12.30.2012

[film] Salmon Fishing in the Yemen (2011)

20日の木曜日の晩、なんとなく空いたのでなんか見たいー、と思ったらたまたまやっていたので見ることにした。程度でした。 『砂漠でサーモンフィッシング』。

うん、ぜんぜん悪くない。 Lasse Hallströmだし。

イエメンで鮭釣りしたいの、ていう大富豪からの依頼を持ちこまれた水産学者が、そんなの無理なんだってば、とか言いつつなんとなくがんばってしまうお話し。 実話じゃない。たぶん。

水産学者にEwan McGregor、大富豪の代理人にEmily Blunt、英国政府の広報担当にKristin Scott Thomas。 周りの強い女たちにあれこれいじくられて全てが嫌になり、じわじわ釣りと魚の世界に逃げ込んでいくEwanがなかなか素敵。

Ewan McGregorて水の俳優さんで、"Trainspotting" (1996)にしても"Big Fish" (2003)にしても、水に浸るシーンがあるとこのひとは素晴らしい演技をする。この映画もそうで、彼が釣り竿の一閃で狙撃手を仕留めるとこなんて、オビ・ワンのどのアクションよかかっこいいの。

イエメンの鮭に奇跡は起こるのか、にひっかけつつ、実はEwanとEmily Bluntの恋がどうなる(Ewanには不仲の妻が、Emilyには戦地で行方不明になっている恋人がいる)のほうにだんだん寄っていって、鮭にも恋にも環境がだいじなんだよ(あと、マネーもね!)というあたりに落ちるエコ(エセ、じゃないよ)・ヒューマン・ロマンスなの。

全てがとってもそれらしくて身近ぽい話のようで、よくよく見てみれば宙に浮かんだ荒唐無稽なお話であるところもよいのね。 あるわけねえだろ、ってやさしく軽く突き放してくれるとこが。

今年はもう書けないかしらー。 書けてないのいっぱいなのになあー。

12.29.2012

[film] Frankenweenie (2012)

16日の日曜日、『三惡人』のあとで選挙に行って、そのあと、選挙速報でほんもんの悪人どもが万歳するのなんか断固見たくなかったので、六本木に行った。

人形アニメを3Dで見る必要もない気がしたので、2Dにした。『フランケン・ウィニー』。
邦題は『腐乱犬・ウイニー』でいいじゃん、と思っていたのだが、犬の名前はSparkyなのだった。
Sparkyっていうと、むかしWilliamsburgにあった(今、"egg"があるとこね)ホットドッグ屋さんを思いだすのだが、それはさておき。

事故で愛犬Sparkyを失ったVictorは、失意のどん底で理科の授業で習ったとおりに落雷の電流をSparkyの亡骸に流しこんでみたら、Sparkyはつぎはぎのまま生き返るのだが、それを見てた学校の連中がまねしちゃって町は大混乱に陥るの。

Tim Burtonが大人になる前に撮った作品がベースで、彼が大人になる前だから Johnny DeppもHelena Bonham Carterも参加していない。(Winona Ryderさんはでてくる)

Tim Burtonが、過去の作品も含めてずっと言ってきたことが87分間にかわいらしく、しかしきっちりと入っている。 ほんとうの愛は生死の境を超えて、生物だろうが死物だろうが、永遠に生きるのだと。 でもその用法・使い方を誤ると大変なことになるんだよ、と。
こうして、使い方を誤ってしまった例として、かつての怪獣映画 - ガメラ、モスラ(幼虫)、グレムリン - へのオマージュがあって、でもそれら奇形動物だって、これだってそれなりに立派な、愛の成果なのではないか、と。 

しかしSparkyかわいいったら。最後の決闘のとこで彼がロープを滑り降りてくるところなんか、泣きたくなるくらい素敵なの。

でもこれってSparkyが犬だから成立したお話であることも確かで、猫だと無理だねえ。
Tim Burtonて、つくづく犬のひとなんだよねえ。

クレジットの最後に、Special ThanksでShelley Duvallさんと    Daniel Sternさんの名前があった。
音楽はいつものDanny Elfmanさんで、主題歌はKaren Oさんが歌っているのだが、Shelley Duvallが歌ってもよかったのにな。


というわけでほんわかあったかい気分になって、帰ってTVつけたらそこには「怒」とか「怨」とか「呪」とかが渦巻くどす黒い世界しか展開されていないのだった。
しみじみうんざりして、そのうんざりはまだ続いているんだよ。

[film] 3 Bad Men (1926)

16日の日曜日、選挙に行く前に自身を奮い起たせるべく、シネマヴェーラに向かう。

今回の特集、『映画史上の名作8』は、いつものように必見のやつばっかし。
デジタル上映が増えてしまっているが、構うもんか、なの。

で、この『三惡人』はライブのピアノ伴奏付き。こんなのぜったい見るでしょ。

19世紀の土地解放時代、黄金の土地を求めていろんな人がやってくる中、若いカウボーイ - Dan O'Malleyと娘が出会って、娘の父は馬泥棒にあって殺されてしまい、そこに気まずいかんじで居合わせた三人のお尋ね者、"Bull"とMikeと"Spade"がそこに合流してなんとなくみんなで行動を共にすることになる。
土地を求めて人々が集結するベースの街にはハンターっていう悪保安官がいて、こいつはほんもんの悪で、彼らと対立を深めていって、やがて土地獲得レースの日がやってくるの。

ロマンスがあって、男の友情があって、家族のような絆があって、明確な善と悪の線があって、怒濤のレース(とんでもなくすごい)があって、3悪人は… 

最後のほうはずうっとずるずるに泣いてた。
だって、3悪人はもちろん悪人じゃないし、それに、あのラストなんてさー。

この揺るぎなさ、力強さはなんなのだろう、どこから来るのだろう、と。
恋が始まる瞬間、三人が互いに目配せして覚悟を決め、遠くを見つめる瞬間、140年前に確かにあったそんな瞬間がはっきりと目の前に現れる。 声も音もないのに。
これって、今の映画にあるものとは根本的ななにかが違う気がして、でもそれは、はっきりと今の我々に必要ななにか、だと思った。 John Fordの映画と水さえあれば、人は生きていくことができる。

122分バージョンが見たいよう。

Lincoln Centerでは、30日と元旦に70mmプリントで"Cheyenne Autumn" (1964) -『シャイアン』をやるの。 これも見たいようー。

12.27.2012

[film] I Married a Witch (1942)

15日、アリス・ギイ特集のあとでシネマヴェーラで見ました。『奥様は魔女』。
フランス人による(ちょっと困った)女性映画つづき。(この映画はアメリカ製だけど)

むかしむかし、今から20年以上前、「リュミエール」っていう「スクリーン」とかよりちょっと難しくて、「映画秘宝」よりかっこつけてて、相当偏向して屈折した映画の雑誌があって、そこが「リュミエール シネマテーク」っていうシリーズの洋画のVHS(ていうメディアがあったんだよ、むかし)を何本か出したことがあって、そんときにルビッチの『生きるべきか死ぬべきか』とこの『奥様は魔女』を買ったの。

ビデオの発売記念イベントで『生きるべきか死ぬべきか』の上映はあった(すばらしかった)のだが、これの上映は当然なくて、それを今回、35mmプリントで見ることができる。 
長生きはするものだねえ、というか、これもJenniferの呪いの一部なんだと思おう。

17世紀、魔女とそのパパが魔女狩りで生贄になって樫の木の下に埋められるのだが、その直前に彼らはWooley一族の行く末に不幸な結婚をするんだから憶えてろ、って呪いをかけるの。
その呪いのとおり、Wooley家の男は代々みんな浮かない顔で馬車に揺られて結婚していって、時は現代、Wooleyは州知事選を前に、当選するにはつんつんした性格のやな女(地元権力者の娘)と結婚しなければならなくて、つまりは不幸な結婚の呪いは続いているのだった。

そのとき、落雷で蘇った父娘はさっそくにっくきWooleyのとこに行って目前に迫った結婚式を妨害すべく、そのトドメとして惚れ薬を彼に飲ませて魔女 - Jenniferを恋するように仕向けようとするのだが、間違ってJenniferのほうが薬を飲んじゃったもんだからさあ大変、なの。

恋にしても選挙にしてもすんごく大事なことのはずなのだが、魔女と薬の作用と勢いでものすごくいい加減に無責任に決まっていくので笑っちゃうしかない。 そんなんでも、とりあえず幸せになるんだったらそれでいいんじゃねえか、程度。

このすべてをナメきった態度がたまんなく素敵。(プロデュースはPreston Sturges)
そして、結婚式の愛の歌とか、酔っ払い父さんのドジとか、はっきりと目に見えるくどさしつこさ、がバカにしてんのか、みたいに辺りをぐるぐる回ってくる。

Wooley役のFredric Marchの表はしゃんとしているようで実はぼんくらなかんじ、Jennifer役のVeronica Lakeの狐みたいに猫みたいにぐにゃーんとしたかんじのふたりの相性も素敵でさあー。
(でも撮影現場では犬猿で、Fredric Marchはタイトルを"I Married a Bitch"て呼んでいた、とか)

ちなみにTVの『奥さまは魔女』- "Bewitched" もこれにインスパイアされているんだよ。

12.26.2012

[film] アリス・ギイ傑作選 1987年~1907年

15日の土曜日、オーディトリウム渋谷の『新・女性映画祭 "こんなふうに私も生きたい"』という特集から『アリス・ギイ傑作選 1987年~1907年』を見ました。

セレクションから興行の運営まで、学生さんの授業の一環だという。いいなーこんな授業。

世界で最初の女性映画作家、アリス・ギイ(Alice Guy)の作品集。
見たのは以下のような短編ばかり全20本、一番長い『キリストの生涯』でも37分。
20本と言っても1897年から1907年までの間にゴーモンで撮った約400本のうちの20本。
このあとアメリカに渡って1910年から1920年までに350本あまりを撮っているのだと。(会場の配布資料による)

ほんとに、始まりの始まりのころの映画なので、女性映画と言ってもいまの我々がイメージするそれとは違っていて、テーマがそれっぽい(ダンスとか、ひらひらとか、xx女、とかそんなような)だけで、基本は日常のあれこれをちょっとだけひねって、あらら、くすくす、みたいなかんじ。
でもおもしろい。見ててぜんぜん飽きない。

メニューは以下。

1897 「急流の釣り人」「ボブ・ヴァルテル 蛇踊り」
1898 「手品の場面」、「明け方の家の椿事 普仏戦争のエピソード」
1899 「おいしいアブサン」

1900 「帽子屋と自動肉屋」、「四季のダンス 冬/雪の踊り」、「管理人」、「世紀末の外科医」、「ピエレットの過ち」、「キャベツ畑の妖精」

1902  「第一級の産婆」、「あいにくの干渉」

1905「ビュット=ショーモン撮影所でフォノスコープを撮るアリス・ギイ」、「本当のジュウジュツ」、「フェリックス・マヨル 失礼な質問」

1906  「キリストの生涯」、「マダムの欲望」、「粘着女」

1907 「フェミニズムの結果」

最後のほうに特におもしろいのが多くて。

「キャベツ畑の妖精」というのが有名で、キャベツ畑に赤ん坊が湧いてでる、という。
フランスでは赤ん坊はキャベツからできるんだって。日本ではそんなキャベツを千切りにして揚げた豚の横に並べちゃうのにね。 キャベツ畑に赤ん坊のイメージは他の短編にもあった。

「マダムの欲望」っていうのは妊娠中のマダムが空腹でなんでもかんでも食べたくてしょうがなくてしょうがなくて、子供のでも乞食のでも、食べものを横取りして自分の口に入れちゃうの。

「粘着女」っていうのは、口が糊になってなんにでもひっついちゃう女のひとの話で、それだけなんだけど。その女のひとがあまりに地味で普通の顔しているのでなんかおかしいの。

「フェミニズムの結果」は、男性と女性の役割が逆転したらこんなんなります、というやつ。
男が下女とか子守とかをやってて、女衆は酒場で酒とか飲んだくれちゃって、でっかい女がか細い男をがっしり掴まえてむりやりキスしようとして、男のほうはいやいやするんですね~ (← 淀川長治口調でおねがい)

だいたいこんな具合なんですが、あーおもしろかった、と出るときに特集のタイトル"こんなふうに私も生きたい"を見てしまうと、なかなか笑えるのだった。 「粘着女」として生きる、とか。

12.25.2012

[film] The Crimson Kimono (1959)

14日の金曜日の晩、たまたま時間が空いたので渋谷で見ました。 お客さん、いっぱい入ってた。
ぼーっとしててFilmexの『東京暗黒街・竹の家』を見逃したのは、ほんと大失敗だったよう。

ロスのナイトクラブでSugar Torchていう踊り子さんが殺されて、彼女の部屋にあった絵とかから日本マニアの犯行と思われ、絵の作者だったChristineの助けを借りてロス市警のCarlieと日系二世のJoe (James Shigeta)の仲良しコンビが一緒に捜査にあたるの。
CharlieはChristineが好きになるのだが、Joeも彼女を好きになって、ChristineもJoeに惹かれていって、Charlieは諦めて身を引くのだが、Joeはふざけんじゃねえよ、って激怒して剣道の試合でCharlieのことをぼこぼこにしちゃうの。

このへん、なんでJoeがあんなに怒ってぶち切れるのか、よくわからない。
日系二世であること、日系二世として白人社会のなかで仕事をしていること、白人女性に恋をしてしまったこと、で彼がどこかに、どこかで感じているであろう負い目のようなとこを差っ引いて憶測してみても、この辺の心の機微はあんまよくわかんなくて、「赤とんぼ」のメロディと共にその闇にずるずる引っ張られそうになったところで、事件はシンプルな動機がもたらした、極めてシンプルなものであることがわかってあっけなく落着する。

このお話しの展開オルタナ版としては、
①JoeとCharlieの仲を壊してしまったことを気に病んだChristineが自殺、どん底に叩き落とされたJoeとCharlieはいつしか愛しあうようになる。
②日系人の男性がChristineにアプローチするようになり、どん底に叩き落とされたJoeとCharlieはいつしか(以下略)
③日系人の女性がChristineにアプローチするようになり、どん底に叩き落とされたJoeとCharlieは(以下略)

人種のノワールを超えられることがわかったら、次は性別のノワールだよね、という。

世間のどこかに間違いなくある闇とそこに嵌りこんで動けなくなっている(or 変な動きをする)人たちの社会周辺を斑の混沌まるのままフィルムに転写する、というのがフィルム・ノワールの定式のひとつであるならば、この映画はまさにそれを社会の表社会と裏社会、という従来のブリッジにはない、移民社会と非移民社会との間でやってみせる。 これが人種蔑視とかそっちのほうに受け取られてしまったのは、わかんなくはないけど、残念だねえ。

しかし、三角関係のよじれとぐじゃぐじゃがピークに行ったところで画面がロスの大通りでのチェイスになだれこんでいくところとか、鮮やかでかっこいいよねえ。 
しみしみと「赤とんぼ」とか流しておいて、これだもんねー。 
しかも、冒頭の殺人とも対になっているんだよねー。

じゅうぶんぼろぼろのへろへろだったので、上映後の討論はパスして帰りました。

12.24.2012

[film] Beats Rhymes & Life: The Travels of a Tribe Called Quest (2011)

13日木曜日の晩、仕事の帰りに渋谷で見ました。

自分はもともとHip Hopのひとではないのだが、90年代のNew Yorkに暮らして、MTVとVH-1がお友達だったりすると、Yo! MTV Raps(TV番組ね)でかかるWu-Tang ClanとA Tribe Called Questに触れることなく日々を過ごすことなんかぜったいできないのだった。

2008年のRock the Bellsでの再結成から振りかえるグループの歴史。 関係者発言は最小限に留め、ATCQという部族の、部族による、部族のための歴史を前後脈絡なく追っかける。

近所のガキ連から始まって、何度も何度も喧嘩して危機になって、結局解散して、復活して、また喧嘩して、もう蘇ることはないのかもしれないが、でもまたそのうち。 なぜなら彼らはおなじひとつの部族だから。バンドでもユニットでもなく、トライブ - 部族だから。

何度も映しだされるQueensのLinden Blvd & Farmers Blvdの交差点が彼らの聖地であり、トーテムであり、クロスロードであり、墓場ともなるのだろう。

初期の写真とライブ映像を除いて、映画のなかで3人 or 4人全員が同じフレーム内に納まっているショットはなかったような。 そんな部族の。

ドキュメンタリーとしては大きなヤマもなく、そこらの素材を適当にMixしました程度で、あれがあったこれが起こった、という歴史に関する発言はいろいろあるものの、ATCQの音楽そのものの内包とか製法に関する秘密に関する言及はない。 ひたすらぶいぶい鳴り続ける音にのって、レペゼンレペゼンとか唸りながらQueensの埃っぽい道路沿いを流していく感覚があって、ほぼそれのみ。
それでも十分満足できてしまうとこが、なんだか彼ららしい。 

あと、やっぱし、93年〜94年というのはアメリカ音楽にとって、とっても重要な時期だったのかも、とか思った。


遅くなりましたが、よいクリスマスをお過ごしください。
ノストラダムスに続いてマヤ暦にも見放されてしまった我々にとって、Saint Nicholasはさいごの…(なんだろ?)

12.23.2012

[film] First Position (2011)

9日の日曜日、『秋のソナタ』のあと、bunkamuraで見ました。
辛気くさいのじゃなくて、もうちょっと若い血を、と。

バレエを見るのは好きなのだが、ライブでないと嫌で、でも日本ではライブで見れるのは沢山お金を持ってるブルジョア階級の人々、ということになっていて、じゃあ映画で見ればよいかというと、映画のきれいきれいなバレエを見てもあんましこなくて、要はライブで聞こえる床を擦る音、衣の擦れる音、床を叩く音、肉の軋む音、そういうのが好きなの。 で、この映画に求めたのはそういう音、子供たちの歯ぎしり、それらが聞こえてくれば。

実際に練習しすぎでぼろぼろの爪先とか青黒くひんまがった甲とか、とっても痛そうでバレエの華麗さからは遠い骨肉の呻きがたっぷり見える。 それがどうした、かもしれないが。

New York City Centerで毎年開かれる若者のためのバレエコンペ(あれがローザンヌと肩を並べるやつだなんて知らんかったが)、そこでの勝利を目指して練習を続ける6人の子供、若者たちのドキュメンタリー。

彼らの境遇は、駐留米軍の子とか、日系ハーフの姉弟とか、内戦で両親を殺されて養子に来た子とか、コロンビアから来た子とか、ほんといろいろ。あ、ごく普通のアメリカの高校生もいる。 境遇はいろいろでもみんなバレエが好きで、コンペで勝ってプロのダンサーになりたい、という思いは一緒なの。

泣いたり笑ったりごねたり、みんなそれぞれに大変なのだが、そのベースはスポーツに求められる価値感 - 勝つために努力する&努力したって勝たなければダメ - というのとはやはり違っていて、そこもバレエなんだねえ、と思った。 なによりも美しくなければならない、そして美しさとはこの手足のどこをどう動かし、曲げて、宙に浮かせれば作ることができるのか、バレエとはそれを常に自分の身体と共に考えるプロセスであり、バレエのメソッドとはその考えの作法を叩き込むことだと、彼らの小さな頭と身体はその入り口に立って、その足はFirst Positionをとったばかり、と。

今から10年後くらいに、彼らの姿を英国ロイヤルバレエやABTで見ることができるかもしれない、見たいものだねえ。

12.22.2012

[film] Höstsonaten (1978)

9日の日曜日の昼、ユーロスペースで見ました。『秋のソナタ』。

ここんとこ、ドメスティックな昭和モノが続いていたので、そうでない方をちょっと、とか。

Ingmar BergmanがIngrid Bergmanを撮った(このふたり、"mar"と"rid"のとこしかちがわないね)。

娘(Liv Ullmann)がしばらく疎遠になっていた母(Ingrid Bergman)を手紙で自宅に呼びだす。 母が長年連れ添っていた友人(男性)が亡くなって元気をなくしているだろうし、と手紙には書いておいたが、これは娘の罠で、この機に幼少期の恨み - ピアニストとして多忙で、自分も妹もぜんぜん構ってもらえなかった - をぶちまけてやるんだ、というちょっとした意地悪心もあった。

で、実際母が来て、彼女をじわじわ追い詰めていって、酒の力も借りて謝罪の言葉を引きだすことに成功するのだが、アーティストであるところの母は実はぜんぜん懲りてなかったしそう簡単に変わるはずもないのだった、と、そんなお話し。

ドラマとして大きな起伏やうねりがあるわけでもないし、カメラが特にすごい動きをするわけでもない(手前-奥、横横、くらい)のだが、おばさんに向かいつつある娘とおばあさん域に突入しつつある母の際限なくねちっこいおばさん会話 - どっちがどっちを責めているのか責められているのかわからなくなってくる - にずるずるひきずられ、どこに連れていかれるのか不安になったころにぷつん、と終わった。 92分。

こんな犬も喰わないような母娘喧嘩をだれが好んで喰おうとするのか、仮に喰ってみたらどうなるのだらう、を目をそむけたくならない、存在感で勝負できるキャストで、べったり汗をかく必要のない寒冷地帯で撮ってみたら、というのがこれなのかもしれない。

だから、ここに重厚な人生のドラマとかしみいるようなソナタの美しさとか、そういうのを期待してはいけなくて、喜劇と呼んでもよいの。 Woody Allenあたりがやってもぜんぜんおかしくないような。

撮影のSven Nykvistさんは、Allenの"Celebrity" (1998)とか、"What's Eating Gilbert Grape" (1993)とか、"With Honors" (1994)とか、"Something to Talk About" (1995)とか、90年代のすごくおもしろいわけではないけど微妙に心に引っかかる米国映画をいっぱい撮っているひとで、この作品も、ベルイマンという巨匠の、バーグマンという大女優の映画としてではなく、これらの、ちょっとした家族の揉め事でぴーぴー泣いたり喚いたりする人たちの映画の流れに置いてみたほうがすんなりくるかも、とか少しおもった。

[film] 女は二度生まれる (1961)

『雁の寺』に続いて『女は二度生まれる』もシネマヴェーラでやってて、ここまで来たら見るしかない、と、8日に。

その前にお昼、フィルムセンターの日活100年特集でこれを見る。

『性談・牡丹燈籠』 (1972)。
牡丹燈籠て、お話しそのものがすきで、映画だと山本薩夫の『牡丹燈籠』(1968)とか、中川信夫の『怪談 牡丹燈籠・鬼火の巻』『同・螢火の巻』(これらはTV)とかみんな素敵なのだが、これは見たことなかった。

67分、結構ばさばさ省略してて、気がついたら突然人が死んだり殺されたりしてて、お露とお米が新三郎を奪いにやってくる。 情念とか因業とか、そういうのもふっとばして、とりあえず、機械みたいにターミネーターみたいにやってきて、連れていこうとする。
どのへんが「性談」なのかはあんまわかんないのだが、冷え冷えとした救われないかんじ、これはこれでなかなかよかった。

その後で渋谷に移動してみました。『女は二度生まれる』 (1961)

これ、昔、フィルムセンターの川島雄三特集で見ていたことを、フィルムがまわりだしてから気づいた。 よくあること。

靖国神社の裏手の花街で芸者をしている小えん(若尾文子)が板前(フランキー堺)とかお金持ちとか学生とかいろんな男としゃらしゃら楽しく遊んでいて、そのうち建築家のおとうさん(山村聡)に囲われて二号さんになって、おとうさんが病に倒れて亡くなってからいろんなツキが落ちてきた気がして、ひとりでしっかり生きなきゃよっこらしょ、と目覚める。  おとうさんが死んで、生まれ変わるわたくし、というのを劇画タッチではないふうに割とあっさり描く。

ここでの若尾文子さんも申し分なく素敵で、女性映画としてよく出来ているとは思うのだが、でもこれ、男性が絵に描いたお話しだよねえ。
彼女の態度のありようとか、「二度生まれる」ていうタイトルとか、男性にとって都合よい女性のあり姿、でしかないような。
この辺を、とんがった現代娘として登場した江波杏子が威勢よく蹴っとばして暴れてくれたら気持ちよかったんだけどー。

いや、肝心なのは彼女がどうやって生きたか、生きるかじゃろ、ていうのはわかるけどさ。 うん。

べたべたしてないし暗くないし、好き嫌いでいうと好きな映画なのだが、なんというか、こういう女性像をしたり顔で肯定し、それを継承してきた男社会で育ってきたんだからねあんたは、というのは忘れないようにしよっと。

[film] 雁の寺 (1962)

7日の若尾文子 × 金子國義イベントのあと、「カメラの位置がずっと異様に低くて着物の裾がはだけるところばかり撮られていた」とか「撮影中の一カ月間毎日すっぽんばかり食べさせられた」とか、そんな若尾文子さんのコメントを聞いたら見ないわけにはいかなくなった『雁の寺』に詣でるべく、2フロア上、シネマヴェーラの川島雄三特集にはいる。

最初にやってたのが『適齢三人娘』(1951) 。
突然一方的に婚約破棄されてしまったおっとり姉(幾野道子)の仇を討ちにいった勝気な妹(津島恵子)がたまたまそこに引っ越してきたばかりの雑誌記者(若原雅夫)と知りあって、仲良くなって、姉と、カフェのおねえさん( 小林トシ子)と3人でこの男をめぐって三つ巴のごたごたになるラブコメ。

こいつ(男)、そんなに取りあうほどいいか? ていうのと、会話の調子が昔の日本映画によくある「これはこれは」とか「失敬」とか「おやおや」とか、そういうなんかくすぐったいやつで、だからラブコメというよかサザエさんの漫画みたいな気もした。

3人の女性の争い、というと洋画だと"The Women"(1939)とか"A Letter to Three Wives" (1949) なんかが思い浮かぶのだが、これらに見られるおっそろしく洒落て高次の戦いと比べると、ほんとに稚拙で、それは最近の邦画なんかずっとそうだけど、なんとかならないものかねえ、と思ったりした。


続いて『雁の寺』。 原作は水上勉。
お寺の雁の襖絵を描いた南嶽(中村鴈治郎)の死後、彼の妾だった里子(若尾文子)が寺に流されて、エロ僧慈海(三島雅夫)にやりたい放題やられてしまう話と、口べらしで貧しい寒村から修行に出された慈念(高見国一)が慈海にさんざんこきつかわれる話のふたつがあって、セクハラとパワハラの嵐が吹き荒れる近代のお寺界のありようを世間に問うた問題作なの。 たぶん。

ぶくぶくと肥えたブタ野郎慈海となんも考えずにひたすら暖かい里子と殆どしゃべらずに強く暗い目だけが生きているような慈念の三角関係は、いかにもありそうで素敵で危険で、それを切りとるモノクロの画面も四角四面でなかなかかっこよい。 肥溜めの奥から、墓場の穴から覗いている四角い枠のやつ、いったい誰なのか。 もちろん仏さまではないよね、たぶん。

ここでの若尾文子は、あらゆる欲望の涯に、まんなかに愛しか残っていないような、これはこれで異様な生もので、冷たい四角四面の世界に生きる慈念を苦しめてしまうのもようくわかるのだった。

最後に突然小沢昭一さんが現れて、このしばらく後で訃報をきいた。 おじいさん鴨だったなあ ...

12.19.2012

[film] 妻は告白する (1961)

7日の金曜日、もういいかげんやだ! になってしまったので午後やすんだ。

このイベントの前売りは売り切れていたのでどうしようか、だったのだが、とりあえず窓口行ってみて、当日券あったら入ろう、にしておいた。 ら、チケット買えてしまったので、とりあえずそれで。

『妻は告白する』(1961)の上映後に、若尾文子さんと金子國義さんのトークショー。

最初は法廷ドラマで、登山中の事故で大学の薬学部の助教授が落ちて死んだ。 ザイルで繋がっていたのは高いほうから順に製薬会社の営業の若い男(川口浩)、彼と仲のよかった助教授の妻(若尾文子)、最後がその夫(小沢栄太郎)。
状況からすると、妻がザイルを切るか、全員まとまって落っこちるかしかなかったようなのだが、さて、妻に故意の殺意(保険金とかもかかっていたし)はあったのかなかったのか。

裁判の経過と共に妻と夫の関係、彼女と若い男の関係が回想シーンと共に明らかになっていって、教師-生徒のセクハラ&パワハラから強引に始まった不幸な婚姻関係から、たんなる同情といたわりの線を超えていく若尾文子と川口浩の関係まで、なかなかかわいそうで、もうこれは無実しかないでしょ、となって、実際にそうなるのだが、話はそこから先の、単なる三面記事以上のところまで転がっていく。

転がしたのは若尾文子で、彼女にとって体にくいこんでくるザイルを切るなんて蚊を払うのとおなじくらいどうでもよいことで、それ以上に耐えられなかったのは愛を失うことで、それなしではもう生きていけなかったのだと。
妻が告白したのは憎い夫を殺したことなんかではなくて、愛を救ったということなのだと。

後のトークで明らかになったのだが、彼女が着物まるごとずぶぬれになって川口浩の職場に現れ、愛と懇願と哀しみ辛さと自己嫌悪とでぐしゃぐしゃになった目で彼を見つめるあの目のシーン、撮影はここから始まったのだと聞いてびっくりした。
えー、と思ったのだが、でも確かにあの目、強い強いあの目がすべての始まりではあったのだから、これはこれで正しい進め方だったのかもしれない。

愛が全ての中心にあって、それが自分も含めた全ての歯車を狂わせていって止めることができない、ていうのをファム・ファタール、ていうの。

金子画伯とのトークはぐでぐでに崩れまくって収束しなくて、それはそれでおもしろかった。
雨で濡れた彼女のあのシーンをたまらずドローイング(会場に置いてあった)にしてしまったという画伯はこの映画をもう50回は見たといい、そのしばらく後で30回見たといい、あんたファンなのはようくわかったけど、酔っぱらってるだろ、みたいなかんじで、まともな会話にならなくて、実際にトークを仕切っていたのは若尾文子さんのほうだった。

「赤線地帯」の撮影のエピソードとか、映画史的には知られたことばかりだったのかも知れないが、でもまあ、すごい人だよね。(あ、若尾文子さんのほうね) 外見の驚嘆度合としては、5月の日仏のファニー・アルダンさん並み。
なにしろ夢中だったもので憶えておりませんわ、とか言いながらぜんぶすらすら出てくるの。

最後にサイン本も貰えたので、とっても幸せだった。

で、こういう話を聞いた後では、この後、2階上の映画館でやっている『雁の寺』(1962) を見ないわけにはいかなくなったことは言うまでもない。


ぜんぜん関係ないけど、"Home Alone2"、おもしろいねえ。 何回みても。
ふつう、死ぬよね、あれ。

12.16.2012

[music] The Colin Currie Group - Dec.5th

ライブなんでもいいからなんか行きたいー、と思っていたらそういえば、というかんじで出てきて、2日前だったけど前から4列目のチケットがあったので取って、行った。
12月5日、ふつか目のほう。

正式タイトルは、
The Colin Currie Group with Synergy Vocals and Steve Reich
Live at Tokyo Opera City "Steve Reich's Drumming" ていうの。

Colin Currie Groupが9人、Synergy Vocalsが3人、ピッコロが1、Steve Reichが1。
パーカッションの人たちはイギリスのパーカッション奏者、ていうかんじ。(それがどうした)
演目は4つ。 最初の3つの後に休憩が入って、その後で"Drumming"。

Clapping Music for two musicians clapping (1972)
Colin CurrieさんとSteve Reichさんが手ぶらで登場して、せーので手拍子を始める。
ブラジル音楽のひととかが練習で普通にやっているような、Stomp(なつかし)とかでもやっていたような軽いやつなのだが、パンフの解説によると、もともとは漸次位相変移作品になるだろうと思っていたのだが、これだと適切ではないことがわかって、で、『解説策はこうだ。… 』とそれ以降に書いてあることがわけわかんなすぎて、なんかすごいの。
漸次位相変移ってなに? と思って英語を調べてみたら"gradual phase shift"ていうのだった。

Nagoya Marimbas for two marimbas (1994)
マリンバ2台が気持ちよい。 なんで名古屋なのか、なにが名古屋なのか、を考えてて、マリンバの茶色がひつまぶしの茶色、味噌カツの茶色だから、と思うことにした。

Music for Mallet Instruments, Vocals, and Organ (1973)
木琴と鉄琴と声、他になにがいるだろう?

Drumming for voices and ensemble (1970-71)
Part Iがボンゴ・ドラムス4つ、Part IIが木琴3台と声、Part IIIが鉄琴3台と声とピッコロ、Part IVがこれらぜんぶ乗せ。 なんといってもPart IIIが気持ちよかった。太陽と戦慄からクリスマス・チャイムへとなだれこむ至福。

"Drumming"の最初のライブ体験は、2001年10月、BAMでAnne Teresa De Keersmaeker のRosasによるバレエ作品"Drumming" (1998) だった。

弧を描いてぐるぐるまわり続けるダンサーの背後で同様にまわり続けるパーカッションの音群はひたすら気持ちよく、虎がバターにとろけていくようで、ああこういうダンスも音楽もやっぱしライブでないと、としみじみしたものだったが、今回のライブは、まず音としてひたすら強く圧倒的で、それは出音のでっかさとかそういうことよりも、バチを手にした奏者が打楽器に近寄っていってふんふんとカウントし、それを振りおろす瞬間のスリルと、そこから吹き始めた音の粒が流れを作りうねりとなって雪嵐をつくる、その瞬間を目撃できることにあるのだった。 それはバンドでもオーケストラでもない音の組成とその(人力の)可能性を示しているようだったの。

12.15.2012

[film] To vlemma tou Odyssea (1995)

2日の日曜日の昼間、渋谷で見ました。『ユリシーズの瞳』。 
まだ見たことなかったし。アンゲロプロスさんをちゃんと追悼していなかったし。

オデュッセウスの凱旋よろしく、米国の不健全な映画監督として母国ギリシャに帰還したA(Harvey Keitel)が、マナキス兄弟の失われた最初のフィルム、ギリシャの最初のフィルムを探してバルカン半島を渡ってサラエボに向かう、という話。

前の日に見たホン・サンスに続いての映画監督モノ(映画監督自身と思われる映画監督が主人公)繋がり、となるが、両者はあたりまえのように、ぜんぜん、ものすごくちがう。 この違いを考えてみる意味はどっかにあるのかないのか。 (行く先々できれいな女性が現れるけど…)

英語題は、"Ulysses' Gaze"であって、邦題の「瞳」よりはダイナミックに見る、凝視する、という動きのイメージが出てくる。

タクシー、列車、船を乗り継ぎ、「国」を渡る旅を通して、目を疑うようなヨーロッパ、バルカンの現状、壊れていく「歴史」に震えてあきれて疲労困憊し、自身を喪失し、それでもそれらをじっと見つめ、フィルムが見つかる確証があるとは思えないのに旅に、移動に没入して誰かが勝手に敷いた国境という線を超えていく。 フィルムを探す旅は自分を探す旅なんかではありえなくて、寧ろフィルムに近づくにつれ、彼は自分を、国を見失っていく。

なんでそこまでしてギリシャ最初の未現像フィルムを探し求めのるかというと、最初に映画を撮った兄弟の世界に対する最初の眼差しが、そこに込められた最初の思いが、その思いを受けてフィルムめがけて突き刺さってきた世界の最初の光が、そこにあるから。 そこにある、と彼A - アンゲロプロスが信じるから。

荒地と化してしまったヨーロッパに、今必要なのは、その最初の光であり、最初のイメージなのであり、冒頭に映し出されたフィルムにあった糸を紡ぐ女性のように、映画監督である自分はフィルムという糸を紡いて、みんなに見せるのだと。
フィルムは世界にとって何でありうるのか。フィルムの行き着く先はデジタルアーカイブやデータベースにあるのではなく、世界の糸を紡ぐことであり光を注ぐことなのだ、と。

フィルムの現像まであと一歩のところまできたサラエボで最後の悲劇が襲う。
なにも見えない白い霧 - 光はあるのに見ることを阻む雲の向こうで行われる殺戮。
それでも、彼は霧の向こう側を見つめ(こちらには音のみ)、声も涙も涸れて空っぽになって、そのぼろぼろの穴に最初のフィルムの白い光が注ぎこまれる(こちらにはフィルムの回る音のみ)。 そして、今度戻るときは、他人の服を着て、他人の名を名乗り… ていうの。

Harvey Keitelの肉体がすばらしい。ギリシャ彫刻としか言いようがなくて、でも彼ももう73なのね…

で、こういうのを見たあとで、西欧文明の腐れなれの果ての典型のようなフィルム "Skyfall"なんかを見に行ったのだった。


ぜんぜん関係ないけど、明日の選挙は断固極左でいくから。

12.13.2012

[film] The Day He Arrives (2011)

なんでみんなあんなに楽しそうに忙しそうに毎日毎日宴会ばっかりやっているのか。ばっかじゃないのか。

ぜんぜん書けていませんが、1日の土曜日、神保町で『夜の流れ』を見たあとで新宿に行って、見ました。 ホン・サンス特集の『次の朝は他人』。

もこもこのジャケットを来た映画監督(『教授とわたし、そして映画』でもそうだったが、なんでみんなもこもこを着ているのか)がソウルに来て、街中を歩きながら先輩に電話をかけるのだがつかまらなくて、することもないまま酒を飲んで、更に酒場で知り合った学生3人組と飲んだりして、その後で、ふらりと突然昔の彼女のアパートを訪ねて、彼女は2年ぶりなのでびっくりしたりむくれたり、でもなんか嬉しそうで、そのままひと晩すごす。

その翌日にやっと先輩がつかまって、先輩と先輩が連れてきた女性と一緒に「小説」ていうバーに行って、後から現れたそこのオーナーである女性にびーんときてしまった彼は、店の外で突然彼女を抱きしめてキスして、翌日もまたお店を訪れて彼女とひと晩過ごして、それで別れるの。 それだけなの。

筋だけ書くとそこらのぼんくらの日記みたいに間の抜けた、いいかげんで適当な冬の3日間の行動(特になんの収穫もない、その後の生活とか人生に大きな影響を与えるとも思えない)が時系列で綴られているだけで、ジェットコースターでもスクリューボールにもならない、出会う人たちは先輩以外はみんなたまたま会った、たまたまそこにいたような人たちで、これがそのまま映画になってしまうことにまずびっくりしよう。

でもたとえば。
この主人公が映画監督ではなくて殺人鬼だったらどうか、とか。
昔の恋人の部屋を訪ねて彼女を殺し、翌日先輩とその友達の彼女を次々に殺し、バーのオーナーを殺して、みたいだったとしたら、これだったら映画になるかんじもする? それがどうした(どっちにしても)、 ではあるのかもだが。
出会いがしらのナイフの一突きを、ハグとキスに置き換えてみること。

寒そうな夜道で外に出たふたりが突然がしっと組みあって貪るようにキスをするシーンは、おいおい動物かよ、ていうくらい唐突で、その瞬間に嵐が巻きおこって、その生々しさも含めてそれはそれはすばらしくて、その瞬間に、あーこれは人殺しとおなじくらいすごいことだ、ひとを抱きよせて口と口をべったりくっつける、ていうのはそれくらい恐ろしいことなんだ、と思ってしまうの。 そんなところも含めて『次の朝は他人』てことなのか、と。(英語題だと『彼が着いた日』なのだが)

あとさあ、なんでホン・サンスの映画って、ぼんくら男(すけべのうすらぼんくらにしか見えない。わるいけど。どうみても)の周りに、きれいな女性がいっぱい現れるのだろうか。
あれはないんじゃないか、というと、だから映画なんだってば、て返ってくるの。

12.09.2012

[film] 夜の流れ (1960)

12月1日土曜日のお昼、神保町シアターの特集『追悼企画  女優・山田五十鈴アンコール』から1本見ました。ほんとは(ほんとうに)ぜんぶ見たいのであるが。

山田五十鈴が東京の料亭の女将で、司葉子はその一人娘でモダンガールの暮らしを楽しんでて、そこの料亭に呼ばれてくる芸者さん達とその置屋のお話、料亭の料理人の三橋達也と山田との仲に娘の司も割りこんでくる話、芸者の草笛光子に絡んでくるダメ男北村和夫とか、複数の線が流れていく。

成瀬巳喜男と川島雄三の共同監督で、製作ラインも完全に別だったようだが、どっちがどのエピソードを撮ったのかは、わかる人が見たらわかるのだろうし、若い人たちのエピソードが川島で、そうでないほうが成瀬? くらいの想像はできるものの、そんなの想像したところでどうする、であって、そんな段差があるとも思えない。

これは成瀬かなあ、と思った旅館の一室での山田五十鈴と三橋達也のやりとりはほんとうにすばらしくて、山田五十鈴の愛と焦りと哀しさと自己嫌悪と絶望と欲望と、そういうのがどちらかというと静かな対面のシーンの彼女のおっそろしく繊細な表情と首の揺れと、にぜんぶ現れてくる。 現実世界であんなの目の前でやられた日にゃ、とか想像してしまうが、そんなの想像したところで(..以下略)

その娘の司葉子は昭和35年当時の勝気で怖いもの知らずのいけいけ娘で、その彼女が古風な職人である三橋達也(どこがいいんだか)を好きになり、やがて母と衝突し、その衝突はどちらかというと旧い女であった母の背中を押し、その母の変化は娘を芸者の道に進ませることになる。
男との三角関係がふたりを変えたのではなく、ふたりはそれぞれに変わるべくして変わっていったのだと思う。夜の流れのなかで。

成瀬映画の多くがそうであるように、女性映画としての力強さがすばらしい。(単に強い、負けない女の姿を描く、ということではなく、縮んでいくことのない女の子の往く道を示す、というか)
草笛光子のはかわいそうだけど、金太郎(水谷良重)が最後に爆発するところとか、かっこいいったらない。

『流れる』(1956)には、流れの只中にある女性たちの決して戻ることのない何かに対する祈りにも似た思いがあって、それすらもまた流れていってしまうのでお手あげで、その切なさやるせなさが全面を覆っていた。

『夜の流れ』は昼の流れとは違ってよりいろんなものが流れていくのだが、女達はいつだってその流れにおける女王なのだ、女王になりうるのだ、例えばこんなふうに、と。

12.07.2012

[film] Skyfall (2012)

ねむすぎるので書き易いのから書いてしまおう。
2日の日曜日の晩、六本木で見ました。

James Bond 50周年記念作品の監督がSam Mendesと聞いたときはえーっと驚いたものだったが、ぜんぜん外れていなかったかも。
抗いつつも崩落の誘惑にずるずると溺れ、堕ちてていく英国、その突端で奮闘するスパイもまた、同様に腐っていく - という、こないだの"Tinker Tailor Soldier Spy"でも描かれたボロ雑巾な構図は007にも例外なく適用されて、みんな疲れてて、でもどうすることもできないし、もうスパイなんて毎日の生活に関係ないよね、とか。

そこらへんの疲労感を英国の慢性的な病 - あるい周知公認された「病」の定常化された日々として描く、このへんはSam Mendes演出のShakespeareでも見ることができたのだが、だからJames Bondはいつもいつも超人的でアクロバティックな技量を発揮するわけではない疲弊したスパイとしてそこにいて、だからよりリアルで、悪くないの。(まあ、よりリアルになった、というのは007の新作のたびに言われる惹句なわけだが)

そして、Sam Mendesが継続的に描いてきたテーマである家族もはっきりと出ていて、スパイみんなのお母さんであるところのMがあやうし、になったり彼の生家が出てきたり、必ずしも孤高のスパイではない、人の子としてのJamesも現れてくる。

だからといってアクションがつまんないかというとそんなことはなくて、穴から地下鉄が落ちてくるとか、トカゲに食べられちゃうとか、わかりやすくてよいの。
悪役のJavier Bardemも、マザコンでおかまで歯抜けで爆発白髪、というBondを180度反転させたようなくどいキャラをさらりと演じている。とどめの刺されかたもすばらし。

しかし、どこまで行っても英国。ここまでいくか、というくらい英国。
Mが聴聞会で諳んじるテニスンといい、007とQが出会うNational Galleryとターナーといい、地下道と地下鉄、Skyfallのある荒野といい、オリンピック記念だか即位60周年記念だか、大英帝国万歳!でどこまでも平気なツラして押してくる。
NATOの潜入スパイリスト漏洩というとんでもない事態が起こっているのにアメリカも他の国もなんも言ってこないし。

で、あるのだが、最後の対決の舞台とか、ヘリコプターでの追い討ちとか、まるで西部劇だったりする。
(Roger Deakinsのカメラ、かっこいい!)

新しい顔となったQ、人気がでるのはわかるのだが、敵方から押収したPCをそのままMI6の本番LANに平気でぶっこむ、という初心者かおめーは(殴)、みたいな信じ難いミスをしでかし、これが後半の大惨劇をもたらすことになったのだから、クビか、当分は自宅謹慎とせざるをえないであろう。

記念作品だからアメリカ人が監督することはありえなかったのだろうが、このプロットで、Tony Scottが撮っていたらなあー、とちょっとだけ夢想した。

12.06.2012

[film] Hendrix 70: Live from Woodstock (2012)

27日の火曜日に六本木で見ました。

11月27日がHendrixさんの70歳のお誕生日だそうで、それに合わせてリリースされたライブ映像 - オリジナルの16mmからデジタルリストアして、音も ライブ当時のエンジニアだったEddie Kramerさんの手で5.1サラウンドにリマスターされたやつ、が全世界でこの日だけ映画館上映される、と。

東京だと六本木と渋谷で上映されて、六本木のが音はよいのでそっちに行った。
こないだのLed Zeppelinのもそうだったが、最近ぜんぜんライブに行けていないので、こういうので音を浴びるしかない。 つまんない。

TOHOのシネコンで最近かかるメッセージ・ムーヴィーとかいうのに軽く死んで、予告でかかったO崎なんとかの復活で髄液レベルで悪寒が走り、映画泥棒CMでトドメをさされる。 ここまで不快・不愉快にさせてくれる娯楽施設も珍しい。

えー、Jimi Hendrixというひとの音楽も、Zeppと同様、そんなに詳しいわけでも熱狂的なファンでもなくて、数年前にBBC Sessionsを始めとしたきれいな音のがまとまってリリースされた頃に聴いた程度、このWoodstockの映像もまとまって見たのは初めて。
ものすごーくギターのうまいひと、程度のイメージしかない。(←最低)

最初にWoodstock、Jimi関係者の証言があって、このライブの大トリを最初から決めていたこと、それを前にした新バンドのこと、などなどが語られる。 早くはじめろよ、もあるのだが、その発言のトーンから、あとあとのフィードバックを意識したあらかじめの言い訳ぽいかんじがありあり。 別にいいじゃんもう。

Woodstockの最終日の大トリ、予定がだらだら押して月曜の朝早くに登場したバンド、自分がもしその場にいたら、を想定してみると、なかなか微妙かもしれない。 こっちの頭を叩き起こすような鮮烈な、鬼気迫る演奏、というわけでも、フェスの最後を飾る感動のヴァイヴをもたらしてくれるわけでもない。 Jimiはひたすら自身のギターの音に没入し、歌い、カメラはほぼその姿のみを追っていくばかりなので、ライブの全体は見えにくいのだが、しばらく遠くから眺めて帰っちゃった客も相当いたのではないか。

ここでの彼の音楽史、例えばギタープレイあれこれ、バンドスタイルの変遷といった角度からはなんも言えないのだが、このバンド構成 - パーカッション3、ベースにサイドギター - Bnad of Gipsysで、彼がやろうとしたこと、ギター中心のファンク、ジャムセッション形式の音がその後の米国音楽に与えた影響はじゅうぶんにうかがうことができるのだった。
音のぬたくるジャングルをぐるぐる切り裂きながら進むギター(とそのリフ)の気持ちよさ、それはやはりこのあたりからだったのか、とか。

もういっこ、シアトルというのもあって、現地に行ってみるとグランジとKurt、というのは当然出てくるのだが、このひとも必ず登場してきて(数年前にBoxも出たよね)、シアトルという土地の、あのうっすらと湿ったかんじ、はどこかに反映されているのかいないのか。

おおもとの音がこんななので、5.1サラウンドでもそんなにびっくりするほどの音は飛んでこなくて、たまに泥のハネが飛んでくる程度。

ライブの後も、後日談、というかんじの関係者コメントが暫く続くのがちょっと残念だった。 資料的価値を優先したかったのだろうが、音楽に集中したいひとはいらつくかも。

字幕はもうちょっとなんとかしないと。 縦レイアウトになるとカタカナの「ー」が横になって崩れるとか、翻訳以前のところも含めて。

12.04.2012

[film] W.E. (2011)

25日、連休最後の日、ほんとはもう一回ポーランド映画祭に行こうと思っていたのだが、なんか疲れてて、あそこの地下にまたもぐるのもなんかなあーと思って、銀座で1本だけ見ました。

単なるThe Duke and Duchess of Windsor - Wallis Simpson & Edwardのお話、ではなかった。
90年代末のNew Yorkに暮らす女性 - Wally Winthrop のおはなしだった。
Upper East(たぶん)のクラッシーなアパートに暮らしているが夫は医者で忙しくてなかなか帰ってきてくれなくてDVで、子供が欲しくて仕事まで辞めたのに、お先どんよりの日々。

丁度そのころ(98年の2月、たしか)、ふたりの遺した宝物のオークションのPreviewがSotheby'sであって、それは今だに語り継がれるお祭りだったのだが(前年に発売されたオークションのカタログは分厚い3巻本、出品点数は40,000、売り上げはぜんぶで$23million)、当時あそこに住んでいるひとだったら誰でも嫌でも、わんわん報道され続けるWとEの人生に向きあわされてしまうのだった。

要するにこれは"Julie & Julia" (2009)で、現代のJulieが偉人Juliaの足跡を辿ることで自分の今とこれからを見つめ直したのと同じように、WallyはWallisの人生に自身のなにかを重ねて(表面は満ち足りた生活、その裏側に愛の名のもとの孤立と迫害)、Wallisの手、Wallisの瞳に引かれるようにPreviewの会場(72nd & York)に通いはじめ、そこで会場のセキュリティガードをやっていたロシア系移民のEvgeni - もうひとりのEと出会う。

その会場で彼女は、後世に遺された宝飾品が語るW.E.の物語を聞き、Wallisの手袋に背中を押され、妄想でぱんぱんになった勢いで裕福なおうちを捨てる決意をするの。

たんに満たされなくてロマンに憧れる人妻のメロドラマ、それを世界を揺るがした世紀の恋に勝手に繋げ、崖から飛び降りるようなことをして、それでも全体が浮ついたしょぼい夢物語にならなかったのは、ひとりひとりの苦痛と、想いが叶わない地獄を存分に描いた上で、それでもこの恋を生きるのは自分だ、自分が行くんだ、ていうぶっとい決意が漲っているから。(Abbie Cornish、"Bright Star" (2009)に続いてすばらしい目の強さ)

主人公の妄想で都合よく切り取られたWindsor公のお話しも、妄想だもんだから、なかなかにすばらしい。らりらりのパーティーでPistolsの"Pretty Vacant"("God Save the Queen"にしなかったのはさすが)にのって、弾けたように踊りだす瞬間のすばらしいこと(横で一緒に踊ったのはJosephine Baker?)。
同じく、死の床にあるEdwardの求めに応じてゆっくりと舞い踊るWallisも。

Writerは、Madonnaと、彼女のべたべたにおセンチで甘い(でも大好き!)ライブフィルム - "Madonna: Truth or Dare" (1991) を撮ったAlek Keshishian。なるほどね。

すごくどうでもいいことだけど、WallyとEvgeniが最初にデートするMadisonのSant'Ambroeus - ジェラートがすんごくおいしい - あれって00年代にリニューアルする前のレイアウトじゃなかったかしら? 90年代、Big GayもVan Leeuwenもなかった頃、おいしいジェラートはここにしかなかったんだよ。

12.03.2012

[film] Matka Joanna od Aniołów (1961)

24日、ポーランド映画祭の初日、初回から3本続けてみました。
10時過ぎにいったら結構な行列でびっくりした。 で、毎回ずーっと立ち見が出ていた模様。

こんな人気があるもんだとは思っていなくて、もちろんこういう特集上映で映画館がいっぱいになるのはよいことなのだが、なんか雰囲気がすごくぎすぎすしてて、きつかった。 
映画を真面目に見るのはよいことだし、これらはそういう種類の映画なんだから黙れ、なのかもしれないけど、「20分前なのになんで中に入れないんだ」 て怒るひととかは、よくわからない。 そんなら自宅でDVD見てれば。


『尼僧ヨアンナ』 - Matka Joanna od Aniołów (1961) (by Jerzy Kawalerowicz)
人里離れた山寺で尼さんに悪魔が取り憑いて、退治に行った僧がやられた、ということでこんどは若い神父が退治に赴くのだが、やっぱり負けちゃって、恋って悪魔とおんなしよね、おそろしいわねーていうお話し。

画面はじめからおわりまで、おっそろしくかっこよくて、麓の宿場から遠くに眺める教会の位置からしてすごくて、そこを舞台に聖者と悪魔と俗人と権力者、男と女と、愛と憎しみ、正気と狂気、善と悪、上昇と転落の曼荼羅絵が展開される。それは地獄絵ではなくてー。

首が飛んだり首が回転したり、悪魔が前面に出てどろどろの聖戦になることはない。
でも悪魔はヨアンナの魂に取り憑いていて、それは取り除かれなければならない。今の世ならユングくんとかフロイトくんの出番かもしれないのだが、背中を押されたのはまじめな神父スーリンで、見るからに食われそう、とおもってたらほんとに食われちゃうのだった。

音楽ぽいのは鐘の音、尼さんたちの合唱、酒場の流し唄、それだけで十分なの。
登場人物はみんなカメラのほうを向いてて、なんとなく"The Shining"ぽいかんじもあった。


『エロイカ』 - Eroica (1957)  (by Andrzej Munk)
ワルシャワ蜂起での「英雄」のありようふたつ。 
ひとつは喜劇ぽくて、もうひとつは悲劇っぽいの。

喜劇のほうは、あらゆる障害をなんとなくすり抜けつつひたすら歩いていくラッキーなおじさんが楽しい。 特に戦車と干し布団のとこは、来る来る来る、と誰もが思ったとおりのことが起こるの。 悲劇のほうは、捕虜収容所内にいる伝説の「英雄」とその扱いをめぐるどんより暗く陰惨なお話しで、ただ暗いとは言え、大勢に影響を与えることなく済んだので表面上はいいかー て。

どっちのお話しも、戦局に決定的な影響を与えるような「英雄」ではない、みんなが崇め奉るような「英雄」ではない「彼ら」を通して、彼らがいようがいまいが、だれひとり救われることのない、喜びからも悲しみからも遠い戦争のありようを描いた、というか。  


『夏の終りの日』 - Ostatni dzień lata (1958)  (by Tadeusz Konwicki)
戦闘機が頻繁に飛んでくるどこかの浜辺で女のひとと男のひとが出会って、女は男を怪しんで初めは猫みたいに威嚇するのだが、男はなにかに傷ついて病んでいて、時間の経過、ぎこちないおしゃべりを通してふたりはそうっと寄りそっていく。
女も男も、彼らがどこから来た誰で何をしているのか、会話の内容からしかわからない。

ほかに誰もいない夏の終りの浜辺で、ごくごくふつうにありそうな出会いとお昼寝の微睡み、雨、焼き魚、そして虫さされとか擦り傷みたいな別れと。
これは夏の終りの日だから、翌日に夏はもう消えていて、こういうことは絶対に起こらない。
(ホン・サンスの映画だと、彼らは翌日また現れて酒を飲むのね)
彼らはこのあとどうなってどこに行ったのかー。

サイレントでもよかったくらい、飛行機と波の音で感情の浮き沈みがぜんぶ説明できてしまうくらい儚くてきれいで、夏の終りの日、としか言いようのない風景で。
いまこれにサントラをつけるとしたら、初期のThe Durutti Column。


あと、これは言ってもしょうがないことを十分わかってて敢えていうけど、3本ともデジタル上映じゃなかったらなあー。
デジタルに落とされた画面は、ものすごく綺麗でシャープで肌理細かくて、それのどこに問題があるのか、ではあるのだが、作ったひともこれを見た当時のひとも、こんなきんきんしたモノクロの画質では見ていないよね、おそらく。 
どんよりとしたモノクロのノイズとか雲の向こうから見えてくるものもあるはずで、ここで今回掛かるような作品て、どちらかというとそっちのに合っている気がした。

12.01.2012

[film] Mekong Hotel (2012)

23日の金曜日、Filmexの初日に見ました。結局今年のFilmexで見たのはこれだけになってしまった。 「千羽鶴」のあとで渋谷から移動したら、オープニングの『3人のアンヌ』も見れないこともなかったのだが、なんとなく、こっちは封切りされてからでいいかー、とか思ってパス。

アピチャッポンの新作、61分。
女の子がしゃがんで生肉らしきものを齧っているスチールだけでなんとなくわかってしまう、そんなやつ。
アピチャッポンとサントラのギターを担当しているひとが向いあっておしゃべりしながらリハーサルしている光景と、水量たっぷりの川に面したホテル?らしき建物で男と女の子と母親らしき人たちがそれぞれに話しをして、突然生肉を食べているシーンが出てきて、要は撮影する側と撮影される側と、その更に向こうで映画として描かれている世界の3つがゆるゆるおおらかに繋がっていて、それがなにか? なのだった。

それは「ブンミおじさん」(2010)にも" Phantoms of Nabua" (2009)にもあった死霊だろうが亡霊だろうが妖怪だろうが、そいつらがどこからやってこようが、そこにそうして見えて動いているのあれば撮る、そういう確信に溢れた、でもその強さはしばしば(西欧から見たときの)「アジア」的ななんかとして括られてしまいがちなのがちょっと気にくわないのだが、今回もそんなのがところてんのようにするする流れてくる。

で、受ける側としては、「ふむ」って頷いておわっちゃうんだけど。

ラスト、夕日に輝くメコン川?の水面を小鬼(たぶん小さいレジャーボート)がくるくるびゅんびゅん舞っていて、そこにアコギのリフが延々被ってくるとこはほんとに素敵で、いつまでも見ていられる。

これって、ミシシッピの流れにブルーズ(ヴードゥー)、ていうのと同じ構図のようにも思えるのだが、でもベースにあるのはクレオール的ななんかとはまったく異なっていて、民族間の紛争とかこないだの洪水とかそういうのがほんのり浮かぶ。 いや、それすらも偏見なのかもしれないけど。 たぶん、でも。 
民の血や肉や涙が、魂というのがそこに還っていってそれが伝承として延々まわって流れていくでっかい器としての川。汽車であり線路でもある川。 この映画は駅(ホテル)からそんな川を眺めているだけで、いろんな物語がわんわん湧いてくるさまをぼーっと見ている、そんなふうなー。 

11.30.2012

[film] 千羽鶴 (1969)

連休の最初の金曜日、なんとなくシネマヴェーラでみました。特集「昭和文豪愛欲大決戦 2」の最後の。

原作は川端康成で、読んだことくらいあったはずだ、と本棚の奥から引っぱりだしてみる。 (こんな話だったっけ ...)
オープニングタイトルで、「ノーベル賞受賞記念」とでる。

鎌倉の茶人の息子で会社員をしている菊治(平幹二朗)のまわりのぐしゃぐしゃした愛憎模様。
父親(船越英二)の愛人Aだったのが栗本(京マチ子)で、それに続く愛人Bが太田夫人(若尾文子)で、京マチ子は、母親気分でどっかの御嬢さんと菊治を結婚させようとするのだが、彼のほうは、茶会で出会った若尾文子と突然嵐のような愛になだれこんでしまい、京マチ子はそれが気にくわなくて、裏でねちねちいじわるして、そうしたらもともと病弱だった若尾文子は自ら命を絶ってしまって、こんどはその向こうに新たな希望としてその娘の文子(梓英子)が突然現れるの。

で、こっちも最初は「いけませんわ」モードだったのだが、お茶室でなんとなく寝てしまい、こんなことでいいのか、と悩むのだが、そうすることで彼は父親の、彼女は母親の呪縛から自由になって、これこそが本当の愛なのかも、というのを知るのだった、と、こんな話でよかったのかしら...

京マチ子 vs. 若尾文子というと『赤線地帯』(1956) から続く因縁のゴジラ vs. キングギドラみたいなもんだと思うのだが、ここでの若尾文子はとてつもなくすごい。 病気のせいだか薬のせいだかわからんが、ずっと熱にうなされたような潤んだ瞳と息遣いでしなしなと息子のとこに寄ってきて、横でずっとふんふん言ってるもんだから、菊治はたまらず押し倒してしまう。(あれじゃ、我慢しろってのが無理だ)
娘からすればお母さんなにやってんのいいかげんにして、なのだが、いいのあたしは恋に死ぬんだからみたいな状態できんきんにのぼせているからお手上げなの。 

おせっかいばばあの京マチ子もいじわる小姑芸で撃退しようとするが、うるさいなあ、にしかならない。 胸元のでっかい黒痣(鋏でじょりじょりするとこがこわい)が武器なのだが気持ち悪がられるばかりで、でもどんなに疎まれてもおうちにあがりこんでくる根性がすさまじい。

でもいちばんわかんないのは娘の文子で、だって父子二代に渡って母親を取られちゃって、しかも後のほうは命まで奪ったかもしれなくて、さらにはうるさい京マチ子にまで付きまとわれて、こんなの呪われてるとしか思えないのに、それなのにお茶室で寝ちゃうんだよ。 お茶室って、そういうことしていい場所なの? 

なにがなんでもこの人、この恋、というのではなくて、恋愛はお茶碗であって、和と茶のこころでもって古いものを愛で、新しいものを愛しむ、割れちゃったらしょうがないのじゃよ、って言っているのかしら。 鶴だって千羽も飛んでくるんだよ、って。

最後、どこかに姿を隠してしまった文子に対して、もうこんなのに捕まるんじゃないよ、地の果てまで逃げるんだよ、と力強く思ってしまうのだった。

11.29.2012

[film] Tyrannosaur (2011)

18日、ホン・サンスの後に少し歩いていって、見ました。
『思秋期』なんてタイトルになっていたもんだから気づかなかった。あやうく見逃すところだったわ。

Joseph (Peter Mullan)は英国の郊外で一人暮らししている老人で、慢性の酒飲みで癇癪もちで、飲んだあとのむしゃくしゃで自分の犬を蹴り殺しちゃったり、バーで若者をぶんなぐったら返り討ちにあったり、そんな自分がどうしようもなく嫌になって、ある日街のリサイクルショップに逃げこむ。たまたまそこにいたのがボランティアで店員をやっているHannah (Olivia Colman)で、クリスチャンの彼女は、ぼろぼろの彼のために祈ってくれるのだが、彼女の住んでいるとこが高級なエリアだったりしたので、けっ、てJosephは出ていくの。

でも、彼女は彼女で夫のDVに苦しんでて内面からっぽのぼろぼろで、そういうふたりがどちらからともなく、ぎこちなく近づいていくおはなし。

ほんとに擦り切れてて、堕ちるとこまで堕ちているので神も救いも絆も信じてなくて、友達は死んでいくばかりだし、"Gran Trino"みたいな義憤にかられてなんかぶちまけることもできない、ほんとに暗く荒んだ陰惨な魂のおはなしなのであるが、ふたりが同じ画面にいるだけで、なんかいいの。 

"Tyrannosaur"ていうのは5年前に死んだというJosephの妻のあだなで、大食らいで階段を上るだけで"Jurassic Park"の恐竜みたいにコップの水の表面が震えた、それがおかしくてそう呼んでいたのだが、でもいなくなるとさあ... ていう。

そういう、まわりに人がいてもうっとおしいだけだし、ひとりで構うもんか、けどいないと... みたいに、ぎゅーっと内側に固まって放心した穴、かさぶた、になった老いたひとの状態がきちんと描かれていて、それを「思秋期」と呼ぶのはどうかと思うけど(叙情みたいのはゼロよ)、映画はとてもよくて、なんでいいのかうまく説明できないのだが、いいの。

米国映画だともっとジャンクに堕ちるか、思いっきり暴力のほうに振れるかしそうなところをJosephのひんやりざらりとした石頭とHannahの腫れあがった顔の並びの不細工な佇まいに寄せてみる。 それがなんであんなに。

ひとをぶんなぐるのも含めて、音はほんとにすごくて身を竦めてしまう。

11.28.2012

[film] Oki's Movie (2010)

新宿のホン・サンス特集『ホン・サンス/恋愛についての4つの考察』から、18日日曜日の昼間にみました。

『教授とわたし、そして映画』。

ホン・サンスの映画は数本しか見てないのだが、例によって軽くて、ぼーっと見ているうちに終わってしまう。 こんなんでいいのか、と思いつつ、でもなんだろこれ、と。
気持ちよいのだか悪いのだかよくわかんなくて、そういうのが気持ちいい人には気持ちよいのだろう、あたりまえだけど。

4部、というか4章構成で、若い映画作家ジングの現在と過去、彼の上にいる大学の教授ソン、その教授と関係を持っている女子学生オッキ、ジングが関係を持ちたいと思うオッキ、このゆるーい三角関係に映画制作、というのが絡む。 映画?

第1章でジングと教授の線、第2章でジングとオッキの線、第3章で3人の三角形が前面に出て、第4章では、この関係をテーマにオッキが作った映画が挿入される。

最初の章で映画は単なる事実の羅列ではない、とジングは若い学生に言うのだが、この線で恋愛における事実と嘘とのありようが、その境界がなにひとつ明らかにされないまま(する必要がどこにあろう?)、たったひとつのキスとか、夜通しオットのアパートの前で待つとか、朝に部屋に入れてもらって愛しあうとか、そういうのでころころ寝返ったりして、要するにやったもん勝ち、の非情な(笑)世界が、ぺたーっとした画面の上で綴られる。 画面の上で起こることがやはり正しくて、その線でジングは上映会のQ&Aで過去の恋愛のことを観客から糾弾されて憮然としたりする。

で、このジングを中心に置いた恋愛をめぐるスケッチが、最後のオッキの映画でかるーくひっくり返される。 単なる事実の羅列として横並びで比べられる初老の男と若めの男との、師走と年明けのデート。 どっちがいい、とか、どっちにすべき、とかそういう話ではなく、犬と猫のように並べられるふたりの男たち。

で、音楽はへなちょこな「威風堂々」なの。 なめてんのか。
はい、なめてます。 映画なんてこんなもんで、でもキスはたまんないの、と。


今年のBlack FridayのRSD、"Moonrise Kingdom"のサントラ10inchだけは、とりあえずおさえました。 ほっとした。

11.26.2012

[film] でんきくらげ (1970)

17日の土曜日、シネマヴェーラの『昭和文豪愛欲大決戦2』から1本だけみました。

原作は、遠山雅之で、とうぜん読んだことなかったです。

由美(渥美マリ)のお母さんがバーで働きながら娘を洋裁学校にやってて、アパートにはろくでなしのヒモ( 玉川良一)が転がり込んでて、由美がヒモに犯されたことをきいたお母さんは逆上してヒモを刺し殺して刑務所に行っちゃうの。

ひとり残されたマリは母と同じバーで水商売を始めたら川津祐介が寄ってきてもっといいところで雇ってくれて、さらにそこの社長(西村晃)も囲ってくれて、そしたら社長はのぼせてお風呂でしんじゃって、彼の莫大な遺産を求めて親族がたかってきたので連中に対抗するために川津祐介との間でやりまくってひと晩で子供をつくって、そいで見事に相続するのだが、そこまで行ったとこで川津祐介とは縁切って、るるるー、って母のところに還っていくの …

笑っちゃうくらいものすごいコテコテの貧乏転落話であり、銭をめぐるのしあがり話であり、渥美マリはずっと濃いめのメイクで台詞棒読みだし、ダンスクラブでふたりが踊るダンスはなんかの求愛ダンスみたいなわけわかんないテンションだし、でも、これはそういう様式の積み重ねを通してはじめてくらげみたいに浮かびあがってくる世界のなんかなのではないか、とそういうふうに思うことにする、とか。

それにしてもなんで「でんきくらげ」なの? と思ったら、渥美マリ主演「軟体動物シリーズ」ていうのがあったのね。

1.いそぎんちゃく (1969)
2.続・いそぎんちゃく (1970)
3.でんきくらげ  (1970)
4.夜のいそぎんちゃく (1970)
5.でんきくらげ・可愛い悪魔 (1970)
6.しびれくらげ (1970)

ぐにゃぐにゃ、たまにびりびり、ってことなのね。 ふうん。

[film] DUBHOUSE:物質試行52 (2012)

16日の金曜日の晩、新宿の七里圭の特集上映の最終日に見ました。短編みっつ。

最初が『夢で逢えたら』(2004)。
がらんとしたバスの中、男の子と女の子の出会いと、ふたりの暮らしが、声を一切欠いた世界のなかで描かれる。 生活音はふつうに聞こえるのだが、声だけが聞こえてこない。でも映画のなかで口をぱくぱくして会話が成立しているらしいことから、声だけがこちらに聞こえてこない、のか、ぱくぱくだけでもコミュニケーションが成立してしまう世界を描いているのかのどちらか、と思われる。

『眠り姫』が目に見える確かさを一切欠いた現実(気配のみ)を描いていたのに対して、『夢で逢えたら』は、隅々までクリアに描かれた夢(相手の声は届かなくてもわかる)を描いているような。

一見、異様な世界のようで、それは口内炎とか耳鳴りとかものもらいとか偏頭痛とか、少しだけ自由を欠いたいつもの皮膚のまわり、のことでもあるのだな、というのがわかってくる。 あるいはそこに、性差、というのを持ちこむのはありなのかどうか、とか。

映画は、我々が生きている世界(夢も妄想も現実もひっくるめて)に対して、なにでありうるのか、どこまでを描くことができるのか、という問いに対する極めて真摯なアプローチであり、こういう試みなしに、「リアル」とか垂れ流してはいけないのだし、こういう試みを経たあとではじめて、「夢で逢いましょう」ていうことも言えるのだね、とおもった。

次が、『Aspen』(2010)。 クラムボンの同名曲のPVを、ボツになったバージョンと公開されたバージョン続けて。 クラムボン、ちゃんと聴いたのは10年ぶりくらいかも。

どちらも、ダンサーの黒田育世さんが曲にあわせて野外で踊っているところを16mmのワンカット、一発録りで撮ったもの。 ボツになったほうの「一本道編」のが圧倒的にすばらしいと思ったのだが、ボツになった理由を後のトークで聞いてびっくり。
「一本道編」のほうだと、You Tubeの画面では小さすぎて、最初のほうなにが映っているかわからないから、だと。

PVの世界なんてそういうもんなのかも知れないが、でも小さくてわかんないから、で排除していったらなんも残らなくなっちゃうよ。
映画とか音楽の世界にわかりやすさを求めるのって、なんなの? そんなことしてなにが楽しいの?


最後が、最新作である『DUBHOUSE:物質試行52』 (2012)。

建築家の鈴木了二の連作としてDUBHOUSE:物質試行というのがあるらしく、50番が下田に作られた真四角の住宅(通称シモダブ)で、51番がそれを横に引き伸ばした国立近代美術館でのインスタレーション(通称モマダブ)で、52番がそれを映画に撮影してフィルムに現像したものである、と。

DUBHOUSEのDUBは、(われわれが80年代に浴びるように聴いてた)音楽のDUBのことで、いろんなエフェクトを掛けて原曲を圧縮したり希釈したり撹拌したりして再構成する、そういうやつで、では、建築におけるDUBの原曲に相当するものって、なに? とか。

鈴木了二さんは(旧)日仏学院で何度か上映後のトークを聞いたことがあって、そのたびに思ったのは(本人も言っていた気がするが)、映画について語ることと、建築について語ることはとても似ていて(映画と建築が似ている、というのではないよ)、その相似はわれわれが世界や社会との関わり(ポジもネガも)を考える際にとっても有効で、そんななか、ここでののKeyになるのが冒頭に字幕で示された「建築は、闇をつくる力がある。」という一行だったのだった。 或いは「闇を展示する」ということ。

50番から51番にDUBられる過程、あるいは51番から52番にDUBられる過程で再構成されたものは果たして「闇」だったのか。 51番にあった「闇」と、52番でフィルムに落とされた「闇」は、どれくらい同じなのか違うのか、違うとしたら、なにが違うのか。
観念の遊びみたいに見えるかもしれないが、人工物を作るという意味での「アート」においてこういうのは最低限おさえないといけないことだと思うの。

上映後、監督と短編にColoristとして参加している牧野貴さんとのトークは、ものすごくおもしろかった。
爆音3Dの直後だったこともあり、改めて、すごいことやってるのね、と。

話にも出てきた、日本のデジタル化市場の圧力の異様さ、には強く同意した。
米国だってもうちょっと慎重だし、少なくとも上映に関してはデジタルとフィルムの共存を前提とした流れが普通にある。 日本だけだよ、ガキみたいにはしゃいでるのは。

で、そういうしょうもないせめぎ合いのなかで、改めて映画とはなにか、という問いが前面に出てくるのね。

11.23.2012

[film] 2012 act.5 (2012)

ぜんぜん通うことができなかった爆音3D。 せめてこれくらいはー、と14日の晩、吉祥寺に。

牧野貴 ×『2012 act.5』ライヴ上映  + 『Still in Cosmos』。

これは3Dメガネを使った3D映画、ではなくて、2Dでも見ることはできて、でも片目側だけにフィルターが入ったメガネを掛けることで画面の見え方が変わって飛び出して見える、と。
これ、プルフリッヒ・エフェクトていう片目を薄暗くすることで生じる知覚の時間差でもって横移動映像を立体的に見せるやつで、こういうのがあるのは知っていたけど、やってみるのは初めてだった。 どきどき。

紙メガネ、フィルターが入ったほうを利き目に、ということで自分の利き目は左なのでそっちにつけるのだが、この左側のやつは、ぐらこーま、でぼろぼろなので、はてどうなるんじゃろ、だったが、だいじょうぶだった。

さて、最初の『2012 act.5』は、上映のたびに追加再編集されていく作品で、これが今年の5回目、残りあと2回の上映を経て、作品として完成するのだという。途中でフィルムがなくなってデジタルに移行したりいろいろあった、と上映前に監督が言っていた。
音楽/音響はライブで監督自身が演奏する。

3Dのように目の前にびゅんびゅん飛び出してくることはないのだが、じーっと見ているとスクリーンの表面がでっかいゼリー状の厚揚げみたいに膨れあがってせり出してきて、その表面でいろんなのが蠢いたり涌きだしたりする。 うまく言えない…

遠くで車の音が聴こえたあたりから画面全体の動きとその速さが尋常ではなくなり、前面にはりついたクラゲさんの触手が多段の多層にばりばりめりめり潜りこんで伸びきったあたりで分裂しそれぞれが共食い喧嘩をはじめる。 うまく言えない…

音は、その粒子が画面上の色のつぶつぶに乱反射したり合体したり、音像と映像のリンク、なんてちゃらいやつじゃない、音がそのまま光であり光がそのまま音となる、そいつらが正面衝突して現れる瞬間をスローモーションの横移動立体効果で見せてくれるのだった。

何分間やっていたのかわからんが、あと3時間やっててもぜんぜんよかった。

続く"still in cosmos" (2009)は、2009年の爆音映画祭でも見ているのだが、そのときはプルフリッヒ・エフェクトなしだった。 今回はエフェクトありの爆音で、もうこれはひたすら圧巻、問答無用のクラシック、マスターピース。 Jim O'Rourke + Daren Gray + Chris Corsanoのトリオによる圧力鍋のなかで沸きたつ音の渦が鼓膜に襲いかかってきて、どこまでいってもcosmos、鍋の壁を無限に押し拡げていくcosmos、の勢いがプルフリッヒの大波で更にぶっとくなってやってくるのだった。

2本あわせて1時間強くらいでしたが、終わったら目がぐるぐるでまっすぐ歩けなくて、これはこれでたのしいのだった。

これ、シルク・ドなんたらとかの数百倍スペクタクルでおもしろいんだけど、なんでお客さんあんま入ってないのかしら。

[film] Quatre nuits d'un rêveur (1971)

12日月曜日の晩、ユーロスペースで見ました。『白夜』。

今年1月のFilm ForumのBresson全作品レトロスペクティブで見たのに続いて2回目。
あのレトロスペクティブは他の国もツアーしてたようなので、まとめて来てほしいなー、という祈りをこめて足を運ぶ。

できれば『やさしい女』(1969)も一緒に見たかったのだが。
どっちもドストエフスキー原作、というだけでなく、どっちも彷徨える若者が読者に呼びかけるかたちで進むというだけでなく、映画だとブレッソンのエロ(なんてあるんだよ、と言ってみた上で)が狂い咲きしているようなかんじがあるの。

Martheの家の下宿人が貸してくれる本の山のなかにはアラゴンの『イレーヌ』とかクレランドの『ファニー・ヒル』といったエロ本があるし(原作ではウォルター・スコットとプーシキン)、妙に唐突で、しかしものすごく美しい彫刻のようなMartheのヌードとか。
しかも、そのヌードはJacquesに語りかけるMartheの話のなかで出てくるだけなので、Jacquesの目に届くことはないの。 なんてかわいそうなJacques …

こんなふうに決して到達できない女性の性のまえで途方に暮れてあーどうしよー、みたいなとこが腰のあたりからなかなか上に向いていかない変なカメラの位置とか動きとかから。

ぼーっと発情したあたまで街を彷徨うJacquesの白く包まれた四夜の出来事。
最初の夜、橋から身投げしようとしていたMartheと出会い、二夜目にお互いのことを話して親密になり、三夜目に更に親密になり、四夜目にいよいよ、というとこで突然夢から醒めて突き落とされる。
で、その翌朝、ああありがとうMarthe、とかしらじらつぶやきながら画布に向かうの。

あと、こないだTIFFで見たアサイヤスの『5月の後』をぼんやり思いだした。
Jacquesも『5月の後』の主人公のGillesと同じように、68年5月に間に合うことなく悶々と絵ばっかり描いているのか。 なにひとつ思う通りに手に入れることができない若者は錯乱して変な絵を描いたり、テープレコーダーになにか吹きこんだり、映画に向かったり、そんなことするしかなかったのか。

あとはなんといっても橋の下を抜ける遊覧船だよねえ。裸身と遊覧船がとにかくとんでもないので、ここだけでも見るべし、なの。

11.19.2012

[film] ...All the Marbles (1981)

11日の日曜日、渋谷で見ました。シアターNの最終興行、『カリフォルニア・ドールズ』。
自分の前日からの流れでいうと、姫 → 姉さん → ドールズ、であってだんだん強くなって手がつけられなくなって、全面降伏、と。

すんばらしー! さいこー!! 絶対見るべし!!!
こういうのはTwitterで一行呟いてそいで終わり、でぜんぜん構わないの。 まったく異議なし。

IrisとMollyの女子プロレスタッグチーム"The California Dolls"と彼女たちのマネージャーHarry (Peter Falk)の全米ドサ回りの旅と、一等賞の座を賭けたリノでのタイトルマッチを描く。
誰が見たってこてこて、汗にまみれたスポ根ものであり、ビンタにまみれたライバル/師弟ものであり、どろんどろんのショービズであり、ぜんぜん綺麗事ばかりではない、ゴミにまみれたこの世のお話で、それでも、それなのに大量のアドレナリンと涙と鼻汁を頭部に呼びこんで、終わった後にはなーんにも残さない。

そこにある快楽は魔法とか奇跡とかによるものではなくて、体育会系の地道でまっとうな練習の成果でもなくて、勝つんだ有名になるんだ一攫千金だばかやろー、ってさえない3匹がうらうら思いこんであれこれ仕込んだおかげ、っていうだけなの。 それがはまって当たったときのざまあみろー、のぞわぞわが最後のフォールでばん、ばん、ばん、てくるの。

これはカリフォルニア・ドールズ - すごい美人さんでもない白人の女子ふたりとぷーんと臭ってきそうなイタリア系マネージャー - がいたから成立した話で、これは男子タッグだったり、或いはライバルのToledo Tigersのふたりでも成立しなくて、たぶん、ロックバンドの映画を作るケースにもあてはまるなんかの方程式みたいのがあるんだとおもう。 で、そういうのを考えたり分析したりするのは野暮、ていうもんなの。

DVD化される見込みないから劇場へ急げ、は宣伝文句としてはいいけど、これはDVDになんなくていい。映画館の闇のなかで輝く彼女たちの戦いとおなじ、一晩かぎりのライブとおなじで、そこでしか見れないもので、でも、だから絶対見とかないとバカな、そういうやつでいいの。

11.18.2012

[film] 眠り姫 (2007)

10日の土曜日、池袋で『レヒニッツ(皆殺しの天使)』を見た後、新宿に移動して、特集上映『のんきな〈七里〉圭さん』 から2本続けて見ました。 

こいつは見ねば、というかんじではなくて、なんとなく、のんきなかんじで。

最初が『眠り姫』。
ずっとロングランが続いている作品であることは知っていて、そういうことなのかー、とおもった。 

人の影はほんの数回、幽霊のような形しか出てこなくて、だるくて眠くて職場に行くのがおっくうな中学校の非常勤講師(女性)の独白と彼女のまわりの人たちとの会話、彼女を取り巻くいろんな音、サウンドトラックの音楽、これらが中心にある音の映画。 音の濃度はとにかく圧倒的。

気配、ってなんなのか、と。 なにかがいる、なにかがある、そのなにかの確かさをより確かにするのは音であったり、光と影であったり、輪郭であったり、対象との距離感であったりするのだろうが、主人公が自身と世界との間で喪失しつつあると感じているなにか、主人公が「変だ」と言い続けるなにかを伝えようとしたとき、気配、というのがひとつあることは確かで、映画はそいつを、映像としてどうやって捕捉するのか、できるのか、その裏に表に音はどんなふうにひっついてあるのか。

んで、更に、それらの気配は必ずしも自分のものとして感じられるのではなくて、すべてが他人事のように半端に浮かんでくるのでより厄介なの。だから自殺するほど大変なことではないし、ただただなにもかも面倒になって布団にもぐるしかない。

だから、映っているのは主人公の白日夢でも幻視でもない。最初のほうで女性の短い絶叫が響くのだが、だからといってなにひとつ醒めることはなく、そのまま続いていく。
それは普通の人の生活といえるのか、いへ、それは姫の暮らしなのだと。

そういういろんなのを頭のなかから具体的に音と像に起こしていくのは大変だったんだろうなー、とか。

原作の漫画は読んだことがなかったのだが、後のトークでおおもとは内田百閒の『山高帽子』であることを聞いて、あー、て思って、帰ってから引っ張りだしてほぼ30年ぶりに読み返してみる。(旺文社文庫、81年初版、だよ)

猫が喋るとことか手の形が変(変だよねえ..)だとか、薄明のなか、全てが他人事で無責任で、バランスを欠いた変な厭世観は映画のなかにも伝染して充満しているのだった。 百閒の空気と濃度って、伝染するんだよね。

ここで切り開かれた知覚の扉の確かさを検証するためにも、例えば映像を消してみたときにどうなるかを探ってみるのはおもしろいはずで、だから17日のイベント『闇の中の眠り姫』はとっても画期的だったはず - 闇の中で眠り姫はどんな活躍をみせたのだろう - なのだが、闇以前に低気圧に負けてしまったのだった。

続いて19:00から『のんきな姉さん』(2004) を。

クリスマスの夜に会社で残業している姉(上司の三浦友和も残業してる)のところに、姉との禁じられた関係を書いた小説を送りつけて、ぼくはこれから雪山で死んじゃうんだからね! と電話してくる弟。
彼らの現在と過去、そのありえたかもしれないいくつかの軌跡を、あってもおかしくないクリスマスの打ち上げ花火として描く、というか。

原作は山本直樹の漫画で、そのおおもととして唐十郎『安寿子の靴』、森鴎外『山椒大夫』が。

「眠り姫」に弟がいたら、例えばこんな話しも成立するのかもしれない。
姫の、何もかも他人事である、としてしまう態度を「のんき」と置いてみて、そこにすべてを自分事として真に受けて苦悩する弟をぶつけてみる。そのぼんやり/きりきりとした相克を愛と呼んでみることは可能なのか、世の中の全ての愛なんてこんなようなもんなのではないか。 例えば。

35mmフィルムでの上映で、この点も「眠り姫」のデジタル上映とは対照的で、やわらかい系の色のかんじがすばらしく、いろいろ考えさせられるのだった。

11.16.2012

[theater] Rechnitz (Der Würgeengel) - Nov.10

土曜日の昼、池袋の東京芸術劇場ていうとこで見ました。
Festival/Tokyoから、原作はオーストリアのElfriede Jelinek、演出はスイスのJossi Wieler、製作はドイツのMünchner Kammerspieleによる『レヒニッツ(皆殺しの天使)』。 110分。

二次大戦が終わる直前、ロシアが侵攻してくる直前、レヒニッツにある親ナチだったオーストリアの伯爵夫妻の城で、180人のユダヤ人が「パーティーの余興」として虐殺されたという「史実」をベースにノーベル作家のエルフリーデ・イェリネクが作った戯曲。

舞台は複数の扉やヘッドホンで外部とつながっている三角形の部屋、でも普段は閉じられている隠し部屋のようなとこで、その部屋に5人の白人の人たちが現れる。初老の男がふたり、それよりやや若めの長身の男がひとり、女性がふたり(ひとりは初老、ひとりはやや若め、どちらも男性とカップルである様子)。 一見、ファスビンダーの映画に出てくるような、ドイツの、ちょっと変な市民の風貌。

最初は正装してて、軽めの軽音楽にのって、客席にむかってやあやあ、て挨拶する。5人は部屋の外の様子を気にしながらも、下着姿になったり、パジャマになったり、カジュアルになったり、服装を変え、ピザを食べ、ゆで卵を食べ、チキンを食べ、ケーキを食べる。

そういうふつーの衣食住の流れに乗って、5人はいろんなことを喋り続ける。 この舞台が闇の歴史、闇に消えようとしている歴史を描いたものであることを知っている観客は、彼らの発言をその文脈に沿って位置づけ、解釈しようとする。

ドイツの歴史、民族のうんたら、戦争のこと、歴史のこと、善悪のこと、事実をめぐるうんたら ...

彼らは虐殺に直接関わっている当事者なのか、パーティの参加者として虐殺を外から眺めているだけなのか、虐殺の模様を「後から」報告しようとしているのか、虐殺の現場を「再現」しようとしているのか。

そのどれでも当たっているようで、当たっていないようで、でも全体としてわかるのは、隠さなければいけないようなことが、ひっそりと行われて、しかしそこに罪の意識はあまりなく、しかたなくやむなくで、でも、それはとにかく行われる。 行われた。
だれが、どこで、いつ、は扉の向こうでダンゴになっていてぼんやりとしかわからず、どこかに隠されてしまって、でも、それは行われた。

そのコトの周辺をまわっていくのは自分の言葉ではない言葉 - 外国語のように語る蝋人形のような人たち。

で、そうやっていると、この5人は自分であり、あなたであった、のかもしれない。
或いは、そこにいたのは「天使」だったのか? だれに仕える天使だったの?
 
会話劇、というよりはいろんなテキストを登場人物ひとりひとりが読み上げていくかんじ。 あるテキストを受けて次に、というやりとりの連鎖が時間の経過と共にある像を作っていく、というよりは、壁に一枚ずつ短冊を貼っていって、その模様の総体がことの次第を浮かびあがらせる、そんなかんじ。 テキストとテキストの間の繋がっていかない段差こそが、その救いようのない事実を、光の届くことのなかった暗がり - 墓穴の奥を語る。 

この陰惨な、しかし複数の証言まるごと闇に葬られようとしている史実に光を当てるとしたら、こういう方法しかないのかも。

とか、或いはここで、映画は例えばどんなふうに、とか。(関連イベントでこの事件を取材したドキュメンタリー映画『黙殺』(1994)をやっていたが行けず.. )

あるいは、Pina BauschのTanztheaterのようなスタイルで、つまりダンスだったらどうだろう、とか。 (Pinaはやらないだろうけどな)

字幕の日本語がちょっときつかった。 あれじゃみんな寝ちゃうよね… (みんな結構ぐうぐう)

[film] Hollywood Boulevard (1976)

書く時間がなさすぎるー。

8日の木曜日、新宿でみました。
夜コーマンふたたびをやっているのは知っていたが、やはりぜんぜん時間がなかった。
これの前の週の『バニシング in Turbo』- Ron Howardのデビュー作も行けなくて、気がくるいそうだったのだが、このJoe Danteのデビュー作はなんとか行けた。

筋はいつもの通りあってないようなもん、というか、女優になりたいわふんふん、てやってきた娘さんがてきとーな代理人に紹介されるままてきとーな会社のてきとーな現場に行ってみると、そこはほんとにほんとにいいかげんなとこで、同じような女優になりたいもんもんの娘さんたちが吹き溜まっていて、でもときたま怪しいかんじで人が死んだりするのでなんなのかしら、って思っているとやっぱしやばかった、みたいな内容なの。

映画撮影に関する映画だから、ってこないだの夜コーマンでやってた"The Big Bird Cage"(1972) -『残虐全裸女収容所』なんかをそのまま切り取って貼り付けてるし(えーあれって「映画」だったんだー、と思ってしまう)、ゆるキャラみたいにひどいゴジラとか出てくるし、そんなんでいいの? とか言われても、いいに決まってるじゃん、なんでいけないの? になってしまう適当さがたまんない。

でもその適当さって、こんなもんでいいだろ、的に作っているわけでは当然なくて、あるものを全部使って出してわいわい楽しんでもらう、そのお楽しみは、基本エロとバイオレンスとアクションから出来ていて、それをぜんぶ詰め込んでみたら想定していなかったような味になってた、そんなかんじ。 とりあえず、おいしいんだから文句はない。

ふんわりのんびりしていると突然血だるま、みたいなびっくり箱系の落着きのなさは既にJoe Danteだったかも。
彼の3D映画、"The Hole" (2009) なんてぜったい面白いし、3D爆音向きなのになー。

あのゴジラに入っていたのがJonathan Demme、ていうのはほんとなの?


11.11.2012

[film] 「女の小箱」より 夫が見た (1964)

6日の火曜日の晩、低気圧でへろへろで、愛欲なんてどうでもよかったのだが、シネマヴェーラで1本だけ見て帰りました。

監督は増村保造、原作は黒岩重吾の『女の小箱』。 やっぱし読んだことないわ。

若尾文子と川崎敬三が夫婦で、でも夫は自分の会社の謎の投機筋からの株式買い占め対応で忙しくてあまり家には帰ってこないので、妻はずっと悶々している。 彼の会社の株をせっせと買い占めをしているのはクラブを経営したりしているばりばりの田宮二郎で、マダムで愛人の岸田今日子がいろんなとこから色落としで資金を集めてくるの。

クラブで働く女(江波杏子)経由で情報を得ている川崎敬三への報復として夫への不満たらたらの若尾文子を誘惑した田宮二郎は、つんつんした、でも一途な若尾文子に次第に本気になっていって、夫のひどい仕打ちに我慢できなくなってきた彼女も、当初の拒絶からだんだんに傾いていくの。

よくありそうなサラリーマン夫婦の崩壊をフィルム・ノワールのような裏社会との関わりを絡めて描いているようで、それは男社会の金と体裁をめぐる戦いであり、女同士の愛と独占をめぐる戦いでもあり、でも、その境界を超えて最後まで留まろうとするのは田宮二郎と若尾文子の一途で不器用な純愛で、メロドラマとしてとってもすばらしくよかった。

タイトルの「夫が見た」はあんまよくわかんなくて、だって夫の川崎敬三は同情の余地なしの最低野郎で、どちらかというと妻が夫の浮気現場を妻が見たところから彼女の反撃が始まるのだし。

冒頭の、自宅で夫の帰りを待つ若尾文子の描写とか音楽も含めてヨーロッパ映画みたいにかっこよくて、そこにきんきんにクールな田宮二郎とか、お化けみたいに強烈な(でもこれはこれで十分素敵な)岸田今日子とかがはまりこんで、その反対側に川崎敬三に代表されるサラリーマン諸君の、べたべた醜い往生際のわるさとかがあって、全てが鮮やかに切り取られた愛憎絵巻で、とっても見応えあるのだった。

増村保造+若尾文子の、もっとちゃんと見ておきたいねえ。

11.09.2012

[film] おんなの渦と淵と流れ (1964)

4日、日曜日の朝にシネマヴェーラで2本見ました。
特集『昭和文豪愛欲大決戦2』、よくわかんないのでとりあえず。

監督は中平康、原作は榛葉英治の『渦』と『淵』と『流れ』? - 読んだことない。

3部構成になってて、第1部が「渦」。 金沢で、自宅で妻(稲野和子)が小料理屋をやっていて、自分はぼんぼんの英文学研究者でなんもしていない男(仲谷昇)が妻の行状と過去に疑念を抱いてて、ある決意をする。

満鉄の関係で大連でお見合いで結婚したのだが、初夜のとき妻はほんとうに処女だったのか、とか、戦争が始まって現地で小料理屋を始めるのだが、妻の男あしらいが異様にうまいこと、とか、こっちから英文学の話をしてもぜんぜん乗ってくれない(そらそうだー)とか。
で、自分は温泉行くふりして押入れの陰にかくれて見ていると、やはり妻は地元の土建屋と...
ぼんぼんは暗い雨のなかぶるぶるわななくの。 ... 単に君とは合わない、っていうだけの話だと思うのだが。

第2部の「淵」で修羅場がより一層全開になって、ふたりはかわいそうなくらいに噛みあわなくて、でもお互いなんとかしなきゃ、という意思はあるので、こんなところにいるのはやめよう、て場所と家のせいにして、ぜんぶちゃらにして東京に出ることにする。

第3部の「流れ」で、ふたりは東京に移って、妻のおじが昔住んでいたとこを借りて、彼のほうは会社勤めを始めて、すべては元に戻ったような感があったのだが、近所づきあいから妻の女学校時代の過去が明らかになるにつれて、また別の渦がまわりはじめて、やがて。

時間が昭和初期から戦後まで行ったりきたりして、お話も「渦」、「淵」、「流れ」と分断されているものの、基本は妻の物語を自分のものにしたい、手元に置きたいと願うわがままなぼんぼんの御都合 - それこそ主人公が何年もかけて訳そうとしていたシェイクスピアの『トロイラスとクレシダ』よろしく、いにしえの、とか、魔性の女、とかで片付けようとするのだが、指を差された妻のほうは、最初からそんなの関係なく、ただひとりの女としてあろうとしただけだった、という。

落としどころをこれが女というもの~これが男というもの~みたいなところに持っていかずに、渦だの淵だの流れだの(それは女の属性でもなんでもない。ねんのため)を生む決定的な溝とか段差のみにフォーカスし、シャープな構図とモノクロの映像のなかに際立たせて、最後にバカなおとこを突き落す、そのしらじらした目線がなかなか心地よかった。

それから『悶え』 (1964)。

監督は井上梅次、原作は平林たい子の『愛と悲しみの時』  - 読んだことない。

結婚した若尾文子と高橋昌也がハネムーンで小涌園に行って、初夜の新婦はどきどきだったのだがなんも起こらず、こんどこその二晩目もほっておかれそうになったので、わっと泣き出したら、新郎に逆泣きされて、実は事故にあって不能になってしまったんだ、とか言われて、がーん。(そんなのなんで言っておかないの...)

で、治療すれば治るかも知れないから、ってふたりでがんばるのだが、新妻にはいろいろ外からの誘惑(ぴちぴちの川津祐介)もくるし、自身もむしゃくしゃするし、夫は夫でクラブ通いなんかしてるし(欲望をふるいたたせるためだと)、大変なの。 あと、とりあえず子供を作ってしまえばどうか、と人工受胎をやってみようとか思うのだが、直前で怖くなってやめたり。

夫のほうで懺悔とか欲求不満とかそのたもろもろの激情が爆発しそうになると、背景が突然まっかのウルトラQ模様、音楽もどろどろの劇画調になって、うおおおおうぅぅぅ、とふたりで獣のように抱きあって悶えまくり、そのまま気がつくと朝になっていたりする。
そんなふうな夫婦のもんもん、それが『悶え』。

そういう「地獄のようだった半年間」(夫婦談)も最後には結局棒いっぽんで解決してしまうのでなーんだ、というかよかったねえ、なのだが、むかしはたいへんだったんだねえ、と思った。
でも、これこそが当時の平均的な家庭(夫は五井物産の調査課長、公団住まい、等)での平均的な「結婚」像・観の内外に張りめぐらされていた平均的な役割期待だと思われ、このへんて今はどんな具合なのだろうか。 彼らからしたら、同性婚なんてありえないものかしら。

なんか昭和の愛欲って、よくわかんないわ。(ひとごと)

11.08.2012

[music] Sunn O))) - Nov.3

3日の土曜日の夕方、収容所体験のあとで、別のばけものに出会うべく、代官山に向かう。
イベントのつながりとしては、なかなかよかったのではないかと。

去年も行った気がする"Leave Them All Behind 2012"。
6時過ぎに会場に入って、そのときはChelsea Wolfeの途中で、前のほうのアクトはその後の日本人のひとも含めてあんまよくわからず。

Sunn O)))とBorisは2010年の9月に、BrooklynのMasonic Templeでやった"Sunn O))) and Boris present ALTAR"ていうイベント以来、あのときは始まった直後に施設の電源がぶっとんで、復旧までに30分以上、まっくら闇で、再開してからも(もう一回とんじゃうとやばいから)まっくらで、わけわかんないから帰えろ、と1時少し前に外にでたら警察に包囲されててびっくり、というそういうやつだったの。 今回もそういうやばいのを期待してい ... なかったとはいわない。

8時きっかりに始まって、そういえば耳栓忘れたことに気づいたがもう遅い、びりびりとかばりばりとか、そんなような電磁系のぶっとい音束が何本か、天井までぐいぐい昇っていって小屋の床から重金属まじりの重い毒液が小屋全体をみるみる埋めていく。 部屋全体がそいつで満たされてたぷたぷになり、そいつにみんなが飲みこまれて麻痺してグラウンドゼロで、轟音とか爆音とかそういうのの内側にすっかりくるまれてしまったところで、その、鼓膜にぴっちりはりついたそいつがゆらゆら上下右左に揺れ始める。揺れ始めた気がした、というか。 
そんなずうーっとばりばり感電状態のまま、物理的にもまったく身動きとれない状態で、これが1時間半かあ、しぬなあ、とおもった。

稼働中のMRIのまんなかに宙づり状態で漬けられてて、脳細胞が「きゅう」とか音をたてながら毎秒数万単位で死滅していくのを感じつつも、ここにあるのは細胞膜の内も外も含めて間違いなく音楽で、ここにはベースもドラムスもぜんぶ入っている - All Inclusive だねえ、とか。 ステージ上はもわもわでよくわかんないし、自由が効かないのでどうでもいいことばっかり考える。

こういうとこにデートに連れてきたらぶんなぐられるだろうなあ、とか、こんな下痢起こした腸内みたいなとこに押し込まれてそれで6500円、収容所のも含めたらぜんぶで10000円か、田舎のおっかあにもぶんなぐられるなあ、とか、とかそんなような。

50分くらいたったところでマイクの前にジャワ星人のかっこのひとが立ってがうがう唸りはじめて、それは収容所でお化けのひとがやってたのと同じようなかんじで、今日は異形のものに説教される日なんだわ、とも思う。

着陸態勢にはいったのは終わる20分くらい前か、でもぜんぜんおわらずにずっと低空で旋回してて、おばけのひとは赤いレーザー光でびゅんびゅんなんかやっていた。 今後は、もうそれやってもディズニーになっちゃうんだねえ。

終わって外にでたら少し眩暈がする程度で、耳鳴りはそんなでもなかったのが意外だった。

こういうライブって、よかった、とか、すげー、とか、そういう感想は出ないねえ。
(放心状態で)浸かった... とか、浴びた... とか。 鑑賞とも消費からも、断固遠くにある音楽。

で、おうちに帰ってからDinosaur Jr.と被っていたことを知って、泣いた。  
一週間後だと思い込んでいた。 ばかばかばか。

11.05.2012

[art] Le Préau D'Un Seul

3日、土曜日の午後2:30くらいに西巣鴨まで行って、みました。

F/T(Festival Tokyo)ていうのも、あんまよくわかんないのだが、毎年なんとなく続いているねえ、TIFFよりはまだ好感がもてるかも。

フランスのJean Michel Bruyère /LFKsによる『たった一人の中庭』。

にしすがも創造舎ていうのは、元学校だったとこで、これまでのF/Tでも演劇とかで何回か行ったことがあるのだが、このインスタレーション、というか出し物(お化け屋敷みたいな?)は、旧校舎と体育館をぜんぶ使ってでかでかとやっている。

フランスの不法移民の収容所で合法/非合法に行われていたと思われることを「アート」の様式でもって白日の下に曝すこと。
これによって「現実」と「アート」の境界、Legal Alien - Illegal Ailenの境界、「平民」-「移民」-「難民」の境界、無意識下にあるいろんな「差別」うんたら、グローバル経済下における「国境」と国家観・歴史観あれこれ、国家における監視機関としての共用施設のありよう、などなど、ものすごくいろんな要素が多層的に重なり合ったまま、だれも責任取ろうとしない状態で苦しんで困っている人たちが沢山いるんだって、というあたりを抉りだし、そこをなんとかすべく、元「学校」という施設にでかでかと張り出された特大のアジびら、というか施設をまるごとアジびらにしようとする試み。

(旧)教室ごとにやっていることは分かれていて、収容所の各機能に対応していて、最初に入った部屋で羊のおばけみたいなかぶりものをしたひと(ではなくておばけ)がどぅんどぅんていうリズムに乗って怪しく踊ってて(Dance Floor)、その横の暗室(Dark Room)では、同じくお化けの皆さんがCBSのドラマの音声にのって口パク演技をしてて、要は彼らも楽しんでいますだいじょうぶです、と。

でもその反対側の教唆する部屋(Egging On Room)は家庭科の教室で、もうもうの湿気のなか、言うこときかないとゆでたまごにする、だか、ゆでたまごしか食わさない、だか、そういうソフトボイルドな拷問が行われているようで、その次の入浴する人々の部屋(Bather's Room)では、タイマー起動で水回りのあれこれも完全にコントロールされていて、ぼんやりこわい。

3階にあがってみると、Political Bureauていう学習室 - 政治オフィスがあって、そこではバナーとかビラを作りながら議論したり勉強したりのパフォーマンスがリアル進行中で、黒板には重信房子とか若松孝二とか。ビデオで上映されていたのは、JBのキンシャサのライブ?

その隣は更衣室(Fitting Room)で、床に牛糞のカーペットが張られた暗室で、一度に3人しか入れないらしく、よくわかんないけど20分くらい並んでみる。 そしたらお化けの衣装をきてコスプレができるという趣向だったようで、でもひとりでそんなことしてもしょうがないから2分くらいで出る。

それから体育館にいくと、そこが収容所テントで、最初の長く仕切られたとこで働く職員 - 医者とか料理人とかがお仕事してて、お料理とかはほんものみたいに手がこんでて、たまに音楽が流れてそれにあわせて踊ったりしてて、その奥のいちばんでっかいスペースが実際の収容スペースで、床には梱包で使うプラスティックの繭みたいのがざーっと敷きつめられてて、自動で動く介護ベッド(下にスピーカーが仕込んであって変な音が)が20くらいあって、豚の血で絵を描く機械があって、ブランコとかもあって、窓の向こうは日本のお墓(たぶん仏教。なむー)で、よくもまあここまで、というかんじ。

合法移民と非合法移民の間の線、その線を定義して、その線を維持監視し、その線上でヒトを仕分け、更にその作業を正当化しつつ隠蔽する国家の仕掛け、その全容をぶちまけるにはこれくらいでっかい仕掛けが必要だったのね、と。

ブランコに乗ったり、繭繭に埋もれて少し寝たりだらだらしたのだが、なんかとっても居心地がよいので困った。
それこそが体制側の思うツボなのだ! がっこだってそうだったじゃんか! とか思わないでもなかったが、とりあえずアートだからいい。病みあがりだから許して、とか。

4時過ぎくらいに、奥からおばけの人が二匹現れて、拡声器マイクを手に遠吠えみたいなあうあうパフォーマンスをはじめた。
音響は向こうのほうで、作業員のひとがMacで操作していたが、音のかんじは昔のTGにあったようなかんじので、悪くなかった。

夕暮れの中庭も貼りだされたビラがピンク色にはためいてて、素敵でしたわ。
この中庭では強制送還のパフォーマンスも行われるという - ここにきて「たった一人の…」であることがじんわりとしみてくる。

いや、だから素敵とか思っちゃいけないことはわかっているのだが、作った人たちをここまで追いこんでいった怒りとか恨みとか、すごいもんだねえ、と。 これで3000円ならべつにー。

帰宅して着替えたら床にあった繭が3つくらい落ちてきた。
あの後、ライブでぎゅうぎゅうだったのに、体のどこに挟まっていたのか?
ひょっとしてなんかマークされちゃったりしてないか、とか。
 


[film] Sleeping Beauty (2011)

まだ病みあがりでよれよれしつつ、2日の金曜日の夕方、シアターNに駆けこんで見ました。

『シッチェス映画祭ファンタスティック・セレクション』から『スリーピングビューティー・禁断の悦び』。
ヒューマントラストでやるやつとか、こんなふうにきちんと公開されなかった洋画がぽつぽつ見れるようになるのは悪くないけど、場合によってはコマ割りに合わせて会社休んだりしなきゃいけないし、そんなことよか上映館の減少のほうをなんとかしろよ! と思う。

この"Sleeping Beauty"はシッチェスみたいな枠(げろげろホラー)で上映されるのは違う気がしてて、なぜってJane Campion Presentsで女性監督が作っているし、NYではIFCでずっとロングランしてたし、ちょっとだけエロ入りのアート映画みたいなのかと思っていた。
うん、『禁断の悦び』とかいうのともちがったー。 川端のともちがうー。

女子大生のLucy (Emily Browning)は、学業のほかにコピー取りのバイト、レストランのバイト、たまに売春みたいのもやってて、でもずうっと金欠でシェアしてる家からも追い出されそうになってて(後で追い出される)、学校のペーパーで見つけた求人のとこに電話してみる。

そうしたらそのバイト、容姿やお肌をなめるように審査されムダ毛とかも処理された上で、正装した金持ちそうなじじい共の間で下着姿で給仕するやつで、でも実入りが悪くなかったのか嫌な顔もせず(もともと無表情だけど)こなしていたら、今度は別の、薬入りのお茶を飲んでひと晩すっぱだかでベッドでぐうぐう寝てればいいやつをやることになり、これって終えて起きたときにくらくらするのだが、これも収入はよいので続けて、そのお金でアパートを借りることもできるようになる。

で、眠っているLucyと老人客1,2,3とのやりとり(エロくない。へんなの)も出てくるのだが、こういうネタでフォーカスされがちなぐったりした裸の女を前にふるふる震える老人の性欲(とかネクロフィリアとか)とその渦の中心と周辺は、あんまなくて(一応あることはあるけど)、どちらかというと生きている世界では恋人死んじゃうし、バイト先クビになるし、アパート追い出されるし、ぜんぜんぱっとしないのに、死んだように寝ている世界のほうでもてもてでお金も入ってくるって、なんなのこれ、というLucyの苛立ち、うんざり、のほうが前に出ている。 

"Sleeping Beauty"を外から眺めて突っついて遊ぶ老人たちの目線ではなく、成り行きで"Sleeping Beauty"にさせられてしまった女の子の虚無があるの。 (ラストのビデオカメラの映像 - 死んだように動かないLucyと死んじゃってる老人と)

Lucyを演じるEmily Browningさんは、"Sucker Punch" (2011) に続く操り人形系のしらーっとした演技がはまっているのだが、そろそろぶちきれて敵を殺しまくるような映画もあってもよいかも。 それこそシッチェスで大受けするようなやつを。

この映画でお勉強したやつ↓

Sandhill Dunnart (かわいー)

http://www.australianfauna.com/sandhilldunnart.php

10.31.2012

[film] Après mai (2012)

土曜日の風邪がみるみる悪化して、TIFF最終日のお楽しみ - カンボジア映画2本は諦めてずーっと寝てて、夕方になんとか立ち上がってこれだけ見てきました。 見ている間は快調だったが帰宅したら見事にぶりかえして火曜日は会社やすんだ。

『5月の後』。 英語題は"Something in the Air"。 BAMでも27日に上映されていた。

71年のパリ郊外の高校、まだ燻り続けている68年5月の後で、アングラ機関誌を売ったり暴動に参加したり高校に夜撃ちかけたり、他方で左翼系の映画製作に関わったり絵を描いたり、それから女の子ともあれこれあったり、その時代の子として「革命」に靡きつつも十分身を捧げることはできず、だからといって何をするともなく道を求めて彷徨うGillesの姿を中心に、あの時代、革命の中心から時間も場所も少しだけ離れたところにいた若者はどんなことを考えて、動いていたのかを、つまりは71年の青春を、描く。

言うまでもなくGillesはアサイヤスの分身で、その本体のほうには映画とは別に(映画よりも前に書かれた)『5月の後の青春 アリス・ドゥボールへの手紙、1968年とその後』という本があって、これを読むとそういうことかー、とわかることもいろいろある。

これって、今の自分はどうしてこんなんなって、こんなところに落ちてしまったのか、という大姐御アリス・ドゥボールへの問いに応えるという形を取りつつも、実は当時つきあい始めた利発な26歳下の恋人ミア・ハンセン=ラヴへの「申し開き」をつらつらやっているという、割としょうもない本なのだが、それにしても真面目なひとだよね。(すけべだけど)

"Carlos"で「革命」に向けてじたばた走っていくCarlosを、その挫折も含めて描いたのと同じようなやり方で、「革命」を夢見てじたばたしつつも、最後までそこに乗りきれなかったGillesの行方を描く。 どちらがどう、という話ではなく、あのときは、ああだったのだ、と。 周りがどう、ではなく、誰のせいでもなく、こうなった、という。 そこには自己弁護もナルシスティックな身振りもあまり感じられない。

或いは、『夏時間の庭』の場所で、『Carlos』の時間を描く、というか。
どちらも既に失われた、覚束ない記憶と共にあって、それゆえの作品としての弱さ、届かない距離のもどかしさ、はあるのかもしれない。
でも、もともと強くないものを強くは描けないんだ、とアサイヤスは言うだろう。 これをガレルの力強さでもって描くことはできないだろうし。

本作と同時代の同じ名前のGillesが登場する『冷たい水』は、もっとウェットに、あの時代の光と熱を伝えようとしているように思えた。
今作は、あんなこともこんなこともありました、という走り抜けてきたパスを(そこから推察しうる現在を)伝えようとしている、というか。
"Clean"や"Boarding Gate"にあった、思い切って向こう側にジャンプしてみる女性の姿は、今作でも確認できるのだが、男はそれができないまま、ぐずぐず右往左往してばかり、とか。

『冷たい水』で使われていた音楽は、Janisの"Me & Bobby McGee"とか、Alice Cooperの"School's Out"とか、Dylanの"Knockin' On Heaven's Door"とか、Leonard Cohenの"Avalanche"とか、CCRの"Up Around The Bend"とか、Roxyの"Virginia Plain"とか、Nicoの"Janitor of Lunacy"とか、要はこの時代のコアを照らしだすような、あの時、あの場所でくっきりと鳴っていた曲群だったのに対し、今回のはSyd Barrettの"Terrapin"に始まって、The Incredible String Bandの"Air"、Dr.Strangely Strange、Johnny Flynn、Captain Beefheart、Nick Drakeの"Know"、Soft Machine、んで最後にKevin Ayersの"Decadence"、などなど、どちらかというとプライベートなレコード棚から、あの頃からずっと流れ続けている、というかんじの曲が多い。

女優さんはいつものように素敵で、"Goodbye First Love"のLola CrétonさんとCarole Combesさんと。
ひとりは憧れていたのにロンドンに行って届かない人になり、もうひとりは一旦離れてまたもどってきてさてどうしよう、という。

あとは、Gillesの部屋にあった(はずの)本とかレコード、ぜんぶ見たい。
Gregory CorsoとかAlighiero Boettiとか、固有名もいろいろ出てきて、それらがどういうふうにあの時代のフランスの若者のあいだにあったのかとか、もっと知りたい。

たぶんやらないだろうが、これの続編も作ってほしい。彼の"Disorder" (1986)に呼応するような内容のやつを。
というのは『5月の後の青春...』にあったパンクとの出会い以降の箇所(p140あたりから)は、たんに「パンクとわたくし」的な思い出話に留まらない、見事なパンク論考でもあったので --


個人的なはなしではありますが、昨日の10月30日、丁度20年前のこの日に自分は初めてNew Yorkに降りたったのだった。
20年のうち、11年くらいは、そこに暮らしていて、残り9年くらいの半分は、New Yorkのことを思いながら暮らしていた。よくないよね。

いまあの場所は、びしゃびしゃ大変になっているようだが、The Stoneはだいじょうぶか、とか、Film Forumは、とか、McNally Jacksonの地下は、Housing Works Bookstoreは、とか、その辺ばかり気になる。 かけつけたいよう。

10.29.2012

[film] Bella Addormentata (2012)

土曜日の昼、TIFFの2本目。
『眠れる美女』。英語題は、"Dormant Beauty"。

2009年、イタリアで実際にあった17年間植物状態にあった女性の安楽死と延命措置を巡って巻きおこったあれこれと、その周辺の4つの家族(ひとつは家族ではないが)による3つのエピソードを追う。

映画はありがちな安楽死/延命の是非を問うものでも、その中心にあった何も語らない女性とその家族の葛藤を描いたものでもない。
イタリア近代/近年の史実をベースとしながらもその中心から少し離れたところで懸命になにか鍵爪を引っかけようとした - それはあなたとか自分とかだったかもしれない人たちのお話し。

一組は延命措置法案を緊急で提出しようとしている政党の国会議員とその娘Maria(Alba Rohrwacher)で、父親はかつて自身の寝たきりの妻との間で同様の問題に直面し、そのことで娘と疎遠になっている。娘は延命派の集会に出るため患者が搬送された地に向かい、そこで同様に延命反対のデモに来た兄弟と出会う。

娘は兄のロベルトと仲良くなるが、すぐに癇癪を起す弟がいて警察沙汰になったりしてうまくいかない。結局兄弟の母親が弟を連れにきて、彼と彼女は離れ離れになってしまう。 これが二組目。

三組目は高名な女優(Isabelle Huppert)で、植物状態にある娘の看病のために女優業を止め、そこに全てを捧げていて、聖女になりたいとまで言う。 彼女にとって今回の安楽死許可は断固容認できるものではない。 他方で俳優である夫も、俳優を志す息子 - 患者の兄も、今の状態が彼女にとってよくないことだと思っている。

四組目は病院に運びこまれたヤク中、自傷癖のある女性(『夜よ、こんにちは』のMaya Sansa)で、なかなか意識が戻らない彼女をある医師がじっと見つめている。

生と死の境目があり、カトリック - 反カトリック等それぞれの思想的な立場があり、実際に彼らの置かれている現実があり、彼らがなんとかしたいとあがく方角があり、それはその周囲の人々も巻きこむ複数の愛に貫かれていて、それ故にうまくいかない。 こうして折り重なるギャップを前に、更にその奥にある死という未知の、しかし絶対に逃れられない事象を前に、死を決定的な暗黒の深淵として、万能の解消薬として彼岸に置いてその流れに身を置こうとするのではなく、あくまで生の側に留まって苦しみ、戦う人々の姿を描く。

それは、それぞれの叫びを白日の下に曝す、個々の振るまいを極端に際立たせるようなアプローチを取るのではなく、どちらかというと暗い光の元、至近距離の静かな取っ組みあいとして示され、明確に鋭い叫び声をあげるのはIsabelle Huppertくらい、その強さは声というよりナイフのように瞬く。 その静けさは『眠れる美女』の目を覚まさないように、というより眠れる美女の尊厳と同等のなにかであるかのように。

『愛の勝利を』でも事件の周辺でわーわー言うだけのメディアが滑稽に描かれていたが、今回のそれは政界で、カバみたいに(カバの映像あり)お風呂に浸かってぬくぬくしているだけの無能野郎共でしかない、とそこにベルルスコーニ前首相の逮捕の報が入ってきたりする。

最後まで交錯することはない3名の女性の力強さとすばらしさ、そしてあのラスト。
窓を開け放つこと、靴を脱がせること、そして眼差し。 信じられないくらいすごいの。

見終わってからわんわんの悪寒に襲われ、咳が止まらなくなったので、当日券で入ろうと思っていたレイモン・ドゥパルドンのは諦めて帰りました。 ちぇ。

10.26.2012

[film] Led Zeppelin: Celebration Day (2012)

木曜の晩、なんとなくあいてしまったので20:50の回のを渋谷で見て帰る。

Led Zeppelinは、髪ふり乱すくらい好き、というわけではなくて、生まれたときには既に解散してたし(殴)、手元にあるアルバムも4/10くらいだし、ハードロックバンドといえば自分にとってはThe Whoだし、音のエッジだったらCrimsonのが好きだし、ギターリフだったらMarc Bolan、Angus Young、Joe Perryとかのがえらいと思うの。 なーんて。

キャプションも字幕も一切ないのはよいのだが、画面がちらちらせわしない(実際の映像と背後に映りこんでしまうバックスクリーンと変な効果を狙ったと思われる粗いディスプレイ画像のミックス)ので年寄りにはきついかも。

あとさー、シアターはでかいくせに音がちいせえよ。バスドラなんてぜんぜん前に出てこない。

フロントのふたりは長髪でよれよれのしわしわ。ひとりのお尻はきゅんとしていてもうひとりのお尻はぼてっとしている。 
ベースだけ唯一まともで、ドラムスは音はよいけど風貌が刑務所にいるようなこわいひとなの。

全体はやっぱりRobert Plantが引っ張っていて、音ではJohn Paul Jonesが締めていて、Jimmy Pageは締まりなくガバガバ(Ramonesじゃないよ)。 Robert Plantがどれだけ積まれてもこの後断固ツアーに出なかった理由はなんとなくわかる。

そういうわけでこのライブでピークだったのは中盤、30年代のRobert JohnsonとBlind Willie Johnsonに言及してから演奏された"Trampled Under Foot" ~ "Nobody's Fault But Mine"あたりだったように思う。 Plantにとって、今Zepが再び集まって演奏するまっとうな理由があるとしたらこの辺と、あとはAhmet Ertegunへの感謝と、それくらいしかなかったのだろうね、まじで。

で、その辺の地味めの曲をやったあとで、「これまで10枚アルバムを作ってきたわけだが、そうすると演奏しないわけにはいかない曲もあるわけだ。例えばこういうの…」と棒立ち状態で言って(よい性格だよね~)、"Dazed and Confused" 以降はずっと有名なやつばっかし。

しかしこの曲の冒頭で汗でびしょびしょの白シャツを纏って光のなかに浮かびあがるJimmy Pageの姿の異様なこと。 オバQの土左衛門みたいだった。 口元なんてもうはっきりとおじいちゃんのそれで、いつ涎が糸ひいて垂れるか気が気じゃないし。 ただ、こんなガバガバでも、その締まりなさが散っていくギターの音に奇跡的な艶を与えているとこもあったりした。"The Song Remains The Same"とか。

握り(ギターソロ)系はだめだがばらちらし系はまあまあ、でもシャリ(ドラムス)とお酢(ベース)とネタ(ヴォーカル)がしっかりしているので、そこそこおいしい、そんなかんじ。

125分、ちょっと長いけど、映画用のMixはAlan Moulderさんなので音はとってもよいです。

できればもういっかい、爆音のほうで、『狂熱のライブ』との二本立てをやって、みんなで「あぁー」と俯く、いうのをやってみたい。

終わったあとで、Zepの曲を改めて聴きなおしたくなったかというと、それはなくて、久々に青池保子を読みたくなったりしたのだった。

[film] La guerre est déclarée (2011)

24日の水曜日、終わっちゃいそうだったので慌てて駆けつけて見ました。
『わたしたちの宣戦布告』。 英語題も"Declaration of War"。

ロミオ(という名前の彼)とジュリエット(という名前の彼女)がクラブで出会って恋におちて結婚してアダムという男の子が生まれる。
アダムはかわいいけど、なんか動きがおかしいので医者に診てもらうことにしたら、診てもらうにつれて診察は大掛かりになり、スキャンしたら腫瘍があることがわかり、腫瘍を切除して成功したと思ったらそれが悪性で、生存確率10%の難病であることがわかり、ふたりは大騒ぎしながらアダムのために奔走するの。

親がかわいいかわいいわが子を救うため、守るためにしめしめべたべた泣いて耐えてがんばる、そういうお話しだったら見にはいかなかった。 いくもんか。

アダムの最初の診察でマルセイユに向かうとき、ふたりは「これはぼくたちの戦争だ」と宣言する。 いいか、ふたりで、戦って勝つのだ、と。
(車と電車、それぞれの窓に向かって歌うふたりのデュエットのすばらしいこと)

映画はその宣言を受けて、それに沿うかたちで、ふたりの数年間に渡る戦いを追っかける。
もちろんふたりは医者ではないので、手術したり薬で治したり、治療行為をできるわけではない。なにをするかというと、いちいち沈んだり祈ったり、アダムのそばにいてあげたり、検査の結果に一喜一憂したり、その程度のことしかできない。 家族とか友達はいちおう味方だけど、これはふたりの戦いで、ふたりで喧嘩しても、無一文になっても、やけくそでがむしゃらに走り続けるしかない。 そういう戦い。

とにかく、いろいろ理由はあるのだろうが、ふたりはずっと走っている。

その速さ、速くあろうとするふたりの意思が、映画に軽さと躁状態をもたらして、心地よい。
別に難病モノでなくても、ふたりのパンクスが疾走するだけの映画、としたって構わないくらいカメラはふたりの横について走っていく。

練りに練ったであろうと思われる音楽はずっと見事で、冒頭、ふたりが出会うシーンで流れるFrustrationていうバンド(知らなかった..)の"Blind"て曲のチープなトーンのパンクが全体のトーンを立ちあげて、その後はクラシックでもなんでも、時に沁みわたり、時に勇ましく追いたてる。 
特に、遊園地で流れる"O Superman"のなんという素敵なこと。

あとはファッションとか服の色(青とか赤とか)とか、いちいちセンスがよくて、それで彼らは仲間と呑んだり遊んだりしていて、その辺の譲らない、つんとしたかんじもよいの。

この出来事は主演しているふたりの間に実際に起こったことで、8歳になったアダム本人も出てくる。それをジュリエットのひとが監督して、脚本はふたりで一緒に書いている。
で? それがどうした? というくらい作品そのものがよいので気にならない。

最後のほうのナレーションでふたりは「より強くなるために関係を解消した」という。
え、と一瞬思うがそうなんだ、と思う。 ふたりは、ふたりして愛に殉じるロミオとジュリエットにはなりたくなかったのだ。 だって戦いは続くのだから、と。

それを知ったあとで、浜辺を歩いている親子3人を見るとなんかじーんとくるのね。

[film] Once More (1988)

再び時間が前後しますが、20日の土曜日、アンスティチュで見ました。
「映画とシャンソン」特集の、自分にとってはこれがラスト。

これ、字幕なしはちょっときつかったかも。

妻娘ある中年男ルイの1978年から1987年までの、それぞれの年の10月15日、そのなかの9分間をワンシーン、ワンカットで切り取り、それを10年分。 最後のエピソードだけ、カットが割られていて、それはつまり、ルイが動けなくなったことを意味するの。

その10年間で、ルイは妻娘と別れて家を飛び出し、浮浪者に拾われて男と恋をする喜びを知り、3人の男との間で想ったり想われたりを繰り返し、HIVに感染し、他方で妻とも娘とも再び仲良くなって、娘は結婚して、やがて全ては許される ~ "Once More" (Encore !) の境地に移行していく。

ルイに起こったこれだけのあれこれを、彼のエモーション、その欲望と葛藤のひだひだ、それが引き起こすドラマを作為的に切り取られたひとこま9分、10年分の連鎖連結のなかで簡潔に(簡略化することなく)描きだすにはどうしたらよいのか。 そこには明らかにシャンソンが必要で、ルイがこちらを向いて歌う、或いは彼のまわりの人たちが歌う、そのコーラスが、そこで何が起こっているのかを(説明するまでもなく)こちらに届けてくれる。 ていうか、これは歌があるからこそ可能となった様式のように思えて、そうするとそれって我々の、それぞれの(例えば)10年についてもまったくそうで、音楽で仕切られ、点滅しながら転がっていく無数のグリッドのなかで、その再生ボタンを何万回も押しながらみんな生きたり死んだりしていくのよね、ということをしみじみ思ってしまうのだった。 

んで、どこにでもいそうな中年男のある日の決意と別れ~転落から新たな愛、そして死といった出来事が、物語的にはファスビンダーぽく推移して、でもタッチはロメールのようで、それがミュージカルになっていて、すばらしかった。

外は秋なのだった。 秋の映画だねえ。

字幕つきでもう一回見たいよう。

10.23.2012

[film] 乾いた花 (1964)

順番が前後してしまいましたが19日、金曜日の晩、シネマヴェーラの篠田正浩特集で2本見ました。

この監督のことは殆ど知らなかったので、お勉強がてら。

最初のが、『乾いた花』(1964)

池辺良が村木(いかにも村木、ってかんじ)で、敵方を殺めて出所してきたばかりのやくざで、そのまま賭場にいったらそこにひとりで遊んでいる若い娘(加賀まりこ)がいて、彼女が気になって近寄ったらもっとでっかい金賭けてやりたい、とねだられたので連れていったりして、ふたりはなんとなく仲良くなる。 といっても二人できゃあきゃあ遊ぶというわけではなく、どっちも世に背を向けて車を飛ばしてつん、ていうかんじでつっぱりまくっている。

彼女のこと、彼女の正体が気になりだした頃に、命を狙われるようなことがあって、更にいろんなことが嫌になった村木は、別のやくざの殺し話に手を挙げて、実行して、再び刑務所に入るの。 
やくざ映画、なのかしら?

台詞は少なくて、村木の独り言が入るのだが基本不機嫌で、やってらんねえぜ、みたいなのばっかしで、加賀まりこも口を少しとんがらせて目ばかりが光っていて、正面向いたとこと横顔のショットがほとんどで、なに考えているんだかまったくわからない。

だがしかし、このふたりのビジュアルだけで最後まで押していってしまう強さはたいしたもんかも。
とくに加賀まりこの横顔て、すごいよねえ。

音楽は武満徹+高橋悠治。 原作は現東京都知事。
しかしなあー、虚無だの人の素性なんざ...だの散々主人公にかっこつけて言わせているくせに、虚無の対極にあるオリンピック万歳とか、素性の怪しいやつが町をうろうろしているのはいかん、とか平気で口にするようになるのだねえ。 ひとって腐っていくのねえ。

それから、『はなれ瞽女おりん』 (1977)

ニュープリントの現像がすばらしいと聞いたので見ました。 確かに問答無用の美しさ。
撮影は宮川一夫、美術は粟津潔、音楽は武満徹。

生まれた時から目が見えず、瞽女として育てられたおりんの一生。 掟を破って男と寝たためはなれ瞽女となった彼女は原田芳雄と出会って仲良くなるのだが、ふたりの行く手にはこれでもかこれでもかのかなしー運命が待っているのだった。

日本の四季のあれこれ、祭りの風景とかも含めてものすごくきれいに撮られていて、しみじみ美しい日本のわたくし、とか言いたくなる、のかもしれない。
のだが、その裏側には、おりんの運命をよってたかってもてあそんでずたぼろにしたにっぽん男共のスケベでやらしい性根、が藤壺のようにびっちり張りついているんだからね、わかっているよねそこのおっさん、くらいのことは言ってやりたい。

こんなに美しい景色をおりんはずっと見ることができなかったんだよ、それなのに彼女は、とおもうか。
彼女の心が見ていたものはこういう風景よりもずっとずっと美しいなにかだった、とかおもうか。

でもこれを、Sirk ~ Todd Haynesの『エデンより彼方に』のあたりのメロドラマとおなじように閉じた社会のグロテスクななにかがあぶりだされる映画、として見てしまう自分はいけないのかしら。

これを最後まで崇高さを失わなかったある日本女性への鎮魂、のように見ることはどうしてもできないのよね。 おりんの笑顔がほんとうに素敵だったぶん余計に。

[log] October 23 2012

シンガポールからは予定通り、火曜日の朝に帰ってきました。(5:45am着地)

ぐだぐだでしたわ。 湿気すごいし。 なにより眠いし。
でも東京に降りたとたん、すさまじい低気圧が襲ってきて、寝挫いたのに併せて頭痛も降ってきたのでなにこれ、だった。

シンガポールは、数年前に行ったときよかより変な建物がいっぱい建っていた。
熱帯気候も計画都市も好き勝手につくられた建物もしみじみ好きになれない、とおもった。
まだ見たことのないマーライオンもそういう一派なのではないかと推察する。

初めて乗った787は、あんなもんかしら。
最近の地下鉄の新しい車両みたいに全体として軽薄なかんじで、実際軽くて薄いのだろうな、くらい。
トイレなんてぺこぺこでワンルームのユニットバスみたいな印象で、ここに座っている間に落っこちたらやだな、と一瞬おもったが、古いやつだって、落っこちるのはいやよね。
機内のノイズも音量としては小さくなっている気がして、音域だとこれまでのと比べてやや周波高め、よりメタリックなかんじになっているような。
しゃー、とか、さー、とか、みーん、とか、きーん、とか、そういう系の音ね。
これまでの飛行機の体に悪そうな、鈍重めの音のが好きなひともいるだろうにー。

あとは、中距離だからなのだろうけど、カーディガン貸してくれなかった。 寒いと寝れない。

深夜発の便だったのでお食事は到着前の明け方に出るのだが、寝る前に食べたいというひと向けのもあって、寒いのに加えてお腹へると更に寝れなくなるので(冬眠前)、頼んだ。 お寿司と茶碗蒸しで、お寿司は握りがふたつ、かんぴょう巻きがみっつ。

ビデオのコントローラも小さいのに変わっていて、寝返りうっただけで敏感に反応してくれるのであれだったのだが、そういう状態で映画1本だけ見ました。 "Rock of Ages" - あっというまにシアターから消えちゃったねえこれ。

行きで1時間くらいみているうちに眠くなったのでそのまま落ちて、帰りの便で残りの1時間くらいみる。

なんかなー。
知っている曲ばかりだし、好きな俳優さんばかり出ているのに、なんでこんなにしっくりこないのか、すっきりしないのか。
ミュージカル版は見ていないのだが、それが致命的なことであるとも思えない。

バカが夢中になる音楽であるところのロックが世の中をひっくり返す、その勢いと痛快さがない。
例えば、80年代の"The Blues Brothers"、90年代の"Wayne's World"、00年代の"The School of Rock"にあったものが、はっきりとない。

聖地バーボンハウスを排斥しようとする連中、そこからのし上がろうとする若者たち、そこから全てをむしり取ろうとする業界、神のように君臨するカリスマスター、極めて漫画っぽい構図であるが、これはこれでいい。
問題は、ロック一筋で猛進するとんでもないバカとか勘違いやろうが、これらになんら決定的な打撃を与えることなく、たんに「みんなのうた」- "Rock of Ages"がまさにほんとに「みんなのうた」として機能して、みんなのとこに等しく降ってきて、結局のとこスタジアムロック万歳!みたいなとこに落ちてしまうところなの。

あんなのロックじゃない、とかそういうことを言うつもりはなくて、物語の決着のつけかたとして、あまりにわかりやすくて予定調和で代理店が作ったファストフードのコマーシャルみたいに見えるところがなんかいやだ。

あとさあ、カット割りとかしゃかしゃかやりすぎだよね。 ああいう田舎ロックにそんなことしてどうする、なの。

あと、Stacee Jaxxみたいなひとは、Bon Joviとか歌わないとおもうんだけど。
あと、"Oh Sherrie"はぜったい出ると思ったのに。

というわけで、いちばんきゅんとしたのは、昔のタワレコの店内だったりした。 
カセットとかあんなふうに並んでたのよね。 あそこにスリップしたいよう。

10.21.2012

[log] October 21 2012

と、いうわけで。 とりあえずぶじTIFFにも引っ掛かることなく、今は深夜に近いところの羽田空港で、これからシンガポールにびーんて飛んで、向こうには朝着いて、ざーっと動いて仕事(だとおもう、たぶん)をして、そのまま晩の列車、じゃない飛行機に乗って火曜日の朝6時くらいに戻ってきてそのまま会社にむかう(むかえ)、と。

けらけら。 ねむいよう。

ほとんど飛行機乗るだけじゃないのか、なのであるが、そうだよだって787乗りたかったんだも。

それにレコード屋と本屋がないとこ(正確にはそれらの場所の確認に相応の時間を要すると思われるとこ)には長居したってしょうがないしね。映画見る時間なんてあるもんか、だしね。

そういえばむかしむかし、NYで仕事していた頃、これとおなじような現地泊ゼロミッションをブエノスアイレスとの間で仕掛けて、見事に失敗して飛行機を逃し、ブエノスの繁華街のいかがわしい宿(一泊$25くらいだった)に泊まったことがあったなあ。

あのとき、背筋をひんやり流れたやられた失敗した感と、ラプラタ川に沈んでいく夕陽の赤かったことはぜったい忘れないんだ。

今回そんなふうになる可能性がまったくないとこも含めてちょっとつまんないのであるが、とにかく飛行機にはー。

しかしここのラウンジ、チーズがしょうもないのは仕方ないけど、メゾンカイザーとか、越州うどんとか、アイリッシュシチューとか、おかきとかキットカットとかあるのに、クラッカーがないってどういうことなの?

[film] Yellow (2012)

21日の日曜日、今年のTIFFの最初の1本。

相変わらずCMがひどい。あんなのInternationalな恥さらし以外のなにもんでもないわ。
どっかの宗教団体のCMかと思ったら「東京都」だし。 どいつもこいつも、映画を見て幸せになれるなら、こんな楽なことねえんだよ、くそったれ、とか。

この映画の最初のほうで、主人公が、周りでみんななんかわーわー言ってるけど、ぜんぜんConnectできない。どうでもいい、好きにやってろ、って毒づくのだが、それをそのままCM作った連中にぶちまけてやりたくなる。

冒頭から、そんな具合にセラピーを受けているらしいMaryは、小学校の臨時教員をやっているのだが薬物依存で明らかに挙動がへんで、まわりのグチがオペラになったり(ソプラノで"Fuck you - - -♪")、父兄参観でだれかの父親とやったとこを糾弾されるのが演劇になったり、教えている教室に水が溢れだしたり、膨らみすぎた借金で破産したことがわかるとそのままミュージカルレビューになだれこんだり、これらはどうみてもMaryの頭のなかで起こっていることだよね、ということがわかってくる。

彼女には子供が4人いて、妹(Sienna Miller - すばらし)がいて、で、現実にも彼女は学校をクビになり、破産して妹とも大喧嘩して、すべての居場所を失い、それでも依存症から抜けられないので故郷のオクラホマに戻って養生しよう、と車に乗っていくのだが、その途中の刑務所とか、実家とかでやはりいろいろわかってくるものがある。

実家にはママのMelanie Griffithがいて、祖母のGena Rowlandsがいて、病院から出てきたばかりらしい姉もいて、姉はMaryと顔を合わせるなり自分の腹にナイフを突きたてて裂いてしまうし、祖母はMaryにはっきりと敵意を抱いているし、まだまだいろんなことがある。

そんなふうでも(そんなふうだからか)彼女は薬を手放すことができなくて、だから幻覚は続いていって、近所の人たちとのパーティでは全員が家畜に変化してテーブル上には鶏がいたり、どこからどこまでが彼女の頭の中で、どこからが外なのか、わからなくなる。

それでも、彼女は断固引かなくて、負けなくて、姉と血みどろの修羅場をやって、母とも祖母とも大喧嘩をして、再び実家を出ていくの。

なにが起ころうとも、どんな痛い目にあおうとも、実際にどんなに悲惨だったとしても、自分を絶対に正しいと信じて曲げない、だからどうしたっていうのよ、と。 赤信号じゃない、確かに青とは言えないかもしれないけど、黄色だから、だからGoだろ。

これはMaryだけじゃなくて、この家族の女たち全員がそうで、そうしてみんな一見幸せそうに見えるから、誰も手をださない。
男共は... 父親は既に死んでいるようだし、兄は刑務所にいて一生出てこれないようだ。

ここまで来ると、誰もが思いあたる女性像があるはず。
"A Woman Under the Influence" (1974)の、"Opening Night" (1977)の、"Love Streams"(1984)の、Gena Rowlandsである。  この映画のMaryは、薬物やインセストといった外傷に引きずられてはいるものの、その揺るぎなさと断固愛に立ち向かうその強さにおいて、まるで彼女の生き写しのようだ。(そして、この映画のGena Rowlandsも久々に強く漲った演技を見せてくれる)

そいで、かつてJohn Cassavetesがそういうのを妻に演じさせたのと同じように、息子のNickは妻であるHeather Wahlquistと一緒に脚本を書いて、主演までさせてしまう。 なんという(女系)一族なのよ、としか言うほかない。

ラストでの彼女は、"Love Streams"でのGena Rowlandsと同じように新たな幸せを見つけたかに見えるのだが、しかしぜんぜんわかんないし信用できないの。 なにしろ半分アニメなんだもの。

あと、これは素晴らしいミュージカルとしても見ることができて、幻覚シーン以外にもRadioheadの"Codex"が流れるし、Gillian Welch and David Rawlingsがあるし、M.Wardもあるし、そしてすばらしいところでTracey Ullmanの"They Don't Know"が高らかに鳴り響くの。 嬉しくて鳥肌が立ちましたわ。

んで、なんとなく、クリストフ・オノレの家族映画とカサベテスの家族映画の違いをぼんやり考えている。  フランスとアメリカの-。

Q&Aのあとでちょこっと檀上にあがった(カサベテスの)孫娘っこ、早く大きくなるのよ。

[film] Les Chansons d'Amour (2007)

14日、日曜日の午後にアンスティチュで見ました。『ラブ・ソング』。
13日の『不景気は終わった』の後の上映もあって、こっちはトークと更に晩には音楽を手がけたAlex Beaupainのライブもあったのだが、そこまで深入りするのもなぜかためらわれ。

これも2007年のカイエ週間で、"La France"と同じ頃に見ていて、2回目。

出版社に勤めるイスマエル (Louis Garrel)は恋人のジュリーと暮らしていて、そこにある日彼の職場の同僚のアリスがやってきて、なんとなく一緒に暮らしはじめる。 3人でやったり女同士でやったりしている(関係者談)ようで、表面上はそんなに深刻な関係ではなく楽しくやっていたようだったのだが、ある日みんなでライブに出かけた先でジュリーが倒れて突然亡くなってしまう。

彼女の死をきっかけにいろんなことががたがたし始め、アリスはライブで出会った別の男と一緒になり、その男の弟がイスマエルのとこに子犬のようについてくる。生前から仲のよかったジュリーの家族、特にジュリーの姉のジニー(Chiara Mastroianni)は心神喪失状態のイスマエルを心配して気をかける。 イスマエルどこへ行くの…  というおはなし。

「別れ」-「不在」-「帰還」(だった、たしか)の3部構成になっていて、誰かに向けての、誰かとの間での歌(ラブ・ソング)が大きな役割をもつ。「誰か」というのはイスマエルの周りに家族のように(イスマエルの家族は出てこない)近しくいる人たちとイスマエルのことで、近くにいる彼らは皆、イスマエルに立ち直って元気になってほしい、と祈っていて、イスマエルはそれを十分わかっているのだがしかし、自分でも予期していなかったほうにそれは転がっていく。 
あらあらあら、って笑うしかないくらいに。

これの前年に作られた『パリの中で』- "Dans Paris" - を見たあとでこれを見ると、繋がっている、というかふたつの作品は鏡のような関係にあることがわかる。
『パリの中で』で意気阻喪していた兄の心配をしていたおちゃらけ弟のLouis Garrel(ジョナタンという名前だった)は、今作であらゆる災厄と喪失状態を自身がひっかぶって、自分の家族ではない人たちからも心配される側にまわって、でもやはりどうすることもできない。

「悲しみは目の色と同じで他のひとにはどうすることもできない」、という『パリの中で』にあったテーマはそのまま引き継がれ、その境界上で、あちら側とこちら側の間でロープが投げられ、歌がうたわれる。 その限りにおいて物語としての不自然さとか強引さはなくて、「不在」のあとの「帰還」は、息を吸いこんで声にしてそれが歌になる、そのあらゆる可能性を広げてみせる。

でもそれはよくありがちな「悲しみ」の後の「再生」というのとは違うの。
イスマエルの悲しみが前面に出てくることはないし、映画は夜のシーンが多いものの決して暗さに留まることなく、イスマエル、歌え! やりまくれ! ていう。

ほんとにすてきなんだよねー。

10.20.2012

[film] La Crise Est Finie (1934)

12日、土曜日のお昼に見ました。『不景気は終わった』
ナチスの迫害を逃れてドイツからアメリカに亡命したRobert Siodmakが渡上のパリで撮った作品。 無字幕フランス語でもへっちゃらさ。楽しいったら。

舞台歌手のニコール(Danielle Darrieux - まだ17歳。ぴちぴち)はいっつも傲慢女優のスタンバイでくすぶってて、やっと出番がきたと思ったらそいつが戻ってきたのでがっかりして、腹いせで嫌がらせ悪戯してやったらめちゃくちゃ怒られてクビになるの。 でも日頃のそいつの傲慢さにあったまきてた他の劇団員もつられて辞めちゃって、みんなで「パリだ、パリに行こう♪」て歌いながら意気揚々と上京するの。

でもみんな無一文なので、不景気で閉鎖されてた劇場に寝泊まりしながら、電球とか看板文字盗んだりいろんな悪いことして上演実現に向けてがんばるの。ニコールはピアノ借りるためにピアノ屋のおやじ(ちょび髭でぶ)のセクハラ呑みに付きあったりやなこともいっぱいあるけどがんばるの。

なんとか上演初日を迎えることができて、それに向けてニコールはママを田舎から呼びよせるのだが、ママはその劇場の場所がわかんなくてそこらのパリの人に訊ねてまわる。 するってーと「エリゼ=クリシー劇場てどこ?」「エリゼ=クリシー?」「どこそれ?エリゼ=クリシー?」ってRTが大拡散して大量の人々がわらわら劇場に押し寄せてしまい(とんでもない人波の空撮)、大盛況になってめでたしめでたし、と。

歌もいっぱい出てくるし、Danielle Darrieuxも眩しいくらいきらきらで素敵なのだが、あまりに強引かつ適当な筋展開にびっくりしているうちに終っちゃうのだった。
でもいいんだ、こうして「不景気は終わった」のだから。

Robert Siodmak監督はこの後アメリカでフィルム・ノワールの名作を沢山撮った、ということになっているのだが、このうち自分が見たことあるのは"Cobra Woman" (1944)ていうやつだけだった。 これも相当変な映画であったのう….

映画の後にジャン=マルク・ラランヌ先生によるフランス映画とシャンソンを概観総括する講演があって、とってもお勉強になりました。 ものすごーくどまんなかだった気もするが。
ドゥミだし、ゴダールはやっぱしだし、カラックスはあれとあれしかないし。

ドゥミと言えば、この講演でもかかった"Lola"の修復決定版がMOMAで10周年を迎えた"To Save and Project"(修復された映画を片っ端から上映しまくる祭)で、10/12に上映されて、アヌーク・エーメさんが挨拶したんだって。見たかったなあ。 "Lola"ってほんとにほんとに大好きなの。

10.19.2012

[film] La France (2006)

11日、金曜日の晩、『運命のつくりかた』に続けて見ました。
これは2007年に日仏(当時)のカイエ週間で見ていて、すごく好きになったので再び見る。 何度見てもよいの。

第一次大戦中、新婚のカミーユは戦地の夫から手紙を受けとるが、そこにはもう戻れないと思うから手紙書かないで、とあった。
錯乱して(でも無言で)いてもたってもいられなくなった彼女は、髪を切り、ぺたんこの胸にサラシを巻いて、男の子の恰好をして外に飛び出していく。
で、野原でたまたま会った第80小隊の行軍にくっついて歩いていくのだが、当然怪しまれて疎まれて追いだされそうになって、でも我慢我慢でついていくうちに馴染んでいく。 けどものすごい数の敵が来て大戦闘になるわけでも、味方が沢山きて盛りあがるわけでもなく、ひたすら地味で辛い行軍が続くばかり。 カミーユが夫に再会できる見込みも兆しもあるわけもなく、かと言って戻るわけにもいかず、全員そんなかんじで、なんのために、なんのために、なんのために、を噛みしめ、感情を押し殺しながらうらぶれて野山を歩いていくしかないの。

で、ふとなにかのきっかけで誰かが顔をあげ、無言で互いに目くばせして合図をしあい、この状況だと全員が銃を構えて敵に向かうことになるはずなのだが、彼らが手に取るのは何故か楽器で、みんなで演奏をはじめて歌をうたう。
楽器は缶からに糸を張ったようなやつとか、鉄琴とか手拍子とか、ぼろぼろのアコースティックで、歌うのは威勢のいい軍歌ではなく、愛しい娘さん~みたいなぼのぼのとした恋歌(当時の、ではなく今の)だったりするのだが、全員その場に立って、或いは座って、食事を摂るように音楽を奏でる。

なんで彼らが楽器を持って歌をうたうようになったのか、なんのためにそんなことをするのかは、まったくわからない。
戦場でそんな音をたてたらすぐに敵に見つかって危険なはずなのだが、音楽が流れている間は彼らは安全なように見える。(そんな根拠はどこにもないわけだが)

映画のなかで演奏するのは計4回、今回の再見で、どういう状態になると彼らが楽器を手に取るのか注意して見ていたのだが、とくにはっきりしたきっかけとかはないようだった。 音楽は特別のなにかとしてこの小隊の任務メニューに組み入れられているようではない、と。
なので、歌と演奏が終わったあとで、家族や恋人のことを思い出し、元気になって勇ましく任務に戻る、ということもない。

国と国が、人と人を殺しあう戦争という局面において、こんなような音楽は、歌をうたうという行為は、なんでありうるのか。
たぶん、なんにもならないし、なってこなかったし、これからもならないだろう、けど、でも、カミーユの場合のようにひょっとしたら、とか、そしてなによりも、映画を見ている我々は、少なくともほっとするのだった。
長雨の合間、一瞬だけ日が射したのを見たように。

今から約百年前の戦争で、うらぶれた小さな歩兵隊がオランダのほうを目指して歩いていった。
途中で思い詰めた目をした男装の女の子を拾って、彼らは何曲か歌をうたった。
それだけの、全体としてはとても暗いトーン(暗いけど色彩処理が素敵)の、しかし最後の最後、闇空に星が降ってくるような映画に『フランス』というタイトルをつけてしまうこと。


10.16.2012

[film] Un homme, un vrai (2003)

木曜の晩から咳が止まらなくなったので、金曜日は会社を休んで昼過ぎまで寝てて、16:00からアンスティチュに出て「映画とシャンソン」特集から2本みました。 『運命のつくりかた』。
運命のつくりかたを教えてくれるありがたい映画だったが、じぶんの運命はこうして腐れていくのだった。 歌っている場合か。

英語題は、"A Man, a Real One"。 あんまよくわかんないけど。 「男、ほんもんの男」って。

ボリス( Mathieu Amalric)がある会社の宣伝用フィルムを作って、そのプレゼンの席でマリリン(Hélène Fillières)と出会って、ふたりは運命的ななにかを感じて、その晩、マリリンのアパートでのホームパーティでそれは確信的な愛に変わり、そのままふたりはガスパチョを求めてバスク地方に旅にでる。 

5年後、ふたりには子供がふたり出来てて、ボリスは映画の脚本を書いたりしつつもぷーで、マリリンは仕事ばりばりなのでふたりの間には溝があり、家族でイビサに旅行に出ても、それって実はマリリンの会社の社員旅行だったもんだから大喧嘩したあと、マリリンはレズ友でクライアントの女社長とキューバに高跳びしてしまう。 ふたりの幼子を置いて。

そこから更に5年経って、マリリンはアメリカ人向けのツアコンの仕事をしてて、ピレネーの山奥にオオライチョウの求愛行動を見にツアー客を引き連れてきて、そこで何故か山岳ガイドをやっているボリスと再会する。 のだがボリスは彼女が誰だかわかっていないみたいで。

10年の歳月、国境を、海も山もばりばり超えて盛りあがる恋愛大河ドラマふう、でありながらものすごくささやかな、ミクロな愛のありようを掬いあげていて、とっても素敵でおもしろい。 ふたりが歌うシーンもあるのだが、それによってドラマチックになにかが起こる、変わるというよりもちいさなキス、ちいさなハグ、ちいさなダンスのステップ、それとおなじような耳元の囁きのような歌が、しかしそれは決定的な、種のようななにかを残すの。

原題からイメージされるようなマッチョなところはない。 終始アグレッシヴに動き回って人生を掻き回しているのはマリリンのほうで、ボリスはどちらかというとどんよりしている。 

出会いのとこではボリスがマリリンの巣にやってきて、仲直りのとこではマリリンがボリスの巣(+雛)にやってくる。 この辺の切り返しも素敵なのね。

そして、よくわかんないけど、動物が重要な役割を果たす。 最初のパートがシカ、イビサがトカゲとおかま、ピレネーがオオライチョウ。よくわかんないけど、なんとなく。  
野生のなにかがもたらす呪文としての愛とか運命とか発情とか。

オオライチョウのシーンは、なぜかそこだけ「ダーウィンが来た!」、になってしまったりするのだが、他にも山岳アドベンチャーとか、お料理ドキュメントとか、映像的にいろんな要素がいっぱい入っていて、でもとっちらかった印象はない。 最後に瞬く星空のように、見上げてわーっと落ち着いてほっとする、そんなかんじ。

あとは、ガスパチョがとっても食べたくなる。

10.15.2012

[film] Elis Regina: MPB Especial (1973)

10月6日から始まっていた(12日で終ってしまった)ブラジル映画祭、どうしても見ねばならぬものがふたつあったので、11日の木曜日、会社終って速攻で駆けこんで続けてみた。

最初に見たのがこれ。
O Homem que Engarrafava Nuvens (2008)
『バイアォンに愛を込めて』 "The Man Who Bottles Clouds"

ブラジル北東部、ノルデスチの音楽様式であるバイアォン(baião)、それを40年代からブラジル全土に広めていった歌手Luiz Gonzaga(ルイス・ゴンザーガ)と作詞家Humberto Teixeira(ウンベルト・テイシェイラ)、①その評伝をTeixeiraのひとり娘が綴る、②なぜバイアォンはこの時代、ブラジルのこころの歌として広がっていったのかを検証する、③バイアォンの魅力と輝きをMPBの大御所たちが語り、そして歌う、の3つの軸からなるドキュメタリーでした。

ドキュメンタリー映画としては、なにもかもぶち込み過ぎであっぷあっぷでしたが、お勉強にはなった。 あとは音楽ゲストがすごいので、とりあえずぜんぜん飽きずにわーわーしているうちに終っちゃう。

Gilberto Gil大臣によると今のブラジル音楽の原要素はバイアォンとサンバのふたつに大別できてしまうのだと。確かに、間口がでっかくてどんなアレンジでも、道端の歌と手拍子だけ、歌とギターだけのものから大編成だろうがごりごりファンクだろうが、なんでも吸収してなんにでも応用できてしまう。 こころの歌なんだからそりゃ文句ねえだろ、と。

こうして、バイアォンはボサノバ以降のトロピカリズモ(民族復興運動)の担い手達にも大きな影響を与えていったのだと。なるほどー。

でもさー、こういう地音楽の伝承についてちゃんと検証するんだったらポル語の音韻とか民族音楽誌まできちんと踏まえていかないと難しいよね。大衆音楽だから、って言っちゃうとそれこそ、レゲエのルーツはバイアォン(ていう証言も出てくるの)、みたいななんでもありの説まで出てきちゃうし。

ともかく、というわけで、スタジオで歌ったりライブ会場で歌ったりしてくれるゲストは以下のような。

Gilberto Gil, Caetano Veloso, Maria Bethânia, Chico Buarque, Gal Costa, Os Mutantes などなどなど。みんなHumberto Teixeiraの曲をカバーするだけなのだが、どれもがとんでもなく素敵。
Sivucaがものすごく滑らかに艶やかに弾きだしたアコーディオンの横からGal Costaの声が被ってくるとことか、いつものCaetanoとか(彼が"アイ~アイ~アイ~"とかやっているだけでじーんとくるのはなんで)。 あと、彼が"Terra"を歌って、ここだけ自分の歌を歌うの? と思ったらこの歌はHumberto Teixeiraのことを歌ったのだと。

そしてブラジル圏外から唯一、New Yorkの生き証人としてあれこれコメントしてくれるDavid Byrne先生も、2006年のJoe's PubのForró in the Darkのライブゲストとして演奏してくれるの。
彼がさっそうと自転車でBrooklyn Bridgeを、Down townを走っていく姿も映っている。
なんでわざわざ自転車姿なのかよくわかんないけど。(本の宣伝?)


Elis Regina: MPB Especial (1973)
『エリス・レジーナ ~ブラジル史上最高の歌手~』

2本目のやつ。
Elis Reginaが73年、TV番組でやったスタジオライブ、2回に渡って放映された内容をひとつに束ねたもの。 DVDは彼女の息子、Joao Marcello Boscoliのレーベルからリリースされている。  ほしい。

わたしが彼女のCDを貪るように聴いていたのは90年代末頃だったのでほんとに久々に聴いて、やはりぶちのめされる。

画面はモノクロ、カメラは固定の2~3台のみ。
バックはベースがLuisão、ドラムスがPaulinho、ピアノがCésar Camargo Marianoというすばらしいトリオ。
このそっけないくらいシンプルな画面仕様が、彼女の声の肌理とみごとに調和している。

Elisは、煙草をひっきりなしに吸い、ネックレスを落ち着きなくいじり、しかしカメラをしっかり見てこれから歌う曲、曲を作ってくれたコンポーザー(自作の曲はない)のことをとりとめもなく語って、そのまますっと曲に入っていく。 Elisが歌う。 Elisが笑う。

歌うのはGilbert GilからMilton NascimentoからTom Jobimまで、いろんな人たちによるいろんな歌。 全17曲。

例えば声の艶とか大きさだったらGal Costaのがすごいだろうし、個性的な歌唱、だったらMaria Bethâniaのが上だと思う。 でも、それでもなんでElis Reginaの歌がすばらしいのか、ひとを虜にしてしまうのか、その不思議がぜんぶ詰まっている。

声の気持ちよい冷たさ、悲しさ、寂しさ、他方でひとの作った歌を完全に自分のものにしてしまう強さ(自分は母親に似ている、ではなく、母親は自分に似ている、という言い方を彼女はした)、情熱的で圧倒的な歌声で聴き手を吹き飛ばすのではなく、曲と人を手元に手繰り寄せる魔法。 
ショートカットの少年の刺すような眼差しと猫のようにまんなかに集まる笑顔と。

これを見たら誰だって彼女に曲を作ってあげたくなるにちがいないの。

Jobimの「三月の雨」は彼女ひとりで歌うのだが、ひとりでもぜんぜんすごい。 
この曲もまた、なんてすばらしいのかしら、といつも思う。

10.14.2012

[music] Dirty Projectors - Oct.9

9日の月曜日、そういえばあったんだった、と当日券狙いで7時半過ぎにO-Eastに行ったら"Sold Out"と張り紙があって、ああそうですか、と帰ろうとしたら「もしもし…」と声をかけてくれた真面目そうな若者がいて、中に入ることができた。 ぱんぱんで、(いつものように)扉を開けたとたんに帰りたくなるが、耐えて奥にいく。 前座のひとの最後のほうでした。

新譜の"Swing Lo Magellan"は、個人的には微妙だった。いっこいっこの音の粒は気持ちよいのだが、全体としてスムーズに入って来すぎる気がして、受けはよくなるだろうけどどうか。

前作の"Bitte Orca"は3D展開されたPavementみたいだったのに、新譜は音のきれいなPavementみたい(つまりそれって)に聴こえて、あとでドラムスが替わったと知ってああそうかー、と。

ライブでの新しいドラムスも音が切れてて悪くはないのだが、前のドラムスのひとの百姓が地面をどすどす耕しまくるような練りの強さ、上空をひらひら舞うコーラスと薄板ギターを爆竹でばしゃばしゃたたき落とすスリルがなくて、すべてがリニアに気持ちよい調べとして流れていって、後半の長尺の曲もプログレみたいなかんじで、でもこのバンドにはぜったいプログレになってほしくないのだった。 でもどうかなー。Gongみたいになっていくのかしら。

本編1時間、アンコール1回3曲は丁度よいかんじ。 この構成でだらだらやってほしくはなかったから。

ずっと変遷を繰り返してきたバンドなので、ここに留まることはないとは思うものの、もっと暴れて錆びれてほしかったかも。

同じBrooklynバンドでいうと、Grizzly Bearの新譜後のライブの地を這うかんじと比べて、こっちはほんとに洗練されてて、最近のメディアで紹介されるBrooklynみたいに綺麗なかんじがして、なんとまあ、なのだった。

[film] The Bourne Legacy (2012)

8日の月曜日、"Out of the Past"の後で六本木に移動してみました。
これか、"The Hunger Games"(再見)にするか悩んで、なんとなくこっちにした。

まあ、こんなもんかしら。
これもある意味"Out of the Past"のお話しではあるのだが、なんと一本道でわかりやすいことか。合衆国が相手だから建付けは豪勢だけど、他に抜けようのない物語の貧しさがなんともきつい。
期待してるのは派手などんぱちなので、別によいのだけど。

でも、これで135分は長いよね。最初のほうの雪のなかの修行とかいらないのでは。

そういえば、Matt Damonの3部作は見ていなかった。
だって最初のがリリースされた当時、Matt Damonにアクションできるなんて思わなかったし。
けど、あんまし気にはならなかった。 Jeremy Rennerの狂犬顔が気持ちよくはまってて、なにがあったか知らんがやっちゃえ、てかんじにはなる。

最後の、未知数のパワーを持つ(関係者談)LARX #3(彼、"Predators"のHanzoだよね)との対決のとこはもうちょっとがんばってほしかった。 Rachel Weiszさんのヘルメットぼこ、で消えちゃうなんてさ。

合衆国側のEdward Nortonさんが最後に出張ってきて、わかるよ…おれも昔はやられたからさ、と言ってHulkに化けてくれたらおもしろくなったのにね。

あの薬、ほしいなー。身体のほうのはいらないけど、頭よくしてくれるやつのほう。

最後の主題歌はMobyさんなのだが、字幕の訳がなんとも恥ずかしくてわらった。(by T田おばさん)

10.13.2012

[film] Out of the Past (1947)

連休最後の8日、シネマヴェーラのノアール特集で2本見ました。

最初に見たのが "The Great Flamarion" (1945)
メキシコの興行小屋での公演中、女性の叫び声と銃声が鳴り響いて、女性が殺されているのが見つかる。警察の検分が終ったあと、どさっと落ちる音がするので行ってみると男が倒れていて、それは拳銃早撃ち芸人のフラマリオンで、彼は虫の息でここに至るまでのかなしー顛末を語り始めるの。

フラマリオンの芸は、バーで浮気している妻のとこに乗りこんでいって、拳銃早撃ちで彼女とその相手を撃ちまくって(でも絶対に当てずに)びびらせて拍手喝采、てやつで、妻役のコニーとその相手の男は実際には夫婦で、男のほうは酔っ払ってばかりいるのでフラマリオンには気にいらない。
ある日コニーがフラマリオンのとこにアプローチしてきて、最初は断固拒否していた真面目なフラマリオンが揺れ始めて一緒になることにして、決意したら一途だもんだから酔っ払っている男を公演中の事故に見せかけて撃ち殺して、彼女とはシカゴで落ちあうことにしたのに裏切られるの。

コニーはファム・ファタルなんかじゃないただの淫乱なビッチなので、こんなのにぼろぼろに破滅させられるフラマリオンさんが可哀相でしょうがない。 おまえ、偉大なるシュトロハイム先生になんてことを…って映画好きのひとならみんな思うよね。

続いてみたのが"Out of the Past"で、これは大好きでもう何回も見ている。
でも、ほんとにこれって劇場未公開なの? …ありえない。

わたしがこういう昔の映画に驚嘆して、出来る限りなんでも見て勉強せねば、になっていったきっかけが2003年、MOMAの映画部門の特集で、そのときに見たのがこれと、他には"Angel Face" (1952), "There's Always Tomorrow" (1956), "The Reckless Moment" (1949), "Touch of Evil" (1958), "All That Heaven Allows" (1955) とかだったの。 ほんとにびっくりしたんだよねー。

NYの私立探偵Jeffがギャングのボスを撃って金を持ち逃げしたKathieを探すように依頼され、アカプルコまで飛んで彼女を見つけるのだが、彼女の虜になってしまい、一緒に逃走するものの逃げ切れずバウムクーヘンみたいに犯罪ぐるぐるまきになって、いいかげん彼女に愛想つかして放り出し、田舎の街道沿いでガソリンスタンドをやって隠遁するのだが、そこにも組織は追っかけてくるの。

ストーリーは田舎で出会った、彼にとっては聖女のようなAnnに語りかけるかたちで進み、それ故に逃れられない過去の辛さと未来への一筋の光が、そのコントラストが際立ってたまんないの。
あとは都会の闇と田舎の自然の光の対照もすばらしい。
そいで、Jane Greerの悪女(こいつはまちがいなくファム・ファタル)も他に出てくる二人の女もみんな震えるくらいきれいなので、これじゃどっちにしても逃れようがないや、になるの。

Robert Mitchumも最後まで無表情で、自分の背負った過去を黙って、そのでっかい手で引き受ける。
かっこいいったらない。

そしてあのラストがまたねえ。 泣かせるんだようー。

過去から現在に至る複数の線を、過去から逃れる複数の可能性とそれと同じ数の絶望を静かに冷徹に描き出して、ものすごく豊かなので何回見ても新鮮で。 名画っていうのはこういうのをー。


10.12.2012

[film] Dans Paris (2006)

アンスティチュ・フランセで5日から始まった特集『映画とシャンソン』 - これもぜんぶ見たい - からまず1本。『パリの中で』。 英語字幕だった。

Christophe Honoréの『ラブ・ソング』のひとつ前の作品、といったら見るしかないでしょ。

冒頭、アパートの部屋で川の字で寝ている3人のうち、Louis Garrelのジョナタンが起きあがってベランダに出て、カメラの方を向いて話し始める。やあみなさん、ぼくはこのドラマのナレーターだよ、とかなんとか。 この時点ですでにきゅんとして、たまんない。

ノアールの過酷な世界もいいけど、やっぱこっちだ、とか揺れるったら。

クリスマスの直前に、ジョナタンの兄のポールが恋に疲れて父とジョナタンの暮らすアパートに帰ってきて、ジョナタンはそんな兄ちゃんを励まそうとボン・マルシェ(だい好き!)に買出しにいこう!ぼくは20分で着くからさ!とか軽く言ってびゅーんと飛び出していくのだが、彼は彼でナンパしたりされたり盛りのついた犬だもんだから、落語みたいにぜんぜん届かないの。

そうしているうち、アパートにはジョナタンを求めて彼の元カノが訪ねてきて、しかたなくポールがその相手をしてあげたりする。
その彼女にポールが言うことにゃ、悲しみは目の色のように植え付けられたものだから世話してやらなければいけない。君の目の色のことだから他の人にはどうすることもできないんだよ、って。

もうねえ、このフレーズがあるだけで、この映画ほんとに好きだし、Christophe Honoréえらい、って思うし、おとなのフランス映画万歳!になるわ。 
こういうのを見とけ悲しい寂しいだいすきの日本のガキども!

こんな具合にみんなが自棄になって川に飛びこんだりして、みんながそんなみんなのこと心配してばたばた走り回って、クリスマスがやってくるの。 なにひとつ決着しないけど、それのどこが悪いんだよ?

パパガレルの映画で恋に殉じるLouis Garrelもよいが、この映画でぴょんぴょん走り回っているLouis Garrelのが好きだなあ。『ラブ・ソング』もすばらしいので是非。

兄のポールを演じるRomain Durisは"L'arnacoeur" -『ハートブレイカー』の彼。 歌はそんなに巧くないけど、味があって、この映画でも電話越しに切なくしっとりと歌ってくれる。
あと、彼女が昔プレゼントしてくれた7inch、Kim Wildeの"Cambodia"をかけてめそめそするシーンもある。 そういえば、こないだ見た"Camille Redouble"でもKim Wildeのポスターはあったなあ。

Louis Garrelが女の子の部屋のベッドで読む本が「フラニーとゾーイ」、仲直りした兄と弟が一緒に読むのがオオカミのルウルウとウサギのトムが出てくるGrégoire Solotareffの絵本で、これだけでもなんかわかるのであるが、でも、本ではなくて歌なの。
歌のない世界なんてありえなくて、歌こそが世界を輝かせるんだよ。

ということを大上段ではなく、それこそベランダから話しかけるみたいに言ってくるの。
素敵なんだよねえー

ラストにがちゃがちゃ流れるのがなぜか、Metricの"Handshakes"。
Metricってなんでフランスの映画作家にもてるのかしらー?

[film] La Loi du Survivant (1966)

22日から始まっていたシネマヴェーラの特集『フィルム・ノワールの世界』、出張さえなければ全部行きたかったところなのに。 もうあんま残っていないが見れるものから見る、ということで6日の土曜日に見ました。

『生き残った者の掟』、英語題は"Law of Survival"。35mmプリントのでっかさ、がすばらしい。

『冒険者たち』の後日談らしいが、そっちは見ていない。けど、関係なく見れる。
どこかからコルシカの島に還ってきた男が、墓参りして旧友と会って、売春宿に連れていってもらうのだが、そこで出会った女が気になったので、翌日彼女を外に連れ出すの。
彼女は彼と一緒になってリハビリして元気を取り戻していって、他方で組織はむきになって追っかけてくるかというとそうでもなくて、でも最後には決闘があって、過去が明らかになって。

非情とか因果応報とか、そういうのとはあんま関係ないのだが、画面を覆うひりひりした緊張は最後まで途切れることなく、びっくりするくらいよいのだが、変な映画だったねえ。

救いだした彼女がすごい臆病もので、仔ロバが階段から降りてきただけでパニックおこして逃げまくって倒れちゃうの。 ロバは無言で無邪気に寄っていくだけなのに、あのサスペンス演出はなんというか。

彼女が囚われていた屋敷の庭師(でぶ大男)との間の決闘がヤマなのだが、「なんでここまでやるんだ?」って男が聞くと、庭師は「おまえ犬を殺した」って。彼の同僚も「そういうことなのよ」って頷いている。 それじゃしょうがないか。

で、決闘は岩とかがある浜辺で、昼間から夜を抜けて翌朝までえんえんやってるの。立ち会いの連中も焚き火しながら待ってる。道具は拳銃一丁で、それからナイフになって、最後は腕づくで。
だれひとり、バカみたいだからやめねえ? とか言わない。

これの決着がついてめでたしめでたしかと思ったら、更に続きがあって、生き残ったものはなにかと大変なんだなあ、と思いました。

続けて見たのが、"The Red House" (1947) - 『赤い家』ていうの。

足の不自由なEdward G. Robinsonと独り身の妹、養女のメグが暮らしているとこに、メグのクラスメートの男の子がバイトで来るのだが、裏手の森の奥には絶対に行ってはいかん、て言われるの。でも近道だから、って雨の日に通ろうとした彼が見たものはー。
学園モノとサスペンスとホラーが混じったような内容でなかなかすごい。圧倒される。

やっぱしEdward G. Robinsonが怖いんだよう。彼がメグのことを突然「ジニー」って呼び始める瞬間の目とかさあ。

メグ役のAllene Robertsさんが弱々しくて瑞々しくて、かわいそうでいかった。

この後に、"You Only Live Once" -『暗黒街の弾痕』もあったのだが、ついこないだも見た気がしたし、カエルさんとか、すごくかわいそうな映画なので、とばして飯田橋に向かいました。

[film] September 2012

アメリカ行く前の9月15~17の間に見た映画、少しでも書いておかないと忘れてしまうので、少しだけ。

次の3本は9/15, アンスティチュのRaoul Ruiz特集から。

Klimt (2006)
死の床にあるクリムトを弟子のエゴン・シーレが見舞い、そこで回想されるあんなことこんなこと。
淡々と理想のエロ画を追い求めつつ、社交界にデビューして有名になって煩悶して、そんななかでも、ガラスの向こう側とこちら側で見ているものと見られているものの関係が転覆したり転移したりという、Raoul Ruiぽいテーマが描かれている。
そういう混沌の渦とともに現れたヨーロッパの近代、そこから逆照射される人間の精神とか幻想とか野性とか野蛮とか。
でも、ふつうの「クリムト伝」を求めてきたひとにはきついかったかも、と思った。
画面には出てこなかったけど、カフェで喧嘩していたウィトゲンシュタインて、青本のウィトゲンシュタイン?
あと、Klimt役のJohn Malkovichはよいのだけど、やっぱし英語はしゃべってほしくなかったかも。

Ce Jour-là (2003) 『その日』  英題は"That Day"
スイスのどこかで大きな館を相続することになっている娘さんがいて、彼女は精霊さんとお話しできてしまうようなセンシティヴな不思議さんで、それを面白く思っていない親族のじじばば共が、精神病院にいた凶悪犯(中年、男)を送りこんで抹殺しようと企むのだが、顔をあわせたふたりは天才バカボン的に波長があってしまい、男のほうは館にやってくる客人を頼まれもしないのに端から血祭りにあげていくの。
筋だけ書くとホラーみたいに見えるが、実際は変な具合におかしくて、ふたりの意思が通いあってそういうことをしているわけでも、明確な悪意があって殺しをやっているわけでも、また殺される側もそんな悪いひとたちでもなく、妖精さんの仕業のように見えてしまうとこが、なんかすごい。
人が悪かったわけでも、その時だったからというわけでも、その家だったから、というわけでもない。 ただ、そういうことが起こって、びっくり、ていうそんな一日のおはなし。

狙ったわけではないのだろうが、無表情なコメディとしてなかなかおかしくて、めっけもんだった。

Le Temps Retrouvé, D'après L'oeuvre de Marcel Proust (1999)  『見出された時』 158分。
"Klimt"と同じく、死の床にあるプルーストが過去を振り返って、走馬灯のなかに失われた時を見出すおはなし。
原作は小説という形式でしかありえない内容をもったものなので、これを映画という形式で表わすにはこういうふうにするしかないんだろうねえ。
実際に死の床についたことがないからわかんないけど、クリムトにしてもプルーストにしても、よくもあんなブリリアントなイメージが蘇ってくるもんだねえ。 最後の最後の瞬間に、ほんとゴミみたいな記憶がぽこっと湧いて居座ったらどうしよう、ていつも思うの。しょうもないけど。

あと、わたしはジルベルト派ではなくてアルベルチーヌ派なので、その辺がちょっと不満だった。
サン=ルーも、あんな猿みたいのじゃないはず、とかおもった。

あと、"Klimt"見てこれ見ると、Raoul Ruizって、エロを描けないひとなんだねえ、と思った。
そこがなあー。

Mirror, Mirror (2012) 『白雪姫と鏡の女王』
16日に新宿で見ました。

おもしろかったー。 でもこれ、アニメでもよかったかも。ディズニーのキャラそのまま使って。
前半はあんましだが、後半、小人共に教育されて目覚めていくあたりからぐいぐい面白くなってくる。
でも、時間が経ってしまった今、自分のなかでは"Brave" - 『メリダとおそろし…』と混じりあってどっちがどっちだったかわからなくなっていることがわかった。
どっちも森はおそろしで、ママが嫌なやつで、小人とか熊とかがちょろちょろしてて、みたいな。

王子さまの彼って、"The Social Network"の双子のひとだよね。 
実際に大金持ちのお坊ちゃまなんだよね。 いいなー。

Rebecca (1940)
17日、日比谷の午前10時で見ました。

お金持ちのばばあのお手伝いをさせられてた女学生が別の大金持ちに拾われて結婚して彼のおうちに行ってみたらすんごい邸宅(Manderlay)で、でも彼の亡妻の影とか遺物とかがいろんなとこにあって誰にも相手してもらえなくてうんざりして、もうやだ、になったとこでなかなかとんでもない事実があきらかになる。
お金持ちってたいへんだよねえ、というのもあるが、旅先で知りあってそのままちゃらちゃらついて行っちゃった女学生も愚かだったのよね、とかおもった。
誰ひとりとしてかわいそうじゃないので、安心してぐいぐいひきこまれる。おもしろかったねえ。

Intouchables (2011)  『最強のふたり』
17日、"Rebecca"のあとに見ました。 大金持ちドラマ続き。

ふたりがひとつの画面に映りこんでいるとこ、このふたりがUntouchable、というよりそれぞれのUntouchableな過去や現在がきちんと描けているがゆえのふたり、であるとこがよいの。
あと、音楽がよくてー。 空を飛ぶとこで流れるNina Simone とか。
あのあんちゃんは、あのいでたちでEarth, Wind & Fireはないんじゃないか、Hip Hopのほうだろ、と思ったのだが、最後にちらっと映った御本人の姿をみて少し納得した。あれなら。

10.09.2012

[film] Katy Perry: Part of Me (2012)

1日の月曜日の夕方に帰宅して、そこからの火水木金はほんとにほんとうにしんどかった。
で、金曜の晩に脱出・逃亡して六本木でみました。

この一週間前に、Ingrid Cavenのライブフィルムで魂が震える感動を味わっていながらこんなしゃかしゃかしたのに行っていいのか、というのは若干あったのだが、とにかくそれくらい疲れていたんだよう。

この晩の六本木、裏ではかのゆーめーな"Magical Mystery Tour" (1967)とかもやっていたのだが、あれに行くんだったらまだこっちでしょ、とか。

(日仏- じゃないアンスィチュのシャンソン特集があったことを後でしる。 こっちにすべきだったか)

こないだ見たGleeのライブの3Dと基本は同じ(安心のMTV)フォーマットで、最初に熱狂的なファンのコメントと開演前のわくわくがあって、これでもかーという怒涛のオープニングがあって、曲の合間にいろんな苦労も含めたライブのの舞台裏を見せて、それでもこんなに沢山のファンがいるんだからがんばれ、ってエールが入って、みんな納得の、感動のフィナーレになだれこむ、という -。

曲の途中で平気で切ってコメント入れるし、なんで3Dにしているのかぜんぜんわからない。

それでも、こんなでも、この娘さんにはなんか惹かれる。
Lday GagaとかNicki MinajとかJustin Bieberとかは未だにどこがいいのかぜんぜんわからんが、そんな美人でもないし、スタイルもずん胴のこのひとが風車とか電飾を体中にいっぱい貼りつけて自分自身もくるくる回ったり跳ねたりしながら「あなたはわたしの花火なの~」とか懸命に歌っているのを見ていると、なんともいえないかんじになる。

しかもこのおねえさん、"Get Him to the Greek" (2010)を見てRussell Brandに惚れてしまったのだという。 たいしたタマじゃねえか。
だって、あの映画のRussell Brandはまじでほんとにかっこよいのだから。

映画ではツアー中の彼との悲しい別れとかも描かれてて、ステージの直前まで丸くなってぐずぐずめそめそしているのだが、ぜったいだいじょうぶだなこいつ、と思っているとほんとに立ちあがって歌いはじめる。 わざとにしても冗談にしてもあんたかっこいいわ、といおう。

あと、Alanis Morissetteが当時のお嬢さんたちに与えた影響って大きかったんだねえ、と改めておもった。

[log] New Yorkそのた - Sep 2012

続いて、New Yorkでのあれこれを -

レコード関係ですが、Other Musicで、渡米の2週間くらい前にTwitterで80年代の中古がいっぱい入ったよ、ていうのが出て、あーあ、だったのだが、その残骸、食い散らかしたあとみたいなやつが、でっかい木箱にそのまま置いてあった。 たぶんいいやつはもう取られてて、あるのはほんとに半端なやつばっかしだったのだが、自分の持ってるやつも相当あって、持ってないやつも相当あって、持ってないやつのなかには当時どうしても1250円(12inchシングルのだいたいの値段)出せなかった呑酸的記憶が蘇ってくる奴らがいたりしたので、そういうのをいくつか救ってあげた。 しょうもない。

Williamsburgのほうは、Melvinsの7inch 1枚だけ。 でも1枚あたりのお値段はこれが一番高かったかも。

お食事関係の、新規開拓はあんましなかったかー。

LT Burgerっていう、BLT系列をやっていたLaurent Tourondelのバーガー屋さんがBryant Park沿いにできてた。
BLTのバーガーは一時期トラックでやっていたのだが、こっちに集約されるのだろうか。
バーガーは普通においしい、けどそれ以上にミルクシェイクがとっても危険な風味だった。
Laurent Tourondelさんは、BLTをやりだす前、77thで"Cello"っていう小さいフレンチやってて、個人的にはあれがいちばん恋しいんですけど。

あとは、Osteria Moriniのパスタとか、Breslinの肉塊とか。 
あと、Lincoln CenterのBroadway挟んだ反対側にいつの間にかDaniel系列のお店が3つできてて(Bar Boulud, Épicerie Boulud, Boulud Sud)、なんかイラついたのでぜんぶ制覇しといた(Bar… だけ昔行っていたので残りふたつ)。 
Take out&立ち食い立ち飲みのÉpicerieとか、そりゃ悪くないし、ジェラートとか嬉しいけど、高いよね。

帰りの飛行機は、ほんと死にそうにへろへろで、機内でWiFiできますけど、とかクーポンを配りにきたりしたのだが、頼むからそんなサービスやめて、安らかな眠りを妨げないで、ってお願いした。 というわけで映画は1.5本だけ。

まず、行きの便で54分くらいの地点まで見た"The Lucky One"の続きを。
最大の懸念は、親権を盾にねちねち因縁をつけてくるex.夫の攻撃をどうかわすのか、どう決着をつけるのか、だったのだが、意外なほどあっさり、自然災害がお始末してくれたのだった。 こんなんでいいのか? て少し思ったけど、そうか、だから"The Lucky One"なのね。

あとは"Dark Shadows"をついに。
…やっぱし映画館で見るんだったわこれ。 
約200年に渡って、国を跨いでえんえん続けられるSM合戦。 魔女狩りというオカルトも、屍体発掘~蘇りというホラーも、なにもかも70年代ぽいどたばたSMに回収してしまうお茶目さがすばらしい。 しかもぜんたいは大真面目だし。
Eva Greenもすばらしいが、やっぱい銃をぶっぱなすMichelle Pfeifferだよねえ。
ああ、このノリで"The Addams Family"をリメイクしてくれないかなあ。

そして、" Frankenweenie"もう公開なのね。 「ふらんけんうぃーにぃー」って声にだすときもちよい。

昨晩行われたNYFFのシークレット上映(ただしまだ未完成)、今年はSpielbergの"Lincoln"だった。(昨年の同枠は"Hugo")。
なんか、みなさんありえない大絶賛ぶりなんですけどー。

[log] Seattleそのた - Sep 2012

シアトルでのあれこれについて少しだけ。

19日の夕方についてから22日の朝7:00に出てしまうまで、2日と少ししか時間がなかった。 とってもなかった。
更に、New Yorkに移動することも考えるとでっかい本とか12inchとかは決して買ってはならないのだった。 けど。でも。

19日の夕方5時にホテルに着いて、翌朝からはお仕事が始まってしまうので、動けるとしたらこのタイミングしかない、ということでレコード屋さんにいってみる。 前々回に行ったSilver PlattersとかEasy Street Recordsとか、あのへん。 時間ないからTaxiで。

Silver Plattersは、アナログのスペースは2割くらいなのだが、全体がじゅうぶんでっかくて、DVDだけじゃなくてLDとかもまだ置いている。
12inchはがまんしろ、がまんするんだ、とつぶやきながら見ていったのだが、Boris Karloffさんが朗読する「みにくいあひるの子」のジャケットがたまんないかわいさだったので、「これは音楽じゃないからいい」というバカな理屈をつけて買ってしまった。
あとは7inchで、NINとMarilyn MansonのSplitとか変なのがあったので買った。

Easy Steet Recordsもなかなか果てしないとこなのだが、ここでは7inchしか買わなかった。
Mark Laneganさんのむかしの7inch "Down in the Dark"、Background Vocalに"Kurdt Kobain"て印刷してあるやつとか。 
あと、ツアーでしか入手できないと思っていたMission of BurmaとWild FlagのSplit 7inchがあったのでそれも。

金曜日の夕方、晩御飯まで1時間くらい時間ができたので、Capitol Hillの界隈に歩いていった。
いちばんの狙いは、The Elliott Bay Book Companyに行ってみることで、やっぱしここはすごくよかった。 木造で、奥にCafeがあって、奥に分け入っていくにつれて、ああだめだこの本屋だいすきかもと胸の鼓動を抑えきれなくなり(レコード屋は好きになるのに時間がかかるが、本屋ってひとめぼれ系が多いよね)、あと2時間くらい籠りたくなってきたので、Molly Ringwaldさんのサイン本だけ買って外に出ました。 (Mollyさんのサイン本は、McNally Jacksonにもあったの...)

Elliott Bayの道路はさんで反対側にEveryday Musicていうこれもでっかい倉庫みたいなレコード屋があったのだが、いいかげん気持ち悪くなってきたのでひと周りしただけで出る。
でもその帰り、E Pine st沿い(この通り沿いには素敵なお店がいっぱいあった)のレコード屋兼古本屋(名前、探しているのに出てこない)で、つい12inchを2枚だけ。 

いっこがAlan Lomaxさんが採取したAmerican Folk Musicの選集、もういっこが北アメリカのカエル、っていうカエルの声を採取しただけのレコードなの(ちゃんとしたカエル解説のパンフがついてる)。 どちらもLibrary of Congressのレコードなのでちゃんとしたやつ、だとおもう。
カエルのは交尾のときの声とか入っているので、通関のとき少しひやひやしたけど、OKでしたわ。

あと、木曜日のお食事の前、レストランの近所のSonic Boom(前回行ったレコード屋)のとこで降ろされて、ほれ、10分だけやるから走ってこい、と犬のような扱いをされ、しょうがないので7inch 3枚くらい(HeatmiserとかBeat Happeningとか地場寄りの)を買った。
で結局、なんだかんだで12inchと7inchを抱えて飛行機移動することになったのだった。

お食事は、Bastille (http://bastilleseattle.com/)っていう、前回入れなかったとこを執念で取ってもらって、入った。
屋上に菜園があって、お皿の野菜はここから直で出しているそうな。 なので、ビーツのサラダはすんばらしー美味でした。 あと、ここはラム料理でずっと賞を取っているとこらしく、ラムのソーセージがとっても。

ここでお食事をしているときに、通りの向こう側に変な乗り物が止まってて、なんだあれ、と議論になったのがあって、後で調べたらこれだった。

http://www.thecyclesaloon.com/

たとえば、酒飲んでペダル漕ぐのって、酔っ払い運転にならないのか、とか。 そもそもリカーライセンスとか大丈夫なのか、とか。
でも、そのまま家まで送ってもらえるなら楽でいいな、とか、酔っぱらってげろしてもそのまま逃走できるよね、とか。
そういう議論しているうちにそいつはどこかに走っていっちゃったのだった。


10.07.2012

[film] Looper (2012)

29日の土曜日、"Ingrid Caven…" が終って、いいかげんへろへろだがあと1本は見よう、と。

これにするか、同じく金曜日に公開されたばかりの"Pitch Perfect"にするか悩んで、RPXていう音のでっかいシアターで見れるのと、昼間にタイムトラベル映画見ているのでついでに、ということでこっちにした。 ほんとに僅差だったの。 で、Times SquareのRegalに向かう。

22:40の回で、CMが終って予告が始まるまでの間、係のひとがいないのか5分くらい画面がフリーズしてた。 あんなでっかいスクリーンで死んでるWindowsの画面みたのはじめてだった。 (誰かがWindows98じゃねえの? て野次ってた)

さて、るーぱー。 2042年、30年後の未来から時間のトンネル抜けて落っことされてきた下手人をその場で射殺して葬り去ること(悪いのは元から絶たなきゃだめ)をお仕事にしている人たちがいて、そのひとり、Joe(Joseph Gordon-Levitt)がある日のお仕事に行ったら、そこに落ちてきたのは30年後の自分(Bruce Willis)だった、と。

評判よいみたいだし、途切れずによく出来ているとは思いました。損した気はしないことでせう。
でも、30年後にありえているかもしれないこんなタイムトラベル・サスペンスのために相当きっちり考え考え作り込んでいるので、この世界観、時間観に乗れないひとにはきついかもしれない。
Bret Easton Ellisさんは我慢できずに途中で出てしまったそうだが、わからないでもない。
負け惜しみで「ループしてんのはてめえの頭んなかだ! 時間はループしねえんだよ!」くらいのことは言ってあげたくなる。

それでも見る気になる理由があるとしたら、30年後の自分だと言ってBruce Willisみたいなしおしおのハゲが現れたらふざけんじゃねえお前なんかおれじゃねえ、ってぶっ殺したくなるだろうし、30年前の自分を目の前にしたらこんなちゃらい洟垂れがもうちょっと思慮深かったらこんなことには、ってぶっ殺したくなる、その辺のぐしゃぐしゃした苛立ちみたいなのは共感できるからー。

ていうかそこ(慢性的な自殺衝動 - 傾向)に焦点あてて見てたほうがおもしろい。 あんま正しい見方とも思えないけど。

あとは、Joseph Gordon-Levittさんの仕事仲間であるPaul DanoとかNoah Seganといった若い人たちがみんな一生懸命がんばっててすばらしいのと、Emily Bluntさんがえらくかっこよいことだろうか。
時間軸のことを考え始めると筋に集中できなくなるから仕方なく演技とかディテールのほうに目が向いてしまう、というのもあるのだろうがー。

音もすごいし、ちょっと事情がふくざつなギャング映画として見ればそんな悪くなかったかも。

しかし、1時過ぎのTimes Squareって、なんかすごいことになってた。

10.06.2012

[film] Ingrid Caven, Musique et Voix (2012)

29日の土曜日、NYFFの2日目18:30、"Camille Rewinds"の後で見ました。
監督は「ある娼館の記憶」(2011)のBertrand Bonello。
英語題は、"Ingrid Caven: Music and Voice"。

上映はでっかいメインのホールではなく、少し離れたとこの小さなシアターで、そこの前にRichard Peñaさんがいたのでやったあ、だった(この映画は当たり、ということ)。 その後のお手洗いでも彼の横に並んだので、お礼を言って握手をとか思ったが、恥ずかしがりなのでだめだった。 それにお手洗いだし。

お客さんは20人くらいだったか。
ほんとは監督もVideoでトークに参加する予定だったが適わずとのことで、代わりにPeñaさんが語ったところによると、監督が彼女のライブを見て、すごく感動したのでその場で翌日のライブのシューティングをお願いしたらOKが出て、それを撮ったのだが、公にするつもりはなくて、編集したのをIngrid Cavenさんにプレゼントしたのだそう。 それを気にいったCavenさんが、自宅のパーティかなんかで知り合いにちょっと見せたところ、すごいじゃんもっと見せろ見せろ、ということになってロカルノ映画祭かどこか(たしか)で公開したら更に評判になって、ここまで来ました、と。

ものすごく失礼な話しなのだが、わたしはまだ彼女が現役のシンガーとしてライブをしているなんて知らなくて、もう亡くなられたのか、或いは『トスカの接吻』みたいなことになっているのかと思っていた。 しかし、1938年生まれで、撮影がたしか2009年頃、と言っていたので、70歳は超えていたことになる。 ありえない。 しかも2日目でこれか。

カメラはいくつかあるみたいだが、アングルはほぼ固定、編集はPCで、クレジットもPCのフォントのまま、ナレーションもコメントもなにもなし、ライブの始めから終わりまでをざっくり撮っただけ。 演者の圧倒的な歌とその世界がずうっと流れてくるだけ。

ピアノとドラムスをバックにドイツ語の歌、フランス語の歌、英語の歌、スタンダードとかシャンソンとかキャバレー艶歌とか(あとでクレジットをみたらFassbinderの書いた曲もあった)、全く途切れることがない。 まずはその途切れないことにびっくりして、こわくなってくる。

特に、終盤の「アヴェ・マリア」以降の走りっぷり - アンコール2回 - はありえない。
音楽のライブ、というよりは彼女が出演した映画の世界を凝縮してその声で訴えてくる、世界の光も闇も表も裏も、西欧のどんな国にも、それらすべてに響き渡る声、それらを代表する声としてフィルム上にあったあの声、強い声、愛する声、切々とした声、震える声が現れる、というか。 

ライブフィルムって、これで十分なんだとも思った。


10.05.2012

[film] Camille Redouble (2012)

NYFF、オープニングだけじゃつまんないので、少しは他のも見ておきたい、と。

英語題は、"Camille Rewinds"。 これがNorth American Premiere。

この日、他に盛りあがっていたのは晩にかかった、Brian De Palmaの新作と、リバイバルだとストーンズの"Charlie is My Darling" (1965)とか。

40代後半(おそらく)のCamilleは夫と離婚手続き中で、家を出ていく出ていかないで喧嘩ばかりしてて、そんなある日、高校の友達んちのパーティに行って、仲良し4人で飲んで歌って踊っているうちに気を失って倒れちゃって、目覚めてみるとそこは高校時代の自分の部屋、自分は16歳になるところ(Sixteen Candles!)なのだった。

監督のNoémie Lvovskyが主演のCamilleをやっている。

こんなの、日本のしょーもないドラマとかでいくらでもありそうな設定なのだが、おもしろいのは、Camilleの容姿体型はおばさんのままで、でも周囲にはそうは見えないらしい、と。 おばさんだけど、洋服は80年代のああいう恥かしいのしかなくて、それをおばさんが着ておばさんがどたばたする。 (サイズはだいじょうぶなのか、と少し思った)

彼女の部屋に貼ってあるポスターはBelle StarsとかFlash Dance(映画)とか"True Blue"のMadonnaとか、そんなの。
音楽は、みんなで振りをあわせて踊る"Walking on Sunshine"(いいよね〜)とか、自転車Walkmanで"99 Luftballons Rock"とか。

で、この高校で彼女は夫と出会ってファーストキスをしてやがて結婚することになる。 でも未来から落ちてきた彼女は、そんなことしたら同じ痛い過ちを繰り返すことになるのであかん、ということがわかっている、だから一応じたばたしてみる。

あと、彼女はこのころに母親を突然の病気で亡くしてしまうので、それをなんとか防げないかと思って焦りまくる。 母親の声をテープに録ってみたり、病院で検査を受けるように勧めたり。

こういうタイムトラベルものって、自分にとっての「現在」とのギャップをなんとかしようってがんばるのと同時に、他人とか「現在」に影響を与えないようにせねば、と取り繕うところで倍のじたばたが加味されて、そういう全体の狂騒状態がおもしろいのだと思う(たぶん。おもしろいと思ったことあんまないけど)が、この作品のCamilleの場合、これは夢でわたしはそこに落ちているだけだ、というのが彼女のなかではっきりしてて、過去から現在を救うことができないことを、(口には出さないけど)彼女は知っている。 "Slip"ではなく"Rewind"。

だからこそ、母親が床に倒れる音を聞く彼女の後姿は、とってもせつなく、悲しい。
そこからさらに、過去を変えられないが故に獲得できる現在の自由、ここからの未来の豊かさ、のようなところに目覚める終盤が大人で、おばさんだけど大人で、すばらしいの。

印象として近いのは、『秋日子かく語りき』かなあ。 あれはタイムトラベルものではないけど。

Jean-Pierre Léaudが、主人公に呪い(?)をかける怪しい老人を見事に。
そしてMathieu Amalricが、があがあやかましい変な高校教師役でちらっと出てきます。

[art] Regarding Warhol: Sixty Artists, Fifty Years

29日の土曜日、さいごの休日。
この日はCentral Parkの原っぱで、グローバルうんたらによるでっかいライブイベントがあるはずだったのだが、これに関わると約半日ふっとんでしまうので諦める。 時間がないの。

朝9:30、Metropolitanの開場に合わせて中に入り、前回登れなかったルーフトップのジャングルジムみたいなやつ(Tomás Saraceno on the Roof: Cloud City)に再度トライしてみよう(チケット早いもの順)、と思い屋上行きのエレベータのとこ行ったらおばさんに、今日はルーフトップ開いてないの、と言われる。 ものすごくしょんぼりしたらおばさんに後ちょっとしたら開くかもしれないし、と慰められたが、おばさん、ぼくには時間がないんだってば、と返した。

もういっこ見たかった展示がこれ。
Andy Warholがポップアートみたいなことを始めてから50年、彼がモダンアートに与えた影響と拡がりを60人のアーティストの作品と共に振り返ってみましょうか、と。 こういう展示ってMOMAじゃないの? かもしれないが、Metropolitanのほうが、こういう大風呂敷寄りのキュレーションは優れているの。

5つのテーマ別 - ①日常(Daily News: From Banality to Disaster) - ②肖像(Portraiture: Celebrity and Power) - ③変態(Queer Studies: Shifting Identities) - ④消費(Consuming Images: Appropriation, Abstraction, and Seriality) - ⑤ビジネス(No Boundaries: Business, Collaboration, and Spectacle) に部屋が別れていて、これらを渡っていくことでここ50年、世界に浸透したPopという概念、というかアトモスフィアというかが、赤ん坊でもわかるようになっている。 たぶん。

Warholの作品も含め、どいつもこいつも、あれもこれも、超有名なやつばかりなので楽しい。 びっくりしたり痺れたり唸らされたり、ということはあんまなくて、どちらかというと動物園をまわっているかんじに近い。 こいつ見たことあるー、ゾウ-でっかいねえ、ライオン-おっかないねえ、ヘビ-きもちわるいねえ、そんなふうな。 で、Warholは、アートに対してこういうことをやろうとしたのだろう。 たぶん。

じゃらじゃらした金持ちふうのおかあさんが子供を連れて肖像のコーナーを回ってて、こいつがおかしくて。
「このひとは大統領夫人だったの... でももう死んじゃったのよ、このひとも... しんじゃってるわね、やーね死人ばっかしね... これは猿じゃないのよ、マイケルよマイケル …死んじゃったけど」  で、次の変態コーナーにきたら「... さ、ここは飛ばして次に行くわよ」 だって。

とにかく、モダンアートのビッグネーム、ミリオンセラーが出るわ出るわ。 この展示全体の資産価値総額はとんでもないものだったのではないか。 それを、ばっかじゃねーのこんなもんに、と誰もが言えるようなところまで持っていったのね。 
こうして、ケミカルな駄菓子をくちゃくちゃしているうちに頭がぼーっとしてくるあのかんじと共に、アートが資本主義の化け物に変態していったここ50年を俯瞰することもできるのだった。

最後のコーナーが、アルミの風船雲が浮かぶ"Silver Clouds"で、朝早かったので風船を天井に向かって浮かべようとしているとこだった。
係員のおじさんとふたりでVelvetsの"There She Goes Again"に合わせて、風船をつっついて上にあげるお手伝いをした。 とーってもたのしかった。

で、そこを出て、Café Sabarskyでウィーン朝ご飯食べてから、川を渡ってMoMA PS1のNY Art Book Fair 2012に行ってみる。

去年から行ってみたかったイベントだったのだが、それなりに覚悟というか、心構えが必要で、撤収条件をつくって、即時撤退するか、だらだら居続けるかどっちかしかない、と。 だらだら居続けることにしたら、午後以降の映画の予定とかもひっくり返さねばならないし大変だわ。

入場はタダだが、カンパおねがいー、と言っているので$2くらい入れる。
もともと学校だった場所なので、教室みたいなスペース内に中小いろんな出版社だの本屋だのがびっちり文化祭みたいにブースを出している。

紙(含.屑)好き、インク好き、雑誌好き、地下出版物好き、にとっては蟻地獄、無間地獄いがいのなにものでもありませんでした。
日本のこういうのはZineフェアみたいのでも、古本市でも、なんか雰囲気がなじめなくてあんま行く気にならないのだが、こっちのだとそもそもツーリストの異邦人として、てきとーに見てまわれるから気楽でよいの。 

であるがそれにしても。

稀少本は当然のようにガラスケースとかに入っているのだが、砂場の砂みたいに掬っても掬ってもあるわあるわ。
昔のSearch & Destroy Magazineがひとつ$250、Ryan McGinleyのぺらぺらのパンフみたいなサイン本が$1250、地下のスペースでやってたMike Kellyに捧げる展示(彼の本棚、みたいな)のとこにあったサイン本が$6000、Jerry Wexlerのサイン本が$1250、などなどなど。
たぶん、いっこ買ったら他も芋づるだし、でもそれやりだしたら一網打尽のすっからかんだし、1時間くらいうじうじ悩んで、頭がへんになりそうだったので結局本を買うのはやめた。

ひとつだけ、12:30からMalcolm Mooney氏のサイン会がある、と貼り紙があって、そこで12inchを1枚買ってサインしてもらった。
だって、CANの、初代ヴォーカリストだよ。 12:30過ぎに行ってみたらぜんぜん人がいなくて、しおれたおじいさんが座っているだけだったが、サインをもらって少し話した。 今はカナダに住んでるとか、日本だとP-Vineてとこから出してるんだけど知ってる?(もちろん知っていますよ)とか。 その声は、まぎれもなく、あの、"Yoo Doo Right"の、"Father Cannot Yell"の、あの声だったの。

で、2時少し前くらいに出て、Lincoln Centerのほうに向かいました。

来年は札束でガラスケースをぺしぺし叩いて一頭買いしてやるんだ。

10.04.2012

[film] Life of Pi (2012)

これのタイトルを得意げに「ライフ オブ "ピ"」と連呼しているひとがいたが、それはもちろんまちがいなので念のため。

しかし、それにしても、狙ったわけでもなんでもない、ただ出張で来ているだけなのに、NYFFのオープニングに3年連続で居合わせることになろうとは。 去年のときは、わーい2年連続ラッキーと喜んでいただけだったが、さすがにちょっとこわい。 これで運を使い果たしたくない。

例年通りStand-Byの列に並ぶつもりでいたのだが、朝から降ったり止んだりのよくない天気だし、体力もしんでいるのでしんどいーと思って朝Webを見たらチケット売っていた。 で、買おうとしたら1枚$100よ。 ええー、だったが、50周年のお祭りだし、御祝儀込みでいいや、と買ってしまった。

9:00pmの回。 初回は7:00pmの回だから、厳密にはほんもんのWorld Premireではないのだが、それでもお祭りはお祭り。

50周年を記念したオープニングのスピーチでは昨年、NYFFのSelection Committee Chairを辞めることを発表した Richard Peñaさんのが感動的だった。
こないだのVillage Voiceにもこの人がある年のNYFFの開催直前にJia Zhangkeの"Platform"を発見して、プログラムに強引にすべりこませたエピソードが載っていたが、このひとが巨体をゆすって嬉しそうに前説をする映画に外れはなかったの。
ほんとうにありがとうございました、と。 (でもその翌日、平気で前説している姿が... Chairmanをやめただけだったのね)

その後にスピーチをしたAng Lee監督は、えらくふつうのおじさんに見えた。(オーラみたいのがばっさりと、ない)

冒頭に流れるNYFF50のTrailerが例年通りすばらしい。 最後にこっちを見てにっこりするのは、ルーズベルト大統領なの。



さて、「ぴ」。製作に4年をかけたという3D超大作、であるが、圧倒的な「大作」感はあんましない。
まず、冒頭に出てくるいろんな動物 - ナマケモノのまわりにハチドリとか、前景にブタその後ろにカバ、とか、そういう桃源郷映像にやられる。

動物好き、動物園好きのひとは見に行って損はない。 BBCのドキュメンタリーの驚異の映像!とかいうのより、ある意味感動した。

インドで動物園を経営するお父さんお母さんお兄ちゃんと幸せに暮らしていたパイが、家族でカナダに移住することになって動物一式ごと日本船籍の船に乗って引っ越しの旅にでる。
そしたら海のまんなかで大嵐にあって海に投げ出され、目の前にあった救命ボートに逃げこんだらそこに乗っていたのはシマウマ、ハイエナ、オランウータン、そして... トラだった。 あとのみんなは船ごと沈んでいってしまうの。 

"We Bought a Zoo"ではなくて、"I Lost a Zoo"なの。 かわいそうにー。

ノアの箱舟かと思いきや、そこからさきは諸行無常と忍耐の旅で、最後に残ったトラさん(彼の名前はRichard Parker)とにらめっこしつつ、救命ボートにあった保存食を細々と食らいながら命をつないでいく。 (しかもこいつ、ヴェジタリアンだから魚とか食べれねえの)

"Hulk" (2003)で人の肉体の限界超えを描き、"Brokeback Mountain" (2005) で山男同士の一線超えを描き、"Lust, Caution" (2007)で体制側反体制側の一線超えを描いたAng Leeであるから、今回はまさか人と獣の一線超え... があるかもしれないと期待したのだが、それはなかった。
トラが突然しゃべりだしてくる、とか、どうぞわたしをお食べくださいと身を投げだしてくるとか、少しだけ期待したのだが、あとちょっとでしゃべりそうでしゃべってはくれなかった。

ただ、見てもらえばわかるが、これはこれで十分一線を超えた、ひ弱な少年のAmazing Journeyであって(法螺話、ともいう)、ありそうでなかった3D電子曼荼羅、なのだった。 
作りものであることを十分にわかったうえで、それでもひょえー、とびっくりするしかない。

地球を半分ぐるりとまわるスケールをもっていながら、ありがちな愛と感動のフィナーレうんたらに持っていかないところはえらいと言おう。
これに感動して泣けるひとはよっぽどポジティブな(うざい)ひとだとおもうわ。

それにしても、トラってでっかい猫だなあ、と改めて思った。 あの顔の模様とか、見れば見るほどおもしろすぎる。 ほしい。 でもあんなに山盛りのミーアキャットは、いらない。

それにしても、Gérard Depardieuは、あんなとこでなにしてたのかしら。

[film] Dial M for Murder - 3D (1954)

27日木曜日の晩は、いちんちくらい仕事のおつきあいをちゃんとせねば、と思って備えていたのになくなってしまった。
しかたがないので、Williamsburgに出て、猫店ふたつ(レコード屋と本屋)をまわって、マンハッタンに戻ってOther Musicで遊んでいるうちにMercury LoungeでCorin Tucker Bandのライブがあったことを思い出したのだが、体力的にちょっと無理かもと弱気になり、結局Film Forumに篭ってこれ見ました。 『ダイヤルMを廻せ!』 (よくみると変な邦題かも)

今回の滞在中のFilm Forumは見たことあるやつばっかしでちょっとがっかしだったのだが、そういえばこれは見たことなかった。 こんなクラシックすらも見たことねえの。

元々当時の3Dで作られた作品で(それすら知らなかった)、これをデジタルリストレーションした。 ついでに3Dのとこも、どうやってやるのか見当もつかないけど、今の3D技術のそれに焼き直したと。 だから配られたメガネも、Dolbyのちゃんとしたやつだった。
デジタル化には相当苦労したそうだが、これがNew Yorkのみ、9日間だけ上映されると。

50年代の夢のような総天然色が3Dになって目の前に。 冒頭のGrace Kellyのドレスの滲んだような赤が、それはそれは生々しく美しく迫ってくるの。もちろんGrace Kellyのつーんとしたのも。

こういうデジタルプロジェクションもあるのだねえ、と思いました。
ダイヤル"M"のとこのへっこんだ質感とか、なんといっても惨劇の場面のこっちにぴーんと伸びてくる彼女の手指とか、唸らされるのだった。

お話しのほうは、いろんな男達がよってたかってGrace Kellyをいじめまくるやつで(だから"M"なのか)、3Dのなかでは彼女ひとりが突出して浮かびあがってみえるから、嫌疑をかけられたってしょうがないか、とか。
それ以外は会話がやたら多くて眠くなるのだったが、それもヒッチコックの手のうちだったということで。

とにかくこの3Dは必見だと思いましたの。