10.31.2019

[log] October 2019

10月のその他の、まだぜんぜん書けていないのがいっぱいなのだが、いくつかを。

Islander: A New Musical

21日、月曜日の晩、Southwark Playhouseで見ました。今年のEdinburgh Festivalで好評だったというので。 客席が舞台を取り囲むかたちで、各辺は3列くらい、ほぼ真四角でとても小さい。マイクスタンドふたつとごろごろのついた台がひとつ、エフェクター&ミキサーの箱がひとつ。

出てくるのはBethany TennickとKirsty Findlayのふたりの女性。最初はアカペラで、マイクを手にしてからはループをかけた手拍子から鼻息から踏み鳴らしまで、楽器音なしで歌いまくる。内容はスコットランドの孤島にひとり残された Islander - 女の子Eilidh(Bethany Tennick)とその友達とか祖母とか周囲の自然 - クジラとかいろいろな対話。 スコットランドのオークニー諸島の民話とか妖精の話がベースにあるそうで音楽(by Finn Anderson)はすこしケルトの民謡ぽいかんじ。とにかくふたりの歌の絡みがすばらしいし歌はうまいし、それだけ聴いていても楽しいの。

Tim Walker: Wonderful Things‎

12日の土曜日、V&Aでの個展。Tim Walkerというとウサギさん、だったのだが最近のはややぎらぎらしすぎててどうなっていくのかしら、ていうタイミングでこれまでの作品たちを振り返る展示。
セレブのポートレートからクラシック(バロック、ロココ..)をネタにしたインスタレーション作品まで、素材も含めたモダンと古典、理知と野性の組み合わせやコラージュはすごく尖がっているかんじはしなくて、ちょっとキャンプでファンタジーとロマンに溢れていて、ひとりでに踊りだすような楽しさがある。たぶん彼、Cecil Beatonがやっていたようなことをやりたいのかしらん。

Dalí & Magritte

16日、ブリュッセルに出張した時、オフィスに向かう途中で雨に降られた、ということにして(実際ひどい雨だったし)王立美術館に入った。
Bruegelを含むOld MastersのコレクションはBoschもCranachもあるし溜息しかないの。

ベルギーの画家、というとMagritteよりもDelvauxの方だし、Daliもべつにとくにそんなにー、なのだが、なんとなくお得そうだったので。

両者の絵が明確にわかるふうでなく並んでいて、見る前はふたりの違いなんてすぐわかるじゃん、と思っているとそうでもなくて、似たタッチやテーマのものが結構あるのが新鮮だった。目に見えているその表面をひたすら磨いて滑っていってつい我々の眼球をも滑らせておっとっと、になる楽しさ。 頭を抱えている子供たちがそこらじゅうにいておもしろかった。

Steve Reich/Gerhard Richter

23日、水曜日の晩、Barbicanで見て、聴いた。
この晩、19:30と21:30の2回上映/演奏があって、この日は再びブリュッセルに日帰りで行っていてたので、Eurostarの電車の駅から直行して間に合った。

はじめにReichの“Runner” (2016)をBritten Sinfonia (指揮: Colin Currie)が演奏して、これはいつものReichで、その後オーケストラが14-pieceに減って、背後のスクリーンも使った”Reich/Richter”が演奏・上映される。スクリーンには始めに”Movie”とだけ文字で出たような。European Premiereとあったけど本当かしら。

そんなにどぎつくないカラーの横縞が緩やかにその幅を変えながら揺らめいていて、そこに傷のように縦のギザギザが入って広がり、横の隊列が乱れて縦横のセーターみたいになり、その模様が更に変態して電子曼荼羅みたいな極彩色展開になっていく。 Richterの最近の絵にそんなBridget Rileyふうのカラフルなパターンのはあるのは知っていて、でもここではそれが動いて時間と共にゆっくり変化していく。Richterの作家性にこんなふうななんでもあり、を置くのはいつものこと(どうでもいい)なのだが、これがReichの音楽とどこまで同調して移ろっていくのかはまた別の話で、これなら狂ったように緻密なエレクトロなドラッギーなやつにした方がおもしろくなったのではないか。Reichの音楽パートは、それはそれでよかったのでなおのこと。単にReichとRichterを並べてみたかっただけなのかもだけど。  上演前にSteve Reich氏のトークがあったようで、そこではどんなことを語ったのかしらん。

Nam June Paik

26日の午後、Tate Modernで見ました。なんで今Paik ? なのかは不明。

TVやVideoを使った環境とかマスを意識した後期のインスタレーション作品よりもFluxusの頃とかJoseph Beuysとやっていた頃の方が断然おもしろい。いま彼がいたらインターネットやSNSを使ってどんなことをやっただろうかねえ、とたまに思うけど、なんか外してしょんぼりになっちゃう気がする。 PaikもFluxusもプリント- ガリ版文化の人たちで、よいわるいではなくて、世界がぜんぜんちがうような。 デジタルじゃないの。デジタルなんてどーでもいいの。

Philip Glass Ensemble:  Music with Changing Parts (1970)

30日、水曜日の晩、Barbicanで見て、聴いた。
演奏はPhilip Glass Ensembleに、Tiffin ChorusとLondon Contemporary Orchestraが加わって、鍵盤は指揮者のところにあるのも入れて5台、なかなかの大編成。 置いてあったパンフには、最近若いアンサンブルがこの曲を演奏しているのを耳にしてなにかが湧いてきて、コーラスとブラスのパートを大幅に書き足したのだそう。 まったく途切れのない1曲90分。

機械の旋律(段々で時折つんのめる)が渦を巻きながら昇っているのか降りているのかわからないエッシャーの運動を延々繰り返している傍で、コーラスとブラスが溜息のような歓声のような呻きのような息を吹きこんで、そのいろんなぶつかり合いが分厚い地層を縦に割ったり斜めに裂いたり。そのおもしろさとスリルが後半に向かうにつれてどんどんアナーキーになって収拾つかなくなって、でも建物全体は揺るぎない。

こないだの”The Bowie Symphonies”も悪くはなかったが、これを聴いてしまうとエネルギーの凝り固まりようがぜんぜん違うかんじ。

もう10月もおわりだねえ。 あと2ヶ月で10年代もおわりだねえ。

10.30.2019

[film] Goodbye, Mr. Chips (1969)

BFIではLFFが終わったあとには派手に宣伝している”Musicals!”の特集が始まり、他にも地味だけど”Maurice Pialat and the New French Realism”の特集 - Pialat周辺の作家のもかかる - が始まり、ぜんぶ見たいのにぜんぜん見れていなくて泣いている。

これは20日、日曜日の晩、Musicals!の特集枠、しかも映画の50th anniversaryである、ということでQ&Aつきの上映会があった。

上映前のQ&Aに出てきたのはPeter O'Toole元夫人で、映画の中ではKatherineのかっこいい友人Ursulaを演じているDame Siân PhillipsとRaymond Ward .. って誰よ? というと映画の中の学芸会シーンでみんなで歌って踊るところでひとりだけ変な動きをして笑いを取るガキだったひと。(あのシーンは他の出演者には内緒でスタッフと自分でこっそり考えてやったのだそう)

Siân Phillipsさんの思い出話は、夫婦で映画に出ることについて自分は平気だったけどPeterはすごく神経質になってできるだけ一緒にいないようにしてて、でも撮影はリラックスしてみんなにとって素敵な夏の思い出になっているって。 あと、監督Herbert Rossのアシスタントであり奥さんだったNora Kaye(前夫がIsaac Sternだった)のエピソードとか。

原作の『チップス先生さようなら』は小さい頃に読んだ最初期の文庫本のひとつだったと記憶しているのだが、欠片も覚えていないのが悲しいよう。

上映は35mmで、現在ヨーロッパに現存するこの映画のフィルムの中では最良のコンディションのプリントだって。確かにうっとり。たまにぶちぶちしていたけど。

20年代の英国の、厳格な男子校のBrookfield Schoolでラテン語の教師をしているチップス先生 -Arthur Chipping (Peter O'Toole)はみんなに堅物の変な奴、って思われていて自分でもいいもんそんなもんだし、て思っているのだがある日歌手のKatherine (Petula Clark)と出会って、夏休み中のポンペイでも偶然に会って、話をしていくうちにお互いだんだん惹かれていって、ありえないありえないって自分で言いながらも結婚することになって周囲を唖然とさせて .. ずっとふたりで仲良しで。

イギリスの穏やかな地方の絵とゆっくり戦争に向かっていく暗い時代と、それでも来ては去っていく元気な子供たちとそれを迎える教師はあまり変わりなく移ろっていく、そういうゆったりとした時間の流れのなかで出会いがあって恋が生まれて、悲しい別れもあって。 という雲の行き来のような時がしっかり描かれているので、なにが起こってもうわあー!(歓)ってなる反対側で、悲しいことはほんとうに悲しく沁みてどうしようもない。 Arthurが長い手足で一目散に走り出すシーンとか、かきむしられるかんじ。

音楽もよくて、Petula Clarkが上手なのは当然として、Peter O'Tooleのぼそぼそした歌もボサノヴァみたいに聴こえないこともなくて、それと教師としてのC-3POみたいな(いや、あっちが真似しているのか)喋りが対となってなかなか素敵ったらない。

監督のHerbert Rossはこれが初監督作で、この次に”The Owl and the Pussycat” (1970)を撮っているのね。これも隣の、でも別世界から来た奔放系の女性にかき回される話だよね。

鴛鴦歌合戦 (1939)

20日の午後、チップス先生の前にBFIで見ました。 これも”Musicals!”特集の一本。英語題は”Singing Lovebirds”。
ミュージカルだろうがなんだろうが、BFIでマキノがかかるなんてえらいこっちゃ、とか、こいつぁめでてえ(ぴしゃ)とかそんなかんじで、なにがなんでも見にいく。

これ、大好きでLDも持ってて何度も見たし。
常連のお年寄りとかもいっぱい来ていて、あのTakashi Shimuraが歌って踊るんだぞ、うそー?  とかそんな会話をしている。
うん、歌って踊るのよ。

浪人浅井禮三郎(片岡千恵蔵)の周りに3人の娘 - 長屋の隣に住む仲良しのお春(市川春代)と、取り巻きがいっぱいいるお金持ちの娘おとみ(服部富子)と、昔の許嫁の藤尾(深水藤子) - がいて、貧困とか格差とか因習とかいっぱい問題はあるものの歌って踊ってしゃんしゃんしゃん、でよいの。 恋のさや当てとか、そういうのより骨董狂いのお春の父(志村喬)が他人事とは思えなくてかわいそうでならなかった。 あと、態度を最後まではっきりさせない浅井がいちばん悪いのでみんなでとっちめてやるべき。

デジタル上映だったのだが、画質がもうちょっときれいだったらなあ。日本の昔のって4Kリストアしたらすばらしいに決まっているのが山ほどあるのになー。でもお客さんはみんな大喜びで笑いながら見ていたのでなんか嬉しかった。 来週にもう一回上映あるよ。

これで『次郎長三国志』でもやってくれたらBFIにいっぱい寄付するのになー。

それにしても、いまFilm Forumでやっている”SHITAMACHI”特集のラインナップがすごすぎてうらやましいったらない。

10.29.2019

[film] Chambre 212 (2019)

9日水曜日の晩、Cine Lumiereで見ました。 LFFでは”Love”のカテゴリーに入っている1本。

英語題は”On a Magical Night”。 監督はChristophe Honoréなのでどうせ見る。今年のカンヌの「ある視点」部門に出品され、Chiara MastroianniがBest Actressを受賞している。

大学講師をしているMaria (Chiara Mastroianni)は若い男のアパートで情事して、帰り際にも別の男が気になったりして、でも家に戻ると結婚して20年になる夫のRichard (Benjamin Biolay - 実世界では前夫)がいる。 で、Mariaがシャワーを浴びている時に彼女のスマホに入ってきた男からの熱いメッセージを見てしまったRichardがぶつぶつ言うのでなんか嫌になったMariaは家を飛び出してアパートの向かい側にあるホテルにひとりでチェックインする – それがタイトルになっている「212号室」、なの。

少し気になったので窓越しに自分のアパートの方を覗いてみるとRichardはひとりでぼんやり佇んでいて、そしたら突然自分の部屋に若い頃のRichard (Vincent Lacoste)が現れたのでびっくりする。 更に当時のRichardの元カノのピアノ教師Irene (Camille Cottin)も現れてこっちを見ながらいろんなことを語りかけてくる。 IreneからすればMariaは自分からRichardをかっさらった女とも言えるし、当時のRichardがIreneからMariaに乗り換えたのだとも言えるし、それらはたぶんもちろん、あんなことをしてこんなことになっている自分自身の罪の(あるいはその逆の)意識みたいなやつがいろんな人の形(あるいはあれらはほんとうは… )をとって自分にとっての結婚とはなんだったのか、とか、これからもずっとこの状態でやっていくのか、とか、自分の人生って…とか、いろんなことを自分に問いているのだと思うのだが、そのうち60歳になったIrene (Carole Bouquet)まで出てきて、最後にはみんなでバー(”Rosebud”ていうの)で呑んで歌うしかない。

これが雪の散らつく寒い晩に起こった”Magical Night”で、ディケンズの『クリスマス・キャロル』や”It's a Wonderful Life” (1946)みたいなのをやりたかったらしいのだが、あれらよりもずっと生々しい迫力でくる(としか言いようのない)ものがあって、それはChiara Mastroianniの生々しい演技がすべてで、自分を半径とした修羅場をあんなにも他人のそれに繋いで透過させ、更に見ている我々のそれにまで結びつけてしまう。それを超越的ななんかの力とか借りずに彼女の生の身体と歌の力とか…  で、今回の音楽はBarry Manilowの”Could It Be Magic” (1973)が天から降り注ぐの。

Honoréの“Les chansons d'amour” (2007) - “Love Songs”、もう一回見たいなー。

ところでOlivier Assayasの“Non-Fiction” (2018)のあの邦題はなに? 呆れてなんも言えない。バカにしてるわ。

Finishing School (1934)

9日の晩、"Chambre 212"の前にBFIで見ました。 これはLFFの”Treasures”のカテゴリーので、サイレントではなくて、Pre-Code時代(リリースは1934年のヘイズコード発効直前)の典型的な作品として、この当時は少なかった女性監督 - Wanda Tuchockが手掛けた作品 - しかも女子学園モノとして、いろんな角度から見て楽しめるよ、と(イントロで)。

Virginia (Frances Dee)が母に連れられて厳格なしつけの寄宿学校 - Crockett Hall finishing schoolに入るところで、校長はいろんな規則を並べたてるのだが、ルームメイトになったPony (Ginger Rogers !)は適度に素行不良してて、タバコすぱすぱ吸ったりおおざっぱで、そんな彼女たちの影響を受けてVirginiaも朝帰りとかするようになって、病院勤めの彼もできるのだが、学校側もうるさいので対立して孤立していくの ..

この頃からこんなふうなおてんば娘の学園コメディはあったんだねえ、って。

10.28.2019

[film] Official Secrets (2019)

16-17日は仕事でブリュッセルにいたら、17日の昼前にBrexitでBorisがEU連合と合意したとか言うふざけたニュースがぽこっと入って、まあああたこのブタ野郎(いつもいつも引き合いに出してほんとにごめんねブタ)は、せこいことばかりやりやがって、と帰るときも憤懣やるかたなく近場のEU連合ビルにどなりに行ったろか、くらいに思った(実際にそういう人たちうろうろしてたし)のだが、しかたなくロンドンに戻ってTVつけると、Brexitまでのカウントダウン – Day : Timeなんてやっているのでふざけんじゃねえやい、だったの。

で、この映画はCurzon Mayfairの、20日土曜日の12:45の回を取ったのだが、そこに向かう地下鉄が立て札と帽子(ヘルメットじゃない)で装備した人々でざわざわすごい混みようで、降りたいGreen Parkの駅はデモのため閉鎖していて止まらないよ、とかいうのでひとつ手前のHyde Park Cornerの駅で降りると、更にものすごい人の波で階段も道路もびっちり、映画館まで辿り着けなかったらそのままデモ参加すればいいか、ってしばらく一緒に歩いた。

みんないつものデモのモードで、”Bollocks to Brexit, Bollocks to Boris”のステッカー貼って、外見は歌うたって朗らかなんだけどあたりまえのように激怒していて安心した。 そしてこの怒りの波はデモの回を追うごとに(少なくともロンドンでは)でっかくなっているの。まあね、往生際わるすぎ、ってふつうなら思うよね。

びっくりしたことに映画はCMが始まっていたものの間に合ってしまい、デモ後の鼻息あらい状態で映画の世界に入ってみれば2003年、英国がイラクへの派兵を決めた際のロンドン史上空前規模のデモの様子が映したされたりしているので、拳を握らないわけにはいかない。

こないだのLFFでは”Debate”カテゴリのGalaでプレミア上映されていた作品。実話ベース。

2004年2月、法廷でKatharine Gun (Keira Knightley)が国家機密を漏洩した罪に問われようとしているところが冒頭。 話はそこから1年前に遡る。

英国の政府機関GCHQ(Government Communications Headquarters)に勤めていたKatherineはある日、米国NSAから届いた国連にイラク侵攻を認めさせるための裏工作指示メールを見て、なにこれ?こんなの違法じゃないの?って周りを見渡すとみんな受け取っている、という。こんなことまでして自分の国を他国の戦争に参加させるのはおかしい、って頭にきた彼女はメールをプリントアウトして知り合いの反戦活動家に渡し、活動家はそれをThe Observer紙の記者(Matt Smith)に渡す。 リークされた内容は最初Fakeと言われる(担当がSpellcheckかけちゃったら英国綴りになった… って)ものの、送付元の裏が取れたりしたので問題化し、Katherineの職場では誰がやったのかについて捜査官を入れた個別面接が始まり、なんとかやり過ごしていた彼女も決意を固めて自分がやりました、って言うと..

一応政治サスペンスのような売られ方をしているのだが、Katherineも彼女を弁護士として支えるRalph Fiennesも自分の信念に沿って行動するので強くて負けなくて、怖い、というより気持ち悪いのは彼女を国のスパイとして喚きたてたり彼女の配偶者(トルコ移民)を強制送還しようとする政府側の異様な動きの方。 でも結局は彼女のいちかばちかの捨て身の賭けがあの戦争はIllegalなものだったごめんなさい、と国に認めさせたのだから偉い。ただ、そのウソ情報に基づいた侵攻で数万の人が亡くなったって、ほんとにひどいし許されるものではないよね。

当時、911後の米国でもアルカイダとフセインを線で結んで喧嘩を売るのはブッシュの私怨に近いこじつけだろ、ってみんな思っていた。でも周囲にはまだ傷ついた人たちも沢山いたし.. というのは言い訳にすぎなくて、やはりきちんと反省しなければ – というのが今なのだと思う。

それにしても、Brexitも本件も、いろいろあるけど最後は国の議会や法廷がきちんと機能する、っていいよな、って。 にっぽんはそれすらだめだもん。ほんとうに教科書で読んで昔の話と思っていた戦前のひどい状態が目の前にある、ってどうしたらよいのか。

10.27.2019

[music] Gary Numan

25日、金曜日の晩、Roundhouseで見ました。
40th anniversary tourの欧州での最後(11/1にLAのフェスに出るのがラスト?)。 Londonでの2 Daysの2日め。

こないだのHelmetにしても前の日のLloyd Coleにしてもこれにしても、ここのところ30年、40年ていう単位で振り返り総括みたいなライブをされて、それはめでたいことだし彼らにとっては節目でしかないこともわかっているのだが、受けるこちら側はそれをきちんと受けとめる準備ができていなかったというか、彼らに浸って聴いていた頃なんて30年後や40年後に彼らも自分らもまだ生きているなんて思っていなかったし、30年40年を生きるというのがどういうことなのかわかっていなかったし(まあ前世とかあったのなら別だけど)、自分も同じようにこの30年40年を振り返ってみる(なんもないや。からっぽ… )とか、少なくともそういうことを考える機会をくれてありがとう、と感謝とかしたほうがよいのかしら?

Gary Numanの中野サンプラザの初来日公演のときは高校生だったのでライブなんてとても行けなかったのだが、Tubeway Armyの”Replicas” (1979)はものすごく聴いて、たいへん影響を受けている - どこが? というと“Me! I Disconnect from You”とか"Are 'Friends' Electric?" といった曲のタイトルを並べてみればよい。友達をいっぱい作って世界を広げないといけない高校生の時にそんなの吹きこまれてシニカルに内に篭り、更にサルトルとか読んでいたので、もうどうしようもなく腐っていた(いまもな)。

そんなことよりなにより、肝心なのはこれが英国ではとても売れた、ということなの。本流パンクのおらおらマチズモに乗り切れなかった軟弱はぐれモノ共を大量に地表に曝して放った功績はあると思う。(そしてここから10年後のアメリカで、”Pretty Hate Machine”というタイトルのアルバムをひっさげ「コントロールされるくらいなら死んだほうがまし」っていうバンドが出てきて売れたのは偶然とは思えない。どうでもよいけど”Pretty Hate Machine”の一部は今回のライブ会場Roundhouseのスタジオで録音されているのよ)

いつものようにへろへろだったので前座はとばして21時に会場についた。若者もそりゃいるけどだいたい年寄りばかり。この年寄り - ほぼ男 - 共が「ぬぅぅぅーまぁぁあん! ぬぅぅぅーまぁぁあーあん!」て掛け声かけてたいへんやかましい。まるで放牧している牛かなんかを呼んでるみたいな野太い声で。

わたしは、なんでかいきなりダサくなってしまった”Telekom” (1980)以降はほとんとまったく聴いていないので、それらの曲についてはわからないのだが、最初からライティングは白色系のがんがんで、音は..  最近のNINのが膨らんでふやけたみたい、というか。 ただNINのライブの暴風のようにあっけにとられて持っていかれてしまう凄まじさはさすがにないし、ダンサブルに揺れながら盛りあがってくタイプの曲たちでもないので、落ちついて聴いていられた。

そうやって聴いてみると初期の曲のへなちょこB級パンクみたいな構造もくっきりと浮かびあがっておもしろかったり、あんなに陰鬱に聴こえた”Down in the Park”も緑のライティングでアッパーになってぜんぜん別の曲に聴こえたり、発見もあるねえ。”Cars”では背後に昔の白王子だった頃(があったのよ)のクリップも流れるのだが、さほどギャップを感じない気がしたのはIan McCullochみたいな刈り上げ頭にしているからだろうか。 そんなふうに、わーとか、うーとか言っているうちに本編は"Are 'Friends' Electric?" で締まる。

彼は終始どこまでも愛想よく笑って楽しそうで、でも曲間には喋らなかったのだがアンコールで”Replicas”をやったあとにようやく口を開く。
ここまでやってこれたのは君たちがいてくれたから、とかなんとか感動的なの。あのさーレプリカでアンドロイドで、”The Pleasure Principle”とか言ってた奴が、そんなこと語っちゃだめじゃん、って。 「いつまでやるのか? っていろんな人に聞かれる。ぜったいやめない(照)」 - で、この次にやるのはこんなやつだよ、と来年秋から新たに始まるツアータイトルでもある”Intruder”を。これはさすがに音がすばらしく活きているかんじ。

スタイルをいろいろ変えてきて、これからも変わっていくのだろうが、わたしとあなたの間にある壁だったりスーツだったり鎧だったり車だったりエイリアンだったり、つまるところ「わたしはなぜあなたではないのか?」問題をずっと掘り続けている、という点でこのひともTrentも遡ったその根はBowie、というのは短絡すぎるだろうか? 少なくともこれが思春期で終わるような易しいもんではない、死ぬまで囚われ続けて抜けられないなんかであることを示し続けている、という点は感謝したい。

その後、最後の最後に照れ臭そうにアコギを手にして1stからの*Jo the Waiter*を。こんなふうにアコースティックに始めた彼がここまで来たのだからおもしろいねえ。

あーそれにしても、(一日目にはやった)“Me! I Disconnect from You”とか、他にも聴きたかったのいっぱいあったのになー。

冬時間が始まったのだが、ずっと眠くて1時間得したかんじがまったくない。

10.25.2019

[music] Lloyd Cole

24日の晩、IshlingtonのUnion Chapelで見ました。(前回ここに来たのはTangerine Dreamのとき)。London 2 Daysの1日目。

Lloyd Coleは88年(軽く30年前かよ、かんべんしておくれよ)の中野サンプラザでLloyd Cole and the Commotionsとして見て以来…  あの時は、”Mainstream” (1987)というすばらしい作品を出した後だったので絶対チケット売り切れちゃう、ってがんばったのにストレスなくふつうに最前列が取れてしまったという(会場全体でも前の方までしか入っていなかったかも)、でもライブそのものはすばらしく漲ったもので、でもバンドはこの後しばらくしたら解散してしまったので、なんかLloydには悪いことしたかも - この借りをいつかー、と思ってNew YorkでもソロやThe Negativesのライブに行く機会は結構あったのに、気づいてみれば30年だよ。

Lloyd Cole and the Commotionsというバンドは80年代中期のグラスゴー(の爽やかなあれら)出、いう文脈で語られがちだと思うが、彼らの音は3枚のスタジオアルバムを聴けばわかるようにそのスタイルをころころ変えており、あれらとはちょっと違うことがわかるし、Lloyd Coleは単にとても優れた英国のソングライターでありシンガーだと思う。それこそRay Daviesに匹敵するくらいの。

場所は教会なので椅子席で手前に聖書を置く板があって、みんなマグとかコップを置いて落ち着いて聴ける。 20時きっかり、前座なしでLloyd Coleが出てきてギター1本で。3曲めでゆったり歪むブルーズのようなフレーズから”Rattlesnakes”に入って、ソロの“Music in a Foreign Language”(この曲すき)から”My Bag”に抜ける。ギターを変える合間に直立不動でぼそぼそいろんなことを喋る。 いまのこのパフォーマンスは誰も知らないし聴きたくもない曲を演奏するただのオープニングアクトで、この後に本編が始まるよ … 云々言って約20分の休憩に。 会場にはThe Only Onesの“Another Girl Another Planet” -  ううなつかし - なんかが流れる。

21:00から本編、というか第二部で、ギターにCommotionsのNeil Clarkが入って、いきなり”Are You Ready to Be Heartbroken?”から。来日公演の最後の曲 - 2回めのアンコールの – はこれだったねえ。 頭のなかでもっとも呟かれることが多い曲のタイトル、いろんな機会のたび、だいたい年100回くらいは頭のなかを流れる。(同様のかんじで頭のなかでタイトルが繰り返されるのは、*When Love Breaks Down* - これも84年)

一応新作”Guesswork”リリースに伴うツアーなのだが、過去のソロ、The Commotionsのが半々で間にたまに新作のが入る、くらい。

次の曲はみんなにも参加してもらいたいと、ここからこっちをRedグループ、こっちをBlueグループに分けて.. まあそんなことはやらないけど、歌ってくれないと最後のあたりで自分は惨めに途方に暮れるしかなくなる、そんな曲です、とかぶつぶつ言って始まったのが"Jennifer She Said"で、それなら、とみんなで一緒に「ぱっぱらららら♪ ぱっぱらららら♪ ぱっぱらーらーらーらー♪ 」って一緒に歌ってあげる。

続いての”2cv”でも”We were simply wasting precious time” って、このフレーズもなにかと頭に浮かんで漂って消えるのよねえ。

ふたりのギターの絡みはどっちもアコースティックなのにまったくそう聴こえない – 特にNeil Clarkの高音をかんかん響かせつつうねるあれってなんなのか – “Perfect Skin”の間奏のとこなんて特にあんぐり。

最後は”Hey Rusty” (3rd) やって”Perfect Skin” (1st) やって“Lost Weekend” (2nd)で締める。”Perfect Skin”のエンディングはなぜか”Children of the Revolution”になっていたり。

1回のアンコールの最後は”Forest Fire”。 恋するふたりが会うとそこらじゅうなんでも焼き尽くしてしまうねえ、まるで山火事のように、っていう歌。 また会えますように。

20時始まり、22時半終わり。
まだまだ聴きたい曲はいっぱいあった。"Patience"とか"Brand New Friend"とか"Sean Penn Blues"とか。

この間のGuardianにふたりのすばらしいインタビュー記事が載ったので貼っておく。

https://www.theguardian.com/music/2019/oct/08/lloyd-cole-and-the-commotions-how-we-made-rattlesnakes

10.23.2019

[film] Vitalina Varela (2019)

12日、土曜日の夕方、ICAで見ました。LFFでは”Dare”っていうカテゴリーからの1本。

前作の“Cavalo Dinheiro” (2014) – “Horse Money”は見ていない。見たいよう。
これの裏ではOlivier Assayasの新作 - ”Wasp Network”の上映(1回きり)がチケット発売後に後から発表されて、ぎー、って叫んだ。

今年のロカルノで金熊とBest Actressを獲っている。当然かな。

冒頭、ゴヤの絵のような闇に沈んだ路地の奥から葬儀の後なのか人々がこちらに向かってゆっくり歩いてくる。それだけでこの世界に繋がれて囚われてしまうかんじ。

続いて空港で、飛行機のタラップからなぜかびしょ濡れの裸足で降りてくる女性。これがVitalina Valeraで、彼女はCape Verdeからポルトガルに働きに出ていた夫の訃報を聞いて飛んできたのだと。全て畳んでここに来たのでもう国には戻れない、でも夫はいないのでここにも居場所はない、と。

それでも夫が住んでいたスラム(としか思えない)の廃墟長屋に入って遺品を整理したり、夫の知り合いの話を聞いたり(付き合っている女性がいたらしい)、食事を作ったり作ってあげたり、牧師 (Ventura)と会話になっているようないないような会話をしたり。
部屋と長屋周辺、教会、墓地、場面はそれくらい、時間帯はほぼ夜、畑仕事みたいのをする時も夜中、部屋のなかはほぼずっと暗かったり雨だったり。

そんな限られた場所の限られた時間で、交わされる会話もほとんどなく、たまに歌が聞こえてくる程度で、この中からドラマのようななにかが立ちあがったり進行していく気配なんて微塵もない。

彼女がVitalina Valeraで(Venturaもそうだけど)本名も役名もおなじで、実際にこれはCape Verdeからリスボンにやってきた彼女の身の上に起こったことなのだそうだから、これは彼女のドキュメンタリー映画なのかというと、やはりそうではなくて、彼女がどこでどうしてどうなった、という事情あれこれを綴ったものではないの。何度もアップになってこちらを静かに見つめてくる彼女の眼差しに囚われて動けなくなる、その暗がりの中で幾重にも重ねられた彼女の生と対峙する、そういう時間で、これって別に映画鑑賞とか呼ばなくてもいいような。

ここにはひたすら圧倒的で、圧倒されるしかない剥きだしの、その前では肯定も否定もしようがない生の貌のようなものが映っていて、こんなものを掘り出して時間をかけてカメラの前に据えたPedro CostaもすごいけどVitalinaはもっとすごくて目を離すことができない。 彼女はなんであんなにもものすごく生きているのか、って。(”Best Actress“しかあげられるものはないのだろうけどそういうのを軽く超えたありよう)

身の上語りでも人の評判でもその間のお喋りでも語り尽くせないなにかがここにはあるので見てみてほしい。
とにかく見て、としか言えないわこんなの。

そして最後のシーンでじーんと打ちのめされるの。

もういっこ、極めて政治的なフィルム、ということも言えるのかもしれない。なにかを政治的に突き動かそうとしている、とかいうのではなく、貧困、都市、ジェンダー、移民、ポストコロニアル、そして愛と、これらの問題の諸相が凝縮された貌 - 今の政治のありようが生々しく表に出てしまっているような。昨今のドキュメンタリー映画の主人公たち100人の顔たちを重ねたような顔、W. Eugene Smithの写真のなかにいる人の印影。

でも、彼女を画面の向こうのイメージにしてしまってはいけない。

上映後、監督のPedro CostaとのQ&Aがあって、”Horse Money”の撮影の終わりの方でVitalinaと出会い、彼女が映画の中で語っているような彼女の身の上を聞いて映画にしたいと思い、対話を重ねながら時間を掛けて撮影していった、という経緯の話。アプローチはVenturaを撮るときのそれと似ていたが、彼女が女性であるということは意識したので、その点では『ヴァンダの部屋』(2000) と似たかんじだったかも、と。

質問はなんかしょうもないのが多かったのだが、一生懸命考えて誠実に答えようとするところはPedro Costaだった。

10.22.2019

[film] Fête de Famille (2019)

7日、月曜日の晩、Cine Lumiereで見ました。 LFFで、”Love”ていうカテゴリーからの1本。
タイトルを直訳すると”Family Party”だが、ちょっとあんまりだと思ったのか英語題は”Happy Birthday”になっている。 どっちにしても.. かな。

Cédric Kahnの新作で、それだけでチケット取った。おもしろいに決まっているから。

フランスの田舎にある一軒家に車が寄っていくと、それが母Andréa (Catherine Deneuve)と父(影薄い)の家で、母の誕生日に家族一同が集まってくるらしい。中心はVincent(Cédric Kahn)の家族で彼の妻に元気いっぱいの男の子がふたり、Vincentの弟のRomain (Vincent Macaigne)もガールフレンドと来ていて、誕生日の様子を映画に撮るとか言っている。あとはVincentの子供たちと遊んでいる少し年長の女の子Emma (Luàna Bajrami)がいる。

屋外の大きな木の下でみんなでランチを食べているとお約束の大雨がきて逃げ回っていたら電話が鳴って、フーテン放蕩娘のClaire (Emmanuelle Bercot)からで、タクシーを降ろされちゃったので迎えに来てほしい、という。家族一同に戦慄と緊張が走るのだが、とにかくVincentは迎えに行ってClaireを乗せて戻ってくる。

そこからしばらくの家族とのやりとりからEmmaはClaireが置いていった彼女の娘でClaireをとても嫌っていること、Claireは精神を患った過去があって、しばらくアメリカ(LA)の方に消えていたのだが戻ってきて相続権があるこの家を売り払いたいと思っていること、などが明らかになり、とにかくタバコ吸ってばかり、なにかとキレて怒鳴り散らしてばかりのしょうもないおばさんなのでみんなうんざりしてくる。

Romainもガールフレンドがもう帰りたい、てゴネるので引き留めるためにハッパを買いに行こうってVincentの車を借りて出たら間抜けな事故を起こして、どいつもこいつもひどい状態 – まともなのはVincentの家族くらいなのだが、Andréaはちっとも動じず堂々としていて、家を売るのもあなたの権利なのだからどうぞお好きに、みたいなかんじ。

こんな状態でのお誕生会はそれでも子供たちの寸劇があったり素敵でじーんとして、でもそれもすぐにまたー。

みんなが遊んで育ったおばあちゃんの家を売る話、というとOlivier Assayasの“L'Heure d'été” (2008) – “Summer Hours”- 『夏時間の庭』- が思い浮かぶが、あのしんみり懐かしく切ないかんじは見事になくて、それはだからどう、とか言うことではなく、いろんな家や家族があるんだからべつに、というだけのこと。でもこっちのオチの転がりかたにはちょっとびっくりしたかも。

Catherine Deneuveは、もうちょっと動いたり動かしたりするかと思ったけど揺るがずに菩薩のようにそこにいるかんじ。そこに体当たりにいくEmmanuelle Bercotの無軌道さがきれいな対照をつくって、飛び道具のVincent Macaigneがサーカスの熊みたいに引っ掻き回す。うさん臭い映画作家もどきの姿がすごくはまっているの(小津のカメラポジションはもっとlowだ、とか)。

これだけ家族のごたごたをぶちこんで掻きまわしても修羅場てんこ盛りでもちっともウェットにならないのってほんとすごい。 フランス映画、だよねえ。

10.21.2019

[film] Love, Life and Laughter (1923)

London Film Festival (LFF) のとか、いろいろ詰まっているので束ねて書いていく。

3日、木曜日の晩、Archive部門のLFF - Special Presentation(Gala扱い)としてBFI Southbankで上映されたもの。
ライブのピアノ伴奏(by Meg Morley)つき。

これはBFI National Archiveが1992年に”Missing Believed Lost”キャンペーンを実施してBFI’s Most Wantedの一本として血眼になって探していた作品で、それが2014年にオランダのFilm Museumからコンタクトがあって、缶に入ったオランダ語版のナイトレートフィルムがどうもそれらしい、と(配給当時、缶に入れたまま放っておいてくれたマヌケな田舎の映画館主に感謝、だって)。BFIのFilm Archiveは5年かけてそれを修復して英語字幕を付け直してようやくお披露目になりました、と。

最初の方はBFIの修復責任者の人が出てきてBefore-Afterの話を、実際の映像を見せながら説明してくれて、BFIのArchiveもこれだけお世話になっているんだから一度見学(ツアーやってる)行かなきゃねえ、って思った。

映画は、英国の“Queen of Happiness”と呼ばれた20年代の大映画スター、Betty Balfourさん主演による人情コメディ、かなあ。貧乏長屋(縦に長い)に暮らすBettyさんはMusic Hallでのスターを夢見るきらきら元気な女の子で、階下には作家を目指すやや暗い青年とか朗らかな風船屋の夫婦とかいて、Bettyと青年は仲良くなって、2年後に再会しよう、って約束するのだが…   物語は青年が書く小説の世界と現実世界が入れ子になっていて、その境目がよくわからないのが面白くて、最後にちょっとスクリューボールするの。

とにかくBetty Balfourさんがすばらしく華やかで、彼女が歌って(サイレントだから聞こえないけど)踊りだすだけでその場が爆発的に明るくなる。こういう、境遇は貧しいけどその明るさで弾けて飛んで突破するお話、って英国にずっとあるよね。

Sweet Charity (1969)

6日、日曜日の昼、BFIで見ました。これもLFFの”Treasures”の枠、50周年で4Kリストアされたもので、続けて始まる(もう始まっている)特集 - ”Musicals!”でも再びかかるの。

Charity Hope Valentine (Shirley MacLaine)は夢と希望を失わないNYのタクシーダンサー(殿方に指名されたらお金貰って踊ってあげる)で、冒頭から振られてふんだくられてセントラルパークの橋から落とされたり、大スターのVittorio Vitale (Ricardo Montalbán)のアパートで「なんだったのあれ?」なひと晩を過ごしたり、仲間のNickie(Chita Rivera) とHelene (Paula Kelly) – このトリオが素敵なの – とうだうだやっているのだが、あれもこれもうまくいかなくて、もうダンスやめよ、って職を探しに行った先で堅気のOscar (John McMartin)と知り合って - スタックしたエレベーターの中という典型的なあれ – 今度こそは、になって盛りあがっていくのだが、でも。

原作はNeil Simonで、まずBroadwayで同名のミュージカルになって、その舞台を監督して振り付けたBob Fosseがそのまま映画版でも初監督をしていて、きっとあれもこれもやりたかったんだろうなー、がいっぱい、最近のミュージカルとかPVにあるマスの勢いでがんがんゴージャスにアクロバティックに攻めたてるかんじ(あれちょっと苦手)ではなく、ひとりひとりの手先脚先しっぽをフルに使ってきれいな軌跡やうねりやふるふるを描くことに徹して楽しくて、そこにShirley MacLaineの底抜けの笑顔泣顔が被ってくるのでたまんないの。

NYの都会で、どうやったらダンサーが愛を見つけることができるのか、っていうのを公園とかアパートとかダンスホールとかいろんな場所を通過しながら懲りずに踊って回っていくの。ダンスってそもそもそういうものじゃないか、って。 あと、見方によっては”The Apartment” (1960) - 『アパートの鍵貸します』 でのFran (Shirley MacLaine)の彷徨いの変奏、と言えなくもないのかな?(Neil Simonはここからミュージカル”Promises, Promises” (1968)を書いているし) でもどっちにしても、こういう都会における男共ってどこまでも偉そうでやらしくて、女はとっても損な役まわりが多い。

Edith Headの衣装もいちいちすばらしいのと、音がとってもよいのでシアターで見たほうがよいかも。

最後、おまけにDVDの方に付いていたらしいAlternative Endingの分も上映された。ううむどっちかというと。

あと、ラストの公園のところでBud Cortが出てくるの。すぐわかるの。

なんとなく、『赤線地帯』とか『河内カルメン』を続けて見たくなったのはなんでか。

10.18.2019

[film] Judy (2019)

11日、金曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。

LFFがなかったらもう少し早く見ていたかもしれない。けど、同じ週末に公開された”Joker”と”Judy”で、”Joker”の方を優先してしまったのはほんと愚かだったかも、と反省している。こっちの方が数段すばらしい。最近の音楽伝記ものとしても、”Rocketman”よりも胸にしみた。

もちろん、Renée ZellwegerがJudy Garlandを、あのJudy Garlandを演じる、ということに戸惑いがあったことは確か、と白状しよう。 Renéeが、というよりJudyの方。Judyをどう描くのか、のほう。へたなことしたらただじゃ… (半分腰を浮かせて軽く拳を握った状態)

今年は彼女の没後50年というのもあるのか、LFFではドキュメンタリー映画 - ”Sid & Judy” (2019) がかかり(見てない。ふたりの声をJon HammとJennifer Jason Leighがあてている)、Sidney Luftとの 間の娘 - Lorna Luftによる本 “A Star Is Born: Judy Garland and the Film that Got Away”が出たり(買ったけどどこかに積んであるー)、いろいろあるの。

お話はSidとの間の子ふたりを抱えてホテルを追いだされるほどお財布面で追い込まれたJudy (Renée Zellweger)が、ロンドン公演のオファーを受けてしぶしぶ現地に飛ぶ話と、“The Wizard of Oz” (1939)でスターになってからMGMの社長であるLouis B. Mayer (Richard Cordery)や母親に縛られまくりの少女スター時代の話を交互に行き来しつつ、どちらにしても輝かしいスターのお話とはかけ離れたきつくしょうもないエピソードが綴られていく。

ロンドンではお付きのRosalyn (Jessie Buckley)がずっと見ているのに常に酔っ払いのよれよれでグチばかり垂れてて、ステージに出ればたまに喝采を浴びるものの評判はどんどん落ちていって、少女時代はダイエットにクスリに撮影ですべてを「保護者」からコントロールされ、セクハラみたいなことまであって、4度も結婚したのに全然workしない、そんなお手あげ状態なのに、歌が入るとそれこそ酔拳みたいになってすごいったらない。

クリスマスの晩、行き場がなくなったJudyが出待ちしていたファンのゲイカップルのフラットに転がりこんで、ピアノで静かに "Get Happy"を歌うところ(ピアノを弾く彼、泣いちゃうの当然)とか、ロンドンでの最後のショウ、出演を断られたのにメインのLonnie Donegan (John Dagleish)に無理を頼んで強引にステージに立つところ、そしてそこで歌うのは ―。   

JudyはどうしてJudyだったのか、ここから6ヶ月後の彼女の死が、なぜStonewallと結び付られて語り継がれているのか、そこに悲劇的なトーンは少しもなくて、ちょっととっ散らかって支離滅裂で危なっかしくて、でもいつも彼女が見ていたのは夜空の星で虹の彼方で、だからよそ見してちょっと躓いたりしただけなんだよ、って。

大スターのディーバでその圧倒的なパワーを見せつけるのでも、逆に半端に矮小化するのでもなく、誰もの胸のなかに住んでいるJudyに灯を点すのと、その反対側で、でもあたしはここにこうしているんだから忘れないでいてね、ってそっと語りかけてくる、そのバランスというかありようがたまらない。いまの時代に必要とされる歌であり声なの。

ほんもののJudyの声はもうちょっと太くて強いけどRenée Zellweger、すばらしいったらない。”Down with Love”(2003)以来だと思う。

Jessie Buckleyさんは歌うとすごい人なのだが今回歌う場面はなかったねえ。

このタイミングで“Judy at Carnegie Hall”をRufusはもう一回、Renéeと一緒に再演してほしいところ。

10.17.2019

[film] An Affair to Remember (1957)

9月で終わってしまったBFIのCary Grant特集で最後に見た2本を書いておく。

An Affair to Remember (1957)

9月25日、水曜日の晩に見ました。
共演がDeborah Kerrで、監督がLeo McCareyなら絶対見なきゃ、と張りきって行ったら最初の公園に舞う雪と音楽で見たことあるやつだったことがわかった(英語題が沁みるわ)。邦題は『めぐり逢い』。

大金持ちで歩いているだけでみんながきゃーきゃー騒ぐNickie (Cary Grant)とTerry (Deborah Kerr)が欧州からNYに向かう豪華客船で出会ってつんけんしつつもなんとなく仲良くなって気がつけば離れ難くなっていて、でも互いに相手がいたので、船から降りるときに今から6ヶ月後、もしまだ互いのことを想っていたらエンパイアステートビルの屋上で会おう、て約束するの。で、その日までに身辺をすっきりさせたTerryがエンパイアステートに待ってろよ、って駆け寄っていくと…

旅の途中でふたりがNickieの祖母のところを訪ねていくところが大好きで、おばあちゃんとTerryがピアノで歌うところでいつも泣いてしまうのだが、ラストもいっぱい泣ける。 Terryのアパートでようやく向きあったNickieとTerry、そのやりとりはどこまでも固くぎこちなくて、Nickieに対してなんで気づかないんだよこのバカ!とかさんざん思って、彼があるものを見つけてついに… の瞬間がくるのだがTerryは静かにそこに座っていて、アップじゃなくてそこにいて彼を見つめるその表情だけで.. それだけでううぅ(大泣)。

豪華客船でNickieに絡んでいく(or 横どりする)のがBarbara Stanwyckさん(→ ”The Lady Eve” (1941))だったらどう転んでいっただろう、とか。

あと、どうでもよいけど、Deborah Kerrの指がはっとするくらいきれいなの。

Indiscreet (1958)

9月28日、土曜日の晩に見ました。邦題は『無分別』(... ?)。
監督はStanley Donen。Norman Krasnaの演劇”Kind Sir”をベースにしたもの。

ロンドンに暮らす舞台女優のAnna (Ingrid Bergman)が大雨の晩に帰ってきて冷蔵庫の三角チーズ(!)とミルクとかを漁っていると、少し遅れて帰ってきた妹夫婦から経済の専門家だというPhilip (Cary Grant)を紹介されて、だんだん会う回数が増えていく(彼が毎週末にパリから通ってくる)のだが、結婚しているというのでしょうがないかー、になっていると、やがて彼の結婚というのは自衛のためのウソであることがわかって、なんだよそれ意味わかんないって互いに険悪になり、どうなっちゃうのか。

ふたりが最初に共演した”Notorious” (1946)でのCary Grantは本性本音を現さないなかなか冷血な諜報機関野郎を演じていたのだが、今回のはあそこまで冷血ではないものの、なんなのあんた?くらいは言いたくなる - 国際機関でなにやってるか知らんが自分中心で自分が地球を回しているかんじの - 同様のやな野郎をやっていて、そんな彼を迎え撃つIngrid Bergmanはやっぱり酔っぱらっておらおら荒れるくらい(すごくうまい)しかないのだが、どっちにしてもこのふたりのくっついて離れて引っ掻いて、が側で見ていて面白いことは確か。

Cary Grantは明らかに彼女の上位に立っていることを自認してコントロールしよう/できると軽く見ているあほんだらなのだが、だんだんに崩れてくる、というかIngrid Bergmanが崩していくの –もっとぼこぼこにしたれ、とか少し思うけど。

彼女の部屋を何度か訪れるシーンの部屋のカラーとか調度が室内劇としてとても素敵で、この辺はStanley Donenだなあ、って。

10.15.2019

[film] IT Chapter Two (2019)

9月29日、日曜日の午後、Leicester Squareのシネコンで見ました。

上映前の予告で、Stephen Kingが出てきて”Doctor Sleep”の予告の前振りをする。”The Shining”を超えたおっかないものができるのかしらん?

前作 – 1989年にPennywise (Bill Skarsgård)を蹴散らして、でも「それ」がまた出たらみんなで集まろう、って誓って別れて、時は2016年、地元のDerryで灯台守みたいに「それ」が出るのをひたすら待っていたMike (Isaiah Mustafa)が、ゲイの青年の殺人事件からついに現れたことを確信して各地のLosers Clubの連中に連絡する。すぐこい、と。

で、呼ばれた彼らは仕事が、とか出張が、とかライブが、とかそんなことは言わずに割と素直にきちんと集まって、作家になったり、コメディアン(.. Joker)になったり、DVを受ける妻になったり、金持ちの建築家になったり、あたりまえだけど大きくなっていて、最初の方は彼らがどんなふうに変わったのか、なんでそんなふうに変わったのか、でも変わらないところは.. などをChapter Oneの頃の彼らも絡めて紹介していく。

で、ひとりを除いて全員が中華料理屋の円卓を囲んで再会を楽しむのだが、締めのフォーチュンクッキーが.. (ここの場面のどたばたが一番おもしろかったかも)

Derryで彼らLosersがなにをするかというと、インディアンのおまじない系(← それ信じていいのか問題あり)にはまったMikeの指示で各自が過去のPersonal Itemを7つ集めるべし、というのでそれぞれが自分の昔の家を訪ねたり余り楽しくない過去と向き合う旅をすることになって、そういうことをこまこまやっているので169分かかるの。

作家のBill (James McAvoy) とか、ずっと虐められてきたBeverly (Jessica Chastain)があんなふうなのは(子供たちが選んだのだからしょうがないけど、もう少しX-Menじゃないふつうぽい人のがよくなかったか)よいとして、Richie (Bill Hader)はじゅうぶん納得できる力強さですばらしいし、ころころ肥満児だったのにすっきりして、でもいまだにBeverlyへの想いを抱えてすっきりしないBen (Jay Ryan)とか、いくらでも広がってドラマになりそうなのでじっくり攻めていくTVシリーズ(既にあるけど)にした方が、とか、”Boyhood” (2014) 方式でChapter Oneの子たちが大きくなるまで待ったら、とか。

とにかくそんなふうに1/4世紀以上の時間とそれまでの人生ぜんぶをかけてこんにゃろーって立ち向かってくる捨て身の傷だらけの中年男女にPennywiseがかなうわけがないので、後半は割と安心して見ていられて、でもあんな終わりかたになるのであれば、あいつはまた出てきたっておかしくないよな。

でも、クラウンて、あの格好で風船を手にして立っているからおっかなさも倍加するのであって、あんなふうに変態したらさー。

見る順番で変わるのかもしれないが、”Joker”を見てこれを見ると、出てくるクラウンが突然変異の化け物というよりも、ある土地とか環境の下、時間をかけて醸成された悪意や憎悪が踏んで蹴られて煮凝った土着の妖怪みたいなものに見えてくる。 田舎と都会、という違いはあるけど、虐める側と虐められる側という構図があり(今回のNative Indianの件だって)、構ってくれる – くれないという肉親にも関わる愛憎があり、理解者としての隣人や仲間たちがいて。Batmanというヒーローもこの構図の上に乗っかっているのだろうなー。(あの映画で描かれたJokerがあれでよいのかは、あるとしても)

たぶんそのうち、Bill Skarsgård主演でPennywiseが”IT”になるまでが映画化される気がする。

あと、”Joker”もそうだったけど、音楽が極めて弱いよね。もっと狂いまくったのが吹いてきてもよいのに。

そういえばHugh Grantさんが、”Joker”を見て音がありえないやかましさだった、ってTweetしていた件、あれ、Vueっていうシネコンチェーンの音がちょっとひどいのだと思う。あそこ、音がでっかいのはいいんだけど帯域のバランスがなんか変でいつも耳が痛くなるの。

10.14.2019

[music] Helmet

10日、木曜日の晩、O2 Academy Ishlingtonで見ました。ここに最後に来たのは昨年のLunaのときか。

Helmetは、”Betty”のときのツアーで初めて見て、2004年の再起動直後にも一度見て、2010年にも見ている。今回は結成30周年で、30都市をまわって、各ライブでは30曲やる(実際には31曲とかやっている)ので、30 x 30 x 30。行かないわけにはいかない。

チケットにはDoor - 19:00とあって、そういうときはOpenerが19:30とか20:00から入るので、20:30目指していけばいいか、と20:00少し過ぎに着いたら会場の周辺がものすごく静かだったので、あーやばい、と慌ててドアを開けたら“Repetition”のすさまじい音圧がきて飛ばされるかと思った。チケットにはサポートあり、って書いてあるのに会場のポスターには”No Opener”って。ばかばかばか。 当日券は出ていたけど結構ぱんぱん入っていて、明らかにそれ孫でしょ、を連れているおじいさんとかいた。

もう何曲かやっていたらやだな、と後でセットリストを見たら”Repetition”が1曲目だった。1stの1曲目から始めていて初期から中期から再開後もまんべんなく。  Page Hamiltonは”Unsung”の前、シャツを羽織る(ロンドンは寒いんだって..)時に少し喋ったくらいで、演奏に没頭して次々にがりがり引っ掻きどかどか落としていくかんじ。 バンドも同様に全員一生懸命なのだが、一糸乱れぬアンサンブル、というよりひとりひとりが足場に集中した結果ものすごい音が出ているというか、Helmetの曲の特徴って - unsungだけど - ジャズやブルースみたいにしっぽがスイングする (not to roll) とこにあると思っていて、全員の気持ちよいスイングがとてつもない爆裂感を生んでいる。ゴジラのしっぽがばしゃばしゃいろんなのをなぎ倒していくのを見ているようで、それを受けてフロアも跳ね回る – ふつうのこういうライブにあるような横滑りしていくモッシュにはならなくて、みんなぴょんぴょん跳ねたり、猫みたいに揃ってクビを回したりする。

Björkの "Army of Me"のカバーとか、はじめはこれ原曲だれのなんだっけ? になるのだが完全に(タイトルも含めて)Helmetの曲になっているの。笑っちゃうくらい。

あと、いまGang of FourのTributeアルバムに参加しているらしく、Andy Gillのすばらしさについて - 自分はとても及ばない -とか語っていた。

アンコールは”I Know”やって”Sam Hell”やって”Just Another Victim”やって、もうしんじゃう(or いつしんでもいい)になったところで、ここまでで自分の計算だと28曲くらいやっているはずだからリクエスト取るよ、って。いろいろ聞いてあーそれは無理とか、ちゃんとリクエストしないとVan Halenやっちゃうぞ、とか一通りやりとりした後で、天国への階段を弾きだしたので、ええー?てなったら、「あ?Not Stairway to Heavenなのね?」とか。   結局97年を振り返ってみようか、って”Crisis King”をやって、ラストはもちろん渾身の”In the Meantime”だった。

自分にとってのHelmetは、やっぱり“Meantime” (1992) ~ “Betty”(1994)であることを再確認したのだが、とにかく懐メロ感のなさときたらすごい。だいたい25年前の曲であり音なんだけど、ある時期や時代の記憶もある土地の香りも、そういうのが沸いてこない - 数式とか幾何学模様にそういうものがひっつかないし、Helmetは硬いだけで脳みそとかついてないし、とかそういう話なのだと思った。

アンコール入れて2時間びっちり。 この分だと40 x 40 x 40もきっといけるはず。 来年Hamilton氏は還暦だから60 x 60 x 60でも。

10.12.2019

[film] White Riot (2019)

台風でひどい状態、つらい思いを抱えている人も多いと思います。一刻も早く元に戻れますように。 無理して会社とか行かなくてもよくなりますように。

5日土曜日の晩、”Joker”の後にCurzonのSOHOで見ました。 LFFのコンペティションのドキュメンタリー部門に出された作品で、この回がワールドプレミア、出来たてのほやほやだって。
(さっき、コンペティションの結果が出て、見事Winnerとなりましたとさ。ぱちぱちぱち!)

“White Riot”というとまずはThe Clashの曲だし、紹介の写真も彼らのライブを背後から撮ったものだったので彼らの、当時のドキュメンタリーかと思ったのだが、メインは政治 - Rock Against Racism (RAR)の活動を追ったものだった。

76年頃から台頭して黒人やアジア人に対する差別やヘイトをまき散らして勢力を拡げはじめたNational Frontやネオナチ勢力に抗すべく立ちあがった組織の創設者Red Saundersや関係者へのインタビューを通して、彼らと仲間たちがミュージシャンたちも巻き込んでどのように運動を組織し、やがて連中を蹴散らすことに成功したのか。

最初はNational Frontとはどういう連中か、という説明があってEric Claptonの例の件(これがあるのでこいつのことはずっと嫌いだ)がでて、要は自分の国がいちばんえらい!て威張りちらす腐ったブタ(ブタごめんね)なのね。40年前からいてまだ絶滅してないの。

RARは活動資金や後ろだてがあるわけではないので、ビラとかZineを配る(印刷所だけは手近にあった)とかライブ会場で横断幕をゲリラ的に貼っちゃうとか、そういうのから始めて自分たちのイベントやデモをやるようになって、といったあたりをMatumbi - Dennis BovellとかSteel Pulseの証言、そしてもちろんパンクの側から、Tom Robinson BandにX-Ray SpexにThe ClashにSham 69(のJimmy Pursey)に。 Sham 69は彼らのファンの一部にNFの連中がいる疑惑があったのだがJimmy Pursey自身がファンに向かってきちんと言うの。

で、大きなイベントとしては77年のLewishamでの National Frontのデモに対抗するデモと、78年のTrafalger SquareからVictoria Parkまでのパレード、それに続く野外ライブの模様も出てくる。Victoria Parkでのライブはそんなでっかいところでのイベントは初めてだし前日まで雨で天候は最悪で、人は集まるのかどうなる?  だったのだが…   ”Rude Boy” (1980)の映像からライブ映像は借りたりしているのだが、ここでのThe Clash + Jimmy Purseyによる"White Riot"はやはりすんごくかっこよいの。

2006年、CBGBの最後の年、FarewellシリーズでSham 69がライブをやったのを見たのだが、Joe Strummerに捧げる、って演奏された"White Riot"の凄まじいキレはこの映像にあるのと同じだったなあ、って。

“Rude Boy”は日本公開されたときに新宿の映画館で見た(何年?)のだが、その時の一緒に行った人たち一同の感想は、やっぱしPaul Simononかっこいいよね! だったことを思い出したり。

National Frontのデモってヘイトを撒き散らすくせになぜか警官隊に守られてて卑怯で、まるで40年後のどこかの国がやっていることと一緒で、つまりにっぽんのクズは40年遅れて英国の後を追っている、と。 いちばんの違いはこういうクソ共に向かってミュージシャンたちが全然立ちむかおうとしないことで、この辺のかっこ悪さときたら断トツ世界いちだよね。

映画の最後には、戦いはまだ終わっていない、って出て、うんうん、て握り拳するしかないのだった。

上映後に監督のRubika Shahさんとプロデューサーを交えたQ&Aがあり、手を挙げた人たちの中にはLewishamやVictoria Parkへのパレードに参加した人たちもいて、とても懐かしかったけどそれを何故いま掘りおこす? って言う問いで、でもその答えは聞いている側もはじめからわかっているようだった。

この映画を“White Riot”というタイトルにしたことについても聞かれて、自分たちの間でも議論があったのだがあえてcontroversialなものにしたのだと。この曲って、自分ひとりでRiotを起こすんだ、っていう連帯とはちょっと異なるスタンスを歌ったものなんだよ。

日本でも(日本ではぜったい)公開されますようにー。

10.11.2019

[film] Hitsville: The Making of Motown (2019)

4日、金曜日の晩、CurzonのBloomsburyのドキュメンタリー小屋で見ました。
LFFとは関係なくて、9月30日の晩に一回だけ全英の映画館で上映されて、その後はここだけでかかっている。

設立60周年を迎えたMotown Recordsの会社公認ドキュメンタリー。58年にBerry GordyがDetroitの通り沿いの一軒家に”Hitsville U.S.A.”という看板をだして、Smokey Robinsonを捕まえて、少しずつヒット曲が生まれて、ソングライター – Holland=Holland=Dozierがいて、バンド - The Funk Brothersがいて、プロデューサー - Norman Whitfieldがいて、誰もが知っているタレントたちが集まって、A&Rがあって、Quality Controlがあって、仕事の仕方みたいなところも含めて理想的なかたち(コンサル会社のチャート図みたいのがややうざい)でレコード会社として大きくなっていくまで。

会社を作ったふたりがずっと思い出語りをしながら進めていくので、やばいこと都合の悪いことなんて描かれるわけないのだが、58年からロスに移転する70年初まで、時代のいろんな波とか危機を乗り越えたりぶつかったりしながらMarvin GayeやStevie Wonderといった天才を見つけて育てて、The Supremes, Four Tops, The Jackson 5, The Temptations, Martha and the Vandellas といったグループをストリートに放ち、たくさんの「みんなの歌」としか言いようのない歌をひろめた。その功績は音楽産業とかヒットチャートとか売上げとかそういうのとは別の次元で認めざるを得ないなにかだと思うし、心底楽しそうに思い出を語るBerry GordyとSmokey Robinsonを見ているだけでありがとうおじいちゃん、になるわ。

個人的にはAtlanticとかStaxのほうがさー、と(かっこつけて)思うこともあるのだが、それってFactoryかRough TradeかCherry Redか、みたいな話だと思うし、外に飛びだす時とかには”Get Ready”も”Nowhere to Run”のどんがらスネアが鳴り出したりするので、やっぱり好きなのだと思う。

“My Girl”の曲が組みあがっていったところをピアノを前にSmokey Robinsonが説明したり、同様に”What’s Going On”をパーツに分解して流していくところなんてあきれてものも言えないかんじ。その素材になんでその素材と調味料AとかBとかを(あんなタイミングで)加えて混ぜちゃうのか、それがなんであんなふうな風味になっておかわりできるのか、ちっともわからないの。おいしけりゃそれでいいのか?、程度ってものがあるんじゃないのか? などなど。

現役のミュージシャンたちがいっぱい喋るのでゲストコメンテイターはあんましないのだが、John LegendとかJamie Foxxとか(絶賛する以外になにができよう)。ObamaがWhite Houseのセレモニーで彼らを讃えるところでもうこれ以上のはないよね、と思ったらシメはNeil Young先生だったり。Motownはアメリカそのものである、云々。異議なし。

エンドロールで、ところでMotownの社歌があるって聞いたんですけど? という問いにソングライターやミュージシャンたちは過剰に反応して、いやぜったい歌わない、ぶぶ(吹きだす)、憶えてない、なんだったかしら?(思いだそうとする)といろいろあるなか、創業組のふたりは肩を組んで楽しそうに歌いだし、それはぜんぜんどーってことないただの社歌みたいな社歌で、これって誰もが認める大人気の食堂だけど賄いご飯はさいてー、とかそういうかんじかしら? って。(なんで食べ物の比喩になってしまうんだろ?)

見終わるとMotownのいろんなのをメドレーで聴きたくなるのだが、ソウル関係はCDとかまったく持ってきていなかった。しょうがないのでついAbbey Roadの箱をひっつかんでしまい..

10.10.2019

[film] Paris qui dort (1924)

2日から始まったLondon Film Festivalの最初の1本(+ 短編1本)をBFIで見ました。フェスティバルのメイン会場はLeicester Squareのでっかいシネコンなので、こっちの方にフェスティバル感はまったくない。 東京国際映画祭のときに六本木ではなく京橋にいるかんじというか。

René Clairの監督によるSFで、英国公開時のタイトルは”The Crazy Ray” – なのだがちょっと不謹慎なのでフランス語題のまま(眠っているパリ)、米国でのタイトルは”At 3:25”だって。

上映前のBryony先生のトークによると、これ、フランス映画なのになぜか英国の方が公開が先で、しかもこちらの方になぜか”A”ネガが来ていて、今回のリストアはこれがベースなのだという。

Bolognaでの今年のIl Cinema Ritrovato(クラシック映画のお祭り)でお披露目されたやつで、LFFで上映される昔の映画はここから来ているのが多い。Bologna、一度行ってみたいかも。

エッフェル塔のてっぺんに暮らす(いいなー)Albertが朝起きてみると、見下ろしてみたパリの風景がちょっと変だったので降りてみると、街のひとがみんな死んではいないのだが静止状態になって動かない。

散策していると朝方にマルセイユから飛行機でパリに降りたったばかりの(動いている)グループと出会って一緒に街を彷徨っていると、妙な実験をしている科学者とその娘にぶつかる。その科学者のラボにあるレバーを倒すと変な光線が放射されて人々が固まってしまい、マルセイユ組とAlbertは高いところにいたのでその影響を受けなかったらしい、と。

なんだかんだでパリは元に戻るのだが、いつどうやって撮影したのか人が殆どいない/動いていないパリを高いところから眺めた景色がすばらしくてずっと見ていたかった。(尚、”A”ネガじゃないバージョンには、パリの街を見下ろした際に - 動いていないはずなのに - 人が動いているのがあるそうで、おもしろいねえ)

これの上映前に短編としてHans Richterの “Every Day”(1929)が上映された。

ロンドンで朝起きてベッドから降りて体操して髭剃って通勤バスに電車に乗って会社行って書類いじって数字を埋めて機械とか歯車のように働いて怒られて汗かいてたまに観劇して寝て起きて、そのずうっと終わらない繰返しが”Every Day”で、これが90年前 – いまとあんまし変わっていないの。  協力者として名前の出ているHans ArpはあのHans Arpだろうし、警官役で出ているのはSergei M. Eisensteinだというし。
 
Finis Terrae (1929)  + The First Foot (1981) 

2日の晩、”Paris qui dort”に続けて見た。これもサイレントで、伴奏はいつもすばらしいStephen Horne氏。

本編の前に上映されたのは今年のBolognaでリストア公開されたGeorgia (グルジア)映画 – “MEKVLE” - 英語題は”The First Foot” (by Goderdzi Chokheli)。14分のモノクロ映画(non-silent)で、人の姿が一切見えない雪山の廃れた廃墟に銃声、人の声や酒盛りの声がずっと響いている。「彼ら」はどこに消えてしまったのか、と。

“Finis Terrae”は、2015年に日仏で特集もあったJean Epstein -『アッシャー家の末裔』(1928)とか - の監督作で、『アッシャー家.. 』の次に撮っているやつ ?

ブルターニュの海岸で海藻灰(海藻を干して燃やして肥料にする)のための海藻を採って干したりしている4人の男たち(2人は若く、2人は中年)がいて、そのうちの若い子のひとりがガラス瓶の欠片で指を切って、そのうちそこが腫れて力が入らなくなり、ちゃんと仕事しろやーとか言われて無理をしていると更に身体が動かなくなって地面にのびてしまう(それを横目で見つつ、みんな放置してる)。操業する舟の動きがおかしいことに気付いた対岸の家族 - 特に若者の母ふたりは反発しあいながらも人望の厚いお医者さんを送り込んで... 彼は助かるのか。
 
ふたりの青年のちょっと頼りない表情とそのママの顔が素敵で、海で/海と共に暮らすことのきつさ大変さが塩水のように滲みてきてああこれぜったい無理だわ、って。

10.09.2019

[film] National Theatre Live: Fleabag (2019)

少し戻って9月22日、日曜日の晩、CurzonのSOHOで見ました。

これの前にBFIで”For Sama”を見て、ぼろ泣きではないけど喉の奥がずっとひくひくしている状態でまっすぐそのまま帰って頭から布団を被りたいくらいだったのだが、もうチケットを取っていたの。

なんとか気分を変えたかったので駅から映画館までの途中にあった韓国系スーパーに入ったらThurston Mooreがいた(後ろ姿だけでわかるのはなんでか?)。べつに知り合いでもなんでもないのだが、この人とはなぜかスーパーでぶつかることが多く、NYにいたときはDean & Delucaで2回くらい見ている。 いつも向こうはひとりでこっちもひとりで。彼と食材の話とかしたら話が合うのかもしれない。(←だからどうした、の話)

映画館で上映されるNational Theatre Liveで、シアターでの公演の方は8月から9月にかけてWest Endでやっていて、チケットぜんぜん取れなかったので、こういうので見るしかない。NTLの上映はたしかこの日が初日で、ほぼ満席だった。この晩にTVドラマ版のこれがエミー賞を獲った(びっくりしたねえ)せいもあるのか、まだいくつかの映画館では上映されている。

Phoebe Waller-Bridgeさんによる一人芝居 - というより普段着で舞台上の椅子に座ってずっとあんなことこんなことを喋り続けるだけなので、芝居というより漫談とか落語に近いのかもしれない。

TVプログラムが先なのか喋り舞台が先なのか(どちらをイメージして作っていったのか)、彼女はどこかで語っているのかもしれないが、どっちを見てもおもしろい。ただ、シチュエーションを見せる - それがしょうもない方向に行ったり行かれたりするサマをわかってもらう、というより彼女の頭のなかで膨れあがった自意識とか妄想とか鬱憤とか怒りとかをありったけ吐きだしてその惨状を眺めてみる、というのが起点にあるのだとしたら、こういう喋りの方がエモの熱い冷たいも含めてダイレクトに伝わってくるので向いているのかも。

採用面接とか電車バスの中とかカフェとか自分ちとか誰かとぶつかったり会ったり飲食したりセックスしたりひとりでいたり、それぞれの場面で彼女の頭のなかで何が引っ掛かって炸裂してくだをまいたのか、それはポジティブなやつかネガティブなやつか(たぶん後者)、それは明日の希望みたいななんかに繋がっていくやつなのか(いやそれは500%ない)、などなど。

自分の頭のなかのあれこれを吐き出す系、って90年代のグランジ/エモ(若者)の頃から00年代のSATC(独身女性たち)があって、その線上にこれを置くのが正しいのかどうかわからないけど、(うざい)ソーシャルなあれこれが手元足元にまで蔓延するようになってきた昨今、それが独身女性のひとり語り、としてこういう形で出てきてウケた - フィクションとして楽しむ、というよりフィクションであることは認識しつつも自分にとても近い何かとして並べて笑い倒してふん! - というのはなんかあるのかも。

それらをただ外に吐き出すだけならTwitterでもYouTubeでも手段はあるし、昔からスタンダップコメディとして同じようなネタやスケッチはあったと思うし、それがどうしてロンドンに暮らすPhoebe Waller-Bridgeさんの芸として成り立ってしまうのか。いろんな見方ができると思うけど、ロンドンという都市、というのはいっこあるのではないか。男も女も尖がったのからださいのから見かけ倒しのしょうもないのまでたっぷり溢れていて、天気も交通も日照時間も極めていいかげんでままならず、誰もそういうの気にしたってしょうがないから気にしないでへっちゃらで、その無頓着(と裏返しの自意識)のありようが頭ひとつぬけている、というか。このドラマがNYやLAでも同様に成立するか、というとあんまイメージできない。

であったからエミー賞受賞は驚きで、翌朝のニュースでぶったまげて、BBCのキャスターとかも不思議がっていた。でもSNLにも出ちゃったしねえ。すごいねえ。

そのうち「Fleabag系」みたいなカテゴリーとか判別ラベルができていくのかしら? でもそれは誇ってよいなにかだと思うし、ふつうに「それがなにか?」であってほしいなー、とか。(これってにっぽんの「腐女子」と似たようななにかなの?)

10.08.2019

[film] Marriage Story (2019)

これも先に書いてしまおう。 6日、日曜日の晩、Embankment Garden Cinema (LFF用に毎年作られる特設映画館。椅子は落ち着かないけど画面がでっかいので好き)で見ました。
今回見にいっているLFFの作品たちはリバイバルとフランスのばかりで、映画祭!ぽい作品はほぼこれのみ。

メモを見ると、2017年の10月7日に”The Meyerowitz Stories (New and Selected)” (2017) をこのシアターで見ているので、丁度2年ぶりのNoah Baumbach作品、ということになる。

この作品は数日前、海の向こうでやっているNew York Film Festivalでもセンターピースとしてプレミア上映されたばかり(だいたいNYFFでプレミアされたのが数日遅れでLFFにくるの。あーあ、やっぱりあっちの方が…)だったのでゲストなんて誰も来ないだろうと思っていたら、”The Report” (2019)の紹介でAdam DriverがLondon入りしていることを知り、ふたを開けてみれば舞台挨拶には監督のNoah Baumbach以下、プロデューサーのDavid Heyman, Adam Driver, Laura Dern, Ray Liottaまで並んでいるのだった。
すごーい! Kylo RenとVice Admiral Holdoが! ってはしゃいでしまったのは自分だけではあるまい。

挨拶は初めに監督が、これは離婚のお話 - Spoilerでもなんでもなくストレートに離婚するとはどういうことかを描いたものです、と。 それを受けたプロデューサーは、スクリプトが十分にできあがっていたのでなんも言うことはなくぜんぶ監督に任せた、と、続く俳優陣もほぼそれに倣って、スクリプトと監督にすべてを委ねてただ幸せでした、って。

冒頭は、既に予告でも公開されているCharlie (Adam Driver)がNicole (Scarlett Johansson) のことを彼の語りで紹介し、NicoleがCharlieのことを彼女の語りで紹介する映像。これが互いのよいところを紙に書き出して声に出して読んでみましょう、という離婚カウンセラーによるセッションのアジェンダのひとつで、Nicoleはあたしそんなことできないから、と部屋を出て行ってしまうので、既に事態は取り返しのつかないところまで進行しているのだな、というのがわかる。

その語りによる紹介パートでは、女優をしているNicoleと舞台監督をしているCharlieのふたりと息子Henry (AzhyRobertson)のNYでの暮らしが描かれるのだが、これ以降は自身の撮影の仕事でHenryを連れてLAの実家に帰ってしまったNicoleの元をCharlieが訪れて裁判したりHenryと遊んだり、の日々を中心に進行していく。

映画のポスターにも出ているように、これはふたりの離婚をめぐる戦いであると同時にLAとNYの街のお話にもなっていて、LAで婚姻登録して、LAでHenryは生まれて、でも家族はずっとNYで暮らしてきて、でも今HenryはLAの学校に通ってNicoleの家族とふつうに暮らしている。 (前作の”The Meyerowitz Stories ...”ではこれと同様の背景画として世代間のギャップ、というのがあった気がする)

離婚訴訟はLAで起こされたのでCharlieにとっては完全にAwayの戦いで、Nicoleの雇った弁護士のNora (Laura Dern)は典型的なLAのばりばりやり手(笑っちゃうくらいはまっている)で、Charlieは初め穏健派の弁護士(Alan Alda)に任せるのだが歯が立たないので新たに武闘派のJay(Ray Liotta)を立てて、そうすると仁義もくそもない修羅場に突入していく。

という表面の争いとは別に、NicoleとCharlieがふたりで対面して会話をするとNicoleははじめ穏やかで涙ぐんだり感情を露わにしてくれたり、でもやがてそれは決まったように爆発して、もうじゅうぶんわかっているのにもうどうしようもないことが改めてわかる。  基本はふたりのそれぞれの弁護士とのやりとりがあり、Henryとのあれこれがあり、ふたりの間のやりとりがあり、そこをぐるぐる回っていって、そのどれもが埋めようのない溝を確認する作業ばかりになっていくのだが、その辺はとにかく映画を見てほしい。ほんとに細かいところまで拾って積みあげていくその繊細な手つきときたら。  

これまで“The Squid and the Whale” (2005)からずっと離婚する家庭、離婚した家庭、何かが壊れてしまった家庭の内や外との関わりを描いてきたNoah Baumbachだが、ここまで細かく一組のカップル、ひとつの家族の内側に寄り添ってじっくり掘っていったのは初めてではないか。 そしてこの物語を – ほぼその過程を描いているにも関わらず”Divorce Story”ではなく”Marriage Story”と呼ぶのは何故なのか?

息子を取りあう離婚劇、というと”Kramer vs. Kramer” (1979)が思い浮かぶが、あそこまでウェットではなくて、笑えるとこともいっぱいあって、特にCharlieのことを大好きでたまらないNicoleの家族とのやりとりとか。 対話を通して内側を緩やかに掘り下げていくところはベルイマンのそれに近いかも。

あとはAdam Driverのすばらしさ。ドラマの終わりの方、冒頭のNicoleがCharlieについて書いた文章をHenryが読もうとして(難しくて)読めなくて、それをCharlieが読みあげるシーンなんて、ほんとすごいから。

誰もが期待するであろうBlack WidowとKylo Renの身体を張ったバトルはない、けどLAとNYの間で歌合戦みたいのはあって、彼の歌、なかなか悪くないの。

音楽は前作に続いてRandy Newmanさまで、彼のここのところのサントラ仕事で聴かれるふっくらほんわかしたやつが多いのだが、場面によって70年代の彼の曲に顕著だったピアノと弦の絡みがむきだしで聴こえてきて泣きそうになる。あれはずるいわ。

Henry役のAzhy Robertsonくんは、“Juliet, Naked” (2018)ではEthan Hawkeの息子をやっていた。
“Juliet, Naked”、ほんとおもしろいのにな。

あと、やっぱりLAでは暮らせないな、とかいろいろ。

Netflixなので配信されるとは思うけど、シアターのでっかい画面の方がぜったいすごいのよ。

10.07.2019

[film] Good Posture (2019)

5日の土曜日の午後、”Joker”を見る前にCurzonのBloomsburyで見ました。

こっちの方が規模は小さくてもよっぽどNY - Brooklyn映画、だわ。 英国女優のDolly Wellsさんの監督デビュー作。

冒頭、Lilian (Grace Van Patten)は2年間同居していた彼のアパートを喧嘩して出ていくところで 、でも少しお金がある父親はパリで恋人と遊んでいて電話にも出てくれず、家族の友人で作家のJulia Price (Emily Mortimer)のタウンハウスの一室に転がりこむ。 Juliaは作家としては有名なのだが殆ど自室に籠りっきりの変なひとで、食事も彼女の部屋のドアの外に置いておけばよい、と。この彼女のタウンハウスの下の方には犬を散歩させる係のGeorge (Timm Sharp)が住んでいて、dog runのある公園とかで彼女の相談相手になってくれる。

そうしているうち、LilianのノートにJuliaからと思われる変な落書きや書きこみがされるようになり、Lilianも負けじと返事を書いておいたりして、たどたどしいメッセージのやり取りが始まる。

そんなある日、通りでばったり会ったEx-恋人への見栄はりから、Juliaについてのドキュメンタリーを撮っている、とウソを言ったら戻るに戻れなくなり、カメラを持っていたり撮影の経験がある人(みんな変人)と会ってみたりしつつ準備らしきものを進めていく。

そういうのと並行して、制作途上のドキュメンタリーの一部なのか、いきなりZadie Smithさんが本人として登場して、作家Juliaについての絶賛持ちあげコメントをもっともらしく述べ、それがJonathan Ames(本人) - 最初にJuliaの作品を読んだとき、オースターの「孤独の発明」以来の傑作だと思った - とか更には Martin Amis(本人)へとリレーしていく。 へんなの。

“Good Posture”というのはJuliaの本のタイトルでLilianの部屋に置いたあったそれには、Lilianの母と小さい頃のLilianのことも少し書かれているらしい。ある日そこに挟みこまれていた小さい頃のLilianと母の写真..

ドキュメンタリーの件はバカな(自称)共同制作者がJuliaを呆れさせておじゃんになり、パリから戻ってきた父親は恋人のことしか頭になく、いろいろ行き詰ってどうしようもなくなったLilianはどこに行こうとするのだろうかー。

これまで何度も描かれてきた気がするBrooklyn界隈 – この作品はClinton Hillのあたり? – で、べつに孤独ではないし孤独をおそれてもいないのだが、植木とお話をしたり落ちつかず落ちつけずとっちらかって明日はどっちだ/どうする状態で、でもなんとかひとりで生きていこうとする女性のお話で、身を寄せる先のJuliaのとこも変だし、まともな大人はdog walkerの彼くらいなのだが、でも最後はこんなもんよね、くらいで気持ちよく終わる。

あとそれと、秋から冬へ、そして春になるBrooklynの四季が描かれているからよいの。
あの辺のタウンハウス、いいなー。”The Intern” (2015)に出てきた物件にちょっと似ている。

音楽はすこしだけ。 最初のほうでThe Breedersの”Bang On”のイントロが不機嫌そうに鳴っていたりする。

Zadie Smithその他作家の登場以上に、Georgeの部屋に貼ってあった松戸市のごみ分別ポスター(なんの変哲もない)がすごく謎として残った。

[film] Joker (2019)

2日からLondon Film Festivalが始まってから5本見て、書かないと忘れてしまう(その前のもいっぱいある)のでとっとと書きたいのだが、なんか挟まってくるのでこっちから書いておく。  5日、土曜日の午後、Picturehouse Centralで見ました。

ヴェネツィアで金獅子賞を獲っているしレビューも絶賛が多いのだが、なんか来なかったの。
たぶんネタバレしているけど、バレてどうなるようなものでもない気がする。

誰もが知っているゴッサムシティの稀代の悪党Jokerは、いかにしてJokerとなったのか。

これを語る前提として悪や狂気は説明可能で理解することができるものなのか、という議論があると思うのだが、この映画はJokerの悪や狂気は突然変異・原因不明の病気のようなものではなく、きちんと説明可能だし理解しうるものなのだ、という立場に立っている。

Arthur Fleck (Joaquin Phoenix)は病気の母Penny (Frances Conroy)の世話をしながら街角で宣伝ピエロのバイトをして、やがてはコメディアンになることを夢見ているのだが、笑いだすと止まらなくなる疾患を抱えていてなにをやってもうまくいかなくて、同僚から自衛のために渡された銃を営業の際に子供たちの前でポロリしてクビになり、更に市の予算削減あれこれでクビがまわらなくなり、コメディクラブに出てみてもぼろぼろで、地下鉄で袋叩きにあって相手の会社員3人を撃ち殺してしまう。 母の手紙から自分は金持ち市長Thomas Wayne (Brett Cullen)の息子ではないかという疑念が沸き、憧れのTVショウホストMurray Franklin (Robert De Niro)から声がかかり、ゴッサムの治安は悪化して街にはピエロの姿をした暴徒が溢れてくる。

貧困と困窮からあらゆる道を断たれて行き場を失った社会的弱者がある事件をきっかけに一線を越え、歯止めがきかなくなって暴走していく、その描写の生々しさと説得力はじゅうぶんだし、Joaquin Phoenixの身体もその事態を申し分なくリアルに肉化しているし、映画史的にも過去のNY映画、特にMartin Scorsese作品等と地続きの世界を構築している、などなど。

他方で、例えば“The Dark Knight” (2008)でのHeath LedgerのJokerは完全に向こう側に行ってしまった狂人のそれ、理解不能の劇物で怪人で鬼で、その笑顔の口の端は引き裂かれてしまっている。JoaquinのJokerは自分の指で口の端を上げることでしか笑顔を作ることができない - 仮面・お面をつけたりメイクをすることで道化 - ピエロを演じているだけで、それってこのゴッサムシティ & バットマンの劇中で与えられたJokerの役回りとして正しいのだろうかと。

Jokerの台詞 - “I used to think my life was a tragedy. But now I realise, it’s a comedy”とか、“everybody is awful these days”とか、頻繁に映像化される彼の頭のなかの現実と混濁した妄想とか、都合のいいものしか見ようとしない上から目線のネトウヨとかIncelとか差別をまき散らすどっかの官製芸人と同じ言い草だよね。責められると「誤解を与えたのであれば..」論法でひっこめるとか。 今のそういう世界 – Jokerたちが街に溢れている世界 - を描きたかったのだ、というのであれば、そんなのじゅうぶんわかっているし、間に合っているし、それよりデバイスの裏でひそひそやっている卑怯者とか、その上からコントロールしている統治機構に対する糞玉をさー。
結局この映画を快適なシネコンで見て「感動~」とか言ってる人たちに対しては、劇中で”Modern Times” (1936)を見てふんぞり返っているブルジョアと同じで、なんも訴えないと思うの。
(そこにこそこの映画の批評性はあるのだ、なんて言う奴こそ「連中」の思う壺なんだよ)

途中まであった彼とBruce Wayneが異母兄弟だったら、という可能性のほうがまだロマンとして広がる可能性があったかもしれない、でも母Pennyをあんなふうにした原因には踏みこまないまま、彼女があんなふうに殺されなければならなかった、のはなんで?(そこ掘るべきじゃないの?)

アパートの隣人Sophie (Zazie Beetz)とArthurの恋は(彼の妄想でなかったのであれば)なにをどうして可能になっていったのか、ものすごく腑に落ちない。”Suicide Squad” (2016)で、Harley Quinn (Margot Robbie)にあんたのためなら死ねる!と言わしめたJoker (by Jared Leto) の色気はこれぽっちもなさそうだし。

70-80年代のゴッサムシティ(≒NY)の都市風景の再現、という点で画期的なのかもだけど、風景が多少きれいになろうが汚れていようが多少家賃が変わるくらいで、そこに住む人の意識はそう変わっていかない。同様にある時代で止まっているかのようなノスタルジックな音楽の使い方も、あの場所-あの時代の額縁の絵として遠くの風景として機能するだけになってしまうような。

Joaquin Phoenix主演作で、おなじく病気の母を抱えたひとりぼっちの男(の戦い)、というと少し前の“You Were Never Really Here” (2017)があって、こっちの方がその怖ろしさも含めてより生々しかった感が。

10.06.2019

[film] Downton Abbey (2019)

9月28日の土曜日の午後、CurzonのMayfairで見ました。

この日の午前中、もう終わりそうだったバッキンガム宮殿の夏の一般公開に行った。昨年も何度か行ったのだが、今年はその中で”Queen Victoria’s Palace”ていうヴィクトリア女王の生誕200年の記念展示をやっていて、わたしはいまのおばあちゃんも、そのずっと上のおばあちゃんも好きなので見たくて。 彼女の着ていたドレスとかいろいろあってどれも小さいのだがものすごくパワフルな人だったのね、というのが十分伝わってくる内容だった。 当時のボールルームの雰囲気を再現とか、昨年はなかったし。

えー、Downton Abbeyについて、TV版は日本にいた頃、日曜の晩(だっけ?)に見ながらそのまま落ちてしまう、というのを繰り返していたので、全体としてはMaggie Smithさんが何度も(小声で、怯えるように)言っているように「長すぎて、なにがどうなっているのかわからないのよ。箱とか多すぎるのよ..」とおなじく、どっちが使うほうの側でどっちが使われるほうの側か、だれがよいひとでだれが性悪で(まあそれは少し見ればわかるか)、というのがわかる程度 – つまりぜんぜんよい視聴者ではなかったのだが、そんなひとでもおもしろく見れるし、これをきっかけにこういう変なの - 変だけどこれがこういうのを何百年もやってきている(とっても変な)英国ていう国- に触れてほしいわ、って思う。

そして、そうとうに歪んだ変な世界であることがわかっていながらあの音楽と共にホグワーツの全容が浮かびあがるとわけもわからず高揚してしまうあのシリーズと同じように、Downtonの建物が大きな画面にぐわーんてあがってくるとなんか盛りあがってしょうもない。 主人公はあの建物なのだと思う。

冒頭でバッキンガム宮殿からRoyal Mailが発信されて電車とかいろいろ乗り継いで届けられ、封を開くとKing & Queenが夏の行幸の途中にDowntonに立ち寄ってご飯食べて泊まっていくので宜しく、と。

こりゃたいへんいち大事! と隠居していたMr. Carsonを呼び戻したりみんなで張りきっていると下見にやってきた宮内庁の役人たちから、ロジ系、執事系は我々がぜんぶ仕切る、料理はシェフから材料からぜんぶ用意するから貴方たちは一切関わらなくてよろしい、と言われて、なーんだ、になるのだがそれで引き下がるような連中ではないのだった..  っていうのと、王家のパレードを狙ったテロとか、Tomの新たな恋とか、いろいろ絡んで慌ただしくて、でも一気に流してなんとかなってしまうところがよいの。

お家のみんなが一致団結して(誰かが犠牲になったりして)がんばるぞー(おおー!)っていうのではなくて、各自が自分の担当領域で思ったこととかやろうと思ったことを深く考えず勝手且つてきとーに動いた結果、なんとかなる - もちろんいろいろ湧いて来るのだが、それすらもなんとなく吸収して丸めてしまう、それをキャラクターやチーム力(頼むからこれ使って組織論みたいのやらないでね)みたいなところで語らずに、それがDownton Abbeyという場所なの、って建物ががーんてせり上がってくる(ソフトなゴーメンガーストみたいに)。  とにかく変な世界、と少し距離を置いて見るくらいがちょうどよいのかも。

みんなずっと元気でがんばってね、って久々に実家に帰っていろんな親戚に会ったときのようなかんじになる、というか。
(除.お屋敷)

欲を言えば、お料理を作るところとか見たかったな。あの二人で擬似お料理番組やったら絶対当たるのにな。

続編はありそうだねえ。

今朝は、朝の9時からグラストンベリーのチケット予約があった。3日の夕方の電車付きチケット予約に続いてのリトライで、(3日はLFFの上映が18:10からで、チケット発売が18時からで、BFIのしょぼいWifiに繋いで泣きながら10分だけやってみた。もちろんお話しにならない)今回も、少し早起きしてかちかちやってみて、予想はしていたものの軽く弾きとばされてさようなら、だったわ。取れる人はそれなりに勉強しているんだろうなー。

と、しょんぼりしていたのだが、晩にAdam DriverとLaura Dernのほんものを見れたので少し元気になった。 Adam Driver、やはりすばらしい俳優だねえ。

10.04.2019

[music] Richard Thompson 70th Birthday Celebration

9月30日、月曜日の晩、Royal Albert Hallで見ました。この日はScalaでStarsの”Set Yourself on Fire” (2004)の全曲披露ライブがあって、チケットも買ってあって楽しみにしていたのだが、朝にこのライブがあったことを思い出し(ゲストが発表になってから考えようかって後回しにしていたの)、ゲストリストを眺めて頭を抱え、午後になったらリターンされたチケットが出てきたのかいつもの自分の席が空いていたので取ってしまった。 ずっと雨だし体調が最悪だった(からスタンディングはきつい)ので許してStarsのみんな。

開演は19:30きっかり。会場は自分たちも70th前後っぽいお年寄りばかり。

最初に彼の今のバンドであるRichard Thompson TrioがTrioじゃないけどな、と自分で突っ込みを入れながら1曲軽快に流して、最初のゲストのHugh Cornwell氏が。14歳から16歳くらいまで同じバンドでやっていたそうで、当時やっていたようなやつを、って”Tobacco Road”から。ふたりの会話 - Richard「このバンドのあと、どこで何やってたんだい?」 - Hue「あー、君と同じようにバンドってやつをやったりしてたのよ」と言ってThe Stranglersの”Peaches”をやる。ものすごーく変なかんじだが 、音はぱりぱりのエレクトリックでよいの。Hueとは3曲もやった。

続いて ボトムにAshley HutchingsとDave Mattacksが入り、pre-Fairportでやっていたトラッドを。Ashleyが66年の頃の日記を朗読する - パブで演奏していたRich Thompsonとかいう変な若造と会う、悪くない -  とか(それ、出版してほしい)。

更にDave Peggが入って”Down Where the Drunkards Roll”をみんなでしんみり合唱したところで、 次のゲストのBob Mould氏。ギターのプラグを突っ込んだ途端に雷のような音が鳴って老人たちが飛びあがる。 BobはBobとしか言いようがなくて(外観は老人だけど)がんがんの2曲 - Sugarの”If I Can't Change Your Mind”なんかやるの。ギターふたつの絡みは背筋の伸びる気持ちのよさで、この音を足して128歳の老人組が出しているなんて誰が信じようか。 The Guardianのインタビューで彼が語っていたように今回のライブはRetrospectiveではなく、節目に友人や家族を呼んで好きな曲をやりたいようにやる、というものなのだろう。

前半パートのヤマはMartin Carthy氏で、彼とRichardのアコースティックギターの弦、それとDanny Thompsonのベースが向かいあうギターの板のあいだで反響しあう様がすばらしかった。なんであんな深い井戸みたいな音が出るのか。

30分くらいの長めの休憩時間にみんなビールを買いに走り、後半はRichard & LindaやFairport Conventionにフォーカスするのかと思ったらそうではなく、Thompsonの家族アルバムのような構成で、女性ゲスト(Maddy PriorとかOlivia Chaneyとか)がいっぱい出て、Thompson一家も“That's Enough”のときにTeddy, Kami, Jack, そしてLindaもバックコーラスで少しだけ出てくる。

前半のBob Mould以上に変てこだったのが”Spinal Tap”のDerek Smalls (Harry Shearer)氏で、メタルのなりで出てきて楽しかったものの流れのなかでは完全に浮いてたかも。

後半の個人的なヤマはLoudon Wainwright IIIで、まず自身の”The Swimming Song”を軽快に(泳ぐように)やって、続けてバックにDanny ThompsonとDave Mattacksが入り、”I Want To See The Bright Lights Tonight”をやる。ほんとうにBright Lightsが下りてくるかんじ。Loudonがいて、Teddyだっているのに、そしてこの曲なのに、Rufusのやろうはなんでこないのか。

後半のパブリックなヤマは(たぶん)David Gilmourで、最初に”Dimming Of The Day”をやり、俗にいうギターバトルみたいなシーンもあるのだが、悪いけど格がちがうかんじ。もう一曲は(DGが)ギターを擦りきれたテレキャスターに変えて、”Fat Old Sun”なんてやるの。こんな曲、ライブでやるのね。まったく、ぜんぜん関係ないけどSoundgardenの”Black Hole Sun”を思いだす。韻ふめる?

アンコールは1曲だけ、みーんな出てきて、客席もみんなわかっていて、国歌みたいに校歌みたいに立ちあがって”Meet on the Ledge”をうたう。(他にあるだろうか?) Sandy DennyもDave Swarbrickもその辺に浮かんでいるんだろうなー、って。

やってほしかった、聴きたかった曲はあと100曲くらいあったのだが、これはあくまで通過点の近況報告でささやかなお誕生会、ということで、次を待つことにする。

同様にこの人の蛇のように蠅のようにのたくる魔術としか言いようのないギターをもっともっと聴きたい、というのもあって、他方でこのひとのギターはどこまでも生ものとして瑞々しくてレジェンドとか円熟とは程遠いなにかであることもようくわかった。

つい先日、誕生日を迎えたもうひとりのRichard – Richard Hell氏も70  歳だという。 1949年生まれってなにかあるのかしら?

10.03.2019

[film] The Man in the White Suit (1951)

24日の晩、BFIの同じシアターで、”The Flesh and the Fiends”に続けてみました。邦題は『白衣の男』。 白衣っていうより白スーツなんだけど。

Ealing Studiosのコメディで、Ealing Studiosのは英国のいろんなことが勉強になるのでかかると見るようにしている。
監督はAlexander Mackendrick。

なんでこれが上映されたのかというと、West EndのWhyndham's TheatreでSean Foley演出、Stephen Mangan主演によるこの映画の舞台版の上演が始まったからで、イントロでStephen Manganさんがおしゃべりしていった。映画には結構ダイナミックなアクションもあるのでそれを狭いステージ上でどう表現するかとか、そういうお話。

舞台はイギリスの北の方、Sidney (Alec Guinness)はケンブリッジ出の化学者で、繊維工場の隅で闇実験みたいなこと(実験のぽこぽこいう音 - 実験音楽みたい - がずっと鳴っている)をしていて、なんでそんなことをしているかというと、彼のやりたい実験はお金がかかるのででっかい工場でないとできないのだ、いいじゃんちょっとくらい、と。

で、追い出されたり受け容れられたりしつつ実験あれこれの結果、彼はついに汚れない - いつもぴかぴか - 汚れがついてもすぐ落ちる - とにかく丈夫で破れない - 放射能入りだし - 画期的な繊維を開発して(今ならありそうかも)、それでかっこいい白スーツを作ってみせるのだが、その発明を金の卵とみる会社側とそんなのができたら食いっぱぐれるとみる組合側で、商権だのなんだのを巡って争奪が始まり、でも彼はそう簡単に(どっちにも)渡したくないので追っかけっこになり、団子状態のぐだぐだに広がっていくのだがー。

恋愛のことも少しだけ出てくるけど、これは産業革命会社コメディで、会社や業界、そして組合のあいだで、というかそれらを突いてまわって(図らずも)きりきりさせてしまう青年化学者のお話で、なんでそんな大騒ぎになっているのかわからないなーってすっとぼけた顔で逃げ回る彼の目線で新技術を求める産業という営みとか支配層という連中のヘンテコな動きを眺めてみる、と。

ドラマのネタとして新しくておもしろいことはもちろんなのだが、Sidney役のAlec Guinnessの挙動振る舞いがとにかくすばらしくて、”Kind Hearts and Coronets” (1949)での一人八役も納得だし、”Star Wars” (1977)のObi-Wan Kenobiで彼を最初に見たときも、じいさん身軽でやるねえとか思ってしまったのだが、このひとの身体の動きはなんか飛びぬけてすごい気がする。 Star Wars sagaのEp1 - 3のObi-WanもEwan McGregorじゃなくてこの頃のこのひとがやればよかったのになー、って(Ewanごめん)。

同様のネタは高度成長期のにっぽんでもできたと思うけど、植木等のみたいなだとややおちゃらけ過ぎてて(あれはあれですばらしいけど)、主人公のイメージとしては三國連太郎かなあ。(もう既にやっていそうだけど)

お芝居の方は、評判よさそうだったら行こうかしら、程度。


RIP Kim Shattuck.   90年代のまん中、米国にいて、The Muffsの”Sad Tomorrow”が深夜のMTVでかかった翌日にすぐCDを買いに行ったなー。 彼女たちを聴いていたのでHoleはあんまし来なかったの。映画”Clueless” (1995)の(自分にとっての)イメージを決定づけたのも彼女たちの"Kids In America"だった気がする。 来日公演は三茶のに行った。ほんとうに大好きでした。 ご冥福をお祈りします。

[film] The Flesh and the Fiends (1959)

24日、火曜日の晩、BFIで見ました。この晩は50年代の英国映画2本立てで、その最初の1本。なんかの特集に紐づいたものではなくて、出演しているDonald Pleasence氏の生誕100年を記念してのものだそう。   邦題は『死体解剖記』。米国題は”Mania”。(←国によってぜんぜん違う) 

どうでもいいけど、タイトルを”The Flesh and the Friends”(肉と友達)だと思っていたら、”Friends”ではなく”Fiends”なのだった。その昔、”Alien Sex Fiend”っていうバンドがあってな(..まだやっているみたいね)、それをずうっと”Alien Sex Friend”と思い込んでいた、これとまったく同じ誤りを相変わらずやっている。

上映前に“English Gothic: A Century of Horror Cinema”という本の著者であるJonathan Rigby氏のトークがあったのだが、びっくりするくらい完全に落ちていた。ごめん。

19世紀初のエジンバラにDr. Knox (Peter Cushing)ていう解剖学の先生がいて威厳に満ちてておっかないのだが、Burke (George Rose) と Hare (Donald Pleasence)っていういつも酒場でくだまいてるごろつきのふたりが墓を掘り起こしては死体(結構生々しい)を引っ張りだし、Dr.Knoxのところにごとごと運んでいくといくらかお金を貰える。公に解剖(教材)用の死体を安定供給して貰うのは難しいようで、彼らのような闇の連中に頼っていて、死体が新鮮であればある程、お代はよいとか。 で、このふたりはそこらで死んで転がっている死体を持っていくだけでは満足出来なくなってきて、そうっと殺してしまえばわからないような人達を見つけて暗がりで絞めて殺して持っていくようになるのだが、あまりに死体が新鮮すぎたり頻繁だったりするので周囲は怪しいと思うようになり(いや、ちゃんと検死すればさ..)、ここにDr.Knoxの元で学んでいる真面目な苦学生Jackson (John Cairney)と酒場の娼婦のMary (Billie Whitelaw)の儚い恋が絡んだりするのだが、Burke & Hareの基本は面倒になったら殺しちゃえなので、血も涙もない展開で、やがてふたりは捕まって寄ってたかってぼこぼこにされ、当然彼らから品々を買っていたDr.Knoxの責任も問われるのだが、ものすごく胡散臭い演説をしてなんとなく受け容れられてしまう。

という具合に主要登場人物がみんな変でおっかなくて善人はほんの少しだけ、どんよりダークで冷たい空気に満ちていて英国だわー、って思った。ごろごろ並べられるいろんな死体もこの時代にしては妙にリアルでよくできたお話で-。

と思ったら、これが実際に1828年にエジンバラで起こった”Burke and Hare murders”として知られているケースで、ふたりで16人殺しているって。Dr.Knoxも実在して、Peter Cushingは片目が潰れたようになっているのだがそれも本人に似せているのだそう。こわいよう。

でも興業的には惨敗だったって。やっぱり怖すぎるのよ。

10.02.2019

[film] Lust for Life (1956)

9月13日、金曜日の晩、BFIで見ました。絵画の映画ということで。 邦題は『炎の人ゴッホ』。

最近のゴッホ映画というと”At Eternity's Gate” (2018)  - Willem Dafoe主演/Julian Schnabel監督のがあったが、これはIrving Stoneの同名小説(邦題『炎の生涯 ファン・ゴッホ物語』)を原作にしたもの。結末の彼の死因も両者ではちょっと違っている。こっちの監督はVincente Minnelliで、クレジットされていないが一部のシーン(Theoのアパートのところ)をGeorge Cukorが撮っている。

上映はデジタルで、もうちょっときれいなデジタルのがよかったかも。冒頭で作品の画像提供に協力してくれた美術館の一覧がばーっと出て、こんなにいっぱい.. ってちょっと感動する。

伝道師として修業をしているVincent van Gogh (Kirk Douglas)がいて、ベルギーの炭鉱に赴くのだが炭鉱夫たちの悲惨な生活の現実に直面して伝道どころではなくなって破門され、やっぱり絵しかない、ってがんばるのだがぜんぜん売れなくて、パリで印象派の動きに触れてPaul Gauguin(Anthony Quinn)と出会って励まされ、他方で病気が悪化して弟のTheo (James Donald)に助けてもらい、でもどっちにしたって自分には絵しかない、描きたいんだ、で最後には.. 

そんな彼の生涯の節々に彼の描いた絵がストップモーションで挿入され、それがその時の彼の状態や感情を説明してくれるわけではない(よく見ればあるのかしら?)のだが、絵のために生きて、生きるために絵を描いた彼の生涯をその横で静かに照らしているのと、別にそういうのなしでも絵はずっと、ただそこにあるというー。

“Lust for Life”で、『炎の人』で、そこにあの燃えあがるような絵 – 「暗い」っていう人もいるけどわたしはゴッホの絵はふつうに「明るい」と思う - が重なるので、全体のトーンはとても強くて、悲劇的なトーンはあまりない – Kirk Douglasの演技は熱量たっぷりでも、画狂人とか狂気の方には最後まで振れていかないような - のはよかったかも。でもほんとここって、どこまでも強い弱いがどす黒く支配する男の世界だよねえ、ていうのと、今の時代だったら軽くはじかれてすぐに潰されちゃったかもしれないねえ(交付金でないよ)、ていうのと。

7月に見たTateでの”Van Gogh and Britain”には英国時代の彼の絵が結構展示されていて、その頃のは割とちがうかんじ– それこそ”Lust for Life”で、あとFrancis Baconの描いた3枚の絵 - ”Study for Portrait of Van Gogh IV”, “Study for Portrait of Van Gogh VI”,  “Van Gogh in a Landscape” があって、どれも1957年製作なのだが、年代とか色合いから、この映画からの影響が指摘されていて、館内では小さな端末からこの映画の映像が流れていた。(実際には機械が壊れていて見れなかったのだが)(のがこの作品を見たいと強く思った理由)

ゴッホその人とかそのパッション、Lust、はこの映画でだいたいわかるのだが、ゴッホにはふつうの田園風景や人物がなんであんなふうに見えていたのか、あんな技法で描かれなければならなかったのか、をそれなりの説得力で追ってみたものが見たい。本ではあるのかもしれないけど。  Dr. Paul Gachet (Everett Sloane)が出てきたのでなんか言うかしら、と思ったのだけど。

ただ、あの時代の画家を描いた映画、絵画映画としてはものすごくきちんとしていて - 美術館を抜けてきたかんじがして - よかったかも。

10.01.2019

[film] The Goldfinch (2019)

9月27日、金曜日の晩、Leicester Squareのシネコンで見ました。
公開初日だったせいかすごくでっかいスクリーンで上映されて、でも夜遅かったせいかお客はぜんぜん入っていない。

2014年のピュリッツァー賞を受賞したDonna Tarttの同名小説(未読)の映画化。

冒頭、アムステルダムのホテルの一室で、すべてに絶望して死にそうになっているTheo (Ansel Elgort)の独白から、何がどうして彼はここでこうなってしまったのか。

まだ13歳のTheo (Oakes Fegley)は、美術館のテロで母親を失い、身寄りがないということでNew York Upper East(Park Aveの63rdだった)の裕福なBarbour家のアパートに引き取られて、同年のAndy (Ryan Foust)とママのSamantha (Nicole Kidman)に暖かく受け入れられてそのまま養子になるか、だったのに突然アル中でばくち好きでどこかに消えていた父親(Luke Wilson)とその愛人(Sarah Paulson)が現れてラスベガスの砂漠に引き摺っていかれる – すごいやだ、かわいそうすぎる。

もういっこ、Theoはテロにあった際に彼が持っていた指輪の刻印からヴィレッジ(Van Leeuwenのアイスクリームの看板がみえる)のアンティーク家具屋に導かれ、そこの共同経営者であるHobie (Jeffrey Wright)と彼が後見人となっているPippa (Ashleigh Cummings) - 彼女もまた.. - と出会い、彼らはその後のTheoの道行きに大きな影響を与える。

ベガスに行ったTheoはすべてを取り上げられた窮屈で苛酷な環境に置かれ、やはり父親がやくざなロシア系のBoris (Finn Wolfhard)と知り合い、酒やドラッグを教えてもらって親友になるものの、やっぱりあれこれ耐えられなくなって脱出してNYのTheoのところに身を寄せる。

時が経ってTheoはHobieの元でアンティークを学んで立派な青年になり、Samanthaの娘のKitsey (Willa Fitzgerald)と婚約するのだが、彼はPippaのことが忘れられなくて、そうしているとKitseyが別の男とキスしているところを目撃して、とっても動揺していると今度は大きくなったBoris (Aneurin Barnard)と再会して..

アムステルダムのTheoとそこに至るまでのTheoのお話の行き来のほかに、頻繁にフラッシュバックされるのが美術館(Metropolitan Museum of Art)での爆破テロの際、館内ではなにが起こったのか、Theoは何を見てどうしたのか、で、物語の起点となっているこの事件が、ぐるりと回って物語の終わりに再び彼に危機をもたらす – 彼自身にちっとも罪はないのに。 たぶんおそらく、原作の本ではこの辺がそれなりの整合感をもって緩やかな円を描いていくのだと思うが、映画だとちょっと弱くて脆すぎて2時間半使ってもー、だったかも。 なぜCarel Fabritiusの”The Goldfinch” (1654)なのか、この鳥が宗教画でキリストとよく一緒に描かれていることとか、いろんな意味も含めてじっくり解していくのはおもしろいと思うのだがそういうじりじりは読書の方が向いているよね。

絵画は他にも出てきて、レンブラントの『テュルプ博士の解剖学講義』も”The Goldfinch”もオランダのMauritshuisにあるやつなので、なんでそれがMETにあったのかしら? 過去にそういう企画展があったのかどうか調べたのだが、2013年にMauritshuisのいくつかがFrick Collectionに来ていたことはわかった(憶えてる。すんごい行列で入れなかった)。← いや、Fictionだからね。

他にはSamanthaがTheoに教えるJohn Singleton Copleyとか。

絵って(本も映画も家具もそうだけど)、それ自体が場所だけじゃなく時間も含めて思いもよらない旅をしていくもので、ヒトがどこでどうしたなんて関知しない、そういう旅 - ガラパゴスのダーウィンフィンチみたいな - の物語として見ることもできるかも。 絵に見入ってしまう、というのはそういう経験も込みでなのだ、といつも思う。

ふつうにTheoが大人になっていく話、でもぜんぜんよかったのにな。このキャストなら。

撮影はRoger Deakinsさんで、とても美しくて、最後に”The Goldfinch”の絵が大写しになるところ、あの筆のタッチは見れば見るほどすごいねえ、って。

子供の頃のTheoを演じたOakes Fegleyさんは、“Pete's Dragon” (2016)の彼だったのね。今回も親を失う役でかわいそうだったけど。 そしてAnsel Elgortさんは”The Fault in Our Stars” (2014)に続いてアムステルダムの運河で。


R.I.P. Jessye Norman.  90年代初にMetropolitan Operaで一度だけ見たことがある。”Ariadne auf Naxos” (1916) -『ナクソス島のアリアドネ』- だった。 人の声ってあんな滑らかな飴みたいに伸びるものなんだ、って驚嘆した。