12.30.2010

[film] Pandora and the Flying Dutchman (1951)

もう雪は降っていなくて、道路の両脇にどっさり高く積まれていて、この状態でなにが困るかというと、道路の反対側に渡るパスが信号のところに限定されて、その狭いパスのところに半溶けになった雪が、宇治金時氷の最後のほうのぐじゃぐじゃとか、かき氷雑巾バケツシロップがけ(そんなのないけど)とか、そんなかんじにとぐろを巻いて溜まっていて、ようく見て足を踏みださないと靴下がみるみるうちに雑巾になってしまうことだ。

というわけなので、しょうがないので、火曜日の晩もLincoln Centerに通う。
ここんとこ毎日映画ばっかり見ている気がするが、この年末に

(1)年賀状とかクリスマスカードを書かなくてもいい (←筆と硯がないし...)
(2)大掃除もしなくていい (←どうせ仮住まいだしね)
(3)忘年会とかパーティもない (←友達がいないってことね) 
(4)お買いものもできない (←これ以上荷物が増えたら帰国できなくなる)

てなったら、ひとは映画館とライブハウス以外にいくところなんてあるのだろうか?  
いやない! (←あるよ...)

見たのは、51年のAlbert Lewin監督作"Pandora and the Flying Dutchman"。
ばりばりに美しいテクニカラー、総天然色の極楽が122分間続く。

内容は、ギリシャ神話のPandoraのおはなしとFlying Dutchman -「さまよえるオランダ人」- の伝説を1930年のスペインの海辺の町を舞台にミックスしてみました、と。

神話とか伝説というのは、例えば愛の究極とか原型とか理想とか、そういうのを純化・抽象化したかたちで我々に教えてくれるものであるが、それを現代のラブストーリーとして再構成してみよう、と。

日本だったら、かぐや姫と好色一代男、みたいなかんじ? ちがうか。

Pandoraはものすごい美人で、男はいっぱい寄ってくるものの愛とか恋とか信じてなくて、ふられた男がやけになって自殺しても眉ひとつ動かさないようなやな女で、どうやって生計を立てているのかしらんが、毎日きれいな服を着てしゃなりしゃなりって歩いているの。

Flying Dutchmanは、ある日突然ヨットで海上に現れて、でも他の乗組員はいないし、どうみても怪しい。

Pandoraはそのヨットを見たとおもったら、突然服脱いでそれに向かって泳ぎだし勝手にヨットに乗りこんで「だれかー?」とかいうの。 おまえこそだれだよ、なのれよ、ってふつうおもう。

Pandoraはその一挙一動があんたなにさまだよ、て癪にさわるし、Flying Dutchmanは一生ひとりでさまよってろ、て思うし、そんなふたりの周りによってくる連中も車きちがいとか、暴力ひとすじ闘牛士とか、そんなのばっかりで、まともなのは語り手の考古学者といけてないその姪くらいなの。

全てがこんなふうで、常軌を逸したありえないようなことだらけなのだが、神話というのはそういうものなのだし、Pandoraを演じるAva Gardnerはまぢで、こりゃ神だわ、と平伏してしまうくらいに美しいし、不死身の(殺されても死なない)Flying Dutchmanを演じるJames Masonも煉獄をしょいこんだような暗い顔とロボットみたいなしゃべりがはまっていて、それが夜の光を多用した夢のなかを漂うような撮影(by Jack Cardiff!)によって、やっぱしこれだ、これしかない、くらいのところまで盛りあがる。 (BGMはRoxy Musicしか思いつかない)

というわけで、普通の愛なんていらない、愛のためなら死ねるような愛だけがほしい、と願うふたりの行く末はもうその最初から見えているのであるが、しかしこのふたりってこの理想を共有しているってだけなのな。
顔が不細工で気にいらなかったり、服のセンスがひどかったりしても、それでも結ばれる、結ばれたいって願うのかな? ....まあ極限の愛とか宗教とかってそんなもんなんだろうな。

だから最後のほうのふたりのダイアログは、そこだけ離れて見るとたぶんああこのふたりは頭がおかしくなっちゃったんだ、と思うにちがいない。 それくらいすさまじいのだが、これこそが監督の描きたかったロマンなのだろうし、"marks a peak in high 1950s romanticism"(←Lincoln Centerの説明文)なのだと思う。

死と隣り合わせの究極の愛、これが100%プラトニックなとこで、エロとかどろどろしたとこ殆どぬきで成立してしまう。 というか成立させるんだ、という強い強い意志がこの仮構の、それこそ神話のような強度をもった物語を成り立たせているように思えて感銘をうけました。

あと、とにかく、Ava Gardnerて、こんなに美しいひとだったんだー、というのを再認識するための映画、です。
この映画のスチールを監督の友人のMan Rayが撮っている(更にDitchmanの描いている絵も彼による)のだが、それがじゅうぶん納得できてしまう、ただただ美しいだけの宝石箱みたいな映画、でもある。

で、そんないろんな美にさんざん痺れたあとで、どぶ川みたいになった歩道をぴょんぴょん跨ぎながら帰ったのだった。

12.29.2010

[film] The Threepenny Opera (1931)

月曜日、Snow Stormの翌朝、窓のむこうはおっそろしく静かで、雪の朝は大抵外で雪かきのがりがりが聞こえるものなのにこれだけ静かということはつまり、雪がひどすぎて誰もどうすることもできない、ということを意味していて、実際に外に出てみるとどうしようもなくでっかい白のどわどわがそこらじゅうを埋めていた。

これまでに遭遇したいちばんすごかったやつは96年のBlizzard(Blizzard '96と呼ばれた)で、あれほどではなかったものの、じゅうぶん楽しい。 駅までの道のりは勘と三半規管の勝負。

Grand Centralに着いても郊外からの電車が止まっているので、がらーんとだーれもいなくて、気持ちよい。

ただ朝のデニッシュが調達できなかったのがかなしい。 (前の晩からろくなもん食べてなくてさー)

・JoeにおいてあるDoughnut PlantのJelly filled donut.
・FinancierのAlmond Croissant.
・dishesにおいてあるBalthazarのWhole Wheat Croissant.

この三つのどれかひとつでよかったのに、みごとに全滅だったので、もうそのまま帰ろうかとおもった。

オフィスも3割くらいしかひとがいないし、だんだんなにやってんじゃろ状態になってきたので、4時くらいに抜けてそのままMOMAに行きました。


ワイマール映画特集の”The Threepenny Opera” - "Die 3 Groschen-Oper" - 『三文オペラ』ですね。

誰でもしってるブレヒト=ワイルによる演劇の、オリジナルの舞台から3年後に実現した映画化。
でも映画化にあたってはブレヒトと製作側で相当ごたごたがあって訴訟にまで発展した。 
のでブレヒトはこの映画を嫌っていた。

そのへんの細かい経緯は、例えばこちら

でも、ブレヒトの戯曲だってJohn Gayの"Beggar's Opera" (1728)をベースにしているわけだし、これは、ここは、G. W. Pabstの映画作品として、貧富や階級格差や官民癒着やその他社会の毒だの菌だの糞だのを音楽と共に吹きまくる当時の「有害表現」として、しっかりと見ておく必要があるとおもったの。

実際にこの映画はナチスによってオリジナルネガも含めて破棄処分にあって、修復が完了したのは60年代。

まったくブレヒトの手から離れている、というわけでは勿論なくて、音楽はKurt Weillのものだし、オリジナルの舞台に出ていた俳優もふたり参加している。  そしてあの時代の空気だの意識だのみたいなものも、当然共有されているはず。

映画としてみたときは、娼館とか隠れ家とかの屋内の描写と、ロンドンのいりくんだ路地、すべての屋根が繋がっているかんじ、その下でひしめく乞食とかいろんな人たち、そしてクライマックスの乞食のデモ行列とQueenの馬車が睨みあうとことか、すばらしいとしか言いようがないところがいっぱいあった。

登場人物に関していうと、MacheathとかPollyとかPeachumとかJennyとか、それぞれが強烈なキャラをもって暴れまわるというよりは、すべてが同じ世界のそこここにいて、それぞれの(ギャングの、女衆の、乞食の、密告者の)層をそれぞれのファミリーを代表する顔、として現れて、そういう動きをするように撮られている。

そうやっているからこそ、ラストの糞も味噌もいっしょ、というか、豚はやっぱし豚、みたいなとこがよりはっきりと出てきて、「あ~あ」というため息と共にポケットの中に握り拳をつくることができるのであった。

Kurt Weillの音楽もやっぱしすばらしい。 画面の陰影、歌うひとの表情にみごとにはまる恨み節とか艶歌とか。でも湿ってなくて豊かに上り下がりして。 
"Mack the Knife"って、ほんとに名曲だとおもうわ。

あと、オリジナルはここまでどんよりと暗く、いかがわしく、毒々しいのに、戦後以降はごく普通のミュージカルになっちゃったのかなあ、と最近の日本の舞台のキャストとかをみておもった(なんだあれ)。 
これじゃあどす黒いどっかの都知事なんかには勝てないよねえ。

12.28.2010

[film] Once Upon a Time in the West (1968)

というわけで、「八甲田山!」とかひとりでつぶやいてみてもぜんぜんしゃれにならない吹雪のなか、もと来た道をLincoln Centerのほうに戻る。 
信号が青に変わって反対側に渡るだけでも戦争してるみたいに難儀で、とつぜん背後から撃たれてしぬんじゃないかとか。 ...つくづくバカだ、とおもった。

で、雪吹雪がびゅうびゅうの日曜の晩8:15から、165分の映画をみる。 
頭のはんぶんは凍えてしんでて、あとのはんぶんは疲れてしんでる。 翌日はもちろん会社だ。

邦題は『ウェスタン』。

でも見てよかった。 しみじみ。
全身の力ぬいて、だれだれになって見てた。 これを極楽と呼ばずしてなんと。

この作品は、もともとTechniscopeていう技術で撮られていて、これのリストレーションは大変だった、といろんなところに書いてあるのだが、ほんとに見事な色、そして肌の質感。 とにかくでっかい音。

人やモノの動きは全て、極端に緩慢か、一瞬でカタをつけるか、そのどっちかしかない。
カメラの視野も全体を見渡せるか、極度なクローズアップかの、どっちかしかない。

それは夢のなかで起こること、夢のなかの動きとおなじようで、だからこれはアメリカの西にいっこの町をつくる、家をつくる、そこには美女がいて、食べ物がおいしくて、というイタリア人の(永遠の)夢とか快楽と連動した物語のひとつ、なのだとおもった。

ストーリーはDario Argento & Bernardo Bertolucci & Sergio Leoneによるもの。
この3人を並べてみるとようくわかるかも。 夢とコネクトしたかたちの現実を語る、夢や妄想が現実を侵食し、Overrideしていくさまを語る名手だから。

こうして、夢と共にゆっくりと形作られていく駅と酒場と町をまんなかにでかでかと置いて、そこに善玉と悪玉と美女と金持ちを呼びこんで、惨劇と復讐のものがたりを再生・反復していくこと。 
音楽はしぬほどドラマチックに、ダイナミックにけたたましく。 
汽車の音、馬の音、鳥の羽音はずっと流しっぱなしでおねがい。

全てが、かんぜんに作りもので人工であることがわかっているのに、なんでここまで魅せられ、そこに留まって凝視せざるを得ないのか。 夢とはそもそもそういうものだからだよ、よい夢も、悪夢もね、て言われている気がした。

そして、強烈な夢がそうであるように、夢のなかで切り取られた一瞬一瞬がいつまでも残る。
それは素晴らしいお食事とか素晴らしいKissとおなじように、たぶん絶対の、究極の快楽への入り口としてあるなにかで、そこに向かってレミングのように突っ込んでいくのがイタリア、なのだとおもう。

なんでこの作品の舞台をアメリカ西部に置いたのか。
それは彼らがイタリア人で、アメリカ人ではないから。 
どんなにがんばってもアメリカ人にはなれないから、なんだとおもった。


映画の帰りはなかなか緊張感があって、いかった。
雪の吹きだまりみたいのがあちこちにあって、はまったら抜けない気がした。
で、はまったら誰も助けにきてくれなくて、シャイニングのJackみたいに凍って発見されちゃうんだわ、って。



写真は、今朝の地下鉄のホーム。 「地下鉄」のホームになんで雪がつもるかね。

[film] Congress Dances (1931)

Boetticherの映像にびりびり痺れてから、外に出て吹雪のなか行軍してさらに痺れる(冷たくてさ)。
無理しないで留まって「大いなる西部」でも見ておけばよかったのに、こっちの(MOMAのワイマール映画特集ね)チケットを貰ってしまっていたばっかしに。

だってこないだの"Early to Bed"で、この時期のドイツのラブコメおそるべし、とおもったので。
『会議は踊る』 - Der Kongress Tanzt 

ええ、これもすんばらしいラブコメ、の亜種、でしたわ。

MOMAのシアター内はどうやってここまでやってきたのか、ウィーン会議の頃から生き延びてきた(わけないけど)ようなお年寄りばっかし。
雪に埋もれて死にたいのか? せめてこれを見てから、とかいうのか?

ナポレオン・ボナパルト失脚後のヨーロッパをどこがどう統治していくのか、を決めようとしている1814年のウィーン会議、の裏ではこんなことが・・・  

国際会議なんてこの頃からろくなもんじゃなかったのね、というのもあるが、それよか、このころから、こんなにあっけらかんと楽しいオペレッタが許されていたのかー、というのにも驚く。(上映の2年後、ヒトラーによって上映禁止となったらしいが)

ロシアの皇帝と町の手袋屋の娘の一瞬燃えてはかなかった恋のおはなし。

会議の主宰者の宰相は、会議をうまく運びたいので秘書を使ってあれこれ画策しようとするのだが、秘書はこの手袋屋の娘が好きでうじうじしてて、皇帝側は皇帝側で替え玉(刺繍が趣味なの)をうまくつかって、適当に遊んだりはぐらかしたりしようとしてて、まあ、そんな駆け引きあれこれで、会議も、会議の外も、踊るわけさ。

手袋屋の町娘をやったLilian Harveyが、すんばらしくよい。
恋して夢見る乙女の挙動、手つき腰つき足のふりを全身で、漫画みたいにパーフェクトに決めまくる。
笑って泣いて意地はって、酔っぱらって歌って、だって相手は皇帝なんだもの、と突進あるのみ。
そう、まちがいなく、Kirsten Dunst の御先祖さんはこいつだ。

彼女が皇帝のVillaに招かれて馬車に揺られていくシークエンスは、夢のようにすごい。
歌があり踊りがあり、それにあわせて道はゆっくりとうねってとてつもない大名行列をつくる。

カメラはCarl Hoffmann、音楽は"Early to Bed"とおなじWerner R. Heymann、てこのひと、ルビッチの代表作の音楽ほとんどやってるのね。

これでハッピーエンドだったら、と誰もが思うにちがいないが、映画の主役はあくまで踊る会議さんだったので、しょうがない。 でもこれのおかげで、だから国際会議なんてくそくらえなんだ、と民衆の脳裏には恨みに近いかたちで擦りこまれてしまったにちがいないから、これはこれでよしとしよう。

いちばん前の席で音楽にあわせて楽しそうに首と指揮棒をふっていた小柄なおばあさんは、無事帰れたのかなあ。

写真はMOMAの中庭にいるピカソやぎ。 本日(12/27)のご様子。

[film] Seven Men from Now (1956)

26日から、Lincoln CenterのFilm Societyで"20 Years of Martin Scorsese’s Film Foundation"という特集がはじまった。

こないだ見た”Limite”(1931)の修復もこの団体がやったのだったが、世界中のいろんな名作を修復してアーカイブしているここの設立20周年で、これまでに関わってきたいろんな作品をお蔵だししてみましょう、と。

たぶん、暮れから正月はこれに通っておわるんだ。

んで、26日は、まるいちんち4本、ぜんぶ西部劇の日で、そのうち3本を見て、1本だけMOMAにいった。

Lincoln Centerでのだしものは、順番に"The Big Sky" (1952) → "Seven Men from Now" (1956) → "The Big Country" (1958) → "Once Upon a Time in the West" (1968)

で、このなかで、見なかった1本ていうのは、"The Big Country"ね。
会員じゃないひとは1本$12なのだが、3本パックというのがあって、これが$27なの。

雪吹雪の日にこういうのを見るのもなかなかいかった。
客はどの回もぜーんぜんいなくて、前の座席に足なげだしてだれだれになって見てた。
極楽でしたわ。

"The Big Sky" (1952)  邦題『果てしなき蒼空』 138m.

Howard Hawksなので、なんでも、なにみてもいいにきまってる。
19世紀のはじめ頃、流れもののKirk Douglasが旅の途中で若者(Dewey Martin)と出会って、若者のおじさんの船にのって毛皮の交易でミズーリ河をのぼっていくの。

船はSt.Louisから出てるのでフランス語話すやつとかいっぱいいるし、インディアンもいるし、旅の途中で当然、悪党とかインディアンとか、いろんなのが出てきていろいろあったりするの。

西部劇、というよりは群衆劇にちかくて、ひとりひとりのキャラクターの造型とかちゃんとしてて、明確なヒーローとかヒロインがいるわけでもなくて、強烈な悪人がいるわけでもなくて、全てが一件落着するわけでもなくて、今のダイバーシティの時代を200年先取りして、でっかい空の下、に実にでっかい、揺るぎない物語が展開していくの。 

人々はこんなふうに集まってやりとりとかいざこざがあって、それでまたそれぞれのところに散っていく。
でもまたどっかで会えるさ(会えないだろうけど)、みたいなおおらかなかんじが、とってもよい。
肌の色とか赤とかテロとかわあわあ言いだす前のアメリカはこうだったはずなんだけど、って。

そう思ったときに、"The Big Sky"ていうタイトルがまたしみてくるのよね。


"Seven Men from Now" (1956) 邦題『七人の無頼漢』  78m.

そういえば、Budd BoetticherのBox、買ったけどぜんぜん見てないや。

冒頭の稲妻の轟音でみんなびっくりしてた。

無愛想なシェリフ(Randolph Scott)がなんかを追っかけているらしく、その途中で南に行くっていう夫婦と一緒になって、南のほうはあぶないからやめたほうがいい、と言ったのに彼らはどうしても行く、っていうのでついていくの。
そのうち悪そうな連中(Lee Marvin、すごし)も一緒になって、彼らの会話を通してだんだんいろんなことが明らかになっていくの。

ものすごくおもしろくて、Eastwoodが影響受けた、というのがよくわかるつくり。

ああいう原野のまんなかで、善悪とか法とか、そういうのっていったい誰が、いつ決めるのか、という話なの。
それって数(Seven Men from now)できまるのか、銃の扱いがうまいやつなのか、シェリフだったらなにしてもいいのか、復讐は許されるのか、アウトローは(Out-Lawだから)適用外なのか、とか、いろいろ。

そして、そういうゲームのルールとか規範とか、骨組みたいなのを外したり棚上げしたりしてみたときに、西部劇というドラマはどんな様相をみせるのか?

照りつける光と影と、そこに浮かぶ幽霊のような人の姿とか、それらの間をすりぬけるように冒頭の稲妻のように一瞬でカタがついてしまう銃のアクションとか、そういうのが焼きついてくるの。 

純化された活劇、のようなものとしての西部劇。

それでじゅうぶんかっこいいから、いいの。  ...で、よいのか、な。

[film] It's a Wonderful Life (1946)

25日、”Little Fockers”の後で、IFC Centerにむかう。
この季節になると定期上映館では定番Christmasクラシック映画の特集を組んでくれたりするものなのだが、今年はなんでかあんましない。 BAMのCinematekはお休みしてるし、やってるのはFilm Forumのあれと、IFC Centerのこれ、くらい。

予告でかかったのがアニメの「サマー・ウォーズ」、英語題も"Summer Wars"と、Phil Ochsのドキュメンタリー!!! みたいよう。

”It's a Wonderful Life”は見たことなかった。
クリスマスにはTVでいっつもやっている(やるものなのだ)し、タイトルが"It's a Wonderful Life"で、邦題が『素晴らしき哉、人生!』で保険会社かよ、てかんじだし、旧パンクで育ってきた自分とは関係ない世界のおはなしだと思ってきた。

でもちょうどChristmasだし、ちゃんとしたスクリーンで見れるし、みんなふつうに誉めてるし、James Stewartだし、いっちょう見てみるか、と。

いかった。 元気をもらう、とか、生きる勇気がわく、とか、自殺をおもいとどまる、とか、そういう類のもんではないとおもうが、ドラマとしてとてもよくできているとおもった。

天使の住む天上があって下々の庶民が住む下界があって、主人公であるGeorge Baileyの生い立ちと人格と家族と職場と、があって、そんな上下縦横のいろんな網目が、後半の事件以降に一挙に俯瞰されたでっかい絵となって目の前に出てくる。

町中のひとりひとりの妙に変な挙動(みんながみんなをしってる)、妻Maryのこまこました変なとこ(ターンテーブルでロティスリーまわすとか)、職場でなんであんなにいっぱい動物飼ってるんだ、とか、あちこち変なところがいっぱいあるのだが、そういう変な要素をきちきちちゃんと描いているので、そういうのがラストの俯瞰図のところと、大円団のとこでたまらなく愛おしいなにかとなって噴出してくる。 その出しかたが、なんかよくて、"Wonderful Life"っていうのはそういう連中(てめーらってやつあ...)ぜんぶひっくるめて、なのね。

んで、悪いやつらは、それはそれで生き残って、世の中に住みにくい街をいっぱい作っているわけよね。 ふんとにWonderful、だよねえ。

そんなふうに、みんなで納得して揉み消しあうのが、Christmasなんだね。 ちがうか。

あと、「自分なんて生まれていなければよかった世界 → 自分が生まれてこなかった世界」のありようを眺める「自分」、これを眺める「自分」ていったいなんなの? 誰なの? というのはなかなかおもしろいテーマかも。

James Stewartは、最後のほうの、なりふりかまわず訳わかんなくなって崩れていくあたりが、すばらしい。
雪の町中をわあわあ言いながら走りまわるとことか。

天使がぼろいおっさんで、ほとんどあんま貢献しないとこもよいよね。

23日と24日の夜の上映のときには、Mary役のDonna Reedさんの娘さんが挨拶にきてお話していったの。  きっとよいお話が聞けたことでせう。

セサミストリートのBertとErnieの名前って、この映画の警官とCabドライバーの名前から取られたのかー。  それもなんかいいなー。

[film] Little Fockers (2010)

25日のクリスマスの日。 
こっちのクリスマスはお正月とおんなじで、映画館以外はほとんど閉まっちゃって行くとこなくなってしまうので、映画にいく。
で、なんとなくお正月ぽいホームドラマ、ということで "Little Fockers"を見る。 

予告でかかった"Your Highness"、かの”Pineapple Express" (2008)の監督によるダンジョン(?)コメディで、Natalie PortmanにZooey DeschanelにJames FrancoにDanny McBride! ぜえったいおもしろいよこれ。

えー、"Little Fockers"は、”Meet the Parents”と"Meet the Fockers"に続く第3弾ね。 
前2作はどっちもたしか飛行機のなかで見た。

1作目は婿側が義理の両親になる人たちと会う、2作目は婿側の家族と対面する、と一応それなりの儀礼とかしきたりに沿ったところで発生しがちなふつうの家族の惨劇を笑いとばす、という大筋(「xxxの巻」、みたいな)があったように思うが、もう各登場人物のキャラも定着してきた、ということで結構てきとうにやりたい放題やっているかんじ。

一応、双子の子供(孫)達の教育とかお受験とか浮気疑惑とか家系図、みたいなテーマもないことはないが、主軸はやっぱりBen StillerとRobert De Niroの確執とか騙し合いとか、面白いのはここだけかも、というくらいに両者の意固地なとっくみあいがたのしい。

De Niroが顔をぴき、てひきつらせてちょっとだけ青筋たててだんだん顔が赤くなっていって、それにBen Stillerがはいはいまたはじまったよこのじじいは、というかんじでてきぱき捌いていく、もうほとんど掛けあい漫才の域に行っているのではないか。

しかも、今回のDe Niroは"Cape Fear"と"Raging Bull"をやってくれたりする。
自分がこの映画のProducerでもあるし、たぶん自分でやりたくてやっているのだろうが、なんかすごいなあ、もう過去のじぶんとかどうでもいいのかなあ、って。

監督は”American Pie” (1999)と"About a Boy" (2002)のPaul Weitzさんで、だから、しょうもない下ネタ関係は、バイアグラねたとかJessica Albaとかをうまく使ってアメパイから、子供のゲロねたは"About a Boy"とかから、ちゃんともってきてうまくリサイクルしている。

それにしても、Jessica Albaってああいう頭のたらなそうなきゃうきゃう系の役やらせたらほんと天才かも。
しかし、”Love and Other Drugs”を見ても思ったが、製薬会社の営業って、みんなあんなかんじなのかなあ。 たいへんだよねえ。(ひとごと)

このシリーズ、年に一回くらいのペースでこんなふうに出していってくれたら楽しいのになー。
98分間、げらげら笑ってて、あとになんも残らない、ってなかなかできることではないとおもうの。

次回はそうだなー、De Niroのボケがはじまって大騒ぎ、とか。

12.27.2010

[log] Snow Storm - Dec.26

ゆきあらしーはたのしいなー♪

今日の午前中からちらちら降りはじめた雪、今日は昼からずうっと映画館に籠っていたのだが、休憩で外にでるたびにひどくなっていったの。

失敗、というほどのことではないが、いちんち同じところにいようと思えばいられたものを、夕方に1本だけ見にMOMAに行ったのね。 Lincoln CenterからMOMAって、実に中途半端な距離で、傘なんてきかないから、体じゅうとんかつの衣つけたみたい(揚げる前ね)になった。

で、晩の8時にまたLincoln Centerに戻って、11時に終って帰ったのだが、それはそれはすごくて、たのしかったざんす。雪が。 あ、映画も。

写真は左から時間が経過した順。 とにかく風がすごくてぶれた、ということで。

 

12.26.2010

[film] Somewhere (2010)

Blizzardがきますよ! てニュースで言っている。
昨日の変な頭痛はそのせいだったのか。


クリスマスイブの昼間は、なんだかとっても穏やかでいくつかお買い物のとこにも行ってみたが、そんなには殺気だっていなくて、つまんなかったかも。

晩はBrooklynのPrime Meatsで、お肉を食べた。ほんとにPrime Meats、としか言いようがないお肉だった。

で、晩の9:20からAngelikaでSofia Coppolaの"Somewhere"をみる。
今年のベネツィアで金獅子を獲ったやつね。
イブの9時過ぎからこんな映画見にくるやつなんてろくなもんじゃねえ、であったが半分くらいは埋まっていたかも。

売れっ子俳優(Stephen Dorff)がハリウッドのホテル"The Chateau Marmont"にひとりで滞在してて、遊んだりセックスしたり寝たりの無為の日々を送ってて、たまに娘(Elle Fanning)が訪ねてきて、そのときだけちょっとだけ明るくなる。

で、娘が帰っちゃうと、"I'm fucking nothing…" って泣くの。

それだけの話なの。 ほんとに。

Sofia Coppolaの世界は、"Lost in Translation" (2003)以降、いちおう一貫していると言ってよいだろう。("The Virgin Suicides" (1999)は原作があるやつなのではずす)

どんな豪勢で高貴な暮らしをしていても、ひとは孤独になるし、さみしいし、居場所がなくてやりきれなくなるものなのよ、と。

"Lost in Translation"では、ぽつんと異文化の高層ホテルに置かれたビジネスマンの孤独を、"Marie Antoinette"では、異国の王室に嫁いで、宮殿でホテル暮らしをしているみたいなお姫様の孤独を描いた。

"Somewhere"もロスのホテルを基点に、主人公は車で出かけたり賞を貰いにイタリアに行ったりするものの、ひとは周りにいくらでも寄ってくるものの、彼の孤独を癒すことはできない。(オープニングの車でぐるぐるまわっているだけのシーンに集約されている)

そういう場所をどこか - ”Somewhere”- に探す、というはなしでも、そういう場所がどこか - ”Somewhere”- に見つるかも、というはなしでもなく、そんなのどこでもいい、どうせどこでもおんなじだ、の極めて投げやりな場所として、"Somewhere" は置かれている。 
わかんなくはないよ、とは言おう。

そして、そんな"Somewhere"の反対側にあるのが、過去の作品からは周到に排除されている"Home"という要素 - "Marie Antoinette"はじぶんの”Home”をつくろうとちょっとだけ格闘する話でもあったが - であり、この映画で唯一そういうそういうのを持ちこんでくるのが娘のElle Fanningが出てくるシーンで、ここはやっぱり明るくて楽しくなる。 ほんと綺麗なお嬢さんだよねえ。あの驚異的にすらっとした足とか。

でもさあ。

自身が大金持ちのセレブであるところのSofia Coppolaの、これがリアルであるのかもしれないし、こういう世界しか知らないから他のテーマを描きようがないのかもしれないけど、もういいよこんなの。 学生の自主映画みたいだよ。

えんえん続く、さほど意味があるとは思えない長回し、音も画面構成もはっとする瞬間が来るわけでもない。 あくまでも平熱状態に置かれたある場所、ある時間。
いろんな人や思いが交錯する「ホテル」という場の特異さとか、そういうかたちで描かれうる場所があり時間がある、ことはわかるけど、でも、もういい。

「わかる」と「わかんない」の間でジェスチャーみたいなゲームを、半ばわかったようなくすくす笑いを、ずうっと続けていられるほど、そういうのにつきあってあげられるほど、ひまじゃないのよ。
業界のお友達はいくらでも"Beautiful!"とか誉めてくれるかもしれないけどね。

んで、そういう反応も全部計算済み、のように見えるとこもなんかやでさあ。

Stephen DorffもElle Fanningもすごくちゃんと演技してて、だからこそ、なんとかならなかったのか、とか。

エンドロールで流れるBrian Ferryの"Smoke gets in your eyes"は、愛に溺れた自分自身の位置をあえて優しく皮肉ってみる美しい曲でしたが、それがほんとにしゃれにならない滑稽さでもってこちらに響いてくるのだった。

ここのAngelikaは、横を走っている地下鉄の音ががんがん聞こえるシアターでもあるのだが、この映画にかんしては、地下鉄のノイズがなんだか妙に心地よく聞こえてきたの。

[film] True Grit (2010)

金曜日は、穏やかなクリスマスイブで、暑くも寒くもなくて、ふん、というかんじで朝から外にでる。 

この作品はなんとなくシネコンのデジタルでは見たくなくて、近所のZiegfeldていう古くて奥ゆかしいとこに行く。 このシアターのデコールはほんとに素敵なのよ。  新宿ミラノのでっかいとこをすごくゴージャスにした… ていってもわかんないか。

Coen兄弟のはあんまちゃんと見たことはなかったのだが、予告でみたJeff Bridgesがごにょごにょなに言ってるかわかんなくて、よさそうだったので。

臭みたっぷりの変な男達がいったりきたりする、というのがCoen兄弟ものに抱いてしまうイメージだったとおもうのだが、この作品の主人公はどちらかというと女の子で、彼女の仇討ちがお話の中心なの。

で、この14歳の娘っこがすごく明晰でぱきぱきしてて大人もたじたじで、そんな彼女が雇ったのが片目の飲んだくれの、昔はすごかったらしいが、いまは腕がたつかどうかはわかんないJeff Bridgesなの。

それから銃の腕はしっかりしていそうだがおしゃべりで、いろんなアクセみたいのをじゃらじゃら鳴らしててすぐにいじけて涙目になるTexas RangerのMatt Damonもついてくる。

この三人がパパの仇のJosh Brolinとその一味を追っかけるの。
季節は冬になろうとしててところどころとっても寒そうで。

あんまし緊迫感とか激情とかはあんまなくて、あくまで雇われ仕事としての追跡、でも決めるとこは決めるから、たまにこけるけど、というところがよいかんじがした。 Jeff Bridgesは最後まで言ってることが半分くらいしかわかんなかったけど、でも、そういう鳴き声の獣、と思えば別にぜんぜん。

なにがよいかって、Jeff Bridgesが片目で真顔になって静かにガンを飛ばしてくるとこと、銃をぶっ放すとこ。ほんとにぶっ放す、というかんじで撃つの。
(空に向かって撃つとこと、トンネルの向こうから撃つとこ)

あとは、Roger Deakinsの撮影。溜息がでるくらいに美しい秋〜冬の森と野原。
このためだけに劇場に足を運ぶ価値あります。

森から馬にのった熊がでてくるとこもすごくいい。
穴に落っこちたとこの顛末は勘弁しておくれよ、というかんじだったがそこはCoen兄弟だなあ、て気もした。

一応この作品は、おなじCharles Portisの小説をベースにした69年のHenry Hathaway監督の同名映画のカバー、でもあるのだが、オリジナルが主演のJohn Wayneをオスカーに導いているのと比べると、どうなのかしら。
Jeff Bridgesは結構余裕で飲んだくれのガンマンを自分の領域に引き込んでいる気がして、それはもちろんよいことなのだが。

ちなみにオリジナルではMatt Damonの役をGlen Campbellがやってて、他にはRobert DuvallとかDennis Hopperも出ている。 
見たいかも。(ひょっとしたらどっかで見ていた気がしてきた…)

12.24.2010

[film] Early to Bed (1932)

クリスマスイブの前日だというのに幽霊がでてあきれたが、クリスマスなのでなんもしないでほうってでる。

ほんとは、7:00からMOMAでBertolucciの"La luna" (1979)を見る予定だったのだが、30分前に付いたら売り切れのStand-byの列が既にながーく出来てて、またかよ、とあきれつつ、悔しいので一応並んでみる。 そしたら手前5人くらいのとこでアウトになってしまった。 自分の後ろにはあと10人くらいはいた。

しょうがないので別の映画にしようかー、と思ったら、並んでた人たちはみんな7:30からはじまるワイマール映画特集のほうのチケットを貰っている。

あの、あなたたち、悔しくないの? 映画ならなんだっていいわけ? イブの前日だというのに? とか言ってやりたくなったが、みんなあまりに平然とチケットくれとかゆっているので、自分もつい貰ってしまった。 日本人だし。

というわけで、パンフの解説によるとコメディぽいがそれ以外はまったく得体のしれない映画を見ることになった。 いいじゃないのイブの前日なんだから。

32年の、Ludwig Berger監督(このひと『バグダッドの盗賊』(1940)の監督なのね)作、独語題は"Ich bei Tag und Du bei Nacht"、直訳した英語題は"I by Day, You by Night"、邦題は『私は昼あなたは夜』。一応日本公開されているらしい。

これはねえ、すんごい当たりだった。 おおあたり。
Bertolucciよかぜんぜんおもしろかったかも。(負け惜しみ)
サンタさん、ひょっとして、今年はこれでもうおわり?

下宿屋の同じ部屋で、同じベッドを共有しているふたりがいるの。
女の子は昼間の仕事(ネイルサロン)だから夜だけそこで寝て、朝に彼女が出かけると夜勤(ウェイター)から帰ってきた男がそこのベッドで寝るの。 

がめつい大家のおばさん -なんでか自分を貴族の出だと信じこんでいる- が二人が顔をあわせたり鉢合わせしたりしないようにコントロールしているんだけど、その時点でなんか変。
でもふたりは当然のように、男の野郎があたしのドレスを床に落とした、とか、またぼくの帽子を転がした、とかぐちを言いつつ暮らしているの。

で、そんなふたりが町で会って、お互い相手のこと知らないし、どっちもどっちをお金持ちと思いこんで、身分違うなーと思いつつ自分の職業は言わずに、とりあえずデートして、で、やっぱりなんかお互い好きになるんだけど、それぞれの思いこみから、事態はこんがらがった方に転がっていくの。 ラストはいわなくても、ね。

男のほうの友達が映画館で映写技師をしてて、彼が映写している映画の設定とか映画で流れる歌がそのまま主人公達の世界に被さってきて、この演出もなんかよいの。

歌がまた素敵でねえ。「日曜日の夜には映画をみるの。そうすると憂鬱な月曜もなんとかなるの」みたいな。 うんうん(涙)。

女の子のほうがそんな美人じゃなくて、そこらにいそうなかんじなんだけど、すごくよいの、さばさばしてておきゃんで、今でいうとReese Witherspoonあたり、かなあ。

ルビッチのラブコメの、あのうわぁー♡ってくるかんじに似てて、なんか関係あったのかしら。
30年代初というと、ルビッチを師と仰ぐビリー・ワイルダーがウーファで脚本を書き始めたころだし、きっと影響は受けてるよねえ。

ルビッチといえば、Film Forumで"Cluny Brown" (1946)がはじまったの。
もう何回も見ているのだが、どうせまた見るわよ。

というわけで、クリスマスの3連休は、映画どっぷりになるもようー。
あーでも、寒かったら籠ってねるだ。


すんごくどうでもいい話だが、”Ludwig Berger”でググったら「バーガー社会学」のPeter Ludwig Bergerがいっぱい出てきたので笑った。
久しぶりだな、あんた。

12.23.2010

[music] Lady Lamb the Beekeeper -Dec.22


仕事のこりも秒読みがはじまってしまったので、やるきがでないことったらない。

こういうときはオフィスに残っていてもしょうがないので、早く抜けてOther musicに行った。
けど、やはり、ぜんぜんなかった。

んで、HoustonのWhole Foodsの2階で軽くごはんをつまんでからMercury Loungeにいって、ライブを1バンドだけ。 前売りでも当日でも$10。

Aly Spaltroさんていう女の子がやっているバンド、Lady Lamb the Beekeeper(女子羊・養蜂家)。といっても彼女ひとりなのだが。

Boston Music Awardsの今年のFolk Artist of the Yearていうのを受賞してて、Amanda Palmerさんが絶賛しているという、それだけで。

NYではここ数日間、4箇所くらいでライブしてて、MercuryのはFavourite Sons他、計4バンドがでるやつの一番最初。客は20人くらいはいたか。

大きなメガネかけて、とりあえずギターは抱えただけ、歌のみで1曲。
声のでっかさと伸びのよさにびっくりする。そんなに高い声ではないが中〜低音域のどすのきいたかんじがすばらし。

「わたしの名前はAly Spaltro。これがわたしの音楽で、これがわたしのバンド、Lady Lamb the Beekeeperっていうの。」

2曲目以降はメガネをはずして、電気ギターをがしゃがしゃやりつつ、5曲くらい。
声の勢いは衰えることなく、張りあげたときに不安定になったりするとこもあったが、ぜんぜん問題ない。

この声はFolk singerのそれじゃないよね。

いまみたいになってしまう前、出てきた頃の猫力にちょっと似たかんじだが、あれよかパワフルで、怒らせたらすごくおっかなそうだが、でも素敵でした。

わたしは新人の予測とかしても当たったことないのだが、この娘は断固支持することに決める。
それにしても、Screaming Femalesのガキといい、この娘さんといい、さいきんのちびっこパワーはすごいね。

1月にはEvan Dando & Juliana Hatfield(こいつらまだくっついてるのか…)のサポートをするそうです。

彼女のあとで、2つめのバンドの最初のほうまでいたのですが、大惨事ぽかったし外が寒そうだったので、でました。

まだ10時前だったのでMcNally Jacksonに行った。
Thurston Mooreがゲスト・デザイナーしてるZeotrope: All-Storyの冬号と、変な雑誌シリーズは、"Chelsea"ていうファッション・ミニコミ(?)、バッチが3個ついてて、写真とイラストのかんじがよかったので。

あと、子供の頃だれもが読んだはずのルナール「博物誌」があったので懐かしくて買ってしまう。 このイラストって、ボナールだったのか。

蛇: ながすぎる     とか。

あと、Village Voiceの2010年の映画特集"the Year in Film"が置いてあったので持ってくる。 Critics' pollはこちら。 見ていないのばかりでびっくりした。


部屋にもどったらTVで"Alvin and the Chipmunks" (2007) をやっている。
たまんないー

 

12.22.2010

[film] Deep End (1970)

月曜日の晩は、Carnegie Hallで年末恒例の”Messiah”があって、同志Mが歌う(そう、同志MのやろうはCarnegieのステージに毎年立っている)のを聴きにいくはずだったのだが、会議でだめになってしまったので、それよか遅い時間にやっている映画のほうに試しに走ってみたら、こっちはぎりぎりで入れた。

なんでか突然、Lincoln Centerで組まれたJerzy Skolimowski特集(2本だけだけど)。
監督の挨拶つきで、最新作の"Essential Killing" 上映(これは時間的にむり)、そのあとで、40th Anniversary screeningということで"Deep End" (1970) - 『早春』、ですね。

Skolimowskiは、結局、『アンナと過ごした4日間』も見逃してて、だからこれがはじめて。

上映前の監督挨拶はポケットに手つっこんで、サングラスの向こうからギャングみたいにこっちを睨みつけて、「Skolimowskiです。 あーさっき挨拶した連中もいるな。 えー繰り返しになるけど、自分にとってのBestはさっき上映した"Essential Killing"で、Second Bestがこれだ。 よろしく。」  こんなかんじ。 かっこいいー。

プール付きの公衆浴場で働きはじめた15歳のマイク(John Moulder-Brown)が同僚のスーザン(Jane Asher)を好きになって、彼女のことを一途に追っかけまわして、そのあげくに。

ストーカーもの、て言おうと思えば言えるのだろうが、主人公の容貌のせいかそういう気持ちわるさ(執着や計算)はあまりなくて、思春期の少年のやみくもで切羽つまった思いが奇行を生んで、やがて自分でもなにをやっているのかわからなくなっていく。 その目線や視界の混乱とあたふた錯乱したかんじが、フィルムの隅から隅まで充満している。

『早春』ていう邦題もわるくないけど、要は『やけくそ』 ってことだよね、これ。

こういうちょっと変な、変になっちゃった若者をテーマにした映画は日本にも昔からいっぱいあるが、これらをぜんぜん見る気がしないのは、「あたしって天然なの」ていう女のひとが実はぜんぜん天然じゃないのとおなじで、ちっとも変にみえなくて滑稽なだけで。

この映画、スーザンも、その婚約者も、職場のひとたちも、その客も、「まとも」と呼べそうなひとはひとりも出てこない(この辺の微妙な怪しさ、それを瞬時に切り取る手つきの鮮やかさ)。
極端なクローズアップとみごとなロング、そして突然走りだしたりするカメラが、そいつらのいかがわしさを際立たせ、マイクの焦燥と苛立ちを眩暈とともに運んでくる。

主人公は殆どしゃべらない。独白もしないし正面切って告白することもない。
興奮した獣とおなじで、檻のなかをふーふー言いながら行ったり来たりしている(たまにホットドッグを食べる)だけで、そのうちお堀(プール)に落っこちちゃうんだけど。

あと、なんといっても特筆すべきはその色彩で、冒頭の血のような口紅のような赤、スーザンの赤毛と黄色いコート、壁の錆びたような緑、そしてプールの水の青。 水中撮影の美しさには息を呑む。 この透明な青、死んだインクのような青のなかでのみ、彼は彼女の裸に触れることができるの。

音楽は、主題歌がCat Stevens。 
そして、いかがわしい繁華街のなかで延々流れるのがCANの"Mother Sky"("Soundtracks" -1970 にも入っていた)。   大画面の上でのたくるHolger Czukayのベース、夜を切り裂くMichael Karoliのギター、これらが衝撃的なまでにはまっている。 CANの音って、どちらかというと単独でひとつの世界を作ってしまう、囲ってしまうようなイメージがあったが、そうではなかった。 すさまじい相乗効果をうんでいた。

"Essential Killing"も見たいよう。


火曜日なので、"Glee"を楽しみにして帰ったらやっていなくてかなしかった。
かわりにSNLのChristmas Specialをやっていたので機嫌がなおった。なつかしーのがいっぱい。

12.21.2010

[film] King's Speech (2010)

日曜日は、前日のあれもあって外をうろちょろするかんじでもなかったので、映画を1本だけ。

IMAXの3Dで"TRON"でも見て、あれこればかにしてみる、というのもやってみたかったのだが、それはそれで体力がいるような気がしたし、IMAXのチケット、昼間の分は売り切れていたのだった。 ふうん。

LincolnのAMCで"King's Speech"を見る。
ここのシネコンにはシアターごとに番号ではなく名前がついてて、この映画は、"King"ていう部屋でやってた。
20分前に入ったら席が殆ど埋まっていたのでおどろく。 しかもお年寄りばっかし。
そうだよねえ。 "TRON"なんてかんけいないよねえ。

どこからか突然あらわれて、Golden Globesの最多を含むいろんなノミネーションをかっさらっている英国のIndependent映画。 実話ベースの。

今のエリザベス女王のパパ、King George VIは吃音癖があって、だからSpeechとかがうまくできなくて、それを克服するためにオーストラリア人のセラピストが雇われて、ふたりの間には友情がうまれて・・

ここまでは知ってた粗筋で、でも実際にはうんといろんな要素が入ったおもしろい作品でした。
Holidayに家族でみるにはとってもよいかも。

家族のおはなしであり、歴史ドラマであり、王室モノであり、階級のおはなしであり、友情のおはなしであり、教育のおはなしであり、これら全ては、(話の性質故)どちらかというとClosedな世界でじりじりと展開していくのだが、最後の最後にそれが、Speech、しかもKing's Speechというかたちになって世界(ほんとに全世界)に向かって放たれる。 
それが解き放たれる直前の緊張と解放の瞬間のカタルシスがすばらし。 

ちゃんとした正統・正調の英語のSpeechができるようになるための、なるまでのドラマをろくに英語もできないような奴(ちなみにわたしの英語の殆どは、サウス・ブロンクス育ちのプエルトリカンに教わった)が見て聞いてわかるのか、という若干の不安はあったが、案外わかるものでしたわ。
でもあっちの、イギリスの英語って、わざとつっかえて苦しみやすいように作っているのではないか、とか少しおもった。 これはいつものことであるが。

王様と先生、彼らふたりがばりばりがんがん喧嘩して別れたり迷ったりしながら彷徨うあちこちの小路や岐路に、例えば王様の家族がいたり、王室の事情があったり、庶民の家族があったり、当時の政局や世界事情があったり、そいつらをぜんぶ、おもいっきり黙らせてやるためには、厳格で流暢なSpeechと"Voice"がなんとしても必要で、そんな"Voice"が"Shit"だの"Fuck"だののdirty wordの連発や、「俺の椅子(王座)に座るんじゃねえ!」みたいな、どなりちらしたり捲くしたてたり、怒りのばくはつのなかで獲得されていくのが痛快でおもしろい。

このへん、RapのRhymeとおなじようなかんじなのかも。
歌を歌いながらしゃべるレッスンのシーンがあったが、今なら間違いなくRapでやるよね。 だれのがよいのかしら。

俳優陣のアンサンブルはほんとに見事で巧くて、King George役のColin Firthも、先生役のGeoffery Rushも、どっちが/どっちも賞貰ったってぜんぜん文句ないかんじ。 

Helena Bonham Carter さんは、いつハリポのBellatrixみたいに「しゃーっ」とか、アリスのRed Queenみたいに頭が膨らんで「きぃーっ」となるか、どきどきしつつ見ていたのだが、ならなかった。 ちょっとざんねん。

あとね、どこまでがほんとの事実なのか、という点はあるにせよ、ほんとにこれらのことをこまこまやっていたのだとしたら、やっぱりイギリスの王室って世界のみんなから愛されるよね。なんとなく。

厚顔ナショナリストとか自己啓バカとか、声にだして日本語うんたらのバカとか、そういうのに安易に利用されないことを祈りたい。

12.20.2010

[music] Prince 'Welcome 2 America' -Dec.18

”1900”から”1999”のほうへ。

あんまし報われなかった2010年をしめくくるのはこれしかない。
Princeの"Welcome 2 America"と題したツアーの、NJからつづく3回目。
チケットは早めに売り切れていたのだが、Ticketmasterは何度かやっているとたまに引っかかることがあって、それを日々やっているうちに$200のが釣れた。

これでもステージの後ろ側の上のほうで、さすがに躊躇したが、もういいや、年忘れだし、と取ってしまったのだった。 でも取ったあとでも延々後悔したり開きなおったり。

でもいいの。あの男なら。裏切られたって。
そして、彼のライブを経験したことのある我々は、ぜったいにだいじょうぶだ、ということを知っているのだ。 

だかやがて、そうやって悶々としていた我々のもとに、18日のみSheila E.がゲストで参加する(本編のライブのほうに)というニュースが届き、ああ買ってよかったありがとうかみさま! と思ったのだった。

着ていく衣装なんてもちろん、ない。 靴下だけ、いちおう紫色にした。

映画が終ってMOMAを出たとこで、7:30だった。
たしかライブの開始も7:30だったはずだ。 というわけで走る。
いちばん最初はコメディアン(Sinbad) のおしゃべりだったからいいの。

でも2番手のGraham Central Stationはみたいよね。

Madison Square Gardenはリノベしたという話だったが、なにが変わったのかわからないくらい、変わっていない。

ステージはまんなかで、あのPrinceマークの形をしてて、その男と女とおかまの穴のとこにドラムセットとかが入っている。座ったのはそのま裏、裏でも来てくれるよね。

Graham Central Stationはもうはじまってて、自分たちのをひと通りやったあとで、Larry Graham先生が、この会場で最後にライブをしたのは、あのバンドにいた頃じゃった・・・ タイムマシーンに乗って、あの頃に戻ってみようじゃないか、と。(ばんざーい!!) 
というわけで、タイムマシーンの音(チロリロ…)のあとで、Sly & the Family Stoneのメドレーがはじまる。

"Everyday People"やって、"Dance To The Music"やって、ああほんものの、あのベースだあ、とかぶるぶる震えまくり、"Thank You (Falettinme Be Mice Elf Agin)"の演奏の途中で、バンドが演奏しながらステージから客席の通路のほうに降りてきたのでそのまま消えてもう終わりかとおもったの。

そしたら突然にドラムスの音がぶっとくなり、ざわざわしたと思ったらステージの中央に細い黒マントと黒帽子のシルエットが!!!

というわけで、Graham Central StationにPrince(+彼のバンドの一部)が入ってSlyの曲をやる、という吐きそうなくらいにすばらしい展開になって、客席は大騒ぎのパニックにおちいる。
この後、更に"I Want to Take You Higher"、までやって、ぐしゃぐしゃにかき回してすうっと消えていった。 

どうしよう。これだけやってもまだ前座だなんて。 

本編がはじまったのは9時10分くらいか。
前座からずうっとわあわあ言ってはしゃいでぐったりしてきていたので、導入のとこはそんなには来ない。 ほとんどまっくらだったし。少しはセーブしておかないと。

3曲目くらいまでは軽い紹介、というかんじで、そのあと再びまっくらになり、あのオルガンの、ながいながいイントロが続き、"Dearly beloved"のフレーズがちょっと響いただけで、客席は再び沸騰状態になる。

間に"Delirious"をはさんで、ノンストップで"1999"になだれこむ。 殺す気か。

ここからはもう夢のようで、あんま書くこともないか。
ひたすら圧巻で、心地よくて、よだれたらしてた。

”U Got the Look”でSheila E.さんが出てきて、まあずうっと大騒ぎで、それはそのまま”The Glamorous Life”までいく。
スティックをほいほい飛ばしながらのパーカッション乱れ打ちはすごかった。終わりにスネアをがーんと背負い投げしていった。 かっこいいねえ。

ここで彼女はいったんひっこんで、"Nothing Compares 2 U"のあとで、クライマックスはもちろん、"Purple Rain"。

彼のギターはかつての変なシェイプのではなくて、メインはふつうのテレキャスターだった。 それでもあれだけの音がでる。

これはほんとにえんえんと続く、極楽浄土でした。
「ふぅーぅふぅー」のとこだけで5分以上やっていたかもしれない。というか我々が、やっていたのだ。やりたくて。 えんえん。帰りの地下鉄でもみんなやってた。

で、それが終って、もうだめだ、これいじょうはしゃいだら死んじゃう、とぐったり椅子に座っていたら、暗闇のなか、突然 ”Kiss”のイントロが稲妻のように響いたので、立ちあがるしかないよね。

曲の終わりのほうで「まだ帰りたくないんだ、ずっといっしょにいたいんだ」と叫び続ける彼。 そして、あの最後のダンスは、誰もが思ったとおもうが、あれはMJに捧げられたものだった。 

JBとMJ亡き後、この国を救えるのはこの男しかいない、我々ははっきりとそれを認識し、彼もまたそれを決意したのだとおもう。 ”Welcome 2 America”

アンコール2回目は、客席にいたいろんなセレブをみんなステージにあげて(しぬほどいっぱい、Naomi CampbellとかAliciaとかQuestloveとかSpike LeeとかJamie Foxxとか)、再びSheila E.をよんで、全員で"A Love Bizarre"を。
曲の最初のほうは、Sheila E.がドラムスで、Princeがベースだった。
これはお祭りで、しゃんしゃんで終った。

更にやりそうな気配もあったのだが、ここまででした。

"Little Bed Corvette"も”When Doves Cry"も”Sign 'O' the Times”もやらなかった。 やってくれなかった曲を挙げてったらきりがないのだが、それでもこれだけの快楽地獄があらわれ、血も涙も涎も沸騰してしまうことに、あらためて畏怖してしまったのだった。

しかし、さすがにぐったりした。

日曜は映画いっぽんだけ。
晩にTVで"50 First Dates" (2004)をリピートしていたので2回みてしまった。



  

[film] 1900 (1976)

土曜日は、映画1本に、ライブ1本。 それにしてはへろへろに疲れた。

前日に続いて、Bertolucciのレトロスペクティブから、"1900"を見る。

金曜の晩にチケットを取ろうと思ったときに、ついでに取ろうと思って聞いたらその時点で既に売り切れてて、ただ当日の9:30から追加の席がでるので、それを狙うしかない。

で、10時過ぎに行ったら案外あっさり取れて、上映開始の2:00まで十分時間があったので、近所をうろうろする。

Bergdorf Goodmanの7階の古本屋。
Peter Ackroydの”Dressing Up: Transvestism and Drag, the History of an Obsession”の初版があって、どうしようか散々悩んで、とりあえず保留。

あとはクリスマスのオーナメントがいろいろあって、かつてはここのを毎年買っていたのだったが、買っても持って帰れるとは思えないので、これも我慢する。

あとはRizzoriみて、ここでも買わなくて、そうしているうちにお腹がすいてきたので、Le Parker Meridienのバーガー屋に久々にはいる。何年ぶりかなあ。
極めてスタンダードだし、悪くないとは思うものの、そんなに高い評点つけなくても、といっつも思う。

更にまだ時間があったので、MOMAに入ってあれこれ。

19日から始まる展示"Andy Warhol: Motion Pictures"のメンバー向け内覧会をやっていたので、入る。
http://www.moma.org/interactives/exhibitions/2010/warhol/

Warholの白黒映画いくつかを壁面ディスプレイ上にずっと投影している。
薄型壁掛けディスプレイができたことで、こういう展示も可能になったのね。

入り口のとこに有名な"Blow Job" (1964)とか”Sleep” (1963)とか、まんなかで一番スペースを取っていたのが、"Screen Tests" (1964)で、ひとり一枚ずつ掛かっている。
もっともおもしろかった並びがSusan Sontag - Dennis Hopper - Kashe Dees - Edith Sedgwick - Lou Reed - 岸田今日子 - Jane Holzer(ずっと歯磨きしてる)。
他には、NicoとかAllen Ginsbergとか。

みんな、64年当時の表情のまま、だまってこっちを見てて、時々笑ったりする。
こうやって並べてみると、Motion Pictureていうのは、動く絵、なんだなあ、って。  
それにしてもきょんきょんすごいぞ。

一番奥の、椅子付きの部屋で上映しているのが"Kiss" (1963)。
時間があったので結局ぜんぶ見てしまった。58分。
ふたり組、ふたつの人の頭がキスをしているとこを頭部のクローズアップだけで延々映している、だけ。無音。各組5分くらい。
男同士、ひげ男とおんな、肌の色のちがい、男が上、女が上、接吻みたいなKiss, 口吸いみたいなKiss, 食事みたいなKiss, ぜんぜん動かないKiss, Kissにもほんとにいろいろあって、なんておかしな行為なんでしょう、というのがしみじみわかった。

もういっこみた展示は、”On Line: Drawing Through the Twentieth Century”。

http://www.moma.org/interactives/exhibitions/2010/online/

いろんなDrawing、線を引く、線を描くという行為、その成果から20世紀のアートを概観してみる。 平面の画だけではなく、彫刻もコンセプチュアルアートも、William Forsythe, Trisha Brown, Anne Teresa De Keersmaekerといったダンサーがその表現のなかで描いた線も。
個人的には、Kandinskyの本「点、線、面」用に描かれたDrawingがずらーっと並んでいるところにはまった。 時間なかったので、またあとで。

"1900"は売り切れていた。
315分の映画をちゃんとフィルムで見る機会ってあんまりないからね。
日本では無理どころか、フィルムすらもうないのではないか。

1900年の同じ日に生まれた地主の息子と小作人の息子の年代記。一次大戦、二次大戦を跨がって、彼らは、彼らの世界はどう変わっていったのか。

どちらが主人公、というわけでもなく、時代や世界が彼らをどう変えていったのか、がメインにあるわけでもなく、四季の移り変わりのように、人が老いていくのと同じように、変わるべくして変わっていったいろいろな関係を淡々と追っている。

少年達の夏、絆が確かとなった秋、厳しく耐えるしかない冬、ふたたび芽がでてくる春。 オペラの舞台装置のように四季は移り変わり、ひとも変わっていく。それだけのこと。

Bertolucciの歴史観や階級史観、ファシズムの描き方等々について、その確度について云々することにそれほど意味があるとは思えない。 ナレーションや説明なしでも全てがそれとわかる、時間が経過し世界が変化したことがわかる、そういう描き方をする、その描き方を徹底していくことで、オープニングの民衆の絵のような、堂々とした絵巻俯瞰図を描く、彼がやろうとしたのはそういうことで、それは成功している。
まったくだれることなくて、おもしろくて、あっというまだったし。

支配階級の顔、農民の顔、悪人の顔、すべてがすぐにそれとわかる、そういう顔。
彼らの顔が彼らの顔に「なる」、その瞬間に世界のありようが、世界が彼らに光をあてるそのやりかたが、露となる。 
Bertolucciが映画を通して語ろうとしたこと、全ての作品ぜんぶで1本の映画、ということの意味がもっとも解りやすく出た作品かもしれない。

それ以外のとこは、階級闘争も、ファシストとの闘いも、所詮はイヌの喧嘩だろ、とか。ね。

Robert De NiroもGérard Depardieuもまだぴちぴちに輝いている。
ちんぽこまるだしにしたって、ぜんぜんへいきさ。
Dominique Sandaも息をのむくらいに美しいねえ。

そういえば、金曜の晩のLate ShowにDe NiroとDustin Hoffmanがふたりで出てて(例の映画のプロモーション)、なかなかおもしろかったのだが、彼らの老人像をあたまに置いてこの映画に来ると、なかなか感慨深いものがあった。ラストシーンとかはとくに。

いつものような動物大集合もたのしい。豚の屠殺と解体も勉強になるし、いろんな糞が大々的にfeatureされているとこもすばらし。 
ラストのもぐらのとこは、なんか泣きそうになった。

客席の前のほうはイタリア映画大好きそうな老人衆が多かったのだが、猫殺しと子供殺しのとこは、みんなで「ひぃ」とか唸りまくってておもしろかった。
ファシストに糞を投げるとこはみんな拍手してるし。
そして最後ももちろん大拍手でしたわ。

12.18.2010

[film] The Spider's Stratagem (1970)

寒さがあんまり寒くなくなってしまった。 なんかかなしい。

15日から、MOMAでなぜか突然(でもないのか)はじまってしまったBernardo Bertolucciのレトロスペクティブ。 できるかぎりいくしかない。

オープニングの15日は『暗殺の森』で、監督本人が挨拶にきてて(『暗殺の森』はFilm Forumでも一週間上映されている)、この『暗殺のオペラ』も監督の挨拶つき、とあって、やな予感とともに1時間前に走りこんだら、やはり売り切れてて、スタンバイのながーい列ができていた。

金曜日なのにこれかよ、とぶつぶつ言いながらも並ぶしかなくて、よいこにして並んだら、ぎりぎりでチケットもらえた。(メンバーなのでタダ)
チケットをもらった背後で"Last One"ていう声が聞こえたので、にーって笑ってなかにはいる。

『暗殺のオペラ』(英題だと「蜘蛛の策略」)は、Bertolucciが撮影のVittorio Storaroと組んだ最初の作品であり、また彼の精神科の「症例」がはじまった作品(MOMAのひとの紹介)、でもある。

監督は車いすに乗ってて、ステージにはあがらずに「同じ目の高さで」挨拶した。
カウボーイみたいな帽子をかぶってさっそうとしているイメージがずっとあったので、ちょっとショックだった。

監督のお話はとてもおもしろかった。

自分の映画は最初の『殺し』(1962)から最新作の"The Dreamers"(2003)まで全てが繋がった1本の映画なんだって。それは、ひとつにはカメラで撮る、という点で、またひとつには自分のものの見方、考え方を反映している、という点で、ひとつの物語として一貫しているのだ、と。 
(でも自分の映画を見るのは嫌い、だって) 

この『暗殺のオペラ』については、これを撮ったすぐ後に『暗殺の森』を撮って、その後でふたつの編集室をいったりきたりしながら両方を仕上げていったので、自分の中ではこの2作品は同じひとつの夢とか妄想を共有しているかんじだという。 なるほどー

で、この作品は父と子の物語で、言いたいことは、父は息子ではない…(笑)と。

ボルヘスの短編("Tema del traidor y del héroe" - 『裏切り者と英雄のテーマ』)をベースにしているが、ボルヘスのと違うところは舞台をイタリアにしているところと、Incest - 近親相姦 -の要素を入れているところだ、と。

あと、年明けから新作の準備にかかって、夏頃には撮り始めたいって。

映画も、すんごくおもしろかった。『暗殺の森』(も再見しなきゃ)よりか好きかも。

Athos Magnaniがかつて父が暮らし、父が殺された町にやってくる。
彼は父とおなじ名前で、顔もおなじで(映画では2役)、父は反ファシズムの闘士で、ファシストに暗殺されて、町には父の彫像もある。

「みんなが友達」だというその町には老人と子供しかいないようで、そこに滞在して父の知り合いとか愛人とかを訪ね、生きていた頃の父の話を聞き、父の足跡を追っていくうちに父の死の真相にだんだんと近づいていく。
そんなことするつもりはなかったのにな。

その暴かれていくなにか、とは一体何なのか。 が、イタリアの田舎の乾いた、のんびりした夏の光景のなか、ボルヘス的な円環構造(すいか、蚊取線香、ハム、劇場、などなど)としてぐるーん、と描かれる。
それはぐるーん、でもあるし原題にもある絡めとられてしまう蜘蛛の巣でもある。
出来事は玉突きのように連鎖し伝播して転がっていくものの、巣の外に逃げることはできないの。 

ファシズムと反ファシズム、英雄と裏切り者、過去と現在、昼と夜、そして父と子。 
反転するわけでも、同化するわけでもない、なんでか入れ子になってて外れないんだよう。

でも難しい要素はぜんぜんなくて、光はどこまでもひたすら瑞々しく美しく、音楽は町の楽隊からVerdiのオペラまで痛快としか言いようのない大きさで堂々と鳴る。 カメラのゆっくりした動きもよくてさあ。

動物がいっぱいでてくるのもたのしい。オープニングの素朴な絵から、馬にうさぎにロバにライオン。

食べものもおいしそうで。すいかに吊るしハムにトリッパに。

こんな平和そうなところに、なんでファシズムなんて来たんだろうね。
というのは、じつはね... 

いまの作家でいうとWes Andersonあたりに通じる若いかんじがありました。
そういえば、Wes Andersonも「父」にこだわる人だったね。

12.17.2010

[music] OUR HIT PARADE: The Top 10 Songs of the 90’s! -Dec.15

あいかわらず、うたいたくなるくらいにー、さーむぅーいいいー♪

水曜日の晩、ライブの前にEast Villageにできたパスタ屋さんにいく。
Sara Jenkinsていうころころのおばさんが豚サンドイッチの店につづいて出したとこで、なんかこのおばさんは正しい気がしたのね。。

http://nymag.com/restaurants/features/69772/

ラザーニャがとんでもなく、とてつもなくすごかった。
丸いお鉢にいっこづつこんがり焼かれて出てくるのだが、極上のプリンみたいに軽くてやさしい。
これまで食べてきた「ラザニア」とはまったく別もので、とにかくあきれる。


10時からライブで、Joe's Pubはいつも外に並ぶのだが、この寒気のなか、まさか外並びはないよねー、と思っていたら、やっぱり外に並んでいた・・・  

Joe's Pubには随分長いこと来ていなくて、ついこないだBlack Francisさんのアコギソロがあったのだが、気づいたときにはすでにぱんぱんの売りきれだった。

ここはシリーズもののイベントライブを地味に気長に延々とやっていて、ひとつが小屋お抱え(なの?)のLoser's Loungeていう、バンドが毎回アーティストやテーマをきめてゲストと一緒にカバー大会をやるやつ。

もうひとつが、この"Our Hit Parade"で、Our Hit Paradeていうのは、(説明によると)1935年から1959年まで、最初ラジオ番組でそのあとテレビ番組で、キャストメンバーがその週にもっともPopularだった曲をおもいおもいの解釈とアレンジでコミカルに演奏する、というプログラムで、ここのライブでは、その形式にならってOur Hit Paradeのメンバー+ゲストがバラエティー豊かに盛りあげます、と。

最近、火曜日に帰るといっつも"Glee"をやってて、見ているうちにこの世の全てがどうでもよくなってそのまま寝てしまうのであるが、その先駆けのような番組だった、のかもしれない。

Our Hit Paradeの基本メンバーは3人(?)で、ひとりはかのKiki & HerbのKenny Mellman(お化粧してないとわかんないよ)と、くじらみたいにでっかいおねえさん(Bridget Everett )と、やせぎみのふつうのわかもの。

この晩の7:30の回は、"The Top 10 Songs of 2010! " で、2010年にはなんの未練もないし、Top10なんてぜんぜんわからないのでパスして、10:00の回が特別版。
正式名称は、"OUR HIT PARADE: Special Decade Edition - The Top 10 Songs of the 90’s!" 。

登場するゲストは、Adam Horovitz (Ad-Rock of The Beastie Boys), Kathleen Hanna (Le Tigre, Bikini Kill), Judy Gold, Alan Cumming, Erin Markey, Myles Kane, Molly Pope, Clint Asay, Amy Bezunartea, Jennifer O'Conner and many more…  と。 これじゃ売り切れるよね。

自分が最初に渡米したのが92年、そこから数年間、友達はMTVとVH1だけだった。 ライブは今みたいにwebでほいほいチケットを買える時代ではなかったので、KennedyのAlternative Nationをチェックするくらいしかなくて、だから90年代前半のアメリカの音だったら、大抵のものはわかる。

そういう時代をべたべたに回顧してみようイベントなので、来ている連中も回顧したいとおもっている哀れなお年寄りばっかしだった。 暖房きつめだもんだから加齢臭とビール臭がすごい。

で、このメンツで90年代のヒットだとなにがあるだろ、と思い出したりうきうきしたりしつつ行ったのだが、このメンツだもんだから、はんぱじゃなくて、こっちが期待したような曲はぜんぜん流れませんでしたわ。

最初に当時のMTVのいろんな画面がプロジェクタで出てきて、とにかくなつかし。
Kennedyが映ると、やっぱりみんなKennedyだぁ! ていう。

基本はコメディ芸人が持ちネタをまわしていくようなかんじで、歌は二の次、でも素人ほどへたじゃなくて、でもプロのひとほど堂々としていなくて、しかしとにかく、場は盛りあがること盛りあがること。

流れたのはAce of Baseとか、Vanilla Ice(ハードコアトリオ仕様)とか、James IngramとかTLC (Waterfalls)とか、ラップトップで画像と一緒にかちかちやるだけとか、ほんとに芸風は人それぞれでおもしろい。 普段どんな暮らしをしているひとたちなの、きみら。

5曲目くらいに、中心メンバーのKenny Mellman氏による強鍵タンゴピアノ唸り節によるNIN -  "Closer"。 きめきめのアルゼンチンタンゴのダンサー(たぶん本職)ふたりがぴしぴしと見事な舞いをみせる。 原曲とはまったく異なる艶かしさがおみごと。

たぶん、いちばん盛りあがったのはやはり中心メンバーのBridget Everettおねえさんによる「でぃぎでぃん」で、ぶかぶかの衣装のむこうに肉の塊というかびらびらというかを噴流させつつ、スカートをばうばうまくりあげつつ、せまいテーブルの間をぬけてしきい壁のうえをぴたぴたあるいて、とにかくあげるあげる。すばらしい太鼓腹とそれを覆って支える腹皮と、ぱんぱんできつそうな下着さんの気持ちがわかりたくないけどわかってしまうすさまじい横隔膜〜腹芸であった。 これで歌が下手だったらたぶん警察さんがやってくるのだろうが、あの歌だったら、これはもうエンターティナーとして認めざるを得ないよね。

あと、他の余興として、「おむつのなかにあるのはなあに?」ていうどうしようもないクイズゲームとか。

Judy Goldさんの"Titanic"(のテーマ)もすごかった。笛パートをすべて「にゃにゃにゃー」で通し、扇風機でわざわざ髪をふきあげつつ、いみふめいの情念のみで強引に寝技にもちこむ。腕に歌詞が書いてあった、ということはふだんの持ちネタではない、ということだろう。 ぜんぜん信じられない完成度だったが。

Alan Cummingさんは、Shania Twain(曲名わすれた)を最初のほうのもじもじくねくねから最後はさすがに王様芸にもっていく。 客席側の大合唱に負けたかんじだったかも。

Adam Horovitzさんは、"Sabotage"、なんてもちろんやらずに、大人数でバケツ太鼓をばこばこやりながらCreedの"Higher"。  うーん、そうくるかー、であった。

トリはやっぱりKathleen Hannaさんで、ピアノ一台をバックに、Kurt Cobainとの若い頃のバカ騒ぎあれこれをPoetry Reading風に語っていきながら、すうっと"Smells like…"を歌いだして、それがぜんぜんドラマチックにも感動的にも響かないところがよかった。 ほんとにいつ見てもすてきなひとだよねえ。 

たぶん、ここまででちょうど10曲。 "Top10"の10曲。

ラストは全員もういっかいでてきて、"Friends"のテーマ曲。 ああ、これもあったねえ。

なんか、年忘れの音楽大会としては最高のそれだったかも。
あーたのしかった、と帰ろうとしたとこで、客出しで"Tom's Diner"の「とぅとっとぅる とっとぅるーる…」が鳴りだしてしまい、あたまのなかをずうっとぐるぐるまわりだしてしまったのだった。

だがしかし、ほんとうの締めはこれからなのだよ... (不敵にわらう)


ConanのライブはJenny and Johnny。 すばらしー。

12.14.2010

[film] Black Swan (2010)

もう外は雪でしろいよ。

まだ日曜日の夕方。
映画館には4:30くらいに着いたのだが、4:50の回は既に売り切れてて、5:30の回にする。
この作品、TVでは宣伝をがんがん流しているくせに、上映館はまだマンハッタンでふたつくらい。 
そういう戦略なのだろうけど、なんかめんどくさいねえ。

予告でTerrence Malickの新作"The Tree of Life"がかかってもりあがる。
今度のも大風呂敷っぽくてうれしい。 Terrence Malick特有の、道路とかがまた。

Darren Aronofskyの"The Wrestler"(2008)の次がこの作品、と聞いてなんかいやーなかんじをもったひと(特にバレエファン)は少なくないのではないか。 だって、プロレスの次はバレエって、あんましじゃねえか。

どっちもショービズの世界、かもしれんが、なりたちも文化も求められる美の様式も、それぞれぜんぜんちがうのよ。 そこをまちがったりとりちがえたりしたら全壊よ。 
まあ原作はぜんぜん別にあるようなのでだいじょうぶか、と。

新Productionの"Swan Lake"の公演を前に、Swan Queenを目指すNina(Natalie Portman)と鬼コーチ(Vincent Cassel)とべったりママと、とうぜんのようにライバルがいて、交替される旧プリマ(Winona Ryder)がいて、それらの間の、がちがちの人間模様そのたあれこれがあって。

Ninaはずっとよいこで、ダンスもそれなりに上手いのだが、デーモニッシュな迫力に欠ける。コーチはそれを指摘するし、Ninaもそれをじゅうぶんわかっている。 でも、わかっていてもできない、その苛立ちとプレッシャーが先の人間関係のなかで、強迫観念となってNina自身を少しづつ変容させていく。

その変容が上演する"Swan Lake"のテーマそのものともうまく調和、というかシンクロしていて、バレエの完成とともに、本番の幕開けと共に、それは・・・

ええ、ものすごく正調の、正統の、少女漫画であり、バックステージもの、でもある。
(山岸涼子のなまえは-もう何年も読んでいないけど- みんな挙げるよね)

少女の一途な思いが全てをドライブし、最後の最後にそれら全てを結晶として封じこめる。

ただそれだけで、それで十分なの。 バレリーナを目指す若い子はみんな見るとよいわ。

でも、それにしては。 怖すぎるんだよう。

爪とか皮とか、特に鶏皮のぷちぷちがだめなひととかは、やめといたほうがいい。
爪とか皮膚とかの間になんかが食いこんでぶちぶちぎぃー、とかいうのが嫌なひとは、やめといたほうがいい。

終盤、とくにWinonaに会いにいったあたりからの怒涛の展開はホラー以外のなにものでもなくて、あまりの押しの強さとくどさに、場内からは笑いがでるくらいだった。 横にいたおねえさんは、頭抱えてそのまま前のめりになって固まってしまった。(みてておもしろかった)

要するに、この程度の恐怖を克服しないことには、バレリーナなんてなれないんだよ、
てこと? ちがう?

あの、ステージに立たねば、という強い強い思いが最後、主人公に奇跡の飛翔をもたらす、というのは前作とおなじような気もするが、それはそういうもの、という程度にとどめておこう。 

彼女の所属するバレエ団は、方角からするとCity Balletのほうで、だとすると鬼コーチはBalanchineのはずで、でもCity Balletって、そんなにがちがちでもないし、そんなにうまいひといないよね(失言)。

バレエのConsultingは(End creditによると)、ABTの現PrincipalであるGillian Murphyさん。
90年代から彼女を見守ってきたものとしては、偉くなったねえ、よかったねえ、とおもう。(←なにさまだよ)

これは映画で、バレエそのものではないので、バレエの動きにかんしてはあんなもんかー、しか言えないし、言ってもしょうがないよね。 でもがんばっているとは思いましたわ。

でもこれみて、"Swan Lake"を見たとか、そういうもんだ、とはおもわないようにね。 
バレエはやはりぜんぜんべつものだし、Full Lengthのライブでちゃんと見ないとだめなんですよ。

オリジナル音楽担当のClint Mansellさんは某Trent氏も指摘していた通り、チャイコフスキーの音楽を緩用しつつ、ブリリアントに全体を盛りあげていて、いかったとおもう。

Natalieさんははたしてオスカーを取れるのか、あんなこととかあんなこととかあんなことまでやっているので、そりゃあげたくなるけど、どうかしら。

プロレス→バレエときて次は一体なにを? と思ったら"The Wolverine"だって。
それであんなに爪にこだわってたのかー。


日曜版についてるNY Times MagazineのHollywood特集号、Chloë Moretzさんの豚顔がすごい。
サイトにあるvideoはそんなでもないけど。

http://www.nytimes.com/interactive/2010/12/12/magazine/14actors.html?ref=magazine#5

[art] Modern Life: Edward Hopper and His Time

日曜日のつづき。

Armory出てからMadionまで歩いて、そこからバスに乗って75thまで。 
Whitney Museumで、これも宿題の展示をいくつか。

上から見た順番で。 4階→3階→2階。

"Paul Thek: Diver, A Retrospective"
http://whitney.org/Exhibitions/PaulThek

Paul Thekは1933年にBrooklynで生まれ、1988年にNew YorkでHIVでなくなった。回顧展としてはこれが最初だという。 (ほんとかよ?)

入口のとこでWarholのフィルム"Screen Tests" (1964)に撮られたThekの顔が投影されている。
しらっとしてすっきりとした好青年、というかんじ。 あまりアーティストにはみえない。

肉片をモチーフにしたオブジェ彫刻とか、剥製をつかったトーテムとか、俗悪・露悪趣味でろでろの作品を60年代から制作していて、Warholとも仲がよくて、S.ソンタグの『反解釈』はこのひとに捧げられていて、つまりCampでHippieで、知っていたのはそれくらい。

60年代当時のアートシーン、という横軸で見てもよし、Damien HarstとかのYBAsや、Mike Kelleyみたいなジャンク系といった現代作家とのリンク、という縦軸で見ることもできようが、なんかしみじみとよかったのは、水色で沢山描かれた子供の絵みたいに稚拙で素朴なドローイングだったかも。

今回の回顧のテーマである"Diver"にもつながる、無垢で無邪気で、死をも恐れずにいろんなとこにDiveしていったその精神がまっすぐにでた、それはそれはとてもきれいな、水晶のような水色なのだった。


"Charles LeDray: workworkworkworkwork"
http://whitney.org/Exhibitions/CharlesLeDray

60年シアトル生まれ、現NYベースで活動中の彫刻、オブジェ作家。てっきり、ぜったい英国のひとだと思ってた (なんで?)。

とにかく、なんでもちっちゃくて、かわいい。
洋服 - Men's Suitsのシリーズも、ガラスの食器棚とかも、ちっちゃけりゃなんでもいいのか? と問われたらふつうに「そうだよ」「そうじゃん」、とか答えそうな気がする。

アートにおけるサイズの問題、というのは決して小さくないなにかを提起しているように思うのだが、とにかくそんなのの前に、なんでも「きゃーかわいーなにこれー」で終わってしまうのだった。 だってかわいいんだもんさ。


"Modern Life: Edward Hopper and His Time"
http://whitney.org/Exhibitions/ModernLife

ほんとうは、なによりもこれを観にきたのだった。
Edward Hopperの描いた都市とその時代を同時代の画家や写真家と共に並べたもの。

写真で並んでいたのは、Paul StrandとかAlfred StieglitzとかEdward Steichenとか。
画家だと、こないだの夏に"Heat Waves in a Swamp"というタイトルで展示のあったCharles Burchfieldとか、Ben Shahnとか。

入口にあったEdward Hopperの"Queensboro Bridge"の絵がとってもいかった。

ある程度予測はしていたものの、こうやって並べてみるとHopperの絵の、或いは彼の画家としての異様さが改めて浮かびあがるかたちになっていたようにおもう。 

彼の絵は、どんな小さな絵でも、遠くからみるだけでそれとわかる。
テーマの切りとりかた、対象との距離の置きかた、フレームへの納めかた、絵の暗さとその暗さのむこうにあるぼんやりとしたなにか。

近いかなーと思っていたCharles Burchfieldの絵ですら、横に並べてみると、はっきりと異なるの。
異様さの具合でいうと、ムンクのそれに近いような気もした。

その他ふつうの絵にある、わたしはこの絵の対象をまじかに見ている、その対象がリアルにここにある、というふうにではなく、わたしはこの、彼の描いた絵の世界にいる、かつてここいたことがある(のだろうか?)、ということをはっきりと、目覚めにも近いかたちで、或いは船酔いのような居心地の悪さと共にわからせる、彼の絵はそんなふうに迫ってくるのだった。

それがいったい何で、どういう種類の感慨からやって来るものなのか、自分にはまだよくわからなくて、だから彼の絵に魅かれるのかもしれない。 とか。 


美術館をでて、かつて住んでいたアパートのまわりをぐるうっと散歩して、3rdのEli'sに行った。
このスーパーは、かつては毎週くらいで通っていて、値段は高いけど、野菜とか果物はほんとによいの。

チリ産のチェリー(レイニア)が袋で売っていたのでつい、買う。
手焼きのポテトチップも買う。
Russian Coffe Cakeも買う。 ここのRussian Coffee Cakeはべたべたに甘いけど、ほんとにコーヒーによく合って、おいしいの。

ほかにもいろいろ、大袋をがぶがぶに膨らませつつ、バスで西の映画館にむかいました。

[art] Leonardo's Last Supper: A Vision by Peter Greenaway

外は21F(マイナス5℃)で雪がぴうぴう舞っててしぬかとおもった。 ありえない。

日曜日は起きたら昨晩から続いている雨でぐしゃぐしゃで、でも洗濯おわった頃には雨はけっこう止んでいる気がした。 どっちみち食料は調達せねばならないので、外にでて、いくつか宿題を片付ける。

"Leonardo's Last Supper: A Vision by Peter Greenaway"

Park Avenue Armoryていう、Park Ave沿いに古くからある倉庫というか体育館みたいなスペースでやってる展示、というかイベントというか。

Peter GreenawayのDirectionでダ・ヴィンチの「最後の晩餐」をデジタル・マルチメディアフォーマットで多面的に構成しなおすというもの。 彼は世界の古典絵画10点をシリーズでやろうとしてて、これは米国での最初の展示、だそうな。

ギャラリーみたいに中に入っていって各自勝手にふらーっと観ておわり、ではなく、一回のショーが45分間、上映時間は1時間単位で区切られていた。 見たのは2時の回。 お代は$15。

ここは普段Antique Fairとか、たまにライブとかもやっている(たしかRufusもやってた)とこで、古い建物なので天井はやたら高くて、その高さをめいっぱい使ってプロジェクタ下げてて、区切られてる部屋はふたつ。

最初に案内された部屋がメインのとこで、プロジェクションは前後左右とぶらさがった布と床と、幕の向こうにもなんか映っていて、はじまってから数えてみたら投影されているイメージは全部で10パターンくらいあった。首がいくつあっても足らねえ。 
音は当然クリアなマルチサラウンドで、水音羽音にクラシック音楽。

最初がイタリアの街とかルネサンス芸術のざーっとした紹介、びばイタリー!みたいなかんじで、ナレーションはなくて、あくまでいろんなイメージをばりばり速射砲散弾銃でばらまいて、ね、すごいでしょ? みたいな。

文化庁(まだあるんだっけ?)とかNHKとか電通とかが見たら泣いて喜びそうな代物、といったらわかりやすいか。 サブリミナルだって、かんたんにできるよこれ。

その紹介の後にパート2で別の部屋に移って、そこで「最後の晩餐」のプレゼンテーション。
絵が置かれているSanta Maria delle Grazieの食堂内部を再現していて、部屋のまんなかにはテーブルと椅子、お皿が立体でつくられている。
リアル食べ物も置いてくれたらうれしかったのに。 たまにワインのかわりにバルサミコが入ってて、あんたはずれ、とか。

このパートもナレーションはなくて、「晩餐」の絵の各要素をトラックに分離分解して、リミッターかけたりディレイかけたり、要は音楽のRemixとおなじことをこの古典でもやってみました、と。 手だけ、シルエットだけ、血が流れたり、上から見たり、複数の人物のみを浮かびあがらせたり。 これがだいたい20分間。

それでわかるのは、この絵の構成や陰影が、いかに立体での再構成にも耐えうる正確かつ緻密なタッチの上に成りたっているのか、ということとかー。 
でもそんなの「んで、それで?」ていう話よね。

そのあとで、また最初の部屋に移って、こんどはナレーションつきでPaolo Veroneseの"The Wedding at Cana" (1563)の解析。 現在ルーブルにあるこの絵は、1797年にフランス(ナポレオン)に略奪されるまではベネツィアにあったの。

「晩餐」の席での人間模様を描くことでキリストを中心とした当時の謀議謀略策略などなどをくっきりと浮かびあがらせてくれる、という点で、この絵は「最後の晩餐」とおなじように実にいろんなことを語っているのであるが、ナレーションを聞いているうちにこれ、大学の美術史でやったのをおもいだした。

「婚礼の席を描いたこの絵には、おかしなところがいっぱいあるのです。それはなんでしょ?」とひとりひとり順番にあてていったのでしたね? ラブ先生。

そんなむかしむかしからある話なので、内容としては解っていることを補助線を引いたり人物に番号ふったりして判り易く解き明かしていくだけの。 
これもなんか、NHKだよなあ、とおもった。

そういうのがいけないとか言うつもりはないけど、こんなのを何百回再生したところでちゃんと美術にむきあう目、みたいのは養われないとおもう。 むきあう目、というのは、絵の正しい解釈や講釈、鑑定ができる、ということではなく、その絵が光として放つ美の驚異に的確に反応して自身の瞳孔を思いっきり開くことができる力、というか。  

これって今後デジタルの精度が肉眼のそれをどれだけ超えようが、マルチメディアを使ってそれらのアーカイブに瞬時にアクセスできるようになろうが、そういうのとは関係ないとおもう。

そういうの経由で何百枚の絵や何千という解釈に触れようと、例えば吉田喜重の「美の美」が教えてくれることやベンヤミンやメルロ=ポンティの絵画論が示してくれることの大切さには届かないし、それよりもなによりも、肉眼でほんもんの絵の前に立つことのほうがはるかに重要だし、必要だとおもう。  

設備規模からすれば、$15という値段は、まあ適正だったかも。
日本だと代理店や協賛がいっぱい入って、¥3000かな。 しかもぺちゃくちゃやかましい大量のおばさんつき。

12.13.2010

[music] Mountain Man - Dec.11

映画のあとで、Tribecaに移動して、92Y TribecaでMountain Manのライブをみる。
92Yていうのは、映画の特集上映とかライブをやっているイベントスペースで、なかなかよい特集もやっているのだが、忙しくてこれまで行けてなかった。

今回のこれは$10だし、おんなのこ3人組で「山男」と名乗ってしまうその謎とセンスに迫ってみたくなった、の。
彼女たち、2月にはThe Decemberists のサポートもやるの。

ちなみにこの日、BrooklynのKnitting Factoryでは、"The Kathleen Hanna Project, a.k.a. Who Told You Christmas Wasn't Cool?" ていうイベントがあって、Sonic YouthとJoan JettとLe Tigreがおなじステージに立っていたらし。(チケット取れなかったんだよ)

92Yのライブスペースは、椅子もあって居心地よくて、オープニングがギター1本のJohn Shadeさんで、雰囲気とノリは完全に古のグリニッジビレッジのフォークのそれ(知るわきゃないが、たぶんそんな)。 客席はちゃんと姿勢を正して聞いてあげるかんじ。 

なかなかぼそぼそとおもしろいことをいう彼、「これ新曲だけど、みんなのうち98%はぼくのことしってるわけないから、結局ぜんぶ新曲なんだよね、はは...」とか。

で、10時過ぎにMountain Manの三人娘登場。

ひとりはでっかくて、ひとりはメガネで(REMのMike Mills似)、ひとりは鼻ピアスですこしだけパンク風。 服装はどうでもいいからコインランドリーからそのまま来ました、みたいな。
(写真参照)

楽器はもたずに、まずコーラスだけで2曲。(アカペラ、ていうよりコーラス、のかんじ)
これだけで、彼女たちのことがとっても好きになる。

全員とびぬけて歌がうまいわけでも(あ、でもうまいのよ、ふつうに)、すんごい声量があるわけでも、鳥や猫の鳴きまねするわけでもなく、声質は3人共似たかんじなのに、3人のヴォイスが絡んで空に浮かぶだけで、ひとつの世界がたちあがる。 3人でいち人格の「山男」として。

たまに誰かひとりが一台のギターをぼろぼろやりながら歌うのだが、ギターなしでもぜんぜん。

左側のでっかい女の子が「あたし、さいきんいらいらするのってセックスが足らないからだと思うの」て唐突に言って、そこからトークは、19世紀以降の女性のヒステリアについて、カフェでのおしゃべりみたいにゆるゆると。

いいなあ、山男だなあ。

ずうっと聴いていたかったです。
本編ラストからアンコールはマイクなしで朗々と。それが実にすてきに響くの。 

10inchのアナログ買って帰りました。 盤の色がすてきな水色だった。


 
ここまでで11時を少し過ぎたあたりだったが、なぜか外は暖かかったし、もっと聴きたい聴かせろなかんじだったので、Mercury Loungeの深夜の部のCrooked Fingersに行ってみた。 お代は当日で$12。

やはりtaxiがぜんぜんつかまらず、会場に着いたのは11時半くらいだったが、それでもはじまっていなくて、前座のCotton Jonesの最後のほうだった。

結構ひとが入ってて、12時にEricがはじめるよー、てかんじではじまったときにはなかなか盛り上がった。

ギターと歌のEricさんとドラムスの女の子の二人編成。
彼のゆったりした歌に、どたんばたんと、アタック強めのドラムスが絡む、背後にプロジェクタでホームムーヴィーみたいな映像が流れているが、流しているだけ、のかんじで、次から次へと、さくさく進む。

彼がアコギ、彼女が電気ギターを持ってからの終盤の展開がすばらしくよくて、そのままアンコールも含めて30分くらい、どれもこれも名曲、みんなでリクエスト&合唱大会、みたいになる。 

すごくいかった。 けど、いったいどれだけ名曲あるねん、て。 

終って外にでたらどしゃぶりで、外気が不気味にあったかかった理由を理解したのだったが、地下鉄の駅まで走ってびじょぬれ、地下鉄の駅からはしってぐじょぬれ、部屋についたら3時だった。
 
  

[film] The Agony and the Ecstasy of Phil Spector (2009)

土曜日はー、美術館1と映画1とライブはしごで2。 もう時間が少なくなってきたのでいけるとこはいく。

最初にFIT(Fashion Institute of Technology)のMuseumでやっているこちらの展示。 "His and Hers"。

http://www.fitnyc.edu/9046.asp

「彼」の衣装はなんで彼のに、「彼女」の衣装はなんで彼女のになっていったのか、"masculine"と"feminine"の概念はファッションの歴史のなかでいかに作られ、受容されていったのか、を18世紀くらいからずーっと並べてみる。

入り口のとこに、Alexander McQueenさんの2008年のイブニングがあったのでいちおう合掌してから中に。

この展示、テーマとしてはすごく面白いし、いくらでも掘り下げることができるとおもうのだが、点数があんまなかったのが残念。(無料だからしょうがないか)

むかしのほうが、全体にかっこよいし、かわいいし、いいよね。
でもやっぱり80年代のMiami Viceの衣装とかはつい笑いがおこる。なんだよこれ、って。当時から思っていたけど。
あとは、90年代初のMoschinoのブラスカートとか。

ディテールを見ようとちょっと身を乗りだしただけでアラームがぴーぴーいうのがかなしかった。

同美術館の別の場所で"Japan Fashion Now"という展示もやっていたのだが、こっちは毒づいて嫌味ばっかり並べてしまいそうな気がしたので見るのやめたのだった。

ChelseaのTrader Joe'sをのぞいた後で、ヴィレッジにむかい、Generation Recordsをいちおうあさってみるが、ないの。

ヴィレッジの通りはどこもかしこも、なんでかしらんが(←しらべたまえ自分で)、サンタであふれかえっていた。(写真参照)
サンタさんは夢を希望とおもちゃをくれるはずなのだが、ここにいるサンタはみんな酔っぱらっていて、けむくて、うるさい。 なんなのあんたたち。



    

で、Film Forumで見たのが"The Agony and the Ecstasy of Phil Spector"。
アンコール上映で、これで今年みたかった音楽映画は一通り見ることができた、とおもう。 よかったよかった。

2003年、女優の殺害容疑で逮捕されたPhil Spectorの裁判の経過と、その保釈中に彼に為されたインタビュー映像と彼がプロデュースしてきた作品のFootage、基本はこの3本だて。 彼の音楽活動を総括するインタビューと、彼がやってしまったかもしれない殺人の審理、どっちもおなじひとりの人間がやってしまった(かもしれない)ことを容赦なく並べていく。 なかなかすごい。

58年のTeddy Bears、"To Know Him Is To Love Him"から始まる彼の音楽活動については改めて述べるまでもない。「レコーディング」という作業をアートの領域にまで高め、「プロデューサー」という職人の領域を作り出したのはこのひとであって、その業績がモノラルの、なかなかでっかい音量で再生される。これはひたすらきもちいい。

映画の最初のほうで、"To Know Him Is To Love Him"を流しながら彼のクローズアップになるシーンがみごと。 この映画を通してあなたは"To Know Him"から"To Love Him"にシフトすることができますか? と。

インタビューを受けるほうの彼は、昔の記憶ははっきりしているものの、手は小刻みに震えて、目は狂ったひとのそれのよう。 一点を凝視し、動かない。裁判中の動作や表情もはっきりとふつうのひとのそれではない。

しかしまあ、ほんとにいろんなことを考えされられる映画でしたわ。

「神よりも有名」になったビートルズを、”God”という曲で、その神と共に葬り去ったJohn Lennonの、その神殺しにプロデューサーとして加担した男である。
他方でほぼ同時期に、神への愛全開、信仰表明としかいいようがないGeorge Harrissonの"My Sweet Lord"も、この男がプロデュースしている。

なんで? については、極めて明確に答えているところがまたすごいのだが。

映画のなかで流れるのは、どれも世紀の名曲、としか言いようのない怒濤の、圧巻のすごい曲ばっかし。
それらをこの男がぜんぶプロデュースして、「名曲」に仕上げた。 とにかくあきれるしかない。

でもそれと人殺しはまた別。 別なのか? という問いは、人間にとって表現活動ていったいなんなの? というとっても根源的ななにかに行き着いてしまう可能性もあるのだが、この映画はそこまでは行かない。 (まあ、行けないよね)

日本も、いつまでも幼稚なJohn Lennon Tributeばかりやってないで、こういう映画でも公開してみたらどうか。
君らのだいすきな"Imagine"の白いピアノは、いまこの男の家にあって、インタビュー映像の背後にずっと映っているのよ。

[music] Deakin - Dec.10

ぜんぜんライブ行ってないし、行けてないし、もうなんでもいいから聴かせろ病になりつつあったところで、たまたま見つけたので行ってみました。

New Museumが毎月やっている変態音楽ライブ企画"Get Weird"で、Animal CollectiveのDeakinが出る、というので。 お代は$17。

スペースは美術館の地下にあって、今回はじめてはいった。
いかにも美術館のイベントスペースてかんじのきれいなところ。

7:30くらいからオープニングのPrince Ramaさんで、座って聴いていたのでだれがRama王子なのかはわからず。インド(? たぶん)の衣装を着たおねえさんがひらひら踊ってて、背後にはゲームみたいなグラフィックがぎんぎらで、音はエレクトロインド、みたいなかんじ。 気持ちよくて意識がとんだ。

8:15くらいにDeakinさんがでてくる。
エレクトロ・パーカッションのひととふたりで、Deakinのほうはギターとわぅわぅいうヴォイスとその他電気系ぜんぶ。 背後には電子マンダラのグラフィック。

基本はぐしゃぐしゃわけわからん(まさにGet Weird)かんじなのだが、妙に風通しがよくて、親しみがわくところがなんだかよい。

彼がAnimal Collectiveを離れていた2007年以降、バンドの音は急速にソングオリエンテッドな、所謂クリティック受けのよい音に変わっていった気がして、2003年頃のライブの、それこそ動物大集合みたいな変てこで野蛮なノイズを曝していたあの頃から遠くなってしまったように思うのだが、それは来年の彼のバンド復帰によって変わるのかどうか、(できたら)変わってほしい、と思いながら聴いていました。

美術館側の事情で9時迄、ということで5曲くらいで終ってしまったのがざんねん。

ううぅーもっと、と思いつつMcNally Jacksonに行って本漁りをする。
クリスマス:ギフト向けの楽しそうな豪華本があれこれいっぱいあったのだが、買えないねえ。



12.10.2010

[film] Harry Potter and the Deathly Hallows: Part 1 (2010)

帰るとき、外は24F(マイナス4℃くらい)でした。 taxiがぜんぜんつかまらない。

部屋に戻ってTVをつけたら、丁度Conanのショーの音楽ゲストがShe & Himで、"I put a spell on you"なんか歌ってる。どんなにりきんで叫んでも、なんかかわいいのね。

とにかくここんとこ、寒いしねむいし、なんでもかんでも寒いし、寒いとぜんぶどうでもよくなってきてしまったので、水曜日の晩、映画見てかえる。

Times Squareで、8:55から、音がいいシアター($17)のほうにして、10分前に行ったら客席には誰もひとがいなかった。予告がはじまってからぱらぱら来たが、それでもぜんぶで5人くらい。 (これなら安いほうの値段で入ればよかった)
なので、前の座席の背に足を投げだして、シャツをずるずるにして、めちゃくちゃだらしないかっこしてみる。 (だいたいいつもそんなもんなのだが)

最初の予告が"Kung Fu Panda 2"、パンダの足ぶみの音が道路工事現場みたいに響いて気持ちよい。

あとは、"Cowboys & Aliens"の予告。 これは絶対みたいねえ。

今回のはとにかく気が乗らなかった。 これまでのHarry Potterものは、公開初日とか2日目とかに必ず通っていたのに、今回は行く気にならなかった。 だって終わりが見えてるそのひとつ前なんてつまんないし、暗くなるにきまってる。 ただでさえ暗いはなしだってわかっているのにさ。

加えて、ストーリーとかが、いまだによくわかっていない。
原作読んでいないし、最初の3本くらいを米国で見たせいからか、あの世界の英語だの用語だのの基本的ななにかが致命的にわかっていない。 たぶん。

どっちが善玉で、どっちが悪玉か、はわかる。(たまにわかんなくなるけど)
だれが死んじゃったのか、もわかる。  (たまにしんでないみたいだけど)
どっちが優勢で、どっちが苦しいのか、もわかる。  (どうせひっくりかえるけど) 

でも例えば、なんでHarryばっかりいじめられるのか、とか、なんでHarryの両親は殺されたのか、とか、悪い連中がどっからきて、なにをしようとしているのか、とか、あの蠅みたいな金玉はなんなのか、とか、変な妖精とか動物とか、あいつら新種の生き物じゃないのか、とか、あれだけ大騒ぎしているのになんで警察とか軍隊とか国連はでてこないのか、とか、そういうのはわからない。  
だって魔法の世界だもん、て言われたらへえへえ、てわかったふりをするしかない。

ぐだぐだ言うんだったら見るんじゃねえよ、ってファンのひとだったら間違いなく言うとおもう。
でもね、うまく説明するのはむずかしいけど、見ないわけにはいかないのよ。
だって魔法っておもしろいじゃん、花火とか爆竹みたいで。(こどもか)

そういえば既に前作もあんま憶えていないのだった。
校長先生が死んで(殺されて)、Alan Rickmanがなんかのプリンスなのだった、かしら?

今回はずうっと逃げまくる映画だった。
楽しかった学園生活はちっとも出てこなくて、お尋ね者となったHarryたちが地の果てみたいなところをずうっと逃げまわっている。 逃げながら、人とかなんかのモノ(←それすらわかっていない)を探したりしている。
ロールプレイングゲーム(=やったことない)とかすごろく(=やったことある)みたいなかんじ。 
ところどころで、西部劇とかゾンビものみたいなかんじになる。 あとは濡れ場(妄想)もSM(リアル)もある。 

大蛇が飛びだしてくるとこでなかなか凄い音が鳴るのだが、前の席のひとはほんとうに飛びあがって絶叫していた。 おもしろかった。

あと、蛇もこわいけど、Helena Bonham Carterはなんであんなにおっかないのか。
ナマハゲよりもゾンビよりもこわいよあれ。

こんなふうに断片断片でみると映画っぽいとこもいっぱいあるのだが、全体としては、ていうかまず「全体」てどこからどこまでを言うのかがよくわからない。それは描こうとしている世界とか時間軸のスケールがでっかくて凄すぎて、ということよりも、古くからある骨董屋のごちゃごちゃ乱雑に積み重なってよくわからない、けど売ってるものはよく見てみれば愛らしいのでなんとなく憎めないかんじ、に近いのかも。

逃げ回る先の光景がほんとに寒そうなこの世の果てのかんじに荒れてて、そのかんじはいかった。
でも、どうせ瞬間移動できるならハワイとか南の島に逃げればいいのに。 水もあったかいよ。
国外には行けないのか。 パスポートがないとか。

このつらくて暗くて哀しーかんじはなんだろう、と思ったら『帝国の逆襲』なのかも、とおもった。
あれも男2名と女1名(+猿1匹)が落ちぶれて宇宙の果てまで逃げまくる映画でしたね。

そういえば前作を見た時に、Voldemort卿って実はHarryの父親で、今作のおわりくらいで"I'm your FATHER!"ってゆって、”NOOOOoooo~”てなったらおもしろいのに、と思ったのだった (そうおもったひと、いっぱいいるよね)。 さすがにそれはなかった。

でもDobbyのとこはYodaのとこよか、かなしかった。 あんなのないわよ。

となると次作は『ジェダイの復讐』になるのか。 
でも、援軍で小熊の大群とかがでてきたら椅子蹴って外にでるぞ。(ねえよ)

あと、最大のなぞは、なんであんなとこで唐突にNick Caveが流れるのか、ということだ。
そして、それにのってなんであんなふうにダンスを踊れるのか、ということだ。 ほんとうにあの曲で踊りたかったのか君らは?  ひょっとして魔法の国にはNick Caveしか流れていないのか?

Part2は、もう殆ど終わっちゃっているのだろうが、Johnnie Toさんに撮ってもらいたかったなあ。
きっと痺れるくらいすごいのができるとおもうんだけど。


Jimmy FallonのショーではPaul McCartneyがでてる。 なんて夜かしら。

12.08.2010

[music] Rufus Wainwright - Dec.6

10月の来日公演のリベンジざんす。

凄腕の同志Mがカーネギーの前から2列目を取ってくれていて、正しくは来るはずだったひとが来なかったのでそのおこぼれがまわってきた、というだけなのだが、ありがたいことはありがたい。

来日公演は仕事のせいで帰国できなかった。 だから今回はライブのあいだ、仕事のメールが何百通来ようが、どんなに携帯が鳴ろうとも相手にしないことにする。 
そのうちこういうツケが雪だるまになって・・・(涙)

この日は他に、Terminal5でThe New Pornographersがあって、ヴィレッジのLe Poisson Rougeでは、"Yuka & Miho cover Cibo Matto"という、要はCibo Mattoだろあんたら、というのがあって、これにMike Wattさんとか、Dougie Bowneさんとか、Nels Clineさんが出ていたのだった。

でも、やっぱしカーネギーかな、ということで。
席は上のほうまでびっちり埋まっていました。
前のほうにいると上がどこまでって見えないんだけどね(←得意)。 

ステージ上にはピアノ一台だけ。

8:10くらいに暗くなって、カーネギーの扉がぎぃーっと(そんなには鳴らないけど、そんなかんじで)開いて寝巻きみたいな着物みたいのを纏ったでっかいひとが幽霊みたいにピアノのほうに歩いていって新譜の"All Days Are Nights: Songs for Lulu" (ごめんなさいきいてない)から。 これは日本とおなじ(ね?)。

ものすごくでっかく、鐘のように響く声でした。 ステージに近かった、というのもあるし、カーネギーだからよく響く、というのもあるのだろうが、この日の彼はこれまで聴いたことがないくらいにゆったりと安定していた。
時としてピアノの打鍵を飛びこえて勝手に走っていってしまうようなところもあったが、それはいつものことだし、後半のテンションと力強さときたらなにかの宗教的な確信でもって吠えているかのようだった。

背景に映されていた「わらじむしみたいなまぶた」アートについては、新譜のタイトルである"All Days Are Nights"や、母の死、Lulu= Louise Brooksなどから、いろんなことが言えるとおもうのだが、まずはちゃんと聴いてからね。

拍手もくしゃみもできないびりびりの緊張感に包まれた第一部の後で20分くらい休憩があって、続いて第二部。 開口一番、「第一部が終わってくれてよかったー」だって。 (←じゃあやるなよ)

まずは自身のピアノで3曲。
"Gray Gardens"〜"Memphis Skyline"がすばらし。

晩奏のピアノでJudyを4曲。

この第二部でも、とくにJudyでびっくり、だったのだが、彼のヴォーカルはとてつもないレベルにあった。
Oyster BarのNew England Clam Chowderで「あたり」がでたときのかんじ、いや、あんなもんよか断然すごい。これまで聴いてきた彼のライブのなかで声量、きめ細かさ、ひっくり返るときの安定度、なども含めて、まちがいなくベスト、エモーショナルな水飴としてどこまでも自在にのびていった。

それから自身のピアノで”The Art Teacher”。

ここでMarthaを呼んで、(翌日はモントリオール公演だし、と)フランス語のを2曲、Josephine Bakerのと映画"French Cancan"から1曲。 Marthaのフランス語にくらべるとRufusの発音はあんましかも。 
そして一緒に"Hallelujah"。 しかしなんで"Hallelujah"の途中で咳きこむかねこいつは・・

そのあと、またひとりで3曲(くらいだった?)。

アンコールは2回、1回目のアンコールの"Poses"で、Marthaが息子(Rufusの甥っこね)を抱えて再登場して一緒に歌う。

あと、パパ(Loudon)とママ(Kate)がWoodstockかどこかで作った曲、ということで"Walking Song" (1975)を。 とってもよい曲で、これで彼の家族全員が物理のも天上のも含めてちゃんと壇上にあがったことになった。 
いつも思うのだが、このひとがこういうこと(家族を大切に)をしても嫌なかんじにならないのは何故なんだろうね。 

で、そんな会場の家族みんなに向けて、彼のオペラ”Prima Donna”が、2012年City Opera(Metのほうじゃなくて残念だったねえ)で上演されるの、というのが報告されて、あと、「婚約しちゃったんだー、ほらこれがリング」ていうのもあった。 よかったねえー。


でもそろそろバンドでの変態ものもおねがい。

写真は妹と甥。 本人のは近すぎてまっしろだったのでボツ。

 

12.07.2010

[film] Four Friends (1981)

8:45から、Arthur Pennの81年作"Four Friends"を見ました。
Pennは"The Missouri Breaks"の次にこれを撮っている。

ユーゴスラビアからアメリカの鉄鋼の街に移民としてやってきたDaniloとその3人の仲間の61年から始まる青春時代ドラマ。 脚本のSteve Tesichの、ほぼ実体験に基づいているらしい思い入れたっぷりの物語。

4人ていうのは文系のDaniloと体育会系のTomとでぶはげのDavidと3人のミューズでイザドラ・ダンカンを信奉するGeorgia(いそうねーこういうやや太めのおねえさん)で、いろいろ色恋も含めぐしゃぐしゃになったりするものの、エピソード自体は時代の流れも含めてさくさく走っていく。

これはとってもよかった。

もともとこういう青春ものは好きだし、全体に湿っぽくないし、あの時代、あの仲間を賛美するようなべたっと甘いものにはなっていない。 あのとき、あの場所で起こったこと、を淡々と並べていくような構成で、その結果として、例えば、アメリカの地方都市の、移民コミュニティの60年代、あの時代に移民の子として生きるということはどうだったのか、みたいなひとつの像が浮かびあがる。

おもしろいのはこれが81年に作られた61年の物語だ、ということね。

あの時代に60年代を回顧する、というのは反動以外のなにものでもなかったの。 ノスタルジアなんて屑だ糞だ、と思っていた。 "Deer Hunter"(1979)ですら、あれはあれで大好きだけど、そういう匂いをかんじとってけっ、とか思ったのだった。 当時の日本の高校生ですらそうおもったのだから、米国での反応を考えると相当Controversialな、あるいは微妙に無視せざるを得ないような、そういう半端なものになってしまったのではないか、と。

でも、だれもが自分の時代だの、自分の仲間達だのを暗黙に肯定賛美するようになってしまった今となっては(ほんと居心地わるいしきもちわるいねえ)、この映画のあえてそこに留まった、ようなところは清々しく新鮮に思えた。
例えば、いま80年代を描くとしたら、"Hot Tub Time Machine"にあったようなある種の照れとか、或いはTim Kasherが"There Must Be Something I've Lost"で歌ったような呻きにも似たいらだちでしか表現できない。 当時、なんも考えず、なんも残そうと思っていなかったから。

だからね、ある種の羨ましさと共に彼らのじたばたを見ていたわけです。
ほんとにくさいところ(泣いちまったぜ)は幾つかあるにせよ、彼ら4人は映画のなかのあの時代にほんとに生きているようだったから。

Georgiaを演じたJodi Thelenさんは、あんまうまくないけど、Anne Hathawayさんにちょっとだけ似てる。
彼女がさいごのほうでDaniloと大喧嘩して、「もう若いふりすんのはうんざりなんだようー」てびーびー泣くとことか、いかった。

あと、ふと思ったのは、アメリカで”Quadrophenia” (1979)みたいな物語は可能だったのかなあ、て。

あるのかしらね?  なんとなくないような気がすこし。

[film] The Missouri Breaks (1976)

日曜日夕方の6時過ぎからArthur Pennの映画を2本。

Arthur Pennについてはほとんどしらない。 Irving Pennの弟、ということくらいしか。
"Bonnie and Clyde"もTVで子供のころに最後のほうだけ見て怖くてしぬかとおもったので見てない。
だから「アメリカン・ニューシネマ」というのも実はぜんぜんわからない。 みんなが言うから、程度にしかしらない。

でも見てみないことには、なので見てみました。

76年の"The Missouri Breaks"。 場所はモンタナのどっか。

Jack Nicholsonが馬泥棒一味の親玉で、傲慢な牧場主は怒ってMarlon Brandoのガンマンを雇って連中の退治を依頼して、という西部劇、なの。

でも、全体の雰囲気は冒頭のたんぽぽの綿毛のようにまあるくふんわかしていて、そういえばMarlon Brandoもおなじように丸くて、あんま凄腕にはみえない。

これまでに見てきた西部劇の、過去に刻印された怒りとか恨みとか呪いとか、そういう情念だの怨讐だのでぜんいん頭がおかしくなってて、更にそれらが人間関係にがちがちの縛りをいれて、そんなぎったんばったんが馬だのリアカーにのって荒野に銃声と死体の山を運んでくる、というかんじとは結構ちがう。

出てくるひとたちがみんな変な人たちであることは確かだが、なんで変なのか、誰がほんとにわるいのか、なにがいけないのか、などなどは、あまり説明されない。 
けっか、Jack Nicholsonがいちばんまともに見えたりするし、実際そうなのだろう。 しかし、そういう議論をすることじたいに意味があるとも思えない。

だから、変なひとたちがだたっぴろいところでわあわあ喧嘩みたいなことしてておもしろい、で終わらせてしまうこともできて、それはたぶん正しい。 
だってどこの戦争だって土地争いだっておおかたそんなもんだろ。あんな滑稽な見世もんないよ。

画面はどこを切り取ってもきれいだし、フィルムの状態もよくて、ああこんなところで暮らしたいとかずっと思って見ていました。

この映画の最後で突如Shinningのひとに化けた彼に首をかっきられてしまったMarlon Brandoの魂は、この数年後、ベトナムの奥地にこれの数段変なひととなって甦り、このときの恨みからいろんなひとの首を斬ったり吊るしたりするのであるが、最後の最後に牛刀で牛みたいにばっさりやられてしまうのは周知のこと。

それにしても、この映画のMarlon Brandoは、おっそろしく変だ。
寝ているひとの口に虫をつっこんだり、おばさんの格好して踊りながらひと殺したり。
おもしろいからいいけど、一部のひとは喜んだかもしれないけど、でもこのひとがやらなきゃいけない役だったかというと、そんなでもない気がした。

あとは、まだまだ若いRandy QuaidさんとかHarry Dean Stanton とかも出てて、ほほえましい。

音楽はJohn WIlliamsさんで、軽いバンド編成の楽曲なんかつくってて、よいかんじ。

というわけで、(例えば)日曜の晩にうっとおしいNHKの大河ドラマ見るのよりはぜんぜんよいと思ったのだった。

[film] Les Bonnes Femmes (1960)

ほんとうに、寒さがしゃれにならなくなってこのままじゃ死ぬかも、くらいのところまできたので、J.Crewでコート買った。 ユニクロなんかでぜったい買わないもん (←こごえじんでろばか)。

日曜日は、Lincoln Centerで映画3本。 Chabrol1本。 Penn2本。

お昼過ぎから、Chabrolの60年作、"Les Bonnes Femmes"。
邦題は『気のいい女たち』、英題は"The Good Time Girls"。

パリの電気屋で働く4人の娘さんのおはなし。
昼の仕事はしぬほどつまんなくて、でも夜遊びは楽しくてどんちゃん騒ぎとか朝帰りとか。

そんな彼女たちの日常をHenri Decaëの、Henri Decaëとしか言いようのないモノトーンのカメラが追って捕えて、つないでいく。

最初は、「ほんとは裏でなにやってるかわかったもんじゃねえ」みたいなところを追いかけていったら、結果的にこういうものができたのではないか。

彼女たちだってひとりでぼーっと過ごしたり、家族と一緒だったり、そういう時間もあるはず、でもそれって結局だれにもわかんないよね。 わかんないんだったら、わかんないんだから、こんなことだってやっているかも、こんなことだって起こっているかも。  "Night Moves"。

こんな想像とか妄想とかがひろがっていった果てにChabrolの映画のコア、Chabrolの描く都市や犯罪、はあるのではないか。 そうして広がっていった想像力と映画で描かれる現実界との間に突然現れる亀裂、裂け目として、彼の映画における死や殺しはあって、だからいつもびっくりさせられるし、戦慄するのだとおもう。

前半のパーティの乱痴気騒ぎも、動物園のエピソードも、どれも楽しいし、歌謡ショーのとこも、じたばたするけど、あるかもねえおもしろいねえ、みたいなかんじ。 それが夜のプールの後で、空気がざわっと変わってあんな方に行ってしまう。 それまで動物を追うように4人の行動を追っていたカメラが、たったふたりに寄っていって、どこか知らない場所に移動して、「ほんとながい首だねえ」とかおもっていたら・・・  客席全員 「・・・え?」みたいな。

映画はすべてを明らかにしたり、すべてを説明したりする必要はない。 
でも、それでも登場人物の行動を自身の行動規範やパターンから理解しようとつとめる我々の首元にとつぜん突きつけられる冷たいナイフ。 それが常軌を逸しているからこわいのではなくて、握手するみたいにふつうに出てくるからこわいのだとおもう。

同じ女の子4人組、おなじように都市とセックスを描いていても、SATCとこの映画とでは随分ちがう。
その違いについて論ぜよ。 って自分ががっこの先生だったら宿題でだすとおもう。

それにしてもパリって、夜の10時過ぎにプールに入れるの?

どうでもいいけど、この映画のBernadette Lafontは、Juliette Lewisさんみたいだとおもった。

Chabrolのオンナもの、ほかにもいっぱい見たいけどなあー

[music] Minus the Bear - Dec.4

この金土は、World Financial CenterのなかのWinter Gardenていう温室(アトリウム)で、昼と夜の計4回、Robert Fripp先生が"Soundscapes"ていうソロギター公演(無料)をやってて、寒くなくて元気があったら、行ったとおもう。

けど、寒くて元気もあんまなかったので行かなかった。
一部、"Starless"のリフが聴こえたとか、客席にIan McDonaldがいたとか、でてくる噂のがおもしろ。

で、土曜日の晩は、Terminal5でMinus the Bear。
彼らの”Planet of Ice”ではないが、寒波のなかライブハウスまで歩くのがきつくなってきた。

めあてはどちらかというと前座のTim Kasherさんだったので、ゆっくりめに出て、着いたのはTwin Tigersの最後2曲くらい。 エモゲイザー、みたいなかんじか。

Timさんとそのバンドは、予定の8:45よか早く出てきて、いっきに45分間。
Timはずっとアコギ1本を離さず、しかしインストアで見たときの数倍のパワーで思いっきりじゃかじゃかと、一曲目は、"I'm Afraid I'm Gonna Die Here"  でした。

何曲目かの"There Must Be Something I've Lost" での
"I wanna have sex with all my old girlfriends again"  のラインで「わー!」て歓声がおこる。 
(はいはい・・・)

この曲の後、客席に向かって、「この曲では今のおまえらには想像もつかないような世界のことを歌っている」「この歳になって振り返ってみるとな、じぶんがなにひとつやっていなかったことに気づくんだよう!  Shit!」  

(うんうん・・・涙)

ピークはやはり"Cold Love" ~ Bowieの"Soul Love" ~ "A Grown Man"の流れでした。 


それにしてもこのバンドはすばらしい。 たった4人でバイオリンやトランペットも含めたあのアンサンブルを叩き出せるのは驚異的。

そういえば、この晩はBoweryでJeff Tweedyさんのソロもあって(チケットはあっというま)、今の米国の2大ソングライターの声が北のほうと南のほうで響いていたことになるのだった。

Minus the Bearは、何年か前、Westで見て以来。
あのときの地味で誠実そうな印象からすると(バンドは実際そうなのでしょうけど)、こんなに人気があるバンドだったのね、とびっくりした。 

ていうか、客はほとんどが酔っぱらいでみんなはっぱ吸いまくってて、要はパーティバンドのノリなのだった。
開演前に流れてるのはEW&Fとかダンスナンバーばっかしだし。

CDで聴いていると結構緻密に高度に音楽的なあれこれをやっているので、その辺に興味があって来てみたのだったが、酔っぱらった耳はそのへんをすっとばして、時折現れる情緒的なパートとかみんなで歌えるとこにわんわん反応しているらしかった。

ので、中盤以降はフロアにいてもうるさくてけむたいだけなので2階とか3階をふらふらしていた。
げろまみれになってしんでる人たちがいっぱいいて、そっちのがおもしろかったり。

ライブそのものは、ライティングも含めて非常に完成度の高い、洗練されたものでした。
野外とかでやったら更に気持ちよくもりあがるのではないか。

でも、お金払って、凍えながら通うライブとしてはもういいかも、とおもった。


 

12.06.2010

[film] La Femme Infidèle (1969)

ふんとに寒くなりましたわ。

土曜日は映画1本にライブ1本。

金曜日から、Lincoln Centerで"Night Moves: Claude Chabrol & Arthur Penn"という小特集が始まったの。

http://www.filmlinc.com/wrt/onsale/chabrolpenn.html

Chabrolの特集が組まれるのは当然として、Pennのほうはなんで一緒にまた? であったが、”the American filmmaker most directly influenced by the New Wave”ということらしい。 
いいけどね。見れるならそれで。

特集のタイトルになっている”Night Moves”というのは今回の特集でも上映されるPennの75年作品のタイトルでもあるのだが、両者の作品の特徴をうまく言い表しているような。
夜の闇のなかで、その向こうで、いつの間にか脳裏や心理に、人間関係に、あるいは生活の風景に、芝生の隙間に入りこんできて、"move"をうながす何かに常にFocusしていた、というところとか。

Chabrolが描いたそんな「フランス」の風景は「ヌーヴェル・バーグ」と呼ばれ、Pennが描いたそんな「アメリカ」の風景は「アメリカン・ニューシネマ」と呼ばれた。 のだよね?

Claude Chabrolのほうはできるだけ通いたいのだが、とりあえず1本だけ。

4:30から、69年の”La Femme Infidèle”を。
『不貞の女』。英語題は"The Unfaithful Wife"。フィルムはBFIから借りてきたものだったみたい。

立派なおうちがあって息子もいて、幸せそうにみえる一家の夫がMichel Bouquet(ペンギン走り)で、不貞を働いている鉄面皮の妻(あらためてすごいと思った)がStéphane Audran。どっちもおそろしく巧い。

夫はそれがわかっていて、妻も夫がそのへんを探っていることがわかっている。
それでも幸せな家庭はなんとしても維持されなければならず、その緊張はあるところからずうっと、しかしなんということのない日常のなかに差しこまれた形で、とにかく、ある。 
幸せっていったいなんなのかねえ。

そうして夫が不倫相手のおうちに乗りこんで行って、ふつうに会話してたと思ったらとつぜん相手を殴り殺して、遺体をシーツにくるんで車で運んで、沼に沈めて、家庭に平穏が戻ったかに見えた頃に警察がうちにきて、ここまでの流れは目が離せないのだがものすごく自然で、だから不自然で、その共存のありように、とにかくびっくりする。 いまの見た? いまのなんだったの? とかそんなふうに。

普段の日常に、唐突ではあるがごく普通に、「死」や「殺し」が紛れこんでいる、その抗いようがない流れのなかにある、「普通の生活」- 恋人がいて、家族がいて、お食事して、パーティがあって、とか、シャブロルの作品をそんなに見たわけではないのだが、そういう紙一重の怖さ、言いようのない怖さを描くのがうまいよねえ。

誰もが指摘していることだと思うが、この頃からすでに、D.リンチのはるかに先を行っていたとおもう。

特にラストのカメラの動きなんて驚異的。 あれ、まじで鳥肌たったわ。

12.05.2010

[music] Peter Hook presents "Unknown Pleasures" -Dec.3


12/3の金曜日の晩は、Irving PlazaでKilling Jokeもあって、どっちにすべきか直前まで悩んでいて、結局こっちにした。

Killing Jokeはたぶんこれからもだいじょうぶだろうけど、この企画はPeter Hookの気まぐれに近いものだろうし、Ian Curtisの没後40年(今回のは没後30年企画)に彼が同じことをやるとも思えないし、それまでに世界はなくなっているかもしれんし、とか。

でも、あんまし期待はしていなかった。だってねえ…

だがしかし。 それはまさに、"Unknown Pleasures"であった。
我々は未だ本当の快楽をしらなかったのだ。 そして、それを知ってしまったのだった。
よくもわるくも。

開演は前座なし8:00のはずだったのだが、張り紙があって、8:30からFilm Screeningで、9:00からLive、とあった。

で、8:30に客電が落ちて、前方の分割スクリーンでDVD映像(フィルムじゃないじゃん)が流れはじめたのだが、音も画像もつっかえて動かなくなってしまい、大ブーとなった。何度かのトライの後でようやく始まったのだが、要は当時のFootageやインタビューの寄せ集め(あと映画"24 Hour Party People"からのとか)で、音も編集も雑だし、知ってる内容ばっかしだし、みんな更にぶうぶういって無視してた。

その20分くらいの映像が終ってそのまま、なんでかKraftwerkの"Trans-Europe Express"のイントロがぐあーんと荘厳に流れるなか、バンドがでてくる。

バンドのThe LightsはPeter Hookさん以外は4名で、b.にStone Roses/PrimalのManiとかがいる。最初それを聞いたときは、ぐえーごりごり与太郎ベースが2台かよ、とおもったのだが、Peterさんがvo.に専念していることもあり、そんな、ぜんぜんわるくなった。 Maniが完全に小僧扱いされてへえへえしているのもおもしろかった。

Peter Hookの貫禄、というか凄み、というか居直り具合がすごい。
最近のクローネンバーグ映画に出てくる殺し屋とか、F.ベーコンの絵画の爆発する男みたいなかんじ。 これじゃもうBarneyと一緒にやることはないだろうな、というのが納得できる荒れっぷり。 それでもぜんぜんさみしくないのもまた。

1曲目は"No Love Lost"。EP -"An Ideal for Living"から。最近だとLCD Soundsystemがカバーしていたやつですね。
最初のほうは、"Unknown…"以前からのレパートリーで、これが6~7曲くらい。

4曲目(だったか?)が"Digital"。Peterさんは、思いついたようなとこでしかベースを弾かないのだが、この曲のイントロみたいな、ベースが出るとこはぜんぶとる。そこで鷲掴みにしてがっちり押さえていた。

まんなかくらいから"Unknown Pleasures"全曲再現で、たぶん曲順通りだった、とおもう。
アナログだとA面が"Outside"でB面が"Inside"だったので、そのへんは変えようがないのよね。 で、そのままB面最後までいっておわり。

Joy Divisionの音って、Vo.パートをのぞくと、ほんとはたぶんこういう音を出したかったんだろうな、というのを脳内で補正とか追加したりしながら聴いていることが多かった(なにしろへただからね)のであるが、このバンドのライブでは、かつてそうやって想定していた音がそのまま出ているように聴こえた。

そして、そうやって出てくる「現在」の音の生々しく力強いこと。
(Killing Jokeのフジでのライブでも感じたあのかんじ)

そもそも、Joy Divisionというのは、Jim MorrisonとIggy Popで、めちゃくちゃオトコ志向の、ごりごりにマッチョな音を目指していたわけで、その後のNew OrderがあそこまでBreakしたのも、BarneyとGillianの中性的なイメージがその辺をうまく緩和して聴きやすくしたからだとおもう。

それがこのバンドの音では、従来の志向通り、狙い通りにがりがりと出ている、というかPeter Hookのおやじ臭と共に、その勢いは更に加速され、硬度を増し、手がつけられない状態となってぼうぼうに吹いていた。

アンコール最後の2曲、Peterとバンド全員が一瞬動きを止め、目が遠くの空を彷徨ったその直後、暴発したかのように突然鳴りだした"Transmission"の冒頭のベースのとてつもない強さと速さ、そしてラスト、"Love Will Tear Us Apart"の冒頭、沼のようにどわーんととてつもない広がりでもって響いた(これもやはり)ベース(あまりのスケールだったのでつい笑いがでた)。

すでに何千回と聴いてきたはずのこれらの曲を、はじめて聴いたような気がした。

ああ、すべてはここからはじまったんだわ、というのがよくわかるライブであった。
そして、ここからなにひとつはじまらなかったこともまた、われわれはようく知っているのである。
 

12.02.2010

[music] The Greenhornes - Nov.30

火曜日の晩、東京からきた観光客を相手にお食事をして(させられて)、終ったのが8:30くらい、天気はひどいしなんだかむしゃくしゃしたので部屋に戻って荷物を放りだし、Boweryにでました。

行く途中でMcNally Jacksonに寄りみちして、10時少し前について、当日で$15。 それでもまだ前座の一番手がおわったとこだった。 よしよし。

2番手はThe Ettes。
ステージに出てきたメンバーは3人。男のこb.と、女の子g+vo、女の子dr.。

なかなか腰の据わったごりごりのガレージ。
この場合の腰の据わった、というのは安定して揺るぎない、というのではなくて、要するに不良の貧乏ゆすりみたいにいらいらしてて、要は不良だ、ということなの。 優良品はガレージなんかに来ないからね。

少し(体型が)まるっこいギターの娘と、(体型が)がりがりでばくはつアフロのドラムスの娘のコンビネーションがすばらしい。 もうそのまんまラス・メイヤーの世界である。 おもいっきりしばかれて犬の糞扱いされてみたくなる。 

途中でギターを置いて、タンバリンと歌だけになることもあって、
それでも十分かっこいいのだった。   

3分未満の曲をくいくいがたがたうるさく、流すだけ流して、さーっと消える。 
すてき。



The Greenhornesが出てきたのが11時過ぎ。

このバンドの(特に)リズムセクションのすばらしさについて、どう説明したらよいだろう。 

Maximum R&BであったころのThe Whoの、今や永遠に失われてしまったあのリズムセクションの音を現代に再現できるのは、例えばこのバンドのこのふたりだ、といってしまって構わない。 それくらいこのふたりが鳴らす、ボトムから突きあげる砲声は豊かでなめらかで、そしてかっこよい。

或いは、Jack Whiteというひとのほんとうの功績は、このバンドのこのふたりをひっぱりだして白日の元に曝したことだ、とかね。

わたしはこのドラムスとベースの音が聴ければ幸せだったので、ひたすらじーんとしていましたが、バンドとしても十分すてきなのだった。

たしかに、ひとによってはヴォーカル&ギターが弱い、とか言うのかもしれない。
けれど、ギターもヴォーカルも、弱いという表現は正しくなくて、現代的な慎ましさでもって、鳴るところではしっかりと鳴っているのだよ。

例えばこれで、ヴォーカルがもうちょっとぎゃあぎゃあ呻いたり腰振ったり、ギターが泣いたり暴れたりしたら、そこらの凡百のブルーズバンドと変わらなくなって、フロアは腕組みしたむさいじじいだらけになってしまうだろう。

永遠の瑞々しさを失わない少年少女のための、こんこんと湧きでる噴水のようなR&Bとして、このバンドの音の定位定性は圧倒的に正しいのであって、だからフロアは嬉しそうにぴょんぴょんはねる娘さんばっかしだった。

1時間くらいざーっと流したあと、再び出てきてアンコールと呼ぶには長い6曲くらいを更に見事な勢いでぶちかましていった。
           


おみあげに、新譜の(★★★★  ←また遠慮して)、虎だか豹だか微妙なイラストのアナログを買って帰りました。内側に、Jim Jarmuschせんせいの絶賛檄文が載っている。
ほうら、だからいったじゃん。

新譜も、とってもよかったー。 買ってあげませう。