3.28.2024

[film] Ghostbusters: Frozen Empire (2024)

3月22日、金曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。
公開初日の金曜日の晩なのに、10人くらいしかいなかった…  考えられる理由:①金曜日の晩に映画を見る奴なんて ②アメリカの幽霊話なんてちゃっちくて見てられない

“Ghostbusters: Afterlife” (2021)からのキャストと背景/事情をそのままNYに持ってきた続編で、監督だったJason Reitmanは脚本のほうに、前作で脚本を書いていたGil Kenanが監督になっている。

舞台がNYに移ったというのに”Ghostbusters” (2016)が完全になかったことにされているのはまことに腹立たしい。このシリーズもこれを最後に消えてくれていい(というくらいこの件については頭に来ている – SONYに)。

Callie (Carrie Coon)、Gary (Paul Rudd)、Trevor (Finn Wolfhard)、Phoebe (Mckenna Grace)の半家族はオクラハマの田舎からNYに移ってきてWinston (Ernie Hudson)の所有するFirehouseを拠点にGhostbustersをやっていて、Janine (Annie Potts)もRay (Dan Aykroyd)もDr Venkman (Bill Murray)も出てくる(顔をだす口を挟む、という程度だけど)し、かつていじわるだったWalter Peck (William Atherton)は市長になってて、相変わらずいじわるで。

そこに怪しげなNadeem (Kumail Nanjiani)がやってきて、彼の持ちこんだ祖母の遺した丸い塊りからなんでも凍らせてしまうお化けがでてきてびっくり… というそれだけなの。

1984年の最初の”Ghostbusters”が大好きだったので、ついあれを基準にして見てしまうのだが、なんかやっぱり…  Ivan Reitmanに捧げる、って最後に出てきて、過去のシリーズの人たち(2016年版を除く)もみんなやってきて楽しいのだが、これ、基本であるべき幽霊退治のどたばたコメディ、ではなくなっているような。なんでも凍らせるモンスターが古代のなんかから解き放たれ蘇ってパニックを巻き起こす – それをやっつけろ! ってだけで、大切な人に幽霊 or お化けが取り憑いてどうしよう.. 助けにいくから待ってろ! のちょっと怖くてどうなるんだろう? の従来の路線のはどこかに行ってしまった。かわりにあるのが、幽霊退治の活動を禁じられ、家族から孤立してひとりぼっちのPhoebeが幽霊のMelody (Emily Alyn Lind)に儚い恋をするとこで、ここ、悪くはないけど全体の流れの中ではなんか浮いてしまっている。

あと、NYの街を氷まみれにしたってあそこの住民はそんなの慣れているので効かないと思うよ(だから町中が騒然となるようなシーンがそんなに描かれないし、囲われた狭いエリア内でバトルしているだけ、に見えてしまう)。

1984年版でマシュマロマンの頭がビルの隙間から見えた瞬間の鳥肌、というのが自分のなかにはまだはっきりと残っていて、あれと同じくらいでっかいのが現れて圧倒してくれないのはとってもつまんない。代わりにちっちゃいマシュマロマンがグレムリンみたいに大量に出てくるけど… (あれはずるいわ)

オリジナル版のRick Moranisに相当しそうなおとぼけキャラ、と言えそうなのが今回のKumail Nanjianiで、彼のまわりだけ変な風が起こるのだが、ここ以外の若いバスターズ – 特にぜんぜん活躍しないFinn Wolfhardとか - は極めて弱いと言わざるを得なくて、あれじゃ幽霊たちには勝てなさそうな。

この週末にやはりサブタイトルに”Empire”の付いたフランチャイズで、ポスター見ただけでろくでもなさそうな怪獣ものが公開されるのだが、あれ、だれも止める人がいなかったのだろうか?


自分のなかで文化とかアートとか、その周辺について見たり考えたりする時の基本線のようなものを教えてくれたのは、まずRaymond Williams、続いてTerry Eagletonで、いま英国にいるのも彼らの著作に触れたことが大きかったと思うのだが、今日ついに、Terry Eagletonのレクチャー(&歌)を聞くことができた。 なんとなく節目の季節にうれしいことでした。

3.27.2024

[theatre] The Hills of California

3月13日、水曜日の晩、Harold Pinter theatreで見ました。演劇を見ていこうシリーズ。

作はJez Butterworth、演出はSam Mendes。Sam MendesのとIvo van Hoveのは、なんとなく入りやすい気がするので見る。Sam Mendesの”Empire of Light” (2022)は、評判よくなかったけどわたしは結構好きで、この舞台にはあの世界にも似た失われてしまった過去から吹いてくる風を感じるような。

1976年、熱波に見舞われた海沿いのリゾート地、ブラックプールで宿屋をやっている木造の古い家屋がある。3階くらいまでの急な階段があって、部屋にはアメリカの州だか町の名前が付いていて、癖のある宿泊客がふうふう言いながら階段を昇っていったりする – そこの上の階だか袖の方だかにある見えない部屋に寝たきりになった病人がいるようで、それはここの主人だった母、その介護をしているのが真面目そうな末娘のJill (Helena Wilson)、その上の姉Ruby (Ophelia Lovibond)も、更にその上の姉Gloria (Leanne Best)も実家に戻ってきて、どちらも今の生活とかこれまでのことで疲れて愚痴と悪態を吹きまくりで大変そうで、Jillがひとり黙々と真面目にがんばっていて、一番上の姉のJoan (Laura Donnelly) – かつて姉妹の希望の星で、一番成功してカリフォルニアに渡っていて、いくら手紙を出しても返事が戻ってきたことがない – でも誰よりも一番待たれている伝説の、最強の長女 – だけが帰ってこない。彼女さえ戻ってきてくれたらー。

第二幕は同じ家で、まだ母(Laura Donnelly二役)が若くて、彼女を囲む四人姉妹がみんなで歌って楽しく夢を見ていた頃の思い出が浮かびあがる。姉妹の歌と振付はずっと練習しているのでみごとに決まっていて、これなら揃って芸能界デビューも、とか言っているとアメリカからそういうのを仕事にしているぽい男が泊まりにきて、彼の前で姉妹がレパートリーを披露すると、彼はJoanひとりを指さして、上の部屋で直接聞いてみたい、と不気味なことを言い、それがどういうことかなんとなくわかっていながら、誰も止められずに…

第三幕はRolling Stonesの”Gimme Shelter”にのって華々しく、というか彼女も別なふうに疲れてやつれて苦しんでいるようなJoanが登場して、家を出てからここまでの悲惨に見えなくもないあれこれを土産話のように語り、そんなのいいから母さんに会ってあげて、というJillとぶつかったりしつつ…

こないだNational Theatreで見た”Dear Octopus”も、数年ぶりに父母のいる実家に戻ってきた子供たちの話 – でもこちらが金婚式のおめでたい集いだったのに対し、こちらのは悲しく辛く、それぞれの目に見える重荷を背負って傷だらけの再会で、でもタコみたいに絡みついたら離れない「家族」的ななにか、はおそらく共通している。その吸盤の痣はこちらの方が深く痛々しいかも。

Joanが家を出てカリフォルニアに渡ってどさまわりのロックスターみたいなヒップで荒れたやりたい放題をしていたその反対側で、Jillは結婚もせずにひとり真面目に暮らして、真ん中のふたりの姉妹にもそれぞれいろいろあって… この劇でちょっと残念なところがあるとしたら、彼女たち(母も含めて)の家を出てからの、或いは残ったままの苦難の旅をひとつ屋根の下になんの縛りも拘りもなく寄せ集めて宙に浮かせてしまったこと、だろうか。それぞれの立場や似た境遇の誰かを思ったり思いだしたりしてしんみりすることはあるのかも知れないが、それだけだととっ散らかって弱いかも。 JoanとJill(or 他の姉妹)は正面からぶつかって大喧嘩すべきだったし、(無理だとわかっていても)母になにかを語らせるべきだったのでは、とか。

昭和くらいの昔の、都会と田舎の話、四姉妹の話、家族のどこかで止まってしまった時間、など日本の寂れた町を舞台にしたドラマに翻案しやすい要素もいっぱいあるか、な?

英国の西海岸とアメリカの西海岸と。ブラックプール、行ってみたくなったかも。

3.25.2024

[film] Sex is Comedy: la révolution des coordinatrices d'intimité (2024)

3月16日、土曜日の晩、BFI SouthbankのBFI Flareで見ました。
英語題は”Sex is Comedy: The Revolution of Intimacy Coordinators”。

映画やドラマ制作の現場でIntimacy Coordinators(以下IC)という仕事、職種が使われるようになった、というのを聞くようになったが、それってどういう要請に基づいてどういうことをやる仕事なのか、をフランスの現場と比較のために英国にも行ったりしながら説明していくドキュメンタリー。とても勉強になった。

フランスの映画制作の現場 - 監督も含めて女性スタッフが多く(映画の中では言及されないが撮影されているのはIris Brey監督による“Split” (2023))そこに主演するふたりは女性で、うちひとりはSavegesのJehnny Bethさんで、彼女が昔、初めて映画の撮影でセックスシーンを演じることになった際の戸惑いと恐怖を語り、雇われたからにはやらなければいけないと焦るし、悩んでいると進行に影響がでるので従わざるを得ないのですごいストレスだった、と。ここには単なる労使関係以上の明確な力関係があって、それがセックスというその人の存在の根幹に関わるものである以上、撮り方、その結果どう見えるか、どう見られたくないか、等については撮る側/撮られる側それぞれできちんと話し合って合意した上で進める必要があるよね – という事情と、だからそこでIC(的な存在)が必要とされるのだ、というのがわかる。

こうして現場で、ICと女優たちと監督を含むスタッフは都度話し合い、場合によってはダメだししたりしながら撮影を進めていく様子が描かれる - 割と楽しそうに笑ったりするとこもあったり。そうやってどれだけ注意深く撮ったものでもレーティングで12+をくらって悔しい… って監督は泣いちゃったり。

いやいや - 現場で監督は神のはずだし作品は彼/彼女のビジョンをアートとして具現化するものなのでそこに第三者との合意形成のようなものが挟まるのはおかしいのではないか - 実際にフランスでICはまだセンサーシップや検閲の文脈 - 表現の自由への介入としてとらえられることが多いそう – なのかも知れないが、このやり方が女優にとって苦痛でしかない演技を「体当たり」として賞賛する傾向とか、知らないなら教えてやるよ、という(つい最近もあった)性加害の土壌になりうるのであれば、正されないとだめよね。

Weinsteinのケースもそうだし、最近の日本の映画関係者の性加害のケースを知ると、これまで見てきた映画の見方やクラシックのありようも変わってくる気がして、でもそれでよいのだと思う。

この方向、日本だと、そういうのなんだか面倒だから俳優を使わないアニメやAIが加工したやつでいいや、の傾向に向かって加速する気がして、これはこれですごく嫌なんだけど…

あとこの役割って、映画撮影の現場だけじゃなくて、パワハラがまかり通りそうな過酷な大規模プロジェクト全般にあっていいもんよね。- こうしてプロジェクトの予算は更に膨らみ…


Hidden Master: The Legacy of George Platt Lynes (2023)

3月17日、日曜日の午後、BFI Flareで見ました。

アメリカの写真家George Platt Lynes (1907-1955)については、Jack WoodyのTwin Palms Publishersの写真集(必携)で知っていたぐらいだったが、存命中の関係者 – Bernard Perlinなど - にもインタビューして彼の写真を中心とした業績とその全容を明らかにする包括的なドキュメンタリー。思っていた以上にすごい広がりのあるお話しだった。

NJに生まれて1925年にパリに渡ってGertrude Steinのサークルに入り、戻ってからNJに書店を開いて周りの友人たちの写真を撮るようになり、またフランスに戻ってJean Cocteauや画商のJulien Levyらと親交を持つようになり、その友人たちを撮り始めたりしつついろんな裾野が広がったり開けたり。

Harper's Bazaarなどのファッション写真やGeorge BalanchineのNew York City Balletを撮った写真のコマーシャルかつソーシャルな成功だけではなく、友人たちのゲイ・サークル内で撮ったプライベートなものも(そっちの方が)おもしろい(... 当時としては相当すごいことをやっているのでは)のが多くて、Robert Mapplethorpeなど、彼なしには登場しえなかったのではないか。

今回の映画では(あの)Kinsey Instituteに残されていた膨大なアーカイブ資料(の発見)が元になったそうだが、映画の最後にChristopher Isherwoodと一緒にいる動いて笑っているGeorge Platt Lynesの映像(撮影はDon Bachardy) - 一瞬だけど - を見ることができて、おおーってなる(これを発見した際の興奮もすごかったって)。

上映後のQ&Aで、現在彼の大回顧展を企画中だがアメリカのメジャー美術館はスポンサーがつかない状態のまま止まっていて、パリの美術館(名前は絶対明かせない、って)と交渉中だそうな。ロンドンにも来てほしいなー。


Orlando, ma biographie politique (2023)

3月17日、↑のに続けて見ました。これもBFI Flareから。
英語題は”Orlando, My Political Biography”。これもドキュメンタリー。カラーをつけたフレンチブルのポスターがかわいい。

作・監督は哲学者/作家のPaul B. Preciado、昨年のベルリン映画祭でTeddy Award (ベストドキュメンタリー)を受賞している。

Virginia Woolfの小説”Orlando: A Biography” (1928)で、主人公のOrlandoは物語の途中で性別を変える(時間も超えたりする)。 現代フランスのいろんな年代(8歳から70歳まで)の26人のトランスジェンダーやノンバイナリーの人たちを集めて、彼らのこれまでの苦難の旅の物語を語ってもらい、自分はOrlandoである、と宣言することで解き放たれるものがある、と – やらせには見えない。本当に苦しんできた、大変だったんだねえ、というのと、文学は(音楽だって絵画だって映画だって)こういう形で人を救うこともあるのだよ → 「なんの役にたつの?」とか言っているバカども。 最後に判事役の人がひとりひとりに新しいパスポートを渡していくところはなんだか感動的なの。

短編の”Old Lesbians” (2023)を見た時(3/14)にも思ったけど、性差とか男女間の恋愛がいかに社会や制度・権力のありようと密に、都合よく結ばれて広められたもの - 生物としてのそれと関係ないものであったか、昔は無反省にどうでもよくて酷かったんだなあ、というのと、今は今で… というのもまだまだあるねえ。

[film] Merchant Ivory (2024)

3月16日、土曜日のごご、BFI Flareで見ました。内容からすれば、べつにFlareの枠にしなくても。

プロデューサーのIsmail Merchant (1936–2005)と監督のJames Ivory (1928- )と脚本のRuth Prawer Jhabvala (1927-2013)、他に音楽のRichard Robbins (1940-2012) 等からなる映画制作プロダクションで、いまや”Call Me by Your Name” (2017)の原作者としての名の方が先に来るかもしれないJames Ivoryが監督した”A Room with a View” (1985)〜 “Maurice” (1987)〜”Howards End” (1992)などについて、あれらって何だったのか、を振り返っておきたい季節に、このドキュメンタリーはちょうどよかったかも。

E.M. Forsterを原作とする文芸大作の雰囲気と格式を持ちながら、見てみると中身は空っぽのすかすかで、でも衣装と雰囲気だけはとてつもなくうっとりさせられて、あの土地に、あの世界に行きたい浸りたい! って強く思うけどほんとにただそれだけで、でも興行的には当たったりしたので映画マニアの人々からの評判はよくない(気がする)

他方で80年代中頃、カラスで真っ黒のゴス連とか頭悪そうなニューロマのだっさいファッションとか、周囲の「音楽好き」の傾向とセンスにしみじみうんざりしていた若者にとって、これらの映画で展開される表層を滑っていって後になんも残らないふうに構築されたドラマの、登場人物たちの纏うファッションの世界がどれだけ輝いて見えたことか。 これらとThe Style Council(2枚目まで)がいなかったらどうなっていたことか、ていうのはよく思う。 “Downton Abbey”のヒットだって、若い頃にMerchant Ivoryの世界に触れた人たちが動かした部分も小さくないのではないか。

映画は、当時のキャスト - Helena Bonham Carter、Emma Thompson、Hugh Grant - なぜ彼が話しだすと人は笑ってしまうのか? - やその中心にいて唯一の生き残りであるJames Ivoryへのインタヴューとスタッフの声を集めて繋いでいく証言集で、給料の未払いでプロダクションに訴訟を起こしたAnthony Hopkinsはやっぱりいないし、Maggie Smithは参加していない。Maggie Smithさんはお話ししてもいいけど憶えているのは毎日がカオスだったこととカレーのことくらいなのよ、だって(後の監督とのトークで)。

プロダクションの力学としては三権分立が機能していて、James Ivoryが大統領、Ismail Merchantが議会、Ruth Prawer Jhabvalaが最高裁判所だった、と。わかったようなわかんないような(なんとなくわかる)、でもIsmailが亡くなったりしてこのバランスが失われると自然消滅していった、と。

どのスタッフからもキャストからもくどいくらいに強調されていたのが、どの作品のプロダクションも財務的には破綻してて誰もどこからどうお金を調達できてまわせるのか、まわしてよいのか、まわっているのかがわからない - いわゆるふつうの謎と「カオス」にまみれた状態であった、と。そういう混沌と破滅状態のなかであの華麗っぽい貴族王朝ドラマが撮られていた、というのは痛快かも。

最初の方ではインドで”Shakespeare-Wallah” (1965) - これはおもしろいよ - などを監督として作ってそれなりに成功していたIsmail Merchantの姿や、彼とJames Ivoryの出会い、インドとの関わりなどが紹介されたりするのだが、そこから何がどうなってあの破綻まみれの自転車操業 - なのにゴージャスで素敵なドラマに繋がっていった/いけたのかはあんまわからなかったかも。これはこれでおもしろいのでよいけど。

階級とか階層とかしきたりとかモラルっぽい壁とか、もちろん恋とかいろいろ、殆どの人にもれなく纏わりついてきて悩ましいったらないけど、そんなのどんだけ泣いて悩んだってお金や身分で解決できるもんでもなし、どうすることもできない - そういうものもある - だから悩んでないで着飾って踊って恋して遊んじゃえばよいのだ主義(どうせ2000年になる前に世界は滅びるさ)というかスタンスというか、これって中長期的にはどろどろは見たくない聞きたくないの事勿れ保守とか「アートに政治を持ち込むな」派に向かいがちなものであったのかもしれない。

でもよく見てみればここには政治や権力や制度にまつわるあれこれが重層で押し込められていることがわかるし、これこそが文芸の、アートの力なのではないか、というのはコロナの頃に彼らの作品を見返して改めて思ったことだった。

あと、あれらのかっこいいコスチュームをどうやって作っていったのか - コスチューム担当のJenny Beavanさんのインタヴューもあって、上映が終わったら彼女が真後ろに座っていたのでありがとうございました、とお礼した。

当然のように見返したくなったので主要作品だけでもスクリーンで再び見れますようにー。


Maurizio Polliniが亡くなった。
90年代のカーネギーホール(ベートーヴェンソナタの全曲演奏、出張で2回逃したのがいまだに悔やまれる)をはじめ、いちばんコンサートに通ったクラシックの人でした。柔らかさと強靭さというのはひとつの楽曲のなかであんなふうに共存しうるものなのか、というのを返す波のように教えてくれた。ありがとうございました。

3.23.2024

[film] Robot Dreams (2023)

3月17日、日曜日の昼、Curzon Aldgateでみました。

正式公開は22日からなのだが、先行でやっていた。こないだのオスカーにもノミネートされていたアニメーションで、予告でEW&Fの”September”が流れてくるシーンだけであーこれはぜったい泣くやつだわ、と思って、こういうのは早めに見る。

原作はSara Varonのグラフィックノベル、脚本は彼女と監督Pablo Bergerの共同。

シンプルで素朴な線とぺったんこのカラーでできたアニメーションで、人間は出てこなくて、動物たちが服を着て都会で暮らしていて、表札とか広告はだいたい英語表示だが、彼らが英語で言葉を交わすシーンはなくて、「あー」とか「おぅ」とかそういうのを発するだけ。ナレーションもない。 いろんな動物がそこらじゅうにいる社会。「ペット」はいない。「君たちはどう生きるか」に出てきそうな謎な生き物もいなくてその欠片もない。地下鉄のホームで太鼓を叩くタコ、には笑う。

舞台は明らかにNYのイーストヴィレッジ(みたいな町) - 地下鉄も、アイスクリーム屋の音楽も立ち食いピザスタンドとか歩いて抜けていく町のかんじも - で、主人公は”Dog”で(表札にも”Dog”、ほかに”Chicken”などもいたり)、なにをして生計を立てているのか不明だがアパートに一匹で暮らしてて、初期のTVゲームをしたり、マカロニチーズをレンジで温めたり、ソファの後ろには”Yoyo” (1965)のでっかいポスターが貼ってあって、窓際にはマジンガーZらしきフィギュアなどが並んでいる。

設定は80年らしいが、後で借りてきた”The Wizard of Oz” (1939)のレンタルビデオにKim’s Videoのロゴがあったので、だとしたら95年くらいではないか ← うるさいよ。

Dogは毎晩退屈でつまんないので、通販で友達ロボットを購入して、自分で組み立てて起動してみたら動いて、一緒に公園とか町中とか浜辺に連れて歩いて友情を深めていくことになる。このシーンのバックに”September”が延々流れてたまんなくなるところ。喋りがないので手を繋いで並んで歩いて目で合図したり、それだけなのだがそれだけなのにほんとにまったく。

ふたりでビーチに行って、楽しく遊んで浜辺に寝転がって、帰ろうとしたらロボットが動けなくなっている – でも目は開いて頭は少し動く - 錆びついたのか燃料がなくなったのか、重くてDogいっぴきでは動かすこともできず、一旦もどって修理マニュアルを携え道具を揃えて浜辺に向かうのだが、その日がシーズン最終日で鍵がかかって入れて貰えず、無理やり入ろうとしたらゴリラの警察だか警備員だかがきて、何度突破を試みても追い出されて入れて貰えない。

春になってビーチがオープンしたら絶対に迎えにいくから、ってDogは決意するのだが、浜辺でずっと横になっているロボットは季節が変わるたび - 冬になると雪で埋もれる – いろんな楽しかったりはらはらしたりの夢を見て過ごす。これが”Robot Dreams”なの。

主がいなくなっても動き続けるロボットのお話、というと”Silent Running” (1972)とかラピュタとかが思いつくけど、そのロボットがお友達ロボットだったら、という辺りがちょっと切ない。

そしてつまらない日々に戻ってしまったDogのほうは…  ここから先は書かないほうがよいか。

これじゃ絶対に泣いちゃうぞ、と見る前に思っていた方にはいかない、ちょっと苦めの、どうすることもできない都会の、NYだったらいかにも、なラブストーリーのようになっていて、それをあのシンプルな線と動き、しかも会話のない動物とロボットの間の目線や切り返しのみで作りあげたのはたいしたもんかも、と思った。

これ、Dogを中心に置いておくだけだと寂しさ退屈さをどうにかしてほしいのね、という話になってしまっておわり、なのだが、彼に買われたRobotの目線や夢を持ちこんだところがおもしろくて、ちょっと考えてしまったりして、そこはよいかも。大人向けかなー、子供に見せたらちょっとどんよりしてしまうかも。

[music] The Who

3月20日、水曜日の晩、Royal Albert Hallで見ました。
最後にここに来たのはいつだったか、調べたら2019年のRichard Thompsonの70歳記念ライブだった。

The WhoのRoger Daltreyがずっと取り組んでいるベネフィット・イベント - Teenage Cancer Trustの一環で、18日と20日の2日間行われて、チケットは当然売り切れていたわけだが、辛抱強く狙っているとそれなりの – もちろん正規の - が取れる。チケット代は演劇の高い席よりはぜんぜん安い。

The Whoは1996年にMadison Square Gardenで”Quadrophenia”+αを6晩くらい続けてやったとき、そのうち3晩くらい行って以降、見れる範囲でずっと見てきて、もうそろそろ彼らの方か自分の方かどちらかがくたばってもおかしくない季節になってきたので、そうなる前にもう一度見たいな、と思っていたところ。

Rolling StonesはCharlieが亡くなられた時点でもういいや、と思っているのだが、The Whoについては、RogerかPeteがこれはThe Whoだ、って言っている限りは、The Whoなのだと思うことにしていて、でもそれも危うくなってきた気がしてきて ... 失礼な話しだけど。

前座は19:10きっかりに始まったSqueezeで、彼らのライブも久しぶり、最後にみたのは1994年(ひー30年前..)のAimee Mannと一緒にやったNYのBeacon Theatreのだった。あれは鳥肌まみれになるすばらしくよいライブだったなー。

Squeezeは”Argybargy”の頃からずっと聴いているので、The Whoよりもなじみあるかも。いまのバンドは7人もいるのね。(ピアノとドラムスとギターとChrisだけでよいのに)

“Take Me I’m Yours”から始まって”Cool for Cats”で終わるベストヒットで、よい曲ばっかりでみんな知っているし、それにしてもGlenn Tilbrookは声とかぜんぜん枯れてないし、ギターは相変わらずずっとうまいし、すごいよねえ。彼らはこの夏、The Heartのアリーナのライブの前座もやるの。どうしようか悩み中。

ベネフィット・イベントなのでMCがいて、みんなで寄付しよう!ってくるのでTextしたりしつつ、気がつくとオーケストラが入って、The Whoの時間になっている。客席はみごとに白人の老人たちばっかし。ここだよなー。なんでこうなるのか。アジア系もあまり見ない。なのでひとりで座っていると「だいじょうぶか?」「楽しんでるか?」ってよく声をかけられる。大きなお世話だわ。

構成は、休憩なしの3パートに分かれていて、オーケストラが入った”Tommy”中心のと、オーケストラがいなくなって、初期のを中心としたバンドセットと、再びオーケストラが入った”Quadrophenia”中心のと。アンコールはない。

冒頭の”Overture”~”1921”はオーケストラがいるとやっぱり盛りあがるなー、なのだがRoger、変わらず声はでっかいもののものすごく音を外したり、マイクぶん回しもよれて危なっかしく、Peteもギターのタイミング間違ったり(それも”Won't Get Fooled Again”で…)、しょうがないか... なところはいろいろある。

あと、オーケストラが入った“Who Are You”がなかなかすてきなのは発見だった。

今回、バンドは7名、最後に見た時のBassはPino Palladinoだったが今回のは別のひとで、KeyのJohn "Rabbit" Bundrickの後も知らないひと – どちらもアメリカのセッションミュージシャンらしく、初期のレパートリーをやるとベースの絶望的な弱さ、線の細さが際立ち、フロントの2人もよれよれなので、これじゃ老人のカヴァーバンドじゃん.. に聞こえてしまうのが悲しかった。そんななか、少し丸くなってますますパパ・リンゴに似てきたZak Starkeyだけがすばらしく全体を支えている。彼、ものすごく過小評価されているドラマーのひとりだと思うわ。

バンドセットの最後にストリングスを入れてこじんまりとやった“Behind Blue Eyes”は、客席の老人たちもみんなうっとりしていた。

最後のパートの頭でRogerが「シアトルから友人に来てもらいました」というのであーあの人かー、と思ったらやはりEddie Vedderで、“The Punk and the Godfather”を(もう全員Godfatherじゃねえか)。18日のライブはここが”The Real Me”で、えー”The Real Me”やってくれないのー、って少しだけ。

最後はお決まりの、”Baba O'Riley”で、お祭りでしゃんしゃんだった。

前に住んでいたとこはここから歩いて帰れたのだが、いまは地下鉄に乗らなきゃならないのがかったるかった。

Melvinsいいなー。また見れますようにー。

3.21.2024

[film] Drive-Away Dolls (2024)

3月15日、金曜日の晩、Curzon SOHOで見ました。
初日の金曜日にしては - 金曜日だからか、がらがらだったかも。

Joel & Ethan Coen兄弟のEthanの方のソロプロジェクトで、Joelの方は”The Tragedy of Macbeth” (2021)で重厚な歴史ドラマを構築 - ってかんじで作ってきたが、そっちを意識したのかしないのか、ものすごく軽くてふざけててお下劣な84分の(ほめてる)コメディを持ってきた。脚本はEthanと彼の妻のTricia Cookeの共同。

1999年、もう少しで世紀が変わろうとしているフィラデルフィアの酒場のブースで、金属のブリーフケースを抱えて怯えた身振りのPedro Pascalが座っていて、何かから逃げようとしているのだが結局捕まってさらりと殺されて首を切られる。Pedro Pascalたったこれだけ。

別の場所で、同居していた恋人同士のJamie (Margaret Qualley)とSukie (Beanie Feldstein)が爆発的な痴話げんかをして、Jamieは家を出て、友達のMarian (Geraldine Viswanathan)が計画していたフロリダ旅行の車に乗っけてもらうことにする。まじめできちんとしたMarianはがさつで乱暴なJamieに引っ掻きまわされたくないのだが、ねじ込まれてどうすることもできず、片道だけのレンタカーを借りようとしたら、それが窓口にいた不機嫌なBill Campの手違いで、他人に割り当てられていれた車を押しつけられ、そこにPedro Pascalの抱えていたブリーフケースが隠されていてー。

彼女たちが発って暫くして、彼女たちが乗っていった車を借りるべくやばそうな3人組 - Arliss (Joey Slotnick), Flint (C. J. Wilson), Chief (Colman Domingo)が現れて、自分たちの車が間違って持っていかれたことを知るとBill Campをぼこぼこにして、電話口で動揺するクライアントを落ちつかせてとにかくふたりを追っかける。相手はガキ娘だからちょろい、と。

Marianは早くフロリダに行きたいのだがJamieはいろんなことをして楽しみながらいきたい – 特にMarianを自分たちのレズビアンの世界に引きこみたくて、そのうちにそうなった、と思ったら車がパンクして、スペアタイヤを出そうとしたら、ブリーフケースと氷で冷やされたPedro Pascalの生首が。そしてブリーフケースの中に入っていたもの、とは。

いけいけ女子(死語)vs. まぬけギャングたち、の珍道中&追いかけっこで、最後の方では知事としてMatt Damonも出てきたりする。 – どうでもいいけど、こういう映画の端役で出てくるMatt Damonてなんでいっつもあんなふうなの?  ふつうにこの先どうなるか簡単に予測できて、意味不明のサイケだんだら模様とか、お下品なあれこれとか、John Watersみたいな(一見)極彩色の世界が広がっていく。たぶんリファレンスとしている過去の映画は他にもいっぱいあるのだろうが、そういうのよりもさらさらと軽く、レズビアンの女子たちの底抜けのオープンな明るさと身内で固まってぐさぐさやりあってしまう男たちの対比、それを嘲笑うかのようにその間で交換される「あれ」と生首、という構図のおもしろさがある。どうせなら”Home Alone”スタイルでギャングをズタズタにしちゃってもよかったのに。

あと、道中でMarianがずっと読んでいるHenry Jamesの”The Europeans” (1878)、と思うとギャングの親分のChiefは車のなかで”The Golden Bowl” (1904)を読んでいるし、Sukieの飼っている犬の名前は Alice B. Toklasだし、世紀の変わり目、を意識していることはなんとなくわかる – いや、見えていないだけで他にもあるのかも、いや、そんなのどうでもいいか… になってしまうくらい話としてはしょうもないかも。

でも好き嫌いていうととっても好きで、真ん中の3人の女性のコントラストがよくて、特にこういうのに出てきた時のBeanie Feldsteinさんの爆裂ぶりは実に気持ちよく、しょうもなくなりそうなオチを引っ掻きまわしてくれる。後になんも残らないのは変わらないかもだけど。

[film] Chasing Chasing Amy (2023)

3月14日、木曜日の晩、BFI Southbankで始まったBFI Flare (3/13~24) で見ました。

BFI Flareはここでずっと昔からやっているLGBTQIA+のフィルム上映を中心とした映画祭で、この期間中はBFI Southbankの通常の上映プログラムはなくなって、チケット発券の仕組みも変わって、少しだけあーあなのだが、いくつか見始めると当然のようにおもしろいの、勉強になるのが出てきて止まらなくなる – ここもこれまで通り。

これがデビュー作となる監督のSav Rodgersが自身のqueer identityに悩み始めたティーンの頃、Kevin Smithの”Chasing Amy” (1997)に出会って惹かれてのめり込み、何度も見ているうちに救われた – あれってどういうことだったのか、を映画の関係者へのインタビューを通してchaseしていくドキュメンタリー。あの映画の魅力や秘密を解きほぐして明らかにする、というよりも(それもあるけど)、彼自身がなぜ救われたのか、の方にやや重点が置かれている。

”Chasing Amy”は、すごく簡単にまとめるとごく普通のぼんくら男子Ben Affleckがレスビアンの女の子Amy (Joey Lauren Adams)を好きになってしまったことから巻き起こるrom-comで、いまでは割とふつうに転がっている話かもしれないけど当時としては珍しいテーマで – でもそんなの意識しないで楽しんだ記憶があり – 評判もよかったので映画館で見て、DVDも買って日本の積まれているどこかにある、はず。

監督のSavは自身の切ない”Chasing Amy”体験をTED Talkで語り、その内容が話題を呼んでKevin Smithからも声が掛かって、カメラマンを連れて” Clerks” (1994)のあのお店を訪ねたりした後にKevin Smithの家に行って彼といろいろ話して、その後にAmyを演じたJoey Lauren Adamsにもインタビューする。 Ben Affleckは出てこない。並行して、悩んでいる時期に出会ったRiley- 彼女はレスビアンだった - と絆を深めていってプロポーズしたり。

”Chasing Amy”の秘密というか、おもしろさについては、映画を見てもらうしかないのだが、この映画のどこがどうで、ということ以上に、恋愛も含めたレズビアンのありようを「ふつうの」がさつな男子の視点も絡めたドラマとして世界に置いて波を起こしてみせた、という点で、ここにGuinevere Turner - 彼女も登場する。さいこう - の“Go Fish” (1994)が並べられると、やはりこの頃に何かが動いたのかも、というのはわかる。そういうのが当時それらについてなにも考えていなかったであろうKevin Smithという若者から(意図していなかったにしても)出てきた、というのも含めて。

Queerカルチャーに与えた影響、というやや大きめの話と、これの裏というか地下ではっきりと進行していたハリウッドの性加害の話も出てくる。”Chasing Amy”はMiramaxの配給で、Kevin Smithはその頃のHarvey Weinsteinのお気に入りだった – その頃、というのはWeinsteinがRose McGowanらに性加害をしていた、まさにその頃のこと。(この件についてのKevin Smith本人のコメントも出てくる)

という文化史的な話、というより一本の映画がこんなふうに苦しんでいた若者を救うこともあるのだ、というドキュメントとして見たほうがよいのかも。上映後に登場したSavとRileyの佇まいもすごくよいかんじで。 ただ、”Chasing Amy”に出会ったから、というよりRileyというパートナーを見つけたことの方が大きかったようにも見えて、まあ幸せならよいではないか、って。

四半世紀前にふーん、って見ていた映画にこんな形で再会してその成り立ちなどを”Chase”することになるなんて思ってもみなかった。それは80年代終わりから90年代初の、なんでも冗談にしてふざけていた時代の男子で、そういうノリで映画を作り始めたKevin Smithにしても同じで、そんな彼が複雑な表情をつくりつつ、でも大人としてきちんと対応していたのはよいと思った。


Lesvia (2024)

3月14日、↑の前にBFI Flareで見た、これもドキュメンタリーで、78分の中編。
サッフォーの生地であるギリシャのレスボス島は、レスビアンの語源になった聖地で、70年代頃からここの浜辺に女性たちが集まってキャンプしたり愛しあったり自由に過ごしたりするようになった。この土地で育った監督のTzeliHadjidimitriouさんが、自分でカメラを抱えて記録していた土地の、女性たちの変遷をまとめたもの。

村の人たちから変な目で見られたりしつつも女性たちにとっては天国のような場所になり、でもSNS等も含めてオープンな議論ができるようになった現代では、かつてのような賑わいもなくなった、って。
ネコがいっぱいいる島はよい島。


Old Lesbians (2023)


↑の前に上映された29分の短編。
ヒューストンのArden Eversmeyer (1932-2022)さんがOld Lesbian Oral Herstory Project (OLOHP)を立ちあげて、「レスビアン」なんて言葉も概念もなかった時代の愛の語りや手紙をアーカイブとして残しておくことする。彼女が集めた手紙や記憶の一部が紹介されていくのだが、他の人がどう思っているのかも含めて、自分の女性に対する感情をどう扱えば、表せばよいのかわからないことに対する不安、そこから愛する人を見つけることができた奇跡などについて。 とてもピュアな言葉がいっぱいで、周りは結構泣いている人もいたの。

3.20.2024

[film] Copa 71 (2023)

3月11日、月曜日の晩、Curzon Bloomsburyのドキュメンタリー専門のDocHouseで見ました。

1971年メキシコで、前年に同国で行われたサッカーワールドカップの後に、女性によるサッカーのワールドカップが行われていた、と。その後の歴史から意図的に、完全に抹消されていたそのイベントがどんなふうだったかを50年ぶりに発掘されたアーカイブ映像と関係者へのインタビューと共に明らかにする。

あんま関係ないけど、英国に駐在すると、誰もが一回くらいはサッカー場に行くものらしいが、実はまだ行っていない(NYにいた時は、野球もNBAもUSオープンも一応行った) 。(めったに行かないけど)パブとかに行くと必ずどこのチームのファンか、などの話題がでて、その度に「アーセナル」とか「チェルシー」とか極めててきとーに返してきたのだが、(選手名とかになるとわかんないので)きつくなってきた気がする。別に何返したって誰も聞いてやしないのだが。

最初に90年代の女性サッカーワールドカップが公式イベントになって、そのチャンピオンになったUSサッカーチームの女性に70年代に女性サッカーのワールドカップがあったことをご存知ですか? と尋ねてタブレットでその映像を見せると、わーおこんなの知らなかった! ってびっくりする。(本当に知らなかったのかな?)

そこから女性サッカーの簡単な成り立ちとか歴史 - イギリスでは男性サッカーの盛りあがりと共に女性サッカーも立ちあがるのだが、女性については医学的見地からこのスポーツはよくない、と禁止された時期もあったりしながら、でもやっぱり、と細々とサッカー協会のようなものが組織されて70年にイタリアでFIFAが関与しないインディペンデントな形で第一回が実施され、71年、ワールドカップ後の熱がまだ冷めていないメキシコで代理店が第二回をやろう、とぶちあげて、FIFAの手が及ばないスタジアム(でもでっかい)で実施してみると予選の段階からものすごい熱と共に動員数もあがっていった。

というのと並行して、当時の各国の代表選手たちが初めて飛行機に乗ったりしながら未知の国メキシコに向かい、現地でのスター扱いにびっくりしたりしながら試合を進めていって、最後の決勝戦は、とてつもない動員 – いまだに女子のスポーツイベントの動員記録になっているそう – となって、見ると確かにとんでもない盛りあがり、ではある。

いまは高齢になっている各国の選手たちと一緒に見ていくそれぞれの試合の中味もスリリングでおもしろくて、それは映画を見て貰いたいのだが、問題は彼女たちが帰国後、FIFAのお触れだかなんだかで一切の風が止まって、女性サッカーが規模の大きなイベントとして開催されることはなくなり、振り返られることすらなくなり、歴史から消されてしまったこと。これは今の地点から見たらはっきりと差別としか言いようのないアレで、それを指示した当時の関係者を呼び出してもっと怒ったり罰したりしてよいくらい酷いことだと思った。ほんとFIFAでもIOCでも、スポーツ関係を仕切るあの黒服のじじい達、ただの利権団体のくせに偉そうにやりたい放題やりやがって、ほんと吐気しかないわ。あのスタジアムの熱気と興奮が連中にとっての恐怖・脅威になったのだとしたら、ちょっと痛快でざまあみろ、だけど。

当時の選手だった女性たちの、あそこで試合できて本当によかった楽しかった! という笑顔を見るだけでもよいの。この反対側に、そういうのが我慢ならなかった男たち、っていうのがいて、今も間違いなくそこらに。

Geena DavisやMadonnaが出ていた野球映画 - ”A League of Their Own” (1992) - 邦題は嫌いなので書かない – は、Tom Hanksがうざくてそんなに好きでもないのだが、エンディングで、Madonnaの曲に乗ってモデルになった女性たちが心底楽しそうにプレイしている姿を見るたびにじーんとなってしまう、あのかんじがくるの。

3.19.2024

[film] Nu aștepta prea mult de la sfârșitul lumii (2023)

3月9日、土曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
Previewで、上映後に監督とのQ&Aつき。英語題は”Do Not Expect Too Much from the End of the World”。2時間43分もあった…

ベルリンで金熊を獲ったルーマニアの監督Radu Judeの”Bad Luck Banging Or Loony Porn” (2021) - 『アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ』に続く作品。

ブカレストで映像関係のコーディネーションをしているAngela (Ilinca Manolache)が朝起きてうううーって呻きながら車に乗って、オーストリアのクライアントDoris (Nina Hoss)に依頼されている職場の安全啓蒙ビデオに出演する障害者 - 職場で事故にあって車椅子生活になってしまった人や家族の家を訪ねて、ビデオ出演にふさわしいかどうかを含めてインタビューをしていく。

AngelaがDorisと直接やり取りをするわけではなく、映像制作の注文を受けた会社からの下請けのようなかたちで、すぐ上から適当にスケジュールをねじ込まれたり突然連絡が取れなくなったり、インタビューに向かった先の家の生活も楽ではなくて悲惨だったり、いろいろしんどいのを見たり聞いたり消化したりしつつ、だがそれが仕事なのでー。

Angelaの登場する場面は粗めのモノクロなのだが、彼女の中でいろいろ溜まってきて毒を吐きたくなると、スマホでTikTokに向かってBobițăという別キャラ - フィルターをかけて声も変えてスキンヘッドにチョビ髭、革ジャンのマッチョな男 – に変貌してむしゃくしゃするあれこれをぶちまけて言ってやったぜ、ってやる。ここの映像はカラーになる。

Angelaの車でいったりきたりの仕事と並行して、ブカレストの女性タクシードライバーを描いたLucian Bratuの“Angela merge mai departe“ (1981) - “Angela Moves On” – チャウシェスク時代に作られた – からのクリップが挿入されて、ここは昔のフィルムのかんじが出たカラー。この作品の主人公だった”Angela” - 女優本人といまのAngelaが並ぶ場面もある。

最後の40分は採用された障害者とその家族の撮影場面でワンショットの静止画。障害者となった当人が仕事場での危険と安全を訴えるそのメッセージがステークホルダーの意向だの「適切」な用語への変更だのにより漂白されていくさまが当人たちの苛立ちや当惑もそのままに映しだされる。

あとはAngelaが最上位クライアントのDorisを乗せて高速道路を走っている時、ここの危険な区間で交通事故による死者がいっぱい出ている、という発言の後に、道端のいろんなお墓が次々とモンタージュされていったり。死者も障害者もこんなふうに静かにしていてくれればよいから…(最近、どっかの国でも)。

搾取され酷使されるばかりの労働者、レイヤーになったブルシット・ジョブのしんどさ、ミソジニーに障害者差別にポリコレに、現代を生き抜いてどうにか暮らしていくためにこれだけのゴミやクソやノイズを浴びて耐えていかなければならないのだ、という状況をいろんなアプローチで引用したりコラージュしていって、最後に”Do Not Expect Too Much from the End of the World” – このタイトル自身も引用 - という。

このタイトルも含めてひどいでしょ、しょうもないでしょ、という便所の落書きみたいな作品であろうとしているのだと思うし、でもここを起点に考えるところや「アイデア」はいっぱいありそうだし、観客は大喜びで大ウケして(あんなに笑うのか...)見ているのだが、なんかものすごく不快で見ていて嫌になった。 前作の”… Loony Porno”でもなんでこんなことがあんなふうになっちゃうの? という事態をこれでもか、って仔細に描いてあーあ、だった記憶があるが、こんなのSNSにいくらでも転がっているムカつく動画とどこが違うのか、ていうとそこだよ!それ! って即座に返ってきそうな。

エンドロールでは、映画内の発言は以下の方々の言葉から引用されています、ていうのと、小林一茶と与謝蕪村と松尾芭蕉の俳句(の英訳)まで流れてくるのだが、そういうのも含めてなにこれ? って。

ブカレストがチャウシェスク政権時代からの膿を引き摺ってひどい状態になっていることはわかるし、(どっかの国もそうだから)想像できるし、でもそれってこんな形で笑ったり、いいね!してよいものかどうかがわからない。もう笑うしかないんだよ、なのかもしれない。でもわたしはこの映画で描かれていることについて、この映画が(おそらく)求めているふうに笑ったり頷いたりしてすませるのは嫌なのだと思う。

いろんなレビューでは60年代のゴダールとかゴダールが生きていたらこういうのを、とか言われているのだが、60年代のゴダールなんて「60年代の」ゴダールっていうあの時代のものでしかないし、ゴダールの「いま」は自分で死を選んだんだよ、その意味をちゃんと考えるべきじゃないの?

なんかすごく疲れてぐったりしたのでQ&Aには参加しないで帰ったの。

3.18.2024

[theatre] Nye

3月9日、National TheatreのOlivier Theatre、土曜日のマチネで見ました。
しばらくの間、演劇などを見てみようシリーズ。

脚本はTim Price、演出はRufus Norris。
英国のNHS - National Health Serviceを創った政治家 - Aneurin “Nye” Bevan (1897-1960)の生涯を振り返る - ところどころで歌や踊りが入ったり、そんなにシリアスで重くなく、でも軽すぎるわけがないドラマをMichael Sheenがすいすい引っ張っていく。自分の席からは見えなかったけどブラスバンドのような楽隊がどこかにいて、でも音楽が舞台を強く揺さぶることはない。

Nye (Michael Sheen)は最初から病院のベッドの上、いろんな医療機器に繋がれて妻Jennie Lee (Sharon Small)に付き添われて、意識があったりなくなったり夢のなかだったり、赤の縦縞のパジャマ一丁 - 彼の衣装はエンディングまでこれだけ - でウェールズの炭鉱の坑夫の大家族の10人兄弟(うち4人は子供の頃に亡くなっている)の6番目として生まれてから炭鉱で働いて組合活動を経て政治家になって、あとは妻Jennie - 彼女も政治家 - と出会って、戦争があって、など現在までを振り返っていく。

いろんな患者がいて制服のきちんとした医者やナースもいて、カーテンの仕切りがあって可動式のベッドは自在に動けて、アラームや呼び出しが頻繁に鳴ってせわしなく右左に動いていく病院/病室というのはセットの基礎枠としてはクールにふさわしくて、これがオフィスになったり図書館になったり審議の場になったり、スムーズにトランスフォームしていく。

Nyeの横たわる病院のベッドが起点、というのにはいくつかの意味があって、もう長くないけどここまで来ちゃったねえ、というのと、まだやることは沢山あるのだから早くここを出なきゃ、というのと、出るにしてもくたばるにしても縛られて動けないのはきついし勘弁して、っていうのと。こんなふうに分裂して引き裂かれた状態にある苛立ちや焦燥や居直り等を描くのにMichael Sheenの軽やかなステップと流れるような喋りが絶妙に効いている。パワフルで饒舌で(たぶん)寂しがりで、いろんな人の間を動き回って構ったり構われたりが大好きなひと。

始めはNHSのこともその設立の事情〜政治的背景や経緯も、なによりAneurin Bevanその人のことも十分に知らない状態で見てもだいじょうぶかしら? というのはあったのだが、ぜんぜんだいじょうぶだったかも。もう少し真面目にシリアスに訴えかける内容のものにすることもできたと思うが、その辺を軽めにしてあるのは賛否あるところかもしれない。

国民ひとりひとりの収入ある/ない、多い/少ないによって受けられる医療の質やレベルが違ったり制限が出てきたりするのはおかしいよね? 医療って、誰もが同等に知識を得る機会を持つことができる図書館のようにあるベきではないのか? 政治はそこに手を入れないといけないのでは? というそもそもの目線からNHSを構想して政治の現場、医療の現場それぞれからの嘲笑や大反対、圧力をひとつひとつクリアして現在の形にもっていくのって想像しただけで気が遠くなるのだが、彼はそれをやってのけた、と。

いまだにいろんなニュースのネタに定期的になっているように、NHSには賃金や過労や要員不足で問題がいっぱい、ずーっとあることは確かだけど、それでもこの仕組みを作って維持しているのってすごいことだよね、と思うし、コロナ禍での彼らの踏ん張り - あの時いたからよく知ってる - はまじであの時の英国を救ったと思っている。そう思って感謝している人は少なくないはず。

できればその辺 - Rise of NHSに限った流れと語りにすればもっとストレートで感動的なものにできたと思うのだが、父とのこと、妻とのこと、チャーチルとの駆け引きなど、いろんなことを盛りすぎて、さらに歌や踊りもあるのでややとっちらかったかんじになってしまったのは残念だったかも。Michael Sheenは文句なしだけど。

そして思いがいく先は、働かない奴、稼ぎのでない使えない奴らはこういう公共サービスを受ける資格ないとか迷惑だから自決すべきとか、そういう方向に向かいつつある今の日本の方なのだった。はっきりと教育の失敗だと思うのだが、国として劣悪で最低だし、とても恐ろしい。ムラで固まって他者に分け隔てなくやさしくできない社会ってどれだけ恥ずかしいことか、ってみんなが思うようにならないと。

もうじきライブ配信があるのでそのうちNational Theatre Liveにも来るのかも。なったらよいな。

3.16.2024

[film] La notte di San Lorenzo (1982)

BFI Southbankでのタヴィアーニ兄弟特集の続き。最後に見た3本はどれも題材が悲惨で重かった。


La notte di San Lorenzo (1982)  - The Night of the Shooting Stars

3月2日、土曜日の午後に見ました。 邦題は『サン★ロレンツォの夜』。売り切れていた。
1982年のカンヌでグランプリを獲っている。

星が美しい晩、母親が寝ている子に流れ星の夜にはね.. って自分に言いきかせるように第二次大戦の頃、自分が子供だった頃に町の人たちや家族に起こった話をしていく。

まだ町のあちこちにドイツ軍が残っていて、ファシストもパルチザンもいて、アメリカ軍も入っていて、それぞれの手先が裏に隠れたりしていて、みんなで戦況の話を聞いたり噂を聞いたりどこそこからの指示があったりで固まって教会に逃げたり農村に逃げたりしていくのだが、噂が間違っていたり思い込みに囚われていたり突っ走ったり頑固に留まったり、だれのなにを信じてよいのやらの状態でパニックになったりしながら、結果的には草陰とかどこかからか現れた敵か味方かもわからない連中にあっさりどさどさ殺されていって、どこに逃げても隠れても死はやってくる。

星空にすてきな農村、田園の穏やかでのどかな光景があっても、おとぎ話の正義の味方を夢想しても、戦時にはなんにも、どうにもならずによい人もわるい人も等しくランダムに殺されて消えていって、全体としては悲惨な悲劇なのだが、こんなの悲劇として機能していないでしょ、それくらい唐突に虫のようにひとが殺されていく。わかる? 星に願うくらいしかないのよ、って。


La masseria delle allodole (2007)  - The Lark Farm

3月10日、日曜日の晩に見ました。 邦題は『ひばり農園』。
Antonia Arslanの原作をもとに、第一次大戦期に起こったトルコによるアルメニア人の大虐殺の史実を描く。(兄弟はこのテーマについて、これがジェノサイドかどうかを決めるのは歴史家の仕事で、我々はこれを悲劇、として描いたと)

裕福なアルメニア人の家族がいて、トルコ軍が不穏な動きを見せるなか、自分たち一家はずっとここに暮らしてトルコ側の知り合いも多いから大丈夫、と思っていて、でも実際に軍がやってくることを知ると自分たちの保有する田舎にある「ひばり農園」の屋敷にみんなを匿うのだが、一家に出入りしていたトルコ人の乞食がその場所を伝えてしまったので軍はそちらに向かって、まず男たちは無条件にその場で全員殺されて、女性たちはアレッポの海の方に強制的に行軍させられて…

他の女たちや子供たちを守って最後まで屈しなかった一家の娘Nunik (Paz Vega)を中心に、どんなふうにその地にいた家族や人々が殺されていったのか。タヴィアーニ兄弟の作品のなかでも一番陰惨でむごたらしいものなのではないか。(兵隊に殺されるくらいなら、って自分の赤子を..とか) でも実際にはもっともっと酷かったはずだし、こういうことは今も行われているのだ。そこに住んでいる人たちを、そこにいるからという理由だけで殺していく - どんな理由であろうとも殺してはいけない、って、そこに必ずもどる。


Una questione privata (2017)  - Rainbow: A Private Affair

3月11日、月曜日の晩に見ました。  
タヴィアーニ兄弟が「兄弟」として撮った最後の作品で、Vittorioは病床にあったので、エンディングクレジットの監督のとこにはPaoloの名前だけしかなかったりする。84分と短いし。

第二次大戦中のイタリアでファシストと戦いながら野山を駆けていくパルチザンのMilton (Luca Marinelli)がいて、疲弊した彼の目の前に同窓だったFulvia (Valentina Bellè)の屋敷が現れて、がらんとした屋敷に入れてもらうと、頭にはあの頃、”Over the Rainbow”のレコード – これがタイトルに繋がる - をかけて口ずさんだりうっとりしていた彼女と親友のGiorgio (Lorenzo Richelmy)のことが浮かんで、Fulviaは同じくパルチザンとなったGiorgioのところに行ってしまった、と聞くとGiorgioを探しださねば、になって、ファシストに捕らえられてトラックで連れ去られたという彼を求めてひとりで山奥に入っていくの。

最初はFulviaを恋しがっているのかと思っていたらGiorgioを見つけて辿り着くほうに狂ったようになって、Luca Marinelliなのでその狂いっぷり、明らかにおかしくなっていく目の光がすごくて、ここだけでも見るべき、なのだがそれと同等か、それ以上に靄や悪天候でぐじゃぐじゃの山奥の戦争も狂っていてこりゃどうしようもないわ、って。

Georgioを求めて狂っていくMiltonの姿が、VittorioとPaoloのそれに..  というのは考えすぎか。

[film] Paolo e Vittorio Taviani

こないだまでやっていたBFI Southbankでのタヴィアーニ兄弟特集は、全部で8本見て(しか見れなくて)、”Kaos”(1984)については感想を書いたものの、他は書けていなくて、書きたいのだがそれぞれに内容が詰まっていてきちんと(したことなんてないけど)書こうとすると結構たいへんだよなー、と思っているうちに溜まってしまった。思いだせる範囲で簡単にメモしておきたい。


Un uomo da bruciare (1962) - "A Man for Burning"

2月2日、金曜日の晩に見ました。 邦題は『火刑台の男』。
ふたりに加えてValentino Orsiniも監督に名を連ねている長編第一作。

実在したシチリアの農業労働組合のリーダーSalvatore Carnevale (1923-1955)の生涯を描いたモノクロ作品。冒頭からSalvatoreが帰ってきた! って農民たちの人気者の帰還からリーダーになってストを組織して、悲劇的な暗殺まで。正義の労働者・指導者を描いて割と時代のこてこてしたところもあるが、原っぱを走ってくる人を遠くからとらえるショットは既にこの頃からあった、とか。


Le affinità elettive (1996) – The Elective Affinities

2月21日、水曜日の晩に見ました。邦題は『ある貴婦人の恋』。
ゲーテの『親和力』が原作で、Isabelle HuppertとJean-Hugues Angladeが出ているのに劇場未公開なんだ… (だめじゃん)

久々に再会したかつての恋人同士が恋におちて結婚して、田舎の邸宅で貴族の暮らしをしていて、そこに夫の友人と妻の養女が訪ねてきて、どろどろの四角関係が転がり始めた - と思ったらばちか呪いに当たったようにみんなぱらぱらと亡くなっていっちゃうの。でも誰が原因っていうわけでもないの。

ゲーテの情熱と突き放して冷たく転がっていくところが絶妙に混在するこういうドラマにタヴィアーニのタッチがはまっているのと、割とずるずるお手上げ系の展開のなかに佇むIsabelle Huppertはほんとによくて、いくらでも見ていられるねえ。


Tu ridi (1998) - You Laugh

2月28日、水曜日の晩に見ました。邦題は『笑う男』。
ピランデルロの原作2本が元と聞いて、それならば、と。

最初のエピソードは“Felice” – 幸福。オペラ歌手になる夢を失い、会計士をやっている小太りの男が、寝ている間に不気味に笑う癖があり、起きても笑っていたこととその内容について一切憶えていなくて、苦悶の果てにようやくそれがなんなのかわかるのだが…

次のエピソードは“Due sequestri” - 二つの誘拐。現代で男の子を誘拐した男が彼を連れていろいろ点々としてて、子供とも馴染んできた、ように見えたところでばれるのを恐れて殺してしまった実際の事件(”Sicilian Ghost Story” (2017)として映画化されている)に、そこから100年前のイタリアで山道を歩いていた老人が目隠しをされて誘拐されて、でも狭い世界なので誘拐犯の名前と素性はすぐに老人にはわかってしまい、結局彼らと一緒に暮らしていくことになって – が挿入されている。

見たあとのかんじだと、これもあまり気持ちのよい話ではない - 意識するかしないかの紙一重のところで、ひとはすぐ傍の人に対してひどく残酷なことをしてしまっていて気付いた時には取返しがつかないところに行っていた - この辺はピランデルロかもー、って。


Sovversivi (1967) - The Subversives

3月1日、金曜日の晩に見ました。邦題は『危険分子たち』。
Valentino Orsiniなしで、兄弟がピンで監督した最初の作品。
Paoloが亡くなったことを聞いた直後に見たので、葬儀のシーンが… というのは前に書いた。

1964年、イタリア共産党指導者Palmiro Togliattiの葬儀のリアルフッテージを置いて、そこに参加する4人 – 不治の病にかかったことを知らされる映画監督、両親とか恋人とかの間でうだうだするカメラマン、妻がレスビアンであることを知って錯乱する会社の偉い人、恋人を捨てて軍政下のベネズエラに帰ろうとしている革命家など、それぞれはまったく関係ない別の世界を生きていて、葬儀に参列はするものの最後まで互いに、葬送の列にも交わることのない彼らの迷いやうんざりをランダムに並べていくモノクロの群像劇で、葬儀の記録映像だけじゃなくてゴダールの『気狂いピエロ』のラストがそのまま挿入されていたり、映像的にはかなり乱暴に好き勝手にやっているかんじ。 他方でストーリーとしては、みんな共産党で、イコール「危険分子」「破壊活動家」って言うかもだけど、実際にはこんなもんなんですけど(棺桶)… っていうのを67年に世に出してしまう、ってすごいかも。


ここでいったん切ります。

3.13.2024

[film] Rapito (2023)

3月7日、木曜日の晩、Curzon Mayfairで見ました。
英語題は”Kidnapped”、邦題は『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』 - 昨年イタリア映画祭かなんかで上映されていたなー。

英国の公開予定は4月なのでPreview扱いで上映後に監督Marco BellocchioとのQ&Aがある、と。なのですぐにチケットを取ったのだが客がぜんぜん入っていなくて普通に上映前の予告が始まったので、ああQ&Aはキャンセルになったのだな、と思ったら上映前にやあやあ、って現れた。個人的には最後の大巨匠。

実際に19世紀のイタリアで起こった実話。
教皇領のボローニャでユダヤ人のMortaraの家に夜中、警察のような一団がやってきて、6番目の息子Edgardo (Enea Sala)を強制的にどこかに連れ去ってしまう。

子供本人はなにがどうなったのかわけわからず、家族全員が嘆き悲しみ取り乱すなか、長い旅を経てローマ教皇庁の側にあるユダヤ人の子供たちの収容所のような寄宿学校に預けられ、他の子供たちとキリスト教の教義を学びながら一緒に暮らすことになり、後から親たちもやってきて面会して説得したりユダヤ教のグループが取り戻すべく工作したりするのだがどうすることもできない。

やがてEdgardoは熱心に学んで法王にも気に入られ、母から渡されたユダヤ教のお守りもどこかに消えて、十字架に張りつけられたキリスト像が降りてきて降りたつイメージ(すばらしい動き)を見たあたりから本人も戻ることのできない地点まで行ってしまう。というか幼い頃から摺り込まれたユダヤ教のお祈りも、新たに教え込まれたキリスト教のそれも、おそらく違いがあるとはわかっていない。

はじめはカトリックの上位者を中心とした組織的な小児への性的虐待のような場面/事件を想像していたのだが、それらしい雰囲気もなくはなくて、法王は明らかに邪悪な変態ぽかったりするものの、そういうシーンがはっきりと描かれることはない。他方で、あるのは人を救うはずの宗教が家族を引き裂いてキリスト教とユダヤ教の間の対立と分断を煽って平然としているところで、特に親からすれば神もくそもない状態だと思う。だから法王が亡くなった後に、葬送の途中に棺が襲われるシーン - 実際にあったんだって - のテンションなんてギャング映画のそれだし。

Marco Bellocchioの前作 - ”Esterno notte” (2022)も、時代は現代だったが実際に起こった誘拐事件を取りあげて、拐われて残された者たちの緊迫したドラマが描かれたが、今回のは拐った側、拐われた側の中間地帯に置かれた少年Edgardoの大きな穴 - 空虚のようなものがまず前面にきて、彼の表情や佇まいが、彼の魂はいったいどこに、どっち側にいるのか、のとてつもない緊張感を生む。彼の父(Fausto Russo Alesi)と母(Barbara Ronchi)のふたりの演技もものすごくよいのだが。

この筋運びの巧さというかまったくだれずにぶれずに最後まで一気に連れていってくれるところがMarco Bellocchioの強さで、比べるものではないけどTaviani兄弟とはやはり随分ちがう。

上映後のQ&A、客席からの質問に正確に応えていたかどうか定かではないのだが、宗教による世界の分断、というだけでなく、かつて被害者だったものが大きくなってから加害者の側に立ってしまう - これは間違いなく現代の - ガザの件とリンクしているテーマだ、ってなんの躊躇も迷いもなく明晰にコメントしていて、すごいなこの人、って改めて思った。

元はスピルバーグが別の原作本(この件について書かれた本は複数ある)と英語圏の役者 - Mark Rylanceが法王だったそう - を使って映画化しようとしていていたのだが、よい子役が見つからずに断念したのでまわってきたのだそう。スピルバーグだったらユダヤ人側をどう描いただろうねえ…


3.12.2024

[film] Origin (2023)

3月4日、月曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
この時点ではまだPreviewという扱いで(今は公開されている)、上映後には別の部屋で更に掘り下げていくレクチャーとディスカッションがあった(がこちらは参加できず)。

“Selma” (2014)のAva DuVernayによる新作。1994年にアフリカン・アメリカン女性として初めてピュリッツァー賞(ジャーナリズム)を受賞したIsabel Wilkersonが“Caste: The Origins of Our Discontents” (2020) - 翻訳は『カースト アメリカに渦巻く不満の根源』(2022) -岩波書店(未読) – を書きあげるまでのお話。AunjanueEllis-TaylorがIsabel Wilkersonを演じる評伝ドラマの形式をとっている。

141分の長さで、仮説を確かめるべくドイツやインドの現場を訪ねていったりもするし、Isabel Wilkerson本人にインタビューしたり関連する資料映像を集めたりのドキュメンタリー形式にした方がよかったのではないか、という議論はあることはわかるが、肉親を次々と亡くしていく悲しみのなかで本を仕上げようとした彼女のエモーショナルな旅を描くにはこの形式が必要だったのではないか、と思った。構成としてやや散漫でとっ散らかったになってしまったことは否めないが、彼女がどうしてこの本を書こうとしたのか、の切実さはこちらに刺さってくる。(いっぱい泣くよ)

2012年のTrayvon Martinの射殺事件 – 地元のヒスパニック・アメリカンが自分たちの居住地区にいたアフリカン・アメリカンを射殺した事件に対する周囲のコメントや見解がひっかかったIsabel (Aunjanue Ellis-Taylor)は、その思索をナチス占領期のドイツへ、さらにはカースト制度が残るインドへと広げていく。アメリカで今も続く人種差別とナチスがホロコーストで行おうとしたユダヤ人の絶滅は同じものなのか違うのか? 人種としては同じなのにずっと解消されないままのインドのカースト制は? ディナーパーティーの席で友人からはアメリカのは労働力確保のため、ナチスのは経済政策の一環だったので違うものだよ、と言われたり..

こうして、ナチス・ドイツ下でのナチス党員の彼とユダヤ人の彼女の間に起こった悲劇や、”Deep South” (1941)の本で、地域の差別のありようを研究・執筆したAllisonとElizabeth Davis夫妻のこと、インドのダリット(不可触民)から研究者となったDr. Ambedkarのこと、人種隔離で白人と同じプールに入ることを許されなかったAl Brightのことまで、再現ドラマを交えつつ考察していく。

それと並行して、よき理解者でもあった最愛の夫Brett (Jon Bernthal)を突然に失い、母Ruby (Emily Yancy)を、仲良しだったいとこMarion (Niecy Nash)を亡くしてしまう。これら連続した肉親の死と彼女の探求の繋がりが明確に語られることはない。のだが、ひとつの軸としてあるのは家族や一緒にいる人のかけがえのなさ、共に過ごした時間のことで、それは差別がどう、というのとは全く相容れないなにかで、それなら/それなのになぜ? という根源的な問いがくる。Isabelが水浸しになった家の地下を見て貰うのに呼んだ配管工(Nick Offerman) – MAGAの赤帽子を被って終始不機嫌 – に家族のことを尋ねてみるシーンは象徴的だと思った。

彼女の本はジャーナリズムの文脈で書かれたもので学術論文ではないからその真偽は、とか信憑性については、などという話ではなく、この映画でIsabelが、Ava DuVernayが繰り返し切々と語っているのは、差別は人を殺し、愛する人同士を死と同じように引き裂いてしまう、その根が歴史だろうが文化だろうがなんだろうが – だからとにかく絶対にだめなのだ、というのと、Isabelの説が正しいとすると、支配層が上位にある社会はその根幹に「カースト」と呼ばれるある属性をもった集団を(可視であれ不可視であれ)仕立てて隔てて、差別する(ひとによっては区別と呼んだりする)仕組みを巧妙に組み込んでその構造を維持しようとするのだ、と。そうすると、そこに「社会」がある限り、差別は不可避なものなのか? そうだったのかもしれない – けど社会って自分たちで変えられるものだし、変えようとしないと、だから。 だから、過去に何があったのかを直視することは大事だし - だからその構造 - 差別を維持したい社会は歴史を隠したり修正しようとするのだしー。

とにかく、何人殺せば気が済むのか、いいかげんにしろ、ってガザの方を見ていうし、日本がどれだけしょうもない国に堕落しようとしているのかとか… (溜息)

それにしても、ここでのAunjanue Ellis-Taylorのすばらしさときたら。怒りと絶望をもって過去を見つめようとする強さとすべての隣人を抱きしめようとするやさしさがひとつにかためられて人のかたちになっているような。口をつぐんでいる彼女の姿を思い出すだけでなんかくる。

教科書のように繰り返し見られてほしい。ちょっと長いけど。

3.11.2024

[theatre] My Neighbour Totoro

『君たちはどう生きるか』(2023)のオスカー受賞よかったね(棒)。これと『ゴジラ -1.0』(2023)と”Oppenheimer” (2023)の受賞で、アメリカは日本に対する戦争なんてぜんぶ屁でもなかった - 戦争してやったんだ感謝しろ、エンタメ消費ばんざい、ってはっきり言っているんだよ。昔からだけど。

3月5日、火曜日の晩、Barbican Centreで見ました。

映画『となりのトトロ』(1988)をThe Royal Shakespeare Companyが2022年に舞台化して、大評判になった作品のリバイバルで、昨年11月から今年の3月末までロングラン上演しているやつ。チケットを取ろうとしても確かにずっとSold Outしていてすごい。

宮崎駿による映画版は、トトロとか変な動物たちが出てきて動くのは好きだけどお話しとか設定はぜんぜんだめ – 彼の作品で一番好きなのは子供のころに見た『パンダコパンダ』(1972)だけど、これも同じか… 要は父親がなんでそんな偉くて勝手に決めることになっているのか、母親も含めてなんで女性はみんな女神か女中(おばば)でしかないのか、旧式左翼の甘ったれてやなとこぜんぶが詰まっていて子供がかわいそうになるやつ。

脚色はTom Morton-Smith、演出はPhelim McDermott - 2023年のLaurence Olivier Awardsを受賞している - 黒子もいっぱい出てくる人形遣いはJim HensonスタジオのBasil Twist、音楽は久石譲で、日本人キャストもいるし、節目で歌を歌うのは日本人のひとで日本語で歌ったりもするのだが字幕はない。

客席は子供連れも当然いるものの、半分以上は大人だったのでは。週末だと変わるのかもだけど。

開演前、降りているもふもふした幕には”My Neighbor Totoro”ってあって、時間になると上から”u”が下りて来て”o”と”r”の間にぎゅいぎゅい割りこんで”My Neighbour Totoro”、になる。これだけでみんな大喜びで、なんかうれしい。ステージの真ん中には家 – 木造の家だけど地面と床が同じ高さなのが... 縁側がほしいなあ - と奥の木の上には楽隊がいて、そんな舞台上にメイとサツキとお父さんがトラックで越してきて、ストーリー展開は映画版とおなじ。まっくろくろすけ - "black soots"もざわざわいっぱい出てくる。

メイとサツキはやかましいくらい元気で丁度よくて、その点で彼女たちは十分によくて、(ストーリーは割とどうでもよくて)、あとはトトロやネコバスがどんなふうに出てくるか、だけなのだが、最初に小トトロと中トトロがちょろちょろ出てきただけ(背後に人形遣いがいる)でみんなわあああーってなり、そしてあの木の穴のなかに転がっているトトロの山のような腹のでっかさにやられる。口を動かすときに中に黒子のひとがいっぱいいるのが見えたが、大変そうだった。ポスターでのトトロは緑色で、え? 緑? ってやや心配だったのだが色はだいじょうぶ(でもどんぐりはなんでか緑だったな)。

トトロはこの場面に出てくるやつが一番でっかくてたまんなくて - 富豪になったらこいつをいっぴき買って部屋に入れておきたい – あと3メートルくらいの立ちあがっているやつと、空を飛ぶときの小さ目のと、3バージョンくらい出てきた。3メートルのは重力の事情によるのかやや顔が海獣ぽく見えてしまう傾向があり、もう少し横に膨らませてもよかったかも、とか。雨のなかのバス停で奥からトトロがぬうって出てきて突っ立っているとこ、そしてネコバスもきたきたきたー、っていうかんじで現れるのだが、あのネコ、顔があまりにアリスのチェシャ猫に似たふうで、あんなふうだったっけ? ネコバスに人が乗りこむところはやはり無理でヒトのシルエットだけなのだが、離陸して飛び回るところはやはり盛りあがる。

他方で、そういうところだけでえらく盛りあがれてしまうのはよいことなのかどうか、森の奥深くの神秘みたいなところは音楽とライティングに頼っていて、それなりの効果はあったかも。ただ、原作だとトトロは森の精とかではなくてリアルな獣のはずなので、その生々しさをどう残すか、残せたのだろうか? ひとつ残念だったのはトトロが大口をあけて「う“ぶああぁぁー」って咆哮して風が起こるとこが見たかったかも。風を起こすのは衛生上むりなのだろうが...

家族愛とか隣人愛みたいなのはどうでもいいというか、母親が入院している時に適当に隣人に任せてあんなふうに子供をほったらかしておく父親って、欧米ではまずいんじゃないか、くらい。舞台版のあのエンディングって、子供たちは神隠しにあって消えてしまった(or 親たちがどこかになくなってしまった)、ようにもとれた– そうあってもおかしくない – のだがどうか、とか。

全体としては人形遣い - ニワトリとかも - がとにかくすばらしく、Neighbourのかんじは伝わってきたのでよかったかも。
帰り、ぬいぐるみ類はなんとか買わずにふりきった。がんばった。

書いていると「ト・ト・ロ♪ ト・ト・ロ♪」が頭のなかで回りだして困るのだが、これとパンダ・コパンダのテーマは、どっちが脳に巣食う殺傷力があるのか、だれか結論をだしているのかしら?

『千と千尋の神隠し』の方は見ないかも。


3.10.2024

[art] March 03 - Madrid

3月3日の日曜日、日帰りでマドリードに行ってきました。

パリと同じようにここの日帰りは前の駐在の時にもやっていて、当初はパリのMarmottan MonetのMorisot展に行きたかったのだが、マドリードの方でもこの週末で終わってしまう展示があり、飛行機で往復£80くらい(パリだとどうしても£100超える)のがあったのでこっちにした。朝6:30ヒースロー発の便だとバス&地下鉄で午前3時にアパートをでないとならないのだが、しょうがないー。

なんでマドリードかというと、街の真ん中の歩いていける距離に大きめの美術館が3つあって、丸一日美術につかっていることができるから。その分、食べ物とか他の市内観光は諦め、になるのだが。 ヨーロッパで他にこれができる街となると、ベルリン、フランクフルト、ウィーンくらいかなあ。あと、絵を一枚一枚じっくり見たい人には向かないねえ(宮川淳 vs. 吉田喜重)。

空港からバスで美術館の前まできて11時少し前。

Museo Nacional del Prado

Reversos - On the Reverse

3月3日が最終日で、これを見るのが目的だった。
絵画作品は画布上に描かれた二次元のアートで、ふつうはその「表」に描かれた絵とかイメージを見ていく訳だが、その実体 - 物理的な - はカンバスとか紙とかまず物理的なモノとして存在するものであり、芸術家にとっては商品でもあったり、なので人目に晒されない裏側がそもそもある。絶対ある。その裏側に意図的に別のなにかを描いたり、メッセージを記したり、落書きしたり、シールが貼られていたり、そういう絵画の裏面に着目してみよう、という展示。

レコードのB面? というのが分かりやすい説明だと思うし肩の力抜いて好きにやってるB面におもしろいのがあるのも周知のことだと思うが、それより遥かに自由に好き勝手なことをやってきているなあ、って。

画布に向かう自分を描いたレンブラントから、「裏が表である」っていう正攻法の(いつもの)マグリットから、表に聖母さま、裏でそのケツを描いていたり(鏡で両方見ることができる)、表の絵とはまったく関係ない花鳥画とかアブストラクトな落書きみたいのを描いていたり、自画像の表と裏のタッチがぜんぜん違っていたり、どれもものすごく自由で勝手で、まあそうあっても当然。

絵画の両面を見せている作品が多いので、展示スペースは限られたりしてしまう(1フロアのみ)のだが、画家は表面だけに向かって仕事していたわけではなく - もちろんそうでないまっとうな人も沢山いたのだろうが - 教科書を落書きまみれにしてしまうであろうこんなタイプ - その他いろいろ - もいたのだなー、と。

そうして因数分解していくと最後は素材のようなところまでいってしまうわけだが、当然そこに切り込んでいくアーティストだっていたり。しみじみ奥が深いこと。

この後は、小企画でやっていたEduardo Rosales (1836-1873)を見て、常設を見ていくわけだが、ここの「常設」ときたらルーヴルか、場合によってはそれ以上くらいによく充実していて、ボッシュにラファエロにフラ・アンジェリコにベルメホに、2階ではベラスケスにルーベンスにたっぷりのゴヤに、ゴヤは(階段だとしんどい)3階にも「猫のけんか」とか見逃せないのがあるし、歩きだしたら止まらなくなって時間を忘れる。

あと、以前は確かOKだった絵画の撮影がNGになっていた。ここみたいに有名なのが多いところだと名画と一緒に自撮りをする人たちが多くて(← なにが楽しいのかまったくわからず)うざかったのでよいことかも。


Thyssen-Bornemisza Museo Nacional

ここの常設も古典から近代までよいのが結構揃っていて、企画展がなくても楽しいの。 クールベの漁師の子供とか、ムンクの鵞鳥とか、ボナールの女性の肖像とか。

1階に纏められたCarmen Thyssen Collectionに自分の好きなのが固まっていることを発見した。

Isabel Quintanilla's intimate realism

まだ始まったばかりの企画展で、いっぱい人が入っていた。 Isabel Quintanilla (1938-2017) はスペインのリアリズム系の画家で、なんかどこかAntonio Lópezに似ているとこあるかも、と思ったらドローイングのなかに夫Francisco López - 彼は彫刻家 - のモデルになっているAntonio López、というのが出てきたり。この3人は50年代からずっと知り合いなのだそう。(FranciscoとAntonioは兄弟なのかと思ったが違うみたい)

彼女と同時代の女性画家たち、というのも少し紹介されていて、この静かなリアリズムの傾向ってなんなのか、とか。

台所とか部屋の隅を見渡す冷たく不動の様子はハマスホイを思わせるところもあるが、あれほど凍結されたふうでもなく、いちじくとか鰯とか、食べものの柔らかく少しぬるいかんじもたまんなくて。

ここまでで15時くらいで、
Museo Nacional Centro de Arte Reina Sofíaに向かって歩いていったら人がいなくて閉まっていたので全身の毛がさかだった。日曜日は14:30までだなんて…

ああやっぱり日曜じゃなくて土曜日 - Dune 2なんか見ていないで - にくるんだった…. しょんぼり。

気を取り直して古本屋もあるSan Fernando Marketに行ってみたら入場制限しているくらい中でみんなわいわい酔っぱらって飲み食いしていて、これは無理だわと、もういっこのMercado de San Miguelの方に行って、こっちはまだ隙間があったのでパエーリャとかチーズとか少しだらだらやけ食いして、空港に向かったの。ちぇ。

アパートに戻ったのはほぼ23時だった。

3.08.2024

[film] Anyone But You (2023)

2月29日、木曜日の晩、West EndのVueっていうシネコンで見ました。

監督は”Easy A” (2010)とか”Friends with Benefits” (2011)とか”Peter Rabbit”シリーズなどのWill Gluck。最初のふたつは割と好き。

シェイクスピアの“Much Ado About Nothing”の現代翻案もので、シェイクスピアをベースにした実写ものとしては最高興行収入を更新しているそう。確かに公開は随分前のことで上映館数も減っているのにまだ賑わっていた。(実写じゃない方の興収記録 - 数字はこっちの方が断然上 – となると”Gnomeo & Juliet” (2011)なんだって。わかる)

Glen Powellという男優ってどうなのか? 筋肉はいっぱいあるし軍服とか着せると見事でぱりっとするものの、中味はわりと不気味にからっぽふうに風が吹いてて結果的にはふられたりする役が多い – つまりrom-com的には格好のフィギュアではないか、と思い始めたところにこれが。

金融業界に勤めるBen (Glen Powell)が法曹界志望の大学生Bea (Sydney Sweeney)とコーヒーショップのトイレ待ちでぎこちなく出会って、おしゃれで空虚な彼のアパートで楽しく過ごし、Beaは朝にカウチで目覚めるとそっと抜けだして、でもやっぱり一言なんか言っといたほうがよいかも、って戻ってみると、いなくなられて傷ついたBenが親友のPete (GaTa)に負け惜しみのように彼女の悪口を言っているとこだけを聞いてしまい、こいつ最悪だわ、ってふっきる。

それから半年くらいが過ぎて、Peteの妹のClaudia (Alexandra Shipp)とBeaの妹のHalle (Hadley Robinson)がオーストラリア – シドニーの先の方にあるリゾートで結婚式をあげることになり、そこに向かう機上でふたりは顔を再びあわせることになって、さらにBeaの両親が彼女の幼馴染のJonathan (Darren Barnet)をヨリを戻させるべく招いていたり、BenのExのMargaret (Charlee Fraser)も来ていたり、既に過去のものである彼らと再び、なんて想像しただけであれこれ面倒だしそんな気分ではないので、みんなの前ではできあがった恋人同士のフリをしよう、ってふたりでじたばたしたりしているうちに。

結婚や将来にかけてのことはもちろん、Beaは自分の今後ぜんぶを気にかけて口を挟んでくる両親のことがうざいしめんどいし、Benも過去になにがあったのか踏みだせなくてもじもじしてて、ふたりが上がったり下がったり寄せたり引いたりのサイクルは通常のrom-comより小刻みだし下ネタもBenのヌードときんたまくらいの小規模だし、他人(or親族)の結婚式 - 定番でぐしゃぐしゃになる、リゾートの解放感、変な家族に友人、過去のフラッシュバックなど、お決まりはそれなりに用意されているものの、ふたりがよりを戻すのは一緒に歌う歌(あれ誰の曲?)とか、手作りのチーズトースト – こんなのやられるに決まっている - とか、ヘリコプターくらいで、はたしてこれらに決定的なマジックや驚きがあるかというと、ううむ…

Benがなんでそんなに暗いかんじでなにかを抱えている(ように見える)のか、Beaはなんでロースクール行きを諦めてしまうのか、最初の晩にふたりでどんなことを話したのか、そこらがないとちょっと磁力とか説得力とか出てこなくて、”Anyone But You”って地点まで行けていないかも。

なんて言いながらもGlen PowellとSydney Sweeney - 彼らふたりがはしゃぎまわる絵がもたらす空気とかケミストリーはまったく悪くなくて、このふたりいいなー、になるし、見ていて楽しいことは確かなので、よいかも。 ただこれなら「シェイクスピアの」はいらない気もするけど。

3.07.2024

[film] Dance, Girl, Dance (1940)

BFI SouthbankでのDorothy Arznerは2月でもう終わってしまって、ここで見たのは14本 - 全部見ることはできなかったのだが、まだ書いていなかった分について。


The Bride Wore Red (1937)

2月23日、金曜日の晩に見ました。邦題は『花嫁は紅衣装』。これは2018年のBFIのJoan Crawford特集のときに見ていた。製作はJoseph L. Mankiewicz。

腐れた伯爵がカジノで酔っぱらって、人生なんてルーレットのからからで、貴族とそれ以外を隔てているのは綺麗な服装とかそんなもんだけだぞ、って自説を検証すべく、場末のバーで歌っていたAnni (Joan Crawford)をスカウトして、お金と衣装と肩書を与えてチロルの高級リゾートホテルに送り出す。

そこで出会った郵便配達夫のGiulio (Franchot Tone)と貴族で婚約者もいるRudi (Robert Young)の間で巻き起こる恋のどたばた、それぞれのいろんな焦りと絶望、そして最後にAnniはどっちとくっついてどこにいくのかー など。ほんとあれこれいい迷惑ったらない。

あの鼻もちならない(と今は思う)“Pretty Woman” (1990)よりも少しだけ複雑でいろいろ考えさせてくれるよいrom-comだとは思うが、なぜ伯爵は最初に男性ではなく女性を選んだのか、とかの辺と、結局貴族のお遊びでしかないのならやっぱり貴族なんていらねーよな、って。

あそこまで行ったら、もうあたしはひとりで生きるよ - ばかばかしい、にならないのかなあ?


First Comes Courage (1943)

2月25日、日曜日の昼に見ました。
Dorothy Arznerが最後に監督した作品で、終わりまで仕上げることができずにCharles Vidorが関わった、と。

ノルウェーの海辺の小さな町で、Nicole (Merle Oberon)は抗ナチスのレジスタンスとして活動していて、その流れでナチスの司令官をおとして結婚しようとしているのだが、ナチスが彼女を疑い始めたので、元恋人の工作員Allan (Brian Aherne)が彼女を救出すべく英国から送りこまれて、でも海から入国した途端に見つかってばれて(なかなかまぬけ)やばいことになり.. というル・カレがテーマにしてもおかしくなさそうな戦争スパイ・アクション。結婚式以降の逃走~追跡 – 新郎にはほんとなんの未練もないのな – などはらはらどきどきなのはよいとして、最後、もうわたしの身の上を疑うやつは誰もいなくなったから、って再びナチスの巣に戻ろうとする彼女を「そうか…」みたいに止めずに眺めている連合国側の男たち、だめじゃん。

この前年のルビッチ『生きるべきか死ぬべきか』(1942) に設定としては近い - 占領が進む中でのぎりぎりの騙し合いからの脱出 – ので、コメディにしたらおもしろくなったかもしれないのになー。全体としてはとてもまじめに、まじめすぎるくらいまじめに作ってあるような。

男たちはみんなぼんくらなのに、結婚した瞬間に未亡人になってそのまま戦地に戻っていくMerle Oberonさんだけがすばらしくかっこよかった。


Dance, Girl, Dance (1940)

2月27日、火曜日の晩に見ました。邦題は『恋に踊る』。英国でも日本でも見ている。

上映前に映画(史)研究のLucy Boltonさんによるイントロがあり、いま見ても問答無用のクラシック、ですごくおもしろいところだらけなのだが興行的には惨敗で、問題はなぜこれが当たらなかったか、なのです。 と、いうことで上映後には別の部屋が用意されて更に深く掘ってみたいひとはそちらで議論しましょう、って。(こちらは不参加)

ダンスも好きだけど裕福な天辺暮らしを狙うぎんぎらのBubbles (Lucille Ball)とダンスが好きでバレエを習いながらその道を極めたいと切に願う熱血のJudy(Maureen O'Hara)、NYに出てきたまったく異なるタイプのふたりのダンサーが離婚手前のお金もちバカ男とか、すれ違ってばかりの有名な振付師とかの間に揉まれ、じたばた喧嘩をしたり落ちこんだりしつつ、のしあがっていって最後はよかったね、になる。

男どもに喝采されるBubblesのお色気ダンスと、そこに(わざと)割って入って野次と顰蹙を全身で浴びるJudyのクラシカルバレエの対比、その両者をミックスしたショーが大当たりする、っていかにも、なのと、最後にパニックになったステージ上でブチ切れたJudyが男たちに向かってきる啖呵 - 『笑ってろよ、モトを取りたいだろ、誰もあんたたちを傷つけたりなんかしない、家に帰れば奥さんやママには見せられないようなにやけ顔をしたあんたたちをこっちがどう見ているか、なんのためにそこでそんなふうに笑ってるん? かわいそーな人たち 云々(意訳)』 ここのほれぼれするかっこよさと台詞の今でもまったく古くなってないところとか、いろいろ噛みしめたい。


今月末から4月にかけての特集は”Out of the Shadows: The Films of Gene Tierney” だって。たのしみー。

3.06.2024

[film] Memory (2023)

2月26日、月曜日の晩、Barbican cinemaで見ました。なぜだか他のどこの映画館でもやっていない..

Jessica Chastainさんが好きなので見た。作・監督はメキシコのMichel Franco。昨年のヴェネツィアでは、Peter SarsgaardがBest Actorを受賞している。

冒頭に患者(?)たちから感謝の言葉を受けているSylvia (Jessica Chastain)は、ソーシャルワーカーでケアワーカーで、ティーンの娘Anna (Brooke Timber)のシングルマザーで、ブルックリンかクイーンズの外れの方に暮らしていて、ちょっと疲れているように見える(後でアルコール依存症だったこと、などがわかる)。

妹のOlivia (Merritt Wever)に誘われてぜんぜん乗り気のしない高校の同窓会に出てもやはり乗れなくて – この宴会場、たぶん、”Somewhere in Queens” (2022)に出てきたのと同じ場所だ - 隣に来て笑いかけてきた男が不快だったので、ひとりで席を立って帰ることにしたら、その男もゆっくりついてきて、地下鉄に乗っても隣の車両にいて、彼女が降りても降りてきて、アパートに逃げ込んで鍵をかけて安心するのだが、翌朝そいつは雨に濡れてアパートの下で寝ていて、体を壊されたらあれなので世話をすると、男はSaul (Peter Sarsgaard)といい、初期の記憶障害があっていろんなことを憶えておらず、面倒を見ている兄のIsaac (Josh Charles)親子と一緒にアパートに暮らしていることがわかる。

SylviaはSaulを公園に連れだして、なんで彼女を尾行したのか問い詰めるのだが、Saulはわからない、憶えていない、と言う。Sylviaは自分は憶えている、高校の時、あなたは同級生に命じてわたしに酒を飲ませ、その後に性的暴行をした、憶えていないのか? Saulは憶えていない、と返すので彼女は激怒して彼を置き去りにする。 ここでドラマの様相ががらりと変わり、”Promising Young Woman” (2020)のような復讐の物語になっていくのかと思いきや、そっちには行かずに、SaulはIsaacの娘Anna (Brooke Timber)からSylviaが転校したあとで学校に入ったので彼はその件の犯人ではないはずだ、と言われて、それならそうなのかも(あれれ?) になり、彼があなたを気に入ったようなので暫く面倒を見てあげてくれないか、という依頼も受けてしまう。

こうしてSaulのアパートで彼のケアを始めたSylviaはだんだん彼と仲良くなっていくのだが、どこかの時点からの記憶がなくなっているSaulと過去のトラウマなどで何かが失われているSylviaの関係は危うくて、家族からの反対もきつくなって、Olivia と母Samantha (Jessica Harper)のいる場で幼時に父親から受けた性的虐待のことを掘り返されたSylviaは塞ぎこみ、Saulもそれで動揺したのかアパートから落ちて病院に運ばれて…

現在の自分を構成している - と誰もが信じている「記憶」の不確かさと、それを不確かにしているのはまた別の辛い記憶だったりして、そうすると過去に辛いことばかりが重ねられた人のありようって ... というテーマに心理学的な概説や知見に踏みこまず、愛があれば、みたいな便利箱にも突っこもうとせず、そうなっても人は誰かを抱きしめることができるのか、という問いに、なんか難しいかも、って首を傾げつつも真剣に繊細に追っていくドラマ。 医者が何かを告げたり裁判や捜査のように真相が暴かれる場はないので本当のところは最後までわからないのだが、本当のところ、ってなんなのか? そこにあって本人が認識できるMemoryくらいしかなくて、でもそこがどうなっているから/いないからひとを愛するってわけでもあるまいに? など。

非常に難しいキャラクターの造形だと思うのだが、表面張力ぎりぎりを滑っていくJessica Chastainと自分のなかの大きな穴を見つめてうなだれ、苦しむPeter Sarsgaardのふたりの演技のぶつかり合い、というより重ね合わせがすばらしいったらない。

Saulが何度か部屋でかけるProcol Harumの”A Whiter Shade of Pale”、この曲があんなに浸みたことはなかったかも。

あと、クイーンズだかブルックリンだかの、ああいうアパートのインテリアって、なんであんなに素敵なのか - 映画だからだよ – にしてもさあー。


ガラスの回転扉 - と思って通り抜けようとしたところがただのガラスだったので顔面をぶつけて星が飛んで片目の上を切ってしまい、夜になってだんだんはれてきた。ガラスって、硬いよね。

3.05.2024

[film] Dune: Part Two (2024)

3月2日、土曜日の朝9:00~ BFI IMAXで見ました。

チケット発売日の朝にそういえばー、と思だして11時くらいに入ったら初日(1日)は深夜も含めてほぼ全滅で、翌朝の分をようやく取れた。話題作だと英国ではこれ(発売日に殺到→売り切れ)があるのを思いだした。 BFI IMAXって、並みの席の椅子で長時間座っていると絶対エコノミークラス症候群になりそうなやつなのだが、しょうがない。

間違いなく今年いちばんの待望のスペクタクル超大作で、予告編を見ただけで壮大な砂漠にぶおおおーんていう例のHans Zimmer音響 - 今回のは特にやかましい - が鳴り渡り、豪華な俳優たちが虫のようにうじゃうじゃ湧くように出てきて、みんな揃って噴きあがりまき散らされる砂(スパイス)を被りにいく、そんな映画体験になる。

これに合わせて”Part One” (2021)の上映もされていて、確かにストーリーとかすっかり忘れてどっかに行っていたのだったが、大丈夫。スパイスのおかげでなんとなく。貴重な鉱物資源を産する砂漠の惑星アラキスで、クーデターにより追い出されたPaul (Timothée Chalamet)とママ - Jessica (Rebecca Ferguson)が砂漠の先住民フレメンに合流して復讐を誓うまでが前のー。

砂漠の戦士Stilgar (Javier Bardem)からいろんな試練を与えられて試されて、それを平気な顔して次々とクリアして救世主として認められのしあがっていくPaulと、彼に寄り添うChani (Zendaya)の恋があり、いろんな悪夢を見てしまうPaulと身重でカルト的な預言者のサークルのなかにいるJessicaがいてたまに胎児が呼びかけてきたりして、Paulの父を殺したハルコンネンのBaron (Stellan Skarsgård) と甥のBeast (Dave Bautista)とFeyd-Rautha (Austin Butler) – つるっぱげの浮遊するデブ & ただのバカ & サイコパス、の悪役トリオに立ち向かうのと、政治+カルトの上層部を舞台にした人間ドラマも - 砂漠の戦闘スペクタクル・アクションを損なわない程度には機能していて、ここまでのところのバランスは悪くない。年代記の語り手となるPrincess Irulan (Florence Pugh)や、めちゃくちゃかっこよいLéa Seydouxや、一瞬だけ登場するAnya Taylor-Joyなど、女性たちの層の厚さに比べるとTimothée Chalametがなんであんなに独りでのし上れるのか(横につくのがJavier BardemとJosh Brolinって、同じような取締役タイプ)わかんなかったりするけど。

土地と貴重な鉱物資源を巡る争奪があり、その覇権を巡る先住民と富裕貴族(白人)との対立があり、そこには偏見と陰謀とオカルトが渦を巻き、結局は騙し合いの殺し合いがその規模を広げていって、最終的には自分たち以外の民はなくなってしまえばよい、ってみんなふつうに思っていて、だから喜んで銃と剣を手にして敵を殺しにいく。それにしても彼らの決闘って、なんであの短い剣なの? すでに十分に卑怯でずるいんだからなんでもありでやりあえばいいのに。

映像や音響も含めたプロダクションのすごさ、圧倒感はいろんな人たちが手放しで絶賛している通りだと思うものの、いまガザで起こっていることを考えるとちっとも楽しむことができなかった。地平線上に巻きあがる爆風に向かってひとり仁王立ちするグランドでスパーヴなヴィジュアルを見てもあの下に埋められ棄てられている子供たちが見えてしまう。 原作に、映画に罪はない? のだろうが、原作だって1965年に書かれた、あの時代の空気のなかから出てきたものだし、それを言い出したら「神話」そのものが、みたいな話になるのかもしれない、けど、いくらそんな議論をしたところで今のイスラエルに虐殺をやめる気はない。むしろこの映画を自分たちのプロパガンダや景気づけに使おうとしてくるだろう。そこにChalametは喜んでのってくるだろう、など。 あーあー。

昔はそんなことは感じなかった。自分が鈍かっただけなのかもしれない。でも、相当な規模の虐殺が本当にいま、この同じ世界で起こっているのだ、って。 それなら映画館なんて行くな、になるのだろうが(行くけどさ)。

“Oppenheimer” (2023)もそうだったけど、「圧倒的な映像の力」のようなものの裏側に間違いなくある数万もの人の死や破壊などについて、これらを「すげえ..」で済ませたり、「そんな数なんてどうでも」で片付けるようになったらいかん、て自分に。向こうはそうやって片付けさせたいのかも知れんが。

最後は確かに『帝国の逆襲』みたいなかんじは残って、Chani負けるな、になるのだが、ここにはForceも、正義もないの。みんながスパイスでラリってて暴力万歳、のそういう世界だって。

なので、サンドウォームがんばれ、もっと暴れてめちゃくちゃにしちゃえ! っていうのと、ウサギネズミのとこだけ、ほんわかしてよかった。

誰もが思うことだろうけど、あのセットの端っこをちょっとだけ借りてナウシカの実写版つくれば?

[film] Kaos (1984)

2月25日、日曜日の午後、BFI Southbankで見ました。

2月から3月にかけて、ここではTaviani兄弟とPaolo Taviani(1本だけ)の回顧上映をしていて、冊子とは思えない分厚さのプログラムが無料で配られて、Paolo Tavianiのトークも予定されていた(と記憶。やったのかな?)のだが先週お亡くなりになられてしまったのでしょんぼりしている。

彼の亡くなられた晩には丁度” I sovversivi” (1967) - The Subversivesの上映があり、棺桶を墓穴にどん! ってぶっこむシーンで終わっていて、ああ、って。常に死と隣り合わせにある夢とか記憶を描き続けてきたふたりだったなあ、と気づかされたり。

邦題『カオス・シチリア物語』は、公開時に六本木で見て、原作のピランデルロのことを知ったのもこれがきっかけで、数年前に翻訳本が出たときもすぐに買って読んで、ここ数年ずっと再見したい1本の上位にあって、今回の特集上映でもメインのビジュアルはこの作品のエピローグの少女が高いところで翼のように両手を広げて世界を見下ろしているあれで、2回ある上映のチケットはどちらもあっという間にSold Outしていた。みんなあの世界に浸りたかったのだと思う。

雄のくせに卵を温めてやがる、って捕まってよってたかって虐められ、首にベルを付けられたカラスがちりーんちりーんてベルの音と共に旋回しながら物語を拾って案内する、という導入から4つのエピソードとやや長めのエピローグ、188分あっという間。

L’altro figlio - "The Other Son"
14年前にアメリカに移住した2人の息子たちからの手紙を書いては送り – でも手紙の代筆がめちゃくちゃだったことが後でわかる - 彼らからの返事を路上で待ち続ける母の傍らには牛の世話をしながら彼女のことを気にかけている三男 - "The Other Son"がいた。母がどうしても彼に冷たくなってしまうその理由とは。侵略者に襲われた忌まわしい村の記憶 ~ 生首のサッカー。

Mal di luna - "Moonsickness"
新婚の夫婦がいて、全ては円満のようなのに、夫のほうが満月の晩になると豹変して狂ったようになるので、夫は妻に家から出るな、って命じて、かわりにその晩はハンサムなサロに妻の相手をさせようとするのだが…

淀川長治さんがこの映画の解説で、満月になると狂ってしまうのはわかる、と語っていてふーん、だったのだが歳とってその感覚がなんだかわかるようになってきたかも。

木に繋がれた夫が月に向かって吠えるとことか、吠えたてる犬に子猫爆弾をぶつけるとことか、素晴らしいシーンがいっぱいあるの。

La giara - "The Jar"
オリーブ畑のブラックな領主が、お金をかけてオリーブオイルを入れる特大の壺を作ってすげえだろ、って自慢していたらある晩にその甕がぱっくり割れちゃって、壺修理の達人が呼ばれて修理にかかるのだが、彼は自分を壺の中に入れたまま割れ目を塞いでしまって外に出られなくなり、でも領主は壺を割ることは許さん、ていうの。

Requiem
町から遠く離れた集落の村人たちが、自分たちの土地に自分たちの村の死者を埋葬する権利を貰うべく陳情直訴するのだが領主はこれを拒否して、拘束した村人たちを兵隊たちに村まで護送させ、そこで村人らが作り始めた墓地を壊そうとするのだが…

Colloquio con la madre - "Conversing with Mother"
老いたピランデルロが久しぶりに実家に戻ってきて - 馬車の御者はサロだった – しんとした家のなかでマルタ島に航海に出た時の思い出を見えない母に向かって語る。白い軽石の山の上にたって地面と海を見下ろした時の感覚が、いろんな土地、いろんな時代を巡っていった物語を改めて呼び醒す。

母子関係、夫婦関係、使役関係、死後の世界との関係、大昔の、どこかの土地での、一筋縄ではいかない関係の変転とその顛末を描いて、最後にそれがレモンの香りと鳥の目により彼方の空に散っていく。散っても残るものは、ある。

とうの昔に読んだ本、誰かに聞いた話、どこかで見た映画の欠片だけがあって、それがなんだったか十分に思いだせないでいたところのピースを繋ぎ合わせて形にしていく感覚、エピローグでピランデルロがああ、サロだったね! っていう思いだすときのあの感覚が再生される。

Taviani兄弟の他の作品でもそうなのだが、力強くストーリーテリングの力で引っ張っていくというより、次になにが起こるんだろう? という自在さに毛穴が端から開いていって、そしてほんとうにことが起こる!という瞬間の歓喜や失望に絶望、あれれ.. などに繋がっていって、これらを通してその世界に没入すると、とても近しい物語がやってくる。

そしてこれらはみんな亡くなってしまった人、どこかに行ってしまった人 - 死の世界を想うことに繋がっているのだと思う。こっちの世界がこんなだからって、行かないで! って死者を抱きしめようとする、そんな映画たち。


4月にはVíctor Ericeの特集が!

3.02.2024

[film] Wicked Little Letters (2023)

2月24日、土曜日の午後、Curzon Aldgateで見ました。

“Spaceman”を見て、週末の買い物をしてから同じ映画館に戻ってきた。どうでもよいことだが、High Street Kensingtonの駅構内にフランスのブリオッシュ屋さん - 神楽坂にあるやつ - ができていた(驚)。

監督は演劇畑のひと - “Me Before You” (2016)のThea Sharrock。実際に起こった事件をもとにしているクライム・コメディ? 全体として強烈に英国臭いのと、映画で頻繁に使われる汚い言葉のニュアンスが字幕でどこまで伝わるのか、とかある気がして、日本公開は難しいかなー。

1920年頃の英国の小さな海辺の町Littlehamptonで、老いた両親と慎ましく暮らしている清教徒のEdith Swan (Olivia Colman)は、頻繁に自宅に送りつけられる罵詈雑言にまみれた手紙に悩まされていて、映画の冒頭でも十数通目かが届けられ封を開いて恐る恐る手紙の文面を読みあげると、両親も含めてああ神様なんてことを.. ってなり、そのうち新聞記事になって事件は広く全国に知られるようになる。

このレターに書かれた英語、単語のひとつひとつはどうにかわかるのだが、それが連なって固められるとでっかいぷんぷんの糞玉になるのだろうな、くらいの想像はつくものの、そこまでの語彙力がないのがくやしい、けど登場人物たちの反応だけでもひどいんだろうなー、というのはわかる。

彼らの隣に住むRose Gooding (Jessie Buckley)には小さな娘がいて、一緒に暮らしている男は娘の父親ではなさそうで、貧しそうでも元気で粗野で威勢がよくて、Edithの家族はいつも眉をひそめて隣近所としての仲もよくないので、手紙の件でもまずは彼女が疑われて警察もやってきて、これらは彼女が書いて送ったのではないか、って疑ってかかる。

これを横で見ていた女性警官のGladys (Anjana Vasan)は、高圧的な上や同僚の男立ち向かうから普段署内でまともに扱われていない不満もあって、この件を独自に探り始めて、そこに町中をふらふらしている女性数名も加わって探偵捜査みたいなことを始める。それなのに、手紙の筆跡とRoseの筆跡がぜんぜん違うことを指摘したら筆跡は捜査対象にはしない、って決められているし、そもそも担当じゃねえだろ、とか言われて、ますます頭に来て..

やがて新たに届いた手紙を読んで具合を悪くしたEdithの母(Gemma Jones)が急死してしまうと、問答無用でRoseが逮捕されて法廷ドラマになっていくのと、それでも女性たちの地道な犯人捜しは続けられて…

法廷でのやりとりと犯人を追い詰めていくところは、最初から犯人がおおよそわかっていることもあって、じたばたするところとOlivia ColmanとJessie Buckley - ケツまくって走り去るとこ素敵 - の演技合戦以外にそんなおもしろいところはないかも。

少しだけ言及のある英国のサフラジェットの件とか、今も残っている英国オトコ社会の糞にまみれたしょうもないところとか、Edithと抑圧的な彼女の父(Timothy Spall)との確執も含めて、女性たちがふざけんな、って手を取って立ちあがっていく話と並べて、なぜ犯人はそんな手紙を出さずにはいられなかったのか、みたいなところに踏みこめたら、もっと深く頷けて味わい深いものになったであろうにー。

最後のふたりの目の交錯がとても残るものだったからなおのこと。

今のSNSのクソリプみたいなやつもこれと同じようなものなのであろうか? とか。

こっちのBig Issue誌に主演のふたりのインタビューが載っていて、SuedeとPulp、どっち?の質問でOlivia ColmanさんはPulp、Jessie BuckleyさんはBernardがいるからSuedeって答えていた。
Benedict CumberbatchとDavid Tennant、どっち? の質問では…

3.01.2024

[film] Spaceman (2024)

2月24日、土曜日の昼、Curzon Aldgateで見ました。
公開直後の昼間に客は自分を入れて3人で、あんまりでは.. と思ったらNetflixのでTVでも見ることができるからか。こないだのベルリン映画祭でプレミア上映されたのだそう。

Adam SandlerとCarey MulliganとIsabella Rosselliniが出ている、というだけでチケットを取ったのだがコメディじゃなくてすごくシリアスで変なSFなのだった。

原作はチェコのJaroslav Kalfař による不条理SF? - “Spaceman of Bohemia” (2017) – 未読、監督は “Chernobyl” (2019)のシリーズやDavid BowieのPV - "Blackstar"を手掛けたJohan Renck。音楽はMax Richter。

チェコの宇宙飛行士Jakub Procházka (Adam Sandler)が宇宙の果てに出現した謎の星雲を調査するためにひとりで宇宙船に乗って189日が経っていて、スポンサーにまみれた航行に強いられるいろんなイベントスポットに顔を出して挨拶するのが日課だが、排水管かなんかのたてるノイズがやかましくて眠れない状態が続いている。身重の妻Lenka (Carey Mulligan)は何度かけてもCallに出てくれないし、管制官もその上のIsabella Rosselliniも彼の精神状態がやばいことはわかっていてLenkaにアプローチしてみても、彼女は家を出てしまっていてどうすることもできない。

そんなある日、船内にでっかいぬいぐるみみたいなもふもふのクモ? - でも脚の先はタコみたいだし、6つある目は夜行性のサルだし – が現れてJakubに柔らかく話しかけてくる。最初はパニックになって追い出そうとするのだが出ていってくれないし、腕を前に寄せているところとかなんかかわいく見えるし、Paul Danoの声で会話してくれるので彼をHanušと名付け、HanušはJakubを“skinny human - ”と呼びかけて、いろんなことを話していく。

Hanušが実在するのか、疲弊したJakubの妄想なのか、それが謎の星雲の作用によるものなのかなどは明かされないまま、Jakubは自分の青年期の父との関係とか、Lenkaに出会った頃のことなどを語り、おそらくHanušの目がその過去を再生/再現していく。この辺はTerrence Malick & Solarisぽい男子の美化された感傷みたいでどうにもあれなのだが、星雲に近づいていったらHanušは虫にまみれてさよならー、って消えちゃって…

独りにしたらあんなふうになっちゃいそうな過去とか傾向をもった人物をどんなもんかまったくわからない未知の星雲かなんかの探索にたったひとり送り出したらそりゃあんなふうになって、クモだってやってくるよな、くらい。独房にいる囚人ならともかく、あんな暗い目と表情の宇宙飛行士、ないよなー。というか、これなら絶対に病院か牢獄で衰弱してぶつぶつなんか言ってる哀れな男の夢でした… で終わらせることができるのに、なんかもったいないな、って。

もったいないといえば、Adam Sandlerをあんなところに押し込めてろくなアクションもさせず、とか、Carey Mulliganにまたしても身勝手な夫の犠牲となる悲しい妻の顔をさせてひどくない? とか、そっちの方か。それとも、これまでのいろんなSFにあったように、男を宇宙に放りだしておくとどうしようもなく傲慢で身勝手なモンスターに育ってしまうので気をつけよう、ってそういう教訓話、というならわからないでもないか。 JakubとHanušがどうでもよい話を延々していく話にしちゃえばよかったのに。

エンドロール、帰ろうとするとどこかで聞いた粘り気のある声で”行かないで行かないで行かないで”ってしつこく繰り返す曲がかかって、なんだこれ? と思ったらMax Richter & Sparksによる主題歌“Don’t Go Away”なのだった… この組み合わせおもしろいからツアーしてくれないかしらー。

どうでもよいけど、シラチャーソースはチェコの宇宙船にも常備されているのね。