7.31.2015

[film] Ich will nicht nur, daß ihr mich liebt (1992)

25日、ファスビンダーイベントの続き。まずは92年に作られたHans Günther Pflaumによるドキュメンタリー鑑賞から。

『少しの愛だけでなく』 - 英語題は、“I Don't Just Want You to Love Me”。

これ、ファスビンダー(以下、RWF)の76年作品 -
“Ich will doch nur, daß ihr mich liebt” 
『少しの愛だけでも』 - “I Only Want You to Love Me” - とひっかけているのね。

『少しの愛だけでなく』に続くのは「もっといっぱいくれ」だろうし、『少しの愛だけでも』に続くのは「ないよりはまし」.. なのかしら。

RWF自身の若い頃から全盛期までのアーカイブ映像やインタビュー映像を中心に、Harry Baer、Karlheinz Böhm、Ingrid Caven、Hanna Schygullaといった俳優陣からMichael Ballhaus、Dietrich Lohmannといったカメラマンとかプロデューサーとか、RFWの映画製作に関わった関係者インタビュー映像を挟んだり繋いだりしながら、映画への愛、映画製作への愛、映画に描かれた世界への愛(+憎悪)、登場人物への愛(+憎悪)、いろんな愛(+憎悪)に溢れた彼の映画をいろんな方向から明らかにしていく。

区切られた章立てごとに、沢山の人たちが登場するのだが、あまり突飛な印象もびっくりな証言もなく、各証言内容の通りにきちんと映画は作られていて、そこにものすごい驚きとか感動はなくて、極めてまっとうなかんじ。ただ、そのまっとうさも、37歳で亡くなるまで、キャリア16年の間に25本の映画(除く短編)、16本のTV用作品を作った - それもあれだけのテーマとジャンルに、正調メロドラマから変態モノまで - をぶちこんで、ということをやった、その事実だけでもすごいねえ、と改めて思って、そしてなによりもRWFの映画を端から端まで見たくなる。そういう意味ではものすごくよくできた予告編、のようなかんじかもしれない。

このドキュメンタリー映画上映のあと、シンポジウムということで3人の方の発表(各20分)+ 3人によるトーク(60分)。 用事があったので2人分の発表までしか聞けなかったのが残念。

最初のが斉藤綾子さんによる発表 - 「ジェンダー・トラブルメーカーとしてのファスビンダー」。

フェミニズム批評、ジェンダー批評の立場からみたRWFの映画を。
「ペトラ・フォン・カントの苦い涙」(1972)のことをあんなミソジニー映画はない、と言うのはごもっともと思うし、ごく普通に典型的な男根主義野郎(RWFの映画に出てくる男って、ほぼだいたいXX野郎、で通じる)、とか思ってしまいがちだが、他方であらゆるタイプの女性、あらゆるタイプの愛、階級人種を跨いだ愛、異性愛、同性愛、Queerまで扱っていることも確かだなあ、とか。

男に甘く、女に厳しい、というのは、女性性が模範的なジェンダー型を強化してしまうだけではないか、というところはあーそうかもー、て思った。

そして「マリア・ブラウンの結婚」 (1979)のめちゃくちゃおもしろいシーン。
夫ヘルマンは戦死したと思ってマリアはアメリカ兵ビルと寝室でいちゃいちゃしてたらヘルマンがそれをじっと見ていて修羅場がくるぅ、と思ったらビール瓶でごん、のとこ。

確かに、この場面の愛憎模様には戦争も歴史も性差も人種もぜんぶがダンゴになって記号として渦を巻いているし、いちゃいちゃするときに扉は閉めとけ、とか大切なことも教えてくれるねえ。


それから映画監督、筒井武文さんによる「現在からみたファスビンダーの映画技法」。
これがまた、このために1ヶ月でRWFを37本見たという監督の爆走がすさまじくおもしろく、20分なんかではぜんぜん終らず止まらず、6時過ぎで出ねばならないときもまだ走り続けていた。

以下、語られたことをランダムに。

■2作目から11作目までを1年3ヶ月で撮っていて、そのどれもがおもしろい。
 60年代ゴダールを2年でやってしまっているかんじ。

■いろんな映画のジャンルを借りつつも、なぜその映画を撮るのかを明示的に示しているすごさ。

■「出稼ぎ野郎」(1969) のカメラ。 「少しの愛だけでなく」のなかで、でっかいカメラを借りたのでああいう動きをせざるをえなかった、という証言があったが、それにしても。

■撮り方が決まっているので人物配置や向き方が異様に際立つ。

■日常に近いのだがそうではないおもしろさがある。

■正統的、でも特別な瞬間を作らない - シャブロルのように、ここを見なさいという瞬間がRWFにはない。

■「エフィ・ブリースト」 (1974) の前半と後半でカメラが変わる(Dietrich Lohmann → Jürgen Jürges)のに統一感が保たれている件。

■「悪魔のやから」(1976) のMichael Ballhaus → Jürgen Jürgesはカメラの違いが割とわかる。 何故Michael Ballhausと別れたのかは、よくわからない。

■「ベルリン・アレクサンダー広場」(1980) 以降の光の効果のすばらしさ。

■カメラはFixが基本で、人物が動いていくことで物語が浮かびあがる。

■ベッドルームが他の部屋から簡単に覗かれてしまう。覗かれることを前提にしたような空間設計になっている。

■鏡がいっぱい出てくる、加えてガラス越しのショットで、その手前にモノがごちゃごちゃいっぱいある件。 対象をどこからどういう距離で撮るか、についての考察が常にある。

■「デスペア」(1978)のガラス張りだらけの異様さ。 遠ざかっていくカメラ、何から遠ざかるのか - 客から、自分の分身から。

■ナチスが政権を取る直前を舞台にした「デスペア」 - 「マリア・ブラウン」- 「ベルリン」-  全て戦争、というテーマで繋がっている。

などなどなど。
難しい言葉はなしで、簡潔で、なんてわかっちゃうことだろう、てふるえるくらいおもしろかった。
RWFの空間配置のことを聞いていて、これ、溝口の「格子」に近いのかどうなのか、とか思った。

お金払ってもいいからもう一回聞きたいなー。
このあとの討論は、どんな修羅場が繰り広げられたのだらうー。


今晩も国会前に行ったのだったが、NSAのばかやろのせいで出るのが遅れた。 でもNSAよりもっとバカなのは盗聴されてる政権共だわ。 あれだけへーこらすりすりして、それでも盗聴されてやんの。
あーみっともな。

もう7月もおわりだなんて。

7.28.2015

[film] Deutschland im Herbst (1978)

25日の土曜日の午後、アテネフランセのイベントに行った。

『ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー生誕70 周年記念イベント』

現政権をぶっつぶせー! おー! とか自らを奮い立たせてやっている今日この頃に、ぐにゃぐにゃふにゃふにゃしたファスビンダーはぜんぜん気分ではないし、あとこの暑さにぜんぜんそぐわないかんじだと思ったのだが、先週の「テロルと映画」の本にも『秋のドイツ』は言及されているのでやっぱし行かないわけにはいかないか、と真夏のファスビンダー、ていうのに挑戦してみる。

まず「秋のドイツ」の上映。

プロローグ + 16部からできていて、監督としてクレジットされているのは、9名。

Rainer Werner Fassbinder,  Alf Brustellin,  Alexander Kluge,  Maximiliane Mainka,  Edgar Reiz,  Katja Rupf,  Hans Peter Cloos,  Bernhard Sinkel,  Volker Schlöndorff。

各部の切れ目も、誰がどこを、も明示されていない。けど、ばらけている印象はあまりない。

60年代に結成されたバーダー・マインホフが70年代にドイツ赤軍派(RAF)となって、77年9月、彼らがダイムラー・ベンツの重役シュライヤーを誘拐、拘留中のRAF主要メンバーの釈放と身代金を要求したが、政府側は要求に応じず、それではとRAFはパレスチナ解放人民戦線の協力を得て10月にルフトハンザ機をハイジャック、これが特殊部隊によって鎮圧された直後、拘留中のRAFメンバー3人が自殺、こんどはその翌日、シュライヤーの遺体が自動車のトランクから見つかった。
『秋のドイツ』とは、シュライヤー誘拐事件に端を発して連鎖していったこれら一連のテロルのことで、この映画はニュー・ジャーマン・シネマの作家たちが映画製作の立場から『秋のドイツ』をスケッチ、考察したもの。

プロローグで、シュライヤーの葬儀の模様に被せて、彼が息子にあてた手紙が朗読される。
で、これに続くファスビンダーが監督した(としか思えないよね)第一部がものすごく強烈で、ここだけ見ればじゅうぶんくらいの濃さ。

事件のことを知ったファスビンダーは興奮してイラついていて、同居している愛人(男)アルミンにあたり散らし、下半身まるだしで陰嚢をもてあそびつつパリにいるかつての妻 Ingrid Cavenに興奮して電話し、母親と対話し、ドラッグをして嘔吐して、とにかく衝撃を受けて混乱してなにがなんだかわからなくなってわなないている。 なかでも数回に渡って挿入される母親との対話がすごくて、今回のテロの是非や当局の対応を巡ってナチス統治の時代も含めてドイツの指導者、民主主義のありよう、あるべき姿を詰問しまくるの。 で、母親が、過去を振り返りつつ、割ときちんとした指導者による全体主義、のようなものをぼんやりやんわりと肯定したところで、画面は唐突に切れる。 あーあ言っちゃった、みたいな。

プロローグは葬儀というソーシャルな場での父から息子への愛のこもったメッセージが語られた。
これに続く第一部は、自身のプライベートを延々曝しまくったあげく、息子から母へきつい言葉による尋問が行われる。 極めて対照的でありながら、これがこの件をめぐる反応の両極。

他のエピソードは、セルビア国王暗殺の昔の映像とか、収監されている初期RAFメンバーへのインタビューとか、軍事演習とか、獄中で自殺した3名の葬儀とか、今回の事件の起源や周囲周辺を記録したり切り取ったりしたいろんな「秋のドイツ」がばらばらと。

で、最後の最後に出てくる字幕が;

『残虐行為も限界に達した。誰がそれを行うかはどうでもよい。直ちにその行為を止めるべきだ。
(配布されたペーパーより)

ねえねえこれって「#本当に止める」てことだよね?
今国会前で行われていることがあとあとの歴史に「70年後:夏の日本」て呼ばれても恥ずかしくないように映画を作っている人たちは動きだすべきだと思うよ。 まじで。

イベントはこのあとも続くのだが、ここで一旦切ります。

7.26.2015

[film] Inside Out (2015)

20日の月曜日、アントワーヌ2本の後に六本木に移動して、見ました。

まず最初に、来ると言われて覚悟していた日本語版主題歌?のPV? が来たので目を瞑って耐えた。ヘッドホンをしようとも思ったがそこまでするのは面倒だった。 怖いもの見たさで薄眼を開けてみたら、おなじみ「しあわせ」を強要する生命保険会社のCMのようだった。 始まって、いつもは楽しみのはずのPixarのおまけ短編も、変てこすぎてなんだこりゃ? だった。古びた火山のようにどんくさい奴の結婚式とかで流してからかう用のビデオ、かしらん。 などなど、本編にたどり着くまでに相当うんざりぐったりで、でも耐えた。 よくがんばった。

女の子ライリーが生まれて、その心に感情が芽生えて、やさしい両親の元、すくすく育つのだが家族はミネソタからサンフランシスコに引越して、でも初日からトラブル続きでみんなぐったりで、転校した先でついいろんなことが噴出しちゃってライリーは。

ライリーのお育ち、家族との関係、転校を含めた環境とのあれこれに特に変なとこはないし事故も事件も起こらない、誰にでもありそう、思い起こせそうなことばかり。 特徴的なのはそのときどきのライリーのリアクションを司る感情たちにフォーカスしたところ、つまり複数の感情 - Joy, Sadness, Fear, Anger, Disgust - の連携といくつかのお気に入りの柱と沢山の思い出の粒つぶとかが、彼女の情動・挙動を決めているのだと。

ライリーが泣いたり落ちこんだりパニック起こしたりしているとき、彼女の頭の中では一体何が起こっているのか、をエモや記憶を使って戯画化してみるときっとこんなふう。 風邪ひいたり下痢したりしたときの体内のメカニズムを漫画にしたのがよくあったけど、ああいうやつ。

児童心理学とか発達心理学周りでそれなりのリサーチはしたんだろうし、その正しさについて云々するつもりはないけど、でもそもそも、人の頭と身体は、あんなふうに中央に司令塔があってそこからコマンド出したりしてアンドロイドみたいに動くもんなのか?  そんな簡単なわけねえじゃろ。

でも、というわけで、JoyやSadnessが走り回ってがんばって、ライリーは持ちこたえて、ご機嫌も戻るのだが、そこにはなんのマジックも感動もないの。 頭のなかがこうなって、こうしたから、こうなった、よかったねえ。 以上。

例えば、”Toy Story 3”が、なんであんなに感動的だったのかというと、子供を喜ばせるのが使命であるおもちゃ達が、成長とか時間の経過とかどうすることもできないのを知りつつも、自らの機能不全を省みず、渾身の力と想いで(かつての)子供達のなにかを呼び覚まし微笑ませようとしているところにあったの。 同じようにこの作品でも、ビンボンのとこだけちょっとかなしいけど、それだけ。
(でもビンボンみたいなやつ、いたし、忘れてないよ)

子供が悲しんでむっつりしているとき、SadnessやFearが裏でなんかやっているのかもしれないけど、そのときにやるべきことは、Joyがんばれーとかじゃなくて、単に傍に寄って目を見て話しかけてあげる、それだけでよいと思うし、そんなの声に出していうほど大変なことでもないよね。

わたしはSNLの長年のファンなので、彼らが作りあげてきたギャグの文脈のなかでああいう冗談エモ戦隊モノ、みたいのを出してきたのはよくわかるし、プラグマティックなアメリカ人がこれに乗ってくるのもわかる。 けど、冒頭のPVとかきもいTV CMとか昨今にっぽんの伝統家族回帰傾向とか、ああいう文脈に置いてしまうと、途端に奇怪なグロいものになってしまう。 にっぽん人はああいうメカニズムとかシステムをほんと自分に都合よく解釈して押しつけようとするから。

でも、頭の中でAmy PoehlerやBill HaderやMindy Kalingみたいな連中がじたばたわーわーしてる、ていうのを想像するのは悪くないよね。

これの黒い大人版をつくればいいのに。ウソとかミエとかエロとかシットとかズルとかメーテーとかSとかMとかが出てくるやつ。(誰も見たくないか)

それにしてもあっついねえ。

[film] Domicile Conjugal (1970)

20日のふたつめ。 アントワーヌ・ドワネルものの4つめ。

『家庭』。英語題は、”Bed & Board”。

我らがアントワーヌ・ドワネル(Jean-Pierre Léaud)はお花を染色する怪しげな仕事をしつつ、未だにマドモアゼルと呼ばれてしまうクリスチーヌ(Claude Jade .. 脚がきれいー)とは結婚してて、変な住人がいっぱいの長屋みたいなアパートで幸せに暮らしている。 クリスチーヌは妊娠してて、アントワーヌはやっぱしまともな仕事につかなきゃいかん、ということでアメリカの水力事業会社(?)にてきとーに(手違いで)入社して船の模型で毎日遊んでいる(いいなー)。

子供も無事生まれて、クリスチーヌの日々の関心がそっちに向かってなんかつまんなくなったアントワーヌは、仕事場に見学にきた日本人女性キョーコが気になって、彼女と付き合うようになるの。
エキゾチックな東洋女性の権化のようなキョーコの謎の魔力にやられてアントワーヌはされるがままへちまのへろへろにされてしまい、それを察知したクリスチーヌはかんかんで別居状態になるのだが、まあなんかぜんぶ自業自得だからしょうもない。

キョーコのおもてなし和食とか、どこで習得したのか強烈なおばさんイントネーションとか、笑うというよりなぞなぞたっぷりでたのしい。 どうやってああなったのか? ていうかあれだと日本人でもつきあうの難しいかも。

前作まで一生懸命だった仕事も恋もひと段落して、今度はご近所さんとか友人とか、そして勿論「家庭」 - そういう周辺とか「社会」ひととおりを通して見た - でもやっぱしなんか不可思議な「家庭」のありようと、でもやっぱし恋をしなくていいのかアントワーヌ、おまえはそんな安泰だの安寧だのそういうのを手にして、それで終っちゃっていいのか? とか疼いてどうしようもない本能のまま、じたばたどたばたホームコメディが炸裂して楽しいの。

すばらしいのはアントワーヌ・ドワネル = Jean-Pierre Léaudのそういう問いに対する惑いをこれぽっちも隠そうとしない、演技なんてどうでもいいところで現れる生々しい表情や挙動ではないか。
赤ん坊が生まれてもぜんぜん父親の表情にならない、なろうともしないアントワーヌの無邪気さについてフェミニズム批評の側からたぶんいろいろ言うことはできるのだろうが、彼の生い立ちとか考えてあげればわかんなくもないし。 なによりおもしろいんだし。

あとはベッドに並んで本を読む有名なシーンは、ちゃんと刷り込んで、真似をしよう。

これ、”Boyhood” (2014) よか長いしえらいことよね。

「逃げ去る恋」はまたこんど。

7.25.2015

[film] Baisers volés (1968)

20日の月曜日、連休最終日、どうせすることないんだわ。

Bunkamuraでやっている特集『ヌーヴェルヴァーグの恋人たち』は、なんかほんと適当に寄せ集めただけだろ、て気もするのだが、フィルム上映もあるようだし、とアントワーヌ・ドワネルもののふたつめ、みっつめ、よっつめを纏めてフィルムで見てみよう、と。

Antoine et Colette (1962)

『アントワーヌとコレット<二十歳の恋>より』
「二十歳の恋」 - “L’amour à vingt ans” - はオムニバスで、オープニングの字幕を追っていると元東京都知事の名前を見かけて一瞬ぞっとする(それくらい嫌)のだが、トリュフォーのこれは29分の短編。

『大人は判ってくれない』(1959)から3年後、17歳(あれ? はたち?)になったアントワーヌ・ドワネル(Jean-Pierre Léaud)はアパートで一人暮らししながらレコード会社(Philips)に勤めて盤をプレスしたり(いいなー)楽しそうで、そんなある日友人と行った音楽会でコレット(Marie-France Pisier)を見かけて一目ぼれ、音楽会に行くたびに彼女を見るので我慢できなくなってデートに誘ってみる。彼にとってこれは初恋で、おおまじで、そのうち両親にも紹介されて仲良くなり、思い切って彼女のアパートの通りを隔てて反対側のアパートに引越したりするのだが、彼女はなかなか親密になってくれなくて、どうするアントワーヌ(の初恋)、なの。

モノクロのカメラはRaoul Coutard、音楽はGeorges Delerue、これだけでぜったいなのよ。

まあね、最初からうまくいくんだったらドワネルものなんて成り立たないのよね。 というわけで;

Baisers volés (1968)

『夜霧の恋人たち』 英語題は、“Stolen Kisses”。

アントワーヌは軍隊で「谷間の百合」なんか読んでいるのだが、あんた兵隊として使えないから、て除隊になって、恋人のクリスチーヌ(Claude Jade)のパパの紹介でホテルのフロントの夜勤をやってみたらミスして浮気の修羅場を作り出してしまってその場でクビ、こんどはそこに居合わせた探偵の紹介で探偵社に勤めるようになって、そこから靴屋の主人の依頼で自分を嫌っている従業員を調べてほしい、て言われて靴屋の店員になりすましたら、主人の御婦人(前歯でわかった、きらきらのDelphine Seyrig!)に恋をしてしまい、でも彼女のことを「ムッシュー」て呼んじゃって、ああはずかしいごめんなさい、て手紙を書いて探偵も辞めて、今度は修理工になってクリスチーヌんちのTVを直しにいくの。

仕事も恋も一生懸命でじたばた走りまわるアントワーヌの奮闘がコメディぽく描かれて「夜霧の恋人たち」のしっとりしたイメージからはほど遠いのだが、修業時代の落ちつかない甘酸っぱさが全開、自分でもよくわかってないきょとんとした表情で、情動の赴くままに突っ走らざるを得ないアントワーヌがたまんなくすばらしい。 Wes Anderson映画の主人公の原型はまちがいなくここに。

ラストのCharles Trenetの歌がまた素敵でねえ。

7.24.2015

[film] Kış Uykusu (2014)

19日の日曜日の昼、新宿でみました。
『雪の轍』。 英語題は”Winter Sleep”。

見るからに寒々しそうな風景のスチールだったので納涼にはなるかしら、と思って行ったがそんなでもなかったかも。
196分。 ほんのうっすら寒くなった、少なくとも、ほかほかあったかくはならない。

カッパドキアの岩の間に、岩盤に埋め込まれたように建っている古いホテルがあって、そのホテルを経営するアイドゥン(Haluk Bilginer)は元役者で、いまは引退していて、地方紙にコラムとかを書きつつ、そのうち「トルコ演劇史」のようなちゃんとした本を出したいと思っている。

彼は町に出た帰り道、ガキが投げた石で車のガラスにヒビを入れられ、憎悪にまみれた目をしたそのガキを問い詰めてみると、アイドゥンが家を貸しているとこの子で、家賃滞納で家具とかを差し押さえられたことへの恨みが根にあるらしい。 

アイドゥンは典型的な文人、演劇だとおそらく古典劇の役者で、世間には疎くて汚いものはあまり見たくなくて見てこなくて、そういうわけなので離婚して実家に戻ってきた妹のネジラや、不釣り合いな若妻ニハルとはしょっちゅう衝突する。 ごろごろ本を読んだりで何もしていない(いいなー)ネジラは、兄の理想主義ぽい振舞いを嗤い、地域の人たちと寄付金を集めて慈善活動をしているニハルからは、貧しい生活がどんなものかわからないくせに、と罵られてぜんぜん噛み合わない。

もうひとり、石を投げてきたガキの叔父で、イスラムの導師でもあるハムディには、彼の妙にセコくて世俗的なさまに、宗教者としてあるまじき.. と苛立ったりしている。

周囲から見るとアイドゥンは、金に困っていないから好き勝手に日々を過ごせて、結果やたらお芝居的に尊大になってて、自分の思い描く人のありようを含めていろんなことを偏見込みで判断して、それを周囲に押し付けようとしている、一言でいうと高慢ちきでやなかんじで、周りの連中はそのイメージを抱いて彼に慇懃にぶつかってくるので、人間関係はまったく良い方向には転ばなくて、ニハルと大喧嘩になった彼は、ひとりイスタンブールに行くことを決意する。

会話では、難しい哲学的ななにかを提起するようなことが語られるわけではなく、どこにでもありそうな兄妹喧嘩、夫婦喧嘩、ご近所喧嘩、お金とか名声とか見栄とかをめぐる喧嘩、がトルコの有名な観光地 - でも極寒の、薄暗い照明、どんづまりの景色のなかで、陰々滅々と繰り広げられて、おかしいようなかなしいような、にんげんてやつは、とかぼんやり思ったりする。 チェーホフ、ドストエフスキー、トルストイ、ていうのはよくわかる。 ロシアぽい、ロシアの景色にとってもはまる。 
最後にシェイクスピアがふたつ引用されて、それでほんの少しだけ正常なトラックに戻ったりするのだが。 でもこれの舞台が英国だったら、まったく別のトーンのになるんだろうな、とか。

あと、まったく噛み合ない、容赦も寛容さのかけらもない会話、ていうとこないだ見た『フレンチアルプスで起きたこと』も思いだした。 あれも雪にびっちり覆われた逃げようのない世界の - -

馬のシーンは、なんとなくJohn Hustonの“The Misfits” (1961) を思いおこした。


今晩のデモ、目がテンになるくらい警官がひどかったが(まけるもんか)、富市 - 和夫 - 哲哉の3連が聞けたのでとっても満足した。

7.23.2015

[lecture] 映画はテロルにどう向き合うか

18日の土曜日、ターナーを見た後、久々にアテネフランセに行って、お話しをきいた。
2時間あっという間。 おもしろすぎ。

先月出たという(のも知らなかった..)四方田犬彦さんの「テロルと映画」(中公新書)の出版を記念したレクチャー。 丁度このテーマでいろいろ考えるところもあって、行ってみたの。本は会場で売っていたのを買った。

映画という表象システムはテロリズムにどう関わり、テロリズムに対して何ができるのか、スペクタクルとしての映画とテロルはどこでどう切り結ぶのか、といったテーマを映画研究の立場から考察する。

特に両者のスペクタクルを見せる、という特質から切りこんで、「民主主義」に対抗するものとして置かれるテロリズム - ある日ある時突然、全世界に向けて発信されるスペクタクルとしてのテロが、過去の映画でどのように描かれ、扱われてきたのか、それを探っていくことで、例えば加害者の目、被害者の目、歴史がもたらすもの、階層や年齢や性差、地勢がもたらすもの、等々、がだんだんに明らかになって、それはやがて、なんでこんなことか起こってしまうのか、というテロルの起源に向きあうところまでいく。

お話しの進行と共に紹介された映像資料は以下(流された順で);

- Luis Buñuel  - “Cet obscur objet du désir” (1977)  「欲望のあいまいな対象」
- Uli Edel -  “Der Baader Meinhof Komplex” (2008)  「バーダー・マインホフ 理想の果てに」
- Enison Sinaro “Long Road to Heaven” (2007)
- 吉田 喜重 「煉獄エロイカ」 (1970)
- Marco Bellocchio “Buongiorno, Notte” (2003) 「夜よ、こんにちは」
- Elia Suleiman "Homage by Assassination" (1992) 
   ※配られた紙では”An Hommage to Assassination” てなってたけど..

他に話題として出たのは、Marco Tullio Giordana “La meglio gioventù” (2003) -「輝ける青春」、アサイヤスの「カルロス」、そして勿論、若松孝二、など。

映画は単にスペクタクルを扱うというだけでなく、それがなぜスペクタクルなものとして我々の目と耳に届くのか響くのか、ということまで教えてくれる。もちろんそれは文学でも演劇でも音楽でも可能なことかもしれない、が、大勢のひとに一挙に問答無用に、という訴求力みたいなとこは、やはり抜きんでている気がする。(うんざりするくらいしょーもない − 正確にはしょーもないと感じさせる要素がてんこもりのやつがあるのも、おそらくおなじ性質によるものではないか)

こうして映画に表象されたスペクタクル、スペクタクルとして描かれたテロリズムは、ものすごくいろんなことを考えさせてくれることに改めてびっくりする。 そこにはあらゆる感情 - 怒り、悲しみ、後悔、絶望、諦め、祈り - があり、そしてなにより、多くの人が死ぬ。 さっきまで生きていた人が死ぬ、それがもたらす喪失、欠落、不在、穴、残されたもの、その重さの生々しさ、リアルさとはなんなのか、てよく考える。

本では第一章に置かれているElia Suleimanの作品 - 特にElla Shohatとのやりとり - が最後に紹介されて、起源に立ち戻るかんじ。 なにが、誰がテロルを、テロリストをそう名付け、そう呼ぶのかと。
そしてわたしは、いったい、誰なんだ、と。
これ、画質はよくないけど、You Tubeにもあがっているので見てみませう。

お話しが終って、本を買ったひとにサインしますから、になって解散状態になったところで、客席にいた小中陽太郎さんが、本の最後のほうにある「哀悼的想起」 - Eingedenken について質問をしたの。

哀悼的想起はベンヤミンが「パサージュ論」で提示した(毎度おなじみ)なぞなぞ概念で、完結してしまった歴史を、あるいは完結していない歴史を、如何に修復し、社会として記憶し哀悼するのか、ていうことについて、そういうことの必要性を語っている。

で、本には、映画の役割は哀悼的想起を組織することだ、と明確に書かれていて、おうちに帰って本のそこのとこを読んでああそういうことかー、と思った。 そうだよね。 うん。

この国の一部の政治家達がある時代の日本の所業、他の国では決して終っても決着してもいない過去のことをなかったことにしたがっている(哀悼も想起もなし)、そしてそのおなじ連中が憲法を無視して他の国に軍隊を送れるようにしたがっている -  そんな戦後から70年目の夏にこの本が出たのは偶然でもなんでもないのだな、と。

だから明日も行くんだ。

7.22.2015

[film] Mr. Turner (2014)

18日、土曜日の午後、渋谷でみました。 『ターナー、光に愛を求めて』

英国の画家、J.M.W.ターナー(1775-1851)の評伝映画。
オランダへの遠征から帰国するところから始まって、ターナー(Timothy Spall)は既に英国画壇でその名声を確立しているらしい。

まずとにかく、稀に見るものすごい醜男映画で、どこを切ってもおっさんと醜男しか出てこない。
ターナーの父親が市場で買ってきた豚の頭の毛剃りをして、その場面に続けてターナーの髭を剃るとこがあるのだが、それくらい主人公の扱いとしてはひどい。 豚なみ。

で、そういう醜男が美の、美術の世界に生きているという不思議。
でも、彼の創りだす美の不思議やその秘密や技法が明らかにされるわけではないし、その名声や評価を巡って輝かしいスポットがあたる瞬間が現れるわけでもない。 家族(父親とか前妻)や召使、海辺の町マーゲイトで知り合った船大工の妻といった身の回り- 彼の周囲で彼の面倒を見る人達 - ほとんど女性、偏屈な連中ばっかりの美術アカデミー - ほとんど男性 - との間でぜいぜいふうふうぶつぶつ文句言いながら絵を描いていく彼の姿がほとんどで、それは神秘的な美の世界にひっそりと暮らすというよりは、地味な職人とか職工とかそういう世界であってもおかしくないような、そんなざらっとしたトーン。

画材を担いで屋外に、窓の外に出ていく画家、場合によっては船に自らを縛りつけて荒れ狂う海を観察する。スポンサーの言う通りにアトリエに籠ってこまこま世界を構築するのではない、そういう半野人の知覚嗅覚をもつ画家としてのターナー。

意匠としての美、確立された美の世界を追求するのではなく、例えば繭のように輝く光をまるごと、光が照らしだす、光が網膜に作用するなにかを画布に浮かびあがらせる、叩きつける、美だなんだ以前のところでそういう試みを仕掛けた先駆(でも光に愛は求め.. ないよ)としてターナーを置いていて、そこはおもしろいかも。
特に、ラスキンが出てきてクロード・ロランと彼を並べて、ロランをけなしてターナーをもちあげるとことか。 
(ラスキンて、コンスタブルとターナーの比較をやっていたのは知っていたけど、これもあったのね)

ていうような位置関係とか、写真技術が出てきて、印象派が出てくる少し前の時代のアートに興味があるひと、あと醜男に萌えてたまんないひとは、見たほうがよいかも。

個人的には『失われた時を求めて』のエルスチールのモデルはターナーだったのか問題をじっくり掘ってみたいのだが、そんな余裕どこにあるのやら、だねえ。

あと、ターナー(特に後期の)は続けて浸っているとほんとにこのひと、薬でもやっていたんじゃないか、みたいに心配になってくるくらいすごいので、興味をもったひとはTate Britainの常設展示を見てみませう。

そういえばこの映画も昨年のソニーのサイバー攻撃の際に流出してしまった1本だったのだが、流出してもあんま売れなかったのではないか、とか余計な心配をしてみたり。

7.21.2015

[log] July 17 2015

17日の金曜日の晩、連休過ぎれば忘れるでしょ、がムカついてならなかったのでやはり国会前に向かう。

あんな愚かなハラス野郎の戯言にいちいち乗るな、というのもあるが、そういうことよりも、かーっとなって一過性の動きをしているのではないのだ、ということを自分に言い聞かせるためにも、少なくとも3日間はこの場所に来て考える、というのをやってよかった、と思う。

デモに誰が来て何を言ってどんなだったか、は後からでも情報として採れる。でも、デモ(でもでも)の現場に身を置いて、あそこで目や耳に入ってくるノイズあれこれに身を曝し、人混みを抜けて吹いてくる風を感じることには別の意義があって、それは参加体験、と呼ばれるのとも違う、自分でやるんだ、なにかにリアクトするのではなく、これを決めてこれを言うのは自分なんだ、というあったりまえのことを確認する、そういうことなのだとおもったし、それ以外の突破口はないのだと。 残念ながら。

If you can't change your world, Change yourself
If you can't change your world, Change yourself
If you can't change your world, Change yourself
And if you can't change yourself then Change your World.

  - The The "Lonely Planet" (1993)

ここまで来てようやく思い知れた、ここまで来なければわからなかった、というのは間抜けであるがそうすることで自分の照準が定まるのだし、来ないひとの事情だって十分わかるのだし、別によいのではないでしょうか、と。 好きにやらせろ、と。

というようなことを考えたのは、金曜日、警察の方々の数がものすごく多くて、なんでしょこれは、と思ったからなの。 彼らは歩道に立って「危ないですから立ち止まらないでください」をずっと連呼しているわけだが(おばちゃん達が「あんたうるさいのよ聞こえないわよ」ておばちゃん的に突っこみ続けるのが素敵だった)、べつにどっかに突撃しようとしているわけではなく、単に自分がコールをするスペースを探しているだけだからちっとも危なくなんてないのだが、彼らはそういうとこがわかんないらしい、このギャップは思っている以上に深いんだろうな、と。

デモの若者たちに対する中傷とか、戦争と火事の違いがわからないらしい首相とか、なんかいちいち致命的で、こういうのはもう数でわからしてやるしかないのだろうか。
でもわかりやすく子供みたいにって、なんか違うと思うし、暴力ともちがうんだからね? ね?  とか。

まあとにかく今週も行くしかない、という結論に。

7.20.2015

[film] 最高殊勲夫人 (1959)

12日の日曜日の夕方、「未来学会議」でなんかぐったりしたので思いっきり即物的でわかりやすいのが見たくなったら丁度こういうのをやってた。

特集『若尾文子 映画祭 青春』はもちろんできるだけ見たいに決まっているのだが、なんかあの時間割みると行く気が失せて、しかも全席指定とかだし、あれで青春を取り返すのは難しいかも。
見たいのは見るけどさ。

いかに成功したカップルに学びこれを複製増産して女系家族の強固な基盤を確立するか、ていうハウツーとサクセスストーリーがいっぱい。 で、そこでのMVW (“The Most Valuable Wife” - 英語題)に輝くのは誰?  ていうサスペンスフルなラブコメなの。 おもしろいよう。

冒頭が三原家の次男と野々宮家の次女の結婚式で、仲人は、えー玉の輿なんて言葉は昔のあれですが、とか言いつつ、でもこれは商社の社長である三原家長男一郎(船越英二)と同じ会社で秘書をやっていて現在の地位を手にした野々宮家長女桃子(丹阿弥谷津子)の交配事案のコピーで、司令塔である長女桃子の次なる野望は三男三郎(川口浩)と三女杏子(若尾文子)をどうやってくっつけて帝国を築きあげるのか、なの。 彼女の女王蜂のような野望がどこにあるのかいまいちよくわかんないけど。

でも、三郎は一郎とは別の会社に勤めているし、杏子は働かずにぷらぷらしているし、当のふたりもそんなおせっかいは最初から察知してて今の時代にまったくもってナンセンスだわ、てぷんぷんして、互いに共闘しよう、絶対思い通りにはさせるもんか、とそれぞれに婚約者とか恋人とかいますから、て宣言してつーんと横を向く。

こうして映画は、それがどうしたってのよあたしはやるわよ、ていう桃子の鼻息と、恋愛は好きにさせてもらいます、でもそう言いつつ互いがなんか気になってそわそわする若いふたりの行動を「ちがいます」とか「そんなことはありません」とか「関係ありません」とか「じゃあこうします」とか、さくさくした決断とアクションの連鎖でスピード感たっぷりに描いて目が離せない。

主人公達だけじゃないの。 杏子が一郎の会社の秘書室に入って社内恋愛のパワーバランスが崩れたことに危機感をもった男女複数の同志が、まだろくにつきあってもいない二名に居酒屋でビール6本で結婚しろって強要し、その晩のうちに社長宅に行って仲人の約束まで取り付けちゃう(当事者の男の方はべろんべろ)、とかなんかすごい。 たった半世紀前のにっぽんよ。

とにかくみんなうじうじ悩んだり語ったり立ち止まらないところがかっこいい。最後がどこに落ちるのかは明らかなのだが、そこにしたって感動からは程遠くて、バーで飲み物頼むみたいなノリと勢いで片付けちゃうの。

で、MVWは誰なのかというと今回の件については桃子で、しかし杏子もあたしだって、と意気込んでいるので覇権奪取は遠くないのだと思うが、それにしても改めて、彼女たちはいったいなにを目論んでいるのだろうか。

でも出てくるひとみんながチャーミングで、最後のストップモーションまでぜーんぶ許せてしまう不思議。

あと、とんかつばりばり食べたくなる。

7.19.2015

[film] The Congress (2013)

12日、日曜日の午後、新宿でみました。

『コングレス未来学会議』

原作のレムの『泰平ヨンの未来学会議』は今ぱらぱら読んでいるのだが、なんか随分印象がちがう。

女優のRobin Wright(実名でそのまま)は二人の子供を育てつつ空港の傍の元格納庫に暮らしていて、既に女優としてのピークは過ぎている。 スタジオ(Miramount だって)は、女優としてのRobin Wrightをぜんぶバーチャルでパッケージする契約を結ばないかと言ってくる。 スタジオ側は君の我儘や年齢による劣化を気にすることなく制作に没頭できるし、君はそれなりの金を手にしてあとは好きに自由に暮らすことができる、悪いことなにひとつないでしょ、と。

悩んだ末に彼女がバーチャライズを承諾してそのためのスキャンを実行する迄が前半。
そこから20年後、その契約更改と「未来学会議」でスピーチをするために彼女がAbrahama Cityに向かうところからが後半。 Cityの入り口で薬物を飲んだところで全てはアニメ化して、人々はぺらぺらのアバターとして人々と関わるようになっていて、で、なにか問題でも?

はじめに自身をバーチャル化/デジタル化することへのちょっとした抵抗があり、そこからなんでもかんでもバーチャル/デジタルにしちゃえばいいじゃんとなり、更にそのデジタル化された自身(のプログラム)に自在にアクセスできるようになれば、あなたは簡単にわたしにも、誰にでもなれる - コミュニケーションとか簡単だし楽になるし気持ちいいに決まってる。 というふうに世界は一気にそこまで、らりらりの方へ行ってしまっているのだった。

自我とか身体とか倫理とか、そういうのをとりあえず置いておいて欲望とか産業はそこまで突っ走って、仮想化された世界が現実を浸食しはじめる - ていうか現実、別にいらないよね、そこに拘る必要、どっかにある?  という問いとともに最後に再び現実と仮想の対比がちょっと切なく描かれる。

前半のバーチャル化までは映画産業の要請ということでわかりやすいのだが、後半の解り難さってなんなのだろう、て思っていた。 自分のアバターが他者とコミュニケーションする、とか今でもSNSとかでやっていそうなのだが、たぶんそれって、今のところは「正常」なコミュニケーションを補完する何かでしかないから、なのかもしれない。とか、肉(身体)はどうするんだ肉は、とか。

そういう問題提起も含めた「未来学会議」ということなら、わかんないこともないかも。

監督のAri Folmanは、前作の”Vals Im Bashir” (2008)では記憶の欠落をテーマにして、今回のは身体性の欠落をテーマにして、アニメーションの可能性を探求している、のかしら。 べつにアニメじゃなくてもよい気もする、アニメというより昔の「ガロ」とかに出ていた漫画に近いかんじ。

音楽は、Bob DylanとLeonard Cohenでそこらへんもまた。

7.18.2015

[film] Turist (2014)

11日の土曜日の昼、有楽町で見ました。 なんでか満員だった。

『フレンチアルプスで起きたこと』  英語題は”Force Majeure”。  ふかこーりょく。

風光明媚なフレンチアルプスのスキーリゾートにバケーションでやってきた家族 - パパにママに姉弟の小さい子供の計4人、記念写真を撮っているところを見ると、とってもなかよしなミドルクラスのどこにでもいそうな素敵な家族。 4人揃ってスキー場を移動するときも、飽きて疲れたガキがグズったりするものの、そんなの珍しくもなんともない。

2日目、山に面したテラスのテーブルでランチを取っていると、ごごごごって音と共に雪崩がくる、最初はうそ? なに? とか言っていたのがまじで迫ってくるようなのでテラスはパニックになって、後でそれは観光用の演出(そんなのあるの?)だったらしいことがわかるのだが、問題はそこではなくて、パニックになったとき、パパだけ自分の手袋と携帯を持ってひとりで逃げた、と。 パパはいやいやそんなの誤解だすぐに戻ってきただろ、というのだが、ママはそうは思わない。

あなたは、みんなが悲鳴をあげているときに、ひとりで逃げた。 家族を置いて、自分だけ助かろうとした。(ゴシック太字)

普段だったらこの程度の気まずさとか亀裂は、翌日会社に行ったりすれば消滅してしまうのかもしれない。 けど、ふだんは忙しいパパも含めてみんながずっと一緒に顔を合わせて行動して、そこでの楽しみや歓びをわかちあうバケーションでこれが起こってしまったのはまずかったかも。
ほんの一瞬の反射行動の余韻がまっしろの雪原の一点のシミのように、ちょっとしたひび割れが雪崩を引き起こすかのように、誰にも止められない勢いで家族全体を覆って、ママは恨みできつい目になり、パパは憔悴し、子供はその雰囲気を察知して泣きながら閉じこもってしまう。

さすがにこれはまずいよね、と一旦仲直りのハグはしたものの、友人カップルと夜中に談笑しているところで、だれがどこのボタンを押してしまったのか、ママが再びこの件をひっぱり出し、テーブルの気まずさお構いなしでブルドーザーと化したママの勢いは止まらず、犬も喰わない地獄みたいになっちゃうの。

おっかないよう。雪山の白と、家族の闇と、他に抜けられようのないホテルと。
逃げることはできないし、正解はないし、でも誰もわるくないし、理屈を飲みこめないままぐるぐる回り続けて止まらないメリーゴーランド。 楽しまなきゃいけないところなのに何をやっても楽しくない、これを地獄と呼ばずしてなんと呼ぼう。

このがんじがらめの緊張関係はどこでどう収束するのか、あるいは臨界を迎えて惨劇になだれこむのか、最後までぜんぜん気を抜けなくてぐったりする。 で、なんでひとの家族の幸せのためにこんなに緊張しなきゃいけないのかわかんなくなって、更にあたま抱えたくなったり。

“The Shining” + ベルイマン、かなあ。
雪山のなんか冷たく寒い(あたりまえだけど)、きついかんじが怖さを際立たせて、もういいから殺せ、みたいな殺伐としたかんじになっていくのがたまんない。

でも、そもそも、父親ってそんなにしっかり家族を守らなきゃいけないもんなの?
(そのへんがラストのエピソードで..)

[art] Helene Schjerfbeck: Reflections

10日の金曜日、急に晴れやがったせいだかなんだか、目眩と頭痛で昼過ぎになっても立ち上がれず、3時過ぎによろよろと這いだして上野に出ました。 なんで上野にしたのか、もうよくおぼえてないわ。

そういえば鳥獣戯画、終っちゃってたねえ(ぷん、べつにいいけど)、と東博の本館で小特集『書画の展開―安土桃山~江戸』ていうのだけ見る。

夏の一枚、ということで円山応挙「朝顔狗子図杉戸」(1784)。
板戸の上に青紫の朝顔と丸っこい子犬ころ共(白2茶1)がのったりべっちゃりしている。
杉の板戸っていうのがその木目も含めて素敵で、朝顔も犬ころもその上で気持ちよさそうにしゅるしゅるごろごろしている夏の極楽図なの。

その隣にあった酒井抱一「洋犬図絵馬 」(1814)は、その和犬ころに苦虫つぶして喧嘩を売ろうとしている不良の洋犬で、悪くはないのだが、ころ犬の垂れ目には勝てないかんじ。

他には長沢芦雪の「雀図扇面 」もよくて、あの扇でぱたぱたしたい。雀の羽音がするんだよ。

そこを出たとこで16:20くらい、すこし早歩きで東京藝術大学大学美術館に向かって、これ見ました。

『ヘレン・シャルフベック――魂のまなざし』

展示は3階のみだったので、30分で十分だった。はじめ順路を逆でまわってしまい、戻って2回転くらいした。

フィンランドの女性画家(1862 - 1946)。
3歳のときの怪我で足が不自由となり、21歳で婚約を破棄されて、50を過ぎて19歳年下の彼に恋をしてさらりとふられて、あんま幸せそうな生涯を送ったようには見えないのだが、絵にはそういうあれこれとは関係ない静謐さ - エモをみっしり塗りつぶす強さから遠く離れた絵画への素朴な愛と信頼 - コンポジションと色彩、筆やナイフへの迷いのなさ - があって、それは裏返せばあたしには絵しかないんだっていう悲愴さに見えないこともないのだが、それをうっすらとした希望に繋ぐような儚い、でもくっきりした生がそこにあるの。 長い間に描き続けられた沢山の自画像が示すのは決して「だいじょうぶだいじょうぶ」な呟きではなくて「それがなにか? ふん」なかんじがする。

北欧のあのへん、というのはあるのだろうか。
例えば、デンマークのハンマースホイ (1864-1916)、ノルウェーのムンク (1863- 1944)と並べてみることの意味とか(... あんまないか)。 1862, 63, 64年生まれの彼ら。

塗りこめられた芒洋とした不安とか孤独の向こうに、色と線のエッジに、うっすらと立ちのぼる生。 出会いへの希望とか憧れとか - がそこにないとは思えないの。

ここの次の展示「うらめしや~、冥途のみやげ」展も必見だね。

で、ここから国会前に行ったの。

7.16.2015

[log] July 15 2015

金曜日にデモに行ったので自分のなかでは結構すっきりしたのだと思っていた。

... ぜんぜんそうじゃなかったぜ。

水曜の昼は会社にいたので、どんな様子でやられてしまったのかはわからない、けど思いっきり再沸騰した。

金曜日のはなんだったんだ、あれだけ打ち鳴らしたってのに、それでもぜんぜんわかんないのか。
まあ、連中がわかんないであろうことはわかるし、どうせ強行もやるんだろうな、と予測はしていたさ。 でもさ。

・国民の理解が得られているとは思っていない。
・違憲である、とさんざん言われていることもわかっている。
・みんながみんな、これだけわーわー「やめろー!」って喚いている。

それでもやるんだ ... (さすが違憲政党だわ) 
しかも更に反感と怒号と悲鳴を呼ぶような、卑劣で破廉恥で後世には恥ずかしくて残せない、国営放送でも流せないようなやりかたで。 「決めるときは決める」とか言って。「連休が過ぎれば忘れる」まで言って。

「理解」なんかできるわけない。人殺しを許すような方向に明確に「反対」してるんだよ!!

なめんじゃねえ。 ぜったい忘れないし、ぜったい許さないからな。

金曜日のは、やはり言うべきことは言っておかねば、というデモで、それを大きな声で言った。
きのうの水曜日のは、全員のやり場のない怒りと屈辱と恥ずかしさ(ほんとに恥ずかしいわ。世界の恥だわ)が途方もない渦を巻いていて、とりあえずあたまはかんかん煮えたっていて、とにかくどうしてくれよう、ていうデモだった。(むしゃくしゃくしゃ)

こんなの、フランス革命だったら即ギロチンだし、高倉健と菅原文太と池部良には地の底から蘇っていただいて思いっきしドスをぶちこんでもらいたいところだわ。

(ああ、非暴力非暴力非暴力) 
(でも連中のがさつさ野蛮さときたら18世紀並みだよ。 近代のそれじゃないよ)

共感とか連帯とか一切信じない人間だが、あそこまでみんな同じように怒っていて憤懣やるかたない、みたいになっているところは、なんかおもしろかった。 みんなまわりの人たちには礼儀正しいのに、それぞれ頭のてっぺんから湯気だして怒ってた。

上野千鶴子さんのお話しを聞けたのもうれしくて、聞いているうちに冷静になってくる。
社会学とかやっている学生はぜったい参加したほうがいいよ。 あそこにいるだけで本10冊分くらいの勉強になるはず。 いろんなスピーチ聞けるし。

スピーチのなかで、国民の怒りと不信が余りに広がりすぎて怖くなったからとっとと採決に踏み切ったのだ(通ってしまえばあとは忘れるから)、というのがあった。  残念でしたね。われわれはクソ法案にも怒っているけど、同じくらいクソ与党にも怒っているし、人に対する恨みはずうっとついてまわるんだよ。 あんたらの人を小ばかにしたような薄笑い、嘘つきの、欺瞞者の濁った目はぜえったい、一生忘れないからな。
(憶えていたくないけどな - 脳のスペースもったいないし) 

あとね、与党の人たちって、みーんなあれでよいと思っていて、あれに従うんだね?  カルト教団かよ。
もっといろんな考えとか背景のひと、ちゃんと考えるひととかいるのだと思っていた。 全員があの法案とあの決め方でよいと思って、あれに乗った、というのに呆れるし気持ちわるい。 ああいうシステム - NOを言えないようななにかが連中を動かしている、ていうことがわかったのは収穫だったかも。 戦争に向かうっていうのはこういうふうなベースができて、積みあがって止まらなくなるんだね、ということがみんなに曝されたから。 

その反対側で、野党が一致団結するのはわかる。あまりに事態が醜悪で腐っていて人として我慢できないからで、これはごく自然で理性的な反応だし、それは国会前に向かった我々もそうだし。

昨晩、デモから戻ってTVで採決のところとか見て、目を疑うくらいひどいのでもう一回ぶちきれて吐気で眠れなくなって、今日は台風雨の予報だったけど、雨で人数が減ったとかくそじじい共に言われるのは嫌だったので、もう一回国会前に向かった。 雨は降っていなくて気持ちよかったし、みんなも相変わらず怒っていた。

明日もいくから。 もう仕事も会社もしらねえ。(←なんかあったらしい)

7.13.2015

[log] July 10 2015

10日の金曜日、天気は晴れていたが朝から目眩と頭痛が半端じゃなかったので会社やすんだ。

で、(というわけで、ではないが)夕方に国会前に行った。
SEALDsのデモ、でもあるが、これはなによりも自分ひとりの抵抗、として拳をあげてみる。

わたしはパンクだから未来なんてもともとないと思っている。子供を守らねば、とも思わない。
そもそも日本という国はだいっきらいなので、なくなっちゃえ、くらいのことまで思う。
そりゃ憲法は大事だけど、そんなことより戦争も軍隊も暴力もぜったい反対だしいらない。
立憲主義も民主主義もよくわかんねえけど、とにかくなによりも我慢ならねえのは連中の薄笑いと権威と人数を楯にして、物事を進めようとするそのやり口の気持ちわるさなんだ。  

連中が思い描いているにっぽん国のあり姿なんてほんとうはどうでもいい - いや、どうでもよくないけど、それは人によって、いろんな世代、いろんな国のひとによってぜんぶぜんぜん違う - 当たり前だけど。 その当たり前のことを聞く耳持たず解ろうとせず、かと言って自分たちの描く像を周りのひとにきちんと説明できもしないくせに(わかんないもん、連中の言ってること)、自分たちのサークル内でせかせか合意だけとって、あとはそこに向けてやっちゃえ、ていうやり口がひどすぎるし汚すぎる。

別の言い方をしよう。 たぶん、向こうはこっちをバカだと思っているし、こっちは向こうをバカだと思っている、そこに和解はないのかもしれない、それはいいとしよう、でもだーかーらー決めちまえ決めていいんだ、に飛躍するのはありえないしわけがわからない。 しかもコトは憲法だよ。
みんなが怒りまくっているのはそこだ。 更にそこを理解できない、そこに想像力を働かせることができないような連中が政治家や報道をやっていやがる、というのが更に怒りと絶望を加速する。 なんなんだこの国。 

これだけじゃない、原発も沖縄も国立競技場もヘイトスピーチも格差もぜんぶ同様の不透明な気色悪いやり口満載のまま放置しっぱなしで、それを与党だからいいんだ問題ないんだ、みたいな理屈でドライブしているようにしか見えなくて、そしてメディアはへらへらぜんぜん頼りにならない(ねえねえ、正義ってしってる?)のだから、自分で声をあげてノイズを起こすしかない。

デモはそういうことを言うための手段で、そういうのを言いたいひとが参加して言う場所なんだ。
ていうのを2011年、Occupy Wall streetとかLincoln Centerとかで老人たちがいっぱい叫んでいるのを見て知った。そのなかにはPhilip Glassみたいな寡黙なひとまでいたの。

今度のデモでSEALDsの子たちは偉いとおもうけど、彼らが偉いのは上のようなあったりまえのことを自分たちの頭で考えて自分たちの声にして喚いていることだ。 行って聞いてみるといいよ。

もうねえ、日本にロックなんてないんだなあ、と改めて思ったよ。
いまライブをやるべきなのは国会前の路上だろう、苗場で「ロック」フェスなんてこの状況下でよく言ってられるよな、ロックなんてやめちまえ腰抜け腑抜け。 ておもうわ。

だから国会前にいくの。 本当に止めるからな。

7.12.2015

[theatre] Skylight

8日の水曜日の晩、日本橋のシネコンで見ました。
National Theatre Live 2015の3つめ。 とりあえず、程度で行ってみたのだが、すごーくおもしろかった。

英国のDavid Hareの戯曲で初演は1995年のWest End、これが2014年に再演されて、このプロダクションはそのままBroadwayに持ちこまれて、ついこないだ - 6月末まで上演されていた。
96年のLaurence Olivier Awardを受賞している。

演出はStephen Daldry、登場人物はトム(Bill Nighy)、キーラ(Carey Mulligan)、エドワード(Matthew Beard)の3人、場所は一人暮らしのキーラの部屋、時間は夜から翌朝まで。
トム役のBill Nighyは96年以来の再演。 (その前の同役はMichael Gambonだって)

寒そうな夜、しょぼいヒーターひとつ、殺風景なワンルームの部屋にキーラが仕事から帰ってきて荷物を置いたところに、突然エドワードが現れる。
ふたりは久々の再会のようで、その関係は始めよくわからないのだが、かつて同じ家に住んでいたらしいこと、エドワードの母アリスが亡くなってから父トムの挙動がおかしくなって我慢ならないこと、突然出て行ってしまったキーラの事情はわかるものの、できればふたりがよりを戻してもらいたいと思っていることがなんとなくわかり、でもキーラはそのことはもう終ったし考えたくないのだと。 (でも明らかに揺れている)

エドワードが出ていって暫くするとドアベルがけたたましく鳴ってトムが現れる。
キーラはなによこれ、と動揺しつつ、トムも穏やかな訪問と再会を装いつつ、キーラは平静を保つためか夕食(野菜を切って鍋に入れ、ボロネーゼを作ってパスタを - 本当に調理しているぽい)を作りながら応戦する。

トムは上背も態度もでっかくてじたばたやかましくて、社長をやっているので羽振りもよさそうで、あれこれ自慢だの強がりだのを言うもののキーラは別世界のこととしてあんま相手にしない、よかったねがんばってね、程度。
でも話は否が応でもふたりが出会った頃、ひとつの家に暮らしていた頃、キーラが出て行ってからのこと、に流れていく。 キーラがいなくなって、アリスもいなくなって、その不在をきちんとのみこめず適応できない彼は、キーラに対して、君はどうなのか、こんな治安のよくない地域の貧相な部屋で、教師なんかしながらずっとそうやっていくつもりなのか? とか。

こうして諍いのラウンド1のゴングが鳴って、パスタは台無しになって、でもとりあえずの親密なハグに至るまでが1幕、2幕目はもう一回、「愛」を巡る対話がとてつもない溝を掘って拡げて伸ばして止まらなくなる。

過去とか境遇とか格差とか性差とか価値観とか、果たしてそれらは壁なのか闇なのか溝なのか、それらを乗り越えて愛は如何にして可能となるのか、そもそも愛ってそうやって掘ったり越えたりしたところにあるものなのかどうなのか、それから更にくどいようで申し訳ないけど、幸福ってのはどうなのかな、とか。  そういうものすごくいろんなことをボロネーゼみたいに煮込んで煮詰めて考えさせて、でもほんとは、いちばん食べたいのは誰かが持ってきてくれるおいしい朝ごはんなんだよ、とか。

そういうのが、あーあ言っちゃったよ(口を覆う)、形式で互いに積みあがっては崩され、やがて取り返しのつかないなにかというべきか取り返されたなにかというべきか、に至るまでを克明に刻む。 取り返しのつかないかたちで取り返されたなにかに雪と朝の光がやさしく降り注ぐ。
果たしてこれは修羅場、だったのか、ただほんの少しどたばたした寒い夜と暖かい朝に過ぎなかったのではないか、とか。

あと、ここで展開され、両者がぶつけあったことって、90年代中頃の(に出てきた)ものかも、ていうのもあって、でそれはそのまま今、もろど真んなかの愛を巡るテーマであることだねえ。
(別にほっときゃいいじゃんうるせえや、ていうのが80年代 ..)

Carey Mulliganさんのしかめっ面、放心、泣き顔も素晴らしいのだが、とにかくこの舞台はBill Nighyどまんなか、直立類人猿の表情と挙動ですべてを圧倒しなぎ倒す、誰もが期待するBill Nighyの決定版を見ることができたのもよかったの。

7.11.2015

[film] Selma (2014)

5日の日曜日の午後、日比谷でみました。
米国の独立記念日の週末だし、自分もそろそろ/いいかげん戦わねば、という決意を奮い起たせるためにも。

「グローリー/明日への行進」  - そんな明るい映画じゃないけど。 でも必見だよ。

米国のポスターはMartin Luther King, Jr (David Oyelowo) - 以下MLKJ - の後ろ頭だが、それを後ろから見つめる多くの人々もまた映画の中心にいて、それを見る我々もまた -  ということなんだ。
(そこいくと日本のは、邦題も含めてぜんぜんだめよね)

1963年9月にアラバマ州で起きたKKKの教会爆破で少女4人が犠牲となり、1964年7月の公民権法(Civil Rights Act)制定のあとに有権者登録をしにいったAnnie Lee Cooper (Oprah Winfrey)が意地悪されて閉めだされ、そういったことを下敷きにMLKJとその側近たちがSelmaに乗り込んでいく。  「Selmaだな」「Selmaです」「いよいよだな」とか言いながら。

この時点でMLKJはノーベル平和賞を受賞していて、Johnson大統領とも今やるべきこと、今後やらねばならないことについて直接対話を重ねていて、それでも州知事も州警もまったく折れるつもりはなさそうで、FBIは盗聴も含めて彼の周辺を徹底的にモニターしている。

映画はFBIのログからMLKJの挙動を日時単位で正確に追いつつ、その表側/裏側で彼らはなにをどう悩み、考え、行動していったのか、を描きだす。 そこには妻Coretta (Carmen Ejogo)との愛憎あれこれや、同志であるべきSouthern Christian Leadership Conference (SCLC)、Malcolm Xとのやり取りも出てきて決して平坦な簡単なものではない。 

全ての行動は政府側・体制側に読まれ、袋小路に追いこまれて叩き潰されることがわかっていて、でももうこれ以上は我慢できない、行動を起こさなければなにひとつ変わらないからー。

こうして1965年3月7日、最初の行進でBloody Sunday - 「血の日曜日事件」が起こって、そこから2回、3回に渡るSelma to Montgomery marchesの軌跡を描く。 それは勝利を獲得する爽快感や達成感からは遠くて、なんでこんなにも…  という虚しさや徒労感のほうが残って、だって映画の公開直前に起こったFergusonも、ついこないだのCharlestonも、それに続くConfederate flagの件にしても…  どこまで根が深いのだろう。

なので過去の歴史を学ぶかんじはしなくて、MLKJの逡巡や苦悩はあまりに生々しく、彼の周りの人たち - 生き残ったひと亡くなったひとみんな - も幽霊のように、というか幽霊のリアルさ怖さと共にそこに - 我々のすぐ傍に立って何かを囁く、そういう感触の映画。

“The Help” (2011)や”The Butler” (2013)と併せて見てもよいかも。
でも、アメリカの歴史を学ぶ、というより彼らの戦い方、兵法、抵抗の眼差しを学ぶために、今の我々が戦うための基軸を掴むために、ね。

それにしてもさあ。

<MLKJ>
憲法で認められていることを自らの手にするために戦い、メディアはそれをバックアップした。

<今のわれわれ>
憲法が憲法で認められないやり方で変えられようとしていることを阻止するために戦い(現在進行形)、メディアは知らんぷりをしている。

(… 明らかに退化してるよね。敵は幼稚で思考力想像力ゼロのファシストひとりなんだけど)

音楽はゴスペルからラップ迄、この50年間を包含する実に豊かなものでした。
とにかく見たほうがいいよ。

7.10.2015

[film] Stuck in Love (2012)

4日の土曜日、羊映画のあとで新宿に移動して見ました。
ほんとは「コングレス未来学会議」を見るつもりだったのだが、売り切れてたので、どっちみち見るつもりだったこっちを。

「ハッピーエンドが書けるまで」

作家のBill (Greg Kinnear)は、離婚して家を出て行ったex妻のErica (Jennifer Connelly) に未練たらたらで、娘のSamantha (Lily Collins)は作家デビューが決まったばかり、息子のRusty (Nat Wolff)もなんか書きたいと思いつつも、まだ高校で一目惚れした鼻血娘Kate (Liana Liberato)のことが気になってふらふらしている。

成功した作家で落ち着いているふうなのにあんま現実を見ようとしない父親、シニカルで現実主義ですぐ男と寝ては離れるSamantha、ふたりの間でおろおろ態度を決めかねている童貞Rusty、それぞれに微妙で半端でどうしようかみたいな恋人未満のができて、それぞれの恋の行方はどうなるんだどうするんだ、ていうお話しなの。

Billには定期的にワークアウトみたいなセックスをやってべらべら喋っては去っていく近所の人妻Kristen Bell(さいこー)がいて、Samanthaにはミステリー作家志望であんまぱっとしないLouis (Logan Lerman - “The Perks of Being a Wallflower”の彼ね)が犬のように寄って来るし、Rustyが惚れちゃったKateはヤク中でとっても危ういし、父は息子にリアルな経験をして小説を書け、とか偉そうにいうのだが、君たちそんな状態でよく小説なんて書けるよね、Raymond Carverとか語れるよね、なの。

たがいにおおきなお世話、て言葉が乱反射しあうラブコメなのだが、みんなぼんやり発情してはいるものの、本を書かねばとか、恋をしなけりゃ、とかあんまぎらぎらしていないとこがよいの。そんな程度の距離を置いといたほうが本は書けるのね、たぶん。
ていう、ある年のThanksgivingから次のThanksgivingまでの一年間。
Beer Can Turkey、いつかやってみたいなー。

Josh Booneが”The Fault in Our Stars”の前に撮ったやつで、音楽も”The Fault in Our Stars”と同じMike Mogis & Nate WalcottのBright Eyes組が担当。 映画のなかで、KateがRustyにプレゼントする大切な一枚が、Bright Eyesの”Fevers and Mirrors” (2000) で(これに対しRustyが彼女にあげるのがStephen Kingの”IT”.. )、実際に”The Calendar Hung Itself..." が流れたりもする。

なんかねえ、"A Perfect Sonnet" とか"Kathy with a K's Song”とか、初期のBright Eyesのべったべたエモエモのラブソングばかりが流れる恋の映画がみたいなー。

弟たちの音楽はBright Eyesで、これが姉の代になるとElliott Smith(の”Between the Bars”)になる、そういうちゃんとしたとこもよいの。 どうでもいいかもしれないけど、だいじなの。

7.06.2015

[film] Sweetgrass (2009)

気がついたら今年は半分終っていて、やってられんなくて、4日、イメージフォーラムで見ました。

“Leviathan” (2012) で有名になったとこが作ってきた作品の特集 -『ハント・ザ・ワールド - ハーバード大学 感覚民族誌学ラボ 傑作選』のうち、『モンタナ 最後のカウボーイ』。

原題の”Sweetgrass”は舞台となったモンタナ州の郡の名前にすぎなくて、「最後のカウボーイ」みたいな感傷的ななんかを期待しても無駄よ。 いるのは羊ばっかしよ。

“Leviathan”の、白目をむいた無言の魚介類が暗闇のなかでぬちゃくちゃべちゃべちゃのたくるばかりの映像がだめだったひとは多いかもしれないが、今度のは羊の群れ。あの無表情な奴らが「べー」「めー」「う”ぁー」「え”ー」「びぇー」とかサラウンドでわめきまくるのに10分以上耐えられないひとは見ないほうがいいかも。 あと、羊がいっぴき、にひき、さんびき… で眠りに落ちるひともやめたほうがいいかも(寝ちゃうから)。 あと、羊毛製品とかラム肉が好きなひとにはたまんないかも(たぶん)。

2003年、羊牧場での毛の刈り取りとか子羊出産とかそういう活動をひととおり紹介した後で、馬に乗った数名(カウボーイ?)と牧羊犬数匹と道路いっぱい埋めつくした羊さんたちが一般道を抜けて山のほうに旅にでる。夏の間、山を越え谷を越えてシルスマリアの雲よろしく灰色のもこもこの群れが約300kmを縦走して元のところまで戻ってくるまでの記録映像。  やたら数が多いので群れはなかなかまとまって動いてくれないし、山道は山道だから平坦じゃないし、熊とか狼とかでるし、引率する人たちは当然、なんか疲れてくるし。 ナレーションも時間や場所の推移を示す情報も一切でてこない。 朝も晩も、羊がばーばー鳴いているばかり。

道なんかなさそうな森のまんなかで群れが立ち往生してどうしようもなくなってしまうとことか、ほんとに大変そうでひとごとだけど泣きたくなる。 こんなときこそBabe(あの豚だよ)がいてくれたら百人(豚)力なのだろうけど、数が多すぎてあんな子豚じゃムリだろう、とか。

終ったあとの達成感もあるだろうなー、と思いつつ、ここは羊にもインタビューしてみたいところ、生きて戻ってこれてどうでしたか? とか。
あと、これは別にカメラを回しているからやったことではなくて、大昔から、アメリカのここだけじゃなくて、繰り返されてきた営為だということね。 羊のDNAにも刻まれている - わけないけど。

製作したハーバードの感覚民族誌学ラボ - Sensory Ethnography Lab (SEL)のサイトとかいろいろ見ていて、なんじゃろこれ、とか思ったのだが、要はこれまでのフィールドワークが聞き取りとか主に言語情報、定点観測情報とかを中心にイン/アウトを作っていたところの枠と幅を拡げて、そこに美学的な要素 - テクノロジーによって汎用化されたとこも含めて - を加えてどこまで学術的な客観性もたせることができるのか、みたいなところを目指しているのだろうか。

でも感覚、ていうなら匂いと温湿感も加えないと。 匂いはだいじよね。

おもしろい論文がふつーの読書に耐えられる、ようにふつーの映画鑑賞のように見ることはできるのだろうか。 説明なしナレーションなし、というとFrederick Wisemanのドキュメンタリーを思い起こしたりもするが、あれとはやっぱりぜんぜんちがうと思った。 対象がひとりでに語り出す、ように画面を繋いでいくWisemanに対して、決して語らない対象を執拗に並べて、そこに民族学的な意匠や意味を浮かびあがらせるようなアプローチ。 魚や羊が喋ったらおもしろいのにな。

あー 羊になりてえ。

7.05.2015

[film] Violette (2013)

28日、フランス映画祭の6本目、これで今年のは終り。
これも当日券で、最初は見るつもりなかったのに映画祭の予告の度に流れるEmmanuelle Devosのしかめっ面にやられて見ない訳にはいかなくなってしまったの。

40~70年代の女流作家Violette Leducの評伝、実在の女性作家ものとしては前夜に見た”L'Astragale”に続いて2本目。 ふたりともとてつもなくタフでパワフル。

・Maurice   ・Simone   ・Jean   ・Jacques   ・Berthe   ・Foucon   ・La Bâtarde
 
という、全7章で構成されていて、Violette Leduc (Emmanuelle Devos)が、作家のMaurice Sachsと暮らしていて、彼から本を書くように勧められるところから始まり、次にSimone de Beauvoir (Sandrine Kiberlain)と知り合い、彼女を通してGallimardから本を出してもらい、Jean GenetやJacques Guérin(あのゲランね)と親交を深めたり喧嘩したり、そこそこの評価は得るものの母Bertheとの確執もあり、Fouconの田舎に一人旅をしたりして自分を見つめ直し、自伝”La Bâtarde”でその評価を決定的にするまで。

Violette Leducという作家そのものをあまり知らなかったので、そこはちょっと違うとか言えるわけもなく、Emmanuelle Devosさんの変な顔、困った顔、怖い顔、そのボディ全体に顕われてしまう不穏さとか、そういうのばかりをじっと見つめることしかできない。

私生児として生まれ、母に蔑まれ恵まれない少女時代を過ごして、レズで男もOKで常にぬくもりと愛と評価を求めてじたばたうろうろ不機嫌で、庇護者Simoneに対してはストーカーみたいになり、今でいうとめんどくさい奴、て煙たがられること確実のVioletteの落ち着きない彷徨いをEmmanuelle Devosさんは迫真、というかこれって地ではないか、というくらいの自然さ - 自然に不機嫌てなんか変だけど - で演じていてすごい。

彼女の基本は、あたしを見て!受け容れて!でぐいぐい押すばかりで、愛されるひともお金もなく裏切られたり見放されたりの繰り返しなのでいつ狂っちゃうのか自殺しちゃうのか、はらはらしっぱなしなのだが、前日にみたAlbertineと同様、どんな悲惨でもこのひとはめげないの。なんでかわかんないけど。

BeauvoirがいてGenetがいてGuérinがいた頃 - 実存主義の時代の生々しさおもしろさ、というのもあって、それならCamusもSartreもCocteauも画面に出せばよかったのに、とはふつうに思った。この時代を描く、というよりViolette個人のおもしろさが見えれば十分なのだろうが。

あとは彼女の本が読みたくなる。翻訳は60〜70年代初に二見書房から3冊出ているようだが、12月の本公開までに復刊してくれないかなあー。

それにしても、Emmanuelle Devosの揺るぎなさぶっとい力強さ、てなんなのだろう? ひとつ前に見た”Sils Maria”のJuliette Binocheとは誕生日2ヶ月しか違わないのだが、ぜんぜん違うよねえ。
(どうでもよいけど、ふたりともほーんの少しだけ自分よか年下だったとは…)

この後の”Timbuktu”もすごく見たかったのだが、もうさすがにあたまが。

7.04.2015

[film] Clouds of Sils Maria (2014)

28日の午前10時、フランス映画祭の5本目、日曜日の1本目。
こればっかしは、なんとしてもなにがなんでも見たかったの。

そして、ほんとにすばらしかった。

大女優Maria Enders (Juliette Binoche)とそのアシスタントValentine (Kristen Stewart)がスイスの奥 - シルスマリアに電車で向かっている。ふたりは老劇作家 - Wilhelm Melchiorの表彰式に向かうところで、でも突然彼の死(後で自死であることがわかる)が伝えられて表彰式は追悼式になってしまう。 そこで彼女は若い演出家と会い、Wilhelm Melchiorの戯曲 - “Maloja Snake”に出てくれないか、と言われる。 この作品はMariaが10代で主演し、その役を演じることを通して彼女は女優になった大事な作品で、でもオファーされた役は若い主人公の反対側で追い詰められて自殺する年増のほうで、迷いながらも彼女はやることにして、劇作家の遺した山荘でMariaとValentineはリハーサルを始める。

劇のタイトルである“Maloja Snake”は、シルス・マリアの雲が山々を越えて蛇のように渡って覆いつくす稀に見ることのできる現象のことで、劇作家はこれを戯曲のタイトルにしたのだ、という。

老作家がいなくなり、老作家の妻は彼と暮らした家には住みたくないとそこを出ていき、そこに老女優と秘書が移り住んでふたりで芝居の稽古をし、やがて秘書は消えて、若くて怖いもの知らずの新進女優 (Chloë Grace Moretz)が現れる。 玉突きのようにドミノのように、くねりながら進んでいく蛇のように。

彼女が怖れ困惑し硬直し直視できないのは死で、それは舞台上での役柄としての死以上に、自身をひとり置き去りにする未知の、しかし実世界にあるリアルな死で、自分を導いた作家は亡くなり、夫とは離婚調停中で、秘書にも去られ、自分のかつてのポジションにあるのはハリウッドでスーパーヒーローを演じている小娘で、こいつは自分が付き合っている作家の妻を自殺に追い込んでいたりする。
シルスマリアの雲のように山を越えて谷を渡ってなだれ込んでくる白い不可視の死。

「夏時間の庭」(2008) にあったのと同じような時の移ろいと共にへこんだり欠けたり浮かんだり、それが「雲」で、その下で瞬きながらその在り処とか不在とかを伝える「家」があって、そのふたつの間で人は迷って伸び縮みして苦しんで、でも雲は流れてくる、そういうものだから。

「夏時間…」のエンディングで流れたThe Incredible String Bandの"Little Cloud"とこの作品のタイトルは雲でつながっているの。 あの雲は子供たちの夢を乗せて向こうに飛んでいく雲、こっちのは老人の背後にすうっと忍びよってくる雲、だけど。

老女優がなにかに目醒める、というよりは自分の雲とか朝靄とか家とか、そのありようを知る、そういう気づきとか予感が、Olivier Assayasの映画のエンディングには必ずあるの - “Boarding Gate” (2007) にしても”Clean” (2004)にしても。 女性映画として素敵ったらない。
だからねえ、女優魂とかそういう話とはぜんぜん関係ないの →  改めて残念な邦題…

あと、誰もが言っているJuliette BinocheとKristen Stewartのやりとりの素晴らしさね。
Kristen Stewartさんて、ほんとにすごいんだから、ていうのをみんな思い知るがいいんだ。

上映後のトークで監督は、(音楽の使い方について)今度のはバロックで行ったとか語っていて、そこのとこをまだ考えているのだが、でもAssayasの映画ってずっとバロックだと思っていたんだけどなー。

ぜったいもう一回みる。

7.03.2015

[film] L'Astragale (2015)

27日、フランス映画祭の4本目。 ここまでくると頭が変にハイになってくるの。

『夜、アルベルティーヌ』。
モノクロの97分。 昼間の3本がよい意味でばらけてカラフルだったのを見事に締めてくれる、しっとりとした夜の映画でした。
原作は映画の主人公 - Albertine Sarrazinの自伝的小説『アンヌの逃走』(1965)、87年に翻訳も出ているらしいのだが読んでいない。

50年代末、友達とふたりで宝石店に強盗に入り、脅しでピストル構えたら発砲しちゃって店員は負傷、刑務所に送られたAlbertine (Leila Bekhti)がひとり脱獄するところから始まる。
塀から飛び降りて足を折って動けなくなっているところを助けてくれたのがJulien (Reda Kateb)で、彼は彼女を家に連れて帰って、足を治療させて(でも杖が必要となる)、偽の身分証を与えて匿ってくれる。

Julienはやくざで、女も子供も複数いるようで周りからいろいろ言われるのだが、Alnertineには自分を救ってくれたJulienがすべてで、彼と一緒にいられる時間だけが輝いていて、それ以外は街娼したり文章書いたりでむっつりどんよりしている。

やがてJulienからの連絡が途絶えて、彼は捕まってどこかに流されたとか噂で聞いて、それでも彼を信じて待ち続けて、やがて。
と、こうやって書いてみると、耐えるわ待つわの昭和のど演歌の世界そのもののようだが、全体はものすごく爽やかで力強く、決して明るいエンディングではないのに、よかったねえ、と思えてしまうのだった。

Julienに会えないあいだのAlbertineの無為の日々 - かつての獄中友達と会ったり、町を歩いたり、客と会ったり、どんよりではあるものの、そこに彼女の文章(朗読)が被さることでとてもすてきな空気が生まれてくる不思議。 街角の写真家が撮った彼女のスナップ - 21世紀の映画とはとても思えなくて。 なんとなく『夜の人々』を思いだしたり。

ふたり - Leila BekhtiとReda Katebの顔がすごくよいの。 二人ともJacques Audiardの『預言者』 - "Un prophète” に出ていたらしいのだが、あの映画に出てる人たち、どいつもこいつもすごくよい顔だったからねえ。

あと、最後のほう、みんなで焚火を囲んで騒ぐところ、Garrel(家)だなあ、とか。


低気圧で死んでてデモ行けませんでしたごめんなさい。