1.31.2018

[film] Fanny och Alexander (1982)

こっちから先に書く。『ファニーとアレクサンデル』
27日の土曜日の午後、BFIのベルイマン特集で見ました。 311分版で、今回の特集では2回しか上映がない。

14:30に始まって、17:20から1時間の休憩が入って、21時少し前に終わった。
日本で公開されたときは岩波ホールで見てものすごく面白かった記憶があるのだが細部はぜんめつ状態で、35年なんてこんなもんよね、てしみじみした。 けど冒頭のAlexanderのように寝転がって人形劇にのめりこむように見てしまうおもしろさは変わらない。

1907年のウプサラのお屋敷に暮らすAlexanderが留守番していると死神が横切ったり居間の彫刻が動いたりするのが見える、ていうプロローグから、劇場をやっている一家 - おばあちゃんを頂点に3人の息子のそれぞれの家族と大勢の召使いが集まって朝まで続くクリスマスの宴 - 寸劇があって延々続く食事と乾杯があってそれぞれの家族で別れる別れたい別れてくれもういいかげんにして、とかいろいろてんこもり - の第1部 –  “The Family Celebrates Christmas”。
FannyとAlexanderのパパで劇団の座主であるOscarが稽古の途中で倒れて亡くなって、死の恐怖と悲しみに家族がうちひしがれる(Emilieの絶叫すごし)のだが、Oscarは普通に屋敷のなかにいたり歩いていたりAlexanderのほうをじっと見たりしている - の第2部 – “The Wraith”。 
未亡人となったママのEmilieは同様に妻子を亡くしていた司教のEdvard Vergérusと結婚して、式のあとでFannyとAlexanderは彼の家に連れられていく。はじめはいい人に見えたEdvardだったが、彼の家の家族も召使いも冷たい変態ばかりで誠実そうに見えた司教はとんでもないDV野郎だった..  ていう第3部 – “The Breakup”。

ここまでのクリスマス - お葬式 - 結婚式という儀礼を通して家族のありようを学んだ子供たちに、慣れ親しんだEkdahl家とはまったく異なる司教の家で試練が降りかかる夏。最初にEmilieはおばあちゃんのところに出向いて子供達が虐待されてて危ない、離婚を申し出てもだめ、わたしは妊娠しているしどうしましょう、て泣き崩れる。いんちき司教野郎にひとり果敢に立ち向かうAlexanderはお尻叩きの刑と幽閉と、おまけにそこの家の姉妹の亡霊までやってくるのでぼろぼろで、でも負けるもんか、の第4部 – “The Summer's Events”。
子供達を救うべく一家の友人Isak Jacobiが屋敷に乗りこんで魔術を使ってふたりを救い出し(ここ、すごく好き)彼の屋敷に匿うと、今度は二人の伯父 - Emilieの義弟たちが乗りこんで司教に離婚を迫るのだが司教は冷笑して取り合わず、奥からやつれたEmilieも出てきていいのよ、ていう。のだがEmileの恨みは思っていた以上に根深くて、このあとに想像を絶する惨劇が… の第5部  – “The Demons”。

Emilieは劇団を再興すると言うし、新たな赤子も加わって全てが元に戻ったかのような団欒のなかにあるEkdahl家だったが、Alexanderだけ、司教の亡霊に後ろからどつかれたりしている.. というエピローグ。

ベルイマン自身の幼年期(の終わり)をテーマにした「失われた時を求めて」であるので、いくら上のようなあら筋を並べていっても画面上に溢れて流れ続けるいろんなイメージやその断片の豊かさを書ききれるものではないの。じっくり見れば見るほどいろんなものが(奥のつきあたりとかから)現れてくるような気がする。

家族を成り立たせているいろんな愛とか掟とか慣習とか、キリスト教と異教(ユダヤ教)とか、人の演劇の舞台と人形劇の舞台とか、それらすべてを包摂するかたちででっかいお屋敷が聳えていて、生者の世界と死者の世界の行ったり来たりがあって、それらはずっと続いているやつのようで、とめどなく流れていって(Love Streams..)。

最後におばあちゃんがストリンドベリの” A Dream Play” (1902)のNoteを朗読するのだが、”A Dream Play”はベルイマンのこの後の作品” After the Rehearsal” (1984)でも上演が企てられていた(ことを知ったのは昨年みたIvo van Hoveの同名の劇で)。

“Everything can happen, everything is possible and probable. Time and place do not exist; on an insignificant basis of reality the imagination spins and weaves new patterns.” (← とってもベルイマンなかんじ)

子供たちを救いだしたIsakの家に「病気」で隔離されているIsmaelとAlexanderの会話が印象に残るのだが、ここで思い出したのがデプレシャンの“Kings and Queen” (2004)のやはりちょっと狂っているIsmaël (Mathieu Amalric)で、そういえばデプレシャンの映画に出てくる家族って、ここのに近いかんじがするなあ、とか。

BFIの隅のスペースでこの映画の企画展示をしていて、ベルイマンが映画のために作ったスクラップとか、コスチューム・デザイナーが人物/場面毎に着る衣装の端切れを時系列にチャートにしたやつとかいろいろあって、おもしろいの。(今日行ったらもう終わってた)

[film] Nattvardsgästerna (1963)

22日の月曜日の晩、BFIのベルイマン特集でみました。眠くてだるくてどうしようもなかったが、こういうときこそ見るべきなのよ(← わけわかんねえ)。

"Winter Light" -  「冬の光」。"Through a Glass Darkly" (1961) に連なる Silence三部作の二つ目。設定や登場人物の繋がりはない。
ただ寒いだけのような薄暗い村に牧師Tomas Ericsson (Gunnar Björnstrand)がいて、村の漁師のJonas (Max von Sydow)とKarin (Gunnel Lindblom)の夫婦がやって来て、中国が核開発に成功したっていうけどどうしたものか? と聞いてくる – けどTomasはどうすることもできない。(やがてJonasは銃で自殺してしまう)

同様にTomasのEx-恋人のMärta (Ingrid Thulin)がすがってきて、彼が相手してくれないから湿疹で肌も掌もぼろぼろで辛いしどうしようもないし、と延々切々と訴えるのだが、これもどうすることもできなくてTomasの表情は硬くて暗い。

結局のところTomasのお勤めであるところのお祈りとかそのお相手である神様とかって、現実の、足下の問題とか困難とかになにをしてくれるの? なんもしてくれないんじゃないの? 風邪なんてひいてる場合じゃないわよ、とか。Tomasを経由して降りてくる神の言葉がどうしようもなく空虚でぜんぜん響いてこないんだけどどうするの? 無神論するよ? ていくら言ってもTomasには通じない、ひたすら信じて祈ることしかできないらしい。

“Winter Light”  - 「冬の光」 – こんなに厳しくてきつい冬なのに少しでも光が射してくれるのはありがたいことじゃ、とみるか、こんなに寒くてやってられない冬に光なんてあってもなくてもどうでもいいしいらねえ、というか。いやいや神はそういうのを超越したなにかなのだからとにかく心のなかに持っておきなされ、というのか。

全体としてはひたすらぼんやりどんよりとした会話劇が殺伐とした風景のなかで繰り広げられていくばかりで、ではつまんないのかというとそんなことはないの。

三部作のひとつめ – “Through a Glass, Darkly”は、ここに神はいるのかしら? いるのだとしたら? という問いをラストに控えめに投げてくる、身内の諍いだったのに対し、この”Winter Light”は、凍てつく大地に神の言葉のみがじゃらじゃら溢れてきてそれしかない、というくらい執拗に迫ってきて何ひとつ救われなくて、人が亡くなったりするのにそれでも念仏を唱えながらカーテンの奥に消えていく。しーん。

どっちにしてもいない、というか、いるのかも知れないけど、決定的に届かない。
それではなにかいるのか、そこに残っているのはなんなのか? と。

Tomasの端正で硬い、崩れない表情を見ていて、これって”Fanny and Alexander”に出てくる悪魔の司教の原型ではないか、と少し思った。人物の表情が(突然に)崩れたり壊れたりするのってベルイマンの映画のなかでは結構典型の、ドラマチックな瞬間だと思うのだが、揺るがない顔って「悪」なのではないか、と思いつつ見ている。

かろうじて寝なかったけど、やはり英語の字幕を追うのはきつかった。

1.29.2018

[film] Punch-Drunk Love (2002)

羽田からの便は21日、日曜日の午後15時くらいにHeathrowに着いて、16:30くらいに泣きそうになりながら荷物を階上までひっぱりあげて、荷物を開いて置けるものを置けるところに置いて(置けないものはそこらに積んで)、冷蔵庫は空だったので近所のスーパーに買い物に出て(どこのスーパーも日曜の夕方18時には閉まってしまう)、明日からの会社はかんべんしてよう、と泣きながらPrince Charles Cinemaに行って、見ました。もうじきの”Phantom Thread” (2017) の公開を記念してPaul Thomas Andersonの旧作を35mmプリントで上映する企画をやってて、そのうちのひとつ。 この作品はこの日の18:30の回のみ。

わたしにとってはこの作品がPTAのなかで一番好きなやつで、00年代の映画のなかでもベストに入る。世間的に00年代は”There Will Be Blood” (2007) のほうなのかもしれないけど、ボーリングのピンでひとをぶん殴るような野蛮なやつより断然こっちのほうだと、強くおもうの。

Barry Egan (Adam Sandler)はトイレのplunger - 詰まったときにぱこぱこやるやつ – 最初英語でなんていうのかわからず苦労したので決して忘れない - とかどうでもいい記念品とかを売る会社(兼倉庫)に勤めてて、ふだんは航空会社のマイレージ貯めたりとか会社の電話でやらしいCallしてごそごそしたりしているしがないふつーの社員 - 同僚にLuis Guzmánがいたり – で、プライベートではうじゃうじゃいる姉たちからいいかげん結婚しなさいよ、て弄られ続けていて、そんなある日突然、ぶっ壊れたハルモニアと美しいLena Leonard (Emily Watson)が彼方から現れてすべてが一変してものすごいことになる、ていうRom-Comなの。... パニック映画、かもしれないひょっとして。

Lenaに会うためにハワイに飛んでいってとにかく会っちゃうところとか、Callの件をネタに金を集りにきたり嫌がらせをしてくるブロンド4兄弟と対決したり、更にその上にいるマットレス屋のブチ切れキャラのPhilip Seymour Hoffmanと対決したり、見どころだらけなのだが、結論は恋とハルモニアの到来は人をポパイ("He Needs Me”♪~)のように、彼をこんなにも無敵に最強にしてしまうものなのだと。

会社も日常もだいたいのところほぼおもしろくなくて、おもしろくしたいと思って日々努力はするものの大凡ろくなことにはならなくて、ヒステリックに横でわーわー言うひととか、明らかに悪意をもっておらおらやってくるひととかもいて、あーあつまんない、ってぶつぶつ言って終わりなのだが、それが鮮やかに変わる、磁気嵐がオーロラを呼ぶように時空のすべてを一瞬で変えてしまうことがあって、恋とはそういうもの - なんて過去の映画でいくらでも見てきたはずなのに、この映画のそれは最強に狂っていて、それはAdam Sandlerの狂気でもあるのだが - そいつをタガが外れた土壌の上でぶちかますもんだから、Punch-Drunkとしか言いようがない酩酊感と共になにかがやってきて、ラスト、ハルモニアに向かうLenaに“So here we go - ” て言われると、それだけで宇宙にも飛んでいけそうな気になってしまう。

で、会場は終わった途端に大拍手の大歓声なの。これから何かが始まるみたいな歓声に溢れるの。

Jon Brionの音楽もすばらしく、あとはVisualのJeremy Blakeのアート(エンドロールのとこでみんな動画撮ってた。きれいだよね)。同年に彼が手掛けたBeckの“Sea Change”のジャケットアートと並んで、自分にとっては00年代のカラー – 透明さを象徴するものになっている。彼が2007年に亡くなってしまったのは本当に惜しまれる。

前もどこかに書いた気がするが、BAMでの上映にPTAとPhilip Seymour Hoffmanが来てトークして、スクリプトにサイン貰ったのもよい思ひで。

DVDにおまけで付いていたPSHによるマットレス屋のコマーシャルも上映してほしかったな。

映画の公開の暫くあと、BAMのシアターでLena - Emily WatsonがViolaを演じた「十二夜」とSonyaを演じた「ワーニャ伯父さん」が上演されて、これもすごくよかったの。演出はSam MendesでMark Strongとかも出ていて、今にして思えば豪華なやつだったねえ。

[log] Tokyoそのた .. January 2018

1月の第3週、日本 - 東京でのそのた。 あんまないけど。

行きの飛行機は日曜のごご、羽田着のJALの予定だったのだが諸般の事情により前日くらいに成田着のBAに変更になって、発着の時間も5時間くらい早まった。 5時間あれば映画の1本でも、とか、最近は言わなくなったねえ。

BAなので機内映画はBAのプログラムで、見ちゃっているのばかりだったしひたすら眠かったので”The Big Sick”をもう一回みただけ。 こないだドバイ行ったときの機内でも、NY行ったときの機内でも見ているので4回目くらいなのだが、何度見ても飽きなくてじーんとしてしまう。ほんとうに素敵すぎる。 見る視点も、最近はHolly HunterとRay Romanoのふたりのほうに移ってきて、あのふたり絶対いいよね、って。

あと、最後に流れるThe Bird and The Beeの”My Love”もいいの。(これ、しばらくの間、ぜったいStarsの新曲だと思ってたわ)

オスカーのオリジナル脚本賞にノミネートされたことについて、Kumail Nanjianiはツイートで
『ダイナーの裏でスタンダップやったとき、エミリーが僕のことをヤジって出会ったのが2006年。ふたりでそこからのことを映画にして、12年後、オスカーにノミネートされた。 もうこれ以上のことはできないよ』って。 うんうん。
今年のオスカーで受賞してほしい、って切に願うのはこの1本だけだわ。
邦題はちょっとなー、だけど、日本公開されるみたいでよかった。 見てほしい。

帰りの便はJALで、眠かったけど食事も摂らねばだったので、なんとか”The Hitman's Bodyguard” (2017)ていうのだけみた。
Michael Bryce (Ryan Reynolds)は一流の(トリプルAだって)ボディガードで、ぎんぎんに意気がってかっこつけていたのだが、目の前でクライアントをあっさり殺られてから転落してぼろぼろなの。
Darius Kincaid (Samuel L. Jackson)は一流の殺し屋で自分だけはぜったい殺されないのだが、こいつをなんとかビッチっていう東の小国の極悪非道の独裁大統領(Gary Oldman)の国際法廷の証人としてインターポールからオランダに護送する手前で襲撃されてインターポール側はほぼ壊滅、内部で情報が漏れているようだから、というのでMichaelにDariusをガードして運んでくれないかと依頼がくる。
ところがMichaelとDariusが顔を合わせた途端に火花が散って、Michaelはこんなクソ野郎守りたくない、というしDariusはこんなボンクラに守れるわけがない、というし、つまりMichaelのキャリアを銃弾一発で叩き潰したのがDariusだったと。 でもそうやって言い合いしているうちに二人を殺しにくる勢力は増すばかりなので、仕方なく組んでオランダの法廷を目指す。ここに人質のように別の牢屋に入っているDariusの妻 (Salma Hayek) - これも性悪 - とかインターポール内にいるMichaelのExとかいろいろ面倒に絡んできて、Ryan ReynoldsとSamuel L. Jacksonの言い合いだけでも十分きんきんやかましくてきついのにちょっとてんこ盛りすぎたかも。 ストーリーはシンプルなのにねえ。
それにしてもGary Oldman … Churchillやってこんなのもかよ、って。

それから、”A Dog's Purpose” ていうのを途中まで見て、わんわんが「生きる意味ってなんだろ?」とか子犬の頃から問いていて、なんか辛い展開になりそうだったので途中で切ってねた。

町で上映していた映画で見たかったのは『わたしたちの家』と『タレンタイム』と『バーフバリ』、くらい。 しょうがないわ。

日本で買った厚めの本は置いてきた、のだがなんとなく翻訳された海外小説読みたいかも、と思って、でも厚いのは無理なので『AM/PM』と『ネバーホーム』だけ持ってきた。
あとは旅行ガイドをいくつか、と、『ニューヨークで考え中②』が出ていたので買った。『ニューヨーク.. 』は大好きなアストリアがいっぱい出てくるのと、異国で過ぎていく時間に対する感じ方がとてもよくわかるの。 今の自分はロンドンで考え中、をやっているのだねえ。

本屋、新宿の紀伊國屋書店の7階はなくなっちゃうんだなあ、とか。

紀ノ国屋も新宿の伊勢丹の地下も、あんま変わっていなかったかも。 秋刀魚の缶詰とか佃煮とか、そんなのばっかし。

そんなかんじかしらー。

1.27.2018

[art] 熊谷守一, 他

16日の火曜日、東京とかで見た美術系のあれこれをまとめて。見た順番で。

この日は人間ドックがあって、ふつうはお昼を食べて13時過ぎまでかかるもんなのに、この日は11時半くらいで終わってしまった。次のやつの予約は14:30で、これを前に倒せないか聞いてみたのだが動かせなかったので、2時間半くらい空きができた。のでまずは上野にいく。

生賴範義展 @ 上野の森美術館

いろんな男子(だよねえ)がわーわー言っていたのでやはり見たほうがよいのかしら、くらい。
わたしにとってこの人は『帝国の逆襲』のポスター(これは出た当時ものすごくはまった)とサンリオSF文庫くらいなのだが、他にもいろいろ出ていて、それにしても全体に漂う昭和の香りみたいなこれってなんの成分なのかしら? とか思いながら見ていた。

南方熊楠-100年早かった智の人 @ 国立科学博物館

熊楠が知の巨人であることはもう明らかで、知りたいのはその膨大な集積結果どーん、のほうではなくて、彼がほぼ未開の地だった海外に出てそこの図書館とかに通って、あまりよく知らない言葉で書かれた文献にあたりながら(フィールドワーク)自分の問題意識に沿う形でどんなふうに知を選り分けて撚って紡いでいったのか、のほうで、それがよくわかる展示になっていたのでよかった。
彼がロンドンにいたときの徘徊地図があって、割とご近所であることがわかったのでもう少しあったかくなってきたらお散歩してみよう。

国立近代美術館の『北斎とジャポニスム』はパスした。 ジャポニズム、ってよくわかんないのよね。 ここから竹橋に移動。

没後40年 熊谷守一 生きるよろこび @ 東京国立近代美術館

初期の混沌にまみれた「轢死」(1908)の圧縮感がすごくて、あの塗り固められた壁の奥からあの独特の(境界)線とか盛土のような塊の面とかが延びたり生えたりしてくるさま(を辿っていくの)がおもしろい。その線と面の冒険がマティス的な反重力の調性に向かっていったのは、そうなっていっちゃったのだろうなー程度に、晩年の仙人みたいな世捨て人みたいな貌を見て思った。

ここに来るときのひそかな楽しみになっているMOMATコレクション、今回のもよかった。
特別展のに連なる「生きるよろこび」というタイトルで、速水御舟の『蟻』とか(蟻なのよ蟻)。竹内栖鳳の『宿鴨宿鴉』とか、松林桂月の『春宵花影図』とか、小杉放菴(未醒)の『椿』(の猫)とか、岡堅二の『楽苑』とか、動物の絵が好きな人には必見なのがいっぱいだよ。

あと、2階のギャラリー4での『難民』という小特集も。「難民」という言葉がなぜ重く響いてくるのか。「難」というのがどことどこの間(or 我々の目と画布のあいだ?)で起こっていることなのかがよくわかる熱のこもった内容だった。

ここまで見て一旦もどってお医者関係が終わったのが15時過ぎ、そこからえいっと横浜に行ってみる。

石内 都 肌理と写真 @ 横浜美術館

皮とか殻とか皮膚とか布とか、存在を外側で覆ったり包んだり囲ったりするなにかがあるとして、その外側の覆いは時間の経過と共に劣化したり朽ちたりしていくもので、これが肌の理(はだのことわり)- 肌理として現れて、写真というのはその理(ことわり)のある断面を切り取ることでそこまでの、これからの時間の経過全体を見渡せるようにする。 がさがさの肌理の向こうに透けてみえる柔らかそうななにか、を。そういうものを撮るのだという強い意思に貫かれた写真たちだとおもった。

なんでそういうものを撮るのか? そこにこそ時間というものの謎、存在というもの(ついでに死というもの)の不思議がぜんぶある・現れてくるから。
70年代の横須賀のとか、古い建物のシリーズがぐっとくるのは、単に自分が年寄だから。たぶん。

カタログを買ったのだが置いてきてしまったことにさっき気づいてしょんぼり。


生誕100年 ユージン・スミス写真展  @ 東京都写真美術館

20日の土曜日の午後、「ライオンは今夜死ぬ」の後で見ました。メインでやっていた(と思われる)展示『アジェのインスピレーション - ひきつがれる精神』のほうは、いろいろ立ち止まって考えてしまいそうな気がして、この日は滞在最終日で立ち止まって考えている暇はなかったのでパスした。

石内都が肌理の作家だとすると、ユージン・スミスは輪郭の作家で、慎ましく肌理なんて言っていないで存在そのものを浮かびあがらせるべく生の輪郭がぶっとく前面に現れる。 なんでそこまでしようとしたのかというと、それらは絶対に世に知らしめる必要のあるなにかで、そうすることでくすんだこの世の中を変えることができると信じていた、写真がもたらす正義とその可能性を信じていたからだとおもう。 彼がいたら難民をどんなふうに撮っただろうか。

見れなくて残念だったのは、銀座のシャネルでやっていたFrank Horvat。
谷川俊太郎も少しだけ - 見たら文句言ったかも、だけど。

1.26.2018

[film] Monsieur Klein (1976)

19日の午後、アンスティチュで見ました。チケット購入に列ができていて少しびっくりしたがそういうのも含めて懐かしい。ものすごーく懐かしいわけではないところがまたなんとも。

この日から始まったJeanne Moreau特集の最初の1本 - 『パリの灯は遠く』 - 映画が始まって、原題が出たとこで、ああこれ見てたわ、になった(ふだん、いかに邦題を気に留めていないかってことか)。2015年の、たしかアラン・ドロン特集のときに。おもしろいからいいけど。

1942年、ドイツ軍占領下のパリ。冒頭で女性が裸にされて頭部を中心に細部をいじくりまわされ、ユダヤ人の特徴のあるなし、みたいのを動物のようにチェックされて診断されている。すごく怖くて恐ろしくてこんなの冗談じゃないわ、と思うのだが、この映画は最後まで、こんなの冗談じゃないわ、がついてまわる。

美術商のRobert Klein(Alain Delon)は、パリから脱出しようとしているユダヤ人から美術品をちょっと意地悪く買い叩いたりして優雅に暮らしていたのだが、彼の玄関口にユダヤ人コミュニティ向けの情報紙が送られてきて、自分がユダヤ人と間違えられている or どこかのユダヤ人が彼の名前を使ってなりすまそうとしていることがわかる。 そのままでいると自分がユダヤ人としてしょっぴかれてしまうので、彼はなんとしてもそいつを捕まえてこいつです、と差し出すか、この自分はユダヤ人ではない、という証明を取り付けるかしなければならない。

こうして自分とはなんの関係もないはずの、もう一人のMr.Kleinをそいつの女友達とか犬とかも含めて必死に追っていくうちにその名前で括られたなりすまし野郎がだんだん自分自身みたいになって、反対に走り回っている自分が空っぽになっていくような、鏡の向こう側とこちら側が反転していくような、そして次第にそうなっていくことの恐怖に取りつかれて、その恐怖が彼を更に走らせて … こうなると誰も彼を止めることはできなくて、どうなっちゃうのか。

他人が自分ではないことを明らかにすること、自分が自分であることを証明すること、あるいは他人がその他人そのひとであることを証明することがいかに困難か。それって上からみれば家畜の一頭一頭を識別することと同じようなもので、じゃあ識別タグつけるか、てなるとみんな俺は家畜じゃねえ、って言うだろうし。でもこれは紛れもなく人が家畜のように扱われて丸ごと収容所に送られていた時代の話で、でもその本人証明 = 家畜化する試みはいまだに延々続いていて、それなしにヒトは社会の中で認知されて活動できないくらいになっている。 なのでこれはぜんぜん昔の話ではない、いまの我々の話でもあって、なんで自分にこんなメールが? みたいのは日常ふつうにあることだし、もはや誰も気にしなくなっているという −

でもこの時代のこのお話しは、建物や道路の佇まいも含めて骨組とかがらんとした建付けなどが、カフカ的な不条理とその恐怖を煽りたてるかのように上から覆い被さってきて、逃げようのない場所をぐるぐる廻りつづけているようで、冒頭の診断の一頭ごとに隔離される描写も、ラストの雑踏のなかに団子で押し込まれてわけわかんなってしまう描写も、恐ろしいとしか言いようがない。

いまの欧州が個人情報保護をがちがちに固くやっている背景には、やはり過去にこういうのがあったからなんだろうなーとか、真面目に考えこんでしまったわ。

1.25.2018

[film] Le lion est mort ce soir (2017)

20日の土曜日、公開初日の初回に恵比寿で見ました。『ライオンは今夜死ぬ』
なんか新作の映画も見たいなー、だったところに諏訪監督の『ユキとニナ』(2009)は大好きだったので、これ見たいかも、と。

照明が落ちたところでいきなり映画泥棒のあれが流れ始めたのでああこれだほんとやだ、と帰りたくなる。映画上映前にあれを流しつづけることでどれだけの金がじゃぶじゃぶ業界団体みたいなとこに流れていくのかしらそっちのほうがよっぽど泥棒じゃねえかくそったれ、て改めておもった。

南仏で映画を撮っている老俳優のJean (Jean-Pierre Léaud)がいて、共演する女優さんが年下の恋人との恋煩いで動けなくなり撮影が休止になってしまったので、花束を持ってかつての知りあいの女性のところに会いにいくと、再会できたその女性は、あなたが会いたいのはきっと別のひとよね、と猫のように追い払われて別れるとJeanはそのまま大きな廃屋のようなところに入っていって、そうするとそこの部屋には若くてきれいな女性が現れて、ああJuliette (Pauline Etienne)、君は生きていたんだね、と再会を喜ぶの。

これとは別に、いろんな機材を抱えて映画を撮ろうとしている子供たちのグループがいて、その廃屋に行ってみたらJeanが寝ているのでびっくりしてあのじじいはなんだ? になる。
おっかなびっくりで会話を始めて、老人と子供たちはだんだんに距離が縮まっていって、子供たちは老人に映画に出て貰えませんか、と言って、なら脚本を持ってきなさい、というやりとりの後、彼らは一緒に映画を作り始める。

子供たちの映画はゴーストハンターが出てくるやつで、そういえばJulietteは頻繁にJeanのところに現れるようになって、Jeanはだんだん弱っていくようにも見えて、果たして子供たちはゴーストをやっつけることができるのか(… そっちじゃないよ)。

怪談、幽霊譚になろうとしたのになにかを掛け違えてでんぐり返った痛快なやつ。池の真ん中でJulietteは明らかに戸惑って彼をじっと見つめる。あんたまた来てくれないの? って。

冒頭、明るい陽光の下でこっちを向いて、死とは出会いである、とJeanは言ってしまうので、映画はその線で、様々な出会いとして現れてくる「死」を映しだしていく。また会えるからとか、繋がっているからとか、いろいろな言い方はあるのだろうが、ここのは、恐れることはないのだ、と言っている – それを死ぬ当事者だけでなく、それを受けとめるその周りの人たちにも。 幽霊もライオンもこわくはないし、どのみちライオンは今夜死ぬのだから、と。

それにしても、昨年見た“La mort de Louis XIV” (2016) - 『ルイ十四世の死』 - と比べる必然なんてないことはわかっていても、あまりの符合や乖離に溜息がでてしまう。召使からなにから、あの暗い寝室にやってくる全ての者を闇の沼に引きずり込んで微動だにしない亡者としての王と、向こうからやってくるもの全てに花を渡し、陽の光に曝して歌を歌わせてしまう好々爺と、どちらも死を前に一歩も怯むことはない。それをかつて恋に狂う亡者であり、恋のためならいくらでも死んでみせたJean-Pierre Léaudが、いいか恋ってやつはこうやって自爆して果てるもんで、どっちにしたって死んじゃうのさ...  いやそうじゃないそれは出会いなんだ、どっちにしても。 とか言いながら、演じている。「演じている」、でいいのか? くらいの揺るぎなさでもって。

犬ころ(フレンチブル?)がかわいー。ライオンもでてくるけど。


というようなことを書いていても、Mark E. Smithの死には立ち直れないくらいがっくりきている。
今の英国の、世界中の歌い手のなかで、彼のべらんめえな歌い回しが本当に大好きだった。
11月に延期になったライブは延期なんだから、とずっと言い聞かせていたのに。

ご冥福をお祈りします。  とかもう書きたくないよ。

1.24.2018

[music] Keith Tippett

2018年の初ライブは11日の木曜日、Café OTOでのこれでした。
Keith Tippettさんの2 Daysの2日目で、2日間の内容はバンドも構成も含めてぜんぶ違う。

Keith TippettさんというとKing Crimsonだし、Weekend (Walesの。The Weekndじゃないよ)との”Live at Ronnie Scott’s” (1983) なのだが、なまのライブでは聴いたことなかった。

内容はあったりまえのようにJazzで、JazzってFree Jazzだろうがアバンギャルドだろうがなんだろうが基本お勉強していないのでよくわかんなくて、おもしろい、とか、かっこいい、とか、気持ちいい、とか、そんなことしか言えなくて、でも聴く聴かないでいうと、だんこ聴きたいほうなのでCafé OTOには割と通っているのだがあんま書かなかった(書けなかった)、けど、これからは短くても備忘で書くようにしたい。

最初のセットはKeith & Julie Tippettのデュオで、奥さんのJulieは(旧姓)Julie DriscollといってBrian Augerなんかと一緒にやっていたシンガーだったことを後で知ったのだが、Keithの透明なピアノの音の連なりに垂直に降ってくる声の肌理がすばらしく、でもこれは確かにポップスでもフォークでもそこらのJazz Vocalとも違うよね、て思った。
約30分のセットが終わったところでKeith Tippettさんが「妻のJulieです。これと47年間一緒にやっております。だんだん悪くなるばかりでしてな」みたいなことを言って、素敵な小料理屋の御夫婦みたいだわ、て思った。

休憩のあとにKeith Tippett Octet - 8人編成のバンドでドラムスとダブルベース以外はすべていろんな管楽器5名で、Keith先生は才能ある若いミュージシャンたち、と言っていたがこの先生&生徒達、みたいな編成 + 1曲でJulieさんが参加 - でこないだ出たCD - “The Nine Dances Of Patrick O’Gonogon”からの曲を演奏していく。 アイルランドのダンス音楽、ということで曲名にはすべて”The Dance of xxx”と付いているのだが、どう聴いてもこてこてのJazzだし、踊れないことはなさそうだがこれでちゃんと踊れるやろうはタコくらい、としか思えないし。
どれもとにかくスリリングでかっこよくて、最後はアイリッシュ・トラッドです、と”The Last Rose of Summer” - 聴いたことあるひと多いはず - でしっとりと締めた。

Patty Waters

12月6日にCafe OTOで見たやつ。
めったにライブをやらない伝説のシンガーがでるよ、って紹介されていて、2 Daysの1日目のほう。

バックもすごいんだから、と書いてあって、PianoはBurton Greeneというひと、このひとのBurton Greene Quartet (1966) - ジャケットには“YOU NEVER HEARD SUCH SOUNDS iN YOUR LIFE”て書いてある - の中古を大昔に買ったことがあった(ロンドンに来た箱にもなぜか..)ことを思いだし、そういう縁もあるので行ってみたの。
Burton Greenはレコードジャケットの写真から随分と変わっておじいさんになっていたが、そこに被さるPatty Watersさんの声はなんか異界から - というとわざとらしいけど、とにかくものすごい質感をもった塊として乗っかってくる。暗いんだか明るいんだかわからない、あまり聴いたことのない歌というのかなんというのかこれ、だった。  また聴きたくなっている。

1.23.2018

[film] Sommaren med Monika (1953)

6日、土曜日の夕方、BFIのベルイマン特集で見ました。”Summer with Monika” -『不良少女モニカ』(?) 。

ストックホルムの工場とかが並ぶ下町で配送の下働きをするHarry (Lars Ekborg) と17歳のMonika (Harriet Andersson)が出会ってあっという間に恋におちて、どっちも親はうざいわ生活はどんづまりだわやってらんないわ、と二人で家出してボートで町を飛びだして小島がいっぱいあるあたりで魚を釣ったり葉っぱをむしったりごろごろしたりふたりだけの夢のような夏の日々を過ごすのだが、やがてMonikaは妊娠したっぽいとかいうし、野食ではないふつうのお肉を食べたいよう、とか言いだしたので下界に降りて結婚して、Harryは働きながら資格を取るために夜学に通い、MonikaはHarryのママに手伝って貰いながら家事育児をすることになることになる。でもそうなったらなんで昔みたいに相手してくれないの遊んでくれないの? てMonikaは荒れて怒って、結局子供を置いて出ていっちゃうの。それだけなの。

恋におちた二人が嫌な世界を飛びだして夢の時間を過ごしたあと、現実に戻ってきたら冷めて互いに失望して別れてしまう –  それこそリンゴが木から落ちる、みたいに典型的すぎるお話でなんの面白味もないかんじもするのだが、Monikaのいた夏 - あっという間に過ぎてしまった楽園としての夏 - をこれでもかの輝ける理想の地 - でもきらきらではなく地続きの - として描くことでこの映画の目指すところは達成されている気がして、それのどこがいけないのかしら、て思った。

恵まれないふたりの逃避行、というと”They Live by Night” (1948)にしても”Badlands” (1973)にしても強く結ばれた愛の反対側で犯罪にまみれて地獄にまっしぐら、に向かいがちなアメリカ、のよりはどこにでも転がっていそうな、誰にでも起こりそうな話、自分の記憶のどこかにあった気がする話、としてこの話はいいよね、て思った。

Monikaがロースト肉をかっぱらうところはおもしろいよねえ。

それにしてもこの邦題、こないだの『悪魔のような女』といいこれといい、邦題がしょうもないのは大昔からなのね。『モニカがいた夏』でいいじゃん。Monikaが「不良少女」だったとしてそれがなにか? だよね。 ほーんと大きなお世話だわよ。
(仮にHarryの方が家を捨てたら「不良男子」て言うか? 言わないだろあんた?)

映画終わってシアター出るとき、若い女性3人組が「あたしモニカ、別にいいと思うな」「あたしも~」とか堂々と言ってて、ああそうだよね、それでいいのよね、て思った。

[film] Darkest Hour (2017)

12日、金曜日の晩、公開初日、日本に出張いく直前にPicturehouseで見ました。

Winston Churchillの評伝映画で、既にWinston Churchill = Gary Oldman氏はいろんなのの主演男優賞を獲っていて、それは”Three Billboards…”で助演男優賞を総ナメにしているSam Rockwell氏同様、圧倒的で問答無用すぎるので、みんな見てね。くらいしか言うことはないの。

1940年の5月、ナチスの侵攻が英国に及んでくるのは時間の問題として見えていて、時の首相 - Neville Chamberlainでは弱すぎて戦えないので交換を、となってNevilleが後任に据えたかったLord Halifaxがまだ(いやだ)、と言ったので(他にいないからしょうがない、というかんじで)Winston Churchillが首相になるところから始まる。

そこで新たにChurchillの秘書になったElizabeth Layton (Lily James) は初日からひどい扱いされて(あたしはシンデレラだったのに..)泣かされて、でもChurchillの妻Clementine (Kristin Scott Thomas)が彼のことを叱ってくれたので仕事は続けることにして、映画は近代史観点での Churchillの動きと、Laytonや国王George VI (Ben Mendelsohn)との交流を通して少しだけ見える彼の苦悩とか変態ぶりとかを追い、そこに戦争の動向 – DunkirkやCalais – をぶつけて、イタリア経由で交渉のテーブルにつくのか断固戦うべきなのか英国を焦土にするつもりか? の旧勢力のねちねちと戦い、最終的にあの有名な大演説になだれこんで、やんやの喝采を浴びてぜんぶひっくり返して、あとはご存知の通り。

英国近代史とか知らないしどれが事実なのかどうなのか調べてなくても調べる気にならなくても、それでも十分におもしろく見ることができたのは、伝説もいっぱいあるだろうし本当にあんなふうだったのかわからないけどとにかくよい意味ででっぷり変てこで目を離すことができないChurchill = Gary Oldmanの表情とか挙動がおもしろいから、としか言いようがない。
King George VI("The King's Speech” (2010)のKingね)から市民の声を聞くように、て言われたので車から降りて地下鉄に乗りこんで(District LineのSt.James’s Park駅からWestminster駅までの一駅ぶん)、そこに乗り合わせていた人たちひとりひとりの声 - ファシズムなんて糞くらえ! - を聞いて、そのままオフィスに走りこんでLaytonをひっつかんで一気に原稿を仕上げて、そのまま演説になだれこんで思いっきりぶちあげるとこ、この流れがスリリングで手に汗にぎる。 これが”Darkest Hour”に風穴を開けて潮目を変えたのだ、と。

それが糞みたいな自分本位の妄言しか言わない幼稚な政治家がでっかい顔して、そこに乗っかる御用提灯メディア肥溜めの腐臭ぷんぷんにうんざりしすぎて疲れきった − “Darkest Hour”てのはまさに今の、こっちのほうだわ − 我々の状況を極めて巧みにくすぐっていることは十分承知の上で、いいなー、でよいのだと思う。 わたしはなんであれ戦争絶対反対なのであの言説のなかみは微妙だと思うし、これが変なふうにいまの国威を持ちあげてしまいませんようにと願う者だが(とくに、ここで言われている脅威と最近の日本で言われる「脅威」を並べるんじゃねえぞ愚かな「論客」とやら)、起こってしまったことは.. というずるい逃げ方をしつつ、この映画はそんなに悪くないかも、と言おう。

Churchillが指揮をとったWar Roomって昨年の春になんかの集まりがあって行ったのだが、改めてちゃんと見に行かなきゃ、と思った。

あと、Churchillのとこの猫1匹、KingのとこのKorgie1匹 - すげえかわいい - が出てくる。Churchillをこいつら獣と並列に置いて、吠えたり身震いしたりおろおろしたりするのを眺める、ていうのもありかも。

金曜の晩、22時開始の会で満員ではなかったけど、それでも終わったときには拍手と歓声があふれた。 きっと翌土曜日はわーわー盛りあがったことじゃろう。

1.22.2018

[film] Brad's Status (2017)

日本からは21日、日曜日の午後に戻ってきて、部屋を一週間空けたのは初めてだったので不安だったのだが特に問題はないようで(たぶん)、例によって荷物を引っ張りあげるとこでしんだ。

日本でのあれこれの前に、行く前に見たやつでまだ書いていないのを少し片づけることにする。
10日の水曜日の晩、Picturehouseで見ました。日本から戻った時には間違いなく上映が終わっていそうなやつだったから。

Brad (Ben Stiller)はNPOに勤めていて、妻のMelanie (Jenna Fischer)は政府系の機関に勤めていて、今のとこ生活はそんなに困っていないものの老後の資金が心配になり始めていて、彼の学生時代の友人たちはみんな有名人になったり富豪になって島に隠居していたりするのがちょっと羨ましくてぎりぎりするのだが、だからと言ってどうすることもできないしそんなの別にいいのよ、てMelanieは言う。

一人息子のTroy (Austin Abrams)の大学受験の面接対応でBradとTroyは二人でBostonに行くのだがHarvardの面接の日をTroyは間違えて、気づいた時にはもう終わっていてどうすることもできないことがわかる。そうだそういえば大学の同窓で今はちょこちょこTVにも出ているCraig Fisher (Michael Sheen)はHarvardで教えていたはずだから彼に頼んで口利きして貰えば、と思うのだがそうすると彼への妬みとかNPOを立ち上げるときにもそっけなかったこととか更には友人の結婚式に自分だけ呼ばれなかったこととか、それらが持ちあがってきてあいつに頭下げたくないなー、になって、でもそんなことよかTroyの将来のほうがよっぽど大事だろ、になって、結局電話して会うことになって、果たしてTroyは、Bradは救われるのか...

誰の身にも起こりそうな「その程度のこと」にBen Stillerがこれまでいろんな映画で演じてきたキャラクター - 猜疑心が強くて負けん気も強くて自分はどこか特別だと思っていて、他方で劣等感もたっぷりで落ち着きなくきょろきょろ動きまくり喋りまくる – 結局大人になりきれていない変なヒトでしかない - の集大成のようなBrad = Ben Stillerが全力でぶつかっていく、それだけで十分にはらはらおもしろいの。今回はそれに加えて息子にいいところを見せたい父親、てのも挟まってくるのだが、実際には息子のTroyのほうがよっぽど大人な対応とか動きとかをしたりする。

あともういっこは、こないだの”Ingrid Goes West”にもあったような承認(されたい)欲求・葛藤の大人版、みたいなかんじもあって、SNSで周囲近況 – Status - が近くなる(近くにみえる)と余計にそれらは肥大して暴走して手におえなくなっちゃうものなのかしら、って。ふだん、他人なんかどうでもいいと思っているのにSNSを経由すると他人が他人でなく見えてきてしまう不思議、って確かにある。誰もがどうでもいい、ていうけど実は割と頻繁に向こうから来て、あまりよろしくない形で変な角度からコントロールしようとしてくるあれ、しかも気になりだすと止まらなくなるあれ - ってなんだろ。年齢とかあんま関係ないのか、年寄りのほうが厄介だったりするのか、とか。

これ、作劇としてはコメディになっているのだが("Ingrid..”がそうだったように)ホラーと紙一重というスリルもあって、妬み嫉みの激しい(ように見える)最近の日本でも公開されてほしいなー。

監督・脚本のMike Whiteは、”The School of Rock” (2003)でJack Blackに部屋を貸してSarah Silvermanの彼女に文句を言われ続ける役だった彼で、今回Bradの同窓生でセレブの映画監督として少しだけ出演もしている。 こんなのを作っちゃうひとだったのね。

1.21.2018

[log] January 21 2018

どうにかこうにか、「帰り」の羽田まで来ました。

少しは余裕がある一時帰国ではない、出張なんだから、と自分も周囲も分かっているはずなのに隙間ができるときょろきょろじたばたしてしまうこの貧乏症をなんとかしたい、と言い続けて思い続けて、ここまで来たらもう不治のなんかなのだからこのまま死んじゃうのだと思うしそれはそれで好きにすれば、なのだが疲れてぐったりしてばかりなのはなんとかしたいものだねえ、と、でもそれってここ数年の人間ドックで言われ続けている規則的に体を動かしましょうていうのとは同じなのか違うのか、どうもそういうのとは問題が違うなんかだよね、と思った。思っただけでなんもしないけど。

着いて、自宅のお部屋に置きざられていた本とかレコードのみんなにごめんね、って平謝りして、しばしあれこれ手にとってひっくり返したりして、ああ君はこんなところにいたんだね、とか、君ってどこからきた誰? とかやって、朝になればラッシュ時の詰め込み電車に怖くて乗ることができず、エスカレーターの並び右左でおろおろし、Twitterのプロモでなんでこの国はゲームとアニメとコスメばっかりなのか、とうんざりし、それがだいたい5日間まんべんなく繰り返された。 時差ボケはどこの国にいたってどっちみち眠いので気にしてもしょうがない。

今回は人間ドックというのがあったので(なんでこれがあるとこうなるのか、は聞かないで)生賴範義をみて、南方熊楠をみて、熊谷守一 をみて、石内都をみて、『パリの灯は遠く』をみて、『ライオンは今夜死ぬ』をみて、ユージン・スミスをみる、ようなことができた。滞在していると思っていた以上にあれこれ割り込んでくるもので、見れなかったのも山ほどあったけど、出張なんだからこれくらいで我慢しないといけないわ。

食べものは寿司、おそば、鰻、中華、野菜和食、などなどひととおり、とんかつと餃子はちょっと惜しかったけど食べないとしんじゃう、ていうほどのものではないし、でもそれを言うならぜんぶそうなのかもしれず、今回いろんなひとにロンドンの食事はあんましでしょう? と散々言われて、実はロンドンの食がよくないと思ったことなんてちっともないので、その辺への反発が少しはあったのかもしれない、けど、とにかく、こんなふうにおいしいものを好みのままに食べられるというのはとっても贅沢なもんだよね、と少し考えてしまった。

驚くべきことに今回レコ屋は行かなかったの。 行くとしたら渋谷タワレコのパイドパイパーかなあ、くらいだったのだが、渋谷駅前のごちゃごちゃを抜けてあそこにたどり着くだけの自信と勇気がなかった。
本は結局、結構買ってしまったが、次回来るときまでに品切れになってしまうことへの予防、のようなかんじも多くて、半分はぱらぱらめくった後で部屋に積んじゃった。 シェイクスピアの文庫の買い増しはなし、ユリイカとか早稲田文学の女性号とかも、少し考えてやめてしまった。 そういうモードであった、と。

そのたのあれこれは戻ってからぼちぼち書いていきます。
今回お会いできたみなさま、ありがとうございました。

ではまた。

1.13.2018

[log] January 13 2018

いまは謎めいてぽかぽかしている土曜日の昼間で、Heathrowにきて、ほんと久々に空港のラウンジでPCをぱたばたやってる。

これから日本の、東京ってとこに仕事の出張で行く。日曜に着いて、次の日曜にこっちに戻る。
「帰る」とか言いたくなくて、「行く」でじゅうぶんで、行ってとっとと仕事片付けてさっさか戻ってきたい。

それくらい今のあの国は訪れてみたくない国だんとつのベストで、理由を連ねるのは時間の無駄なのでやらないけど、嫌なもんは嫌、あの国の政治も経済もメディアも広告もみーんなだいっきらい、って学校や遠足に行きたくない子供とおんなじで、子供なんだからほっといて。 と、あの国の幼稚な政治家連中とおなじようにだだ捏ねてみるとか。

こっちに飛んできたのが昨年の2月1日だったから、だいたい1年ぶりで、1年も会っていないというのに会ってくださる人たちがいるのはとても嬉しいことだし、そういう人たちと日本のおいしいご飯を食べることができるのもありがたいことだし、本屋に行けば昨年に出た読んだことがない本とか雑誌とかいっぱいあるのだろうし、コンビニに行けばわけわかんない菓子とかわんさかあるのだろうし、デパートに行けばいろんなイベントだのフェアだのでお花畑なのだろうし、レコ屋は(もういいかげんにしようね..)だし、ほんの少しゆるされそうな欲を言えば竹橋で熊谷守一見れるかなーとか、アンスティチュのジャンヌ・モローは無理かしらー、とかだんだんいいかげんにしろよ、になってくるのだが、とにかくまずは仕事をちゃんと片付けること、あとは人間ドックに行くのと、それから床に放置して積まれたまま(になっているはず)の彼らに謝らないと、かな。

他方で、来週のロンドンはやっぱりな、というかんじでいろいろありそうなのがなんか悔しい。
映画ではP.T. Andersonの旧作35mm上映のほかに見たいやついっぱいだし、ライブではStarcrawlerあるのになー、とか、こういうときってそういうもんよね、いつだってどこだって。

もう1年かあ、って、これが2年になり3年になる、というのは当たり前のことなのに、それがなにかの秒読みのようで、なんの秒読みなのかを考えることも含めて今はとても怖い。そしてその怖さを怖さとして認識している限りにおいて、ほんの少しはまともでいられるのではないかしら、と、春に向かって少しづつ長くなっているはず – でも焼石にしか見えない日照時間のことをじりじり思うようにして、思ったりする。

その反対側で、あんたなにやってんのよウェストミンスターの中にもビッグベンの中にも入ってない、ロンドンアイにもロンドン橋にも行ってない、そんなふうにして結局自由の女神も行かなかったでしょもう先長くないんだからいいかげん夢みんのやめなさいよ、ていうぷんすかしてるやつもいる。
ロンドン着いたらちゃんとした傘を買おうとか、ダッフルも買おうとか、いろいろあったやつ、あれらはどうしたのだ、とか。

昨日のTrumpの訪英中止の報道、あーよかった永遠に来るんじゃねえバカ、とかどこでもあたりまえのようにやってて、そんで夜中に”Darkest Hour”(昨日初日)とか見ると、国威とか戦争とかそういうのとは関係なく、この国のファシズムくそくらえ、の石頭っていいな、ってふつうに思った。

どちらかというと日本まってろ、よりも(来週の)ロンドンまってろ、になりつつあるけど、でも日本も楽しみだから。
というわけでしばらく更新止まります。

ではまた。

[film] Three Billboards Outside Ebbing, Missouri (2017)

なんかばたばたなので新作のレビューだけざっと書いておく。(なんで新作のが書きやすいのかしら?)

9日、火曜日の晩、BFIのPreviewで見ました。これの前にベルイマンの『秋のソナタ』見て十分へろへろで(平日の晩のはしごはしんどい)。

すごくおもしろかったのだが、想像していたおもしろさとはちょっとちがった。

ミズーリのOutsideのEbbingの道路脇に80年代を最後に打ち捨てられた3連のビルボードを眺める女性がいて、そこから彼女 - Mildred Hayes (Frances McDormand) - は町の広告代理店に入っていって、そこの3枚にこれを貼りだして、って赤バックに黒字で3連のメッセージを依頼する。それはレイプされて殺された娘の事件が解決しないことについて地元のシェリフを名指しで糾弾するもので、TVでも取り上げられて問題になるのだが彼女はぜんぜん動じない。

名指しされたほうのシェリフ- Bill Willoughby (Woody Harrelson) – も頭を抱えながらいろいろ手は尽くしているんだけど、とか自分は癌で具合よくないんだけど、とか言うのだがMildredからすれば、それがなにか? やることやんなさいよ、しかない。

前半は毅然とした彼女の態度と仏頂面から、彼女の悲嘆と絶望の深さと、それとは対照的にぜんぜん動かずにだらけきった田舎町の警察とかその周りの人々とのコントラストがくっきりと出て笑えたりもするのだが、後半、Billが唐突に自殺してしまうといろんなことが噴出して混沌としてくるの。

はじめは最悪の状態で殺された娘の敵討ちとして犯人を捜す、そのためになかなか動いてくれない警察を焚きつける、だったのだが、警察の柱が(おそらくほんの少しはMildredのせいで)亡くなってしまったことでMildred vs. 警察、Mildred vs. 市民の様相に変わってきて、ブチ切れた警官のDixon (Sam Rockwell)が代理店の若者をぼこぼこにしたり、Mildredの働く店に脅しが来たり、ビルボードが焼かれたり、Mildredも返しで警察署を焼き討ちしてDixon丸焼けになったり、暴力の連鎖が止まらなくなる。

最初に思っていたのは、これって現代の西部劇 - 敵討ちが中心の勧善懲悪の、みたいなやつかしら、だったのだがなんか違うねえ、で、例えば今のネットとかSNS周辺でごちゃごちゃ現れるああいうのに近いのではないかしら、とか。

最初にピン留めツイートで3つ、確信犯がでかでかと拡散希望、ってやったら狙い通り大炎上して、でも騒ぎが拡がりすぎてヒトが死んで、そしたら渦が混沌としてきて、どっちが良いのか悪いのか、敵だと思っていたのが味方だったり、その逆だったり犯人探しが始まってわけわからなくなって、結局みんな共犯じゃん、みたいな気がしてきて疲れたり、追っかけるのに飽きたりしてきて、最後にはデータの信憑性みたいなとこに落ちたり、愛だろ愛、みたいなことを呟いて離れていく。

それでも死者と共に生きるリアルライフの当事者たちには終わる旅ではないので、諦めないで次に流れていくしかない、みたいな。
なんでこんなに生きにくくなっちゃったのだろう?

互いの距離がびっくりするくらい近くてすぐに簡単に傷つけることができるのに寄り添ってあげることはしなくて、強がってはいるものの互いにびくびくしてて、こんなことでよいのかしら? と思いつつも結果的には長いものに巻かれて団子になってしまう。警察の反対側には代理店があって(笑)、放送局もすぐ飛んできて、そこには善も悪もクソもない。 なんか思い当たるよね?

それでも、ここで起こったことは犯罪で、ここに現れたのは悪で野蛮で、邪悪ななにかで、絶対に赦すことのできない、取り下げたり諦めたりすることができないなにかなのだ、って。
詩織さんのことも慰安婦のことも、ここの、ミズーリの線上の地続きで起こっていることで、”Outside Ebbing, Missouri”ていうのはつまりは世界ぜんぶだから。アメリカの田舎の話だろなんて、ぜーんぜん笑えるものじゃないの。あーやだやだ、って。
Mildredが最後までほとんど笑わないのはそういうことで、そこに少しだけ救いはある。のか?

こないだのGolden Globe、参加した誰もが明確な態度表明をしたあの場所で、この作品があれこれかっさらっていったのはとても象徴的なことで、でも賞は獲ったらおめでとうで終わりだけと、この映画が描こうとした世界はそうじゃないから。そういうとこも含めて、多くのひとにきちんと見られてほしい。

Sam Rockwell、いろんなアワードの助演男優さらい、とうぜんのすごさ。 彼のママ(と亀)もすてき。
あと、彼女の息子役ででてきたLucas Hedgesくん、”Lady Bird”でもよかったよねえ。

1.12.2018

[film] All the Money in the World (2017)

7日、日曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。

これも実話ベースで、お金とかお金持ちとか誘拐とかあんま関係ない世界の話だけど、監督はRidley Scottだし見るか、くらい。

1973年のローマで、石油王(ていうのが昔はあったのよ)で大金持ちのJ. Paul Getty (Christopher Plummer)の孫 - "Paul" Getty III (Charlie Plummer)が誘拐されて田舎に監禁され、誘拐団からは身代金用意しろ、と母親Gail Harris(Michelle Williams) – J.P.Gettyからは義娘 - に電話が入る。

J.P.Gettyの息子(Paulのパパ)はモロッコでほぼヤク中のへろへろでGailとは離縁状態にあって、Gettyの懐を狙ってみた犯人たちにはざんねーん、だし、Gailからすればいい迷惑なのだが、他にすがるあてもないので、J.P.Gettyのところに行って、あなたもPaulのことは可愛いって言っていたじゃないですか、と訴えると、金を出すつもりはない、と言って替わりに彼のとこの凄腕(なんだよね?)ネゴシエーターで元CIAのFletcher Chase (Mark Wahlberg)を寄越してくる。

映画は誘拐団側の窓口Cinquanta (Romain Duris)とGail-Fletcher組の交渉と、Gail-Fletcher組とJ.P.Gettyの交渉と、囚われたPaulとCinquantaとのやりとりと、この3層のぜんぜん捗らないかみ合わない交渉の行方を追う。一度は誘拐団の隠れ家を警察が急襲したり、一旦はそこから脱出したかに見えたPualだったのに再び別のギャングに売られたり、いいかげんにしろよって、片耳をじょきじょき切られてしまったり(耳は交渉のネタとして送られる)、なかなか大変なの。

なので、これまでの誘拐サスペンス活劇にありそうな犯人側との息詰まる攻防とか大胆な救出作戦とかはないし、Denzel Washingtonも出てこないし、寧ろ描かれるのは「世界中のカネはわしのもんじゃ」と豪語して盗人には金なんかやらん、てぶつぶつ言い続けて解決を妨げる - 絵画なんて買ってる場合かよ - 老害じじいが古都ローマでひとりゆっくりと朽ちていくさま、のほうで、あんたがお金持ちなのは事実かもしれないけどそんなのどうでもいいと思っている大多数の市民には割とどうでもいい話になってしまったのは残念かもしれない。 あんなふうに耳切られるのはやだなあ、くらい。

ただ、唯一あるとしたら、そいつら - 生きていようが死んでいようがどうでもいいとみんなが思っている老害じじい(共)が今や世界の殆どの富やリソースやその配分を勝手にがんがんに握っていて、我々市民はまるごとそいつらにいいように振り回される人質みたいなものになっていやしまいか、と。  耳切られるどころかそこらじゅう報復のテロだの地雷だのだらけなんですけど、って。 - 深読みしすぎだろうか。

そんな憎まれじじい役に、世界中から嫌われる可能性がでてきたKevin Spaceyを置いちゃったもんだから、わざわざChristopher Plummerにリプレースして、そしたらそのリテイク分のギャラが新たに男女格差ネタに火をつけて、そんなどうでもいい(よくないわよもちろん)ヒレにまみれてしまったのはついてないとしか言いようがないねえ。

やっぱりこれ、Tony Scottが撮ったのを見たかったなあ。時間の経過とかずるずるで、中だるみしているかんじがちょっと。

ぷーんて匂ってきそうな誘拐団のRomain Durisとか、なかなかよかった。
あと、Getty Museumはまた行きたいよ。

1.11.2018

[film] Molly's Game (2017)

5日、金曜日の晩、Pictuehouse Centralで見ました。売り切れてた。

スポーツ(モーグル)から入って博打(ポーカー)の話になって、お金持ちとかギャングの話になって、その側道には裁判が流れていく。どれも自分のこれまでの人生とはまーったく縁のないちんぷんかんぷんな世界なのだが、映画はおもしろかった。

Aaron Sorkinの初監督作で、脚本家としての彼の仕事って、”The Social Network” (2010)も、“Moneyball” (2011)も、“Steve Jobs” (2015)も、独特の閃きとか拘りとかナラティブを持った個人(変なヒト)が周囲とぶつかったり顰蹙買ったりしながらもぶつぶつ道を切り開いて成功するお話しで、この作品も極めてAaron Sorkin的というか、彼にしか書けないような脚本(物語というより分厚い台本が浮かんでくる)で出来ているのだが、これは勝者というよりは敗者の話で、主人公は男性ではなくて女性である、と。

原作はMolly Bloomの回顧録で、本の正式タイトルは”Molly's Game: From Hollywood's Elite to Wall Street's Billionaire Boys Club, My High-Stakes Adventure in the World of Underground Poker”で、このタイトル通りの内容なの。

スキーのモーグル選手としてオリンピックの一歩手前、ジャンプする一歩手前でちっちゃい木の枝に躓いて全てを失ってしまったMolly (Jessica Chastain)が、その数年後、どよーんとした状態でLAに移って、バイトみたいなかんじで西海岸の大金持ちが現れる闇ポーカーの賭場で働き始めて、そこで客の特性と挙動、ゲームの流れと金の動きあれこれを把握してやがて自分の賭場を開いて転がしてみたら成功して、LAの次にはNYに飛んで、ていうのし上がっていく話と、ある朝FBIにしょっぴかれ、なんとか弁護人(Idris Elba)を見つけて裁判で戦うために振り返っていく後ろ向き話を交錯させながら、それ自体がでっかいスポーツなのか博打なのかわかんないけど、伸るか反るかやったれ、になってしまったMollyの人生(Game)を追う。

これまでのMark ZuckerbergにしてもBilly BeaneにしてもSteve Jobsにしても、どっちにしても真似できねえわ、というところは同じなのだが、彼女の人生そのものよりも延々喋り続けるMolly = Jessica Chastainの都々逸というか浪花節というか、ものすごい勢いでずーっと喋る(たまに解説の図式とか入る)ところに痺れる。”The Social Network”のMark Zuckerberg = Jesse Eisenbergの喋りもすごかったけど、こっちもすごい。あれだけ喋れるのであれば少なくとも負けないよね、て思うし、やがてそれは弁護人にも乗り移って喋ったもん勝ち、ラップ・バトルみたいになってやっぱりそういうもんかー、とか。

あとは幼いころからMollyにプレッシャーを与え続けた父親(Kevin Costner)との確執~和解も描かれていて、野獣のような男たちが支配する闇社会に女子が切り込む話と、でも最後には父親が見ていてくれるから、みたいな父性の話にもなって、なんだ結局は男の話かよ、ていうところが少しだけなー。 フィクションでもいいから緋牡丹博徒みたいのにしてほしかったな。Jessica Chastainならできるのにな。

あと、賭場に現れる謎のセレブ - Player Xを演じたMichael Cera、セレブのオーラなんて微塵もないとこがかえって凄みを感じさせてなんかよかった。

あと、みんなすごい大金をじゃぶじゃぶ賭けまくってそれがなにか? みたいな顔しているので、£100くらいの本やレコードで汗をかいたり震えたりしていてはMollyに笑われるよね、ておもった。

これの字幕作るひと、大変だよねえ。

1.09.2018

[film] Persona (1966)

3日水曜日の夕方、BFIのBergman特集で見ました。

今回のBergman特集のメインビジュアルになっているのがこの映画のLiv Ullmannの横顔で、このイメージ広告が地下鉄のホームとかにも割とふつうに貼ってある(ってなんかすごい)。

https://www.youtube.com/watch?v=XFqwYrbARB0

初期のBergmanを代表する作品で、今回の特集の中で上映回数も多いし、昨年みたシアター - Ivo van Hove - Toneelgroep Amsterdamでも演目になっていたし、『去年マリエンバートで』(1961)と並んで常にその「前衛」性を云々される作品でもあるし、自分は相当昔にFilm Forumで見たけど、実のとこほとんどあんまり憶えていない。

舞台上で声を出せなくなって体も動かせなくなってしまった高名な女優 -Elizabeth Vogler (Liv Ullmann)がいて、体に特に異常は認められないし原因も不明なのだがとにかく動けず声を出せないことは確かで、修道院のナースだった25歳の快活なAlma (Bibi Andersson)が看護・介護担当となって、暫く病室で過ごした後に、担当の女医はふたりで海辺のコテージに行って治療に専念するように言われる。

始めのうちはラジオを聞いたり本を読んだりAlmaがいろんなことを喋ったりふたりの時間を過ごしていくのだが、順調かつ良好に治療は進んでいくかに見えたところで変なことが起こり始める。どちらの誰がどう見て聞いたものかわからないのだが、AlmaがElizabethの声や感情を持って喋ったり怒ったり泣いたり、Elizabethの人格をもったひと、としか言いようのない挙動をするようになる。 人格の転移とか憑依、としか言いようのない現象が喋れないElizabethといくらでも喋ることができるAlmaの間に起こる。

どうして? とか、なにがトリガーになって? というのは説明されなくて、でもそういうことが起こる。 患者と看護人、喋れない人と喋れる人、動けない人と動ける人、裕福な社会的地位もある人とそうでない人、既婚者と未婚者、老いた人と若い人の間で、乱暴に、突発事故のようにして起こって、その後で一旦崩れかけたかに見えた二人の関係とかElizabethの病状は良い方に向かっている「ように」見える。この「ように」が曲者で、だってじつは、始めの始めからなにひとつ説明されていないんだもの。 なんでElizabethは突然あんなふうになってしまったのかも、Elizabethの症状はどう診断されてどういう治療をするのが適切と(誰によって)判断されたのか、そこになぜ若いAlmaがあてがわれたのか、なぜ二人きりで孤島に送られるのか、こないだの”Through a Glass Darkly”の男の子じゃないけど「こんなのなんだってありじゃないか、こわいよ」になる。

しかもここには”Through a Glass..”で怖々と指し示されたような「神」の件は一切現れてこない。出てくるのはカメラとかカーテンとか舞台とか、撮影のセットのようなもの。
そこにあるのは、Persona = 仮面、そして表情のない表情でこちらを見つめてくる目と。

この肉体的暴力を伴わない(に帰結しない)、他者から見えない内面で起こるなんだってありの変異とか転移とか豹変とか、統合されてあるべきものがそうならない理不尽さ、その表出(突出)がもたらす恐怖こそがBergmanの映画のひとつのテーマとしてあるのかも、と思っていて、そしてそこに例えば「神」とか「愛」とか「幸せ」とかを置いてみると何が見えてくるだろうか。

これの上映のときに貰ったProgramノート(BFIでは個々の上映作品について解説したり評論したりインタビューが載っていたりするA4のペーパーをくれるの)で、Susan Sontagはヘンリー・ジェイムズの『聖なる泉』を例に引いたりしながら、ここに見られる転移を”The vampiristic exchanges”て言っている。 なるほどなー。

(ちなみにこの評は、Sight and Sound誌の67年秋号に掲載されたもので、web上にあった全文 – たぶん – と後で比べてみたらBFIのノートは結構端折っていることがわかった)

書いていたらもう一回見たくなってきたので、もう一回どこかで見ておきたい。
他にも変なシーンとかいっぱい出てくるし。気にしすぎかもだけど。
16日の上映のときはイントロでRichard Ayoadeさんが喋ったりするのだが、来週はなあ…

1.08.2018

[film] Good Time (2017)

2日の午後、Prince Charles Cinemaで見ました。

まさかこいつがFilm Comment誌の2017年ベスト1になるとは思っていなくて、なったことを知ってから慌てて見なきゃ、となったときにはロンドンでの上映は終わっていて、Prince Charlesだけが正月の3日間の各日午後1回だけ、上映してくれた。

お正月、1本目がBergmanのあれで、2本目がこれか? とか思わないでもなかったが、新年から”Good Time”なら、なんか悪くないんじゃないの、とか。

それにしてもさー、”Heaven Knows What” (2014) - 『神様なんかくそくらえ』のSafdie兄弟のだよ、見ててきつかったじゃんあれ?  うるせえよ、って口に絆創膏して見た。

Connie (Robert Pattinson)とNick (Benny Safdie - 監督の片割れ)のNikas兄弟がいて、弟には知的障害があってうまく喋れなくて、冒頭、ホラーに出てきそうな精神科医のじいさんからねちねちテストされたりしていてかわいそうなの。

この兄弟がマスクして銀行強盗に入って、窓口から紙幣を奪って、割と簡単にいったかに見えたのだが逃走中の車でカバンにしこまれた塗料にやられてついてなくて、結局Nickは捕まって離れ離れにされてしまう。 Nickは留置所で虐められてしまうことが見えているので、Connieはなんとしても彼を出してやりたいのだが、それには$10,000が必要で、盗んだ金は塗料で汚れて使えないので、女友達(Jennifer Jason Leigh)を連れてきてカードで支払おうとするのだが、彼女の母親が直前で無効にしてしまう。 ついてない。

やがてNickが留置所内の殴り合いで病院に送られたことを知ったConnieは、夜の病院に潜りこんでベッドに繋がれていたそれらしい男を車椅子で運びだしてバスに乗せ、Queensの外れまで運んで貰い、でも降りたところには家もなにもなかったので、バスで先に降りた女性の家のドアを叩いて泣き言を言って無理やり泊めて貰い、逃走用に髪を染めたりして、あとは朝になれば、のだったのに連れ出した奴をよく見たらそいつはNickとは別人だったことが判明... どこまでもついてない。

結局、元のアプローチでお金を作るしかないことになったので、Nickに間違えられた男 Ray - こいつも別の意味でついてない - と、世話になった家の娘Crystalと車で夜のQueensに走りだしていく。 果たしてConnieはNickを救いだすことができるのか ー。

まず、簡単に運ばない躓き系のクライム・ストーリーとしてすごくおもしろいのと、それを貫いているのがよくある男女の愛や復讐ではなくて、兄と障害をもった弟であるというところ、そして兄の思いとは裏腹にどこまでいっても終わってくれない、延々たどり着かない底なしの夜の怖さ(→ “After Hours”)、これらが団子になって転がりながら疾走するConnieの熱と勢いがすばらしい。

『神様なんかくそくらえ』は道端の枯葉みたいに擦り切れた男女がからっ風に吹かれて右から左にからからと飛ばされていく話だったが、こっちは、同様に擦り切れたどん底の兄弟がじたばたしながら踏んばって暴れて、でも...

彼らみたいな(彼らみたいになってもおかしくない)ぎりぎりの人たちは身の回りにたぶんいっぱいいる。 そして自分があんまり見たくないかも、と思ってしまった理由はその辺にあるのかも、とか。
今の若者(達)を描く、となると大抵ホラーとか狂った恋愛系に行きがちだけど、こういうのってもっと作られていいよね。あと、彼ら兄弟だけじゃなくて、巻きこまれて散々なことになるRayもConnieに使われただけだったCrystalも、ひとりひとりがみんな強く印象に残る。 (例えば、Aki Kaurismäkiの”The Other Side of Hope”なんかは、同様の半径5メートルを年寄りの目線でやさしく柔らかく描いたものだと思う)

あと、見事だと思ったのがオフィスとか病院、モールとか住宅とかバス停とか道端の冷たくしーんとした夜のかんじ、夜のQueens - 深夜のNY1に出てくるアンカーのひと(夜番のLewis … ずーっとやってる)も、そのままだし。 夜のNYの風景を描く名手、というと少し前のJames Grayがいたけど、この映画のも素敵。 映画のロケ地はここに出ていた。

https://www.nytimes.com/2017/08/17/movies/good-time-robert-pattinson-josh-benny-safdie-queens.html

あとRobert Pattinsonがよいの。 “The Lost City of Z” (2016) の彼(脇役)もよかったけど。

Oneohtrix Point Never(David Byrneさんの新譜にも)の音楽は、初め苦手なエレクトロ寄りかと思ったけど、静かなところとやかましいとこの緩急バランスが見事だった。ラストに流れる曲で、Iggy Popとしか言いようのない声が被ってきたところで、ああこれすげえわ、になった。(曲のタイトルは"The Pure and the Damned.")

映画館のでっかい画面、大音量で見るべき作品。

1.06.2018

[film] Såsom i en Spegel (1961) - Through a Glass Darkly

年明けの1本はいつも古い映画、古典を見よう、でここ数年ずっとそうしていて、今年だとNYのFilm Forumの“Lucky Star“ (1929)とか、Film Society Lincoln Centerの“Gaslight“ (1944)とかをとっても見たかったのだが、 Londonではそういうのはなくて(調べればあるのかも、だが)、BFI Southbankで始まったIngmar Bergman特集からのこれにした。 この1-3月の目玉の特集(もうひとつはJohn Hurt特集)で、Bergman、あまりきちんと見たことがなかったので見たいとは思うものの、なんでよりによってこんな日照時間の短い季節にやるのかしら、と。特集の予告なんて、こないだのスリラー特集のと同じくらいぴりぴり神経にくるし怖いし。 べつに新年だからほっこりするやつ見たからどうなるもんでもないし、これ以上ひどくなることもないし、とか半ばやけくそで行ってみる。

というわけで1日元旦の夕方、BFIで見ました。
お正月感なんて微塵もない平熱っぷりで、ここの前の古本市もいつも通りにふつうに売り台出してやってるし。
英語題は、” Through a Glass Darkly”。 邦題は『鏡の中にある如く』。

冒頭、海の向こうから楽しそうに歌を歌いながらやってくる4人組の男女がいる。
Karin (Harriet Andersson)とDavid (Gunnar Björnstrand)とMartin (Max von Sydow)とMinus (Lars Passgård)の4名で、KarinはDavidの娘で、Martinの妻で、Minusの姉で、そういう家族が他には誰もいないらしい孤島(Fårö)の一軒家で暮している。

TVもネットも勿論なにもないので夜は自分達で寸劇をしたりして楽しんでいるが、そのうち、姉は心の病を抱えていてなにをしでかすかわからない状態にある、それを家族みんなは少し恐れていることがわかる。 そして作家である父は書くことができずに苦しんでいて、弟は姉のすることが理解できなくて苦しんでいて、姉は自分がいることで家族みんなが苦しんでいることを知って苦しんでいる。

要するに天を仰いでああ神さま、としか言いようのないふわふわした安定しない状態があって、この状態をどう見るかについてはそれぞれの立場から沢山の見方 - “Through a Glass“ - ができて、それについての正当な(誰にとっても、の)妥当な解は、おそらくない。 この解が「ない」という状態についても「鏡の中にある如く」とか“Darkly .. “ としか言われず、言いようがないままにすべてが宙吊り状態になっている。

ひとりの女性を囲む3人の家族 - 男たちがいて、男たちは彼女の内面がわからなくて苦しんでいて、でも彼女のことをとても愛している。 彼女のことを愛しているからなんとかしてやりたいと思うのに、彼女がなにを考えているのか掴めない・読めないので身動きが取れない、でも愛しているから – という延々続いていくループとか鏡像のなかに絡めとられていて、この状態って、この時代、この設定だからということではなくて、今もそこらじゅうにあることよね、と。

ここではどんなことだって起こりうる、これってとても怖いことだよ、とラストで息子は父に訴えて、父はそこで「神」についてはごにょごにょと、“I think so…“くらいの頼りないことしか言わない。この終わりは余計な蛇足かもしれないが、それ故になかなか生々しくてよいと思った。

あと、男子3人と女子1人、ていうこの構成についてこの男女構成比で、そのなかの女子ひとりが変な状態にあるとこうなってしまう(の?)、というフェミニズム観点での文句とか批評とか、あってしかるべきよね、と少し思った。 Bergman映画に特有の男っぽさ – なんかメロメロになる女性が多い気がする - について書いたのって、どこかにあるのかしら。

これ、Silence 3部作の最初のやつで、残りの2作も見れたら見る。 見終わっても重いかんじが残らない不思議って、なんだろ。

1.05.2018

[film] Brigadoon (1954)

2017年の映画、最後の1本。 12月30日の午後、BFIで見ました。

この日の午後は、Prince Charles Cinemaで“The Shop Around the Corner“ (1940) - 『桃色の店』 - の35mm上映、ていうのがあって、これ大好きなのでどっちにするか散々悩んだのだが、“Brigadoon“のほうも35mm上映で、まだ見たことなかったのでこっちにした。

MGMのミュージカルで、Vincente Minnelliが監督でGene Kellyが歌って踊るんだから悪いわきゃないし、これで幸せになれないんだったらどっちみち明るい新年なんてぜったい訪れてくれないんだから。

ストーリーはシンプルで、NYの仲よしビジネスマンふたり - Tommy (Gene Kelly)と Jeff (Van Johnson)が狩りでスコットランドの山奥に行ったら霧で道に迷って、気がついてみるとそこは地図に載っていない山郷 – Brigadoon、だった。 どーん。

Tommyはそこの村娘Fiona (Cyd Charisse)と一瞬で恋におちて、村人たちみんなとも幸せなひと時を過ごすのだが、この村は100年に1回しか現れない、この村の1日が他の世界での100年、ていう時空が歪んだところにあって、Jeffはもうそんなのいいから帰ろう、って言って、一度はFionaとここに残ることを決めたTommyも諦めてNYに戻るの。(Jeffなんてどうでもいいじゃん、てさんざん思った)

でもNYの乱痴気騒ぎの日々に戻ってみると思いだされるのはBrigadoonの楽しい日々のことばかりで、Tommyはもうこんな生活やめやめ、ってスコットランドに戻ってみる。 問題はBrigadoonがもう一回出てきてくれるのか、だったのだが、そいつは割とすんなり現れて、Fionaも待っててくれて、村の古老が言うには「信じていればどんなことでも可能になるのじゃよ」ということで、めでたしめでたしになって、終わるの。 (観客みんなぱちぱちのしゃんしゃん..)

とにかくなーんのひねりもないストレートなやつで、Ansco Colorの孔雀みたいにゴージャスな色彩ときれいな歌と踊りにうっとりしていればよくて、そういうもんなのだろうなー、だからBrigadoon! なんだろうなー、くらい。

なんとなく、坂田靖子の漫画 - 隠れ里もの - みたいで、特に最後の、待ってましたわ! みたいに思いっきり踏んばって飛び出してくるFionaのシルエットは素敵ったらなかった。
リメイクするんだったらTommy役はAdam Sandlerしかいないのではないか、と思ったのだが、”La La Land”のふたりにやらせてみてもよいかも、とか。

こうして2017年の映画はおわって、おうちに戻ればとっても見慣れたお片づけの山が現れて、これはこれで100年経っても変わらないなんかだよねえ、てしみじみした。

1.04.2018

[film] Happy End (2017)

12月29日の午後、SOHOのCurzonで見ました。

Michael Hanekeの新作で、このシアターでは監督の旧作特集上映が組まれるくらい歓迎モードで評判もよいふうだったのだが、むかーし”La Pianiste” (2001)とか見てどこがおもしろいのだかさっぱりだったことがあるのと、この監督でこのタイトルで”Happy End”で終わるわけねえな、とか、でも
Isabelle Huppertさんが出ているし、とかいろいろ思って、とにかく年が明ける前に見ておくことにした。

予告を見た限りでは表面は裕福で幸せそうな一族の裏側で静かに進行している闇修羅場を描いたような、こないだ見た Sally Potterの”The Party” (2017) を思い起こさせるかんじもあって、でも当然のように違うところもいっぱいあった。

冒頭、画面が小さい長方形のスマホの動画映像で、そこに吹き出しで実況コメントが入る。洗面台に向かう女性の寝支度とか、クスリを飲ませたら動かなくなっちゃったハムスターとか。これを撮ったのは母が同じクスリを飲んで昏睡状態になってしまった13歳のEve (Fantine Harduin)で、母がそうなってしまったので彼女は疎遠になっていた父Thomas (Mathieu Kassovitz) - 今は別の女性と結婚している – のカレーにある邸宅に引き取られる。

あとは突然建築現場が崩落するビデオ映像があって、この建物を持っているのがAnne (Isabelle Huppert)とGeorges (Jean-Louis Trintignant)のLaurent一族で、他にはEveを引き取ったThomasとか酒ばかり飲んでいるPierre (Franz Rogowski)がいて、この事故に責任を感じたPierreは被害者の家族のところに訪ねていってぼこぼこにされたりしている。

物語はカレーにあるLaurent一族の邸宅を中心に、ここに引き取られて、でもすることもないのでずっとスマホをいじっているEveと、ここの主で、車イスに縛られ認知症に苦しむGeorgesと、新しい家族と共に幸せそうだが実は裏でやらしいことをしているThomas と、難民問題 - 邸宅のあるカレーには難民キャンプがある - や労働者差別に心を痛めて酒浸りのPierreと、いちばんまとも(そう)でばりばりのAnneの、それぞれの衝突や確執を追う。特にひとりぼっちでこんなところに連れてこられたEveとGeorgesとの、EveとThomasとの不機嫌・不寛容全開の静かな衝突、このふんぞり返った一族が大っ嫌いでぶち壊してやりたいPierreといった若者たち(という程強調されていないけど)の像がおもしろい。

そして、家族のあれこれとは別にスマホを通して世界を見ている(かのような)Eve、難民問題に没入しすぎて身動きがとれなくなってしまうPierre、というふたつのティピカルな世界への接し方を通して、いまの”Happy End”のありようを綴る。”Happy”とは誰の、どんな、どの程度の状態のことを言うのか、とか。そしてそこにおける”End” (Ending?) の意味とは、とか。

ていうところまで見なくても、ばらばらな家族(もう家族なんてどうでもいいと構成員みんなが思っているような家族)がじたばたする様を描いたホームコメディ、と見てしまってもよいのかもしれない。 それぞれの関係の線が見えにくいのと思わせぶりな長回しにうんざりするところもあるけど、ラストのパーティのところはなんか痛快だし。

あと、やはりIsabelle Huppertさんはここでも最強なのだった。

1.03.2018

[film] The Big Heat (1953)

12月9日の晩、BFIで見ました。 Gloria Grahame特集からの1本。 邦題は『復讐は俺に任せろ』。
“Film Stars Don't Die in Liverpool” (2017)の公開にあわせて、これだけはBFI以外のシアターでもリバイバル上映されていた。

ノワールの古典だしFritz Langの傑作だし、もう何回も見ているからいいよね、のはずだったのだが、例によってどんなやつだったかすっかり忘れていて、Lee Marvinのチンピラ狂犬が出てきたところで、ああ熱コーヒーぶっかけのやつだ、て思いだした。

なにかメモを残して自宅の机で拳銃自殺した男がいて、それを見た妻は取り乱すことなくどこかに電話をするのが冒頭で、その死んだ男は刑事で、同僚のDave Bannion (Glenn Ford)が捜査にあたるのだが、上層部はどうみても自殺だから、と片付けようとしているふうで、それでも捜査を続けていると車に仕掛けられた爆弾でDaveの妻が亡くなり、あったまきたDaveはバッジを叩きつけて単独で捜査に乗りだすと、線上に怪しいと思っていたやくざの一団が浮かびあがってくる。 そこからコーヒーをぶっかけられて追い出されることになるやくざの情婦のDebby (Gloria Grahame)が絡んできて、全身復讐の火の玉になったDaveはどうするのかー。

警察の上とやくざの癒着、やくざ内のいろんな確執、周辺の怪しく悪どい人たち、味方になってくれるよい人たち、それらが渦を巻きながら終盤、たった一人の殴り込みになだれこんで行く展開はすげえーとしか言いようがないのだが、これ、53年の作品で、なにがすごいって、ここには当時の世界がぜんぶ入っていることなの。 闇の社会も平穏な市民社会も過剰な愛も一途な愛も狂犬もふつーのひともみんな出てきて、みんな物語に練りこまれていって最後に沸騰して弾ける、その様が絶え間ないアクションのなかに活写されている。
そういうなかで、凶暴さむき出しでおらおらやってくるLee Marvinと、同様に目先の愛とエモだけでそれらにぶつかっていくDebby - Gloria Grahameはとにかく強烈に生きているとしか言いようがなくて、彼ら vs. 世界、を見よ、なの。

ここにはレビューを書かなかったけど、12月3日に見た”Out of the Past” (1947)にも同じようなまるごと感はあって、主人公の過去から逃れる/過去を捨てる、という行為の線上に世界のすべて(そこに生きる人たち)が点在し、交錯し、収斂し、やがて破滅へと至る。 その濃度ときたらやはりすさまじかった。

自分がフィルム・ノワールを好きなのは、社会が暗い、やりきれない闇に満ちているのだとしたらそれってどういうことなのかを、そこを照らす光やその輝度も含めて精緻に描きだしてくれて、更にその泥に浸かることの「意味」みたいのを考えさせてくれるからなのだろうな、て思った。
(例えば溝口や成瀬のメロドラマにも同様の「世界」があるのだと、極めて乱暴にいう)

いま、窓の外はすごい嵐、みたいな風がぼうぼう。

1.02.2018

[film] The Foreigner (1978)

こっちの元旦て、もうふつうに店とか開いてるの。 Rough Tradeは休みだったけど。
2日はふつうの会社はふつうの仕事日なの。 でもツリーはまだあるし、クリスマスチャンネルもまだやってる。

12月に見たやつで未だ書いていなかったやつを。
12月13日、水曜日の晩、BFIで見ました。

ここでたまにやっている実験映画の紹介シリーズ - “Experimenta: Artist Film and Alternative Moving Image Culture” の枠で、“The Thriller: New York, No Wave Style”ていうタイトルから2本が紹介された。 No Waveの頃のNYを舞台にしたやつ、その前の週にJonas Mekas氏がやってきたのでそれにあわせて、彼のAnthology Film Archivesでやりそうな映画、でもあって、上映前には、これはNYでもめったに見ることができない、特に2本目のやつはWarholのファンドを使ってNYからわざわざ空輸したくらい、貴重なやつなのですぞ、って。

The Foreigner (1978)

監督のAmos Poeが個人で$5000を銀行から借りて(と、エンドクレジットででる)作った自主制作映画。 筋はあってないようなもんで、ヨーロッパからJFKに降りたったエージェントのMax Menace (Eric Mitchell)がChelsea Hotelに滞在しながら、なにかのミッションを遂行しようとするのだが、先々で追いかけられたり脅迫されたりぼこぼこにされたり散々な目にあう、それだけなの。
見るべきはその背景にある荒んで汚くて、会う人会う人だれもちっとも助けてくれない冷たいNo Wave CityとしてのNew Yorkで、そのかんじはこないだ見た”Variety” (1983)とか、有名なとこだと”Desperately Seeking Susan” (1985)とか”After Hours” (1985) とかにもある - その異物感、異郷感がヨーロッパ人(という設定)の目を通して底の底まで、これでもかと描かれている。

ただそこらにいる連中、野良猫、路地猫ていうかんじで、The Crampsの連中とかDebbie Harryが出てきて、なかでも78年のDebbie Harry、路地裏でタバコ吸ってぼーっと突っ立っているだけなのに、地球に落ちて来た女 - 感がとてつもないの。
あと、CBGB - この時点で既にぼろぼろ - に迷い込んだ主人公がぼこぼこにされるその背後で演奏しているバンド - The Erasers もかっこいい。 この人たち、Numemoから出たOrk RecordsのBoxにも入っていたけど、New York Punkいろいろ、だよねえ、て改めておもったわ。

Raw Nerves: A Lacanian Thriller (1980)

30分の短編。 タイトルを訳すとしたら「神経逆撫:ラカン派のためのスリラー」?
ぐるぐるちかちか回る画面エフェクト(パターンはちょこちょこ変わる)の裏側になんか部屋があってそこで探偵ものの寸劇みたいなことをやってて、出てくる人の中にはLydia Lunchとかもいるようなのだが、とにかくタイトル通りにいちいち神経を直撃してくる画面と音で、見続けるのはちょっときつかったかも。 いまはこんなのデスクトップで作れてしまうのだろうが、当時はこういうのを見たり聴いたりするのにのこのこ出かけていったりしたのよね。

NYのこの当時のフィルムだと、MoMAで4月までやっているFilm Series “New York Film and Video: No Wave–Transgressive” ていうのをとっても見たいよう。

https://www.moma.org/calendar/film/3892

1.01.2018

[log] Best before 2017

新年あけましておめでとうございます。

2017年最後に見た映画は、BFIでの”Brigadoon” (1954) - 35mm上映 -でした。
ほれ、縁起よさそうじゃん、「鰤がどーん」て。

2018年最初に聴いたのは(また)The Smithsの”The Queen is Dead”の箱から、Additional Recordingsのを。 “Cemetry Gates”とか、いいよねえ。新年だけど。

New Yearの川べりの花火は行かなかったけど、音だけはいっぱい聞こえた。
起きて、最初にTVで見た映画は”Tangled” (2010) - だいすき。そして”Splash” (1984) - 問答無用。

2017年、2月1日にロンドンに来てから見た映画(ぜんぶ映画館でみてる)は、230本あった。
(1月に日本で見ているのも少しあるけど)
いくらなんでも見過ぎだと思うので、今年は少し抑えて、読書とかにあてたほうがよいかも。ね。
アート関係の展示・展覧会は154(ただし曖昧)、音楽のライブは45本も行けた - これはうれしい。

[film] - 新作 20 - 見た順(上が昔)

▪️ 20th Century Women
▪️ Elle
▪️ Certain Women
▪️ Personal Shopper
▪️ The Lost City of Z
▪️ Frantz
▪️ Réparer les vivants - Heal the Living
▪️ The Other Side of Hope
▪️ A Ghost Story
▪️ The Big Sick
▪️ Dunkirk
▪️ City of Ghosts
▪️ Teströl és lélekröl  - On Body and Soul
▪️ The Meyerowitz Stories (New and Selected)
▪️ Ex Libris: New York Public Library
▪️ Un beau soleil intérieur - Let the Sunshine In
▪️ Joan Didion: The Center will not Hold
▪️ Call Me by Your Name
▪️ The Florida Project
▪️ Lady Bird

日本にいた時のような公開タイミングの遅さとかくだんない宣伝にうんざりぐったりすることはなくなったのはよいこと。
それでもやはりこの世界はアメリカ中心で回っているんだなあ、とたまに思う。
まだ”Get Out”も”Good Time”も”Three Billboards Outside Ebbing, Missouri”も見ていない。
今年はきほん、”Wonder Woman”の年で、沢山のすばらしい女性映画に出会うことができた。
このなかから3本だけあげるとしたら、”The Big Sick”と”Call Me by Your Name”と”Lady Bird”。このみっつがあれば、明日も生きていけそうな気がするから。

[film] - 旧作 20 - 見た順

▪️ Wendy and Lucy (2008)
▪️ Casque d'Or (1952)
▪️ Behind the Door (1919)
▪️ The Author of Beltraffio (1976)
▪️ Dance Craze (1981)
▪️ Freebie and the Bean (1974)
▪️ Don't Look Now (1973)
▪️ The Slumber Party Massacre (1982)
▪️ Victim (1961)
▪️ The Railway Children (1970)
▪️ Prick Up Your Ears (1987)
▪️ People on Sunday (1929)
▪️ The Naked Civil Servant (1975)
▪️ Salem's Lot (1979)
▪️ The Changeling (1980)
▪️ Petulia (1968)
▪️ Le Deuxième souffle (1966)
▪️ La Vérité (1960)
▪️ Alice in the Cities (1974) 
▪️ A Matter of Life and Death (1946)

旧作はほぼBFIに頼りっぱなしで、とってもありがたいのだが、でもFilm ForumとMetrographとシネマヴェーラが恋しいなあ、と思うことがたまにある。

[art]  best 25  - 20ではぜんぜん足らなかった。 これも見た順で。

▪️ David Hockney @Tate Britain
▪️ Flaming June ; Making an Icon @Leighton House Museum
▪️ Vanessa Bell (1879-1961) @Dulwich Picture Gallery
▪️ Georgia O’Keeffe: Living Modern @Brooklyn Museum
▪️ Raymond Pettibon: A Pen of All Work  @New Museum
▪️  Howard Hodgkin:  Absent Friends  @National Portrait Gallery
▪️ Queer British Art 1861–1967  @Tate Britain
▪️ Cy Twombly  @Centre Pompidou
▪️ Rodin : the centennial exhibition  @Grand Palais
▪️ MADONNA : Treasures of the Vatican Museums @Museu Nacional de Arte Antiga
▪️ Cranach - Meister Marke Moderne  @Museum Kunstplast
▪️ Dreamers Awake  @White Cube  Bermondsey
▪️ Photographs Become Pictures  @Städel Museum
▪️ The Encounter: Drawings from Leonardo to Rembrandt  @National Portrait Gallery
▪️ Rei Kawakubo/Comme des Garçons: Art of the In-Between  @Metropolitan Museum of Art
▪️ Richard Gerstl  @Neue Galerie New York
▪️ Sargent: The Watercolours  @Dulwich Picture Gallery
▪️ House Style  @Chatsworth House
▪️ Alma-Tadema: At Home in Antiquity  @Leighton House Museum
▪️ Christian Dior, couturier du rêve   @Musée des Arts décoratifs
▪️ Portrait of the Artist: Käthe Kollwitz    @Ikon Gallery
▪️ Stephen Shore  @MoMA
▪️ Michelangelo: Divine Draftsman and Designer   @Metropolitan Museum of Art
▪️ Rubens: The Power of Transformation  @Kunsthistorisches Museum
▪️ The Challenge of Modernism: Vienna and Zagreb around 1900   @Belvedere Museum

画面が勝手に動いていく映画に浸かれば浸かるほど、止まってそこにいてくれる絵画のおもしろさにのめりこんでいった。そういう絵画のクラシックにアクセスしやすくなった、ていうのは大きいねえ。

[music]

▪️ Jan 31    PJ Harvey    @Orchard Hall
▪️ Feb 11   Slapp Happy + Faust   @Cafe OTO
▪️ Feb 18   Shirley Collins   @barbican
▪️ Mar 4    This is Not This Heat   @barbican
▪️ May 6   Max Richter “Sleep”    @Old Billingsgate
▪️ Jul 9      Tom Petty and the Heartbreakers    @Hyde Park
▪️ Jul 30    Nine Inch Nails  @Randall's Island (Panorama)
▪️ Sep 4     Waxahatchee  + Alison Crutchfield   @The Garage
▪️ Sep 9 - 10    The Magnetic Fields  - 50 Song Memoir   @barbican
▪️ Sep 30   Nick Cave & The Bad Seeds    @The O2
▪️ Nov 7    Billy Bragg   @Islington Assembly Hall

実はここが一番うれしくて、ふたたびライブ通いができるようになったよう。
ただかつてはあんまなかった体力問題が浮上してきて、これがなあー。
だからMax Richterの - 寝ころがってよい - はすんごく気持ちよかったの。

[new records]
▪️ Father John Misty “Pure Comedy”
▪️ Waxahatchee “Out in the Storm”
▪️ Courtney Barnett and Kurt Vile “Lotta Sea Lice”
▪️ Ryan Adams “Prisoner”
▪️ Girlpool “Powerplant”
▪️ The The "We Can't Stop What's Coming"  - 7inch
▪️ Superchunk “Break the Glass”  - 7inch

これくらいしかちゃんと聴いてない …   St.VincentもLCDもLordeもまだなの。
そろそろApple Music入ったほうがいいのかなあ。

[Reissue]
▪️ The Replacements  “For Sale: Live at Maxwell’s 1986”
▪️ Singles: Original Motion Picture Soundtrack
▪️ Steve Reich:  “Drumming, Six Pianos, Music for Mallet Instruments, Voices and Organ”
▪️ Brian Enoの4枚

[theater & ballet]
▪️Feb 4      Woolf Works  by Royal Opera Ballet
▪️Jun 7      Marguerite and Armand  + Zenaida Yanowsky farewell   by Royal Opera Ballet
▪️Sep 29    After the Rehearsal / Persona   by Toneelgroep Amsterdam
▪️Oct 24    King Lear   by Chichester Festival Theatre
▪️Nov 4     Bausch "Le Sacre du printemps"    by Opéra national de Paris

そしてバレエ鑑賞も復活した。 たけどここって、モダンの細かいところまで追いきれないわ。
演劇、シェイクスピアはこれから、今年はその辺をきちんと。

新年の抱負は、英語うまくなりたいのと、美術史をちゃんと勉強したいのと、本をいっぱい読みたいのと。 (学生かよ)
あとは体が相当ひどいことになっている気がするので、なんとかしたい。(老人かよ)

今年もたくさんのよいものに出会うことができますようにー。