11.29.2021

[film] 雲がちぎれる時 (1961)

11月20日、土曜日の夕方、国立映画アーカイブの五所平之助特集で見ました。
このタイトルを頭のなかで言うたびに鳴り渡るUAの同名曲とは関係ないみたい。 それにしても、60年から61年の五所平之助は井上靖原作の3部作を含めて5本も監督しているのね。

原作は田宮虎彦の小説『赤い椿の花』、脚色は新藤兼人。音楽は芥川也寸志。

四国の南の先で危なそうな峠の山道を日々路線バスで進んでいく運転手の三崎(佐田啓二)と車掌の加江子(倍賞千恵子)がいて、ふたりはもうじき結婚する仲であるらしい。関係ないけど山道を進んでいくバスにややラテン調の音楽が絡むだけで、ブニュエルの『昇天峠』(1952) を思い出したり。清水宏の『有りがたうさん』(1936)みたいのかと思ったらぜんぜん違うやつだったり。

ある日三崎のバスに明らかに場違いな都会の恰好(サングラス)をして少し大きめの荷物を抱えた女性が乗り込んで、三崎はなにか気になるようでバスが終点に着いた後にも彼女の後ろ姿を追っていったりする。

ここで話はこの女性 - 市枝(有馬稲子)の話になる。三崎は幼いころに家族をみんな亡くして裕福な市枝の家に引き取られてずっと彼女と一緒に育って彼女のことを想っていたのだが、三崎も市枝も戦争で家が取り潰されて都会に働きに出てからは散り散りで、市枝は看護婦として働いていた頃に二世のアメリカ軍兵士のジェームス・キムラ(仲代達矢)と仲良くなって結婚して女の子ユリが生まれるのだが、ジェームズは朝鮮戦争に出征してそのままあっさり戦死してしまう。さらに酷いことにユリが病気になってお金が必要になり、ジェームズの知人でやくざっぽい野本(渡辺文雄)の援助を受けてからはずるずると水商売に片足を突っ込んで、抜け出そうとあがいていた頃に彼女をずっと探していた三崎と再会して、ふたりは一緒に暮らし始めるのだが、常に献身的に寄ってくる三崎に対して自身の過去に悩む市枝は再び姿を消して..

市枝が故郷に戻ってきたのはユリが亡くなり、彼女のお墓を作って埋葬するためだったのだが、三崎は彼女と婚約者加江子の間で改めて悩んでひとりでぼろぼろになり運転も荒れていくので、市枝(と彼女を追ってきた野本)は改めて自分の過去をぜんぶ曝け出して、もう追わないでそっとしておいて、って告げてお墓ができあがるといなくなる。

こうして市枝をなんとか諦めて吹っ切って加江子ともよりを戻してバスの運転を再開した三崎だったが、トンネル開通前夜の山道で…  すべてが元にもどってよかったね、になると思った矢先、あーらびっくりの悲劇でひっくり返されてしまうの。

井上靖原作のメロドラマ3作(のうち見た2作品)とは明らかに毛色が違っていて(佐分利信のどす黒さと比べて佐田啓二の清らかなことよ - 暗いけど)、誰ひとりとして悪くない登場人物全員がそれぞれの愛と幸せをひたすら求めて祈り、それぞれの境遇のなかで誠実にもがき苦しんでいて、ようやく雲がちぎれて陽の光が.. と思ったらいきなりのあーあ、なの。 原作がそうなのだろうけど救われなさすぎる、というか、ずっとなんも悪くないのに巻きこまれっぱなしでかわいそうだった加江子だけでも(あとは市枝も?)救われたのでよかった、と思うべきなのか。

これ、いろいろ人が亡くなったりするので怪談にもできたかも。ジェームズの霊とか三崎の霊とか、市枝の傍にはジェームズが、加江子の傍には三崎が現れて羨んだり助けたり守ったり。喪失を悲しむ側も適度に慌しく大変なのでまさか霊の仕業とは、っていたら実は.. ってなんか泣けそうだし。佐田啓二も仲代達矢もゴーストに向いた顔だし。

ここまでで五所特集で見た作品たちはおわり。最初の方で出遅れたのでもう一回どこかでやってくれないものかしらー。

11.28.2021

[film] わが愛 (1960)

11月20日、土曜日の午後、国立映画アーカイブの五所平之助特集で見ました。
井上靖の小説 -『通夜の客』を『猟銃』と同じく八住利雄が脚色したもの。 ニュープリントではなくて、でも微妙な退色具合がまたすてきだったり。

敗戦からしばらく経ったある晩、新津礼作(佐分利信)が有楽町辺りで友人たちと飲んだ帰り、よれよれの状態でもう一杯いくかー  帰るかー  やっぱ帰ろうかー、と言ったところで道に転がってそのまま亡くなってしまう。

その通夜の晩、集まった家族 - 妻・由岐子(丹阿弥谷津子)と二人の子 - や知り合いの間の話で礼作は戦争中、上海で新聞記者として駐在して戻ってきたら会社を辞めて、塩業の本を書くためにひとりで山に籠って、久々に東京に戻ってきたと思ったらこうなってしまった、ことがわかる。

そこに誰も顔を知らないので声をかけない女性 - 水島きよ(有馬稲子)がひとり現れて、礼作の死顔をのぞきこんで帰っていく。 そのままきよはひとりどこかの旅館に入るとお銚子をじゃんじゃん運ばせて、ちっとも酔っぱらわないのよね、とか、あの人の死顔を見たとき、何か言いたそうだったなあ、などと言いつつ、ぐいぐい杯を重ねながら回想に入っていくの。

きよが礼作と会ったのは17歳のときで、柳橋の叔母のところに芸者(乙羽信子)とよく一緒に現れて、川開きの花火の晩には3人で横になって寝たりして、そこで寄ってきた礼作に「大きくなったら浮気をしようね」って耳元で囁かれて、きよはそれでやられて縁談とかも断り続けて、彼が戦地から戻って上海に向かう前の晩にも彼に身を寄せて、終戦後に彼が新聞社を辞めて山に籠ると聞き、すでに結婚して子供もいる彼がひとりでそこに赴くことを知るとひとりで彼のいる山村(鳥取の方らしい)に向かう。

山の家は廃屋のようなただのボロ家で、虫とかネズミとかいっぱいいるし、村人(浦辺粂子とか左卜全とか)は無視したり噂して意地悪したりするしで大変だったのだが、きよは幸せを噛みしめつつ彼の世話をしていると、そのうち村人も仲良くなってくれて、鶏とかウサギとかヤギも増えて(食べていたのかしら?)、充実した日々を送ることになる。でも、彼が用事があると言って京都に向かい、でも実は東京で家族に会っていたことがわかると悲しんだりということもあり、それではふたりでいちど一緒に山を下りよう、っておりてみたところで礼作は死んじゃったの。

その後できよがふたりで過ごした山の家を片付けていると、彼の言いたかった言葉 – きよ、ありがとう -がどこからか聞こえてきて、胸がいっぱいになってよかったねえ、で終わるの。 whatever.  こんなふうにして最後にはこれがわたしの愛の物語でした、じゃん♪ って終わって、宇宙の調和は保たれているように見えるのだが、「ふたりで悪人になろう」(猟銃)とか「大人になったら浮気しよう」(今作)といった中年男の呪いの言葉によって導入された三角関係は3人のうちのひとりの死によってなんとなく元の世界に戻ることになる。 これってなんなのか?(答えはない)。

答えはないけどこれこそがソフトでずぶずぶなメンズワールドそのもので、それが男の思惑・想定通りに機能している限りにおいて世の中は(女性の涙も込みで)安泰なのだが、その思惑 - 欲望そのものはたぶん空っぽで作為もなんもなくて、だからこそ世の中は(ひとが何人死のうが)こんなにも揺るがないままで放置されていて(ひどい)。というありようを突き放して描いているのがすごいと思った。「愛」なんてないの。


今年はもうあと3週間くらいかあー。お片付けしないとー。

11.25.2021

[film] 猟銃 (1961)

11月19日、金曜日の晩、国立映画アーカイブの五所平之助特集で見ました。
これまで見てきたのは30~40年代の作品が中心だったが、いきなり60年代のカラー作品になる。ニュープリントだそうで着物も色使いもとても美しい画面。

五所は『わが愛』(1960) - 『白い牙』(1960)- 『猟銃』(1961)と3本続けて井上靖の原作(どれも未読)を文芸メロドラマとして映画化して「愛することも愛されることもできない人間の孤独な心理」を描こうとしたのだと。この作品と『わが愛』は八住利雄が脚色している。(『白い牙』は今回の特集では見れなかった)

冒頭、三杉穰介(佐分利信)が猟銃を抱えて雪山にいて(でも獲物はなしで)何やらかっこいいことを呟き、家に戻るとパイプとか李朝の壺とか素敵な趣味に囲まれて自分ひとりでうっとりしていて、妻のみどり(岡田茉莉子)はあまり相手にされていない。そんな彼女が自分のアルバムを広げていると穰介が横にきて、彼はみどりの従妹の多木彩子(山本富士子)の写真に目を奪われる。

ここで話は彩子のほうに移って、大学で研究中の医師の礼一郎(佐田啓二)と結婚して芦屋で幸せに暮らしていた彩子のところにやつれて攻撃的な口調の女はま(乙羽信子)と小さい女の子が訪ねてきて、この娘は礼一郎の子です、と一方的に告げて女の子を置いていってしまう。それで彩子は礼一郎と離婚することにして、暫くするとはまの事故死(自殺が疑われる)が告げられる。

そんなふうにひとりになってしまった彩子のところに穰介が近づいていって「ふたりで悪人になろう」って囁きながら恋仲になるのだが、その様子をみどりは遠くから見てずっと知っていた、と。 そういう状態でずるずる続いていく穰介と彩子とみどりの関係とか彩子の元で育てられた礼一郎の娘薔子(鰐淵晴子)との温かかったり冷たかったりのやりとりがあり、みどりはどんどん荒れてやつれていって、やがて修羅場と破局が…

みどりは自棄になって病院に運ばれるし、最後は礼一郎の再婚を知った彩子が毒を飲んでしまうし、父を知らない不憫な薔子はなんだこれ、って泣くしかないし。愛を失ってしまう - 愛されていないことを知る女性たちはそれをどう察知し、どう受けとめて行動に移すのかが白い蛇やアザミの柄とかの徴や頬の震えと共に刻まれ、そのぼんやりとした中心にいる男は「美しいもの」に囲まれて何がわるい? とか居直って唸っているだけ - 「美しいもの」の正反対の気持ちわるいグロテスクな獣として。しかもその獣が猟銃を抱えている救いようのなさ。

画面に現れるファッションもインテリアも(とかげのような男を除いて)端正で美しく、芥川也寸志の流麗な音楽がずっと鳴り響いていて、そんななか、愛の喪失を嘆いて震えながら死んでいく(or みどりのように生きようとする)女性の振舞いに寄り添っていかに美しく撮るのか、というのがメロドラマのテーマなのだとしたら - メロドラマとは?ってあんまわかっていないけど – これはメロドラマだよね、という強さで迫ってくる。

これまで見てきたこれよりずっと前の五所作品(見れていない作品のが多いので確かではないけど)と比べると、こうなりました(じゃん ♪)、って終わらない、終われないままの登場人物たちが抱えこんでしまったもやもやまで後をひきながら面倒を見ようとしているかのような。 他方でコトをしでかした(いつもしでかす)男たちの内面がほぼ明らかにされない不気味なところは同じかも。何も考えていないからなのかそもそも空っぽだからなのか。 そんな奴らが猟銃を抱えて -



“Hawkeye”でNYのクリスマスを見ながら、年末年始はどうやっても向こうには行けないのかー、って改めて悲しくなった。 ぜんっぜん新しくもなんともない渡航政策、官僚のせいとか政治家のせいとかいうけど、おまえら全部、自分さえ悪く言われなければそれでいいのだ主義で、ほんとバカみたい。そうやって黒塗りとか白塗りとかバカにされっぱなしで個人情報も垂れ流しされて、世界から100年遅れたって身内で幼稚に馴れ合っていたいのか。 つくづくこの国やだ、ってえんえん。 

 

11.24.2021

[film] The Ice Road (2021)

11月14日、日曜日の午後、”Sweet Thing”の後にバルト9で見ました。

Netflixでも見れるやつなのだが、たまにこういう駄菓子とかジャンクフードみたいなのを食べたくなるの。いつもまともなものを食べているわけでは決してないのだが。

元は”Ice Road Truckers”っていうHistory Channelで00年代に放映していたリアリティTVのシリーズがあって、その舞台設定を手に汗握るフィクション/アクションに転用したもの。『恐怖の報酬』とはあんま関係ない。

時は4月、カナダのマニトバ州北部にあるダイヤモンド鉱山内で爆発が起こって、坑夫たち約20人が内部に閉じ込められて、彼らの閉じ込められたところに穴を開ける装置が必要になる。それがないと全員窒息して死んでしまうのだが、装置はでっかくて重すぎて空路では運べないし幹線道路だと時間が掛かりすぎる (そんなの現場に置いておくもんじゃないの?)。

坑内の空気がなくなるまでに残り30時間、選択肢としてはトラックにその装置を積んで、政府が管理するIce Roadっていう湖の氷の上の道路を走らせるしかなくて、政府から緊急の要請をうけたJim (Laurence Fishburne)は自分のを含めたトラックを3台 – 事故にあうことを想定した予備を含むので3台 – 調達しようとする。

それを受けたのが、トラック運送の生活が苦しくてうんざりしはじめたMike (Liam Neeson)と、その弟でイラクからの帰還兵でPTSDを患っている – でもメカニックとしての腕は確かなGurty (Marcus Thomas)の報酬目当てのふたり組、女性一匹のTantoo (Amber Midthunder)とその隣に保険会社の調査員 - 保険求償がでた場合に備えて – Tom (Benjamin Walker)が乗り込む。氷の上に重い荷物を積んだ重いトラック3台、4月であることを考えると、スピードを出しすぎれば氷を割っちゃうし遅すぎると沈んじゃうしの危険たっぷりで、前方を走る車の圧力波と後方に伸びてくる亀裂にも注意する必要があって、振動があるレベルになるとやばい、を知らせるためにドライバーの前には首振り人形 – あれってアクセサリーじゃなかったんだ - が置かれる。

といういろんなルールでがちがちのはらはらちきちき耐久レースみたいなもんかしら、と思っていると、走行中に突然エンストしたJimと彼の車が修理しているうちにずるずるあっという間に湖底に沈んでしまう。ホラーみたいでなんかやばいかも.. と思っていると爆発の原因と検知を巡って鉱山側でもなんか怪しい顔の動きが出てきて、残った2台のトラックも氷の上で横転しちゃったり、なんかおかしい! がいっぱい出てきて、やがて鉱山を持っている企業の陰謀とかその背後に原住民差別があったりとか、実は原住民のTantooの兄が坑内に閉じ込められていたり、あれこれいっぱい溢れてきて、でもとにかく時間が! になってくる。

Liam Neesonについては、あの一件以来そんなに見たい人ではなくなってしまったのだが、今回のは正義感ぶいぶいとか畳みかけるアクションでなぎ倒していくような見せ場はちっともなくて、氷の上で彼の不機嫌なアイリッシュ魂が炸裂するばかり、寒くて重装備なのでアクションも鈍重で、そのまま氷の下に沈んでも雪崩の波にのまれてもしょうがないか、くらいのノリ - でも弟を気遣う様子とか悪くなかったかも。

でも他方で、一刻を争う事態であるはずなのになんか全体のテンポが緩くてとろくて、いまそんなことしている場合じゃないだろう! とか、なに雪崩起こしてるんだ? とか突っ込みたくなるところもいっぱいだった。いろんな危機的ななにかを押し込み詰め込みすぎて全体がだらける - という構成上の問題のような。本来であれば”Fast & Furious”のあのチームが口笛吹きながらやっつけるような話だった(けど氷上のはこないだやっちゃったから-)。

それにしても善玉も悪玉もみんな車ごと氷の下に落ちてしまうので寒そうで嫌だなあ、とか、氷の上でトラックが横転したらぜったいもう終わりだと思うけど、立て直すことできるんだーあんなに重そうなのに寒いのに、諦めないのすごい(ぜったい嫌になってやめる)ねえ、とか、感心したりするところもいろいろ。会社の悪い奴らも氷の下に落としてやるべきだった。

11.23.2021

[film] Sweet Thing (2020)

11月14日、日曜日の朝、シネマカリテで見ました。

今年の前半にMUBIでピックアップされていた“In the Soup” (1992) のAlexandre Rockwellの新作。
監督の実の子供たちと妻をキャスティングして撮った家族と子供たちの世界。 ほぼモノクロで、子供たちが海ではしゃいだりしているときだけドリーミィなカラー画面になったりする。

Billie Holidayから名前を貰ったBillie (Lana Rockwell)と弟のNico (Nico Rockwell) はぼろぼろのおうちでいつも酒でよれよれの父Adam (Will Patton) の面倒をみながら逞しく楽しく暮らしていて、どうしようもなくなった時だけ別居して長髪の筋肉バカみたいなBeaux (ML Josepher)と暮らしているママEve (Karyn Parsons)のところに身を寄せたりしている。そのうち、クリスマスを前に泥酔したAdamがまじでしょうもない狼藉働いて、療養施設でアル中の集中治療を受けることになってしまったので、再びママとBeauxと暮らし始めるのだが、BeauxもクズなDV野郎でうんざりしていた。

そんな時、やはり親なし宿なしのひとりで近所をふらふらしていたBillieと同い年くらいのMalik (Jabari Watkins)と知り合って、一緒に憎たらしいBeauxの野郎を倒して(殺しちゃったかもしれない)フロリダに行くんだ/行こうぜっていう彼と一緒に3人で放浪の旅に出るの。

どんなに酷い状況で困ったことをされて辛くても子供たちはダメなパパが好きだし、Beaux(と一緒にいるママ)は嫌いだし、嫌なことから抜け出すために後先考えずに自分たちの王国を目指して旅立つ子供たちのお話しで、最後にどんな結末がくるのかわかっていても、彼らが追っかけて見ようとした世界にカメラはひっついて捕まえようとする。

ふたりと同じように虐待されてきた子であるMalikは彼らより少しだけ大人で、ふたりに花火とかはっぱとかいろんなことを教えてくれたりもするし、旅の途中で出会ったトレイラーに暮らす老夫婦は優しくご馳走してくれたりもするのだが、やはり彼ら姉弟とは少し違っていて、なんか違うんだけど、と思っていると..

“In the Soup”は映画を作りたい、っていう強い想いを抱えた主人公(監督)が、その想いのせいか目指すところからどんどん離れてとんでもない方に連れて行かれて巻き込まれて散々な目にあうドラマだったが、これも姉弟ふたりの楽しかったころの家族への強い想いにいろんな過酷な試練が襲いかかってきて、でもふたりの手は決して離れることがないの。酷くなればなるほど、彼らの想いは固まっていくので切ない - それってそんなに許されないことなの? なんで? って。

そんな彼らの道行をBillie Holidayの”I’ve Got My Love to Keep Me Warm” (1955)とか、Agnes Obelの“September Song”とか、Karen Daltonの“Something on Your Mind”とか、もちろんタイトルであるVan Morrisonの”Sweet Thing” (1968)が流れて、Billieがこの曲を口ずさんだりもする。(この曲って、大人になってしまった歌い手が子供時代のことを歌ったものではなかったかしら?)

でもとにかく、そんなふうにして描こうとした”Sweet Thing”はとってもSweetな、いまここにしか現れない得難いものとして描かれていることは確かで、これもまた監督個人の子供たちに対する強い想いが形になったものだとすると、べたべたのよれよれからどうにか離れてぎりぎりのところで作品になっているかんじはした。

子供たちもよかったのだが、Will Pattonのぼろぼろのよろけ具合がものすごくよくてたまんなくて。お酒が飲めないのであんなふうになる、のは無理だとしても、なかみは既にあんなかんじであんなふうに這いつくばってでもなんとかやっていけますように… あと残りすこしになった今年だけでも、ってサンタさんに祈る。


鎌倉で田中絹代の監督デビュー作と2作目を見てきた。 ものすごく素敵だったのでびっくりした。なんでこれまで見られなかったの? って改めて。 鎌倉はすごい人出で、なんなの? と思っていたら八幡宮があるからなのね - と今頃知った。 八幡宮ってなんなのかあんましよくわかんないのだけど。

11.22.2021

[film] 沈丁花 (1966)

11月13日、土曜日の夕方、国立映画アーカイブの『NFAJコレクション 2021秋』という特集で見ました。なんとなくー。
監督千葉泰樹、製作:藤本真澄、原作:松山善三、音楽:黛敏郎というこてこて王道の家族コメディ-ドラマ。

都内の自宅で歯科医をしている上野家がいて、冒頭は亡くなっている父の墓参りで全員がこっちに向かって歩いてくるところで、まずは母あき(杉村春子)がいて、父の後をついで家の診療所で歯科をしている菊子(京マチ子)とその看護婦兼事務をしている次女の梅子(司葉子)がいて、三女の桜(団令子)はもう片付いて赤ん坊もいて、四女のあやめ(星由里子)はもうじきお寺の次男坊(夏木陽介)と結婚するのでいなくなり、あと一番下にまだ学生の鶴夫(田辺靖雄)がいる。

仕事が終わると晩酌したり元気いっぱいの菊子と梅子がこのままではどこにも嫁に行きそう/行けそうにないのを心配してあきと伯父の島田(加東大介)が無断で雑誌に花婿募集の広告を出したら三木のり平が現れて総スカンくらったり、菊子をめがけて放った島田の会社の部下工藤(宝田明)が梅子と仲良くなってしまったり、いろんなことが起こる。娘たち側からすれば結婚したくないわけじゃないが、診察で大口あけている患者を診るとバカらしくなるとか、あたしたちがいなくなったら父さんが残してくれた診療所とか、お母さんだってどうするのよ、とか。

やがて近所に越してきた歯科医の大岡(小林桂樹)が患者になりすまして上野家を偵察しているうちに梅子と恋に落ちて消えて、最後に残った菊子は集中砲火を浴びる - 高島忠夫や小泉博が鉄砲玉で飛んでくる – のだが、結局鶴夫の学校の教授で歯の治療に来ていた金平(仲代達矢)が歯をぐぎぐぎされて痛めつけられたりつんけんされたりしつつ仲よくなっていくの。

おめでたいテーマのせいもあるのか、オールスターっていうのはこういうのだ、って次から次へと知った顔の俳優さんたちがちょこちょこ出てきて、しかもすぐに消えていく(殺されるわけではなく)ので贅沢ですごいなーって。

小津であればもう少しねちっこく意地悪に登場人物ひとりひとりの倫理や切迫感を急所を狙うように刺したり抉ったりしながら家族の残酷なありようを浮かびあがらせるのだと思うが、こっちのは本当に軽くて適当で、だれもなんも責任を負ったりしなさそうで、ほぼ杉村春子と京マチ子の睨み凄みのようなところですべてが動いていってしまう。成瀬の『流れる』の明るい朗らか版、のようなところも。

これも『人生のお荷物』系の、片付かないで家に残ってしまった娘をどこにどうやって家の外に出すか、というテーマを回っていくお話しで、出ていかない理由も出ていけない理由も親の側 - 子供の側それぞれで十分にわかっていて、その周りに「世間」みたいのが星雲をつくっていて、この作品ではその「世間」オールスターズがとっても緩くて間抜けでちょろいかんじに見える。

なので、へらへら笑って見ているだけでさらさらと終わりまで行ってしまうのだが、自身の結婚式を翌日に控えた菊子が夜遅くにあきと向き合うシーンがなかなかすごくて震えた。お母さんありがとう、って言って、お父さんの好きだった沈丁花の話をするだけなのにあの緊張感ときたらなに? 後味がわるい、とかそういうのとも違って、なんか鮮やかに呪いの花粉をふりかけつつ微笑んでいるの。 帰ってきたら殺す - 帰ってこなくても殺す - ごきげんようー みたいな。すさまじい二人。

あと、ちっとも魅力的に見えない小林桂樹を選んだ司葉子も実はなかなかの曲者で、続編では仲代達矢と小林桂樹が揃って地獄の底に叩き落とされるやつ - 『沈丁花の呪い』 - を期待したい。背後で杉村春子が高らかに笑っているの。

11.21.2021

[film] Respect (2021)

11月13日、土曜日の朝、Tohoシネマズの日比谷で見ました。

なんの説明もいらないAretha Franklin (Jennifer Hudson)の評伝ドラマで、わたしにとってArethaはJBやMJやPrinceよりも遥かに高位の、かつてライブを3回みて泣いて平伏して、Eternalsの世界だったらCelestialsにあたる偉いお方なのですぐにでも見るべきやつだったのだが、アメリカやイギリスのレビューを読んで - ま、そうだろうなと思った - で、145分の上映時間を見てうーむ、と固まっていた。

50年代のデトロイトで、父親のC. L. Franklin (Forest Whitaker)がまだ寝ているAretha (Skye Dakota Turner)を起こして大人たちのパーティの席に連れ出して歌わせるという冒頭のシーン、そしてこれと同じようなパーティの晩に部屋にいた彼女に性的虐待が為された(ことが示唆される)、これら最初の方でおおよその骨格が提示されている。 父親からの抑圧、大勢の前で歌うことの強制、父親以外の男性からの虐待。そしてそれでも彼女は歌った、と。

映画はColumbiaとの契約を経て、父親から逃げるようにTed White (Marlon Wayans)と2度目の結婚をして(最初の結婚については触れられない)、Jerry Wexler (Marc Maron)のAtlanticに契約を変えて、アラバマのMuscle Shoals - FAME Studioでのレコーディングでブレークして、ブレークした後はごたごたが続いてぼろぼろになり、こないだのドキュメンタリー”Amazing Grace” (1972)で改めて神と音楽に向き合うあたりまでを描く。

今作が映画監督デビューとなるLiesl Tommyがそれまでブロードウェイで長く仕事をしてきたこと、主演のJennifer Hudsonが生前のArethaからのご指名だったことなどを見れば、これは本来ブロードウェイでミュージカルのような形で上演されるべきだったものかも知れず、見てみるとやはりそっちだったかも、と思わせる、クリーンで感動的なサクセスストーリーの典型のようになっていて、それでもよいけど、それをそのまま映画でやるのか、という不満がやや残る。

Arethaはとんでもなく偉大ですごくて破天荒なひとで、でもその「破天荒」は男性のアーティストであればポジティブに(豪快だねえ、とか)捉えられることの真逆のが全部あり、怪物のような父親を含む男性(性)からの虐待や差別や暴力をそのままサンドバッグのように受けとめて、それでも/それゆえにあんなふうに歌った、歌って神に届こうとしたその強さと破壊力と崇高さは、それをきちんと描くのであれば彼女が男性から受けた暴力のすべて - アメリカ社会のそれも含めた複雑さ、陰湿さ - を精緻に曝け出す必要があったのではないか。その地点にきて初めて”Respect”や”Think”の真のパワーは炸裂するのではないか。

これに対して、いや、そこまでのことをしなくても彼女の歌とソウルは十分にすばらしいし力強く伝わるのだからいいじゃないか、というのがこの映画の拠って立つところで、レビューでの賛否はこの点に集約されているかのように見えた。

べつによいのかも、って思えてしまったのはFAME StudiosでのMuscle Shoals Rhythm Sectionとの最初のセッションとレコーディングのシーンが出てきてからで、ここだけでもあと30回は繰り返し見たい。Rick HallやSpooner OldhamやRoger HawkinsやTom Dowdがいて、彼らとのセッション - セッションていうのはこういうやつ - を通して”I Never Loved a Man (The Way I Love You)”がどんなふうに形作られていったのか。深夜に妹たちとはしゃいで歌いながら”Respect”を作っていくシーンと並んで、これがあるから絶対に見たほうがいいよ、になる典型的なやつ。

Jennifer Hudsonの見事さ力強さは申し分なくて、でも彼女がすばらしければすばらしい程、Arethaのカヴァー・パフォーマンスになってしまうといういつものー。だから最後に晩年の本人がKennedy Centerでのライブで"(You Make Me Feel Like) A Natural Woman"を歌うところはなるほど、だった。彼女が最後に投げたあの毛皮については既にいろんなところで語られているとおり。

でもやっぱりAtlanticでの最初の4枚は聴いてほしいし、ライブ盤は”Amazing Grace” (1972)だけじゃなく”Aretha Live at Fillmore West” (1971)も聴いてほしいし、”The Blues Brothers” (1980)は見てほしいし -  そういえばこの映画でのArethaって- 彼女だけでなくCarrie FisherもシスターMaryも、悪役のような描かれ方をしているのだが、いま冷静になって見てみると、彼女たちはみんなブラザー的な男性社会の被害者なのよね。


週末がものすごい速さでどこかに消えてしまうのはなんなのか。なんにもできやしない。ここ数十年ずっとだけど。

11.19.2021

[film] Ras vkhedavt, rodesac cas vukurebt? (2021)

11月10日、月曜日の晩、結局足を運ぶことのなかった東京フィルメックスのオンラインで見ました。

邦題は『見上げた空に何が見える?』、英語題は“What Do We See When We Look at the Sky?” - USでは劇場公開もされている。ふつうに劇場公開されておかしくないし劇場で見上げるようにして見たいジョージアの映画。

監督・脚本のAleksandre Koberidzeにとっては2作目の長編フィクション。物語をすっとぼけたかんじでドライブしていくナレーションも彼自身がやっていて、音楽は彼の兄 - Giorgi Koberidzeが担当している。

ジョージアの西部の、中心を素敵な川が流れているクタイシの街で、冒頭は学校のまわりで、学生たちが下校しているところ、鳥や犬も含めてやや騒がしい雑踏で男女がすれ違ってぶつかって(?)本を落として拾いあげて離れて戻ってきて短い会話をするシーン。映されるのはふたりの下半身のみ。ここで小鳥や犬が空を見上げたらその時のふたりがどんなだったか見えたはずー。

こんなふうに出会ったLisa (Oliko Barbakadze)とGiorgi (Giorgi Ambroladze)は、その晩に再びすれ違って、これはなにかの縁だと思うのでちゃんとカフェで会おう、って翌日の晩8時に会う約束をするのだが、その前の晩にふたりにかけられた呪い - 誰の、なにによるものかは明らかにされないけど、風とか監視カメラとか雨どいの警告にも関わらず吹いてきたなにか - によって、翌朝に目覚めたふたりの容姿はまったく別のふたり - Lisa2 (Ani Karseladze)とGiorgi2 (Giorgi Bochorishvili)に変わってしまい、さらにひどいことに薬剤師だったLisaの知識も、サッカー選手だったGiorgiのスキルも失われてしまったので、Lisaはカフェでアイスクリームを売ったり、Georgiは道端で怪しげな客寄せバイトを始めることになる。当然互いの顔を認識できないふたりの出会いが起こることもない。

こうなったところで想定されるであろう呪いの根源を探るドタバタした追及や医者だ祈祷師だ、の方には向かわずに、Lisaのルームメイトはそれをふつうに受け容れるし、LisaもGeorgiも嘆き悲しんだりせずに淡々と生活を送っていく。なぜなら他にすることもできることもないから。この設定にのれない人はなんだこれ、になってしまうのだろうが、カメラはそういう事態になったふたりと街の様子を丁寧に追っていく。

ワールドカップが近いのでカフェや飲食店は観戦用のスクリーンを外にだして人間だけでなく犬までもが贔屓のチームと店に向かっていく熱狂とか、いつでもどこでも朗らかな子供たちとか、それらを追っていくうちにふたりに起こったことなんてふつうに起こることなのでは? って。

カフカの虫ほどではないにしても、今朝起きた自分だって、なにかの変容の成れの果てかも知れず、確かに知恵も知識も失われ続けていることは確かだし、そんなの騒いだってしょうがないことも自覚しているし、そうやって出会いの機会も奪われ続けているのかもしれない。というような村上春樹的な「やれやれ」の諦めの物語が一方にあり、他方にはそういった「呪い」を受けとめてきた歴史や川の流れのように残酷に押し流そうとする力がある。

それはサッカーのゲームのような勝ち負けのみが支配する、ビールを飲んで応援する以外にどうすることもできないなにかなのだろうか? となったときにひとは空を見上げて何かをみようとするよね - なにを? というのがタイトルで、それを足下を見て政治とか経済とか革命とかについて考えこんでしまう手前で、動き回って止まない子供たちや犬や鳥がぴょんぴょこやってくる、その軽やかさ。

それってへたしたらなんでもありのずるずるの世界になっちゃったりしないか? あるいはボディ・スナッチャーみたいなホラー(含. 犬)とか、っていう意地悪な声を蹴散らして、決着のおとしどころまで含めてとっても瑞々しい街と公園と川と犬と人のエッセイになっていると思った。

そういう世界に、Rom-comのように展開すると見せかけて最初と最後以外はメインのふたりがほぼ交わらない、碌な会話すら交わさせないまま置いておくのってなかなかすごいかも - 犬たちの方がまだ互いに近かったり。でも神さまの目で俯瞰した世界ってそういうものだと思うし、我々が空を見上げるのもそういう事情を知っているからに違いないし。 映画を撮るというのもそこから始まったりするのではないか、という考察など。

少しだけ出てくるけど、ハチャプリ食べたくなるねえー。

11.18.2021

[film] 花籠の歌 (1937)

11月9日、火曜日の夕方、国立映画アーカイブの五所平之助特集で見ました。

最初に『花よりだんご [スタヂオFのお花見]』という10分程の短編。本編と同じ35年頃に、銀座アパートにあったスタヂオFのみんなでお花見に行った際の様子を8mmで撮って繋いだもの。音なし。五所や成瀬をはじめ有名な人たちがいっぱい映っているようなのだが、成瀬以外の顔とかはあまりよくわからず。(お花見なんてだいたいそうだけど)楽しそうでいいなー、くらい。

花籠の歌 - 監督のクレジットは「平之助ごしょ」。
銀座の裏通りにある(ありそうなー)とんかつ屋「港屋」は、敬造(河村黎吉)と看板娘の洋子(田中絹代)ががんばっていて、厨房にいる李さん(徳大寺伸)はとんかつを揚げながらずっと洋子のことを想っているのだがいつも空回りしてばかりで、彼のことを片隅で想っているのは女中のおてる(出雲八重子)の方なのにこっちも空振りばかりで。店には常連の学生堀田(笠智衆)と小野(佐野周二)がいつもやってきてうだうだしていて、結局李さんの想いは実らず(ここの彼の痛みだけがやや生々しい)に気がつけば小野が洋子とくっついて(..つまりおそらく田中絹代は小野洋子に?)ふたりで厨房でがんばっている。

というところに洋子の妹の(まだ小学生くらいの)高峰秀子とか、小野の周囲で起こったホステスの殺人事件で警察がやってきたりとかがいろいろ絡んでいくものの、基本はケセラセラで、最後にはもうじきとんかつ屋をやめてすき焼き屋にするぞ、人がいっぱい来るからなぁ、って宣言するの(幻の1940年東京オリンピック..)。

例によってなにも考えていないふうの河村黎吉となにごとも明るい方しか見ようとしない田中絹代のコンビネーションは最強で、いったい佐野周二のどこをどう素敵と思ったのか(例えば笠智衆と比べて)、なんで結婚するに至ったのか、式の様子はどんなだったのか等、あまりわかんないまま - 折々のスナップショットを繋いでいるようなかんじで、彼がそのまま川の向こうに消えたって気づかないのではないか、とか。

窓から見える銀座のネオン(明治のチョコレートとか)を含む夜景が素敵で、何度か登場人物たちの「銀座はいいなあ」っていう台詞が聞こえたりするのだが彼らがそう言ったときの本当にそうだねえ、ってそれらの夜景が眼前に迫ってくるかんじ。五所の映画に出てくる風景って、伊豆でも小渕沢でも銀座でも、登場人物たちの心象とか出来事に左右されずにずっとあって、そんなふうにあることによってドラマがどんなに揺れてもブレてもだいじょうぶな気がしたり。

今回は誰かのでっかい落とし穴とか困った修羅場が登場するわけでもなく、全体に朗らかな雰囲気 - 「花籠」だし - なので銀座の夜景をバックにしたミュージカルにしたらすばらしいものになったに違いない。すでに半分くらい頭のなかではそんなふうに音楽が流れていたり、会話の運びの落語のように転がっていく楽しさとか。

あと、調理したり食べたりするシーンはそんなに出てこないのに、「ひれかつ」とか「かきフライ」っていう札が掛かっていて、カウンターの奥でなにかやっているのが見えるだけでとんかつ食べたくなる。これは映画の魔法の一種と呼ぶべき何かかもしれなくて、とんかつが出てくる映画にそんな悪いものはないのもそういうことかも。
 

ここだけじゃなくて田中絹代がすばらしいと思うので鎌倉の川喜多映画記念館に行って『田中絹代 - 女優として、監督として』の展示を見て、23日の映画のチケットを取った(オンラインでは取れないから)。田中に宛てた五所の弔辞とか手紙も展示されているので興味があるひとは是非。 鎌倉のあの通り、初めて行ったのだがすごいのねー。

11.17.2021

[film] 伊豆の娘たち (1945)

11月7日、日曜日の午後、”Eternals”の後に続けて国立映画アーカイブの五所平之助特集で見ました。

戦争真っ只中でみんなが大変だった時期に戦意昂揚映画ではなく、相変わらずの困ったお父さんドラマを作ってしまうのってなんてすばらしいこと。終戦の年、1945年の8月31日に公開されている。

お寺の脇(or 中?)で食堂を営む文吉(河村黎吉)は妻が亡くなったあと酒もタバコも断って、長女の静江(三浦光子)とふたりで食堂を切り盛りしてきて、住職から静江の縁談の話が持ちこまれると調子よくてきとーに返してしまう文吉に対して、静江は冗談じゃねえなめんな、って不機嫌にブロックし続けている。

ある日、文吉の近所の幼馴染の徳次郎(東野英治郎)としげ(飯田蝶子)の夫婦から、地元の飛行機整備工場に派遣されてきた宮内(佐分利信 )の住処を探しているのだがよいとこが見つからないのでお宅の離れに住まわしてやれないか、と頼まれて、深く考えずに受けいれる。

真面目なよい人だから、という触れこみだったが、現れた宮内(坊主頭)はそこにいた静江の妹のたみ子(四元百々生)にあれ運んで、これ取ってとかいきなりぶっきらぼうに指図してきてあんたなにさま? なかんじで、あーすげえやな野郎だぞって、文吉に文句を言いまくるのだが、静江はなんとなく彼のことが気になっているようでそれを文吉の妹でお産婆のおきん(桑野通子) - いつも産まれそうな家々を飛び回っている - が隅でそうっと見守っている。

静江と宮内のふたりが不器用ながらだんだん近寄って仲良くなってきたところで、工場の部長(笠智衆)の娘の縁談に宮内をどうだろう?  っていう話を聞かれた徳次郎と文吉が久々に飲んじゃった酒の勢いで(またか..)よいと思います! って応えてしまったことから騒ぎになるの。静江は泣くし、おきんは怒るし、宮内もなんだそれ、って激怒してそのまま寮に引っ越して視界から消えてしまう。

しょうがないので徳次郎の家に行ってやっぱり断るわ、っていうと当然ぶつぶつと文句を言われ – そこに突然現れたおきんの徳次郎夫婦とのやりとりがたまんない – で、それに続けておそるおそる部長のところに向かうと..

宮内のいる工場が扱っているのはおそらく戦闘機で、彼にもいつ召集がかかるのかわからないし、それを言うなら戦時下のみんながそう - ラストで車掌の仕事につくたみ子だって、大勢の赤子のために走り回っているおきんだって、明日がどうなるのか、家族や国がどうなっちゃうのか、誰も何もわかっていなかったはずなのに。 ここで「伊豆の娘たち」っていうタイトルを思うと、なんかくるの。

Rom-comと呼ぶにはあまりにぎこちないものの、そそっかしい文吉を中心とした隙だらけのアンサンブルの見事なこと。静江の誕生日に家族でお仏壇を囲んで文吉が20年ぶりに盃を口にはこぶ場面の柔らかな機微とか、悪気はないのでどうにも憎めない彼の周りで文句を言いまくるそれぞれの女性たちの表情や歩みの多彩さと確かさと。戦時下でこんなにもばらけた個の表情があった - 想像してみれば当たり前のことなんだけど – こと、それらを自身の30年代の作品と変わらぬトーンでさらりと見せてしまう軽さ。これを見た当時の人たちはどんな顔をして映画館から出てきたのかしら? って。

五所平之助のしょうもない男ばっかし映画の伝説が続いていて、なんかたのしいのだった。

11.15.2021

[film] 花嫁の寝言 (1933)

11月6日、土曜日の五所平之助特集の『人生のお荷物』からの三本目、正確には四本目、この回は二本だて。

結婚したばかりの会社員小村(小林十九二)とまだ卒業できずにうだうだしている学友4人(斎藤達雄、江川宇礼雄、大山健二、谷麗光)が酒場で呑んでいて、4人はまだ学生なのに小村はひとりだけちゃんと卒業して就職して妻まで貰ってけしからんぞ、ていう話になって、しかも花嫁(田中絹代)は寝言までかわいいっていうし、と小村がひとり先に帰った後も延々恨み言が続いて、そんなにかわいいって言うのならみんなで見てやらないといけない - 花嫁の寝言を聞きにいこう! おう! ってみんなでぞろぞろ小村のうちに向かうと、彼はまだ帰っていなくて、事情をまったく飲みこめない花嫁は戸惑いながらも連中を家に入れて.. (← ふつうぜったい入れちゃだめでしょ)

ここまでの学生(壁にはKEIOって貼ってあるよ)の発言と挙動だけでレッドカード10枚分くらいのひどさなのだが、ナンセンスコメディだし、ということで許されてよいの? ってあきれて見ていると、学生たちは飲んだくれたまま畳の上で雑魚寝しちゃって、そこを夜更けに泥棒(坂本武)が襲って身ぐるみ剝いじゃっていい気味なのだが、当時はこれをみんなで見て笑っていたのかしら。

(これも、またしても)すべては酔った席でのこと、なのだろうけど、花嫁の寝言を聞かせろ、になる発想とか神経がわかんないし(花嫁だろうがなんだろうが他人の寝言に興味ある?)、それをみんなで共有しようとか、気持ちわるいーしかない。戦後の映画でも結婚した夫婦の家に呑み屋からそのまま同僚とかがなだれ込んで、妻はしょうがないって顔で甲斐甲斐しく給仕する場面をよく見たりするけど、とにかくにっぽんのビジネスの、会社とか呑みの「場」の尊重されっぷりっておかしいよね。(いろいろ見てきたし、コロナを経てゾンビのように復活しているのがうんざりだし、隔離緩和のビジネス優先だってほんとにひどすぎるし)

“Home Alone”みたいに家に入ってこようとする連中を田中絹代がぼこぼこにしてやればおもしろかったのに。

こういうのを経て田中絹代は自分で映画を撮らねば、って強く決意したのだと思う。

花婿の寝言 (1935)

映画宣伝的には「帰ってきた寝言!」みたいになるのだろうか、変わらずにひたすらバカばかしい(褒めてる)のだが映画としてはこちらの方がおもしろい。

新しめの住宅地で仕事を始めようとしている怪しげな心霊媒師(斎藤達雄)がそこらにいた酒屋の小僧(突貫小僧)にこの近所で奇妙なこととか困っているネタのありそうな家庭はないか? って聞いたらあるよ、って新婚の康雄 (林長二郎)と幸子(川崎弘子)の家を紹介する。ここの奥さんは朝にだんなを送りだすと寝ちゃうんだよ、って。 心霊媒師はそれを確認すべく隣の家に聞いちゃったらそこに住んでいたのが康雄の会社の同僚の彦助(小林十九二)だったもんだから火が燃え広がり、康雄の耳にも届いちゃってありえないーけしからんー離縁じゃ! って花嫁の父(水島亮太郎)と花婿の母(高松栄子)を巻きこんだ大騒ぎになるの。真相を明らかにすべく心霊媒師が幸子に催眠術をかけてみると..  結論はわかるよね。

まず、ごくふつうの話として、夫を送りだしたら、リモートで会議が終わったら、気分が乗らなかったり疲れていたら昼寝くらいするし、させろだしー。

『花嫁の寝言』が俺たちに見ることができないものを隠さず見せろ、っていう学生の腐った欲望に根差したものだとすれば、『花婿..』のほうは、夫に24時間奉仕すべき花嫁がそんなこと(昼寝)しているなんて許せない!っていう家族・ご近所一同が信奉する権威とか規範に根差したもので、どっちにしてもターゲットにされていい迷惑なのは花嫁の方で花婿はおろおろしているばかりでしょうもない。これはハラスメントなんかではない、花嫁が「家族」になるための試練みたいなものだとか言うのであればほんと吐き気しかない。いまのSNSのしょうもなさも元皇族の若い彼女に対するクソ報道も同じ極めて幼稚でグロテスクななにかに根差したものだって思い知ってほしい。ほんとにおおきなお世話なことばっかし。

どっちも昔はこんなにひどかったのだ、というので笑ってもいいけど、あんま笑えなかったのは、おそらく今のいろんなことが思い出されてしまったから、という意味ではとてもよい映画だった。 と思う反面、戦前から大して変わってないよね、だから戻りたくてしょうがないのねクズどもは、ってうんざり。


表参道の駅にたまごっち25周年て..  Union Squareのトイザらスに並んだなあー。あれ、なんだったのかしら。

[film] 人生のお荷物 (1935)

11月6日、土曜日の午後、『朧夜の女』に続けて五所平之助特集で見ました。

最初に短編『あこがれ』(1935) - [スタヂオF版] 。  
五所平之助の『あこがれ』(1935)のロケ現場でアマチュア映画作家の川喜田壮太郎が撮影・編集した10分のメイキング映像のようなやつで、佐分利信(これが松竹入社第一作だそう)の扮する画家が東京に上京してしまうところと彼に憧れているらしい女性の淡い思いが字幕で綴られていって、編集がよいのだろうか、なかなか生々しくてよいの。

続いて『人生のお荷物』。
50代後半の省三(斎藤達雄)とたま子(吉川満子)の夫婦の間には上から高子(坪内美子)逸子(田中絹代)町子(水島光代 )の三人娘とまだ9歳くらいの長男 寛一(葉山正雄)がいて、長女は医者(大山健二)と、次女は画家(小林十九二)と結婚していて、次女んちは浪費が激しくお金を苦労しているようだがまあ楽しそうにやってて、三女は軍人(佐分利信)と結婚しようとしているところで、その結婚式を終えて夜遅くに帰ってきた省三とたま子はやれやれ片付いたなーふう、っていうのだが、隣の部屋で寝ている寛一の姿を見ると省三は顔を曇らせる。そういえばまだこいつがいたわ - こいつは大変だぞ、って愚痴を言い始める。

「人生のお荷物」とはこの寛一のことで、寝ている自分の子を前に「失敗した」とか「こいつは大変なことになる」とか「女の子は売っちまえばいいけど男はそうはいかないし」とか「考えただけで飯がまずくなる」とか、あとで酔っ払っていたので、と言い訳するに違いないけど、とにかく出てくる発言の毒と臭気がものすごくてあきれる。50代の男親の小学生の実子に対する発言としてこれを録音してたら(.. 映画になっているけど)軽く訴訟起こせそうなやつで、当然のように怒ったたま子は逸子のところに寛一を連れて出ていってしまい、その結果として「お荷物」は省三自身じゃないのか、いうのが明らかになってしまう騒動なのだが、そんな時代の絵としてわかりやすく家族のありようが明かされているかんじ。

小津でも成瀬でも、昭和の20~30年代の家族を描いた映画にはこんなふうな、子供は親の所有物(時間が経てば「お荷物」) - 子供 - 特に娘は結婚して出ていくもの - 結婚したら子供はできてあたりまえ離縁なんてもってのほか - それらができない子は親不孝もの - よい結婚は家の慶事 - そこに家族全員を持っていくのが親(特に男親)の使命であり裁量 - 以下延々 - という発言や描写が満載で、そういう発言や価値観のおやじ連中を中心とした蓄積と連なり - 家父長制ってことでよいの? - に対する若い女性たちを中心とした反発や摩擦がドラマを動かしていったりして、この作品もそのひとつだと思うのだが、こういう形で表に出た、というだけでもよいことなのかも。

そして、少なくとも今の我々は家族のかたち(だけでなく我々ひとりひとりだって)は変わっていくし変わってきた、ということを知っている。他方で親戚近所のおじちゃんおばちゃんの価値観の地盤とか拠って立つところは自民党支配と同じくしぶとく根を張って変っていないし、メディアにも映画産業にも相も変わらず根拠不明な「絆」を強要して縛りにくる邪悪な勢力があることもわかっている。こんな千年戦争の日々の火種はこの頃からこんなふうにあったのだ、ということをわかりやすく示す。そもそも人類なんて地球にとってのお荷物だし害虫だし、人生なんてそれ自体がお荷物以外のなにものでもねえよ! ぶつぶつ。

俳優に関していうと、斎藤達雄の嫌でダメなかんじは絶品としか言いようがないし、田中絹代と小林十九二の夫婦の軽やかさと、そこに「お荷物」たちが寄ってくるというのはなんか素敵な流れだねえ、と思った。


11.12.2021

[film] 朧夜の女 (1936)

11月6日、土曜日の昼、国立映画アーカイブの五所平之助特集で見ました。

この日はここで五所を三本、ここからしばらく五所通いが続くことになるのだが、どれを見ても良すぎてたまんない。個人的には渋谷実とか清水宏をはじめて見たときの驚きに近くて、そしたら渋谷実は五所作品の編集や助監督をやっていたのだった。

遊び人ふうの旦那の文吉(坂本武)がいて、その妻で張物屋をやっているおきよ(吉川満子)がいる。文吉の妹で牛鍋屋でパワフルに女給をしているお徳(飯田蝶子)は早くに夫を亡くして、一人息子の誠一(徳大寺伸)を苦労して大学までやって、お徳にとっては自慢の子で、子供がいない文吉も誠一を自分の息子のように可愛がってきた。 この家族じゃないけど頻繁に行き来して家族のような4人が紹介されて、文吉はある日、まだうぶでもじもじの誠一をバーに連れて行って大人の世界を見せてあげたりする。

そしたらそこで女給をしていた芸者あがりの照子(飯塚敏子)が誠一に少し絡まって、もう一回ふたりだけでデートして、別れ際に彼女のアパートまで行ってちょっとあがっていかない? って言われたりして、そうやっているうちに照子は妊娠してしまう。母親にそれを告げたら大惨事になることを懸念した誠一はまず文吉に相談して、文吉はううーむ、確かにこれはお徳に言ったらいかんやつかも、って考えた末にこれは自分が照子との間に作ってしまった子、ということにしておきよにそれを伝えるの。

この文吉のおきよへの告白から始まる5人のドラマがすばらしく素敵で、ものすごい惨事惨劇に発展するわけではないのだが、目が離せなくて、これはなに? なんで? って泣きそうになりながらくぎ付けになっていた。 文吉に言われたおきよは当然動揺して、でも元々夫はそういう人なのだしそういう人をほぼ野放しにしていたわけだし無情に放ってしまうわけにもいかないし、と事情を受け入れて、文吉は自分の妾となる照子の家を(ややほっとした面持ちで)セットアップしにいって、照子も誠一のつらい事情は理解できるので文句も言わずにそこに収まって、それを横で見ているお徳はお兄さんたらまったく.. とか言いながらおきよと困ったもんだねえ、なんて話している。

表面張力とか重力に曝されている部屋の奥と手前、暗がりとか土間とか坂を少しのぼったところとか、そこに現れたり並んだりする人々のいろんな顔の晴れたり曇ったり澱んだり。 誰ひとり悪い人はいない。みんな朗らかにことを見つめようとして、ひとり誠一だけ暗く沈んで何かを訴えたがっているよう。

やがて照子の具合が悪くなり、あれあれと入院したらそのまま消えるように亡くなってしまう。みんなしょんぼりするのだが、誠一だけはもう我慢できないのでお徳に告げようと思う、って文吉に相談してきて...

ロメールの格言シリーズにでてきそうな話のようで、そっちの方には行かない。最初から置かれている規範やルールの上で揺れたり移ろったりする話ではなく、日々見えたり現れたり思い浮かんだりする顔と顔が、室内の距離や陽や影の長さに応じて伸び縮みしたり巻いたり巻かれたりする極めて微妙かつ不思議な世界を描いていて、その行く末を決めるのは笑顔とか気性とか情とか、測りようのない微妙な – でも絶対そこにもごもごしている - 生きもののような生温かいかんじ。 そのありようを「朧夜」と呼んだのではないか、とか。

みんなとてもよい顔 - 飯田蝶子も坂本武も – で、彼らが数年後にはどんな顔をしているのかなあ - ほぼ変わらないんだろうな、とか。 こういう顔ってルネ・クレールの巴里のにも出ていた気がする。 巴里と朧夜。よい人たち。

広いお座敷で元気に給仕しているお徳の姿を思い浮かべるだけでなんだか泣きたくなってねえ。

11.11.2021

[film] お吟さま (1962)

11月3日、文化の日の昼、東京国際映画祭の会場になっているTohoシネマズ シャンテで見ました。

田中絹代の監督作4本を4Kデジタルリマスター版で上映する、って最初聞いたときは小躍りしたのに、スケジュール見たらほぼ平日昼間、であーあ、になった。 海外で注目され始めてことはわかっているのに、「女性監督のパイオニア」とか言うくせにこの程度の扱いなんだよね。とってもやなかんじ。

原作は今東光の同名小説(未読)、脚本は成沢昌茂、撮影は宮島義勇、音楽は林光。1978年の熊井啓版も見ていない。田中絹代の監督作としては6本目にあたる作品。

16世紀末の日本、豊臣秀吉の治世で、冒頭に九州の戦場にいる石田三成(南原宏治)が連れてきた千利休(中村鴈治郎)に向かってキリシタンの勢いをなんとかせねばならね、とか言ってて、特に高山右近(仲代達矢)あたりを、って、結果として高山右近は左遷される。

それまでお吟(有馬稲子)は高山右近のことをずっと想っていたのだが、妻がいる高山右近からは無理です、イエスさまに背くことはできませんと言われて、がっかりして親が持ってきた堺の商人万代屋宗安(伊藤久哉)との縁談を受けて結婚する。そんなだから夫婦仲は冷えきって宗安は女遊びばかりしている。

そんな状態の夫婦を揺さぶって罠に陥れて離縁を企んで、高山右近を誘って川遊覧の会を企画したらこれが見破られて裏目にでて、宗安を吹っ切って土砂降りのなか川べりの農家に逃げこんだふたりは改めて互いの愛を確かめあってしまう(高山右近の妻は既に亡くなっていた)。

こうして全員がううむどうしたものか、ってなっていると今度はぶいぶいの敵なし吹きまくりの豊臣秀吉(滝沢修)がお吟を見初めて、うちに仕えるのじゃって問答無用の命令がくだって..

全体に豪華で端正な美術セットのなか、登場人物たちは静かで感情を表に出さずに物語は進んでいく。特に男優陣はふつうに意地悪でどす黒く欲深で愚鈍で、高山右近ですら腑抜けた無表情のでくの坊に見えてどうしようもなくて - 唯一、蛙のように揺るがない千利休だけが持つ凄み - 反対側にいるお吟さまも、最後まで情動を、辛さ悔しさを表に出して泣き狂うかんじはない。淡々と強く硬く、信仰に近いところで自身の恋の正しさを信じてじっと前を見ている。

この格子状になった落ち着きと揺るがなさ - 美術やセットや茶道なんかも含めて – こんな壁紙の文化が陰険に苛酷に彼女を追い詰めていったのだ(そしてその反対側にあるキリシタンの -)という明確なメッセージがあるような。こういう素っ気ない静けさのなか、鮮やかな血の赤が映えるところが二箇所あって、ひとつが不義を働いたとして引き回され運ばれていく女(岸恵子)がこちらを見つめる顔と、お吟と右近が逃げこんだ川べりの農家で、足を怪我したお吟を右近が手当てするところで、このふたつの赤のみが彼女が生きた/生きようとした何かを示しているように思えてならない。

ここで思い浮かべたのはもちろん『近松物語』(1954)で、あらゆる苦難の果てにある愛を貫いて穏やかに見える岸恵子の表情はラストに運ばれていくおさん(香川京子)のそれと重なるし、足の怪我はその歩みが自身の血によって刻まれたものであることを示しているとしか思えない。 溝口の歪んだ加虐嗜好を落ち着いた目でひっくり返しているような。

最後の最後まで静かに - 耐えもせず抗いもしないというやり方でクールに戦って愛に生きた女性の姿を描いているのだと思った。

それにしても、中村鴈治郎 - 高峰三枝子 - 有馬稲子 - 田村正和 っていう家族はなんか凄かった。高峰三枝子の替わりが京マチ子だったらなー とか。(千利休の家にはならんか..)

やっぱり川喜多映画記念館まで見にいくしかないか(決意)。

11.10.2021

[film] Eternals (2021)

11月7日、日曜日の午前、Tohoシネマズの日比谷で見ました。ふつうの2Dで。
ほんとうは初日に見たかったのだが、あれこれ入ってしまって見れなくてとってもくやしかった..

原作はMarvel Comicsの同名コミックで、MCUの26番目で、当然スーパーヒーローもので、そういうものとして見るとあれこれ問題だらけなのかもしれないが、Chloé Zhaoの新作としてみると、すごくおもしろい。 あーこういう出し方をするのだなー、って。これを任せたMarvelの方もえらい。

何千年もの大昔に宇宙に何人かいる管理人とか支配者みたいなCelestialsのひとりのArishemが地球に巣くう化け物・魔物・ドラゴンみたいなDeviantsを退治すべく10人のEternalsを送り込んで、彼らはDeviantsと戦いながらひ弱な人類の成長とか進歩を見守って – 技術の獲得についてどこまで干渉すべきかの議論や葛藤はある - 7000年くらい人間のふりをして駐在してきて、16世紀くらいに最後のDeviantsを葬って使命を終えた彼らはそれぞれの土地でそれぞれの生活を送っている。でも天から帰ってこいの指令がないのはなんでだろう? と思い始めたころー。

現代のロンドンで学芸員をしているSersi (Gemma Chan)はSprite (Lia McHugh)と一緒に暮らしていて、恋人のDane (Kit Harington)とCamdenで会っていたら突然Deviantsに襲われて、そこをSersiの元カレ&夫でとっても強いIkaris (Richard Madden)が現れて救ってくれて、あいつらはなんで蘇ってきた?やばいかも.. ってアメリカの荒野にいるリーダーのAjak (Salma Hayek)を訪ねると彼女は殺されていた..

動揺しているSersiにArishemからのお告げが聞こえてきて、Externalsを率いる次のリーダーは君だ、って言われ、更に衝撃だったのは彼らExternalsのそもそもの機能とか役割とか、そもそも地球っていうのは.. というところで、さらにさらに、使命終了の期限まであと7日だか6日しかない、とか。ここのところはテーマの核心に近いし、賛否両論の源泉になっているところだとも思うのでここではあんまし触れない。 現地駐在員が消えてしまった統括責任者からの引継ぎ一切ないまま、本社から一週間でオフィス締めるから宜しくねって、いきなり丸投げされてしまうかんじ(生々しすぎる)。

こうして彼ら(Sersi, Ikaris, Sprite)は散り散りになっているEternalsを世界各地に訪ねていくの。地球の前のアサインメントでの記憶が消えずに苦しんでいる戦士Thena (Angelina Jolie)の面倒をGilgamesh (Don Lee)が見ていたり、Bollywoodの大スター&監督として成功しているKingo (Kumail Nanjiani)がいたり、同性婚をして家族と暮らしているPhastos (Brian Tyree Henry)とか、アマゾンの奥地で原住民と暮らすDruig (Barry Keoghan)とか、先生をしているMakkari (Lauren Ridloff)とか、それぞれの数百年があって興味深い。

その再会を通して、Sersiは自身のリーダーとしての資質と使命について悩んで、他のExternalsとはこれまでの地球との関わり-地球をどうすべきか - について議論して、腹を括って進化したDeviantsと戦って地球と人類を救うことにする。この辺の逡巡は、“Songs My Brothers Taught Me” (2015)~“The Rider” (2017)~“Nomadland” (2020)などを通してアメリカの土地に縛られつつもそこを出ようと、その根を断ち切ろうとあがく辺境の人々を描いてきたChloé Zhaoの諸作の主人公たちと比べてしまう。

彼女の過去作での主人公たちと明らかに異なるのは、こっちの世界には明確な善悪 - 善は微妙だけど少なくとも邪悪さ、のようなものがあること、はっきりと上位にいて運命とか使命とか圧をかけてくる支配者・権力者がいることで、ここに従うのか背くのか、どっちにしてもなにしても無駄だぞ、って言われる。でも、どうせ無駄だし消えてなくなるのであれば、最後の最低のラインとして、自分は「忘れないこと」を選びたいのだ、って。

ここにはこれまでのヒーローの悪を倒して未来に向かう圧倒的な力強さなんて微塵もなくて、でも彼らが護ってきた地球の民の「忘れない」ようにしてきた何か – 映画とか物語とかも含まれる - が彼らを突き動かす。ここにはすべてを忘れてなかったことにして突き進もうとする大国 - アメリカ、ロシア、中国 - や近代社会への、更には気候変動への視座(批判) – そこからこぼれ落ちた人々への目線 - もはっきりとある。そして、この視点のとっても大風呂敷で汎ヨーロッパ的なありようがアメリカで受けないこともなんとなくわかる。

そしてその舞台上で立ちまわるEternalsの、各々の属性に配慮しすぎではないか、というくらいの魅力 – ここがみんなわかりすぎるくらいにわかるので勿体ないわ、って。ひとり一本分の映画撮れるくらい - Chloé Zhaoには10年かけてそれぞれの“Nomadland”を撮っていってほしい – で、各Avengersの”Avengers: Endgame” (2019)に至るまでのストーリーを圧縮して押し込んでいるような。これはChloé Zhaoが昔からやっていたキャスティングの勝利なのだろうが、ひとりひとりの嵌まりようがすばらしい。

これまでのMCUとの整合もあんなもんかしら。Blipのこともやや苦し紛れに説明されていたし。でもあの大地震とか指が出てきたあたりでDoctor StrangeやCaptain Marvelは顔を出しそうなもんだけど。WandaのあのときだってSpriteが傍にいてあげたらな、とか。

Phastosが広島で人類に原爆のテクノロジーを与えてしまったことを悲嘆するシーンがあって、技術のところはわかりやすいけど、ホロコーストとかサフラジェットとか公民権運動など、差別や憎悪にまつわる悲劇のところには見守るだけだったのか、とか。昔からずっといる学芸員というとSersiの他にDiana – Wonder Womanがいて、彼女も第一次大戦のときはがんばったけど、第二次大戦ではなにもできなかったなあ、って。彼女たちがどちらも学芸員という職業なのは、なんかあるような。

もちろんこんなの漫画のお話だし、きりがないのだが、こういうのに思いをはせないとやってらんないくらいやってらんなくてしんどいのが今なの。 もう一回IMAXで見ておきたいかも。


こないだオーダーしたApichatpong Weerasethakulの”Memoria”本がもうドイツから届いた。はやい。
ぜったい何か禍々しいものが映り込んでいそうな撮影現場の写真多数に書き込みいっぱいのシナリオに撮影日誌に。Hernánが捌いていた魚の捌き方もちっちゃい図入りで書きこんであるの。おもしろいったら。

11.08.2021

[film] Halloween Kills (2021)

10月31日、日曜日の午後、”Our Friend” (2019) が終わってそのまま小走りでTohoシネマズ新宿に移動して見ました。 苦手な難病モノから更に苦手なスラッシャーホラーへ。ちょうどハロウィンの日だし、この晩にはこれらを軽く上回る阿鼻叫喚絵図で自分が死ぬのを覚悟せねばならぬ、ということで覚悟はして、どっちみち地獄はくるし、実際にきたしー。

“Halloween”のフランチャイズとしては12番目、前作の”Halloween” (2018) – 未見 – からの続きで、後日談どころか、同じ2018年のハロウィンの晩からほんの数時間しか経過していないのだった。

このシリーズに関しては、一番最初の、オリジナルの”Halloween” (1978)を数年前にロンドンで – やっぱりこれくらいは見ておかないとだめなんじゃないか、くらいで - 見て、ものすごく怖かったので内容はもうほぼ憶えていない(怖いのは脳が追いはらう)。前作やシリーズのほとんどを見ていなくてもだいじょうぶ(なにが?)だから。

Michael Myersによる最初の殺戮の晩から40年たったこの日、78年の時に誤って同僚を撃ち殺してしまった警官Frank (Will Patton)が道端で喉を切られて倒れているのを発見され、40年前に生き残って前作の最後に戦って腹を刺されたLaurie (Jamie Lee Curtis)は病院の集中治療室に運ばれていてそこでFrankと再会して、酒場では当時のサバイバーたち - Tommy Doyle (Anthony Michael Hall)とかがもう許しちゃおけねえ立ちあがろう、って気勢をあげている。そんななか、やっぱりあいつは死んでいなかった、と(誰も驚かない)。

78年当時の再現映像と2018年に蘇って変わらず殺しまくるMichael Myersの映像を交互に映しだしつつ、現地の人々も見ている我々の方ももういい加減にして、が渦を巻いて沸騰して爆発して暴動のようになって、本件とは関係なく精神科から抜け出していた患者さんがその巻き添えになり、それでも宿敵を追い詰めていくのだが..

仮面をしたままどれだけ撃たれても刺されても焼かれても立ちあがり、再び姿を現して見境なく殺しまくる彼は、常識や人智をこえたなにかの化身としか思えなくて、それは当初、姉を突然殺した後に悪魔のように変容してしまったサイコパスだった彼のありようが、束になって人肉を狙って襲いかかってくる不滅のゾンビ的ななにかに変わってしまったようで、おもしろいのはそれが起動したMichael Myers憎しの人々もまたゾンビを狩るゾンビ or 魔女狩りに熱中する人々- のように変容し、暴走していく姿、だろうか。その闘いの渦は地域一体だけでなく世代をも超えて、今回だとLaurieから娘のKaren  (Judy Greer)に、更には孫娘のAllyson (Andi Matichak)にまで伝播していく。

こんなふうに即物的な殺しと想像をかきたてる血とか風土の対比が無限にいろんな(映画の)やり口を生んできたのだと思うし、それは毎年やってくるハロウィンのコスチュームをどうしよう、って考えるのと同じようなかんじ(長めのスパンで見れば毎年そんなに変わっていない)でここまで来たのだろうが、次作ではどう決着をつけるつもりなのだろうか? Laurieが再びフロントに立ちはだかることは間違いないと思うが、関係者がほとんど亡くなってしまった気がするので、その更地の上でどうなる? って。

“Kill”か”Survive”か、でいうと今回のは圧倒的に”Kill”を求めている映画で、殺られる人々は真剣に逃げていなくて生き残る意思があるとは思えないし、警察とかもあまりになんもしなさすぎるし、そんなありようが今の何かを語っているのだとしか思えない。みんなが”Kill”のほうに向かって止まらない。

こんな世界の暗がりとかどん詰まった壁の向こうで脈を打つかのように鳴りだすJohn Carpenterの音楽のすごいこと。希望なんてもんではなくて、ただ目覚めを促すかのように耳の奥に届いて着地するとなにか渦のようなものを起動しようとする。この人のシンセの肌理と厚さはデビュー作の頃から常にそういうところを狙って不気味に、どんな凡庸な画面に対してもほんとうに「効く」ことを強いてやまない。

それにしても日本の観客ってお行儀よくて静かだねえ。こういうのって「うぇえー」とか「げろげろー」とか「あううー」とか言いあいながら見ないと、なんか暗くなるばかりでつまんなくない?

あと、Anthony Michael Hallがちっともちゃらちゃらしてくれないのが悲しかった。あんな奴じゃなかったのにさ..

11.07.2021

[film] Our Friend (2019)

10月31日、日曜日の昼、投票に行った後に新宿ピカデリーで見ました。もう終わりそうだったので。
実話ベースで、主人公のひとりMatthew Teagueが2015年にEsquire誌に発表した記事 - “The Friend: Love Is Not a Big Enough Word”が原作、ということも、難病ものであることも見始めてから知った。

なぜ見たいと思ったかというとJason Segelが出ているから。それだけ。

冒頭、夫のMatthew (Casey Affleck)と妻のNicole (Dakota Johnson)がベッドの上で話をして、Nicloleは末期癌にある自分の容態とやってくる死について、もう子供たちに告げるべきだ、って彼ら - MollyとEvieのふたりの女の子 - を呼んで、Matthewが話をする。事前に絶対に言ってはいけないこと - ママは遠くに旅行に行くの - などは確認した上で。 子供たちが呼ばれると、やがて泣き声が聞こえてくる。

所謂「難病もの」はホラーと同じくらい苦手なジャンルで、その理由はホラーと同じように人が死んでしまうから。死んでしまうことでその人が今ともに生きているのとは別の世界に行ってしまうことに伴う悲しみや痛みは、「死」が決して解り得ないものであるがゆえにいくらでも底なしに「解ってほしいもの」としてグロテスクに - わかって貰えるよねこの悲しみと辛さ? - 描くことができてしまう。そんなの当事者以外に解るわけはないのに、解って貰えるであろうことを前提に話が進んでいく共感地獄のおそろしさ。

Matthewは売れない作家志望の記者で、Nicoleは劇団の女優で、映画は死期が近い現在とふたりが既に結婚している頃からNicoleの癌が進行して告知されて、のそれぞれの時間を行ったり来たりしながら進んでいく。

まずはNicoleとDane (Jason Segel)の出会った頃の話があり、NicoleはLed Zeppelinが絶対で最強だといい、DaneはMy Bloody ValentineやTravisの話をしてて、この時点からDaneは負けている。関係ないけど、Led Zeppelinを崇める人ってなんであんなに確信的につよいのだろう?  とにかく、あまり大志も抱かず、女性にももてないし、スタンダップ・コメディをできればいいな、くらいに思っているDaneはふたりと一緒にいるようになり、Matthewがようやく掴んだ雑誌の仕事で海外 - 戦地とか - に行くようになると、彼らの家の家事や育児まわりを手伝うようになる。

一番だらしなくてしょうもないのはMatthewで、仕事だろうがなんだろうが関係なく家族のまんなかにいなきゃいけないに決まっているのにひとりで荒れてキレて被害者ヅラして最低なのだが、でもとにかく家の中とか近所にはDaneがいてくれて、自分は量販店でバイトとかをしながら、なにかと顔をだしたり住み込んだりして面倒を見てくれて、夫婦も子供たちも(悪いこと嫌なことをするわけではないので)いつもありがとう、ってなんとなく感謝してそのままに数年が過ぎていく。

他人からはいつもあの家にいる図体のでかい小間使いみたいな男はだれ? とか変な目で見る人もいるし、嫌味や中傷のようなことも言われて、彼も悩んで荒野を彷徨ってみたりもする - ここで出会う婦人とのエピソードがなんかよい - のだが、でもやっぱり彼らの家に戻ってくる。 なんで戻ってきたのかとか、その言い訳とか理由が映画のなかで語られることはない。

あんなに素敵だった妻でありママであるNicoleがなんで… という彼女の存在の灯がゆっくりと消えていくドラマではなく(それもあるけど)、家族の一員とは違うけど、近いところにずっとDaneがいてくれたことで救われたりケアされたりの何かがあった、それって家族にとってほんとうにかけがえのないなにかだったんだ、って。それが”The Friend” - 映画の別タイトルでもある - ていうもんだよね、っていうお話。

それだけのこと、そんなひといないわ、という人にはちっとも響かないやつかも知れないけど、世界にこういうひとはいるし、必要だし、ということは知っているし、わかるし、できればそうありたいな、って思う。 死について思いを巡らすことができるのは彼のようなひとがいるからこそ、ではないか。

こういう脇にいてじたばた奮闘する役をやらせた時、Jason Segelのでっかい図体ほどうまくはまる人はいないの。自分で脚本を書いて主演している“Forgetting Sarah Marshall” (2008)ですら、なんか脇にいるかんじが常にある不思議なひと。JAU (Judd Apatow Universe)でも同様。


ぜんぜん11月っぽくないよね。← ここにいろんな文句を集約させる。

11.05.2021

[film] Quatorze Juillet (1933)

10月30日、土曜日の昼に新宿武蔵野館のRené Clairレトロスペクティブで見ました。これがこの特集の最後の1本。

邦題は『巴里祭』 - これを考えた川喜多かしこさんたちによると「パリさい」ではなく「パリまつり」だとのこと。タイトルをそのまま訳すと「7月14日」。フランス革命の記念日で、英語題だと”Bastille Day”。NYだとBastille Dayに通りでお祭りとかやっていたなー。

でっかいタコノマクラのような飾り物がぶら下がり始めて、通りに子供たちがわらわら涌いてわーわー騒がしくなりつつある巴里の下町、革命記念日の前日、パリの酒場とかで花売りをしているAnna (Annabella)がいて、アパートの向かいにはタクシー運転手をしているJean (George Rigaud)がいて、建物を挟んでなんとなく見つめあって惹かれ合って雨宿りをしてダンスをして、明日また踊りに行こうね、って約束して部屋に戻ると、Jeanの部屋のベッドには出て行った元カノのPola (Pola Illéry)が横になっていたり、病で臥せっていたAnnaの母が亡くなってしまったり、果たしてそんなふたりの恋の行方はー。

というふたりの物語に、Jeanの仲間のタクシー運転手とわんわん、とか、いつもラリっててやばいお金持ちのじいさまとか、噂話大好きのアパートのおばさんたちとか、必ずキスの現場に出くわしてしまうご家族とか、どこにでもいそうな凸凹やくざとか、とにかくどこでもいくらでも湧いてくる子供たちとか、いろんな人々のいつもの行動 – タイミングよかったり悪かったり - の脇に彼らの恋の追いかけっこがどう絡んでいくのか。その舞台としてのパリってこんなふうだよ、とか。

狙いすましたようにときめく出会いで揚げて、なんも悪くないちょっとしたタイミングのずれですれ違って、思い違いしてぜんぶ諦めて、別の道を歩み始めた頃に再会したら… っていうrom-comの道路の上にどしゃ降りがきて子供たちが群れて、やがてみんなが歌って踊る祭りがやってくる。

『巴里の屋根の下』(1931) での恋の相手のとっかえひっかえと『ル・ミリオン』(1931) の上着の追いかけっこを経て、屋根の下というより路地とか階段も取り入れて(でもすべてはセットで)、ぜったいくっつかなければいけないふたりを正面に据えて展開する革命のお祭りの日のお話で、そこに「7月14日」というタイトルを付けてしまう。

今回上映されたこの時期のRené Clairの4作-『巴里の屋根の下』-『ル・ミリオン』-『自由を我等に』-『巴里祭』って、それぞれ「場所」-「お金」-「自由」-「時間」ていう割と普遍的なテーマを巡って流れていくかにみえて、でもなるようになるさ(たぶん)~ だってここは巴里だもの、みたいに緩めにてきとーに締めてしまうところはよいかも。この、なるようになる - それを可能にする世間とか社会の意味とか尊さ、そして豊かさなどについて考えてみること。

これらの(大)風呂敷のもとに反復されるテーマ(主題歌)とやや甘めのエンディングの受け容れられ方って時代によって異なってくる気がして、80年代だとこんなの甘すぎて付き合ってられない、だったものが、いまはなんだかとってもスイートなブランケットのように包んでくれたりコタツのように温めてくれたり。みんな棘棘してないでこれを見て! って言いたくなる。

今回のはなんといっても窓辺でうっとりしているAnnabellaよね。『ル・ミリオン』での彼女もよかったけど、あのシーンの絵だけで印象派の展覧会100回通うぶんくらいの価値があると思う。彼女があんなふうにうっとりする世界(その内側と外側)で生きたいものだわ、って。

いまはあれこれつまんなすぎて、むくれてだらけまくりの日々で、そういうところになんか嵌まったのかも。

11.04.2021

[film] Two-Faced Woman (1941)

少し戻って、10月28日、木曜日の晩、シネマヴェーラの特集 -『神話的女優: ディートリッヒ、ガルボ、バーグマン、マリリン・モンロー』で見ました。

邦題は『奥様は顔が二つ』。この邦題、少しだけ引っかかって、「奥様」 = “Wife”の話じゃなくて、それ以前の”Woman”の話なんだけどな.. ぶつぶつ。

監督はGeorge Cukorで、Greta Garboが女優をやめてしまうきっかけにもなった(と言われるくらいの)失敗作、とされている作品。『ジョージ・キューカー、映画を語る』の中でも監督自身が『どう見ても愚作だと思う』〜『どうにもならなかった』などと語っている。

NYの大物雑誌編集者のLarry (Melvyn Douglas)が休暇でスキーリゾートにやってきて、でもちっとも楽しくないしスキーなんて.. と言っていたらインストラクターのKarin (Greta Garbo)が目に留まって、彼女の個人レッスンを受けることにする。スキーなんてやったことのないLarryは転げまわって散々なのだが、一日が終わってロッジに戻ってくる頃にはふたりは結婚しよう!の熱々になっていて互いに夢を語りあうのだが、いちど仕事に没頭すると人が変わったようになるLarryとどこまでも自然体でやりたいことをやるからーのKarinはNYに戻る戻らないで揉めて、はじめは仕事なんてもう辞めだ、とか言っていたにLarryは結局NYに戻り、Karinは現地に残り、ふたりはばらばらになる。

その機会をNYで狙っていたのがLarryの社交仲間のGriselda (Constance Bennett)で、彼にアプローチをかけ始めて、その噂がKarinのところにも届いたので彼女はKarinの双子の妹のKatherine - しかもKarinとは正反対の社交好きでアトラクティヴな女性になりすましてNYのLarryの前に現れる。

Larryはスキー場の方に電話をしてKarinが不在だったことからKatherineはKarinだ、って直観して、しばらく彼女を泳がせて様子を見ることにするのだが、Katherineの方もとっても魅力的なのであれこれ我慢できなくなっていくし、Karin=Katherineの方も演じ分けが面倒で雑になっていくし。

Rom-comのプロットとして書いてみるとおもしろいかも、って思うのだが、でてきた映画を見るといくつか失敗がある気がして、ひとつはLarryがちっとも魅力的な男性には見えないってこと。編集者としては才能もあって優秀なのだろうが、仕事のことで火が付くとそっちに掛かりきりで周囲のことが見えなくなる、ってふたりが出会って恋におちた晩からその兆候はあって、Karinの性格設定からするとあんなふうに自分中心で相手をそこに合わせたがる人とは合わないかんじなのに、彼女は彼に冷たくされてもなんとかくっついて一緒にやっていこうとするとか、その辺。 仮に彼女はスポーツをやる人なので負けん気も強くてこの辺を乗り越えようとしたのだ、としたとき、対案としてまったく別のぐにゃぐにゃのキャラを作って見せつけようとするほど器用かしら? とか。 それくらいLarryのことを好きだったのよ、と言われてしまうのかもだけど、それを言われるとLarryってそんなに素敵なの? って初めのところに戻って。ま、恋のことって人のことだしわかんないし、そういうもんなのかしら。

そんなふたりの関係のありようについて、アメリカでは公開時に道徳的・倫理的に問題あり、って最初格付け機関が”C”っていうバッテンをつけて、その後シーンを追加・再編集して(ただしGeorge Cukor自身は同意しておらず作業にも関わってない)なんとか”B”っていうランク - 道徳的に問題あり – に変更されてリリースされたという。ちなみに修正前のバージョンは保存されていて、2004年にロンドンで一度だけ公開されているそう。無修正版、見たいな。

あとは、ふたつのキャラクターを演じ分けてじたばたするGreta Garboががんばっていることはわかるのだが、彼女からすれば、脚本も含めてなんかあれこればっかじゃねーの(アメリカ人)、ってあほらしくなってそのまま女優もやめちゃったのではないか、と。

Melvyn Douglasって、上手いと思うのだけど、『フェリスはある朝突然に』(1986)の意地悪な校長先生(Jeffrey Jones)に見えてしまうことがあって、この作品だと電話してKatherineはKarinだ、って気づくところとか。最後にはぼろぼろにされてほしいな、って。

ラストのアクロバティックなスキーのシーンはすごいと思ったけど、あそこでLarryを谷底に吹っ飛ばして、その後に岩の陰からGriseldaがにっこり現れる、ていうふうにしたらすっきりしたのに、とか。実はKatherineはほんとうにいて、突然双子が現れたので驚愕してそのまま谷底にさようならー、とか。

11.03.2021

[film] Memoria (2021)

11月1日、月曜日の午後、東京国際映画祭が行われているよみうりホールで見ました。

チケット発売日の10月23日には発売開始10分後にやっと中に入れたら売り切れていたので大変あったまきたことは既に書いた。チケットはそのままずっと売り切れ状態だったが当日は一応会社休んで、朝の9:30に再びアクセスしてみたら5つくらい空いていたので取った。サイトにあった『前売で完売したチケットは、当日券の発売はございません。』とか嘘つき! → いろいろ文句あるので下の方にまとめて書いた。

よみうりホールと言えばTom Verlaineの来日公演であるが、そんなのもうだれも知らないか。 
スクリーンはそんなに大きくないのと、音がもうちょっとよくてよい音だったらなー。

Apichatpong Weerasethakulの新作で、今年のカンヌでJury Prizeを受賞して、来年のオスカーのインターナショナル部門にコロンビア映画としてエントリーしているそう。

冒頭、まだ暗い室内でぼんやりした人影が見えるところで突然「どんっ」ていう異様な音が響いて、飛び起きたのが主人公のJessica Holland (Tilda Swinton)で、彼女は英国からコロンビアのメデジンに蘭とかガーデニング関係のビジネスのために長期滞在しているらしい。

映画は冒頭の音の件をはじめ、突然駐車場の車のアラームが複数台同時に鳴り出したり、街中で銃声が響いたり、いつも同じ犬が現れたり、ものすごい雨が降ったり、いつものApichatpong Weerasethakul世界の、画面になにが映り込んでいても何が鳴りだしても当たり前の世界が展開していって、Jessicaはその事態を受け容れるしかなくて、そのなかでどうしていくのか。

彼女の妹で原因不明の呼吸器系の病気で入院している妹のKaren (Agnes Brekke)を見舞い、彼女の夫のJuan (Daniel Giménez Cacho)に紹介してもらったレコーディング・エンジニアのHernán (Juan Pablo Urrego)にあの暴発音 - 布団をでっかい球でぶっ叩いたような - をコンソール上で再現してもらって、エレクトロパンクのバンド(バンド名はThe Depth of Delusion)をやっているという彼にその音を元にした曲を聴かせてもらったり、でも後で彼を訪ねていくとそんな男はここにはいないよ、と言われたり。

他には工事現場から発掘で出てきた頭蓋骨に開けられた穴のこととか、音の件で眠れないので薬を貰いにいくこととか、農村の方に行ったら赤い魚を捌いて干物(あんなところで干物?)をつくっているいる別のHernán (Elkin Díaz)という男と出会い、これまでに起こったすべてのことを記憶しているという彼とJessicaの間に起こったこと語られたことなどがすごいのだが、それは実際に画面で見てほしい。

我々はなにがどうなって我々であることを維持して保っていて、それは我々でない「異なるなにか - 他者」とどこがどう違うからそうだと言えるのか、それはずっと同じなのか時間と共に移ろっていくものなのか、その移ろいはどんな形で表出してくるもので、そこにおいて「記憶」はどんな役割を果たすものなのか、といったApichatpongのおなじみのテーマ(だった気がする)が、彼の映画としては初めてアジア圏以外の地域 - 南米の奥地 - で、英語/スペイン語をベースに、所謂スター俳優を使って展開されるのだが、無理をしている様子はまったく感じられない。それは彼のこれまでの作品を日本の我々が我々の物語として「わかってしまう」のと同じようにすんなりと、民話の「解釈」なんかとはまるで異なるレベルですらすらと語り、鼓膜の奥に「どんっ」って注入されてしまう。というか彼にそんなふうに語らせてしまうコロンビアの奥地の凄み、というか。

その世界にまったく異なる星雲系から迷い込んでしまったTilda Swintonさんの寄る方ない、でもそこにある歩みの確かさ。彼女の役名 - Jessica HollandはJacques Tourneurの“I Walked with a Zombie” (1943) - 『私はゾンビと歩いた!』- で呪いをかけられてゾンビ状態にされてしまった女性から持ってきていて、この原作が“Jane Eyre”のブードゥーへの移植展開であることを思うと、なーるほど、なのだが、Tildaの揺るぎなさときたらとんでもないし、ここに更にこないだの”The Dead Don't Die” (2019)での彼女の役柄と合わせてみると唸るしかない。映画体験とは旅をしていくようなもの、と我々を常に旅へと誘い続けてきた彼女ならではのありようというか生き様を晒してくれている。

この映画のためにコロンビアに滞在していた際のApichatpongの滞在記録 - スクラップ? - が本になってリリースされていたので、取り寄せている。おもしろそう。

あとはもう一度、でっかいスクリーンとboidの爆音仕様(ぜったい必須)で再訪するしかない。


この映画祭に対する文句;
当時朝の9:30まで車椅子席以外はぱんぱんだったはずの客席は開いてみれば真ん中エリアにもぽつぽつ、軽く20-30席は空いていた。「普通の」映画祭なら開演時間を少し後ろに倒してもStand-byのラインに並んだ見たい客を入れてくれるもんなのに、ほんとにもったいない。新しい映画を一人でも多くの人に見てもらってそれぞれに発見してもらうのが映画祭の使命ってもんじゃないの? 始まってからもドアの向こうでは市場みたいな誘導の声が響いているし、ガラ・セレクションだというのに主催者からはなぜこの作品を選んだのか、どこを見てほしいと思うのか、なんの紹介もコメントもなく、ただ始まるだけ。

ここまで観客不在のプレスと関係者重視でオレのセレクションはこんなにすごいんだ自慢をしたいのなら映画祭じゃなくて内輪の学会みたいので(それこそクラウドファンディングで)どこか地の果てで思う存分やっててほしい。 各国の映画祭で話題になった作品たちを各国の連中が騒いでいるのと同じタイミングで(日本の百年遅れてださい映画宣伝の泥にまみれてしまう前に)楽しみたい。それだけなんだけど、そんなことすら許されないのか。

六本木が、渋谷がよかった、日比谷はどう?の場所議論も興味ない。東京はシンガポールのような薄っぺらいメガ経済シティになりたいようだし、ちゃんと映画を上映できる施設はもはやシネコンにしかないし、この都市は「国際」映画祭をできる環境にはなっていないと思うし、なるつもりがあるとも思えない。スポンサーの宣伝CMも映画とは全く関係のない、オリンピックでの吐き気がしたあれらと大差ないし、こういうのぜんぶ、主催者側の映画関係者が使いたがりそうな「映画に対して失礼」なんじゃないの?

単に集客を狙うのであればフィルメックスと国際映画祭の二本立てとか(海外の人から見れば特に)謎なことやってないでアニメと怪獣とヤクザ映画に特化したコミコンみたいな「祭典」にしちゃえばいいんだ(もうじきやるみたいだけど)。 以下えんえん。

11.02.2021

[film] わかれ雲 (1951)

10月27日、水曜日の晩、国立映画アーカイブの特集 - 『没後40年 映画監督 五所平之助』で見ました。

「国立映画アーカイブ」になってからは初めて行ったかも。チケットとか面倒そうなので敬遠していた(実際面倒だった。コロナ禍の暫定対応かもだけど国の機関のシステムとは思えない)。五所平之助って見たことなかったのでお勉強で。(どうも衣笠貞之助と混同していた気がする..)

五所が東宝争議後に、自身でスタヂオ・エイト・プロを立ち上げて制作した第一作だそう。脚本には田中澄江の名前がある。お金があまりなかったらしくオールロケで、メジャーな俳優さんも出ていないし、派手なアクションや見せ場もないのだが、なんかよかった。

信州の小淵沢の列車の駅に女子大生5人が乗り換えのため降り立って、みんな楽しそうなのだが、そのなかのひとり眞砂子(沢村契惠子)だけ具合が悪そうで、あたしを置いてみんな先に行って、というのだがそうもいかず、駅の近くの旅館 – 山田屋に寝かせて医者を呼んでもらう。

やってきた若い医師の南(沼田曜一)の診断によると軽い肺炎に罹っているので数日間は動かずに療養しなさい、ということで、この旅行に明確なミッションがあるらしい他の4人に向かって、とにかくみんな行って、と眞砂子は追いはらうように告げて、ひとり旅館で寝込む。

旅館には「いるだけ」の存在感が絶妙な主人の中村是好と、その逆にずっとべらべら喋っているおかみ(岡村文子)と、都会のバレエ教師に入れ込んでネジがとんでしまった娘(倉田マユミ)の変なトリオが階下にいて、眞砂子の世話と看病をしてくれる見るからによい人の女中 おせん(川崎弘子)がいるのだが、眞砂子はずっと不機嫌にふくれて背を向けていたり寝床でがさごそ泣いていたり、なにかを抱えこんでいるらしい。

映画は医師の治療とかおせんとの柔らかなやりとりを通して体も心も少しずつよい方に向かっていく眞砂子の姿を、宿を訪れた眞砂子の若い継母(福田妙子)との危なっかしい会話(母があなたの好きな本、ってロマン・ロランの『魅せられたる魂』を持ってくるとにっこりする)や、終わりの方で現れる眞砂子の父(三津田健)と散策したり対話したりを通して描いていく。

よいのは眞砂子が結核とか診断されてもうちは旅館だから出てってくれ、とか、滞在費を、治療費を、とか、誰ひとり言わずに求めずに、しょうがねえやな、って階下に暮らす旅館屋の家族の普段の生活のグチとかレレレのおじさんみたいな日々の横に置いておくことなの。

そういう下地があるところに、眞砂子と継母の過去のこと、眞砂子と忙しくてずっと家にいなかった父とのこと、おせんの悲しい過去や南が医師を志した過去のことなどが何かが剥がれ落ちるように眞砂子の前に現れて、そこで自分の置かれている姿を改めて見つめることができて、こういうことだったのかも、って。その状態は誰のどういう態度によってもたらされたものなのか、あるいはその土地の自然とかの作用なのか、時間なのか、明確にしない。南に会いたくなった眞砂子が山道をずっと歩いていくあたりかしら。

タイトルの『わかれ雲』はやがて不吉に現れたこいつが… ではなくて、ラストの穏やかな別れと来るべき再会の約束に向けたシーンでも浮かんでいたよね、って後で思い出すようなやつ。ここだけじゃなくてロケで映し出される山村の家屋や風景、昔の旅館の部屋の暗がりなんかもすばらしくよいの (スチール写真は秋山庄太郎だそう)。ここでこんなふうに描かれた情景が培ったりケアしたりしてきた日本的ななにか、ってあるんだろうなー、と、これはポジティブな意味で思ったりした。

五所平之助、なんかよかったのでこの特集でしばらく追いかけてみることにする。ヴェンダースも始まってしまうというのにー。

11.01.2021

[film] Snake Eyes: G.I. Joe Origins (2021)

10月24日、日曜日の昼、バルト9で見ました。邦題は『G.I.ジョー:漆黒のスネークアイズ』。
宣伝文句によると「未曾有の忍者テロ」だそうだが、お仕事としての忍者ってテロリストではなくてスパイとかアッサシンだからー。

先行するフランチャイズの”G.I. Joe: The Rise of Cobra” (2009)も”G.I. Joe: Retaliation” (2013)も飛行機のなかで見ていた程度ですごく好きだったわけでもないし、李秉憲がStorm Shadowを、Ray ParkがSnake Eyesを演じた忍者たちについても、白忍者と黒忍者は昔いろいろあって仲が悪いのね~ 程度のものだった。

でも“Crazy Rich Asians” (2018) ~ ”A Simple Favor” (2018) ~ ”Last Christmas” (2019) ~ ”Monsoon” (2019) ~ ”The Gentlemen” (2019)と見てきて、大金持ちからチンピラまで、死者でも生者でもゲイでも、なんとも言えない後ろめたい暗さを振りかけてとにかく演じきってしまうHenry Goldingがビルドアップして忍者をやるというのだから、見てみようか、にはなろうもの。 あと、ようやく公開されるらしい”Monsoon”、すごくよいので見てね。

Snake Eyes、興行的には失敗だったらしいが、そんなに悪くないとおもったし、好き嫌いでいうとなんか好きなほうだったかも。

男の子が小さい頃、Safe Houseで目の前で父を殺されて孤児になる。父は殺される時に骰子を振らされて、一の目がふたつ出たのを”Snake Eyes”だな、って告げられていたので、彼はSnake Eyes (Henry Golding)と名乗るファイターとなって父の仇を探し始める。LAの港湾を仕切るお金持ちやくざのケンタ(平岳大)は自分の手下になってくれれば父を殺した奴を見つけてやろう、って持ちかけて、彼の忠誠を確かめるべく引っ捕えた裏切り者のTommy (Andrew Koji)を撃ち殺せ、と命じるのだが彼は実行できなくて、Tommyを逃して乱闘をした後にそのまま彼と合流する。そしたら髭を剃ってぱりっとしたナリで現れたTommyはケンタのいとこで、日本の忍者 - 嵐影一族の跡取りのひとりであることがわかって、Snake EyesとTommyはチャーター機で日本に飛んで、そのまま嵐影のお屋敷 - というよりお城だなあれ - に迎えられる。

そのままなんとなくSnake Eyesが忍者となる修行が始まって、祖母のセン(石田えり)が一族を仕切ってて、セキュリティ担当のアキコ(安部春香)とかHard Master (Iko Uwais)とかBlind Master (Peter Mensah)とかと順番に戦って、最後には3匹の大蛇とか出てきて、伝説の名刀を授かって、やがてケンタが戻ってくるとお家騒動になってしまうのだが、ケンタは改めてSnake Eyesに父の仇の取引を持ち出してきて…

ていうところに、一族に代々伝わる最強の殺人石を巡ってCobra側のBaroness (Úrsula Corberó)とG.I. Joe側のScarlett (Samara Weaving)が絡んできて最後は大騒ぎになるの。

いちおう日本人(たぶん)なので、念のため言っておきたいのは、ヤクザと忍者ってギャングと兵隊くらいにまったく別様式の組織なんだけど、なんか一緒になっているぽいし、銭湯には入れ墨のひとがいっぱいだし、忍者だけど忍んでなくてみんなきびきびにっぽん人として働いているかんじだし、ううむ、っていうのはあるのだが、ま、こんなもんかー。ゲイシャとかいなくて女系家族っぽいところはよいかも。

あと、Hard MasterとBlind Masterと対決するところはよい見せ場になったかもなのに一休さんのとんちみたいだし、大蛇のとこはハリポタみたいだし、殺人石の金庫が置いてある部屋はすかすかの木戸だったり、わいわい突っ込みながら見るのも楽しい。忍者屋敷のおそろしさを見せてやるべきだったのに、とか、Hard Masterっていったい何がHardなのか、とか。

クライマックス、一族総出で出撃するシーンも楽しくて、センの必殺技が黒い扇子なのはいいけど、忍者なら扇子を手裏剣みたいに飛ばしてほしかったなー。彼女の名前をセンじゃなくてサキにして、武器を黒いヨーヨーに変えたら日本でもっとうけたかもしれないのにな。

最後にStorm Shadowを名乗るところの、坊が拗ねて家出するみたいなのも悪くないし、ケンタが彼に「おこりんぼさんだな」ていうとことか、あれじゃすぐ戻ってくるんじゃないか、そういう緩いところのわかりやすさは、なかなかうまく日本をとらえているのではないか、とか。

G.I. Joeのユニバース企画はなくなってしまったようだが、これはこれでおもしろいから続けてくれないかしらー。


選挙はやはり、あーあ、だった。絶望はしない、なんて言わない。もうそんなに先長くないので死ぬほど絶望しているし、あきらめない、とか、また立ち上がる、とか、そんな体育会みたいなこと言いたくない。敵はこっちの数倍虐め体質むきだしの体育会なんだし、あんな連中相手にする時間もったいないし。

選ばれた政治家たちが下衆のクズなのはそういうもんだし事実だからしょうがない。ほんとに嫌で絶望的になるのは、人権を無視軽視し差別もヘイトもふつうに放置して、入管やコロナでは人を殺すようなことをしてきた連中をメディアも司法もなーんもしないで提灯もって担いでいるってこと。政治家が脅したり金撒いたりしながらそういう意識や土壌を作ってきた、だけじゃない。正しいことや他者の痛みに対する感覚や想像力がどうしようもなく麻痺していて、それに対する自覚すらないってこと。これじゃ戦前のドイツ - というか戦前の日本のままだって。 ジャーナリズムとかアートってなんのためにあるの?