが、彼女の部屋の砂糖に薬まぜて寝入ったところで部屋に忍びこんで(といっても、どたどたおちつかない)、彼女の部屋でお裁縫したり、お掃除したり、ペディキュア塗ってあげたり、指輪を置いていったりする。

これの数年前に彼はアンナが作業小屋でレイプされているところを見てしまう、という伏線もあったりするのだが、それがあったからかなかったからか、彼は夜の間、彼女の寝ているそばにいて、ただいるだけでなんだかほっとしている(ようにみえる)。

友達になりたいわけでも恋人になりたいわけでもなく、そんなのなれるわけないし、ただそばで、寝顔をみて寝息をきいているだけでいい。 のだとおもう。 
変質者の挙動、とかそういう形容から離れてみることに違和感はなくて、彼がそういうことをしたくなってしまった、せざるをえなかった、ということは彼の表情、目、やや前のめりの歩きかた、遠くで鳴るいろんな音、などからはっきりと伝わってくる。 
そしてこの「そうせざるをえない」ところに持っていったなにか、切迫した情動の渦、のようなものは、”Deep End”にも描かれていたし、たぶん次の”Essential Killing”にも認められるにちがいないとおもう。

画面がとにかくすばらし。
最初のほう、川を牛が流れているところはなかなか鳥肌もんだし、アンナの部屋での陰影とその描写はすべてがバルテュスの絵の世界だとおもった。 
(それを見つめる彼はバルテュスというよりベーコンなのだが)

音も、いつも間のわるいところでとんでもない音が鳴る。
その音に追い立てられるようにして、彼は前に斜めに、つんのめるように走っていく。
そのつんのめり感とどんづまり感が思いっきり凝縮されてしまうのがあのラストで、思い入れを一切拒絶した果てにあらわれるあの壁の厚さと強さときたら。

彼がそれを用意したわけでも、社会が彼を隔てるために現れるわけでもない、彼の声を遮断するために、或いは彼の声を反響させるために原っぱに突然現れたかのような、あの壁。

あの壁は、たしかに以前、"Deep End" と呼ばれたものでもあったのかもしれない。
それとも、別のなにかだったのかー。

5.23.2011

[film] Prom (2011)

最終日の水曜日も雨でー、もう涙も枯れた。

晩は、ヴィレッジのIFC Centerに"Bill Cunningham New York" (2010)を見に行ったら売り切れててあぜん。だってさあ、もうメインの上映終っててここ二番館でしょ、いちんち2回しか上映してないのになんで売り切れてるわけさ?

と、ひとしきりぐちぐち呟いた後、しょうがないのでTimes Squareに戻って、これ見ました。

上映前、もうじき公開される"Winnie The Pooh"の予告が掛かってて、ミルンの原作に近そうだったのできゅーんとしていたら、主題歌を歌うのはZooey Deschanelさんだと! 
頼むから日本公開時、変な日本の歌をかぶせるのはやめてね。

http://www.imdb.com/video/imdb/vi3622280473/

さて、"Prom"のほう。 客は全部で6 人くらいか。

ディズニーによる青春プロム映画。
予告で見たときはなかなか盛りあがったのだったが、実際にはあんなもんかしら。

プロムを高校生活の総て、集大成、じんせいのいち大イベントと考えてそれに打ち込むプロム実行委員長でよいこのNovaと、ちょっと不良でバイク乗ってて、がてん系だけど実はナイーブなJesseの、最後まで噛み合わないやりとり(含.親子関係)を軸に、いろんなキャラの子供達が、プロムのその日に向けて、くっついたり、別れたり、ふったりふられたり、あがったりおちこんだり、そういうのをえんえん繰り広げていく。必ずどっかのだれかに自分のケースもはまるように満遍なく配慮されているかんじ。

プロムなんて海の彼方の戦争としか思えなかったにっぽんの我々にとって、ほんとのところどうなのか、だれもかれもがあんな鶏みたいに右往左往するものとは思えないのだが、うん、そんなんでもないから、というところもそれとなく示されてはいたり。

殺人も脅迫も誘拐も暴力も喧嘩もいじめも、修羅場も三角四角も心中も、実際の高校生活にはほとんど関係なく、ぼんくらで平穏で、なんの大志もなく、日々のプチ失望の反復のなかで三年間を過ごしてしまった大多数のひとりとして、ごくふつうに納得できるものでした。  
少なくとも誰もが"High School Musical" (2006) みたいなテンションで日々を過ごしているわけではないことは確認できるし。

でも、だからこそ、NHKのドラマみたいな堅さと窮屈さと物足りなさを感じてしまったことも確かなの。
例えばここに、劣等感のかたまりでぎゅーっとなっている女の子(Molly...)とか、軽薄思いこみ一直線で突っ走るAnthony Michael HallとかJon Cryerみたいなキャラが、下級生みたいな角度から無謀に縦横にちょっかい出して暴れまわってくれたら、学園ドラマとしてはいいとこまでいったにちがいないと思うのね。

あと、演じている若者達が知んない顔ばっかりだったのは仕方ないにしても、ずうっといっぱい鳴っている音楽が、しらないのばっかしだった。 これはちょっとだけショックだったかも。そんなもんよね。時代は変わるのよね。


ええとあとは。

Jimmy Fallonのは、月曜日がRandy Newman先生で、"Losing You"をやってくれた。番組のサイトでは"Short People"を歌う姿もみれます。
"Songbook Vol.1"のときはサイン会にいったなあ。

火曜日は、Death Cab for Cutieだった。
Benは髪のばしててなんか気持ちわるいし歌もよれよれしててだいじょうぶかよ、てかんじだったが、バックの音の硬質なかんじは初期のほうにちょっとだけ戻ったような気がした。

そういえば今回、レコード屋に行く時間がなかった。
だからむりなんだって3日間なんて。


帰りの飛行機ではあー。

ベニー・チャンの『新少林寺』。
暴君のアンディ・ラウが裏切りにあって娘を奪われて、かつて自分がひどいことした少林寺に逃げこむの。少林寺は受け入れてくれて、彼は心を入れ替えて修行に励むのだが彼が生き延びていることがばれて、かつての弟分とか異人達が寺に攻めこんでくるの。

最後はみんな悲惨でなかなかかわいそうなのだが、あんまり情緒的なとこはなくて、しっとり暗くていかったかも。で、だから最後にもってきたふたりの会話がじーんとくるの。

ジャッキー・チェンはなかなかおいしい役。野菜炒め拳に麺こね拳。
今後はこんなのばかりになるのかなあ。
あれじゃ笠智衆だよな。

あと、"Tangled" - 『塔の上のラプンツェル』を。
ディズニーのひとつ前のアニメ"The Princess and the Frog" (2009)もよかったけど、これもいいねえ。 しか言いようがないや。 カメレオンもいるし。
ラプンツェルが声を張りあげるたび、Mandy Mooreの顔が浮かんできてこまった。そんな見ているわけでもないのに、変なかんじだった。

他になんかおもいだしたら書きますわ。

5.22.2011

[film] 3:10 to Yuma (1957)

金曜日の夕方に戻ってきました。 まだまだしんでる。

火曜日はー、会議の間が一瞬あいた隙に「ちょっと銀行に…」とかいって抜けて、もちろん銀行にも行ったのだが、Bergdorf Goodmanの7階の古本屋に寄って、前ここにあって悩んだ末に買わなかったPeter Ackroydの"Dressing Up: Transvestism and Drag, the History of an Obsession" (1979) を探したのだがやっぱしなくなっていた。 がっくし。

しょうがないので、"Grand Illusions" (McGraw Hill Book 1973) ていうハリウッド黄金時代の写真集かった。

晩はなんとなく抜ける時間があったので、ついぶっちぎってFilm Forumへ逃避。

ここのシアターは3つあって、このときやってたひとつが、"City of Life and Death" (2009)、もうひとつが"The Makioka Sisters" (1983)。
前者は南京大虐殺を描いた中国映画で、後者は市川崑版の『細雪』なの。
この2本をいっぺんに見て、更に原発報道とかを追ってみると、にっぽんて国がよおくわかるとおもうよ。 たぶん。

で、見たのはみっつめ、"3:10 to Yuma" (1957)のニュープリント版。
James Mangoldが2007年にリメイクしたやつのオリジナル。

James Mangold版とは結構違っていて、キャラクターにそんな凄みはないし、アクションも緩いし、父と子の物語でもないし、冒頭と最後に流れるFrankie Laineの主題歌のまんま、なんかほのぼのというか、すべて暴発寸前のところでラストのあの瞬間 - 3:10になだれこんでいくの。 これはこれですばらしく美しい画面と瞬間がいっぱいあって、特にラストのお天気雨のとこはよかったねえ。

映画館をでたのが9時過ぎで、そこから小走りでMcNally Jacksonに向かい、泣きそうになりながら雑誌をいくつか。

- All-Storyの最新号:guest designerはMark Romanek。
彼がiPhoneで撮ったという写真がいっぱいで、いかにもMark Romanekな誌面。
Raymond Carverの"Why Don't You Dance?" (ダンスしないか?)が掲載されてて、その前にWill Ferrellが序文みたいのを書いてる。
それで、彼の最新作"Everything Must Go" (2010)の原作がこれであることを知る。 それなら見てくるんだったなあ。

- Vintage Magazine:表紙はまっかにメガネの穴。 いつも通り仕掛けだらけで読むところがあんまないやつだが、つい買ってしまった。

- edible Manhattan : Local Food magazine, みたいなやつ
http://www.ediblemanhattan.com/

- Film Commentの最新号: これはいつもの。

- Lydia Davis "The Cows" : 雑誌ではないけど、雑誌みたいな。
なんで牛なのか、よくわからんが、写真といっしょに3匹の牛のことを書いてる。
彼らと我々の間にあるのはいったいなんなのか、とか。
来月彼女ここで朗読するけどこない? て言われた。ううう。

それから雨のなか、再び歩いてPorsenaに行って、ご飯食べた。
ここのEscaroleサラダがNew York MagazineのBest of New Yorkに選ばれてしまって以降(ほうらみろ、とみんながいった)、すっかり予約が取れなくなってしまったようだが、とにかく押しかける。

いつ見ても可愛そうになるくらい要領のわるい受付のお姉さんは客対応が増えて頭が変になって辞めちゃったんじゃないかと思っていたら相変わらずじたばたしてるし、サービスのとろいのも変わらないのだが、でもお皿はおいしい。

Niman RanchのPork Chopって改めてすごいとおもった。
Whole Foodsでここのベーコンやハムは買えるし、それだけでもじゅうぶんおいしいことは知っているのだが、これはなんというか桁がちがう。
日本のいろんなブランド豚が束になっても敵わないような優美さがあるのよ。
これが豚ってもんよ。

http://www.nimanranch.com/

で、この間ずうっと雨なのね。

5.19.2011

[film] Bridesmaids (2011)

今回の滞在で、映画はたった3本しか見れなかった。
いちんちは天気と疲労でめげてしまった。 くやしい。

アストリアではTerrence Malickの特集があったし、BAMではHal Ashbyの特集で着いた日は"Being There" (1979)とかをやっていたのだが、島を出るのはしんどそうだったので、新作を見ることにしたの。

Bridesmaids (2011)
Judd Apatow(製作だけど)とKristen Wiigがタッグをくんだ。
これだけで必見なの。ぜったいなの。

で、Kips Bayに行ったら売り切れ、34thのLoewsも売切れ、Times Squareまで行ってようやく入れた。 要はすごい人気である、と。

Maya Rudolphが結婚することになって、幼馴染みで女子仲間のKristen WiigをBridemaidsに指名するの。でも他の女子仲間はぜんいんとてつもなくたちが悪くて変な人たちで仲間にはなりたくないかんじで、もちろんいちばんひどいのはKristen Wiigなんだが、どんどんぐたぐたになって収拾がつかなくなっていくの。

こういう結婚ものだと、最近のだけでも"27 Dresses" (2008)とか、"Made of Honor" (2008)とか、"Bride Wars" (2009)とか、いろいろ思い浮かぶが、そんななかでもろくでなし度はだんとつ。 
"Hangover"の女版、とか言われているらしいが、あれよか臭気はきついかも。

だいたいさあ、結婚のおはなしなのに、相手の婿のほうは殆ど出てこないんだよ。
出てくる男つーたら、Kristenの彼①(Jon Hamm... あんた... )と彼②くらいよ。

自分がしょうもないくせに他人のしょうもなさだけは我慢できない(わかってるわよそんなの!)、で、そういう連中が束になってともだちの式を盛りあげよう、てがんばるのだが、うまくいくわけないのよ誰がみても。で、さいごはもうぜんぶ諦めて擦り切れてひくひくになって、見ているこっちも笑い疲れてぐったりで、どうすんだよこれ、と思っていたら、最後の最後にあんなグループ(ほんもの)が出てきて、適当にまるめこんで、よくわかんないままに幸せが訪れる。

あぜん。 Judd Apatowて、ほんとに天才だとおもう。

とにかく笑える。元気にはなるのはむずかしい気がするが、ひたすらおかしい。
ウェディングドレスのMaya Rudolphが道路にへたりこむとこなんて、まじで死ぬかとおもった。

”Hangover”ですら署名がないと公開されないこの国では相当ハードル高いとおもうが、でも、あれよかおもしろいの。

[art] Savage Beauty : Alexander McQueen

ホテルの部屋が3時まで空かないということだったので荷物を預けて外にでる。

Metropolitan Museumでこれをみました。

http://blog.metmuseum.org/alexandermcqueen/

ぽつぽつ雨が降る日曜だったのに、だったからか、人でごったがえしていた。
Alexander McQueenの展示は45分待ちのながーい行列。
ここまで並んだのは、知る限りのところでは2001年のJacqueline Kennedy展以来、かもしれない。 (もう10年かあ・・・)

Costume Instituteの展示としては異様なかんじ、ファッションというより自然史博物館の展示のような、静かでダークな空気に満ちていて、観客も静かに見守るしかない。

生地や縫製やフォルム、デザイン、スタイルの優美さや華やかさにうっとりする、というのとはちがう。斬新さや先進性、かっこよさに感嘆するのでもない。 羽根や貝や革といった皮膚の表面を覆う別の皮膚の生々しさ、猛々しさに言葉を失う、というかんじ。

それでもこれは服飾で、皮膚を覆って隠し、着飾るという用途をもったなにかであって、そうすると彼がここまでして体を覆う表面・表皮をあのように変えなければならなかったのか、なにを隠そうとしていたのか、なにを表に出そうとしていたのか、というのが問いとして出てくる。 
で、それらの問いに対する答えは置いておくとして、そこに並べられた作品群ははっきりと、ある意思と意図をもって生みだされたものというのはわかって、そこに向かう彼の情動、観念の動きや本能の流れを"Savage Beauty"と呼んだのだとおもう。

でもそれは野生や自然のフォルムやオブジェに対して美しい、というのとははっきりと違っていて、また単にそれらをヒトの装飾品としてアダプトしてすごいだろ、というのとも違っていて、そこにはある種のナイーブな痛ましさ、変容せざるを得ない悲しさ、みたいのが常にあるの。 わかりやすくいうと、Tim Burtonの作品にでてくる化け物のかなしさと同じようなものが。 (彼の作品にインスパイアされたのもあった)

もちろんその痛ましさをAlexander McQueenの自死に安易に結びつけるようなことは避けなければならないのだが、ただ、彼の作品自体には、ファッションの、例えばレッドカーペットの喧噪や煌びやかさは微塵もなく、ひたすら静かで孤独な存在の輪郭がくっきりと認められるのだった。

ふつうのファッションの展示にある、誰それからの依頼を受けて、とか誰それのために制作、といったことよりも、それらの意匠は商取引とは別のところで独自に成長して進化をしていくかのように見えた。 で、彼らはあるポイントから進化が止まってしまった、行き場を失ってしまった生物のようにも見えた。 トレンドや流行、とは別のところで、少なくともそんなふうな表情をみせる服なんてみたことがない。

異形への変容を促す力、それを受け入れる力がどこから来たのか、それらは人間の身体のありようとどう関わってヒトの知覚を変え、もとあった力に還元されていくのか、この一連のサイクル、生命の渦のようなものこそが彼を魅惑し、創作に向かわせていったのだとしたら、21世紀に入ってからのファッションの動静は彼にとってはほんとうに生きにくい、扱いにくいものだったに違いない。

というようなことをぼーっと考えながら観ていました。

ピラミッド型の水槽内に映し出された3Dのひらひら、ほんとにきれいだった。
で、カタログも買ってしまった。 ここでカタログを買ったのは、Diane Arbus以来かも。

もし、行きたいなーとか、迷っているひとがいたら、絶対行ったほうがよい展示です。

もういっこは、これ。

http://www.metmuseum.org/special/se_event.asp?OccurrenceId={F2475C18-07BA-4A0E-B4BA-9B6070450EA7}

C.D.フリードリヒの、"Woman at the Window" (1822) のほんもんが、ついに見れる、見れた、ということで。 よかったよかった。

ドイツロマン派における窓、というのは、べつにいいよね。

で、芋あらいのなかを抜けて、5thを下るバスに乗ったらパレードでLexを迂回していやがって、約30分のロス。 でMOMAでメンバーシップをリニューアルしてから、展示をいっこだけ。

"Looking at Music 3.0"
http://www.moma.org/visit/calendar/exhibitions/1147

これのイベントでいろんなひとがなんかやってたやつね。
New Yorkの80'sから90'sにフォーカスをあてて、ということらしいが、点数はあまりないし、基本知ってるのばっかしだった。

Miranda JulyのVideo作品とか、ちゃんと見ておけばよかったかも、というのもあったが、やっぱし、NYの80年代って、自分の知っている80'sとはぜんぜんちがうのよね。
HipHopの刺さりかたとか、いろいろ。

で、これもざーっと流して、ホテルに戻って荷物とりこんで、こんどは映画へ。

[log] May.15 ny

もう3日すぎちゃったわよ。ふざけんな、だわよ。
ずうっとどしゃぶりかぼそぼそ雨か曇か。天気も仕事も。 さいてー。

着いた日はやっぱし雨だった。しかも寒いし。 
たまにぽつぽつ来る程度だが、それはそれで面倒くさい。

飛行機のなかで見たのはー、いちにいさんしい。

"Green Hornet" (2011)
そういえば見ていなかったな、と。
ちょっとはしゃぎすぎでは。 わざとなんだろうけどごちゃごちゃうるさい。
ラストのどんぱちはそのうるささがかえって楽しかったりもするのだが、例えば、"The Blues Brothers" (1980) みたいな節度と品のよさがあったらなあ、とか。
Cameron Diazがもうちょっと暴れてくれてたらなあ、とか。

『洋菓子店コアンドル』(2011)
なかなか悪くなかった。ちゃんとした材料つかって、分量を正確にはかって、手順通りにやれば、それなりのお菓子は作れるのと同じように、映画だってちゃんとやればそれなりになるじゃん、って。 最近の邦画って、原材料からして、なんかおいしくなるとはおもえないものが多すぎる。
蒼井優の変な顔がおもしろいし、他の俳優さんも、過剰にならずによくて。
それにしても、江口洋介と戸田恵子が修行したNYのラボってどこだ?
Institute of culinaryのこと? 90年代のNYのフランス菓子事情つーたら、それはそれは悲惨だったのよ。

"The Mechanic" (2011)
Mechanicていうのは、外部からの痕跡を一切残さずに殺しを実行するプロで、Jason Stathamが会社に雇われてるMechanicなの。
彼が会社の上から別の上 - 彼にとっては恩師のようなひと(Donald Sutherland!)の殺しを依頼されて、断ることはできないから実行するのだが、後に遺された不良息子をなんとかMechanicに育てようとおもって、そしたらー。
痕跡を遺さないプロの仕事、ということで映画そのものもあんま印象にも残んないようなかんじなのだが、渋くてそんなわるくはなかった。

あと、"No Strings Attached" (2011)をもういっかい。
これって結局、Ashton Kutcherがやりたい放題やって、ひとり勝ち、てだけの映画か、て少しおもった。 いいけどね。

だから寝ておかないと後がきつくなるから、ていつも言い聞かせるのだが、
こんなふうなままで着陸して、ホテルに着いたのが12:30で、あとは走り回るしかないの。 ほんとにかわいそうだわ。

5.15.2011

[log] May.15

よいお天気の日曜日、でございまするが、いま成田空港で、これからNYに向かうの。

前みたいな長期ではなくて、水曜日までだし、もちろん仕事だし、引率なので好き勝手できないし、ぐちはてんこもりなのだが、飛行機のれるからいいや。

走りまわれるとしたら到着した日曜日の午後くらいしかない。
でも、ライブはあんまないし、映画も見たいやつ拾っていったら軽く20本超えて気持ちわるくなったし、美術館はあれとあれとあれがはずせないし、おまけに低気圧みたいだし、さ。

だいたいさ、正味みっかで、なにができるってんだよ!

エコバニが、1stと2ndを全曲披露するやつはおわってるし、DeftonesとDEPもおわってるし、Fleet Foxesなんて取れるわけないし、 "Your Highness"も"Paul"もおわってるし、つくづくついてない。おぼえてろよ、なの。

えー、昨日の土曜日は、仕事でじたばたしつつシネマヴェーラで、1本だけ、『(秘) ハネムーン  暴行列車』(1977) ていうのを見ました。男ふたり組が、強盗しようとしたら失敗してひとりは撃たれちゃって、虐められていた新婚花嫁を強奪して、でも花嫁はなんか嬉しそうで、貨物列車に隠れて逃げる、という男ふたり女ひとりの逃避行もので、すべてが思った方向に行ってくれない、なのに全体のトーンは、なんかほのぼのしてて、殺伐としてなくて、でも結果はやはりだめだめで、それなのにちっとも悲惨じゃない、という変な作品でしたわ。 

今回の旅がそういうのになりませんように。
あ、べつに悪いことしてないし。 たぶん。

5.14.2011

[film] Vincere (2009)

今年最初の爆音、『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』。

これだけはなんとしても。

とーにかくすごかった。とんでもなかった。あんぐり。
爆音は結構来ているほうだと思うが、そのなかでも相当。

若き日のムッソリーニと出会ったイーダは瞬間で恋に落ちて、財産ぜんぶ貢いで、息子もできて、でも昇り龍の彼はそれどこじゃないし妻子もいるし。
彼を追い回すイーダはやがて捕えられて監視下に置かれ、さらに病院送り~転々と。

こないだ見た『もう一度キスを』が『最後のキス』よか少しだけ弱かったのだとしたら、『最後のキス』でジュリアを演じたGiovanna Mezzogiornoがいなかったからなのだな、と、改めて。
最近だと、"Changeling"(2008) のアンジェリーナと比べても、だんぜん。

ふたりの最初の抱擁の、獣のような咆哮が爆撃音になだれこむ瞬間のとてつもなさに鳥肌がたって、あとはその状態がずうっと続く。波の上に波が来る。

でもその波をドライブするのは彼女の狂気ではなかった。彼女は狂っていなかった。
限りなくまっすぐで聡明で、その愛でもって、自分が会いたいものに会おうと、自分がいるべき場所に向かおうとしただけだった。

記録された歴史の映像と映画のなかの現実がメルトダウンを起こし、我々は遠巻きに見ることしかできない。が、主人公は画面ではなく映写機の放つ光に直に向きあい、ひたすらその場所 - 爆心地に立つことを、(愛の)どまん中にあることを望み、「歴史の証人」たろうと外側にあろうとする姑息なメディアに、「歴史の番人」として背後に立つ政治家たちにこんなの茶番だ、と噛みつき、何度でも逃亡を試みる。

「彼ら」がひたすら隠そうとし、潰そうとし、しかしそれでも放射能のように溢れ、流れていくもの - かつてGena Rowlandが、「とめどなくながれていくのよ」と断言した、あの愛が、激動の時代のなか、炸裂する爆音のなか、絶えず聞こえてくるちいさな鳥の声のように、高い格子の向こうで瞬いていた光のように、そこにある。

それを何故「勝利」と、あの決してハッピーエンドとは呼べない結末に対して、「愛の勝利を」と声高に求めるまでもなく、静かに確信的に「勝利」と呼んでしまうことができるのか。
それは最後のほう、車で送り返されるイーダが、我々に向けてくる静かな眼差しのなかに、はっきりとあるの。

或いは、この映画が映し出す20世紀初のイタリアの総合芸術ー映画、オペラ、クラシック、未来派、ダンス、それら総てが志向し、探究しようとした秘密のなかに、それはあるのだと思った。
そして、ベロッキオのこの映画もまた、そのなかに含まれるほんもんの宝石なのである。

それが、神すらも手を出せなかったあの5分間に、そこにふたりの全てが、この時代と世界の全てが凝縮されてがあったのだということ。

ベルトルッチが”1900”で描き出そうとしたものとの違いをしばらくの間、考えてみよう。

爆音で一週間でもやってくれないかしら。

[film] Rain (1932)

連休で追いついたと思ったのだが、またすべてぐだぐだになってしまった。

えーとえーと。

5/5に一本だけ、『雨』(1932)を見たのだった。
悪天候でどっかの島で船を降りて回復を待つ一団のなかにあばずれのサディ(ジョーン・クロフォード)がいて、ごりごりに厳格な牧師(ウォルター・ヒューストン)がいて、牧師は悪の域に堕ちたサディを更生させようと悪魔払いみたいに立ち向かうの。 まずはこのやりとりが、すごい。

どうみてもなんとか原理主義にとりつかれた牧師の、とりつくしまもない石頭は、今のアメリカにもいっぱい見ることができるし、サディみたいなジャンキーもいくらでもいるけど、両者が交わるところは、なんかのTVイベントでもない限り、ほとんどない。
でも、ここでは悪天候だから、と思いっきり正面衝突して、結局は牧師が勝つんだな、なにしろ狂信者だから。 サディは何も信じるもんか、から来ているし。

でも、ざあざあ止まない雨と現地民のどこどこ鳴り止まない太鼓が牧師のなにかをどうにかしてしまう。 ずっとブッシュみたいに十字架を振りかざすだけだったウォルター・ヒューストンがウィル・フェレルのブッシュに変貌するその瞬間のすさまじさ。ここは必見なの。


5/7は、シネマヴェーラの『官能の帝国4』の初日だったので、とりあえず2本。
最初に『若妻官能クラブ 絶頂遊戯』(1980)。
あんまないですけど、妻にするなら3回やっている女がいいとか、カメラは武器だったのねとか、テニスで丸裸とか、そういう時代だったのよね。

それからニュープリントの『現代娼婦考 制服の下のうずき』(1974)。
音がとにかくすごかった。ヘリの音、マネキンをぶったたく音。あとは、どうやって思いついたのか想像もつかん角度からのカメラ。 そしてあの怨み節。

5.07.2011

[film] Baciami Ancora (2010)

4日の水曜日は、早起きしてイタリア映画祭で1本だけ。

『もう一度キスを』。はいはい。 何度でもキスしてろや。
オッソ・ブーコのあとで猪のローストがごろごろ出てくるようなかんじ。

『最後のキス』から10年後、連中はどうなっていたのか。
30を前にした「いまやっておかないと」という焦りは、はっきりと「こんなはずじゃなかった、はず」というアラフォー男の別の焦りに置き換えられ、追加トッピングで老いだの病気だの、いろんなものが乗っかってくる。 煩悩の種は尽きまじ。 うん、そんなもんよ。

カルロとジュリアは離婚手続き中で、カルロは家を出て恋人のアンナ(20代)と暮らしている。娘とは送り迎えの時くらいしか会えない。ジュリアは売れない俳優と娘と3人で幸せそう、なかんじ。 一見みんな幸せになっているふう、なのにちがう。 ちがうんだ、波風立てたいんだ、という。

結婚して10年のマルコとヴェロニカもうまくいっていない。ヴェロニカは外出してばかりで、子供ができないのが気にくわないもよう。

アドリアーノはぼろぼろかすかすの前科者になってひとりイタリアに戻ってくる。残してきた妻と男の子は、相手にするわけなくて、元妻はパウロと付き合っているがパウロは相変わらず不安定で抗鬱剤とか飲んでて、だから一緒に暮らす許可は貰えてなくて、それで更に荒れてしまうのね。

アルベルトだけはあんまし変わらず、永遠の愛を求めて次から次へと女の子をひっかけまくっている。 あんたはえらい。

ジュリアのパパとママが出てこなかったのがちょっと寂しかった。

こういう出だしで、前作と同じようにあれこれこまこまぐしゃぐしゃ転がっていくのだが、やはりカルロとジュリアのやりとり(修羅場)が一番おもしろい。
情念ベースのわかるわかんないのじとじとした喧嘩ではなくて、とにかくどんな糞玉でもいいから相手に投げ返して、キャッチボールはする。とりあえず。
で、我慢できなくなるとドアをばん、て閉める、或いは電話を一方的に切る。
カルロとジュリアだけでなくて、みんなそればっかり繰り返している。

前作は、彼女の妊娠や赤ん坊の登場によって30男達が、もう俺の人生は終わりだ、て右往左往する話だった。
今作は、引き続き右往左往し続ける40男達が、「妊娠したの」の一言でトドメを刺されて、とりあえずおとなしくなる、そういうお話。でもあるの。

あとはパウロのとこで働き始めたアドリアーノに彼女ができるのだが、それがValeria Bruni Tedeschiさんで、ふーん、とか。

今回、新しくうまれるのが2、なくなるのが1、多少の出入りはあるが、とにかくそれぞれの人生は続いていく、その総括も際限もないばらばらアンサンブルはなんとかうまくまるく描かれてはいるのだが、カルロは最後のほうで、「いまがいちばんいい時」で「できないことなんてなにもない」みたいなことを言うんだよ。 
観客ほぼ全員、あんたがいうことなんてだれが信じるかー、ってでっかいとんかち振りかざして突っこむよね。

更に「ひとは根無し草では生きられない」とかいうの。
しかしその直後に、たったひとりでブラジルの大地に降りたつアルベルトの姿が。
がんばれアルベルト、君こそが最後の希望だ、ってやっぱし全員が拳をつくって強く強くおもうはず。 このへんのセンス、すきだなー。

10年後は、「キスがとまらない」か「なんでもいいからキス」かなあ。

5.04.2011

[film] You Are Here (2010)

連休ふたたびの火曜日。 どうせ映画しかないのよ。

シネマヴェーラで見た1本。 『スイング』”Swing High, Swing Low” (1937)。

監督がMitchell Leisen、主演がCarole Lombardのミュージカル・コメディ、ときたら見るしかない。

パナマ運河に立ちよった船で美容師をしているマギーが、丁度その日に除隊するスキッドと知りあって、いろいろあって一緒に住むことになるの。
スキッドはトランペット吹きなのだが不良で、マギーはなんとかふたり一緒にバーで働いてがんばることにして、ふたりの歌とトランペットのコンビは評判になっていって、結婚するの。 
そのうちスキッドはNYにスカウトされて行っちゃって、やがて名声と酒に溺れたスキッドに愛想つかしてマギーは離れちゃって、スキッドは更に落ちぶれて宿なしになって、んで最後には。

ええお話でしたわ。

マギー役のCarole Lombardとスキッド役のFred MacMurrayの相性が、あらっぽくて適当だけど、昔の江戸の夫婦みたいで、なんかよいの。

関係ないけど、パナマのでっかい蟹ってすんごくおいしいのよね。
またいきたいなー。


それからどしゃ降りのなか、新宿に向かって、イメージ・フォーラム・フェスの1本、『あなたはここにいる』 - "You Are Here" (2010)を。

ちらしには、メタ刑事映画、とあったが、まあ、そんなもんかな。

大学の講師みたいなおじいさんが出てきて、この波の映像をみてください。肝心なのはあなたがこれをどう - ”How” - 見るか、なのです、とかいう。

あるいは、「アラン」という「ヒト」が出て来て、「アラン」みんなはどこかに向かっていて、車に轢かれかけて、パスワードを思いだすことができない。

あるいは、ロケーターといういろんな「ヒト」から掛かってくる電話でそのひとの位置をポイントしまくる人たちの会社?がある。

あるいは、いろんなドキュメントや映像をアーカイブしている人たちもいる。

あるいは、コンピューター化された目を発明した男がいて、それで盲人は視野を得ることになるのだが、やがて人々はコントロールされた同じものしか見えなくなる。

みんなそれぞれ、自分がなにをやっているのかはわかる、でもなんのためにそれをやっているのかを問われたり、なにか予期せぬこと、スコープやコンテキストの外にあるものが現れたとき、前提や条件のかけ違い、あるいは単に忘れる、迷う、ということが起こったとき、うまく対応・対処することができない。

自分はここにいる、ある、ということを保証するもの、保証してくれるものは一体なんだろう。その「保証」にはどんな「意味」があるのだろう。
「世界」がそれを支えてくれないものになったとき、支えてくれないような事故だのなんだのが起こったとき、一体なにが起こるのだろう。

などなど。

こういうのはがっこで、ろんりがくとかいみろんで、吐きそうなくらいやった。
命題としては、べつに新しいテーマではない。
いくらでも転がしていける。

古くからあるこのテーマが、この時代に、こういう映像として出てきた背景は、わかるよね。

誰もが位置情報で地図の上の自分の位置を確認して、監視カメラがそれを押さえて、なんでもかんでもログに録られてアーカイブされて、検索技術はサバイバル技術とイコールで、ネット上には地図も歴史も全てがある、とされているような現代。
でも、そういう社会のありよう、そこに向かう人たちの意識、あるいは仕事のありよう、てあまり正面から映像化されたことはなかったのかも。

なんでみんなあんなに四六時中携帯やネットに浸かってぴこぴこかたかたやっているのだろう。
食事したり会話したり移動したり睡眠したり、と同じような生活 or コミュニケーションの一様式になってしまったから考えてもしょうがないようなことなのか、或いはそれらと並列にできないなんか後ろめたいなにかを抱えているからなのか。

そういうのに対するひとつの解、というか試論、というか。

学史としては、ハイデガー 〜 ジョン・サールあたり(中国語の部屋はそうよね)で、おもいっきりおちょくってやりたくなったりもするのだが、トーンとしては、どこまで行ってもまじめだし、テンションが途切れることはないの。

中原昌也が正しく指摘しているように、インターネットの登場は確実に人類をバカにした。
TVよりもはるかにバカに。
ばっかじゃねーの、の一言で終えてやってもよかったのかも。

ラストにGonzalesの"Map of the world"が流れる。
でもね、ネット上に世界地図なんかないのよ。 それはせいぜいMy pageみたいなやつにすぎないのよ。 

Talking Headsの"Once in a Lifetime"でも流してやればよかったんだ。

[film] L'ultimo Bacio (2001)

月曜日はもちろんふつーに会社でしたよ。
でもすぐ抜けてこれ見にいった。

『最後のキス』 - "The Last Kiss"
今回の「イタリア映画祭2011」は昔の映画あんまやってくれないし、なんかなーと思っていたら、なんと『最後のキス』の続編があると。 で、『最後のキス』も上映されると。

『最後のキス』は、2006年にMOMAのなんかの特集上映で見て、すんごくおもしろいーと思ったことは憶えているのだが、かんじんの中味はぜんぜん憶えていなかった。 
のでこの機会にもう一回見ておくかー、と。 当日券で。

改めて見て、やっぱしおもしろいよねこれ。
こういうこんがらがったぐしゃぐしゃドラマ作らせたらイタリア人てほんと天才。
複雑にこねくりまわしてないのに、勝手においしくできあがる。
ぜったい真似できない驚異的なボロネーゼとかラザーニャみたいな。

結婚していないけど子供ができてしまったカルロとジュリアのカップル、ジュリアのママはそれを聞いたらあたしおばあちゃんになっちゃう、と錯乱して色恋に走ろうとするが夫はなんだそれ、と。
他にカルロのともだち - ①子供が生まれたばっかりでやかましい妻が嫌になってきたアドリアーノ、②離れていった元恋人に未練たらたらで情緒不安定のパオロ、③結婚したばかりのマルコ、④恋人をとっかえひっかえしつづけるアルベルト  -  これら幼友達5人組が同時に30を迎えて、

a) まだまだやれる、やりたいことがある
b) このままいったらあかん

の間で焦り、揺れ動き、なんか行動に移せるとしたら今しかない! という蒼い決意と思い込みのもと、それぞれ勝手にぶつかったり転がったりしていくの。

カルロはマルコの結婚式でしりあった18歳のフランチェスカと仲良くなってジュリアとやばくなるし、パオロとアドリアーノとアルベルトは、アフリカに渡って一山あてよう、と高飛びを決意する。

こうして書いてしまうと簡単なおはなしのようだし、実際ストーリーラインとしてはほんとこんなもんなのだが、この間に、ものすごい分量のダイアログと大中小喧嘩とカット割りとかジャンプとかがぐっしゃぐしゃに詰め込まれていて、あきれて目がはなせない。 

役者さんがとにかくみんなすごくうまい。
ジュリアのママのStefania Sandrelliはもちろんだし、ジュリアのGiovanna Mezzogiorno、最後のほうの修羅場のぶちきれの凄まじさ、これをみんなみてみ。
イタリア人男子がみんなこんな修羅場を生きている、生き延びているのだとしたら、ぜったいかなうわけないな。(なにに?)

再見して思いだしたとこは、フランチェスカが木の上に登るとこ(やーねー)と、みんながやけになってシャンパンぶちまけるとこくらいだった。

これ、2006年にハリウッドでリメイクされて(未見)、主演はZach Braffで、でも女優さんがちょっと弱かったかも。 サントラはTurin Brakesの"Pain Killer"とかが入ってて、結構よかったのだが。

しかし『最後のキス』って、なんだろ? ていまだに思う。
あれだけえんえんいろんなひととキスしといて、誰が信じるもんか。

[film] Le Quattro Volte (2010)

日曜日は、シネマヴェーラで1本、と、もう1本。

最初のは"Desire" (1936) - 『真珠の頚飾』。
監督がフランク・ボーセジで、製作がルビッチ、彼もところどころで撮っているそうで、主演はディートリッヒにゲイリー・クーパー。

前に見たことがあった気がしたが、見てなかった。
はずれるわけがねえ。

ディートリッヒが宝石泥棒で、宝石商と精神科医を鮮やかに騙して真珠の頚飾をかっぱらい、スペインに逃げて、入国のときやばくなりそうだったので、そこに休暇で来てたトム(ゲイリー・クーパー)のポケットに頚飾を隠してしめしめ入国、そのあとでトムに近づいて取り戻そうとするのだが、そう簡単にはいかないのね。

単純でまぬけでアメリカンでさばさばなトムと、いつものぐにゃーんとした猫ディートリッヒのやりとりがすばらしいし、とにかく絵になるの。
めでたしめでたしにならなくても(いや、なるけど)ずうっと見ていられます。

それからローレル&ハーディの短編"The Hoose-Gow" (1929) - 『刑務所』。
囚人おつとめもの。今回は泥くそなげ、が楽しかった。


それから、イメージフォーラムに行って『四つのいのち』 - "Le Quattro Volte" 見ました。 
映画の日なので混んでいると思ったがぜんぜん。
タイトルに「命」とか - ましてや平仮名で「いのち」なんて入っている作品は基本見ないことにしているのですが、これはなんかいいかー、って。

ひとの台詞なし(咳とかごにょごにょだけ)、音楽なし、風の音と鳥の声、ヤギ、犬、車、アリ、カタツムリ、などなど。 いちばんうるさいのはやっぱヤギ、かな。

四つ、ていうのは、ヒトでしょ、ヤギでしょ、木でしょ、炭山? いちにいさんし、かな。(じしんない)

ヒトはしぬでしょ、ヤギははぐれるでしょ、木は倒されるでしょ、炭は焼かれるでしょ、それがぐるっとまわっていくのか、まわっていくのかもしれないし、そうでないかもしれない。この辺がゆるく繋がっていて、どうとでも解釈できそうな。その辺の風通しのよさはわるくないかも。

エコでもないし、オーガニックでもないし、啓蒙もしないし、志向もしない。
あそこに出てきた老人やヤギがそんなこと思いながら生活しているわけないのと同じで、そこに自然がどうのサイクルがどうのといったしょうもない理屈をつけて納得したがる人たちに対しては、ひたすらぼーぼー風が吹いてくる。或いは、炭山の中から聞こえてくるかのような、あの外側をスコップで固めるぼこぼこした音が。 穴のなかに埋まってろ。

ドキュメンタリーなのかそうでないのか、はどうでもよいのだが、このへんの緩い構成が映画として、映画の絵としてどうなのか、というのはあるかも。

それでも、ぼーっと田舎の風景を眺めるように見る、にはよかったかも。
GWにわざわざどっか出かけて疲れるよりは。

しかし、ヤギっておもしろいよね。 なんでみんなあんな顔してるの?

あーヤギになりてえ。 はぐれてもいいから。

5.02.2011

[music] dE nOISE 3

新宿から六本木に渡り、夕方の6時過ぎに "Sucker Punch"(2011) - 『エンジェルウォーズ』を見ました。

うーんあんまし。

いっぱいやなことを吐いてしまいそうなので、あんま書きませんけど、あの終わり方はないんじゃないか。(直感だけどね)
ロボトミー手術によって去勢されてしまう70年代の魂のありようと、昨今の「みんながんばれ」「ひとりじゃない」「そばにいるから」みたいなぐちゃぐちゃべったりした皮膚感覚への希求は、たぶん表裏一体なのよね。
さいごのほうのだらだらしみったれた独白は、だ・ま・れ・っ だったわ。

んで、なんだかとってもむかむかきもちわるくなったので、そのままSuperDeluxeに横滑りした。 ド・ノイズ3。 スイス大使館えらい。 
当日券。 9時くらいだったか。

ほんとは、前日の計画漏電も来たかったのだが、ほれ、ロイヤルウェディングとかあったしさ(殴)。

振り返ってみれば、これが今年の日本での最初のライブなのだった。
震災のあとで、MelvinsもGaslightもSwansも、ぜーんぶつぶれた。
日本に来てくれるのはシンディとかカイリーとか、金玉のあるおねえさんばっかしになった。

こうなったら雑音でもかぶるしかねえじゃん。

入ったときはOFFSEASONがどんちゃかやっていた。
ひさびさの、すんごい煙の量で、気管支がみるみる詰まってどんよりしていくのがわかったけど、それでもさっきのよかましだ。

それから、Suicidal 10cc。30分くらい。
Jimさんはますます太くなって、Guruみたいになっていたが、音も同様にぶっとくていかった。

それから、非常階段。
むかーし見たきりだったが、まあ。
でも、むかしのがこわかったかも、いまってみんな笑いながら携帯で写真撮ってるし。 
よいのかなあれ。

トリが、Maruosa vs Syndrome WPW 、ていうの。
肩掛けキーボードのスイス人と床置きMac日本人(?)のハードコア対決。
掛け合いになりそうでなっていないとことか、2回断線したスイス人の憎めないまぬけなかんじもよくて、音も激しいんだかぐにゃぐにゃなんだか微妙で、おもしろいの。

あーすっきりしたぜ。
でも、ノイズのライブって、あんま書くことないのな。

[film] The Ballad of Genesis and Lady Jaye (2011)

朝いちでGenePのドキュメンタリーを見て、晩はノイズで締める。 
ちゃんとしたおとなの、正しい連休の過ごしかたと言えよう。

毎年恒例のイメージ・フォーラムフェスティバル、今年も新宿からシャトルに乗って、面倒な場所に分け入っていって、座り心地わるい椅子で。  
あれ? 去年はどうしたんだっけ、と思ったが米国にいたのだったね。

最初にPVだと思うが、同じ監督によるGenePの"Papal Broken-Dance"。80'sふうエレクトロに乗って、リングの上で複数のレオタード人がくんずほずれつ。
New Orderの"True Faith"のクリップを下世話に下品にしたかんじというか。

本編は、Genesis P-Orridgeの最近の活動を伝える、程度なのかと思っていた。
基本なんでもアートにしてしまう方なので、生涯のパートナーを得て云々、とか言われてもまたネタなんでしょ、とか。 だから、へたしたらげろげろ阿鼻叫喚のとてつもない修羅場もあったりして、とか覚悟していたのだが、そういうもんでもなかった。 

それはタイトル通り、GenePとLady Jayeのバラードで、それはJohnとYokoのバラードと同じように、大通りのど真ん中を堂々と、しかしあっさり感動的にこちらに迫ってくる(←まだ戸惑い中)、ドキュメンタリーなのだった。

NYのSMパーティーの後で彼(まだ、彼)は彼女と出会って、お互い運命のひとだと思って、結婚して、pandrogynousのコンセプトの元、おなじ身体顔かたちを共有すべく、性を変え、双方に豊胸と整形をして一緒の時間を過ごす。 

すごいのはそこから。 70年代からの彼の活動 - Burroughsとの交流、彼に紹介されたBrion Gysin、更にCOUMからTG - Industrial Recordまで、最初からぜんぶ方法論として一貫していたことがわかってくる。 
いろんなパズルの断片が突然、ぜんぶきれいにはまるみたいに。
そういうことだったのかー、と。 ようやく。

インダストリアル・ミュージックの思想の根幹は、うんと圧縮していうと、「脱・肉化」ということだと思うが、70年代からずうっと、そのサバイバルのための(と明確に語られる)アートフォームは、様々な展開をしていって、21世紀に入ったあるところで、ミューズとしてのLady Jayeが現れた、と。 
できすぎている気がしないでもないが、アートというのはそういうもの、ということをこれ以上解体不可能な地点まで追いつめていって示しているように思えた。

そしてそれは、別のかたちの極限 - Lady Jayeの死によって、突然に止まってしまう。
彼女の肉体の消滅によって訪れる、アートの、ひとつのおわり。

インダストリアルの起源を語るところでNINの名前がでたりもするのだが、Johnny Cashの"Hurt"がなんでああも凄まじいものとして聴こえてきたのか、ようやくわかった気がしたり。

他にBatthole SurfersのGibbyさんとかPeachesとかもちょっとだけ出てきます。

最初にTGを聴いたのって、たしか79年くらいだとおもうが、そこから現在まで、死によって区切られてしまったとりあえずの区切りが、ふたり仲良く手を繋いで公園(Central Parkかな?)を歩いていく後姿で締めくくられることになろうとは。
わかんないもんだねえ。

あと、改めてうわーって感嘆したのはGenePの楽曲のポップで美しいこと。”The Orchids”とか久々に聴いたけど、いいのよなー。

[film] September Affair (1950)

やっと追いついてきたかも。
連休の初日ですけど。 映画みるくらいしかないの。

4/29: シネマヴェーラで2本+短編1。

William Dieterleの"September Affair" (1950) - 『旅愁』。ひさびさに。

技師とピアニストがローマからNYの機上で出会うのだが、機の故障でナポリに降ろされるの。この故障だと時間掛かるから、とちょっとだけ観光して少し仲良くなって空港に戻ったら飛行機はすれ違いで飛んじゃってて、しょうがないから宿取って待つことにしたら、乗るはずだった飛行機は墜落してしまい、死亡者リストに自分たちの名前があるのを見つけて、あたしたち死んだことになっちゃった… と。

ふたりは新しい場所で新しい生活をはじめることにするのだが、ピアニストの恩師はあんたそんなことやめとき… ていうし、NYに遺された男の家族はなんか変だ… と動きはじめて。

ふたりの新しい生活がゆっくりと周囲に暴かれていく、という流れよりも、ふたりの新しい生活、新しい時間を持続させたい、というその思い、でもそれが長続きしないことはどちらもわかっている、その微細な繊細なせめぎあい、神経戦を見るべきなの。

男は技師としてまだやりたい仕事があるし、女はピアニストとして成功したい、そしてふたりの人生はすでに秋にさしかかろうとしている9月で、やがて冬が来ることもわかっているの。
だから一緒に過ごせたら、とおもうし、だから... 
最初のほうでふたりが立ち寄ったナポリの食堂で流れるワイルの"September Song"、そのときからふたりは全てわかっていたのではないか、と。

だからあのラストにぶつぶついうのはおかしいの。 あれが9月になった大人の取るみちなのよ。 ジョーン・フォンテイン、いいよねえ。

『ジェニイの肖像』(1947)も久々に見たいなあ。


おつぎ、GW期間中は、おまけでローレル&ハーディの短編がかかることになっていて、"Double Whoopee" 『バカ騒ぎし過ぎ』(1929)  ていうやつ。

ホテルのドアマンとポーターに採用されたふたりがどたばたするの。はたきまちがいが連鎖して伝播して大騒ぎになるところがいつも通りおかしい。今回は目潰しとか。 あと、ブレーク前のジーン・ハーロウさんが登場して一撃必殺の後ろ姿を見せてくれる。 すごーいの。


それから"Secret People" (1951)。 オードリー目あてのおばさんがいっぱいいたが、彼女は端役だし、この邦題はまったくありえない、ていうかわけわからない。
英国のイーリング・スタジオ作品で、ここはコメディだけじゃなくて政治ものも地味だけどよいのを作っているの(昨年見た"Went the Day Well?” (1942)とか)

英国で暮らす食堂の主人のとこに、某国にいる旧友から、政争に巻き込まれてやばくなったので娘ふたりを預かってほしい、と言われて、後から彼女たちの父の遺品が送られてくるの。
で、みんなで遊びに行ったパリの万博で、姉は国に残っていたかつての恋人と再会する。 恋人は政治組織でなにやらやっている模様で、姉が彼女の父を粛清した将軍を憎んでいることを知ってて、それを理由にコンタクトしてくるようになって、やがて。

最初は彼女も彼の求めに応じて動いてあげるのだが、だんだん怪しいと思うようになり、いろんなもの - 警察すらも- が信じられなくなっていく。 誰が悪いかはすぐわかるし、全体として粗いかんじだが、自分の手の届かないところで何かが動いていて、あたしの家族も人生もどうしてくれるのよ! の怖さはじゅうぶん。

妹役のオードリーさんのバレエは、思っていたよかずうっとちゃんとしてて、ふうん、ておもった。

5.01.2011

[film] The Fighter (2010)

もう5月になってしまったのね。

殴り合い映画は苦手だし、感動の実話だというし、だとしたらどっちかが死んじゃうのかもしれないし、と思っていたらオスカーの後でこれがモデルの兄弟です、とかゆってるさびれたふたりが出てて、あー死なないんだったらいいや、と行くことにしたものの、だらだら行けないまま終りそうになっていたので、水曜日の夕方にずるして抜けて見てきました。

かつて天才ボクサーと呼ばれ、そこそこまで行ったものの今は転落してヤク中になっている兄と、兄を慕いつつも越えねば、という葛藤のなかでぐだぐだし続ける弟のおはなし。 必殺技はないの。打たれて殴られて我慢して、最後にお兄ちゃんの言った通りにやったらできたよ、ていうの。

David O. Russellなので、もっとマッチョでこてこてべっちゃりしたものかと思ったら、全体の印象はびっくりするくらい軽い。よい意味でね。

オスカーの助演賞ふたつとっているし、役者さんはみんなすばらしく、そこらの町のおじさんおばさんとして、ふつーにいるかんじ。

やっぱしあれよね、あの一族のずらーっと並んだジャンキーなおねえさん達だよね。 ファイトとしてはこの連中とAmy Adamsのきんきんした引っ掻きあいのがおもしろかったりする。 ていうか、俺は世界タイトルを獲れるぜったいやれる、という固い信念ではなく、あたしたちが後ろにいるんだから負けるわきゃない、だって、なんたってあたしたちなんだからさ、という一族郎党の無謀な妄信が全編をドライブしている。

そりゃよかったねえ、としか言いようがない、あるいみ能天気で適当なかんじが基本にあって、かといってそれらを擁護も愛顧も感謝もしていないから、いいのかも。

しかし、アメリカ人のあんな家族に生まれたりしたら、ほんと大変だし、面倒だよねえ。 
て、しみじみ思って、でも、日本もおんなしなのかー、とかね。 でも、日本でこういうの描くとぜんぜん別の方角に行くよね。

音楽は、ボトムのぶっとい、ぶいぶいした古今の名曲ががんがん走っていくとこがすばらし。 これなら、むこうのRPXのでっかい音で聴いとくんだった。
ゆいいつ、開演前から白蛇の"Here I Go Again"がずうっと鳴ってて、むかしから大きらいなので、文句いおうと思ったら、それが主人公のテーマ曲なのだった。