12.31.2017

[log] 年のおわりに

今年もいちばん最後の1日が来てしまった。
(そうか日本ではもう明けているのね)
昨年のは海外への引越しを前にどうすんだよこれ、と床に無言で積まれて広がる本たちを前に愚痴を並べて悪態をつく、という最悪のやつ(ごめんね)だったが、今年はどうだろうか - 新しいとこに引越してまだ8ヶ月だし、まだ床は埋まってないよね? て思うでしょ? あーらびっくりだわよ。

ものは勝手に散らかるんじゃなくて散らかすひとが散らかすんですよ、て親からさんざん言われた。
そのとおり、としか言いようがないわよね。 いまさら。(居直る)

近所のPeter Jonesていうデパートでふつうにでっかい木の棚(4段)を3つ買った。
そのうちひとつはレコード用で、ふたつは本用のにするはずで、そうなって、日本から来た箱からのとこっちに来てから手にいれたのを鼻歌しながらマージして並べていったのだが、もう空きがほぼなくなりつつあるってのはどういうことか?

新しい棚を追加しなきゃいけない ← ✖️
新しい本とかレコード買うのは控えないといけない ←

ここでふんばって誓いを守らずに、とりあえず、で床にひとつ置き始めるとあっという間に繁殖して蔓延して止められなくなるもんだ、なんてわかりきっているのだが、そんなことしてなんになるのか、そいつを年末に誓ったところでどうなるというのか、って結局開きなおって、次の年もぐだぐだになるというこれ自体がゴミの展開と連鎖をどうにかー。(って誰にお願いしてるんだ?)

現実的な解としては新しいのを買うのを控えつつも全体の量が減っていくことは余りなさそうだから次の棚を考えるか、次の部屋を見つけるか、そういうことなのかしら ← おとなっぽい。
あと、スペースがありさえすれば、箱とか束とか山とかあっというまになくなるんだな、ってあったり前だろぼけー。

オーディオは、とにかく繋がってレコードの音を出せるようになったのはうれしい。
最初に鳴らしたのは、こないだ出た”The Queen is Dead”の箱の。(他になにが?)
電源が違うので日本には持って帰れないからと、安めのプレイヤーにしたら45回転の盤をかけたいときはテーブルを持ち上げてベルトを掛け直さないといけないやつだった。ちょっと面倒くさいのだが、まあいいや。
CDプレイヤーのほうはまだアンプと繋ぐケーブルが見つからない(どこで売ってるのか、どうやって見つけるのか)ので、まだ当分先になりそうかも。このまま1年過ぎたりしてな。

25日のクリスマスは(このところずっと続いている)朝からの暗い雨で、午後に少しだけ止んだので、いつもお散歩するKensingtonの公園の方に行ってみただけ、でもリスも池の鳥たちも相変わらずだった。 ウィーンから戻ってからも16時には暗くなって雨と風がびゅうびゅうになり、それが朝8時過ぎに明るくなっても暫く続いて、午後に少しだけ止んだと思ったらもう日が沈む、これの繰り返し。
とにかく冬至は過ぎたから、少しずつはよくなっていくよね、と思いたい。

2016年はほんとーにひどい一年だった。2017年は前年にひどいことした連中が消えずにのうのうとのさばって、結果いろんな分断や乖離が進んで至るところでテロや暴力が起こって、更にひどいことになった。 あのまま日本にいたら頭がおかしくなっていたかもしれない、それくらいここから見えるあの国の様相はひどくて、来年も楽観できそうなことはちっともないし、臆病なのでおめでとうなんてとても言えないわ、て思う。

でも、新しい出会いはあるし、変わらずに付きあってくれそうなひとがいてくれることを信じて、その人たちに向かって、よいお年を、来年がすばらしい年になりますように、と言います。

ああ本当に、よい一年が訪れますように。

さてこれから、こういうモードのまま、2017ベストを選ぶよ。

[art] Viennaそのた -- December 2017

27日のウィーンはVienna Passていう、大抵の施設に並ばなくてもさっさか入れて貰えるパスと、交通機関も1日券を事前に買っておいて、とにかく見れるのを見れるだけ作戦で突撃しようとしていて、先にベルヴェデーレ宮殿行って、そこからシェーンブルン宮殿行って、これらを午前中にやっつけられればあとは楽勝、とか思っていたのだが、死ぬほどどうしようもなく甘いことがわかった。

Belvedere

朝9時に開くベルヴェデーレ宮殿に9時過ぎに着いて、その頃は霧で下宮の方があまり見えなかったのだが、だんだん日が昇ってくると見渡せるようになった。でっかい。
上の宮の見どころはなんといってもKlimtの”Kuss” - 「接吻」で、その部屋だけ人だかりができていたが、絵自体はどうかしら? なのだった。やたら豪勢だし国宝なのだろうが琳派の絵を見るときに感じる、ふうん〜、がやってきてしまうのはなんでか?
Klimtの絵だったらここに沢山展示されている初期の作品群もすばらしいし、Neue Galerieの”.. Adele Bloch-Bauer” (1907) とかいまSFに行っているプラハの”The Maiden” (1913)とかのほうが...とかつい。

あと、やはり地元だからかどこに行ってもOskar KokoschkaとかついこないだNYで見たRichard Gerstlがあるのもよかった。 Kokoschka、動物や風景を描いたすごくよいのがいくつか。

The Challenge of Modernism: Vienna and Zagreb around 1900
https://www.belvedere.at/exhibition/viennaandzagreb

Belvedereの下宮でやっていた展示。
1900年当時のウィーンとクロアチアのザグレブとの間の交流・交易(というのがあったらし)がもたらした文化面の相互影響を絵画(肖像画)、彫刻、建築、インテリア、服飾に宝飾、様々な角度から掘り下げてみる。作品としてKlimt, Koloman Moser, Robert Auerなどなど。そもそもNeue Galerieあたりが得意としてきた展示の凝縮版のような、でも個々の作品の粒は素敵で。

面白過ぎてカタログ買わないわけにはいかず。

Die Kraft des Alters - Aging Pride
https://www.belvedere.at/aging_pride

その名の通り、歳を取る、重ねることをテーマとした絵画、写真、ビデオ、などなどの包括的な展示。 KlimtにSchiele、PicassoにPina Bausch(”Kontakthof”ね),  Juergen TellerにIshiuchi Miyakoに、モデルや被写体は老人ばかり、新旧アーティストの幅は凄まじく広くておもしろいのだが、時間がない中ではもったいないよう、だった。
Agingのテーマって、常に死と隣り合わせのところに来てしまうので、そことの時間的な、空間的な折り合いとか関係性をどうつけるか、どう見せるかなんだなー、って。 時間かけてみたかった。

あと、少し離れた昔の厩(馬小屋)のところで”Medieval Treasury”って、中世のキリスト教美術の小展示をやっていて、(かつての)馬小屋のなかに朴訥なキリストさんがいっぱいいて、なんかよかった。

Schönbrunn Palace

シェーンブルン宮殿に行ってGrand Tourていう宮殿内の40くらいの部屋をAudio Guideで巡るのに入ろうとしたら時間制なので門のとこの窓口でチケットに替えておいで、と言われて、替えてみたらエントリーの時刻まで1時間半くらいあった、のでその時間で宮殿敷地内のZooに行こう、どっちみち行くつもりだったし、と向かってみたらとんでもなく遠くて、すみません馬車ください、になった。
Belvedereもそうだったがとにかく全体がばか広く見渡すことができて、そこをてくてく歩いているだけで自らの平民ぽさにうんざりしてきて、これこそがMaria Theresiaの狙いなんだわ、て思うのだったがもうなに言ってもおそすぎる。

Zooは、パンダとかクマとかペンギンとか見れればいいや、楽勝だわ、だったのだが、寒いので動物たちはあんま外にいなくて、ああこれが静物と動物の違いなんだわ、で、おまえどこに隠れてんだよ、そっちに行くんじゃねえよ、とか追っかけるのが大変であっという間に時間が過ぎてしまった。絵と生き物はちがう。 パンダ(2頭いた)は笹むしりでご機嫌でよかったけど、それにしても、こんなとこにZooをつくってしまうとはMaria Theresiaのやろうめー、だった。

打刻された予定時間より30分遅れて入ることになった宮殿のなかは、そりゃ凄いわよね、としか言いようのないやつだった。 これまでにChatsworth House見て、Buckingham Palace見て、さっきのBelvedereも見て、ヨーロッパの宮殿(みたいなの)の大筋はわかったつもりになっていたが、ここの各部屋ごとの練り上げかたはちょっと異様なかんじがした。Maria Theresiaの念 - Audio guideでは、彼女はたくさんたくさん子供を作りました、ばっかり強調されていた - だろうか。

次はヴェルサイユ宮殿待ってろ、としか言わない。

Leopold Museum
Museumsquartierていういろんな中小の美術館が固まっている一角(なにあれ?)にある美術館で展示ふたつ。

Vienna 1900: Art from the Leopold Collection

ここの収蔵品から、KlimtにHoffmannにKokoschkaにAlfred Kubin(わーぅ)に。Belvedereの特集展示も1900年だったけど、この時期、ほんとぐじゃぐじゃだよね。 ものすごく洗練されたところと魂が溶けだしたみたいに泥臭いところと、両者が当たり前のように共存していて、そこに「世紀末」なかんじが漂わない(ように見える)のはなんでか。

Egon Schiele: Self-Abandonment and Self-Assertion

最近、ロンドンの地下鉄のホームに少し早過ぎました今でもまだ、て局部を隠したSchieleのかくかく大判絵が貼ってあったりするのだが、それってこの展示と関係あるのかしら?

2014年の秋にNeue Galerieで見た “Egon Schiele: Portraits”ほどの迫力とどぎつい感じはなくて、タイトルの「自我の遺棄、自我の誇示」が示すように彼の視野・視界が捉えた世界を割とストレートに、わかりやすく伝えようとしているかのようなセレクション。
Schieleの絵って、暗いようでいて、実はそんなでもないことが見たあとのかんじも含めてよくわかる構成になっていた。

これを見て外に出ると、もう真っ暗でぐったりしたので一旦宿に戻って仮眠を取って再び外に出る。

Albertina
宿の近所でやっていたので行ってみるか、程度で展示をみっつ。 晩9時までやっているし。

Monet to Picasso

MonetとPicassoの間になんかあったのかしら、と思ったらそういうのではなくて、単に収蔵作品からこの二人の活躍した時代の作品たちを作家別にざーっと並べているだけなのだった。 しかも本当にただ並べているだけかのような雑駁感がすごかった。 デパートの展示即売会かよ、みたいな。
(日本の「特別展」にありがちなやつね)

Raphael

ここで見たかったのはこれで、なのに上の階でやっていた↑があんなだったので大丈夫かしら? だったのだが、これはよかった。 夏にOxfordのAshmoleanで見たRaphaelのドローイング展がなかなかの衝撃で、ここのはあそこでの展示も一部取り入れつつ、”Portrait of Bindo Altoviti” (1514/15)とか、”The Virgin with the Blue Diadem” (1511) とか、”The Virgin and Child” (1508)とか、”The Madonna and Child with the Infant Saint John” (1508)、といった世界中からかき集められたぴっかぴかの油彩群が見事な光を放つ。 ドローイングの間に置かれたそれらの眩しさときたら発掘品がいきなり4Kリストアされてびっくり、のようなかんじで、でももちろんリストアなんかではなくて、こいつらは500年前からずっとこうなんだわ。 神さまが宿っているんだわ、としかー。

Robert Frank

彼の最初期の作品から“The Americans”を経て最近のまで、一挙に並べてあった。
Viennaの人たちに、これら50年代のAmericansはどんなふうに映った/映るのかしら? て少し思った。


Kaiserliche Schatzkammer

28日の朝、9時オープンと書いてあった国立図書館に行ったら10時からと言われて、その横でやっていた美術史美術館の分館のImperial Treasury - 王室宝物館? に入った。 王室の王冠とか宝石とか刀剣とかケープとか燭台とか、王様たちを王様たちたらしめていたじゃらじゃら群がこれでもか、と並んできらきらしてて圧巻だった。こういうのはあんまわからないので、このなかで、王様からひとつ貰えるとしたらなにを貰うか、とか考えながら見たりする。 
いっこ、「ユニコーンの角」ていうのがあって、そいつは欲しいと思った。

Spanish Riding School

ウィーンでなにを見るべきか、を会社のひととかに聞いてみたら、これを教えてくれたひとがいて、お馬さんによるパフォーマンスなのだが、むかしZingaroとか見たし、むかしマラケシュで騎馬のショーも見たし、映画で走る馬を見るのも好きなので、行くことにした。 11時からで、専用の縦長長方形の競技場があって、正面の貴族連中が座るぽい指定席のチケットは€300くらい、立ち見でも€38くらいして、伝統的なものらしい。
なんで”Spanish”かというと15-16世紀頃、スペインの統治下だった頃にスペインの馬と共にその独特な調教法も持ち込まれて、そのメソッドを使って調教の成果を(王様たちの前に)披露した、というのが発端らしい。

ドイツ語と英語で解説してくれるMCのひとの説明の後に、ものすごく毛並みと体躯のしっかりした白く輝くお馬さんが列をつくって現れて、立ち上がったりスキップしたり斜め走りしたり、いろんな技を見せてくれる。 曲芸、というほどアクロバティックではなくて、あくまでも軍隊式の統制を効かせた、調教するライダーとされるお馬の一体感を強調するようなやつ、つまり儀式に近いかんじのあれだった。 お馬さん、たいへんだねえ。

Österreichische Nationalbibliothek

Spanish Riding Schoolの会場の横にあるオーストリア国立図書館、ここのState Hall(大広間)。
でっかい空間に古本がいっぱい並んでいるだけでわーわー嬉しいので静かに狂喜しながら見た。
ちょうど、フリーメーソン300年の展示、ていうのをやっていたが、はまると1時間くらいかかりそうだったので横目で図面とか文書とか眺めた程度にした。

Haus Wittgenstein

ウィーンに来てから、「ウィーン」で頭の奥になんか引っかかり続けるのがあって、そうだ『ウィトゲンシュタインのウィーン』を学校の頃ずっと読んでいたではないか(今の平凡社ライブラリーの前のやつね)、と2日目の昼間に思い出し、そこからそういえばアール・ヴィヴァン(ていう雑誌があったの)の『ウィトゲンシュタインの建築』ていう特集もあったよね、と思い出し、あの建物は見れないのか、と探してみたら車で10分くらいで行けることがわかったので、国立図書館の後に行った。

着いたらドアは鍵がかかってて、ベルを鳴らしても反応なくて、でも負けるもんかと何回かやっていたら鍵が解かれて管理人らしきひとが出てきて握手してくれて、入場料(€5.3)払ったら地下から上まで好きに見ていいから、て言われる。 他には誰もいない。

なんかキッチンとか寝室とか、ふつうの人の家として使われているふうだったのだが、窓の高さとか錠前のデザインとかは昔読んだかんじのままだったので満足した。外はものすごくかんかんに寒くて、そのかんじもぴったりはまっていた。


ここから地下鉄で中心部に戻って、出たところにSt. Stephen's Cathedralがあったので、中に入って神さまにいろいろ感謝して懺悔したお祈りして、ウィーンの旅はおわり。

クリスマスマーケットもいろいろ出ていたけど、あんまなかったのが残念だったねえ。
食べ物は気がむいたらそのうちにー。

[art] Rubens: The Power of Transformation

前にも書いたがここの会社の休みは12月23日から1月3日までと結構長くて、いろんな人からクリスマス(12/25)とNew Year(1/1)のロンドンはなーんにもないよ、と言われ続けて、あまりに何にもないせいか秋口くらいからみんなそれぞれ旅の予約を始めて、日本に里帰りしたり、スペインとかイタリアとか暖かいほうに向かったりいろいろ企画してて、でも人からなんもないって言われれば言われるほどどういうもんか一度は見ておきたいよね、になったのでクリスマスとNew Yearはロンドンにいるつもりなのだが、通してずうっとここにいてもさすがにきついかも、という気がしてきて - 映画もライブも休暇モード - セレクションがどこか安易なの - に入ってしまう - ちょっとだけどこかに行ってみるか、と、ウィーンに行くことにした。

NYに行くたびにNeue Galerieに通っているうちにウィーンは行かなきゃな、になっていたので決めるのは早かったのだが、パリみたいに1泊の弾丸にするかもう少し時間を取るべきかが悩ましくて、リストを作っていったら1泊はどうみても無茶、になったので2泊にした(イタリアやスペインに行けないのはこの悩みがあるからなの)。 で、26日の朝7時のフライトで向こうに行って、28日の夜7時過ぎに戻ってきた。

まだ十分整理できていないのだが、このままだらだら過ごして年を越すとぜんぶ忘れてしまう気もするのでとりあえずざーっと書いておく。 見た順で。

Kunsthistorisches Museum
26日の午後、ウィーン美術史美術館は着いて最初に行った。

昨年の12月に”Das große Museum” (2014) - 『グレート・ミュージアム ハプスブルク家からの招待状』を見たのもあるし、なんにしても美術好きなら必須だし。ただ全部見たら1日かかる気がしたので今回は絵画部門だけ。

Rubens: The Power of Transformation

やっていた企画展がこれ。
RubensはデュッセルドルフのMuseum Kunstpalastに行った時もじっくり見ることができて、見る機会には割と恵まれているのだが、熱狂的に好き、大好物というわけではなくて - 例えばRembrandtとかと比べるとね - でも見れるんだったら見るわ、と。
“The Power of Transformation”のテーマで世界中から集められたドローイングからスケッチからでっかい奴らまで、無名なのも有名なのも約120点を並べる。

Transformation - 変容、ていうのはいくつかの角度から言うことができて、簡単なところでいうと古典彫刻のドローイングから、それを油彩の画布や板絵に展開していくのもそうだし、色彩やフィギュアをよりドラマチックに変容させることもそうだし、風景画であればよりダイナミックにパノラマみたいに拡げてみるのもそうだし、より細かで微細な補正や修正を延々施していくのもそうだし、要するに絵にがーんとした堂々たるインパクトを与えるため - 支えてくださる神さまたちのためにもな - にはなんだってやる、そういうことなのではないか。 カタログのエッセイのタイトルに“Rubens at Work with Scissors and Paste: The Artist as Creative Editor”ていうのがあったが、そういうことかも。 今だったらPhotoshopとか堂々と使ってどうよ、とか平気でいう。

面白かったのは、Tizianoの“The Worship of Venus” (1518/19) とそれを模したRubensの(1635)と、さらにそれが大々的に展開敷延された”The Feast of Venus” (1636/37)が並んでいるところとか。  あとは女性の身体の肉感、その肉肉した豊かな表現はこれでもかと並べられているとすごいなー、って思うし、有名な”Haupt der Madusa” (1617/18) - 「メドューサの首」の置き去りにされている気持ち悪さも同様の、現代のコマーシャル・アートにも通じるぎらぎらした野望みたいのを感じた。 そして、それができてしまったこの時代の巨匠、ていう。

これはカタログ買ってしまったわ。

他の絵画部門の展示もおもしろくて、つまりここに展示されているのは美術(品)だけではなくて美術(史)でもあるのだなー、と。 つまり「美術史」の入り口で問われる「美(術)とは」、「歴史とは」という問題意識が西欧の傾きあれこれと共に揺らいでいった近現代のアートは外してあって、展示経路を追っていくと大凡の流れ(「美術史」のような)を掴むことができるようになっている。 ひとつの建物のなかにそれが実現できるだけの量と内容がある、ていうのはすごいよねえ。 ていうのとやっぱり美術史、もうちょっとちゃんと勉強しておけばなー、というのは(いつも思うこと)。

こうしてDürerもRaffaelloもMichelangeloもArcimboldoもBruegel(バベルの塔、あった)も Bosch(そういえばYaleからCatalogue raisonnéが…)もVelázquezもVermeerも、それも極め付きの名作ばっかし、ざーっと見ることができた。おなかいっぱい。
(ルーブルでここまで集中して見ることができなかったのはなんでなのか?)

今度来たときは、上のフロア(カエル...)も制覇して、あそこのカフェでお茶をしたい。

長くなりそうなので一旦切る。 26日はこことあとは街中をうろうろするだけで終わってしまった。

[film] Les Diaboliques (1955)

10日、日曜日の午後にBFIで見ました。 “Can You Trust Her?” (or Who can you trust? )からの1本。
4K restorationが先月完成したばかりとかで、そのバージョンでの上映。 邦題は『悪魔のような女』。

パリ郊外の寄宿学校に陰険で横暴でものすごく嫌な校長(Paul Meurisse .. またこのひとだわ、やな役ばかりね)がいて、学校のオーナーである妻のChristina (Véra Clouzot)には俺が校長をやっているからなんとかなってると言わんばかりに傲慢なことやりたい放題で彼女は疲れきって具合も悪そうで、更にこいつは学校の教師のNicole (Simone Signoret)とも愛人関係にあって、更に生徒や職員にもしょっちゅう当たり散らしたりするので目一杯嫌われていて、そういういろいろが積もり積もってあまりにひどいので、Christinaの友達でもあるNicoleはもう我慢できないよね、とふたりで計画を立てて、Nicoleは渋々嫌々ながらも協力することにして、少し離れた田舎にあるNicoleの部屋にふたりで出かけて校長をおびき寄せ、酒に入れた薬でぐったりした野郎をふたりしてバスタブの底に沈めて殺してから箱詰めして車に戻ってその箱ごとそのまま学校のプールに沈めてしまう。

誰にも見られてないし気づかれていないし静かになったし、うまくいった気がしていたのだが、しばらくの間はプールから何か浮かんできたり見つかったりしないかとか、どこかで見つかった死体が彼じゃないかとかChristinaはどきどきはらはらで、人探しを手伝いましょうかって現れたねちっこいじいさんにつきまとわれたり、沈めたときに校長が着ていた気がしたジャケットがクリーニング屋から戻ってきたり、生徒からの目撃証言まで現れたりNicoleの心臓によくないことばかり起こって..

これはねえ、完全にやられたねえ。 最初は完全犯罪を狙ったスリラーかと思っていたら途中から学校ホラーになっちゃうのかしら怖いことになるのかしら? になって、そしたらさあー。
あれが立ち上がったとき、場内でも「ひっ」ていう声があがったけど、あのおっかなさはなによ、って。
でもそうだよねえ、冷静に考えたら自分ちの学校のプールに沈めるのってリスク高いし変だったのよねえ、とか思いあたることばかり。

結局全員かわいそうなことになってしまうのでぎりぎりで地獄は回避されている感があるのだが、それでも最後に残るのはこの状態をもたらす悪の根っこみたいなのがのさばる気持ち悪さで、それはどこまで行っても説明されないまま。  

タイトルをそのまま訳すと「悪魔」なんだけど、なんで邦題は『悪魔のような女』になっちゃうのかねえ。悪の根源はどう見たってあの校長なのにねえ。やーねー。

12.25.2017

[film] Dancing with Fred Astaire

5日、火曜日の夕方、BFIで見ました。 映画というより2時間のイベント。
Jonas Mekasさんが新刊本 - “Dancing with Fred Astaire”のリリースを記念して最近の映画日記を上映して、トークをしてサイン会をする、という企画。

おおむかし、大学生のとき、まだ四谷にあったイメージフォーラムで見た”Lost, Lost, Lost” (1976)には見たことなかったものに出会ったときの衝撃を受けて、なんであんなランダムにいいかげんに繋いでいるだけのように見えるのに感傷的で沁みてくるのか謎で不思議で、以降彼の映像も本も追いかけるようになったの。なに見ても読んでもおもしろいし。

Mekas氏の軽い挨拶のあとで、約60分の映像 “the Diaries of a Cinema Maniac” - 案内文の方には”the Notebooks of a Cinema Maniac”とあったけど - が上映される。 映画日記の最新のやつで、いくつかのエピソードが繋げられていくだけなのだが、おもしろかったのはSusan SontagさんがBela Tarrさんとかとおしゃべりしているやつ - 「あたしは自分の電話とかFAXとかはわかるしすきなのよ、でもさー、最近のemailとかonlineなんとかっていうのは一体なんなのよちっともわかんないわよ、でもさー、一番やんなっちゃうのはあいつらってとってもaddictiveなのよ、まったくどうしろってのよ」みたいなことをだらだら喋ってるとこ(Mekasの365 Day Project のなかにある)。
あと、胸元にお猿のぬいぐるみを仕込んだHarmony Korineが変てこなタップ - うまいんだかどうなんだかなかなか微妙 - だけどおもしろ - を披露するやつ (これもYou Tubeのどこかにあった)。
一番受けていたのが、米国からLondonに向かう夜行便の機内で、ファーストクラスにしてもらってご満悦のMekas氏がバーで、ビールとウィスキーを交互に飲んだりしながらこそこそ実況していくやつ - 「周りはビジネスマンばかりだからみんなぐっすり寝ておる - 起きているのは自分だけじゃ - 自分は詩人で、詩人は決して眠らないのじゃ - それにしてもこの酒はうまいのう - 極楽だのう - この変な水はなんじゃ? (なぜか南アルプスの天然水が..)ほんとに誰も起きてこないなあ」 みたいなのをえんえんやってて、止まんないの。

上映後のトークは新刊本にも載っている写真とかをスライドで映しながらその時々のエピソードとかを語っていくやつで、でもおじいちゃんの昔語りなので噛み合わなかったり脱線したりばかりでそれがえんえん止まらなくてなんか絶妙におかしい。
「初めてBrooklynのWilliamsburgに来た時はどんなかんじでしたか?」「天国かとおもったわ」とか。

Q&Aでの「なんで”Dancing with Fred Astaire”なんですか?」という問いには「”A Dance with Fred Astaire”というフレーズを挿入することで生まれてくる効果があって、自分は詩人なのでそういうことをやる、それにぼくは本当にFred Astaireと踊っているんだよ」って。
本当に踊ったエピソードは本の最初のほうに出てくるの。

昨年Spector Booksから出た”Scrapbook of the Sixties; Writings 1954 -2010”は、その通りWritingが中心なのだが、こっちは写真とか記録がいっぱいで楽しく読める。
冬籠りはお片づけしながらこれと”Grant & I: Inside And Outside The Go-Betweens”をぱらぱらめくっていく予定。

そしてなによりもJonas Mekasさん、昨日(24日)の誕生日で95歳、おめでとうございます!

12.24.2017

[film] The Muppet Christmas Carol (1992)

23日土曜日 - イブの前日の午後、Prince Charles Cinemaで見ました。
いま、ここの入り口の看板には”Merry Christmas Ya Filthy Animal” (Home Alone 2 の?) てでっかく書いてある。

このシアターではここんとこ、いろんなクリスマス映画をがんがんやってて、これも定番の1本で、普通の上映の他に、”Sing Along”(みんなで歌おう!)てのもやってて、どうせだからSing Alongの方を見てみよう! て行ってみる。(ちなみにこれのバージョンとして”Mean Girls” (2004) のBitch Alongていうのもあるの)
前方はちびっこを連れた家族連れでぱんぱんで楽しそうなホコリがいっぱい舞ってたので、後ろのほうに小さくなって座る。

時間になって暗くなると酔っ払いの賛歌みたいのを歌いながらマイクを握ったサンタさん(の格好のひと)がなだれこんできて、いろいろ楽しくガイドをしてくれる。 これは思いっきり歌ってよい上映会なのでみんなで歌うんだからね(静かに楽しみたかったひとはちょっとごめんね)、と立ちあがってサイドに分かれての発声練習(どっち側が声でてたかなあ?)とか、でもScroogeてのは憎たらし嫌な奴なのでこいつが出てきたらみんなで思いっきりBooをやるんだからね、とか、クリスマスにちなんだ扮装してきたひとをステージにあげてコンテストしたり、わいわい楽しいことをいっぱいして盛りあげる。 それだけじゃなくて、悲しいお知らせがあるのです… というのでなにかと思ったら、この上映バージョンではかつてVHSには収録されていたBelleの”When Love Is Gone”を歌うシーン(Scroogeをダークサイドに堕とす失恋するとこ)が入っていません、かつてVHSに親しんだレトロなみんなには申し訳ないけど我慢してね(ディズニーのくそったれ)、ていう。
最後の最後には、来てくれたみんなにプレゼントがあります、というのでなんだろ、てどきどきしたら、削除された”When Love Is Gone”のシーンをわざわざ上映してくれて、Scrooge! -そこでなぜ黙ってる? だから彼女は行っちゃうんだ、とか横で突っ込むことも忘れない。 こうして上映前に散々煽ってあげたあとでサンタさんは去っていった。 去り際の通路のとこで「もうこれ以上やれんわ」とぐったり呟いているのがおかしかった。

映画はいいよね。Charles DickensをThe Great Gonzoが演じていて、Bob CratchitをKermit the Frogが演じていて、Emily CratchitをMiss Piggyが演じていて、無慈悲の守銭奴ScroogeをMichael Caineが演じていて、ScroogeがGhostに連れられて過去を旅して自分を見つめ直して改心してめでたしめでたしになるの。

お芝居に関してはMichael Caineひとりがひたすら圧倒的だから、彼を見つめていればなんの心配もいらなくて、あとは病気のTiny Timが出てくるとみんなきゅう、て呻いて、あとはSing AlongのとこでMappetsとおなじように体を揺らして歌っていればひたすら楽しくて、年忘れっていうのはこういうものね、ってしみじみした。

ここで描かれているようなDickensの世界観については、今の時世に照らしてみたとき、いろんな意味でまったくもう、だし、世界中に数万以上いるにきまってるScrooge野郎におまえだよおまえ!って見せてやりたいものだが、少なくともこの場所でこんなふうに家族みんなで歌われているだけでもよいか、って。 これをパパママと一緒に見たよい子はあんなふうな大人にはならないよね。

終わって外にでたら次の回を待つ家族連れが笑顔でシアターをずらっと囲んでいた。


今週に入ってようやくオーディオの機械がばらばら届いて - 最後は面倒になってAmazon - つい先ほど結線をおえてなんとかレコードは鳴るようになった - CDはケーブルがないのでまだ - くらいなので今年のクリスマスソング、新しいのは仕入れてないの。
でもMTV UKのチャートで7位だったこの曲 - リリース30周年をお祝いして。

https://www.youtube.com/watch?v=AtFfhlZPLls

放映のときには”You cheap lousy faggot”の”faggot”はオフにするんだねえ。

みなさんもよいクリスマスを。 世界のいろんなみなさんにも(祈)ー

[film] Meet Me in St. Louis (1944)

今年の会社はおわった。もうなーんも振り返りたくないし思いだしたくないし仕事さん当分のあいだ戻ってこないで。

20日、水曜日の晩、BFIで見ました。『若草の頃』。

この時期になるとどこのシアターでも昔のクリスマス映画の定番を流すようになっていて、NYもその傾向はあるけど、Londonはもっと頑固に強引に押しだしてきて、”It's a Wonderful Life” (1946)とか、”Miracle on 34th Street” (1947)とかこれとか、”Home Alone” (1990)とか、”The Muppet Christmas Carol” (1992)とか、”Elf” (2003) とか、”Love Actually” (2003)とか、”Die Hard” (1988) ? とかがふつうにがんがんかかって、売り切れたりしてるのもある。
でも基本はみんなでわいわい騒いで楽しむ系のばかりで、たとえば”Carol”みたいのはないのな。

クラシックの定番の最初の3本でいうと、わたしは断然この”Meet Me in St. Louis”が大好きで、もう何回でも見るし見てるし。 最初に見た35mmの美しさに驚嘆して、今回の上映はDigitalだったけど(Metrographの上映は35mmだって。ちっ)、でもいいの。とにかくこれはぜったいによいの。

1903年の夏から翌1904年の春 - St.Louisでの世界博覧会までを季節ごとに区切って、一軒家に暮らすパパ、ママ、4人姉妹のいろんな - 隣家の男の子とのあれこれとか、パパのNY転勤話とか、四季の、どこにでもありそうな日々のどたばたを絵葉書 - Norman Rockwell - みたいに切り取って、楽しいみんなの歌で彩って、この場所に暮らすわたしたち家族、いいでしょうー、ていう。娘たちは成長してやがて家族は変わっていくし転勤も引越しもある、町も変わっていくのだろうけど、いまはこんなにも輝いていてすばらしいんだよ、って。 こういうのをクラシック、ていうのだと思うが、とにかくどこを切っても素敵でどこからでもあの世界に入っていくことができる。

変に固まっちゃった髪型でなかなか落ち着かない次女のEster (Judy Garland)が中心なのかもしれないが、この映画を無敵のクラシックに押しあげているのは、四女のTootie (Margaret O'Brien)のハロウィンの突撃とクリスマスの大虐殺で、一家の引っ越しの直前にEsterが猿のオルゴールを手に静かに歌う”Have Yourself a Merry Little Christmas”にべそべそひくひくした後でとつぜん庭に飛びだしびーびー泣きながら雪だるまさんたちをひとりひとりなぶり殺しにしていくTootieの挙動はわかるようでわかんないようで - 俺らがいなくなる家に残しておくのはかわいそうだから、なのか、いなくなった後にSt.Louisを勝手に楽しむんじゃねえよ、なのか、なんにしてもとてつもなく胸に刺さって、それ見たからって転勤をやめてしまうパパもたいしたやろうだと思うが、とにかくTootieが最強であることに異議はない。そしてなんであそこでいつも泣けてしまうのかもわからない。

このガキ娘最強伝説を現代に甦らせたのが”The Florida Project” (2017)のMoonee - Brooklynn Princeさんで、あの作品はすれっからしの今の時代の”Meet Me in Florida”なのだと思った。

12.23.2017

[film] A Matter of Life and Death (1946)

元のトラックに戻る。10日日曜日の午後、BFIで見ました。ここ以外でもリバイバル公開されている。
邦題は『天国への階段』- これはUSのタイトルに沿ったものなのね。

4KリストアされたMichael Powell and Emeric Pressburger監督作品。
予告を見たときからああこれは絶対見なきゃ、なかんじで、それは二人の”The Life and Death of Colonel Blimp” (1943) – とてもよかった - のリストア版のそれを遥かに超えるおもしろさを期待させたからで、果たしてそのとおりだった。

空軍のPeter (David Niven)の飛行機がドイツに行ったあとで爆撃されて、同僚は即死でパラシュートもないので絶対絶命で、その最中にイギリスの米軍基地にいるJune (Kim Hunter)と無線で交信したら切なすぎて互いに好きになってしまう(いいなー)のだが墜落を止めることはできないの。

墜落したPeterは自分でも当然死んだと思っていたのだが、実際には生と死の中間地帯にいて、彼を黄泉の国に送っていく天国のガイドがとんちき野郎で、彼は成仏できない状態のまま自転車に乗ってたJuneと出会って改めて恋に堕ちて、でもやっぱりふつうに死ぬでしょ、なのでそこの中間地帯で彼をどっち側に送るべきかの裁判になって、そこに突然事故で死んじゃったPeterの医師とかも絡んできて、いろんなバックグラウンドをもった検察側と被告側であーだこーだ延々言い合って、こんな奴らが勝手に決めてんじゃねーよ、とも思うのだが、最後はやっぱり愛だよね愛、みたいな、それをいいかげんと呼ぶべきなのか強引と呼ぶべきなのかご都合主義と呼んでよいのかイギリス的なんとかていうのはこういうのか、よくわかんないけど、大風呂敷で、大風呂敷すぎるので案外こういうものかもしれない、と思わせてしまう説得力みたいのは、確かにある。

自分の生と死の一線を引いたり決めたりするのは誰なのか、何なのか、そこに国籍や歴史や法(ってなんだろう?)や因果はどう絡んでくるのか、がその場所を彷徨っている無数の兵士たちの像 - 彼らはどこに行っちゃうのだろう - を背景に議論されて、そういうのがちょっとありえないような上から見下ろしたりでっかく広がったりのパースペクティブと共に漫画(大島弓子)のように描かれる。『四月怪談』の底が抜けた切なさはこれの線上に浮かんでいる、と言ってよいのではないか。

とにかくPeter - David Nivenの軽さと軽妙さが絶妙で、「死んでも誓えるか?」と問われて「はい。でもむしろ今は生きたいのです。」ていうところなんて何度みてもかっこよくて泣きそうになる。
このすばらしい軽さ、天使のような軽さは最近だと”Dunkirk”のTom Hardyが持っていたものかも。

こういうお話 - A Matter of Life and Death - っていつもこんなかんじでみたいのよね。
それにしても、これを1946年にリリースしちゃった、ていうのはすごいねえ。

[log] NYそのた - December 2017

NYのその他あれこれ。あんまないけど。やっぱ短すぎ(泣)。

滞在中の天気は最悪でめちゃくちゃ寒かったのだが、そんなの気にしている暇ないくらいばたばたで、MTAの地下鉄は相変わらず最悪でFはこないは⑥はとろいはLはもうじきなくなっちゃうし、まったくもう、だったのだがそれももうええわ、になりつつある(Londonのとどっちがひどいのかしらん?)。 でもどっちも典型的な冬のマンハッタンだったなあ。

行きの飛行機で見た映画。

Home Again (2017)

西海岸に暮らすAlice Kinney (Reese Witherspoon)はもう亡くなった60-70年代に敬愛された映画監督(モデルは誰だろ – Cassavetes?)の娘で音楽業界で東海岸にいる夫のAustin (Michael Sheen)とは別居状態で、子供ふたりと母(Candice Bergen)と暮らしながらばたばたで、映画製作のスポンサー探しで西に来ていた若者3人組 – 監督になりたいHarry (Pico Alexander)、脚本を書きたいGeorge (Jon Rudnitsky)、俳優になりたいTeddy (Nat Wolff) – とバーで知りあって酔っぱらっていろいろあって、3人はAliceの家でしばらく一緒に暮らすことになる。 Harryにとっては憧れの映画監督の家だし、3人は家のお片づけも修繕も子供たちの相手をするのも得意だし、HarryはAliceに突撃してくるし、心配になったAustinが様子を見にきて、HarryとAliceの恋とか、どうなっちゃうのか。

アラフォーでだめだめのあたしの前に突然現れた3人の万能年下男子、ていう線で目を覆いたくなるような宣伝文句群が浮かんできてしまうのだが、ラブコメとしては悪くなくて、こういう多方向からの投げ縄にはまったときのReese Witherspoonのテンションというか運動神経というかはしみじみすごいって感心した。

たべものとか。

Made Nice  15日の晩

かつてShake Shackを生みだしたEleven Madison ParkのDaniel HummとWill Guidaraがつくったカジュアルなサラダと鶏料理 – Chicken Fritesのお店。 Videoがおいしそうでさあ。

http://www.foodandwine.com/video/hungry-yet-made-nice

天候のせいか時間帯のせいか客があんまいなかったのが気になったけど、鶏はなかなかおいしかった。
価格がちょっとだけ半端に高いかなあ、LondonのNando'sのPERi-PERi chickenまでには行かないかなあ、どうかなあ、とか。

Egg   16日の朝

場所が少し変わったあと、一度昼に行ったらぱんぱんの1時間待ちとかだったのだが、朝早めに行けばじゅうぶん入れた。 アメリカのパンケーキ、アメリカのベーコン、アメリカのコーヒー。 場所が違うんだからそりゃ違うんじゃろ、だけど、Londonのとの違いはどこからどう始まったのかなあ、て思って、ぜんぜん関係ないけどヘーレン・ハンフの『チャリングクロス84番地』を少し思い出した。 アメリカのベーコンとか送ってあげて喜ばれるところ。

Prime Meats  16日の晩

こちらもほんとーに久々。そしていつものようにきちんと地下鉄のFが動いてくれなくて30分くらい遅れた。

隣のコーヒー&骨董&レコード屋もまだやってた。よかった。

http://blackgoldbrooklyn.com/

相変わらず混んでて、でも相変わらずおいしいのねえ。
Niman Ranch(カリフォルニアの牧場)のお肉を使ったSteak Fritesがあったので頼んで、ああアメリカのお肉 - 適度に柔らかくて適度に硬くて熟成なんかとは関係ないすばらしくよい香りとバランスがあって – 泣きながら噛みしめる。
ここドイツ系なんだけど、これまでドイツで食べたどのお肉の風味とも結構ちがう気がする。

Buvette   17日の朝

丁度一年前にGreenwich Villageのここにきて、4月にParisのお店に行って、またここに来た。
(日本にもできるって..  ふうん-。Sarabeth'sといいClinton Street Baking といいeggといいここといい、なんかおかしくね)
日曜の朝早めだったからか普通に座れて相変わらず狭くてごちゃごちゃで落ち着かないのだがおいしいので文句ない。

本、レコードはLondonのアパートの棚とか床が既にどうしようもなくなりつつあるので抑え気味にした。 けどどっちみち焼石だし。順番に書くとStrand行って、Rough Trade行って、AcademyのAnnex行って、WORD行って、McNally Jackson行って、Academyの12th st.行って、Mast Books行った。
でもMast Booksを最後にしたのは大失敗だったわ。最後の最後でなんでこんなのが… みたいのばかり出てきて泣いた。 Joan Didionの”The White Album”の初版サイン本が$500だった(買わない)。あと、昔のFaceとかIDのバックナンバーとか。

あと、Bergdorfの7階のクリスマスのお飾り売り場、相変わらずすばらしかった。
HarrodsもLibertyもよいし、雰囲気はLibertyのに割と近いのだが、Bergdorfって、なんでかデパートの売り場のかんじがあんまりないのよね。よくわかんないものもいっぱい置いてあるし。

帰りの飛行機は何にも食べずに飲まずにかんぜんに落ちて、気がついたら朝7時すぎ - でもまだ暗いHeathrowだった。 地下鉄で戻ったら体力なくなって会社やすんだ。

まだなんかあったようなー。

12.22.2017

[art] Stephen Shore, 他

NYでみた美術関係の主なやつ。

Stephen Shore

15日の夕方、MoMAで。金曜の晩のMoMAは○ニクロさんのおかげでタダになる - ○ニクロばんざい(棒) - ので、”The Last Jedi”のあと、Saks Fifth Aveの壁面ぐるぐるとロックフェラーセンターのツリーを拝んでから行った。

写真家業50年を記念してのレトロスペクティブ。Shoreの写真というと、ぺったんこで漂白されたような風景がまず浮かんでくるが、60年代からのスナップから始まって、結構地道にいろんなことをやりながら写真というメディアの可能性を追っていったひとなのだな、というのがわかる。 写真が見せてくれるもの・残してくれるものは何なのか、あるいは「写真史」がなにをしてきたのか、をそんなに難しく考えこまず大らかに、その結果として眼前に広がってくるでっかい風景を風通しよく提示してくれる。

Londonでポラロイドの展示をやっているWim Wendersが写真家で唯一興味を持てたのがStephen Shore、と言っていたのを思いだした。

これはカタログ買った。

あと、MoMAでこれ見るの忘れて地団駄ふんでる。
“Club 57: Film, Performance, and Art in the East Village, 1978–1983”
4月迄にはなんとしても…

Carolee Schneemann: Kinetic Painting

16日の午後、Williamsburgで”Lady Bird”を見たあと、歩いてRough Trade NYCに行って、そこから歩いてAcademy RecordsのAnnexに行って、そこから歩いてWORD Bookstoreに行って、そこからバスでPS1に行った。歩きながら凍死するかとおもった。

Carolee Schneemannの(信じられないことに「初」だって)大規模回顧展。初期のWillem de Kooningふう抽象表現主義の絵画から入って、絵画のフレームを飛びだして自身の身体、女性の身体を素材としてHappening, Body Art, Performing Art, Media Artの領域にまでぶちまけて、女性の身体をめぐる文化的、政治的、社会意識的なバイアスとか偏見とか無意識とかを掘り起こし、捌いて開いて干して食べてみろ、という。 いわゆるフェミニズム・アートね、と片づけたいひとは見向きもしないのかもしれないけど、その手作りのタッチ・試行錯誤の足取りも含めてすばらしかった。 “Kinetic Painting”とあるように、これらは彼女にとってはセザンヌなんかと同列の絵画なんだろうな、とか。

暗くなり始めた頃にPS1を出て地下鉄を乗り継いでMetropolitan Museum of Artに走る。
ここのクリスマスツリーもこの時期には必ず拝むの。

Balthus - Thérèse Dreaming (1938)

撤去運動があると聞いて、冗談じゃないわよねー、と改めて見にいく。
これ、自分にとっては世界最強の猫絵なんですけど。
Thérèseを夢の世界に誘っているのは画面右下から滑り込んできたごろ猫で、こいつはチェシャ猫だしアルタゴオルだし、これを公開禁止にするんならアリス本を全部発禁にしてみろてめー、なの。
こういう絵を見て妄想を膨らませるひとが悪い、とまで言うつもりはないけど、ほんとに嫌な世の中になったものよね、Thérèseを夢の世界で遊ばせてあげてよ、て思った。


Michelangelo: Divine Draftsman and Designer

Michelangeloは、こないだNational Galleryで見た“Michelangelo & Sebastiano“がなかなか豪勢で強力だったので、見ておくか、程度で行ってみたらこっちもなかなかものすごかった。Michelangelo自身のだけでなく、師匠や弟子のも含めたドローイング(133点)を中心とした包括的な展示。 彫刻に絵画に建築図面みたいのまで、世界中からよく集めたもんだわ、だった。

今年は何故かいろんなドローイングの傑作を見る機会に恵まれているのだが、質量共にこれが一番すごかったかも。 ドローイングって、完成図、最終形の手前の設計図とかデモのようなものだと思うのだが、その段階でここまで世界を、肉や霊(みたいの)を掌握できてしまう驚異。そしてこの人は完成された作品になにを求めていたのか、どこに行こうとしていたのかしら? とか。 神の起案者にして設計師。

カタログは、すこし悩んでやめた。


David Hockney

Michelangelo展の横でやっていたのでついでに見る。 Tate Britainのも含めると5回目くらい。
具体的な点数は確認していないがTateのよか規模は少し小さかったかも。代表作は網羅されているのだが、近年のいくつかとか四季の野道を撮った映像作品とかはなかったし。

あと、Tateは撮影不可だったけど、こっちはOKだった。


Quicksilver Brilliance:  Adolf de Meyer Photographs


Edward Steichenと並ぶ初期ファッション写真の大家の小展示。
サイズは大きくないが、どれも表面が濡れたように光っていてその中で浮かびあがるポージング、その輪郭がかっこよくて、”Quicksilver Brilliance”というタイトルがとてもしっくりくる。 日本の風景写真(なんてあったのね)もなかなか。


Rodin at The Met

本国での没後100年に合わせてMetの所蔵品を中心とした小特集。「考える人」とか”The Tempest”とか定番ばっかりと、書簡とかドローイングとか小物とか。やっぱしパリのGrand Palaisのはすごかったよねえ。

これ見るの忘れて地団駄ふんでる。 2月までかあ…
“Edvard Munch: Between the Clock and the Bed”


12.21.2017

[film] Bombshell: The Hedy Lamarr Story (2017)

17日の日曜日の午前、IFC Centerで見ました。
夕方には空港に行かなくてはならない(やっぱ短すぎだわ)のでパッキングとかもあるし最後の買い物もあるので映画を見るなら早い時間のほうがよくて、Metrographでの11:30からの”Meet Me in St.Louis” - 35mm - にするかこっちにするか、だったのだがより近くて時間も早いほうにした。

Hedy Lamarr (1914-2000), 30-40年代のハリウッドで活躍し、一時は“the most beautiful woman in the world.”と呼ばれたスターで、女優としては”Samson and Delilah” (1949)のDelilah役、くらいしか知らなかったのだが、実はこんなことをしでかした人でした、と。

Hedwig Eva Maria Kieslerは、ウィーンのユダヤ人の銀行家の娘として生まれ、5歳の頃からオルゴールを解体して戻して、のような機械いじりが好きだった少女は30年代に女優になり、Louis B. Mayer - ライオンのMGM - Metro-Goldwyn-MayerのMayer – たぶんこの時代のHarvey Weinstein - の目にとまってハリウッドに渡るとHedy Lamarrていう大スターが誕生する。
(このへん、映画側のコメンテーターとしてはMel BrooksとPeter Bogdanovichが出てくる)

女優としての彼女のキャリアは当時のハリウッドに典型的なそれ – あがってさがってくっついて離れての繰り返し - のようだったのだが、もともと発明大好きだからってHoward Hughesとデートをした際、彼の飛行機のデザインの相談に乗ってあげたりして、Howard Hughesはおもしろがってトレイラーに彼女用のラボを作ってあげて、彼女は撮影の合間に実験とかいろいろやったりしていた、と。

第二次大戦に入って、なんか戦争に貢献したいわと思った彼女は同じユダヤ系で作曲家のGeorge Antheil - “Ballet Mécanique” (1924) の人ね – と組んで、当時敵軍に妨害されまくっていた機雷信号の帯域を頻繁にランダムに遷移させることで妨害フリーにする強固な無線機器を開発して特許を取り、Navyに売り込みにいくのだが軍側は却下して(でも特許が切れた後になってちゃっかり盗用)、この話はそのまま歴史の隅に埋もれてしまう。 でもこの技術ときたら今や誰もが知っていてこれなしでは生きていけないWifi - Bluetoothの原型で、彼女たちがあのまま特許を維持していたらその資産価値は数Billion – いやもっといくでしょ – だったという。

いかにも(怒)だったのは、なんか貢献したい、と彼女が技術を売りに行ったらあなただったらこちらの方へどうぞ、と戦争債の売り込みとか前線基地への慰問とか、そっちの方にまわされた、って。

これが明るみになったのは1990年に雑誌Forbes が掲載した記事が元で、この映画のほとんどはその際に行われた彼女とのインタビューのカセットテープが元だったりするのだが、テープの向こう側で「そうなのよーあたしがやったのよ!」て明るく応える彼女の声が素敵だった。

私生活では結婚 - 離婚を繰り返し(結局結婚6回..)、晩年は万引きでしょっぴかれたり整形が崩れちゃったりいろいろあったようだが、それがどうしただし、かっこよいし、これもまた”Hidden Figures”だよねえ、てしみじみする。 これ、どっかの研究施設のおやじが開発したやつだったらもっときらきらに讃えられて表彰されまくっていただろうに、悔しいよねえ。

ドキュメンタリーとしてはへえ〜、で終わってしまうような薄いものなのだが、史実としておもしろいし「理系女子」が大好きらしい日本でも公開されてほしい。
ちなみに原題は”Bombshell”だからね。わかってるよね?

「ハリウッド」でドラマ化されてもよいと思う。
もんだいは主人公を誰がやるのか、やれるのか、よね。

12.20.2017

[film] Lady Bird (2017)

16日土曜日の昼、WilliamsburgのNitehawk Cinemaで見ました。
お食事しながら映画を見れるここにはずっと行かなきゃと思っていたし、この映画についてはLFFの最終日、Greta Gerwigさんの登場と共にいきなりシークレット上映されるし、2週間前のGreta GerwigさんのトークもあるPrivate Screeningの抽選にも外れるし、ずっと泣かされ続けていたのでLondon公開を待たずに見ちまえで、どっちにしても見る、だったの。

久々にWilliamsburgに行ったらきれいな住宅はいっぱいできてるし、Whole Foodsはあるわ小綺麗なスポーツジムはあるわApple Storeはあるわの別世界になっていた。 なんか捨て台詞を考えていたのだが、もういいわ。

上映前には本編に関係しそうな過去の映画 – “Maggies Plan”とか”Frances Ha”とか”The Meyerowitz Stories (New and Selected)” - ピアノ連弾のとこ - とか - をコラージュして開始まであと何分、とか手作りで楽しくやってくれて飽きさせない。つまんないCMなんて流れないの。
食べ物は初めてだし外れたらかなしーので、念のため近所の(これも久々の)eggでパンケーキ食べてから行って、飲み物だけオーダーした。 上映中にも運んでくれるので便利なのだが、映画に没入したいひとにはちょっとうざいかもしれない。

Lady Bird、当然のようにすばらしかった。2013年のNew Yorker FestivalでのNoah Baumbachとのトークで、やがて自身で監督する可能性についても語っていたが、ここまで見事なものになるとは。

見事といってもストーリーテリングとか編集とか画面構成が巧み、とかそういうことではなくて(いやでも、撮影のSam Levyの柔らかなフィルム撮影のような色味とかすばらしいのよ)、”Greenberg”でも”Lola Versus”でも”Frances Ha”でも”Mistress America”でも”Maggie’s Plan”でも、彼女がこれまで書いたり演じたりしてきたちょっと変わったクセのある女性の像が悩み苦しみあたまをかきむしるひとりの高校生の外観と魂に集約されて統合されて、なおかつそれが高校のときってあんなふうだったよね、とかあんな変わった子いたよね、にきれいに繋がっていって、つまりこの映画のなかにはなんとしても”Lady Bird”と呼ばれたかった02年のサクラメントに暮らすひとりの女の子がくっきりと存在していて、そのポートレートが青春映画の無欠の輝きを運んできてくれて、それを見る我々は彼女のことを畏敬の念をこめて”Lady Bird”と呼ばないわけにはいかない。

冒頭にJoan Didionの引用 - “Anybody who talks about California hedonism has never spent a Christmas in Sacramento.”が出てきて、つまり、Sacramentoで暮らす、というのはそういうことで、そこから出さえすれば、どこにだって行けるしなんにだってなれるんだから、目ん玉ひんむいてようく見ておけ、と。

02年のアメリカ、まだ911の余波で世界がどこに行っちゃうのか誰にも予測がつかなかった頃、Christine “Lady Bird” McPherson (Saoirse Ronan)の家でパパは失職していてママは病院で働いていて家計は苦しいから奨学金とか進学先は悩ましくて、うちのお財布状態でNYの学校なんて行けるわけないでしょ、だし、女子同士のつきあいもいろいろ面倒だし、ボーイフレンドとのつきあい(演劇やっているDanny (Lucas Hedges) – でもゲイだった → バンドやってるKyle (Timothée Chalamet) – でも遊び人だった)もなにをどうしたらよいのかわからんし、煩悶したり衝突したり格闘したり発見したり転落したりアップダウンが激しくて、でも白旗あげたくないので歯をくいしばってやけくそにつっこんでいって、でもどっちにしたって先は見えんし、なの。

全編を通してあはは、って笑って見ていられるのだが、個々のエピソードの内側にどれだけきつい地獄があったか、両親との確執や別れがどれだけしんどいものだったか、じゅうぶん想像できるので胸がいたくなる。(年齢的には親側の目線でも見ることができるはずなのだが、そんな度胸も余裕もないわ)

少女が大人になる話ね、て簡単に言いたいひとは言うのだろうが、「大人」ってなんだよこの糞豚野郎、なにがどうなったら大人になるんだか言ってみろおら、ていう世間との闘いは今もえんえん続いている、その限りにおいてこの映画で描かれた歯を食いしばる彼女の面構えは『大人は判ってくれない』のJean-Pierre Léaudとおなじ普遍不倒の強さを湛えていて、すばらしいったらない。

音楽はAlanis Morissetteの”Hand in My Pocket”とDave Matthews Bandの”Crash into Me”。この2曲が沁みてたまんないというひとは絶対見にいったほうがいい。
彼女の部屋に貼ってあったのはBikini Kill とSleater-Kinney “Dig Me Out” - だったけど..

Saoirse Ronanさんは”Brooklyn” (2015)に続いてまたしても。彼女にしかできない代表作が。

今年はこないだの”Call Me by Your Name”といいこれ – “Call me Lady Bird”といい、すばらしい青春映画と出会えた一年だった。同時に”Lady Macbeth”といいこれといい、すばらしく強い女性映画もいっぱいあった。

そろそろベストを考え始める季節かあ。

12.19.2017

[film] Star Wars: The Last Jedi (2017)

JFKには15日の11:30くらいにランディングして、入国などなどは思っていた以上にすんなり運んで、ホテルには13時前に入ることができたのだが、上映開始の15:30には雪が…  いいけどさ、雪で遊んでる余裕なんてないのよね。

42ndのAMCのシネコン内にあるDolby Theaterていう音響設計からなにからDolby社の仕様でやっている、量質含めていちばん音がとてつもないと思うとこで見た。3D/4DとかIMAXとかよりもここの音に全身没入できるところが個人的には好きで、唯一の難点は思いきりリクライニングできて気持ちよいので寝ちゃうかもしれないこと。

EP8のこと。 ネタバレとかもうどうでもいいよね。
戻ってきた18日(会社休んじゃった)の午後にもLeicester Squareで3Dで再見して、まだあれこれ考えていて、こんなふうに考えさせる - つまりこの話はEP9(以降?)でどう転がっていくのかがあんまし見えないので途方に暮れて考えてしまう - というのは間違いなくよいことで、この途方に暮れたかんじは「帝国の逆襲」を初めて見た直後の感触に近い気がした。

なんでそういう感じを抱いたのかについてはいろいろあって、お話の基本が向こうにやられっぱなしの負け戦なので、全体が悲壮なメロドラマみたいになっていること、そのメインの戦争の流れとは別のところで静かな修行の場 -  洞の奥で敵とか自分を見つめ直す - があって、師匠と弟子の間の確執や伝承があって、明らかにされた思いもよらない事実によって主人公が試されて、そういう内省とは別に捨て身で突撃していくRogue Oneたちがいて、捨て身の恋も生まれて、怪しげな協力者(Lando Calrissian vs DJ)が現れて、戦争とは関係ない変てこ動物がいっぱい出てきて、最後は間一髪で脱出するもののまったく先の見えない機能不全(Lukeの右手 vs 壊れたライトセーバー - に陥った負け陣営のしょんぼりした決意とともに終わる。

ただこれをたんなるdéjà-vuと呼んでしまうのは安易すぎる気がしていて、違うとこもいっぱいある。

Star Warsの9部作ていうのは、Forceの導きにより銀河系に善をもたらすジェダイ騎士団の活躍を中心に描くものだと思っていたのだが、ここにきてそうではなかったのが明らかになった、ていうのは大きいかも。 ジェダイはいなくなった、でも問題はそこではなくてForceのアンバランス状態がもらたす戦争とその悲劇にあって、ジェダイが消えたかに見える今、いったいどの光を頼って、目指していけばよいのか。
(ただもちろん、”Rogue One” ~ ”New Hope”の時代だってジェダイは壊滅状態だったわけだが)

真ん中の3部作でこれでもかと描かれたForceのDarksideを巡る魂の攻防は、割とどうでもよくなっていて、本作で”Darkside”という言葉は数回しか出てこないし、Darksideに墜ちるという言い方も出てこなくて、かわりにあるのは”Conflict”とか”Unbalanced”とか、そういう「状態」への言及と、その状態をもたらすどちら側につくのか、行くのか、来い、などということばかりがRey (Daisy Ridley)とRen (Adam Driver)の間でテレパシーのチャットを通して交わされていく(対話にはなっていない)。そしてその動きは、ほとんど動かず、動けずに凍りついているかのようなLuke Skywalker (Mark Hamill)とLeia Organa (Carrie Fisher)の存在やジェダイのあるべき像、などなどを一切考慮しない身勝手で性急なものだ。そしてもうYodaは地蔵のようになにもしてくれない。

善か悪か、ではなくて両論併記の時代、圧倒的多数 vs レジスタンスの時代、全てがトラッキングされてワープすら許されず、端から同じ色に塗り潰され握り潰されていく時代、最後には自爆テロでもやるか - しかない時代、いまの世のあれこれとこれらの符合についてぶちぶち語るのは野暮というものだろうか?  でもそういうの見ないふりしてStar Warsとか喜んで見てるんじゃねえよ、ていうのはある。

Rian Johnsonの監督作って、これまで”The Brothers Bloom” (2008)と”Looper” (2012)を見ていて、ジャンルはSFだったり時代劇だったりするものの永遠に繰り返されるなにかとか、それが途絶えて失われてしまうことへの刹那をエモーショナルに描くひと、という認識があって、ただエモが膨張しすぎてストーリーを変に不器用に圧迫するようなところがなんかなー、だったのだがこの作品に関してそれはとてもよい方向に機能しているのではないかと思った。 つまりこのSagaは銀河系のヒーローの活躍を描いたものなんかではなく、我々の時代の物語で、我々のこの時代はとてもとてもぶっ壊れていて真っ暗なんだけど、どうするよ? ていう切実さが前面に出ていて −
だからそんなの見たくない、て文句いう人(アートに政治は✖️.. の連中ね)がいっぱいいるのはわかるが、それっていいことだよね。レジスタンスの我々としては。

という見方もあるし、これはLuke Skywalkerという田舎で夕陽を眺めていた孤独な若者がひとり夕陽のなかに消えていく、その終わりようを描いた映画なのだ、ということも言えて、そういう角度から見てもくどくどしていなくてそんな悪くない、よね。

あとはおかまいなしに突っ走るPoe (Oscar Isaac)、わーわー啼いてるだけのPorgが掛け値なしにすばらしい。 Porg、Londonの公園とかにいたらいいのに。

次がJ.J.A.になる(戻る)のは結構心配している。 J.J.A.には今作のようなのは作れないだろうから。
この流れだとRobert Zemeckisあたりにやってほしいんだけどなー。

12.15.2017

[log] December 15, 2017

ここんとこ、割とどうでもいい系のことを書いていなかったので少し書いてみる。
前はよく飛行機乗る前とかにてきとーな思いつきとかを書いて投げたりしていたものだが、最近はぜんぜんそういう余裕がなくなって、飛行機に乗ることは乗るのだがなぜか電車に乗るみたいにばたばたしてしまうし、おうちではそういうの書くかんじにはならなくて、おうちのネタとしてありそうなのはお片づけなのだが、普段手をつけていないことについて書くのは想像力と勇気がいるのとこれは年末のネタにとっておきたいとか、適当に逃げて、じゃあ何について書くんだってばさ?

明日の朝にHeathrowを発ってちょっとだけNew Yorkに行ってくる。 ここんとこの年末の恒例のSWの新しいのにあわせたやつで、それなら木曜の晩に現地に入らないとだめじゃん? なのだが、英国って23日からクリスマスと暮正月の休み - 結構長いよね - に入ってしまうのでなんとなく休みを取りにくいのと、昔みたいになにがなんでもかぶりつく、みたいに強欲ではなくなっていて、どうしてかというと夏くらいの1ヶ月だか2ヶ月間、ケーブルの映画チャンネルでEP1から7までとRogue Oneを朝から晩まで延々流し続けてくれてさすがにもう死ぬほど見て浸かったかんじになったから。(ちなみに同様に、最近だと”Love Actually”をもう30回は見ている)

じゃあそんなら行かないかというと、やっぱり行くのであって、だってLondonのクリスマスとNew Yorkのクリスマスって、ぜんぜんちがうんだもの、ていうのもある。
ものすごい速さで日が短くなっていくのから目をそらしてしまえ作戦なのか知らんが10月の終わりくらいからデパートでは「クリ...」くらいの声が聞こえ始めたと思ったらケーブルTVではクリスマス映画専用チャンネルが立ちあがり、11月にはいろんなイベントとかセールの告知がびゅんびゅん往き来するようになり、その盛りあげかた食いつきかたはどう見ても異様だと思いつつもなんか憎めなくて、それはNYの今年もやってきそうだから電飾とかツリーとか始めるけどあとは各自勝手に楽しむようによろしくー、ていう放任しているようで後からじわじわ追い焚きしていくノリとは違っていて、それぞれに楽しいし、英国のノリはあと数年もしたらとてもとても愛おしいものになっていく気がするのだが、今の時点ではまだ、よくわかんねえけど騒いでやらあーおら騒げ(がんがらがらんー)、みたいな大雑把でとっ散らかったNYのノリが馴染んでてたまらなく恋しいので、渡って、浸ってくるの。

ということで、とりあえずは行く、いや絶対に行くんだから、に決めたものの、10月に仕事でイランのビザを取ってそこに入国していたので、もうあたしのESTAは無効になってて米国のビザを取り直す - ネットでいろんな情報入力して120£くらい払って大使館に行ってインタビューして - のが、なかなかとってもめんどーくさいのだった。
別にどこの国がどこの国を好こうが嫌おうが勝手にやってろだし、経済制裁ていうのはまだわかんなくはないけど、行き来のアクセスを制限することにどんな意味があるのかしら、ほんとばかみたい、って思った。
(もっとわかんないのはサン・フランシスコと大阪のあれよ。ばーっかじゃねえの)
(ここには書いてないけどテヘランはとっても素敵なとこだったよ)

ということで、こっちを金曜の朝 - あと5時間くらい後 - に発って昼頃に着いて、向こうを日曜の晩に発って月曜の朝に戻ってくる - たーったの2泊で、既にもうたったの2泊じゃなんもできねえようー って半分泣いてて、SW以外に見るものについては未だにうううううなりまくってばかりでちっとも決まらない。

BrooklynでLCDがずっと(10 days?)出ているけどなんか高いし、Yo La TengoがBoweryで(祝 復活)Hanukkah祭りをやっているけど、観光客にはHanukkahのかんじでもないし行くんなら毎日通うべきよねとか思うし、美術はMetでもう一回David Hockney行くか? でもないし、ちいさめの展示の見たいのはいっぱいあるんだけどねえ。どうしたもんかねえ、てぶつぶつやっている無駄な時間がとても楽しくて、着いたら着いたでぜんぶどっか行っちゃうのよね。

でも地味に燃えていることは確かで、気分としてはあれ、SWの予告の、ミレニアム・ファルコンの操縦席で雄叫びをあげてるあの丸っこい鳥みたいなやつの ー。

ではまたー。

12.14.2017

[film] One False Move (1992)

3日、日曜日の夕方、BFIで見ました。 "Who Can You Trust?"シリーズからの1本。 35mm上映。

日本では未公開でDVDのみ、そのタイトルは『運命の銃爪』…  こーんなにおもしろいのにな。
製作は"I.R.S. Media"て出て、I.R.S.って、レコードだけじゃなくてこんな映画も作っていたんだよね。

LAで悪者3人組 - 粗野で短気なRay (Billy Bob Thornton)、その恋人のLila (Cynda Williams)、一見知的だけど実は一番凶暴なPluto (Michael Beach) - がある家を襲ってそこにいた一家友人一同を惨殺して現金とコカインを奪って車でHoustonの方に逃げる。
そしたらHoustonで落ち合うはずだった相手にすっぽかされたのでLilaはあきれて、もう抜けて実家に帰るから、ってひとりStar Cityに向かう。 のだがその時に強奪した金さらっていっちゃうの。

で、実はLilaがStar Cityに向かうかもしれないことは犯行前の現場のビデオに少しだけ残されていて、FBIがそこに向かって動きだすのだが、それで張り切っちゃったのが地元で退屈しててなんかでっかいことやりたくてたまらない駐在警官のDale 'Hurricane' Dixon (Bill Paxton)で、実際に地元で重大事件が起こったかのようにはしゃいで落ち着きなくなって、この流れだとこのとんちんかんな張り切り野郎がどたばたでたらめやって無事解決、みたいな方に行ってもおかしくないのだが、そうはいかない。

LilaがStar Cityに戻ってきてから隠れ家で再会(そう、再会になるの)したDaleとのやりとりと、Lilaを追ってきた悪党ふたりと、さらにそれを追うFBIと、全員がどこかしら抜けててまったくもう、なのだが物語としてはあれ以外の行きようはないのかもしれない、って。
LAとかHoustonの近辺をぐるぐる廻っていた輪がだんだんに縮まっていって、ああいう場所でしゅん、てなるのってなんかよいの。

これが80年代中頃に映画されたものであったら、Daleの弾けっぷりも、3人組の狼藉も、DaleとLilaの成り行きも、御都合主義の名のもと、程よく無責任に肯定されて適当なところに着地して、あーおもしろかった、で終わっていたのかもしれない。 Ray - Billy Bob Thornton(脚本も担当している)の救いようのない汚れっぷりも、Daleの弾けきれずに抑えこまれてしまう不機嫌さも気まずさも、Lilaのずるずるした諦めのわるさ、ゆえの生々しさも、どれも80年代の反動 - 90年代のリアル、みたいなところまで思い起こさせるあたり、狙ってはいないにしても、相当きちんと考えて作っているのではないか。

もちろん、そんなこと言ったって何も説明したことにはなっていないし、若い子にははあ? なのだろうけど、これってなんだろうなー、って。
例えばグランジが傷を、リアルをさらす、みたいなところに行って小汚いのが止まらなかったのはなんでなのか、フィルム・ノワールがなんでみんなあんなふうにみんな破滅していっちゃうのかとか、おもしろいねえ。

Bill PaxtonもBilly Bob Thorntonも90年代の顔だなあ、って。

結局、One False Moveってどこの、いつの、なんだったのか? (ぜんぶじゃ)(たとえば)

12.13.2017

[film] Love, Cecil (2017)

2日、土曜日の午後、Picturehouse Centralで見ました。 Cecil Beatonの評伝ドキュメンタリー。

むかしから、美術本や写真集の古本を漁るようになった頃からいちばん謎だったのがCecil Beatonの本て、どれもなんでみんなあんなに高額なのか、ていうことだった。始めはアメリカにいたから? とか思っていたがイギリスに来ても同様で、なんであんな女王陛下が写っていたりLife誌の表紙を飾ったようなポピュラーなやつらなのにびっくりするような値段なの? って。 最近ぽつぽついろんなアンソロジーが出始めたようなのでだんだんに下がっていったり復刊してくれたりすることを望む。

写真家でイラストレーターで映画や演劇のコスチュームやプロダクションデザインもやって、インテリアデザインもやって、要するにどんなものに対してもどんな状況にあっても、そこにある美と醜の間に明確に線を引いて嗅ぎわけて、最高に美しい状態にある何かを引き出したり浮かびあがらせたりすることができる名手で、自分にしかできないやりかたで自身の生活や人生をデザインした(ふつうはそうするよね、でも..)耽美家。

監督は、Lisa Immordino Vreeland - "Diana Vreeland: The Eye Has to Travel" (2011) とか、"Peggy Guggenheim: Art Addict" (2015) を撮っている人 - で、そうするとDiana Vreelandのことも必然的に頭に浮かぶ(彼女は03年生まれ、彼は04年生まれ)。 どちらも美に溺れてめろめろになりつつもそこにうずくまって絶望したり隠遁したりせずに、メジャーなところで自身の「眼」を惜しげもなくあれこれ晒して、美を愉しむこと、その愉しみかたを教えてくれたひと。 危険といったら危険、かもしれない。

映画は生前のインタビュー映像とDiaries(復刊してほしい)をRupert Everettが読みあげつつ、彼の生い立ちや家族のこと、Cambridgeでの目覚め、ガルボへの恋と失敗、 Kinmont Hoitsmaとの恋、写真家としての成功、などなどなど、いま手に入る資料はほぼ網羅しているかんじ。
関係者の証言としてはHamish Bowles、Leslie Caron (Gigi!)、David HockneyにDavid Baileyに。

びっくりするような未知の事実や事情が出てくるわけではなくて、既によく知っている彼の肖像 - ハンサムで、頭が切れて、ナルシストで辛辣で時として獰猛で - を折々の写真や映像と共に紹介していって、その像は整った彫刻のように揺るがないし、彼の多彩な活動の中心にある情動を”Love”と呼んでみることもできるに違いない。ものすごくよくできた、完成されたアイコン。

最後に出てくる白猫Timothyのエピソードだけどこかふつうの人ぽくて。

ドラマにするとしたらCecilを演じるのは誰になるだろう? Armie Hammer? かなあ。

Lisa Immordino Vreelandさんによる本 - *Love, Cecil: A Journey with Cecil Beaton*がABRAMSから出ているのを見つけた。映画にも出てきた資料も網羅した内容で、少し考える。

来年の七夕、The Cureの40th AnniversaryのHyde Parkが発表になった。 これは行かないとだねえ...

12.12.2017

[music] Paul Heaton and Jacqui Abbott

7日の木曜日の寒い寒い晩、少し西のほうのEventim Apolloていうホールで見ました。

The Beautiful Southについては、"0898 Beautiful South"(1992)の後のクアトロ公演(ほんとうにほんとうにすばらしかったのよ)に行って大好きになって、ベスト盤"Carry On up the Charts"(1994)の後のNY公演(Supper Club)も行って、クリップ集のLDだって持っているんだからー。

このふたりのデュオはこないだ6月くらいの週末に彼らの地元のHullのスタジアム(!)でライブがあるのを知り、しかも前座がThe Divine ComedyにBilly Braggだったりしたので行くことを真剣に検討したのだが、結局諦めて泣いていたらロンドンにも来てくれた。 当然他の都市も含めて軒並みSold Outしてて、なんかすげえわ、としか言いようがない。

会場に入ったときは前座の、よくしらないラテンロカビリー歌謡みたいなおにいさん(..ごめんね)が演ってて、20:45くらいに彼らが登場する。 バンドはG,B,D,Kの極めてベーシックな4人。 Paul Heatonがギターを抱えたのは一曲だけだったか。 ふたりの恰好は.. Jools HollandだったかのTVショウに出ていたときもそうだったけど、Paulはサッカー場にたむろしてるおっさんみたいだし、Jacquiはただのジーンズにただのシャツだし、ステージ映えしないこととてつもない。 でもこのふたりがこれ以外の恰好(ドレスとか..)で歌っているところを想像できないこともたしか。

Jacqui AbbottさんはBeautiful SouthのNY公演のときに見ているはずなのだが、とにかく二人とも底抜けに歌がうまくて楽しくて(それらを一切感じさせないような上手さと力の抜け具合と)、聴いてるひと全員から笑顔が絶えないし、みんなずっと一緒に歌って手拍子してるし。
そして、嬉しいことに、このふたりときたら、The Beautiful SouthだけでなくてThe Housemartinsの曲もやってくれるんだよ。

しかもその比重は後半に行くにつれて「わかっているから」、てかんじで高まっていって、"Sheep"をやって"I'll Sail This Ship Alone"をやったあたりから後はもうなにをどうやってもわーわーのお祭りで、でもでもどんちゃん騒ぎで一気に突撃、とか爆発、とかではなくて、みんなその場でにこにこぴょこぴょこしながら歌っているだけなの。
その多幸感ときたら、ABBA(もうじきSouthbankで展覧会がはじまるよ)並みの強さで襲ってくるような無敵感があった。
いまの時代、これはこれで貴重だとおもう。 ぽんこつでも酔っ払いでもいい、歌えるんだったら歌おうかー、って。

本編ラストの"You Keep It All In"の真ん中あたりなんて、ふたりが歌わなくてもみんな勝手に歌ってひとりでに走っていくの。
バンドは極めてタイトで安定していて、昔のモータウンとかスタックスのハウスバンドみたいな凄味のある強靭さ。
で、でっかいクラッカーが吹きあがって花吹雪がぱらぱら舞って、わーってなって、ああ年の瀬だなあー、と。

アンコールは2回、最初のが"A Little Time"と、ついに、やっぱしやってくれたわ、の"Happy Hour"。 2回目は"Song for Whoever"やって、バンド全員のアカペラのドゥーワップで劇甘の"Caravan of Love"をやってしゃんしゃん。

自分にとってのLife saverだなあーって改めて。 なんどでも通いたい。


関係ないけど、Simple MindsとPretendersが一緒にツアーするって。 彼らもういいの?

12.11.2017

[film] One Man's Madness (2017)

1日の金曜日の晩、BFIで見ました。 ここでは月に一回くらい、Sonic Cinemaていう音楽と映像を激突させて楽しんでみようていう上映とかイベントをやっていて、それの12月分。
Madnessのドキュメンタリーの上映後に、同作品の中心人物であるらしいMadnessのLee Thompsonさんと監督のJeff Baynesさんのトークがある。

でも行こうかどうしようか直前まで悩んでいて、だって、Suggsが来るんだったら喜んでいくけど、Lee Thompsonだとさあ、とか、タイトルからして、実は彼ひとりがMadnessの狂った部分をぜんぶ担っていた、みたいに重い内容だったらどうしよう、とかうだうだ。

客層は当然男の、中年以降のでっかいの、ずんぐりはげあがったの、が多め。 終わったらそのまま右から左にパブにじゃぶじゃぶ流れて道端に転がっていきそうな人々。
上映前にもLee氏は現れて、満員になっていない会場を見渡して、ふざけんじゃねえぞおら、みたいにひと暴れして去っていった - なんとなくたけしみたいなノリ。

これ、iMDBにもまだ登録されていなくて、DVDでこれからリリースされるらしい。

バンド結成時からのクリップやライブ映像を交えつつ、家族や関係者へのインタビューを重ねていく、というオーソドックスな構成なのだが、もんだいは、家族とか関係者をLee Thompson自身がひとりで変装したり仮装したりお化粧したり物真似したりして演じていることなの。声だけは本人達のをあてているし、Suggsとかバンドメンバーは本人が出ている(当然)のだが、だれそれのパパとかママとかまで、彼がひとりで真面目に演じていて、さらにバカらしいことに、Lee本人もその背景のどこかでひとりバカなことをやっていたりする。 だから"One Man's Madness"なのだが、なんかめちゃくちゃおかしい。演じられている人がどんな人なのかほとんど知らない、どれくらいの違いがあるのかわからないのにおかしい、ていうのはなかなかのもんで、そんなにMadnessを深く追っかけてきたわけでもないのにこれだけおかしいのだからコアなファンは、というとみんなひーひー泣きながら笑い転げまくっている。

なんでこんなことやってるんですか?とQ&Aで聞かれても、やってみたらおもしろかったから、ってそれだけ。
Welcome to the House of Fun ! - Madnessって、そもそもこんなバンドなのよね、というのは十分に伝わってきて、それがさー結成40年を過ぎたってこうなのよ、と堂々と宣言してくれるところが偉いなあ素敵だなあ、て思った。

最後には仮装されていた本人たちが画面に登場して本人比でどれくらい違っていたかを教えてくれるのだが、誠に残念ながらポイントはそこにはないのだった。 でも、どっちにしたって、どいつもこいつもみーんな変なの。 これが英国の宝(だよね、ぜったい)なのだとしたらすばらしいったら。

上映後のQ&Aも、質問の答えから外れた雑談みたいの - そういえばあんなことがあってよ - がほとんどで、漫談みたいになってしまい、ついでに登壇させられた(としか思えない)おとなしくて真面目そうな監督のひとがかわいそうなくらいだったが、おもしろいのだからまったく文句なかった。

姿を見ることはできなかったが会場にはClive Langer氏がいたし、映画にも登場したStiff RecordsのDave Robinson氏は同じ列にいてマイクを握って、”One Step Beyond"はStiffの収益にはあんま貢献しなかった"、とか発言したので、ああん? てぶちきれたLee氏が、おまえリングにあがってこいや! ていう一触即発状態になったりして楽しかった。

[film] In a Lonely Place (1950)

日曜日は雪で、今日も昼間雪まじりの雨で、朝は7:30でもまっくら。 ロンドンがこんな寒いなんてだれも言ってくれなかった。

11月25日、土曜日の午後、BFIのGloria Grahame特集で見ました。「孤独な場所で」。

これを最初に見たのは確か三百人劇場で、その後、NYでも何回か見た。
でも"Film Stars don't die in Liverpool"でGloria Grahameがあんなひとだったことが見えてわかってしまうとどんなふうに見えてくるのか? いや、評伝映画を見たからといって、そのひとがわかってしまうものではないし、それはそれで危険かも知れないけど、でも。

ハリウッドのスクリーンライターのDixon "Dix" Steele (Humphrey Bogart)がいて、もう落ち目で、ある晩、いつものようにバーでぐだぐだやってからバーのクロークの女性をおうちに連れて帰ったけど疲れたのでひとりで帰らせて、そしたら彼女はその晩に殺されてしまう。彼にも容疑がかかるが、アパートの向いの部屋の女優Laurel(Gloria Grahame)が庇ってくれて、それをきっかけにふたりは仲良くなるのだが、一緒にいるうちに彼の暗いところか癇癪もちなとこがだんだん見えてきて、彼は真剣に結婚しようって言ってくるのだが、あまりに怖いので嫌になってきて、逃げることを考え始めて、やがて。

後半はサイコパスみたいなDixがLauraを追い詰めていくサスペンスに見えなくてもなくて、早く逃げろ、てはらはらしっぱなしで、Laura - Gloriaは本当に恐怖で震えて、逃げようにも逃げられないふうに縛られているようで、でも彼を愛したことは確かだったので、などなど。

Dixが呟く有名な台詞 - "I was born when she kissed me. I died when she left me. I lived a few weeks while she loved me."も彼の実像があんなだとわかってしまうと、ものすごくおっかない別の意味を帯びてきて、Lauraが最後にこれに対して返す"I lived a few weeks while you loved me."は、「あなたが愛してくれた数週間は生きてた」という過去形が、彼が背中を向けて行ってしまった現在にどんな意味を持ってくるのか、よくわからないままで終わる。 愛を喪失しても生きているという状態がどんなものなのかわからない、けど生きているのだからなんかあるのかしら? のような黒でも白でもない灰色の中間状態を"In a Lonely Place"といって、それってあるよねえ、とか思うのだった。

わたしにとってのHumphrey Bogart像というのはこの映画のDixのキャラクターを主成分として作られているので、Humphrey Bogartをかっこいい、とかいう男をみるとあーこいつはやばいわ、て思うようになっている。
あと、Dixの詩にあるような男のロマンチシズムってJim MorrisonからNick Caveに至るまで、なんかえんえんあるよね。 ぜったい死なないくせにさ。

同じ日の午後、"In a Lonly Place"に続けて、これを見ました。

Double Indemnity (1944)

BFIでは10月から12月まで、”Who Can You Trust?”ていう古今のスリラー映画の特集をやっていて、その前のStephen King特集とあわせて、あんたらどんだけ人を怖がらせたいのか、て下を向いてしまうのだが、ちゃんとした予告編とパンフまで作っていろんなのやっているので、がんばって見れるのは見ていこう。

http://www.bfi.org.uk/thriller

この特集ではフィルム・ノワールの古典もいくつかかかって、これらは好きなので見るのだが、フィルム・ノワールって結構見ているはずでもすぐに忘れてしまうのが多くて、映画が始まってから、ああこれはあれだった、とか、そういう掘り起こしを楽しむ、ていうのもあるの。

監督がBilly Wilder、脚本がBilly Wilder & Raymond Chandlerのこれも、冒頭のオフィスので、あああれだわ、て思った。 邦題は「深夜の告白」っていうの。

深夜のオフィスに怪我をしてよろよろと現れた保険屋の営業のWalter Neff (Fred MacMurray)が録音機に向かってなんか告白を始める。

ある日、保険の契約更新で訪れた家で、そこのしなしなした人妻Phyllis (Barbara Stanwyck)に引っ掛かって、誘われるまま言われるままに骨を抜かれて、彼女の旦那を殺して保険金をぶんどる完全犯罪を企むことになって実行して、一度はなんかうまくいったように見えたのだが、Neffの上司のBarton Keyes (Edward G. Robinson)のなかに住むLittle manが立ちあがってしまって、さあどうなっちゃうのか。

ノワールの分類でいうとFemme fataleもの、になっていて、実際Barbara Stanwyckの艶分ときたらすごーい、としか言いようがないのだが、それだけではない犯罪に足をつっこんで泥沼にはまっていく過程とか土壇場でのついてなさとかがとっても生々しくスリリングなので、見ているひとはみんな唸りまくっていて、最後はもう拍手するしかないふうになる。

でもあんなふうに夜明けのオフィスで汗まみれ血まみれのまま死んじゃうのはやだなあ。

12.06.2017

[art] Portrait of the Artist: Käthe Kollwitz, 他

アート関係を纏めて。あんまし纏めてしまいたくないのだが。

Thomas Ruff: Photographs 1979 - 2017

11月11日の土曜日、Whitechapel Galleryで。
"Porträts "のシリーズを始めとして、Ruffのは昨年の国立近代美術館のも見たし、7月にStädel Museumでの"Photographs Become Pictures"でも見ているのだが、今回のは初期の連作"L’Empereur"(1982) が見たかった。 感触は同様に初期の"Interieurs"に近い、室内のもやっとした暖かい光のなかでぐんにゃり折れ曲がって崩れて置物のように放置されている若者 - Ruff自身 - これのタイトルが「皇帝」って、素敵。  彼の写真は表面の肌理の粗さ - 細かさ、暖かさ - 冷たさ、強さ - 弱さ、などを通して見られる対象としての写真の置かれようを問いかけてきて、これって写真というアートフォームに留まらない今のアート全般に関わるでっかい問題で、だからあんなにでっかいのよね、とか思った。

Portrait of the Artist:  Käthe Kollwitz

11月18日の土曜日、電車でバーミンガムに行ってIkon Galleryていうところで見ました。
バーミンガムはロンドンから電車で2時間くらいのところで、こないだの夏、OxfordにRaphaelを見にいったのと同じ少し遠出してみようシリーズ。東京から佐倉とか伊豆とかに行くようなかんじかしら?
初めてなので地図を見ながら歩いていったのだが運河があって、おもしろい建物がいっぱいあった。

ドイツの表現主義に分類される画家、版画家、彫刻家 -  Käthe Kollwitz (1867?1945)の展示。 British Museumとの共催で展示作品の殆どはここから、あとは個人蔵のがいくつか。 作品はエッチングとドローイング、戦争の悲惨をモチーフにしたものとSelf Portraitが殆どで、4バージョンくらいの"Frau mit totem Kind" (Woman with dead child) (1903)の爪で引っ掻いてその傷に酸を練りこんだかのような痛ましさと、Self Portraitに漂うどんよりとした無力感とか凍りついたようななだらかな背中とか。 他には "Vergewaltigt" (Raped) (1907)の凄惨さと。 昔はこういうのあまり見れなかったのだが、今は見なきゃいけないよね、になってきているのはなんでか。
これはカタログ買った。

バーミンガムには他に、Birmingham Museum & Art Galleryていうでっかい美術館があって、ついでに寄ってみる。
ここには、The Pre-Raphaeliteギャラリー、ていうラファエル前派に特化したコーナーがあって、なぜかというとEdward Burne-Jonesがバーミンガムの生まれだったりするから?  

John Everett Millaisの"The Blind Girl" (1856) - 虹! とか、大理石彫刻でAlexander Munroの"Paolo and Francesca"(1851-1852) とか。 じんわりうっとり、それだけでもいいの。

他の展示でおもしろかったのは"The Birth of the British Curry"ていうので、英国で最初にできたカレー屋はロンドンのだとか、当時の厨房の様子とか従業員の寝るスペースとかが並んでいる。 カレーに対する特別な思いみたいのって、どこの国にもあるんだねえ。(あんまよくわかんないけど)

Impressionists in London
11月25日の土曜日、Tate Britainで。
最初に告知を見たときはどういう内容のかよくわかんなかったのだが、1870年代、Franco-Prussian War - 普仏戦争の戦火を逃れてロンドンにやってきたフランスの画家たち -  Monet, Tissot, Pissarro, Sisley - などが描いた当時のロンドンの社交界とか田舎風景とかを纏めたもの。

彼らの描いたロンドン、いいでしょ? でもなく、彼らからしても逃げてきて他にすることないから描いたのよ、程度かも知れず、あんま焦点が定まった展示にはなっていないのだが、19世紀のロンドンの風物(フレンチふりかけ)を絵葉書を見るみたいに眺める、そういう面白さはあったかも。

これらと文脈は異なるものの同時期にロンドンの川を描いたWhistlerの"Nocturne"のシリーズが素敵だった。
あと、おもしろかったのはMonetの"Leicester Square at Night" (1905) - まるでHodgkinみたいな抽象になっていて、このころからあの界隈ってあんなだったのかな、って。

Rachel Whiteread
同じ25日に。 93年にターナー賞を受賞しているRachel Whitereadの回顧展。(いつもつい「ホワイトヘッド」て読んでしまう)
だだっぴろい空間に彼女の彫刻とかオブジェとかがごろごろ置かれていて、その置かれ方も含めてなんだか異物のおもしろさ。
なんで水枕? がこんなふうに置いてあるのか? それを見たときに感じる微妙な違和感はなにから、どこから来るものなのか?
スケールの違い、素材(感)の違い。 それはこっち側(認識、識別)にあるのか、対象のほうにあるのか。

Thomas Ruffの写真を見たときに感じるあれ、と少しだけ近い気がした。
単に「見る」ことだけでは我慢できないような何かが頭の奥を突っついてくる、動くわけがないのに何かが動いてきて、そこにいるの。

あと、Tate Britainでやってた小展示 - 新たに購入した絵で、
William Stott of Oldham(1857-1900)の  "Le Passeur (The Ferryman)" (1881)がすばらしくよかったので今度行くひとは見てみて。
夕暮れ時、女の子ふたりが川を眺めているだけなんだけど。

http://www.tate.org.uk/art/artworks/stott-of-oldham-le-passeur-the-ferryman-t14872

Cézanne Portraits
11月26日、National Portrait Galleryで見ました。 Musée d'Orsayでやっていた展示が巡回してきた(んだよね?)

Cézanneはなんでも見ることにしているので普通におもしろかったのだが、肖像画だと2014-15年にメトロポリタン美術館でやった"Madame Cézanne" - Hortense Fiquet を描いた29作品のうち25枚を集めた展示のほうが勉強になった気がした。
最初期の自画像と最後の自画像との対比(できる距離に置いてほしいのにー)がいろんな意味でおもしろかったかも。
晩年の肖像画たち、描かれた人々の目はほぼ窪んだ虚ろな穴になっていて、亡霊のようで、でもそこにあることは、あるの。
(ヒトを描いているかんじはあまりないかも。 ヒトもリンゴも、割とどうでもよくなっていたのかも)


まだあるのだが長くなりそうなので一旦、きる。
12月は絵をいっぱい見ることになりそう、ていうか、見たいので見るから。

12.05.2017

[music] Alison Moyet

少し前、11月15日の晩、London Palladiumで見ました。2 Daysの2日目、初日の14日はあっという間に売り切れ、これは追加日のやつ。
最近の曲をTVで歌っていたのを見て、いいなー、て思ったのと、やっぱし見ておきたいひとだったし。

それにしても最近は.. いや昔からそうだったのだがスケジュール管理ていうのがぜんぜんだめな子で、電子の予定表複数もなんとか同期させようとしつつ、「ちゃんと同期させること」、ていうTo-Doもどこかに飛んでしまうばっかりで、これも前日くらいになってプライベートの予定表に"am"て書きこまれているのを見つけて、夜の時間帯に"am"とはこれってなんだったかしら? と半日くらい頭の底を掻きだして出てきた。
ぜんぶ紙のチケットだったころはわかりやすかったのに、最近は電子だったり、現地お取り置きだったり、郵送だったりばらばらで、どれがどれだかわかんないのでお手上げでとても困っている。 ← ぜんぶ自分がわるいのに。

というわけで、この日、BFIでの"Jules and Jim" (1962)とダブってしまった自分の頭をトンカチでぶん殴ってからこっちにきた。

直前までおろおろしていたので何時に始まるのか前座があるのかもわからず、しかたがないので早目に行って、珍しく前座のひとからちゃんと見た。

Hannah Peelさんというソロのひとで、手回しオルゴール - テープの穴は自分で開けたという - に長くのびた紙テープをセットして、これをからから手で廻しながら童謡みたいにNew Orderの"Blue Monday"を歌って、これがとてもよくて、あとは鍵盤とバイオリンとエレクトロを束ねたりぶちまけたり、ひとりで空間まるごと押さえこんでいた。

そしてその押さえこみは本編のAlison Moyetでは更にものすごくなって、完全に押さえこまれるふう。
ステージは極めてシンプルで、両脇に男性ふたり - キーボードを中心とした何でも屋風情 - が立っているだけ。

R&Bとかディーバとか、まだそんな形容とか枠とかがまったく存在しなかった頃に出てきたYazooという2人組は、ぜんぜんきらきらしていないそのルックス風体からして異様で、でも一番すげえと思ったのはVince Clarkeの固くて透明なシンセに絡みつくドスの効いた彼女の強い声で、それは一聴すると咆哮のようなのに、ねじ込むように歌としての調性を保ちながらこちらにやってきて、当時そいうのをあんまし聴いたことなかったから夢中になった(すぐさめたけど)。

Yazooが消えたあと、彼女がソロをやっていることは知っていたが、Vince ClarkeのほうはErasureで爆発していることがわかっていたし、それなしでも彼女の歌はじゅうぶん巧いのだからきっといいよね、くらいで止まっていたの。

彼女、6月のGuardian紙のインタビューで“What has been your biggest disappointment?”ていう問いに“I am my biggest disappointment.”て平然と答えていて、ああ変わらないんだわ、て思ったものだが、ライブは極めて安定した力強いシンガーのものだった。

曲は彼女の新しいソロからのが中心で、でもやっぱり”Only You”とかが挟みこまれるぞくぞくわーわーになって、 更に終わりの方の”Situation”になると、みんな前の方に押し寄せてライブハウス状態になる。前に走っていくのは年寄りばっかしで、しかも連中の踊り方ときたら… 目を伏せたくなるようなあの頃の、腕をあげてくねくねするやつで、ああこんなふうに時間は止まるもんなんだねえ、てしみじみ感心した。
そして、もういっこあるよ、と思ったあの曲はやっぱりアンコールの終わりで、”Don’t Go”って、延々終わりそうになくて怖くなったが、結局Goして、でもその翌日までずーっと頭のなかで回っていたの。

12.04.2017

[film] Film Stars Don't Die in Liverpool (2017)

11月19日、土曜日の午後、PiccadillyのPicturehouse Centralで見ました。

81年に亡くなった伝説の(と言っていいよね)ハリウッド女優Gloria Grahameの晩年の恋人だったPeter Turnerが87年に発表した手記を映画化したもので、Gloria GrahameをAnnette Beningが、Peter TurnerをJamie Bellが演じている。

こないだのLFFで、この映画に関連したAnnette Beningのトークがあったのだが、やっぱ行けばよかったなあ、としみじみ後悔している。

81年、劇場(見えたのは『ガラスの動物園』の台本?)のドレッシングルームでGloria (Annette Bening)が倒れたと聞いたPeter (Jamie Bell)はLiverpoolの実家に彼女を引き取って看病をしつつ、彼女との出会いの頃からの日々を振り返っていく。

70年代の末、ロンドンで俳優の修行をしていたPeterは同じフラットで復帰の機会を狙ってがんばっていたGloria Grahameと出会って、ふたりはあーらびっくり恋におちて、途端にいろんなことがいっぱい降ってくる。 どちらかというと田舎のイギリス人とハリウッド慣れしたアメリカ人、29歳という歳の差、これから昇ろうとしているキャリアと一度は頂点(オスカー獲ってるし)まで行ってしまっているキャリアと、結婚したことないのと離婚歴4回と、溝とか壁とか呼ぶのも面倒になるくらいいろんな違いがいっぱい現れて、でもこれはGloriaがえらい、というか天真爛漫のアメリカ(西のほう)人のすごさだと思うのだが、とにかくPeterをLAやNYに引っ張って連れ回して、Peterはびっくりしたりあきれたりしつつも、後半にいくにつれて今度は病気で弱くなっていく彼女を支えて引っ張っていくの。

難病モノのせつなさとかバックステージものの感動もあるのだが、これはやはりふたりの男女がふたりにとって思いがけないようなすばらしい出会いと旅をするラブストーリーで、そしてそれ以上にAnnette BeningとJamie Bellのふたりの俳優の映画でもあるねえ、と思った (ふたりだけじゃなくて、Peterの母を演じるJulie Walters も、Gloriaの母を演じるVanessa Redgraveもすごいの、あたりまえのように。)

最後はもちろん辛いのだが、でもAnnette Beningのすごいのは思いっきり見栄はって背伸びして、べったべたに泣かさないところではないか。Gloria Grahameが実際にそんなふうだったのか、その辺をどれくらいリサーチしたのかわかんないけど、とにかく背筋がのびるかっこよさ、ていうのはこういうのだねえ、と思って、この感覚は"20th Century Women"にも確かにあるよね。
彼女がちょっと上を向いて、頬の奥のほうをかちっ、て乾いた音で鳴らすのが素敵で、一生懸命練習しているのだが、できねえわ。

エンドロールでElvis Costello先生の新曲"You Shouldn’t Look at Me That Way"が流れて、これもすごくよいの。"She"よかぜんぜんよいから。

なんとなく、成瀬巳喜男の役者ものを思い浮かべた。 あそこまで痺れないけど、ほんの少しだけあるかも。

本作の上映を記念して、10月〜12月のBFIではGloria Grahameの特集 - "Good at Being Bad -The films of Gloria Grahame" - をやっていて、このうち"The Big Heat" (1953)と"It's a Wonderful Life" (1946)はふつうの映画館でもリバイバル上映されている。後者のはクリスマスの恒例でもあるけど。

http://www.bfi.org.uk/news-opinion/news-bfi/lists/gloria-grahame-10-essential-films

いまのとこ、この中から ”In a Lonely Place" (1953)と"Human Desire" (1954)を見てきたのだが、映画自身のすばらしさもあるにせよ、François Truffautが彼女を評して書いた"It seems that of all the American film stars, Gloria Grahame is the only one who is also a person."ていうのがとてもしっくりくるなあ、って。 女性の弱さ - ただし男性監督が演出した女性の弱さ - を限りなく肌に近いところで無防備に見せることができるひとだったような。

それにしても彼女、2回目の結婚相手がNicholas Rayで、4回目の結婚相手はNicholas Rayの最初の結婚のときの子、つまり一時は義理の息子だった人とだって、なんかすごいねえ。

11.30.2017

[film] Ingrid Goes West (2017)

寒くなったよう。 昼間には雪が降ったって。

19日、日曜日の午後、CurzonのBloomsburyでみました。

Ingrid (Aubrey Plaza)はSNS - 特にInstagramにどっぷりの女の子で、自分にとっては親友と思っていたCharlotteが結婚式に自分を呼んでくれなかったのを根にもってWedding Crasherをやらかしてから村八分にされて病院に隔離されセラピーとかも受けさせられて、あーあ、ってなってから今度は雑誌に載ってたインフルエンサーのTaylor (Elizabeth Olsen)に目をつけて、彼女のインスタにコメントしたらちょっとだけレスしてくれたので嬉しくなって、亡くなった母が遺してくれた$60,000を手にひとりカリフォルニアに渡り - Goes West -  Taylorの近所に出ていた貸家をキャッシュで借りて居場所を確保すると、猛然と彼女を追っかけ始める。 それはもう手当り次第で、大家でバットマンおたくのDan(O'Shea Jackson Jr.)のヘルプも借りたりしつつ、彼女の夫も含めてなんとか友達になることに成功するのだが、結局塗り固められたIngridのいろんなウソは動物みたいに野蛮なヤク中のTaylorの兄に見破られて、さてどうなっちゃうのか。

物語の転がしかたに無理があるとは思えなくて、ああなるしかないのだろうな、と思う一方で、Ingridのキャラクター設定についてはわかんなくて - つまり、あんなふうにペンシルベニアから西海岸に移動してなおも懲りずにSNS上でのFameを勝ち取ろうとするような若者がいるのだろうか? - いるんだろうな - 程度の感触しか持てず、SNSなんて虚構なんだから上っ面なんだから、とか言ってみたところで、そんなのあらゆる「リアル」を片っ端から軽蔑してへらへらやってきた80年代の奴が言ってもだめよね、とか。
Ingridだけでなく、彼女が向かっていく先のTaylorの方も、そのしょうもないアーティスト気取りの夫も、その周りの取り巻きも揃って見事にろくでなしばっかりで、結局こんなろくでなし共がはしゃぎまわっている世界、ていうあたりも80年代とたいして変わんないのかも …

ただ、いまのソーシャルメディアにしてもゲームにしても、世界のいろんなとこから降ってくるその量とそこに没入できてしまう時間ときたらたぶん年寄りの想像を絶するもので、そこからそこに浸かってその世界で受容されること、あるいはその世界から排除されることがその人にとってどれだけ意味とか価値を持つ(or 損なう)ものであるかは想像できないこともない。 依存症、とかいう用語は安易に使いたくないけど、このことをドラッグと同じような視座で見てしまうことは適切なのかどうなのか。

Aubrey PlazaもElizabeth Olsenもどちらかというと人を呪ったり祟ったり憑りついたりする演技が得意だった気がするのだが、ここでは同様の動きをしているかに見える彼女たちの背後にあるソーシャルメディアの呪縛、みたいのがくっきり見えてしまうところが怖さを倍加させている。 彼女らを(彼女らだから?)あんなふうに狂わせてしまうレスとかタグとかスレッドとかの恐ろしさ。 実体がない、とは言わない。 実体はあって、ただそれがどんなふうに考えや志向を捕えて変えていくのかが見えないところがこわい。 それが、そこから逃避するためにやってきた軽くて薄い西海岸でさらにぐちゃぐちゃの展開を見せてしまうところも。 
例えば彼女が東(New Yorkとか)に行ったら別の展開を見せたのだろうか?

なんかうだうだ書いてしまったが、全体のノリとしてはホラーというよりは、どたばたコメディなの。普段あんまし関わりたくない、そのサークルには加わりたくないかんじの人たちがいっぱい出てくる、ていうだけの。  Aubrey Plaza、うますぎるしこわすぎるし。

今晩(30日)、The Fallのライブのはずだったのだが、M.E.Smithの容態がよくないということで延期になってしまった。 残念だけどそれ以上に心配だよう。

ああ11月も..

[film] Battle of the Sexes (2017)

25日の晩、PiccadillyのPicturehouse Centralで見ました。
ほんとうはLFFで見ようと思ったのだが、チケットが£35くらいしたので手前で踏みとどまったやつ。

テニス実録モノとしてはこないだの"Borg McEnroe" (2017) - あー見逃しちゃったよう - に続く。
なんでここにきて70年代80年代のテニスものばっかしなのか、よくわかんないのだが。

Billie Jean King (Emma Stone)がトーナメントで何度目かの優勝をしたところで、全米プロテニス協会かなんかのお偉方Jack Kramer (Bill Pullman)に、トーナメントの賞金額は男性の優勝賞金の1/8くらいでいいんだ、だって女子は男子よか身体能力が劣ってるんだもの、てあたりまえのように言われてふざけんじゃねーよ、チケットの売り上げの額は一緒だろうが、て喧嘩になってあったまきてGladys Heldman (Sarah Silverman)と一緒に女性のトーナメントを立ち上げてスポンサーも見つけて女子だけのツアーを始める。

他方、かつて男子の全米チャンピオンだったBobby Riggs(Steve Carell)はとっくに引退しているのだが、ギャンブル癖が抜けなくてうろうろ落ち着きなくて、仲間に冗談でBillie Jean Kingと戦ったらどっちが勝つか、とか言われてなんとなく火がついて喧嘩を吹っかけてみる。

最初はBillie Jeanも相手にしていなかったのだが、彼女を負かしたばかりのMargaret Court (Jessica McNamee)にBobbyは矛先を向けて、結果彼女に勝っちゃったもんだから更に調子に乗ってわーわーはしゃぐのでBillie Jeanはざっけんじゃねえよ、とあったまきて受けて立つことにして、こうして1973年、世紀の一戦 - Battle of the Sexesが勃発した、と。

単純な性差をめぐる男女間のテニス喧嘩、というよりは、当時根強くあった男性優位物差しに対する不満とか怒りとか異議がじわじわと燃え広がっていって、実際の試合でいい加減にしろよこの腐れブタ野郎!て炸裂するまで。 スポーツ界の勝負の話だけではなくて、ツアーを通してBiliie Jeanの恋人になっていく Marilyn(Andrea Riseborough) のこととか、そうなっていっても静かに彼女を見守る夫とか、切ない要素もいろいろあって、だから最後のゲームは思いっきり力拳にぎにぎになってたまんない。

とにかくEmma Stoneの内側でめらめら燃えていく炎と、Steve Carellの天真爛漫バカのスパークとその行方が眩しくてすばらしいのでまずはそれを堪能しよう。 なのだが、映画"Suffragette" (2015)の時にも思った、ほんの少し前 - この映画だとほんの40年数年前 - はこうだったんだなー、というのも結構くらくらする。 今なら男女で身体能力に差が出るところも出ないところもそんなのあって当然、それがなにか? だし、そこでの優劣を問うなんて論外、だと思うのだが、この頃はまだそんなもんだったのね、ていうあたりが。

ただ、あと、日本は... まだまじでそういうこと(男のほうが能力が高いので大変な仕事をいっぱいしていて偉いんだから、云々)を平気で言ったり信じたりしている糞尿じじいがそこらじゅうにいそうなので、要注視だな。 あぶり出して殺虫剤と殺鼠剤をばしゃばしゃかけて地の果てに裸で追いやってしまいたい。

まずは"Suffragette"でやってくれたような邦題とか宣伝をもう一回やらかしてくれるかどうか、だよな - おもしろがってるんじゃないよ、あれ、本気で頭にきて冗談じゃないと思ったんだから。いまだに。 "Suffragette"でのCarey Mulliganの地獄と絶望を、本作でのBillie Jean King = Emma Stoneの怒りを、彼女が最後に大泣きした理由を - 映画の中心にあるそれらを正面から伝えようとしないで、なにが宣伝だよ配給だよ、って。

ラスト、ファッションデザイナー役で出ているAlan CummingがBillie Jeanを抱きしめて言う言葉がほんとうに感動的で、泣きそうになった。Alan Cumming、あんたって…

それにしてもBobby RiggsとSteve Carellって、よく似てるんだねえ。

11.27.2017

[music] Queens of the Stone Age

21日の晩、O2アリーナで見ました。 いろいろくたくたよれよれで、20:45の本編開始ぎりぎりに会場に入った。

チケットが発売されてすぐに売り切れになって、あーあ、て言っていたら、こちらを見越したようにちょこちょこ「よいお席のチケットが少しだけリリースされました」ていうメールが数回に渡って入るようになり、結局負けてすごい遠くの席だけど見ないよりはいいよね、て買った。

QOTSAを最後に見たのは02年9月のNY、Roseland Ballroomで、"Songs for the Deaf"のツアーで、その時の前座は...And You Will Know Us by the Trail of Dead で、ベースはまだつるっぱげのNick Oliveriで、Mark Laneganがちょこちょこヴォーカルで入っていた。今思えば豪華なやつだったと思うのだが、バンドはあの地点をはるかに超えたスケール(いろんな意味で)を獲得してしまったことだねえ、と遠くから蟻みたいに見えるアリーナを眺めておもった。

ステージはシンプルで、蹴っ飛ばしたり寄りかかると根っこがぶらぶら動く発光するビニールの柱みたいのがいっぱい立っている程度。
"Villains"のツアーだと思っていたのだが、ここからの曲が出てきたのは4曲めくらいからで、それまでは"...Like Clockwork"とか旧作からが続いて、要するに新旧ぜんぜんギャップのない、黒めにうねるボトムの上を2台のギターががしゃがしゃ刻んで走っていって、そこにJoshの艶のあるヴォーカルが乗っかると、とにかくセクシーで痺れる極上のロケンロールのできあがり。 2002年の頃のライブの暴風砂嵐のような音と比べると、そりゃ音は分厚くゴージャスに、つやつやになってはいるけど、セクシーなとこ - 腰をくいくいできるような音の癖 - は一貫していると思った。 石器時代からオカマをやっているその強靭さと、それを水平方向にどこまでもぶん流していくアメリカのランドスケープとか砂漠とか。

"Villains”の冒頭の2曲をやって会場があったまってきた頃にかました“You Think I Ain't Worth a Dollar, but I Feel Like a Millionaire”でのスタンディングの客の跳ね具合が遠くから見ていると実に壮観で、続く”No One Knows”では台風の渦が前方に3つくらい現れては消えてを繰り返して、すごいいーて唸った。

音もそうだがJosh Hommeのメッセージも一貫している。 どこまでも異形で、化け物で、変態で、病気であれ、闇に生まれ闇に生きろ、交われ、それを貫け、それでいいんだって。彼らはそちらの側にずっと立っている。(ちなみにその野生の、変態連鎖の頂点にいるのがIggy、ね)
しみじみかっこいいよねえ。

アンコールは1回、「最初のアルバムの最初の曲です」と静かに言ってから”Regular John”をやって、それがまたよくてさあ。  
これ入れて2時間たっぷり。

ライブの翌日くらいに、来年6月末、Finsbury Parkのライブ告知がきた。 “QOTSA and Friends”ていうので、Iggy Pop, Run The Jewels, The Hivesが一緒に出る、と。 いいなー。

11.25.2017

[film] The Disaster Artist (2017)

20日月曜日の晩、BFIでみたPreview。 先週の終わりくらいに突然発表になって、前売り開始は18日,土曜日の昼間で、その日はバーミンガムに絵を見にいっていたので、忘れないようにしなきゃ、だったのだがバカみたいに当ったり前のように忘れて、夜にアクセスしたら当然のように売り切れてて、ううむ、とか言いながら当日月曜日の昼間に釣り糸を垂らしてみたらなんとかいちまい釣れてよかった。

"The Room"という2003年リリースの映画は、月1回くらいのペースでPrince Chaeles Cinemaで上映されていて、黒髪長髪のターミネーターみたいな男の暗い顔がクローズアップされたそのポスターは、それだけだと何の映画だかまったく謎で不明で、宣伝のされ方からするとどうもカルトっぽくて、自分はまだ映画のいろいろを勉強しているところなので、こういうカルトふうはいいや、って放っておいた。

で、この"The Room"を作った監督&主演のTommy Wiseauとそのバディでラインプロデューサーで主演のGreg Sesteroが2013年に出版したノンフィクション本を元に、なんで、どうやってこの映画ができあがったのかをプロの俳優とかスタッフを使って(いや、”The Room”もそうなのだけど)ちゃんと描いた実録モノがこの”The Disaster Artist”で、その辺のことを一切知らずわからずに初めてこれの予告を見たときは、「なんじゃこりゃ?」て途方に暮れるしかないのだった。

"The Room"のことをもう少し書くと、年齢も出自も一切不明(未だに不明)のTommy Wiseauがどこからどうやって調達したかわからない(未だに謎)$6millon (推定)で製作した映画で、公開時は2週で$1,800 の収益しかあげられなくて、「史上最悪の映画」ていう評判が高くて、とにかくいろんな伝説にまみれてて、だから(なのに)えんえんいまだに、本国じゃないLondonあたりでも上映され続けているの。

上映前に監督&主演のJames Franco(Tommy Wiseau役)、同主演のDave Franco(Greg Sestero役)による椅子に座った長めのイントロがあった。はじめに司会のひとが、客席に向かって「この中で"The Room"を見たことのあるひと?」てやったら9割くらいが「いえーい」てかんじで元気いっぱいに手をあげたのが衝撃だった。 Sold OutしたのはFranco 兄弟が来るから、というより"The Room"の制作譚を見たかったからなのね ...

James Francoがこの映画を知ったのは公開当時、ハリウッドでこの映画のビルボード(5年もそこにあったという)を見て、ものすごく変で異様な印象を受けて、なぜかというとそこにはでっかく電話番号が載っていたから、だと。 でも映画を見てとてつもない衝撃を受けてDaveにとにかく見ろ!、と伝えて、Daveはシカゴのホテルで見てものすごく感銘を受けた、と。

あとは、Tennessee WilliamsとかJames Deanとか、James Franco観点での微妙にくすぐられるところとか。

Tommy & Gregにはこれの続編の構想もあったのだが、最近彼らと話しをしたら、この作品がトリロジーの2作めになる可能性がある、とか..

とにかく映画が始まると、冒頭でKristen Bellを始めとしたハリウッドセレブ達が”The Room”のことをものすごい言葉で絶賛しまくってて、そのなかには J.J. Abrams なんかもいて、とにかくすごい映画なんだからさ、と。

映画は90年代末、俳優を志していたGreg Sestero (Dave Franco)は稽古場で出会った同じく俳優志望のTommy Wiseau (James Franco)と友達になって、Tommyに誘われるままにLAに移動して(彼はなんでかLAに部屋を持っていた)、ふたりで一緒に暮らし始める。Gregにはエージェントも見つかって始めはうまくいきそうだったのだが、Tommyのほうはぜんぜんだめで、Judd Apatow(本人)にこっぴどく叱られたりしたので、自分たちで映画を作ることを決意して、がんばって脚本を書いてスタッフ(スクリプターにSeth Rogenとか)を集めて撮り始めるのだが、Tommyは映画なんてやったこともないし、演技は素人以下でものすごいので、現場はDisasterとしか言いようがなくなるのだが、Disasterなのはおまえだろ、ってみんなが突っこんで、でもとにかく映画は出来あがって、世紀のプレミアの晩がやってくる...

映画製作の現場がどんなものかわからなくても、映画の演出とか演技があんまわからなくても、これが事実だとしたらとにかくすげえな、ひでえな、としか言いようがないのだが、それはそれとしてこの"The Disaster Artist"が映画としておもしろいことは確か。 James Franco監督作って、William Faulkner原作の2本を含めて見たいようと思いつつ見れていなかったのだが、彼の辺境アート、映画、コメディ、スラップスティック、バディもの、などに対するいろんな愛が炸裂して、そのスピード感も込みで一気に見せてしまう、その勢いがすばらしい。  演技陣も"This Is the End" (2013)みたいにいろんなひとが次々とうじゃうじゃ出てくるし。

エンドロールで、"The Room"の画面とそれをカバー/コピーした"The Disaster Artist"の画面が対比されてて、それを見るとますます"The Room"を見たくなって、帰ってからPrince Charles Cinemaのサイトを見てみると、2月にTommy & Gregが参加する上映会があると。
あと、これの翌日(21日)にはここで、James & DaveとTommy & Gregが参加しての"The Room"と"The Disaster Artist"の2本立てがあることがわかったのだが、どうすることもできないわ。 と思っていたら22日の21時に上映されることがわかったので慌てて行ってみた。(こういうのは冷ましたらあかん)

The Room (2003)

そしてこうして、22日の21時、Prince Charles Cinema。 まず上映前の行列がすごかった。
で、中に入ると前のほうの席が割と空いていたので一番前に座った。(これがしっぱいだったことが後でわかる)

本編が始まる前にTommy本人が画面に登場して、楽しんでいってくれ、スプーンやフットボールとかをスクリーンに投げちゃだめだよ、とかいう。
客席はこの時点で相当な歓声と拍手でヒートアップしていて、これってやばいほうのカルトなのか、とか思って少しだけ帰りたくなる。

ストーリーはシンプルで、銀行員をしているJohnny (Tommy Wiseau)は結婚前提でLisaとサンフランシスコのタウンハウスに暮らしていて、Johnnyはとっても幸せなのだが、Lisaはそうでもなくて、Johnnyの親友のMark (Greg Sestero)をしょっちゅう家に呼んでやらしいことをいっぱいしていて、Lisaのママとか友達はJohnnyはいい奴なんだからそういうのをやめるようにLisaに言うのだが、Lisaは結婚するつもりはないわ、ってやめなくて、やがて全てを知ったJohnnyは...   
それだけなの。 見たことないけど、最近の昼メロとかのがもうちょっと高度で複雑かも。

画面もアクションも台詞もどれも繋がっていかないでがたがただし、基本の基本からできていないぜんぜんだめだめなやつなのかもしれないけど、ここまでアブストラクトに攻められるとひょっとしたら、という気がして、柳下さんがいつもぶっ叩いている邦画のしょうもないのとは根本からなんか違うかんじはする。

だって、なんといっても集まった客席の熱狂ときたらとてつもなくて、というか、映画がスカスカの突っ込みどころ満載なので、そこに全員が全力で突っ込むことではじめて映画が完成する、そういうあたりを狙ったアートではないか、とさえ思えてくるの。

よくわかんないやつが登場すると、「おまえ誰だよ?」 とか、ひとが部屋に入ってくると「ドア閉めろー!」(ほんとに閉めないからさ)とか、出ていこうとすると「もう帰るのか? それだけか?」とか、台詞も紋切り型でよくわかんないのが多いし、でも有名な台詞はみんなで復唱するし、フットボールを投げ合うところは1.2.3.4.てカウントするし、Lisaが邪悪になってやらしいことをする場面になるとスクリーンに向かって大量のプラスチックのスプーンが投げ入れられて、前方に座っていると頭に刺さったりスプーンまみれになる(使用済みじゃないだけよかったな..)。
こんなふうな客席からのわーわーが99分、ノンストップで続く。

昔の”The Rocky Horror Picture Show"の上映会(ていうのがあったのだよ、子供たち)の観客参加型に近いのかもしれないが、あんな統制のとれた楽しいものではなく、アナーキーでひとりひとりがばらばら勝手につっこんだり、悶絶したり、そっくり返ったりしている。 でも「金返せ〜」みたいな怒りをこめたやつではなくて、みんな笑って楽しんでいるのだからよいのではないかしらん。誰がどうやってここまでのものになっていったのか、はとっても興味ある。

あと、これひょっとして中毒性ある?  もう一回見にいって試してみるべきかどうか、少し悩みはじめているの。

"The Disaster Artist"は是非日本でも公開されてほしい。 けど、"The Room"も併映しないとあんま意味ない、というかどっちみち絶対に"The Room"見たくなるからー


RSDのBlack Friday、会社終わってすぐにRough Tradeに走ったけど、ぜんぜんどうってことなかった。Black Fridayってやっぱりアメリカのもんなのね。

11.23.2017

[film] Justice League (2017)

19日の日曜日の夕方、BFIのIMAXで見ました。 疲れそうだったので2Dにした。
楽しみにしているひとはここから先、読まないほうが、かも。

"Batman v Superman: Dawn of Justice" (2016) からの続きで、アメリカはSupermanが死んじゃってみんな嘆いていて、そんななか、Steppenwolf ていう角が生えた乱暴者 - こないだのThorに出てきた奴とは別? と蠅みたいな蜻蛉みたいなやつの軍勢が現れてなんかの箱 - Mother Box - を集めていて、Wonder Womanの国に行って強奪して、半魚人の国に行って強奪して、あといっこ取られて結合されると地球はやばいことになるらしいのだが、対応する人手が足らない、と。

で、Batman (Ben Affleck)とWonder Woman (Gal Gadot)はよいとして、あと、半魚人のAquaman (Jason Momoa)と電撃小僧のFlash (Ezra Miller)とサイボーグのCyborg (Ray Fisher)が集まるのだが、やはりあいつがいないと、ということでClark Kentの墓を掘りかえして(...掘るのか)、死体を運んで、Mother Box入りの池に浸したらびっくり生き返るのだが、記憶がじゅうぶん戻っていなくて御機嫌ななめでやたら凶暴で - ほうら"Pet Sematary"になっちゃった、とか言われる - でもとにかくなんとかなって、箱はロシアの原発のところで結合されようとしていたのだが、みんなで力をあわせてやっつけるの。

とにかく人間ではない、地球のものではないSupermanの復活が鍵で、それができさえすればあとはなんとかなるに決まっているから決着までをどう料理するか、のような話しで、全体としては軽い - 少なくとも前作のねちねちえんえん陰鬱な喧嘩はやめていい加減にして、の重いトーンからは自由になっている。

ただひとりなんか重そうにしててだいじょうぶかな? になってしまったのがBatmanで、みんな人間じゃなかったり、加工したり変異したりしているなか、ひとりだけ重装備な素(す)の人間で、特技は? って聞かれて 「俺はRichなんだ」て答えるけど、しょうじきあんま笑えないとか。
このお話ってそもそもBatman起源なのに、ちょっとかわいそうかも。 Alfred (Jeremy Irons)の存在感も、Cyborgが出てきちゃったので微妙なところに来ちゃったふうだし。

というかんじなので、Wonder Womanひとりがんばって! になってしまうのはしょうがない。 あとは魚とガキとロボだし。

Supermanの復活のところ、 Lois Lane (Amy Adams)とMartha (Diane Lane)がカギになることはわかっていたのだが、もうちょっと感動的で強烈な目覚めとか - Lois Laneが赤子を抱えてて「あなたの子よ..」ていうとか - がないとPet Sematary疑惑は払拭できないよね。

あと、"Justice League"なんだけど、Justiceとは?みたいに前作に溢れかえっていた議題はなくて、いまはとにかく一大事なんだから死人だって起こすし来てくれやっつけてくれ、の一辺倒で、別にいいけど、この状態ならJusticeいらないよね、て思った。(そういう軽さはとても好きだけど)

SupermanとFlashの速さ対決もいいけど、QuicksilverとFlashだとどっちが速いかのほうが気になる。
でも速いひとって、どうして人格まで軽いふうになっちゃうのか?

「ドフトエスキー!」はよかった。 少なくとも「チェーホフ!」じゃないし。

[film] Professor Marston and the Wonder Women (2017)

16日、木曜日の晩、Piccadillyで見ました。 "Justice League"の前に見ておきたいな、と。

2017年は"Wonder Woman"の年だった、と後年に言われることになるであろう。
ちっとも収束する気配をみせないWeinsteinスキャンダルを挙げるまでもなく、ハラスメントだなんだ以前のところで、はぁ?あんたなに言ってんの?といった性をめぐる旧態依然とした腐れた意識のありようが冗談みたいなのまで含めて広範に暴かれて曝されていったのは良い悪いでいうと絶対に良いことで、それは第一次大戦の頃にアマゾンだかどっかの神さんだかの、ボンデージコスチュームを纏って鞭とか刀で武装したこの女性の顕現(あのテーマ音楽と一緒に)がぜったいどこかで影響しているのだとおもう。おもいたい。

それってなにがどうなって? ていうのは結構面白い社会学のテーマになると思うのだが。

実話の映画化。
前世紀の真ん中頃のアメリカで、Wonder Womanのコミック本は焚書扱いで排斥されていて、作者のWilliam Moulton Marston(Luke Evans)は教育委員会みたいなところに呼ばれ、「なんで彼女はこんな淫らな恰好で?」とか「なんで縛られなきゃいけないの?」とか尋問されてて、彼は委員連中の頭の堅さにうんざりしつつもなぜ、どうしてWonder Womanが生まれたのかを振り返りはじめるの。

20年代のアメリカ、Marstonは妻のElizabeth (Rebecca Hall)と一緒にHarvardのRadclife校で心理学を教えていて、そこのアシスタントの応募に手を挙げてきたのがOlive (Bella Heathcote)で、ウソ発見器を開発したり、人間のエモの行方とかそれが行動に及ぼす影響とかをDISC Theory - Dominance (D), Inducement (I), Submission (S), and Compliance (C) :  支配 - 誘発 - 降伏 - 従順 - ていう状態の遷移論で説明・解明しようとしていたWilliamは、Oliveに興味半分で「自分と寝たいか?」て聞いたらウソ発見器は"Yes"って言って、「Elizabethと寝たいか?」て聞いたらこれも"Yes"て言って、じゃあ、とオープンな3人はそれぞれを愛しあいながら一緒に暮らすようになる。 当時婚約者もいたOliveなのに当然結婚はなくなって、更には3人の関係が学内で噂になって大学を追い出されちゃったので、食い扶持を探していくことになって、そんななかでWonder Womanのアイデアが浮かんで、当時のDCコミックスに売り込みにいくの。

NYのGreenwich Village(Christopherのあたり?)のボンデージ・ショップのウィンドウをのぞいたWilliamの頭になにかが閃いて、そこにElizabethとOliveを連れていって、ついに後光に照らされたWonder Womanが現れるあたりはちょっと感動する。 ただそれがなんで感動を呼ぶのかをきちんと、論理的に説明することは(美とか倫理とかエロとか後ろめたさとか快楽とかいろいろ絡んでくるから?)けっこう面倒で、頭が痒くなったりもするので、いいや。

偉そうにふんぞり返っている男(共)を懲らしめるためにあのようないでたちのWonder Womanが現れて、それが喝采を呼んだ、ていう事実の背後には、(いかにもアメリカな)心理学者が自ら(研究テーマの追及も含めて)セットしたこういう愛の相克とか葛藤みたいのがあったのだ、ということ。
更にやっぱこういうのだめでしょ、みたいな規制が後付けで社会から入った、という点も含めておもしろいなー。
(日本は..  日本版の主題歌に勝手にあんな歌詞をつけちゃったりするところを見ると、こんなのよか相当病巣は根深いよね)

というわけで、やっぱし当面はWonder Womanやっちゃえ! でよいのだ、と思った。

[film] Susperia (1977)

14日、火曜日の晩、Barbicanで見ました。 上映後にDario ArgentoとのQ&Aつき。

こないだの夏にNYに行ったとき、Metrographでこれの"uncut Italian 35mm print"ていうのの上映をやっていて、でもどの回もぱんぱんに売り切れていた。
これはおそらくそっちのではなくて、4Kリストア版のリリースを記念したもの。

上映前の挨拶にもDario Argentoさんは登場して、もっとゴスでおっかなそうな人かと思ったら上機嫌なイタリアのおじいさんのようなかんじ。

"Susperia"は70年代の公開時にはひとりでは見てはいけないことになっていたので、とうぜん見ていなくて、見たのは割と最近のことで、でも内容はもう憶えていないの。 怖すぎるやつはすぐに頭がどこかに追いやってアワと消えてしまう。

ひどい土砂降りの晩、NYからイタリアのバレエ学校にやってきたSuzy (Jessica Harper)が経験するでろでろの悪夢みたいな本当のことみたいな - でも眠すぎてよくわかんないとか、あんたらよってたかって変だし怪しいし、いい加減にして、とか。

かっ切る、ぶっ刺す、ワイヤーがんじ絡めとか蛆虫ぼろぼろとか、あんま生理的に見たくない経験したくないのばっかりがやってきて、決して美しいとは言わないけど、やたらドラマチックに激流奔流となって襲ってきて情け容赦がない、その怒涛の誰も彼もの傷まみれっぷりに驚嘆させられるのと、悪魔だか魔女だかしらんが誰がそんなのを仕掛けてくるのか、というのもあるけど、それ以上に、とにかく恐怖というのはこんなふうに次から次へとどこかから湧いてきて溺れそうになる、これってなによ? みたいになってくるあたりもすごいねえ、だった。 あの圧倒的な赤が、なんであんなにも毒々しくやばく怖く見えてしまうのはなんでか? ってこと。

4Kで画面が細部まで鮮やかでゴージャスなのは言うまでもないのだが、音が爆音でもなんでもないのにふつうにぐわんぐわんに耳に刺さってくるので、これも逃げようがない拷問みたいななんかだねえ、て痺れた。

上映後のQ&Aはいろんな話が出ておもしろかった。
Goblinの音については、ギリシャのブズーキの音をなんとしても入れたかったので、そこだけは(Goblinに)明確に指示をした、とか。
強くて負けずに戦う女性が好き - John Fordの映画に出てくる女性とか - なのでSuzyはそのイメージである、とか - イタリアによくいるマンマには勝てない男のタイプ、よね。
あとは、R.W. Fassbinderとの交流のこととか。 Londonでよく一緒に遊んでいたんだって。

血まみれのオルゴール人形のあの有名なビジュアルはあなたが考えたものですか? という質問に、あれは映画会社が勝手に持ってきたもので一切関係ない、だいいち、あの赤は自分の赤ではないじゃろ、と力強く断言したところで、場内は一瞬静まって、その後すごいー!ってみんな拍手した。先生のサイン入りポスターがもらえるBest Questionに選ばれたのはこれでした。

来年のリメイクのもちょこちょこ相談を受けているって。

これの前日 - 13日にBFIの"Tears and Laughter: Women in Japanese Melodrama"ていう特集で、『青空娘』 (1957)を見た。
35mm版の上映。 英語題は"The Blue Sky Maiden"。
ぜんぜん違うけど、若い娘がひとりで出てきて意地悪で容赦ない責め苦に曝される、ていう点では似てるかも。 こっちは赤じゃなくて青だけど。

日本のTVも雑誌も新聞も、ほぼなーんも見なくなっている(見る気にもならねえや)ので、なんだかとっても新鮮で懐かしいかんじがした。

[music] Chris Thile and Brad Mehldau

12日の晩、Barbicanで見て聴きました。 たまにはこういうのも行く。
実は知らなかったのだが、なんとかJazz Festivalていうのの一環で、彼らのUKでのライブはここだけだって。

Brad Mehldauさんを見るのは久々で、最後に見たのは彼が飛び入りしたJon Brionのライブで、あれはいつのどこだったかしらん?

Chris ThileさんがいるPunch Brothersは一度ライブ見てみたくて、でもいつもチケット売り切れちゃうので歯ぎしりしてた。Blue Note東京のときはJohn Caleの公演と近く過ぎてJohn Caleのほうを取ったのだった。

ふたりのデュオのCDは、渡英引っ越しお片付けのBGMになると思って出ていたのをすぐ買って流してみたのだが、音楽とは違って片付けはぜんぜんスムーズに流れてくれなくて、途中でもっとぶっ壊してくれる系の音にスイッチしてしまったことを思い出す。

ステージ上にはピアノとマイク2つだけ。 Chris Thileさんはマンドリン一本と声、だけ。

ちりちりぬいぬい、素材と色と太さの異なる糸を手繰って、太さも形状も異なる編み針を使って、一枚のでっかい織物をあらゆる方角から織りあげていくかんじ。或は別々の布をパンケーキみたいに重ねていくかんじ。或は海と砂みたいな... とかきりがない。
要は気持ちよいしおいしそうだしいろいろたまんない、てことよ。

ピアノの一音もマンドリンの一音も、異なる弦楽器から放たれた音波が、どこでどう撚りあわさってあんなふうな気持ちよい波になっちゃうのかは謎で、でもそんなこと言ったら音楽なんてぜんぶそうなのだろうけど、このふたりの弦のつまみあい、ひっかきあいは気持ちよすぎる。 猫だったらずっとごろごろ喉を鳴らしている状態。

Chris Thileさんのヴォーカルも素敵で、でもどの(歌詞つきの)曲にも声を被せるかというとそうではなくで、Fiona Appleの"Fast As You Can"は歌うけど、Eliott Smithの"Independence Day"は歌わない、とか(どちらもLate 90'sの名曲だねえ、としみじみ)。 ふたりが声を重ねたNeil Youngの"Tell Me Why"はすばらしかったねえ。 他のカバーだと、Gillian Welchの"Scarlet Town"とか。

このふたりが技術的に卓越しているのは誰もがじゅうぶんわかっていて、そういうのの応酬にしてしまうこともいくらでもできるのだろうが、ライブでは歌のひだひだの先にはみでた糸くずを拾いあげて紡いでその先の模様を、或は本を編み直してその先のお話しを聞かせてくれる、そういう方向に自分たちで演奏しながら耳を傾けているようだった。

ああこのままこのブランケットにくるまって寝たいよう(週末が行ってしまうようー)、となったところで終わった。 アンコールやって!の騒ぎは当然。2回でてきた。

11.19.2017

[film] The Florida Project (2017)

12日、日曜日の午後に見ました。
見れずに悔しい思いをした(まだ見れてない)”Tangerine” (2015)のSean Bakerの新作。
予告が流れ始めた時からこれはぜったい見たい、と思っていた。

Floridaのディズニーランドがある一帯の外れ、観光と住宅がまだらになってどんより寂れた一画の安モーテル(長期滞在可)に長屋みたいにいろんな家族がわいわい暮らしていて、そこの修繕管理人がBobby (Willem Dafoe)で、そこに暮らす若いシングルマザーのHalley (Bria Vinaite)と6歳のMoonee (Brooklynn Prince)がいて、彼女が遊び仲間の男の子Scootyと女の子Jancey (Valeria Cotto)と過ごしたひと夏のいろんなこと。

最初のほうは悪ガキトリオがかんかん照りのフロリダの陽気のなか、楽しそうに行進しながらかわいいイタズラとかローゼキ(建物の設備室に入って電源落とすとか)とかソフトクリーム貰ったりとかを長屋周辺の人々とか人のいいBobby相手に繰り広げてきゃーきゃーわーわーはしゃぎまくる、それだけなのだが、それで十分おもしろいの。 そうやって遊んでいくなか、冒険に出かけた廃屋で火遊びをしたらそこが火事になって、当然しらばっくれるのだがScootyのママはあいつらのせいだって、Mooneeたちと遊びに出ることを禁じて、それまでは仲よくつるんで夜遊びしていたHalleyとも縁きって、猛り狂ったHalleyが殴りこんでいったり、道端で観光客向けに香水売ってたふたりの行商もどん詰まって、家賃が払えなくなって他に行ってくれと言われたり、他の住民からは子供がいるのにやばいことやってるって通報されて取り調べられて、雪だるま式に悲惨になっていくの。

でも、こんなふうにHalleyはひとり満身創痍なのだけど、Halley - Moonee組は変わらず最強でキュートだし、Mooneeの笑顔とキューピー・ボディに勝てる奴なんてひとりもいないの。

ああこれどうなっちゃうのかしら、とはらはらしていたらラストはあんなふうになる。 そっちかー! と思ったけど考えてみればやっぱこれしかないよなー、って感心した。
どっちにしたってガキ共は最強でそのままどこまでもぶっとんでいってほしい。
そしてHalley負けるな! って。 彼女を見ていてKatell Quillévéréの”Suzanne” (2013)のSuzanne
を思い出したわ。

誰もが自分にとっての夏休みの冒険とか、近所にいたおっかないおばちゃんとか気のいいおじさんのことを思いだすことでしょう。 どこかしら『長屋紳士録』 (1947)のような感じとか。それがフロリダのあんな角度からあんなきらきらしたアメリカの駄菓子みたいな意匠で現れるとは思わなかった、ていう嬉しさもあったねえ。

今の日本の子供達のことを憂うのは杞憂、かしらん。 

11.17.2017

[film] The Killing of a Sacred Deer (2017)

11日の土曜日の午後、SOHOのCurzonで見ました。
"The Lobster" (2015)の監督Yorgos Lanthimosの新作。
"The Lobster"って、なかなか割れない噛みきれないロブスターみたいな変な映画だったが、これも相当変てこで、おもしろいおもしろくないでいうと、おもしろい、のかなあ - とにかく画面に釘づけにされ続けたことは確か。

Steven(Colin Farrell)は優秀で高名な心臓外科医で、妻のAnna(Nicole Kidman)はなんたってニコールだし、娘のKimも息子のBobも美しくてかわいいし一軒家もすばらしいし、そんな彼がMartin (Barry Keoghan)ていうちょっと変わったふうの若者 - 挙動からすると神経発達症群-自閉症のかんじ - と頻繁に会ってDinerで食事したり、腕時計の贈り物をあげたり、家に呼んで食事したりもしている。 MartinはStevenになついて昼間もしょっちゅう病院に会いに来たりして、Stevenは嫌がったり叱ったりすることなく、Martinの言いなりになっているようにも見えて、彼の地位とか立場とかからすると明らかにおかしいような。

それってどうして? 過去になにがあったの? ていう話が亡くなったMartinの父とStevenの仕事のあいだで明らかになっていくのと、Bobがある日いきなり腰から下が動かなくなり、やがて食べ物をいっさい受けつけなくなる - 精密検査してもどこにもおかしなところは見つからない - ということになり、間を暫く置いて今度はKimにも同じことが起こって、これはいったいどういうことだ? になる。
そうなったとき、家族で団結してこれに抗する、みたいなことにはならずに、StevenはStevenで、AnnaはAnnaで、KimはMartinと恋におちてたり、てんでばらばらで、でも事態は進行していって、やがて。

"The Lobster"の世界と同じように、これはそういう世界のお話しなのだと思えばよいだけのこと、なのだがロブスターになっちゃう話ほど荒唐無稽ではない、たんなる超常現象と呼べないこともないような、それを切り取るときのホットなところとクールなところ、気持ちわるいところとそうでないところ、どうにかなりそうなとことそうでないところ、のバランスというか線の引き方がうまい、ということではないだろうか。

ホラーだったら「なんじゃこれ!」とか「ぎゃーっ!」てなるところを誰もそういう想定された動きをしない、気がついたときにはもう起こっている、あるいは誰かがなんかやっていてどうすることもできない。 これがもたらす冷たく凍った世界の感触は、いまの我々の世界と地続きのそれで、"The Lobster"をドライブしていたのもそんなような動物的に神経反射してしまう非情ななにかで。

"The Beguiled"(2017) に続いてColin FarrellとNicole Kidmanが対峙して睨み合ってColin Farrellがぐさぐさにされるやつかと思ったらそんなでもなかった。でもNicoleの凍った表情と演技はそれだけでじゅうぶんおっかないったら。

"Dunkirk" (2017) でCillian Murphyにあっさり殺されてしまったMartin役のBarry Keoghanの不気味さ、異様さが際立ってすごい(スパゲッティ..)。 漂白されたようなハイソな家庭内に置かれると特に際立つ。 彼、これからPhilip Seymour Hoffmanみたいになっていくのではないかしら。

このお話しはStevenとAnnaの視点が主だったけど、Kimの視点で見たらどうなったか、ていうのは見てみたい。変てこ青春映画になったに違いない。

これの後に"Paddington 2"を見たので、鹿 → 熊になった。

[film] Paddington 2 (2017)

こっちから先に書く。
11日、土曜日の夕方、Piccadillyで見ました。

最初に"Paddington" (2014)の予告を見たときのなんじゃこれはどうしてくれよう、なかんじは今だにはっきりと思い出すことができて、でもそれは映画を見てみる(NYでみたの)と、なんか悪くねえじゃねえか、やるな熊公、になって、今回のでは予告からきゅうきゅうで、早く会いたくてたまらなくなったので公開翌日に見にいった。 これと同じ魔法がこないだ予告が出たPeter Rabbitでも起こるのだろうか? ダンボはどうか?(ダンボ、微妙かもな)

とにかくPaddingtonくんはロンドンの暮らしにもじゅうぶん馴染んで近所に友達もいっぱいできて(いいなあ...) 幸せに暮らしているようなのだが、ペルーに残してきた叔母さんのことはいつも気がかりで、バイト先の骨董品屋で見つけたLondonの飛び出す絵本がすばらしいのでこれを贈ろう、てがんばってお金を貯め始めるのだが、ある日家族みんなで出かけた公園の市で見世物をやっている昔はすごかったらしいが今はドッグフードのCMに出たりしている俳優のPhoenix Buchanan (Hugh Grant)に引っかかって、彼に絵本のことを話したら目つきが変わるの。

で、絵本は見事に盗まれちゃって、それを追っかけていたPaddingtonは牢屋送りになって、牢屋には主みたいにおっかないKnuckles (Brendan Gleeson)がいて食事を作っているのだが、誰もがおっかないから不味いとかはっきり言えなくて、でもPaddingtonはやっぱり言っちゃって、とか、どうやってそこから抜け出すのか、どうやって絵本を取り戻して汚名を晴らすことができるのか、叔母さんの誕生日はどうする?  とか。

で、そこにいつもの家族 - Henry (Hugh Bonneville)とMary (Sally Hawkins)に子供ふたり - がみっちり絡んできて、いつものことながら碌なことにはならないのだが、今回は牢屋の面々もろくでなしばっかりで、でもそうやって見渡してみると悪役も含めてぱりっとしたまともな奴なんてひとりもいないの。 でもそういうなかでPaddingtonのじたばたとか奮闘は活きてきて、今回のはその辺のスクリューボール(毛玉)展開や追っかけっこがとにかく楽しい。 冒頭のペルー、ロンドンの街中(名所)、牢獄、列車、飛行機、水中、などなど。
昔の邦題だったら 『パディントンの底抜け大脱獄』 とかつけるな。

とにかくあの、ちょっと間抜けで、でも憎めないあの熊がセンターにいる、それで大抵のことはなんとかなること(魔法)が明らかになってしまったので、こいつは強いと思う。 最強のファミリー映画で、ロンドン映画で、でもそれは世界のなかのロンドンなのだし、ヒトだろうがクマだろうがなのだし、あの世界で暮したいよう、て思った。 でもあんな世界にも牢獄はあって、裁判もあるのな。

誘拐 → 脱獄 ときたので次はなにかな、Home Aloneか、珍道中ものか。  “Ted vs Paddington” とか。

マーマレードがすごく食べたくなって困るので、そうなりそうなひとはお気に入りの瓶とパンを持っていったほうがいいよ。

[film] Murder on the Orient Express (2017)

6日の月曜日の晩、Piccadillyのシネコンで見ました。

Kenneth Branagh監督・主演によるアガサ・クリスティーのミステリー。原作は小学生の頃に読んだけど、これっぽっちも憶えていないわ。
英国では宣伝がなかなかすごくて、公開後も映画館ではこの映画とどういう関係があるのかわからないのだが関係しているらしいロレアルのメイクアップ製品のCMがずっと流れている。

ポアロというと子供の頃に見た - 78年の"Death on the Nile" - 『ナイル殺人事件』 - のPeter Ustinovのイメージが強くて、それと比べるとこのKenneth Branaghてナルってるし、かっこよすぎるんじゃないか、て少し思った。ここはGary Oldmanのジョージ・スマイリーに感じた違和とおなじで、要はでっぷり太って哀れをさそうかんじのおっさんが刃物のように明晰な推理をかますところがかっこよいんじゃんと思うのだが、でもそこは個人の好み、ということなのか。

オールスターキャストが豪華列車に連なってて、隅々までものすごいお金かけてて、こういうの失敗しがちよね、と思ったのだが、なんか悪くなかった。

冒頭のイスタンブールでのエピソードから、銭湯みたいにスケールでっかい画面どーん、とごちゃごちゃした密室との対比とか切り替わりとか列車内の人物の移動や動きがところどころ面白くて(大半はCGなんだろうけど)、大画面の映画を見ているかんじがとってもした。
Wes Andersonの列車もの - "The Darjeeling Limited" (2007)とか"The Grand Budapest Hotel" (2014)とか - にあった走り続ける列車の細長い管のなかではどんなことだって起こりうる、ていうあのノンストップでがたがた動いていく感覚 - 自分も列車に乗っているかのような - がやってくる。 列車を撮ると割とそうなっちゃうのかもしれないけど。

ストーリーはいいよね。 いろんな乗客 - Judi DenchとかMichelle PfeifferとかDaisy Ridley とかPenélope CruzとかWillem Dafoeとか、みんなお金はありそうだけど癖も事情もありそうでなんかやっていたり知っていたりしそう - が乗り合わせた豪華列車内で、いちばんやくざで自分でも狙われているって言っていた男(Johnny Depp)が個室の寝台でわかりやすくめった刺しにされて殺されていた。列車は雪山で雪崩にあって立ち往生していて誰も逃げることはできないし、誰ひとり逃げる気配は見せない。 犯人はだあれ?

で、名探偵ポアロはひとりひとりに聞き取りをしていって、その過程でいろいろ明らかになったりきな臭くなっていくところはあるものの、でも最後にじゃじゃーん、と驚きの、驚異のどんでんとか慟哭の修羅場とか、そういうのが現れるわけではないので、そこはそういうドラマ、として見たほうがよくて、でもだからといってつまんないかというと、まったくそういうところはない。 最後に乗客全員を最後の晩餐のように横にずらーっと並べて(列車の縦一本の流れが横並びに転換・展開されるおもしろさ)推理を述べるところはわかっていてもぞくぞくくるし。

あと、とにかく俳優さんたちが全員じゅうぶん巧すぎるくらい巧くて隙も破綻もなくて、それが故に、というのもあるかも。 このストーリーの場合は特に。

とにかくでっかい画面ででっかい音で見るのがおすすめよ。
ちょっとだけ観光した気分にもなれる。 たぶん。

11.15.2017

[film] Don't Break Down: A Film About Jawbreaker (2017)

3日、金曜日の晩、Hackneyていうとこにあるシネコンで見ました。

9月からDoc'n Roll Film Festivalていう、音楽ドキュメンタリーを中心とした映画祭がLondonのいくつかの映画館でてんてんと行われていて、ミュージシャンにフォーカスしたものだけでなく、場所とかムーブメントとかを取り上げたもの、いろいろあって、Richard Thompsonの、Tangerine Dreamの、Conny Plankの、Bill Frisellの、見たいのはいっぱいあったのだが、いまのとこ、この1本を除いてぜんめつ状態。

http://www.docnrollfestival.com/

会場のあるHackneyは地下鉄ではなくて地上の電車で行くようなとこで、こないだのLFFのときに到達できなくて見逃してしまった怨念の地でもあるのだが、仕事の飲み会を途中で抜けてなんとかたどり着くことができた。

こないだ再結成ライブをした(ライブ映像見てない)JawbreakerのドキュメンタリーのUKプレミア。
こんな遠くの場所で21時開始なので満席にはなっていなかった。
オープニングの挨拶で主催者側のひとが、Jawbreakerの歌詞のユニークさに触れようと"Boxcar"の"My enemies are all too familiar 〜"のくだりを言おうとして上手く言えなくなってファンの子に助けてもらう、という微笑ましい場面があった。

最初のほうでBilly Joe Armstrongが当然のような顔して「JawbreakerはNirvanaとGreen Dayの間のMissing Linkだ」みたいなことをいうのでなんだよこいつ、とか思う(なんでいらっとしたのか考えてみよう)のだがそれはそれ。

映画はバンドの結成からの歴史振り返りをメンバー、関係者やファンのコメントと共に紹介していくところと、解散以来久々に3人がスタジオに集まってこの映画のためと思われるインタビューをしながら、はじめは堅かったBlake氏の表情がだんだんに変わっていって、「しょーがねえなーやらせだろこれ」という顔をしつつも楽器を手にしてがしゃがしゃ始めるところまで、の2トラック構成。

コメントを寄せるのは先のBilly Joe Armstrongの他、Steve Albini、(評論本がおもしろかった)Jessica Hopper、That DogのAnna Waronker & Rachel Haden、などなど。 個人的にはThat Dogのふたりが仲良く並んでいるところが見れたから、それだけでこの映画は ◯ なの(..そこか)。

Jawbreakerが90年代、コマーシャルなところから離れた、とてもユニークな位置にあったバンドで、それ故にいまだに根強いファンを持っていることは十分にわかるのだが、そんなのは誰もが知っている当たり前の話であって、いちばん掘り下げて欲しかったのは、Blake Schwarzenbachのちょっとひねた、でもリリカルな詞が持つ世界観とか、この後のJets to Brazilにも繋がる独特のメロを生むソングライティングの秘密だったりするのだが、そこは本人も余り話さなかったのかしら。 例えば影響を与えた本とか詩とか、本棚にレコ棚を映してくれるだけでもよかったのになー。

でもファンへの愛に溢れた、贈り物感たっぷりのよいドキュメンタリーだった。 この後に本当にバンドが動きだしたことを知っているだけに明かりが灯るかんじ。

エンドロールでいろんなバンドがJawbreakerのカバーをやっていくのだが、ラストのJulien Bakerさんによる"Accident Prone"のピアノ弾き語りがとってもよいの。

上映後、監督とSkypeでのQ&Aがあったのだが、ちゃんと帰れるか心配だったので途中で抜けた。
でも、2018年はファンのみんなにとってとてもよい年になるはずだ、と断言していた。
なので来年いちねんはなんとか生き延びたいものだわ。

11.14.2017

[television] Howards End (2017)

1日の水曜日の晩、BFIで見ました。
これは劇場公開される映画ではなくて、BBCのTVミニシリーズの最初のエピソード1時間分のPreview(最初の放映は11/12の日曜日で、見逃した..)で、上映後に脚本のKenneth Lonergan、監督のHettie Macdonald(女性)、プロデューサー、主演女優ふたり、などが並ぶQ&Aがあった。

普段こういうTVドラマって見たいなーと思いつつぜんぜん見れなくて、でもなんでこれを見たかというと、ついこないだリストアされてリバイバルされた"Howards End" (1992)との違いを見たい、というのもあるし、あとはKenneth Lonerganさんの実物を見たい、ていうのとか。

全4エピソードの最初のは中心となる2つの一族、3つの階級の紹介をしつつも序章としてMargaret Schlegel (Hayley Atwell)とMrs. Wilcox (Julia Ormond)の出会いとか、MargaretとHelen(Philippa Coulthard)の姉妹のこととか、HelenとPaul Wilcox (Jonah Hauer-King)の婚約騒動とか、それにふりまわされるAunt Juley (Tracey Ullman)の勇姿とか、Leonard Bast (Joseph Quinn)のコンサートと傘のエピソードとか、1時間あっという間でとってもおもしろかった。最近のTVドラマのレベルは高い、って本当なんだねえ。

多様な登場人物がそれぞれの立場立ち位置からいろんなことを好き勝手に言っているようで、でも同時に全体を俯瞰したり整理したりしているようなかたちで会話が流れていく(流れていったように見えた)不思議、というのは上映後のQ&AでKenneth Lonergan脚本に対する驚異・賞賛として出ていたが、彼によると、結構いじったように見える部分でもよく見れば原作に同じ台詞があったりする - いろいろ作ろうと思っても最終的には原作のに還っていった - のだという。(なのでこれの脚本化はとてもExcitingで勉強になった、と)

92年の映画版も決して嫌いではないのだが、TV版を見てしまうと、やや間延びした印象 - 映画であるが故の? 気のせいかもだけど - があるのと、Emma ThompsonとHelena Bonham Carterがあんま姉妹には見えないのに対して、このTV版のSchlegel姉妹は、ほんとに姉妹みたいでやりとりがちゃきちゃきしていて楽しいのと、キャストが全体に若くぱりぱりしている気がして、それはWilcox家のほうとSchlegel家のほう、どっちの一族に重きを置くかにもよるのかもしれないが、TV版は何かが起こりそうな雰囲気がぷんぷんで、TVの連続ドラマなのだからそれはそっちの方がよいのかもなー、て思った。

(ちなみに、客席側には若いキャストの子たちもみんな座っていて、プロデューサーはこの子らは将来みんな絶対スターになるから憶えておくようにね! て言ってた)

もちろんまだ第一話しか見ていなくて、エピソードはロンドンの都会が中心で、これがこの後、時代の変遷とか階級意識の揺れとかうねりのなかでどう移ろっていくのか、Howards Endの田舎はどんな変遷を映しだしていくのか、とっても楽しみなのだが、日曜の晩(21:00〜)のTV、見れたらいいなー。むずかしいよなー。

ところで、大英博物館の前(たぶん)を通っていくシーンで日本の着物姿の女性2人とすれ違うとこがあるのだが、ああいうのって昔はあったの?

11.13.2017

[film] Sea Sorrow (2017)

また少し戻る。
10月30日の月曜日の夕方、BFIで見ました。 これ一回きりの上映で、上映後に監督のVanessa RedgraveさんのQ&Aつき。

どうでもよい話しなのだが、28日の土曜日に”Blade Runner 2049”を見て、ここに出てくるHarrison Fordが翌29日の”Joan Didion: The Center will not Hold”に出ているのを見て、更にここ(Broadway舞台版の"The Year of Magical Thinking")に出てくるVanessa Redgraveさんが、翌30日のこれの監督であるという、なんか日々繋がって面白かった、ていうただの偶然、があった。 それだけ。

60年代からアクティビストとしての活動もしてきているVanessa Redgraveさんが最近の欧州の難民問題 - 特に子供の難民問題について取りあげたドキュメンタリーで、英国への受入窓口として設営されたフランスのCalaisの惨状とか、そこに命からがら逃げてくるまでの、難民ひとりひとりの苦労とかキャンプで過ごす日々とか、英国内のデモでのスピーチ(Emma Thompson, etc.)、などなどをインタビュー、ニュース映像などを繋ぎながら綴る。 更にはなぜ彼女(たち)がこの問題を取り上げ、解決しなければならないのか、という観点から、監督である彼女自身が先の大戦時に国内で難民孤児状態に置かれたこと、同様にヨーロッパ - 特に東欧やドイツで子供の頃、家族から切り離されて辛い思いをした人々の記憶が重ねられ、最後にはシェイクスピアの「テンペスト」からプロスペロ—が娘ミランダにミラノから追放されて孤島に流された際の辛い漂流(Sea Sorrow)を回想するくだりをRalph Fiennesのプロスペローに演じさせて、つまり、ヨーロッパの民である我々はこの問題を原体験のような形で共有、共感できるはずだし、解決することができるのではないか、という。

まず、こういうことは知らないよりは(きちんとソースは確認した上で、だけど)知っていたほうがよいのだし、80歳になって初めてカメラをとってこの問題を伝えねばと思ったVanessa Redgraveさん - 壇上でスニーカーがかわいかった - の切迫感と熱意はきちんと受けとめたい。 形式的にはドキュメンタリーと呼べるほど整ったものではなくて、とりあえず手元にある素材、手に入る素材、手伝ってくれるひとを可能な限り使って束ねたエッセイのようなものになっているが、それでも見てよかった、と思った。

Calaisの難民キャンプは昨年10月に閉鎖されてしまったのだが、それでも行き場を失った難民はそこのジャングルで未だにホームレス状態のまま暮らしていて、なんとかしなければ、というのは先のBilly Braggさんのライブでも触れられていた。なんとかしたいな。

という映画の後のQ&Aには、Vanessa Redgraveさんの他に、映画にも出てきた政治家のLord Alf Dubsも参加したのだが、政治討論会どまんなか、のような内容になってしまった。 つまり、いま市民の我々にすぐできることは何か(→ 電話でもFaxでも)、とか、国や組織はどう動くべきなのかとか、そういうこと。 あと、この映画に対する米国の反応はどうか? とか - NYFFでも上映されたようなのだが、反応は微妙だったと。 
討論は時間切れで終わってしまったが、最後に客席の誰かが言った、「例えば自分の子供がそういう状態に置かれていたらどういう行動を取るか考えてみよう」 - そういう問題なのだと思った。

日本ではこの問題、あまり報じられていないよね。 昔からそういうとこあるけど、自分達さえ面白おかしければ、自分達の子供さえよければ、それでいい - 世界でなにが起こっていても関係ない - みたいなメディアのありよう、心の底からクソだとおもう。 こんな壁好きの連中が日本人すごいって言いつつヘイトや排外を垂れ流しているんだからしみじみ吐き気がする。 なにが「存在感」だよ。

11.12.2017

[music] Billy Bragg

7日の火曜日、冷たい雨の晩、Islington Assembly Hall でみました。

Billy Braggは”Don’t Try This at Home”の後のツアーでのクアトロとか00年代に何度かNYで集会みたいなとこでも見ているのだが、バンドで最後に見たのは02年くらい、Ian McLaganがオルガンにいたときとか。
Londonのは6日と7日の2日間で当然の、あっという間のSold Out。

まだ体調がいまいちだったので前座は諦めて8:50くらいに着いたら3分くらいで始まった。
バンドではないソロで、曲によってC.J. HillmanさんのギターとかPedal steelが加わる。

最初から”Sexuality” 〜 “The Warmest Room”だったのであーらおもしろ、だったのだが、これはマクラみたいなもので、3曲めのWoody Guthrieのカバーから、この曲が80年前に書かれたものだなんて信じられないよね、とお話しが始まり、キャリア初期の曲をやる - 緑色のカブトムシギターを手にする - ときなんかは、2016年のBrexitとトランプは余りに衝撃でなにかあるごとにFacebookにコメントを書いていたのだが、ある日ちょっと待てよ、自分が音楽を始めたのはこういうことを伝えるためだったんだろうが! と気付いてFacebookにあれこれ書くのはやめた、と言って”Accident Waiting Happen”を。

昔からであるが、彼の曲間のお話しはそこらの政治演説よか断然おもしろくてためになってしみじみ気付かされてくれて、これじゃSold Outも当然よね、だった。テーマはBrexitは勿論、メイにトランプにLGBTにAntifaにClimate changeに難民支援にデモに三文メディアにどこまでも広がっていって、それらを自分の歌に盛って自在に替え歌にしていく。 そういえば00年代のときはAnti-Bush全開だったなー、とか。

“Solidarity stands”、”Solidarity exists”、“Empathy”といった言葉が頻繁に飛んできて、音楽は社会を変えることができる、自分にとって音楽はIdeaだ、自分はこれを使って戦っていく、間違っても自分に期待しないでほしい、僕は君たちのAbilityを信じる、共にそれぞれのやり方で、自分の場所で戦うべきなんだ! と言ってラストの”I Keep Faith” 〜  “There is Power in a Union”になだれこんでいく様は圧巻としか言いようがなくて、とにかく彼はこういったことを30年以上ずっと言い続けているんだからさ。

こういう固めのばかりではなくて、”Greetings to the New Brunette”のときには、C.J. Hillmanを指差して、彼はこれから4分間、Johnny Marrになります! と言い、つまり俺はCraig Gannonになるわけだが … いやそんなの誰も知らないか、と自分で突っ込むとフロアからは「俺はしってるぞ」「知ってるよ」という声が次々あがるという。(知ってるよもちろん)

アンコールは1回、4曲。
“Full English Brexit”で自分たちの足下を照らして、“The Times They Are A-Changin' Back”でDylanを借りつつトランプを強烈に皮肉ってから、替え歌満載の”Waiting for the Great Leap Forwards”で大合唱のうねりを作って、そのうねりが最後の”A New England”で大爆発する。彼がなんもしなくても怒号のように響きわたる声声声。
85年にKirsty MacCollのバージョンにときめいてからようやくこんなところまできた。この歌をこんなふうに大合唱するために自分は英国に来たんだと思った。

ぜんぶで2時間たっぷり。 “Jeane”も聴きたかったなー。

11.11.2017

[art] Christian Dior, Couturier du rêve

5日、日曜日の昼、パリ装飾美術館 - Musée des Arts Décoratifs - でChristian Diorの創業70周年を記念するレトロスペクティヴ - Christian Dior, Couturier du rêve -「クリスチャン・ディオール、夢のクチュリエ展」。前売りはもう売り切れていたので10:20くらいに並んだ(オープンは11時)。陽は射していたがきんきんに冷えた朝で、その時間でも十分に列は延びていて何度か凍えて泣きそうになったが2時間後の12:30くらいに漸く入れた。

ふだんはまったくファッションとか装いとかに興味ないし同じ格好の繰り返しだしブチックをまわったこともセールに並んだこともないし、21世紀に入ってからのトレンドとかにはちーっとも興味が湧かないのだが、こういう展示になると狂喜して並んで溜息ついてうっとりしてこのお花畑の中でしにたい、とか断言したくなるのはやはり80年代に「ファッション通信」を毎週正座して見て、Hi Fashionを購読していたからだろうか、と少し思った。

階段を昇ってからDiorの人と時代、みたいな紹介があり、その中でその時々のアート - Leonor FiniとかPicassoとかMatisseとかCocteauとかMan Rayとかの本物が並んでいて、写真の領域ではAvedonとかPennとかSnowdonとかBeatonとか大御所たちがとらえた決定版Dior、のようなファッション写真とその実物(服)があり、カラーっていうテーマで色別のミニチュアやデッサンも含めたあらゆるシェイプの色もの(きれいでびっくりよ)がぐちゃーっと並び、同様に柄のテーマ別のがあり、香りがありメイクがあり、雑誌の表紙になったDiorがタイルのように並べられ、あーすごかったねえ、と下に降りたらそこまでは折り返しと知って背筋が寒くなり、館の反対側では、Yves Saint-Laurent 〜 Marc Bohan 〜 Gianfranco Ferré 〜 John Galliano 〜 Raf Simons 〜 Maria Grazia Chiuriまで、デザイナー別の展示があり、John Gallianoはほんとに大バカ野郎だったねえ、としみじみ(だってさー..)し、それぞれの時代を彩った泣く子も黙るBest of the Bestの数々が競うようにこれでもかこれでもかと、あたしを見て! とか、これはどう? とか言ってくるので途方にくれてどうしろってんだ、って泣きそうになった。

これまでNYとLondonで、こういうファッションデザイナーの展示は結構見てきた方だと思うのだが、ここまで物量とエネルギーで圧倒させられるものはなかったように思う。 なにがそうさせるのか? だって綺麗なことってこんなにも綺麗で優雅でかっこいいのだから文句ないでしょなにが不満なのさ? って服のピースや袖口や端切れの肌理やこまこました細部までぜんぶが言ってくるの。
ブランド - メゾン - クチュリエ、こういうの威力っていうのはこんなふうに人を襲ってめろめろの骨抜きにして財布をからっぽにしてしまうのねおそろしやー だった。けどあまり「帝国」みたいな「着れ」ていうような威圧感は不思議となくて軽やかにこちょこちょくすぐってくるかんじ(だからやばいのか)。最後の最後のほうで女性の職人さんがカバン製作の実演をしてて、そこだけ少し和めた。ああロボじゃなくてヒトが作っているんだねえ、とか。

70年のご祝儀でカタログ買った。服のほうは買うことも着ることもこの先ないだろうが。


これ以外の美術館はルーブル、ピカソ、オルセーに行った。ルーブルとオルセーは実はきちんと見てこなかったスタンダードを凝視することに徹して、ピカソ美術館の”Picasso 1932. Année érotique”は1932年の相当とっ散らかって、でも勢いに溢れていた頃のピカソを月ごとに追っていて面白かった。

[dance] Balanchine / Teshigawara / Bausch

4日 - 5日の週末にパリに行ってきた。
ものすごい、なにがなんでもの用事とか演し物があったから、というわけではなくて、パリなんて電車で2時間なんだからしょっちゅう行けるのだし、行ったら自在に動けるようにはなっておきたいよね、くらいの軽い動機だったのだが、実際に行くとなるとあれもこれも入れたくなって結果は週末の休みとはとても呼べないいつものじたばたになってしょうもなかった。
結局まだ凱旋門も見てないしエッフェル塔も遠くからしか見てないありさまなのよ。

4日の晩はまたガルニエ宮でオペラ座バレエをやっていたので見る。今回もまたモダンで、そろそろクラシックのほうも見たいのだが、まだ見れるところで見れるのを見ておく、でよいか、と。

演目は3つ。 BalanchineとTeshigawaraとBausch。
この中だと、やはりBauschの「春の祭典」を見たかった。

George Balanchine - ”Agon”

1957年、BalanchineがNew York City Balletに振りつけたピース。 音楽はStravinsky
BalancineのはNYで結構見てきた方だと思っていたのだが、これはたぶん見ていない。彼のアンサンブルものの中では結構アクロバティックで複雑なほうだと思うのだがオペラ座バレエのダンサーは軽々ふんふんこなしているように見せてしまうのがすごい。多少シンクロしていなくてもへっちゃら、に見えてしまうところも - この辺も技術なのだろうか - なんかすごいわ。

Saburo Teshigawara  - “Grand miroir”

音楽はEsa-Pekka Salonenの"Violin Concerto"で、バイオリンは諏訪内晶子のほんもんがピットに入って鬼のように弾きまくる。
ステージ上では青とか緑とか黄色にうっすら塗りたくられた人々がうねりと揺れのなか集合離散を繰り返す。

勅使川原三郎のダンスは90年代頃からちょこちょこBAMで見たりしていて、彼のダンスというのは動きそのものよりも動きに取りつくようにして現れるノイズ(のようなもの)にフォーカスした光とか陰とかに近いものだと思っていて、そういう意味では既視感のあるノイズに見えて(聴こえて)しまったのは残念だったかも。 聴いたことのないノイズを見たかった。バイオリンの鳴りはすさまじかったのだが。


Pina Bausch  - “Le Sacre du printemps”

Stravinskyの『春の祭典』。
休憩時間、ステージ上では大人数でせっせと土を盛っていてとても大変そうで、彼らの退場時にも暖かい拍手が送られた。

これが一番見たかったやつで、なぜってPina BauschがTanztheaterのコンセプトの元で自身の劇団員=ダンサーの顔やキャラまで含めて(情念、狂気、エロス、などなど込みで)磨きあげたクラシックピースを、技術的には申し分ない(ほんとに巧いのよねこいつら)オペラ座バレエ団のメンバーが演じてみたときに何が起こるのか。 バンドサウンドとして申し分なかったオリジナルを一流のスタジオ・ミュージシャン達がカバーしたとき、にオリジナルのアウラとか求心力みたいなのは失われてしまったり変わってしまったりするのか、とか。

結果からいうと、ぜんぜんすごかったので感動した。 - Pinaとバレエ団の両方に。 それはWuppertal土着のどんどこ踊りでもなんでもなくて、ユニバーサルに狂いまくって咲きまくる堂々たる「祭典」になっていた。 それってPinaが情動に情念、エモの嵐を生の身体の動きや絡みに、そのうねりに落とし込んで土泥とか花とか水とか鼻水とか涎にまみれながら差し出してきたきたものがどこまでも普遍的に強く、瑞々しく、でも同時に脆く壊れやすいものかを改めて示してくれた。ここまでくると古典だよね。

いつもPina作品を見るときとおなじように頭のなかまで泥と鼻水にまみれて、見終わってへたへたになるのだったが、今度のはそんなでもなんかとても嬉しかった。
久々にPinaに再会した気がして。


22時に終わってビストロ - L'Assietteてとこ - に車で走りこんで食べてみた。 なんかとんでもなかった。

[film] The Party (2017)

10月28日土曜日の午後、Picturehouseで見ました。

こないだのLFFでも少し話題になっていた英国のSally Potter - "Ginger & Rosa" (2012)とか - の新作。
71分の室内ジェットコースター、ブラック(モノクロ)、コメディ(?)。

政治家のJanet (Kristin Scott Thomas)は自宅で自分が所属する野党の影の内閣のメンバーになったお祝いパーティを開こうとしていて、夫のBill (Timothy Spall)はよれよれとリビングでレコードをかけたりしているところに、Janetの親友のApril (Patricia Clarkson)とその夫のGottfried (Bruno Ganz)が現れて、他にMartha (Cherry Jones)とその同僚で三つ子を妊娠していることがわかったJinny (Emily Mortimer) が現れて、汗びっしょりで挙動不審のTom (Cillian Murphy)も現れて、一見全員まともで上品そうな社会の上層の人々のようなのだが、実はぜんぜん噛み合わない最悪の組み合わせの人びとだった、と。で、パーティは?

どんなふうかというとAprilとGottfriedはもう離婚すると息巻いてて、Tomは頻繁にトイレに篭ってはコカイン吸って持ってきた拳銃で自殺しようするけど踏みだせなくて、Billは病気でもう長くないことを明らかにして、更にTomの妻のMaryanneと不倫関係にあることを告げたりしたのでTomはBillをぶん殴って、みんながおろおろするなか、Janetには頻繁にどこかから電話がかかってくる。

みんなで楽しく暖かくお祝いする会のはずが、なにかをきっかけに愛憎どろどろ、ぶっ殺したろかの修羅場に変貌していく様って、演劇とかでは割とあった気がするが、この映画はその辺を割と上品に繋いで沸騰させて、でも血染めの惨劇みたいなところのぎりぎり手前で踏み止まる。 その踏ん張り具合がThe Partyであり、同時に政党のThe Partyでもある、と。

で、最後に、人はなにをもって幸せな状態とか不幸な状態になるんだろうねえ、といったことを考えたり。

中心の女優陣にKristin Scott ThomasとPatricia Clarksonというキツくて強そうな狐2人を置いて、それぞれの相方にTimothy SpallとBruno Ganzというずぶずぶ食えない糠味噌みたいな2人を置いて、そこに薬物系のヤバ男とスピリチュアル系の女性を絡ませる、というキャスティングが効いていて、それでも話の先が見えないのはこの連中だからなのね、と。

11.08.2017

[film] Alice in den Städten (1974)

10月22日、日曜日の夕方、BFIで見ました。 “Alice in the Cities” -『都会のアリス』
1本だけ生き残っていた(サバイバー)16mmからリストアされた版のBlu-Ray発売記念とか、LondonのPhotographers' GalleryでやっているWim Wendersのポラロイド写真展示"Instant Stories. Wim Wenders' Polaroids"とかにあわせての1回きりの上映。
上映後にWim WendersとのQ&A。

ライターのPhilip Winter (Rüdiger Vogler)がアメリカの中西部をポラロイドで写真を撮ったりしながらひとり車で旅していて、でも締切までに文章を書けなかったので切られて、ならドイツに戻ろうと(PanAmビルで)手続きをしていたら、同じくドイツに戻ろうとしている女性Lisaとその娘Alice (Yella Rottländer)と会って、英語も不慣れなようなので助けてあげるのだが、出発の直前にLisaは片づけなければならないことがある、とAliceをPhilipに押し付けてどこかに消えてしまい、アムステルダムに着いても現れる気配がないし、そのままアムステルダムにいてもしょうがないので、警察に届けをだした上でドイツのどこかにいるらしいAliceの祖母を探して車でのふたり旅にでる。 でもおばあちゃんの家がどんなかは番地も書いていない一枚の古い写真と、あとは彼女の頭のなかにしかないので大変で、Wuppertalに行ったりRuhrに行ったり転々としていながらだんだんと楽しくなっていくのだが、他方でいつまでも連れまわすわけにもいかないし。

所謂ロードムービーと呼ばれるジャンルの1本で、主人公たちが特定のシチュエーションや設定のなかで動くのではなく、旅や移動をしながら、その途中で遭遇する出来事や風景のなかでどう変わったり動いたり消えたりしていくのかをダイナミックにとらえていくようなやつで、風景が変われば人も変わるよね当然、とか人も風景の一部としてうつろったり消えていったりするよね、とかいろいろあって、でもへたするとただの旅のアルバムになってしまうので、出てくる人の顔と、移動していく風景がどこまでどんなふうに頭の隅に残るのかが肝心なのかしら。

そういう点では前半のPhilipひとりがとらえるアメリカの風景と後半のAliceが加わったヨーロッパの風景のありようははっきりと異なっていて、それは違うもんなのだから違うだろう、ではなくて、異邦人として通過していくアメリカと、家族の記憶の断片を抱えた子供と共に路地のひとつひとつを凝視し、居場所を探しながら移動するヨーロッパはものすごくいろんな意味で異なっていて、それはアメリカ映画とヨーロッパ映画の違い、アメリカ音楽とヨーロッパ音楽の違い、といっていいくらいにくっきりと顕在化していて、そのスケールのでっかさに感動した。

もういっこは子供のAliceの目に映ったWonderlandならぬCitiesの、なんとか自分の帰るべき家を見つけようとするその先にある未開のごちゃごちゃした広がりとか驚異とか。
それはPhilipが撮るポラロイドの、真四角の一枚きり、その一瞬の写し絵にすべてが込められている、それがもたらす奇跡に近いなにか、に近いのかも知れない。

上映後のQ&Aでも、Wendersは撮影で使われた16mmとポラロイドによる別種のShareのありようについてきちんと説明していて、相当考えたのだろうな、と。 ただ、ポラロイドは撮ってその場で人にあげてしまうのも多くて、その部分も含めて独特でおもしろいメディアだと。

そういったところを踏まえてPhotographers' Galleryの展示 - 撮影された映画ごとだったり、地名ごとだったり(東京もあったよ)いろいろ - を見てみると、フィルムと同じくらい重要な位置を占めていることがわかる。

"they occupy a very special place in our relationship to imagery and to photography, certainly in mine" であると。

そうやって撮られた一枚一枚は朽ちていく色味と合わせてとても切なく美しくそこにあるのだった。
Instagramの話にも少しなって、あれはやっぱり全然違う種類の、冷蔵庫みたいなもんだと(ごめん、聞き間違えたかも)。

ポラロイドじゃない写真については特定の写真家に影響を受けたことはないって。映画を撮るようになってだいぶ経ってからWalker Evansを知り、あとはStephen Shoreくらい、とか。

個人的にはNYの昔のPanAmビル(現Metlife)の回転扉の向こうはこんなだったのかー、って。

あと、映画のなかのAliceは今はお医者さんになってて、3人の子供のお母さんなんだって。

明日からミュンヘンに行くので更新止まります。
がんばってチケット取った明日のFather John Mistyはおじゃんになってしまったが、さっき見てきたBiily Braggがすばらしすぎて年内いっぱいくらいは生きられそうな気がしてきた。 のでがんばる。

11.07.2017

[music] Melvins / Redd Kross

10月31日、火曜日の晩、Electric Brixtonていうライブハウスで見ました。

英国でのMelvinsは初めてだが、でも連中がどこにいたってぜったいそのうち必ず見ることになるに決まっていた。
Redd Krossと一緒ならなにがなんでもだし。 この2バンド、何年か前の年末に西海岸怪獣大決戦をやっていたよね?

Door openが7時で、何時開始なのだかわからなかったが8時丁度に着いてドアを入ったらRedd Krossがステージに出てきたところだった。 こいつは楽しくなりそうだぜ、って見た瞬間にわかるやつ。
McDonald兄弟のギターとベースがぱりぱり軽快に絡み合って、その隙間にドラムスが威勢のよい餅つきみたいにばりばりやたら気持ちよく合いの手いれてくるのであんた誰よ? と思ったらDale Croverだったの - 彼のSecond Actでもがんばるからねー って紹介されてた。 そりゃすごいわよね、しか出てこなくて、ふつうだったらぴょんぴょん跳ねまわるのだが次があるのですこし我慢した。

9時を10分くらいまわったところで、トリオのMelvinsが登場する。 ベースはついさっき見た気がするSteven McDonaldさんで、両バンドのボトムが一緒なのだから音は、というとやはりぜんぜん違っていて、空中で鋭角的に跳ね回るのがRedd Krossで、地の底から地鳴りを起こしておろおろ右往左往させてしまうのがMelvinsで、表面のやかましさも、引き起こされるパニックの度合いとか内容も、やはり違っていて、冒頭、ギターをぎゃんぎゃん鳴らし始めたBuzz Osborneのばくはつ後ろ頭を眺めつつなんなんだろうねこいつら、とひたすらわくわく感心していた。

盤石の3ピースで、3コードパンクでもガレージでもハードロックでもメタルでもコアでもノイズでもなくて、やかましいことは保証つきだが、人懐こさも不可侵の孤高さとも縁がないふうで、ただただそれぞれの楽器が叩きだす音がぶつかり合ってかっこよい模様とか星座とかを描いて繰りだしてくるそのさまを荒れ狂う嵐のなかびじゃびじゃになりながら見ているような、そんなかんじ。 そういう状態で震えながら立ちつくしてしまうので、演るほうも演られるほうも変態、みたいな言われ方をしてしまうのだろうが、いちど聴きにきてみなよ、電気ウナギでいちころだよ。

いちおう7月に出た新譜 "A Walk with Love & Death"のプロモーションのようだったが、曲目は全キャリア通してのヒットパレード風で極めて安定 - カテゴリー5のハリケーンの猛威を「安定」と呼んでしまってよいのかはあるにせよ - していた。 ビートルズのカバーまでやっていたし。 とにかく気持ちよく滑っていって、ベースのStevenの佇まいがいっしゅんRushのGeddy Leeに空目してしまい、つまりそれってほぼ神の領域、ということなのだが、案外違っていないこともないかも、と思ったりした。 でもそれはAvengersというよりはこないだのThorみたいなほうで、要は神というよかお化けの愚連隊みたいなかんじの。

75分くらい、アンコールなし。ハリケーンは戻ってこないから。
物販がほとんどなかったのが悲しかった。 やはりアメリカじゃないとな、なのか。

[film] Joan Didion: The Center will not Hold (2017)

10月29日、日曜日の昼、CurzonのBloomsburyで見ました。 ここにはドキュメンタリーだけを流しているシアターがあって、そこで一日一回だけ上映されていた。

現在82歳になるアメリカのジャーナリスト - というだけに留まるひとではないと思うが - Joan Didionの肖像を最新のインタビューを交えつつ描きだす。 監督兼聞き手は彼女の甥のGriffin Dunne - "After Hours" (1985)のひと - 甥だなんて知らなかったわ - で、彼の小さい頃から叔母と甥として接してきたふたりならではの親密さと暖かさに溢れている。

カリフォルニアのサクラメントに生まれて、小さい頃からノートにいろんなことを書くようにしていて、在学中にVogueのエッセイコンテストに優勝して、そのままNYのVogueに入って、最初に雑誌に書いたのが“Self-respect: Its Source, Its Power”。これを27歳で、61年の女性誌に書いて、掲載されたってなんかすごい。 原文は↓で読める。

https://www.vogue.com/article/joan-didion-self-respect-essay-1961

その後、John Gregory Dunneと結婚してVogueをやめて西海岸に移動し、サンフランシスコのヒッピー・カルチャーを、そこの子供達
を取材したノンフィクション - "Slouching Towards Bethlehem" (1968) - 『ベツレヘムに向け、身を屈めて』 で有名になり、いろんな雑誌に寄稿したりフィクション書いたり、映画の脚本 - "The Panic in Needle Park" (1971) とか書いたり、2007年には劇の脚本まで書いて、とにかくアメリカの現代文化史の結節点をまるごとぶちこんだようなとても豊富で多岐に渡るお話が次々に出てくるので映画を見てほしい。 特に60年代のJanis JoplinやJim Morrisonとの話、70年代、マリブの海沿いの邸宅がSteven SpielbergやWarren Beattyといった映画人の溜まり場になっていた、といったあたり、本当におもしろい。

映画は当時のNewsなどを含む記録映像と周辺にいた人々の話、現時点からそれを振り返って(甥に向かって)語る彼女を交互に映し出していくのだが、ひょろひょろの細腕をゆっくり振ったりしながら慎ましく丁寧に話していく彼女から感じられるのはある種の透明さとか優雅さといったもので、それは先のSelf-respectというところにも繋がってくるのだろうな、と思った。
センターを保持しない、一箇所には留まらない。 でもわたしはあるんだから。

後半はややトーンが変わって、養女のQuintana が病に倒れ、その直後に夫が突然他界してしまい、やがてQuintanaも.. という悲劇が連なっていく中、悲嘆(Grief)について書いた"The Year of Magical Thinking" (2005)をリリースし、更にそれを劇作に翻案してブロードウェイで上演し(主演はVanessa Redgrave)、娘のことを書いていなかったから、と"Blue Nights" (2011)をリリースする。

自身の悲しみも、絶望の深さもとてつもないのでは、と思うものの、悲しみというものがそこに確かにあって、それについて書けるのであれば書こう、と。そのとてつもない強さと深さに打たれるのだが、そのへん、彼女の過去から現在までの写真 - 特に彼女の目 - を追って見ていくとなんか感動する。 たったひとりでやってきて、それでもなぜあんなにも家族を希求したのだろうか、とか。

Joan Didionという名のひとりの女性が、というよりも60年代以降のアメリカを生きる女性が、(例えば)”Self-respect"というテーマと共にどう生きてどう世界を見ていったか、を綴るドキュメンタリーにもなっているように思った。 これもまた"20th Century Women"の物語で。

オリジナルのBlade Runnerが出てくるの。 彼女のマリブの家で大工をやっていたって(レプリカントとして?)。

11.03.2017

[film] Daphne (2017)

10月の21日(なんてこったいもう11月かよ)の土曜日、BloomsburyのCurzonでみました。

ロンドンに独りで暮らす31歳のDaphne(Emily Beecham)がいて、レストランで料理作っててスーシェフを目指したりもしているようだが、基本は日々をお気楽に生きてて、バーで知り合った男と寝ては離れてそれきりでじゅうぶんで、タバコもドラッグもあったらするし、暇でぼーっとしているわけではなくてそれなりに忙しそうではあって、病気の母親が心配してちょこちょこ家に見にきたりするのだが、平気だからだいじょうぶだから、って寝る前にシジェクを読んだり、恋愛の話になるとフロイドを持ち出して煙にまいたりしている(相手はあきれて寄ってこない)。

そんなある日の晩、帰宅途中に小さな雑貨屋に寄って買い物をしていたらいきなり強盗が現れてレジのひとをさっと切りつけて逃げてしまう。 彼女は救急車を呼んで出血で震えはじめたレジのおじさんに家族の写真を見せたり介抱してあげたりするのだが、そこから先、彼はどうなったのか。 死んじゃったのだろうか? (そこは彼女に知らされない)

警察からはそういう目にあってしまった人が今後のトラウマにならないためにセラピストを紹介されるのだが、彼女はぜんぜんへーきだから、ととりあわなくて、でもそれ以降、彼女のなかでなにかが壊れてしまったようで、荒っぽくなって対人関係を始めとしてぼろぼろになっていってどうすることもできない。 これはちょっとやばいかもと思って一応セラピストのところに行ってみるものの、やっぱしなんか違うと思って喧嘩みたいになって、更に悪化していったり。

Daphneのような女性がほんとうにいるのか、どれくらいいるのか、はわかんないしあまり興味もないのだが、彼女がここで見せているような将来を楽観してて(ナメてて)、でもシニカルで、他人も愛も恋もなんかどうでもよくて、夢とか目標なんて雲の上の遠くにあるし、漠然と不安はあるけどどうせ死ぬときはひとりなんだからしょうがないじゃん、どうしろってんだ? みたいに日々を過ごしているひとの眼差しとか歩き方、イメージ、というのはとてもよくわかるし、だからそんなふうにいるんだろうな、と、それが描けているだけでじゅうぶんだと思ったのと、終わりのほうでゆっくりとなにかが上向いていく兆候とかかんじの描きかたも悪くない。

彼女が意識的に変わろうと思って変わったとか素晴らしい出会いが彼女を変えたとか、そういうふうではなく、彼女は強いとか弱いとかそんなこともどうでもよくて、起こったのか変わったのかなにかがあったようだけどそんなの知りようがない、けど、なんだか変わったみたいよね、といったところを微細な表情とか口調のかんじから読み取ろうとして、その距離の取りかたはDaphneの像を描くとても正しいやり方のような気がしてよいと思った。

Hollywood Reporter誌のレビューでは"Looking for Mr. Goodbar meets Kenneth Lonergan's Margaret on the streets of 21st century London"とあって、ああそういえば"Margaret"(2011)のかんじはあるねえ、と。 これほんとうに素敵な作品なんだけど、なんで日本では公開されないのかしらねえ。

11.02.2017

[film] Call Me by Your Name (2017)

29日、日曜日の夕方にSOHOのCurzonで見ました。
この日昼間に見たのもとってもよくて、でも病み上がりのぼろぼろで体が持つかしら、だったのだがだいじょうぶだった。

これの予告で、奥のほうに滑るように走っていく自転車にSufjan Stevensの"Mystery of Love" が被さるのを見たときから、これはもうぜったい自分の映画だと思った。なので公開されたらすぐにでも見たかったの。

83年の夏、イタリアの北、そこのヴィラに家族 - 父、母、17歳のElio (Timothée Chalamet) - が滞在していて、そこのゲストとして父の友人で美術関係の調査をしているらしいOliver (Armie Hammer)がボストンからやってきて、Elioの部屋 - Elioはバスルームを隔てたもういっこの部屋に移動 - に泊まることになる。

映画はひと夏の、いつもの夏とは少し違った夏の、ElioとOliverのやりとり - 声のかけあい、体が触れたり、目で追ったり、部屋にいるいないを気にしたり、自転車で遠出したり、タバコ吸ったり、池で泳いだり、昼寝したり、どつきあったり追っかけっこしたり、やがて自然とキスするようになって、互いが互いにとってかけがえのない名前に、記憶になっていくまでを、傷として残るような事件とか事故とかそういうの一切ぬきで描く。 そんなのなしでも、洗礼とか通過儀礼とか「大人になる」とかなしでも十分に忘れられないなにかとして残るなにかを。 

ほとんどそれだけ、それと、ひと夏の思い出 - 遅くに起きて、陽射しのなかみんなでご飯食べて、本読んだり、音楽聴いたり、ピアノ弾いたり、ノートに落書きしたり、女友達と遊んだり、夜遊びしたり、もうほんとうに、ごろごろなーんにもしていないに近い、でもこれらがどれだけかけがえのない時間だったか後からわかる、そういう場面がこれでもかと重ねられている。

設定を原作の87年ではなく83年の夏に置いたのも、おそらくその辺のなんもない、まっさらなかんじを出したかったからではないか。
ここには無垢で純な美や愛への志向や欲望があって、ヘラクレイトスの断片があって、キレイごとばっかりだけど、そんなものしかないけど、それらが自然に対しても彼に対しても彼女に対しても食べ物に対してもなんの作為も邪念もなく開かれてある。
ぜんぜん、ちっともいやらしく見えない。 ギリシャ彫刻を眺めるのとおなじで、これをBL映画とか呼ぶ奴がいたら目と脳が腐っちゃったのねかわいそうに、とふつうに思おう。

で、とにかくそれは確かに残る、とても強く残る。 それがあるので、自分はこの映画はすばらしいと思った。
「君の名前で僕を呼んでくれ」とOliverは言った。 彼が自分の名前を呼ぶ声は耳から頭に浸みてきて、あの夏にかかっていた音楽と同じようにずっと残るだろう。 どこに?

この映画のリファレンスとして出されるMaurice Pialatの “À Nos Amours” (1983) - 『愛の記念に』 - がぜんぜんいやらしくなく、ちょっと青苦い瑞々しさばかりが残る不思議と似ていないこともないかも。 これよか能天気でピースフルではある、けど。

脚本を書いたJames Ivoryがそのまま監督していたらどうなっていただろうか。もっとノスタルジックな甘いかんじのものになったのではないか。 でもこれ、30数年前のお話しではあるが、遠い昔のとんでもなく離れた田舎のお話しではなくて、奇跡的に「いま」のお話しになっている気がするのはなぜか。 Sufjanの曲のせいだろうか。

そしてJohn Hughesの影。 最後の父親の台詞はもちろん(泣くよ、まじで)だが、The Psychedelic Fursの”Love My Way"がかかり、それにのって彼らは踊り、OliverにRichard Butlerの名前まで言わせている。 (あと、Elioの部屋のポスターもそう?)

あとさー、ラジオとかであの曲かかんないかなー、と思っていたら本当にかかったF.R. Davidの"Words"。客席の離れたとこでもかかった瞬間に「あう」とかうめき声が聞こえたので同じことを思ったひとがいたのだろう。 なんだろうねこういうの?

一度でもいい、こんな夏を過ごせたらなー、いいなー、ていうのをだらだら思いながら見る、それでもいいと思う。

エンドロールのとこもよくてねえ。 今年のベスト3にはいるかも。

11.01.2017

[film] The Snowman (2017)

21日の土曜日の夕方、Leicester Squareのシネコンで見ました。
監督は、"Tinker Tailor Soldier Spy" (2011)のTomas Alfredson。

最初にママに虐められている子供が出てきて、そのママはどこかからやってきたおじに虐められてて、それを息子に見られたママは車で外に飛びだして湖の氷の下に沈んでしまう。

ノルウェーの警察のHarry Hole (Michael Fassbender)はよれよれで路上で寝たりしていて、どうしてかというと妻Rakel (Charlotte Gainsbourg)と別れて子供も妻の再婚相手のほうに行っちゃって、ということらしい。

ある雪の晩、遅くに帰宅したシングルのママが明け方に消えている事件が起こって、Harryがそれを担当して見ていくと過去にも同様のケースがあったらしいこと、新たに同僚となったキレ者Katrine (Rebecca Ferguson)の資料から10年以上前にCold Caseとなったのとも似ていることもわかる。更にHarryのところにも予告らしきものが届いたり、別の女性がひどいやり方で殺されたり、どの事件も被害者は女性のシングルマザーで、いろいろ事情を抱えていたらしいことがわかって、最初に雪が積もった日に起こって、あとには雪だるま(Snowman)が残されていたりする。 殺しかたも残忍で、だいたい首がちぎれていたりふっとんでいたりばらばらにされて鳥のご飯になっていたり。

だんだんに地元の富豪(J. K. Simmons)と関係のあるらしい医者の線とかが見えてくるのだが、ようやく近い、あと少しのところまでいったKatrineにも...

断片的なネタがこまこま出てくる割りにはミステリーぽくない、犯人はああそうなの、的にわかってしまうのでポイントはそこにはなくて、身が切れるような寒さのなか、子供に悲しい思いをさせるとSnowmanが現れて自分の身をざっくり切られることになるよ、ていう犯人のメッセージに付きあわされることになった警察の苦労とかもういいかげんにして、とか、とにかくずうっと寒そうで気候以上に人生がきつそうなMichael Fassbenderがかわいそうだった。

氷の下とか雪の下に埋められて見えなくなっている哀れな子供たちの念が、ていうピエロ(IT)じゃない雪だるまホラーとして作る手もあったのかも知れないが、降り積もっていく雪、吹きまくる風、その音、扉の開閉、突然灯る明かり、それらだけで十分おっかなかったりするので、その中においては追っかけられるホラーよりは、追っていくサスペンスのほうが、雰囲気は盛りあがるのかも。
で、そこに疲れきってへろへろのMichael Fassbenderを置くと更に身を切るような切なさが増してよいの(じっさい切れたりするし)。なんでそんなにくたびれて擦り切れているのかは最後までわかんないのだが。

ふと、"Blade Runner 2049"のRyan GoslingがMichael Fassbenderだったら? と思ったけど、やっぱなんか違うよね。
でも、Ryan Goslingを追っかけるほうのレプリカントがMichael Fassbenderだったら、ちょっとおもしろくなったかも。
そうすると、もういっこのあのシリーズのテーマとも繋がりそうじゃん? 製作おんなじだし。
 

[film] Blade Runner 2049 (2017)

28日、土曜日の晩、PiccadillyのPicturehouseで見ました。 もうでっかいシアターでの上映はほぼ終わり状態。

他に見たいのがいろいろあったりしてつい後ろまわしの後ろ向きになっていた。
オリジナルの82年のは公開時に見ているのだが、Director's Cut (1991)は見てない。 当時、べつにあんましすごいと思わなかったのね。
でも周りは割と褒めたり熱狂したりしてて、ふーん、だった。 要はディストピア的世界観を細部に至るまで精緻に緻密に表現している、ということらしかったが、映画がなんらかの世界観を表明するのなんて当ったり前のことだし、その程度がどうかなんて、そこらの田舎のあんちゃんがファッションをつま先から髪の先までぎんぎんにきめて粋がるのと変わんない気がした。 都市が道頓堀だの歌舞伎町だっていうのも、だからなに?(大文字)としか言いようがなかったし、レプリカントが云々、にしても既にGary Numanを通過していたので、相手が人間だろうがレプリカントだろうがめんどうでうっとおしいのも危険なのも変わらない、そんなのどうでもいいじゃん、だったの。 (←すげえやな奴だよね)

そういうわけだったので続編がどんなにすばらしい、と言われても、そういうことを言うのは最初のをすごいって言ってた連中に決まっているし、上映時間164分もあるし、とかいろいろ躊躇してて、でも評判よいらしいしねえ、くらい。

舞台は2049年で、前作からの間にレプリカントの製造会社が変わったり、大規模なブラックアウトがあったりしたらしいが、旧型のレプリカントを狩る作業はまだ続いていて、LAPDのK (Ryan Gosling)もその狩る側のひとりで、でも彼自身もレプリカントらしい。 ある日、旧型をやっつけたらその傍の樹の下になんか埋まっているのがわかって、掘り出してみたら鞄に入った人骨で、さらに調べてみたらそいつは産後ので、でもその骨はレプリカントのだった.. レプリカントが子供を産んだりするのか、そんなわけないじゃろ、とデータ掘りを含めた大騒ぎがはじまるの。

ここに旧作のDeckard (Harrison Ford)が出ていることを既に知っているので、あーこの骨はRachaelのなんだろう、とか、じゃあその子供は? とか、その記憶は? とか、それらはKの出自とどう関わってくるのか? とか、それがレプリカント側にとってなんで大変なことなのか? とかいろいろ考えさせるようにはなっている。 けど、基本は人間のミラー(であり奴隷)であるレプリカントの製造工程で見えてくるユートピアとディストピア、その当初想定と結果、そのギャップはご覧のとおり、みたいなところを廻っていく(しかない)。

おおもとに返っていうと『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』という問いに対して、Yes. ああその夢のなんと儚く美しいことか、て涙するか、そんなのどーでもいい、他人の夢なんて興味ねえし、ていうかで反応は分かれるのだろうか。
映画は前者の流れに立って、その可能性を近未来のいろんな大風呂敷デザイン(含. 廃墟事案)のなかに抒情たっぷりに描きだす - でも最後に残るのは雨のしずくとか雪のかけらとかだったりして、とにかく儚いんだから魂があるんだったら泣いてみろ、とかいうの。

こーんな面倒なことになるんだったらレプリカント、べつにいんないよね。
あそこの社会、だれも幸せそうに見えなかったし。すでにじゅうぶん奴隷やらされてるしディストピアだし。

撮影はRoger Deakinsで、あそこまで延々もやもやどよーんさせつつも最後まで飽きさせなかったのは見事だとおもった。
音楽のBenjamin Wallfisch + Hans Zimmerも、ずーっと象の鳴き声みたいのがぱおーんぱおーん、響いていたけどなんかすごそうだった。 "Dunkirk"のときにも思ったけど、映画音楽てこれからどんどん音波とか音壁みたいになっていくのかしら。

目と耳が分厚い雲でずっと塞がれてわうわうしている状態 - これが2049年。
いまから35年たったとき、この作品の評価はどうなっているのか。 どうでもいいけど。

"A.I. Artificial Intelligence" (2001)をリメイクしてJude Lawがやった役をRyan Goslingにやらせてみたい。名前も同じJoeだし。

10.30.2017

[film] Breathe (2017)

もう前後はどうでもいいや。
23日の月曜日の晩、PicturehouseでQ&AつきのPreviewがあって、そこで見ました。

最初にプロデューサーのJonathan Cavendishさん(Bridget Jonesものとか、Elizabeth: The Golden Age (2007)とか)の挨拶がある。
この映画は実話を元にしていますが、単にそれだけではなく登場人物が話している言葉は彼らが実際に、本当に話していたことをそのまま使ったりしています。 なぜそんなことを言えるかというと、この話は私の家族を描いたものだからです、と。

ひええー。

1959年のナイロビで、Robin Cavendish (Andrew Garfield)は妻のDiana (Claire Foy)と幸せな新婚生活を送っていたのだが、ある晩突然高熱がでて、全身が麻痺して喉に穴を空けて管を呼吸器に繋いだ状態になって英国に戻る。 ポリオと診断されてこの状態だともって3ヶ月、と診断されて、練習してどうにか喋れる状態にはなったもののもう生きていたくない、ばかり言うようになって、でも息子のJonathan(プロデューサーの人ね)を産んだばかりのDianaはぜったいにそんなことさせない、あたしがあんたを守ってみせる、と宣言して、Robinにどうしたい? と聞くことこの暗い病室から外に出たい、という。

そこでDianaはOxfordにいた発明家のTeddy Hallを呼んで、呼吸器を搭載した車椅子を開発させて、病室から自宅に戻す作戦を決行してしまう。 病院の堅い医者からはそんなことしたら2ヶ月で死にますよ、と言われるのだが、ふん、ぜったい負けるもんですかと返して、自宅での療養が始まって、最初のうちは赤ん坊に電源切られて死にそうになったりいろいろあるのだが、だんだん快適になっていって、外を車で走ったりピクニックしたり飛行機でスペインに行ったり(山道で呼吸器の電源が吹っとんで大慌て、とか)できるようになって、Robinはだんだんに生きる力を取り戻して、そうすると、これをもっと世の中に広げてもいいんじゃないか、と車椅子生産のスポンサーを求めて動いたり、ドイツの療養所 - 患者たちを完全に隔離して穴に埋め込んで集中管理している - とかに紹介に行ったりして、活動が広まっていく。

でも長年管を肺に通していたところが頻繁に炎症を起こすようになって、やがて...

最後はぼろかすに泣いてしまうけど、最初にJonathanも言っていたように、とにかくJoyfulで生きる歓びに満ち溢れたフィルムだとおもった。

俳優さんは、Andrew Garfieldさんがじゅうぶん巧いのはわかっていたが、それに加えてDiana役のClaire Foyさんの力強さが見事でかっこいいことときたら。
これが初監督となるAndy Serkis(猿の惑星のシーザー、指輪のGollum、それにIan Dury、ね)さんは、もともと監督志望だったそうで、奇異なところを狙わず無理なくゆったり堂々としたドラマに仕上げている。

上映後のQ&Aには、Jonathan、Andy Serkis、Andrew Garfieldが並んだ。
Jonathanに家族の反応は、って聞くと、母(Diana)はめったに泣かないひとだが、映画のなかの父の表情や喋り方があまりにそっくりなので最初はありえない信じられないって泣いて、もう4〜5回は見ているって。 よかったねえ。

欧州ポリオ協会(?)のようなところの人も来て感謝の意を表していたが、こういう患者や身障者を隠したり見えないようにしたりすることが大好きなにっぽんの医療福祉関係者、並びに彼らにそういうことを強いたり、電車にベビーカーが乗ってくるだけで「ちっ」とかやったりしている市井の「健常者」のみなさんに是非見てもらいたいもんだわ。(どうせ「感動しました!」とか言うのよね)