7.29.2022

[film] スープとイデオロギー (2021)

7月16日、土曜日の昼、ユーロスペースで見ました。自分のお勉強のため(とスープが好きだから)。

監督のヤン ヨンヒさんが自身の家族をテーマに監督、一部撮影、ナレーション、出演などなどをしているドキュメンタリー。彼女の作品を見るのは初めて。

大阪の一軒家にひとりで暮らすヨンヒさんのオモニ(母)の様子を描きながら、家族の肖像が紹介されていく。既に亡くなっている(過去の映像や写真で少しだけ出てくる)父は朝鮮総連の活動家で監督の兄3人や自分の妹や弟もすべて「帰国事業」で北朝鮮に送りだされて、彼らに対する送金をずっと(父の死後も)続けている – それは後で母娘の蟠りとして表にでる。

ある日、オモニがでっかい丸鶏のおしりにごろごろニンニク、棗などなどをぱんぱんに詰めて糸で縛って4時間煮込む、ってのをやっていて、そこにスーツを着た荒井カオルさんという男性が現れて、彼はヨンヒさんの婚約者でパートナーとなる人で、彼はスープを戴いて結婚の承諾をもらって民族衣装を着て写真を撮って(素敵な写真!)結婚する。なんでそういうのを撮るのかというと、両親 - 特に父は日本人との結婚は許さん、と言っていたけど別にわるくないよね、って。ほんとのところ荒井さんはふつーに受け容れられて、オモニのレシピと指導のもと、ひとりでスープを作れるまでになっていく。

というところに、オモニにアルツハイマーが発症して、過去現在の脈絡なくいろんなことを語りだす中、ヤンニが思いもよらなかった過去 – 18歳だったオモニは1948年の韓国・済州島での「済州4・3事件」の渦中にいて、当時の婚約者を事件で(行方不明状態となって)失い、ぎりぎりのところで弟や妹を抱えて日本に逃げた – について語り始める。

それはもちろん、ずっと実の娘にも語らずにきた封印された過去なので、思いだしたくもないとても辛いことだったのだろうし、それ故にすらすら出てくるものではないだろうが、ヤンニはその断片だけでも繋ぎ合わせようと思う。それは自分の家族の起源を探ること、自分がどこから来たのかを確認する旅でもあるので。

オモニは大阪に生まれて在日コリアンとして育って、15歳の時に日本が空襲で危なくなってきたので親戚のいた済州島に疎開して、戦争が終わってもそこに残って婚約者とも出会って、でも事件 - 当局による住民の虐殺が始まり、医師だった婚約者は村の様子を見にいったまま行方がわからなくなり、軍に見つからないように夜道を抜けながら日本に向かう船 - オモニの母が大阪に戻っていた - が出ているという方に半日くらいかけて歩いた、と。虐殺の酷く生々しい描写は最初の方に口述で語られ、あとはアニメーションで描かれる。

後半、オモニの記憶の淵を更に掘り下げられないかと、韓国が国として催した追悼イベントに母を連れて参加して約3万人が「共産主義者」として虐殺された跡地とか地の果てまで続く墓石とか、婚約者に近かった人の名札とかを見せてみるものの、もちろんオモニに新たに灯る火とかはない。でも彼女が死を覚悟して心細く歩いた夜道がどんなだったか、それが彼女のその後の人生に国への帰属意識も含めてどんな深い傷を負わせたのか、はよくわかって、それはオモニのため、というよりやはりヤンニの(おそらく抱えこんだ怒りとか憤懣とかの)ため、だったのではないか、と。

で、これってもちろん、隣の国で起こって負った過去の傷とその後のケア、だけの話ではなくて日本だって、日本の今の隣国に対してずっと通している態度あれこれ、いろんな経過にも – 最近の「カルト」と呼ばれているあの界隈にも間違いなく繋がっている(はず)。だから他人事にはするな、ひとの死をありものとして放置するな、って(オモニのところに葬式見学会のチラシを送ってきた業者に対する荒井さんの怒りなども)。

イデオロギーが今もすぐ隣の人々を殺し続けている、ということ(それを言ったとき、イデオロギー = 共産主義としたがる人々のなんと多いことか)と、その反対側で人を生かして(鶏はしぬけどな)繋いでいくスープのこと。我々はスープを作るんだよ、っていう。そういえば、コーシャーのチキンヌードルスープもおいしいよね。

オモニがもう会うことができない家族の写真を並べて見ていくところはじーんとくる。ユダヤ人の家族写真を見るときも、シリアの、ミャンマーの、ウクライナの家族を見るその肖像たちも延々連なって、重なっていくの。 こういうの、もうやめよう。

7.27.2022

[film] Benedetta (2021)

7月15日、金曜日の午後、MUBIで見ました。
どうでもいいけど、これのすぐ後に見た”Minions; The Rise of Gru”でヌンチャク尼さんが出てきたのでおおー、ってなった。

監督はPaul Verhoeven、脚本は彼とDavid Birkeの共同、Judith C. Brownのノンフィクション - “Immodest Acts: The Life of a Lesbian Nun in Renaissance Italy” (1986) - 翻訳は『ルネサンス修道女物語 聖と性のミクロストリア』というタイトルで出ているが絶版ぽい - を緩くベースにしている。時代劇とは言えカトリック内部のスキャンダラスな下半身ネタがいっぱい出てくるので、2021年のカンヌでプレミアされた後、NYFFの上映時には抗議行動が起こり、シンガポールとロシアでは上映禁止となった。

モデルとなったBenedetta Carlini (1590-1661)は実在した修道女で、この映画で描かれたようなことはあったようななかったような、特に晩年のほうについてはそんなに記録も残っていないらしい。

Paul Verhoevenとしては”Elle” (2016)に続くもので、男性的な権威(みたいないろいろ)が女性を散々いたぶって踏んづけて痛めつけたあと、傷だらけになりながらも負けずに立ちあがってかっこいいったらない彼女たちを正面に据えるいつもの。

17世紀、イタリアのトスカーナのペーシャの修道院に両親に連れられて幼いBenedettaが修道女になるべくやってくる。その途上で母親の首飾りを盗もうとした盗賊たちに彼女が不思議な力を行使する - 盗賊の目に鳥の糞 - ところが描かれる。彼女は神と向きあう日々の修練にもとっても前向きな様子。

その18年後、厳しい修道院長Felicita (Charlotte Rampling)のもとで成長したBenedetta Carlini (Virginie Efira)にはイエスの幻影とかイエスの出てきてなんか言う夢をみたり妙なことが起こっていて、Felicitaはいちいち動揺しつつもなんだこいつは? になってて、ある日父親に虐待されて修道院に逃げこんできた娘 - Bartolomea (Daphne Patakia)を匿って、彼女はそのままBenedettaに仕えることになるのだが、ラフでワイルドなBartolomeaの面倒を見ていくうちにイエスが出てくるエロティックな夢を見たり昏睡状態になったり手や足に聖痕が現れたり男声で怒鳴ったり、その事象を調査をしにきた当局の目の前でもそれは起こって、彼女を貶めようとしたFelicitaの娘は自殺、Felicita自身も降格してBenedettaが修道院長になる。

他方で、Bartolomeaに導かれて引き摺られるままにBenedettaは愛欲の沼におちていって止められなくて、その様子を壁の向こうから見ていたFelicitaはローマの教皇庁に赴き、傲慢で欲深いNuncio (Lambert Wilson)に訴えると、NuncioはペーシャにやってきてBartolomeaを拷問に、Benedettaを裁判にかけて..   黒死病(ペスト)がまん延して彗星の尾が空にあってこの世の終わりのかんじがすごくて、最後の方のぐさぐさでなにもかも剥がされたり燃やされたりしていく終末感ときたらすごい。

汚れたこの世から隔絶してきれいでなければならない修道院に暮らす修行尼がみんな(でもないか)やらしいことしたりそれをのぞいていたり、権力欲の塊で蹴落としたりパワハラみたいなことばかりやっていたり、みんな地獄に落ちるぞ、って映画のなかではペーシャの町全体がだんごになって地獄に向かって転がり落ちていくようなのだが、それでもBenedettaは生きぬこうとする。”Elle”の、とてつもなくかっこよかったIsabelle Huppertさまのように。

全体として超常現象みたいなのから疫病にエロ・下ネタ、下克上までいろんなことが次々に起こっていくので目が離せないのだが、あまりに味噌も糞もぶちこみすぎのかんじもあって、そこを痛快って思うとこと、ちょっとこれは、って引いてしまうとこがあり、ややついていけなかったかも。 昔の日本のB級ポルノみたいで、絶賛するひとはしそうだけど。

もっと軽く、『神の道化師、フランチェスコ』(1950)みたいにしてもよかったのに、とか思ったけど時代が時代だからしょうがないのか。 Felicitaのどす黒い情念とNuncioの腹黒の絡み - Charlotte RamplingとLambert Wilsonのおっかないこと - と、聖なるBenedettaと俗なるBartolomeaの愛が対照を描かないままぐだぐだに堕ちていくところがなんか。 特に最後のほう、画面が明るすぎるのとかも(あれは彗星のせい?)。

終わってから、BenedettaとBartolomeaは、べつに異様なことをしているわけではないのにな、はて? ってなるかも。

7.26.2022

[film] Minions: The Rise of Gru (2022)

7月15日、金曜日の晩、Tohoシネマズ日比谷で見ました。
IMAXではやってくれないみたいだし吹替版ばっかりで、字幕版での上映があんましないのが残念。邦題は『ミニオンズ フィーバー』。この前の週に見た”Thor: Love and Thunder”よりは楽しく笑えてコンパクトにまとまっていると思った88分。

“Despicable Me”シリーズのなかのスピンオフ - “Minions” (2015)からの続き。前回のは60年代のスウィンギンロンドンが舞台だったが、今度のは70年代(1975年)のアメリカ西海岸が舞台で、Gru (Steve Carell)は11歳で、ミニオンたちは既にそこらじゅうをうろうろしている。

まずはthe Vicious 6っていうプロの悪党集団がいて、Belle Bottom (Taraji P. Henson) - ベルボトム、Wild Knuckles (Alan Arkin)、Jean-Clawed (Jean-Claude Van Damme) -ロブスターの鋏、Svengeance (Dolph Lundgren) -ローラースケーター、Nun-chuck (Lucy Lawless) -ヌンチャク尼、Stronghold (Danny Trejo) -金属アームの6人 –これらの声優そのまま使って実写ものにしてほしい- がぶいぶい悪辣の限りを尽くしていて無敵で、最初に不思議なパワーをもつ宝石を泥棒をするところでWild Knucklesが老いぼれ、って仲間から弾かれて殺されて、欠員がでたVicious 6の求人に目を輝かせたのがGruで、まだ若いDr. Nefario (Russell Brand)が経営するレコード屋 – “Criminal Records”なんて素敵な名前!– に赴いて面接を受けるのだが落とされてしまったので、腹いせにそこにあった宝石を盗む。

そうやって盗んだ宝石をそいつは俺のもんだ、って実は生きていたWild KnucklesがGruごと誘拐して、それをミニオンたちが追っかけ、Gruが持ち帰った宝石はミニオンの一匹オットーが持ち出してペット石と無邪気に交換しちゃって、宝石を盗られたVicious 6もGruを追って、そこにVicious 6への復讐に燃えるWild Knucklesが絡み、ミニオン3匹はSFのチャイナタウンのカンフーマスター - Master Chow (Michelle Yeoh) - 実写で出してくれてよかったのに - からカンフーを習ってGruの救出に向かい、オットーは、宝石を胸につけていた気のいいバイカー(RZA)を砂漠の果てまで追っかけて… こんなふうにThe Load of the Ringsみたいに魔法の石を巡って善悪変態入り乱れてぐるぐるの追っかけっこをしていって、最後にぜんぶがブラックスプロイテーションふうに激突して燃えあがるの。それだけなの。

Gruの悪へと向かう意思 - “Despicable Me”という確信的なマインドセットが立ちあげられたのが前作だとすると、今作では悪に帰依した自分の帰属組織とか集団を探したり決めたりしようとしているかのようで、それは自分の家族(ママのとこ)でもメジャーな悪党団でもなく、彼ひとりと黄色のバナナ軍団とDr. Nefarioであったと..

そんな彼らの関係ってやはり(義)兄弟のそれになるのだろうか。“Despicable Me”のシリーズでは3人娘のパパになろうとしたり自分が結婚しようとしたり、自分の家族を作っていこうとするのとはやや対照的なかんじ。

メインの“Despicable Me”のシリーズが「悪いこと」をおれらこんなにも悪いんだからなーって地の果て月の彼方まで延々追求していったのに対して、こちらのシリーズはその態度とか姿勢がどうやってできあがっていって、そんな彼らがなんでそんなにくそ強いのかを掘りさげていて、“Despicable Me”の最初の方ではとにかく目障りでしつこくてとってもうざかった悪の手先のミニオンたちがだんだんと可愛らしくなっている(ように見える)ところはそれでいいのか → いいんだろうな、それが連中のやり口なのだろうな。

どこまでもナンセンスでなに喋っているのかちっともわからなくて自在に伸び縮みしてどんなことされても死なない – その強さが結果的に70年代の熱 = フィーバーのなかで「悪」を無効化して彼らのお祭りにしてしまう、その(本来の目的からすれば)悲喜劇というか、やっぱり楽しい。 なんも考えてない。いいなー。

この流れだと次は80年代なのか90年代なのか。グランジに染まった彼らを少しだけ見たいかも。

音楽は相変わらずすばらしい。メインのDiana Ross and Tame Impalaはもう少しがんばれたのでは、と思ったが、St. Vincentとか、Brittany Howardとか、Weyes Bloodが”You're No Good”のカバーやっていたりとか、あれこれたまんないの。

7.25.2022

[film] L’Enfant sauvage (1970)

7月12日、火曜日の晩、角川シネマ有楽町のトリュフォー特集で見ました。これがこの特集の最後の1本となってしまうなんて。あーあー。

邦題は『野生の少年』。英語題はUSだと“The Wild Child”、UKだと”The Wild Boy”。

モノクロの美しい画面はこれがトリュフォー作品での最初の撮影となるNéstor Almendrosによるもの。有名な蝋燭の火の撮影はキューブリックの”Barry Lyndon” (1975)より早く実現されてて、キューブリックはこの撮影のためにレンズを開発したんだからってやたら自慢気だったのだが、これはどうやったのだろうか?

これは見たことがなかった。むかしから、人でも動物でも教育したり適応させたりする/しようとするプログラムとか物語がうまくいこうがいくまいがなんか苦手で、それを実行する側/される側の文化とか背負っているものを明らかにしないまま or 「自然状態」の意味や価値をきちんと問いかけないまま素朴に相手を成型しようとするのって暴力に近いことではないか、っていう不信があって、勿論その先にはこれを通してこういうものが見えるようになった/作ることができるようになった、という成長の、進化の歓びがあるのだろうがなんか嫌だったの。自分がされたくないだけなのだろうけど。

フランスのDr. Jean Marc Gaspard Itardによる1798年にアヴェロンの森で発見された野生児に関する2つのレポート - 1801年のと1806年の - を元にしていて、監督のFrançois TruffautがDr. Itardを演じている。

最初にジャン=ピエール・レオへの献辞があって、本作はある意味孤児・放蕩児トリュフォーの自伝的作品でもあって、彼にとっての教師はアンドレ・バザンであったと。自分の分身のようだった野良のジャン=ピエール・レオを撮って、今度は自分がその教師のような役を演じる - よくここまで来れたものだ、って。

冒頭、1798年にアヴェロンの森で裸状態のまま畑を荒らしたりしていた11-12歳の男子(Jean-Pierre Cargol)が捕獲されて、喋れないし耳も聞こえなさそうだし精神発達遅滞と診断されて手がつけられないので見世物小屋にいた彼を世話して観察する許可を国から貰ったDr. Itard (François Truffaut)と家政婦のMadame Guérin(Françoise Seigner)が彼を家に引きとってきれいにして服を着せて髪を切ってちゃんと二本足で立たせて、動物をしつけるように辛抱強く教えたりしてなんとか指示を聞いて応えたりそこそこ意思の疎通ができるようになっていく(ほんとか?)まで、を淡々と並べていく。

「淡々と」っていうのは本当にそれがヒトとヒトのふつーのコミュニケーションのように互いの思うところ指し示すところを正しく理解した上で行動しているのかを明らかにしないで、その達成度合いとかもはっきりしないまま、単にDr. Itardが手にしたペンで記録するまま - 彼はとうとう理解した! とかなんとか - 野生の子の勝手で野放図な動きや落ち着きない挙動をスラップスティックのどたばたとして切り取って、アイリス=インしたりアウトしたり、ぽつんと置き去りにしているような。

野生の子とDr. Itardの通じているようで(たぶんに)通じていないし、最後まで分かりあえているとも思えないコミュニケーションのありよう、って場が荒れるとMadame Guérinが奥から現れてなんとかしてくれたり、だんだんふつうの親子や家族のようになっていく、その辺のことって別にこのケースに特有のなにかでもなんでもない、学びでも恋愛でも不器用でへたくそでまぬけなやつって、だいたいこんなふうな思いこみとずっこけの刺しあい騙し合いだったりするのではないか、って。それをそのまま切り取って晒している。

そう思ってみると、家を飛びだして傷だらけになって戻ってきてハグして、の一連の流れがとっても素敵な日々のやりとりのようにも見えてくる。なにもかも初めて見たり聞いたり走ったりの - 清水宏の子供映画になる手前のような瑞々しさとか。 そしてこの場所からAntoine Doinelの支離滅裂なじたばたをもう一回見てみよう。それは「社会化」とか「文明化」なんてのからは程遠い生の、まっさらなところからサバイバルしようとする意志そのものだったり。

音楽は"Kramer vs. Kramer" (1979)でも使われていたAntonio VivaldiのMandolin Concertoが - もちろんこっちが先だけど(フレンチトーストを作るときはこれが頭の奥で鳴る)。あれも父親が子供に振り回されつつ気づいてなかった親性とか社会に目覚めていく話だったねえ。

7.24.2022

[film] むかしの歌 (1939)

7月3日、日曜日の昼、国立映画アーカイブの東宝特集のなかの石田民三小特集で見ました。

原作・脚本は『花ちりぬ』 (1938)と同じく森本薫、演出補助と音楽(選曲?)は市川崑。 英語題は”Old Sweet Song” - “Sweet”ではないが。 公開タイミングも設定年も逆だけど『花ちりぬ』(1938) の花井蘭子のプリクェルのようでもある。

蒸気船がぼーぼー進んでいってアメリカ民謡みたいに聞こえる「浜辺の歌」(歌なし)がかかるので、サイレントみたい - 「むかしの映画」のかんじに引きずりこまれる。

『花ちりぬ』が最初から最後まで建物の外に出なかったのに対して、こちらは最初から大阪の道とか路地とか川とか川縁の道とか橋とかが舞台で、ガス燈をつける人とか風車(かざぐるま)を売る女の子とかもいて、まるで写真のように切り取られた街の生きているかんじがまたすばらしくよいの。

明治の初めの頃、大阪船場に船問屋があって、主人は進藤英太郎(若い!)でそこにはもういない妾に生ませた娘、お澪(花井蘭子)がいて、彼女はいちにち三味線ばかり弾いてて、近所の油問屋の若旦那珊次(藤尾純)との縁談もあるようなのだが、適当につっぱってつーんとしている。

そんな家の様子を少し離れたところで隠れるようにずっと見ている女性 - おそよ(伊藤智子)がいて、彼女の家にいくと貧乏士族の鉱平 (高堂黒天) - ごろごろうだうだなにもしてなくて『人情紙風船』だったら即串刺し - と娘のお篠(山根寿子)がいて、主人がずっとそんなで西郷どんが旗をあげたら駆けつけるとかネトウヨみたいなことばっかり言ってるので、妻と娘は内職するしかなく疲弊困憊してて、お篠はもう体を売るしかないかって決意する。

でもやっぱり怖くなって走って逃げて、車夫のような男も追いかけてくるのだが、そこでぶつかったのがお澪で、その場で倒れてしまったお篠を自分の家に寝かせて医者も呼んであげて、回復してからも戻る宛がないなら、とそのまま家においてしーちゃん、て呼んで仲良くなる。

でもやがてお篠と自分の関係を知ることになったお澪は彼女を珊次のところに預けてしまい、そうしているうち西南戦争をあてこんで株をやっていた船問屋が傾いてお澪が芸妓にでるしかなくなり、西郷が兵をあげたことを聞いた鉱平は恥も外聞もないのだとか言いながら(恥を知れ)走っていってしまう(そのまま消えてなくなれ)。

最後、芸妓の仕度を綺麗に整えたお澪がこれまでと同じように家の外で彼女を見ていたおそよ - 実の母 - と一瞬だけど初めてはっきり顔と目をあわせて、お澪は軽く会釈をして人力車に乗りこみ、少し放心したような決意したような表情 - そこに車が揺れて陰が射したり明るくなったりの明滅が入るのでほんとうのところは見えなくてわからなくて - 溜息しかない。

『花ちりぬ』では長州の、今作では薩摩の浪人による側から見れば大迷惑でしかない政変に翻弄されて行き場を失う女性 - 芸妓の、芸妓にならざるを得なかった女性の儚さと絶望と悲劇と、こういうの、いまもずるずる続いてあるよね。

とにかく、少なくとも『花ちりぬ』とこれだけはちゃんとデジタルリマスターして世界に放って。ほんとすごいんだから。


花つみ日記 (1939)

7月9日、土曜日の夕方、『その場所に女ありて』から一本あけて見ました。この日3本目の女性映画。

原作は雑誌『少女の友』に連載された吉屋信子の『天国と舞妓』、脚本は鈴木紀子。原作の方は結構悲惨なお話らしい。

東京から大阪の女学校に越してきた転校生みつる(清水美佐子)と宗右衛門町のお茶屋の娘・栄子(高峰秀子)は仲良くなるのだが、みんなの憧れの音楽の梶山先生(葦原邦子)をめぐって仲違いして、仲直りする機会をなくしたまま栄子は舞妓になって、でもすれ違っても - ロープウェイと山歩きですれ違うとこすごい! - 挨拶もできないまま、そうしているうちに栄子は病に倒れて、でもみつるの兄に召集令状が来たことを知ると、ひとりふらふらしながら街頭に立って千人針を募ったりして..

ふたりの女学生の友情物語なので、悲しいものになるとは思えなかったのにそれでも胸が結構痛くなった。
いろんな歌が繋ぎました、みたいに簡単に締めて纏めたりもしていなくて、いろいろあって難しいのを画面に入ってくるいろんな幾何学模様の構図のなかに落としこんでいる。もう少し歳が上になるとGirlhood、って呼ばれる。


シネマヴェーラのジョン・フォード特集が始まって、↑のもそうだけど、今から90年100年前の映画のいまに訴える力ってなんなのか、って改めて思う。こういうの見ているだけで十分なんじゃないか、とか。
その反対側で、今後のMCUのIT企業のストラテジーみたいなリリースチャートを見ると、自分はあそこまで生き延びられるとは思えないな、って。そろそろどこかで線ひいた方がいいのか。
 

7.23.2022

[film] Fabian oder Der Gang vor die Hunde (2021)

7月10日、日曜日の夕方にル・シネマで見ました。
邦題は『さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について』、英語題は”Fabian: Going to the Dogs”。178分。

原作はE.ケストナーの大人向け長編小説 - “Fabian: The Story of a Moralist” (1931) - 『ファビアン あるモラリストの物語』- ケストナーは元は映画の方のタイトル - 『犬どもの前を行く』= 「破滅する」という意味 - を付けたかったと。 みすずから出ている翻訳には削除されたまえがきとかあとがきとか章とかがおまけのようにいっぱい付いていて、出版が作者の思うようにすんなりいかなかった様を窺うことができる。

2021年のベルリン国際映画祭のコンペティション部門でプレミアされていて、主演は”Werk ohne Autor” (2018) - “Never Look Away” - 『ある画家の数奇な運命』でゲルハルト・リヒターのモデルの画家役が印象的だったTom Schilling。戦中戦後が似合う顔。

現代のベルリンの地下鉄の駅に入って、ホームをまっすぐ抜けて向こう側の出口から出ると、そこは1931年のベルリンになっている。あそこの地下鉄、おそらく昔のままで改札とかもないので、ホームを通り抜けることだけでもできて、そういうことが起こってもおかしくない。ベルリンの街全体がそんなかんじでワイマールの頃からいろんな意味で連続している、というのと、Fabian (Tom Schilling) は現代を生きる人なのか、1931年を生きる人なのか - おそらく両方(であっておかしくない)という導入。

Fabianはタバコ会社でコピーライターをしながらぼんやり作家になりたいと思っていて、親友で大邸宅に暮らすお金持ちの御曹司Stephan Labude (Albrecht Schuch)は哲学・美学の世界でアカデミアを目指していて、でも現実には日々酒場やクラブに入り浸ってだらだらしている。彼らの中には第一次大戦に従軍した時のトラウマがあり、社会全体もそれらを忘れて疲弊した社会を建て直すべく変な熱を孕んで、結果として享楽的なええじゃないかの世に、その歪み - 格差に差別 - も丸めこんだ坩堝状になっている。 つまりいろいろがんばりたいし、がんばっているけど、なんかしょうもない乗り物に乗せられた/乗ってしまって戻れないし降りれない感覚。

そんなFabianは地下のクラブで女優志望のCornelia (Saskia Rosendahl)と出会って恋におちて、彼女こそが.. ってなるのだが、彼女の本心はあんまよくわかんなくて、彼はやがて会社を解雇されて、でも彼女と同棲を始めて、うまくいくかも.. ってなり始めたところで彼女はやらしそうな映画監督のところに行ってしまう。

なんでもできそうな気がするしできるからって周囲には言ってるのに実はなんにもできていなくて結果ぐるぐるに巻かれているだけなのに、肥やしとか勉強にはなるかも、ってあれこれ納得しながらぼんやり「成長」していく主人公たちの物語、ってゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』の頃からのお家芸のような「道徳的」なやつで、でもあのラストの糸のぷつん、はなかなかおもしろい。泳ぎは習っておけ。

ここから時代を10年くらい遡る『ベルリン・アレクサンダー広場』(1921)がねちっこく描き出した労働者階級のフランツ・ビーバーコフの愛憎にまみれた戦後のサバイバルの道行きとはやはり全然違う。でもあの時代のワイマールの絵画にいろんなスタイルがあってもなだれ込む先が同じように見えてしまうように、彼らの前に散らばったり立ちはだかる壁だか山だかゴミとかそこに漂う腐臭は同じくー。男性である彼らの前に現れる女性たちの姿や目付きもどこかしら似ているような。

悪漢のフランツもインテリのフェビアンもみんなそれぞれにがんばって生きていたあの時代のフィギュアで、どれだけあがいてじたばたしてもシンプルに生き抜けることは難しかったんだろうな、ということだけはよくわかる。 そしてこの容易に抜けられない地獄感はいまのこの国に間違いなくあるよね。なんたって国まるごとカルトが運営してきたんだからな。

ずっとTV界で仕事をしてきたらしい監督のカメラが良くも悪くもTVっぽい(NHKみたいな)切り取りとか動きをして、最初の地下鉄の駅のとことかCorneliaとのやりとりはよくても、もうちょっと落ち着け、じっくり見せろ、とか少し思った。ただの鏡ではなく「ゆがんだ鏡」として機能してほしかったかも。

7.22.2022

[film] その場所に女ありて (1962)

7月9日、土曜日の昼間、『メタモルフォーゼの縁側』の後に国立映画アーカイブの東宝映画特集で見ました。上映前に司葉子さんのトークつきの。

トークの前に前日の事件のことで黙祷しましょう、ってきたので、ふつうに無視する。国会前に何十回通っても我々の声を聞こうともしなかった奴に向かって祈る言葉なんてねえよ。国葬にしたって、寝言言ってんじゃねえ、しかない。そんな死人のためになんで税金使う?

この後のトークもフォトセッションも写真は一切だめだとか、変なの、って思った。トークの中でも語られていた日本のスターシステムがなにを守ったりしながらできあがっていったものなのか、よくわかる。だからこうして作られたアイドルとかそれを追うメディアはみんな庇護者としての自民党の方に行くのか、と。このシステム、世界から見たらすごく異様で気持ち悪いよ、もちろんこれだけの話しではないけど。

監督は鈴木英夫、英語題は”Woman of Design”とか”The Woman There”とか。ポスターからなにから大変かっこよいし、昭和の女性映画の傑作の一本だと思った。

矢田律子(司葉子)は銀座の広告代理店「西銀広告」の営業で、同僚には男言葉がかっこいい祐子(大塚道子)とか、社員向けに金貸しをする人とか、男に貢いでいる人とかみんなそれぞれに大変そう。

イメージチェンジをはかりたい難波製薬が発売する新薬の広告を巡って、ライバル「大通広告」のやり手営業坂井(宝田明)とばちばち張り合いつつ、予算がいくらなのかの探り合いに始まって、デザイナーの取り合い – 寝返りとか、賞が欲しくてたまらない(けどせこい)デザイナー倉井(山崎努)とか、同僚の女性社員の死とか、広告営業って大変なのねー、のどろどろがこれでもかって描かれて、負けるもんか、やられてたまるかってたったひとりで立ち向かっていく律子がひたすらかっこよいの。(反対に男たちはなにやってんの? というくらい薄くてなにもしない)

60年代初で、当時は先端だったであろう広告業界の事務方ではないフロントに立つ女性の営業、ここに実際どれくらいの数の女性が携わっていたのか、ここで描かれた世界がどれくらい現場の実情に近いものなのかよくわからないのだが、タイトルの『その場所に女ありて』の「その場所」とは男がいる場所だったのだろうし、「女ありて」とか言っているのは男性なのだろうし、脚本を書いているのも男性ふたり(監督の鈴木英夫と升田商二)なので、ここで女性(律子だけでなくここに登場するいろんな女性たちの境遇も含め)をかっこよく、あるいは悲惨に描くことで、本来男性のものであった戦場(誰がきめた?)の過酷さをやらしく際立たせる、そういう効果もある。 この場所を渡っていくには司葉子くらいの度量と器量がないとしんどいんだぜねえちゃん、わかってるか? ってどこかで見たようなくそじじい共は平気な顔で言うに違いない。実際に難波製薬が売り出そうとする夜の特効薬みたいなしょうもないやつ、こんなのも商材として真面目に宣伝しなければならないきつさとかも。

結局、こういう目線でまんまと持ちあげられたりおだてられたりしてきた半世紀分のツケが、女性活用とか表面では謳いつつ平気で男ばっかりの実情・実態を晒して炎上、とかばっかばかしいこんにちのコピーと表象の乖離として何度も何度もなめてんのか、ってかんじで現れてきていて、律子がまだ生きていたら何十回絶望して壁に頭打ちつけてもやりきれなかったに違いない、とか。

それでも、あの時の「その場所」にあった彼女のクールな目つきとかタバコの吸い方(いっぱい練習した、とトークで言ってた)とか銀座の交差点に立つ姿のかっこよさは申し分なくて、確かに「女ありて」だったのだろうなあ、と思った。

これと同じような男社会の(男社会が許容できる)視点で切り取られた「(できる)女xxもの」って、今でもTVなどにはいっぱい溢れているようで、かっこいい! ってなりそうだけど、いいのかなーって少し。


とりあえず久々の出張から帰ってきて、まだしんでる。 アジア諸国と東京、むしむしは変わらない。
空港に着いて、アプリに接種証明と72時間前の検査結果を入れてFast Trackで前よりは楽かも、って思ったけど、途中でアプリから青紙にかわってまだ紙かよ! とか その紙をもって延々歩かされるところは変わらず。

[film] メタモルフォーゼの縁側 (2022)

7月9日、土曜日の午前にTohoシネマズ日比谷で見ました。なんとなく。
鶴谷香央理の漫画(未読)の実写化だそう。監督も脚本のひともほぼしらない。

一軒家で書道教室をしながら一人で暮らしている75歳の老婦人 - 雪(宮本信子)がいて、夫の三回忌の後に涼みに入った書店でなんだか表紙がきれいね、ってBL漫画 - 『君のことだけを見ていたい』っていうの - を手に取って家に帰って読んでみたらその描写とか筋運びにあらあらあら(好き)ってなって、翌日に続きが読みたくなって本屋に通っていくうちに、そこでバイトをしているややぼーっとしがちな17歳の女子高生うらら(芦田愛菜)が声をかけて在庫になかった巻を取り寄せてあげたり、そのうち雪の家にあがりこんで縁側でその漫画についてだけじゃなくて他のBL漫画についても語りあうようになって、その縁側がふたりのメタモルフォーゼの陽だまりになるの。

自分の読むBL漫画は段ボール箱に入れて隠しておくくらい内向きだったうららなのに、どこかにはっきりと火がついて、その熱量に自分で描いてみないの? って言われた彼女はへたくそだけど描いてみようか、って入門書を片手にぎこちなく描きはじめて、同人漫画の即売会「コミテイア」への出店に出店すべく書道教室に親子でやってくる印刷屋(光石研)に頼んだりしてがんばるのだが..

他にうららが唯一ふつうに話すことができる幼馴染の同級生(高橋恭平)とか、彼が想いを寄せるものの海外に留学することになるちょっとかっこいい同級生とか、『君のことだけを見ていたい』の作者で、ちょっとスランプになっているコメダ優(古川琴音)も出てきたり、他にはノルウェーに暮らしているらしい雪の娘とかいつも元気で素敵なうららの母とか、悪い人がちっとも出てこなくて(ふだんいかにそんなのばっかり見ていることか)、この調子で雪が病に倒れて死んじゃったりしたらただじゃおかないからな、って思って祈るように見ていたのだがそれもなかった.. すごい。

なんか雪が「あたしずーっとこんなふうに漫画の話したかったの」って心底嬉しそうに言って、それにうららが応えるあたりからずっとずるずるし始めてうららの描いたボウイとしか言いようのない漫画とか「こんな完璧ないちにち」っていうあたりで決壊して止まらなくなる。もう、まんなかのふたりの女優が本当にすばらしいから、としか言いようがない。彼女たちこそ完璧な一日を演じることのできる完璧なふたりで、彼女たちの輝きが周囲を照らしてあの縁側に導く。

BL漫画というのをよく知らなくても - えーとリアルタイムで読んでた『日出処の天子』とか「エロイカより愛をこめて』とかってここに含まれるの? - その登場人物たちが抱えこんでいて表に出せないなにかとか、それでも彼らの背中を押しにいくなにかなどは十分に想像したり痺れたり共感したりできるもので、雪とうららを惹きつけて彼女たちを縁側で結びつけたのも、BL漫画の底に流れるそんな何かたち故だったのではないか、とか。(たぶん、出会った作品によるところが多いはずなので言い切れるものではないだろうが)

それは”Aladdin Sane”の頃の満身創痍のBowieとか”Perfect Day”を歌った頃のLou Reedとか、彼らがせつせつと眺めてなにかを思いがけず再発見することでもあって、こんな形で拾いあげてくれて繋いでくれてありがとう、って雪とうららの間の年齢(そうとう雪寄り)に挟まる者は思ったのだった。

あー スマホでひとのtweetみて時間を潰したりするのよか、縁側でだらだら映画とか音楽のことを喋ったり料理作ったり食べたりしてごろごろ過ごしたい、それだけでものすごく遠くにある「完璧な一日」の気がしてしまうのねえ。 それをあんなふうに見せてくるからー。 とにかくよかったねえ、って幸せになれる、珍しいくらいにそれだけの映画で、それでよいの。

しかし書店のBL漫画のコーナーって、やはりなんか躊躇してしまうのはなんでか。少女漫画の方はまだ平気なのに。自分のどこかになにかバリアがあるのかしら。

[film] The Black Phone (2021)

7月8日の金曜日、会社を休んで見にいった「コジコジ万博」と「Gerhard Richter展」の隙間にTohoシネマズ新宿で見ました。

監督は”Doctor Strange” (2016) のScott Derricksonで、彼は次に控えていた”Doctor Strange in the Multiverse of Madness”を蹴ってこっちを作ったそうで、原作はJoe Hillによる同名の短編。

1978年、デンバーの郊外の町に住む小学生のFinney (Mason Thames)は少年野球のピッチャーで、試合の土壇場で勝負に出たら日系の子に打たれてあーあ、になったり、学校でやな連中に虐められているところをメキシコ系の子に助けてもらったりしているのだが、彼らが突然失踪して町中に捜索依頼の貼り紙がでるようになり、事件に繋がっていると思われる不思議な夢を見る妹のGwen (Madeleine McGraw)と一緒に風船男のことを心配し始めるのだが、いつも酔っ払っている父親(Jeremy Davies)はうるさい、って相手にしない。

そうしているうちにFinneyは気がついたらそこにいた風船をもった男 = The Grabber (Ethan Hawke)に一瞬で捕まって車に押し込まれ、抵抗したけど拐われてどこかの地下室に閉じこめられ助けを求めて叫んでも逃げようとしてもなにやっても無駄だって言われる。部屋にはコードの切れた黒電話があるくらいでドアにはカギがかかっていて、窓は高いところにしかなくて始めのうちはいろいろ試みてみるもののぜんぜんだめで、自棄になっているところに黒電話が鳴る。

その電話に出ても向こう側の音や声は明らかに異世界の異様な空気感でもって伝わってきて、電話の向こうで喋る方もはじめは自分が誰だかわかっていないらしく、自分の名前すら憶えていない。 Finneyも最初は相手にしないのだが、その声がひとりではなく代わりばんこで複数いて、順番に失踪した子供たちの声であることに気付くと彼らのアドバイス - カーペットをたてかけろ、穴を掘れ、こうやって戦え、などなど - を聞いて従っていくようになる - うずくまって泣いていたってどうにもならないし。

でもGrabberの方も間抜けなようでいてバカではないらしくFinneyの企ては端から潰されていって、でも黒電話からの指示にもなんとなく手応えを感じられるようになり、他方でGwenは警察を巻き込みながら場所に繋がるような夢を見たい/見れれば - なのだが夢頼みというのが厳しくて、 でもなんとか場所のあたりがついてくるのと、そうは言ってもGrabberがFinneyを料理してしまうその時が..

繋がっていないはずの不吉な黒電話が鳴って変な声が語りかけてくる、それだけでふつうの怪談ふうで嫌なかんじだし、その前には学校のいじめの結構陰惨な描写もあったりしたので始めのうちは見るのもきつかったのだが、幽霊の(幽霊になっていると思われる)子達がFinneyを励ましたり背中を押したりするようになり、悪玉のEthan Hawkeがクレバーなのかバカなのかわかんなくなってくるあたりから手に汗握るようになってしまった。

“IT”のピエロの底が抜けたような極悪の悪魔感とも、”The Stranger Things”のなにがなんだかわからない迷宮感とも別の、シンプルで小さい世界だけど突然誘拐されて幽閉されたらどう対抗する?/どう捜しだす? っていうテーマにうまく迫っていると思った。 と同時に、実際に消えてしまったままになっている/なってしまった可哀想な子供達や残された家族の悲嘆も強くわかりやすく見えてきて、それもまたきつくて悲しい。黒電話があってくれたら…

恋人たちのお話だった”Ghost” (1990)の子供達版のようなかんじもあって、でも”Ghost”がラストの切ないお別れに力点があったのに対して、こっちはありがとうがんばるから、になっている。

でも黒電話を通したまわりくどい現れ方をするくらいなら、不思議な力を持つGwenを使ってうまく立ち回ればよかったのに、とかわざわざリモートで出ないでその場にダイレクトに現れて”Home Alone”みたいに寄ってたかってEthan Hawkeをぼこぼこにしちゃえばよかったのに、とか。

あと、the GrabberってどうしてもJokerを思い起こしてしまうのだが、Grabberがなんでああなってしまったのか、について少しでも触れられる場面があったりしたらもう少し怖さや哀しみが増したかも、とか。

7.16.2022

[film] Thor: Love and Thunder (2022)

7月8日の晩、109シネマズの二子玉川で見ました。IMAXの3Dで。

監督は前作の“Thor: Ragnarok” (2017)から続いてTaika Waititiで、今度のではストーリー制作にも関わっている(ことはよくわかる)。

冒頭、Gorr (Christian Bale)が衰弱した娘のLoveを抱えて砂漠を彷徨っていて、神への祈りも虚しくLoveは亡くなって、彼らの神Rapuに祈って直訴してもだめだったので神を殺すことのできる呪いの剣 – Necroswordを手にしてRapuを殺して神たちの皆殺しを誓う。

Thor (Chris Hemsworth)は”Endgames”の後で半生の腑抜けになってGuardians of the Galaxyの連中とてきとーに戦ったりしていたのだが、Gorrの攻撃を受けたSif (Jaimie Alexander)からNew Asgardが狙われていると聞いてそちらに向かう。

久々に登場したJane (Natalie Portman)はステージ4の癌の治療中で、看病するKat Denningsとふたりでため息をついてぼやいたりしているのだが、ある日ガラスケースの中にいる(前作で)粉々に砕かれたThorのムジョルニア(とんかち)を見ていたら..

New Asgardを襲ってきたGorrをThorとValkyrie (Tessa Thompson)とKorg (Taika Waititi)が戦っているとそこにムジョルニアを手にしたJaneが現れてあーらびっくり、一緒に戦って撃退するのだがそこにいた子供たちを拐われてしまい、助けをもとめていろんな神々 - Bao(饅頭の神)とかもいる - のいるシティに向かってZeus (Russell Crowe)にお願いするのだが、すごくかんじ悪くて無愛想でいい顔しないのでどついて無理やりサンダー - おもちゃみたい - を奪って、Gorrのところに向かう。でもムジョルニアと共に戦うJaneにも病の進行は止められず..

いちおう、神々を恨んで連中を皆殺しにしたいGorrと、それを阻止して子供たちを救いたいThorたちとの戦いがメインなのだが、Janeと別れてThanosとの戦いで自信を失ってぶくぶくに腐っていたThorがどうやって元にリカバーして戦う雷神として目覚めていくのか、を微妙なギャグ - Guns N' Rosesを真ん中にした80~90年メタルの全能感 - を散りばめつつ描いていく。「微妙」っていうのはわかる人にはわかるかもだけどそうでもない人にはきょとん、とか、わかる人であっても世の中の平準線からするといいのか… とか。

“Thor: Ragnarok”の方がまだ父や故郷(星)の喪失とか別れとかハードなテーマがあった気がして、今作だってGorrの父娘の話はシリアスだし、Janeとの過去と現在なんてとても大事なことなのだが、Taika Waititiは気の抜けたギャグをおならのように方々に散らして適度にぼかしたり照れたりつつ、「実はね」っていうのをやる人だから..  でも今回のに関していうと、そこまで照れたり隠したりしなくても、ストレートにJaneとThorの思いが惑星直列する過去から現在までを描いてもよかったのではないか。Janeと会えますように、彼女を救ってくれますように、っていう思いははっきりと神に届いていた、だからとんかちだって動きだしたのだから。

あとはムジョルニア(とんかち)とストームブレーカー(斧)のせめぎ合いとか、ValkyrieにもKorgにもそれぞれ大切なLoveとThunderはあるのだし、なによりも子供を大切に(っていうのは監督がずっと前の作品から言っている)とか。

予告で”Sweet Child O' Mine”ががんがんだったことからもGuns N' Rosesなのかー、とは思ったが、あそこまで染めてくるとは思わなかった。”November Rain”まで。これなら”Thor: Guns and Roses”でもよかったのでは。この流れで押しまくるので、ラストに流れるDioの”Rainbow in the Dark” (1983)がえらくまじめに聞こえてしまう。でもどっちにしても「神」なんて所詮はメタルの世界で云々されるああいうの程度の扱いでよいのだ、って。うんうん。

神々の世界にBaoがいたってことは他に東洋の神々だっているはずで、それなら”Shang-Chi and the Legend of the Ten Rings” (2021)    に出てきたあいつらだって出してやって。

Matt DamonとSam NeillとLuke Hemsworthが出てくる(今回はさらにMelissa McCarthyまで)寸劇、おもしろいので、次からは本編前に30分くらいかけて、「これまでのこと」としてやってほしい。

ValhallaにいるHeimdall (Idris Elba)を出すのならFrigga (Rene Russo)も出して迎えてあげてほしかったねえ。
次はKat Denningsさんにとんかちを持たせてやってほしい。ぜったい似合うから。

全体としてはぐだぐだでしょーもない映画だと思うものの、自分が学生だったら授業さぼって見たあとでファミレスとかに篭って5時間くらいだらだらどーでもいいことばかり喋りたくなるであろう、そんな憎めないやつだと思った。


明日からひさびさ、少しだけ海外に。ぶじ戻ってこれますように。

7.15.2022

[film] Marketa Lazarová (1967)

7月7日、木曜日の晩にイメージフォーラムで見ました。七夕の晩にこんなの見てなにをしてほしいというのか。

邦題は『マルケータ・ラザロヴァー』。 原作はチェコのVladislav Vančuraの同名小説 (1931)、これを同じくチェコのFrantišek Vláčilが脚本・監督していて、1998年のチェコの批評家によるチェコ映画オールタイムベストに選ばれている。現地での公開の1年後に「プラハの春」が起こったというのが興味深い。日本ではこれが55年を経ての劇場初公開となると。オリジナルのポスターはおどろおどろのゴス仕様なのだが、日本のってなんで.. (?)

撮影スタッフも俳優も実際に山奥で暮らしながら548日間ロケしてみんなで13世紀マインドにしたとか。パート1が「狼男 ストラバ」、パート2が「神の子羊」。俳優の声は後から被せてあるようで、たまにエコーがかかったり距離感が違うように聞こえてきたり、それもおもしろい効果を生んでいる - 喋り言葉なんてどう聞こえようが獣の声とおなじで誰も聞いてやしない、とか。

モノクロで、真っ白な雪原を熊みたいにでっかい(でっかく見える)狼?の群れがざーっと渡っていって、それだけでたまんない。狼はこの後も何度も出てくる。 舞台は13世紀半ば、ボヘミア王国が舞台らしいが勿論そんな説明は入らず(そう言われたからと言ってわかるわけもなく)、雪のなかを行く隊列が道端にいた片腕がなくて喋らない青年をからかって転がしたら逆に襲われて拐われて、この時点では - というかこれ以降ずっと、どっちがどういう部族なのか宗派なのか集団なのかよくわからない男たちが交互に襲ったり襲われたり殺したりを繰り返していって - 時系列も行ったり戻ったりする、その遠近の中で領主とその家族、王族直下の軍、盗賊とその家族、といったいくつかの群れが見えてくる。のだがみんな毛皮を被っていてどれも髭面だったりするので、名前はもちろん、誰が誰やらを判別するのは難しい。しなくても平気なのだが、そんな中、なぜ” Marketa Lazarová”という女性の固有名だけがタイトルとして浮上してくるのか?

3つの勢力は王家直属の伯爵と、盗賊をやっている領主コズリーク(Josef Kemr)の一族ともうひとつの領主ラザル(Michal Kozuch)の一族で、コズリークの息子が伯爵の一行を襲って捕虜を捕ったところから始まる三族間三つ巴のほぼ思い通りにいかない策謀に交渉、裏切り、結果としての略奪に凌辱に殺害、そこで暴力の通貨のように取引されたり引き摺られたりする修道女となるはずだったラザルの家のマルケータ(Magda Vásáryová)と捕虜に恋してしまうコズリークの娘アレクサンドラ(Pavla Polaskova)たち。

第二部では道化師のような野良修道士ベルナルド(Vladimír Mensík) - 彼自身も引き回されたり散々な目にあう - の少しだけ上空に上った目を通してそれぞれの運命 - ヒトというよりは迷える羊としての - が語られて、でも今さらキリスト教だの神だの言ってもさー、どこの国の話さ? って野良の狼は思う。

例えば我々の無意識のようなところに植えつけられている(と思う)神話のコードやイメージの通りに展開していく(ように見える)親族や野生、その中空にある聖性に対する暴力や野蛮のありようを遠慮なく – それこそ野蛮に真っ白い雪原にぶちまけてみて、神なんてなんでえ… ってマルケータは思い、それでもなんか「愛」のようなものが隅っこに..  あったりするのか? どこに?

という問いを絶えず喚起するかのように狼その他動物たちは原野を走り回り、男たちは同様に群れて集って指差しあって殺したり奪ったり、女たちは都度目を見開いて空を仰いで手をかざし、そして神は.. (そんなんいるのか? どこに?)

最近の人たちが見ると“Game of Thrones” - 途中までしか見てない - で展開される原始の善と悪の(割とわかりやすい)陣地取り合戦を、よりアナーキーにばらばらに示して、なんの希望も救いもないような原野をぶっきらぼうに見せて、途方に暮れさせてくれるような。

偶然だけど、これと同じようなテーマを神話レベル - 神々の戦いのなかでおもしろおかしくずっこけモードで描いた映画をこの翌日に見ることになる。ここでも最後に残るのは女の子だった。

7.14.2022

[film] Les Deux anglaises et le continent (1971)

7月5日、火曜日の晩、角川シネマ有楽町のトリュフォー特集で見ました。
オリジナルの130分版 - 日本では1987年に公開された - この時に見ていたと思うのだがー あんま憶えていないー

邦題は『恋のエチュード』、英語題は”Two English Girls”。原作はアンリ=ピエール・ロシェによる同名小説 -『二人の英国女性と大陸』(1958)。この人は"Jules et Jim" - 『突然炎のごとく』の原作小説 (1953)も書いている。撮影はNestor Almendros、音楽はGeorges Delerue。

20世紀はじめのパリで、ふつうの貴族の青年Claude (Jean-Pierre Léaud)は母の旧友の娘のAnn Brown (Kika Markham)を紹介されて親しくなり、彼女に誘われるままにウェールズの海辺にある彼女たちの家に滞在する。そこにはMrs. Brown (Sylvia Marriott)とAnnの妹のMuriel (Stacey Tendeter)がいて、Claudeは「フランスさん」とか呼ばれながら羊のようにおとなしく品行方正に絵を描いたり自転車に乗ったりして過ごして、そのうち、AnnはMurielがClaudeに気があるようなのよ、と彼をそれとなくけしかけて、ふたりはぽつぽつぎこちない会話を始めて親しくなるのだが、それでは結婚を、ってなると突然Mrs. Brownが立ちはだかって、とりあえず一年間距離を置いてそれでもふたりが恋をしているなら、とか言うので、わかりましたって彼はフランスに戻ってしまうといろんな歯車がおかしくなっていって、最後は彼ひとりが。かわいそうなのはどっちか?

ここでのJean-Pierre LéaudはAntoine Doinelではなく(Antoine以外を初めて演じたという)、草食系で母親の代の女性ややや強めの女性たちの言われるままされるがままに振り回されて(Antoineも振り回されるけど、スラップスティックにどこかに落ち着いたり逃げたり)、でもその邪気も欲も見えないような振る舞いが結果的にAnnとMurielを苦しめるという残酷な仕打ちをもたらして、でもそのことについてどこのなにが悪かったのかまったくわかっておらず、というぐるぐる。 人によっては上空100mから金だらいを落としてやりたくなるかも。

顔立ちはみんな貴族っぽくて端正でうっとり、コスチュームは誰が洗濯してるのかさらさらときれいで家や部屋のインテリアも食器も蠟燭の炎も見事なセンスで風景も美しく - ウェールズの陽の光はあんな明るくないのでは、と思ったらやはりロケをしたのはノルマンディーの方だったり - 全体としては誰もが見たことがあると思うあの3人が揃って映りこんでいる姿はとてもおしゃれで、後にJames Ivoryが英国を舞台に撮ったドラマの原型のようでもあるのだが、後悔とか懺悔といったトーンとはなんの関係もなく、その空っぽさというかなんも考えていなさそうなかんじがすごい。でもその裏側ではゲロとか血の染みとかひどいものもふつうに映っている。それらがぜんぶ揃えば恋愛も恋愛映画も生まれようぞ、ってきょとんとしているような。 恋愛を画面に写しとる、ってそんなふうにしかできないのかも。これはこれでよいのか。

男性のナレーション(byトリュフォー)で淡々と綴られるひと夏の儚い思い出、それが後の人生に打ち込んだ楔、というか女性たちにとっては命を奪うような傷となってしまうその残酷さとのギャップを追いながら、ラストはパリのロダン美術館で石になってしまった恋人たちの姿をとらえて、でも我々はこんなふうに石にも思い出にもされたくもないのだけど、って誰に向かって言えばよい?

恋のエチュード - 練習曲なんていい気なもんよなとか、原作の「二人の英国女性と大陸」の「大陸」ってなんだよ? 泰然としてんじゃねえよとか、突っ込みどころはいろいろある。最後まで頑なに情熱的にClaudeへの恋を貫こうとした(Emily Brontëの最期を迎える)Murielと風の向くまま気の向くままにやってくる女性になびいて虫のようにくっつこうとするClaude - このふたつの恋のありよう(どちらもありとは思うけど)とここにはめられる男性と女性の位置って、逆のかたちで描かれるケースってあんまない気がするねえ。

今回のトリュフォー特集、結局4プログラムしか見れなかった。あっという間すぎる。

7.13.2022

[opera] Pelléas et Mélisande

7月6日、水曜日の晩、新国立劇場で見ました。全5幕の3時間25分。
オペラをライブで見て聴くのはほんとに久しぶりで、日本では初めて。

90年代の中頃にはお勉強したかったのでMetropolitan Operaに結構通っていて、一番最初に行ったのがFranco Zeffirelliの演出による”Tosca”だったりしたのでそれ以降、Zeffirelli演出の定番スタンダード - 舞台セットがなんか豪華絢爛でどーん - なので田舎者はひとめで圧倒される - を中心に見ていった。いまは随分チケット代も上がってしまったようだけど、当時はSecond Tierでも$80くらいだったし。 この後、自分の興味はバレエの方に移っていったのでRoyal Opera HouseでもPalais Garnierでもバレエしか見なかったのはちょっと勿体なかったかも。

で、この”Pelléas et Mélisande”は95年にMetで演ったとき、ドビュッシーのオペラってどんなだろ? ってJonathan Miller演出、James Levine指揮、メザリンド役はFrederica von Stadeの舞台を見ているのだが、そのときにどんなことを思ったのか、だからメモくらい残しとけバカ、って。

初演は2016年エクサンプロヴァンス音楽祭で、演出は英国人のKatie Mitchell、指揮は大野和士、すばらしいセットデザインはLizzie Clachan、Pelléas役はBernard Richter、Mélisande役はKaren Vourc’h、Golaud役は初演時と同じLaurent Naouri。

原作は1892年に出版されたメーテルリンクの戯曲、フランス語で書かれてフォーレやシェーンベルクも題材としたこの作品をドビュッシーは原作のテキストをほぼそのままオペラにしている。世紀末の象徴主義の煮凍りのような悲劇を印象派がゆらゆらに揺さぶって象徴たちがどんなふうに水や光に溶かしこまれていくのかを眺める。

舞台セットもコスチュームもモダンで、舞台は向かって右の2/3くらいがメインのベッドルームになったりリビングになったりダイニングになったり、左の1/3は通路だったり待合室のような待機室のような中間地帯で、それが縦に延びると螺旋階段に変わったり、右側も上に延びて階上のベランダができたり、下に延びて廃墟のようなプール(泉?)になったり、お城の堅牢さや壁のぶ厚さからは離れ、現代建築の薄板書割構造 - でも外には抜けられずに同じところを縦横に彷徨うしかないどん詰まりになってて、そこにEdward Hopperの光が右方から射しこんでくる。

はじめはドレス(ウェディング?)を着たメザリンドがひとり、ベッドに倒れ込んでぼーっとして、赤い点は鼻血をだしていたのか、自分はどこからきてなんでここにいるのかもわからない、とか記憶喪失のようになってて、そこに王様の孫のゴローが現れてさらうように彼女と結婚してしまう。続いてゴローの異父弟のペレアスが現れてメザリンドに魅せられて恋仲になって、こうして始まる王族とメザリンドの孤独と葛藤、兄弟間の確執など、どろどろした - でもなんでこんなことになってしまったのか誰にもよくわかっていない事態を、冒頭の鼻血を噴くメザリンドの悪夢、というよりあんま中身のなさそうな夢の出来事のように切り取って歌う。

夢の中なので、よくあるように中心にいてアクトする自分とは別のもうひとりが自分の挙動を横でしらーっと眺めてなにやってんの? ってなっている様を舞台ではふたりのメザリンドを登場させることでうまく見せている。歌に集中できるというのもあるだろうし、自分を外からしらーっと眺めるのと自分が自分でなくなっている事態を、恋と孤独に引き裂かれたありようとして晒して、ホラー映画のように伸び縮みする家、水のない廃墟のプールはその果てのない彷徨いの舞台として申し分ない。

そのままモダンのドラマにするのであれば、ミニマルな出口なしの家族ホラー(はげの強権的な夫と情熱的な王子との三つ巴)サスペンスが相応しいと思うし、そのままオペラではない上演形態にもじゅうぶん適用できてしまう気がするのだが、これはメーテルリンク/ドビュッシーのオペラなので、そのタガとか布に覆われたときにどんなふうに見えるのか。力強く盛りあがったり扇情的に歌いあげたりの一切ない、ゆらゆらひらひらと水のように揺らいでとどまらない音の流れはここにはまっているようないないような。見ていて、そのはまらないかんじもまた気持ちよいことは確かだったのだけど。

たぶん、オリジナルだとどん詰まりの悲劇になってしまうところをメザリンドの夢に集約してしまうことで、どこまでも終わらずに転がっていく孤独と悪夢に変容させる、それはまったく違和感ないのだが、そうした時にもっとよいサウンドトラックはいくらでもあったのではないか、というのはあるかも。

新国立劇場って、これがオペラを演って見る場所なのかー、って。椅子は座布団がないと痛いししょぼいしちっとも華やかじゃないねえー。Metの、開演前にシャンデリアがぐおおーって上がっていくあれが恋しい。

7.11.2022

[film] サッド ヴァケイション (2007)

7月3日、日曜日の夕方、テアトル新宿で見ました。

5/1に見た”Helpless”(1996)、5/14に見た”EUREKA”(2000)に続く“北九州サーガ”の3作目。再見だったのだが、こないだの5月から - 青山真治が亡くなってから – 改めて順を追って見ていくサーガと、当時見ていた頃のとはやはりぜんぜんちがう。最初に見たとき、これは彼にとってのヨクナパトーファ・サーガになるのだと思ったのだが、もうそれはできない(ああものすごくざんねん)のだと思うと..

とにかくこの3本をでっかいスクリーンで見た時の映画としか言いようのない音と景色の広がりって - ただの道とか橋とか海とかでしかないのに - あっけにとられるくらいすごいので、とにかく見てみ、しかない。

冒頭、北九州の橋をまんなかに漂うような空撮と共に”Sad Vacation” (1983)が流れてくる。Johnny ThundersがSid Viciousに捧げたバラッドで、あーもうしょうもないことだねえ、みたいに歌う。このサーガでSidというと”Helpless”の片腕の安男(光石研)しかいないので彼が再びやってくる、ということか。Johnny Thunders なら“Born Too Loose”でも、なんなら”Chinese Rocks”でもよかった気がするけど。

健次(浅野忠信)はチャイニーズマフィアの密航の手引き手伝いをしていて、移送船内で亡くなった男の傍らにいた男の子アチュンを連れて帰って、ユリ(辻香緒里)と一緒に面倒を見ることにする(うさぎふたたび)。代行運転の仕事をしていて恋人となる椎名冴子(板谷由夏)と出会い、さらに同じ仕事で自分を捨てた母親 - 間宮千代子(石田えり)を見かけてぶつかって、そこの家業である間宮運送に住み込みで働き始める。

同じ頃、東京では茂雄(光石研)と秋彦(斉藤陽一郎)が梢(宮崎あおい)の捜索をしようとしていて、その梢も間宮運送に流れてきて”Helpless”だった連中と”EUREKA”した彼女がひとところ – いろいろあって普通の仕事にはつけない事情を抱えた者たち - 後藤(オダギリジョー)とか - の吹き溜まり - に寄せられていく。 そこでなにが起こるというのか。

健次は自分を捨ててよその男に走って父親を自殺に追いこんだ千代子が憎くて憎くてたまらず、はっきりと彼女への復讐目当てで彼女を痛い目にあわせるために間宮の家に移ってくるのだが、そこには温厚な義父繁輝(中村嘉葎雄)と反抗的で狂暴な義弟勇介(高良健吾)がいて、千代子はぶっとくにこにこしながら健次に跡継ぎになってもらいたい、と告げて冴子に生まれてくる子供についても口を挟むようになってきたのでふざけんじゃねえぞってめらめらしてきたところで癇癪を起した勇介が..

空っぽのなにか、空っぽになってしまった何かを埋めるかのように憎悪をたぎらせて暴力の連なる土地に生きてきた健次たちが、新たにやってきたもの、生まれてくるもの、それを囲いこもうとする or 連れ去ろうとする力に対してどう折り合いをつけたり受け容れたりすることができるのか。『あの女を不幸にするためなら、俺はどんなことでもやってやる』(ポスターのコピー)の通り、なにかんがえとんじゃぼけー、って千代子に対して吠えまくって突っかかっていく健次なのだが、最後の千代子と健次の面会の場面では完膚なきまでに叩きのめされて空から岩石を落とされて、これって笑うべきところではないよね、とは思うものの、ものすごくおかしくて最高で、なんでこれがこんなにおかしいんだろ? ってなる。Sorry.. Sorry.. (わりいな~)ってへろへろと歌っていた人が180度反転して言われてしまう側になってしまうどんでんのおかしみというか。 そこにトドメをさすのがラストにしゃぼん玉で、あれってどんな爆弾や手榴弾よりも強い、なにもかも吸収してしまうバルンガみたいなやつ。

こんなふうに家族内/外に生起するパワーゲームを描いたコメディのように見ることもできるだろうし、いろんな乗り物 -最初のはバイク、ふたつめはバス、最後のはトラック - で暑い町を抜けて走って拾ったり喪ったり、でもどこにも辿り着けなかったある夏の話、としてみることもできるのかも知れないし。

サーガの続きが作られたのだとしたら、健次が出所して梢の兄の直樹も出所して、アチュンも還ってきて、梢の母か沢井の元妻に登場してほしかったかも。「母」をめぐる力強い女性映画になったのではないか。映画が無理なら小説でもよかった。しみじみ残念しかない..


金曜日からきもちわるくてTVを見ていない。昔からだけど、カルトに正面から突っ込めないメディアってただのクズだよね。スポンサーってこと? なら余計にゴミ以下。

7.10.2022

[film] 花ちりぬ (1938)

7月2日の土曜日、”Elvis”を見て、”Introduction”を見て、国立映画アーカイブに来て東宝映画特集のなかの『小特集 没後50年 映画監督 石田民三』で見ました。この日のはじめの2本もよかったけどこれは桁外れにすばらしくてびっくりした。 『おせん』も見るんだった..

文学座の作家森本薫による原作・脚本で、演出補助には市川崑の名前がある。声の聞き取りにくいところがあったけど英語字幕のおかげでなんとかなった。英語題は”Fallen Blossoms”。

キャストは全て女性 - 宴会をする客や屋外の男性の声は聞こえてくるが - あの、George Cukor の”The Women” (1939)より一年早い! そして舞台は京都祇園のお茶屋の中と屋根の上? のみ、時は幕末、蛤御門の変 - 元治元年(1864)7月19日の前夜、7月17日から18日にかけてに限定されている、そんなドラマ。

冒頭は金魚鉢を漂う(しかない)金魚たちの姿。これと同じようにどんなにがんばってもお茶屋の外に出て生きることができない女性たち - 芸妓だけでなく女将も燗番もみんな - の姿を描く。

はじめはふつうに宴会しているし芸妓たちはいつものように花火をしたり噂話をしたりしているのだが建物の外が騒がしくなって男の怒声が聞こえたりするようになって、京に潜伏していた長州藩士と新撰組がいよいよ、ということらしい。そうして扉のすぐ向こうで人が斬られる声とか音がしたりして芸妓のおきら(花井蘭子)はかつて相手をした長州藩士が自分を訪ねてきたのかも、って気が気でなくなり、やがてそこの女将で母のとみ(三條利喜江)が新撰組に呼ばれたから、と外に出ていく。それはさっき斬られたかもしれない長州藩士と自分のことを新撰組が疑っているにちがいないから自分かも、というのだがやばくなったらみんなして逃げるように、と告げて母は行ってしまう。それと江戸から逃げてきた(そこにいた男はひょっとして自分を追ってきた?)という種八(水上玲子)という芸妓も中に入ってきて、そうしているうちに外で大砲の音や人々が逃げていく音が聞こえてきて、芸妓たちも外に出る準備を始めて…

呼ばれて外に出て行って戻ってこないとみ、江戸から逃げてここに入ってきた種八、外に出たいけど出てもどうすることもできなさそうなので三味線を弾いたりするしかないおきらたちがいて、ここのお茶屋が世界のほぼすべてで、最後に屋上の物干し台のところに昇ったおきらは遠くであがっている戦の火- 花火でも大文字焼のでもない - を見つめる。

平和な風景が突然に不吉な音や騒ぎでざわざわし始めて、人が出入りしたりしてここから逃げるしかない、となった時にどこにどう逃げたら、逃げてどうなるのかもわからない、そんな金魚鉢の金魚たちの不安と恐怖と悲劇 - どうなるかまでは描かれないので悲劇ではないのかもだけど、その不安と切迫感と諦めと絶望を閉ざされた屋内の移動や階段の昇り降りショットと芸妓たちの表情のなかに描きだす。

当然のように、こないだの芸妓さんの告発を思い起こし、こんなのが大っぴらに「文化」として「大事に」されてきたのだとしたらそんなのなくなって/なくしてしまえ、しかない。慰安婦問題だって根はぜんぶいっしょの男性にとって都合と居心地のよい「ええやないか」の世界でしかないのだな、って改めて。


夜の鳩 (1937)

↑に続けて石田民三の小特集から。原作は武田麟太郎 -『一の酉』による、と。

浅草の小料理屋「たむら」は昔は常連の上客が沢山いたが実権を握る二台目の嫁が方針を変えてからそうではなくなり、むかーしからいるお爺さんがうだうだしていたり、よいネタを仕入れる意味も必要もなくなり、看板娘だったおきよ(竹久千恵子)もはっきりと年齢による衰えを自覚していて、かつてを知る客たちの間での伝説のようなものでしかなくて、妹のおとし(五條貴子)は姉の嘆きを受けとめつつ自分は適当にやってて、有名劇作家の村山(月形龍之介)の誘いも無邪気に受けたりして、おきよの方は誘われたと思ったらその隣にいた野郎に襲われたり、なにもかもあーあー、になっていくのと、おしげ(梅園竜子)はやくざな義父とだらしない母の思惑のまま寿司屋のおやじの二号に売られようとしていたり、町は酉の市で賑わっているようだけど自分の周りはさっぱり、夜の蝶でもないし同じ酉でもただの鳩だよ畜生めぇー、って。

京都のお茶屋ほどの厳格なしきたりや縛りはないものの、ここにも行き場を失っていく水商売の女性たちのそれぞれが描かれている。時代は幕末から太平洋戦争の前夜 - 不安定な時勢に都合よく弾きだされてしまう彼女たち。

『花ちりぬ』にも出ていた林喜美子のお燗番が男女のあれこれとは関係なくずっと隅で座っていてべそかいたりしててなんだかかわいそうだった。 そういう女性たちだっていたのだ、というようなところも含めて、フェミニズム映画としてきちんと位置づけるべきではないか。 そのためにはまず4Kでレストアしよう - 国は期待できないからマーティのとこでやってくれないかしらー。


健康診断の結果とおなじように、選挙の結果が自分の思うようになって幸せになれたことなんて一度だってない。 それでも、こんなでも生きていくしかないのだが、それにしたってこの国には本当に、底の底からうんざり。

7.08.2022

[film] Introduction (2021)

7月2日、土曜日の昼、”Elvis”の後に有楽町に移動して見ました。ぎんぎらのあとにじみじみ。

同一日に公開されたホン・サンスのもう一本のほう。モノクロ、3パートからなる66分。2021年のベルリン国際映画祭でプレミアされ、銀熊 - 最優秀脚本賞を受賞している。2本一遍に見たほうがよかったのかどうか - どうとでもーって言う声が。

冒頭、白衣を着た中年の男がなにやらお祈りのようなことをしてから部屋を出ていく。若者ヨンホ(Seok-ho Shin)はこの治療院に先の医師である父親を訪ねていくが、父は久々に訪ねてきた有名俳優(男)(Ju-bong Gi)の治療で部屋に篭って話をしているようで会うことができない。昔から彼を知っているらしい治療院の看護士の女性が彼と少し話をしてハグする。

ベルリンにファッションの勉強にきたジュウォン(Mi-so Park)はかっこいい憧れのアーティストのキム・ミンヒのアパートに滞在することになり、そこに訪ねてきたジュウォンの母とか、やはりそこに訪ねてきた恋人のヨンホとハグをして、タバコを吸って話をしてそこに雪が舞ってくる。

海辺の居酒屋で有名俳優とヨンホの母とヨンホたちが呑んでて、ヨンホは俳優の仕事に自信を持てなくなった - 恋人だったジュウォンはベルリンでドイツ人と結婚しちゃうし愛なんて信じられないのに演技の世界で愛するなんてできるだろうか.. って言うと有名俳優がざけんじゃねえ、って力強く説教して、わかんなくはないけどいろいろ辛くなったヨンホは冬の海に入ってみたりする。

3つのエピソードに3つのハグ - 最後のはもういなくなってしまったジュウォンとの夢の中なのか遠くの過去なのかはっきりしない。ここだけじゃなく全体がモノトーンの夢の中で起こるあれこれのようで、夢で起こったことを追認する/せざるを得ないような語り口の中にあり、過去も未来も因果も動機も場所と場所を結ぶ線も、すべてどうとでもとれるようにてきとーに接合されていて、誰の見ている夢なのか、なにかの予兆なのか反映なのか、どうすることもできずに途方に暮れるしかない。

でもこの途方に暮れたかんじこそがホン・サンス映画のだらだら呑んでくどいて男女があんなふうにもこんなふうにもなっちゃう一部始終あれこれの核心であって、すべてはそんな夢から醒めたあと or その直後から始まるのだ(始まるだろ?) - だからこれが「イントロダクション」で、その原理原則みたいなのを今作では恋人同士、あるいはその親子同士の線と緩い塊り、彼らの始まりで終わりのようなぎこちないハグのなかに示そうとしたのではなかろうか。

映画が終わって現実が始まる - ごもっともで、その現実がどうにもなんないどうしようもないのと同じように映画も絶えず不安定な揺れのなかで生起するなにかを捕まえようとする、それだけの、ただのイントロダクションなんだからあとはよろしく、ってエンドロールなんて一枚きりで「じゃん♪」。て終わるの。そんなもんよ、って言われている気がする。

『あなたの顔の前に』とあえて比較すると、時間の経過と共に死に向かう存在、としての人、っていうのは自在に生起したり追認されたりする夢とは切り離された、それとは別の囲い - 異なる切実さの中を生きている気がして、だからこちらのカラーの肌理はクレーの絵画のそれ、そのなかで生きることを求められる。 だから『あなたの顔の前に』でサンオクが甥っ子役のSeok-ho Shinを愛おしそうに抱きしめる一瞬はしんみりとよいの。 儚い夢のなかを泳ぐように生きるのか、死へと向かう生を祈るように生きるかないのか - そのどっちか、という選択の問題ではない気がするのだが、その問いもまた宙に浮かんでいて答えはないかんじなの。


選挙戦が始まってからいやな発言ばかり目にしてほんとうにいやになって、会社を休んでコジコジを見にいって、あああっちの世界はいいなー、って思ったとたんに奈良であんな酷いことが。もうこの国は終わりだわ、って日曜日の晩にぜったい確実にやってくる絶望が少しだけ早めにやってきた。

7.07.2022

[film] Elvis (2022)

7月2日、土曜日の午前、109シネマズ二子玉川のIMAXで見ました。ここのIMAXで見れるのってこの枠だけだった。

Baz LuhrmannによるElvis Presleyの評伝映画。アメリカの成り上がり野郎をぎらぎらぎんぎん仕様で花火のように描いた”The Great Gatsby” (2013)に続いて、ここでもアメリカ近代どまんなかを突きぬけたアイコンを描こうとする。主演のAustin Butlerが細めの、最近のアイドルみたいであんま似てないように見えたとこも含めてだいじょうぶか? はあったのだが、だいじょうぶだった。見事な打ち上げ花火だと思った。

オーナメントに囲まれた部屋で倒れて病院に運ばれた老いてぶよぶよの妖怪のようになっているTom Parker大佐 (Tom Hanks) が語り部となり、俺がElvis (Austin Butler)を見つけて育てたのだ俺が俺が俺が.. って。

最初は縁日の見世物小屋をやっていた彼がSunから出たばかりのシングルが当たっているという若者のステージを眺める - Elvisの見たこともない奇怪な腰の動きと、それを見て電撃に打たれて痺れてトランス状態になってしまう女性たちを見てよくわかんないけどこいつはすごいかも、って動きだす。

彼はElvisの音楽や個性、そこからくる将来性とか市場価値などをきちんと見こんで把握した上で決断した、というよりあくまでも見世物小屋の興行主としてその奇形・異形性を嗅ぎ分けて金をつかって撒いて焚きつけようとする。こないだの“Nightmare Alley” (2021)と同じく、多少キモくても売れりゃ、当たりゃなんでもよいのだ、から始めて、でも囲いこんだ後で思ってもみなかった反抗とか反撃にあって散々な目にあってなんで? になっていくモンスターの怪異譚のような。

明らかにElvisを殺したヴィランはTom Parkerなのだが、彼はそんなことを認めず、それって“Moulin Rouge!” (2001)でEwan McGregorがNicole Kidmanに(彼も彼女の破滅に加担したくせに)“Love”のひとことを持ちだしてめそめそするくだりにも似ているのだが、その辺も含めてべったべたの浪花節 – この一曲にすべてを賭けて死んでもいい – みたいなエモが充満している(よい意味で)。

Elvisの生涯をきっちり追う、というより、Tom Parkerが見出した時点での彼の家族 – 母への強い愛と情けなくどうでもよい父 – の紹介から入って、近所にあったブルーズやゴスペル等、黒人音楽への憧憬と傾倒 - Mahalia JacksonとかLittle Richardとか - が、彼を白人のやるカントリーから足抜けさせて、最初は色物扱いだったのがマーケットとしては全く新しい – 誰もが思っていなかったようないかがわしい出し物/化け物へと変貌していく様が痛快に描かれている。それは猛り狂う猛獣と観客を制御できなくなったサーカス小屋のようで、放送局や政府が圧をかけたくらいではどうすることもできず、ようやく国の徴兵によりブレーキがかかり、戻ってからは映画出演でアイドルのように回されて遊ばされるのだが、Martin Luther King Jr.やRobert F. Kennedyの暗殺でめらめらと火を点けられてしまったElvisは、サンタさんが朗らかにやってくるはずだった家庭向けのTV番組を怒涛の”Elvis: '68 Comeback Special”に変えてしまう。これと、これに続くVegas InternationalホテルでのショーもTom Parkerの思惑をあっさり乗り越える物語となっていてああその場にいたらどんなにか、なのだが本人は既にぼろぼろだったり。

最後は悲惨で悲劇で、海外ツアーに出たいのに米国籍がなくて国外にでれないTom Parkerがブロックしていたので彼との契約を切ったら雪崩のように借金が襲いかかってきたり、やられっぱなしでかわいそうったらなくて。

異形のモンスターを捕まえる話から入って、それがはっきりと女性たちの心を掴んで”The King”となってでっかい社会現象にまで広がって、という典型的なロックスター流れ星のお話しで、それは当然のようにアメリカのポップカルチャーど真ん中をぶち抜いて輝いていて、Baz Luhrmannのスタイル - 愛は輝きと歓びと同時に破滅を – とてつもない破滅をもたらすのになんて甘美な - がそこに見事にはまっていた。絶唱のような”Unchained Melody”はべったべたに泣けるし、エンドロールでじゃらじゃら流れていく宝石もまた。

どうせやってくれないだろうけど、”The Comeback Special”とか彼のツアーフィルムとか纏めて上映してくれないだろうか。あと、Elvisの車に乗って彼の音楽の足跡をロードムービー風に追っていくドキュメンタリーの“The King” (2017)なども。

あと、バックバンドのGlen D. Hardin、James Burton、Jerry Scheffあたりはちょっとだけでも名前が呼ばれていてよかった。

7.06.2022

[film] Lightyear (2022)

7月1日、金曜日の晩、109シネマズ二子玉川のIMAXで見ました。字幕版で。

アニメーション-”Toy Story”シリーズのToyキャラクターBuzz Lightyear、1995年の最初の時にAndyが買ってもらうこのToyが製造販売されるきっかけになる大ヒットした(のだと思う)スペースオペラ映画がこれだ、と説明される。つまりこの映画は93年くらいのアメリカで公開された映画で、当時の子供たちを熱狂させたものを今の我々(含. 子供たち)が見る。感覚としては家に転がっているR2-D2とかダースベイダーのおもちゃって、ここから来たのか、って振り返るべく”Star Wars” (1977)を見るかんじ。この場合だと親子間で見て思うところは異なる気がするけど、今度のこれは今の子供も大人もみんな横並びで見る、というあたりがおもしろいのかも。

スターレンジャーのBuzz Lightyear (Chris Evans)は、冬眠している人々をいっぱい積んだでっかいカブ型の探査船のパイロットで、指揮官で同僚のAlisha Hawthorne (Uzo Aduba)と新しい星に降りたって探索をはじめて、でも変な巨大ツタが襲ってきたりでっかい虫みたいのが湧いてくることがわかったので脱出しようとしたところでミスして探査船を破損させて元のところに戻らざるを得なくなり、結局人々はそこでインフラを整備してコロニーを作って生活をはじめる。

自分の失敗に責任を感じているBuzzは、人々を元の星に戻すことができる光速運航のカギになる燃料を試すべく飛行実験に取り組むのだが、その4分間のテスト飛行は失敗して、Buzzはなんとか生還するものの、そのBuzzにとっての4分間で地元では6年が経過していた…  

更に重く責任をかんじてしまったBuzzは何度も何度も実験を繰り返して、結果62年があっという間に過ぎてしまう。その間、コロニーは発展して繁栄して、Buzzが帰還するたびにAlishaは結婚していたり子供ができていたり老いてやがて亡くなって.. Buzzは驚いたり悲しんだりしながらも燃料の探究と実験をやめない。途中でもらった猫ロボットのSox – ほしい – が計算した調合による新燃料でようやく成功して、やったこれで戻れるぞ! ってなったところで..

物語としてはこの後に彼が直面する困難とAlishaの孫とか愚連隊仲間との冒険が描かれていくのだが、ここまでの展開にのれるかどうか、だろうか。

自分の起こした失敗の責任を取ろうって次の挑戦にかけるのはよい、としよう。でもそれを10回くらい繰り返して60年間を無駄にした – その間他の人たちは普通にコロニーの構築をがんばっていた - ってこの時点でふつう軍法会議でアウト、じゃないの? いや、これは現実のドラマじゃなくて子供向けだから、っていうにしても、こんなに(Alishaとかは理解を示してくれたにしても)自分中心でイノシシみたいに突っ走っていく野郎をヒーローにしちゃっていいの? いや、だから”Toy Story”に出てくるBuzz Lightyearだってそういうちょっとうざい系のキャラだったじゃん? はわかんなくもないけど、でもこれ見てこんなのをおもちゃにしたい/このおもちゃがほしい/これを子供に与えたい、ってなるだろうか?

Buzz Lightyearが活躍するスペースオペラ、って聞いた時、まず、ふつうに侵略してくる悪の帝国とかエイリアンとか隕石とか外宇宙からの脅威と戦うやつを思い浮かべないだろうか? それか、戻ってみたらコミュニティがまるごとなにかに乗っ取られていたっていうスリラーとか、でもここのって(きっかけはその星にいた生物だったにせよ)ほぼ自分たち入植者の内輪の抗争みたいなとこに終始してしまう。 更に最後の方になると未来からやってきた邪悪な老人Buzz – 彼がああなっちゃうのはなんかわかるわ気をつけなきゃ – も現れたり、どこまでも自分達のサークルのなかで認められなきゃとか、称賛されたい乗り越えたい、そんなのばっかりで、そういう目標設定ばかりだとしんどくない? ヒーローにそんなの求めたくない - ヒーローになることを目的化してる時点でそんなのヒーローじゃなくない? でも映画化する時点でキャラクターの商品化は織り込まれているだろうし寧ろそれに沿って考えられたのだろうし、90年代初の「本当の自分」を見て! の流れを汲んだものなのだろうか? とか。この辺は細かく見ていけばおもしろいのかもしれない - 映画としておもしろいかどうかは別として。

でもさー、6年間不在にして戻ってきても便りとか近況を確認するのがAlishaだけってちょっと寂しくない? とか。
4分間働いてそれで6年が経っちゃうのだとしたら、その間に振り込まれていた給料とか手付かずじゃん、そしたらそれで本とかレコードすごくいっぱい買えるからいいな! とか。

7.05.2022

[film] Une belle fille comme moi (1972)

6月28日、火曜日の晩、角川シネマ有楽町のFrançois Truffaut特集で見ました。 Bernadette Lafontの2本。

Les Mistons (1957)

英語題は”The Mischief Makers”、”mistons”とは”brats”みたいなものらしいので、「ガキども」のようなかんじだと思うのだが、邦題は『あこがれ』。 18分の短編。原作はMaurice Ponsの小説”Virginales” (1955)。

トリュフォーは(短編二作目だけど)これが自分のデビュー作と認定していて、Bernadette Lafontもこれがデビューとなる。冒頭彼女が自転車で颯爽とプロヴァンスの緑(モノクロだけど)のなかを抜けていって、それを5人のガキどもが追っかけていく。彼女には既に恋人のGérard Blain(彼らふたりは実際夫婦だった)がいて、そんなことわかっていながらも連中はテニスをしている彼らに張り付いてその横で猿みたいにわーわーしていたりするのだが、やがて彼の方は戦地に旅立ってそのまま亡くなってしまい、直接の関係もないけどガキども一同は.. っていうちょっと苦くて切ない夏の..


Une belle fille comme moi (1972)

英語題は”A Gorgeous Girl Like Me”っていうのと”Such a Gorgeous Kid Like Me” (US alt.) とか”A Gorgeous Bird Like Me” (UK alt.) とかいろいろあるようで、邦題は『私のように美しい娘』。原作はアメリカの小説家Henry Farrellの”Such a Gorgeous Kid Like Me” (1967) - この人は”What Ever Happened to Baby Jane?” (1960)なんかも書いているのね。音楽はGeorges Delerue。

冒頭、本屋に1年前に出版が告知された社会学者による「女性と犯罪」だったか.. そんなような本ってもう出た? って問合せがあり、いやまだだよ、っていう返事からこの著者である若い社会学者 - Stanislas Prévine (André Dussollier)が施設の受刑者に直接会ってインタビューをすべくテープレコーダーのチェックをしたりして、そこにゴージャスな彼女 - Camille Bliss (Bernadette Lafont)が現れる。

Camilleは梯子を外して父親を屋根から落っことして殺した罪その他で収監されていて、映画は彼女の語る半生伝ふうに、ものすごい勢いで彼女の周りにたむろして関わって好き勝手し放題のまままだ生きている男たち - 不死身のくるくる巻毛夫Clovis (Philippe Léotard)とか、怪しくいかがわしい歌手で、やるときにカーレースの轟音のレコードをかけるSam Golden (Guy Marchand)とか、すけべいんちき弁護士Murene (Claude Brasseur)とか、40歳童貞の害虫駆除業者Arthur (Charles Denner)とかとのヒストリーが語られて、それはそれはメンズワールドにおけるアバズレさんの疎外と抑圧にまみれた - でもひょっとしたらあれこれ盛っているかもしれないけど - の遍路で、でもうぶな社会学者Stanislas氏にはなにやら響いてしまったらしく、彼女のことを正しく理解して周辺社会ごとあるべき場所に持っていくことができるのは自分だけなのだ、って思い込んで、あきれかえる女性アシスタント(Anne Kreis)も置いてひとり突っ走って、気がついてみれば彼女と立場が反転して自分が獄中にいることになってきょとん。獄中で論文いっぱい書けそうでよかったね。

これ、”The 400 Blows” (1959) - 『大人は判ってくれない』でやはり判って貰えないまま収監されてしまうAntoineだってこんなふうにちゃんとケアされていたら - それが映画っていう説 - っていうのと、その対象が女性になるとこんなにも世の中が違ってみえるっていうのと、それがものすごくいきいきとした明るく凶暴な姿となってかっこいいのってこんなにもかっこよくて素敵だからこうありたいよな、って。自分の周りにやってくるのはクズみたいな男ばっかしだけど、自分はやりたいようにやるし容赦も妥協もしないよ、って彼女のがなる調子外れのパンクとしか言いようがない歌などを聞いててしみじみ。

これは爆裂巻きこみ/巻きこまれ型コメディだが、これと同じことを平熱やや低めのまま淡々とぶちかまして周辺一帯を焼け野原にして異形のかっこよさを放つのが今週末公開の”Wanda” (1970)だから。どっちも問答無用、とにかく見るべし。

Stanislas役のAndré Dussollier - ロメールやアラン・レネの作品によく出てくるおじいさん - はこれがデビュー作だったのね。
でもまあBernadette Lafontがもれなくとんでもなくフランスの女優さんしてて目を離すことができないのときたらー。

7.04.2022

[film] 街燈 (1957)

6月26日の日曜日、『四季の愛欲』に続けてシネマヴェーラの中平康特集で見ました。
原作は永井龍男。衣裳デザインは森英恵、毛皮は山岡毛皮店。

渋谷の方の街燈が灯る一本道を通って洋裁店「ナルシス」に能瀬(葉山良二)という男が訪れて、店主の千鶴子(南田洋子)が応対をする。男は千鶴子が定期券を拾って送り届けた学生の兄で、彼の弟は仲間たちとわざとわかるように定期券を落として、コンタクトをしてきたのをきっかけに交際を始めるというしょうもないゲームをしていて、弟が失礼な手紙など出したのではないかと心配してここに来たのだ、と(暇なのか)。千鶴子がそんなのうまくいくのかしら? と聞くので失敗談のいくつか - 小沢昭一や渡辺美佐子がでてくる - を話して、そういえば彼女もそれがうまくいったケースを身近なところで知っていた..

それが千鶴子の友人で銀座の洋装店「Gin」のオーナーの吟子(月丘夢路)ので、そこで見習いのように働いている小出(岡田眞澄)はそうやってひっかけたのだかひっかけられたのだかの若いツバメで、でも小出は店を訪れるマダムたち - 細川ちか子と山岡久乃 - には人気で、でも裏ではこっそり財閥の一人娘でやんちゃな鳥子(中原早苗)と二股かけたりしていて、吟子にだって奥にはじじいのパトロンがいるし、みんながそういう関係のなかでやきもきしたりやくざな男(草薙幸二郎)がゆすりに来て脅したりすごんだり、『東京の恋人』(1952)のように靴磨きや浮浪児の子供らがそこらじゅうにいて煽ったり、いろいろあってせわしない。

恋人探しといっても、これの前の日に見たトリュフォーの『夜霧の恋人たち』(1968)なんかと比べてもAntoineの500倍くらい真剣さが足りないし、二股かけるにしても思慮がなさすぎで場当たり的すぎるし、全員ぜんぶやり直しの罰として腕立て伏せ200回くらいだと思った。 のだが、そういう映画ではなくて、街燈が並んで夜の街を照らすようになり、誰もが安心して夜道を歩けるようになったのと同じようにみんなが割と大っぴらに愛や恋を語って好きなひとを好きなように好きになってよい時代に来たのだと、みんなが思えるようになった - 少なくとも銀座界隈は、とか。

なので、小出の実家はまだぼろぼろの掘っ立て小屋みたいなところで母親は北林谷栄だし、やくざの因縁はクラシックなままで夜中の銀座の火事も喧嘩もノワールの定番のよう - 結構雰囲気でていてすごい - だし、でもそこにガキどもが大量に(どこから?)群がってきたり、鳥子が乗り回す車も衣装も変てこすぎて、全体としては旧いところと新しいものが入り混じったおもしろい絵巻ものになっている気がした。この無邪気でだれにも罪がなさそうな薄っぺらい(ほめてる)かんじを「おしゃれ」と呼んでよいかどうかはあるけど - 吟子が小出のどこを好きになったのか、千鶴子は能瀬のどこに惹かれたのかちっともわからないし – でも当時としてはやはりおしゃれでモダンだったのだろうなー。女性たちが自分で恋人を選ぼうとする、そのあたりも含めて。

日々のお仕事に大事な定期券を無くしたひとにそれを届けて、届けられた人はその御礼と感謝で拾ってくれた人に声を掛けてつきあいが始まって、それが定期になるか回数券で終わるかのばくちのような恋って、ないことはないのだろうし、そんなところから始まる恋があってもいいし、でも映画ならそれが始まるその瞬間を、どんなふうに始まるのかをもっと見たかったかも。

これがしばらく経って『銀座の恋人たち』(1961)くらいになると子供たちの姿は消えて、結婚した者たちの間での切った貼ったとか新たな闇とか謎の誰それが現れたりするようになって、ここまでくると恋愛ドラマのかたちができてきたようなかんじにはなる。街燈はもちろん、夜中にバドミントンができるような明るさにはなっているし。


“Stranger Things”のS4をようやく見終えて(今回長くない?)、いちばん感動したのはKate Bushのあれでもなく、”Master of Puppets”でもなく、最後の最後にきた”Spellbound”だった(だいすき)。

[film] 四季の愛欲 (1958)

6月26日、日曜日の午後にシネマヴェーラの中平康特集で見ました。
丹羽文雄の『四季の演技』(1957) を、長谷部慶次が脚色したもの。冒頭に丹羽自身による「なぜ愛欲について書くのか」を説明したような文章がでる。おもしろいから、しかないわ。衣裳デザインは森英恵(山田五十鈴のを除く)、音楽は黛敏郎。

真面目で評判もよい現代作家の清水谷暁(安井昌二)の家に近所に住む母親浦子(山田五十鈴)がちょっと熱海に行くからお金ちょうだいって現れて、彼女はそのお金で布地問屋の主人平川(永井智雄)と温泉で遊んでいる。

そんなふうにしょっちゅう息子の金目当てでやってくる浦子を見て暁の妻でファッションモデルの吟子(楠侑子)はおもしろくなくて、あの女は自分の欲望のためにあなたを幼い頃に捨てたのだし、暁の妹の桃子(桂木洋子)だって宇都宮のうんと歳上の男- 建部(宇野重吉)のところに嫁にやったのだし、ひどいと思わない? って。引っ越しもしないでこのままなら、もう嫌だからとっとと別れましょう、って別れるの。

こうして吟子は自分がでたいミス・ユニバース出場に向けたコネづくり - 写真家とか業界とか - に励んで - その先には浦子の愛人の平川も - 桃子は投資などをやってばりばりで維新の政治家みたいな経営者赤星(小高雄二)に惚れて逢瀬を重ねて抜けられなくなり、暁は末妹の春枝(中原早苗)に紹介してもらった店員品子(峯品子)と会ったり、那須の観光旅館のバーで働く未亡人百合子(渡辺美佐子)と水虫薬の話をしたりしつつ近くなっていく。

やがて浦子は誰もが想像していた通り平川にあっさり捨てられて泣いて、でも立ち直りも早くて中華料理店のフロア頭になってばりばり働き始め、同様に屈辱的にあっさり捨てられた桃子は自殺まで考えるもののなんとか思いとどまって宇都宮の自宅に戻り、そんな彼女を建部は静かに受けいれて、吟子は日頃の素行がたたってミス・ユニバースの件はなくなり、それならパリに行くぞ、ってガイジンのBFと荒れた翌朝のホテルで百合子の側にいる暁と鉢合わせてしまい、吟子からこれ元夫なのよ、とか言われてしまう。

どいつもこいつも正気か? って愛欲と激情の修羅場第三ステージに突入かー ってなった一触即発の駅のホームに滑りこんできた列車の客席には平川とヨリを戻したらしい浦子が女王のように寛いで羽を広げて笑っていて、あぜんとして立ち尽くす(ほかになにができよう..)下々の一同を残し、蒸気機関はすべてをなぎ倒して地の果てに去っていくのだった。

方々で湧きでる愛欲をわかりやすく示すベッドシーンなんてほぼなく - 桃子が抱き合いながら呪文のように唱える「離さないわ」くらい - 俳優同士の会話とか表情の連なりのなか(のみ)で示される「愛欲」のありよう。それは四季さながらに移ろって何度も何度も回り続けるものなのだって。そんな泣いたり泣かれたりの会話劇ばかりのなかでわかるのかしら? って思うのだが、俳優がみんなうまいので無理なくすんなり - どろどろもやもやも含めて - 入ってくる。愛欲ってなに? の反対側にいそうなのが桃子の旦那の枯れた宇野重吉とか。

とにかく山田五十鈴がはりだすとてつもない磁場というか。これと同じ年の『悪女の季節』 (1958)でもぜんぶ彼女が持っていった感があったが、これもそうで、目を合わせたり会話をしなくたって、そこにいるだけで有り金ぜんぶそこに置いて裸になって壁に向かって立て、って言われてぐるぐる巻きにされてしまうかのようなパワーがあって、なんなのかしら? って。このパワーがある限り愛だの欲だのなんて小賢しいもんで満たされてしまうことなんて永遠になく、吸い取られっぱなしのすっからかんのまま。あまりに突出しているのでバランスが.. ていう話もラストのあれでそういうことよね、って納得するしかないの。

7.03.2022

[film] Baisers volés (1968)

6月25日、土曜日の夕方、『人情紙風船』のあと、角川シネマ有楽町のトリュフォー特集で見ました。トリュフォーについては、なんか教科書みたいな「名画」のかんじがあってずっと歳とってから見ればいいや、だったのだがまじでほんとうに歳とってしまったので後がない-見るしかない。

Antoine et Colette (1962)

Antoine Doinel (Jean-Pierre Léaud)もの - 「サーガ」なんて大層なものではなく「もの」くらいの括り - の2つめ、約30分の短編。撮影はRaoul Coutard、音楽はGeorges Delerue。

17歳の彼の住んでいるクリシー広場の上にあるアパートの窓を開け放つところがすごく好きで、ああいうところに住んでみたいな、のいつも上位にくる。

フィリップスのレコード工場/売場に勤めるAntoineは当然レコード聴き放題で音楽も好きなのでコンサート会場にも入り浸ってベルリオーズなんかを聴いているのだが、そこでいつも顔を合わせるColette (Marie-France Pisier)と仲良くなりたくて声をかけて彼女の家を訪れるところまでいって、彼女の両親にも気に入られて住処も近所にしたりするのだがだんだん連絡が取れなくなっていって気がつけば知らない男が彼女の傍に。

それだけの、初恋にありがちないくらでも転がっていそうな話ではあるのだが、音楽の好みが同じでも両親に好かれても彼女に好かれなくなることはあって、そういうのはいくら言ってみてもがんばっても自分の力でどうすることも/どうなるもんでもない、恋愛というのはそういうやつなのねColette、そうよAntoineあんた知らなかったの? って基本の基本を教えてくれるやつだった。


Baisers volés (1968)


英語題は”Stolen Kisses” 、邦題は『夜霧の恋人たち』 - よくわかんないねえ。 68年のルイ・デリュック賞を受賞している Antoine Doinelものの3つめで、↑の切なくつんのめったモノトーン、音楽は荘厳そうなクラシックから一転して明るめのカラーの、最初と最後に流れるシャルル・トレネのシャンソン - “Que reste-t-il de nos amours?” - 『残されし恋には』のドリーミィで軽快なトーンでフルーツサンドされている。歌詞だけみるとちっとも明るい曲ではないのだが。

20代前半のAntoineはバルザックの『谷間の百合』を読んだりしてて(原作のクレジットでもある)、兵役の後にいろんな仕事についてもなかなか続かなくて、Christine (Claude Jade)との恋を続けながら夜警をしたり探偵社に就職したり見よう見まねで人とか事件を追っかけることになるのだが、靴屋の店員をやってているときにそこの社長Georges Tabard (Michel Lonsdale) の妻 - Fabienne (Delphine Seyrig)に追っかけられることになり、自分でなにをどうしたいのか、どっちをどうすべきなのか、色欲と煩悩にまみれながらなんとかChristineとの恋を、ってがんばってどうにか婚約するくらいまでは。

↑でColetteひとりに入れこんで酷い目にあったからか、なんでもかんでも手を出して握手するようにして、自分が本当にやりたい仕事はなんなのか、よくわからないまま洗濯槽に巻き込まれるようにいろんな仕事にぐるぐるに翻弄され、その延長で恋についても巻き込まれて目を回してあたふたしながらわけがわからなくなっていくスクリューボール・コメディで、なにかしら陰謀のような網目のなかでなにかが試されようとしているのだと思うがそのなにかって自分なのか恋なのか。 どっちにしてもなるようにしかならないそれを目前にしてパペットのように右往左往するばかり。

↑で明らかになったようにAntoineって古典的なロマンチストで恋ってこうあるべしの思い込みで走ってしまう人なので、初恋に敗れた後のものすごく暗いどろどろしたトーンのドラマにすることもできたはずなのを敢えてとっ散らかったずっこけものに料理していて、これはうまくいっているような気がした。誰もが - 探偵社に勤めたことなくても恋の探偵のような動きをしてしまう- 自分をAntoineだと思う/思えるように見せている。

主人公 - 自分はなにの、どこの主人公なのか、「盗まれたキス」 - 盗むのは彼女? - に対して、自分だけではないChristineを追っかけていた誰か(最後に現れる)に対して、主人公はどう振る舞って最後にはどうあろうとすべきなのか。をずっと読んだり悩んだりしているようで、でももちろん、この頃のJean-Pierre LéaudにもFrançois Truffautにもその答えは(おそらくまじで)見つかっていない。

それにしても、Delphine Seyrigはここから7年で”Jeanne Dielman”へと変貌してしまう。すごいわ。

7.01.2022

[film] 人情紙風船 (1937)

6月25日、土曜日の昼、国立映画アーカイブではじまった特集 - 『東宝の90年 モダンと革新の映画史(1)』で見ました。お勉強。

河竹黙阿弥の歌舞伎『梅雨小袖昔八丈』を三村伸太郎が脚色した時代劇。この後に日中戦争に出征して中国で戦病死した山中貞雄監督の遺作となる。こんな有名なクラシックなのに見たことなかったの。

雨が降って溝に水が流れていく夜の長屋を遠くから固定で撮って、それが晴れると奥の方に竹竿とかが高くに並んでいるのが見えて、金魚屋がやってきて女中が水を撒いて鼻緒が切れて、盲のいちとか大家さんとかがうろつく江戸深川の貧乏長屋で浪人が首を吊って亡くなり役人が調べに来て、住人たちはかわいそうにせめてお通夜をしてやらなきゃ、って大家からお酒をせしめてどんちゃん騒ぎをして、結局おまえら酒飲みたいだけだろって。この辺の家屋と人々、その会話の切り取り方 - 情景をまるごとわからせてしまう – そのテンポというかリズムというかがものすごくてびっくり。いきなり長屋の隣に引っ越してきて目の前の世界が広がったような。

その同じ長屋に暮らす貧乏浪人の海野又十郎(河原崎長十郎)は、父の知人で義理があるはずだった偉いひと - 毛利三左衛門(橘小三郎)に生前に父が書いた手紙をもって仕事の口を頼みにいくが関わりたくなさそうに邪険に扱われて相手にして貰えず、ずっと家で紙風船作りの内職をしている妻(山岸しづ江)にはあんま頭があがらない。

毛利三左衛門は出入りしている質屋 - 白子屋の娘お駒(霧立のぼる)を武家にお嫁にやるべく画策しているのだが、お駒は番頭の忠七(瀬川菊之丞)とできていてなにやらきな臭くて、又十郎が懇願に行ったり髪結いの新三(中村翫右衛門) - 無断で闇の賭場をやってる - が白子屋にやってくると、「いつもの」って伝令が飛んで周辺の用心棒をやっているやくざの親分弥太五郎源七(市川笑太朗)とか百蔵(加東大介)がなめんじゃねえぞおら、って大勢で懲らしめにやってくる。

ある土砂降り(すばらしい土砂降り)の晩に忠七と会っていて傘を取りにいった彼と一瞬離れたお駒を新三が貧乏長屋に連れ帰っちゃって、妻が留守の又十郎のとこに隠して、血相を変えてやってきた弥太五郎源七たちを嘲笑って、長屋の大家の立ち回りで事件は収束して冒頭と同じようなどんちゃん騒ぎになるのだがやくざ達はメンツを潰されておもしろくないし、又十郎にずっとウソをつかれていたことを知った妻は..

何度怒られても殴られても蹴られても不屈の、というかすることないしやけくそでしがみついて立ち上がってみてへへん、とかやってみてもやっぱしだめで、最後には紙風船は宙には浮かばずに溝を流されていくしかないの。 どんちゃん騒ぎで楽しくやって辛いのみんな流しちゃえ、っていうのとそのすぐ裏 - 薄い紙や障子を隔てたところでふっと消えてしまう儚い命、それらが連なってできた長屋に横たわる「人情」など。

最後に刃を手にして又十郎と心中してしまう妻と同じようにおとなしいお駒が新三を刺してしまうことにしてもよかったのに。それかこの後しばらく経って、お駒が忠七を刺す、とかでも。古典で描かれる「人情」のありようってあくまで男性が施したりもたらしたりする「情」がまんなかで女性はそこで交換されるだけのなにかでしかないように見える。 そんな、不気味なくらいに静かで穏やかに(不幸に)描かれた女性たちの姿。

でもとにかく、長屋と質屋と角の薬屋に世界まるごとが展開されていてその精巧さときたら(見たことも暮らしたこともないはずなのに)どんな特撮セットよりもすごいし、そこに生きている人たちときたら何十年もずっとそこに暮らしているとしか思えない。古典落語に出てくるのをイメージしていたあのままなの。

[film] In Front of Your Face (2021)

6月25日、土曜日の午前、シネマカリテで見ました。
ホン・サンスの2本が(2本も!)新たに封切られて梅雨のさなかにこんな嬉しいことがあろうか、って思ったら梅雨が明けてしまった。 邦題は『あなたの顔の前に』。2021年のカンヌで上映されている(ホン・サンスにとって26本目の長編、11回目のカンヌだそう)。

2016年以降ずっと彼の作品に出ていた女優Kim Minheeは本作には出ておらず、プロダクションマネージャーとして参画している。

冒頭、主人公のSangok (Lee Hye-young)が眺める窓の外の光景 – モザイクがかったビルの淡い模様があり、ベッドで寝ている女性 – あとで妹のJeongok (Cho Yunhee)とわかる – の寝顔を見つめる。なにかを決意し、過去でも未来でもない今を.. というようなことを祈るように自分に言いきかせたりしている。

Sangokはずっとアメリカで暮らしてきて一時なのか永久なのかは不明だが韓国に帰国している。アメリカでは食料品店に勤めてから女優になり、通りがかりの人から女優さん? と言われるくらいには有名で、今回の滞在は久々でしばらくはいるようなのでカフェで朝食を食べながら近所にいい物件があるから買っちゃえば、って妹に言われたりしている。(どうでもいいけど、ホン・サンス映画って食事をしながら家を買う買わない話ってよく出てこない?)

彼女はその日の午後に女優の仕事で人と会う約束があるので、と言いながら甥っ子のやっているトッポギ屋に寄って、すれ違いになりそうだったけど彼女が子供の頃から可愛がっていた甥とハグできたり、小さい頃に暮らしていた家 – いまはお店になっている - を訪ねてそこの店員と話してみたり。トッポギを食べてて服にシミがついた、それで一旦戻って着替える着替えないを気にしてしまう細さと繊細さ、どこか切実かつ必死っぽいなにかが彼女を動かしているかのような。

午後の遅めに居酒屋 “Novel”で会った映画監督のJaewon (Kwon Haehyo) – また呑み屋でこいつか… って少し - との会話はこれまでのホン・サンス作品の酒を吞みながら気がついたら.. の自堕落な(そういう流れを生んでしまうものとしての自堕落な)ノリとは程遠く、Jaewonは控えめに彼女の過去の作品について語りつつずっと彼女のファンであったこと、もし一緒に仕事ができるとしたらこんなにすばらしいことはない、などと語り、彼女もその言葉に感動して、ぎこちなくつま弾いてみたギターにふたりで痺れて動けなくなっていて、書いていくとなにこれ? かも知れないが、向かい合うふたりの一連の目の動きとそれぞれの顔の前で動かなくなった空気を映像としてみると気まずいどころかなんだか感動的で、そこにSangokの控えめな告白が加えられるとああやはり.. って。

そして、だからと言って次にできることなんてあまりなくて、監督は明日あなたの短編映画を撮ることはできないだろうか、とか、つまりあなたはわたしと寝たいっていうことなの? とか思いつきのように計画のようなものが出てきても結局は一緒にしんみりタバコを吸うくらいで終わってしまったり、他になにができるだろうか? って。なにもできなくてぐるぐるまわって次の朝には冒頭のシーンと同じように妹の寝顔を眺めて、それは前の日のと同じいつもの朝なのだろうか、とか。

ポスターにもあるLee Hye-youngの横顔と薄手のコートを纏った立ち姿がすばらしくそこにいるかんじがあり、彼女の過去も未来もすべてが塗りこめられているかのような形象の、それはもちろん絵画ではなくてほんとうにそんな今の、現在の顔をしている。それは正面 – Frontからの顔ではなくて、でももし正面から目をみて向かい合ったとき、彼女は、あなたはどうなってしまうのだろう。いまの、目の前にいるあなたがどこから来たのか知らんが、その息を止めて、ここにいて、って抱きしめたくなる。 久々に見た気がする「彼女を見よ、その姿を刻め」っていう女性映画。 なんであんなにすっとした人の表情、動きとか姿勢とかができるのだろうー って。 世のほとんどの難病ドラマを彼方に蹴散らしてしまう凄みがある。

ここでこんなふうに噴出してくる(ように見える)想いのようなのって、どんなイメージの連なりのなかで生まれてくるものなのか、というのがホン・サンスを見るといつもくるやつでー。