10.30.2021

[film] The Velvet Underground (2021)

10月23日、金曜日の晩、Apple TV+で見ました。音の肌理はすばらしくよいし、二画面構成もかっこいいし、こんなの映画館で見ないでどうするよ? なのだがやってくれそうな気配ゼロなのでしょうがない。

Todd Haynesによるドキュメンタリー。単なるバンドヒストリーを追ったものには当然なっていない。

バンドがバンドになるまでに約40分くらいかけている。ブルックリンに生まれてシラキュースに学んだ不安定な青年Lou Reedがバイトで書いた曲 - "The Ostrich" - がんがん流れる - を演奏するためにTony Conrad やWalter De Mariaと組んだバンド - The Primitivesにウェールズでクラシックを学んだビオラ奏者John Caleが入る。こうしてLou ReedとJohn Caleが出会い、そこにSterling MorrisonとAngus MacLiseが加わり、ドラムスがMaureen “Moe” Tuckerに替わる。 こうして出来上がったバンドはBarbara Rubin経由でAndy WarholのFactoryに連れられて繋がって、そこにNicoが加わってー。

東海岸、60年代のアートシーンがMary Woronov, Amy Taubin, Jonas Mekasといった人々のコメントと共に語られて、バンドの結成とその音の組成が、単なる優れたメンバー間のケミストリーから生まれたマジックだったのではなく、当時のダウンタウンやFactory周辺に吹き溜まっていた政治やアートに対する、あるいは西海岸のヒッピー文化に対する敵意や嫌悪も含んだくそったれ、という集団の意識や態度 - そこには当時のFactoryのあからさまなルッキズムも含まれる - の表明とその連鎖から導かれたものであったことが明らかにされていく。

当時のイメージとしてのロックが抱えていた反体制アート、のようなところからしれっと離れて、”I'll Be Your Mirror”と歌い、I’m Waiting for the Man”と歌い、”There She Goes Again”と歌い、”It’s nothing at all”.. とつぶやく。あなたもわたしも彼女もみんなもここにこんなふうにストーンしたりラリったりしてあるだけいるだけ、の状態を轟音とびかびかのライトの中で歌ったり晒したりしてそのまま置いておく。サーカスの曲芸のようにくすぐって投げ銭を集めていくZappaのスタイルがうざかったであろうことはよくわかる。

Lou Reedのがしゃがしゃとイラつくギター、Moe Tuckerのとことこしたドラムス、レースのように伸縮するSterling Morrisonのギター、重油のようにうねるJohn Caleのドローン、そこに被さる異様な - 決して美しいとは言えないLouやNicoの声。なんで彼らの音はあんなふうに変てこなのか - こんなだから彼らの音はあんなにも優しくスイートでエロティックでジャンキーでやかましくて凶暴で傲慢でドラッギーなのだ、いつのどれを聴いてもベルベットのように包んでくれるのと同時に二日酔いの吐き気を思い出させてくれるのだ、と。 そういうことを関係者の証言、というよりはAndy Warholが撮ったメンバーたちの”Screen Test” (1966)の映像や"Chelsea Girls" (1966)の手法を用いて - 映像だけでなく、音楽もすばらしくかっこよく繋ぎつつ - フィクションのようだけど実在したバンドのように経験させてくれる。 例えばいま、WarholやJonas Mekas - この映画は彼に捧げられている - が彼らの歴史を撮ったら(撮るわけないけど)、こんなふうになったのではないか、と。

という点で、これはTodd Haynesと撮影のEdward Lachmanが”Far from Heaven” (2002) - “I’m Not There” (2007) - “Carol” (2015)とかでやってきたことにすんなり繋がっていくかんじがした。

2018年にNYのダウンタウンで見た、”The Velvet Underground Experience”っていうあんまぱっとしなかった展示よりよっぽど彼らを”Experience”させてくれるものだった。

ファン代表として(VUについてもわれわれのJR像にも)期待通りのコメントをしてくれるJonathan Richmanも素敵。もしRobert Quineが生きていたらどんなことを語っただろうか。

あと、Moeが”After Hours” (この曲を嫌うひとなんているのか)の演奏について語るところがたまんなくて悶えた。

劇場で上映するのであれば、Warholが撮った2本のライブフィルム - “The Velvet Underground and Nico” (1966),  ”The Velvet Underground in Boston” (1967)も併せて。 あとはこないだのイメージフォーラムでやったBarbara Rubinのドキュメンタリーも一緒に。それができるならJonas Mekasの何本かも加えて。 あ、こないだのZappaのドキュメンタリーもついでに。(以下えんえん)


もう10月が終わってしまう。 この国ももうじき終わってしまうにちがいない。

10.28.2021

[film] À nous la liberté (1931)

10月23日、土曜日の昼、武蔵野館のRené Clair Retrospectiveで見ました。
邦題は『自由を我等に』。英米のタイトルはそのままなのね。

冒頭、流れ作業で玩具の木馬を作っているラインがあって、みんなで歌を歌いながらそれを流しているのは刑務所の囚人たちで、そのなかのEmile (Henri Marchand)とLouis (Raymond Cordy)のふたりは目配せをしたりしつつ、工具をこっそりくすねて隠し、同じ房にいるふたりはそれで格子を切って脱獄を試みるのだが、成功したのはLouisだけで、自転車とぶつかり、その自転車を漕いでいくとレースに優勝し、店に入れば衣服を貰えて、レコードの露天売りからそのままするする蓄音機製造の会社に入って、気がつけば社長になって偉そうに自分が出てきた刑務所のような流れ作業の頂点に立っている。(ちょっとベンヤミンに似てる)

ようやく出所したらしいEmileの方は、また捕まって牢屋に逆戻りで、もうだめだって首を吊ろうとしたらそれも失敗して、でも結果的に外に出ることができて、その時にぽーっとなったJeanne (Rolla France)の後を追いかけて工場に入ったらそこはLouisの工場で、彼を発見したEmileはなんだお前、って寄っていったらLouisは知らんぷりをしようとして、でも逃げてどうなるもんでもないからハグして、再会したふたりは一緒に過ごしていくうちにだんだんなりふり構わず、になっていってその先にはー。

ずっと鳴って歌っているご機嫌な音楽(by Georges Auric)に乗って、なにをやっても運よく転がっていってお得なLouis – やや冷たい - と、なにをやってもついてなくてやられてしまいがちのEmile – やや温かい - と、でもなにかの運がよいとかわるいとか、それを決めて転がしているのってなんなのか、自分たちとはあんま関係ないそのときの社会(みたいなやつ)の状態とか動勢みたいなのでしかなくて、そんなのに縛られたり踊らされるのってバカみたいじゃない? って。

前作の『ル・ミリオン』では見えない百万のくじ札の周りで誰も彼もが踊って/踊らされていたわけだが、今作ではそれって、それすらもなんかバカじゃね? どうでもいいんじゃない? っていうところにまで行く。こんなふうなその先のなにかを本当に「自由」と呼んでよいものかどうか、は彼らの今後(とこの後にやってくる時代)を想像するとどうなのかなあ、って。アナーキーで落語みたいで楽しいけど、あまり笑えない気がするのはなんでだろう。  

などど思いながら北千住に行って毎日パンク!の展示を見たの。


Porte des Lilas (1957)

24日、日曜日の午前に同じ特集で見ました。邦題は『リラの門』、英語題は“Gates of Paris”。
今回のレトロスペクティブ5本のうち、これだけ50年代の作品。 原作はRené Falletの小説 "La Grande Ceinture"。

パリの下町で職も持たずに日々呑気にお気楽に暮らしているJuju (Pierre Brasseur)といつもギターを抱えて歌って同様のArtiste (Georges Brassens) – やや暗め - がいて、彼らの暮らす家に銃を抱えて警察に追われていたPierre Barbier (Henri Vidal)が逃げこんでくる。具合が悪かったのでJujuは彼を看病して、彼の情婦のところにいって服を貰ってきたり、警察が探しに来ても地下に匿ったりしてあげて、でもこいつは傲慢だし乱暴だし人殺しなのになんでそこまで.. って思う。

そのうち、Pierreは酒場の娘Maria (Dany Carrel)に目をつけて、夜中に誘い出して遊びに行ったり - Robert Doisneauの写真みたいなふたり - 貢がせたりして、Mariaも夢中になって、でもそれがPierre自身の逃亡までの遊びだったことがわかるとJujuは…

『自由を我等に』とか、『奥様は魔女』(1942) なんかもそうだと思うが、一度社会から弾かれた者たちがその縛りから解き放たれて自由を味わって、でも結局 .. のようなところに向かう。それって規範とかルールのありようと表裏なのか、なんとかスナフキンみたいな自由に、風になれないものか、とか。

もうとっくに誰かやっているのだろうけど、三人の男たちのホモセクシュアルなドラマとして見るといろいろ見えてくるものも。

Georges Brassensが歌ってギターを弾いて、そこに猫もいるのを見ることができる至福。Jacques Brelは当然聴いてて、Serge Gainsbourgももちろん聴いて、Léo Ferréも大好きだった。大学の頃って、パンクと並べてこれらを聴いてて、フランス映画はもう少し後だったなあ、とか思い出した。

10.26.2021

[film] 地獄の曲り角 (1959)

10月20日、水曜日の夕方、時間があいたので、神保町シアターの特集『生誕100年記念:映画に愛された小説家・藤原審爾の世界』で見ました。なんとなく。

監督は蔵原惟繕、原作は藤原審爾の小説『金と女と死』。脚本には今村昌平が参加しているらしい。

シーホースホテルでボーイとして働く牧(葉山良二)は控室で同僚と骰子博打したり、ホテルを出たばかり客の情報をやくざの上月組に流して小銭を稼いだり、お金が欲しくて欲しくてたまんなくて、つきあっている花屋の章子(稲垣美穂子)にそういう話をしても、なんか退かれてしまって合わない。

ある晩、シーホースホテルの客室で男性が殺される事件があって、その現場の部屋で半分に切られて「1/2の鍵」って紙に包まれた鍵を見つけた牧は、殺しがあった部屋になにかを探しに訪れた謎の女 - 貴子(南田洋子)をマークして、向こうも牧にアプローチしてきて、政府を巻き込んだ大規模な収賄事件が背後にあること、もう半分の鍵を持っているのが貴子の恋人?で収監中の松永(二本柳寛)であること、鍵は郵便局の私書箱ので、そこには収賄の証拠一通りが揃っているので相当やばい(=金になる)やつであること、などが明らかになる。

これと並行して、客室に仕込んだマイクで室内の様子をテープレコーダーで録音して、それをネタに客をゆする稼業を始めたらこれが当たって、金に困らなくなったのでホテルも辞めて、大泉滉とかボーイ達仲間と一緒にこれまで下請けだった上月組との上下を強引に引っくり返して自分たちの事務所を作って威張り散らすようになるのだが、章子のために花屋を買いあげてやっても、実家の両親にTVを買ってあげても、身内はもう牧についていけなくなっていて、周囲の誰もこいつを止められなくて、最後に鍵を手にして関係者3人を呼びつけて恐喝してようやく大金を手にするのだが、そいつを狙っているのは他にもいて…

悪というか金に取りつかれた主人公が手段を選ばずにのし上がって、孤立と引き換えに大金を手にした途端につまんないことですべてを失ってしまう、というやや間の抜けたノワール仕立てで、謎の女とかやくざとか収賄とか闇にまみれた恐い世界があって、反対側に実直な堅気の世界があって、夜の狭い部屋の世界と坂の上から町を見晴らす世界が対比されて、一方から他方にでっかい声で強引に突っ切ろうとする牧がいちいちうざくて見苦しいかも。

そんなに金が欲しいならひとりでがんばって勝手に死んでくれ、なんだけど、あまり周囲に認めて貰えないのが我慢ならないところ(いそうなかんじ)とか、なんかクールじゃないし、あんた自業自得よね、としか言いようがない。ラストのあまり盛りあがらないカーチェイスの果てにあんな目にあうのは、彼の方であってもおかしくなかったし、なんならどっちの男につくかをひとり紙相撲して決める南田洋子の方がずっとかっこいいの。それにしてもなんで紙相撲なのか?

地獄の曲り角は冒頭の骰子転がすところで言及されてそこから始まっていくのだが、いくら曲がっても地獄は地獄、っていうだからこそ地獄、なのだった。


A24から”Lady Bird”のストーリーブックが届いた。すごくすてき。 今週はこれでなんとか乗り切れますようにー。

10.25.2021

[film] The Last Duel (2021)

10月17日、日曜日の午後、神保町から移動してTohoシネマズの日比谷で見ました。

邦題は『最後の決闘裁判』。確かに裁判のシーンは重要ではあるが、法廷ドラマではないし、思い知ってほしいのはバカな男2名(+女1名)の命をかけた決闘なので、原題通りの『最後の決闘』でよいのではないか。

監督はRidley Scott、脚本は3名の共同で、Chapter OneをMatt Damonが、Chapter TwoをBen Affleckが、Chapter ThreeをNicole Holofcenerが書いているのでは、と思ったのだが、実際にはMatt & Benで書いていたものに女性視点を入れる必要がある、ということでBenがNicole Holofcenerさんを招いた、ということらしい(彼女が入る前の初稿がどんなだったか、見てみたい)。

Nicole Holofcenerさんは監督としてすばらしいアンサンブルドラマ - “Friends with Money” (2006)とか素敵なrom-con -”Enough Said” (2013)とか、TVだと最初の頃(98年~00年頃)のおもしろかった”Sex And The City”とか”Six Feet Under”とか。最近のだと共同脚本の“Can You Ever Forgive Me?” (2018)とか。

史実ベースのお話だが原作は2004年のEric Jagerによる同名本(未読)で、この本は当時の裁判資料を相当読み込んで派生している諸説 - 真犯人は誰だったのか? や犯行当時の状況等についても検証しているようなので、単に安易に#MeTooに乗っかったものではない、らしい。 Webをざーっと見た範囲だけど。

1936年のフランス、冒頭は、観客に王様も見ている闘技場で、馬に乗ったJean de Carrouges (Matt Damon)とJacques Le Gris (Adam Driver)の決闘が始まろうとしているところで、両者が激突してがしっ、ってなった瞬間に三者の視点による三章の方に移る。

Jean de Carrouges視点の第一章では、戦闘では一生懸命がんばって功もあげているのに領主のCount Pierre d'Alençon (Ben Affleck)が評価しているのはLe Grisの方で、Marguerite (Jodie Comer)と出会って結婚しても彼女の家のことで更に土地を取りあげられたり報われない悶々とした日々が続いて、それが自分の留守中にレイプされたという妻の告白を受けて爆発して裁判~決闘になだれこむ。

Jacques Le Gris視点の第二章では、自分がいかに巧くd'Alençonに取り入って気に入られてのし上がっていったのか、そんなスマートな自分が宴の場でMargueriteと出会い、彼女と本の話をしたりすると彼女は目を輝かせたりしたので、彼女はあんな夫と一緒にいても不幸になるだけではないか、と思うようになって、彼女がひとりの時に屋敷に押し入ってやってしまった。でも悪気があったわけではなく好意によるものだから許せ …

Marguerite視点の第三章では、de Carrougesと結婚したのはよいが彼は自分のことばっかり嘆いたり愚痴ったり正しいと思いこんでいて、夜も動物みたいにやってひとり満足して寝ちゃうし、パーティの衣装で冒険してみたくらいで怒るし、舅は冷たいしあーあ、の日々に屋敷にひとりで残されて(舅が女中を連れて出ちゃって)、そしたらLe Grisが強引に入ってきて抵抗したのに…

見えなかった事実に光をあてたり隠されていた謎を暴く、そのために三つの視点を並べる、というよりは、Margueriteがレイプされた、という事実は明白な事実としてあり、それが裁判による裁きやその先の決闘を必要とするほどのものだったのか、ということを説明するために各章は用いられている。だからと言ってそのためにレイプの場面を映像として2回(Chapter 2と3で)見せる必要はあったのか、とか、実際の裁判の場でこの映像を見せて示すことができたわけではないよね(現代の裁判でも同様)とか、Web上で議論があることはわかる。それはこれに続く裁判のシーンでMargueriteに対して為される屈辱的な審問の数々 – これも現代に続くそれと同じ - にも繋がっていて、要は被害を受けた女性が自分の言葉で罪や人を告発することがどれだけ困難と苦痛を伴うことだったのか。ここで、昔はねえ.. になるのか、現代でもそうだよ! になるのか。(昔はねえ.. の人はそこでさよなら地獄におちろ)

なので、14世紀に#MeTooなんかあるかよ、の件も、ここに来るまでに約650年かかっているなんて、(男共の男社会は)どれだけバカで鈍くてしょうもなかったことか、そういう話として深刻に受け止めるべき。

こうして、最後の決闘のシーンは、どっちかがんばれ、というよりもどっちも死んじまえ、という目線で見るのであんなもんかも。ぐさぐさどろどろの迫力じゅうぶんで端折ったりしないでよかったけど、こんなのに巻きこまれたお馬さんはほんとうにかわいそうだわ、って思った。

当初のキャスティングでは決闘するのはMatt DamonとBen Affleckだった(Adam Driverは後から入った)そうで、彼らふたりのああいう死闘を見たいというのはあったかも。DVDのおまけでやってくれないかしら。

Jodie Comerさんがすばらしい、ことは確かなのだが、そういう言い方をしてしまってよいものかどうか。彼女の迫真の演技、真剣さ、かわいそうさ、(あるいは、男達がたまたま愚鈍で隙だらけだったから)故に彼女の訴えは通じたのだ、に落着させてはだめで、どんな事情であれ暴力もレイプもNOだし、それを力で隠蔽したりなかったことにしようとするのは許されないのだ、ということは何千回でも強調してよいと思った。歴史劇の学び(のひとつ)って、そういうものではないか。 いや映画ではそこまで… なんていうのはおかしくて、このテーマをいま取り上げる以上は、避けて通れないことなのだと思う。



23日の土曜日、東京国際映画祭のチケット発売日だったのでがんばってみた。
取りたかったのは日本映画クラシックスの田中絹代作品とガラの『メモリア』だけだったのだが、田中絹代は上映時間帯が平日の昼間ばかりなので1本だけ、平日午後だけど会社休み覚悟で突撃した『メモリア』は10分後にようやく繋がった時点で満席であった。この映画祭は5年ぶりくらいで毎年チケッティングのしょうもなさが指摘されてきたように思うが、今回も変わらず、スポンサーや関係者に事前にどれだけ配っているのか知らんけど、上映される機会はたったの1回だけ(ふつう数回はある)、当日は映画と関係のない見たくもないスポンサーのCMがじゃんじゃか流れ、今回はフェスティバルソングとかわけわかんない奴まで付いてくる。こんなの映画祭でもなんでもない、ただ外向けにやってますよ、ってアピールしているだけで、中身は関係者向けのコンペ付き内覧会じゃないか。本当に新しい映画を見たいと願う真摯な映画ファンに対するこういう態度って、公開タイミングの絶望的な後ろ倒しにDVDスルーとか、くだんない邦題とか、くそくだんない応援キャンペーンとか、ポスターのトーン修正とかにぜんぶ繋がっている気がする。客をバカにしているよね。そして、本来こういうことを批判してよい方向に変えていってほしい「映画関係者」は試写とかパンフとかコメントとかで業界側と持ちつ持たれつの「関係」にあるのでなんも期待できない。今の政治とメディアの関係とそっくりのミラーじゃないか。 あーくだんない。

10.22.2021

[film] La cordillère des songes (2019)

10月17日、日曜日の昼、岩波ホールで見ました。
邦題は『夢のアンデス』。英語題は” The Cordillera of Dreams” - 「夢の大山脈」。

激烈としか言いようのないドキュメンタリー - “La batalla de Chile” (1975)-『チリの闘い』が描いた1973年9月11日のチリのクーデターの際に拘留され、釈放後そのフィルムを抱えてフランスに亡命したままとなっている監督Patricio Guzmánが“Nostalgia de la luz” (2010)-『光のノスタルジア』、”El botón de nácar” (2015)-『真珠のボタン』に連なる最新作として制作したドキュメンタリー。2019年のカンヌで最優秀ドキュメンタリー賞を受賞している。

アタカマ砂漠に眠る虐殺された市民 = 家族の骨を掘る遺族たちとアンデスの天文台が掘り続ける宇宙の神秘を繋いだ『光のノスタルジア』、パタゴニアの原住民の石とチリの海底の記憶を結んだ『真珠のボタン』、ときて、今回はシンプルに首都サンチャゴの真ん前に聳えるアンデス山脈を中心に持ってきて、その揺るぎない姿をなんだろうこれ? って見ているような。サンチャゴは仕事で何回か行ったのだが、確かにあのどこからでも壁のように聳えたつ山々はなんかすごくて、東京で見る(見えてうれしい)富士山とはちょっと違う。

ピノチェトがクーデターによって政権を奪った後、シカゴ学派の理論の強引な適用による経済の自由化 – 新自由主義が国のありようをどう変えていったのか、鉱山資源は多国籍企業に独占されて空洞化し、貧富の格差は拡大し..(以下略)。 映像は何度も何度も1973年のあの時、あそこで振るわれた暴力、奪われた理想、殺されて引き裂かれた人々の元に還っていく。彼らの命と引き換えに得た現代がこれだよ.. って。

その時から(その前から)ずっとそこにあったアンデスの山々と、そこの岩石を切り出して作品を作る彫刻家、歴史について書いている作家、80年代から人々のデモの映像を撮り続けているカメラマン、彼らの言葉や行動を紹介しつつ、決して明るい未来なんて語らないもののアンデスの山として/と共にそこにあろうとする。それは不知火の海と同じなにかなのか別のものなのか。

あとは今は落書きされた外壁だけの廃墟になっているPatricio Guzmánの育った家 – かつては家族が集いみんなが楽しく過ごした日々 – あれらはどこに行ってしまったのだろうね – って山肌に聞いてみても何も返ってこない。でもその記憶はここにこうして残っているから、と。あれだけの血と暴力の嵐を経て、すべてが失われてから50年が過ぎても。

そして、改めてクーデター時の映像は何度見ても怖い。この命令を出して実行した権力者も恐ろしいが、実際に人々を引き摺り倒し圧し掛かり、棒や拳で殴って地面に押し倒す、それを集団で実行していく軍や警察の人たちひとりひとりが怖い。この人たちはなんでそんなことができてしまうのだろう? と。


理大圍城 (2020)

10月14日、木曜日の晩、”Wrath of Man”を見て帰ってきたあとに山形国際ドキュメンタリー映画祭の受賞作品発表、ということで見ました。英語題は”Inside the Red Brick Wall”。大賞であるロバート&フランシス・フラハティ賞を受賞した作品。

理不尽な法の施行に反対する香港の市民が政府によって弾圧され制圧された、その中心で理大に籠城して最後まで抵抗した学生たちと軍との数日間に渡る攻防のさまを描く。ひとりの監督ではなく前線で映像を撮影し記録として残そうとしていた人々の共同名で制作され、現場でライブで聞こえてくる声の他は経緯と時間の経過が字幕で表示されるのみ。それでも学生たちの感じていた怒りと徒労と絶望は十分に生々しく伝わってくる。

そして、すぐそこにある暴力に曝される恐怖って、上のチリのそれと同じと言えるのか違うのか。同じに見えるのは無表情で市民に銃を発砲したり見境なく捕まえて寄ってたかって殴る蹴る引き回すを繰り返す顔の見えない人たちで、チリのと同様に、とにかくどうしてあんなことができてしまうのだろうか、と。これって今のどの都市の抗議デモでもだいたい同じように見られる光景だけど、彼らは命令されて仕事としてやっているのだろうけど、それでもひとを殴って蹴って、場合によっては殺してしまったりするんだよ、なんでああいうことができるの? 彼らのなかに刻まれたどういう教えや学びが、人に対するどういう感覚がそれをさせているのか - 本当に知りたい。それを知らないと戦争はまた起こるし、戦争は起こらなくても日々の暴力や虐めは消えないし。人はそういうものだ、なんて考えてはいけない。

この状況はもちろん、日本でも同じだし、香港で起こったことは今の政権の連中だったら平気でやるし、むしろ絶対にやりたいのだろうし、やりたいようにやれるように統制や洗脳を強めているかんじは自分がこれまでに参加したデモで十分に窺うことができたので、あーあこわいよう、しかない。こわいやだやだ、ではだめなので、理由や仕組みをちゃんと勉強したいし、だからなによりも選挙に行くのよ。


Film Forumのキャロットケーキが販売再開だって。 世界でいちばんおいしい映画館スイーツ。デリダはここのバナナケーキがお気に入りだったそうだが、食べ比べてもキャロットケーキの方がおいしいの。あーあー。

10.21.2021

[film] Sous les toits de Paris (1930)

10月16日、土曜日の昼に新宿武蔵野館で見ました。

突然始まった気がするRené Clairのレトロスペクティヴ - まだ没後40年しか経っていない - 5本だけだけど。 いまの我々に必要なのはDuneでも決闘裁判でも新選組でもなくて(どいつもこいつも長すぎよ!)René Clairなんだわ、って根拠なく思って、でもとにかく見たいんだもの、で見る。邦題は『巴里の屋根の下』、英語題は “Under the Roofs of Paris”。

冒頭、煙突がいっぱい出ている巴里の下町の屋根の上をカメラがゆったり飛びながら移動していって、少し広くなっている小路に人々が集まって合唱している。その真ん中でみんなを指揮して歌っているのがAlbert (Albert Préjean)で、寄ってきたひとに歌詞のプリントを配って売ってお金を稼いだりもしているらしい。そこに来ていてスリに狙われていたPola (Pola Illéry)を助けたあたりから彼女のことが気になって、鍵をなくしたという彼女をAlbertが自分のアパートの屋根裏の部屋に泊めてあげたりして結婚しようか、にもなるのだが、ギャングのFred (Gaston Modot)も彼女を狙っていて、Ablertがはめられて牢屋送りになって、その隙にAlbertの親友のLouis (Edmond T. Gréville)とPolaが仲良くなって..  

このアンサンブルの真ん中にいるのはAlbertなのだが、彼が主人公でPolaとの間で運命の鍵その他あれこれを狙って握ってじたばたするrom-comかというとそんなでもなくて、恋の相手は変わるし巡るしそれがなにか~ ららら~ っていう、そういう歌の世界そのもの - カラオケの背景というより、こんな歌が生まれる瞬間の屋根の下には例えばこんな人たちがこんなふうにお喋りしてお酒のんでキスして喧嘩して、パリって地図上の地点とか地面ていうだけではなく、屋根の下で起こるそんな輪舞の総体を指していて、映画っていうのはそんな屋根の下のよしなしごとを写しとって彩る芸術なのだ、という宣言にもなっている気がした。

René Clairの最初のトーキー作品で、明らかにサイレントとして作ったパートはそれとわかるし、まずは歌が人を動かすのを見せようと冒頭の歌のシーンはあったのだろうな、とは思うのだが、サイレント的な動きできびきび動いていくところと喋りがそこに乗っかろうとしてがんばる、けどまず手が出ちゃったりとか、そのぎくしゃくした追いかけっこをするおもしろさって、Wes Andersonかも、って。

知っていた人にはとっくに、かも知れないがWes Anderson映画のデパートのディスプレイ・ウィンドウのように世界をこまこま形成する – そこに生きた世界をまるごと移植するような見せかたの元祖って、René Clairとかこの時代のフランス映画あたりなのではないか、とか。

最後の方の建物のなかの乱闘のぼかすか吹き出しの煙が見えるような楽しさ – 楽しんじゃいけないけど – なんて、彼のストップ・モーションのアニメのようだし、また明日があるさ、ってとりあえず言っちゃう不屈で少し歪んだ主人公たちの心意気なんかも。


Le Million (1931)

16日の午後、『巴里の屋根の下』に続けて見ました。
制作順も『巴里の..』の次。英語題は”The Million”。邦題は『百万両』、でよかったのにな。
『巴里の..』はRené Clairによる作/脚本だったが、これは舞台劇を脚色したもの。

これは『巴里の..』よりも断然、ものすごくおもしろいと思った。夜中、やはり巴里の屋根の上から建物のなかで華々しくどんちゃん騒ぎをしている連中を覗きこんで、「なにがあったんだい?」って聞くと、実はね.. って時間を朝に戻して物語がはじまる。朝から晩までのある一日のー。

借金にまみれた絵描きのMichel (René Lefèvre)がいて、おなじアパートにバレリーナで婚約者のBeatrice (Annabella)も暮らしているのだが、頻繁にいろんな取り立てが来るし、絵のモデルと彼の関係もなんか怪しいし、もうこの人とはだめか、の空気になってきたところでMichelの親友Prosper (Jean-Louis Allibert)が宝くじに当たったかも! って駆け込んできて、でもその宝くじ現物はMichelの上着のポケットにあるはずで、でもその上着はMichelがいないとき、警察に追われて逃げこんできたスリのチューリップお爺さん (Paul Ollivier)を匿ったBeatriceのところから彼が持っていっちゃったので、ふたり(+ Prosper)で大慌てでコートを追っかけるスラップスティックになって、借金取り立ての連中はこいつあめでてえ、ってお祭りの準備を始めるし、さすらいのボロ上着はオペラ歌手の舞台衣装用に買われて彼の歌うステージにまで行くことになる。

この本番舞台の上で身動きがとれなくなった状態で全身にオペラの花吹雪を浴びることになったふたりの見つめ合う姿がすばらしくよくて、うっとりしながらああやっぱりお金じゃないんだわこの瞬間の愛だわ、ってなるのだが、歌が終わればいやそれでもやっぱりお金もいるよね、ってじたばたを再開するところもよいの。

『巴里の..』で繰り広げられたPolaの取り合いがあちこちに引き摺られてぼろぼろになっていくコートのそれに置き換わったような、そのうち全員がなんのためにこんなことやっているのかよくわかんなくなる落語 - 話し手自身も酔っ払っていくような - になっていって、なんかめでたいようだし、飲めや歌えは楽しいんだから踊っちゃえ楽しんじゃえ。百万だし、って。

この辺の、決してノワールの方に倒れないてきとーなご都合主義みたいなとこ - その後どうなったかなんて誰もしらん - もまたたまんなく好きで、これって全部見たわけではないけど、René Clairのrom-comに通じているやつかも。

10.19.2021

[film] Dune (2021)

10月15日、金曜日の晩、Tohoシネマズの新宿のIMAX Laserで見ました。

この日は会社を休んで、水戸でPipilotti Ristみて、府中に移動して動物の絵を見て、じゅうぶんへろへろだったのだが、寝なかった(うるさくて寝れんだろ)。

原作は読んでいなくて、84年のDavid Lynch版も見ていない。Lynch版て、公開当時は周囲にだーれも勧めている人いなくて、Stingのビジュアルだってあんなだし、そういうの見るくらいなら、ってレコード屋に行っていた。
監督はDenis Villeneuve、脚本にはEric Rothがいるのね。どの辺を書いたのかしら。

全体としては、昔(今もやっているのか?)自然史博物館とかのIMAXシアターでやっていた大自然の驚異とか宇宙の神秘とかについてのやたら壮大に見えたフィルムのよう – それくらいメカや衣装も含めたヴィジュアルのありそうなかんじ – たっぷりのお金をかけているっぽい完成度は高い。

紀元一万年くらいの未来の惑星アラキス - 砂の惑星Dune - だけが産出する鉱物資源メランジ(俗称スパイス)の採掘利権を巡るお家間の抗争で、善玉と悪玉は見ただけでわかるし、どっちかわからないミステリアスな民もいるし、大河ドラマみたいなオールスター揃い(Star WarsとAquamanとThanosとSpider-ManとMission: ImpossibleとLittle Womenの.. )で、原作はもっと深くてすごいの(映画化不能な壮大さ - 多くの作家が映画化を夢見た、云々)かも知れないけど、この映画を見た限りだとそんなかんじ。

最初の方で、皇帝の命によってDuneにAtreides公爵(Oscar Isaac)、奥方のLady Jessica (Rebecca Ferguson) その息子のPaul (Timothée Chalamet)と勇者Duncan (Jason Momoa)とか一族郎党が越してきて、それまでずっとそこを統治してきたHarkonnen家は別の星に追いやられる。

変な夢を見てはいつも微睡んでいるPaulの目からDuneのいろんなこと – 資源「スパイス」の効能とか、砂漠に生息するでっかく危険な砂虫とか、砂漠で死なないためのスーツとか、先住民であるFremenなどのことが説明され、皇帝付の巫女のようなGaius Helen Mohiam (Charlotte Rampling)のところに母Jessicaに連れられていって、箱に手を突っ込んでこの小僧は?!みたいなことを言われたり、未来のことなのかなんなのか頻繁に彼の夢のなかに現れるFremenの女性(Zendaya)のことが気になっている。自分で自分のことが十分にわかっていないPaulの彷徨いと彼が「一人前」になるまで ~ 彼はひょっとしたら救世主なのか? が物語のひとつの軸としてある。

やがてHarkonnen家が襲ってきて、更に皇帝側もそこに加わっていることがわかって「罠だ!」ってなるのだがそれを知った時には遅くて、公爵はまる裸に剥かれて殺されて、JessicaとPaulはふたりぎりぎりで脱出して、Fremenに匿われたのか捕らわれたのかー。

戦闘のシーンはスーツを叩いてシールドを作ってからの短いナイフによる至近距離の肉弾戦が多くて、弓矢とか砲弾とか機関銃とか飛び道具を使わないクラシックな取っ組みあいで、それは寄られたらやばい砂虫への配慮なのかもだけど、迫力があるのとここの砂漠のパースペクティブにはうまくはまっている気がした。

ただ、中盤以降、全体の構図が見えてくると、砂漠の貴重資源「スパイス」ってもろ石油のことだし、その利権には紛争リスクとか自然の脅威が絡んで、そこに王を失った母子が迷いこんで先住民と関わって、という枠組みの異様に古臭いかんじってどうなのかしら? と。 採掘資源の統治管理のためになんで一族が移住しなきゃいけないのか、そんなの8千年後ならリモートでできてて当たり前なんじゃないの? とかは思うし、ベールの向こうに隠された青い目の先住民や女性の描きかたもなんかー。Harkonnenの当主はほぼジャバ・ザ・ハットだし(こっちが先か)。 なので、あんまりSFのようには見えない、既視感に溢れた現代の写し鏡みたいなところは評価が分かれるところかも。

ただ、今作はまだパート1で、まだ制作されるかどうか未定(制作されるに決まっているじゃん)のパート2以降で明らかになって怒涛の展開になだれこんでいく可能性もあるのかも。 この監督がここ数作で拘っているように見える母性とか言語のありようについてもまだなんとも言えないし。

あと、”No Time to Die”でもそうだったし、ここ数作ずっとそんな気がするHans Zimmerの音楽、低域ばっかりぶおぶおどかどか吹き鳴らしてばっかりでやかましく(手を抜いて)ねえか、って。

こんなふうにいろいろ文句は出てくるものの、オオミミトビネズミの汗たらーっを映してくれたのでまあよいかー、になった。砂虫も半身でいいからあんなふうに在来種としてその生態を明かしてほしいな。

あと、本編とは別にZendayaビューで、あのやたら思わせぶりな目線を送ってくる妄想にまみれて発情している妙なガキはなんじゃ? っていうおちょくり青春ドラマを作ってほしい。

新宿のIMAX Laserの音は日比谷のよりはよかったけど、それでもまだなー。これって箱の大きさに依存するのだろうから、ロンドンのBFIのみたいにでっかいの一棟建ててほしい。


名画座かんぺ100、が届いた。すごすぎてどこを開いてもため息しかない。人のためになる仕事、ってこういうのだと思うのよね。
 

10.18.2021

[film] The Story of Film: A New Generation (2021)

10月11日、月曜日の晩、London Film Festivalのストリーミングで見ました。

”The Storms of Jeremy Thomas”に続く、Mark Cousins監督による2本目(作られた順番はこちらの方が先らしい)。”Jeremy Thomas.. “がホーム・ムーヴィーのように撮ったお手軽感があるのに対して、こちらは監督がずっと追及している本来のテーマに沿ったもののようで、これも今年のカンヌに出品されている。

Mark Cousinsさんとの出会いは、2020年3月にBFIで行われたTilda Swinton特集で、彼女と一緒にクラシック(上映されたのは”Peter Ibbetson” (1935))を紹介する回に現れて、スコットランドのスカートをはいてTildaさんと”Tainted Love”を歌って踊ってくれて、スコットランドの高地で子供たちのための手作り映画祭りをやっていた話を聞いていいなー、って。 その後はロックダウン中に見ることになった全14時間のドキュメンタリー - “Women Make Film: A New Road Movie Through Cinema” (2018)で、これはものすごく勉強になるやつだった。

この作品の前の方には“The Story of Film: An Odyssey” (2011)という各1時間のTVシリーズを纏めた全15時間のもある。映画史についての映画、と言ってしまえばそれまでだけど、単にテーマやジャンルに区切って並べていくのではなく、映画を見る、という経験が(そして映画を作る、という行為が)現代を生きる我々にとってどんな意味や意義を持ちうるのか、それ自体が歴史的な経験であり実践となるのだ、という前提とか仮説とかを確かめるように、いろんなショットを切って貼って振り返ってを繰り返しながら紹介していく。

この点でイメージの連なりとかありようとか、ショットや編集の的確さとか、テーマの歴史的文脈を掘り下げていく批評家のアプローチとはやや異なっていて、でっかいスクラップブックのページをめくって見ていく感覚 - 図書館に籠るというよりは旅に出ていく(ロード・ムーヴィーを見る)感覚がある。つまんない人には(そんなの知ってるよ、で)つまんないだろうが、興味ある人にはなんだかおもしろい。

冒頭、例えば、のような形でStanley Donen -  Jane Campion - 香川京子 – と繋いで映画史上の天才たちを紹介した後で、最近の映画に出てきた象徴的なふたつのキャラクター”Joker” (2019)のArthurと”Frozen” (2013)のElsaを並べて、この映画で描かれる、大人の男や女性のキャラクターの変容は何によってもたらされたものなのか? と問いて、更に例えば、とAgnes Varda - Charles Burnett - Ari Aster - Chantal Akerman – などを並べてみる。これらの「例えば」の置き方がなかなか絶妙で、人によっては「なるほど」かもだし、人によっては「それは違うんじゃ」なのかもしれないし、正解はなさそうだけど、考えるきっかけの何かとかその並びにある誰かに連なっていく止まらない楽しさがある。

こうして、Part 1では”Extending the language of Film”というタイトルで、今世紀くらいから出てきた新しい映画技術が映画(の言葉)をどんなふうに広げてきたのか、Part 2では“What have we been Digging for?”というタイトルで、それらはつまるところ何を掘り下げてきたのか、を問う。のだが、このふたつの問いの答えは厳密に分けることができるわけではないし、必ず過去の映画のどこかに参照項や共通項があったりするものなので、やや緩めに両方の問いを、過去の映画と現在の映画の間を行ったり来たりすることになる。

こうしてデジタルによる制作や編集、iPhoneによる撮影、音響や映像の加工や微調整、ミリ秒の制御やゲームの(コンテンツ)感覚、Google的なメガ可視化、NetflixやYouTubeのようなプラットフォーム(よる集客解析)、これらがアクション映画、コメディ、ホラー、人体造型(”Irishman”のデニーロ)、ドキュメンタリー(”The Act of Killing” (2012)とか)等のジャンルにどんな影響を与えているのか。ものすごい沢山のクリップが並んでいって、どれもあー、とか、うー、とかばっかりになる。 映画の見方が変わる、とまでは行かないけど、なんだろうこれ? って。

最後の方に、ひとつの傾向(という言い方はしていないが)として、現代の「自分たち」を描いた映画が並べられる。例えば – “Us” (2019), “Parasite” (2019), “Atlantics” (2019), “Song of the Sea” (2014), “Black Panther” (2018), “Border” (2018), “The Farewell” (2019), 『万引き家族』(2018), “Leave No Trace” (2018), “Happy as Lazzaro” (2018), “A Fantastic Woman” (2017) – などをざーっと流して、最後に” Spider-Man: Into the Spider-Verse” (2018)が.. (どれもなんだか絶妙に懐かしかったり)

新たな技術のありよう(投資のフロー)の向かった先が(例えば)これらのいろんな「自分たち」(の置かれたランドスケープのようなもの)を描いた映画たちだったのだとしたら、なんかおもしろいかも。あと、新たな技術もあれば廃れる技術もある – この映画のなかでは掘り下げられなかったけど、技術の陳腐化によって作られ難くなった領域とかもあるのだろうか?

で、最後にそれを見る我々はどこに行くのか、というと - NYのロウワーイーストの映画館- Metrographが映しだされたので少し泣きそうになった。ロックダウン、みんなそれぞれ苦しかったけど、やっぱり映画館に行きたいよね、って。そこに落っことすのかー、はあるけど、Metrograph、ほんとに戻りたいようって悶えているのでずるいや、って。

これを近年の邦画で誰かやってくれないだろうか。ゴミみたいのばっかしで難しいかもだけど、なんでゴミはゴミなのか、とかその腐臭の成分分析とか。


寒くなってきたのはよいことなのだが、足を少しだけ布団に入れただけで軽く3時間がどこかに飛んでしまったりするのは困る。

10.17.2021

[film] Wrath of Man (2021)

10月14日、木曜日の晩、バルト9で見ました。邦題は『キャッシュトラック』。

仏映画 - “Le convoyeur” (2004) - 邦題『ブルー・レクイエム』のハリウッド・リメイクで、こっちの英語題が“Cash Truck” だったりする。
“The Grapes of Wrath” (1940)が『怒りの葡萄』なので、”Wrath of Man”は『人の怒り』?

監督は、Guy Ritchieで、元々ぜんぜん好きなタイプではないし、前作の”The Gentlemen” (2019)も雑多すぎて微妙だったのだが、これはよかったかも。不気味に不機嫌で暗くて、なにかを相当に抑えこんで丁寧に作っているような印象。

冒頭、日中のLAで現金輸送車が襲われるシーンがあって、でもこれは起こりました警備員2名が亡くなりました、程度の描写で、その後、現金輸送車警備を専門にしている会社Forticoに、Patrich Hill (Jason Statham)という男が中途で入ってくる。前に勤めていた欧州の警備会社が倒産したから、という理由で、経歴も申し分ないし体力や射撃のテストもクリアして”H”というニックネームで同僚には紹介されて実務につくことになる。同社では勤務中に社員が亡くなったばかりなので彼を気遣ったり野郎社会の歓迎ジョークで揶揄ったりするものの、彼は無愛想であまり気にしていないよう。

そのうち、Hの乗った車が勤務中に襲われる事件が起きて同僚のJosh Hartnettがビビっている間にHが相手を全部片付けちゃったり、別の場所で襲われたとき(どんだけ襲われてんねん)には、彼がマスクをおろして顔を見せたら犯人たちが泡食って逃げてしまう、ということが起こって、会社側も見ている我々もいったいこいつは何者なの? になっていく。ここまでで気がつくのは、社員が退勤時にIDを戻しておくパネルをじっと見ていたりすること、とか、Hの勤務中に起きた襲撃事件の後に彼の聴取をしたFBI側の態度と反応とか。

Hがあまりに無愛想で静かで喋らないのでここからどう展開していくのか、と思い始めると物語はそこから5ヶ月前に遡って、Hと息子のある日の出来事が描かれ、細かに時間を前後しながらHの現在の動きを説明するところまできて、そこからゆっくりと襲撃者側の狙う最後の大仕事に潜りこんでいく。

中盤以降はあまり書きませんけど、復讐に取り憑かれた男がたったひとりで復讐していく話で、でもそこに恨みを晴らす気持ちよさはあまりないし、いつものJason Stathamの俺に任せておけの押しの強さも回し蹴りも組み手アクションもスピード感もない。銃と接近戦の絞めとナイフくらいで、あとは彼の目 - おまえのことは絶対忘れないから覚えとけ - という深い穴 - 絶望的に暗い目しかない。

それが警備会社の警備員たち(女性ひとり、あとは男性のみ)との日々の野卑で笑えないやりとりと、襲撃者側のひとりひとり(元軍人)のこれまた爛れて腐った世界観と、ほんの少ししか出てこないけどどうにも動きようがない警察機構(Andy Garciaとかがいる)との間に絡まってLAのだだっ広い土地にぽつんと置かれている。敵も味方もない、善も悪も知ったことか、の世界に。 こういう設定なのでこれまでGuy Ritchieが得意としてきたような悪党がきびきび動いていくネットワークなんてどうにも効いてこない(これがよかったのかしら)。

これってClint Eastwoodが描いてきたような決してヒーローなんかありえない/現れない荒野の話で、Jason Stathamの空虚で孤独な目も彼の映画でよく見ることができたそれで、そうすると、たちの悪い悪党のScott Eastwoodを最後に迎え撃つのが44マグナムを持っていたあの男であってくれたら(おもしろいよな)、とかつい。

ああこれをTony ScottやMichael Mannが撮ってくれたらどんなにかー って少しだけ。ぜんぜん悪くはないんだけどなんか。


復讐といえば選挙の季節がやってきた。ひとりひとつの石つぶてを持って投票に行くのは当然として、映画でも音楽でも演劇でも食堂でもこの一年半、ろくな補償もされずに苦しまされてきた、それどころか数十年に渡って人権を蔑ろにされてきたみんな、ちゃんと敵 - 自民公明維新 - を見定めて連中の息の根を止めてやろう。今回、特にぜったいに許せないのは海外在住者の投票の機会を狭めたり奪ったりしていることだよ。自分がそうだったらと思うとものすごく悔しい。 メディアもいいかげんくそで幼稚な報道やめてほしい。

10.15.2021

[theatre] Twelfth Night (2017) - National Theatre Live

10月10日、日曜日の午後、日本橋のTOHOシネマズで見ました。

この日は東京芸術祭での太陽劇団シネマアンソロジーの一日券を買っていたのだが、直前に同じ日の午後にこれがあったのを知って、うーんと悩んでこっちにした。 『アリアーヌ・ムヌーシュキン:太陽劇団の冒険』(2009) を見た後、池袋から日本橋に移動する。

シェイクスピアの『十二夜』は大好きで、舞台での上演を最初に見たのは2003年の2月、BAMのHarvey Theater(当時)に英国からthe Donmar Warehouseが来たときので、演出Sam Mendes、主演Emily Watson(”Punch-Drunk Love” (2002)の直後だよ)に惹かれて見にいったのだが、今調べたらキャストにHelen McCroryやMark Strongも参加していたのだった。あと、もう1本、同じツアー/メンバーで『ワーニャ伯父さん』もやってて、どちらもものすごくおもしろかったし何かを焚きつけられた記憶があるのだが、どのへんが? についてはあまり残っていない(こういうのが恐ろしいのでこのサイトをはじめたの)。

この時の『十二夜』も現代のコスチュームを使って女性が多く入っていたが、今回のもそうで、スチール写真を見るとなんかけばけばしていてどうかしらー、だったのだがその程度で揺らいでしまうシェイクスピアではないし、やっぱしものすごく笑えて楽しくておもしろいよ。197分あっという間。

演出はSimon Godwin。舞台セットはでっかい尖がり△が中央にそびえていて、これがぐるりと回転しながら、難破船になったりお屋敷になったり盛り場になったり階段になったり。〇(まる)の柔らかさ自在さ、(しかく)の真面目さ堅牢さの中間にある、構造とか繋ぎ目とか倫理とか、そのとんがった様相。

あらすじはいいよね。船の難破で離れ離れになった(互いが互いを死んだと思っている)双子の兄Sebastian (Daniel Ezra)と妹Viola (Tamara Lawrance)がいて、Violaは身を守るため性別をひっくり返して男子の小姓Cesarioと名乗って公爵のOrsino (Oliver Chris)に仕える。Orsinoは伯爵の娘Olivia (Phoebe Fox)にずっと求愛しているのだが、ViolaはOrsinoが好きになり、お使いに行った先でCesarioはOliviaに惚れられてややこしくどきどき危なっかしく横に転がっていく恋の脱線小噺と、Oliviaに熱烈にお仕えする執事のMalvolia (Tamsin Greig)がOliviaの叔父の遊び人Sir Toby (Tim McMullan)とやはりOliviaに求愛しているSir Andrew (Daniel Rigby)のバカコンビのおふざけとおちょくりに巻きこまれて縦方向に吹きあがる騒動の顛末。

ばれてはいけない事実やからくりが重力でゆっくりボタンが外れるようにして外れ、それによって覆っていたもの覆われていたものが劇構造まで含めてむき出しになる瞬間の快感(笑い)、あるいはその残酷さ、その両方を曝して、その曝しのインパクトってどのくらいのやつで、そこをどう見せるのか、が時代時代の見せかたになってくる、のだろうか。 性と権力の周りで親を失った子らが、お利口さんとバカもの達が、わかったふりをしたり取り繕ったりの輪舞を繰り返していく(みんな懲りない)クリスマスの終わり。

今回のは圧倒的にMalvoliaの物語で、がっちりと仕事や権力の箍に嵌って生きてきた彼女が悪ふざけによってその箍を外された(と思いこんだ)途端にOliviaへの恋に目覚め、そこで解き放たれた激情が彼女自身を思いもかけない方に変容させる、そういうドラマとして強調されている。 ラストに彼女がカツラを脱ぎ捨てる瞬間のカタルシスとかっこよさときたらない。Violaが男女の性(の外見)をスイッチを切り替えるように軽やかに渡っていったのと対照的な、例えばこんなやり方もあっていい。

うーやっぱしシェイクスピアやっぱしおもしろいわ、で終わっちゃってそれが何か? って。これもいつものー。


今日は会社を休んで水戸にピピロッティ・リストを見にいって、府中に動物の絵を見にいって、ほぼずっと電車とバスのなかで移動していたのだが、やっぱり窓の外に羊とか牛がいないとつまんないねえ、って思った。

10.13.2021

[film] The Storms of Jeremy Thomas (2021)

10月7日、木曜日の晩、London Film Festival (LFF)のストリーミングで見ました。

今年のLFFのストリーミングの枠は泣きたくなるくらい規模が小さい(泣)し、時差で難しいのも多いのだが、ドキュメンタリー作家Mark Cousinsさんの作品が2本ある。ふたつ纏めて書こうかと思ったのだが、もう1本を見て、分けた方がよい気がしたのでまずこの1本から。日本で公開されることはまずないじゃろうし。

映画プロデューサーJeremy Thomasが毎年カンヌ映画祭の季節に映画祭に出るために英国からカンヌに渡る - 2020年のカンヌに参加するその車にMarkさんが同乗して(車を出すのも運転するのもJeremyの方)助手席からいろんなことを聞きつつナレーションしていくロードムーヴィー&ドキュメンタリー。で、この作品も2021年のカンヌに出品されている。

Jeremy Thomasの仕事に詳しいわけでもないし、もうとうに亡くなっている人かと思っていたくらいだし、そんなに見る必要も感じなかったのだがTilda SwintonさんとDebra Wingerさんがでてくる、というので見る。

Weinsteinの事件以降かそのもっと前からか、プロデューサーの名前で映画を見にいくことは減ったような気がする。宣伝文句には入っていても実際のクレジットを見るとものすごい束の「プロデューサー」が名を連ねていて会社運営のようだし、王様とか君主のように映画制作の頂点にある絶対権力者としてのプロデューサーの時代ではなくなっているのではないか、と。(Mark CousinsはフィルムのなかでJeremyのことを「プリンス」って呼んだりしているけど..)

ドーバーの近くの彼の自宅を出て車ごとフェリーに乗って海峡を渡り、ヨーロッパ大陸を南下していく。途中で二次大戦時に大量のユダヤ人を送り出した駅とかリュミエール兄弟が”La sortie de l'usine Lumière à Lyon (1895) - 『工場の出口』を撮った - 現在は博物館 - とかヨーロッパ史/映画史の重要な地点を通過し、その地点ごとにそれらの歴史を描いた映画史上のクラシック(”The Passion of Joan of Arc” (1928)とか)をプロットし、主に80年代以降、彼が制作した映画68本からのクリップを並べていく。

頻繁に引用されるのはBertolucciの諸作 – “The Last Emperor” (1987)、“Sheltering Sky” (1990)、Roegの”Bad Timing” (1980) - 『ジェラシー』、 Cronenbergの”Crash” (1996)とか大島渚の諸作とか。各作品の制作意図やそれらに込めた思いが語られるわけではなく、どちらかというと彼が制作した作品に表出した異国や異文化、異様に見えるなにか、情念 - セックス - 死、そして政治、等が切り取られ旅の景色と重なっていく。

カンヌに着くまで5日、カンヌ映画祭での5日間。彼は直近で制作した三池崇史の上映披露に立ち会って、彼の映画の魅力を力をこめて語る – ここはちょっとわからない(見たことないので) - で、うーんややわかんないかも、と思っているとTilda先生が現れて自分でカチンコのポーズをやって区切ったりしながらJeremy Thomasとは、について語ってくれる。

彼はアウトサイダー・アーティストとしてのWilliam Blakeの仲間である、と位置付ける。その生粋の英国人気質ゆえに一般の意識からは外れてしまったもの - 道徳的な感性の頑強さと視野の深さ、それ故の罪に対する意識の高さ - そこに行ってそれを見つめて、それがなんなのかを表に出し、ロマンティックなやり方でそれを保ち続けようとすること。彼は海賊なのだ、と。全てをこの陸の上でやりとりできるわけではない我々が必要とした海賊の強さと誇りを示し、我々にも海賊であれ、と言うのだ、って。

それを受けるかたちでMarkは、彼の作品を英国のラディカリズムの系譜上に位置付ける - Blake、J.M.W. Turner、Virginia Woolf、『赤い靴』のMichael Powell、Francis Bacon、Malcolm McLaren - 映画界のMalcolm McLarenなのではないか、と。

旅の終わり、『戦場のメリークリスマス』のピアノがメランコリックに流れてきてずるいや、と思ったけど、通して振り返るとなんかよかったかも - でもまだ考え中。
 

10.12.2021

[film] Dinner in America (2020)

10月9日、土曜日の昼、ヒューマントラストの渋谷で見ました。
2020年のサンダンスでプレミアされた青春パンク映画。プロデューサーにBen Stillerの名前がある。

冒頭、治験のバイトでげろげろになっているSimon (Kyle Gallner)がいて、不真面目なのでクビになってバイト代をフルに貰えないことに文句を言いつつ、そこで知り合った彼女の家に連れられてそこの家族とディナーをして、そこの奥さんBetty (Lea Thompson)と仲良くなったりするのだが結局追い払われて、あたま来たのでリビングのガラスを叩き割って植木に火をつけて逃げる。

20歳のPatty (Emily Skeggs)はペット屋でバイトしているのだが、ぼーっとしているので店主からは煙たがられて、家に帰っても、バンドのライブに行きたいっていうだけで母親Connie (Mary Lynn Rajskub)からダメが入るのでうんざりで、自分の部屋ではヘッドホンしてハードコアパンクバンド - Psy Opsの音にあわせて踊り狂って熱狂してそのまま自慰している姿をポラで撮って、リーダーのJohn Q宛にファンレターとして送り付けている。

帰る家がないらしいSimonがパトカーに追われているところを助けた後、PattyはSimonを家に連れ帰ると、彼女の家のディナーの席で彼はまたひと騒動起こしてしまうのだが、彼女の部屋にあったPsy Opsの昔のテープ – “Dinner in America”はこのバンドの入手困難になっている音源からの1曲でもある – を聴いて、彼女からこのバンドがもうじきNYの新人(軟弱)バンドと一緒にライブをするんだー、という話を聞くと顔色を変える。そんなのありえない、と。

実はSimonはPsy Opsの覆面被って歌うリーダーの”John Q”で、え? ひょっとして.. って彼の私書箱に届いていた手紙の束を開いてみると、Pattyのまたぐらを撮った写真がいっぱい。でもPattyが書いてよこした詞とかなんかいいじゃん、とか言いながら、ちゃんと給料払わない彼女のバイト先に文句つけに行ったり、彼女を虐めていたジャージ姿の体育会コンビに復讐したり、反抗期の彼女の弟に葉っぱ教えたり、だんだん仲良くなっていく。で、彼が車で向かった先の家にこそこそ入っていくとスタジオ機材一式があって、Simonは彼女の作った詞でさくさく1曲作っちゃってすごいじゃんー、てなるのだが、そこは彼が寄り付かなくなっていた実家、実は追い出されたお金持ちのぼんで、そこでの家族全員が集まったディナーの席でもうひと騒動起こる。

で、最後に自分のバンドのライブ会場に向かってブッキングしてやっただけありがたいと思え、って偉そうなプロモーター(なんとDavid Yowだよ)と大喧嘩してたら警察がやってきて…

いろんなところで弾かれて傷だらけのSimonといろんなところになじめないPattyがくっついていくのだが、そこにいちいち挟まってくるアメリカのディナー(計3軒)における、みんな幸せになのよ家族なんだもののノリとか体裁とか作り笑いへの中指。 漫画としてはよくわかるし主人公ふたりを応援したくならないこともないのだが、パンクの映画にするならクライマックスはふたりが思いっきりぶちかましてなにもかも蹴散らすライブシーンにしてほしかったかも。そうじゃなくて、Todd SolondzやJohn Watersが描いてきたアメリカの白人中流家庭のプラスティックな居心地の悪さや気持ち悪さを描くのだ、というのならふつうに中流すぎてやや中途半端かも。

最初の方はややごりごりのノイジーなエレクトロが不機嫌に鳴ってて、途中でハードコアパンクが入って、ふたりの共作になると突然Vaselinesみたいなアノラックになる、この辺の統一感のなさはわざとなのかもだけど、もうちょっとなんとかー、とか。

あれこれ破壊力はあるはずなのに、どうにも弾けきれていないところがー。もったいないー。


RIP Paddy Moloney..  90年代の数年間、毎年St. Patrick’s Dayの日にCarnegie Hallで行われるライブが大好きだった。宝物だった。 ありがとうございました。みんないっちゃうねえ..

10.11.2021

[film] Limbo (2021)

10月8日、金曜日の晩、MUBIで見ました。
関係ないけど、”Limbo”と聞くとKirsty MacCollの名曲”Dancing in Limbo”が頭のなかで回りだす。

冒頭、中年の男女 - Helga (Sidse Babett Knudsen) とBoris (Kenneth Collard)が会議室に集められた男たちの前で音楽に合わせて変てこなダンスを踊りつつ、HelgaがBorisの手をひっぱたいたりして、なんでこういうことしたらいけないのかわかる? のマナーを教えたりしているらしい。見ている方はしらーっと。

ここはスコットランドの地の果てにあるような島 - 撮影はアウター・ヘブリディーズ諸島のウイスト島 – で、英国に難民申請をしていて審査中の人々が集められた宿泊施設で、冒頭に座っていた彼らは英国に入ることも許されず、母国に戻ることもできない中間地点・軟禁状態 – “Limbo”とは天国と地獄の間にある辺獄 - で、いつになったら貰えるかわからない滞在許可を待ち続けている。「ゴドー」のようなシチュエーションのコメディ。

映画の中心にいるのはここにやってきた(難民)男性4人で、シリアから来たOmar (Amir El-Masry)、アフガニスタンから来たFarhad (Vikash Bhai)、ナイジェリアから来たAbedi (Kwabena Ansah) とWasef (Ola Orebiyi)の兄弟。それぞれに事情は異なっていて、フレディマーキュリーが好きだから英国にきたというFarhadもいれば、チェルシーでサッカーをするという夢を持つWasefに突っ込みつづけるAbediのような漫才コンビもいる。Farhadと同じ家に暮らすことになる主人公のOmarは、父母はトルコにいて、兄はアサド政権と戦うためシリアにいるらしいが連絡は取れず、トルコにもシリアにも行く気がしないまま英国に来てしまったらしい。元は弦楽器ウードのソリストだった。でも腕にはギプスをしていて弾くことはできず、なのにどこにいくにも暗い顔で楽器ケース - 棺桶のようだ、と言われる - を持ち歩いていて、ずっと笑うことを忘れてしまったキートンのような表情のまま固まっている。

国外の家族との連絡は島の原野の真ん中にある公衆電話一台でしかできなかったり、島の食料品店の店主とマイク越しでやりとりしたり(sumacっていうスパイスはあるか? そんなの知らんー)、Farhadが雄鶏を飼い始めたり(盗んできただけだろ)、退屈な島で車を乗り回している若者たちとの間で差別まるだしの会話に曝されたり、Abedi-Wasef兄弟のところに警察が来たと思ったらWasefが逃げて消えたり、いろんなことがあって、おかしいのもあるしシリアスなのもある。ただ、なにが起きたって彼らの身の上に直接影響するものでもない限りは、別に笑えないし泣けないし - そういう情景をスコットランドの冷気がうんと遠くへざーっとさらっていく。

移民と彼らを取り巻く小さな社会を描いたAki Kaurismäkiの人情劇とはすこし違うし、どちらかというとどん詰まった日々のぐだぐだを描いた”Withnail and I” (1987)の方に近い気がする。

やがてOmarの腕のギプスが外れても彼はウードを弾くことはできない。彼が最後に笑ったのは家族みんなが客席にいて微笑んでいた演奏会の場だったのかもしれない。Farhadは、演奏するんだったら俺がマネージャーやるよ、というのだがそんなことできるわけないだろ、とか。

音楽や演奏が天からなにかをもたらしてくれることはないし、最後が希望に満ちたものになるわけがないし、どん底に落ちてしまうわけでもない。滞在許可が出たとしてもその先に道が開けているわけがない、絆も奇跡も導きも無理、そういうことをぜんぶ横に並べたとき目の前に広がる吹きっさらしの大地はどんなふうに見えてどの方角からどんな風が吹いてくるのか。

英国の入国管理プログラムを告発するものでも、シリア難民の苦難を訴えるものでもなくて、彼らが直面している苦しみや痛みは我々のそれとは明らかに違うものの、どこかわかんなくもないような。例えば、明確な喪失や欠落に根差したものではない、どこにも寄れない、ドライブマイカーできるわけでもない、なんとなく留まってうずくまるしかない半端で笑えない状態のー。笑えない、というだけで暗いわけでもないんだ、とか。 なんだかとてもよくわかるかんじがあって、それはなんなのだろう、って。


Mick Jaggerが78と聞いても別にどうでもいい、しかないのだが、Daryl Hallが75になった、と聞くとちょっとくるかも。

10.10.2021

[film] Beat Girl (1960)

10月5日、火曜日の晩、Criterion Channelで見ました。
新作“Last Night in Soho”がNYFFでも評判になって、昨晩のLFFでもプレミアされたEdgar Wrightさんがここでこの映画の魅力 - この時代からのSohoの魅力など - について語っている。もうじきBFIで始まる特集 - “London After Dark”でも上映されるの。
邦題は『狂っちゃいねえぜ』… アメリカでの公開タイトルは”Wild for Kicks”。脚本の最初の段階でのタイトルは"Striptease Girl”で、当時のX-Rated指定を受けて、ストリップのシーンでは胸が見えている。

50年代後半のSohoは、Billy Braggさんがその著書 - “Roots, Radicals and Rockers: How Skiffle Changed the World” (2017)で触れているように(彼だけじゃなくていろんな人々からも聞いた)ここのほんの数ブロック - 小さなエリアのカフェ文化(紅茶ではなく断固コーヒー)がその後のロケンロールを含む雑多なカルチャー - そこにはLGBTQ周辺のアンダーグラウンドのも含まれる - の爆心地としてあった。その頃にいくらでも転がっていたかもしれない例えばこんなお話し。

Paul Linden (David Farrar)はプロジェクト系のモダン建築を手掛ける建築家で、長期のフランス滞在を終えてロンドンの高級住宅街にある自邸に戻ってきて、そこに滞在中に出会って連れてきた24歳の妻Nichole (Noelle Adam)を迎えて幸せの絶頂にあるのだが、彼の(前妻との間の)ひとり娘のJennifer (Gillian Hills)はちっともおもしろくなくて、夜に家を抜け出してSohoのカフェ - Off-Beatに入り浸って、いつもギターを抱えているロケンローラのDave (Adam Faith)や仲間たちとべたべたうだうだしている。

せっかく家族になったのだしJenniferと仲良くなりたいNicholeはJenniferの通うSaint Martin's School of Art(名門)まで追っかけてきて、彼女の仲間とおしゃべりすると、仲間たちは彼女のジャズの知識とかにクールじゃん、って感心するのでJenniferを動揺させて、でも帰り際にカフェの隣のストリップクラブのダンサーGreta (Delphi Lawrence)がNicholeに声をかけている(Nicholeはさらっと無視する)のを見てなんか怪しいかも、って思う。

こうしてJenniferはNicholeの過去を掘るのにストリップクラブに出入りするようになり、そんなことすればするほどNicholeともパパともどうしようもない不和が広がって毛が逆立ち、だんだんやけくそ起こして自分の家でどんちゃん騒ぎすれば怒られ、カフェに戻って踊っても対立する不良たちとぐじゃぐじゃになって、逃げこんだストリップクラブではそこのマネージャーのKenny (Christopher Lee!)からうちにくればパリに連れていってあげるよ、って口説かれて、それを陰で聞いていたGretaがてめーふざけんじゃねえよ、ってナイフを..

どこのエピソードがどう、と言うより、若者たちの居場所や拠り所のなさを掃除機のように吸収して広がってびくともしないロンドンの繁華街のぎらぎら雑多な様や魔窟ぶりが強く残って、これらもまた"angry young men”を中心としたKitchen sink realismの一部だったのか、その反対側にあるなにかだったのか、なんにせよ、いろんな若者たちがいて、いろんな溜まり場があって、いろんな捕り物があったり作品が作られたり、その独特なエネルギーのありようは見ているだけで楽しい。小説でも映画でも。

主人公のJenniferは外に向かって暴れたかのように見えて実はなにも起こらないままおうちに戻り、騒動でギターを壊されたDaveがどこに行くかは街が教えてくれるのさ、ってひとり雑踏に消えていく。Beat Girlが本当に楽器を手にして騒ぎだすにはここから更に20年かかった..

映画音楽作家のJohn Barryが音楽を手がけたのはこの作品のが最初で、劇中でもJohn Barry Sevenていうジャズコンボで演奏をしている。タフでぶっとくて軽く一晩でも踊っていられそうな曲の数々。この作品のサウンドトラックが、映画のサウンドトラックでLP盤としてリリースされた最初のものなのだそう。

Jenniferを演じたGillian Hillsさんはバルドーぽい、ってこの後に“Blowup” (1966)とか“A Clockwork Orange” (1971)にも脇で出たりしている、と。



小三治さんが亡くなってしまった。90年代にアメリカに行く前はたまに寄席に行ったりしてて、戻ってからも彼が出ているのなら..  と思いつつも行くことはなかった。もう寄席に行くことはないのかな。
ありがとうございました。あっちでの寄席を楽しみに。

10.08.2021

[film] Love 'Em and Leave 'Em (1926)

少し戻って、9月26日、日曜日の昼にシネマヴェーラのサイレント特集で見ました。
邦題は『百貨店』。原作はGeorge Abbottによるブロードウェイ劇。

Hark! Hark! 朝だよ! から始まって、Mame (Evelyn Brent)とJanie (Louise Brooks)の姉妹はNYの安アパートに一緒に暮らして、姉はだらしない妹 – 服脱ぎっぱなしなど – にあきれながら、同じデパートに勤めに行ってて、同じアパートの同じフロアには同じデパートに勤めるBill (Lawrence Gray)もいて、MameとBillが共同の洗面所の順番を譲りあっていると横からJanieが平気で割りこむ、そんな3人。Billはどうしようもなく平凡そうなやつだけどMameと少しだけよい関係になりつつある。

彼らのデパート - Ginsburg’s Department Store - のウィンドウ・ディスプレイがいまいちだったので、上からBillとMameに指示がとんで、Mameの扇風機を使ったアイデアが上手くいったのに手柄はBillの方に行っちゃったり、従業員会の会費を管理しているJanieが見るからにガラの悪いLem (Osgood Perkins - Anthony Perkinsのパパね)にそそのかされて会費を競馬に使い込ませたり、Mameの休暇旅行中にBillとJanieがウィンドウの仕事をやったら散々なこと(猫が…)になったり、サプライズでアパートで待っていたらBillとJanieが仲良く戻ってきたところを見て気まずくなったり、Mameにとっては散々なひっかぶり系のことばかり起こって、まったくもう! ていう他愛もないコメディなの。

しっかり者でぜんぶひっかぶってしまうかわいそうな姉とフラッパーのいけいけで反省しない妹、の図がEvelyn BrentとLouise Brooksのファッションや髪型も含めて対照的なふたりによってきれいに演じ分けられていて、それが先端のデパートの先端を見せるウィンドウ・ディスプレイ制作の現場で、仕事も恋も、のようなかたちででんぐり返る20年代のラブコメで、男共は当然のように半端に悪いかバカかで、タイトルの通りとしか言いようがないきっぷのよさは素敵だわ。

で、Louise Brooksはこれを含む数本のNYモノを経て世界に飛びだしていくことになるのね。


Herr Tartüff (1925)

更に戻って9月24日、金曜日の昼にシネマヴェーラで見ました。 邦題は『タルチュフ』。

F. W. Murnauので、Murnau Foundationがレストアしたのは黒が深くてシャープでかっこいいねえ。F. W. Murnauのなかでは”The Last Laugh” (1924)と”Faust” (1926)の間に撮られていて、無敵としかいいようがない頃の。

原作はモリエールの同名戯曲で、これをCarl Mayerが映画内映画としてうまく映画のなかに組みこんでいる。

隠居しているお金持ちのおじいさん (Hermann Picha)がいて、家政婦 (Rosa Valetti)がずっとひとりで世話をしているのだが、彼女は彼の死後、財産をなんとか自分のものにしようと一筆書かせたり毒を盛ったりしようと悪巧みしていて、久々に実家に戻ってきたおじいさんの孫 (André Mattoni)がその様子を見てなんとかしなきゃ、ってなるのだがおじいさんは長年家に戻ってこなかった彼のことなんか信じてなくて、ただ悪賢い家政婦のされるがままになっている。

そこでぴかぴかに変装した孫は巡回映画の映写技師として館のドアを叩き、部屋で上映の支度をしてふたりに映画を見せる。その時に上映されるのがTartüff (Emil Jannings)のお話で、いんちき坊主の彼に痺れてめろめろになってしまった領主のOrgon (Werner Krauss)と彼に操られるままに屋敷でも金でもなんでも貢いで召使いも解雇して、最後には妻のElmire (Lil Dagover)まで差しだそうとするやばさ愚かさ滑稽さが描かれるの。

これを見たおじいさんは、わなわなして、家政婦はちっ.. となって..  闇の深さがそんなでもないとかわかりやすいとか、ハッピーエンディングでよいのか、とかあるのかもしれないが、写し絵のように見える館の様子とか、映画の上映が反転させる闇と光とか過去と現在とか、シンプルでもおもしろいテーマがいっぱい詰まっているので、やっぱしすごいなー、って。あとはEmil Janningsはもちろん、全員がやばいくらいに劇の、劇のなかの劇に組みこまれて邪悪なシワの襞一本一本を幻灯機のなかに浮かびあがらせる。

10.07.2021

[film] La Flor (2018)

10月2日から3日の週末をほぼぜんぶ使ったやつ、イメージフォーラム・フェスティバルをやっていたスパイラル・ホールで見ました。ここに来るのはすごく久しぶり。大昔にDrummers Of Burundiとか見たねえ。

全部で14時間超えの大作で、ロックダウン中にMUBIでもやっていたが総時間数を見てびっくりして諦めていた。これは暗闇に入らないと無理だと。しかし、ホールに並べられた(折り畳みじゃないけど)パイプ椅子とぺたんこのフロア.. 新宿でやっていた頃からそうだけど、有楽町のでもそうだけど、東京って施設の観点では映画祭を開催する資格なんかないよね、ずーっと。

作・監督はアルゼンチンのMariano Llinas。全6エピソードから出来ていて、でもチケットの区切りとしては三部に分かれていて、第一部(210分)でEP1と2、第二部(313分)でEP3、翌日の第三部(290分)でEP4, 5,6が上映される。

時間のかかるやつなので疲れたけど、おもしろいおもしろくないでいうと、シネマヴェーラのサイレント特集にはまって、9/28に”Reminiscence”を見て、9/30にBarbara Rudinを見て、10/1の初日に”No Time to Die”を見にいくような年寄りにはおもしろかった。とってもへろへろにはなったけど。

最初に道路わきのような屋外でテーブルに向かう監督本人 – たぶん。Kevin Smithみある – がノートに手書きしながら全体の構成を説明してくれる(口は開いていない。音声だけ別被せ)。最初の四つのエピソードは終わりを持たないやつで、次のは終わりも始まりも持たないやつで、最後のは始まりを持たないやつ - 図にすると花のような絵になる。EP1はアメリカのB級映画ふう、EP2はミュージカルふうのやつ、EP3はスパイ映画、EP4はうまく説明できない、EP5はクラシックへのオマージュ、EP6は – などなど。

中心にいるのはElisa Carricajo, Valeria Correa, Pilar Gamboa, Laura Paredesの4名の女性たち(他にもEPを跨いで出てくる女性はいる)、EPによって役割も名前もがらりと変わっていく。彼女たちは2003年に立ちあげられたアルゼンチンの前衛劇団のメンバーだそう。並んだ佇まいはパンクバンドのそれで、かっこいいったら。

EP1は冒頭にルネ・シャールの引用が入る。大学の研究室に勝手に送り付けられてきた目隠しされた小さな女性のミイラと、目隠しの包帯の裏に嵌めてあった目玉を外してしまったことから起こる猫同士の殺傷事件がヒトにも及びそうになる.. というスリラーで、ラストについにミイラの正体が.. (と思ったらそこまでで切れる)

EP2の冒頭はVelvet Undergroundの”Sunday Morning”のライン”Watch out, the world’s behind you..”が。 5年前に中年男性と未成年女性として出会ってデュオとしてデビューして、その後別れた男女が再びレコーディングしてリユニオンしようとするところに新人歌手が絡んで、というストーリーに、サソリの毒とヒトを使った技術で永遠の命を得ようとする秘密結社が絡んでくる。

いちばん長いEP3はネルヴァルの「宇宙は夜のなかにある」の一行が。チャプターが10くらい連なる。南米の平原で女性エージェント5人が科学者Dreyfussを拉致して運びだそうとする。その途中で潜入スパイ1名を消して、ブリュッセルにいる雇い主Castermanと連絡を取りながら移送していくのだが、敵側も対抗して4人の女性スパイを立てて両者の衝突の時が近づいていく。という大きな流れのなかにベルリン、ロンドン、モスクワ等、国を跨いだ女性スパイたちそれぞれの過去の物語が展開 – と言っても女性たちは殆ど喋らないまま、男性のナレーションによって彼女たちが曝され、彼女たちを動かしていく。終わりの方の最後まで愛することを許されなかった男女スパイの出会いと別れの話がすてきだった - マネの絵巡りのとことか。

EP4は、冒頭に出てきた映画監督が6年越しの映画を作ろうとして苦しんでいる。「蜘蛛」というタイトルなのかコンセプトなのか、の映画で、でも4人の女優に割り当てられた役割は練られていないので現場から文句が出ているし、新しい女性のプロデューサーがやってくるし、でもいまは春なので樹を撮りたいんだ、って監督を含む5人の撮影クルーと犬は外に出ていっちゃって、いろんな樹を撮りまくって、そこに魔女が襲いかかって車が樹の上に引っ掛かけられ、北イタリアの言葉を話す好色老人がどこからか現れ、クルーは頭らりらりで監督はどこかに消えてしまう。
これを捜査すべくやってきた男が、監督がネタ探しのために買い漁っていた古書の山 - 『オトラント城奇譚』とか『サラゴサ手稿』とか、ゴシックロマン系中心 - そのなかでアーサー・マッケン訳の『カサノヴァ回顧録』(から抜け落ちたパート)に何かありそうだって掴んで…  でもここでも、それがなんだったのか、なんでこれだったのかはあんま明らかにされない。 
映画撮影の映画でもあって、Miguel Gomesの”Our Beloved Month of August” (2008)のような底のぬけたかんじも。 冒頭に流れていくヴィヴァルディ、ラストのラヴェルが気持ちよい。

EP5には主演の4人の女性は出てこない。シャープなモノクロ映像、飛行機アトラクションの部分を除いて一切音のない世界で、ルノワールの『ピクニック』(1936)の世界が現代の田舎で展開される。女性二人組、男性二人組、父と息子、それぞれが出会ってなんとなく別れる郊外の休日。ルノワールというよりてきとーなジャック・ロジェの短編のような。

EP6は、スクリーン全体に靄がかかったラルティーグの写真のような世界で、かつて英国からやってきて現地民に囚われて逃げ出した英国人女性(途中で「コーンウォール」の地名が聞こえてはっとする)の手記を元にしたテキストと声、が流れていく。確かに始まりのない、視界も含めてどん詰まりの世界がここにはあって、この「幽囚」はいまだにー。

どのエピソードも周到に練りあげられ組みあげられて互いにぶつかり合う、引用やオマージュの織物として編みあげる、というよりはそれぞれの宇宙からてきとーに放たれた小惑星のようにランダムに大らかに動いてぶつかったり埋もれたり。いつもカメラの焦点は浅くて各キャラクターは遠くのぼやけた状態からゆっくりこちらの射程に入ってくるように世界に寄ってきたり現れたりするし、音に関しても同様で、入っちゃったものは入るね、くらいの緩さと大らかさと。

この辺の、寄る辺ないものたちの怪しい動きと、その向こうでより大きな物語や時間を紡ぐものたちとの攻防、というとってもラテンアメリカぽい渦とか地層の真ん中で、これらを貫いて中指を突きたててやってくる4人の女性たち - スパイだったり魔女だったり - の絵になるかんじがよくて。かっこいいー、で終わらせちゃっていいのか。いいのかも。

映画史的なところはよくわかんないのだが、例えば、Jacques Rivetteが”Out 1 : Noli me tangere” (1971)で紡いだ壮大な革命と陰謀の物語の後に、女の子たちのアナーキー - ”Céline and Julie Go Boating” (1974)を撮って、その後に企画して結局半分しか実現しなかったネルヴァルの『炎の娘たち』を基にしたシリーズ – これも4つの物語だった – のありように近いかんじはした。ちょっとはったりじみてて、でも風通しがよくて。 「革命」ではなく、常に侵略と服従に曝されてきた南米の地でのー。

やろうと思えば血生臭い、鮮血とバイオレンスに満ちたものにもできたはずだが、血とかまったく流れないのはよいと思った。銃声もぽんぽんと乾いて穏やかだし。

続編では、今回あっさり無視された空洞 - USAを舞台に4人がチャーリーズ・エンジェルとかタランティーノみたいなのをぐさぐさやってあれこれ脱構築してほしい。

ひとつ、少しうんざりしたのがエンドロールで、だらだら20分以上流していたのではないか。ここまでつきあってくれてありがとうー、じゃん♪ で終わればかっこよいのに、バンドのトラックが終わってもギターの弾き語りでえんえんがなって繋いで、画面では出演者やスタッフが全員車でいなくなった原っぱにひとり黄昏ている男と犬が。 あの音楽がこの後3日くらいずっと頭のなかで廻っていたわ..


揺れたねえ。丁度LFFでドキュメンタリーを見てた。本の山がひとつぶん.. だけじゃなさそうかも。

10.06.2021

[film] Reminiscence (2021)

9月28日、火曜日の晩、TOHOシネマズの日比谷で見ました。
HBOの”Westworld”のプロデューサーだったLisa Joyの作/監督による長編デビュー作。

街の半分くらいが水没した状態にある近未来のマイアミで、Nick Bannister (Hugh Jackman)と相棒のWatts (Thandiwe Newton)は、自分たちの名前がついたお店をやっていて、そこでは客が「レミニセンス」ていうバスタブ装置に浸かって失われた記憶や楽しかった記憶を再生して安らぎや癒しを得たりする、そういうのをガイドしたり運用したり、のビジネスをやっている。

Nick自身の重めのナレーションで“The past can haunt a man” とか”Nothing is more addictive than the past”とか何度か語られるように、彼らはそれが客にとってあまりよくないし危険ですらあることはわかっているのだが、お金のため、ってハードボイルドなふう。

ある晩、閉店間際にMae (Rebecca Ferguson)が訪ねてきて、家の鍵を失くしちゃったのでその前後の記憶を探りたいのだ、と。そうやって再生された記憶を通してNickはMaeの陰のある佇まいとか、バーの歌手であるらしい彼女の歌う歌 - Nickの好きな歌でもあった - に惹かれていって、やがてふたりは恋人の仲になるのだが、ある日彼女は忽然と姿を消してしまう。

こうして彼女の消息を追って、Nickは自分の記憶映像のなかにある彼女の言葉や彼女の記憶映像に映っている人を順番に訪ねていくとニューオーリンズの麻薬の売人とか悪警察官Cyrus (Cliff Curtis) とかその背後に蠢くマイアミの土地利権のスキャンダルとかにぶつかってやばい事態に巻き込まれていく。彼女の正体は? 果たして彼女と再会することはできるのかー。

昔からある、消えてしまったファム・ファタールを私立探偵が罠と知りながらも追っかけて破滅していくノワールを近未来設定とガジェットとCGでなんの新味もなくパッチワークしただけ、などといろいろ酷評されているし、実際にノワールにおける失踪者を巡る関係者の語りが彼女自身とその関係者のビジュアルな記憶(メディア)に置換されているだけ、のような印象も受ける。 語りと写しとられた記憶に違いがあるとしたら語りはいくらでも嘘をつくことができるけど映像は嘘をつけないところ - でも本当にそうだろうか? - 映像は嘘をついていないように見せることができる、というだけのことではないのか? - といった辺りを掘りさげていったらもう少しおもしろくできたのかも知れないのに。

あるいは/それと複数の記憶映像の重ね合わせで見えてくる「だったはず」「じゃなかったはず」の像たちの呪縛。 記憶映像取り扱い業者のNickはその危険性を十分すぎるくらい知っていたはずなのに自らその迷宮に潜りこんで逃れられなくなっていく。 一方には自身の過去の戦争/従軍経験からの退避があり、もう一方にはひょっとしたらの希望の未来に繋がるかもしれないMaeへの強い愛があり ー。

甘々かもだけどずぶずぶに入り込んで過去や夢の世界にぬくぬくだらだら溺れていく人の話、として見てしまうとなんか嫌いになれない。 湯船に浸かって本読みながらこのままふやけて溶けてかまわないやって思うのと同じような。ちがう?  生産性ゼロ、むしろマイナスの人々。 みんなそうなっちゃえばいいのに。

そういえば、”Minority Report” (2002) - あれは水に浸かって未来の映像を予測する映画だったけど、なんで時間を旅するためには水(なのあれ?)に浸かるのが必須なのか? 羊水のイメージ? Hugh JackmanはWolverineの頃に散々ああいうのに漬け込まれていたのに懲りないの? ウィリアム・ギブソンの「カウント・ゼロ」だか「モナリザ・オーヴァドライヴ」(どっちだったか)にも電極通してあっちの世界に漬かったままの人たちが出てきたよね。

気になるのはあれらの映像に漬かっているとき、映像と音は再生されていそうだけど、その時の匂いとか味とか触覚とかまでは再生されないの? だとしたらプルースト的には難しいかも。そのうち飽きちゃうかも。

“The Greatest Showman” (2017)でも一緒だった(になろうとした)Hugh JackmanとRebecca Fergusonの相性は素敵なのだが、”The Greatest Showman”て、TVで見ただけで、なんか苦手なのよね。 ふたりでばきばきのアクション・コメディやってくれないか。


New York Film Festivalが始まってて、今日からLondon Film Festivalが始まって、つまんなくてふてくされて泣いている。飛んでいきたいようー。

10.04.2021

[film] No Time to Die (2021)

10月1日、金曜日の晩、日比谷のTOHOシネマズのIMAXで見ました。

本来であれば2020年の3月末に見ることができたはずのやつで、BFI IMAXのチケットも確か買っていた(あれ、払い戻されたのかしら?)。 そこからたしか3回か4回延ばされたので、そのうちにこっちが死んじゃうわいいかげんにしてほしい、ってすぐ見る。

Daniel CraigによるJames Bondの最後の作品。いろんな意味で「最後」なのだが、以下、ネタばれしているかもしれない。

雪と氷に覆われた一軒家に寝込んでいる母親と娘がいて、氷原の向こうから能面を被ったひとつの人影がゆっくり現れて、母を襲い、娘は氷に覆われた湖に逃げるのだが追ってきた能面に捕らわれる、という不穏で不気味な冒頭。そこからMadeleine (Léa Seydoux)とイタリアで引退生活を楽しむBondになって、そこで亡妻のお墓参りに出かけた彼は墓ごとふっとばされ、突然現れた敵とのどんぱちが始まって、危険だしなんか様子がおかしいのでMadeleineとは駅でお別れする。

そこから暫くして、ロンドンの川沿いの高層ビルの1フロアを怪集団が襲って機密をUSBに入れてそこにいた科学者Obruchev (David Dencik)と一緒に運びだす。

その頃、ジャマイカで暮らすBondにかつての仕事仲間で、いまはCIAと仕事をしているFelix (Jeffrey Wright)からコンタクトがあり、キューバに向かうとそこに会していたSpectreのメンバーが皆殺しにされ、ここでもまたどんぱちがあって、こうして↑の案件 – MI6も噛んでいた機密プロジェクト“Heracles”が絡んでいたことを知り…

なにしろ2時間43分のやつなので、あれこれみっしり絡んでいるので各自見てほしい。かつての敵で獄中にいるBlofeld (Christoph Waltz)にも会ってM (Ralph Fiennes)にも確認して、Q (Ben Whishaw)を搾ってこき使うと、その障子の向こうにSafin (Rami Malek)が現れてMadeleineともうひとりを拉致していったので、BondはMI6としてロシアと日本の間くらいにある島に向かうことになる。

ロンドンを襲ったテロの1年後の“Casino Royale” (2006)でデビューしたDaniel CraigのBondは、従来型の悪の陰謀組織と戦うスーパースパイ、ではいられなくなった。テロは沢山の人を殺して、その悲しみと憎しみは多方面に伝播して自身をも傷つけて止むことがない、という事実を体現する存在としてスパイの老いや死とも向き合うことになる。彼が背負った悲しみ、憎しみ、恨みは彼が登場するシリーズの基調音として常に流れて彼を蝕んでぼろぼろにしていく。もはや先端ガジェットやその機能の一部のようだったBond Girlsはなんの意味も持ちえない。あくまで大英帝国の007であってほしい、というマーケットの要請と英国なんてとうにしょうもなくなっているだろ – でもアメリカに比べりゃまだ.. というDaniel Craigの選んだ道の乖離とそのバランスと。 (アメリカでは相変わらず巨大悪(の組織 or 魔物)と戦う漫画が”Mission Impossible”や”Fast & Furious”のシリーズとして、あるいはMCUのような宇宙で再生産され続けている。おもしろがる分にはよいけど、いいかげんどうなのか、というのはずっと思っている)

今回のBondはそんな人間サイドの生々しいありように一応の決着をつけるものになった。スパイはスパイである以上、人を、特に愛する人を不可避に傷つける存在として、Untouchableなそれとしてしかありえないのだ、という苦い認識が彼を覆って引き裂いて、それでも...  というラストがすばらしい。ル・カレの小説のような生きた苦み。 ここにもはやスパイ活劇としての爽快感はなくて(必要としない)、”No Time to Die”というのはBondではなく、Madeleineともうひとりに対して言わんとしていることなのでは、くらいのことを思う。

というシリアスなところと、一匹狼であることを選んだ初老のスパイが直面する困難をやや面白おかしく、というところもある。現れたCIAの若手Logan (Billy Magnussen)はただのバカだし、同じCIAでも研修を終えたばかりだというPaloma (Ana de Armas)はかっこいいし、Mは明らかに現場感覚を失ってついてこれなくなっているし、新たに007ナンバーを襲名したというばりばりのNomi (Lashana Lynch)がいる、自分ははっきりと時代遅れの番号なし - 記号になることすら許されていない。

シリアスな方を削っておもしろおかしいノリのまま乗り切る、という選択肢もあったのだと思うのだが、Daniel Craigのガンアクションて、良くも悪くもクラシックで他と混じりあわないかんじがして、あえて(最後だし)というのと、これまでのBondものにはなかったMadeleineとのエピソードをどうするのか、というこれもバランスみたいのも絡めて、どこか譲れないものがあったのではないか。

脚本に参加しているPhoebe Waller-Bridgeがどこにどこまで絡んでいるのか。本人はSouthbankでのトークで、ロマンチックなところを少々、とか語っていた。女性エージェントのパートは勿論そうだと思うが、ラストのMadeleineとのダイアローグは彼女が書いたのかしら?

あと、やはり気になるのは、悪役としてのSafinの毒と闇の希薄さ、だろうか。なぜ彼はあそこまでの悪の道を深めて組織してきたのか、なぜロシアと日本の間の島設定なのか、なぜお能なのか、などなど。

既にあちこちで話題になっているQの自宅公開シーン。セイロでズッキーニはわかんなくもないけど、置いてあったワインて、Saint-ÉmilionのChâteau Angelusじゃなかったか? こいつでメインとチーズはどうするつもりだったのか、レシピは誰ので、「彼」ってどんなやつなのか - Benji (Simon Pegg)がやってきたりして.. - などなど。「Qの最悪の一日」というタイトルで60分のショートを作ってほしい。ぜったい当たるから。

次のシリーズでQは女性になるのではないか。それとデータ解析系とメカニックは分けるのではないか、とか。(→ F&F化)

あと、あの島をあの状態のままミサイルでふっとばすと深刻な海洋汚染を引き起こすことにはならないの?

あと、ふつうあのレベルの機密情報をああいうビルの中層階に置くことはないし、そういうとこに置く端末をUSB書き出し可にすることなんてないし、そういうとこのデータは削除したからって消えるもんではないし、そもそもあの場所にあんなビルはないし。

やっぱりBFIのIMAXで見たかったなー。 日比谷のIMAXのあまりの音のしょぼさにびっくりしたわ。
 

10.03.2021

[film] 7th Heaven (1927)

9月26日、日曜日の晩、シネマヴェーラのサイレント特集で見ました。

邦題は『第七天国』。監督Frank Borzage - 主演Janet Gaynor & Charles Farrellによるこの特集での3本目。Janet Gaynorは、これと”Sunrise” (1927)と“Street Angel” (1928)の3本をあわせて第一回のオスカー主演女優賞を貰っている。異議なし。

制作年の順でいくと”7th Heaven” (1927) → “Street Angel” (1928) → “Lucky Star” (1929)で、今回の特集で見た順とはまったく逆なのだが、この順番で見てよかった気がする。 放射されるエモの総量はこの順番で膨れあがっていくかんじがある。

原作はAustin Strongによる同名戯曲 (1922)で、1937年に監督はHenry King、Simone Simon & James Stewartの競演でリメイクされている - こっちも見たいかも。

第一次大戦前のパリの下町で、Chico (Charles Farrell)は道路の下、下水道掃除の最下層の仕事をしていて、いつもいちばん底から星を見上げて、ここからせめて路上清掃に昇格したいなーって夢を見ていて、とにかくぜったい下を見ないから、おれはvery remarkable fellowだからな! っていうのが口癖なの。

Diane (Janet Gaynor)は同居している姉から日々鞭で打たれて虐待されていて、教会からあなたたちのお金持ちの叔父夫婦が見つかったかも、という連絡を受けて彼らと会ってみても姉妹の余りのぼろぼろさ故に逃げられて、それで姉はまたDianeを虐めて、ひとり外に投げだされた彼女はChicoとぶつかり、彼女が警察に引っ立てられそうになったところでChicoがぼくら夫婦だから、ってとっさの嘘をついてその場の難を逃れる。

それはほんとに一時の言い逃れのだからな、ってChicoがいうとDianeはしょんぼりして、でも警察は本当の夫婦かどうか見回りに来るぞっていうし、神父さんから路上清掃に格上げされてご機嫌になった彼は行くところがないなら置いてやってもいいよ、って自分の寝ぐら - アパートの狭いぐるぐる階段を7つ昇ったとこ - だから第七(階段)天国 - に案内して、そうやってふたりは仲良くなっていくの。

で、やっぱりずっと一緒にいたいね、結婚しよう! ってなったところで戦争始まりましたー 今日の午後に発ちますー っていきなりお触れがでて、逃げても隠れてもしょうがないし、ほら、おれはvery remarkable fellow! だからきっとだいじょぶだし、っていつもの調子で受けて行くことにしちゃうの。でも、ぼくらはずっと一緒にいるんだから毎日昼の11時になったらふたりで空を見あげて、”Chico - Diane - Heaven!” ってやろうな、って誓ったりするの。この辺の涙をこらえつつ延々続くふたりのお別れのシーン、書くとくさいし恥ずかしいのだが、見てみ。 ぼろぼろにやられるから。(みんな戦争の時にはこういうことやっていたんだろうな..)

戦地でChicoはDianeのペンダントを胸に11時の誓いをしながら戦うのだが、戦争の泥沼は凄まじく彼らを飲みこんでいってChicoの隊もやられて…  Chicoの仕事仲間で彼らと一緒のアパートに暮らす身重の奥さんもDianeと一緒にお祈りしていて、彼の方は片腕を失ってもなんとか.. だったのに。  これまでの作品だと最後には必ずふたりに奇跡が訪れていたものだが、今度のはさすがにむりか.. あんなふうに死んじゃうのであれば..  Diane、がんばって生きろよ、って誰もが思ったであろうそのとき.. (ここまで)。

愛があれば主人公は死なないのだ伝説はこの頃からできあがっていったのかも。こんなふうに主演女優賞の原型とか伝説もできあがっていったのかも。しかし、『幸運の星』では戦争で下半身不随になって、『街の天使』では半分おかしくなって、ここではあんなふうになって、いつも散々な目にあうCharles Farrellに対して、Janet Gaynorはいつもぎりぎりで自分を見失わないけどとっても一方的に不運に追い詰められてかわいそうで、こういう背後の役割分担のようなのってなんだったのか、とか。

サイレントなのに、このふたりの嘆き、悲しみ、交わしあう愛の言葉がごくふつうに頭の奥に聞こえてきて鐘の音のようにいつまでも響きあう、そういう映画たちでした。


この週末でロンドンの古本屋 - The Second Shelfの物理店舗が閉店した。5月に帰国する直前にお別れに行ったとき、ひょっとしたら、という話を聞いていたので驚かなかったけど、やはり残念。 古今東西の女性による本だけを集めた、フェミニズムなんてあったりまえよ、の古本屋で、いまだに売り場に「女性作家」という棚が作られてしまう日本では信じられないだろうが、女性による本だけでこれだけ見事な古本屋ができてしまう。ソーホー繁華街の小さな中庭のあるアーケードの小さな店で、最近、店の入り口の外観がほぼそのままラブコメみたいな本の表紙イラストに盗用されてしまう - しかも2冊も! - という珍事もあったけど、それくらい素敵なお店だった。

はじめて行ったのは2018年の11月、まだ店がオープンして間もなかった頃で、ダストジャケットの古本の美しさを教えてくれたのもここだったと思う - あああの時に買っておけば.. というのをいまだに何冊か思い出す - し、一番頻繁に通った(土曜日に発見して悩んでから日曜日に買うなど)古本屋はここだったし、棚の並びは鮮明に憶えている - 入ってすぐ左がBloomsbury - Hogarth Pressの作家と本、その隣にPoetry - し、いま自分の宝物になっている本のいくつかはここで見つけた。
 
彼女は不屈の人なので、またどこかにオープンしてくれると思うけど、あの店がないロンドンなんて.. くらいのかんじではある。 ありがとうございました。 そのうちどこかで再会できますようにー。

10.01.2021

[film] MINAMATA (2020)

9月25日、土曜日の昼、シネクイントで見ました。
冒頭、か細く静かな声で歌っている日本人女性のクローズアップ、少しカメラが下に動いて宙を見つめる子供の顔が少しだけ映る。有名な智子ちゃんの写真が撮られようとしているのか撮られたのか、そこだけでいいや、くらいになる。

70年代初めのNYでW. Eugene Smith (Johnny Depp)は破綻して絶望してほぼぶっ壊れていて、Life誌との契約があるので編集部のRobert Hayes (Bill Nighy)からはっぱはかけられるものの、自分でもどうしようもないと思っているし実際にもうどうしようもなくて、機材も売っ払ってしまったところにAileen (Minami)ともうひとりが訪ねてきて、水俣の患者たちの写真を見せる。これらの患者たちは元凶である企業からはもちろん、政府からも見放され孤絶して救われないままだ、あなたの写真でこの惨状を世界に広めてほしい、と言われて最初は渋るものの、決意してRobertに直訴してAileenと共に水俣にやってくる。

ガイジンのEugeneを暖かく迎えてくれる家族もあればカメラを構えると逃げたり手で払ったりする人もいて、ゆっくりと被写体となる患者たちの世界にのめり込んでいくなか、チッソ側(に雇われた連中)の妨害や暴力や焼き討ちをくらって、諦めたり持ち直したり怒りに震えたりしつつ、その感情のうねりが患者たちの蜂起と同調していく過程を描く。

ドラマはあくまで患者たちの世界に向き合うというよりファインダーを通して彼が見た水俣と患者たちの世界、それが写真も人間であることも捨てようとしていた彼をどんなふうに揺り動かして救ったのか、というアメリカ人Eugene SmithとAileenの物語になっている。だからそれは「水俣」ではなく”MINAMATA”で、そこに賛否があるのはとってもよくわかる。ストーリーラインはボスと衝突し過去のトラウマと戦いながら田舎の汚職や犯罪に立ち向かい地元民の協力を得て勝利する典型的なアメリカン・ヒーローのそれをなぞるものだし、実際の出来事と比べても、土本典昭のドキュメンタリーと並べてみれば空気の濃さも人々の密集度もぜんぜん違ったりしているし、でも、いまだに解決に至っていないこの企業が人々や自然に対して引き起こした犯罪をおもてに引っ張りだすのであれば構うもんか、とも思う。ここまで来てもまだプロモーションへの協力を拒む水俣市とか、なにひとつその体質を変えていないではないか、とか。

でも、それでもやはり一番美しいシーンはEugeneが家族の留守に智美ちゃんを託されて、おそるおそる抱き抱えながら海を見るところとか、やがて『入浴する智子と母』として世界に知られることになるふたりを撮影するところだろう。一時期は封印されていた世界で一番美しくて痛ましい母子の肖像写真。あのふたりは毎日ずっとああして向かいあって2人の時間を生きていったのだよね、って。

Eugeneと土本典昭と石牟礼道子がいなかったらここまで水俣が世界に知られることはなかったのかも、について。だからアートは必要だと思うし、アートを粗末にする社会は滅びるし、滅びてしまえ、って思う。 ついでにジャーナリズムはこの時も抗議する民の後ろにくっついてわあわあやっていただけでその腐った提灯持ち体質は今も全く変わっていないので、消えてほしい。特にいまの政治家のケツしか追わない新聞メディアの連中。

エンドロールで延々流れていく世界中の公害絵図を見ると暗澹とするし、進行形の気候変動はこれを上回る規模の災禍をもたらすことになるしもたらしていると思うので企業活動とか、根本から見直さないとほんとしんないから。 Gretaさんが言うように”Brah Brah Brah”だのSDGsだのばっかりのクズなじじい共ってほんと永遠にクズなじじいのままだよね。 ところで、Todd Haynesの”Dark Waters” (2019)って、まだ日本で公開されていないって、なんなの?

Aileenを演じた美波も、ステテコ姿の浅野忠信も真田広之も加瀬亮も國村隼も日本人俳優はみんな素敵なのに、ほぼセルビアで撮られていて、なんでこれが日本映画として撮られなかったのかしら? ってほんとにふつうの疑問が。

坂本龍一の音楽が久々にすばらしくよかったかも。


1年半以上ぶりくらいで週5日連続で会社に通勤して、ほんとに死んだ。こんなの40年も続けたらふつうに脳みそ麻痺してだめになるわ、って改めておもった。