5.31.2018

[log] Moscow, 他

むかしむかし、mixiとかに書いていたころは「どうでもいい」ていうタイトルで割とどうでもいいことを書き捨てたりしていたのだが、最近そういうのやらなくなったなあ、と思って、備忘とかもあるのでそういう系のを纏めて書いておく。 もう5月も終わっちゃうし。5月が終わっちゃうし。ほんとどうするんだ。

先週26日の土曜日からの3連休はパリに遊びに行ってて、月曜の夜中に戻ってきて、火曜日の午前からさっき(31日)までモスクワに出張に行ってて、パリのはもうじき書くと思うけど、モスクワのほうも少しだけ書いておく。

モスクワは5月の真ん中にも2泊で行っていて、今日までのを入れると通算で4回めになった。ぜんぶ野暮なやつ。

5月の前に行ったのは3月の始めで、がちがちの氷点下で川とかぜんぶ真っ白に凍っていて、帰りの便はキャンセルになっちゃうしろくな思い出がなくて、だから5月のもまったく気乗りしなかったのだが、こんどは気温は30℃超えていきなり夏になってて、2日目の晩のご飯の後に赤の広場に連れてって貰えて少し機嫌なおった。 建物とかどれも重そうででっかいし、いろんなお墓ばっかり(どれだけ亡くなったのか)だし、ボリショイの劇場もあるし、ああやっぱりサンクトペテルブルクとあわせてちゃんと来なきゃな、になった。「犬が星見た」をとっても読み返したくなって困った。

突然入った今回のも弾丸で、外を見て和む時間はまーったくなかったのだが、車で市内に入る途中、大量の白い綿毛みたいのが日差しのなかを舞っていて、車内にもいっぱい入ってきてなにこれ? だった。
後で現地のひとに聞いてみると「トーポリ - Тополь」っていう樹の綿毛だそうで、5月の2~3週間は大量に飛んで舞って窓開けておくと床とか真っ白になるんだって。そのひとがトーポリをスマホの翻訳で変換したらなんでか「白楊」と出て、これってポプラのことらしいのだが、でも白楊のほうがちょっと素敵なかんじはする。きれいだなーとか思ったけど、これのアレルギーのひとがいたら死ぬ - 見ただけで死んじゃうだろう、ていうくらいわうわう飛んでた。

昨年の冬から春はそんなでもなかった記憶があるのだが、今年の冬の後半は激烈にきつい寒さと暗さ満載で、英国人が春になって緑が萌えてきただけでわあわあ嬉しくご機嫌になるかんじというのはこういうのを言うのか、と初めて思ったのと、オランダのKeukenhof行って庭園好きかあも、と思ったりした(趣味がいよいよ老人に向かってきた)ので、春のKew Gardensに行った(5/5)。
ほんとはPeter Rabbitの出し物を見たかったのだが、既に終わっていて、だいたい1年ぶりで、まずは庭園のそばのお茶屋でMaids of Honourていうタルトみたいなお菓子(これほんとおいしいの)を食べて、中に入って、ずっと改装中でついこないだお披露目されたTemperate Houseていうガラスの建造物 - 温室? とか、チューリップとか、サボテンとか見た。いろいろ見ていて思ったのだが、お花とかの感想ってほぼないねえ。わーきれー、しかなくて植物からすればうっせー、くらいだろうし。

春がきたから外に出ようシリーズで、その翌日の5/6には電車とバスでSeven Sistersていうとこに行った。Brightonまで電車で1時間強、そこからバスで海岸線を1時間、バス降りてから3時間くらいの歩きのコース(になるなんて知らなかった)。Seven Sistersってただの白い崖で、削られたようにごっそり落ちてて、映画とかにもよく出てきて – こないだTVで”Atonement” (2007) 見てたら出てきた - 遠くからそのぎざぎざを眺めると7人の姉妹に見えるかららしいのだが、ちっともそうは見えなかった。なんで姉妹なのさ?(白いから?)

とにかくめちゃくた暑い日で、バスが走っている道路から平らな緑の道をこの向こうには海があるんだわ、と信じててけてけ歩いていくだけ。コースは大きく分けて、崖の上まで行くのと、崖を遠くから眺めるのと、ふたつあって、わんわんみたいに喜んで崖の上まで駆け上がっても見えるのは海ばかり、だそうなので崖を眺めるほうのコースにした。 途中に川があって池があって牛がいて羊がいて古そうな井戸があって、木々は風にやられたのかみんな同じ傾度で斜めに生えている。なだらかな丘を越えていくとだんだん崖かな、みたいなのが視界の端にちらちらしてきて、最後のでっかめの丘を越えると白くざっくり、きんきんのアイスクリームを縦に割ったみたいのがばーんと現れる。 その白さと切り口のとんがりっぷりは確かに変なかんじで、自分がこの辺を造った神さまだとしたら、あ、やっちゃった… とか思ったかもしれない微妙な、タモリ倶楽部的なやばさがあるというか。

それを見ているのも崖の上なのだが、こっちはふつうの崖 - 銚子の屏風ヶ浦みたいな - で、崖を同じ高さで見れる地点から下りていくと海辺(Brightonとおなじ砂利の浜)になって、その向こうは崖なので一見、ついでに崖のほうも登れるのではないか、と思ってしまうのだが、間には川が挟まっていて -天国と地獄の境目みたいな溝 - 崖のほうに渡ることはならぬのだった。暑いので川をじゃぶじゃぶ崖の方に渡っていく若者もいっぱいいたのだが、そこまでの若さはないので、その反対側で、やはり川に隔たれて近寄ることができない牛さんたち(彼らどこで寝泊まりしているんだろ?)と恨めしそうなにらめっこをしつつ戻った。最後のほうは暑さにやられてへろへろで、Brightonの海に寄っていこうと思っていたのだが諦めて帰った。冷えたスイカが落ちていないかなあ、だったがそんなのあるわきゃないのだった。

5月がいってしまうよう …

[dance] Elizabeth

19日の晩、Barbicanのシアターで見ました。Barbicanでやるけど、プロダクションはRoyal Opera House。
16-19日の4日間公演の最終日。

昨年の6月、Royal Balletで見た”The Dream / Symphonic Variations / Marguerite and Armand”の短編三本立てのうち、”Marguerite and Armand”での Zenaida Yanowskyさんのダンスはとてもダイナミックで生々しくかっこよくてすごいなこの人、と思っていたら終演後にセレモニーが始まってそれが彼女のFarewellであったことを知ってああなんてこと、と空を仰いだのだったが、この公演に出ていることを知ってチケット取った。 昨年の6月のはRoyal Balletのメンバーとしてのフィナーレだったのね。

ダンサーはZenaida YanowskyとCarlos Acostaのふたりだけ。舞台上には彼女らの他に侍女の恰好をした女性のアクターが3名(うち2名は若くて少し踊れる)と侍従の恰好をした男性 – 演じながらバリトンで朗々と歌う - が一名。あとはチェロ奏者が一名、座って音楽 – Elizabeth調時代の音楽のつぎはぎだという - を。 振付はWill Tuckett。休憩なしの90分。

ElizabethとはQueen Elizabeth Iのことで、当然演じるのはZenaida Yanowskyさんで、彼女のダンスに被せるかたちでElizabethが残した手紙、日記、詩等の断片がアクターによって朗読されたり歌われたりする。男性のダンサーは場面毎にコスチュームも挙動も変えて、Elizabethの生涯のところどころで現れては消えていった男達を代わる代わる演じ、Elizabethの方もそれに合わせてメイクもコスチュームも変えていって、要するにダンスが放出していくエモの奔流を歴史とかも含めて多層の糸で縛ったり解いたり捩じらせたりしてみようか、という試み。

確かに彼女の治世下に現れては消えていったいろんな男達と、それぞれに纏わるそれぞれの思いは時系列であったとしてもダンスとチェロだけで綴って並べていくのは難しいだろうからテキストや歌が絡まったり挟まったりることで彼女の孤独、疲弊、冷たさ、暖かさ、残忍さ、どうしようもなさ、等々はよりくっきりと浮かびあがってくるようだった。
(それにしても、だから英国の歴史をちゃんと… て何回言ったらわかるのか)

で、Elizabethを演じるZenaida Yanowskyさんはアクロバティックな動きこそあまりないものの、もう少しだけ、重心低めにしてゴスで怨が入ってもよかったかも、だけど、声やテキストの底で蠢くElizabethの、他者からみれば解読疎通不能な情念や情欲やうんざり感を凄味たっぷりに演じていて、更には、で? だから? あんたに何がわかるっていうのさ、みたいなところまでぶっちぎって放り投げてきて、すばらしかった。

Elizabeth自身は勿論あんなふうには踊らなかっただろうけど、踊っている – 踊らされている - 踊らせている - 感覚とか痛覚とか陶酔 ... のようなものはあったのだろうか、とか。

終演後、Yanowskyさんがマイクを手にして、「これが自分の声です – ここは自分の声で喋ります」と静かに言って(素敵な声だった)、続けてこれが自分にとって最後のダンス公演となる、だって(以降、いろんな人への謝辞)。 えー。残念だけど、お疲れさまでした。 もっと見たかったなあ、ていうのはいつでもどこでもあることだけど、でもやっぱり。

[film] Lean on Pete (2017)

20日の日曜日の午後、CurzonのSOHOで見ました。もう終わっちゃいそうだったし。

Charley (Charlie Plummer)はオレゴンに父とふたりきりで暮す15歳の男の子で、父は殆ど留守で帰ってきたと思ったらだらしなく家に女を連れこんで朝に帰すようなことをしていて、でもCharleyは独りでも平気で、ある日通りかかった近所の馬小屋で働かせてくれないか、て言ってそこのトレイナーのDel (Steve Buscemi)と騎手のBonnie (Chloë Sevigny)と仲良くなって、そこのLean on Pete(以下Pete)ていう競走馬の世話を始めてお馬とも仲良くなる。

ある晩に家の戸口でのすごい音で目が覚めると父が見知らぬ男 – おそらく連れこんでいた女の-と口論してて、父はその喧嘩で大怪我して病院送りになってやがて傷が悪化して死んでしまう。あとは勝てないPeteもそのうち処分されてしまうのだ(だからペットにするな、と言ったろ)、と冷たく言い放たれて、大人なんて端から端まで信じられなくなったCharleyはPeteを連れて何もかも棄てて荒野に放浪の旅に出る。

これだけだとこの先は社会から逸れた孤独な少年と馬の友情とか成長とか夢見がちな物語のほうに行きがちだけど実際のはすごく過酷で辛くて、よくしてくれる人もいるけどそうじゃない大人とか天敵だらけの現実が容赦なく降りかかってくる。それも世の中そんな甘いもんじゃないんだよガキ、という偉そうな描き方ではなく、道を歩いていると次々に降ってくるいろんな障害がほんの少し誇張されただけ、しょうがねえだろ、みたいな救いようのない描写が続いて、それが普通の風景になって、Charleyもその風景を構成する薄汚れたガキに変貌していく。しかもそれが結構長く続く。

でもここまで、誰がわるいってもんでもないの。もちろん性悪はそこらにいっぱいいるけど、それらがCharleyをあんなんにしてしまったわけではない。パパが死んじゃったから、でもない。たんじゅんな善とか悪とかがなにかを決めてくる世界ではないのだとしたら、野宿とかするのがごくあたりまえの世界なのだとしたら、この世界を形作っているのはなんなのか、愛ってどこにあったりするのか、というのをCharleyやPeteと一緒に考えてしまうことになるの。

これが”All the Money in the World” (2017)でさらわれて片耳をだっきんされてしまった(時系列ではこれの後でだっきん、みたいだけど)Charlie Plummerくんに対する仕打ちなんだねひどい世の中よね – ということでもよかったのだが、最後のほうでほんの少しだけ。 でもだからといってCharleyのなかでは何かが失われてしまってもう戻ることはないのだな、ということがわかる最後のとこはなんかよいの。

Steve BuscemiとChloë Sevignyが薄汚れたNYのダウンタウンにいるのではなく、西部劇みたいなナリして馬を相手にしているのはなんかとっても変なかんじがした。

[film] Crossing Delancey (1988)

17日の晩、BFIで見ました。ここでは5月いっぱい、”Lost in America: The Other Side of Reagan’s 80s”ていう特集をやっていて、自分がずっと追っかけている問題関心からすればぜんぶ見ないといけないようなやつなのだが見事にぜんぜん行けなくて、見れたのはこれとあともう1本だけになってしまった。反省したい。

なんでこの時代のアメリカなのか、はいろいろ意見あるだろうけど、今のアメリカを覆うぶっ壊れていたって構うもんかどうせ端からぶっ壊れていかれてるんだしさ、みたいなふてぶてしい空気や態度の源流は、このReganの時代に素地が作られた(できあがった)ような気がするから、かなあ。
作品に関する予備知識は一切なくて、Rom-Comていうのも直前に知った。でもこれならタイトルだけで行くべし、にはなる。

マンハッタンの本屋に勤めるIsabelle (Amy Irving)はもう30過ぎで、そろそろなんとかしなきゃ、落ち着かなきゃ、で本屋のイベントでReadingとかしている作家のAnton (Jeroen Krabbé)あたり、なんかよいかも、と思っていても実際にはなかなか難しくて、ダウンタウン(当然Delanceyのあたり)に独りで暮らす彼女の祖母Ida (Reizl Bozyk)は、そんな彼女を心配してお見合い仲介屋を呼んできて紹介してみたりするのだが、そこを介して現れたピクルス屋のSam (Peter Riegert)とか、なんか違うんだよなあ、なんでこの人くるかなあ? になってしまってどうしたものか、になるの。

物語はそんなIsabelleの切羽詰まった恋の行方を追う、というよりは自分が住んでいるUpper Westのアパートから事あるごとにダウンタウンのDelanceyまで下りてきておばあちゃんのとこでぐだぐだ口論したりアパートの窓からの景色を眺めたり、そんなことばかりしているIsabelleのそんなふうに過ぎていったって別にいいよね、の日々を追って、そんならおばあちゃんがいればいいんじゃないのあなた、みたいに悠然としててなんか悪くないの。

明らかに今(10年代)のRom-Comに見られる切迫感 - ここで踏みださないで、掴まえないでどうするよ – のちゃきちゃきとは別系のテンションで悩んだりくよくよしてばかりのAmy Irvingはファッションも含めてとても素敵なのだが、ここではそれ以上におばあちゃんを演じたReizl Bozykの、孫を構いたくていじりたくてしょうがないおばあちゃんのかんじが素晴らしい。彼女、元々演劇畑のひとで映画はこれ1本しか出ていないそうなのだが、画面の上で彼女に出会えただけでとってもよかったかんじにはなる。

あとはDelancey stの界隈の、JewishもChineseもごちゃごちゃ横並びしていながら不思議と調和が保たれているあのかんじって、この頃から既にそうなんだねえ、って。Bowery Ballroomがあって、その少し先にはTonic(もうとっくに無くなったけど)ていうライブの聖地があるところでもあるの。住んだらぜったい和んで他に行けなくなる。

恋愛の決着のつけかた、としてインテリゲンチャの世界ではなくてピクルス屋のほうをとる、ていうのはこないだの”Maggie's Plan” (2015) にもあったりするのだが、それってどういうことかというと、ピクルスを漬けてつくる作業というのは実はとっても繊細で恋愛のそれと似ているのだ、ということでよいのかしら。 漬けすぎてしょっぱくしたらあかん、とか。

あと、音楽はThe Rochesがずっと流れていて、これもすごく懐かしくて。

5.25.2018

[film] Solo: A Star Ward Story (2018)

いろいろ詰まってきたので書きたいのから書いてしまう。
24日、木曜日の晩、BFIのIMAXで見ました。 こんなの初日に見ないでどうするよ。

若い頃のHan Solo (Alden Ehrenreich)の冒険を描いたやつで、ごみ溜めみたいな独裁国家の港町のちんぴらHan (Last Nameはない)がスケのQi'ra (Emilia Clarke)と連れ立って逃げようとするのだが出国のとこで離ればなれになって、彼の方はしょうがないので帝国軍に入り、そこで出会ったやくざの親分- Tobias Beckett (Woody Harrelson)に取り入って窃盗団に仲間入りし、最初のは失敗して大親分のDryden Vos (Paul Bettany)に落とし前どうすんじゃとか言われたので、更にでかいヤマを狙って勝負にでる。

流れとしてはこんなもんなのだが、EP4: New Hope (1977)で我々が出会ったときのHan Solo、更にはそこからEP7: The Force Awakens (2015)迄、30年以上に渡って我々が脳内で育ててきて十分に染みついている(と思っている)Han Soloの像 - 不遜で自信家で向こう見ずのギャンブラーで、でも義理堅いとこもあって身内には優しくて -  というあたりに違和感なく繋げて、ストーリーはそんな彼を育むのに過不足なく波乱万丈のジェットコースターでなくてはいけなくて、そんなスケールをもった難度の高い曲芸ができるのってRon Howardの他に誰が考えられるだろうか。

最初はね、少なくともHanとChewieがどうやって出会ってバディとなったのか、Lando Calrissianとは何があって腐れ縁になったのか、そしてMillennium Falconにどんなふうに乗り込んでいったのか、そういうのさえわかれば十分なくらいだったのに、港町で単車を乗り回して意気がっていたチンピラが見栄と度胸で世渡りしながら自分の馬(Millennium Falcon)を手に入れ砂漠のアウトローとして一本立ち(Chewieを入れると二本か)していくさまを、猿人からロボットからリベリオンまで含めたいろんな出会いと裏切り、切ない別れのなかに描く、そういう広がりを持ったお話しになっている。ごみ溜めから賭場から地の果てのような荒野まで。 戦場の戦から岩場の空中戦から一騎打ちまで。

彼がLuke Skywalkerと出会って銀河系の戦いに巻きこまれていったのはたまたまで、あの出会いがなかったとしても銀河のならず者として名を馳せていたに違いない、とか、いや、ああいう出会いがあったのだからLukeと出会わなかったにしても義賊として戦いには関わっていったに違いない、とか、想像は楽しく膨らんで止まらない。そんなふうにいくらでも膨らんで転がしていける豊かな物語の土壌がここにはあって、そういうのが出てきてくれただけですばらしいと思う。 だってさー、LukeになりたいかHan Soloになりたいかで言ったら、ふつうはHan Soloの方を選ぶじゃん。 Forceなんて使えないし。

というふうなので、ヲタっぽく本流のストーリーとの整合や照合して細かいとこを掘っていく必要もないし、Harrison FordとAlden Ehrenreichが似てるの似てないのについて話しても(別にやるのは勝手だけど)あんま意味ない気がする。
「誰の指示も受けねえ」から「誰も信用するな」まで、アウトローとして生きるというのはどういうことか、それがどうしてかっこよく見えるのか、そういうことについて考えてみることよ。今のこういうときは特に。 (そして”Rogue One”であることについても、ね)

まあでも、そんなこと言ったってMillennium Falconが飛びあがるとことか、あそこの操縦席にふたりが並ぶとことか、あの平べったいフォルムが魚のように元気いっぱいに突っ込んでいくとことか、鳥肌しかなくてそれだけで十分で、冒頭の車の追っかけっこと併せてAmerican Graffitiのノリで、前のめりになってばかりでたまんない。シアターに車で行くと、帰りは結構やばいことになるかもしれない。それくらい。

このStar Wars外伝 - “A Star Wars Story” たち、重ねていくと案外おもしろいことになっていくかも。Forceという銀河系の彼方で渦巻く力を巡るでっかい星雲の物語と、その傍らで浮かんでは消えて行く無数の流れ星の物語と。
これだってまだ終わってないし.. あの恋はどこにいくのか、とか。

いっこ目が点だったのは、Chewieって、唸ってるだけじゃなくてちゃんとした言語を喋ってたんだ、って。

[film] Deadpool 2 (2018)

20日、日曜日の夕方、Westendのシネコンで見ました。

ものすごく見たいかというとそんなでもなくて、1のほうもごちゃごちゃぺらぺらうるさかったし、他方で切る刺す殴る蹴るぶっとぶのアクションはごりごりにリアルで、従来のヒーロー系の重めのアクションに対して、でも連中だって結局やってることは復讐とか人殺しじゃん、て開き直って殺しまくる、そういうメタフィクション(ヒーロー)的な機能があるのはわかるけど、漫画なのもわかるけど、でも凄惨で痛そうなのはあんま見たくない。 Marvelフランチャイズなので、見ておかないと後々どこかでなんか出てくるかもしれないからな、くらい。

ネタばれみたいのも意味なくて、要は彼、死なないんでしょ、程度だし。
彼はLogan/Wolverineにはなれないのだし。

今回は、Wade/Deadpool (Ryan Reynolds) の彼女が襲撃の巻き添えくらって死んじゃって、ていうのと、未来から家族を殺されたCable (Josh Brolin)がやってきて、加害者のミュータント – Firefist の子供時代のそいつを追っかけまわすという逆Terminatorみたいな話があって、大切なひとを殺されたときにもう死にたい、て思うのか、殺してやる、て思うのか、そういう辺り。

で、Cableはめちゃくちゃ強いのだがX-Menの連中は忙しそうであんま相手にしてくれないので、1のほうに出てきたメタルのでっかいのと火噴き姐さんを頼って、あとは志願兵軍のX-Forceていうのを組織して立ち向かうの。

彼らがCableから守ろうとするFirefistはTerminator2のEdward Furlongくんとは真逆のころころでぶだし、彼を虐めて邪悪にしてしまう学校の校長もやなかんじだし、X-Forceも怪しげな「自称」スーパーパワー持ち主の寄せ集めだし、つまりぐるぐる追っかけっこをしていく連中は総じていけてない変態ばっかしなので、スカッとしないこと夥しくて、しかもその合間にBGMつきでくよくよ嘆いたり悩んだり喋ったりばかりなので、別の意味でどうなっちゃうのかしら、みたいにはなる。

不揃いな外道連中が暴れている最中にふと立ち止まって思い出や過去を参照するとそこに懐かしい音楽が被ってきてその音楽に押されるように次のアクションや事件が起動される、ていうのは例えば”Guardians of the Galaxy”あたりで確立されたやり口だと思うのだが、あれってあの連中のバンド活動だから映える気もして、そこいくとDeadpoolってソロなのできついよねー、と見ているとお話しの終盤に向けてバンドを結成する方に固まっていくようだった。(..デジャヴ)

突っ込みどこは勿論いろいろ死ぬほどあって、そういうのを狙って向こうも繰り出してくるのだと思うが、それにしてもさー、Dominoさんとかのスーパーパワーが”Lucky”ってどうなのか。これがありなら「負けない」とか「死なない」とかだってありだし、それってどちらかというと妖怪の領域ではないか。とか、もういっこは、こないだのAvengersにもあったけど、時間旅行可能にするのってあんまりよね、というのもあるのだが、この映画に関してはちゃらい飛び道具として機能して悪くなかったかも。ばかじゃのうー、って笑えるからいいじゃん、くらいの。

どうせB面なんだからやりたいようにやっちゃえ、って。
でもB面て、一回聴いたらもういいや、になることも確か。

“X-Men Origins: Wolverine” (2009)からの積年のDeadpool問題に決着がついたのはよかったかも。

5.24.2018

[film] I Feel Pretty (2018)

19日土曜日の午後、Picturehouse Centralで見ました。 前の晩からの流れはあるのかないのか。

それにしてもさー、「イタい女」みたいな最近(でもないか)の言い方ってほんっとやだ。自分の痛覚を疑いもせず正しいと信じこんで、その範囲内で「イタい」とか他人を揶揄して、自分をあげたり安全圏に置いたり。でもそこにはなんのくそ根拠もないの。そういうのに限って海外に出てもやっぱり日本食がいちばんだよね、とか威張って言うの。なんなのあんた。

これもある意味、典型的な「イタい女」話だと思うし、日本で公開(されないだろうとは思うけど)されることになったらいつものように女性芸人をいじって楽しむ虐めプロモーションが展開されるのだろう。これ、最近の醜悪で幼稚で卑怯なあれこれぜんぶが繋がった構造的な問題としてなんとかしないと本当にだめよね。もうだめだろうけど。

化粧品会社の本社とは離れたチャイナタウンのオフィスで仕事をするRenee (Amy Schumer)は日々劣等感の塊を転がしてて、でもなんとかしたいのでジムとかには通っていて、ある日バイクを漕ぎ始めたらそれがぶっ壊れて落っこちて頭を強打して、目覚めてみると、あーらびっくり自分の容姿が劇的にPrettyに変貌している。と本人には見える。脚も腕も腹もめちゃくちゃスリムになってる。これがあたしだなんて信じられない。

他人からの見た目は変わらないのだが、本人はめちゃくちゃハイパーのポジティブになってしまい、仕事は本社のReceptionistを当然狙えると突撃して獲りにいくし、バーでも相手と目があったらそれは自分のもん、て食らいついて、相手はReneeが余りに自信たっぷりなので負けてしまう。こうして本社のReceptionistだけでなくCEOのAvery (Michelle Williams)とその祖母で創業者(Lauren Hutton)の信頼も得てDiffusion lineの販売企画任されて、クリーニング屋で彼もめっけて、火を噴く昇り龍になるの。

プロットとして別に新しいとこはなくて、これまでも突然大人になる子供になる女になる男になるシンデレラになる外だけ変わる中味が変わる(入れ替わる)いろいろあったわけだが、これのおもしろいのはReneeの思いこみとか気持ち(みたいなの)以外は実はなにひとつ変わっていないこと。そして、なのに気持ちが上向きになっただけで、あんなにもいろんなことがよくなりました、と。

でもこれだけだと、ふつうそういうもんでしょよかったね、で終わってしまうのだが、おもしろくなるのはこの魔法が解けてしまってからで、Reneeはどうやってどうするのか。アメリカのコメディなので持っていきどころはあんなもんでしょ、なのかもしれないけど、この領域の確信犯であるAmy Schumerのすがすがしいまでのふてぶてしさが、とにかくすばらしいの。 ”Trainwreck” (2015)もそうだったけど、「わたしはわたし」と言い切って啖呵をきることの、抜群の威勢のよさと安定感と、そこに向けて全身で冗談をぶちかます、その凄みと。

もういっこ特筆すべきなのはアニメ声のおどおどCEO役のMichelle Williamsで、あなたこんなこともできるのね、だった。

音楽は全体にどこどこびーびーした最近のばっかなのだが、最初のほうでThe Theの“This Is the Day”が流れる。これだけでこの映画を嫌いになることはできなくなってしまうの。

5.23.2018

[film] Jeune Femme (2017)

18日の金曜日の晩、へろへろ状態でSOHOのCurzonで見ました。
予告に出てきた白猫がとてもかわいかったので、程度で。  昨年のカンヌでCaméra d’Orを受賞している。

冒頭でPaula (Laetitia Dosch)はドアをばんばん叩いて狂ったように絶叫していて、ついでに頭も強打して、次は額を縫われた状態で病院にいて、そこにいた親切そうな医者に散々絡んで悪態ついて、彼がいなくなった隙に抜けだして、そのまま彼 - Joachimと同居していたと思われるアパートに向かい、ブザーをこれでもかと鳴らしてインターホン越しに絶叫して、下のデリにいた彼の白猫をそれあたしのだから、と箱に入れて、無一文の宿無し状態でパリの町に猫と一緒に放りだされる。

最初はGreta Gerwigさんがやってきたようなちょっと変わって浮いてる女の子のお話しか、程度に思っていたのだが、どちらかというと”A Woman Under the Influence” (1974) 系のかも、と思ってはらはらしながら見守っていると、トイレットペーパーの芯で髪巻いて(Amy Winehouseだって)パーティに潜りこんだり、ゴミを漁ったり、母親に会いにいって激しく拒絶されたり、人違いで寄ってきた女性の同窓生になりすましてご飯と宿一緒になったり、ウソつきまくって住込みのベビーシッターやるとか、適当言って下着屋の店員になるとか、とにかくいいかげんでも図太さと口先でなんとか食らいつくのが曲芸みたいにすごくて、始めのうちはJoachimのとこに嫌味たらしく押しかけたりしていたのだが、それもやめるようになって、ウソまみれだけどとにかく自分の足で動き始めた途端に妊娠していることがわかる。

31歳、イタいあたしの- とか等身大の- とか、そういうのからは遠い、ぎりぎりで切実で傷だらけで死にそうなPaulaの彷徨いを正面から捕えて、もうすこし笑えるかと思ったらそうでもなくて、どこかしらKatell Quillévéréさんの”Suzanne” (2013)を思いだしたりもして、中盤から終盤に向かってだんだんよいかんじに落ち着いてくるのが素敵なの。

その落ち着きはどこからどうやって来たのかというと、たぶん何重ものなりすましをしているうち、それがばれるたびにいろんな人から「あんた誰?」って聞かれて、それを自分のなかで反芻しているうちに固まってきたところもあるのだろうか。で、固まってくると今度は彼のほうが電話して心配して追っかけてきたり、母親とも話をすることができるようになったり。逆に「あんた誰?」の果てにわかんなくなって破滅、ていうのもありえたはずだけど、そうはさせるもんか、ていう意思みたいのがPaulaには充満している。

下着店のセキュリティをしていて少し仲良くなるOusmaneとのやりとりで、服のサイズは変えられるけど目の色は変えられないだろ、ていうのが沁みて、で、彼女両方の目の色が少しづつ違うのだった。

スタッフは(別に意図はしなかったそうだが)全員女性だって。いいよね。

音楽はクラブに行ったときに流れるCarte Contactの”Like a Dog”がすごくよくて、”120BPM”の “Smalltown Boy”のように映画全体のトーンを見事に捕まえている。

パリって、自分にとってはまだまだ未知の町なのだが、このへんパリっぽいかも、て感じられる瞬間がいくつかあって、パリの匂いみたいのは、感じられるようになってきたかも。

あの白猫、かわいいねえ。

[musis] Sounds and Visions: Max Richter 他

Barbicanで、11日から14日まで、”Sounds and Visions”ていう音楽とフィルムのプチフェスがあった。キュレーションはMax RichterとYulia Mahrのふたりで、有料のと無料のが組み合わさってて音楽のはぜんぶで7セッションある。映画の方は、Maya DerenとかRay EamesとかPeter Greenawayとか。

このうち11日金曜日の晩と、12日土曜日の晩の – どちらもMax Richter自身の演奏演目を含む - に行った。ぜんぶ行きたかったけど、13日からロシアに出張だったのよ。
そういえば昨年の5月は、”Sleep”のSleepover演奏会があったんだよね。

Session One : Max Richter: Infra + Kaitlyn Aurelia Smith + Jlin

11日の晩の。最初にMax Richterさんが出てきて今回のイベントのキュレーション方針について、まず自分達が聴いたり見たりしたいのをenthusiasticに選んだのだと。だから楽しんでね、って。以下、登場順で。

Jlin : 前日に主催者から結構強いストロボとスモッグを焚くのでだめなひとは気をつけてね、とメールがきて、ストロボだめなので薄目で見ていた。 ラップトップとダンサー1名で、結構分厚い音でがんがん攻めてくるのだったが、あんま来なかった。

Kaitlyn Aurelia Smith :  ステージにはケーブルで膨れあがったモジュラーシンセがあって、ケーブルを抜き差ししつつ慌ただしく動いていると思ったらきれいな声で歌を被せてきたので結構びっくりする。牧歌的でドリーミーでサイケでときどきドラマティックで、約50分間、ノンストップで全く飽きさせずにいろんな音の束や雲を浮かべて投げてきて、かんじとしてはぶっ壊れて向こう側に飛んでいってしまったEnyaみたいな。 大喝采だった。

Max Richter: Infra (2010)

もともとはWayne McGregorのダンス用に作られた音楽で、日々流れていく – でも不変な交通のイメージがあるという。 真ん中にキーボードがあって、取り囲むように12Ansemble(楽団)の弦。

前方のスクリーンには黒をバックにシンプルな白線の人体が右から左へ、左から右へ歩いたりすれ違ったりしていくアニメーション - 人体は女性、男性、軽装のひとスーツ着たひと子連れ、など線のかんじでわかる。音楽の進行に合わせて流れていく人数は増えていって、でも増えすぎて破綻したりすることはない。 日々の交通インフラのように左右均質に等量に流れて/流していってそれで保たれているなにか。 というイメージをゆったりとした弦のベースの上に飛んだり散ったり瞬いたりしていくエレクトロやパルスや鍵盤がきちきちと構築していく。揺るぎないなにかであることはわかっている、はずなのだが、どこか不安定で脆いかんじもして、油断ならなくてスリリングで。 この常に揺らいで落ち着かなくてとりとめのないところに惹かれるのだな、と思った。

Session Four : Ives, Berio, Richter + Colin Currie: Reich

12日晩の演目は、ReichにIvesにBerioにRichter。

Steve Reich: Tehillim (1981) by The Colin Currie Group

前説のRichterの説明によると、Reichは70年代のミニマル音楽の追及を経て、この作品に顕著なようにユダヤ文化を始めとするより広い政治や文明のコンテキストを扱う方にシフトしてきたのだと。
冒頭から何層ものヘブライ語(旧約聖書のテキスト)の女性ヴォーカルが重なり、そこにパーカッションが入って弦が来て、めちゃくちゃこんがらがっててどこ行くかわからなくておもしろいったら。ずっとパーカッションをしゃかしゃかやっていた人、大変そうだった。

Bryce Dessner:  Réponse Lutosławski (2014) by 12 Ensemble

次のIvesまでのインターバル中にロビー(チケットなしでフリーで見れる)では12 EnsembleがBryce Dessner氏の曲を演奏していた。このひと、The Nationalのギター担当なのだが、こないだSouth BankではWorld Premireの演奏会していたし、ふつうに現代音楽の作曲家として認知されている。 The Nationalぽいとこあるか少し探してみたが、それはぜんぜんなかったねえ。

Ives : The Unanswered Question (1908, 1930-35)  by  BBC Symphony Orchestra

結構な大編成のオーケストラで、20世紀初のアメリカ、というかんじの壮大な音を聴いてReichとの落差に戸惑っていると、ラストになんかすごくおもしろいのがきた。

Berio:  Sinfonia (1968-69)


そのままBerioのめちゃくちゃなオーケストレーションのコラージュに突入する。指揮者の周りにテキストを読む男女が囲み、BeckettからKing牧師までテキストを交互に読み上げつつ、オーケストラの方はバッハからヴィバルディからマーラーからブーレーズまで - 自分でもわかるくらい解りやすい切り貼りを豪快にぶちあげ、絵巻物として広げてみせる。 ごろごろごろ。

Righter: Three Worlds (2017)


昨年2月にRoyal BalletでWayne McGregor振付の”Woolf Works”を見て、ものすごくよくてびっくりして、そこで流れていたのがこれで、自分はここからMax Richterを聴きはじめた。
Three WorldsていうのはWoolfの作品でいうと、”Mrs Dalloway”, “Orlando”, “The Waves”の3つで、これらをものすごく大雑把に言ってしまうと、それぞれ意識、時間、死、なのだと(とRichterは言った、たしか)。
冒頭に流れるのがVirginia Woolfの唯一現存している声の録音で、それらの声が導き、声が途絶える地点から始まる大きな避けようのないうねり - 波の外側と内側にあるもの。 どうしたって逃れることができない恐怖と、そこに身を委ねてしまうことの甘美さが背中合わせでくっついてきて、結局どうすることもできやしないんだわ、とため息をついていると終わってしまう。

会場にはRough Tradeが出店してMax Richterのレコードを売ってた。そういう聴かれ方をしてるの。

5.22.2018

[film] Nothing Like A Dame (2018)

9日、水曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。

ナイトの称号を叙任され、”Dame”を付けて呼ばれる4名の英国女優 – 誰もが映画とかで見たことはあるはず - Judi Dench, Maggie Smith, Eileen Atkins, Joan Plowrightがテーブルを囲んだりソファに座ったりして、ただ昔のことを喋っているだけのドキュメンタリー(90分)なのだが、おもしろくてしょうがないのはなんでだろうか。

4人が集って撮影が行われた場所は、Joan Plowrightさんが後夫のLaurence Olivierと暮らしていたカントリーハウスで、始めは屋外の庭で、やがて雨が降ってきたので屋内に移動する。 特にシナリオはないようで、監督と思われる男性がなにかきっかけの質問を投げると、それについて思い出話が始まり、当時のアーカイブ映像(どれも一瞬だけど、すごくよいの)が流れて、そこから更に話が広がっていって止まらない。

なぜ女優を志したのか、はそれぞれだけど、彼女たちにとって女優とは舞台女優のことで、そこの舞台で演じるのはまずシェイクスピアでありチェーホフであり、だからクレオパトラやオテロのこと、”The Winter’s Tale”や”The Cherry Orchard”とか”A Midsummer Night’s Dream”の話が出てきて、でも演技論というよりも、あの時あんなことがあってね、とか相手役の男優とか演出家のこととか舞台の上で張り手が当たって気を失ってとか、んで、そこに出て来る名前ときたらLaurence OlivierとかAlan BatesとかPeter Hallとか。あとはベトナム戦争反対のデモに行ったらVanessa (Redgrave) は逮捕されちゃったのよね、とか。そういうのを茶飲み話みたい(というより実際に茶飲み話よ)にぺちゃくちゃお喋りしているだけで、なんでこんなに楽しい、和めるものになってしまうのか、不思議ったらない。

鷹揚で適当でいいかげんな発音してもそれなりに受けとめてくれるアメリカ英語(特にがばがばNYの)で自分の英語力は育まれたので(それを言い訳にするつもりはぜんぜんないけど)英国の英語というのには所々本当に難儀してなんじゃろこれ、なることが多いから練習と精進は続けていて、たまに語尾とかを英国ふうに出来ると嬉しかったりするのだが、そういうのとは別に英国の英語を聞くのは何言ってるのかぜんぜんわからなくなることがあるものの、単におもしろいので好きで(英国の映画を多く見るのもそういう理由がある)、特におばあちゃんとかがやや高めの声でくちゃくちゃ魔女みたいに喋り散らしているのって音楽聴いているみたいで楽しくてしょうがない(音楽にしたらあかんだろ、だけど)。この映画の快楽もそういうのによるところが大きい気がする。舞台で歌っていた歌とかを歌いだしてみんなが唱和して「あたしなんでこんなの憶えてるのかしらやーね」てけらけらしていたり。

こういうドキュメンタリーにありがちな苦労話修行話とか女優になりたいのだったら、みたいな若いひとに向けての教訓ぽいとこは一切なくて、年取っちゃったよねえ、って互いに笑っていて、かっこいいな、こういうふうに年とらなきゃいかんな、てしみじみおもった。

昨年のBFIでMaggie Smithさんがトークで言ってたDownton Abbeyの件、Judi Denchさんに対しても改めてぶちぶち言ってた。
「箱が多すぎるのよ…  どこまで行ったかわかんないし、多すぎるから見てないのよ…」

日本の女優さんでも同様のをやればいいのにな。あのひととあのひととあのひととあのひとで。

5.21.2018

[film] A Taste of Honey (1961)

もうとっくに終わってしまったWoodfall特集で、まだ書いていなかったやつを。
4月24日の火曜日の晩、BFIで、上映後にRita TushinghamさんのQ&Aつき。

58年にShelagh Delaneyさんによって書かれた戯曲を舞台でも演出していたTony Richardsonが映画化したもの。台詞がThe Smithsの曲に引用されていたりでも有名だし、Woodfallというより60年代初の素の英国を描いた代表的な作品でもある、と。(見たことなかったけど)

17歳のJo (Rita Tushingham)がいて、学校には居場所がなくて、ママのHelen (Dora Bryan)はアル中で毎度ご機嫌にいかれててどうしたもんか、なのだがとりあえず元気で、知り合った船乗りのJimmy (Paul Danquah)と親密な仲になるのだが、そのうち彼は船に乗って消えちゃって、ママは男作って幸せそうに消えちゃって、しょうがないので靴屋のバイトを見つけて、廃屋みたいなとこを借りて一人暮らしを始めて、やがて靴を買いに来たGeoffrey (Murray Melvin)と仲良くなるのだが、やがてJoは妊娠している - Jimmyの子 - ことがわかって、さてどうしようか。

こっちに来て、古本屋とかで英国の古い写真集 - 30 - 50年代くらいの英国が写っているやつ - に触れる機会が増えたのだが、そういうのに出てくる子供達、学校、いい味したおじさんおばさん、小道に路地裏、ぼろい家、波止場、などがそのままのように眼前にでっかく広がってくるのでどこか懐かしいかんじ。加えてJoにしてもJimmyにしてもGeoffにしても、若者たちのそれぞれまったくイケてないけどそれが何か? の野良の眼差しの強さ(そんなふうに一人暮らし作戦を淡々と進めるとか)と素行と。

10代の妊娠、黒人青年との恋、彼の蒸発、親の子捨て、などなど、当時としては(今も?)相当Controvertialな内容を含むので社会問題提起系の重いのをイメージしがちかもしれないが、「ががーん」みたいな事実や事情が空から降ってくることはないし、若者たちも日々泣いているわけでは勿論なくとにかく生きてるんだからほっとけ、なたくましい野良の息遣いでその場所で自生している。

上映後のトークでRita Tushinghamさんが語っていたように、彼らは悲観も悲嘆もせず、どちらかといえば自由に楽観的に日々を生きているので、その辺間違えないでね、ということだし、そういう目線にたった方がおそらく見えてくるものの広さ深さは違ってくるに違いないし。

原作のShelagh Delaneyさんも最初の方の画面に映っているのだそう。(すごくシャイなひとなのでわからないくらい、って)

Rita Tushingham さんとのQ&Aは、オーディションを受けたときのこと撮影のこと、何もかも初めてでわけがわからなかったけど、みんな親切にしてくれたのでよい思い出しかない、とか。
実はこの晩、ダブルブッキングしていたことがわかり、Q&Aの途中で抜けて、Islingtonの教会に走ってTangeline Dreamのライブ聴いた。 ものすごいギャップがある気がしたが、そういうこともたまにあるの。


The Knack …And How to Get It (1965)


Woodfall特集で、書いていなかったのがもうひとつ。 4月12日の晩に見たやつ。
これ、日本では渋谷系が流行った頃になかなかおしゃれぽいコメディ、のような流れで紹介されていた気がして、でも当時、渋谷系のはあんま信用していなかったので見ていなくて、この回のが初めて。

Tony Richardsonのこてこて実直(そう)な画面作りとは相当違う、ちゃかちゃか落ち着きないせわしない画面が続いて、これも男子2名と女子1名(ここでもRita Tushingham さん)編成のバンドが、満たされないまま何かを求めてどたばた転がっていく話で、これ単独で60年代おしゃれ英国シネマとして見るよりは、Woodfallの作品群の中で思いっきり躁状態の方角に振れたやつ(”Tom Jones” (1963) とかと並んで)、として見たほうがわかりやすいし、テーマも把握しやすいのではないかしらん。

Woodfall作品に共通したテーマのひとつに自分の住む場所を探す/見つける(物理的に)、というのがあると思うのだが、そういう流れに置いてみるとか。 あとは主人公達がひとりでに勝手に向こうに走っていっちゃうとことか。 画面のどこを切ってもバンドのアー写みたいに様になって見えることとか。 例えば。

5.19.2018

[art] Amsterdam

4月27~28日でオランダのAmsterdamに行ってきた。

1泊にした理由は美術館ふたつと公園ひとつなので、そんなにいらないかしら、程度だったのだが、やはりぜんぜん足らなくなった。で、反省もこめてもう一回行くことになるのよね。
いろいろ誤算もあって、27日ってKing’s Day - 国王の日、ていう祝日で、天皇誕生日でしょ、くらいに思っていたらなんかみんなオレンジ色の服とか帽子とかを纏って酔っ払ってどんちゃん騒ぎをする日のようで、美術館はやっていたけどレストランとかはほぼ全滅だったり。

降りたった空港はAmsterdamで、でも着いてすぐにトラムと電車を乗り継いでハーグに行った。

Mauritshuis

今回のいっこの目的はフェルメールの総本山に突撃することで、それは95-96年、WashingtonのNational GalleryでのでっかいVermer展に行ったら大雪で飛行機遅れて入れなくて憤死しそうになったのの20年越しのリベンジなのだが、とにかくオランダを攻めこめばだいたいカバーできる。あとはドレスデンくらい。

美術館というよりはFrick CollectionとかWallace Collectionに近いかんじで、でもその密度ときたらなんかすごい。

フェルメールの「真珠の耳飾り」にようやく見れた「デルフトの風景」に、レンブラントだと自画像 (1669) に解剖学講義 (1632)に初期の”Simeon's Song of Praise” (1631)に、ルーベンスだと「蝋燭を持ったおばあちゃんと子供」Old Woman and Boy with Candles (161-17)に同じく天使むんむんの”’Modello' for the Assumption of the Virgin”(1622-25)に、パパ・ブリューゲルとルーベンスがやりたい放題の「楽園のアダムとイブ」- The Garden of Eden with the Fall of Man (1615) - これ、Metropolitanにある共作のよか楽しいし。

動物に静物もよいのがいっぱいで、でっかくてほれぼれする”The Bull”に、飛んでいっちゃいそうなくらい繊細な”The Goldfinch”に、野いちごに杏に。

これの隣にあった監獄博物館 - Museum De Gevangenpoortも入ればよかった、と今後悔している。

28日の朝、8:30発のツアーバスでチューリップを見に行った。
前日の晩は先に書いたように国をあげてのどんちゃん騒ぎの渦で、右みても左みてもビールやお酒(だけなのか?)を手にしたらりらりの酔っ払いだらけ、音楽はいろんなのがどうどう鳴りっぱなし、運河にも酔っ払い満載の船がいっぱい出て欲望垂れ流しまくりで、ああこれがブリューゲルの国かー、だったのだが、朝になったらゴミはきれいに掃除されていたので感心した。

Keukenhof

この時期に行ったのはチューリップの花畑を見たい、ていうのもあって、だって子供の頃お花といったらチューリップ(赤)かひまわり(黄)くらいしかなくて、チューリップはわかりやすいので好きだったの。 アムステルダムからバスで40分くらいで、チューリップが何万株だかあって、開いているのは一年のうち3月から5月までだけで、それ以外の期間は閉めて、その間そこのスタッフはひたすらチューリップばかり育てているのだという。なんかすごそうじゃん。

で、実際にすごくて、あんなに沢山の種類と数のチューリップをいっぺんに見たのは初めてだったのだが、チューリップの先っぽのシェイプがだめなひと(なんているかどうかわかんないけど)だったら、あれ死ぬよね、ていうくらい束になって襲ってくる。これを造ったひとって、なにを達成したくてここまでやったのかわかんないくらいにてんこ盛りで。

チューリップの束だけではなくて桜もまだあるし水仙もあるしタンポポもあるし、頭の奥が花模様のだんだらになってきてああ頭の中がお花畑というのはこういうことなのね、と思っていると植物だけじゃなくて動物もいて孔雀が歩いていたり鶏がいてウサギがいて山羊がいて羊がいて子豚がいて親豚がいて、孔雀と羊が同じ小屋に入っていたりする。さすがブリューゲルの国だわ(再び)、とか。ブリューゲルだけじゃなくてルーベンスもゴッホも、こういう花の、色の渦の中にいたりしたのだろうか – そういうのって美術館の展示からだけじゃわからないよね、とか。

Rijksmuseum

ここもでっかいヤマのひとつで、ついに来たんだわ、だったがチューリップの後に街に戻るのが遅すぎたりで2時間もいられなかったのが残念。 MetropolitanやPradoやLouvreとおなじで、底なし沼の恐怖が。
ビブリオテーク見て、Dolls’ Houseみて、レンブラントの夜警みて1628年の自画像みて、ライオン見て、再びフェルメール4点みて(ようやく見れた「小路」)、暴れスワンみて、白アスパラを始めとする細密静物画 - 目がまわってくる - みて、とにかくもう一回来るんだから、これは来ないとなんだから、と言い聞かせつつ身をひっぺがしながら進む。

館内でやっていた特集展示はふたつ。

Ed van der Elsken Through the Eyes of Jan de Bont

映画監督のJan de Bont – “Speed” (1994)とか”Twister” (1996)のひとね – が妻とふたりで収集していたエルスケンのオリジナルプリントを美術館に寄贈したことを受けて、寄贈作品を中心とした夫妻キュレーションによる作品展。セーヌ左岸の有名なあれらを始め、「にっぽん」のも – こういうとこで1960年の大阪のちんぴらに出会うのは変なかんじ – あって、大きな展示ではなかったけど、全体がしっとりとした影に包まれているようで素敵だった。

High Society

その名の通り、ハイソざまーす、と最初から開き直っているたいへん高慢ちきな展示。
最初のほうは、聳えるように大判で絢爛豪華な肖像画が贅を競うかのように並べられて、でっかいとそれだけで壮観で堂々としてて偉そうなのだが、クラーナハがありレンブラントがありサージェントがあり、その部屋を抜けて通路を跨いで反対側は裏ハイソみたいなやや影のある展示があり、更に薄暗い裏通りみたいな18禁の部屋があって、いくらハイソとか言ってもやってるのはこんなもんよ、みたいなのがあって、結果身ぐるみ剥がされてしまうアムステルダムの。

あとここの古そうな裏門(?)から続く裏庭(?)がひっそりしていて夕暮れ時に大変気持ちよかった。


食べ物関係は、オランダニシン暴食が積年の悲願としてあったわけだが、お祭りのおかげでその晩の屋台系は全滅、空いている店も軽く2時間待ち、とか言われてしまうので諦めて、列ができていた立ち食い系のレバノンのお店で巻き物とLentil Soupを戴いたらこれがすごくて、これまで結構いろんなLentil Soupを食べてきたほうだと思うのだが、ベストとしか言いようがなかった。お店の名前はThe Lebanese Sajeriaていうの。 それくらいかー。

そうそう、”The Fault in Our Stars”のふたりが座った運河沿いのベンチ(fakeらしいけど)、ちゃんと見てきた(脳内にCharli XCXの"Boom Clap”をぶいぶい流す)。お守りみたいのがいっぱい巻いてあった。

次回はレンブラントのおうち、アンネフランクのおうち、そしてオランダニシンと白アスパラに突撃したい。

5.18.2018

[film] The Lusty Men (1952)

4月25日の水曜日の晩、BFIのBig Screen Classicsていう定番シリーズ(古典をでっかい画面で見よう)で見ました。上映前にBFIのひとの解説つき。 邦題は『不屈の男たち』。こんなおもしろいのに日本では劇場未公開なの?   新札みたいにぱりぱりの35mmだった。

大恐慌時代のアメリカ西部で、ロデオ・サーキットに身を投げだして一攫千金を狙う男たちとそれを見守るしかない女の物語。 元は雑誌Lifeに載ったロデオ・カウボーイの記事をDavid Dortortが脚色して別の監督が企画を始めたあとにNicholas Rayが拾いあげて、『彼らは廃馬を撃つ』のHorace McCoyが始めのほうを書いて、更にもう数人が加わって、仕上がっていったのだと。

それにしても、ロデオってなんなのかしら。 暴れ馬や牛の背中に跨って、そこに自分を縛りつけて振り落されなかったら勝ちで、お金を貰える。 自分の力や運動神経によるところが大きいのでスポーツ、なのかも知れないが、動物のサイズやご機嫌によるところがあまりに大きいし、闘牛がスポーツでない(よね?)のと同じようにスポーツではなくて、見世物で、ロデオ・カウボーイはスポーツマンというよりはめちゃくちゃ運が強い幸運なひと、のように見られる。そして見るほうはこの運がどっちに転ぶかを見てわーわー騒ぐ。
(あ、決してスポーツのがまともって言ってるわけじゃないよ)

ベテランのロデオ・カウボーイだったJeff McCloud (Robert Mitchum)は、怪我してもうあかんわ、と引退して生まれ故郷に戻って来たところで、Wes (Arthur Kennedy) とLouise (Susan Hayward)の若い夫婦に出会って、WesはカウボーイとしてのJeffを知っていて、楽にならない生活からなんとしても抜け出したいWesはJeffにロデオのメンターになってほしい、と頼む。

そんなのやめたほうがいい、と最初は取り合わないのだが、たまたま最初に上手くやれてしまって有頂天のWesとお願いだからそんなやくざで危険なことから足を洗って、と横ではらはらしっぱなしのLouiseを見ていて仕方なくサーキットに出ていって、それで…

誰かが圧倒的な(あるいは感動的な)勝利を収めてめでたしめでたしのお話しではないの。ここに出てくる人達は初めから、勝ち負けでいうと負けている人たちで、その絶望の底から這いあがるために馬と綱に自分を縛りつけて、そこで振り落されたらそのまま物理的にも人生的にも落っことされて終わり。自分の身体とか人生をぜんぶ賭けて、負けたら簡単に死んじゃうような、そんなのが娯楽として成立して消費されていた。 

それがいいとか悪いとか悲惨とか、そういうことではなくて、かつてそういう時代と光景があって、それを改めて映像として見てみるとなんかどたばたぴょんぴょんすごく珍妙で変てこで砂漠のように乾いていて、こういうので死んじゃうのと戦争とかインディアンの襲撃とかで死んじゃうのと違うのか同じなのか、そういうところまで深く広く考えさせる映像と語り口で、Nicholas Rayだなあ、て思った。 お話しとしてはどうってことないかんじなのに、なにか刺さってくる。

とにかくRobert Mitchumがものすごくよくて(前説の人もここでの彼がBestだと強く言い切っていた)、彼の表情があるだけで、ロデオがまったく別のものに見えてくる。猛り狂った、手のつけられないなにかを素手の素面で柔らかく受けとめて笑っていて、そんなことができるのってなんなのかと。ひょっとしてこういうのを魂とかいうのかしら。 というようなわかったふうのことを言う余裕なんてぜんぜんなくて、振り落されないように必死なのは見ているこっちの方なのだった。

5.16.2018

[film] On Chesil Beach (2017)

8日の火曜日の晩、CurzonのMayfairで見ました。上映後に原作・脚本のIan McEwan, 主演のSaoirse RonanとBilly Howle, 監督のDominic CookeとプロデューサーのQ&Aがあった。

この日、裏番組としてBFIで”Maydays” (1968)の上映 + 監督 William KleinとのQ&Aもあって、どちらもぱんぱんのSold Outで、先にチケット取れたほうから見よう、と思っていたら当日の午後になってこっちが取れた。ので行った。

原作はIan McEwanの2007年の小説で、翻訳は『初夜』- 新潮クレストブックスから出ているのを知った。くらいなので読んでいない。 浜辺で何が起こるのかしら?  こないだのホン・サンスのみたいなのかしら? とか無邪気に思っていたらなかなかとんでもなかった。

62年の英国、浜辺を仲良さそうに歩いていくふたり - Florence (Saoirse Ronan)、Edward (Billy Howle) がいて、ふたりは結婚したばかりで、浜辺のそばのホテルに宿を取っていて、これから…という状態で、ひとつひとつの出来事や動作のぜんぶが躓いたりすれ違ったりぶつかったりどきどきが渦巻いてて、音楽をかけて、部屋にディナーが運ばれて、サーブされて、食事して、食事が下げられて、そして。

それぞれのちょっとした動作や会話の端っこから過去にあった出来事とか家族のこと、仕事のこと、とかにジャンプして戻ってくる、リンクされた過去のいろんなのはその直前のシークエンスとたぶん何等かの関係があって(原作者はQ&Aで明確にあるのじゃ、と言ってた)行って戻ってくるのだが、そういうのを繰り返しながら1ミリ1ミリじわじわと、戻ることはなく前に進む。 望もうが嫌がろうが時間も含めて否応なく進んで、いいからとにかく落ち着け、と全員が固唾をのんで見守るなか、その瞬間はやってくる。 それをものすごいミクロな単位でスローに追っていくので新種の生物の神秘ではないか、とか思ってしまったりもする。

じゃあふたりが互いに嫌がっているかというとそうではなくて、ものすごく真剣に好きで愛おしく思っているが故に、の貴重な一瞬なわけだし、そんなの一生に一度しかないわけだし、そんなに好きなら一生やっとれ、とか言わない。そういう真剣さを茶化したりバカにしたりしてはいけない、それは愛の当事者である彼らだけのもので、当事者ですらあれだけのことになってしまうような、一生を揺るがすようなすさまじいことなのだから、死んだことのない奴が死について偉そうに語るな、ていうのとおなじく、わあわあ言うべきことではないと思う。

で、このまま110分ぶち抜いていったらすごいかも、と怖くなってくるのだが、それはなかった。

けど、やはりこのアプローチをするであれば、文章や言葉でイメージを膨らませることができたり1秒を1時間にでも自在に敷延したり(或いはページを戻ったりも)できる小説のほうが適しているのではないか、とは思った。映画にすることで失われてしまったものがあったとしたら(ある気がする)それはなにか、は原作を読んでみるしかないのだろうか。

Edward役はあんなもんだろうが、Saoirse Ronanに関しては(今度のもまた)すばらしいと言う他ない。”Atonement” (2007)の頃からこないだの”Lady Bird” (2017)に至るまで、無垢さと一途さが - 本人の意図する意図しないに関わらず - 盛大にぶち壊してしまう親愛なる何かに対して全くぶれずにぎりぎりの表面張力を保ちつつ、これこそが自分なのだと大見栄を切る、同時にそれを見るひとにとってこれあたしのことだわ、と確信させる、そんな曲芸みたいなことをさらりとやっている。

上映後のQ&Aは人数が多かったこともあり、舞台に駆け上ってSaoirse Ronanにハグしようとして連れ出される奴がいたり、ややとっ散らかってしまったのだが、自ら脚本化した原作者は自信たっぷりで、とにかく見てほしい、ということだった。 確かに原作を知っているひとも、読んでいなかったひとも、他人事とは思えないどきどきを体験して、人生まるごとを左右することになる一瞬の闇について思いを巡らしてみることになると思うよ。(と他人事ぽく言ってみる)

5.15.2018

[art] Madrid

3月の終わりにMadridに行ったのを書いていなくて、どこまで思い出せるかわからないができるところまで書いてみよう。 2泊で、うち半日はToledoに行った。 メインはもちろん美術館で、3つあるでっかいやつら全部。

Museo del Prado

4月の10日からでっかいルーベンス展が始まる前の狭間、Fortunyの特別展が終わった直後、の狭間だったのが残念だったが、それでも十分でっかい。でっかければそれでいいのかというと、この場合はぜんぜんいいの。右見ても左見ても名画だらけ。

ボッシュの”The Garden of Earthly Delights” - 快楽の園があっていつまで見てても飽きなくて、フラアンジェリコの”The Annunciation”があって、ラファエロの”The Cardinal”があって、カラバッジョの”David with the head of Goliath” - ウィーン美術史美術館の生首とは別の – があって、ルーベンスの”The Three Graces Rubens”があって、ヴェラスケスは束になってあるし、そしてもちろんゴヤ。有名なのは勿論、夢に現に、家族や子供を描いたほんわかしたのから猫のけんか  - “Cats fighting”にいろんなエッチングに、この人はほんとに絵を描くのが好きで、そこに世界をまるごとぶっこもうとしたのだな、て改めておもった。フォルチュニィのもいくつかあって、なんか悔しかったので終わってしまった展示のカタログだけ買った。

Museo Thyssen Bornemisza

Pradoとここの違いが余りよくわかっていないのだが、Pradoよかやや近~現代寄りのもあって、圧倒されるような有名な古典とか大作があんまない分、こまこまきちんとした網羅性はすごくて、へーこの人のこんなのが(じー)ていうのが山ほどあって、結局時間を取られてしまうのは変わらず。ギルランダイオに、デューラーに、クラーナハに、レンブラント(Pradoにあんまなかったのはなぜ?)に、フラゴナール(Wallace Collectionの”The Swing”に対してこっちは”The See-Saw”)に、クールベ - “The Fisherman's Children” - に、ドガに、クレーに、ピカソに、カンディンスキーに …  B面やアウトテイクス(そんな失礼な)で固めたアンソロジーがおもしろすぎて止められなくなってしまうかんじに似ていたかも。

Sorolla y la moda


離れのようなところでやっていた特別展で、別チケットの時間制で取れた時間が遅かったので、Reina Sofiaに行った後に戻ってきた。
当時ソローヤの周りにいた社交界の人々の肖像画をそこに描かれた衣装と一緒に展示してある。ぺったんこで少しだけ歪んだ、マティスが抽象に向かわなければあり得たかもしれない透明さとか空気感があって、描かれた人達はなにも語ってこない。ただきれいな服を来てそこにいるだけ。

Museo Nacional Centro de Arte Reina Sofía

ここはモダンアートの聖地でもあって、はじめはペソアの展示と「ゲルニカ」を見れればよいか、程度だったのだが、ものすごい物量に圧倒されて、(時間もないし)ひえー通り過ぎてごめんなさい、て走り抜けて終わってしまった。MoMAのようにモダンアートをアーカイブするというより、モダンアートの試行と格闘の歴史をドキュメントする – それはこのスペインだからこそ可能なのだという強い意思に貫かれているかのような。次回は3時間くらい掛けてじっくり見たい。
「ゲルニカ」(1937)は当然のようにすげー、としか言いようがないのだが、これだけ見てもしょうがなくて、ピカソがここに至るまでの試行の軌跡を追わないと、なのだがそれは既にいろいろ見てきた気がしていて、だからでっかい本物の方は、おう(やっと会えたね)、で終わってしまったかんじが。

Pessoa : All Art Is a Form of Literature

ペソアの生誕130年を記念して、彼の詩の言葉が表現しようとした世界のありようを別の視覚表現で抽象してみたら例えばこんなふうになるよね、というのを同時代のアーティスト - Amadeo de Souza-Cardoso, Eduardo Viana, José de Almada Negreiros, Abel Manta, Sarah Affonso などなど - の展示を含めて複眼で追ってみようという展示で、それだけ彼の詩の言葉やフレーズが世の中の視野視界を動かしたり固めたり浸食したり、ていうことはあったのだし、今だってある。彼が文字に残したものを全部読みこめば、ひとつの、複数の世界(像)や地図が浮かびあがることは間違いなく、そこに絵なんかいらないかもしれないのだが、あえて突っ込んでみる、と。

ただもう夕方近くの時間で、目がいいかげんにしてください、って死に始めていて、細かい文字を追っていく(ペソアのテキストと絵を対比させたものとかが多い)のは無理になっていて、なのでカタログを買った。

El entierro del Conde de Orgaz - The Burial of the Count of Orgaz

バスの計5時間ツアーで行ったToledoは遠くからみた川に囲まれた城塞都市の威容がまずかっこよくて、中に入ってみれば教会でも寺院でも要の建物はどれもばりばりに荘厳に聳えていて、でもそこに至るまでの入り組んだ路地とか家々の重なり具合がすごく素敵で、モロッコのFezほどではないけど、一日うろうろしたいな、だった。

Toledoはエル・グレコのいた土地でもあって、ここの教会のでっかい壁画はツアーに組み込まれていたので見たのだが、変な画家だよね、て改めて思った。なんかすげえな、とは思ったけど。

Palacio Real de Madrid

午前中の宮殿のツアー。要するに(かつてあった)帝国の威信をかけて、ていうやつなのでものすごいバブリーで豪華絢爛のこれでもかで、これと比べたらバッキンガム宮殿のなんてお行儀のよいことよ、だった。ゴヤの描いたでっかい肖像画がこれまたよくて。

Museo del Romanticismo


最終日のお昼のあとに歩いてたらあったので入った。ロマン派のアートが置いてあるとこかと思ったら違って、昔のヒラの貴族の暮らしあれこれを当時の邸宅のなかに再構築したようなやつで、居間、とか、お食事する部屋、とか子供部屋、とか、遊びとか、家具とか、幻灯機とか、そういうの。こういうとこで暮らしていた、こういうとこで育った人たちがいたんだねえ、と。


食べものはスペインだもの、なに食べたって驚異的で、おそるべし、だった。
トルティーヤ(オムレツ)もタコもタラもハモンも甘いのもなんでも、Londonのスペイン料理もおいしいのは多いけど、当たり前のように格がちがうかんじ。

タパス屋でとてつもなかったのは、Tasca Celso y ManoloとCasa González(赤ペッパーとイカのとろとろとか驚愕)、お菓子屋だとLa Duquesita、そしてこんなのもちろん氷山の。

5.11.2018

[film] A Quiet Place (2018)

5日の午後、AldgateのCurzonでみました。子供の日だし、子供でてくるし。
ものすごく怖そうで行くの躊躇していたのだが上映館も少なくなってきたし、行くしかないか、と。

2020年くらいの、たぶんアメリカの田舎で、ゴーストタウン化して人のいない町のドラッグストアで裸足になってそうっと薬とかを探してカバンに詰めている一家がいて、泥棒というよりは人いないし店になっていないのだからいいよね、というかんじ。でもとにかく音を立てたらやばいらしい。

一家はパパがLee (John Krasinski)、ママがEvelyn (Emily Blunt)、子供たちがMarcus、Regan (Millicent Simmonds)、Beauの5人で、Reganは耳が聞こえないらしく、Beauはまだ小さくてなんで音を立ててはいけないかわかっていなくて、音の出る玩具を鳴らそうとして取りあげられたりしている。

森の奥の家に帰る途中、Beauが取りあげたはずの玩具を鳴らしてしまうと、一瞬でなんかでっかいのが横から襲ってきてBeauはいなくなって、家族は叫び声を懸命に押し殺す。
ここまできてどういう状況なのかがようやくわかってきて、なんか音をたてるとさっきのが瞬時に襲いにくる、見える見えないは関係なく、一定量以上の音がいけないのだと。

だからおうちの中でもみんなひっそり息を殺して暮らしていて、陽がおちると火を焚いて生きている人たちは確認を取りあったりしてて、跳ねまわって遊びたい子供たちのストレスは相当だろうなと思うと、パパはMarcusを滝のところに連れていったり(滝の傍は音がでっかいので喋っても平気)、Reganには手製の人工内耳を渡したりしてて(嫌がられてる)、でもそのうち、Evelynのお腹に子供がいることがわかって、サイレントお産なんてぜったい無理だろうって目の前真っ暗になる。

ここから先は書かないほうがよいかもなので書かないけど、最後はどうしたって奴らと対決することになるの。「くたばりやがれー」とか「おりゃー」とかの声なしで。

心霊系ホラーではなくてモンスター系のホラーだったので少しは安心して、でもとにかく音をたてたらあかん、というのでびくびくおどおどしながら見て、自分が喰われるわけでもないのに画面で音が鳴るたびにびっくりして飛びあがって、という90分だった。ヴィジュアルというよりも 突然鳴る音のおっかなさのみで勝負、みたいな。新しいとは思わないし、もっともっと怖くできる気もするけど、これで十分こわいったらこわい。ファミリードラマとして見ても、歯を食いしばって耐えまくるのが似合うEmily Bluntと何が来てもとりあえず受けとめてみせるJohn Krasinskiの組合せはこの危機的状況のなかでよく映える。

そして、“Wonderstruck” (2017)からのMillicent Simmondsさんも。音や声が聞こえないことの悲しみや苛立ちをダイレクトに(表情とかよりなによりも)エモの動きに変換して、必死でなにかを求め、必死でなにかから逃れようとする姿を直線で演じていて、よいったら。

ど真ん中で鳴るほぼ唯一の音楽がNeil Youngだったりするので、これはもう最初から爆音でいくしかないよね、とおもったり。

5.10.2018

[film] if.... (1968)

4月29日、日曜日の午後、CurzonのSOHOで見ました。 69年のカンヌでPalme d’Orを受賞した作品。

68年5月から50年ということで、BFIではパリの5月を小特集したりしていて(ぜんぜん行けてないし)、この作品も公開から50年、というのと、Johnny役のDavid Woodさんがこれの撮影時のエピソードを纏めた本を上梓したのでそれのお祝いとで、彼のQ&Aつきの上映会が開かれた。上映プリントは00年代に新たに焼かれた35mmで、これのお披露目のときにはMalcolm McDowellを始め主要キャストのリユニオンがあったのだという。

60年代の英国にそれはそれは厳格な全寮制パブリックスクールがあって、男子ばかりのがちがちで、Mick Travis (Malcolm McDowell)とWallace (Richard Warwick) とJohnny (David Wood)の3人組は同じ部屋で、だいたいつるんで不良してて、その反対側には風紀取り締まりの警察みたいに偉そうな連中がいて、その上層には教師とか校長とか軍の上の教会の上のといった更に偉そうな連中がいて、これらの間のたいして意味があるとは思えない果てなき攻防を描く。 要は階級社会をきっちり支えるどこに出してもおかしくないぴっかぴかの英国紳士に仕立てあげ〼、ていうことだと思うのだが、そんなどこに出してもおかしくないのなんてちゃんちゃらおかしいわ、ていう理屈が彼らの妄想や欲望も含めてアナーキーに暴走して止まらない。最後には革命するから、って機関銃抱えてガガガガ、なにもかも吹っ飛んじまえ、まで行って、それが"if…." ってこと。

取り締まる側もぶち壊す側もそれぞれの動機とか理屈はシンプルで、それがどうした、程度なもので、見るべきは3人の不屈の、こまこましたエピソードから伺えるどこから湧いてくるのかわからない生のエネルギーのような不謹慎極まりないあれで、これらの向こう側に教育とか組織とかクラスとか、なんなのかねえ、てのがぼこぼこ湧いて聳えてきて考えさせてくれる。革命の理念は壁の落書きみたいに見えてくるけど革命を煽動するようななにか、には向かわない。

これと同じようなのをどこかで見た気が、て思って行き当たったのがアルトマンの"MASH" (1970)で - あれも3人組じゃなかったか? - ここでのシステム vs. ふしだらの攻防の果てに見えてくる米国のありようと、"if…."から見えてくる英国のありようは、(このふたつが似ているということではなく)そんなふうに露わに裸にされるシステムとか伝統とかの滑稽さ、という点で共通していたりしないだろうか。 そしてそれもまた「文化」みたいなところに回収されてしまうので結局不動で。

それにしてもMalcolm McDowellの(あんな場所にいる)野良犬の目、すごいねえ。

上映後のトークはDavid Woodさんの他に監督Lindsay Andersonに何度もインタビューしたことがあるおじさんが加わって、主に撮影中のエピソードをいろいろ。 撮影が進行するにつれてMalcolm McDowelのアイデアを入れて変えてしまった部分が結構あった - Lindsay Andersonとしては珍しい - とか。 モノクロの画面は当初お金がなくてカラーフィルムを調達できなかったから、と言われているようだが、そうではなくて建物の全景をとらえるようなシーンは最初の頃にモノクロでぜんぶ撮っておいて、あとでカラーと組み合わせることを思いついたのだ、とか。

でも時間が迫っていたので、サイン会は諦めて次のInfinity Warに向かったの。

[music] Goat Girl

5月2日の水曜日の晩、Islington駅前のThe Garageでみました。4月17日に予定されていたライブがメンバーの体調不良で延びたやつで、出張が入ってあーあ行けなくなっちゃったようと嘆いていたやつだったからほんとよかった。Sold Outしていた。

最近のバンドのライブに行くのってほんと久々。 Goat Girlの7inchは店で見かける都度(名前とジャケで)買ったりしていて、でもどれ聴いても印象はなんじゃこれ?で、まだデビューアルバムは買っていない。ライブ見てからね、にしていた。

開始時間がよくわからなかったので20時くらいに行ったら前座がふたつあって、その最初のが始まるくらいだった(..ぐったり)。最初のはSuitman Jungleていうスーツにタイ姿の若者ひとりで、ドラムキットを前にちゃかぽこどかすか効果音のひとり暴れ太鼓をコミカルにせわしなくやってた。もうちょっとドラムスが上手かったら前のめりになれるのにな、だった。

続いてのがThe Rebelっていうこれもちゃんとタイをした(流行ってるの?)若者 - Ben Wallers - ひとり、今度のはギターいっぽんでいろんなループ渦をぐるぐる爆発させながら雲、というほどではない藪、みたいな世界を作り出していた。次々に現れるねえ。

Goat Girlが出てきたのは21:40くらい。舞台の上には(よく見えなかったけど)山羊のお面や山羊の頭(たぶんナマじゃない)、でっかいゴミ人形(?)みたいのが民俗的ななんかのように立っている。出てきたのは6人、みんな女性、フィドルがいる。 ちなみにバンド名はギリシャの民話ではなくて、コメディアンBill Hicksのネタ”Goat Boy”から来ているのだと – Webに動画があるので見たければ。

若さ青さに任せてぐいぐい、のかんじも、デビュー盤出しましたよろしくね、の愛嬌もない、堂々とした山羊の(意味不明な)落ち着きっぷりで、ギターのアルペジオからどっすんばったん重心低めの音の沼にずぶずぶと入りこんでいく。音のスケール感でいうとアメリカの田舎のパブとかガレージで地元バンドがそこらの人達向けにやっているふうで、がしゃがしゃギター2台にフィドルがスライドギターの轟音のように横から切りこんできて、なんか気持ちよいし、だらだらステップ踏んで踊れる。

全編通してほぼMCもなく不機嫌なのか御機嫌なのか不明な山羊の目の状態の低めの声でどかすかやってくれて、中盤にテープの音で小休止して以降 - ”I Don’t Care - ”から先のダイナミックに荒れた吹きっさらし感はどう聴いても容赦ないガレージパンクのそれで、モッシュまで起こったのにはえー、だったけどわかんなくはない、それくらいにじわじわ来る、クールな女の子たちではあった。

今の新しいバンドの人たちの中で、彼女たちの音がどこにどんなふうに位置づけられるのか、ぜんぜんわからない – 80年代初のポストパンク、93-94年頃のオルタナ初期、00年代初のNYの音、あの辺と比べたときに – のだし、LGBTQとかフェミニズムとかDIYとかそういうのとも一見あんま関係なさそうだし、しかしだからと言って聴かないかというと勿論そんなことはなくて、かっこよくておもしろいので聴いていきたい。

アンコールなし、本編ほぼ1時間。 山羊すてき。

5.09.2018

[film] Tully (2018)

4日の金曜日の晩、3連休の前、なんかコメディぽいのが見たい、と、これか”I Feel Pretty”にするか悩んで(つまりCharlize TheronにするかAmy Schumerにするか悩んで)、前者にした。どっちにしても両方見るけど。

Marlo (Charlize Theron) は2児のママで、お腹にもうひとり待機してて、子供の送り迎えとか毎日慌ただしくて、2番目の男の子は情緒不安定で学校で問題を起こしたりしているので更に手間がかかって、パパ(Ron Livingston)はそれなりに理解してくれているし怠けているわけでもなくて、単に労力として量も質も(非常に)大変なことなのだとおもう。

やがて3人目が世の中に現れて、そこからはタイマーして搾乳したり子供の泣き声モニターしつつ寝たり起きたり、その合間に2児の面倒みて、見るからに申し訳ないくらい大変なのの洪水がやってきて、やつれ果てて萎れてきて瀕死の状態のときに友人からNight Nanny - 夜間の子守りをしてくれる - を紹介されたので藁スガ/猫手で呼んでみる。

夜になってやってきたのは若くてしゃらんとしたTully (Mackenzie Davis)で、なんかイメージと違うし育児経験があるとも思えないしだいじょうぶかこの小娘は、だったのだが彼女がきた晩はしばらくぶりにぐっすり寝ることができて起きてみると片づけもしてご飯も用意して消えているのできょとんとする。

その後も魔法使いみたいなTullyの活躍は続いて、夜中の子守りに関しては完璧としか言いようがなくて、子守り以外のいろんなこともやってもらったりアドバイスくれたりいろんな話をしてふたりは仲良くなっていくのだが、TullyはTullyでいろいろあるらしくたまに荒れたりして、そういう晩にふたりで車をぶっとばしCyndi LauperにまみれてBrooklynに突撃して憂さ晴らしするところなんか最高で。

日常を「日常」としてするする流しそうめんで生きていられるひとなんてそういないし比べられるものでもないのだが、こういう出会いが楽にしてくれる何かってあるんだろうな。いいな、って。
(逆に重くしてくれる出会いもあるのだろう。あまり考えたくないけど)

監督はJason Reitmanさんなので基本は人情ものなのだし最後はあれしかないかと思って、でも出産~育児をここまでスリリングでダイナミックなはらはらアクションとして描いたところはえらくて、つまりあれほど無敵のFuriosaでもAtomic Blondeでもぼろぼろのしおしおに疲弊させてしまう、そういう過酷な戦場であると、それをこういうコメディのなかで(でも真剣に切実に)描いたのはいいな、と。

あとこれは、Charlize Theronさんのもうひとつの側面 – “Young Adult” (2011)で描かれた自分なんてもううんざりだいなくなっちゃえ、系の終わりのない旅に繋がるところもあって、それは役作りで20Kg増量がどうした、とかいうことよりも広く深くいろんなことを考えさせてくれる。
(つまり今がどんよりしちゃって笑えなくなってしまった自分の物語でもあるのだ、と)

失礼で無責任な言い方になってしまうのかもしれないけど、この映画で描かれたのよか数倍過酷な育児の現場にいると思われる日本のお母さんたちにも見てほしい。見たらどうなるってのさ? かもしれないけど。こういう世界もひょっとしたらどっかにはあるのかも、と。

Mackenzie Davisさん、すごくいいな。

[film] Laughter in the Dark (1969)

4月22日の日曜日の晩、BFIのWoodfall特集で見ました。

原作はまだ30代のナボコフがロシア語で書いた”Kamera Obskura” (1933)、これをナボコフ自身が英訳したのが”Laughter in the Dark”(1938) で、その際に名前や設定も変えていて、翻訳書はロシア語からの翻訳が『カメラ・オブスクーラ』として光文社文庫からでていて、英語版からの翻訳は『マルゴ』として河出から出ていて、仏語版からの翻訳は『マグダ』として大昔に河出から出ていて、いろいろあってめんどい。

この映画版は英国ではTV放映は30年以上されていなくて、VideoにもDVDにもなっていなくて、めったに見ることができないものだと。 どこのプリントなのか、35mmでの上映だった。

小説の舞台は1930年代のベルリンだったが、映画のほうの舞台となるのは60年代のロンドン、Sir Edward More (Nicol Williamson)は裕福で名声もあるアートディーラーで、妻も娘もいるのに若いMargot (Anna Karina) - 小説では16歳という設定なんだけど … と知り合ってめろめろになり、妻も娘も捨てちゃって、それのバチが当たったのか事故で視力を失い、Margoと一緒に療養のためにスペインの邸宅に移り住むのだが、Margoは自分の恋人Herve (Jean-Claude Drouot)をこっそり連れこんでいて、Moreの目が見えないのをいいことにやりたい放題で、Moreもだんだん変なかんじに気がつき始めて、どうなっちゃうのか。 … まあ破滅しかない。

なんかおかしい、だれかもう一人いるとか人の気配がとか、Moreが言うたびにMargoはなんとか取り繕って、そんなあなたが外を出歩くのは危険だからあたしがぜんぶやるから、と彼をひとりで軟禁状態にしてHerveと浜辺で遊んだりしているわけだが、ひとりだろうが相手がふたりだろうが常に暗闇しか見えないMoreには自分側の闇も相手側が見えない闇もおなじで、つまりぜんぶ真っ暗闇で、そこに浮かびあがってくるのは情念で歪められた彼女がよからぬことを、ていうイメージと、自分を蔑んでいるかのような高笑いと - その笑いは彼女(たち)から来るものなのか自分で発しているものなのか、頭のなかでだんだんにでっかくなっていく。

こんなふうにストーリーはシンプルで、見るべきとこは陽光の下、Moreの傍で好き放題に楽しむMargoとHerveの悦楽とそれに対比されるMoreのがんじがらめの暗闇だと思うのだが、後者は映像にはならず、Moreの表情と挙動 – 苛立つ老いた盲人のそれ – が全てで、つまり、なので、ほんとにシンプルな痴情自滅男の哀れ、のような三文週刊誌ネタみたいのにしかならない。

おそらくナボコフの狙いも、それを60年代ロンドンの社交界に置き換えたTony Richardsonの狙いもそのへんにあったのだろうからこれはこれでよいの … かなあ程度。

ただ、当初Moreを演じる予定だったRichard Burtonから替わったNicol Williamsonの演技はすばらしく繊細でよかった。 Richard Burtonはちがうかも。 Anna Karinaは、ちょっとあまりに普通すぎてなんか。

ロンドンのパーティのシーンで一瞬 David Hockneyが映る(すぐにわかる)。あとそこで演奏しているバンドはEast of Edenだって。

5.05.2018

[film] 120 battements par minute (2017)

4月23日、月曜日の晩にSOHOのCurzonで見ました。 “120 BPM”。

公開されてからだいぶ日が経っていて、見なきゃだったのだが、これの予告でBronski Beatの” Smalltown Boy” - Jimmy Somervilleの声が聴こえてくるだけでじーんとしてしまって、こんなの絶対泣いちゃうに決まっているのでなかなか足が向かなかったの。 2017年のカンヌのグランプリ受賞作。

90年代初、HIV/AIDSという未知の、新たな病の蔓延が社会の脅威になっていて、それはゲイの人達の間で性交渉を通じて感染していくらしいことが確認され、根本的な治癒策はなくコンドームで予防するくらいのことしかできない、と言われていた時代、HIV/AIDSがゲイに対する偏見の線上で、その偏見を悪い方に助長する形で広がっていった時代。 フランスで、ACT UPという活動団体に集まった若者(含.患者)たちが製薬会社や政府とどう渡りあい、抗議活動を繰り広げ、パブリックにアピールしていったのか、という試行錯誤や苦闘 – たまに歓喜、更にその活動のなかで知り合ったSean (Nahuel Pérez Biscayart)とNathan (Arnaud Valois)の切なく燃えた恋、このふたつの線を中心に描く。他にも若者はいっぱい出てきてそれぞれに素敵なのだが、とにかく。

抗議活動の方は学校や製薬会社に乗り込んでいって暴れたり声をあげたり威勢よくて勇ましくてがんばれーなのだが、それと並走しつつも、たどたどしく歩み寄り確かめあい、絡みあっていくふたりの恋の行方ときたら、別の方向を向いているようで実は同じ方角に消えていった流れ星だったのか、とか。

HIV PositiveのSeanにとって抗議活動は自分が死なないための、(沈黙してもその先には死しかないから)死を蹴散らすための必死の活動で、叫びで、そのスケッチが切り取る彼らひとりひとりの生の輝きがあって、それがSeanの体の衰弱と共に視野が狭まるように明るさを失っていくと、Seanのアパートでホスピスを始めるNathanとの愛が、今度は生を取り戻すための、生の灯を絶やさないための唯一の、最後の情動として、祈りとして、これしかないような確かさで愛と敬意と共に描かれる。

もちろんその灯が長く続くことはないのだが、彼の灰は抗議活動の場で再び光を取り戻すことになるだろう。
ものすごく陳腐でベタだけど蛍が舞っているかのようなその光景に誰もがSean… て立ち尽くして微笑むことになるの。

90年代初の都会の片隅に散っていった若者群像、という宣伝文句になってしまうのかもしれないが、もっとシンプルでピュアな恋愛映画、青春映画、でよいのかも。

かつて120Bpsで生きて動いていなければ死んでしまう時代というのが、今からほんの1/4世紀ほど前にあって、戦争でもないのに沢山の愛と生が失われて、若者たちはみんな適度に汚れてて、汚れることを怖れずに生にダイブしまくっていて、未だにあれはなんだったのか、と思うことがある。 彼らはいまどこにいて、なにをしているのか、デモや難民問題やトランプをどう見ているのか、とか。

“1991: The Year Punk Broke” (1992)との2本立てで改めて見てみたい。 .. “Touch Me I’m Sick”

5.04.2018

[music] Alessandro Cortini

30日の晩、Barbicanの、いつも行っているホールの方ではない、Barbican敷地内の音楽演劇学校内にあるホールで見ました。学校内のホールとは思えないくらい椅子もちゃんとしていて2階もあって、音もよい。 チケットは油断していたらSold Outがついてぜんぜん入れてくれなくて、当日の昼にようやく1枚取れた。

前座はカナダのSarah Davachiさんで、ステージ左手のコンソールで冒頭から圧迫感たっぷりの電子音が鼓膜をぶいぶい押してきて、あー耳栓持ってくるんだったと思ったが、その分厚い圧の壁がだんだんに下から突きあげてくるノイズの放射で食い破られて決壊して噴水が溢れて洪水になっていくさまが目に見えるような展開で、最後の方の快感ときたらなかなかだった。

休憩を挟んでAlessandro CortiniさんによるAVANTIi。日本でもやってたやつよね?
前方のスクリーンに彼のおじいさんが撮って自宅から発掘されたSuper8の映像が映しだされて、彼はステージ右手の机上の機械を、ほとんど映像を見あげつつ操作していた。

映像は服装のかんじでは60~70年代だろうか、今でいうホームビデオ映像で、土地はイタリア、ビーチの映像、雪の日、駅や建物や公園、男たちの集まり、女たちの集まり、じいちゃんが撮る孫(?)、等々、誰もがあーこういうの、と分かるようなもので、他人の、プライベートなものではあるのだろうが実際の映像から伝わってくるものは不思議とその印象からは遠い、例えばMOMAの映画部門で見てきたようなこの時代の実験映画とかフィルムアート(カメラを手軽に持ち運べるようになったことで可能となった「プライベート」を題材とした作品の数々とか)を思い起こさせるものだった。被写体が纏う柔らかな輪郭と滲んだような色彩、これらのぼわんとしたかんじがもたらす暖かさ、親密さ、のようなもの。
わかんないけどね。これがVHSやBetaのビデオ映像や最近の4Kデジタルで撮られたものだったらどういう印象を引き起こすのか、そこに見る側の世代的なものがあったりするのかどうか、とか。

そしてそこに被さる音はというと、映像に入っていたものをコラージュしたかのような会話音声に導かれるようにカセット特有の音の丸みとヒスノイズ(おおむかし、自分のバンドの音をカセットで録っていたのでわかるの)が映像をまるごと包んで映像の揺らぎと共振しながら不思議な立体感をもってひとりでに動きだす – 過去のある時間と空間がカセットの箱のなかで幻灯機のように浮かびあがり、新たな物語を語り始めるかのような錯覚を引きおこす。ノスタルジックななにかだけではない、それはホラーかもしれないしロマンかもしれないし。  イタリアン・バロックの情動と豊饒さと。

エレクトロの、シンセの音は知り尽くしているはずの - Atticus Rossまでいる - Nine Inch Nailsになぜ彼が必要とされるのか、少しわかった気がした。樹を見る、建物を見る、あるいは今回のように過去の映像を見る、そこから新たな音、異なるイメージを引っ張りだして練りあげる力がものすごく強いのだと思う。それがヨーロッパの、イタリア人だからとかそういうとこはわからない。 線を引くつもりはまったくないのだが、例えば身近な公園とか、普段の食べ物とか、そういうのが違うだけで違ってくるものがある気がなんとなく - ヨーロッパの町をうろうろ見ていくと - してきた今日この頃。(少なくともアメリカの西の方とはものすごくちがう。牛と豚くらいちがう)

で、今年の夏はどうするのか、そろそろ決めないと。

5.02.2018

[film] Girl with Green Eyes (1964)

4月9日の月曜日の晩、BFIのWoodfall特集で見ました。この特集、5月に入ったので終わっちゃったのね。

原作はEdna O'Brienの小説”The Lonely Girl”を彼女自身が脚色していて、Tony Richardson作品で撮影担当だったDesmond Davisが初めて監督をした作品。

Kate (Rita Tushingham)は田舎からダブリンに出てきてグローサリーストアでバイトしながら、ルームメイトのBaba (Lynn Redgrave)とつるんでやんちゃに遊んでて、Babaの男友達を車で田舎に送っていったときにそこの古い邸宅で中年男のEugene (Peter Finch)と出会う。その後もカフェで会ったり本屋で会ったりしているうちに仲良くなって、Kateの方からEugeneの家に押しかけて暮らすようになる。 Eugeneは一人暮らしのようだったが実は妻がいて、アイルランドでは離婚ができないのでその手続きのためアメリカに行っているのだと。

アイルランドではそういう関係は許されないものなので、やがてふたりが頻繁に会っているのを通報されて実家に連れ戻されたり、Eugeneの家に隣人が押し掛けたりしてきて(使用人のおばさんが連中に銃をぶっぱなすシーン、最高)、Kateは最初は反発してがんばるのだがだんだん互いに疲れてきて。

どろどろ暗いところの全くない – “A Taste of Honey” (1961) もそんなかんじだった - 女の子の一途さと彼女から見た周囲のいけてないかんじを淡々と切り取って対置して、全体としては躓きながらも自分の足で走り出そうとする女の子の瑞々しさに溢れている。Rita Tushinghamさんの大きな瞳としかめっ面がすべてを動かしていて、それは青年が主人公の”Saturday Night and Sunday Morning” (1960)や”Look Back in Anger” (1959) にあった、あえて泥のなかに首を突っ込もうとする野放図なエネルギーの噴出とは別の切り取りかたで、なんかよいの。 あと、ダブリンのグローサリーとかカフェとか本屋の描写も素敵で、ああ行ってみたいなあそこで暮したいなー、になる。

これの2日後、11日の晩の”Tom Jones” (1963)の上映前にイントロで登場したVanessa Redgraveさん – Baba役のLynn Redgraveのお姉さん – は、”Tom Jones”が当たってくれたおかげでお金ができて、それで撮影のDesmond Davisはこの作品を作ることができた。これは本当に素晴らしい作品になったの、て絶賛していた。 うんうん。

あと、Rita Tushinghamさんの瞳て、本当に緑なのね。

Tom Jones (Director’s Cut) (1963)  + intro by Vanessa Redgrave

というわけで4月11日の晩に見ました。Vanessa Redgraveさんのイントロ、Tony Richardsonのメモワールを参照しつつ、彼がいかにすばらしい人だったかを懐かしげに語っていた。

邦題は『トム・ジョーンズの華麗な冒険』。原作は18世紀のHenry Fieldingの古典 “The History of Tom Jones, a Foundling” - 翻訳が岩波文庫から出ていたのは憶えているけど読んでいない。この原作をJohn Osborneが脚色して、恋して旅して仕事(ってなんだ)して元気いっぱいに野道を突っ走っていく若者Tom Jones (Albert Finney)の誕生から結婚するまでの色恋まみれのどたばた珍道中として描く。

裕福なおうちの寝室のベッドに置かれていた(つまり誰の子かわからない)赤ん坊のTomは、大切に育てられて、地主の娘Sophie (Susannah York)と仲良くなるのだが、そこのぼんぼんに妬まれて追い出されて旅に出て、Sophieも後を追って、いろんなことが起こるのだがふたりの恋はどうなるのかー。

ぜんぜん古典劇/時代劇のかんじはなくて、お金はかかっていそうだけど妙にせわしなく、たまに役者はカメラの方を凝視してきたりして、今の若者の動きを捕まえようとしているぽいのと、同時にTomひとりにカメラが寄っていくのはあんまなくて、わらわらした群集劇にもなっていて、そのへんブリューゲルの絵みたいに見えてきたりしてたまんないの。

Albert Finneyのむせかえるようなエナジーと華が見事で、昔の東映の時代劇に出てくるぴっかぴかの若者たちを見ているようだった。これまでに見てきたWoodfall作品のモノクロの若者たちと比べたときにどうか、というと、ぜんぜん違うようで、ひょっとして根はあまり変わらないのではないか、という気が少しする。 背景の色こそ違うけど、楽観的で不屈のところとか。

今の若者がTomを演じるとしたら誰が?

5.01.2018

[film] Avengers: Infinity War (2018)

29日、日曜日の夕方、Picturehouse Centralで見ました。3Dで。

既にいろんなとこでネタバレ禁だのどうの言われているようだがここまで来ると何がネタかよ、とか思うよね。何か書いてみたところでそれがどれくらい物語のコアを突いているのかいないのかちっともわからない、その状態で、それによってバレるなにかなんてどーってことない何かでしかないのではないか、とか。自分の頭を整理するために、整理なんてたぶんできなくてメモ書きになりそうだけど書いておく。分量が多いのですぐに忘れちゃいそうだし。

いちおう、誰もが言っているのがてんこ盛りのジェットコースターだということ。
“Captain America: Civil War” (2016)ですらじゅうぶんに盛ってあって辟易だったのに、今度のはあれの上を行く。でもあの状態をジェットコースターと呼ぶのはやや抵抗があって、だってアップダウンの果てにちゃんと戻ってこれているのかどうかわかんないんだもの。ロンドンでの映画終わった直後の反応はというと、しばしの沈黙(&おそらく目配せ)の後に、”HaHaHaha~”みたいな、英国人がわけわかんないものに遭遇したときに発する特徴的な笑いがざわざわって広がった。 これ、米国だと小声で4文字が飛び交うかんじなのかしら。

タイトルの”Infinity War”にはふたつの意味 - 決着がつかない、というのと終わらない、ていうの - があって、決着がつかないから終わらないのか、終わらないから決着がつかないのか、あれだけの強い変態共がうようよいるのに。で、これを終わらせたい - 終わらせるにはどうしたらよいのかについての考察とか解答例、みたいなものかもしれない。

“Civil War”があって、”Black Panther”があって、”Infinity War”がある。CivilはCivil(市民)間の戦争を描いて、”Black…”はTribe間の戦争を描いていて、”Infinity…”は無限のなんでもあり - 戦争を終わらせるための戦争、究極の戦争について描いた、と言えないだろうか。Avengers - 仇を討つものがいて、そこにGuardians - 守護者が入ってきて、あとはそれらをぜんぶ終わらせる奴がやってくる、と。

それを持つことで宇宙の全てを支配できる、そういうものがある、それは世界を創ったひとがそういうふうにしたからで、それが神話と呼ばれるやつで、*The Lord of the Rings*だと指輪だし、”Ready Player One”だと3つのタマゴだし、”Justice League”だと4つだかの箱だったし、”Star Wars”はモノではなくてForceと呼ばれる力とか気みたいなやつで、これはちょっと新しかったけど、とにかくそういうのがあって、それについてあれこれ言ってもしょうがないの。宇宙とか世界とかが本当にあるのだとしたらそれを成り立たせたり統御したりする物語やブツがあったっていいし。

で、こういう物語では大概、それを所有することでそれまで保たれてきた統制や秩序を自分の思うとおりにしたい奴が現れて、このMarvelの宇宙のばあい、それは6つのInfinity Stonesで、渦の中心にいるThanos (Josh Brolin) - マドレーヌだか鯛焼きの尻尾だかが顎についてる - はそれを全部集めて全宇宙を支配しようとしていてそれを阻止するものとの間で争奪戦になって、取りあげて思うままにしようとする方が悪で、守ろうとするほうが正義で、力の強いほうが勝つのだし、勝つためにそれを手にいれるのだし。

Thanosの論理は、これまで酷いことを随分繰り広げてきたし、けっか酷い状態が続いてきたけど、自分がこれを手に入れることでそれらをぜんぶ終わらせることができる、だからこれをやるのは正しいのだし、犠牲はでるけど平和のためなのだから安心しろって。

これってもろ今のTrumpとか歴代のファシスト共が喜んで使っている/使ってきた理屈だよね。ていうのをわかってやっているのだろうが、これで終わりなのか続くのか、いったいどこの土地の話なんだか、スリル満点。

Doctor Strangeから時間の石を取っちゃうなんてさー、時間をコントロールできちゃうって、なんでもありになっちゃうのに(→ 歴史修正主義)。 あと、Languageの石ってないのな。全宇宙でふつうに英語が通じているって、それでいいのか、そういうもんなのか、とか。

チームがだいたい3つに分かれていたのがおもしろかった。宇宙のどこかで策士の口達者たち – 鉄男、変医者、蜘蛛男、星クズ男爵のチームと、同じく宇宙のどこかで外道の獣野郎 - 神とかアライグマとか樹木とかのチームと、地球上 - Wakandaでの割とまともに愛とか語ったりする連中のチームと、たぶんそこには理由と必然があってああなって、ああいうことが起こった。

『帝国の逆襲』の終わり方に近い、ていう話もあるみたいだが、あれよかわけわかんないし、なにしろ時間がどうなるかわかんないのでSagaにはならないかもしれないし、続かなくても、破綻しちゃっても、どっちにしてもだってコントロールできないんだもの、て言えてしまう。そんなずっこけもまたMarvelの世界、でよいのか。 漫画なんだし。

無限と永遠を掲げるファシスト野郎といかに戦うのか、それもまた無限のなにかになっちゃうのか、ていうのが次のテーマになるのだろうが、あたまの中で転がしていたらなんとなく見えてきたかも。