6.30.2015

[film] Eden (2014)

27日、フランス映画祭の3本目。

今回の映画祭はAssayasの"Clouds of Sils Maria"だけ前売り買っていて、あとはいいや、だったのだが、これ、Mia Hansen-Løveの新作だったことに気づいて、なら見なきゃだめでしょ、となり、どうせ当日券で並ぶのだったら他のも取るしかないな、となって、初日はぜんぶ見ちゃったの。

で、見てみるとVincent Macaigneは出てるわ、Greta Gerwigさんは出てるわ、20年に渡る骨太の音楽・青春大河ドラマとしてなかなかすばらしいのだった。

92年の暮れ、Paul(Félix de Givry)とCyril(Roman Kolinka)、その仲間たちはクラブからの朝帰りに朝靄のなかで聴こえてきた音に啓示を受けてこんな音楽をやってみたい、とみんなで”Cheers"ていうユニットを立ち上げて、持ち出しで手作りのパーティを始め、やがてそこからDaft PunkとかCassiusとかが登場し、フレンチ・エレクトロの流れとシーンを作ってのし上がって、そこから萎れていくまでのあれこれ。大枠の栄枯盛衰を "Paradise Garage" ~ 2003年くらいからの"Lost in Music"の2部構成で描く。

脚本担当の監督の実兄Sven Hansen-Løveさんが当時のシーンの中心にいた、ということもあり考証面の生々しさライブ感は半端なく、これに加えてくっついたり離れたりの青春群像はMHLのこれまでの作品で十分に確立されているし。~ Que sera, sera ♪ ~

なので、例えば同系の音楽実録ドラマ -  “24 Hour Party People” (2002) なんかと比べると映画としての粒立ち際立ち具合は数段上なの。
だけど、あの映画で描かれたJoy Division瓦解からMadchesterへの流れとこの映画で描かれたフレンチ・エレクトロの勃興は、同じような快楽を求める旅だったとしても、結構ちがうよねえ、と改めておもった。

Madchesterのほうははっきりと歴史の分断切断、忘却を指向していた。あらゆる繋がりを断ち切って、自身をも切り捨てるようにIan Curtisが亡くなったあとも、それはたんに新たな秩序(New Order)として再生してしまえばそれでいいか、程度のものだった。

この映画で描かれたシーンは米国のハウスミュージックへの憧憬とリスペクトから入って、それを自分たちの踊り場に接続して継承拡大して踊り続けることを狙ったものだった。 その野望はラストで朗読されるRobert Creeleyの詩 - “The Rhythm"にも見事に集約されている。

であるが故にこの映画が描いた約20年の昇ったり下ったりは大陸をまたがるスケールで我々を驚かせて感動させたりもするのだし、映画では萎んだように見えるフレンチ・エレクトロが終わったかんじなんてぜんぜんしない。 それはずうっと続いて今もフロアを揺らしている。

この映画での音楽はフロントにあるのかバックにあるのか、あまりぱっとしない若者たちの像にみごとにはまってしまうことに感嘆した。 浮いてしまうこともウェットになることもなく無愛想に、でも気がつくとそこでどこどこ鳴っていて、そういう種類の音楽なんだろうな。

彼らが最初にこれを始めた頃のアメリカのParadise Garageへの憧れって、例えばヌーヴェルバーグがアメリカのB級映画への憧れから始まったのと同系の大陸指向、と見てよいのだろうか、と、これは自らをシネフィルです、と言い切ったSvenさんに聞いてみたかったことではあるの。

わたしはこの辺の音はぜんぜん詳しくないのだが、2002年の6月にCentral Parkで行われた”Paradise Garage 25th Anniversary”ていうのには興味本位で行った。 Larry Levanはとうに亡くなっていたが、集まった人たちはだらだらゆるゆるみんなずうーっと止まらずに踊り続けていて、これは強いねえかなわないねえ、てしみじみおもった。 Frankie Knuckles(もすでに故人だけど)もDavid Moralesも、とにかくしぶとい。盤に溝があるかぎり、その上をハムスターみたいに回り続けている。

131分、踊ったあとのような心地よい疲労感がなんともいえなかった。

6.29.2015

[film] Une nouvelle amie (2014)

27日、フランス映画祭の2本目。
François Ozonの『彼は秘密の女ともだち』。
英語題は”The New Girlfriend”。原作は Ruth Rendellの小説(未読)。

Laura (Isild Le Besco)とClaire (Anaïs Demoustier)は幼馴染で固い絆で結ばれた親友同士で、映画は夫のDavid (Romain Duris)と乳呑み子のLucieを遺して逝ってしまったLauraの葬儀のシーンから始まる。

亡くなって暫くたった頃、DavidとLucieの様子が気になったClaireが彼らの家を訪ねてみるとDavidが女装して赤ん坊をあやしているのでびっくりする。 Lauraの服の香りでLucieが安心するから、とDavidは言い訳をするが、実は元々女装癖があってLauraもそれは知っていた、彼女が亡くなってその欲望が再燃したのだという。 Claireはそんなのありえない気持ちわるいと拒絶するのだが、Davidがあまりに超然と服がほしいからお買い物連れてって、とかせがんでくるので「彼女」を”Virginia”と名付けて一緒にモールに出かけたり食事したりするようになる。

Lauraの葬儀で、DavidとLucieのことはわたしが命がけで守るから、と誓ったClaireの使命感と保護者意識は、Virginiaの登場によって微妙に変化していって、やがてClaireの夫Gilles (Raphaël Personnaz)との関係にも影響を与えるようになり、それは週末、Virginiaと一緒にLauraの別荘にお泊まりに行ってから決定的なものとなって、やがて。

David/Virginiaにはゲイ志向もなければ性同一性障害のような自身の男性性に対する違和もない、ただ落ち着くし癒されるから女装する - そんな彼/彼女との出会いがClair自身をもいろんな形で変えていく、その過程がとても自然で、しかもおもしろいの。 Lauraとの契り、Lauraを介して出会ったDavid、Lauraの死のむこう側に現れたVirginia、そして自身の性 - Gillesとの関係、Virginiaとの関係… 

同じような女装癖をテーマにしているようで『わたしはロランス』におけるLaurenceとFredの関係とはちょっとちがうの。 David/VirginiaとClaireの間にはLauraという二人にとってかけがえのない死者がいるの。

なんかねえ、ClaireとVirginiaが週末遊びにいったクラブで、ドラァグクイーンが口パクで荘厳に歌いあげるNicole Croisilleの”Une femme avec toi” - あなたの人生の女になれた喜びを歌う - この歌は最後のほうでもClaire自身がそうっと歌うのだが、なんだかとっても泣けてしまうので自分でもびっくりした。 幼い頃のふたりの誓いがこんなところまで転がっていってしまうんだ。

Ozonの映画で泣けるなんて、ていうのと、Romain Durisなんかに泣かされる日が来ようとは、ていうふたつの驚きがあって、でもちっとも悪くないのだった。 ラストもいいよねえ。

US版のTrailerが今日のIMDbに載ってた。 よいなー。(米国公開は9月だって)

6.28.2015

[film] Gemma Bovery (2014)

27日、土曜日のフランス映画祭で見ました。 『ボヴァリー夫人とパン屋』
今年のフランス映画祭、26 - 27日で6本みた。 前売りで買っていたのは1枚だけだったのだが、やっぱしなんか見たくなって当日券で。 疲れたけど、いかった。

しかしこのホール、前方の段差なしのところは、スクリーンを上にあげるとか、ほんとになんとかしてほしい。前にでっかいひとに来られたときはがっかりうんざりで帰りたくなる。

パリで学術書の編集をしていたマルタン(Fabrice Luchini)は7年前、家業のパン屋を継ぐために田舎に戻って、パン作りはまあまあだけどなんか人生に疲れている。

彼の隣家にイギリス人の若い夫婦が越してくる。夫はチャーリー(Jason Flemyng)、妻はジェンマ(Gemma Arterton)、ふたりの姓はボヴァリー、白テリアはキャリントン。
妻は周囲に溶けこもうとがんばっているようで、なんとなくなにかに疲れ、なにかを求めているように見える。

文学オタのマルタンは、こいつらシャルルとエンマでボヴァリー夫人のプロットそのままではないか、とジェンマのいけなくなるに決まっている恋の行方を、自分もその相手候補に加えつつ妄想思い込み全開にして陰からそうっと見守っていると、やっぱりいろいろ出てきて、さてその結末やいかにー、なの。

結末がどうなるかをばらしたらぶんなぐる、と監督に言われてしまったので書きませんけど、確かに知らないほうがおもしろい。 この結末からいっぱいいろんなこと書けるんだけどなー。

ジェンマの日記、マルタンの見聞その他、がベースだったりするので、当然、フローベールの原作の窒息させられるようなスリルと緻密さはないものの、原作の元ネタになり得たかもしれない「事件」へのアプローチとして、こういうのがあってもよいかも。
周りのすべての人々に笑顔と幸せをもたらす象徴としてのパン屋 vs. パン程度では満たされないなにかを抱えこんだ人妻(妄)、という構図。  捏ねて焼いて落着するんだったら人生苦労いらねえ。

原作はグラフィックノベルだそう(未読)だが、脚本にはPascal Bonitzerさんも参加している。

ジェンマを演じたGemma Artertonさんは”Hansel & Gretel: Witch Hunters” (2013)のグレーテルだったひとだが、ちょっと不満太り気味のジェンマをとってもうまく演じていて、監督のAnne Fontaineさんは、こないだの”Adore”でもそうだったように自然のなかの女性をとても美しく撮っていて、綺麗な女性映画としても見ることができる。 ねっこはおやじ映画(ポルノ転用可)だと思うが。

あと、キャリントンかわいー。

6.27.2015

[film] Mes petites amoureuses (1974)

21日、日曜日の午後、アンスティチュの思春期特集で見ました。
『僕の小さな恋人たち』 - 英語題は“My Little Loves”。
ちなみに、題名の元になったランボーの詩は女の子へのうらうら恨み節。

なんか久々に見たかったの。 みんなもそう思ったにちがいなくて、珍しくいっぱい入っていた。

13歳のDaniel (Martin Loeb)は、田舎でおばあちゃんと暮らしていて、ちっちゃい仲間もいっぱいいてサーカスとか見世物とかで得体の知れない世界にどきどき近づきつつあって幸せだったのだが、ある日母親(いきなりIngrid Caven)がやってきて母の連れ男 - Joséと一緒に暮らすんだよ、と都会に連れ出される。

都会では人も多いし学校もあるしなんかあるかも、とわくわくしていたらアパートは3人で住むには狭いし、ママもJoséも疲れてて始終不機嫌だし、お金ないから学校には行かないで働け、て言われてバイクの修理屋で働きはじめてつまんなくてしょうがなくて、でもカフェで歳上の若者たちと出会って弄られたりいろんなことを教わったりする。

仲間と自転車で遠くの村に出かけてナンパするシーン、ナンパ師のあんちゃんとふたりでふたりの女の子を狙って仲間達からすーっと抜けたはいいもののどこからみても宙ぶらりんのいたたまれなさ、身動きとれずのどうしたものか感がたまんなくすばらしい。 結局前にも奥にも進みようのない凍りついたままの2時間(本人談)が過ぎ、あのおしゃまなくそガキ、とか、あれでよかったのかどうか、とか、もういっかいいけるのだろうか、とか本人にもわからない。 たぶん永遠に。

で、そういう修行を経てふたたびおばあちゃんのところに戻ってちびっこ仲間と再会するDaniel。 彼はなにか、どこか変わっただろうか、周りは変わったりしただろうか、自分は変わりたいのだろうか、変わらなければいけないのだろうか。

Danielの少し背をまるめて地点Aから地点Bに、更にその向こうに遠くに歩いていってしまうその歩きかたが素敵で、嫌悪も嗚咽も慟哭も叫びも殺意も、それらあらゆる戦争をその頭と胸に抱えこんだまますたすたどこかに行ってしまう、そのなんともいえない彷徨い感がたまらないの。

親も女の子もそこらのオトナたちもなんにも信じられないし期待しない、助けなんていらない、どうしたらいいのかわからんけど歩いとけ、みたいな。 歩くしかないよな。

そして久々に触れた(見た、というより触れた、浸った)気がしたNéstor Almendros のカメラの瑞々しさ。 これこれ、と。

こないだの「ピクニック」ものどかで平穏な風景をバックにしつつも頭のなかは戦争、の映画だったねえ。


それはそうと、アメリカ合衆国 おめでとう、合衆国に対してじゃない、あの国で愛するひとを本当に愛しているすべてのひとたちにおめでとう!! 
日曜日のGay Pride Marchは盛りあがるだろうなー。

それにひきかえこっちの国の腐れっぷりときたら… 

6.25.2015

[film] Mad Max: Fury Road (2015)

20日土曜日の夕方、六本木でみました。 3DのDolby-Atomos。
"Beret Morisot"からはフェミニズム映画の流れ、というつもりで。 いちおう。

とにかく自分のまわりのTLとか見ると誰もが、かっこいいとかやられたとか泣いたとか涎垂らして洟垂らしてガキみたいに大絶賛ばっかしなので、少しはネガティブなことも書いてやろうか、くらいのことは思う。

核戦争後に荒廃して沙漠になっちゃった世界で、水を独占する化け物みたいなImmortan Joeが帝国を作って奴隷かかえてやりたい放題をやってて、そこからお使いに出たImperator Furiosa (Charlize Theron)が道を外れて怪しい動きを始めたので帝国はみんなでわあわあ追っかける。 その追っかける車のひとつに括り付けられたMax (Tom Hardy)がいて逃げる機会を窺っていて。

筋はこれだけ。 約束の地を求めて遠くまで突っ走って逃げ切った後で、そんなのないんだ、とわかって、もう一回戻ってくる。 車の一団がわぁーって火花を散らしながら地の涯に消えて、またわぁーってどんぱちしながらこっちの方に戻ってくる。 それだけなの。

映画そのものの流れとか編集とか疾走感とかバカバカしさとかその反対側にある世界観とかメッセージの強さとかそういうのはぜんぜん問題ないとおもうし文句ないし。 人物キャラの深さ浅さみたいなところも、そういうのを蹴散らすくらいシンプルで豪快で、世界観と連携してアクションが止まらずに流れていって、子供にもわかる、それでいて落とし前はつけて、言うことは言う、みたいなところもある。 

わたしは”Mad Max2” (1981) を公開当時に名画座の併映でみて、あまりにバイオレントでマッチョなのでうんざりして3も見なかった、そういういくじなしなので、今度のももうやだ、だったの。 車が四方八方にふっとんだり、火花が散って大爆発したり、ひとも彼方にとんでいったり、みたいのはふつーに好きなんだけど、今回のにあんましのれないのはなんでだったのかしら。

あんなでかい金属塊の車で砂漠のまんなかを猛スピードで走って、しかも血を抜かれてそれを燃料にされながらなんて想像しただけで車酔いと脱水症状と熱中症がいっぺんに来そうだし、しかもその状態で矢だの弓だのナイフだの鉄砲だの棍棒だの掟破りの乱暴のぐさぐさぼこぼこなんでもありで、なぜならそれはそういう世界なんだから黙れ、て言われる。

そしてこのエクストリームな世界は、今の我々の世界と繋がっているのだと、このわかりやすさはそのままいうだろう。  強い奴のまわりに強いいじめっ子が集まり、弱いものは底に吹き溜まって抜けだせず、両者は安全に交わらないままに支配は続いていって、どっちの層からもはぐれた半端モノたちが路上で交わったとき、花火があがってその均衡は崩れる。

でもなんか、きつい。 こんななかでも、生きろ! 戦え! とか言われるんだったらやなこった、ていう。
FuriosaにもMaxにもなれないし、べつになりたくもないし。
映画は森と原っぱと川とブランコとお食事と猫が映っていればいいわ。(← なんかあったらしい)

フェミニズム云々もどうなのかしらん。 あの勝ち負けに性差ってあんま関係ない - Furiosaは男でもおなじ動きをするだろうし、囚われの女たちも役割は所謂「女たち」 -  よね。

あー、でもおもしろいよ。 少なくとも歌舞伎町とかでしゃー、とかこまこま喧嘩してるようなのよか断然。

6.24.2015

[film] Berthe Morisot (2012)

20日、土曜日の昼、久々に恵比寿に出て、生まれかわったらしいガーデンシネマで見ました。
どこのどういう事情かしらんが、Morisotの評伝映画なんかやってる。

TV映画のようだが、Caroline Champetierさんの初監督作だというし、”Mr. Turner”よかきれいかと思ったの(登場人物は)。

彼女の生い立ちから晩年までを追う、というよりは姉のEdmaと一緒に絵を勉強しつつManetと出会った頃から、普仏戦争を経て1874年の第一回印象派展の頃まで、つまりなんで女性は絵を描いちゃいけないのよ? てぶつぶつ言いながら絵画に屋外の光を!て当時のパンク - 印象派をぶっぱなしたあたりまでの一番面白かった時代よ。
朝の連続TVドラマにだってなりそうなかんじ。

ブルジョアのおうちのBerthe Morisot (Marine Delterme)が姉のEdmaとサロン展に行ってなんて破廉恥な、とか騒がれていた”Olympia” (1863)を見てふうん、てなってから彼 - Manet (Malik Zidi)に絵を見てもらったり、”The Balcony” (1868-69) のモデルをしたりしながらだんだん偏屈なManetに惹かれていくのだが、彼には妻がいるし、親は結婚して家庭に入れってうるさいし、かつては姉妹で「ボヴァリー夫人」を朗読して抵抗したのに姉は突然裏切って結婚しやがるし、でも自分は絵を描きたいんだ、て気丈にめげずにがんばるの。

Morisotの絵を最初に纏めて見たのは、2008年、出張で行ったフランクフルト、にたまたま(じゃねえな)あったシルン美術館 (Schirn Kunsthalle)での展示 - “Impressionistinnen" (女性の印象派画家)ていうので、Morisotの他にMary Cassattとかも出ていて、こないだのStädel MuseumのMonet展でもMorisotのとても素敵な絵があって、そこにはManetが映画のなかで言っているような不思議な透明感、があるなあ、と思うものの、その魅力をうまく言うのはなんか難しい。Manetのとも師匠のCorotのとも違うし、なんなのか。 という問いに「女性だから」と言ってしまうのはなんかいけない気もするのだが、でもそうとしか言いようのないなにかがあるかも、と思ったり。

肝心のManetとの恋はあったのかなかったのかどうだったのか、の辺りはやはりてきとーにぼかされているのだが、ラスト、彼から送られてきた「すみれの花束」で彼女が泣き崩れるところはよかった。 (でもいきなりあのもこもこした絵だけ見せられても何だかわかんないよね)

フーコーがかつてManetについて「自分が絵を描いている空間の物質的な性質を用い、機能させることをあえて行った最初の画家」と語ったその革新性が、つんつんガンを飛ばしてくるモデルMorisotと画家との緊張関係、その空間の描写を通してなんかわかった気がして、更にそのへんはMorisot自身の絵画のありようにも伝播していったのではないか、とか。 映画とは関係ないそのあたりもちょっとうずうずした。

他にはManetのアトリエで彼女と衝突するEva Gonzares(この娘も画家)とか、Fantin-Latourとか、画商のPaul Durand-Ruelとか、あの時代のおもしろい人たちもいっぱい。よく見ればほかにも知ってる人はいっぱい出ていたはず。  Renoirなんかも出せばよかったのにー。

[film] ごめん (2003)

14日の日曜日、アンスティチュの思春期特集で”Love At First Fight”の前に見ました。
2003年は日本にいなかったので、映画そのものもぜんぜん知らなかった。

大阪の小学6年の男の子セイは、授業で朗読している際にとつぜん「おしる」(英語字幕では”Juice”)が出てしまい、以降思春期もんもんどまんなかの日々に突入し、周りはだれがだれを好きだ嫌いだでわーわーしていて、そんなある日京都の祖父祖母の家に行ったときにナオコていう娘と会ってひとめぼれして、がむしゃらに彼女を追っかけはじめるのだが、彼女は中学2年生でいろんなギャップがありすぎて挫折と後悔のしまくりで、じゃあどうするんだ、になるの。

こういう思春期発情系て、ガキっぽいしやかましい印象があってあんま好きになれないのだが、これはまじめにひとりじたばたしているばかりなので、なんかよかった。

ふたりの距離、年齢の差(彼女のがおとなだし明らかに強い)、ふたりが見ているものの差、お互いがお互いを知らない、なんといっても自分の風貌(...ラスカル)では彼女がそんなにときめいてくれない、などなどから総合するに、ここは諦めて身をひくのがおとなってもんだ、と自分のなかの「大人」はいうだろう。 幸いなことに自分の周囲は自分が片想いしたことも失恋したことも知らないだろう。

でもそんなのいやだ、と。  なんかやっぱしどうしても疼くものがあるし、ここで「ごめん」て下を向いて通り過ぎるのは納得いかないんだ。 ていうセイの寡黙な、でも力強い決断が彼を押し出す、ペダルを踏みこませる。 衝動と予感と思考のあいだで目がまわって、でも誰も出口がどこにあるのか教えてくれないし。 しょうがねえんだよ、ごめんな。

結局なにがどこでどう落着するのかしないのかわからなくても、ラストの自転車で笑いながら突っ走るふたりの絵があるので、一過性の熱病であってもぜんぜん構わないの。 いいなー。

しかし関西では「おしる」とかって、親も含めてあんなにお祭り大騒ぎするもんなの?  へんなの。

音楽は大友良英さんで、この時期の彼のサントラだと”blue” (2001)ていうのもあったよね。
これもさわやかな自転車映画で、当時トライベッカで見たなあー。

6.21.2015

[film] Tomorrowland (2015)

13日の土曜日の夕方、"Suzanne"の後で新宿に移動して見ました。 IMAXで。

冒頭、メインと思われるGeorge ClooneyとBritt Robertsonさんがこっちを向いてチェックチェック、てかんじで、なんでこうなっているのか説明しよう、とかやってくれるので、そんなに悲観するような事態にはなっていないらしい、ということがわかる。

まずは64年、NYの世界万博で、子供時代のGCと思われる彼 - Frankが発明コンテストみたいのに自作の空飛びマシンを持ち込んで却下され、でもそれを横で見ていた女の子からTマークのバッジを渡されたらその後、ありえない、妙な経験をする。

そこから現代、Casey (Britt Robertson)は夜中に家を抜け出してNASAの宇宙航空機の廃棄工場に向かい、ドローンとかを使って(こらこら)、廃棄作業を妨害しているらしい。やがて彼女は警察に捕まって、釈放されるときにどこからか現れたあのバッジを手にする、と突然周囲の景色が一変するのでびっくりして、あれこれ調べていくうちにあの女の子と、それら(バッジと女の子)を追っかけるようにして怪しい黒服の連中がくっついてきて、やがてその辺の事情をぜんぶ知っているらしいFrankの居処に導かれていって、世界の運命をかけた冒険がはじまるの。

バッジによってスイッチングされるあの世界がなにで、だれがどういう使命とか目的に基づいて作ったのかはあんまわかんなくて、ただ急いでなんかなんとかしないと世界は滅びてしまうのです、というのはわかって、設定としては"Maze Runner"とおなじようなかんじで、とにかくCaseyがんばれ、なんで彼女なのかというと彼女は夢と希望を決して捨てないよいこだから・・・

経験豊富なよい大人と万能ロボットと「よいこ」が悪と破滅の道から世界を守る、ていうのは大昔からあるフォーミュラで、それをありがちな善と悪のロボット大戦みたいな露骨な形でださずに、フリップする二重世界のなかに描きだしたのも悪くない、のだが、それを作ったのがディズニー、となるとなんとまあ、とか思ってしまう。

世界が不況になるとうちの収益もやばくなるし、そうすると子供たちも疲弊して明るい未来はなくなってしまうのです!  ていうとってもわかりやすいマーケティング戦略。 YES! それ故にこそ我々はディズニーをもっともっと愛するのです! という一定数の声まで計算済みのような。

というところまでいじわるく押さえた上で見れば、割とよくできている - ディズニー・クオリティ - と言えないこともないが、おなじ裏世界モノでいうと、"Escape from Tomorrow" (2013)のほうだよねえいまは、とふつうに思う。

あと、こういうキリスト教の世界観に基づいた理想郷と選民思想はやがてWorkしなくなる - Tomorrowはなんとかなってもあさってがきたらやばくなる - てもういいかげんわかってるよね? 
あー だから、”Tomorroland” なんだね。  はいはい。

とにかく夢と希望を語る、そこに誘導しようとするその語り口が饒舌すぎていちいちうざいしださいよね、と80年代初の子供は思ってしまうのだった。

果たしてこの役にGeorge Clooneyは適役だったのか、というのも少し。 失われた子供時代への怨念抱えこんだまま老いてしまったマッドサイエンティストがあんないい人のままでいるだろうか、とか。

あっちの世界にはレコード屋も古本屋もない気がする。 それなら行かない。

6.20.2015

[film] Love At First Fight (2014)

少し飛ばしてこっちから書きます。
14日、日曜日の午後、アンスティチュの思春期特集で見ました。 原題は”Les combattants”。

いやー。 これもすばらしくおもしろかったー。

自分ちの家業のリフォーム屋を兄と手伝っているArnaud(Kévin Azaïs)は自分の将来をどうしようかなーてぼーっと思ってて、友達に付き添っていった軍のリクルートのとっくみあいイベントでMadeleine(Adèle Haenel)と出会う。女の子となんてさ、と言って軽く組みあったらがっしりした彼女は手強くてこっそり噛みついてかろうじて逃げて、くらいの勝負になってしまう。

庭リフォームする家の娘であることがわかったMadeleineはその夏の間、Arnaudが仕事で汗かいている脇でいつも無愛想に黙黙とプールで泳いで体を鍛えているから気になってなんで? て聞いてみると、もうじき世界は終わっちゃうんだからサバイバルできるようにしておかないと、て真顔で言われる。

こんな危険思想の娘と関わっちゃいかん、と思いつつもやっぱりどうしても気になったArnaudは、家業をほったらかして彼女にくっついて軍のサバイバルキャンプみたいのに参加する。
でもどこまでもハードでストイックな訓練を望む彼女は新兵集団のなかでひとり浮いてしまい、それをArnaudが裏でそれとなくカバーしたり助けてあげたり、みたいな関係が続き、チームのオリエンテーリング訓練で野営をしていた彼らはチームから離れ、衝動と予感でふたりだけで山奥に分け入っていくの。

で、森の奥で愛を育んでめでたしめでたし、になるかと思ったらいきなりまじで世界の終りがやってくるんだよ …

強く逞しい女の子とそんな強くないけど利発な男の子のじれったいラブコメ、にどきどきの夏休みとキャンプと終末がやってきて見事な青春のだんだら模様を描く。 お互い「愛してる」なんてぜったい言わないけど、生きるべきか死ぬべきか、だとやっぱし生きるんだよね! ていう控えめなかんじもまた確信犯ぽくていいの。

Madeleineを演じたAdèle Haenelさんは前日の”Suzanne”で妹のMariaを演じていて、Mariaの演技もすばらしかったのだが、このMadeleineもそのがっしりとしたたくましい肩とか腕とか、ほんとうに素敵なの。森の奥でのラブシーンの輝きとか(そのあとでゲロまみれになるとこまで)。

ボーイ・ミーツ・ガールと終末論と、ていうと80年代では岡崎京子で、その背後に流れるのはXTCの”Love at First Sight”だったりするのかもしれないが、この映画でばりばり流れるのは90〜00年代のフレンチ・エレクトロで、これはこれでじゅうぶんかっこよくて、新しいねえ、と思った。


ぜーんぜん関係ありませんが、20日はABTのJulie KentさんのFarewell公演があって、演目は彼女の十八番の”Romeo and Juliet”なの。 わたしにとってABTのミューズはAlessandra Ferriさんだった(彼女のFarewell - 演目はもちろん”Giselle” - は見たよ)のだが、今のシーズンでPaloma Herreraさんが引退し、Xiomara Reyesも引退、となるとああ確実にひとつの時代が終ったのだなあ、としみじみ思うの。  長いあいだお疲れさまでした。

[film] Suzanne (2013)

13日の土曜日、夢のような『ピクニック』の後で京橋に移動して見ました。

この時間、「EUフィルムデーズ2015」のこれにするか、アンスティチュの『輝くすべてのもの』にするかで悩んで、こっちにしたの。 EUフィルムデーズのなかでは『Song of the Sea ~海の歌』(2014)を見逃してしまったのがいまだにかなしい。

すーばらしくよかった。 Suzanne、のおはなし。 

ママが亡くなった後、トラック運転手のパパに男手ひとつでずっと育てられてきたSuzanne (Sara Forestier)とMaria (Adèle Haenel)の姉妹がいて、パパはある日高校に呼び出されるとSuzanneは妊娠していてもう3ヶ月過ぎています、て言われて愕然として、彼女は父親が誰だかわからない男の子を生んでおとなしく家にいたと思ったら、競馬場でJulienていうちんぴらと会ってから息子をほったらかすようになり、やがて彼と駆け落ちして消えちゃうの。

次に家族のまえに現れたSuzanneは強盗してとっつかまって刑務所にいて、裁判でパパは泣いて、でも出所してからは里子に出された息子と会ったりダイナーでバイトも始めて堅気になって、そしたら強盗のときに捕まらずにどこかに逃げていたJulienが突然現れるの。 怒り困惑しつつも彼に誘われるままに偽造パスポートでモロッコに渡り、女の子を生んで生活も少し豊かになって地元に戻ってくると..

無骨でぶっきらぼうだけどママへの墓参りを欠かさない父と、鷹揚で大雑把だけど芯はしっかりしている妹、Suzanneの挙動振る舞いはそんな彼ら家族の目から描かれて、彼女自身の内面の葛藤や慟哭が直に描かれることはないので、ふつうに対話不能のしょうもないあばずれになっちゃった娘/姉のように見えるだけなのだが、それでも瞬間瞬間でこぼれ落ちてくる表情、身体の動きからところどころひっかかってつっかかってくるSuzzaneを前にすると、あんたって娘は… て誰もが俯いてしまうだろう。
これを「家族の絆」みたいな陳腐なところに落とさずに(理解も和解も赦しもない)、愛と退屈のがれの衝動で向こう側に突っ走っていってしまったひとりの女性の目差しの反対側の溜息として映しだしたところがよいの。

それにしても、Suzanneを演じたSara Forestierさんのすごいこと。 深夜バスでJulienと再会したときの惑いと怒りと愛おしさが入り混じったなんともいえないじたばたした抱擁(→ ”Love Battles”もまた.. )とか、イミグレーションのとこで名前を聞かれた際の鳥肌の一瞬とか、彼女の身体の動きなしには成り立たないSuzanneだとおもった。

妹役のAdèle Haenelさんもまたすばらしいのだが、これは翌日みたやつのほうで。

音楽はラスト、Nina Simoneがぼそぼそごつごつと歌うLeonard Cohenの”Suzanne”もすてきなのだが、みんなでオープンカーで遊びに出るときにぶっ放されるHoleの”Playing Your Song”の痛快さがたまんない。(Mariaの部屋にはHoleのポスターが貼ってある)

これだぜ、って。

6.17.2015

[film] Partie de campagne (1936)

13日の土曜日の最初の回、渋谷でみました。
どクラシック - 「ピクニック」。 英語題だと”A Day in the Country”。

もう何回も見ているやつだがデジタルリマスター版は初めて。 補助椅子が出ていた。当然よね。

美しい、夢のような映画、ていうのは嘘でもなんでもない。 怖い夢とか嫌な夢はいっぱい、いくらでも見ることができるけど、ほんとうに美しい夢、夢のような夢って、そんなにはないし、はたしてどんなのだろう? とかなるでしょ。 この映画はそんな限りなく美しい夢のサンプルとして、こんな夢を見れたらほんとに素敵だわ、ていうののリストの常に上位に、天上に燦然と輝いている。

初夏の木陰でハンモックに揺られてこんな夢をみながら、夕立の雷にやられて即死するのが理想。

馬車に乗って田舎にピクニックに来たふつうの家族 - 祖母、父母、娘、その婚約者とそれを迎えうつ女たらしの地元の若者ふたりと。 ブランコに乗って、原っぱでおいしいお食事たべてワインを飲んでとろんとしている母娘を見て、若者たちはあの二人を引っかけよう、と小舟に乗りませんか、て誘う。 小舟は2槽あって母と娘のどっちをどっちが、て揉めたりするもののとりあえず快調に川面を滑りだす。 やがて雨がさーっと来たり、木陰に身をよせた婚約者のいる娘は。

そして月日を経てからの同じ川べり、同じ木陰での再会の、たまんない感傷と余韻とうつろう季節と。

どこをどう切ってもそこには光る空と雲があって木々がそよいで衣服のひだひだがあって体の曲線があって、誰もがふつうにいう、印象派の絵画の世界そのままで、色がついてるのがよいのか光がきれいで風がそよいでいるのがいいか、そんな違い - どこでどうやってインプリントされたかしらんが我々はあの世界にうっとりするように仕組まれているので - なんてどうでもよくなる。 絵画になかったのは水面をさーっと叩いて遠ざかっていく雨の粒とかぐるーんてまわるブランコの浮遊感とか。

デジタルリマスターのすごさもあるところにはあって、この驟雨のところとか、おばあちゃんが抱きあげる子猫のほあほあ逆立つ毛とか、娘の頬をつーんとつたう涙とか、印象派の絵画をどれだけ修復したってこんなふうにはならないよ。とうぜん。 

これの完成版はどんなだったのだろう。 て夢想しつつも、永遠の未完の40分、ていうのがこれほどふさわしい映画もない、とも思う。

何回見てもなんか発見があるのだが、今回のはエストラゴン = よもぎ、だった。
でも、エストラゴンのオムレツとよもぎのオムレツはぜったい別のものではないか、とか気になって眠れないの。

6.16.2015

[film] トッポ・ジージョのボタン戦争 (1967)

9日の火曜日の晩、シネマヴェーラで見ました。 今かかっている特集『イタリア萬歳Ⅱ』はもちろん見たいのいっぱいなのだが、ここんとこのモードはなんとなくフランスで、でもトッポ・ジージョは見たいかな、くらいで。

この作品、2004年にリバイバル上映、翌2005年にDVD化されているらしいのだが、そんなの知らなかったし(開きなおる)。 動くトッポ・ジージョひさびさに見たかったんだもの。

日伊合作で、イタリア語の題は“Topo Gigio e La Guetta Del Missile”。
監督は市川崑、脚本には永六輔も入り、音楽は中村八大、トッポ・ジージョの声は中村メイコ、ナレーションは小林桂樹、となかなかすごいの。 他の俳優さん(シルエットがかろうじてわかるくらい)は日本のひとで、台詞がたまにイタリア語ぽくなったりする。

最初は一人暮らしをしているトッポ・ジージョの寝起きとかノミさんとの交流とかでほのぼのして、その次のがボタン戦争で、赤い風船と出会ったトッポ・ジージョが銀行の金庫のなかにある「ボタン」- 世界をぶっこわすことができるあれね - の強奪を阻止しようとするの。 でもそこに大義名分はあんま感じられなくて、ノミがちょっかい出すみたいな妨害工作をちょこちょこかっわいく一生懸命やりまくるのがたまんない。  悪い奴らは黒くて暗くて誰がだれだかわかんなくて、トッポ・ジージョの電話を受けて慌ててやってきた連中も隊列組んでてやなかんじで、どっちにしても気にくわないんだよ。 ていうネズミの倫理で、そいつにニンゲンはどれだけ銃とかぶっぱなしてもかなわないでやんの。

赤い風船くんと出会ったところでああなるのはわかっていたけど、でもどっちにしてもよかったねえ、なの。 戦ったあとの汚れたままで終るかと思ったらそうじゃなくてちゃんと洗ってきれいになるし。

あと、あの頃のライオン子供歯磨きのいちご味、なんて久々にみた。(いまも売ってるのね)


ボタンを押すのは誰かとか守るのは誰かとかくだんない議論ばっかりしている今の世の中には、寝ぼけまなこのトッポ・ジージョがほんとうに必要だと思う。
戦争はそんなものじゃない? その言葉そっくりそのままお返ししますわ。

6.15.2015

[film] Before I Go to Sleep (2014)

7日、日曜日の午後、新宿で見ました。 邦題は「リピーテッド」(...?)

Christine (Nicole Kidman)が朝起きて困惑顔でバスルームに行くと、夫のBen (Colin Firth)との結婚式の写真とかがいっぱい貼ってあって、二人はずっと一緒にいる夫婦らしい(だから彼が横に寝ていてもだいじょうぶ、たぶん)ということを知るのだが、どうしてそういうことになっているのかというと、彼女は毎朝寝る前の記憶を一切失った状態で目覚めるからだという。

Benが会社に出かけると今度は精神科医だという男 (Mark Strong)から電話が入り、クローゼットの奥に隠してあるカメラのことを言われ、彼女はそれで自分用の覚え書きを毎日記録しているのだと伝えられる。
こうして彼女は自身についての情報を外と内(昨日までの自分が撮った自分の記録)から組み合わせて構成しなおして自分の置かれている境遇を理解するのだが、彼女がいちばん知りたいのは自分はなんでこんなふうになってしまったのか、それを知る手がかりはなにかどこかにあるのかないのか、ていうことなの。 なんかよくない予感もあるし。

いろいろ調べていくと過去の自分がいろいろ問題を抱えていたらしいとか、子供がいたらしいとか、あれこれわかってきて、なんで教えてくれないのよ、とBenに抗議すると、苦悩の顔で君を混乱させたくなかったからだ、と言われて、それもそうかも、とか。

自分を自分たらしめているのは自分が自分の中に持っている記憶とかイメージ、というよりも他者が自分について持っているそれ(とその連続性)なのだ、というのをこないだ機内で見た”Still Alice”でも思ったのだったが、では、その他者が自分について語っている記憶を信用できなくなったらどうなるか。 その先にはだれも、なんにも信じられなくなる地獄が。

でもなんだよね、そこにきてそれでも人を信じようと思うかこいつなんか怪しいって思うかでそのひとの本性みたいのが出るのよね、きっと。

あの、パーフェクトとしか言いようのないラブコメ”50 First Dates” (2004)のラスト、Adam Sandlerがもし悪い奴だったら or 突然悪い奴に変貌してしまったら… (完全犯罪だって… )てひねくれモノが抱いてしまったよくない疑念から入って、俳優さん達はどれも悪役も善人も両方どっちでもやれる暗さと巧さがあって、はらはらさせられっぱなしだったの。(途中でなんかわかったけど)

Nicole Kidmanのかっと開いた青い目を初めとしてあれこれおっかないのだが、ラストはしんみり泣かせてくれたりする。 Poohさんが出てくるのにはよわい。

でもなんだよね、眠りと共にシャットダウンするみたいにメモリから記憶が一掃されて翌朝はなんも憶えていない、そういうのたまにあってもいいかも (← なんかが嫌になっているらしい)

6.14.2015

[film] The Maze Runner (2014)

6日の土曜日、「サンドラの週末」を見て、髪切って、夕方から六本木で見ました。

Thomas (Dylan O'Brien) は気がつくと四方がでっかい壁で囲まれた野原に捨てられてて、その時点では自分の名前すら覚えていない。 まわりにいたのは若い男子ばかり、一番古くからいるのは3年前、そこから月にひとりずつ同じようにデリバーされているのだと言う。彼らは自分たちの保身と秩序維持のためにコミュニテイを作ってまわしていて、なんのためにそんなことをしているのかというと、巨大な壁の奥は迷路になっていて、迷いこんだら出れなくなるし、中にはこれまた巨大なロボ蜘蛛みたいのがいてやられちゃうから、こまこま調査しつつ脱出の機会をうかがっているのだと。

はねっかえりでせっかちなThomasは勝手にあれこれ仕掛けてみんなの反発をかうのだが、そんなある日、これが最後だから、ていう付箋つきではじめて女の子 - Teresa (Kaya Scodelario) - が搬送されてきて、彼女はThomasのことを知っているようだしなんか様子がちがう、とざわざわする。

彼らをここに送りこんだ連中はだれで、迷路を作った連中がだれで、ふたつは同じ連中なのか違うのか、目的は同じなのか入り組んでいるのか、わかんないこどだらけなのだが、気がついたらそこにいてそうなっていた子供たちにとってはいい迷惑、ということだけは確かで、ごめんねがんばってね、ていうしかないの。

“The Hunger Games”でも”Divergent”でも、こういう、気がついたらディストピア、生き残りたかったら知恵と勇気で生き残れ、ていう最近の若者映画が指し示すある兆候、ってわかりやすいし、若者が苦しみながらなにかを乗り越えていくのは見てて楽しいのでよいのだが、まずそうなるまえにおめーらがなんとかしろよ大人ども、て強く思う今日この頃なの。 負の遺産被害妄想もやればできる明るい未来妄想もいいかげんにしろよくそじじい!  てほんと思うわ。 映画とは関係ないけど。 いまの腐れた日本の話だけど。

映画は全三部作らしいので、まだあんまし。
なんとなくわかるのは、子供たちはなんかの組織だかプロジェクトだかで飼われていた実験動物らしい、てことくらいなのだが、すごい規模のように見せといて、案外しょぼかったんじゃねえか → 迷路、ていうのはちょっと気になる。 ロボ蜘蛛さんもいろんな仕掛けも、3年間ずっと待ちかまえてたのに30分くらいで勢いで抜けられちゃったよね?  作った奴、責任問われるわよ。 あんなの、カットニスだったら弓矢でいっぱつだよ。

あと、あの年頃のガキばかりを3年間野原に放置しといて、みんなあんなクリーンなわけあるもんか、とか。

“Love Actually”で空港を全力疾走したあのガキが出ていたので期待したのだが、あんま走らなかったのはざんねん。 そこに愛がなかったからだと思う。

[log] Germanyそのた - June 2015

Dave Grohl氏がスウェーデンでステージから落ちて骨折した、その土地の名前を聞いて書くのを忘れていたこないだの出張のあれこれを思いだしたので書いておくの。

行き帰りの飛行機で見た映画とか。

Spare Parts (2015)

Joshua DavisがWired誌に発表した記事”La Vida Robot”を元にした痛快かつかんどーの実話の映画化。
2004年、移民(合法/不法)の子供たちが多いアリゾナの高校で予算も設備もないのに水中ロボットコンペに参加してMITに勝っちゃった4人の生徒と代用教員(元エンジニア)のお話しで、生徒たちはそれぞれ米国の出生証明がなかったり(つまりそれは)、複雑な事情があって学校でも家族でもいじめられっ子だったりもして、でも科学とか工作とかは得意で、いろんな困難に立ち向かいながらみんなで乗り越えていくのがなんかよいの。 脇を固める校長先生がJamie Lee Curtisさん、プログラミングの先生が Marisa Tomeiさんで、これもすてき。

こういうの見ちゃうと、お上がカリキュラムをいじくるばかりの日本の教育なんか根っこからおかしいよね、ておもう。  日本の高校生たちに見せるべき。

Focus (2015)

Will Smithが手練の詐欺師で、Margot Robbieを弟子として引っ掛けてチームを作って博打狂いチャイニーズから大金を巻きあげたあとでお仕事おわったから、て彼女をぽい捨てして3年後、自動車のエンジンの機密でひと儲けようと企む彼のとこに彼女が再び現れるの。今度はターゲットの彼女として。 むずむず。
詐欺の極意は相手のFocusを逸らすことだ、といい、でも、Focusを逸らそうとした矢先に現れたのが昔ちょっと好きだった女で、それによって彼自身のFocusがぶれてきて、いったい仕事と彼女のどっち取るのよ? みたいな話に転がっていくの。

お話としてはとってもおもしろいと思うのだが、なんかね、Will Smithがこの役を演じるにはやっぱしいまいち弱くて、難しかったのかなあ、とか。 “Hitch” (2005) の恋の指南役自身が恋にはまって、みたいなところまでならまだわかるけど。 “Ocean’s”シリーズのGeorge Clooneyくらいでぎりぎりくらいではないか、とか。  あと、泥棒ラブコメの原点かつ最高峰はなんといってもルビッチの“Trouble in Paradise” (1932) - 「極楽特急」- だよねえ、て改めて確信したり。

音楽の使い方はすてきで、Stonesの”Sympathy For The Devil”とかStoogesの”Gimme Danger”とか、なかなかたまんなかった。

The SpongeBob Movie: Sponge Out of Water (2015)

行きの便と帰りの便で半分づつ。

日本では吹き替え版しか公開されないようなので、飛行機に乗って字幕版をみる。 何千回でもいうけど、ほんとにくそったれだ。 日本に来ている外国人の子供たちのことを考えてやれ。

みんなに大人気のカニバーガーのパテの秘密のレシピが消えて海の世界のみんなは悲嘆に暮れて狂っちゃって、スポンジボブとプランクトンが時間を超えて探しまくって、海賊(実写でAntonio Banderas)とか創造主(イルカなの)とかとやりあうの。 スケールだけはやたらすごくてめちゃくちゃなのだが、基本は天才バカボンでなにがあってもこれでいいのだ、で世界はまわっているので、それをおもしろがれるかどうか、なの。  まあ、よくこんなの思いつくよね - スポンジが主人公だしな - の連続でぜんぜんあきないの。 音楽はN.E.R.D. で、たのしいし。

はやく”Minions”もみたい。

The Second Best Exotic Marigold Hotel (2015)

最初のやつは見ていないのだが、なんとなく見てみる。

Dev PatelとMaggie Smithがホテルチェーンの融資を受けるために米国に来て、米国側は審査人を送ってその結果を見てから、ていうことになるのだが、結婚間近のDev Patelはいろんなことにテンションが上がりまくってて、結果しょうもないトラブルが多発するの。こんな浅薄で話しが通じない若者、結婚しないほうがいいよ、て思うのだが、しっかりめの老人が背後にいるので大丈夫、かと思いきやぜんぜん大丈夫じゃない、ていうくらい老人共は老人共でまだ恋に狂っていて手に追えないのだった。

ホテルに長期滞在する審査人か? て周囲がざわつく客としてRichard Gereが登場するのだが、よくもわるくもインドでは変てこなオーラを放ってしまっていて微妙ったらないの。
Judi DenchとBill Nighyもとってもよいのだけどね、なんかもったいないかなあ。

この後はずーっと寝て起きて、到着前くらいまでは “About Time” (2013)とか見てた。
Bill Nighyつながりですね。

食べものとか。

既に書きましたが6月のドイツは白アスパラ月間で(食べられるのはこの時期だけ)、数年前来たときはずうっと食べていたものだったがとにかくふわふわでおいしいったら。

フランクフルトの月曜日の昼、連れていってもらったのがGerbermühleていうマイン川沿いにあるホテル兼レストランで、ここはゲーテさんも滞在していたとこなので嬉しかった(お手洗いの前に先生の胸像あり)。  ここでも白アスパラかなあ、と一瞬思ったのだが、フランクフルトの郷土料理、ということで Frankfurter Grüne Soßeていうのを戴いた。 ハーブベースの緑ソース(Grüne Soße = グリーンソースね)の海に半割のゆで卵が浮かんでいるやつ。
これで外が土砂降りじゃなかったらなー。

スウェーデンは、はじめてなのに北欧、としか言いようがないこじんまり感に溢れていた。 建物でも路面電車でもあちこちの銅像にも。
滞在したホテルのレストランの朝食ブッフェがすばらしくて、シリアルたっぷり、ヨーグルトも6種類くらい、酢漬けニシンも2種類(マスタード漬けの、おいしー)、北欧のパンもいっぱいで、外に出るのが嫌になるくらいで、実際あんま出なくなった。

NYのオランダニシンは6/18からですってよ。

他にまだなんかあったはず。

6.13.2015

[film] Deux jours, une nuit (2014)

6日の土曜日の昼、渋谷で見ました。小ぎれーなBunkamuraおばさん達には関係ない世界じゃろうて。

「サンドラの週末」。 英語題は”Two Days, One Night”。

療養休暇を取っていたSandra (Marion Cotillard)は復職直前の金曜日に電話を受けて解雇だから、って言われて、そんなのひどい、て慌てて掛け合ったら月曜日に再投票、ということになる。16人の同僚のうち半分がサンドラのためにボーナスを諦めればよい、と。

(アメリカでは病気で長期休んでいるひとをその最中に解雇してはいけない、ていう法律があった気がしたけど、フランスはちがうのね)

ただでさえ鬱でしんどいのに、月曜日が頭の隅にでてくる週末なんてさいてーなのに、しかもそこで仕事の同僚なんかに会いたくないし、しかも頼み事なんてぜったいしたくないし、自分が逆の立場だったら相談されるのもやだし譲りたくもないし、そもそもこんなのに勝ったから負けたからどうだっていうのよ、だし、でも生活が苦しいことは確かだし、夫も負けるなっていうから、しぶしぶひとりひとりの家庭を訪問してお願いをするの。 自分はもうだいじょうぶで仕事に戻りたいのでボーナスを諦めてくれないかしら、と。

会社勤めをしたことがあるひとなら誰でも頭と胸と胃のぜんぶが痛くなるような難題を週末に(リピート)週末に、抗鬱薬を飲んだり悔し泣きしたり嬉し泣きしたりしつつ、ひとつひとつ潰していく。返ってくる反応は見事にばらばらで、即座にだめ、っていうひともいるし、考えた末にやっぱり、ていうひともいるし、想像していたとはいえ自分はその程度にしか見られていなかったんだな、とか思うし、書いているだけだと地味で滅入る話にしか見えないし、サンドラなんて3日間で衣装3回しか替えない(これはふつうか)のだが、実はものすごく熱く手に汗を握ってはらはらじりじりして自分のこととして思って考えてしまう展開で、この地続きで地味なのに異様なテンションはDardenne兄弟の前作『少年と自転車』にもあったものだけど、なんなのだろう、て思いつつ見ていた。

いわゆる人情噺 - 人の心の暖かさとか絆とかが物語を纏めてくれるようなものではなくて、上り下りの起伏が激しくて終りが見えなくて、でも確かにある区切りにはなった、あとで落ちついて振り返ればそんなものかなー、みたいに見えなくもない週末の旅行記、のような。

Marion Cotillardさんは「君と歩く世界」(2012) でも「エヴァの告白」(2013)でも、なんであたしばっかりこんな? みたいな必死さばかりが全開でかわいそうでならないのだが、隈げっそりのその姿が絵になってしまうのだからしょうがない。

彼女は今、リンカーンセンターでオネゲルのオラトリオ - “Joan of Arc at the Stake” (1935) - 「火刑台上のジャンヌ・ダルク」の生舞台に立っているの。 見たいねえ。

音楽はあんま流れないのだが、一瞬元気を取り戻したサンドラとみんなが車のなかで”Gloria”を合唱するとこ、とってもよいの。

6.12.2015

[film] Run All Night (2015)

5日の金曜日、ねむくてだるくて、夜通し走ったら簡単に軽く死ねそうだった晩に日本橋でみました。

ギャング団のボスのShawn (Ed Harris)のそばで殺し屋をやっているJimmy (Liam Neeson)
はもうよれよれで、ボスの息子のちんぴらDanny(Boyd Holbrook)にもバカにされているのだが、そいつの取引のトラブルに巻きこまれた息子 - Mike (Joel Kinnaman)を救うためにDannyを撃って殺しちゃって、ボスは当然悲嘆に暮れて激怒して、手下とか息のかかった警察とか殺し屋とかぜんぶにいいからあいつを捕まえろぶっ殺せ、て言って、追っかけっこが始まる。

Jimmy(やくざ)と息子のMike(堅気)は昔からずっと喧嘩状態で、JimmyはMikeの家族を安全なところに逃がした後で、Mikeを守りつつ一緒に逃げる。 Shawnは息子を失うのがどんな気分なのか思い知らせてやる、て執拗に仕掛けてくる。 かつてふたりはずっと親友だったのに、追って追われての立場になって、でも互いに歳だし頑固だし失うものなんてないからぜんぜん譲らないの。

Liam Neesonには”Taken”シリーズのようなきびきび凄腕のかんじはなくて、過去に殺し屋としていっぱい人を殺して家族にも見放され身を寄せるところは昔のやくざ仲間のとこしかなくて物悲しいのだが、そんな彼が必死に、というほどではなく、ところどころ殺し屋の凄みをちらつかせつつ逃げていって、ものすごく父を嫌っていた堅気の息子もパパって ... になっていくとこがよいの。

で、逃げるのにもいいかげん疲れて頭きて、病床の母を見舞ってからかつての仲間のとこに単身殴りこみをかけるのだが、そのアイリッシュパブで流れているのがThe Poguesの”Fairytale of New York”で、いやはやこの曲をこんな場面で使うとは。 はどうでもいいとして、その流れで当然、ボスとも対決することになる朝のしらじら殺伐とした空気と光もよいの。

いろんな夜のNYが素敵に描かれていて、あー夜のNY〜(嘆) と思ったのはJames Grayのいくつか以来かも。 クリスマスの時期の設定なのにあんまそのかんじが出ていなかったとこだけ、ちょっと残念だったかな。

Commonさんが組に雇われた凄腕の殺し屋として出てくるのだが、ついこないだシカゴでITの未来を朗らかに語っていたくせによう、ておもった。


Lunaも再結成かあー。 解散ライブからもう10年なのね ...

6.10.2015

[film] Mommy (2014)

30日の土曜日、”The Trip to Italy”のあと、新宿に移動してみました。
出張前日だったので、とりあえず見ておけ、くらいの。

上映前に”The Seventh Art”ていうTVのショートドキュメンタリーでXavier Dolanを紹介したときの映像が流れる。うしろあたまにスローモーションに。 ふうーん。あげるねえ。

http://www.theseventhart.org/main/videos/issue-23-xavier-dolan-video-essay/

『わたしはロランス』、『トム・アット・ザ・ファーム』のXavier Dolanの最新監督作。
Lena Dunhamも予告を絶賛していて、確かに予告はすんばらしくいかった。 予告は。

Die (Anne Dorval)はぎすぎすしたシングルマザーで、施設で問題を起こした息子のSteve (Antoine-Olivier Pilon)を引き取りにいくところで、彼は多動性障害(ADHD)で、興奮して暴れだすと手がつけられなくてどうすることもできない。

そんな彼の相手で一日終ってしまうので彼女は疲れていて、疲れて相手しないと彼は荒れて、荒れると更に疲れて、の悪循環で、そんなある日、隣家に住むKyla (Suzanne Clément)となんとなく関わりができて、3人で一緒に過ごすようになる。 KylaがいるとSteveもなぜかおとなしめになったりする。 離れてはくっついてを繰り返す彼らの行く末はどっちに。

カメラはずうっと何かが勃発しそうなぴりぴりした緊張のなかを泳いで、でも1:1のInstagramみたいにきれいに切り取られていて、主人公の気分がよくなったりするとその画角はま横に延びたりするの。
『わたしはロランス』も『トム・アット・ザ・ファーム』も主人公の溢れかえるエモが画面をつんざいて横切るかのように見える瞬間があって、その「若さ」がなんかよかったりもしたのだが、今回のSteveはその辺が見えずに瞬間瞬間の喜怒のつみ重ねでなにかを伝えようとしているかのようで、DieとSteveとKylaとが団子になって共によろこんだり悲しんだり嘆いたり、でも誰も悪くない、でもやっぱりごめんね、みたいに延々続くにんげん模様が、なんかはらはらして疲れる。

母子の愛の底なしの闇でも光でもよいけど、あるかもしれない、ないかもしれない、そんな散文調でもって描かれるのであんまし迫ってこない。そして迫ってこないとこういのって途端に、滑稽なくらいわからなくなるものなのね。 そしてタイトルが”Mommy” …   べそかいたってだめだ。

フランスのひとには受けたのだろうか?  でもこれがカンヌで9分間のスタンディングオベーションを受けて、Juryを”Adieu au langage”と分けあった、ってわかんない。 なぞだらけかも。

母ものは成瀬の「おかあさん」(1952) があればあとはいらない、ということにするの。

6.07.2015

[film] The Trip to Italy (2014)

30日土曜日の昼間、渋谷でみました。

邦題は「イタリアは呼んでいる」というのだが、べつにぜんぜん、イタリアは彼らを呼んでなんかいなくて、寧ろまったくお呼びでない中年イギリス人おっさんコンビが自堕落でお気楽なイタリア旅をする、それだけのやつなの。
そもそもはTV番組だったやつをTVシリーズでも監督をしていたMichael Winterbottomがちょっと豪勢にがんばって映画として纏めてみた、という程度のものだからイタリアのリュクスな旅やグルメ情報を求めてやってきたBunkamuraおばさんおじさんたちにはかわいそうにー、としか言いようがないの。

Steve CooganとRob Brydonのふたり(役名もこのふたりについては同じ)はオブザーバー紙の取材依頼が入ったからイタリアに行こうぜ、とミニクーパーでイタリアを南に下っていく。
当然、地元のおいしそうなリストランテで一口食べただけで悶死しそうなお食事を食べたりするのだが、お店とかパスタとか食材とかワインとかの情報は一切出てこなくて、ふたりのくだんないおしゃべりとかモノマネ芸の添え物のように横にいるだけなの。 おいしいー、くらいは言うけど、そんなの見ればわかるし。

ネタとしては王様Al Pacinoとか若ハゲJude Lawとかバットマンのベイン(Tom Hardy)のもごもご喋りとかのハリウッドおちょくりで、イタリアと関係ないことすさまじいったらない。 あと、たまに言い訳のように参照されるバイロン卿とかシェリーとか、イタリアで放蕩した英国の文人たち。君らと一緒じゃないからね。

ふたりはそれぞれそれなりに家族の問題(家族を演じるのは俳優さん)も抱えていて、そのくせ旅の途中で女性をひっかけたりもして、要はこれが彼らの日常とはほんの少し異なる、それぞれの人生にとってそれなりの意味をもつ旅であることを示したりもするのだが、だからひとは旅にでるのだとか、旅というのはそういうものだとか、そういうフツーの修辞の域を出ていない。 まあ、それ故に安心して旅のだらだら感に浸ることができる、とも言える。

これがおしゃべりおばさん組の旅だったら、アメリカ人の旅だったら、とか思わないでもないけど、そんなことを思う必要がないくらいにこのふたりの旅芸(と言っていいよね)は完成されていてお見事なの。 イタリア以上に英国が好きじゃないとわかんないかもしれないが。


ぜんぜん関係ないけど、85年の6月5日はかのFerris Buellerがある朝突然に、をやってしまった一日で、そこからもう30年経ってしまったことを知る。
「フェリスはある朝突然に」は日本で公開された初日にたしかシネセゾン渋谷で見たの。 場内はがらがらだったけど、前のほうにアメリカ人と思われる女の子の一団が陣取って、ずーっときゃーきゃー言いながら楽しんでいて、見終わって感動してそのまま続けて次の回も見て、John Hughesは既に自分にとってじゅうぶん神だったが、これからもずっとついていこう、と強く思ったことを思いだす。  フェリスみたいに生きよう、とも思って、それをいまだに、数年かおきに反芻している。
こんな映画、そんなにないとおもう。

6.06.2015

[art] GUERCINO

戻ってきています。 へろへろ。
ドイツ行く前、29日の金曜日の晩、19:20くらいに駆け込みで見ました。
『グエルチーノ展 よみがえるバロックの画家』

間にあってほんとによかったー。

地震災害にあわれてしまった所蔵元のチェント市立絵画館には申し訳ないけど、これだけのものが東京で見れてしまうのはありがたやありがたや、としか言いようがない。

評価とか名声とか、この時代(まあすごい時代なのよ)の画家の周辺にはずっと付いてまわるもので、そういうのは勝手にやらしとけ、と言いたくなるくらいに絵はでかでか堂々とそこにあって、しかもテーマときたら聖母とか巫女とかキリストとか放蕩息子とかアポロとか聖フランチェスコとかクレオパトラとかばっかしなので、握りこぶしで盛りあがるしかないかんじ。

というわけでゲーテ先生(わたしはゲーテ先生が誉めるものには問答無用で従う)が「イタリア紀行」のなかで絶賛した「聖母のもとに現れる復活したキリスト」(1628-30) とか「被」の一文字と聖母の仰角がたまんない「聖母被昇天」(1622) とか、いろんな「巫女」に「サモスの巫女」(1651) に「ルクレティア」(1644) に、どっしりした構図のなかで絶妙の浮遊感をみせる布の膨らみにひだひだに陰翳の配置と決してこちらを向かずに宙を彷徨う人物の目線 - 17世紀における神を求めて止まない彼らの魂の声が。

もういっこの展示 - これも5/31迄だった「世紀末の幻想―近代フランスのリトグラフとエッチング 」もすばらしかったの。

ヴュイヤールの「風景と室内」-料理する女 (1899)に始まって、ウジューヌ・カリエールのポートレート - 「ポール・ヴェルレーヌ」とか、最後のほうのポール=アルベール・ベナールの「ケープをまとった女」 (1889)、「見知らぬ人」 (1900)といったごにょごにょした闇の向こうで蠢く情念とか。 刻印されたり傷つけられたりした版の反対側で、その反射として炙りだされてくる闇の深さと虚ろさにしびれる。

グエルチーノから約250年の時と場所(イタリアからフランスへ)を経て、でも描かれた魂のストレートな生々しさと人々の目の虚ろさは、とても似通ったなにかを指し示しているような気がしてならなかったの。

関係ないけど、いま、TVでローザンヌをやってて止まんない。 若いよねえ、とか言いつつ久々にバレエ熱が ...

6.03.2015

[log] June 03 2015

予定よか30分遅れのFinnairで帰りの便の経由地、ヘルシンキまできました。

中継便て、空港コードでいうとGTO→HELなのでなんかよいかも、て期待したのだがごく普通に遅れた程度で済んでしまった。つまんね。
で、パスポートのところを抜けて、何年か前の乗り継ぎのときにザリガニを食べた記憶のあるデリの前にいるのだが、やはりあそこのムーミンショップで買っておけば、あの店でサーモン買っておけば、とか後悔の嵐のなかにいる。 こっち側にはなんもないの。

今日は移動日で飛行機は13時発だったから、午前は散策でも、と思ったのだが、ずっと降ったり止んだりお天気雨に気圧ぐるぐるの陽気で、仕事もあったので少しホテル周辺をお散歩した程度、それでもしっかり降られて髪の毛がぼあぼあで手のつけられない状態に。こんなところでメタルの人たちはいったいどうやって髪の毛をコントロールしているのか。

今回のお天気は、ドイツに着いた日曜夕方が晴れ、お仕事の月曜が、雨ざーざー。スウェーデンに移動した月曜夕方が晴れ、翌火曜日が冷たい雨びしゃびしゃ、と例によってぜんぜんだった。仕事のかみさまは、やさしくない。

訪れたスウェーデンの街は小さいけど素敵で、アイルランド(通り雨だらけ)とブエノスアイレス(夜が長くてだらだら)を足したようなかんじ、とかおもった。
日没が22時くらいなのでずーっとしらじら明るくて、なら映画でも、と探してみたけど遠いのと寒いのと眠いのとで諦めた。古い劇場があちこちにあって、映画というより演劇の街なのだねえ。

天気はさんざん、お仕事もなんかいまいち(これはいっつも)だったが食べもの関係は素敵だったかも。 ドイツは輝ける白アスパラの季節だったし、スウェーデンは肉も魚も、ばりばりごつごつのパンですら滋味〜、というかんじでおいしく戴くことができた。やっぱり基本てたいせつよね、と北欧好きのひとが言いそうなことを言ってみたくなったり。

そういえば会った人たちのかんじもなんかブルックリンぽくて(ブルックリンが真似してるんだよね、失礼だよね)、ヒゲとかハゲとかGeekとか、オーガニックで、地味に自足している樵ふう(よくわかんないけど)。

あと、一回くらい、"Tack!”て言ってみたかったかも。

では機内へ。ほんとばたばた。

[art] Monet and the Birth of Impressionism

あっという間に帰る日になってしまったが、着いた直後に見たやつ。 今回はほんとこれだけ。

フランクフルトの空港にランディングしたのが31日の16:30、入国して空港のそば(通路で続いている)のホテルにチェックインしたのが17:30、荷物置いてそのままタクシーに飛び乗って、Städel Museumまで行ってもらって、こいつだけはお願い、で見ました。
美術館のクローズは19時で、でも空はまだぜんぜん明るい。ここに来るのは2008年だか2009年だかに続いて2度め。

さて、Monetについては、95年にArt Institute of Chicagoであった”Claude Monet, 1840-1926”ていう大回顧展を見逃したのが未だにトラウマになっていて、あとは印象派の起源ものとしては、94年にMetropolitanであった”Origins of Impressionism”ていうのが自分にとっての印象派ものの決定版で、で、このふたつが合わさったのであれば見ない手はないよね、たった30分だって。

展示されているのはMonetだけではなく、彼の周辺にいたり影響を与えたりしたRenoir, Manet, Pissarro, Morisot, Sisley, Cézanne、当時の風景写真、などなどを点数はそんなでもないが、例えばこういうのとこういうの、のような対比関係のなかに置いてみることで「印象派の誕生」がMonetを結び目とした網のなかに浮かんでくるようだった。 これと同じことをPissaroやRenoirやCézanneでやったらできるか、というとそうは思えないのね。

屋内を描いたやつ - “The Luncheon” (1968)とか、桃の瓶詰め- “Jar of Peaches” (1866)とか、ものすごいエモが充満している”Camille on Her Deathbed” (1879)とか、Monetで言われがちなぼけぼけらりらりのおじいさん、とは全く異なるイメージのいくつか、を見ることができた。

あとはMorisotの”Summer: Young Woman Sitting at a Window” (1879)。
バカまるだしの感想だけど、よい絵だねえ。

Monetのあとは、Städelの常設もざーっと見る。古典からモダンまで、いいのがいっぱいあるの。
ゲーテみて、Vermeerみて、地下のモダンのコーナーは以前とは違っていて、なかなか壮観でしたわ。

帰りのタクシーがぜんぜん捕まらず途方に暮れたが、なんとかなった。往復で50。べつにいいもん。