6.30.2012

[film] To Rome with Love (2012)

25日の月曜日の晩、時差がきつすぎて仕事できません、といって抜けてAngelikaまで下りて見ました。

たしか8:30の回で、Woody Allenの新作公開時にはいつもそうであるように、遅くまでおじいさんおばあさんを含む大人の観客で埋まってて、みんなわあわあ言いながら楽しんでいる。

そこいくと日本の温度差って、なんなんだろうか。
始まったばかりの"Midnight in Paris"だって本国公開から1年以上後だし、その前の"You Will Meet a Tall Dark Stranger" (2010)は公開すらされていない。 
どうでもいい文系芸能人の提灯とか太鼓とかそんなのがなければ公開できないんだったらもういい。 公開されるたびにNew Yorkに通って見てやる。 こんなに軽くておもしろくて、あとに残んない気持ちよい作品なんて、そうないのに。

今回の舞台はイタリアのローマで、これまでのAllenのヨーロッパものの流れからすると、英国つーたら犯罪、バルセロナつーたら女、パリつーたらアート、で、ローマつーたら恋、ということになる。

前作はOwen Wilsonのひとり勝ちだったが、今作はアンサンブルで、どいつもこいつもたまんなくおかしいの。

筋は、こんなかんじかなあ。

観光できたアメリカ人の学生(Alison Pill - 前作のゼルダ)がローマ人に声かけられて仲良くなって結婚することになり、彼女の両親(Judy DavisとWoody Allen)が相手方の家族に会いにくるというお話とか、休暇できたアメリカ人の有名な建築家(Alec Baldwin)が昔住んでいたあたりを徘徊していたら建築を学んでいる学生(Jesse Eisenberg)と会って、彼と同棲している彼女(Greta Gerwig - ここではあんまVersusしない)の自己中な親友(Ellen Page)との間に恋が勃発するのを横で見ている話とか、成功した若いイタリア人夫婦がローマに来て、夫の親戚に会うことになるのだが、彼女は町に出たあと迷って家に戻れなくなり、その間に夫のとこに誰かの呼んだ娼婦さん(Penelope Cruz)が現れて、いいからやろうぜとか言ってて、妻のほうにははげででぶの映画俳優が現れて、それぞれやっちゃうのに、不思議とお互い仲よくなる話とか、ふつうのイタリア人のサラリーマン(Roberto Benigni)がある日突然セレブにされてレポーターに追いかけ回される話とか。

ローマを訪れたアメリカ人、ローマを訪れたイタリア人、ローマに住んでいるイタリア人/アメリカ人、どの人たちにも等しくやってきてきりきり舞いさせるあんな恋こんな恋を落着きのない微熱とか発情とか、そんな振るまいのなかにさくさく描く。 カメラは洗濯機の渦のまんなかで(交通整理のおじさんよろしく)ぐるぐる回り続ける。

間違っても物想いに沈んだり、めそめそひとりで泣いていたり、というのはなくて、それこそRoberto Benigni演じる典型的イタリア人らしくニワトリみたいにみんなきょろきょろ行ったり来たりしてなんかおかしい、という。

シャワーでオペラ歌うおじさんとか、横でえらそうにしている割になんもしないAlec Baldwinとか、ちゃらちゃらうるさいだけのEllen Pageさん(いかにもいそう)とか、どうでもいい横のひとたちもよいの。

Allenでいうと、何回でも見たくなる系のやつ。 そういうのだらけなんだけど。


えー、ほんとうであれば、帰りのJFKに向かわねばならぬ時間のはずなのだが、1日延びた。
でも土曜日午前中は仕事で動けない。 どうしてくれようー。

[film] Lola Versus (2012)

24日の日曜日、NYに着いたらとっても夏の陽射しで、あっつくて、空港からのtaxiに冷房がなくて、なかなかひどかった。

この日は、Pride March(通称ゲイ・パレード)の日で、街中が虹色に染まり、これがくると夏だねえ、というものなので、荷物を置いてとりあえずChelseaにパレードを見にいく。 何回見てもいいなー、とおもう。 反原発デモもだいじだが、こういうのも必要なのよ。

で、アイスクリームなどを求めてひととおり徘徊したあとで、Astorのシネコンで見ました。
公開は6/8だったのに、マンハッタンで上映されているのはもうここだけになってしまっていた。

予告で流れた2本の青春映画(かなあ...)、"The Perks of Being a Wallflower"と"Ruby Sparks"、どっちも見たいようー。

主演のLolaは、Lena Dunham と並んで、いまや最強無敵のGreta Gerwigさんで、とにかくおもしろい。
これのひとつ前の"Damsels in Distress" もいろんな人とのいろんなプレイでなかなか痺れさせてくれたが、こっちはたったひとりなのに、とってもすごい。

Lolaは30目前で、一緒に暮らしている彼がいて、プロポーズもされて、式の手配も進めて幸せだったのに突然向こうからごめん、て言われる。
こうしてどん底に叩き落とされて錯乱したLolaの世界との戦いがはじまるの。 
クラブにいったり別の男とやってみたりとか、でもぜんぶうまくいかない。 うまくいかないまま、すべてが悪いループにはまっていく。
で、Lolaにはとってもわるいけど、その様があまりにかわいそうでおかしいのでげらげら笑える。

そんなすごい美人さんでもなくて、体型もどことなくおばさんで、そんな彼女が顔を歪めたりびーびー泣いたりするのがたまんない。
Russ & Daughters(乾物魚屋)で男に声かけられて取り乱しつつ店先でサーモンをむしゃむしゃ食べてしまうとこなんて、すごすぎる。

これこそが、いまの時代の、コメディの形をとった「こわれゆく女」、なのかもしれない。
愛の喪失によって垂直に崩れおちていく自我、というよりも、右から左から上から下から一切の方向感覚を失ってきりきりとブラウン運動を続ける女いっぴき。  友人も両親も、別れた彼ですら、はらはらして寄ってくるのだが、そうっと見ていることしかできない。
でもそこに悲壮感や気持ち悪さみたいのは一切ないの。 本人は大変そうだがとにかくあっちこっちにぶつかって、ぶつかることでなんとか立っていられる、どうだ! みたいな。  曲芸を見ているかんじに近いが、なんにせよすばらしいわ。

Lena Dunhamさんと似ているのは、基本は仏頂面で、目が笑ってなくて(なんで笑わなきゃいけないのさ?)、なんかあると頬と口の線に現れるうにゃうにゃした線がすてきなの。
コメディであることを狙ったおかしな挙動や表情ではなくて、わたしは恋に生きるんだそれのどこが悪いんだ、という決意表明を茶化しつつも極めて真剣に、それがぜんぜんすんなりいかないくそったれた時代を蹴っとばしてやる! ていう、あれはそういう目だ。

Lolaがふらふらと寄っていく友人の男に、"The Future"でMiranda Julyの相手役をしていたHamish Linklaterさんがいて、あれと同じようにぼんやりふわふわしたとこがよいし、パパとママ役のBill PullmanとDebra Wingerも、適当なことしか言わないとこがいい。

New YorkのいろんなとこでロケしているNY映画でもあるのだが、有名なとこはあんま - Highlineくらいか - なくて、そこがまた全体のせかせか落ち着きなく重箱の隅でうろちょろしているリズムとマッチしていてすてき。

続編なんて、ぜったい作ってくれないよね?


映画のあとは、Brooklynに渡って、前回入れなかったBattersbyに再び突撃を試みたのだが、なんと営業時間が変わって日曜は休みになっていた。 気を取り直してPrime Meatsに向かい、HampshireのPork Chopに噛りつく。 PorsenaのNiman Ranchのと同じくらいブリリアントな一皿でございましたわ。

帰りみち、まだ薄暗い程度だったのだが、Caroll Stの駅の近くの住宅の庭でホタルが舞っているのを見て感動した。
ホタルみたの、生まれてはじめてだったかも。  しかもBrooklynなんかで。

6.28.2012

[film] The Killing of a Chinese Bookie (1976)

"Faces"に続けて見ました。 これはこれまで見たことがなかった。
オープニングタイトルのばーん、とした出方がジョニー・トーみたいだった。

Cosmo (Ben Gazzara)は、カリフォルニアのはずれでCrazy Horse Westていうストリップ小屋みたいのを経営しつつ、他にもやばい仕事をあれこれやってて、ある日、勢力の大きなやくざの人たちから借金帳消しにするかわりに中国人のノミ屋を殺すように言われて、最初は拒むのだが結局ひとりで乗りこんでいくの。 でそれをやっつけた後も、もみ消しでうるさくつきまとわれて。

闇からやってきた仕事を闇のなかで実行して闇の向こうに押しやる、というフィルム・ノワールの暗さと非情さ、これはこれでクールで、はらはらどきどきでよいのだが、こういうのとは別に、この後の"Opening Night" (1977)にもはっきりと連なる舞台芸術への無垢で無償な愛がCosmoをつき動かしていて、この明るさが闇を、駆逐するのでも漂白するのでもなく、闇をもステージの上にひっぱりあげて無力化してしまう、ように見える。 それを作為的な演出抜きでさーっと繋いで、出してしまう。

ここでは世界は、舞台ははっきりとCosmoのものである。 彼が世界を統御し、コントロールする。 その限りにおいて、彼は無敵だ。
それが外の世界 - でもそれは繋がっているおなじ世界でもある - の力とぶつかったときに何が起こるのか。
"Opening Night"は、演出家である彼の描いていた世界を遥かに超える特大の毛玉を吐きだした老猫女優がぜんぶ持っていってしまった。 これは向こう(女優)にとっては命がけの賭けのようなものだったし、しょうがないの。
"The Killing of ..."における舞台は、(理由はよくわからんが)彼が守ろうとする最後の砦で、家で、でもそんな必死にも見えずにさっさと片付けてしまうところがすばらしくかっこいい。
ラストの方のあのペンキみたいな血も、この文脈だとわざとだろ、みたいに見えてしまうくらい。

Ben Gazzaraが、とにかく素敵でさあ。 ものすごく強いとか色男とか、そういうのではなくて、ふにゃふにゃしたところもあるのに、とにかくやられない。 "Opening Night"もそうだったが、立って舞台を見上げる姿の力強さときたら。

彼だけじゃなくて、出てくる場末の人たちの顔がみんな素敵でねえ。
やくざの人たちのほうにいるSeymour Casselの声とか、すばらしくよいの。 クリアで、細くて。
"A Woman Under the Influence"に出てくる土方のみなさんもよかったが、ああいう顔達って、どうやって見つけてくるのだろう。

ぜんぜん違うのだが、なんとなく(ほんとになんとなく、だけど)神代辰巳の「赤線玉の井 ぬけられます」(1974)を思い出した。
がたがたでぼろぼろでわけわかんなくて、でも全体としてはポジティブで崇高な何かが降りてくるような。


今回のCassavetes特集は(自分のは)これで終わったのだが、"Too Late Blues"も"Husbands"も"Minnie and Moskowitz"も入っていない。
それに、なんといっても"Gloria"だってさあ。

俳優としてのCassavetesももっと見たいなー。
Don Siegelの"Crime in the Streets" (1956)とか、"The Killers" (1964)とか、晩年だと"Tempest" (1982) - これはMolly Ringwaldさんのスクリーンデビュー作でもある - とか、すばらしいのがいっぱいあるのよ。

[film] Faces (1968)

21日木曜日の午後、休みを取ってCassavetes2本見ました。 
この翌週で特集は終わってしまうし、翌週は米国というのがわかっていたので、こういう手を使うしかなかったの。
(あのさ、CriterionのDVD持ってるわけだし、ここは見ないで我慢する、ていう手もあったよね?)

"Faces"(1968)は、2011年の元旦に見たのが最後。
いつ見ても強烈で、強烈に変な映画で、でも変な夢のようにいつまでも残る。 残ってもそんなに嬉しくもないのだが。

最初のほうはすけべなおやじたちが酔っぱらって「おんなを抱きてえー」とか大声でわあわあ騒いでいるだけなの。
たまに相手の言うことにぴきってキレて、突っかかったりなだめたり、そんな描写がえんえん続く。

こんなんで映画になるのかー、と思っていると、話はだんだん絞られてきて、夜更けに若い妻を置いて女(Gena Rowlands)の家に行った初老のおやじ(John Marley )と、夫のいない間の夜遊びで拾った若い男(Seymour Cassel)を家に連れこんだ若い妻のふたりのひと晩を追っていく。
それでも、なにが"Faces"で、映画がなにを言わんとしているのかはあまり見えてこない。

映画に出てくる人たちが難しいことを言っているわけではぜんぜんないし、理解に苦しむようなことをやったりするわけでもない。

ただ、彼らは自分がしていること、しようとしていることを明確には言わないし、カメラもそういう方向には動いていかない。
彼らの目が開いたり閉じたり、顔が引きつったり歪んだり泣いたりするその様だけを執拗に追う。 その顔と頭が乗っかっている物理的な身体やその動きは、とりあえず追っかけるけど、なんでそこに向かっているのかは予測できないし、結局わからない。
歳とったらわかるようになるかも、とか昔は思っていたが、別にわかんない、でいいや。

愛と憎悪のあいだで際限なく変容を続けるいろんな顔たち。 それをひと晩丁寧に追っかけていくだけで、これだけのドラマが作れてしまうという驚き。  Thin Line Between Love and Hate ♪

あとは、ああいうなかで生きている人たち - との間の距離というものについて、遠いとか近いとか、そういうことをわかりやすいかたちで考えさせてくれる。 大文字でうさんくさく語られがちな「人間のドラマ」、みたいのを因数分解していったらこんなふうなところに落ちるのではないか、例えば。

メインに出てくる家はCassavetes自身の持家で、修羅場のコアはここで撮影されていて、台所に掛かっている絵が同じだから"Love Streams"も同じ場所で撮られたのだということがわかる。 "Faces"の夫婦はどこかに越していったのだろうか? 殺しあいでもやっちゃったのだろうか?
そして、"Faces"の16年後に同じ場所で撮られた遺作は、憎悪の部分を取っぱらい、感情の局部としての顔からも遠ざかり、ひたすら垂れ流されていく愛とその器である不器用な体とその動き、にフォーカスしていくことになるの。

こういうスパンで見てみると、なんだかすごいねえ、と改めてびっくりしてしまうのだった。

6.24.2012

[log] June 24 2012

うー  ぬむいったら。

成田にいるの。これからNYにいくの。

昨日、"The Amazing Spider-Man"見たし、出たばっかのSPURも買ったし、これからManhattan襲撃だぜ!  みたいだったらふんとに素敵なのであるが、お仕事が半端なくぱんぱんで、どいつもこいつも討ち死に確実、自業自得でしんでもだれも供養してくんない、そんなやつなの。

ライブは、見事に、すっからかんになんもない。着いた直後にBeach Boysを見にJones Beachに向かう元気なんてないし、水曜日にAmanda Palmerさんがあるけどチケットはとうに売り切れで動きそうにない。

映画もないのな。そりゃちょこちょこないこたないけど、こいつだけはなにがなんでもなんとしても、なやつはない。 ついてないわ。

今週来週は、映画に関して言えば、日本のがよいのよな。  メルヴィル・プポー特集があるし、ホセ・ルイス・ゲリン特集もあるし、爆音だって始まってしまう。
あーあ、7/1の爆音の前売り、買ってあったのになー。

SPURのNew York特集、いちばん嬉しかったのは、Gallagher's(古雑誌屋)の復活を確認できたことだった。 でも、土日休みで平日18時おわりじゃ、どうしようもないじゃん。

"The Amazing Spider-Man"は、おもしろかったです。 いちばんはらはらしたのは、ブランジーノ食べたあとで、あんなべたべたにキスしていいの?  というとこと、(いつものように)Stan Leeさんが出てくるとこでしたわ。

ラスト、屑より酷い日本語版主題歌とかいうのが流れてきて一挙に興醒めするので、盛り下がりたくないひとは早めにシアターを出ましょう。 なによりも音の貧しさに愕然とした。  なんだあれ。

飛行機のなかでねないともうだめだよう。

[film] A Woman Under the Influence (1974)

ほんとは火曜日に見たかったのだが、たいぷーのやろうがさあ。
で、水曜日の晩にみた。 『こわれゆく女』。

Peter Falkが土木作業員の夫で、Gena Rowlandsがその奥さん(Mabel)で、ふたりの間には子供が3人いて、Gena Rowlandsがだんだんおかしくなっていって、強制入院させられるところまで、と、それから6ヶ月して、退院して家に還ってくるところと。

見るのは3回目くらい。
見ていて決して気持ちのよい映画ではなくて、"Opening Night"とか"Love Streams"と比べてもGena Rowlandsの痛ましい壊れっぷりとばりばりのテンションは群を抜いてリアルで、はっきりとこわい。 演技が凄すぎてこわい、というよか、それ以前に、カメラの前にそんな姿を曝せてしまうことのすごさ、おそろしさを思う。 
じりじりやってくるこんな世界に関わりたくないかも、感ははんぱでない。

それでも、というか、それだからか、一番泣けてしまう映画であることも確かで、これはひょっとして歳のせいか、とか思ったりもした。でも、なんで泣けてくるのか、あんましよくわからないの。世界にはまだまだ未知の世界がいっぱい転がっている、とかいう台詞はこういう映画を見たときに言うべきなんだよ。

この映画を最後にみたのは、2005年、BAM CinematekでのJohn Cassavetesの回顧上映のときで、このときは、上映後にGena RowlandsとPeter Bogdanovichのトークがついていたの。

Peter Bogdanovichさんはこのとき、この映画にかつて存在した4時間版のことを言っていた。
最初にそのラッシュを見て「とにかくとんでもないもんだった」と。
で、その横のGenaさんも、「そうそう、そういえばあったわねえ」と頷いてて。
でも、劇場公開されたとき、なぜか現在の長さになってしまっていたのだという。
うー 4時間版がみたいよう。

もういっこ、Genaさんが力強く言っていたのは、「この映画は女性映画なの。女性をひどく不気味に描いた、とか言われるけど、絶対そんなことはないの。女性の強さと美しさをこれほどまでにきちんと描いた女性映画はないのよ」と。(場内拍手)

ほんとうにそうなの。 
この作品と"Wanda" (1970)が、この70年代の2本が、女性映画(というジャンルがありうるのだとしたら、だけどね)のベストだとおもう。

Wandaのたった一人の彷徨い、この映画でなにがなんでも立ち上がろうとするMabelの気概、これらが例えば、90年代以降、"Thelma & Louise" (1991)やSATC、更には最近の"Girls" (邦画じゃないよ)あたりまで、どうやって転がっていったのか、時間があったら考えてみたいところ。

あと、このニュープリント、色がとにかくすばらしくいかった。
スポンサーブランドはだいっきらいだが、お金を出してくれるならそれでええ。

これの後、この特集でCassavetesはあと2本見ているのだが、書くのはもうちょっと先かも。

[film] Agatha et les lectures illimitées (1981)

17日の日曜日、新宿に出て見ました。へろへろ。
なんでアンコール上映とかやってるのか、ぜんぜんわかんないのだが、そういえば見ていなかったし。

Marguerite Durasであるからして、当然ふつーの映画ではなくて、映画というかたちを通して演じられる朗読劇、である。例えば。 原題は「アガタ、または終わりなき読み」みたいな。

ひとっこひとりいない冬の海、そこに向かって建てられた廃墟のようなホテル。
紙に書かれたテキストが映しだされ、女性の声(Duras自身)が語り始める。 自分は明日の朝4時に出発すること、それによってなにかが決定的に終ること、そして語りの相手(兄)との間にかつてあったいろいろなこと。

画面上に現れる海やホテルの映像が、ナレーションで語られる内容を支えたり補強したりしているわけではないことがだんだんわかってくる。 むしろ、語りの内容(例えば夏の日の別荘での思い出)から遠ざかるようにして映像(例えば冬の日の閑散とした海とホテル)は後からやってくる。

語りにはたまに男(Yann Andréa)の声が被さる。
男と女、ふたりの姿は時折画面のはじっこに幽霊のように現れたり消えたりするが、両者の姿がアクションのかたちをとって交錯したりぶつかったりすることはない。
ふたりは台本のなか、互いに語りあい響きあう声としてのみ、この世にいて、別々の凧糸で繋がっているかのようだ。 

時折、ピアノによるブラームスのワルツが静かに流れる。
これは妹が小さい頃に練習してもできなかった曲、と説明されるの。

難しいとか、そういうことはぜんぜんない。映像はなにが映っているかすぐわかるし、語りの中味は小学生だってわかる。 映像と言葉の関わりと、それによって現わされる世界とか時間(現在 - 過去)のありようが我々のよく知ったそれとは違う、というだけのことで、その作法というか、そういうものだと気づいてしまうと、これはこれでとても気持ちよいものでした。

この映画にはっきりとある、見る側を遠くに突き放してつーんとしている冷たさ、って、80年代初期のものなのだろうか。 今の若い子って、こういうのにぽーっとしてかっこいい!とかあんま思わないのかなあ。

椅子のうえで小さく猫みたいに丸くなるBulle Ogier、かわいー。

あと、こういう映画はフィルムのちりちりしたノイズと一緒のが合うなー、と思った。

6.23.2012

[film] Little Fugitive (1953)

とにかくお天気をなんとかして、の日々。 ぜんぜん時間ないしー。
16日の土曜日、アテネでのMorris EngelとRuth Orkin特集で、3本続けて見る。
ずっと見たかったやつだし、どうせ見るやつだったし、丁度いいかー、と。

Little Fugitive (1953) 「小さな逃亡者」。
New Yorkでは、とうの昔からNew York映画の古典なのだが、そういう角度でなくてもとてもチャーミングで、おもしろい作品でした。
兄と弟がいて、兄とその友達仲間から弟は煙たがられていて、兄の友達がぐるになっての悪戯で、兄を殺してしまったと思いこんだ弟は、お留守番貯金を抱えて地下鉄に乗り、ほんとはみんなで行くはずだったコニーアイランドにとんずらする。 
でもそこに切迫した思いとか危うさはぜんぜんなくて、このガキは遊園地のいろんな乗り物乗ったり、すいか食べたり、ぷらぷら遊んで楽しんでいるだけなの。 お金がなくなると海岸で瓶を拾って換金して気に入ったポニー乗りにつぎ込んだりしている。 
夜になるとさすがにちょっとだけ寂しいかんじになるのだが、へっちゃらなの。
泣いて騒いだったどうせ誰も助けには来ないし、来られたら捕まってしまう、ということをガキはガキなりにちゃんと押さえている。

子供を愛らしいようにも可哀相にも描かない、その気持ちをわかってあげようともせず、カメラは徹底して保護者の目線の外で、野良猫みたいにひとりでうろつくガキをクールに捉えている。

しかし、コニーアイランド、60年前から既にあんなだったのかー。
あのいかがわしくて怪しくて、ごちゃごちゃしたあのかんじ、世界で一番好きな遊園地なの。
もうポニー乗り場とかはないのだが、観覧車 - Wonder Wheelはちゃんと映っている。
この観覧車、初めて乗ると、びっくりするくらいおっかないんだよ。

子供達のおうちの住所、映画のなかではWoodson Aveとか言っていたけど、どこなのかなあ?
とか、そんなのばかり気になってて、最初期のインディペンデント映画というような巷の評判はぜんぜんどうでもよくなってしまうのだった。 それくらい時差を感じさせない瑞々しさがある、ということで。

Lovers and Lollipops (1956) 「恋人たちとキャンディ」。

これも素敵なNYのおはなしだねえ。 しかも恋のおはなし。
7歳の女の子と暮らす未亡人が、昔の友達で今は南米にいて、NYに赴任したがっている彼と仲良くなっていくの。 でも女の子のほうは彼がやってくるとお母さんを取られちゃうからおもしろくないの。

子供の描き方は、前作とおなじくぶっきらぼうで、犬猫みたいな扱いで、でも、だからこそ素晴らしい表情が切り取られている。 ふくれっつらの見事さなんて、"Curly Sue" (1991)以来だった気がする。

あとは動物園だよね。あそこ、セントラルパークの? それともブロンクス?
ペンギンが同じだから、たぶんセントラルパークだと思うが、昔はいろんなのがいたのね。
とにかく、冒頭にトラがやあ!って3回手を挙げるとことか、カバがにーって笑うとことか、あれだけで許してしまうわ。 

Weddings and Babies (1958) 「結婚式と赤ちゃん」。

この作品だけMorris Engelの単独監督作品。最初のがガキので、次のが若いカップルので、今度のはやや年取ったカップルのあれこれ。

結婚式と赤ん坊専用の写真スタジオをやっているふたり、彼女はもう30で若くないし子供もほしいから結婚したいと思ってて、彼はもう30後半で、いいかげん結婚式と赤ん坊担当から脱して写真家として一人前になりたいと思ってて、でもお互いもうそんなに時間がないし、愛し合ってることは明らかなんだから結婚しようか、てことにするの。

彼女はスゥエーデンからの移民で、彼はイタリアからの移民で、彼には年老いた母がいて、施設に預けても彼女はぶつくさ言ってすぐ抜け出して徘徊してしまう。
ご近所付き合い(ここにもかわいくないガキが)とかWest VillageのStreet Fair(まだやってるよね)とか、New Yorkのごくそこらにいそうなカップルの暮らしがとてもとても丁寧に描かれている。

おばあちゃんと墓地のシーン、いいなあー。
あとあの教会、だれだったかの式で行った記憶が…

3作に共通していることだが、EngelもOrkinも写真家らしい丁寧な画面作りで、ドアノーとかケルテスが映画撮ったらこんなふうー、みたいなかんじ。
(EngelはPaul Strandの"Native Land" (1942)に関わっていたらし)

あとねえ、50年代のNew Yorkって今のNew Yorkに割とすんなり繋がっていることがわかる。
それに比べたら東京ってさあ…  

6.20.2012

[film] Love Streams (1984)

15日、金曜日の晩にみました。

2010年の11月、Cannon Films特集で見て以来。 もう5回くらい見ているのだが、日本語字幕つきはこれが初めてかも。
Cassavetesの遺作。メジャーなスタジオでは全部断られてCannonに来て、Cannon側は2時間以内にしてほしいと要請したのだが、彼はできなくて、逆に増量してきた、と。

筋はなんだかよくわからない、というかどうでもよいの。
作家をやっているらしい男が女の子達を囲ったり、歌手をおっかけまわしたり、息子(たぶん)をべガスに連れてったり、面倒を起こした姉(たぶん)の面倒をみたり、いろんなことをする。
さよならだけが人生だとか、日々是好日とか、そういうことではない。 毎日が"Opening Night"みたいにめちゃくちゃで軋轢だらけで、でもあの映画にあった焦燥や苛立ちはここにはない。

興味があること、必要なことがあって、そのために生きている。それ以外のことはぜんぶどうでもいい。
そういうふうにして生きていると、こんなふうになる。
その理由のすべて、水のように空気のように必要なそれをとりあえず愛、と呼んでみてはどうか、と。 
いろいろ考えてみたのだが、それは「神」でも「善」でも「アート」でもなくて、やっぱし愛としか言いようのないなにかなの。

だから拒絶や拒否の前にJohn Cassavetesは、流血してしまうのだし、Gena Rowlandsは、横になって動けなくなってしまう。
なんでそうなの? と言われても彼らにはわからないだろう。 そうなんだから。
変なひとたち、なのかもしれないが、それは始めからそういう生のかたちをもったなにかなのだ、としか言いようがない。

ここには生に関わるほとんどすべてが入っている。
女の子もおかまも、アルコールも歌もダンスも、離婚も裁判も引っ越しもギャンブルもボーリングも小切手も、血縁も連れ子も子連れも動物も、横臥も階段落ちもびんたも流血も、ほとんどぜんぶある。 それらがぐんにゃり歪んで見えるくらいの至近距離、彼らの匂いや息遣いが感じとれるくらいの近接距離から撮られている。
カタログ的ななにかとして、それらのベースにある思想や言葉を伝えるものとして導入されるのではなく、単にいくつかの動きとして、フィルム上に残された獣道として、これらは目の上を横切っていく。

愛がとめどなく流れていくさまを追う、というよりも、愛が彼らの血となり体液となって流れていくその鼓動を顕微鏡でみて、聴診器で聞く、それらを ね! ね! ね! って示す。
ここにないのは誕生と死(自死も含めて)で、なぜなら始まりと終りはとりあえず関係ないからだ。

こういうのを見てしまうと、巷でいう元気になる映画とか癒される映画とか、そういうのはぜんぶ屑だと思う。
ここには生そのものが曝されていて、ただただ流れていて、それだけで超然としてて、すばらしい。

さっきから同じことしか書いていないのでもうやめますけど、死ぬまでにあと20回は見よう。

この映画にリアルタイムで、84年に出会っていたらどんなんなっていたか、を想像してみる。
… たぶん、今の50倍くらいろくでなしになっていたに違いない。

6.19.2012

[film] Jane Eyre (2011)

10日の日曜日、日比谷で見ました。

英国文学の古典だし、ストーリーとかはいいよね。
あ、でも原作通りに時系列できちんと追っていくわけではなくて、映画はRochester邸を絶望のあまり飛びだしたJaneが嵐の荒野を彷徨って死にそうになりながらSt John Riversに拾われ、朦朧とした意識のなか、回想するとこから入るの。 
原作通りに彼女の延々続くおしゃべりを画面に落としていったら(それはそれで見たい)大変なことになるだろうからこれはよい入口かも。
もちろん、原作読んでいなくても、おお昔に読んでとうに忘れてしまったひとでも、ぜんぜん平気。

よい映画でした。
よい原作、よい俳優、的確なロケーション、素敵な衣装、これだけで十分よい映画になる。
いいの、こういうの好きなんだからほっといて。

特にふたりの演技がすばらしい。
Janeを演じたMia Wasikowskaの寡黙で、でも揺るがない意思を含んだ頬の線とあの目の力、Rochesterを演じたMichael Fassbenderの - X-Menだろうが破廉恥だろうがユングだろうがアンドロイドだろうが、とりあえずなんでも受けとめて変態してしまう懐のでっかさ。 このふたりが最初に火のそばで向かいあって会話するシーンの凄まじい緊張感を見てほしい。 
ふたりの若い俳優がありったけの演技細胞を沸騰させて、思いっきりぶつかりあっている。

Mia Wasikowskaさんは、Aliceよりも断然こっちだと思いました。
Jane役の候補には当初Ellen Pageさんもあがっていたらしいが、これを見てしまうとMiaでぜんぜんよかったかも。

原作の基調音としてあった愚直なまでのキリストへの思いは、映画ではばっさり削いでしまった分、ドラマチックなうねりに欠けることは確かで、ここは賛否あるのかも。 でも今の若い人たちに十分くるものはくるはずだし、小中学生全員に見せるべきだとおもった。

宗教的な要素を削るかわりに、ほんのりホラーぽいところを入れていて、これも悪くないの。 それも少女だからって安易にゴスとかどろどろ系に走ることなく、抑えた白っぽい光を効果的に使ってて、それがまた素敵で。 

このトーンで最近の英国ドラマぜんぶ - Jane Austenひとそろいと、お粗末すぎてかなしかった"Brideshead Revisited"あたりまで、やりなおしてほしいんですけど。


6.17.2012

[film] Adieu Gary (2008)

先週9日の土曜日、雨のなか横浜に出ていって見ました。
横浜日仏学院シネクラブの、こないだの『森の奥』に続くやつ。
低気圧頭痛がひどかったので上映後のトークの前に帰った。

『さよならゲーリー』。 英語題は、"Goodbye Gary"もしくは"Goodbye Gary Cooper"。
2009年のカンヌ国際映画祭批評家週間でグランプリを受賞している。

冒頭、「帰り道はわかる?」「弟が迎えに来ているので大丈夫です」というような会話のあとで、乗り物に乗ってトンネルのなかを走っているとこを車内から撮っているシーンがしばらく続き、え、なにこれ? みたいなかんじになる。
明らかに線路の上を走っているのだが、これは車で、先っぽにメルセデスのあれがついてるし…と思っていると、そいつは外の世界に出て、線路から降りる。どうも廃線になった線路の上を4輪車で走れるように改造しているらしい、と。

乗っていたのは刑務所から出所したサミールとその弟で、家には父が待っていて、父と仲のよい近所のマリアとか、その息子(殆どしゃべらず、大抵外でぼーっとしている)とか、アラブ系コミュニティのいろんな人たちがいる。
出所後で働き口もないサミールは、弟も働いているスーパーマーケットで店員として働きはじめるが嫌気がさしてやめてしまう。
彼の焦燥や苛立ちがどこかで爆発するか、というとそうではなくて、家族やコミュニティのいろんな動きや光景のひとつとして描かれ、全体としてはさらっとした青春映画のようなかんじ。

父親とMariaの恋、工場でひとりひたすらなんかの機械(なんだろ、あれ)を動かそうとしている父親、車椅子の小人を介して行われている怪しげな取引、コミュニティから出ていくひと、入ってくるひと、なにかが始まるのかも、などなど。 たった75分のフィルムとは思えないくらいに入っている要素は多彩でおもしろい。

「アメリカ」というのもあって、ゲームソフトのなかで、アラブのテロリストをやっつける正義のアメリカ、とか、バイト先のスーパーでくだらねえプロモーションを強いるアメリカ、とか、そしてMariaの息子がいつも見ているDVDの映画に登場するGary Cooperに象徴されるかっこいいアメリカ、もある。

でもこれらのアメリカと正面から衝突するわけではなく、"Adieu"と告げて自分たちの世界に戻る、という。 
かんじとしては『サウダーヂ』に似ていないこともない。ただ、『サウダーヂ』が自分たちのほうになにかをたぐり寄せようとする感覚や情動に連動した動きを追っていったのに対し、こっちはもっと落ち着いて、淡々と地場の活動に入ってその動勢を見つめていく、というか。 どちらもあっつい夏の物語ではあるの。

監督のNassim Amaoucheさんはパリ大学で社会学を専攻していたそうで、あーそういうかんじかも、と思った。

サミールを演じたYasmine Belmadiさんは、素晴らしい存在感をもった役者さんなのだが、この作品の公開4日前に交通事故で亡くなられていることを知った。 続編があってもおかしくない作品なのに、残念でなりません。

6.16.2012

[film] Opening Night (1977)

8日、金曜日の晩にへろへろ状態でみました。
気がついたら始まっていたCassavetes特集。 年寄りであればあるほど、這ってでも見ておきたい。
寝るかもー、とか思ったがぜんぜんそうならなかった。 やはりおそるべしだわ。

主演の舞台"The Second Woman"がPreview中のMyrtle(Gena Rowlands)はある晩、追いかけてきた熱狂的なファンの娘が車に轢かれるのを見て以来、だんだんおかしくなっていって、最悪の状態でOpening Nightを迎えるのだが、彼女はぐでんぐでん状態で劇場に現れる。

ジャンルでいうとバックステージもの、なのだが、ここで焦点が当てられるのは表の舞台と裏の舞台、という場所の違い、隔たりというより、時間の経過であって、それもOpening Nightという舞台初日に向けたそれ、だけではなく、例えば轢き殺されてしまう17歳のナンシーに流れていた時間と、老いに直面してのたうちまわっている彼女のそれ、でもあるし、女の時間と男の時間、生の時間と死の時間、みたいなより大きめのテーマのなかで語られるのもある。

舞台の上で起こってしまったこと、その時間を巻き戻すことはできない。
この老猫Myrtleはそれを十分自覚した上で、劇作者やプロデューサーをさんざん引っ掻きまわして、ふん、て言うの。
流れていく時間、流れてしまった時間について、そこで起こった出来事について、いろんなひとがいろんなことをいうし、いうことができる。

でも、ひとつだけ確かなことは、時間は流れていって、戻らない、ということだ。
Opening Nightは何万回も、何億夜でもありうる、でも、それはたった一度しか起こりえない夜のことでもある、わかっているよね?  と。
(これと同様の断言を"Love Streams"では「愛」についてやっている)

映画こそが、廻っていくフィルムの不可逆性に寄り添って、生と人生のすべてをぶちこみうるメディウムであるのだ、と静かに語っているの。

もういっこのテーマはもちろん愛、愛が必要なんだよう、なのであるが、それはいいよね、なの。
それから演技論、みたいのもあるのだろうが、これはもう凄すぎて論じるだけバカみたいな気がするので見てぶっとんでください。

ラストのOpening Nightのパーティのシーン、Peter FalkとSeymour Casselが映っているとこ、今回はちゃんと確認できた。 まえ見逃していたんだよねー。

[film] Johnny Staccato (1959-60)

もうぜんぜん書いている時間がないので、毎日相当ふくれまくっている。 ぶー

ろくがつろくにち、先週の水曜日、アテネの『アナクロニズムの会』で見ました。
もう「アナクロニズム」とか割とどうでもいいかんじ。 どうせおもしろいんだから。

この日のお題は「ジョン・カサヴェテスvs.フィルム・ノワール」で、"Shadows"(1959)を撮ったばかりのJohn Cassavetesが主演(といくつかのエピソードでは監督も)したTVの探偵モノ、"Johnny Staccato"からエピソードをみっつ。 イメージフォーラムのCassavetes特集もはじまったことだし、その前章としても。

"Johnny Staccato"は、当時、NBCからABCに移ってしまった人気番組"Peter Gunn"の後番組としてスタートした1話30分完結のシリーズで、全部で27回分作られた。
Cassavetesはこのうち5つで監督もしている。

この日上映されたのは、"Evil"、"Solomon"、”A Nice Little Town”で、最初のふたつはCassavetesの監督作。
Johnny Staccatoは、ダウンタウンのジャズクラブを根城にしている(名前からしてJazzだよね)私立探偵で、オープニングタイトルのとこは、おいらは結構切れもの、かっこいいんだぜ、みたいなナリのCassavetesが颯爽と登場してくるのだが、それぞれの話しの内容は、なんだかどんよりと重くて暗いのだった。

探偵の推理とか活躍で悪い奴らが捕まったり誰かが救われたり事件が解決したりすることはなくて(今回見たエピソードだけかも知れないけど)、探偵の捜査によって、社会やコミュニティや人間関係の暗くグロテスクなにかがえぐりだされる、あぶりだされる、基本はそんなような仕様で。

"Evil"は、寄付をくれくれいう胡散臭い宗教家と対決する話しだが、そいつは結局ずるいままだし、"Solomon"は、夫殺しで投獄された非暴力活動家の女性を尋問する過程で、なにかが見えてしまう話しだが真相には到達しないし、”A Nice Little Town”は郊外の一見平穏そうな町で、共産スパイの疑いのあった男がなぶり殺されて、その妹(彼女も終わりのほうで何者かに殺されてしまう)の依頼でやってきたStaccatoは普通の町民のなかにある無表情で気持ち悪いなにかに触れて、ぶちきれて終る。

要するに、どれも後味はぜんぜんよくない。それはCassavetesの映画が始まって暫く経ってから感じる「あーやばい世界に入り込んでしまった」感とまさに同じもので、やばい世界は修正が効いたり抜け出せなくなるからやばいのであって、とにかくうんざりしながらもそこで生きていくしかない、そんなアンダーグラウンドな世界の位相がくっきりと出ていて、これはデビュー作の"Shadows"にはあんまなかった(空気感としてはあったけど)ものだから、たぶんこの連作を通して醸成されていったのではないか。

上映後の講義では、これを50年代末のビートニク、厭戦・反戦、赤狩りの名残、フィルム・ノワールの残滓、といったタームで説明していた。そうだねえ。
あと、これに監督として関わることで、所謂メジャーな映画の作り方を学んだ、ということも言われていて、それはあくまで手続きとかお作法的なところで、Cassavetes特有の突然のへんなクローズアップとか、ちっともメジャーとは思えない文法あれこれは、すでにあるのだった。

こうなると、これの次の作品、こないだ米国でDVDがリリースされたばかりの"Too Late Blues" (1961) - 「よみがえるブルース」も見たいよう。

6.11.2012

[log] Londonそのた - Jun.2012

ロンドンの残りのいろんなの。 行きの飛行機で見たのは3本。

Contraband (2012)

Mark WahlbergがNJの港で働いてて、昔はいろいろあったらしいが今は堅気で家族と一緒で幸せなのに、義弟がドラッグの密輸絡みでやばいことになったのでかつてのお仕事にもう一回クビを突っこむことになり、パナマに船で渡って贋札業者と渡りあったり、留守の間に家族が脅かされたり大変なの。 そんなに派手な仕掛けとかどんぱちはなくて(あ、パナマであったか)、Mark Wahlbergがひとり堂々落ち着いてて強いのだが、映画は悪くなかった。
NJの港湾の周辺のざらーっと澱んだ空気のありそうなかんじと、そこに被さってくるささくれた硬めのR&Bもなかなか素敵で。

Joyful Noise (2012)

冒頭にKris Kristoffersonが出てきてわー、だったのだが、彼はいきなり胸を押さえて死んじゃって、彼がやっていた教会の聖歌隊のリーダーの座は彼の妻のDolly Partonではなくて、どっしり堅実なQueen Latifahに行っちゃって、みんなすごく険悪になって、全米の聖歌隊コンクールの優勝目指してがんばろうにもがたがたなの。 で、それぞれに家族の問題とかもあって、Dolly Partonの孫とQueen Latifahの娘が恋仲になったりで大変で、でも歌っちゃえばいいんだ、と決勝に向かって突進するの。
歌を歌うシーンだけは、とにかく(なんでも)よいので、ずーっと歌だけ歌ってればよいのに、とか思った。

歌ったなかでは、"Maybe I'm Amazed"がいちばんきました。
しかし、"Glee"とか"Rock of Ages"のおかげで歌うたっちゃえば、あとはなんでもええ!なやつが増えてきたねえ。

Puss in Boots (2011)

「長靴をはいた猫」。 ぜんぜんわるくなかった。 これなら劇場で見るんだった。
本家のShrekが過去のいろんなお伽話に拠った自分探し、居場所探しみたいなお話しだったのに対し、こっちはどうせ猫だしそんなの必要ないし、いろんなお伽話に拠りつつも、友情と裏切りのスタンダードな西部劇みたいなところに落ち着いている。これのどこがわるいのか。もちろん、そこでなんで「ジャックと豆の木」?とか、なんでマザーグース? とか、食べ合わせみたいのはあるかもしれないけど。 猫とHumpty Dumptyていうのもいいし、巨大ガチョウもすばらしいのよねえ。

Humpty Dumptyの声はZach Galifianakisさんだったのね。    
あと、Guillermo del ToroさんがExecutive Producerで声優としても参加しているの。

帰りの飛行機では1本、とちょっとだけ。

The Vow (2012)

もうこっちでもださい邦題(書きたくない)で公開されてて、六本木では既に朝1回のみになっちゃっていますけど、ぜんぜん悪くないし。

Rachel McAdamsとChanning Tatumが結婚したての仲の良いカップルで。雪の晩、ミートローフを車のなかでわんわんかけて歌っていたら後ろからどーんて追突されて、大怪我して、妻のほうは記憶を失ってしまう。
ぜんぶ失ったらまだわかりやすいのだが、彼女の記憶が戻った地点は結婚前、更には施行中だった婚約を破棄して親家族と縁を断つ前だったもんだから、とってもよくない。
彼女にとって夫だよ、て寄ってきた彼は全く未知なそこらのあんちゃんになってしまい、逆に家族や婚約者は自分にとってあったかくてスイートな帰るべき巣として、巣のままそこにある。
こうして彼女の両親(Jessica LangeとSam Neill)は、突然出ていってしまった娘が全部ちゃらにして戻ってきてくれたと喜ぶのだが、元、いや現夫である彼にとっては、なにやってもなに言っても「あんただれ?」状態に曝されてしまうので、とっても地獄でかわいそうで、でも一度は好きになって結婚までしてくれたんだから元に戻せるはず、とデート申し込んだりして健気にがんばるの。 
それでもやっぱしお互い疲れちゃったので、離婚することになるの。
やがて、彼女は自分が家を出ていった原因を知ることになって、そして。

Channing Tatumの一人称語りがところどころうざかったりするのだが、これは彼と彼女の復縁物語、というよりは複数の家族をめぐる忍耐と許しのドラマというべきで、そうすると、例えばJohn Hughesだったらこれをどんなふうに撮っただろうなー、とか思った。
きっともっとお母さん(Jessica Lange)が前面にでてきたにちがいない、とか。
でも、実話ベースだから、あんま動かせなかったのかもだけど。

舞台はシカゴで、Channing Tatumの彼は自分のスタジオを持っているレコーディングエンジニアで、デジタル録音では捕まえられない音があると信じこんでいて(これと同じ思想のシカゴのひと、いるよね)、そういう犬みたいな実直さがよくでていていかった。

それにしても、目覚めて横にいたのがChanning Tatumだからまだよかったかも。これで横にPaul Giamattiみたいなひとがいて、とつぜん夫だよ、とか言われたらどんなんだっただろうか。(ごめんね、Paul)

Rachel McAdamsのほうは、傷つきやすいけど、でも(だから)性格わるいのごめんね、みたいな役をやらせたらほんとにうまいねえ。 ちゃっかりしてやがるぜ、てかんじの。

あと、エンディングにThe Cureが流れる映画に悪いやつはない、ということなの。

これを見たあとで底なしの眠りに落ちてしまい、気がついたら到着1時間20分前だった。
しょうがないので、たこ焼きとシーザーサラダを食べながら、"We Bought a Zoo"(邦題、しんでもいわない)の最初のとこみてざーっととばして、ラストのとこだけ3回繰り返して見てじーんとしてた。


今回、ロンドンのRough Tradeで買ったのは、主にこないだのRecord Store Day2012で買いそびれていたやつ。
Breakfast Clubのサントラとか、Gang of Fourの2nd(これですらもう30年かあ…)とか、Metallicaの"Beyond Magnetic"とか、あと7inchいっぱい(サーPaulの"Another Day"とかもふつうに積んであった)。 新譜だとBest Coast(くま…)とかAlabama Shakesとか。

あと、帰ろうと思ってふと横みたらCrassの1stと2ndのアナログマスター直おろし再発、ていうのがあったので、両方持ってるけどとりあえず、買う。 その横にNapalm Deathの"Scum"の25周年記念盤(屑の25年... )、ていうのもあったのでこれも袋に入れる。

本は、The PoguesのJames Fearnley(アコーディオンのおじさん)によるバンドの回想録 "Here Comes Everybody"を買った。 まだぱらぱらしか読んでいませんが、冒頭のシーンは91年、横浜で行われたWOMADで来日したバンドがホテルの部屋で疲れきって、Shaneを切ろうってみんなで話し合うところなの。
あのとき、あんな修羅場だったんだー。 たしかにライブはひどかったけど、あの頃のShaneてあんなもんだったから、ステージにいるだけで喜んだものだったのに。

そんなこんなで、帰りのスーツケースは軽く30kg超えて、あとちょっとで英国の重量規制にひっかかるので注意してね、と言われたの。

あとなんかあったかしら。

6.10.2012

[art] Picasso Prints : The Vollard Suite

日曜日のロンドンと残りのあれこれを。

小雨のなか、British Museumに向かって、まず2階のレストランでお食事した。
Smoked mackerel and horseradish pate with herb salad (£6.50) ていうやつ。
パテはガラスの瓶に入っててあっというまになくなる。ここはお茶もおいしいの。

見た展示は、"Picasso Prints : The Vollard Suite" ていうの。Freeでした。
当時の前衛アートを多く紹介した画商Ambroise Vollardに捧げられた100枚の版画。
100枚纏めて見たことはそういえばなかったかも、と。

制作当時、30年から37年頃のPicassoは、ミューズMarie-Thérèse Walterと出会ってばりばりで、でも勝手に奔放にやりたい放題やっていたかというとそうでもなく、アングルやレンブラントやゴヤ、古代ローマの彫刻、といった古典も振りかえりつつ版画表現の実験を進めていた。 会場には典拠した古典も横に並べてその学習の痕跡がくっきりとわかる展示になっている。

もうちょっと実験ぽいデモとかBasement Tapesみたいなものかと思っていたがそうではなかった。 一枚一枚ぜんぶ違うし、それぞれに完結したプリントである、ことが帰ってきてカタログ見直しても改めてわかる。

線と面、白と黒、版画プリントにある要素はこれらと、板の上の傷とノイズ。 これらを使って光と闇、動物と静物、男と女、人と獣、その衝突、交錯、その中間に現れるあらゆる形象を捕まえようとする。線はあくまで単線で鮮やかに、影はどこまでも黒くざくざく塗りつぶしていこうとする。

半分を占める"Sculptor’s Studio"の静的なヒトとモノの配置から一転して、"Battle of Love"の、Rapeシリーズの黒煙が飛んできそうな猛々しさ、そして有名なMinotaurの、獣へと変容していく人体の生々しさ。

Picassoの展覧会て、あたりはずれの幅が結構おおきいのだが、これは当たりでしたわ。

もういっこやっていたFree展示が、これ。

"The Horse : from Arabia to Royal Ascot"

Royal Patronとして"HM Queen Elizabeth II"、Diamond Jubileeお祝い企画で、古今東西のお馬さんモチーフのアートをざーっと並べてあるの。 そりゃ天下の大英博物館ですからね、教科書で見たことあるセレブなお馬さん達が群れをなしていっぱいいるわけ。

それにしても、馬って歴史のなかで散々殺されてひどい扱いいっぱいいっぱい受けて、しみじみかわいそうな動物だよねえ。 日本なんてそのうえ刺身にされるは鍋にされるは。
こんなアートにされたからってご機嫌なおんないよね。 もっと怒っていいよ、うま。

いったん切ります。 ロンドンあと一回。 たぶん。

6.07.2012

[film] The Avengers (2012)

お仕事が終わって穴倉から這い出てこれたのが晩の9時頃。 ほんとは夕方には終わるはずだったのだが、しょうがない。

この日はCursiveのライブがあって、この時間ならまだなんとかなるかも、と勝手な思いこみで行ってみることにして、たぶんあっち、とか決めて雨のなかてきとーに歩いて行ったら、20分くらいでライブハウスが見つかったのでびっくりした。
そこはクラブが横に併設されているようなとこで、入口はどうどうどうどうて、フロアの音がうるさくて、Cursive見たいんだけど、て言ったらお姉さんが奥のほうに入っていってくれて、やってるけどあと2曲で終わるって、どうする? と言われたのでしぶしぶ諦める。

で、雨のなかぜんぜん知らない場所にぽつんと残されてしまい、どうしよ、だったのだがとりあえず大通りまで歩いてバス停を見っけ、次に来たバスに乗ってみて、そいつが映画館のほうに行くんなら映画みるし、ホテルのほうに行くならおとなしく帰って寝よう、ということにする。

やって来たバスは行先もよくわからん微妙なやつだったのだが、途中で地下鉄に乗り換えたらLeicester Squareに行けることがわかったので映画になった。 自分のせいじゃない、バスが。

この週末は"Prometheus"の公開があって少し大騒ぎで、これ、SouthbankのでっかいIMAXシアターで見たかったのだが、土日のチケットは既にぱんぱんに売り切れて、Leicesterのシネコンだと、10:45の回があったのだが、これをやるシアターがTHXですらない微妙なやつだったので、諦めて"Avengers"にした。  10:15の回だとすでに20分くらい過ぎていたがどうせまだCMやってるだろうし、と。

この映画はできれば米国で見たかったのだが、しょうがない。 英国のタイトルは、"Marvel Avengers Assemble"、ていうの。
3Dと2Dがあって、この回は3Dだった。 客は10人くらい。

3Dじゃなくてもぜんぜんいかったかも。

こんなの、おもしろいにきまってるよね。
戦隊ものとかヒーローものに求められる要素をぜんぶ、めちゃくちゃ金かけてぶちこんでいる。

ベースはThorの兄弟げんかの続きで、兄の悪巧みで宇宙だか神の国だかから邪悪ななんかがわらわら下りてくることになって、大変だこりゃ、とAvengerたちに召集がかかる。 かかるけど、みんなそれぞれあさってのほうを向いてて、ちっとも団結してくれない。

Iron Manは、Initiativeはつぶされたじゃん、と人から指図されるとそっぽむくし、Captain Americaはぼくどうせ年寄りだから、とかすねてるし、Thorはぼくは神だからそんなのしらん、とかいうし、Hulkはへたに怒らせたらなにされるかわかんないし、それを束ねる公務員のひとりはさらわれてていないの。

今回、Tony StarkがMetlifeビルの上に自社ビルを建ててしまう。
Emery Roth & Sons/ Walter Gropius設計によるモダン建築の傑作の上にあんなうんこビルまがいのださいやつを建ててしまうだけで、断固許せないのであるが、今回のどんぱちの現場はここを中心として、38thから45th、3rd AveからMadisonくらいまでの間に集中してて、ほんとにいい迷惑だわ。 あのエリアで寝泊まりしてあのエリアで仕事して、昼も夜もあのへんで食べてて、銀行だってあそこにあるひとは、しねってこと?

Iron Manはこないだのやつでもフラッシング界隈を火の海にして、今回はマンハッタンのどまんなかをぼこぼこにした。
ものすごく危険なやつだと思うのだが。 Sabbathのシャツ着ているからと言って許されるもんではないわ。

それぞれの戦いっぷりはあんなもんかしら。
みんな強そうでいて、実はとんかち(Thor)、盾(Captain America)、肉弾(Hulk)、矢(Hawkeye)、鉄砲(Black Widow)と割と地味でプリミティブな武器しかもっていないなか、ひとりかっこいい飛び道具を装備しているIron Manが駈けずりまわされて死にそうになるのは当然だし、いいきみ、とか思った。 (本人はぜんぜん懲りてないようだが)

あと、既にいろんなひとが指摘しているように、今回いちばんNiceプレイなのはHulkで、素のときのMark Ruffaloはほとんど演技していないので得だよね。 結局、いちばん強いのは神でも鉄でもなく、緑肉だったと。

あと、Furyって偉そうにかっこつけてるけど、実はなんもしてないし誰からも好かれてないよね。

おもしろかった台詞。 Thor「おまえなんかに何がわかる?」、Iron Man「んー、"Shakespere in the Park"か?」
ちなみに、50周年を迎える"Shakespere in the Park"、今年は「お気に召すまま」だよ。

Black Widowの今後が気になる。 あんな変態ばかりに囲まれてて恋愛とかどうするつもりなのか。
いろいろ考えていくとCaptain Americaしかいないという結論になる。 
で、スピンオフのタイトル(仮)は「黒い未亡人 vs キャプテン童貞」。
(ユーロスペースの、もう終わっちゃったのか...)

終わったら1時まわってて、当然地下鉄はなくて、Taxiつかまえるのはしゃくだったのでトラファルガー広場から夜バスで帰ることにした。 ほとんど酔っぱらいバスで、なかなかすごいものがあった。

ロンドンはあと1回くらい書くかも。


6.06.2012

[art] Ballgowns: British Glamour Since 1950

もう帰国しております。ぼろぼろ。

まだロンドンのおはなし。
土曜日は、午後から仕事だったので、見れるとこを見るのとお買いものと。
気温が急に下がって上着がないと寒いかんじ。

9時半くらいに近所のBorough Marketをふらふらしていたら(9:30だとまだぜんぜんオープンしていない)、コーヒー店があって、Bluebottleみたいに一杯づつフィルターで濾しだしている。 まんなかの大きなテーブルのとこを見ると、「バゲットとジャム、£3」とあって、でっかい籠に餌箱みたいにバゲットの切り身が放り込んであって、まわりにバターの山とかいろんなジャムの瓶とかはちみつとかがあり、たまんなくなってあれちょうだい、という。 頼むと大皿いっこ渡してくれて、それに勝手に取れ、と。 おいしかった。 ただのバゲットとジャムだけなので、すんごくおいしい、というわけでもないのだが、これいいわ。

http://www.monmouthcoffee.co.uk/

それから、先週見逃してたV&Aの展示を見にいった。
最初に、先週はまだ始まっていなかったこれ。 "British Design "の関連企画展示。

"Heatherwick Studio: Designing The Extraordinary"

2010年、上海万博のUKパビリオンのとげとげウニ建築でも有名なHetherwick Studioの足跡を振り返る。

www.heatherwick.com/

メタルの切り出しベンチとか、Extraordinaryにかっこいいのが多い。 最近の丸めのLondon Busのデザインもここだったのか。
British Designの硬質な意匠をきちんと踏まえた上で、局部をぐんにゃりさせたりつんつんさせたりする、そのへんの手口が、例えば米国のFrank Gehryのぐんにゃりとは、ちょっと違うのかも、とおもった。
あとね、これは英国のデザインとかファッションとか全般に言えることだが、これらのブリリアントでぴりっとした佇まいとパブで飲んだくれてういうい言っている人たちの間には、なにがあるのだろう、と。  階級?  そんなんでいいの?

ぶあついカタログ(£30)も売っていたがこれ以上は無理だった。


続いてこれ。 Harrodsの路面ディスプレイでもこの展示がフィーチャーされてた。

"Ballgowns: British Glamour Since 1950"

V&Aのファッションコーナーの改装記念展示でもある、と。 見逃さなくてよかった。
点数はそんなでもないが、特に60~70年代のロンドンて、こんなにグラマラスでぎんぎんでかっこよかったんだ、どうだ! というのがしみじみわかる展示でした。 シェイプもテクスチャーも色使いも、トレンドとか時代性とかの圏外にあって、デザイナーの名前も知らない人たちばかりなのに、ひとつひとつが全然違って、それぞれがそれぞれの装いとしてしっかり立っている。

パンクですら、これらのかっこよさを崩すことはできなかった、と。 (というか、ファッションとしての英国パンクの突端はぜんぜん、十分かっこよかったわけだが。 NYのと比べると特に)

Alexander McQueenの、彼が亡くなる直前のコレクションからのドレスが素敵だった。モノトーンで、胸のとこに天使がいるの。
あとは、出口のとこにあった94年のVivienne Westwoodのドレス。 これも溜息しかでない。 ばばあおそるべし。

改装後にできたと思われる中二階のスペースは現代のデザイナーによる展示で、GallianoからStella McCartneyまでいろいろあったのだが(それらを身に着けたセレブの写真まで横にあったのだが)、1階の展示と比べるとはっきりとださく貧しく見えてしまうのだった。
それはなんというか、時代のそれというか軽薄化というか幼児化というか、これは服飾の世界だけではないのだろうけど、あーあ、て思ったの。

カタログは少し悩んで、やめた。 もうちょっと俯瞰した目線が入っていたら買ったのだけど。


それから滞在延びてシャツがなくなったのでFulham Roadまでシャツ買いにいって、ついでにConranに寄ってJubileeのビスケットとか買った。

あと、こういうどうでもいいのが置いてあったので買う。いつかのときのために。

http://www.amazon.co.uk/Pig-Keeping-Countryside-Series-Lutwyche/dp/1905400861

ConranにJohn Derianのお皿がいっぱいあって、ウサギのが欲しくてたまらなくなったが、イギリスまで来て買うこともなかろうと思ってやめた。

それからもういっかい、念のためにRough Trade Shopに走ったのだが、なんとか持ちこたえて買わなかった。 

で、仕事にいったの。

6.03.2012

[log] June 03 2012

やっとこさHeathrowに着きまして、クラッカーとチーズ(ほんもんのスティルトンがある)で一息ついたところ。

よくたどり着けたもんだわ。トライした橋がぜんぶ通行止めなので運転手のひとがぶちきれまくってておもしろかった。

朝からずっと冷たい雨で、降ったり降らなかったりで、お船なんて見る余裕はぜんぜんなかった。
記念にSunday Timesは買った。

映画、という手もあったのだが、だいたい12時始まりくらいで、戻ってこれなくなるリスクもあったので、おとなしくBritish Museumに行って、Foyleで本買うくらいにしておいた。

それでも3時に戻って来たときは地下鉄から外に出れないくらい人でわんわんだった。
女王おそるべし。

日本にいて皇室におなじようなことがあっても、自分だったら絶対行かない。
でも、英国だとなんかいいかー、になってしまう。
CRASSの人たちの真面目なつぶやきにうんうん、て思いながらも日和ってしまうのだった。

ほんとは今日一日あって、天気がよかったらApplecart Fesていうのに行きたかったの。

Adam Ant、Billy Bragg, Jeffrey Lewis, Kid Creole, Aidan Moffat, Penguin Café, Scritti Politti, Kevin Rowland,  こんな人たちがでて、たった£40なんだよ。

下の写真はJubilee記念のおみあげ菓子。
上のはConranで買ったビスケット、下はHarrodsで買ったチョコレート。
  
 
















こちらの写真は、ようやくたどりついた一番はじっこの橋の上で、見事にびっちり動けなくなっているひとたちを車から撮ったもの。  

   
















では、機内へ。

[music] Norah Jones - Jun 1

みんながJubileeだ四連休だと浮かれているのに、土曜日に仕事をしなければならないことがわかっている金曜日の晩は、それはそれは気がめいるもので、だから、映画ばっかし見てないでライブでも行ってみようか、と。

当日券でRoyal Festival Hallで見ました。 ここでの2daysの初日。
ここのホールはBFIのすぐ横にある。 3日3晩通っていると、なんか近所の銭湯に行っているようなかんじになる。
£45でM列のぜんぜん前のほう。 ここはとても音がよいの。

8月のAntonyキュレーションによるMeltdownもここでやる。 あのラインナップはぜんぶ見たいな。

7:50くらいに前座のThe Candlesから。 バンドとして固まって出てこなくて、ギターの弾き語りにタンバリンが入ったりピアノが入ったりギターが入ったりの二人羽織のまま30分、どの曲も気持ちよいアメリカン・フォークの王道。

休憩になると、またみんなアイスクリーム売り場に走っていくので、一緒に買う。
ふつうにおいしいけど、£3は高いし、量は少ないし、なんでみんないそいそ買いにいくのかいまだにわからない。

このひとのライブはまだ見たことなかった。
00年代の前半は、Jesse Harrisさんの周辺でちょこちょこ出ていたので会いそうな気はしていたのに。

バックバンドはさっきのThe Candlesからの3人、にドラムス(Danger Mouseさんではなかった)の計4人。
黄色い(黄緑?)のぽわんとしたワンピース(ちょっと太った?)で立ちピアノ、座りピアノ、エレギにアコギ、バックとの相性はとてもよいかんじ。
音は全体にボールドで、やわらかく、たまにざくっとしたとこが入って、このへんがDanger Mouseかな、とか。

このバックだとヴォーカルがふんわりと宙に浮かんで、昔のMazzy Starみたいに聴こえるとこもなくはなかった。
でも、やっぱり違って、あれよりもウォームでちょっと湿ってて。 個人的にはBonnie Raittさんみたいになってほしいのだけど。

客席がいちばん湧いたのはやはり、終盤にひとりでピアノ語りした"Don't Know Why"で、スタンダードだなあ、とおもった。

アンコールは一回、2曲、まんなかにバンド全員が固まってかしゃかしゃとアコースティックセットを。
これがあたしのバンドなの! ってとっても嬉しげな、そういう音でした。
  


















部屋に戻って寝ようとしたらBBC4で"Stiff at the BBC"ていうのをやってた。
Ian DuryとかDamnedとかElvis CostelloとかGraham ParkerとかDr.Feelgoodとかのライブをがんがん流してくるので眠れなくなった。
なんだよこれ。 30年前になんで見してくれないんだよ。

あと、どうでもいい話だが、CM音楽で、Skidsの"Into the Valley"が流れてた。 よい国だわ。


ここでとりあえず切って、あしたの朝にパッキングする。
もんだいは、空港までほんとにたどり着けるのかどうか、だね。 こんな橋のたもとから。

たったいま、TVでやってた"Eyes Wide Shut" (1999)がNicoleの "Fuck." でおわった。
何回みてもかっこいいねえ。(ここだけだけど)


[film] On a Clear Day You Can See Forever (1970)

木曜日の晩、これもBFIのVincente Minnelli特集、5月さいごの1本。
邦題は『晴れた日に永遠が見える』 - そのままね。

Alan Jay Lernerによるブロードウェイミュージカルの映画版。
Barbra Streisandはこの年もういっぽん、"The Owl and the Pussycat"- 『フクロウと子猫ちゃん』 にも出ている(こっちはミュージカルではない)。
あれの彼女もキュートだったが、こちらもなかなかすばらしい。

オープニング、Barbraが歌を歌ってあげると植えた球根からはっぱが伸びて花がどんどん咲いていく。
NYの大学で催眠術の講義中(Yves Montandが先生)、別の生徒にかけた催眠術が流れ弾で彼女あたって、ものすごく怪しげな挙動をする、そんな彼女がフィアンセの家族に会うのにタバコが止められなくて困るから催眠療法で治してほしいと先生のとこにやってくる。

とりあえず術をかけてみると、その眠りのなかで、彼女は全く別の人格と人生を生きているらしいことがわかる。
学生をやっている彼女の名前はDaisy Gambleだが、夢のなかでは昔の英国の貴族、Melinda Tentreesになっていて(彼女の時代のシーンも出てくる)、更に調べてみると確かにその人物は実在していたことがわかって。 

彼女の変な超能力、催眠術、輪廻転生、などなどが、白タイツの天然不思議ちゃんであるところのBarbraと、堅気で初老の大学教授Yves Montandの間でシーソーゲームをしていって、んで結局のところふたりは恋に落ちてしまうというわけ。

超能力と催眠術が組み合わさったら叶わない恋なんてあるまい、と思うのだが、そう簡単にいかないからこそ、こういう映画が作られるのね。 それにしてもさあ、テレパシーを使って催眠術をかける、とかそんなことまでやりだすんだよ。 そんなことやるならふつーに好きだって言えば? とか。

輪廻にしても催眠術にしても、いまの自分の意識の外にいる自分でない自分がなんかをやる、そこには自分の責任はないのだからなんだって起こりうるはず、なんだけど、それ言い出したらさあ・・・

というような障害なんだか自業自得なんだかわからない業を背負いこんだままじたばた突っ走るふたりのお話しで、上映前にもらったレジュメによるとプロダクション的には相当難航して大変だったとかいろいろ書いてある。 たしかにそんなかんじのぎこちない展開なのだが、でもいいの。 曲がよくて歌がうまくて(ほんとにうまいったら)、ファッションも素敵で(英国の貴族時代のコスチュームはCecil Beatonが担当)、彼女は十分にキュートなんだから他になにがいるというのか。

Barbraの歌以外でいうと、彼のもとを去ってしまった彼女にむかって、Yves Montandが歌う"Come Back to Me"。
パンナムビル(当時)の屋上(...昇ったことない。あの角度にRCAビルが見えるということは南東の角だね)で、彼が両手を拡げて絶唱するところが感慨深かったなあ。 あんなとこで歌うもんだから、彼女はどこに行っても逃げても耳をふさいでも彼の歌が聴こえてくるの。 子供も犬もYves Montandの声でもって歌いかけてくる。 超能力戦争か? いやいや恋とはそういうものだろ、と。

「晴れた日には永遠が見える」。 晴れた日はいっぱいあるから、永遠もいっぱい見えるはずだ、永遠はいったい何個あるのか? わたしの生はいったい何回あるのか? でも、それでも、これでいいのだ、と天才バカボン的な確信をもって映画はびゅーんて終わってしまうのであるが、それでもぜんぜんよいの。
んで、天才バカボンの主題歌が頭のなかをぐるぐるまわるのとまったく同じように、"On a Clear Day ~♪"の歌もずっとまわっているのだった。 サントラ買ってしまうかも。

6.01.2012

[film] The Sandpiper (1965)

Jean Gabinと並んでBFIで特集をやっていたのが、Vincente Minnelliで、彼のはどんなのだって見ることにしているので、見る。
日曜日の晩、予定がねじこまれなかったら見ようとしていたのがこれで、水曜日の晩にリベンジできた。
(ちなみにもういっこの特集は、"Two Masters of Japanese Cinema: Kaneto Shindo & Kozaburo Yoshimura" - 合掌)

邦題は「いそしぎ」。 ... 鳥の名前だとは思わなかったわ。
「やすらぎ」とかと同じ類の言葉だと思っていた。 「やすらぎ」-「やすらぐ」と同じように、「いそしぎ」- 「いそしぐ」とかあるのかなあ、とか。
にほんご、むずかしい。

Elizabeth TaylorとRichard Burtonの共演作としては3本目、ふたりの結婚後では最初の共演作、になるのだそうな。

冒頭のカリフォルニアのBig Surの空撮が溜息もんのすばらしさで、これにオスカーを獲ったJohnny Mandelの音楽がふんわりと被さってきて、仕事とか人生とかぜんぶどうでもよくなる。 逃げたい。

Elizabeth Taylor(ローラ)が浜辺で絵を描いたりしながら崖の上の一軒家でガキと一緒に暮らしてて、そんなある日、ガキが鹿をライフルで撃って殺しちゃうの。 で、このガキは素行がよくないから危険、ということで矯正のため全寮制のキリスト教学校に入れられてしまう。

Richard Burtonはそこの校長で、うちの子供のどこがわるいのよ!ていうElizabeth Taylorとは子供の教育だけではなくお互いの主義主張をめぐってねちねち対立していく。 
夫は最初から必要じゃなかった、子供は自分で育てられるし、という彼女と、社会の中で協調性をもって生きることの大切さを説く彼の間の溝はずっと平行線のまま埋まらなくて(でも激しく噛みつきあうわけではなく、落ち着いた大人のやりとりなの)、どうなるのかしら、と思っていると彼のほうが突然、思いつめた顔で「きみがほしいんだ、ローラ」とかいうので一同唖然 (英国人は爆笑)。

こうしてふたりの仲は接近していくのだが、彼は聖職者で妻もいるし(プロテスタントね)、彼女は自由奔放な西海岸のアーティストなので、なかなか前に転がっていかない。 でもふたりは心の底から恋に落ちてしまったことは確かなの。
自分が知っているMinnelli作品だと、こういうじりじりもんもんのあげく、最後のほうで大惨劇が起こることが多かったし、最初のほうに鹿殺しとか、崖とか、そういう不吉な材料がいっぱいあったのでわくわくしていたのだが、そうはならなかった。

さて、「いそしぎ」ですが、これの小鳥が羽を折って彼女の家で接ぎ木してもらって、だんだん飛べるようになっていく。でもこいつは臆病で、なかなか家の外に出ていくことはできなくて、最後にやっと浜辺を飛ぶことができるの。

小鳥ですら外に出ていくことはできたのに、と見るか、小鳥と同じように彼らもなんらかの殻を抜けだすことはできたのだ、と見るか、飛ぶことが出来たからと言って海の向こうにまではいけないよね、と見るか、どれもなんとなく当たっているかんじ。

彼らはどちらも、出会って恋をしたからと言ってものすごい方向転換や跳躍ができたわけではなく、(すごく悩んだりはしたものの)それぞれがそれぞれのロジックに従って自分の行先を決めて、自分たちのトラックに還っていく (それは前と同じではないのだが)。
たぶん、こういうのを大人のひとは「大人の選択」というのだろうが、そう呼びたくない気もする。 なんでだろうな。

Elizabeth Taylorさんはこのとき33、幸せぶとりなのか、結構むっちり、体の線がだぶついて見えて、それが彼女の心の揺れと微妙に同期 ... しているように見えないこともなかった。

ああでも、あのすばらしい海ととろけるような音楽、あれだけでいい。 くっつこうがはなれようがしらん、てかんじにもなった。

[film] Le Jour Se Lève (1939)

すこんと時間の空いた月曜の晩にみました。
ロンドンに来たらBFI(British Film Institute)に行かないわけにはいかない。

ここでは5月末まで、"Jean Gabin: Working-Class Hero to Godfather"ていう特集をやっていて、Jean Gabinて、Renoirの映画くらいでしか見たことないので見てみよう、と。

特集のなかでは、Marcel Carnéの"Le Quai des Brumes" (1938) - 「霧の波止場」のリストア版をほぼ毎日上映しているのだが、これがずっと売り切れててびっくり。 この作品も、月曜日の晩、8:50からの上映なのに、BFIの4つあるシアターのうち、一番でっかいとこ(神保町シアターの倍くらいあるかも)がほぼ埋まっている。 客は年寄りが圧倒的に多いが、それにしたって、すごい土壌だよね。

英語題は"Daybreak"、邦題は『日は昇る』。
Marcel Carnéのことは殆ど知らない。 Jacques Prévertのことは、おおむかし、シャンソンを聴いていた時期があったので、作詞家としては多少、程度。

街中に建っている背の高いアパートの一室、扉の向こう側で小競り合いの声が聞こえ、ひとが銃で撃たれる音がして、腹を抱えて出てきた初老の男が階段をごろんごろん落ちながら死んでしまう。 で、部屋のなかにいたFrançois(Jean Gabin)の回想と、彼を包囲した警官隊とのやりとり、いろんな表情がが交錯していって、やがて朝を迎えるまで。

Françoisは町工場で働く気のいい若者で、誰からも好かれてて、ある日花売りの娘と出会う。 彼はほんとに一途に彼女を好きになって、彼女もそれを受け入れるのだが、彼女は犬のサーカスをやっている怪しげなおじさんのほうも好きで、Françoisにはそれが気にいらない。 おじさんのほうもそれがわかってねちねち絡んできて、やがて。

最初のアパートのシーンで、映し出されたFrançoisの目を見ただけで結末はわかるの。

嫉妬に狂って自滅していく男のお話し、それだけではあるのだが、まだ若いJean Gabinがとにかくすばらしいの。 こんなにすごい俳優さんだったのだねえ。
ふつうの堅気の男のはずなのに裏ではこんなだった、突然キレて狂ってしまった、とかそんな単純な話ではなくて、彼は自分が本当に好きで必要としているものがなんなのかも、自分が恋に狂って尋常ではなくなっていることも、それ故にあんなこををやってしまったことも、すべてがどうしようもないことも、わかっている。 でもそれは、君には絶対にわからない、なぜなら君は彼女に恋をしていないからだ、とその暗い目は語るの。

そんな彼を包む絶対的な孤独が、ぽつんとした塔のようなアパートとか、アパートのなかのぐるぐる階段とか、彼女の部屋にあった熊のぬいぐるみとか、ひっそりとやってくる朝とか、そういう物言わぬあれこれの間で一瞬際立ち、朝の明るさと共に静かに消えていく。

かなしいけど、かなしくはならない。 すばらしい作品でした。

Jean Gabinの作品、もっと見たかったけど、「霧の波止場」は最後の最後まで売り切れだったの。