4.30.2019

[film] Lazzaro felice (2018)

22日、月曜日の晩、CurzonのBloomsburyで見ました。日本でももう公開されているのね。
英語題は“Happy as Lazzaro“。 Lazzaroが幸せになる話でもLazzaroを見て幸せになれる話でもないの。

冒頭、イタリアの田舎の村で農民が共同生活をしているらしい掘立小屋に夜みんなが集まってしょぼい楽隊をバックに若者が求婚して、それはうまくいって酒盛りになるのだが、若者のひとりのLazzaro (Adriano Tardiolo)はおばあちゃんを運んだり、みんなにあれこれ命令されてこき使われていて、でも穏やかに言われたことをこなしている。

村の名前はInviolata(inviolate – 不可侵)といって、タバコの葉を生産していて、監督官のNicola (Natalino Balasso)がバイクでやってきて帳簿をつけては渋い顔をして、典型的な昔の小作農家のようなのだが領主のMarchesa (Nicoletta Braschi)やその息子のTancredi (Luca Chikovani)のナリを見ると遠くない現代のお話しのようなので少し驚く。

家族から離れてうだうだしているTancrediと彼に呼ばれて小間使いをしているうちに気に入られたLazzaroは仲良くなり、義兄弟として一緒に狼の遠吠えをしたりするようになる。そのうちTancrediが画策した狂言誘拐の手伝いをさせられ、姿を消した彼の大規模な捜索が始まるのだが、熱をだしたLazzaroは傍にいられなくてどうしよう、っておろおろしていると崖から真っ逆さまに(見ているひと全員、あっ.. て)。

やがて狼がLazzaroの目をさますのだが、村に戻るともう跡形もなく、Marchesaは村人を騙して隔離して子供に教育も受けさせずに放置していた、という罪で逮捕されていて、しょうがなく彷徨っているとかつて同じ村にいた連中と再会してトラックの荷台に乗せてもらう。のだがかつてガキだった奴は青年になっていて、どうも崖から落ちてから数年が経過していたらしい(Lazzaro自身は変化なし)。連中は街の外れのバラックみたいなとこで盗品を売ったりして変わらぬ底辺の共同生活を続けていて、Lazzaroも入れて貰うのだが相変わらず下っ端であることは変わりなくて、そのうちTancrediとも再会して..

こんなふうにいろんな偶然が重なって転がっていく筋だけ追っていてもふうん、でしかないか。

かつてのInviolataの村人たちは場所と時間が変わっても社会の下層にいてあがいてて、でもずっと一緒にいて、Lazzaroも同様なのだが彼も以前と同様になんの抵抗もしないで笑みを浮かべているだけ。 そんな社会の不条理を告発したり正義、更には抵抗のありようを云々するわけでも、歳をとらないLazzaroの非抵抗の笑みと身振りはX-Men系のあれなのか、でもなくて、いつになっても社会はひどいままで変わりそうにないけど、たとえばこんなやり方で生き残っていくことはできる、かもしれない、と。

キリスト教的な幸福や善、受難について、Lazzaroの宗教画の顔立ち(と名前)からなんか言うことはできるのかもしれないが、そこにテーマがあるとは思えない。約束された富や幸せ、約束の地なんてどこにもありはしないことを明かしつつ、それでも風として狼として走り抜けること、これは社会とか宗教とかとはあまり関係がない。だれの承認もいらない。
寓話やファンタジーとしてではなく、都会に生きる半野生動物のドキュメンタリーのように見るべきだと思った。

見た後のかんじ、個人的には大島弓子の漫画の読後感と似ていて、降りかかってくる生き辛さを肯定の身振りで全てひっかぶってそれでもあなたと一緒に、どこにだっているよ/いくよ、っていう態度の表明。 漫画はぜんぶ日本に置いてきたのでどの作品が近かったか確かめられないや。

もういっこ、Agnès Vardaの“The Gleaners & I“ (2000) - 『落穂拾い』も。ものを拾い集めて生きていく人達は、道路脇に生えている草を食べられるじゃん、て言っている元村人らに通じる。 Agnèsが追っていったThe Gleanersの人達って、Lazzaroの顔(ところどころ)と向かい合うように立っているかのようだ。ていうか、AgnèsってLazzaroのママなんじゃないか。 狼ではなくて猫だけど。 狼も猫も仲良くしてくれるけど、誰にも制御はできない。野良。

できればもう一回みたい。最初のとき、見ている間はずっとはらはら –Lazzaroがひどいことになりませんように – だったけど、もうだいじょうぶだから。

[film] Wild Rose (2018)

26日金曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。
ロビーは“Avengers: Endgame“を見にきた人々で楽しそうにごった返していたが、いいもん。

Rose-Lynn Harlan (Jessie Buckley)が身支度をして牢屋を後にするところがオープニングで、Dolly Partonになったるわおらーとかみんなに威勢よく啖呵をきってそこを出ていくものの、実家に着いてみると母のMarion (Julie Walters)は冷たくて、子供たちふたり - 姉と弟も喜んでなくてぎこちなくてあーあ、になる。

グラスゴーに住む彼女の夢はカントリーシンガーとして米国ナッシュビルの総本山 - The Grand Ole Opryのステージに立つことなのだが、そう簡単にいくわけないからグラスゴーにあるライブハウスのGrand Ole Opry で歌うくらい。当面の間、足にはセンサー付けられていて夜間の外出はできないのだが歌うのが好きなのでいろいろ諦められない。

昼のバイトで掃除婦に入っている屋敷のSusannah (Sophie Okonedo)に歌を聴かせたら感動してBBCのDJに会わせてくれたり、ナッシュビル行きのチケット代を賄うためのパーティを企画してくれたりするのだが、なにをやっても肝心なとこでずっこけて空回りして、他方でずっと置いておかれた子供たちはどうするのあんたそれでいいの? になっていくの。

3月に見た家族コメディー“Fighting with My Family“ (2019)のように英国の田舎で夢を見る若者(あの映画はプロレスだった)が本場の米国に出て行って苦闘しながらなんかを成し遂げる、あれは実話ベースだったけどこれはフィクションで、フィクションだから好き勝手に痛快にやっちゃうかというと、そうはならずに歌も家族も大好きだし大切だからさ、みたいなところに落ちついて、これって典型的な英国の家族ドラマの作法なのだが、これはこれでいいか、って思った。

まずはとにかくRose-Lynn = Jessie Buckleyがところどころで気持ちよさそうに声を張りあげるカントリーの名曲に浸って、それと彼女の堂々とした面構えを見ていればそれでいい、そういう映画で、あんなふうに歌えたらいいだろうなー、くらいにのびのびと気持ちよさそうに歌う。いまサントラ盤もいっぱい宣伝しているけど、売れることでしょう。

周囲の連中が「“Country-Western“の」っていうと「“Country“だから」っていちいち訂正したり(そうなのね)、腕に“Three Chords and The Truth“ってタトゥーしてて、カントリーも3コードなんだー、とか、勉強になるところもいろいろ。ロックでもR&Bでもなく、なんでカントリーなのか? は聞かなくてもいい、彼女の歌声聴いたらすぐに納得するよ。

あと、Julie Waltersさんがいつもながらすごくよくて、“Film Stars Don't Die in Liverpool” (2017)でも、“Paddington“のシリーズでも、家族ドラマで扉の奥から顔をだすのが彼女だとなんかほっとする。すっかり英国のお母さん、になっているねえ。

[film] Avengers: Endgame (2019)

こっちから先に書こう。27日土曜日の深夜23:59の回、BFIのIMAXで見ました。
ぼーっとしていたら前売りはあっという間に売切れてて初日のなんか(BFIのIMAXだと)ぜんぜん無理で、ようやく取れたのがここくらい。この回も当然売り切れのぱんぱん。

この日は昼間から賈樟柯の”Ash is Purest White” (2018)を見て、夕方にAgnès Vardaの”La Pointe-Courte” (1955)を見て、21:00から40周年の”Monty Python's Life of Brian” (1979)を見て、ここまででじゅうぶんへろへろだったが、しょうがない(なにが?)。

Sky TVのケーブルでは一か月くらい前に”Infinity War”が放映されだし、公開1週間前に”Ant-Man and the Wasp”が放映されて、他のMCUモノも延々リピートしてくれていたので予習はたっぷりできて、なにが来たってだいじょうぶだよ、の状態にはなっていた。

ネタバレ厳禁、みたいな話がいっぱい聞こえてくるが、この場合のネタというと、まずAvengeresは勝つのか負けるのか → これはどう考えても勝つのが当たり前で、ではどのように勝つのか、そこで誰かが死んだり消えたりするのか、あたりがポイントになるのかしら。
でもいっつも思うけど何度でも言うけど、ネタバレしちゃダメ、ってマーケティングする側の理屈だからどうでもいいよね、いや最近はSNSで広がっていっちゃうので困るのです、かも知れないけど、でも広がってバレたって、見たいひとは見にいくんじゃないの? → いやでも楽しみが半減するという声が.. → あのさー、楽しみくらい自分でコントロールしなさいよロボットじゃないんだから。  ほーんとに映画売るひとたちってださい政治家とおなじでうざい。自分たちをなんだと思ってるのかしら。ほとんどThanosよね。ぶつ切りにしたろか。

181分。でもワイズマンのドキュメンタリーよか、”Barry Lyndon” (1975)よか、”Heaven's Gate” (1980)よかぜんぜん短いし、楽勝よ。前後編に分けてのリリースにならなくてよかった。

“Avengers: Infinity War” (2018)からの続きで、間に”Captain Marvel” (2019)を挟んで、2008年の”Iron Man”から始まったシリーズとしては22作目の、いちおう区切り、でよいのかしら。

“Infinity War”はゲームでいうとぼろ負けで、半分くらいが灰になってどこかに消えて、Tony Stark (Robert Downey Jr.)は宇宙のどこかを彷徨ってて、最後にNick Fury(Samuel L. Jackson)が灰になる直前に呼びだしたCaptain Marvel (Brie Larson)の助けを得て彼を救いだして、残ったみんなで宇宙のどこかで隠居していたThanos (Josh Brolin)を探しだして石はどうした?  と問うと、引退したレスラーみたいになっている彼は再利用されないように壊しちゃった、とかいうのでふざけんなボケ、って首をだっきんして、そこから5年が過ぎる。

“Infinity War”には出てこなくて(ここがポイント)突然シャバに現れたAnt-Man(Paul Rudd)がおいらのquantum realmの理論が使えるかも、って、いやいやそんなの絶対無理、とか議論と試行の後、Thanosが石を持っていく前の時代に飛んでって石を持ってきちゃえばいいんだ、になって、みんなはAnt-Manのスーツの数十倍かっこいいの(デザインして生産する人たちがまだいた)に身を包み、いくつかのチームにわかれて石を求める旅にでる。 ていう「指輪物語」に時間旅行がくっついたみたいなやつが前半で、後半は戻ってきた連中が、連中が戻ってくることを知って先回りというのか後回りというのかしたThanosの化け物団ともう一回衝突するの。

われわれは前半で過去にMarvel Cinematic Universe (MCU)で起こった出来事をひと通りおさらいして、後半で各ヒーローの勇姿と決め技の数々をおさらいして、その隙間にTony Starkとパパ (John Slattery)の、Thor (Chris Hemsworth)とママ (Rene Russo)の、Steve Rogers (Chris Evans)とPeggy Carter (Hayley Atwell)の切ない逢瀬と別れにじーんとして、つまり過去21作分のMCUを走馬灯することができる。 ここで一旦終わるのであればこれでじゅうぶんじゃろ、というThorのトンカチくらいの重量感はある。

それにしても改めてMCUの裾野のでっかさには改めて感心した。米国の軍需産業とその技術から始まったIron Man、米国の戦争の歴史をカバーしたCaptain America、それらを束ねて結成されたS.H.I.E.L.D.に、冷戦期のソ連からWinter SoldierとBlack Widow、アフリカ域からBlack Panther、アジア域からDr. Strange、化学実験で生まれたHulk、物理実験で生まれたAnt-Man、(西欧/北欧)神話領域からきたThorにLoki、ハイスクールからSpider-Man、サイキック系からScarlet Witch、宇宙連れ去られ系のStar-Lord、宇宙ひっかぶり系のCaptain Marvel、宇宙の野生/自生系のGuardians、でもなぜか宇宙人も含めて全員流暢な英語を話して、流れる音楽はほぼ70年代であるという-。

Russo Brothersの演出は接近戦と全体の俯瞰のコントラストを描くのがうまくて、”Captain America: The Winter Soldier” (2014)も同”Civil War” (2016)もすごいと思うし、一瞬しか出てこないような人物の掴まえ方もよいと思うのだが、その分、ひとつだけあるとすると、鳥肌が立つような、涙と涎がぼうぼうに湧いてしまうようなカタルシス満載のすごい絵を出さないし出せないみたい。 ここはしょうがないのかなあ、って。

あと、Captain Marvelの猫が出てこなかったのははっきりと不満だ。アライグマとやりあってほしかったのに。

ここから派生する作品として失われた5年間を生きた誰かと誰かの物語とか、Steve Rogersの最後の時間旅行のとこはラブストーリーとして誰かきちんと作ってほしい(それまでChris Evansをリリースしたらあかん)。

言うまでもなく今の我々はEndgameを生きている。資本を握ったものがすべての権力を無化し、歴史修正主義者は混乱を避けるために書庫を燃やし、見たくないものを見えなくした状態で失われた4年(合衆国)のうち2.5年が過ぎた。なんとしてもここで失われた過去の、異なる者たちの声を呼び寄せて再生しなければいけない、そこにしか勝ち目はないのだ。 といったことをスケールのでっかい漫画にしてみせたのはすごいな、とちょっとだけシリアスに思ってみたりもする。

Harry PotterマラソンとかLoad of the RingマラソンとかをやっているPrince Charles Cinemaはそのうち22作マラソンもやるのかしら、と思っていたらAlamo Drafthouseが既にやっていたのね。 案の定、人体実験になって相当きつかったもよう。

“I am.. inevitable”て言ってボタンを押す、みたいのがはやらないかしらー。

終わったら朝の3:30で、調べたら地下鉄がきれぎれ動いているようだったので乗り継いで帰った。
こんどは階段から落ちないようにゆっくりそうっと。

劇場でもうあと一回くらい見て、またなんか書くかも。

4.29.2019

[film] Paperhouse (1988)

25日、木曜日の晩、BFIで見ました。上映後に監督のBernard Rose氏とのQ&Aつき。

BFIでは毎月最後の木曜日の遅い晩に”Terror Vision”ていうホラーやスプラッターの古典やカルトを上映するシリーズをやっていて、4月のがこれ(5月のは”Stage Fright” (1987) – Aquarius だって)。 火曜に”Pet Sematary”、水曜に”Us”、木曜にこれ、で自分にとってはホラー3夜連続。 でもこれ、従来のホラーとはちょっと違って、どちらかというとファンタジーの方だったかも。 
日本では劇場公開はされていなくてビデオの邦題は『ペーパーハウス/霊少女』..

一番最初に焼かれた35mmプリントでの上映で、この後に劇場公開された際のプリントとは違いがあるという(それが何かは後のQ&Aで)。 原作は50年代に書かれた少年少女向け小説、Catherine Storrの”Marianne Dreams”。 今ではメジャーなスタジオとなったWorking Titleの最初期の作品で、彼らの”My Beautiful Laundrette” (1985)とかが当たったので制作に踏み切ることができたのだそうだが、でもこの作品はカルトとしてずっと愛されてきて、会場も同年代くらいの男女でいっぱいだった。

Anna (Charlotte Burke)は学校でも家でもちょっと疎まれて浮いている少し変わった11歳の子で、ある日学校で紙の上に落書きした家のイメージが夢の中に出てきて、更に奇妙なことに絵とその夢の間には逐次的な継続性があって、夢を見るたびに同じ場所に建っている家が現れて、絵に描きたしたり変えたりしたものも追加されたり消されたりすることがわかる。 やがてその紙の家にはMarc (Elliott Spiers)という脚の悪い男の子がいて、さらに彼らを殺そうと襲ってくる顔のよく見えない男 - どうもAnnaの父親らしい - が現れるようになる。

夢のなかの出来事がAnnaの住む現実とどういう関わりを持っていて、なぜ夢のなかではそういう現れ方をするのか、それらが児童心理学的ななんかから明確に説明されることはないのだが、それ故に原っぱの真ん中にぽつんと建てられた建物の微妙な歪さが持つリアリティ(CGなんてないから実際に建てたのだそう)とあわせて誰もが自身の夢としてきっと見たことがある、そんな説得力で迫ってきたりして、よいの。 『ミツバチのささやき』(1973) に出てきた小屋と同じようなかんじの-。

理由もなしに追いかけて襲ってくる大人の男、という設定が(夢の中であるにせよ)ホラーになることはわかるものの、それ以外のところはAnnaの置かれた境遇とか想像力が生みだしたファンタジーでもあって、そこが映画の企画準備段階でホラーとして売るのか子供向けファンタジーとして売るのか、でいろいろ揉めた(で、制作が遅れた)らしい。

上映後の監督とのQ&A(冒頭に”Candyman”の続編に関する質問はNGだからね、って念押しが)では過去に余り作られたことがないタイプの作品で、でもなんとしても作りたかったが故のいろんな衝突や苦労が語られ、でもこうやって長いこと愛される作品になったことへの感謝に溢れたものとなった。

Marcを演じたElliott Spiersさんは20歳で亡くなって、Annaを演じたCharlotte Burkeさんはこれ1本で俳優を辞め、いまはLawerをやっているのだそう。

音楽については、最初Stanley Myersがだいたいのスコアを書きあげていたのだが、音響的に物足りないところが多かったのでHans Zimmerに短期間だけどできる? と聞いてみたら、やる!というので突貫で作ってもらったのだそう。いまのHans Zimmer作品にも通じるところどころで耳鳴り頭痛を巻き起こす見事な音響作品になっている。爆音で聞いてみたいな。

Bernard Roseさんて、80年代初にUB40の”Red Red Wine”とかFrankie Goes to Hollywoodの”Relax, Version 1”とかBronski Beatの”Smalltown Boy”のvideoを撮ったひと、と聞いていきなり親近感湧いた。

4.27.2019

[film] Us (2019)

24日、”Pet Sematary”の翌日の水曜日の晩にOdeonのLuxeで見ました。
筋トレをするかのように毎日がんばってホラーを見て、耐性を高めたい。なんの役にたつのかは不明だが。

Jordan Peeleの前作 - ”Get Out” (2017)は結局見にいけてなくて、これも予告を見ただけで総毛立ちで怖いようどうしよう猫も出ていないようだし、と悩んでいたのだが、評判はよいみたいなので行くことにした。

冒頭、アメリカ国内には打ち棄てられた使われていないトンネルとか地下壕とかがものすごくいっぱいあります、ていうのと、みんなで大陸の端から端まで手をつなごう、みたいな運動だかキャンペーンだかが昔のTVに映しだされている。

そんな1986年、幼いAdelaide (Madison Curry)はパパとママとSanta Cruzの浜に遊びに行って、夜に少しだけ親から離れて浜辺にあった見世物小屋のようなのに入ってみるとそこは鏡の間で、なんとか抜け出そうと焦っているとそこであるものを目撃して驚愕の表情に(凍)。

そこから今の時代になって、ふたりの子供がいるAdelaide (Lupita Nyong'o) は家族4人でSanta Cruzのビーチハウスに休暇に来て、幼少期の記憶があるのでAdelaideは少し落ち着かない。で、夜になると家の外に家族っぽい4人組のシルエットが浮かんでいて、おーいって声を掛けても反応がなくて、警察に電話しても時間が掛かりそうで、夫のGabe (Winston Duke)がバットを持っておまえらいいかげんにせえよ、って向かっていくと…  (ここから先は書かないほうが。書いちゃうけど)

夜中、家の外でだれかが動かないで背を向けて立っている、それだけで怖いのに、それが突然無言で切りつけたり襲ってきたりして、しかもそれが自分と同じ顔と背格好だったら、とか。

実際にはそんなに起こりそうではない(もちろんその保証はない)けど、想定してみれば気味が悪くて嫌なかんじのやつとしてドッペルゲンガー、というのがあって、それが自分を殺しにきたら、とか、ドッペルゲンガーが自分(me)との間だけでなく自分が所属する集団(us)とか社会のレベルで起こったら、とか。宇宙人とかゾンビとか吸血鬼よりはありそうなかんじがする。だって社会ってそもそもが-。

彼らはみんな揃いの赤い服を着ていて無言かちゃんと喋れないかで、つまり意思疎通がほぼできない状態で、でも目は憎悪と虚無に溢れててでっかい植木屋ハサミを握りしめててそれで − 。
家族集団に纏わる悪夢っていうのを煮詰めて具体的に現実的に描くとこんなふうになるかも。後半はわけわかんないながらもハラを決めた一家が戦うことを決意してドンパチ – じゃないぐさぐさの斬りあいに入るので怖さはやや薄れるものの、なんでハサミなんだよ痛いだろとか。

家族の必死の戦いを描くとどうしても親が子を守って絶叫(涙)、みたいのになりがちだが、ここの子達はそれぞれ勝手に動いて自分のやり方で戦っていくところが頼もしくて、そこはよかったかも。

個のドッペルゲンガーはわかりやすいのだが、集団社会のドッペルゲンガー、みたいのが起こると仮定したとき、それはいったいどこのどんな社会の写し絵になるのか、それがどうして殺し合いの抗争に向かうのか、というのはおそらくこの映画の批評性、テーマのひとつとしてあって、その起点を80年代の西海岸に置いているのもいろいろ考えさせられる。 こういう点で、そこらのB級ホラーアクションより風呂敷はでっかい気がした。それがどうした、ではあるけど。

返り血を浴びてぼろぼろになりながら激闘するLupita Nyong'oさんはすごいのだが、近所の金持ち自堕落夫婦として出て来るElisabeth Mossさんもかっこいい(ドッペルした方も)。彼女のドッペルゲンガーものというと”The One I Love” (2014)ていう傑作もあったのよね。

やらないだろうけど続編とかあったらおもしろいな。あの集団のその後とか。

あと、Alexa(という名前にはしていないが)に警察を呼んで、と命令したときの挙動が爆笑で。

4.26.2019

[film] Pet Sematary (2019)

23日、連休明けの火曜日の晩、Leicester Squareのシネコンで見ました。
(映画を見てちゃんと怖がりたいひとはこの先読まないほうがよいかもしれませぬ)

1989年版のは昨年のBFIのStephen King特集で見て、ああこんな怖いの二度とやだと思ったし、いまはJordan Peeleの”Us”も見たほうがよさそうなのだが、短期間に2本もみたら許容量超えてしんじゃうかもと思ったし、でもBFIのおねえさんが「映画は好きじゃなかったけど猫が神だった」とか呟いているのを見て行くことにした。

医師のLouis Creed (Jason Clarke)の一家 - 妻のRachel (Amy Seimetz)、娘のEllie、まだ小さい男の子Gage、猫のChurch (♂) – がメイン州Ludlowの道路沿いの一軒家に越してきて、道路をまたいだ奥の森にはペットの墓地があるらしく仮装のでんでん太鼓しながら埋葬する列を見たり、隣家のJud (John Lithgow)がちょっと不気味だったり、気になることはいろいろあるのだが暮らしはじめる。

ある日Judが暗い顔でLouisのところに来て車に轢かれたのか道端で死んでいるChurchの亡骸を見せ、Louisは子供たちが悲しむので生き返ってほしいな、というとJudはそんなに言うなら、とLouisをペット墓地の奥の場所に連れていって、そこにChurchを埋葬する。 そしたら翌日に血の毛玉まみれでやや機嫌のよろしくないChurchが現れて…    そこから先はいいよね。

ペット墓地がある呪われた土地と、そこから蘇った化け猫・亡霊が巻き起こす恐怖とパニックが中心にあるシンプルな作りだった89年版と比べると、Louisは病院で事故でぐさぐさになって亡くなった黒人少年のことが頭から離れなかったり、Rachelは病気だった姉の死に関わる記憶に苦しめられていたり、周辺のエピソードをみんなより強く内部に抱えこんでいて、そういうところでChurchが事故にあって余りに不吉だから越しましょうよ、と言っていると今度はElleが.. (89年版ではGageが事故にあったが今作ではElleなの)。

今回のは土地に纏わる過去の話はなくて、登場人物たちの過去のトラウマが束になってより強い絆を求めてこっちにおいでよ、って全方位から囲って引きずり込みにくる。蘇ってただそこにいる恐怖、というよりは強引に向こう側に連れていかれてしまう恐怖。 なので、枠組みとしてはゾンビ映画のそれに近いかも。 ゾンビがどこからともなくゆらーって現れるのに対し、こっちのはずっと一緒にいて愛していた家族 – 生き返ったやつは別ものなのにね - という厄介さがいっぱい、どっちにしても近寄りたくはないか。

家族をはなればなれにしないで一緒にさせて、という強い思いが中心にあるとするならば、これはひょっとして特殊なかたちの幸せに向かっていくお話なのではないか、と途中から変な”?”が浮かんでしまい、では自分はいったいなにを怖がっているのだろうか、と基本的なところに立ち返って見ることができたのはよかったのかもしれないが、でも、あれじゃAdams Familyだよね、だし、確かにこれならSequelにもできるかもね、とか。

Jason ClarkeもJohn Lithgowもちょっと狂ったホラー向け(になりやすい)の顔なので憑りつかれてておっかないよう、感はたっぷり出ていてよかったかも。 でもひたすら不機嫌で堂々としていたChurchにはかなわないかも。威嚇されて引っ掻かれて泣いてみたい。

音楽はエンディングで89年版とおなじくRamonesの”Pet Sematary”が流れるのだが、この中学生のコピーバンドみたいな音はなに? と思ったらStarcrawlerだった。これはこれでまた。

[film] The Shining (1980)

17日、水曜日の晩にBFIで見ました。

BFIでは4月から5月にかけてStanley Kubrickの特集 - ”Kubrick”をやっていて、リストアされた”A Clockwork Orange” (1971) なんかはリバイバル公開されている。  あと今週末からDesign Museumで”Stanley Kubrick: The Exhibition”ていうのも始まる。

特集の予告もファンファーレがじゃんじゃか鳴って威勢よく華々しくて、スペクタクル!なかんじ満載なのだが、そんなに見なきゃ行かなきゃ、にならないのはなんでかしら。
そんなすごい映画ファンでもない(のよ実は)からかしら。

なので特集で見たのはまだこれと”Lolita” (1962)くらいで、他にも見たいのはいっぱいあるのでそっちの方に行ったりしている。

この“The Shining”は括弧付きのextended versionとあって、調べたらEuropeanリリース版は119分で、今回のは144分のAmericanリリース版らしい。プリントは上映回(だいたい一日一回上映)によってデジタルのと35mmのがあって、35mmのにしたのだが、一番大きいシアターがほぼ満席になっていた。

“The Shining”は日本の公開時(80年?81年)にまだあるか知らんけど千葉劇場の、まだあるか知らんけど2階の一番前で足をぶらぶらさせながらみた。たぶんいちばん最初に見たホラー映画で、ものすごくおっかなかったので今でもホラーはなかなか無理だったりする。 原作は未読。

それでも冒頭の空撮シーンはすごく好きで、今回行ったのもここを見たかったから、くらい。
山間の道路を車が走っているのを後方上空から撮っているだけなのだがCool、としか言いようがないの。

で、車は山奥のOverlook Hotelていうでっかいロッジみたいなホテルに着いて、そこにアル中気味の作家Jack (Jack Nicholson)、妻のWendy (Shelley Duvall)、息子のDanny (Danny Lloyd) – Tonyっていう友達が内側にいる – の一家が冬の間は雪で閉ざされてしまうここで過ごすことになって、Jackは執筆に専念できるから、と始めは乗り気なのだが、Dannyは屋内のところどころで変なものを見たりするようになって、Jackもだんだんにおかしくなっていって。

その先はみんな知っているし有名な場面ばかりだし。

広義にはお化け屋敷(ホテル)モノの恐怖、ということに尽きるのかもだけど、べつに建物が襲ってくるわけではなくて、廊下とかカーペットの模様とかエレベーターとか少し開いたドアとかボールルームとかパントリーとか、ふつうぽいのにいちいち怖くて、そこに突っ立って薄ら笑いをしている知らない人だか幽霊だかゾンビだかが気持ち悪くて、最悪なのはそいつらが気持ちわるいのを見せたりこっちにおいでよ、って誘ってくることで、更に地獄なのがそいつら(単体なのか複数なのか)がJackに乗り移るだかなんかして、猛り狂った形相のJackがおらーって襲ってくることなの。 どっちを向いてもぜんぶこわい。

それらに対抗するのがWendyの叫び声と包丁、Dannyと交信できるらしい老人(Scatman Crothers)くらいで、でも基本は逃げるしかなくて、なんで逃げるかというと、おっかない顔とか声で捕まえようとするから、捕まったらまず殺されるか食べられるか、ていうのがわかるから。 最初の方の不気味なあれこれが、過去の死や殺人を暗示するものに変わっていき、やがてそれが死の恐怖そのものになって視界を塞いでくる、怖いのはその過程で、最後にJackから逃げまわるところは実はそんなには怖くないかも。逃げるだけだから。 そういう点では、冒頭の空を舞うところ、三輪車で廊下を移動するDannyの背中をふわーって追うとことから始まっているんだなあ、って。(関係ないけど、最近のホラー映画の怖いやつがものすごいスピードでがちゃがちゃ動くのってなんなのかしら)

これはStephen Kingの原作に関わるところなのかもだけど、邪悪な力の方に取りこまれる/取りこまれないの間の引っ張り合いってなんで、どうやって成立するのだろう? なんで邪悪な方には行っていけない、ってわかるのかしら。向こう側に行ってはいけない・行っちゃえ、ていう判断と行動を分けるものってなんなのかって。愛か憎悪か? そこにドラマとかホラーが生まれる段差があるのね。

音楽のLigeti、Bartók、Pendereckiはすごいなー。今だったらLiturgy、Lustmord、灰野敬二あたりかなー。

4.25.2019

[film] Out of Blue (2018)

14日、日曜日の昼間、Picturehouse Centralで見ました。

Carol Morley監督 - Patricia Clarkson主演によるノワール。原作はMartin Amisの”Night Train” (1997) – 未読。 ポスターを見てSFサスペンスホラーみたいなやつだと思って行ったら違った…

New Orleansの天文台で「あなたが今いる場所を説明することはできますか?」とか「見るだけで非常に多くのことを語ることができます」といいながら宇宙空間のガイドをしている若い天文学者のJennifer (Mamie Gummer)がいて、次の場面では彼女は床に倒れて死んでいて、アル中で孤独な殺人課の刑事のMike Hoolihan (Patricia Clarkson)が捜査にあたることになる。

現場に残されていたスカーフとか保湿クリームの瓶とかいくつかの手掛かりはあるようだし、容疑者はいっぱいいてJenniferの恋人だったDuncan (Jonathan Majors)とか天文台の博士(Toby Jones)とか彼女の実家 – ベトナム退役軍人で地元財界の大御所の父(James Caan) - すぐに沸騰する - も母(Jacki Weaver) - なんでも受け容れる - も双子の兄たちも全員がどこかしら怪しいし、昔にこの土地で起こった未解決の連続殺人事件 - the .38 Caliber Killer -と似た手口であることも見えてくるし、更には本人による自殺の可能性がないとも言い切れない。あるいはそれらのミックスであったとしてもおかしくない。流れてくる音楽はBrenda Leeの”I’ll Be Seeing You”だったり。

そういうあれもこれもありそうなところに被害者の専門領域だったブラックホールとかパラレルユニバースとかシュレディンガーの猫といった理系のふりかけがあなたがふだんぜったいそうだと思って見ているものは実はそうではないのよ、とか半可通のふりしてかき混ぜて吹っかけてくるので星空を見上げるしかない。

New Orleansの湿った夜の暗さを背景に浮かびあがる青や赤の色や光が印象的に使われたノワールで、かんじとしてはDavid Lynch – “Mulholland Drive” (2001) - だったりNicolas Roeg – “Don't Look Now” (1973) - だったりAlan Parker - “Angel Heart” (1987) – だったりする出口の見えない迷宮世界なのだが、そこをたったひとりで突っ切っていくPatricia Clarksonがひたすらかっこよい - 幼い頃の記憶を失っている彼女を走らせる事情とか理由とか動機がちっとも見えてこないとこも含めて、なにかしらどこかしら歪んでしまった世界はすぐそこに。

という具合なので、足下の謎解きミステリーというよりはそれらを包みこんでいる宇宙の謎とか、タイトル通り、そもそもなんで突然こんなことが.. の要素の方が大きくクローズアップされてきて、それでよいのか、と人は言うのかもしれないが、ここの世界に関してはそういうのがあってもおかしくないかも、という説得力が十分にある気がするのでよいの。

それをひとりで引き寄せているのはMike - Patricia Clarksonで、彼女はひょっとしたら宇宙から落ちてきたなんかなのかも、くらいの異者感と重力があるし、そうするとこの事件そのものもどこか別の宇宙で起こったなにかなのかも、くらいに見えてくる。 そうなったときに、では善悪とか正義は .. というのも宙に浮かんできて、たぶん主題はそっちの方かしら。

音楽はClint Mansellで、これもよくてー。

4.24.2019

[music] Rufus Wainwright

21日、日曜日の晩、Royal Albert Hallで見ました。日本にも行った”All These Poses”のツアー。ロンドンではここの一日のみの公演。イースター4連休の真ん中にやるなよ、なのだが本人はうさぎさんだよ~とかぴょんぴょん跳ねてやってきたようなのでよかったか。

デビュー20周年、”Poses” (2001)の全曲演奏、久々のバンド編成、ということなのでこれはもう気分は保護者で、はいはい、って聴きにいってあげるしかなくて、そうすると彼も大喜びで大はしゃぎでそれに応えてくれる。客席の前のほうは老人ばかり、普段はクラシックとかを聴いていそうな皆さんが息子の晴れ舞台を撮るかのように嬉しそうにカメラを構えたりしている。

日によって曲順やセットが変わっていく「ライブ」というよりきちんとパッケージングされた「ショウ」で、セットはNYでも東京でも同じで、トークの中味もおそらくそうで、それでも行くのかと問われれば、行くのよ。あのぐんにゃりとよくしなる飴のようにスウィートな声に浸るために。

前座のRachel Eckrothさんの最後の2曲くらいから。彼女、その後のライブでもバックバンドにいた。 バックはBowieやSuzanne VegaとやっていたGerry Leonardさんがギターと音楽監督、ドラムスはJeff BuckleyのバンドにいたMatt Johnsonさんで、申し分ないかんじ。

20:30くらい、”April Fools”(うれしい)から始まって、ビロードのように滑らかで繊細なバッキングにああこれだよねえ、って。 ひとりでがんばるソロもいいけど、”Rufus Wainwright” (1998)の曲群てJon Brionと彼がものすごく時間を掛けて練りあげたものなので、曲によっては思いっきりゴージャスに鳴るなかで喉を震わせる仕様になってて、そこに見事に嵌っていたと思う。
(逆に”Want One” (2003)以降のって、レコードでのアレンジが十分に洗練されてきてしまった分、ソロで歌ったほうが露わになっておもしろいのか、な?) オープニングのいでたちはシルクハットにガウン、ていうペテン師のそれだったけど。

RufusがRufusになった時代の音楽なので、ママ - Kate McGarrigleのことが語られ、Leonard Cohenのことが語られ、Joni Mitchellのことが語られる。Joniのとこで、出演した昨年の75th Birthdayのライブにも触れて、これから演る”Both Sides, Now”はSealが歌ったのよやんなっちゃうわよね、でもぼくだって負けないんだから、と。はいはい。

休憩を挟んでの”Poses”全曲披露は、もちろんすばらしいのだが、"Cigarettes and Chocolate Milk"のイントロからずっと、これってなんなのだろう? ってずっと思っていた。ものすごく変 – ふつうじゃないかんじがして、初めて聴いたときの感触がそのまま生々しく持続してあることにも驚いた。

一聴してわかる名曲がいっぱい詰まった名盤、というのとは違う、同じような感触をもつアルバムにJoni Mitchellの”Blue” (1971)があって、そういえばJoniもPoses - 肖像に拘る音楽家だよね、とか。
別に一緒に歌わなくても(歌えないけど)いい、ただあの声が自在によたってしなだれかかってくる音階にくっついたり離れたりしていく様に身を任せておけばそれでいいの。そうやっているとあっという間に一枚分終わって夢かよ、って思った。

アンコールの最後にはでっかい白 - 虹モフモフのガウンが出てきて、Easter Bunnyだよ! ってご満悦なのだが、その佇まいで歌われる”Across the Universe”は真の意味でUniverseを越えていくかんじはあった。

でもあのちょび髭だけ、ちょっとなー。

4.23.2019

[log] Tokyoそのた (2)

行き帰りの飛行機で見た映画とか、そのたいろいろ。
飛行機でやっている洋画はほとんど見ていて、見ていなかったのはこの2本くらいだった。

Creed II (2018)

日本に向かう飛行機でみました。
前作からの続きでAdonis Creed (Michael B. Jordan)は世界チャンピオンになって、かつて父をリング上で殺したIvan Drago (Dolph Lundgren)の息子Viktorの挑戦を受けて、向こうの反則でタイトルこそ奪われなかったもののぼこぼこの半殺しにされて、トレーナーとしてRocky (Sylvester Stallone) を呼んで再挑戦する、というお話し。 そこにBianca (Tessa Thompson)との結婚とかふたりの子供が生まれるとかが絡んで、人生なにごとも挑戦じゃな、っていうの。 何番まであるのだか忘れたが昔のRockyのシリーズは人を殺してしまうほどの殴り合いが怖くて見ていなかったことを思いだし、それでもいまだにCreedはなんのために戦うのか、とかえんえん悩んでて、ナイーブなのかバカなのかぼこぼこにされないとわかんないのか、ってことで、大変よねー(ひとごと)って。

あとは”A Star is Born” (2018)で、ふたりが出会って最初に”Shallow”歌うとこまで、とか(その先は辛くなるばかりなので見ない)。

The Wife (2017)

英国に戻る飛行機でみました。
92年、コネティカットに暮らすJoan (Glenn Close)とJoseph (Jonathan Pryce)の夫婦はストックホルムからおめでとうございますノーベル文学賞さしあげます! ていう電話を受けて喜んで授賞式に向かう。そこについてきた伝記作家のNathanial (Christian Slater)は、かねてより抱いていた疑念をJoanにぶつけてみると酒が入っていたJoanは動揺して … ていうのと50年代、文学の教授とその生徒として知り合ったJosephとJoanのエピソードをさし挟みつつ、人生を振り返ってすべてに感謝する授賞式の日によりによって(そういうもんよね。哀れなJoseph..)。 もう少しだけJoan のキャラクターがきちんと彫られていれば、だったかも。 “Colette”もこれも、長い時間をかけて自分(の作品)を取り戻す女性作家のおはなしで、そういうと、でもきっかけを作ったのは男性だし、とか言うバカは幼稚な成りあがりボクシング映画でも見てればいいのよ。

あとは”Mary Poppins Returns”の最初の方とか、”Crazy Rich Asians”の最後の方とか。”Crazy Rich Asians”って、 Johnnie Toとかに抗争活劇として撮らせてもおもしろくなったかも。その要素はふんだんにあるし。

本は時間がないので大規模書店の近くに行く都度寄っては走り回って拾うように買う、を繰り返していたのだが、大規模でも本屋によってはあったりなかったりがあってめんどうだった。
ラスキンの『ヴェネツィアの石』なんて、ないとこにはちっともないし、『食べたくなる本』が料理雑誌のとこにあったりとか。新宿紀伊國屋の文庫のコーナーに置いてあるがちゃがちゃうるさい宣伝の、まだやっていたので叩き落としたくなった。

こんなふうに時間がないひとは事前にAmazonで注文してすぐに受け取れるようにしておくらしいのだが、だって本て紙とか匂いとかインクとか見て触って確かめるよね(← ぜったいだめなひと)。

レコード屋は新宿のDisk Unionの一階のカフェになっているところでお茶をして、近辺にも連れていってもらってうれしかったのだが、買わなかった。後日に新宿のTower Vinylにも行って、でもレコ屋があんなオフィスみたいに眺めのよいとこにあってはいけない気がして、買わなかった。

で、13日のRecord Store Dayは、この買わないモードのままでなんとかなるかと思ったのに、むりだった。
ElasticaのBBC Sessions、いいねえ。

[log] Tokyoそのた (1)

4月の第二週に東京にいたときに見た主な展覧会とかのメモ。  ほんとにただの備忘。

ル・コルビュジエ 絵画から建築へ―ピュリスムの時代 @国立西洋美術館

世界文化遺産に登録された同美術館の開館60周年を記念した展示。
Le Corbusierが画家のAmédée Ozenfantらと共に雑誌 - L’esprit Nouveau (1920-1925)でのペンネームとしてCorbusierを名乗る前、Charles-Édouard Jeanneret-Grisとして活動していた頃の絵画作品等も展示。キュビスムもピュリスムもあの時代の理念の流れとしてはわかるしLe Corbusierの建築もかっこいいし大好きなのだが、金しか興味のないゼネコンが支配してゴミの集積みたいになっている今のトーキョーの建築事情を見るとあーあ、しか出てこないので、そんな場所でピュリスムとか言ってどうすんだよ、いちばん遠いじゃないか、って。Fernand Légerのでほっこりして出た。

かっこいい(溜息)、でいうと、昨年の11月にRoyal Academy of Artsで見た”Renzo Piano: The Art of Making Buildings”は圧倒的にすごかったの。

国宝 東寺―空海と仏像曼荼羅 @東京国立博物館

仏教美術は背景の教義も含めてほぼまったくわかんないのだが、仏像とか曼荼羅を見ておー、って感嘆するくらいの志向とか意識はあるので行った。平日だし混んでいないかな、と(そんなに混んでなかった)。こういうお寺系の展示に行くと、そのお寺に行って拝んで(or これらを魂を込めて制作して)御利益を、ていう本来の意義から切り離されたこのモノたちを美学的見地から見ることの意味って、というあたりをいつもぐるぐるしてしまうのだが、曼荼羅ってそういうのにも効く。 あといろんな仏像がいっぱいある間の仏様の配置とか、唯一写真を撮ってよろしいなんとか天にも意味はあるのよね、きっと。

両陛下と文化交流―日本美を伝える―   @東京国立博物館

宮内庁が所管する皇室ゆかりの作品いろいろ。工芸品とかかわいいのが多い。最近は「政治利用」されてかわいそう、とか言われるのはわかるけど、そもそもにっぽんのいちばん政治的にかゆいとこにずっといた人達なんだし。海外の王室とか(バッキンガムにもあったよ)に贈り物として出されたやつも見たかったかも。そっちの方が日本美を伝えるために作られたし出されたのだろうし。

続けて東京藝術大学大学美術館も行きたかったのだが時間切れだった。

写真の起源 英国 @東京都写真美術館


V&Aの所蔵品を中心に、ということでなんでわざわざ英国から来て英国のを、だけど、あのカバの写真見たら行きたくなるよね。「自然の鉛筆」 -  William Henry Fox Talbotから始まった写真の歴史を写真とその技術の進化を紹介していって、ふんふん、なのだがやっぱしカバに尽きた。英国って、おもしろい写真家がいっぱいいることを古本屋とか回って知って、その背後にはこういう歴史もあるのだろうな、って。  昨年V&AにできたPhotography Centreも行かねば。

大石芳野写真展 戦禍の記憶 @東京都写真美術館

ベトナム、カンボジア、ラオス、アフガニスタン、コソボ、スーダン、ホロコースト、広島、長崎、沖縄。 戦争がもたらす死や破壊そのものを直視する、というよりここで写しだされるのは後に遺された遺族や傷に後遺症に不在、なによりもその「記憶」で、記憶がその土地の記憶として、その土地の名と共にあらされてしまうもどかしさと虚しさが全体を覆っているようだった。おじいちゃんやおばあちゃんを取り替えることができないように、あたまのなかの記憶も取り替えることはできないし、消えることがない。だからなにひとつ終わっていないし。 でも、なのに、なぜ? という必見の。

イメージコレクター・杉浦非水展  @国立近代美術館

日本のグラフィックデザインの先駆 - 杉浦非水(1876-1965)の作品とか彼の収集したイメージあれこれとか。動物の絵図がいっぱいあって、それだけで嬉しい、みたいな。
昨年の9月にDulwich Picture GalleyでみたEdward Bawden (1903-1989)の展示を思いだす。彼らの作品(彩色、紙質とかも含めて)が喚起するその国「らしさ」、みたいのってなんなのかしら?  それは彼らがデザインしたものなのか、その前に既にあって収集されたイメージたちがもたらすなにかなのか、とか。

いつも楽しみにしているMOMATのコレクションは今回もとってもよかった。
竹内栖鳳『飼われたる猿と兎』(1908)、速水御舟 『ひよこ』 (1924)、川合玉堂 『行く春』(1916)、船田玉樹 『花の夕』(1938)、跡見玉枝の桜花、そしてとどめにクレーの『花ひらく木をめぐる抽象』 (1925)  とか。みんなやがて去ってしまうものたち。

BunkamuraのWinnie the Poohのはすごい列だったし、V&Aで見たからいいや、にした。
おとといPoohの橋にも行ってきたし(得意)。

4.19.2019

[film] Ya shagayu po Moskve (1963) 

先々週の終わりに日本に行って、拘束されない時間にどこでなにをするか(そればっかり考えてた)、になって、展覧会はあんまなくて(混んでるし)、お買い物もそんなに沢山はしたくなくて(お金ないし)、じゃあどうするかというとやはり映画くらいしか思い当たらず、そんなときにシネマヴェーラって不滅で世界最強だわ、と改めて思った。やっていた特集は『ソヴィエト映画の世界』で、昨年Barbicanで見たMikhail Kalikの”Goodbye, Boys” (1964)なんて本当にすばらしかったし、まだ知らないのいっぱいあるだろうなー、って。

『私はモスクワを歩く』 - これは6日の夕方に見た。 丁度2日前に監督のGeorgiy Daneliyaが亡くなられたばかりで、その追悼もあるし。

冒頭、モスクワの空港で夫を待つ若い女性にVolodya (Aleksei Loktev)が「幸せかい?」とか聞くやりとりからしてなんか素敵で、友達を訪ねてきた彼は、地下鉄で夜勤明けのKolya (Nikita Mikhalkov)と出会って、そこから道端で犬に噛まれたり、ズボンを縫うのにKolyaの家に行って家族に紹介されたり、Kolyaの友達の結婚式とかいろいろいっぱいあって、最後は地下鉄の階段で見えなくなるまでばいばいする、ほんとに「私はモスクワを歩く」 - ただそれだけなの。

モスクワの、通り雨がさーっと抜けるかんじとか、空が遠いかんじとか、夜に町をうろつくかんじとか、モスクワはほんの少しだけ行ったりしているのであー、ってなって、それにしても”Goodbye, Boys”もそうだったけど、なんで去っていってしまうもの、二度と会えなくなるものをこんなにさらりと吹っ切って素敵に描けるのだろうか。

Dvoryanskoe gnezdo (1969)  "A Nest of Gentry"  - 『貴族の巣』

次の2本は8日の朝いちから続けて2本。料金が1本単位の入替制になって昔みたいにずーっといられなくなっていたけど、しょうがない。 どちらもツルゲーネフ原作の2本(どちらも未読)。

貴族のLavretsky (Leonid Kulagin)が長かったヨーロッパ生活から戻ってきて廃墟と化していた自分の館に溜息つきながらもここに腰を落ち着ける決意をして、それから近所のカリーチン家を訪ねて、美しい女性に成長していた娘Liza (Irina Kupchenko)と再会して、彼には贅沢に溺れてうざいからパリに置いてきた妻Varvara (Beata Tyszkiewicz)がいて、Lizaには決められた官吏の男がいるようだったが、彼女は自分と一緒になるべきだって近づいていいかんじになったところで突然死んだはずだったVarvaraが現れて、傷ついたLizaは修道院に行くと言いだし、巣には戻ったものの最後にはひとりになってしまう。 巣を中心に根を張った貴族の高慢が時間の流れとともに巣ごと根ごと腐っていく様を描いて、でも祖国だしここなんだわ、ってしょんぼりするの。 屋敷のなかも屋外の景色も服装も、1月にBunkamuraで見た展示『ロマンティック・ロシア』の世界そのままだったかも。

上映された35mmプリントは見事に焼けてまっかっかで、ちゃんとしたカラーで見たい気もしたが、これの錆びて朽ちていくかんじ、これはこれでー。

Biryuk (1978)  - 『猟人日記 "狼"』

これも35mmだった。豪雨で行き場のなくなった地主が近辺からは「狼」と呼ばれて避けられている森番(Mikhail Golubovich)の家に逃れるのが冒頭で、彼はまだ幼い娘のUlitaとその下の赤ん坊と暮らしていて母は出て行ってしまったという。狼は人間嫌いで、農民たちも彼を嫌って袋叩きにしたりしてて、Ulitaと赤子はどうなるんだろうかわいそうだよう、とはらはらしているとやっぱり..

ぜんぜん救いのない農奴の暮らしのありようが狼の目、娘の目、農民のあがき、貴族の高笑いのコントラストのなかに描かれていて、森は深くて暗くて、その強度ときたらすごいし。

ああいう世界だったんだろうな、ていうのと、でも今もあるよね、ていうのと。

久々の東京の湿度にううむ、ってなりながら視野はもう存在しないソヴィエト(の都市、貴族、農奴)に釘づけ、という食べ合わせがやや変なかんじはしたけど、ぜんぜん悪くなかった。

4.18.2019

[theatre] Betrayal

15日、月曜日の晩、Harold Pinter Theatreで見ました。Harold Pinter Theatreでは、(当たり前かもだけど)昨年から集中してHarold Pinterのいろんなのを上演していて、どれも行きたいけど行けていない。せめてこれくらいは、と3月のチケットを取ったら予定が入ってしまい、窓口に電話してこっちの日に無理やり替えて貰ったやつなので、なにがなんでも、だったの。

昨年の7~8月にBFIでHarold Pinter原作の映画特集 - ”Pinter On Screen: Power, Sex and Politics” - があって何本か見て、そこでこの”Betrayal” (1983)も見ている。監督はDavid Jonesで, Jerry役にJeremy Irons、Robert役に Ben Kingsley、Emma役にPatricia Hodgeで、なかなかおもしろかったのだが、感想は残していないようね..

今回の舞台版は、演出がJamie Lloyd, JerryがCharlie Cox, RobertがTom Hiddleston, EmmaがZawe Ashtonとなかなか豪華で、トムヒ人気もあるのかチケットも売れているもよう。
そういえばHarold Pinter作品を舞台で見るのは初めて。

舞台はなんの飾りもないシンプルなもので、椅子が3脚あって、3人のうち2人が対話するときは前にある椅子2つが使われて、場面転換は登場人物を残したまま床ごとゆっくりぐるーっと動く、それだけ。出てくるのは3人以外だとレストランのシーンでウェイターが出てくるのみ。

RobertとEmmaは夫婦で子供もいて、JerryとRobertはRobertが結婚する前からの親友同士で、Jerryも結婚していて子供がいる。JerryとEmmaは7年間、Robertに隠れてロンドンにフラットを借りてそこで密会している。最初のシーンは、レストランでJerryとEmmaが2年ぶりに再会するところで、 Emmaは昨晩Robertに自分たちの関係を明かして彼とは別れることにしたの、と告げる。自分達の関係を明かされてしまったやばいと思ったJerryはその晩、Robertに会ってその話をすると、彼は、それ4年前から知ってるから、とへーきな顔していうので愕然として、そこから話は2年前、1年前と遡っていって – それぞれの局面でJerryとEmma、JerryとRobert、RobertとEmmaはどんなことを話していたのか、を手繰っていく。これまでずっと登場人物の誰かは誰かと誰かの関係を知らないふりをして実は知っていた -  ひとりだけが騙されていたわけではなく、全員が多重債務状態で騙されていた - そうやって/それでも関係を続けている、関係が続いていく奇妙な事態の背後に”Betrayal”という単語が浮かびあがるのだが、だからといって何かが崩れたり狂ったりするわけではなく、誰かが誰かを裏切った状態を正として維持されてきた関係って …  別に、世間て割りとそういうものじゃないの? とか。

映画版の方は - てっきりJeremy Ironsが演じたJerryをTom Hiddlestonが演じるのだと思っていたらちがった - 街角にあるレストランや彼らが借りていたフラット、Robertの子供たちや家庭の様子も背景として普通に出てくるので、やや生々しいホームドラマ- 程度だったが、舞台で、今回のように装飾を一切排した平面上で展開されると、人物間 / 同士のぐるぐるが睨みあいと共に異物のように固化してそこに置かれて強烈な心理劇になる。もちろんそれを可能にするのは俳優の力のみ、でそういう点ではこの3人は誰もがすごくて、特にTom HiddlestonについてはLoki、としか言いようがない変態ぶり、ぐにゃぐにゃなのにぜったい死ななくてしぶとくて、それはなんか変な言い方だけど、見ていてとても楽しいのだった。

あとこれ、ほんとに英国の、英国人のドラマだなーって。

Radio Times Hall of Fame:  Helen Mirren

少しだけPinterが出てきたイベントのことをメモしておく。

BFIでは毎年この時期にBFI & Radio Times Television Festivalっていう3日間のフェスをやっていて、その名の通り英国のTVのショーやドラマの新シーズンのお披露目とかアーカイブの掘り起しとかいろんなトークとかがあって、2年前はこれでMaggie Smithさんのお喋りをみた。 今年のゲストにはJamie OliverとかSamantha MortonとかZawe Ashtonとか、アーカイブ関係だとDavid Bowieの映像お蔵出しとか - 一時帰国がなければ絶対行ったのになー、だった。

このイベントのフィナーレが、14日日曜日の晩で、そこにHelen Mirrenさんが登場したの。

もうじきSky/HBOで始まる歴史ドラマ - ”Catherine the Great”でロシアの女帝を演じるDame Helen Mirrenは全く知らなかったのだが、彼女の祖父はロシア革命から逃れてきて難民として英国に来て、ロンドンでタクシードライバーをしていたそう。なので元の苗字はMironoffなんだって。

そこからNational Youth Theatreに入り、更にRoyal Shakespeare Companyに行って、キャリア最初期の映像のクリップとして、Harold Pinterの”The Collection” (1976)が少し流れる。 これも昨年のBFIのPinter特集で見て、おもしろくて感想も確かここに書いた(猫も含めて素敵なの)。このドラマはあたまに”Laurence Olivier Presents”と付いていて、彼女もしみじみ言っていたけど、50-60年代のTVドラマは本当に質の高い、見るべきものが多かったのだと。(日本もそうだよね。ノスタルジーじゃなくてほんとに。最近はなんであんなクズみたいになっちゃったのか)

最後に会場に招待されていたNational Youth Theatreの若者(女性)たちにアドバイスを、と言われて、TVでも映画でも、そこに出て来る配役やスタッフに男性が何人いるか、女性が何人いるか、常に数えるようにしましょう。 そしてその数の違いはなんなのか、どういうことなのかを考えるのよ! って。

すごい.. どこまでも痺れるくらいかっこよかった。

[film] Az én XX. századom (1989)

11日、木曜日の午前、シネマカリテで見ました。『私の20世紀』- ”My 20th Century”。
ここの大きい方のシアターの最前列はいつ来ても気持ちいいねえ(空いていれば)。

昨年見た”On Body and Soul” (2017) の監督Ildikó Enyediのデビュー長編 - ハンガリー映画の4Kリストア版。こんなのがあったのね。

19世紀の終わり、NJのMenlo Parkの研究所で発明されたばかりの白熱灯のショーをしているエジソン – なぜかどんよりしている - がいて、空には星が瞬いていて、同じ頃ブダペストに双子の姉妹Dóra (Dorota Segda)とLili (Dorota Segda)が生まれて、母 (Dorota Segda – ぜんぶで3役!)は亡くなってふたりで街角に立ってマッチ売りをしているのだが、凍える晩、ふたりの酔っ払いに連れ去られてふたりは散り散りになる。

1900年になる前夜、別々に大きくなったDóraはオリエント急行に乗ったりしているちゃらい色仕掛け詐欺師に、Liliは爆弾抱えたしょぼい革命組織に入っていて、そのふたりのじたばたに挟まって絡んでくるのがZ (Oleg Yankovskiy)っていう紳士なんだかペテン師なんだかわからない旧態然とした謎のオトコで、ここにクロポトキンの『相互扶助 進化の原因』があり、ヴァイニンガーは女性解放運動なんてさ、と語っていたり、地下には新しい考え方や世界観が入りこもうとしていて、インフラのところにはエジソンの電気に無線、テスラの電撃が入ってきて世界はより明るく、速くなっていくぽい。

これが作られた89年(『追憶の1989年』)を考えると当然来るべき21世紀を見据えて作られたものだと思うが、トーンとしては「私の20世紀」なんて、こんなもんだったのよわかる? ていうややとぼけたシニカルな目線と、それでも、明るい未来とはぜんぜん違うなにかだけど、少なくともロバはいるからさ、なんて言ってみたり。

ここの、私の20世紀、というときの「私」とはどこの誰で、「世紀」として切り取られる時代にはどんなものが込められているのか。まずは女性、であること、そして進化(進歩史観)、みたいのはあるのかも。 親を失ってしまった女性たちが詐欺をするか革命をするかしか行き場がなかったような暗い時代になにが進歩や進化をもたらすものとして持ちあげられ、なにがそこから失われたりこぼれ落ちていったのか。といったことをモノクロの闇の奥から問いかけてくる。そのままでは夢として忘れられてしまいそうなことを、いろんな光の環の点滅とともに照らして軌跡を描いてみせる。

そしてここから暫くするとヨーロッパでは大戦が始まって、それどころではなくなってしまう。その少し前の少しだけ夢をみることができた頃のおとぎ話。この先に安易に「幸せ」とかを置かなかったのは正しいこと。

とてもロマンチックなおとぎ話、ということでいうと、こないだの“On Body and Soul”は同じ夢を共有してその中で鹿になっている男女ふたりのお話だった。この「私の20世紀」もそれ自体が共有された夢 - あるいは未来に共有することを夢みられるようななにか、として作られた、とは言えないだろうか。(そこにおいて”Body”や”Soul”が明確な意味をもったように「私の」が意味を持つの)
曾祖母の古い写真をぼーっと見ていたら突然彼女が話しかけてきたよ、みたいな。

これを90年代の頭に素で見ていたらどんな感想を抱いたかしらん?  今とは随分違っていたはず。

4.16.2019

[film] Mid90s (2018)

おなじ青春映画つながりで、こっちを先に書こう。14日の日曜日の夕方、CurzonのSOHOで見ました。
Jonah Hillの原作・監督による(タイトルまんまの)90年代中期の子供たちのお話し。

こないだの”Captain Marvel”もそうだったけど、なんでか90年代ブームが来ているようで、羽田で買った女性誌にもその特集があって、なんだろうなって。 ブームになるからにはなんらかのニーズとか必然があるのか、供給する側のたんなるノスタルジー( and それを表に晒すだけの余裕がでてきたってこと)なのか、わかんないや。

13歳のStevie (Sunny Suljic)は怒りっぽい兄のIan (Lucas Hedges)とシングルマザーのDabney (Katherine Waterston)とLA郊外の一軒家に暮らしていて、退屈でつまんなくて、スケボーをやっている少年たちを見ているうちに自分もやりたくなって、遠くから少しずつその群れに近寄っていって、4人組の端っこに入れて貰って、嬉しくてしょうがないのだが怪我はするわタバコは吸うわ家から遠ざかるわ怒られるわだんだんに荒れていって、でも基本は御機嫌で、それだけのお話しなんだけど。

親兄弟や周囲とぶつかって傷だらけになりながら滑って転んでなにかに目覚める(目覚めた気になる)Coming-of-ageのお話しでいうと、”Lady Bird” (2017)があるし、”Eighth Grade” (2018)があるし、スケボー仲間とのあれこれ、でいうと”Skate Kitchen” (2018) – これは東海岸 - があるし、似たような映画はいくらでも出てきて、どれもハズレなしでよいのは、たんじゅんに「青春映画」なんて括れない地点に連れていって(→ Wild Tour)ストーリーなんてどうでもいいからそこにいるひとりひとりをきちんと掬いあげていることで、すごく乱暴だけどそのひとりの子が画面のなかで思いっきり勝手に適当に生きて動いていればそれでいいの。

これは主人公が男の子だし、Jonah Hillなので結構痛そうな、おいおいみたいなこともやっていて、勢いが足らなくて落っこちるとこなんて笑ってからだいじょうぶか.. ってしーんとなって、あ生きてた生きてた、の呼吸なんて見事に彼のコメディのノリもあったり。

92年にクリントン政権になって、その頃に覆っていたグランジの、クズもゲロも含めてリアルであれ、ていう呪縛が徐々に解れてきて「オルタナティブ」のラベルと共にみんなが好き勝手にやりだした頃、というのが自分にとってのMid90sで、その仕切り枠にはきちんとはまっている。 それがどうした? っていうかもだけど、それがあって初めて音楽もファッションも、この映画の場合はスケボーも活きてくると思うのでとても大事なことで、これの反対側には、今から20年以上前のアメリカのことをこんなふうに出されても..  ていう戸惑いがあるのもわかる(英国でのレビューがあまりよくないのはその辺かしら)。

もういっこ、スケボー仲間のひとりひとりの顔がよい具合にでこぼこばらけていて、その中のStevieの子供顔が際立って、後ろの席にいた女性ふたりは彼がなんかしでかす度にずっとこの子Cuteすぎる.. って悶絶していた。あれじゃママも心配するよね。

この映画のタイトルがなぜStevieの呼び名である”Sunburn”ではなくて、ある時代の呼称になっているのか? (”Eighth Grade”もそう..   “Lady Bird”が別格なのはわかる)
そして、*Wild Tour*というタイトルは時間軸ではなくて土地や地形に関わるそれで、”The Myth of the American Sleepover” (2010) とかの方に近いかも。

音楽はこの程度のガキ共のノリであれば当時のエモとかGreen Dayみたいのを流しておけば楽勝だろうにそうはせず、Trent Reznor & Atticus Ross組がこれまでの彼らのサントラの音作りとは結構違う粒と方角ので固めていて、それが当時の(そんなメジャーではない)ヒップホップのかっこいい曲群とMixされて - 挿入曲と彼らの音の繋ぎとかどうやっているのか - まったく新しい音風景を作りだしている。 このどこまでも異化するかんじ、”Wild Tour”の音楽もそうだったけどすごくよい。

あの音にTrentにとっての90sは反映されていたりするのかしら?

すんごくどうでもよいけど、当時のCDのパッケージのシールとか、そういうのでじーんときたり。

4.15.2019

[film] Wild Tour (2018)

ヒースローには13日土曜日の15時過ぎに着いて、へろへろだったけどうるせー、って家に着いて荷物置いて解いて、17時過ぎにまずThe Second Shelfの本屋に行って(久々だったしここ日曜は開いてないから)、そこからRough Trade Eastに行ってRecord Store Dayは一見食い荒らされててだめかもだったけど結局いくつか買って、インストアでGang of Fourやるのかーとか思いつつまたSOHOに戻ってSister RayでRSDのを買い足して、21時くらいにおうちに戻って洗濯しながら死んでた。もう若くないんだからこういうのは止めないとね。

これから日本で見たのとか、書きたいやつからてきとーに書いていきます。
日本に行ったらふつうに日本の映画を見たいわと思うのだが、メジャーなとこでやっている邦画なんて見たくもないし、「名作」と呼ばれる大御所のもあんま見たくないし、タイミングも含めると丁度よいのってなかなかないもので、前回来たときは『ひかりの歌』だったが今回はこれ、もうじきのだと『嵐電』とか。

これはねえ、ものすごくよかった。泣いたり走ったり叫んだり殴りあったり性交したり難病になったり死んだり殺したり奇跡が起こったり、青春映画ってそういうのがあれば/あるから、ではなくて、そもそもこういうのをいうの。 キスもしない、手を握ることすらないけど、こういうのこそ。

2018年の2月の初めから3月くらいまで、まだ氷が張ってて寒そうな頃のお話。 山口県の山口市(行ったことないや)の公立のラボ - YCAMが地元の中高生相手に地元の植物を採取してそのDNAを調べて自分たちの植物図鑑をつくろう - 新種が見つかったりするかもよ、ていうプロジェクトのワークショップが冒頭にあって、そのワークショップから野に放たれていくファシリテーターのうめちゃん(伊藤帆乃花)と中学卒業(高校受験)を控えたタケ(栗林大輔)とシュン(安光隆太郎)のふたり、それ以外にも男子2人組(天使たち)とか女子4人組とか、彼らがどんなふうにワイルドをツアーしていったのか、そのツアーは彼らになにをもたらすことになったのか。

出演者たちは、撮影の前に出演者の選考を兼ねてYCAMで行われた映画製作のワークショップに参加した若者たち(みんなすごくよくて全員出すことにしたから選考にはならなかったそう)で、みんな映画には興味がある子達だからと撮影中彼らに持たせて個々に撮らせたiPhoneの動画も物語には挿入されていて、それとのコラージュや段差もよいのだが、なんといっても映画に興味はあっても自分が撮られる側になったときの彼らの演技 – 映り方 - に対する拘り(のようなもの)が露わになっていった、というその辺の経緯は、上映後の監督と五十嵐耕平さん(『泳ぎすぎた夜』 - 未見 – の監督)とのトークで知って、とてもおもしろかった。

こういう起点のストーリーだと、ツアーに出たところで死体を発見するとか得体の知れない何かに噛まれたり憑りつかれたりといったホラー展開になってもおかしくないのだが、彼ら – 少なくとも真ん中にいる3人 - が発見してしまったのはそれとはぜんぜん異なる「恋」みたいなやつで、しかもぜんぜんおもしろくないしどうしていいかわかんない3角形のそれであるという。

更にうめちゃんもつきあっていたYCAMの職員の男から離れたばかりで、タイミングも中途半端で、そういうときに限って恋ってのはなんかの胞子みたいに飛んできて、野生(wild)で、めんどい。

それは「発見」であるから彼ら自身もどう扱って振るまってよいのかわからない - DNAの塩基配列のようなタケの手紙とか - その揺れや惑いの瞬間がそのままカメラに曝されているので彼らの表情 - 眉がぴくっと動いただけでわーってなる。それがあるから、それだけですばらしい青春映画になっていて、じゃあそれがないとつまんないのかよ? というとそんなわけないしな、といったところも含めるとこれはパーフェクトな青春映画と言えるのではないか。

彼らが見出したものは新種の植物よりももっとすごく貴重なやつなんだよ、ていうことを誰も声に出していわないとこもよくて、なぜってこのツアーってずっと続いていくやつだから。
上映後のトークでもうひとつおもしろかったのは、タケは手紙で想いを打ち明けたけど、彼だったら手紙じゃなくて直接言ったと思う、そしてそうすればうまくいったはずだと、彼を演じた子が言っていたと。 なるほどそうかも。 重要なのは発見することじゃなくて自分のものにすることである - 勉強になるねえ。

ひょっとしたら街中の本屋行ったりレコ屋行ったり映画館行ったり美術館行ったりするのもこのツアーの続きなんだと思うし、更に時間が経つと記憶をたぐる(失われた時を…)、っていうツアーも始まるし、これは終わるものではないので、少なくとも恐れる必要はないの(なにを?)。

中心の3人以外のとこもすごくよくて、特にカニパンのところは「うぅっ」って声あげそうになった。これまで映画史に何回カニパンが登場してきたのか不明だし、他にもっといいカニパンシチュエーションはあるのかもだけど、とにかくここのカニパンはすごいし、カニパンはこんなふうに映画に出てくる瞬間をずっと待っていたのではないか、と思われた。

ないとは思うけど、続編ができるとしたら、YCAMのファシリテーターになったタケのところに立派な研究者になったうめちゃんが帰ってくる、ていうすんごく凡庸で身も蓋もなさそうなやつを夢想する。

ぜんぜん関係ないかもだが、思い浮かべた映画が”Leave No Trace” (2018)(日本では公開されたのかしら?)で、経済的に破綻した父娘が森の奥で自給自足の隠遁生活をしているのを見つかって捕まって教育されてしまう - トレースされることから逃げつつも新たななにかを発見していく話で、”Wild Tour”はすべてをトレースしていくことを企んでいったら別のなにかが起動される、ていう話で、恋ってトレースじゃなくて、ジャンプなんだよな、とか。

ああう、ノートルダムがあ…(悲鳴)

4.13.2019

[log] April 13 2019

Ep IXのteaserが出てきてそれどころではない土曜の朝でございますが、なんとか帰りの羽田まで這うようにたどり着いた。

いやー。一時帰国、まったく初めてのことではなかったのだがこーんなにしんどいものだったしらん? ていうくらい痺れるやつだった。 会社に週5日フルでいる方が断然楽ちんだったかも。 有休にはカウントされないし飛行機代だしてやるんだからこれくらい我慢して奉公せい、なのかもしれないけどそれにしたって。 なんだろあの風習、集団検診とかとおなじようなやつ。

まずは帰国直前に額を切って絆創膏ヘッドになっていた(もう外しちゃった)ので会う人会う人みんな、やあ、ってなったとこで目線が額の周辺を彷徨ってこれは聞いていいものか悪いものか、の表情になってしまうものだからいつどこでなにをしてそうなったのかを説明したほうがいいかと思って、会って最初の3分くらいはその件になり、天気や健康やBrexitの話題ばっかしよりはまし、なのかもしれないが、Le Butcherettes のライブの帰りにHackney Centralの駅の渡り階段の最後の一段で滑って転んで落ちましたなにで切ったのかはよくわかりません、とはやっぱし言えず、もうすこし家の近所の適当な駅の適当な階段ですってんころりん(古語)、歳をとるってこういうことなのよやーねーまったく、の路線で適当に吹いて散らした。こういうのを正直に言わないと昨今の会社用語ではインテグリティがうんたら、とかいうらしいのだが、家畜の等級じゃあるまいしそんなのしるか、だわ。

久しぶりに会った親の反応はというと、あんたが二本足歩行を始めてすぐの頃に家出して行方不明になって近所の保健所の石段の下で血まみれになって泣いているのを発見されたあれと同じ、とか、小学校の時にも同じとこを切って流血沙汰になったとか、なかなか執念深く絡んできて、いや、でも、そんなふうな子にしたのはあなたたちではないのか、とかそういう方向にはもう持っていかないの。大人なんだから。

とにかく着いてすぐ、天気はとってもよいしまだ桜も見れるし、とひと息ついたとたんに花粉の大群に襲われてここ数年でいちばんひどい顔面汁まみれで視界が歪んで捲れてになり、そうかと思えば10日からは激寒で芯から震えあがるわとにかくどっちもこんなの自分の思っていた日本の春じゃないわたぶん、だった。

だからといって買ったり食べたりするのもやめるわけにはいかないので多少はじたばたうろうろしたのだが、1月末に既に来ていることもあり、そんなでもなかったかも。いくら買っても大きいのは運べない - 荷物として運ぶことはできるけど向こうの床がもう、ていうとじゃあこっちの床はどうするんだ問題もあるのだがともかく - し、おいしいもの食べておいしくてううぅ、ってなってもそれってどうなのかしら、にだんだんとなってきた気がする。 たんに歳とっただけか。

というわけで映画5、展覧会6(常設展のぞく)、休暇ならもう少しいけた、いくべきだったのではないか、と見るか、こんなのぜんぜん休暇していないではないか、と見るか人それぞれだろうが、追っていけば果てのないものなのでまあこんなもんよね、にしておこう。

本屋は結構行ったもののレコ屋はざーっと通り過ぎて見たくらい。Tower Vinylってところにも行ってみたけど、レコ屋があんな地上10階の陽の光が射すところにあってはいけないのではないか、とか。

TV受像機は付けては気持ちわるくなって消す、を繰り返し、twitter上にどかどか落ちてくる広告も満員電車で身動きとれない状態で見せられる広告もコンビニのびっちり買って買っての陳列も音声も、こんなの当然とかやらなきゃだめとかなんで買わないのとかとにかく戦えとか呪いと呪縛に満ち満ちていてこれじゃみんな病むに決まってるしこの国はどこにいっちゃうのかねえ、ばっかりになってしまうループをなんとか断つのだ、って、じっとがまんしげ秒読みしてあと1時間ちょっとでこの地面からは離陸できそう。  ふう。

見たものあれこれは向こうに着いてからだらだら書いてまいります。

お忙しいところ時間をつくって頂いたみなさま、ありがとうございました。 またそのうちどこかで。

ぱたん。

4.04.2019

[log] April 4 2019

新しい元号が発表されて改めてほんっとあんなのどうでもいいし今のだって最後まで今が何年か覚えられなかったしあんなもんのために注がれるエネルギーとかリソースの無駄なこともったいないこと、しかもそういうことにメディアを中心になんの疑念も議論が巻き起こらないことの気持ち悪さときたらすごいなにっぽん。 で、当面は新しい元号をどこまでタイプしないでやって行けるかみてみたい。
一体感? この世でいちばんきらいな食べものだわ。

というわけで今日の夕方(あと4時間ご?)から13日まで日本に一時帰国、というので帰国します。 駐在して2年すると貰える会社のやつで扱いとしては休暇になるので実家とかお墓まいりとか、会社にも顔を出そうね、とあるので顔は出して、とそんなふうに言われるがままに予定を埋めていくとなんとなくまだら模様に埋まってしまったので憮然としている。 できれば台湾とか行きたかったのにさ。

新学期、新年度、新元号でお花見はあるし、でも花粉もあるし、酒とか粉だらけでみんなが上向いて浮かれて酔っ払っているそんな時期になんで? はあるのだがそっちの方がまだまし、かもだし、ロンドンはロンドンでいろいろ抜けられないのとかあるのよね。 13日はRSDだしさ。

ほんとうは、余りに適当に簡単にすたこら向こうに行ってしまったこの2年間をきちんと振り返って反省して、もうちょっとなんとか、とかやりたいところなのだがまあいいか、ってそういう態度が次の適当な2年(いられればな)を準備してしまうのだいいかげんわかっとけ、ってずっとぐるぐるしているのがここ数日の、というかここ数年ので。 これって死んだらわかるのか。むりよね。

などとかっこつけたことを書いていても、2日の晩、Le Bucherettesを見たあと、滑りこんできた電車に乗ろうとHackney Central駅の渡り橋の階段を駆け降りたら着地に失敗して派手にすっ転んで、その瞬間、Captain Marvelの転んで何度も立ちあがるシーンが脳裏に浮かんだので、そいつを維持しつつなんとか這うように電車には乗りこんだものの、額からの出血が止まらなくなり、呆れた乗客のひとがウェットティッシュくれてそれでなんとか血を止めて、次の乗り換え駅の駅員室で消毒して布みたいのを貼ってもらい、へろへろになって帰宅して、翌朝一応病院行って絆創膏した(縫わなくてすんだ模様)、というしょうもない状態なの。

生え際に近いとこ2箇所を切っていた - なにでどうやって切ったのか不明 - ので髪をじょりじょり切られて剃られて(生えてくるからさー、だって)、そこになんか間抜けっぽいサイズの絆創膏がべったり。 せっかくの帰郷を前に罰ゲームをくらった不良みたいなひどい外見になってしまった。  会うみんな、笑ってもいいけど暖かく迎えてくださいね。

それにしても、ああいうことがあった時って、ロンドンのひとはとてもやさしいの。
一生懸命スマホでなんか調べて、15分押さえていれば血は止まるってネットには書いてあるから、って教えてくれたお姉さんとか、無言で駅のFirst Aidのひとを呼んでくれたLe Bucherettesのライブにいたお兄さん – LP抱えてたから – とか、ああいうひとになりたいな。

まだらではあるが時間はありそうなので、映画や美術館はいろいろ行きたい。
映画は『ワイルドツアー』とか、上野はいまなんかやってるかしら?

ではまた。

[film] At Eternity's Gate (2018)

31日、日曜日の午後、CurzonのBloomsburyで見ました。

Julian Schnabelが監督したVincent Van Goghの評伝映画。丁度Tate Britainでも”Van Gogh and Britain”ていう展示が始まったこともあり、盛りあがりそうだし見ておこうか、くらい。

冒頭からVincent Van Gogh (Willem Dafoe)は絵はいっぱい描いているものの暮らしは困窮していて、理解者は弟Theo (Rupert Friend)くらいで、でも描く意思は強くて、丁度出会ったPaul Gauguin (Oscar Isaac)にも勇気づけられてがんばるのだが、周囲の風当たりは強くて精神病院に入れられたりいろいろされて、最後には…

苦難のアーティストの魂の道行きを綴る、のとVan Goghが彼の絵画に求めていった色や光はどういうものだったのか、を明らかにしようとしていて、タイトルは後者のほうに寄ったもの、だろうか。
彼の見た地獄がどんなものだったかはTheoへの手紙等を読めばじゅうぶん窺えるものの、でもそれは彼の地獄であり苦悩だったのだ、としか言いようがなくて、わかりようがないのであとは絵をじっと見るだけ。

だと思っているので、あまりよくわからない。 画家Julian Schnabelが画家Van Goghの描いたものや彼の生涯をこう捉えた、のならそうか、と思うけどこれを見たからといってVan Goghの絵を見る見方や視点が変わることはないかんじ(もちろん、変わるひとがいてもいいよ。邦題みたいに「未来」をみるのも自由よ)

なので、どちらかというと俳優たちのほうを。Willem Dafoe はすばらしいし、Paul Gauguin (Oscar Isaac)もDr. Paul Gachet (Mathieu Amalric)もPriest (Mads Mikkelsen)もみんなよい。

個人的な昔話になるのだがJulian Schnabelってなんか気にくわなくて。
むかーし、2010年にJonas MekasのAnthology Film Archivesのベネフットイベント - タイトルは”Return to the Pleasure Dome” - がNYのMaritime Hotelであったのね。今にして思えば豪勢なメンツで、Sonic YouthがライブしてMobyがDJして、Philip Seymour Hoffmanのスピーチの後にLou Reedがライブして、ライブの締めはTechnicolor SkullていうKenneth AngerとBrian Butlerのユニットで。(10年前はまだみんな元気だったんだなー)

ただ自分を含む一般の客は2階のバー横のすごい狭いとこに押し込まれて、立って体を伸ばさないとステージなんかぜんぜん見えなくて、これでチケットは$99だったのでみんなでぶうたれて騒いでいたらスピーチの合間に登場したJulian Schnabelが2階で騒いでるごろつき共黙れ、って。すんごく偉そうに。

この目線てVan Goghを追い詰めていった一般市民とか裕福な連中のそれと同じよね、とか思いだして、80年代のアートバブルで出てきた彼みたいなアーティストと、同じ頃にバカみたいな金額で「ひまわり」を購入した日本の保険会社(だっけ?)が重なってしまうのだった。 どっちにしてもかわいそうなのはVan Gogh。

自分にとってのベストVan Gogh 映画はAgnès Vardaの『冬の旅』(1985)だなあ。
彼女の追悼も書けていないけど、これ見て再見したくなった。

4.03.2019

[music] Le Bucherettes

2日の火曜日の晩、HackneyにあるMOTH clubっていうライブハウスで見ました。

初めていく小屋で駅前はいろんな薬売りの人たちがいっぱいふらふらしててなかなかすごい。小屋も小さくて、O-nestよりも新代田よりもぜんぜんちっちゃくて、ステージは6畳くらいしかないのでは。NYのLower EastのPianosくらいにちっちゃい。

電車を間違って戻ったりしていた(この線はどうしていつも..)ので前座には間にあわず、セッティングを見ていると後ろで肩をそっと掴まれ柔らかくやさしい声でごめんねちょっとだけ通してね、と言われて振り向くとTeri Gender Benderさんだったり。始まる時もなんか後ろで鳥の羽がくすぐったいぞ、と振り向くとやはり彼女がステージにあがるところで、要するにそれくらい狭いところなの。

でもステージにあがると豹変して、スペイン語でがんがんアジりって煽りながらキーボードをひっぱたき、ギターをかきむしり、両腕振りまわす奇天烈なアクションで絶叫しながら身をくねらせる。タイトな真っ赤なドレスで頭にやはり赤い鳥の羽を突っ立てて、目の周りも赤く塗って、でもぜんぜん変なかんじがしないのはなんでなのか。 たぶんバンドや曲のイメージに100%同化しているからではないかしら。 南米にあんな鳥いたし、あんな鳥はあんなふうに鳴いたし、とか。

前回見たときは2015年、STUDIO COASTでFaith No Moreの前座で確か3人編成でドラムスは男子だった気がするが、今の編成は男子2、女子2で、ドラムスは女子でバンドとしてのうねり具合は数段あがっていた気がする。 昔のがりごりガレージなかんじも悪くはなかったけど、このドラムスの子、とってもよいわ。

フロアの沸騰ぶりも相当で、やや年配の女性(ばらばら)数名が錯乱気味に興奮して前方に押し寄せわーわーやって若い女性たちに怒られる、というあまり見たことない光景も見られたり。

基本はガレージパンクなのだろうが、キーボードが入るとポップになったりサイケになったり弾むこと弾けること。このごちゃごちゃ落ち着かなくて落ち着かないのが楽しくてたまんないかんじはどっかで、と思って、そうだLe Tigreだ! とか。 発表されたばかりの新曲 - "in/THE END"はエンディングではなく、Teriがフロアに突っこんでいった直後の熱を冷ますかのようにドラマチックに歌われていた。

歌い終わった後の笑顔がほんとうに素敵で、ありがと、ってひとりひとりの目をちゃんと見ていくの。全員彼女にめろめろ。
全部で約75分、アンコールなし。

あーよかったなー、ってスキップしてたら帰りの電車に乗る手前で転んで流血した。
まっ赤に染まっちまった一日だった。

Beth Gibbons - Henryk Górecki: Symphony No 3

音楽関連のをもういっこ。 3月28日、木曜日の晩、Barbicanの映画館で見ました。

ちょうどCD/VinylがリリースされたばかりのBeth Gibbonsが歌うポーランドのHenryk GóreckiのSymphony No 3 – “Symphony of Sorrowful Songs”。ポーランドでの初演時のライブ with The Polish National Radio Symphony Orchestraを収録したもので、CDとVinylにはおまけのDVDとして付いている映像をでっかいスクリーンで上映する。

上映前にはこれを彼女が歌うことになった経緯とか、ポーランド語も初めてだしスコアの音域がソプラノであること、そもそもクラシックの歌唱の経験もないこと、などからトレーニングの段階から苦労がいっぱいあったことが説明されていた。 

が、まあ結果はBeth Gibbonsとしか言いようがない。ずっと座ったままで音域もやや苦しそうなのだが、収容所の母と子の悲劇を歌う、その悲しみの中心に刺さっていく声の肌理は彼女がずっと追いかけてきたもので、Billie Holidayのそれと比較しうるくらい重くて、他の譜面に忠実なテクニカルな歌唱がどういうものなのか、想像できないくらい。

そしてこちらも、終わった後の笑顔がとても素敵なのだった。

BrooklynのSt. Ann's Warehouseに彼女のソロを聴きにいったのはもう15年以上も昔なんだねえ...

[film] Dumbo (2019)

3月29日金曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。2Dで。初日だったのに割とがらがらだったかも。 ダンボなのにさ。

1919年、全米を旅してまわるMax Medici (Danny DeVito)のMediciブラザーズサーカス団にかつて曲芸馬乗りだったHolt Farrier (Colin Farrell)が第一次大戦から戻ってきて、彼は左手を失っているけど待っていた子供たち - 妹弟に迎えられる。 昔みたいに馬に乗りたいのにサーカスは財政難で馬は売られてしまっていて、頼みになりそうなのは身重の状態で手に入れた象のMrs. Jumboくらい。

やがてMrs. Jumboから異様に耳のでっかい子象が生まれて、こんな奇形が出てくるなんて、とMaxは怒るのだが、子供たちとは仲良くなって遊んでいるうちにこの子象は羽で鼻をくすぐると耳をばたばたさせて空を飛べることを知って、それを知ったMaxはうんざりしつつも演しものにしてみると新聞とかで評判になって、でも結局はへまして火事を起こしたりそんなのばかりなの。

そこにメガ興行師のV. A. Vandevere (Michael Keaton)とColette Marchant (Eva Green)が現れてみんなをサーカスごと買い取って、彼のDreamlandに連れていき、ColetteとDumboで組んだ出しもので当てようとするのだがそう簡単にはいかなくて。

予告を見たときはPaddingtonのときの数十倍きゅんとなって、あううもうこれはやばい〜  だったのに本編を見終わってみるとそんなに。 あんまし来なかったのはなんでだろうか、ていうのをずっと考えている。

Tim Burtonの世界って、グロテスクでちょっと気持ち悪いのがだんだんに馴染んできて、最後にはそんな君でも、そんな君だからこそ世の中は少しだけ明るくなるんだよ、ってほんのり電球が灯るのが基本の魅力だと思うのだが、ダンボがあまりにキュートすぎてこの枠にはまっていない気がした。

ダンボが初めて観客の前に姿を現したとき、一部のガキがきもちわるーって騒ぐのだが、ここでカチンときて、この子のどこがきもちわるいんだよケンカ売ってんのかおら、になっちゃうの。

この先もダンボをおもしろがって蔑み虐めたがる大衆と、それを利用して金儲けを企む悪 - V. A. Vandevereとダンボの保護者で理解者である子供たち&Holt&Coletteという構図になるのだが、なんかこの三者のバランスがおかしい気がする。 当時はそういう暗黒の世界だったのよ、ていうのかもしれないけど。あるいは、Tim Burtonの描いてきた世界そのものが、あまりに下衆にグロくなり、その隙間を札束ぶら下げた安っぽいキャラクターが埋め尽くすようになってしまった今の世界で効力を失ってきている、てことはないだろうか、と。

とにかく見ていて辛くなることが多くて、それは自分が簡単に見ることができる今の世の生き辛さに繋がっているような気もして、そんなの見たくない、そこにかわいいダンボを突っ込まないでよ、って。ダンボが最後幸せになるのは当然だとしても、子供たちはあの後どうなったのだろうか、とか。
このキャラクターを創ってお金をいっぱい稼いだディズニーにとって、あのラストってあれでいいの? とか。

ダンボがぎゅんぎゅん旋回するとこだけを映した90分でもよかったのに。

でもそんなでも、Eva Greenはすばらしかった。最初は彼女がダンボのママになるのかと思ったくらい魔物弱いものを救う天使。

続編はWes Anderson氏に撮ってもらいたい。

[film] Todos lo saben (2018)

3月25日の月曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。

“A Separation” (2011)や”The Salesman” (2016)のAsghar Farhadi監督によるフランス・スペイン・イタリア合作映画。 
英語題は”Everybody Knows”。

ブエノスアイレスに住むLaura (Penélope Cruz)がふたりの子供 - ティーンのIrene (Carla Campra)とまだ小さい男の子Diego - を連れてスペインの田舎にある実家に戻ってくる。家族 – Lauraの妹 - のウェディングがあるからで夫のAlejandro (Ricardo Darín) は仕事で来れないと。

Lauraの実家はワイン農家で大所帯で、いま農場の経営権は彼女の父からそこで働いていたPaco (Javier Bardem)に移っていて、Ireneが散策ついでに地元の男の子と古い教会で遊んでいると、男の子はそこにあった古い落書きを指して、昔LauraとPacoはべたべたの恋仲で – “Everybody Knows” だったんだよ、と言われる。

ウェディングの宴は飲めや歌えでわいわい盛りあがって、Ireneも先の男の子と踊ったりしていたのだが突然眠くなった、というので部屋に連れていって寝かせる。しばらくすると雷雨がきて一帯が停電になり、Ireneの様子を見に行ってみると部屋には鍵がかかっていて、Pacoがこじ開けてみるとそこにIreneはいなくて、やがて携帯にメッセージが入り娘を預かったお金用意しろ警察にはいうな、と。

Lauraは泣き崩れてパニックになり、警察には言わないIreneに何かあったらどうしてくれる、なので誰も手を出せず、Alejandroが飛んできても、元警察にいた知り合いのおじさんに助言を貰ってもどうすることもできず、結局は身代金を用意して払うしかないそれでIreneが助かるのであれば、の方に流れていって。その議論のなかで唯一お金を捻出できそうなPacoとその家族や農場の連中との駆け引きとか、その過程で浮かびあがってくるLauraとPacoの過去とかがとても生々しく、これは家族をよく知っている誰かが裏で犯人と取引きしているとしか.. になって、だんだん誰がやってもおかしくないふうにぐらぐら揺れてくる。

前作”The Salesman”では、障害事件の本筋とは少し離れたところに犯人はいて、どちらかというと事件によって引き起こされた軋轢のほうがドラマをより生々しくものにしていたが、今回のもそれに似たかんじはある。 のだが、”Everybody Knows”から”Somebody Knows”に落ちてくるまでの謎解きに見ている我々がぐーっと寄ってしまうが故の、終盤のえ.. そんなだったの? なとこはちょっとだけ。

ドローンとかも出てくるので、どうしても謎解きミステリサスペンスを期待して前のめりに寄っていくとホシは裏口からすたこら、みたいな。見るべきとこがそこじゃなくて、LauraとPacoとAlejandroの3者(プラスでPacoの妻)のとぐろ巻き家族ドラマであることは十分にわかるのだが、なんか中心地点の熱量のレベルがすごすぎるというか。そんなに沸騰してわーわー言うなら最初からちゃんと警察とか探偵に相談したほうがよかったのでは、とか。

ただまあ、「みんなが知ってる」Penélope CruzとJavier Bardemの動と静の情念のぶつかりあいはすごくて、それだけでも見ごたえは十分だったかも。

あのあと、あの夫婦と親子はどうなっていくのか、とかいろいろ心配になって後を引く、という点も悪くないの。

4.02.2019

[art] Albert Serra: Personalien

3月30日の土曜日、日帰りでマドリードに行った。
なんで行ったのかの理由はとってもバカなので書かないけど、他に候補はアムステルダムとかウィーンとかあって、アムステルダムのレンブラント祭りも魅力だったのだが展覧会のチケットはすでに一杯で、こっちにした。 朝6:30の便で経って10:55に着いて、夕方19:55発の便で戻ってくる。  あとで気づいたのだが丁度一年前の同じ日にもマドリード行っていた。

マドリードのよいのはでっかい美術館が3つ、歩いて行ける範囲に固まっているのでいくらでも時間を潰せること。今回はMuseo Thyssen Bornemiszaでの”Balthus”とMuseo Nacional Centro de Arte Reina Sofíaでのこれを見れればいいか、くらい。

Albert Serraのこの展示はどういうものなのかまったく知らずわからず調べず、でのぞんだ。
部屋の入口には黒いカーテン幕が二重で下がっていて、18禁だからね、ていう警告が。

幕をめくって中に入ると当然真っ暗で、右と左というか前と後ろというかどっちがどっちだかわからないのだが、向かい合うかたちでスクリーンふたつに投影されていて、首を右左して両方を見ることができる壁に寄りかかって、椅子もないので床に座る。両方に同じものが出ているのかと思ってみているとどうも違うやつで、音もきちんと判別できたわけではないが両方から同じ音量で出ているようだった。しばらくテニスや卓球を観戦するように両方往ったり来たり見て聞いていると、どちらも同じ森を舞台に同じような森の音、喘ぎ声が響いていて重なりあってもそんなに違和感ないことがわかってくる。 途中から入って半分くらい見て、そのままもう一回通しで見た。

どうも昨年の2月、ベルリンのVolksbühne Berlinで彼が演出してIngrid Caven, Helmut Berger等が出演した舞台”Liberté“とおなじ設定のようで、深い森の奥に2人乗りくらいの馬車の客室部分がふたつ、離れて置かれていて、それを遠くで見張っている下僕とか覗いている貴族とかがいて、覗かれる方は貴族の恰好をした男女で、馬車の中とか外とか木の切り株とかいろんなのでいろんなことをする、それだけで、吉行耕平の公園の写真集の18世紀王宮貴族バージョン(森編)、てかんじなの。

ふたつの画面の差異は構図的に近い/遠いの場合もあるし、馬車の中から見た図/外から見た図の場合もあるし、あるいは見張りが立っている場所からの彼らの目線だろうか、時間軸を少しずらして投影しているのか、とか思ったりもしたのだが、そのルールに決まった誰とか何とかがあるとは思えず、そもそもこのふたつの画面が同じ晩に起こった同じ出来事を撮って投影していることを示す証拠はないので、ふたつの画面を無理に繋いで組み立てて見たり考えたりしたりしない方がよいのかも、とも思った。 のだがどっちにしても映っているのは目を凝らさないとなんなのかよくわからないような夜の藪に映える裸とか男根とか、聞こえてくるのは男女の喘ぎ声とかムチでびしばしやる音とか聖なるお小水のばじゃばじゃとか、そんなのばかりで、朝の4時に起きてマドリードまで飛んできてこんな暗闇にしゃがみこんでなに見てるんだろ自分、とほんの少しだけ思った。

舞台の”Liberté“では舞台の広がりと距離感をうまく活かしたもったいぶりっことそれ故のいかがわしさが全開だったが、こちらの描写はよりリアルに夜の森、その闇に紛れる or 浮かびあがる「身許」がその臭気も含めて漂ってきそうで、どちらもたいへん興味深い。

戻ってWebの記事を見ていると、R.W.Fassbinderが、とか出ていて、確かに彼に似たかんじの小太りの男が出てきたのだが、そうだとしたらこれはこれでおもしろい。とってもRWFなテーマではあると思う。

美術館で上映されているのでその関連でいうと、ルーベンス~ゲインズバラを経由してクールベ(世界の起源)に至る(どまんなか)、みたいな。

これ、映画館で上映できるかたちに再構成されるのかしら。されてほしい。
あと、おもしろかったのは部屋に入ってくる人たち - 最初は見えないので手探りで、しばらく見てからなんじゃこれ、というかんじで逃げるように退出 – が繰り返されていた。まあそうかも。

この日他に見たものは時間があったらまた書くことでしょう。 が、この4月はとっても時間がない月。

4.01.2019

[film] The White Crow (2018)

3月23日、土曜日の晩、CurzonのMayfairで見ました。

一般公開の前、BFIでは監督のRalph Fiennes、脚本のDavid Hare、主演のOleg Ivenkoが参加したPreviewとトークがあったのだが、そっちは行けなかった。

61年、Mariinsky Balletのメンバーとして渡仏公演をしたRudolf Nureyevが、公演を終えてパリからロンドンに向かおうとしていた空港で間一髪フランスに亡命したドラマを中心に、彼のそれまでの人生とか人となりを描いている。”White Crow”っていうのは、ロシアでは並はずれて変なヒト、アウトサイダーのことをいう、と。

Rudolf Nureyevについては、昨年ドキュメンタリー映画”Nureyev” (2018)も公開されていて、これも併せて見るとどれだけとんでもない人だったか – 特にバレエ・ダンスの世界では – がようくわかるので併せて見てほしい。

冒頭、浮かない顔をしたAlexander Ivanovich Pushkin (Ralph Fiennes)がソ連(当時)の官僚から「彼には元々そういう兆候があったのか?」とか詰問されていて、Pushkinは「いや、ぜんぜん..」てしょんぼり答えている。

物語はNureyev (Oleg Ivenko)がパリに到着して、ソ連側の関係者からマークされつつもパリのいろんな文化に触れてうわああーっ(歓)てなってやがて亡命に至るまでと、走行中のシベリア鉄道のなかで生まれ寒村でほぼ母の手で育てられ、やがてバレエを習うようになっていく幼少期 – 画面はややモノクロ – と、Vaganova Academy of Russian Balletに入ってPushkinの元でバレエを教わりつつ、いろいろ葛藤があったり彼の妻とできちゃったりの青の時代、の3つがランダムに切れ目なく繋がっていく。

やはり一番面白いのはパリでのカルチャーあれこれに触れて開眼していくさまで、ルーブルで”The Raft of the Medusa”やギリシャ彫刻に痺れたり、Clara Saint (Adèle Exarchopoulos)とかいろんな友人を紹介され、カフェいったりバーいったり楽しくてしょうがなくて、こんなのに触れたら帰りたくなくなるに決まってるよねえ(他人事じゃないな)、になる。ソ連側ではあいつなんか危ないから要マーク、で監視も厳しくなっていくのだが、他方で本業のバレエ公演の方 -  “Scheherazade” だよねあれ? - はセンセーションを巻き起こし、みるみるスターになっていくので、監視する側からすればあのやろー(憎)、って。

3つの時代を区切ったのは厳しい暮らしの反対側でバレエ(= 華やかなもの)への憧れが出てきた頃と、バレエスクールで苦悩しつつも自分を磨いてだんだん尊大になっていく時期と、憧れと自尊心がスパークしてアンストッパブルになってしまったパリと、一応筋は通っているかんじ。

やがて次の目的地ロンドンに向かう空港で、ソ連関係者に突然、君だけはロシアで特別な舞台が用意されているからこっち来てね、と手を掴まれてああ戻ったら監禁洗脳されるってパニックになり、それを見ていた友人がClaraを電話で呼びだし、飛んできた彼女が空港の警察の詰所に入っていって「わたしはAndré Malrauxの縁故者です」って天下の御紋を掲げて連中に掛け合って動かすところはとってもスリリングでおもしろい。

あそこでちょっとでもなにかがずれていたら、Rudolf Nureyevはこの後我々の前に永遠に姿を現さなかったかもしれないし、それはつまり、今のバレエのありようも変わっていたかもしれないし、というくらいこの人のバレエは飛びぬけていた – これはドキュメンタリー映画の方を見て知ったこと。

バレエのシーンをあと少しだけ見たかったかな、っていうのと、Oleg Ivenkoさんは十分にうまいのだが、Nureyevの方がもうちょっと筋肉質でアッパーだったかも、とか。でもあれを真似できるひとなんてそうはいないだろうし。

Clara Saintを演じたAdèle Exarchopoulosさんは『アデル、ブルーは熱い色』の「アデル」の子で、変わらぬ仏頂面が頼もしくてすてきだった。

[film] Gräns (2018)

3月23日、土曜日の昼、Prince Charles Cinemaで見ました。

昨年のカンヌのある視点部門の最優秀作品賞を獲ったスウェーデン・デンマーク合作映画。
英語題は”Border”。すごーく変な映画でちょっとびっくりするけど、おもしろいよ。

Tina (Eva Melander)は沿岸の国境の検問所の職員で、船で渡ってきた人たちをチェックして、何かを感じて鼻をくんくんぐるる、ってしてこの人、と指さすとその人の鞄からはなにかしら禁制のお品が出てくる。彼女にはそういう特殊能力があって、透視というよりはその人が内側に抱えている隠し事とか後ろめたさとか悪企みみたいのを見抜いて感じることができるらしい。

彼女は森の外れ、池の畔の掘立小屋にドッグショーのための犬を飼っている男 - 恋人でもなさそうな - と住んでいて、肉親である父親は介護施設にいて、自分の外観のこともあるのか諦めてひとりぼっちで、たまにキツネとかでっかいヘラジカが訪ねてきてくれるけど、先はどんよりあんまぱっとしない。

ある日、検問所で自分とよく似た風貌の薄汚れた男を指さして、彼は前にも怪しいと思って引き留めたのだがそれらしいブツは見つからず、今回もそうで、しかも男を身体検査した係官からは彼には男性器がなくて尻のところに傷痕がある.. と言われて、Tinaは少し動揺しつつもそいつ – Vore (Eero Milonoff) を見つめてリリースする。

話は検問所で児童ポルノ入りのチップを持ち込もうとして逮捕した男が連絡を取っていた先のアパートを捜索する警察とその捜査に協力するTinaの話と、しばらくしてTinaのところに現れたVoreとの、(彼)に誘われるようにして親密になっていくふたりのやりとりと、やがてVoreがTinaに語る衝撃の事実と、それだけに留まらずにもういっこのエピソードにぐんにゃりと繋がっていく異様さ、それが雷とか嵐みたいな自然現象のようにでんぐり返りながら説明されていく様がなんというか…  (ああ、細かいとこ書けない – なんで書けないのかわからんが - のがきつい)

“Border” - 境界は、Tinaが勤務している国境にあるそれのことでもあるし、ヒトとそれ以外の種の境界のことかもしれないし、近代的理性と野生の境界かもしれないし、自分の内部で自分が決めているいろんな閾や仕切りのことかもしれないし、かつて時間や歴史が分断・切断しようとしたなにかに横たわるやつ、かもしれない。そしてそのひとつ、あるいはそれら大括りの境界が壊れたり侵犯されたりしたときに、どういうことが起こるのか、それはどこまでの広がりを持つものなのか、例えばこんなふうなでっかい風呂敷テーマを抱えた民話みたいなお話しで、ある意味とっても北欧、なのかもしれない。

このひとつの境界を理解不能な力で強引に突き崩して底に落っことすのがホラー、なのかもしれないし、これをものすごくポジティブにピースフルな方に展開させたのが例えばムーミン、とか言ったりすることはできるのかしら。

画面は全体に暗くていつも暗く湿っていて、他方でいろんな動物、生物が出てきて多様性とか共生のありようを示しつつ、反面には、種の淘汰という恐怖の歴史への目線もあって、いろんなことを考えさせておもしろいので見てほしいな。