1.30.2011

[film] Claude Bessy, Lignes d’Une Vie (Traces of a Life) (2010)

土曜日は映画1本(正確には2か)、ライブ1本。

この金土日はライブも映画もてんこもりでああどうしよう、だった。
アストリアのもいろいろあるし、Film Forumでは特集"Fritz Lang in Hollywood"がはじまったし、で、おろおろしているうちに殆ど見失う。

リンカーンセンターで金曜日から2月1日までやっている毎年恒例の”Dance on Camera”。 ダンス映画特集で、日本からは周防正行の新作とかもかかる。

金曜日のオープニング作品がこれで、土曜日の4:00からもういっかい上映があった。バレエに興味があるひとは"Black Swan"なんかよか(ていうかあれバレエ映画なのかな)、こっちでしょう。

クロージング作品も見たいのだが、むりかな。

パリオペラ座の伝説的なエトワールでジーン・ケリーの映画にも出て彼と共演して、引退後はオペラ座バレエスクールの教師としてギエムなどなど多くのバレリーナを育ててきたClaude Bessyさんのこれまでのバレエ一代、をふりかえる。

リンカーンセンターのいつも座るあたりに座ってだれだれしてたら同じ列の左側に御本人がいたのでつい背筋を正してしまった。さらにびっくりしたことに同じ列の右反対側にはジーン・ケリー夫人がいることがわかったのでひっくりかえりそうになった。

フィルムは彼女がじぶんのおうちのタンスにストックしていたいろんなフィルムを監督(自身もバレエやってた)が年代順に起こしていったもの。

同じパリオペラ座バレエのSerge Lifarをして「黄金のシルエット」と言わしめたその舞いの数々を堪能できる。 しなやかな手の動きも足をひょんてあげたときの揺るぎなさもすごい。 ギエムの師、というのがようくわかる、完全にコントロールされたある種の完璧さ。

あくまでパリのオペラ座視点、ではあるが、20世紀のバレエ史を振り返るような内容にもなっていて、ジャズ、映画、アフリカン、様々なスタイルが交錯していったそれらの時代の語り手としても彼女の目は確かなのだった。

上映後に監督と本人を交えたトークとQ&Aがあった。
(下の写真。まんなかが本人、左側が監督)

いかにも先生、というかんじの素敵なおばさんでしたが、バランシンのスタイルについて聞かれたときの反応がとっても面白かった。(ぐふふふ、て)

このあとで30分くらいの中編上映があった。
Les Reflets de la danse (Reflections of the Dance) (1979)
パリオペラ座バレエの授業風景を追った記録映画、みたいなやつで、まだ14歳くらいのギエムとかが映っているの。 仏語のみ英語字幕なし(プリント配布)だったがおもしろかった。 
子供の足先をずらーっと並べているショットがあって、爪先だけもにょもにょ動いていてみみずみたいだった。

外に出たらまぁた雪が降っているのであきれたが、時間は限られているので次のライブにむかう。

[film] Valerie and Her Week of Wonders (1970)

この週のまんなかは、雪もぐしゃぐしゃだったが他にもいろいろぐしゃぐしゃだった。 
雪は12月に来たやつほどではなくて、住んでいるひとには大変なのだろうが、わたしは観光客みたいなもんなので、たんじゅんに楽しい。

金曜日に、ずうっと行けてなかったMuseum of the Moving Imageにようやく行けた。 
1月15日にリニューアルオープンしてからようやく、今はこういう企画上映をやっている。

Recovered Treasures: Great Films from World Archives
http://www.movingimage.us/films/2011/01/15/detail/recovered-treasures-great-films-from-world-archives/

長いこと行ってなかったので場所(アストリアのへんなとこにあるの)を忘れていて、しかも雪で暗くて方向がよくわからなくて少しじたばたしたが、なんとかなった。

外観からして、入り口からして全然別ものになっていて戸惑う。
中はまっしろのぴかぴかの、いわゆる近未来風、みたいなかんじで、かつての、昔のぼろいオフィスみたいなしなびたかんじはぜんぜんない。
これじゃ、かつての常連だった老人たちは居心地わるいだろうにー。

とりあえず、メンバーになって(これはもう、しょうがないの)、いちおう、ふつうの展示もざーっと見てみる。 ヴァーチャルとか、インタラクチブ、みたいなのがあったみたい(ちゃんと見てやれよ)だが、基本は、あんま変わってなかったかも。
アーケードゲームコーナー(昔のがいっぱいあって自由に遊べる)も前のままだし。でも、ギャラクシアンをやろうとしたら、動かなかったよ。

メイクアップコーナーには、"Black Swan"で使われた「足」とかがごろん、て置いてあった。

あと、SATC(TV版)で4人が使ったメイクアップキットがそのまま展示されていた。4人それぞれでふうん、だったが、わりと普通の、でした。

あとStoreの本関係はもうちょっと充実できるよね。これからだよね?

見たのは、チェコのJaromil Jirešによる”Valerie and Her Week of Wonders” (1970)。 
原題は、"Valerie a týden divu"。 
日本でもヴィデオは出ているようで、タイトルは『闇のバイブル/聖少女の詩』…

いつものように上映作品のProgram Noteがのったプリントをくれる。

日本だとこういうのはゴスロリの文脈でしか捉えられないのが残念(ほんとだれのせいなんだよ!)であるがこれはこれで立派なひとつの作品、上映作品解説にあったように『ホドロフスキーとベルイマンの共同制作によるグリム童話』だとおもった。 
ま、じゅうぶん誤解しやすいか…

野原を歩いていたら初潮を迎えてしまった13歳のValerieが、そこから不思議の国を彷徨ってしまう一週間。宣教師、吸血鬼、魔法使い、生贄、老い、変な鶏、いたち、自分を助けにきてくれるひと、自分を捨てようとするひと、一緒にそばにいてくれるひと、これらのイメージの間をぐるぐるまわりながら彼女は一体どこに行くのか。

よいと思ったのは安易に「聖」とか「闇」とかに集約しやすい方向にイメージを操作していない、小娘の妄想なんてこんなもん、なんて軽々しく扱っていないことで、だからひとによってはわけわからん、になるのかもしれない。

けど、それぞれのイメージの整合や意味などをあまり考えなくても、どれもが綺麗なままにさらさらと流れて行く(たまになんじゃこりゃ、みたいのもあるけど)のでじゅうぶんに楽しめた。 少女映画のクラシック、だとおもいましたわ。

チェコ映画といえば、2月の2日からリンカーンセンターで、"The Fantastic World of František Vláčil"というのがはじまる。 みたいけどなあ…


1.26.2011

[music] The Decemberists - Jan.24

月曜の朝はマイナス13度で、火曜の朝は雪。

午後以降は胸と頭がぎゅーっと絞めつけられるように眠くなって、仕事もくそもなくなってくるので、早く帰ることにして、でもそのまま帰って寝てしまっても時差ボケは消えてくれないので、仕方なくライブに行く。

リリースされたばかりの新譜"The King Is Dead"のツアー初日。 Beaconの2日間(25-26)はSold outで、この日のは後から出た追加公演。


入口横のおみあげ売り場に、この3日間公演のポスター($30)があって、そこに描かれた鹿の顔を見ているうちにたまらなくなって買ってしまう。 
丸まっている紙とか、円形に切ってあるヴィニール板とか、そういうのは今回の旅では買わないってあれほど誓ったのに。 着いた翌日にやぶってどうするんだばか。


前座はWye Oak。 もうじきリリースの新譜がすばらしいとあちこちでざわざわされているふたり。
確かにすばらしくよかった。ふたりだけとは思えないみっしりとした音の厚みとミディアムテンポで吹きつけてくる白々とした音の束。  "Trinity Session"の頃のCowboy Junkiesを解体して煮つめたようなかんじ、というか、そこここに見え隠れするひりひりとした殺気がたまんない。


The Decemberistsが出てきたのは9時くらい、その前に機械みたいなアナウンスの声が入って、さあ、右側のひとに自己紹介しましょう、こんどは、左側のひとに自己紹介しましょう、とか、目をつむって静かに瞑想してみましょう、とかいちいちうるさくてたのし。

1曲目は新譜から”Down by the Water”。 11月にConanの番組のなかでやっていた曲。 TVではGillian Welchさんがバックに入っていて、新譜でもそうで、なんかREMみたいだねえ、というのが第一印象だったのだが、そうか、新譜内のギターの一部はPeter Buckさんなのね。

これ以降に演奏された曲も、リリース年次はじゅうぶん初期も含めてばらけていたようなのだが、印象としては初期~中期のREMのメジャーじゃない曲群が持っていたへんてこでほのぼのとおかしいかんじが全体を覆う。

あくまでアコースティックに留まり、怒涛の展開だの狂騒だの陶酔だのを用心深く避けて一曲一曲丁寧に、聴いてもらうことのみを目指して演奏していく。
曲の粒としなやかで柔らかいアンサンブルのよさ、そして気持ちよく伸びるヴォーカルが際立って、4曲目の"We Both Go Down Together"以降しばらくとか、終わりのほうの”July, July!”以降とかは、なにが飛んできても涎たらして「いい...」しか出てこなくなってしまうのだった。

今年は年のはじめからへんなかんじで、The Jayhawksが戻ってきて、Grant Lee Buffaloが戻ってきて、で、そんななか、The Decemberistsは今年で結成10周年なのだという。  
結構地味だったようでいて、Bright EyesやDeath Cabとの交流を通して、このバンドは00年代のアメリカのどこかに、いるところにはずっといたのだなあ、と、背後のスクリーンに投影された森のシルエット(Oregon..)を眺めながら思ったのだった。

なので、Beacon 3日間、と聞いてええー、と思ってもこの内容ならぜんぜん不思議はないのだった。
日本の子供たちにはわかんないだろうが。

新譜の"The King is Dead"は、The Smithsの"The Queen is Dead"にインスパイアされたものなのだそうな。
25年前にリリースされた捨て鉢の攻撃性とメランコリーをクラシックかつ端正な演奏でくるんだあの盤と、どこをどうリンクさせようと思ったのか、米国における”The King”とはなんなのか、とか、ちゃんと聴いてみないと、というところも多いが、わかんなくはないよね、と思いました。


本編約1時間20分、アンコール1回。 もっともっと聴きたかったが、でも、充実していたからいいの。



火曜日はGleeの日、と思ってがんばって帰ったら一般教書演説の日なのだった・・・

1.25.2011

[film] The Oyster Princess (1919)

日曜日の朝、JFKに着いたときの気温がマイナス7度で、今朝は華氏で6(!)。 
えー、華氏で6、というのは摂氏だとマイナス13度? くらい。 ばんざい。 手袋もマフラーも帽子もない。 やってやろうじゃねえか。(なにを?)

飛行機のなかでみた映画は約3.5本。

最初が、"The Town" (2010)。
見なきゃ見なきゃと思っているうちに終わっちゃったから日本で見ようと思っていたやつで、日本公開後にもういっかいちゃんと見て書こう。 同じボストンを舞台にした"Mystic River" (2003)との対比でいろんなことが言えるだろうな、とか。 生まれ育った土地から出ることの難しさ・厳しさ、というのは00年代以降のアメリカでより顕在化してきたテーマ、のような気がする。

画面全体の白々と浅く、乾いたかんじが、"Mystic..."の濃く深い闇と対照的で、あとは父と子、のありようとかそのへん。

あと、Jeremy Rennerがすんごくよい。 "The Hurt Locker"の世界からそのまま来た、といってもおかしくないかんじ。

それから、"The Expendables" (2010)。
いいよねえ。 20年前だったらCannon Filmが製作していたはずなのだが、最近誰もこういうのやろうとしないからSylvester Stalloneがやろう、ってやっちゃったんだよ。 そのせいもあるのだろうが、すごくきまじめできっちりしてて、あんまつっこみようのないとこがちょっとだけ。 

"Grown Ups" (2010)に対するアクション映画側からのレス、みたいなとこもあるのかしら。 
ないか・・・

でも、最初にキャストみたとき、Jet Li vs. Dolph Lundgrenが見られたら素敵、とか思っていたら、そのとおりにやってくれるとことか、うれしいよね。

続編がありうるのだとしたら、Jean-Claude Van DammeとChuck NorrisとMichael Pareは入れておいてほしい。
あと、いくらオトコのドラマだからって、女優さんがあんましだったので、なんとかしてほしい。

音楽もGeorgia SatellitesにCCRにThin Lizzy。 田舎のパブでがんがんかかっているようなとこが、とってもよいかんじ。

そのあとで、"Kick-Ass"のさいごのどんぱちのとこだけもういっかい。 

そのあとで、"The Social Network"をもういっかい。
最初だけ、と思っているうちにまた最後までいった。
このつなぎのおもしろさってなんなんだろ、てずうっと。  あとあの喋りも慣れてきたので、いくつかの確認もふくめて。

それから、"Wall Street: Money Never Sleeps"を1時間くらい。 

タイトルは"Wall Street"でも、物語のほとんどは、MidtownからUptownの東側で進む。
要するにそういうローカルな局地戦ではなく、よりグローバルなところに変容したマネーゲームのありようを追っかけた、ということなのだろうが、"The Social Network"を見た直後にこれを見ると、はっきりとひとつ前の時代の物語のもんだよね、ということがわかる。 物語の内容がそう、というのではなく、同じ00年代中盤の、登場人物ぜんいん裏で繋がっててぜんいん共犯、みたいなお話であるにもかかわらず、それを表す表し方として、デジタルCGがびよーん、とかいうのは、もうやめてほしいのよね。

もちろん、そういう「古さ」によってわかりやすく説明される何かがあることはわかるのだが。
でも、そういう「古さ」が、システムから離れたところで安易に放置されていたこんなような「古さ」が、サブプライム問題の根源にあった、という点を前面に出すべきだったのでは。 
(最後までみれば出てきたのかもしれないけど)
でも、この映画を「資産になる」(吐)とか思って見にくる、年に1回くらいしか映画館に来ないようなおやじ連中にはそんなのどうでもいいことなの。 
そしてこうして、世界は確実に腐っていくのだよ、と。


で、到着した日曜日は、Museum of Moving Imageで、リストアされた"L'Argent" (1928) by Marcel L’Herbier (原作はゾラの『金』)があったのだが、この寒さのなか午後2:00にアストリアに行くのはしんどい気がしたし、サイレント(伴奏あり)で3時間、体力的にふんばれる自信があまりなかったので諦めました。

でもやっぱし、ということで夕方からMOMAのワイマール特集で"The Oyster Princess" (1919)をみました。
監督はErnst Lubitsch。 サイレント(ピアノ演奏 + ボイスオーバー)。

アメリカに牡蠣王(Oyster King)ていうのがいて、牡蠣の殻と類人猿を足したような顔だちのおやじで、召使5人くらいをずっとそばに侍らせてて、豪勢な暮らしをしているの。

その娘(でぶ、仏頂面)がある日新聞で、シュークリーム王(なんの王だそりゃ)の娘が結婚したというのを読んで、そんならあたしも結婚したいんだよう、させろよう、とわめきはじめる。 やけになって部屋中のものをぶち壊していくのだが、その描写がすごい。

で、たいして娘を愛してるようにも見えない王様は、見合い屋に適当な王子を見つくろってくるように、て依頼して、見合い屋はPrince Nucki(実はぜんぜんPrinceじゃない)ていうのをピックアップして、彼の下宿を訪ねて、牡蠣王のとこに行くように、ていうの。

で、Princeはつるっぱげの友達と住んでて、おもしろそうだからその友達のほうを屋敷に行かせることにして、さて。

アメリカとか、金持ち一般とか、甘やかされて育ったそこの娘とか、結婚とか、そういうのに対する風刺なんかもあるのだろうが、そういうの以前に、全員の動きとか表情とかコトの顛末とか、すべてがなんの説明もいらないくらい変てこでおかしいので、観客全員痺れたように笑ってばかりだった。 

ラストは、もちろんめでたしめでたしなのだが、いろいろあったけどよかったね、というよりは、こんなもんでいいんだろ、おもしろけりゃ、的に放り投げてて、その無責任ぶりもすごい。 最後はあきれて拍手するしかないの。

不条理系のギャグとは全く異なる、存在そのものの調子がどこか外れてて、どこにどう行くかそんなの知らねえ系の、こんなコメディが90年前からあったのですよ。

ルビッチが現代に蘇ったら、まちがいなくMonty PythonとかSNLのライターになっているよね、と思った。


こんなかんじで、何回目かの長期滞在がはじまりました。
けど寒いし眠いので、てきとうにやることにいたします。

いま、Conan O'BrienでIron & Wineやってる。 いいなあ。

1.23.2011

[film] アブラクサスの祭 (2010)

成田空港なう。

土曜日は、伊勢丹に出かけたついでに裏で映画一本みました。

せっかく日本に帰ったのだから邦画ひとつくらいは、ということで。
ほんとは、ほんとは、シネマヴェーラの「妄異」の『下苅り半次郎 (秘)観音を探せ』をなんとしても見たかったのであるが、だめだった。くやしい。はたして観音は探せたのだろうか。

しかし、テアトル新宿も座席予約かよ。

映画は、とってもよかった。

かつてミュージシャン志望だった鬱の僧侶が田舎でライブをやろうとする、そこにいくらでも挟みこめそうな、変なエピソードや出来事の連鎖を追うのではなく、「教え」みたいなところにたどたどしく嫌らしく落ちるのでもなく、はっきりとひとつの事実と、それに向かうひとつの思想を前に出していた。

ひとはいつかは死ぬ、ということ、それでもひとは誰かに出会って生きる、ということ。 

"From Here to Eternity"。  そして、"Hallelujah"。

あの異様に力の入った濃いギターノイズとそれに正面からぶちあたる海の描写、そして「自分はノイズである」という覚醒。   あるいは、"I am the Sea" - Quadrophenia.

それだけでひとは生きのびることができる。 

ともさかりえもほっしゃん。 もいかった。


なんだかNYはとっても寒そうなのだが、そんなのしらねえ。

とにかく、今回は、ようやくアストリアのMuseum of the Moving Imageがリオープンしたのである。 リオープニングイベント(Jacques Tatiの"Play Time" Restored 70mm)には間にあわなかったが、これからもいろんなのがざくざくでてくる。

どうしよう。 到着当日にやっているやつとか。

でもね、仕事だからね。

では、いってきますわ。

1.21.2011

[film] Whatever Works (2009)

とにかくずうっとぐしゃぐしゃで、おろおろしているうちに風邪ひくは花粉はとんでくるわそもそもなかったやるきのなにもかもが粉微塵に叩き潰されてしまい、茫然としているしかなかった。 こんなだから日本て。

楽しかったことといったら、ずっと使っていたiPodが壊れたので新しいのを買ったら160GBもあったので嬉しくなって積みあがっていたCDを端からぶちこみまくり、とか、三越の上に長徳が復活したので、食べにいってじーんとした、とか、そんなもんよ。

長徳はいっつも戴いていた小魚・野菜かき揚げがなかったものの、さつまいもの天ぷらは小さくなっていたものの、ものすごくほっとした。 なんか不思議だった。

木曜日には会社やすんだ。 もういいかげんやすむ。

恵比寿ガーデンシネマにお別れを、ということでデプレシャンのとウディ・アレンのを見ようと思っていたのだが、朝から電話会議に巻き込まれてデプレシャンはだめになり、ウディ・アレンのを午後に。

恵比寿ガーデンシネマは、実はそんなには思ひ入れはなくて、思ひ出が残っているのはどちらかというとシネセゾンのほうなのだが、なんにせよ映画を見る場所がなくなるのはかなしいことだ。

それでも、そういえば、あんなひととかあんなひととかあんなひととも一緒に来たなあ、とか思いだそうと思えば出てくるし、時間がたつにつれてそんな「あんなひと」も「あんなひと」も「あんなひと」もみんなどっかに行ってしまってここんとこずっとひとりで見ているなあ、とか、そういうことも思った。 「ミニシアター」というカテゴリーがいつ、どっから出てきたのか知らんし、そういうカテゴリー分けはぜんぜん好きになれないのだが、そういう括りで思いだされてくるなにか、というのは確かにあるらしい。

そんなもやもやを抱えこんで恵比寿にいって、チケット売り場で「人生万歳」と言ってしまってから、いちおう小声で(shit)と呟いて、なかに入る。

映画はよかった。
結構雑に、いっきにがーっと撮っててきとーにつないだかんじだけど、こんなもんでいいや、みたいな軽さも含めて。

ここ数年間、NY以外の異国で、あんま「らしくない」かんじのかっちりしたドラマを作ってきたアレンが久々に自分のホームスタジオに戻って作ってみたアウトテイクスとかデモとか、そんなかんじよ。
ソダーバーグあたりがつくる「小品」あたりとははっきり趣が異なる。 
堂々としたB面、みたいな。

脚本自体は70年代からあったらしいが、それ故に、のぶちきれた勢いが正面からとんでくる。
冒頭の20分間なんて、じじいがこっち向いてべらべら喋るだけなのだが、その「しょうもない感」も含めてアレンが映画でやろうとしていること、その決意表明が珍しくストレートに出ているとおもった。(そして、それでもまだじゅうぶんに怪しいのであるが)

チャイナタウンのアパートに一人で暮らして、仲間と会えば悪態ばっかりついている偏屈老人がある日、家出娘を拾って、そこからはじまるいろんなことなど。

娘と老人は結婚することになるし、やがて現れる娘の母親は写真家デビューして男二人と同棲をはじめるし、母親を追ってきた父親は突然ゲイになってしまうし、娘はやっぱりバイアグラのいらない青年と一緒になるのだし、こんな、人物像としてはいかにもありそう、でもその間で起こるできごとはそりゃねえだろ、な、でも、まあ、トータルでWhatever Worksであれば、よいのでは、べつに、さ、という冷たく投げやりなとこは最近のアレンの作品にはっきりと連なるなにか、だろう。

しかし、これに「人生万歳!」てびっくらマークつきのタイトルつけるかね。
ものすごくネガティブで孤独でひねてよじれた視線しかかんじられないのだが。
なるようになってろ、それでいいんだろみんな、って。 

同様に、みんなウディ・アレンをJazzを愛するやさしくすてきなお爺さん、みたいに思っていないか。
あんなに暗くて意地悪でひねくれててかわいそうな老人はいないとおもうよ。

家出娘役のEvan Rachel Woodはいいよねえ。
あんな変な頑固老人のとこにも、あんな娘さんは現れるものなんだねえ。

Cinema Villageがでてくる。 チャイナタウンのあの店は、あのへんのあそこだ、とか。

で、これの後の"You Will Meet a Tall Dark Stranger"は、またロンドンにもどって、いつものかんじに戻るの。


映画館を出て、丸の内に向かい、『カンディンスキーと青騎士展』を見る。
たぶん内容はそんなでも…と思いつつも、レンバッハハウスから来ているのであれば、見るしかないのね。

ムルナウ時代のがいっぱいあったのがいかった。「山」が見れたし。

カンディンスキーの絵って、内的必然とか精神的なものとか音楽とか即興とか、あれこれ御託は並んでいるものの、絵そのものには、冷たい、無調な、無愛想ななにかがまずあって、そのはじっこに、とってつけたように、ほんわかしたなにかが雲みたいに浮かんでいるところがおもしろいの。

そこが他の青騎士の絵とはぜんぜん違っていて、カンディンスキーがころころその絵のトーンを変えていけたのもそういうことだったのだよ、というのがわかるような展示になっていた、のではないかしら。

あと、カンディンスキーがでぶ猫をだっこしている写真がいかった。

デューラーは諦めた。


それからー、久々にアテネに行って、アナクロニズムの会、ていうのの講演をきいた。
『映画の中のジャズ、ジャズの中の映画<入門編>』ていうの。
ジャズはずうっとよくわかんない領域であるし、でもいろんなクリップが見られるのは楽しくて勉強になるし。

ジャズ、もあったが、黒人の音楽やめきめきしたダンスを(どちらかというと白人の文化圏にある)映画はどのようにとらえてきたのか、をクリップを通して概観してみた、というかんじか。
キャブ・キャロウェイもカウント・ベイシーもかっこいいよねえ、としか言いようがないの。

"Cabin in the Sky" (1943) みたいねえ。


というわけで、『妄執、異形の人々Ⅴ』も見れないまま、日曜日に再び発つことになってしまいました。

もういいや、なんでも。

でも今度のはたぶんみじかいから。  たぶん...

1.11.2011

[film] Film socialisme (2010)

月曜日、仕事は夕方から出ればよろしい、と言われたので空いた時間で見ました。
日本での映画はじめ。

この作品、米国ではNYFFでお披露目されて以降、まだ一般公開はされていないの。

おもしろかったー。 いじょう。
寝てるひともいっぱいいたし、寝てしまってもおかしくないかも、と思うが、このおもしろさは異常だ。 
なんでこんなつまんなそうな映画を楽しくおかしく見れてしまうのか。
映画は音と画像とテキストからなる。 そう、これだけなんだよね。

ずうっと、"The Social Network"との対比であれこれ考えていた。
ここでの"socialisme"は、「社会主義」、というよりはどちらかというと"Social Network"の”social”に"isme"をくっつけたやつのことで、冒頭の「水は社会のもの?」「お金も?」というラインに「Netは?」を加えてみることにあまり違和感はないかも。

第一部の金貨の話とFacebookが露にしたコンテンツ、とか。
「幾何学」に対置される「アルゴリズム」、とか。
金の流れが正義だの法だのをつくる、あれこれSettleして判例をつくる。

21世紀の最初の10年で西欧における"social"の概念、そのありようが変わった、少なくとも従来のそれではなくなった。 それは例えばこんな奴ら、とかこんなコト共、とか。

"Social Network"にも客船ではないが競艇の舟が出てくる。
ハーバードのエリートが漕ぐ舟はヨーロッパのそれに負ける。

客船に乗っている選ばれた階級の人たちと、ハーバードの選ばれたメンバーからなる社交クラブと。 
威厳だの伝統だのはあるみたいだけど、それがどうした? 的な人たちの、これもまた"social"。

どっちにもプールがでてくる。ダンスクラブで踊るとこもでてくる。
どっちもあんまぱっとしない人たちが。

いつものゴダールの膨大な量の引用とその羅列、それとおなじような"Social Network"の主人公たちによる、かたかた延々つづくおしゃべり。どちらも決定的な力や瞬間を、カタルシスの快楽を、画面にもたらすことはない。 しかしそれらは常に画面と不可分ななにかとして、ある。

侵略と征服の、「外戦」の歴史としてのヨーロッパ、その拡充と膨張の時代を経て、はっきりと停滞と内省の、「内戦」の時代に入ったヨーロッパとその周辺。
その行方を決めるのはメディアであり、子供たちであり、アルパカにロバ、である。 親たちはお手上げで、もうどうすることもできない。(第二部)

"Social Network"も、ユーザ規模の拡充を通して、世界規模のNetwork基盤と テンプレートを作り上げた。 でも、それを作った当事者はそんなことどうでもよかった。
彼が望んだのはEricaたんに「歓待される」ことで、それこそ闇雲な「内戦」の日々としか言いようがなかった。

Social Networkの話の中核にある関係者間の審問の過程でのダイアログの数々。
そのまったく意味を為さないようなやりとりのいくつかは、"socialisme"で切りとられたいくつかの断片と、そのありようも含めて極めて似ているように見えた。
本質を突いているようで、実はなんにもならなかった、ゲームの約束事のような、ユーザマニュアルの記述のような、空虚な言葉 - 対話の束。

だがハリウッドを作ったのはユダヤ人だ、というラインもあった。
Facebookをつくったのもユダヤ人だ。

決定的なのはラスト近くの「伝染病なしに人類の進化はなかった」と「ペストは連合軍が上陸した日からはじまった」、そして「自由は高くつく。自由は金や血によってではなく、卑劣さ、売春、裏切りによって買われる」というあたりね。

もちろん、こんなのは全部たんなる偶然にきまっている。
しかし、このふたつが、ブッシュの恐怖の時代が終わりを告げ、対話と友愛を柱に世界中から「歓待されて」登場したオバマがなんとなくどんよりしてしまった2010という年に、米国と欧州の両岸で点滅していた、というのはおもしろいよね。

ゴダールというOperating System(OS)を考えてみる。
このOSはオープンソースで、音と画像とテキストをあつかう。
このOSは熱狂的な信者を持っていて、それを愛するひとは、その上でどんなアプリが動くか、ということより、その機能の出来映えや、洗練された思想や、基盤としての強靭さに常にしびれてきた。

Facebookは(も)、ネットワーク上に新しい基盤を立ちあげる、という試みだった。 
完全インディペンデント、コマーシャルフリーで。  金貨も宝もごみもくそも、みんなここに載ってくる。

今回、80年代からSonimageと呼ばれてきたこのOSは久々のメジャーバージョンアップ(3.0? 4.0かな? 「愛の世紀」以来?)をして、結構貪欲にいろんなものを取り込んで(携帯、動画、デジカメ連携とか)、えーこうくるかー、みたいなかんじになった。

稼働保証エリアはレマン湖近辺から地中海を中心とした欧州全域にひろがった。
でも依然として米州とアジアは稼働保証対象外である。

画面や音が汚れた、とか言われているようだが、こんなのぜんぜんだとおもった。
まだじゅうぶん綺麗だし、かっこいいし、それらぜんぶ計算ずみだし。
おなじようにすごい"Social Network"の音響/音楽と比べてみよう。

Reznor氏の作り出したアンビエンスも相当にすごかったが、この映画のガキの寝息と連動する電子音とかを聞くと、はっきりとやられたー、とかおもう。ばかみたいだけど。

それにしても、あの海のショットのすばらしいことときたら。
あんなにすばらしい海て、そんなに見れるものではないよ。

あとは猫2匹と、ピアスしたアルパカ(の耳のうごき)ね。
笑えるところもあんまないし、じじい本人も出てこないし、べっぴんさんもエロも一切排除した今回、ここのところは捨て難い。

あーでも、Patti SmithとLenny Kayeがでてくるとこだけ、なんかなー。
あそこだけ、なんかへんな「意味」が浮かびあがってしまうように見えて。

ラストの"No Comment"は言うまでもない。 
「書き込み不可」、でばっさり。

うまい。

1.09.2011

[log] Tokyo - Jan.5-8

5日に部屋をひきはらってJFKに向かいました。
パッキングは深夜にレシートとかチケットの整理をはじめたら止まらなくなって約2時間。 
くじけてふて寝して朝7時から再び、でなんとか。

前回の帰国のときも重みで肩が抜けるかと思ったが、今回はあれ以上でまじで死ぬかと思ったら、手荷物検査のとこでアナログをいれたバッグがひっかかる。
バッグをあけた係官が「これぜんぶレコード?」「うん、レコード」「DJかなんかやってるの?」「んー(めんどくせ) kind of …」とかてきとーこいて、突破した。

機内映画は3本ちょっと。

”Kick-Ass”をやっぱしふたたび。ラストのどんぱちのところは特に3回くらいリピートする。 
あそこ、もっと畳みかけるような展開にできたかもなー。

"Going the Distance" - Drew BarrymoreとJustin Longのリアルカップルによる遠距離恋愛もの。 "American Teen" (2008)の監督によるものだったので期待していたのだが、これはちょっと・・・
あまりに現実感なさすぎるようにみえて、途中でねてしまう。

目覚めてからは "Life as We Know It"を。
友人夫婦の突然の死によりその赤ん坊をひきとることになった全然相性のよくないふたりがひとつ屋根の下で育児にがんばるおはなし。
全体にちょっと冗長なとこをのぞけば、おもしろくてたのしい。
Katherine Heiglて、やっぱりいいよねえ。
これも現実感ないといえばない話なのだが、要は作りようなのだよね。たぶん。

でもこの邦題、ぜんぜんだめ。家族のはなしじゃなくて、赤ん坊が間に挟まっただけのラブストーリーなのに。なんでも「家族」だの「幸せ」だのにこじつけるんじゃねえよ。

それから、"The Social Network"の最初のとこのシークエンスだけもう一回、と思って見始めたら結局最後まで見てしまった。 これやっぱしおもしろいかも。
あと、NRヘッドホンでがんがんでっかい音で聴いてみると、音がめちゃくちゃ気持ちよくて、はっきりと音が場面を転がしていくかんじ。

到着間際に、もういっかい"Going the Distance"に臨んでみるが時間切れでだめ。
しかしなんか、内輪でたのしんでいるだけみたいなかんじで。
ラストはなんとかなるのかしら。

今回のハーゲンダッツは普通の硬さでつまんなかった。

というわけで成田に着いて、翌日から会社で。
会社の帰りに駅前の本屋をのぞいてみる。

2ヶ月以上留守にしていたので、雑誌とか目新しくてたのしいはずなのだが、ぜんぜんでしたわ。 なんかニッポン再発見とかそんなのばっかしで、なんだこりゃ気色わるい、としか言いようがない。 

恵比寿ガーデンシネマもシネセゾンもなくしてしまうような国に再発見する価値なんて、ねえよ。

土曜日は髪を切ってから渋谷にでる。
HMVはなくなったが、タワブクはある。

もう初買いアイテムは決まっていて、
"TOUCH & GO: THE COMPLETE FANZINES REPLICA BOX SET"。
わしづかみ。 これ向こうではもうどこ行ってもなかったのね。

あと、スーザン・ソンタグの『私は生まれなおしている』もついでに。
新年にはちょうどいいし。 私も生まれなおしたいし。

Simon Reynoldsの”Rip It Up and Start Again: Post Punk 1978-1984”の翻訳が出ていた。 
けど買わなかった。

月曜日は仕事だし、来週はずっと難儀なあれこれが。

当面の目標は、ゴダールとカンディンスキーとデューラー、ということで。

1.08.2011

[film] Summer Wars (2009)

日本に戻っています。 頭痛でしんでます。

3日に見た映画の3本目。 Houstonを西に流れて再びIFC Centerに戻る。

年末から始まった日本のアニメ映画、"Summer Wars (Sama Wozu)"と表記されていて、最初は1月4日迄(約1週間)とあったのだが、まだ上映しているみたい。

5時より前の回は英語吹替版、5時以降の回は英語字幕版。いちおう5時以降のを。
日本人がいっぱいいるかと思ったが、半分以上現地人だったかも。

わたしは日本のアニメの世界はぜんぜんわからないのだが、アニメファン(と呼ばれている人たち)がわあわあ騒いでいるのはわかって、そういうところに見に行くのはなんか嫌なので公開当時は見ませんでした。 そんなふうに「時かけ」も見ていない。

でも、ふつーにおもしろかったです。

長野の田舎、夏休みに集まった大家族と、ナードな高校生男子とその先輩女子、の閉じた世界と仮想空間上で発生した事件とがリンクして、それがやがて世界レベルの戦争(Wozu)に発展していく。 祖母を中心とした女系家族(いろんなキャラ)とナードが団結して悪をやっつける。 要するにこれ、60年代からある怪獣ものの時代から延々あるテーマを最近のテクノロジーランドスケープに繋いだものなのね。「怪獣大戦争」とか「妖怪大戦争」というときとおなじ、かつてのTVや映画にあった「戦争」。 
でも、古くから変わらない伝統とか習わしとか戦争の作法、みたいのもあるし、そう、そんなふうに最後には正義が勝つのであった。

だから、リアルじゃないとか、家族の絆なんて糞だ、とか文句ゆってもぜんぜん当たっていないとおもうよ。 だって漫画なんだもの。

すばらしいのは人物の動きとか間合いとかの豊かさ、おもしろさね。 アニメの、というよりははっきりとふつーの映画のそれか、それを楽しく誇張したもののようでした。 主人公がびっくりするところ、そこに至るまでの動きとか、祖母とのやりとりとの静けさとか。

ここで描かれたような、典型的な日本の田舎の夏の情景がどこまで異国の人たちにわかってもらえるのか、などなどは心配いらないとおもった。
フランス映画とかイタリア映画で描かれるあの夏たちが、その瑞々しさも含めて我々に迫ってくるなにかとそんなに変わらないはずだから、と。

アメリカ人たちも喜んでいたようで、よかったよかった。

1.05.2011

[film] Rabbit Hole (2010)

JFKなう。 車に酔って、でもお腹へって、ねむい。

3日の2本目は、IFC CenterからHoustonを横移動して、"Rabbit Hole"を見る。

”Hedwig”のJohn Cameron MitchellがNicole Kidmanを主演に据えて、こんな普通のホームドラマ撮ってるよ、と世界の片隅で話題になっていたやつ。

これは元々舞台でやっていたやつで、David Lindsay-Abaire原作の台本を読んだNicoleが気に入って映画化権を買って、で、監督に彼を指名した、というものらしい。

ごくごく普通の幸せな家族だったのに一人息子を突然の事故で失ってから夫婦の仲が壊れはじめて、妻のほうは事故を起こした若者と会うようになって、さて。

あらすじだけだと成瀬の『乱れ雲』のようなかんじかと思っていたらちがった。
あれにあったような地獄に道連れ系の刹那は、あんましない。

Nicoleの、おうちでお菓子焼いたリ、はっぱ植えたりといったごく普通の主婦っぷりと、そうしているうちにだんだん不安とか焦りとかで不細工になっていって、更に不機嫌が加速していく、そのリアルなとこはやっぱしうまいなあ、って。

Nicloeって、女王様演技もできるけど、こういうぶうたれた顔も素敵なのよね。
特にグループのセッションセラピーにいって、めそめそしている他の夫婦に毒づくところとか、すごいわ。

加害者、というよりは誤って事故を起こしてしまった若者はごく普通の高校生で、最初はお互い当然すごくぎこちないものの、いろいろ話をして、彼の借りている本 - Parallel universeのとかを読んだりしているうちに、だんだん安らぎを覚えるようになってくる。

"Rabbit Hole"ていうのは、その若者が自分のスケッチブックに描いているコミックで、失踪した父親を追っていろんな兎穴に入っていくお話、これもParallel universeに関連しているテーマで、ひょっとしたら別のかたちでありえたかもしれない生活とか人生とか、そこでは幸せに暮らしている家族だったり、場合によってはひとりいなくなっていたり、そういうのを示唆しているの。

例えばこないだ見た"Blue Valentine"は、そういうパラレルにありえたかもしれないなにか、を一切想定したりしないところで、愛はどこまでいく or どこまで壊れる ことができるのか、というある種の極限状態を描いていたのだが、こっちはそうではない。 そうではないなにか、その可能性を示すことで変えられるかもしれないなにか、を示す。  
兎穴を掘るのは誰か、それを探すのは誰か、というのはあるにせよ。

でも、例えば、舞台の上で語られるParallel universeと映画のなかで語られるParallel universeって、おなじものだろうか別のものだろうか、ひょっとしたら別のものなのかなあ、ってすこし。

夫役のAaron EckhartもNicoleの母役のDianne Wiestも、脇がすばらしくよくて、ドラマとしてはほんとによくできているとおもった。

音楽はむかしSuzanne VegaのバックにいたAnton Sankoさん。
こっちの予告では、Broken Bellsの"The High Road"ががんがん流れるのですが、映画のなかでは流れなかった。

残りのいっぽんは日本戻ってから。(かえりたくないよう)

では、飛行機のほうに。 

[film] White Material (2009)

3日は、正月休みの最後で、今回のNYの最後で、2010年の映画で見逃していたやつを3本。

最初がClaire Denisの"White Material"。

Film Comment誌の最新号の表紙がこの映画のIsabelle Huppertで、その印象がとても強くてずっと消えなくて。

ちなみに同誌のBest Films of 2010はこちら。 いちばんしっくりくる。

内戦が続くアフリカのどこかの国で、コーヒーのプランテーションを営むフランスの女主人(Isabelle Huppert)が逃げているところからはじまる。
そのうち、彼女は逃げているのではなく、家に戻ろうとしていることがわかってくる。

なんで彼女は戻ろうとしているのか、彼女が戻ろうとしている家って何? というお話。

"White Material"ていうのは、彼女の家に盗みにはいった現地の子供達が金塗りのライターを手にとっていう言葉で、要は白人の持ちもの、のこと。

ここにはものすごくいろんな要素があって、アフリカにおける植民地の問題、そこにおける格差と差別の歴史、内戦と暴力の歴史、これらがプランテーションを営む一軒のおうちに集約されて、ある日突然の危機として現れて、つまりそこを出ないと命の保証はできません、というところまで来てしまう。

これまで一緒に働いてくれた従業員も全員いなくなってしまう、夫も家を売る算段を進める、息子はそんな混乱のなかで精神のバランスを崩してしまう。

それでも彼女は断固そこに留まって、ひとを集めて、丁度収穫の時期に来ているコーヒーを摘もうとする。 そこに道義的な理由、人道的な理由があるわけではないし、今コーヒーを摘んだところで売れるわけがない。 死にたいのか、考えてみろ、とみんながいう。

でも彼女は動かない、そこが彼女の家なのだし、白人としてそこに育った彼女に、他に行く場所なんてないから。 という強い意志が彼女の化粧すらしていないすっぴんの、揺るがない目の奥からはっきりと放たれ、それが荒れ放題となったアフリカの地に火を放つ。

とにかく、Isabelle Huppertの力強さが全てで、それはこういうときに女は強いから、というようなときにいう強さではもちろんなくて、Isabelle Huppertのあの目、あの燃えるような髪、あの口がもたらした何かで、なのでこれはアフリカ内戦の映画、というよりは女性映画なのだとおもった。

彼女の夫にChristopher Lambertとか、敗走中の兵士にIsaach De Bankoléとか、他のキャストもすばらし。

あとはアフリカの土地の、その混乱した様子も含めた描写が見事で、例えば『地獄の黙示録』におけるジャングルとおなじような効果をもたらしている。 

音楽はtindersticksが枯草の、ざらっとした見事なアンサンブルを聴かせてくれます。
他にラジオからGregory Isaacs(追悼…)の"Night Nurse"が流れる。 


パッキングはじめます。 ああめんどうだ。

[film] The Conformist (1970)

この日の2本目はBertolucci特集から"The Conformist "。 『暗殺の森』、ですね。

このMOMAのBertolucci特集、ずうっと、どの作品でも売り切れが出てStand-byの列ができているのでびっくりする。 ある意味ぜったい外れないしね。

以前みたときは、もっと厳格で硬質な作品だと思っていたが、そんなでもないようにおもった。
監督本人の『暗殺のオペラ』と同じ夢を共有している作品、という発言のせいもあるのか。

『暗殺のオペラ』はひとつの場所、ひとつの村でかつて起こった暗殺のはなしで、こっちはローマとパリ、ふたつの都市をまたいでいままさに起ころうとしている暗殺のはなしで、どっちも、大義のためになにがなんでも殺す、というふうではなかった。
どちらの殺しも、行きがかり上、とか成り行きで、とかそんなふうで、防ごうと思えば防げたような、でもそうはならなかった、そんなやつなの。

それが主人公の大義、というよりかはずるずるした甘い夢、みたいなところと連係していて、どちらの映画にもふわっとした感触があるのはそのせいだろうか。 

イデオロギーとして社会的に認知され、人を扇動し、或いはそのために多くの人を殺した、(例えば)ファシズム(或いは)反ファシズム、ここに個々人の夢を接続するような安易なことは、もちろんやっていない。 

やってはいないものの、ある場所のある時間に、こんなようなかたちで起こりえたかもしれないある暗殺(或いはそれと等価の無為ななにか)、を置いてみることで現れてくるイメージ、歴史感覚のようなものがあるのではないか、というのがBertolucciが歴史と個人を描くときに一貫してとっているアプローチで(これともういっこはエロ妄想で、その表出のさせかたがBertolucciをBertolucciたらしめているなにか、ではあるの)、それは最新作の"The Dreamers"(2003)でもおなじなのではなかったか、とか。

まあ、Jean-Louis Trintignantて、歩く姿がかっこいいよねえ。

あと、Vittorio Storaroのカメラもすんごくかっこいいよねえ。

だったので、なんも考えずにぼーっと見ていればそれで済んでしまうような映画、でもあるの。
よくもわるくも。


部屋に戻ったら複数のTV局で並行してAdam Sandlerものばかりやっていたのであきれた。
"The Waterboy"(1998)に"The Longest Yard"(2005)に"The Wedding Singer"(1998)... 

お正月だから?

[film] Farewell (1930)

2日も映画2本。 この日は終日MOMAにいました。

1本目はワイマール映画特集から、Robert Siodmakの"Farewell"。 原題は"Abschied"。
アメリカに渡ってノワール系の作品をいっぱい撮ることになるSiodmakの、これが劇場長編デビュー作だそうな。
あと、脚本のPressburgerは、のちにPowell and Pressburgerになる、あのPressburgerなの。

映画に音がつきはじめた最初の頃の作品ということで、嫌味なくらいにいろんな音にあふれていて楽しい。
貧乏な下宿屋が舞台なので、掃除機、電話のベル、台所の音、魚の鱗をじゃりじゃりする音、で、間借り人がレッスンするピアノの音なんかがえんえんBGMとして流れている。

ここに修理工の彼が3年くらい住んでて、そこに彼女がよく訪ねてきてて、彼にドレスデンで働く口が見つかるの。 彼にとってはよいことなので、彼女は強がり言って行ってきなよーって押しだすの。 彼は悩むんだけど、ほんのちょっとした行き違いで、ばたばたと出ていっちゃって、お別れいう間もないまま、彼女はひとり残されちゃうの。

それが"Farewell"で、ずっと流れている歌は「さよならだけが人生さ~」みたいなやつなの。

そんなふうに地味に暗くて切ないのだが、上に書いた音も含めてすごくちゃんと作ってあって、狭くてぼろい下宿屋のいりくんだ中を落ち着いて正確に捕えているカメラ、変な下宿人ひとりひとりの挙動言動を見事に活写した脚本、どれもすばらしくよく出来ていると思いました。 80年前の映画とはぜんぜん思えなかった。

あとねー、ひとが引っ越していっちゃった直後の部屋で、まだじゅうぶん掃除もできていなくて、出ていった人のがらくたみたいのが半端に少し残ってて、そういうのってなんか妙におかしくて悲しくて、この映画の、残された女の子の場合だと、そういうのがすごく愛おしくて、泣くに泣けない変な顔になっちゃうのだが、そういうところがとっても繊細によく描けていていいなあ、て。

もう帰る時期なので、おみあげにこの映画特集のカタログを買おうかどうか散々迷って、結局あきらめた。
またくるからそのときに、と固くちかう。

[film] Faces (1968)

『わが谷は緑なりき』のあと1本とばして、6:30から、同じWalter ReadeでJohn Cassavetesの"Faces"をみる。

ちなみに間でスキップされてしまったのはKuburickの"Paths of Glory" (1957)で、何度も見たことあったし、お正月から戦争なんてごめんだ、だったからなの。

でもそれいうなら”Faces”の修羅場だってじゅうぶんごめんだ、のはずだとおもうよ。

リストレーションはオリジナルの16mmネガから35mmにブローアップしてて、白黒のがたがたしたかんじがとてもよい。 ガレルの初期のモノクロ画面みたいな磨りへったコンクリートのざらっとした感触がかっこいいの。

この作品がIndependent映画の金字塔と言われているのは、実際にCassavetes自身が走りまわってお金を工面して完全自主制作した、というのもあるが、フレーミングやダイアログ、時制からもフリーになって、それらを注意深く編集しながら、ある晩、複数の登場人物の間で起こったらしいコトの連なりをドキュメントしてそこにドラマを表出させる、という制作プロセスそのものも従来の習わしから自由になった、というところがおおきい。

映画のなかのダイアログの殆どは酒の席の酔っぱらいのたわ言みたいなもんなのだが、着目すべきは極度にクローズアップされた顔、「あんたは...」て相手を睨みつける目、歪んで毒をはきだす口、それらがくっついた頭(うしろ頭含む)、だとおもう。

ひとの話なんかてんで聞いてやしない頭、じぶんのことしか喋らない頭、他人のことなんてぜんぜんわかるわきゃない頭。 これらの頭とか顔が世の中にどれだけの禍だの毒だのを撒きちらしてきたことか。

これらの頭が粗い粒子の白黒のなかに浮かびあがったときに像として現れる異物感、というか変なかんじ。

MOMAのWarholの"Motion Pictures”の特集でのいくつかの作品を見たときにも感じたことだが、これらの頭が我々の視野に入ってこちらを凝視してきたときの違和感、異物感というのはまちがいなくこの作品の基調にあるテーマのひとつで、それはこれがフィルムだから起こるのだ、としか言いようがない。

そういうなかでこそ、主人公のJohn Marleyの鬼瓦みたいな顔も、Gena Rowlandsの霊のような白猫の顔も、夢に出てきそうなおっかなさでがんがん迫ってくるのだし、Lynn Carlinはそれらが怖くて自殺しようと思ったのだろうし、Seymour Casselはそれらにびびって屋根づたいにぴゅーんて逃げたのだとおもう(ほんとに、惚れぼれする逃げっぷりだねえ)。

そして、だから、ラスト、朝の光のなか、ふたりが階段に交互に座って放心している様子がとってもよく沁みるの。

Cassavetesがこの後のフィルムでずっと追い続けたいろんな修羅場の情景、というのはあるいみ、ここが出発点で、結局はここに帰ってくるのだなあ、とおもった。


この"Faces"の後にも上映は続いて、でも"Sweet Sweetback’s Baadassss Song"(1971)はお正月とはちょっとちがったので、見ないでおうちに帰りましたとさ。

1.04.2011

[film] How Green Was My Valley (1941)

元旦(ああ、まだ元旦のを書いてる)は、映画2本だけ。
外は不気味にあったかくて新年ぽくなかったかも。

前の晩にどんなにやくざで穢れて地獄に堕ちろの音楽を浴びていようとも、毎年最初に見る映画は歴史ものか、クラシックなやつか、に決めていて、Film Foundationの特集で丁度よいのがあったの。

John Fordの"How Green Was My Valley" - 『わが谷は緑なりき』。
これ以上お正月にふさわしい映画があるだろうか。 あるんだったら教えてほしいもんだわ。 

と思って今年最初のLincoln Centerに臨んだのだが、客席には20人くらいしかいなかった。
もうこんなのみんなとっくに見ているんだよね、と思うことにする。

自分にとって、のんだくれでがさつなIrishとWelshを憎めない理由の底には、まちがいなくこの映画があるの。

しかしこのフィルム、UCLAによるリストレーションがとてつもなくすばらしくて、冒頭に捲られる紙の質感とか、窓ガラス越しのMaureen O'Haraの表情とレースのカーテンとか、Huw Morganが歩けるようになるところの原っぱの光とか、すべてが芸術品の輝きに溢れていて改めてしびれた。

今ならどこでもDVDで簡単に見れるのでしょうけど、これを目の当たりにしてみ。
Walesの炭坑町の晴れの日、曇りの日、雨の日、雪の日、坑道のむこうの闇、人々の行く手に立ちはだかるいろんな闇が、こんなにも多彩で繊細な表情を見せることにしみじみびっくりするから。

んで、これも前の日の"Make Way for Tomorrow"とおなじように、泣けてしまうのだった。 みんなずっと一緒にいたいのに、わるいこなんていないのに、って。

あとは音楽が、歌が、いつでもどこでも鳴っている、なんでもかんでもすぐ歌になる、ていうとこね。 事故を知らせる警報とおなじように、それ以上に強く確かに、生を、大切なひとのありかを風と一緒に告げる歌。

これがあるからひとは生きていけるんだ、って、そういうことを強く、明確に言おうとしている映画なの。 ラストのMr. Gruffyddの演説は、リンカーンの演説の100倍重要なの。

あと、この映画のMaureen O'Haraの美しさはとんでもない。
90年代にマンハッタンに住みはじめた頃、仕事場のIrishのおじいさんに、彼女が住んでいるアパートを教えられて、今でもそこを通るとつい上を見上げてしまう。

[music] Butthole Surfers - Dec.31

"Blue Valentine"で2010年の映画は終って、年越しそばを食べてからBrooklynに向かう。 

年越しライブをどうするのか、は案外かんたんに決まった。
毎年暮れの恒例となったBoweryでのPatti Smithの3daysは、ここ数年、発売になるとあっという間に売り切れて手が出なかったし、GBVも同様だったのだが、こちらは30日のチケットが取れた。 そうなると残りはこれしかない。 
MSGのPhishは、盛りあがるだろうけど、ちょっとちがうしね。

Williamsburgの年越しなんてすてきだし。
そして、やっぱしチケットはぜんぜん売れていないようなのだった。

着いたら結構長い列があったので並んでみたら、みんなぜんぜん別の、隣の旧North Six(ていう昔あったライブハウス、今は怪しげなクラブ)に並んでいるのだった。
会場のMHoWのほうは、数人だけ。なかに入ると年越し宴会用の小道具 - シルクハットとか、ティアラとか、笛とか、がいっぱい置いてあるのがなかなかもの哀しい。 天井の4箇所くらいに風船がぶらさがっていて、これもだいじょうぶかなあ、とか。

というわけで、10時に前座のLumeriansが始まった時点では20人くらいしかいなかったかも。 
しかし、この白装束5人組は、なかなかすばらしいのだった。
顔も白く塗って、タトゥイーンのジャワ族みたいに目が光ってて、こういう衣装系はResidents(Eskimo)以来かもと思ったが、がんがんのグラフィックも含めて音の暴れっぷりが実にかっこよい。 ドラムスとパーカッションのふたりの暴れ太鼓が特に。

彼ら、こないだのKilling Jokeの前座もやっていたということで、注目してみよう。


     
Buttholeが出てきたのは11:15くらい。

一曲目は、かの”Sweat Loaf”で、Gibbyさんがまんなかでヴィジュアルも操作しているようだった。 
スクリーンは3面屏風仕様で、メインのには、よくまあここまで集めたねえ、のJunk-Trash系グロゲロ血まみれ映像がてんこもり。音に合わせて頭がばくはつしたりぱっくりしたり、首とか腕がとんだり、臓物がずるずるだったり、子供にはぜったい見せられないようなのばっかし。 
なのだが、音や光とシンクロすると、あーら不思議、モダンアート風のプレゼンに見えないこともない、Gibby Haynes氏もアーティストに見えないこともない、のだった。

というわけで、最初のうちは、えーかっこよすぎてButtholeじゃないみたい、と少し退いてみていたのだが、進んでいくにつれて、あまりにあんまりなげろげろ映像ばっかり続いていくので、しみじみ殺伐としつつやっぱしこれだ、こいつらだ、と思うようになった。 そして、その糞だのゲロだのをひきずって播き散らせば播き散らすほど、会場はその圧倒的な臭気と共にぐいぐいあがっていくのだった。

音のメインはGibbyさんとPaul Learyのふたりがほとんど全てで、ドラムスとベースは、固いけどぱりぱりと軽くて、どちらかといえばすかすか。 彼らは泥糞の海のSurferで、これはサーフミュージックなのだから、と思えば十分にかっこよくて、力強くて、素敵だ、最高だ、と思うしかなかった。

カウントダウンは実にそっけなくて、ああそういえば、というかんじで6秒前くらいから慌ててはじまって、ゼロ!のしゅんかんに風船がばらばらと、一部でちゃんと落ちなくて、しばらくして網袋ごとごん、て下に落ちた。 それめがけて沢山のひとがゾンビのように群がっていくのがおもしろかった。(いちばん右下の写真)

カウントダウンと同時に走り出したのが、"Dust Devil"で、これが2011年の記念すべき1曲目で、ああ、これはすばらしい1年になりそうだなあ、ておもった。
(この曲か"Who Was in My Room Last Night?" だろうなーとは思っていたが)

そこから先の鬼畜っぷり、Junkな走りっぷりは申し分ない。代表曲のほとんどをやったのではないかしら。 この辺は前の晩のGBVとおなじかんじの麻痺していくかんじがずうっと。 なにやっても脳汁と鼻汁と涎がオートマチックにたれる。

アンコールの最後はなつかし必殺の”The Shah Sleeps in Lee Harvey's Grave”で、そのままGibbyとPaulのふたりによる、ぐじゃぐじゃノイズ大会がえんえん。
例えば、Thurston Mooreあたりが垂れ流すギターノイズと比べると、このふたりが絞りだすノイズの、なんと禍々しかったことか。

ライブの様子と映像のいちぶはここで見れます。

外にでたのは0時50分くらいでしたが、外はまだぜんぜんわいわいしてて、地下鉄の駅は人でいっぱいで、おうちに辿り着いたのは1時半くらいでした。


1.03.2011

[film] Blue Valentine (2010)

MOMAを出てからダウンタウンのAngelikaまでおりて、Derek Cianfrance監督による"Blue Valentine"を見る。

別にこのタイミングでどうしても見たい、という理由はそんなになかったのだが、年明けてあんま暗いのって見たくないじゃん、とかそんな程度の。

Angelikaのロビーがひとであんなにごった返しているのを見たのははじめて。
これと"Somewhere"を一緒にやっている、というのが大きいみたい。

ある夫婦(子供あり)の、ほとんど壊れて修復しようのないところまで行ってしまった現在と、出会ったころの幸せだった過去とを交互に容赦なく並べていく。

なんの説明もなしに時制がいったりきたりするので最初は混乱するが、だんだんに溝とか亀裂が、その基に、はじめにあったはずの「愛」が、聖Valentineでもお手上げとなってしまったその矢の行方が、はっきりとかたちを取って現れる。

ふたりを演じたMichelle WilliamsとRyan Goslingがほんとに素晴らしく、ふたりが出会って一目惚れして、街角で歌って踊るシーンがあるの。
(予告篇にもなっているやつ - 映画ではこれのフルバージョンが)


ここだけのために、お金払って見に行く価値あります。

脚本と編集も、おっそろしく時間をかけて丁寧に丁寧に作っている。
嘘がないようなかんじ、というより愛が壊れる、というのはこういうことなのだ、というのを冷徹に、冷静に追って、目の前に突きつけるかんじ。
その意志にも似た力強さは、Cassavetesのそれに近いかも。

"Somewhere"でも流れていた"Smoke Gets In Your Eyes"がこちらでも聞こえてくる(The Plattersバージョン)が、こっちのは断然苦痛が。

音楽担当は、Grizzly Bear。
どちらかというと静かに控えめに、しかし鳴るところでははっきりと強く。

愛ってこういんもんなのよ、とそのどまんなかに真剣に迫ろうとした映画として、"Punch-Drunk Love" (2002)に並ぶもんだとおもいました。
それだけでっかい、近年稀なスケールをもった作品です。

[film] Make Way for Tomorrow (1937)

31日も映画2本みて、ライブ1本いった。

最初の1本は昼間に、MOMAのT3ていう、いつもとは違う小さめのスクリーンで、Leo McCareyによる"Make Way for Tomorrow" (1937) ー 邦題は、『明日は来らず』 を見る。

1年の最後の日でもあるし、日頃の親不孝とか不義理とかを振り返って反省して懺悔してみよう、と、そんなような若年寄りばっかしで結構埋まっていた。

小津の『東京物語』に影響を与えた、と言われている作品で、突然住む家がなくなってしまった老夫婦が子供達を頼って田舎からやってくるのだが、おとうさんそんなこと急に言われても、とそれぞれに家庭の事情を抱える子供達は慌てて、仕方なく父と母を別々の家に置いてあげるのだが、とうぜん、いろんなギャップとか問題が出てきて、父母もそれを察して最後は自分達で老人ホームに入ることにするの。

MOMAの説明文には、ハンカチを最低2枚持ってくるように、て書いてあって、実際その通りだったので驚いた。

しかも、その泣きが、あまりに突然、どばーっとくる。
周囲のアメリカ人とかもみんなそうで、みんな鼻水をぶわっと吹くのとおなじようにぶわーって泣いてた。 

感動、というのとはちょっとちがうのかもしれないが、とにかく、泣く。
これ見て泣かないやつは人間じゃない、って言ってやる。

それにしても、年老いたお母さんを演じたBeulah Bondi、これを演じた時点で49だったってどういうことだよ。 ありえないよ。

泣かせちゃってごめんね、ということかもしれないが、これの上映後におまけがあったの。

"American Musicals: Famous Production Numbers 1929–35".
MOMAのフィルムライブラリが作ったMix Tapeみたいなもんで、Busby Berkeleyのミュージカルを中心に、歌と踊りの有名シーンだけを切りだして紹介してくれるの。

登場したのは、順番に"42nd Street" (1933), Gold Diggers of 1933 (1933), Gold Diggers of 1935 (1935), "Flying Down to Rio" (1933), "Sunnyside Up" (1929) 。

どれもすごいし、ぜんぜん古くないし。

"Sunnyside Up" なんてエスキモーの踊りが氷山を溶かして、そこから木が生えてバナナが実って、山火事になるんだよ。 地球温暖化を80年前から警告していたんだよ。

こうして泣きやんで、楽しい歌と踊りでなんとなく年越し気分にもなって、次の映画に向かったのだった。

[music] Guided by Voices - Dec.30

”Bonjour Tristesse”がおわったのが8時くらい、そのまま地下鉄で33rdにおりて、NJ Path Trainに乗ってHobokenに向かう。 Hobokenからは乗り合いタクシーで$5。

Maxwell'sに行ったのは、2005年のThe dB's再結成ライブ以来かー。

そして、Guided by Voicesのライブを最後に見たのは、2004年12月の解散直前、Irving Plazaの3 daysの、たしかまんなかの日、それ以来なの。

Matadorの21周年で再結成したGBVはこないだの11月にTerminal5でライブやってて、でもチケットなんて取れるわきゃなかった。しばらくして12月31日のNew Year's EveのIrving Plazaが発表になったが、そのときはまーさーかーこのまま年を越すなんてこれっぽっちも思っていなかったので、どうすることもできないし。
年越しが決まったあとも、何度かTicketmasterでころがしてみたが、どうしようもない。 
そりゃそうよね。

だがしかしー、慈悲と慈愛のこころに溢れる神さまは3度目のチャンスを与えてくださって、それがこのMaxwell'sので、もうこりゃ取るしかないだろ、と。 
画面に表示されたチケット代、$75を見てうええええ、Hobokenでこの値段かよ!だったが、これは神のしょっぱい御試練ということで。

Maxwell'sって、普通のレストランの横にライブスペースがくっついているだけで、広さはMercury Loungeみたいなもんなのだが、Yo La Tengoのホームグラウンドでもあって、毎年恒例のHanukkah showの1週間、今年はOpeningでJeff TweedyとかMission of BurmaとかThe Nationalとかが出たんである。 
いちおう、伝説だの神だのが降りてくる場所、ではあるのね。

ライブは8:30開始、とあったので少し慌てて行ったのだが、8:45についても全然はじまる気配なし、前座のDoug Gillardさんのバンドが出て来たのは9:20くらいだった。

バンドは、Doug GillardさんがVo.&Gで、他にG.が1(Cat PowerのバンドにいたErik Paparazzi)、BとDで、すんばらしく固く、軽く、よくしなるギターの音。
ギターバンドとしてのアンサンブルはGBVよかしっかりしていたかも。

ラストに「これはSimon & Garfunkelへのトリビュートです。うそです」
というとても他人事とは思えないおやじギャグをかまして"I am a Tree"を。

ギターもよいが、ほんとにいい曲だよねえ。こんな詞なの。

I am a tree - counting my rings will do no good
I won't live long but I would be with you if I could
When you take flight, remember me to one who lives there
Since you have flown, there's something special in the air


で、GBVが出てきたのは10時40分くらいだったか。もう何時になったってかまうもんか。
GBV! GBV! GBV!の大歓声のなか、客席側から(ステージの裏にはなんもないから)担がれてステージにあがる。

Robert Pollardの髪はもう真っ白で、ふつうの初老の、見方によってはおじいさんであるが、でも彼らは帰ってきた。彼らの音で。
今回のリユニオンは、"classic lineup"ということなので後期の曲はあんまやらないらしいのだが、そんなこと、どうでもいいよね、かんけいないよね。

Robert Pollardは、変わらずマイクをぶんまわし、足あげダンスをして、ウイスキービールを交互にらっぱ飲み、たばこの煙もはいたりのんだりしながら、片っ端から曲を演奏していく。 それだけ。 

音のひどさも相変わらず。 壊れたAMラジオみたいな、まるく、ボールドで分厚い音の塊をどかどかばりばり、バケツで汲んでは流していくだけ。
それが、だんだん頭を麻痺させていくの。 ただ、例えばドローンの轟音が耳と脳を直撃して腐らせていく経験とははっきりと異なる、幾重にも重ねられた鼻歌の、どれ聴いても名曲としかいいようのない2分から3分間のマジックがあたまのなかで、壊れた機械のように勝手にまわりだす。

そう、まさしく、「声によって導かれたなにか」として。

pavementのリユニオンが(かつてよりは)それなりに洗練された今っぽい音を持ち込んできたのとは対照的で、こっちはなんも変わっていない。
それでも、かつて起こりえたかもしれないロックの奇跡とか魔法とか、そういうのを風のように、光のようにもちこむことができるのだとしたら、それはpavementではなくGBVのほうだ、と改めておもった。

途中まで何曲やるか数えていたが、ばからしくなってやめてしまった。
30〜40のあいだくらいかしら。 (あとでWebとかみたら46だった..)

もちろんみなさんお年寄りなので、長くやっているとそれなりにへばってくる。
(聴いている我々もまったくおんなじなのだが)

それでも、終盤の"Johnny Appleseed"以降の流れは、起こるべき奇跡が当然のようにして起こった、としかいいようがなかった。 Robert Pollardももう十分へろへろで、ジャンプすらできない、それでも決してよれることはなかった。 いや、よれるといえば既にじゅうぶんよれよれで、それは間違いなく、かつて90年代にGBVがもたらしてくれた至福 - それはlo-fiと呼ばれた - に他ならないのだった。

アンコールはステージから降りずにしゃがんて煙草すいながら雑談したりして、2回。 
ラストの"Don't Stop Now"は、みんなでぴょんぴょんはねて笑っていた。
だれも、ぜったい泣いたりなんかしないのである。 

ステージから降りて、すでに立っていることすらできなくて、スタッフに両脇を抱えられ雑巾みたいにひきずられて地下に降りていったRobert Pollardをみて、なんともいえないかんじになった。 

金はいくらでも払うから長生きしてくれじじい、ておもった。

終ったのは1時過ぎで、体はじゅうぶんがたがたで、タクシーもぜんぜんつかまらず、ようやく駅にたどりついても電車はぜんぜんこなくて、部屋についたのが2時半すぎ。 

でもかまうもんか、だったの。


[film] Bonjour Tristesse (1958)

まだ30日の続き。

Cluny Brownを見たあとで、一旦部屋に戻って少しだけお昼寝してから、Lincoln CenterのFilm Foundation特集に行った。

Otto Preminger - Jean Sebergによる"Bonjour Tristesse"。
サガンの「悲しみよこんにちは」ですね。 偶然女の子映画が続いた。

上映前に併映されたのが、Kenneth Angerの65年の短編"Kustom Kar Kommandos" (1965)、3分間。
The Paris Sisters - Bobby Darinの"Dream Lover"にのって、ぴかぴかの車メカを羽根でなでなでしてかっこいいだろーぐへへ、ていう作品。 まあ、いつもの。

そして、"Bonjour Tristesse"、タイトルデザインのSaul Bassは有名ですね。
カラーはすばらしくよい発色。リストレーションはMOMAがやったのね。

主人公のCecileは当然、断然、問答無用のJean Sebergで、Cecile CutのCecileで、モノクロで映しだされる彼女の現在から、彼女がなにかを失って悲しみにこんにちはしてしまったある夏のリヴィエラの出来事をカラーで追っていく、という形式。

彼女も、Deborah KerrによるAnneも、基本はなにも説明しないので、彼女達の突然の動きやリアクションをカメラが追う、その動きのなか、或いはモノクロとカラーの反復のなかでしか、起こったこと、彼女達の頭に訪れたかもしれない悲しみ、等は明らかにされない。 だから、ずうっとJean Sebergのすんばらしい頭部の形とかそんなのばっかり眺めていた。 
そして、それで十分だったの。

それにしても、なんてー頭のかたちだろう、あれ。

そしてこのすぐ後、モノクロの現在を引きずって、その悲しみを背負いこんで、名前をPatriciaに変えた彼女はちんぴらの世界に戻ってくる。 
それが『勝手にしやがれ』ね。

父親役のDavid Nivenもいいよねえ、あのちゃらちゃら愚鈍でなんも考えていないふうの。

せめて"Somewhere"もさあ、Elle Fanningがあの夏を振り返るかたちにすれば、もうちょっと違うふうになったとおもうのになあ。 ま、やんないだろうけどさ。

1.02.2011

[film] Cluny Brown (1946)

30日から、お正月休みに入った。でもお正月はないから、いつもの休みで、いつもの休みだからいつものように映画を見てライブに行っただけですわ。 

この日は映画2本にライブ1本。

最初がErnst LubitschのCluny Brown (1946)。 邦題は『小間使』。

Film Forumで暮れに1週間くらいだけ、New Printで上映してて、この作品はFilm Forumで何回も見ているのだが、何回でも見たくて、何回も見ているのに、なんでかいつもクリスマスの映画だと思いこんでしまう。 

気がついたら最終日だったので慌てて駆けこみました。

Cluny Brown(Jennifer Jones)は、パイプの修理が得意な小間使さんで、いつも天真爛漫元気一杯で、派遣された英国貴族のおうちでもどじばっかりで、ひどいめにあったりするのだが、めげずにがんばるの。
チェコから逃げてきた怪しげな大学教授のひと(Charles Boyer)と仲良くなったりするのだが、彼女自身の縁談とかも持ちあがってどたばたするの。

とにかく腕まくりするCluny Brown、最後に自転車をぶっとばしていくCluny Brownが素敵でさあ。 46年のガーリー映画でもあるの。

教授の恋敵になる薬屋のぼんぼんとその母親とか、小間使の上の人たちとかのおちょくり具合が軽くて楽しくて、女の子がパイプの修理してなんでいけないのよ? とか、ナイチンゲールなんて嫌いだ、とか最後までねちねち嫌味をやっているところがルビッチで、いいなあー、て。

ルビッチといえば、いまなんでか『桃色の店』を強烈に見たい。
こないだJames Stewartを見たからかなあ。

[music] Annual End of The Year Improv Benefit for The Stone - Dec.29

29日は仕事納めだし、じゃんじゃかじゃん、で1年を締めたいものだ、ということでダウンタウンのStoneの恒例納会、"Annual End of The Year Improv Benefit for The Stone" に行ってきました。

だいたい年末になると、John Zornを中心としたStone All Stars、としかいいようのない面々がわいわい大勢でじゃかじゃかやって、しゃんしゃんする。

一番よく通っていたのはTonicがCloseする直前くらいだったか。

この日のゲストは以下のようなかんじ。(実際に登場したメンツとは違うとこも)

John Zorn (sax) Cyro Baptista (percussion) Dave Douglas (trumpet) Trevor Dunn (bass) Brandon Ross (guitar) Tyshawn Sorey (drums) Jim Staley (trombone) Fred Sherry (cello) Erik Friedlander (cello) Raz Mesinai (electronics) Dave Fulmer (violin) Sylvie Courvoisier (piano) Ned Rothenberg (sax) Matt Wilson (drums)

この全員がずうっと固まってぶぁーぶぁーどかどかやっているわけではなくて(狭いから無理だし)、いくつかのチームに分かれて、1回約5分のセッションをかわりばんこに繰り広げていくの。 チーム編成はたとえばこんなかんじ。

- sax, trumpet, sax, clarinet
- laptop, bass, piano, drums
- cello, bass, violin
- piano, percussion, trombone
- piano, cello, clarinet
- laptop, trumpet, violin
- bass, bass, drums, sax
- sax, piano, trombone, percussion
- all musicians

最後だけはもちろん少し長めで、ぜんぶで1時間ちょうどくらい。
これで$20だから、1チーム$2ちょっとか。 どれも一回の真剣勝負だからすげえおもしろいし、だんぜんお得よ。

ほんとにいろんな音が出るもんだねえ、としみじみ感心して、こういう音楽をjazzと呼ぶのであれば、わたしはjazzがだいすきだ、ということになるねえ、と思ったのだった。

あと、Trevor Dunnさんはしばらく見ないうちに結構まあるくなっていた。

まだ先ですが、ここの2月のプログラムのcurationは、Laurie Anderson and Lou Reedで、えええこんなひとが(こんなせまいとこで!)、というものになっています。 
いちおう聞いてみたところ、チケットはもうぜんぜんむり。

まだダウンタウンのほうの雪はぜんぜん掃除できていなくて、車がまるごと埋まっているのがあちこちにあった。

Happy New Year (!) 2011.

あけましておめでとうございます。

今年も沢山のよい音楽と、よいライブと、よい動く絵と、よい動かない絵と、よいアートみたいのあれこれに出会うことができますように。 

Whenever.  Wherever.

年末年始のあれこれはこれからだらだら書いていきたい。

2010年の総括もできればそろそろ。

写真は、Countdown(行ってない)から約1時間後のTimes Squareを遠くから撮ったもの。